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何とも意外な系統の雑誌で光太郎特集を組んで下さいました。

別冊漢字館 Vol.112

2023年10月19日 株式会社ワークス発行 一般社団法人パズル検定協会監修 定価560円(税込)

特集 ある芸術家の愛と哀 高村光太郎
 アメリカ・フランスに留学し、ロダンに傾倒した彫刻家の高村光太郎。詩人としてもすぐれた作品を数多く残し、特に妻・智恵子との日々を描いた『智恵子抄』は、時代を超えて愛され続けています。今回の特集は、今年で生誕140周年を迎えた日本の芸術家『高村光太郎』です。
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表紙を見てわかるとおり、漢字ナンクロの専門誌です。「ナンクロ」は「ナンバークロスワードパズル」の略で、熟語の一部を構成する複数のマスに書かれているナンバーが同じであれば同一の漢字が入る、というのが基本ルールです。

例えば表紙のこの部分。17のマスにはどうやら「会」が入りそうです。「会談」「会合」「入会地」……。すると下の方の「立×○」は「立会○」。となると「立会人」で、11のマスは「人」かな……というふうに埋めてゆくものです。
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この手のパズルが全45問掲載されています。おおむね見開き2頁で1問。一部、片袖折を使って見開き4頁という巨大なものも。

これでどうやって光太郎特集を組むのかと思ったら、45問中の3問で、みごとに光太郎にからめて作成されていました。

第35問が「正統派ナンクロ」。詩「道程」を使って、枠外にボナンザ(ヒント)。それで全66文字中の18文字がわかりますので、あとはそれを手がかりに……というわけです。
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第34問は、「スケルトン風」。こちらは埋まるべき熟語がいくつか提示されており、それを糸口に、という構成です。「智恵子」やら「白樺」やらを配し、「いやー、うまいな」と感じました。
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上記2問、まだ暇がなくて取り組んでいませんが、次にご紹介する第33問のみ、解いてみました。こちらは「大マス入り」だそうで。「なんじゃ、そりゃ?」と思ったら、「中央の大マス「高村光太郎」は、いずれか1文字が隣り合うマスとつながって熟語になります」とのこと。つまり、こういうことですね。
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「高村」の「村」と、右下の2マスで「村役場」となるわけです。こういうタイプもあるんだ、と感心しました。ただし、上記2問と異なり、ヒントはこの部分だけです。

この第33問だけ、解いてみました。悪戦苦闘すること約50分で完成。「中級」と謳われており、50分というのは早いのか遅いのか、何ともわかりませんが。ものすごく難しい漢字は使われていませんでした。しかし、熟語としては広辞苑レベルの辞書でないと載ってないんじゃないの? というものもあったり、もっと長い熟語の一部として含まれるけど、この二文字だけでは使わないぞ、というのもあったりして苦労しました。また、この2文字とこの3文字で5字熟語にするかぁ? というものも。50分かかった負け惜しみですが(笑)。

そして、全3問とも、「全部解けたら、チェック表から抜き出した文字で、高村光太郎と縁のある3つの言葉を言葉を作って下さい」。
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第34問と第35問はまだ手をつけていないのでわかりませんが、第33問では、できあがる3つの言葉も上手くつながっていまして、舌を巻かされました。光太郎は「○×▲」の「●□」に「■△」した、という感じです。詳しく見ていませんが、懸賞もついており、この部分を書いて応募するのでしょう。

問題の難易度等に応じていろいろコースがあるようで、最高は「現金10,000円」。その他「万能電気鍋」だの「防災多機能ラジオ」だのに混じって、岩波文庫版『高村光太郎詩集』も。思わず「いらねーよ!」と呟いてしまいました(笑)。すみません(笑)。
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というわけで、ぜひお買い求めの上、チャレンジしてみて下さい。当方の行った新刊書店さんでは、平積みになって置いてありました。

【折々のことば・光太郎】

おてがみで御申越の玉子の事はむしろ子供達におあげ下さい。今日は大人よりも子供等を一層大切にせねばなりません。次代の為にはすべてを捧げるやうにしたいと思つてゐます。


昭和17年(1942)5月15日 石黒しづえ宛書簡より 光太郎60歳

戦時下での食料不足の折、「卵を送りましょう」という申し出に対しての断りです。遠慮する理由がいいですね。壮年期から老境の光太郎、こうした若い世代への心遣いは一貫して持ち続けました。

加藤昌則氏作曲の歌曲「レモン哀歌」をレパートリーの一つにして下さっている、カウンターテナーの藤木大地氏。

「レモン哀歌」がプログラムに入ったコンサート/リサイタルがたてつづけに開催されます。

まず、カウンターテナーお三方と、ピアノで加藤氏によるコンサート。

Hakuju Hall 20周年記念 カウンターテナーの饗宴

期 日 : 2023年10月19日(木)
会 場 : Hakuju Hall 東京都渋谷区富ヶ谷1-37-5
時 間 : 19:00 (開演)18:30 (開場)
料 金 : 5,000円(全席指定)

出 演 : 米良美一 藤木大地 村松稔之(以上、カウンターテナー) 加藤昌則(ピアノ)
曲 目 : 
 [村松ソロ]
  J.A.ハッセ:オラトリオ「聖ペトロとマグダラのマリア」より “我が苦しみよ、急げ”
  G.F.ヘンデル:歌劇「リナルド」より “私を泣かせてください”
  G.ロッシーニ:歌劇「タンクレーディ」より “この胸の高鳴りに”
 [藤木ソロ]
  武満徹(詞:谷川俊太郎):死んだ男の残したものは
  寺島尚彦(詞:寺島尚彦):さとうきび畑
  村松崇継(詞:Miyabi):いのちの歌
 [米良ソロ]
  久石譲(詞:宮崎駿):もののけ姫 
  美輪明宏(詞:美輪明宏):ヨイトマケの唄
 [加藤昌則 作品]
  加藤昌則(詞:千家元麿):落葉 [村松]
  加藤昌則(詞:高村光太郎):レモン哀歌 [藤木]
  加藤昌則(詞:山之口貘):ミミコ三部作 [米良]
 [三重唱]
  加藤昌則編:日本の歌メドレー
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実は先々週くらいに取り上げようとしたら、すでにチケット完売(ただ、キャンセル等があるかも知れません)とのことでした。そこで下記の藤木氏単独リサイタルと併せて、今日、ご紹介します。

で、藤木氏の単独リサイタルが2件。名古屋と東京で2日連チャンです。

藤木大地カウンターテナー・リサイタル

期 日 : 2023年10月31日(火)
会 場 : メニコンHITOMIホール 愛知県名古屋市中区葵3丁目21番19号
時 間 : 18:45 (開演)18:15(開場)
料 金 : 一般:¥4,000(前売り)¥4,500(当日)
      高校生以下:¥2,500(前売り・当日ともに)

出 演 : 藤木大地 マーティン・カッツ(ピアノ)
曲 目 : シューベルト:水の上で歌う
      ブラームス:永遠の愛
      フォーレ:月の光
      マーラー:連作歌曲集「さすらう若人の歌」
      ブリテン:流れは広く
      加藤昌則:レモン哀歌  ほか
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藤木大地カウンターテナー・リサイタル

期 日 : 2023年11月1日(水)
会 場 : 浜離宮朝日ホール 東京都中央区築地5-3-2
時 間 : 19:00(開演)18:30(開場)
料 金 : 全席指定:一般 6,500円、U30 2,000円(税込)

出 演 : 藤木大地 マーティン・カッツ(ピアノ)
曲 目 : F.シューベルト:水の上で歌う
      J.ブラームス:永遠の愛
      G.フォーレ:月の光
      R.アーン:わたしの詩に翼があったなら
      G.マーラー:連作歌曲集「さすらう若人の歌」
      V.ウィリアムズ:リンデン・リー
      B.ブリテン:流れは広く
      加藤昌則:レモン哀歌
      R.シューマン:連作歌曲「女の愛と生涯」
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それぞれ、ご都合の付く方、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

この二十二日から少国民文化協会の連中と上州の方へ二三日間まゐります。


昭和17年(1942)3月19日 三ツ村繁蔵宛書簡より 光太郎60歳

上州行きは前年の真珠湾攻撃で戦死した「軍神」岩佐直治中佐顕彰のためでした。3月22日には前橋市群馬会館で開催された「少国民文化宣揚講演会」で岩佐らを謳った詩「特別攻撃隊の方々に」を朗読、翌23日には岩佐の遺族を訪問しています。

その際のレポートを「天川原の朝」として4月6日の『読売新聞』に寄稿。さらに岩佐家訪問の際に贈られたと推定される色紙写真版が翌年に岩佐遺族が私刊した『特別攻撃隊軍神岩佐海軍中佐』に掲載されました。
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朗読のイベントを2つご紹介します。

開催順にまずは北海道。

第31回 葦の会 朗読会

期 日 : 2023年10月7日(土)
会 場 : 札幌市資料館 研修室 札幌市中央区大通西13丁目4-194
時 間 : 13:30~16:00
料 金 : 500円

第31回 葦の会 朗読会を開催します。
<プログラム>
 志賀直哉 作 『 転生 』 岡田しづよ
 芥川龍之介 作 『 蜜柑 』 後藤朋子
 江戸川乱歩 作 『 日記帳 』 奈良千鶴
 有島武郎 作 『 小さき者へ 』 栗原幸子
 <休憩>
 樋口一葉 作 『 たけくらべ 』より 今堀祥子
 佐藤春夫 作 『 小説 智恵子抄 』より 山口照代
 森浩美 作 『 褒め屋 』 植松尚美
  指導・進行佐藤 雅子
「葦の会」は、1990年4月朝日カルチャーセンター朗読講座で基礎を学んだ有志で結成した会です。朗読の楽しさ、奥深さ、楽しさを感じながら、月1回の勉強会を重ねています。年に1回朗読会を実施しています。

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光太郎と親しかった佐藤春夫の『小説 智恵子抄』からの抜粋がプログラムに入っています。同作は光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、雑誌『新女苑』に連載されたジュブナイルです。連載当時のタイトルは「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」。昭和32年(1957)に実業之日本社で単行本化、のち、角川文庫のラインナップに入りました。今日現在、KADOKAWAさんのサイト上にも登録があり、絶版というわけではないのかな、と思われます。文庫版の解説は当会の祖・草野心平です。

佐藤自身による「はしがき」によれば、

 詩集「智恵子抄」はだいたいとして事実、実感を重んじて書かれた半記録らしいのに較(くら)べて、わたくしのは徹頭徹尾、小説で虚実取り交えたもので、作中人物も実名あり架空の人名あり、作中の土地も踏査の暇なくすべて居ながらにして名所を知った架空風景である。その心して読まれたい。

とのこと。

おおむね光太郎や周辺人物から聞いた話などを元にしているのでしょうが、たしかに「虚実取り交えた」部分があります。ただ、どこまでが「実」でどこからが「虚」かの見極めが難しいところです。

例えば、昭和8年(1933)夏、光太郎は心を病んだ智恵子を伴い、その療養のため東北と北関東の温泉廻りをしていますが、確認出来ている最初の逗留先は裏磐梯川上温泉です。しかし同作では川上温泉に泊まる前日、近くの中ノ沢温泉の「花見屋」という宿に一泊したということになっています。そこが他の客との相部屋しか無く、しかたなしに頼み込んで主人の居室に泊めてもらい、翌日、主人の紹介で川上温泉に移ったと。このあたり、こちらで把握している光太郎年譜にはそうした事実が確認出来ません。すると、佐藤による創作かな、とも考えられるのですが、厄介なことに「花見屋」が実在します。ただしそちらでは「光太郎智恵子が泊まった宿」という宣伝はなさっていないようです。それにしても佐藤の記述が非常にリアルでして……。

閑話休題、もう1件、朗読イベントを。続いては光太郎終焉の地・東京都中野区です。

くつろぎの朗読会

期 日 : 2023年10月17日(火)
会 場 : オルタナティブスペースRAFT 東京都中野区中野1-4-4
時 間 : 午後2時 午後7時 朗読時間は約80分です
料 金 : ¥2,300(珈琲、紅茶付き)

「ものがたり」に耳をかたむけながら、ゆったりまったりRAFTでくつろぎのお時間を。ものがたりとお飲み物をご用意してお待ちしております。

 智恵子抄 高村光太郎  火縄銃 江戸川乱歩

*読み手 出口佳代
高村光太郎の智恵子抄を、時系列に沿って、解説をナレーションしながら読んでいきます。光太郎と智恵子の愛をより深く感じていただけるのではと思います。後半は 江戸川乱歩に初挑戦いたします。ストーリー自体がまず面白いので、推理と種明かしを、一緒にスリルを感じながら楽しめたらと思います。よろしければ是非足をお運びくださいませ。
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予約してみました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

東京は今、地方の人の上京で満員の状態です。物資統制で皆不自由な生活をしてゐます。

昭和15年(1940)10月30日 長沼セン宛書簡より 光太郎58歳

千葉九十九里浜在住だった智恵子実母宛です。

太平洋戦争開戦までまだ1年余りありますが、泥沼化していたに日中戦争の影響で、物資不足。砂糖・マッチは既に配給制となっています。「地方の人の上京で満員」は、地方より東京府内の方が物資を入手しやすかったためでしょうか。

昨日のこのブログで書きましたが、このところ、新聞各紙で光太郎ゆかりの人物およびそのご子孫が取り上げられたりし、光太郎の名も出ることが相次いでいます。

今日は、宮沢賢治令弟にして光太郎と交流の深かった故・宮沢清六氏令孫・宮沢和樹氏。『朝日新聞』さん岩手版から。

賢治を語る 没後90年 切ない願い「雨ニモマケズ」 「林風舎」代表・宮沢和樹さん

 北東北の詩人・宮沢賢治が亡くなって21日で90年になった。賢治の代表作の一つとなった「雨ニモマケズ」の詩にはどのような思いが込められていたのか。彼の死後、多くの作品を世に送り出した賢治の実弟・清六さんの孫で、賢治のゆかりの品や肖像などを保護する「林風舎」(花巻市)の代表、宮沢和樹さん(59)に聞いた。008

――祖父の清六さんは、どのような人物でしたか?
 賢治と年が八つ離れていましたが、妹トシと並んで、賢治の最も良き理解者でした。
 賢治は多くの作品を世に残しましたが、生前刊行できたのは詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」の2冊だけです。賢治の作品のほとんどは死後、祖父の手を通して発表されました。童話にしてはやや難解ですので、最初はどの出版社からも相手にされませんでしたが、尊敬する兄の作品を世に送り出すことを、祖父はどこか自分の使命のように考えていました。

――詩人・高村光太郎も賢治を評価していました。
 当時、すでに詩人として成功を収めていた光太郎は、賢治と生前に一度面会し、その作品を「自分の作品よりも後世に残るものになるかもしれない」と高く評価していました。賢治の死後に刊行された全集の題字は、光太郎によるものです。
 戦争中、東京のアトリエが空襲で焼かれた光太郎は、疎開先として賢治の実家に身を寄せます。その際、清六は光太郎から「念のために防空壕(ごう)を作り、あらかじめ大切な物を避難させておいた方がいい」と助言され、賢治の原稿や資料を防空壕と土蔵の二つに分けて避難させました。結果、1945年8月10日に空襲が花巻を襲い、賢治の実家は焼けてしまいましたが、作品は奇跡的に残すことができました。

――花巻には「雨ニモマケズ」の詩碑があります。
 賢治の没後3年目の36年秋に建てられた最初の詩碑で、毎年賢治の命日には詩碑の前で「賢治祭」が開かれます。
 碑文は「雨ニモマケズ」が選ばれましたが、長いために後半部だけが刻まれました。
 碑文の字は光太郎によるものです。実は届いた文面には誤りがありましたが、高名な詩人の字であるため、そのまま刻印されました。その後、光太郎が誤りを正すために追刻を施し、世にも珍しい「直しの跡が見える詩碑」になっています。

――「雨ニモマケズ」で、清六さんが考えていたことは?
 「雨ニモマケズ」は、賢治が作品として残したものではなく、死の約2年前に病床で手帳に書いたものでした。
 そこには「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ」という文がありますが、祖父は常々、「この『行ッテ』が大事なのだ」と話していました。
 自分が実際に動くことが大事なのだ、そしてそれは、病床にいて自分では動くことのできない、賢治の切ない願いではなかったか、と。
 作品を通じて、賢治の願いや夢みた世界が、多くの人に伝わっていくことを願っています。


こうしたお話、氏のご著書『わたしの宮沢賢治 祖父・清六と「賢治さん」』(令和3年=2021 ソレイユ出版)などにも記されていますし、今年2月、光太郎がかつて暮らした花巻郊外旧太田村(現・花巻市太田)の太田地区振興会さん主催で行われた氏と当方の公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」などでも語られました。

過日も書きましたが、その公開対談が好評だったということで第2弾が11月1日(水)、宮沢賢治イーハトーブ館ホール行われます。今回はさらに生前の光太郎をご存じの方々などにもパネラーとなっていただき、当方がコーディネーターとしてお話を伺います。

昨日、フライヤーその他が届きました。
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詳細はまたのちほどご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生の過去を知るべき詩集は“道程”一冊しかなく、それが絶版になつてゐて不便なので文献上再版して置くべきだといふ事になるのでせう、これは拒否するいはれが無いやうです、それであなたの編輯といふ條件で再版を承諾します、

昭和15年(1940)8月8日 三ツ村繁蔵宛書簡より 光太郎58歳

この年11月、三ツ村の山雅房から刊行された『道程改訂版』に関わります。大正3年(1914)の初版『道程』をベースにしていますが、削除した詩篇もあり、その後の詩篇も多数追加、『道程』とはいいうものの、別の詩集というべきものでした。

11月には「150部限定版」、通常の「書店版」が同時に刊行され、翌年には「普及版」。こちらは昭和18年(1943)の9刷まで版を重ねました。昭和17年(1942)にはこれにより昭和16年度の第一回帝国芸術院賞受賞。

どうも戦時下における文化人代表の一人として光太郎を引っぱり出すため、実績を積ませようとする軍部や大政翼賛会(8月の時点では準備段階で、未だ正式に発足していませんが)の意図が、出版そのものの裏側に透けて見えます。

神奈川県鎌倉市から展示及びイベント情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その10

期 日 : 2023年10月6日(金)~11月28日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 11月11日(土) 15:00~
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「あじさい寺」として有名な北鎌倉は明月院さんの裏手にあるカフェ兼ギャラリー「笛」さん。
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ご主人の奥様が、光太郎のすぐ下の妹・しづの令孫にあたられ、お宅には光太郎直筆の書や古写真など、さまざまなものが伝わっています。昨年はNHKさんの「鶴瓶の家族に乾杯 市川猿之助が鎌倉でがんばる人を探す旅&坂道を走る人を叱る」で、笑福亭鶴瓶さんがお店をご訪問なさいました。
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また、すぐご近所に、光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏(サイエンス・アート研究者)もお住まいで、そちらには喜八の関連資料、そして光太郎から喜八の結婚祝い(新婦は光太郎の親友・水野葉舟息女)に贈られたブロンズの「聖母子像」も。
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毎年この時期に、こうした品々の展示をなさっています。昨年の様子はこちら。昨年から関連行事として、光太郎・喜八の詩の朗読会も開かれています。

今年も11月11日(土)に朗読会だそうで、当方、その日にお邪魔するつもりです。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

校歌作曲は弘田龍太郎氏が適当かと思ひます、同君は本郷区向岡弥生町三番地に居ますが木下小学校から直接におたのみになるなら名刺でも送りませうか。作曲料を予め問合せるといいと思ひます。

昭和15年(1940)5月11日 水野葉舟宛書簡より 光太郎58歳

葉舟作詞の校歌に関わります。

弘田龍太郎」は作曲家。大正年間、鈴木三重吉主宰の『赤い鳥』によって展開された童謡運動に共鳴、北原白秋らの作詞による童謡を同誌に相当数発表しました。今日でも歌い継がれている作品としては「靴が鳴る」(大正8年=1919 清水かつら作詞)、「叱られて」(同9年=1920 同)、「雀の学校」(同11年=1922 同)、「春よ来い」(同12年=1923 相馬御風作詞)などがあります。

また、正確な作曲年は不明で、楽譜が刊行された記録も見あたりませんが、昭和18年(1943)12月に日本コロムビア改め日蓄工業株式会社(戦時中の「敵性語追放」によります)から、光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」に弘田が曲を付けた歌曲のレコードがリリースされています。

木下(きおろし)小学校」は、千葉県印西市に現存し、校歌は葉舟の作詞、弘田の作曲です。一帯は当時木下(きおろし)町。葉舟が居住していた遠山村(現・成田市)と同じ印旛郡に属し、おそらく地域の名士・葉舟に校歌作詞、併せて作曲家を紹介してほしい旨の依頼があり、さらに葉舟から光太郎に適当な作曲家は誰かという問い合わせがあったものと思われます。

