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4月に刊行されたはずの書籍ですが、ネット上で書影を探しても見つかりませんでした。

『サンデー毎日』総目次・執筆者索引1945~1952  ―新聞社系週刊誌の戦後占領期2

発行日 : 2026年4月
著者等 : 石川偉子監修
版 元 : 金沢文圃閣
定 価 : 52,000円+税

 時局報道をまとめて伝える目的で始まった『週刊朝日』。―対して、生活に関する実用記事を強く意識した『サンデー毎日』。
 本書は総目次を作成することに対して懐疑的な世の中の風潮において、目次情報を確認するための総目次から一歩進んだ使い方が可能となるような書誌・資料目録の在り方を模索する中から編まれた。記事主タイトルや執筆者といった基本項目だけでなく、従来の総目次では採録されることのない記事小見出しや、記事内画像・カットのキャプションについても情報をまとめた。読み込むことで新たな気づきが得られる一冊を目指した。

【第一回配本】2026年4月 ISBN 978-4-86814-086-3 配本揃価48,000円
 上巻 (396頁)
  収録内容 
   『サンデー毎日』総目次 (1945年8 月12 日号~1949 年12 月25 日号)
    1945 年 解説—敗戦後の社会を生き抜くために(杉本佳奈)
    1946 年 解説—日常生活の変化と持続(片岡美有季)
    1947 年 解説—戦後の傷と膿みを綴る(松本拓真)
    1948 年 解説—『サンデー毎日』復活後の安定期(石井花奈)
    1949 年 解説—「ニュース雑誌」が追う革命闘争(須山智裕)
 下巻(482頁)
  収録内容
   『サンデー毎日』総目次(1950年1 月1 日号~1952 年5月10 日号)
    1950年 解説—方向性の模索と充実(渡部裕太)
    1951年 解説—1951年における『サンデー毎日』の映す日常(安藤史帆)
    1952年 解説—1952年の『サンデー毎日』(仲井眞建一)
   〈コラム〉占領期『サンデー毎日』の北海道現地印刷(石井花奈)
   〈コラム〉大佛次郎のもう一つの〝帰郷〟
―『サンデー毎日』連載作品『黒潮』における郷里(泉渓春)
   〈コラム〉『サンデー毎日』に描かれた「朝鮮動乱」(河田綾)
   〈コラム〉『サンデー毎日』に見る地方文化建設(牛路遥)
   〈コラム〉『サンデー毎日』にみるラジオ民間放送の開始(濱下知里)
【第二回配本】2026年10月 ISBN 978-4-86814-087-0 予価4,000円
 別冊(約170頁) 
  序論 戦後占領期『サンデー毎日』の刊行状況および誌面内容について(石川偉子)
  論考 戦後占領期の『サンデー毎日』における検閲(石川巧)
  索引
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近代文学研究などをなさっている方々は「ああ、この手の本か」とすぐおわかりでしょうが、特定の雑誌の目次や執筆者を索引化したものです。主な雑誌などについては、色々な出版社からかなり刊行されており、これまでも随分と使わせていただいて参りました。

『サンデー毎日』に関しては、ゆまに書房さんで創刊号(大正11年=1922 4月)から昭和20年(1945)8月12日号までを収録した『戦前期『サンデー毎日』総目次』が全三巻で既に刊行されています(現在はオンデマンド)。

今回のものは、昭和20年(1945)8月12日号から昭和27年(1952)年5月10日号まで。なぜ昭和27年(1952)で切ったのかよくわかりませんが。

戦前期を含め、光太郎の作品で『サンデー毎日』が初出、というものは今のところ確認できていません。ただ、他紙誌からの転載、光太郎について取材した記事などはいくつかありました。

まず転載系、今回のものの当該期間ですと、昭和25年(1950)10月20日の別冊中秋特別号。
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巻頭にカラー印刷で7ページにわたり「秋風帖」と題し、7人の詩人の旧作に当代一流の画家たちの挿画を添えたページが設けられています。北原白秋/足立源一郎で「片恋」、佐藤春夫/東郷青児の「秋の夜」、萩原朔太郎/古沢岩美による「青空」、室生犀星/山口華楊コンビで「消えゆく虫」、山村暮鳥/福田豊四郎が「ある時」、堀口大学/宮田重雄ときて「秋のピエロ」、そして光太郎/宮本三郎の「或る日」。

「或る日」は昭和3年(1928)9月の作ですので、この時点で20年以上経っています。初出誌が不明でして、翌4年(1929)2月の雑誌『現代文芸』第6巻第2号(素人社)に載ったそうですが、当会顧問であらせられた北川太一先生によればこれも初出ではなく転載だろうとのことです。

元々、光太郎が好感を抱いていた秩父宮雍仁親王と、旧会津藩主松平容保の孫・勢津子妃殿下のご成婚に題を採った詩でした。しかし、『サンデー毎日』に附された挿画は田舎の花嫁が馬で輿入れする姿。転載に際し、光太郎自身が詩の内容や背景を忘れていて、「どんな詩だか思い出せないけど転載は構わないよ」ということでこうなってしまいました。発行されてから秩父宮親王関連だったと思い出した光太郎、「ありゃま」でした(笑)。

それから、遡って昭和22年(1947)6月15日の第26年第25号には「父と子と 愛情に描く“文化の群像” 高村光雲と高村光太郎、豊周」という記事が載っています。芸術家親子ということで、3人の紹介です。光雲は既に亡くなっていましたが。
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今のところ当該期間で確認できている光太郎がらみはこの2冊です。しかしまだあってもおかしくありません。過日ご紹介した不二出版さんの『復刻版 海の旅』同様、国会図書館さんあたりで閲覧可能となったら調べてみようと思っております。国会図書館さんのデジタルデータでは、だいぶ新しい昭和42年(1967)の号からしか網羅されていません。

今回の当該期間外ですと、昭和31年(1956)4月15日の第35年第19号には、光太郎の追悼記事が出ています。
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ちなみにこの号と、上記の別冊中秋特別号は小磯良平、第26年第25号が光太郎と交流のあった硲伊之助が表紙を描いています。昔はそのあたり、豪華でしたね。

この手の特定の雑誌の目次や執筆者を索引化したもの、最近はかつてほど刊行されていないような気がしますが、そういう情報を得られていないだけかもしれません。「こんな雑誌についてのもこの間出たよ」という情報がありましたら、ご教示いただけると幸いです。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 38 『定本高村光太郎全詩集』

