新聞各紙から2件。
まずは仙台に本社を置く『河北新報』さん、12月11日(水)の記事。
当時からその才に目を付けていた光太郎や心平、炯眼と言わざるを得ません。
心平の回想「光太郎と賢治」(昭和31年=1956)から。おそらく大正末か昭和初めのことと思われます。
ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。
光太郎が親友・水野葉舟へ送った書簡(大正15年=1926)から。
宮沢氏からの本先日女中さんに托しましたが、此前の「注文の多い料理店」は黄瀛君に返却しなければなりませんから、お手許へ出して置いて下さい。
「宮沢氏からの本」が『春と修羅』で、その前に『注文の多い料理店』を貸していたようです。ただし黄瀛(光太郎や心平の仲間うちで唯一、賢治本人と会ったことがある人物でした)から借りたものの又貸しだったようですが。
その光太郎にしても心平にしても、賢治の全貌を知るのは賢治が歿してからのことでした。未発表の原稿がたくさん遺されていたことは何となくわかっていたらしく、昭和8年(1933)に賢治が亡くなるや、光太郎は心平に金を握らせて、花巻の宮沢家に向かわせます。遺稿はどうなっているのか、それを確認して来てくれ、というわけで。光太郎自身は智恵子の心の病が昂進していた時期で、動けませんでした。
心平が宮沢家に着くと、賢治実弟の清六が賢治から託された遺稿をしっかり管理していることがわかり、一安心。そして膨大な原稿を見た心平が清六に、一度東京に持ってきてごらんなさい、的なアドバイスをしたのでしょう。翌昭和9年(1934)、新宿モナミで開催された賢治追悼会に清六が原稿の詰まったトランクを持参、光太郎や永瀬清子、新美南吉らはそれを見て仰天。さらにトランクのポケットから「雨ニモマケズ」の書かれた有名な手帳が見つかりました。
おそらく光太郎にしても心平にしても、もっと早くに賢治手を差しのべておくべきだったという悔恨が生じたのでしょう。罪滅ぼしというと何ですが、その後繰り返された『宮沢賢治全集』出版に二人が関わっていくことになるわけです。光太郎は装幀までも手がけました。
さらに光太郎は宮沢家の依頼で、昭和11年(1936)に花巻の桜町、羅須地人協会跡地に建てられた「雨ニモマケズ」碑の揮毫も行いました。そのあたりで光太郎に恩義を感じていた清六や父・政次郎が、昭和20年(1945)の空襲で駒込林町のアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招く、というわけで、本当に人の縁(えにし)というのは不思議なものだな、と思います。
今週末、また花巻に行って参りますので、記事にある賢治記念館さんの特別展 「刊行100周年 二冊の初版本」も見てこようと思っております。
皆様もぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
果して選集など出す資格があるかどうか、これまで何ひとつまとまつた仕事もしてゐない者がただ原稿をかき集めて何冊かの出版にしたところで江湖の読者がそれを更に要求しなかつたら甚だ滑稽な仕儀と存じます。この点がまだ気がかりで躊躇せずにゐられない気持に左右されてゐます。世上多くの選集全集の中にはさういふものもあるやうな気がします、徒らに無用の残骸をさらすやうではどうかと思はずにはゐられません、
結局、翌年から松下の勤務していた中央公論社から全六巻の『高村光太郎選集』が出されるのですが、賢治の全集や選集の出版には協力を惜しまなかった光太郎も、自身の選集出版には気乗りがしなかったようです。
まずは仙台に本社を置く『河北新報』さん、12月11日(水)の記事。
岩手県花巻市出身の作家、宮沢賢治(1896~1933年)の短編集「注文の多い料理店」が誕生から今月で100年を迎えた。ほぼ無名だった生前に出版した唯一の童話集。時代を超えて「世界の賢治」へと導いた始まりの一冊の出版秘話をひもといた。
■自筆原稿がないのは…
「出版100年記念ウイーク」と銘打った公演が今月、盛岡市のもりおか啄木・賢治青春館で始まり、4日は「3・11絵本プロジェクト」が6作品を朗読やタペストリー劇で表現。メンバーの佐々木優子さん(64)は「賢治の広く深い知識が土台にあり、誰でも楽しめる童話ばかり。少しも古びていない」と強調した。
「注文の多い料理店」は1924年12月1日、賢治が28歳の時に刊行された。青年2人が山奥の奇妙な西洋料理店に迷い込む表題作や「どんぐりと山猫」「山男の四月」「鹿踊のはじまり」など9編を所収する。
出版元は盛岡市材木町にある光原社。現在は民芸品などを販売し、同じく今月1日に100周年を迎えた。
創業者の及川四郎氏(1896~1974年)は盛岡高等農林学校(現岩手大農学部)で賢治の1年後輩だった。卒業後、友人と興した「東北農業薬剤研究所」で農薬や農業関係書を販売。売り込み先の花巻農学校(現花巻農高)教師だった賢治から童話の出版話を受けたのがきっかけだった。
「出版社らしい名前にしよう」。文芸書を手がけるに当たり「光原社」の屋号は賢治が提案した。及川氏の孫で6代目社長、川島富三雄さん(76)は「賢治が夢見ていたユートピア的な発想や思いを込めたのではないか」と想像する。
川島さんが小学5年の時、出版時の逸話を知った。学校で「よだかの星」を習い、賢治がどんな字を書くのか見たくなった。祖父に頼むと「従業員が東京で原稿を印刷してもらい、盛岡へ戻る途中に上野駅で置引に遭った」と聞かされた。
