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3件ご紹介します。

まず7月11日(土)、『岩手日日』さん。

地元民が見た光太郎 花巻疎開80年 証言や逸話収録

 北上市江釣子の八重樫健一さん(76)は、彫刻家、詩人の高村光太郎(1883~1956年)の花巻市疎開80年を記念し、光太郎と地元の人々の交流をまとめた記念誌「高村光太郎の花巻疎開を語る 宮森祐昭の80年史」を発行した。高村光太郎記念会事務局長などを務めた故宮森祐昭さんらの談話をまとめ、地元民の目を通した光太郎の姿を伝えている。
 八重樫さんは宮森さんの義理のいとこ。長年光太郎の研究を行い、今年4月には研究成果をまとめた企画展を北上市内で開いた。
 記念誌は光太郎が太田村山口(現花巻市)に疎開していた7年間について宮森さんや妻の則子さん、疎開中に同村長を務めていた高橋雅郎さんらの証言を基に解説。オクラやパセリの栽培に挑戦して失敗したり、旧山口小学校の子どもが家に押し掛けてきた際に「突然やって来るのは泥棒かフランス革命だ」と説教したりするなど、親しみを感じさせる光太郎のエピソードを掲載している。
 八重樫さんは「地元民の視点から見た光太郎の姿を残したくて本にした。疎開から80年。当時を知る人たちで、しのぶ会なども開けたら」と語っている。
 記念誌は花巻市に寄贈され、市内4ヶ所の図書館で読むことができる。掲載資料などを紹介する企画展は、北上市の北上地区合同庁舎で今月末まで開かれている。

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4月にご紹介した北上市での展示「高村光太郎花巻疎開80年」に関してですね。図録というか、展示内容に関わる冊子が作られたとのことで。

光太郎の昭和20年(1945)から同27年(1952)にわたる花巻及び郊外旧太田村での生活に関しての地元の方々による回想、証言は、『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962 筑摩書房 新版・平成27年=2015 花巻高村光太郎記念会)や『201人の証言 啄木・賢治・光太郎』(昭和51年=1976 読売新聞社盛岡支局)に収められていますが、それらを補うものなのでしょう。

入手できることがあったらまたご紹介します。

続いて青森の地方紙『デーリー東北』さん、7月9日(木)の記事。

「りんご娘」が歌って踊ってPR 青森の魅力発信へMV撮影/十和田

 台湾や香港からの観光客向けに青森県の魅力を発信する曲「Waiha!AOMORI」のミュージックビデオの撮影が4日、十和田市の十和田湖畔休屋地区で行われた。撮影にはご当地アイドル「りんご娘」のメンバー4人も参加。これまで弘前市や青森市でもロケを行っており、今秋にも公開予定という。
 毎月約340万人が利用し、日本での遊び方や買い物、ホテルなどの情報を発信するサイト「樂吃購(ラーチーゴー)!日本」を運営するジーリーメディアグループ(東京都)が企画。曲中では、雪の多さや十和田湖、「朝ラー(朝からラーメン)文化」などを歌詞に盛り込んでいる。
 同日の撮影では、同湖畔の乙女の像の近くで、作詞を担当した同社の吉田皓一社長と、りんご娘が曲に合わせてダンスするシーンの撮影が行われた。
 吉田社長は「東京や大阪とは違う点や人情を強調した曲となっており、地元の人にも青森の良さに気付くきっかけにしていただければ」、りんご娘の金星さんは「青森の魅力を県内外だけでなく、国外にも発信する機会をいただけてうれしい。ご当地アイドルとして、胸を張ってやっていきたい」とアピールした。
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かつて王林さんが所属し、リーダーを務められていたご当地アイドルユニット「りんご娘」さんが参加したMV撮影が、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」近くで行われたというもの。りんご娘さんとしての楽曲ではなく青森をPRする「Waiha!AOMORI」で、りんご娘さんも加わっている、という位置づけでしょうか。

思い出したのは平成29年(2017)に青森県として制作した県のPR動画「ディス(り)カバリー青森」。この際も「乙女の像」を写し込んで撮影されました。
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「乙女の像」、今後とも貢献を続けてほしいものです(笑)。

ついでにもう1件、昨日の『東京新聞』さん一面コラム。光太郎についてはほとんどマクラですが(笑)。

筆洗

暑くなってきた。少し前までは朝晩であればエアコンなしでもやり過ごせたが、もういけない▼高村光太郎の詩に「きつぱりと冬が来た」という一節があったが、温暖化の近ごろは、冬よりも夏の方が「きつぱり」と来て、容赦のない印象がある。公園のセミの声も先週よりも大きく、しっかりしてきたようだ。やれやれ▼この季節、犬を飼う人が困るのは散歩だろう。夏場の散歩に推奨されている朝晩であっても、気温はなかなか下がらない。昼間に熱せられた地面の近いところを歩く犬である。しかも汗をかけないので、体温調整がうまくできない。犬用の「ネッククーラー」もあるが、あれも中の保冷剤がたちまち冷たくなくなり、どれほどの効果があるか▼この夏、熱波が襲った欧州では犬の散歩をどうしているのかと思えば英インディペンデント紙のサイトに専門家がこんなことを書いていた。「散歩しないで死んだ犬はいない。夏場に運動させすぎて死んだ犬はたくさんいる」▼なるほど、最近の暑さを思えば、夏の間だけは散歩の時間を極端に短くするか、思い切って見合わせるのも手なのかもしれない。散歩を楽しみに待つ犬には気の毒ながら危険は避けたい▼散歩中、落ち着かなくなり、歩行が不安定になったときは熱中症が疑われ、ただちに冷やしてやる必要があるそうだ。犬も歩けば熱にあたる。冗談ではなく。

今日現在、梅雨明けの発表になっていない地域がほとんどですが、それだけに湿度が高く蒸し暑い日が続いております。体調管理には十分お気を付け下さい。人間様もそうですが、コラムでは犬の暑さ対策。当方も愛犬が存命だった頃はたしかに大変でした。

現在いるこいつは散歩に連れ出す必要がないので助かっています(笑)。
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それでもいつにも増して、ぐでっとしていますが(笑)。

繰り返しますが、体調管理には十分お気を付け下さい。

【高村光太郎書誌】

選集等(翻訳・部分) 4 『現代譯詩集』増補決定版 現代日本文学全集93

昭和50年(1975)3月20日 筑摩書房
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目次
 於母影(新聲社) 海潮音(上田敏) 牧羊神(上田敏) 珊瑚集(永井荷風)
 白孔雀(西條八十) 明るい時(高村光太郎) 草の葉(有島武郎) 
 まざあ・ぐうす(北原白秋) 月下の一群(堀口大学) 車塵集(佐藤春夫)
 山内義雄譯詩集 海表集(日夏耿之介)
 解説 河盛好蔵
 作者紹介

光太郎訳の「明るい時」は、ベルギーの詩人エミール・ヴェルハーレンの詩集です。妻のマルト・マッサンとの日々を歌ったもので『智恵子抄』にも多大な影響を与えました。

立て続けに光太郎の名が新聞各紙に。光太郎メインだったりはしないものがほとんどですが。3回に分けてご紹介します。

6月28日(日)、『岩手日報』さん。

盛岡少年刑務所で高村光太郎祭

 盛岡少年刑務所(鈴木雅美所長)は12日、盛岡市上田の同刑務所で第49回高村光太郎祭を開き、受刑者約50人が更正と社会復帰への誓いを新たにした。
 光太郎が揮毫(きごう)した「心はいつでもあたらしく」の書と写真に献花。代表者が詩集の読書感想文と作文を発表し「道程」と「孤独が何で珍らしい」の詩を読み上げた。
 高村光太郎が1950年に同刑務所で講演したことから、78年以降に毎年開催してきた。鈴木所長は「高村さんの詩を理解し、人生を前向きに力強く生きてほしい」と呼びかけた。


記事にあるとおり、昭和53年(1978)から毎年開催されている行事です。年によって報道されるかされないかというところですが、令和5年(2023)には珍しく岩手めんこいテレビさんのローカルニュースで取り上げられました。かつては外部講師による光太郎についての講演もありました(当方も10年前にやらせていただきました)が、コロナ禍が契機だったかなという感じで、それは無くなったようです。

021朗読されたという「孤独が何で珍らしい」は以下の通り。昭和5年(1930)、鹿児島の同人雑誌『南方詩人』に寄せた一篇です。このころは送り仮名のルールが確立されておらず、現代では「珍しい」ですが光太郎を含め「珍らしい」とする場合が多くありました。誤植ではありません。
 
   孤独が何で珍らしい
 
 孤独の痛さに堪へ切つた人間同志の
 黙つてさし出す丈夫な手と手のつながりだ
 孤独の鉄(かな)しきに堪へきれない泣虫同志の
 がやがや集まる烏合の勢に縁はない
 孤独が何で珍らしい
 寂しい信頼に千里をつなぐ人間ものの
 見通しのきいた眼と眼の力
 そこから来るのが尽きない何かの熱風だ

たとえ孤独であっても、孤独な者同士が手を差し出し合って野合ではない心の繋がりが生まれ、しかしあくまで個は個、という二重三重のロジックでしょうか。「寄らば大樹の陰」的な「がやがや集まる烏合の勢」の政治家たちにつきつけたい一篇ですね。

続いて掲載順が前後しますが6月27日(土)、『朝日新聞』さん書評欄。

『詩人茨木のり子の誕生 西尾の少女の物語』 熊谷誠人〈著〉 感受性育んだ母との幸福な経験016

 今年、生誕100年、没後20年を迎えた詩人・茨木のり子。関連書籍が次々と刊行される中、発見のつまった宝箱のような評伝が世に出た。
 茨木が詩を書き始めたのは24歳。本書はそこに至るまでの時期に絞り、驚くべき調査力と的確な作品の読み解きによって、少女時代の茨木の姿をあざやかに浮かびあがらせる。茨木の没後、作品の管理に携わり、全集の編纂(へんさん)などにも協力してきた甥の宮嵜治氏は〈穏やかに笑うティーンエイジャーののり子のポートレートがここに完成した〉という言葉を寄せている。
 茨木は、若い世代に向けた詩の入門書『詩のこころを読む』や、与謝野晶子や高村光太郎の評伝など、すぐれた散文の仕事も残している。だが自身の生い立ちやプライベートな事柄についてはあまり書き残しておらず、本書で初めて明らかにされたことは多い。中でも茨木の人生と作品を深く知るために重要と思われるのが、11歳で死別した母親への思いだ。
 母の死が心の傷になったことは、詩人の吉原幸子との対談でちらりと漏らしているだけで、詩として表現することはなかった。そこには父の後妻となった人への配慮もあったのではないだろうか。
 著者は茨木が書いたNHKのラジオドラマ「電話」の脚本を発見する。出演した女優・山本安英の回想録にタイトルが出てくるが内容は不明だったこの作品は、母を亡くした小学生の男の子が心の中の電話で母と対話し、それを支えに生きる物語だった。そこには〈母を失ったのり子が、どんなふうにして自分の心の傷との折り合いをつけて日々を生きていったのかを読み解く鍵が隠されているように思います〉と著者は書く。
 現在の愛知県西尾市に住んでいた茨木は、宝塚歌劇を愛した母に連れられ、名古屋や東京で公演を観(み)ている。著者はその日付や演目、出演者までを特定する。そして当時の茨木の日記にある、東京からの帰路の列車で宝塚歌劇団の一行に遭遇しサインをもらっったという喜びと興奮に満ちた記述を裏付けるのである。
 少女期、母とともに美しいものにふれた幸福な経験。それを明らかにすることは、その後の戦時下で彼女を精神的に支え、詩人としての感受性を育んだものを知る手がかりとなる。掘り起こされた伝記的事実が、茨木作品の深い読みへといざなうのだ。
 茨木のり子の研究を続けてきた著者は、彼女が育った愛知県で長く教職にある人。戦時中の学校生活など、時代背景についてもわかりやすく解説されている。若い読者にぜひ届いてほしい一冊だ。(評・梯久美子 ノンフィクション作家)

茨木のり子は、生誕100年ということで、ちょっとしたブームです。「わたしが一番きれいだったとき」や「自分の感受性くらい」など、鋭い刃物を突きつけられるような一篇です。

詩のこころを読む』は昭和54年(1979)、岩波書店さんから出た岩波ジュニア新書の一冊。同世代かそれに近いの詩人たちの作品を取り上げています。「与謝野晶子や高村光太郎の評伝」は、『うたの心に生きた人々』。さ・え・ら書房さんから昭和42年(1967)に刊行され、後にちくま文庫(筑摩書房さん)ラインナップに入りました。与謝野晶子、光太郎、山之口貘、金子光晴の4人の評伝で、さらに平成19年(2007)、童話屋さんで4分冊として復刊し、光太郎のそれは『智恵子と生きた 高村光太郎の生涯』の題で出ています。
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晶子、光太郎、山之口貘の章は良い感じです。ただ、金子光晴のそれは、まぁ一般的にそうなので仕方がないのかも知れませんが「戦時中も反戦を貫いた」という感じの書き方になっており、実は翼賛詩文もそれなりに書いていたことに触れられていないのが残念です。どうも金子本人より取り巻きが躍起になってそれが「無かったこと」にしたいようで、そのため当方は金子の詩は眉に唾をつけないと読めません。

閑話休題、『詩人茨木のり子の誕生 西尾の少女の物語』、ご興味おありの方、ぜひお買い求め下さい。

長くなりますが、溜まってしまっているのでもう1件。6月28日(日)の『毎日新聞』さん。この日は大きなニュースが無かったようで、1面トップで、さらに3面にも続く長い記事でした。

「星野リゾートの自由人」(その1) 「地域の遺産」未来につなぐ

 西洋の古城を思わせる赤レンガ造りの建物が古都・奈良に威風を放つ。明治時代に建てられた5大監獄の一つ「旧奈良監獄」(奈良市般若寺町)。東大寺や奈良公園がある奈良観光の中心から北に約2キロ、古刹(こさつ)も残る閑静な住宅街に面して異形の建築はある。
 明治政府が不平等条約解消のため、受刑者の人権にも配慮した近代国家としての有りようを欧米列強に示さんと威信をかけて建設、1908(明治41)年に完成した。半円アーチを多用するロマネスク様式が取り入れられ、5大監獄で唯一建物群がほぼ完全な形で残る。
 2017年に100年以上にわたる刑務所としての役割を終えて国の重要文化財に指定された。そして今年、この歴史的建造物は高級ホテルと博物館として生まれ変わった。
  運営するのは高級リゾートホテルの展開で知られる「星野リゾート」。 国の重要文化財としては初めて、施設所有権を国が保有したまま民間に運営を委ねるコンセッション方式の民間活用で事業が進められる。 18年に首相の施政方針演説で、観光立国推進の目玉として取り上げられた一大プロジェクトだ。
 狙いは、民間の資金やノウハウを活用して公共文化財の維持・継承を図ることだ。星野リゾートは高級ホテル「星のや奈良監獄」(48室)と「奈良監獄ミュージアム」を組み合わせて収益化することで、「地域の遺産」を未来につなぐ。
 ミュージアムでは、史料の保存・展示にとどまらず、刑務所をテーマにアートも展開する。コンセプトは「美しき監獄からの問いかけ」。規律が支配する空間で「自由」について考えを巡らす体験を提供したい――。
 画一的なホテルチェーンとは異なり、施設ごとにその地の魅力を掘り起こし、掛け合わせ、新たな価値を生み出すという星野リゾートらしさが存分に盛り込まれた。

突き動かす好奇心
  肌寒く静けさに包まれた4月上旬のある晩、赤レンガの壁沿いを一人、足早に駆ける女性がいた。月末に開業するミュージアムの館長、八十田(やそだ)香枝さん(53)。プロジェクトのカギを握る一人だ。
 向かったのは展示棟。受刑者の暮らしなどを紹介するパネル展示を何度も読み返した。日中は国の担当者との打ち合わせなど館長業務に忙殺される。夜間が八十田さんの「自習」時間だ。開業まで1カ月に迫ると「通勤時間がもったいない」と近くに部屋も借りた。 
 エネルギッシュに動き回り、人一倍声が大きい。これまで星野リゾートで20年以上、ホテルや旅館の運営に携わってきた。「星野リゾートの自由人」を自称し、その印象はまさに大阪のおばちゃんだ。
 自らを突き動かすのは好奇心。館長就任を打診された時、大阪のホテルで思い入れのあるプロジェクトを進めていたが、即断した。「監獄で働くなんて普通のサラリーマンでは経験できない」。立ち止まるより、行動あるのみ。そんな言葉が似合う半生だった。
 大阪市内の下町生まれ。両親はキタの繁華街・北新地ですし店を営み、父が大将、母がおかみさんだった。動物好きで、子どもの頃には天王寺動物園に50回以上通ったほど。動物園で働くことを夢見ていたが、中学生の時に高村光太郎の詩「ぼろぼろな駝鳥(だちょう)」を読んでショックを受けた。
 詩にはこんな一節がある。
 〈何が面白くて駝鳥を飼うのだ。動物園の四坪半のぬかるみの中では、脚が大股すぎるぢゃないか〉
 野生で生きるはずのダチョウが動物園で自由を制限されているという詩の世界を思い涙した。飼育員ではなく、野生動物を保護する仕事を志すようになった。
 19歳の時には「アフリカの国立公園で働けないかな」と思い立ち、1人で旅立った。「母には泣かれ、おばあちゃんからは、帰ってこられないと思ったのか香典をもらいました」。アフリカでの夢はかなわなかったが国内で仕事を探し、97年、24歳で就職したのが、長野・軽井沢を拠点に野生動植物の調査やネーチャーツアーを行う自然保護団体「ピッキオ」だった。
 ピッキオは星野リゾートが92年に作った「野鳥研究室」が前身で、当時は同社の一部署。八十田さんはピッキオの森のいきもの案内人として、星野リゾートが営む軽井沢町の温泉や別荘の宿泊者に向けたガイドツアーを担当した。
 団体客を連れて森を歩き、野鳥や草木について解説。明るい性格を生かしたガイドは子供たちの心を刺戟した。ムササビの観察会をはじめ、ドラム缶風呂を用意したり、バウムクーヘンを焼いたりと体験を重視する企画に取り組んだ。
 仕事は充実していた。ただ30歳を前にある願望がこみ上げてきた。生や死、自身の生き方を真剣に考えてみたいというものだった。
 自立した活動のためには収益事業も重要だ――。野性動物の保護活動に対する星野リゾートの運営方針に違和感はなかった。
 1997年、同社が営む長野県軽井沢町の自然保護団体「ピッキオ」の職員になった八十田香枝さん(53)。野性動物を保護する仕事を志して見つけた職だったが、純粋な慈善活動や調査研究だけをするわけではない。「野鳥の森を保護するにも費用がかかる。ガイドでもうけないと事業は残らない」。商売人の家で育った八十田さんは収益源となるガイドツアーに熱心に取り組み、自然と会社の方針を体現していた。(以下略)
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星野リゾートさんが新たに手がけた奈良監獄ミュージアムさんの館長・八十田香枝氏の密着ドキュメントです。

八十田氏、元々動物好きということでしたが、光太郎詩「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)を読んで野性動物保護の道へ。アフリカへも行き、そちらで働くことは叶わなかったものの、星野リゾートさんでそうしたお仕事に……という流れです。

引用した部分のあとにも同じ位の長さで記事が続きますが、あまりに長いので割愛します。その後、八十田氏は「お金や利益が関わらなくても動物や人のために動けるんだろうか」と自問した末、インドの病院で大地震に伴う被災ボランティアをなさったり、帰国後は沖縄や大阪で星野リゾートさんの地域進出事業の先遣隊を務めたりなさったそうです。そして現在の奈良監獄ミュージアムさんに異動。おそるべきバイタリティーです。

そういう方の転機の一端を光太郎詩が担ったというのは、ある意味恐ろしいといえば恐ろしいことと思います。一篇の詩で人生が左右されてしまう、というわけで。

明日も3件ご紹介します。

【高村光太郎書誌】

選集等(部分) 16 『高村光太郎 宮澤賢治集』日本近代文学大系第36巻

昭和46年(1971)6月10日 角川書店 伊藤信吉解説 飛高隆夫/恩田逸夫注釈
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目次
 凡例
 解説 伊藤信吉
 高村光太郎集
 宮沢賢治集
 高村光太郎集注釈 飛高隆夫
  道程 猛獣篇
 宮沢賢治集注釈 恩田逸夫
  春と修羅 補注 『春と修羅』関係地図
 参考文献
 年譜

 月報
  高村光太郎の情念と表現のあいだ――とくに『智恵子抄』について―― 藤島宇内
  『春と修羅』のころ 福島章
  作家の筆跡 高村光太郎 宮沢賢治
  明治大正風俗語典20 槌田満文
  編集後記

収録詩篇に出てくる語の注釈が実に充実しています。光太郎の部を担当された飛高隆夫氏はこのお仕事を基にさらに発展させ、『高村光太郎『道程』全詩鑑賞』(平成21年=2009 明治書院)という書籍も出版されました。

4月に刊行されたはずの書籍ですが、ネット上で書影を探しても見つかりませんでした。

『サンデー毎日』総目次・執筆者索引1945~1952  ―新聞社系週刊誌の戦後占領期2

発行日 : 2026年4月
著者等 : 石川偉子監修
版 元 : 金沢文圃閣
定 価 : 52,000円+税

 時局報道をまとめて伝える目的で始まった『週刊朝日』。―対して、生活に関する実用記事を強く意識した『サンデー毎日』。
 本書は総目次を作成することに対して懐疑的な世の中の風潮において、目次情報を確認するための総目次から一歩進んだ使い方が可能となるような書誌・資料目録の在り方を模索する中から編まれた。記事主タイトルや執筆者といった基本項目だけでなく、従来の総目次では採録されることのない記事小見出しや、記事内画像・カットのキャプションについても情報をまとめた。読み込むことで新たな気づきが得られる一冊を目指した。

【第一回配本】2026年4月 ISBN 978-4-86814-086-3 配本揃価48,000円
 上巻 (396頁)
  収録内容 
   『サンデー毎日』総目次 (1945年8 月12 日号~1949 年12 月25 日号)
    1945 年 解説—敗戦後の社会を生き抜くために(杉本佳奈)
    1946 年 解説—日常生活の変化と持続(片岡美有季)
    1947 年 解説—戦後の傷と膿みを綴る(松本拓真)
    1948 年 解説—『サンデー毎日』復活後の安定期(石井花奈)
    1949 年 解説—「ニュース雑誌」が追う革命闘争(須山智裕)
 下巻(482頁)
  収録内容
   『サンデー毎日』総目次(1950年1 月1 日号~1952 年5月10 日号)
    1950年 解説—方向性の模索と充実(渡部裕太)
    1951年 解説—1951年における『サンデー毎日』の映す日常(安藤史帆)
    1952年 解説—1952年の『サンデー毎日』(仲井眞建一)
   〈コラム〉占領期『サンデー毎日』の北海道現地印刷(石井花奈)
   〈コラム〉大佛次郎のもう一つの〝帰郷〟
―『サンデー毎日』連載作品『黒潮』における郷里(泉渓春)
   〈コラム〉『サンデー毎日』に描かれた「朝鮮動乱」(河田綾)
   〈コラム〉『サンデー毎日』に見る地方文化建設(牛路遥)
   〈コラム〉『サンデー毎日』にみるラジオ民間放送の開始(濱下知里)
【第二回配本】2026年10月 ISBN 978-4-86814-087-0 予価4,000円
 別冊(約170頁) 
  序論 戦後占領期『サンデー毎日』の刊行状況および誌面内容について(石川偉子)
  論考 戦後占領期の『サンデー毎日』における検閲(石川巧)
  索引
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近代文学研究などをなさっている方々は「ああ、この手の本か」とすぐおわかりでしょうが、特定の雑誌の目次や執筆者を索引化したものです。主な雑誌などについては、色々な出版社からかなり刊行されており、これまでも随分と使わせていただいて参りました。

『サンデー毎日』に関しては、ゆまに書房さんで創刊号(大正11年=1922 4月)から昭和20年(1945)8月12日号までを収録した『戦前期『サンデー毎日』総目次』が全三巻で既に刊行されています(現在はオンデマンド)。

今回のものは、昭和20年(1945)8月12日号から昭和27年(1952)年5月10日号まで。なぜ昭和27年(1952)で切ったのかよくわかりませんが。

戦前期を含め、光太郎の作品で『サンデー毎日』が初出、というものは今のところ確認できていません。ただ、他紙誌からの転載、光太郎について取材した記事などはいくつかありました。

まず転載系、今回のものの当該期間ですと、昭和25年(1950)10月20日の別冊中秋特別号。
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巻頭にカラー印刷で7ページにわたり「秋風帖」と題し、7人の詩人の旧作に当代一流の画家たちの挿画を添えたページが設けられています。北原白秋/足立源一郎で「片恋」、佐藤春夫/東郷青児の「秋の夜」、萩原朔太郎/古沢岩美による「青空」、室生犀星/山口華楊コンビで「消えゆく虫」、山村暮鳥/福田豊四郎が「ある時」、堀口大学/宮田重雄ときて「秋のピエロ」、そして光太郎/宮本三郎の「或る日」。

「或る日」は昭和3年(1928)9月の作ですので、この時点で20年以上経っています。初出誌が不明でして、翌4年(1929)2月の雑誌『現代文芸』第6巻第2号(素人社)に載ったそうですが、当会顧問であらせられた北川太一先生によればこれも初出ではなく転載だろうとのことです。

元々、光太郎が好感を抱いていた秩父宮雍仁親王と、旧会津藩主松平容保の孫・勢津子妃殿下のご成婚に題を採った詩でした。しかし、『サンデー毎日』に附された挿画は田舎の花嫁が馬で輿入れする姿。転載に際し、光太郎自身が詩の内容や背景を忘れていて、「どんな詩だか思い出せないけど転載は構わないよ」ということでこうなってしまいました。発行されてから秩父宮親王関連だったと思い出した光太郎、「ありゃま」でした(笑)。

それから、遡って昭和22年(1947)6月15日の第26年第25号には「父と子と 愛情に描く“文化の群像” 高村光雲と高村光太郎、豊周」という記事が載っています。芸術家親子ということで、3人の紹介です。光雲は既に亡くなっていましたが。
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今のところ当該期間で確認できている光太郎がらみはこの2冊です。しかしまだあってもおかしくありません。過日ご紹介した不二出版さんの『復刻版 海の旅』同様、国会図書館さんあたりで閲覧可能となったら調べてみようと思っております。国会図書館さんのデジタルデータでは、だいぶ新しい昭和42年(1967)の号からしか網羅されていません。

今回の当該期間外ですと、昭和31年(1956)4月15日の第35年第19号には、光太郎の追悼記事が出ています。
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ちなみにこの号と、上記の別冊中秋特別号は小磯良平、第26年第25号が光太郎と交流のあった硲伊之助が表紙を描いています。昔はそのあたり、豪華でしたね。

この手の特定の雑誌の目次や執筆者を索引化したもの、最近はかつてほど刊行されていないような気がしますが、そういう情報を得られていないだけかもしれません。「こんな雑誌についてのもこの間出たよ」という情報がありましたら、ご教示いただけると幸いです。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 38 『定本高村光太郎全詩集』

