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3件ご紹介します。

まず、2月2日(日)『朝日新聞』さん一面コラム。

天声人語

たった一人。白く息を吐きながら、ギュッギュッと新雪を踏みしめていく。教科書で出会った高村光太郎の「道程」は、読みかえすたびにそんな光景を思い起こさせる▼〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ〉。自分の力で人生を切り開く。詩人が決意を文字にしたのは、ある年の2月のこと。詩の舞台は冬というわが想像も、そう間違っていないのかもしれない▼さて、そんな雪景色に今朝は一変しているだろうか。都心を含めた関東甲信では雪が積もるかもしれないと、気象庁が警戒を呼びかけている。交通機関の乱れのおそれもある。気が気でないのは受験生たちだろう▼首都圏では中学受験の熱が高く、いまがピークだ。きのうの早朝は電車の中で、親子連れを何組も見かけた。やや緊張した面持ちの子。マフラーを巻き直してやったりと、何くれとなく世話をやく親。どちらも大変だ。私立大でも入試が始まっている▼週明け以降には、強い寒波がやってくる。暖かい格好で備え、受験会場までの道程では、凍った路面で転んだりせぬようにくれぐれもご注意を▼冒頭の詩は、初出時には100行を超える長い作品だった。そこに、若者へのこんなエールがある。〈歩け、歩け/どんなものが出て来ても乗り越して歩け/この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ〉。あすは立春。厳しい月日を越えた者に、きっと花は咲く。

引用されている光太郎詩代表作の一つ「道程」は、111年前の大正3年(1914)3月、雑誌『美の廃墟』に発表されました。その時点では102行の長大なものでした。それが同年10月、詩集『道程』に収められた際にバッサリとカットされ、現在流布している9行の形に。光太郎自身がお蔵入りにした初出形の方もなかなかに味わい深いものです。花巻高村光太郎記念館さんには映像と朗読で光太郎詩を紹介するブースがあり、そちらでベテラン声優の堀内賢雄さんによる朗読が聴けますが、「道程」初出形もラインナップに入っています。102行だけあって約7分にもわたります。

それにしても、謳われてから111年経っても我々の心の琴線にしっかり触れる点、やはり素晴らしいと思います。

続いて同日『産経新聞』さん。

印象派の「後」か「後期」か 日本語メモ

  令和5~6年に開かれた「モネ 連作の情景」展は、東京と大阪で計91万人を動員しました。モネやルノワールら印象派の人気は、彼らに続くゴッホやゴーギャンといった「後期印象派」とともに根強いようです。
 昨年、美術史家の高階秀爾さんが他界されました。高松宮殿下記念世界文化賞で選考委員長(絵画・彫刻部門)も務めた同氏は、「『後期印象派』は誤訳」という文章を残しています(朝日新聞夕刊、平成15年6月4日)。いわく「後期印象派」のもととなった英語「ポスト・インプレッショニズム」の「ポスト」は「以後」という意味だから、「後期印象派」は誤訳である。つまり「後期印象派」では「印象派の後期(後半)の画家」になってしまうのであり、正しくは「印象派の後の画家」である、というわけです。
 高階さんは、民芸研究家の柳宗悦が「後印象派」を雑誌『白樺』(明治45年1月号)で紹介したことに言及。「後印象派」は原語に忠実であるが、すわりが悪く、いつの間にか「後期印象派」という訳語が定着してしまったと書きます。ならば「後期印象派」の初出はいつでしょうか?
 調べてみると『後期印象派』(木村荘八、高村光太郎、岸田劉生・共著)という書籍が大正2年8月に発行されています。また、同5年9月には『立体派と後期印象派』が作家の久米正雄の翻訳で出ていました。久米はその序文で、木村荘八らの訳文を大いに参考にした旨を記しています。
 柳宗悦がせっかく「後印象派」と正しく訳したのに、いつの間にか定着してしまった「後期印象派」。「後」と「後期」、1文字で意味がまったく異なってしまう翻訳の怖さといったところでしょうか。ちなみに近年では「後期印象派」ではなく「ポスト印象派」と呼称するようです。

002言葉に関するコラムのようです。キーワードは「後期」。「『後期印象派』(木村荘八、高村光太郎、岸田劉生・共著)という書籍」は、正しくは雑誌『現代の洋画』第17号で、サブタイトルが「後期印象派」。『現代の洋画』は、明治末から大正にかけ、青年画家たちの活動を裏方として支援、我が国洋画界の発展に寄与し、ゴッホらを支えたペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれていた北山清太郎が主宰していました。

確かに現代の感覚で「後期」というと、「前期」「後期」あるいは「前期」「中期」「後期」と分けたうちの一つ、「後期印象派」と言ったら「印象派」の一部という感じです。

しかし「ポスト」にあたるうまい日本語が存在せず、北山や編集に当たった光太郎らは仕方なく「後期」の語をあてたのではないでしょうか。あるいは明治末から大正の段階で、「後期」の語の用法が現代と全く同一だったとも言いきれないような気もします。いずれにせよ現代でもうまい訳語がないので「ポスト印象派」としているわけで……。

最後に『日本教育新聞』さん、昨日の掲載記事です。

サトー先生の「きょういく日めくり」~きょうも楽しく学校へ行くために~【第19回】「いつの間にか」が名人ワザ

003 導入(ツカミ)はおもしろいけど授業始まったら睡眠タイム……新米教員時代のボクに、ぜひ見せてやりたかったなあ、E先生の名人ワザを。
 「プロ野球で二刀流と言えばだれかな?」『大谷!』「そのとおり。大谷選手の出身地はどこ?」『北海道や』『福島?』『岩手』「正解!」。
 思ったことを自由に言える雰囲気が教室にあった。
 「岩手県の花巻東高出身。彼のおねえさんと野球部のコーチがその後結婚して」
 マニアックな芸能ネタは、やがてご当地岩手県花巻の、わんこそばや満州ニララーメン(通称「マニラ」)などの麺類紹介へ。「先生それ全部食べたんか?」と思わず生徒が聞くほどの、リアルな食レポ情報がぽんぽん飛び出すうち、
 「……でもな、岩手でラーメン食べたら、そのあとぜひ、「元祖二刀流」のすごい人の家に行っといで。その人の名は、ジャジャーン。高村光太郎!」
 「タカムラ?」といぶかる生徒たちをものともせず、当時、日本を代表する彫刻家かつ詩人の、「元祖二刀流」偉人・高村光太郎について一気に解説。
 「でも、もともと光太郎は岩手の人じゃない。東京のど真ん中に住んでたのが、敗戦後、屋根まで雪に埋まる山の中へ逃げるように移り住んだ。自分で「小屋」とさげすむ小さな家。あっ、その家の写真、資料プリントにあるから見てよ。二刀流成功者の家やのに、なんとちっぽけな。実はこの人、戦時中に「戦争バンザイ」という詩をいっぱい書いてしまって……」
 大谷選手の話が高村光太郎に移り、やがて資料集や教科書の年表を駆使した従軍作家や戦争文学の話へと展開―繰り広げられる本格的「授業」!
 いつの間にか引きずり込むのが名人ワザ。導入「方法」を参観に行ったボクが、完全に授業「内容」に引き込まれ、ひとつカシコくなりました。
佐藤功(さとう・いさお。大阪大学人間科学研究科元教授)

当方も講演や市民講座のツカミで、大谷選手の二刀流から光太郎の二刀流へと振ることをよくやっています(笑)。日本中の学校さんでこういう授業が展開されてほしいものです。ただ、「元祖二刀流」は光太郎ではなく宮本武蔵ですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】004

人の来ない夜に書き、別封で同送しました。天といふ字はむつかしく、二十枚書いた中の四枚だけ選びました。


昭和26年(1951)8月11日 
草野心平宛書簡より 光太郎69歳

当会の祖・草野心平の詩集『天』が翌月刊行されましたが、その題字です。光太郎はこれ以外にも心平詩集の題字を多く手掛けましたが、心平自身はこの「天」の字が、最も気に入っていたようです。

「彫刻」「詩」の二刀流として語られることの多い光太郎ですが、「書」を入れて「三刀流」としてもいいくらいです。

「あじさい寺」として有名な北鎌倉明月院さん裏手(徒歩365歩)にあるカフェ兼ギャラリー笛さん。光太郎実妹・しづ(静子)令孫ご夫妻が営まれています。

毎年秋に、お近くにご在住の石黒敦彦氏(光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八令孫)と共に、両家に伝わる光太郎・喜八関連の品々を展示する「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情」を開催なさっています。昨年の様子はこちら

同様の展示を今年はこの時期にも開催。先週土曜から始まっているそうです。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 

期 日 : 2025年1月31日(金)~3月4日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

4月に発行される北川太一著「高村光太郎と尾崎喜八」を記念して100年のメモリアルを両家の孫の世代所有の資料で構成して展示
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石黒氏が編集なさり、当会顧問であらせられた北川太一先生が光太郎と喜八の関わりについて書かれた玉稿等を集めた『高村光太郎と尾崎喜八』という書籍が刊行されるとのことで、それを記念しての開催だそうです。「100年のメモリアル」というのは、北川先生がご存命であれば今年3月28日で満100歳になられるはずだったことに因みます。

展示風景、笛さんオーナー山端氏のフェイスブックからお借りしました。
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光太郎が尾崎夫妻の結婚祝いに贈ったブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)も展示されています。ミケランジェロの模刻で、他に鋳造されたことが確認出来ていない一点物です。ちなみに喜八の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の息女で、光太郎は我が子のようにかわいがっていました。

時間を見つけて行って参ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

赤城写生帖といふやうなもの、まるで忘れても居ましたし、思ひ出さうとしても思い出せません。しかし、小生のものらしく、それがどうして貴下のところにあるのか実に不思議に堪へません。卅七年といへば日露戦当時、小生が美術学校に居た頃と思ひますが、そんなものが出て来ると怖いやうな気がします。

昭和26年(1951)7月14日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

「赤城写生帖」は、明治37年(1904)、数え22歳で美校研究科在学中の光太郎が葉舟と共に滞在していた上州赤城山で描いたスケッチ帖です。原本は葉舟が保管、詩人の西山の手に渡りましたが、その後の行方が不明です。

光太郎没後の昭和31年(1956)、『智恵子抄』版元の龍星閣から猪谷六合雄解説で『赤城画帖』として刊行されました。猪谷は日本スキー界の草分けですが、光太郎等が宿泊した赤城の猪谷旅館の子息でした。
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オンラインでの講座を2件ご紹介します。

戦争とモダニズムの詩学 現代詩の源流と詩作のヒント

期 日 : 2025年2月8日(土)
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 一般3,850円
主 催 : 朝日カルチャーセンター新宿教室

 1920年代から30年代は、現代詩の源流ともいうべきモダニズム詩の時代。今から見ても斬新・お洒落で、胸を打つ作品が沢山生まれました。一方で、それは戦争はじめ動乱の時代、人間性が危機に直面する時代でした。様々な危機に直面して、詩人たちが思いを託したのが機械や動物など「人間ではないもの」のイメージです。
 こうした表象を探りつつ、近年話題となった左川ちかや、萩原恭次郎、高村光太郎その他の詩を探訪し、バラエティ豊かな作品から、詩を創作する際のヒントも提示します。
 Zoomウェビナーを使用したオンライン講座です。見逃し配信(1週間限定)はマイページにアップします。

講 師 : 鳥居万由実
 文学研究者、詩人、東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程修了。近著に『「人間ではないもの」とは誰か: 戦争とモダニズムの詩学』(2022年、青土社)。2008年、第一詩集『遠さについて』(ふらんす堂)により中原中也賞最終候補。他に、実験的散文集『07.03.15.00』(ふらんす堂、2015年)がある。
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講師の鳥居氏、紹介文にあるとおり青土社さんから『「人間ではないもの」とは誰か-戦争とモダニズムの詩学-』を刊行されています。同書ではまるまる一章費やして光太郎にも触れて下さいました。

もう1件。

心に響くオンライン朗読講座~基本スキル編~

期 日 : 2025年2月14日(金)・2月28日(金)・3月14日(金)
時 間 : 10:30~12:00
料 金 : 9,900円
主 催 : NHKカルチャー西宮ガーデンズ教室

声の響きや作品の息遣いを楽しみながら、朗読の世界に心を遊ばせてみましょう。伝わる声づくりから明瞭な発音、声の表現力の磨き方、朗読の基本をオンラインで受講していただけます。声と言葉の豊かさは心の豊かさ。人生をより豊かに、実りあるものにしてくれます。ぜひ、朗読にチャレンジしてみてください。

●1回目:ここちよく声を出すために 「あどけない話」高村光太郎等
 伸びやかな声のためのストレッチ、声を心を安定させる腹式呼吸、明瞭な発音の基本
●2回目:声の可能性にチャレンジ 「やまなし 五月」宮沢賢治
 ベストボイスを探す、苦手な発音を克服、声の5要素を深める
●3回目:声の表現力を広げる 「やまなし 十二月」宮沢賢治
 朗読の手順、作品の息遣いを伝える表現

講 師 : 川邊暁美(朗読家・神戸女学院大学非常勤講師)
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川邊氏は同様の講座で昨年1月11月にも講師を務められました。たびたび光太郎作品を取り上げて下さり、ありがたいかぎりです。

それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あの写真は今年撮影したものです。標柱再建に際して文字を書いてゐるところを偶然撮影されたものです。


昭和26年(1951)6月20日 矢沢高佳宛書簡より 光太郎69歳

「あの写真」は、『文藝春秋』第29巻第9号の巻頭グラビアページに載った田村茂の撮影になるもの。父・光雲の十三回忌を記念して、昭和21年(1941)に山小屋脇に栗の実を植え、建てた標柱が傷んだため、この年再建した際のものです。
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標柱は光太郎没後に石材にコピーされ、巨木に生長した栗の木の傍らに建てられました。現物は高村光太郎記念館さんで保存しています。

その後、残念ながら平成29年(2017)頃にこの栗の木が枯死してしまい、倒壊の危険があるということで、やむなく伐採されてしまいました。石の標柱は元の場所に現存しています。
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雑誌の新刊です。

『実践国語教育』2025年2/3月号

発行日 : 2025年3月1日(1月16日発売)
版 元 : 明治図書出版株式会社
定 価 : 960円(税込)

特集 学年末の「読むこと教材」単元計画バリエーション
 全学年総点検! 年度末の国語授業「やることリスト」
 小学校 学年末の「読むこと教材」単元計画バリエーション
 中学校 学年末の「読むこと(詩)教材」単元計画
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005小中学校教員向けの専門誌です。この時期に扱うべき教材として各学年の教科書に載っている作品の、さまざまな実践例の紹介がメインとなっています。

光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)も取り上げられています。東京書籍さん発行の現行の中学3年生用教科書『新しい国語』の最後のあたりに掲載があります。

広島の原爆投下の日を題材にした栗原貞子の詩「生ましめんかな」とセットで2時間扱い。兵庫県の公立中学校教諭の方の作成した実践例、計画案が載せられています。題して「詩から「死」の描き方を考える」。1時間目は「レモン哀歌」、2時間目に「生ましめんかな」。それぞれ伝統的な一斉授業の形態ではなく、グループ学習で、生徒たちが少人数で話しあいながら読みを深めていくという感じ。各グループで出た感想、意見等をワークシートに書き込んだり、あとでそれを共有しあったりという、生徒主体の活動が中心です。

生徒さんたちが実際に書き込みを行ったワークシートの例。
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出て来た意見等。なかなかに優秀な生徒さんたちのようですね。
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ここに到るまでの光太郎智恵子がどのような道程を歩んできたのか、また、智恵子死後の光太郎がどうなってゆくのか、そのあたりまではさすがに中学校の授業では詳細に掘りさげることは不可能でしょう。しかし、興味を持った生徒さんが、光太郎智恵子の世界に踏み込んでいけるような働きかけが、全国の学校さんで為されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

拙詩集のプリーはくだらんです。もつと若い人にやるべきだつたと思ひます。

昭和26年(1951)6月7日 川路柳虹宛書簡より 光太郎69歳

この年、前年に刊行された詩集『典型』が読売文学賞に選ばれたことに関します。「プリー」は「グランプリ(Grand Prix)」の「プリー」で「栄誉」の意。この場合は「受賞」ということでしょう。
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結局、賞金もほぼ全額、蟄居生活を送っていた旧太田村の山口小学校や青年団などに寄付してしまいます。

やはり年またぎの案件です。昨年12月30日(火)の『読売新聞』さんから。

[時代の証言者]キッチンから幸せ 平野レミ<23>神さまは靴のかかとに

  父は、私たちが結婚した時に「はいよ」と色紙を渡してくれました。そこには筆で父の詩が書いてありました。
   「風つよければ 神さまは 靴のかかとに  棲す み給う」
 父に「どんな意味?」と尋ねたけれど、「いいんだ、詩というものは自由に解釈をすればいいんだ」と、何も教えてくれませんでした。
 結婚してからも、私はしょっちゅう千葉の松戸の実家に帰ったり、父や母に我が家に来てもらったりして、子育てを助けてもらいました。
 父は息子たちをかわいがり、少し実家に帰らないと「寂しくて死んじゃうよ」と電話してくる。松戸の家は高台にあり、遠くからでも、家の前でステテコをはいて仁王立ちになって私たち家族を待つ父の姿が見えました。おんぶひもで長男の唱を背負ってあやす写真も残っています。
 父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。終戦日には「今後一体どうしたらいいかわからぬ」、私が結婚した72年の暮れには、私が幸せそうなので「今年はとにかくよかった よかった」と書いています。
 86年11月の朝に「今日は何かが起こるかもしれぬ」と筆で書き、その日に心筋 梗塞こうそく で入院します。いつもと違う何かを感じたのかもしれません。父は集中治療室から帰ってきても「詩を書くぞ」と、意識がはっきりしていたけれど、急変します。父の日記の最後は私が病室で「お父さん大好き、死んじゃだめ」と書きました。入院して1週間ほど、11月11日に86歳で亡くなりました。
 《平野威馬雄は、大杉栄や菊池寛、高村光太郎ら多くの作家・詩人たちと親交を結んだ。「フランス象徴詩の研究」といった学術書、戦中に薬に溺れた自伝「アウトロウ半歴史」、超常現象に関する「お化け博物館」「UFO入門」など多彩な本を残す》
 病室の父が「死んだら横浜の外人墓地がいいね」と言ったことがあります。「どうして?」と聞くと、「日本の墓は暗くて幽霊が出そうでおっかないや」。純日本風の暮らしが好きで、お化けの研究もしていたほどなのに。
 父は生まれが横浜で、祖父の兄で鉱山技師だったオアーガスタス・ブイの墓が外人墓地にあり、みんなで墓参りにも行ったことがあります。父の遺言と思い、横浜外人墓地に父の墓を作ることにしました。
 父が亡くなって、父にもらった色紙を読み返しました。私につらいことが強風のように襲いかかっても、神様がかかとを支えているから大丈夫。風に負けずに前に進め、いつも支えているというエール。父は神様と書きましたが、私にとって、かかとにいてくれたのは父でした。そんな感謝の思いを込め、父の墓に色紙の文字を彫りました。いまその墓には母も夫の和田(誠)さんも眠っています。
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料理研究家の平野レミさんによる連載。昨年11月から始まり、まだ続いているようです。この日はお父さまで詩人・仏文学者の平野威馬雄氏に関する内容。編集さんによる注で、威馬雄氏が光太郎と関わりがあったことに触れられました。
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記事にある威馬雄氏の自伝『アウトロウ半歴史』(昭和53年=1978 株式会社 話の特集)、だいぶ前に拝読しましたが、「高村光太郎の抒情詩的エピソード」という項を含み、興味深いものでした。
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威馬雄氏は、当会の祖・草野心平や尾崎喜八ほどには光太郎との縁は深くなかったのですが、わずかな僅かな関わり合いだったからこそ見せた一面があったように思われます。