昭和57年(1982)6月30日 筑摩書房 北川太一編
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目次
 明治三十五年(一九〇二)
  なやみ
 明治四十年(一九〇七)
  秒刻 マデル 豆腐屋 博士 あらそひ 
  敗闕録
   ㈠われ千たび君を抱かむ ㈡君を見き ㈢遁れたる君は遣らばや
   ㈣眠りてあれか目覚めよか
 明治四二年(一九〇九)
  にほひ
 明治四三年(一九一〇)
  LES IMPRESSIONS DES OũONNAS TU VOIS? LE SOURIRE CACHÉ
   L'ABSINTHE POUSSE―POUSSE Á LA GUM―WA 失はれたるモナ・リザ
  友よ PRÉSENTATION 生けるもの 根付の国
 明治四四年(一九一一)
  画室の夜 熊の毛皮 人形町 甘栗 庭の小鳥 亡命者 鳩 食後の酒 侵蝕 失走
  寂寥 或る日の午後 街上夜曲 雪の午後 声 風 (別れぎは) (散りかかる)
  新緑の毒素 夏 廃頽者より 「河内屋与兵衛」 髪を洗ふ女 「心中宵庚申」 なまけもの
  手 縁日  金秤 はかなごと 狗ころ
  泥七宝
   (ちらちらと) (家を出づるが) (きりきりと錐をもむ) (それと知つて)
   (つくづく見れば) (バタを造れば) (もらつた人形を) (かなしや人は)
   (長き睫毛の) (この守袋は) (淘宮には) (かの国より来し)
   (われは気違ひとぞとよ) (生れてより) (女よ) (蛙が鳴く)
  めくり暦 地上のモナ・リザ 葛根湯 夜半 けもの  あつき日 かるた 髪を洗ふ女
  父の顔 「おもひで」と「夜の舞踏」と 白昼の空気
  泥七宝㈡
   (皮肉ものと) (言葉のほかにも) (読みてゆけば) (知らぬ顔の) (八重次の首は)
   (人ごみの) (無法な雷は) (蓮花の花の) (酔へる人の) (女の涙を) (朝なれど)
   (たてひき知らぬ人に) (おもしろや) (淋しい顔は) (はりに行くとは) (両国橋の)
  ビフテキの皿 恐怖
 明治四五年・大正元年(一九一二)
  青い葉が出ても 赤鬚さん 隣のおきやん 雨 鍵と錠 プリマドンナ 二人 あをい雨
  泥七宝㈢
   (われをなげけとてか) (「勝てば官軍」) (妻もつ友よ) (さけをつくるもね)
  友の妻
  泥七宝㈣
   (弱きは女の) (たとひ離れて) (てんちりんち) (お嫁にゆくを) (月さへいでて)
  人に(いやなんです) N――女史に(「人に」初出) 怨言 ヹネチヤの旅人
  夏の夜の食慾 或る夜のこころ 涙 おそれ からくりうた
  泥七宝㈤
   (ひとりものは) (それでみんなか) (さきがさきなら) (腕をくんで) (腹をたつた)
     (ものおぼえよき人は) (こびとじまの)
  犬吠の太郎 さびしきみち 寂しき道(「さびしきみち」異稿) 梟の族 かなしきこころ
  冬が来る(冬が来る) 或る宵 夜 或問 狂者の詩 郊外の人に 冬の朝のめざめ
  師走十日 戦闘
 大正二年(一九一三)
  人に(遊びぢやない) 深夜の雪 
  カフエにて
   (泥でこさえた) (何もかも) (アメリカ帰りの) (おれの魂を) (無理は天下の)
   (人間の心の影の)
  人類の泉 山 よろこびを告ぐ 冬が来た 冬の詩 粘土 牛 僕等 あたり前 現実
  現実(初出)
 大正三年(一九一四)
  道程 道程(初出) 愛の嘆美 群集に 婚姻の榮唱 万物と共に踊る 瀕死の人に与ふ
  晩餐 五月の土壌 淫心 秋の祈 
 大正五年(一九一六)
  わが家 我家(「わが家」初出) 花のひらくやうに 海はまろく 歩いても
  湯ぶねに一ぱい 晴れゆく空 妹に 無為の白日  無為の白日(初出) 猫
 大正六年(一九一七)
  小娘 (奇麗にお化粧した)
 大正九年(一九二〇)
  序曲 メロン 丸善工場の女工達 
 大正一〇年(一九二一)
  雨にうたるるカテドラル かがやく朝 かがやく朝(初出) ラコツチイ マアチ
  ベルリオの一片(「ラコツチイ マアチ」初出) 米久の晩餐 
 大正一一年(一九二二)
  クリスマスの夜 クリスマスの夜(初出) 真夜中の洗濯 下駄 冬の送別
  五月のアトリエ 沙漠 落葉を浴びて立つ Yoki kora yo! よき子等よ!(翻字)
  冬の子供 Fuyu no Kodomo(初出)
 大正一二年(一九二三)
  樹下の二人 Abraham Lincoln エブラハム リンコン(異稿) 鐵を愛す Liluli
  リリユリ(翻字)
  とげとげなエピグラム
   (夜中になると) (大変いいけれども) (おれは求めてゐる) (雨蛙よ)
   (詩はおれの安全弁) (避難はたのもしい) (おもしろい電車の中) (自分のあたまの)
   (おれの手の届かないさきを) (人のよろこびまで) (おなかが減つて)
   (そんなにおれが) (人のきめてくれた) (自分で自分を) (いいわるいを抜きにして)
   (皮肉ならお止し、夜が) (皮肉ならお止し、どうせ) (それが哲学か)
   (君の思ふ壺から) (喰べたものを) (ロダンを嫌ふのが) (三界をまたにかけた)
   (彫刻は俺の錬金術) (「杉の芽のやうな」) (人麿よ、芭蕉よ)
   (あまりよく知りもせずに) (与謝野晶子の歌に) (六十を越したら)
   (どうかきめないでくれ) (この猛獣を馴らして)
  Shine meshi 支那飯(翻字)
 大正一三年(一九二四)
  春駒 温泉と温泉場 清廉
 大正一四年(一九二五)
  月曜日のスケルツオ 白熊 氷上戯技 首狩 傷をなめる獅子 少年を見る
  ある首の幻想 校庭 狂奔する牛 車中のロダン あの詩人 無口な船長 後庭のロダン
  珍客 葱
 大正一五年・昭和元年(一九二六)
  路ばた 金 十大弟子 鯰 象の銀行 苛察 滑稽詩(穴蔵に先祖代々の兵糧が)
  夜の二人 聖ジヤンヌ 感謝 ミシエル・オオクレエルを読む 新茶 雷獣 秋を待つ
  深夜 大きな嚔 火星が出てゐる 冬の奴 偉大なるもの
 昭和二年(一九二七)
  あなたはだんだんきれいになる 無題(すばらしいものを見た) 懐ふ 二つの世界
  不平な人に あけぼの 怒 或日の日記より(「怒」初出) 笑
  二つに裂かれたベエトオフエン 花下仙人に遭ふ 
  エピグラム
   超現実派 煩瑣派 卑近美派 詩人 新感覚派
  美を見る者  「詩」
  名所
   大湧谷 草津
  母をおもふ 母をおもふ(初出) 北東の風、雨 昔話
  偶作十五篇
 
