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今日も携帯からの投稿です。

現在地は福島県川内村。高村光太郎と親交のあつかった詩人、草野心平ゆかりの地です。こちらの旅館、小松屋さんを会場に、第2回天山心平の会「かえる忌」が行われました。

草野さんの命日は12日ですが土曜日にあわせての開催のようです。天山心平の会代表で小松屋さんのご主人、井出氏、かわうち草野心平記念館長・晒名氏、川内村長の遠藤氏他のお話、福島県議団と一緒にチェルノブイリ視察に行かれた地方紙河北新報記者の中島氏のレポート、そしてモンデンモモさんのミニコンサートなどがありました。

ところでなぜ「かえる忌」なのかといいますと、いくつか理由があります。草野心平が蛙をモチーフにした詩をたくさん書いたこと。川内村は、モリアオガエルの生息地であること。ここまでは事前にわかっていましたが、他にもありました。

原発事故で全村避難を余儀なくされ、しかし今年に入ってそれも解除、みんなで村に「帰る」という意味。

さらに川内村より原発に近く、帰るに帰れない区域の人々を受け入れ、村を「変える」というメッセージも込められているそうです。
「蛙」「帰る」「変える」。深いですね。

明日は移動日で東京に帰り、明後日は原宿アコスタディオさんでモンデンモモさんの「モモの智恵子抄2012」です。

最近、光太郎がらみのCDを何枚かまとめて購入しましたので紹介します。

劇団・演劇倶楽部『座』主宰の壤晴彦氏による朗読CDです。今年発売されました。

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朗読を味わうためのものではなく、自分で朗読に取り組もうという人の教材用、といったコンセプトです。2枚組になっており、1枚目は壤氏の朗読がノンストップで入っています。詩が16篇、短歌が6首の結構長いものです。2枚目は壤氏の朗読がワンフレーズごとに間が空き、聞いている人が附録のテキストを見てリピートするという形になっています。こういうものもあるんだな、と思いました。
 
壤氏、バリトンのとてもよい声です。また、教材用ということで、きちんとした朗読です。別に揚げ足を取ってやろうと思いながら聞いたわけではないのですが、おかしな読み方になっているところは一箇所もなく、感心しました。
 
世の中には粗製濫造のそしりをまぬがれないような朗読CDもあり、腹が立ちます。ある会社が数年前に出した朗読CDでは、上高地の徳本峠(とくごうとうげ)を平気で「とくもととうげ」と読んでいます。きちんとした人が監修していればこんなミスは防げるはずなのですが、手間や経費を惜しんでいるのでしょうか。この辺は少し前のブログに書いた書籍の誤植の件でも同じことが言えます。ドラマ仕立ての内容の、クライマックスのシーンで「高太郎!」……ぶちこわしですね。
 
そういう監修の仕事を回せ、と言いたいわけではありませんが、ミスのチェック程度でしたらノーギャラで引き受けます。お声がけ下さい。
 
さて、「反復朗読CD 高村光太郎 智恵子抄」、演劇倶楽部『座』様のサイトから購入可能です。価格は4,800円。CDではなく音声データのダウンロード、テキストもPDFファイルでのダウンロードが可能ということです。もちろん有料ですが。

ラジオ局・文化放送JOQRの過去の放送をCD化したものです。3枚組で、1,2枚目は昭和39年から平成14年までの故・森繁久彌氏の出演した放送、3枚目が昭和50年に放送された「青春劇場 日本抒情名詩集」。この3枚目に奈良岡朋子さんの朗読で光太郎の詩「樹下の二人」「あどけない話」「同棲同類」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」「荒涼たる帰宅」が収められています。こちらもいい感じの朗読です。
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一昨年の発売で、価格は5,000円です。

それぞれ、ぜひお買い求め下さい。

今朝の朝日新聞で、女川・光太郎の会に関する記事が大きく載りました。
 
同紙では毎週月曜日に「防災・復興」というコーナーが連載されていますが、その中で今日は「光太郎の詩は女川の宝」という見出しで、女川・光太郎の会会長、須田勘太郎さんが紹介されています。
 
震災で大きな被害を受けた光太郎詩碑建立の経緯や、建立に貢献した故・貝(佐々木)廣さん、そして女川の現状、今年の女川光太郎祭に関しても触れられています。須田さんの写真には、背景に貝さんの遺影も。
 
こうした地方の地道な活動にスポットを当てていただけるのは嬉しい限りです。
 
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一昨日のブログで御紹介しました11/17(土)、福島川内村でのイベントです。
 
川内村では光太郎を敬愛してやまなかった詩人・草野心平を名誉村民に認定しています。心平についてはいずれまた詳しく書きたいと思っています。
 
心平は蛙をモチーフにした詩をたくさん残しました。その名もずばり「蛙」という題名の詩集まであります。下の画像は函で、文字は光太郎の筆跡です。

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川内村は原発事故で一躍有名になってしまった村ですが(先頃、天皇皇后両陛下が訪問されました)、もともとモリアオガエルの生息地ということで、「蛙の詩人」心平とゆかりができ、蔵書3000冊を村に寄贈、「天山文庫」として親しまれています。
 
さて、11/17(土)は、午後2:30から、村内の小松屋旅館さんで、心平を偲ぶ「かえる忌」が開かれます。心平の命日は11/12ですが、土曜日にあわせて行うようです。当方、初めての参加で、勝手がわかりませんが、おそらく紅葉も美しく色づいていることと思い、楽しみにしています。そのイベントの中で、モンデンモモさんのライブも入るとのこと。光太郎、心平、そして宮澤賢治の詩に曲をつけて歌います。会費2,500円だそうです。
 
こういうイベントへの参加も被災地復興のための一つの方策だと思います。お時間のある方、ぜひお越しを。

別件です。テレビ放送の情報を1件。

2012年11月7日(水) 20時00分~20時54分 テレビ東京系
 
野村真美と小林綾子が秋の青森を巡ります!紅葉の名所、奥入瀬渓流、十和田湖や今注目の「もみじ山」へ!さらに「酸ヶ湯温泉」ランプの宿「青荷温泉」など名湯も堪能!

番組内容

秋の青森の紅葉スポットめぐり!錦色に染まる奥入瀬渓流は「雲井の滝」など水の流れと紅葉の彩りが鮮やか。遊覧船で楽しむ「十和田湖」も見ごたえ十分。夜は川のせせらぎが心地よい温泉宿に宿泊。夕食は地元のリンゴをふんだんに生かしたリンゴ会席を堪能。2日目はオトクで新鮮な海鮮丼が人気の市場や千人風呂で有名な「酸ヶ湯温泉」、今注目の名所「中野もみじ山」、秘湯「青荷温泉」のランプの宿などを満喫。秋のオススメ旅!

出演者
 旅人 野村真美、小林綾子  ナレーション 大和田伸也

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ぜひご覧下さい。

秋も深まってまいりました。早いもので、今日から11月ですね。
 
今月行われる、または開催中のイベント等の情報を手短に。

企画展「詩人たちの絵画」

和歌山県田辺市立美術館 11/4(日)まで
 
昨日9/27のブログをご参照下さい。

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天山草野心平の会 かえる忌

福島川内村 小松屋旅館 11/17(土)14:30~
 

モモの智恵子抄2012

原宿アコスタディオ 11/19(月) 19:00~
 
「宇宙人」シャンソン歌手モンデンモモさんのライヴです。

智恵子講座’12 第6回 「山居追慕期を中心にして」 

二本松市民交流センター 11/18(日) 10:00~
 
講師 渡辺元蔵氏(二本松にて詩誌『現代詩研究』主宰) 連絡先 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷さん tel/fax0243(23)6743 参加費1,000円
 

第57回高村光太郎研究会

文京区アカデミー湯島 11/24(土) 14:00~
 
「光太郎と船、そして海 新発見随筆「海の思出」をめぐって」 当方の発表です。
「『智恵子抄』再読」  伝馬義澄氏 
 
研究会に入会なさらなくても参加可能です。 島根県立石見美術館 11/26(月)まで
 
 
以前のブログで御紹介したものもあります。逆に今後また詳しく御紹介しようと思っているものもあります。とりあえず速報、ということで。

昨日、群馬県立土000屋文明記念文学館の企画展「忘れた秋-おもいでは永遠に 岸田衿子展」を見て参りました。
 
岸田さんといえば、詩誌「櫂」の主要メンバーの一人でした。「櫂」は昭和28年(1953)の創刊。岸田さん以外の主要メンバーに、茨木のり子、川崎洋、谷川俊太郎、大岡信、吉野弘などがいました。そうそうたるメンバーですね。岸田衿子展では当然、この人々との交流なども扱われていました。それから、「櫂」同人ではなかったようですが、岸田さんとつながりのあった詩人ということで、石垣りん、田村隆一、工藤直子などに関する資料も。
 
岸田さんにしてもそうですが、このそうそうたるメンバー、大半は亡くなってしまいました(谷川俊太郎さんなどはまだお元気で、11月3日の文化の日には岸田衿子展の関連行事でご講演をなさるそうですが)。
 