時は太平洋戦争開戦前年の昭和15年(1940)、日中戦争は既に泥沼化していた時期ですし、日独伊三国同盟が締結される年です。防共協定は既に結ばれていました。

所は三河島のトンカツ屋「アメリカ屋」(のち「東方亭」)。光太郎戦前からの行きつけの店で、店主の細田藤明とは個人的にも懇意にしていました。細田の長女・明子は苦学の末、戦後に医師となり、光太郎は彼女をモデルに詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりもしています。

威馬雄氏も「アメリカ屋」常連の一人で、ここで光太郎と知り合い、駒込林町のアトリエ兼住居にも招かれたり、光太郎も威馬雄氏の家を訪ねたりしたとのこと。その中で、ドイツ軍によるパリ占拠に憤っていた光太郎の姿が描かれています。

「平野さん、この新聞見てごらんなさい。どうお考えになりますか?」と、ある夜、レインコートのポケットからしわくちゃになった新聞をとり出して、テーブルの上にひろげた高村さんの手は心もち顫えていた。
 それは、西部戦線ドイツ軍陣地で、タス特派員が発したリポートで、ドイツ軍の機動力は驚異的で、ヒトラーの軍はパリへ、ロンドンへと破竹の勢いで突進している……という意味の記事だった。
「とにかくナチは野蛮ですからね。私はとても心配なのです……パリが心配なのです……もし独軍にやられたら、ロダンもセザンヌも、ミレーも、いやルーブル美術館そのものが灰になってしまうのではなかろうか。あの美しいシャンゼリゼの並木、凱旋門……何もかもが、こうして眼をつぶっていると……みえてくるのです。ノートルダムの怪獣が苦悶の叫びをあげている……その声がきこえるようです……セイヌ河の波上……あの碧く澄んだ照り返しすら、血の色に染まってしまうのではないかとおもうと……」老詩人の眼はうるんでいた。
(略)
 それから数日後の夕方……高村さんはアメリカ屋でぼくを待っていた。その表情からはいつものにこやかな人なつこい微笑が消えて、妙にこわばった顔つきだった。
「大変なことになりました。ご存じでしょうが、とうとう……やっぱりわれわれの古里は野獣の手に落ちてしまったんです……」老詩人の眼は涙で一杯だった。
「これ見てください……もうお読みになったでしょうが……」と、又しても、しわくちゃな新聞を卓上に拡げた。
「仏国遂に独へ降伏――ペタン首相は十七日(昭和十五年六月十七日)ドイツに対し遂に降伏を申し出ると共に、フランス全軍に対し既に戦闘行為を停止すべき命令を発したる旨正式に発表した……」
 六月四日から本格的なフランス総攻撃を始めたドイツ軍は、十四日にはパリに入城したのだ。
「今ごろ、勝ち誇ったドイツ兵は、なだれを打ってパリに侵入しているでしょう。どんなに多くの芸術家たちの命が消されていることでしょう」高村さんはとても今日は一人でいるに耐えられない、と言った。そして、一緒にぜひうちに来てくれという。孤独な老詩人は、魂のよりどころともいうべき芸術の都パリを失った悲しみに、がまんできなかったのだろう。

光太郎、オフィシャルな場面では日本の同盟国・ドイツを非難する発言はしませんでした。さりとて擁護する発言もしていませんし、『高村光太郎全集』にはヒトラーの名は一回も出て来ず、注意深く言及を避けていたようにも思われます。仏文学者だった威馬雄氏が日米ハーフの、当時としては社会的弱者だったこともあり、本音の部分を吐露したというところでしょうか。

ところで、レミさんによれば「父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。」とのこと。昨年末に再放送された、レミさんの生涯を追ったNHKさんの「だから、私は平野レミ」(初回放映は昨年2月)でも、威馬雄氏の日記が取り上げられていました。おそらく光太郎の名もところどころに記されているのでしょう。ぜひ読みたいものだと思いました。なかなか難しいのかも知れませんが、公刊されることを望みます。

自伝『アウトロウ半歴史』には、光太郎以外にも多くの人物との交流の様子が描かれています。もちろん威馬雄氏のドラマチックな来し方も。
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古書市場等で入手可。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

お手伝の人を考へて下さつた事忝い事ですが、やはり一人で静養してゐた方が結局いいやうです。お手伝がゐると却つて身心を使ふやうになりますから。

昭和26年(1951)3月21日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

結核が昂進し、苦しんでいる光太郎に対し、心平が家政婦さんを雇ったら? 必要なら手配します的な申し出をしたようですが、断りました。1年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京し、さらに3年経った昭和30年(1955)になって、初めて自分では食事の支度などどうすることも出来なくなり、家政婦を雇います。

最近の地方紙さん2紙の一面コラムで光太郎に言及されたものを2件。偶然でしょうが、どちらも「光太郎」以外に「登山」もキーワードでした。まぁ、「光太郎」はそれぞれ枕ですが(笑)。

まず12月22日(日)、『信濃毎日新聞』さん。

斜面 安達太良山の教訓002

「東京に空が無い」と話す妻、智恵子の言葉をうたった高村光太郎の詩に、阿多多羅山(あたたらやま)という山が出てくる。その上に毎日出ている青い空こそが「ほんとの空」だと。福島県の中部にある標高約1700メートルの活火山安達太良山(あだたらやま)のことだ◆直近の噴火は1900年。火口付近の硫黄採掘所で働いていた60人以上が犠牲になった。最初の小噴火で親方の言うことを聞かずに逃げた少年1人が無事だったが、まだ大丈夫とみた親方の指示で他の人はとどまり、すぐ後の噴火で爆風に巻き込まれた◆木曽町で先月開かれた御嶽山噴火10年のシンポジウムで磐梯山噴火記念館の佐藤公(ひろし)館長が説明していた。1888年に起きた同じ福島の磐梯山噴火と違い安達太良山の犠牲者はほぼ地元以外の人たち。地域で慰霊の機会は少なく、災害の事実はいつしか忘れられていったという◆時を経て1997年、安達太良山で再び犠牲者が出る。登山グループの女性4人が火山ガスに襲われ、次々に中毒死した。気象台は当時、火山活動の活発化に注意を呼びかけていた。もし約100年前の教訓が浸透していたら別の展開もあっただろうか◆深田久弥は著書の「日本百名山」で1900年の噴火を振り返り、火口の印象を「悲惨な歴史は知らずげに、こっそり秘められた仙境といった感じ」と書いた。「あれから10年、40年…」。そんな災害関連報道を今年もよく目にした。節目は来年も訪れる。諦めず粘り強く、伝え続けたい。

自然災害の多い国です。今年も特に能登の皆さんは元日の大地震に、その後の豪雨にと、大変な年でした。火山噴火に伴う甚大な被害はなかったように思いますが、安心は出来ませんね。地震にしても雨にしても噴火にしても、被害が出ない程度の規模で少しずつエネルギーを分散して発生するということであればいいのでしょうが、こればかりは……というところです。

続いて『千葉日報』さん、一昨日の掲載分。

忙人寸語001

「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。大正、昭和に活躍した彫刻家で詩人の高村光太郎の代表作「道程」の一節。将来を切り開こうとする強い意志が感じられ、若き日に愛唱した方も多かろう▼気概はいつまでも大切にしたいものの、夏山登山では整備された登山道を歩くことが原則。貴重な植生を守り、道迷いや滑落による遭難防止につながる▼その登山道の維持には人の手が欠かせない。多くは山小屋や山岳団体の関係者が手弁当で担い、地元の自治体が維持費を工面しているケースもあるようだ▼「秩父三山」の一座、両神山(標高1723㍍)は日本百名山にも数えられ、鋸(のこぎり)歯のような山容が特徴。山頂近くの尾根にツツジの一種のアカヤシオが群生しており、春は山肌が桃色に染まる▼年間約3万人が訪れる人気山域の故に登山道は劣化し、台風による倒木や崩落箇所も増加。地元の小鹿野町は対策費を捻出すべくクラウドファンディング(CF)を開始。何度か歩いた経験がある身として、些少(さしょう)ながら寄付をさせていただいた▼県内で唯一「岳」の名を冠した伊予ヶ岳も南房総市が登山環境整備を掲げCFに挑戦。当初の目標額200万円を早々に達成、市は目標額を500万円に引き上げた。郷土の誇る低名山が安全に登山を楽しめる場所であってほしい。支援の広がりを願ってやまない。

千葉県民ですが、「伊予ヶ岳」は存じませんでした。「県内で唯一「岳」の名を冠した」だそうで。そもそも千葉県は県全体が東京スカイツリーより低い県(笑)。「岳」があるとは思ってもいませんでした。

伊予ヶ岳、埼玉の両神山、そういえば『信毎』さんで取り上げられた安達太良山でも登山道整備のためのCFが行われていました。自然災害の多い国ですが、それを補って余りある人々の支援の輪で、この国をよりよくしていけるような来年となることを期待します。

【折々のことば・光太郎】

御申越の原稿は暇があれば書かうと思ひますが今月中はとてもダメなのでもつとあとになるでせう、「彫刻になる顔」とでもするか、「山口淑子の首」とでも題しませうか、

昭和25年(1950)11月20日 藤島宇内宛書簡より 光太郎68歳

李香蘭こと故・山口淑子さん。光太郎は写真で見たそのお顔に、彫刻的興味を惹かれていたようです。山小屋を訪ねた藤島にもそういう話をし、藤島が当時務めていた新潮社の雑誌にそうした内容をエッセイで書いてくれ、と頼んだようです。しかし結局、彫刻もエッセイも実現しませんでした。

新刊です。

継続する植民地主義の思想史

発行日 : 2024年11月20日
著者等 : 中野敏男
版 元 : 青土社
定 価 : 3,600円+税

過去の歴史を引き受け、未来の歴史をつくりだすために
「戦後八〇年」を迎える現在、いまもなお植民地主義は継続している――。近代から戦前―戦後を結ぶ独自の思想史を描き、暴力の歴史を掘り起こす。日本と東アジアの現在地を問う著者の集大成。
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目次
 序章 継続する植民地主義を問題とする視角
  はじめに――植民地主義の継続という問題
  一 暴力の世紀――「冷戦」という語りが隠したもの
  二 「戦後」に継続する植民地主義――日本の暴力の世紀
  三 植民地主義の様態変化とそれを通した継続――思想史への問い
 第一部 植民地主義の総力戦体制と合理性/主体性―合理主義と主体形成の隘路
  第一章 植民地主義の変容と合理主義の行方―合理主義に拠る参与と抵抗の罠
   はじめに――システム合理性への志向と植民地主義の変容
   一 産業の合理化と植民地経済の計画――「満州国」という経験
   二 総力戦体制の合理的編成と革新官僚
   三 参与する合理的な社会科学
  第二章 植民地帝国の総力戦体制と主体性希求の隘路―三木清の弁証法と主体
   はじめに――植民地主義の総力戦体制と「転向」という思想問題
   一 方向転換と知識人の主体性
   二 有機体説批判と主体の弁証法
   三 ヒューマニズムから時務の論理へ
   四 帝国の主体というファンタジー
 第二部 詩人たちの戦時翼賛と戦後詩への継続
  第三章 近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程
   はじめに――近代詩人=高村光太郎の「暗愚」
   一 「自然」による救済の原構成――第一の危機と「智恵子」の聖化
   二 神話を要求するモダニティ――第二の危機と「日本」の聖化
   三 「暗愚」という悔恨とモダニズムの救済――第三の危機と「生命」の聖化
   小括

  第四章 戦後文化運動・サークル詩運動に継続する戦時経験―近藤東のモダニズム
   はじめに――継続する詩運動のリーダー近藤東の記憶
   一 戦後詩の場を開示する戦中詩
   二 「勤労詩」という愛国の形
   三 「戦後」への詩歌曲翼賛
   四 排除/隠蔽されていくもの
   小括
 第三部 「戦後言論」の生成と植民地主義の継続―岐路を精査する
  第五章 戦後言説空間の生成と封印される植民地支配の記憶
   はじめに――「国全体の価値の一八〇度転換」?
   一 敗戦国への「反省」、総力戦体制の遺産
   二 ポツダム宣言の条件と天皇制民主主義という思想
   三 「八月革命」という神話――構成された断絶
   四 加害の記憶の封印、民族の被害意識の再覚醒
   五 「自由なる主体」と「ドレイ」――主体と反主体
  第六章 戦後経済政策思想の合理主義と複合化する植民地主義
   はじめに――有沢広巳の戦後の始動
   一 「植民地帝国の敗戦後」という経済問題
   二 戦後経済政策の始動と自立経済への課題
   三 「もはや戦後ではない」という危機感とその解決――賠償特需
   四 「開発独裁」と連携する植民地主義
   五 技術革新の生産力と国際分業の植民地主義
   六 原子力という袋小路――植民地主義に依存する経済成長主義の帰結   
 第四部 戦後革命の挫折/「アジア」への視座の罠
  第七章 自閉していく戦後革命路線と植民地主義の忘却
   はじめに――日本共産党の「戦後」を総括すること
   一 金斗鎔の国際主義と日本共産党の責務
   二 戦後革命路線の生成と帝国主義・植民地主義との対決回避
   三 五五年の分かれ
   四 正当化された「被害」の立場/忘却される植民地主義
  第八章 「方法としてのアジア」の陥穽/主体を割るという対抗
   はじめに――「アジア」への関心へ
   一 「戦後」をいかに引きうけるか
   二 アジア主義という陥穽
   三 主体を割るという対抗
 第五部 植民地主義を超克する道への模索
  第九章 植民地主義を超克する民衆の出逢いを求めて
   はじめに――「反復帰」という思想経験に学ぶ
   一 「反復帰」という対決の形
   二 共生の可能性を求めて――「集団自決」の経験から
   三 植民地主義の記憶の分断に抗して――「重層する戦場と占領と復興」への視野
   四 民衆における異集団との接触の経験
   五 沖縄の移動と出会いの経験に別の可能性を見る
  結章
   一 合理性と主体性という罠
   二 植民地主義の様態変化と資本主義・社会主義の行方
   三 植民地主義の「継続」を問う意味。「小さな民」の視点
 あとがき
 文献目録
 索引


「文献目録」「索引」まで含めると500ページほどの労作です。

過日ご紹介した辻田真佐憲氏著『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』(中央公論新社)にしてもそうですが、来年で第二次大戦終結80年、ついでにいうなら昭和100年ということもあり、あの時代への考察が今後とも流行りとなるような気がします。

ただし、「あの時代」と区切ってしまうのではなく、戦後、そして現在へと継続して通底する何かが存在するわけで、本書ではそのうちタイトルにもある「植民地主義」にスポットをあてています。

一部の書き下ろし部分を除き、大半は90年代末から一昨年までのものの集成。したがって、現在も泥沼化しているウクライナ問題への言及はほぼありませんが、逆に忘れ去られかけている(しかし解決したとは言い難い)諸問題への言及も多く、いろいろ考えさせられます。

「第二部 詩人たちの戦時翼賛と戦後詩への継続」中の「第三章 近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程」30ページ超がまるっと光太郎がらみ。元は平成8年(1996)に柏書房さんから刊行された『ナショナリティの脱構築』という書籍に収められたものだそうですが、存じませんでした。

青年期に「根付の国」(明治44年=1911)などでさんざんに日本をこきおろしていた光太郎が、十五年戦争時には一転して翼賛に走ったことに対し、そこに到るまでをつぶさに辿りつつ、ある種の必然性を見出しています。ちち・光雲や妻・智恵子との生活史、そして精神史の変遷を抜きに語れない、そしてそれは「豹変」ではなかった、的な。この読み方には好感を覚えました。ある人間の、「それまで」をあまり考えず、「その時」だけに着目したところで、正しく考察出来るわけがありませんから。

そして戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活を、連作詩「暗愚小伝」を元に読み解き、さらに最晩年、開拓や原子力へ期待を寄せる詩文を書いていたことに触れ、それとて形を変えた「翼賛」だったと、かなり手厳しい評。曰く「「悔恨」の陥穽に落ちて総括されずに残った、戦中と戦後との連続の一例」。なるほど、そういわれても仕方がありません。しかし、「悔恨」すらしなかった多くの文学者、美術家たちと比較し、光太郎はとにもかくにも「悔恨」を形にした数少ない例であることは声を大にして言いたいところですが。

というわけで、ぜひお買い求めの上、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

このやうな記念碑が温泉に出来て、今日はその除幕式でした。秋晴れのいい天気で一ぱいやつてきました。


昭和25年(1950)10月8日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳
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「記念碑」はグループ企業としての花巻温泉社長だった故・金田一国士の業績を称える碑で、碑文の詩「金田一国士頌」を光太郎がこのために作りました。光太郎生前唯一の、オフィシャルな光太郎詩碑です。ただし、書は光太郎の筆跡ではなく金田一の腹心でもあった太田孝太郎の手になるもの。太田は盛岡銀行の常務などを務めるかたわら、書家としても活動していました。

下は除幕式の集合写真です。
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一昨日届きまして、半分ほど読んだところです。

ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く

発行日 : 2024年12月10日
著 者 : 辻田真佐憲
版 元 : 中央公論新社
定 価 : 2,400円+税

何がわれわれを煽情するのか? 北海道から沖縄までの日本各地、さらにアメリカ、インド、ドイツ、フィリピンなど各国に足を運び、徹底取材。歴史や文化が武器となり、記念碑や博物館が戦場となる――SNS時代の「新しい愛国」の正体に気鋭が迫る!
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目次
はじめに
【第一部】個人崇拝の最前線 偉大さを演出する
 第一章 トランプの本拠地に潜入する 米国/トランプタワー
 第二章 親日台湾の新たな「聖地」 台湾/紅毛港保安堂、桃園神社
 第三章 安倍晋三は神となった 長野県/安倍神像神社
 第四章 世界一の巨像を求めて インド/統一の像
 第五章 忘れられた連合艦隊司令長官 佐賀県/陶山神社、奥村五百子女史像
 第六章 「大逆」の汚名は消えない 山口県/向山文庫、伊藤公記念公園
【第二部】「われわれ」の系譜学 祖国を再発見する
 第七章 わが故郷の靖国神社 大阪府/伴林氏神社、教育塔
 第八章 消費される軍神たち 長崎県/橘神社、大分県/広瀬神社
 第九章 自衛隊資料館の苦悩 福岡県/久留米駐屯地広報資料館、山川招魂社
 第十章 「日の丸校長」の神武天皇像 高知県/旧繁藤小学校、横山隆一記念まんが館
 第十一章 旧皇居に泊まりに行く 奈良県/HOTEL賀名生旧皇居、吉水神社
 第十二章 「ナチス聖杯城」の真実 ドイツ/ヴェーヴェルスブルク城、ヘルマン記念碑
 第十三章 感動を呼び起こす星条旗 米国/マクヘンリー砦、星条旗の家
【第三部】燃え上がる国境地帯 敵を名指しする
 第十四章 祖国は敵を求めた ドイツ/ニーダーヴァルト記念碑
 第十五章 「保守の島」の運転手たち 沖縄県/尖閣神社、戦争マラリア慰霊碑
 第十六章 観光資源としての北方領土 北海道/根室市役所、納沙布岬
 第十七章 「歴史戦」の最前線へ 東京都/産業遺産情報センター、長崎県/軍艦島
 第十八章 差別的煽情の果てに 京都府/靖国寺、ウトロ平和記念館
 第十九章 竹島より熱心な「島内紛争」 島根県/隠岐諸島
 第二十章 エンタメ化する国境 インド/アタリ・ワガ国境、中国/丹東
【第四部】記念碑という戦場 永遠を希求する
 第二十一章 もうひとつの「八紘一宇の塔」 兵庫県/みどりの塔
 第二十二章 東の靖国、西の護国塔 静岡県/可睡齋
 第二十三章 よみがえった「一億の号泣」碑
 岩手県/鳥谷崎神社、福島県、高村智恵子記念館
 第二十四章 隠された郷土の偉人たち 秋田県/秋田県民歌碑、佐藤信淵顕彰碑
 第二十五章 コンクリートの軍人群像 愛知県/中之院、熊野宮新雅王御塋墓
 第二十六章 ムッソリーニの生家を訪ねて イタリア/プレダッピオ
 第二十七章 記念碑は呼吸している ベトナム/マケイン撃墜記念碑、大飢饉追悼碑
 第二十八章 けっして忘れたわけではない 
フィリピン/メモラーレ・マニラ1945、バンバン第二次大戦博物館
【第五部】熱狂と利害の狭間 自発的に国を愛する
 第二十九章 戦時下の温泉報国をたどる 
和歌山県/湯の峰温泉、奈良県/湯泉地温泉、入之波温泉
 第三十章  発泡スチロール製の神武天皇像 岡山県/高島行宮遺阯碑、神武天皇像
 第三十一章 軍隊を求める地方の声 新潟県/白壁兵舎広報史料館、高田駐屯地郷土記念館
 第三十二章 コスプレ乃木大将の軍事博物館 栃木県/戦争博物館、大丸温泉旅館
 第三十三章 「救国おかきや」の本物志向 兵庫県/皇三重塔、中嶋神社
 第三十四章 右翼民族派を駆り立てる歌 岐阜県/「青年日本の歌」史料館
 第三十五章 郷土史家と「萌えミリ」の威力 
熊本県/高木惣吉記念館、軽巡洋艦球磨記念館
総論
あとがき
地図
参考文献 

日本全国、そして海外のいわば「キナ臭い」場所を訪れてのレポートです。目次を見れば自ずと著者の辻田氏のスタンスは見えてくるでしょう。

さらに「まえがき」から。

 愛国的な物語や神話のたぐいは「つくられた伝統」だと批判され、ファクトにもとづかない俗説としてすぐに切って捨てられやすい。だが、歴史や社会はしばしばその俗説とされるものに動かされてきた。
 たとえば、神武天皇が唱えたとされる八紘一宇(はっこういちう)という理念は、歴史の専門家からは取るに足りないものと笑われるのかもしれない。だが、この理念ほど日本社会に影響を与えたものも少ないのであって、それにくらべれば最新の学説なるもののほうがかえって蜉蝣(かげろう)の命に過ぎない。
 そのため本書では、国威発揚にまつわるものごとを頭ごなしに否定しない。ただし、それを手放しで礼讃することもしない。言い換えれば、「二流」「三流」と見下される史跡にも真剣に向き合い、それを軽視することなく、と同時にそれに飲み込まれることなく、内部に取り込んでいく。こうした取り組みこそが、戦後八〇年と昭和一〇〇年の節目を迎えようとする今日、きわめて重要だと考えるからである。


また、ある章の末尾には、

 わたしはかつて『「戦前」の正体』という本のなかで、戦前の日本を六五点と評価したことがある。過去を採点するなどという傲慢な行為をあえてしたのは、ここで述べたような戦前と戦後の適切な接続を試みたかったからにほかならない。
 戦前の評価となると、ひとつの過ちも認めず一〇〇点満点をつけて恥じない右派と、完全に暗黒時代だと断じて〇点をつけて憚らない左派にわかれやすい。だが、欧米列強の侵略に対抗して、あの短期間で近代国家を築き上げた功績をまったく否定することはできない。かといって、その過程で問題行為がまったくなかったというのも無理があろう。そこで、反省すべきは反省し、継承すべきは継承するという是々非々の立場を取るべきということで、六五点という数字をつけたのである。

とあります。辻田氏のバランス感覚がよく表されています。六十五点には異論もありましょうが。

さて、われらが光太郎。「第二十三章 よみがえった「一億の号泣」碑」で、花巻市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社さんにある「一億の号泣」詩碑がメインで扱われています。「一億の号泣」は鳥谷崎神社で終戦の玉音放送を聴いた体験を描いた詩です。

この章、昨年発行された『文學界』2023年11月号に掲載の連載「煽情の考古学」の第二十二回「花巻に高村光太郎の戦争詩碑を訪ねる」に加筆したものでした。本書全体としては「煽情の考古学」プラス他誌に載った玉稿も取り入れられています。

目次にはありませんが、花巻郊外旧太田村の高村山荘(光太郎が七年間過ごした山小屋)、隣接する高村光太郎記念館さんもレポートされています。

そして、福島二本松の智恵子生家/智恵子記念館さん。直接的には戦争に関わる展示はありませんが、智恵子が遺した紙絵の中に、光太郎の父・光雲が原型を手がけた皇居前広場の楠木正成像をモチーフとした作品があり、「まるでその後の光太郎の歩む道を暗示しているかのようだった」。
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なるほど。

その光雲については、一つ前の章「第二十二章 東の靖国、西の護国塔 静岡県/可睡齋」で触れられています。日清戦争がらみで建てられた「活人剣の碑」についてです。

同碑に関してはこちら。
 光雲関連報道。
 光雲関連追補。
 「<活人剣の碑>来月完成 李鴻章と軍医、交友の証し 袋井」。
 活人剣の碑 紙芝居に 地元有志ら、小中学校へ贈呈 袋井 /静岡
 静岡袋井「YUKIKO展(可睡齋の「活人剣物語」と地域の昔話他)」。

それにしても、目次の通り北は北海道から南は沖縄まで、さらに海外と、こんなにたくさん廻ったのかと、脱帽です。まさに労作。それから、ルポに登場する人々。箱物であればその館長さんやらキュレーターさんやら、神社であれば宮司さん、タクシー運転手の方(地元民代表的な)等々。ほんとに世の中にはいろんな人がいるもんだと時に呆(あき)れたりもしました。

ところで今日は太平洋戦争開戦の日。辻田氏曰くの戦前と戦後の連続性、非連続性といった点、まだまだ検証が必要な事柄だと思いますし、今後もそれが変容していくまさにリアルな流れの中に我々が置かれているわけで、他人事ではありませんね。

というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

抽象美もさる事ながら、人間の具象に対する慾求本能は時代の如何に拘らず強大なものと存ぜられます、


昭和25年(1950)9月2日 西出大三宛書簡より 光太郎68歳

あくまで具象彫刻にこだわった光太郎ならではの言です。

だからといって、『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』でいくつも取り上げられている銅像など全てがいいものとは思えませんが。

『朝日新聞』さんでは一面トップでした。谷川俊太郎氏の訃報。
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共同通信さん配信記事から。

詩人の谷川俊太郎さん死去 「二十億光年の孤独」

013 親しみやすい言葉による詩や翻訳、エッセーで知られ、戦後日本を代表する詩人として海外でも評価された谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが13日午後、老衰のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男賢作(けんさく)さん。
 父は哲学者谷川徹三。10代で詩作を始め、1952年、20歳の時に第1詩集「二十億光年の孤独」でみずみずしい言語感覚を持つ戦後詩の新人として注目された。
 詩人の川崎洋さんと茨木のり子さんが創刊した詩誌「櫂」に参加。現代詩に限らず、絵本、翻訳、エッセー、童謡の歌詞、ドラマの脚本など半世紀以上にわたって活躍した。「朝のリレー」など国語教科書に採用された詩も多く、幅広い年代の人々に愛読された。
 他の詩集に「六十二のソネット」「ことばあそびうた」「定義」。歌詞に「鉄腕アトム」や「月火水木金土日の歌」など。
 翻訳作品は「マザー・グースのうた」の他、スヌーピーとチャーリー・ブラウンが人気の漫画「ピーナッツ」シリーズや絵本「スイミー」など。

光太郎から谷川氏宛の書簡が1通、確認出来ています。
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“62のソネツト”感謝、小生、まじめな人の詩に接するのは いつでも大きなよろこびであり、又それによつて勇気づけられます、 今少しからだを痛めてゐるので猶更よむのにいいです。

昭和28年(1953)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作のため中野に借りていた中西利雄アトリエから発信されたもので、氏の第二詩集『62のソネット』受贈礼状です。

この書簡、『高村光太郎全集』には洩れていたもので、『特装版現代史読本 谷川俊太郎のコスモロジー』(平成元年=1989 思潮社)中の「資料 2 献本のお礼状より2 『六十二のソネット』」に掲載されていました。
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その情報を得てこの書籍を入手、その後、この『62のソネット』が花巻に現存という情報もつかみました。

昭和46年(1971)に島根大学の広瀬朝光教授がまとめた、光太郎が蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)及び旧高村記念館所蔵の光太郎蔵書のリストに『62のソネット』が載っていました。谷川氏による「高村光太郎様 谷川俊太郎」の識語が書き込まれているとのことでした。さらに昭和27年(1952)の第一詩集『二十億光年の孤独』、同30年(1955)刊行の第三詩集『愛について』も同様に献呈署名が書かれたものがあったそうです。光太郎の遺品や蔵書類の多くは、光太郎没後に中野のアトリエから花巻に寄贈されました。その中にちゃんと残っていたのですね。

そこで、『62のソネット』以外の光太郎からの受贈礼状がお手許にないかどうか、谷川氏に問い合わせてみました。

すると、ほどなく氏から直筆のご返信。
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残念ながら他には無い、とのこと。しかし、一筆箋一枚の短いものですが、氏の直筆ということで「家宝」レベルです。

光太郎からの礼状は、平成28年(2016)に静岡三島の大岡信ことば館さんで開催された「谷川俊太郎展・本当の事を云おうか・」、同30年(2018)に東京オペラシティアートギャラリーさんでの「谷川俊太郎展 TANIKAWA Shuntaro」で展示され、それぞれ拝見して参りました。

この書簡を含め、『高村光太郎全集』には氏のお名前は出て来ませんが、お父さまの徹三氏と光太郎は宮澤賢治がらみで交流があり、徹三氏の名は2回出て来ます。

さて、各種メディアにいろいろ出た氏の訃報や追悼記事等の中で、『読売新聞』さんに出たものの中に、氏のお言葉で光太郎に触れたものが引用されていました。

「僕は今、死んでも宇宙のエネルギーと一体になれる」…谷川俊太郎さん92歳で死去

 戦後の日本の詩を牽引してきた谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが92歳で死去し、国内外の多くの読者の間で悲しみが広がっている。「二十億光年の孤独」や「朝のリレー」など、70年以上にわたって親しみやすく柔らかな作品を発表してきた。
  新潮社などによると、谷川さんは13日午後10時5分、老衰のため東京都内の病院で死去した。葬儀は近親者で済ませた。
 谷川さんは東京生まれ。1952年、20歳の時、詩集「二十億光年の孤独」を出版した。「二十億光年の孤独に/僕は思わずくしゃみをした」などのフレーズに代表される詩は、終戦の傷痕が残る時代に、宇宙的な感覚と生きる喜びを表現した作品として高く評価された。
 大岡信、茨木のり子らと詩誌「櫂」に参加。戦争の時代を踏まえた硬質な作品が目立つ戦後詩壇の中で、みずみずしい感性を持つ新しい世代の詩人として注目された。
 作詞や翻訳など様々な分野でも活躍。アニメ「鉄腕アトム」の主題歌の作詞を手がけ、犬のスヌーピーが登場する米国の人気漫画「ピーナッツ」シリーズの翻訳を続けた。「朝のリレー」の詩は国語教科書やテレビCMに採用された。
 93年「世間知ラズ」で第1回萩原朔太郎賞、2010年「トロムソコラージュ」で第1回鮎川信夫賞を受賞。世界20か国語以上に詩などが翻訳された功績がたたえられ、19年に国際交流基金賞が贈られた。
 詩人のねじめ正一さん(76)は「詩のグラウンドを広く使えた人で、谷川さんに袋小路はなかった。(戦争体験者を中心とした)『荒地』派が身構えながら硬質な言葉を繰り出したのに対して、柔らかく分かりやすい言葉で難しいことを伝えることができた人だった」としのんだ。

「詩を書くしか能がないんです」
 口にした言葉がそのまま、詩になる人だった。
 2019年11月に行われた国際交流基金賞の授賞式。車いすで記者会見の場に現れた谷川さんは、詩を70年書き続けた感想を聞かれ、「うんざりしてますけどね……。詩を書くしか能がないんです」と周囲を笑わせた。
 「僕は権威になるのが嫌。できれば道化役みたいになりたい」と穏やかに語り、「人間の成長を木の年輪にたとえると、中心に生まれた自分がいて、3歳、5歳と周りに年輪ができ、最後の年輪が今の自分。自分の中に常に幼児である自分もいる」。みずみずしい詩を生み続ける秘密を明かした。
  万有引力とは
  ひき合う孤独の力である
  宇宙はひずんでいる
  それ故みんなはもとめ合う
 「二十億光年の孤独」は1950年、18歳の若さで文芸誌に発表した。一人っ子で大切に育てられた幼年時代、軽井沢の別荘で見た満天の星などを想像させる。戦争の傷痕が残る時代、清新な詩は多くの人に受け入れられた。
 でも、谷川さんはどんな自分の言葉も勝手に心から離れ、詩になってしまう 哀かな しみを抱えた人のようにも見えた。
 <何ひとつ書く事はない(略)本当の事を 云い おうか/詩人のふりはしてるが/私は詩人ではない>。65年に発表した詩「鳥羽」の一節だ。詩人は言葉を超えた、本当の人の魂との触れ合いや 詩情ポエジー を求めてさまよった。家庭生活のうえでは3度の離婚を重ねた。「高村光太郎は智恵子を狂わせ、中原中也は女性トラブルを経験した。詩的な生き方を貫くと、世間とどうしてもぶつかってしまう」と言った。
 ひらがなの詩、定型詩、極端に短い詩。様々な技法を試した。本当の詩を探す旅を続け、90歳を超えておむつをつけるようになった自分もまた詩に詠んだ。
  これを身につけるのは
  九十年ぶりだから
  違和感があるかと思ったら
  かえってそこはかとない
  懐かしさが蘇ったのは意外だった (「これ」より)
 書いた詩は、発表しただけで2500編以上といわれる。「最近、宇宙は目に見えない、ビッグバンのエネルギーに満ちているように見えてきた。僕は今、死んでも宇宙のエネルギーと一体になれると思う」
 その詩は、日本語の夜空に永遠に瞬き続けるはずだ。

恋多き人だった氏の側面が見て取れますね。

他にも、光太郎と交流が深かった永瀬清子の顕彰にも関わられたり、当会の祖・草野心平の葬儀に際して弔辞として追悼詩を贈られたりと、いろいろご縁を感じる方でした。

ちなみに心平の追悼詩はこちら。

   ●(巨きなピリオド)003
 
 ミスタア・クサアノ
 本格的に
              ●
 始めたミスタア・クサアノ

 「文化なんてなくたっていいじゃないか」
 とあなたは言って

 富士山は今日も
 ギギギギギギギギ。
 ギッ。
 ただあるだけである。

 けれど蛙は鳴き続けています
 白いページの田んぼで
 おかげで意味ありげな奴らの
 うるさい喚き声を聞かずにすむ

 ありがとう心平さん
 笑顔ありがとう
 声ありがとう
 あなたという骨と肉ありがとう
 僕が女だったら
 きっと一度はひとつ寝床に入っていた
 無理矢理にでも

 かたむく天に。
 鉤の月。

 るるり。
 るるり。
   りりり。

 僕もいつか
 死んだら死んだで生きてゆきます。


        一九八八年十一月二十八日

最終連は、心平詩「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」中の「死んだら死んだで生きてゆくのだ」という一節へのオマージュです。その「いつか」がとうとう来てしまったんだなぁ、という感じです。

しかし、氏の肉体は「死んだ」としても、その精神や業績は、これからも多くの人々の中に「生きて」ゆくのだと思います。合掌。

【折々のことば・光太郎】

十二日に東京から早稲田大学の学生といはれる山本茂実氏外一名来訪、その時の話に、草野心平氏は受賞後急逝されたといはれたので、大いに驚き、どう思つていいのか迷つてゐたのでした。あまりハツキリ二人の人がいふので気味わろく思ひました、おハガキが届いて誤聞確認、大安心。


昭和25年(1950)6月17日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

早稲田大学の学生といはれる山本茂実氏」は、のちに「あゝ野麦峠」で有名になります。心平急逝と、とんでもないデマをもたらしたものですね。

まぁ、光太郎の死亡説もたびたび誤報として流れていたようですが。

中野区で開催、そして今日閉幕の、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」にスタッフとして毎日詰めておりまして、昨日は午前中の当番を終え、北鎌倉に向かいました。

光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫御夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんでの展示「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11」を拝観。

一昨年から関連行事として朗読会が催されるようになり、一昨年昨年はその日に合わせて伺っていたのですが、今年はアトリエ展の搬入・会場設営の日とかぶってしまい、その後もいろいろあって昨日になって漸くお邪魔した次第です。
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こちらに伝わる光太郎がらみの品々、そしてすぐお近くにお住まいの尾崎喜八令孫・石黒敦彦氏がお持ちの品々で、光太郎と尾崎喜八の一家との交流の様子などを展示。
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基本、カフェですので、同じ空間でお客さんが普通に珈琲を召し上がっています。
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そのかたわらにとんでもなく貴重なものが並んでいて、毎年のことながら不思議な感じです。

特に貴重なのが、光太郎ブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)。光太郎オリジナルではなく、ミケランジェロ作品の模刻ですが、おそらくこの一点しか鋳造されていませんし、石膏原型の現存が確認できていません。一点物です。尾崎夫妻の結婚祝いにと贈られた物。尾崎の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の息女でした。
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当初予定では11月26日(火)まででしたが、会場の都合により明日までに変更になってしまいました。その日程変更の件もご紹介が遅れまして、申し訳なく存じます。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

いい音楽が流れるなかで心ゆくばかり踊る法悦を小生も想像出来るやうな気がします、


昭和25年(1950)6月2日(日) 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

舞踊家の藤間節子(のち黛節子と改名)が、前年、帝国劇場で「智恵子抄」を含むリサイタルを開催、この年、再演が為されるということで、その報せに対する返信です。

9月末に刊行されたもの。どちらかというと小学生向けとして編まれた書籍なのでしょうが、豆知識満載で唸らされました。

日本のことばずかん いきもの

発行日 : 2024年9月27日
著者等 : 神永曉監修
版 元 : 講談社
定 価 : 2,500円+税

和歌や文学作品に登場する「いきもの」にまつわる美しい日本語に名画や浮世絵、美しい写真などが添えられた、子どものことばの力を育てるシリーズの6作目を刊行します。監修は国語辞典のレジェンド、37年間、辞書編集一筋の神永曉氏。

