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昨日、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町の話題で『石巻かほく』さんの記事をご紹介しましたが、系列の『河北新報』さんが一面コラムで昨年12月に光太郎の名を出して下さっていました。見落としていました。

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正直は美徳だと思っていた。通用しない世界があるようだ。台湾有事を巡る高市早苗首相の発言に中国の反発が収まらない。「武力の行使を伴うものであれば存立危機事態になり得る」。つい本音が出てしまった▼台湾は民主主義が根付き、独自の統治機構がある。東日本大震災では多大な支援を頂いた。武力行使はあってはならない。ただ中国にも立場がある。1972年の日中共同声明で中国は「台湾は領土の不可分の一部」と表明し、日本は「十分理解し、尊重」すると応えた▼歴代政権が台湾問題にあいまいな表現を戦略的にとり続けたゆえんだ。とかく世論はリーダーに力強さを求め、物事に黒白をつけたがる。84年前の太平洋戦争前夜もそうだった。斎藤茂吉や高村光太郎、志賀直哉…。名だたる知識人が開戦の一報に快哉(かいさい)を叫んだ▼政治学者の中西輝政さんは、どちらにも決まらぬ気持ち悪さに延々と耐え抜くことが世界史に大をなす国の必要条件と指摘する。秘すれば花である。尖閣諸島も対立必至の国有化は避け、したたかに権益を保全する手があったのではないか▼外交は相手国と51対49を争う。完勝はない。首相は内輪受けする威勢のよさではなく、冷徹さと誠実さを併せ持ち、日本の国益と東アジアの平和を守り抜いてほしい。(2025・12・5)

2ヶ月前のものですが、事態は好転どころか、悪化の一途を辿っていますね。10月初めに自民党総裁選が行われ、明日はこの時期としては異例の衆議院選挙。総裁選前から続く政治的空白は4ヶ月以上に及び、物価高や円安、旧統一協会の問題など喫緊の課題がなおざりになったままです。逆にコラムでも取り上げられている問題発言など、余計なことばかり。ちなみに衆議院解散に伴って、審議中だったりした法案が何と74本も廃案となったそうで。永らく議論されてきた選択的夫婦別姓法案や、先の参院選で問題となった企業・団体献金を規制する政治資金規正法改正案もです(まぁ、74本の中にはギャグとしか思えない「ナントカ損壊罪」についても含まれるようですが)。ついでに言うなら来年度予算の編成にも大きく影響します。

さらに嘆かわしいのが、平和憲法を軽視し、息を吐くように嘘を吐き、G7や党首討論で敵前逃亡を繰り返す騒動の当事者やその取り巻きをもてはやす声の多さ。まさに戦前の我が国を彷彿とさせるという論評がありますが、その通りですね。

過日ご紹介した小関素明氏著『「大東亜戦争」幻想化と「戦争責任」の精神史 擬態に対峙する詩人たち』は、そのあたりで非常に示唆に富むものでした。昭和16年(1941)の太平洋戦争開戦直前、日中戦争の泥沼化、対日禁輸による各種の統制などで日本全体が包まれていた閉塞感に、開戦の詔勅や報が風穴を開け、これから訪れるであろうさらなる苦難の日々に思いを馳せることなく、ほとんどの国民がある種の開放感に包まれていたというものです。

コラムに名が上げられている通り、光太郎もその急先鋒の一人でした。同書では12月8日当日、大政翼賛会中央協力会議に参加していた光太郎の随想「十二月八日の記」が引用されています。

 時計の針が十一時半を過ぎた頃、議場の方で何かアナウンスのやうな声が聞えるので、はつと我に返つて議場の入口に行つた。丁度詔勅が捧読され始めたところであつた。かなりの数の人が皆立つて首をたれてそれに聴き入つてゐた。思はず其処に釘づけになつて私も床を見つめた。聴きゆくうちにおのづから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡が曇つて来た。私はそのままでゐた。捧読が終ると皆目がさめたやうに急に歩きはじめた。私も緊張して控室に戻り、もとの椅子に坐して、ゆつくり、しかし強くこの宣戦布告のみことのりを頭の中で繰りかへした。頭の中が透きとほるやうな気がした。
 世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである。現在そのものは高められ、確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなつた。
 この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いてゐる時間だなと思つた。時間の重量を感じた。

ちなみに光太郎はこの頃の自分の愚かさを戦後になってしっかりと反省し、7年間もの過酷な蟄居生活を送ることとなります。

他の文学者たちのそれも紹介されています。

 今こそ全文化を目的意識と観念的規定の室から出して、凛然たる外気に当て、自然のままに生きてゆくものだけを生育せしめるやう、純粋化し、淘汰せねばならぬ。
 かういふ時期にこそ、文学には「文」の領域があることをはつきり認識することが出来る訳だ。今までのやうに「軍」や「政治」に追従してゐたのから去つて、明確に己が本然の使命の下に、今日の栄えある国民的試練の時を自力で生きてゆかなければならぬ。(河上徹太郎)

 本日みたいにうれしい日はまたとない。うれしいといふか何といふかとにかく胸の清々しい気持だ。(略)宣戦の大詔を三度聞き三度読んだ。(黒田三郎)

 涙が流れた。言葉のいらない時が来た。(坂口安吾)

 ふと、自分は、ラジオを聴く前と、別人になつてゐるやうな気がした。(略)一間も二間もある濠を、一気に飛び越えたやうな気持がした。(獅子文六)

 それを、ぢつと聞いてゐるうちに、私の人間は変わつてしまつた。強い光線を受けて、からだが透明になるやうな感じ、あるひは、聖霊の息吹きを受けて、つめたい花びらを胸の中に宿したやうな気持。日本も、けさから、ちがふ日本になつたのだ。(太宰治)

 まつたく一日として神経の安まる日はないのであつた。私たちは今の言葉でいふ、ノイローゼになつてゐた。これ以上、こんな緊張の日々が続くのは耐へられない。そこへもつて十二月八日の太平洋開戦だ。なにはとまれ、これでどつちかへ片づく。ヤレヤレといふ気もちであつた。(徳川夢声)

 十二月八日、大詔が渙発せられ、米英との国交が断絶せられた事は、生をこの聖代にうけたものの真に重大事と考ふべき事である。
 これこそ世界歴史への一大転換の御命令であつて、吾々は過去と遮断して全く別の体系に這入つたことを自覚せねばならぬのである。(中河与一)

 真剣になれるにはいい気持だ。僕は米英と戦争が始まつた日は、何となく昂然とした気持で往来を歩いた。
 くるものなら来いといふ気持だ。自分の実力を示して見せるといふ気持だ。(武者小路実篤)

今回の選挙について、開票結果が明らかとなる明日以降、この手の感想を抱く人がたくさん現れるような事態を懸念して已みません。杞憂に終わることを祈りますが……。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)38 詩集『天上の炎』 

昭和26年(1951)4月25日 白玉書房 エミイル ヹルハアラン著 高村光太郎訳
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目次
 序詩 未来 新しい都 昔の信仰 私の眼よ 誇 機械 熱烈な生活 港の突堤で
 今日の人に 健康 死者 問題 機会 トンネル 波止場で 私の都 わが友風景 木蔦
 東西南北 森 花の方へ 並木の第一樹 散歩 或る夕暮の路ゆく人に 題跋詩 私の集
 ヹルハアラン

ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(1855~1916)の詩集の翻訳です。

大正14年(1925)、新しき村出版部から出た初版の内容に、評伝「ヹルハアラン」(昭和8年=1933)を追補して刊行されました。

ちょっと前ですが、1月21日(水)の『朝日新聞』さん岩手版に以下の記事が載りました。

岩手独特の住所表記「地割=チワリ」の謎 逆境公務員の苦心の結果?

 岩手では普通でも、県外出身者は首をかしげる住所表記の「地割」。私も昨年4月に盛岡に赴任して初めて知った。「ちわり」と読むらしい。これは岩手だけ? だとしたらなぜ? 1年足らずぼんやり抱えていた疑問について、探ってみた。
 「○○市××第5地割30番」のように使われる「地割」。私は岩手に接する青森、秋田、宮城の3県で勤務経験があるが、大字(××)に続く表記は「丁目」「番地」が一般的だ。
 ネットで検索すれば関連情報は出てくるが、確証が持てない。まずは手堅そうな岩手県庁のいくつかの部署に尋ねたが、答えは出ず。中には「他県にはないのですか?」と驚く職員もいた。かつて調査したことがあるという県立図書館も、当時の担当者が不明で詳細な説明はできないとのこと。
 探し回った結果、かつて似た疑問を覚え、調べたという県立博物館専門学芸調査員の工藤健さんに出会えた。
 「『地割』は岩手で独自に生まれたと考えられます。確認できる史料で最初に現れるのは、明治初期の地租改正時。県が地権者に発行した『地券』に出てくるんです」
 地租改正は、明治新政府が行った課税制度の改革だ。それまで村落単位で課せられていた税は、個人への課税に変わった。県や府が実態調査し、土地の所有者を証明する「地券」を地権者に発行。そこに「地割」の文字が記されたという。
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■仙台藩領はなし008
 ではなぜ、そんな文言が記されたのか? ヒントは江戸後期、盛岡藩が徴税のために作った地図にあった。
 各村の地図には、線引きされて「い」「ろ」「は」などと仮名で印が付いた区画が記されていた。その各区画が地租改正後、「第○地割」となっていったことが史料から確認できたという。
 「この『い』『ろ』『は』にもそれぞれ、元来の地名がありました。しかし、個人の土地所有の根拠となる地券に『地割』と記されたことで、そっちが正式な地名になっていったんです」
 このため、北上市近辺より南の仙台藩領だった地域は「地割」がない。元は盛岡藩でも、地租改正の作業時には岩手県ではなかった今の八幡平市の一部も同様だ。こうしたことからも地租改正時、岩手県が盛岡藩の資料を基に、独自に「地割」を導入したことが分かる、と工藤さんは解説する。
 しかし、元の地名をなくして数字化するとはずいぶん大胆な……。
 「証拠がなく、あくまで想像ですが」と断った上で、工藤さんは語る。
 「明治の新政府から届く膨大な命令に、なんとか対応しようとした県職員の苦心の末の策だったのでは。大量の事務仕事を乗り切るため、整理しやすい地名にしたのかもしれません」

■3分割に耐えて
 戊辰戦争で幕府側に付き、賊軍となった盛岡藩は明治に入り3分割され、他藩の管理下に。1870(明治3)年にそのひとつが盛岡県になった後も、江刺県(旧盛岡藩領)や胆沢県(旧仙台藩領)との統廃合などを経て、今の岩手県として落ち着くのは76(明治9)年。地租改正は、そのさなかの大事業だった。
 「岩手で『地割』が生まれた時代の印象は、高村光太郎が『岩手の人沈深牛の如(ごと)し』とうたった詩に重なります。逆境でも人々は思慮深い牛のように沈着に耐え、『その成すべきを成す』日に備えていたのでしょう」
 地租改正から45年。盛岡出身の原敬が初の平民宰相に就いた。そう考えると、「地割」の語感も味わい深く響いた。


「地割」。当方も以前から気になっていました。実際、花巻の高村光太郎記念館さんの住所が「花巻市太田第3地割3-9」だったり、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんは「花巻市轟木第7地割203」だったりするものですから。

地租改正、地券発行の際に分かりやすく、という説はうなずけますね。ちなみに以前に書きましたが、自宅兼事務所のある千葉県北東部では住所に「イ」「ロ」「ハ」が使われていて、これも珍しいケースだそうです(他に石川県にもあるそうですが)。自分の生まれた場所は「佐原市佐原ロ」でしたし、よく行く隣町の県立図書館さんの分館は「旭市ハ」。「くち」や「はち」と間違えられます(笑)。これらも同じような由来なのかも知れないなと思いました。

記事にある「岩手の人沈深牛の如(ごと)し」は、詩「岩手の人」(昭和23年=1948)の一節です。

    岩手の人009

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

記事ではちょっと無理くり取って付けたような引用ですが(笑)、光太郎に触れて下さりありがとうございます。

こうした先人の遺した地名も、一つの文化遺産です。そうした意味でしっかりと受け継いでいくべきものと思われます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)33 『造型美論』 筑摩選書

昭和24年(1949)3月10日 筑摩書房 高村光太郎著
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目次
 現代の彫刻
  実技家の場合 概観 二つの源流について 時間的一瞥 フランスの彫刻 ブルデル
  マイヨル デスピオ ベルナアル 「ぢか彫り」騒動 穏健群 形式主義群団
  ドイツの彫刻 イギリスの彫刻 残余の諸国 現代日本の彫刻
 素材と造型
  素材と造型 造型といふ語 造型芸術 造型本能 造型芸術の本質 造型的諸要素
  造型美 造型芸術の種類 素描 日本画と色彩 日本画に於ける油画について 彫刻
 造型小論
  彫刻に何を見る ミケランジエロの彫刻写真に題す 蝉の美と造型 ロダンの素描
  鷗外先生の「花子」 木彫地紋の意義 仏画賛 彫刻性について 展覧会偏重の弊 手
  能面の彫刻美 九代目団十郎の首 本面について アンドレ ドラン 彫刻十箇條

戦時中の昭和17年(1942)に厚冊のハードカバーで出された同名の書を、2分割してペーパーバック化したうちの一冊です。もう一冊は『印象主義の思想と芸術』。明日、紹介します。

1月21日(水)の『朝日新聞』さん一面コラム「天声人語」。光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)と「道程」(同3年=1914)を引いて下さいました。

(天声人語)きつぱりと冬が来た

「冬が来た」と題した詩を、高村光太郎が編んでいる。それは〈きつぱりと冬が来た〉と始まる。〈八つ手の白い花も消え/公孫樹の木も箒になつた〉。ご存じの方も多いだろう。あの有名な詩〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉と同じ詩集に載っている▼寒い冬が、やって来た。きのうは大寒の入りだった。1年で、もっとも冷え込みが厳しい時期とされる。実際に今週、強い寒気が列島に流れ込み、しばらく居座るようだ▼名著『風土』で、和辻哲郎は寒さと冷たさについて考察している。乾いた西欧の冬に、冷たい空気はあっても、身に沁みるような寒さはない。湿潤な日本の冬と違って「人間を委縮させずにはおかないような、暴圧的な寒さはない」と論じた▼思い出すのは、かつて駐在した旧満州の地、中国東北部の乾燥した冬だ。零下30度にもなる冷気は寒さというより、痛みだった。ゾクッとしたときはもう手遅れとも言われた。見えない何かに体が蝕(むしば)まれる恐怖である▼土地の人は“先”に注意するよう教えてくれた。耳の先、手や足の先、頭の先。そういえば「冷たい」の語源は「爪痛し」との説がある。靴下を重ね、手袋をはめ、人は丸くなって、じっと、待つ。天地の道、極まれば則(すなわ)ち反(かえ)ると唱えながら、春を待つ▼高村は書く。〈ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ〉。近所にある梅の木に目をやれば、その枝に、ぷくりとした芽がゆれていた。

まったくこの冬の寒さは厳しく感じられます。ひと頃、毎年のように暖冬だと言われていた時期は何だったんだろうという感じです。まぁ、これが本来の自然の姿なのでしょうが。

自宅兼事務所のある比較的温かな千葉県の北東部でも、既に2回降雪がありました。最初は1月2日(金)から翌日未明にかけて。
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この時は4~5㌢の積雪。それから一昨日も、朝起きたらうっすらと屋根に積もっていました。どうもまだ降るような気がしています。「カマキリが高い場所に卵を産むとその冬は積雪が多い」という俗信があり、そのとおり昨秋、2階のベランダの外壁に産卵したカマキリがいまして。
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それにしても、雪国の皆さんのご苦労はいかばかりかと存じます。ご自愛下さい。

しかし、冬至を過ぎて一ヶ月、確実に陽光は春近しの感を呈してきました。もう少しの辛抱ですね。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)24 『随筆 某月某日』

昭和18年(1943)4月20日 龍星閣 高村光太郎著
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目次
 十二月八日の記 子供の頃 美術学校時代 姉のことなど 母のこと ロダンの手記談話録
 某月某日 七月の言葉 一夏安居の弁 詩の深さ 中央協力会議の印象
 芸術による国威宣揚 美の力 戦時下の芸術家 某月某日 美術館の事その他 戦時の文化
 間違のこと 自作肖像漫談 春さきの好物 雷ぎらひ 普遍と独白 しやつくり病
 上野の現代洋画彫刻 某月某日 三十年来の常用卓 某月某日 ほくろ 悠久山の一本欅
 谷中の家 某月某日 蟻と遊ぶ 豊島与志雄氏著「猫性語録」 小感 某月某日
 がんがん三つ口 新茶の幻想 

光太郎初の随筆集です(一部、随筆と言うより評論と言った方が良いものも含みます)。タイトルの「某月某日」は、その題で『改造』、『歴程』、『知性』、『帝国大学新聞』に寄稿していて、そこから採りました。他もすべて新聞、雑誌等への寄稿からの転載で、書き下ろしは含まれません。

版元は『智恵子抄』と同じ龍星閣。おそらく、光太郎の美術評論集『美について』(道統社)と『造型美論』(筑摩書房)が相次いで刊行され、それなりに好評だったため、社主の沢田伊四郎が、それなら随筆集もと思い立ったのではないかと考えられます。

同年10月の第2刷から函がカバーに代わり、昭和19年(1944)の第3刷まで確認出来ています。計45,000部が刊行されました。

昨年開催されたイベントの報道が最近為されていますので、ご紹介しておきます。

まず、11月13日(木)~11月30日(日)に茨城県取手市の東京藝術大学大学美術館取手館さんで開催され、光太郎の卒業制作「獅子吼」石膏原型が展示された「藝大取手コレクション展2025」につき、同市の『広報とりで』今月号。

発見~開館30周年と収蔵棟完成を祝う祭典! 「藝大取手コレクション展2025」

 令和6年に開館30周年を迎えた東京藝術大学大学美術館と、 未来の学生たちの作品を十分に保管できるスペースを持った取手収蔵棟が同年竣工したことを記念し、「藝大取手コレクション展2025」が令和7年11月13日から30日まで開催されました。取手東小学校の3年生も学校行事でコレクションを鑑賞しました。鑑賞した児童からは「いろいろな作品が見られて楽しかった。作品ごとに違う雰囲気や面白さがあった」と話し、“アートのまち取手”ならではの貴重な体験をしました。
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学校教育との連携は大切なことですね。未来のアーティストや評論家などが生まれる一つのきっかけとならないともかぎりませんし。

続いて11月30日(日)に港区で開催された「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」につき、青森の地方紙『東奥日報』さん。同紙では翌日にもすでに報道して下さったのですが、改めて昨年大晦日に長い記事にして下さいました。

十和田湖の未来を語る東京フォーラム 11月30日に東京で開催 先人の思いを礎に「感動体験」が人を呼ぶ好循環へ

 山は富士、湖水は十和田、広い世界に一つずつ――。明治・大正期の文人で、俳句や美文で十和田湖や奥入瀬渓流の自然美を世に紹介した大町桂月が、蔦温泉で没して100年。今や十和田八幡平国立公園は本県を代表する観光地となっています。「十和田湖の未来を語る東京フォーラム」が11月30日、東京都港区の赤坂区民センターで開かれました。大町の人柄や功績、本県との関わりを振り返り、十和田湖と周辺地域の未来に視線を向けたフォーラムの様子を紙面で採録します。

蔦温泉で二度越冬
 フォーラムは東京青森県人会の主催で、参加者の皆さんは十和田湖の歴史、自然、文化、観光に詳しい方々による講演とパネルディスカッションに熱心に耳を傾けていました。大町桂月(以下、桂月)の足跡をたどり、業績を後世に伝える活動を続けている「大町桂月を語る会」の谷川妙子事務局長は、桂月が「日本の昔の好い人情が東北のこの地にまだ残されている」と話していたことや、二度の越冬時にはユーモラスな絵と文で厳冬期や春の雪解けなども楽しんだ滞在の様子を書き残していることを紹介しました。
 また、「『十和田湖一帯の地は山水の衆美(しゅうび)を集め啻(ただち)に日本に秀絶(しゅうぜつ)するのみならず世界に冠絶(かんぜつ)す』という美文で固めた請願文が大きな反響を呼びました」と、筆の力で国立公園に大きく押し上げた桂月の功績をたたえました。

湖の感動を表した像
 十和田湖のシンボルとして愛されている「乙女の像」について、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の小山弘明代表が制作に至る経緯などを解説しました。像の設立は国立公園15周年を記念して、十和田開発の功労者である大町桂月、青森県知事の武田千代三郎、十和田村長で県会議員の小笠原耕一の三氏の功績を讃える目的で、詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が制作。高村は、桂月と同様に自分が湖から受けた感動をそのまま正直に表す思いで像を造ることとし、完成後の像は自分の手を離れて十和田湖の自然の中に溶け込むことを願っていたというエピソードを紹介しました。

感動体験から保護・活用へ
 初任地が十和田湖事務所だったという環境省自然環境局国立公園課長の長田啓さんは、「自然豊かな日本で一番贅沢な通勤路だった」と話し、会場を沸かせました。その上で、十和田八幡平国立公園は環境省が世界に誇れる国立公園を作る「国立公園満喫プロジェクト」において全国の先行的な取り組みを進める地域の一つに選ばれていることを紹介。訪れた人の感動体験が公園を「守ろう」という意識づけになり、利用によって得られる利益が保護に回る好循環を目指しています。神秘的な自然美、十和田神社の信仰といった歴史文化を守りながら宿泊施設の整備などで滞在環境の上質化を進め、国内外からより多くの訪問者が来ることへの期待を伝えました。
 ゼネラル・プロデューサー山田安秀氏は、地域の歴史や自然文化の複合的な価値と、将来を考える機会になればと話し、パネルディスカッションを締め括りました。
 フォーラムの最後に登壇した桂月のひ孫にあたる大町芳通さんは、「桂月が愛した十和田の素晴らしい自然を青森の観光資源として維持、活用することを知恵を持って成し遂げていただき、地元がもっと発展するよう祈っています」と謝辞を述べ、会場からは大きな拍手が送られました。

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この他、大町桂月の詳細なプロフィール、フォーラム登壇者の全氏名と肩書き、東京青森県人会役員の方々からの「応援メッセージ」などが掲載されていますが、長くなるので割愛します。

また改めてご紹介しますが、十和田湖では今月末から来月末にかけ、「乙女の像」ライトアップも為される「第28回十和田湖冬物語」というイベントも開催予定です。ぜひ足をお運び下さい。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)8 『明るい時』

大正10年(1921)10月15日 芸術社 ヹルハアラン著 高村光太郎訳
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目次
 序文
 明るい時
  一 おうさんらんたるわれらのよろこび     二 無言のままわれらの歩く
  三 この野蛮な柱頭              四 夜の空はひろがり
  五 いつでも、かほど純真にふかい     
  六 あなたは時としてあのなよやかな美を示す
  七 おう! 戸を叩かせて置かう        八 あどけない頃のやうに
  九 わかい、気のやさしい春は         一〇 しづかに来て                        
  一一 火のやうな恍惚の眼をして        一二 長い間私のくるしんでゐた時 
  一三 どういふわけか何故なのかいはれは何か
  一四 黄金と花との階段をしづしづ降りる    
  一五 私はあなたの涙に、あなたの微笑に       一六 私はあなたの二つの眼の中に
  一七 われらの眼を愛するため                   一八 われらの愛の園に、夏はつづく
  一九 あなたの明るい眼、あなたの夏の眼が   二〇 言つてごらん                        
  二一 われら自身以外の一切のものを            二二 おお! この幸福!                  
  二三 生きませう               二四 われらの口の触れ合ふやいなや
  二五 底知れぬ深さ神のやうに聖い       二六 たとひもう、こよひ                  
  二七 からだを捧げるとは、魂のある以上   
  二八 われらのうちにたつた一つの心やさしさ  二九 炎に花咲く美しい庭は                
  三〇 もし万一にも                        
 小曲二章
  小さな聖母  サンジヤンさま
 二篇
  風をたたふ  吾家のまはり

ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(1855~1916)が、妻のマルト・マッサンとの日々を謳った連作詩「明るい時」の翻訳を根幹としたものです。後の『智恵子抄』が想起されます。

光太郎による序文では、「詩の翻訳は結局不可能である。意味を伝へ、感動を伝へ、明暗を伝へる事位は出来るかも知れないが、原(もと)の「詩」はやはり向うに残る。其を知りつつ訳したのは、フランス語を知らない一人の近親者にせめて詩の心だけでも伝へたかつたからである。」と記されています。言わずもがなですが、「フランス語を知らない一人の近親者」は智恵子です。

まず昨日から今日にかけマスコミ各社で報じられた訃報から。

それも2件立て続けでしたが、最初に長野県安曇野市の太田寛市長。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館・碌山美術館さんの理事を務められ、昨年今年の碌山忌では同じテーブルに着かせていただき、いろいろお話しさせていただいた方ですので、非常に驚いております。

