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新聞各紙から2件。

まずは仙台に本社を置く『河北新報』さん、12月11日(水)の記事。

宮沢賢治「注文の多い料理店」誕生から100年 実は「注文の少ない」童話集だった 出版秘話をひもとく

 岩手県花巻市出身の作家、宮沢賢治(1896~1933年)の短編集「注文の多い料理店」が誕生から今月で100年を迎えた。ほぼ無名だった生前に出版した唯一の童話集。時代を超えて「世界の賢治」へと導いた始まりの一冊の出版秘話をひもといた。
■自筆原稿がないのは…
 「出版100年記念ウイーク」と銘打った公演が今月、盛岡市のもりおか啄木・賢治青春館で始まり、4日は「3・11絵本プロジェクト」が6作品を朗読やタペストリー劇で表現。メンバーの佐々木優子さん(64)は「賢治の広く深い知識が土台にあり、誰でも楽しめる童話ばかり。少しも古びていない」と強調した。
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 「注文の多い料理店」は1924年12月1日、賢治が28歳の時に刊行された。青年2人が山奥の奇妙な西洋料理店に迷い込む表題作や「どんぐりと山猫」「山男の四月」「鹿踊のはじまり」など9編を所収する。
 出版元は盛岡市材木町にある光原社。現在は民芸品などを販売し、同じく今月1日に100周年を迎えた。
 創業者の及川四郎氏(1896~1974年)は盛岡高等農林学校(現岩手大農学部)で賢治の1年後輩だった。卒業後、友人と興した「東北農業薬剤研究所」で農薬や農業関係書を販売。売り込み先の花巻農学校(現花巻農高)教師だった賢治から童話の出版話を受けたのがきっかけだった。
 「出版社らしい名前にしよう」。文芸書を手がけるに当たり「光原社」の屋号は賢治が提案した。及川氏の孫で6代目社長、川島富三雄さん(76)は「賢治が夢見ていたユートピア的な発想や思いを込めたのではないか」と想像する。
 川島さんが小学5年の時、出版時の逸話を知った。学校で「よだかの星」を習い、賢治がどんな字を書くのか見たくなった。祖父に頼むと「従業員が東京で原稿を印刷してもらい、盛岡へ戻る途中に上野駅で置引に遭った」と聞かされた。
 賢治の自筆原稿が数多く残っているにもかかわらず、出版元の光原社に「注文の多い料理店」の原稿が現存していない真相だった。
 曲折を経て、光源社は1000部を発刊。定価1円60銭で表紙絵や挿絵も充実し、当時としては豪華な作りだった。無名作家ながら高村光太郎や草野心平ら詩人から絶賛されたが、世間の反応は鈍かった。見かねた賢治が200冊購入するほどで、採算は取れなかった。
 「『注文の多い料理店』はまことに『注文の少ない童話集』でありました」。光原社は当時の様子をホームページで伝える。
 花巻市の宮沢賢治記念館では、1924年に賢治が唯一自費出版した詩集「春と修羅」と合わせ特別展「刊行100周年 二冊の初版本」を開催している。所収作品や書き損じ原稿など貴重な資料を紹介する。
 この2冊以降、賢治が37歳で早世するまで作品集を出版できなかった理由について、賢治の弟清六氏の孫で学芸員の宮沢明裕さん(46)は「体調の問題に加え、自信を持って出した2冊があまりに売れなかったことが大きい」と推測する。
 未発表の原稿は清六氏らが守り、世に広めた。記念館では直筆原稿など約3500枚を所蔵し、資料の修復を進める。宮沢さんは「出版できなくても作品の構想と執筆を生涯続けた賢治と、作品を後世に残すことに生涯を懸けた祖父の思いを大事にしている」と話す。
 出版時に売れなかった一冊は、関係者の尽力が結晶し、不朽の名作となった。川島さんも「祖父は賢治作品が世界中で読まれるよう願っていた」と思いをはせる。「一つの星を見るように、100年受け継いできた及川四郎の思いと賢治の夢。この先も変わることなく生き続けるでしょう」
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よく使われる表現ですが、賢治は時代を突き抜けて早すぎた、ということでしょう。我が国口語自由詩史上の金字塔である光太郎の詩集『道程』(大正3年=1914)にしても、刊行時にきちんと書店を通して売れたのは7冊だけだったらしいと、光太郎自身ものちに回想しています。賢治の『春と修羅』、『注文の多い料理店』ともに売れ残り残本の処理には困ったそうで。

当時からその才に目を付けていた光太郎や心平、炯眼と言わざるを得ません。

心平の回想「光太郎と賢治」(昭和31年=1956)から。おそらく大正末か昭和初めのことと思われます。

 ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。

光太郎が親友・水野葉舟へ送った書簡(大正15年=1926)から。

宮沢氏からの本先日女中さんに托しましたが、此前の「注文の多い料理店」は黄瀛君に返却しなければなりませんから、お手許へ出して置いて下さい。

「宮沢氏からの本」が『春と修羅』で、その前に『注文の多い料理店』を貸していたようです。ただし黄瀛(光太郎や心平の仲間うちで唯一、賢治本人と会ったことがある人物でした)から借りたものの又貸しだったようですが。

その光太郎にしても心平にしても、賢治の全貌を知るのは賢治が歿してからのことでした。未発表の原稿がたくさん遺されていたことは何となくわかっていたらしく、昭和8年(1933)に賢治が亡くなるや、光太郎は心平に金を握らせて、花巻の宮沢家に向かわせます。遺稿はどうなっているのか、それを確認して来てくれ、というわけで。光太郎自身は智恵子の心の病が昂進していた時期で、動けませんでした。

心平が宮沢家に着くと、賢治実弟の清六が賢治から託された遺稿をしっかり管理していることがわかり、一安心。そして膨大な原稿を見た心平が清六に、一度東京に持ってきてごらんなさい、的なアドバイスをしたのでしょう。翌昭和9年(1934)、新宿モナミで開催された賢治追悼会に清六が原稿の詰まったトランクを持参、光太郎や永瀬清子、新美南吉らはそれを見て仰天。さらにトランクのポケットから「雨ニモマケズ」の書かれた有名な手帳が見つかりました。

おそらく光太郎にしても心平にしても、もっと早くに賢治手を差しのべておくべきだったという悔恨が生じたのでしょう。罪滅ぼしというと何ですが、その後繰り返された『宮沢賢治全集』出版に二人が関わっていくことになるわけです。光太郎は装幀までも手がけました。

さらに光太郎は宮沢家の依頼で、昭和11年(1936)に花巻の桜町、羅須地人協会跡地に建てられた「雨ニモマケズ」碑の揮毫も行いました。そのあたりで光太郎に恩義を感じていた清六や父・政次郎が、昭和20年(1945)の空襲で駒込林町のアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招く、というわけで、本当に人の縁(えにし)というのは不思議なものだな、と思います。

今週末、また花巻に行って参りますので、記事にある賢治記念館さんの特別展 「刊行100周年 二冊の初版本」も見てこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

果して選集など出す資格があるかどうか、これまで何ひとつまとまつた仕事もしてゐない者がただ原稿をかき集めて何冊かの出版にしたところで江湖の読者がそれを更に要求しなかつたら甚だ滑稽な仕儀と存じます。この点がまだ気がかりで躊躇せずにゐられない気持に左右されてゐます。世上多くの選集全集の中にはさういふものもあるやうな気がします、徒らに無用の残骸をさらすやうではどうかと思はずにはゐられません、


昭和25年(1950)9月29日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

結局、翌年から松下の勤務していた中央公論社から全六巻の『高村光太郎選集』が出されるのですが、賢治の全集や選集の出版には協力を惜しまなかった光太郎も、自身の選集出版には気乗りがしなかったようです。

テレビ放映情報です。

まず、光太郎には触れられないかも知れませんが……。

歴史探偵 宮沢賢治と銀河鉄道の夜

地上波NHK総合 2024年11月20日(水) 22:00〜22:45

宮崎駿監督や米津玄師など、現代のアーティストにも多大な影響を与え続ける宮沢賢治。私たちは、代表作「銀河鉄道の夜」の世界をCGで再現、その物語の魅力を徹底調査した。見えてきたのは、当時最先端の科学知識を取り込みながら、今に通じる、深いテーマを物語に織り込む賢治の類まれな力。今回そんな賢治の作品を、声優の梶裕貴(宮沢賢治役)と鬼頭明里(妹トシ役)が朗読する。賢治の深遠なる世界に浸れる45分はいかが?

【司会】佐藤二朗,片山千恵子 【出演】文教大学教授…大島丈志
【リポーター】近田雄一    【朗読】梶裕貴,鬼頭明里

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説明欄にお名前がありませんが、画像を見ると国立天文台上席教授にして、大河ドラマ「光る君へ」で陰陽道がらみの部分の監修もされている渡部潤一氏もビデオ出演されるようです。

賢治没後、その作品を世に広めた一人が光太郎だったというあたり、ちらっとでも触れていただけるとありがたいのですが……。

もう1件、再放送ですが、こちらは光太郎に触れられます。

ドラマ・浅見光彦〜最終章〜▼第9話 草津・軽井沢編

BS-TBS 2024年11月22日(金) 12:29〜13:25

ベストセラー作家・内田康夫の大人気サスペンス小説「浅見光彦シリーズ」。光彦の2人の幼馴染・野沢光子(星野真里)と宮田治夫(吹越満)と久しぶりの再会を経て楽しい気分でいる頃、光子の父が殺害された…。

【出演】沢村一樹、風間杜夫、原沙知絵、黒田知永子、田中幸太朗、佐久間良子、星野真里、吹越満ほか

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故・内田康夫氏ご執筆の浅見光彦シリーズ中、光太郎彫刻の贋作にまつわる連続殺人事件を描いた『「首の女」殺人事件』(昭和61年=1986)を原作としています。ただ、物語の舞台が原作では智恵子の故郷・福島二本松や島根だったのに対し、なぜか標題の通り草津と軽井沢に変更されています。今一つその意図が見えなかったのですが、いろいろ大人の事情があったのでしょう。

ともかくも、それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

「蛙」がよみうりの文学賞といふものになつた由、威勢よく賞金をくれれば何でも結構です、日本のは何でも賞金がけちなので役に立ちません、その点ノーベル賞は合理的です、


昭和25年6月5日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

この年始まった読売文学賞。その栄えある第一回の受賞が、当会の祖・草野心平の詩集「蛙」に決まり、そのお祝いの書簡から。

翌年の第二回は、光太郎がこの年出版する詩集『典型』に与えられます。光太郎、「けち」と言っていた賞金をそっくり在住していた花巻郊外太田村の山口小学校などに寄附してしまいます。ある意味、豪快ですね。

9月末に刊行されたもの。どちらかというと小学生向けとして編まれた書籍なのでしょうが、豆知識満載で唸らされました。

日本のことばずかん いきもの

発行日 : 2024年9月27日
著者等 : 神永曉監修
版 元 : 講談社
定 価 : 2,500円+税

和歌や文学作品に登場する「いきもの」にまつわる美しい日本語に名画や浮世絵、美しい写真などが添えられた、子どものことばの力を育てるシリーズの6作目を刊行します。監修は国語辞典のレジェンド、37年間、辞書編集一筋の神永曉氏。

6作目のテーマは「いきもの」、つまり動物や鳥、虫にまつわる言葉。日本人がいきものを慈しみながら育んできた言葉の世界をその言葉のイメージをさらに広げる、絵画や写真など美しいビジュアルと合わせてご紹介することばのずかん。

言葉を獲得することは、表現する力を大きく広げることにもつながります。「そら」「いろ」「かず」「はな」「あじ」につづくシリーズ6作目。

目次
 この本の使い方
 きせつといきもの〈春〉 春駒001
 きせつといきもの〈夏〉 ほたるがり
 春のいきものをよんだ歌や俳句
 夏のいきものをよんだ俳句
 物語とねこ ねこかわいがり
 物語にえがかれたねこ
 いきものオノマトペ びょうびょう
 いきものの昔のオノマトペ
 なんの虫かな? 虫がつく漢字
 いきものの数え方 匹
 いきものを数えることば
 きせつといきもの〈秋〉 わたり鳥
 きせつといきもの〈冬〉 冬ごもり
 秋のいきものをよんだ歌や俳句
 冬のいきものをよんだ歌や俳句
 いきものの形やもよう くま手
 いきものの形やもように注目!
 想ぞうのいきもの しし
 想ぞうから生まれたいきもの
 いろいろないきものの話
  ねがいがこめられた十二支のいきもの
 鳥の別名 春告鳥
 身近な鳥のもうひとつの名前
 いきもののことわざ 井の中のかわず
 いきもののことわざ・慣用句