6作目のテーマは「いきもの」、つまり動物や鳥、虫にまつわる言葉。日本人がいきものを慈しみながら育んできた言葉の世界をその言葉のイメージをさらに広げる、絵画や写真など美しいビジュアルと合わせてご紹介することばのずかん。

言葉を獲得することは、表現する力を大きく広げることにもつながります。「そら」「いろ」「かず」「はな」「あじ」につづくシリーズ6作目。

目次
 この本の使い方
 きせつといきもの〈春〉 春駒001
 きせつといきもの〈夏〉 ほたるがり
 春のいきものをよんだ歌や俳句
 夏のいきものをよんだ俳句
 物語とねこ ねこかわいがり
 物語にえがかれたねこ
 いきものオノマトペ びょうびょう
 いきものの昔のオノマトペ
 なんの虫かな? 虫がつく漢字
 いきものの数え方 匹
 いきものを数えることば
 きせつといきもの〈秋〉 わたり鳥
 きせつといきもの〈冬〉 冬ごもり
 秋のいきものをよんだ歌や俳句
 冬のいきものをよんだ歌や俳句
 いきものの形やもよう くま手
 いきものの形やもように注目!
 想ぞうのいきもの しし
 想ぞうから生まれたいきもの
 いろいろないきものの話
  ねがいがこめられた十二支のいきもの
 鳥の別名 春告鳥
 身近な鳥のもうひとつの名前
 いきもののことわざ 井の中のかわず
 いきもののことわざ・慣用句

この本では、「いきもの」にかかわることばと、それにかんする写真や絵画を一〇〇いじょう、しょうかいしています」だそうで、オールカラー約50ページで、ぜいたくに美術作品や古典文学等の画像、四季折々の写真などを使いながら、さらに文学作品の一節等もふんだんに引用。そして古き良き美しき日本語の数々がしっかりと解説されています。

いきなり最初の方に、「きせつといきもの〈春〉 春駒」。光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)の一節が大きく使われています。11月13日(水)付けで版元の講談社さんサイトに出た花森リド氏のブックレビューでその件にふれられ、知った次第です。
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009「春駒」、一般的な国語辞典レベルでは見出し語として載っていませんが、さすがに『広辞苑』には項目が立てられていました。

詩「春駒」は①の意味でこの語を使っていますが、④のニュアンスも込められているかも知れません。親友だった水野葉舟が移り住んだ成田の三里塚御料牧場を訪れ、「春駒」の姿を見て書かれた詩であると同時に、新生活を始めた葉舟や自分の姿をそこに投影もしているかな、と。

それにしても『広辞苑』レベルの語をズドンと持ってくるあたり、小学生向けといいつつ、妥協しない姿勢が見て取れて好感が持てます。

他にも、各ページ、「へー」「なるほど」の連続でした。よくある早速明日、誰かに教えたくなるトリビア的豆知識のような。また、こういう美しい日本語を過去のものとして滅ぼしてはいかんな、とも思いました。

そして、先述の通り、ぜいたくに美術作品の画像が使われていますので、見ていて心安らぎます。

表紙からして伊藤若冲。本文中には小林清親、円山応挙、竹内栖鳳、狩野永徳、歌川芳虎、歌川広重、「鳥獣戯画」、そして東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生だった藤田嗣治など。
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いいですね、藤田の猫。

それ以外の箇所も、現在、空前の猫ブームだそうで、猫が目立ちます。
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ちなみにこれで6巻目となった「いきものずかん」シリーズとしての内容見本というか、フライヤーというかも挟まっていました。
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他の巻でも光太郎が扱われていたりするのでしょうか? 大きめの書店で調べてみます。

というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生のこの小屋の光線では三、四寸以上の大きさの彫刻を作ることは無理だと思ひます、それでもこの夏には蟬を一匹作るつもりでゐます、出来れば赤蛙も作りたいです、小鳥がいいのですがこれは中々つかまりません、東京ではいつも小鳥屋で求めましたが、ほんとは山の鳥の方がいいわけです、今はカツコオ、ホトトギスが来て鳴きます、カツコオには近寄れますが、ホトトギスには中々近寄れません、どちらも姿のいい鳥です、


昭和25年(1950)6月1日 奥平英雄宛書簡より 光太郎68歳

詩でもそうでしたが、光太郎、彫刻でもさまざまな「いきもの」をモチーフにしていました。「自然」の造型美ということに打たれていたのでしょう。

芸術の秋、ということなのでしょう。毎年のことですが、この時期は各種イベントが目白押しです。

今月末から来月頭にかけ全国で行われる演奏会等でも、光太郎智恵子にからむものを、昨日ご紹介した2件以外に5件ばかり把握しております。

さすがに5件一気にというわけには行きませんので、分割して。

まずは兵庫県西宮市から。

関西歌曲研究会 日本歌曲の流れ 第101回演奏会 シリーズ 詩人 ~うたびと~vol.1 詩(うた)はどこから来た?

期 日 : 2024年10月24日(木)
会 場 : 兵庫県立芸術文化センター神戸女学院小ホール 兵庫県西宮市高松町2-22
時 間 : 18:30~
料 金 : 全席自由 3,000円

出演・曲目(五十音順)
 声楽
  青木耕平  レモン哀歌  詩:高村光太郎 曲:別宮貞雄
  大岡美佐  はなのいろは    歌:小野小町 曲:山田耕筰
  尾崎比佐子 椰子の実   詩:島崎藤村 曲:大中寅二
  木寺聖子  日本の雨の歌 歌:詠み人知らず 曲:マルクス
  総毛創   秋の眸    詩:竹久夢二 曲:松下倫二
  松井るみ  「3つの日本の抒情詩」より 
歌:山部赤人/源当純 曲:ストラヴィンスキー
  矢野文香  もう一度の春 詩:ロセッティ 曲:木下牧子
  山本久代  花のゆくえ  詩:竹久夢二 曲:木下牧子
  吉岡仁美  ひさかたの  歌:紀友則 曲:伊能美智子
  吉永裕恵  わすれな草  詩:竹久夢二 曲:藤井清水   
 ピアノ
  丸山耕路

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昭和57年(1982)、故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」から「レモン哀歌」がプログラムに入っています。別宮氏の「歌曲集 智恵子抄」、息が長いというか、また最近になってけっこう取り上げられるようになった感があります。

もう1件、こちらは大阪から。

第15回サンセットファミリーコンサート 海辺の音楽会~あなたに贈る歌~

期 日 : 2024年10月27日(日)
会 場 : ATC海辺のステージ 大阪市住之江区南港北2丁目1-10
時 間 : 15:00~16:30
料 金 : 無料

◆プログラム◆
【第1部】相愛大学音楽学部 コーラスグループ「Lilla」によるステージ
 ・アラン・メンケン/映画「リトル・マーメイド」より"アンダー・ザ・シー"
 ・コブクロ/この地球の続きを
 ・ゴダイゴ/銀河鉄道999
 ・ミマス/COSMOS
 ・夏の歌・秋の歌メドレー
  「茶摘み~夏は来ぬ~我は海の子~旅愁~故郷の空~夕焼け小焼け」
 ・クロード=ミッシェル・シェーンベルク/ミュージカル「レ・ミゼラブル」より"民衆の歌"
  ほか
【第2部】相愛大学大学院音楽研究科生、音楽専攻科生による独唱
 ・A.ドヴォルザーク/歌劇《ルサルカ》より"月に寄せる歌"
 ・蒔田尚昊/高村光太郎 詩《智恵子抄》より「あどけない話」
 ・小林秀雄/日記帳
 ・G.F.ヘンデル/《イタリア語のデュエット集》より"夜明けに微笑むあの花を"HWV 192
 ・W.A.モーツァルト/アヴェ・ヴェルム・コルプス
  ほか
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蒔田尚昊氏作曲の歌曲集『智恵子抄』から「あどけない話」が取り上げられます。

ご出演の皆さんが相愛大学さんのご関係の方々。相愛大学さんといえば今年8月に大学近くの本願寺津村別院(北御堂)さんで開催された「北御堂コンサートvol.255〜ロマンの饗宴〜」でも、同曲が演奏されました。

その際に歌われた永山玲奈さんという方、今回のフライヤーにもお名前があり、その方の歌唱なのでしょう。

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おてがみやポスターなどいただきました、智恵子の切り抜き絵につき大変皆様のお世話さまになります事恐縮至極です、智恵子もあの頃、盛岡でこれらの作品が人々の目に触れやうとは思ひもかけなかつた事でせう、不思議な因縁だと思ひます、
昭和25年(1950)1月10日 黒須忠宛書簡より 光太郎68歳

前年の山形での開催に続き、この年は4月に盛岡の川徳画廊、5月には花巻の寿デパートで智恵子の紙絵の展覧会が開催されました。

盛岡展に関しては、黒須が勤務していた新岩手日報社の肝煎りでした。

昨日、当会刊行の冊子『光太郎資料』62集についてご紹介しました。

毎号、同時代人の光太郎訪問記や回想のうち、広く紹介されていないものを掲載するコーナーを設けていますが、今号では「木像生」という人物の書いた「都会情景 カフエー譚」(大正3年=1914 1月1日発行『朝鮮公論』第2巻第1号)を取り上げました。

明治末から大正初めにかけての、東京市内のカフェ事情をまとめたもので、光太郎の名と共に、さまざまなカフェが紹介されています。それと合わせ、実際に光太郎の詩文にそれらのカフェがどう描かれているか、『光太郎資料』では解説欄に記しました。

一部、骨子をご紹介します。

まず、明治44年(1911)に京橋日吉町(現・銀座八丁目)に上野の精養軒が開店した「カフェー・プランタン」。この年に発表された光太郎の短章連作詩「泥七宝」(『全集』第一巻)にその名が現れます。

 八重次の首はへちまにて
    小雛の唄は風鈴にて
 さてもよ、がちやがちやの虫の籠は
 「プランタン」てね、轡蟲の竹の籠
 

他にも「泥七宝」中にはその名は現れないものの、プランタンで書かれたものがあると、後年の光太郎が回想しています。「八重次、小雛は新橋の芸妓」の一節と共に。

続いて「カフェー・ライオン」。プランタンと同じく精養軒の経営で、やはり明治44年(1911)、銀座尾張町に開店し、こちらも光太郎詩、ずばり「カフェライオンにて」(大正2年=1913)に謳われています。

「都会情景 カフエー譚」に曰く「カフエー、ライオンは尾張町の電車交差点にある。三階は二百名ばかり居るカフエークラブ会員の遊ぶ処で二階は食堂、階下が賑やかなバーだ。此処でビールが一杯売れるとライオンの形をしたものがヌツと現はれてウヲ――と自働車のラッパの様な声を出す。即ちライオンといふ店の名がある所以だらう」。

さらに、光太郎も中心人物の一人だった芸術運動「パンの会」御用達の「メイゾン鴻の巣(鴻乃巣)」。鎧橋の袂に開店し、その後移転を重ねましたが、発祥の地には中央区教委さんによる案内板が立っています。

そして、浅草雷門の「よか楼」。

欧米留学から帰朝した翌年、明治43年(1910)に入れあげていた「モナ・リザ」こと吉原河内楼の娼妓・若太夫にふられた後、光太郎は今度は「よか楼」の女給・お梅に首ったけになります。お梅目当てで、一日に5回も「よか楼」に足を運んだことも。お梅が他の客の元に行っていて自分の方に来ないと癇癪を起こして暴れたり……(笑)。ほとんどストーカーですね。

そのお梅、若太夫以上に光太郎詩文にたくさん登場します。

わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ/辛き酒を再びわれにすすむる/マドモワゼル・ウメの瞳の深さ
(「食後の酒」 明治44年=1911)

「霧島つつじの真赤なかげに/サツポロの泡をみつむる/マドモワゼルもねむたし」
(「なまけもの」 同)

「マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り/白いナプキンにボルドオはしみ/夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ」
(「ビフテキの皿」 同)

「さう、さう/流行(はやり)の小唄をうたひながら/夕方、雷門のレストオランで/怖い女将(おかみ)の眼をぬすんで/待つてゐる、マドモワゼルが/待つてゐる、私を――」
(「あをい雨」明治45年=1912)

「真面目、不真面目、馬鹿、利口/THANK YOU VERY MUCH, VERY VERY MUCH,/お花さん、お梅さん、河内楼の若太夫さん/己を知るのは己ぎりだ」
(「狂者の詩」 大正元年=1912)

雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。」
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

「都会情景 カフエー譚」では、お梅は以下のように紹介されています。

又下膨れの丸顔で銀杏返しに結つて居る梅子(二〇)は『元禄梅子』と定連から呼ばれて居るが、此の女は多少文字の素養もあつて永井荷風の小説や晶子の歌集を始め、新らしい作家の著作は片つ端からドンドン渉猟して、衣裳は僅か小さな葛籠(つづら)一つしか持たない代りに書物ならば大葛籠三杯も持つて居るといふ風変りな女だ。そんな所から正宗白鳥、高村光太郎、前田木城、海野美盛、其他の文士画家連には随分肝膽相照して居る人が多い。竹子が踊や長唄を相応にやれる程に多芸ではないが、ハーモニカだけは袖の中から放したことはなく、竹子の歌ふ仏蘭西の国歌に合わせて之を吹くのが唯一つの芸である。

文学好きだったということは、光太郎等の回想にも書かれていましたが、より詳しく描かれています。さらに年齢。「都会情景 カフエー譚」が書かれた大正3年(1914)の時点で二十歳となっています。ということは、光太郎に尻を追いかけ回されていた明治44年(1911)にはまだ17かそこら。ただ、この業界の常で、さばを読んでいた可能性も大いにありますが。

そしてこんな記述も。

ヨカローは実に此の官能世界の一歩を約して思ひ切り繁昌して居るので。これは例の美人の首を利用した新聞広告のきゝ目であること勿論であるが、実際にも此処の女中は粒選りの代物が多い。

注目すべきは「例の美人の首を利用した新聞広告」。「例の」ということは、かなり有名だったと思われます。

光太郎の「ヒウザン会とパンの会」にも、

「よか楼」の女給には、お梅さんはじめ、お竹さん、お松さんお福さんなんてのがゐて、新聞に写真入りで広告してゐた。

とあり、松崎天民ら他の同時代人の回想等にも「よか楼」の新聞広告の件が語られています。

この広告、何としても実地に見てみたいものだと思っておりました。そこでまず活用したのが国会図書館さんのデジタルデータ。すると、まず新聞ではありませんが、『東京大正博覧会要覧』(大正3年=1914)に広告そのもの(左下)を発見しました。
東京大正博覧会要覧 19130815都新聞 案内広告百年史 東京日日新聞2
それから、戦後の書籍で、明治大正の広告事情を紹介したものの中に、『都新聞』(大正2年=1913、中央)と『東京日日新聞』(大正3年=1914、右上)に載った広告。

なるほど、女給たちの写真入りです。しかし、大正2、3年では、光太郎が通っていた明治44年(1911)より少し後なので、もしかするとお梅はもう居ないかも知れません。そこで「明治44年当時の広告はないか」。思い出したのが、「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」。武蔵野美術大学さんの前田恭二教授によって継続中の連載で、『読売新聞』さんの明治期からの過去記事データベース「ヨミダス」が活用されています。「もしかすると「ヨミダス」、広告も検索対象にしているんじゃないか?」と思ったわけです。

隣町の県立図書館さんの分館にダッシュ(笑)。閲覧用PCで「ヨミダス」を立ち上げて頂き、キーワード「よか楼」でポン。すると、ビンゴでした! 何度も広告が出ており、同一の写真を使ったものが多かったのですが、写真の種類で言うと5種類、見つかりました。
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古い順に、明治44年(1911)7月4日(左上)、同9月7日(右上)、同10月31日(左下)、明治45年(1912)3月6日(下中央)、同7月12日(右下)です。
y19111031-2 y19120306-2 y19120710-2
さらに他紙のデータベースも当たりました。『毎日新聞』さんの「毎索」ではヒットせず。しかし、『朝日新聞』さんの「クロスサーチ」では、「ヨミダス」以上の大漁。

明らかに『読売新聞』さんのものと同一の写真を除くと、8件。
2a19120128 2a19120317
2a19120515 2a19120713
2a19121209 2a19140307
2a19141020 2a19141103
左上から順に、明治45年(1912)1月28日、同3月17日、同5月15日、同7月13日、同じ1912年で改元後の大正元年12月9日、大正3年(1914)3月7日、同10月20日、同11月3日です。

お梅はナンバー2くらいだったようですので、上記画像の中にお梅がいるとみて間違いないでしょう。どれがお梅だかは特定できませんが。

お梅にぞっこんだった明治44年(1911)の暮、光太郎の前に智恵子が現れます。それまで素人女性には興味を抱かなかった光太郎、すぐに智恵子に鞍替えというわけではありませんが、ずっと智恵子は気になる存在として光太郎内部に居続け、しかし、こんな自分と一緒になっても苦労するだけだとか、自分に智恵子と添い遂げる資格があるのだろうかなどと悩みます。そのあたりの逡巡が翌年の詩「涙」「おそれ」などに謳われました。そういいつつ、その前に「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」(「人に」 のちに『智恵子抄』巻頭を飾りました)などとも語りかけ、ズルい奴です(笑)。

まあ、結局は大正元年(1912)、銚子犬吠埼に智恵子が光太郎を追ってやってきたことで、光太郎も覚悟を固めたのだと思います。そしてお梅との関係も解消。この前後でしょう。

お梅さんが朋輩と私の家へ押しかけて来た時、智恵子の電報が机の上にあつたので怒つて帰つたのが最後だつた。その頃、私の前に智恵子が出現して、私は急に浄化されたのである。お梅さんはある大学生と一緒になり、二年ほどして盲腸で死んだ。谷中の一乗寺にその墓があるが、今でも時々思ひ出してお詣りしてゐる。(「ヒウザン会とパンの会」)

お梅も可哀想な女性だったと思います。

ところで、お梅の前に入れ込んでいた吉原河内楼の若太夫についても、後日譚等わかってきましたので、いずれご紹介いたします。

追記 光太郎実弟・豊周著『光太郎回想』(昭和37年=1962 有信堂)にお梅の写真が載っていました。
お梅
【折々のことば・光太郎】

又いただいたカフエはまことに珍しく、此の山の中がまるでフランスのやうに感ぜられ、ここの森のたたずまひさへフオンテンブロオの森の心地いたします。
昭和24年(1949)11月23日 立花貞志宛書簡より 光太郎67歳

こちらの「カフエ」はコーヒーの意味ですね。

立花貞志は戦前に岩手県芸術協会の立ち上げに関わり、宮沢賢治と面識もあった人物で、この頃盛岡のサン書房という出版社に勤務していました。

ところで、コーヒーと言えば、コーヒーをメインにしていた「カフェ・パウリスタ」。「都会情景 カフエー譚」にも紹介されていますし、江口渙などの回想に依れば智恵子や青鞜社のメンバー等が通っていたそうですが、光太郎詩文にはその名が出て来ません。同時代人の回想でも光太郎がパウリスタに通っていたという記述は見当たりません。

ところが、ネット上では「高村光太郎も通っていたパウリスタ」的な記述が溢れています。老婆心ながら「違うよ」と言わせていただきます。全く行ったことがないというわけでもないのでしょうが、上記のさまざまなカフェは酒がメインで、パウリスタは後の純喫茶に近い形。光太郎のニーズとは少し異なっていたようです。