共同通信さん。

太田寛さん死去 長野県安曇野市長

 太田 寛さん(おおた・ゆたか=長野県安曇野市長)28日午前8時59分、急性心臓死のため市内の病院で死去、69歳。
 同県出身。自宅は同市堀金烏川。葬儀の日取りは未定。
 長野県副知事を経て2021年の市長選で初当選。現在2期目だった。 
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SBC信越放送さんのローカルニュース。

安曇野市の太田寛市長が急逝 自宅で就寝中に亡くなったか 死因は急性心臓死 前日夕方まで会議に出席するなど公務 元長野県副知事

 安曇野市の太田寛市長が28日、亡くなりました。69歳でした。死因は急性心臓死だということです。
  10月の安曇野市長選挙で、無投票で2度目の当選を果たした太田寛市長。自宅で就寝中に亡くなったと見られています。
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 市は28日午後1時から緊急の会見を開きました。
 安曇野市 中山栄樹副市長:「突然の訃報に職員一同、深い悲しみと喪失感を抱いております」
 市によりますと、太田市長は、27日夕方まで会議に出席するなど公務を行っていました。しかし、自宅で就寝したまま起きてこなかったため28日朝、家族が119番通報し搬送先の市内の病院で、午前9時前に死亡が確認されました。急性心臓死だということです。
 太田市長は安曇野市堀金出身で県の総務部長や副知事を務めた後、2021年に安曇野市長に初当選しました。
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 今年5月の「安曇野」ナンバーの実現に奔走するなど地元愛の強かった太田市長。
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 28日から職務代理者を務める中山栄樹副市長は。
 安曇野市 中山栄樹副市長:「4年間足場を作って、これから芽を出して根付かせようという時で、4年間のいろいろな面から考えると安曇野市にとって大きな損失です」
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 市長選挙は29日以降、市が選挙管理委員会に市長の死亡を通知し、そこから50日以内に行われます。

地元紙『信濃毎日新聞』さん。

安曇野市長の太田寛さん死去 69歳、10月に再選したばかり

 安曇野市の太田寛(おおた・ゆたか)市長が28日午前8時59分、急性心臓死のため安曇野市内の病院で死去した。69歳。安曇野市出身。自宅は安曇野市堀金烏川。
 太田氏は京都大卒。1979(昭和54)年に県職員になり、商工労働部長や総務部長を経て副知事を務め、2021年の市長選で初当選。10月5日告示の市長選で無投票で再選したばかりだった。
 太田氏の死去に伴う安曇野市長選は、公職選挙法に基づき、市選挙管理委員会に死亡の通知が届いてから50日以内に行われる。
 死去したことが28日に分かった安曇野市長の太田寛さん。経歴はこちら。
   ◇
 1956年生まれ。安曇野市出身で、松本深志高校(松本市)、京都大法学部を卒業し、1979(昭和54)年から県職員。企画局長や商工労働部長、総務部長を歴任し、2015年2月から副知事を務めた。2021年の安曇野市長選で、無所属新人2人を破って初当選。今年10月から2期目を務めていた。
 趣味は読書で、安曇野市出身の作家臼井吉見(1905~87年)の小説「安曇野」が愛読書。
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『朝日新聞』さん。

長野・安曇野市長が死去 自宅から救急搬送、10月に再選された矢先

 長野県安曇野市の太田寛(ゆたか)市長(69)が28日、急性心臓死のため死去した。市によると、28日朝に自宅から救急搬送され、市内の病院で午前8時59分に死亡が確認された。通夜・葬儀の日程は未定。太田市長は10月5日に告示された市長選で、無投票で再選したばかりだった。市が28日、記者会見を開いて発表した。
 市によると、太田市長は27日に市議会定例会に出席。夜は松本市内であった連合長野松本広域協議会の定期総会に来賓として出席し、午後8時半ごろに安曇野市内の自宅に帰宅した。28日午前8時半ごろ、市職員が公用車で迎えに行くと、自宅前に救急車が来ていて病院に搬送された。
 中山栄樹副市長によると、27日の市議会定例会でも特に変わった様子はなかったが、「この2、3日、風邪っぽい」と言って、マスクを着用していた。中山副市長は「突然の訃報(ふほう)に、職員一同、深い悲しみと喪失感を抱いている。行政の継続性に万全を期したい」と語った。市長の職務代理者には中山副市長が就いた。
 太田市長は元県職員で、県総務部長や副知事を経て、2021年10月の市長選で初当選した。2期目では、企業誘致の推進やフィルムコミッション機能の強化を盛り込んだ観光政策などを公約に掲げていた。市の知名度を上げることに力を入れ、首都圏で安曇野産農産物をPRする事業を開催したり、臼井吉見の小説「安曇野」を復刊させることに取り組んだりした。中山副市長は「元副知事としての人脈でできたことが、相当あった」と振り返った。
 公職選挙法では市長に欠員が出た場合、5日以内に職務代理者が選挙管理委員会に通知し、通知から50日以内の選挙の実施が定められている。
 阿部守一知事は「あまたのご功績に深甚なる敬意と感謝の意を表するとともに、謹んでお悔やみを申し上げます」とコメントを出した。
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『信毎』さんと『朝日』さんで触れられている、小説『安曇野』。光太郎の連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)が掲載された雑誌『展望』編集長を務め、光太郎とも交流のあった同市出身の臼井吉見が昭和40年代に執筆した長編で、守衛を含む安曇野の人々が中心に描かれ、守衛との絡みで光太郎も登場します。

太田市長、その復刊に尽力された他、NHK大河ドラマ化運動、さらに理事を務められていた碌山美術館さんでの講演などもなさっていました。こうした地元の文化遺産に対するご理解の点では、地方首長の鑑と言える方でしたので、非常に残念でなりません。後任の方にも太田市長の功績を受け継いでいっていただきたいものです。

もう1件、やはり昨日出た訃報です。

作家の嵐山光三郎さん死去 エッセーやテレビ番組で人気

009 軽妙なエッセーやテレビのバラエティー番組でも人気を集めた作家の嵐山光三郎(あらしやま・こうざぶろう)さんが14日午後、肺炎のため死去したことが28日、分かった。83歳。静岡県出身。葬儀は近親者で行った。
 国学院大を卒業後、平凡社に入社。雑誌「太陽」編集長などを務めた。独立後に雑誌「ドリブ」やテレビの人気バラエティー番組「笑っていいとも!増刊号」編集長を務め、1980年代の若者文化の担い手となった。
 「たのC(シー)のでR(アール)」といった「ABC文体」を駆使したエッセー、インスタントラーメンの評論なども手がけ、料理や温泉などにも健筆を振るった。「素人庖丁記」で講談社エッセイ賞を受賞した。
 「文人悪食」「文人暴食」では作家や歌人、学者らの食欲と創作欲の関わりに注目。松尾芭蕉の人間くさい側面に迫った「悪党芭蕉」では泉鏡花文学賞と読売文学賞を受けた。
 92年には日本人のコメ離れに歯止めをかけようと「日本ごはん党」を結成したことでも話題に。旅や釣りの愛好家としても知られた。

探せば他にもあるのかも知れませんが、「食」にもこだわりの強かった嵐山氏、『文人悪食』、『文士の料理店(レストラン)』『文士の御馳走帖』で、光太郎に触れて下さいました。
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『悪食』は「高村光太郎…咽喉に嵐」。「レモン哀歌」(昭和14年=1939)をはじめ、光太郎の「食」に関わる詩文を15篇ほども引用、マイナーなそれも含まれていて、感心いたしました。『料理店(レストラン)』では「高村光太郎と米久」と題し、詩「米久の晩餐」(大正10年=1921)を中心に。浅草米久さんのレポートもカラー画像入りで入っています。『御馳走帖』でも米久さんが取り上げられ、小題は「高村光太郎 米久の晩餐 梅酒 こごみの味」でした。こちらはアンソロジーです。

最後に、宮城県歌人協会会長などを務められた佐久間晟氏。亡くなったのは今年3月ということでしたが存じ上げず、つい先日、奥様のすゑ子様から喪中葉書が届いて知った次第です。氏は大正15年(1926)のお生まれで、亡くなった際は満99歳だったそうです。
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光太郎とも交流のあった歌人の前田夕暮に師事、奥様ともども歌誌『地中海』同人としてもご活躍。そして昭和26年(1951)、奥様との新婚旅行で花巻郊外旧太田村の光太郎の寓居を訪ねられました。右上の画像がその際のもの。右端が氏で、そのお隣が奥様、光太郎、左端はお二人を光太郎の元に案内してくれた花巻温泉の仲居さん・八重樫マサです。

昭和26年(1951)11月9日の光太郎日記より。

塩がまの人佐久間氏といふ人新婚にて花巻松雲閣より八重樫マサさんの案内で来訪、前田夕暮の弟子の由。

この際の様子を奥様が『地中海』平成17年1月号に短歌と文章で書かれ、たまたまその情報を得ましてお二人に連絡、お二人がお住まいの仙台でお会いし、貴重なお話を伺う事が出来ました。さらに晟氏の運転で松島まで行き、豪華海鮮料理を御馳走になってしまった次第です。
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さらに上記写真を送った光太郎からの礼状(『高村光太郎全集』にもれていたもの)も拝見。
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その際お聞きした内容を『高村光太郎研究』第28号(平成19年=2007)に「高村山荘訪問記 佐久間晟・すゑ子夫妻聞き書き」として掲載させていただきました。

そんなこんなが昨日のことのように思い出されます。

お三方のご冥福、心より祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

いとほしい髪の一すぢより 感情のはげしい瞬刻の閃光まで 私にとつては宝玉だ 抜きさしならない玉条だ


詩「無題録」より 大正3年(1914) 智恵子29歳

智恵子肖像このブログでは平成29年(2017)の元日から【折々のことば・光太郎】と題し、光太郎の書き残したもの、談話筆記、講演会筆録などから「これは」と思う一節を取り上げ続けてきました。それもそろそろネタ切れとなって参りまして、今日からは【折々のことば・智恵子】にします。智恵子が書き残したものはあまり多くないのですが、それでもやはり「これは」というものがありますので。

また、あまり取り上げられることの多くない智恵子自身の言葉を紹介することで、『智恵子抄』の裏側にどういう智恵子が居たのか、そんなことも語りたいと思っております。

初回は確認出来ている限り唯一の智恵子が書いた詩から。大正3年(1914)ですので、光太郎と結婚披露をする年で、その4ヶ月前に母校・日本女子大学校の同窓会誌『家庭週報』に寄稿したものです。当時としては遅まきの結婚でしたが、万物がキラキラ輝いて見えていた結婚直前の心境が垣間見えます。

キーワードは「テレビ」です。

まず、10月29日(水)、IAT岩手朝日テレビさんのローカルニュース。花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「昔なつかし花巻駅」を紹介して下さいました。

高村光太郎の花巻市疎開から80年 企画展「昔なつかし花巻駅」【岩手・花巻市】

詩人で彫刻家の高村光太郎の花巻疎開80周年を記念した企画展が開かれています。
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岩手県花巻市にある高村光太郎記念館には、昭和初期の花巻駅周辺を当時の映像を参考に再現したジオラマが展示されています。
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花巻駅は、岩手軽便鉄道や花巻電鉄の開業とともに交通の要所として発展しました。
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会場では、秘蔵の映像を見ることができます。
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「昔なつかし花巻駅」と題したこの企画展は、11月30日まで開かれています。
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同じ件を既に地方紙『岩手日日』さん、NHKさん、IBC岩手放送さんでもご紹介下さっていますが、こうして時間差で取り上げていただいたほうがありがたいところです。報道を見て「行ってみようか」という方がいらっしゃるでしょうし、それが一気にではなく、その都度ということになったほうが、と思われますので。

もう1件、番組の再放送情報です。

わたしの芸術劇場 中村屋サロン美術館/中村彝アトリエ記念館

BS11(イレブン) 2025年11月3日(月) 01:05〜01:30

「美術館」をちょっと堅苦しい場所だと思っている方々へ送る番組。学芸員の方々が見せ方を工夫したり、今までにないテーマで企画展を開催したり、並々ならぬ苦労と最高のセンスで展示している。そんな美術館を「芸術を体験できる劇場」として捉え、舞台を鑑賞しているようなわくわくした気持ちにしてくれる番組。番組を見た後は、きっと美術館に足を運び、芸術に浸りたくなること間違いなし。

今回の舞台は東京都新宿区にある中村屋サロン美術館。お菓子やカレーパンで有名な新宿中村屋が運営している美術館。創業者の相馬愛蔵は同郷の彫刻家 荻原守衛(碌山)や荻原を慕う若き芸術家などを支援し、明治末から大正、昭和初期にかけて多くの芸術家・文化人たちが、ここ中村屋に集った。日本近代美術の発展に大きく貢献した「芸術家たちのトキワ荘」、中村屋サロンに大きな拍手を!

出演者 片桐仁
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新宿の中村屋サロン美術館さんが取り上げられた回です。初回放映はTOKYO MXテレビさんで令和3年(2021)。BS11さんでは今年の7月2日(水)に放映がありました。

メインは中村彝。それから光太郎の親友だった荻原守衛にも触れられました。
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そして同館所蔵の光太郎油彩画「自画像」(大正2年=1913)も。
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BS11さんでのこの番組、以前からなのか最近のことなのか、ちょっと把握できていませんが、いろいろな曜日のさまざまな時間帯に放映されています。メインは土曜の午前中という位置づけのようですが、再放送がてんでバラバラの曜日・時間帯。
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他にも光太郎作品が取り上げられる回があり、今後も放映情報に注意してみます。

それはさておき、中村屋サロン美術館さんの回、ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

彼等は講義を聴く。或は実際の現実とは何の関係もない、曖昧な、抽象的な名辞のある術語で書かれた審美学の書物を読む。――其書物にはよく同じ誤謬が繰返されて居ます。互に引用し合ふ事がよくあるからです。かやうな有害な状態の下で何んな生徒が発達し得るでせう。


光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「彼等」は官立美術学校の生徒たち。ロダンのアカデミズム嫌いは徹底していました。

ところで「よく同じ誤謬が繰返されて居ます。互に引用し合ふ事がよくあるからです」。ネット上の情報でもそうですね。むしろ現代ではコピペが容易に出来るので、そうなりがちです。

閉口しているのは、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」についての次の記述がネット上に溢れていること。

高村光太郎の最後の作品としても知られ、完成まで1年余りかかったと言われています。高さ2.1mの2人の裸婦が左手を合わせ向かい合っており、モデルは光太郎の愛妻で詩集「智恵子抄」で知られる智恵子夫人です。台座には婦人の故郷、福島産の黒御影石を利用しています。

まんまコピペしているサイト、多少の換骨奪胎がみられるものを含め、数十件見られますし、十和田湖に行かれた個人の方のブログなどでもあとからあとからこのフレーズ。見つけるたびに「またか」と頭を抱えています。

以前にも書きましたが、「乙女の像」は最後の作品ではありませんし(最後の作品は「乙女の像」除幕式で関係者に配付された記念メダル)、台座の石は福島産ではなく岩手産です。完成までにかかった時間は約半年ですし、「完成まで1年余りかかった」という書き方は「すごく長い時間をかけた」というニュアンスですが、逆にこの像は自らの死期の遠くないことを自覚していた光太郎が、異例の早さで仕上げたものです。

また改めてご紹介しますが、今月末に都内で開かれる「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」という催しで、パネルディスカッションのパネラーを仰せつかっており、ふと思い出した次第です。

まず東北の地方紙記事から3件ご紹介します。

最初は仙台に本社を置く『河北新報』さん、昨日の一面コラムです。

河北春秋

詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の詩に<その詩を戦地の同胞がよんだ。人はそれをよんで死に立ち向つた>という一節がある。光太郎が戦後に書いた『わが詩をよみて人死に就けり』。光太郎は戦時中、戦意高揚の詩を量産した。その反省に立った詩だ▼光太郎の父は皇室をあつく敬い、光太郎も天皇崇拝は変わらなかった。1945年5月に岩手県花巻市に疎開したまま、戦後も7年間を花巻郊外の山小屋に暮らした光太郎には戦争協力への贖罪(しょくざい)意識があったとされる▼「妻智恵子が生きていたら、光太郎は戦争に協力しただろうか」。こんな疑問を抱くのは、智恵子の古里、福島県二本松市の熊谷健一さん(75)。20年前から智恵子顕彰活動に取り組む「智恵子のまち夢くらぶ」の代表を務める▼智恵子は関東大震災後に社会運動家の大杉栄らが憲兵に殺害された事件に関し、婦人雑誌のアンケートに「暴力は臆病の変形」と寄せた。智恵子が他界した38年に国家総動員法が制定され、光太郎も戦争に巻き込まれる。熊谷さんが想像を巡らせるゆえんだ▼くらぶは11月、智恵子没後の光太郎をテーマに講座を3回開く。戦争との関わりも考える。「事実から目をそらさずに学びたい」。熊谷さんの姿勢から2人への愛が伝わる。

最初に紹介されている「わが詩をよみて……」は、昭和22年(1947)、連作詩「暗愚小伝」に組み込むつもりで書いたものの、結局はボツにした詩篇です。全文はこちら。光太郎の精神史を語る上では外せない一篇ではあります。

智恵子の「暴力は臆病の変形」は、コラムにある通り、大正12年(1923)の関東大震災後、光太郎も支援していた大杉栄と妻の伊藤野枝が、憲兵大尉・甘粕正彦によって虐殺された事件に対してのもの。全文はこちら

その智恵子の故郷・福島二本松で顕彰を続ける智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会さんの講座については、改めて記事にするつもりでいましたが、ついでですのでご紹介してしまいます。

智恵子講座2025 智恵子没後の高村光太郎~晩年の人生と芸術に迫る~

期 日 : 2025年11月3日(月・祝) 11月16日(日) 11月24日(月・振休)
会 場 : 11/3・11/16 ラポートあだち 11/24 安達公民館
時 間 : 10:00~12:30
料 金 : 3,000円
講 師 : 熊谷健一(智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会代表)

美の求道者として同志愛を貫いた高村光太郎と智恵子。智恵子亡き後の光太郎はどのように生き、どんな作品を残したのでしょうか。光太郎晩年の人生と芸術に肉迫します。
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次に、光太郎第二の故郷・岩手の『岩手日日』さん。これも昨日掲載されました。

光太郎直筆の手紙初展示 花巻・記念館特別展 人柄や悩み伝える

 高村光太郎記念館の特別展「中原綾子への手紙」は、花巻市太田の同館で開かれている。同人の中原綾子に宛てた光太郎直筆の手紙が展示され、光太郎の人柄や当時抱えていた悩みなどを伝えている。2026年2月28日まで。
 中原は与謝野晶子門下の歌人。文芸誌「明星」に作品を発表しており、同誌に作品を寄せていた光太郎とは交流があった。交流は光太郎が花巻に疎開してからも続き、1951年9月に山荘を訪れて光太郎を見舞うなど生涯にわたり古流を持つ間柄であつたとされる。
 特別展では「智恵子抄」などの作品に通じる光太郎の心境を、中原に宛てた手紙でたどっている。手紙の内容自体は既出で、市内の図書館にある「高村光太郎全集」などで確認できるが、直筆の手紙を展示するのは初という。
 34年12月28日付の手紙には、「ちえ子の狂気は日増しにわろく、最近は転地先にも居られず、再び自宅に引きとりて看病と療治とに尽していますが連日連夜の狂暴状態に徹夜つづき、さすがの小生もいささか困却いたして居ります」とあり、統合失調症を患う妻智恵子に対する苦悩が赤裸々につづられている。
 51年10月5日付の手紙では、体調が優れない中原に対し「食事の十分とれますまで酒タバコは一寸お休みになる方がいいかと存じます」と助言しており、2人の関係性や光太郎の人柄がうかがえる。
 特別展を担当する花巻高村光太郎記念会の高橋卓也事務局長補佐は「活字ではなく、光太郎直筆の手紙が見られる珍しい機会を通じて、光太郎の人柄や中原との関係性などを感じてほしい」と話す。
 開館時間は午前8時30分~午後4時30分。問い合わせは同館=0198(28)3012へ。
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4月から4期に分けて開催されている特別展「中原綾子への手紙」に関してです。4月から始まっているのに「なぜ今?」という感じなのですが、どうも岩手県ではこういう風習なのだと思われます。光太郎も岩手在住中、服の仕立を頼んだものの、その後梨のつぶてで困惑する記述を残していましたが、出来上がってみると実に丁寧な仕事で、文句の附けようもない、みたいな。

今回出品されている書簡に関しても、全文を翻字し、画像をつけて図録として出版という話で、原稿はとっくに送ってあるのですが、いつになるやら……という感じです。通常は会期が始まる前に作っておいて販売するものだと思うのですが……。

後は、記事に誤りがありますので訂正しておきます。「手紙の内容自体は既出で、市内の図書館にある「高村光太郎全集」などで確認できる」とありますが、『高村光太郎全集』にもれている書簡も5通ほど。その意味でも図録の完成が待たれます。

続いて同じく花巻ネタで『岩手日報』さん。一昨日の掲載でした。

おいでよ道の駅 はなまき西南 偉人ゆかり 弁当人気

005 今後も地域住民とドライバーの憩いの場であり続けます――。県道盛岡和賀線沿いに位置し、今年開業5周年を迎えた花巻市轟木の道の駅はなまき西南(高橋有希駅長)は、地元の偉人にちなんだオリジナルメニューが好評を博している。
 戦争空襲で宮沢賢治の実家を頼り、花巻市の旧太田村に疎開した高村光太郎(1883~1956年)に関連し、駅の愛称は「賢治と光太郎の郷(さと)」。光太郎の日記を基に再現し、毎月15日に10食限定で販売する地元食材が中心の月替わり弁当は常連客の人気商品だ。
 ボリューム満点のランチを食べたい時は、 地元住民が愛してやまない焼き肉の老舗・味楽苑「道の駅店」へ。名物のささまホルモン(単品660円)は、貴重な豚の直腸を全国から厳選して仕入れている。自家製のみそダレが絶妙に絡み、ぽっべたが落ちそうだ。
 近くに大型商業施設がなく、人口減少が進む太田・笹間地区を活気づけようと、住民の働きかけで2020年に開業。今年8月には来場者200万人を達成した。高橋駅長(38)は「ここにしかない歴史と『魅力』を届けたい。皆さんにとって居心地のよい場所になってもらえばうれしい」と願う。
 売店の営業時間は午前9時~午後5時。年末年始は一部施設休業。
イチ押し しっとり塩あんぱん
 はなまき西南限定の塩あんぱん(300円)を食べてほしい。花巻温泉の温泉ベーカリーとのコラボ商品。ぎっしり詰まった粒あんは、ほのかな塩気でしっとりした味わい。自動販売機で冷凍販売しており、解凍するのを待ちながら周囲の観光地を巡ってみよう。同温泉の日帰り入浴200円割引券付きのお得なセットで、心も体も「ほっと」一息ついてみてはいかが。

花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰をなさっているやつかの森LLCさんがメニュー考案に当たられ、毎月15日に道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんが販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」に触れられています。

そのやつかの森さん、今月行われた土澤アートクラフトフェアなど、花巻南高校家庭クラブさんといろいろ共同でなさっている関係で、10月23日(木)には同市で開催された岩手県高等学校家庭クラブ研究発表大会に招聘され、光太郎に関わる寸劇を披露されたとのこと。
人物紹介
小岩井バター 雪白く朗読
コーヒー煎れる 姪宛てハガキ
勝治と訪問者 お礼にお菓子
そんなこんなで、光太郎智恵子ゆかりの東北では、二人の顕彰活動が活発ですが、こういう動きが東北に留まらず、全国に広がって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

量とは何か。其は物体が空気の中で位置を占める空間(スペース)の事です。芸術の本質的基礎は此の正確な空間を定める事です。此が始であり終であります。

光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

かなり概念的な表現ですが、ロダンはけっこう彫刻の本質的な在り方、制作方法のキモを言葉にしています。光太郎は一語一語を噛みしめながら翻訳し、自作に生かしていたようですし、後進の芸術家達も光太郎の訳によってその精神に触れ、各自がその実践を行おうとしていきました。

