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ムックの新刊です。

 BRUTUS特別編集 合本 本が人をつくる。

2024年6月13日 マガジンハウス刊 定価1,760円

どんな本を読んできたかを知ることは、その人の人生を知ること。恒例のブルータス「本」特集から、読書家たちが大切にしている100回読んだ本を紹介する特集「百読本」、本を愛する人たちが影響を受けた作品について語り合う特集「それでも本を読む理由。」、その2号分をまとめて1冊に。小説、絵本、ビジネス書、アートブック、ZINE……あらゆるジャンルの魅力をぎゅっと詰め込みました。「本」と「読書」の楽しみ方を考える、保存版です。

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百読本
 100回読んだ本はもうその人そのもの。なぜその本を何度も読み返すのか。それを考えることはその人を知ることと同じです。119人の本好きが語る、完全保存版の読書案内。

わたしの百読本。
 まずは、20人の読者家たちが何度も読んだ本の話から始まります。ジャンルも本との向き合い方も人それぞれ。特別な本だけが持つ引力について、彼らの言葉から探ります。
フワちゃん 皆川明 平野紗季子 熊木幸丸(Lucky Kilimanjaro) 乗代雄介 神田伯山 石沢麻依 按田優子 平野啓一郎 紺野真 小林エリカ 斉藤壮馬 佐藤健寿 白石正明 磯野真穂 佐藤亜沙美 岸本佐知子 前田司郎 渡邉康太郎 藤岡弘、

何度も読みたくなる絵本のひみつ。
 子供にとって、絵本は究極の百読本。なぜ繰り返し読みたくなるのか。ロングセラー本にヒントを探し、専門家と一緒に考えます。

それでも本を読む理由。
 今、本を読むことの意味とは。本を愛さずにはいられない、本好き、読書好きが語り合う、「本」と「読書」の魅力。
池松壮亮 藤井健太郎 TaiTan 幅允孝 Awich 吉岡秀典 川名潤 ロジャー・マクドナルド 中島佑介 前田晃伸 黒木晃 鳥羽和久 武田砂鉄 麻布競馬場 桜井莞子 森岡督行 黒島結菜 内山拓也 島口大樹 斎藤真理子 前田エマ 山本貴光 吉川浩満 山瀬まゆみ 紺野真 坂矢悠詞人 髙城晶平 蝶花楼桃花 井伊百合子 山本多津也 若木信吾 荒川晋作 川口瞬 菅原裕喜 前田和彦 二宮慶介 MCNAI MAGAZINE 友田とん 山本佳奈子 花田菜々子 熊谷充紘 三田修平 魚豊 児玉雨子 小泉義之 深津さくら 石黒浩 與那覇潤 ミヤギフトシ 秋草俊一郎 藤岡拓太郎 鈴木一人 室橋裕和 篠田真喜子 加藤幸治 キニマンス塚本ニキ

明日を生き抜くためのブックガイド70
 テクノロジーや社会、ビジネス、カルチャー、普遍的な概念まで、押さえておきたい14のテーマをリストアップし、それぞれに対して識者が選書しました。70冊の中から見つける、明日を生き抜くためのヒント。

「合本」と冠されており、これまでの雑誌『BRUTUS』に載った記事の再編です。「百読本」の項で、デザイナー・皆川明氏が『智恵子抄』を挙げて下さっています。この項は令和4年(2022)年1月1日・15日合併号に載ったものです。サイト上にダイジェスト版がアップされています。
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皆川氏、令和3年(2021)に同じマガジンハウスさんから発売されたムック『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』でも、『智恵子抄』をご紹介下さいました。ありがたし。

令和4年(2022)年1月1日・15日合併号をお読みになっていない方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐる小生の頭の上へ雪がつもりました。ひやひやしてむしろ爽快を感じました。

昭和23年(1948)1月13日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋は、元々は鉱山の飯場だった小屋をを移築した粗末なものでした。そのためあちこち隙間だらけで、吹雪の時などは雪が舞い込み、このような状態になりました。
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光太郎とも交流のあった詩人、永瀬清子。出身地の岡山県赤磐市では地道にさまざまな顕彰活動が続けられています。命日の2月17日には朗読会などを兼ねた「紅梅忌」の集いが開催される他、「永瀬清子展示室」が設けられ、さまざまな企画展示が為されていますし、研究紀要というか顕彰活動の記録というか、年刊で『永瀬清子の詩の世界』という冊子も発行されています。また、最近ではすごろく伝記マンガなども発行されました。

先週また、赤磐市教育委員会さんから冊子が届きました。題して『永瀬清子の光を受けて』。A4判50ページ程、3月31日(日)発行と奥付にありました。
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RSK山陽放送さん制作のラジオ番組「朝耳らじお5・5」「朝耳らじおGoGo」内のコーナー「永瀬清子の光を受けて」でオンエアされた内容を文字起こししたものを根幹に、永瀬の遺文なども収められています。

前者では、当会の祖・草野心平や宮沢賢治に触れられています。

後者のうち、昭和64年(1989)1月に雑誌『黄薔薇』に載った永瀬のエッセイ「(心辺と身辺)'88の秋」で、光太郎にも触れられていました。前年に亡くなった当会の祖・草野心平がらみの項の中でです。その年、福島県でのイベントに出席した永瀬が、そのついでに智恵子の故郷・二本松霞ヶ城の智恵子抄詩碑に詣でた話。同碑は昭和35年(1960)、正式な光太郎詩碑としては2番目に建立されたもので、設計や詩の選定など、心平が骨を折りました。
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画像は先月、「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の際に撮影したもの。

ここで永瀬は光太郎や、生前に会うことの叶わなかった智恵子、そして病床に臥せっていた心平に思いを馳せました。当方もまた行く機会があれば、永瀬もここに来たんだなぁと思い巡らせることに致します(笑)。

永瀬と言えば、やはり先週、『朝日新聞』さんの一面コラム「天声人語」で取り上げられました。

 天声人語

私が生まれ育った家には、風呂がなかった。だから隣家で、もらい湯をした。前掛けをしたおばあさんが薪(まき)をくべ、パチパチと焚(た)きあげる湯だった。かまどの前にすわる彼女の姿と、しわだらけの小さな手を今でも覚えている▼遠い記憶が蘇(よみがえ)ったのは、岡山県赤磐市にある永瀬清子の生家を訪ねたからだ。詩人が暮らした農家は、田畑のなかで朽ちかけていたのを支援者等が改修し、一般公開されている。五右衛門風呂も再生され、体験入浴できる▼明治に生まれた永瀬は大阪や東京での生活を経て、終戦の直後、39歳で古里に戻った。〈二反の田と五寸のペンが私に残った〉と始まる詩はこう続く。〈詩を書いて得たお金で私は脱穀機や荷車を買った。/もうどちらがなくても成り立たないのだ〉▼農婦であり、母として田園に生きた詩人である。苗を植え、風呂を焚き、家事をこなしてから、深夜にちゃぶ台の茶碗(ちゃわん)をのけて、むさぼるように詩作に励んだそうだ▼「この家は風が気持ちいいんです」。生家保存会の横田都志子さん(58)は話した。詩人が感じた夜明け前の山の色、風の香り、揺れる葉の音。そんな自然に触れ、「彼女の詩がより分かった気がします」▼私も五右衛門風呂に入らせてもらった。熾火(おきび)がじわじわと湯を温め、心地よい。ふわり白煙が青い空に泳ぐ。〈一日、昔の風が吹いて来て私を騒がせた。/どこに今までさまよっていたのか/おそらく世界の涯までも流れていたのか〉。無性に故郷が懐かしくなった。

永瀬の生家は令和3年(2021)に改修を終え、一般公開が為されています。当方、平成25年(2013)に足を運びましたが、その頃は「天声人語」にあるように「田畑のなかで朽ちかけていた」状態でした。それが建物内にギャラリーとカフェを作るなどし、活用されています。建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動の参考にもなるかも知れませんので、折を見てまた行ってみたいと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おたよりで松木といふところをも想像してゐます。小倉豊文さんにもお会ひの由、よろしくお伝へ下さい。あなたの詩は雑誌でいつも気をつけて読んで居ります。去年竹内てるよさんがこの山の中へ来たのには驚きました。今此辺はかなり雪ふかくなつてゐます。

昭和23年(1948)1月14日 永瀬清子宛書簡より 光太郎66歳

その永瀬宛の書簡の一節です。永瀬宛の書簡は『高村光太郎全集』では昭和27年(1952)にしたためられた1通のみの収録でしたが、その後、ご遺族から情報提供があり、新たに4通が確認できています。

「松木」は永瀬が暮らしていた豊田村松木(現・赤磐市)。「小倉豊文さん」は『宮沢賢治の手帳研究』(昭和27年=1952)を著すなど賢治研究でも知られ、広島での被爆体験を綴った『絶後の記録』(昭和24年=1949)には光太郎が序文を寄せました。「竹内てるよさん」は詩人。確認できている限り、てるよの著書5冊の題字を光太郎が揮毫しています。ともに永瀬・光太郎共通の知り合いでした。

東北レポート、最終回です。6月8日(土)、花巻に行く前に立ち寄った仙台をレポートいたします。

午前11時前、仙台駅に到着。
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駅前のデッキ、何やら人やまの黒だかり、しかもみんな空を見上げています。「何事?」と思ったところ、轟音と共に現れたのが……
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空自さんのブルーインパルスでした。この日は「東北絆まつり」だったそうで、その関係で飛んでいたようです。

その後、地下鉄南北線で台原駅まで。そこから台原森林公園を突っ切って、仙台文学館さんを目指しました。

公園入口にはブロンズ像。仙台と言えば佐藤忠良かな、と思ったのですが、佐藤と親しかった舟越保武の作品でした。そういえば田沢湖のたつこ像にも似ています。
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舟越にしても佐藤にしても、光太郎の影響で彫刻の道に進み、光太郎と直接の交流を持ち、さらに光太郎のDNAを受け継いだと言っていい存在です。

森林公園内はかなりの山道。都会の人はこういう道を「いいなあ」と感じるのでしょうが、千葉の自宅兼事務所周辺もこんな風景なので、当方にとっては今更感(笑)。
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文学館さんには裏口から入ることになりました。PXL_20240608_025256594

こちらでは、開館25周年記念特別展「詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」が開催中です。

石川は明治34年(1901)、仙台の生まれ。光太郎より18歳下の詩人です。昭和7年(1932)に不慮の事故により満31歳の若さで亡くなりました。生前に詩集が刊行されることはありませんでしたが、歿後の昭和11年(1936)に友人たちの手で、『亜寒帯』が刊行されました。序文は光太郎。石川は光太郎とも交流があり、その関係です。

『高村光太郎全集』では、その序文以外の箇所に石川の名が出て来ません。そこで、光太郎と石川の間にどんな交流があったのか、今一つ分からなかったのですが、今回の展示で出品された、石川から詩人の郡山弘史に宛てた書簡に、光太郎、石川、そしてやはり詩人の小森盛で酒を呑み、その帰途、泥酔して小森と共に谷中警察署に一晩拘留されたことなどが記されていました。昭和4年(1929)のことでした。

光太郎による『亜寒帯』の序には、石川が草野心平の経営していた焼鳥屋「いわき」に来ていた様子が記され、心平繋がりで光太郎と石川が出会ったのかな、と思っていたのですが、展示の説明パネルによれば、二人を結びつけたのは小森らしいとのこと。いずれにしても小森も心平人脈の一角にいた人物です。

図録、出品目録がこちら。
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図録の「善助の交友」、最初に光太郎の項。
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最後の部分、「光太郎から座敷童子の話を聞いた」とあり、これも存じませんでした。

国会図書館さんのデジタルデータで調べたところ、やはり石川歿後の昭和8年(1933)に刊行されたエッセイ集『鴉射亭随筆』巻頭の「寂莫紀」に、以下の記述がありました。

いつか高村氏のお話に、階下のアトリヱで、ひどく巫山戯る子供らしい物音を深夜きいたといふのを私はうかがつたことがある。

国会図書館さんのデジタルデータは細かく当たっているのですが、これは見落としていました。「高村光太郎氏」となっていれば気づいたのですが、「高村氏」としか書かれていないのが原因です。この箇所に「座敷童子」の語はありませんが、この前の部分で、宮沢賢治から聞いた座敷童子の話などが紹介されており、その流れです。

そして賢治。石川は生前の賢治と会ったことがある数少ない詩人の一人。そこで賢治関連の展示もありましたし、前述の小森盛、心平、さらに尾形亀之助、天江富弥など、やはり光太郎とも交流のあった面々に関しても。
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右上は図録とは別に無料配付されていた冊子。『亜寒帯』の復刻版を出されたあるきみ屋さんの制作です。マンガのページがあり、残念ながら光太郎は登場しませんが、賢治と石川の出会いは描かれています。

石川善助、もっともっと注目されていい詩人ですね。そういう意味では今回の展示が一つの契機となればと存じます。

常設展的な区画には、ぼのぼのも居ました(笑)。作者のいがらしみきお氏が仙台ご在住ですので。こちらは撮影可。
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ロビーでは、石川善助展を報じる新聞記事。
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さらにこんなものも。
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開館25周年ということで、これまでに開催された企画展示の図録等です。
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平成18年(2006)に開催された「高村光太郎・智恵子展 -その芸術と愛の過程-」のそれも。

当時のフライヤー等。
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当方、同館を訪れたのはこの時が初めてでした。もう20年近く経つのか、という感じです。

この際には光太郎令甥・髙村規氏、それから当会顧問であらせられた北川太一先生のご講演が関連行事として行われました。お二人とも既に虹の橋を渡られてしまいましたが……。

正午過ぎ、同館を後に、路線バスで仙台駅に。花巻に向かう東北新幹線下りホームに行くと、見慣れない紅白の車輌が停車していました。
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当方、鉄道マニアではないので詳しくありません。「何じゃ、こりゃ?」でした。見ると、車体側面に「East i」のロゴ。スマホで調べてみると、JR東日本さんの保守点検用の車輌でした。JR東海さんの「ドクターイエロー」のようなものなのでしょう。「ドクターイエロー」は11年前に名古屋で行き会いましたが、こちらは初めて見ました。ブルーインパルスといい、珍しいものに遭遇する日でした(笑)。

この後、やまびこ号に乗り込み、新花巻駅へ。昨日のブログ、そして一昨日のブログに続きます。

以上、東北レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

今年は去年よりも寒気が弱いやうですが、早朝は零下十五、六度を上下してゐます。起きて囲炉裏に火を焚いて暖をとるのはたのしみです。まづ湯を沸してから一切の生活がはじまるわけです。雪かきはおもしろく、今に雪の彫刻をつくる気です。


昭和22年(1947)12月31日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

「雪の彫刻」に関しては、翌年、「人体飢餓」という詩に現れます。雪女の姿を雪で作るという夢想です。

 雪女出ろ。
 この彫刻家をとつて食へ。
 とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
 その時彫刻家は雪でつくる。
 汝のしなやかな胴体を。
 その弾力ある二つの隆起と、
 その陰影ある陥没と、
 その背面の平滑地帯と膨満部とを。

「人体飢餓」の題名は、「彫刻で人体を造ることに飢えている自分」、という意味です。

昨日同様、あまり関係ないかなと思って紹介しないでいたら、光太郎の名を出して報道されてしまった(笑)展示です。

状況をわかりやすくするためにまずNHK仙台局さんのローカルニュースから。

仙台出身の“知られざる詩人” 石川善助の企画展

 仙台出身の詩人で将来を期待されながら31歳の若さで亡くなった石川善助の生涯を紹介した企画展が仙台市の仙台文学館で開かれています。
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 石川善助は現在の仙台商業高校時代に詩作に目覚め、卒業後も働きながら創作を続けた詩人で、萩原朔太郎などから将来を期待されながら不慮の事故により、31歳の若さで亡くなりました。
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 仙台文学館では、地元出身の詩人を広く知ってもらおうと、石川が残した作品をはじめ創作ノートや手紙などの資料およそ130点を紹介した企画展を開催しています。
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 会場には石川の作品がタペストリーに印刷されて展示され、志半ばでこの世を去った詩人の足跡や人柄、生き方などをじっくり味わうことができます。
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 また、同時代を生きた詩人の高村光太郎や宮沢賢治などとも交流があり、このうち賢治の手紙には石川が亡くなったあとの追悼会に関することなどが記されています。
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 仙台文学館の赤間亜生副館長は「幼い頃に足が不自由となった石川が、その運命を受け入れながら創作した詩を展示しています。手紙などの資料とともにその生き方を感じて欲しい」と話していました。
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 この企画展「詩人・石川善助をたずねて」は仙台文学館で来月30日まで開かれています。

展示詳細はこちら。

開館25周年記念特別展「詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」

期 日 : 2024年4月27日(土)~6月30日(日)
会 場 : 仙台文学館 宮城県仙台市青葉区北根2-7-1
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日、第4木曜日
料 金 : 一般810円、高校生460円、小・中学生230円 ※各種割引あり