「この世代の詩人の皆さんがみんな亡くなってしまったら、どうなるんだろう」と、展示を見ながら思いました。当方は若い頃、この世代の人々が次々新作を発表するのを見て、尊敬のまなざしで見ていたものですから、そう思うわけです。
 
みなさん、大正後半から昭和一桁の生まれです。口語自由詩を確立した光太郎や萩原朔太郎、そして同世代の北原白秋らとは半世紀ほどの差異ですね。その中間ぐらいの世代が明治末に近い頃の生まれの草野心平、宮澤賢治、中原中也といったあたりでしょうか。
 
光太郎世代の詩は、『中央公論』『文藝春秋』『週刊朝日』など一般向けの総合雑誌にも掲載されました。心平世代、岸田さん世代もそうでしょう。しかし、現代、一般向け雑誌で詩人の詩作品を目にする機会はほとんど無いように思います。
 
何も「昔の一般向け雑誌は、詩を載せるほど高尚だった」とか「現代の詩人はだめだ」とかいうつもりはありません。それは世の中における「詩人の立ち位置」の問題だと思います。
 
昔は詩人と社会との距離がかなり近いところにあったように思います。だから、詩の世界で名をなした人は一般にも知られていました。まあ、戦時中にはそれが悪い方に利用されてしまった部分もありますが。ところが現代はどうもそうではないような気がします。
 
はっきり言えば、現代の詩人たちがどういう詩を書いているのか、もっと厳しく言えば、現代、どういう詩人がいるのか、そういったこともあまり知られていないような気がします。それは詩人の皆さんだけの責任ではないのでしょうし、世の中の好みや各種メディアの多様化などとも無関係ではないのでしょう。
 
これから先、「詩」というものが世の中でどのように受け入れられていくのか、そういったことを考えさせられた展覧会でした。

今日は高崎市にある群馬県立土屋文明記念文学館に行って参りました。

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同館では現在、企画展「忘れた秋-おもいでは永遠(とわ)に 岸田衿子展」が開催中です。

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岸田衿子さん。昭和4年(1929)の生まれ。昨年、亡くなりました。一般にはあまりなじみのないお名前かも知れませんが、詩人です。女優の岸田今日子さんのお姉さん、といった方がわかりやすいかもしれませんね(今日子さんも平成18年に亡くなりました)。しかし、意外といえば意外なところで我々の身近な所にその足跡が残っています。一例を挙げれば、アニメ「フランダースの犬」「アルプスの少女ハイジ」などの主題歌は岸田さんの作詞です。
 
光太郎とは直接の関わりはないと思います。ただ、岸田さんのお父さんが、劇作家の岸田国士(明23=1890~昭29=1954)。戦前から戦時中、大政翼賛会の文化部長を務めていました。この岸田国士の勧めで、光太郎は中央協力会議議員、そして大政翼賛会文化部詩部会長を引き受けます。
 
戦後の光太郎の連作詩、「暗愚小伝」中の「協力会議」に、次の一節があります。
 
 協力会議といふものができて001
 民意を上通するといふ
 かねて尊敬してゐた人が来て
 或夜国情の非をつぶさに語り、
 私に委員になれといふ。
 だしぬけを驚いてゐる世代でない。
 民意が上通できるなら、
 上通したいことは山ほどある。
 結局私は委員になつた。
 
この「かねて尊敬してゐた人」が岸田国士です。
 
そういうわけで、もしかしたら衿子さん、今日子さんの姉妹も光太郎に会っているかも知れませんが、そういう記録は確認できていません。
 
さて、なぜその岸田衿子さんの展覧会に行ったかというと、今回の企画のチーフの学芸員が連翹忌に御参加いただいている佐藤浩美さん(光太郎に関する御著書もあります)だからという単純な理由でした(招待券もいただきましたし)。それから同館に最近、こちらで把握していない書簡が収蔵されたので、それを見に行くついでもありました。
 
しかし、やはり「いいな」と思いました。展示自体が凝った展示だったこともありましたし、岸田さんの世界も「いいな」でした。
 
今年に入ってからも、4月の「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」、9月には「東と西の出会い 生誕125年 バーナード・リーチ展」と、光太郎と直接関わるわけでもない展覧会に足を運びました。他にもブログには書きませんでしたが、「古代アンデス展」やら、ぶらりと根津の竹久夢二美術館に立ち寄ったりもしています。やはり、こういう経験で世界が拡がる気がしますね。
 
ところで、今回思つたのは、「詩人」の位置づけです。その辺についてはまた明日。

今日、10月21日は、昭和18年(1943)、神宮外苑で学徒出陣の壮行式があった日だそうです。昭和アーカイブス的な番組などで映像を御覧になった方もいらっしゃると思います。
 
そういうわけで、昨日の朝日新聞土曜版の連載「うたの旅人」では、信時潔(のぶとききよし)作曲の「海ゆかば」が扱われました。
 
ある程度の年代以上の方は「ああ、あの曲か」と思い当たられるでしょう。その壮行式の際にも、それからラジオの大本営発表-山本五十六連合艦隊司令長官の戦死(昭和18年)、アッツ島守備隊の全員玉砕(同)などの悲劇的な報道のバックには必ず使われたとのことです。
 
信時は童謡「一番星みつけた」などの作曲者でもありますが、戦時中は「海ゆかば」のような軍歌、戦時歌謡も作っていました。当方が刊行している冊子『光太郎資料』に「音楽・レコードと光太郎」という項があり、いずれそこで詳細を記しますが、その中には光太郎作詞のものもあります。
 
一つは昭和16年(1941)作、「新穀感謝の歌」。宮中で行われていた新嘗祭に関わるものです。
 
   新穀感謝の歌
 
 あらたふと
 あきのみのりの初穂をば
 すめらみことのみそなはし
 とほつみおやに神神に
 たてまつる日よいまは来ぬ
 (二番以降略)

もう一曲は昭和17年(1942)作、「われら文化を」。これは岩波書店の歌として作曲されたものですが、世相を反映した歌詞になっています。
 
  われら文化を
 
 あめのした 宇(いへ)と為す
 かのいにしへの みことのり
 われら文化を つちかふともがら、
 はしきやし世に たけく生きむ。
 (二番以降略)
 
ちなみにこの曲は平成20年(2008)、財団法人日本伝統文化振興財団から発行されたCD6枚組「SP音源復刻盤 信時潔作品集成」に収録されています。「新穀感謝の歌」は収録されていません。どうも発表当時もレコードにならなかったようです。もし「新穀感謝の歌」のレコードについてご存知の方がいらっしゃいましたら御一報下さい。

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光太郎も信時も、そして個人ではなく企業としての岩波書店も、そしてその他ほとんど全ての人々が、否応なしに戦時体制の歯車として組み込まれていったのです。
 
と、書くと、「いやそうではない。光太郎は衷心から鬼畜米英の覆滅を願い、赤心から大君のためにその命を捧げ奉る覚悟であったのだ」という論者がいます。はたしてそうなのでしょうか……。

連翹忌に御参加頂いている練馬在住の豊岡史朗氏から詩誌『虹』三冊頂きました。ありがたいことです。
 
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平成22年(2010)11月刊行の第1号、同23年(2011)8月刊行の第2号、そして今年8月刊行の第3号です。各号に〈高村光太郎論〉の総題のもとに氏の論考が掲載されています。「光太郎とヒューマニズム」(第1号)、「詩集『智恵子抄』」(第2号)、「戦争期-満州事変から敗戦まで」(第3号)。それぞれ25ページ前後の比較的長いもので、素晴らしいお仕事です。木戸多美子さんの時にも触れましたが、やはり詩を書かれる方の読み取りというのは、我々凡愚の見落としてしまうようなところまで感覚が行き届いています。お馴染みの光太郎作品でも、「このように読めるのか」と感心させられました。
 
「自分もこんなものを書いているぞ」という方、情報をお寄せ下さい。このサイト、光太郎智恵子を敬愛する全ての人々のネットワークターミナルとしたいと思っておりますので。
 

別件ですが、もう1件、テレビ放映の情報、やはり千駄木がらみです。 

日本ほのぼの散歩「東京・谷根千」

 BS11 2012年10月24日(水) 20時00分~20時54分
 
東京の中心地に近く“山の手"の一角でありながら、今なお下町としての風情を残す“谷根千"の愛称で親しまれている谷中・根津・千駄木。藤吉久美子がほのぼの散歩します。

『街並み』『風景』『食』を楽しみながら近所をちょっと散歩をしているような気分を味わいませんか? この番組では場所(四季)ごとに歴史に沿った史跡・名所巡や名宿や温泉などをご紹介します。

出演者  藤吉久美子

ぜひ御覧下さい。

明日、10月5日は智恵子の命日。「レモンの日」と名付けられています。
 
「レモン」とは、智恵子の臨終を謳った光太郎詩「レモン哀歌」からの命名です。
 
    レモン哀歌                                     
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 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズ色の香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう
 