智恵子のソウルマウンテン、福島の安達太良山で紅葉が見頃だそうで。

FTV福島テレビさんのローカルニュースから。

紅葉が山肌一面に ロープウェイで安達太良山へ ほんとうの空と色鮮やかな紅葉のコントラスト 福島

 福島県の安達太良山の紅葉は、今がまさに見頃となっている。10月15日は天気にも恵まれてより一層山肌を鮮やかに染めた。福島が誇る紅はこれからが本番だ。
■日本百名山・安達太良山の紅葉
 日本百名山の一つ、標高約1700mの安達太良山。絶景を求めてロープウェイで標高1350メートルの山頂駅を目指す。
 乗車して約3分、200mほど上がってきたが、赤や黄色に色づいた木々が目立ってきた。標高が上がるにつれて、紅葉の色づきも増していく。眼下に広がる雄大な景色を楽しんでいると、あっという間に到着だ。
 ほんとうの空の下、さらに登っていけば...山肌一面に映える色鮮やかな紅葉。まさに見頃を迎え、青空との美しいコントラストを織りなしている。福島の秋を象徴するこの美しい景色に、心打たれる。
 群馬から訪れた女性は「もう感動の一言です」と話し、東京から訪れた夫婦は「いいですね、ここはやっぱりね。ベストいくつとかに入ってますんで、やっぱ綺麗なんですよね、他に比べても」と話す。
 季節のうつろいとともに表情を変える安達太良山。山を染める紅葉は10月19日ごろまでが見頃だ。
■福島県の紅葉の見ごろ
 福島県内はこれから絶好の紅葉シーズンとなる。安達太良山、そして磐梯吾妻スカイライン・尾瀬沼は見ごろを迎えている。他にも裏磐梯の五色沼、田子倉湖、甲子高原が色づき始めていて、10月25日頃には見ごろとなりそうだ。
 今週、紅葉を楽しみたい方は青空が広がる17日金曜日と暖かくなる18日土曜日に行くのがオススメ。服装は金曜日は長そでシャツ一枚、土曜日は半袖でよさそうだが、標高が高い所に行かれる際は、羽織るものがあると安心だ。
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地方紙『福島民友』さん。

ほんとうの空、錦秋の絶景…安達太良山 紅葉、今月いっぱい

 日本百名山の一つ、安達太良山(1700メートル)の紅葉がピークを迎え、青空が広がった15日、多くの登山客や行楽客が錦秋の絶景を満喫した。
 福島県二本松市奥岳登山口からロープウエーで標高1350メートルの山頂駅に向かい、5分ほど歩くと薬師岳パノラマパークに到着。安達太良山頂が眼前に広がり、山肌を彩る紅葉と吾妻~蔵王、阿武隈の山並みを一望できる。
 紅葉は今月いっぱい楽しめそう。あだたら高原リゾートは11月3日までの土、日曜日と祝日、ロープウエーの運行開始を通常より1時間早め、午前7時半から運行する。問い合わせは同リゾート(電話0243・24・2141)へ。
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福テレさんでは「10月19日ごろまで」、民友さんだと「今月いっぱい」(笑)。まぁ、標高1,700㍍の山頂付近と同900㍍台の登山口とでは、紅葉の進み具合も異なるでしょうし。ちなみに直上の画像は同1,350㍍ぐらいの地点です。

相変わらず紹介すべき事項の山積が続いており、新聞ついでにもう1件。『秋田魁新報』さんの一面コラム、10月11日(土)掲載分です。

北斗星

「一杯ぐっとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨットの白い帆を見た時のような、いつでも初めて気のついたような、ちょっと驚きに似た快味をおぼえる」。「それ」とはビールのことである。詩人高村光太郎の随筆「ビールの味」(1936年)の一文だ▼高村は麦の香りとともに、ビールの喉越しが気に入っていたらしい。ユニークな表現は、この喉を通る感覚を言葉にしようと生まれたのかもしれない▼随筆が発表されたのはビール人気が急伸していた頃。欧米中心だったビール人口はやがて世界中に拡大。ビール会社の調べでは2023年に世界で飲まれたビールのうち3割がアジア、2割が中南米だった▼そのビールが将来、気軽に飲めなくなるかもしれないという報道が先日あった。原因は温暖化。欧州などでは近年、原料の大麦やホップが減収するといった影響が指摘されている▼国内有数のホップ産地・横手市大雄では、今夏初めて収穫ボランティアを募った。大雄ホップ農業協同組合によると、気象データの分析で収穫適期が早まっていることが分かったという。今のところ収量や品質に影響はないが、人手不足で適期の間に作業を終えることに懸念があった。気候変動にも対応するため、この試みは続けていくそうだ▼苦みの印象が強いホップだが、香りは甘く爽やか。その香りはビールを飲んだ時の喉越しにも影響するという。ボランティアで汗を流した後の一杯は、さぞかしうまいことだろう。

随筆「ビールの味」、けっこう色々なところで取り上げられています。左党の皆さんには「あるある」なのかもしれません。
大本泉『作家のまんぷく帖』。
岩手日報「風土計」。
森鷗外記念館コレクション展「文学とビール―鷗外と味わう麦酒(ビール)の話」。
『毎日新聞』/『山形新聞』。
『ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編』。

今回もそうですが、新聞の一面コラムに取り上げられることが多い感じです。共感を得やすい文章だということでしょうか。それも大切なことですね。

【折々のことば・光太郎】

彼は――芸術家は考へるものです。全体について考へます。部分に就いても考へます。そして部分の研究は彼にとつて全体を更によく掴む為めの道なのです。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

彫刻に限った話ではないのでしょうね。絵画でも、工芸でも、いや、造型芸術でなくとも文学や音楽などにも通じることだと思います。

今年も8月15日が巡ってきました。

特に今年は終戦から80周年ということで、その関係の報道やテレビ番組放映等が多く為されているように感じます。各種メディアの中には、戦時中に軍部や大政翼賛会に加担してしまった反省という視点からのものも多く見うけられています。

そんなこんなで『沖縄タイムス』さん、一昨日の記事。戦時中のメディアや光太郎らの文学作品等の状況、現代におけるそれらの受容の在り方、そして新たな作品までが論じられています。

[混沌の先に 戦後80年 戦争と表現]戦争に向き合い表現模索 小説書き忘却にあらがう 作家の豊永・砂川さん 大きな歴史 自分の言葉に

005 文学や映像などの表現者は、争いが絶えないこの世界とどう向き合おうとしているのか。抵抗の手段となる一方で加担することもある「もろ刃の剣」。戦争を巡る過去を引き寄せ、今を生きる「私」とつなぐ表現を模索する人たちの姿を追う。

 遠くに青い海が輝き、視線を横に向けると広大な土地を占める米軍普天間飛行場が目に入る-。沖縄戦の激戦地だった宜野湾市の嘉数高台公園。日本軍の組織的戦闘が終結したとされる6月23日の「慰霊の日」の前日、学生時代よく訪れたこの場所に足を運んだ豊永浩平さん(22)は「小説を書くことで歴史とつながり、忘却にあらがいたい」と決意を新たにした。
 豊永さんは、沖縄戦を描いた小説「月(ちち)ぬ走(は)いや、馬(うんま)ぬ走(は)い」で、昨年の群像新人文学賞と野間文芸新人賞を受賞した注目の新鋭作家だ。
 受賞作は沖縄戦からの約80年の歳月をさまざまな人の語りによってつづった物語。日本軍兵士の残虐な行為から、現代の若者らが直面する貧困や暴力までが「根っこ」でつながる様を浮かび上がらせた。沖縄戦だけでなく、その後の米軍統治、復帰後も続く基地負担などの矛盾を描き出してきた「沖縄文学」の系譜にも連なる作品だ。
 沖縄で生まれ育ち、基地や戦跡などはずっと身近にあったもの。しかし、過去の記憶と自分たち若い世代が「接続していない」感覚を持ち続けてきたという。本格的に小説を書くようになったのは地元の琉球大に進学してから。「沖縄で物語を書く者として、過去の戦争を避けては通れない」との思いがあった。
 6月に那覇市で開かれたトークイベント。ウクライナやガザなどで続く戦争も念頭に、豊永さんは「おじいやおばあが生きた時代を、どうすれば捉えられるのか。自分たちの(世代の)側から80年前の過去を、どうにか引き寄せたい」と力を込めた。

006 日本人300万人以上が犠牲になったとされる先の大戦。なぜ私たちはあの戦争に突き進み、多くの悲劇を生み出してしまったのか。戦後文学は、そうした問いに向き合い続けてきた。戦場の狂気を描いた大岡昇平の「野火」、原爆投下後の広島を舞台にした井伏鱒二の「黒い雨」…。その水脈は現代の作家にも続いている。
 北海道に侵攻したロシア軍と自衛隊の戦闘を描き、今年マンガ化もされ話題を集める小説「小隊」。著者で芥川賞作家の砂川文次さん(35)もそうした1人だ。
 物語では、自衛隊の小隊長・安達が一つ一つの任務を着実にこなす中で、あっという間に泥沼の戦闘に引きずり込まれてゆく。「命令を淡々とこなすだけで地獄絵図になってしまうことがある」と砂川さん。「描きたかったのは戦争そのものより、そうした不条理だった」と振り返る。
 砂川さんは大学卒業後、陸上自衛隊で6年働いた。北海道の駐屯地でも勤務し、ロシア軍の侵攻を想定した訓練があったという。「小隊」はその経験も基に「単なるシミュレーションでなく、最前線の人たちがどうなってしまうのかを踏み込んで書いてみた」作品だ。
 実際の戦争を体験していない自衛隊員らは、いざ戦闘が始まれば敵兵と殺し合い、必死に生き延びようとするしかない。その中で「平時」の常識やモラルも揺らいでいく。それは自衛隊員に限らず、誰もが巻き込まれうる事態なのではないか。
007 「戦争を過去として切り分けるのは危ない」と砂川さんは憂慮する。「自分たちは戦後に身を置いているけれど、戦前からの土壌の上にも立っている。自虐でも賛美でもなく、戦争を含めた大きな歴史を自分の言葉にしていくことが大事なんだと思うんです」

ジャンル超え惨状描写  文学・映画・アニメまで
 「生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも」。原爆投下直後の広島の地下室で、重傷を負った助産師が取り上げた新たな命。栗原貞子さんの詩「生ましめんかな」は、各地に生々しい焼け跡が残る1946年3月に発008表された。絶望の淵で生まれた命の息吹をつづる最初期の原爆詩は、今も読み継がれる。
 フィリピンで米軍の捕虜になった大岡昇平の小説「俘虜記」(48年)、広島で目撃した惨状を描いた丸木位里・俊夫妻の連作絵画「原爆の図」(50~82年)…。自身の体験に基づく作品を中心に、戦争を巡る表現はさまざまな分野に広がった。
 沖縄戦の悲劇を伝える53年の映画「ひめゆりの塔」は大ヒット。73年連載開始の中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」は20言語以上に翻訳され、世界中に被爆の実相を伝えた。94年初演の井上ひさしさん作の舞台「父と暮せば」は、生き延びた人々の罪悪感に着目し、死者との対話を描いた。
 「戦後」が年月を重ねる中、表現の営みは世代を超えて続いてきた。70年発表のフォークソング「戦争を知らない子供たち」は、ベトナム戦争のさなかで平和を願う戦後生まれの若者たちの心情をストレートに歌った。
 大岡の小説「野火」を映画化し、2015年に劇場公開した塚本晋也監督は、戦場の「痛み」を喚起させる壮絶な映像で観客の想像力に訴えかけた。16年のアニメ映画「この世界の片隅に」の片渕須直監督は、戦時下の市井の日常を丁寧に描くことで、現在と地続きであると強く印象づけた。009
 タイムスリップした少女が特攻隊員に恋をする汐見夏衛さんの小説「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」(16年)は、20年代に入って交流サイト(SNS)で人気に火が付き、ベストセラーに。誰にも身近な「恋愛」を通し戦争の不条理を伝える物語が多くの若い読者の心を捉えた。

戦意高揚 作家が加担 エンタメに軍部介入 漫画分野は侵害少なく
 国内の戦意高揚のために軍部が目を付けたのがエンターテインメントだった。定番の娯楽だった文学はもとより、子ども向け読み物も言論統制の対象に。一部の作家は積極的に扇動に加担し、戦後に糾弾された。
 「皇軍の苦労が捨石にならぬやうに、もつともつと官民一致を来したい」。1937年に作家林芙美子が新聞に寄稿した檄文(げきぶん)だ。高村光太郎は「神の国なる日本」は「老若男女みな兵なり」と鼓舞し、火野葦平は「万歳を声の続く限り絶叫して死にたい」と書いた。高村や火野ら名だたる文人は戦後、新興の新日本文学会に「直接的な責任」があったと指弾された。
 「日本児童文学の父」とされ、やなせたかしさんに影響を与えた小川未明も例外ではない。童話「僕も戦争に行くんだ」をはじめとする作品で米英への憎悪をあおり「愛国的児童像を繰り返し説いた」と、文学研究者の増井真琴さんは指摘する。
 漫画分野では、32年の第1次上海事変で爆弾を抱えて敵陣に突進し、命と引き換えに道を開いたと010たたえられた「肉弾三勇士」が、田河水泡の人気漫画「のらくろ」などでも描かれ、子どもから英雄視された。
 他方、京都精華大の吉村和真理事長(マンガ研究)は、影響力が小さいとみられていた当時の漫画が「他分野よりは公権力に介入されずに済み、エンタメを生み出す活力を戦後につなぐことができた」とみる。侵害されなかった「自由さ」が漫画を、世界に誇る文化に押し上げたと分析する。
 吉村さんは今年、戦争に関する漫画を集めた巡回展「マンガと戦争展2」を監修。「漫画は、世界中の人々が文化を理解し合うことに役立っている。戦争に利用された過去と異なり、新たな戦争に対抗する文化的な力になったと考えています」

引用されている(一部誤記がありますが)光太郎の詩は、ずばり「十二月八日」。昭和16年(1941)12月8日の開戦の詔勅を聴いて、ほぼ一気呵成に書き上げたものです。この日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していましたが、予定の時刻を過ぎても会議が始まらず、待たされている間に開戦の詔勅が放送され、会議は当初5日間の予定が1日で打ち切りになったそうです。

   十二月八日
戦時アトリエ前ピン
 記憶せよ、十二月八日
 この日世界の歴史あらたまる。
 アングロ・サクソンの主権、
 この日東亜の陸と海とに否定さる。
 否定するものは彼等のジヤパン、
 眇たる東海の国にして
 また神の国たる日本なり。
 そを治(しろ)しめたまふ
明津御神(あきつみかみ)なり。
 世界の富を壟断するもの、
 強豪米英一族の力、
 われらの国に於て否定さる。
 われらの否定は義による。
 東亜を東亜にかへせといふのみ。
 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
 われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
 われら自ら力を養ひてひとたび起つ、
 老若男女みな兵なり。
 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
 世界の歴史を両断する
 十二月八日を記憶せよ。

昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』第19巻第2号に発表されました。

毎年、12月8日前後には幼稚なネトウヨどもがこの詩をSNSに挙げて喜んでいます。ついでに言うなら笑ってしまうような誤字だらけで、例えば「本来は「大日本帝国」だが、米英いうところの「ジャパン」」という意味での「彼等のジヤパン」という一節が「我等ジヤパン」となっていたり(笑)。「お前、ほんとに右翼か?」と突っ込みたくなります(笑)。光太郎本人が戦後になってこうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔いて、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。

戦後、光太郎以外の殆どの文学者は、同様の作品を戦時中に発表していたにもかかわらず、それらを「無かったこと」にしたり、「あれは軍や大政翼賛会の命令で仕方なく書いたものだ」と開き直ったりしました。南京大虐殺やらを「無かったこと」にしたい幼稚なネトウヨどもは、戦後の光太郎の深い反省を「無かったこと」にしたいようです。

ちなみに『沖縄タイムス』さんで「新興の新日本文学会に「直接的な責任」があったと指弾」とありますが、同会の創設に関わった壺井繁治なども戦時中は翼賛詩を発表しています。

   鉄瓶に寄せる歌
 
 お前を古道具屋の片隅で始めて見つけた時、錆だらけだつた。
 俺は暇ある毎に、お前を磨いた。
 磨くにつれて、俺の愛情はお前の肌に浸み通つて行つた。
 お前はどんなに親しい友達よりも、俺の親しい友達となつた。

 お前は至つて頑固で、無口であるが、
 真赤な炭火で尻を温められると、唄を歌ひ出す。
 ああ、その唄を聞きながら、厳しい冬の夜を過したこと、幾歳だらう。
 だが、時代は更に厳しさを加へ来た。俺の茶の間にも戦争の騒音が聞えて来た。

 お前もいつまでも俺の茶の間で唄を歌つてはゐられないし、
 俺もいつまでもお前の唄を楽しんではゐられない。
 さあ、わが愛する南部鉄瓶よ。さやうなら。行け! 
 あの真赤に燃ゆる熔鉱炉の中へ! 

 そして新しく熔かされ、叩き直されて、
 われらの軍艦のため、不壊の鋼鉄鈑となれ!
 お前の肌に落下する無数の敵弾を悉くはじき返せ!

まさに「おまいう」(そろそろ「死語」ですが)ですね。ちなみにその壺井には吉本隆明らの手によって、特大ブーメランが帰って来、詩壇から抹殺のような感じになったようです。
012
だからといって、200篇ほどの翼賛詩文を乱発した光太郎の罪が消える訳ではありません。それでもそれを悔い、7年間もの蟄居生活を送ったことは評価されるべきでしょう。それを「無かったこと」にするのは許されることではありませんね。

【折々のことば・光太郎】

此の美の力がわれわれの感覚外で、われわれを擒にしてゐるのか。眼が見えずに見えるのか。其の幻術は建築の力によるのか。其の不朽な現前の功によるのか。其の平静な壮麗の徳によるのか。此の不可思議物は、特殊な一感覚に制限された範囲を超えて受感性に力を及ぼす。


光太郎訳ロダン「夜の本寺」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「本寺」はノートルダム大聖堂。夜間の暗闇の中であっても荘厳な美が幻想的に押しよせてくるように感じられる不思議、というわけです。

「十二月八日」を書いた頃の光太郎も押しよせてくる「大東亜共栄圏」「八紘一宇」といった幻想の「擒(とりこ)」と化してしまっていたのではないでしょうか。

それぞれ少し前のものですが、3件。

まずは『北海道新聞』さんから読者投稿俳句。

 <新・北のうた暦>4月4日007

 光太郎忌山ありて川ひかるなり 上田小八重

 高村光太郎の忌日は4月2日なのだが、この時季のみずみずしさを詠んだ掲句に、作者のみならず読者も浄化されそうだ。作品「樹下の二人」の詩句「あれが阿多(あた)多羅(たら)山、/あの光るのが阿武(あぶ)隈(くま)川。//ここはあなたの生(うま)れたふるさと、」を想起(そうき)させる。春の訪れの遅い北国だが「ひかる川と山」は素朴で新鮮で美しいことばである。 久保田哲子


光太郎忌日は「連翹忌」で、おそらく通常の「歳時記」にも登録されていると思われます。しかし「連翹忌」の呼称がどれだけ一般に浸透しているかというと、太宰治の「桜桃忌」、芥川龍之介の「河童忌」ほどではありませんので、おそらく投句された方、「連翹忌」の呼称は知りつつもあえて「光太郎忌」となさったのではないかと思われます。そういう小細工なしに「連翹忌」で誰しもに通じるようであって欲しいものですが……。

同じく読者投稿句、『読売新聞』さんから。

読売俳壇 矢島渚男選008

 光太郎智恵子の浜や目刺干す 君津市 榎本静江

【評】『智恵子抄』の舞台は九十九里浜。しかし晩年の彼女は精神を病み、看病に疲れ喪心の彼は戦争賛美へと走り晩年の反省が用意される。大学時代の夏休みに彼が過酷な生活を送った山小屋に行った。死後一年ほどの囲炉裏の周りには彼の息遣いが漂っているようだった。


昭和9年(1934)に智恵子が療養生活を送り、週に一度は光太郎が見舞いに訪れていた九十九里浜は太平洋に面した「外房」。句の作者の君津市は東京湾添いのいわゆる「内房」ですが、房総半島を一またぎすれば九十九里です。「目刺」が春の季語で単独で盛り込まれる場合もありますが、この句のように「目刺干す」で使われることも多いようです。実際、智恵子が療養していたあたりを歩くと、家々の軒先で魚の干物を作っている光景によく出会います。

選者の矢島氏、句には詠まれていないその後の光太郎についても言及。ありがたし。

取り上げるべき事項が山積しておりまして、もう1件、同じ新聞つながりで、仙台に本社を置く『河北新報』さんの一面コラムもご紹介してしまいます。

河北春秋(5/2)009

彫刻家で詩人の高村光太郎は、岩手県花巻市出身の作家宮沢賢治の作品を高く評価し、世に紹介した功績でも知られる。そんな光太郎が賢治を評した言葉がある。「内にコスモスを持つ者は、世界のいずこの辺遠にいても、常に一地方的の存在から脱する」▼「宮沢賢治追悼」に寄せた文章の一節。この言葉を展示するのは、花巻市の花巻南温泉郷近くにある高村光太郎記念館だ。光太郎は戦争末期、宮沢家を頼って花巻に疎開し、人里離れた山荘に7年間暮らした。山荘は保存され、その傍らに記念館は立つ▼賢治は花巻を拠点に多くの詩や童話を創作し、「イーハトーブ」の世界観を築き上げた。光太郎は感銘を受け、南フランスの田舎で絵筆を取りながら、世界の新しい芸術に指針を与えたセザンヌのようだと記している▼反対に、内にコスモスを持たない者は、どんな文化の中心にいても一地方的存在であると論じる。今で言えば、東京に住むか地方に住むかは関係なく、心の持ち方、考え方で、その人の世界は決まるということか▼近代芸術の巨人の言葉は、東北に暮らすとりわけ若い世代へのエールになるだろう。大型連休も後半に入る。予定が決まっていないなら、訪れてみてはいかが。光太郎を癒やした花巻の自然や温泉も待っている。(2025・5・2)

『読売』さんの矢島氏の評にも現れた、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する高村光太郎記念館。GW中の記事ですので、この連休に訪ねてみては?的な内容ですが、1年中いつ行ってもいいところです。ぜひ足をお運びください。
006
ちなみに光太郎の賢治評「内にコスモス」云々(「でんでん」ではありません(笑))が記念館に展示されている、ということですが、その一節を選んで展示解説パネルを作ったのは当方です(笑)。

【折々のことば・光太郎】

思ひがけなく小生の誕生日のためにとて勢のいいロブスター三尾お届け下され感謝しました、大変愉快でした、


昭和28年(1953)3月13日 北川太一宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、前年秋に花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎の元を、体当たり的に突撃訪問して知遇を得た当会顧問であらせられた故・北川太一先生。この日の光太郎誕生日にプレゼントを進呈。しかし、なぜにロブスターだったのでしょうか(笑)? ご存命のうちに訊いておけばよかったと後悔しております。

明治から大正期、『読売新聞』の「文芸欄」に載っていた、文化人等の動向を短く紹介する「よみうり抄」というコーナーがありました。

その大正期の「よみうり抄」を全てピックアップした書籍の刊行が全5巻の予定で開始され、まず第1巻が出ています。

それに関連した『読売新聞』さん2月25日(火)の記事。

まるでSNS 大正の「よみうり抄」 文芸欄の片隅で文化人の動勢やお知らせ細かく 「芥川」誕生の瞬間など

 読売新聞文化欄に掲載された雑報欄「よみうり抄」が、「読売新聞 よみうり抄」大正篇第一巻として文化資源社から刊行された。今後、全5巻の刊行が予定されている。よみうり抄研究会代表の杉浦静・大妻女子大学名誉教授が、その意義と文学研究にもたらす可能性を寄稿した。