 1901(明治34)年に仙台の国分町に生まれた石川善助は、仙台商業学校在学中から詩作に目覚め、校友会誌などに詩を発表し始めます。卒業後、仕事の傍ら、友人と詩誌を刊行、『日本詩人』をはじめとする中央の詩誌に作品を発表するなどし、詩人として将来を嘱望されましたが、1932(昭和7)年、31歳で不慮の事故により命を落としました。
 宮城県出身の詩人として、尾形亀之助と並び称されてきた善助ですが、生前に一冊の詩集を出すこともかなわず、その死後に友人たちにより遺稿集として、詩集・随筆集・童謡集がそれぞれ一冊ずつ刊行されることになりました。しかしこれまでその創作活動の全容はあまり知られてきませんでした。
 今回、書籍・原稿・書簡・創作ノート・作品掲載詩誌など、現在残されている膨大な石川善助関係の資料の全貌を紹介するとともに、改めて日本近代詩史における善助の位置づけを明らかにし、その詩の魅力を探ります。また、善助は民俗学的視点での随筆や童話、方言を用いた作品も残しており、その多様な表現活動と、仙台のスズキヘキや天江富弥をはじめ、草野心平や宮沢賢治など、様々な人々との交友についても紹介します。
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光太郎と石川、当会の祖である草野心平を通して知り合ったようです。その死後に刊行された石川唯一の詩集『亜寒帯』の序文は光太郎が書きました。全文はこちら

ネット上には展示品の目録が出ていないのですが、おそらく『亜寒帯』の説明の中で、光太郎の序文についても触れられているのでしょう。序文の原稿そのものが残っていればぜひ見てみたいものですが、現存は確認できていません。

ただ、NHKさんの報道でも触れられているとおり、賢治の書簡が出ているとのことで、「ほう」という感じでした。石川は、賢治と親しく戦後には光太郎とも繋がる直木賞作家・森荘已池を通じて賢治と直接会っています。賢治が生前に会った詩人というと、光太郎、黄瀛など、数が限られており、その数少ない一人が石川でした。

また、館の案内文には天江冨弥の名も。天江は仙台出身の児童文学者ですが、やはり光太郎と軽く関わりがありました。

さて、関連行事。既に終わってしまったものもありますが、これからというもののみ。

1.連続講座「石川善助を知ろう」定員:各60名(先着)
 ③「石川善助と宮沢賢治をつなぐもの」
  日時:6月29日(土)13:30~15:00
  講師:宮川健郎(一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団理事長)
  申込み受付開始:6月12日(水)10時~

2. トークイベント
 「詩人・石川善助との出会いと、100年前からのメッセージ」
  日時:6月1日(土)13:30~15:00
  出演:木村健司(石川善助研究者) 聞き手:赤間亜生(当館副館長)
  定員:60名(先着)
  申込み受付開始:5月15日(水)10時~

3.朗読と音楽の調べ「石川善助・その生と言葉の軌跡」
  日時:6月15日(土)13:30~14:30
  出演:芝原弘(黒色綺譚カナリア派/コマイぬ) 菊池佳南(青年団/うさぎストライプ)
  定員:50名(先着)
  申込み受付開始:5月15日(水)10時~

【申込方法】電話で仙台文学館まで(022-271-3020)

ところで、冒頭にNHK仙台放送局さんの報道をご紹介しましたが、同局制作で東北6県向けに放映されている「ウイークエンド東北」、明日のオンエアで光太郎が大きく取り上げられます。
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元々、光太郎終焉の地・東京都中野区の中西利雄アトリエ保存運動の関わりで、保存会の日本詩人クラブ理事・曽我貢誠氏がNHKさんに取材の依頼をされました。すると、その件と、プラス「光太郎智恵子顕彰で頑張る東北の人々」というコンセプトで制作が為されました。

中野アトリエ以外、東北では、GW中に光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻開催された「土澤アートクラフトフェア2024春」などで、食を通して光太郎顕彰に取り組むやつかの森LLCさんの活動、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰にあたられている智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の模様、それから光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ青森十和田湖から、ボランティアガイドの方のお話。

10分ほどの尺だそうですが、東北6県の皆さん、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

どんな消息よりもよく貴下の全存在を話してくれるのはやはり詩だとおもひました。ますますむきに前進せられん事をのぞみます。


昭和22年(1947)11月10日 田村昌由宛書簡より 光太郎65歳

田村は北海道出身の詩人。この当時は新潟に住んでいました。光太郎は戦時中の昭和17年(1942)には田村の詩集『蘭の国にて』の序文を書いた他、この後、昭和28年(1953)には同じく『下界』の題字揮毫も行いました。また、遡れば太平洋戦争開戦直前には田村の編輯した『日本青年詩集』にも序文を寄せましたが、こちらは出版事情の悪化でお蔵入りとなりました。

書簡は田村から自著詩集『風』を贈られた返礼の一節です。単に「ありがとうございます。」ではなく、実に気の利いた文言ですね。

詩人の若松英輔氏。光太郎についても関心がおありのようで、複数のご著作やZOOMによるオンライン講座等、ラジオ番組等で光太郎に触れて続けてくださっています。

常に氏の動向をチェックしているわけではないのですが、キーワード「高村光太郎」でネット検索をしていると氏がらみの情報がいろいろヒットするので、その都度こちらでご紹介しています。見落としもあるでしょうが。

生涯学習講座いろいろ。
『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる』。
若松英輔『詩と出会う 詩と生きる』。
若松ゼミ◆詩の教室 言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む。
若松英輔氏~AI。
若松英輔『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』。

すると、今月から音声配信サービス「voicy」というのを利用されて、「若松英輔の「読むと書く」ラジオ」という活動を始められていました。YouTubeのような動画配信ではなく、音声のみの配信。「へー、こんなのもあるんだ」と思いました。
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その第23回が「《対話》高村光太郎「気について」自分がどういうものを作り出しているか、自分の人生がどんなものに運ばれてきたのか」。昨日配信されたようです。早速拝聴してみました。
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「番組アシスタント」の大瀧純子さんという方とのトーク形式で、約10分。光太郎のエッセイ(というか評論というか……『高村光太郎全集』では「評論」の巻に収録されています)「気について」(昭和14年=1939)がメインに取りあげられています。

短い文章なので、全文を。

 人間の捉へがたい「気」を、言葉をかりて捉へようとするのが詩だ。気は形も意味もない微妙なもので、しかも人間世界の中核を成す。詩が言葉にのりうつつた「気」である以上、詩を言葉で書かれた意味にのみ求め、情調のみに求め、音調(ヴエルレエヌは音楽といふ)にのみ求めるのは不当である。詩は一切を包摂する。理性も知性も感性も、観念も記録も、一切は詩の中に没入する。即ちその一切を被はないやうな詩は小さいのである。気が一切を呑むのである。

発表されたのは昭和14年(1939)元日発行の雑誌『蛮』第3巻第1号新春号。執筆の年月日は不明ですが、おそらく前年12月あたりでしょう。すると、10月5日に智恵子を亡くした直後と言っていい時期です。

この頃から「」が光太郎の内部で一つのキーワードとなっていきます。002

右は2年後の昭和16年(1941)8月に刊行された散文集『美について』初版見返しに揮毫された短句。「詩とは気である 気の実である」。詳細は不明ですが、親しい人物に贈られたものと推定されます。

最愛の智恵子を亡くし、世の中は泥沼化した日中戦争の局面を打開しようと、さらに米英などに対して太平洋戦争を仕掛ける前夜です。

余談ですが奥付によれば『美について』は『智恵子抄』と全く同じ昭和16年(1941)8月20日刊行。実際に店頭に並んだのには多少のずれもあったでしょうが。

『智恵子抄』の詩篇で愛する者に別れを告げ、詩の中で智恵子が謳われることは無くなり(それが復活するのは戦後の昭和20年(1945)作の「松庵寺」です)、以後、ほぼ翼賛詩一辺倒となっていきます。

詩ではない散文の中にも「」。例えば昭和19年(1944)1月15日発行『海運報国』第4巻第1号に寄稿した「決戦時生活の基礎倫理」では、「まづ必勝の気を堅持する事が第一である。」「必勝の気とは確乎たる自信である。どんな謀略にもひつかからぬ卓然たる確信である。」類例は多いと思います。『道程』時代から光太郎は一種の精神主義を掲げていましたので、その延長という見方も出来ましょうが。

さて、若松氏、そうした光太郎の「」が、光太郎芸術全般にどのように表されているかといったお話。ぜひお聴き下さい。

【折々のことば・光太郎】

ところで、お願ですが、いつぞやのおテガミ中に札幌でホームスパンの洋服が出来るやうなお話でしたが、普通型背広服一着たのんでいただけないでせうか。小生東京以来のボロ服以外に一着も無く、来年位には此服も破れてしまふだらうと思ひますので出来ればお願ひ申したく存じます。


昭和22年(1947)11月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳

結局この依頼は実現せず、昭和25年(1950)になって、親しく交流したホームスパン作家・及川全三の人脈でホームスパンの服をオーダーメイドしています。

富山県から市民講座の案内です。

高村光太郎『智恵子抄』講座

期 日 : 2024年5月26日(日)、6月9日(日) 、7月28日(日) 、8月25日(日) 、9月22日(日) 
会 場 : 高岡市生涯学習センタースタジオ405A 富山県高岡市末広町1番7号
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 運営費1,800円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,300円(初回納付)
講 師 : 茶山千恵子氏 

孤高の詩人・高村光太郎と智恵子の魂の軌跡ともいえる『智恵子抄』を深く読み理解し、語り合いましょう💕

5月26日(日) 随筆『智恵子の半生』朗読
6月9日(日) 『智恵子抄』より「人に」「涙」「おそれ」「或る宵」「郊外の人に」「人類の泉」
7月28日(日) 「僕等」「あなたはだんだんきれいになる」「金」「樹下の二人」「夜の二人」「あどけない話」
8月25日(日) 「山麓の二人」「風にのる智恵子」「人生遠視」「千鳥と遊ぶ智恵子」
9月22日(日) 「レモン哀歌」「荒涼たる帰宅」「亡き人に」「梅酒」「案内」「うた六首」
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講師の茶山さん、これまでも生涯学習組織・たかおか学遊塾さんで同様の講座講師を務められた他、同塾主催のイベント「たかおか学遊フェスタ」で光太郎詩朗読をなさったり、劇団「よろこび」として演劇でも「智恵子抄」を取り上げて下さったりしました。

ちなみに上記講座一覧の№13「いつも生き活き自分で出来るリンパマッサージ講座」講師も茶山氏です。

また、昨年、今年と連翹忌にご参加下さいましたし、ご自宅を開放されて予約制で振る舞う「光太郎ランチ」などの活動にも取り組まれています。さらに今年11月には「ひとり芝居 智恵子抄」を都内で公演なさるそうです。

申込締め切りが過ぎてしまっているのですが、まだ空きがあるかも知れません。ご興味おありの方、問い合わせてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

水で畑が不成績ですが、トマトとキヤベツはすばらしくよく出来ました。トマトは毎日たべてもたべきれません。ゴールデン ポンテローザ種が美しく日に輝いてゐるのはいいです。キヤベツも中々上等です。今冬は此のキヤベツで「シユークルート」式漬ものをつくる気です。今大根が育つてゐます。


昭和22年(1947)10月3日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

この後、シュークルートは光太郎の得意料理の一つとなりました。

朗読公演の情報です。

まず、愛知県から。存じ上げない方々の公演ですが、ネットの情報検索で引っかかりました。

語り部リサイタルvol.5 「みーみーの世界〜私のまわりのものたちのこと」

期 日 : 2024年5月19日(日)
会 場 : 古民家カフェすず助 愛知県西尾市会生町18
時 間 : 開場 13:00 開演 13:30
料 金 : 1,500円
主 催 : 語り部ふみの会

徒然なるままに……現代の清少納言を気取って、語り部・三浦有美がお届けする「みーみーの世界」。どうぞお楽しみ下さい。

出 演 : 三浦有美(語り部)  田中ふみ枝(語り部・BGM演奏)

プログラム 
 【みーみーの本棚】
   智恵子抄より 高村光太郎  やまなし 宮沢賢治  蜘蛛の糸 芥川龍之介
 【みーみーのお客様】
   ゲストタイム・おしゃべりと語り
 【みーみーの日常】
   私のつぶやき 作・三浦有美

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「智恵子抄」を取りあげて下さるそうで、ありがとうございます。

残念ながらこの日は智恵子の故郷・福島二本松にて開催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」に参加予定ですので欠礼いたしますが、お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運び下さい。

もう1件、まだ先の話でネット上に詳細が出ていないようですが、こちらは当方お世話になっている方々の公演でして、早めに告知いたします。
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箏曲演奏家の元井美智子さん、朗読の荒井真澄さんのコラボです。元井さんが今年の連翹忌に初めてご参加下さり、ご常連の荒井さんと意気投合、荒井さんの地元・仙台で開催の運びとなりました。かつて同様の件で、荒井さんとテルミン奏者の大西ようこさんとのコラボも仙台で開催されたことがありました。

連翹忌は光太郎を偲ぶ集いというのがメインですが、このように様々な方々のネットワーク作りに貢献するというのも一つの目的でして、こういうイベントが為されると、主催者として喜びに堪えません。

こちらに関しましてはまた近くなりましてネット上に情報が出ましたら詳細をお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

「展望」は部数少いと見えて小生の家へも二部しか来ずお送りも出来ません。わざわざ探してよむほどのものでない事と存じます。

昭和22年(1947)9月(推定) 真壁仁宛書簡より 光太郎65歳

「展望」は、幼少期からの自らの来し方、さらに戦争責任などを綴った20篇から成る連作詩「暗愚小伝」が載った7月号です。

「これを書き上げないうちは他の詩は書けない」という気持で臨み(実際には書きましたが)、1年以上かけて完成させた「暗愚小伝」ですが、いざ活字になってみると自分の意を尽くしたものとも言い難く、「わざわざ探してよむほどのものでない」。

書いている時が花、物書きあるあるです。はしくれの当方もそう思います。

岩手盛岡からミニ展示の情報です。

企画展「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」

期 日 : 2024年5月18日(土)~7月21日(日)
会 場 : 岩手県立図書館 岩手県盛岡市盛岡駅西通1-7-1 アイーナ4F
時 間 : 9:00~20:00
休 館 : 5月25日(土)・31日(金)、6月28日(金)
料 金 : 無料

人間にとって身近な動物である牛。古くは塩や海産物を背負って歩いた南部牛、現代ではブランド牛や酪農の取り組みなど、岩手の文化や産業も 牛とともにあゆみを重ねてきました。岩手と牛の関わりについて、所蔵資料で紹介します。
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タイトルの「地を往(ゆ)きて走らず」が、光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)の一節です。
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    岩手の人

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

翌昭和24年(1949)元日の『新岩手日報』に掲載されました。

光太郎は自身を牛にたとえることもあり、遠く大正初めの『道程』時代にずばり「」という長詩を書きましたし、「岩手の人」より後にも「鈍牛の言葉」(昭和24年=1949)という詩も書きました。「鈍牛」は自分自身です。そこで岩手の人々に感じるシンパシーを「牛」に託して語っているような気もします。

現代でも岩手の皆さん、「岩手の人」を光太郎からの贈り物と考えてらっしゃるようで、今回もそうですが、いろいろなところで使って下さっています。最近では令和3年(2021)に、この年が丑年だったため県として「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を展開、「岩手の人」がキャンペーンソングならぬキャンペーンポエム的な使い方をされました。

また遡れば、花巻北高校さんの庭に建つ高田博厚作の光太郎胸像(昭和51年=1976設置)の台座にも「岩手の人」の一節が刻まれています。

ちなみに「「岩手の人」のモデルは、当時の国分謙吉知事だ」という説があります。国分知事の容貌や業績からの類推と思われますし、実際に光太郎と国分知事は花巻温泉で対談したり、同じ式典でそれぞれスピーチしたりといった交流がありました。しかし、それらは昭和25年(1950)以降のことで、「岩手の人」が書かれた時点で面識があったかどうか不明です。もっとも、面識はなくとも詩のモデルに、ということも無くはありませんが……。

さて、今回の展示、「所蔵資料で紹介」というだけで詳細はよく分かりませんが、光太郎に関わる展示も為されることと思われます。さすがにタイトルだけ借りて終わり、とはなりますまい。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

五、六日間雨ばかり降つてゐました。今朝雨やみ曇。畑に水流れ、往来に水あふれ、川音轟々とひびきます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

いわゆるカスリーン台風です。関東地方での被害が大きく、荒川や利根川の堤防が決壊、都内でも葛飾区や江戸川区は全域が水没したそうで、全国で死者1,077人、行方不明者853人。岩手県内でも北上川が氾濫し、南部の一関をはじめ、109人の死亡が確認されました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村でも、橋が流されるなどの被害があったそうです。