頼まれましたので、出演して参ります。

☆ポエトリーユニオン☆@浅草

期 日 : 2024年10月12日(土)
会 場 : 浅草の和モダン レンタルギャラリーブレーメンハウス 東京都台東区浅草1-37-7
時 間 : 14:00~
料 金 : 1,000円

浅草寺の近くのギャラリーで味わい深いオープンマイクをやります。

当イベントはオープンマイクです。1人の持ち時間8分。好きな絵について語った後、詩を1篇(時間内なら2篇OK)朗読して下さい。

会場1階は萩原哲夫氏の展覧会となっています。ご都合の良い方は早めにお越しいただき、鑑賞していただければ幸いです。

飲み物はペットボトル持参でゴミはお持ち帰りいただけますよう、お願い申し上げます。

『私達の日々は風景の連続ともいえるでしょう。
 美しい瞬間を画家が描いた風景の前に、人は立ちどまります。
 詩人の語る詩情にも絵はあります。
 朗読する詩人達の肉声を通してそれぞれの風景を想像して
 分かち合う午後のひと時をご一緒しましょう。』

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仕掛け人は連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの詩人・服部剛氏。この手のイベントをよく主催されているようです。

氏から「光太郎について語ってくれ」と言われ、お受けすることに致しました。他は現役の詩人の皆さんがマイクを握られるのでは、と思われます。

聴くだけでも可でしょうし、ぜひ語りたいという方もまだ受付中と思われます。上記フライヤー画像ご参照の上、お申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩を六篇自分勝手に選択して書きぬき、別封で送ります。多分明日二ツ堰の局までゆけるでせう。今日は暴風雨ですが。「続智恵子抄」ではあまり月並みと思ひ、「智恵子抄その後」としましたがおかしいでせうか。

昭和24年(1949)10月30日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎67歳

粕谷は編集者。連作詩「智恵子抄その後」6篇――「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」――は、翌年1月の『新女苑』に発表されました。

毎年恒例、北鎌倉での展示情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11

期 日 : 2024年10月8日(火)~11月26日(火)の火・金・土・日曜日
      追記:当初予定から変更で11月19日(火)までとなりました。
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 11月9日(土) 15:00~
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光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫御夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんでの展示。すぐ近くに住んでいて、光太郎と深い交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏のご協力もあり、光太郎と尾崎の交流(尾崎の妻は光太郎の親友・水野葉舟の娘の實子でした)を辿る展示が為されます。光太郎と尾崎それぞれの肉筆や写真、年によっては光太郎が尾崎の結婚祝いに贈ったブロンズの「聖母子像」(ミケランジェロ模刻)も。

一昨年からは関連行事として光太郎と尾崎の詩をとりあげる朗読会も催されています。当方、今年は「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品物をお貸しし、その搬入と会場設営の日に当たってしまいましたので欠礼いたしますが、展示の方は会期中に拝見に伺うつもりで居ります。

皆様も是非どうぞ。朗読者も募集中だそうです。奮ってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

何を表現しても芸術そのものは健康であるべきです。

昭和24年(1949)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

光太郎、造型にしても文筆にしても、病的な表現は嫌いました。若い頃には彫刻で「妖気」のようなものを表そうとしたこともありましたが、のちにそういうやり口は誤りだったと否定しました。

「山の詩人」といわれた尾崎にもそういう精神は通底していて、それだけに二人が結びついたのだと思われます。

昨日は日帰りで兵庫県たつの市に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

そもそもは、同市の霞城館さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」に、光太郎から三木露風宛の書簡が出ているという情報を得たためで、そちらの拝見がメインでした。同市は露風の故郷です。

千葉の自宅兼事務所から同市までどう行くか。初め、自宅兼事務所から車で1時間弱の茨城空港から神戸に飛んで……と考えました。一昨年、神戸市に行った際にはそうしましたので。ところが、その折は早めに航空券を予約したので安かったのですが、今回、間際になって行くことを決めたため、それだと馬鹿高い料金。その上、神戸空港からたつの市までのアクセスも調べてみると意外と不便でした。乗りかえ、乗りかえで2時間弱。そこで千葉から鉄道で行くことにしました。

最寄り駅から4:50の始発に乗り、9:45に山陽新幹線の姫路駅に到着。同駅から見えた世界遺産姫路城。
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ここからJR姫新線に乗り、本竜野駅まで。露風の故郷とあって、いきなりホームに「赤とんぼ」像。「駅のホームに作るか、すごいな」でした。
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同様の像は駅前にもありましたし、ちょっと歩くと側溝の蓋が赤とんぼデザインになっている場所も。愛されていますね(笑)。
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炎天下を1㌔ほど歩き、霞城館・矢野勘治記念館さんに到着(途中、寄り道もしたのですが、そのあたりは明日)。
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拝観料200円(安!)を払って、早速、拝見。
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撮影禁止という表示が見あたりませんでしたので、撮らせていただきました。こんな感じで、各界から露風宛の絵葉書が並んでいます。

光太郎からのもの。『高村光太郎全集』には洩れているものです。
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歌人の西村陽吉との連名です。
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まずその点が意外でした。西村は光太郎も寄稿したり表紙画を描いたり装幀したりした雑誌『朱欒』や『創作』等の版元、東雲堂の養子に入った人物なので、光太郎と交流があったことは推測されますが、『高村光太郎全集』にはその名が出て来ません。一緒に旅をする程の仲だったのか、と、意外でした。

また、旅先が埼玉の山間部、飯能や名栗。日付が大正4年(1915)7月19日となっています。この時期に光太郎が埼玉に行っていたというのもこれまでの年譜に記されていませんし、光太郎、埼玉は普段通過するばかりで、目的地だったことは他に一度もありません(まぁ、別に埼玉を忌避していたわけでもなく、特に用事がなかったということなのでしょうが)。そこにきて埼玉の地名が出てきたので実に意外でした。

一瞬、大正でなく昭和4年(1929)かな、と思いました。この年にはお隣の群馬県の温泉地をほうぼう歩いていましたし。また、貼られている一銭五厘の切手は、大正4年(1915)でも昭和4年(1929)でも共通ですので(細かく見れば違うらしいのですが、ぱっと見の判断は当方には出来ません)。しかし、絵葉書の様式(差出面の通信欄の面積)を見れば大まかな時期が判別でき、昭和4年ではありえません。

光太郎からのものはこの一通のみでしたが、他の人物からのものがずらり。やはりメインは「赤とんぼ」などで黄金コンビを組んだ山田耕筰からの来翰でしたが。
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北原白秋やら坂本繁二郎やら、その他、窪田空穂、小山内薫、前田夕暮、石井漠、堀口大学などなど、かなり光太郎の人脈ともかぶっています。
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展示されているのがすべて大正期の絵葉書です。露風が送られてきた絵葉書だけを貼り付けたアルバムを作っていたためです。この頃はまだ絵葉書というのがある意味珍しかったというのもあったでしょうし、それらを集めておいて見返し、自分もその土地に行った気分を味わっていたのかも知れません。「なるほどね」という感じでした。

他の展示も見学。露風のコーナーではやはり「赤とんぼ」。
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光太郎装幀の露風詩集『廃園』重版もありました。
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さらに同じ敷地内には矢野勘治記念館さん。矢野は正岡子規に師事した人物で、本業は実業家でしたが、旧制一高の寮歌「嗚呼(ああ)玉杯に花うけて」を作詞したことで有名です。

周辺には露風の生家や、露風が買い物をしたであろう店などが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定された古い街並みが広がっています。そのあたりは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

いまパウロの事をまざまざとおもひ、考へてまことにつよい反省に心が裸にされたやうに感じて居ります。小生は美の使徒として生きてをりますがパウロに向ふと甚だまぶしくて殆ど直視できない程に感じます。


昭和24年(1949)3月6日 田口弘宛書簡より 光太郎67歳

故・田口弘氏は埼玉県東松山市の教育長を永らく務められました。戦時中から光太郎と交流があり、光太郎はこの時には敬虔なクリスチャンだった氏に、子息の誕生祝いとして聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」を揮毫して贈りました。その送り状の一節です。
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この書、当方は氏のご生前に埼玉のご自宅で拝見、令和3年(2021)に富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際には「ぜひともこれもラインナップに入れて下さい」とお願いして展示していただきました。現在、精密複製が埼玉県東松山市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」に展示されています。

光太郎自身は洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、自らを「美の使徒」と位置づけていたというのは興味深いところです。

会期あと僅かですが『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎書簡が出ています。

三木露風と交流のあった人々

期 日 : 2024年7月13日(土)~9月1日(日)
会 場 : 霞城館・矢野勘治記念館 兵庫県たつの市龍野町上霞城30-3
時 間 : 9時30分~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般:200円/小~大学生・65歳以上:100円

 本年は、三木露風が亡くなってから60年にあたります。これを記念して、霞城館では、企画展「三木露風と交流のあった人々」を開催します。
 本展では、当館が所蔵する露風宛ての葉書をおさめたアルバム(2冊)の中から、露風と交流の深かった人物の葉書を紹介します。皆様のご来館をお待ちしております。
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公式情報に光太郎の名がなかったので気づかないで居たのですが、兵庫の地方紙『赤穂民報』さんに紹介記事が出(赤穂出身の俳優・河原侃二からの葉書が出ているという内容がメイン)、その中で河原以外に「同館が所蔵する露風宛ての絵はがき約240通の中から一部を紹介。「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰、劇作家の小山内薫、詩人の高村光太郎、露風が作詞した赤穂小学校の校歌を作曲した近衛秀麿などが差し出したはがきが並ぶ」と記述がありました。

『高村光太郎全集』には、光太郎から露風宛書簡は一通のみ掲載されています。明治42年(1909)12月11日付けで内容は以下の通り。

拝啓
 いつぞやは珈琲店にて御目にかかり愉快に存じ候。其後御無沙汰いたし居り候処二三日前水野君より『廃園』相届き、見れば貴下の御贈り下されたるもの、誠になつかしくありがたく存じ上げ候。『廃園』の中の詩は、小生かの地に居りし間のもの多くみなはじめて味ふことに御座候。小生は常に貴下の詩を尊重する事深きものに候へば、この『廃園』一篇の小生に与へたる喜びは一方ならぬことに御座候。序に申上候へ共、正月の『スバル』の裏絵に貴下の『カリカチユウル』を北原君のと共に出し候へば、何とぞ悪しからず思召被下度幾重にも願上候。
 右とりあへず御礼まで、余は又御目にかゝり候時にゆづり申候。
   十二月十一日夜                          高村光太郎  
 三木露風様梧下


水野君」は親友の水野葉舟、「かの地に居りし間」は欧米留学中。

露風の詩集『廃園』は明治42年(1909)9月に刊行されました。翌年には重版が出、そちらは光太郎が装幀を担当しました。上記書簡もこの重版に掲載されたものです。
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『スバル』の裏絵」は右上画像。右が露風、左が白秋です。光太郎、同じシリーズでは与謝野晶子(左下)や森鷗外(右下)らをおちょくった絵も描いています。
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現代ですと炎上案件ですが(笑)。

今回展示されているのは露風宛の諸家の葉書。上記露風宛光太郎書簡、『高村光太郎全集』には封書とも葉書とも書かれていませんが葉書にしては長い内容です。おそらく上記書簡とは別物だろうと思い、 霞城館・矢野勘治記念館問い合わせたところ、ビンゴでした。大正4年(1915)7月の絵葉書だそうで、もろに『高村光太郎全集』に漏れているものです。

同館、光太郎に関わる展示も常設で為されているという情報を以前に得、一度行ってみたいと思っていましたし、この際ですので今週末に伺うことに致しました。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】005

新年に定本「蛙」が大地書房から届きました。いやみのない装幀に出来たと思ひました。此の詩集は今よんでもいいです。擬音なども此の位真正面からゆくと一つの独立価値を持つて来ます。此の詩集はたしかに日本語の範囲をひろめました。

昭和24年(1949)1月6日 
草野心平宛書簡より 光太郎67歳

心平詩集『定本 蛙』の装幀も『廃園』重版同様に光太郎です。装幀の仕事も明治末から最晩年に至るまで、断続的に行い続けました。

今月初めの『朝日新聞』さん岩手版から。光太郎と交流の深かった日中ハーフの詩人・黄瀛に関して。光太郎にも言及されています。

(賢治を語る)中国籍の詩友、数奇な人生 宮沢賢治学会前副代表理事・佐藤竜一さん/岩手県

 北東北の詩人・宮沢賢治の友人に、黄瀛(こうえい)(1906~2005)という詩人がいた。中国人を父に、日本人を母に持つ黄は、日本語で詩を書き、名声を得た後、国民党の将校として中国共産党の捕虜になったり、文化大革命で獄中生活を送ったりした。黄が歩んだ数奇な人生について、書籍「宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯」の著者で、宮沢賢治学会前副代表理事の佐藤竜一さん(66)に聞いた。
《黄の生い立ちは?》
 1906年、中国・重慶で生まれました。父は黄澤民(たくみん)、母は千葉出身の太田喜智(きち)。喜智は小学校を2回飛び級するほど優秀で、東京女子高等師範学校を卒業後、日清交換教員として重慶に赴任し、澤民と結婚します。
 澤民は黄が3歳の時に亡くなったため、喜智はしばらく中国を転々とした後、黄が8歳の時に千葉県に戻ります。
《詩作を始めたのは?》
 黄は中国籍のため地元の中学校に進学できず、東京の中学に通います。喜智も中国籍のため小学校教師の職を追われ、中国の天津に渡って石炭販売業を営みながら、日本の黄に送金します。
 23年、日本では大きな転機となる関東大震災が起きます。東京の中学の授業がストップしたため、黄は青島の日本中学に編入します。
 そこで高村光太郎の「道程」などを読み、詩作に励み始めます。25年には新潮社が発行する詩誌「日本詩人」の第1席に選ばれ、詩人としての名声を得ます。
 青島の日本中学を卒業後、帰国して文化学院に入学し、草野心平と交友を深めます。黄と心平は度々、光太郎のアトリエを訪れます。
《賢治との出会いは?》
 24年に賢治が詩集「春と修羅」を出版すると、心平は賢治の才能に驚き、心平が創刊し、黄も同人となっている詩誌「銅鑼(どら)」に参加しないかと誘います。賢治は快諾し、「銅鑼」に「永訣(えいけつ)の朝」を発表します。
 黄は文化学院を中退後、陸軍士官学校に入学。29年、卒業直前に行った北海道旅行の帰りに花巻に立ち寄ります。賢治は病床にありましたが、1時間ほど会話を交わしたようです。冗談好きの賢治は「お会いできて、コウエイ(光栄)です」と出迎えました。
《その後の黄の人生は?》
 黄は37年に日中戦争が起こると、日本との関係を絶ち、中国大陸で国民党の将校としての道を歩みます。しかし49年、国共内戦で中国共産党に捕らえられ、重労働を課せられて獄中へ。66年の文化大革命では日本との関係がただされ、再び獄中へと送られます。
 合計で20年もの獄中生活を体験した黄に光が当たったのは78年。重慶の四川外語学院で日本文学を教える職に就いてからです。教壇に立った黄が真っ先に取り上げたのが賢治でした。黄の教え子からはその後、中国で賢治作品を広める多くの研究者が生まれています。
 私は92年、重慶で黄に初めて面会しましたが、政治に触れる話を避けたいという気持が伝わってきました。「今も詩を書いていますか」と聞くと、「書いていません。自分の存在自体が詩でありたい」と答えました。
 黄は96年、賢治生誕100年を記念して67年ぶりに花巻を訪れ、「皆さんの力で賢治はいよいよ世界的になるところです」と語っています。


最初に紹介されている佐藤氏御著書『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』についてはこちら

今回の記事では紙幅の都合上、細かなところは語られていませんが、紹介されているエピソードだけでも黄の「数奇な人生」ぶりが分かりますね。

光太郎は黄の才能を高く評価、大正14年(1925)のアンケート「十四年度作品批評」では、真っ先に「知人のせゐか黄瀛君にひどく嘱望してゐます」とし、さらに昭和9年(1934)に刊行された黄の詩集『瑞枝』には序文を寄せました。

また、黄をモデルに彫刻も制作。
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ただ、おそらく戦災で焼けてしまったと考えられ、現存が確認できていません。

この彫刻を作っていた大正14年(1925)、黄が中国で知り合った心平を光太郎に紹介しました。そして翌年には黄や光太郎と共に心平の『銅鑼』同人でもあった賢治が光太郎のアトリエを訪問します。二人の天才、生涯ただ一度の出会いでした。さらに記事に有る通り、昭和4年(1929)の黄と賢治の会談。

そう考えると黄はいろいろなところでのキーパーソンですね。昨日触れた画家の柳敬助同様、もっともっと知られていていい存在と思われます。

最後の黄の言葉「自分の存在自体が詩でありたい」は、賢治、心平、そして光太郎にも共通する考えだったようにも思えますね。

【折々のことば・光太郎】

御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中でよみました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持がよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感嘆には十二分に共鳴を感じます。まだきつと読みかへすでせう。これは記録としても貴重な文献です。


昭和23年(1948)12月10日 小倉豊文宛書簡より 光太郎66歳

『絶後の記録』は、賢治研究家としても有名な小倉が自身の広島での被爆体験を綴ったルポです。翌年には海外輸出版が刊行され、そちらには光太郎が序文を寄せました。現在も流通している中公文庫版にはこれが転用されています。原爆の惨状が一般にはあまり知られていなかったこの時期、光太郎は書かれている内容に瞠目したようです。

また、改めてこの愚かな戦争に加担していたことへの自己嫌悪をももたらしたのではないかとも考えられます。

昨日は広島、明後日は長崎の原爆の日、来週には終戦の日。いろいろ考えさせられます。

昭和6年(1931)8月から9月にかけ、光太郎が新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために三陸海岸一帯を船で訪れたことを記念して行われている「女川光太郎祭」。昨年、コロナ禍明けで4年ぶりに通常開催され、今年も行われます。

女川光太郎祭

期 日 : 2024年8月9日(金)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料

詳しい文書等来ていないのですが、ほぼほぼ例年通りという連絡が入っておりまして、概ね下記のような流れでしょう。多少の順番の変更等はあるかも知れません。

10:00~ 高村光太郎文学碑へ献花
14:00~ 式典等
 黙祷
 第33回記念講演 「智恵子、その生涯」 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 ご挨拶 女川光太郎の会
 献花の模様動画投影
 光太郎紀行文・詩の朗読 町内外の皆さん
 祝辞
 アトラクション演奏

18:00頃~
 懇親会

午前中には、平成23年(2011)の東日本大震災の際に津波で倒壊し、令和2年(2020)に復旧された光太郎文学碑(津波でなくなった貝(佐々木)廣氏が平成のはじめに建立に奔走)への献花。おそらく当方も関係者代表の一人としてでやらせていただきます。午後の式典の中でその模様の動画を投影するはずです。
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震災前は式典が碑の前で行われており碑に直接献花、震災後しばらくはかつての健在だった頃の碑の写真に会場内で献花していましたが、昨年から上記のような流れになりました。