この本では、「いきもの」にかかわることばと、それにかんする写真や絵画を一〇〇いじょう、しょうかいしています」だそうで、オールカラー約50ページで、ぜいたくに美術作品や古典文学等の画像、四季折々の写真などを使いながら、さらに文学作品の一節等もふんだんに引用。そして古き良き美しき日本語の数々がしっかりと解説されています。

いきなり最初の方に、「きせつといきもの〈春〉 春駒」。光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)の一節が大きく使われています。11月13日(水)付けで版元の講談社さんサイトに出た花森リド氏のブックレビューでその件にふれられ、知った次第です。
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009「春駒」、一般的な国語辞典レベルでは見出し語として載っていませんが、さすがに『広辞苑』には項目が立てられていました。

詩「春駒」は①の意味でこの語を使っていますが、④のニュアンスも込められているかも知れません。親友だった水野葉舟が移り住んだ成田の三里塚御料牧場を訪れ、「春駒」の姿を見て書かれた詩であると同時に、新生活を始めた葉舟や自分の姿をそこに投影もしているかな、と。

それにしても『広辞苑』レベルの語をズドンと持ってくるあたり、小学生向けといいつつ、妥協しない姿勢が見て取れて好感が持てます。

他にも、各ページ、「へー」「なるほど」の連続でした。よくある早速明日、誰かに教えたくなるトリビア的豆知識のような。また、こういう美しい日本語を過去のものとして滅ぼしてはいかんな、とも思いました。

そして、先述の通り、ぜいたくに美術作品の画像が使われていますので、見ていて心安らぎます。

表紙からして伊藤若冲。本文中には小林清親、円山応挙、竹内栖鳳、狩野永徳、歌川芳虎、歌川広重、「鳥獣戯画」、そして東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生だった藤田嗣治など。
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いいですね、藤田の猫。

それ以外の箇所も、現在、空前の猫ブームだそうで、猫が目立ちます。
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ちなみにこれで6巻目となった「いきものずかん」シリーズとしての内容見本というか、フライヤーというかも挟まっていました。
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他の巻でも光太郎が扱われていたりするのでしょうか? 大きめの書店で調べてみます。

というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生のこの小屋の光線では三、四寸以上の大きさの彫刻を作ることは無理だと思ひます、それでもこの夏には蟬を一匹作るつもりでゐます、出来れば赤蛙も作りたいです、小鳥がいいのですがこれは中々つかまりません、東京ではいつも小鳥屋で求めましたが、ほんとは山の鳥の方がいいわけです、今はカツコオ、ホトトギスが来て鳴きます、カツコオには近寄れますが、ホトトギスには中々近寄れません、どちらも姿のいい鳥です、


昭和25年(1950)6月1日 奥平英雄宛書簡より 光太郎68歳

詩でもそうでしたが、光太郎、彫刻でもさまざまな「いきもの」をモチーフにしていました。「自然」の造型美ということに打たれていたのでしょう。

智恵子の故郷、福島の地方紙『福島民友』さんから。

「智恵子に親しみを」 高村夫妻結婚110周年、顕彰会が学校に絵本寄贈へ

 「智恵子抄」で知られる福島県二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家光太郎を顕彰する同市の「智恵子のまち夢くらぶー高村智恵子顕彰会」は12月、高村夫妻の結婚110周年などを記念し、智恵子の生涯を描いた絵本を智恵子の母校油井小をはじめ同市の全23小中学校と4地区の図書館、図書室に寄贈する。代表の熊谷健一さんは「絵本が二本松の次世代を担う子どもたちに美と愛を貫いた智恵子への親しみと理解を深めるきっかけにしたい」と期待を寄せている。
 贈呈は結婚110周年のほか、「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」でおなじみの光太郎の詩集「道程」出版110周年、同くらぶ発会20周年の節目を祝って実施する。
 贈呈する絵本は、同くらぶと親交のある作家で画家、智恵子研究者坂本富江さん(東京都)が制作した紙芝居「夢を描くひとー高村智恵子」を今回の贈呈に合わせ、坂本さんが一部手直しして絵本化したもの。
 同団体は2005年に設立、智恵子講座などを通じて智恵子と光太郎の世界を研究している。贈呈式は12月15日に二本松市で開かれる「発会20年を祝うつどい」の席上、実施する。
 同団体は本年、各種記念事業として今月16日、安達太良山の“ほんとの空の下”で智恵子抄朗読大会の開催などを予定している。
 熊谷さんは「絵本を通して波瀾(はらん)万丈の生涯を生き抜いた高村夫妻の遺徳を後世に伝承するとともに、子どもたちに今後、さらに濃密、充実した人生を歩んでもらえる生きた教材として活用してほしい」と贈呈を心待ちにしている。
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絵本作者の坂本富江さん、太平洋美術会さんに所属され、絵を描かれている方です。同会に入会なさった動機の一つが智恵子もこちらに通っていたことだという筋金入りの智恵子ファンで、都内智恵子生家で個展を開かれたり、平成24年(2012)には『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』、同27年(2015)には同書の増補改訂版を刊行なさったりしました。それを元に、智恵子母校の二本松市立油井小学校さんや光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さんなどで紙芝居の御披露もなさっています。

今回の絵本、当方、校正を担当いたしました。刊行は未だ少し先のようですが、世に出ましたらまた詳しくご紹介いたします。

その前に、記事にある「智恵子のまち夢くらぶー高村智恵子顕彰会」さんのイベント「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」が10月14日(月・祝)に行われ、その中でまた坂本さんの紙芝居実演がプログラムに入っています。

これも近くなりましたら詳しく取り上げますのでよろしくお願い申し上げます。。

【折々のことば・光太郎】

今スルガさんに頼んで便所を新築してもらふ事にしてゐます。スルガさんが一切引きうけてくれました。


昭和24年(1949) 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)脇に建っている便所のことと思われます。「スルガさん」は土地を提供してくれていた駿河重次郎です。
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左側が「小」。右側が「大」で、その壁に明かり採りのため「光」一字を刳り抜きました。
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テレビ放映情報です。光太郎に触れられるかどうか微妙なところですが……。

偉人の年収 How much? 童話作家 宮沢賢治

地上波NHK Eテレ 2024年8月12日(月) 19:30~20:00
再放送 2024年8月15日(木) 15:05~15:35

教科書に載るような偉人たちはいくら稼いでいたの?お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる! 今回は童話作家 宮沢賢治の登場です!

『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『やまなし』などの作品を生みだした岩手県出身の童話作家 宮沢賢治。小学生の時に先生が読んでくれた童話に感動し、童話の世界へ引き込まれます。25歳で上京して本格的に童話を書き始めますが、重病の妹を看病するため帰郷。その後、農学校の教師となり、自ら畑を耕して地域の農業発展に尽くします。あの不朽の名作『雨ニモマケズ』はどのように生まれたのか?当時の年収とともに探ります。

【司会】谷原章介,山崎怜奈,【出演】今野浩喜
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今年1月には光太郎と交流の深かった与謝野晶子が取り上げられました。番組紹介欄にあるとおり「お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる」だそうで、やはり経済という部分は大事だなと思わされました。

再現Vの部分では、今野浩喜さんが毎回その偉人役でご登場、スタジオMCの谷原章介さんと山崎怜奈さんに突っ込まれまくっています(笑)。与謝野晶子の回では今野さんの晶子役、無理くり感満載でしたが、賢治はどうなるでしょうか。賢治と今野さん、ぱっと見よく似ているような気もするのですが(笑)。
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その「発見」の現場(昭和9年=1934の追悼会会場)に光太郎も居合わせ、のちに石碑に刻む揮毫を光太郎が行った「雨ニモマケズ」も大きく取り上げられます。
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花巻に建てられた光太郎揮毫の詩碑程度は映していただきたいものですが、どうなりますやら。

ともかくも、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

かかる時政治家などの不しだらな行動が報道されて憤りを感じます。まつたく一新してしまはなければ落ちつかない気がします。


昭和23年(1948)12月10日 西岡文子宛書簡より 光太郎66歳

政治家などの不しだらな行動」、GHQの目が光っていた当時は現代ほどではなかったと思うのですが……。それとも裏金作りだの脱税だのキックバックだの秘書給与不正受給だの公文書改竄だのカルト団体との癒着だの憲法違反だの猥雑パーティーだのコピペの式典挨拶だのパワハラだのは当時からまかり通っていたのでしょうか?

このところ、新聞各紙で光太郎ゆかりの人物およびそのご子孫が取り上げられたりし、光太郎の名も出ることが相次いでいます。

まず、光太郎と交流のあった彫刻家・舟越保武の息女にして、光太郎に名付け親になってもらった絵本編集者・末盛千枝子さん。

『中日新聞』さんおよび系列の『東京新聞』さんから。

被災地の子どもに絵本を届けて10年 編集者・末盛千枝子さんの思い「何もしなかったら、美智子さまに会わせる顔がない」

009 絵本編集者の末盛千枝子さん(82)は、まど・みちおさんの詩を上皇后美智子さまが英訳した本など話題作を世に送り出してきた。2010年に岩手県八幡平市に移住。1年もたたないうちに東日本大震災が発生し、被災地の子どもたちに絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」に10年間、取り組んできた。絵本への思いや震災後について聞いた。

「あったー」喜んだ子がいとしくて
―「3.11絵本プロジェクトいわて」を10年間、続けられました。
 子どもたちは本当にけなげでしたよね。震災後、保育園のおやつの時間に伺ったことがあったのですが、同じテーブルでおやつを食べていた男の子が「おまえのおじいさん大丈夫だったの?」「大丈夫だった」「良かったね」なんて会話をしていました。それが3歳、4歳の子どもの会話なのよね。ぼうぜんとするような感じでした。
 高台にある保育園では、津波で流された家などが逆流してきたのが見えたりしたらしいのね。子どもによっては、自分の家が流されたりしたのを見た子もいました。
 持っていった絵本から、自分の好きな本を見つけてそれ持って帰っていいからねって言ったら、子どもたちがわれ先にと探していた。
 最後の最後まで探している男の子がいて、「あったー」って喜んで持って帰りました。きっと自分の家か保育園にあった好きな本が、流されて探していたんだと思うんですよね。本当にちょっといとしい感じがしてね。私も同じ本を注文して、その子の思い出に持っています。

 ―岩手に移住されて1年もたたないうちに3.11でした。運命のようなものを感じましたか。
 なんか本当に不思議でしたよね。移住して1年目ですから。友人に「神様があなたに、北の海で一緒に働いてくれっておっしゃったんじゃない」と言われて、そのときはうれしい言葉に涙が出ましたね。移住してすぐで、最初は友達がいないような感じだったのに、活動を通じて今は友達がこちらでもたくさんできました。毎月、お金を送ってくれる友達もいて本当にありがたかったですね。

美智子さまは毎月のように絵本を…
―プロジェクトには美智子さまからも絵本が届けられました。
 プロジェクトを始めたのは、岩手にいるのに私がここで何もしなかったら美智子さまに会わせる顔がない、という思いもありました。
 美智子さまは毎月のように絵本を送ってくださった。2、3年たったときだったかしら、「私の手元にある絵本の原画をお貸しするから展示してみてもらってくださる?」というご連絡もいただきました。美智子さまも、みんなと一緒に活動しているという思いがおありだったと思います。折に触れてお電話をいただきます。