  (彫刻はおそろしい) (どうせ死ぬ首の中に) (おれは眼を見て) (急にしんとして)
   (翼のある人がある)(「急にしんとして」初出) (人間のからだは) (桃の実は)
   (くるみの種を) (人生への怒は) (人情ぽいものよ) (真の自由の) (女がぽかんと)
   (おれは力が) (木を彫ると) (ふつとさう思ふことがある)
   (朝晩少しひやひやするアトリエで) (平和的な平和を)
  天文学の話 平和時代 殺風景 或る墓碑銘 冬の言葉 その年私の十六が来た
 昭和三年(一九二八)
  ぼろぼろな駝鳥 最後の工程 彼は語る 竜 当然事 なにがし九段 さういふ友
  あどけない話
  偶作
   (うやうやしいのは) (御岳山の行者は)
  あの音 無限軌道 約束 
  夏書十題
   青空 底 寒山詩    うつたうしきもの (ヤマノイモの) さうか、寒公
   (夜明けのかなかなに) 死ねば 無いからいい 一人づつが  
  同棲同類 何をまだ指さしてゐるのだ 或る日 カタバミの実 焼けない心臓 触知
  存在 古事一則 旅にやんで 街上比興 その詩
 昭和四年(一九二九) 
  首の座 独り酸素を奪つて 北島雪山 上州湯桧曽風景 人生 或る筆記通話
  非ユークリツド的 偶作(詩歌の城に) (詩歌の城に)(「偶作」初出) 秋が来たんだ
  激動するもの 上州川古「さくさん」風景 或る親しき友の親しき言葉に答ふ
  孤独で何が珍らしい
 昭和五年(一九三〇)
  のんきな会話 のんきな会話(初出) 春の一年生 刃物を研ぐ人 消えずの火
  籠球スナツプ シヨツト “Die Welt ist scoen” のつぽの奴は黙つてゐる
  耳で時報をきく夜 冷熱 提要(「冷熱」異稿) 南極 機械、否、然り
  友よ(まづ第一に)
 昭和六年(一九三一)
  一艘の船が二艘になること 似顔 不許士商入山門 美の監禁に手渡す者 卓上の七月
  検温 霧の中の決意 ゆつくり急がう レオン ドウベル
 昭和七年(一九三二)
  非ヨオロツパ的なる 非欧米的なる(「非ヨオロツパ的  なる」改稿) 
  もう一つの自転するもの 五月のウナ電
 昭和九年(一九三四)
  「藤島武二画集」に寄す
 昭和一〇年(一九三五)
  人生遠視 風にのる智恵子 「悪魔の貞操」に寄す 寸言 秋風をおもふ ばけもの屋敷
  村山槐多 詩の道
 昭和一一年(一九三六)
  鯉を彫る 荻原守衛 堅氷いたる
 昭和一二年(一九三七)
  少年に与ふ わが大空 よしきり鮫 マント狒狒 象 千鳥と遊ぶ智恵子
  値ひがたき智恵子 秋風辞 夢に神農となる 晴天に酔ふ
  冬が来る(米予想収穫高の発表がすむと) 老耼、道を行く 未曾有の時 詩について
  天日の下に黄をさらさう
 昭和一三年(一九三八)
  手紙に添へて 団十郎像由来 森のゴリラ 潮を吹く鯨 若葉 地理の書 山麓の二人
  孤坐 日本の秋 或る日の記 吾が同胞 子を産む書物 その時朝は来る 群長訓練
  新しき御慶 正直一途なお正月 こどもの報告
 昭和一四年(一九三九)
  米のめしの歌 レモン哀歌 軍艦旗 芋銭先生景慕の詩 初夏言志 初夏到来
  つゆのよふけに 上海陸戦隊をおもふ 乃木大将を懐ふ 事変二周年 肉体 君等に与ふ
  亡き人に 愛について お化屋敷の夜 銅像ミキイヰツツに寄す 紀元二千六百年
  
発足点 北冥の魚 冬 先生山を見る 紀元二千六百年にあたりて へんな貧
  穴ずまひ(「へんな貧」初稿) 私は青年が好きだ 重大なる新年 源始にあり
 昭和一五年(一九四〇)
  ほくち文化 護国神社 蝉を彫る 落日 梅酒 五月のうた 新緑の頃 雷電の夜
  最低にして最高の道 無血開城 純潔 歩くうた 式典の日に 漁村曙 少女立像
  朋あり遠方に之く 世界は美し 太子筆を執りたまふ われら持てり 新年に与ふ
 昭和一六年(一九四一)
  さくら 四月の馬場 風かをる(「四月の馬場」異稿) 清くして苦きもの 少女に
  みかきにしん 協力の磊塊たれ 青年 荒涼たる帰宅 事変はもう四年を越す
     事変はもう四年を越す(初出) 或会議に列して 迎火 純潔のうた 百合がにほふ
  新穀感謝の歌 必死の時 こころに美をもつ 危急の日に 大詔渙発 十二月八日
  鮮明な冬 彼等を撃つ 新しき日に 神のごとく行へ
 昭和一七年(一九四二)
  沈思せよ蒋先生 ことほぎの詞 変貌する女性 シンガポール陥落
  夜を寝ざりし暁に書く 昭南島に題す 或る講演会で読んだ言葉 特別攻撃隊の方々に
  独居自炊 帝都初空襲 戦歿報道戦士にささぐ 与謝野夫人晶子先生を弔ふ 仕事場にて
  民国の民と兵とに与ふ 真珠港特別攻撃隊 鬱勃たる健康 われら文化を
  山道のをばさん 女性はみんな母である 感激をかくさず    感激をかくさず(不許可稿)
  三十年 神とともにあり 新天地 みなもとに帰るもの 少女よ 神これを欲したまふ
  逞しき一念 覆滅彼にあり 寒夜読書 戦にきよめらる われらの道
  決戦の年に志を述ぶ
 昭和一八年(一九四三)
  少女の思へる 殄滅せんのみ 紀元節を迎ふ さかんなるかな造船 「撃ちてし止まむ」
  供木のことば 監視哨 あそこで斃れた友に 艦隊を見る 海軍魂を詠ず 軍人精神
  提督戦死 厳然たる海軍記念日 山本元帥国葬 五月二十九日の事 報道の戦士をたたふ
  われらの死生 「まつた」を知らず 「江田島」を読んで ビルマ独立 友来る
  ぼくも飛ぶ おん魂来りうけよ 勤労報国 粛然たる天兵 救世観音を刻む人
  フイリツピン共和国独立 四人の学生 全学徒起つ 戦に徹す 断じてかへさず
  激戦未だ終らず 大決戦の日に入る 第五次ブーゲンビル島沖航空戦
  十二月八日三たび来る 貴さ限りなし 少年飛行兵 少年飛行兵の夢 少女戦ふ
  海上日出 熱鉄烈火の年 マキン、タラワの武人達 新年よ、熟視せよ 新年は見る
 昭和一九年(一九四四)
  昭南島生誕二周年 臣ら一億楠氏とならん 南洋眼前にあり 品性の美 少年兵
  陽春の賦 敵ゆるすべからず 必勝の品性 春暁におもふ 山林頌 美をすてず 保育
  写真を見て 米英自ら知らず 合せ祀らるる靖国の神に われらの祈 戦意愈々昂し
  古代の如く たのしい少女 弾薬手 根元の道 ほんとの力 婦女子凜烈たり
  黒潮は何が好き 南瓜賦 米英来る 美しき落葉 最大の誇りに起つ 神州護持
  十二月八日四度来る われらの雄たけび わたつみのうた 大東亜の子ども達よ 満三年
  新春に面す
  二千六百五年のむかし 皇太子さま御乗馬
 昭和二〇年(一九四五)
  皇国骨髄の臣 梅花かをる 青春のうた 力を知る 無想の剣 おほぞらのうた
  栗林大将に献ず 神潮特別攻撃隊 戦火 琉球決戦 海軍記念日に 薫風の如く
  勝このうちにあり
  小曲二篇
   (花はなにとて) (木の実草の実)
  石くれの歌
   (石くれは動かない) (あかい佐渡石が)
  一億の号泣 犯すべからず 小曲二篇 石くれの歌 非常の時 松庵寺 武装せざる平和
  永遠の大道 雪白く積めり
 昭和二十一年(一九四六)
  和について 皇太子さま 国民まさに餓ゑんとす 雲 絶壁のもと (観自在こそ)
 昭和二二年(一九四七)
  山菜ミヅ 田植急調子 (リンゴばたけに)
  暗愚小伝
   家
    土下座 ちよんまげ 郡司大尉 日清戦争 御前彫刻 建艦費 楠公銅像
   転調
    彫刻一途 パリ
   反逆
    親不孝 デカダン
   蟄居
    美に生きる おそろしい空虚
   二律背反
    協力会議 真珠湾の日 ロマン ロラン 暗愚 終戦
   炉辺
    報告 山林
  暗愚小伝断片
   わが詩を読みて人死に就けり (死はいつでも)
  山のひろば 蒋先生に慙謝す 脱卻の歌 「ブランデンブルグ」 試金石 岩手山の肩
 昭和二三年(一九四八)
  人体飢餓 東洋的新次元
  山口より
   山口部落 かくしねんぶつ クロツグミ ヨタカ 別天地
  噴霧的な夢 おれの詩 お祝のことば 新年 岩手の人 (人間劣性の)
 昭和二四年(一九四九)
  若しも智恵子が 女医になつた少女 悪婦 山の少女 山からの贈物  月にぬれた手
  滑稽詩二篇
   Rilke Japonica etc. 赤トンボ
  智恵子抄その後
   元素智恵子 メトロポオル 裸形 案内 あの頃 吹雪の夜の独白 
  鈍牛の言葉 山荒れる この年 あいさつ 一九五〇年
 昭和二五年(一九五〇)
  偶作(人が機械をつくるといふ)  典型 建てましよ吾等の児童会館 クチバミ
  金田一国士頌 東北の秋 開拓に寄す 大地うるはし 人間拒否の上に立つ 明瞭に見よ
  船沈まず 遠い地平 初夢まりつきうた 酔中吟
 昭和二六年(一九五一)
  岩盤に深く立て 智恵子と遊ぶ
 昭和二七年(一九五二)
  山のともだち ばた屋 餓鬼 (四つの仮面は) 報告(あなたのきらひな東京へ)
  お正月に
 昭和二八年(一九五三)
  東京悲歌 十和田湖畔の裸像に与ふ かんかんたる君子
 昭和二九年(一九五四)
  記者図 弦楽四重奏 新しい天の火
 昭和三〇年(一九五五)
  開拓十周年 追悼 開びゃく以来の新年 お正月の不思議 生命の大河
 解題(北川太一)
 年譜(北川太一編)
 編者覚え書(北川太一)
 詩題索引