NHK Eテレさんで放映中の「にほんごであそぼ」。光太郎詩が取り上げられます。

にほんごであそぼ「服装」

地上波NHK Eテレ 2023年9月11日(月) 08:35~08:45 再放送 9月14日(木)15:35〜15:45

書道で学ぶにほんご・ぐうたらちんたら・花鹿亭/服装、朗読(津田健次郎)/「あなたはだんだんきれいになる」高村光太郎、偉人とダンス/やむを得ないそのときは、服装に無頓着でもいいんだよ。でもいつでも心はきちんとドレスを着てください。(マーク・トウェイン)、うた「なせばなる」

【出演】南野巴那,津田健次郎,柳家わさび,藤原道山,青柳美扇,世田一恵,中村彩玖,
    川原瑛都,川田秋妃
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俳優・声優の津田健次郎さんが光太郎詩「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)を朗読なさるようです。ちなみに7月には若手の高杉真宙さんの「あどけない話」(昭和3年=1928)朗読がありました。とても爽やかな朗読でしたが、今回はベテランの津田さん。経験を生かしての深みのある朗読を期待したいものです。
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   あなたはだんだんきれいになる

 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属。
 見えも外聞もてんで歯のたたない
 中身ばかりの清冽な生きものが
 生きて動いてさつさつと意慾する。
 をんながをんなを取りもどすのは
 かうした世紀の修業によるのか。
 あなたが黙つて立つてゐると
 まことに神の造りしものだ。
 時時内心おどろくほど
 あなたはだんだんきれいになる。

画像はこの詩の書かれた2年程前の大正14年(1925)頃。最近流行りのモノクロ画像をカラー化するアプリで遊んでみました。

この詩に関しては、エッセイ「智恵子の半生」(昭和15年=1940)でも触れられています。

私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、

をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。

と私が書いたのも其の頃である。

素のままの智恵子の美しさをたたえてはいますが、危険な考え方でもありますね。一種のモラハラに近いような。智恵子は自ら服装の簡易化を図ったのでしょうが、そうせざるをえない空気を作ったのは光太郎とも考えられます。実際、智恵子の心の病の顕在化はこの4年後でした。

ともあれ、「にほんごであそぼ」、ぜひご覧下さい。やはり見逃し配信もありますし。

【折々のことば・光太郎】

小生十九日夜突然大喀血をやつて、絶対安静療養をつづけてゐます、もう畧出血はとまりました。発熱無く食慾旺盛、心配は少しもありません


昭和11年(1936)12月27日 水野葉舟宛書簡より 光太郎54歳

光太郎は否定し続けましたが、結局は結核でした。智恵子共々、かなり早い時期から罹患していたようです。光太郎ほどに頑健ではなかった智恵子は約2年後に結核で死去。光太郎はこの後も20年近く生きながらえます。

2ヶ月近く経ってしまいましたが、新刊です。

ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界

2023年6月18日 佐藤広野編 コスミック出版 定価1,500円+税

 美しいイラストで彩られたガラスペンを愉しむためのなぞり書きBOOK
 
実際にインクで描かれた挿絵で鮮やかに彩られたページでお送りする、ガラスペンとインクを心ゆくまで愉しめる一冊です。宮沢賢治からアンデルセン童話まで、魅力的な文学を幅広く収録。後半ページには本文イラストを使用した&カードつき。切り離してお楽しみいただけます。
 
用紙が途中で変わる仕様となっており、さらっと、ざらっと、つるっと、3種類の用紙が愉しめます。
インク馴染みの良い、書き心地を重視した用紙をセレクトしました。
 
▽イラストレーター
惠/シーナケイ  定岡恵  ハコペン  模様デザイナーmaya
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目次
 本書の使い方
 第一章 星と夜空の文学
  銀河鉄道の夜 宮沢賢治
  夢十夜 夏目漱石
  あのときの王子くん アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
  星とピエロ 中原中也
  湖上 中原中也
  山月記 中島敦
  春夜 萩原朔太郎
 第二章 花と果実の文学
  一握の砂 石川啄木
  桜の樹の下には 梶井基次郎
  桜の森の満開の下 坂口安吾
  檸檬 梶井基次郎
  蜜柑 芥川龍之介
  或阿呆の一生 芥川龍之介
  たけくらべ 樋口一葉
 第三章 恋と罪の文学
  初恋 島崎藤村
  舞姫 森鷗外  
  女生徒 太宰治
  こころ 夏目漱石
  駆け込み訴え 太宰治
  蜜のあはれ 室生犀星
  人に 高村光太郎
  レモン哀歌 高村光太郎

  春琴抄 谷崎潤一郎
 第四章 海の向こうの文学
  赤ずきん グリム兄弟
  幸福の王子 オスカー・ワイルド
  はつ恋 イワン・ツルゲーネフ
  ロミオとジュリエット ウィリアム・シェークスピア
  人魚の姫 ハンス・クリスチャン・アンデルセン
  不思議の国のアリス ルイス・キャロル
  白雪姫 グリム兄弟
 レター&カード 切り離し付録
 作家紹介


最近流行りのガラスペン――その名の通り、ペン先(多くは本体も)がガラスで出来ているペンです。毛細管現象を利用する漬ペンという意味では、万年筆と似ていますが、ペン先が金属ではなくガラスなので、独特の風合いが醸し出されます。日本発祥で意外と歴史は古く、明治35年(1902)に風鈴職人・佐々木定次郎が発明したとされています。

本書は有名な文学作品の一節を、ガラスペンでなぞって書いてみよう、というコンセプトで、上記作品が1~2ページずつ引用され、薄く印刷されています。ちなみにそのフォントもいろいろです。バックの枠的なイラスト部分も、4人の作家さんがガラスペンで描いたものとのこと。
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光太郎詩が二篇、「人に」(大正元年=1912)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。

X(旧ツィッター)上で、この手の文学作品等の一節(多くは青空文庫さんで公開されているもの)を様々な筆記具で書いて投稿する、という「#○○書写」というハッシュタグが存在し、時折、光太郎作品、光雲作品が取り上げられています。なかなかの力作もあり、「いいね」を押させていただいております。

「書道」とまではいかないのかもしれませんが、新しい「書字」の一つの潮流として、かなり定着しているようですし、こうした流れにも敏感な書家の石川九楊先生あたり、「#○○書写」論を展開していただきたいところです。

さて、『ガラスペンでなぞって愉しむ きらめく文学の世界』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさん少々ぼんやりしてゐましたがひどく悪くなくて喜びました。あの筆にはまつたく驚きました。かういふところは全く天才的だと思ひます。それだけまた頭のくるふ事もあるのだとおもはれます。ちゑさんの天才を十分に発揮する事ができたら素晴らしいでせう。


昭和9年(1934)7月30日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心を病んだ智恵子を預かって貰っている、九十九里の智恵子実母宛。「あの筆にはまつたく驚きました」は、智恵子がまた絵でも描いたのかと思ったのですが、『高村光太郎全集』の解題に依れば、黒松の芽で筆を作ったのだそうです。それが驚くような出来だったということでしょう。

「ちゑさんの天才を十分に発揮する事」。まだこの時期の智恵子は有名な「紙絵」は作っていません。

新刊です。

父、高祖保の声を探して

2023年8月15日 宮部修著 思潮社 定価1,800円+税

昭和前期の抒情詩 いま ここに
 蛾は/あのやうに狂ほしく/とびこんでゆくではないか/みづからを灼く 火むらのただなかに/わたしは/みづからを灼く たたかひの/火むらのただなかへ とびこんでゆく/あゝ 一匹の蛾だ(「征旅」)
 「わたしは「征旅」の中に父の唯一の声を聞き出すことが出来た。これが本書の執筆動機なのだ。わたしはあえて「征旅」を父の辞世の詩と判定した。」(「おわりに」)

 堀口大學に『雪』の詩人と評され、ビルマに戦没した高祖保。その抒情詩の世界を元新聞記者の85歳の息子が精緻に辿る。出征直前の詩「征旅」に響く声とは――肉親ならではの渾身の評伝。
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目次
 はじめに
 第一章 詩人、高祖保の肖像
  幼年時代の苦悩
  ゆるぎない人間関係
  編集者魂
  詩の限界はどこまで広がるか
  エピグラフの効果
  詩と長歌の間に
  横書きの効果
 第二章 父の声
  第一詩集『希臘十字』 モダニズムにとりつかれて
  第二詩集『禽のゐる五分間写生』 詩に俳味をとりこむ
  第三詩集『雪』 「礼儀正しさ」
  第四詩集『夜のひきあけ』 戦火のもと誕生した生命
  追悼全詩集『高祖保詩集』収録の未刊詩集『独楽』 父の詩の新展開
  『独楽』の巻頭に突如、現れた詩「征旅」について
  辞世の詩 達観の八行、強烈なリズム
 おわりに
 年譜


高祖保(明治43年=1910~昭和20年=1945)は、岡山県牛窓町(現・瀬戸内市)に生まれ、父の死後、9歳で母と共に母の実家のあった滋賀県彦根に移り住みました。旧制中学時代から詩作に親しみます。國學院大學師範部を卒業し、横浜で叔父の経営する貿易会社に入社、のち、社長となったものの、昭和19年(1944)に出征し、翌年にはビルマ(ミャンマー)で戦病死しています。

昭和初め、高祖の個人雑誌に近かったという『門』に、確光太郎は2回寄稿しています。

最初が創刊号(昭和3年=1928)に載った詩「その詩」。
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   その詩

その詩をよむと詩が書きたくなる。
その詩をよむとダイナモが唸り出す。
その詩は結局その詩の通りだ。
その詩は高度の原(げん)の無限の変化だ。
その詩は雑然と並んでもゐる。
その詩は矛盾撞着支離滅裂でもある。
その詩はただ奥の動きに貫かれてゐる。
その詩は精算以前の展開である。
その詩は気まぐれ無しの必至である。
その詩は生理的の機構を持つ。
その詩は滃然と空間を押し流れる。002
その詩は転落し天上し壊滅し又蘇る。
その詩は姿を破り姿を孕む。
その詩は電子の反撥親和だ。
その詩は眼前咫尺に生きる。
その詩は手きびしいが妙に親しい。
その詩は不思議に手にとれさうだ。
その詩は気がつくと歩道の石甃(いしただみ)にも書いてある。

昭和2、3年(1927、1928)頃が、光太郎の文筆が最も旺盛だった時期で、まさにその時期の作。光太郎の詩論的なものもよく表されています。高祖はこの詩を受けとって感激し、座右に近い形にしていたとのこと。

さらに、同誌終刊号(昭和5年=1930)には「詩そのもの」という散文も寄せています。こちらも散文詩のような趣で、いい文章です。

 ヸタミンは抽出出来る。生命そのものは抽出出来ない。生命はいつでも物質にインカルネイトする。詩そのものの抽出も亦不可能である。詩はいつでも素材にインカルネイトする。真の詩人は、いかなる素材、いかなる思想をも懼れない。詩が生命そのものの如き不可見であり又遍在である事を知るからである。第二流の筆技詩人のみ、詩の為に素材を懼れ、詩に求む可きは詩の抽出なりと思惟する。是れ生命とヸタミンとを倒錯する者に類する。

また、昭和18年(1943)には、光太郎の年少者向け翼賛詩集『をぢさんの詩』の編集に高祖があたりました。光太郎本人による同書の序文には「なほこの詩集の出版にあたつて一方ならず詩人高祖保さんのお世話になつた事を感謝してゐる。」と記されています。平成25年(2013)の明治古典会七夕古書入札市で、光太郎から高祖に贈られた識語署名入りの『をぢさんの詩』他が出品されています。
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さて、前置きが長くなりましたが、本書は高祖の子息・宮部修氏(おん年85だそうで)のご執筆。昨年、土曜美術社出版さん発行の雑誌『詩と思想』が高祖の特集を組み、そちらに寄稿されていた、高祖の顕彰に当たられている清須浩光氏にいろいろご質問等させていただいたところ、清須氏から宮部氏に当方が紹介されたようで、宮部氏から直々に届きました。感謝に堪えません。

当方、高祖の詩は、手元にあるいくつかの詞華集や古雑誌(光太郎作品が掲載されているもの)にたまたま載っていた何篇かを読んだだけで、その全貌的なものは存じませんでした(光太郎オマージュの詩もあって微笑ましい感じでした)。で、本書にかなりの作品を掲載、また、宮部氏による的確な解説や考察が為され、その変遷の様も知ることができ、なるほど、こういう詩人だったか、と思った次第です。光太郎には書き得ない、透徹した美しい言葉を紡ぎ(ある種、難解な部分はあって、それは宮部氏もご指摘なさっていますが)、もっと広く世に知られるべき詩人だな、と存じました。

高祖は昭和20年(1945)、出征したビルマで戦病死。光太郎がいつその死を知ったか不明ですが、翌昭和21年(1946)には追悼文を書き、その死を惜しんでいます。その頃の光太郎は花巻郊外旧太田村の山小屋で独居中。当初は友人知己を呼んで岩手の山村に文化部落を作る、昭和の鷹峯だ、というような無邪気な夢想もあったのですが、徐々に自らの戦争責任への内省が進み、「わが詩をよみて人死に就けり」という心境に達します。その裏には、高祖ら、交流のあった人々の戦死を知ったことも大きく影響していたのではないかと思われます。

さらに本書では、光太郎以外に堀口大学、岩佐東一郎、田中冬二、井上多喜三郎、百田宗治らとの交流についても。光太郎も草野心平・尾崎喜八等の系統とは別に、これらの人々ともつながりがあって、そうした部分でも興味深く感じました。

といううわけで、ぜひ、ご購読下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑさんの健康は目に見えてよくなつたやうに見うけ、喜びました。身体がよくなれば自然と頭の方もよくなる事かと考へます。御看護の御苦労をお察し申上げます。皆様のお心づくしを忝い事に存じます。


昭和9年(1934)6月29日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心の病の療養のため智恵子を預けた九十九里の智恵子実母宛。「健康は目に見えてよくなつた」は結核性の疾患の方。残念ながら「身体がよくなれば自然と頭の方もよくなる事」は叶いませんでした。

新聞記事から2件ご紹介します。

まず『宮崎日日新聞』さん、一昨日の一面コラム。

くろしお    コメ愛着

 1924年5月、医学留学の途中でドイツのミュンヘンにいた歌人斎藤茂吉は「夕ひとり日本飯くふ」の詞(ことば)書きを添えて歌を詠んでいる。「イタリアの米を炊(かし)ぎてひとり食ふこのたそがれの塩のいろはや」。
 連日の洋食に飽き、ようやく手に入れたコメ。しかし「?(か)みあてし砂さびしくぞおもふ」と続けて詠んでおり味や食感は日本と少し違ったのではないか。「コメを選んだ日本の歴史」(原田信男著)によると、望郷のさびしさはコメによってさらに増幅したようだ。
 また米国を経てロンドン・パリに留学した経験を持つ詩人の高村光太郎は肉食を謳歌(おうか)した。しかし56歳となった1939年「米のめしの歌」という詩で「米のめしくひ 味噌汁食べて、われらが鍛えた土性骨(どしょうぼね)。われらのいのち 米のめし」とうたい、コメを絶賛している。
 確かに今も外国を旅した人から「苦労したのは食事。日本のコメが恋しかった」という話はよく聞く。パンや肉食を好む人も年齢を重ねてコメ食になったという話も珍しくない。長年培われた食習慣は食の志向を決定づける。食が多様化した現在も日本人のコメへの愛着は信仰に近いといえそうだ。
 ただ2022年度の食料自給率がカロリーベースで前年度と同じ38%、生産額ベースで5ポイント低下の58%と聞くと、コメを中心とする日本の食が危ういと心配する。先進国では最低水準。輸入に頼らず食を守るには本県のような生産基盤の強化が求められよう。

引用されている「米のめしの歌」は、光太郎生前には活字になったことが確認できていない作品です。『高村光太郎全集』には、残された草稿から採録されました。
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   米のめしの歌004

      一
  茶わんもつのは  ひだりの手。
  箸をもつのは   みぎの手。
  米のめしくひ   味噌汁たべて、
  われらが鍛へた  土性骨。
  低きに居り    高きに住む。
  われらのいのち  米のめし。

      二
  朝日出るのは   野のひがし。
  夕日しづむは   山のにし。
  田植 草とり   稲こきをへて、
  りつぱに仕上げた 倉の米。
  粒々なほ     辛苦のあと。
  われらのいのち  米のめし。

      三
  秤もつのは    みぎの手。
  枡をもつのは   ひだりの手。
  神代ながらの   瑞穂の国は、
  八千万石     民の汗。
  たのむに足り   くへど飽かぬ。
  われらのいのち  米のめし。

草稿の欄外には、「国民歌第二試作」の文字が見えます。「国民歌」は、「文部省撰定日本国民歌」。日中戦争がすでに激化していた昭和13年(1938)、当時の文部省が「日本国民歌運動」の展開を開始しました。

これに先立つ昭和11年(1936)には、日本放送協会大阪中央放送局がラジオ番組「国民歌謡」の放送を開始しており、光太郎作詞の「歩くうた」(昭和15年=1940)も後にラインナップに組み込まれ、ヒットします。国としても同様の運動に本腰を入れ始めたのでしょう。文部省社会教育局による「日本国民歌運動」の主旨は、次のようなものでした。

 文部省に於きましては今般日本国民歌六篇を制定して之を公にすることになりました。我国に於ては現在遺憾乍ら国民の各層を通じて唱和すべき国民の歌と称すべきものが乏しいのでありまして、一段と国民的意識を振起す可き此の国運の大躍進期に際しては殊に其の思ひを深くするのであります。国民歌は一切の国民生活の基調をなす清純雄渾な国民的感情の表現でなければなりません。かゝる歌曲こそ国民の心を一に融和せしめその情操を高め志気を鼓舞するものであります。此度予定せられたる六篇はかゝる趣旨に基き我が国伝統の精神、理想、風物、生活等に取材して制作せられたるものでありまして之に携られた作詞家、作曲家の努力により何れも私共の希望を満たすものを得ました事は喜びに堪へぬ処であります。之が国民の凡てに唱和せられるに至る事を願ふ次第であります。尚文部省に於ては今後も此の企てを継続致すつもりでありますが、之が我が国の音楽文化を向上し、国民的情操の涵養に資する所とならば幸せあります。
  (『青年と教育』第四巻第三号 昭和14年(1939)3月)
 
携られた作詞家」の一人、斎藤茂吉が昭和13年(1938)12月2日に書いた日記には、以下の記述があります。

文部省ノ池崎参与官ノ所ニ行クト、「国民歌」ノ歌詞ヲ作ツテクレ、北原白秋、佐藤春夫、高村光太郎、茅野雅子、土岐善麿ノ諸君と一シヨ也。

おそらく光太郎にもほぼ同じ頃に依頼があったものと考えていいでしょう。これに応え、光太郎はおそらく二篇の詩を書き上げ、光太郎と組むことになった相棒の作曲家・箕作秋吉に送りました。一篇は「こどもの報告」。そしてもう一篇が「米のめしの歌」です。

このうち、「こどもの報告」の方が採用され、箕作が作曲。楽譜が出版されたり、レコード化されたりしました。
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    こどもの報告

      一
  めがさめる、とびおきる。
  晴れても降つても、一二三。
  朝のつめたい水のきよさよ。
  こゝろも、からだも、はつらつ。
  お父さまお早うございます。
  お母さまお早うございます。
  みんなもお早う。
  テテチー テテチー
  テタテ チト テタタ ター
  かしこきあたりを直立遙拝。
  それからご飯だ、ああうれし。
  かうしてぼくらのその日がはじまる。
  その日がはじまる。

      二001
  日がくれる、戸をしめる。
  勝つても負けても、ジヤンケンポン。
  夜のたのしいうちのまとゐよ。
  こゝろも、からだも、のびのび。
  お父さまおやすみなさいませ。
  お母さまおやすみなさいませ。
  みんなもおやすみ。
  タタタタ  タテタテ チー
       チテチテ  タテタト ター
  お国のまもりへ直立敬礼。
  それからお寝まき、ああらくだ。
  かうしてぼくらのその日がをはるよ。
  その日がをはるよ。

で、「米のめしの歌」の方はボツ。先述の文部省の趣意では「文部省に於ては今後も此の企てを継続致すつもり」とあったのが、「こどもの報告」を含む第一弾がどれも不評だったためではないかと推定されます。

太平洋戦争開戦前から、既にこうした翼賛詩を書いていた光太郎ですが、まだ真珠湾攻撃以前は国民の心を荒廃から救う、的な意図がメインでした。

『読売新聞』さんから。このところ、同紙では「わたしが見た戦争 戦争投書アーカイブ」として、戦前戦後の投書欄に載った読者投稿を時折再掲しています。下記は6月に紙面に掲載されたようですが、最近、ネット上にもアップされました。終戦翌月の投稿ですね。