―3.11から十数年が経過しました。
 陸前高田の友達の話が忘れられません。信号のある交差点を車で運転していたら、信号が青になったのに前の車が止まったまま動かない。後ろで待っている人たちが運転している人に対して「もう青になっているよ」と言うと、運転している人は「いくら青になったって人がたくさん渡っているから行けないだろう」って。もちろん実際には誰もいないんだけど、そういう話がいっぱいあるのだと。なんだかとっても切なかったですね。
 大船渡の避難所になっていた体育館で、砂の中に小さなぬいぐるみが埋まっていたのを見つけました。小さい子が持って逃げ込んだに違いないと思いました。
 砂を払うと、ピンクとブルーの牛のぬいぐるみだったんですよね。うちの子どもが持って歩いていたぬいぐるみを思い出してね。どうしてもそのまま帰れずにバンダナにくるんで持って帰って、しばらく自宅の岩手山の見える窓に置いておいたんですけどね。いつかだれかに返すチャンスがあるかもしれない、と思っていたんですけど、そういうこともなく、まだ家にありますけど。

大人たちにも絵本を見てもらいたい
―今年は「末盛千枝子と舟越家の人々」という展覧会がありました。
 (最初の夫の)末盛憲彦が亡くなる前も絵本の仕事はしてたんだけど、確かにそういえば、彼が亡くなったことによって、彼のしようとしていたことのたいまつを持ち続けたい、と思ったんだったなってあらためて気付きました。
 こんなにたくさん本をつくってきたんだ、ってあらためて自分で思ったのとね、何と言うんだろう、自分では全然意識していなかったけど、大人の人たちにも絵本を見てもらいたい、という思いはもちろんありましたけどね。それがこんなにみんなに受け入れてもらったんだってあらためて思いましたね。子どものためだったらこの程度でいい、というふうにはつくってこなかった、と。

―大人にも絵本を見てもらいたい、というのはどういうことでしょうか。
 忘れられないのは、とても親しかったある方が絵本が好きで、自分の部下が転勤していくときに必ず(絵本作家の)ゴフスタインの絵本をプレゼントしていました。すごくわが意を得たり、と思いましたね。病気だったその方にゴフスタインの「ピアノ調律師」という絵本を送ったら、「人生で自分が好きなことを仕事にできるほど幸せなことがあるかい、というメッセージ、確かに受け取りました」という返事が来てすごくうれしかった。

プーチン大統領に、絵本を届けたい
―千枝子さんというお名前は、お父さまが高村光太郎さんに会いに行ってつけてもらったとか。
 父は高村光太郎さんが訳した本を読んで彫刻家になろうと決めた、と言うんです。「千枝子」という名前の重みから逃げようとしていましたよね、若いときは。だけど今になって、これでよかった、と言える感じがしますけどね。

―ご不幸も経験された。どのように乗り越えてこられたのでしょうか。
 一つには、大変なのは自分だけじゃない、という思い。小さいときからいろいろ大変な人たちを見てくるじゃないですか。子どものときには、中学生ぐらいだったかな、渋谷の駅とかそういうところに傷痍(しょうい)軍人が白い服着てアコーディオンを演奏していましたしね。いろんな人たちがいて、みんなそれぞれが大変なんだということを思っていましたね。
 一番きつかったのは末盛が亡くなったときかもしれない。すっごく優しい人だったんですよ。だからその人が亡くなったということはものすごく大変だったですね。でも皆さんがすごく助けてくださった。

―ロシアのウクライナ侵攻が続いている。絵本には平和への思いも込められていると思いますが、今、何を思われますか。
 無力感ですよね。ウクライナの若い大統領、頑張っているが、だんだんやつれてきている。(美智子さまの講演録の)「橋をかける」はロシア語にも翻訳されています。プーチン大統領に絵本を届けたいぐらいです。

インタビューを終えて
 岩手山を望む、おしゃれなご自宅でインタビューに応じていただいた。部屋のあちこちに絵画などの芸術作品があり、日常に芸術が溶け込んでいた。洗練された絵本を送り出し、震災後の子どもたちにやわらかなまなざしを注ぐ源に、このような暮らしがあるのだと感じた。「3.11絵本プロジェクトいわて」の絵本がどれだけ子どもたちの心の支えになっただろう。
 部下に絵本を送るとは、すてきなエピソードだと思った。大人になってからはあまり絵本に触れてこなかった記者だが、そんな大人に憧れる。幸い、近所に絵本の図書館や絵本専門店がある。今度ゆっくりと訪れてみたい。

末盛千枝子(すえもり・ちえこ)
 1941年、彫刻家・故舟越保武氏の長女として東京で生まれる。4~10歳は保武氏の郷里・盛岡で育つ。NHKディレクターだった末盛憲彦さんと結婚、2人の息子に恵まれたが、結婚11年後に憲彦さんが急死。その後、本格的に編集者として歩み始めた。自ら設立した出版社「すえもりブックス」で、まど・みちおさんの詩を上皇后美智子さまが選・英訳された「THE ANIMALS 『どうぶつたち』」や、講演をまとめた「橋をかける 子供時代の読書の思い出」を手がけた。2010年5月に岩手県八幡平市に移住。今年4~6月に市原湖畔美術館(千葉県市原市)で「末盛千枝子と舟越家の人々」が開催された。著書に「『私』を受け容れて生きる」(新潮社)など。

東日本大震災後の「3.11絵本プロジェクトいわて」のお話を根幹に、今年4~6月に千葉県の市原湖畔美術館さんで開催された「末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―」にも言及されています。

同様のお話などが、NHKカルチャーさんでオンライン配信されます。

絵本という希望 -人の悲しみに寄り添う-

講師 絵本編集者 末盛千枝子

愛する家族の難病、そして突然の別れ―さまざまな困難に幾度も遭いながら、小さな幸せをひとつひとつ数えるように、人生の希望や喜びを本に込めて届け続けてきた末盛千枝子さん。2023月6月、末盛さんのご自宅を訪ね、お話を伺いました。末盛さんからのメッセージをオンデマンド配信でお届けします。008

配信期間 2023年10/1(日)~12/31(日)
受講料(税込み) 3,300円
・本講座は録画済の動画を視聴する講座です。
・録画、録音、第三者との共有は禁止します。
・支払い決済後の解約・キャンセルはできません。
・配布資料はございません。

【講師プロフィール】

1941年、彫刻家の舟越保武と母・道子の長女として東京に生まれる。高村光太郎より「千枝子」と名付けられる。4歳から10歳まで父の郷里・盛岡で過ごす。慶應義塾大学卒業後、絵本の出版社に勤務。「夢であいましょう」等で知られるNHKディレクター末盛憲彦氏と結婚、2児の母になるが、夫の突然死のあと、最初に出した絵本『あさ One  morninng』(G.C.PRESS刊)でボローニャ国際児童図書展グランプリを受賞。ニューヨークタイムズ年間優秀絵本に選出される。1988年、すえもりブックスを立ち上げ、独立。1992年『フランチェスコ』(はらだたけひで作)がエズラ・ジャック・キーツ国際絵本画家最優秀賞受賞。まど・みちおの詩を美智子さまが選・英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』やご講演をまとめた『橋をかける 子ども時代の読書の思い出』など、国内外にわたって良質な作品を出版。1995年、古くからの友人、哲学者の古田暁氏と結婚。2002年から2006年まで国際児童図書評議会(IBBY)の国際理事をつとめ、2014年には名誉会長に選ばれる。2010年に移住した八幡平市で東日本大震災に遭い、それから10年間、被災した子どもたちに絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」の代表を務めた。2022年4月、難病を抱えた上、スポーツ事故で20代に車椅子生活となった長男武彦さんが突然死する。(享年47)

当方、市原湖畔美術館さんでの「末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―」展の関連行事としてのご講演を拝聴して参りました。今回も有意義なお話が伺えると存じます。ぜひお申し込みを。

【折々のことば・光太郎】

昨日アメリカのせき子さんから手がみが来て、同封のてがみを転送するやうにと書いてありましたから、今朝書留便でお送りしました。尚横浜の税関の方から荷物がそちらに届く筈です。

昭和15年(1940)6月28日 長沼セン宛書簡より 光太郎58歳

長沼センは智恵子実母。長沼酒造破産後、智恵子の妹・セツ(五女)夫婦と共に千葉九十九里に移り住み、昭和9年(1934)には心を病んだ智恵子を預かっていました。

「せき子さん」(セキ)は智恵子のすぐ下の妹で二女。智恵子と同じく日本女子大学校に進み、さらに東京女子高等師範を出ましたが、いろいろあって、大正4年(1915)に渡米。彼の地で結婚して武井姓となり、御夫婦で書店を経営していたそうです。

昨日は市原湖畔美術館さんの「末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―」展に行っておりました。レポートいたします。

同じ千葉県内ということで、自宅兼事務所から自家用車で1時間ちょっと。美術館さんの近くまで行ったあたりで、小湊鐵道さんの「房総里山トロッコ」が走っていました。
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美術館さんはその名の通り、高滝湖というダム湖に面した高台に。
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まずは展示を拝見。
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絵本編集者にして生前の光太郎をご存じの末盛千枝子氏と、光太郎と親しく交わったお父さま・舟越保武をはじめとする芸術一家にまつわる展示です。
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末盛氏が関わられた絵本、その原画、弟君の舟越桂氏の作品など。
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夫君にしてNHKさんの伝説的番組「夢であいましょう」などを手がけられたディレクター末盛憲彦氏関連の展示もなされていました。

撮影不可でしたが、父君・舟越保武の彫刻も。代表作の一つにして高村光太郎賞受賞作「長崎26殉教者記念像」のうちの一体などが出ていました。
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直接、光太郎に関連する展示物はなかったようですが、説明パネルに等は随所に光太郎の名。
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舟越家クロニクル的な御家族の写真コーナーもありました。昭和37年(1962)の第6回連翹忌の集い兼第5回高村光太郎賞授賞式の写真がないかと探しましたが、残念ながらありませんでした。千枝子氏が連翹忌の集いにご参加下さった唯一の機会でしたが。左下の画像は、千枝子氏の御著書『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』から。右下は故・北川太一先生がまとめられたこの年の連翹忌の記録です。「舟越」が「船越」と誤植されていますが。
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錚々たる出席者ですね。しかし、当方が把握している限り、ご存命の方は千枝子氏とあとお二人だけです。ちなみに当方、まだ生まれていません(笑)。

展示を拝見し終わり、午後1時から、千枝子氏のご講演。

そちらの会場には、八幡平市ご在住の千枝子氏が関わられた「3.11 絵本プロジェクトいわて」関連の写真。東日本大震災で被災した子供たちに絵本を届けようというコンセプトでした。
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昭和6年(1931)、紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎も訪れた釜石。
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そしてその後、全国から寄せられた絵本。
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うるっと来てしまいました。

そしてご講演。
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絵本関連のお話を中心に、上皇后美智子さまとのご交流のお話なども交え、約2時間弱。

終了後、サイン会。
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「10年近く前、花巻代官山でお世話になりました」とご挨拶して参りました。

同展、6月25日(日)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ヒユウザン会が明日から始まりますので今朝早く京橋のヨミウリ社へまゐりちよつと中途で帰宅しましたら花がどつさりとおてがみがはいつてゐました 折角わざわざおいでの処をほんとに残念に存じました


大正元年(1912)10月14日 長沼セキ宛書簡より 光太郎30歳

セキは智恵子の直ぐ下の妹。ヒユウザン会展開幕を祝って、光太郎アトリエ兼住居に花を届けに来たようですが、入れ違いになってしまったとのこと。

同展には智恵子の出品も予告されていましたが、どうしたわけかそれは実現しませんでした。
ヒユウザン会
予告広告では10月5日開幕となっていますが、実際には15日開幕でした。

最近情報を知り、購入しました。2ヶ月ほど経ってしまっていますが、絵本の新刊です。

イチからつくる コーラ

2023年2月5日 コーラ小林・編 中島陽子・絵 農文協 定価2,500円+税

甘くてさわやか、みんなが大好きなコーラ。じつはアメリカの薬局で販売された滋養強壮剤が始まり。でもコーラって自分でつくれるの? 「コカ・コーラ」のレシピは門外不出だけど、クラフトコーラなら大丈夫! 世界初のクラフトコーラ専門メーカー『伊良(いよし)コーラ』を創業したコーラ小林さんに教わって、スパイスやカンキツ類、砂糖でコーラシロップをつくってみよう。コーラをつくることで、炭酸水の誕生から、禁酒法や第二次世界大戦などに関わるアメリカの歴史、スパイスの原産地なども知ることに。日本各地で広がるクラフトコーラの動きも紹介します。