この時点で確認できていた光太郎詩全編を編年体で収めてあります。初出発表形と決定稿がかなり異なる場合には、初出発表形もならべてあります。

先だつ昭和41年(1966)には新潮社から『高村光太郎全詩集』が出ていますが、そちらは詩集を根幹とした配列で言わば紀伝体でした。

明日以降何日間か、これから開催されるイベント等の紹介を致しますが、その前にそうした形で事前に紹介できず、終わってしまったものについて。記録のためにも紹介しておきます。

まず、4月18日(土)に新宿区の音楽の友ホールさんで開催された「バーゼル国際歌曲コンクール2026 ファイナル」。
006 007
ピアノ、ヴァイオリン、声楽、フルート、ハープの5部門から成る「バーゼル国際音楽コンクール」の声楽部門で、国籍学籍不問、プロアマ不問、若手声楽家の登竜門的なもののようです。
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一次審査、二次審査はYouTubeだそうで、これも時代の流れかなと思いました。最近はそれが一般的なのでしょうか。ファイナルのみが会場審査で、4月18日(土)に音楽の友ホールさんで開催されました。

ちなみに審査員のお一人、テノールの樋口達哉氏は智恵子の故郷・二本松市のご出身で同市の観光大使も務められていて、故・湯浅譲二氏作曲の「二本松市民の歌」なども歌われていますし、平成31年(2019)に同市で開催された「2019全国さくらシンポジウムin二本松~ ほんとの空に さくら舞う ~」などにもご出演なさっていました。

本選では時間が割り当てられるのでしょう、12名の各出場者が3曲から5曲を歌って審査に臨んでいました。

で、結果が以下の通り。敬称略ですみません。

 第1位   Geng LI (LEE) バリトン  中国
 第2位   川出康平 Kohei KAWADE  テノール  日本
 第3位   三神祐太郎 Yutaro MIKAMI バリトン 日本 
     Jana CVETKOVIC メゾソプラノ セルビア
 第4位   Juhyung Kim  バリトン  韓国
 第5位   郭冬家 GUO Dongjia  テノール 中国
 第6位   Elena Xanthoudakis  ソプラノ  オーストラリア 
 聴衆賞  Jana CVETKOVIC メゾソプラノ  セルビア
009
このうちみごと第2位に輝かれた川出康平氏、演奏曲目が以下の通りでした。

 ・R.Strauss:“Heimliche Aufforderung”(リヒャルト・シュトラウス:“密やかな誘い”)
 ・R.Strauss:“Morgen!”(リヒャルト・シュトラウス:“明日に!”)
 ・O.Respighi:“Nevicata”(レスピーギ:“雪”)
 ・別宮貞雄:歌曲集「智恵子抄」より“人に”

国際コンクールですので(そうでなくてもそうかもしれませんが)、外国曲が3曲、そして故・別宮貞雄氏の歌曲集「智恵子抄」から「人に」。まさか樋口氏と二本松の関係から印象をよくしようとして選曲したというようなセコい意図はなかったはずですが(笑)、その偶然に驚きました。

別宮氏の「智恵子抄」、テノールの紀野洋孝氏が積極的に取り上げられ、さまざまな機会で歌われたり、CDに組み入れたりされています。また、他の声楽家の方もぽつりぽつり、毎年のようにどこかしらで歌われている感じです。

事前に曲目がわかっていれば、ぜひ聴きに行きたいところでした。

惜しくもグランプリは逃された川出氏ですが、「プロフェッショナル歌曲賞」も受賞、さらに川出氏の伴奏を務められたピアノの吉本有佑氏は「伴奏者賞」でした。

今後のさらなるご活躍に期待いたしますし、別宮氏の「智恵子抄」もどんどん取り上げていただきたいものです。

もう1件。5月9日(土)に世田谷区の三茶しゃれなあどホールさんで「朗読とお話 宮静枝の詩に投影された高村光太郎の戦後」というイベントが開催されたとのことです。世田谷区さんの広報誌で事前に小さく紹介が出ていましたが、気づきませんでした。
010
気づいたのは、デザイナーの宮白羊氏のX(旧ツイッター)投稿で、当日でした。
012
「父」というのが、写真家のみやこうせい氏(本名・宮暠成氏)です。

イベント標題にある「宮静枝」がこうせい氏のお母さま。岩手江刺の出身で、昭和26年(1951)秋に、花巻郊外太田村の光太郎の山小屋を訪れ、その時の体験を元に、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』を上梓、第33回晩翠賞に輝いています。同書はまるっと一冊、光太郎を語った詩集で、実に多くの啓示を与えてくれるものでした。
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昭和26年(1951)11月11日の光太郎日記。

盛岡より宮静枝さん、甥(千葉氏)の人と子供二人つれてくる、新小屋。ライカにて撮影いろいろ、宮さんにカーテンぬつてもらふ。

「子供二人」にこうせい氏も含まれていますし、「ライカにて撮影」された写真が『詩集 山荘 光太郎残影』に14葉掲載され、そこにはこうせい氏も写っています。
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おそらくこうせい氏、この日の出来事などを語られたのでしょう。また、他の方々が『詩集 山荘 光太郎残影』から朗読をなさったのだと思われます。

下記は同書の復刻版を扱っているユニコ舎さんのX(旧ツイッター)投稿。
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これも事前に知っていたら、万難を排して駆けつけたのですが……。

『詩集 山荘 光太郎残影』、ぜひお買い求め下さい。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 10 『現代日本名詩選 道程・典型』