進駐軍から貰った煙草の包装に魅入られる…日米の力の差痛感(1945年9月)

 道案内をしてやった進駐軍の兵士からアメリカ煙草を貰った。家に帰って秋窓の灯の下でその外装を眺めている中、次第に私はその豪奢な色彩に魅入られ、何か永い間の飢涸が醫されてゆくような感慨に浸った。それから改めて復員の友人に貰った「ほまれ」の袋をとり出し、これとそれとを引きくらべながら、ここにも懸絶する日米物力の差を見て、今さら愁然たる吐息をついた。
   忘れもせぬ昭和十六年十二月八日。その日開催された中央協力会議の席上で、詩人高村光太郎氏は「全国の工場に美術家を動員せよ」と提言し「健康や精神生活は身辺日常の美の力に培れることを看過すべからず。この美を欠くとき人心は荒廃する」と、いみじくも喝破されたのであったが、やんぬる哉、この提案は、美の何たるかを解せる官僚共によって、全面的な実現を封じられてしまった。
 「無用の用」を抹殺し、美を蔑ろにした結果は、戦時中、恐るべき人心の荒廃となって覿面に現われ、今なほ満目の焦土はこの世の飢餓地獄と化しつつある。この痛烈な現実的証跡を省るなら、せめて専売局よ、殺伐たる「みのり」の袋に色彩を点ぜよ。せめて運輸省よ、客車を明るうして標語ならぬ本格的美術ポスターを掲げてくれ。然らずんば、煙草の外装ひとつからも無批判的な外国文化心酔の傾向が、不幸な劣等感を助長しつつ、やがて滔々と始まるであろうかも知れぬのである。(1945年9月30日)

「中央協力会議」は、大政翼賛会の主催で、地方代表、各界代表の議員を選定、それらを一堂に集め、とりあえず下意上達の姿勢を見せ、国民の士気を高揚しようと始めたものです。光太郎も各界代表の議員(岸田国士の推薦で就任)として、昭和15年(1940)12月の臨時協力会議、翌年の第一回会議に出席し、発言しています。しかし、投稿にある昭和16年(1941)12月8日の第二回会議は、ちょうど開戦の日と重なったため、議員が集められたものの、それどころではなく流会となりました。

したがって、投稿の「詩人高村光太郎氏は「全国の工場に美術家を動員せよ」と提言」は実際には行われなかったのですが、そのあたりの経緯は戦中戦後の混乱期なので、投稿者もわからなかったのでしょう。実際には行われなかった提言ですが、会議に先立ち、こんな提言をするというのは報道されており、投稿者はそれを読んだのだと思われます。

工場に“美”を吹込め 高村氏・美術家の新奉公を促す

 国民士気の源泉は健康な精神生活にある、しかも健康な精神生活は身辺日常の健康美の力に培はれてゐることを見逃す事が出来ない、しかも戦ひが長期になれば人心がともすれば荒廃するからこれを緩和し同時に工場に働く産業戦士の頭を精神的な方向に向けるために美術家を総動員して大工場の食堂、休憩室、合宿所、病院などの設計に合理的な美を与へるばかりでなく壁面彫刻や■■をどしどし活用すべきである、一方いまのやうな時局は絵だけかいてゐてよいのだらうかとの美術家たちの気迷ひを一掃して明確な方向を示すことにもなると考へてゐる

昭和16年(1941)12月5日の『大阪毎日新聞』から採りました。「■」は活字が潰れ、判読不可能でした。

やがて太平洋戦争の敗色が濃厚となるにつれ、「国民の心を荒廃から救う」的な光太郎の意図は、変容していきます。すなわち、「滅私奉公」→「尽忠報国」→「挙国一致」→「七生報国」。

下記は大戦末期の、特攻隊を讃美する詩。『高村光太郎全集』では、やはり初出掲載誌不詳で残された草稿から採録していましたが、数年前、初出誌『陸軍画報』第13巻第2号(昭和20年=1945 2月1日)を入手しました。
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同誌、「特輯・全軍特攻」と銘打ち、特攻各隊の戦果や、散華した隊員達の遺詠なども載せています。
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粛然とした気持にさせられます。しかし、彼らを無条件に「英霊」と讃えるのでもなく、逆に「犬死に」とディスるのでもなく、こうした悲劇がくり返されることの無いように、と考えて行動していくのが、現代に生きる我々の使命なのではないかと存じます。

【折々のことば・光太郎】

昨日午后二時に無事帰宅しました。今度はいろいろ御世話様に相成り御礼の申様もありません、斎藤さん御夫婦にも何卒よろしくお伝へ下さい。 長い間ちゑ子を中心に生活してゐたため、今ちゑ子の居ない此の家に居るとまるで空家に居るやうな気がします。病気のちゑ子がふびんでなりません。どうぞよろしく御看護願ひ上げます。


昭和9年(1934)5月9日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

心を病んだ智恵子、もはや自宅での看護は不可能、と、千葉九十九里浜に移り住んでいた智恵子の母・センの元に預けます。智恵子がかつて「空が無い」と評した東京ではなく、自然豊かな九十九里浜で、母親や妹夫妻(斎藤さん御夫婦)に囲まれて暮らすことで、恢復を願ったのでしょう。

シニカルな見方をすれば、智恵子を棄てた、とも云えるかも知れませんが、そこまでは云いたくないところです。

4年ぶりの通常開催です。

女川光太郎祭

期 日 : 2023年8月9日(水)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料

昭和6年(1931)、光太郎は新聞『時事新報』に連載する紀行文「三陸廻り」執筆のため、8月9日に東京を発ち、約1ヶ月、三陸沿岸を旅しました。

そこで、偉人が訪れた町である、ということで、女川町に四基からなる光太郎文学碑が建立されたのが平成3年(1991)、地元ご在住の貝(佐々木)廣氏が中心となり、全ての費用を町内外の方々からの「100円募金」で賄いました。

翌年、その文学碑前で第一回女川光太郎祭が開催。碑文の揮毫など建立に協力された、当会顧問であらせられた北川太一先生がご講演。その他、光太郎詩文の朗読、地元の合唱団による光太郎短歌に曲を付けた合唱曲演奏などが行われました。
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その後、同様の形式で女川光太郎祭が連綿と続きました。北川先生のご講演も毎年恒例となり、おみ足を悪くされ、外出が困難となった平成21年(2009)まで続けられました。

平成23年(2011)3月11日、東日本大震災。女川町は20㍍もの津波に襲われ、中心部は壊滅。その津波に呑まれ、貝(佐々木)氏も還らぬ人となりました。四基あった光太郎文学碑も二基は流失、メインの碑は倒壊し、永らく倒れたままとなりました。

その年は光太郎祭どころではないだろう、と思っていたのですが、津波の被害を免れた小学校を会場に開催。貝(佐々木)氏の奥様・英子さんが遺志を継がれてのことでした。

平成24年(2012)からは仮設住宅内コミュニティスペース仮設商店街内集会所などと会場を転々としつつも続き、北川先生もまた訪れられるようになり、さすがに以前のように長いご講演は無理となったものの、当方との対談形式や、短めのご講話といった形でお話下さいました。平成25年(2013)からは当方が講演をさせていただいておりました。

ところがコロナ禍。令和元年(2019)を最後に通常開催は見送られることとなり、関係者の方々による文学碑への献花のみが行われ続けました。この間に、倒壊した文学碑の復旧が済み、当方は東日本大震災10周年の令和3年(2021)3月11日、碑の拝見町主催の追悼式へ出席のため、行って参りました。
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そして、今年。女川光太郎祭、四年ぶりの通常開催となります。

午前10時から復旧した文学碑への献花。碑が倒れていた10年間は光太郎祭会場で碑の写真に献花していましたが、碑そのものへの献花となります。

午後2時からは碑近くのまちなか交流館さんで式典系。町内外の方々による光太郎詩文の朗読(「風にのる智恵子」「牛」「あどけない話」「レモン哀歌」「火星が出てゐる」「あの頃」「人に」「三陸廻り(抄)」)、おそらくアトラクション的に音楽演奏、それから当方の講演も復活します。今年は光太郎の最晩年、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作、そして逝去あたりの話をさせていただきます。

ご興味のおありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子はどうも頭が悪くて一寸心配です、神経を痛めてゐるのでまづ気ながに療養する外ありません、年齢から来る症状かとも思ひます、


昭和8年(1933)7月5日 水野葉舟宛書簡より 光太郎51歳

昭和6年(1931)の光太郎三陸廻り中に、誰の目にも顕在化した智恵子の心の病。光太郎、この時点ではまだ更年期障害の昂進、程度の認識で居たようです。

テレビ放映情報2件ご紹介します。

まず、7月31日(月)の朝。

にほんごであそぼ「空」

地上波NHK Eテレ 2023年7月31日(月) 08:35~08:45 再放送 8月5日(土) 07:00~07:10

書道で学ぶにほんご・漢字アニメ/空、偉人とダンス/この空は私たちの真上にある 究極のアートギャラリーなのである。(ラルフ・ワルド・エマーソン)、こどもスタジオ/空前絶後、朗読(高杉真宙)/「あどけない話」高村光太郎、文楽/山のあなたの・・・、童謡「りすりす小りす」

【出演】南野巴那,高杉真宙,竹本織太夫,鶴澤清介,三世 桐竹勘十郎,青柳美扇,おおたか静流,中村彩玖,川原瑛都,川田秋妃

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光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)が取り上げられます。

ただ、番組説明欄の区切れ目がどこかよく分からない書き方です。おそらく「朗読(高杉真宙)/「あどけない話」高村光太郎」で、俳優の高杉真宙さんによる朗読ではないかと思うのですが……。もしかすると「「あどけない話」高村光太郎、文楽」かもしれません。というのも、今回も出演なさる人間国宝の桐竹勘十郎さんによる「あどけない話」も、以前に複数回ありましたので……。

もう1件、同日昼の放映。故・内田康夫氏原作の『「首の女」殺人事件』が原作です。

ドラマ・浅見光彦〜最終章〜▼第9話 草津・軽井沢編

BS-TBS 2023年7月31日(月) 12:59〜13:55

ベストセラー作家・内田康夫の大人気サスペンス小説「浅見光彦シリーズ」。光彦の2人の幼馴染・野沢光子(星野真里)と宮田治夫(吹越満)と久しぶりの再会を経て楽しい気分でいる頃、光子の父が殺害された…。

【出演】沢村一樹、風間杜夫、原沙知絵、黒田知永子、佐久間良子、
    星野真里、吹越満、 天野ひろゆき(キャイ〜ン)、鶴田忍、清水綋治

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平成21年(2009)に地上波TBSさんで連ドラの枠として放映された「浅見光彦〜最終章〜」の最終回。したがって2時間ドラマではありません。

何が「最終章」かというと、平成12年(2000)から2時間ドラマで浅見光彦役を演じられてきた沢村一樹さんの卒業、というコンセプトだったようです。ことによるとTBSさんでの「浅見光彦シリーズ」自体、これで満了、という予定だったのかもしれません。

しかし沢村さん、この後も平成23年(2011)から翌年にかけ、同じく地上波TBSさんの3本の2時間ドラマで浅見光彦役を演じられ、結局、何が「最終章」だったのかよくわかりません(笑)。さらにこの後、TBSさんの浅見光彦役は速水もこみちさんにバトンタッチされました。いろいろ大人の事情があったのでしょう。

で、「草津・軽井沢編」。光太郎彫刻の贋作にまつわる連続殺人事件を描いた『「首の女」殺人事件』を原作としています。
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途中には光太郎の人となり、詩の紹介も。
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同じ『「首の女」殺人事件』を映像化したフジテレビさん版(中村俊介さん主演)は、かなり原作に近く作られていたのですが、こちらでは大胆に変更。原作では事件の舞台は安達太良山、それから島根県でしたが、こちらでは草津と軽井沢が現場となり、ストーリーや登場人物の設定等も大幅に変えられています。

「浅見光彦〜最終章〜」として、平成22年(2010)にDVDボックスが発売されています。
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ちなみに第1話は「恐山・十和田湖・弘前編」。本編では映りませんでしたが、付録のメイキング映像には、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が。
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本編でも取り上げていただきたかったのですが(笑)。

さて、それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

貴著詩集「瀧」及御てがみ忝くおうけとりしました。丁度寸暇無き家事の状態にさしかかりました為めお礼のてがみさへ遅れて失礼しました。詩集はもつとよく落ちついてから精読したいと思つてをりますから、その上何か申上げたいと存じます。

昭和7年(1932)11月 岡本弥太宛書簡より 光太郎50歳

岡本弥太は高知出身の詩人。戦後、光太郎が岡本の詩「白牡丹図」を揮毫した石碑が建立されました。

寸暇無き家事の状態」は心を病んだ智恵子の自殺未遂を指します。

この書簡、『高村光太郎全集』には『瀧批評集』という書籍からの転載で収録されていますが、同書の刊行年が「昭和一八年」と誤記されています。正しくは「昭和八年」です。

昨日開幕でした。

特別企画展 草野心平生誕120年「草野心平と中原中也」

期 日 : 2023年7月27日(木)~10月1日(日)
会 場 : 中原中也記念館 山口県山口市湯田温泉一丁目11-21
時 間 : 9:00~18:00
休 館 : 月曜日(8/14、9/18は開館) 8月29日(火) 9月19日(火) 9月26日(火)
料 金 : 【一般】 330円 【大学・高校専門学校の学生】220円 
      18歳以下、70歳以上無料

「蛙」をモチーフとした詩で知られ、2023年に生誕120年を迎えた詩人・草野心平。

1934年、詩人・草野心平と中原中也は、同人誌「歴程」の朗読会で出会い、以後交友を結びます。中也は心平らが発行した「歴程」の同人となり、また中也が詩集『山羊の歌』の装幀を高村光太郎に依頼する際、仲介したのが心平でした。中也にとって心平は個人的につきあいのある数少ない詩人の一人であり、また互いの詩を高く評価し合う、良き理解者でもありました。

本展では、いわき市立草野心平記念文学館協力のもと、二人の深い交友の軌跡と、心平の詩の魅力について紹介します。
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当会の祖・草野心平と中原中也。詩風から風貌まで(笑)、かなりタイプの違う感じも受けますが、それぞれに通底する詩魂といったものには、やはり共通する何かがあるようにも思えます。牽強付会のそしりを覚悟で云えば、光太郎から受け継いだDNA的な。

光太郎の中也評から。

 中原中也君の思ひがけない夭折を実になごり惜しく思ふ。私としては又たのもしい知己の一人を失つたわけだ。中原君とは生前数へる程しか会つてゐず、その多くはあわただしい酒席の間であつてしみじみ二人で話し交した事もなかつたが、その談笑のうちにも不思議に心は触れ合つた。中原君が突然「山羊の歌」の装幀をしてくれと申入れて来た時も、何だか約束事のやうな感じがして安心して引きうけた。(「夭折を惜しむ――中原中也のこと――」 昭和14年=1939 『歴程』第6号)

全文はこちら

ここでも触れられている『山羊の歌』の装幀は、心平が仲介したとのことで、そのあたりにまつわる展示もなされているのでしょう。

野々上慶一著『文圃堂こぼれ話 中原中也のことども』によれば、心平や光太郎が編集にあたり、やはり光太郎が装幀した『宮沢賢治全集』を見た中也が、ぜひ『山羊の歌』の装幀も光太郎に、と熱望したそうです。
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たしかにレイアウトや書体、赤と黒の効果的な使い方など、似ているといえば似ていますね。

それから、中也と心平といえば、この二人がタッグを組んで、太宰治・壇一雄のコンビと居酒屋で大乱闘を演じた事件も有名です。まるでスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組VSアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シン組のような(笑)。

壇の『小説太宰治』から。

 「チェッ、だからおめえは」と中原の声が、肝に顫ふやうだつた。
 そのあとの乱闘は、一体、誰が誰と組み合つたのか、その発端のいきさつが、全くわからない。
 少なくとも私は、太宰の救援に立つて、中原の抑制に努めただらう。気がついてみると、私は草野心平氏の蓬髪を握つて掴みあってゐた。それから、ドウと倒れた。
 「おかめ」のガラス戸が、粉微塵に四散した事を覚えてゐる。いつの間にか太宰の姿は見えなかつた。私は「おかめ」から少し手前の路地の中で、大きな丸太を一本、手に持つてゐて、かまへてゐた。中原と心平氏が、やつてきたなら、一撃の下に脳天を割る。

きっかけは、酔った中原が太宰に執拗にからんだ、というだけの話なのですが(笑)。光太郎、この場に居合わせなかったのは幸いでした(笑)。

閑話休題、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】022

今夏は猛烈な厚さだつた上、ちゑ子が七月上旬から急病にかかつて一時危篤状態にまでなり、入院騒ぎをやつて、二ヶ月間まるで看病その他で仕事も出来ず、いろいろ遅れてしまひました、まだ今月一ぱいは極めて安静を要するので訪客には失敬してゐます、 除幕式を十一月にしていただき度たいのですが如何、鋳金出来、台がまだです。


昭和7年(1932)9月13日
 白瀧幾之助宛書簡より 光太郎50歳

急病」とありますが、実際には睡眠薬アダリンを大量に服用しての自殺未遂でした。

除幕式」云々は、現在、東京国立博物館黒田記念館さんに据えられている「黒田清輝胸像」関連です。

訃報を2件、亡くなった順に、ともに共同通信さんの配信記事から。

まずは僧侶にして教育評論家の無着成恭氏。

「山びこ学校」無着成恭さん死去 僧侶で教育評論家、96歳

000 中学生たちの生活記録集でベストセラーとなった「山びこ学校」の編者で、僧侶、教育評論家の無着成恭(むちゃく・せいきょう)さんが21日午前8時58分、敗血症性ショックのため死去した。96歳。山形市出身。自宅は千葉県多古町一鍬田292の福泉寺。葬儀・告別式は27日午前11時から福泉寺で。喪主は長男成融(せいゆう)氏。
 1948年に教師として赴任した山形県内の中学校で、生徒に生活の「なぜ」を考えさせる「生活つづり方運動」に取り組み、クラス文集をまとめた「山びこ学校」を51年に出版。大きな反響を呼び、映画化もされた。
 その後上京し、明星学園で教諭や教頭を務めた。64年からは、TBSラジオ「全国こども電話相談室」の回答者として長年出演。大分県国東市の泉福寺の住職も務めた。

無着氏,昭和57年(1982)に、明星学園さんの教壇に立たれていた頃の授業実践をまとめた『無着成恭の詩の授業』という書籍を刊行なさいました。
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ちなみに当方所蔵の同書、無着氏の署名本です。8章から成り、近現代の詩歌を扱った授業の実践記録で、8章のうちのひとつが「奪われた自由 高村光太郎 ぼろぼろな駝鳥」。
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中学1年生に当たる「7年生」の授業で、生徒さんたちの発言や授業後に書いた感想文が、実に的を得ています。大学などの偉いセンセイたちがノルマに追われて「紀要」等に発表する「論文」などよりも(笑)。まぁ、無着氏の巧みな誘導があってのことではありますが。
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その他、実践記録は附されていませんが、巻末の「わたしの愛唱詩抄――この六年間に授業で扱った詩・作品」という項に、「冬が来た」「道程」。

国語教育に携わる人には、ぜひ読んでいただきたい書籍です。

訃報、もう1件。

作家の森村誠一さん死去、90歳 「人間の証明」「悪魔の飽食」

001 映画化されたベストセラー小説「人間の証明」や、ノンフィクション「悪魔の飽食」などで知られる作家の森村誠一(もりむら・せいいち)さんが24日午前4時37分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。90歳。埼玉県出身。葬儀は家族葬で行う。後日お別れの会を開く予定。
 青山学院大を卒業後、大阪や東京のホテルに勤務する傍ら小説を書き、1969年に「高層の死角」で江戸川乱歩賞を受賞、本格的な作家活動に入った。73年に「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受け地歩を固めた。
 都心のホテルで起きた殺人事件を題材に人と人との絆を描いた代表作「人間の証明」(76年)が翌年映画化された。「野性の証明」(77年)も高倉健さん、薬師丸ひろ子さんの共演で大ヒット。映画と小説の相乗効果で一躍人気作家になった。「棟居刑事」シリーズ、「牛尾刑事・事件簿」シリーズなどテレビドラマ化された作品も多い。
 旧日本軍の「731部隊」を通して細菌兵器など戦争の暗部に迫ったノンフィクション「悪魔の飽食」も話題になった。