もくじ
 炭酸飲料を選ぶなら、きみは何派?
 そもそもコーラって、なんなんだ?
 コーラは、植物の名前だった!
 コカ・コーラの原点は漢方薬
 世界各地のスパイスでつくられるコーラ
 クラフトコーラの広がり
 スパイスとカンキツ類を手に入れる
 自分たちで育てられる作物は、どれだろう?
 踊る水「タンサン」
 炭酸水は自分でつくれる?
 クラフトコーラの「基本のレシピ」
 やっぱりコーラの実をいれたい コーラノキはどこにある?
 自分の好きなコーラシロップをつくるぞ!
 自分でつくったコーラを売ることができる?
 クラフトコーラづくりでみえてきたこと
 「イチからつくる」ということ
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絵本と言っても幼児向けではなく、小学校高学年から中学生向け、といったところでしょうか。主人公の少年少女たちは中学生のようです。学校の文化祭で、自分たちで作ったコーラを販売するという設定でして。

少年少女たちが好きな炭酸飲料の話で盛り上がり、一人が以前飲んだ「クラフトコーラ」を紹介したところ、みんな興味を持って……というストーリー。

執筆はコーラ小林氏。下落合でクラフトコーラのメーカー「伊良(いよし)コーラ」を立ち上げた方です。少年少女たちが小林氏のもとに弟子入りし、手作りコーラの製法を教わったり、コーラの歴史を学んだりしていきます。

そのコーラの歴史の中で、光太郎。ありがとうございます。
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詩『狂者の詩』(大正元年=1912)は、まず雑誌『白樺』に発表され、大正3年(1914)には詩集『道程』に収められました。このあたり、下記をご参照下さい。

「昭和32年 コーラ本格上陸 みんな作って、みんないい」/「「乙女の像」制作 朗読劇で 劇団「エムズ・パーティ」16、17日十和田で上演」。
テレビ放映情報-詩句の読み方。
都内レポートその2 「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」。
岩手日報「風土計」。

ちなみにコーラについては、ネット上などで「大正3年(1914)に高村光太郎が詩集『道程』で初めて日本に紹介した」的に『道程』が初出のように書かれていますが、先述の通り大正元年(1912)の『白樺』に「狂者の詩」が掲載されていますから、そちらを前面に出して頂きたいのですが……。

閑話休題、『イチからつくる コーラ』、レシピ的な記述もあり、ご興味のおありの方、これを参考にオリジナルのコーラ製作に取り組まれてはいかがでしょうか。

【折々のことば・光太郎】

何処へ行つてもやつぱり東京へ帰つて来る。それがつまらない。犬吠で不思議な夢幻的の日を送つてゐた。濤の音が恋しい。この舟の帆が下される。そして日がくれる。水がうたを歌ひ始める。久しぶりで水の傍に居てひとく動かされた。


大正元年(1912)9月(推定) 水野葉舟宛書簡より 光太郎30歳

親友の水野葉舟に宛てた葉書から。さすがに親友とはいえ、智恵子が犬吠まで追ってきて……という件は伏せていたようです。

画像は初めに智恵子が妹・セキ、友人・藤井ユウと共に泊まった御風館。
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その後、セキとユウを先に帰し、光太郎が泊まっていた暁鶏館に移りました。下の画像の中央奥です。
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光太郎にとっては犬吠の数日間は、「不思議な夢幻的の日」だったでしょうね。

この直後にコーラを取り上げた「狂者の詩」が書かれます。ただ、そちらにはかつて関係のあった吉原河内楼の娼妓・若太夫や、雷門前のカフェ「よか楼」のお梅の名も。まだ「本当に智恵子と付き合っていいんだろうか」的な迷いも見られます。

千葉県から企画展の情報です。

末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―

期 日 : 2023年4月15日(土)~6月25日(日)
会 場 : 市原湖畔美術館 千葉県市原市不入75-1
時 間 : 平日 10:00 - 17:00 土・祝前日 9:30 - 19:00 日・祝 9:30 - 18:00
休 館 : 月曜日[祝日の場合は翌平日]
料 金 : 一般:1,000( 800 )円  大高生・65 歳以上:800( 600 )円
      ( )内は 20 名以上の団体料金

何を美しいと思うか。

日本を代表する彫刻家・舟越保武の長女に生まれ、上皇后陛下美智子さまの講演録の編集者としても知られる末盛千枝子。「絵本は子どもだけのためのものではない」との思いのもと、人生の悲しみや希望、美しさを伝える多くの絵本を世に送り出し、東日本大震災では被災地の子ども達に絵本を届ける活動を立ち上げました。
本展では、末盛がさまざまな人々との出会いと協働によって生み出した珠玉の絵本の原画や貴重な資料とともに、彼女を育んだ芸術家一家――彫刻家の父・保武、弟・桂、直木、自らの句作を断念し彫刻家の妻として生きた母・道子をはじめとする舟越家の人々の作品の数々を一堂に展観、その波乱に富んだ人生と仕事の全容に光を当てます。

プロフィール
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末盛千枝子[1941-]
1941年東京生まれ。高村光太郎により「千枝子」と名付けられる。 4歳から10歳まで父の郷里・盛岡で過ごす。慶応義塾大学卒業後、絵本の出版社に勤務。「夢であいましょう」等で知られる NHKディレクターと結婚、2児の母となるが、夫の突然死のあと、最初に出した絵本『あさ・One morning』でボローニャ国際児童図書展グランプリを受賞。1988年、 すえもりブックスを立ち上げ、独立。まど・みちおの詩を美智子さまが選・英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』やご講演をまとめた『橋をかける 子供時代の読書の思い出』など、話題作を次々に出版。1995年、古くからの友人と再婚。2002年から2006年まで国際児童図書評議会(IBBY)の国際理事をつとめ、2014年には名誉会員に選ばれる。2010年、岩手県に移住。2011年から10年間、「3.11 絵本プロジェクトいわて」の代表を務めた。
主な著書に『人生に大切なことはすべて絵本から教わったI、 II』(現代企画室)、『ことばのともしび』(新教出版社)、 『小さな幸せをひとつひとつ数える』(PHP研究所)、 『「私」を受け容れて生きる』(新潮社)、『根っこと翼・皇后美智子さまという存在の輝き』(新潮社)などがある。

舟越保武[1912-2002]
岩手県一戸町に生まれる。県立盛岡中学校在学中に高村光太郎訳の「ロダンの言葉」に感動し彫刻に惹かれたことをきっかけに、彫刻家を志す。1939年東京美術学校彫刻科を卒業。この頃から、独学で石彫の直彫りをはじめ、その後第一人者となる。聖女像などキリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした作品も多数制作。1967年から東京藝術大学教授を勤め多くの彫刻家を育てた。1987年に脳梗塞で倒れ半身不随となった後も彫刻を続け、死の直前まで作品を作り続けた。高村光太郎賞(1962)、中原悌二郎賞(1972)、芸術選奨文部大臣賞(1978)など受賞、1999年文化功労者受章。「何を美しいと思うか 」と絶えず家族に示し、芸術の厳しさを体現した父・保武は、末盛の価値観、生き方に大きな影響を与える。本展では、保武と家族全員がカトリックの洗礼を受けるきっかけにもなった生後8ヶ月で病死した長男・一馬を描いたパステル画、末盛の幼少期の彫像、代表作である《長崎26殉教者記念像(ヘスス像)》、ハンセン病患者に尽くし自らも病に倒れた《ダミアン神父》とそれぞれのデッサン、すえもりブックスより出版した絵本『ナザレの少年―新約聖書より―』の原画 、右半身が麻痺した後に左手で創作した《ゴルゴダ》やデッサンを展示する。

舟越桂[1951-]
舟越保武、道子の次男として岩手県盛岡市に生まれる。父・保武の影響で子供のころより彫刻家になるだろうと予想する。1975年、東京造形大学彫刻科卒業、東京藝術大学大学院に進学し彫刻を専攻する。大学院在学時、トラピスト修道院のために初の本格的な木彫作品となる《聖母子像》(1977)を制作。1986~87年、文化庁芸術家在外研修員としてロンドンに滞在。性別を感じさせない半身の人物像を特徴としており、2004年からは、両性具有の身体と長い耳をもった像「スフィンクス・シリーズ」を手がけている。これまでの参加した主な国際展に「ヴェネチア・ビエンナーレ」(1988)、「サン・パウロ・ビエンナーレ」(1989)、「ドクメンタ9」(1992)など。タカシマヤ文化基金第1回新鋭作家奨励賞(1991)、中原悌二郎賞(1995)、平櫛田中賞(1997)、毎日芸術賞(2009)などを受賞。11年には紫綬褒章を受章。近年の主な個展に「舟越桂 私の中のスフィンクス」(兵庫県立美術館など4会場を巡回、2015-16)、「舟越桂 私の中にある泉」(2020-21)。本展では、すえもりブックスで出版された『児童文学最終講義』(猪熊葉子著)の表紙となった《 冬の本 》、絵本『おもちゃのいいわけ』にもなった家族のためにつくった木っ端のおもちゃ、東日本大震災の時に被災地に持参した彫刻《立ったまま寝ないのピノッキオ》と伝統手摺木版画で刷られた「ピノッキオ」の絵巻物、東北での体験から生まれた《海にとどく手》など10数点を展示する。

舟越直木[1953-2017]
舟越保武、道子の3男として東京に生まれる。1978年、東京造形大学絵画科卒業。1983年には、みゆき画廊において、絵画作品による初個展を開催する。以降もギャラリーQなどで個展を開催。1980年代後半からは彫刻に転向。その後は、なびす画廊、MORIOKA第一画廊、ときの忘れもの、GALLERY TERASHITA、ギャラリーせいほうなどで個展を開催した。節足動物の足を思わせるような長く、かつ緩やかなカーブを描いた線からなる作品や、人間の心臓を暗示させるハート形をした作品、単純化された人間の輪郭を想起させる作品などの抽象彫刻や、繊細な色彩感覚をもって対象物の存在感そのものを描き出すドローイングなどで知られる。本展では、直木の初期から晩年までの代表作を展示する。

舟越道子[1916-2010]
北海道釧路市に生まれる。旧姓、坂井。女子美術専門学校、文化学院で学び、1940年に舟越保武と結婚。当時すでに自由律俳句の世界で知られた存在であったが、保武の強い希望により、句作を断念、家族を支えた。55年後の1995年、俳句雑誌に「坂井道子はどこへ」という記事が掲載されたことにより、母・道子が文学に憧れただけの少女ではなかったことを子どもたちは知ることとなる。市川浩の哲学との出会いをきっかけに句作を再開、句文集や詩集も刊行した。芹沢銈介に染織を、難波田龍起に洋画を学び、絵画の個展も毎年開催した。

舟越苗子[1943-]
舟越保武、道子の次女として東京に生まれる。アメリカのウエストバージニア州立大学Concord College で絵画、彫金を学び 1966 年に卒業。ニューヨーク、アート・ステューデント・リーグでデッサンを学び、メイン州の工芸学校で彫金を学ぶ。ベルギー、ブリュッセルに滞在、フランス語を学ぶ。テレビ番組(海外局、および海外向け)で日本取材班の通訳・コーディネーターとして働く。父・母の最晩年の介護を担当 した 。 本展ではドローイングを出品する。

茉莉 ・ アントワンヌ ・ 舟越[1946-]
舟越保武、道子の3女として岩手県盛岡で生まれる。1969 年、慶應大学文学部卒業。以来、主にパリとブリュッセルで暮らす。ドキュメンタリー作家の夫ジャン・アントワンヌの日本をテーマにしたフィルム(日本の歴史シリーズ、日本の伝統工芸作家、井上靖、安藤忠雄、堤清二などの紹介)の制作を担い、現在は、フジサンケイ・パリに勤務、高松宮記念世界文化賞、ロン・ティボー国際音楽コンクールを担当する。本展ではシルクスクリーンの作品を出品する。