昭和57年(1982)6月30日 筑摩書房 北川太一編
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目次
 明治三十五年(一九〇二)
  なやみ
 明治四十年(一九〇七)
  秒刻 マデル 豆腐屋 博士 あらそひ 
  敗闕録
   ㈠われ千たび君を抱かむ ㈡君を見き ㈢遁れたる君は遣らばや
   ㈣眠りてあれか目覚めよか
 明治四二年(一九〇九)
  にほひ
 明治四三年(一九一〇)
  LES IMPRESSIONS DES OũONNAS TU VOIS? LE SOURIRE CACHÉ
   L'ABSINTHE POUSSE―POUSSE Á LA GUM―WA 失はれたるモナ・リザ
  友よ PRÉSENTATION 生けるもの 根付の国
 明治四四年(一九一一)
  画室の夜 熊の毛皮 人形町 甘栗 庭の小鳥 亡命者 鳩 食後の酒 侵蝕 失走
  寂寥 或る日の午後 街上夜曲 雪の午後 声 風 (別れぎは) (散りかかる)
  新緑の毒素 夏 廃頽者より 「河内屋与兵衛」 髪を洗ふ女 「心中宵庚申」 なまけもの
  手 縁日  金秤 はかなごと 狗ころ
  泥七宝
   (ちらちらと) (家を出づるが) (きりきりと錐をもむ) (それと知つて)
   (つくづく見れば) (バタを造れば) (もらつた人形を) (かなしや人は)
   (長き睫毛の) (この守袋は) (淘宮には) (かの国より来し)
   (われは気違ひとぞとよ) (生れてより) (女よ) (蛙が鳴く)
  めくり暦 地上のモナ・リザ 葛根湯 夜半 けもの  あつき日 かるた 髪を洗ふ女
  父の顔 「おもひで」と「夜の舞踏」と 白昼の空気
  泥七宝㈡
   (皮肉ものと) (言葉のほかにも) (読みてゆけば) (知らぬ顔の) (八重次の首は)
   (人ごみの) (無法な雷は) (蓮花の花の) (酔へる人の) (女の涙を) (朝なれど)
   (たてひき知らぬ人に) (おもしろや) (淋しい顔は) (はりに行くとは) (両国橋の)
  ビフテキの皿 恐怖
 明治四五年・大正元年(一九一二)
  青い葉が出ても 赤鬚さん 隣のおきやん 雨 鍵と錠 プリマドンナ 二人 あをい雨
  泥七宝㈢
   (われをなげけとてか) (「勝てば官軍」) (妻もつ友よ) (さけをつくるもね)
  友の妻
  泥七宝㈣
   (弱きは女の) (たとひ離れて) (てんちりんち) (お嫁にゆくを) (月さへいでて)
  人に(いやなんです) N――女史に(「人に」初出) 怨言 ヹネチヤの旅人
  夏の夜の食慾 或る夜のこころ 涙 おそれ からくりうた
  泥七宝㈤
   (ひとりものは) (それでみんなか) (さきがさきなら) (腕をくんで) (腹をたつた)
     (ものおぼえよき人は) (こびとじまの)
  犬吠の太郎 さびしきみち 寂しき道(「さびしきみち」異稿) 梟の族 かなしきこころ
  冬が来る(冬が来る) 或る宵 夜 或問 狂者の詩 郊外の人に 冬の朝のめざめ
  師走十日 戦闘
 大正二年(一九一三)
  人に(遊びぢやない) 深夜の雪 
  カフエにて
   (泥でこさえた) (何もかも) (アメリカ帰りの) (おれの魂を) (無理は天下の)
   (人間の心の影の)
  人類の泉 山 よろこびを告ぐ 冬が来た 冬の詩 粘土 牛 僕等 あたり前 現実
  現実(初出)
 大正三年(一九一四)
  道程 道程(初出) 愛の嘆美 群集に 婚姻の榮唱 万物と共に踊る 瀕死の人に与ふ
  晩餐 五月の土壌 淫心 秋の祈 
 大正五年(一九一六)
  わが家 我家(「わが家」初出) 花のひらくやうに 海はまろく 歩いても
  湯ぶねに一ぱい 晴れゆく空 妹に 無為の白日  無為の白日(初出) 猫
 大正六年(一九一七)
  小娘 (奇麗にお化粧した)
 大正九年(一九二〇)
  序曲 メロン 丸善工場の女工達 
 大正一〇年(一九二一)
  雨にうたるるカテドラル かがやく朝 かがやく朝(初出) ラコツチイ マアチ
  ベルリオの一片(「ラコツチイ マアチ」初出) 米久の晩餐 
 大正一一年(一九二二)
  クリスマスの夜 クリスマスの夜(初出) 真夜中の洗濯 下駄 冬の送別
  五月のアトリエ 沙漠 落葉を浴びて立つ Yoki kora yo! よき子等よ!(翻字)
  冬の子供 Fuyu no Kodomo(初出)
 大正一二年(一九二三)
  樹下の二人 Abraham Lincoln エブラハム リンコン(異稿) 鐵を愛す Liluli
  リリユリ(翻字)
  とげとげなエピグラム
   (夜中になると) (大変いいけれども) (おれは求めてゐる) (雨蛙よ)
   (詩はおれの安全弁) (避難はたのもしい) (おもしろい電車の中) (自分のあたまの)
   (おれの手の届かないさきを) (人のよろこびまで) (おなかが減つて)
   (そんなにおれが) (人のきめてくれた) (自分で自分を) (いいわるいを抜きにして)
   (皮肉ならお止し、夜が) (皮肉ならお止し、どうせ) (それが哲学か)
   (君の思ふ壺から) (喰べたものを) (ロダンを嫌ふのが) (三界をまたにかけた)
   (彫刻は俺の錬金術) (「杉の芽のやうな」) (人麿よ、芭蕉よ)
   (あまりよく知りもせずに) (与謝野晶子の歌に) (六十を越したら)
   (どうかきめないでくれ) (この猛獣を馴らして)
  Shine meshi 支那飯(翻字)
 大正一三年(一九二四)
  春駒 温泉と温泉場 清廉
 大正一四年(一九二五)
  月曜日のスケルツオ 白熊 氷上戯技 首狩 傷をなめる獅子 少年を見る
  ある首の幻想 校庭 狂奔する牛 車中のロダン あの詩人 無口な船長 後庭のロダン
  珍客 葱
 大正一五年・昭和元年(一九二六)
  路ばた 金 十大弟子 鯰 象の銀行 苛察 滑稽詩(穴蔵に先祖代々の兵糧が)
  夜の二人 聖ジヤンヌ 感謝 ミシエル・オオクレエルを読む 新茶 雷獣 秋を待つ
  深夜 大きな嚔 火星が出てゐる 冬の奴 偉大なるもの
 昭和二年(一九二七)
  あなたはだんだんきれいになる 無題(すばらしいものを見た) 懐ふ 二つの世界
  不平な人に あけぼの 怒 或日の日記より(「怒」初出) 笑
  二つに裂かれたベエトオフエン 花下仙人に遭ふ 
  エピグラム
   超現実派 煩瑣派 卑近美派 詩人 新感覚派
  美を見る者  「詩」
  名所
   大湧谷 草津
  母をおもふ 母をおもふ(初出) 北東の風、雨 昔話
  偶作十五篇
 
  (彫刻はおそろしい) (どうせ死ぬ首の中に) (おれは眼を見て) (急にしんとして)
   (翼のある人がある)(「急にしんとして」初出) (人間のからだは) (桃の実は)
   (くるみの種を) (人生への怒は) (人情ぽいものよ) (真の自由の) (女がぽかんと)
   (おれは力が) (木を彫ると) (ふつとさう思ふことがある)
   (朝晩少しひやひやするアトリエで) (平和的な平和を)
  天文学の話 平和時代 殺風景 或る墓碑銘 冬の言葉 その年私の十六が来た
 昭和三年(一九二八)
  ぼろぼろな駝鳥 最後の工程 彼は語る 竜 当然事 なにがし九段 さういふ友
  あどけない話
  偶作
   (うやうやしいのは) (御岳山の行者は)
  あの音 無限軌道 約束 
  夏書十題
   青空 底 寒山詩    うつたうしきもの (ヤマノイモの) さうか、寒公
   (夜明けのかなかなに) 死ねば 無いからいい 一人づつが  
  同棲同類 何をまだ指さしてゐるのだ 或る日 カタバミの実 焼けない心臓 触知
  存在 古事一則 旅にやんで 街上比興 その詩
 昭和四年(一九二九) 
  首の座 独り酸素を奪つて 北島雪山 上州湯桧曽風景 人生 或る筆記通話
  非ユークリツド的 偶作(詩歌の城に) (詩歌の城に)(「偶作」初出) 秋が来たんだ
  激動するもの 上州川古「さくさん」風景 或る親しき友の親しき言葉に答ふ
  孤独で何が珍らしい
 昭和五年(一九三〇)
  のんきな会話 のんきな会話(初出) 春の一年生 刃物を研ぐ人 消えずの火
  籠球スナツプ シヨツト “Die Welt ist scoen” のつぽの奴は黙つてゐる
  耳で時報をきく夜 冷熱 提要(「冷熱」異稿) 南極 機械、否、然り
  友よ(まづ第一に)
 昭和六年(一九三一)
  一艘の船が二艘になること 似顔 不許士商入山門 美の監禁に手渡す者 卓上の七月
  検温 霧の中の決意 ゆつくり急がう レオン ドウベル
 昭和七年(一九三二)
  非ヨオロツパ的なる 非欧米的なる(「非ヨオロツパ的  なる」改稿) 
  もう一つの自転するもの 五月のウナ電
 昭和九年(一九三四)
  「藤島武二画集」に寄す
 昭和一〇年(一九三五)
  人生遠視 風にのる智恵子 「悪魔の貞操」に寄す 寸言 秋風をおもふ ばけもの屋敷
  村山槐多 詩の道
 昭和一一年(一九三六)
  鯉を彫る 荻原守衛 堅氷いたる
 昭和一二年(一九三七)
  少年に与ふ わが大空 よしきり鮫 マント狒狒 象 千鳥と遊ぶ智恵子
  値ひがたき智恵子 秋風辞 夢に神農となる 晴天に酔ふ
  冬が来る(米予想収穫高の発表がすむと) 老耼、道を行く 未曾有の時 詩について
  天日の下に黄をさらさう
 昭和一三年(一九三八)
  手紙に添へて 団十郎像由来 森のゴリラ 潮を吹く鯨 若葉 地理の書 山麓の二人
  孤坐 日本の秋 或る日の記 吾が同胞 子を産む書物 その時朝は来る 群長訓練
  新しき御慶 正直一途なお正月 こどもの報告
 昭和一四年(一九三九)
  米のめしの歌 レモン哀歌 軍艦旗 芋銭先生景慕の詩 初夏言志 初夏到来
  つゆのよふけに 上海陸戦隊をおもふ 乃木大将を懐ふ 事変二周年 肉体 君等に与ふ
  亡き人に 愛について お化屋敷の夜 銅像ミキイヰツツに寄す 紀元二千六百年
  
発足点 北冥の魚 冬 先生山を見る 紀元二千六百年にあたりて へんな貧
  穴ずまひ(「へんな貧」初稿) 私は青年が好きだ 重大なる新年 源始にあり
 昭和一五年(一九四〇)
  ほくち文化 護国神社 蝉を彫る 落日 梅酒 五月のうた 新緑の頃 雷電の夜
  最低にして最高の道 無血開城 純潔 歩くうた 式典の日に 漁村曙 少女立像
  朋あり遠方に之く 世界は美し 太子筆を執りたまふ われら持てり 新年に与ふ
 昭和一六年(一九四一)
  さくら 四月の馬場 風かをる(「四月の馬場」異稿) 清くして苦きもの 少女に
  みかきにしん 協力の磊塊たれ 青年 荒涼たる帰宅 事変はもう四年を越す
     事変はもう四年を越す(初出) 或会議に列して 迎火 純潔のうた 百合がにほふ
  新穀感謝の歌 必死の時 こころに美をもつ 危急の日に 大詔渙発 十二月八日
  鮮明な冬 彼等を撃つ 新しき日に 神のごとく行へ
 昭和一七年(一九四二)
  沈思せよ蒋先生 ことほぎの詞 変貌する女性 シンガポール陥落
  夜を寝ざりし暁に書く 昭南島に題す 或る講演会で読んだ言葉 特別攻撃隊の方々に
  独居自炊 帝都初空襲 戦歿報道戦士にささぐ 与謝野夫人晶子先生を弔ふ 仕事場にて
  民国の民と兵とに与ふ 真珠港特別攻撃隊 鬱勃たる健康 われら文化を
  山道のをばさん 女性はみんな母である 感激をかくさず    感激をかくさず(不許可稿)
  三十年 神とともにあり 新天地 みなもとに帰るもの 少女よ 神これを欲したまふ
  逞しき一念 覆滅彼にあり 寒夜読書 戦にきよめらる われらの道
  決戦の年に志を述ぶ
 昭和一八年(一九四三)
  少女の思へる 殄滅せんのみ 紀元節を迎ふ さかんなるかな造船 「撃ちてし止まむ」
  供木のことば 監視哨 あそこで斃れた友に 艦隊を見る 海軍魂を詠ず 軍人精神
  提督戦死 厳然たる海軍記念日 山本元帥国葬 五月二十九日の事 報道の戦士をたたふ
  われらの死生 「まつた」を知らず 「江田島」を読んで ビルマ独立 友来る
  ぼくも飛ぶ おん魂来りうけよ 勤労報国 粛然たる天兵 救世観音を刻む人
  フイリツピン共和国独立 四人の学生 全学徒起つ 戦に徹す 断じてかへさず
  激戦未だ終らず 大決戦の日に入る 第五次ブーゲンビル島沖航空戦
  十二月八日三たび来る 貴さ限りなし 少年飛行兵 少年飛行兵の夢 少女戦ふ
  海上日出 熱鉄烈火の年 マキン、タラワの武人達 新年よ、熟視せよ 新年は見る
 昭和一九年(一九四四)
  昭南島生誕二周年 臣ら一億楠氏とならん 南洋眼前にあり 品性の美 少年兵
  陽春の賦 敵ゆるすべからず 必勝の品性 春暁におもふ 山林頌 美をすてず 保育
  写真を見て 米英自ら知らず 合せ祀らるる靖国の神に われらの祈 戦意愈々昂し
  古代の如く たのしい少女 弾薬手 根元の道 ほんとの力 婦女子凜烈たり
  黒潮は何が好き 南瓜賦 米英来る 美しき落葉 最大の誇りに起つ 神州護持
  十二月八日四度来る われらの雄たけび わたつみのうた 大東亜の子ども達よ 満三年
  新春に面す
  二千六百五年のむかし 皇太子さま御乗馬
 昭和二〇年(一九四五)
  皇国骨髄の臣 梅花かをる 青春のうた 力を知る 無想の剣 おほぞらのうた
  栗林大将に献ず 神潮特別攻撃隊 戦火 琉球決戦 海軍記念日に 薫風の如く
  勝このうちにあり
  小曲二篇
   (花はなにとて) (木の実草の実)
  石くれの歌
   (石くれは動かない) (あかい佐渡石が)
  一億の号泣 犯すべからず 小曲二篇 石くれの歌 非常の時 松庵寺 武装せざる平和
  永遠の大道 雪白く積めり
 昭和二十一年(一九四六)
  和について 皇太子さま 国民まさに餓ゑんとす 雲 絶壁のもと (観自在こそ)
 昭和二二年(一九四七)
  山菜ミヅ 田植急調子 (リンゴばたけに)
  暗愚小伝
   家
    土下座 ちよんまげ 郡司大尉 日清戦争 御前彫刻 建艦費 楠公銅像
   転調
    彫刻一途 パリ
   反逆
    親不孝 デカダン
   蟄居
    美に生きる おそろしい空虚
   二律背反
    協力会議 真珠湾の日 ロマン ロラン 暗愚 終戦
   炉辺
    報告 山林
  暗愚小伝断片
   わが詩を読みて人死に就けり (死はいつでも)
  山のひろば 蒋先生に慙謝す 脱卻の歌 「ブランデンブルグ」 試金石 岩手山の肩
 昭和二三年(一九四八)
  人体飢餓 東洋的新次元
  山口より
   山口部落 かくしねんぶつ クロツグミ ヨタカ 別天地
  噴霧的な夢 おれの詩 お祝のことば 新年 岩手の人 (人間劣性の)
 昭和二四年(一九四九)
  若しも智恵子が 女医になつた少女 悪婦 山の少女 山からの贈物  月にぬれた手
  滑稽詩二篇
   Rilke Japonica etc. 赤トンボ
  智恵子抄その後
   元素智恵子 メトロポオル 裸形 案内 あの頃 吹雪の夜の独白 
  鈍牛の言葉 山荒れる この年 あいさつ 一九五〇年
 昭和二五年(一九五〇)
  偶作(人が機械をつくるといふ)  典型 建てましよ吾等の児童会館 クチバミ
  金田一国士頌 東北の秋 開拓に寄す 大地うるはし 人間拒否の上に立つ 明瞭に見よ
  船沈まず 遠い地平 初夢まりつきうた 酔中吟
 昭和二六年(一九五一)
  岩盤に深く立て 智恵子と遊ぶ
 昭和二七年(一九五二)
  山のともだち ばた屋 餓鬼 (四つの仮面は) 報告(あなたのきらひな東京へ)
  お正月に
 昭和二八年(一九五三)
  東京悲歌 十和田湖畔の裸像に与ふ かんかんたる君子
 昭和二九年(一九五四)
  記者図 弦楽四重奏 新しい天の火
 昭和三〇年(一九五五)
  開拓十周年 追悼 開びゃく以来の新年 お正月の不思議 生命の大河
 解題(北川太一)
 年譜(北川太一編)
 編者覚え書(北川太一)
 詩題索引

この時点で確認できていた光太郎詩全編を編年体で収めてあります。初出発表形と決定稿がかなり異なる場合には、初出発表形もならべてあります。

先だつ昭和41年(1966)には新潮社から『高村光太郎全詩集』が出ていますが、そちらは詩集を根幹とした配列で言わば紀伝体でした。

今年、光太郎は没後70周年、智恵子は生誕140周年です。

だから、と言うわけでもないのでしょうが、このところ、2人の名を新聞紙上でよく見かけます。ちょうど4月2日(木)の連翹忌前後のこのブログでも計4件ご紹介しました。

その後もそれが続きまして、今日明日と2日間に分け、また4件ほどご紹介します。

まず『東京新聞』さん、4月4日(土)掲載の劇作家・鴻上尚史氏によるコラム。

知識人まで「狂喜乱舞」した12月8日…太平洋戦争を選んだのは「国民」だった〈鴻上尚史の月2回コラム〉003

 「戦争反対」に関するSNS上の発言がまだ話題ですが、「戦争反対」に対する批判というか突っ込みで「戦争に賛成する者なんかいない。当たり前のことを偉そうに言うな」という反論を、ちらほらと見かけるようになりました。
  ◆開戦した12月8日、知識人が感じたことは
 まあ、確かに、「戦争賛成」とSNSで投稿する人は、日本では珍しいかもしれません。
 「ガザ攻撃支持」とか「ウクライナ撃滅」だの「イラン撃破」なんて勇ましい(?)言葉を海外のSNSで見ることはありますが、今のところ、戦争そのものを無条件で全面的に肯定した書き込みをする人は、日本では少数派でしょう。
 みんな一応、建前というか、原則としては「戦争はよくない」「戦争はなるべくはしてはいけないものだ」というスタンスだと思います。
 『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』(方丈社)という本があります。
 昭和16年、12月8日のアジア・太平洋戦争が始まった日に、日本人はどう感じ、何を考えたのかを、当時の知識人・著名人50人余りの日記や回想録から集めた本です。
◆坂口安吾は東条首相の話をラジオで聞いて…
 戦後思想の巨人、吉本隆明氏は、17歳の時で、開戦のニュースを聞いた時は「ものすごく解放感がありました。パーッと天地が開けたほどの解放感でした」と回想しています。
 『ごん狐』が教科書で有名な童話作家、新美南吉は28歳の時で、「いよいよはじまったかと思った。何故か體(からだ)ががくがくと慄(ふる)へた。ばんざあいと大聲(おおごえ)で叫びながら駆け出したいやうな衝動も受けた」と書きました。
 『堕落論』で戦後注目された、坂口安吾は35歳の時で、東条首相の話をラジオで聞いて、「涙が流れた。言葉のいらない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ。一歩たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ」と感じました。
◆多くの著名人が「新世界が始まるような」感情に
 同じく作家の横光利一は43歳の時で、「戦はついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ」と書きました。
 詩人室生犀星は52歳で、「十二月八日」と題した詩は、冒頭
「何かを言いあらわそうとする者/そして言いあらわせない者/よろこびの大きさに打たれて/ここで凝乎として喜んでいる者/よろこび過ぎて言葉を失った瞬間/人は初めて自分の我欲をなくし/何とかして/偉大な喜びをあらわしたいとあせる」
としました。
 同じく詩人の高村光太郎は58歳。「おのずから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡が曇って来た」「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった」
 民俗学者の折口信夫は54歳で「宣戦のみことのりの降ったをりの感激、せめてまう十年若くて、うけたまはらなかったことの、くちをしいほど、心をどりを覺(おぼ)えた」と書きました。
 歌人の斎藤茂吉は59歳。「老生ノ紅血躍動!」と書きました。
 軍人や政治家が開戦を肯定的に評価するのは、当然かもしれませんが、圧倒的多数の著名人や知識人が12月8日を「感動し、落涙し、身が引き締まる思いがし、新世界が始まるような」肯定的な感情で迎えたことが、この本から分かります。
◆だからこそ「戦争反対」と言い続けたい
 反発したのは、ほんの少数。
 詩人の金子光晴は45歳で「僕は、アメリカとの戦争が始まった時、二、三の客を前にしながら、不覚にも慎みを忘れ、『ばかやろう!』と大声でラジオにどなった」と回想しました。
 「芸術は爆発だ」の岡本太郎は30歳。「まさか──私はガク然とした。日本は独伊と同盟を結んでいた。しかしそれは米英などとのさまざまの交渉を有利に展開するためのかけひきであって、強硬なのも結局ポーズだけかと思っていたのに。
 もう入隊はきまっている。ああ、オレは間違いなく死ぬんだ。死んでやろう。私ははり裂ける思いで家の外に飛び出した。ふりあおいだ冬空は限りなく青かった」と書きました。
 軍部が暴走したわけでも、政府にだまされたわけでも、資本家が先頭を走ったわけでもなく、まず国民が率先して戦争を選んだ。そして、戦争が始まったことに狂喜乱舞した。
 だからこそ、ふだんから「戦争反対」と言い続け、魂の奥底まで刻むことが大切なのだと僕は思います。

引用されている光太郎作品は「十二月八日の記」と題する散文です。昭和16年(1941)のこの日、光太郎は議員を務めていた第二回中央協力会議出席のため丸ノ内の大政翼賛会本部に居ました。しかし予定の時刻を過ぎても会議が始まらず、待たされている間に開戦の詔勅が放送され、引用されているのはそれを聴いての感想の部分です。

その他、まだ学生だった吉本隆明、新美南吉、坂口安吾、横光利一、室生犀星、折口信夫、斎藤茂吉……。異口同音に開戦時を語っています。岡本太郎や金子光晴は「反発」と扱われています。しかし岡本太郎はともかく、金子光晴に関しては額面通りに受け取れません。以前にも書きましたが、金子は戦後になって、本人というより取り巻きの操作で「戦時中も反戦を貫いた」という評が為され、そのように受けとめられています(現代の文芸評論界の大御所もころっと騙されています)が、開戦後には数は少ないもののコテコテの翼賛詩文を書いて発表しています。光太郎ほどの積極的協力ではなかったにせよ「戦時中も反戦を貫いた」とはとても言い難いのです。「『ばかやろう!』と大声でラジオにどなった」のも、ヒューマニスティックな心の叫びというより、個人的なものにすぎないでしょう。

軍部が暴走したわけでも、政府にだまされたわけでも、資本家が先頭を走ったわけでもなく、まず国民が率先して戦争を選んだ。そして、戦争が始まったことに狂喜乱舞した。」この愚を繰り返してはいけないわけですが、昨今の世情をみるに、つのるのは危機感ばかりです。

その後、戦争を煽った光太郎は戦後になってそれを深く悔い、花巻郊外旧太田村の劣悪な環境で7年間もの蟄居生活を送りました。その間、天職と定めていた彫刻も封印。それは自らに課した最大の罰でした。だから光太郎は偉い、と言うつもりもありませんが(犯した罪は消えませんので)、他のほとんどの文学者たちは、戦時中の行動を無かったことにしたり、強制されてのもので本意ではなかったと言い訳したり、戦後になっても皇国史観から抜け出せずに開き直ったりしました。

そんな醜い姿は見たくありませんね。

続いて『朝日新聞』さん。編集委員・高橋純子氏の稿。4月11日(土)掲載分です。

(多事奏論)現れぬ首相と光の波 主権者のパワー、畏れぬわけには

002 高市早苗首相に聞きたいことがある。
 先の総選挙で歴史的大勝を収めたからこそ、依然として高い支持率を維持しているからこその純粋かつ単純、そして根本的な疑問。感情的にならぬようゆっくりと、腹に力を込めて、聞きたい。
 どうしてあなたは、なんのためにあなたは、首相になったのですか?
     *
 これほど「現れない」首相は前代未聞だろう。新年度予算案をめぐる参院集中審議への出席は10時間弱。石破茂政権の4分の1。おきて破りの型破り。この国に住まう人びとが必死に働いて納めた税金をどう使うのか。この国が抱える多くの課題に、どう対処するつもりなのか。首相たるもの、国権の最高機関である国会で説明し、できるだけ多くの納得を得るよう力を尽くすのは当然のことだ。イロハのイ、50音ならア、アルファベットならA。そこから始まる。そこからしか始まらない。
 中東情勢の緊迫化は、私たちの生活にどのような影響を及ぼすのか。情報が入り乱れ、日に日に増す人びとの不安をなだめられるのは、政治リーダーの明確なメッセージしかない。ただし、メッセージとは単なる言葉ではない。思いの乗った、身体性を宿した言葉だからこそ人びとに届き、刺さる。ゆえに政治リーダーは「現れ」なければならないのだ。
 ところが高市首相は記者会見を開かない。ぶら下がり取材もごくまれ。言いたいことがある時はXに投稿し、終わり。
 たとえば4月4日夕の投稿は「中東情勢に伴い供給が制約を受ける可能性がある重要物資の安定確保のための高市内閣の取組の現状について、説明致します」と、○○を実現した、××を進めていると日報のごとく細かく列挙したうえで、「繰り返しになりますが、原油及び石油製品の『日本全体として必要な量』は確保されています」。そして最後は「高市内閣の総力を挙げて、きめ細かく対応してまいります!」
 “日本全体として必要な量”をカギカッコでくくる「大本営発表」ぶりも鼻につくが、それよりなにより、供給不足や値上げに頭を抱えている業者、人工透析が続けられるのかと不安におびえている患者らへ向けた、いたわりやねぎらいがひとことも、ただのひとこともないことには驚きを禁じ得ない。そして最後、突如として繰り出される「!」。私はやってる!私は間違ってない!――どんな局面でも「私」が前面に出てくる、この感じ。私はシンプルに、こわいと思う。
 智恵子は「東京には空がない」と言ったが、私は「高市首相には『畏(おそ)れ』がない」と言いたい。多寡はともかく安倍―菅―岸田―石破首相には確かにあった、国民の命を預かっているという、畏れ。
 想像してみる。権力者が極限状態に置かれ、「玉砕せよ!」と命を下さねばならぬ局面を。高市氏はとても滑らかに命じてみせるのではないかと、危惧する。
     *
004 「戦争反対!」「憲法守れ!」「高市政権いますぐ退陣!」。コール&レスポンスが夜空に響く。歩道を埋め尽くす色とりどりのペンライトがそのたびに揺れ、美しい波となる――。8日夜、国会前で開かれたデモに、主催者発表で3万人が参加した。「国民なめるな!」のコールも聞こえる。この国の主は主権者ひとりひとりであることを、主権者にはパワーがあることを、光の波は教える。畏れを知らぬ首相もいずれ、この波を見るだろう。畏怖(いふ)せずにいられないはずだ。まともな権力者であるならば。

智恵子は「東京には空がない」と言った」は本題とはあまり関係ありませんが(笑)。しかし、「東京には空がない」と言った智恵子は、光太郎曰くかつてこの国に存在していた(現代でもそれに近い輩が居ますが)「傍若無人のがさつな階級」を「身ぶるひする程いやがつていた」そうです。

010   報告(智恵子に)
 
 日本はすつかり変りました。
 あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた
 あの傍若無人のがさつな階級が
 とにかく存在しないことになりました。
 すつかり変つたといつても、
 それは他力による変革で
 (日本の再教育と人はいひます。)
 内からの爆発であなたのやうに、
 あんないきいきした新しい世界を
 命にかけてしんから望んだ
 さういふ自力で得たのでないことが
 あなたの前では恥しい。
 あなたこそまことの自由を求めました。
 求められない鉄の囲ひの中にゐて、
 あなたがあんなに求めたものは、
 結局あなたを此世の意識の外に逐ひ、
 あなたの頭をこはしました。
 あなたの苦しみを今こそ思ふ。
 日本の形は変りましたが、
 あの苦しみを持たないわれわれの変革を
 あなたに報告するのはつらいことです。

自らの半生と戦時中の翼賛活動を省察する連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)終末近くに置かれた詩です。新潮文庫版の『智恵子抄』に掲載されています。敗戦後のGHQ主導による大変革を目の当たりにし、それを智恵子がどう受けとめるか、という内容です。

そういうのであれば、なぜ智恵子が「身ぶるひする程いやがつていた」「傍若無人のがさつな階級」にとことん協力したんだ、と突っ込みたくなりますが、それをやらないわけにはいかない世情だったわけで……。