 日本近代文学において、読売新聞は大きな役割を果たした。明治以降の文芸欄は、上司小剣や正宗白鳥ら多くの作家が健筆を振るった。明治から大正までの近代文芸関係作品、記事の全細目をまとめた『読売新聞文芸欄細目』も、近代文学研究の泰斗だった紅野敏郎氏によりまとめられている。
 その文芸欄の片隅に置かれたのが、「よみうり抄」だ。近代文学の研究で引用されることなどから、私は存在を知った。文学者や画家、文化人の動向や出版情報、展覧会情報などが雑報の形で、短いながらも詳しく記され、時には一般記事より興味深いものがある。2001年に研究会を作り、仲間の研究者や学生たちと少しずつ読んできた。
 よみうり抄は、記者が直接取材したものや、届いた手紙などから書かれた。作家の年譜に掲載されていない内容もあり、生き生きした情報にあふれている。
 たとえば、よみうり抄は作家の芥川龍之介の誕生の瞬間から、文壇で認められていく姿を収めている。
 「▲柳川隆之介氏 は今後本名芥川龍之介を用ふる由(よし)尚(な)ほ小説『鼻』を『新思潮』に寄せたりと」
 これは当時、東京帝大の学生だった芥川龍之介が、「柳川隆之介」から改名したことを伝える1916年1月22日のよみうり抄の記述だ。同じ日のこの欄は、すでに劇作家として評価を得ていた久米正雄らと、同人誌「新思潮」を再興することも伝えた。改名で心機一転を図り、新思潮に臨む芥川たちの姿がうかがえる。
 この記事にある「鼻」が夏目漱石に激賞され、芥川は文壇に出ることになる。
 すぐ後の2月29日付には、「▲芥川龍之介氏 は平安朝時代より材料をとれる小説『ポー』を『新思潮』三月号に寄稿せり」と続報がある。漱石の賛辞を受けて書こうとしたのだろうか。だが現実にはこの作品は書かれず、「ポー」は題名だけが残る幻の作品となる。
 この後も、よみうり抄は芥川が海軍機関学校教官となったことや、流行性感冒にかかったこと、結婚や新居への移転など細々と情報を伝えた。これらの情報は、新聞読者の小説家に対する親近感を高めた。新聞社の側も、読者の関心が深い文化関係者の動向を伝えることが、政治や事件・事故のニュースと合わせて読者獲得につながったのだろう。
 よみうり抄は、画家たちの動勢も多く報じている。「写生旅行中」とか、「写生中」とかいった情報に加え、展覧会情報も多い。そこには日時や会場と、読者が出かけられるように住所も付されている。1917年10月25日には、彫刻家の高村光太郎がニューヨークでの個人展覧会を開くため、「彫刻を頒(わか)つ会」を起こすといった記事が掲載されている。まるで、現代のクラウドファンディングのようだ。
 文化人の細かな動勢やお知らせといった情報を掲載したよみうり抄は、現在のSNSを思わせる。大正期の新聞は、マスメディアでありながら、同時に現在よりもパーソナルなメディアの要素が強かったのかもしれない。
002
で、刊行が始まった『よみうり抄』。

読売新聞 よみうり抄 大正篇 第1巻001

発行日 : 2025年2月15日
著者等 : よみうり抄研究会編
版 元 : 文化資源社
定 価 : 16,000円+税

「よみうり抄」とは読売新聞が、明治31年10月6日から毎日掲載をはじめた、芸術家(作家・画家・演劇家)や学者などあらゆる文化人の短信・消息・ゴシツプを取り上げた小欄の名称。本書は大正期の「よみうり抄」をすべて翻刻した第1巻目。
現在では、この小欄の集積が、今となっては客観的な記録・情報となり、文化人がいつどこに出かけ、誰に会い、何をしたかという膨大な情報群となっているが、従来、この欄を通覧することが難しかったものを、全5冊に翻刻。
明かな誤植を訂正した他、印刷・マイクロ化・デジタル化の都合で不読となった文字を可能な限り補記し「よみうり抄」の全文を活字化。

目次 明治45年1月から、大正3年12月まで(担当:宗像和重)

解説 大正期・読売新聞「よみうり抄」にみる文藝彙報欄(滝上裕子)

版元から一言
よみうり抄の具体的な記事は、Xに「#今日のよみうり抄」としてほぼ毎日ポストしていますので、それを見ていただくと有り難く存じます。一つ一つの記事は、何の変哲も無い新聞の短信で、基本「誰が何をした」ですが、読む人によっては、ピンッ、と来て、情報が無限に繫がり沼る情報の集積です。

著者プロフィール
 よみうり抄研究会  (ヨミウリショウケンキュウカイ)  (編集)
 石川巧(いしかわ たくみ)立教大学教授
 杉浦静(すぎうら しずか)大妻女子大学名誉教授:代表
 須田喜代次(すだ きよじ)大妻女子大学名誉教授
 滝上裕子(たきがみ ゆうこ)明治大学他非常勤講師、立教大学日本学研究所研究員
 十重田裕一(とえだ ひろかず)早稲田大学教授
 前田恭二(まえだ きょうじ)武蔵野美術大学教授
 宗像和重(むなかた かずしげ)早稲田大学名誉教授
 山岸郁子(やまぎし いくこ)日本大学教授
003
読む人によっては、ピンッ、と来て、情報が無限に繫がり沼る情報の集積」。まさにその通りだと思います。

光太郎智恵子の名も頻出します。昭和52年(1977)、松島光秋氏著・永田書房発行『高村智恵子―その若き日―』という書籍の巻末には、明治42年(1909)から大正3年(1914)までの「よみうり抄」から、光太郎智恵子の名が載った分、関係の深い人々に関する記述がピックアップされています。
002001
ところが、書籍のコンセプトが若き日の智恵子の実像をさぐることなので、光太郎智恵子が結婚披露を行った大正3年(1914)までで終わっています。

今回刊行された『読売新聞 よみうり抄 大正篇 第1巻』も大正3年(1914)まで。第2巻以降で大正4年(1915)からの「よみうり抄」、どんなだったか確かめたいところです。ただ、第1巻が定価16,000円+税、第2巻以降も同じようなものでしょう。それが全5巻となると、ちょっと個人で購入すべきものではないかな、という気がいたします。公共図書館さん、関連する美術館さん、文学館さん等で取り揃えていただけることを期待します。

【折々のことば・光太郎】

水野君の墓標の文字を書くといふ事承知いたしましたが、小生只今一寸健康を害してゐまして揮毫するといふ事が出来ないので少々遅れるでせう。このこと御諒承下さい。


昭和27年(1952)3月12日 行方沼東宛書簡より 光太郎70歳

第一期『明星』以来の親友だった水野葉舟が歿したのは昭和22年(1947)。その墓標の文字を書いてくれという依頼に対しての返答の一節です。葉舟の墓は多磨霊園にありますが、結局、光太郎の揮毫ではなかったようです。

一昨日、12月8日(日)の『北海道新聞』さん一面コラム。

卓上四季

重くたちこめていた暗雲が吹き払われ、日本の命運に光がさした―。83年前のきょう、米ハワイ真珠湾への奇襲が成功し、太平洋戦争が始まる。大多数の国民は熱狂的に受け入れた▼人道主義を説いた白樺派作家の武者小路実篤は高揚していた。<くるものなら来いと云(い)う気持だ。自分の実力を示して見せる>。詩人・彫刻家の高村光太郎も感動を抑えられない。<世界は一新せられた。現在そのものは(略)純一深遠な意味を帯び光を発し>た。興奮が広がる▼憂うる者もいた。作家の幸田露伴は国の将来を案じて涙を流した。「若い者たちをつぶしてしまって事が成り立つはずがない。これではもういっぺんでひどい事になる」。先が見通せた少数者だった▼真珠湾攻撃は遠く離れた英国でも速報された。ラジオで知ったチャーチル首相はすぐに米国へ電話で問い合わせた。なにが起きたのか? ルーズベルト大統領は答えた。「日本の攻撃です。いまやわれわれ(米英)は同じ船に乗りました」▼<世界史的事件>と受けとめたチャーチルは記している。これでヒトラーとムソリーニの運命は決まった。いずれ日本も木っ端みじんに打ち砕かれるだろう―▼日本は序盤こそ快進撃を続けたものの続かない。軍事力も経済力も米国との差は圧倒的だ。チャーチルの予測は4年弱で現実となる。

光太郎が「感動を抑えられない」として引用されているのは詩ではなく、エッセイ「十二月八日の記」から。太平洋戦争開戦から約1ヶ月後の昭和17年(1947)元日、『中央公論』に載ったものです。後に随筆集『某月某日』(昭和18年=1943)に収められました。

真珠湾攻撃のあった昭和16年(1941)12月8日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していました。「十二月八日の記」はそのレポート的なものです。引用されている一節は、会場の大政翼賛会本部で開戦の詔勅(昭和天皇本人によるものではありませんでしたが)を聴いたときのもの。

その前後も併せて紹介します。

 時計の針が十一時半を過ぎた頃、議場の方で何かアナウンスのやうな声が聞えるので、はつと我に返つて議場の入口に行つた。丁度詔勅が捧読され始めたところであつた。かなりの数の人が皆立つて首をたれてそれに聴き入つてゐた。思はず其処に釘づけになつて私も床を見つめた。聴きゆくうちにおのづから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡が曇つて来た。私はそのままでゐた。捧読が終ると皆目がさめたやうに急に歩きはじめた。私も緊張して控室に戻り、もとの椅子に坐して、ゆつくり、しかし強くこの宣戦布告のみことのりを頭の中で繰りかへした。頭の中が透きとほるやうな気がした。
 世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである。現在そのものは高められ、確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなつた。
 この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いてゐる時間だなと思つた。時間の重量を感じた。

結局、第二回中央協力会議は当初5日間の日程でしたが、それどころではなくなり、1日に短縮。光太郎が発議する予定だった「工場施設への美術家の動員」はカットされました。

以後、ほとんどすべての文学者がそうであったように、雪崩を打って光太郎も発表するものは翼賛詩文一辺倒となっていきます。後述しますが、発表しなかった戦争とは無関係の詩も多くありましたが。

『北海道新聞』さんでは例外として幸田露伴の発言を引いています。当方、寡聞にしてそのソースは存じませんが、その露伴にしても、徳富蘇峰を日本文学報国会会長に推挙したり、その前身とも言える日本文芸中央会の相談役、報国会と『朝日新聞』共催の「国民座右銘」選定委員に就任したりと、決して「無罪」ではありませんでした。

驚いたのは、開戦当時満10歳だった谷川俊太郎氏。やはり12月8日(日)の『長崎新聞』さん一面コラム。

水や空

いのちと愛の言葉を最後まで手放さなかった詩人もその時代は“軍国少年”だった。谷川俊太郎さんが模型ヒコーキへの熱をつづった作文を〈僕の模型よ、お前もほんとの飛行機と一緒にニューヨーク爆撃に行け!〉と結んだのは10歳の春。開戦の翌年だった▲もう、少国民教育が行き渡っていた時代だったのですね-の問いに「そのようですね」と短く応じている。文芸評論家・尾崎真理子さんとの対談集「詩人なんて呼ばれて」(新潮文庫)から▲戦争は知らずに、結末だけを知る私たちが当時の空気を後知恵で非難するのはルール違反でしかない。ただ、大和魂だ、日本は神の国だ-という高揚感や興奮が無謀な戦争を支えていたことは、何度でも胸に刻んでおきたい▲高揚感はやがて消える。谷川さんよりも5歳年長の詩人・茨木のり子さんは「わたしが一番きれいだったとき」に戦争の現実を詰め込んで語った。〈街々はがらがら崩れていって〉〈まわりの人達が沢山(たくさん)死んだ〉〈男たちは挙手の礼しか知らなくて〉▲〈わたしの国は戦争で負けた/そんな馬鹿なことってあるものか〉-青春を返して。でも、戦争が始まってしまったらその叫びはどこにも届かない。「馬鹿なこと」は「敗戦」ではなく「開戦」だ▲太平洋戦争の開戦から8日で83年になる。

「教育」の力は、時に恐ろしい結果をもたらすものだと改めて感じました。

話を光太郎に戻します。光太郎にはずばり「十二月八日」という詩もあります。昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』に発表されました。
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毎年、12月8日には幼稚なネトウヨがこの詩の一節をSNSに挙げて(ついでに言うなら誤字だらけで)喜んでいます。昨年はそれほどでもなかったので、そうした動きは沈静化したかなと思っていたのですが、今年はまた以前以上に花盛り。光太郎本人が戦後、こうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔い、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。

もう取り消せない、という意味では「デジタルタトゥー」に近いものがあるかも知れません。また、「綸言汗の如し」という言葉も思い浮かびます。「無かったことにしよう」というのではありませんが(多くの文学者の同様の作品は、本人や取り巻きによって、「無かったこと」にされている現状もあります。あまっさえ、「無かった」どころでなく「反戦の姿勢を貫いた」とされている詩人も居ますし、現代の有名な評論家のセンセイもそれに騙されています)。

つくづく戦争というものは人の心を狂わせるものだと思わざるを得ませんね。

【折々のことば・光太郎】

「花と実」も予定ばかりで出版にはなりさうもありません。


昭和25年(1950)9月9日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎68歳

光太郎は戦時中、一切戦争には関わらない詩も書いていました。それらは発表することなく書きためていて、『花と実』というタイトルの詩集にまとめる予定でした。しかし、今更感もあったのでしょう、結局実現しませんでした。

こちらでご紹介したイベントについて終了後に為された報道を2件。

まず、もう半月ほど経ってしまいましたが、ご紹介するタイミングを失っておりました。福島二本松の「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」について、『福島民友』さん。

自作の紙芝居で智恵子生涯描く 研究者坂本さんが上演 二本松の生家

001 詩集「智恵子抄」でも知られる二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家光太郎を顕彰する同市の「智恵子のまち夢くらぶ―高村智恵子顕彰会」は14日、同市の智恵子の生家で紙芝居を上演した。作家で画家、智恵子研究者坂本富江さん(東京都)が紙芝居「夢を描くひと―高村智恵子」を披露した。
 高村夫妻の結婚110周年と同会発足20周年を記念して実施。「高村智恵子レモン祭」の一環として、智恵子の生家・記念館と共催で実施した。
 坂本さんは来場者を前に、智恵子の生涯を描いた自作の紙芝居を読み聞かせた。
 このほか同会は同日、第15回智恵子純愛通り記念碑建立祭と「智恵子と光太郎の詩と言葉」ボードの除幕式を智恵子生家近くの同碑前で行った。


続いて、10月27日(日)、岩手花巻で開催された「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」について、『岩手日日』さん。

光太郎と賢治の関係は 研究者と劇団員対談

 対談「光太郎と花巻賢治子供の会」(高村光太郎記念館主催、やつかのもりLLC企画)は10月27日、花巻市大通りの市定住交流センターなはんプラザで開かれた。高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた劇団「花巻賢治子供の会」について、研究者や当時の会員による講話や朗読などを通じて市民が光太郎の思いや賢治との関わりに理解を深めた。
 花巻賢治子供の会は1947年、賢治の教え子だった小学校教員照井謹二郎が賢治作品を後世に伝えるため、同じく教員で妻の登久子の脚本で子供たちと童話劇を始めたのが始まり。翌年春、花巻に疎開していた光太郎の慰問のため、賢治の弟清六の妻愛子に誘われて山荘に足を運び、野外劇を見せたところ、感銘を受けた光太郎が命名した。その後、春は山荘で野外劇、秋は光太郎を招いて舞台発表を行い、97年の東京公演まで50年余り、160数回の公演を続けた。
 対談では光太郎研究者で高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表が発足の経緯や当時の活動内容について解説。当初メンバーだった熊谷光さん(83)、高橋則子さん(80)が賢治童話「雪渡り」から「小狐の紺三郎」、光太郎の詩「山からの贈物」を朗読、賢治の弟清六の孫で林風舎の宮沢和樹代表が祖母や母から聞いた活動について語った。
 引き続き4人が「光太郎先生との想い出」をテーマに語り、48年6月の山荘での公演について熊谷さんは「光太郎先生はとても喜んでくれた。歩いて帰る途中、私たちが見えなくなるまで手を振ってくれた」などと振り返った。
 また童話劇を演じるのに脚本を手で書き写したり、花巻小学校の教室を借りて夜8時ころまで練習したり、子供たちが持参した自分の頭の大きさに合ったざるに紙を貼り重ねて動物の被り物を作ったりしたエピソードを紹介。「本当に何もない時代だったので、参加すること自体がとても楽しい時間だった」と語った。
 対談は約60人が聴講。泉沢善雄さん(70)=同市高木は「子供たちが実際にどのようにして演じていたかイメージが涌く話だった」と関心を寄せていた。

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正確には、「花巻賢治子供の会」発足時、照井夫妻はすでに教員を退職なさっていたはずなのですが……。

ついでというと何ですが、花巻から送っていただいた当日の画像。
参加者5 参加者6
さらに、『岩手日日』さんのインタビューを受けられていた泉沢善雄氏のSNSから。
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ちなみに泉沢氏の大伯父さまは光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の村議会議長を務められ、光太郎と一緒に写った写真も残っています。

さて、この手のイベント、今後も途切れることなく続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

桑木博士も津田博士も引き上げられたので、いよいよ小生一人居残りといふわけになりました、小生はやはり最後まで岩手県の御厄介にならうと考へて居りますが中ゝ彫刻製作の手順にならないので、これだけが問題です、


昭和25年(1950)4月11日 佐伯郁郎宛書簡より 光太郎68歳

結局、健康状態がそれを許しませんでしたが、光太郎、岩手に骨を埋めるつもりでした。

「津田博士」は戦中からこの年まで平泉に疎開していた津田左右吉ですが、「桑木博士」は誰を指すか特定できていません。お心当たりおありの方、ご教示いただける幸いです。

たまたま偶然でしょうが、昨日、東北の地方紙二紙の一面コラムで光太郎が取り上げられました。

まずは『秋田魁新報』さん。

北斗星

2人の女性が向き合う姿で知られる十和田湖畔の「乙女の像」だが、作者の高村光太郎は当初1人だけの像を考えていたという。湖や森を思い浮かべながら構想を練るうち、同じ像を二つ並べるアイデアが浮かんだ。例のない像だったが、現地で見れば周囲と調和していると分かると語っている(「高村光太郎全集11」より)▼「地上に割れてくづれるまで/この原始林の圧力に堪へて/立つなら幾千年でも黙って立ってろ」。像に寄せた詩からは、この場所にふさわしいものを作ったという自負が伝わってくるようだ▼乙女の像が建立されて約70年、十和田湖周辺は変わり続けた。観光客が増え、ホテルや観光施設ができた。しかしバブル崩壊や東日本大震災で客足は減少。ここ十数年は、像がある休屋地区などでホテルや店舗の廃屋が目に付くようになっていた▼先日、久々に乙女の像を訪れると、対岸に新しい建物があるのが見えた。小坂町などが整備した道の駅だ。「十和田湖開発の父」とされる和井内貞行と妻カツが寄り添う銅像もあり、特産のヒメマスをPRしている▼国は十和田湖などの国立公園に、訪日外国人らを呼び込む事業に力を入れている。道の駅もその一環。廃屋も徐々に撤去されて、新たな宿泊施設の誘致に向けて地元で協議が始まった▼再び変わり始めた十和田湖。期待もあるが、オーバーツーリズムなどの不安もよぎる。観光地と国立公園。開発と保全。さて、どんな調和を目指すべきか。

十和田湖は秋田県と青森県にまたがり、光太郎最後の大作「乙女の像」は青森県側の十和田市休屋地区に存在します。
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指摘されている通り、周辺にはかつてホテルや土産物店、飲食店だった建物の廃屋が目立ちます。地元で自嘲的に「ゴーストタウン」と称されることも。残念です。

そんな中、これもコラム中にありますが、秋田県側の小坂町に新たに「道の駅「十和田湖」」がオープンしました。今月12日のことでした。

NHKさんのローカルニュース。

小坂町に道の駅「十和田湖」オープン 観光客でにぎわう

 12日、小坂町に道の駅「十和田湖」がオープンし、十和田湖観光に訪れた大勢の人たちでにぎわいました。
 道の駅「十和田湖」は、小坂町の新たな観光拠点として十和田湖の南側の湖畔に整備されました。
 建物は湖が見渡せる高台にあり、施設の中には、十和田湖の成り立ちや名産のヒメマスの養殖の歴史、それに小坂町の観光名所などがわかりやすく展示されています。
 また、ワインや蜂蜜といった町の特産品や隣接する鹿角市のりんごやぶどうを販売するコーナーも設けられています。
 オープン初日となった12日は好天にも恵まれたこともあり、周辺の道路が一時渋滞するほどで、訪れた大勢の人たちは展示コーナーを見学したり、施設から望む十和田湖の写真を撮ったりして楽しんでいました。
 岩手県の40代の男性は「きれいでとてもいい施設ですね。これから奥入瀬渓流など十和田観光を楽しみたいです」と話していました。
 道の駅は、去年10月にオープンする予定でしたが、特別名勝などに指定されている十和田湖での工事には文化庁の許可が必要で、その申請に向けた事務手続きが行われていなかったため、駐車場の工事が遅れ、オープンが延期されていました。
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観光の新たな拠点となることを期待いたします。

続いて『岩手日日』さん。

日日草

「沈深牛の如(ごと)し」。詩人で彫刻家の高村光太郎は詩「岩手の人」の中で、県人を寡黙で辛抱強く、思慮深い牛のようだと評した。牛は昔から岩手の人々にとって馬と同様に極めて身近な存在だった▼そんな牛と岩手との関わりに焦点を当て、県立図書館が春から夏にかけて開いた企画展。肉牛や乳製品のほか、農耕や運搬に使う役牛として人々の暮らしを支えた歴史、文化などを豊富な資料で紹介した▼江戸時代に沿岸部の産物を内陸に運んだルートを「塩の道」と呼び、重い荷を背に北上高地を越えるには馬より足腰の強い牛が適していたこと。途中、歌われたのが「南部牛追唄」で、隊列の先頭に立つ最強の雄牛を決めるため闘牛大会があったことなどを展示で知った▼開催中、牛を通年で山に放牧する山地酪農に挑み続ける田野畑村の酪農家を24年間追ったドキュメンタリー映画も上映。豊かな自然の中で厳しい現実に向き合いながら希望を持って暮らす大家族の日常が丹念に描かれていて引き込まれた▼日本短角種の産地、久慈市は闘牛の素牛を全国に供給する。東北で唯一の闘牛大会が年4回あり、今年最後の「もみじ場所」があす開かれる。普段は目にすることのない迫力ある闘牛を間近に見れば、牛へのイメージが変わるかもしれない。

008牛と岩手との関わりに焦点を当て、県立図書館が春から夏にかけて開いた企画展」は、「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」。タイトルからして光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)由来でした。

会期中の6月に花巻に行きましたので、その際に盛岡まで足を延ばせば良かったのですが、失念しておりました。直接、光太郎に関わる展示物は無く、解説パネルに「岩手の人」が紹介されていた程度のようでしたが、今になって後悔しております。

同様に直接、光太郎に関わる展示物は無く、解説パネルに光太郎の文章が引用されているという企画展示が都内で開催中という情報を得まして、明後日、また上京する用事がありますから廻ってきます。

【折々のことば・光太郎】

雪の上の足あとウサギ キツネ一列なり


昭和25年(1950)1月11日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳
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便箋(というかおそらく原稿用紙)の余白に描いたスケッチから。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺でのものですね。

松下は中央公論社の編集者。

同じ日に、美術史家の奥平英雄の妻・ちゑ子に贈った書簡にはさらに詳しいキャプション入りのスケッチが描かれていました。
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8月9日(金)に光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された第33回女川光太郎祭につき、報道が為されました。

まず仙台に本社を置く『河北新報』さん。

高村光太郎の生涯に思い 宮城・女川で詩の朗読や講演イベント、県内外のファン集う

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第33回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)があった。県内外のファンら約30人が、詩の朗読や演奏を通して光太郎の生涯に思いを巡らせた。
 同町まちなか交流館で9日にあったイベントでは、町内外の8人が朗読。光太郎が女川の風景を見て「新興の気があふれていた」とつづった紀行文や「よしきり鮫(さめ)」といった詩を情感込めて読み上げた。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表は講演で、福島県二本松市出身の妻智恵子の生涯を解説した。光太郎が晩年、東京都内のアトリエで制作した彫像「乙女の像」にも触れ「彫像の顔は最愛の智恵子だった。そのアトリエの所有者が亡くなり、今存続が危ぶまれている。後世に残すため、思いを同じくする多くの声が必要だ」と話した。
 光太郎は1931年に三陸沿岸を巡った。光太郎祭は92年から開かれている。光太郎の会の須田勘太郎会長は「光太郎が女川を題材に刻んだ足跡を後世に残そうと立ち上がった町内の人々の苦労や思いを受け継ぎ、語り継ぎたい」と話した。
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続いて、同紙の別刷りで牡鹿方面に折り込まれる『石巻かほく』さん。

高村光太郎しのぶ 女川にファン集い、朗読や講演会

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第33回女川「光太郎祭」が9日、町まちなか交流館で開かれた。県内外のファンら約30人が集まり、紀行文、詩碑、詩の朗読を通して光太郎の思いに触れた。
 「女川・光太郎の会」が主催した。町民や東京の中学生ら8人が詩を朗読。女川での体験を基に書かれたと言われる「よしきり鮫(さめ)」や「霧の中の決意」といった詩をギターの演奏に合わせて読み上げた。
 講演もあり、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が光太郎の妻智恵子の生涯を解説。結婚生活や病気療養中につくった紙絵などを紹介した。
 小山代表は光太郎が晩年、制作に当たったアトリエが東京にあることに触れ「所有者が亡くなり、存続が危ぶまれている。後世に残すために多くの声が必要になっている」と話した。
 光太郎の会の須田勘太郎会長は「祭りを続け、光太郎の足跡を多くの人に語り継いでいく」と話した。
 光太郎は1931年に三陸地方を旅した。女川を題材にした紀行文や詩を残し、91年に文学碑が女川港近くに建立され、92年から光太郎祭が開かれている。近年は新型コロナウイルスの影響で中止もあったが、昨年再開した。
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光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ保存運動につき、講演で触れさせていただいたところ、記事の中にも取り上げて下さいました。ありがたし。NHK仙台放送局さんでも6月にご紹介下さいましたが、東北の方々にもそういう話があるんだというのをもっと知っていただきたいと常々思っておりますので。