岩手では翌年にもアイオン台風が大きな被害をもたらし、国分知事、復旧への陣頭指揮を執りました。

『朝日新聞』さんで、弁護士にして詩人、文芸評論家でもあらせられる中村稔氏が大きく取り上げられました。

寂しさと、生へのいとおしさと 中村稔さん最新詩集、「月の雫」 97歳 人生の喜び 貴い未来に 詩人で弁護士 言葉は明瞭で不可解

002 詩人・中村稔さんの最新詩集「月の雫」(青土社)に収録される1編1編の詩は短い。けれど、人生の喜びや人情の機微が詰まっている。中村さんにとって、初めての試みだった。
 「僕がいつも書く詩は寂しいんですよ。どうしたって寂しい。でも一生に一度くらい、誰にでもわかりやすく、おもしろく、楽しく読めるものを書いてみたいと思ったんです」。ドウダンツツジの枯れ枝の間に落ちる、月の光に慰められる老人。お年玉をもらった翌日、駄菓子屋で全て使い切ってしまった少年。互いに思い合いながらもプロポーズできずにいる男女。ミサイルにおびえ、差し込む月の光に気づかないロシアとウクライナの兵士。収録される20編の詩それぞれで登場人物が、生きることの尊さ、恋愛のはかなさと喜び、戦争の不条理さと向き合う。
 「これは本当に詩なのか? と自分でも疑問に思っています。小説の筋書きと言われても仕方ない」。これまで詩を書くときには避けてきた言葉もあえて使った。誰しもに分け隔てなく注ぐ月の雫(しずく)を描いた詩は、こう締めくくられる。
 〈寝つけない老人に月の雫は、生きよ、と囁くだろう。まだ到来しない/貴い未来に生きよ、と囁くのを、老人は確かに聞くだろう。〉
 「『貴い未来に』という説明的、教訓的な表現は、いつもは使いません。でも、この詩に共感してくださる方が多かったですね。自分に向けて書いているところも、もちろんあります」
 1月に97歳を迎えた。「僕のいつもの詩が寂しいのは、死が間近いことを自覚しているから。国際情勢を見ていても、あんまり楽しいことはないでしょう」。一方で、「だからこそ貴重な時間、生きている時間をいとおしむ気持ちもある。二つがない交ぜになって生きているんですね。だからこういう楽しい詩もあっていいんじゃないかと思った。今まで書いてきたなかでも愛着のある作品です」。
 詩集に加え、宮沢賢治、中原中也、高村光太郎らの評論や、自身の半生を振り返りながら昭和史を見
つめた「私の昭和史」といった大部の著作も手がけてきた。だが、本業は弁護士だ。東京・丸の内で弁護士として働きながら「余技に詩や評論を書いてきたんです。詩人であることが本業にプラスになるこ001とはありません。中原中也みたいにだらしないと思われたら困るでしょう」。 一見、正反対にあるように思える詩人と弁護士だが、言葉への尽きない関心が生まれる源泉でもあった。「僕は弁護士だから、言葉が定義されている世界を見てきた。言葉に対する明晰(めいせき)さを求めながら、一方で言葉は実に不可解なものだと感じて詩を書いてきた。言葉があわせもつ両面を見てきたから、言葉への関心はずっとあります」

記事では触れられていませんが、中村氏、本業の弁護士として最高裁まで争われた「智恵子抄裁判」に取り組まれました。著作権に関わるものの中で、エポックな凡例として語り継がれています。

その関係もあり、当会顧問であらせられた故・北川太一先生とは刎頸の交わりでした。連翹忌の集いにご参加下さいましたし、北川先生のご著書の帯に推薦文を寄せられたこともおありでした。
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そして光太郎をメインに論じたご著書。ともに青土社さんから平成30年(2018)に『高村光太郎論』、翌年には『高村光太郎の戦後』。どちらも500ページ前後の大著、労作です。その他、エッセイ集や雑誌等での光太郎に関する文章も多数。

もう97歳になられたか、というのがまず驚きでした。そして失礼ながらそのお年で新刊詩集を上梓なさるとは、という驚きも。

ちなみに『日本経済新聞』さんには、かつて「中村稔89歳 燃える執筆意欲」(平成28年=2016)、「中村稔 曇りなく歴史を見つめる」(令和元年=2019)という記事が載りました。それぞれその時点で「そのお年で……」という驚きが込められていましたが、今回、改めて「そのお年で……」ですね。

今回の記事にある詩集『月の雫』はこちら。やはり青土社さんから刊行されています。

【折々のことば・光太郎】

「ロヂン」は明治の頃、先輩が皆ロダンの事をロヂンと発音してゐたので、さう書きました。Rodinの英語読みです。ロヂンといふので時代色が出るわけです。


昭和22年(1947)9月8日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

この年、雑誌『展望』に寄稿した自らの生涯を振り返る連作詩「暗愚小伝」の註解です。仏語で「in」が「アン」となることを知らなかった明治期の学生が「Rodin」を英語風に「ロヂン」だと思っていたというくだり。「彫刻一途」という一篇の一節です。

 いつのことだか忘れたが、
 私と話すつもりで来た啄木も、
 彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに
 すつかりあきらめて帰つていつた。
 日露戦争の勝敗よりも
 ロヂンとかいふ人の事が知りたかつた

バカだな、と思うかも知れませんが、同じ理屈で『青い鳥』の「Maeterlinck」は「メテルランク」と読まれるべきなのに、未だに日本では「メーテルリンク」で通ってしまっていますね。さすがに「Lupin」は「ルパン」と正しく読まれていますが(笑)。

新刊です。

自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと

2024年5月5日 若松英輔 著 西淑 画 亜紀書房 定価1,600円+税

生きること、
働くこと、
愛すること。
自分を支える言葉を探す27の言葉の旅。

〈日経新聞で話題の連載「言葉のちから」待望の書籍化〉

古今東西の名著の中には、生きるための知恵、働くうえでのヒントが詰まっている。
NHK「100分de名著」でお馴染みの批評家による、自分の本当のおもいを見つけるための言葉。
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目次
 この本の用い方――はじめに  
 1 言葉の重みを感じとる……神谷美恵子『生きがいについて』
 2 事実と真実を感じわける……遠藤周作『イエスの生涯』『深い河』
 3 沈黙の世界、沈黙のちから……武者小路実篤「沈黙の世界」
 4 世界と向き合うための三つのおきて……柳宗悦「茶道を想う」とノヴァーリス「花粉」
 5 叡知を宿した人々……ユングとメーテルリンク
 6 語られざるおもい……司馬遼太郎と太宰治
 7 美とは己に出会う扉である……岡本太郎のピカソ論
 8 書くとは時に止まれと呼びかけることである……夏目漱石と鷲巣繁男
 9 心だけでなく、情[こころ]を生きる……ピカート『沈黙の世界』
 10 人生のモチーフ……小林秀雄『近代絵画』
 11 書くとはおもいを手放すことである……高村光太郎と内村鑑三
 12 人生はその人の前にだけ開かれた一すじの道である……アラン『幸福論』
 13 経験とは自己に出会い直すことである……ヴェーユ『重力と恩寵』
 14 ほんとうの私であるための根本原理……志村ふくみ『一色一生』
 15 思考の力から思索のちからへ……ショーペンハウアーの読書論
 16 観るとは観えつつあることである……今西錦司の自然観
 17 本質を問う生き方……辰巳芳子さんとの対話と『二宮翁夜話』
 18 ことばは発せられた場所に届く……河合隼雄と貝塚茂樹
 19 賢者のあやまり……湯川秀樹『天才の世界』
 20 三つの「しるし」を感じとる……吉田兼好『徒然草』
 21 力の世界から、ちからの世界へ……吉本隆明『詩とはなにか』
 22 書くことによって人は己れに出会う……ヴァレリーの『文学論』
 23 念いを深める……ティク・ナット・ハン『沈黙』
 24 運命に出会うために考えを「白く」する……高田博厚とロマン・ロラン
 25 着手するという最大の困難……カール・ヒルティ『幸福論』
 26 語り得ないこと……リルケ『若き詩人への手紙』
 27 沈黙の意味……師・井上洋治と良寛
 あとがき
 ブックリスト

詩人の若松英輔氏が『日本経済新聞』さんに連載されていた「言葉のちから」の書籍化です。「11 書くとはおもいを手放すことである……高村光太郎と内村鑑三」は、昨年6月10日の掲載でした。そちらで拝読したので、書籍としての購入はしなくてもいいかと思っていたのですが、目次を見ると高田博厚、ロマン・ロラン、吉本隆明、武者小路実篤、柳宗悦ら、光太郎と関わる人物の名が並んでいて、結局買ってしまいました(笑)。

皆様もぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

それではこちらの畑につくつてゐるものを書きならべてみませう。大豆、人参、アヅキ、ジヤガイモ(紅丸とスノーフレイク)、ネギ、玉ネギ、南瓜(四種類)、西瓜(ヤマト)、ナス(三種類)、キヤベツ、メキヤベツ、トマト(赤と黄)、キウリ(節成、長)、唐ガラシ、ピーマン、小松菜、キサラギ菜、セリフオン、パーセリ、ニラ、ニンニク、トウモロコシ、白菜、チサ、砂糖大根、ゴマ、ヱン豆、インギン、蕪、十六ササギ、ハウレン草、大根、(ネリマ、ミノワセ、シヨウゴヰン、ハウレウ、青首)など、以上の様です。十一月に林檎の木を植ヱます。


昭和22年(1947)8月28日 高村美津枝宛書簡より 光太郎65歳
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蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の畑で作っていた農作物を列挙しています。これらを一度に栽培していたわけではなく、時期をずらしながら、あくまで自給のためそれぞれを少量ずつ育てていました。ただ、中にはものにならなかった作物も含まれ、虚偽とは云いませんが、少し「盛って」驚かせてやろうという意図が垣間見えます。

高村美津枝さんは光太郎令姪。ご健在です。










先月30日の『朝日新聞』さん新潟版から。

(ぷらっと甲信越)山梨・市川三郷「四尾連湖」 豊かな自然の中、命の洗濯 /新潟県

004 「四本の尾を連ねた竜がすむ」のがその名の由来という、山上にたたずむ神秘の湖。かつて、湖畔の丸太小屋で自炊生活をしながら詩を作り続けた男がいた。
 山梨県旧一宮村(現・笛吹市)に生まれた野沢一(1904~45)は「森の生活 ウォールデン」を著して自然の一部として生きることを説いた米国の思想家ヘンリー・ソロー(1847~62)に感化され、卒業直前だった法政大学を中退。1929(昭和4)年に四尾連湖(しびれこ)畔に移り住み、約5年暮らした。作品は007詩集「木葉童子(こっぱどうじ)詩経」にまとめられ、詩人・高村光太郎が序文を寄せている。湖畔の森の中で詩作し、自然との合一を志向する作風から「森の詩人」と呼ばれている。
 湖畔から、エメラルドグリーンの湖水のきらめきを左手の樹間に見ながら登山道を15分ほど歩くと、野沢の文学碑に着く。
 「とこしえに しびれ湖と たたえられてあれよ」。碑に刻まれた詩を詠じた頃と、湖の姿はそんなに変わってはいないだろう。
 東京在住の詩人で日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)は、10年以上前から年に1度は、湖畔の山荘「水明荘」に投宿するのを楽しみにしている。
 「火薬の臭いが漂っていた時代にあって、現代を先取りしたかのような詩を思い、野沢も過ごした自然の中で命の洗濯をする」と話す。
 水明荘は、曽祖父から4代目となる北島水絵子さん(51)と、慎介さん(47)の夫婦が営む。
005 水明荘が湖の対岸で運営するキャンプ場へテントなどの荷物を運ぶには、手押しの一輪車などを使って湖を約10分かけて半周するか、人力のボートで横断するしかない。だが「その不便さを含め、『豊かに何もない場所』を提供しています。それを大事にしていきたい」と水絵子さんは話す。
 このキャンプ場に年に8~10回は訪れるという、東京の50代の自営業男性は、たった1人での「ソロキャンプ」を楽しむ。火をたいて作った食事を食べたり、色鉛筆で風景をスケッチしたり、後はボーッと過ごす。「静かなんだけど、無音じゃない。鳥の鳴き声や魚のはねる水音など、豊かな自然の発する音が、ストレートに感じられるのがいい」
 時間が止まっているかのような湖畔だが、新しい時代の波紋も伝わってきた。
006 数年前、キャンプをテーマにした人気アニメ『ゆるキャン△』で、四尾連湖がモデルになった。
 それ以来、アニメのモデル地を訪れる「聖地巡礼」として、キャンプ場を利用したり、水明荘の湖に臨むテラスで「ホットチャイ」を飲んだりするアニメファンが、外国人もまじえて増えているという。
〈アクセス〉中央道甲府南インターチェンジから車で約40分、JR身延線市川大門駅からタクシーで約30分。標高850メートルにある周囲1.2キロの山上湖。周辺は1959年に県立自然後援に指定された。水明荘(055・272・1030)が湖畔で宿泊施設とキャンプ場を運営している。


一時、光太郎と僅かな関わりのあった詩人・野沢一に関して、山梨県市川三郷町の四尾連湖が取り上げられました。

ちなみに記事に登場する「東京在住の詩人で日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)」は、光太郎終焉の地にして昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動の言い出しっぺなので「ありゃま」という感じでした。

ただ、記事中で野沢の詩集『木葉童子詩経』(昭和9年=1934)に「詩人・高村光太郎が序文を寄せている」とあるのは誤りです。平成17年(2005)に文治堂書店さんから覆刻された『木葉童子詩経』で光太郎の「木葉童子の手紙」が序文的に巻頭に配されています(昭和51年=1976にも文治堂さんから覆刻が出ましたが、そちらは確認していません)が、これは昭和15年(1940)の雑誌『歴程』(草野心平主宰)に載った半連載的な「某月某日」の一篇で、序文というわけではありません。

『木葉童子詩経』に野沢は光太郎に触れた詩も収録しました。
001
   長すぎるこの世に生きて

 確かに何処かにはずつと高いものがゐる
 霧の中に射して来る夕陽の様なものがある
 然しそれは私には解らない
 解らないが居る様な気はする
 案外の人が黙つて持つてゐるかも知れない
 寺田寅彦氏、芥川氏、直哉氏、漱石氏、節氏、子規氏、
  百穂氏、かう言ふ人は芸術的なものをもつて私にせまる
 そして高村光太郎と言ふ人は
 小さい様に冷たく匂ふ

 けれどもこう言ふ人を離れて
 私はしばし しびれの山にこもつてみる
 其処には何があつたか
 色は匂へど散りぬるを――
 (以下略)


野沢は『木葉童子詩経』を送り、光太郎は礼状を認(したた)めました。

その他、光太郎と野沢の関わりは、野沢が昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送ったこと。その件を「某月某日」に書いています。光太郎も何度か返信はしました。確認できているのは先の1通を含めて2通のみで、いずれも山梨県立文学館さんに所蔵されています。
002
二人に直接の面識はおそらく無かったのではないかと思われます。しかし、『木葉童子詩経』に記された四尾連湖での生活ぶりは、光太郎の心に深く刻まれたように思われます。それが戦後の花巻郊外旧太田村での山小屋暮らしをするという決断に影響を与えたような。もっとも、光太郎周辺には、辺境で活動していた人物は野沢以外にも水野葉舟、更科源蔵ら、複数居ましたが。

四尾連湖、当方は平成29年(2017)に足を運びました。その際のレポートがこちら。その頃はまだアニメ「ゆるキャン△」は放映されて居らず(原作の漫画は既に出ていましたが)、「聖地巡礼」的な人も見かけませんでした。現在はインバウンドの人々も訪れているのですね。

山梨県に於ける「ゆるキャン△」の経済効果はかなりのものだそうですし、過日訪れた中野区の三岸アトリエ/アトリエMさんも、吉高由里子さん、横浜流星さん主演の映画「きみの瞳(め)が問いかけている」(令和2年=2020)のロケで使われたため「聖地巡礼」で訪れる方もいらっしゃるとのこと。

それらが一過性のもので終わらないように、と願う次第です。

【折々のことば・光太郎】

北海道旅行の件、ゆきたいのは今でも山々なのですが、一番大きな故障は身体的な不安です。 少しつめて仕事したり、畑が過ぎると血をはく習慣が出来たやうで、此処其上汽車に長くのると肺炎を起す懸念が濃厚です。


昭和22年(1947)8月12日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳

更科は戦前には弟子屈で開墾に取り組みながら文学活動を行っていました。この頃は札幌在住で、花巻郊外旧太田村の光太郎の元も訪れ、逆に光太郎に北海道へ来ませんか的な誘いをしばしばかけていました。

たまたま入ったコンビニに並んでいまして、ついつい買ってしまいました。

いまこそ読みたい 教科書の泣ける名作

2024年3月22日 Gakken編・刊 定価809円+税

国語の教科書で読んだ、記憶に残る物語の短編集。「ないた赤おに」「スーホのしろいうま」「走れメロス」「少年の日の思い出」「故郷」「握手」「高瀬舟」「よだかの星」「トロッコ」など、懐かしい有名作品から隠れた名作までを多数収録。
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目次
 大塚 勇三『スーホのしろいうま』
 太宰 治『走れメロス』
 斎藤 隆介『ベロ出しチョンマ』
 新美 南吉『あかいろうそく』
 芥川 龍之介『トロッコ』
 宮沢 賢治『よだかの星』
 石垣 りん『挨拶 原爆の写真によせて』
 ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』
 宮沢 賢治『オツベルとぞう』
 森 鷗外『高瀬舟』
 井上 ひさし『握手』
 高村 光太郎『レモン哀歌』
 魯迅『故郷』
 浜田 廣介『ないた赤鬼』

