それぞれ少し前のものですが、3件。
まずは『北海道新聞』さんから読者投稿俳句。
高村光太郎の忌日は4月2日なのだが、この時季のみずみずしさを詠んだ掲句に、作者のみならず読者も浄化されそうだ。作品「樹下の二人」の詩句「あれが阿多(あた)多羅(たら)山、/あの光るのが阿武(あぶ)隈(くま)川。//ここはあなたの生(うま)れたふるさと、」を想起(そうき)させる。春の訪れの遅い北国だが「ひかる川と山」は素朴で新鮮で美しいことばである。 久保田哲子
光太郎忌日は「連翹忌」で、おそらく通常の「歳時記」にも登録されていると思われます。しかし「連翹忌」の呼称がどれだけ一般に浸透しているかというと、太宰治の「桜桃忌」、芥川龍之介の「河童忌」ほどではありませんので、おそらく投句された方、「連翹忌」の呼称は知りつつもあえて「光太郎忌」となさったのではないかと思われます。そういう小細工なしに「連翹忌」で誰しもに通じるようであって欲しいものですが……。
同じく読者投稿句、『読売新聞』さんから。
【評】『智恵子抄』の舞台は九十九里浜。しかし晩年の彼女は精神を病み、看病に疲れ喪心の彼は戦争賛美へと走り晩年の反省が用意される。大学時代の夏休みに彼が過酷な生活を送った山小屋に行った。死後一年ほどの囲炉裏の周りには彼の息遣いが漂っているようだった。
昭和9年(1934)に智恵子が療養生活を送り、週に一度は光太郎が見舞いに訪れていた九十九里浜は太平洋に面した「外房」。句の作者の君津市は東京湾添いのいわゆる「内房」ですが、房総半島を一またぎすれば九十九里です。「目刺」が春の季語で単独で盛り込まれる場合もありますが、この句のように「目刺干す」で使われることも多いようです。実際、智恵子が療養していたあたりを歩くと、家々の軒先で魚の干物を作っている光景によく出会います。
選者の矢島氏、句には詠まれていないその後の光太郎についても言及。ありがたし。
取り上げるべき事項が山積しておりまして、もう1件、同じ新聞つながりで、仙台に本社を置く『河北新報』さんの一面コラムもご紹介してしまいます。
『読売』さんの矢島氏の評にも現れた、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する高村光太郎記念館。GW中の記事ですので、この連休に訪ねてみては?的な内容ですが、1年中いつ行ってもいいところです。ぜひ足をお運びください。
ちなみに光太郎の賢治評「内にコスモス」云々(「でんでん」ではありません(笑))が記念館に展示されている、ということですが、その一節を選んで展示解説パネルを作ったのは当方です(笑)。
【折々のことば・光太郎】
思ひがけなく小生の誕生日のためにとて勢のいいロブスター三尾お届け下され感謝しました、大変愉快でした、
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、前年秋に花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎の元を、体当たり的に突撃訪問して知遇を得た当会顧問であらせられた故・北川太一先生。この日の光太郎誕生日にプレゼントを進呈。しかし、なぜにロブスターだったのでしょうか(笑)? ご存命のうちに訊いておけばよかったと後悔しております。
まずは『北海道新聞』さんから読者投稿俳句。
光太郎忌山ありて川ひかるなり 上田小八重
高村光太郎の忌日は4月2日なのだが、この時季のみずみずしさを詠んだ掲句に、作者のみならず読者も浄化されそうだ。作品「樹下の二人」の詩句「あれが阿多(あた)多羅(たら)山、/あの光るのが阿武(あぶ)隈(くま)川。//ここはあなたの生(うま)れたふるさと、」を想起(そうき)させる。春の訪れの遅い北国だが「ひかる川と山」は素朴で新鮮で美しいことばである。 久保田哲子