ところで、女川光太郎祭の講演でアトリエ保存の話をいたしましたところ、その後の女川町長・須田善明氏の祝辞でそこに食いついたお話。同町としては、東日本大震災の津波で倒壊した光太郎文学碑の再建に力をお貸し下さいまして、そのあたりなど。碑の再建方法には女川光太郎の会の方々の意向が全て反映されたわけではありませんでした。それでも町の所有物でないものに対し、税金を投入して支援を行って下さった苦労話には、「なるほど」と思わされました。

ちなみに劇作家・女優の渡辺えりさんに代表をお願いしている保存する会としてのホームページが、現在、鋭意製作中。そのあたりに長(た)けた方がご協力下さっています。公開が始まりましたらまたお知らせいたします。

【折々のことば・光太郎】

「山脈」も落手、山に居てかういふものを作られる御努力を推察しました。小生も山林にまゐり居り、農家、樵夫ともいろいろ近づきになり、今では都会へかへる気はなくなりました。「山脈」の文字を書きましたので、ともかくも同封いたします。よい紙がないので甚だ粗末でしたが。


昭和23年(1948)12月27日 三上秀吉宛書簡より 光太郎66歳

三上は戦前には『婦人之友』編集に当たっていた人物。戦後、九州で文芸誌『山脈』を主宰したりしました。

その『山脈』の題字揮毫が光太郎に依頼され、書いて送ったよ、というわけです。ところがこの光太郎揮毫の題字が使われた号が未見です。使われずにお蔵入りになった可能性もありますが。情報をお持ちの方、ご教示下されば幸いです。

『読売新聞』さんのサイト内で、5月から今月にかけて「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」という連載が成されました。
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ご執筆は武蔵野美術大学さんの前田恭二教授。昨秋行われた研究発表会、第66回「高村光太郎研究会」で「米原雲海と口村佶郎――新出“手”書簡の後景――」という題で発表をなさり、それを元に今春発行された研究誌『高村光太郎研究(45)』に論考「新出「手」書簡の後景――米原雲海と口村佶郎」を寄稿なさいました。

「ヨミダス」は、『読売新聞』さんの紙面データベース。明治7年(1874)から現在までの掲載記事を検索できます。当方もだいぶ以前に国会図書館さんでそちらを使い、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎文筆作品等を10篇以上見付けました。詩人の野口米次郎を評した長い評論、『高村光太郎全集』に第1回から第11回までは収められているものの、最終回に当たる第12回が漏れていた評論「西洋画所見」など。

その「ヨミダス」で閲覧出来る過去の誌面から、明治大正期の主に美術に関する記事をピックアップし、さまざまな角度から解説が加えられています。

全5回だったようで、ラインナップは以下の通り。すべて光太郎に(一部智恵子や光雲に)言及されています。

若きフジタの「漫画展」――青春時代の藤田嗣治 
光太郎が彫刻科を卒業して入学し直した東京美術学校生洋画科で同級生だった藤田嗣治がメイン。欧米留学から帰朝した光太郎が明治43年(1910)、神田淡路町に開店したほぼほぼ我が国初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)がらみで光太郎、そして智恵子にも言及されています。

高村光太郎と荻原碌山――1910年4月の群像 
光太郎、そして共にロダニズムを日本に移植した碌山荻原守衛について。やはり光太郎の親友だった葉舟水野盈太郎のエッセイ等も引かれ、光太郎と守衛の深い結びつきが紹介されています。

東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅠ――上司小剣の“匿名日記”を読む
「高村光太郎と荻原碌山」でも触れられた、登場人物がイニシャルで書かれている私小説、エッセイ等で、それぞれの人物を特定する試み。

東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅡ――人見東明とフュウザン会
「フュウザン会」は、光太郎、岸田劉生、斎藤与里らが興した反アカデミズム系の展覧会。第一回展が大正元年(1912)、当時の読売新聞社社屋を会場に開催されました。

最も新しい女性画家――高村智恵子の青春
『青鞜』の表紙絵や太平洋画会展への出品などで注目され始めていた智恵子が、『読売新聞』に「最も新しい女画家」として紹介され、その前後の智恵子について。これが最も驚きました。大正14年(1924)に紙面に載ったという光太郎智恵子の写真が掲載されていたためです。
1925年1月26日付朝刊より
撮影場所はおそらく駒込林町の光太郎アトリエ兼住居でしょう。なぜ驚いたかというと、この写真、これまでに刊行された光太郎智恵子関連の研究書等の類に掲載されたことが無いと思われるものだからです。

戦前に亡くなった智恵子の写真はこれまで30葉見つかっていたかどうか、それも少女時代のものが多く、結婚後のものは10葉足らずで、一昨年、昭和3年(1928)5月発行の雑誌『美術新論』に載った下記の写真を見付けて驚きましたが、また一葉加わりました。
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それにしても、メジャーなメディアだった『読売新聞』に掲載されていた写真が知られていなかったというのが意外でした。また、先述の通り、「ヨミダス」はかなり前に一通り調べたのですが、見落としていました。暇を見てもう一度「ヨミダス」での調査もやらなければ、と思いました。

さて、上記リンクから「ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨今蟲にくはれたのがもとで面疔のやうなものが上唇に出来、厄介です。ズルフアミン剤をのんでゐますが、高いのに驚きます。


昭和23年(1948)8月6日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

「面疔(めんちょう)」は、「とびひ」等と同じく黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。虫に刺された箇所を、土などのついた手でポリポリ搔いたために発症したと思われます。この際は結構な重症で、なかなか治りませんでした。

3件ご紹介します。

まず天台宗さんとして発行されている『天台ジャーナル』さん。檀信徒さんなど向けの月刊機関紙的なもののようで、今月号です。連載コラムと思われるコーナーに光太郎の言葉をメインで紹介していただきました。

素晴らしき言葉たち

いくら非日本的でも、日本人が作れば
日本的でないわけには行かないのである。  高村光太郎

 詩人であり歌人であるとともに彫刻家、画家であった高村光太郎の言葉です。ですから、芸術分野を指す言葉でしょうが、他の分野にもいえることではないでしょうか。最近、特に話題となっている和食ブームについてもいえると思います。
 伝統的な和食でない中国由来の「ラーメン」やインドを発祥とする「カレー」などは、もとは非日本的な食べ物でしたが、今ではすっかり「和食」となっています。発祥の地である中国には日本のラーメン店が、同じくインドでも日本のカレー店が展開されているそうです。
 明治維新後、日本は先行する欧米の模倣でなんとか国を造りあげてきました。モノづくりでも「安かろう、悪かろう」といわれる時代を経て、「さすが日本製」といわれるほどになり、品質を誇れるまでになりました。
 その過程で、日本独自のアイデアが付け加えられてオリジナルよりも価値が高いものが創造されることになったようです。
 例えば温水洗浄便座なども元はアメリカで開発されたものですが、それを進化させたものだといいます。今では、日本中どこでもみられるようになりました。温水洗浄便座以外でも、モノづくりや食べ物の分野をはじめ、日本の創意工夫が活かされた例が多くなりました。
 このところ、経済状況が沈滞し国力の伸びがなくなって久しい日本ですが、この国の得意とする「日本的な」創意工夫をもって生き延びていくことが、これまで以上に求められていると思います。

いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」元ネタは欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)の『スバル』に発表した評論「緑色の太陽」です。

前年の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された画家・山脇信徳が描いた印象派風の絵画「停車場の朝」に対し、光太郎と親交の深かった石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」と、けちょんけちょんにけなしました。しかしフランスで印象派やフォービスムなどのポスト印象派に実際に触れてきた光太郎は、「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」とし、作品は作者それぞれの感性によって作られるべきもので、「緑色の太陽」があったっていいじゃないかと山脇を擁護しました。所謂「地方色論争」です。

そんな中で「いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」。さらにどんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。」。

ジャンルは違いますが、思い出すのは作曲家・三善晃のパリ音楽院時代のエピソード。コッテコテのフランス風の曲のつもりで作曲し、どうだ、とばかりに披露すると、「素晴らしい! 何て日本的な曲なんだ!」。そんなもんでしょう。『天台ジャーナル』さんでは、また違った方向に話が進んで行っていますが。

続いて『朝日新聞』さん栃木版、読者の投稿による短歌と俳句欄「歌壇・俳壇」。短歌の方で次の詠が入選していました。那須高原にお住まいの高久佳子さんという方の作。

『智恵子抄』初給料で買った本六十年経て回し読みする 

60年前というと、昭和39年(1964)。その頃流通していた『智恵子抄』といえば、草野心平編になる新潮文庫版もありましたが、わざわざ「初給料で」ということは、函入り布装の龍星閣版でしょう。
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昭和16年(1941)刊行のオリジナルは白い和紙の表紙で、太平洋戦争の激化に伴う龍星閣休業の昭和19年(1944)第13刷まで確認出来ています。戦後になって昭和25年(1950)に龍星閣が再開し、翌年に復元版としてこの赤い表紙のバージョンが出されました。それ以前に昭和22年(1947)に出た白玉書房版がありましたが、こちらは龍星閣の許諾をきちんと得ずに出されたということで、絶版になっていました。

その後、すったもんだがありましたが、この赤い表紙の復元版は版を重ね、現在でも細々と新刊として販売が続いているようです。

画像は昭和26年(1951)の復元版初版。後のものは函の題字も表紙の布と同じ朱色になり、函の色はもっと黄色っぽくなります。

もう1件、『朝日新聞』さんから。岩手版に不定期連載(?)されている「賢治を語る」、5月18日(土)分です。

(賢治を語る)名プロデューサー光太郎 花巻高村光太郎記念会・高橋卓也さん

 北東北の詩人・宮沢賢治。その存在を広く世界や後世に知らしめた人物がいる。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883〜1956)。「名プロデューサー」としての顔を持つ光太郎と、賢治の関係について、一般財団法人花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さん(47)に聞いた。
 《光太郎と賢治の出会いは?》
 賢治の生前唯一の詩集「春と修羅」が刊行されたのは1924年。日本を代表する彫刻家だった光太郎は翌年、草野心平に勧められてこの詩集を読み、詩的な世界に感銘を受けます。「注文の多い料理店」も借りて読み、親友の作家にまた貸しするほど入れ込みます。
 2人が出会ったのは1926年冬。花巻農学校を退職した賢治が、タイプライターやチェロを学ぶために上京した際、光太郎を訪ねます。突然の来訪だったため、仕事をしていた光太郎が「明日の午後明るいうちに来て下さい」と言うと、賢治は「また来ます」とそのまま帰っていったようです。賢治は再来せず、1933年に死去したため、2人が出会ったのはその一度きりでした。
 《死語、光太郎は賢治の全集を出します。》
 賢治が亡くなった翌年、東京・新宿で追悼会が開かれ、光太郎も出席します。その際、賢治の弟・清六が持参した、賢治の原稿が入ったトランクの中から、「雨ニモマケズ」が記された小さな黒い手帳が見つかります。
 残された原稿の束や手帳を見て心動かされた光太郎や心平の尽力で、賢治全集の刊行が決定し、光太郎はその全集の題字を書いています。
 《詩碑「雨ニモマケズ」の字も光太郎です》
 1936年秋、花巻に賢治の初めての詩碑「雨ニモマケズ」が建つことになり、光太郎に字が依頼されました。ただ、誰がどこで間違えたのか、詩碑には除幕の段階で計4ヶ所、漏れや誤りがありました。
 戦後の1946年、光太郎は訂正を行うため、自ら足場に登って詩碑に筆で挿入・訂正を行い、石工がその場で追刻をしました。光太郎は「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったそうです。
 《戦中、光太郎は花巻に疎開します。》
 1945年4月、空襲で東京のアトリエを焼失した光太郎は、花巻の宮沢家に誘われる形で、5月中旬、清六の家に身を寄せます。
 ところが、その花巻の家も8月10日の花巻空襲で焼けてしまいます。
 その際、空襲を経験した光太郎が、清六に「花巻でも空襲があるかもしれないので、防空壕(ごう)を作り、大切なものを避難させておいた方が良い」と助言していたため賢治の原稿は防空壕の中で、かろうじて焼失を免れました。まさに光太郎の助言のお陰です。
 《光太郎はその後も花巻で暮らし続けます。》
 約7年間、杉皮ぶきの屋根の3畳半の山小屋で独りで暮らし続けます。零下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔に雪がかかるような厳しい生活でした。
 亡き妻、智恵子の幻を追いながら、善と美に生き抜こうとした。高潔で理想主義的な生活から素晴らしい作品が生まれました。
 光太郎の芸術は、第一に彫塑(ちょうそ)、第二に文芸、第三に書と画、と言われますが、無名だった賢治の作品を守り、その存在を広く世の中に伝えた「名プロデューサー」としての仕事は、この国の文学に極めて大きな財産を残した、彼のもう一つの偉大な「芸術」だったと言えるかも知れません。


光太郎と賢治、花巻の縁が端的に記されています。こうした縁から、宮沢家では未だに光太郎の恩を忘れていないという感じで、実に有り難く、恐縮している次第です。

ちなみに記事には紹介がありませんでしたが、花巻高村光太郎記念館さんではテーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中ですし、常設展示では賢治と光太郎の縁的なところにも力を入れています。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

このたびはのびのびと潺湲楼に奄留、思ひがけなき揮毫も果し、デリシヤスの初収穫をも賞味し、お祝いの佳饌にも陪席、又久しぶりにて母にもあひ、まことにめぐまれた一週間でございました。

昭和22年(1947)10月16日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳

潺湲楼(せんかんろう)」は、佐藤邸離れ。旧太田村へ移住する直前の昭和20年(1945)9月から約1ヶ月、光太郎はここで起居し、その後も街に出て来るとここに宿泊しました。

デリシヤス」は林檎。「久しぶりにて母にあひ」は、大正14年(1925)に歿した母・わかに実際に会ったわけではなく(それではホラーです(笑))、双葉町の松庵寺さんでわかの二十三回忌法要を営んで、会ったような気になったということです。

その際に詠んだ短歌が「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」。おそらくデリシャス種の林檎を供えたのでしょう。この歌を刻んだ歌碑などが、松庵寺さんに残っています。

本日も新刊紹介です。

じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代

2024年4月25日 森まゆみ著 婦人之友社 定価3,000円+税

 2021~2024年まで雑誌『婦人之友』に好評連載の「羽仁もと子とその時代」が、ついに1冊に。近代女性史に大きな足跡を残したもと子の姿が、明治・大正・昭和の時代の中で、鮮やかに浮かび上がります。
 「じょっぱり」はもと子の故郷・青森では、信じたことをやり通す強さをいう言葉。よいことは必ずできると信じて、多くの人を巻き込みながら突き進んだ、もと子そのものです。
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目次
 まえがき
 第1部 青森の少女、新聞記者になる
  1 八戸に生まれて
  2 上京を追って
  3 自由民権とキリスト教002
  4 明治女学校へ
  5 最初の恋愛、結婚、離婚
  6 女性記者となる
  7 岡山孤児院と西有穆山、そして再婚
  8 『家庭之友』創刊
  9 中産階級の視点
  10 日露戦争と家計簿
  11 次女凉子の死
  12 『婦人之友』への統合
  13 『婦人之友』の船出
  14 明治が終わる
  15 大正デモクラシーと第一次世界大戦
  16 『子供之友』と『新少女』
 第2部 火の玉のように、教育者、事業家へ
  17 自由学園創立
  18 洋服の時代
  19 関東大震災
  20 震災後の救援
  21 読者組合の組織化、著作集発行
  22 消費組合の結成
  23 「友の会」の誕生
  24 ただ一度の外遊
  25 羽仁五郎の受難
  26 木を植える男−羽仁吉一と男子部設立
  27 東北の大凶作とセツルメント
  28 戦争への道
  29 北京生活学校
  30 幼児生活団と生活合理化と
  31 那須農場開拓と戦争の犠牲
  32 敗戦から立ち上がる
  33 引揚援護活動
  34 二人手を携えて
 あとがき

夫・吉一と共に、現代でも続く雑誌『婦人之友』を創刊し、都内に自由学園を創立した羽仁もと子の評伝です。同誌には光太郎・智恵子もたびたび寄稿しましたし、同校を光太郎が訪れたこともありました。
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昨年、花巻高村光太郎記念館さんで企画展「光太郎と吉田幾世」が開催され、いろいろと協力させていただきましたが、盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校さん)を創設した吉田幾世は、自由学園の卒業生で、羽仁夫妻の薫陶を受けた人物でした。

その吉田や光太郎にも言及されています。ただ、二人に関する部分がもうちょっとあってもよかったなという感じではありました。まだ全て読み終わっていませんが、智恵子に関しては記述がないようです。それから、相馬黒光、巌本善治、平塚らいてう、竹久夢二、与謝野晶子ら、光太郎智恵子らと交流のあった人物も数多く登場します。

それにしても、羽仁もと子という人物のバイタリティーはすごいものだな、と、読み進めながら思っております。上記の目次を概観するだけでもそれが窺えるのではないでしょうか。森氏も「あとがき」で、「今まで私ほどよく働く女はいないのではないかと思っていた。しかし本書に取りかかって、羽仁もと子には負けた。」と語られています。

ところで当方、昨年、企画展「光太郎と吉田幾世」の関係で国会図書館さんに出向き、昭和30年代までの『婦人之友』で光太郎智恵子に触れられている記事を全てプリントアウトして参りました。

もと子自身の書いた記事の中に、光太郎の名が書かれているものもありました。第18巻第5号(大正13年=1924 5月)の「身辺雑記」というエッセイです。その年の自由学園の入学式などについて書かれています。抜粋します。

 あくる日のお昼前、また桜の樹の下に見なれない人が来る。素朴に見ゆる和服を着た大きな人――私はそれは高村光太郎さんだと思つた。ほんとにさうだつた。私たちは高村さんの書いて下さるものを心から愛読してゐる。編輯局の人たちから、またいつでも高村さんのことを聞いて、どうか一度学校を見て頂きたいと、早くから希つてゐたから嬉しかつた。
 
また、こんな記事も。昭和20年(1945)4月の第39巻第4号、「編輯室日記」。

四月十七日(火)去る十三日の空襲は石渡荘太郎氏、湯澤三千男氏、佐野、真島、大槻博士、高村光太郎氏など、日頃婦人之友や自由学園に御縁故の深い方々のお家をも焼いてしまつた。せめて季節の青いものでもお目にかけてお慰めしたいと、南沢の野菜を自転車に積んで、それぞれ手分けして焼け跡をお訪ねする。三月号の表紙に、詩やカツトを描いて下さつた高村光太郎氏には、丁度印刷出来たばかりの婦人之友をもお届けしたが、大変喜ばれてブロツクの一片に次のやうな御言葉をかいて下さつた。
 「わざわざお使でお見舞下され忝く存じます、今焼跡でお話しいたして居るところです、御丹精の青いもの筍など何よりありがたく、又雑誌も拝受、お礼までいただき恐縮しました。乱筆のまゝ 四月十七日 高村光太郎」

 
光太郎、アトリエ兼住居が全焼ということで、手元に紙もなく、何とまあ焼け跡に落ちていたコンクリートブロックの破片に上記の文面を書いて(筆記用具は持っていたのか、借りたかしたのでしょう)、使者に託しました。この現物が現残していたら不謹慎かも知れませんが実に面白いと思います。

光太郎の同誌への確認できている寄稿等は、以下の通り。
無題
これだけ多くの寄稿をした雑誌は他にあまりありません。また、明治末から最晩年までの長期にわたってというのも異例です。

智恵子の寄稿は3件確認出来ています。
智恵子
これ以外にも、光太郎智恵子、それぞれに取材した記事や、吉田幾世による盛岡生活学校のレポートに光太郎が登場する記事などもあります。

光太郎の最後の寄稿は、昭和30年(1955)、羽仁吉一の逝去に伴う詩「追悼」。こちらは婦人之友社さんで制作したCDに女優・柳川慶子さんの朗読が収められています。
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森まゆみ氏曰く、「この簡潔な詩句になにも継ぎ足す言葉はない。

それにしても、森氏、戦時中のもと子についても剔抉されています。光太郎にしてもそうでしたが、もと子もかなりの翼賛活動を行いました。森氏曰く「私は伝記作者として、対象人物の過去の間違いを看過、もしくは隠蔽することはできない」。正論ですね。

そうでない伝記作者の何と多いことか。あまっさえ、翼賛活動を擁護するどころか「これぞ皇国臣民の鑑」とばかりに大絶賛している歴史修正主義者、レイシストの輩が存在するのが現状です。なげかわしい。

何はともあれ『じょっぱりの人 羽仁もと子とその時代』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間「婦人之友」の盛岡生活学校の生徒さんや先生方が四十人ばかり来ましたので、分教場で話をしました。画家の深沢紅子さんも先生の一人として来ました。バタとパンをもらつたのでよろこびました。


昭和22年(1947)8月14日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

引率していた一人が吉田幾世です。吉田はこの日の模様のレポートを『婦人之友』に寄稿しました。

盛岡の吉田幾世さんから友の会生活学校の一行四十名が稗貫郡太田村に高村光太郎氏をお訪ねした時の様子を知らせてきた。「高村先生は若い人に会うのは愉快だと、茅ぶきの分教場に心から嬉しそうに迎えて下さり、詩のことから建築、服飾とお話は深く広くひろがり、いつしか一同の心は果しない美の世界へ引込まれてゆきました。食後若い人達の未熟なコーラスを音楽飢餓がいやされると喜んできいて下さいました。疎開先の花卷で戦災にあわれた先生を、山から一本づつ木を伐り出して来て、山の根に小さな家を建てて村へ迎え入れた部落民の素朴な真心ととけ合つたこの頃の先生の御生活、電灯もなくラジオもなく、新聞も一日おくれしか手に入らないとのことです。その中で『婦人之友はいつも端から端まで大へん面白く読んでいます。料理や園芸の記事も全く参考になりますよ』といつておられたのもうれしいことでした。」(第41巻第10号 昭和22年=1947 10月)

先月封切りの映画「風よ あらしよ 劇場版」に関し、新聞に載った評をご紹介します。

『北海道新聞』さん。

映画「風よ あらしよ」柳川監督 声上げる大切さ今も■女性の自由と自立 命懸けた伊藤野枝

005 大正期の女性解放運動家・伊藤野枝を描いた村山由佳の評伝小説が原作の「風よ あらしよ」が札幌・シアターキノで上映されている。2022年に放送されたNHKドラマの劇場版で、わずか28年の生涯を激しく生き抜いた野枝を演じるのは吉高由里子。吉高が主演した連続テレビ小説「花子とアン」でディレクターを務めた柳川強が演出を手がけた。
 家を支えるためだけの結婚を蹴り上京した野枝は、平塚らいてう(松下奈緒)の言葉に感銘を受け、青鞜社に入る。女学校時代の教員・辻潤(稲垣吾郎)と結婚するも、やがて関係は破綻。無政府主義者大杉栄(永山瑛太)と出会い、生涯のパートナーとして関係を深めていく。
 大杉の妻や愛人との四角関係など〝自由奔放〟な側面が強調されがちだが、原作では野枝が、困ったときに助け合う「共助」の思想を掲げていたことが描かれる。柳川は「彼女の思想は、新自由主義の台頭によって社会の分断が進み、人とのつながりが持ちづらくなっている現代社会にリンクする。映画でもこの点を大切にしたいと思った」と語る。
 大学時代に、宮本研による戯曲「ブルーストッキングの女たち」を見て以来、野枝にひかれ続けていたという。女性が声を上げることが今以上に難しかった時代に臆することなく貧困や男女不平等など社会矛盾に異を唱え、個としての自由や自立を訴えた野枝。彼女を演じるのは「吉高さんしか思い浮かばなかった」と明かす。かれんでキュートなイメージが強いが、「野枝を激情型の人物像にするのは簡単なんだけど、それは彼女の一面でしかない。人との距離感をすっと縮めることができる人という野枝のイメージが吉高さんに重なりました」。
 1923年(大正12年)の関東大震災直後の混乱に乗じて多くの朝鮮人や、社会主義者、アナキストらが虐殺された。大杉と野枝も、大杉のおいで当時6歳だった橘宗一とともに憲兵の甘粕大尉(音尾琢真)らに殺され、遺体は井戸に投げ込まれた。
 映画は井戸の底から空を見上げるシーンで始まり、終わる。柳川は「100年前の出来事だけれど、当時の空気感は今とそんなに違わない。個人の自由が権力や集団に阻害されるとき、個人として声を上げるのは確かに難しい。でも、そうありたいと思い続けることはできる。そのきっかけになればうれしい」と話す。
 2023年、2時間7分。脚本は矢島弘一。シネマアイリス(函館)、シネマ・トーラス(苫小牧)、大黒座(浦河)でも上映予定。
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『東京新聞』さん。