今月初めにプレスリリースのページで情報を見つけ、「光太郎は「レモン哀歌」一篇かぁ、じゃ、買うのはやめとこう」と思っていたのですが、先述の通り、たまたま入ったコンビニで表紙の泣いた赤鬼が目に入り、その赤鬼が「買ってくれないの……?」(笑)。結局、「わーった、わーった、買うよ、買うから泣くな!」(笑)。装丁にやられました(笑)。

ちなみにプレスリリースは以下の通り。

【シリーズ累計15万部】あの名作をもう一度読みたい!  「泣いた赤鬼」「少年の日の思い出」「走れメロス」など、国語教科書の感動作14篇を1冊に収録。

国語の教科書に収録されていた、あの懐かしい小説や詩にもう一度出会える。『いまこそ読みたい 教科書の泣ける名作』が新発売!
株式会社 学研ホールディングス

株式会社 学研ホールディングス(東京・品川/代表取締役社長:宮原博昭)のグループ会社、株式会社 Gakken(東京・品川/代表取締役社長:五郎丸徹)は、2024年3月22日(金)に、『いまこそ読みたい 教科書の泣ける名作』を発売いたしました。

■あの名作をもう一度!
『教科書の泣ける名作』は、累計発行部数15万部を誇るベストセラーシリーズです。このたび、絶版となっていた『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作 続』(2014年発刊)の収録作品を一部入れ替え、新たに『いまこそ読みたい 教科書の泣ける名作』として発売しました。

「大人になった今読み返すと、新しい発見や感動があったり、登場人物の気持ちや作者の思いが以前に増して深く響いたりした」といった感想も。当時に思いを馳せながら、“あの名作”をゆっくりと味わってみてはいかがでしょうか。

■国語の教科書の感動作14篇が1冊に
小学校・中学校の国語の教科書に現在掲載されている作品や、かつて長期間にわたって掲載されていた作品の中から、心にしみる作品や涙なしには読めない物語を厳選し、14篇を1冊にまとめました。作品の選考にあたっては、幅広い世代の方を対象に行ったアンケートの結果も反映しています。

いつか読み返したいと思っていた名作だけでなく、忘れかけていた作品や、今の小学生が読んでいる新たな作品にも出会える一冊です。

■全作品に解説つき
各作品のあとには、ミニコーナー “「あのころ」をふりかえる”を設けました。次のような内容で、作品の理解をより深めることができます。

・作者の経歴
・代表作
・作風や作者の受けた評価
・執筆の背景や経緯
・学習学年
・授業での指導内容
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■2冊合わせて、もっとたくさんの感動を
同シリーズの『もう一度読みたい 教科書の泣ける名作 新装版』(2023年発刊)もおすすめ。こちらも「ごんぎつね」「モチモチの木」「ちいちゃんのかげおくり」など、懐かしい名作を多数収録しています。
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それにしても、「スーホのしろいうま」や「ベロ出しチョンマ」は、何度読んでも納得行きません(笑)。現代でも教科書に掲載されているのでしょうか? とすると、現代の先生方はこれでどう授業を展開されているのか、興味深いところではあります。「こういうのって、「昔々のお話」じゃないんだよ」と語れる骨のある先生はいらっしゃるのでしょうか?

ま、「レモン哀歌」も納得行かない、美化しすぎだ、という向きもおありかもしれませんが。

とにもかくにもお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日速達で「智恵子抄」の原稿「松庵寺」「報告」及び小文をお送りしました。詩は年代順に最後に入れて下さい。小文は序といふほどのものではないので、後記のやうにして下さい。


昭和22年(1947)6月7日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

この年11月に刊行された白玉書房版『智恵子抄』に関わります。

オリジナル『智恵子抄』は太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に龍星閣から刊行され、戦時にもかかわらず昭和19年(1944)の13刷まで増刷されました。その後、戦争の影響で龍星閣は休業。戦後になると店頭からは『智恵子抄』が消えてしまっていました。

そこで休業中の龍星閣に代わって、白玉書房の鎌田が『智恵子抄』復刊を企図し、龍星閣社主の澤田伊四郎から許諾を得たので、と光太郎に打診。光太郎もGOサインを出し、さらに戦後の詩「松庵寺」「報告」を追加することを指示しました。光太郎としては、増刷のたびに新たな智恵子詩をどんどん追加する意図もあったようですが、それは実現しませんでした。

しかし、澤田が「鎌田に許諾した覚えはない」と言いだし(このあたり、真相は闇の中です)、昭和25年(1950)に龍星閣が復興すると、翌年から『智恵子抄』の再刊を始めます。

新年度となり、早くも1週間が過ぎました。

当会としましては、年間最大の催し、光太郎を偲ぶ連翹忌の集いが4月2日ということで、それが終われば新たな年度という感覚です。完全な年中行事で、「また一年頑張ろう」という感じで。

また、一般社会人の皆さんは4月1日が年度始めですが、児童生徒学生の皆さんは今日あたりから行われる入学式/始業式を以て年度始めと捉えられるのではないでしょうか。

そんなこんなですが、先月31日の『宮崎日日新聞』さん、一面コラム。

くろしお 道程を見守る目

「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」。詩人高村光太郎の、教科書にも載る有名な詩「道程(どうてい)」の冒頭だ。わずか9行。何もない荒野に、だれかが歩んでこそ道は切り開かれていくことを教えてくれる▼110年前の1914年に発表されたこの詩、当初は102行に及ぶ大作だった。そちらの方は大自然の中、手探りで進むべき道を模索するしかない若者の決意がより情熱的にうたわれている。「人類の道程は遠い そして其(そ)の大道はない」と覚悟を問うようだ▼今日で一般の会社や学校の年度は終わる。明日から新しいステージに踏み出す人は同様の覚悟を抱えていることだろう。先人の残した道をなぞりながら試行錯誤を繰り返し、自分だけの道ができる。道に車輪が通ると轍(わだち)が出来て、それがまた後進の指針になる▼先日、宮崎市で「宮崎芸術文化人団 轍」という文化団体の設立会があった。県内の芸術家や文学者のほか学者や実業家らが名を連ね、地域文化の振興や県文化賞への推薦を目的に掲げる。轍という漢字の中には「育」の字がある。後進を育てる意図が団体の名称の由来に込められているのだろう▼厳しさに満ちた「道程」だが「父」に「僕から目を離さないで守ることをせよ」と命令口調で説く。「父」は神的な存在、自然、先達者を含め、広く共同体を指すのではないか。荒野に放り出された新人も団体も、地域の温かい理解や支援があって道を歩める。

ちょうど110年前の大正3年(1914)3月、雑誌『美の廃墟』に発表された初出の「道程」に触れて下さいました。

詩「道程」は記述の通り、最初は102行の長詩。それが10月に刊行された第一詩集『道程』収録の際にばっさりカットされ、現在流布している9行の最終詩形となりました。このあたり、繰り返しこのブログサイトでご紹介しています。

そのたびに触れているのですが、初出発表形の102行バージョンを「全文」としてSNS上などに紹介される方が多くて閉口しています。「全文」とされると、まるで9行の最終詩形がまがいもので「全文」からの抜粋に過ぎず、正しくは102行の形だ、というニュアンスになってしまいます。

そうではなく102行の初出発表形は光太郎自身がボツにし、9行の最終詩形に書き直したわけで、決して「抜粋」として流布しているわけではありません。

102行の初出発表形は、それはそれで優れた詩ですので、花巻高村光太郎記念館さんでは声優の堀内賢雄氏による朗読を流していたりします。つい最近も芥川賞作家・九段理江氏の小説『しをかくうま』に引用されたりもしました。ただ、あくまで光太郎自身がボツにした「初出発表形」、乃至は「原型」ですので、「全文」という表現は使わないでいただきたく、よろしくお願い申し上げます。

さて、今年は3月に入ってから気温が低い日が続き、桜の開花がここ数年で最も遅かったようですね。しかし、関東などでは4月の入学式シーズンに満開というのが本来の姿だったように思います。ここしばらくが温暖化の影響で異常だったような……。

千葉県の当方自宅兼事務所周辺もまさに今がいい感じです。

昨日、車で5分程の桜の名所での撮影。
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自宅兼事務所から徒歩30秒の公園も、隠れ名所です。今朝の撮影。
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ついでですので、光太郎詩、ずばり「さくら」。
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   さくら

 吉野の山の山ざくら
 山いちめんにらんまんと
 呼吸(いき)するやうに咲きにほふ
 この気高さよ 尊さよ

 春の日あびて山ざくら
 ただ一心に 一斉に
 堂堂と咲く 咲いて散る
 このいさぎよさ きれいさよ

 顕花部被子類双子葉門(けんくわぶひしるいさうしえふもん)
 離弁花区薔薇科桜属(りべんくわくいばらくわさくらぞく)
 世界にまたとない種属
 日本の国花 山ざくら

 ぼくらの胸に花と咲く
 大和心のはげしさを
 姿にみせる山ざくら
 この凛凛しさよ 親しさよ


昭和16年(1941)4月、雑誌『家の光』に寄稿されたもので、光太郎詩には珍しい七五調口語定型詩です。日中戦争は泥沼化、その打開を目論んでの太平洋戦争開戦まであと半年あまり、そんな時期ですから、この詩もキナ臭さがぷんぷん漂っていますが……。

明日も桜がらみで。

【折々のことば・光太郎】

小森さんにたのまれて夜雨詩集の表紙の字を書きました。


昭和22年(1947)4月24日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

「夜雨」は横瀬夜雨。光太郎より5歳年長の明治11年(1878)生まれの詩人です。生涯くる病に悩み、歩行も困難だったそうです。歿したのは昭和9年(1934)でした。

まだ病状がそれほでなかった明治34年(1901)に撮られた集合写真に光太郎と共に写っています。
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投稿雑誌『文庫』(内外出版協会)が百号を記念し、上野の韻松亭で投書家の集まり「春期松風会」を催した際のもの。ただし、この時点で互いに面識があったか(あるいはこの時に出来たか)は不明です。数えで光太郎は19歳、横瀬は24歳でした。

「詩集」は昭和22年(1947)5月に南北書園から刊行された『野に山ありき』。書籍中に光太郎の題字揮毫である旨の記述がありませんが、上記の書簡など、さらに筆跡から光太郎の手になるものであることは明らかです。
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稀覯詩集の覆刻です。

黄瀛 詩集『瑞枝』復刻版

2024年3月5日 黄瀛著 あるきみ屋刊 定価990円(税込み)

 1906(明治39)年、重慶にて、中国人の父と日本人の母の間に生まれ、3歳で父を亡くすと中国各地を転々とした後、日本に渡り、両国の間で育った詩人・黄瀛。
 青島日本人中学時代には「日本詩人」で彼の詩が第一席に選ばれ、大正の日本詩壇で一躍注目を浴びます。再来日し、文化学院や陸軍士官学校で学ぶ一方で、宮沢賢治、高村光太郎、草野心平、井伏鱒二らと交流をもち、昭和9年『瑞枝』(ボン書店)を上梓し、評価が高まります。
 中国に帰国後、魯迅とも交流しますが、日中戦争が勃発すると将校として活動し、戦後は解放軍に転じ、文化大革命中は捕虜となり11年以上勾留されたため、消息不明となり、幻の詩人と呼ばれたことも。
 62歳から重慶市の四川外語学院日本語学科教授として日本文学を教え、1984年以降、複数回に渡り来日を果たし、2005年98歳で没しました。

 本書は、黄瀛の若き日の詩集で、昭和57(1982)年に復刻された「瑞枝」を底本に復刻された文庫版で、70以上の詩と、当時の肖像写真と高村光太郎による頭部の彫刻の写真を収録しています。
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光太郎の周辺にいた詩人の一人、黄瀛(こうえい)。大正14年(1925)8月には、当会の祖・草野心平を光太郎に引き合わせました。また、昭和4年(1929)には花巻を訪れ、宮沢賢治とも会っています。光太郎周辺詩人の中で、実際に賢治と会ったことがあるのは光太郎本人、尾崎喜八、そして黄瀛くらいではないかと思われます。心平は結局、生前の賢治に会えずじまいでした。

『瑞枝』は黄瀛の第二詩集で、元版は昭和9年(1934)の刊行。光太郎が序文を書いています。原題は「黄秀才」でした。
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これまでも何度か覆刻されてきましたが、その覆刻すらあまり見かけない稀覯本です。

版元のあるきみ屋さん、北海道釧路の書肆ですが、これまでもやはり光太郎と交流のあった石川善助の詩集『亜寒帯』の復刻版などを出されています。なかなか商業ベースでは難しいと思うのですが、頭が下がりますね。

今回のものに光太郎の序文も掲載されているかは不明ですが、「高村光太郎による頭部の彫刻の写真を収録」となっています。

問題の彫刻は大正15年(1926)作の塑像「黄瀛の首」です。残念ながら彫刻そのものの現存は確認できていません。おそらく戦災で焼失したと思われます。
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心平が主宰し、黄瀛や光太郎も同人だった詩誌『歴程』の表紙にも使われました。スペースが余るので載せますが、右下は黄瀛の肖像写真です。
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というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

悩むといふ事は結局情熱の一つの形であり、若さの特権とさへ思はれますから、必ずしも悪い事ではありません。しかもそれを通過したあとの爽やかさは全く雨過天青の気持に違ひありません。人は幾度かさういふところを通り越さねばならぬものと思はれます。


昭和22年(1947)3月9日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎65歳

その生涯で何度もけつまずいては転び、また起き上がり、しかしやっぱり転倒しを繰り返してきた光太郎の言だけに、説得力がありますね。

福島から市民講座の情報です。

澤正宏先生の春の講座「与謝野晶子と高村光太郎」

期 日 : 2024年3月25日(月)000
会 場 : NHKカルチャー郡山教室 
      福島県郡山市麓山1-5-21 NHK郡山放送会館内
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 会員 2,519円 一般(入会不要) 2,860円

講 師 : 澤正宏 福島大学名誉教授 

歌人であり詩人でもあった二人は、晶子の新詩社を通してつながりがあった。二人の人間や社会や自然などの見方には対照的な特色があるので、詩歌を読みながらそれらの特色を詳しく見て行きたいと考えます。


澤氏、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰に当たられている智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさいました。

最近ですと、昨年刊行された『草野心平研究資料集』(クロスカルチャー出版)の編集に当たられたりもなさっています。

今回は、光太郎の本格的文学活動の出発点たる雑誌『明星』主宰の与謝野鉄幹夫人・晶子との関わり。晶子は光太郎の5歳年上で、よき姉貴分でした。
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右上は雑誌『スバル』第2年第2号(明治43年=1910)の裏表紙を飾った光太郎の絵。口から蛇を吹き出すエジプトの女神ですが、モデルは晶子です。このシリーズで光太郎は森鷗外、北原白秋なども茶化して描いています。まぁ、親しみの表れですね。

他に、晶子の著書に挿画や序文を寄せたことも複数回ありましたし、晶子の有名な「百首屏風」と同じようなコンセプト(鉄幹の渡航費用捻出のための販売用)で光太郎が絵を描き、晶子が短歌を揮毫した屏風も現存します。そうした交流は晶子が亡くなる昭和17年(1942)まで、断続的、不即不離に続きました。

そういった話プラス、作品面での2人の対比といったお話になるようです。興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昨日にひきかへて今日は午后猛烈な風が吹き出し、ザラメ雪を交へてすごい吹雪風景となりました。風が積雪を吹き上げて煙のやうに空にまひ上げ、一望ただ白く、向うの森も見えなくなります。

昭和22年(1947)1月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

「地吹雪」というやつですね。

この書簡には、イラストも附けてありました。花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の雪上に見られる狐と兎と鼠の足跡です。
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地方紙2紙の記事から。

まずは長野県松本平地区をカバーする『市民タイムス』さん。少し前の記事で、今月初めのものです。

笑顔と涙の巣立ちの日 高校卒業式

 松本市内の多くの高校で1日、卒業式が開かれた。本年度は新型コロナウイルスの5類移行に伴って制限がほとんどなくなり、会場にはマスクを外した笑顔と歌声が広がった。卒業生は友達や恩師との思い出を胸に、晴れ晴れとした表情で学びやを巣立った。
 松本美須々ケ丘高校は、近くのキッセイ文化ホールで式典を行った。4年ぶりに吹奏楽部の生演奏で卒業生276人が入場し、保護者や在校生の温かい拍手で迎えられた。久保村智校長は式辞で高村光太郎の詩「当然事」を紹介し、日常への感謝を忘れないよう呼びかけ「皆さんのかけがえのない人生が心身ともに健康であり、自分、他者、社会のために大いに活躍することを願っている」とはなむけの言葉を送った。
 卒業生が企画・運営する「第2部」では友達や恩師、後輩、家族に感謝の思いを伝えた。全校生徒の合唱では会場中に澄んだ歌声が響き、多くの卒業生の目に涙が光っていた。前生徒会長の3年・松山葉南さん(18)は「多くの人に支えられた3年間だった。高校での経験を生かして自分らしく頑張りたい」と決意を新たにしていた。
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光太郎詩「当然事」、少し長いのですが全文は以下の通り。
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  当然事

