最近の地方紙、全国紙から光太郎の名が載った一面コラム等を。
まず『静岡新聞』さん、6月8日(日)掲載分。
まず『静岡新聞』さん、6月8日(日)掲載分。
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。長い名前の絵画で知られるポール・ゴーギャン(1848~1903年)は昨日、6月7日にパリで生まれた。県立美術館で開催中のコレクション展に、別の作品が出ている▼178回目の誕生日、彼の「家畜番の少女」の前に立った。発色のいい黄、緑、青。光あふれる画面だが神秘的な雰囲気も漂う。都会の退廃を嫌ったゴーギャンはフランス北西部のブルターニュ地方をたびたび訪れ、牧歌的風景を描いた。「家畜番-」も成果の一つだ▼日本で早くから彼を取り上げた美術評論家の一人が、医師、詩人の顔も持つ伊東市出身の木下杢太郎(1885~1945年)である。明治時代末期、欧州帰りの詩人高村光太郎に教わったようだ。セザンヌ、ゴッホらとともに「新印象派」の画家として記述し、10年の詩「異国情調」には名前を引用した▼杢太郎は45年6月上旬、最後の随筆「すかんぽ」を執筆した。すかんぽとはタデ科の植物「スイバ」のこと。「郷里ではととぐさと呼んだ」そうだ▼この年の夏以降、都内で入退院を繰り返し、10月15日に亡くなった。絶筆は原稿用紙16枚足らず。野生のすかんぽを食べた幼少期の回想を起点に、半生を振り返っている▼ふと、思う。80年前のちょうど今頃、杢太郎の頭にはゴーギャンの長い作品名があったのではないか。随筆は自分がどこから来た、何者だったかを確認しているように読める。死期を悟った彼は、自分が「どこへ行くのか」もお見通しだったろう。
雑誌『スバル』や、その寄稿者も数多く参加した芸術運動「パンの会」で光太郎と親しかった木下杢太郎がメインです。日本で早い時期にゴーギャンに注目、それが光太郎の影響だったのだろう、と。あり得る話です、というか、それで正解でしょう。
光太郎のゴーギャン紹介は、木下が編集にあたっていた『スバル』に発表され、日本初の印象派宣言とも称される評論「緑色の太陽」(明治43年)に遡ります。いわゆる「地方色」論争の中で書かれたもので、その国や地域特有の色彩感覚があるのだから、それにのっとって絵を描くべしという石井柏亭らの説に光太郎は真っ向から反対、画家は自分のセンシビリティに従って描かなければいけないし、そうすることで自然と「地方色」が現れるもので、格別意識するものでもない、大事なのは個々の感性だ、というわけです。
僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従って、芸術家の PERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考へたいのである。
(略)
僕は生れて日本人である。魚(さかな)が水を出て生活の出来ない如く、自分では黙つて居ても、僕の居る所には日本人が居る事になるのである。と同時に、魚(さかな)が水に濡れてゐるのを意識してゐない如く、僕は日本人だといふ事を自分で意識してゐない時がある。時があるどころではない。意識しない時の方が多い位である。
(略)
その流れの中で、
GAUGUINは TAHITIへまで行つて非仏蘭西的な色彩を残したが、彼の作は考へて見ると、TAHITI 式ではなくして矢張り巴里子式である。
なるほど、ですね。
紹介すべき事項が山積していますので、この辺で次に。一昨日の『毎日新聞』さん。
関東も梅雨入りが宣言されました。諸説ありますが、「梅の実が熟す頃の長雨の時期」という意味で「梅」の字が使われているというのが一般的ですね。そこでこの時期、今回も引用されている光太郎詩「梅酒」(昭和15年=1940)が時折取り上げられます。
一昨年にはやはり梅酒造りを報じたSBS静岡放送さんのローカルニュースでも。このブログでのその紹介の際、昭和27年(1952)3月、NHKのラジオ放送のため、花巻温泉松雲閣で詩人・真壁仁との対談が収録され、「梅酒」を含む自作詩朗読も録音された件にも触れましたが、その録音に立ち会ったNHKの熊谷幸博アナウンサーの回想を最近見つけました。