映画「風よ あらしよ 劇場版」 伊藤野枝の生涯描くNHKドラマを再編集 時代が野枝に追いついてきた

006 100年前の日本で女性解放運動の第一線に立ち、近年、再評価が進む伊藤野枝(のえ)(1895~1923年)。波乱の生涯を描くNHKドラマを再編集した映画「風よ あらしよ 劇場版」が公開中だ。
 手掛けたのは柳川強。沖縄返還やアイヌ民族といった骨太の題材をドラマにしてきた演出家は、野枝の魅力をこう語る。「今よりよっぽど男尊女卑の考え方が強かった時代に、世間の目をものともせず声を上げる。その奔放さに引かれた」
 野枝(吉高由里子)は福岡県の貧しい家に生まれた。「元始、女性は太陽であった」と男社会に疑問を突きつけた青鞜社の平塚らいてうに憧れ、親の決めた嫁ぎ先を飛び出す。無政府主義者・大杉栄(永山瑛太)のパートナーとなった末に、28歳の若さで憲兵に殺害されてしまう。
 映画はその歴史を追いつつ子育てや料理、掃除といった日常も丁寧にすくい上げる。「主義主張よりも、生活の中にこそ、にじむものがある」と柳川。「主義者」につきまとう先鋭的なイメージではなく、根底にある素朴な「助け合いの精神」に光を当てる。
 柳川と吉高は、NHK連続テレビ小説「花子とアン」で組んだ。原作は村山由佳の同名小説。柳川は言う。「#MeToo運動など、『声を上げる』という動きは今とリンクしている。時代が野枝に追いついてきたのかもしれない」 

映画では村山由佳氏の原作にある光太郎智恵子登場シーンは残念ながら割愛されていますが、智恵子が表紙を描いた『青鞜』創刊号がモチーフとして随所に使われ、光太郎智恵子と交流のあった人々が多数登場、なかなかの見応えです。

公開終了してしまった上映館も多いのですが、これからというところもあります。まだという方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生は胎教を信ずる者です。もし赤さんが出来たのなら日常の精神と行ひとをつとめて清浄に、敬虔な日を送るべきです。


昭和21年(1946)10月24日 宮崎春子宛書簡より 光太郎64歳

春子は智恵子の姪にして、その最期を看取った元看護師です。前年に光太郎の仲介で、詩人の宮崎稔と結婚しました。翌年には男の子が無事誕生。宮崎夫妻は何と「光太郎」と命名してしまいました。

先週封切りの映画「風よ あらしよ 劇場版」に関し、新聞等で告知などが為されていましたのでご紹介します。

『神奈川新聞』さん。

映画批評 「風よ あらしよ 劇場版」

 2022年にNHKで放送されたドラマの劇場版。吉川英治文学賞を受賞した村山由佳の原作小説からほとばしる、100年前の女性解放運動家・伊藤野枝の熱量を、吉高由里子(写真)が見事に演じ切った。
 1923年、関東大震災後の混乱に乗じて何人もの社会活動家が殺された。野枝もその一人で、パートナーで無政府主義者の大杉栄(永山瑛太)と、わずか6歳だった大杉のおいと共に陸軍憲兵隊に連行され殺害された。遺体は無残にも古井戸に投げ込まれ、その暴挙が発覚したのは死後何日もたってのことだった。世にいう甘粕事件だ。
 その生涯は常に声を上げ続けたものだった。「元始、女性は実に太陽であった」と宣言した平塚らいてう(松下奈緒)に感銘を受け、青鞜社に入社。「新しい女」の自覚を胸に、女性の地位向上を訴えた。自分が見て、聞いたことを自分の言葉で書き、世間に見向きをされない時も諦めなかった。
 事件当時、野枝は28歳の若さ。男尊女卑の風潮が色濃い中で、「女だから」というだけで自由に生きられない世の中に、幼い頃から疑問を抱き続けた野枝。どんなに無念だったろうか。
 今の世に野枝が生きていたら、と思わずにいられない。女性の人生における選択は格段に増えた。だが、野枝が訴えた「誰もが自由に生きられる社会」は実現しているだろうか。大きな問いを突き付けられた。
演出/柳川強 製作/日本、2時間7分
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『毎日新聞』さん。

「風よ あらしよ 劇場版」 惨殺された女性解放運動家、伊藤野枝の生涯

 毎週公開される新作映画、どれを見るべきか? 見ざるべきか? 毎日新聞に執筆する記者、ライターが一刀両断。褒めてばかりではありません。時には愛あるダメ出しも。複数の筆者が、それぞれの視点から鋭く評します。筆者は、勝田友巳(勝)、高橋諭治(諭)、細谷美香(細)、鈴木隆(鈴)、山口久美子(久)、倉田陶子(倉)、渡辺浩(渡)、木村光則(光)、屋代尚則(屋)、坂本高志(坂)。
 大正時代に因習や社会情勢に異議を申し立て、大杉栄とともに惨殺された女性解放運動家、伊藤野枝の生涯を描く。2022年にNHK BSで放送されたドラマを再編集した。
 貧しい農家で育った野枝(吉高由里子)は平塚らいてうが主宰する雑誌「青鞜」に参加、「婦人解放」を唱える。やがて元教師の夫、辻潤(稲垣吾郎)と別れ、無政府主義者の大杉(永山瑛太)と暮らし始める。
 波乱に満ちた生涯を物語に詰め込むのに、きゅうきゅうとした感は否めないが、平塚やダダイストの辻、大杉ら、野枝に影響を与えた人物、野枝の自由への渇望や思想形成の過程をきっちり押さえた。大杉の奔放な女性関係なども描き、距離を置いて人物にフォーカスした演出にも好感。当時の社会規範や権力の暴走を明確にすることで、今に通じるエッセンスも際立った。何度か取り上げられた題材だが、野枝の内面を分かりやすく描写するなど、より知ってもらいたいという意図も明白。芯の強い野枝を吉高が精緻に演じた。原作は村山由佳の同名小説。柳川強が演出。2時間7分。東京・新宿ピカデリー、大阪・シネ・リーブル梅田ほか。

ここに注目
 人間としての懊悩(おうのう)や葛藤のドラマを期待すると拍子抜けだが、歴史上の人物の生涯を分かりやすくまとめ、入門編としては好適。「女性であるというだけで我慢を強いられ搾取される」という野枝の主張は、現代にそのまま響く。当時としては過激な思想を貫いた強さに、改めて驚かされる。

『週刊実話』さん。

やくみつる☆シネマ小言主義~『風よ あらしよ 劇場版』/2月9日(金)より全国順次公開

原作/村山由佳『風よ あらしよ』(集英社文庫刊)
出演/吉高由里子、永山瑛太、松下奈緒、美波、玉置玲央、山田真歩、朝加真由美、山下容莉枝、渡辺哲、栗田桃子、高畑こと美、金井勇太、芹澤興人、前原滉、池津祥子、音尾琢真、石橋蓮司、稲垣吾郎
製作・配給/太秦

 男尊女卑の風潮が色濃い大正時代。福岡の田舎の貧しい家で育った伊藤野枝(吉高由里子)は親が決めた結婚を拒み、逃げるように上京する。
 その後、平塚らいてう(松下奈緒)の「元始、女性は太陽であった」という言葉に感銘を受けた野枝は、手紙を送り、女流文学集団「青鞜社」に参加。当初、詩歌が中心だったが、いつしか伊藤が中心となり、社会矛盾に異議を唱える婦人解放運動団体へと発展していく。
 2014年に放映されたNHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』のヒロインである翻訳者、今年のNHK大河ドラマ『光る君へ』の主役・紫式部、そして、女性解放運動家・伊藤野枝を描いた本作。すべて吉高由里子主演です。
 垢抜けないフツーの女の子が、さまざまな出会いを通して自身のアカデミックな才能を開花させていく物語がこれで3作揃った感があり、吉高由里子と言えば「反骨心あふれる女性の半生」が代名詞になる可能性がありますね。
 自分は不勉強で伊藤野枝という女性解放運動家を知りませんでした。彼女は、平塚らいてうの「元始、女性は太陽だった」という言葉に感銘を受け、「青鞜社」に入って「女はこうあるべきだ」という因習に真正面から立ち向かいます。
 日本を代表する無政府主義者、大杉栄のことは、教科書的な知識として知っていました。しかし、大杉栄のパートナーだった伊藤野枝まで大杉とともに、あらぬ疑いで憲兵に捕まり、28歳の若さで惨殺されていたことに衝撃を受けました。
 この事件が起きたのはちょうど100年前のことです。

吉高由里子の熱演は確かだが…
 パンフレットにあった原作者の村山由佳さんの言葉には『(声をあげれば)世界は、変わる。かつて野枝たちが身をもって証明したのに、100年の間に元に戻ってしまっただけだ』とありました。
 当時に比べたら女性の社会進出ははるかに進んだでしょう。けれども、いまだに性加害があったりと、100年経っても女性の地位はまだこんなレベルかと伊藤野枝は失望するだろうか。あるいは、ここまで進んだかと肯定的に捉えるのか。
 一周回った今、伊藤野枝が現代のこの社会をどう思うだろうかと自問自答したくなる映画です。
 さて、本作の評価を一身に背負っているのは主演の吉高由里子に間違いないと思うのですが、実は自分が星1つ減じてしまったのもその点。彼女を起用した意図は理解できます。
 この華奢な体のどこにそんな反骨パワーが潜んでいたのかと、観客に感じさせようという人選でしょう。
 本作の見どころの一つに、民衆を前に「女性の不平等」について演説するシーンがあります。懸命に声を張り上げているのですが、この声のトーンで、聴衆の1人だった革命家の大杉栄に衝撃を与えられるのかと、どうしても思ってしまうんですよ。
 「線の細さ」と「アナーキーな言動」とのギャップを強調すればするほど、映像としての無理感が否めないのではないか。吉高由里子が熱演なだけに、痛し痒しですね。

やくみつる
漫画家。新聞・雑誌に数多くの連載を持つ他、TV等のコメンテーターとしてもマルチに活躍。

辛口の部分もありますが、やくさん、概ね好意的な評ですね。

Youtube上に予告編もありました。


ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

しかし生命の信念は死とは別個の心事です。人悉く死す。しかも生命の感宇宙に充満せり。

昭和21年(1946)9月11日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

共通の知人であった詩人の逸見猶吉が、関東軍報道隊員として派遣されていた満州から復員できずに客死したという報に対しての返信の一節です。逸見は亡くなったけれど、我々の心に生き続けるよ、というところでしょうか。

同様に、関東大震災直後のドサクサで抹殺された野枝の残したメッセージ、今も現代の我々に語りかけてくれているわけですね。

一昨日の『東京新聞』さん、社説欄に光太郎の名が。

<社説>週のはじめに考える 「おまかせ」が過ぎると012

 正直、「回っていない方」にはあまり明るくないのですが、白木のカウンターでいただくような高級な寿司(すし)店でよく採用されているのが、「おまかせ」という注文の仕方です。注文といっても、おまかせですから、どんな寿司が、どんな順番で出てくるかは寿司職人の胸一つ。旬を考え、ネタを吟味し、客の食べるペースにも気を配って「はい、トロです」などと順次、供してくれる仕組みです。
 こうした「おまかせ」を創始したのは、戦前戦後と東京で活躍した藤本繁蔵という寿司職人だといいます。何年か前のNHKの特集番組で初めて知ったのですが、白木のカウンターの採用も、この人を嚆矢(こうし)とするとか。高級寿司店ばかりを渡り歩いて「天才」の名をほしいままにし、多くの著名人らの舌もとりこにした伝説の職人だったようです。
◆「自分で決める」から解放
 その「おまかせ」は寿司を出す順番、いわば構成の妙も含めて職人の力量が問われるわけですが、味覚も食材の知識も覚束(おぼつか)ない者にとっての“利点”は「自分で決める」からの解放かもしれません。「こんなものを頼んだら季節外れだと笑われないか?」などとびくつかずにすみますから、心穏やかに、職人が技を凝らした一貫一貫を味わえるというものです。
 寿司だけでなく、和洋中どの料理にもある「コース」も同じ。いちいち何を、どんな順番で注文するか自分で決めなくてよい。それが客をして「コース」を選ばせる理由の一つではないでしょうか。
 考えてみると、外食に限らず、私たちは暮らしのいろんな場面で「おまかせ」に浸っています。極端なことを言えば、自動ドアだってそうですが、デジタル時代の当節はなおさら。リポートなどの作成で頼りにする人も増えているらしい生成AI(人工知能)こそ、「おまかせ」の極致でしょう。
 もっと身近なところでは、例えば道案内です。特に地理的に詳しくない場所に行く時など、経路の選択は、ほぼ全面的にスマホなどの地図アプリに「おまかせ」という人が今や多数派かと。代表詩の『道程』で<僕の前に道はない>とうたった高村光太郎は、既に目の前の画面にある道を従順に進む<僕>たちを見て、さて、泉下で何を思っているでしょう。
◆まれに見る「選挙イヤー」
 道の選択といえば、今年、2024年は、まれに見る「選挙イヤー」です。台湾総統選は今月、既に終わりましたが、2月にインドネシア大統領選、3月にロシア大統領選があり、4月には韓国、4~5月にはインドで総選挙が予定されています。そして11月には米大統領選が。結果いかんでは、動揺が世界中に及ぶでしょう。
 そして、わが国でも今年は、衆院の解散・総選挙の可能性が高いとみられています。派閥パーティーの裏金問題で大揺れ、岸田内閣の支持率も急落する中、自民党は9月末で任期満了の総裁選を前倒しし、「党の顔」をすげ替えた上で総選挙に臨むのではないか-といった観測も飛び交っています。
 その場合、懸念されることの一つが、低投票率。ただでさえ衆院選は過去4回連続で60%に届かなかったのに、裏金問題などで増大した政治不信がさらに足を引っ張る恐れがあります。でも、国の進む道を左右する大事な選択の機会です。ここは、さすがに「おまかせ」はまずい。寿司でいうなら、自分の胃袋とよくよく相談し、本当に自分が食べたいネタを自分で決めなくてはなりません。
 「政治的無関心」とは、日本や世界の命運を誰かに「おまかせ」にすることでしょう。確かに、政治的な出来事をフォローし、考えを深めるのは面倒といえば面倒です。でも、恐れるのは、その面倒を省き「おまかせ」に慣れきってしまううちに、自分で考え、自分で決めるという回路が錆(さ)びついてしまわないか、という点です。
◆錆びつく思考回路、記憶
 元日に発生した能登半島地震でもそうでしたが、災害時には携帯電話が使えなくなることが少なくない。しかし、やっと公衆電話をみつけ、いざかけようとしたら、家族や友人の電話番号を覚えていないことにはたと気づく…というのは、いかにも現代人に起こりそうなことでしょう。そう。電話番号の記憶をスマホに「おまかせ」にするうち、私たちの記憶は錆びついてしまうのです。
 さて正月も暮れていきますが、年始につきものの「福袋」こそ、「おまかせ」の典型でしたね。中身が分からない点がみそですが、あれは価格より価値の高い商品が入っているのが前提で、だからこその「福」のはず。でも選挙の場合は違います。「おまかせ」の袋から「福」が出てくることはまずないと考えるべきでしょう。

何が出てくるかのワクワク感や、ルーティンにこだわっていては得られない意外性といったものを楽しみたいのなら「おまかせ」も悪くはないと思います。また、いろいろ考えて組み合わせるのが面倒だったり、お店の人に手間をかけるのが申し訳ないと思ったりの場合。例えば当方、コンサート等によく持参するのですが、アレンジフラワーやら花束やら。また、お菓子の詰め合わせなどもそうでしょう。既成のものを頼んでしまった方が自分にとっても、お店にとっても、圧倒的に楽ですね。

しかし、後半にあるとおり、政治の世界での「おまかせ」は駄目ですね。ところがそれがまかり通っているのが現状でしょう。「「○○党」という字しか書けない」と公言し、思考停止に陥っている輩の何と多いことか。

それにしても、最後の方に挙げられたスマホの電話帳の例にはドキリとさせられました。といって、今さら紙のアドレス帳というわけにもなかなかいきませんし……。

たしかにこうした現代人のライフスタイル、泉下の光太郎はどう見るかと考えさせられますね。

【折々のことば・光太郎】

御帰還後も御無事でお過ごしの事と存じます、ますます御元気で進んでください。小生東北の山間で頗る元気に健康にやつて居ります。


昭和21年(1946)7月29日 大木実宛書簡より 光太郎64歳

大木は大正2年(1913)生まれの詩人。光太郎は戦時中の昭和18年(1943)、大木の第三詩集『故郷』の序文を頼まれて書いています。

この時期の「帰還」はイコール「復員」だろうと思って調べたところ、やはりそうでした。何と召集されたのは結婚3ヶ月後だったそうでした。

大木や、当会の祖・草野心平などは無事だったクチですが、光太郎と交流があった文学者たちの中には、高祖保など戦場の露と消えた人々も。そういう報せも届き始めていたと思われます。

どちらかというと女性向け、新刊のムックです。

&Me-time  &Premium特別編集 私の好きな、ひとりの時間。

2023年12月5日 マガジンハウス編・刊 定価1,880円

「ひとりの時間」をどんなふうに過ごしていますか? 本を読んだり、音楽を聴いたり、気の向くままに散歩してみたり、どこかへふらりと旅に出てみたり。「ひとりの時間」は、楽しむことができる人にとっては、心地のいい贅沢な時間。心を鎮め、自分の内面とじっくり向き合うことは、自分が本当に大切にしたいものに気づくきっかけになるはずです。過ごし方、暮らし、旅、映画、音楽、本まで、「ひとりの時間」や「静かに過ごす時間」にまつわる記事を1冊にまとめました。
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目次
Making Me Time あの人の、ひとりの時間のつくり方、楽しみ方。
 佐竹彩 三國万里子 上白石萌歌 松下萌黄 岡本佳樹 山田みどり 服部あさ美
 宮田・ヴィクトリア・紗枝
Why Do We Need Me Time? なぜ、ひとりの時間は必要なのでしょうか?
 吉本ばなな
Movie ひとりの時間を豊かに感じる映画。
 高崎卓馬
Lifestyle ひとり、心地よく暮らす住まい。
 吉原ゴウ 桐野恵美 
Travel 私を変えた、ひとり旅。
 タカコ・ノエル 黒島結菜 吉田恵里香 宇賀なつみ チェルシー舞花 木本梨絵
 佐久間由衣
Workstyle ひとりだからできたこと。
 曽我貴彦 宮後優子 倉橋孝明
Miri Masuda 益田ミリの、ひとりの時間。
What were in Their Minds? あの人が、ひとりで考えたこと。
 ヘンリー・D・ソロー スーザン・ソンタグ 森茉莉 篠田桃紅 星野道夫
My Peaceful Time 私の、静かな時間の過ごし方。
 加山幹子 宮田・ヴィクトリア・紗枝 関田四季 大塚寧々 花楓 溝口実穂 高橋周也
 村田明子 山根佐枝 白石聖 山口恵史
Celebrities in Peace あの人が愛した、静かな時間。
 篠田桃紅 いわさきちひろ パブロ・ピカソ 熊谷守一 高村智恵子
Soothing Stories 心を鎮める読書案内。
 高山なおみ
Peaceful Home 静かな暮らし。
 高木由利子 山下りか 濱田敦司 藤井繭子
Sounds of the Nature 自然の音を聴く。
 泊昭雄 大森克己 在本彌生 野川かさね 藤田一浩
Soothing Tunes 週末を静かに過ごすための音楽。

同じマガジンハウスさんから発行されている雑誌『& Premium』の増刊的な位置づけのようです。「私の好きな、ひとりの時間」をテーマに、これまでの本誌に載った記事からピックアップして1冊にまとめたと思われます。書き下ろし的な部分もあるかもしれませんが。

智恵子が取り上げられている「Celebrities in Peace あの人が愛した、静かな時間。」は『& Premium』の第97号(令和3年=2021)に掲載されました。
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そちらをお読みになっていない方など、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨十八日は午前中挨拶まはり。午後小屋にゆきて火を焚いて一人障子張りにかかり、屋根に音を立てて落ちる栗をやいてたべました。静寂きはまりなく神気澄みて無上の歓喜をおぼえました。


昭和20年(1945)10月19日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

2日前、花巻郊外旧太田村に移住し、近くの(といっても1㌔弱離れていますが)分教場に寝泊まりしながら山小屋の造作にかかっていました。ちょうど光太郎の大好物だった栗の実の落ちる頃で、早速、囲炉裏の火で焼いて食べたとのこと。

寒がりの当方としてはあまり来てほしくないのですが、来ちゃった感がありますね、冬。昨日あたりは関東では小春日和でしたが。

『東京新聞』さん、11月13日(月)のコラム。

筆洗

 「春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず」-。吉田兼好が『徒然草』にこんなことを書いている▼いやいや、春が終われば夏、夏の後に秋がくるのはあたりまえでしょと言いたくもなるか。兼好さんが強調するのは四季の移ろいとはそんなにはっきりしたものではなく、「春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ…」なのだという。つまり、春の中に夏の気配があり、夏のころから秋が忍び込んでいる。季節とはそういう微妙な変化なのだと▼兼好法師に逆らう気はないが、微妙な変化とは言いにくい今年の冬の訪れだろう。強い寒気が流れ込んだ影響で、週末あたりから急に冷え込んできた。東京でも昨日、冬の訪れを告げる北風の「木枯らし1号」が観測された▼11月に入っても最高気温が20度を大きく超える日が続いたのに、この寒さに毛布をあわてて引っ張りだした。夏から一気に冬へ、とはおおげさだが、秋が感じにくかった分、冬に寝込みを襲われた気分になる▼週末に訪れた京都では今年、紅葉が遅れていると地元の方がおっしゃっていた。季節の急な移ろいに紅葉の足並みがついていけないようである▼冷え込みに思い出すのは高村光太郎の詩か。「きっぱりと冬がきた(中略)。きりきりともみ込むやうな冬がきた」。体調管理にはお気を付けいただきたい。小欄、きっぱりと風邪をひいた。

お大事にどうぞ(笑)。

11月10日(金)、『産経新聞』さん大阪版、俳人の坪内稔典氏によるコラム。

モーロクらんらん(31) 冬構え001

 暦の上では8日が立冬だった。今日は冬の3日目だが、さて、冬の備えはできているだろうか。冬への備えを季語では「冬支度」「冬用意」「冬構え」などと言う。これらの語、冬はちゃんと構えて、あるいは十分に用意して迎えるべきものだ、ということを示している。
 ところが近年、この冬を迎える気持ちが緩んでいる。暖冬が続き、防寒用具などが整ってきたせいだろうが、たとえば「冬隣(ふゆどなり)」という季語がよく使われるようになっている。
 かつて春を待つ喜びを「春隣」と言ったが、その言い方を冬にも転用したのが「冬隣」だ。最新版の歳時記『角川俳句大歳時記』はこの転用を容認し、「春夏秋冬みな隣をつけ」ると言い、「冬隣の場合、寒く厳しい冬に対して身構える緊張感が伴う」と解説している。
 その解説の通りだと、「冬支度」でいいではないか。あるいは、「冬構え」のほうがぴったりだ。「冬隣」だと元になった「春隣」の気分がどうしても漂う。つまり、冬を喜ぶ気分になる。
 たしかに喜んで冬を待つ気分はあるだろう。スキーが好き、あるいはコタツを囲む暮らしへのあこがれなどは「冬隣」的かも。でも、冬は冬らしく、春は春らしくなければせっかくの季節感がだらしなくなる。つまり、「春隣」を「冬隣」へ転用することに私は反対だ。精神とか感受性がこうした転用から緩むのではないだろうか。
 「冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食(えじき)だ」「しみ透(とお)れ、つきぬけ/火事を出せ、雪で埋めろ/刃物のやうな冬が来た」。以上は高村光太郎の詩「冬が来た」の一節。やや物騒だが、冬はこの詩のようなものだろう。

日本華道社さん発行の月刊誌『ざ・いけのぼう』12月号。「特集・はなのおはなし」という連載から。

特集四季の花詩~《冬》~

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冷たく厳しい冬が強くしてくれる

 高村光太郎は東京美術学校を卒業後、海外へ留学。帰国してから約5年の間に書いた詩を時系列にまとめ、第一詩集として『道程』(大正3/1914年)を出版しました。「冬が来た」は「一九一三年」の項にあり、光太郎30歳、愛妻・智恵子と結婚する前の年の作品のようです。
 「公孫樹の木も箒になった」と表現された冬の景色。夏は緑、秋は黄色の葉が生い茂っていた公孫樹の木から、葉がすっかり落ちてしまった様子は、私たちに寒々とした冬を思い起こさせます。
 強い言葉で冷たく厳しい冬を表現し、「人にいやがられる」と語っていますが、詩の後半は厳しい冬を歓迎し、高揚する思いが歌われています。 
 寒い冬に対して、光太郎は他の季節にはない特別な力を感じていたのかもしれません。冬の厳しさが、自分を強く鍛えてくれるように思い、「僕に来い」と呼び掛けたのでしょう。冬の激しいエネルギーを自らの糧とし、どんな苦境も強く生き抜いていくという強い意志を感じます。