 あたりまへな事だから
 あたりまへな事をするのだ。
 空を見るとせいせいするから
 崖を出て空を見るのだ。
 太陽を見るとうれしくなるから
 盥のやうなまっかな日輪を林中に見るのだ。
 山へ行くと清潔になるから
 山や谷の木魂(こだま)と口をきくのだ。
 海へ出ると永遠をまのあたり見るから
 船の上では巨大な星座に驚くのだ。
 河のながれは悠悠としてゐるから
 岸辺に立つていつまでも見てゐるのだ。
 雷は途方もない脅迫だから
 雷が鳴ると小さくなるのだ。
 嵐がはれるといい匂だから
 雫を浴びて青葉の下を逍遥するのだ。
 鳥が鳴くのはおのれ以上のおのれの声のやうだから
 桜の枝の頬白の高鳴きにきき惚れるのだ。
 死んだ母が恋しいから
 母のまぼろしを真昼の街にもよろこぶのだ。
 女は花よりもうるはしく温暖だから
 どんな女にも心を開いて傾倒するのだ。
 人間のからだはさんぜんとして魂を奪ふから
 裸という裸をむさぼつて惑溺するのだ。
 人をあやめるのがいやだから
 人殺しに手をかさないのだ。
 わたくし事はけちくさいから
 一生を棒にふつて道に向かふのだ。
 みんなと合図をしたいから
 手をあげるのだ。
 五臓六腑のどさくさとあこがれとが訴へたいから
 中身だけつまんで出せる詩を書くのだ。
 詩が生きた言葉を求めるから
 文(あや)ある借衣(かりぎ)を敬遠するのだ。
 愛はぢみな熱情だから
 ただ空気のやうに身に満てよと思ふのだ。
 正しさ、美しさに引かれるから
 磁石の針に化身するのだ。
 あたりまへな事だから
 平気でやる事をやらうとするのだ。

初出は昭和3年(1928)、仲間うちで出していた雑誌『東方』の創刊号でした。翌年には新潮社から刊行の『現代詩人全集』に収められ、その際に若干の改訂が施されています。

光太郎詩としてはあまり有名なものではないのですが、ちりばめられたひと言ひと言にこの頃の光太郎の人生観等がよく表されていますね。そして万人にも共通するような部分も多いと思います。

式辞で取り上げて下さった校長先生、グッジョブです(笑)。

もう1件、宮城県の『石巻日日新聞』さんから。過日も取り上げさせていただいた、光太郎文学碑の精神を受け継ぐ「いのちの石碑」がらみです。

続けることで原動力に  「いのちの石碑」建立メンバー 母校の女川中で講演

 自然災害や津波から1千年先の命を守るため、女川町内に21基の「いのちの石碑」を建立した東日本大震災当時の中学生。そのメンバーが11日、女川中学校で震災を考える講演を開き、1―2年生70人が受講した。震災の記憶を風化させることなく、後世につないでいく大切さを学んだ。
 石碑建立は、発災直後、女川一中(今の女川中)の1年生(現在24―25歳)が取り組んだ伝承活動。町内21カ所の浜の津波到達地点より高い場所に石碑を建て「有事はこの石碑より高台に逃げてもらう」ことで未来の命を救う狙いがある。
   令和3年までに全て建立し、碑には津波から命を守るために生徒が考えた3つの対策①互いに絆を深める②高台へ避難できるまちづくり③記録に残す―と記されている。
 講演したのはメンバーの阿部由季さん、伊藤唯さん、鈴木美亜さんの3人。震災を知らない後輩に向け、阿部さんは発災直後の心境を「今の自分にできることは何と考える毎日だった」と回顧。「友人と一緒に卒業式で歌うはずの歌を避難所で歌い、皆さんが喜んでくれた。小さなことでも続けることで誰かの原動力になる」と訴えた。
 「町を襲う津波を思い出し、今も眠れない日がある」と打ち明けた伊藤さんは「伝承活動も最初は嫌々参加したが、今は充実感や幸せを感じる。一緒に活動してきた仲間のおかげ」と感謝した。
   「防潮堤を作らない女川の復興まちづくりをどう思うか」という中学生の問いに、鈴木さんは「高い防潮堤を作ってもそれだけでは不十分。津波から命を守るなら高台避難が大事」と強調。「女川は海と共存してきた。身近に海を感じられる今の女川が私は好き」と話した。
 聴講した生徒会長で2年生の高橋莉生さんは「講演を通じて普段から友人や家族、地域と絆を深めることが大事と学んだ。ありがとう、おはよう、おやすみなどのあいさつからしっかりと交わしたい」と語っていた。
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発災当時の出来事などを語った(左から)阿部さん、伊藤さん、鈴木さ

大震災の教訓など、「次世代に伝えるべきこと」の大切さが感じられます。

当方としては、光太郎智恵子、光雲らの事績、その精神を「次世代に伝えるべきこと」として伝えていこうと、改めて思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

堀辰雄氏の「風立ちぬ」雪の中のこの小屋で落手、どんなによろこんだかしれません。

昭和22年(1947)1月11日 角川書店宛書簡より 光太郎65歳

堀辰雄の代表作『風立ちぬ』。光太郎も読んだのですね。どちらかというと若い人向けのというイメージがありますが、数え65歳でこれを楽しめる感性、見習いたいものです。

新刊です。

えんぴつで心ときめく名作詩

2024年3月11日 書 大迫閑歩 イラスト イオクサツキ ポプラ社刊 定価1,400円+税

1日10分であなたの毎日をリフレッシュ! 珠玉の名作詩をなぞって朗読することで、心を整えてみませんか。

金子みすゞ、宮澤賢治、高村光太郎など、名作詩30篇をセレクト。書家による書き下ろしで、美文字レッスンの習慣を。えんぴつの柔らかな書き心地で、心を整え脳活効果も! 作品の背景、作家の生涯など、プチ文学講座として。
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【目次】
はじめに
1章 恋する思い
 島崎藤村「初恋」 立原道造「夢みたものは……」  竹久夢二「宵待ち草」 
 北原白秋「初恋」 横光利一「愛」 中原中也「湖上」      
2章 旅にあこがれて
 山村暮鳥「雲」  石川啄木「飛行機」  丸山薫「汽車に乗って」 村山槐多「二月」
 島崎藤村「小諸なる古城のほとり」 北原白秋「落葉松」 萩原朔太郎 「旅上」
3章 自然のなかで
 山村暮鳥「風景 純銀もざいく」 三好達治「雪」 萩原朔太郎「竹」
 木下杢太郎「梟」 佐藤惣之助「犯罪地帯」 田中冬二「青い夜道」 八木重吉「太陽」
4章 いのちの喜び
 金子みすゞ「私と小鳥と鈴と」 千家元麿「秘密」 立原道造「眠りの誘ひ」
 堀辰雄「帆前船」 八木重吉「皎皎とのぼつてゆきたい」
5章 生を慈しむ
 中原中也「汚れっちまった悲しみに」 室生犀星「小景異情(その二)」
 高村光太郎「あどけない話」 宮澤賢治「永訣の朝」 
 与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」
おわりに
参考文献

【著者略歴】
大迫閑歩(おおさこ・かんぽ)
1960年鹿児島県生まれ。本名・大迫正一。筑波大学芸術専門学群卒業。同大学院修士課程修了。九州女子大学共通教育機構准教授を経て、現在安田女子大学文学部書道学科教授。漢字の古い書体を中心にした研究、作品制作を続け、後進の指導にあたっている。
著書に『えんぴつで奥の細道』『えんぴつで方丈記』『えんぴつで論語』などがある。

001B5のやや大きめの判、よくある「なぞって書こう」的な。類書として昨年ご紹介した『ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界』(コスミック出版)など。

なぞられるべき薄く印刷されている詩句が活字ではなく、書家の大迫閑歩氏が書かれているというところが一つのポイントです。

近代詩30篇が取り上げられ、光太郎詩は『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)を入れて下さいました。ありがたし。他に島崎藤村、北原白秋、八木重吉、中原中也、山村暮鳥、立原道造は2篇ずつ。村山槐多が入っていたのには「へー」でした。

キーボードやスマホ画面等でなく、やはり自分の手で文字を書くことによって、詩句が脳内に入って来るプロセスがより鮮烈となる気がします。そういう意味では電子書籍では成り立たない出版ですね。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生のは真宗の和讃の中の文句「清浄光明」と「平等施一切」とを書きました。当地の農家は皆熱心な真宗の信者なのです。あとは半切に「牛はのろのろと歩く」、「満目蕭條」と書きました。


昭和22年(1947)1月15日 宮崎丈二宛宛書簡より 光太郎65歳

この年1月2日に行った書き初めに関わります。書いたものは世話になっている土地の人々にあげたりすることが多かったようです。

このうち「平等施一切」と「満目蕭條」の書は現存が確認出来ています。
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本日は栃木県で発行されている同人詩誌のご紹介。

詩誌 馴鹿 第80号記念号

2024年2月29日 頒価500円

目次
 特集Ⅰ・ゲスト作品
  かぎりないもの 菊地雪渓氏
  詩の宿題 久保田奈々子氏
  詩は間違った表現なのだ 小久保吉雄氏
  わたしの夢 杉本真維子氏
  短歌 磯笛 野上れい氏
  ボロ 深津朝雄氏
 同人作品
  公孫樹 吹木文音
  あはれちちのみの父よ、あはれははのそはの母よ 丕内七武
  橋 小太刀きみこ
  座ってる 矢口志津江
  黒部 三森弘之
  遊園地にて 大野敏
 特集Ⅱ・「心に残るフレーズ」
  矢口志津江 吹木文音 小森谷章 三森弘之 小太刀きみこ 和氣勇雄 大野敏
 後記

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「特集Ⅱ・「心に残るフレーズ」」の中で、連翹忌の集い等にもご参加下さっている同誌同人・吹木文音氏が光太郎詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)から象徴的なリフレイン『わたしもうぢき駄目になる』について書かれています。本冊、氏から頂きました。多謝。

   山麓の二人
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 二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
 険しく八月の頭上の空に目をみはり
 裾野とほく靡なびいて波うち
 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
 半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
 わたくしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
 ――わたしもうぢき駄目になる
 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
 のがれる途無き魂との別離
 その不可抗の予感
 ――わたしもうぢき駄目になる
 涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
 わたくしは黙つて妻の姿に見入る
 意識の境から最後にふり返つて
 わたくしに縋る
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
 闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた。

抜粋しますと「私が、この哀切極まりないフレーズに惹かれる理由は、絶望の向こうに広がる景色を望むから。そして、人の営みを超越するおおいなる自然に同化し、ちっぽけな自分を恕(ゆる)す心持ちになれるから。」なるほど。

詩の背景を少し説明いたします。

まず、描かれているのは、昭和8年(1933)8月末の出来事。前年に睡眠薬アダリンの大量摂取で自殺未遂を起こした智恵子の心の病を少しでも快方に向かわせようと、光太郎は智恵子を連れて東北、北関東の温泉巡りに出ました(右上画像はその一環としての那須塩原温泉でのショット)。その直前にはそれまで無視してきた入籍を果たします。万が一、自分が先に逝くことになってしまったら、「内縁の妻」では智恵子に遺産相続の権利がないと考えてのことでした。

智恵子実家・長沼家からの除籍の手続きも必要だったのでしょうか、智恵子故郷の福島県安達郡油井村(現・二本松市)にも立ち寄ります。その足で向かった最初の湯治先が裏磐梯川上温泉。この詩は檜原湖、五色沼などが広がる裏磐梯高原での一コマを謳っています。

詩の執筆は約5年後の昭和13年(1938)6月。このタイムラグの意味するところは、当方、戦争との関わりだろうとふんでいます。

終末部分の「わたくしの心」と「一つになつた」という「二人をつつむこの天地」がどうなっていたかというと、智恵子の心の病が誰の目にも顕在化した昭和6年(1931)には満州事変が勃発、智恵子が自殺未遂を起こした翌7年(1932)には五・一五事件及び傀儡国家の満州国建国、光太郎が智恵子を入籍し、裏磐梯をはじめとする湯治の旅に出た同8年(1933)に日本は国際連盟脱退、ドイツではヒトラー政権樹立、智恵子がゼームス坂病院に入院していた同11年(1936)で二・二六事件。そして翌12年(1937)には遂に日中戦争開戦。さらにこの詩が書かれた13年(1938)は国家総動員法が施行されています。

急坂を転げ落ちるように悪化していった智恵子の病状と軌を一にするように、日本も泥沼の戦時体制へと突き進んでいきました。

そして光太郎も。「芸術家あるある」の俗世間とは極力交渉を絶つ生活が、智恵子を追い詰めたという反省もあって、光太郎は自ら積極的に社会と関わる方に180度方向転換します。その社会の方が、先に見たようにおかしな方向に進んでいたのが光太郎にとっての悲劇でした。この頃から、翼賛詩の乱発が始まります。「山麓の二人」が書かれた昭和13年(1938)6月の前月、5月には「地理の書」という詩を書きました。日本列島の美しさを讃える内容で直接的に「聖戦完遂」などとは謳っていませんが、のちのちまで各種アンソロジー等に収録され続け、もてはやされた作品です。
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さらに8月には同じ趣旨の「日本の秋」、9月には「吾が同胞」、12月には「東亜のあけぼの」(後に「その時朝は来る」と改題)、「群長訓練」、「新しき御慶」……。

一方では「山麓の二人」や「レモン哀歌」(昭和14年=1939)など『智恵子抄』所収の珠玉の詩篇も書き続けています。まさに「わたくしの心はこの時二つに裂けて」だったわけで、光太郎もそれを自覚していたのだと思います。

智恵子が言った「わたしもうぢき駄目になる」。それまである意味一心同体のように歩みを共にしてきた二人のうちの一方が「駄目になる」ことは、もう一方も「駄目になる」ことにつながりはしないでしょうか。智恵子にとっての「駄目になる」は「夢幻界の住人になる」ことでしたが、光太郎も「大東亜共栄圏の建設」などという「夢幻」に踊らされた、否、積極的に加担してしまったという意味では、「駄目にな」ってしまったと云わざるを得ません。吹木氏のおっしゃる通り「哀切極まりないフレーズ」と、つくづく思います。

吹木氏の稿、こう結ばれています。

人間の愛や生を言葉で刻み、誇らかに命を謳い上げる「詩の力」にもまた、魂を揺さぶられるのだ。

同感です。

ところで『馴鹿』。目次に目を通して「ありゃま」でした。巻頭の「特集Ⅰ・ゲスト作品」で知った顔ぶれがずらりと並んでいまして。

001まず菊地雪渓氏。令和元年(2019)の第41回東京書作展で内閣総理大臣賞に輝かれた書家の方ですが、自作の詩を寄稿なさっています。そういえば詩も作る方だったっけ、でした。

続いて久保田奈々子氏。「詩」で「奈々子」と云えば、勘の鋭い方はそれだけでお判りですね、詩人の故・吉野弘氏のご息女にして吉野氏の詩「奈々子に」のモデルです。

さらに杉本真維子氏。昨年、詩集『皆神山』で萩原朔太郎賞を受賞なさいました。思潮社さんから刊行されている『現代詩手帖』の今月号は杉本氏の特集が組まれています。

菊地氏はコロナ禍前からでしたが、久保田氏と杉本氏は昨年から、当会主催の連翹忌の集いにご参加いただいております。先述の吹木氏も。そんな関係で当方も知る面々の玉稿が集結したというわけです。

光太郎を一つの機縁に、このように人々の輪が広がって行くこと、望外の喜びです。

さて、『馴鹿』、奥付画像を貼っておきます。ご興味おありの方、そちらまで。
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【折々のことば・光太郎】

この山の中にゐても外の事は何も不便を感じませんが古美術などに接する機会の無い事だけがもの足りません。花巻あたりに小美術館でもあるといいのですが。
昭和22年(1947)1月12日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の「美」への渇仰は、もはや「業(ごう)」のようなものだったのかな、という気がします。

「東京都同情塔」で第170回芥川賞に選ばれた九段理江氏の小説です。「東京都同情塔」より前に書かれたものですが、ある意味芥川賞受賞の尻馬に乗った感と言うと失礼かも知れませんが、単行本化されました。

しをかくうま

2024年3月10日 九段理江著 文藝春秋 定価1,500円+税

第45回野間文芸新人賞受賞作。
疾走する想像力で注目を集める新芥川賞作家が描く、馬と人類の壮大な歴史をめぐる物語。
太古の時代。「乗れ!」という声に導かれて人が初めて馬に乗った日から、驚異の物語は始まる。この出逢いによって人は限りなく遠くまで移動できるようになった――人間を“今のような人間”にしたのは馬なのだ。
そこから人馬一体の歴史は現代まで脈々と続き、しかしいつしか人は己だけが賢い動物であるとの妄想に囚われてしまった。
現代で競馬実況を生業とする、馬を愛する「わたし」は、人類と馬との関係を取り戻すため、そして愛する牝馬<しをかくうま>号に近づくため、両者に起こったあらゆる歴史を学ぼうと「これまで存在したすべての牡馬」たる男を訪ねるのだった――。