森村氏にも光太郎がらみのご著書があります。やはり昭和57年(1982)刊行の『新・人間の証明』。当方手持ちのものは昭和60年(1985)発行の角川文庫版です。
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昭和51年(1976)刊行で角川映画にもなった『人間の証明』で謎解き役だった棟居刑事が再登場、以後、「棟居刑事シリーズ」となっていく、いわば第2作です。ただし、内容が内容だけに「大人の事情」でしょう、映画化もテレビドラマ化もなされていません。

昭和56年(1981)に刊行されたノンフィクション『悪魔の飽食』を下敷きにし、旧日本軍の731部隊元隊員や家族などの関係者が次々と殺害され……という話です。

詳しいネタバレは避けますが、タクシー内で変死した(実は毒殺)最初の事件の被害者である中国人女性がレモンを持っていたという設定で、『智恵子抄』の「レモン哀歌」がらみの展開に。

やはり被害者の一人は実在の人物をモデルにしています。明治の末に智恵子が保養に訪れた福島県の原釜海岸で知り合い、その後姉弟のような文通をしていた鈴木謙二郎という当時の旧制米沢中学生です。小説では奥山謹二郎いう名ですが、原釜での智恵子とのエピソードなどはほとんどそのまま使われています。ここからは森村氏の創作で、奥山はその後、自分の娘を「智恵子」と名付けたり、物語の舞台となった1980年代には千駄木の光太郎智恵子旧居近くに一人住まいをしていたりと、初恋の相手であった智恵子の幻影を老人になっても抱き続けている、というわけです。

しかしその奥山老人は元731部隊員で、戦時中には旧満州でいろいろと……ということが明らかになり……。

『人間の証明』では、「母さん、僕のあの帽子どうしたでせうね?」という西条八十の「ぼくの帽子」が効果的に使われていましたが(ジョー山中さんが唄った角川映画のテーマソングはその英訳で「Mama, Do you remember…」)、『新……』では「レモン哀歌」。ただしレモンは731部隊でも意外な使われ方をしていて、美しいだけのモチーフではありません。そこで、現在も版を重ねているハルキ文庫版では、表紙にメスが刺さった無気味なレモンがあしらわれています。
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さて、『無着成恭の詩の授業』、森村氏の『新・人間の証明』、それぞれ、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

目下妻の病気入院等にて寸暇無き次第です、


昭和7年(1932)7月25日 万造寺斉宛書簡より 光太郎50歳

智恵子、「病気入院」としていますが、実は睡眠薬アダリンを大量服用しての自殺未遂でした。7月15日朝に、智恵子が起きてこないことを不審に思った光太郎が発見しました。光太郎が気づくのが早かったため、一命はとりとめた智恵子ですが、この後、心の病は一進一退をくり返しつつ、しかしどんどん昂進していくことになります。

7月7日(金)、都内で「ろうどくdeおもてなし 七夕公演~会えば何かがはじまる~【夜公演】」、「三枝ゆきの・末永全 二人芝居 『カラノアトリエ』『トパアズ』」をハシゴして拝聴、拝見後、最終の高速バスで千葉の自宅兼事務所へ(都心から2時間近くかかる田舎です)。

入浴、仮眠後、明けて7月8日(土)、午前4時半過ぎに起床、猫と自分との朝食を作って一緒に食べ(笑)、5時半には愛車を北に向けて出発。目指すは福島県川内村です。

この日は当会の祖にして、生前の光太郎と最も親しかった草野心平を顕彰する第58回天山祭りで、光太郎と心平の交流についてべしゃくれ、ということで、行って参りました。
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遅れてはいけないと思い、早く出たら早く着きまして、まず、川内村での心平の別荘・天山文庫に。以前も書きましたが、ここの建設委員には、光太郎実弟にして心平と親しかった髙村豊周も名を連ねました。
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本来、こちらの広場的なスペースが天山祭り会場なのですが、途中でスマホにメールが入り、天候が怪しいのでこちらではなく、村民体育センターで、ということで、そちらに移動。
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当方、天山祭り参加は6回目くらいですが、結局、天山文庫では2回だけ、あとはやはり雨天時会場での開催でした。
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ステージ前の祭壇的な。心平のこよなく愛した酒がたくさん供えられていました。

開会に先立ち、アトラクション的に音楽演奏。
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そして開会。
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実行委員長・井出茂氏や遠藤雄幸村長らのご挨拶等。コロナ禍もあったため、お二人にお会いするのも実に久々でした。
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献花。
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小中一貫となった川内小中学園の子供たちによる自作詩の朗読。
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かつて心平が主宰していた『歴程』同人の伊武トーマ氏による心平詩の朗読。
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氏とも超久しぶりで、今回はとにかく懐かしい面々にお会いでき、嬉しゅうございました。ただ、同じく『歴程』同人で、天山祭りご常連だった新藤凉子氏が昨年亡くなったのは残念でしたが……。

ここで休憩を挟んで、当方の講演。「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題し、二人のつながり等を30分程でお話しさせていただきました。
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今年、光太郎は生誕140周年(ちょっと半端ですが(笑))、ちょうど20歳年下の心平は生誕120周年。お互いに師匠・先輩←→弟子・後輩ではなく、年上の友人←→年下の友人として長いつきあいをし、さらに光太郎歿後は最晩年まで光太郎顕彰に力を注いでくれた心平について、ご紹介いたしました。
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レジュメには、最近、国会図書館さんのデジタルデータリニューアルで見つけた、当方もそれまで知らなかった心平の光太郎回想から抜粋で筆写しておきました。いずれも昭和戦前の出来事で、酔いつぶれた心平が目を覚ますと駒込林町の光太郎アトリエのベッドで、ベッドの下にはゲロを吐いた跡がきれいに拭き取られ、光太郎はアトリエのソファーで冬なのに毛布一枚で寝ていたとか、心平が一時期勤めていた『東亜解放』(光太郎が斡旋?)の取材で東北に行った際、早くも1日目で取材費を呑み尽くし、光太郎に電報為替で金を送ってもらったことなど。まったく心平は豪快です(笑)。

その後、地元の子供たちなどによる、伝統芸能「西郷獅子」演舞。
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やはり地元の子供たちらによる心平モチーフの紙芝居披露。
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うるっと来てしまいました。

閉会後、井出氏のご自宅、小松屋旅館さんへ。
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コロナ禍もほぼ落ち着いたということで、11月には心平を偲ぶ「かえる忌」の集いを復活させたいということで、その打ち合わせ。
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さらにその後、村内下川内牛渕地区に新たにオープンした古民家カフェ的な秋風舎さんで昼食。
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古民家・古建築好きの当方としては、アゲアゲでした(笑)。
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店内には心平の書も。
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さらに書庫があり、当方のべしゃくりでも触れた、光太郎が題字を揮毫した心平詩集。
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さらにアガりました(笑)。

先述の通り、また秋にはお邪魔いたしますが、川内村、実にいい所です。皆様もぜひ足をお運び下さい。

以上、レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

あの詩集の原稿はまだドラ社に廻つてゐません。 紛雑なノオトの中から集めるので、時間の少いため遅れてゐるのです。原稿さへまとまれば、印刷はぢき出来るさうです。 既に御払込の由、御気の毒に思ひますが、決して無責任な事はしません。此事一寸、

昭和2年(1927)10月31日 堀久松宛書簡より 光太郎45歳

07fe8679あの詩集」は、『猛獣篇』。人口に膾炙した「ぼろぼろな駝鳥」などを含む連作詩です。早くから心平の手で出版される計画があったのですが、結局、光太郎生前にはそれが実現せず、没後の昭和37年(1962)になって、心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで発行されました。

心平はその刊行に際し、ハードカバーのきちんとした書籍として、と云ったことも考えましたが、いやまてよ、ここは初期の『銅鑼』などの精神で、一周回ってガリ版刷りだ、と決めました。

ガリ版刷りの手製ですが(制作には当会顧問であらせられた北川太一先生もご協力)、現在、1万数千円くらいで市場に出ています。

光太郎の書いた心平詩集『蛙』や『天』などの題字もほれぼれしますが、この『猛獣篇』の心平筆跡にも心を奪われますね。

ちなみに葉書は当方手持ちのもの。絵葉書で、写真面はノートルダム大聖堂のエクステ彫刻です。
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新刊です。

自称詞〈僕〉の歴史

2023年6月30日 友田健太郎著 河出書房新社(河出新書) 定価980円+税

なぜ〈僕〉という一人称は明治以降、急速に広がり、ほぼ男性だけに定着したのか。古代から現代までの〈僕〉の変遷を詳細に追い、現代の日本社会が抱える問題まで浮き彫りにする画期的な書。

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目次
はじめに
第1章 〈僕〉という問題
 WBCを席捲した〈僕〉
 野球スター今昔――〈ワイ〉から〈僕〉へ
 スポーツ界で一般化する〈僕〉
 EXILEには〈僕〉を使うルールがある?
 女性にも広がる〈僕〉
 〈僕〉が登場する記事が三〇倍に
 「主体」を出す表現が増えてきている?
 〈僕〉が選ばれる割合が増加
 〈僕〉は戦後世代の自称詞に
 〈僕〉が増えた理由は?
 主な自称詞の由来や性質
 男性が最も一般的に使うのは〈俺〉
 自称詞とは?
 すり減っていく「敬意」
  自称詞が徐々に「偉そう」に
 〈僕〉が平等を促進?
第2章 〈僕〉の来歴――古代から江戸時代後期まで
 日本最古の〈僕〉
 「古事記」の世界観を表現
 「日本書紀」の〈僕〉
 中国から来た〈僕〉
 〈僕〉の二つの意味合い
 中世の欠落
 〈僕〉が使われ始めた元禄時代
 初期の用例
 唐代の「師道論」
 元禄時代の〈僕〉は師道論へのオマージュ
 身分制度の性格を離れた友情を表す〈僕〉
 広がる〈僕〉使用
 渡辺崋山の〈僕〉
第3章 〈僕〉、連帯を呼びかける――吉田松陰の自称詞と志士活動
 吉田松陰という人
 長州の学問の伝統
 松陰の人間関係
 松陰の書簡の分類
 〈僕〉の使用が少ない家族宛書簡
 「友人宛」で〈僕〉を多く使用
 弟子宛書簡にも多い〈僕〉
 親友でもあった兄・梅太郎
 秀才の初めての挫折
 秀才の初めての非行
 黒船が来て政治に目覚める
 黒船に乗り込み、完全にコースを外れる
 兄との激論
 熊皮の敷物に込めた思い
 松陰の出獄と松下村塾の始まり
 政治活動の激化
 感情の揺れと〈僕〉
 同志に贈る書簡の〈僕〉
 領分関係者への〈僕〉
 〈僕〉に込めた「対等性」
第4章 〈僕〉たちの明治維新――松陰の弟子たちの友情と死
 弟子たちの重要性
 貴公子・高杉晋作
 藩医の家の孤児・久坂玄瑞
 武家社会の末端・入江杉蔵
 松陰との出会い
 松陰と杉蔵兄弟の入獄
 杉蔵に死を迫った松陰
 杉蔵の反発と松陰の謝罪
 家庭事情を打ち明ける晋作
 玄瑞に友情を求める晋作
 晋作と松陰
 松陰の死
 玄瑞と杉蔵の友情
 杉蔵の志士活動の挫折
 過激化する晋作と玄瑞
 杉蔵の志士活動の本格化
 杉蔵と玄瑞の最期
 その後の晋作
 身分社会の崩壊と〈僕〉
第5章 〈僕〉の変貌――「エリートの自称詞」から「自由な個人」へ
 下級武士が中心となった革命
 明治時代の教育の普及
 『安愚楽鍋』の〈僕〉
 河竹黙阿弥の歌舞伎台本
 黙阿弥作品の〈僕〉――教育との関わり
 黙阿弥作品の〈僕〉――金と権力
 明治の「立身出世」と〈僕〉
 江戸文人の〈僕〉
 黙阿弥の引退作に使われた〈僕〉
 泥棒から権力者へ
 黙阿弥自身の遺した〈僕〉
 教育の普及
 近代日本文学は「〈僕〉たちの文学」
 文豪・漱石の〈僕〉〈君〉
 明治時代の庶民と〈僕〉
 大杉栄の〈僕〉
 高村光太郎の〈僕〉
 戦没学生の〈僕〉の分析
 女性への呼びかけとしての〈僕〉
 軍隊と〈僕〉
 『戦没農民兵士の手紙』との比較
 戦後の大学進学率の上昇と〈僕〉の普及
 連続殺人鬼・大久保清の〈ぼく〉
 「男はつらいよ」諏訪家三代の〈僕〉
 三田誠広の『僕って何』
 村上春樹の〈僕〉
 社会へのコミットメントを深める村上春樹
 〈僕〉の可能性は
終章 女性と〈僕〉――自由を求めて
 これまでのまとめ
 ストーリーの欠落としての女性
 江戸時代、女性は〈僕〉を使わなかった?
 「男性化」への拒否感
 『女性は女性らしく』
 河竹黙阿弥が描いた女書生の〈僕〉
 繁=お繁の自称詞使い分け
 『当世書生気質』の中の女性の〈僕〉
 『浮雲』の中の女性の〈僕〉
 〈僕〉が映す学生文化への憧れ
 田辺聖子『藪の鶯』
 天才少女の小説『婦女の鑑』
 翻訳小説に登場した〈僕〉
 樋口一葉の登場
 一葉の使った〈僕〉
 男女の人生の違いを浮き彫りに
 与謝野晶子の苦痛
 「男装の麗人」水の江滝子の〈僕〉
 宝塚の〈僕〉
 綿々と続く男装文化
 奇人・本荘幽蘭の〈僕〉
  川島芳子の〈僕〉
 男装の影の「素顔」
 川島芳子は生きていた?
 戦中の「礼法要項」に定められた男女の別
 戦後の〈僕〉の光景――林芙美子の『浮雲』
 戦後の教室での自称詞
 『リボンの騎士』と『ベルサイユのばら』
 その後の少女マンガの〈僕〉
 性的マイノリティにとっても〈僕〉
 〈僕ら〉と〈わたしたち〉
 詩人・最果タヒの〈ぼく〉
 人々の思いを映し、日本語の「現在」を示す〈僕〉
おわりに

「自称詞」というあまり聞き慣れない語がタイトルに使われています。英語圏などの「代名詞」との性格の違いを考慮してのことだそうです。

他言語との比較で云えば、確かに日本語の一人称は「私(わたし)」「私(わたくし)」「俺」「某(それがし)」「小生」「余」「朕」「儂(わし)」、そして「僕」など(実際に使うか使わないかは別として)、さらに方言まで含めればいったいどれだけあるんだ、ですね。そしてそれぞれに微妙なニュアンスの違いがあるわけで。

よく使われる例えですが「吾輩は猫である」。英訳してみれば「I am a cat」。「吾輩」という偉そうな響きはまったく影を潜めてしまいますし、「である」という断定口調(「です」ともまた異なる)も表せません。だから日本語の方が優れている、と云うつもりは全くありませんが。

そして本書で取り上げられている「僕」。たしかに不思議な言葉ですね。一般に、女性は使いません。また、男性であってもオールマイティーにどんな場面でも、というわけではありません。実際に当方、学校を出てからこのかた「僕」を使った覚えはありません。というか、既に学生時代にはオフィシャルな場面では「自分」と云っていた記憶がありますし、現在でも「自分」です。

当方の中では「僕」は割と年配の男性が使うというイメージがありました。当会顧問であらせられた故・北川太一先生は常に「僕」でしたし、亡くなった父親も対外的にはよく「僕」と云っていました。

ところが、最近、「僕」が世の中を席捲している、という例から本書は始まります。確かに大谷翔平選手らスポーツ界、それから著者の友田氏は芸能界でEXILEさんを例に挙げていますが、インタビュー等で彼らは「僕」を多用し、それが爽やかさや謙虚さ、親しみやすさの表明にも繋がっている、と、いうわけです。

そして古今の「僕」の使われ方を帰納的に分析。すると、元禄の頃から使用例が増え、幕末には吉田松陰らをはじめ、当時の知識階級などが連帯感を示すものとして広く用いるようになり、さらに維新後の教育のあり方などとも結びついて、一般化していったという論。うなずけました。

そんな中で、「高村光太郎の〈僕〉」という項も設けられ、詩「道程」(大正3年=1914)などでの「僕」が論じられています。ちなみに光太郎は詩の中では「僕」以外にも「俺」「おれ」「私」「わたし」「わたくし」「われら」(戦時中)などを使い分けていました(友田氏、ちゃんとそこもカバーしています)し、日記では「我」(明治期)「余」(戦後)なども使っていました。おそらく学部生の卒論などでもこういう内容はあったことでしょう。

本書の場合、特定の人物に偏らず、かなり広範囲にその使用例を求め、それぞれの人物がどういう背景の下に「僕」を使っていたのかを、世相や社会状況、おのおのが置かれていた立場などとからめて論じている点が優れているところです。さらに昨今のジェンダーフリー的な部分への言及も為されています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

詩を書かないでいると死にたくなる人だけ詩を書くといいと思ひます。


昭和2年(1927)2月24日 正富汪洋宛書簡より 光太郎45歳

正富が編集に当たっていた雑誌『新進詩人』のアンケート「詩界に就て」の回答として送られた返信用往復葉書から。そこで『高村光太郎全集』には、書簡の巻とアンケート回答の載った巻と、2箇所に掲載されています。

どきりとさせられますが、詩に限らず、芸術等の全ての分野に云えることではないでしょうか。

当会の祖・草野心平が生前に愛し、心平没後は心平を祀る意味合いも込められるようになったイベントです。

第58回天山祭り

期 日 : 2023年7月8日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
       雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前10時~12時40分
料 金 : 500円

故草野心平先生の遺徳をしのび、7月の第2土曜日に毎年開催されています。詩の朗読や伝統芸能の披露など文化的なお祭りとなってます。これを機に、川内村の伝統にふれてみてはいかがでしょう。

今年は草野心平生誕120周年ということもあり、村の子どもたちによる発表なども予定されておりますので、ぜひお越しください。

お問い合わせ先 川内村教育委員会 電話:0240-38-3806
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まぁ、ほんのおまけのような扱いなのでしょう、要項等に記述がありませんが、当方の講演も予定されています。題して「草野心平と高村光太郎 魂の交流」。
無題
以前にも似たような話をあちこちでさせていただいておりますので、その焼き直しのような……。

同祭、何度か参加させていただきました。最後はコロナ禍前の第54回(令和元年=2019)。コロナ禍中の第55回(令和2年=2020)は例によって中止となり、一昨年の第56回は福島県内在住者に限っての参加で実施、昨年の第57回から再び広く参加を呼びかけるようになりました。ただ、今年もそうですが、以前のように名物のイワナ付きお弁当が饗されるところまでは旧に復していないようです。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

東京は四十年来といふ寒さで、此間零下八度六分。彫刻の粘土を凍らせないやうにするので厄介です。ロンドンは割に暖かなのでせう。霧はどうですか。

昭和2年(1927)1月27日 中野秀人宛書簡より 光太郎45歳

中野秀人は編集者・詩人。この頃ロンドンに居ました。

零下八度六分」は間違いでも誇張でもなく、この年1月24日に東京地方で記録され、気象台開設以来の寒波として記録に残っています。

これで思い出されるのが、『智恵子抄』所収の詩「金」。前年の大正15年(1926)に書かれたものです。
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 工場の泥を凍らせてはいけない。
 智恵子よ、
 夕方の台所が如何に淋しからうとも、
 石炭は焚かうね。
 寝部屋の毛布が薄ければ、
 上に坐蒲団をのせようとも、
 夜明けの寒さに、
 工場の泥を凍らせてはいけない。
 私は冬の寝ずの番、
 水銀柱の斥候(ものみ)を放つて、
 あの北風に逆襲しよう。
 少しばかり正月が淋しからうとも、
 智恵子よ、
 石炭は焚かうね。

「工場」は「こうじょう」ではなく「こうば」。アトリエのことです。「泥」は彫刻用の粘土ですね。

こういうところが、『智恵子抄』が「智恵子不在」とか「モラハラ野郎」とか云われる所以なのでしょうが……。

昭和53年(1978)から続く行事ですが、基本、クローズドなので報道されることがあまり多くありません。ただ、今年は地方テレビ局ローカルニュースで取り上げられました。

岩手めんこいテレビさん。

盛岡少年刑務所で「高村光太郎祭」 “心はいつでもあたらしく”