つくづく「傍若無人のがさつな」人物の思うようにされる、そういう世の中に戻してはいけないと、強く思います。

【高村光太郎書誌】

本人著作(部分)18 『日本の母』 

昭和18年(1943)4月18日 春陽堂書店 日本文学報国会編
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目次
 序 徳富猪一郎
 日本の母を頌ふ 作詞 佐藤春夫
 信仰で乗切る荒波(樺太・水本ハマコさん) 甲賀三郎
 北海道の原野を開墾(北海道・浅井リヘさん) 丸山義二
 巨きな母の手(青森県・豊川やささん) 土師清二
 嬰児・妊婦の温き母(岩手県・伊藤尚子刀自) 土屋文明
 黙々と二十年(秋田県・佐々木スヱさん) 和田伝
 日本一子宝部隊長(宮城県・白戸キミさん) 辰野九紫
 雄々しや女集配手(山形県・土井於末さん) 結城哀草果
 三代続く誉れの寡婦(福島県・室井キヤさん) 加藤武雄
 忠臣の裔(東京府・篠尾はる子さん) 菊池寛
 浅草の「日本の母」(東京府・平間りつさん) 久保田万太郎
 明朗に豊かに生きてゐる人(茨城県・八代まつさん) 佐藤春夫
 出征兵を叱る慈愛(栃木県・新井種子刀自) 長谷川伸
 家の為に子の為にお国の為に(群馬県・小板橋はるさん) 佐佐木信綱
 母性愛像ををろがむ(千葉県・富田てるさん) 吉植庄亮
 遺愛の柿の木紅し(埼玉県・金子淳美さん) 大佛次郎
 女手一つに護る田畑(神奈川・村野かめよさん) 岩田豊雄
 巻頭(まきがしら)の妻の心(新潟県・星野とよさん) 貴司山治
 女手で通した牛飼(富山県・三村ちよさん) 尾崎一雄
 白衣の夫と卅七年(石川県・遠藤常盤さん) 深田久弥
 良き母は良き妻(福井県・高島フジヲさん) 中野実
 遺骨を抱きしめて(岐阜県・沼田ミツさん) 日比野士郎
 真実こもる農作物(長野県・井上ツタエさん) 川端康成
 山道の小母さん(山梨県・井上くまさん) 高村光太郎
 萩咲く日(静岡県・鈴木せいさん) 水原秋桜子
 男勝りの鎌・腰に(愛知県・橋本すずさん) 富安風生
 母ひとり子ひとり(滋賀県・高橋政栄さん) 野澤富美子
 花売り・日雇ひ二十年(京都府・谷本このさん) 川田順
 右眼犠牲の機織り(大阪府・西田フジさん) 藤澤恒夫
 老いてなほ増産報国(奈良県・松辺キクさん) 西條八十
 扶助も断り青物行商(三重県・横山ちうさん) 古谷綱武
 尊し・音なき愛の鞭(和歌山・久保まつゑさん) 大庭さち子
 心に責む子の戦病死(兵庫県・前川きみさん) 豊田正子
 故山に独り墓守り(鳥取県・山谷よしさん) 舟橋聖一
 石見の国に我見たり(島根県・岡村トキさん) 尾崎喜八
 戦死した子に済まぬ(岡山県・武田春さん) 棟田博
 港の誇る「母の水船」(広島県・中村セキノさん) 竹田敏彦
 空の子へ愛の座布団(山口県・氏木アキさん) 中山義秀
 平凡の美徳(香川県・棚田キノさん) 壺井栄
 塩田に働く健女(徳島県・西トクヱさん) 海野十三
 戦盲の夫へ戦況地図(高知県・入間貴久衛さん) 濱本浩
 五児に通ふ鍬の心(愛媛県・高井キクヨさん) 岡田禎子
 誉の家守る苦闘三年(福岡県・三原乙女さん) 白井喬二
 切々の書に戦友泣く(佐賀県・桃井フデさん) 小島政二郞
 陶土にまみれ廿年(長崎県・太田フキさん) 福田清人
 男も唸る材木担ぎ(大分県・森島マサキさん) 真杉静枝
 親の心知る子供達(熊本県・野口ハルさん) 坪田譲治
 兄は陸軍弟は海軍(宮崎県・高山ハツヲさん) 中村武羅夫
 兵隊さん故伜さん〃(広島県・小村セイさん) 戸川貞雄
 南風の章(沖縄県・比嘉カナさん) 劉寒吉
 跋 読売新聞社編集局長 中浦義親

光太郎が詩部会長を務めていた日本文学報国会によるものです。当時の『読売報知新聞』とタイアップ、同紙に49回にわたって連載された「日本の母」を一冊にまとめたもの。

黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「母」を顕彰するため、各府県の軍人援護会などの協力で取材対象者をピックアップし、光太郎ら49人の文士を現地に派遣して書かれました。

光太郎の稿「山道の小母さん」で取り上げられている井上くまは、山梨県南巨摩郡穂積村(現・富士川町上高下(かみたかおり)地区)在住の寡婦で、早くに夫を亡くし女手一つで育てた2人の息子は共に召集、この時点で次男の方は満州で戦病死していました。

それでも気丈に生きる彼女に会って感動した光太郎は、「山道のをばさん」という詩も作りました。現地にはこの際に光太郎が訪れたゆかりの地ということで、短句「うつくしきものみつ」を刻んだ碑が建てられています。

上記『朝日』さんで槍玉に挙げられている「傍若無人のがさつな」人物、こういう書籍が出版される世の中に戻したいのでしょうか。

昨日、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町の話題で『石巻かほく』さんの記事をご紹介しましたが、系列の『河北新報』さんが一面コラムで昨年12月に光太郎の名を出して下さっていました。見落としていました。

河北春秋(12/5)009

正直は美徳だと思っていた。通用しない世界があるようだ。台湾有事を巡る高市早苗首相の発言に中国の反発が収まらない。「武力の行使を伴うものであれば存立危機事態になり得る」。つい本音が出てしまった▼台湾は民主主義が根付き、独自の統治機構がある。東日本大震災では多大な支援を頂いた。武力行使はあってはならない。ただ中国にも立場がある。1972年の日中共同声明で中国は「台湾は領土の不可分の一部」と表明し、日本は「十分理解し、尊重」すると応えた▼歴代政権が台湾問題にあいまいな表現を戦略的にとり続けたゆえんだ。とかく世論はリーダーに力強さを求め、物事に黒白をつけたがる。84年前の太平洋戦争前夜もそうだった。斎藤茂吉や高村光太郎、志賀直哉…。名だたる知識人が開戦の一報に快哉(かいさい)を叫んだ▼政治学者の中西輝政さんは、どちらにも決まらぬ気持ち悪さに延々と耐え抜くことが世界史に大をなす国の必要条件と指摘する。秘すれば花である。尖閣諸島も対立必至の国有化は避け、したたかに権益を保全する手があったのではないか▼外交は相手国と51対49を争う。完勝はない。首相は内輪受けする威勢のよさではなく、冷徹さと誠実さを併せ持ち、日本の国益と東アジアの平和を守り抜いてほしい。(2025・12・5)

2ヶ月前のものですが、事態は好転どころか、悪化の一途を辿っていますね。10月初めに自民党総裁選が行われ、明日はこの時期としては異例の衆議院選挙。総裁選前から続く政治的空白は4ヶ月以上に及び、物価高や円安、旧統一協会の問題など喫緊の課題がなおざりになったままです。逆にコラムでも取り上げられている問題発言など、余計なことばかり。ちなみに衆議院解散に伴って、審議中だったりした法案が何と74本も廃案となったそうで。永らく議論されてきた選択的夫婦別姓法案や、先の参院選で問題となった企業・団体献金を規制する政治資金規正法改正案もです(まぁ、74本の中にはギャグとしか思えない「ナントカ損壊罪」についても含まれるようですが)。ついでに言うなら来年度予算の編成にも大きく影響します。

さらに嘆かわしいのが、平和憲法を軽視し、息を吐くように嘘を吐き、G7や党首討論で敵前逃亡を繰り返す騒動の当事者やその取り巻きをもてはやす声の多さ。まさに戦前の我が国を彷彿とさせるという論評がありますが、その通りですね。

過日ご紹介した小関素明氏著『「大東亜戦争」幻想化と「戦争責任」の精神史 擬態に対峙する詩人たち』は、そのあたりで非常に示唆に富むものでした。昭和16年(1941)の太平洋戦争開戦直前、日中戦争の泥沼化、対日禁輸による各種の統制などで日本全体が包まれていた閉塞感に、開戦の詔勅や報が風穴を開け、これから訪れるであろうさらなる苦難の日々に思いを馳せることなく、ほとんどの国民がある種の開放感に包まれていたというものです。

コラムに名が上げられている通り、光太郎もその急先鋒の一人でした。同書では12月8日当日、大政翼賛会中央協力会議に参加していた光太郎の随想「十二月八日の記」が引用されています。

 時計の針が十一時半を過ぎた頃、議場の方で何かアナウンスのやうな声が聞えるので、はつと我に返つて議場の入口に行つた。丁度詔勅が捧読され始めたところであつた。かなりの数の人が皆立つて首をたれてそれに聴き入つてゐた。思はず其処に釘づけになつて私も床を見つめた。聴きゆくうちにおのづから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡が曇つて来た。私はそのままでゐた。捧読が終ると皆目がさめたやうに急に歩きはじめた。私も緊張して控室に戻り、もとの椅子に坐して、ゆつくり、しかし強くこの宣戦布告のみことのりを頭の中で繰りかへした。頭の中が透きとほるやうな気がした。
 世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである。現在そのものは高められ、確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなつた。
 この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いてゐる時間だなと思つた。時間の重量を感じた。

ちなみに光太郎はこの頃の自分の愚かさを戦後になってしっかりと反省し、7年間もの過酷な蟄居生活を送ることとなります。

他の文学者たちのそれも紹介されています。

 今こそ全文化を目的意識と観念的規定の室から出して、凛然たる外気に当て、自然のままに生きてゆくものだけを生育せしめるやう、純粋化し、淘汰せねばならぬ。
 かういふ時期にこそ、文学には「文」の領域があることをはつきり認識することが出来る訳だ。今までのやうに「軍」や「政治」に追従してゐたのから去つて、明確に己が本然の使命の下に、今日の栄えある国民的試練の時を自力で生きてゆかなければならぬ。(河上徹太郎)

 本日みたいにうれしい日はまたとない。うれしいといふか何といふかとにかく胸の清々しい気持だ。(略)宣戦の大詔を三度聞き三度読んだ。(黒田三郎)

 涙が流れた。言葉のいらない時が来た。(坂口安吾)

 ふと、自分は、ラジオを聴く前と、別人になつてゐるやうな気がした。(略)一間も二間もある濠を、一気に飛び越えたやうな気持がした。(獅子文六)

 それを、ぢつと聞いてゐるうちに、私の人間は変わつてしまつた。強い光線を受けて、からだが透明になるやうな感じ、あるひは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらを胸の中に宿したやうな気持。日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ。(太宰治)

 まつたく一日として神経の安まる日はないのであつた。私たちは今の言葉でいふ、ノイローゼになつてゐた。これ以上、こんな緊張の日々が続くのは耐へられない。そこへもつて十二月八日の太平洋開戦だ。なにはとまれ、これでどつちかへ片づく。ヤレヤレといふ気もちであつた。(徳川夢声)

 十二月八日、大詔が渙発せられ、米英との国交が断絶せられた事は、生をこの聖代にうけたものの真に重大事と考ふべき事である。
 これこそ世界歴史への一大転換の御命令であつて、吾々は過去と遮断して全く別の体系に這入つたことを自覚せねばならぬのである。(中河与一)

 真剣になれるにはいい気持だ。僕は米英と戦争が始まつた日は、何となく昂然とした気持で往来を歩いた。
 くるものなら来いといふ気持だ。自分の実力を示して見せるといふ気持だ。(武者小路実篤)

今回の選挙について、開票結果が明らかとなる明日以降、この手の感想を抱く人がたくさん現れるような事態を懸念して已みません。杞憂に終わることを祈りますが……。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)38 詩集『天上の炎』 

昭和26年(1951)4月25日 白玉書房 エミイル ヹルハアラン著 高村光太郎訳
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目次
 序詩 未来 新しい都 昔の信仰 私の眼よ 誇 機械 熱烈な生活 港の突堤で
 今日の人に 健康 死者 問題 機会 トンネル 波止場で 私の都 わが友風景 木蔦
 東西南北 森 花の方へ 並木の第一樹 散歩 或る夕暮の路ゆく人に 題跋詩 私の集
 ヹルハアラン

ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(1855~1916)の詩集の翻訳です。

大正14年(1925)、新しき村出版部から出た初版の内容に、評伝「ヹルハアラン」(昭和8年=1933)を追補して刊行されました。

ちょっと前ですが、1月21日(水)の『朝日新聞』さん岩手版に以下の記事が載りました。

岩手独特の住所表記「地割=チワリ」の謎 逆境公務員の苦心の結果?

 岩手では普通でも、県外出身者は首をかしげる住所表記の「地割」。私も昨年4月に盛岡に赴任して初めて知った。「ちわり」と読むらしい。これは岩手だけ? だとしたらなぜ? 1年足らずぼんやり抱えていた疑問について、探ってみた。
 「○○市××第5地割30番」のように使われる「地割」。私は岩手に接する青森、秋田、宮城の3県で勤務経験があるが、大字(××)に続く表記は「丁目」「番地」が一般的だ。
 ネットで検索すれば関連情報は出てくるが、確証が持てない。まずは手堅そうな岩手県庁のいくつかの部署に尋ねたが、答えは出ず。中には「他県にはないのですか?」と驚く職員もいた。かつて調査したことがあるという県立図書館も、当時の担当者が不明で詳細な説明はできないとのこと。
 探し回った結果、かつて似た疑問を覚え、調べたという県立博物館専門学芸調査員の工藤健さんに出会えた。
 「『地割』は岩手で独自に生まれたと考えられます。確認できる史料で最初に現れるのは、明治初期の地租改正時。県が地権者に発行した『地券』に出てくるんです」
 地租改正は、明治新政府が行った課税制度の改革だ。それまで村落単位で課せられていた税は、個人への課税に変わった。県や府が実態調査し、土地の所有者を証明する「地券」を地権者に発行。そこに「地割」の文字が記されたという。
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■仙台藩領はなし008
 ではなぜ、そんな文言が記されたのか? ヒントは江戸後期、盛岡藩が徴税のために作った地図にあった。
 各村の地図には、線引きされて「い」「ろ」「は」などと仮名で印が付いた区画が記されていた。その各区画が地租改正後、「第○地割」となっていったことが史料から確認できたという。
 「この『い』『ろ』『は』にもそれぞれ、元来の地名がありました。しかし、個人の土地所有の根拠となる地券に『地割』と記されたことで、そっちが正式な地名になっていったんです」
 このため、北上市近辺より南の仙台藩領だった地域は「地割」がない。元は盛岡藩でも、地租改正の作業時には岩手県ではなかった今の八幡平市の一部も同様だ。こうしたことからも地租改正時、岩手県が盛岡藩の資料を基に、独自に「地割」を導入したことが分かる、と工藤さんは解説する。
 しかし、元の地名をなくして数字化するとはずいぶん大胆な……。
 「証拠がなく、あくまで想像ですが」と断った上で、工藤さんは語る。
 「明治の新政府から届く膨大な命令に、なんとか対応しようとした県職員の苦心の末の策だったのでは。大量の事務仕事を乗り切るため、整理しやすい地名にしたのかもしれません」

■3分割に耐えて
 戊辰戦争で幕府側に付き、賊軍となった盛岡藩は明治に入り3分割され、他藩の管理下に。1870(明治3)年にそのひとつが盛岡県になった後も、江刺県(旧盛岡藩領)や胆沢県(旧仙台藩領)との統廃合などを経て、今の岩手県として落ち着くのは76(明治9)年。地租改正は、そのさなかの大事業だった。
 「岩手で『地割』が生まれた時代の印象は、高村光太郎が『岩手の人沈深牛の如(ごと)し』とうたった詩に重なります。逆境でも人々は思慮深い牛のように沈着に耐え、『その成すべきを成す』日に備えていたのでしょう」
 地租改正から45年。盛岡出身の原敬が初の平民宰相に就いた。そう考えると、「地割」の語感も味わい深く響いた。


「地割」。当方も以前から気になっていました。実際、花巻の高村光太郎記念館さんの住所が「花巻市太田第3地割3-9」だったり、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんは「花巻市轟木第7地割203」だったりするものですから。

地租改正、地券発行の際に分かりやすく、という説はうなずけますね。ちなみに以前に書きましたが、自宅兼事務所のある千葉県北東部では住所に「イ」「ロ」「ハ」が使われていて、これも珍しいケースだそうです(他に石川県にもあるそうですが)。自分の生まれた場所は「佐原市佐原ロ」でしたし、よく行く隣町の県立図書館さんの分館は「旭市ハ」。「くち」や「はち」と間違えられます(笑)。これらも同じような由来なのかも知れないなと思いました。

記事にある「岩手の人沈深牛の如(ごと)し」は、詩「岩手の人」(昭和23年=1948)の一節です。

    岩手の人009

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

記事ではちょっと無理くり取って付けたような引用ですが(笑)、光太郎に触れて下さりありがとうございます。

こうした先人の遺した地名も、一つの文化遺産です。そうした意味でしっかりと受け継いでいくべきものと思われます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)33 『造型美論』 筑摩選書

昭和24年(1949)3月10日 筑摩書房 高村光太郎著
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目次
 現代の彫刻
  実技家の場合 概観 二つの源流について 時間的一瞥 フランスの彫刻 ブルデル
  マイヨル デスピオ ベルナアル 「ぢか彫り」騒動 穏健群 形式主義群団
  ドイツの彫刻 イギリスの彫刻 残余の諸国 現代日本の彫刻
 素材と造型
  素材と造型 造型といふ語 造型芸術 造型本能 造型芸術の本質 造型的諸要素
  造型美 造型芸術の種類 素描 日本画と色彩 日本画に於ける油画について 彫刻
 造型小論
  彫刻に何を見る ミケランジエロの彫刻写真に題す 蝉の美と造型 ロダンの素描
  鷗外先生の「花子」 木彫地紋の意義 仏画賛 彫刻性について 展覧会偏重の弊 手
  能面の彫刻美 九代目団十郎の首 本面について アンドレ ドラン 彫刻十箇條

戦時中の昭和17年(1942)に厚冊のハードカバーで出された同名の書を、2分割してペーパーバック化したうちの一冊です。もう一冊は『印象主義の思想と芸術』。明日、紹介します。

1月21日(水)の『朝日新聞』さん一面コラム「天声人語」。光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)と「道程」(同3年=1914)を引いて下さいました。

(天声人語)きつぱりと冬が来た

「冬が来た」と題した詩を、高村光太郎が編んでいる。それは〈きつぱりと冬が来た〉と始まる。〈八つ手の白い花も消え/公孫樹の木も箒になつた〉。ご存じの方も多いだろう。あの有名な詩〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉と同じ詩集に載っている▼寒い冬が、やって来た。きのうは大寒の入りだった。1年で、もっとも冷え込みが厳しい時期とされる。実際に今週、強い寒気が列島に流れ込み、しばらく居座るようだ▼名著『風土』で、和辻哲郎は寒さと冷たさについて考察している。乾いた西欧の冬に、冷たい空気はあっても、身に沁みるような寒さはない。湿潤な日本の冬と違って「人間を委縮させずにはおかないような、暴圧的な寒さはない」と論じた▼思い出すのは、かつて駐在した旧満州の地、中国東北部の乾燥した冬だ。零下30度にもなる冷気は寒さというより、痛みだった。ゾクッとしたときはもう手遅れとも言われた。見えない何かに体が蝕(むしば)まれる恐怖である▼土地の人は“先”に注意するよう教えてくれた。耳の先、手や足の先、頭の先。そういえば「冷たい」の語源は「爪痛し」との説がある。靴下を重ね、手袋をはめ、人は丸くなって、じっと、待つ。天地の道、極まれば則(すなわ)ち反(かえ)ると唱えながら、春を待つ▼高村は書く。〈ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ〉。近所にある梅の木に目をやれば、その枝に、ぷくりとした芽がゆれていた。

まったくこの冬の寒さは厳しく感じられます。ひと頃、毎年のように暖冬だと言われていた時期は何だったんだろうという感じです。まぁ、これが本来の自然の姿なのでしょうが。

自宅兼事務所のある比較的温かな千葉県の北東部でも、既に2回降雪がありました。最初は1月2日(金)から翌日未明にかけて。
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この時は4~5㌢の積雪。それから一昨日も、朝起きたらうっすらと屋根に積もっていました。どうもまだ降るような気がしています。「カマキリが高い場所に卵を産むとその冬は積雪が多い」という俗信があり、そのとおり昨秋、2階のベランダの外壁に産卵したカマキリがいまして。
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それにしても、雪国の皆さんのご苦労はいかばかりかと存じます。ご自愛下さい。

しかし、冬至を過ぎて一ヶ月、確実に陽光は春近しの感を呈してきました。もう少しの辛抱ですね。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)24 『随筆 某月某日』

昭和18年(1943)4月20日 龍星閣 高村光太郎著
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目次
 十二月八日の記 子供の頃 美術学校時代 姉のことなど 母のこと ロダンの手記談話録
 某月某日 七月の言葉 一夏安居の弁 詩の深さ 中央協力会議の印象
 芸術による国威宣揚 美の力 戦時下の芸術家 某月某日 美術館の事その他 戦時の文化
 間違のこと 自作肖像漫談 春さきの好物 雷ぎらひ 普遍と独白 しやつくり病
 上野の現代洋画彫刻 某月某日 三十年来の常用卓 某月某日 ほくろ 悠久山の一本欅
 谷中の家 某月某日 蟻と遊ぶ 豊島与志雄氏著「猫性語録」 小感 某月某日
 がんがん三つ口 新茶の幻想 

光太郎初の随筆集です(一部、随筆と言うより評論と言った方が良いものも含みます)。タイトルの「某月某日」は、その題で『改造』、『歴程』、『知性』、『帝国大学新聞』に寄稿していて、そこから採りました。他もすべて新聞、雑誌等への寄稿からの転載で、書き下ろしは含まれません。

版元は『智恵子抄』と同じ龍星閣。おそらく、光太郎の美術評論集『美について』(道統社)と『造型美論』(筑摩書房)が相次いで刊行され、それなりに好評だったため、社主の沢田伊四郎が、それなら随筆集もと思い立ったのではないかと考えられます。

同年10月の第2刷から函がカバーに代わり、昭和19年(1944)の第3刷まで確認出来ています。計45,000部が刊行されました。

昨年開催されたイベントの報道が最近為されていますので、ご紹介しておきます。

まず、11月13日(木)~11月30日(日)に茨城県取手市の東京藝術大学大学美術館取手館さんで開催され、光太郎の卒業制作「獅子吼」石膏原型が展示された「藝大取手コレクション展2025」につき、同市の『広報とりで』今月号。

発見~開館30周年と収蔵棟完成を祝う祭典! 「藝大取手コレクション展2025」

 令和6年に開館30周年を迎えた東京藝術大学大学美術館と、 未来の学生たちの作品を十分に保管できるスペースを持った取手収蔵棟が同年竣工したことを記念し、「藝大取手コレクション展2025」が令和7年11月13日から30日まで開催されました。取手東小学校の3年生も学校行事でコレクションを鑑賞しました。鑑賞した児童からは「いろいろな作品が見られて楽しかった。作品ごとに違う雰囲気や面白さがあった」と話し、“アートのまち取手”ならではの貴重な体験をしました。
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学校教育との連携は大切なことですね。未来のアーティストや評論家などが生まれる一つのきっかけとならないともかぎりませんし。

続いて11月30日(日)に港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」につき、青森の地方紙『東奥日報』さん。同紙では翌日にもすでに報道して下さったのですが、改めて昨年大晦日に長い記事にして下さいました。

十和田湖の未来を語る東京フォーラム 11月30日に東京で開催 先人の思いを礎に「感動体験」が人を呼ぶ好循環へ

 山は富士、湖水は十和田、広い世界に一つずつ――。明治・大正期の文人で、俳句や美文で十和田湖や奥入瀬渓流の自然美を世に紹介した大町桂月が、蔦温泉で没して100年。今や十和田八幡平国立公園は本県を代表する観光地となっています。「十和田湖の未来を語る東京フォーラム」が11月30日、東京都港区の赤坂区民センターで開かれました。大町の人柄や功績、本県との関わりを振り返り、十和田湖と周辺地域の未来に視線を向けたフォーラムの様子を紙面で採録します。

蔦温泉で二度越冬
 フォーラムは東京青森県人会の主催で、参加者の皆さんは十和田湖の歴史、自然、文化、観光に詳しい方々による講演とパネルディスカッションに熱心に耳を傾けていました。大町桂月(以下、桂月)の足跡をたどり、業績を後世に伝える活動を続けている「大町桂月を語る会」の谷川妙子事務局長は、桂月が「日本の昔の好い人情が東北のこの地にまだ残されている」と話していたことや、二度の越冬時にはユーモラスな絵と文で厳冬期や春の雪解けなども楽しんだ滞在の様子を書き残していることを紹介しました。
 また、「『十和田湖一帯の地は山水の衆美(しゅうび)を集め啻(ただち)に日本に秀絶(しゅうぜつ)するのみならず世界に冠絶(かんぜつ)す』という美文で固めた請願文が大きな反響を呼びました」と、筆の力で国立公園に大きく押し上げた桂月の功績をたたえました。

湖の感動を表した像
 十和田湖のシンボルとして愛されている「乙女の像」について、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が制作に至る経緯などを解説しました。像の設立は国立公園15周年を記念して、十和田開発の功労者である大町桂月、青森県知事の武田千代三郎、十和田村長で県会議員の小笠原耕一の三氏の功績を讃える目的で、詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が制作。高村は、桂月と同様に自分が湖から受けた感動をそのまま正直に表す思いで像を造ることとし、完成後の像は自分の手を離れて十和田湖の自然の中に溶け込むことを願っていたというエピソードを紹介しました。

感動体験から保護・活用へ
 初任地が十和田湖事務所だったという環境省自然環境局国立公園課長の長田啓さんは、「自然豊かな日本で一番贅沢な通勤路だった」と話し、会場を沸かせました。その上で、十和田八幡平国立公園は環境省が世界に誇れる国立公園を作る「国立公園満喫プロジェクト」において全国の先行的な取り組みを進める地域の一つに選ばれていることを紹介。訪れた人の感動体験が公園を「守ろう」という意識づけになり、利用によって得られる利益が保護に回る好循環を目指しています。神秘的な自然美、十和田神社の信仰といった歴史文化を守りながら宿泊施設の整備などで滞在環境の上質化を進め、国内外からより多くの訪問者が来ることへの期待を伝えました。
 ゼネラル・プロデューサー山田安秀氏は、地域の歴史や自然文化の複合的な価値と、将来を考える機会になればと話し、パネルディスカッションを締め括りました。
 フォーラムの最後に登壇した桂月のひ孫にあたる大町芳通さんは、「桂月が愛した十和田の素晴らしい自然を青森の観光資源として維持、活用することを知恵を持って成し遂げていただき、地元がもっと発展するよう祈っています」と謝辞を述べ、会場からは大きな拍手が送られました。

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この他、大町桂月の詳細なプロフィール、フォーラム登壇者の全氏名と肩書き、東京青森県人会役員の方々からの「応援メッセージ」などが掲載されていますが、長くなるので割愛します。

また改めてご紹介しますが、十和田湖では今月末から来月末にかけ、「乙女の像」ライトアップも為される「第28回十和田湖冬物語」というイベントも開催予定です。ぜひ足をお運び下さい。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)8 『明るい時』

大正10年(1921)10月15日 芸術社 ヹルハアラン著 高村光太郎訳
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目次
 序文
 明るい時
  一 おうさんらんたるわれらのよろこび     二 無言のままわれらの歩く
  三 この野蛮な柱頭              四 夜の空はひろがり
  五 いつでも、かほど純真にふかい     
  六 あなたは時としてあのなよやかな美を示す
  七 おう! 戸を叩かせて置かう        八 あどけない頃のやうに
  九 わかい、気のやさしい春は         一〇 しづかに来て                        
  一一 火のやうな恍惚の眼をして        一二 長い間私のくるしんでゐた時 
  一三 どういふわけか何故なのかいはれは何か
  一四 黄金と花との階段をしづしづ降りる    
  一五 私はあなたの涙に、あなたの微笑に       一六 私はあなたの二つの眼の中に
  一七 われらの眼を愛するため                   一八 われらの愛の園に、夏はつづく
  一九 あなたの明るい眼、あなたの夏の眼が   二〇 言つてごらん                        
  二一 われら自身以外の一切のものを            二二 おお! この幸福!                  
  二三 生きませう               二四 われらの口の触れ合ふやいなや
  二五 底知れぬ深さ神のやうに聖い       二六 たとひもう、こよひ                  
  二七 からだを捧げるとは、魂のある以上   
  二八 われらのうちにたつた一つの心やさしさ  二九 炎に花咲く美しい庭は                
  三〇 もし万一にも                        
 小曲二章
  小さな聖母  サンジヤンさま
 二篇
  風をたたふ  吾家のまはり

ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(1855~1916)が、妻のマルト・マッサンとの日々を謳った連作詩「明るい時」の翻訳を根幹としたものです。後の『智恵子抄』が想起されます。

光太郎による序文では、「詩の翻訳は結局不可能である。意味を伝へ、感動を伝へ、明暗を伝へる事位は出来るかも知れないが、原(もと)の「詩」はやはり向うに残る。其を知りつつ訳したのは、フランス語を知らない一人の近親者にせめて詩の心だけでも伝へたかつたからである。」と記されています。言わずもがなですが、「フランス語を知らない一人の近親者」は智恵子です。

まず昨日から今日にかけマスコミ各社で報じられた訃報から。

それも2件立て続けでしたが、最初に長野県安曇野市の太田寛市長。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館・碌山美術館さんの理事を務められ、昨年今年の碌山忌では同じテーブルに着かせていただき、いろいろお話しさせていただいた方ですので、非常に驚いております。

共同通信さん。

太田寛さん死去 長野県安曇野市長

 太田 寛さん(おおた・ゆたか=長野県安曇野市長)28日午前8時59分、急性心臓死のため市内の病院で死去、69歳。
 同県出身。自宅は同市堀金烏川。葬儀の日取りは未定。
 長野県副知事を経て2021年の市長選で初当選。現在2期目だった。 
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SBC信越放送さんのローカルニュース。

安曇野市の太田寛市長が急逝 自宅で就寝中に亡くなったか 死因は急性心臓死 前日夕方まで会議に出席するなど公務 元長野県副知事

 安曇野市の太田寛市長が28日、亡くなりました。69歳でした。死因は急性心臓死だということです。
  10月の安曇野市長選挙で、無投票で2度目の当選を果たした太田寛市長。自宅で就寝中に亡くなったと見られています。
002
 市は28日午後1時から緊急の会見を開きました。
 安曇野市 中山栄樹副市長:「突然の訃報に職員一同、深い悲しみと喪失感を抱いております」
 市によりますと、太田市長は、27日夕方まで会議に出席するなど公務を行っていました。しかし、自宅で就寝したまま起きてこなかったため28日朝、家族が119番通報し搬送先の市内の病院で、午前9時前に死亡が確認されました。急性心臓死だということです。
 太田市長は安曇野市堀金出身で県の総務部長や副知事を務めた後、2021年に安曇野市長に初当選しました。
003
 今年5月の「安曇野」ナンバーの実現に奔走するなど地元愛の強かった太田市長。
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 28日から職務代理者を務める中山栄樹副市長は。
 安曇野市 中山栄樹副市長:「4年間足場を作って、これから芽を出して根付かせようという時で、4年間のいろいろな面から考えると安曇野市にとって大きな損失です」
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 市長選挙は29日以降、市が選挙管理委員会に市長の死亡を通知し、そこから50日以内に行われます。

