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当会の祖・草野心平が生前に愛し、心平没後は心平を祀る意味合いも込められるようになったイベントです。

第58回天山祭り

期 日 : 2023年7月8日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
       雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前10時~12時40分
料 金 : 500円

故草野心平先生の遺徳をしのび、7月の第2土曜日に毎年開催されています。詩の朗読や伝統芸能の披露など文化的なお祭りとなってます。これを機に、川内村の伝統にふれてみてはいかがでしょう。

今年は草野心平生誕120周年ということもあり、村の子どもたちによる発表なども予定されておりますので、ぜひお越しください。

お問い合わせ先 川内村教育委員会 電話:0240-38-3806
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まぁ、ほんのおまけのような扱いなのでしょう、要項等に記述がありませんが、当方の講演も予定されています。題して「草野心平と高村光太郎 魂の交流」。
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以前にも似たような話をあちこちでさせていただいておりますので、その焼き直しのような……。

同祭、何度か参加させていただきました。最後はコロナ禍前の第54回(令和元年=2019)。コロナ禍中の第55回(令和2年=2020)は例によって中止となり、一昨年の第56回は福島県内在住者に限っての参加で実施、昨年の第57回から再び広く参加を呼びかけるようになりました。ただ、今年もそうですが、以前のように名物のイワナ付きお弁当が饗されるところまでは旧に復していないようです。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

東京は四十年来といふ寒さで、此間零下八度六分。彫刻の粘土を凍らせないやうにするので厄介です。ロンドンは割に暖かなのでせう。霧はどうですか。

昭和2年(1927)1月27日 中野秀人宛書簡より 光太郎45歳

中野秀人は編集者・詩人。この頃ロンドンに居ました。

零下八度六分」は間違いでも誇張でもなく、この年1月24日に東京地方で記録され、気象台開設以来の寒波として記録に残っています。

これで思い出されるのが、『智恵子抄』所収の詩「金」。前年の大正15年(1926)に書かれたものです。
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 工場の泥を凍らせてはいけない。
 智恵子よ、
 夕方の台所が如何に淋しからうとも、
 石炭は焚かうね。
 寝部屋の毛布が薄ければ、
 上に坐蒲団をのせようとも、
 夜明けの寒さに、
 工場の泥を凍らせてはいけない。
 私は冬の寝ずの番、
 水銀柱の斥候(ものみ)を放つて、
 あの北風に逆襲しよう。
 少しばかり正月が淋しからうとも、
 智恵子よ、
 石炭は焚かうね。

「工場」は「こうじょう」ではなく「こうば」。アトリエのことです。「泥」は彫刻用の粘土ですね。

こういうところが、『智恵子抄』が「智恵子不在」とか「モラハラ野郎」とか云われる所以なのでしょうが……。

昭和53年(1978)から続く行事ですが、基本、クローズドなので報道されることがあまり多くありません。ただ、今年は地方テレビ局ローカルニュースで取り上げられました。

岩手めんこいテレビさん。

盛岡少年刑務所で「高村光太郎祭」 “心はいつでもあたらしく”

 彫刻家で詩人の高村光太郎は岩手県花巻市で暮らしていた73年前、講演のため盛岡少年刑務所を訪れていました。
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 6月23日、教えを引き継ぐ伝統の行事が行われました。
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 盛岡少年刑務所では、23日に46年間続く行事「高村光太郎祭」が行われました。
 盛岡少年刑務所では1950年に彫刻家で詩人の高村光太郎が講演に訪れ、その際、光太郎から「心はいつでもあたらしく」という書が贈られました。
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 施設の運動場にはその言葉を刻んだ石碑が建てられています。
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 この行事は、書に込められた「前向きに生きる大切さ」を受刑者に引き継ごうと指導の一環として行われています。
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 23日は受刑者が光太郎をしのんで花を手向けたあと、その作品の一つである「私は青年が好きだ」を朗読しました。
受刑者
「私の好きな青年は麦のように踏まれるほど根を張って起き上がる」
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 続いて受刑者の代表が光太郎の書を踏まえて自ら記した作文を発表しました。
受刑者代表
「いつか出所して困難な壁にぶつかったときには『心はいつでもあたらしく』という盛岡で出会った言葉を胸に乗り越えたい」
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 また23日は高村光太郎記念館の梅原奈美館長の講演も行われ、受刑者たちは盛岡少年刑務所とゆかりがある光太郎の歴史に思いをはせていました。

光太郎がこちらを訪れたのは、花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居中だった昭和25年(1950)1月。この際はこちらだけでなく、県立美術工芸学校(現・岩手大学)、婦人之友生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)、盛岡警察署、県立図書館などで講演を行っています。

少年刑務所さんに残した書は、「心はいつでもあたらしく」。普段は所長室に掲げられています。前年にはプラスアルファの「心はいつでもあたらしく/毎日何かしらを発見する」という文句を、山小屋のあった旧太田村の新制太田中学校さんに校訓として贈っており、そこからの転用です。

少年刑務所さんでは昭和52年(1977)にこの書を元にした石碑を建立し、翌年から「高村光太郎祭」を実施。受刑者が自分を見つめ直す機会とするといった意図があるようです。

当方、平成28年(2016)の「高村光太郎祭」に招かれ、講演をさせていただきました。その際には光太郎も戦争協力などで罪多き人生だったこと、そしてそれを自ら烈しく悔い、きちんと自分なりに総括をしたことなどを語りました。

その頃も受刑者の方が光太郎詩を朗読したり、作文を発表したりというプログラムがありましたが、継続されているのですね。

今年、皆さんが群読したという詩「私は青年が好きだ」、以下の通りです。

   私は青年が好きだ

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は麦のやうに017
 踏まれるほど根を張つて起きあがる。
 私の好きな青年は玉菜のやうに
 霜にあふほどいきいきとしてまろく育つ。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は木曽の檜の柾目のやうに
 まつすぐでやわらかで香りがいい。
 私の好きな青年は鋼のバネのやうに
 しなやかでつよく弾みがいい。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は朝日に輝く山のやうに
 晴れやかできれいで天につづく。
 私の好きな青年は燃え上がる焚火のやうに
 熱烈で新鮮であたりを照らす。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は真正面から人を見て
 まともにこの世の真理をまもる。
 私の好きな青年はみづみづしい愛情で
 ひとりでに人生をたのしくさせる。

フォーシームのど直球ですね(笑)。それもそのはず、大日本青少年団発行の雑誌『青年』へ昭和15年(1940)2月に発表されたもので、既に日中戦争は泥沼化、事態の打開を図って翌年には太平洋戦争に突入する時期ですので、現人神の赤子たる若き皇国臣民はかくあるべし、ということです。そうした背景を抜きにして考えれば、「道程」などにも通じるストイックな求道の精神も垣間見え、悪い詩ではないと思います。

そこで戦後になってもこの詩は他の翼賛詩とは異なり、お蔵入りにされることなく、家の光協会さんで朗読のレコードを出したり(昭和30年=1955)、故・清水脩氏によって混声合唱曲として作曲されたり(昭和44年=1969)しています。

こちらに収容されている皆さんのように、特殊な状況に置かれている人々には、カットボールやチェンジアップのような変化球よりも、こうした100マイルのフォーシームの方が心に響くのではないでしょうか。

少年刑務所高村光太郎祭、末永く続くことを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

此間の会は実に特異な会で忘れがたい愉快な一夕でした。あれから又ラヂオでもヸルドラツク氏の朗読をききました 巴里で金曜毎に皆が会ふときいて羨ましく思ひました。


大正15年(1926)5月3日 尾崎喜八宛書簡より 光太郎44歳

此間の会」は、来日したフランスの詩人・劇作家、シャルル・ヴィルドラックの歓迎会。ヴィルドラックは光太郎も敬愛していたロマン・ロランとも親しく、「巴里で金曜毎に皆が会ふ」メンバーにロランも含まれていたようです。
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新刊です。

デュオする名言、響き合うメッセージ 墓碑を歩き、人と出会う、言葉と出会う

2023年6月25日 立元幸治著 福村出版 定価2,200円+税

墓碑は時代の証言者であり、紡がれた人生の物語である−。時代とジャンルを超えた二人の人物が遺した名言を並べ、二人の生き方を顧みながら、示唆するメッセージを読む。“失ったものの大切さ”に気づく 近代日本史のアナザーサイドで響き合うデュオ

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目次
 はじめに
 第一章 政治とは何か、国家とは何か
  人民は源なり、政府は流なり[中江兆民、山本周五郎]
  いったい、この国は何なんだ[佐多稲子、忌野清志郎]
  行政府と立法府、どうなってるんだ[陸羯南、尾崎行雄]
  素にありて贅を知る[大平正芳、伊東正義]
 第二章 官とは何か、民とは何か
  官のための官か、民のための官か[中江兆民、植木枝盛]
  迎合と忖度が国を亡ぼす[林達夫、星新一]
  政治は玩物ではない[井上ひさし、徳富蘆花]
 第三章 戦争というもの
  君死にたまうことなかれ[与謝野晶子、壺井栄]
  〝聖戦〟という虚構を暴く[尾崎行雄、斎藤隆夫]
  自由にものが言えなかった時代[谷川徹三、佐多稲子]
 第四章 志を貫く
  真理と自由を問い直す[南原繁、丸山真男]
  ある外交官の気骨[杉原千畝、堀口九萬一]
  〝出版人の志〟を問う[下中弥三郎、岩波茂雄]
  〝勲章〟は、わが志に非ず[浜口庫之助、杉村春子]
 第五章 文明の光と影
  何が彼女をそうさせたか[細井和喜蔵、藤森成吉]
  人は文明の奴隷に非ず[木下尚江、柳宗悦]
  〝失ったものの大切さ〟に気づく[今日出海、志賀直哉]
 第六章 時代を斬り、世相を切る
  権力のメディア支配を許すな[永井荷風、小林勇]
  威武に屈せず、富貴に淫せず[宮武外骨、桐生悠々]
  言葉が切る世相[大宅壮一、赤瀬川原平]
 第七章 学道と医道
  学究の道に、ゴールなく[鈴木大拙、西田幾多郎]
  病気を診ずして病人を診よ[北里柴三郎、高木兼寛]
  志ある医道を拓く[呉秀三、荻野吟子]
 第八章 創作と表現
  命ある限り、書くのだ![大佛次郎、北原白秋]
  言葉の力を畏れよ[向田邦子、井上ひさし]
  絵画のエスプリを読め[藤島武二、小倉遊亀]
  己が貧しければ、描かれた富士も貧しい[横山大観、熊谷守一]
  僕の前に道はない[岡本太郎、高村光太郎]
 第九章 芸術と人生
  声美しき人、心清し[藤原義江、石井好子]
  作家は歴史の被告人だ[小津安二郎、黒澤明]
  わが師の恩[笠智衆、志村喬]
  ものをつくるというのはどういう事なのか[小林正樹、大島渚]
  うまい役者より、いい役者になれ[六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑]
 第十章 人間への眼差し
  美しくて醜く、神であり悪鬼であり[野上弥生子、山本周五郎]
  馬になるより、牛になれ[高村光太郎、夏目漱石]
  一隅を照らす[中村元、佐野常民]
  心友ありて[斎藤茂吉、藤沢周平]
 第十一章 生きるということ
  〝精神的老衰〟をおそれよ[小倉遊亀、亀井勝一郎]
  前後を切断し、いまを生きよ[加藤道夫、夏目漱石]
  静かに賢く老いるとは[尾崎喜八、野上弥生子]
  ながらえば……、「老い」を見つめる[斎藤茂吉、吉井勇]
  〝当たり前のこと〟の不思議[北原白秋、中勘助]
 第十二章 人生というもの
  男の顔は履歴書なり[大宅壮一、開高健]
  歳月は慈悲を生ず[亀井勝一郎、岡本太郎]
  人生最高の理想は放浪漂泊なり[永井荷風、石坂洋次郎]
  人生は短い、それゆえに高貴だ[中島敦、舩山信一]
  〝ゆるり〟という生き方、〝泡沫〟という人生[無名]
 あとがき
 参考文献
 人物墓所一覧


各項、2人ずつの「名言」――期せずしてシンクロしているような――を取り上げ、展開される社会論、人生論、芸術論、処世訓、といった趣です。

わが光太郎は2箇所で。

まず岡本太郎とのタイアップで「僕の前に道はない[岡本太郎、高村光太郎]」。詩「道程」(1914=1914)の冒頭部分、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と、岡本のエッセイでしょうか、出典は「強く生きる言葉」と書いてあるのですが、「面白いねぇ、実に。オレの人生は。だって道がないんだ。眼の前にはいつも、なんにもない。」を並べています。「天才は天才を知る」といいますか、やはり開拓者たる2人、同じようなことを考えるもんだ……というわけで。

ちなみに太郎の父・一平は、明治38年(1905)、光太郎が再入学した東京美術学校西洋画科での同級生でした。そして母・かの子は智恵子と同じく『青鞜』メンバーの一人。そういった経緯もあったのでしょうか、太郎も光太郎を意識していた節があります。

後の項、「馬になるより、牛になれ[高村光太郎、夏目漱石]」。こちらでは光太郎詩「牛」(大正2年=1913)から。ただし115行の4箇所からフレーズを拾い集めて「牛はのろのろと歩く/どこまでも歩く/自然に身を任して/遅れても、先になっても/自分の道を自分で行く」。

対する漱石は、芥川龍之介・久米正雄に宛てた書簡の一節「牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないのです。」。短い人生を駆け抜けた感のある漱石の言葉としては、意外と云えば意外でした。もっとも、だからこそ「牛にはなかなかなり切れない」なのかもしれませんが。光太郎と漱石のかかわりについては、こちら

他に、光太郎智恵子と関わりのあった面々も多く、興味深く拝読しました。しかし取り上げられている人物の範囲には限定があります。著者の立元氏、『東京多磨霊園物語』『墓碑をよむ――“無名の人生”が映す、豊かなメッセージ』他、掃苔系のご著書が多く、本書もその流れ。そこで、本書に登場するのは、ほとんど(全員?)が、都内か神奈川県の墓所に眠る人々です。

何はともあれ、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

おてがみありがたう、ちよいと房州へいつて来ました。海の沃度のにほひと漁夫の魅力ある生活とにすつかり養はれました、


大正14年(1925)8月7日 難波田龍起宛書簡より 光太郎43歳

「房州」は現在の館山市洲崎海岸附近。智恵子と一緒でした。大正元年(1912)、二人で過ごした銚子犬吠埼での思い出なども語り合ったかも知れませんね。

その辺りも含め、明日、旭市の千葉県立東部図書館さんで、市民講座「高村光太郎・智恵子と房総」の講師を務めて参ります。

新刊雑誌2件、ご紹介します。

まず、集英社さんで発行している文芸誌『kotoba』2023年夏号 。
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文芸誌と言っても、そう堅苦しいものではありません。新しい時代の表現や言葉のあり方をさまざまな切り口から論じたりといった文章が中心ですが、軽妙なエッセイや対談等も載り、読みやすいものです。扱われているモチーフも、メタバースやブルース・リー、漫画の『攻殻機動隊』、プロ野球にJリーグ、そうかと思うと憲法や原発など、硬派の話題も。4月に信州安曇野の碌山美術館さんでお会いした、東京藝大の布施英利氏の玉稿も載っていました。

その中で、英米文学者・阿部公彦氏の連載「日本語「深読み」のススメ」で、光太郎や谷川俊太郎氏の作品を引きつつ、詩が論じられています。サブタイトルは「詩の命」。

梗概的に「なぜ、詩は「形が命」といわれるのか。詩の「形」でとくに大事なのは何か。改行と繰り返しという、詩の形式の中でもごく地味な要素に注目すると私たちの言葉との付き合いの本質が見えてくる。」とあり、そのとおり、主に口語自由詩における改行とリフレインについて論じられています。

例として上げられているのが、光太郎詩代表作の一つ「道程」(大正3年=1914)。9行に分かち書きされている詩ですが、これを改行しないで書くとどうなるか、ということで……
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恐ろしく違和感がありますね。

では、その違和感の原因はどこにあるのか……といった話が一つ。

それから、末尾二行の「この遠い道程のため」を例に、リフレインの持つ効果についても論じられています。

他に、谷川俊太郎氏の「生きる」(有名な「生きる」が二種類ありますが、昭和31年=1956発表のソネットの方)も例としてあげられています。

口語自由詩の「改行」については、昔から論争の種です。古くは大正期、北原白秋と白鳥省吾・福田正夫らの間で、丁々発止のやりとりがありました。「改行がなかったらただの散文だろ」みたいな。

白秋は白鳥の「森林帯」という詩を槍玉に挙げています。その冒頭部分。

 萱や蕨の繁り合つてゐる
 山を越え山を越え
 一だんと高い山から望めば、
 遠い麓の広土は
 青たたみ数枚のやうに小さい、
 哀傷を誘ふほどにも何と云ふ可愛らしい世界であらう。

阿部氏がやったように、白秋はこれの改行をなくし、読点を補って……

萱や蕨の繁り合つてゐる、山を越え山を越え、一だんと高い山から望めば、遠い麓の広土は、青たたみ数枚のやうに小さい、哀傷を誘ふほどにも何と云ふ可愛らしい世界であらう。

白秋曰く

 これは原作者に対しては非常に気の毒ではあるけれども、詩の道の為めと思つて許していただきたい。
 読者はまた、之をただ読み下して読んでいただきたい。さうしてこれがどうしても散文で無い、詩である、自由詩である、と思はれるかどうか、詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れがあるか、どうか、それを感覚的に当つてゐただきたい。