昭和6年(1931)頃から統合失調症の症状が顕在化してきた智恵子は、九十九里浜での療養を経て、昭和10年(1935)から南品川のゼームス坂病院に入院しました。有名な紙絵はこのゼームス坂病院での制作です。
 
亡くなったのは昭和13年(1938)10月5日午後9時20分。直接の死因は粟粒性肺結核。数え年53の早すぎる死でした。
 
智恵子の生涯や、光太郎との愛の形については、いろいろな人がいろいろなアプローチで論じています。それは決して肯定的な論調ばかりではありません。たとえば「レモン哀歌」にしても実際に作ったのは2月。終わり2行の「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」というのはフィクションです。雑誌『新女苑』の4月号に載るということで、桜を持ち出してきているわけです。こういう点などをことさらにあげつらい、光太郎の愛は虚構だ、と決めつける論もあります。また、この臨終の場面が「お涙ちょうだいのクサい芝居みたいだ」とこき下ろされることもあります。
 
しかし、どうでしょう。二人の生涯を俯瞰した時、それを「虚構」「クサい芝居」で片付けていいものでしょうか。それではいけない、というのが正直な感想です。といって、逆に「たぐいまれなる崇高な純愛のドラマ」と、諸手を挙げて肯定するのもどうかと思います。
 
結論。公正な眼で、二人の残したいろいろな事物を視野に入れながら捉えることが重要。そのためにもまだまだ埋もれている光太郎智恵子の遺珠を探し続けていきたいと思っております。
 
昨日見せていただいた神奈川近代文学館所蔵の上田静栄あて書簡の中にも、智恵子三回忌にからんで「まる二年たつたといふのにまだ智恵子を身近にばかり感じてゐます」という一文がありました。シニカルな論者はこういうのも光太郎のポーズだと決めつけるのでしょうが……。

今日は横浜の神奈川近代文学館さんに行って参りました。
 
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こちらも国会図書館さんや駒場の日本近代文学館さん同様、収蔵資料が閲覧でき、よく利用させてもらっています。特筆すべきは書簡や草稿などの肉筆ものが充実していること。それも、どんどん新しいものが増え続けていることです。こうしたものは寄贈による場合が多いようで、館から届くメールニュースに毎回のように「寄贈資料」としていろいろ紹介されています。
 
こうしたものを寄贈なさる方々、非常に素晴らしいと思います。売れば売ったでかなりの値がつくものもあり、結局、古書市場に出回っているものは売られたものです。それはそれで入手したいという需要に応える上で大切なのでしょうが、我々個人にとっては、なかなか手が出ません。はっきり言えば、わけのわからない人に買われてしまって、日の目を見ずに死蔵されてしまうということも少なからずあります。
 
その点、こういうちゃんとした公的機関に寄贈されていれば、我々も眼にすることができ、非常にありがたいわけです。
 
いつも一言多いのがこのブログですが、公的機関でも、収蔵資料の状況を外部に発信しなかったりと、死蔵に近い状態にしているところもあり、困ったものだと思うこともしばしばです。
 
さて、今日は詩人の上田静栄に宛てた書簡などを拝見してきました。最近同館に所蔵されたものです。上田には「海に投げた花」(昭和15年=1940)という詩集があり、序文を光太郎が書いています(その草稿も見せていただきました)。つい最近、このブログで誤植についていろいろ書きましたが、上田宛の書簡の中でも誤植の件が話題になっていました。また、智恵子に関する内容も含まれており、興味深いものでした。いずれ「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介するつもりです。

誤植について延々と書いてきましたが、今回でひとまず終わります。
 
今日は光太郎自身の書いたものでの誤植から。
 
まずは明治43年(1910)の『婦人くらぶ』に発表された光太郎の散文。題名にご注目下さい。
 
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100年前にはまだ「スタイル」という外来語は一般的ではなかったのかも知れません。
 
数年前、神田のお茶の水図書館という女性史系の書籍、雑誌を主に収蔵している図書館で発見したのですが、見つけた時には笑いました。
 
笑って済まされなかった誤植が以下のもの。紙が貼り付けてあるのがおわかりでしょうか。
 
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こちらは昭和19年(1944)刊行の光太郎詩集『記録』初版から。
 
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『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、「天皇陛下」とすべきところが「天皇下陛」となっていたとのことです。
 
印刷、製本まで済んだところで、光太郎を敬愛していた他の詩人が誤植に気付いて版元の龍星閣や光太郎に連絡、そのため慌てて紙を貼り付けたそうです。これも『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、そのために発売が2ヶ月以上遅れたとのこと。
 
もし「天皇下陛」のまま流通してしまっていたら、不敬罪(当方のPC、まず『不経済』と出ました。こういうのが誤植の元ですね(笑))に問われてもおかしくない誤りです。
 
数日前にも書きましたが、一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。

いろいろと誤植にまつわる話を書いてきましたが、光太郎自身は自著の誤植にはどう対応してきたのでしょうか。
 
平成11年(1999)に日本図書センターから刊行された『詩集 智恵子抄』愛蔵版という書籍があります。『智恵子抄』は昭和16年(1941)に龍星閣から刊行され、紆余曲折を経て龍星閣から刊行が続いていたのですが、それが差し止められたため、オリジナルに近いものを刊行する目的で出されたものです。校訂には北川太一先生が当たられました。
 
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巻末近くに北川先生の「校訂覚え書」が収録されているのですが、そこを読むと初版以来のテキストの有為転変のさまがよくわかります。
 
初版発行時にあった明らかな誤植(というより脱字)は再版ですぐに訂正されています。その他、細かな句読点や仮名遣い、一字空きなどの点でも光太郎は納得いかなかったようで、昭和18年(1943)4月の第9刷では全面的に改版。しかし、それにより新たな誤植が発生してしまいました。その後、戦後の白玉書房版(昭和22年(1947))、龍星閣復元版(同26年(1951))と、少しずつ訂正が行われています。
 
そして日本図書センター版では北川先生がそれら各種の版を総合的に見て、元に戻すべきところは元に戻し、さらに光太郎の草稿にまで当たって数箇所の訂正が入っています。
 
ここまで神経を使い、一字をもおろそかにしない姿勢、見習いたいものです。
 
今と違い、昔は「文選工」と呼ばれる職人さんが、原稿を見ながら活字を拾って版を組んでいたので、ミスが生じてしまうのは仕方がなかったのでしょう。
 
もちろんミスをしないことも大切ですが、それより大切なのは、ミスが生じてしまった後の対応をきちんとやることでしょう。『智恵子抄』に関しても、「ま、いっか」ではなく、とことんこだわった光太郎や出版社の姿勢、見習いたいものです。
 
そういえば、光太郎がらみで「トンデモ誤植」があったのを思い出しました。明日はそちらを。

昨日まで、著者名の取り違えや誤植といった件について書きました。人間のやることですし、笑ってすまされるようなミスならいいのですが、中には笑ってすまされはしない、義憤を感じるものもあります。
 
下の画像は、10数年前に刊行された書籍の表紙です(部分的にモザイクをかけてあります)。

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お気づきでしょうか? 問題の箇所を拡大してみましょう。

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ついでに裏表紙からも。
 
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「高村光太郎」とすべきところが「室生犀星」。あまりに低レベルのミスで、話になりませんね。さすがに中身は「高村光太郎」となっていますが、表紙は書籍の顔。それがこういうことでいいのでしょうか?
 
この書籍は、小学校の教員向けに国語の授業の進め方の実践例を紹介するもので、この手の書籍の版元としては最大手の某出版社から出ています。「最大手」ですよ、「最大手」。個人経営の街の古書店が目録で著者名を取り違えるのとは影響力が違いますね
 
これはあんまりだ、と思い、この出版社に手紙を送ったのですが、なんのかんのと理由をつけて、訂正されていません。いまだにこの社のオンラインショップでも堂々と訂正されないまま販売されているようです。しかも、この点で突っ込まれるのを警戒しているのでしょうか、他の出版物は鮮明な画像で表紙を紹介しているのに、このシリーズのみぼやけた画像になっています。こういうのを「姑息」というのでしょう。
 
それにしても、中身の部分を書いた人、監修者として名前を挙げられているえらい先生は、何にも言わなかったのでしょうか? その辺からの抗議があったとしても無視なのでしょうか
 
この社には「出版社」または「出版者」としての良心、矜恃、心意気、誇り、気骨といったものが感じられません。まぁ、ないでしょうが、仮に執筆依頼が来たとしてもお断りします。「渇しても盗泉の水を飲まず」といったところですね。
 
ところで、光太郎自身も誤植には悩まされていました。そうした場合に光太郎が執った措置を次回は御紹介します。

先日、古書目録などの記載内容に誤りが多い、という内容を書きました。
 
神保光太郎と高村光太郎を取り違えていたり、高浜虚子や木々高太郎が序文を書いているのに光太郎が書いたことになっていたりとかです。こういう例は混乱が生じるので、はた迷惑なのですが、人間のやることですのである意味仕方がないでしょう。
 