地元紙『信濃毎日新聞』さん。

安曇野市長の太田寛さん死去 69歳、10月に再選したばかり

 安曇野市の太田寛(おおた・ゆたか)市長が28日午前8時59分、急性心臓死のため安曇野市内の病院で死去した。69歳。安曇野市出身。自宅は安曇野市堀金烏川。
 太田氏は京都大卒。1979(昭和54)年に県職員になり、商工労働部長や総務部長を経て副知事を務め、2021年の市長選で初当選。10月5日告示の市長選で無投票で再選したばかりだった。
 太田氏の死去に伴う安曇野市長選は、公職選挙法に基づき、市選挙管理委員会に死亡の通知が届いてから50日以内に行われる。
 死去したことが28日に分かった安曇野市長の太田寛さん。経歴はこちら。
   ◇
 1956年生まれ。安曇野市出身で、松本深志高校(松本市)、京都大法学部を卒業し、1979(昭和54)年から県職員。企画局長や商工労働部長、総務部長を歴任し、2015年2月から副知事を務めた。2021年の安曇野市長選で、無所属新人2人を破って初当選。今年10月から2期目を務めていた。
 趣味は読書で、安曇野市出身の作家臼井吉見(1905~87年)の小説「安曇野」が愛読書。
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『朝日新聞』さん。

長野・安曇野市長が死去 自宅から救急搬送、10月に再選された矢先

 長野県安曇野市の太田寛(ゆたか)市長(69)が28日、急性心臓死のため死去した。市によると、28日朝に自宅から救急搬送され、市内の病院で午前8時59分に死亡が確認された。通夜・葬儀の日程は未定。太田市長は10月5日に告示された市長選で、無投票で再選したばかりだった。市が28日、記者会見を開いて発表した。
 市によると、太田市長は27日に市議会定例会に出席。夜は松本市内であった連合長野松本広域協議会の定期総会に来賓として出席し、午後8時半ごろに安曇野市内の自宅に帰宅した。28日午前8時半ごろ、市職員が公用車で迎えに行くと、自宅前に救急車が来ていて病院に搬送された。
 中山栄樹副市長によると、27日の市議会定例会でも特に変わった様子はなかったが、「この2、3日、風邪っぽい」と言って、マスクを着用していた。中山副市長は「突然の訃報(ふほう)に、職員一同、深い悲しみと喪失感を抱いている。行政の継続性に万全を期したい」と語った。市長の職務代理者には中山副市長が就いた。
 太田市長は元県職員で、県総務部長や副知事を経て、2021年10月の市長選で初当選した。2期目では、企業誘致の推進やフィルムコミッション機能の強化を盛り込んだ観光政策などを公約に掲げていた。市の知名度を上げることに力を入れ、首都圏で安曇野産農産物をPRする事業を開催したり、臼井吉見の小説「安曇野」を復刊させることに取り組んだりした。中山副市長は「元副知事としての人脈でできたことが、相当あった」と振り返った。
 公職選挙法では市長に欠員が出た場合、5日以内に職務代理者が選挙管理委員会に通知し、通知から50日以内の選挙の実施が定められている。
 阿部守一知事は「あまたのご功績に深甚なる敬意と感謝の意を表するとともに、謹んでお悔やみを申し上げます」とコメントを出した。
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『信毎』さんと『朝日』さんで触れられている、小説『安曇野』。光太郎の連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)が掲載された雑誌『展望』編集長を務め、光太郎とも交流のあった同市出身の臼井吉見が昭和40年代に執筆した長編で、守衛を含む安曇野の人々が中心に描かれ、守衛との絡みで光太郎も登場します。

太田市長、その復刊に尽力された他、NHK大河ドラマ化運動、さらに理事を務められていた碌山美術館さんでの講演などもなさっていました。こうした地元の文化遺産に対するご理解の点では、地方首長の鑑と言える方でしたので、非常に残念でなりません。後任の方にも太田市長の功績を受け継いでいっていただきたいものです。

もう1件、やはり昨日出た訃報です。

作家の嵐山光三郎さん死去 エッセーやテレビ番組で人気

009 軽妙なエッセーやテレビのバラエティー番組でも人気を集めた作家の嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)さんが14日午後、肺炎のため死去したことが28日、分かった。83歳。静岡県出身。葬儀は近親者で行った。
 国学院大を卒業後、平凡社に入社。雑誌「太陽」編集長などを務めた。独立後に雑誌「ドリブ」やテレビの人気バラエティー番組「笑っていいとも!増刊号」編集長を務め、1980年代の若者文化の担い手となった。
 「たのC(シー)のでR(アール)」といった「ABC文体」を駆使したエッセー、インスタントラーメンの評論なども手がけ、料理や温泉などにも健筆を振るった。「素人庖丁記」で講談社エッセイ賞を受賞した。
 「文人悪食」「文人暴食」では作家や歌人、学者らの食欲と創作欲の関わりに注目。松尾芭蕉の人間くさい側面に迫った「悪党芭蕉」では泉鏡花文学賞と読売文学賞を受けた。
 92年には日本人のコメ離れに歯止めをかけようと「日本ごはん党」を結成したことでも話題に。旅や釣りの愛好家としても知られた。

探せば他にもあるのかも知れませんが、「食」にもこだわりの強かった嵐山氏、『文人悪食』、『文士の料理店(レストラン)』『文士の御馳走帖』で、光太郎に触れて下さいました。
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『悪食』は「高村光太郎…咽喉に嵐」。「レモン哀歌」(昭和14年=1939)をはじめ、光太郎の「食」に関わる詩文を15篇ほども引用、マイナーなそれも含まれていて、感心いたしました。『料理店(レストラン)』では「高村光太郎と米久」と題し、詩「米久の晩餐」(大正10年=1921)を中心に。浅草米久さんのレポートもカラー画像入りで入っています。『御馳走帖』でも米久さんが取り上げられ、小題は「高村光太郎 米久の晩餐 梅酒 こごみの味」でした。こちらはアンソロジーです。

最後に、宮城県歌人協会会長などを務められた佐久間晟氏。亡くなったのは今年3月ということでしたが存じ上げず、つい先日、奥様のすゑ子様から喪中葉書が届いて知った次第です。氏は大正15年(1926)のお生まれで、亡くなった際は満99歳だったそうです。
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光太郎とも交流のあった歌人の前田夕暮に師事、奥様ともども歌誌『地中海』同人としてもご活躍。そして昭和26年(1951)、奥様との新婚旅行で花巻郊外旧太田村の光太郎の寓居を訪ねられました。右上の画像がその際のもの。右端が氏で、そのお隣が奥様、光太郎、左端はお二人を光太郎の元に案内してくれた花巻温泉の仲居さん・八重樫マサです。

昭和26年(1951)11月9日の光太郎日記より。

塩がまの人佐久間氏といふ人新婚にて花巻松雲閣より八重樫マサさんの案内で来訪、前田夕暮の弟子の由。

この際の様子を奥様が『地中海』平成17年1月号に短歌と文章で書かれ、たまたまその情報を得ましてお二人に連絡、お二人がお住まいの仙台でお会いし、貴重なお話を伺う事が出来ました。さらに晟氏の運転で松島まで行き、豪華海鮮料理を御馳走になってしまった次第です。
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さらに上記写真を送った光太郎からの礼状(『高村光太郎全集』にもれていたもの)も拝見。
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その際お聞きした内容を『高村光太郎研究』第28号(平成19年=2007)に「高村山荘訪問記 佐久間晟・すゑ子夫妻聞き書き」として掲載させていただきました。

そんなこんなが昨日のことのように思い出されます。

お三方のご冥福、心より祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

いとほしい髪の一すぢより 感情のはげしい瞬刻の閃光まで 私にとつては宝玉だ 抜きさしならない玉条だ


詩「無題録」より 大正3年(1914) 智恵子29歳

智恵子肖像このブログでは平成29年(2017)の元日から【折々のことば・光太郎】と題し、光太郎の書き残したもの、談話筆記、講演会筆録などから「これは」と思う一節を取り上げ続けてきました。それもそろそろネタ切れとなって参りまして、今日からは【折々のことば・智恵子】にします。智恵子が書き残したものはあまり多くないのですが、それでもやはり「これは」というものがありますので。

また、あまり取り上げられることの多くない智恵子自身の言葉を紹介することで、『智恵子抄』の裏側にどういう智恵子が居たのか、そんなことも語りたいと思っております。

初回は確認出来ている限り唯一の智恵子が書いた詩から。大正3年(1914)ですので、光太郎と結婚披露をする年で、その4ヶ月前に母校・日本女子大学校の同窓会誌『家庭週報』に寄稿したものです。当時としては遅まきの結婚でしたが、万物がキラキラ輝いて見えていた結婚直前の心境が垣間見えます。

キーワードは「テレビ」です。

まず、10月29日(水)、IAT岩手朝日テレビさんのローカルニュース。花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「昔なつかし花巻駅」を紹介して下さいました。

高村光太郎の花巻市疎開から80年 企画展「昔なつかし花巻駅」【岩手・花巻市】

詩人で彫刻家の高村光太郎の花巻疎開80周年を記念した企画展が開かれています。
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岩手県花巻市にある高村光太郎記念館には、昭和初期の花巻駅周辺を当時の映像を参考に再現したジオラマが展示されています。
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花巻駅は、岩手軽便鉄道や花巻電鉄の開業とともに交通の要所として発展しました。
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会場では、秘蔵の映像を見ることができます。
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「昔なつかし花巻駅」と題したこの企画展は、11月30日まで開かれています。
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同じ件を既に地方紙『岩手日日』さん、NHKさん、IBC岩手放送さんでもご紹介下さっていますが、こうして時間差で取り上げていただいたほうがありがたいところです。報道を見て「行ってみようか」という方がいらっしゃるでしょうし、それが一気にではなく、その都度ということになったほうが、と思われますので。

もう1件、番組の再放送情報です。

わたしの芸術劇場 中村屋サロン美術館/中村彝アトリエ記念館

BS11(イレブン) 2025年11月3日(月) 01:05〜01:30

「美術館」をちょっと堅苦しい場所だと思っている方々へ送る番組。学芸員の方々が見せ方を工夫したり、今までにないテーマで企画展を開催したり、並々ならぬ苦労と最高のセンスで展示している。そんな美術館を「芸術を体験できる劇場」として捉え、舞台を鑑賞しているようなわくわくした気持ちにしてくれる番組。番組を見た後は、きっと美術館に足を運び、芸術に浸りたくなること間違いなし。

今回の舞台は東京都新宿区にある中村屋サロン美術館。お菓子やカレーパンで有名な新宿中村屋が運営している美術館。創業者の相馬愛蔵は同郷の彫刻家 荻原守衛(碌山)や荻原を慕う若き芸術家などを支援し、明治末から大正、昭和初期にかけて多くの芸術家・文化人たちが、ここ中村屋に集った。日本近代美術の発展に大きく貢献した「芸術家たちのトキワ荘」、中村屋サロンに大きな拍手を!

出演者 片桐仁
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新宿の中村屋サロン美術館さんが取り上げられた回です。初回放映はTOKYO MXテレビさんで令和3年(2021)。BS11さんでは今年の7月2日(水)に放映がありました。

メインは中村彝。それから光太郎の親友だった荻原守衛にも触れられました。
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そして同館所蔵の光太郎油彩画「自画像」(大正2年=1913)も。
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BS11さんでのこの番組、以前からなのか最近のことなのか、ちょっと把握できていませんが、いろいろな曜日のさまざまな時間帯に放映されています。メインは土曜の午前中という位置づけのようですが、再放送がてんでバラバラの曜日・時間帯。
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他にも光太郎作品が取り上げられる回があり、今後も放映情報に注意してみます。

それはさておき、中村屋サロン美術館さんの回、ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

彼等は講義を聴く。或は実際の現実とは何の関係もない、曖昧な、抽象的な名辞のある術語で書かれた審美学の書物を読む。――其書物にはよく同じ誤謬が繰返されて居ます。互に引用し合ふ事がよくあるからです。かやうな有害な状態の下で何んな生徒が発達し得るでせう。


光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「彼等」は官立美術学校の生徒たち。ロダンのアカデミズム嫌いは徹底していました。

ところで「よく同じ誤謬が繰返されて居ます。互に引用し合ふ事がよくあるからです」。ネット上の情報でもそうですね。むしろ現代ではコピペが容易に出来るので、そうなりがちです。

閉口しているのは、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」についての次の記述がネット上に溢れていること。

高村光太郎の最後の作品としても知られ、完成まで1年余りかかったと言われています。高さ2.1mの2人の裸婦が左手を合わせ向かい合っており、モデルは光太郎の愛妻で詩集「智恵子抄」で知られる智恵子夫人です。台座には婦人の故郷、福島産の黒御影石を利用しています。

まんまコピペしているサイト、多少の換骨奪胎がみられるものを含め、数十件見られますし、十和田湖に行かれた個人の方のブログなどでもあとからあとからこのフレーズ。見つけるたびに「またか」と頭を抱えています。

以前にも書きましたが、「乙女の像」は最後の作品ではありませんし(最後の作品は「乙女の像」除幕式で関係者に配付された記念メダル)、台座の石は福島産ではなく岩手産です。完成までにかかった時間は約半年ですし、「完成まで1年余りかかった」という書き方は「すごく長い時間をかけた」というニュアンスですが、逆にこの像は自らの死期の遠くないことを自覚していた光太郎が、異例の早さで仕上げたものです。

また改めてご紹介しますが、今月末に都内で開かれる「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」という催しで、パネルディスカッションのパネラーを仰せつかっており、ふと思い出した次第です。

まず東北の地方紙記事から3件ご紹介します。

最初は仙台に本社を置く『河北新報』さん、昨日の一面コラムです。

河北春秋

詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の詩に<その詩を戦地の同胞がよんだ。人はそれをよんで死に立ち向つた>という一節がある。光太郎が戦後に書いた『わが詩をよみて人死に就けり』。光太郎は戦時中、戦意高揚の詩を量産した。その反省に立った詩だ▼光太郎の父は皇室をあつく敬い、光太郎も天皇崇拝は変わらなかった。1945年5月に岩手県花巻市に疎開したまま、戦後も7年間を花巻郊外の山小屋に暮らした光太郎には戦争協力への贖罪(しょくざい)意識があったとされる▼「妻智恵子が生きていたら、光太郎は戦争に協力しただろうか」。こんな疑問を抱くのは、智恵子の古里、福島県二本松市の熊谷健一さん(75)。20年前から智恵子顕彰活動に取り組む「智恵子のまち夢くらぶ」の代表を務める▼智恵子は関東大震災後に社会運動家の大杉栄らが憲兵に殺害された事件に関し、婦人雑誌のアンケートに「暴力は臆病の変形」と寄せた。智恵子が他界した38年に国家総動員法が制定され、光太郎も戦争に巻き込まれる。熊谷さんが想像を巡らせるゆえんだ▼くらぶは11月、智恵子没後の光太郎をテーマに講座を3回開く。戦争との関わりも考える。「事実から目をそらさずに学びたい」。熊谷さんの姿勢から2人への愛が伝わる。

最初に紹介されている「わが詩をよみて……」は、昭和22年(1947)、連作詩「暗愚小伝」に組み込むつもりで書いたものの、結局はボツにした詩篇です。全文はこちら。光太郎の精神史を語る上では外せない一篇ではあります。

智恵子の「暴力は臆病の変形」は、コラムにある通り、大正12年(1923)の関東大震災後、光太郎も支援していた大杉栄と妻の伊藤野枝が、憲兵大尉・甘粕正彦によって虐殺された事件に対してのもの。全文はこちら

その智恵子の故郷・福島二本松で顕彰を続ける智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会さんの講座については、改めて記事にするつもりでいましたが、ついでですのでご紹介してしまいます。

智恵子講座2025 智恵子没後の高村光太郎~晩年の人生と芸術に迫る~

期 日 : 2025年11月3日(月・祝) 11月16日(日) 11月24日(月・振休)
会 場 : 11/3・11/16 ラポートあだち 11/24 安達公民館
時 間 : 10:00~12:30
料 金 : 3,000円
講 師 : 熊谷健一(智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会代表)

美の求道者として同志愛を貫いた高村光太郎と智恵子。智恵子亡き後の光太郎はどのように生き、どんな作品を残したのでしょうか。光太郎晩年の人生と芸術に肉迫します。
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次に、光太郎第二の故郷・岩手の『岩手日日』さん。これも昨日掲載されました。

光太郎直筆の手紙初展示 花巻・記念館特別展 人柄や悩み伝える

 高村光太郎記念館の特別展「中原綾子への手紙」は、花巻市太田の同館で開かれている。同人の中原綾子に宛てた光太郎直筆の手紙が展示され、光太郎の人柄や当時抱えていた悩みなどを伝えている。2026年2月28日まで。
 中原は与謝野晶子門下の歌人。文芸誌「明星」に作品を発表しており、同誌に作品を寄せていた光太郎とは交流があった。交流は光太郎が花巻に疎開してからも続き、1951年9月に山荘を訪れて光太郎を見舞うなど生涯にわたり古流を持つ間柄であつたとされる。
 特別展では「智恵子抄」などの作品に通じる光太郎の心境を、中原に宛てた手紙でたどっている。手紙の内容自体は既出で、市内の図書館にある「高村光太郎全集」などで確認できるが、直筆の手紙を展示するのは初という。
 34年12月28日付の手紙には、「ちえ子の狂気は日増しにわろく、最近は転地先にも居られず、再び自宅に引きとりて看病と療治とに尽していますが連日連夜の狂暴状態に徹夜つづき、さすがの小生もいささか困却いたして居ります」とあり、統合失調症を患う妻智恵子に対する苦悩が赤裸々につづられている。
 51年10月5日付の手紙では、体調が優れない中原に対し「食事の十分とれますまで酒タバコは一寸お休みになる方がいいかと存じます」と助言しており、2人の関係性や光太郎の人柄がうかがえる。
 特別展を担当する花巻高村光太郎記念会の高橋卓也事務局長補佐は「活字ではなく、光太郎直筆の手紙が見られる珍しい機会を通じて、光太郎の人柄や中原との関係性などを感じてほしい」と話す。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。問い合わせは同館=0198(28)3012へ。
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4月から4期に分けて開催されている特別展「中原綾子への手紙」に関してです。4月から始まっているのに「なぜ今?」という感じなのですが、どうも岩手県ではこういう風習なのだと思われます。光太郎も岩手在住中、服の仕立を頼んだものの、その後梨のつぶてで困惑する記述を残していましたが、出来上がってみると実に丁寧な仕事で、文句の附けようもない、みたいな。

今回出品されている書簡に関しても、全文を翻字し、画像をつけて図録として出版という話で、原稿はとっくに送ってあるのですが、いつになるやら……という感じです。通常は会期が始まる前に作っておいて販売するものだと思うのですが……。

後は、記事に誤りがありますので訂正しておきます。「手紙の内容自体は既出で、市内の図書館にある「高村光太郎全集」などで確認できる」とありますが、『高村光太郎全集』にもれている書簡も5通ほど。その意味でも図録の完成が待たれます。

続いて同じく花巻ネタで『岩手日報』さん。一昨日の掲載でした。

おいでよ道の駅 はなまき西南 偉人ゆかり 弁当人気

005 今後も地域住民とドライバーの憩いの場であり続けます――。県道盛岡和賀線沿いに位置し、今年開業5周年を迎えた花巻市轟木の道の駅はなまき西南(高橋有希駅長)は、地元の偉人にちなんだオリジナルメニューが好評を博している。
 戦争空襲で宮沢賢治の実家を頼り、花巻市の旧太田村に疎開した高村光太郎(1883~1956年)に関連し、駅の愛称は「賢治と光太郎の郷(さと)」。光太郎の日記を基に再現し、毎月15日に10食限定で販売する地元食材が中心の月替わり弁当は常連客の人気商品だ。
 ボリューム満点のランチを食べたい時は、 地元住民が愛してやまない焼き肉の老舗・味楽苑「道の駅店」へ。名物のささまホルモン(単品660円)は、貴重な豚の直腸を全国から厳選して仕入れている。自家製のみそダレが絶妙に絡み、ぽっべたが落ちそうだ。
 近くに大型商業施設がなく、人口減少が進む太田・笹間地区を活気づけようと、住民の働きかけで2020年に開業。今年8月には来場者200万人を達成した。高橋駅長(38)は「ここにしかない歴史と『魅力』を届けたい。皆さんにとって居心地のよい場所になってもらえばうれしい」と願う。
 売店の営業時間は午前9時~午後5時。年末年始は一部施設休業。
イチ押し しっとり塩あんぱん
 はなまき西南限定の塩あんぱん(300円)を食べてほしい。花巻温泉の温泉ベーカリーとのコラボ商品。ぎっしり詰まった粒あんは、ほのかな塩気でしっとりした味わい。自動販売機で冷凍販売しており、解凍するのを待ちながら周囲の観光地を巡ってみよう。同温泉の日帰り入浴200円割引券付きのお得なセットで、心も体も「ほっと」一息ついてみてはいかが。

花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰をなさっているやつかの森LLCさんがメニュー考案に当たられ、毎月15日に道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」に触れられています。

そのやつかの森さん、今月行われた土澤アートクラフトフェアなど、花巻南高校家庭クラブさんといろいろ共同でなさっている関係で、10月23日(木)には同市で開催された岩手県高等学校家庭クラブ研究発表大会に招聘され、光太郎に関わる寸劇を披露されたとのこと。
人物紹介
小岩井バター 雪白く朗読
コーヒー煎れる 姪宛てハガキ
勝治と訪問者 お礼にお菓子
そんなこんなで、光太郎智恵子ゆかりの東北では、二人の顕彰活動が活発ですが、こういう動きが東北に留まらず、全国に広がって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

量とは何か。其は物体が空気の中で位置を占める空間(スペース)の事です。芸術の本質的基礎は此の正確な空間を定める事です。此が始であり終であります。

光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

かなり概念的な表現ですが、ロダンはけっこう彫刻の本質的な在り方、制作方法のキモを言葉にしています。光太郎は一語一語を噛みしめながら翻訳し、自作に生かしていたようですし、後進の芸術家達も光太郎の訳によってその精神に触れ、各自がその実践を行おうとしていきました。

智恵子のソウルマウンテン、福島の安達太良山で紅葉が見頃だそうで。

FTV福島テレビさんのローカルニュースから。

紅葉が山肌一面に ロープウェイで安達太良山へ ほんとうの空と色鮮やかな紅葉のコントラスト 福島

 福島県の安達太良山の紅葉は、今がまさに見頃となっている。10月15日は天気にも恵まれてより一層山肌を鮮やかに染めた。福島が誇る紅はこれからが本番だ。
■日本百名山・安達太良山の紅葉
 日本百名山の一つ、標高約1700mの安達太良山。絶景を求めてロープウェイで標高1350メートルの山頂駅を目指す。
 乗車して約3分、200mほど上がってきたが、赤や黄色に色づいた木々が目立ってきた。標高が上がるにつれて、紅葉の色づきも増していく。眼下に広がる雄大な景色を楽しんでいると、あっという間に到着だ。
 ほんとうの空の下、さらに登っていけば...山肌一面に映える色鮮やかな紅葉。まさに見頃を迎え、青空との美しいコントラストを織りなしている。福島の秋を象徴するこの美しい景色に、心打たれる。
 群馬から訪れた女性は「もう感動の一言です」と話し、東京から訪れた夫婦は「いいですね、ここはやっぱりね。ベストいくつとかに入ってますんで、やっぱ綺麗なんですよね、他に比べても」と話す。
 季節のうつろいとともに表情を変える安達太良山。山を染める紅葉は10月19日ごろまでが見頃だ。
■福島県の紅葉の見ごろ
 福島県内はこれから絶好の紅葉シーズンとなる。安達太良山、そして磐梯吾妻スカイライン・尾瀬沼は見ごろを迎えている。他にも裏磐梯の五色沼、田子倉湖、甲子高原が色づき始めていて、10月25日頃には見ごろとなりそうだ。
 今週、紅葉を楽しみたい方は青空が広がる17日金曜日と暖かくなる18日土曜日に行くのがオススメ。服装は金曜日は長そでシャツ一枚、土曜日は半袖でよさそうだが、標高が高い所に行かれる際は、羽織るものがあると安心だ。
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地方紙『福島民友』さん。

ほんとうの空、錦秋の絶景…安達太良山 紅葉、今月いっぱい

 日本百名山の一つ、安達太良山(1700メートル)の紅葉がピークを迎え、青空が広がった15日、多くの登山客や行楽客が錦秋の絶景を満喫した。
 福島県二本松市奥岳登山口からロープウエーで標高1350メートルの山頂駅に向かい、5分ほど歩くと薬師岳パノラマパークに到着。安達太良山頂が眼前に広がり、山肌を彩る紅葉と吾妻~蔵王、阿武隈の山並みを一望できる。
 紅葉は今月いっぱい楽しめそう。あだたら高原リゾートは11月3日までの土、日曜日と祝日、ロープウエーの運行開始を通常より1時間早め、午前7時半から運行する。問い合わせは同リゾート(電話0243・24・2141)へ。
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福テレさんでは「10月19日ごろまで」、民友さんだと「今月いっぱい」(笑)。まぁ、標高1,700㍍の山頂付近と同900㍍台の登山口とでは、紅葉の進み具合も異なるでしょうし。ちなみに直上の画像は同1,350㍍ぐらいの地点です。

相変わらず紹介すべき事項の山積が続いており、新聞ついでにもう1件。『秋田魁新報』さんの一面コラム、10月11日(土)掲載分です。

北斗星

「一杯ぐっとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨットの白い帆を見た時のような、いつでも初めて気のついたような、ちょっと驚きに似た快味をおぼえる」。「それ」とはビールのことである。詩人高村光太郎の随筆「ビールの味」(1936年)の一文だ▼高村は麦の香りとともに、ビールの喉越しが気に入っていたらしい。ユニークな表現は、この喉を通る感覚を言葉にしようと生まれたのかもしれない▼随筆が発表されたのはビール人気が急伸していた頃。欧米中心だったビール人口はやがて世界中に拡大。ビール会社の調べでは2023年に世界で飲まれたビールのうち3割がアジア、2割が中南米だった▼そのビールが将来、気軽に飲めなくなるかもしれないという報道が先日あった。原因は温暖化。欧州などでは近年、原料の大麦やホップが減収するといった影響が指摘されている▼国内有数のホップ産地・横手市大雄では、今夏初めて収穫ボランティアを募った。大雄ホップ農業協同組合によると、気象データの分析で収穫適期が早まっていることが分かったという。今のところ収量や品質に影響はないが、人手不足で適期の間に作業を終えることに懸念があった。気候変動にも対応するため、この試みは続けていくそうだ▼苦みの印象が強いホップだが、香りは甘く爽やか。その香りはビールを飲んだ時の喉越しにも影響するという。ボランティアで汗を流した後の一杯は、さぞかしうまいことだろう。

随筆「ビールの味」、けっこう色々なところで取り上げられています。左党の皆さんには「あるある」なのかもしれません。
大本泉『作家のまんぷく帖』。
岩手日報「風土計」。
森鷗外記念館コレクション展「文学とビール―鷗外と味わう麦酒(ビール)の話」。
『毎日新聞』/『山形新聞』。
『ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編』。

今回もそうですが、新聞の一面コラムに取り上げられることが多い感じです。共感を得やすい文章だということでしょうか。それも大切なことですね。

【折々のことば・光太郎】

彼は――芸術家は考へるものです。全体について考へます。部分に就いても考へます。そして部分の研究は彼にとつて全体を更によく掴む為めの道なのです。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

彫刻に限った話ではないのでしょうね。絵画でも、工芸でも、いや、造型芸術でなくとも文学や音楽などにも通じることだと思います。

今年も8月15日が巡ってきました。

特に今年は終戦から80周年ということで、その関係の報道やテレビ番組放映等が多く為されているように感じます。各種メディアの中には、戦時中に軍部や大政翼賛会に加担してしまった反省という視点からのものも多く見うけられています。

そんなこんなで『沖縄タイムス』さん、一昨日の記事。戦時中のメディアや光太郎らの文学作品等の状況、現代におけるそれらの受容の在り方、そして新たな作品までが論じられています。

[混沌の先に 戦後80年 戦争と表現]戦争に向き合い表現模索 小説書き忘却にあらがう 作家の豊永・砂川さん 大きな歴史 自分の言葉に

005 文学や映像などの表現者は、争いが絶えないこの世界とどう向き合おうとしているのか。抵抗の手段となる一方で加担することもある「もろ刃の剣」。戦争を巡る過去を引き寄せ、今を生きる「私」とつなぐ表現を模索する人たちの姿を追う。

 遠くに青い海が輝き、視線を横に向けると広大な土地を占める米軍普天間飛行場が目に入る-。沖縄戦の激戦地だった宜野湾市の嘉数高台公園。日本軍の組織的戦闘が終結したとされる6月23日の「慰霊の日」の前日、学生時代よく訪れたこの場所に足を運んだ豊永浩平さん(22)は「小説を書くことで歴史とつながり、忘却にあらがいたい」と決意を新たにした。
 豊永さんは、沖縄戦を描いた小説「月(ちち)ぬ走(は)いや、馬(うんま)ぬ走(は)い」で、昨年の群像新人文学賞と野間文芸新人賞を受賞した注目の新鋭作家だ。
 受賞作は沖縄戦からの約80年の歳月をさまざまな人の語りによってつづった物語。日本軍兵士の残虐な行為から、現代の若者らが直面する貧困や暴力までが「根っこ」でつながる様を浮かび上がらせた。沖縄戦だけでなく、その後の米軍統治、復帰後も続く基地負担などの矛盾を描き出してきた「沖縄文学」の系譜にも連なる作品だ。
 沖縄で生まれ育ち、基地や戦跡などはずっと身近にあったもの。しかし、過去の記憶と自分たち若い世代が「接続していない」感覚を持ち続けてきたという。本格的に小説を書くようになったのは地元の琉球大に進学してから。「沖縄で物語を書く者として、過去の戦争を避けては通れない」との思いがあった。
 6月に那覇市で開かれたトークイベント。ウクライナやガザなどで続く戦争も念頭に、豊永さんは「おじいやおばあが生きた時代を、どうすれば捉えられるのか。自分たちの(世代の)側から80年前の過去を、どうにか引き寄せたい」と力を込めた。