 彫刻家で詩人の高村光太郎は岩手県花巻市で暮らしていた73年前、講演のため盛岡少年刑務所を訪れていました。
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 6月23日、教えを引き継ぐ伝統の行事が行われました。
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 盛岡少年刑務所では、23日に46年間続く行事「高村光太郎祭」が行われました。
 盛岡少年刑務所では1950年に彫刻家で詩人の高村光太郎が講演に訪れ、その際、光太郎から「心はいつでもあたらしく」という書が贈られました。
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 施設の運動場にはその言葉を刻んだ石碑が建てられています。
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 この行事は、書に込められた「前向きに生きる大切さ」を受刑者に引き継ごうと指導の一環として行われています。
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 23日は受刑者が光太郎をしのんで花を手向けたあと、その作品の一つである「私は青年が好きだ」を朗読しました。
受刑者
「私の好きな青年は麦のように踏まれるほど根を張って起き上がる」
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 続いて受刑者の代表が光太郎の書を踏まえて自ら記した作文を発表しました。
受刑者代表
「いつか出所して困難な壁にぶつかったときには『心はいつでもあたらしく』という盛岡で出会った言葉を胸に乗り越えたい」
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 また23日は高村光太郎記念館の梅原奈美館長の講演も行われ、受刑者たちは盛岡少年刑務所とゆかりがある光太郎の歴史に思いをはせていました。

光太郎がこちらを訪れたのは、花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居中だった昭和25年(1950)1月。この際はこちらだけでなく、県立美術工芸学校(現・岩手大学)、婦人之友生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校)、盛岡警察署、県立図書館などで講演を行っています。

少年刑務所さんに残した書は、「心はいつでもあたらしく」。普段は所長室に掲げられています。前年にはプラスアルファの「心はいつでもあたらしく/毎日何かしらを発見する」という文句を、山小屋のあった旧太田村の新制太田中学校さんに校訓として贈っており、そこからの転用です。

少年刑務所さんでは昭和52年(1977)にこの書を元にした石碑を建立し、翌年から「高村光太郎祭」を実施。受刑者が自分を見つめ直す機会とするといった意図があるようです。

当方、平成28年(2016)の「高村光太郎祭」に招かれ、講演をさせていただきました。その際には光太郎も戦争協力などで罪多き人生だったこと、そしてそれを自ら烈しく悔い、きちんと自分なりに総括をしたことなどを語りました。

その頃も受刑者の方が光太郎詩を朗読したり、作文を発表したりというプログラムがありましたが、継続されているのですね。

今年、皆さんが群読したという詩「私は青年が好きだ」、以下の通りです。

   私は青年が好きだ

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は麦のやうに017
 踏まれるほど根を張つて起きあがる。
 私の好きな青年は玉菜のやうに
 霜にあふほどいきいきとしてまろく育つ。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は木曽の檜の柾目のやうに
 まつすぐでやわらかで香りがいい。
 私の好きな青年は鋼のバネのやうに
 しなやかでつよく弾みがいい。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は朝日に輝く山のやうに
 晴れやかできれいで天につづく。
 私の好きな青年は燃え上がる焚火のやうに
 熱烈で新鮮であたりを照らす。

 私は青年が好きだ。
 私の好きな青年は真正面から人を見て
 まともにこの世の真理をまもる。
 私の好きな青年はみづみづしい愛情で
 ひとりでに人生をたのしくさせる。

フォーシームのど直球ですね(笑)。それもそのはず、大日本青少年団発行の雑誌『青年』へ昭和15年(1940)2月に発表されたもので、既に日中戦争は泥沼化、事態の打開を図って翌年には太平洋戦争に突入する時期ですので、現人神の赤子たる若き皇国臣民はかくあるべし、ということです。そうした背景を抜きにして考えれば、「道程」などにも通じるストイックな求道の精神も垣間見え、悪い詩ではないと思います。

そこで戦後になってもこの詩は他の翼賛詩とは異なり、お蔵入りにされることなく、家の光協会さんで朗読のレコードを出したり(昭和30年=1955)、故・清水脩氏によって混声合唱曲として作曲されたり(昭和44年=1969)しています。

こちらに収容されている皆さんのように、特殊な状況に置かれている人々には、カットボールやチェンジアップのような変化球よりも、こうした100マイルのフォーシームの方が心に響くのではないでしょうか。

少年刑務所高村光太郎祭、末永く続くことを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

此間の会は実に特異な会で忘れがたい愉快な一夕でした。あれから又ラヂオでもヸルドラツク氏の朗読をききました 巴里で金曜毎に皆が会ふときいて羨ましく思ひました。


大正15年(1926)5月3日 尾崎喜八宛書簡より 光太郎44歳

此間の会」は、来日したフランスの詩人・劇作家、シャルル・ヴィルドラックの歓迎会。ヴィルドラックは光太郎も敬愛していたロマン・ロランとも親しく、「巴里で金曜毎に皆が会ふ」メンバーにロランも含まれていたようです。
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新刊です。

デュオする名言、響き合うメッセージ 墓碑を歩き、人と出会う、言葉と出会う

2023年6月25日 立元幸治著 福村出版 定価2,200円+税

墓碑は時代の証言者であり、紡がれた人生の物語である−。時代とジャンルを超えた二人の人物が遺した名言を並べ、二人の生き方を顧みながら、示唆するメッセージを読む。“失ったものの大切さ”に気づく 近代日本史のアナザーサイドで響き合うデュオ

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目次
 はじめに
 第一章 政治とは何か、国家とは何か
  人民は源なり、政府は流なり[中江兆民、山本周五郎]
  いったい、この国は何なんだ[佐多稲子、忌野清志郎]
  行政府と立法府、どうなってるんだ[陸羯南、尾崎行雄]
  素にありて贅を知る[大平正芳、伊東正義]
 第二章 官とは何か、民とは何か
  官のための官か、民のための官か[中江兆民、植木枝盛]
  迎合と忖度が国を亡ぼす[林達夫、星新一]
  政治は玩物ではない[井上ひさし、徳富蘆花]
 第三章 戦争というもの
  君死にたまうことなかれ[与謝野晶子、壺井栄]
  〝聖戦〟という虚構を暴く[尾崎行雄、斎藤隆夫]
  自由にものが言えなかった時代[谷川徹三、佐多稲子]
 第四章 志を貫く
  真理と自由を問い直す[南原繁、丸山真男]
  ある外交官の気骨[杉原千畝、堀口九萬一]
  〝出版人の志〟を問う[下中弥三郎、岩波茂雄]
  〝勲章〟は、わが志に非ず[浜口庫之助、杉村春子]
 第五章 文明の光と影
  何が彼女をそうさせたか[細井和喜蔵、藤森成吉]
  人は文明の奴隷に非ず[木下尚江、柳宗悦]
  〝失ったものの大切さ〟に気づく[今日出海、志賀直哉]
 第六章 時代を斬り、世相を切る
  権力のメディア支配を許すな[永井荷風、小林勇]
  威武に屈せず、富貴に淫せず[宮武外骨、桐生悠々]
  言葉が切る世相[大宅壮一、赤瀬川原平]
 第七章 学道と医道
  学究の道に、ゴールなく[鈴木大拙、西田幾多郎]
  病気を診ずして病人を診よ[北里柴三郎、高木兼寛]
  志ある医道を拓く[呉秀三、荻野吟子]
 第八章 創作と表現
  命ある限り、書くのだ![大佛次郎、北原白秋]
  言葉の力を畏れよ[向田邦子、井上ひさし]
  絵画のエスプリを読め[藤島武二、小倉遊亀]
  己が貧しければ、描かれた富士も貧しい[横山大観、熊谷守一]
  僕の前に道はない[岡本太郎、高村光太郎]
 第九章 芸術と人生
  声美しき人、心清し[藤原義江、石井好子]
  作家は歴史の被告人だ[小津安二郎、黒澤明]
  わが師の恩[笠智衆、志村喬]
  ものをつくるというのはどういう事なのか[小林正樹、大島渚]
  うまい役者より、いい役者になれ[六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑]
 第十章 人間への眼差し
  美しくて醜く、神であり悪鬼であり[野上弥生子、山本周五郎]
  馬になるより、牛になれ[高村光太郎、夏目漱石]
  一隅を照らす[中村元、佐野常民]
  心友ありて[斎藤茂吉、藤沢周平]
 第十一章 生きるということ
  〝精神的老衰〟をおそれよ[小倉遊亀、亀井勝一郎]
  前後を切断し、いまを生きよ[加藤道夫、夏目漱石]
  静かに賢く老いるとは[尾崎喜八、野上弥生子]
  ながらえば……、「老い」を見つめる[斎藤茂吉、吉井勇]
  〝当たり前のこと〟の不思議[北原白秋、中勘助]
 第十二章 人生というもの
  男の顔は履歴書なり[大宅壮一、開高健]
  歳月は慈悲を生ず[亀井勝一郎、岡本太郎]
  人生最高の理想は放浪漂泊なり[永井荷風、石坂洋次郎]
  人生は短い、それゆえに高貴だ[中島敦、舩山信一]
  〝ゆるり〟という生き方、〝泡沫〟という人生[無名]
 あとがき
 参考文献
 人物墓所一覧


各項、2人ずつの「名言」――期せずしてシンクロしているような――を取り上げ、展開される社会論、人生論、芸術論、処世訓、といった趣です。

わが光太郎は2箇所で。

まず岡本太郎とのタイアップで「僕の前に道はない[岡本太郎、高村光太郎]」。詩「道程」(1914=1914)の冒頭部分、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と、岡本のエッセイでしょうか、出典は「強く生きる言葉」と書いてあるのですが、「面白いねぇ、実に。オレの人生は。だって道がないんだ。眼の前にはいつも、なんにもない。」を並べています。「天才は天才を知る」といいますか、やはり開拓者たる2人、同じようなことを考えるもんだ……というわけで。

ちなみに太郎の父・一平は、明治38年(1905)、光太郎が再入学した東京美術学校西洋画科での同級生でした。そして母・かの子は智恵子と同じく『青鞜』メンバーの一人。そういった経緯もあったのでしょうか、太郎も光太郎を意識していた節があります。

後の項、「馬になるより、牛になれ[高村光太郎、夏目漱石]」。こちらでは光太郎詩「牛」(大正2年=1913)から。ただし115行の4箇所からフレーズを拾い集めて「牛はのろのろと歩く/どこまでも歩く/自然に身を任して/遅れても、先になっても/自分の道を自分で行く」。

対する漱石は、芥川龍之介・久米正雄に宛てた書簡の一節「牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないのです。」。短い人生を駆け抜けた感のある漱石の言葉としては、意外と云えば意外でした。もっとも、だからこそ「牛にはなかなかなり切れない」なのかもしれませんが。光太郎と漱石のかかわりについては、こちら

他に、光太郎智恵子と関わりのあった面々も多く、興味深く拝読しました。しかし取り上げられている人物の範囲には限定があります。著者の立元氏、『東京多磨霊園物語』『墓碑をよむ――“無名の人生”が映す、豊かなメッセージ』他、掃苔系のご著書が多く、本書もその流れ。そこで、本書に登場するのは、ほとんど(全員?)が、都内か神奈川県の墓所に眠る人々です。

何はともあれ、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

おてがみありがたう、ちよいと房州へいつて来ました。海の沃度のにほひと漁夫の魅力ある生活とにすつかり養はれました、


大正14年(1925)8月7日 難波田龍起宛書簡より 光太郎43歳

「房州」は現在の館山市洲崎海岸附近。智恵子と一緒でした。大正元年(1912)、二人で過ごした銚子犬吠埼での思い出なども語り合ったかも知れませんね。

その辺りも含め、明日、旭市の千葉県立東部図書館さんで、市民講座「高村光太郎・智恵子と房総」の講師を務めて参ります。

新刊雑誌2件、ご紹介します。

まず、集英社さんで発行している文芸誌『kotoba』2023年夏号 。
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文芸誌と言っても、そう堅苦しいものではありません。新しい時代の表現や言葉のあり方をさまざまな切り口から論じたりといった文章が中心ですが、軽妙なエッセイや対談等も載り、読みやすいものです。扱われているモチーフも、メタバースやブルース・リー、漫画の『攻殻機動隊』、プロ野球にJリーグ、そうかと思うと憲法や原発など、硬派の話題も。4月に信州安曇野の碌山美術館さんでお会いした、東京藝大の布施英利氏の玉稿も載っていました。

その中で、英米文学者・阿部公彦氏の連載「日本語「深読み」のススメ」で、光太郎や谷川俊太郎氏の作品を引きつつ、詩が論じられています。サブタイトルは「詩の命」。

梗概的に「なぜ、詩は「形が命」といわれるのか。詩の「形」でとくに大事なのは何か。改行と繰り返しという、詩の形式の中でもごく地味な要素に注目すると私たちの言葉との付き合いの本質が見えてくる。」とあり、そのとおり、主に口語自由詩における改行とリフレインについて論じられています。

例として上げられているのが、光太郎詩代表作の一つ「道程」(大正3年=1914)。9行に分かち書きされている詩ですが、これを改行しないで書くとどうなるか、ということで……
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恐ろしく違和感がありますね。

では、その違和感の原因はどこにあるのか……といった話が一つ。

それから、末尾二行の「この遠い道程のため」を例に、リフレインの持つ効果についても論じられています。

他に、谷川俊太郎氏の「生きる」(有名な「生きる」が二種類ありますが、昭和31年=1956発表のソネットの方)も例としてあげられています。

口語自由詩の「改行」については、昔から論争の種です。古くは大正期、北原白秋と白鳥省吾・福田正夫らの間で、丁々発止のやりとりがありました。「改行がなかったらただの散文だろ」みたいな。

白秋は白鳥の「森林帯」という詩を槍玉に挙げています。その冒頭部分。

 萱や蕨の繁り合つてゐる
 山を越え山を越え
 一だんと高い山から望めば、
 遠い麓の広土は
 青たたみ数枚のやうに小さい、
 哀傷を誘ふほどにも何と云ふ可愛らしい世界であらう。

阿部氏がやったように、白秋はこれの改行をなくし、読点を補って……

萱や蕨の繁り合つてゐる、山を越え山を越え、一だんと高い山から望めば、遠い麓の広土は、青たたみ数枚のやうに小さい、哀傷を誘ふほどにも何と云ふ可愛らしい世界であらう。

白秋曰く

 これは原作者に対しては非常に気の毒ではあるけれども、詩の道の為めと思つて許していただきたい。
 読者はまた、之をただ読み下して読んでいただきたい。さうしてこれがどうしても散文で無い、詩である、自由詩である、と思はれるかどうか、詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れがあるか、どうか、それを感覚的に当つてゐただきたい。


この背景には、ざっくり云えば芸術至上主義的な白秋は「いかに」詩にするかを大切にし、後のプロレタリア文学に連なる白鳥ら民衆詩派は「何を」詩で表すかに軸足を置いていた、という立場の相違もあるようです。

「道程」の改行を取っ払うと非常に違和感があるのは、白秋曰くの「詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れ」が、白鳥のそれには無く(ファンの方、すいません)、「道程」には厳然としてそれが込められているからのような気がします。阿部氏、やはりそういったことを指摘されていますし、リフレインの効果についても、実に的確に論じられています。

まぁ、700余篇確認できている光太郎詩の全てが「詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れ」を持っているかというと、答は否、でしょう。特に戦後の自伝的な連作詩「暗愚小伝」などは、その点を諸家に批判されています。

さて、詩を作る方々、ぜひこちらをご購入なさり、お読みいただきたいものです。

雑誌ということで、ついでにもう1件。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生のさまざまな著作をはじめ、光太郎関連書籍を数多く出して下さっている文治堂書店さんのPR誌的な『とんぼ』。第十六号が届きました。
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今年1月に亡くなった、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエの所有者にして、生前の光太郎にかわいがられた中西利一郎氏の追悼文(文治堂書店社主・勝畑耕一氏と、当方)が載っています。

それから当方の連載「連翹忌通信」。今号は一昨年、茨城取手で発見した光太郎揮毫の墓標について。この連載、そうそうネタがあるわけでもなく、このブログでご紹介したような事柄を改めてまとめ直して使わせていただいております。前号では花巻市に寄贈された光太郎の父・光雲作の木彫「天鈿女命像」と、鋳銅製「准胝(じゅんてい)観音像」について書きました。

そういう意味ではある種、手抜きとも云えるような執筆なのですが、巻末にこんなことを書かれては、いい加減には書けないな、と思う今日この頃です。
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奥付画像を載せておきます。ご入用の方、版元まで。

【折々のことば・光太郎】

どうも何かするのがのろいので自分ながら困ります。


大正13年(1924)5月11日 木村荘五宛書簡より 光太郎42才

原稿が遅れるという言い訳の葉書から。自身を「牛」に例えることもあった光太郎ですので……(笑)。

こちらも当方手持ちの葉書です。
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毛筆で書かれています。墨をすっている暇があったら原稿書けよ、と言いたくなりますが(笑)。

手前味噌で恐縮ですが……。

文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」

期 日 : 2023年6月24日(土)
会 場 : 千葉県立東部図書館 千葉県旭市ハの349
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 無料

日本の近代美術・文学に偉大な足跡を残した高村光太郎は、今年生誕140年を迎えます。十和田湖畔の『乙女の像』をはじめとする彫刻作品、人口に膾炙した詩の数々。中でも特に人々に愛される詩集『智恵子抄』の中に、千葉県を舞台にした作品があることをご存じでしたか。 本講座では、光太郎と妻・智恵子の波乱に満ちた生涯に触れ、二人が訪れた銚子・犬吠埼、成田・三里塚、九十九里浜を資料とともに辿ります。(聴講無料)  チラシはこちら(PDF:1.5MB)

講 師 : 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
定 員 : 30名
募集方法 
 6月1日(木)より、電話・FAX・E-mail・来館にて先着順に受け付けます。

※手話通訳や車いす等の配慮が必要な方は、6月10日までにお申し出ください。なお、ご希望に沿えない場合もありますので、あらかじめご承知おきください。

問い合わせ
千葉県立東部図書館 読書推進課
〒289-2521 旭市ハの349 TEL 0479-62-7070 FAX 0479-62-7466
E-mail:elib-kouza@mz.pref.chiba.lg.jp

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若干先の話ですが、どうもあまり応募が多くなさそうなので……。

案内文にあるように、光太郎智恵子と房総各地の関わり――二人が愛を確かめ合った銚子犬吠埼、光太郎親友の水野葉舟が移り住み光太郎もたびたび訪れた成田市三里塚、心を病んだ智恵子が半年余り療養した九十九里浜など――について、語らせていただきます。

ちなみに東部図書館さん、住所は「旭市ハ」ですが「はち」ではありません。カタカナの「ハ」です。カーナビ等使われる方、御注意下さい。千葉県では住所に「イロハ」が用いられるケースが少なくありません。当方自宅兼事務所のある香取市(東部図書館さんのある旭市の隣町)にも「佐原イ」から「佐原ホ」が存在します。現在住んでいる場所は別ですが、生まれは「佐原ロ」。「さわらぐち」ではありません。「さわら・ろ」です(笑)。このように「地区名」+「イロハ」が多いのですが、旭市は地区名そのものが「イロハ」。千葉県立旭農業高校さん(昔、親戚が勤務していました)の住所は「千葉県旭市ロ1番地」。これが不動産登記簿に登記されている日本で最短の地名だそうです(笑)。

閑話休題、お近くの方(首都圏からですとけっこうな距離なので、お薦めするのが心苦しいところです(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】002

新潮社からの刺繍の名はまだきめてありません。多分「猛獣篇」かと思ひます。期日もわかりませんが十一月頃でせうか。


大正11年(1922)6月25日
 野田守雄宛書簡より
 光太郎40歳

猛獣篇」の連作詩は2年後の大正13年(1924)から書かれ始めます。さまざまな動物や架空の生き物に仮託して、自己の荒ぶる魂を謳うものです。有名な「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)なども含まれています。まだ具体的な詩篇が書かれていないうちに、新潮社から出版の話があったようです。しかし、結局、「猛獣篇」としての単独出版は光太郎生前には実現せず、没後の昭和37年(1962)になって、当会の祖・草野心平が鉄筆を執り、ガリ版刷りで刊行されました。印刷、製本等には当会顧問であらせられた故・北川太一先生もご協力なさいました。

ハンドメイド系の通販サイトから最近見つけた商品を2点。

レモンのイヤリング

チェコガラスビーズでできたレモンのイヤリングです。

レモンのお色は高村光太郎の『智恵子抄』から、「レモン哀歌」をイメージした「トパアズ」と、梶井基次郎の『檸檬』をイメージした「イエロー」の2種類、金具はゴールドとシルバーの2種類、計4種類をご用意しました。ご注文の際はよくご確認下さい。

A1:トパアズ×ゴールド ¥ 600  A2:トパアズ×シルバー ¥ 600
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B1:イエロー×ゴールド ¥ 600  B2:イエロー×シルバー ¥ 600
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「トパーズ」ではなく「トパアズ」として下さっているのが心憎いところです。