光太郎忌日は「連翹忌」で、おそらく通常の「歳時記」にも登録されていると思われます。しかし「連翹忌」の呼称がどれだけ一般に浸透しているかというと、太宰治の「桜桃忌」、芥川龍之介の「河童忌」ほどではありませんので、おそらく投句された方、「連翹忌」の呼称は知りつつもあえて「光太郎忌」となさったのではないかと思われます。そういう小細工なしに「連翹忌」で誰しもに通じるようであって欲しいものですが……。
同じく読者投稿句、『読売新聞』さんから。
光太郎智恵子の浜や目刺干す 君津市 榎本静江
【評】『智恵子抄』の舞台は九十九里浜。しかし晩年の彼女は精神を病み、看病に疲れ喪心の彼は戦争賛美へと走り晩年の反省が用意される。大学時代の夏休みに彼が過酷な生活を送った山小屋に行った。死後一年ほどの囲炉裏の周りには彼の息遣いが漂っているようだった。
昭和9年(1934)に智恵子が療養生活を送り、週に一度は光太郎が見舞いに訪れていた九十九里浜は太平洋に面した「外房」。句の作者の君津市は東京湾添いのいわゆる「内房」ですが、房総半島を一またぎすれば九十九里です。「目刺」が春の季語で単独で盛り込まれる場合もありますが、この句のように「目刺干す」で使われることも多いようです。実際、智恵子が療養していたあたりを歩くと、家々の軒先で魚の干物を作っている光景によく出会います。
選者の矢島氏、句には詠まれていないその後の光太郎についても言及。ありがたし。
取り上げるべき事項が山積しておりまして、もう1件、同じ新聞つながりで、仙台に本社を置く『河北新報』さんの一面コラムもご紹介してしまいます。
彫刻家で詩人の高村光太郎は、岩手県花巻市出身の作家宮沢賢治の作品を高く評価し、世に紹介した功績でも知られる。そんな光太郎が賢治を評した言葉がある。「内にコスモスを持つ者は、世界のいずこの辺遠にいても、常に一地方的の存在から脱する」▼「宮沢賢治追悼」に寄せた文章の一節。この言葉を展示するのは、花巻市の花巻南温泉郷近くにある高村光太郎記念館だ。光太郎は戦争末期、宮沢家を頼って花巻に疎開し、人里離れた山荘に7年間暮らした。山荘は保存され、その傍らに記念館は立つ▼賢治は花巻を拠点に多くの詩や童話を創作し、「イーハトーブ」の世界観を築き上げた。光太郎は感銘を受け、南フランスの田舎で絵筆を取りながら、世界の新しい芸術に指針を与えたセザンヌのようだと記している▼反対に、内にコスモスを持たない者は、どんな文化の中心にいても一地方的存在であると論じる。今で言えば、東京に住むか地方に住むかは関係なく、心の持ち方、考え方で、その人の世界は決まるということか▼近代芸術の巨人の言葉は、東北に暮らすとりわけ若い世代へのエールになるだろう。大型連休も後半に入る。予定が決まっていないなら、訪れてみてはいかが。光太郎を癒やした花巻の自然や温泉も待っている。(2025・5・2)
『読売』さんの矢島氏の評にも現れた、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する高村光太郎記念館。GW中の記事ですので、この連休に訪ねてみては?的な内容ですが、1年中いつ行ってもいいところです。ぜひ足をお運びください。
ちなみに光太郎の賢治評「内にコスモス」云々(「でんでん」ではありません(笑))が記念館に展示されている、ということですが、その一節を選んで展示解説パネルを作ったのは当方です(笑)。
【折々のことば・光太郎】
思ひがけなく小生の誕生日のためにとて勢のいいロブスター三尾お届け下され感謝しました、大変愉快でした、
昭和28年(1953)3月13日 北川太一宛書簡より 光太郎71歳
生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、前年秋に花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎の元を、体当たり的に突撃訪問して知遇を得た当会顧問であらせられた故・北川太一先生。この日の光太郎誕生日にプレゼントを進呈。しかし、なぜにロブスターだったのでしょうか(笑)? ご存命のうちに訊いておけばよかったと後悔しております。