この背景には、ざっくり云えば芸術至上主義的な白秋は「いかに」詩にするかを大切にし、後のプロレタリア文学に連なる白鳥ら民衆詩派は「何を」詩で表すかに軸足を置いていた、という立場の相違もあるようです。

「道程」の改行を取っ払うと非常に違和感があるのは、白秋曰くの「詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れ」が、白鳥のそれには無く(ファンの方、すいません)、「道程」には厳然としてそれが込められているからのような気がします。阿部氏、やはりそういったことを指摘されていますし、リフレインの効果についても、実に的確に論じられています。

まぁ、700余篇確認できている光太郎詩の全てが「詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れ」を持っているかというと、答は否、でしょう。特に戦後の自伝的な連作詩「暗愚小伝」などは、その点を諸家に批判されています。

さて、詩を作る方々、ぜひこちらをご購入なさり、お読みいただきたいものです。

雑誌ということで、ついでにもう1件。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生のさまざまな著作をはじめ、光太郎関連書籍を数多く出して下さっている文治堂書店さんのPR誌的な『とんぼ』。第十六号が届きました。
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今年1月に亡くなった、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエの所有者にして、生前の光太郎にかわいがられた中西利一郎氏の追悼文(文治堂書店社主・勝畑耕一氏と、当方)が載っています。

それから当方の連載「連翹忌通信」。今号は一昨年、茨城取手で発見した光太郎揮毫の墓標について。この連載、そうそうネタがあるわけでもなく、このブログでご紹介したような事柄を改めてまとめ直して使わせていただいております。前号では花巻市に寄贈された光太郎の父・光雲作の木彫「天鈿女命像」と、鋳銅製「准胝(じゅんてい)観音像」について書きました。

そういう意味ではある種、手抜きとも云えるような執筆なのですが、巻末にこんなことを書かれては、いい加減には書けないな、と思う今日この頃です。
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奥付画像を載せておきます。ご入用の方、版元まで。

【折々のことば・光太郎】

どうも何かするのがのろいので自分ながら困ります。


大正13年(1924)5月11日 木村荘五宛書簡より 光太郎42才

原稿が遅れるという言い訳の葉書から。自身を「牛」に例えることもあった光太郎ですので……(笑)。

こちらも当方手持ちの葉書です。
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毛筆で書かれています。墨をすっている暇があったら原稿書けよ、と言いたくなりますが(笑)。

手前味噌で恐縮ですが……。

文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」

期 日 : 2023年6月24日(土)
会 場 : 千葉県立東部図書館 千葉県旭市ハの349
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 無料

日本の近代美術・文学に偉大な足跡を残した高村光太郎は、今年生誕140年を迎えます。十和田湖畔の『乙女の像』をはじめとする彫刻作品、人口に膾炙した詩の数々。中でも特に人々に愛される詩集『智恵子抄』の中に、千葉県を舞台にした作品があることをご存じでしたか。 本講座では、光太郎と妻・智恵子の波乱に満ちた生涯に触れ、二人が訪れた銚子・犬吠埼、成田・三里塚、九十九里浜を資料とともに辿ります。(聴講無料)  チラシはこちら(PDF:1.5MB)

講 師 : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
定 員 : 30名
募集方法 
 6月1日(木)より、電話・FAX・E-mail・来館にて先着順に受け付けます。

※手話通訳や車いす等の配慮が必要な方は、6月10日までにお申し出ください。なお、ご希望に沿えない場合もありますので、あらかじめご承知おきください。

問い合わせ
千葉県立東部図書館 読書推進課
〒289-2521 旭市ハの349 TEL 0479-62-7070 FAX 0479-62-7466
E-mail:elib-kouza@mz.pref.chiba.lg.jp

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若干先の話ですが、どうもあまり応募が多くなさそうなので……。

案内文にあるように、光太郎智恵子と房総各地の関わり――二人が愛を確かめ合った銚子犬吠埼、光太郎親友の水野葉舟が移り住み光太郎もたびたび訪れた成田市三里塚、心を病んだ智恵子が半年余り療養した九十九里浜など――について、語らせていただきます。

ちなみに東部図書館さん、住所は「旭市ハ」ですが「はち」ではありません。カタカナの「ハ」です。カーナビ等使われる方、御注意下さい。千葉県では住所に「イロハ」が用いられるケースが少なくありません。当方自宅兼事務所のある香取市(東部図書館さんのある旭市の隣町)にも「佐原イ」から「佐原ホ」が存在します。現在住んでいる場所は別ですが、生まれは「佐原ロ」。「さわらぐち」ではありません。「さわら・ろ」です(笑)。このように「地区名」+「イロハ」が多いのですが、旭市は地区名そのものが「イロハ」。千葉県立旭農業高校さん(昔、親戚が勤務していました)の住所は「千葉県旭市ロ1番地」。これが不動産登記簿に登記されている日本で最短の地名だそうです(笑)。

閑話休題、お近くの方(首都圏からですとけっこうな距離なので、お薦めするのが心苦しいところです(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】002

新潮社からの刺繍の名はまだきめてありません。多分「猛獣篇」かと思ひます。期日もわかりませんが十一月頃でせうか。


大正11年(1922)6月25日
 野田守雄宛書簡より
 光太郎40歳

猛獣篇」の連作詩は2年後の大正13年(1924)から書かれ始めます。さまざまな動物や架空の生き物に仮託して、自己の荒ぶる魂を謳うものです。有名な「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)なども含まれています。まだ具体的な詩篇が書かれていないうちに、新潮社から出版の話があったようです。しかし、結局、「猛獣篇」としての単独出版は光太郎生前には実現せず、没後の昭和37年(1962)になって、当会の祖・草野心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで刊行されました。印刷、製本等には当会顧問であらせられた故・北川太一先生もご協力なさいました。

ハンドメイド系の通販サイトから最近見つけた商品を2点。

レモンのイヤリング

チェコガラスビーズでできたレモンのイヤリングです。

レモンのお色は高村光太郎の『智恵子抄』から、「レモン哀歌」をイメージした「トパアズ」と、梶井基次郎の『檸檬』をイメージした「イエロー」の2種類、金具はゴールドとシルバーの2種類、計4種類をご用意しました。ご注文の際はよくご確認下さい。

A1:トパアズ×ゴールド ¥ 600  A2:トパアズ×シルバー ¥ 600
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B1:イエロー×ゴールド ¥ 600  B2:イエロー×シルバー ¥ 600
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「トパーズ」ではなく「トパアズ」として下さっているのが心憎いところです。

もう1件。

【レモン哀歌ネックレス】天然石きらめく物語アクセサリー

 高村光太郎が妻・智恵子を偲んで書いた「レモン哀歌」は、永遠の愛の詩です。「愛し合うすべての人々が幸福でありますように」。そんな思いで作ったネックレスです。
 みずみずしいレモンクオーツをトップに付けました。ラフカットなので不規則にきらめきます。「自分らしく」と励ましてくれるシトリンを3粒並べ、レモン果汁の香気を表現しました。
 きらめく雫のようなアクアマリンを、レモンクオーツの隣に付けました。幸せな結婚の象徴でもあり、自由の象徴であるアクアマリンは、心の闇に入りこんでしまったときでも、一筋の光を見せてくれる石です。
 青白いオーロラのような石は、レインボームーンストーン。小さな奇跡に巡りあわせてくれるロマンティックな石です。
 長さ調節できるアジャスターには、「希望の石」アマゾナイトを付けました。

チェーン(真鍮) 約36cm  長さ調節アジャスター 約3cm

★ラッピングについて
 「レモン哀歌」についての文章と天然石の紹介を書いた、小さな本にお入れします(無料)。
★天然石について
 石の形状や大きさ、色味は写真とは異なることがありますが、ひとつとして同じものがない天然石の味わいと思って頂けると幸いです。また、天然のクラックやキズが見られる石がありますことをご了承ください。
~天然石の紹介~
◆レモンクオーツ
 レモンの香気のようなみずみずしい水晶で、水晶特有の冷涼感と温かみがあります。この石を見ていると、窓からの陽射しで朝目覚めたときの、何もかも新しく生まれ変わっているような清々しさを感じます。フレッシュな明るさをもつ石ですが、包みこむような優しさと安心感もあります。
◆シトリン
 柔らかな太陽の光のような石で、日光浴をしているときの体に染みいる温かさを放つ石です。「自分らしく」と元気づけてくれ、心に明るく朗らかな光をもたらしてくれます。瞬間々々の充実感や満足感、無理のない自分らしさや自信、問題を乗りこえ前進していく勇気を与えてくれます。
◆アクアマリン
 穏やかに打ち寄せる波や、きらめく雫を思わせる、みずみずしい石で、感情の滞りを洗い流して心を癒してくれます。自由を象徴する石でもあり、何事にも囚われない水のような柔軟性や、相手を受け容れる大らかさをもたらし、壁のないコミュニケーションを助けてくれます。そのため「幸せな結婚」を象徴する石でもあります。また、アクアマリンは「夜の女王」とも呼ばれるように、暗がりできらめきを増すという特徴がありますが、この優しいきらめきは、心の闇に入りこんでしまったときでも、一筋の光を見せてくれる気がします。
◆レインボームーンストーン
 朧月のような、神秘的な美しさをもつ石で、インスピレーションを高め、小さな奇跡と思える出来事や出会いに導いてくれるといわれています。
◆アマゾナイト(ペルー産)
 希望や幸運を呼び込んでくれるといわれています。明るい青緑色がアマゾンの川や森を思わせることから、石名が付けられたそうです。心が安らぐ色をしていますが、原始の川や森に木漏れ日が差すような明るさも。
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画像を見るとけっこう以前から売られているようですが(2016年という文字が見えますので)、つい最近検索網に引っかかりました。

「こんなのもあるよ」という情報、お待ちしております。作家さんご本人でも、それ以外の方でも。できるかぎり紹介させていただきます。

【折々のことば・光太郎】

あなたが外国へ向はれてからもうまる三年たちました。 そして私はまだあの成瀬先生の胸像をいぢつて居ります。 学校の方の人々のよく忍耐して待つてゐて下さるのを ありがたいと思つてゐます。 しかし私が今こんなに長くかかつてやつてゐるのは 私としては 無意味ではないのです。この胸像は私の彫刻製作上の一転機をつくるものと信ぜられるのです。私はこの三年間 煉瓦をつむやうに研究して来ました。そして心の全く澄んで 静かな時だけ此の彫刻に手をつけました。雑念の心を乱すやうな時は幾日でも手をつけずに 只見てばかりゐました。


大正11年(1922)3月11日 小橋三四子宛書簡より 光太郎四十歳

010小橋三四子は日本女子大学校での智恵子の先輩。同じく柳八重らとともに、光太郎と智恵子の出会いをお膳立てしてくれた一人です。その小橋らを通じて、同校の創設者にして大正8年(1919)に亡くなった成瀬仁蔵の胸像制作の依頼がありました。依頼は成瀬が没する直前で、3年経ってもまだ出来ていないという報告です。

しかし、3年どころではなく、結局、この胸像が完成するのは昭和8年(1933)。造っては毀しの繰り返しで実に14年もかけました。光太郎、この胸像には書簡に書かれているようなものすごい思い入れがあったようです。後から注文があった松方巌胸像、黒田清輝胸像の方が先に完成してしまいました。もっとも、それらは注文主が待ってくれなかったのかもしれませんが。

この像、現在も同校の成瀬記念講堂に据えられています。下の画像は同校創立90周年記念のテレホンカードです。平成3年(1991)頃のものでしょう。
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今年、光太郎は生誕140周年を迎えました。そして当会の祖・草野心平は光太郎のちょうど20歳下になりますので、生誕120周年。

140より120の方が区切りがいい感じもあるのでしょうか、生誕120周年でけっこう頻繁に取り上げられています。いろいろあるのですが、これはと思う報道を3件。

まず『いわき民報』さん。心平の誕生日5月12日(金)の記事です。

草野心平 きょう生誕120年迎える 小川の生家にカエルのキャンドル並ぶ

 〝蛙の詩人〟として親しまれている、小川町出身の草野心平(1903~1988)は12日、生誕120年を迎えた。少年時代を含め20年ほど暮らした生家には、母校の小川小と、地元小玉小の4年生が作成したカエルのキャンドル約60個が展示された。
 キャンドルは、心平が生家で生活していたころと、同世代の子たちの古里を思う気持ちを育むため、市立草野心平記念文学館が依頼した。ウインクをしたり、ひげをたくわえたりと、チャーミングな姿に、来場者たちも思わずほっこりした気持ちに包まれている。展示は6月25日まで。
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かわいらしいキャンドルですね。一瞬、ピ○チュウかと思ってしまいましたが(笑)。

続いて『福島民報』さん。こちらは文学史上、重要な発見を報じています。誕生日翌日の5月13日に報じられました。

草野心平自筆「最後の詩」か 最晩年の未発表原稿 寄り添った女性への感謝著す

 12日に生誕120年を迎えた福島県いわき市出身の詩人草野心平(1903~1988年)が最晩年に書いたとみられる未発表の自筆原稿1枚があることが分かった。病に伏せる晩年の心平に寄り添った山田久代さん(故人)への感謝の気持ちをうかがわせる内容で、原稿を保管する元いわき市草野心平記念文学館副館長の関内幸介さん(75)=市内在住=は「心平の『最後の詩』の可能性がある。心平の最晩年や2人の関係を理解する上で貴重だ」としている。
 久代さんの遺族が保管していたものを関内さんが2012(平成24)年に譲り受けた。久代さんは心平と筆談したメモや書簡など100点以上を残しており、保管状況や筆跡から原稿は心平の直筆と判断できるという。1987(昭和62)年ごろ、東京都東村山市の自宅で書いたとみられる。
 原稿は「何も言はない。」で始まり、「何も言ふべきことない。」「声をだすな。許せ。」「いろいろ言うべき多し。許せよ」などとつづられている。最後は「かんベン かんベん! ありがたう。」で終わる。
 「草野心平日記」などによると、心平は病の影響で1987年7月ごろから言葉が不自由になり、周囲と筆談でやりとりしていた。最後の詩集が出版されたのは1986年で、1987年4月の詩誌「歴程」で発表した詩が最後の詩とみられていた。心平を約20年研究する市教育文化事業団の渡辺芳一さん(49)は「言葉がうまく出ない苦しさや、相手を大事に思いながらもささいなことで口論してしまう心境を表現しているのでは」と指摘する。
 久代さんは1949年に東京の酒場で心平と出会い、心平の妻の死後は籍を入れないまま一緒に暮らした。心平の日記には「チャ公」との愛称で登場する。2011年5月、89歳で亡くなった。
 関内さんは心平の親戚に当たる。「籍を入れなかった2人だが、形式にとらわれない絆や愛の深さがあったことを後世に残したい」と話し、久代さんの遺族から譲り受けた資料を同文学館などへ寄託できるかどうか検討しているという。
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かんベン かんベん! ありがたう。」、いかにも心平が照れ笑いを浮かべつつ言いそうな……。

最後に仙台に本社を置く『河北新報』さん。5月28日(日)の記事です。ちらっと光太郎にも触れて下さいました。

東北の文化人と親交深く いわき出身・草野心平 生誕120年 <リポート2023>

 いわき市出身の詩人草野心平(1903~88年)が12日に生誕120年を迎えた。旺盛な創作の傍ら、東北の多彩な文化人たちと親交を深めた。詩人で童話作家の宮沢賢治を世間に広め、板画家棟方志功とは共著の詩画集を出した。写真家土門拳の「助手」も務めた。草野心平記念文学館(いわき市)が所蔵する本人の所持品と残した文章から、交流の軌跡をたどる。(いわき支局・坂井直人)

宮沢賢治、棟方志功、土門拳… 「良いものは良い」
 「現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある『天才』は宮沢賢治だと言いたい。世界の一流詩人に伍(ご)しても彼は断然異常な光りを放っている」
 草野は、花巻市出身の宮沢賢治(1896~1933年)を激賞した。きっかけは1924年4月に自費出版で1000部刊行した詩集「春と修羅」との出合い。愛蔵書の背表紙は欠け、ぼろぼろになったほどだ=写真(1)=。
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 「彼の詩集と一緒に何度か旅をし、数十回読み返した。そんなに恥(はず)かしい感激を私は日本で彼の詩集にだけ経験した」。ほれ込み具合は相当なものだった。
 自身が手がける同人詩誌「銅鑼(どら)」に賢治を誘い、13編の作品を載せた。ただ、会うことなく、「天才」は無名のまま早世。花巻の宮沢家に弔問に訪れて初めて、遺影で対面した。膨大な未発表の遺稿に驚き、没後1~2年で編集のほとんどを担った賢治の選集的全集を刊行。作品を世に知らしめた。
 青森市出身の棟方志功(03~75年)とは同い年。児童文学雑誌の仕事を通じて縁が芽生えた。66年には、草野が主題の一つとした「富士山」のタイトルで共著の詩画集を出した=写真(2)=。
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 「彼はいつもフイゴのように熱っぽく火達磨(だるま)のようにぐるぐるしている」「彼の近眼も底なしの善意もケタ外れであり仕事の独自性もケタ外れである」。その人柄を愛し、終生の友として家族ぐるみで付き合った。
 草野は右目、棟方は左目が見えなかった。インド旅行に出かけた際、2人で一人前だなと大笑いした。帰国後、2度目の共著を編集中に棟方が亡くなり、その後に詩画集「天竺(てんじく)」が出版された。
 草野が創刊に携わった詩誌「歴程」は、酒田市出身の土門拳(09~90年)の撮影した写真が表紙を飾ったことがある=写真(3)=。
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 被写体は草野と親交のあった高村光太郎の彫刻作品。土門の指示で、草野らはまぶし過ぎるライトの光を遮断する役割をさせられた。
 草野はある時、文学賞でもらった時計を質に入れた。土門に撮られた自身の写真を質屋に見せ、信用獲得に役立ったといい、「首実検の結果まんまととほった(通った)」と明かす。
 草野心平記念文学館の長谷川由美専門学芸員は「良いものは良いという確かな目を持ち、きちんと伝えられる強さを持っていた」と、詩作にとどまらない草野の人間的魅力を指摘する。