担当編集者より
2021年に小説家デビューするや、発表するすべての小説で文学賞を受賞してきた新芥川賞作家の、真骨頂とも呼べる、圧倒的想像力の爆発した一作です。
野間文芸新人賞選考会では、小説の放つあまりの疾走感から、この作品自体が“暴れ馬”に見立てられ、“暴れ馬”から“振り落とされた”と述懐する選考委員もいらしたほどです。
詩情豊かにギャロップする物語は、批評的射程も広く備えていて、優生思想や純血主義、アニマルライツ、果ては人類の知そのものに対する問いまでをも孕んでいます。
いま最注目の才能が送る、試みと企みに満ちた必読の書。
また、小説内には、実在の名馬名や名実況セリフもちりばめられており、競馬ファンにもおすすめいたします。
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それほど厚い本ではないので、ほぼほぼ一気読みしました。2時間弱でしょうか。

主人公の一人は、現代のテレビ局勤務のアナウンサー「わたし」。主人公といえば、数万年前に出会ったネアンデルタール人とホモ・サピエンスの二人組、さらに終末部分では「ニューブレイン」を埋め込まれた近未来の人類も登場し、彼らも主人公の一人と言えるでしょう。

タイトルの通り、「馬」が重要なモチーフ。「わたし」は情報番組のキャスター、そして競馬の実況中継を担当しています。太古の二人組は、おそらく人類史上初めて馬に乗った(高速の移動手段を手にした)という設定。近未来の部分には馬は描登場しませんが、「ニューブレイン」をoffにした状態での「オールドブレイン」による幻想の中には馬が現れます。

また、もう一つのモチーフは「詩」。ただ、ここでいう「詩」は、通常の意味の「詩」より広範な意味で使われていますが。

そこで、光太郎詩「道程」(大正3年=1914)が引用されています。しかも最終形の9行バージョンではなく、詩集『道程』上梓前に雑誌『美の廃墟』に載った102行の初出発表形。ただし、あまりに長いので冒頭部分だけですが。それ以外にも「道程」という単語は複数回使われ、その背後には光太郎の「道程」がちらつきます。

九段氏と言えば、作品執筆にに生成AIを活用したという点がクローズアップされていますね。本作でもおそらくそうなんじゃないかと思われる箇所が散見されます。例えば、およそ2ページにわたり、カタカナ10文字の人名が99名分羅列されている箇所があります。こうした作業は生成AIお手のものでしょう。ちなみに99名のほとんどは古今東西のうちの「西」。日本人は含まれません(後の部分で「タニカワシュンタロウ」が出てきますが)。「ウォルトホイットマン」や「アルチュールランボー」「レオナルドダヴィンチ」など、光太郎に影響を与えた人物も少なからず。そうかと思うと「フレディマーキュリー」や「マークザッカーバーグ」まで。個人的には「アーネストフェノロサ」「フランシスプーランク」や「ミッシェルポルナレフ」が欲しいところでしたが(笑)。「タカムラコウタロウ」は惜しくも9文字ですね(笑)。

それにしても本作、一昔前なら荒唐無稽な「SF」の範疇に入れられていたかも知れません。それほど情報技術等の進化(進化と言えるかどうかは別として)は、急ピッチです。常々思っているのですが、まるでy=ax²のグラフのx≧0の部分のように。x軸が時間、y軸が情報技術等の進化です。
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閑話休題、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

彫刻の構図もいろいろ作ります。智恵子観音の原型雛形もそのうち試みるつもりです。

昭和22年(1947)1月6日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として「智恵子観音」の構想が結実するのは、さらに約6年後です。

まず都内から演奏会情報です。

朝岡真木子歌曲コンサート 第7回

期 日 : 2024年3月20日(水・祝)
会 場 : 王子ホール 東京都中央区銀座4-7-5
時 間 : 14:00開演(13:30開場)
料 金 : 一般 4,500円 学生券2,000円(全席自由)

曲 目 
 「さくらの はなびら」 詩:まど・みちお 
 「風のこころ」 詩:大竹典子
 「影」「夢のわかれ」 詩:西岡光秋
 「冬が来た」 詩:高村光太郎
 「雪 詩」 詩:野原ゆき
 「わらううた」 詩:渡部千津子
 組曲「万葉の愛」 万葉集より
 組曲「きらめきの中へ」 詩:星乃ミミナ
 ソプラノとバリトンのための「薔薇の園」 詩:岡崎カズヱ
 他

出 演
 木内弘子(ソプラノ) 黒川京子(ソプラノ) 竹下裕来(ソプラノ)
 前澤悦子(ソプラノ) 清水邦子(メゾ・ソプラノ) 川出康平(テノール)
 馬場眞二(バリトン) 朝岡真木子(作曲・ピアノ)
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光太郎詩をテキストに「組曲 智惠子抄」を作曲なさった作曲家・朝岡真木子氏の作品集が演奏されるコンサートです。ピアノは朝岡氏ご自身。昨年の第6回もお邪魔しました。

今回は、昨秋開催された「福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~」で初演された「冬が来た」がプログラムに入っています。歌唱はバリトンの馬場眞二氏だそうです。

もう1件。こちらはサブタイトルに光太郎詩「あどけない話」由来の「ほんとうの空」の語を冠してくださっています。以前にも書きましたが、東日本大震災後、「ほんとうの空」の語が使われるようになりました。

第17回 声楽アンサンブルコンテスト全国大会 - 感動の歌声 響け、ほんとうの空に -

期 日 : 2024年3月21日(木)~3月24日(日)
      3月21日(木) 中学校部門 
      3月22日(金) 高等学校部門
      3月23日(土) 小学生・ジュニア部門、一般部門
      3月24日(日) 各部門金賞受賞団体による本選、表彰式
会 場 : ふくしん夢の音楽堂(福島市音楽堂) 福島県福島市入江町1-1
時 間 : 各日、開場9:30 開演10:00
料 金 : 各部門予選  前売り 2,000円 当日 2,500円 
      本選     前売り 2,500円 当日 3,000円
      4日間通し券 前売りのみ 8,000円

 声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名までの少人数編成の合唱グループによるコンテストです。
 全国の合唱レベルの向上を図るとともに、歌うことの楽しさを福島から全国に発信することを目的として、2008年(平成20年)から開催、今大会で第17回目を迎えました。
 本大会の特色として、伴奏楽器及び伴奏の形態が自由で多様な合唱音楽を追求、部門、年代を越えて演奏し合います。また、海外の合唱グループも公募し、音楽を通じて交流を図ります。
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ただ、苦言を呈させていただければ、毎年そうなのでもうしょうがないのかも知れませんが、出演団体は事前に公表されるものの、演奏曲目が公表されません。それを出すとまずいということもないと思いますし、「あの曲が演奏されるなら聴きに行こう」と考える向きもいらっしゃらないとは限りません。ぜひこの点、改善していただきたいところなのですが……。

ちなみに出演団体といえば、今年は智恵子の母校・福島高等女学校の後身である県立橘高校さんが出演なさいます。かつてこの大会や全日本合唱コンクール等でご常連でしたが、最近あまり聞かないな、と思っていたのですが。

それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は大晦日でございますが此辺は旧暦の為め村の人も見えず、ひどく静かで、ただ雪が霏々と降つて居ります。小屋の周囲は三尺近くつもり、殆ど交通杜絶で郵便も自然遅れます。


昭和21年(1946)12月31日 三輪吉次郎宛書簡より 光太郎64歳

終戦直後の山村ではまだ旧暦でいろいろやっていたようですね。もっとも、現代でも年中行事等は旧暦で、というケースはまだ多いかも知れません。

都内から朗読公演情報です。

天野まり単独公演 ソレを、私は恋と呼ぶ。/智恵子抄

期 日 : 2024年3月17日(日)
会 場 : 秋葉原コンシールシアター 東京都台東区台東3-5-10
時 間 : 14:00〜15:00 オンラインライブ配信公演、アーカイブ配信公演あり
料 金 : 会場生観劇チケット料金¥5,000 オンライン料金¥3,000

出 演 : 天野まり

劇団コンシールの専用イベントスペース「秋葉原コンシールシアター」での特別公演「天野まり単独公演」を開催致します。
・ソレを、私は恋と呼ぶ。
・智恵子抄

※演目は変更の可能性があります。

会場に足を運べないお客様の為のライブ配信公演と、公演期間が終わっても観劇できるアーカイブ公演もアリ!!
※演目は変更の可能性があります。
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詳細が今一つよく分からないのですが、とりあえず。

【折々のことば・光太郎】

食餌衛生を努めて合理的にやつて居り、七十歳以後の製作精力の涵養に心懸けて居ります。七十代こそ小生の製作最盛期と信じて居ります。


昭和21年(1946)11月23日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

実際、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を、中野の貸しアトリエで制作し始めたのは数え70歳の昭和27年(1952)でした。しかし、「最盛期」というにはほど遠く、蠟燭が消える前の一瞬の煌めきのような感じでした。

今日はまた、その中野の貸しアトリエ保存のための会合で上京して参ります。ついでというと何ですが、原宿で「星センセイと一郎くんと珈琲」、銀座で「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」を拝観して参ります。

都内から古書即売会の情報です。

この手の即売会、規模の大小はいろいろあって、以前よりぐっと減ったものの小規模なものまで含めれば常にどこかしらで開催されてはいる感じですが、今回ご紹介するのはそれなりに大規模、ネット上でも積極的に宣伝が為されています。ちなみに「ABAJ」というのは「日本古書籍商協会」さんだそうで。

ABAJ 国際 2024稀覯本フェア

期 日 : 2024年3月15日(金)~3月17日(日)
会 場 : 東京交通会館展示会場 カトレアサロンA・B 千代田区有楽町2-10-1
時 間 : 3月15日(金)12時〜19時 /16日(土)10時〜18時 /17日(日)10時〜16時
料 金 : 無料

 向春の候、皆様には益々のご健勝の事とお慶び申し上げます。いつも私共ABAJ(日本古典籍商協会)並びに会員各位に対して格別のご支援とお引き立てを賜り誠に有難うございます。
 今日、激動の国際情勢と変化を求められる世情の中で、書物の価値は益々高くなるものと確信いたしております。この度のフェアでは内外の有力書店28社の協力により精選された稀覯本を展示して皆様のご来場をお待ち申し上げます。
 2024年が皆様にとりまして大躍進の年となります様、心より祈念致します。

2024年2月吉日
ABAJ 会長(日本古書籍商協会)北澤一郎
ABAJ国際稀覯本フェア実行委員会一同
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出品目録に依れば日本の古典籍と洋書が中心ですが、日本近代ものもちらほら。

その中で、札幌の弘南堂書店さん(30年程前に一度お伺いしました)で、光太郎のそれを含む萩原朔太郎追悼文の直筆原稿25人分。
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昭和17年(1942)8月の雑誌『四季』第67号で、この年5月に没した朔太郎の追悼特集を組み、それに寄せられた原稿です。光太郎の稿は「希代の純粋詩人-萩原朔太郎追悼-」という題でした。下画像の右端です。
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一括で残っていたんだ、という感じでした。

さらに弘南堂さん、光太郎第一詩集『道程』もご出品。
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カバー欠ですが、識語署名入り。識語は聖書の一節です。

ご興味おありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それで「開闡郷土」の揮毫も思の外すらすら書けました。

昭和21年(1946)11月22日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「開闡(かいせん)」は「開き広める」の意。茨城取手の素封家だった宮崎の父・仁十郎らに依頼され、取手の長禅寺に郷土の開拓発展の歴史を振り返り、功労者を顕彰する的な碑を建てることになり、その題字「開闡郷土」を光太郎が揮毫しました。ところがこの時書いた揮毫を宮崎が列車の網棚に置き忘れ、のちに再度揮毫することになります。

碑は長禅寺参道石段右側に現存しますが、繁茂する篠竹に覆われ、視認が困難な状況になっています。
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地方紙掲載記事から2件、ご紹介します。

まず、『長野日報』さん。

尾崎喜八、没後50年 その詩心を訪ねて

 山や自然を愛した詩人、尾崎喜八(1892~1974年)が亡くなって、今年2月で50年になった。喜八は1946年9月から7年間、富士見に滞在した。その縁で茅野市豊平小、岡谷南高校(岡谷市)、富士見町富士見小学校など諏訪地域をはじめ、県内の小中学校、高校を中心に生涯で40を超える校歌を作詞し、今でも多くの児童・生徒たちに歌われている。激動の20世紀を生きた詩人の心の変遷を、「自註 富士見高原詩集」などを手掛かりにたどってみた。

■自然や人間を賛美する詩人
 東京市京橋に生まれた喜八は、京華商業学校を経て中井銀行に就職。武者小路実篤や志賀直哉などが創刊した雑誌「白樺」の影響を受け、理想主義的な作風の下、自然や人間を賛美する詩人として出発した。
 30歳で最初の詩集「空と樹木」を刊行すると、「道程」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎、フランスのノーベル文学賞作家ロマン・ロランとも手紙を通じて交流した。
 喜八は夏の暮らしを描いた「高層雲の下」から「クリスマス」、「大根」に至るまで、日々の生活の景色と心情を自由な形で歌った。第5詩集「行人の歌」に納めた「私の詩」では、素朴な魂の人びと、日々の悪戦を戦う人びとに自分の詩を贈りたいとし、〈私は自分の詩によって 彼らの楽しい伴侶でありたい〉と願った。
 自然観察の成果を集めた随筆集「山の絵本」、独学でドイツ語を習得してヘルマン・ヘッセの翻訳も刊行し、旺盛な文学活動を展開。大正期の自由主義的雰囲気が去り、昭和初年の世界恐慌、ファシズムと戦争のにおいが濃くなる中、配給の芋を題材にした「此の糧」、銃後の民衆を歌った「同胞と共にあり」を書名に選んだ詩集も出版した。

■敗戦で心に傷 生き直す決心
 しかし日本は1945年8月に敗戦を迎え、精神的に傷を負う。「慙愧と後悔」から世の中や過去から離れ、「全く無名の人間として生き直すこと」を願い、46年9月に元伯爵渡辺昭が富士見高原に所有していた別荘「分水荘」へと移り住む。〈人の世の転変が私をここへ導いた。 古い岩石の地の起伏と めぐる昼夜の大いなる国、〉(「土地」)へとやって来た。
 富士見の地で「春の牧場」「夏の小鳥が……」「或る晴れた秋の朝の歌」など高原の四季を折り込んだ詩を創作。厳しく美しい自然と、その中にあって貧しくもひたむきに生きる人びとの賛歌を詠んだ。自らの心情を書名に掲げ55年に刊行した詩集「花咲ける孤独」は、遅咲きの詩人の後期を代表する作品となった。
 一方で地元の人との温かい交流も生まれ、講演のほか校歌制作も依頼されるようになる。県内では旧岡谷南部中(49年制定)、信大付属松本中(51年)岡谷南高校(52年)茅野市豊平小(同)などを手掛け、今も多くの学校に歌碑が立つ。
 喜八は校歌作詞の思い出をつづった文章で、「書く前に必ず一度はその学校まで行って、そこの校庭のまんなかに立って周囲の風景だのを見ないと気が済まない」とし、北海道の1校を除き、「その他はどんな山間僻地へもすすんで出掛けた」と振り返った。
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■書く前に必ず訪れイメージ
 多くの校歌がそうであるように、喜八の詞も1番は山川草木など身近な自然の情景が歌われ、2、3番と続くにつれ、理想や希望への意志が込められる。豊平小の2番は〈清くけだかい白樺を 朝な夕なの校庭に 遠い古人の生活を しのぶ遺跡は村のうち 歴史と知恵のふるさとに うまれて学ぶうれしさよ〉とある。
 富士山、八ケ岳、校章のモチーフ駒草が詠われた岡谷南高の3番は〈真夏を山に鍛えては 氷に冬を楽しみつ 平和文化に国を成す 理想のもとに学ぶなる 見よや我等が愛する母校 岡谷の南高等校 月雪花の信濃路に 誉の其の名わが母校〉と結ばれる。
 52年11月に東京都世田谷区、66年12月に神奈川県鎌倉市に居を移すも、富士見高校(56年)、旧富士見高原中(60年)、茅野市永明中(63年)、岡谷南部中(64年)、そして40校目に富士見小(72年)の校歌を作った。
 富士見小の3番は〈理想は高い空の雲 心は広い地のながめ 両親、仲間、先生たちの 愛の思い出富士見高原 ここに学んで人と成る日も幼な心の帰るふるさと このふるさとを忘れまい〉。喜八によると、「詩は言葉と文字の芸術であると同時に作者の心の歌でもある」。校歌もまた詩の一つであると考えた喜八にとって、この連は富士見で過ごした日々を想起した”心の歌”であったかもしれない。

■言葉の探求は今もこの地で
 富士見町高原のミュージアムには喜八の自筆原稿、愛用のカメラ、自然観察に使用した双眼鏡、登山靴など寄贈資料から成るコーナーがある。島木赤彦や伊藤左千夫など多くの歌人や文人にゆかりがある同町では、毎年秋に詩の心を後世につなげる「富士見高原詩のフォーラム」が開かれる。自分の心を凝視し、自然と一致する瞬間を見つけようとする言葉の探究は、今も富士見の地で続けられている。