もう1件。

【レモン哀歌ネックレス】天然石きらめく物語アクセサリー

 高村光太郎が妻・智恵子を偲んで書いた「レモン哀歌」は、永遠の愛の詩です。「愛し合うすべての人々が幸福でありますように」。そんな思いで作ったネックレスです。
 みずみずしいレモンクオーツをトップに付けました。ラフカットなので不規則にきらめきます。「自分らしく」と励ましてくれるシトリンを3粒並べ、レモン果汁の香気を表現しました。
 きらめく雫のようなアクアマリンを、レモンクオーツの隣に付けました。幸せな結婚の象徴でもあり、自由の象徴であるアクアマリンは、心の闇に入りこんでしまったときでも、一筋の光を見せてくれる石です。
 青白いオーロラのような石は、レインボームーンストーン。小さな奇跡に巡りあわせてくれるロマンティックな石です。
 長さ調節できるアジャスターには、「希望の石」アマゾナイトを付けました。

チェーン(真鍮) 約36cm  長さ調節アジャスター 約3cm

★ラッピングについて
 「レモン哀歌」についての文章と天然石の紹介を書いた、小さな本にお入れします(無料)。
★天然石について
 石の形状や大きさ、色味は写真とは異なることがありますが、ひとつとして同じものがない天然石の味わいと思って頂けると幸いです。また、天然のクラックやキズが見られる石がありますことをご了承ください。
~天然石の紹介~
◆レモンクオーツ
 レモンの香気のようなみずみずしい水晶で、水晶特有の冷涼感と温かみがあります。この石を見ていると、窓からの陽射しで朝目覚めたときの、何もかも新しく生まれ変わっているような清々しさを感じます。フレッシュな明るさをもつ石ですが、包みこむような優しさと安心感もあります。
◆シトリン
 柔らかな太陽の光のような石で、日光浴をしているときの体に染みいる温かさを放つ石です。「自分らしく」と元気づけてくれ、心に明るく朗らかな光をもたらしてくれます。瞬間々々の充実感や満足感、無理のない自分らしさや自信、問題を乗りこえ前進していく勇気を与えてくれます。
◆アクアマリン
 穏やかに打ち寄せる波や、きらめく雫を思わせる、みずみずしい石で、感情の滞りを洗い流して心を癒してくれます。自由を象徴する石でもあり、何事にも囚われない水のような柔軟性や、相手を受け容れる大らかさをもたらし、壁のないコミュニケーションを助けてくれます。そのため「幸せな結婚」を象徴する石でもあります。また、アクアマリンは「夜の女王」とも呼ばれるように、暗がりできらめきを増すという特徴がありますが、この優しいきらめきは、心の闇に入りこんでしまったときでも、一筋の光を見せてくれる気がします。
◆レインボームーンストーン
 朧月のような、神秘的な美しさをもつ石で、インスピレーションを高め、小さな奇跡と思える出来事や出会いに導いてくれるといわれています。
◆アマゾナイト(ペルー産)
 希望や幸運を呼び込んでくれるといわれています。明るい青緑色がアマゾンの川や森を思わせることから、石名が付けられたそうです。心が安らぐ色をしていますが、原始の川や森に木漏れ日が差すような明るさも。
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画像を見るとけっこう以前から売られているようですが(2016年という文字が見えますので)、つい最近検索網に引っかかりました。

「こんなのもあるよ」という情報、お待ちしております。作家さんご本人でも、それ以外の方でも。できるかぎり紹介させていただきます。

【折々のことば・光太郎】

あなたが外国へ向はれてからもうまる三年たちました。 そして私はまだあの成瀬先生の胸像をいぢつて居ります。 学校の方の人々のよく忍耐して待つてゐて下さるのを ありがたいと思つてゐます。 しかし私が今こんなに長くかかつてやつてゐるのは 私としては 無意味ではないのです。この胸像は私の彫刻製作上の一転機をつくるものと信ぜられるのです。私はこの三年間 煉瓦をつむやうに研究して来ました。そして心の全く澄んで 静かな時だけ此の彫刻に手をつけました。雑念の心を乱すやうな時は幾日でも手をつけずに 只見てばかりゐました。


大正11年(1922)3月11日 小橋三四子宛書簡より 光太郎四十歳

010小橋三四子は日本女子大学校での智恵子の先輩。同じく柳八重らとともに、光太郎と智恵子の出会いをお膳立てしてくれた一人です。その小橋らを通じて、同校の創設者にして大正8年(1919)に亡くなった成瀬仁蔵の胸像制作の依頼がありました。依頼は成瀬が没する直前で、3年経ってもまだ出来ていないという報告です。

しかし、3年どころではなく、結局、この胸像が完成するのは昭和8年(1933)。造っては毀しの繰り返しで実に14年もかけました。光太郎、この胸像には書簡に書かれているようなものすごい思い入れがあったようです。後から注文があった松方巌胸像、黒田清輝胸像の方が先に完成してしまいました。もっとも、それらは注文主が待ってくれなかったのかもしれませんが。

この像、現在も同校の成瀬記念講堂に据えられています。下の画像は同校創立90周年記念のテレホンカードです。平成3年(1991)頃のものでしょう。
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今年、光太郎は生誕140周年を迎えました。そして当会の祖・草野心平は光太郎のちょうど20歳下になりますので、生誕120周年。

140より120の方が区切りがいい感じもあるのでしょうか、生誕120周年でけっこう頻繁に取り上げられています。いろいろあるのですが、これはと思う報道を3件。

まず『いわき民報』さん。心平の誕生日5月12日(金)の記事です。

草野心平 きょう生誕120年迎える 小川の生家にカエルのキャンドル並ぶ

 〝蛙の詩人〟として親しまれている、小川町出身の草野心平(1903~1988)は12日、生誕120年を迎えた。少年時代を含め20年ほど暮らした生家には、母校の小川小と、地元小玉小の4年生が作成したカエルのキャンドル約60個が展示された。
 キャンドルは、心平が生家で生活していたころと、同世代の子たちの古里を思う気持ちを育むため、市立草野心平記念文学館が依頼した。ウインクをしたり、ひげをたくわえたりと、チャーミングな姿に、来場者たちも思わずほっこりした気持ちに包まれている。展示は6月25日まで。
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かわいらしいキャンドルですね。一瞬、ピ○チュウかと思ってしまいましたが(笑)。

続いて『福島民報』さん。こちらは文学史上、重要な発見を報じています。誕生日翌日の5月13日に報じられました。

草野心平自筆「最後の詩」か 最晩年の未発表原稿 寄り添った女性への感謝著す

 12日に生誕120年を迎えた福島県いわき市出身の詩人草野心平(1903~1988年)が最晩年に書いたとみられる未発表の自筆原稿1枚があることが分かった。病に伏せる晩年の心平に寄り添った山田久代さん(故人)への感謝の気持ちをうかがわせる内容で、原稿を保管する元いわき市草野心平記念文学館副館長の関内幸介さん(75)=市内在住=は「心平の『最後の詩』の可能性がある。心平の最晩年や2人の関係を理解する上で貴重だ」としている。
 久代さんの遺族が保管していたものを関内さんが2012(平成24)年に譲り受けた。久代さんは心平と筆談したメモや書簡など100点以上を残しており、保管状況や筆跡から原稿は心平の直筆と判断できるという。1987(昭和62)年ごろ、東京都東村山市の自宅で書いたとみられる。
 原稿は「何も言はない。」で始まり、「何も言ふべきことない。」「声をだすな。許せ。」「いろいろ言うべき多し。許せよ」などとつづられている。最後は「かんベン かんベん! ありがたう。」で終わる。
 「草野心平日記」などによると、心平は病の影響で1987年7月ごろから言葉が不自由になり、周囲と筆談でやりとりしていた。最後の詩集が出版されたのは1986年で、1987年4月の詩誌「歴程」で発表した詩が最後の詩とみられていた。心平を約20年研究する市教育文化事業団の渡辺芳一さん(49)は「言葉がうまく出ない苦しさや、相手を大事に思いながらもささいなことで口論してしまう心境を表現しているのでは」と指摘する。
 久代さんは1949年に東京の酒場で心平と出会い、心平の妻の死後は籍を入れないまま一緒に暮らした。心平の日記には「チャ公」との愛称で登場する。2011年5月、89歳で亡くなった。
 関内さんは心平の親戚に当たる。「籍を入れなかった2人だが、形式にとらわれない絆や愛の深さがあったことを後世に残したい」と話し、久代さんの遺族から譲り受けた資料を同文学館などへ寄託できるかどうか検討しているという。
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かんベン かんベん! ありがたう。」、いかにも心平が照れ笑いを浮かべつつ言いそうな……。

最後に仙台に本社を置く『河北新報』さん。5月28日(日)の記事です。ちらっと光太郎にも触れて下さいました。

東北の文化人と親交深く いわき出身・草野心平 生誕120年 <リポート2023>

 いわき市出身の詩人草野心平(1903~88年)が12日に生誕120年を迎えた。旺盛な創作の傍ら、東北の多彩な文化人たちと親交を深めた。詩人で童話作家の宮沢賢治を世間に広め、板画家棟方志功とは共著の詩画集を出した。写真家土門拳の「助手」も務めた。草野心平記念文学館(いわき市)が所蔵する本人の所持品と残した文章から、交流の軌跡をたどる。(いわき支局・坂井直人)

宮沢賢治、棟方志功、土門拳… 「良いものは良い」
 「現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある『天才』は宮沢賢治だと言いたい。世界の一流詩人に伍(ご)しても彼は断然異常な光りを放っている」
 草野は、花巻市出身の宮沢賢治(1896~1933年)を激賞した。きっかけは1924年4月に自費出版で1000部刊行した詩集「春と修羅」との出合い。愛蔵書の背表紙は欠け、ぼろぼろになったほどだ=写真(1)=。
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 「彼の詩集と一緒に何度か旅をし、数十回読み返した。そんなに恥(はず)かしい感激を私は日本で彼の詩集にだけ経験した」。ほれ込み具合は相当なものだった。
 自身が手がける同人詩誌「銅鑼(どら)」に賢治を誘い、13編の作品を載せた。ただ、会うことなく、「天才」は無名のまま早世。花巻の宮沢家に弔問に訪れて初めて、遺影で対面した。膨大な未発表の遺稿に驚き、没後1~2年で編集のほとんどを担った賢治の選集的全集を刊行。作品を世に知らしめた。
 青森市出身の棟方志功(03~75年)とは同い年。児童文学雑誌の仕事を通じて縁が芽生えた。66年には、草野が主題の一つとした「富士山」のタイトルで共著の詩画集を出した=写真(2)=。
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 「彼はいつもフイゴのように熱っぽく火達磨(だるま)のようにぐるぐるしている」「彼の近眼も底なしの善意もケタ外れであり仕事の独自性もケタ外れである」。その人柄を愛し、終生の友として家族ぐるみで付き合った。
 草野は右目、棟方は左目が見えなかった。インド旅行に出かけた際、2人で一人前だなと大笑いした。帰国後、2度目の共著を編集中に棟方が亡くなり、その後に詩画集「天竺(てんじく)」が出版された。
 草野が創刊に携わった詩誌「歴程」は、酒田市出身の土門拳(09~90年)の撮影した写真が表紙を飾ったことがある=写真(3)=。
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 被写体は草野と親交のあった高村光太郎の彫刻作品。土門の指示で、草野らはまぶし過ぎるライトの光を遮断する役割をさせられた。
 草野はある時、文学賞でもらった時計を質に入れた。土門に撮られた自身の写真を質屋に見せ、信用獲得に役立ったといい、「首実検の結果まんまととほった(通った)」と明かす。
 草野心平記念文学館の長谷川由美専門学芸員は「良いものは良いという確かな目を持ち、きちんと伝えられる強さを持っていた」と、詩作にとどまらない草野の人間的魅力を指摘する。

土門拳撮影の光太郎彫刻は「黄瀛の首」。大正15年(1926)の作です。黄瀛は日本人の母と中国人の父の間に重慶で生まれ、千葉県で育った詩人。心平を光太郎に紹介しました。その後、心平の主宰した『歴程』同人として活躍します。

賢治、黄瀛らを世に出す労を惜しまなかった心平、その本物を見分ける確かな眼には驚かされます。既に詩人として名を成していた光太郎に対しても、『銅鑼』『学校』『歴程』などに寄稿を求め、さらに名を高からしめる一助。まぁ、光太郎詩文や挿画が載っているということで、それらの詩誌の売り上げや評価も上がったでしょうから、ギブアンドテイクだったようにも思われますが。

ところで、心平と言えば、来月、心平を名誉村民に認定して下さっている福島県川内村で58回目となる「天山祭り」が開催されます。村民の皆さんが心平のために建ててくれた別荘的な天山文庫が会場です。郷土芸能等の披露があり、生前の心平が愛した祭り、心平没後は心平を偲ぶ行事とも成り、さらに東日本大震災後は復興祈念の意味合いも付与された感があります。

で、心平生誕120周年、ついでに(笑)光太郎生誕140周年なので、そのあたりを語れ、という依頼がありまして、記念講演をさせていただきます。詳細はまた後ほど。

【折々のことば・光太郎】

チルチルになつた子は大変声の美しい子でした。ちよつと抱いてやりたい気のする子でした。


大正9年(1920)2月12日 田村松魚宛書簡より 光太郎38歳

新協劇団が行った公演「青い鳥」(メーテルリンク作)を観ての感想です。「チルチルになつた子」は、子役時代の初代水谷八重子。のち、昭和32年(1957)、北條秀司作の演劇「智恵子抄」で智恵子役を演じることになります。光太郎が難色を示し実現しませんでしたが、光太郎生前からその話があり、その際に水谷と光太郎を仲介したのも心平でした。
水谷八重子

一昨日のSBS静岡放送さんローカルニュースから。

梅酒づくりのシーズン到来。気をつけないと酒税法違反の可能性も

 もうすぐ梅の実の収穫シーズンです。肉厚で種が小さい品種「八房梅(やつふさうめ)」の栽培が盛んな静岡県島田市伊太地区の梅の畑では収穫を間近に控えた実がたわわに実っています。
 梅の生産から加工販売までを手掛ける「梅工房おおいし」の大石富佐子さんは「天候にも恵まれて、生育は順調。4トン程度の収穫を見込みたい」と話しています。
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 またスーパーやホームセンターには、梅酒づくりに使うビンや氷砂糖などが並び始めました。7月の季語でもある梅酒。アルコールの血行促進効果とクエン酸成分などが日々の疲れを取ってくれることから、日本では古くから多くの家庭で梅酒づくりが行われています。
古くは「薬」として利用されていた梅
あれも、これも法律違反に?
 「友人・知人に好評の自慢の梅酒。美味しさの秘密はホワイトリカー(甲類焼酎)でなく、日本酒とみりんで漬け込む特別なレシピ。あまりに評判がいいので、小分けにしてビン代程度のお金をもらっておすそわけするようになりました」。一見、なんの問題もなさそうな「梅酒の風景」ですが、実はその全てが酒税法に違反しています。手軽に作ることができる梅酒ですが、作り方から飲み方まで、法律で厳しく定められているのです。

あくまで「個人で飲むのであれば」
 本来どのような形であれアルコール度数1度以上の「お酒」を作るには酒税法に則って許可を取り、酒税を納めることが義務付けられています。しかし、梅酒づくりは1697(元禄10)年の『本朝食鑑』にも記されているほど日本人の生活に根を下ろした風習です。酒税法も「自分と家族が飲むのであれば」という条件付きで梅酒作りを例外としています。ですから友人・知人に評判になるほど広く振る舞うのはNGです。以前、関西のテレビ番組内で作った梅酒をゲストに振る舞う場面を放送してしまい、その局は後日謝罪放送をしました。

アルコール度数は20度以上が条件
 日本酒やみりんはホワイトリカーより旨味を多く含みます。しかし、法律では梅酒に使用する酒類はアルコール分20%であることと定めています。アルコール度数が低いと混入した野生酵母により発酵が進み、使ったお酒の本来のアルコール度数を上げてしまいますが、これも禁止行為。法律では酵母が働かなくなる20度以上のアルコールを使うように指示しています。毎日の料理を紹介する長寿テレビ番組ではみりんで作る梅酒を紹介し、後日内容を修正して放送したこともあるようです。
梅酒用の酒はどれも35度以上です
自家製梅酒の販売は厳禁
 もちろん無許可の販売は禁止されています。戦後の混乱期は各地で「カストリ」「どぶろく」など無許可の酒が横行し、当時の新聞にも税務署による大掛かりな取締の様子が記録されています。一方で家庭での梅酒づくりは続けられていたのでこの矛盾を解消するため1962年の酒税法改正で「家庭内での消費に限って梅酒づくりは合法」となりました。
 旅先の旅館の食前酒として手作りの梅酒が出されることがありますが、これは税務署への届け出をして①旅館内で作り、消費する、②量の上限を守る③土産として販売しない、といった条件の下、認められているそうです。

注文で作り、その場で飲めばOK
 それでは、バーなどで、複数の酒を混ぜて作るカクテルは「酒造り」に該当しないのでしょうか。法律では「酒類に水以外の物品を混和した場合において混和後のものが酒類であるときは、新たな酒類を製造したものとみなす(酒税法第43条)」としています。例えば「スクリュー・ドライバー」を作るためにウォッカにオレンジジュースを混ぜると酒類の製造とみなされ、取得に厳しい要件が義務付けられている酒類製造免許が必要になってしまいます。
しかしバーは免許を持たずカクテルを提供しています。これを可能にしているのが、「酒税法43条10項」です。この規定は「お客が飲む直前に混ぜるならいいです」としているため、店で客の注文を受けてから混ぜて、その場で飲ませることは酒類製造にあたりません。
 しかし、作り置きには問題があります。自家製の梅酒などアルコール20%以上の酒に酒以外のものを混ぜて漬け込み、客の注文に合わせて提供したい場合、事前に税務署への申告が必要です。また、アルコール度数20度以下のワインや日本酒に何かを漬け込んで作り置いた酒は、製造免許なしには提供できません。事前に果物をワインに漬けて用意しておくサングリアなどは「作り置き」「アルコール度数20度以下」なので、厳密に言えば法律に違反している、といえそうです。
注文を受けてから作り、その場で消費するのが条件です
梅酒は自分の楽しみのために
 「厨(くりや)に見つけたこの梅酒の芳りある甘さをわたしはしづかにしづかに味はふ」。詩集『智恵子抄』の中で、高村光太郎は先立ってしまった最愛の妻、智恵子が残していった梅酒を愛おしそうに口にします。自分と、ごく親しい人に見守られて熟成を重ねるのが梅酒です。飲み頃を迎える半年後を心待ちに、ルールを守ってお気に入りの一ビンを仕込んでみませんか。
漬けてから半年すると飲み頃になります
最後に光太郎詩「梅酒」を取り上げて下さいました。
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    梅酒
 
 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。

光太郎手控えの詩稿によれば、昭和15年(1940)3月31日の執筆。智恵子が亡くなっておよそ1年半、という時期です。

社会との関わりを極力避け、智恵子と二人で芸術精進の日々を送ろうとしていたかつての生活態度が智恵子を追い詰めたという反省、そうした生活を続けていては自分も精神の危機に見舞われるかも、というおそれもあったのでしょう。この時期の光太郎は180度方向性を変え、自ら積極的に世の中と関わろうとします。

しかし、光太郎にとっての悲劇は、その社会の方がおかしな方向に進んでいたこと。智恵子が亡くなる前年の昭和12年(1937)に始まった日中戦争は泥沼化、その膠着状態を打開しようと、翌昭和16年(1941)には太平洋戦争に突入することになります。

元々の『道程』時代からの一種の精神主義、かつて留学中のアメリカで受けた人種差別への苦い記憶、さらに遡れば幼い頃に祖父・兼松や父・光雲から叩き込まれた忠孝の精神などが頭をもたげ、大量の翼賛詩文を書き殴るようになってしまいました。世間もそうした光太郎を歓迎し、光太郎は一躍、時代の寵児となっていくわけです。

それでも亡き智恵子を偲ぶとき、そうした時代の寵児的な部分は影を潜めると、「梅酒」では謳われています。曰く「狂瀾怒濤の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。」。

ところが、「あはれな一個の生命を正視する」こと自体が減っていきます。智恵子に関する詩は、翌年、おそらく『智恵子抄』出版に際して書きおろされたと推定される「荒涼たる帰宅」を最後に、戦後まで作られることはありませんでした。

昭和20年(1945)4月13日、智恵子と過ごした思い出深い本郷区駒込林町の住居兼アトリエは空襲により灰燼に帰しました。智恵子の遺した梅酒は、それまでに飲みきっていたのかどうか。もしまだ残っていたとしても、戦火に失われたことでしょう。一ヶ月後、宮沢賢治の父・政次郎らの勧めで、光太郎は花巻町の宮沢家に疎開します。その宮沢家も終戦5日前の空襲で全焼。ある意味、地獄ですね。

そして戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋に移った光太郎は、7年間を送ることになります。当初は山中に芸術村を作る、的な無邪気ともいえる夢想を抱いていましたが、雪に閉ざされた日々は深い自省を迫り、光太郎は自らの山小屋生活を「自己流謫」(自分で自分を島流しにする)と位置づけました。高祖保松木喜之七ら、かつて交流の深かった人々の戦死の報なども影響したでしょう。