同じ項には北原白秋の「雪に立つ竹」も紹介されています。

同誌、華道家元池坊さんの機関誌のような感じですが、一般にも販売されていまして、Amazonさん等でも入手可能です。ぜひお買い求めを。
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花巻高村光太郎記念館さんの紹介も載せて下さっています。そこで写真を借りたいということで花巻市役所さんに連絡が行き、ついでに本文の内容も問題ないか見てほしい、ということになったそうで、すると市役所さんから当方に校訂依頼が回ってきました。

というわけで、あちこちで「冬が来た」「冬が来た」「冬が来た」……(笑)。寒さに弱い当方、これから数ヶ月は気の重い日々です。温暖な房総で暮らしているくせに、と、北国の皆さんには怒られそうですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

「宮沢賢治詩集」をやはり青磁社からたのまれています。賢治さんの実家に居る事とて編纂には便利です。未発表の詩も発見されたのでそれも入れます。

昭和20年(1945)7月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

花巻の宮沢家に疎開していた折の書簡から。終戦後の翌年から刊行が始まる『組合版 宮沢賢治文庫』の編集作業、戦時中から既に行っていたのですね。

11月8日(水)、『毎日新聞』さんの山梨版記事から。光太郎の花巻郊外旧太田村隠棲、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)についてです。

山は博物館 光太郎「岩手の山」に自ら流刑 己の戦争詩に「暗愚」見る

 岩手県花巻市のJR花巻駅から西へ9キロ余り。彫刻家で詩人としても知られる高村光太郎(1883~1956年)は太平洋戦争後、太田村(現花巻市)の外れの「岩手の山」で7年間、おんぼろ小屋に一人で住んだ。東京にいた時、戦争を支持する詩を多数発表した自らに「暗愚」を見いだし、流刑を意味する「流謫(るたく)」を科した。
 戦争詩を最初に書いたのは、日本が日中戦争を始めた1937年と言われる。「事変(じへん)二周年」で<植民地支那にして置きたい連中の貪慾(どんよく)から君をほんとの君に救ひ出すには、君の頭をなぐるより外ないではないか>と戦争を正当化。精神の支柱は、欧米のアジア支配からの解放だった。太平洋戦争開戦の「十二月八日」は<東亜(とうあ)を東亜にかへせといふのみ。彼等(かれら)の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ>と主張。光太郎にとってこの戦争は「大東亜戦争」だった。
 44年の詩集「記録」には「特別攻撃隊の方々に」「海軍魂を詠ず」「戦に徹す」などを載せた。
 45年4月、東京のアトリエが空襲で焼け、翌月、宮沢賢治の縁で花巻町(同)に疎開。敗戦後の11月、太田村の小屋に落ち着いた。鉱山などで使い古した建物を移築したため、粗末で当初は電気も通じておらず、まるで炭焼き小屋と同情された。光太郎は62歳で、当時は老人とみられた年齢。肺を病み、しばしば吐血して心配されたが、以前から土に根差した文化を理想とし、地方暮らしは希望していたものだった。
 そのころ、戦争協力者への糾弾は文学にも広がり、光太郎も対象になった。知人へのはがきには、詩集の「『記録』は大本営を過信した小生の不明の記録となりました」との記述がある。
 47年7月号「展望」に、転機となる詩20編の「暗愚小傳(しょうでん)」を発表。自分の精神史を告白した。「真珠湾の日」で<天皇あやふし。ただこの一語が私の一切を決定した>とあるように、戦争支持のもう一つの柱は天皇崇拝だった。「山林」では<おのれの暗愚をいやほど見たので、自分の業績のどんな評価をも快く容(い)れ、自分に鞭する千の非難も素直にきく>と吐露した。
 これに収めなかった詩で、中国の抗日戦争の指導者だった蒋介石に対する「蒋先生に慙謝(ざんしゃ)す」では<天皇の名に於(お)いて強引に軍が始めた東亜経営の夢はつひに多くの自他国民の血を犠牲にし、あらゆる文化をふみにじり、国力つきて破れ果てた。わが同胞の暴逆むざんな行動を仔細(しさい)に知つて驚きあきれ、わたくしは言葉も無いほど慙(は)ぢおそれた>。そして「ブランデンブルグ」で<岩手の山におれは棲(す)む。おれは自己流謫のこの山に根を張つて>と言い切った。
 鋳金家で弟の豊周(とよちか)は著書で「本気でむきになって、自分を島流しにした。国家に協力し、いかにうかつだったかを思い、自分の暗愚を感じていた」と振り返った。光太郎は50年発表の詩集「典型」の序文でも「私の愚鈍な、あいまいな、運命的歩みに、愚劣の典型を見るに至つて戦慄(せんりつ)をおぼえずにゐられなかつた。詩は悪罵せられ、軽侮せられ、処罰せられ、たはけと言はれつづけて来たもののみ」と、嫌悪感を繰り返し表した。
 本職は彫刻だが、岩手にいる間は彫塑、木彫とも1点の作品も発表しなかった。一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」事務局長補佐の高橋卓也さん(46)は「一般に、自ら与えた罰は流謫と言われるが、実はそれより重い罰を彫刻の封印という形で科し、苦しんだ」と指摘する。
 だが、彫刻刀はよく研ぎ、材料の木も乾燥させていた。それでもだ。モチーフを欲する「人体飢餓」で<渇望は胸を衝(つ)く。氷を噛(か)んで暗夜の空に訴へる。雪女出ろ。この彫刻家をとつて食へ。とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。その時彫刻家は雪でつくる。汝(なんじ)のしなやかな胴体を>ともだえた。
 知人の手記によると、「岩手山の肩の強さに魅力があり、粘土で手の上で作ってみた」と話していた。高橋さんは「手慰みだろう」と推察する。弟は、光太郎が晩年「気もちが楽しいと木彫が出来る。腹が立つと詩が出来る」とつぶやいたエピソードを紹介し「兄が好んで試みた木彫の小品は、心が豊かな時でなければ、また心に他念が混入してゐる時などでは出来るものではない」と振り返った。
 光太郎が彫刻の封印を解いたのは52年。10月に帰京し、青森県の依頼で十和田湖畔に建立する像の制作に取りかかった。仕事が終われば戻るつもりで、「小屋はそのままに」と言い残したが、53年10月の「乙女の像」除幕後に急に体が弱り、帰れないまま2年半後に死去した。死後、いろりの灰の中から土で作ったウサギの頭が出てきた。小屋は「高村山荘」として保存されている。
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◇亡き妻に思いはせ
  戦後、小屋で独居の高村光太郎は、寂しくないかと心配されたが、1938年に他界した妻の「智恵子がいるから大丈夫」と答えていた。<智恵子はすでに元素にかへつた。わたくしは心霊独存の理を信じない。智恵子はしかも実存する。私の肉に居る智恵子は、そのままわたくしの精神の極北>と、50年の詩文集「智恵子抄その後」の「元素智恵子」で書いた。
 小屋から西へ徒歩5分に、高さ約30メートルの小さい山がある。東京方面の南側に景色が開け、光太郎はここに登っては妻の名を呼んでいたと、地元住民に語り継がれてきた。花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さんは「絶叫していたという人もいれば、ほがらかな感じだったという人もいる」と話す。 同書の「裸形(らぎょう)」で<つつましくて満ちてゐて、星宿のやうに森厳で山脈のやうに波うつていつでもうすいミストがかかり、その造型の瑪瑙(めのう)質に奥の知れないつやがあつた。智恵子の裸形をこの世にのこしてわたくしはやがて天然の素中(そちゅう)に帰らう>と予言した。そこへ、十和田湖畔の像制作の依頼が舞い込んだ。現地視察に同行した建築家は「『智恵子を作ろう』と、ひとりごとのようにいわれた」と書いている。モデルを頼んで裸像を作ったが、出来上がった顔は智恵子だった。 智恵子は紙絵を多数残し、高橋さんは「光太郎先生は死期が近付くと、作品を預けていた知人に『返してほしい』とお手伝いさんに電報を打ってもらい、永眠に間に合った」と話す。
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なかなかよくまとまっていますね。

光太郎が蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村、そして「乙女の像」のたつ十和田湖、11月も半ばとなったこの時期、初雪の便りが届く頃です。もう既に降っているかも知れません。そしてこの後、厳冬期ともなれば雪に閉ざされます。

冬空の下、北の大地に粛々と生きた老詩人に思いを馳せていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

数日中に小生 岩手県花巻の方へまゐる事になりました、暫く滞留するつもりで居ります。

昭和20年(1945)5月15日 伊藤海彦宛書簡より 光太郎63歳

実際には「数日中」ではなく、この日の夜行で上野駅から花巻へと旅立ちました。朝から列車待ちの行列に並び、乗車出来たのは夕方でした。翌朝、雨で煙る花巻駅に着き、宮沢賢治の実弟・清六に迎えられました。

11月1日(水)に開催されました「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の件が岩手で報道されましたのでご紹介します。

『岩手日日』さん。

光太郎の思い出後世に 生誕140年記念トークリレー 花巻・太田地区振興会

 太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年を記念しトークリレー「続・光太郎はなぜ花巻に来たのか」を行った。7人のパネリストが、1952年10月までの7年間を花巻市太田山口で暮らした光太郎のエピソードの数々を披露し、聴講者の関心を誘った。
 今年2月に開催した光太郎が太田に疎開するまでのいきさつやエピソードをひもといた講演会に続く企画。高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さんの進行で、メインパネリストに林風舎代表取締役の宮沢和樹さん、パネリストに高村山荘がある太田地区に住む人と、太田以外で光太郎と関わりのある人を迎え、2部構成で光太郎との思い出や関わりを聴いた。
 小学1年生の頃に初めて光太郎と会った浅沼隆さん(82)は、秋の学芸会に来賓として参加した光太郎がステージに上がった時には背広姿から赤い衣装を着て白いひげを着けたサンタクロース姿に変わっていたことを紹介。「白い大きな袋に駄菓子をたくさん入れて持ってきて皆に配った。(見たことのない姿に)みんなびっくりして大喜びだった」と振り返った。
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『岩手日報』さん。

高村光太郎 記憶をつなぐ 生誕140年記念トークイベント

 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は1日、同市高松の宮沢賢治イーハトーブ館で、彫刻家・詩人の高村光太郎(1883~1956年)の生誕140年記念事業としてトークイベントを開いた。
 約60人が来場。光太郎と縁がある市民ら6人、高村光太郎連翹忌運営委員会代表の小山弘明さん(59)=千葉県=と賢治の実弟・清六さんの孫の宮沢和樹さん(59)が登壇した。
 光太郎は宮沢家を頼りに疎開。花巻高村光太郎記念会理事の浅沼隆さん(82)の父親は、住民との交流の場になった旧山口小学校長を務めた。自身も交流し「背が高く体格が良かった。封筒入りの菓子をくれた」と振り返った。
 盛岡一高時代、文芸部員として山小屋(高村山荘)を訪れた菊地節子さん(88)は「マロングラッセに村の人が関心がないことや、牛の尻尾を煮る西洋料理について話す姿が印象的で(当時の)日本人は食に関心がなさ過ぎると話していた」と笑いを誘った。
 宮沢さんは、音楽好きだった光太郎に触れ「賢治はレコードを多く買うほどクラシック好きで、共通する部分だ」と述べた。小山さんは「今の若い人に賢治と光太郎の精神を伝えていくべき」と力を込めた。

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生前の光太郎をご存じの方々の証言はもちろん、報道された以外にも、いろいろな話が聴け、貴重な機会でした。今回のパネラーの方々のうち、直接的には光太郎との交流は無かった皆さんも、海外向けを含め、様々な機会で光太郎について広める活動に当たられていて、有り難い限りです。

当方としましても、交流の輪が広げられたことで、新たな情報の収集につながることを期待しております。それらが入りましたらまたおいおいご紹介して参ります。

【折々のことば・光太郎】

尚厄介とは存じますが近く宮田さんの奥さんと娘さんがそちらに参られる幸便に託して、小生作のブロンズ「手」、木彫「蓮根」、智恵子の切抜絵壹包(箱入)をお届けいたします故お持ち下さるやうお願いいたします、


昭和20年(1945)4月1日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

真壁仁は山形在住だった詩人。激化する空襲のため、父・光雲や自分の彫刻作品、智恵子の紙絵などはほうぼうに疎開させました。紙絵は山形の真壁、茨城取手の素封家・宮崎仁十郎、そして花巻の佐藤隆房(賢治の主治医)の元に。

ところがそれらを疎開させるにしても、鉄道便などもむちゃくちゃな状態で、このように人に頼んで持って行ってもらったりということが多かったようです。「宮田さん」は彫刻家の宮田喜代三。品々を託された宮田の妻は真壁との面識はなく、山形でそれらを渡す際「ほんとに真壁さん?」と何度も確かめたそうです。それにしても紙絵や木彫はともかく、ブロンズの「手」はおそらく10㌔㌘くらいあるのではと思われ、大変だったことでしょう。

毎年この時期はそうですが「芸術の秋」ということで、紹介すべき事項が山積しています。日程的なことを考えつつ紹介する順番を勘案しているのですが、時に失念したりもしまして申し訳なく存じます。

また、ある程度共通性のある事項はまとめてご紹介しています。ネタのない時期は1件ずつご紹介するところですが……。

今日は地方紙記事から。

まず、もうすぐ閉幕の展覧会の評。10月25日(水)に共同通信さんが配信し、全国の多くの地方紙さん等に掲載されました。

【3分間の聴・読・観!(15)】芸術に命吹き込む瞬間を捉える 意志ある表現と緊迫感

 アーティゾン美術館(東京都中央区)の「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」で、作品を生み出す芸術家たちの強い個性と人間味に感じ入った。作家その人と制作現場を目にすることで理解も楽しみも広がる。
 展示の「第1章」は同美術館の前身であるブリヂストン美術館が1950~60年代に製作した「美術映画シリーズ」と、絵画やブロンズ像など作品の展示で構成されている。登場するのは梅原龍三郎、前田青邨、鏑木清方、高村光太郎、川合玉堂、坂本繁二郎ら、そうそうたる顔ぶれだ。
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 制作現場の映像に、一人一人の手指の滑らかさや力の強弱が見て取れた。創造に向かうまなざしだけでなく、合間にお茶を口に含んだり近所の人と道であいさつを交わしたりする姿、アトリエ内外の景観も収められている。記録映画プロデューサー高場隆史らによる貴重な映像記録と言っていい。
 梅原たち6人それぞれを主役にした映画は1本当たり10分前後から最長で約17分間。会場では繰り返し上映されており、私は2度、3度と鑑賞した。6、7人ほどの美術家を数分間にまとめた「美術家訪問」シリーズも見ることができる。
 とりわけ鏑木清方の絵筆にフォーカスした映像の緊迫感に引きつけられた。しならせた筆先から描線がほどき出る感覚と言えばいいだろうか。清方が引く糸のように細い線が人物に命を吹き込んでいく。芸術は人間の意志と五感を掛け合わせて生まれるものだと得心した。
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 方や、能舞台で「石橋(しゃっきょう)」を舞う喜多六平太を前に、素早く手を動かして何枚もスケッチをする前田青邨の姿も映画らしい捉え方だろう。作品の誕生をカラーで追っている。
 同展では写真家安齊重男が撮影した猪熊弦一郎、堂本尚郎ら現代美術家の制作風景、パフォーマンスなどの写真を「第2章」として展示している。「現代美術の伴走者」を自任した安齊がシャープに切り取った個性は皆、鮮やかだ。同展は11月19日まで。

9月9日(土)に始まった、京橋のアーティゾン美術館さんでの「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」。昨日も前を通ったのですが、当方は9月10日(日)に拝見して参りました。そのレポートはこちら。先月は『朝日新聞』さんに、やはり光太郎の名を出しつつの展評が出ています。

続いて、青森の『東奥日報』さん。一面コラムに、上記アーティゾン美術館さんの「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」で創作風景動画が公開されている光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」70周年をご紹介下さっています。

東奥春秋 1000年の大計

 「円錐(えんすい)空間にはまりこんで(中略)立つなら幾千年でも黙って立ってろ」。詩人・彫刻家の高村光太郎がそう思いを込めたブロンズ像。傍らの碑に刻まれた詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」を久しぶりに読み、像を見上げ、改めて新鮮な感動を覚えた。「幾千年でもか」と。
 ブロンズ像はもちろん、乙女の像のこと。先日、除幕から70周年を迎えた。その日の朝、像が建つ御前ヶ浜には、清掃に精を出す地域住民の姿があった。「除幕式の日も雨だった」と、あいにくの雨も意に介さず。やや前傾姿勢で向かい合う2体の像と、像を慕う住民の思いが湖畔の風景に溶け込んでいた。
 十和田湖地域の未来像を描く官民合同の検討が始まった。宿泊施設を誘致し、国立公園ならではの感動体験を提供するモデル事業への採択を目指す。同湖の国立公園指定から今年で87年。「十和田湖1000年会議」という名称に、湖畔再生の大計を建てる意気込みが漂う。
 「ここでしかできない暮らしを築いた上で、観光で人がくる体制をつくりたい」。初回の会議ではそんな声があったという。「幾千年でも」は、十和田湖の美しさに魅せられた彫刻家から会議に与えられた課題かもしれない。カルデラ湖の円錐空間の秋は深まりゆく。


像の清掃が行われたのは、70年前に除幕式が行われた当日の10月21日(土)でした。
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最後に、光太郎と交流があった臼井吉見が執筆し、光太郎も登場する大河小説『安曇野』関連で。

『中日新聞』さん。

臼井吉見「安曇野」知って 「大河に」市がパンフ1万部作成

 安曇野市は、同市堀金出身の作家臼井吉見(1905〜87年)の小説「安曇野」(筑摩書房)の概要を紹介するパンフレットを1万部作り、26日に市役所で配布を始めた。現在絶版のこの小説の魅力を市民に伝え、市が目指す「安曇野」を原作としたNHK大河ドラマ化への機運を高める。
 この小説は、東京で中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻、彫刻家荻原守衛(碌山)、教育者井口喜源治、社会運動家木下尚江という郷土ゆかりの5人の群像を中心に明治30年代から昭和までの社会、文化、思想を描く長編大河の全5部作。現在は図書館などでしか読めないが「市と筑摩書房で復刻版を検討している」(太田寛市長)という。
 小説の知名度向上のために初めて作ったパンフはA4判8ページ。「NHK大河ドラマ化実現へ奮闘中」「完結まで10年 原稿用紙5600枚」「登場人物はなんと総勢2000人」など目を引くキャッチコピーが表紙を飾る。あらすじ、主要な登場人物の相関図のほか、中村屋サロン美術館(東京・新宿)や碌山美術館、臼井吉見文学館など関連施設の案内も載る。裏表紙も面白い。板垣退助、森鷗外、太宰治、バーナード・リーチ…と登場人物の一部の名前がずらーっと並ぶ。
 大小の字ばかりの表紙、裏表紙という思わず手にしたくなる装丁や、キャッチコピーも自ら考えた政策経営課の寺島直樹さん(37)は「難解ともされる小説の中身を分かりやすくまとめた。郷土にこれだけの先人が居て、時代を生きたことをより多くの皆さんに知ってもらえたら」と話している。
 支所や市内外の美術館、博物館、イベントでも順次配布する。本年度内に小説を紹介するホームページも公開する。(問)同課=0263(71)2401
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『信濃毎日新聞』さん。

“安曇野”の名を広めた小説「安曇野」 パンフレット完成

 安曇野市は26日、市出身の作家臼井吉見(1905~87年)の小説「安曇野」を紹介するパンフレットが完成したと発表した。完結から約50年がたち入手が難しくなる中、安曇野の地名を普及させるきっかけとなった同小説に光を当てる。市役所や市内外の美術館、博物館などで配る。
 同小説は、全5部作(原稿用紙約5600枚)で1974(昭和49)年に完結した。明治から昭和にかけて活躍した、荻原碌山(ろくざん)(守衛(もりえ))や新宿中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻らの群像を描き、登場人物は2千人を超える。
 パンフレットはA4判、8ページ。小説のあらすじや主要な登場人物の相関図、市内ゆかりの施設を紹介している。市は同小説のNHK大河ドラマ化を目指しており、来年3月までに小説の紹介サイトを開設予定。太田寛市長は「安曇野という言葉を広めた小説を知ってほしい」としている。
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問題の(別に問題はないのですが(笑))パンフレットがこちら。『中日』さん、『信毎』さん、ともに光太郎の名がありませんが、パンフにはしっかり載っています。
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大河ドラマ誘致の一環ですね。実現するといいのですが……。というか、大河ドラマ「高村光太郎」も見てみたい気もします(笑)。

他に11月1日(水)の「トークリレー続高村光太郎はなぜ花巻に来たのか そして太田山口へ」の件も報道されていますが、そちらはまた後ほど。

【折々のことば・光太郎】

いよいよ緊迫して来ましたが、これからこそ国民の力の真価が出るわけです、夢想の剣の清冷な心境で御一人のめぐりに人垣をつくり、各自十全に戦ふ時です、

昭和20年(1945)2月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

敗戦のおよそ半年前。「夢想の剣の清冷な心境で御一人のめぐりに人垣をつくり」……。真剣にそう考えていたのでしょうか……。

3件ご紹介します。

まず、昨日もお伝えした青森県十和田市の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」について。地方紙『東奥日報』さんが報じて下さいました。

十和田湖・乙女の像70歳、感謝込めきれいに

003 十和田湖畔休屋(青森県十和田市)の御前ケ浜に立つ乙女の像の除幕式から70周年を迎えた21日、湖のシンボルに感謝の意を表そうと、地元の休屋町内会が像や周辺の清掃活動を行った。
 地域住民のほか、十和田湖を世に広く紹介した文人・大町桂月や乙女の像の研究に携わる市民団体有志ら約20人が参加。観光客でにぎわう前の午前7時半から30分余り、像や台座などを雑巾で水拭きし周辺の敷石にブラシをかけた。
 雨の中の作業となったが、同町内会の金村金作会長(74)は「乙女の像は十和田湖一番の名物なので、末永く大事にしたい」と話した。
 都内在住で、夫と観光に訪れた小田奈緒子さん(70)は清掃活動のことを知り「像は力強いという印象。地元の方は誇りを持っているのでしょうね」と話していた。
 乙女の像は、大町桂月、県知事・武田千代三郎、法奥沢村長・小笠原耕一ら十和田湖の「三恩人」の功績をたたえ、湖の国立公園指定15周年を記念し建てられた。1953年10月21日、制作者の彫刻家高村光太郎らが参加して除幕式が行われた。

あと30年経てば、100周年なのですね。光太郎自身は像を題材にした詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」で、「いさぎよい非情の金属が青くさびて/地上に割れてくづれるまで/この原始林の圧力に堪へて/立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。」と謳いましたが。

続いて、智恵子の故郷・福島県の『福島民報』さん。「福島県 今日は何の日」というコラム的な連載です。

福島県 今日は何の日 10月19日 2002(平成14)年10月20日 ねんりんピック開幕 福島市で開会式

002 第15回全国健康福祉祭ふくしま大会(うつくしまねんりんピック2002)が開幕した。総合開会式は福島市の県営あづま陸上競技場で常陸宮ご夫妻をお迎えして行われた。
 テーマは「ほんとうの空に響け ねんりんの輪」。全国47都道府県と12政令指定都市選手団が入場行進、ウエルカムコンサート、マーチングバンドなどが行われた。
 全国から60歳以上の約9800人が参加、3日間にわたって県内10市13町1村を会場にスポーツや文化の23種目で熟年の力と技を競った。 

『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとうの空」(正確には「ほんとの空」ですが)の語、福島では折あるごとに使われていますが、同じ「福島県 今日は何の日」によれば、県と県観光連盟が「観光ふくしま」のキャッチフレーズとして「“ほんとの空”があるふくしま」を制定したのが昭和54年(1979)。意外と古い話でした。

その後、平成2年(1990)には、5年後に開催された第50回国民体育大会のスローガン(合言葉)が「友よ ほんとうの空に とべ!」となっています。その流れでねんりんピックでも「ほんとうの空に響け」としたのでしょう。