土門拳撮影の光太郎彫刻は「黄瀛の首」。大正15年(1926)の作です。黄瀛は日本人の母と中国人の父の間に重慶で生まれ、千葉県で育った詩人。心平を光太郎に紹介しました。その後、心平の主宰した『歴程』同人として活躍します。

賢治、黄瀛らを世に出す労を惜しまなかった心平、その本物を見分ける確かな眼には驚かされます。既に詩人として名を成していた光太郎に対しても、『銅鑼』『学校』『歴程』などに寄稿を求め、さらに名を高からしめる一助。まぁ、光太郎詩文や挿画が載っているということで、それらの詩誌の売り上げや評価も上がったでしょうから、ギブアンドテイクだったようにも思われますが。

ところで、心平と言えば、来月、心平を名誉村民に認定して下さっている福島県川内村で58回目となる「天山祭り」が開催されます。村民の皆さんが心平のために建ててくれた別荘的な天山文庫が会場です。郷土芸能等の披露があり、生前の心平が愛した祭り、心平没後は心平を偲ぶ行事とも成り、さらに東日本大震災後は復興祈念の意味合いも付与された感があります。

で、心平生誕120周年、ついでに(笑)光太郎生誕140周年なので、そのあたりを語れ、という依頼がありまして、記念講演をさせていただきます。詳細はまた後ほど。

【折々のことば・光太郎】

チルチルになつた子は大変声の美しい子でした。ちよつと抱いてやりたい気のする子でした。


大正9年(1920)2月12日 田村松魚宛書簡より 光太郎38歳

新協劇団が行った公演「青い鳥」(メーテルリンク作)を観ての感想です。「チルチルになつた子」は、子役時代の初代水谷八重子。のち、昭和32年(1957)、北條秀司作の演劇「智恵子抄」で智恵子役を演じることになります。光太郎が難色を示し実現しませんでしたが、光太郎生前からその話があり、その際に水谷と光太郎を仲介したのも心平でした。
水谷八重子

一昨日のSBS静岡放送さんローカルニュースから。

梅酒づくりのシーズン到来。気をつけないと酒税法違反の可能性も

 もうすぐ梅の実の収穫シーズンです。肉厚で種が小さい品種「八房梅(やつふさうめ)」の栽培が盛んな静岡県島田市伊太地区の梅の畑では収穫を間近に控えた実がたわわに実っています。
 梅の生産から加工販売までを手掛ける「梅工房おおいし」の大石富佐子さんは「天候にも恵まれて、生育は順調。4トン程度の収穫を見込みたい」と話しています。
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 またスーパーやホームセンターには、梅酒づくりに使うビンや氷砂糖などが並び始めました。7月の季語でもある梅酒。アルコールの血行促進効果とクエン酸成分などが日々の疲れを取ってくれることから、日本では古くから多くの家庭で梅酒づくりが行われています。
古くは「薬」として利用されていた梅
あれも、これも法律違反に?
 「友人・知人に好評の自慢の梅酒。美味しさの秘密はホワイトリカー(甲類焼酎)でなく、日本酒とみりんで漬け込む特別なレシピ。あまりに評判がいいので、小分けにしてビン代程度のお金をもらっておすそわけするようになりました」。一見、なんの問題もなさそうな「梅酒の風景」ですが、実はその全てが酒税法に違反しています。手軽に作ることができる梅酒ですが、作り方から飲み方まで、法律で厳しく定められているのです。

あくまで「個人で飲むのであれば」
 本来どのような形であれアルコール度数1度以上の「お酒」を作るには酒税法に則って許可を取り、酒税を納めることが義務付けられています。しかし、梅酒づくりは1697(元禄10)年の『本朝食鑑』にも記されているほど日本人の生活に根を下ろした風習です。酒税法も「自分と家族が飲むのであれば」という条件付きで梅酒作りを例外としています。ですから友人・知人に評判になるほど広く振る舞うのはNGです。以前、関西のテレビ番組内で作った梅酒をゲストに振る舞う場面を放送してしまい、その局は後日謝罪放送をしました。

アルコール度数は20度以上が条件
 日本酒やみりんはホワイトリカーより旨味を多く含みます。しかし、法律では梅酒に使用する酒類はアルコール分20%であることと定めています。アルコール度数が低いと混入した野生酵母により発酵が進み、使ったお酒の本来のアルコール度数を上げてしまいますが、これも禁止行為。法律では酵母が働かなくなる20度以上のアルコールを使うように指示しています。毎日の料理を紹介する長寿テレビ番組ではみりんで作る梅酒を紹介し、後日内容を修正して放送したこともあるようです。
梅酒用の酒はどれも35度以上です
自家製梅酒の販売は厳禁
 もちろん無許可の販売は禁止されています。戦後の混乱期は各地で「カストリ」「どぶろく」など無許可の酒が横行し、当時の新聞にも税務署による大掛かりな取締の様子が記録されています。一方で家庭での梅酒づくりは続けられていたのでこの矛盾を解消するため1962年の酒税法改正で「家庭内での消費に限って梅酒づくりは合法」となりました。
 旅先の旅館の食前酒として手作りの梅酒が出されることがありますが、これは税務署への届け出をして①旅館内で作り、消費する、②量の上限を守る③土産として販売しない、といった条件の下、認められているそうです。

注文で作り、その場で飲めばOK
 それでは、バーなどで、複数の酒を混ぜて作るカクテルは「酒造り」に該当しないのでしょうか。法律では「酒類に水以外の物品を混和した場合において混和後のものが酒類であるときは、新たな酒類を製造したものとみなす(酒税法第43条)」としています。例えば「スクリュー・ドライバー」を作るためにウォッカにオレンジジュースを混ぜると酒類の製造とみなされ、取得に厳しい要件が義務付けられている酒類製造免許が必要になってしまいます。
しかしバーは免許を持たずカクテルを提供しています。これを可能にしているのが、「酒税法43条10項」です。この規定は「お客が飲む直前に混ぜるならいいです」としているため、店で客の注文を受けてから混ぜて、その場で飲ませることは酒類製造にあたりません。
 しかし、作り置きには問題があります。自家製の梅酒などアルコール20%以上の酒に酒以外のものを混ぜて漬け込み、客の注文に合わせて提供したい場合、事前に税務署への申告が必要です。また、アルコール度数20度以下のワインや日本酒に何かを漬け込んで作り置いた酒は、製造免許なしには提供できません。事前に果物をワインに漬けて用意しておくサングリアなどは「作り置き」「アルコール度数20度以下」なので、厳密に言えば法律に違反している、といえそうです。
注文を受けてから作り、その場で消費するのが条件です
梅酒は自分の楽しみのために
 「厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳りある甘さをわたしはしづかにしづかに味はふ」。詩集『智恵子抄』の中で、高村光太郎は先立ってしまった最愛の妻、智恵子が残していった梅酒を愛おしそうに口にします。自分と、ごく親しい人に見守られて熟成を重ねるのが梅酒です。飲み頃を迎える半年後を心待ちに、ルールを守ってお気に入りの一ビンを仕込んでみませんか。
漬けてから半年すると飲み頃になります
最後に光太郎詩「梅酒」を取り上げて下さいました。
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    梅酒
 
 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。

光太郎手控えの詩稿によれば、昭和15年(1940)3月31日の執筆。智恵子が亡くなっておよそ1年半、という時期です。

社会との関わりを極力避け、智恵子と二人で芸術精進の日々を送ろうとしていたかつての生活態度が智恵子を追い詰めたという反省、そうした生活を続けていては自分も精神の危機に見舞われるかも、というおそれもあったのでしょう。この時期の光太郎は180度方向性を変え、自ら積極的に世の中と関わろうとします。

しかし、光太郎にとっての悲劇は、その社会の方がおかしな方向に進んでいたこと。智恵子が亡くなる前年の昭和12年(1937)に始まった日中戦争は泥沼化、その膠着状態を打開しようと、翌昭和16年(1941)には太平洋戦争に突入することになります。

元々の『道程』時代からの一種の精神主義、かつて留学中のアメリカで受けた人種差別への苦い記憶、さらに遡れば幼い頃に祖父・兼松や父・光雲から叩き込まれた忠孝の精神などが頭をもたげ、大量の翼賛詩文を書き殴るようになってしまいました。世間もそうした光太郎を歓迎し、光太郎は一躍、時代の寵児となっていくわけです。

それでも亡き智恵子を偲ぶとき、そうした時代の寵児的な部分は影を潜めると、「梅酒」では謳われています。曰く「狂瀾怒濤の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。」。

ところが、「あはれな一個の生命を正視する」こと自体が減っていきます。智恵子に関する詩は、翌年、おそらく『智恵子抄』出版に際して書きおろされたと推定される「荒涼たる帰宅」を最後に、戦後まで作られることはありませんでした。

昭和20年(1945)4月13日、智恵子と過ごした思い出深い本郷区駒込林町の住居兼アトリエは空襲により灰燼に帰しました。智恵子の遺した梅酒は、それまでに飲みきっていたのかどうか。もしまだ残っていたとしても、戦火に失われたことでしょう。一ヶ月後、宮沢賢治の父・政次郎らの勧めで、光太郎は花巻町の宮沢家に疎開します。その宮沢家も終戦5日前の空襲で全焼。ある意味、地獄ですね。

そして戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋に移った光太郎は、7年間を送ることになります。当初は山中に芸術村を作る、的な無邪気ともいえる夢想を抱いていましたが、雪に閉ざされた日々は深い自省を迫り、光太郎は自らの山小屋生活を「自己流謫」(自分で自分を島流しにする)と位置づけました。高祖保松木喜之七ら、かつて交流の深かった人々の戦死の報なども影響したでしょう。

その太田村生活末期の昭和27年(1952)3月、NHKのラジオ放送のため、花巻温泉松雲閣で詩人・真壁仁との対談が録音されました。さらに自作詩の朗読も。その中に「梅酒」のそれも含まれていました。作品の選択は局の意向だったのか、光太郎の自選なのか、そのあたりは不明ですが、この時点で「梅酒」を朗読した光太郎の胸中は、いかばかりだったでしょうか。

NHKさんにはその際の音源が残されており、平成8年(1996)以後、二度ほどCD化もされました。ただ、もう流通していないようで、覆刻が待たれます。

【折々のことば・光太郎】

今日では百円以下ではとてもおわかちできないものです。 原型をお見せしませう。こんな風なものですが 高さは一尺弱で奥行五寸ほどのものです。出来るだけ近い鋳金の機会を以て完成してお送りしますが 今年中にといふ事にはお約束出来ないのを残念に存じます。 新年のあなたの机上に飾れたら私もうれしかった思ひますが むつかしいやうに思ひます。

大正8年(1919)12月11日 野田守雄宛書簡より 光太郎37歳

野田は滋賀県の銀行家。大正6年(1917)に入会者を募った「高村光太郎彫刻会」を通じて光太郎に彫刻を注文しましたが、ようやくその完成のめどが立ったという内容です。

送られた彫刻はブロンズの「裸婦坐像」。この書簡には粗いスケッチが描かれていました。
Rafuzazou

今月1日、詩人の平田好輝氏が亡くなったそうで、奥様から訃報のお葉書を戴きました。おん年87歳であらせられたそうです。ご葬儀は3日、近親の方々で済まされたとのこと。
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氏には『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』(昭和48年=1973 東宣出版)というご著書がおありで、連翹忌の集いにも昭和50年代から平成の初めまで、8回ご参加いただいていました。

『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』、智恵子との関係性に軸を置いた光太郎評伝で、当方、大学の卒論執筆時にはかなり参考にさせていただきました。

同書の「あとがき」。

 昭和三十一年四月一日のことである。時ならぬ雪が、激しく降りだした。万愚節のことでもあり、まるで嘘のように思われたが、雪は激しく降り積んだ。
 そのころ、わたしは二十歳で、国文科の学生であり、なによりも詩を書くことに夢中になっていた。第一詩集に収めた作品のうちのいくつかを、このころに書いていた。
 まるで嘘のように降る激しい雪を見ながら、一体、何事が起こったのだろうと思った。わたしが生れた二日後に突如として首都を震撼させた二・二六事件の話は、成長するにつれて、折にふれ聞かされ、二・二六を思うと必ず雪のイメージがひろがったが、その二・二六を思わせるような、何か只事ならざるものに、その雪は思われた。
 激しい雪は四月一日から二日の早朝にかけて降り、東京一帯を真白の雪景色に包んだ。わたしの家の近所には、ゆるやかなスロープがあり、そこに俄かにスキーヤーたちが群がり、若い女や男のほかに、白髪まじりの人まで加わって、真面目にスキーを楽しみ始めたのであった。
 一体、何がどうなったのだろう。桜が満開の筈の時に、首都圏の中でスキーが始まっているとは。
 何か余程の異変があったものと思われた。思いついて、ラジオのスイッチをひねってみた。
 すると不意に、高村光太郎の死が、伝わってきたのだ。三月の中旬頃から、光太郎の容態がよくないことは、かすかに聞き知っていた。しかし、ラジオを通して、光太郎の死を知ったときに、じつに不意打の感じと、『ああ、やっぱりそうだったのか』という感じとが、同時に襲ってきた。光太郎が雪を降らせていたのだ。なァんだ、光太郎のせいだったんだ、と思い、むしろ心の奥深いところで哄笑したいような気持があった。窓から見えるスロープで、スキーを楽しんでいる大人たち、きみたちはなぜ今ごろ、そこでスキー靴を履いて滑っているのか、分っているか。これはみんな、光太郎が降らせた雪なんだよ。わたしは飛び出して行って、大声でふれてまわりたい気持だった。
 昭和三十一年、四月二日未明、高村光太郎、ついに逝く。雪激しく降り、真白に積る。光太郎、七十四歳。
 岩手の山小屋に一人で暮らしていたときには、小屋の中に雪が吹きこみ、光太郎は手帚を持って寝ていたという。ときどき気がついたときに、顔のまわりの雪を掃いてから、また眠るのである。六十代の高齢でありながら、なおも光太郎は山小屋に一人で住み、零下二十度にもなる所で、凜冽の冬を愛しながら暮らしていたのである。そんなにまで、冬や雪を愛し、冬や雪のことを歌った詩人は、ほかにない。
 その光太郎が東京で亡くなるにあたって、東京一帯が時ならぬ雪に見舞われたのは、光太郎にとっての当然であり、それこそ「自然」であった。雪激しく降り、光太郎はその雪に包まれながら死んだ。不思議であるけれども、不思議ではない。詩に夢中になっていた二十歳のわたしにとって、高村光太郎の死にざまは、なにかわたしの奥底を揺るがし、鼓舞してくれているような気がした。「天然の素中」という彼の言葉が、不意に分ったような気がした。わたしが一度も会いに行けないうちに、光太郎は、「天然の素中」に帰って行ってしまったのだ。どうすることもできない。いくら会いたいと思っても、もう会うことはできない。だが、それにも拘らず、わたしには、その四月二日が、正直いって、非常にうれしかった。激しく雪を降らせ、そして彼は死んでいったのである。何も知らないでスキーを持ち出して無心に滑っている大人たちの光景が、わたしの窓から見え、そんな人々に対しても、なにかほのぼのと心の底から親しみを感じたのである。
 いつか必ず、光太郎智恵子のことを書かねばならないと、そのとき思った。その後の十数年に、断片的には書いてきたが、自分の創作にかまけて、一冊に書きおろしてみたい気持を、気持だけのままおしやりながら、年月を過ごしてきた。
 ただ、光太郎智恵子のさまざまなイメージは、この年月の間にも繰り返しあたためてきたつもりである。
 そして、はからずも今度、東宣出版の慫慂を得て、この一本をまとめることが出来た。とくに、田辺辰俊氏と星野正三氏の励ましに深くお礼を申し上げたい。


蓋し、名文ですね。ついつい全文を引いてしまいました。

平田氏、詩人としても現役を続けられていました。当方がいろいろお世話になっている詩人の宮尾壽里子氏が送ってくださる文芸同人誌『青い花』(第四次)の同人であらせられ、枯淡の妙ともいえるような詩を発表なさっていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨夜見えた相ですね。僕はとうと例の風邪にかかつたやうです。医者に見てもらつてねてゐます。夜は四十度以上になるやうです。食事がいけないのでつかれました。しかし気持は元気でゐます。 智恵子は亡父の一周忌で今国へ帰つてゐます。 此手紙はすぐすてて下さい。うつるといけないから