式典では、亡き北川太一先生のあとを受けまして、当方、毎年記念講演をさせていただいております。昨年までは光太郎の生涯を時期に分けて紹介して参りました。智恵子の生き様についても聴いてみたいという要望が昨年寄せられ、今年は「智恵子、その生涯」と題してやらせていただきます。
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その後、町内外の方々による光太郎詩文の朗読。おそらくギタリスト・宮川菊佳氏の伴奏に乗せて行われます。

昨年の模様。
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さらに宮川氏、それからオペラ歌手の本宮寛子氏のアトラクション的演奏。本宮氏は平成3年(1991)、女川町で「オペラ智恵子抄」(山本鉱太郎氏脚本、仙道作三氏作曲)が上演された際に智恵子役を演じられ、それ以来女川町に通い続けていらっしゃいます。

終了後は会場近くの町中華さんで懇親会。年に一度お会いする方々が多く、当方としては今から楽しみです。

ご都合のつく方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生も仕事は七十歳からと信念致しまして、目下心身の涵養につとめて居ります。

昭和23年(1948)10月21日 宮崎仁十郎宛書簡より光太郎66歳

仕事」は彫刻。花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らしの中で、発表する作品としての彫刻制作は完全に封印したことが語られています。少し前までは今年こそ少しずつやります、的な感じだったのですが。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で行われた市長さんの定例記者会見の中で、下記の件が発表されました。

令和6年7月 定例記者会見 No6 高村光太郎 歌人中原綾子宛ての手紙等が寄贈されました

 高村光太郎が歌人中原綾子宛てに書いた、はがきや手紙など64点について、高村光太郎記念館に寄贈の申し込みがありました。

■寄贈資料と点数[]
 高村光太郎から中原綾子宛て
  はがき 41点
  封筒入り書簡 20点
  電報 1点
  封筒 1点
  その他封筒 1点
  合計 64点

寄贈者と寄贈の経緯
■寄贈者
 中原毬也(まりや)氏 米国カリフォルニア州在住
■寄贈の経緯
 中原毬也氏は歌人中原綾子の孫。毬也氏が保管している祖母(中原綾子)あて高村光太郎の書簡等について散逸しないように保存してほしいとの意向があることについて、毬也氏の親戚の方から市に連絡があったものです。
 毬也氏は、5月18日に高村光太郎記念館を訪問され、記念館と高村山荘をご覧いただいた際に当該資料をお持ちになり寄贈の申し出をいただきました。
■中原綾子について
 中原綾子(明治31(1898)年~昭和44(1969)年)は与謝野晶子(明治11(1878)年~昭和17(1942)年)門下の歌人で文芸誌『明星』の同人。高村光太郎(明治16(1883)年~昭和31(1956)年)も『明星』の主要な寄稿者であり、綾子氏と親交がありました。後に綾子氏が主宰した雑誌『スバル』などに光太郎は寄稿しており、今回寄贈された手紙にもその原稿が見られます。旧姓は曾我綾子であり、結婚により中原姓や小野姓を名乗る時期があります。

寄贈資料の特徴と今後の予定
 今回寄贈された資料には高村光太郎が疎開していた宮澤清六宅から出した手紙や、太田山口から郵送した原稿・手紙など、花巻市内に居住していた時に書いた手紙があります。既に『高村光太郎全集』において紹介されている資料がほとんどですが、光太郎の筆跡がわかる資料としてまとまったものであり、非常に貴重なものと考えています。今後専門家にも見ていただき、資料を整理した後、高村光太郎記念館で展示をしていきたいと考えています。

中原綾子はプレスリリースにある通り、与謝野晶子門下の歌人です。同門ともいうべき光太郎とは早くから交流があり、自らの歌集等の題字や序文などを書いてもらった他、主宰していた雑誌『いづかし』『スバル』等に繰り返し寄稿や装幀を仰ぎました。

昭和10年(1935)刊行の『悪魔の貞操』。表紙と扉に光太郎の書いた題字が使われています。
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光太郎は序詩も寄せました。
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   「悪魔の貞操」に題す

 心法の高圧を放電するもの、
 思ひもかけぬ交互無縁の片言隻語、
 言語道断の真空界にひらめくものは、
 千古測りがたい人間真理。
 すさまじいかな此書。


はじめに光太郎が送ったのはこの詩ではありませんで、以下の詩でした。
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   人生遠視

 足もとから鳥がたつ
 自分の妻が狂気する
 自分の着物がぼろになる
 照尺距離三千メートル
 ああこの鉄砲は長すぎる


のちに詩集『智恵子抄』に収められた「人生遠視」です。

さすがに中原もこれにはダメ出し。光太郎もなるほど、おっしゃる通り、ということで書き直しました。「人生遠視」は中原主宰の雑誌『いづかし』に掲載されました。

昭和10年(1935)というと、智恵子の心の病がもはや完全なものとなり、前年に預けていた九十九里浜の智恵子実母のもとから引き取って、南品川ゼームス坂病院に入院させた年です。光太郎もかなりテンパッていたようですね。

画像は光太郎が手元に残した控えの原稿ですが、今回、中原に送られた二篇の原稿も寄贈されています。

光太郎没後の昭和31年(1956)6月、『婦人公論』で光太郎追悼特集が組まれ、中原は光太郎から送られた書簡の一部を公表しました。題して「狂える智恵子とともに」。これを読んだ当時の人々は皆度肝を抜かれました。それまで、『智恵子抄』所収の詩文等では明らかにされていなかった智恵子の病状がこと細かに、さらに複数書簡で長きにわたって記されていたからです。結局、その後もここまで克明に智恵子の病状が書かれたものは見つかっておらず、以来、研究者たちなどは必ずと言っていいほど中原宛の書簡を引用しています。
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研究者以外にも、例えば野田秀樹氏は智恵子を主人公とした舞台「売り言葉」で。

遠隔の九十九里浜まで、かつては毎週一回出かけていた光太郎が、同じ東京の南品川の病院にいる智恵子を五ヶ月間も見舞っていなかったのであります。智恵子抄という類(たぐ)い希(まれ)なる純愛詩集が、最後、五ヶ月も妻を病院にほったらかしにしたオトコの手になるものだということをわすれないでいただきたい。東京市民よ! これは、智恵子抄への売り言葉なのであります。その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! しかも、光太郎に同情したその女流詩人から送られた見舞いの林檎(りんご)を智恵子は食べさせられたのであります。

林檎云々は野田氏の創作と思われますが。

で、これらの智恵子の病状を綴った書簡も今回寄贈されました。

というか、『高村光太郎全集』に収められた中原宛書簡49通、すべてが寄贈されていますし、それ以外にも6通。それとは別に雑誌『スバル』宛となっているものもありますし、草稿の類も複数。光太郎、中原の共通の師である与謝野夫妻に触れられたものも多く、まさに質、量共に一級品です。

ただ、一つ残念なのは、『悪魔の貞操』や『スバル』などの題字や装幀原画などが含まれていなかったこと。それがあれば超一級でしたが、印刷などの関係で中原の手許に残らなかったのでしょう。ちなみに光太郎没後の昭和34年(1959)に出た中原の歌集「灰の詩」には、口絵として複数の光太郎揮毫が使われていますが、それらも寄贈資料に含まれていませんでした。
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それでも一級の資料類です。いずれ花巻高村光太郎記念館さんで展示の運びとなるはずですが、早くても来年でしょう。

詳細が決まりましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

おたづねの智恵子の着物に対する嗜好などを申上げますと、智恵子は概して大柄の模様を好み、又それが似合ひました。縞でも太いものを用ゐました。智恵子は自分で着る物を織つてゐたので、縞などは自由に工夫してゐました。例へば袖口のところに青い大きな縞が一本出るやうに織つて着て歩いたりしてゐました。色は偏する事なく、いろんな色調を草木染で染めてゐました。赤は蘇黄(スワウ)を用ゐました。着物の裾は長めに着てゐました。帯はあまり広くないのをしめました。髪は単純に七三に分けて丸みをもたせてうしろでまるめてゐました。


昭和23年(1948)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

『智恵子抄』を舞踊化するための参考にとの問い合わせに対する返答の一節です。智恵子が亡くなってちょうど10年、さらにこうした服装をしていたのはもっと昔。それが昨日のことのように詳細に書かれていて、舌を巻かされます。

智恵子の故郷・福島県二本松市にほど近い郡山市からイベントの情報です。といっても、智恵子がらみではありませんで、当会の祖・草野心平関連です。

郡山市中央図書館映画会「草野心平 ほとばしる詩魂」

期 日 : 2024年7月27日(土)
会 場 : 郡山市中央図書館3階視聴覚ホール 福島県郡山市麓山一丁目5-25
時 間 : 午前10時~/午後2時~   (※上映時間の30分前開場および整理券配布)
料 金 : 無料(先着100名)

スケールの大きな生命への賛歌、孤独をみつめる勇気、また植物や動物さらには鉱物とも共に生きようとする独特の共生感。優しさ、激しさ、軽やかさ、深さ---様々な表情をみせる心平の作品を「みる」「きく」「感じる」ためのDVD。

自筆原稿、書、絵画、写真などの豊富な資料と、心平が生まれ育った小川町の美しい自然、晩年を過ごした川内村 天山文庫等の映像で構成。

「ごびらっふの独白」「青イ花」「誕生祭」(以上、草野心平朗読)

「猛烈な天」「えぼ」「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」
「蛙つりをする子供と蛙」「いいのか」「殺虐の恐怖のない平凡なひと時の千組の中の一組」
「秋の夜の会話」「蛙は地べたに生きる天国である」「上小川村」「デンシンバシラのうた」
「心平」「魚だつて人間なんだ」「牡丹園」「百姓といふ言葉」「わが抒情詩」
「おたまじゃくしたち四五匹」(以上、粟津則雄朗読)

「冬眠」「生殖Ⅰ」「月の出と蛙」「おれも眠らう」「Nocturne. Moon and Frogs.」
「天気」「遠景」

 ≪2006年/日本/52分≫
《朗読・出演・監修》粟津則雄 ​《協力》いわき市立草野心平記念文学館
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010「映画会」といっても、劇場公開された作品ではないようです。平成18年(2006)、QUESTさんという会社から発売されたDVDですね。心平自身の自作詩朗読も含まれ、さらに心平と親しかった故・粟津則雄氏による朗読、それからクレジットがないのですがプロの方の朗読も含まれているのでしょう。

こういうDVDがリリースされていたというのは存じませんでした。で、ジャケット画像を見て「ありゃま!」。光太郎による心平詩集『第百階級』(昭和3年=1928)序文の一節が取り上げられています。曰く「彼は蛙でもある。蛙は彼でもある。しかし又そのどちらでもない。」。

この序文、心平という詩人、その詩的世界(それはまた光太郎が追い求めた世界ともある部分で一致します)をこれほどまで的確に表した文章が他にあろうか、というものです。「詩人とは特権ではない。不可避である。詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。」「詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。」「トウル デスプリ」は仏語で「tour d'esprit」。「性格」「傾向」と言った意味です。

DVDの中で光太郎と心平の交流等、粟津氏が解説なさっているのではないかと思われます。それから、心平の生まれ育ったいわき市、過日、心平を祀る第59回天山祭りが開催された川内村などの映像。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

雑誌「心」の小生の詩をよんで下さつた趣感謝しました。貴下は分かつて下さるでせうが、随分ひんしゆくされさうな内容なのでした。その後電車沿線にある山間の温泉にまゐり、混浴の大きな浴槽にひたりながら野性を帯びた老若男女の逞しい裸体を見て大いに渇を医やしました。製作の出来ないのが残念です。

昭和23年(1948)7月11日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎66歳

「雑誌「心」の小生の詩」は「人体飢餓」です。
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    人体飢餓

  彫刻家山に飢ゑる。
  くらふもの山に余りあれど、
  山に人体の饗宴なく
  山に女体の美味が無い。
  精神の蛋自飢餓。
  造型の餓鬼。
  また雪だ。

  渇望は胸を衝く。
  氷を噛んで暗夜の空に訴へる。
  雪女出ろ。
  この彫刻家をとつて食へ。013
  とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
  その時彫刻家は雪でつくる。
  汝のしなやかな胴体を。
  その弾力ある二つの隆起と、
  その陰影ある陥没と、
  その背面の平滑地帯と膨満部とを。

  脊椎は進化する。
  頭蓋となり骨盤となる。
  左右の突起が手足となる。
  腱があやつり肉が動かし、
  皮膚は一切を内にかくして
     又一切をこまやかに曝露する。
  造形はこの肉団を生(なま)では食はない。
  ばらばらにしてもう一度014
  高度の人体に組み立てる。
  けれども彫刻家の食慾は
  まずその生(なま)をむさぼり食ふ。
  天文学的メカニスムの大計算は
  それから起る獰猛エネルジイの力動作用(トラヴアイユ)。
  知性はこの時ただ一連の精密コムパだ。

  雪女はつひに出ない。
  雪はふぶいて小屋をゆすり、
  雪片ほしいままに頬をうつ。
  彫刻家は炉辺に孤坐して大火(おおび)を焚き、
  わづかに人体飢餓の強迫を心に堪へる。
  強迫は天地にみちる。
  晴れた空に雲の伯爵夫人は白く横はり、
  ブナの木肌は逞しい太股(ジゴ)を露呈し、016
  岩石に性別あり、
  山山はすべて巨大なトルソオである。
  火龍(サラマンドラ)を火中に見たのはベンベヌウト。
  彫刻家は燃えさかる火炎に女体を見る。

  戦争はこの彫刻家から一切を奪つた。
  作業の場と造型の財と、
  一切の機構は灰となつた。
  身を以て護つた一連の鑿を今も守つて
  岩手の山に自分で自分を置いてゐる
  この彫刻家の運命が
  何の運命につながるかを人は知らない。
  この彫刻家の手から時間が逃がす
  その負数(モワン)の意味を世界は知らない。
  彫刻家はひとり静かに眼をこらして017
  今がチンクチエントでない歴史の当然を
  心すなほに認識する。
  現代の肖像をまだニツポンは持ち得ない。
  岩手の山の貧しいかぎり、
  この現実はやむを得ない。
  あの珍しく彫刻的なコマンダンの首も
  つひに無縁に終るだらう。
  同時代のすぐれたいくつかの魂も
  造型的には無に帰して消えるだらう。
  彫刻家山に人体に飢ゑて
  精神この夜も夢幻(ゆめまぼろし)にさすらひ、
  果てはかへつて雪と歴史の厚みの中の
  かういふ埋没のこころよさにむしろ酔ふ。

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花巻郊外旧太田村で暮らし始めて2年半が過ぎました。当初は若い頃から憧れていた辺境での自由な生活の実現、山の中に文化集落を作るといった無邪気な夢想もあったのですが、続々届く友人知己等の戦死の報や、中央で巻き起こった戦犯糾弾の声などから、徐々に自らの戦争責任を省察せざるを得なくなります。

光太郎は戦犯として訴追されることは免れたものの、それで「助かった」ではなく、自らに罰を与える方向に梶を切ります。すなわち「自己流謫(るたく)」。「流謫」は「流罪」に同じです。

といって、幾ら不便とはいえ、ただ山中に暮らしているだけでは罰を与えることには成りません。そこで、考え得る限りの最大の罰として、「私は何を措いても彫刻家である」と自負していたその彫刻を封印することにしました。

ところが、それはあまりにも過酷な罰。吹雪の夜に見る夢や、凝視する囲炉裏の火に、彫刻すべき人体が幻のように見え、しかし、それを形にすることは叶いません。混浴の温泉(ちなみに書簡に書かれているのは鉛温泉の白猿の湯です)に浸かっていても考えるのは人体彫刻……。

戦争はこの彫刻家から一切を奪つた。」と、恨み言の一つも言いたくなるでしょう。しかし、それを書簡では「随分ひんしゆくされさうな内容」としています。

こうした生活が昭和27年(1952)、青森県から「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作依頼が来るまで続きます。

昨日は福島県川内村に赴き、当会の祖・草野心平を祀る第59回天山祭りに列席して参りました。

その模様の前に、一昨日。酒をこよなく愛した心平大明神に奉納するための一升瓶を買いに、自宅兼事務所から車で7~8分ほどの造り酒屋さんへ。
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かの勝海舟も逗留したことがあるという馬場本店酒造さん。創業は天保年間、奥に見える煉瓦造りの煙突は明治33年(1900)の建造だそうで。
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テレビの旅番組やドラマ/映画のロケなどにもよく使われています。「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」代表をお願いした渡辺えりさん主演の2時間ドラマ「100の資格を持つ女 風薫る水郷・佐原の醤油蔵に呪いの連続殺人!!」(平成22年=2010)では、警視庁職員(刑事ではありません)のえりさんが、こちらに従業員として潜入捜査(笑)。
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ただしPXL_20240712_012829217、造り酒屋ではなく醤油蔵という設定でしたが。

一升瓶の箱詰めや包装をしていただいている間に、カウンターにあった芸能人の皆さんなどのサイン色紙をチェック。えりさんのものもありました。

千葉県香取市佐原地区、馬場酒造さんをはじめ、創業百何年という商家も多く、江戸時代から昭和戦前の建物が現役で活用されており、関東地方で初の伝統的建物群保存地区に認定されました。

ちなみに明日、7月15日(月)から7月19日(金)まで全5回、地上波テレビ朝日さん系の「じゅん散歩」で高田純次さんがレポートなさいます。ぜひご覧の上、足をお運び下さい。


さて、昨日の川内村。早速、持参した酒を奉納。
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このあとも数本の一升瓶が捧げられ、泉下の心平はウハウハだったことでしょう(笑)。

会場は村民の皆さんが心平のために別荘として建ててあげた天山文庫。光太郎実弟の豊周も建設委員として名を連ねました。
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昨年は雨のため村営体育館での開催でしたが、今年は天候の心配もなく、本来の会場での開催となりました。木漏れ日が実に爽やかでした。
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早めに着いたので、ひさしぶりに天山文庫内を見学。まずは一階の座敷。何気に心平本人や棟方志功、川端康成らの書などが掲げられています。
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心平寄贈の蔵書を収めた書庫。
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心平が題字を揮毫した書籍や、光太郎関連の心平編著も。
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二階の座敷。おそらく寝室として使われていたのでしょう。
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窓の下には「十三夜の池」。

午前10時、祭りの開幕。
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あいさつ、祝辞、献花と続き、川内村の小中学生の皆さん、かつて心平が主宰していた『歴程』同人の方々による詩の朗読、郷土芸能の披露などが行われました。
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「川内甚句」では、参列者の皆さんを巻き込んで、十三夜の池の周りを踊りながらぐるぐる。顔がわかってしまうような画像はアップしないで下さい的なお願いがありましたので、遠景を。

こうした和気あいあいの雰囲気にも、泉下の心平が眼を細めているような気がしました。

終了後、遠藤村長をはじめとする村の方々、天山祭り等で顔なじみになった県外の心平ファンの皆さん、そして『歴程』同人さんたちに、中西利雄・高村光太郎アトリエ保存のための署名をお願いし、30人分ほどいただけました。ありがたし。

この天山祭り、末永く続くことを心より祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

皆さんの帰つてゆくのが名残惜しいやうでした。又その節はお心をこめた御馳走のかずかずを頂戴してありがたうございました。前の晩おそくまでかかつて作られたといふおいしい今川焼きも幾年ぶりかで味はふ事とて無類でした。まつたく無邪気な純粋なかういふ時間はありがたいと思ひます。現世では数へるほどしか数の少い幸福です。かういふ幸福をつくり出すお仕事は何といふいいものでせう。大きくいへばかういふ善意そのものこそ人類を救ふのでせう。