006 日本人300万人以上が犠牲になったとされる先の大戦。なぜ私たちはあの戦争に突き進み、多くの悲劇を生み出してしまったのか。戦後文学は、そうした問いに向き合い続けてきた。戦場の狂気を描いた大岡昇平の「野火」、原爆投下後の広島を舞台にした井伏鱒二の「黒い雨」…。その水脈は現代の作家にも続いている。
 北海道に侵攻したロシア軍と自衛隊の戦闘を描き、今年マンガ化もされ話題を集める小説「小隊」。著者で芥川賞作家の砂川文次さん(35)もそうした1人だ。
 物語では、自衛隊の小隊長・安達が一つ一つの任務を着実にこなす中で、あっという間に泥沼の戦闘に引きずり込まれてゆく。「命令を淡々とこなすだけで地獄絵図になってしまうことがある」と砂川さん。「描きたかったのは戦争そのものより、そうした不条理だった」と振り返る。
 砂川さんは大学卒業後、陸上自衛隊で6年働いた。北海道の駐屯地でも勤務し、ロシア軍の侵攻を想定した訓練があったという。「小隊」はその経験も基に「単なるシミュレーションでなく、最前線の人たちがどうなってしまうのかを踏み込んで書いてみた」作品だ。
 実際の戦争を体験していない自衛隊員らは、いざ戦闘が始まれば敵兵と殺し合い、必死に生き延びようとするしかない。その中で「平時」の常識やモラルも揺らいでいく。それは自衛隊員に限らず、誰もが巻き込まれうる事態なのではないか。
007 「戦争を過去として切り分けるのは危ない」と砂川さんは憂慮する。「自分たちは戦後に身を置いているけれど、戦前からの土壌の上にも立っている。自虐でも賛美でもなく、戦争を含めた大きな歴史を自分の言葉にしていくことが大事なんだと思うんです」

ジャンル超え惨状描写  文学・映画・アニメまで
 「生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも」。原爆投下直後の広島の地下室で、重傷を負った助産師が取り上げた新たな命。栗原貞子さんの詩「生ましめんかな」は、各地に生々しい焼け跡が残る1946年3月に発008表された。絶望の淵で生まれた命の息吹をつづる最初期の原爆詩は、今も読み継がれる。
 フィリピンで米軍の捕虜になった大岡昇平の小説「俘虜記」(48年)、広島で目撃した惨状を描いた丸木位里・俊夫妻の連作絵画「原爆の図」(50~82年)…。自身の体験に基づく作品を中心に、戦争を巡る表現はさまざまな分野に広がった。
 沖縄戦の悲劇を伝える53年の映画「ひめゆりの塔」は大ヒット。73年連載開始の中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」は20言語以上に翻訳され、世界中に被爆の実相を伝えた。94年初演の井上ひさしさん作の舞台「父と暮せば」は、生き延びた人々の罪悪感に着目し、死者との対話を描いた。
 「戦後」が年月を重ねる中、表現の営みは世代を超えて続いてきた。70年発表のフォークソング「戦争を知らない子供たち」は、ベトナム戦争のさなかで平和を願う戦後生まれの若者たちの心情をストレートに歌った。
 大岡の小説「野火」を映画化し、2015年に劇場公開した塚本晋也監督は、戦場の「痛み」を喚起させる壮絶な映像で観客の想像力に訴えかけた。16年のアニメ映画「この世界の片隅に」の片渕須直監督は、戦時下の市井の日常を丁寧に描くことで、現在と地続きであると強く印象づけた。009
 タイムスリップした少女が特攻隊員に恋をする汐見夏衛さんの小説「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」(16年)は、20年代に入って交流サイト(SNS)で人気に火が付き、ベストセラーに。誰にも身近な「恋愛」を通し戦争の不条理を伝える物語が多くの若い読者の心を捉えた。

戦意高揚 作家が加担 エンタメに軍部介入 漫画分野は侵害少なく
 国内の戦意高揚のために軍部が目を付けたのがエンターテインメントだった。定番の娯楽だった文学はもとより、子ども向け読み物も言論統制の対象に。一部の作家は積極的に扇動に加担し、戦後に糾弾された。
 「皇軍の苦労が捨石にならぬやうに、もつともつと官民一致を来したい」。1937年に作家林芙美子が新聞に寄稿した檄文(げきぶん)だ。高村光太郎は「神の国なる日本」は「老若男女みな兵なり」と鼓舞し、火野葦平は「万歳を声の続く限り絶叫して死にたい」と書いた。高村や火野ら名だたる文人は戦後、新興の新日本文学会に「直接的な責任」があったと指弾された。
 「日本児童文学の父」とされ、やなせたかしさんに影響を与えた小川未明も例外ではない。童話「僕も戦争に行くんだ」をはじめとする作品で米英への憎悪をあおり「愛国的児童像を繰り返し説いた」と、文学研究者の増井真琴さんは指摘する。
 漫画分野では、32年の第1次上海事変で爆弾を抱えて敵陣に突進し、命と引き換えに道を開いたと010たたえられた「肉弾三勇士」が、田河水泡の人気漫画「のらくろ」などでも描かれ、子どもから英雄視された。
 他方、京都精華大の吉村和真理事長(マンガ研究)は、影響力が小さいとみられていた当時の漫画が「他分野よりは公権力に介入されずに済み、エンタメを生み出す活力を戦後につなぐことができた」とみる。侵害されなかった「自由さ」が漫画を、世界に誇る文化に押し上げたと分析する。
 吉村さんは今年、戦争に関する漫画を集めた巡回展「マンガと戦争展2」を監修。「漫画は、世界中の人々が文化を理解し合うことに役立っている。戦争に利用された過去と異なり、新たな戦争に対抗する文化的な力になったと考えています」

引用されている(一部誤記がありますが)光太郎の詩は、ずばり「十二月八日」。昭和16年(1941)12月8日の開戦の詔勅を聴いて、ほぼ一気呵成に書き上げたものです。この日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していましたが、予定の時刻を過ぎても会議が始まらず、待たされている間に開戦の詔勅が放送され、会議は当初5日間の予定が1日で打ち切りになったそうです。

   十二月八日
戦時アトリエ前ピン
 記憶せよ、十二月八日
 この日世界の歴史あらたまる。
 アングロ・サクソンの主権、
 この日東亜の陸と海とに否定さる。
 否定するものは彼等のジヤパン、
 眇たる東海の国にして
 また神の国たる日本なり。
 そを治(しろ)しめたまふ
明津御神(あきつみかみ)なり。
 世界の富を壟断するもの、
 強豪米英一族の力、
 われらの国に於て否定さる。
 われらの否定は義による。
 東亜を東亜にかへせといふのみ。
 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
 われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
 われら自ら力を養ひてひとたび起つ、
 老若男女みな兵なり。
 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
 世界の歴史を両断する
 十二月八日を記憶せよ。

昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』第19巻第2号に発表されました。

毎年、12月8日前後には幼稚なネトウヨどもがこの詩をSNSに挙げて喜んでいます。ついでに言うなら笑ってしまうような誤字だらけで、例えば「本来は「大日本帝国」だが、米英いうところの「ジャパン」」という意味での「彼等のジヤパン」という一節が「我等ジヤパン」となっていたり(笑)。「お前、ほんとに右翼か?」と突っ込みたくなります(笑)。光太郎本人が戦後になってこうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔いて、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。

戦後、光太郎以外の殆どの文学者は、同様の作品を戦時中に発表していたにもかかわらず、それらを「無かったこと」にしたり、「あれは軍や大政翼賛会の命令で仕方なく書いたものだ」と開き直ったりしました。南京大虐殺やらを「無かったこと」にしたい幼稚なネトウヨどもは、戦後の光太郎の深い反省を「無かったこと」にしたいようです。

ちなみに『沖縄タイムス』さんで「新興の新日本文学会に「直接的な責任」があったと指弾」とありますが、同会の創設に関わった壺井繁治なども戦時中は翼賛詩を発表しています。

   鉄瓶に寄せる歌
 
 お前を古道具屋の片隅で始めて見つけた時、錆だらけだつた。
 俺は暇ある毎に、お前を磨いた。
 磨くにつれて、俺の愛情はお前の肌に浸み通つて行つた。
 お前はどんなに親しい友達よりも、俺の親しい友達となつた。

 お前は至つて頑固で、無口であるが、
 真赤な炭火で尻を温められると、唄を歌ひ出す。
 ああ、その唄を聞きながら、厳しい冬の夜を過したこと、幾歳だらう。
 だが、時代は更に厳しさを加へ来た。俺の茶の間にも戦争の騒音が聞えて来た。

 お前もいつまでも俺の茶の間で唄を歌つてはゐられないし、
 俺もいつまでもお前の唄を楽しんではゐられない。
 さあ、わが愛する南部鉄瓶よ。さやうなら。行け! 
 あの真赤に燃ゆる熔鉱炉の中へ! 

 そして新しく熔かされ、叩き直されて、
 われらの軍艦のため、不壊の鋼鉄鈑となれ!
 お前の肌に落下する無数の敵弾を悉くはじき返せ!

まさに「おまいう」(そろそろ「死語」ですが)ですね。ちなみにその壺井には吉本隆明らの手によって、特大ブーメランが帰って来、詩壇から抹殺のような感じになったようです。
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だからといって、200篇ほどの翼賛詩文を乱発した光太郎の罪が消える訳ではありません。それでもそれを悔い、7年間もの蟄居生活を送ったことは評価されるべきでしょう。それを「無かったこと」にするのは許されることではありませんね。

【折々のことば・光太郎】

此の美の力がわれわれの感覚外で、われわれを擒にしてゐるのか。眼が見えずに見えるのか。其の幻術は建築の力によるのか。其の不朽な現前の功によるのか。其の平静な壮麗の徳によるのか。此の不可思議物は、特殊な一感覚に制限された範囲を超えて受感性に力を及ぼす。


光太郎訳ロダン「夜の本寺」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「本寺」はノートルダム大聖堂。夜間の暗闇の中であっても荘厳な美が幻想的に押しよせてくるように感じられる不思議、というわけです。

「十二月八日」を書いた頃の光太郎も押しよせてくる「大東亜共栄圏」「八紘一宇」といった幻想の「擒(とりこ)」と化してしまっていたのではないでしょうか。

それぞれ少し前のものですが、3件。

まずは『北海道新聞』さんから読者投稿俳句。

 <新・北のうた暦>4月4日007

 光太郎忌山ありて川ひかるなり 上田小八重

 高村光太郎の忌日は4月2日なのだが、この時季のみずみずしさを詠んだ掲句に、作者のみならず読者も浄化されそうだ。作品「樹下の二人」の詩句「あれが阿多(あた)多羅(たら)山、/あの光るのが阿武(あぶ)隈(くま)川。//ここはあなたの生(うま)れたふるさと、」を想起(そうき)させる。春の訪れの遅い北国だが「ひかる川と山」は素朴で新鮮で美しいことばである。 久保田哲子


光太郎忌日は「連翹忌」で、おそらく通常の「歳時記」にも登録されていると思われます。しかし「連翹忌」の呼称がどれだけ一般に浸透しているかというと、太宰治の「桜桃忌」、芥川龍之介の「河童忌」ほどではありませんので、おそらく投句された方、「連翹忌」の呼称は知りつつもあえて「光太郎忌」となさったのではないかと思われます。そういう小細工なしに「連翹忌」で誰しもに通じるようであって欲しいものですが……。

同じく読者投稿句、『読売新聞』さんから。

読売俳壇 矢島渚男選008

 光太郎智恵子の浜や目刺干す 君津市 榎本静江

【評】『智恵子抄』の舞台は九十九里浜。しかし晩年の彼女は精神を病み、看病に疲れ喪心の彼は戦争賛美へと走り晩年の反省が用意される。大学時代の夏休みに彼が過酷な生活を送った山小屋に行った。死後一年ほどの囲炉裏の周りには彼の息遣いが漂っているようだった。


昭和9年(1934)に智恵子が療養生活を送り、週に一度は光太郎が見舞いに訪れていた九十九里浜は太平洋に面した「外房」。句の作者の君津市は東京湾添いのいわゆる「内房」ですが、房総半島を一またぎすれば九十九里です。「目刺」が春の季語で単独で盛り込まれる場合もありますが、この句のように「目刺干す」で使われることも多いようです。実際、智恵子が療養していたあたりを歩くと、家々の軒先で魚の干物を作っている光景によく出会います。

選者の矢島氏、句には詠まれていないその後の光太郎についても言及。ありがたし。

取り上げるべき事項が山積しておりまして、もう1件、同じ新聞つながりで、仙台に本社を置く『河北新報』さんの一面コラムもご紹介してしまいます。

河北春秋(5/2)009

彫刻家で詩人の高村光太郎は、岩手県花巻市出身の作家宮沢賢治の作品を高く評価し、世に紹介した功績でも知られる。そんな光太郎が賢治を評した言葉がある。「内にコスモスを持つ者は、世界のいずこの辺遠にいても、常に一地方的の存在から脱する」▼「宮沢賢治追悼」に寄せた文章の一節。この言葉を展示するのは、花巻市の花巻南温泉郷近くにある高村光太郎記念館だ。光太郎は戦争末期、宮沢家を頼って花巻に疎開し、人里離れた山荘に7年間暮らした。山荘は保存され、その傍らに記念館は立つ▼賢治は花巻を拠点に多くの詩や童話を創作し、「イーハトーブ」の世界観を築き上げた。光太郎は感銘を受け、南フランスの田舎で絵筆を取りながら、世界の新しい芸術に指針を与えたセザンヌのようだと記している▼反対に、内にコスモスを持たない者は、どんな文化の中心にいても一地方的存在であると論じる。今で言えば、東京に住むか地方に住むかは関係なく、心の持ち方、考え方で、その人の世界は決まるということか▼近代芸術の巨人の言葉は、東北に暮らすとりわけ若い世代へのエールになるだろう。大型連休も後半に入る。予定が決まっていないなら、訪れてみてはいかが。光太郎を癒やした花巻の自然や温泉も待っている。(2025・5・2)

『読売』さんの矢島氏の評にも現れた、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する高村光太郎記念館。GW中の記事ですので、この連休に訪ねてみては?的な内容ですが、1年中いつ行ってもいいところです。ぜひ足をお運びください。
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ちなみに光太郎の賢治評「内にコスモス」云々(「でんでん」ではありません(笑))が記念館に展示されている、ということですが、その一節を選んで展示解説パネルを作ったのは当方です(笑)。

【折々のことば・光太郎】

思ひがけなく小生の誕生日のためにとて勢のいいロブスター三尾お届け下され感謝しました、大変愉快でした、


昭和28年(1953)3月13日 北川太一宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、前年秋に花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎の元を、体当たり的に突撃訪問して知遇を得た当会顧問であらせられた故・北川太一先生。この日の光太郎誕生日にプレゼントを進呈。しかし、なぜにロブスターだったのでしょうか(笑)? ご存命のうちに訊いておけばよかったと後悔しております。

明治から大正期、『読売新聞』の「文芸欄」に載っていた、文化人等の動向を短く紹介する「よみうり抄」というコーナーがありました。

その大正期の「よみうり抄」を全てピックアップした書籍の刊行が全5巻の予定で開始され、まず第1巻が出ています。

それに関連した『読売新聞』さん2月25日(火)の記事。

まるでSNS 大正の「よみうり抄」 文芸欄の片隅で文化人の動勢やお知らせ細かく 「芥川」誕生の瞬間など

 読売新聞文化欄に掲載された雑報欄「よみうり抄」が、「読売新聞 よみうり抄」大正篇第一巻として文化資源社から刊行された。今後、全5巻の刊行が予定されている。よみうり抄研究会代表の杉浦静・大妻女子大学名誉教授が、その意義と文学研究にもたらす可能性を寄稿した。

 日本近代文学において、読売新聞は大きな役割を果たした。明治以降の文芸欄は、上司小剣や正宗白鳥ら多くの作家が健筆を振るった。明治から大正までの近代文芸関係作品、記事の全細目をまとめた『読売新聞文芸欄細目』も、近代文学研究の泰斗だった紅野敏郎氏によりまとめられている。
 その文芸欄の片隅に置かれたのが、「よみうり抄」だ。近代文学の研究で引用されることなどから、私は存在を知った。文学者や画家、文化人の動向や出版情報、展覧会情報などが雑報の形で、短いながらも詳しく記され、時には一般記事より興味深いものがある。2001年に研究会を作り、仲間の研究者や学生たちと少しずつ読んできた。
 よみうり抄は、記者が直接取材したものや、届いた手紙などから書かれた。作家の年譜に掲載されていない内容もあり、生き生きした情報にあふれている。
 たとえば、よみうり抄は作家の芥川龍之介の誕生の瞬間から、文壇で認められていく姿を収めている。
 「▲柳川隆之介氏 は今後本名芥川龍之介を用ふる由(よし)尚(な)ほ小説『鼻』を『新思潮』に寄せたりと」
 これは当時、東京帝大の学生だった芥川龍之介が、「柳川隆之介」から改名したことを伝える1916年1月22日のよみうり抄の記述だ。同じ日のこの欄は、すでに劇作家として評価を得ていた久米正雄らと、同人誌「新思潮」を再興することも伝えた。改名で心機一転を図り、新思潮に臨む芥川たちの姿がうかがえる。
 この記事にある「鼻」が夏目漱石に激賞され、芥川は文壇に出ることになる。
 すぐ後の2月29日付には、「▲芥川龍之介氏 は平安朝時代より材料をとれる小説『ポー』を『新思潮』三月号に寄稿せり」と続報がある。漱石の賛辞を受けて書こうとしたのだろうか。だが現実にはこの作品は書かれず、「ポー」は題名だけが残る幻の作品となる。
 この後も、よみうり抄は芥川が海軍機関学校教官となったことや、流行性感冒にかかったこと、結婚や新居への移転など細々と情報を伝えた。これらの情報は、新聞読者の小説家に対する親近感を高めた。新聞社の側も、読者の関心が深い文化関係者の動向を伝えることが、政治や事件・事故のニュースと合わせて読者獲得につながったのだろう。
 よみうり抄は、画家たちの動勢も多く報じている。「写生旅行中」とか、「写生中」とかいった情報に加え、展覧会情報も多い。そこには日時や会場と、読者が出かけられるように住所も付されている。1917年10月25日には、彫刻家の高村光太郎がニューヨークでの個人展覧会を開くため、「彫刻を頒(わか)つ会」を起こすといった記事が掲載されている。まるで、現代のクラウドファンディングのようだ。
 文化人の細かな動勢やお知らせといった情報を掲載したよみうり抄は、現在のSNSを思わせる。大正期の新聞は、マスメディアでありながら、同時に現在よりもパーソナルなメディアの要素が強かったのかもしれない。
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で、刊行が始まった『よみうり抄』。

読売新聞 よみうり抄 大正篇 第1巻001

発行日 : 2025年2月15日
著者等 : よみうり抄研究会編
版 元 : 文化資源社
定 価 : 16,000円+税

「よみうり抄」とは読売新聞が、明治31年10月6日から毎日掲載をはじめた、芸術家(作家・画家・演劇家)や学者などあらゆる文化人の短信・消息・ゴシツプを取り上げた小欄の名称。本書は大正期の「よみうり抄」をすべて翻刻した第1巻目。
現在では、この小欄の集積が、今となっては客観的な記録・情報となり、文化人がいつどこに出かけ、誰に会い、何をしたかという膨大な情報群となっているが、従来、この欄を通覧することが難しかったものを、全5冊に翻刻。
明かな誤植を訂正した他、印刷・マイクロ化・デジタル化の都合で不読となった文字を可能な限り補記し「よみうり抄」の全文を活字化。

目次 明治45年1月から、大正3年12月まで(担当:宗像和重)

解説 大正期・読売新聞「よみうり抄」にみる文藝彙報欄(滝上裕子)

版元から一言
よみうり抄の具体的な記事は、Xに「#今日のよみうり抄」としてほぼ毎日ポストしていますので、それを見ていただくと有り難く存じます。一つ一つの記事は、何の変哲も無い新聞の短信で、基本「誰が何をした」ですが、読む人によっては、ピンッ、と来て、情報が無限に繫がり沼る情報の集積です。

著者プロフィール
 よみうり抄研究会  (ヨミウリショウケンキュウカイ)  (編集)
 石川巧(いしかわ たくみ)立教大学教授
 杉浦静(すぎうら しずか)大妻女子大学名誉教授:代表
 須田喜代次(すだ きよじ)大妻女子大学名誉教授
 滝上裕子(たきがみ ゆうこ)明治大学他非常勤講師、立教大学日本学研究所研究員
 十重田裕一(とえだ ひろかず)早稲田大学教授
 前田恭二(まえだ きょうじ)武蔵野美術大学教授
 宗像和重(むなかた かずしげ)早稲田大学名誉教授
 山岸郁子(やまぎし いくこ)日本大学教授
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読む人によっては、ピンッ、と来て、情報が無限に繫がり沼る情報の集積」。まさにその通りだと思います。

光太郎智恵子の名も頻出します。昭和52年(1977)、松島光秋氏著・永田書房発行『高村智恵子―その若き日―』という書籍の巻末には、明治42年(1909)から大正3年(1914)までの「よみうり抄」から、光太郎智恵子の名が載った分、関係の深い人々に関する記述がピックアップされています。
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ところが、書籍のコンセプトが若き日の智恵子の実像をさぐることなので、光太郎智恵子が結婚披露を行った大正3年(1914)までで終わっています。

今回刊行された『読売新聞 よみうり抄 大正篇 第1巻』も大正3年(1914)まで。第2巻以降で大正4年(1915)からの「よみうり抄」、どんなだったか確かめたいところです。ただ、第1巻が定価16,000円+税、第2巻以降も同じようなものでしょう。それが全5巻となると、ちょっと個人で購入すべきものではないかな、という気がいたします。公共図書館さん、関連する美術館さん、文学館さん等で取り揃えていただけることを期待します。

【折々のことば・光太郎】

水野君の墓標の文字を書くといふ事承知いたしましたが、小生只今一寸健康を害してゐまして揮毫するといふ事が出来ないので少々遅れるでせう。このこと御諒承下さい。


昭和27年(1952)3月12日 行方沼東宛書簡より 光太郎70歳

第一期『明星』以来の親友だった水野葉舟が歿したのは昭和22年(1947)。その墓標の文字を書いてくれという依頼に対しての返答の一節です。葉舟の墓は多磨霊園にありますが、結局、光太郎の揮毫ではなかったようです。

一昨日、12月8日(日)の『北海道新聞』さん一面コラム。

卓上四季

重くたちこめていた暗雲が吹き払われ、日本の命運に光がさした―。83年前のきょう、米ハワイ真珠湾への奇襲が成功し、太平洋戦争が始まる。大多数の国民は熱狂的に受け入れた▼人道主義を説いた白樺派作家の武者小路実篤は高揚していた。<くるものなら来いと云(い)う気持だ。自分の実力を示して見せる>。詩人・彫刻家の高村光太郎も感動を抑えられない。<世界は一新せられた。現在そのものは(略)純一深遠な意味を帯び光を発し>た。興奮が広がる▼憂うる者もいた。作家の幸田露伴は国の将来を案じて涙を流した。「若い者たちをつぶしてしまって事が成り立つはずがない。これではもういっぺんでひどい事になる」。先が見通せた少数者だった▼真珠湾攻撃は遠く離れた英国でも速報された。ラジオで知ったチャーチル首相はすぐに米国へ電話で問い合わせた。なにが起きたのか? ルーズベルト大統領は答えた。「日本の攻撃です。いまやわれわれ(米英)は同じ船に乗りました」▼<世界史的事件>と受けとめたチャーチルは記している。これでヒトラーとムソリーニの運命は決まった。いずれ日本も木っ端みじんに打ち砕かれるだろう―▼日本は序盤こそ快進撃を続けたものの続かない。軍事力も経済力も米国との差は圧倒的だ。チャーチルの予測は4年弱で現実となる。

光太郎が「感動を抑えられない」として引用されているのは詩ではなく、エッセイ「十二月八日の記」から。太平洋戦争開戦から約1ヶ月後の昭和17年(1947)元日、『中央公論』に載ったものです。後に随筆集『某月某日』(昭和18年=1943)に収められました。

真珠湾攻撃のあった昭和16年(1941)12月8日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していました。「十二月八日の記」はそのレポート的なものです。引用されている一節は、会場の大政翼賛会本部で開戦の詔勅(昭和天皇本人によるものではありませんでしたが)を聴いたときのもの。

その前後も併せて紹介します。

 時計の針が十一時半を過ぎた頃、議場の方で何かアナウンスのやうな声が聞えるので、はつと我に返つて議場の入口に行つた。丁度詔勅が捧読され始めたところであつた。かなりの数の人が皆立つて首をたれてそれに聴き入つてゐた。思はず其処に釘づけになつて私も床を見つめた。聴きゆくうちにおのづから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡が曇つて来た。私はそのままでゐた。捧読が終ると皆目がさめたやうに急に歩きはじめた。私も緊張して控室に戻り、もとの椅子に坐して、ゆつくり、しかし強くこの宣戦布告のみことのりを頭の中で繰りかへした。頭の中が透きとほるやうな気がした。
 世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである。現在そのものは高められ、確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなつた。
 この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いてゐる時間だなと思つた。時間の重量を感じた。

結局、第二回中央協力会議は当初5日間の日程でしたが、それどころではなくなり、1日に短縮。光太郎が発議する予定だった「工場施設への美術家の動員」はカットされました。

以後、ほとんどすべての文学者がそうであったように、雪崩を打って光太郎も発表するものは翼賛詩文一辺倒となっていきます。後述しますが、発表しなかった戦争とは無関係の詩も多くありましたが。

『北海道新聞』さんでは例外として幸田露伴の発言を引いています。当方、寡聞にしてそのソースは存じませんが、その露伴にしても、徳富蘇峰を日本文学報国会会長に推挙したり、その前身とも言える日本文芸中央会の相談役、報国会と『朝日新聞』共催の「国民座右銘」選定委員に就任したりと、決して「無罪」ではありませんでした。

驚いたのは、開戦当時満10歳だった谷川俊太郎氏。やはり12月8日(日)の『長崎新聞』さん一面コラム。

水や空

いのちと愛の言葉を最後まで手放さなかった詩人もその時代は“軍国少年”だった。谷川俊太郎さんが模型ヒコーキへの熱をつづった作文を〈僕の模型よ、お前もほんとの飛行機と一緒にニューヨーク爆撃に行け!〉と結んだのは10歳の春。開戦の翌年だった▲もう、少国民教育が行き渡っていた時代だったのですね-の問いに「そのようですね」と短く応じている。文芸評論家・尾崎真理子さんとの対談集「詩人なんて呼ばれて」(新潮文庫)から▲戦争は知らずに、結末だけを知る私たちが当時の空気を後知恵で非難するのはルール違反でしかない。ただ、大和魂だ、日本は神の国だ-という高揚感や興奮が無謀な戦争を支えていたことは、何度でも胸に刻んでおきたい▲高揚感はやがて消える。谷川さんよりも5歳年長の詩人・茨木のり子さんは「わたしが一番きれいだったとき」に戦争の現実を詰め込んで語った。〈街々はがらがら崩れていって〉〈まわりの人達が沢山(たくさん)死んだ〉〈男たちは挙手の礼しか知らなくて〉▲〈わたしの国は戦争で負けた/そんな馬鹿なことってあるものか〉-青春を返して。でも、戦争が始まってしまったらその叫びはどこにも届かない。「馬鹿なこと」は「敗戦」ではなく「開戦」だ▲太平洋戦争の開戦から8日で83年になる。

「教育」の力は、時に恐ろしい結果をもたらすものだと改めて感じました。

話を光太郎に戻します。光太郎にはずばり「十二月八日」という詩もあります。昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』に発表されました。
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毎年、12月8日には幼稚なネトウヨがこの詩の一節をSNSに挙げて(ついでに言うなら誤字だらけで)喜んでいます。昨年はそれほどでもなかったので、そうした動きは沈静化したかなと思っていたのですが、今年はまた以前以上に花盛り。光太郎本人が戦後、こうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔い、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。

もう取り消せない、という意味では「デジタルタトゥー」に近いものがあるかも知れません。また、「綸言汗の如し」という言葉も思い浮かびます。「無かったことにしよう」というのではありませんが(多くの文学者の同様の作品は、本人や取り巻きによって、「無かったこと」にされている現状もあります。あまっさえ、「無かった」どころでなく「反戦の姿勢を貫いた」とされている詩人も居ますし、現代の有名な評論家のセンセイもそれに騙されています)。

つくづく戦争というものは人の心を狂わせるものだと思わざるを得ませんね。

【折々のことば・光太郎】

「花と実」も予定ばかりで出版にはなりさうもありません。


昭和25年(1950)9月9日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎68歳

光太郎は戦時中、一切戦争には関わらない詩も書いていました。それらは発表することなく書きためていて、『花と実』というタイトルの詩集にまとめる予定でした。しかし、今更感もあったのでしょう、結局実現しませんでした。