大正8年(1919)5月4日 田村松魚宛書簡より 光太郎37歳

「例の風邪」はこの年猛威をふるったスペイン風邪。しかし、実はそうではなく腸チフスだったことがのちにわかり、入院します。「とうと」は「とうとう」の誤記ですね。

昨日の『奄美新聞』さん記事から。

「日本復帰学習会」スタート 語り部招き、町内全小開催へ

【徳之島】奄美群島日本復帰70周年にちなんだ伊仙町教育委員会の「奄美群島日本復帰学習会」が23日、伊仙小学校(佐々木久志校長)の5、6年生65人を皮切りに始まった。戦前戦中生まれの語り部2氏を派遣。児童たちは、同校(当時国民学校)の元教頭で校歌作詞者でもある「奄美日本復帰の父」泉芳朗氏=同町面縄出身=の人柄や功績、祖国分離下の厳しい生活などの体験談に触れた。
 復帰70周年を記念して1時限(45分間)ずつ設定した。群島民20万人余の署名活動や断食祈願による無血民族運動など、諸先輩らの思いを次世代につなぐ持続可能な社会とまちづくり、さらに、郷土教育の充実による「郷土に誇り、愛する豊かな心の育成」が目的。各校区の語り部を中心に、町立全小学校(8校)に派遣開催する。
 伊仙小での語り部には、卒業生で同校にも通算10年間勤務した元教職員で現在、町文化財保護審議会会長の義岡明雄さん(85)=伊仙=と、同じく元教職員で現在塾講師の福清千美子さん(78)=面縄=の2人が協力。
 義岡さんは、太平洋戦争末期(小学生当時)に沖縄戦での米軍艦砲射撃の爆発音や空振も感じた恐怖、若者ら特攻隊の出撃の背景、終戦・祖国分離下でサツマイモを主食としたつらい体験談の数々も語った。
 大先輩(伊仙尋常小高等科卒)でもある泉氏については、東京で高村光太郎らと詩人として活躍中に体調を崩し失意の中に帰郷し、母校伊仙小の代用教員に就いた1年後、秀逸ぶりから教頭に抜てきされたことや、神之嶺小校長、県視学を経て奄美群島日本復帰協議会議長として先頭に立った断食祈願(5日間)の敢行なども分かりやすく解説。
 その上で、児童たちには「芳朗先生は貧しい中で一生懸命に勉強をした。芳朗先生のように人に優しく平和を愛する人になってほしい」ともアピールした。
 福清さんも終戦・祖国分離下だった幼少期の思い出などを自作の絵巻物で紹介しつつ、「ロシアとウクライナの戦争が続いているが、奄美群島の日本復帰運動では血を流した人は1人もいない。人に優しく、自分の考えをしっかりと伝え実行する人に」と呼び掛けた。
 児童の宝永友樹愛さん(6年生)は「自分たちが〝日本人〟に戻れたのは泉芳朗先生のおかげと思った。今の自分たちは恵まれていることも分かった。偉大な先人に学び、人に感謝して人を愛し、優しくすることを心掛けたい」と話した。
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奄美群島の日本本土復帰は昭和28年(1953)12月25日。今年はちょうど70周年だそうで、「奄美群島日本復帰70周年記念式典及び記念祝賀会」なども計画されているようです。それに先立ち、徳之島の大島郡伊仙町の小学校で歴史的背景を学ぶ取り組みが為されたとのこと。同町出身で、初代名瀬市長も務め、本土復帰に骨折った泉芳朗の事績なども取り上げられたそうです。

泉については、このブログで昨年にも取り上げましたが、その時点では、当方、泉と光太郎の関わりをあまり存じませんでした。筑摩書房『高村光太郎全集』には、泉の名は一度しか出てこないためで、それも昭和27年12月14日の光太郎日記に「田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長」とあるだけだったためです。「俺美」は「奄美」の誤記です。

ところが、よくよく調べてみると、かなり深い関わりがあったことが分かりまして、汗顔の至りでした。

002きっかけは、過日、千葉県立東部図書館さんに行った折、たまたま眼にした『新装版 泉芳朗詩集』(平成25年=2013 紀伊國屋書店)。ぱらぱらめくってみると、見なれた光太郎の筆跡が眼に飛び込んできました。泉が主宰していた雑誌『自由』の表紙画像です。右は同誌の昭和29年(1954)新年号。春秋社さんから刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)から採りました。

この題字が光太郎の筆になるものであることは存じていましたが、この雑誌が泉の主宰だったことは存じませんでした。『高村光太郎 造型』の解題を見ますと、ちゃんと泉の名が記され、先の日記にあった昭和27年(1952)12月14日の訪問が、この題字揮毫に関わるであろうということも記述されていました。


そこでいろいろ調べたところ、遡って昭和13年(1938)には光太郎も出席した座談会で、泉が司会を務めていたことも見落としていたのにも気付きました。

雑誌『詩生活』(これも泉の主宰でした)の第6巻第1号に掲載された「詩と文学・戦時座談会」という長い座談会で、会場は都内大塚の山海楼、光太郎、泉以外の出席者は昇曙夢(泉と同郷のロシア文学者)、川路柳虹、宇野浩二でした。昭和47年(1972)、文治堂書店さんから刊行された『高村光太郎資料』第三集に全文が掲載されています(筑摩書房『高村光太郎全集』は、これに限らず座談会は総て割愛)。

前年には日中戦争も始まっており、かなり時局に即した内容です。途中途中につけられた小見出しをいくつか拾うと、以下の通り。「事変が生んだ作品について」「戦争文学のありかたについて」「戦争文学のカテゴリー」「体験と戦争文学」「素材を如何に取り上げるか」「外国の戦争文学・詩」「火野葦平と「兵隊」物」「国民文学と世界文学」「事変と日本文学の新動向」「文学の世界的交流」「若き世代の人々に望むもの」……。

言い訳をさせていただけるなら(言い訳していいわけないだろ、とか突っ込まないで下さい(笑))、泉、戦前には本名の「泉芳朗」ではなく、「泉与史朗」と名乗っていた時期もあり、この座談の際のクレジットも「泉与史朗」でした。

泉と親しかった詩人の田村昌由(『詩生活』の編集に携わっていて、おそらく座談の筆録に当たったと思われます)が、のちにこの座談会について語っています。出典は日本詩人クラブ発行の『詩界』121号(昭和48年=1973)。明らかな誤字は正して引用します。

 この座談会は、実は高村先生のあとあとによからぬ結果をもたらすきっかけをつくった、と私はずうっと思っているのですが。といいますのは先生は当時、智恵子夫人の病中であることと、もうひとつはあたまをもちあげてきた戦争亡霊がいやで、どこの座談会へも出られなかった。みんなことわっておられたのです。ところが「詩生活」の座談会へ出られた。雑誌が出ると早速「中央公論」から「かねがねお願いしてあったわけですが……どうかこんどは……」といった具合で、せめたてられて、ことわりきれず、こまってしまった、とあとで先生からおききしました。先生の戦時社会詩文学活動〈このんでされたのではない、私たちは先生の応接間にうかがっているとき、たずねてきた人の注文をことわられるのに何度かぶつかった〉はこの座談会がきっかけで十四年の春頃から、だんだんとのめりこんでいくのです。
(略)
 十月十八日が座談会ですが、智恵子夫人がなくなられたのは十月五日です。雑誌には口絵写真がのっていて若い私たちはうしろの方にかしこまっていますが、私は、夫人がなくなられてまもないのに座談会へ出られた、そのことをいまでも申訳なく思っています。


なるほど、この後、同様の座談会に光太郎が引っぱり出されることが多くなります。翌昭和14年(1939)には雑誌『知性』で「芸術と生活を語る」と題し、岸田国士、豊島与志雄と。この際がおそらく岸田と初対面でしたが、岸田は翌昭和15年(1940)、大政翼賛会が発足すると文化部長に就任し、光太郎を翼賛会の中央協力会議議員に強く推薦し、光太郎もそれを引き受けます。

まぁ、それ以前から翼賛詩的なものを書いていた光太郎ですが、この座談を契機に戦争協力へとなだれ込むことになったと言っても過言ではありませんね。その際の司会をしていたのが泉であった、というわけです。

また、「泉与史朗」名義で調べてみると、昭和16年(1941)刊行の海野秋芳の詩集『北の村落』には、光太郎と泉、両名の「序」が並べられていたり、同年の『現代日本年刊詩集 昭和十六年版』にも光太郎と泉の翼賛詩が共に掲載されていたりしました。そして戦後の『自由』。泉と光太郎の結びつき、かなり深かったわけですね。

そうこうしているところに、昨日の『奄美新聞』さんの記事。驚きました。

戦後、光太郎は戦争協力を恥じて花巻郊外旧太田村のボロ屋に7年間の蟄居生活を送り、泉は郷里・奄美群島の本土復帰に尽力。立場や事績は異なれど、共通する魂があったのではないかと思われます。

以前も書きましたが、奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。

【折々のことば・光太郎】

とにかく書いたから約束のやうに送ります 背の文字は少し書きいぢけたから 別にかいた方のを入れていたゞきたい 裏は画も考へたけれどそれよりはとおもつてシイルを考案した 扉其他の字のまづいのは素より君が覚悟の上だから為方がない 今いそぐ為め用事のみ


大正8年(1919)4月27日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎37歳

内藤は光太郎第一詩集『道程』版元の抒情詩社社主。内容的に書籍の装幀にかかわるものと推測されますが、この時期に該当する光太郎装幀の書籍が見あたりません。ボツになったのか、当該書籍の出版が頓挫したのか、それとも未だ知られざるこの時期の光太郎装幀の書籍が存在するのか……。謎です。

千葉県北東部、九十九里浜北端付近の旭市にある県立東部図書館さんでのミニ展示です。すでに先月から始まっているのですが、公式サイトに案内が出ましたのでこのタイミングでのご紹介です。

資料展示「高村光太郎 生誕140周年」

期 日 : 2023年4月23日(日)~6月30日(金)
会 場 : 千葉県立東部図書館 千葉県旭市ハの349
時 間 : 平日 午前9時から午後7時 土・日・祝休日 午前9時から午後5時
休 館 : 月曜日 第3金曜日
料 金 : 無料

 日本の近代美術・文学に偉大な足跡を残した高村光太郎は、今年生誕140年を迎えます。 十和田湖畔の『乙女の像』をはじめとする彫刻作品、人口に膾炙した詩の数々。中でも特に人々に愛される詩集『智恵子抄』の中に、千葉県を舞台にした作品があることをご存じでしたか。
 東部図書館では、光太郎のあゆみや作品、妻・智恵子を初めとする周辺人物について知ることのできる資料を展示します。光太郎が翻訳・執筆した大正時代の出版物も並びます。この機会にぜひお手に取ってご覧ください。

展示資料リストは こちら(1MB)

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案内にある通り、千葉県には光太郎、そして智恵子の足跡も残っています。特に人生の節目節目にそれらを残しているというのも特徴です。

大正元年(1912)には、銚子犬吠埼で結婚前の二人が愛を誓い合いました。しかし、二人の共棲生活は智恵子の心の病で破綻、智恵子は昭和9年(1934)に九十九里浜で約半年の療養生活を送ります。また、成田三里塚には光太郎詩「春駒」詩碑。関東大震災の後に作られた詩で、この頃から光太郎詩は「猛獣篇」時代に入ります。

で、まだ公式発表になっていませんが、来月24日(土)、同館で開催されるそのあたりに関する市民講座の講師をすることになりまして、その関係もあってこの展示が為されています。

今月初めに、調べ物もありましたし、打ち合わせを兼ねて同館にお邪魔し、展示を拝見して参りました。その際に撮影した画像。
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同館のみならず他館からも借りうけたりし、なかなか賑やかな感じにレイアウトされていました。中には古い雑誌でちょっと珍しいもの、地元で少部数の自費出版が為されたものなども。さらにバックヤードにも入れていただき、「この本でも光太郎が大きく取り上げられていますよ」というのを何冊か推薦し、増えています。

当方の講座の方は、また詳細が発表されたらご紹介します。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

クリスマスのおよろこびを私達からもお受け下さい。 あなたの清い心と同朋を思ふ熱い情とにますます祝福のある様にといのります。


大正7年(1908)12月24日 小橋三四子宛書簡より 光太郎36歳

光太郎、洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、キリスト教の考え方に対する興味関心は少なからず持っていました。少し後にはイエスを題材とした詩「クリスマスの夜」(大正11年=1922)「触知」(昭和3年=1928)なども書いています。

この葉書は珍しい光太郎智恵子連名のものの一つです。そこで、「私達」です。
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新刊です。

おとなのスケッチ塗り絵 花と叙情の詩文集

2023年5月21日 絵・名司生 エムディエヌコーポレーション発行 定価1,200円+税

スケッチするように塗り絵を楽しむ「おとなのスケッチ塗り絵」。最新作の『花と叙情の詩文集』は、日本文学をテーマにしました。

美しい日本語で紡がれた日本文学。シリーズ24作目は名作として長く読み継がれている文学作品をテーマにしました。「植物」「動物」が登場する一編を取り上げ、その情景をイメージして図案化。物語のワンシーンを切り取ったような叙情的で美しいイラストが特徴です。金子みすゞ、高村光太郎、海達公子、宮沢賢治、萩原朔太郎といった日本を代表する作家たちの作品から選出。一度は読んだことがある名作ばかりなので、読書をした当時の記憶や気持ちを思い出しながら塗り絵が楽しめるでしょう。

塗り絵の対向ページには、作家や作品の紹介と参考にした一編を掲載しています。塗り絵は、自律神経を整えたり認知機能を高めたりするのに有効なアイテム。手を動かすことで脳に刺激をあたえますが、とくに「昔の思い出などを想像しながら塗る」という行為が、脳の働きを活性化するそうです。

011イラストは同シリーズで人気の『おとなのスケッチ塗り絵 万葉の花』を担当したイラストレーターの名司生さん。本のイメージを大切にオリジナルの世界観で描きました。イラストにはかわいい妖精たちも登場するので注目してください!

目次
 準備するもの
 塗り方のテクニック[基本]
 塗り方のテクニック[応用]
 [花と叙情の詩文集 塗り絵集]
  01 チューリップ(三好達治)
  02 芙蓉の花(野口雨情)
  03 金雀枝(野口雨情)
  04 学校(室生犀星)
  05 月草(室生犀星)
  06 藤の花(海達貴文)014
  07 ばら(海達公子)
  08 秋の朝(海達公子)
  09 水ヒアシンス(北原白秋)
  10 曼珠沙華(北原白秋)
  11 どんぐりと山猫(宮沢賢治)
  12 冬が来た(高村光太郎)
  13 六月の雨(中原中也)
  14 春と赤ン坊(中原中也)
  15 梅(八木重吉)
  16 星とたんぽぽ(金子みすゞ)
  17 げんげの葉の唄
(金子みすゞ)
  18 こころ(萩原朔太郎)
  19 桜の森の満開の下
(坂口安吾)

この手の書籍、最近流行りですね。こちらも「シリーズ24作目」だそうで。

認知症予防などにも使われているようで、一昨年亡くなった義母も、ディサービスの施設でこの手の塗り絵をやっていました。

前半が手本のページ。オールカラーです。書籍自体が大判なので(25.0㌢×25.0㌢)、スキャンできませんでした。右ページが光太郎「冬が来た」のページです。左は宮沢賢治「どんぐりと山猫」。
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後半ページがワークシート的な。切り取って手本ページを見ながら塗れるように、キリトリ線が印刷してあります。簡略な作品解説も。
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手本ページの美しい絵を見ているだけで心が和まされます。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

又あの愛らしいみち子さんの方は 初め木炭でいろいろ素描を試み今早朝の時間を以て八号のカムバスへ油画に致して居ります あの無邪気な晴朗とした面影を捉へたいと念じて居ります


大正7年(1918)8月23日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎36歳

渡辺湖畔は新潟佐渡島の素封家にして与謝野夫妻の新詩社同人だった歌人。「みち子さん」はこの年4月、3歳で早世した渡辺の娘。光太郎が写真を元に肖像画を描きました。
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親としては涙無しには見られなかったのではないかと思われます。

刊行物3件ご紹介します。いずれも当方がからんでいるもので、どうもこの手のものの紹介はなかなか気が引け、ついつい後回しにしていました。

まず、高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究(44)』。4月2日(日)発行です。
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「光太郎遺珠」ということで、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』完結後に見つかり続けている光太郎文筆作品を紹介する連載をさせていただいています。

この1年間で見つけたものが以下の通り。

散文
 芸術家としての女優 『大正演芸』第1巻第3号(大正2年=1913 3月1日 大正演芸社)
 書斎の構造 『建築之日本』第1巻第5号(大正5年=1916 10月7日 建築之日本社)
 「みちのく」に刻んだ亡き夫人への追慕 高村翁・長夜の歓談
 『岩手日報』昭和28年=1953 12月7日
アンケート
 諸家の感想 『製本業報』10月号(昭和2年=1927 10月1日 製本業報社)
短評
 大村正次詩集『春を呼ぶ朝』 林一郎詩集『原始から出た』 共に昭和4年(1929)
雑纂
 芸術家名鑑 『人間』第4巻第1号(大正11年=1922 1月1日 人間社出版部)
 永住を決意して最高の文化建設 高村光太郎氏 岩手で原始生活
 『毎日新聞』昭和20年=1945 11月1日
書簡
 新納忠之介宛 大正12年(1923)1月5日
 木村荘五宛  大正13年(1924)8月4日
 関川常雄宛  大正15年(1926)6月20日
 尾崎喜八宛  昭和21年(1946)6月12日
 硲真次郎宛  昭和30年(1955)11月28日

多くは国立国会図書館さんのデジタルデータ閲覧システムのリニューアルによって見つけました。しかしそれ以外にも都内岩手で足で稼いで掘り起こしたものも。

また、「高村光太郎没後年譜」ということで、昨年1年間の主なイベント、出版物等を紹介しています。

頒価1,000円。奥付を載せておきますのでご入用の方はそちらまで。
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続いて『光太郎資料59』。もともと当会顧問であらせられた故・北川太一先生が出されていた冊子の名跡を受け継ぎ、当会として年2回発行しています。こちらも4月2日(日)、連翹忌の集いご参加の方には無料で配付し、その後、関係の方々等にはお送りしました。

