昭和6年(1931)に光太郎が訪れ、紀行文「三陸廻り」で紹介した宮城県女川町で、永く光太郎顕彰活動を続けられているの女川光太郎の会さん。このたび県から表彰されたそうです。
地元紙『石巻かほく』さん記事。
女川光太郎の会さん、「文化芸術の振興に尽くした者――地域の伝統芸能等を伝承している町内会等,子どもを対象にした演劇,音楽等の活動で地域に貢献しているもの等」という項目での認定なのでしょう。
記事に誤りがありますが、女川町に光太郎文学碑が建立されたのは平成3年(1991)。女川在住で画家でもあった貝(佐々木)廣氏が中心となり「高村光太郎文学碑建立実行委員会」を立ち上げ、実現しました。光太郎は紀行文「三陸廻り」(昭和6年=1931)で自筆の挿画を添えて女川町を紹介しました。また、のちに昭和12年(1937)になってから、女川港で見た水揚げの記憶を元に詩「よしきり鮫」も執筆しています。それらを受けて「光太郎ほどの偉人がこの女川を様々な形で取り上げてくれたのに、そのことを語り継がないでどうする」ということだったそうです。
碑は三基(数え方によっては四基)、同時に建てられました。中央にメインの碑。5面のプレートを持ち、光太郎短歌「海にして……」(明治42年=1909の作で、女川とは直接の関係はありませんが「海」つながりで)自筆揮毫を中心に、紀行文「三陸廻り」の一節(当会顧問であらせられた北川太一先生揮毫)が2面、それが『時事新報』に載った際の光太郎自筆挿画が2面。
挿画の方の上画像は除幕された頃、当方が撮影したものですが、当初はこのように金色のプレートでした。現在は後述する東日本大震災による被害、その後の風雪などでくすんだ色に変わってしまっていますが……。
左右には詩「よしきり鮫」と「霧の中の決意」(昭和6年=1931)、こちらは光太郎自筆原稿が拡大して刻まれました。下画像はやはり震災前に当方が撮ったものです。
除幕された平成3年(1991)には、それを記念して仙道作三氏作曲、山本鉱太郎氏脚本によるオペラ「智恵子抄」公演も女川で行われました。
当初の「高村光太郎文学碑建立実行委員会」が、翌平成4年(1992)から女川光太郎の会となり、第1回女川光太郎祭を開催。光太郎詩文の朗読や音楽演奏、北川太一氏を講師に招き、講演(現在は当方が引き継いでおります)など。
その後、女川光太郎祭は、コロナ禍での中止はあったものの、東日本大震災のあった平成23年(2011)にも開催され、続いています。大震災時には貝(佐々木)氏が津波に呑まれて亡くなり、文学碑も倒壊、「よしきり鮫」碑と短歌を活字で刻んだ碑は行方不明となりました。残った二基の碑は半分水没していましたが、会の皆さんの御尽力や町の協力もあり、令和2年(2020)に再建されました。
上画像は震災翌年の平成24年(2012)、下画像は再建後です。
震災、石碑、といえば、女川町では震災後、津波到達地点より高い場所に避難の際の目印として建てられた「いのちの石碑」全21基。建立費用はかつて光太郎文学碑でそうしたことに倣い、全額寄付で集められました。このプロジェクトを立ち上げた、震災直後に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちの企画書に明記されました。
津波で還らぬ人となった貝(佐々木)氏の精神が受け継がれたわけで……。
そんなこんなで女川光太郎の会さんが、「住みよいみやぎづくり功績賞」受賞。喜ばしい限りです。
光太郎忌日の4月2日(水)には、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで光太郎を偲ぶ第69回連翹忌の集いを開催いたします。女川光太郎の会さんからは、亡くなった貝(佐々木)氏に代わって運営の中心となられている奥さまの英子さんと笠松弘二氏、「オペラ智恵子抄」の智恵子役で、毎年女川光太郎祭に参加され、アトラクション演奏もなさっている本宮寛子氏、さらに作曲された仙道氏も久しぶりにご参加下さいます。今回の受賞について、英子さんにスピーチしていただくつもりです。
女川での光太郎顕彰、今後のますますの発展を祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
先日のオハガキで天平さん逝去の事を知り、いたましい事に思ひました、からださへよければまだうんとのびる人だつたと思ひます、
「天平さん」は当会の祖・草野心平の実弟にして、心平同様に詩の道へ進んだ草野天平。この年、数え43歳で病没しました。
下って光太郎も歿した後の昭和33年(1958)、『定本草野天平詩集』が刊行され、それに対し故人であるにもかかわらず第2回高村光太郎賞が授与されました。粋な計らいでした。
今回の女川光太郎の会さんの受賞も、亡き貝(佐々木氏)も共に表彰されたと考えたいところです。
地元紙『石巻かほく』さん記事。
地域社会づくりに貢献した個人や団体を県が表彰する本年度の「住みよいみやぎづくり功績賞」に、女川町民有志で組織する「女川・光太郎の会」が選ばれた。町に紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の功績を伝え、地域の活性化や文化振興に貢献していることが評価された。