光太郎智恵子と交流の深かった、尾崎喜八。没後50年ということで、改めて脚光を浴びつつあるようで、昨年末には同趣旨の記事が『毎日新聞』さんにも。

令孫にあたられる石黒敦彦氏、光太郎と喜八に関する新刊書籍の刊行などを考えられているようで、来(きた)る4月2日(火)の連翹忌の集いにてその件をお話下さるそうです。ありがたし。

もう1件、『岩手日報』さんから。

「ぼくのほそ道」俳句大会選考会 

 岩手日報社「ぼくのほそ道」俳句大会の受賞句が決まった。対象句は応募句506句の中から一次選考を通過した60句。選考会は盛岡市内丸の同社で開かれ、俳人の白濱一羊さん、高野ムツオさん、文化部の戸舘大朗記者が作品を合評した。

入選 きらきらとぼくのほそ道雪踏めば 奥州・岩渕正力

高野 これは話題にしないといけないんじゃないですか。
戸舘 とてもうれしい一句です。ありがとうございます!
白濱 「挨拶句」ですね。連載名の言葉を詠み込んで、ちゃんと句になっている。
高野 雪を踏んだら、あるはずもないが、ぼくのほそ道が現れて、見えた気がした。発想がいい。
戸舘 自らの「ほそ道」を歩いているという句ではない?
高野 雪を踏む、でなく雪踏めば、だからね。この表現だと、踏んで現れた、という意味だろう。
白濱 高村光太郎みたいだね。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
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「ぼくのほそ道」俳句大会、「ぼくの」と冠されているので、若い世代対象の企画かと思ったのですが、さにあらずでした。

入賞句それぞれの評が載っていたのですが、光太郎がらみのもののみ抜粋しました。もっとも、句自体が完全に光太郎オマージュというわけではないようですが、おそらく審査員の方が評されたことを、作者の方も感じていたのではないかと思われます。

喜八の記事にしてもそうですが、光太郎を引き合いに出しても「高村光太郎? 誰、それ?」という状況になってしまいますと、成り立ちません。そうならないよう、今後とも顕彰活動に力を注いで参りますので、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今度詩碑には小生直接加筆して補正彫鏨する事になりました。多分十一月中には出来るでせう。


昭和21年(1946)10月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「詩碑」は昭和11年(1936)、光太郎が揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」詩碑です。
まだ東京にいた最初の揮毫の際、花巻から送られてきた原稿の通りに揮毫したところ、賢治が手帳に書いた通りでなかった箇所が複数ありました。そこで、碑前に足場を組んで訂正箇所を光太郎が直接書き込み、石工の今藤清六が鏨(たがね)で彫りました。
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賢治が元々手帳に「ヒドリ」と書いていた箇所は「ヒデリ」のまま残されました。光太郎が最初に揮毫した昭和11年(1936)の時点で、遺族等の間で既に「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記だろうという説が半ば定説化しており、光太郎は花巻から送られてきた原稿が「ヒデリ」となっていたそのままを書いたわけです。

ところが、さる高名な宗教学者のセンセイが、この改変を光太郎の仕業と思い込み、あちこちで喧伝しています。「違う」と指摘が相次いでも改める風もなく、超迷惑です。脳が硬直化すると、一度こうだと思い込んだことは訂正できなくなってしまうのでしょうか。そうはならないように努めたいものです。

既に始まっている展示です。

状況をわかりやすくするため、『北海道新聞』さん記事から。

賢治、有島の初版本 100年の時超えて 道立文学館 特別展に200冊

015 道立文学館(札幌)で特別展「100年の時を超える」が開かれている。宮沢賢治の詩集「春と修羅」(1924年=大正13年)、有島武郎の訳した「ホヰットマン詩集」(2冊、21、23年)初版本など主に明治、大正期に出版された約200点を、外国文学、詩集、歌集・句集・川柳、小説など6項目に分けて展示している。
 すべて道立文学館の所蔵。ケースに入って手にすることはできないが、主な作者や本の概要、装丁などについて解説文を付けている。
 このうち外国文学では、米国の詩人ウォルト・ホイットマンの「ホヰットマン詩集」は、有島が翻訳と装丁を手がけた。表紙はホイットマンの手書きの原稿の写しの上に、表題を記した紙を斜めに貼っている。
 貴重なのは宮沢賢治の「春と修羅」で、賢治の生前に刊行された唯一の詩集。萩原朔太郎の初詩集「月に吠える」(17年)は54編を収録し、病的で奇怪な感覚を描いて反響を呼び、日本の近代詩を代表する詩集となった。高村光太郎の第1詩集「道程」(14年)は初版本と白布装の「異本」があり、異本には高村直筆の書き込みがある。
 このほか画家竹久夢二が装丁した吉井勇「源氏物語情話」(18年)、坪内逍遥の「新曲 浦島」(04年)、芥川龍之介の名作童話「杜子春」などを収めた豪華本「三つの宝」(28年)もある。
 苫名直子副館長は「100年前の本に込められた作り手の思いとともに、200点を超える書籍を見て日本の近代文学のバリエーションの豊かさを感じ取ってほしい」と話している。
 3月24日まで。月曜休館。一般500円、高大生250円、中学生以下と65歳以上無料。問い合わせは同館、電話011・511・7655へ。

開催情報を。

特別展「100年の時を超える ―〈明治・大正期刊行本〉探訪―」

期 日 : 2024年2月3日(土)~3月24日(日)
会 場 : 北海道立文学館 札幌市中央区中島公園1番4号
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、月曜日が祝日等の場合は開館)
料 金 : 一般500(400)円、高大生250(200)円、中学生以下・65歳以上無料
      ( )内は10名以上の団体料金

 明治・大正――この時代、西洋の制度や文化を取り入れて世の中が大きく変わり、今の我々の社会や生活の基盤がつくられます。多くの混乱を伴いながら急速な近代化への道を進む中で、本の世界にも当時の文学の新潮流や社会情勢が反映され、多種多様な書籍が出版されました。併せて装幀も抒情的な感性を示すもの、色鮮やかでモダンなものなどが次々と登場し、魅力が尽きません。
 北海道立文学館では、貴重な初版本も含め、この時期に刊行された本を多数所蔵しています。1926年に大正が幕を閉じてから、100年が経とうとする今、近代日本の息吹を感じさせる本の数々によって、明治・大正という時代に思いを馳せていただければ幸いです。
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フライヤーには画像がありませんが、光太郎第一詩集『道程』の通常版と「異本」と、二種類が出ているとのこと。

通常版は当方の書架にも一冊ありますが、紺色の紙の表紙です。
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こちらと、さらに白い布装だという「異本」。おそらく献本として少部数作られた私家版と思われます。

この私家版『道程』に関しては、稀覯本研究家であらせられる秀明大学さん学長・川島幸希氏が、平成24年(2012)4月の『日本古書通信』さんの連載「私がこだわった初版本」で紹介され、さらに平成26年(2014)には同大の学祭・飛翔祭の際に展示なさいました。

今回展示されているという「異本」、これと同一のものか、あるいは川島氏が所蔵されていたものか(氏は入手なさったものも手許に置いておかないことが多いようなので)、という感じです。

ちなみに文語定型詩全盛だった当時の「詩集」という概念を突き抜けていた『道程』、売れ行きはさんざんで、光太郎曰く、きちんと版元から売れたのは七冊だけだったとのこと。現在残っているもののほとんどは光太郎から友人知己等に贈られたものと推定されます。

刊行翌年の大正4年(1915)以降、残本を改装して奥付を変えたものが何度か刊行され、国会図書館さんでデジタルデータとして公開されているものもこちらです。道立文学館さんで今回展示されているものは、同館の所蔵リストに依れば大正3年(1914)刊とのことですので、これではないでしょう。

他に宮沢賢治の『春と修羅』、北原白秋が『思ひ出』、薄田泣菫の『白羊宮』、吉井勇著・竹久夢二装幀『源氏物語情話』、萩原朔太郎『月に吠える』などが並んでいます。

文豪マニアの方など、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

この四日の朝山を降りて花巻に来ました、智恵子の祥月命日と亡父の十三回忌の法要を五日に当地の松庵寺といふ浄土宗のお寺で営みました。


昭和21年(946)10月7日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

光太郎、敬虔な仏教徒というわけではなかったのですが、この手の法要はほとんど欠かしませんでした。 

参加者募集型の朗読系イベント情報を2件。

まずは和歌山県から。

和み朗読サロン

期 日 : 2024年2月22日(木)
会 場 : カルチャーべルーム 和歌山市杉ノ馬場1-44ベルネットビル2F
時 間 : 14時40分~15時30分
料 金 : 1,500円

高村光太郎の「智恵子抄」を朗読します。和み朗読教室は、和み楽しく学べる教室です。朗読がはじめてという方、大歓迎! 聞き参加可能です。 高村光太郎の世界を一緒に感じてみませんか?
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「和み朗読教室」という団体さんがいろいろワークショップをなさっている中の一環のようです。ただし、朗読してみたいという方の参加申し込みは先週〆切りでした。それでもまだ空きがあるかもしれませんし、聞くだけの参加も可能とのことです。

もう1件、都内からこちらは朗読者とスタッフの募集。

4/19(金)上野水上音楽堂でイベント開催決定!出演者・スタッフ大募集!朗読の祭典を一緒に作りませんか?

募集要項
【ソロ部門】
 ・出演時の朗読時間は8分程度
 ・オーディション参加費:2,000円

【群読部門】
 ・2~4名のチームでお申し込みください
 ・出演時の朗読時間は15分程度
 ・オーディション参加費:4,000円

 ※オーディション参加者(チームメンバー)は、合否に関わらず当日イベントの入場無料!
 ※出演決定者には、当日スタッフとして簡単なお手伝いもお願いいたします。

【当日スタッフのみでの参加者】
 ・イベントを楽しみながら一緒に盛り上げてくださる方を募集します!
  (応募フォームからお申し込みください)
 ・入場無料でイベントをお楽しみいただけます。交通費支給(上限3,000円)。

応募方法
 ②このポストをいいね&リポスト
 ③課題3作品から1作品選んで朗読を録音
 ④応募フォームよりお申し込み&課題音源投稿
 ⑤お申し込みから1週間以内に参加費をお振込みください
【銀行口座】
 GMOあおぞらネット銀行(金融機関コード:0310) 支店名 法人営業部(支店コード:101)
 普通 1507296 口座名義 朗読らいおん合同会社 ロウドクライオン(ド

課題・審査基準
【課題】
 ①「月夜とめがね」小川未明(指定の抜粋部分)
 ②「走れメロス」太宰治(指定の抜粋部分)
 ③「人類の泉」高村光太郎
   (群読部門はチーム全員で群読してください)

【審査基準】
 ・本番を想定し朗読が聴こえる最低限の声量
 ・テーマ「いのち」への思いが伝わる読み
 ・ステージでの朗読経験の有無は問いません

【注意事項】
 ・課題音源は.wav形式または.mp3形式にてご提出下さい。
 ・本番で読む作品は青空文庫掲載作品に限ります。「いのち」というテーマから、
  ご自身(チームメンバー)の自由なイメージで2次審査開始時までに選書して下さい。
 ・出演者には、イベントで選書の理由についてインタビューします。
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本番は4月だそうですが、その参加者募集ということです。課題三作品に『智恵子抄』所収の光太郎詩「人類の泉」(大正2年=1913)が入っています。群読でやるというのも面白そうですね。

我こそは、と思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

まつたく毎日訪問客に責められてゐます。一昨日一人、昨日一人、今日四人といふやうなわけです。そして一日中の一番よい時間を取られるのであとは何も出来ません。夜は早くねて朝四時頃起き、朝食を早くすませて、九時前に一仕事する外ありません。今さうやつてゐます。 一聯の長い詩が出来さうです。

昭和21年(1946)9月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村。光太郎は隠棲のつもりでも、光太郎を慕う人々が放っておいてくれないという状況、結局、厳寒期を除いてずっと続きました。

「一聯の長い詩」は、翌年の雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」でしょう。

花巻より帰って参りましたが、そちらのレポートの前に、テレビ番組の再放送情報を。

まずは一昨日、初回放映があった「にほんごであそぼ」

にほんごであそぼ 道

地上波NHK Eテレ 2024年2月15日(木) 15:35〜15:45 2月17日(土)  07:00〜07:10

書道で学ぶにほんご・名文たかし・ぐうたらちんたら/道、朗読(津田健次郎)・こどもスタジオ/僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、偉人とダンス/結局のところ、間違った道でも、いつもどこかには通じているものなのだ。(ジョージ・バーナード・ショー)、うた「道程」

【出演】南野巴那 津田健次郎 齋藤孝 青柳美扇 世田一恵 中村彩玖 川原瑛都 川田秋妃
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続いて、今日の午後です。2時間ドラマの再放送。

おかしな刑事8 居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査!東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

地上波テレビ朝日 2024年2月14日(水) 13:55〜15:50

ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田”という名字が気にかかり…

◇出演者 伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、
     木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 ほか
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初回放映時(平成23年=2011)のサブタイトルが「地上333メートルの殺意!! ホームレスが隠した事件の謎!? 安達太良山で待ち受ける真実!! 『智恵子抄』に秘められた想いとは…」。事件関係者の一人が、智恵子の故郷・二本松出身という設定で、安達太良山、岳温泉、智恵子生家などでのロケが敢行されました。

もう1件。

偉人の年収 How much? 選 歌人 与謝野晶子

地上波NHK Eテレ 2024年2月17日(土) 20:00~20:30

教科書に載るような偉人たちはいくら稼いでいたの?お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる!今回は「情熱の歌人」与謝野晶子の素顔に迫ります。

愛の歌集「みだれ髪」で衝撃的にデビューした与謝野晶子。初めての収入は何に使った?夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意するため、晶子が始めたこととは?大正時代には男女の意識の変革を訴え、昭和になるとあることに打ち込んだ晶子。鉄幹死後の晩年の年収は?グローバルな視点でいまの私たちにも訴えかけてくる与謝野晶子の姿を今野浩喜が演じ、谷原章介、山崎怜奈と語り合う。

出演者 【司会】谷原章介,山崎怜奈,【出演】今野浩喜
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初回放映は先月8日でした。光太郎の姉貴分・与謝野晶子ということで、ひょっとすると光太郎に触れられるかな、と思って拝見したのですが、残念ながら触れられず。それでもなかなか見応えがございました。
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光太郎には触れられませんでしたが、光太郎が終生敬愛し続けたロダン。
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さらに、晶子が現代語訳をした『源氏物語』については、光太郎とも交流の深かった堀口大学、佐藤春夫の評。
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光太郎も与謝野夫妻の雑誌『冬柏』に「所感-与謝野晶子『新新訳源氏物語』-」(昭和14年=1939)という一文を寄せているのですが。

それから、拝見していて「ありゃま」。コメンテーターとして、神奈川大学さんの講師・小清水裕子氏がビデオ出演なさいました。同氏、当会主催の連翹忌の集いにも複数回ご参加下さっています。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

検閲済みの印など捺されておハガキが届きました。小生のハガキも時々捺印されてゆくでせう。


昭和21年(1946)9月11日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

GHQの指導でしょうか、私信まで検閲対象だったわけで。戦時中でも一般人のそれは対象にはなっていなかったと思うのですが。それもこれも敗戦国だから仕方がなかったのですが、こんな時代に逆戻りすることがあってはなりませんね。

1年以上前の刊行ですが、つい最近入手しました。

世界で最初に飢えるのは日本 食の安全保障をどう守るか

2022年11月16日 鈴木宣弘著 講談社(講談社+α新書) 定価900円+税

いまそこに迫る世界食糧危機、そして最初に飢えるのは日本、国民の6割が餓死するという衝撃の予測……アメリカも中国も助けてくれない。国産農業を再興し、安全な国民生活を維持するための具体的施策とは?
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目次002
 まえがき
 序章 「クワトロ・ショック」が日本を襲う
  「飢餓」が現実になる日
  「大惨事が迫っている」国際機関の警告
  コロナで止まった「種・エサ・ヒナ」
  ウクライナ戦争で破壊された「シードバンク」
  世界で起こっている「食料・肥料争奪戦」
  「バイオ燃料」が引き起こした食糧危機
  一日三食「イモ」の時代がやってくる
  日本には「食料安全保障」が存在しない
  「市場戦争」と「自己責任」が食糧危機を招いた
  なぜ「食料増産」をしないのか
 第一章 世界を襲う「食の10大リスク」
  穀倉地帯を直撃した「ウクライナ戦争」
  国力低下の日本を直撃「中国の爆買い」
  人手不足を悪化させた「コロナショック」
  もはや当たり前になった「異常気象」
  「原油価格高騰」で農家がつぶれる
  世界の食を牛耳る「多国籍企業」
  食を軽視する「経産省・財務省」 
  「今だけ、カネだけ、自分だけ」の「新自由主義者」が農業を破壊する
  「農業生産の限界」が近付いている
 第二章 最初に飢えるのは日本
  日本の食料自給率はなぜ下がったのか
  コメ中心の食を壊滅させた「洋食推進運動」
  食料は武器であり、標的は日本
  コメ中心の食生活がもたらす「10のメリット」
  有事にはだれも助けてくれない
  「食料はお金で買える」時代は終わった
  「食料の収益性」を挙げても危機は回避できない
  「食料自給率を上げたい人人はバカ」の問題点
 第三章 日本人が知らない「危険な輸入食品」
  台湾で「アメリカ産豚肉の輸入反対デモ」が起きたワケ
  「成長ホルモン牛肉」の処分地にされる日本
  「輸入小麦は危険」の理由
  「日米レモン戦争」とポストハーベスト農業の真実
  ポテトチップスに使われる「遺伝子組み換えジャガイモ」
  輸入食品の危険性は報じられない
  世界を震撼させた「モンサントペーパー」
  「遺伝子組み換え表示」が実際に無理になったワケ
  表示の無効化に負けなかったアメリカの消費者
 第四章 食料危機は「人災」で起こる
  世界中で「土」が失われている
  化学肥料農業を脅かす「リン枯渇問題」と「窒素問題」
  農薬が効かない「耐性雑草」の恐ろしさ
  世界に広がる「デッドゾーン」
  多国籍企業が推進する「第二の緑の革命」
  「アメリカだけが利益を得られる仕組み」が食料危機をもたらす
  「牛乳余り問題」という人災
  「買いたくても買えない」人には人道的支援を
  あってはならない「酪農家の連鎖倒産」
 第五章 農業再興戦略
  「日本の農業は過保護」というウソ
  日本農業の「三つの虚構」
  農業の大規模化はムリ
  有機農業で中国にも遅れをとる
  「農業への補助金」実は大したコストではない
  「みどりの食料システム改革」
  「GAFAの農業参入」という悪夢
  「三方よし」こそ真の農業
  給食で有機作物を
  「ローカルフード法」は日本を変えるか
  日本のお金が「中抜き」される理由
  「ミュニシパリズム」とは何か
  「新しい食料システム」の取り組み
  「有機農業&自然農法」は普及できるか
 あとがき