こちらでご紹介したイベントについて終了後に為された報道を2件。

まず、もう半月ほど経ってしまいましたが、ご紹介するタイミングを失っておりました。福島二本松の「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」について、『福島民友』さん。

自作の紙芝居で智恵子生涯描く 研究者坂本さんが上演 二本松の生家

001 詩集「智恵子抄」でも知られる二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家光太郎を顕彰する同市の「智恵子のまち夢くらぶ―高村智恵子顕彰会」は14日、同市の智恵子の生家で紙芝居を上演した。作家で画家、智恵子研究者坂本富江さん(東京都)が紙芝居「夢を描くひと―高村智恵子」を披露した。
 高村夫妻の結婚110周年と同会発足20周年を記念して実施。「高村智恵子レモン祭」の一環として、智恵子の生家・記念館と共催で実施した。
 坂本さんは来場者を前に、智恵子の生涯を描いた自作の紙芝居を読み聞かせた。
 このほか同会は同日、第15回智恵子純愛通り記念碑建立祭と「智恵子と光太郎の詩と言葉」ボードの除幕式を智恵子生家近くの同碑前で行った。


続いて、10月27日(日)、岩手花巻で開催された「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」について、『岩手日日』さん。

光太郎と賢治の関係は 研究者と劇団員対談

 対談「光太郎と花巻賢治子供の会」(高村光太郎記念館主催、やつかのもりLLC企画)は10月27日、花巻市大通りの市定住交流センターなはんプラザで開かれた。高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた劇団「花巻賢治子供の会」について、研究者や当時の会員による講話や朗読などを通じて市民が光太郎の思いや賢治との関わりに理解を深めた。
 花巻賢治子供の会は1947年、賢治の教え子だった小学校教員照井謹二郎が賢治作品を後世に伝えるため、同じく教員で妻の登久子の脚本で子供たちと童話劇を始めたのが始まり。翌年春、花巻に疎開していた光太郎の慰問のため、賢治の弟清六の妻愛子に誘われて山荘に足を運び、野外劇を見せたところ、感銘を受けた光太郎が命名した。その後、春は山荘で野外劇、秋は光太郎を招いて舞台発表を行い、97年の東京公演まで50年余り、160数回の公演を続けた。
 対談では光太郎研究者で高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表が発足の経緯や当時の活動内容について解説。当初メンバーだった熊谷光さん(83)、高橋則子さん(80)が賢治童話「雪渡り」から「小狐の紺三郎」、光太郎の詩「山からの贈物」を朗読、賢治の弟清六の孫で林風舎の宮沢和樹代表が祖母や母から聞いた活動について語った。
 引き続き4人が「光太郎先生との想い出」をテーマに語り、48年6月の山荘での公演について熊谷さんは「光太郎先生はとても喜んでくれた。歩いて帰る途中、私たちが見えなくなるまで手を振ってくれた」などと振り返った。
 また童話劇を演じるのに脚本を手で書き写したり、花巻小学校の教室を借りて夜8時ころまで練習したり、子供たちが持参した自分の頭の大きさに合ったざるに紙を貼り重ねて動物の被り物を作ったりしたエピソードを紹介。「本当に何もない時代だったので、参加すること自体がとても楽しい時間だった」と語った。
 対談は約60人が聴講。泉沢善雄さん(70)=同市高木は「子供たちが実際にどのようにして演じていたかイメージが涌く話だった」と関心を寄せていた。

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正確には、「花巻賢治子供の会」発足時、照井夫妻はすでに教員を退職なさっていたはずなのですが……。

ついでというと何ですが、花巻から送っていただいた当日の画像。
参加者5 参加者6
さらに、『岩手日日』さんのインタビューを受けられていた泉沢善雄氏のSNSから。
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ちなみに泉沢氏の大伯父さまは光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の村議会議長を務められ、光太郎と一緒に写った写真も残っています。

さて、この手のイベント、今後も途切れることなく続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

桑木博士も津田博士も引き上げられたので、いよいよ小生一人居残りといふわけになりました、小生はやはり最後まで岩手県の御厄介にならうと考へて居りますが中ゝ彫刻製作の手順にならないので、これだけが問題です、


昭和25年(1950)4月11日 佐伯郁郎宛書簡より 光太郎68歳

結局、健康状態がそれを許しませんでしたが、光太郎、岩手に骨を埋めるつもりでした。

「津田博士」は戦中からこの年まで平泉に疎開していた津田左右吉ですが、「桑木博士」は誰を指すか特定できていません。お心当たりおありの方、ご教示いただける幸いです。

たまたま偶然でしょうが、昨日、東北の地方紙二紙の一面コラムで光太郎が取り上げられました。

まずは『秋田魁新報』さん。

北斗星

2人の女性が向き合う姿で知られる十和田湖畔の「乙女の像」だが、作者の高村光太郎は当初1人だけの像を考えていたという。湖や森を思い浮かべながら構想を練るうち、同じ像を二つ並べるアイデアが浮かんだ。例のない像だったが、現地で見れば周囲と調和していると分かると語っている(「高村光太郎全集11」より)▼「地上に割れてくづれるまで/この原始林の圧力に堪へて/立つなら幾千年でも黙って立ってろ」。像に寄せた詩からは、この場所にふさわしいものを作ったという自負が伝わってくるようだ▼乙女の像が建立されて約70年、十和田湖周辺は変わり続けた。観光客が増え、ホテルや観光施設ができた。しかしバブル崩壊や東日本大震災で客足は減少。ここ十数年は、像がある休屋地区などでホテルや店舗の廃屋が目に付くようになっていた▼先日、久々に乙女の像を訪れると、対岸に新しい建物があるのが見えた。小坂町などが整備した道の駅だ。「十和田湖開発の父」とされる和井内貞行と妻カツが寄り添う銅像もあり、特産のヒメマスをPRしている▼国は十和田湖などの国立公園に、訪日外国人らを呼び込む事業に力を入れている。道の駅もその一環。廃屋も徐々に撤去されて、新たな宿泊施設の誘致に向けて地元で協議が始まった▼再び変わり始めた十和田湖。期待もあるが、オーバーツーリズムなどの不安もよぎる。観光地と国立公園。開発と保全。さて、どんな調和を目指すべきか。

十和田湖は秋田県と青森県にまたがり、光太郎最後の大作「乙女の像」は青森県側の十和田市休屋地区に存在します。
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指摘されている通り、周辺にはかつてホテルや土産物店、飲食店だった建物の廃屋が目立ちます。地元で自嘲的に「ゴーストタウン」と称されることも。残念です。

そんな中、これもコラム中にありますが、秋田県側の小坂町に新たに「道の駅「十和田湖」」がオープンしました。今月12日のことでした。

NHKさんのローカルニュース。

小坂町に道の駅「十和田湖」オープン 観光客でにぎわう

 12日、小坂町に道の駅「十和田湖」がオープンし、十和田湖観光に訪れた大勢の人たちでにぎわいました。
 道の駅「十和田湖」は、小坂町の新たな観光拠点として十和田湖の南側の湖畔に整備されました。
 建物は湖が見渡せる高台にあり、施設の中には、十和田湖の成り立ちや名産のヒメマスの養殖の歴史、それに小坂町の観光名所などがわかりやすく展示されています。
 また、ワインや蜂蜜といった町の特産品や隣接する鹿角市のりんごやぶどうを販売するコーナーも設けられています。
 オープン初日となった12日は好天にも恵まれたこともあり、周辺の道路が一時渋滞するほどで、訪れた大勢の人たちは展示コーナーを見学したり、施設から望む十和田湖の写真を撮ったりして楽しんでいました。
 岩手県の40代の男性は「きれいでとてもいい施設ですね。これから奥入瀬渓流など十和田観光を楽しみたいです」と話していました。
 道の駅は、去年10月にオープンする予定でしたが、特別名勝などに指定されている十和田湖での工事には文化庁の許可が必要で、その申請に向けた事務手続きが行われていなかったため、駐車場の工事が遅れ、オープンが延期されていました。
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観光の新たな拠点となることを期待いたします。

続いて『岩手日日』さん。

日日草

「沈深牛の如(ごと)し」。詩人で彫刻家の高村光太郎は詩「岩手の人」の中で、県人を寡黙で辛抱強く、思慮深い牛のようだと評した。牛は昔から岩手の人々にとって馬と同様に極めて身近な存在だった▼そんな牛と岩手との関わりに焦点を当て、県立図書館が春から夏にかけて開いた企画展。肉牛や乳製品のほか、農耕や運搬に使う役牛として人々の暮らしを支えた歴史、文化などを豊富な資料で紹介した▼江戸時代に沿岸部の産物を内陸に運んだルートを「塩の道」と呼び、重い荷を背に北上高地を越えるには馬より足腰の強い牛が適していたこと。途中、歌われたのが「南部牛追唄」で、隊列の先頭に立つ最強の雄牛を決めるため闘牛大会があったことなどを展示で知った▼開催中、牛を通年で山に放牧する山地酪農に挑み続ける田野畑村の酪農家を24年間追ったドキュメンタリー映画も上映。豊かな自然の中で厳しい現実に向き合いながら希望を持って暮らす大家族の日常が丹念に描かれていて引き込まれた▼日本短角種の産地、久慈市は闘牛の素牛を全国に供給する。東北で唯一の闘牛大会が年4回あり、今年最後の「もみじ場所」があす開かれる。普段は目にすることのない迫力ある闘牛を間近に見れば、牛へのイメージが変わるかもしれない。

008牛と岩手との関わりに焦点を当て、県立図書館が春から夏にかけて開いた企画展」は、「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」。タイトルからして光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)由来でした。

会期中の6月に花巻に行きましたので、その際に盛岡まで足を延ばせば良かったのですが、失念しておりました。直接、光太郎に関わる展示物は無く、解説パネルに「岩手の人」が紹介されていた程度のようでしたが、今になって後悔しております。

同様に直接、光太郎に関わる展示物は無く、解説パネルに光太郎の文章が引用されているという企画展示が都内で開催中という情報を得まして、明後日、また上京する用事がありますから廻ってきます。

【折々のことば・光太郎】

雪の上の足あとウサギ キツネ一列なり


昭和25年(1950)1月11日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳
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便箋(というかおそらく原稿用紙)の余白に描いたスケッチから。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺でのものですね。

松下は中央公論社の編集者。

同じ日に、美術史家の奥平英雄の妻・ちゑ子に贈った書簡にはさらに詳しいキャプション入りのスケッチが描かれていました。
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8月9日(金)に光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された第33回女川光太郎祭につき、報道が為されました。

まず仙台に本社を置く『河北新報』さん。

高村光太郎の生涯に思い 宮城・女川で詩の朗読や講演イベント、県内外のファン集う

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第33回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)があった。県内外のファンら約30人が、詩の朗読や演奏を通して光太郎の生涯に思いを巡らせた。
 同町まちなか交流館で9日にあったイベントでは、町内外の8人が朗読。光太郎が女川の風景を見て「新興の気があふれていた」とつづった紀行文や「よしきり鮫(さめ)」といった詩を情感込めて読み上げた。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表は講演で、福島県二本松市出身の妻智恵子の生涯を解説した。光太郎が晩年、東京都内のアトリエで制作した彫像「乙女の像」にも触れ「彫像の顔は最愛の智恵子だった。そのアトリエの所有者が亡くなり、今存続が危ぶまれている。後世に残すため、思いを同じくする多くの声が必要だ」と話した。
 光太郎は1931年に三陸沿岸を巡った。光太郎祭は92年から開かれている。光太郎の会の須田勘太郎会長は「光太郎が女川を題材に刻んだ足跡を後世に残そうと立ち上がった町内の人々の苦労や思いを受け継ぎ、語り継ぎたい」と話した。
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続いて、同紙の別刷りで牡鹿方面に折り込まれる『石巻かほく』さん。

高村光太郎しのぶ 女川にファン集い、朗読や講演会

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第33回女川「光太郎祭」が9日、町まちなか交流館で開かれた。県内外のファンら約30人が集まり、紀行文、詩碑、詩の朗読を通して光太郎の思いに触れた。
 「女川・光太郎の会」が主催した。町民や東京の中学生ら8人が詩を朗読。女川での体験を基に書かれたと言われる「よしきり鮫(さめ)」や「霧の中の決意」といった詩をギターの演奏に合わせて読み上げた。
 講演もあり、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が光太郎の妻智恵子の生涯を解説。結婚生活や病気療養中につくった紙絵などを紹介した。
 小山代表は光太郎が晩年、制作に当たったアトリエが東京にあることに触れ「所有者が亡くなり、存続が危ぶまれている。後世に残すために多くの声が必要になっている」と話した。
 光太郎の会の須田勘太郎会長は「祭りを続け、光太郎の足跡を多くの人に語り継いでいく」と話した。
 光太郎は1931年に三陸地方を旅した。女川を題材にした紀行文や詩を残し、91年に文学碑が女川港近くに建立され、92年から光太郎祭が開かれている。近年は新型コロナウイルスの影響で中止もあったが、昨年再開した。
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光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ保存運動につき、講演で触れさせていただいたところ、記事の中にも取り上げて下さいました。ありがたし。NHK仙台放送局さんでも6月にご紹介下さいましたが、東北の方々にもそういう話があるんだというのをもっと知っていただきたいと常々思っておりますので。

ところで、女川光太郎祭の講演でアトリエ保存の話をいたしましたところ、その後の女川町長・須田善明氏の祝辞でそこに食いついたお話。同町としては、東日本大震災の津波で倒壊した光太郎文学碑の再建に力をお貸し下さいまして、そのあたりなど。碑の再建方法には女川光太郎の会の方々の意向が全て反映されたわけではありませんでした。それでも町の所有物でないものに対し、税金を投入して支援を行って下さった苦労話には、「なるほど」と思わされました。

ちなみに劇作家・女優の渡辺えりさんに代表をお願いしている保存する会としてのホームページが、現在、鋭意製作中。そのあたりに長(た)けた方がご協力下さっています。公開が始まりましたらまたお知らせいたします。

【折々のことば・光太郎】

「山脈」も落手、山に居てかういふものを作られる御努力を推察しました。小生も山林にまゐり居り、農家、樵夫ともいろいろ近づきになり、今では都会へかへる気はなくなりました。「山脈」の文字を書きましたので、ともかくも同封いたします。よい紙がないので甚だ粗末でしたが。


昭和23年(1948)12月27日 三上秀吉宛書簡より 光太郎66歳

三上は戦前には『婦人之友』編集に当たっていた人物。戦後、九州で文芸誌『山脈』を主宰したりしました。

その『山脈』の題字揮毫が光太郎に依頼され、書いて送ったよ、というわけです。ところがこの光太郎揮毫の題字が使われた号が未見です。使われずにお蔵入りになった可能性もありますが。情報をお持ちの方、ご教示下されば幸いです。

『読売新聞』さんのサイト内で、5月から今月にかけて「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」という連載が成されました。
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ご執筆は武蔵野美術大学さんの前田恭二教授。昨秋行われた研究発表会、第66回「高村光太郎研究会」で「米原雲海と口村佶郎――新出“手”書簡の後景――」という題で発表をなさり、それを元に今春発行された研究誌『高村光太郎研究(45)』に論考「新出「手」書簡の後景――米原雲海と口村佶郎」を寄稿なさいました。

「ヨミダス」は、『読売新聞』さんの紙面データベース。明治7年(1874)から現在までの掲載記事を検索できます。当方もだいぶ以前に国会図書館さんでそちらを使い、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎文筆作品等を10篇以上見付けました。詩人の野口米次郎を評した長い評論、『高村光太郎全集』に第1回から第11回までは収められているものの、最終回に当たる第12回が漏れていた評論「西洋画所見」など。

その「ヨミダス」で閲覧出来る過去の誌面から、明治大正期の主に美術に関する記事をピックアップし、さまざまな角度から解説が加えられています。

全5回だったようで、ラインナップは以下の通り。すべて光太郎に(一部智恵子や光雲に)言及されています。

若きフジタの「漫画展」――青春時代の藤田嗣治 
光太郎が彫刻科を卒業して入学し直した東京美術学校生洋画科で同級生だった藤田嗣治がメイン。欧米留学から帰朝した光太郎が明治43年(1910)、神田淡路町に開店したほぼほぼ我が国初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)がらみで光太郎、そして智恵子にも言及されています。

高村光太郎と荻原碌山――1910年4月の群像 
光太郎、そして共にロダニズムを日本に移植した碌山荻原守衛について。やはり光太郎の親友だった葉舟水野盈太郎のエッセイ等も引かれ、光太郎と守衛の深い結びつきが紹介されています。

東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅠ――上司小剣の“匿名日記”を読む
「高村光太郎と荻原碌山」でも触れられた、登場人物がイニシャルで書かれている私小説、エッセイ等で、それぞれの人物を特定する試み。

東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅡ――人見東明とフュウザン会
「フュウザン会」は、光太郎、岸田劉生、斎藤与里らが興した反アカデミズム系の展覧会。第一回展が大正元年(1912)、当時の読売新聞社社屋を会場に開催されました。

最も新しい女性画家――高村智恵子の青春
『青鞜』の表紙絵や太平洋画会展への出品などで注目され始めていた智恵子が、『読売新聞』に「最も新しい女画家」として紹介され、その前後の智恵子について。これが最も驚きました。大正14年(1924)に紙面に載ったという光太郎智恵子の写真が掲載されていたためです。
1925年1月26日付朝刊より
撮影場所はおそらく駒込林町の光太郎アトリエ兼住居でしょう。なぜ驚いたかというと、この写真、これまでに刊行された光太郎智恵子関連の研究書等の類に掲載されたことが無いと思われるものだからです。

戦前に亡くなった智恵子の写真はこれまで30葉見つかっていたかどうか、それも少女時代のものが多く、結婚後のものは10葉足らずで、一昨年、昭和3年(1928)5月発行の雑誌『美術新論』に載った下記の写真を見付けて驚きましたが、また一葉加わりました。
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それにしても、メジャーなメディアだった『読売新聞』に掲載されていた写真が知られていなかったというのが意外でした。また、先述の通り、「ヨミダス」はかなり前に一通り調べたのですが、見落としていました。暇を見てもう一度「ヨミダス」での調査もやらなければ、と思いました。

さて、上記リンクから「ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨今蟲にくはれたのがもとで面疔のやうなものが上唇に出来、厄介です。ズルフアミン剤をのんでゐますが、高いのに驚きます。


昭和23年(1948)8月6日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

「面疔(めんちょう)」は、「とびひ」等と同じく黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。虫に刺された箇所を、土などのついた手でポリポリ搔いたために発症したと思われます。この際は結構な重症で、なかなか治りませんでした。

3件ご紹介します。

まず天台宗さんとして発行されている『天台ジャーナル』さん。檀信徒さんなど向けの月刊機関紙的なもののようで、今月号です。連載コラムと思われるコーナーに光太郎の言葉をメインで紹介していただきました。

素晴らしき言葉たち

いくら非日本的でも、日本人が作れば
日本的でないわけには行かないのである。  高村光太郎

 詩人であり歌人であるとともに彫刻家、画家であった高村光太郎の言葉です。ですから、芸術分野を指す言葉でしょうが、他の分野にもいえることではないでしょうか。最近、特に話題となっている和食ブームについてもいえると思います。
 伝統的な和食でない中国由来の「ラーメン」やインドを発祥とする「カレー」などは、もとは非日本的な食べ物でしたが、今ではすっかり「和食」となっています。発祥の地である中国には日本のラーメン店が、同じくインドでも日本のカレー店が展開されているそうです。
 明治維新後、日本は先行する欧米の模倣でなんとか国を造りあげてきました。モノづくりでも「安かろう、悪かろう」といわれる時代を経て、「さすが日本製」といわれるほどになり、品質を誇れるまでになりました。
 その過程で、日本独自のアイデアが付け加えられてオリジナルよりも価値が高いものが創造されることになったようです。
 例えば温水洗浄便座なども元はアメリカで開発されたものですが、それを進化させたものだといいます。今では、日本中どこでもみられるようになりました。温水洗浄便座以外でも、モノづくりや食べ物の分野をはじめ、日本の創意工夫が活かされた例が多くなりました。
 このところ、経済状況が沈滞し国力の伸びがなくなって久しい日本ですが、この国の得意とする「日本的な」創意工夫をもって生き延びていくことが、これまで以上に求められていると思います。

いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」元ネタは欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)の『スバル』に発表した評論「緑色の太陽」です。

前年の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された画家・山脇信徳が描いた印象派風の絵画「停車場の朝」に対し、光太郎と親交の深かった石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」と、けちょんけちょんにけなしました。しかしフランスで印象派やフォービスムなどのポスト印象派に実際に触れてきた光太郎は、「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」とし、作品は作者それぞれの感性によって作られるべきもので、「緑色の太陽」があったっていいじゃないかと山脇を擁護しました。所謂「地方色論争」です。

そんな中で「いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」。さらにどんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。」。

ジャンルは違いますが、思い出すのは作曲家・三善晃のパリ音楽院時代のエピソード。コッテコテのフランス風の曲のつもりで作曲し、どうだ、とばかりに披露すると、「素晴らしい! 何て日本的な曲なんだ!」。そんなもんでしょう。『天台ジャーナル』さんでは、また違った方向に話が進んで行っていますが。

続いて『朝日新聞』さん栃木版、読者の投稿による短歌と俳句欄「歌壇・俳壇」。短歌の方で次の詠が入選していました。那須高原にお住まいの高久佳子さんという方の作。

『智恵子抄』初給料で買った本六十年経て回し読みする 

60年前というと、昭和39年(1964)。その頃流通していた『智恵子抄』といえば、草野心平編になる新潮文庫版もありましたが、わざわざ「初給料で」ということは、函入り布装の龍星閣版でしょう。
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昭和16年(1941)刊行のオリジナルは白い和紙の表紙で、太平洋戦争の激化に伴う龍星閣休業の昭和19年(1944)第13刷まで確認出来ています。戦後になって昭和25年(1950)に龍星閣が再開し、翌年に復元版としてこの赤い表紙のバージョンが出されました。それ以前に昭和22年(1947)に出た白玉書房版がありましたが、こちらは龍星閣の許諾をきちんと得ずに出されたということで、絶版になっていました。

その後、すったもんだがありましたが、この赤い表紙の復元版は版を重ね、現在でも細々と新刊として販売が続いているようです。

画像は昭和26年(1951)の復元版初版。後のものは函の題字も表紙の布と同じ朱色になり、函の色はもっと黄色っぽくなります。

もう1件、『朝日新聞』さんから。岩手版に不定期連載(?)されている「賢治を語る」、5月18日(土)分です。

(賢治を語る)名プロデューサー光太郎 花巻高村光太郎記念会・高橋卓也さん

 北東北の詩人・宮沢賢治。その存在を広く世界や後世に知らしめた人物がいる。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883〜1956)。「名プロデューサー」としての顔を持つ光太郎と、賢治の関係について、一般財団法人花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さん(47)に聞いた。
 《光太郎と賢治の出会いは?》
 賢治の生前唯一の詩集「春と修羅」が刊行されたのは1924年。日本を代表する彫刻家だった光太郎は翌年、草野心平に勧められてこの詩集を読み、詩的な世界に感銘を受けます。「注文の多い料理店」も借りて読み、親友の作家にまた貸しするほど入れ込みます。
 2人が出会ったのは1926年冬。花巻農学校を退職した賢治が、タイプライターやチェロを学ぶために上京した際、光太郎を訪ねます。突然の来訪だったため、仕事をしていた光太郎が「明日の午後明るいうちに来て下さい」と言うと、賢治は「また来ます」とそのまま帰っていったようです。賢治は再来せず、1933年に死去したため、2人が出会ったのはその一度きりでした。
 《死語、光太郎は賢治の全集を出します。》
 賢治が亡くなった翌年、東京・新宿で追悼会が開かれ、光太郎も出席します。その際、賢治の弟・清六が持参した、賢治の原稿が入ったトランクの中から、「雨ニモマケズ」が記された小さな黒い手帳が見つかります。
 残された原稿の束や手帳を見て心動かされた光太郎や心平の尽力で、賢治全集の刊行が決定し、光太郎はその全集の題字を書いています。
 《詩碑「雨ニモマケズ」の字も光太郎です》
 1936年秋、花巻に賢治の初めての詩碑「雨ニモマケズ」が建つことになり、光太郎に字が依頼されました。ただ、誰がどこで間違えたのか、詩碑には除幕の段階で計4ヶ所、漏れや誤りがありました。
 戦後の1946年、光太郎は訂正を行うため、自ら足場に登って詩碑に筆で挿入・訂正を行い、石工がその場で追刻をしました。光太郎は「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったそうです。
 《戦中、光太郎は花巻に疎開します。》
 1945年4月、空襲で東京のアトリエを焼失した光太郎は、花巻の宮沢家に誘われる形で、5月中旬、清六の家に身を寄せます。
 ところが、その花巻の家も8月10日の花巻空襲で焼けてしまいます。
 その際、空襲を経験した光太郎が、清六に「花巻でも空襲があるかもしれないので、防空壕(ごう)を作り、大切なものを避難させておいた方が良い」と助言していたため賢治の原稿は防空壕の中で、かろうじて焼失を免れました。まさに光太郎の助言のお陰です。
 《光太郎はその後も花巻で暮らし続けます。》
 約7年間、杉皮ぶきの屋根の3畳半の山小屋で独りで暮らし続けます。零下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔に雪がかかるような厳しい生活でした。
 亡き妻、智恵子の幻を追いながら、善と美に生き抜こうとした。高潔で理想主義的な生活から素晴らしい作品が生まれました。
 光太郎の芸術は、第一に彫塑(ちょうそ)、第二に文芸、第三に書と画、と言われますが、無名だった賢治の作品を守り、その存在を広く世の中に伝えた「名プロデューサー」としての仕事は、この国の文学に極めて大きな財産を残した、彼のもう一つの偉大な「芸術」だったと言えるかも知れません。


光太郎と賢治、花巻の縁が端的に記されています。こうした縁から、宮沢家では未だに光太郎の恩を忘れていないという感じで、実に有り難く、恐縮している次第です。

ちなみに記事には紹介がありませんでしたが、花巻高村光太郎記念館さんではテーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中ですし、常設展示では賢治と光太郎の縁的なところにも力を入れています。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

このたびはのびのびと潺湲楼に奄留、思ひがけなき揮毫も果し、デリシヤスの初収穫をも賞味し、お祝いの佳饌にも陪席、又久しぶりにて母にもあひ、まことにめぐまれた一週間でございました。

昭和22年(1947)10月16日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳

潺湲楼(せんかんろう)」は、佐藤邸離れ。旧太田村へ移住する直前の昭和20年(1945)9月から約1ヶ月、光太郎はここで起居し、その後も街に出て来るとここに宿泊しました。

デリシヤス」は林檎。「久しぶりにて母にあひ」は、大正14年(1925)に歿した母・わかに実際に会ったわけではなく(それではホラーです(笑))、双葉町の松庵寺さんでわかの二十三回忌法要を営んで、会ったような気になったということです。

その際に詠んだ短歌が「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」。おそらくデリシャス種の林檎を供えたのでしょう。この歌を刻んだ歌碑などが、松庵寺さんに残っています。

本日も新刊紹介です。

じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代

2024年4月25日 森まゆみ著 婦人之友社 定価3,000円+税

 2021~2024年まで雑誌『婦人之友』に好評連載の「羽仁もと子とその時代」が、ついに1冊に。近代女性史に大きな足跡を残したもと子の姿が、明治・大正・昭和の時代の中で、鮮やかに浮かび上がります。
 「じょっぱり」はもと子の故郷・青森では、信じたことをやり通す強さをいう言葉。よいことは必ずできると信じて、多くの人を巻き込みながら突き進んだ、もと子そのものです。
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目次
 まえがき
 第1部 青森の少女、新聞記者になる
  1 八戸に生まれて
  2 上京を追って
  3 自由民権とキリスト教002
  4 明治女学校へ
  5 最初の恋愛、結婚、離婚
  6 女性記者となる
  7 岡山孤児院と西有穆山、そして再婚
  8 『家庭之友』創刊
  9 中産階級の視点
  10 日露戦争と家計簿
  11 次女凉子の死
  12 『婦人之友』への統合
  13 『婦人之友』の船出
  14 明治が終わる
  15 大正デモクラシーと第一次世界大戦
  16 『子供之友』と『新少女』
 第2部 火の玉のように、教育者、事業家へ
  17 自由学園創立
  18 洋服の時代
  19 関東大震災
  20 震災後の救援
  21 読者組合の組織化、著作集発行
  22 消費組合の結成
  23 「友の会」の誕生
  24 ただ一度の外遊
  25 羽仁五郎の受難
  26 木を植える男−羽仁吉一と男子部設立
  27 東北の大凶作とセツルメント
  28 戦争への道
  29 北京生活学校
  30 幼児生活団と生活合理化と
  31 那須農場開拓と戦争の犠牲
  32 敗戦から立ち上がる
  33 引揚援護活動
  34 二人手を携えて
 あとがき

夫・吉一と共に、現代でも続く雑誌『婦人之友』を創刊し、都内に自由学園を創立した羽仁もと子の評伝です。同誌には光太郎・智恵子もたびたび寄稿しましたし、同校を光太郎が訪れたこともありました。
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昨年、花巻高村光太郎記念館さんで企画展「光太郎と吉田幾世」が開催され、いろいろと協力させていただきましたが、盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校さん)を創設した吉田幾世は、自由学園の卒業生で、羽仁夫妻の薫陶を受けた人物でした。