女川・光太郎の会は、戦前に町を訪れた光太郎の功績を後世に伝えるため1992年に発足。同年夏、女川湾の近くに三つの文学碑を建立した。
文学碑は東日本大震災の津波で流出するも、2020年に再建を果たした。紀行文や詩の朗読などを行う「光太郎祭」も、光太郎が三陸に向けて東京を出発した8月9日に合わせて毎年開催している。
伝達式が17日、石巻市あゆみ野5丁目の県石巻合同庁舎であった。県東部地方振興事務所の石川佳洋所長が「会の活動は全国から女川を訪れるきっかけになっている。若い世代にも伝承の思いが伝わっているのがすばらしい」とたたえ、須田勘太郎会長(84)に表彰状を手渡した。
須田会長は「光太郎祭は震災を乗り越えて今年で34回になるが、会員の高齢化が課題になっている。表彰は団体を知ってもらう機会になり、存続させていくための力になる」と話した。
「住みよいみやぎづくり功労賞」は、昭和45年(1970)に開始された「感謝のことば」という県民の隠れた善行や小さな善意に対して知事が表彰するという事業を引き継いだ事業で、平成18年(2006)度から表彰対象に「安全・安心まちづくり」等を加え、通常の表彰ではなかなか推薦対象とならないようなより広い範囲の地域社会への貢献に対し、知事の感謝状を贈呈するというものだそうです。女川光太郎の会さん、「文化芸術の振興に尽くした者――地域の伝統芸能等を伝承している町内会等,子どもを対象にした演劇,音楽等の活動で地域に貢献しているもの等」という項目での認定なのでしょう。
記事に誤りがありますが、女川町に光太郎文学碑が建立されたのは平成3年(1991)。女川在住で画家でもあった貝(佐々木)廣氏が中心となり「高村光太郎文学碑建立実行委員会」を立ち上げ、実現しました。光太郎は紀行文「三陸廻り」(昭和6年=1931)で自筆の挿画を添えて女川町を紹介しました。また、のちに昭和12年(1937)になってから、女川港で見た水揚げの記憶を元に詩「よしきり鮫」も執筆しています。それらを受けて「光太郎ほどの偉人がこの女川を様々な形で取り上げてくれたのに、そのことを語り継がないでどうする」ということだったそうです。
碑は三基(数え方によっては四基)、同時に建てられました。中央にメインの碑。5面のプレートを持ち、光太郎短歌「海にして……」(明治42年=1909の作で、女川とは直接の関係はありませんが「海」つながりで)自筆揮毫を中心に、紀行文「三陸廻り」の一節(当会顧問であらせられた北川太一先生揮毫)が2面、それが『時事新報』に載った際の光太郎自筆挿画が2面。
挿画の方の上画像は除幕された頃、当方が撮影したものですが、当初はこのように金色のプレートでした。現在は後述する東日本大震災による被害、その後の風雪などでくすんだ色に変わってしまっていますが……。
左右には詩「よしきり鮫」と「霧の中の決意」(昭和6年=1931)、こちらは光太郎自筆原稿が拡大して刻まれました。下画像はやはり震災前に当方が撮ったものです。
除幕された平成3年(1991)には、それを記念して仙道作三氏作曲、山本鉱太郎氏脚本によるオペラ「智恵子抄」公演も女川で行われました。
当初の「高村光太郎文学碑建立実行委員会」が、翌平成4年(1992)から女川光太郎の会となり、第1回女川光太郎祭を開催。光太郎詩文の朗読や音楽演奏、北川太一氏を講師に招き、講演(現在は当方が引き継いでおります)など。
その後、女川光太郎祭は、コロナ禍での中止はあったものの、東日本大震災のあった平成23年(2011)にも開催され、続いています。大震災時には貝(佐々木)氏が津波に呑まれて亡くなり、文学碑も倒壊、「よしきり鮫」碑と短歌を活字で刻んだ碑は行方不明となりました。残った二基の碑は半分水没していましたが、会の皆さんの御尽力や町の協力もあり、令和2年(2020)に再建されました。
上画像は震災翌年の平成24年(2012)、下画像は再建後です。


そんなこんなで女川光太郎の会さんが、「住みよいみやぎづくり功績賞」受賞。喜ばしい限りです。
光太郎忌日の4月2日(水)には、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで光太郎を偲ぶ第69回連翹忌の集いを開催いたします。女川光太郎の会さんからは、亡くなった貝(佐々木)氏に代わって運営の中心となられている奥さまの英子さんと笠松弘二氏、「オペラ智恵子抄」の智恵子役で、毎年女川光太郎祭に参加され、アトラクション演奏もなさっている本宮寛子氏、さらに作曲された仙道氏も久しぶりにご参加下さいます。今回の受賞について、英子さんにスピーチしていただくつもりです。
女川での光太郎顕彰、今後のますますの発展を祈念いたします。
【折々のことば・光太郎】
先日のオハガキで天平さん逝去の事を知り、いたましい事に思ひました、からださへよければまだうんとのびる人だつたと思ひます、
昭和27年(1952)5月23日 草野心平宛書簡より光太郎70歳
「天平さん」は当会の祖・草野心平の実弟にして、心平同様に詩の道へ進んだ草野天平。この年、数え43歳で病没しました。
下って光太郎も歿した後の昭和33年(1958)、『定本草野天平詩集』が刊行され、それに対し故人であるにもかかわらず第2回高村光太郎賞が授与されました。粋な計らいでした。
今回の女川光太郎の会さんの受賞も、亡き貝(佐々木氏)も共に表彰されたと考えたいところです。