対談の録音は翌朝行なった。この中で高村さんは芸術とエネルギーの話をし、これからの日本人の食物と体質、体力について論じられた。
さらに私どもは詩の朗読の録音もお願いした。これも快く承諾されて、智恵子抄の中から“千鳥と遊ぶ智恵子”“梅酒”“風にのる智恵子”の三編を朗読された。梅酒のくだりではちょっと涙ぐんで朗読がとぎれた。この感動が伝わって私も涙ぐんだ。
実際にNHKさんに残っている音源を聴くと、光太郎、「梅酒」の途中で洟をすすっています。この録音を元に「泣いている」と表現されることがあり、そうであれば非常にドラマチックですが、確証はなかったのでそう断じるのは危険、「風邪でもひいてたのかもしれない」と思っていたのですが、やはり光太郎、涙ぐんでいたとのこと。いい話ですね。
最後に『朝日新聞』さん。6月8日(日)の教育面で、2月2日(日)の一面コラム「天声人語」を問題文に使って漢字の問題。
最後に解答が上下反転で書いてありますが、問題文をよく読まない慌てんぼうさんには「こうしん」あたりはパッと「甲信」と出てきませんね(笑)。
さて、一面コラム以外にも光太郎がらみの記事が出ていますので、明日はそのあたりを。
【折々のことば・光太郎】
来年はもうあまり、のんだりたべたりに外出しない事にしました故失礼することもあると思ひますがあしからず、
風間は詩人。前年に生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため中野の貸しアトリエに入って以来、光太郎を呑みに連れ出すことがままありました。しかし翌昭和29年(1954)になったら、外食は自粛、というより、宿痾の肺結核のため、それがもはや厳しいというわけです。
こうして昭和28年(1953)が暮れて行きました。
雑誌『スバル』や、その寄稿者も数多く参加した芸術運動「パンの会」で光太郎と親しかった木下杢太郎がメインです。日本で早い時期にゴーギャンに注目、それが光太郎の影響だったのだろう、と。あり得る話です、というか、それで正解でしょう。
光太郎のゴーギャン紹介は、木下が編集にあたっていた『スバル』に発表され、日本初の印象派宣言とも称される評論「緑色の太陽」(明治43年)に遡ります。いわゆる「地方色」論争の中で書かれたもので、その国や地域特有の色彩感覚があるのだから、それにのっとって絵を描くべしという石井柏亭らの説に光太郎は真っ向から反対、画家は自分のセンシビリティに従って描かなければいけないし、そうすることで自然と「地方色」が現れるもので、格別意識するものでもない、大事なのは個々の感性だ、というわけです。
僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従って、芸術家の PERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考へたいのである。
(略)
僕は生れて日本人である。魚(さかな)が水を出て生活の出来ない如く、自分では黙つて居ても、僕の居る所には日本人が居る事になるのである。と同時に、魚(さかな)が水に濡れてゐるのを意識してゐない如く、僕は日本人だといふ事を自分で意識してゐない時がある。時があるどころではない。意識しない時の方が多い位である。
(略)
僕の製作時の心理状態は、従つて、一箇の人間があるのみである。日本などといふ考へは更に無い。自分の思ふまま見たまま、感じたままを構はずに行(や)るばかりである。後(のち)に見てその作品が所謂日本的であるかも知れない。ないかも知れない。あつても、なくても、僕といふ作家にとつては些少の差支もない事なのである。地方色の存在すら、この場合には零(ゼロ)になるのである。
その流れの中で、
GAUGUINは TAHITIへまで行つて非仏蘭西的な色彩を残したが、彼の作は考へて見ると、TAHITI 式ではなくして矢張り巴里子式である。
なるほど、ですね。
紹介すべき事項が山積していますので、この辺で次に。一昨日の『毎日新聞』さん。