今号は

 「光太郎遺珠」から 第23回 「婦人」(その三)
 光太郎回想・訪問記 高村光太郎との邂逅 常井英晶
 光雲談話筆記集成 西郷隆盛銅像について
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第23回  大洗(茨城県)
 音楽・レコードに見る光太郎  第23回  建てましよ吾等の児童会館 坂本良隆
 高村光太郎初出索引 
 編集後記

です。

送料込み200円でお分けします。コメント欄(非表示可)、当方SNS等からお申し込み下さい。また、10,000円にて37集からのバックナンバーを含め、今後永続的にお送りします。

もう1件。日本詩人クラブさんの会報的な『詩界通信』。
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「12月例会報告」の中に、昨年12月10日に開催された同クラブ12月例会のレポートと、当方の講演「2022年の高村光太郎――ウクライナ、そして『智恵子抄』――」の梗概が載っています。

こちらも奥付を載せておきます。
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というわけで、どうも手前味噌で恐縮でした。

【折々のことば・光太郎】

雑誌を只頂いては余りすみません(或る大きな団体等から送られる雑誌に対してはさういふ気もいたしませんが) 私も経済で苦しんで居ます 誰でもさうだらうと思つて居ます それで兎も角一箇年と定めてあるだけお送りいたします 此事はどうか悪い様にとらないで下さい


大正5年(1916)10月7日 中川一政宛書簡より 光太郎34歳

中川一政は画家。一昨年、中川、光太郎、そして熊谷守一の書を中心とした展覧会「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」が富山県水墨美術館さんで開催されました。

この書簡は中川が出していた雑誌『貧しき者』の受贈礼状。それまで自分で書店から買っていたのを送ってくれるようになり、代金を前払いするけれど悪しからず、的な。

光太郎、自分の文筆に関しては商業資本の有名雑誌より、こうした同人誌的なものに喜んで寄稿していました(それだけに未だ埋もれている作品が多く存在するわけで)し、購読もそうだったようです。

出版社・思潮社さん創業者の小田久郎氏が亡くなっていたことが先月末に報じられました。

『朝日新聞』さん。

小田久郎さん死去 思潮社創業者003

 詩の出版社「思潮社」を創業し、戦後日本の詩壇史に大きな影響を与えた小田久郎(おだ・きゅうろう)さんが昨年1月18日、肺炎で死去した。90歳だった。今月28日発売の詩誌「現代詩手帖(てちょう)」4月号で同社が公表した。
 1956年に思潮社を創業し、59年に「現代詩手帖」を創刊。谷川俊太郎さんや故大岡信さんらを積極的に起用した。95年、詩壇の歩みを綿密に書きとめた「戦後詩壇私史」で大佛次郎賞。2021年、戦後日本の詩と詩壇への貢献に対し、歴程賞を贈られた。

もしかすると記事にある『戦後詩壇私史』等で光太郎に触れられていたかも、と思ったのですが、その辺り、当方、寡聞にして存じませんで、訃報の紹介はいたしませんでした。

ところが、『日本経済新聞』さん(4月6日(木)の掲載でした)に載った氏の追悼記事に、光太郎の名。やはり『戦後詩壇私史』で光太郎の「道程」(大正3年=1914)に言及されていたそうで。

思潮社創業者・小田久郎さん「現代詩」背負って立った人

 昨年1月に90歳で亡くなった「思潮社」の創業者、小田久郎さんは、いつも朗々とした声で語る人だった。
 東京・市谷砂土原町の社屋に小田さんを初めて訪ねたのは34年前。当時58歳の小田さんには、現代詩の出版を背負って立つ自信と気力があふれていた。刊行開始から20年余りを経た「現代詩文庫」発刊の経緯や、田村隆一、鮎川信夫ら「荒地」グループの詩人の仕事を、豊富な逸話と交えて語り出す座談に、駆け出しの文芸記者は魅了された。
 以来、取材などで会うたびに話したのは、いつも詩人と現代詩の話題ばかりだったが、退屈したことがなかった。その訳は、小田さんがその後、齢を重ねても、現代詩の歴史と現在を、いつも我がこととして、受け止め続けてきたからではなかったか。
 現代詩の今を、他人事にはしない姿勢は、思潮社で働く編集者が常々感じていた。看板雑誌「現代詩手帖」の編集長を1960年代に務めた詩人の八木忠栄さんは、小田さんを「貫徹の人だった」と回想する。「現代詩をリードするという意識が常にあって、中心となる企画の決定をするのは、常に小田さんだった」という。柔らかな企画を提案しても、はねられ、悔しい思いをしたこともあった。
 同時に、「新しい詩人を育てないといけない」という意識を強く持っていた。「荒地」の詩人や、大岡信、谷川俊太郎、飯島耕一といった同世代の詩人と並走するとともに、若い編集者を年下の詩人の担当にして、新世代のフォローアップを欠かさなかった。
 「小田さんは、現代詩の流れを更新しよう、という意識をいつも抱いていた」と振り返るのは、2010年から5年間、「現代詩手帖」の編集長を務めた亀岡大助氏さんだ。新しい世代の詩人を取り上げる特集や詩集のシリーズを、21世紀になってからも、次々と送り出していった。
 小田さんの次男で思潮社専務の小田康之さんには、今も忘れられない父の言葉がある。
 「売れる本は作るなよ」。90年代の初め、思潮社で仕事を始めたころに言われて驚いた。売り上げを第一に考える現在の出版界から見れば、ナンセンスにさえ聞こえるかもしれない。しかしそれは、売り上げだけを目的にするのでなく、自社にしか作れない本を作れ、という信念の表れだった。「あれだけ多くの詩集を世に出し続けた出版人は、かつていない。ギネスブックものではないか」。そう語るのは、60年もの親交のある詩人の井川博年さんだ。
 戦後の詩壇の変遷を体験に基づいてたどった著書「戦後詩壇私史」で、小田さんは「現代詩手帖」を創刊した59年ごろの心情を、高村光太郎の詩の一節を借りて表している。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」
 戦後から現代へ至る詩の道を華やかに歩いた詩人は数あれども、その裏で、長きにわたりその道を整備し続けた人は、小田さんをおいてほかにいなかった。
(客員編集委員 宮川匡司)
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なるほど、光太郎の精神を受け継がれての数々の業績だったか、と、粛然とさせられました。

ところで、詩誌『現代詩手帖』をはじめ、このブログサイトでご紹介してきた複数の新刊詩集等で、思潮社さん刊行のものも少なくありません。平田俊子氏『戯れ言の自由』和合亮一氏『QQQ』平岡敏夫氏『平岡敏夫詩集』など。それらの奥付を見てみますと、「発行人 小田久郎」の文字。詩誌『歴程』等を通し、多くの詩人を世に送り出した当会の祖・草野心平や、さらに遡って『明星』で光太郎を含む若い才能を育てた与謝野鉄幹などを彷彿とさせられました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

ふいと出て来たので又出直さうと思つてます 今日は一旦帰るでせう


大正元年(1912)8月31日 前田晁宛書簡より 光太郎30歳

ふいと出て来た」先は、千葉銚子の犬吠埼。今年1月に廃業した老舗旅館・暁鶏館に宿泊し、絵を描くためでした。しかし気乗りがしなかったのでしょうか、すぐ帰ろう、と書いています。

ところがそこに、智恵子が現れます。二人の恋愛問題で煮え切らない態度の光太郎に業を煮やしたのでしょうか。

光太郎の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であつた。私はそんな事は知らなかつたが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれてゐた。

結果、滞在を9月4日まで延ばし、光太郎も智恵子への愛を貫く決意を固めました。

『毎日新聞』さんで月イチの連載だった、詩人の和合亮一氏による「詩の橋を渡って」が、3月23日(木)掲載分で最終回となりました。

これまでも光太郎の名を何度も出して下さいましたが、最終回でも。

詩の橋を渡って 命の芯を豊かに深く

3月000
 水をもとめるものは
 また喉がかわくだろう
 でも きみが与える水は
 ぼくのなかで泉になって
 えんえんと湧きつづける。

 高村光太郎が「この世に詩人が居なければ詩は無い。詩人が居る以上、この世に詩でないものは有り得ない」と述べたが、今を生きる詩の書き手たちにはっきりと詩が守られていると、数多くの書物に触れていつも感じてきた。それとは何かを語る前に、さあ、これら詩人たちの姿と仕事を見よ……という心持ちで、紹介してきた。詩を読むことのかけがえのなさを、きちんと語りたい。しかしこれは、あらためて難しいことでもあると感じた。

 東日本大震災からの月日、その後も続いた各地での地震や豪雨災害、コロナ禍における暮らし、ロシアによるウクライナ侵攻など、めまぐるしい世界と社会の動きがあったことを心に刻みたい。その都度に迫ってくる鋭い言葉を求め続けてきた。三角みづ紀の新詩集『週末のアルペジオ』(春陽堂書店)を開きながら、あらためて思いをめぐらせてみる。「窓から/降ったり止んだりする/きょうの/はじまりが/しずかにおとずれた」
 こんなふうに一日も、言葉も突然にやって来るのだろう。「生きるための/朝食のスープ/すこし萎(しな)びた野菜/感情もなく/切りおとし/ひとは どうして/こんなにも残酷になれるのか。」。日常のなかに潜む詩の素材を調理しようとする詩人の筆づかいは、あたかも料理という日々の手仕事に似ているのかもしれない。それを深く見つめようとする視点は、息を凝らして何をそぎ落とそうかといつも探しつづけているのかもしれない。
 詩人の新川和江が私に語ってくれたことがある。「足元の水を掘りなさい」と。題材は遠くに見える何かなのではなく、実は本当に近くにあって気づかないものなのだ、と。詩は新緑の頃から始まり季節の移ろいを味わうようにして毎月書かれた作品を中心に編まれている。そこに詩人が撮影した写真が添えられているが、切り取られた視界と四季を追うフレーズそのものが、足の下にある命の芯のようなものを豊かに深く語ろうとしている。
 「水をもとめるものは/また喉がかわくだろう/でも きみが与える水は/ぼくのなかで泉になって/えんえんと湧きつづける。」。静かに、丹念に書き表された詩行に見えてくるものとは何か。書き手の独特の深い呼吸と思考のありかがある。湧き続ける言葉を心と暮らしを通して、詩人が足し引きなくこちらへとそのまるごとを届けようとする。今を生きるということの本当の精神の乾きと潤いとを私たちは知るのではないだろうか。
 先日に読売文学賞を受賞したばかりの藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』(思潮社)を再読。読むほどに彼の文体からは解き放たれていく自由が私には感じられる。古今東西の文学と、詩人そして研究者、教育者として長年に向き合ってきて、言わば真の詩魂と詩作のしなやかさを得てきたのだろう。「懐風藻」の藤井流に書き直した一節を紹介し、長年の時評の任を終えたい。「天の紙に、風の筆で、雲間の鶴をえがくこと!」=今回で終わります

これまでの連載で、光太郎に触れられた回はこちら。

令和2年(2020)5月 令和2年(2020)7月 令和2年(2020)12月 令和4年(2022)10月

後とも氏のご健筆を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

福島の町に一泊。今夕青森に向ふ筈


明治44年(1911)5月7日 高村光雲宛書簡より 光太郎29歳

北の大地に酪農で生計を立てながら芸術を生み出すという生活を夢み、ついに東京を発ちました。

ニューリリースのCDです。一昨日、タワーレコードさん他のサイトに情報がアップされました。ちなみに旧字体の「惠」の字が使われているのは、制作サイドのこだわりなのでしょう。

清水邦子が歌う 組曲『智惠子抄』

2023年3月21日 ムジカフエンテ000
定価2,000円+税

詩:高村光太郎
作曲/ピアノ:朝岡真木子
歌唱:清水邦子

収録曲
 1 人に(6:02)
 2 あどけない話(3:06)
 3 千鳥と遊ぶ智惠子(3:59)
 4 値(あ)ひがたき智惠子(2:59)
 5 間奏曲 ~祈り~(4:19)
 6 レモン哀歌(7:19)

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作曲家・朝岡真木子氏が令和元年(2019)に作曲された組曲「智惠子抄」のみを収めたCDです。

昨年、メゾソプラノの清水邦子氏が旧東京音楽学校奏楽堂で開催された「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」で全曲を歌われ、「ぜひCD化していただきたいものです」と申し上げたところ、とんとん拍子に実現してしまいました(笑)。その行動力、バイタリティーには脱帽です。と言っても、決してやっつけ仕事ではなく、清水氏の歌唱、朝岡氏のピアノ、ともに素晴らしい演奏ですし、ジャケット的なブックレットは全15ページ。こちらもハイクオリティです。

清水氏、どっぷりと「智恵子抄」の世界にはまられ、リサイタル後の11月には智恵子の故郷・福島二本松の智恵子生家/智恵子記念館などをご訪問、今回のブックレットにはその折の写真も多数掲載されています。
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001ちょうど生家二階の特別公開中でしたし、智恵子の「幻の花嫁衣装」の展示も為されている時でした。

その際に同行された、映画監督の水谷俊之氏が、今回のCDのライナーノートを書かれています。題して「三人の女が生み出した劇的なるもの」。「三人」とはもちろん、清水氏、朝岡氏、そして智恵子ですね。ちなみに水谷氏、一昨年にNHK BSプレミアムさんで放映された「プレミアムドラマ山女日記3 #3 あどけない空・安達太良山」の監督もなさっていて、「智恵子抄」とは浅からぬご縁をお持ちです。

ライナーノートと言えば、当方も書かせていただいております。CDの帯には当方執筆のライナーノートの抜粋も印刷して下さいました。恐縮至極です。

最上部にリンクを貼りましたが、オンライン販売が為されていますし、4月2日(日)に日比谷松本楼さんで開催予定の第67回連翹忌の集いにご参加下さる方は、会場内で販売しますので、そちらでお求め下さい。また、連翹忌の集いでは、清水氏、朝岡氏のお二人直々に、組曲から抜粋での演奏をお願いしてあります。ご参加下さる方、お楽しみに。

それに先だって、やはり抜粋での演奏が為される「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」が、3月21日(火)、銀座の王子ホールさんで開催されます。その際にもCDの販売があるでしょう。

さらに、組曲「智惠子抄」全曲が収められた楽譜集『朝岡真木子歌曲集2』も刊行されています。併せてお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

祝入営  明治43年(1910)8月10日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳


005親友・水野葉舟との連名で送った葉書。絵は光太郎でしょう。

長田秀雄は詩人、劇作家、小説家。光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」のやはり主要な一人でした。

「入営」は徴兵によるものです。この年11月、「パンの会」の大会が日本橋大伝馬町の三州屋で開かれ、その際、画像にあるような幟が掲げられ、さらに光太郎がその周りに黒い縁取りをしたところ、訃報の黒枠のように見えました。そこに居合わせた『萬朝報』の記者が「けしからん」と翌朝の記事にし、今で言う「炎上」状態に。

ちょうど幸徳秋水らによるいわゆる「大逆事件」のあった時期で、当局も過敏に反応していましたし、「パンの会」自体、社会主義者の集まりで、「麺麭(パン)」を要求する団体かと警戒されていたそうです。

3月13日(月)は、光太郎の誕生日です。存命であれば満で140歳となります。

だから、というわけでもないのでしょうが、その日とその翌日に、「智恵子抄」系の朗読公演。

まずは大阪から。昨秋上演予定だったのが、関係者にコロナ感染が出たため、延期となっていたものです。

至高の華 ~舞と語り~<振替公演>

期 日 : 2023年3月13日(月)
会 場 : 大槻能楽堂 大阪府大阪市中央区上町A-7
時 間 : 18:30~
料 金 : S席 8,000円 A席 6,000円

演 目 : 語り「初代 梅若実」 桂南光(新作落語 本邦初演)
      舞踊詩劇「智恵子抄」 梅若実桜雪/藤間勘十郎/高橋惠子 ほか
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「舞踊詩劇 智恵子抄」。昭和32年(1957)初演の新作能「智恵子抄」をベースに、人間国宝の能楽師・梅若実桜雪氏と舞踊家の藤間勘十郎氏が光太郎智恵子として舞われ、女優の高橋惠子さんが朗読なさるそうです。

平成18年(2006)以来、何度か上演されたそうですが、当方、寡聞にして存じませんでした。今回は令和初の公演、「さらに進化した智恵子抄」だそうで。

続いて北海道札幌から。

マンスリー朗読ライブ VOL.26 智恵子抄を語る

期 日 : 2023年3月14日(火)
会 場 : 岩本珈琲 札幌市白石区栄通18丁目4-1 アン・ロワイヤル 1F
時 間 : 19:30~
料 金 : 1,800円(ワンドリンク付)

出 演 : 石橋玲(朗読)  つくね(音楽)
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せつなくも愛情たっぷりの「智恵子抄」から数篇をメドレーでお届けします✨」だそうです。

それぞれお近くの方(遠くの方も)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

わざわざ例会の御案内にあづかりありが度く存上候。当日遺憾ながら約束事の為め欠席仕るべくこの段御返事まで


明治42年(1909)12月3日 森鷗外宛書簡より 光太郎27歳

例会の御案内」は、鷗外が自宅で開いていた観潮楼歌会のそれです。光太郎、一度だけ参加しましたが、その後は逃げ回っていました(笑)。同趣旨の断りの書簡があと三通、確認できています。