舟越カンナ[1960-]
舟越保武、道子の4女として東京に生まれる。桐朋学園演劇科卒業。末盛の手がけた絵本『あさ One morning』『冬の日 One Evening』『冬の旅 One Christmas』『そらに In The Sky』では言葉を担当、「まだ、絵本は子どもだけのものとお思いですか」というコピーはカンナの作。アーティスト、絵本作家。本展では、「うしろすがた」シリーズの中から家族を描いた作品を出品する。
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絵本編集者・末盛千枝子氏を中心に、父君で光太郎と親交が深かった彫刻家の舟越保武、同じく彫刻の道に進んだ桂氏をはじめとする弟妹の皆さんなど、タイトル通り「末盛千枝子と舟越家の人々」の展覧会です。

プロフィール欄にある「高村光太郎により「千枝子」と名付けられる」の経緯は、平成28年(2016)に刊行された末盛氏の御著書『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』に詳しく語られています。

 私の父は旧制中学のとき、高村さんの訳した『ロダンの言葉』という本を読んで彫刻家になろうと決心したのだった。そして、私が東京練馬のアトリエ長屋で生まれた時、父は数え年で二十九歳だったが、全く面識のない高村さんを突然訪ねて、
「彫刻家になろうとしている舟越保武というものです。娘が生まれたのですが、名前をつけていただけないでしょうか」
 と頼んだそうだ。困惑されたに違いないが、高村さんはその無謀な願いを聞き入れてくださり、
「女の名前は智恵子しか思い浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは替えましょうね」
 と言って千枝子と名付けて下さったのだと、小さいときから繰り返し、聞かされてきた。


末盛氏のお生まれは昭和16年(1941)、『智恵子抄』が刊行された年です。

その後、同20年(1945)には光太郎が花巻に疎開、同じ頃、舟越一家も盛岡に。戦後、舟越は岩手県立美術工芸学校教授となり、光太郎も同校の顧問格となって、親しく交わるようになります。その頃、幼かった末盛氏は光太郎と会われています。鮮明な記憶ではないようですが、やはり『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』から。

 父はときどき盛岡に出てこられる高村さんにお会いする機会が増え、自分の彫刻を見てもらいに作品を持って花巻をお訪ねすることもあったようだ。
 そして、時には私を連れて盛岡駅に高村さんを見送りにいくというようなことがあったという。父が「この子があのときに名前を付けていただいた千枝子です。三年生になりました」と申し上げると、高村さんは私の頭をなでて、「おじさんを覚えておいてくださいね」と言われたそうだ。父は、そのことを何回も話してくれた。


しかし、「千枝子」と名付けられたことに対し、ご本人はいろいろ複雑な思いを抱えながら成長されたそうで、そのあたりは同書をご覧下さい。

関連行事が以下の通り予定されています。

オープニング・トーク「舟越家の芸術」

期 日 : 2023年4月15日(土)
会 場 : 市原湖畔美術館 千葉県市原市不入75-1
時 間 : 13:00~14:45
料 金 : 1,000円(別途要入館料)
出 演 : 末盛千枝子 中谷ミチコ(アーティスト) 北川フラム(市原湖畔美術館長)

申込み多数のため、会場参加の受付は締め切りました。トークの録画を4月23日にHPで無料公開しますので、ご理解くださいますようお願い申し上げます。

末盛千枝子講演会「人生に大切なことはすべて絵本から教わった」

期 日 : 2023年4月16日(日)
会 場 : 市原湖畔美術館 千葉県市原市不入75-1
時 間 : 13:00~14:30
料 金 : 1,000円(別途要入館料
出 演 : 末盛千枝子

編集者として最初に手がけた絵本がボローニャ国際児童図書展グランプリ、ニューヨークタイムズ年間最優秀絵本賞を受賞、自ら出版社を立ち上げ、美智子さまの講演録を手がけ、ゴフスタインやターシャ・テューダーなど数々の話題作を出版してこられた末盛千枝子さん。しかしその人生は多くの困難に満ちたものでした。夫の突然死、息子の難病と障害、そして移住した岩手での震災……。どんな困難に遭っても、運命から逃げず歩み続けてこられた末盛さんに、自らの人生と世界中の素晴らしい人たち、絵本との出会いを語っていただきます。

当方、講演会の方に申し込みました。

末盛氏とは、平成25年(2013)、代官山で開催された「読書会 少女は本を読んで大人になる」で初めてお会いし、翌年、花巻郊外旧太田村の高村山荘(光太郎が蟄居生活を送った山小屋)敷地内での第57回高村祭でご講演いただきました。それ以来、ほぼほぼ10年ぶりとなります。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

めつたに海に来ない僕にはこの連中のやつてる事が非常に英雄的に見える いつも海に来ると海の重量を考へる


大正元年(1912)8月31日 前田晁宛書簡より 光太郎30歳

昨日のこの項でご紹介した書簡の続きです。昨日分は絵葉書の宛名面下部の文面、今日の分は写真面に書き込まれています。
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銚子犬吠埼に絵を描きに来た光太郎。この後、それを追って智恵子が現れます。

特に何もなければ、新刊書籍の紹介を今日から4連発で。この系統はつい後回しになってしまい、溜まってしまいました。

まずは岩手から届いたミニブック。

michino絵本 器と楽しむ光太郎ランチ

2022年7月 企画デザイン/文/写真/発行 やつかの森LLC 色鉛筆画/MICHINO
 料理制作/ミレットキッチン花 定価700円(税込み)


癒しの時間

色鉛筆で花の絵を描くMICHINOさん。光太郎の魅力を発信する「光太郎ランチ」の応援団になっていただきました。

毎月「光太郎ランチ」弁当を買って来て器に盛り付ける。MICHINO風楽しみ方。1年間描き続け、その絵が素敵な本になりました。心癒やされる時間をぜひどうぞ。

お申し込み先 やつかの森LLC FAX 0198-29-2672 kotarocafe30@gmail.com
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現在、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで開催中の同名の展示を、一冊の絵本にしたものです。道の駅のテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」を洒落た器に盛りつけて描いた作品群。
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メニュー及び光太郎の日記等から抜粋された食に関する一節が左側のページ、右ページには地元ご在住のMICHINOさんという方の描いた色鉛筆画。12回分が掲載されています。合間には、「光太郎ランチ」実物の写真や、花を描いたMICHINOさんの色鉛筆画など。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん、花巻市街のマルカンさんで販売中ですし、FAX、メールでも注文可。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后週間サンケイより吉岡達夫氏ら三人来たり写真をとつてゆく、

昭和28年(1953)9月1日の日記より 光太郎71歳

「週間」は「週刊」の誤り。光太郎、ときどきやらかします(笑)。「写真」はこちらの記事のためのもの。この年9月27日号に掲載されました。
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昨日に引き続き、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からインスパイアされた作品関連で。

鉛筆で描かれた絵本の原画展「ほんとうの空の下で」

期 日 : 2021年3月31日(水)~4月26日(月)
会 場 : 青猫書房 東京都北区赤羽2-28-8
時 間 : 3月 11:00~18:00  4月 11:00~19:00 日曜 11:00~17:00
休 業 : 火曜日
料 金 : 無料

福島県浪江町の山里で暮らしていたおじいさんと犬のおはなしを描いた絵本の原画展
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絵本『ほんとうの空の下で』は、平成29年(2017)の刊行。福島県浪江町で愛犬と共に自給自足の生活をされ、平成28年(2016)に亡くなった川本年邦さん(享年86)を主人公とした実話です。

東日本大震災前から、子供たちのために幻灯の上映を続けていた川本さん、原発事故後の避難生活の中でも幻灯会を続け、最期は郡山の介護施設で亡くなりました。老いた愛犬・シマは、その前年に、川本さんの施設入所に伴って貰われていった里親さんの元で亡くなっていました。
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ラストは、川本さんとシマの魂が、共に過ごした「ほんとうの空」がある浪江の山里に還って行く、というシーンです。
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絵の中に文字が書かれていることはあるのですが、基本、言葉がありません。それが却って効果的で、幻灯を一コマずつ見ていくような感覚が呼び起こされ、最後は涙腺崩壊に導かれます。

原画展、当方が把握している限り、これまでも埼玉や福島で開催されていましたが、今回は都内の絵本専門店さんで行われるそうです。関連イベントとして以下も予定されています。

 4月4日(日)  双葉郡高野病院医師・NGOシェア代表 本田徹さんのおはなし
 4月11日(日) NPOひなん生活を守る会代表 鴨下祐也さんのおはなし
 4月18日(日) 『ほんとうの空の下で』について ノグチクミコさん
 4月26日(月) 詩とライヤー演奏 福島で被災した星ひかりさん


コロナ感染には十分お気をつけた上で、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ひる分教場へゆく。道路雪解水ながれ。路なき雪の上をよつて歩く。困難。 知事、国分謙吉、村長高橋雅郎、投票、郵便物うけとる。


昭和22年(1947)4月5日の日記より

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、4月に入ってもこういう状態だったのですね。

国分謙吉は地方自治法の施行に伴って、初めて選挙で選ばれた知事の一人です。これ以前は中央官庁から派遣された人物が知事でした。この時、後に光太郎に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を依頼する津島文治(太宰治実兄)が、青森県知事に当選しています。

国分と光太郎は、昭和25年(1950)に新聞社の企画で対談を行っています。光太郎、この時点では、そんなことになるなどとは考えていなかったでしょうね。

知事選挙といえば、先般、当方の住む千葉県で知事選挙が行われました。とんでもない泡沫候補が何人も「売名のため」と公言して立候補したりし、変な意味で注目されてしまいました。千葉県民として恥ずかしい限りです。

過日、原画展の開催をご紹介した、郡山ご在住のノグチクミコさん著『ほんとうの空の下で』。刊行は昨年でしたが、寡聞にして存じませんで、早速取り寄せさせていただきました。

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副題的に英語が添えられています「The tale of the old man & his dog」、「あるおじいさんと彼の犬の物語」といったところでしょうか。

帯的な紙片がついており、曰く

「人に尽くさなきゃ、なんとなく 生きてる価値ないみたいだもんね。」
戦後まもなく自宅で幻灯会を開き子供たちを楽しませてきた川本さん 移住先の浪江町で被災、避難所生活の中でも最後まで幻灯会を開いていました 人に尽くし、生きるその人生とは――。

福島県浪江町の山里で暮らしていた、おじいさんと年老いた犬のお話

ということです。

巻末には、ノグチさんによる解説文が付いており、それによれば、震災前、愛犬「シマ」と共に福島浪江町にお住まいだった、故・川本年邦さんという方の実話を元にしたものです。

本編約50ページには「言葉」は無く(絵の中に文字が描かれているカットはありますが)、静かに静かに物語が進んでいきます。

川本さんが浪江に移り住んだのは1990年代くらい。東京で暮らしていた若い頃、『路傍の石』の山本有三が近所に住んでいて、山本から古い幻灯機をもらったそうです。ちなみに山本の名は、『高村光太郎全集』には出てきませんが、山本が編集したアンソロジーに光太郎の詩が載っていたり、戦時中には同じ日本文学報国会で、山本は理事、光太郎は詩部会会長だったりで、交流があったと思われます。

川本さんは幻灯機のフィルムを自分でコツコツ集め、戦後の娯楽に飢えた子供達対象に無料幻灯会を開いていました。そして浪江に移ってからも、地元の幼稚園や小学校などでその活動を継続されていたそうです。生計はシマと共に林業や農業で立てていました。伐採した木を運ぶのを手伝うシマの姿が印象的でした。

再び「ちなみに」ですが、幻灯機といえば、光太郎は戦後の花巻郊外太田村での蟄居生活の中で、山小屋(ノグチさんも行かれたことがあるそうです)近くの山口分教場(後に小学校に昇格)に多大な援助をしていましたが、幻灯機も寄贈しています。そして村人対象に、法隆寺などのフィルムを見せ、自ら解説する講座を開いたりもしました。

そして、2011.3.11……。メルトダウンを起こした福島第一原発に近い浪江町は全町民に避難指示。川本さんはシマを置いて、智恵子の故郷・二本松に避難します。

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川本さんは、避難所などでも幻灯会を開催。その背景には、信条としていた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の精神があったということです。

