明治から大正期、『読売新聞』の「文芸欄」に載っていた、文化人等の動向を短く紹介する「よみうり抄」というコーナーがありました。
その大正期の「よみうり抄」を全てピックアップした書籍の刊行が全5巻の予定で開始され、まず第1巻が出ています。
それに関連した『読売新聞』さん2月25日(火)の記事。
光太郎智恵子の名も頻出します。昭和52年(1977)、松島光秋氏著・永田書房発行『高村智恵子―その若き日―』という書籍の巻末には、明治42年(1909)から大正3年(1914)までの「よみうり抄」から、光太郎智恵子の名が載った分、関係の深い人々に関する記述がピックアップされています。
その大正期の「よみうり抄」を全てピックアップした書籍の刊行が全5巻の予定で開始され、まず第1巻が出ています。
それに関連した『読売新聞』さん2月25日(火)の記事。
読売新聞文化欄に掲載された雑報欄「よみうり抄」が、「読売新聞 よみうり抄」大正篇第一巻として文化資源社から刊行された。今後、全5巻の刊行が予定されている。よみうり抄研究会代表の杉浦静・大妻女子大学名誉教授が、その意義と文学研究にもたらす可能性を寄稿した。
日本近代文学において、読売新聞は大きな役割を果たした。明治以降の文芸欄は、上司小剣や正宗白鳥ら多くの作家が健筆を振るった。明治から大正までの近代文芸関係作品、記事の全細目をまとめた『読売新聞文芸欄細目』も、近代文学研究の泰斗だった紅野敏郎氏によりまとめられている。
その文芸欄の片隅に置かれたのが、「よみうり抄」だ。近代文学の研究で引用されることなどから、私は存在を知った。文学者や画家、文化人の動向や出版情報、展覧会情報などが雑報の形で、短いながらも詳しく記され、時には一般記事より興味深いものがある。2001年に研究会を作り、仲間の研究者や学生たちと少しずつ読んできた。
よみうり抄は、記者が直接取材したものや、届いた手紙などから書かれた。作家の年譜に掲載されていない内容もあり、生き生きした情報にあふれている。
たとえば、よみうり抄は作家の芥川龍之介の誕生の瞬間から、文壇で認められていく姿を収めている。
「▲柳川隆之介氏 は今後本名芥川龍之介を用ふる由(よし)尚(な)ほ小説『鼻』を『新思潮』に寄せたりと」
これは当時、東京帝大の学生だった芥川龍之介が、「柳川隆之介」から改名したことを伝える1916年1月22日のよみうり抄の記述だ。同じ日のこの欄は、すでに劇作家として評価を得ていた久米正雄らと、同人誌「新思潮」を再興することも伝えた。改名で心機一転を図り、新思潮に臨む芥川たちの姿がうかがえる。
この記事にある「鼻」が夏目漱石に激賞され、芥川は文壇に出ることになる。
すぐ後の2月29日付には、「▲芥川龍之介氏 は平安朝時代より材料をとれる小説『ポー』を『新思潮』三月号に寄稿せり」と続報がある。漱石の賛辞を受けて書こうとしたのだろうか。だが現実にはこの作品は書かれず、「ポー」は題名だけが残る幻の作品となる。
この後も、よみうり抄は芥川が海軍機関学校教官となったことや、流行性感冒にかかったこと、結婚や新居への移転など細々と情報を伝えた。これらの情報は、新聞読者の小説家に対する親近感を高めた。新聞社の側も、読者の関心が深い文化関係者の動向を伝えることが、政治や事件・事故のニュースと合わせて読者獲得につながったのだろう。
よみうり抄は、画家たちの動勢も多く報じている。「写生旅行中」とか、「写生中」とかいった情報に加え、展覧会情報も多い。そこには日時や会場と、読者が出かけられるように住所も付されている。1917年10月25日には、彫刻家の高村光太郎がニューヨークでの個人展覧会を開くため、「彫刻を頒(わか)つ会」を起こすといった記事が掲載されている。まるで、現代のクラウドファンディングのようだ。
文化人の細かな動勢やお知らせといった情報を掲載したよみうり抄は、現在のSNSを思わせる。大正期の新聞は、マスメディアでありながら、同時に現在よりもパーソナルなメディアの要素が強かったのかもしれない。