その太田村生活末期の昭和27年(1952)3月、NHKのラジオ放送のため、花巻温泉松雲閣で詩人・真壁仁との対談が録音されました。さらに自作詩の朗読も。その中に「梅酒」のそれも含まれていました。作品の選択は局の意向だったのか、光太郎の自選なのか、そのあたりは不明ですが、この時点で「梅酒」を朗読した光太郎の胸中は、いかばかりだったでしょうか。

NHKさんにはその際の音源が残されており、平成8年(1996)以後、二度ほどCD化もされました。ただ、もう流通していないようで、覆刻が待たれます。

【折々のことば・光太郎】

今日では百円以下ではとてもおわかちできないものです。 原型をお見せしませう。こんな風なものですが 高さは一尺弱で奥行五寸ほどのものです。出来るだけ近い鋳金の機会を以て完成してお送りしますが 今年中にといふ事にはお約束出来ないのを残念に存じます。 新年のあなたの机上に飾れたら私もうれしかった思ひますが むつかしいやうに思ひます。

大正8年(1919)12月11日 野田守雄宛書簡より 光太郎37歳

野田は滋賀県の銀行家。大正6年(1917)に入会者を募った「高村光太郎彫刻会」を通じて光太郎に彫刻を注文しましたが、ようやくその完成のめどが立ったという内容です。

送られた彫刻はブロンズの「裸婦坐像」。この書簡には粗いスケッチが描かれていました。
Rafuzazou

今月1日、詩人の平田好輝氏が亡くなったそうで、奥様から訃報のお葉書を戴きました。おん年87歳であらせられたそうです。ご葬儀は3日、近親の方々で済まされたとのこと。
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氏には『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』(昭和48年=1973 東宣出版)というご著書がおありで、連翹忌の集いにも昭和50年代から平成の初めまで、8回ご参加いただいていました。

『高村光太郎試論 智恵子と光太郎』、智恵子との関係性に軸を置いた光太郎評伝で、当方、大学の卒論執筆時にはかなり参考にさせていただきました。

同書の「あとがき」。

 昭和三十一年四月一日のことである。時ならぬ雪が、激しく降りだした。万愚節のことでもあり、まるで嘘のように思われたが、雪は激しく降り積んだ。
 そのころ、わたしは二十歳で、国文科の学生であり、なによりも詩を書くことに夢中になっていた。第一詩集に収めた作品のうちのいくつかを、このころに書いていた。
 まるで嘘のように降る激しい雪を見ながら、一体、何事が起こったのだろうと思った。わたしが生れた二日後に突如として首都を震撼させた二・二六事件の話は、成長するにつれて、折にふれ聞かされ、二・二六を思うと必ず雪のイメージがひろがったが、その二・二六を思わせるような、何か只事ならざるものに、その雪は思われた。
 激しい雪は四月一日から二日の早朝にかけて降り、東京一帯を真白の雪景色に包んだ。わたしの家の近所には、ゆるやかなスロープがあり、そこに俄かにスキーヤーたちが群がり、若い女や男のほかに、白髪まじりの人まで加わって、真面目にスキーを楽しみ始めたのであった。
 一体、何がどうなったのだろう。桜が満開の筈の時に、首都圏の中でスキーが始まっているとは。
 何か余程の異変があったものと思われた。思いついて、ラジオのスイッチをひねってみた。
 すると不意に、高村光太郎の死が、伝わってきたのだ。三月の中旬頃から、光太郎の容態がよくないことは、かすかに聞き知っていた。しかし、ラジオを通して、光太郎の死を知ったときに、じつに不意打の感じと、『ああ、やっぱりそうだったのか』という感じとが、同時に襲ってきた。光太郎が雪を降らせていたのだ。なァんだ、光太郎のせいだったんだ、と思い、むしろ心の奥深いところで哄笑したいような気持があった。窓から見えるスロープで、スキーを楽しんでいる大人たち、きみたちはなぜ今ごろ、そこでスキー靴を履いて滑っているのか、分っているか。これはみんな、光太郎が降らせた雪なんだよ。わたしは飛び出して行って、大声でふれてまわりたい気持だった。
 昭和三十一年、四月二日未明、高村光太郎、ついに逝く。雪激しく降り、真白に積る。光太郎、七十四歳。
 岩手の山小屋に一人で暮らしていたときには、小屋の中に雪が吹きこみ、光太郎は手帚を持って寝ていたという。ときどき気がついたときに、顔のまわりの雪を掃いてから、また眠るのである。六十代の高齢でありながら、なおも光太郎は山小屋に一人で住み、零下二十度にもなる所で、凜冽の冬を愛しながら暮らしていたのである。そんなにまで、冬や雪を愛し、冬や雪のことを歌った詩人は、ほかにない。
 その光太郎が東京で亡くなるにあたって、東京一帯が時ならぬ雪に見舞われたのは、光太郎にとっての当然であり、それこそ「自然」であった。雪激しく降り、光太郎はその雪に包まれながら死んだ。不思議であるけれども、不思議ではない。詩に夢中になっていた二十歳のわたしにとって、高村光太郎の死にざまは、なにかわたしの奥底を揺るがし、鼓舞してくれているような気がした。「天然の素中」という彼の言葉が、不意に分ったような気がした。わたしが一度も会いに行けないうちに、光太郎は、「天然の素中」に帰って行ってしまったのだ。どうすることもできない。いくら会いたいと思っても、もう会うことはできない。だが、それにも拘らず、わたしには、その四月二日が、正直いって、非常にうれしかった。激しく雪を降らせ、そして彼は死んでいったのである。何も知らないでスキーを持ち出して無心に滑っている大人たちの光景が、わたしの窓から見え、そんな人々に対しても、なにかほのぼのと心の底から親しみを感じたのである。
 いつか必ず、光太郎智恵子のことを書かねばならないと、そのとき思った。その後の十数年に、断片的には書いてきたが、自分の創作にかまけて、一冊に書きおろしてみたい気持を、気持だけのままおしやりながら、年月を過ごしてきた。
 ただ、光太郎智恵子のさまざまなイメージは、この年月の間にも繰り返しあたためてきたつもりである。
 そして、はからずも今度、東宣出版の慫慂を得て、この一本をまとめることが出来た。とくに、田辺辰俊氏と星野正三氏の励ましに深くお礼を申し上げたい。


蓋し、名文ですね。ついつい全文を引いてしまいました。

平田氏、詩人としても現役を続けられていました。当方がいろいろお世話になっている詩人の宮尾壽里子氏が送ってくださる文芸同人誌『青い花』(第四次)の同人であらせられ、枯淡の妙ともいえるような詩を発表なさっていました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

昨夜見えた相ですね。僕はとうと例の風邪にかかつたやうです。医者に見てもらつてねてゐます。夜は四十度以上になるやうです。食事がいけないのでつかれました。しかし気持は元気でゐます。 智恵子は亡父の一周忌で今国へ帰つてゐます。 此手紙はすぐすてて下さい。うつるといけないから


大正8年(1919)5月4日 田村松魚宛書簡より 光太郎37歳

「例の風邪」はこの年猛威をふるったスペイン風邪。しかし、実はそうではなく腸チフスだったことがのちにわかり、入院します。「とうと」は「とうとう」の誤記ですね。

昨日の『奄美新聞』さん記事から。

「日本復帰学習会」スタート 語り部招き、町内全小開催へ

【徳之島】奄美群島日本復帰70周年にちなんだ伊仙町教育委員会の「奄美群島日本復帰学習会」が23日、伊仙小学校(佐々木久志校長)の5、6年生65人を皮切りに始まった。戦前戦中生まれの語り部2氏を派遣。児童たちは、同校(当時国民学校)の元教頭で校歌作詞者でもある「奄美日本復帰の父」泉芳朗氏=同町面縄出身=の人柄や功績、祖国分離下の厳しい生活などの体験談に触れた。
 復帰70周年を記念して1時限(45分間)ずつ設定した。群島民20万人余の署名活動や断食祈願による無血民族運動など、諸先輩らの思いを次世代につなぐ持続可能な社会とまちづくり、さらに、郷土教育の充実による「郷土に誇り、愛する豊かな心の育成」が目的。各校区の語り部を中心に、町立全小学校(8校)に派遣開催する。
 伊仙小での語り部には、卒業生で同校にも通算10年間勤務した元教職員で現在、町文化財保護審議会会長の義岡明雄さん(85)=伊仙=と、同じく元教職員で現在塾講師の福清千美子さん(78)=面縄=の2人が協力。
 義岡さんは、太平洋戦争末期(小学生当時)に沖縄戦での米軍艦砲射撃の爆発音や空振も感じた恐怖、若者ら特攻隊の出撃の背景、終戦・祖国分離下でサツマイモを主食としたつらい体験談の数々も語った。
 大先輩(伊仙尋常小高等科卒)でもある泉氏については、東京で高村光太郎らと詩人として活躍中に体調を崩し失意の中に帰郷し、母校伊仙小の代用教員に就いた1年後、秀逸ぶりから教頭に抜てきされたことや、神之嶺小校長、県視学を経て奄美群島日本復帰協議会議長として先頭に立った断食祈願(5日間)の敢行なども分かりやすく解説。
 その上で、児童たちには「芳朗先生は貧しい中で一生懸命に勉強をした。芳朗先生のように人に優しく平和を愛する人になってほしい」ともアピールした。
 福清さんも終戦・祖国分離下だった幼少期の思い出などを自作の絵巻物で紹介しつつ、「ロシアとウクライナの戦争が続いているが、奄美群島の日本復帰運動では血を流した人は1人もいない。人に優しく、自分の考えをしっかりと伝え実行する人に」と呼び掛けた。
 児童の宝永友樹愛さん(6年生)は「自分たちが〝日本人〟に戻れたのは泉芳朗先生のおかげと思った。今の自分たちは恵まれていることも分かった。偉大な先人に学び、人に感謝して人を愛し、優しくすることを心掛けたい」と話した。
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奄美群島の日本本土復帰は昭和28年(1953)12月25日。今年はちょうど70周年だそうで、「奄美群島日本復帰70周年記念式典及び記念祝賀会」なども計画されているようです。それに先立ち、徳之島の大島郡伊仙町の小学校で歴史的背景を学ぶ取り組みが為されたとのこと。同町出身で、初代名瀬市長も務め、本土復帰に骨折った泉芳朗の事績なども取り上げられたそうです。

泉については、このブログで昨年にも取り上げましたが、その時点では、当方、泉と光太郎の関わりをあまり存じませんでした。筑摩書房『高村光太郎全集』には、泉の名は一度しか出てこないためで、それも昭和27年12月14日の光太郎日記に「田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長」とあるだけだったためです。「俺美」は「奄美」の誤記です。

ところが、よくよく調べてみると、かなり深い関わりがあったことが分かりまして、汗顔の至りでした。

002きっかけは、過日、千葉県立東部図書館さんに行った折、たまたま眼にした『新装版 泉芳朗詩集』(平成25年=2013 紀伊國屋書店)。ぱらぱらめくってみると、見なれた光太郎の筆跡が眼に飛び込んできました。泉が主宰していた雑誌『自由』の表紙画像です。右は同誌の昭和29年(1954)新年号。春秋社さんから刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)から採りました。

この題字が光太郎の筆になるものであることは存じていましたが、この雑誌が泉の主宰だったことは存じませんでした。『高村光太郎 造型』の解題を見ますと、ちゃんと泉の名が記され、先の日記にあった昭和27年(1952)12月14日の訪問が、この題字揮毫に関わるであろうということも記述されていました。


そこでいろいろ調べたところ、遡って昭和13年(1938)には光太郎も出席した座談会で、泉が司会を務めていたことも見落としていたのにも気付きました。

雑誌『詩生活』(これも泉の主宰でした)の第6巻第1号に掲載された「詩と文学・戦時座談会」という長い座談会で、会場は都内大塚の山海楼、光太郎、泉以外の出席者は昇曙夢(泉と同郷のロシア文学者)、川路柳虹、宇野浩二でした。昭和47年(1972)、文治堂書店さんから刊行された『高村光太郎資料』第三集に全文が掲載されています(筑摩書房『高村光太郎全集』は、これに限らず座談会は総て割愛)。

前年には日中戦争も始まっており、かなり時局に即した内容です。途中途中につけられた小見出しをいくつか拾うと、以下の通り。「事変が生んだ作品について」「戦争文学のありかたについて」「戦争文学のカテゴリー」「体験と戦争文学」「素材を如何に取り上げるか」「外国の戦争文学・詩」「火野葦平と「兵隊」物」「国民文学と世界文学」「事変と日本文学の新動向」「文学の世界的交流」「若き世代の人々に望むもの」……。

言い訳をさせていただけるなら(言い訳していいわけないだろ、とか突っ込まないで下さい(笑))、泉、戦前には本名の「泉芳朗」ではなく、「泉与史朗」と名乗っていた時期もあり、この座談の際のクレジットも「泉与史朗」でした。

泉と親しかった詩人の田村昌由(『詩生活』の編集に携わっていて、おそらく座談の筆録に当たったと思われます)が、のちにこの座談会について語っています。出典は日本詩人クラブ発行の『詩界』121号(昭和48年=1973)。明らかな誤字は正して引用します。

 この座談会は、実は高村先生のあとあとによからぬ結果をもたらすきっかけをつくった、と私はずうっと思っているのですが。といいますのは先生は当時、智恵子夫人の病中であることと、もうひとつはあたまをもちあげてきた戦争亡霊がいやで、どこの座談会へも出られなかった。みんなことわっておられたのです。ところが「詩生活」の座談会へ出られた。雑誌が出ると早速「中央公論」から「かねがねお願いしてあったわけですが……どうかこんどは……」といった具合で、せめたてられて、ことわりきれず、こまってしまった、とあとで先生からおききしました。先生の戦時社会詩文学活動〈このんでされたのではない、私たちは先生の応接間にうかがっているとき、たずねてきた人の注文をことわられるのに何度かぶつかった〉はこの座談会がきっかけで十四年の春頃から、だんだんとのめりこんでいくのです。
(略)
 十月十八日が座談会ですが、智恵子夫人がなくなられたのは十月五日です。雑誌には口絵写真がのっていて若い私たちはうしろの方にかしこまっていますが、私は、夫人がなくなられてまもないのに座談会へ出られた、そのことをいまでも申訳なく思っています。


なるほど、この後、同様の座談会に光太郎が引っぱり出されることが多くなります。翌昭和14年(1939)には雑誌『知性』で「芸術と生活を語る」と題し、岸田国士、豊島与志雄と。この際がおそらく岸田と初対面でしたが、岸田は翌昭和15年(1940)、大政翼賛会が発足すると文化部長に就任し、光太郎を翼賛会の中央協力会議議員に強く推薦し、光太郎もそれを引き受けます。

まぁ、それ以前から翼賛詩的なものを書いていた光太郎ですが、この座談を契機に戦争協力へとなだれ込むことになったと言っても過言ではありませんね。その際の司会をしていたのが泉であった、というわけです。

また、「泉与史朗」名義で調べてみると、昭和16年(1941)刊行の海野秋芳の詩集『北の村落』には、光太郎と泉、両名の「序」が並べられていたり、同年の『現代日本年刊詩集 昭和十六年版』にも光太郎と泉の翼賛詩が共に掲載されていたりしました。そして戦後の『自由』。泉と光太郎の結びつき、かなり深かったわけですね。

そうこうしているところに、昨日の『奄美新聞』さんの記事。驚きました。

戦後、光太郎は戦争協力を恥じて花巻郊外旧太田村のボロ屋に7年間の蟄居生活を送り、泉は郷里・奄美群島の本土復帰に尽力。立場や事績は異なれど、共通する魂があったのではないかと思われます。

以前も書きましたが、奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。

【折々のことば・光太郎】

とにかく書いたから約束のやうに送ります 背の文字は少し書きいぢけたから 別にかいた方のを入れていたゞきたい 裏は画も考へたけれどそれよりはとおもつてシイルを考案した 扉其他の字のまづいのは素より君が覚悟の上だから為方がない 今いそぐ為め用事のみ


大正8年(1919)4月27日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎37歳

内藤は光太郎第一詩集『道程』版元の抒情詩社社主。内容的に書籍の装幀にかかわるものと推測されますが、この時期に該当する光太郎装幀の書籍が見あたりません。ボツになったのか、当該書籍の出版が頓挫したのか、それとも未だ知られざるこの時期の光太郎装幀の書籍が存在するのか……。謎です。

千葉県北東部、九十九里浜北端付近の旭市にある県立東部図書館さんでのミニ展示です。すでに先月から始まっているのですが、公式サイトに案内が出ましたのでこのタイミングでのご紹介です。

資料展示「高村光太郎 生誕140周年」

期 日 : 2023年4月23日(日)~6月30日(金)
会 場 : 千葉県立東部図書館 千葉県旭市ハの349
時 間 : 平日 午前9時から午後7時 土・日・祝休日 午前9時から午後5時
休 館 : 月曜日 第3金曜日
料 金 : 無料

 日本の近代美術・文学に偉大な足跡を残した高村光太郎は、今年生誕140年を迎えます。 十和田湖畔の『乙女の像』をはじめとする彫刻作品、人口に膾炙した詩の数々。中でも特に人々に愛される詩集『智恵子抄』の中に、千葉県を舞台にした作品があることをご存じでしたか。
 東部図書館では、光太郎のあゆみや作品、妻・智恵子を初めとする周辺人物について知ることのできる資料を展示します。光太郎が翻訳・執筆した大正時代の出版物も並びます。この機会にぜひお手に取ってご覧ください。

展示資料リストは こちら(1MB)

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案内にある通り、千葉県には光太郎、そして智恵子の足跡も残っています。特に人生の節目節目にそれらを残しているというのも特徴です。

大正元年(1912)には、銚子犬吠埼で結婚前の二人が愛を誓い合いました。しかし、二人の共棲生活は智恵子の心の病で破綻、智恵子は昭和9年(1934)に九十九里浜で約半年の療養生活を送ります。また、成田三里塚には光太郎詩「春駒」詩碑。関東大震災の後に作られた詩で、この頃から光太郎詩は「猛獣篇」時代に入ります。

で、まだ公式発表になっていませんが、来月24日(土)、同館で開催されるそのあたりに関する市民講座の講師をすることになりまして、その関係もあってこの展示が為されています。

今月初めに、調べ物もありましたし、打ち合わせを兼ねて同館にお邪魔し、展示を拝見して参りました。その際に撮影した画像。
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同館のみならず他館からも借りうけたりし、なかなか賑やかな感じにレイアウトされていました。中には古い雑誌でちょっと珍しいもの、地元で少部数の自費出版が為されたものなども。さらにバックヤードにも入れていただき、「この本でも光太郎が大きく取り上げられていますよ」というのを何冊か推薦し、増えています。

当方の講座の方は、また詳細が発表されたらご紹介します。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

クリスマスのおよろこびを私達からもお受け下さい。 あなたの清い心と同朋を思ふ熱い情とにますます祝福のある様にといのります。


大正7年(1908)12月24日 小橋三四子宛書簡より 光太郎36歳

光太郎、洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、キリスト教の考え方に対する興味関心は少なからず持っていました。少し後にはイエスを題材とした詩「クリスマスの夜」(大正11年=1922)「触知」(昭和3年=1928)なども書いています。

この葉書は珍しい光太郎智恵子連名のものの一つです。そこで、「私達」です。
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新刊です。

おとなのスケッチ塗り絵 花と叙情の詩文集

2023年5月21日 絵・名司生 エムディエヌコーポレーション発行 定価1,200円+税

スケッチするように塗り絵を楽しむ「おとなのスケッチ塗り絵」。最新作の『花と叙情の詩文集』は、日本文学をテーマにしました。

美しい日本語で紡がれた日本文学。シリーズ24作目は名作として長く読み継がれている文学作品をテーマにしました。「植物」「動物」が登場する一編を取り上げ、その情景をイメージして図案化。物語のワンシーンを切り取ったような叙情的で美しいイラストが特徴です。金子みすゞ、高村光太郎、海達公子、宮沢賢治、萩原朔太郎といった日本を代表する作家たちの作品から選出。一度は読んだことがある名作ばかりなので、読書をした当時の記憶や気持ちを思い出しながら塗り絵が楽しめるでしょう。

塗り絵の対向ページには、作家や作品の紹介と参考にした一編を掲載しています。塗り絵は、自律神経を整えたり認知機能を高めたりするのに有効なアイテム。手を動かすことで脳に刺激をあたえますが、とくに「昔の思い出などを想像しながら塗る」という行為が、脳の働きを活性化するそうです。

011イラストは同シリーズで人気の『おとなのスケッチ塗り絵 万葉の花』を担当したイラストレーターの名司生さん。本のイメージを大切にオリジナルの世界観で描きました。イラストにはかわいい妖精たちも登場するので注目してください!