昭和28年(1953)3月10日 筑摩書房 高村光太郎著
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目次
 道程
  一九一〇年
   失はれたるモナ・リザ 生けるもの 根付の国
  一九一一年
   画室の夜 熊の毛皮 人形町 甘栗 庭の小鳥 亡命者 鳩 食後の酒 寂寥 声 風
   新緑の毒素 廃頽者より 「河内屋与兵衛」 髪を洗ふ女 「心中宵庚申」 夏
   なまけもの 手 金秤 はかなごと めくり暦 地上のモナ・リザ 葛根湯 夜半
   けもの あつき日 父の顔 泥七宝 ビフテキの皿
  一九一二年
   青い葉が出ても 赤鬚さん あをい雨 友の妻 ――に 夏の夜の食慾
   或る夜のこころ おそれ 犬吠の太郎 さびしきみち カフエにて 梟の族 冬が来る
   カフエにて 或る宵 夜 狂者の詩 郊外の人に 冬の朝のめざめ カフエにて
   師走十日 戦闘
  一九一三年
   人に カフエにて 深夜の雪 人類の泉 山 よろこびを告ぐ 現実 冬が来た
   冬の詩 牛 僕等
  一九一四年
   道程 愛の嘆美 群集に 婚姻の栄誦 万物と共に踊る 瀕死の人に与ふ 晩餐
   五月の土壌 淫心 秋の祈
 典型
 序
 雪白く積めり 
 暗愚小伝
    家
   土下座 ちよんまげ 郡司大尉 日清戦争 御前彫刻 建艦費 楠公銅像
  転調
   彫刻一途 パリ
  反逆
   親不孝 デカダン
  蟄居
   美に生きる おそろしい空虚
  二律背反
   協力会議 真珠湾の日 ロマン ロラン 暗愚 終戦
  炉辺
   報告 山林
 「ブランデンブルグ」 脱卻の歌 人体飢餓 東洋的新次元 おれの詩 悪婦 山荒れる
 月にぬれた手 鈍牛の言葉 典型 
 田園小詩
  山菜ミヅ 山のひろば 山口部落 かくしねんぶつ クロツグミ クチバミ 別天地
  岩手の人 山からの贈物 この年 
 年譜
 解説 中山義秀

第一詩集『道程』(大正3年=1914)と、結局は生前最後の詩集となる『典型』(昭和25年=1950)を一冊にまとめたものです。

やはり光太郎の山小屋を訪れたこともある中山義秀の解説が秀逸です。

004「水タバコ」という嗜好品があるそうです。紙巻きタバコは数十年愛用していますが、寡聞にして詳しいことは存じませんでした。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、「中東で発展した喫煙具の一種」「シーシャ、水煙管(すいえんかん)、水ギセル(みずギセル)や水パイプ(みずパイプ)とも呼ばれ」るそうで、「欧米諸国でのブームを受けて日本でも水タバコが新たに注目を集めつつある」「2018年時点で、東京都内には200を超える水たばこ専門店がある」だそうです。

仕組みとしては、「火皿で燃えたタバコの煙を水にくぐらせ、濾過された煙を喫煙する。煙が水を通ることで冷やされ、やわらかい味わいになる」とのこと。物理や化学はお手上げの身としては、「煙が水を通る」というのがまずもって理解出来ませんが、「大型のものには吸い口が2本から4本とりつけられたものがあり、一包みのタバコを何人かで吸う。集まって車座になり、パイプをゆっくりと味わいながら喫茶や雑談をする生活様式に合わせられた喫煙具である」。また、「香りには果物からスパイス、花、コーヒー、ガムなど多くの種類がある。タバコ葉を原料としないノンニコチンフレーバーも登場した」。

そのあたりの説明を読んで、「ん? もしかしてあれがそれか?」と脳内で回路が繋がりました。ルーブル美術館蔵のウジェーヌ・ドラクロワ作「アルジェの女たち」(1834)。
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調べたらビンゴでした。アルジェリアは中東ではありませんが、そちらの方にも伝わっていたようです。別にドラクロワは好きでもないものの、なぜかこの絵は記憶にインプットされていました。

さて、先述の通り、この「水タバコ」、日本でも「水タバコを提供する場所(主に個人経営によるカフェバーなど)が首都圏や近畿圏では増えた」とのことで、京都の専門店の仕掛け。

【5-6月限定シーシャミックスメニューのお知らせ】

いつもご愛顧いただきありがとうございます。shisha cafe SUIREN KYOTOです。

【2026年6月末迄予定】
お待たせいたしました!期間中はスタッフより限定シーシャミックス3種(各¥3,200/シェア:¥4,700)をお届けします! ★別途+¥300にて一部ダークリーフ追加も可能です。

1.植物図鑑 by トキ
有川浩さんにも同じ名前の恋愛小説がありますね。すべての植物にも名前はあるとはいいますが、なんの植物のフレーバーが入っているか、是非探ってみてください。

2.レモン哀歌 不条理のそよ風  by 次郎
高村光太郎さんの妻、智恵子さんを詠ったレモン哀歌にちなみました。明るいようでどこか虚無的。
初夏のレモンに、優しく微笑む不条理をのせて。激しく抵抗するのではなく静かに受け入れるような余韻。哀しくも軽やかな一息をお楽しみください。

3.灰燼の王国 by りゅうき
スタッフりゅうき限定です。ダブルアップルの濃厚さとアイスのドライ、この2つが皆さんの喉を焼きに行きます。★ダークリーフ指定なので、上記価格+¥300〜です。

どうぞよろしくお願いします。

※詳細は、InstagramDM・X/旧TwitterDM、または営業時間内お電話にて承ります。お取り置きも可能です。
★お席の状況によりシーシャ提供後2時間制とさせていただく場合がございます。何卒ご了承くださいませ。
★お越しの際は、事前に来店時間・人数・フレーバーの指定(あれば)をご連絡いただけますと、スムーズにご案内できます。
並びにご不明点等ございました際も、お気軽にお尋ねください。
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shisha cafe SUIREN KYOTO(水たばこカフェ水蓮)さん、住所は京都市中京区大黒町42-1。京都市街中心部ですので「河原町三条」と言った方がわかりやすいかと思われます。金曜定休だそうです。
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光太郎詩、特に「智恵子抄」系は、さまざまな美術、文学、音楽、舞台芸術、映像作品などの二次創作以外にも、そこからインスパイアされたシャレオツな紅茶カクテルソフトドリンク和菓子、それから飲食系でなくフレグランスなど、いろいろな商品等の元ネタとなっていますが、こういうのもありか、という感じでした。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 9 『高村光太郎選集 Ⅵ 随想 下』

昭和27年(1952)9月15日 中央公論社 高村光太郎著
6
6函 6扉 6奥付
目次
 1
  年越し 雪解けず 開墾 早春の山の花 季節のきびしさ 七月一日 ある夫人への返事
  夏の食事 みちのく便り 山の雪 山の人々 山の春
 2
  三陸廻り 雲と波 珈琲店より 出さずにしまつた手紙の一束 伊太利亜遍歴
 3
  与謝野先生を憶ふ 死んだ荻原守衛君 バアナアド・リイチのこと ヴアレリイに就て
  楽聖をおもふ 彫刻家ガツトソン・ボーグラム氏 宮澤賢治 八木重吉について
  逸見猶吉の死 尾形亀之助を思ふ
 4
  美の中心 天平彫刻の技法について カリカチュア 工房より 芸術を見る眼
  純一な芸術が欲しい 「夜明け前」雑感 琅玕洞より 一彫刻家の要求
  日本語の新しい美を 美の立場から 裸体画について 仏画賛 本面について
  上野の現代洋画彫刻 美術館の事その他
 5
  某月某日 七月の言葉 童謡・民謡・小唄 冬二題 触目いろいろ 間違のこと
  春さきの好物 雷ぎらひ しやつくり病 三十年来の常用卓 ほくろ 悠久山の一本欅
  蟻と遊ぶ 九十九里浜の初夏 智恵子の切抜絵
 月報 リーチと高村さん 今泉篤男 高村光太郎小品展より