で、刊行が始まった『よみうり抄』。発行日 : 2025年2月15日
著者等 : よみうり抄研究会編
版 元 : 文化資源社
定 価 : 16,000円+税
「よみうり抄」とは読売新聞が、明治31年10月6日から毎日掲載をはじめた、芸術家(作家・画家・演劇家)や学者などあらゆる文化人の短信・消息・ゴシツプを取り上げた小欄の名称。本書は大正期の「よみうり抄」をすべて翻刻した第1巻目。
現在では、この小欄の集積が、今となっては客観的な記録・情報となり、文化人がいつどこに出かけ、誰に会い、何をしたかという膨大な情報群となっているが、従来、この欄を通覧することが難しかったものを、全5冊に翻刻。
明かな誤植を訂正した他、印刷・マイクロ化・デジタル化の都合で不読となった文字を可能な限り補記し「よみうり抄」の全文を活字化。
目次 明治45年1月から、大正3年12月まで(担当:宗像和重)
解説 大正期・読売新聞「よみうり抄」にみる文藝彙報欄(滝上裕子)
版元から一言
よみうり抄の具体的な記事は、Xに「#今日のよみうり抄」としてほぼ毎日ポストしていますので、それを見ていただくと有り難く存じます。一つ一つの記事は、何の変哲も無い新聞の短信で、基本「誰が何をした」ですが、読む人によっては、ピンッ、と来て、情報が無限に繫がり沼る情報の集積です。
著者プロフィール
よみうり抄研究会 (ヨミウリショウケンキュウカイ) (編集)
石川巧(いしかわ たくみ)立教大学教授
杉浦静(すぎうら しずか)大妻女子大学名誉教授:代表
須田喜代次(すだ きよじ)大妻女子大学名誉教授
滝上裕子(たきがみ ゆうこ)明治大学他非常勤講師、立教大学日本学研究所研究員
十重田裕一(とえだ ひろかず)早稲田大学教授
前田恭二(まえだ きょうじ)武蔵野美術大学教授
宗像和重(むなかた かずしげ)早稲田大学名誉教授
ところが、書籍のコンセプトが若き日の智恵子の実像をさぐることなので、光太郎智恵子が結婚披露を行った大正3年(1914)までで終わっています。
今回刊行された『読売新聞 よみうり抄 大正篇 第1巻』も大正3年(1914)まで。第2巻以降で大正4年(1915)からの「よみうり抄」、どんなだったか確かめたいところです。ただ、第1巻が定価16,000円+税、第2巻以降も同じようなものでしょう。それが全5巻となると、ちょっと個人で購入すべきものではないかな、という気がいたします。公共図書館さん、関連する美術館さん、文学館さん等で取り揃えていただけることを期待します。
【折々のことば・光太郎】
水野君の墓標の文字を書くといふ事承知いたしましたが、小生只今一寸健康を害してゐまして揮毫するといふ事が出来ないので少々遅れるでせう。このこと御諒承下さい。
第一期『明星』以来の親友だった水野葉舟が歿したのは昭和22年(1947)。その墓標の文字を書いてくれという依頼に対しての返答の一節です。葉舟の墓は多磨霊園にありますが、結局、光太郎の揮毫ではなかったようです。
今回刊行された『読売新聞 よみうり抄 大正篇 第1巻』も大正3年(1914)まで。第2巻以降で大正4年(1915)からの「よみうり抄」、どんなだったか確かめたいところです。ただ、第1巻が定価16,000円+税、第2巻以降も同じようなものでしょう。それが全5巻となると、ちょっと個人で購入すべきものではないかな、という気がいたします。公共図書館さん、関連する美術館さん、文学館さん等で取り揃えていただけることを期待します。
【折々のことば・光太郎】
水野君の墓標の文字を書くといふ事承知いたしましたが、小生只今一寸健康を害してゐまして揮毫するといふ事が出来ないので少々遅れるでせう。このこと御諒承下さい。
昭和27年(1952)3月12日 行方沼東宛書簡より 光太郎70歳
第一期『明星』以来の親友だった水野葉舟が歿したのは昭和22年(1947)。その墓標の文字を書いてくれという依頼に対しての返答の一節です。葉舟の墓は多磨霊園にありますが、結局、光太郎の揮毫ではなかったようです。