そこまで大がかりなミスではありませんが、それ以上に目立つミスとして「誤植」「誤変換」があります。書籍やインターネットサイト、そういう文字を使ったメディア全般で見受けられます。
 
非常に多いのが「知恵子抄」「千恵子抄」。これが西の横綱とすれば、東の横綱が「高村高太郎」「高村幸太郎」でしょう。

その他、実際に眼にした誤植の数々です。
 
「高山光太郎」……ある雑誌の光太郎特集号の目次にドーンと大きく掲げられていました。さすがに発行前に気付いて、「こりゃまずい!」と思ったようですが、印刷の訂正はできなかったらしく、正誤表が挟まっていました。

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「山のスッケチ」……インターネットサイトで見かけました。正しくは「山のスケッチ」、光太郎没後に刊行された花巻の山小屋での素描集です。山小屋での光太郎は読売文学賞の賞金十万円をそっくり地元に寄付してしまうなど、ケチではなかったんですが……。

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ちなみに光太郎を敬愛していた宮沢賢治の「春と修羅」の扉でも、「心象スケツチ」とすべきところが「心象スツケチ」となっているのは、意外と有名な話です。 

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「天井の炎」……火事になりそうです。ある書籍の光太郎年譜的なページから。正しくは「天上の炎」。ヴェルハーレンの詩集で、光太郎が翻訳したものです。「天上の炎」は太陽を表します。

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かくいう自分もよくやらかします。論文の中で「軍歌」と書くはずのところを「軍靴」としてしまったことがありますし、著書では「与謝野鉄幹」とすべきところをすべて「与謝野鉄寛」としてしまったことがあります。

しかし、他の人が書いたものの中には「与謝野鉄管」もありました。水道工事でも始めるのでしょうか。
 
誤植も笑ってすまされるものならいいのですが、その一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。
 
5月から始めたこのブログももうすぐ半年、今日で144回目です。おそらくどこかしらでやらかしていると思います。何か気付かれたらご指摘下さい。

昨日のブログに名前を挙げました「神保光太郎」。同じ「光太郎」ということで、「高村光太郎」と取り違えられる事がある詩人です。山形出身ですが、埼玉での生活が長かったそうです。
 
神保の方は明治38年(1905)生まれなので、明治16年(1883)生まれの光太郎より20歳ほど年下ですが、二人は交流がありました。『高村光太郎全集』をひもとくと、随所に名前が出てきます。そういう意味では9/4のブログに書いた「光太郎梁山泊」の一員ですね。
 
数年前、高村光太郎から神保光太郎あての(ややこしいですね)それまで知られていなかった葉書を入手しましたのでご紹介します。
 
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昭和17年(1942)12月のものです。
 
この間は無事な御様子を見て安心しました、今度は実に御苦労な事であつたとまつたく感謝します。大きな仕事をして来られたわけです。あなたの風貌に何となく幅が出来たことを感じました。風邪のやうでしたが、出来れば二三日でも入湯されればいいと思ひます。伊香保ならばよい家を御紹介しますが少々寒すぎるでせう。やはり伊豆がいいでせう。夫人にもよろしく。
「おいこら」で夫人を驚かせないやうに願ひます。いづれまた、
 
「実に御苦労な事」というのは、神保が約1年、報道班員として南方戦線に従軍したことを指します。
 
光太郎の筆跡、決して流麗な達筆というわけではありませんが、独特の味わいがあります。この筆跡を見るとほっとするような温かさというか……。
 
さて、情報提供のお願いです。平成18年(2006)の明治古典会七夕古書台入札会に、やはり高村光太郎から神保光太郎宛の書簡20通と原稿が出品されました。最低落札価格は30万円。とても手の出る代物ではなくあきらめましたが、ある意味、あきらめきれません。虫のいい話ですが、ともかく内容を知りたいと思っています。これの行方をご存じの方は、お知らせ願えれば幸いです。

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追記 大妻女子大学さんでこちらを購入されたこが判明しました。ありがとうございました。

昨日のブログで、バーナード・リーチと秩父宮妃勢津子殿下について書きました。
 
秩父宮家と光太郎の関連はもう一つ。昭和3年のご成婚を祝し、「或る日」という詩を発表しています(『全集』第2巻、初出不詳)。これに関して面白いエピソードがあるので、紹介します。 
 
   或る日(昭和三年九月二十八日)
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 今日はあの人の結婚する日だ。
 秋が天上の精気を街(ちまた)に送る。
 こんな日に少女が人に嫁ぐのはいい。
 
 山でも一緒に歩きたいほど
 あのいきいきした好い青年が
 こんな日に少女(をとめ)の肌を知るのはいい。
 
 むづかしい儀式と荘厳とが
 あの二人を日ねもす悩ますさうだが、
 何もかもどしどし通過して
 結局二人きりになればいいのだ。
 
 さうしてこの初秋のそよそよする夜に
 二人一しょにねればいいのだ。
 
第四連など、宮家のご成婚を謳うには、かなり直截な表現が含まれているのに驚かされます。
 
第三連の「むづかしい儀式と荘厳とが/あの二人を日ねもす悩ますさうだが、」が暗示になってはいるのですが、詩の中に宮家のことであるということは具体的には書かれていません。
 
「昭和三年九月二十八日」は、ご成婚の日付です。ただし、この部分は昭和28年に完結した中央公論社版『高村光太郎選集』に収められた時に附されました。
 
さて、昭和25年、詩人で編集者だった池田克己がどこかでこの詩を見つけ、雑誌『サンデー毎日』に再録したい旨、光太郎に申し入れます。それに対する返信が残っていますので紹介します。
 
おたより感謝、その後いかがかと案じて居りましたが御元気恢復の御様子で大安心です、御申越の「サンデー毎日」への転載といふことは一向差支ありませんが、「或日」といふ詩を小生思ひ出しません、どんな詩だつたのか、確に小生の詩なのか、不安な気もします。間違だつたら滑稽ですから一応おたしかめ下さい、
御健康をいのります、

(書簡3181 昭和25年7月26日 池田克己宛 『光太郎遺珠』①所収)
 
光太郎、自分の書いた詩を忘れています。まあ、20年以上経っていますし、題名があまり特徴的ではないので、ある意味、仕方がないかも知れません。
 
さて、三ヶ月程経ち、「或る日」が掲載された『サンデー毎日』が光太郎の手元に届きます。「中秋特別号」ということで、巻頭カラーページには光太郎、北原白秋、佐藤春夫、室生犀星、萩原朔太郎等の詩に、東郷青児、足立源一郎ら当代きっての画家による挿絵。豪華な造りです。光太郎のページは、宮本三郎という画家が担当しました。

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これを受け取っての池田への返信も残っています。
 
文字届きました由 安心しました。 サンデー毎日も掲載誌が届きました。
ところがあの詩は秩父宮の結婚の時にその事を書いたものなので、宮本さんの馬上花嫁ではひどく平凡になり、あの詩の味噌がなくなり、思はず吹き出しました。尤も秩父宮といふ事は書いてないので無理もないと思ひました。
(書簡3183 昭和25年10月21日 池田克己宛 『光太郎遺珠』①所収)
 
文学作品は、作者の手を一度離れたら、その解釈は受け取る側に委ねられるものとも言えますので、こうした勘違いも仕方がないでしょう。だいだい、はっきり宮家のことだと書かなかった光太郎が悪い(笑)。そこで、この後刊行が始まる『高村光太郎選集』で「昭和三年九月二十八日」とわざわざ書き込んだのでしょう。
 
この『サンデー毎日』が出た時、妃殿下はもちろん、宮様もまだご存命でした。もしこれを御覧になり、さらにご自分達を謳った詩だとご存知だったら、苦笑なさったことでしょう。そんな想像をすると、笑えます。
 
蛇足ですが、先程「文学作品は、作者の手を一度離れたら、その解釈は受け取る側に委ねられるものとも言えます」と書きました。しかし、時折、「文学博士」の肩書を持っているような偉いセンセイが、いくらなんでもそりゃないだろう、というような頓珍漢な解釈を書いている論文などを眼にします。そうなると「苦笑」どころではなく情けなくなりますし、その勘違いがまかり通ってしまうと、それは一種の犯罪に匹敵すると思います。
 
自分はそう言うものを書かないように、と自戒を込めて。
 
別件ですが、本日夜19:55~NHKEテレ(旧教育テレビ)でオンエアのRの法則という番組で、女川が扱われます。8/13のこのブログで紹介した仮説商店街「きぼうのかね」からの中継もあるようです。24時からは同じEテレで再放送もあります。 

Rの法則「いま伝えたい私たちの思い~宮城県女川町から~」

2012年8月28日(火) 18時55分~19時55分
2012年8月28日(火) 24時00分~25時00分(再)
 