やがて、シマを引き取ることができたのも束の間、川本さんが体調を崩し、郡山のシニアホームに入居することに。ここには犬は連れて行けません。新しい飼い主の元に貰われていったシマは、すでに15歳、ほどなく亡くなりました。

三たび「ちなみに」ですが、わが家の愛犬も、来月15歳になります。

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閑話休題。

その川本さんも、一昨年、シマの後を追うように他界。震災の翌年から、川本さんを描こうと考えていらしたノグチさん、川本さんの死に心が折れそうになりつつも、絵本を完成させました。

最後のシーンでは、川本さんとシマの魂が、共に過ごした浪江の山里に還って行きます。

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たんぽぽの綿毛が飛ぶ空は、川本さんとシマにとっての「ほんとうの空」……。

涙腺崩壊必至ですが、是非お買い求め下さい。また、伊達市での原画展、15日(土)までです。こちらもお近くの方、ぜひどうぞ。


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【折々のことば・光太郎】

○なほノエルと言ふ年の市見たいなものもあります。○私は大変、さうした騒ぎの場所がすきでしてね。暇さへあれば行つて見ました。そしてパリジアンが底抜け騒ぎする所に真の「生(ラ・ヴイ)」が動いて居ることを感じました。
談話筆記「パリの祭」より 明治42年(1909) 光太郎27歳

3年半にわたる欧米留学からの帰朝後間もなくのインタビュー記事から。後に文展(文部省美術展覧会)の評などで多用する「生(ラ・ヴイ)」の語の、最も早い使用例の一つでしょう。

光太郎は、時につまづき、大コケしながらもそのたび立ち上がり、鮮烈な「生(ラ・ヴイ)」を全うしましたが、川本さんのような「生(ラ・ヴイ)」もあるのだな、と、『ほんとうの空の下で』を読みつつ、思いました。

智恵子の故郷、福島でのイベントです。状況をわかりやすくするため、『毎日新聞』さんの福島版の記事から。 

<絵本原画展>幻灯上映、生きざま描き 浪江の男性主人公、愛犬と自給自足 イラストレーターが伊達で /福島

 郡山市のイラストレーター、ノグチクミコさん(55)が昨年10月に自費出版した絵本「ほんとうの空の下で」の原画展が、伊達市霊山町で開かれている。絵本の主人公は、浪江町で愛犬とともに自給自足の生活をし、2016年に86歳で亡くなった川本年邦さん。東京電力福島第1原発事故後も「電気紙芝居」と呼ばれる幻灯を避難先で上映し、子どもたちを喜ばせた。「人のために尽くし続けた川本さんの生きざまを感じてほしい」とノグチさんは話す。【寺町六花】
 東京から浪江町南津島の山里に移り住んだ川本さんは、まき割りや畑仕事をしながら、愛犬「シマ」と暮らしていた。生きがいは子どもたちのために幻灯を上映すること。だが原発事故後、川本さんの地区は帰還困難区域になり、避難生活を余儀なくされた。絵本に言葉は登場しない。2色の鉛筆による柔らかなタッチで、幻灯を1コマずつ映し出すように、川本さんとシマの生活を静かに描いていく。
 ノグチさんが川本さんを知ったのは、12年2月にテレビで放送されたドキュメンタリー番組だった。戦後まもなく、東京で子どもたちのために幻灯会を始め、原発事故後も上映を続ける姿に心を打たれた。「川本さんのことを絵本に描きたい」。芸術大学でデザインを学んだノグチさんは、録画した番組を100回以上見直しながら、毎日4〜5時間、スケッチを描き始めた。
 だが川本さんが住んでいると聞いた二本松市の仮設住宅に手紙を送っても、返事はなかった。浪江町の知り合いを通じて会おうとしたが、川本さんは仮設住宅の生活のストレスや、進行する難聴によって心を閉ざし、会うことはできなかった。「完成できない作品なのか」。絵本への気持ちはしぼみかけた。
 それでも、2年あまりが過ぎたとき、描きたい思いがふつふつと湧いた。浪江町の役場に問い合わせると、川本さんが郡山市の介護付き老人ホームに住んでいることがわかった。「どうしても描きたいんです」。手紙と一緒に描きためたスケッチを送ると、返事が来た。避難先を転々としたつらい記憶が、便箋8枚につづられていた。
 16年2月、ようやく対面した川本さんは肺気腫を患い、番組の放送時よりもやせ衰えていた。「番組で放送された後のことも描いてほしい」。川本さんは老人ホームに入居するためにシマと離れ離れになり、シマは里親のもとで15年10月に死んでいた。川本さんの暮らした仮設住宅や、シマの墓の写真などを集め、想像しながら筆を走らせた。「何かに描かされているようだった」。だが絵本が完成する前の16年4月、川本さんは旅立った。
 最後まで悩んだ絵本の題名は、高村光太郎の詩集「智恵子抄」から考えた。「東京には空が無い」と古里・福島の空を恋しがる妻智恵子のことをうたった一編の詩「川本さんにとっての本当の空は、『桃源郷』と言っていた、浪江の空なのかな」。老人ホームの部屋の窓からは、ほんの少ししか見えなかった空。「最後はシマと一緒に、浪江の広い空に戻ってほしかった」。物語の最後、川本さんがシマとともに、綿毛のように空に上っていく姿を描いた。
 原画展は「霊山こどもの村・遊びと学びのミュージアム」で15日まで。川本さんの幻灯会の様子をノグチさんが撮影した映像も上映されている。午前9時〜午後4時。水曜休館。高校生以上400円、3歳〜中学生は200円。絵本は1800円。同ミュージアムと郡山市のブックカフェ「Go Go Round This World!」の他、ノグチさん(電子メールusagiya@h7.dion.ne.jp)からも直接購入できる。


というわけで、絵本『ほんとうの空の下で』原画展です。10月から始まっていました。 

ノグチクミコ絵本原画展「ほんとうの空の下で」

期    日 : 2018年10月6日(土)〜12月15日(土)
会    場 : 遊びと学びのミュージアム 福島県伊達市霊山町石田字宝司沢9-1
時    間 : 9:00 ~ 16:00
料    金 : 無料

「ほんとうの空の下で」は、震災後に絵本作家のノグチクミコさんが、あるドキュメント番組を見て、おじいさんの生きざまに胸を打たれ、「一人でも多くの人に、おじいさんのその姿を伝えたい」と描いてうまれた絵本です。幻灯のように、1コマ1コマおじいさんと愛犬シマの日々が丁寧に描かれています。絵本と合わせて原画作品との時間をごうぞゆっくりお楽しみください。

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3月には埼玉浦和でも開催されていたとのこと。絵本についてはこちら


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ほっこりする絵柄ですね。しかし、涙無しでは読めなさそうです……。


ところで『智恵子抄』所収の光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)では、「う」が入らない「ほんとの空」で、こちらは「う」が入って「ほんとうの空」。「ほんとの空」の語では毎日キーワード検索をかけているのですが、「う」入りの方は調べておりませんで、気づくのが遅れました。意外と「ほんとうの空」として使われているケースも確かに多いので、今後、気をつけます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


ところで、「ほんとの空」の広がる安達太良山関連、今日の『朝日新聞』さんの土曜版に、登山家の故・田部井淳子さんがらみで大きく取り上げられています。光太郎智恵子には触れられていませんが。

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購読されていない方、コンビニ等で購入可能ですし、公共図書館等で閲覧という手もありますのでよろしくお願い申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

亜米利加美術も今日は稍動揺の形ありて、新しき画家、彫刻家の懸命の努力は、中々めざましき事に御座候。しかし今日の小生の頭脳に烈しき影響を与へたるは、埃及彫刻に越すもの無之候。芸術の命は誠実にありと、当然の事を今更に教へられ候。

散文「紐育より 三」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

20世紀初頭といえば、ポップなアメリカンアートのはしりがもう出ていた時代ですが、光太郎、そういったものよりも、ボストン美術館等で見たエジプト彫刻に心牽かれています。プリミティブなものに対する憧憬はこの頃からあったわけで、この後、ニューヨークで知り合う荻原守衛と、その点では意見が一致します。

光太郎を敬愛していた彫刻家の故・舟越保武氏の長女にして、絵本作家・編集者の末盛千枝子さんによる自伝的エッセイ『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』。「千枝子」と言う名を光太郎に付けて貰った経緯や、それがその後の人生に及ぼした影響などにも触れられています。

だいぶ好評のようで、もともと連載されていた新潮社さんのPR誌『波』に載った中江有里さんによるそれを皮切りに、あちこちに書評が出ています。『日本経済新聞』さんと、『朝日新聞』さんに載ったものがこちら。『福島民報』さん他の地方紙に載った評はこちら

約一週間前に、『毎日新聞』さんにも載りました。 

『「私」を受け容(い)れて生きる 父と母の娘』 神様に「逃げなかった」と言いたい 末盛千枝子(すえもり・ちえこ)さん

 ターシャ・チューダーやM・B・ゴフスタインなどの000名作絵本の数々を世に送り出してきた編集者が自らの人生を振り返った。「ああいうことも、こういうこともあったなあ、と思い出しながら書くのは楽しい作業でした」と感慨深げに語る。
 1941年、彫刻家・舟越保武の長女として生まれた。「千枝子」という名は、父が面識のなかった高村光太郎を突然訪ね、つけてもらったという。後に、深いカトリック信仰に根ざした崇高な作品を残した父は、だじゃれや落語を愛する意外な一面も持っていた。「志ん生はテープで繰り返し聴いていました」
 家族の笑い声が聞こえてきそうな幼少時代だが、長女として我慢することもあったらしい。そんな時、絵本が近くにあった。
 「私にとって絵本は、希望を語るものであり、悲しむ子どものそばに寄り添ってくれるものだった」と記す。「自分がこれと思う本を一生の間に一冊でも」。大学を卒業すると、絵本の出版社「至光社」で働いた。
 主に海外版の編集に携わった後、NHKの音楽番組のディレクター、末盛憲彦と結婚。2人の息子を授かる。だが結婚から11年、夫が急死する。
 「たいまつを引き継ぎたい」。人々の心に光をともすのは音楽も絵本も同じ。「G・C・PRESS」で再び絵本の仕事をはじめ、『あさ One morning』で国際賞を受賞、やがて自ら「すえもりブックス」を創設する。皇后さまの『橋をかける 子供時代の読書の思い出』を出版し話題になった。
 青春時代に親しかった哲学者の古田暁(ぎょう)と再会、95年に2度目の結婚をする。このくだりは「書きにくかった」とはにかむ。2013年の古田の死去後、半世紀ほど前にバチカンで、若い2人がローマ法王に謁見している写真が見つかった。「知り合いの修道院の院長から『ジグソーパズルの最後のピースが出てきたのですよ』と言われ、気持ちが助かりました」
 顧みれば、波瀾(はらん)万丈な人生ではなかったか。「それは特にありません」と首を振り、「大変だと思ったことも、乗り越えた時の喜びがあると考えれば、それはそれで良いかな」と続ける。「たぶん、私は死ぬ時に言うと思います。『逃げませんでしたよ。これでいいですね、神様』と」<広瀬登>


それから『読売新聞』さん。ただし、こちらでは光太郎について触れられていません。 

『「私」を受け容れて生きる』 末盛千枝子さん

 写真撮影のため本にちなむものを頼むと、父が作001ったブロンズのレリーフを持ってきてくれた。自分の結婚式の引き出物だという。
 彫刻家、舟越保武さんの長女として生まれ、結婚や出産を挟んでタシャ・チューダーをはじめ絵本の出版を手掛け、「すえもりブックス」を設立。皇后さまの講演をまとめた本などを出版した。その著者が、人生を振り返った。
 「人生は、自分が思うようにはなりません。成るようになるものですね」。撮影の間、穏やかにほほ笑んだ。
 疎開先の自然豊かな岩手で育った少女時代。苦労する両親を見て芸術家だけとは結婚しないと思い、人生に臆病だった若い頃。30歳のとき出会い、仕事から帰ると子供のオムツにアイロンをかけるほど優しかった最初の夫は、自宅で突然に倒れて亡くなった。
 <パパは あをい そらの てんごくにいるのです(略)だから かそうばで やくのは ぬけがらだけです>
 幼い孫に、保武さんはこんな手紙を書いたという。
 「つらい出来事が起きた直後には、希望なんて見えません。でも、逃げずにいれば、それらと一緒に生きていけるように感じる。悲しみや苦しみに意味があると思えるようになる。悩むからこそ、人は色々なことを考え、深まってゆくのではないでしょうか」
 障害を抱えた長男、再婚した夫とともに、東京から岩手県八幡平市に引っ越し、東日本大震災を経験した。その後、2度目の夫も亡くしている。現在は被災地の子どもに絵本を届ける「3・11 絵本プロジェクトいわて」を発足させ、代表を務める。
 「津波で本を流された子どもが保育園に置いた段ボールの中から同じ本を見つけ、抱きしめた時の顔。本好きの同志として、忘れられませんでした」(新潮社、1600円)