昭和23年(1948)6月8日 照井謹二郎・登久子宛書簡より 光太郎66歳

光太郎の隠棲していた旧太田村で、照井夫妻が主宰していた児童演劇「宮沢賢治子供の会」の出張公演が為されたことに対する礼状の一節です。

まつたく無邪気な純粋なかういふ時間はありがたい」「大きくいへばかういふ善意そのものこそ人類を救ふ」。昨日の天山祭りに列席し、当方も似たような感想を持ちました。

当会の祖・草野心平が生前に愛し、心平没後は心平を祀る意味合いも込められるようになったイベントです。

第59回天山祭り

期 日 : 2024年7月13日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
       雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前10時~11時35分
料 金 : 500円

「天山祭り」は、名誉村民となった詩人・草野心平が自身の3000冊もの蔵書を寄贈したことで、村の人たちによって贈られた「天山文庫」の落成を記念して始まりました。心平自身、この祭りが好きで、食べて飲んで、語り合い、住民や親交のあった人たちとの交流を時を忘れるほど楽しんだそうです。 現在もゆかりのあった人々が、心平の詩の朗読や、三匹獅子舞などの郷土芸能などを楽しみながら、心平を偲ぶ祭りとして毎年7月第2土曜に開催されています。

お問い合わせ先 川内村教育委員会 電話:0240-38-3806
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心平は隣接するいわき市の出身ですが、川内村の名誉村民に認定していただいております。そもそもは昭和24年(1949)、蛙をこよなく愛した心平の「モリアオガエルを見たい」という発言に、村の長福寺の矢内俊晃住職が、モリアオガエルの棲む平伏沼(へぶすぬま)が村にあるので来てほしいと手紙を出して招いたことに始まります。心平の川内村訪問は4年後の昭和28年(1953)が最初でした。

村ではその後も訪れ続ける心平のために、昭和41年(1966)、別荘を建てて下さいました。それが天山祭り会場ともなっている天山文庫です。設立準備委員には、光太郎実弟で心平と昵懇の間柄だった豊周も名を連ねました。

その落成記念を兼ねて始まったのが天山祭り。以後、心平は出来る限り参加を続け、村人達と楽しいひとときを過ごしました。
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そして心平没後は、心平を祀る意味合いも付与して続き、さらに東日本大震災による福島第一原発の事故で余儀なくされた全村避難の解除後は、震災からの復興を確認するという目的も加わっています。

昨年の第58回は、光太郎生誕140周年ということもあり、当方に講演の依頼があって、べしゃくって参りました。主に最近見付けた心平と光太郎のエピソードの紹介でした。心平には『わが光太郎』(昭和44年=1969)という著書があり、光太郎と過ごした日々が色々と語られていますが、それも「余すところ無く」というわけではなく、調べれば調べるほど同書には割愛されている「こんなこともあったのか」の連続でして。

今年はいち聴衆として参加します。みなさまもぜひどうぞ。

ところで心平ついでにもう1件。いわき市の草野心平記念文学館さんから、先月末まで開催されていた企画展示「草野心平の旅 所々方々」の図録が送られてきました。多謝。心平がその生涯に、どんなところにどういう目的で旅をしたのか、という視点からの企画展で、留学や戦争の関係で長期滞在した中国をはじめとする海外、そして北は北海道から南は沖縄までの国内ほぼ全域(なぜか四国へは行く機会がなかったようですが)。

「あまり光太郎とは関わらない展示だろう」と思って、足を運びませんでしたが、十和田湖だけは光太郎とのからみが少し紹介されていました。
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昭和28年(1953)に除幕された光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の関係で、心平はその建設在京委員の一人でしたし、昭和27年(1952)の光太郎の十和田湖下見旅行や翌年の除幕式に同行しています。そして中野の貸しアトリエで像の制作に当たっていた光太郎を物心両面から支援もしました。

下記は図録には載っていませんが、除幕式前後の十和田湖でのカット。心平の左後に像のモデルを務めた藤井照子が写っています。
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図録はオールカラーですが、全8ページの簡易的なもの。ご入用の方、同館までお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】

庭でもうぐいすが啼いてゐるとの事ですが、こちらの山の中ではまだ雪が消えず、少しづつ降つてゐます。鳥はセキレイ、キツツキ、ヤマバトなどが今はないてゐます。

昭和23年(1948) 高村珊子宛書簡より 光太郎66歳

故・珊子さんは昨日ご紹介した書簡の高村美津枝さんと姉妹。同じ日に姉妹それぞれに別々に葉書を出しました。文面で姉妹からの来翰に対する返信とわかりますが、それぞれに別々に返信するあたり、愛を感じますね(笑)。

ちなみに当方自宅兼事務所は千葉の田舎で、このブログを書いているたった今も、裏山ではウグイス、ホトトギス、その他名も知らぬ鳥の声(夜はフクロウ系)。さらに4、5日前から蟬も鳴き始めています。

ムックの新刊です。

 BRUTUS特別編集 合本 本が人をつくる。

2024年6月13日 マガジンハウス刊 定価1,760円

どんな本を読んできたかを知ることは、その人の人生を知ること。恒例のブルータス「本」特集から、読書家たちが大切にしている100回読んだ本を紹介する特集「百読本」、本を愛する人たちが影響を受けた作品について語り合う特集「それでも本を読む理由。」、その2号分をまとめて1冊に。小説、絵本、ビジネス書、アートブック、ZINE……あらゆるジャンルの魅力をぎゅっと詰め込みました。「本」と「読書」の楽しみ方を考える、保存版です。

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百読本
 100回読んだ本はもうその人そのもの。なぜその本を何度も読み返すのか。それを考えることはその人を知ることと同じです。119人の本好きが語る、完全保存版の読書案内。

わたしの百読本。
 まずは、20人の読者家たちが何度も読んだ本の話から始まります。ジャンルも本との向き合い方も人それぞれ。特別な本だけが持つ引力について、彼らの言葉から探ります。
フワちゃん 皆川明 平野紗季子 熊木幸丸(Lucky Kilimanjaro) 乗代雄介 神田伯山 石沢麻依 按田優子 平野啓一郎 紺野真 小林エリカ 斉藤壮馬 佐藤健寿 白石正明 磯野真穂 佐藤亜沙美 岸本佐知子 前田司郎 渡邉康太郎 藤岡弘、

何度も読みたくなる絵本のひみつ。
 子供にとって、絵本は究極の百読本。なぜ繰り返し読みたくなるのか。ロングセラー本にヒントを探し、専門家と一緒に考えます。

それでも本を読む理由。
 今、本を読むことの意味とは。本を愛さずにはいられない、本好き、読書好きが語り合う、「本」と「読書」の魅力。
池松壮亮 藤井健太郎 TaiTan 幅允孝 Awich 吉岡秀典 川名潤 ロジャー・マクドナルド 中島佑介 前田晃伸 黒木晃 鳥羽和久 武田砂鉄 麻布競馬場 桜井莞子 森岡督行 黒島結菜 内山拓也 島口大樹 斎藤真理子 前田エマ 山本貴光 吉川浩満 山瀬まゆみ 紺野真 坂矢悠詞人 髙城晶平 蝶花楼桃花 井伊百合子 山本多津也 若木信吾 荒川晋作 川口瞬 菅原裕喜 前田和彦 二宮慶介 MCNAI MAGAZINE 友田とん 山本佳奈子 花田菜々子 熊谷充紘 三田修平 魚豊 児玉雨子 小泉義之 深津さくら 石黒浩 與那覇潤 ミヤギフトシ 秋草俊一郎 藤岡拓太郎 鈴木一人 室橋裕和 篠田真喜子 加藤幸治 キニマンス塚本ニキ

明日を生き抜くためのブックガイド70
 テクノロジーや社会、ビジネス、カルチャー、普遍的な概念まで、押さえておきたい14のテーマをリストアップし、それぞれに対して識者が選書しました。70冊の中から見つける、明日を生き抜くためのヒント。

「合本」と冠されており、これまでの雑誌『BRUTUS』に載った記事の再編です。「百読本」の項で、デザイナー・皆川明氏が『智恵子抄』を挙げて下さっています。この項は令和4年(2022)年1月1日・15日合併号に載ったものです。サイト上にダイジェスト版がアップされています。
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皆川氏、令和3年(2021)に同じマガジンハウスさんから発売されたムック『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』でも、『智恵子抄』をご紹介下さいました。ありがたし。

令和4年(2022)年1月1日・15日合併号をお読みになっていない方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐる小生の頭の上へ雪がつもりました。ひやひやしてむしろ爽快を感じました。

昭和23年(1948)1月13日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋は、元々は鉱山の飯場だった小屋をを移築した粗末なものでした。そのためあちこち隙間だらけで、吹雪の時などは雪が舞い込み、このような状態になりました。
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光太郎とも交流のあった詩人、永瀬清子。出身地の岡山県赤磐市では地道にさまざまな顕彰活動が続けられています。命日の2月17日には朗読会などを兼ねた「紅梅忌」の集いが開催される他、「永瀬清子展示室」が設けられ、さまざまな企画展示が為されていますし、研究紀要というか顕彰活動の記録というか、年刊で『永瀬清子の詩の世界』という冊子も発行されています。また、最近ではすごろく伝記マンガなども発行されました。

先週また、赤磐市教育委員会さんから冊子が届きました。題して『永瀬清子の光を受けて』。A4判50ページ程、3月31日(日)発行と奥付にありました。
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RSK山陽放送さん制作のラジオ番組「朝耳らじお5・5」「朝耳らじおGoGo」内のコーナー「永瀬清子の光を受けて」でオンエアされた内容を文字起こししたものを根幹に、永瀬の遺文なども収められています。

前者では、当会の祖・草野心平や宮沢賢治に触れられています。

後者のうち、昭和64年(1989)1月に雑誌『黄薔薇』に載った永瀬のエッセイ「(心辺と身辺)'88の秋」で、光太郎にも触れられていました。前年に亡くなった当会の祖・草野心平がらみの項の中でです。その年、福島県でのイベントに出席した永瀬が、そのついでに智恵子の故郷・二本松霞ヶ城の智恵子抄詩碑に詣でた話。同碑は昭和35年(1960)、正式な光太郎詩碑としては2番目に建立されたもので、設計や詩の選定など、心平が骨を折りました。
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画像は先月、「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の際に撮影したもの。

ここで永瀬は光太郎や、生前に会うことの叶わなかった智恵子、そして病床に臥せっていた心平に思いを馳せました。当方もまた行く機会があれば、永瀬もここに来たんだなぁと思い巡らせることに致します(笑)。

永瀬と言えば、やはり先週、『朝日新聞』さんの一面コラム「天声人語」で取り上げられました。

 天声人語

私が生まれ育った家には、風呂がなかった。だから隣家で、もらい湯をした。前掛けをしたおばあさんが薪(まき)をくべ、パチパチと焚(た)きあげる湯だった。かまどの前にすわる彼女の姿と、しわだらけの小さな手を今でも覚えている▼遠い記憶が蘇(よみがえ)ったのは、岡山県赤磐市にある永瀬清子の生家を訪ねたからだ。詩人が暮らした農家は、田畑のなかで朽ちかけていたのを支援者等が改修し、一般公開されている。五右衛門風呂も再生され、体験入浴できる▼明治に生まれた永瀬は大阪や東京での生活を経て、終戦の直後、39歳で古里に戻った。〈二反の田と五寸のペンが私に残った〉と始まる詩はこう続く。〈詩を書いて得たお金で私は脱穀機や荷車を買った。/もうどちらがなくても成り立たないのだ〉▼農婦であり、母として田園に生きた詩人である。苗を植え、風呂を焚き、家事をこなしてから、深夜にちゃぶ台の茶碗(ちゃわん)をのけて、むさぼるように詩作に励んだそうだ▼「この家は風が気持ちいいんです」。生家保存会の横田都志子さん(58)は話した。詩人が感じた夜明け前の山の色、風の香り、揺れる葉の音。そんな自然に触れ、「彼女の詩がより分かった気がします」▼私も五右衛門風呂に入らせてもらった。熾火(おきび)がじわじわと湯を温め、心地よい。ふわり白煙が青い空に泳ぐ。〈一日、昔の風が吹いて来て私を騒がせた。/どこに今までさまよっていたのか/おそらく世界の涯までも流れていたのか〉。無性に故郷が懐かしくなった。

永瀬の生家は令和3年(2021)に改修を終え、一般公開が為されています。当方、平成25年(2013)に足を運びましたが、その頃は「天声人語」にあるように「田畑のなかで朽ちかけていた」状態でした。それが建物内にギャラリーとカフェを作るなどし、活用されています。建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動の参考にもなるかも知れませんので、折を見てまた行ってみたいと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おたよりで松木といふところをも想像してゐます。小倉豊文さんにもお会ひの由、よろしくお伝へ下さい。あなたの詩は雑誌でいつも気をつけて読んで居ります。去年竹内てるよさんがこの山の中へ来たのには驚きました。今此辺はかなり雪ふかくなつてゐます。

昭和23年(1948)1月14日 永瀬清子宛書簡より 光太郎66歳

その永瀬宛の書簡の一節です。永瀬宛の書簡は『高村光太郎全集』では昭和27年(1952)にしたためられた1通のみの収録でしたが、その後、ご遺族から情報提供があり、新たに4通が確認できています。

「松木」は永瀬が暮らしていた豊田村松木(現・赤磐市)。「小倉豊文さん」は『宮沢賢治の手帳研究』(昭和27年=1952)を著すなど賢治研究でも知られ、広島での被爆体験を綴った『絶後の記録』(昭和24年=1949)には光太郎が序文を寄せました。「竹内てるよさん」は詩人。確認できている限り、てるよの著書5冊の題字を光太郎が揮毫しています。ともに永瀬・光太郎共通の知り合いでした。

東北レポート、最終回です。6月8日(土)、花巻に行く前に立ち寄った仙台をレポートいたします。

午前11時前、仙台駅に到着。
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駅前のデッキ、何やら人やまの黒だかり、しかもみんな空を見上げています。「何事?」と思ったところ、轟音と共に現れたのが……
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空自さんのブルーインパルスでした。この日は「東北絆まつり」だったそうで、その関係で飛んでいたようです。

その後、地下鉄南北線で台原駅まで。そこから台原森林公園を突っ切って、仙台文学館さんを目指しました。

公園入口にはブロンズ像。仙台と言えば佐藤忠良かな、と思ったのですが、佐藤と親しかった舟越保武の作品でした。そういえば田沢湖のたつこ像にも似ています。
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舟越にしても佐藤にしても、光太郎の影響で彫刻の道に進み、光太郎と直接の交流を持ち、さらに光太郎のDNAを受け継いだと言っていい存在です。

森林公園内はかなりの山道。都会の人はこういう道を「いいなあ」と感じるのでしょうが、千葉の自宅兼事務所周辺もこんな風景なので、当方にとっては今更感(笑)。
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文学館さんには裏口から入ることになりました。PXL_20240608_025256594

こちらでは、開館25周年記念特別展「詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」が開催中です。

石川は明治34年(1901)、仙台の生まれ。光太郎より18歳下の詩人です。昭和7年(1932)に不慮の事故により満31歳の若さで亡くなりました。生前に詩集が刊行されることはありませんでしたが、歿後の昭和11年(1936)に友人たちの手で、『亜寒帯』が刊行されました。序文は光太郎。石川は光太郎とも交流があり、その関係です。

『高村光太郎全集』では、その序文以外の箇所に石川の名が出て来ません。そこで、光太郎と石川の間にどんな交流があったのか、今一つ分からなかったのですが、今回の展示で出品された、石川から詩人の郡山弘史に宛てた書簡に、光太郎、石川、そしてやはり詩人の小森盛で酒を呑み、その帰途、泥酔して小森と共に谷中警察署に一晩拘留されたことなどが記されていました。昭和4年(1929)のことでした。

光太郎による『亜寒帯』の序には、石川が草野心平の経営していた焼鳥屋「いわき」に来ていた様子が記され、心平繋がりで光太郎と石川が出会ったのかな、と思っていたのですが、展示の説明パネルによれば、二人を結びつけたのは小森らしいとのこと。いずれにしても小森も心平人脈の一角にいた人物です。

図録、出品目録がこちら。
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図録の「善助の交友」、最初に光太郎の項。
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最後の部分、「光太郎から座敷童子の話を聞いた」とあり、これも存じませんでした。

国会図書館さんのデジタルデータで調べたところ、やはり石川歿後の昭和8年(1933)に刊行されたエッセイ集『鴉射亭随筆』巻頭の「寂莫紀」に、以下の記述がありました。

いつか高村氏のお話に、階下のアトリヱで、ひどく巫山戯る子供らしい物音を深夜きいたといふのを私はうかがつたことがある。

国会図書館さんのデジタルデータは細かく当たっているのですが、これは見落としていました。「高村光太郎氏」となっていれば気づいたのですが、「高村氏」としか書かれていないのが原因です。この箇所に「座敷童子」の語はありませんが、この前の部分で、宮沢賢治から聞いた座敷童子の話などが紹介されており、その流れです。

そして賢治。石川は生前の賢治と会ったことがある数少ない詩人の一人。そこで賢治関連の展示もありましたし、前述の小森盛、心平、さらに尾形亀之助、天江富弥など、やはり光太郎とも交流のあった面々に関しても。
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右上は図録とは別に無料配付されていた冊子。『亜寒帯』の復刻版を出されたあるきみ屋さんの制作です。マンガのページがあり、残念ながら光太郎は登場しませんが、賢治と石川の出会いは描かれています。

石川善助、もっともっと注目されていい詩人ですね。そういう意味では今回の展示が一つの契機となればと存じます。

常設展的な区画には、ぼのぼのも居ました(笑)。作者のいがらしみきお氏が仙台ご在住ですので。こちらは撮影可。
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ロビーでは、石川善助展を報じる新聞記事。
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さらにこんなものも。
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開館25周年ということで、これまでに開催された企画展示の図録等です。
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平成18年(2006)に開催された「高村光太郎・智恵子展 -その芸術と愛の過程-」のそれも。

当時のフライヤー等。
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当方、同館を訪れたのはこの時が初めてでした。もう20年近く経つのか、という感じです。

この際には光太郎令甥・髙村規氏、それから当会顧問であらせられた北川太一先生のご講演が関連行事として行われました。お二人とも既に虹の橋を渡られてしまいましたが……。

正午過ぎ、同館を後に、路線バスで仙台駅に。花巻に向かう東北新幹線下りホームに行くと、見慣れない紅白の車輌が停車していました。
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当方、鉄道マニアではないので詳しくありません。「何じゃ、こりゃ?」でした。見ると、車体側面に「East i」のロゴ。スマホで調べてみると、JR東日本さんの保守点検用の車輌でした。JR東海さんの「ドクターイエロー」のようなものなのでしょう。「ドクターイエロー」は11年前に名古屋で行き会いましたが、こちらは初めて見ました。ブルーインパルスといい、珍しいものに遭遇する日でした(笑)。

この後、やまびこ号に乗り込み、新花巻駅へ。昨日のブログ、そして一昨日のブログに続きます。

以上、東北レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

今年は去年よりも寒気が弱いやうですが、早朝は零下十五、六度を上下してゐます。起きて囲炉裏に火を焚いて暖をとるのはたのしみです。まづ湯を沸してから一切の生活がはじまるわけです。雪かきはおもしろく、今に雪の彫刻をつくる気です。