光太郎、東京美術学校時代の恩師でもある鷗外に対しては「敬して遠ざける」的な部分があり、それが後の「サーベルさせば鷗外だ」事件にもつながります。

この年8月に受けた、留学のため先延ばしにしてきた徴兵検査は、軍医総監だった鷗外が裏で手を回し、徴兵免除となったのに、です。

動画配信を予定しているというので、それがアップされたら一緒に紹介しようと思っていたのですが、遅れていますので、見切り発車です。先月、花巻市で開催された「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」の報道を。

まず、仙台に本社を置く『河北新報』さん。

高村光太郎はなぜ岩手・花巻へ? 研究家ら対談、宮沢賢治との関連探る

  詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と宮沢賢治(1896~1933年)とのつながりを考える対談「なぜ光太郎は花巻に来たのか」が14日、岩手県花巻市のなはんプラザであった。
 東京を拠点に顕彰活動をする「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明氏(58)と、賢治の弟清六さんの孫でカフェ林風舎(花巻市)社長の宮沢和樹氏(58)が登壇。手記や作品を基に、光太郎と賢治との出会いや互いの印象を紹介した。
 東京大空襲でアトリエを失った光太郎は1945年、賢治の実家に疎開。防空壕(ごう)をつくるよう助言した。和樹氏は「清六は避難に備えて、賢治の原稿や手紙をまとめた。資料が残っているのは光太郎の助言があってこそだ」と語った。
 同年の花巻空襲で宮沢家が焼失した後は花巻市太田に山荘を構え、7年半の隠居生活を送った。小山氏は、光太郎が戦意高揚の詩を創作したことに触れ「多くの若者を犠牲にさせたことに後悔し、自ら罰を与えたのではないか」と推察した。
 対談は光太郎の生誕140年を記念し、太田地区振興会が主催。市民約200人が参加した。
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続いて『岩手日報』さん。

花巻での光太郎追う 生誕140年記念対談講演会

 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は14日、同市大通りのなはんプラザで高村光太郎生誕140年記念事業・対談講演会「なぜ光太郎は花巻に来たのか」を開いた。
 約200人が参加。彫刻家で詩人の光太郎(1883~1956年)を研究する小山弘明さん(58)=千葉県=と宮沢賢治(1896~1933年)の実弟・清六さんの孫で林風舎代表取締役の宮沢和樹さん(58)が対談した。
 光太郎が宮沢家を頼り同市に疎開し、宮沢賢治全集の出版に助力した逸話などを当時の写真も用いて説明。和樹さんは「光太郎先生が(宮沢家の)自宅に防空壕を設けるアドバイスをしたことで、原稿などが花巻空襲を免れた」と紹介した。
 光太郎が花巻で過ごした7年について、小山さんは「戦争に加担する詩を書いた自らを罰する気持で山荘にこもったのではないか」と持論を述べた。
 同市太田の阿部正文さん(73)は「光太郎先生と幼少の頃に会った記憶がある。名作が世に出る秘話が知れた」と満足した。

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『岩手日日』さん。

宮沢賢治との逸話披露 高村光太郎生誕140年記念講演 

  花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)による講演会「なぜ光太郎は花巻に来たのか」は14日、同市大通りのなはんプラザで開かれた。高村光太郎生誕140年記念事業として初めて開催され、市民ら約200人が来場。高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表(58)と、宮沢賢治の弟清六の孫で林風舎代表取締役の宮沢和樹さん(58)が、賢治と光太郎が知り合うきっかけや逸話を披露した。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、同年5月に賢治の実家を頼り花巻に疎開。終戦後は旧太田村山口の山小屋で約7年間、独居自炊の生活をしながら住民と交流した。
 詩人・草野心平が光太郎に賢治の存在を伝えたことが交流のきっかけになったという。賢治が上京した際、アポイントなしで光太郎のアトリエを訪れたが、小山代表は「(光太郎は)仕事が忙しく、明日また来てくれといって賢治はすぐに帰った。次の日に賢治は来なかった。光太郎もいきなり賢治が訪問してきて、面を食らったのではないか」と推測した。
 光太郎は賢治の実家に疎開した際に、清六に「日本中に爆弾を落とされてもおかしくない。防空壕(ごう)を作るべき」と提言したという。和樹さんは清六に語られた話を思い出しながら「防空壕があったおかげで原稿が戦火から免れた。光太郎先生が祖父に提言しなければ、全て焼けてしまっていた」と説明した。
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動画配信が為されましたら、また改めてご紹介させていただきます。

【折々のことば・光太郎】

今日羅馬に来りたり。古羅馬の偉大なりしを想見して驚かざるを得ず。


明治42年(1909)4月4日 高村道利宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行中、すぐ下の弟・道利に宛てた絵葉書から。この葉書は昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎、海を航る」で展示されました。
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詩人の若松英輔氏が講師を務められる、zoomによるオンライン講座です。

若松ゼミ◆詩とは「気」を描こうとする試みである――『高村光太郎詩集』

 高村光太郎は、彫刻家であり、同時に詩人でもありました。彼は、自分の根本感覚は「触覚」であると述べています。この世界の手ざわり、言葉の手ざわり、さらには関係の手ざわりをどのように言葉にし得るか。この特異の詩人から学んでみたいと思います。
 光太郎の詩は、真似すれば誤るという独創的なものです。しかし、その底を流れているものは、これから本格的に詩を書こうとする者に豊かな学びになると思います。 (講師:若松英輔)
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【最低催行人数】10名
【時間数】1時間40分(内休憩10分)
【受講料】4,400円(税込)
【書くワーク】あり(+1,650円)・なしが選べます
【テキスト】『高村光太郎詩集』(岩波文庫)
【申込み期限】講座の前営業日9:00まで(コンビニ決済の方は、期限までにお支払いまでお済ませ下さい)
※「読むと書く」会員様のみご参加頂けます。 会員証をお持ちでない方は、事前にアンケート・課題などがございますので、4営業日前までに初めての方はこちらよりお申し込み下さい。

【日程】
■第1回 2023年2月28日(火)19:20-21:00 ☆あとから聴ける復習用音声付!
■第2回 2023年3月28日(火)19:20-21:00
■第3回(最終回) 2023年4月18日(火)19:20-21:00

☆あとから聴ける復習用音声付!の講座は、終了後、講座録音音声をお送りします。復習やご都合があわなくなった際にも安心です。(講座後一週間以内に配信、配信より二週間聴けます。録音状況により聞きづらい箇所がある場合や配信ができなくなる場合もございます。あらかじめご了承下さい。)

<<音声講座もあります!>>
ご都合があわない方は、1ヶ月間お聴きいただける後日配信の音声講座をご利用下さい。→こちら

同講座、昨年は「言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む。」がありましたし、若松氏、これまでもラジオ講座で光太郎を取り上げて下さったり、複数のご著書で光太郎に触れて下さったりしています。

今回の講座には、各回とも「書くワーク(課題)付き」「書くワークなし」があるそうですし、アーカイヴ配信もあるようです。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

急に思ひ立つて今夜「アルプス」の方へ行つて来る。金の都合で事によつたら伊太利へ廻るかも知れない。廻らないかも知れない。廻らなくはないかも知れない。廻らなくはなくはないかも知れない。


明治42年(1909)3月19日 畑正吉宛書簡より 光太郎27歳

結局、スイス経由でイタリアに入り、ヴェネツィア、パドヴァ、フィレンツェ、ローマ、ナポリなどを約1ヶ月かけて廻りました。

昨日まで1泊2日で、光太郎の第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

2月14日(火)、東北新幹線新花巻駅に降り立ち、例によってレンタカーを借りて花巻市街へ。晴れていましたし、覚悟していたより雪が少なく、ラッキーでした。この日は宮沢賢治実弟の故・宮沢清六氏令孫の宮沢和樹氏(林風舎代表取締役)との公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」でした。主催は光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻市太田地区振興会さん。地元の皆さんも、光太郎と賢治のつながり等、あまり詳しくないので、ぜひそのあたりを知りたい、ということで実現しました。

会場はJR東北本線花巻駅近くのなはんプラザさん。
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もと、「銀河鉄道の夜」のモデルの一つとされる岩手軽便鉄道の駅があったあたりです。

目の前は「いとうや」さん。かつての光太郎御用達の食堂。建物は建て替わっていますが。
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ロビーでは、ご協力下さったやつかの森LLCさんによる出店。
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講師控え室の窓から。始まる頃には雪がちらつき始めました。
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会場内。
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平日ということで、入りを心配していたのですが、ほぼ満席。ありがたし。
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約1時間半、和樹氏と対談。
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和樹氏、これまでもあちこちでご講演をなさっています(当方も一度拝聴しました)ので、手慣れたものです。当方も今回はパワーポイントの操作等もなく、一人でしゃべりっぱではないので楽でした。また、昨年12月、打ち合わせ的に、和樹氏と主催の太田地区振興会の方々、そして当方で「こんな話をしたらいいんじゃないの」という意見調整をしておきましたので、それが功を奏しました。

内容的には賢治と光太郎、お互いの評価や影響、唯一二人が出会った大正15年(1926)12月の話、賢治没後の光太郎や当会の祖・草野心平らによる賢治顕彰の始まり、詩人・永瀬清子も関わる「雨ニモマケズ」の発見、賢治の父にして和樹氏令曾祖父・政次郎の骨折りによる戦時中の光太郎花巻疎開、和樹氏令祖父・清六氏と光太郎の交流、昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲の際のエピソード、戦後の光太郎の旧太田村への移住などなど。

ただ、太田村での話は今回あまり触れないようにという主催者側の要望でした(そのあたりはまた次の機会に、と考えられているとのこと)ので、おおむね戦時中までの話に終始しました。

最後に質問の時間を取りましたが、仕込み無しで多くの方から質問が寄せられ、並々ならぬ興味を持って聴かれていたんだなというのがよくわかりました。深謝。

のちほど動画配信等もあるようです。詳しくは連絡を受けてからご紹介します。

その後、一旦、宿泊先の大沢温泉自炊部さんに行き、チェックイン。
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途中、車を駐めて撮影した夕日。
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昨年12月は満室で泊まれなかったのですが、今回は早めに予約を入れたので大丈夫でした。

チェックインをし、荷物を置いてまたすぐ市街へ出て、慰労会。楽しいひとときでした。

宿に帰って一風呂浴びて就寝。部屋はこんな感じでした。
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翌朝。晴れていたので助かりましたが、外気温は-9℃。温暖な房総に暮らしている身にはこたえました(笑)。
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かつて定宿としていた江戸時代竣工の菊水館さん。現在は宿泊棟としては休業中です。
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フロント隣の休憩スペース的な座敷。桃の節句が近いので、ひな飾り。いい感じですね。
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朝風呂を堪能し、チェックアウト、駐車場へ。

おそらくキツネの足跡でしょう。
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夜の間に軽く降雪。こうなることを見越してワイパーを立てておきました。
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この時期、北国のレンタカーにはブラシが常備されていますのでこの程度の積雪は恐るるに足らず(笑)。

まず花巻高村光太郎記念館さん、そして隣接する高村山荘へ。その辺りは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

小生先月上旬英国倫敦に移住仕り相変らず頑健に罷在候間乍憚御休神被下度候。


明治40年(1907)8月9日 加藤景雲宛書簡より 光太郎25歳

1年4ヶ月過ごしたアメリカを後に、ロンドンに移りました。

大西洋を渡る際には、のちにかのタイタニックを就航させるイギリスの船会社、ホワイトスターラインの豪華客船オーシャニックに乗ったことを、10年ほど前に突き止めました。

こちらは昨年入手した令和元年(2019)刊行の洋書です。
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ご本人がコロナ感染のため、昨年12月に予定されていながら延期となった演奏会、仕切り直して行われます。

紀野洋孝テノール・リサイタル 延期公演

東京公演
 期 日 : 2023年2月23日(木・祝)
 会 場 : 東京オペラシティ リサイタルホール 東京都新宿区西新宿3-20-2
 時 間 : 18:30開場 19:00開演
 料 金 : 前売 一般 3,000円 学生 1,000円 当日 一般 3,500円 学生 1,500円

大分公演
 期 日 : 2023年3月6日(月)
 会 場 : iichiko音の泉ホール 大分県大分市高砂町2番33号 
 時 間 : 18:30開場 19:00開演
 料 金 : 前売 一般 3,000円 学生 1,000円 当日 一般 3,500円 学生 1,500円

出 演 : 紀野洋孝(テノール) 森裕子(ピアノ)
曲 目 : 
 F.P.トスティ:〈薔薇〉〈祈り〉〈理想の人〉
 山田耕筰:〈この道〉〈かやの木山の〉〈六騎〉〈城ヶ島の雨〉〈みぞれに寄する愛のうた〉
 別宮貞雄:歌曲集《智惠子抄(改訂新版)》

2022年12月18日、23日に開催予定でした、紀野洋孝 テノール・リサイタルの延期公演!
パワーアップして望む予定です!! みなさま、どうぞよろしくお願い致します! 今度こそは!!!!!!!!!! 応援のほどよろしくお願い致します!!
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博士号取得とCD“別宮貞雄作品集「Be」”の発売を記念して」ということだそうです。「CD“別宮貞雄作品集「Be」”」についてはこちら

政府によるコロナ感染症5類への引き下げ云々の可否はまた別として、たしかにコロナ禍、だいぶ落ち着いてきたようではありますね。まだ予断を許さない状況とは思われますが。そのため、このように延期となった公演等のリトライが行われています。また近くなりましたら詳しくご紹介しますが、昨年11月に開催予定だった、大阪大槻能楽堂さんでの「至高の華 ~舞と語り~」も、改めて3月に振り替え公演があるそうです。

こちらも近々告知いたしますが、当会主催の連翹忌の集い(4月2日(日))も、3年間の中止を経て、4年ぶりに開催する予定です。よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

何にせよ、生れて二十余年、日毎にあたらしき経験の妙味と、苦味とを嘗め居り、人間としての修養上にも、此上なき好機会と、ひそかに喜び居り候次第に候。

明治39年(1906)5月15日 東京美術学校校友会宛書簡より 光太郎24歳

海外留学に出て3ヶ月あまり、まさに「日毎にあたらしき経験」の連続だったのでしょう。「苦味」は人種差別の洗礼を受けたことなどを指すと思われます。光太郎もがっつりやり返しましたが(笑)。

クラシック系の演奏会情報です。横浜、広島それぞれで、加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」がプログラムに入っています。

藤木大地&みなとみらいクインテット マチネ(昼公演)

期 日 : 2023年2月16日(木)
会 場 : 横浜みなとみらいホール 小ホール 神奈川県横浜市西区みなとみらい2-3-6
時 間 : 13:30開場 14:00開演
料 金 : 単独券 3,500円 夜公演との通し券 6,000円

昼と夜でメンバーチェンジ! 歌手藤木大地のもとに豪華なソリストが集い妙技を競う白熱のコンサート

男性がファルセット(裏声)によって女性の声域を歌う。それが、カウンターテナーです。世界を代表するカウンターテナー藤木大地と名手ぞろいのピアノ五重奏による室内楽コンサート。ソリストたちの輝く音色が藤木の柔らかな声と響き合う極上の1時間をお届けします。昼と夜のコンサートでは曲目も出演者も入れ替わります。ぜひ、2公演通してお楽しみください。

横浜みなとみらいホールという音響の優れた室内空間を活かし、濃密なソロリサイタルのような瞬間も、合奏の響きとともに透き通るようなうたが染み渡る瞬間も楽しめる魅力的な編成です。

出演者
 カウンターテナー 藤木大地  ヴァイオリン 成田達輝 周防亮介  ヴィオラ 川本嘉子
 チェロ 中木健二  ピアノ 松本和将

予定曲目
 シューマン:ピアノ五重奏曲 変ホ長調 Op. 44より 第3楽章
 シューベルト:魔王 D 328
 マーラー:私はこの世に忘れられた
 ラフマニノフ:ヴォカリーズ Op. 34 No. 14
 J. S. バッハ:主よ、人の望みの喜びよ
 ヴュータン:アメリカの思い出《ヤンキー・ドゥードゥル》Op.17
 加藤昌則:レモン哀歌
 木下牧子:鴎
 モリコーネ:ネッラ・ファンタジア
 平井夏美:瑠璃色の地球
 村松崇継:いのちの歌
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昼夜2公演だそうですが、夜公演は編成も曲目も異なり、「レモン哀歌」は曲目に入っていません。

昼の部と同じ編成、ほぼ同じ曲目で、広島県三原市での公演も。

藤木大地&みなとみらいクインテット 「藤木大地&みなとみらいクインテット」ネットワーク・プロジェクト

期 日 : 2023年2月18日(土)
会 場 : 三原市芸術文化センター ポポロ 広島県三原市宮浦2丁目1-1
時 間 : 13:15開場 14:00開演
料 金 : 一般 3,800円(ポポロクラブ会員3,300円)  ペア(2枚)7,000円
      25歳以下 1,000円