目次
 準備するもの
 塗り方のテクニック[基本]
 塗り方のテクニック[応用]
 [花と叙情の詩文集 塗り絵集]
  01 チューリップ(三好達治)
  02 芙蓉の花(野口雨情)
  03 金雀枝(野口雨情)
  04 学校(室生犀星)
  05 月草(室生犀星)
  06 藤の花(海達貴文)014
  07 ばら(海達公子)
  08 秋の朝(海達公子)
  09 水ヒアシンス(北原白秋)
  10 曼珠沙華(北原白秋)
  11 どんぐりと山猫(宮沢賢治)
  12 冬が来た(高村光太郎)
  13 六月の雨(中原中也)
  14 春と赤ン坊(中原中也)
  15 梅(八木重吉)
  16 星とたんぽぽ(金子みすゞ)
  17 げんげの葉の唄
(金子みすゞ)
  18 こころ(萩原朔太郎)
  19 桜の森の満開の下
(坂口安吾)

この手の書籍、最近流行りですね。こちらも「シリーズ24作目」だそうで。

認知症予防などにも使われているようで、一昨年亡くなった義母も、ディサービスの施設でこの手の塗り絵をやっていました。

前半が手本のページ。オールカラーです。書籍自体が大判なので(25.0㌢×25.0㌢)、スキャンできませんでした。右ページが光太郎「冬が来た」のページです。左は宮沢賢治「どんぐりと山猫」。
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後半ページがワークシート的な。切り取って手本ページを見ながら塗れるように、キリトリ線が印刷してあります。簡略な作品解説も。
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手本ページの美しい絵を見ているだけで心が和まされます。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

又あの愛らしいみち子さんの方は 初め木炭でいろいろ素描を試み今早朝の時間を以て八号のカムバスへ油画に致して居ります あの無邪気な晴朗とした面影を捉へたいと念じて居ります


大正7年(1918)8月23日 渡辺湖畔宛書簡より 光太郎36歳

渡辺湖畔は新潟佐渡島の素封家にして与謝野夫妻の新詩社同人だった歌人。「みち子さん」はこの年4月、3歳で早世した渡辺の娘。光太郎が写真を元に肖像画を描きました。
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親としては涙無しには見られなかったのではないかと思われます。

刊行物3件ご紹介します。いずれも当方がからんでいるもので、どうもこの手のものの紹介はなかなか気が引け、ついつい後回しにしていました。

まず、高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究(44)』。4月2日(日)発行です。
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「光太郎遺珠」ということで、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』完結後に見つかり続けている光太郎文筆作品を紹介する連載をさせていただいています。

この1年間で見つけたものが以下の通り。

散文
 芸術家としての女優 『大正演芸』第1巻第3号(大正2年=1913 3月1日 大正演芸社)
 書斎の構造 『建築之日本』第1巻第5号(大正5年=1916 10月7日 建築之日本社)
 「みちのく」に刻んだ亡き夫人への追慕 高村翁・長夜の歓談
 『岩手日報』昭和28年=1953 12月7日
アンケート
 諸家の感想 『製本業報』10月号(昭和2年=1927 10月1日 製本業報社)
短評
 大村正次詩集『春を呼ぶ朝』 林一郎詩集『原始から出た』 共に昭和4年(1929)
雑纂
 芸術家名鑑 『人間』第4巻第1号(大正11年=1922 1月1日 人間社出版部)
 永住を決意して最高の文化建設 高村光太郎氏 岩手で原始生活
 『毎日新聞』昭和20年=1945 11月1日
書簡
 新納忠之介宛 大正12年(1923)1月5日
 木村荘五宛  大正13年(1924)8月4日
 関川常雄宛  大正15年(1926)6月20日
 尾崎喜八宛  昭和21年(1946)6月12日
 硲真次郎宛  昭和30年(1955)11月28日

多くは国立国会図書館さんのデジタルデータ閲覧システムのリニューアルによって見つけました。しかしそれ以外にも都内岩手で足で稼いで掘り起こしたものも。

また、「高村光太郎没後年譜」ということで、昨年1年間の主なイベント、出版物等を紹介しています。

頒価1,000円。奥付を載せておきますのでご入用の方はそちらまで。
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続いて『光太郎資料59』。もともと当会顧問であらせられた故・北川太一先生が出されていた冊子の名跡を受け継ぎ、当会として年2回発行しています。こちらも4月2日(日)、連翹忌の集いご参加の方には無料で配付し、その後、関係の方々等にはお送りしました。

今号は

 「光太郎遺珠」から 第23回 「婦人」(その三)
 光太郎回想・訪問記 高村光太郎との邂逅 常井英晶
 光雲談話筆記集成 西郷隆盛銅像について
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  第23回  大洗(茨城県)
 音楽・レコードに見る光太郎  第23回  建てましよ吾等の児童会館 坂本良隆
 高村光太郎初出索引 
 編集後記

です。

送料込み200円でお分けします。コメント欄(非表示可)、当方SNS等からお申し込み下さい。また、10,000円にて37集からのバックナンバーを含め、今後永続的にお送りします。

もう1件。日本詩人クラブさんの会報的な『詩界通信』。
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「12月例会報告」の中に、昨年12月10日に開催された同クラブ12月例会のレポートと、当方の講演「2022年の高村光太郎――ウクライナ、そして『智恵子抄』――」の梗概が載っています。

こちらも奥付を載せておきます。
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というわけで、どうも手前味噌で恐縮でした。

【折々のことば・光太郎】

雑誌を只頂いては余りすみません(或る大きな団体等から送られる雑誌に対してはさういふ気もいたしませんが) 私も経済で苦しんで居ます 誰でもさうだらうと思つて居ます それで兎も角一箇年と定めてあるだけお送りいたします 此事はどうか悪い様にとらないで下さい


大正5年(1916)10月7日 中川一政宛書簡より 光太郎34歳

中川一政は画家。一昨年、中川、光太郎、そして熊谷守一の書を中心とした展覧会「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」が富山県水墨美術館さんで開催されました。

この書簡は中川が出していた雑誌『貧しき者』の受贈礼状。それまで自分で書店から買っていたのを送ってくれるようになり、代金を前払いするけれど悪しからず、的な。

光太郎、自分の文筆に関しては商業資本の有名雑誌より、こうした同人誌的なものに喜んで寄稿していました(それだけに未だ埋もれている作品が多く存在するわけで)し、購読もそうだったようです。

出版社・思潮社さん創業者の小田久郎氏が亡くなっていたことが先月末に報じられました。

『朝日新聞』さん。

小田久郎さん死去 思潮社創業者003

 詩の出版社「思潮社」を創業し、戦後日本の詩壇史に大きな影響を与えた小田久郎(おだ・きゅうろう)さんが昨年1月18日、肺炎で死去した。90歳だった。今月28日発売の詩誌「現代詩手帖(てちょう)」4月号で同社が公表した。
 1956年に思潮社を創業し、59年に「現代詩手帖」を創刊。谷川俊太郎さんや故大岡信さんらを積極的に起用した。95年、詩壇の歩みを綿密に書きとめた「戦後詩壇私史」で大佛次郎賞。2021年、戦後日本の詩と詩壇への貢献に対し、歴程賞を贈られた。

もしかすると記事にある『戦後詩壇私史』等で光太郎に触れられていたかも、と思ったのですが、その辺り、当方、寡聞にして存じませんで、訃報の紹介はいたしませんでした。

ところが、『日本経済新聞』さん(4月6日(木)の掲載でした)に載った氏の追悼記事に、光太郎の名。やはり『戦後詩壇私史』で光太郎の「道程」(大正3年=1914)に言及されていたそうで。

思潮社創業者・小田久郎さん「現代詩」背負って立った人

 昨年1月に90歳で亡くなった「思潮社」の創業者、小田久郎さんは、いつも朗々とした声で語る人だった。
 東京・市谷砂土原町の社屋に小田さんを初めて訪ねたのは34年前。当時58歳の小田さんには、現代詩の出版を背負って立つ自信と気力があふれていた。刊行開始から20年余りを経た「現代詩文庫」発刊の経緯や、田村隆一、鮎川信夫ら「荒地」グループの詩人の仕事を、豊富な逸話と交えて語り出す座談に、駆け出しの文芸記者は魅了された。
 以来、取材などで会うたびに話したのは、いつも詩人と現代詩の話題ばかりだったが、退屈したことがなかった。その訳は、小田さんがその後、齢を重ねても、現代詩の歴史と現在を、いつも我がこととして、受け止め続けてきたからではなかったか。
 現代詩の今を、他人事にはしない姿勢は、思潮社で働く編集者が常々感じていた。看板雑誌「現代詩手帖」の編集長を1960年代に務めた詩人の八木忠栄さんは、小田さんを「貫徹の人だった」と回想する。「現代詩をリードするという意識が常にあって、中心となる企画の決定をするのは、常に小田さんだった」という。柔らかな企画を提案しても、はねられ、悔しい思いをしたこともあった。
 同時に、「新しい詩人を育てないといけない」という意識を強く持っていた。「荒地」の詩人や、大岡信、谷川俊太郎、飯島耕一といった同世代の詩人と並走するとともに、若い編集者を年下の詩人の担当にして、新世代のフォローアップを欠かさなかった。
 「小田さんは、現代詩の流れを更新しよう、という意識をいつも抱いていた」と振り返るのは、2010年から5年間、「現代詩手帖」の編集長を務めた亀岡大助氏さんだ。新しい世代の詩人を取り上げる特集や詩集のシリーズを、21世紀になってからも、次々と送り出していった。
 小田さんの次男で思潮社専務の小田康之さんには、今も忘れられない父の言葉がある。
 「売れる本は作るなよ」。90年代の初め、思潮社で仕事を始めたころに言われて驚いた。売り上げを第一に考える現在の出版界から見れば、ナンセンスにさえ聞こえるかもしれない。しかしそれは、売り上げだけを目的にするのでなく、自社にしか作れない本を作れ、という信念の表れだった。「あれだけ多くの詩集を世に出し続けた出版人は、かつていない。ギネスブックものではないか」。そう語るのは、60年もの親交のある詩人の井川博年さんだ。
 戦後の詩壇の変遷を体験に基づいてたどった著書「戦後詩壇私史」で、小田さんは「現代詩手帖」を創刊した59年ごろの心情を、高村光太郎の詩の一節を借りて表している。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」
 戦後から現代へ至る詩の道を華やかに歩いた詩人は数あれども、その裏で、長きにわたりその道を整備し続けた人は、小田さんをおいてほかにいなかった。
(客員編集委員 宮川匡司)
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なるほど、光太郎の精神を受け継がれての数々の業績だったか、と、粛然とさせられました。

ところで、詩誌『現代詩手帖』をはじめ、このブログサイトでご紹介してきた複数の新刊詩集等で、思潮社さん刊行のものも少なくありません。平田俊子氏『戯れ言の自由』和合亮一氏『QQQ』平岡敏夫氏『平岡敏夫詩集』など。それらの奥付を見てみますと、「発行人 小田久郎」の文字。詩誌『歴程』等を通し、多くの詩人を世に送り出した当会の祖・草野心平や、さらに遡って『明星』で光太郎を含む若い才能を育てた与謝野鉄幹などを彷彿とさせられました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

ふいと出て来たので又出直さうと思つてます 今日は一旦帰るでせう


大正元年(1912)8月31日 前田晁宛書簡より 光太郎30歳

ふいと出て来た」先は、千葉銚子の犬吠埼。今年1月に廃業した老舗旅館・暁鶏館に宿泊し、絵を描くためでした。しかし気乗りがしなかったのでしょうか、すぐ帰ろう、と書いています。

ところがそこに、智恵子が現れます。二人の恋愛問題で煮え切らない態度の光太郎に業を煮やしたのでしょうか。

光太郎の随筆「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

丁度明治天皇様崩御の後、私は犬吠へ写生に出かけた。その時別の宿に彼女が妹さんと一人の親友と一緒に来てゐて又会つた。後に彼女は私の宿へ来て滞在し、一緒に散歩したり食事したり写生したりした。様子が変に見えたものか、宿の女中が一人必ず私達二人の散歩を監視するためついて来た。心中しかねないと見たらしい。智恵子が後日語る所によると、その時若し私が何か無理な事でも言ひ出すやうな事があつたら、彼女は即座に入水して死ぬつもりだつたといふ事であつた。私はそんな事は知らなかつたが、此の宿の滞在中に見た彼女の清純な態度と、無欲な素朴な気質と、限りなきその自然への愛とに強く打たれた。君が浜の浜防風を喜ぶ彼女はまつたく子供であつた。しかし又私は入浴の時、隣の風呂場に居る彼女を偶然に目にして、何だか運命のつながりが二人の間にあるのではないかといふ予感をふと感じた。彼女は実によく均整がとれてゐた。

結果、滞在を9月4日まで延ばし、光太郎も智恵子への愛を貫く決意を固めました。

『毎日新聞』さんで月イチの連載だった、詩人の和合亮一氏による「詩の橋を渡って」が、3月23日(木)掲載分で最終回となりました。

これまでも光太郎の名を何度も出して下さいましたが、最終回でも。

詩の橋を渡って 命の芯を豊かに深く

3月000
 水をもとめるものは
 また喉がかわくだろう
 でも きみが与える水は
 ぼくのなかで泉になって
 えんえんと湧きつづける。

 高村光太郎が「この世に詩人が居なければ詩は無い。詩人が居る以上、この世に詩でないものは有り得ない」と述べたが、今を生きる詩の書き手たちにはっきりと詩が守られていると、数多くの書物に触れていつも感じてきた。それとは何かを語る前に、さあ、これら詩人たちの姿と仕事を見よ……という心持ちで、紹介してきた。詩を読むことのかけがえのなさを、きちんと語りたい。しかしこれは、あらためて難しいことでもあると感じた。

 東日本大震災からの月日、その後も続いた各地での地震や豪雨災害、コロナ禍における暮らし、ロシアによるウクライナ侵攻など、めまぐるしい世界と社会の動きがあったことを心に刻みたい。その都度に迫ってくる鋭い言葉を求め続けてきた。三角みづ紀の新詩集『週末のアルペジオ』(春陽堂書店)を開きながら、あらためて思いをめぐらせてみる。「窓から/降ったり止んだりする/きょうの/はじまりが/しずかにおとずれた」
 こんなふうに一日も、言葉も突然にやって来るのだろう。「生きるための/朝食のスープ/すこし萎(しな)びた野菜/感情もなく/切りおとし/ひとは どうして/こんなにも残酷になれるのか。」。日常のなかに潜む詩の素材を調理しようとする詩人の筆づかいは、あたかも料理という日々の手仕事に似ているのかもしれない。それを深く見つめようとする視点は、息を凝らして何をそぎ落とそうかといつも探しつづけているのかもしれない。
 詩人の新川和江が私に語ってくれたことがある。「足元の水を掘りなさい」と。題材は遠くに見える何かなのではなく、実は本当に近くにあって気づかないものなのだ、と。詩は新緑の頃から始まり季節の移ろいを味わうようにして毎月書かれた作品を中心に編まれている。そこに詩人が撮影した写真が添えられているが、切り取られた視界と四季を追うフレーズそのものが、足の下にある命の芯のようなものを豊かに深く語ろうとしている。
 「水をもとめるものは/また喉がかわくだろう/でも きみが与える水は/ぼくのなかで泉になって/えんえんと湧きつづける。」。静かに、丹念に書き表された詩行に見えてくるものとは何か。書き手の独特の深い呼吸と思考のありかがある。湧き続ける言葉を心と暮らしを通して、詩人が足し引きなくこちらへとそのまるごとを届けようとする。今を生きるということの本当の精神の乾きと潤いとを私たちは知るのではないだろうか。
 先日に読売文学賞を受賞したばかりの藤井貞和『よく聞きなさい、すぐにここを出るのです。』(思潮社)を再読。読むほどに彼の文体からは解き放たれていく自由が私には感じられる。古今東西の文学と、詩人そして研究者、教育者として長年に向き合ってきて、言わば真の詩魂と詩作のしなやかさを得てきたのだろう。「懐風藻」の藤井流に書き直した一節を紹介し、長年の時評の任を終えたい。「天の紙に、風の筆で、雲間の鶴をえがくこと!」=今回で終わります

これまでの連載で、光太郎に触れられた回はこちら。

令和2年(2020)5月 令和2年(2020)7月 令和2年(2020)12月 令和4年(2022)10月

後とも氏のご健筆を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

福島の町に一泊。今夕青森に向ふ筈


明治44年(1911)5月7日 高村光雲宛書簡より 光太郎29歳

北の大地に酪農で生計を立てながら芸術を生み出すという生活を夢み、ついに東京を発ちました。

ニューリリースのCDです。一昨日、タワーレコードさん他のサイトに情報がアップされました。ちなみに旧字体の「惠」の字が使われているのは、制作サイドのこだわりなのでしょう。

清水邦子が歌う 組曲『智惠子抄』

2023年3月21日 ムジカフエンテ000
定価2,000円+税

詩:高村光太郎
作曲/ピアノ:朝岡真木子
歌唱:清水邦子

収録曲
 1 人に(6:02)
 2 あどけない話(3:06)
 3 千鳥と遊ぶ智惠子(3:59)
 4 値(あ)ひがたき智惠子(2:59)
 5 間奏曲 ~祈り~(4:19)
 6 レモン哀歌(7:19)

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作曲家・朝岡真木子氏が令和元年(2019)に作曲された組曲「智惠子抄」のみを収めたCDです。

昨年、メゾソプラノの清水邦子氏が旧東京音楽学校奏楽堂で開催された「清水邦子リサイタル 清水邦子が贈る朝岡真木子の世界」で全曲を歌われ、「ぜひCD化していただきたいものです」と申し上げたところ、とんとん拍子に実現してしまいました(笑)。その行動力、バイタリティーには脱帽です。と言っても、決してやっつけ仕事ではなく、清水氏の歌唱、朝岡氏のピアノ、ともに素晴らしい演奏ですし、ジャケット的なブックレットは全15ページ。こちらもハイクオリティです。

清水氏、どっぷりと「智恵子抄」の世界にはまられ、リサイタル後の11月には智恵子の故郷・福島二本松の智恵子生家/智恵子記念館などをご訪問、今回のブックレットにはその折の写真も多数掲載されています。
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001ちょうど生家二階の特別公開中でしたし、智恵子の「幻の花嫁衣装」の展示も為されている時でした。

その際に同行された、映画監督の水谷俊之氏が、今回のCDのライナーノートを書かれています。題して「三人の女が生み出した劇的なるもの」。「三人」とはもちろん、清水氏、朝岡氏、そして智恵子ですね。ちなみに水谷氏、一昨年にNHK BSプレミアムさんで放映された「プレミアムドラマ山女日記3 #3 あどけない空・安達太良山」の監督もなさっていて、「智恵子抄」とは浅からぬご縁をお持ちです。

ライナーノートと言えば、当方も書かせていただいております。CDの帯には当方執筆のライナーノートの抜粋も印刷して下さいました。恐縮至極です。

最上部にリンクを貼りましたが、オンライン販売が為されていますし、4月2日(日)に日比谷松本楼さんで開催予定の第67回連翹忌の集いにご参加下さる方は、会場内で販売しますので、そちらでお求め下さい。また、連翹忌の集いでは、清水氏、朝岡氏のお二人直々に、組曲から抜粋での演奏をお願いしてあります。ご参加下さる方、お楽しみに。

それに先だって、やはり抜粋での演奏が為される「朝岡真木子歌曲コンサート第6回」が、3月21日(火)、銀座の王子ホールさんで開催されます。その際にもCDの販売があるでしょう。

さらに、組曲「智惠子抄」全曲が収められた楽譜集『朝岡真木子歌曲集2』も刊行されています。併せてお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

祝入営  明治43年(1910)8月10日 長田秀雄宛書簡より 光太郎28歳


005親友・水野葉舟との連名で送った葉書。絵は光太郎でしょう。

長田秀雄は詩人、劇作家、小説家。光太郎も中心メンバーだった芸術運動「パンの会」のやはり主要な一人でした。

「入営」は徴兵によるものです。この年11月、「パンの会」の大会が日本橋大伝馬町の三州屋で開かれ、その際、画像にあるような幟が掲げられ、さらに光太郎がその周りに黒い縁取りをしたところ、訃報の黒枠のように見えました。そこに居合わせた『萬朝報』の記者が「けしからん」と翌朝の記事にし、今で言う「炎上」状態に。

ちょうど幸徳秋水らによるいわゆる「大逆事件」のあった時期で、当局も過敏に反応していましたし、「パンの会」自体、社会主義者の集まりで、「麺麭(パン)」を要求する団体かと警戒されていたそうです。

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