全6巻で刊行の『高村光太郎選集』第6回配本で、これで完結です。第5巻の「随想 上」同様、評論とエッセイとが入り交じっています(どちらともつかないものもあるのですが)。編年体ではなく、おおむね内容による分類。第5巻には含まれなかった戦後の作品が入り、しかし明治期のものも収められています。

紹介すべき事項の山積で後回しになっておりましたが、新刊書籍のご紹介も少しずつ。「エッセイ」と銘打っていますが、評論に近いものです。

詩旋律 詩の美 高畑耕治エッセイ集

発行日 : 2026年4月15日
著者等 : 高畑耕治
版 元 : 愛のうたの絵ほん
定 価 : 2,700円+税

「詩の美 高畑耕治エッセイ集」の第1冊目

「詩旋律」では、日本語の詩の美、詩の抒情は言葉の音楽、歌の調べによって生まれてきたこと、生まれることを、優れた作品と、歌論、詩論から浮き彫りにする。

第一章と第五章は、詩と詩作、文学、芸術についてのエッセイ。第二章は口語自由詩をめぐる中原中也、高村光太郎、萩原朔太郎の詩論をとらえなおす。第三章は和歌の調べ。万葉集、和泉式部、式子内親王、藤原定家、永福門院の、美しい心に響く歌の調べを聞きとり、藤原俊成の歌論にもふれる。第四章は俳句の調べ。松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶の句と種田山頭火の自由律俳句には、美しい音楽性が響いていることに耳を澄ませる。
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<目次>
 第一章 詩想
  詩を生むもの 詩が生まれでるふたつのかたち 詩を息づかせるもの なぜ言葉で
  詩だから伝えられるもの 詩のしらべ 詩と詩集についての覚え書 詩と若さ 詩の容姿
  詩って、ほんとはなんだろう 詩想『詩集 こころうた こころ絵ほん』
  詩想『詩集銀河、ふりしきる』 作品が生まれる、時 
 第二章 口語自由詩の韻律
  中原中也の「ゆたりゆたり」 高村光太郎、胸中から迸り出る言葉
  萩原朔太郎
   『月に吠える』序 「自由詩のリズムに就て」 
   『詩の原理』 詩語としての口語論 小倉百人一首の韻律美 『恋愛名歌集』
   歌の韻律美と口語自由詩
 第三章 和歌の調べ
  万葉集、好きな歌 藤原俊成『古来風躰抄』 和泉式部、あくがれる魂の歌
  式子内親王、言魂の韻律美 藤原定家の象徴詩 永福門院、調想不離の美
  伏見天皇宸翰「源氏物語抜書」散らし書きの花
 第四章 俳句の調べ
  書の美。松尾芭蕉と近現代文学者の直筆 変体仮名 俳句の調べ 松尾芭蕉の破調
  与謝蕪村、音の美 小林一茶。見据える目
 種田山頭火の自由律俳句
 第五章 詩想の木魂
  日本語のかそけさ 詩行中の意味のまとまり、息継ぎの間、句切り
  脚韻は詩であるための必須条件ではない 和歌の韻律 言葉の音楽性 詩の創作
  創作意思
 音数律論の偏狭さ 作品宇宙の必然 現代の詩の可能性について
  メロディーの翼
 現代詩の衰弱の主要因 中国詩との個性の違い
  寄物陳思、正述心緒の泉の清流
 日本語生来の資質と美の姿
  詩、定型詩の音数律と韻律のひみつ 
詩歌の韻律と朗読について
  無限諧音詩歌 日本語詩とフランス語詩、英語詩とドイツ語詩
  言葉の発音の変化 詩を愛す。 文語と短詩のこと 「日本詩の押韻」九鬼周造を再読して
  芸術、作品について 文語生まれの音感 現代短歌の文語表現について
  芸術作品の驚きとときめき 芸術家の言葉の棘を 現代短歌と現代詩
  詩と短歌の文語表現
 詩と、芸術表現について 降り注がれ、授けられた詩歌
  現代性と、花鳥風月
 小説と脚本と詩 文学、創作のこと 言葉の生命力
  詩と詩作について
 出典・参照文献

著者の高畑耕治氏、詩人だそうです。そこで実作者としての立場からの詩論、詩作の方法論といった内容が中心です。

興味深かったのは、ご自分がいわゆる「現代詩人」というくくりの埒外に居る、というスタンス。全体に古人へのリスペクトや敬愛に貫かれつつ、いわゆる「現代詩人」たちには容赦がありません。

例えば

言葉の象牙の塔をこねくりあげて、一般の読者にはわからないだろうと仲間うちで持ちあげあう人の知的な言葉の書き連ねを、私は詩とは思えず、いいと感じません。そのような奇抜性をてらい競う言葉遊びは、万葉集にも「無心所着歌(むしんしょじゃくか)」などとしてあったし、いつの時代にもあったけれどつまらないと思います。 (詩と詩集についての覚え書)

詩界(というものが意味あるものならば)、そこでは、現代詩の愛好家が偏狭な詩観、特権を押しつけて、詩を貧しくしていると、私は感じてきました。現代詩人どうしが与えあう仲間うちの賞の受賞作に、私が感動する詩はあまりありません。 (詩って、ほんとうはなんだろう)

私が現代詩より現代短歌に惹かれてしまうのはなぜか。現代詩が高学歴お勉強知識こそ優れているという世俗の常識エリート学歴崇拝社会に侵され、賢い頭で言葉の組み合わせの綾を弄び淫し自嘲しつつそれでも賢くて凄いだろと、高等遊民であると思い込んだ高みから普通の人、「大衆」を馬鹿だと見下げる傲慢さに閉じこもりカチコチに枯れてしまっていて、感情、想い、感性、感受性にこそ詩心(しごころ)が宿ること、美しい、ほんとうの、善くあれるかもしれない、希望、願い、心の響き、音楽、心の絵、色彩やどる詩歌、ポエムが詩であることを、忘れ気づけず衰えているからです。 (現代短歌と現代詩)

なるほど。

しかし、フォローも忘れていません。

ただし、現代詩というくくりは曖昧で、わたしが心から共感する詩を今、書かれている詩人はいらっしゃるので、集団としてすべていっしょくたにしてしまうのは愚かです。詩はあくまで一人きりの個性からの表現ですから。 (詩って、ほんとうはなんだろう)

ここまで含めれば、激しく同意します。

そして近代詩、万葉・古今・新古今などの秀歌、古典俳句などを例に、メインタイトルの「詩旋律」、特に音韻論を中心に論が展開されていきます(ただ、先達の評論家等が既に指摘している論考を抜き書きという部分が多いのですが)。また、関連する音楽や朗読についても言及されています。

近代では、萩原朔太郎を中心に、光太郎や中原中也、宮沢賢治などの作品が敬すべき対象として取り上げられています。光太郎に関しては「高村光太郎、胸中から迸り出る言葉」という項が設けられている他、他の箇所でも論じられています。

全編とにかく詩歌への愛が語られ、その情熱には頭が下がりました。

「ポエム」という語が、揶揄の意味合いで使われるようになって既に久しいと思われます。しかし、詩という形式でしか表せないものは確かにあるわけで、そうである限り「詩」というジャンルが生き延びていかねばならないと感じました。