宮城県女川町から「被災地に暮らす中高生の思いを伝える」をコンセプトに、震災後に“心に響いた歌&”私の一大ニュース”を紹介。出演:山口達也、Rake、平原綾香
番組内容
東日本大震災で大きな被害に遭った宮城県女川町から、1時間にわたって中継。「被災地に暮らす中高生の思いを伝える」をコンセプトに、地元の高校生が主体となり、“震災後、心に響いた歌”“震災後、私の一大ニュース”をリサーチして紹介。また、この春にオープンした、仮設商店街から、町の現状と魅力を発信してもらう。

ぜひご覧下さい。

昨日のブログで、バーナード・リーチの写真を載せるため、彼の『東と西を超えて 自伝的回想』(福田陸太郎訳 日本経済新聞社 昭和57年)を引っ張り出しました。

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ついでに光太郎に関する記述がある部分を読み返してみましたところ、ちょっと面白いエピソードがあったので紹介します。

 私の最初の日本人の友、高村光太郎が今私の心に甦って来る。私はいまでも、初めの頃の彼の手紙をいくらか持っている。
 (中略)
 最近一九七三年にもなって、彼についてある事柄が起こった。それは私が、秩父宮妃殿下の催された小さな親しい茶席に招待された時のことである。妃殿下自身も陶器をお造りになり、芸術の後継者であられた。わずか八人が出席しており、ある一刻、私にだけお話しをされた。たまたま、私の古い友人の高村の詩がお好きであると言われた。私は驚いて、妃殿下の方を向いて言った。「高村はわれわれが二人とも学生であった頃のロンドンでの私の初めての友人です。私はご存知のように日本語は読めませんが、数行が心に浮かんで来ます。
 
  秩父おろしの寒い風
  こんころりんと吹いて来い
 
妃殿下は驚いて私の方を向かれた。こんなに驚いた人を私は知らない。一度だけ私の記憶が正確だったのだ。そして、何と奇妙なことに高村は、妃殿下の土地-秩父-の名を使ったのである。

 まず「秩父宮」は昭和天皇の弟君、秩父宮雍仁親王。社会活動としてスポーツの振興に尽くし「スポーツの宮様」として広く国民に親しまれ、秩父宮ラグビー場にその宮号を遺しています。国民の人気も高かったのですが、昭和28年、50歳の若さで急逝。その際、光太郎は「悲しみは光と化す」(『高村光太郎全集』第6巻)という散文を書いて哀悼の意を表しています。 
 
 勢津子妃殿下は平成7年、85歳までご存命でした(会津藩主松平容保の孫だったそうで、これは当方、存じませんでした)。
 
「秩父おろしの寒い風/こんころりんと吹いて来い」は、リーチ来日中の大正元年、『白樺』に発表された詩「狂者の詩」の一節。正確には「秩父おろしの寒い風/山からこんころりんと吹いて来い」で、この詩の中でリフレインされています。
 
 話の流れからすると、妃殿下はリーチと光太郎の関係をご存じなかったのではないかと思います。光太郎歿して17年。二人の間に秩父おろしの風のようにさっと吹いた光太郎の思い出。いい話だな、と思いました。
 
 これも妃殿下がご存知だったかどうか不明ですが、秩父宮家と光太郎の関連はもう一つ。昭和3年のご成婚を祝し、「或る日」という詩を発表しています(『全集』第2巻、初出不詳)。これに関しても面白いエピソードがあるので、明日、紹介します。 

昨日のブログで桑田佳祐さんの「声に出して歌いたい日本文学<medley>」が収録されたアルバム「I LOVE YOU -now & forever-」を紹介しましたが、yahoo!のニュース検索でこれがらみが1件ヒットしていますのでご紹介します。 

桑田佳祐スペシャル・ベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』【music.jp】が収録曲にちなんだ「自由研究」を大募集

リッスンジャパン 7月25日(水)20時24分配信
 
 7月18日にソロワークスの集大成といえるスペシャル・ベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』をリリースした桑田佳祐。7月24日にスマートフォンでAndroidシングル、着うたフルの配信を開始する【music.jp】で、収録曲にちなんだ「自由研究」と題した投稿企画がスタートした。

『I LOVE YOU -now & forever-』に収録されている楽曲の好きな曲、思い出の曲にちなんだ投稿を大募集する「自由研究」。それぞれ絵画部門、感想文部門、写真部門を設けており各部門の優秀作品の方にはプレゼントが用意されている。

応募期間は7月24日(火)~8月31日(金)まで、桑田佳祐の楽曲と共に、楽曲にちなんだ絵を描いたり、感想文を描いたり、写真を撮影して応募しよう。

【Androidシングル】
アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』から新規配信8曲
・幸せのラストダンス
・CAFE BLEU(カフェ・ブリュ)000
・100万年の幸せ!!
・MASARU
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(上)
・祭りのあと
・波乗りジョニー
・明日晴れるかな
・銀河の星屑

【着うたフル】
アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』から新規配信8曲
・幸せのラストダンス
・CAFE BLEU(カフェ・ブリュ)
・100万年の幸せ!!
・MASARU
・Kissin' Christmas(クリスマスだからじゃない)
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(上)
声に出して歌いたい日本文学<Medley>より『汚れつちまつた悲しみに……』『智恵子抄』『人間失格』『みだれ髪』を収録。
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(中)
声に出して歌いたい日本文学<Medley>より『蜘蛛の糸』『蟹工船』『たけくらべ』を収録。
・声に出して歌いたい日本文学<Medley>(下)
声に出して歌いたい日本文学<Medley>より『一握の砂』『吾輩は猫である』『銀河鉄道の夜』を収録。

絵心のある方、文才のある方、写真を趣味している方、挑戦されてみては如何でしょうか?

桑田佳祐さん。日本を代表する歌手の一人ですね。彼がリーダーだったサザンオールスターズのデビューが1970年代末頃ですから、かれこれ30年以上のキャリアです。
 
サザン時代を含め、ソロ活動に入ってからもたくさんのヒットを飛ばしてきましたが、その凄いところはその地位に安住しないことだと思います。成功するかどうかはともかく、常に新しいことへの挑戦を続けている姿には頭が下がります。また、平成22年には食道がんと診断されたものの、不死鳥の如く復活。その姿にも頭が下がりました。
 
さて、そんな桑田さんの、これもまた新しいことへの挑戦の一つだったと思います。平成21年に発表した「声に出して歌いたい日本文学<medley>」。18分42秒もの長い曲です。歌詞は日本近代文学史上に燦然と輝く作品群から採っています。すなわち中原中也「汚れつちまつた悲しみに……」、太宰治「人間失格」、与謝野晶子「みだれ髪」、芥川龍之介「蜘蛛の糸」、小林多喜二「蟹工船」、樋口一葉「たけくらべ」、石川啄木「一握の砂」、夏目漱石「吾輩は猫である」、宮澤賢治「銀河鉄道の夜」、そしてわれらが高村光太郎「智恵子抄」から「あどけない話」。メドレーですので、途中で曲想がどんどん変化します。バラードあり、アップテンポあり、エスニックなアレンジも混ざり、聴くものを飽きさせません。
 
シングルCDでは平成21年に「君にサヨナラを」のカップリングとして発売されました。
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楽譜としては、翌年2月に発売された楽譜集「ギター弾き語り 桑田佳祐Songbook改訂版」に掲載されました。他の曲がだいたい4頁前後なのに対し、この曲だけ堂々の18頁。当方、ベースギターを嗜んでおりますので、CDに併せて弾いてみましたが、いや、疲れました(笑)。

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さて、この「声に出して歌いたい日本文学<medley>」を収録したCDアルバムが発売されました。過去にソロで発表した曲に加え、新曲も収録したスペシャル・ベスト・アルバム『I LOVE YOU -now & forever-』。

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完全生産限定盤は3枚組で¥3,600。通常盤は2枚組で¥3,300です。

是非お買い求め下さい。

宮城県女川町がらみの記事を書きましたので、三陸と光太郎に関する記述のある書籍を引っ張り出して読んでみました。 

「詩をめぐる旅」伊藤信吉著 昭和45年12月15日 新潮社発行

  
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光太郎とも親交のあった詩人、故・伊藤信吉氏の著作です。主に近代の詩を取り上げ、その題名のとおり、日本全国に点在するそれぞれの詩の故地、いわば「歌枕」を訪れてのレポートです。60篇ほどの詩が取り上げられ、各篇4頁、光太郎に関しては「千鳥の足あと」(千葉・九十九里浜)、「国境の工事現場」(群馬/新潟・清水トンネル)、「冬の夜の火星」(東京・駒込台地)、そして「濃霧の夜の航路」(宮城/岩手・三陸海岸)です。女川の詩碑にも刻まれた「霧の中の決意」について論じています。
 
   霧の中の決意
  
  黒潮は親潮をうつ親しほは狭霧を立てて船にせまれり
 
 輪舵を握つてひとり夜の霧に見入る人の聴くものは何か。
 息づまるガスにまかれて漂蹰者の無力な海図の背後(うしろ)に指さすところは何か。
 方位は公式のみ、距離はただアラビヤ数字。
 