その吉田や光太郎にも言及されています。ただ、二人に関する部分がもうちょっとあってもよかったなという感じではありました。まだ全て読み終わっていませんが、智恵子に関しては記述がないようです。それから、相馬黒光、巌本善治、平塚らいてう、竹久夢二、与謝野晶子ら、光太郎智恵子らと交流のあった人物も数多く登場します。

それにしても、羽仁もと子という人物のバイタリティーはすごいものだな、と、読み進めながら思っております。上記の目次を概観するだけでもそれが窺えるのではないでしょうか。森氏も「あとがき」で、「今まで私ほどよく働く女はいないのではないかと思っていた。しかし本書に取りかかって、羽仁もと子には負けた。」と語られています。

ところで当方、昨年、企画展「光太郎と吉田幾世」の関係で国会図書館さんに出向き、昭和30年代までの『婦人之友』で光太郎智恵子に触れられている記事を全てプリントアウトして参りました。

もと子自身の書いた記事の中に、光太郎の名が書かれているものもありました。第18巻第5号(大正13年=1924 5月)の「身辺雑記」というエッセイです。その年の自由学園の入学式などについて書かれています。抜粋します。

 あくる日のお昼前、また桜の樹の下に見なれない人が来る。素朴に見ゆる和服を着た大きな人――私はそれは高村光太郎さんだと思つた。ほんとにさうだつた。私たちは高村さんの書いて下さるものを心から愛読してゐる。編輯局の人たちから、またいつでも高村さんのことを聞いて、どうか一度学校を見て頂きたいと、早くから希つてゐたから嬉しかつた。
 
また、こんな記事も。昭和20年(1945)4月の第39巻第4号、「編輯室日記」。

四月十七日(火)去る十三日の空襲は石渡荘太郎氏、湯澤三千男氏、佐野、真島、大槻博士、高村光太郎氏など、日頃婦人之友や自由学園に御縁故の深い方々のお家をも焼いてしまつた。せめて季節の青いものでもお目にかけてお慰めしたいと、南沢の野菜を自転車に積んで、それぞれ手分けして焼け跡をお訪ねする。三月号の表紙に、詩やカツトを描いて下さつた高村光太郎氏には、丁度印刷出来たばかりの婦人之友をもお届けしたが、大変喜ばれてブロツクの一片に次のやうな御言葉をかいて下さつた。
 「わざわざお使でお見舞下され忝く存じます、今焼跡でお話しいたして居るところです、御丹精の青いもの筍など何よりありがたく、又雑誌も拝受、お礼までいただき恐縮しました。乱筆のまゝ 四月十七日 高村光太郎」

 
光太郎、アトリエ兼住居が全焼ということで、手元に紙もなく、何とまあ焼け跡に落ちていたコンクリートブロックの破片に上記の文面を書いて(筆記用具は持っていたのか、借りたかしたのでしょう)、使者に託しました。この現物が現残していたら不謹慎かも知れませんが実に面白いと思います。

光太郎の同誌への確認できている寄稿等は、以下の通り。
無題
これだけ多くの寄稿をした雑誌は他にあまりありません。また、明治末から最晩年までの長期にわたってというのも異例です。

智恵子の寄稿は3件確認出来ています。
智恵子
これ以外にも、光太郎智恵子、それぞれに取材した記事や、吉田幾世による盛岡生活学校のレポートに光太郎が登場する記事などもあります。

光太郎の最後の寄稿は、昭和30年(1955)、羽仁吉一の逝去に伴う詩「追悼」。こちらは婦人之友社さんで制作したCDに女優・柳川慶子さんの朗読が収められています。
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森まゆみ氏曰く、「この簡潔な詩句になにも継ぎ足す言葉はない。

それにしても、森氏、戦時中のもと子についても剔抉されています。光太郎にしてもそうでしたが、もと子もかなりの翼賛活動を行いました。森氏曰く「私は伝記作者として、対象人物の過去の間違いを看過、もしくは隠蔽することはできない」。正論ですね。

そうでない伝記作者の何と多いことか。あまっさえ、翼賛活動を擁護するどころか「これぞ皇国臣民の鑑」とばかりに大絶賛している歴史修正主義者、レイシストの輩が存在するのが現状です。なげかわしい。

何はともあれ『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間「婦人之友」の盛岡生活学校の生徒さんや先生方が四十人ばかり来ましたので、分教場で話をしました。画家の深沢紅子さんも先生の一人として来ました。バタとパンをもらつたのでよろこびました。


昭和22年(1947)8月14日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

引率していた一人が吉田幾世です。吉田はこの日の模様のレポートを『婦人之友』に寄稿しました。

盛岡の吉田幾世さんから友の会生活学校の一行四十名が稗貫郡太田村に高村光太郎氏をお訪ねした時の様子を知らせてきた。「高村先生は若い人に会うのは愉快だと、茅ぶきの分教場に心から嬉しそうに迎えて下さり、詩のことから建築、服飾とお話は深く広くひろがり、いつしか一同の心は果しない美の世界へ引込まれてゆきました。食後若い人達の未熟なコーラスを音楽飢餓がいやされると喜んできいて下さいました。疎開先の花卷で戦災にあわれた先生を、山から一本づつ木を伐り出して来て、山の根に小さな家を建てて村へ迎え入れた部落民の素朴な真心ととけ合つたこの頃の先生の御生活、電灯もなくラジオもなく、新聞も一日おくれしか手に入らないとのことです。その中で『婦人之友はいつも端から端まで大へん面白く読んでいます。料理や園芸の記事も全く参考になりますよ』といつておられたのもうれしいことでした。」(第41巻第10号 昭和22年=1947 10月)

先月封切りの映画「風よ あらしよ 劇場版」に関し、新聞に載った評をご紹介します。

『北海道新聞』さん。

映画「風よ あらしよ」柳川監督 声上げる大切さ今も■女性の自由と自立 命懸けた伊藤野枝

005 大正期の女性解放運動家・伊藤野枝を描いた村山由佳の評伝小説が原作の「風よ あらしよ」が札幌・シアターキノで上映されている。2022年に放送されたNHKドラマの劇場版で、わずか28年の生涯を激しく生き抜いた野枝を演じるのは吉高由里子。吉高が主演した連続テレビ小説「花子とアン」でディレクターを務めた柳川強が演出を手がけた。
 家を支えるためだけの結婚を蹴り上京した野枝は、平塚らいてう(松下奈緒)の言葉に感銘を受け、青鞜社に入る。女学校時代の教員・辻潤(稲垣吾郎)と結婚するも、やがて関係は破綻。無政府主義者大杉栄(永山瑛太)と出会い、生涯のパートナーとして関係を深めていく。
 大杉の妻や愛人との四角関係など〝自由奔放〟な側面が強調されがちだが、原作では野枝が、困ったときに助け合う「共助」の思想を掲げていたことが描かれる。柳川は「彼女の思想は、新自由主義の台頭によって社会の分断が進み、人とのつながりが持ちづらくなっている現代社会にリンクする。映画でもこの点を大切にしたいと思った」と語る。
 大学時代に、宮本研による戯曲「ブルーストッキングの女たち」を見て以来、野枝にひかれ続けていたという。女性が声を上げることが今以上に難しかった時代に臆することなく貧困や男女不平等など社会矛盾に異を唱え、個としての自由や自立を訴えた野枝。彼女を演じるのは「吉高さんしか思い浮かばなかった」と明かす。かれんでキュートなイメージが強いが、「野枝を激情型の人物像にするのは簡単なんだけど、それは彼女の一面でしかない。人との距離感をすっと縮めることができる人という野枝のイメージが吉高さんに重なりました」。
 1923年(大正12年)の関東大震災直後の混乱に乗じて多くの朝鮮人や、社会主義者、アナキストらが虐殺された。大杉と野枝も、大杉のおいで当時6歳だった橘宗一とともに憲兵の甘粕大尉(音尾琢真)らに殺され、遺体は井戸に投げ込まれた。
 映画は井戸の底から空を見上げるシーンで始まり、終わる。柳川は「100年前の出来事だけれど、当時の空気感は今とそんなに違わない。個人の自由が権力や集団に阻害されるとき、個人として声を上げるのは確かに難しい。でも、そうありたいと思い続けることはできる。そのきっかけになればうれしい」と話す。
 2023年、2時間7分。脚本は矢島弘一。シネマアイリス(函館)、シネマ・トーラス(苫小牧)、大黒座(浦河)でも上映予定。
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『東京新聞』さん。

映画「風よ あらしよ 劇場版」 伊藤野枝の生涯描くNHKドラマを再編集 時代が野枝に追いついてきた

006 100年前の日本で女性解放運動の第一線に立ち、近年、再評価が進む伊藤野枝(のえ)(1895~1923年)。波乱の生涯を描くNHKドラマを再編集した映画「風よ あらしよ 劇場版」が公開中だ。
 手掛けたのは柳川強。沖縄返還やアイヌ民族といった骨太の題材をドラマにしてきた演出家は、野枝の魅力をこう語る。「今よりよっぽど男尊女卑の考え方が強かった時代に、世間の目をものともせず声を上げる。その奔放さに引かれた」
 野枝(吉高由里子)は福岡県の貧しい家に生まれた。「元始、女性は太陽であった」と男社会に疑問を突きつけた青鞜社の平塚らいてうに憧れ、親の決めた嫁ぎ先を飛び出す。無政府主義者・大杉栄(永山瑛太)のパートナーとなった末に、28歳の若さで憲兵に殺害されてしまう。
 映画はその歴史を追いつつ子育てや料理、掃除といった日常も丁寧にすくい上げる。「主義主張よりも、生活の中にこそ、にじむものがある」と柳川。「主義者」につきまとう先鋭的なイメージではなく、根底にある素朴な「助け合いの精神」に光を当てる。
 柳川と吉高は、NHK連続テレビ小説「花子とアン」で組んだ。原作は村山由佳の同名小説。柳川は言う。「#MeToo運動など、『声を上げる』という動きは今とリンクしている。時代が野枝に追いついてきたのかもしれない」 

映画では村山由佳氏の原作にある光太郎智恵子登場シーンは残念ながら割愛されていますが、智恵子が表紙を描いた『青鞜』創刊号がモチーフとして随所に使われ、光太郎智恵子と交流のあった人々が多数登場、なかなかの見応えです。

公開終了してしまった上映館も多いのですが、これからというところもあります。まだという方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生は胎教を信ずる者です。もし赤さんが出来たのなら日常の精神と行ひとをつとめて清浄に、敬虔な日を送るべきです。


昭和21年(1946)10月24日 宮崎春子宛書簡より 光太郎64歳

春子は智恵子の姪にして、その最期を看取った元看護師です。前年に光太郎の仲介で、詩人の宮崎稔と結婚しました。翌年には男の子が無事誕生。宮崎夫妻は何と「光太郎」と命名してしまいました。

先週封切りの映画「風よ あらしよ 劇場版」に関し、新聞等で告知などが為されていましたのでご紹介します。

『神奈川新聞』さん。

映画批評 「風よ あらしよ 劇場版」

 2022年にNHKで放送されたドラマの劇場版。吉川英治文学賞を受賞した村山由佳の原作小説からほとばしる、100年前の女性解放運動家・伊藤野枝の熱量を、吉高由里子(写真)が見事に演じ切った。
 1923年、関東大震災後の混乱に乗じて何人もの社会活動家が殺された。野枝もその一人で、パートナーで無政府主義者の大杉栄(永山瑛太)と、わずか6歳だった大杉のおいと共に陸軍憲兵隊に連行され殺害された。遺体は無残にも古井戸に投げ込まれ、その暴挙が発覚したのは死後何日もたってのことだった。世にいう甘粕事件だ。
 その生涯は常に声を上げ続けたものだった。「元始、女性は実に太陽であった」と宣言した平塚らいてう(松下奈緒)に感銘を受け、青鞜社に入社。「新しい女」の自覚を胸に、女性の地位向上を訴えた。自分が見て、聞いたことを自分の言葉で書き、世間に見向きをされない時も諦めなかった。
 事件当時、野枝は28歳の若さ。男尊女卑の風潮が色濃い中で、「女だから」というだけで自由に生きられない世の中に、幼い頃から疑問を抱き続けた野枝。どんなに無念だったろうか。
 今の世に野枝が生きていたら、と思わずにいられない。女性の人生における選択は格段に増えた。だが、野枝が訴えた「誰もが自由に生きられる社会」は実現しているだろうか。大きな問いを突き付けられた。
演出/柳川強 製作/日本、2時間7分
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『毎日新聞』さん。

「風よ あらしよ 劇場版」 惨殺された女性解放運動家、伊藤野枝の生涯

 毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)、屋代尚則(屋)、坂本高志(坂)。
 大正時代に因習や社会情勢に異議を申し立て、大杉栄とともに惨殺された女性解放運動家、伊藤野枝の生涯を描く。2022年にNHK BSで放送されたドラマを再編集した。
 貧しい農家で育った野枝(吉高由里子)は平塚らいてうが主宰する雑誌「青鞜」に参加、「婦人解放」を唱える。やがて元教師の夫、辻潤(稲垣吾郎)と別れ、無政府主義者の大杉(永山瑛太)と暮らし始める。
 波乱に満ちた生涯を物語に詰め込むのに、きゅうきゅうとした感は否めないが、平塚やダダイストの辻、大杉ら、野枝に影響を与えた人物、野枝の自由への渇望や思想形成の過程をきっちり押さえた。大杉の奔放な女性関係なども描き、距離を置いて人物にフォーカスした演出にも好感。当時の社会規範や権力の暴走を明確にすることで、今に通じるエッセンスも際立った。何度か取り上げられた題材だが、野枝の内面を分かりやすく描写するなど、より知ってもらいたいという意図も明白。芯の強い野枝を吉高が精緻に演じた。原作は村山由佳の同名小説。柳川強が演出。2時間7分。東京・新宿ピカデリー、大阪・シネ・リーブル梅田ほか。

ここに注目
 人間としての懊悩(おうのう)や葛藤のドラマを期待すると拍子抜けだが、歴史上の人物の生涯を分かりやすくまとめ、入門編としては好適。「女性であるというだけで我慢を強いられ搾取される」という野枝の主張は、現代にそのまま響く。当時としては過激な思想を貫いた強さに、改めて驚かされる。

『週刊実話』さん。

やくみつる☆シネマ小言主義~『風よ あらしよ 劇場版』/2月9日(金)より全国順次公開

原作/村山由佳『風よ あらしよ』(集英社文庫刊)
出演/吉高由里子、永山瑛太、松下奈緒、美波、玉置玲央、山田真歩、朝加真由美、山下容莉枝、渡辺哲、栗田桃子、高畑こと美、金井勇太、芹澤興人、前原滉、池津祥子、音尾琢真、石橋蓮司、稲垣吾郎
製作・配給/太秦

 男尊女卑の風潮が色濃い大正時代。福岡の田舎の貧しい家で育った伊藤野枝(吉高由里子)は親が決めた結婚を拒み、逃げるように上京する。
 その後、平塚らいてう(松下奈緒)の「元始、女性は太陽であった」という言葉に感銘を受けた野枝は、手紙を送り、女流文学集団「青鞜社」に参加。当初、詩歌が中心だったが、いつしか伊藤が中心となり、社会矛盾に異議を唱える婦人解放運動団体へと発展していく。
 2014年に放映されたNHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』のヒロインである翻訳者、今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の主役・紫式部、そして、女性解放運動家・伊藤野枝を描いた本作。すべて吉高由里子主演です。
 垢抜けないフツーの女の子が、さまざまな出会いを通して自身のアカデミックな才能を開花させていく物語がこれで3作揃った感があり、吉高由里子と言えば「反骨心あふれる女性の半生」が代名詞になる可能性がありますね。
 自分は不勉強で伊藤野枝という女性解放運動家を知りませんでした。彼女は、平塚らいてうの「元始、女性は太陽だった」という言葉に感銘を受け、「青鞜社」に入って「女はこうあるべきだ」という因習に真正面から立ち向かいます。
 日本を代表する無政府主義者、大杉栄のことは、教科書的な知識として知っていました。しかし、大杉栄のパートナーだった伊藤野枝まで大杉とともに、あらぬ疑いで憲兵に捕まり、28歳の若さで惨殺されていたことに衝撃を受けました。
 この事件が起きたのはちょうど100年前のことです。

吉高由里子の熱演は確かだが…
 パンフレットにあった原作者の村山由佳さんの言葉には『(声をあげれば)世界は、変わる。かつて野枝たちが身をもって証明したのに、100年の間に元に戻ってしまっただけだ』とありました。
 当時に比べたら女性の社会進出ははるかに進んだでしょう。けれども、いまだに性加害があったりと、100年経っても女性の地位はまだこんなレベルかと伊藤野枝は失望するだろうか。あるいは、ここまで進んだかと肯定的に捉えるのか。
 一周回った今、伊藤野枝が現代のこの社会をどう思うだろうかと自問自答したくなる映画です。
 さて、本作の評価を一身に背負っているのは主演の吉高由里子に間違いないと思うのですが、実は自分が星1つ減じてしまったのもその点。彼女を起用した意図は理解できます。
 この華奢な体のどこにそんな反骨パワーが潜んでいたのかと、観客に感じさせようという人選でしょう。
 本作の見どころの一つに、民衆を前に「女性の不平等」について演説するシーンがあります。懸命に声を張り上げているのですが、この声のトーンで、聴衆の1人だった革命家の大杉栄に衝撃を与えられるのかと、どうしても思ってしまうんですよ。
 「線の細さ」と「アナーキーな言動」とのギャップを強調すればするほど、映像としての無理感が否めないのではないか。吉高由里子が熱演なだけに、痛し痒しですね。

やくみつる
漫画家。新聞・雑誌に数多くの連載を持つ他、TV等のコメンテーターとしてもマルチに活躍。

辛口の部分もありますが、やくさん、概ね好意的な評ですね。

Youtube上に予告編もありました。


ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

しかし生命の信念は死とは別個の心事です。人悉く死す。しかも生命の感宇宙に充満せり。

昭和21年(1946)9月11日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

共通の知人であった詩人の逸見猶吉が、関東軍報道隊員として派遣されていた満州から復員できずに客死したという報に対しての返信の一節です。逸見は亡くなったけれど、我々の心に生き続けるよ、というところでしょうか。

同様に、関東大震災直後のドサクサで抹殺された野枝の残したメッセージ、今も現代の我々に語りかけてくれているわけですね。

一昨日の『東京新聞』さん、社説欄に光太郎の名が。

<社説>週のはじめに考える 「おまかせ」が過ぎると012

 正直、「回っていない方」にはあまり明るくないのですが、白木のカウンターでいただくような高級な寿司(すし)店でよく採用されているのが、「おまかせ」という注文の仕方です。注文といっても、おまかせですから、どんな寿司が、どんな順番で出てくるかは寿司職人の胸一つ。旬を考え、ネタを吟味し、客の食べるペースにも気を配って「はい、トロです」などと順次、供してくれる仕組みです。
 こうした「おまかせ」を創始したのは、戦前戦後と東京で活躍した藤本繁蔵という寿司職人だといいます。何年か前のNHKの特集番組で初めて知ったのですが、白木のカウンターの採用も、この人を嚆矢(こうし)とするとか。高級寿司店ばかりを渡り歩いて「天才」の名をほしいままにし、多くの著名人らの舌もとりこにした伝説の職人だったようです。
◆「自分で決める」から解放
 その「おまかせ」は寿司を出す順番、いわば構成の妙も含めて職人の力量が問われるわけですが、味覚も食材の知識も覚束(おぼつか)ない者にとっての“利点”は「自分で決める」からの解放かもしれません。「こんなものを頼んだら季節外れだと笑われないか?」などとびくつかずにすみますから、心穏やかに、職人が技を凝らした一貫一貫を味わえるというものです。
 寿司だけでなく、和洋中どの料理にもある「コース」も同じ。いちいち何を、どんな順番で注文するか自分で決めなくてよい。それが客をして「コース」を選ばせる理由の一つではないでしょうか。
 考えてみると、外食に限らず、私たちは暮らしのいろんな場面で「おまかせ」に浸っています。極端なことを言えば、自動ドアだってそうですが、デジタル時代の当節はなおさら。リポートなどの作成で頼りにする人も増えているらしい生成AI(人工知能)こそ、「おまかせ」の極致でしょう。
 もっと身近なところでは、例えば道案内です。特に地理的に詳しくない場所に行く時など、経路の選択は、ほぼ全面的にスマホなどの地図アプリに「おまかせ」という人が今や多数派かと。代表詩の『道程』で<僕の前に道はない>とうたった高村光太郎は、既に目の前の画面にある道を従順に進む<僕>たちを見て、さて、泉下で何を思っているでしょう。
◆まれに見る「選挙イヤー」
 道の選択といえば、今年、2024年は、まれに見る「選挙イヤー」です。台湾総統選は今月、既に終わりましたが、2月にインドネシア大統領選、3月にロシア大統領選があり、4月には韓国、4~5月にはインドで総選挙が予定されています。そして11月には米大統領選が。結果いかんでは、動揺が世界中に及ぶでしょう。
 そして、わが国でも今年は、衆院の解散・総選挙の可能性が高いとみられています。派閥パーティーの裏金問題で大揺れ、岸田内閣の支持率も急落する中、自民党は9月末で任期満了の総裁選を前倒しし、「党の顔」をすげ替えた上で総選挙に臨むのではないか-といった観測も飛び交っています。
 その場合、懸念されることの一つが、低投票率。ただでさえ衆院選は過去4回連続で60%に届かなかったのに、裏金問題などで増大した政治不信がさらに足を引っ張る恐れがあります。でも、国の進む道を左右する大事な選択の機会です。ここは、さすがに「おまかせ」はまずい。寿司でいうなら、自分の胃袋とよくよく相談し、本当に自分が食べたいネタを自分で決めなくてはなりません。
 「政治的無関心」とは、日本や世界の命運を誰かに「おまかせ」にすることでしょう。確かに、政治的な出来事をフォローし、考えを深めるのは面倒といえば面倒です。でも、恐れるのは、その面倒を省き「おまかせ」に慣れきってしまううちに、自分で考え、自分で決めるという回路が錆(さ)びついてしまわないか、という点です。
◆錆びつく思考回路、記憶
 元日に発生した能登半島地震でもそうでしたが、災害時には携帯電話が使えなくなることが少なくない。しかし、やっと公衆電話をみつけ、いざかけようとしたら、家族や友人の電話番号を覚えていないことにはたと気づく…というのは、いかにも現代人に起こりそうなことでしょう。そう。電話番号の記憶をスマホに「おまかせ」にするうち、私たちの記憶は錆びついてしまうのです。
 さて正月も暮れていきますが、年始につきものの「福袋」こそ、「おまかせ」の典型でしたね。中身が分からない点がみそですが、あれは価格より価値の高い商品が入っているのが前提で、だからこその「福」のはず。でも選挙の場合は違います。「おまかせ」の袋から「福」が出てくることはまずないと考えるべきでしょう。

何が出てくるかのワクワク感や、ルーティンにこだわっていては得られない意外性といったものを楽しみたいのなら「おまかせ」も悪くはないと思います。また、いろいろ考えて組み合わせるのが面倒だったり、お店の人に手間をかけるのが申し訳ないと思ったりの場合。例えば当方、コンサート等によく持参するのですが、アレンジフラワーやら花束やら。また、お菓子の詰め合わせなどもそうでしょう。既成のものを頼んでしまった方が自分にとっても、お店にとっても、圧倒的に楽ですね。

しかし、後半にあるとおり、政治の世界での「おまかせ」は駄目ですね。ところがそれがまかり通っているのが現状でしょう。「「○○党」という字しか書けない」と公言し、思考停止に陥っている輩の何と多いことか。

それにしても、最後の方に挙げられたスマホの電話帳の例にはドキリとさせられました。といって、今さら紙のアドレス帳というわけにもなかなかいきませんし……。

たしかにこうした現代人のライフスタイル、泉下の光太郎はどう見るかと考えさせられますね。

【折々のことば・光太郎】

御帰還後も御無事でお過ごしの事と存じます、ますます御元気で進んでください。小生東北の山間で頗る元気に健康にやつて居ります。


昭和21年(1946)7月29日 大木実宛書簡より 光太郎64歳

大木は大正2年(1913)生まれの詩人。光太郎は戦時中の昭和18年(1943)、大木の第三詩集『故郷』の序文を頼まれて書いています。

この時期の「帰還」はイコール「復員」だろうと思って調べたところ、やはりそうでした。何と召集されたのは結婚3ヶ月後だったそうでした。

大木や、当会の祖・草野心平などは無事だったクチですが、光太郎と交流があった文学者たちの中には、高祖保など戦場の露と消えた人々も。そういう報せも届き始めていたと思われます。

どちらかというと女性向け、新刊のムックです。

&Me-time  &Premium特別編集 私の好きな、ひとりの時間。

2023年12月5日 マガジンハウス編・刊 定価1,880円

「ひとりの時間」をどんなふうに過ごしていますか? 本を読んだり、音楽を聴いたり、気の向くままに散歩してみたり、どこかへふらりと旅に出てみたり。「ひとりの時間」は、楽しむことができる人にとっては、心地のいい贅沢な時間。心を鎮め、自分の内面とじっくり向き合うことは、自分が本当に大切にしたいものに気づくきっかけになるはずです。過ごし方、暮らし、旅、映画、音楽、本まで、「ひとりの時間」や「静かに過ごす時間」にまつわる記事を1冊にまとめました。
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目次
Making Me Time あの人の、ひとりの時間のつくり方、楽しみ方。
 佐竹彩 三國万里子 上白石萌歌 松下萌黄 岡本佳樹 山田みどり 服部あさ美
 宮田・ヴィクトリア・紗枝
Why Do We Need Me Time? なぜ、ひとりの時間は必要なのでしょうか?
 吉本ばなな
Movie ひとりの時間を豊かに感じる映画。
 高崎卓馬
Lifestyle ひとり、心地よく暮らす住まい。
 吉原ゴウ 桐野恵美 
Travel 私を変えた、ひとり旅。
 タカコ・ノエル 黒島結菜 吉田恵里香 宇賀なつみ チェルシー舞花 木本梨絵
 佐久間由衣
Workstyle ひとりだからできたこと。
 曽我貴彦 宮後優子 倉橋孝明
Miri Masuda 益田ミリの、ひとりの時間。
What were in Their Minds? あの人が、ひとりで考えたこと。
 ヘンリー・D・ソロー スーザン・ソンタグ 森茉莉 篠田桃紅 星野道夫
My Peaceful Time 私の、静かな時間の過ごし方。
 加山幹子 宮田・ヴィクトリア・紗枝 関田四季 大塚寧々 花楓 溝口実穂 高橋周也
 村田明子 山根佐枝 白石聖 山口恵史
Celebrities in Peace あの人が愛した、静かな時間。
 篠田桃紅 いわさきちひろ パブロ・ピカソ 熊谷守一 高村智恵子
Soothing Stories 心を鎮める読書案内。
 高山なおみ
Peaceful Home 静かな暮らし。
 高木由利子 山下りか 濱田敦司 藤井繭子
Sounds of the Nature 自然の音を聴く。
 泊昭雄 大森克己 在本彌生 野川かさね 藤田一浩
Soothing Tunes 週末を静かに過ごすための音楽。

同じマガジンハウスさんから発行されている雑誌『& Premium』の増刊的な位置づけのようです。「私の好きな、ひとりの時間」をテーマに、これまでの本誌に載った記事からピックアップして1冊にまとめたと思われます。書き下ろし的な部分もあるかもしれませんが。

智恵子が取り上げられている「Celebrities in Peace あの人が愛した、静かな時間。」は『& Premium』の第97号(令和3年=2021)に掲載されました。
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そちらをお読みになっていない方など、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨十八日は午前中挨拶まはり。午後小屋にゆきて火を焚いて一人障子張りにかかり、屋根に音を立てて落ちる栗をやいてたべました。静寂きはまりなく神気澄みて無上の歓喜をおぼえました。


昭和20年(1945)10月19日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

2日前、花巻郊外旧太田村に移住し、近くの(といっても1㌔弱離れていますが)分教場に寝泊まりしながら山小屋の造作にかかっていました。ちょうど光太郎の大好物だった栗の実の落ちる頃で、早速、囲炉裏の火で焼いて食べたとのこと。

寒がりの当方としてはあまり来てほしくないのですが、来ちゃった感がありますね、冬。昨日あたりは関東では小春日和でしたが。

『東京新聞』さん、11月13日(月)のコラム。

筆洗

 「春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず」-。吉田兼好が『徒然草』にこんなことを書いている▼いやいや、春が終われば夏、夏の後に秋がくるのはあたりまえでしょと言いたくもなるか。兼好さんが強調するのは四季の移ろいとはそんなにはっきりしたものではなく、「春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ…」なのだという。つまり、春の中に夏の気配があり、夏のころから秋が忍び込んでいる。季節とはそういう微妙な変化なのだと▼兼好法師に逆らう気はないが、微妙な変化とは言いにくい今年の冬の訪れだろう。強い寒気が流れ込んだ影響で、週末あたりから急に冷え込んできた。東京でも昨日、冬の訪れを告げる北風の「木枯らし1号」が観測された▼11月に入っても最高気温が20度を大きく超える日が続いたのに、この寒さに毛布をあわてて引っ張りだした。夏から一気に冬へ、とはおおげさだが、秋が感じにくかった分、冬に寝込みを襲われた気分になる▼週末に訪れた京都では今年、紅葉が遅れていると地元の方がおっしゃっていた。季節の急な移ろいに紅葉の足並みがついていけないようである▼冷え込みに思い出すのは高村光太郎の詩か。「きっぱりと冬がきた(中略)。きりきりともみ込むやうな冬がきた」。体調管理にはお気を付けいただきたい。小欄、きっぱりと風邪をひいた。