というわけで、ぜひお買い求めを。

【高村光太郎書誌】

本人著作(部分)32 『天平彫刻』増補版 

昭和29年(1954)11月5日 生活百科刊行会 児島喜久雄編者代表
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目次
 天平彫刻について 上野直昭
 天平時代の仏像に対する断片的考察 木下杢太郎
 天平彫刻の技法について 高村光太郎
 天平彫刻私観 平櫛田中
 天平彫刻雑感 安田靱彦
 素材より見たる奈良彫刻の特性 野間清六
 天平仏像の構造法 新納忠之介
 奈良時代の鋳もの 香取秀真
 東大寺建立と天平の仏像 筒井英俊
 戒壇院四天王像に見る「格」に就て 丸尾彰三郎
 天平時代の彫刻と万葉集との関係 久松潜一
 天平の肖像彫刻 小林剛
 天平彫刻と写真 大口理夫
 天平彫刻と様式問題 児島喜久雄
 須菩提 廣津和郎
 新薬師寺本尊に関する問題 田中倉琅子
 図版解説
 図版目次
 原色版 三月堂 帝釈天図(安田靱彦氏画 明治四十一年写生)
 写真版 
  第一図 東大寺三月堂 不空羂索観音像
  第二・三図 東大寺三月堂 月光菩薩像
  第四図 東大寺三月堂 吉祥天像
  第五図 東大寺三月堂 不空羂索観音像宝冠化仏
  第六図 東大寺三月堂 金剛力士(東方)像
  第七図 東大寺三月堂 金剛力士(西方)像
  第八・九図 東大寺三月堂執金剛神像
  第十図 東大寺戒壇院 持国天像
  第十一図 東大寺戒壇院 増長天像
  第十二図 東大寺戒壇院 廣目天像
  第十三図 東大寺戒壇院 多聞天像
  第十四・十五図 新薬師寺伐折羅大将像
  第十六・十七図 興福寺 阿修羅像
  第十八図 興福寺 羅睺羅像
  第十九図 興福寺 須菩提像
  第二十図 興福寺 富樓那像
  第二十一図 法隆寺夢殿 行信僧都像
  第二十二・二十三図 唐招提寺開山堂 鑑真和上像
  第二十四・二十五図 聖林寺 十一面観音菩薩像
  第二十六・二十七図  東大寺大仏殿前燈籠扉音声菩薩像
  第二十八図 東大寺大仏蓮弁毛彫
  第二十九図 東大寺誕生釈迦仏像
  第三十図 薬師寺金堂 日光菩薩像
  第三十一図 薬師寺金堂 薬師如来像
  第三十二図 唐招提寺金堂 毘蘆舎那仏像

昭和19年(1944)の初版(小山書店)は、製本所が空襲されたため店頭に並ぶ前にほとんどが焼失してしまったそうです。戦後の昭和23年(1948)には同じ小山書店が復刊。さらに増補版と言うことで、版元を変えてこの版が出されました。おそらく、いわゆる「チャタレイ夫人裁判」のからみで小山書店が昭和25年(1950)に倒産したこととも無関係ではないでしょう。

今年、光太郎は没後70周年、智恵子は生誕140周年です。

だから、と言うわけでもないのでしょうが、このところ、2人の名を新聞紙上でよく見かけます。ちょうど4月2日(木)の連翹忌前後のこのブログでも計4件ご紹介しました。

その後もそれが続きまして、今日明日と2日間に分け、また4件ほどご紹介します。

まず『東京新聞』さん、4月4日(土)掲載の劇作家・鴻上尚史氏によるコラム。

知識人まで「狂喜乱舞」した12月8日…太平洋戦争を選んだのは「国民」だった〈鴻上尚史の月2回コラム〉003

 「戦争反対」に関するSNS上の発言がまだ話題ですが、「戦争反対」に対する批判というか突っ込みで「戦争に賛成する者なんかいない。当たり前のことを偉そうに言うな」という反論を、ちらほらと見かけるようになりました。
  ◆開戦した12月8日、知識人が感じたことは
 まあ、確かに、「戦争賛成」とSNSで投稿する人は、日本では珍しいかもしれません。
 「ガザ攻撃支持」とか「ウクライナ撃滅」だの「イラン撃破」なんて勇ましい(?)言葉を海外のSNSで見ることはありますが、今のところ、戦争そのものを無条件で全面的に肯定した書き込みをする人は、日本では少数派でしょう。
 みんな一応、建前というか、原則としては「戦争はよくない」「戦争はなるべくはしてはいけないものだ」というスタンスだと思います。
 『朝、目覚めると、戦争が始まっていました』(方丈社)という本があります。
 昭和16年、12月8日のアジア・太平洋戦争が始まった日に、日本人はどう感じ、何を考えたのかを、当時の知識人・著名人50人余りの日記や回想録から集めた本です。
◆坂口安吾は東条首相の話をラジオで聞いて…
 戦後思想の巨人、吉本隆明氏は、17歳の時で、開戦のニュースを聞いた時は「ものすごく解放感がありました。パーッと天地が開けたほどの解放感でした」と回想しています。
 『ごん狐』が教科書で有名な童話作家、新美南吉は28歳の時で、「いよいよはじまったかと思った。何故か體(からだ)ががくがくと慄(ふる)へた。ばんざあいと大聲(おおごえ)で叫びながら駆け出したいやうな衝動も受けた」と書きました。
 『堕落論』で戦後注目された、坂口安吾は35歳の時で、東条首相の話をラジオで聞いて、「涙が流れた。言葉のいらない時が来た。必要ならば、僕の命も捧げねばならぬ。一歩たりとも、敵をわが国土に入れてはならぬ」と感じました。
◆多くの著名人が「新世界が始まるような」感情に
 同じく作家の横光利一は43歳の時で、「戦はついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ。自分は不思議以上のものを感じた。出るものが出たのだ」と書きました。
 詩人室生犀星は52歳で、「十二月八日」と題した詩は、冒頭
「何かを言いあらわそうとする者/そして言いあらわせない者/よろこびの大きさに打たれて/ここで凝乎として喜んでいる者/よろこび過ぎて言葉を失った瞬間/人は初めて自分の我欲をなくし/何とかして/偉大な喜びをあらわしたいとあせる」
としました。
 同じく詩人の高村光太郎は58歳。「おのずから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡が曇って来た」「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった」
 民俗学者の折口信夫は54歳で「宣戦のみことのりの降ったをりの感激、せめてまう十年若くて、うけたまはらなかったことの、くちをしいほど、心をどりを覺(おぼ)えた」と書きました。
 歌人の斎藤茂吉は59歳。「老生ノ紅血躍動!」と書きました。
 軍人や政治家が開戦を肯定的に評価するのは、当然かもしれませんが、圧倒的多数の著名人や知識人が12月8日を「感動し、落涙し、身が引き締まる思いがし、新世界が始まるような」肯定的な感情で迎えたことが、この本から分かります。
◆だからこそ「戦争反対」と言い続けたい
 反発したのは、ほんの少数。
 詩人の金子光晴は45歳で「僕は、アメリカとの戦争が始まった時、二、三の客を前にしながら、不覚にも慎みを忘れ、『ばかやろう!』と大声でラジオにどなった」と回想しました。
 「芸術は爆発だ」の岡本太郎は30歳。「まさか──私はガク然とした。日本は独伊と同盟を結んでいた。しかしそれは米英などとのさまざまの交渉を有利に展開するためのかけひきであって、強硬なのも結局ポーズだけかと思っていたのに。
 もう入隊はきまっている。ああ、オレは間違いなく死ぬんだ。死んでやろう。私ははり裂ける思いで家の外に飛び出した。ふりあおいだ冬空は限りなく青かった」と書きました。
 軍部が暴走したわけでも、政府にだまされたわけでも、資本家が先頭を走ったわけでもなく、まず国民が率先して戦争を選んだ。そして、戦争が始まったことに狂喜乱舞した。
 だからこそ、ふだんから「戦争反対」と言い続け、魂の奥底まで刻むことが大切なのだと僕は思います。