賢治の自筆原稿が数多く残っているにもかかわらず、出版元の光原社に「注文の多い料理店」の原稿が現存していない真相だった。
曲折を経て、光源社は1000部を発刊。定価1円60銭で表紙絵や挿絵も充実し、当時としては豪華な作りだった。無名作家ながら高村光太郎や草野心平ら詩人から絶賛されたが、世間の反応は鈍かった。見かねた賢治が200冊購入するほどで、採算は取れなかった。
「『注文の多い料理店』はまことに『注文の少ない童話集』でありました」。光原社は当時の様子をホームページで伝える。
花巻市の宮沢賢治記念館では、1924年に賢治が唯一自費出版した詩集「春と修羅」と合わせ特別展「刊行100周年 二冊の初版本」を開催している。所収作品や書き損じ原稿など貴重な資料を紹介する。
この2冊以降、賢治が37歳で早世するまで作品集を出版できなかった理由について、賢治の弟清六氏の孫で学芸員の宮沢明裕さん(46)は「体調の問題に加え、自信を持って出した2冊があまりに売れなかったことが大きい」と推測する。
未発表の原稿は清六氏らが守り、世に広めた。記念館では直筆原稿など約3500枚を所蔵し、資料の修復を進める。宮沢さんは「出版できなくても作品の構想と執筆を生涯続けた賢治と、作品を後世に残すことに生涯を懸けた祖父の思いを大事にしている」と話す。
出版時に売れなかった一冊は、関係者の尽力が結晶し、不朽の名作となった。川島さんも「祖父は賢治作品が世界中で読まれるよう願っていた」と思いをはせる。「一つの星を見るように、100年受け継いできた及川四郎の思いと賢治の夢。この先も変わることなく生き続けるでしょう」
よく使われる表現ですが、賢治は時代を突き抜けて早すぎた、ということでしょう。我が国口語自由詩史上の金字塔である光太郎の詩集『道程』(大正3年=1914)にしても、刊行時にきちんと書店を通して売れたのは7冊だけだったらしいと、光太郎自身ものちに回想しています。賢治の『春と修羅』、『注文の多い料理店』ともに売れ残り残本の処理には困ったそうで。当時からその才に目を付けていた光太郎や心平、炯眼と言わざるを得ません。
心平の回想「光太郎と賢治」(昭和31年=1956)から。おそらく大正末か昭和初めのことと思われます。
ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。
光太郎が親友・水野葉舟へ送った書簡(大正15年=1926)から。
宮沢氏からの本先日女中さんに托しましたが、此前の「注文の多い料理店」は黄瀛君に返却しなければなりませんから、お手許へ出して置いて下さい。
「宮沢氏からの本」が『春と修羅』で、その前に『注文の多い料理店』を貸していたようです。ただし黄瀛(光太郎や心平の仲間うちで唯一、賢治本人と会ったことがある人物でした)から借りたものの又貸しだったようですが。
その光太郎にしても心平にしても、賢治の全貌を知るのは賢治が歿してからのことでした。未発表の原稿がたくさん遺されていたことは何となくわかっていたらしく、昭和8年(1933)に賢治が亡くなるや、光太郎は心平に金を握らせて、花巻の宮沢家に向かわせます。遺稿はどうなっているのか、それを確認して来てくれ、というわけで。光太郎自身は智恵子の心の病が昂進していた時期で、動けませんでした。
心平が宮沢家に着くと、賢治実弟の清六が賢治から託された遺稿をしっかり管理していることがわかり、一安心。そして膨大な原稿を見た心平が清六に、一度東京に持ってきてごらんなさい、的なアドバイスをしたのでしょう。翌昭和9年(1934)、新宿モナミで開催された賢治追悼会に清六が原稿の詰まったトランクを持参、光太郎や永瀬清子、新美南吉らはそれを見て仰天。さらにトランクのポケットから「雨ニモマケズ」の書かれた有名な手帳が見つかりました。
おそらく光太郎にしても心平にしても、もっと早くに賢治手を差しのべておくべきだったという悔恨が生じたのでしょう。罪滅ぼしというと何ですが、その後繰り返された『宮沢賢治全集』出版に二人が関わっていくことになるわけです。光太郎は装幀までも手がけました。
さらに光太郎は宮沢家の依頼で、昭和11年(1936)に花巻の桜町、羅須地人協会跡地に建てられた「雨ニモマケズ」碑の揮毫も行いました。そのあたりで光太郎に恩義を感じていた清六や父・政次郎が、昭和20年(1945)の空襲で駒込林町のアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招く、というわけで、本当に人の縁(えにし)というのは不思議なものだな、と思います。
今週末、また花巻に行って参りますので、記事にある賢治記念館さんの特別展 「刊行100周年 二冊の初版本」も見てこようと思っております。
皆様もぜひどうぞ。
【折々のことば・光太郎】
果して選集など出す資格があるかどうか、これまで何ひとつまとまつた仕事もしてゐない者がただ原稿をかき集めて何冊かの出版にしたところで江湖の読者がそれを更に要求しなかつたら甚だ滑稽な仕儀と存じます。この点がまだ気がかりで躊躇せずにゐられない気持に左右されてゐます。世上多くの選集全集の中にはさういふものもあるやうな気がします、徒らに無用の残骸をさらすやうではどうかと思はずにはゐられません、
昭和25年(1950)9月29日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳
結局、翌年から松下の勤務していた中央公論社から全六巻の『高村光太郎選集』が出されるのですが、賢治の全集や選集の出版には協力を惜しまなかった光太郎も、自身の選集出版には気乗りがしなかったようです。