昭和22年(1947)12月31日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

「雪の彫刻」に関しては、翌年、「人体飢餓」という詩に現れます。雪女の姿を雪で作るという夢想です。

 雪女出ろ。
 この彫刻家をとつて食へ。
 とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
 その時彫刻家は雪でつくる。
 汝のしなやかな胴体を。
 その弾力ある二つの隆起と、
 その陰影ある陥没と、
 その背面の平滑地帯と膨満部とを。

「人体飢餓」の題名は、「彫刻で人体を造ることに飢えている自分」、という意味です。

昨日同様、あまり関係ないかなと思って紹介しないでいたら、光太郎の名を出して報道されてしまった(笑)展示です。

状況をわかりやすくするためにまずNHK仙台局さんのローカルニュースから。

仙台出身の“知られざる詩人” 石川善助の企画展

 仙台出身の詩人で将来を期待されながら31歳の若さで亡くなった石川善助の生涯を紹介した企画展が仙台市の仙台文学館で開かれています。
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 石川善助は現在の仙台商業高校時代に詩作に目覚め、卒業後も働きながら創作を続けた詩人で、萩原朔太郎などから将来を期待されながら不慮の事故により、31歳の若さで亡くなりました。
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 仙台文学館では、地元出身の詩人を広く知ってもらおうと、石川が残した作品をはじめ創作ノートや手紙などの資料およそ130点を紹介した企画展を開催しています。
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 会場には石川の作品がタペストリーに印刷されて展示され、志半ばでこの世を去った詩人の足跡や人柄、生き方などをじっくり味わうことができます。
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 また、同時代を生きた詩人の高村光太郎や宮沢賢治などとも交流があり、このうち賢治の手紙には石川が亡くなったあとの追悼会に関することなどが記されています。
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 仙台文学館の赤間亜生副館長は「幼い頃に足が不自由となった石川が、その運命を受け入れながら創作した詩を展示しています。手紙などの資料とともにその生き方を感じて欲しい」と話していました。
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 この企画展「詩人・石川善助をたずねて」は仙台文学館で来月30日まで開かれています。

展示詳細はこちら。

開館25周年記念特別展「詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」

期 日 : 2024年4月27日(土)~6月30日(日)
会 場 : 仙台文学館 宮城県仙台市青葉区北根2-7-1
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日、第4木曜日
料 金 : 一般810円、高校生460円、小・中学生230円 ※各種割引あり

 1901(明治34)年に仙台の国分町に生まれた石川善助は、仙台商業学校在学中から詩作に目覚め、校友会誌などに詩を発表し始めます。卒業後、仕事の傍ら、友人と詩誌を刊行、『日本詩人』をはじめとする中央の詩誌に作品を発表するなどし、詩人として将来を嘱望されましたが、1932(昭和7)年、31歳で不慮の事故により命を落としました。
 宮城県出身の詩人として、尾形亀之助と並び称されてきた善助ですが、生前に一冊の詩集を出すこともかなわず、その死後に友人たちにより遺稿集として、詩集・随筆集・童謡集がそれぞれ一冊ずつ刊行されることになりました。しかしこれまでその創作活動の全容はあまり知られてきませんでした。
 今回、書籍・原稿・書簡・創作ノート・作品掲載詩誌など、現在残されている膨大な石川善助関係の資料の全貌を紹介するとともに、改めて日本近代詩史における善助の位置づけを明らかにし、その詩の魅力を探ります。また、善助は民俗学的視点での随筆や童話、方言を用いた作品も残しており、その多様な表現活動と、仙台のスズキヘキや天江富弥をはじめ、草野心平や宮沢賢治など、様々な人々との交友についても紹介します。
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光太郎と石川、当会の祖である草野心平を通して知り合ったようです。その死後に刊行された石川唯一の詩集『亜寒帯』の序文は光太郎が書きました。全文はこちら

ネット上には展示品の目録が出ていないのですが、おそらく『亜寒帯』の説明の中で、光太郎の序文についても触れられているのでしょう。序文の原稿そのものが残っていればぜひ見てみたいものですが、現存は確認できていません。

ただ、NHKさんの報道でも触れられているとおり、賢治の書簡が出ているとのことで、「ほう」という感じでした。石川は、賢治と親しく戦後には光太郎とも繋がる直木賞作家・森荘已池を通じて賢治と直接会っています。賢治が生前に会った詩人というと、光太郎、黄瀛など、数が限られており、その数少ない一人が石川でした。

また、館の案内文には天江冨弥の名も。天江は仙台出身の児童文学者ですが、やはり光太郎と軽く関わりがありました。

さて、関連行事。既に終わってしまったものもありますが、これからというもののみ。

1.連続講座「石川善助を知ろう」定員:各60名(先着)
 ③「石川善助と宮沢賢治をつなぐもの」
  日時:6月29日(土)13:30~15:00
  講師:宮川健郎(一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団理事長)
  申込み受付開始:6月12日(水)10時~

2. トークイベント
 「詩人・石川善助との出会いと、100年前からのメッセージ」
  日時:6月1日(土)13:30~15:00
  出演:木村健司(石川善助研究者) 聞き手:赤間亜生(当館副館長)
  定員:60名(先着)
  申込み受付開始:5月15日(水)10時~

3.朗読と音楽の調べ「石川善助・その生と言葉の軌跡」
  日時:6月15日(土)13:30~14:30
  出演:芝原弘(黒色綺譚カナリア派/コマイぬ) 菊池佳南(青年団/うさぎストライプ)
  定員:50名(先着)
  申込み受付開始:5月15日(水)10時~

【申込方法】電話で仙台文学館まで(022-271-3020)

ところで、冒頭にNHK仙台放送局さんの報道をご紹介しましたが、同局制作で東北6県向けに放映されている「ウイークエンド東北」、明日のオンエアで光太郎が大きく取り上げられます。
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元々、光太郎終焉の地・東京都中野区の中西利雄アトリエ保存運動の関わりで、保存会の日本詩人クラブ理事・曽我貢誠氏がNHKさんに取材の依頼をされました。すると、その件と、プラス「光太郎智恵子顕彰で頑張る東北の人々」というコンセプトで制作が為されました。

中野アトリエ以外、東北では、GW中に光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻開催された「土澤アートクラフトフェア2024春」などで、食を通して光太郎顕彰に取り組むやつかの森LLCさんの活動、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰にあたられている智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の模様、それから光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ青森十和田湖から、ボランティアガイドの方のお話。

10分ほどの尺だそうですが、東北6県の皆さん、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

どんな消息よりもよく貴下の全存在を話してくれるのはやはり詩だとおもひました。ますますむきに前進せられん事をのぞみます。


昭和22年(1947)11月10日 田村昌由宛書簡より 光太郎65歳

田村は北海道出身の詩人。この当時は新潟に住んでいました。光太郎は戦時中の昭和17年(1942)には田村の詩集『蘭の国にて』の序文を書いた他、この後、昭和28年(1953)には同じく『下界』の題字揮毫も行いました。また、遡れば太平洋戦争開戦直前には田村の編輯した『日本青年詩集』にも序文を寄せましたが、こちらは出版事情の悪化でお蔵入りとなりました。

書簡は田村から自著詩集『風』を贈られた返礼の一節です。単に「ありがとうございます。」ではなく、実に気の利いた文言ですね。

詩人の若松英輔氏。光太郎についても関心がおありのようで、複数のご著作やZOOMによるオンライン講座等、ラジオ番組等で光太郎に触れて続けてくださっています。

常に氏の動向をチェックしているわけではないのですが、キーワード「高村光太郎」でネット検索をしていると氏がらみの情報がいろいろヒットするので、その都度こちらでご紹介しています。見落としもあるでしょうが。

生涯学習講座いろいろ。
『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる』。
若松英輔『詩と出会う 詩と生きる』。
若松ゼミ◆詩の教室 言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む。
若松英輔氏~AI。
若松英輔『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』。

すると、今月から音声配信サービス「voicy」というのを利用されて、「若松英輔の「読むと書く」ラジオ」という活動を始められていました。YouTubeのような動画配信ではなく、音声のみの配信。「へー、こんなのもあるんだ」と思いました。
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その第23回が「《対話》高村光太郎「気について」自分がどういうものを作り出しているか、自分の人生がどんなものに運ばれてきたのか」。昨日配信されたようです。早速拝聴してみました。
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「番組アシスタント」の大瀧純子さんという方とのトーク形式で、約10分。光太郎のエッセイ(というか評論というか……『高村光太郎全集』では「評論」の巻に収録されています)「気について」(昭和14年=1939)がメインに取りあげられています。

短い文章なので、全文を。

 人間の捉へがたい「気」を、言葉をかりて捉へようとするのが詩だ。気は形も意味もない微妙なもので、しかも人間世界の中核を成す。詩が言葉にのりうつつた「気」である以上、詩を言葉で書かれた意味にのみ求め、情調のみに求め、音調(ヴエルレエヌは音楽といふ)にのみ求めるのは不当である。詩は一切を包摂する。理性も知性も感性も、観念も記録も、一切は詩の中に没入する。即ちその一切を被はないやうな詩は小さいのである。気が一切を呑むのである。

発表されたのは昭和14年(1939)元日発行の雑誌『蛮』第3巻第1号新春号。執筆の年月日は不明ですが、おそらく前年12月あたりでしょう。すると、10月5日に智恵子を亡くした直後と言っていい時期です。

この頃から「」が光太郎の内部で一つのキーワードとなっていきます。002

右は2年後の昭和16年(1941)8月に刊行された散文集『美について』初版見返しに揮毫された短句。「詩とは気である 気の実である」。詳細は不明ですが、親しい人物に贈られたものと推定されます。

最愛の智恵子を亡くし、世の中は泥沼化した日中戦争の局面を打開しようと、さらに米英などに対して太平洋戦争を仕掛ける前夜です。

余談ですが奥付によれば『美について』は『智恵子抄』と全く同じ昭和16年(1941)8月20日刊行。実際に店頭に並んだのには多少のずれもあったでしょうが。

『智恵子抄』の詩篇で愛する者に別れを告げ、詩の中で智恵子が謳われることは無くなり(それが復活するのは戦後の昭和20年(1945)作の「松庵寺」です)、以後、ほぼ翼賛詩一辺倒となっていきます。

詩ではない散文の中にも「」。例えば昭和19年(1944)1月15日発行『海運報国』第4巻第1号に寄稿した「決戦時生活の基礎倫理」では、「まづ必勝の気を堅持する事が第一である。」「必勝の気とは確乎たる自信である。どんな謀略にもひつかからぬ卓然たる確信である。」類例は多いと思います。『道程』時代から光太郎は一種の精神主義を掲げていましたので、その延長という見方も出来ましょうが。

さて、若松氏、そうした光太郎の「」が、光太郎芸術全般にどのように表されているかといったお話。ぜひお聴き下さい。

【折々のことば・光太郎】

ところで、お願ですが、いつぞやのおテガミ中に札幌でホームスパンの洋服が出来るやうなお話でしたが、普通型背広服一着たのんでいただけないでせうか。小生東京以来のボロ服以外に一着も無く、来年位には此服も破れてしまふだらうと思ひますので出来ればお願ひ申したく存じます。


昭和22年(1947)11月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳

結局この依頼は実現せず、昭和25年(1950)になって、親しく交流したホームスパン作家・及川全三の人脈でホームスパンの服をオーダーメイドしています。

富山県から市民講座の案内です。

高村光太郎『智恵子抄』講座

期 日 : 2024年5月26日(日)、6月9日(日) 、7月28日(日) 、8月25日(日) 、9月22日(日) 
会 場 : 高岡市生涯学習センタースタジオ405A 富山県高岡市末広町1番7号
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 運営費1,800円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,300円(初回納付)
講 師 : 茶山千恵子氏 

孤高の詩人・高村光太郎と智恵子の魂の軌跡ともいえる『智恵子抄』を深く読み理解し、語り合いましょう💕

5月26日(日) 随筆『智恵子の半生』朗読
6月9日(日) 『智恵子抄』より「人に」「涙」「おそれ」「或る宵」「郊外の人に」「人類の泉」
7月28日(日) 「僕等」「あなたはだんだんきれいになる」「金」「樹下の二人」「夜の二人」「あどけない話」
8月25日(日) 「山麓の二人」「風にのる智恵子」「人生遠視」「千鳥と遊ぶ智恵子」
9月22日(日) 「レモン哀歌」「荒涼たる帰宅」「亡き人に」「梅酒」「案内」「うた六首」
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講師の茶山さん、これまでも生涯学習組織・たかおか学遊塾さんで同様の講座講師を務められた他、同塾主催のイベント「たかおか学遊フェスタ」で光太郎詩朗読をなさったり、劇団「よろこび」として演劇でも「智恵子抄」を取り上げて下さったりしました。

ちなみに上記講座一覧の№13「いつも生き活き自分で出来るリンパマッサージ講座」講師も茶山氏です。

また、昨年、今年と連翹忌にご参加下さいましたし、ご自宅を開放されて予約制で振る舞う「光太郎ランチ」などの活動にも取り組まれています。さらに今年11月には「ひとり芝居 智恵子抄」を都内で公演なさるそうです。

申込締め切りが過ぎてしまっているのですが、まだ空きがあるかも知れません。ご興味おありの方、問い合わせてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

水で畑が不成績ですが、トマトとキヤベツはすばらしくよく出来ました。トマトは毎日たべてもたべきれません。ゴールデン ポンテローザ種が美しく日に輝いてゐるのはいいです。キヤベツも中々上等です。今冬は此のキヤベツで「シユークルート」式漬ものをつくる気です。今大根が育つてゐます。


昭和22年(1947)10月3日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

この後、シュークルートは光太郎の得意料理の一つとなりました。

朗読公演の情報です。

まず、愛知県から。存じ上げない方々の公演ですが、ネットの情報検索で引っかかりました。

語り部リサイタルvol.5 「みーみーの世界〜私のまわりのものたちのこと」

期 日 : 2024年5月19日(日)
会 場 : 古民家カフェすず助 愛知県西尾市会生町18
時 間 : 開場 13:00 開演 13:30
料 金 : 1,500円
主 催 : 語り部ふみの会

徒然なるままに……現代の清少納言を気取って、語り部・三浦有美がお届けする「みーみーの世界」。どうぞお楽しみ下さい。

出 演 : 三浦有美(語り部)  田中ふみ枝(語り部・BGM演奏)

プログラム 
 【みーみーの本棚】
   智恵子抄より 高村光太郎  やまなし 宮沢賢治  蜘蛛の糸 芥川龍之介
 【みーみーのお客様】
   ゲストタイム・おしゃべりと語り
 【みーみーの日常】
   私のつぶやき 作・三浦有美

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「智恵子抄」を取りあげて下さるそうで、ありがとうございます。

残念ながらこの日は智恵子の故郷・福島二本松にて開催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」に参加予定ですので欠礼いたしますが、お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運び下さい。

もう1件、まだ先の話でネット上に詳細が出ていないようですが、こちらは当方お世話になっている方々の公演でして、早めに告知いたします。
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箏曲演奏家の元井美智子さん、朗読の荒井真澄さんのコラボです。元井さんが今年の連翹忌に初めてご参加下さり、ご常連の荒井さんと意気投合、荒井さんの地元・仙台で開催の運びとなりました。かつて同様の件で、荒井さんとテルミン奏者の大西ようこさんとのコラボも仙台で開催されたことがありました。

連翹忌は光太郎を偲ぶ集いというのがメインですが、このように様々な方々のネットワーク作りに貢献するというのも一つの目的でして、こういうイベントが為されると、主催者として喜びに堪えません。

こちらに関しましてはまた近くなりましてネット上に情報が出ましたら詳細をお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

「展望」は部数少いと見えて小生の家へも二部しか来ずお送りも出来ません。わざわざ探してよむほどのものでない事と存じます。

昭和22年(1947)9月(推定) 真壁仁宛書簡より 光太郎65歳

「展望」は、幼少期からの自らの来し方、さらに戦争責任などを綴った20篇から成る連作詩「暗愚小伝」が載った7月号です。

「これを書き上げないうちは他の詩は書けない」という気持で臨み(実際には書きましたが)、1年以上かけて完成させた「暗愚小伝」ですが、いざ活字になってみると自分の意を尽くしたものとも言い難く、「わざわざ探してよむほどのものでない」。

書いている時が花、物書きあるあるです。はしくれの当方もそう思います。

岩手盛岡からミニ展示の情報です。

企画展「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」

期 日 : 2024年5月18日(土)~7月21日(日)
会 場 : 岩手県立図書館 岩手県盛岡市盛岡駅西通1-7-1 アイーナ4F
時 間 : 9:00~20:00
休 館 : 5月25日(土)・31日(金)、6月28日(金)
料 金 : 無料

人間にとって身近な動物である牛。古くは塩や海産物を背負って歩いた南部牛、現代ではブランド牛や酪農の取り組みなど、岩手の文化や産業も 牛とともにあゆみを重ねてきました。岩手と牛の関わりについて、所蔵資料で紹介します。
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タイトルの「地を往(ゆ)きて走らず」が、光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)の一節です。
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    岩手の人

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

翌昭和24年(1949)元日の『新岩手日報』に掲載されました。

光太郎は自身を牛にたとえることもあり、遠く大正初めの『道程』時代にずばり「」という長詩を書きましたし、「岩手の人」より後にも「鈍牛の言葉」(昭和24年=1949)という詩も書きました。「鈍牛」は自分自身です。そこで岩手の人々に感じるシンパシーを「牛」に託して語っているような気もします。

現代でも岩手の皆さん、「岩手の人」を光太郎からの贈り物と考えてらっしゃるようで、今回もそうですが、いろいろなところで使って下さっています。最近では令和3年(2021)に、この年が丑年だったため県として「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を展開、「岩手の人」がキャンペーンソングならぬキャンペーンポエム的な使い方をされました。

また遡れば、花巻北高校さんの庭に建つ高田博厚作の光太郎胸像(昭和51年=1976設置)の台座にも「岩手の人」の一節が刻まれています。

ちなみに「「岩手の人」のモデルは、当時の国分謙吉知事だ」という説があります。国分知事の容貌や業績からの類推と思われますし、実際に光太郎と国分知事は花巻温泉で対談したり、同じ式典でそれぞれスピーチしたりといった交流がありました。しかし、それらは昭和25年(1950)以降のことで、「岩手の人」が書かれた時点で面識があったかどうか不明です。もっとも、面識はなくとも詩のモデルに、ということも無くはありませんが……。

さて、今回の展示、「所蔵資料で紹介」というだけで詳細はよく分かりませんが、光太郎に関わる展示も為されることと思われます。さすがにタイトルだけ借りて終わり、とはなりますまい。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

五、六日間雨ばかり降つてゐました。今朝雨やみ曇。畑に水流れ、往来に水あふれ、川音轟々とひびきます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

いわゆるカスリーン台風です。関東地方での被害が大きく、荒川や利根川の堤防が決壊、都内でも葛飾区や江戸川区は全域が水没したそうで、全国で死者1,077人、行方不明者853人。岩手県内でも北上川が氾濫し、南部の一関をはじめ、109人の死亡が確認されました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村でも、橋が流されるなどの被害があったそうです。

岩手では翌年にもアイオン台風が大きな被害をもたらし、国分知事、復旧への陣頭指揮を執りました。

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