お大事にどうぞ(笑)。

11月10日(金)、『産経新聞』さん大阪版、俳人の坪内稔典氏によるコラム。

モーロクらんらん(31) 冬構え001

 暦の上では8日が立冬だった。今日は冬の3日目だが、さて、冬の備えはできているだろうか。冬への備えを季語では「冬支度」「冬用意」「冬構え」などと言う。これらの語、冬はちゃんと構えて、あるいは十分に用意して迎えるべきものだ、ということを示している。
 ところが近年、この冬を迎える気持ちが緩んでいる。暖冬が続き、防寒用具などが整ってきたせいだろうが、たとえば「冬隣(ふゆどなり)」という季語がよく使われるようになっている。
 かつて春を待つ喜びを「春隣」と言ったが、その言い方を冬にも転用したのが「冬隣」だ。最新版の歳時記『角川俳句大歳時記』はこの転用を容認し、「春夏秋冬みな隣をつけ」ると言い、「冬隣の場合、寒く厳しい冬に対して身構える緊張感が伴う」と解説している。
 その解説の通りだと、「冬支度」でいいではないか。あるいは、「冬構え」のほうがぴったりだ。「冬隣」だと元になった「春隣」の気分がどうしても漂う。つまり、冬を喜ぶ気分になる。
 たしかに喜んで冬を待つ気分はあるだろう。スキーが好き、あるいはコタツを囲む暮らしへのあこがれなどは「冬隣」的かも。でも、冬は冬らしく、春は春らしくなければせっかくの季節感がだらしなくなる。つまり、「春隣」を「冬隣」へ転用することに私は反対だ。精神とか感受性がこうした転用から緩むのではないだろうか。
 「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食(えじき)だ」「しみ透(とお)れ、つきぬけ/火事を出せ、雪で埋めろ/刃物のやうな冬が来た」。以上は高村光太郎の詩「冬が来た」の一節。やや物騒だが、冬はこの詩のようなものだろう。

日本華道社さん発行の月刊誌『ざ・いけのぼう』12月号。「特集・はなのおはなし」という連載から。

特集四季の花詩~《冬》~

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冷たく厳しい冬が強くしてくれる

 高村光太郎は東京美術学校を卒業後、海外へ留学。帰国してから約5年の間に書いた詩を時系列にまとめ、第一詩集として『道程』(大正3/1914年)を出版しました。「冬が来た」は「一九一三年」の項にあり、光太郎30歳、愛妻・智恵子と結婚する前の年の作品のようです。
 「公孫樹の木も箒になった」と表現された冬の景色。夏は緑、秋は黄色の葉が生い茂っていた公孫樹の木から、葉がすっかり落ちてしまった様子は、私たちに寒々とした冬を思い起こさせます。
 強い言葉で冷たく厳しい冬を表現し、「人にいやがられる」と語っていますが、詩の後半は厳しい冬を歓迎し、高揚する思いが歌われています。 
 寒い冬に対して、光太郎は他の季節にはない特別な力を感じていたのかもしれません。冬の厳しさが、自分を強く鍛えてくれるように思い、「僕に来い」と呼び掛けたのでしょう。冬の激しいエネルギーを自らの糧とし、どんな苦境も強く生き抜いていくという強い意志を感じます。


同じ項には北原白秋の「雪に立つ竹」も紹介されています。

同誌、華道家元池坊さんの機関誌のような感じですが、一般にも販売されていまして、Amazonさん等でも入手可能です。ぜひお買い求めを。
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花巻高村光太郎記念館さんの紹介も載せて下さっています。そこで写真を借りたいということで花巻市役所さんに連絡が行き、ついでに本文の内容も問題ないか見てほしい、ということになったそうで、すると市役所さんから当方に校訂依頼が回ってきました。

というわけで、あちこちで「冬が来た」「冬が来た」「冬が来た」……(笑)。寒さに弱い当方、これから数ヶ月は気の重い日々です。温暖な房総で暮らしているくせに、と、北国の皆さんには怒られそうですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

「宮沢賢治詩集」をやはり青磁社からたのまれています。賢治さんの実家に居る事とて編纂には便利です。未発表の詩も発見されたのでそれも入れます。

昭和20年(1945)7月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

花巻の宮沢家に疎開していた折の書簡から。終戦後の翌年から刊行が始まる『組合版 宮沢賢治文庫』の編集作業、戦時中から既に行っていたのですね。

11月8日(水)、『毎日新聞』さんの山梨版記事から。光太郎の花巻郊外旧太田村隠棲、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)についてです。

山は博物館 光太郎「岩手の山」に自ら流刑 己の戦争詩に「暗愚」見る

 岩手県花巻市のJR花巻駅から西へ9キロ余り。彫刻家で詩人としても知られる高村光太郎(1883~1956年)は太平洋戦争後、太田村(現花巻市)の外れの「岩手の山」で7年間、おんぼろ小屋に一人で住んだ。東京にいた時、戦争を支持する詩を多数発表した自らに「暗愚」を見いだし、流刑を意味する「流謫(るたく)」を科した。
 戦争詩を最初に書いたのは、日本が日中戦争を始めた1937年と言われる。「事変(じへん)二周年」で<植民地支那にして置きたい連中の貪慾(どんよく)から君をほんとの君に救ひ出すには、君の頭をなぐるより外ないではないか>と戦争を正当化。精神の支柱は、欧米のアジア支配からの解放だった。太平洋戦争開戦の「十二月八日」は<東亜(とうあ)を東亜にかへせといふのみ。彼等(かれら)の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ>と主張。光太郎にとってこの戦争は「大東亜戦争」だった。
 44年の詩集「記録」には「特別攻撃隊の方々に」「海軍魂を詠ず」「戦に徹す」などを載せた。
 45年4月、東京のアトリエが空襲で焼け、翌月、宮沢賢治の縁で花巻町(同)に疎開。敗戦後の11月、太田村の小屋に落ち着いた。鉱山などで使い古した建物を移築したため、粗末で当初は電気も通じておらず、まるで炭焼き小屋と同情された。光太郎は62歳で、当時は老人とみられた年齢。肺を病み、しばしば吐血して心配されたが、以前から土に根差した文化を理想とし、地方暮らしは希望していたものだった。
 そのころ、戦争協力者への糾弾は文学にも広がり、光太郎も対象になった。知人へのはがきには、詩集の「『記録』は大本営を過信した小生の不明の記録となりました」との記述がある。
 47年7月号「展望」に、転機となる詩20編の「暗愚小傳(しょうでん)」を発表。自分の精神史を告白した。「真珠湾の日」で<天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した>とあるように、戦争支持のもう一つの柱は天皇崇拝だった。「山林」では<おのれの暗愚をいやほど見たので、自分の業績のどんな評価をも快く容(い)れ、自分に鞭する千の非難も素直にきく>と吐露した。
 これに収めなかった詩で、中国の抗日戦争の指導者だった蒋介石に対する「蒋先生に慙謝(ざんしゃ)す」では<天皇の名に於(お)いて強引に軍が始めた東亜経営の夢はつひに多くの自他国民の血を犠牲にし、あらゆる文化をふみにじり、国力つきて破れ果てた。わが同胞の暴逆むざんな行動を仔細(しさい)に知つて驚きあきれ、わたくしは言葉も無いほど慙(は)ぢおそれた>。そして「ブランデンブルグ」で<岩手の山におれは棲(す)む。おれは自己流謫のこの山に根を張つて>と言い切った。
 鋳金家で弟の豊周(とよちか)は著書で「本気でむきになって、自分を島流しにした。国家に協力し、いかにうかつだったかを思い、自分の暗愚を感じていた」と振り返った。光太郎は50年発表の詩集「典型」の序文でも「私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、愚劣の典型を見るに至つて戦慄(せんりつ)をおぼえずにゐられなかつた。詩は悪罵せられ、軽侮せられ、処罰せられ、たはけと言はれつづけて来たもののみ」と、嫌悪感を繰り返し表した。
 本職は彫刻だが、岩手にいる間は彫塑、木彫とも1点の作品も発表しなかった。一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」事務局長補佐の高橋卓也さん(46)は「一般に、自ら与えた罰は流謫と言われるが、実はそれより重い罰を彫刻の封印という形で科し、苦しんだ」と指摘する。
 だが、彫刻刀はよく研ぎ、材料の木も乾燥させていた。それでもだ。モチーフを欲する「人体飢餓」で<渇望は胸を衝(つ)く。氷を噛(か)んで暗夜の空に訴へる。雪女出ろ。この彫刻家をとつて食へ。とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。その時彫刻家は雪でつくる。汝(なんじ)のしなやかな胴体を>ともだえた。
 知人の手記によると、「岩手山の肩の強さに魅力があり、粘土で手の上で作ってみた」と話していた。高橋さんは「手慰みだろう」と推察する。弟は、光太郎が晩年「気もちが楽しいと木彫が出来る。腹が立つと詩が出来る」とつぶやいたエピソードを紹介し「兄が好んで試みた木彫の小品は、心が豊かな時でなければ、また心に他念が混入してゐる時などでは出来るものではない」と振り返った。
 光太郎が彫刻の封印を解いたのは52年。10月に帰京し、青森県の依頼で十和田湖畔に建立する像の制作に取りかかった。仕事が終われば戻るつもりで、「小屋はそのままに」と言い残したが、53年10月の「乙女の像」除幕後に急に体が弱り、帰れないまま2年半後に死去した。死後、いろりの灰の中から土で作ったウサギの頭が出てきた。小屋は「高村山荘」として保存されている。
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◇亡き妻に思いはせ
  戦後、小屋で独居の高村光太郎は、寂しくないかと心配されたが、1938年に他界した妻の「智恵子がいるから大丈夫」と答えていた。<智恵子はすでに元素にかへつた。わたくしは心霊独存の理を信じない。智恵子はしかも実存する。私の肉に居る智恵子は、そのままわたくしの精神の極北>と、50年の詩文集「智恵子抄その後」の「元素智恵子」で書いた。
 小屋から西へ徒歩5分に、高さ約30メートルの小さい山がある。東京方面の南側に景色が開け、光太郎はここに登っては妻の名を呼んでいたと、地元住民に語り継がれてきた。花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さんは「絶叫していたという人もいれば、ほがらかな感じだったという人もいる」と話す。 同書の「裸形(らぎょう)」で<つつましくて満ちてゐて、星宿のやうに森厳で山脈のやうに波うつていつでもうすいミストがかかり、その造型の瑪瑙(めのう)質に奥の知れないつやがあつた。智恵子の裸形をこの世にのこしてわたくしはやがて天然の素中(そちゅう)に帰らう>と予言した。そこへ、十和田湖畔の像制作の依頼が舞い込んだ。現地視察に同行した建築家は「『智恵子を作ろう』と、ひとりごとのようにいわれた」と書いている。モデルを頼んで裸像を作ったが、出来上がった顔は智恵子だった。 智恵子は紙絵を多数残し、高橋さんは「光太郎先生は死期が近付くと、作品を預けていた知人に『返してほしい』とお手伝いさんに電報を打ってもらい、永眠に間に合った」と話す。
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なかなかよくまとまっていますね。

光太郎が蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村、そして「乙女の像」のたつ十和田湖、11月も半ばとなったこの時期、初雪の便りが届く頃です。もう既に降っているかも知れません。そしてこの後、厳冬期ともなれば雪に閉ざされます。

冬空の下、北の大地に粛々と生きた老詩人に思いを馳せていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

数日中に小生 岩手県花巻の方へまゐる事になりました、暫く滞留するつもりで居ります。

昭和20年(1945)5月15日 伊藤海彦宛書簡より 光太郎63歳

実際には「数日中」ではなく、この日の夜行で上野駅から花巻へと旅立ちました。朝から列車待ちの行列に並び、乗車出来たのは夕方でした。翌朝、雨で煙る花巻駅に着き、宮沢賢治の実弟・清六に迎えられました。

11月1日(水)に開催されました「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の件が岩手で報道されましたのでご紹介します。

『岩手日日』さん。

光太郎の思い出後世に 生誕140年記念トークリレー 花巻・太田地区振興会

 太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年を記念しトークリレー「続・光太郎はなぜ花巻に来たのか」を行った。7人のパネリストが、1952年10月までの7年間を花巻市太田山口で暮らした光太郎のエピソードの数々を披露し、聴講者の関心を誘った。
 今年2月に開催した光太郎が太田に疎開するまでのいきさつやエピソードをひもといた講演会に続く企画。高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんの進行で、メインパネリストに林風舎代表取締役の宮沢和樹さん、パネリストに高村山荘がある太田地区に住む人と、太田以外で光太郎と関わりのある人を迎え、2部構成で光太郎との思い出や関わりを聴いた。
 小学1年生の頃に初めて光太郎と会った浅沼隆さん(82)は、秋の学芸会に来賓として参加した光太郎がステージに上がった時には背広姿から赤い衣装を着て白いひげを着けたサンタクロース姿に変わっていたことを紹介。「白い大きな袋に駄菓子をたくさん入れて持ってきて皆に配った。(見たことのない姿に)みんなびっくりして大喜びだった」と振り返った。
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『岩手日報』さん。

高村光太郎 記憶をつなぐ 生誕140年記念トークイベント

 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、同市高松の宮沢賢治イーハトーブ館で、彫刻家・詩人の高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年記念事業としてトークイベントを開いた。
 約60人が来場。光太郎と縁がある市民ら6人、高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さん(59)=千葉県=と賢治の実弟・清六さんの孫の宮沢和樹さん(59)が登壇した。
 光太郎は宮沢家を頼りに疎開。花巻高村光太郎記念会理事の浅沼隆さん(82)の父親は、住民との交流の場になった旧山口小学校長を務めた。自身も交流し「背が高く体格が良かった。封筒入りの菓子をくれた」と振り返った。
 盛岡一高時代、文芸部員として山小屋(高村山荘)を訪れた菊地節子さん(88)は「マロングラッセに村の人が関心がないことや、牛の尻尾を煮る西洋料理について話す姿が印象的で(当時の)日本人は食に関心がなさ過ぎると話していた」と笑いを誘った。
 宮沢さんは、音楽好きだった光太郎に触れ「賢治はレコードを多く買うほどクラシック好きで、共通する部分だ」と述べた。小山さんは「今の若い人に賢治と光太郎の精神を伝えていくべき」と力を込めた。

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生前の光太郎をご存じの方々の証言はもちろん、報道された以外にも、いろいろな話が聴け、貴重な機会でした。今回のパネラーの方々のうち、直接的には光太郎との交流は無かった皆さんも、海外向けを含め、様々な機会で光太郎について広める活動に当たられていて、有り難い限りです。

当方としましても、交流の輪が広げられたことで、新たな情報の収集につながることを期待しております。それらが入りましたらまたおいおいご紹介して参ります。

【折々のことば・光太郎】

尚厄介とは存じますが近く宮田さんの奥さんと娘さんがそちらに参られる幸便に託して、小生作のブロンズ「手」、木彫「蓮根」、智恵子の切抜絵壹包(箱入)をお届けいたします故お持ち下さるやうお願いいたします、


昭和20年(1945)4月1日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

真壁仁は山形在住だった詩人。激化する空襲のため、父・光雲や自分の彫刻作品、智恵子の紙絵などはほうぼうに疎開させました。紙絵は山形の真壁、茨城取手の素封家・宮崎仁十郎、そして花巻の佐藤隆房(賢治の主治医)の元に。

ところがそれらを疎開させるにしても、鉄道便などもむちゃくちゃな状態で、このように人に頼んで持って行ってもらったりということが多かったようです。「宮田さん」は彫刻家の宮田喜代三。品々を託された宮田の妻は真壁との面識はなく、山形でそれらを渡す際「ほんとに真壁さん?」と何度も確かめたそうです。それにしても紙絵や木彫はともかく、ブロンズの「手」はおそらく10㌔㌘くらいあるのではと思われ、大変だったことでしょう。

毎年この時期はそうですが「芸術の秋」ということで、紹介すべき事項が山積しています。日程的なことを考えつつ紹介する順番を勘案しているのですが、時に失念したりもしまして申し訳なく存じます。

また、ある程度共通性のある事項はまとめてご紹介しています。ネタのない時期は1件ずつご紹介するところですが……。

今日は地方紙記事から。

まず、もうすぐ閉幕の展覧会の評。10月25日(水)に共同通信さんが配信し、全国の多くの地方紙さん等に掲載されました。

【3分間の聴・読・観!(15)】芸術に命吹き込む瞬間を捉える 意志ある表現と緊迫感

 アーティゾン美術館(東京都中央区)の「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」で、作品を生み出す芸術家たちの強い個性と人間味に感じ入った。作家その人と制作現場を目にすることで理解も楽しみも広がる。
 展示の「第1章」は同美術館の前身であるブリヂストン美術館が1950~60年代に製作した「美術映画シリーズ」と、絵画やブロンズ像など作品の展示で構成されている。登場するのは梅原龍三郎、前田青邨、鏑木清方、高村光太郎、川合玉堂、坂本繁二郎ら、そうそうたる顔ぶれだ。
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 制作現場の映像に、一人一人の手指の滑らかさや力の強弱が見て取れた。創造に向かうまなざしだけでなく、合間にお茶を口に含んだり近所の人と道であいさつを交わしたりする姿、アトリエ内外の景観も収められている。記録映画プロデューサー高場隆史らによる貴重な映像記録と言っていい。
 梅原たち6人それぞれを主役にした映画は1本当たり10分前後から最長で約17分間。会場では繰り返し上映されており、私は2度、3度と鑑賞した。6、7人ほどの美術家を数分間にまとめた「美術家訪問」シリーズも見ることができる。
 とりわけ鏑木清方の絵筆にフォーカスした映像の緊迫感に引きつけられた。しならせた筆先から描線がほどき出る感覚と言えばいいだろうか。清方が引く糸のように細い線が人物に命を吹き込んでいく。芸術は人間の意志と五感を掛け合わせて生まれるものだと得心した。
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 方や、能舞台で「石橋(しゃっきょう)」を舞う喜多六平太を前に、素早く手を動かして何枚もスケッチをする前田青邨の姿も映画らしい捉え方だろう。作品の誕生をカラーで追っている。
 同展では写真家安齊重男が撮影した猪熊弦一郎、堂本尚郎ら現代美術家の制作風景、パフォーマンスなどの写真を「第2章」として展示している。「現代美術の伴走者」を自任した安齊がシャープに切り取った個性は皆、鮮やかだ。同展は11月19日まで。

9月9日(土)に始まった、京橋のアーティゾン美術館さんでの「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」。昨日も前を通ったのですが、当方は9月10日(日)に拝見して参りました。そのレポートはこちら。先月は『朝日新聞』さんに、やはり光太郎の名を出しつつの展評が出ています。

続いて、青森の『東奥日報』さん。一面コラムに、上記アーティゾン美術館さんの「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」で創作風景動画が公開されている光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」70周年をご紹介下さっています。

東奥春秋 1000年の大計

 「円錐(えんすい)空間にはまりこんで(中略)立つなら幾千年でも黙って立ってろ」。詩人・彫刻家の高村光太郎がそう思いを込めたブロンズ像。傍らの碑に刻まれた詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」を久しぶりに読み、像を見上げ、改めて新鮮な感動を覚えた。「幾千年でもか」と。
 ブロンズ像はもちろん、乙女の像のこと。先日、除幕から70周年を迎えた。その日の朝、像が建つ御前ヶ浜には、清掃に精を出す地域住民の姿があった。「除幕式の日も雨だった」と、あいにくの雨も意に介さず。やや前傾姿勢で向かい合う2体の像と、像を慕う住民の思いが湖畔の風景に溶け込んでいた。
 十和田湖地域の未来像を描く官民合同の検討が始まった。宿泊施設を誘致し、国立公園ならではの感動体験を提供するモデル事業への採択を目指す。同湖の国立公園指定から今年で87年。「十和田湖1000年会議」という名称に、湖畔再生の大計を建てる意気込みが漂う。
 「ここでしかできない暮らしを築いた上で、観光で人がくる体制をつくりたい」。初回の会議ではそんな声があったという。「幾千年でも」は、十和田湖の美しさに魅せられた彫刻家から会議に与えられた課題かもしれない。カルデラ湖の円錐空間の秋は深まりゆく。


像の清掃が行われたのは、70年前に除幕式が行われた当日の10月21日(土)でした。
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最後に、光太郎と交流があった臼井吉見が執筆し、光太郎も登場する大河小説『安曇野』関連で。

『中日新聞』さん。

臼井吉見「安曇野」知って 「大河に」市がパンフ1万部作成

 安曇野市は、同市堀金出身の作家臼井吉見(1905〜87年)の小説「安曇野」(筑摩書房)の概要を紹介するパンフレットを1万部作り、26日に市役所で配布を始めた。現在絶版のこの小説の魅力を市民に伝え、市が目指す「安曇野」を原作としたNHK大河ドラマ化への機運を高める。
 この小説は、東京で中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻、彫刻家荻原守衛(碌山)、教育者井口喜源治、社会運動家木下尚江という郷土ゆかりの5人の群像を中心に明治30年代から昭和までの社会、文化、思想を描く長編大河の全5部作。現在は図書館などでしか読めないが「市と筑摩書房で復刻版を検討している」(太田寛市長)という。
 小説の知名度向上のために初めて作ったパンフはA4判8ページ。「NHK大河ドラマ化実現へ奮闘中」「完結まで10年 原稿用紙5600枚」「登場人物はなんと総勢2000人」など目を引くキャッチコピーが表紙を飾る。あらすじ、主要な登場人物の相関図のほか、中村屋サロン美術館(東京・新宿)や碌山美術館、臼井吉見文学館など関連施設の案内も載る。裏表紙も面白い。板垣退助、森鷗外、太宰治、バーナード・リーチ…と登場人物の一部の名前がずらーっと並ぶ。
 大小の字ばかりの表紙、裏表紙という思わず手にしたくなる装丁や、キャッチコピーも自ら考えた政策経営課の寺島直樹さん(37)は「難解ともされる小説の中身を分かりやすくまとめた。郷土にこれだけの先人が居て、時代を生きたことをより多くの皆さんに知ってもらえたら」と話している。
 支所や市内外の美術館、博物館、イベントでも順次配布する。本年度内に小説を紹介するホームページも公開する。(問)同課=0263(71)2401
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『信濃毎日新聞』さん。

“安曇野”の名を広めた小説「安曇野」 パンフレット完成

 安曇野市は26日、市出身の作家臼井吉見(1905~87年)の小説「安曇野」を紹介するパンフレットが完成したと発表した。完結から約50年がたち入手が難しくなる中、安曇野の地名を普及させるきっかけとなった同小説に光を当てる。市役所や市内外の美術館、博物館などで配る。
 同小説は、全5部作(原稿用紙約5600枚)で1974(昭和49)年に完結した。明治から昭和にかけて活躍した、荻原碌山(ろくざん)(守衛(もりえ))や新宿中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻らの群像を描き、登場人物は2千人を超える。
 パンフレットはA4判、8ページ。小説のあらすじや主要な登場人物の相関図、市内ゆかりの施設を紹介している。市は同小説のNHK大河ドラマ化を目指しており、来年3月までに小説の紹介サイトを開設予定。太田寛市長は「安曇野という言葉を広めた小説を知ってほしい」としている。
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問題の(別に問題はないのですが(笑))パンフレットがこちら。『中日』さん、『信毎』さん、ともに光太郎の名がありませんが、パンフにはしっかり載っています。
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大河ドラマ誘致の一環ですね。実現するといいのですが……。というか、大河ドラマ「高村光太郎」も見てみたい気もします(笑)。

他に11月1日(水)の「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の件も報道されていますが、そちらはまた後ほど。

【折々のことば・光太郎】

いよいよ緊迫して来ましたが、これからこそ国民の力の真価が出るわけです、夢想の剣の清冷な心境で御一人のめぐりに人垣をつくり、各自十全に戦ふ時です、

昭和20年(1945)2月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

敗戦のおよそ半年前。「夢想の剣の清冷な心境で御一人のめぐりに人垣をつくり」……。真剣にそう考えていたのでしょうか……。

3件ご紹介します。

まず、昨日もお伝えした青森県十和田市の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」について。地方紙『東奥日報』さんが報じて下さいました。

十和田湖・乙女の像70歳、感謝込めきれいに

003 十和田湖畔休屋(青森県十和田市)の御前ケ浜に立つ乙女の像の除幕式から70周年を迎えた21日、湖のシンボルに感謝の意を表そうと、地元の休屋町内会が像や周辺の清掃活動を行った。
 地域住民のほか、十和田湖を世に広く紹介した文人・大町桂月や乙女の像の研究に携わる市民団体有志ら約20人が参加。観光客でにぎわう前の午前7時半から30分余り、像や台座などを雑巾で水拭きし周辺の敷石にブラシをかけた。
 雨の中の作業となったが、同町内会の金村金作会長(74)は「乙女の像は十和田湖一番の名物なので、末永く大事にしたい」と話した。
 都内在住で、夫と観光に訪れた小田奈緒子さん(70)は清掃活動のことを知り「像は力強いという印象。地元の方は誇りを持っているのでしょうね」と話していた。
 乙女の像は、大町桂月、県知事・武田千代三郎、法奥沢村長・小笠原耕一ら十和田湖の「三恩人」の功績をたたえ、湖の国立公園指定15周年を記念し建てられた。1953年10月21日、制作者の彫刻家高村光太郎らが参加して除幕式が行われた。

あと30年経てば、100周年なのですね。光太郎自身は像を題材にした詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」で、「いさぎよい非情の金属が青くさびて/地上に割れてくづれるまで/この原始林の圧力に堪へて/立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。」と謳いましたが。

続いて、智恵子の故郷・福島県の『福島民報』さん。「福島県 今日は何の日」というコラム的な連載です。

福島県 今日は何の日 10月19日 2002(平成14)年10月20日 ねんりんピック開幕 福島市で開会式

002 第15回全国健康福祉祭ふくしま大会(うつくしまねんりんピック2002)が開幕した。総合開会式は福島市の県営あづま陸上競技場で常陸宮ご夫妻をお迎えして行われた。
 テーマは「ほんとうの空に響け ねんりんの輪」。全国47都道府県と12政令指定都市選手団が入場行進、ウエルカムコンサート、マーチングバンドなどが行われた。
 全国から60歳以上の約9800人が参加、3日間にわたって県内10市13町1村を会場にスポーツや文化の23種目で熟年の力と技を競った。 

『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとうの空」(正確には「ほんとの空」ですが)の語、福島では折あるごとに使われていますが、同じ「福島県 今日は何の日」によれば、県と県観光連盟が「観光ふくしま」のキャッチフレーズとして「“ほんとの空”があるふくしま」を制定したのが昭和54年(1979)。意外と古い話でした。

その後、平成2年(1990)には、5年後に開催された第50回国民体育大会のスローガン(合言葉)が「友よ ほんとうの空に とべ!」となっています。その流れでねんりんピックでも「ほんとうの空に響け」としたのでしょう。

今後も使い続けていただきたいところですが、出来れば正確に「ほんとの空」の方で、と存じます。

最後にテレビのローカルニュース。FNN系の福テレさん、10月15日(日)の放映でした。

安達太良山の雄大な自然に抱かれ”ととのう” 絶景サウナと極上水風呂<岳温泉 陽日の郷 あづま館>

 2022年10月には客室がリニューアルした、福島県二本松市にある岳温泉「陽日の郷あづま館」 洋室の「東扇」は、木のぬくもりあふれる、広々としたスタイリッシュな空間。窓からは、安達太良山を望むことができる。この「あづま館」に、日々の疲れを癒してくれるサウナがリニューアルオープンした。
 施設最上階の7階に、サウナフロアがリニューアル。サウナプラン利用者限定で、特別なサウナを楽しむことができるという。サウナは「空サウナ」と「山サウナ」の2タイプで、貸し切りもできるという。
◆一日最大4組限定・朝夕付ビュッフェプラン 一泊24200円~
 昼も夜も景色を楽しめる「山サウナ」は、被災地で採れた木材を使用。樽型のバレるサウナで、森を眺める1台と空間を楽しむ1台、計2台を完備。自然を存分に感じることができる。
 「空サウナ」では、全面ガラス張りの開放的な空間が広がり、“ほんとうの空”を見渡すことができる。サウナヒーターは東北初導入のikiヒーター。選べるアロマオイルをかけロウリュウを満喫。
 火照った体のクールダウンは「インフィニティ水風呂」へ。自然と一体化したような気分で、絶景を眺めながらととのうことができる。
 サウナを出た後には、ラウンジでレモンサワーやビールが飲み放題。
 この極上のサウナが利用できる一日一組限定の日帰りプランや宿泊プランなど、詳しくは「陽日の郷 あづま館」のホームページをご覧ください。
<陽日の郷 あづま館> 二本松市岳温泉1-5 https://azumakan.com/
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「空サウナ」、いい感じですね。

十和田湖、そして岳温泉、それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

御著“生ける魂”を拝受、忝く存じましたが、昨夜何げなく繙読いたしましたところ、身につまされるやうな事ばかりにて、貴下の衷情に思をはせ、殆ど涙を流しながら読了しました。 殊に最後の章に至つて同感に堪へず、巻をふせて長大息いたしました、小説をよんでこんなに感動したのはめづらしい事でした、

昭和18年(1943)5月24日 中山義秀宛書簡より 光太郎61歳

中山義秀は智恵子と同じ福島中通りの西白河郡大屋村(現・白河市)出身の小説家。『生ける魂』はこの年刊行された中山の小説で、『智恵子抄』から詩篇を引用しつつ、亡妻との思い出にふれています。そういう内容だから、ということもあるのでしょうが、光太郎が小説をこれほど賞めたのは珍しいことでした。

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