先週水曜日には、NHKさんで午前中に放映されている「ひるまえほっと」という情報番組に、やはり中江有里さんがご出演、「中江有里のブックレビュー・6月の3冊」というコーナーで、この書籍を取り上げて下さいました。

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当方、たまたま運転中で、カーナビにはNHKさんが流れており、突然この書籍の紹介が始まったので驚きました。そういうわけで録画できなかったのが残念です。


さて、『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』。新潮社さんから好評発売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

かたつむり早く角出せと思へどもじつと静まり蘭の根にねむる
大正13年(1924) 光太郎42歳

梅雨時というと、カタツムリですね。

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似たようなナメクジは許せませんが、なぜかカタツムリは愛らしいイメージがあるというのが不思議なところです。

光太郎、カタツムリを木彫で作っています。ただし、それがメインではなく、蓮根に添えてアクセントにしたものです。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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このブログも5年目に入りまして、閲覧数が10万件突破しています。ありがとうございます。割り算をすると、一日平均70件弱の閲覧を頂いています。

が、時折、閲覧数が跳ね上がります。イベントのレポートなどを載せた際に、そのイベントの関係者の方などがよくご覧下さるようです。

岩手花巻に滞在中だった先日の日曜日も急に多数のご訪問。その時はなぜ?という感じでした。前日には花巻のレポートを載せていましたが、携帯からの短い投稿でしたので、閲覧数の跳ね上がるような内容ではありませんでした。

携帯からではどの記事にアクセスがあったのかなどの解析が出来ません(そろそろタブレットを買え、ということでしょうか)。帰って参りまして、解析のページを見ると、末盛千枝子さんに関わる記事に多数のアクセスがあることがわかりました。

そこで思い当たったのが、新聞の書評欄。各紙おおむね日曜日に掲載されますが、末盛さんの新刊『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』の書評が、どこかの新聞に載ったので(近々書評が出るだろうと思っていました)、さらに同書についてネットでサーチされた方が当方ブログにたどりつかれたのだろう、というわけです。

果たして、ありました。

まず『日本経済新聞』さん。光太郎智恵子の名も出して下さいました。 

あとがきのあと 「私」を受け容れて生きる 末盛千枝子氏 困難を克服しつつ歩む人生

 彫刻家、舟越保武の長女。やはり彫刻家となった舟越桂の姉にあたり、家族の死や事故、震災、皇后美智子さまとの交流など起伏に富んだ人生を歩んできた。絵本作りに尽力し、国際児童図書評議会(IBBY)の理事も務めた。そんな半生を本書で振り返った。
 幼いころは裕福とはいえず、我慢の多い生活で心の支えになったのが絵本。やがてこれを仕事とし、美智子皇后さまにIBBYの退会でビデオで講演していただく機会を得た。「皇后さまはとても優しく気品があり、りんとした方。長男が入院したとき、すぐにお見舞いの電話を下さったことは忘れられない」と話す。
 皇后さまの気遣いは、スポーツの事故で体が不自由になった長男のこと。その父である最初の夫も54歳で突然死した。「こうした出来事がなければ今の人生はなかった。それで幸せかといわれれば分からない。でも、私に与えられた運命を受け入れて生きてきた」
 本書には実際、悲しみよりも感謝や慈しみの言葉が多くつづられる。それは、幼い弟の死をきっかけとした「信仰」ゆえだという。カトリックの指導者だった再婚相手から「神様はあなたをひいきしている」と言われたことが忘れられない。「困難を、神様からの宿題として受け止めて一つ一つ克服する私を見て、ある種のうらやましさを感じたのだろうと思う」とほほえむ。
 名付け親は父が尊敬した高村光太郎。「智恵子抄」で知られる高村の妻の名の漢字を替えて「千枝子」だ。
 2010年には岩手県八幡平市に引っ越し、東日本大震災を経験。被災地に絵本を届ける事業に奔走し、13年に再婚相手を看取ったことを機に、心の整理の一環として本書を書きとめた。「つらいことはたくさんあったけれど、決して不幸ではなかった。人生は生きるに値すると伝えたい」

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同日、『朝日新聞』さんにも書評が載りました。ただし、こちらには光太郎智恵子の名はありません。 

(著者に会いたい) 「私」を受け容れて生きる 父と母の娘 末盛千枝子さん(75)苦しかったことも自分の一部

 40年近く絵本の編集に携わってきた。「心を打つ絵本には、どこかに悲しみのひとはけが塗られている。そして、きちんと希望がある」と言う。平坦(へいたん)ではない自身の道程を著した本書を読むと、人生にも重なる言葉に思えてくる。
 父は彫刻家の舟越保武氏。7人きょうだいの長女で、大学卒業後、出版社で働いた。独立後、皇后美智子さまの講演録や英訳詩集を手がけ、親交を深めてきた。「『でんでん虫のかなしみ』というお話があってね、と最初に伺った時はびっくりして」。だれもが悲しみを背負っていることを伝える新美南吉の物語で、子どもの頃に出会った本が、のちの美智子さまを支えてきたのだと心に染みた。
 自身も困難に直面してきた。42歳の時、8歳と6歳の息子を残して夫が急死した。15年前には長男が事故で脊髄(せきずい)を損傷し、胸から下が動かなくなった。経営難に陥った出版社をたたみ、東京から父の故郷・岩手に移り住んでまもなく東日本大震災に遭う。
 「幸せとは、自分の運命を受け容(い)れることから始まる」との思いが書名の由来。だが「そう思えない時もあったのでは?」と尋ねると、「時間はかかるけれど、あきらめずにいれば、いつしか困難を乗り越え、強くなっていることに気づく。苦しかったことも、今の自分の一部なんですよね」としみじみと語った。
 病院からの帰り道、盛岡で車いすの長男と映画や展覧会を楽しむ。「東京では出来なかったこと。何が幸いするかわからない。ここでたくさん友だちを得たことも不思議なご褒美」とほほ笑んだ。被災した子どもたちに絵本を届ける活動を、今も仲間と続けている。

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当方、末盛さんとは2回お目にかかりました。最初は代官山で開催されたクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」(この記録集『少女は本を読んで大人になる』も好評発売中です)、二度目は一昨年の花巻高村祭。こういうと失礼ですが、本当に素敵なお年の召し方をされている方です。当方も、それから作家の中江有理さんも、「朝ドラのヒロインのよう」と感じています。ぜひお読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ
大正12年(1923) 光太郎41歳

今日、平成28年(2016)5月20日は、明治19年(1886)、福島県安達郡油井村(現・二本松市油井)に生まれた智恵子の130回目の誕生日です。

この短歌は、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」に添えられたものです。

光太郎最晩年、昭和30年(1955)に、当会顧問の北川太一先生が採った聞き書きには、以下の一節があります。

「樹下の二人」の前にある歌は安達原公園で作ったんです。僕が遠くに居て智恵子が木の下に居た。人というのは万葉でも特別の人を指すんです。
 詩の方はお寺に行く道の山の上に見晴らしの良いところがあってね、その土堤の上に坐って二人で話した。もう明日僕が東京に帰るという時でね。それをあとから作ったんです。詩と歌は別々に出来てそれをあとで一緒にしたわけだ。

二本松では今日から高村智恵子生誕130年記念事業「智恵子生誕祭」が行われます。明日、ぶらりと行ってみようと思っています。

過日のこのブログでご紹介した、末盛千枝子000さん著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』が一冊、版元の新潮社さんから送られてきました。

おそらく第60回連翹忌関連の資料を末盛さんにお送りしたので、そのご返礼として、末盛さんのご指示だろうと解釈、ありがたく頂戴いたしました。ただ、自分でも一冊購入していますので、いずれどなたかに差し上げようと思っています。

新潮社さんで作られた同書のチラシ、さらに同社のPR誌『波』(元々、『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』は同誌の連載でした)の今月号に載った、中江有里さんによる書評のコピーが同封されていました。

チラシの方は、書籍のチラシというのはこういう風に作ればいいのだな、と、参考になります。


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中江さんの書評は、以下の通り。

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朝ドラのヒロインのような人生 ――『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』  中江有里

 以前テレビの取材で、末盛さんの弟さんで彫刻家の舟越桂さんにお会いしたことがあります。世田谷のアトリエにお邪魔してインタビューさせて頂いたのですが、その時はご家族のお話は伺わなかったので、皇后様のご講演録『橋をかける』を手がけられた名編集者である末盛さんが、このように波乱に満ちた人生を送られているとは、全く知りませんでした。四十二歳のとき最初の旦那さんを突然亡くされたこと、ご長男の難病と障害、再婚相手の方の介護と看取り、経営していた出版社「すえもりブックス」の閉鎖、そして岩手に移住した直後の東日本大震災……。お写真を拝見すると、とても品がありお優しそうでいらっしゃって、苦労や不幸をまったく感じさせない佇まいに驚くのですが、自伝的エッセイである本書を読み、その理由が分かったような気がします。
  末盛さんは、一九四一年に彫刻家・舟越保武さんの長女として生まれ、高村光太郎によって「千枝子」と名付けられました。「女の名前は智恵子しか思い浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは変えましょうね」と高村さんは言われたそうです。その時点でもう、ある種の「運命」を感じてしまうのですが、彫刻だけで家族八人が食べていくことには、大変な困難が伴いました。そんな貧しさのなか、ひたむきに芸術と向き合うお父様と、お父様のことを尊敬し支え続けたお母様の生き様は、「本当に美しいものは何か」といったことや、生きる上での「覚悟」を末盛さんに教えたのだと思います。お金はなかったかもしれませんが、六人の子供たちはとても自由にそれぞれの生き方を選び取っていて――桂さんが苦労を承知の上で、お父様と同じ彫刻家という職業を選んでいるくらいですから。
  また、「信仰」も末盛さんの人生を語る上で欠かせないものです。末盛さんが小学校四年生のとき、八カ月で亡くなった弟さんの死をきっかけに、ご家族全員でカトリックの洗礼を受けました。外国人神父さまとの交流など、日本に暮らしながら「日本的でないもの」に幼い頃から触れてきたことで、この世界には様々な価値観が存在することを、自然と教えられたのでしょう。その中でも、大学時代にある神父さまから、「愛はすすめではなく、掟です」と言われたというエピソードは、その後の末盛さんの人生を示唆するようでもあり、かなり印象的でした。つまりは、最初の旦那さんの突然死といった、愛するがゆえに苦しみが与えられてしまう出来事があったとしても、愛を憎むことなく受け容れるのだということで、厳しい教えでありながら、「私にとってすべての始まりだった」と末盛さんは書かれています。
  空腹だからご飯が美味しく食べられるのと同じで、困難があるからこそ、幸せを感じることができる――末盛さんの人生を拝読して、何より強く感じたことです。そんな末盛さんを支えたものの一つに、忘れられない「ある光景」があったということに、私は非常に共感を覚えました。二十代半ば頃、末盛さんが初めてヨーロッパを旅され、スイスのアルプスに登られたときのこと。五十ドルもする登山鉄道に意を決して乗り込んだものの、すぐに土砂降りになってしまった。しかし頂上に近づくにつれて辺りは明るくなり、光り輝くアルプスの峰々を眺めることができた……そんな「奇跡」のような出来事なのですが、私自身も、旅行や撮影で、思いがけない瞬間に思いがけないほど美しい景色に出会ったことがあるので、その時の、言葉にできないほどの感動――天候といった自分ではどうにもできないことだからこそ強く心を打たれるし、まるでご褒美をもらったかのような、何かに守られているような確信めいた気持ちになるということが、本当によく分かります。それに、自分自身の存在を肯定されているようにさえ思えるのです。「信じること、希望し続けることという意味で、この光景は、私の人生の北極星のようなものになった」とあり、末盛さんの生き方の神髄を感じました。
  他にも、皇后様との友情や絵本編集者としての仕事など、常に前を向き生きるその姿には、読んでいる人の心を揺さぶり、励ます力があります。まるでNHKの朝ドラの主人公のように、この世界を肯定し続ける女性の「物語」に、今の時代だからこそ、一人でも多くの人に出会ってもらいたいです。