出演者
 カウンターテナー 藤木大地  ヴァイオリン 成田達輝 周防亮介  ヴィオラ 川本嘉子
 チェロ 中木健二  ピアノ 松本和将

予定曲目
 シューマン/ピアノ五重奏曲 第3楽章
 シューベルト/魔王
 マーラー/私はこの世に忘れられた
 ラフマニノフ/ヴォカリーズ
 バッハ/主よ人の望みの喜びよ
 ブラームス/聖なる子守唄
 木下牧子/鴎
 モリコーネ/ネッラ・ファンタジア
 平井夏美/瑠璃色の地球
 村松崇継/いのちの歌
 神ともにいまして(讃美歌)
 加藤昌則/レモン哀歌  他
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ちなみに5/3新潟県新潟市、5/21奈良県大和高田市、8/6神奈川県横須賀市での公演も予定されているとのこと。「レモン哀歌」がプログラムにはいるかどうか、不明ですが。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「子供連へ」みんな達者で勉強してゐるだらうね。日本国は此から万歳で、進歩する許りだ。みんなも盛んにやる可し。御父さんや御母さんに世話を焼かせてはいけない。 僕も勉強して今にみんなを驚かせるよ。待つておいで。

明治39年(1906)4月13日 高村光雲様一同宛書簡より 光太郎24歳

欧米留学最初の目的地、ニューヨークからの書簡。「光雲様一同」となっていますが、弟妹に宛てた内容です。この後、世界最先端の芸術に触れる中で、日本の芸術的後進性を嫌と云うほど思い知らされ、日本人であることを恥じ入るようになりますが、未だその境地には至っておらず、「日本国は此から万歳で、進歩する許り」などと書いています。

プロ野球のキャンプが始まり、「球春」到来といった感があります。一昨日の『日刊スポーツ』さんから。

【ソフトバンク】王貞治会長「今年は3倍返し」リベンジへ誰よりも燃える男、待ちに待った2・1

000 球春を告げる2・1キャンプイン。グラウンドに響く打球音に心が高鳴って来る。3年ぶりのV奪回を目指すソフトバンクで、最も「この日」を心待ちにしていたのは、王球団会長ではなかったか。ジャージー姿に球団帽をかぶり、手にはバットを持ってアイビースタジアムのグラウンドに元気な姿を見せた。
 宮崎入りした前日(1月31日)の全体ミーティングでは約15分間の訓示。「10日間で野球がやれる状態になること」と訴え、実戦的なメニューとなる第3クールからは「勝負ということを常に意識して取り組んで欲しい」と言った。この投手に勝つには、この打者を抑えるには…。「練習」ではなく、とにかく徹底して「勝負」を意識しろ、と繰り返した。
 あの悔しさは、王会長の野球人生でも初体験だった。昨年は優勝マジックを「1」としながら、最終戦で敗戦。同率で並んだオリックスにペナントを奪われた。現役時代はV9も達成した王会長だが、予想もしなかった幕切れに悔しさを拭いさることはできなかった。
 言葉は熱を帯びた。「勝負というのは表か裏なんだよ。勝負、勝負、勝負に勝つ! そのことだけを考えてほしいんだよ」。藤本監督以下、A組、B組の全選手、コーチ、スタッフも息をのんで王会長の訓示に聞き入った。昨秋のキャンプ。やはり前日ミーティングで王会長は熱く語った。約25分ものスピーチ。だが、翌日に新型コロナに罹患(りかん)し、リスタートへ向けたキャンプを見守ることはできなかった。
 有終の秋へ向け、長いシーズンが始まる。キャンプはその序章だが、戦う前から戦いは始まっている―。そう王会長はチームに言いたかったはずだ。詩人・高村光太郎の「道程(どうてい)」の一節も持ち出し「誰かが言ったけど『自分の前に道はない。自分の歩いた後に道はできる』とね。誰でもない自分の道。自分で開拓して切り開かないと」。最後は「今年は(3年ぶりVで)3倍返ししような!」と締めくくった。

確かにソフトバンクさんにしてみれば、昨シーズンのパ・リーグタイトルはオリックスさんにかっさらわれたという感覚でしょうね。東北楽天ファンの当方としては、CS出場権を西武さんにかっさらわれたことの方がショックでしたが(笑)。4月、5月はウハウハだったのに、です。
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それにしても王会長、「誰か」ではなく「高村光太郎」ですのでよろしく(笑)。

さて、今年のペナントはどうなることやら、ですね。

【折々のことば・光太郎】

此度は数ならぬ小生の渡航につき御餞別を贈られ候御芳志の段ありがたくあつく御礼申上候


明治39年(1906)2月2日 平櫛田中宛書簡より 光太郎24歳

この書簡の書かれた翌日(117年前の昨日ですね)、光太郎は横浜港からカナダ太平洋汽船の貨客船・アゼニアン号に乗って太平洋を渡ります。3年半にわたる海外留学の始まりでした。

御餞別」は禅宗の教義書『無門関』。光太郎生涯の愛読書となりました。

手前味噌で恐縮ですが……。

高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか

期 日 : 2023年2月14日(火)
会 場 : なはんプラザ COMZ ホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 無料(先着200名限定)

高村光太郎が花巻に来て、78年。光太郎生誕140年。そして、「道の駅はなまき西南」が愛称「賢治と光太郎の郷」としてオープンしたこと等をきっかけに、改めて、果たしてなぜ光太郎は花巻に来たのか? 大きな理由は宮沢賢治の育った土地であるから? そのことだけなのか?一体どのような誘引力が働いたのか? おおまかな話は知っているつもりだが、真相は? もう少し掘り下げたイキサツを探ってみたいという地域の皆さん方の素朴な疑問を解明するべく、対談を企画したところです。

講 師 : 宮沢和樹氏 株式会社林風舎代表取締役 宮沢家当主
      小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表
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宮沢家と光太郎のつながりを軸に、賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏と当方で対談を行います。

昨年、事前打ち合わせを行いまして、その後主催の太田地区振興会さんから「こんな項目で」と提示されているのが以下のような感じです。

・賢治と光太郎、そもそもの接点 ・お互いのお互いへの評 ・光太郎の北方志向
・光太郎の「三陸廻り」 ・宮沢政次郎/宮沢清六から見た光太郎
・佐藤隆房/草野心平/黄瀛の役割 ・大正15年、賢治と光太郎最初で最後の会見


細かくシナリオを決めているわけではないので、これらからさらに話があちこちに飛ぶこともあろうかと思われますが、こんな流れです。

現地は雪深い時期、さらに平日ではありますが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫塑室と其中に候ひし小生の書斎昨暁全焼いたし、書類は固より筆一本紙一枚も残らず焼け失せ申し候。……父上のも小生のも製作品皆灰燼、未だ初雪も無之内から、ちと大きなる焚火にて候ひき、その夜の凄さ、之も材料に候、

明治35年(1902)12月22日『明星』掲載の書簡より 光太郎20歳

光太郎がまだ実家に居た頃、祖父の隠居所を改装してアトリエとして使っていましたが、木彫制作で出たおが屑や木っ端に、不始末だったストーブの火が燃え移って火事になってしまいました。

この季節、皆様も火の要心を。

昨日は都内に出ておりました。

まずは「龍星閣がつないだ夢二の心―『出版屋』から生まれた夢二ブームの原点―」を拝見。『智恵子抄』初版版元の龍星閣主・澤田伊四郎と竹久夢二にスポットを当てた展示で、『智恵子抄』関連の展示はないだろうと思いこんでおりましたところ、「いや、あるよ」という情報をご提供いただきまして、伺った次第です。

会場の日比谷図書文化館さん。
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連翹忌の集いの会場としてお借りしている日比谷松本楼さんと同じく、日比谷公園内にあり、松本楼さんを横目に見ながら参りました。ちなみに今年4月2日(日)には、4年ぶりに連翹忌の集いを開催する予定で、会場は押さえてあります。詳細はまた後ほど。
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会場内、撮影可でした。

メインは龍星閣さんから千代田区さんへ寄贈された夢二作品でしたが、その前段的に、出版人としての澤田の紹介がなされ、『智恵子抄』を世に出したことにも触れられていました。
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『智恵子抄』の各種の版とともに、光太郎から澤田宛書簡も。
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平成30年(2018)、龍星閣さんから同町に光太郎関連資料が大量に寄贈された中に含まれるものでした。

図録も販売されており、このあたりも記述があります。1,500円也です。
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その後、メインの夢二関連。
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大正期に人気を博した夢二ですが、昭和に入って、戦中・戦後すぐまでは一旦、忘れられかけていたとのこと。その夢二を再発掘したのが澤田だそうで、「夢二をやる。ブームにしてみせる。見ているがいい」と、語り、画集の出版などでそれを実現させました。

それにしても、出品点数が実に多く、入場無料なのでもっと小規模な展示かと思っていたのですが、あにはからんや、でした。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

またまた老大家諸先生の御勉励には実に小生ら感憤いたさんずれば無之候。評判の象評判の如くにて候 小生らは偏に感心仕候


明治33年(1900)9月25日 加藤景雲宛書簡より 光太郎18歳

加藤景雲は光太郎の父・光雲の高弟の一人。後にこうした先輩やアカデミズム系の彫刻家の作品をけちょんけちょんにディするようになる光太郎ですが、この頃はまだ筆鋒おだやかです。

「象」は「像」の誤りでしょう。あるいはこの頃は「像」という表記がまだ確立していなかったのかも知れません。

この書簡、現在、売りに出ています。値段は88万円也です。
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宮沢賢治研究家としても有名であらせられた、詩人・仏文学者の天沢退二郎氏の訃報が出ました。

共同通信さんの配信記事から。

詩人の天沢退二郎さん死去 宮沢賢治研究、バタイユ翻訳

  フランス文学者で宮沢賢治の研究でも知られる詩人の天沢退二郎(あまざわ・たいじろう)さんが25日午後7時35分、千葉市稲毛区の病院で死去した。86歳。東京都出身。葬儀は近親者で行う。喪主は妻でイラストレーターのマリ林(まりりん)さん。
 幼い頃から宮沢賢治の作品に親しみ、「校本宮沢賢治全集」の編著に関わった。宮沢賢治学会の代表理事も務め、少年少女のための小説「オレンジ党」シリーズなども執筆した。
 詩集で藤村記念歴程賞、高見順賞などを受賞。ジョルジュ・バタイユやアンリ・ボスコの翻訳も手がけた。

天沢氏、賢治と光太郎についても言及していらっしゃいました。

昭和44年(1969)筑摩書房発行の『現代日本文学大系』第27巻の月報に「光太郎対賢治」と題し、大正15年(1926)の光太郎賢治の最初にして最後の出会いについて等。こちらはのち「《出会い》のななめ背後に」と解題・加筆されて、昭和53年(1978)、思潮社発行の『現代詩読本 高村光太郎』に収められました。
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また、平成8年(1996)にはやはり筑摩書房から出た増補決定版『高村光太郎全集』第19巻の月報に「《光賢太治郎》論のこころみ」と題する一文も寄せられました。題名は光太郎と賢治の名前をアナグラムにしたもので、二人の詩に共通して通底する位相について述べられています。
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『東京新聞』さんには氏の追悼記事も出ました。

【評伝】天沢退二郎さん 圧倒的に熱く語った宮沢賢治「宇宙人にも感動してもらえるように」

000 フランス文学者で宮沢賢治の研究でも知られる詩人の天沢退二郎(あまざわ・たいじろう)さんが25日、86歳で亡くなった。
 多彩な顔を持つ天沢さんには、「ダークファンタジーの傑作」と呼ばれる児童文学の著書「光車よ、まわれ!」もある。子どものころに魅了された者として、本紙エッセー「私の東京物語」の執筆を依頼できたことが光栄だった。2017年、千葉市の自宅近くのカフェで初対面。手書きの原稿を受け取りながら、その中にも登場する「光車」の物語のあれこれを尋ねた。「私の東京物語」は同年11月に掲載された。
 しかし、天沢さんが圧倒的に熱く語ったのは宮沢賢治だった。戦前の旧満州で過ごした小学生時代に夢中になり、作品を読破。34歳の時には賢治論を見込まれ、賢治の弟の清六さんから岩手県花巻市の自宅で、夢だった賢治の直筆原稿を見せてもらう。その時、清六さんに告げられた言葉が人生を決めた。「賢治の全集を作り直してほしい」
 以来、大半が生前未発表で書き直しも多く、本文が定まらない賢治の作品を「決定稿」にすべく、仏文学者の先輩である入沢康夫さん(故人)らと上野発夜行列車で花巻間を何往復もして、生原稿を分析し、校本全集を完成。その後も改訂を続けた。
 賢治に労力を注ぐ理由を尋ねると、天沢さんは事もなげに答えた。「いずれ宇宙人も賢治を読むようになると思うから、宇宙人にも感動してもらえるように」。自らも独特の作品で人々を魅了してきた詩人の言葉だと受け止めた。今は少年のような笑顔で、銀河鉄道に乗って天駆けていると思う。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

山中にて狼の糞はじめて見申候。


明治34年(1901)8月末 高村光雲宛書簡より 光太郎19歳

信州の戸隠より留守宅の父・光雲に宛てた長い書簡から。この旅では一人、野尻、上越の赤倉、また信州に戻って松本、木曽方面まで足を伸ばしました。

ニホンオオカミは明治38年(1905)、奈良の吉野で捕獲されたものを最後に絶滅したとされていますが、信州や武州秩父山塊などには未だに生息しているのではないかともいわれています。ロマンがありますね。

昭和44年(1969)開始の国民的アニメ「サザエさん」。次回放映で光太郎が取り上げられます。

サザエさん【カツオの行く道/サイフに優しいお楽しみ ほか】

地上波フジテレビ 2023年1月29日(日) 18:30~19:00
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【マスオさんにおまかせ】
マスオが突然、洗濯の手伝いをすると言い出す。「色柄物は別に洗う」「ポケットの中は確認する」「干す時にはシワをしっかり伸ばす」等、サザエから洗濯の注意点を教わる。家族は、急に家事にやる気を出すマスオに驚く。どうやら共働きの同僚に「夫婦で家事をやるのは当然のことだ」と言われ、影響されたらしい。

【サイフに優しいお楽しみ】
サザエは近所の主婦から「お金のかからない趣味は、家計に優しくて楽しい」と勧められ、手始めに野草摘みに挑戦する。空地の茂みで食用に出来る野草を探していると、たまたま野球をやっていたカツオたちに大型犬に間違えられてしまう。野草摘みをカツオから迷惑がられたサザエは、別のお金のかからない趣味を見つけると言う。

【カツオの行く道】
カツオは、高村光太郎の詩『道程』の中の一節「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」を聞き「道路工事のおじさんの詩だと思った」と言い出す。波平から「この詩中の道は、道路ではなく人生の道だ」とあきれられる。ワカメはカツオの勘違いがおかしく、笑いが止まらない。「絶対人に言うなよ」とカツオに念を押される。
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出演者
サザエ:加藤みどり カツオ:冨永みーな ワカメ:津村まこと タラオ:貴家堂子 
フネ:寺内よりえ マスオ:田中秀幸 波平:茶風林 ほか

【原作】 長谷川町子
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ちなみに、オープニングテーマソングのバックは、昭和49年(1974)から続く「サザエさんの旅」ですが、現在は北海道(冬編)です。

冒頭が、札幌大通公園。
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光太郎のDNAを受け継ぐ彫刻家の一人・本郷新の彫刻「泉の像」(昭和34年=1959)が。

もしかして以前に「青森編」があって、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」とかも取り上げられたのかな、と思って調べてみました。すると、平成10年(1998)に「青森・岩手・宮城」だったそうですが、細かな内容は確認できませんでした。実現していないということであれば、ぜひサザエさんに像の前で左手を掲げる像のポーズを取っていただきたいものです(笑)。

閑話休題、ぜひ「カツオの行く道」、ご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

くもり晴、冷 春子さん、あけみさんくる 澤田伊四郎氏くる 44800 豊周夫妻さん子さんくる 北川太一さんくる


昭和31年(1956)3月27日の日記より 光太郎74歳

その死の6日前です。この日も危篤の報を受けて多くの見舞客。「くる」と名が挙げられていませんが、当会の祖・草野心平も。その心平の日記から。

中西夫人結婚式に行かれ、あとをあづかる。北川太一君きたる。一緒に高村さんに会ふ。三日ぶり也。(略)高村豊周夫妻、令嬢きたる。「苦しいですか」「息苦しいね、息がとまりさうになることがある。八分程とまれば楽になるね。永久に」などといふ。まぶたが少しむくんでゐる。(略)関先生大気先生岡本先生来診。レントゲン写真を見せらる。健康な肺で呼吸してゐる部分なしとの由。

過日ご紹介した、千葉県銚子市犬吠埼の老舗旅館にして光太郎智恵子ゆかりの宿・ぎょうけい館さんの閉館の件につき、確認出来ている限り新聞二紙が光太郎智恵子にからめて報道して下さいました。

まず『読売新聞』さん、閉館直前の1月15日(日)の報道でした。

犬吠埼・老舗旅館 あす終了 明治7年創業 伊藤博文、島崎藤村も滞在

 創業150年近くの歴史を持ち、明治から昭和にかけて多くの著名人が宿泊したことで知られる銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」が、今月16日に旅館営業を終了し、31日に閉館する。
 同館は1874年(明治7年)創業。太平洋を一望できる水郷筑波国定公園内にあり、離島や高所を除けば日本で最も早いとされる初日の出を全客室(33)から眺めることができる。かつては伊藤博文、国木田独歩、島崎藤村ら多くの著名人が滞在。詩集「智恵子抄」を書いた高村光太郎が、後に妻となる智恵子と再会した場所とも伝えられている。過去には囲碁の本因坊戦の開催地にもなった。
 同館は株式会社「銚子暁鶏館(ぎょうけいかん)」が所有するが、1986年からは日本ビューホテルグループに運営を委託している。同グループとの運営委託契約を打ち切った。
 コロナ禍なども影響したとみられるが、銚子市を代表する観光施設の一つで、閉館を惜しむ声も聞かれる。銚子暁鶏館は、「旅館がある場所は唯一無二の景観を誇る。銚子市の貴重な資産でもあり、できればその資産を生かし続けたい」とし、再開を模索する考えも示している。