今後も使い続けていただきたいところですが、出来れば正確に「ほんとの空」の方で、と存じます。

最後にテレビのローカルニュース。FNN系の福テレさん、10月15日(日)の放映でした。

安達太良山の雄大な自然に抱かれ”ととのう” 絶景サウナと極上水風呂<岳温泉 陽日の郷 あづま館>

 2022年10月には客室がリニューアルした、福島県二本松市にある岳温泉「陽日の郷あづま館」 洋室の「東扇」は、木のぬくもりあふれる、広々としたスタイリッシュな空間。窓からは、安達太良山を望むことができる。この「あづま館」に、日々の疲れを癒してくれるサウナがリニューアルオープンした。
 施設最上階の7階に、サウナフロアがリニューアル。サウナプラン利用者限定で、特別なサウナを楽しむことができるという。サウナは「空サウナ」と「山サウナ」の2タイプで、貸し切りもできるという。
◆一日最大4組限定・朝夕付ビュッフェプラン 一泊24200円~
 昼も夜も景色を楽しめる「山サウナ」は、被災地で採れた木材を使用。樽型のバレるサウナで、森を眺める1台と空間を楽しむ1台、計2台を完備。自然を存分に感じることができる。
 「空サウナ」では、全面ガラス張りの開放的な空間が広がり、“ほんとうの空”を見渡すことができる。サウナヒーターは東北初導入のikiヒーター。選べるアロマオイルをかけロウリュウを満喫。
 火照った体のクールダウンは「インフィニティ水風呂」へ。自然と一体化したような気分で、絶景を眺めながらととのうことができる。
 サウナを出た後には、ラウンジでレモンサワーやビールが飲み放題。
 この極上のサウナが利用できる一日一組限定の日帰りプランや宿泊プランなど、詳しくは「陽日の郷 あづま館」のホームページをご覧ください。
<陽日の郷 あづま館> 二本松市岳温泉1-5 https://azumakan.com/
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「空サウナ」、いい感じですね。

十和田湖、そして岳温泉、それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

御著“生ける魂”を拝受、忝く存じましたが、昨夜何げなく繙読いたしましたところ、身につまされるやうな事ばかりにて、貴下の衷情に思をはせ、殆ど涙を流しながら読了しました。 殊に最後の章に至つて同感に堪へず、巻をふせて長大息いたしました、小説をよんでこんなに感動したのはめづらしい事でした、

昭和18年(1943)5月24日 中山義秀宛書簡より 光太郎61歳

中山義秀は智恵子と同じ福島中通りの西白河郡大屋村(現・白河市)出身の小説家。『生ける魂』はこの年刊行された中山の小説で、『智恵子抄』から詩篇を引用しつつ、亡妻との思い出にふれています。そういう内容だから、ということもあるのでしょうが、光太郎が小説をこれほど賞めたのは珍しいことでした。

光太郎の盟友の一人、岸田劉生について、一昨日の『朝日新聞』さん夕刊の週一連載「美の履歴書」で大きく取り上げられました。現在、六本木の泉屋博古館東京さんで開催中の「楽しい隠遁生活―文人たちのマインドフルネス」出品作「塘芽帖」の紹介で、ちらりと光太郎の名も。

美の履歴書:814「塘芽帖」岸田劉生 秋の日、思い巡らすのは

 濃厚でグロテスクな麗子像で知られる、画家の作品とは思えない。ささっとした筆致で、肩の力を抜いて描いたような印象だ。舞台は、作者の岸田劉生が鎌倉に構えた画室「塘芽庵」。秋の日、ほおづえをつき、物思いにふける自身の姿を描いている。
 季節の移ろいに心境を託して作られたこの画帖(がじょう)には、南画風のツバキやタケノコ、ナスなどの絵もある。「塘芽」とは、中国画(唐画)を収集した劉生の雅号だ。
 本作は孤独や憂愁がにじみながら、自然に囲まれた静謐(せいひつ)な環境での思案に穏やかさも感じる。「冬臥(とうが)山人」(冬に寝てばかりいる)「冬瓜(とうがん)山人」(冬瓜ばかり描いている)と、言葉遊びをしながら、自らを揶揄(やゆ)。さらに「飽画(ほうが)山人」とまで書いている。
 つまりは、「絵に飽きた」。ただ、泉屋博古館東京の野地耕一郎館長は「描く意欲はまだまだ持ち続けていたのでは。巻き返しを図ろうとしていた時代の産物だと思う」と話す。
 関東大震災で被災し、京都へ移った劉生は、美術作品を買いあさり、茶屋遊びにおぼれ、生活や制作に支障をきたす。そんな状況を一新して再起を図るため、1926年に引っ越したのが鎌倉だった。野地さんは、冬臥山人などと自身を笑っているところについても、「自分を外側から冷たく見ている。劉生の成長や成熟、酸いも甘いもかみわけ始めたところを感じます」。
 これは28年ごろの作品とみられる。翌29年に中国東北部を訪れ、意欲的に創作した油彩の風景画は温かみがある。新たな境地へ、何かをつかみかけていた時期だったのだろう。だが同年、体調を崩していた劉生は、帰国して急逝する。38歳だった。

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美の履歴書
・名前 塘芽帖
・生年 1928年ごろ
・体格 縦33.3㌢×横48.1㌢
・素材 紙本墨画着色
・生みの親 岸田劉生(1891~1929)
・親の経歴 東京・銀座生まれ。独学で水彩画を描き始め、黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で本格的に洋画を学ぶ。雑誌「白樺(しらかば)」で紹介されたゴッホらポスト印象派の作品に衝撃を受ける。1912年に高村光太郎らとヒュウザン会を設立した。15年には木村荘八や椿貞雄らとともに草土社を結成。春陽会にも名を連ねた。デューラーや北方ルネサンスの写実的な作品に傾倒したり、浮世絵や中国絵画に学んで東洋的な油彩画や日本画を手がけたりと、画風が変遷。娘の麗子をモデルに描いた。中国東北部への旅行から帰国後、山口県で死去。
・日本にいる兄弟姉妹 東京国立近代美術館や京都国立近代美術館などに。
・見どころ 「冬瓜山人」とあるように、劉生はトウガンをモチーフにした静物画をいくつも描いた。実際、円窓がある鎌倉の画室で撮影された、ほおづえをつく劉生の写真がある。


紹介されている作品は令和元年(2019)、東京駅構内の東京ステーションギャラリーさん他を巡回した「没後90年記念 岸田劉生展」に出品されて拝見しました。それまで劉生の日本画についてはほとんど存じませんで、ああ、こんな絵も描いていたんだ、という感じでした。

記事にある「トウガンをモチーフにした静物画」はこちらなど。
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劉生というと、ポスト印象派風の「道路と土手と塀(切通之写生)」や、なぜか題名が「智恵子抄」だと勘違いされている「麗子」シリーズなどが有名ですが、これはこれで劉生の一境地ですね。
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円窓がある鎌倉の画室で撮影された、ほおづえをつく劉生の写真」はこちら。
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『朝日』さんの「美の履歴書」、取り上げられるのはマイナーな作家や「作者不明」というものも多く、劉生クラスのメジャーどころだと今回のようなあまり有名ではない作品にスポットが当てられるケースがほとんどです。ぜひとも光太郎や父・光雲、実弟・豊周なども取り上げていただきたいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ拝見して驚きました。二三日考へてゐましたがどうも弱りました、此は当然横山大観氏あたりが引きうけるものではないでせうか、もう一度お考へ下さい、

昭和14年(1939)1月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎57歳

茨城取手の長禅寺に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」題字揮毫に関わります。碑の揮毫というと、既に昭和11年(1936)、花巻に建てられた宮沢賢治(ちなみに今日が命日)の「雨ニモマケズ」碑の揮毫をしていますが、芋銭とはおそらく面識も無かったのではないかと思われ、一旦は固辞しました。しかし結局は三顧の礼を尽くされて引き受け、この年6月には除幕となりました。
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光太郎の揮毫は題字のみです。

昨日、別件でご紹介した『広報はなまき』9月15日号からもう1件。

いいトコ発見! 地域おこし協力隊 自分の内から出る自由なものを大切に‐学びの場を通した地域のつながりを作る。国内外の文化交流を推進する‐ 森川沙紀

「協力隊の任期3年間、あなたのワクワクすることだけをしてください」
 昨年着任時のあいさつ回りをしていた際、ある人に言われた言葉です。自分が楽しんでいることは必ず相手にも伝わる―そう信じ、毎日協力隊の活動をしています。
 大学の専門が英語で米国に5年間留学していたため、私は英語を生かして地域の人たちとつながりを作りたいと考えています。
    昨年度は詩人・彫刻家で晩年の7年を花巻で過ごした、高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳しました。本年度は米国の女性詩人エミリー・ディキンソンと宮沢賢治について学ぶ講座の開催、市内の保育園で英語の歌と絵本の読み聞かせなどを行っています。
 協力隊の活動は自由ですが、見たこ
と聞いたこと全て勉強になり無駄なことは一つもありません。全てがつながっている、影響・呼応し合っている―協力隊2年目に学んだことです。
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高村光太郎の談話筆記「花巻温泉」を英語に翻訳」についてはこちら

昨年5月から花巻市の地域おこし協力隊員として活動されている森川沙紀さん。大阪のご出身だそうですが、「大学の時、岩手出身の友人に花巻を案内してもらい自然豊かな花巻が大好きになりました。いつか花巻に移住したいと思い15年、ようやく夢が叶いました」だそうで。いろいろ御苦労もあるかと存じますが、さらなるご活躍を期待いたします。

もう1件、『日本経済新聞』さんの岩手版から。宮沢賢治実弟・清六の令孫たる宮沢和樹氏へのインタビューです。

「雨ニモマケズ」は祈りの言葉 商業化には思い尊重を 宮沢和樹・林風舎社長 賢治没後90年 イーハトーブの経済㊦

014 賢治作品を現在私たちが読めるのは、賢治の弟、宮沢清六の存在が欠かせない。賢治の死後も原稿の詰まった「兄のトランク」を守り、高村光太郎らの力を借りながら出版社に作品を売り込んだ。清六の孫で賢治の商品を扱う林風舎(岩手県花巻市)社長の宮沢和樹氏は今も愛唱される「雨ニモマケズ」は「賢治の祈りの言葉だった」と語る。

――賢治の残したメッセージは現代的です。先見の明でしょうか。
「ちょっと違う。予言者とも違う。科学の知識と法華経がベースにあった。盛岡高等農林学校では地質を学び、半分はフィールドワークだった。どちらかというと理系人間で、今もし尋ねられたら自分のことを地質の専門家と答えたと思う」

――「石っこ賢さん」と呼ばれていたそうですね。有名な「雨ニモマケズ」もその中から生まれた?
「これは自分に向けて書いた言葉だ。原稿用紙に書いていないので作品ではない。『丈夫ナカラダヲモチ欲ハナク』と述べた後に『サウイフモノニワタシハナリタイ』と書いた。そういうものに自分はなっていないということだ。祈りの気持ちだったのだろう」

林風舎(岩手県花巻市)の社名は賢治作品「北守将軍と三人兄弟の医者」の登場人物からとった

――賢治そのものがビジネスになっているという指摘があります。
「ビジネス化は大事なことだ。映画やアニメ、美術、演劇、音楽に広がっている。宇宙飛行士の毛利衛さんや野口聡一さん、水沢VLBI観測所(岩手県奥州市)の本間希樹所長も賢治ファンを公言してくれている」 「ただ商品を売るための看板としてしか考えていない人とは全然違う。作品の著作権は切れているが、かつて(私たちの意向を無視して賢治を商業利用された今そこまでされることはなくなった。人格や思いを尊重して使うことには賛成だ」

――スタジオジブリ作品にも影響を与えています。
「アニメ映画『セロ弾きのゴーシュ』を監督した高畑勲さんや鈴木敏夫さんと祖父は何度も会っている。『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』など多くの作品に賢治の世界を感じることができる。祖父は賢治のプロデューサーだった」

――岩手ではソーシャルビジネスの起業も盛んです。
「盛岡高等農林の卒業生で海外に出て地元に学校を作ろうとした人もいた。農業の6次産業化が言われるが、当時生産が大変だった納豆の加工の起業に高等農林は関係している。賢治と同級生だった成瀬金太郎の後継者による納豆生産は今も続いている」

――全国植樹祭で天皇陛下が賢治の「虔十」に言及されました。
「賢治さんもここまで来たんだなあと式典会場で思った。『虔十公園林』に『ああ、全く誰が賢く、誰が賢くないかはわかりません』というくだりがある。賢治が虔十に託して語ったように、そのときには皆に認められず、後にならないと価値がわからないこともたくさんある」

記者の目 生前に作家や詩人としてほぼ無名だった賢治が長命だったらと想像せずにはいられない。起業家や社会活動家になっていただろうか。SNSを駆使して情報発信をしていたかもしれない。 賢治の生年と没年には津波が三陸沿岸を襲った。スーパー台風や大雨、山火事、沸騰する地球。「地質の専門家」なら、人類の活動が地球史で無視できないほど大きくなった「人新世」という時代へのヒントをきっと示したはずだ。

和樹氏とは今年2月、光太郎がかつて暮らした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん主催で行われた公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」でご一緒させていただきました。

そちらが好評だったということで第2弾が企画されています。まだ細かな情報が公開されていませんが、11月1日(水)、会場は宮沢賢治イーハトーブ館ホールだそうです。

今回は和樹氏、そして先述の森川沙紀さん、さらに生前の光太郎をご存じの複数の方々にパネラーとなっていただき、当方はコーディネーター。いろいろと興味深いお話が聞けるのではないかと思っております。詳細が出ましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

智恵子はとうとう昨夜病院で亡くなりました、 昨夜遺骸を自宅に連れてきました、 あはれな一生だつたと思ひます、


昭和13年(1938)10月6日 難波田龍起宛書簡より 光太郎56歳
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直接の死因は長く煩っていた粟粒性肺結核でした。

光太郎令甥の故・髙村規氏(光太郎実弟・豊周子息)の回想に依れば、まだ存命ということにして、南品川ゼームス坂病院から駒込林町の光太郎自宅兼アトリエまでタクシーで運んだそうです。当時でも遺骸を運ぶには霊柩車等の使用が義務づけられていたのでしょうが、それは面倒だと。

規氏回想から。

 だいぶ前のことですが、銀座で高村光雲の木彫の写真展をやった時に千葉の方から電話がかかってきましてね。僕が電話に出たら「あなたは私のことを知らないでしょうけれども藍染橋って言えばわかるでしょう」って言うから、「ああ、よく知ってますよ」って。「そこの角で根津神社のすぐそばなんですが、僕はあの当時智恵子さんが亡くなった時、ハイヤー会社をやってたんですよ。僕は社長で運転手もやってたんです。あなたのお父さんはものすごく機転の利く人で、智恵子さんが亡くなった時、僕に「すぐ迎えに行きたいんだけど、ゼームス坂病院まで回してくれ」って頼まれた。僕はすぐゼームス坂病院へ行った。その時、あなたのお父さんが院長と親しかったせいもあるんだけど、機転を利かせて、智恵子さんを亡くなったことにしてなかったんだって。病気は病気だけれどもまだ生きてることにして、後ろの席へ座らせて帰って来たんですよ。光太郎先生とあんたのお父さんとお付きの人がいて、私が運転して」という話を聞きました。
 なんで亡くなった人をハイヤーに乗っけて帰って来られたのか長いこと不思議だなあって思ってたんですが、その電話でやっとわかったんですね。だからね、亡くなってなかったんですよ。実際には亡くなってたけれども、(『碌山美術館報』第34号 「碌山忌記念講演会 伯父高村光太郎の思い出」)

そのタクシー会社はおそらく「藍染タクシー」。斎藤という人物が社長さんでした。営業所の大家さんだった津谷宇之助という人物が、光太郎にゼームス坂病院を紹介したようです。

まず、8月19日(土)、『東スポ(東京スポーツ)』さんの配信記事から。紙面にも載ったのでしょうか。

泉房穂氏 還暦迎え〝岸田政治〟にズバリ「異次元なんて言葉遊び」「まやかしだ」

000  元兵庫県明石市長の泉房穂氏が19日、自身の「X」(旧ツイッター)を更新し、自身の誕生日に〝決意表明〟を行った。
 この日X(旧ツイッター)で誕生日を祝う風船が飛んだことについて「日付が変わり『風船』がいっぱい上がってきた。素直に嬉しい」と喜ぶと「昨日までの60年間、自分なりには精一杯生きてきた。〝人生1周目〟が終わり、いよいよ今日から〝人生2周目〟が始まる。皆さん、これからも引き続き、よろしくお願いいたします」とつづった。
 また誕生日を祝うコメントが多く届けられていることに「皆さん、「『お誕生日おめでとう』と『お祝い』をしていただき、ありがとうございます」と感謝の気持ちを明かすと「『明石の街を、やさしくしてみせる』との10歳の誓いを、人生1周目をフルに使ってやってきた。今日から人生2周目。『国の政治も、やさしく変える』との60歳の誓い。さて、変えるまでに何年必要なんだろう…」と投稿。60歳という節目に新たな誓いを立てたようだ。
 さらに、〝やさしく変える〟と誓った「国の政治」について「私は日本に政治がないと思う。ほんとの政治をしてほしいと思う。みんなは驚いて総理を見る。今の総理を選んだのは、昔ながらの汚い派閥政治だ。異次元なんて言葉遊びも、やってるフリのまやかしだ。私は国民の負担を気にしながら思う。国民のために、官僚や業界の反対を押し切ってでも決断して実行するのがほんとの政治だと思う」と自身の見解を示すと、ユーザーから大きな反響が寄せられている。

問題のポスト(「ツイート」という語はマスク氏によって滅ぼされましたね)がこちら
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言わずもがなですが、『智恵子抄』所収の光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)のリメイク。GB(グッジョブ)ですね(笑)。

しかし、『東スポ』さんに光太郎の名がなかったので、他の方から「東スポのこの記事書いた人、高村光太郎はおろか『智恵子抄』も読んだこともない、知らないんじゃないかと思ってしまった」という指摘。まさかそんなことはあるまい、とは思うのですが……。

泉氏も後追いのポストで……
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まぁ、以前には、歌手のサンプラザ中野くん氏が、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)オマージュで新社会人となる若者へのエールを送ったところ、氏のオリジナルだと思われて報道されたりネット上で絶賛されたりといったこともありましたが……。

ちなみに泉氏、もう1件「あどけない話」インスパイアを投稿なさいました。
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これもいいですね。

さて、とりとめのないこのブログ記事にオチを付けるため、智恵子の文章を。大正13年(1924)5月、雑誌『女性』に載った「総選挙に誰れを選ぶか?」の問いに対するアンケートの回答です。

もしあったら……リンカーンのやうな政治家を選びませう。日本にだつて一人ぐらゐ、正しい事のために利害なんかを度外に置いて、大地にしつかりと誠実な根を持ち、まつすぐに光りに向つて、その力いつぱいの生活をする喬木のやうな政治家があつてもいゝだらうとおもひます。さういふ政治家なら有頂天になつて投票することでせうとおもひます。

もしあったら」は投票権。戦前には女性の参政権がありませんでしたので。

ところが、この後は消極的な内容。

しかしうまくその時までに、私達がほんとに尊敬し信ずることの出来る政治家が出てくれなければ、棄権するよりほかないかとおもはれます。情実や術数の巣のやうな政党なんかてんでだめですね。

現代でもこのような考えでの棄権が多いのではないでしょうか。なんとかこの現状を変えていきたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

小生は七日には参上出来るでせう。それまでに嘉納治五郎先生の肖像を作つてしまふつもりでゐます。

昭和9年(1934)7月3日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

大正期にはしっかりした意見を雑誌に寄せていた智恵子も、心を病んで九十九里浜に移り住んでいた母親と妹夫婦の元に預けられています。

嘉納治五郎先生」は、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎師範。「肖像」は光太郎の父・光雲の代作として光太郎が作ったレリーフです。光雲は実在の人物の肖像や、カービングではないモデリング制作を苦手としていましたので、同様の例がいくつもあります。
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左端は、髙村家に残っていた原形からブロンズに鋳造したもの。10年前の「生誕130年彫刻家高村光太郎展」の際にお借りして出品しました。

中央と右は当方が入手したもの。おそらく頒布(販売?)用に量産されたもので、あまりいい出来ではありません。いわゆる「抜きが甘い」状態です。素材もブロンズではなく、石膏かと思われます。裏面のラベルを見ると、ニセモノでないことはわかるのですが……。

掲載日順にまず『毎日新聞』さん。俳人・坪内稔典氏による「季語刻々」という連載コラム、8月11日(金)掲載分です。

季語刻々 立山の秋に腰掛けかりんとう 鶴濱節子

「立山の秋に腰掛け」が雄大でいいなあ。かりんとうが実にうまそう。句集「始祖鳥」(2012年)から。この作者、私の近所に住むが、かつていっしょに立山に登った。俳句仲間に山好きがいて彼に先導されての登山だった。以来、節子さんは山ガールだ。「安達太良(あだたら)の智恵子の空へ登山道」も彼女の作。今日は山の日。

メインは立山連峰の句ですが、最後に智恵子のソウルマウンテン・安達太良山の句。言わずもがなですが、「ほんとの空」の語が使われた光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュですね。

続いて『山形新聞』さん。8月13日(日)の一面コラムです。

談話室

▼▽「新鮮なものになるとまったくうまい」。明治生まれの詩人・高村光太郎はこう綴(つづ)る。果物や野菜、肉魚ではなくビールの話である。注ぎたてのグラスをぐっと干す。酷暑で、夜ごと欲しくなるという方は多いだろう。▼▽いつ飲んでもうまいが最初の一杯の喉越しは格別だ。高村は一口目の感動を「いつでも初めて気のついたような、ちょっと驚きに似た快味をおぼえる」と記す。そんな爽快感を大勢で味わえるイベントが先日、山形市で開かれた。山形一小旧校舎が会場の「ビアナイト」だ。▼▽こだわりグルメの店もあったが、この日の主役は県内にある複数の醸造所が手がけるクラフトビール。中には県の花・紅花を使った山形らしさ満開の地ビールもあった。若い人のビール離れが言われているが、会場では友人同士や会社の同僚といった感じの若者が多かった。▼▽大量生産とは異なる個性的な味や香りがクラフトビールの魅力だろう。加えて多彩なラベルが目を引く。「取りあえずビール」ではない楽しさがいい。高村は1、2本でやめておくのが良さそうとも書いている。味わいを追求するには度を超えないこと。助言は今に通じる。

引用元は昭和11年(1936)に雑誌『ホーム・ライフ』に発表された随筆「ビールの味」。以前も抜粋でご紹介しましたが、再掲します。

小さなコツプへちびちびついで時間をとつて飲んでゐるのは見てゐてもまづさうだ。(略)ビールは飲み干すところに味があるのだから飲みかけにすぐ後からまたつがれてしまつては形無しである。(略)ビールの新鮮なものになるとまつたくうまい。麦の芳香がひどく洗練された微妙な仕方で匂つて来る。どこか野生でありながらまたひどくイキだ。さらさらしてゐてその癖人なつこい。一杯ぐつとのむとそれが食道を通るころ、丁度ヨツトの白い帆を見た時のやうな、いつでも初めて気のついたやうな、ちよつと驚きに似た快味をおぼえる。麦の芳香がその時嗅覚の後ろからぱあつと来てすぐ消える。すぐ消えるところが不可言の妙味だ。(略)二杯目からはビールの軽やかな肌の触感、アクロバチツクな挨拶のやうなもの、人のいい小さなつむじ風のやうなおきやんなものを感じる。十二杯目ぐらゐになるとまたずつと大味になつてコントラバスのスタツカートがはひつて来る。からだがきれいに洗はれる。(略)何でもさうだがビールも器物で味が違ふ。錫の蓋のついたいはゆるシユタインで飲むとコクが出る。薄手の大きいギヤマンもよし、キリコもいい。いつも無色透明なのがいい。一番飲み心地のいいコツプの大きさは四分の一リツトルくらゐであらう。ビールはうまいが、本当の味は一二本で止めて置く所にあり相だ。(略)
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全文を読みたい方は、令和3年(2021)、平凡社さん刊行のアンソロジー『作家と酒』をどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子は一時よくなりかけたのに最近の陽気のせゐか又々逆戻りして、いろいろ手を尽したが医者と相談の上やむを得ず片貝の田舎にゐる妹の家の母親にあづける事になり、一昨日送つて来ました。小生の三年間に亘る看護も力無いものでした。鳥の啼くまねや唄をうたふまねをしてゐるちゑ子を後に残して帰つて来る時は流石の小生も涙を流した。


昭和9年(1934)5月9日 水野葉舟宛書簡より 光太郎52歳

昨日ご紹介した書簡と前後してしまいました。

九十九里浜に預けられた智恵子、その当日から「千鳥と遊ぶ智恵子」だったとは驚きです。

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