 右に緑、左に紅、前檣に白、それが燈火。
 積荷の緊縛、ハツチの蓋、機関の油、それが用意。
 霧の微粒が強ひる沈黙の重圧。汽角の抹殺。
 
 小さな操舵室にパイプをくはへて
 今三点鐘を鳴らさうとする者の手にあの確信を与へるのは何か。

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光太郎がこの詩を作ったのは、正確には女川ではなくもう少し北に行ってから、宮城・気仙沼から岩手・釜石にかけての8時間の夜間航海中のことだそうです。
 
北川太一先生は、近著「光太郎智恵子 うつくしきもの 「三陸廻り」から「みちのく便り」まで」で、こう述べられています。
 
 釜石で改めて推敲されたという詩「霧の中の決意」は、この時光太郎が置かれていた時代と環境の中での、 深い思いに誘います。(中略)霧は実際に光太郎が三陸の海で経験したことですが、ここで自分自身にも、この詩を読む人にも問いかけているのは、自分たちが今置かれている状況、世界が戦争にまきこまれてゆこうとする、濃霧のような時代の到来の中での、生きるための決意だと言っていいでしょう。今この美しい三陸の自然や人の中にいて、その裏側で日々の身辺に確実に襲って来る、混沌とした世界。その道を歩むために、何が必要なのか、それを支える確信をどうしたら持つことができるのか。それが光太郎が問いかける問題、みずからが考え続ける問題だったに違いありません。(中略)奉天郊外で満州事変が起こったのは光太郎が三陸から帰った直後の九月十八日、翌日その第一報が臨時ニュースで放送されました。中国との十五年戦争の発端となった事件です。単に夜の海だけでなく、周囲に渦巻く世界の情勢は、どんなに光太郎の心を強く占めていたことでしょう。これらの詩を理解するためにも、夜の海での感想の底に流れる思いを感じ取るためにも、その状況を無視することは出来ません。
 
震災、原発事故、先の見えない経済不安、政治の混乱。混沌とした時代という意味では平成24年(2012)の現在も同じです。今、この時期に、光太郎がかつて同じ混沌とした時代をどのように感じ、行動していったのかを捉えることも意味のないことではないでしょう。
 
さらに光太郎に限っていえば、この時期に大きな転機を迎えざるを得なくなります。「詩をめぐる旅」から伊藤氏の言を拝借します。
 
 ガスの海で高村光太郎が崩れのない意志の歌を発想していたとき、東京本郷駒込の留守宅で異変が突発した。智恵子夫人に、精神分裂症の最初の兆候があらわれたのである。旅の途次でそのことを知らされた高村光太郎が、どれほどのショックを受けたか。愛する者が、事もあろうに精神分裂症に陥るとは! 高村光太郎と智恵子夫人の生活は、このとき音もなく暗転した。崩れのない「霧の中の決意」の詩。崩れはじめた智恵子夫人の脳髄の生理。この対照は悲劇的である。このような運命の翳りを、私どもはいかにして振払うことができるか。「三陸廻り」は高村光太郎にとって忘れることのできない旅であり、「霧の中の決意」はいわば『智恵子抄』の外篇として、二人の愛の生活を前後・明暗に境界づける詩だったのである。
 
混沌とした時代の不安、それに追い打ちをかけるような個人としての悲劇。この後、光太郎は戦争の波に翻弄され、戦後はそうした自らを恥じ、悔い、花巻の山小屋で「自己流謫」-自分で自分を流罪に断ずる処罰-を科します。
 
くり返しますが、今、この時期の我々が、光太郎がかつて同じ混沌とした時代をどのように感じ、行動していったのかを捉えることも意味のないことではないでしょう。

昨日に続き、女川の話を。
 
光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。たしか平成6年頃、8月の暑い盛りだったと思いますが、この碑を見に行きました。2泊3日の行程で、光太郎・智恵子の故地を巡る気ままな一人旅。1日目は二本松周辺を中心に廻り、夜になって女川に着きました。そして2日目、朝の清澄な空気の中、海岸公園で碑を見ました。
 
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中央には高さ2㍍、幅10㍍のおそらく日本最大といわれた巨大な碑。5面のプレートを配し、真ん中は明治39年、渡米に際して創られた光太郎の短歌「海にして 太古の民の おどろきを われふたたびす 大空のもと」の光太郎自筆筆跡を拡大したもの。その両脇に紀行文「三陸廻り」の女川の項が北川太一先生の筆で。さらにその外側2面は紀行文「三陸廻り」に付された光太郎自筆の挿画が、それぞれ拡大されて刻まれています。石の形は港町・女川を象徴するように、舟のようなシルエットのものを選んだとのこと。

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その真下に小さな碑が一つ。巨大な碑の中央に刻まれた光太郎短歌が独特の筆跡で読みにくいということへの配慮でしょうか、同じ短歌が活字で刻まれていました。

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公園内の少し離れた場所に、女川での体験をもとにして書かれた二つの詩を刻んだ詩碑が二つ。片方は詩「よしきり鮫」、もう一方は詩「霧の中の決意」。それぞれ光太郎が手許に残した控えの原稿から複写されたものです。

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同じ場所に4基も光太郎関連の碑が建てられたのは、ここ女川と、花巻の山小屋周辺だけです。花巻の方は、色々な碑が後から後から追加されたのに対し、女川の碑は4基同時に建立。しかも特筆すべきは1,000万円近くの建立費用の全てが、地元の個人、企業、学校等からの寄附で賄われたことです。この中には町内十数カ所に置かれた募金箱に入れられたいわば「浄財」も含みます。このような形で作られた石碑というのも非常に珍しいと思います。
 
平成18年(2006)10月14日と15日の2日間にわたり、光太郎没後50年記念・智恵子生誕120年記念ということで、東京荒川区の日暮里サニーホールにおいて「光太郎・智恵子フォーラム」が開催されました。北川太一先生の基調講演、荒川区長・西川太一郎氏、彫刻家・峯田敏郎氏、画家・長縄えい子氏、高村光太郎研究会・織田孝正氏によるパネルディスカッション、仙道作三氏作曲のオペラ「智恵子抄」公演など、盛りだくさんの内容でした。さらに「プレゼンテーション」と銘打ったタイムテーブルもあり(当方が司会でした)、7人の方がご発表なさいました。その中のお一人が女川・光太郎の会事務局長だった故・貝廣氏。「光太郎祭15回を開催して」という題でのご発表でした。「こんなに大きな石碑を作ったんですよ」ということで、マイクを握られたまま、ステージ上を走り回られていた姿が今も目に浮かびます。

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ネット上で検索してみますと、震災後の女川の惨状を撮影した画像等も見られます。廃墟と化したビル、土台だけ残った住宅、草すら生えていない荒れ地、それらにまじって無惨にも横倒しになった10㍍の光太郎碑の画像も眼にしました。その後、どこまで復興が進んでいるのか、いないのか、来月9日の女川・光太郎祭に参加し、見てきたいと思います。

宮城県牡鹿郡女川町。昨年三月の東日本大震災で20㍍を超える津波に襲われ、激甚な被害に見舞われた地です。俳優の中村雅俊さんの故郷でもあるそうです。
 
この地で平成4年(1992)から毎年、「女川・光太郎祭」というイベントが開かれています。
 
北川太一先生の近著『光太郎智恵子 うつくしきもの「三陸廻り」から「みちのく便り」まで』(このブログ6月24日の項参照)に詳しく書かれていますが、昭和6年(1931)夏、光太郎は『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」執筆のため、約1ヶ月の行程で三陸地方を旅しています。女川にもその際に立ち寄りました。
 
光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。地元有志の方々が中心となって立ち上げた「女川・光太郎の会」が設立母体です。碑については明日のブログで詳しくご紹介します。

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翌平成4年(1992)から毎年8月9日(光太郎が三陸へ旅立った日)に、その海岸公園を会場にして「女川・光太郎祭」というイベントが開かれています。ほぼ毎年、北川太一先生によるご講演があったり、地元の方々による合唱や朗読、連翹忌常連のオペラ歌手・本宮寛子さん、シャンソン歌手・モンデンモモさん、ギタリスト・宮川菊佳さんらのアトラクションなどで、おおいに盛り上がっていたとのことです(当方、女川には行ったことがありますが、光太郎祭には参加したことがありません)。

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平成14年(2002)には、それまでの北川先生のご講演の筆録が一冊の本にまとまりました。約400頁の堂々たるものです。

「高村光太郎を語る-光太郎祭講演-」北川太一著 平成14年4月2日 女川・光太郎の会発行

非売品ですが、時折古書店サイト等で見かけます。是非お読み下さい。

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これらの活動の中心となって獅子奮迅の活躍をなさっていた女川・光太郎の会事務局長の貝(佐々木)廣氏。やはり連翹忌の常連でしたし、他のイベント等でもご一緒させていただいたことがありました。ものすごい行動力と、繊細な気づかいの心を持ち合わせた方でした。「でした」と、過去形にしなければならないのが残念です……。
 