続いて『朝日新聞』さん。昨日の千葉版。

ぎょうけい館 伊藤博文らも宿泊 149年の歴史に幕 銚子・犬吠埼、観光客減り

 銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」が16日、営業を終えた。31日に閉館し、149年の歴史に幕を閉じる。伊藤博文や国木田独歩、島崎藤村ら著名人が宿泊したことでも知られるが、銚子市の観光客減少の影響を受けた。
 北海道から来た父親と宿泊した成田市の男性(32)は「初めて泊まったら最後だった。また来たかったのに残念」と話した。
 同旅館は1874(明治7)年創業。犬吠埼灯台の南側にあり、太平洋を一望できる温泉露天風呂や全33室から海が見渡せる宿として人気だった。
 詩人で彫刻家の高村光太郎は1912年、宿に泊まった折、別の宿にいた後の妻となる智恵子と再会し、写生などをして過ごした。「智恵子抄」では「運命のつながり」と書いている。
 旅館の所有者は銚子暁鶏館(銚子市)で、86年から日本ビューホテルグループに運営を委託してきた。その委託を終了した。グループ側の斉藤浩文総支配人は「歴史がありリピーターに支えられてきた。明かりはともし続けてほしい」。暁鶏館関係者は「新たな利用方法も含め検討したい」と話すが、具体策は未定だ。
 市によると、市内宿泊客数のピークは1985年の58万7千人。団体旅行の減少や東日本大震災、原発事故の風評被害、コロナ禍などが重なり、2021年は11万6千人に。犬吠埼周辺の温泉宿はかつての半分以下の4軒になる。
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3枚目の画像は館内に展示されている伊藤博文の書だそうです。下の方にはこちらで行われた囲碁の本因坊戦の写真も。

光太郎智恵子がここに泊まったのは、大正元年(1912)8月末から9月頭にかけて。光太郎は、この年秋に開催されたヒユウザン会展に出品する油絵を描くためでした。父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と訣別するため、光太郎はこの時期、彫刻より油絵制作を主に行っていました。

光太郎の犬吠行きを聞きつけたであろう智恵子が、すぐ下の妹で智恵子と同じく日本女子大学校(教育学部)を出たセキ、同じく日本女子大学校の英文科を智恵子と同じ明治40年(1907)に卒業した藤井ユウとともに、犬吠にやってきました。最初、三人で暁鶏館とは別の御風館に泊まっていたのですが、セキと藤井が先に帰京、智恵子は光太郎の泊まっていた暁鶏館に移ったといいます。

以前の通説では、この時期、智恵子に地元・福島で医師との縁談があり、煮え切らない態度の光太郎にふんぎりをつけさせるべく、智恵子は縁談を断って光太郎の元に駆けつけたとされていました。しかし、近年の研究で相手の医師にはこの時期既に妻子がいたことが分かっており、その医師との縁談があったとしてももっと前、この時期に縁談がまたあったとしても別の人物が相手、ということになります。また、この時期に縁談が、ということそのものが優柔不断な光太郎に対する智恵子の嘘だった可能性も否定できません。そうだとすると、詩「人に」(原題「N――女史に」)で「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳った光太郎、まんまとしてやられたわけですが(笑)。

光太郎の犬吠からの帰京は9月4日。翌日、編集者の前田晁に送った絵葉書の発見により、特定出来ました。
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宛名面に「犬吠でひどい風雨にあひました 昨夕帰つて来ましたら東京の静かなのに驚きました 潮の音のないのがつまりません」としたためられています。

ちなみにまさに暁鶏館で書かれたであろう8月31日付けの絵葉書も一緒に発見。
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写真は犬吠埼の北、黒生海岸のものです。

智恵子の方はというと、光太郎と共に帰京したのか、それとも前後して一人で帰ったのか、そのあたりは未だ不明です。

暁鶏館と光太郎、というと、これも以前にも書きましたが、詩「犬吠の太郎」。光太郎が犬吠を訪れた際に暁鶏館の風呂番をしていた本名・阿部清助、通称「長崎の太郎」(長崎は犬吠の南の地名ですが、それではわかりにくいので「犬吠の」としたのでしょう)をモデルにした詩です。太郎は会津藩士の息子でしたが、知的障害があり、曲馬団のビラ配りや暁鶏館での下働きなどをしていました。

ぎょうけい館さんのエントランスホールには、隣接する旭市ご出身の版画家・土屋金司氏の版画「犬吠の太郎」が飾られていたはずでしたが……。

さて、ぎょうけい館さん、上記新聞記事には「再開を模索する考え」「新たな利用方法も含め検討」という記述もありますので、このまま廃墟になったり、取り壊されて更地になったりということにはならないでほしいものです。できればやはり旅館として存続してほしいのですが……。

【折々のことば・光太郎】

今日は誰も来ず、しづかに原稿かき、「焼失作品おぼえ書」20枚かき終る、

昭和31年(1956)2月26日の日記より 光太郎74歳

「焼失作品おぼえ書」は、この年4月、5月の雑誌『新潮』に載りました。戦災や金属供出で失われた自作の彫刻の数々について、淡々と語るものです。発表された散文としては最後のものとなりました。ただし、翌月、死の4日前に追加で1枚を書き足しています。

昭和20年(1945)の空襲で駒込林町の住居兼アトリエが全焼した際は、多くの彫刻が焼失したことをむしろさばさばした思いで捉えていた光太郎ですが、もはや彫刻制作不可能となった死の床での、かつて自らの手で生み出された造型の数々に対する思いは、読む者の胸を打ちます。

千葉県佐倉市の志津図書館さん。毎月、佐倉市近隣エリアへの「マイクロツーリズム」と題し、館内の一角で近隣地域の歴史的スポット等をパネルや映像、関連図書等で紹介なさっています。

昨年10月が富里市七栄の「国登録有形文化財 旧岩崎邸末廣別邸」、11月で佐倉市下志津原と四街道市内に残る「旧軍施設の遺構」、12月には総武本線の駅でありながら秘境感漂う「JR南酒々井駅」を起点に、地酒・甲子正宗の醸造元である「飯沼本家」がそれぞれ紹介されました。

そして今月は「日本一短い鉄道 芝山鉄道「芝山千代田駅」を起点に、成田市三里塚記念公園」。

明治の初めから三里塚の地にあって、〝桜と馬の牧場〟として長い間多くの人々に親しまれてきた旧宮内庁「下総御料牧場」は、成田空港の建設に伴い昭和44年に栃木県塩谷郡高根沢町に移転しました。
園内には、我が国の畜産振興のパイオニアとして輝かしい足跡を残してきた御料牧場の名を永くこの地にとどめるため、旧御料牧場事務所を模して建設した「三里塚御料牧場記念館」があり、御料牧場の歴史、皇室と御料牧場の関わりについての資料、御料牧場の畜産機材などが保存・展示されています。
また、各国の大公使を招待する園遊会場、皇族の宿舎として使用された「三里塚貴賓館」、大平洋戦争開戦時に、皇族〈東宮:現在の上皇〉の使用を想定して建設された「防空壕(御文庫)」があります。
広い敷地にはマロニエの並木道が続き、三里塚ゆかりの水野葉舟、高村光太郎の文学碑などもあり、市民の憩いの場となっています。
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三里塚記念公園は、宮内庁の旧御料牧場があった場所に整備されています。そこからほど近い場所に、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も訪問、詩「春駒」を作りました。昭和52年(1977)には公園内に光太郎自筆稿を元にした詩碑も建立されています。

また、昨年には公園近くの三里塚コミュニティーセンターさんで、「春駒」の一節を冠した「三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』」展も開催されました。

御料牧場だけあって、貴賓館や、戦時中にはやんごとなき方々のための防空壕も建設。そのあたりについても紹介されているとのこと。

こちらの展示、さらには三里塚公園さん自体も、ぜひ足をお運び下さい。

それにしても志津図書館さん、こうした地域の歴史をを掘り起こすミニ展示を毎月なさっているその姿勢には頭が下がります。全国の類似施設の方々、ご参考になさって下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后自由国民社の人くる、花巻温泉のこと談話筆記七枚位、


昭和31年(1956)2月15日の日記より 光太郎74歳

花巻温泉のこと」は、「ここで浮かれ台で泊る/花巻」の題で、4月発行の『旅行の手帖』第26号に掲載され、9月には『ポケット四季の温泉旅行』に転載されました。

「花巻温泉」といいつつ、花巻温泉さんだけでなく、鉛温泉さん、大沢温泉さん、台温泉さんなどにも触れ、かつて花巻郊外旧太田村に蟄居していた際にたびたび訪れた各温泉の魅力や思い出を、楽しげに語っています。

この手の談話筆記、光太郎生涯最後のものとなりました。

新刊です。

名著入門 日本近代文学50選

2022年12月30日 平田オリザ著 朝日新聞出版(朝日新書) 定価850円+税

何を読むか、どう読むか――。日本近代文学の名作にこそ現代人の原型あり。50人の名著を魅力的に読み解く第一級の指南書!
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日本近代文学は、まだ百数十年の歴史しかない。本書を通じて、そこに関わった者たちの懊悩、青臭い苦悩を感じ取っていただければ幸いだ。(「はじめに」より)
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目次
 はじめに
 【第一章】 日本近代文学の黎明  
  『たけくらべ』樋口一葉002
  『舞姫』森鷗外
  『金色夜叉』尾崎紅葉
  『内部性名論』北村透谷
  『浮雲』二葉亭四迷
  『小説神髄』坪内逍遥
 【第二章】 「文学」の誕生  
  『武蔵野』国木田独歩
  『病牀六尺』正岡子規
  『三酔人経綸問答』中江兆民
  『破戒』島崎藤村
  『坊っちゃん』夏目漱石
  『みだれ髪』与謝野晶子
 【第三章】 先駆者たち、それぞれの苦悩  
  『一握の砂』石川啄木
  『蒲団』田山花袋
  『若山牧水歌集』若山牧水
  『兆民先生』『兆民先生行状記』幸徳秋水
  『高野聖』泉鏡花
  『邪宗門』北原白秋
 【第四章】 大正文学の爛熟  
  『河童』芥川龍之介
  『城の崎にて』志賀直哉
  『雪国』川端康成
  『細雪』谷崎潤一郎
  『小さき者へ』有島武郎
  『月に吠える』萩原朔太郎
  『紙風船』岸田國士  
 【第五章】 戦争と向き合う文学者たち  
  『蟹工船』小林多喜二
  『銀河鉄道の夜』宮沢賢治
  『風立ちぬ』堀辰雄
  『智恵子抄』高村光太郎
  『怪人二十面相』江戸川乱歩
  『山椒魚』井伏鱒二003
  『浮雲』林芙美子
  『麦と兵隊』火野葦平
  『濹東綺譚』永井荷風
  『山月記』中島敦
  『落下傘』金子光晴 
 【第六章】 花開く戦後文学  
  『津軽』太宰治
  『堕落論』坂口安吾
  『夫婦善哉』織田作之助
  『俘虜記』大岡昇平
  『火宅の人』檀一雄
  『悲の器』高橋和巳
  『砂の女』安部公房
  『金閣寺』三島由紀夫  
 【第七章】 文学は続く  
  『裸の王様』開高健
  『楡家の人びと』北杜夫
  『坂の上の雲』司馬遼太郎
  『父と暮らせば』井上ひさし
  『苦海浄土』石牟礼道子
  『ジョバンニの父への旅』別役実
 おわりに
 作家索引/略歴

光太郎も登場人物の一人として名を連ねる演劇、「日本文学盛衰史」の脚本を書かれた平田オリザ氏の新著です。

元々は『朝日新聞』さんの読書面に「古典百名山」の題で連載されていたものに加筆なさったそうで。なるほど、「『智恵子抄』高村光太郎」の章、一昨年の『朝日新聞』さん掲載時より、引用部分等長くなっています。

『朝日新聞』さんに、紹介の記事も出ました。

選び抜いた古典、いまを照らす 平田オリザさん「名著入門 日本近代文学50選」

000 劇作家の平田オリザさんが、本紙読書面のコラム「古典百名山」を元にした『名著入門 日本近代文学50選』(朝日新書)を出版した。明治の樋口一葉や夏目漱石から戦後の別役実まで、小説に留(とど)まらず詩歌や戯曲まで。50人を一人1作ずつ平易な語り口で紹介すると同時に、通読すると近代文学史の流れもつかめる指南書に仕立てた。
 文学に造詣が深く、「日本文学盛衰史」(高橋源一郎さん原作)などの演出もある平田さんは、2019~22年にかけて「古典百名山」を連載。本書では大幅に加筆し、取り上げる作家も増やした。
(略)
 平田さんは「制度は変わって国家は新しくなったけれど、社会は旧態依然として差別や貧困が渦巻いていて自由も制約されている。こうした中で生まれた近代文学は、現代でも共通する様々な悩みがちりばめられた私たちの原典ともいえる」と話す。
 豊富な引用と、「非専門家の特権として」(平田さん)の、思い切った表現も魅力的。たとえば「漱石たちが発明した文体で私たち日本人は、一つの言葉で政治を語り、裁判を行い大学の授業を受け、喧嘩をしラブレターを書くことができるようになった」といった具合だ。
 平田さんは、情報化が進んだいまこそ、古典を読むことが重要だと考えている。
 「検索すれば多くが分かる社会にあって、事柄同士をつないでストーリーを作る『コネクティング・ザ・ドッツ』の能力が、入試やビジネスでも重要になっている。その能力は、野球の素振りと同じで、古典などの名作にどのくらい触れたかにかかってくると思う」
 劇団、教育機関、行政と様々な役職に就いてきた経験に裏打ちされた言葉だ。


タイトル通り、「入門」としては的確な書と思われます。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

中西夫人余を見て顔のむくみに気づく、


昭和31年2月14日(火)の日記より 光太郎74歳

「中西夫人」は起居していた貸しアトリエの大家さん。光太郎の生命の炎、燃えつきるまであとひと月半。そろそろ死相が現れ始めたのかも知れません……。

成人年齢が18歳へと引き下げられたのに伴い、「成人式」という呼称が使われなくなりつつあるようですね。

地方紙『岩手日日』さんから。

感謝と決意胸に 花巻市 20歳のつどい 新たな門出晴れやか

  花巻市の2022年度20歳(はたち)のつどい(市主催)は7日、同市若葉町の市文化会館で開かれた。成人年齢の引き下げを受け、成人式から名称を変更して行われ、スーツや色鮮やかな振り袖に身を包んだ今年度20歳になる市民が、記念撮影をするなどして新たな門出を祝った。
 対象者950人のうち686人(男性360人、女性326人)が出席。式典の部では国歌斉唱と対象者代表4人による市民憲章の朗読に続き、上田東一市長が式辞、藤原伸市議会議長が祝辞を述べた。
 上田市長は式辞で高村光太郎の代表作「道程」の一節「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」を贈り、「一歩一歩進むことで道ができる。新たな未来を切り開く出発点に立つ今、目指す自分を思い描き、信念と決意を持って苦難に負けず、自分の道を進んでほしい」と前途を期待した。
 対象者を代表して2人が決意を述べ、記念事業実行委員会の金野渉真委員長(矢沢中出身)は「今の目標は花巻のために自分自身がプレーヤーとして活躍し、未来を創造すること。目標をかなえるために来年度から岩手の大学に編入し、より実践に近い形で花巻と向き合いたい。そして支えてくれた家族や友人、恩師、花巻に恩返しをしていきたい」と誓った。藤原千咲副委員長(西南中出身)は「実行委員会の活動を通して楽しませる喜び、達成感を知ることができた。この経験から誰かを楽しませたいという人生の目標が見えてきた気がする。一歩踏み出し挑戦すればきっかけをつかめる」と力を込めた。
 式終了後は「咲かせよう~最幸(さいこう)の未来の花巻を~」をテーマに記念行事が行われたほか、出身中学校ごとに記念写真を撮影した。
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おそらく全国でおこなわれた同様の催しに於いて、首長さんなり来賓の方なりのご挨拶等で、「道程」などの光太郎詩の引用が他にもあったのではないかと思われますが、やはり光太郎第二の故郷ともいうべき花巻で、というところに大きな意味があると思います。

上田市長、平成31年(2019)の成人式でもやはり「道程」を引用されてご挨拶なさいましたが、お父さまが光太郎と交流がおありだった方のそれは、ずしりと来るような気がしますね。また、参加された20歳の方々の曾祖父母、祖父母のみなさんの中には、やはり光太郎と交流があったという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

何にせよ、これからの花巻を背負って立つ皆さんの門出ですし、全国に目を向ければ、この国の将来を託す皆さんの門出でもあります。

幸多からんことを!

【折々のことば・光太郎】

后「地上」の人くる、丸山義二氏筆記、談話一時間、


昭和31年(1956)1月16日の日記より 光太郎74歳

地上」は雑誌名、「丸山義二」は兵庫県生まれの農民作家です。3月発行の『地上』第10巻第3号に「春を告げるバツケ」の題で、この日の二人の対談が掲載されました。「バツケ」は「バッケ」、岩手の方言でフキノトウのことです。その題の通り、昭和20年(1945)から同27年(1952)までの、花巻郊外旧太田村での独居自炊の生活について語られています。丸山も農民作家だけあって、話の引き出し方が的確でした。

活字になった数ある対談のうち、これが光太郎生涯最後のものとなりました。

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