著者の鈴木宣弘氏は東京大学大学院農学生命科学研究科教授。食糧問題に関する提言をされる中で、光太郎の言葉を引用されています。当方が最初に気づいたのは一昨年3月の地方紙『長周新聞』さんに載った「【緊急寄稿】日本は独立国たりえているか―ウクライナ危機が突きつける食料問題」という記事で、光太郎最晩年の詩「開拓十周年」(昭和30年=1955)の一節、「食うものだけは自給したい。個人でも、国家でも、これなくして真の独立はない」が引用されていました。その後(その前からも)、鈴木氏、ことあるごとにこの一節を紹介されています。そして今回ご紹介する『世界で最初に飢えるのは日本 食の安全保障をどう守るか』でも。

それにしても目次を見ただけでもショッキングな言葉が並んでいますね。しかし、陰謀論者の強引な牽強付会とは一線を画し、きちんとしたエビデンスに基づいて理路整然と論が展開しています。

こういう問題についつい目を背けがちなのは、国民はバカでいてほしいと願う、壺の大好きな為政者たちの思う壺なのかも知れません。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

貴下に頂いた南瓜も成り、真壁さんにいただいた帯紫茄子も種子から育てて大成績をあげ、既に毎朝新鮮なのを賞味して居ります。


昭和21年(1946)9月5日 更科源蔵宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村でまがりなりにも三畝の畑を開墾し、野菜類はほぼ自給していた光太郎、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」では「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。
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ネタ不足となってきまして、では「自分でネタを作ってしまえ」と(笑)、いわゆる「漢字ナンクロ」を自分で作ってみました。

きっかけは昨年10月に発行された漢字ナンクロの専門誌『別冊漢字館 Vol.112』。「特集 ある芸術家の愛と哀 高村光太郎」というわけで、昨年生誕140周年だった光太郎にちなむ漢字ナンクロを3問掲載して下さいました。

それを実際に解いてみて、さらに他の光太郎にからまない問題も一通り解き、すると、ふと思いました。「これなら俺にも作れるんじゃね?」(笑)。

で、出来たのが下記です。

まずは昭和3年(1928)の光太郎詩「あどけない□」。「□」は問題の一部ですので「□」です。
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空欄になっている10文字の漢字を埋めて下さい。光太郎智恵子ファンの皆様には簡単ですね(笑)。

その同じ番号の漢字を下記に埋め、残り34文字も考えて下さい。
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判った漢字は下記のチェックリストにも埋めていきましょう。
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そして「9」、「12」、「24」……と埋めていくと、光太郎智恵子に関わる単語(固有名詞ですが)が現れます。

014最近はこの手のアプリもあって、それだと選択肢があってPCやスマホ上でピッピッピと選んで埋めていける感じなのですが、このサイトはそういうテクノロジーに対応していませんので、すみませんが、上記3枚の画像をプリントアウトし、鉛筆片手にチャレンジして下さい(笑)。

「簡単に作れるだろう」と高をくくっていたら、そうでもありませんでした。単純にマス目に熟語等を埋めるだけなら意外に簡単なのですが、それでは問題として成立しません。問題として成立させるためのルールというか縛りというか、いろいろハードルがありまして。

その1、一つの漢字を複数回使う。「11」~「44」は最低2回、使っています。1回しか出てこない文字は問題にせず、ヒントを兼ねて最初に埋めておくというルールです。「1」~「10」には1回しか出てこないものもありますが、最初の「あどけない□」の詩の中にも使われているので、そこは勘弁して下さい(笑)。

その2、常用漢字以外は避ける。今日の記事、下の方に出てくる「瀝」などというような漢字は使っていませんので、御安心を(笑)。

その3、黒マスが上下左右に隣り合っていてはいけない。これは通常のクロスワードパズルなどでも同じですね。ただ、アプリではこのルールは適用されていませんし、紙版でも「スケルトン」というタイプの問題だとそうではないのですが。

その4、最初に埋めておく漢字が上下左右に隣り合っていてはいけない。これはかなり高いハードルでした。そのために次のその5との兼ね合いが難しゅうございました。

その5、一般的ではない語は避ける。苦言を呈させていただければ専門誌やアプリではこの点のハードルが低く設定されています。物書きの端くれの当方も「こんな言葉知らねーよ」というのがけっこう使われていまして。そこで、そういう文句が出ないようにと考えて作りました。しかし、一度完成したところで妻に解いてもらったところ、「こんな言葉知らねーよ」が続出(笑)。駄目出しをくらったのは「城代家老」「紫禁城」「大本営」などなど。「この程度の言葉知らんのか」と言うと後が怖いので(笑)それはぐっと飲み込み、その周辺の部分は変えました。それでもまだ無理くり感のある語はどうしても残っています。すみません。

013その6、全ての白マスがつながっていなくてはならない。二度目に完成した後、見直してみたら、左下5分の1くらいの部分が黒マスに遮断され、孤島になっていました。右のような感じで。このルールはマストではないのかな、とも思ったのですが、やはり美しくないので変えました。

そんなこんなで三度目の正直(笑)。明日から世間的には三連休と言うことで、多少はお時間おありのことと存じます。ぜひチャレンジしてみて下さい。

ただし、誠に申し訳ありませんが、正解した方の中から抽選で××名様に……とはいきませんのでよろしく(笑)。

【折々のことば・光太郎】

おハガキ二枚届き、本当に安心しました。 滴瀝をまだ書かない事に気づきました。今日明日にも書きます。

昭和21年(1946)8月30日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

「滴瀝」は光太郎の親友で、この頃病床にあった水野葉舟の歌集。その題字の揮毫を頼まれていました。戦前の昭和15年(1940)に出た版の題字も光太郎が書きました。
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テレビ放映の情報です。

まず、新作。

にほんごであそぼ 道

地上波NHK Eテレ 2024年2月12日(月) 8:35~8:45 
再放送 2月15日(木) 15:35〜15:45 2月17日(土)  07:00〜07:10


書道で学ぶにほんご・名文たかし・ぐうたらちんたら/道、朗読(津田健次郎)・こどもスタジオ/僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、偉人とダンス/結局のところ、間違った道でも、いつもどこかには通じているものなのだ。(ジョージ・バーナード・ショー)、うた「道程」

【出演】南野巴那 津田健次郎 齋藤孝 青柳美扇 世田一恵 中村彩玖 川原瑛都 川田秋妃
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これまでも繰り返し光太郎詩を取り上げてきて下さった「にほんごであそぼ」。今回は「道程」で、現在流布している詩集『道程』(大正3年=1914 10月)収録の9行のものではなく、雑誌『美の廃墟』に発表(同年3月)された初出の102行バージョン。さすがに長いので抜粋ですが。

昨年、スタッフさんから読み方等のレファレンス依頼があり、その際には「2024年1月放映予定」と伺ったのですが1月中に無く、「お蔵入りか?」と思ったところ、2月に入ってのオンエアとなりました。

さらに「うた「道程」」。おそらく故・坂本龍一氏作曲の番組オリジナル曲と思われます。

続いて再放送系。

びじゅチューン!「指揮者が手」

地上波NHK Eテレ 2024年2月6日(火) 17:30〜17:35 2月9日(金) 23:50〜23:55

古今東西の美術作品を井上涼のユニークな発想でうたとアニメーションに。今回は、高村光太郎の彫刻「手」(東京国立近代美術館)。この彫刻は、指をやんわり曲げていたり親指が反り返っていたりと、細かいニュアンスを伝えようとしているみたいに見える。これは、オーケストラを動かす指揮者なのかもしれない!「て」という音を効果的に取り入れた歌詞で、左手一本で音楽を自由にあやつる孤高の指揮者を歌う。

【出演】井上涼,【声】ジョリー・ラジャーズ

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初回放映は平成30年(2018)。その後、繰り返し再放送されてきましたし、令和2年(2020)発売の『びじゅチューン! DVDBOOK 5』にも収録されています。笑えます(笑)。

もう1件。

花ふぶき女スリ三姉妹のみちのく温泉デラックス無銭ツアー

BS松竹東急 2024年2月10日(土) 08:00〜10:00

逮捕も覚悟で一世一代の大仕事! 先祖代々のスリ一家に育った三姉妹、美恵・佳恵・沙恵は父譲りの妙技でスリを働いていた。そんな三人が、温泉とスリの旅にみちのくへ向かう。三人を見張る老刑事堀田もその後を追った。旅先で沙恵は松岡というエリート風の青年に出会い一目惚れ。その彼が会社の重要書類を盗まれて困っていると知り、沙恵たち三人は、川田たち三人のスリグループから、書類を取り返そうとするが…。

【公開・放送年】1988年
【出演者】叶和貴子、美保純、宮下順子、佐野浅夫、美木良介、八名信夫、宮尾すすむ、
     ビートきよし(ツービート)、猪野修平、美角友亮、不破万作 ほか


初回放映が昭和63年(1988)、地上波テレビ朝日さん系列での「火曜スーパーワイド」枠でした。光太郎第二の故郷・岩手県花巻市が主な舞台で、ストーリーとは直接の関わりはありませんが、郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)、光太郎が碑文を揮毫した桜町の宮沢賢治詩碑などでのロケが行われました。
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それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日は宮崎稔さんに託されて林檎、瓜などたくさんお届けくだされ、早速井戸の中につるし置きて、翌日宮崎さんや丁度来訪せられた佐藤昌先生等と一緒に賞味いたしました。『旭』と申しますが、早成林檎の爽味うれしく、一句試みました。  秋晴れて林檎一万枝にあり  まことに貴家の林檎園は壮観であります。


昭和21年(1946)8月22日 佐藤雪江宛書簡より 光太郎64歳

佐藤雪江は花巻病院長・佐藤隆房夫人。佐藤家でも林檎園を持っていたのですね。まったく花巻のリンゴは美味です。来週にはまた行って参りますので、ゲットして来ます。

俳句は戦後、十句ほど確認できているうちの一句です。

昨日はふと時間が出来まして、隣町の成田市に行っておりました。細かく言うと、市の南部、成田空港を擁する三里塚地区。かつて宮内庁の旧御料牧場があった場所です。関東大震災後、そこからほど近い場所に第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も訪問、詩「春駒」を作りました。

御料牧場の跡地の一角に整備された三里塚記念公園に、「春駒」を刻んだ詩碑が昭和52年(1977)に建立されていまして、何度も拝見に伺ったのですが、最近になってその近くに別のオブジェがあることを知りました。

それがこちら。
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空港関連施設の高いコンクリート壁、100㍍ほどにわたって描かれた壁画。地元の方々の手になるもののようです。

その1枚目が、「春駒」。隣町に住んでいながらこういうものがあったというのを全く存じませんで、汗顔の至りでした。
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先述の詩碑にも使われた光太郎自筆原稿を写したものです。

これが1枚目で、このあと、「むかしの三里塚」ということで戦前からの御料牧場が描かれた壁画がずらっと。まさに光太郎も目にした風景です。
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この後は現代の三里塚を描いた作品など。そちらは割愛させていただきます。

いつ頃描かれたものか明記はされていないのですが、近くの小学校を描いた絵のキャプションに「平成四年四月、七〇〇名、二一学級の児童が学んでいます」とあるので、その頃と思われます。

近くまで来ましたので、「春駒」詩碑も久しぶりに拝見。一昨年、やはり近くの三里塚コミュニティセンターさんで開催された「三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』展」を観に行った時は、上記画像の貴賓館が改修工事中で詩碑のある一角にも立ち入れませんでした。
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すっかり冬枯れて箒になっていますが、並木はパリ時代に光太郎が愛したマロニエです。

以前は詩碑まで勝手に行けたのですが、今は敷地内の御料牧場記念館さんの方にお願いして柵を開けていただくようになっていました。ちなみにやはり同じ敷地内のやんごとなき方々のための防空壕も同じ扱いです。
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貴賓館。改修工事もすっかり終わっているようで。

ここの庭のような一角に、葉舟の歌碑(左)と「春駒」詩碑(右)が並んで(といっても少し離れていますが)立っています。
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葉舟歌碑には短歌「我はもよ野にみそぎすとしもふさのあら牧に来て土を耕す」が刻まれています。昭和29年(1954)、元々光太郎が揮毫する予定で一度は承諾したのですが、健康状態がすぐれず、代わりに窪田空穂が筆を揮いました。

そして「春駒」詩碑。
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ブロンズパネル制作は西大由、光太郎実弟にして鋳金家だった豊周の弟子筋です。花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くの「雪白く積めり」詩碑パネルも西の手になるものでした。

碑陰記の筆跡は当会の祖・草野心平。
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何度も訪れた場所ですが、昭和52年(1977)の除幕の際にはここに西や当会顧問であらせられた故・北川太一先生、葉舟子息にして光太郎とも交流のあった元総務庁長官の故・水野清氏なども列席されたのだな(心平は欠席)と思うと、感慨深いものがありました。
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このあたり、昔から桜の名所です。その頃にぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

肋膜だつたとは驚きました。十分によく治してしまつて下さい。此頃は若い人のかかる病気に年輩の者もかかるやうです。脂とタンパクの不足の為かも知れません。

昭和21年(1946)7月15日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の光太郎から三里塚の葉舟へ。光太郎が山村での独居自炊を決心した陰には、親友の葉舟が開墾生活を送っていたことの影響も考えられます。他にも辺境で活動していた友人知己は少なからずいましたが。

その葉舟、約半年後に肋膜炎でこの世を去ります。

清流出版さん発行の『月刊清流』。コンセプトは「すべての女性に贈るこころマガジン」だそうです。

その最新号、2024年2月号に「『智恵子抄』と智恵子」という記事が出ているというので、購入しました。
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智恵子の生涯のアウトライン紹介が主で、さらに『智恵子抄』から「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)の全文が掲載されています。

015しかし、「私たちにさまざまなことを気づかせてくれる、奇数月連載安芸正宏さんの「こころのヒント」。偶数月の号では、近号からキーワードを選び、「こころのヒント」の味わいを深めたいと思います。」だそうで、昨年9月号に載った「こころのヒント 「おしゃれ」って何だと思いますか? 流行に左右されないスタイル」というエッセイで、やはり『智恵子抄』収録の「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)が紹介されたことを受け、では智恵子や「智恵子抄」を紹介しよう、ということのようでした。

そこで、昨年9月号も追加で注文し購入した次第です。

「安芸正宏」さんという方、どこにもプロフィールが載っていませんが、一般社団法人実践倫理宏正会の名誉会長・上廣榮治氏のペンネームのようです。版元の清流出版さんもその系統の出版社なのですね。

ちなみに『月刊清流』さん、2017年9月号でも「詩歌(うた)の小径」という連載で、「あどけない話――高村光太郎」という記事を掲載して下さいました。

『月刊清流』さんは、書店での販売はおこなっておらず、公式サイトからオンラインで、それからAmazonさんでの取り扱いも最近始まったようです。

今号の目次はこちら。
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さて、明日はやはり『智恵子抄』がらみのエッセイの載った新刊書籍をご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

さすがに此の山の中にも春が来ました。まだ降雪も時にはありますがすぐに消え、日かげさす時は随分温かで暁天の朝靄うすむらさきに、黄セキレイの声やうぐひすの囀りもきこえはじめました。


昭和21年(1946)4月17日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移って初めての冬が終わりました。冬を愛した光太郎も、さすがにそこまで厳しい冬とは予想していなかったようで、春の訪れにほっとしている気配が見て取れます。

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