震災直後、東北地方沿岸が激甚な被害に見舞われたということで、北川先生をはじめ、仲間うちで貝氏の消息について情報収集に努めましたが、なかなか消息がわかりませんでした。一度はネット上で避難所に入った方のリスト(手書きコピーのPDFファイル)にお名前を見つけ、安心したのですが、よく見るとお名前の上にうっすらと横線。単なる汚れなのか、それとも抹消されたということなのか、前者であって欲しいという願いも虚しく、津波に呑み込まれたという報が届きました。それでもまだどこかでひょっこり生き延びていられるのではと、一縷の望みを持っていましたが、やがて、ご遺体発見の報。ショックでした……。
 
テレビやネットで女川の惨状を見るにつけ、心が痛みました。しかし、事実を認めたくなくて、女川には足が向きませんでした。自分の中では、女川は豊かな緑に囲まれた美しい港町、そこに行けば貝氏が元気な笑顔で迎えて下さる街、そのままの姿で取っておきたいという思いでした。
 
昨夏、数えてみれば20回目の女川・光太郎祭。例年届いていた案内状も来ず、「もはや光太郎祭どころではないのだろう」と思つていました。しかし、あにはからんや、会場こそ女川第一小学校に移ったものの、しっかりと第20回女川・光太郎祭が開催されたとのこと。人間の持つ、逆境に屈しないパワーを改めて感じました。

さて、今年も第21回の女川・光太郎祭が開催されます。女川・光太郎の会の皆さん、さらには北川先生が高校教諭をなさっていた頃の教え子の皆さんの集まりである北斗会の方々のお骨折りです。
 
期日は例年通りの8月9日(木)。会場は女川の仮設住宅だそうです。15:00から北川先生のご講演。会場を移し、18:30から石巻グランドホテルにて懇親会。当方、北斗会の皆さんが手配して下さいまして、当日朝7時に池袋から貸し切りバスが出ますので、それに便乗します。帰着は翌10日の夕方です。お近くの方、そうでない方も御都合のつく方は、ぜひご参加ください。連絡をいただければ取り次ぎは致します。

2日続けて既に他の雑誌等に発表された文章が「転載」されている例を紹介しました。「転載」がらみでは他にも色々なケースがあります。
 
具体例を挙げましょう。
 
『高村光太郎全集』第19巻には「ツルゲーネフの再吟味」という短い文章が載っています。これは昭和11年(1936)、六芸社から発行された『ツルゲーネフ全集』新修普及版の内容見本(広告的な冊子)から採録したものです。ところがその後、遡ること2年、昭和9年(1934)に発行された『ツルゲーネフ全集』のオリジナル版の内容見本を発見しました。こちらにも光太郎の「ツルゲーネフの再吟味」が掲載されています。
 
それだけなら、『高村光太郎全集』の解題を訂正すればいいだけの話です。前回紹介した「天川原の朝」などと同じパターンです。ところが、オリジナル版と新修普及版、それぞれを読み比べてみると、オリジナル版の方が長いのです。つまり新修普及版の内容見本に転載(というか再録)する際に、オリジナル版の内容から一部をカットしているわけです。こうなると、優先されるのはカットされる前のオリジナル版の方ということになります。そこで、平成18年(2006)発行の「光太郎遺珠」②に全文を掲載しました。
 
こういう例は他にもあります。
 
昭和28年(1953)6月1日発行の『女性教養』第173号という雑誌をネットで入手しました。光太郎の「炉辺雑感」という長い散文(講演の筆録)が載っており、当方作成のリストに載っていなかったからです。さて、手許に届いて早速読んでみましたところ、読み進めていくうちに、「あれ、これ、読んだことあるぞ」と気づきました。出てくるエピソード-その昔、キリスト教に興味を持ちながらどうしても入信に踏み切れなかった話、花巻の山小屋での農作業の話など-が記憶に残っていました。「ちっ、転載か」と思い、調べてみると、『全集』第10巻所収の『婦人公論』第37巻第6号に載った「美と真実の生活」という題名の講演会筆録と内容がかぶっています。ところがこれも、今回入手した『女性教養』の「炉辺雑感」の方が長いのです。『婦人公論』の「美と真実の生活」は、『女性教養』の「炉辺雑感」を換骨奪胎し、7割程の長さに圧縮してあることが分かりました。不思議なことに、両方とも昭和28年(1953)6月1日発行です。まあ、実際に店頭に並んだのは奥付記載の発行日通りではないかも知れませんが。これなどはちょっと変わったケースです。「炉辺雑感」、来年4月発行予定の『高村光太郎研究34』に所収予定の「光太郎遺珠」⑧に掲載予定です(「予定」ばかりですみません)。

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また、「転載」の結果、ほとんど別の作品に変わってしまっている、という例もあります。
 
よく知られている有名な詩「道程」。たった9行の短い詩ですが、大正3年3月、雑誌『美の廃墟』に発表された段階では102行もある長い詩でした。それが8ヶ月後に詩集『道程』に収められた段階ではばっさりと削られ、たった9行に。こうなるとほとんど別の作品といっていい程の改変です。詩の場合、あまりに変えられたものは『全集』第19巻に「初出・異稿」として改変前のものもまとめて載せられています。散文でもこういうケースがあり、転載された前後で、同じ題名で内容的にも同じ、しかし細かな言い回しを含め、100カ所以上の異同などというものもあります。こうなると、次に『全集』が編纂される際には双方を掲載しなければならないかもしれません。
 
このように基礎テキストの校訂すらまだまた途上の状態です。しかし、光太郎程の人物が書き残したもの、出来る限り完全に近い形で次の世代へと受けついでいく努力は続けていきたいと思っています。

過日のブログで、今月末には光太郎関連の新資料が続々出る旨書きました。その第一弾です。注文しておいたのが昨日届きました。朗読のCDです。 

永遠に残したい日本の詩歌大全集(5) 高村光太郎・萩原朔太郎詩集

平成24年6月20日 ポニーキャニオン 定価¥2,000
 
俳優の小林稔侍さんによる朗読です。「永遠に残したい日本の詩歌大全集」全10巻のうちの5巻目で、光太郎と萩原朔太郎の詩、それぞれ20篇余りが収録されています。ジャケット(といっていいんでしょうか、CDの場合)には取り上げられている詩の全文と、作家下重暁子氏の解説も載っています。光太郎の部のラインナップは以下の通り。
 
 1.根付の国
 2.父の顔000
 3.冬が来る
 4.冬が来た
 5.道程
 6.秋の祈
 7.クリスマスの夜
 8.落葉を浴びて立つ
 9.ぼろぼろな駝鳥
 10.秋を待つ
 11.母をおもふ
 12.当然事
 13.最低にして最高の道
 14.美しき落葉
 15.僕等
 16.樹下の二人
 17.あどけない話
 18.風にのる智恵子
 19.値ひがたき智恵子
 20.山麓の二人
 21.レモン哀歌
 22.荒涼たる帰宅
 23.裸形
 24.雪白く積めり
 25.月にぬれた手
 
小林稔侍さん独特の、やや無骨な訥々とした語り口で、聴いていて心地よいものでした。
 
小林稔侍さんといえば、平成3年(1991)11月9日にNHK総合で放映された単発のドラマ「極北の愛 智恵子と光太郎」(脚本・寺内小春)に出演、東京駒込の光太郎アトリエの隣で炭屋を営む「岩吉」という架空の人物を演じられました(アトリエの隣は実際には植木屋さんだったそうですが)。

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ドラマはその岩吉が、昭和24年、吹雪の夜に光太郎が住む花巻の山小屋を訪れるところから始まります。ちなみに光太郎役は小林薫さん。岩吉は昔からの習慣で、光太郎を「若先生」と呼びますが、光太郎ももう老齢です。「若先生」に対しての「大(おお)先生」は、故・佐藤慶さん演じる光雲です。他の主なキャストは智恵子が佐久間良子さん、田村俊子が小野みゆきさん、智恵子の最期を看取った姪の春子が喜多嶋舞さん、岩吉の奥さんが高橋ひとみさん、森鷗外に渡辺篤史さん。
 
ドラマは光太郎と岩吉、二人が昔を回想するという手法で進みます。両小林さん、いい演技をしていました。特にラスト近くの二人の会話は圧巻です。

岩 吉 すごいもんですねェ、惚れるってのは。……女にはかなわない。……人間商売やめちまう位、男に惚れることが出来るんだから……男はとてもかなわないね。

光太郎 僕は智恵子の事を詩に書いたが……どれだけ智恵子という女をわかっていたのか……。

岩 吉 あの御本は、智恵子奥様お一人だけに見せておあげになればよかったですね……。奥様はいつも若先生だけを見て生きておられたから……。

光太郎 ……。

岩 吉 お二人のことはお二人だけの心の中にそっとしまっておきたかったんじゃないですかね、奥様は。

光太郎 ……。

岩 吉 でも、あれを書いて若先生の御心が安まったことを奥様は喜んでいらっしゃいますよ、きっと。

光太郎 (呟く)智恵子に聞いてみよう。……多分もうすぐ行けるから。(微笑と咳)