 

驚いたのは、「朝ドラのヒロインのような人生」という題名。先月、このブログで同書をご紹介した際に、末盛さんの来し方を、当方も「NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました」と書きました。同じことを考える人がいるんだと、苦笑しました。NHKさん、ぜひご検討下さい(笑)。

ブログをお読み下さった皆様、ぜひお買い求め下さい。

光太郎に関する部分も必読ですが、後半の、東日本大震災の被害(末盛さんは岩手県八幡平市ご在住)から立ち直るというくだりも感動的でした。ご自分も大変な思いをされているのに、被災した子供達を思いやり、「3.11絵本プロジェクトいわて」を立ち上げ、心のケアに奮闘されたお話など。

九州では大変なことになっています。九州の皆さんにも、落ちつかれたら是非お読みいただきたいと思います。生活再建のための一つの指針となるかと存じます。


【折々の歌と句・光太郎】

つま立つて乙女が行くや春の雨    明治42年(1909) 光太郎27歳

「つま立つて」、彫刻家ならではの観察眼のような気がします。

新刊情報です。 

「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―

2016年3月25日 末盛千枝子著 新潮社 定価1600円+税 

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幸せとは、自分の運命を受け容れること――。

彫刻家・舟越保武の長女に生まれ、本当に美しいものとは何かを教えられた幼少期。皇后様のご講演録『橋をかける』を出版した絵本編集者時代。戦争や貧しさ、息子の難病に夫の突然死、会社の倒産。そして、故郷岩手での東日本大震災……何があっても、「私」という人生から逃げずに前を向く著者の、波乱に満ちた自伝的エッセイ。

末盛千枝子スエモリ・チエコ
1941年東京生まれ。父は彫刻家の舟越保武で、高村光太郎によって「千枝子」と名付けられる。慶應義塾大学卒業後、絵本の出版社である至光社で働く。1986年には絵本『あさ One morning』(G.C.PRESS刊行)でボローニャ国際児童図書展グランプリを受賞、ニューヨーク・タイムズ年間最優秀絵本にも選ばれた。1988年に株式会社すえもりブックスを立ち上げ、独立。まど・みちおの詩を皇后様が選・英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』や、皇后様のご講演をまとめた『橋をかける 子供時代の読書の思い出』など、話題作を次々に出版。2010年から岩手県八幡平市に移住し、その地で東日本大震災に遭う。現在は、被災した子どもたちに絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」の代表を務めている。


光太郎に私淑した彫刻家の故・舟越保武氏のご長女で、絵本作家・編集者としてご活躍なさっている末盛千枝子さんの新著です。一昨年から昨年にかけ、新潮社さんのPR誌『波』に連載されていたエッセイ「父と母の娘」に加筆、一冊にまとめたものです。

当方、末盛さんには2回、お目にかかりました。

最初は平成25年(2013)、東京代官山で行われたイベント「読書会 少女は本を読んで大人になる」。末盛さんが講師で、『智恵子抄』を取り上げて下さった時でした。こちらは竹下景子さんや阿川佐和子さんなどとのご共著で後に一冊の書籍にまとめられました。

その後、一昨年の5月15日、花巻高村祭でもご講演。それぞれで、名付け親である生前の光太郎との思い出を語られました。

今回の『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』にも、同様のお話。さらに昨年7月、盛岡少年刑務所さんでの「高村光太郎祭」――昭和25年(1950)に光太郎本人がこちらを訪れて講演をしたことにちなんで、続けられています――で講演をなさった時のことなども書かれていました。

手元には昨日届き、まだ拾い読み、斜め読みですが、熟読するのが楽しみです。しかし、拾い読み、斜め読みでも、末盛さんのある意味ドラマチックな生き方、そして何があっても「自分」を受け入れて生きるというスタンスがページからこぼれてきます。

話が飛躍しますが、NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ながめては深き思ひに沈む身をはなちし野火はただもえて行く
明治34年(1901) 光太郎19歳

各地で野焼き、山焼きが行われています。いかにも春、ですね。

昨夜は東京・代官山に行って参りました。
 
過日のブログでご紹介したクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」を拝聴して参りました。
 
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ゲストは編集者・絵本作家の末盛千枝子さん。光太郎と交流のあった彫刻家の故・舟越保武氏のお嬢さんで、「千枝子」さんというお名前は、光太郎が名付け親だそうです。
 
お話の中には光太郎智恵子、そして智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』をお書きになった津村節子さんと同じく作家の故・吉村昭さんご夫妻、そしてご自身のご両親、さらにご自身など、さまざまな「夫婦」のありようについてのお話もありました。
 
末盛さんはお子様がまだ幼い頃に最初のご主人を急に亡くされ、再婚されたご主人も今年亡くされたそうですが、そうした深い悲しみを伴うはずのご体験もそうと感じさせせずにお話下さいました。もはや人生を達観なさっているという感じでした。
 
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光太郎という偉大な芸術家に名前を付けても000らったことに対し、お若い頃(失礼)には反発を感じる部分もあったそうですが、今では光太郎の思いをしっかり受け止められているようで、光太郎智恵子の事績についても的確なお話をなさいました。
 
また、末盛さんは岩手県八幡平市にお住まいだそうです。元々お父様の故・舟越保武氏は一戸のご出身で、盛岡にお住まいだった時期もあるので、そういう関係でしょうか。末盛さんご自身、盛岡にお住まいの頃、お父様に連れられて光太郎にお会いになっているとのことです。
 
そこで、東日本大震災の復興支援ということで、「絵本プロジェクトいわて」という活動にも携わっていらっしゃいます。
 
これは「被災地の子どもたちへ絵本を届ける」というコンセプトで、少し前までは絵本の寄贈も受け付けていましたが、現在はそちらは締め切り、現在は絵本を子どもたちへ届けるとともに、 「えほんカーを被災地へ」プロジェクトなどを行っているそうです。
 
ところで、休憩時間に末盛さんにご挨拶いたしましたところ、会の終了間際にいきなり当方に振られ(よくあることなのでもう慣れっこですが)、ご参会の皆様の前で連翹忌の宣伝をさせていただきました。
 
とにかく光太郎智恵子を敬愛する人々のネットワークを広げていくことが大切だと考えておりますので、このブログをお読み下さっている方々も、ぜひ連翹忌にご参加下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月7日

明治20年(1887)の今日、皇居造営事務局の命を受け、光雲が皇居化粧の間鏡縁「葡萄に栗鼠」を制作しました。
 
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平成14年(2002)に茨城県近代美術館他で巡回開催された「高村光雲とその時代展」に出品され、当方、実物を見ましたが、舌を巻くような精緻な彫刻、まさに超絶技巧でした。

東京は代官山からイベント情報です。  

読書会「少女は本を読んで大人になる」 第6回 高村光太郎『智恵子抄』 

主 催  クラブヒルサイド
日 時  2013年12月6日(金) 19:00~21:00
会 場  クラブヒルサイドサロン 
       東京都渋谷区猿楽町30-2 ヒルサイドテラス アネックスB棟2F
参加費  一般3,500円 学生2,500円 ミニサンドウィッチ、紅茶付
ゲスト  末盛千枝子
 
同会サイトから
『智恵子抄』は、彫刻家・詩人である高村光太郎が、妻・智恵子との出会いからその死の時まで、30 年にわたって書いた詩や短歌をおさめた一冊です。光太郎にとって最愛かつ創作のミューズであった智恵子は、自身もまた芸術家であり、平塚らいてうらとも親交を深める「新しい女」でした。しかし、創作と家庭生活の間での葛藤、実家の破綻も原因し、やがて精神を病み、52 歳で亡くなります。  今回は、高村光太郎を名付け親にもち、美しい絵本の数々を世に送り出してこられた編集者・末盛千枝子さんをゲストにお迎えします。果たして「夫婦」として生きるとはどのようなことなのか――。光太郎と智恵子の有り様を通して、末盛さんと共に考えてみたいと思います。
取り上げる本:高村光太郎『智恵子抄』(新潮文庫他)

 
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ゲストの末盛千枝子さん。「高村光太郎を名付け親にもち」とありますが、光太郎と交流のあった彫刻家・舟越保武のお嬢さんです。舟越はかつて行われていた彫刻と詩二部門の「高村光太郎賞」に輝いたこともあります。
 
昭和51年(1976)に読売新聞社盛岡支局から刊行された『啄木 賢治 光太郎 ―201人の証言―』には、このように書かれています。
 
 光太郎と舟越の初対面は昭和十六年、舟越の長女が生まれた時だった。舟越は当時、光太郎が訳したロダンの言葉に心酔しており、長女の名付け親になってもらうべく、一面識もなかった光太郎を、駒込のアトリエに訪ねたのだという。舟越は練馬にアトリエを持っていた。
 花巻の光太郎は、ずいぶん多くの人たちから名付け親を依頼された。詩人はそのたび「女の子なら智恵子としかつけませんよ」と笑ったが、舟越に対しても同じ意味のことを言い、漢字だけ変えてチエコと名付けてくれた。
 
また、昭和58年(1983)講談社から出た舟越保武・佐藤忠良の『対談 彫刻家の眼』には以下の部分があります。
 
佐藤 二人共、高村さんとは娘で縁があるんだな。君が高村さんに“千枝子”と名付け親になってもらったり、うちのオリエが智恵子を演ったりして。
 
舟越 ああ、そういえばそうだねえ。
 
佐藤 君の場合は、自分の子供の名前を自分でつけないで、他人に付けて貰おうというんだから、それは高村さんへの最大の尊敬だよね。
 
舟越 確かに尊敬の的だった。これはこの間テレビでしゃべったことだけど、高村さんが盛岡へ講演に来られて、花巻へ帰る時に、うちの娘の千枝子がまだ高村さんに会っていなかったので、その時に何とはなしに、きょう合わせた方がいいな、という予感みたいなものが僕にあった。それで娘を連れて、高村さんを盛岡駅へ見送りに行った。「これが先生に名前をつけていただいた千枝子です」と紹介したら、高村さんの表情がいつもと変わったような気がした。娘のおかっぱ頭を撫でて、「おじさんを、覚えておいて下さいね」と言った。その時の様子をはっきり憶えている。
 それから間もなく高村さんは東京へ出て、そしてあの仕事を終えて死んでいるわけ。盛岡駅で感じたあの予感みたいなものね。この小さい娘は自分が死んだ後にもずっと生きてるだろう。ということで高村さんの訣別の言葉だったのだと思う。
 
佐藤忠良も舟越同様、光太郎を敬愛していた彫刻家で、やはり「高村光太郎賞」受賞者です。そのお嬢さんは女優の佐藤オリエさん。昭和45年(1970)、TBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました。舟越保武が「テレビでしゃべった」というのはNHKの「新日曜美術館」でしょう。
 
「あの仕事」は十和田湖畔の裸婦像ですね。
 
末盛さん、その後、編集者・絵本作家としてご活躍。記録によれば初期の頃の連翹忌にご参加いただいています。
 
当方、早速申し込みをしました。どんなお話が聴けるのか、楽しみです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月9日

明治25年(1892)の今日、光雲が西郷隆盛像木型制作主任に任命されました。
 
今も上野のランドマークとして愛されている上野の「西郷さん」。竣工は同31年(1898)ですから、かなりの期間がかかっています。下は当時の手彩色絵葉書(カラー印刷でなく人の手で彩色されたもの)です。
 
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