半熟の生梅を灰汁(あく)で洗い、古酒、白砂糖と合わせてかめに入れる。年を経たものが最も良い。梅を取り、酒を取りしてどちらも用いる――。江戸時代の博物書「本朝食鑑」が記す梅酒のレシピである▲砂糖が貴重だった時代。庶民には高根の花だっただろう。江戸後期に商品作物としての梅の栽培が盛んになり、徐々に広まったという。今の主流である焼酎を使った梅酒は明治以降に誕生したらしい▲スーパーの青果売り場に青梅が山積みになっていた。氷砂糖と焼酎もそばに置いてある。梅の実が熟す入梅の時期。毎年、梅酒を造る家庭も多いのだろう。物価高騰の折、安価な「キズあり」も問題なく使えるというのはうれしい▲もっとも酒税法の壁はある。アルコール度数20%以上の酒を使って自家消費することが条件。63年前の法改正で、この条件付き容認が明確化されるまでは家庭での梅酒造りは「もぐり」扱いだったという▲「厨(くりや)(台所)に見つけたこの梅酒の芳(かお)りある甘さをわたしはしずかにしずかに味わう」。彫刻家で詩人の高村光太郎は「智恵子抄」の最後に記した。愛妻が残した手作りの味は特別だったのだろう▲本朝食鑑は「食を進め、毒を解す」と効能を記す。クエン酸を含み、疲労回復や血行促進の効果があるらしい。健康志向もあり、メーカー物の高級梅酒はインバウンド客に好評という。温暖化の影響でこのところ猛暑の年が続く。伝統の味を夏バテ予防にも生かしたい。<とろとろと梅酒の琥珀(こはく)澄み来(きた)る/石塚友二>
関東も梅雨入りが宣言されました。諸説ありますが、「梅の実が熟す頃の長雨の時期」という意味で「梅」の字が使われているというのが一般的ですね。そこでこの時期、今回も引用されている光太郎詩「梅酒」(昭和15年=1940)が時折取り上げられます。
一昨年にはやはり梅酒造りを報じたSBS静岡放送さんのローカルニュースでも。このブログでのその紹介の際、昭和27年(1952)3月、NHKのラジオ放送のため、花巻温泉松雲閣で詩人・真壁仁との対談が収録され、「梅酒」を含む自作詩朗読も録音された件にも触れましたが、その録音に立ち会ったNHKの熊谷幸博アナウンサーの回想を最近見つけました。
対談の録音は翌朝行なった。この中で高村さんは芸術とエネルギーの話をし、これからの日本人の食物と体質、体力について論じられた。
さらに私どもは詩の朗読の録音もお願いした。これも快く承諾されて、智恵子抄の中から“千鳥と遊ぶ智恵子”“梅酒”“風にのる智恵子”の三編を朗読された。梅酒のくだりではちょっと涙ぐんで朗読がとぎれた。この感動が伝わって私も涙ぐんだ。
(『日本放送史 下』昭和40年=1965 日本放送協会放送史編集室編 日本放送協会)
実際にNHKさんに残っている音源を聴くと、光太郎、「梅酒」の途中で洟をすすっています。この録音を元に「泣いている」と表現されることがあり、そうであれば非常にドラマチックですが、確証はなかったのでそう断じるのは危険、「風邪でもひいてたのかもしれない」と思っていたのですが、やはり光太郎、涙ぐんでいたとのこと。いい話ですね。
最後に『朝日新聞』さん。6月8日(日)の教育面で、2月2日(日)の一面コラム「天声人語」を問題文に使って漢字の問題。
最後に解答が上下反転で書いてありますが、問題文をよく読まない慌てんぼうさんには「こうしん」あたりはパッと「甲信」と出てきませんね(笑)。
さて、一面コラム以外にも光太郎がらみの記事が出ていますので、明日はそのあたりを。
【折々のことば・光太郎】
来年はもうあまり、のんだりたべたりに外出しない事にしました故失礼することもあると思ひますがあしからず、
昭和28年(1953)12月26日 風間光作宛書簡より 光太郎71歳
風間は詩人。前年に生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため中野の貸しアトリエに入って以来、光太郎を呑みに連れ出すことがままありました。しかし翌昭和29年(1954)になったら、外食は自粛、というより、宿痾の肺結核のため、それがもはや厳しいというわけです。
こうして昭和28年(1953)が暮れて行きました。