岩 吉 (光太郎を見る)……。
 
ちなみにこのシーン、当方が入手した台本では「シーン121・山小屋・内」となっていますが、実際の放送を録画した映像で確認してみますと、山小屋の外で頭や肩に雪を積もらせながらの会話となっています。演出家などのスタッフの発案なのか、俳優さんの発案なのか、おもしろいところです。
 
さて、今回の朗読CD、amazonなどのオンライン販売で容易に手に入りますので、是非お求め下さい。
 
続々出る光太郎関連新資料、また届き次第ご紹介します。

昨日入手した新刊資料を紹介します。 

 関川夏央 NHK出版 平成24年(2012)5月10日

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新刊です。新書判で、これなら近所の書店で並んでいるだろうと思っていましたが、意外と新書判の品揃えはあまり多くなく、隣の成田市の大きな書店でようやく見つけました。少し前に「新書ブーム到来か?」などといわれ、新規に参入する出版社が相次ぎましたが、現実には地方の書店ではなかなか入荷されません。昨日やっとみつけたものも、ついているはずの帯がついていませんでしたし、これが地方の現状です。
 
カバーに書かれた紹介文です。「日露戦争に勝利した一九〇五年(明治三十八)、日本は国民国家としてのピークを迎えていた。そんな時代を生きた著名文学者十二人の「当時」とその「晩年」には、近代的自我の萌芽や拝金主義の発現、海外文化の流入と受容、「表現という生業」の誕生といった現代日本と日本人の「発端」が存在した――。いまを生きる私たちと同じ悩みを持ち、同じ欲望を抱えていた「彼ら」に、現代人の祖形を探る、意欲的な試み」。
 
ちなみに12人は森鷗外、津田梅子、幸田露伴、夏目漱石、島崎藤村、国木田独歩、高村光太郎、与謝野晶子、永井荷風、野上弥生子、平塚らいてう、石川啄木です。
 
著者の関川氏は文芸評論、ノンフィクションなどを幅広く手がけ、平成10年(1998)には氏の原作、谷口ジロー氏作画の連作漫画『「坊ちゃん」の時代』で第2回手塚治虫文化賞を受賞されています。
 
『「坊ちゃん」の時代』は「凛烈たり近代 なお生彩あり明治人」をテーマに、「明治」という時代と格闘したあまたの文学者を描く群像ドラマです。完結までに10年を要した大河作品で、第1部が出た昭和62年には「漫画もここまで来たか」と驚いたことを覚えています。その後、同じような系列の作品がいろいろな方によって作られるようになりました。その意味では嚆矢です。
ラインナップは以下の通り。

 第1部「「坊っちゃん」の時代」 夏目漱石
 第2部「秋の舞姫」 森鷗外
 第3部「かの蒼空に」石川啄木
 第4部「明治流星雨」幸徳秋水
 第5部「不機嫌亭漱石」夏目漱石
 
第5部で明治43年(1910)の漱石の「修善寺の大患」を描き、「明治」の終焉が描かれましたが、「明治」を引きずり続けた「明治人」ということで、光太郎を主人公にした第6部を作ってくれないかな、などと思っていました。
 
その願いは叶いませんでしたが、本書が「「明治」を引きずり続けた「明治人」」を描くというコンセプトにもなっているようです。先に名前を挙げた12人の多くが「「坊ちゃん」の時代」に登場しています。
 
実は昨日買ってきて、まだ読んでいません。明日から1泊で福島二本松に参りますので、道中、新幹線の車内で読もうと思っています。
 
さて、「新刊」ということになると、今月末には楽しみにしていた光太郎関連の新刊が続々刊行されます。それぞれ手元に届いたら紹介しましょう。

最近入手した光太郎関連の書籍のうち、比較的最近出版されたものを紹介します。 

第66回安古びた登山日記

市川五十二著 風詠社 平成23年(2011)11月29日 定価1,575円

著者の市川氏は登山を趣味とされている方です。著者曰く「過去の山行から六つを選び、山岳小説風にまとめたものが本書である」とのことで、第一章が「ほんとの空に抱かれし山 安達太良山」。光太郎、智恵子の文筆作品を引きながら、二本松・旧安達町の智恵子記念館やその裏手の鞍石山への訪問記が書かれています。
 
第二章は「みちのくの山 早池峰と岩手山」。やはり光太郎が愛した山ですが、ここでは光太郎には触れられず、宮澤賢治や石川啄木にからめられています。
 
ちなみに当方、今週末には久しぶりに二本松に行って参ります。

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詩の在りか-口語自由詩をめぐる問い

佐藤伸宏著 笠間書院 平成23年(2011)3月15日 定価3,200円+税

東北大学教授である著者による論考です。光太郎、室生犀星、萩原朔太郎、三富朽葉の4人に焦点を当て、口語自由詩がいかに生まれ、根付いていったかが論じられています。
 
光太郎に関しては第二章「口語自由詩と<声>-高村光太郎『道程』」「1高村光太郎の<自由詩>の理念」「2 光太郎に於ける<文語自由詩/口語自由詩/小曲>」「3 光太郎に於ける口語自由詩の確立」に分け、詳細に述べられています。

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「専門馬鹿」という言葉があります。自分の専門分野だけは詳しいが、他はさっぱり、という意味ですね。そうならないように、近・現代の詩や美術の流れの中での光太郎の位置付けや、周辺人物との関わりの中での光太郎像といった点にも目を向けなければ、と思っています。

一昨日観て参りました渡辺えりさん率いる劇団おふぃす3○○(さんじゅうまる)の舞台、「月にぬれた手」と「天使猫」、会場の座・高円寺ロビーで売られていた資料を紹介します。 

「月にぬれた手」「天使猫」パンフレット

A4判36ページの厚いもので、内容も盛りだくさんです。各出演者のプロフィールや一言のページには直筆サイン入りです。
その他、以下の文章が載っており、大変興味深く拝読致しました。
 鵜山仁「再演にあたって」
 北川太一「高村光太郎のたどった道」
 「光太郎、ある日」北川太一さんの日記から
 渡辺正治「昭和20年4月10日光太郎先生との一期一会」(以前紹介した『月刊絵手紙』に載った文章とほぼ同一です)
 「月にぬれた手」出演者トーク「高村光太郎のアトリエを訪ねて…。」
 内河啓介「岩手旅行記」
 宮澤和樹「高村光太郎先生と宮澤賢治」
 安斉重夫「宮澤賢治の作品の魅力を鉄で表す」
 渡辺えり「東北の地の感情」


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雑誌『悲劇喜劇』第64巻第6号

2011,6 早川書房

演劇専門誌です。「月にぬれた手」のシナリオ全文が掲載されています。

当方、昨年、渡辺さんから直接いただきました。

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牛田守彦著 ぶんしん出版 

先日の「徹子の部屋」をレポートした時のブログにも載せましたが、光太郎と親交のあった渡辺さんのお父様・正治氏(中島飛行機-現・富士重工=自動車のスバルのメーカーです-に動員されていました)の体験が書かれています。帯にはえりさんの推薦文。

「月にぬれた手」にはえりさんのご両親をモデルにした登場人物もいて、ほぼ正確に光太郎とのエピソードが使われています。

それ以外にも悲惨な空襲の実態が豊富な写真や表などを使って語られており、こうした記憶を風化させまいとする筆者の熱意が伝わってきます。

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4月14日(土)、横浜のそごう美術館さんを後にし、000一路、新宿へと向かいました。
 
老舗のライヴハウス、ミノトール2さんにて、高木馨さんの『高村光太郎考 ぼろぼろな駝鳥』出版記念イベントがあったためです。同書は、昨年10月に文治堂書店さんから刊行されました。原稿用紙500枚という大作です。
 
さて、イベントは高木さんの親友で詩人・刀道の達人、佐土原台介氏の司会で始まりました。
 
光太郎関連では、中西利一郎氏の興味深いお話がありました。中西氏は、水彩画家の故・中西利雄氏(明33~昭23)のご子息で、中野区ご在住です。光太郎がその最晩年、十和田湖畔に建つ裸婦像(通称・乙女の像)の制作のため借りたのが中西利雄のアトリエ。

ちなみに光太郎はこちらの庭に咲いていた連翹を愛し、そこから光太郎の命日が「連翹忌」と命名されました。中西利一郎氏は、写真のパネル等を持参され、光太郎の回想を披瀝されました。
 
続いて当方のスピーチ。連翹忌についての話をメインに、15分ほどしゃべらせていただきました。
 
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その後は高木さんのお仲間のみなさんによるアトラクション。シンガーソングライター小藤博之さん、
ピアノ引き語りいまむら直子さんとシューフィーズの皆さん、アコースティックギター中村ヨシミツさんと歌の三原ミユキさん、フラメンコ手下倭里亜さんと手下ダンススタジオの皆さん。
 
この手のイベントが有れば、出来る限り駆けつけますし、しゃべれと言われればしゃべりますので、お声がけ下さい。

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