引用されている光太郎作品は「十二月八日の記」と題する散文です。昭和16年(1941)のこの日、光太郎は議員を務めていた第二回中央協力会議出席のため丸ノ内の大政翼賛会本部に居ました。しかし予定の時刻を過ぎても会議が始まらず、待たされている間に開戦の詔勅が放送され、引用されているのはそれを聴いての感想の部分です。

その他、まだ学生だった吉本隆明、新美南吉、坂口安吾、横光利一、室生犀星、折口信夫、斎藤茂吉……。異口同音に開戦時を語っています。岡本太郎や金子光晴は「反発」と扱われています。しかし岡本太郎はともかく、金子光晴に関しては額面通りに受け取れません。以前にも書きましたが、金子は戦後になって、本人というより取り巻きの操作で「戦時中も反戦を貫いた」という評が為され、そのように受けとめられています(現代の文芸評論界の大御所もころっと騙されています)が、開戦後には数は少ないもののコテコテの翼賛詩文を書いて発表しています。光太郎ほどの積極的協力ではなかったにせよ「戦時中も反戦を貫いた」とはとても言い難いのです。「『ばかやろう!』と大声でラジオにどなった」のも、ヒューマニスティックな心の叫びというより、個人的なものにすぎないでしょう。

軍部が暴走したわけでも、政府にだまされたわけでも、資本家が先頭を走ったわけでもなく、まず国民が率先して戦争を選んだ。そして、戦争が始まったことに狂喜乱舞した。」この愚を繰り返してはいけないわけですが、昨今の世情をみるに、つのるのは危機感ばかりです。

その後、戦争を煽った光太郎は戦後になってそれを深く悔い、花巻郊外旧太田村の劣悪な環境で7年間もの蟄居生活を送りました。その間、天職と定めていた彫刻も封印。それは自らに課した最大の罰でした。だから光太郎は偉い、と言うつもりもありませんが(犯した罪は消えませんので)、他のほとんどの文学者たちは、戦時中の行動を無かったことにしたり、強制されてのもので本意ではなかったと言い訳したり、戦後になっても皇国史観から抜け出せずに開き直ったりしました。

そんな醜い姿は見たくありませんね。

続いて『朝日新聞』さん。編集委員・高橋純子氏の稿。4月11日(土)掲載分です。

(多事奏論)現れぬ首相と光の波 主権者のパワー、畏れぬわけには

002 高市早苗首相に聞きたいことがある。
 先の総選挙で歴史的大勝を収めたからこそ、依然として高い支持率を維持しているからこその純粋かつ単純、そして根本的な疑問。感情的にならぬようゆっくりと、腹に力を込めて、聞きたい。
 どうしてあなたは、なんのためにあなたは、首相になったのですか?
     *
 これほど「現れない」首相は前代未聞だろう。新年度予算案をめぐる参院集中審議への出席は10時間弱。石破茂政権の4分の1。おきて破りの型破り。この国に住まう人びとが必死に働いて納めた税金をどう使うのか。この国が抱える多くの課題に、どう対処するつもりなのか。首相たるもの、国権の最高機関である国会で説明し、できるだけ多くの納得を得るよう力を尽くすのは当然のことだ。イロハのイ、50音ならア、アルファベットならA。そこから始まる。そこからしか始まらない。
 中東情勢の緊迫化は、私たちの生活にどのような影響を及ぼすのか。情報が入り乱れ、日に日に増す人びとの不安をなだめられるのは、政治リーダーの明確なメッセージしかない。ただし、メッセージとは単なる言葉ではない。思いの乗った、身体性を宿した言葉だからこそ人びとに届き、刺さる。ゆえに政治リーダーは「現れ」なければならないのだ。
 ところが高市首相は記者会見を開かない。ぶら下がり取材もごくまれ。言いたいことがある時はXに投稿し、終わり。
 たとえば4月4日夕の投稿は「中東情勢に伴い供給が制約を受ける可能性がある重要物資の安定確保のための高市内閣の取組の現状について、説明致します」と、○○を実現した、××を進めていると日報のごとく細かく列挙したうえで、「繰り返しになりますが、原油及び石油製品の『日本全体として必要な量』は確保されています」。そして最後は「高市内閣の総力を挙げて、きめ細かく対応してまいります!」
 “日本全体として必要な量”をカギカッコでくくる「大本営発表」ぶりも鼻につくが、それよりなにより、供給不足や値上げに頭を抱えている業者、人工透析が続けられるのかと不安におびえている患者らへ向けた、いたわりやねぎらいがひとことも、ただのひとこともないことには驚きを禁じ得ない。そして最後、突如として繰り出される「!」。私はやってる!私は間違ってない!――どんな局面でも「私」が前面に出てくる、この感じ。私はシンプルに、こわいと思う。
 智恵子は「東京には空がない」と言ったが、私は「高市首相には『畏(おそ)れ』がない」と言いたい。多寡はともかく安倍―菅―岸田―石破首相には確かにあった、国民の命を預かっているという、畏れ。
 想像してみる。権力者が極限状態に置かれ、「玉砕せよ!」と命を下さねばならぬ局面を。高市氏はとても滑らかに命じてみせるのではないかと、危惧する。
     *
004 「戦争反対!」「憲法守れ!」「高市政権いますぐ退陣!」。コール&レスポンスが夜空に響く。歩道を埋め尽くす色とりどりのペンライトがそのたびに揺れ、美しい波となる――。8日夜、国会前で開かれたデモに、主催者発表で3万人が参加した。「国民なめるな!」のコールも聞こえる。この国の主は主権者ひとりひとりであることを、主権者にはパワーがあることを、光の波は教える。畏れを知らぬ首相もいずれ、この波を見るだろう。畏怖(いふ)せずにいられないはずだ。まともな権力者であるならば。

智恵子は「東京には空がない」と言った」は本題とはあまり関係ありませんが(笑)。しかし、「東京には空がない」と言った智恵子は、光太郎曰くかつてこの国に存在していた(現代でもそれに近い輩が居ますが)「傍若無人のがさつな階級」を「身ぶるひする程いやがつていた」そうです。

010   報告(智恵子に)
 
 日本はすつかり変りました。
 あなたの身ぶるひする程いやがつてゐた
 あの傍若無人のがさつな階級が
 とにかく存在しないことになりました。
 すつかり変つたといつても、
 それは他力による変革で
 (日本の再教育と人はいひます。)
 内からの爆発であなたのやうに、
 あんないきいきした新しい世界を
 命にかけてしんから望んだ
 さういふ自力で得たのでないことが
 あなたの前では恥しい。
 あなたこそまことの自由を求めました。
 求められない鉄の囲ひの中にゐて、
 あなたがあんなに求めたものは、
 結局あなたを此世の意識の外に逐ひ、
 あなたの頭をこはしました。
 あなたの苦しみを今こそ思ふ。
 日本の形は変りましたが、
 あの苦しみを持たないわれわれの変革を
 あなたに報告するのはつらいことです。

自らの半生と戦時中の翼賛活動を省察する連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)終末近くに置かれた詩です。新潮文庫版の『智恵子抄』に掲載されています。敗戦後のGHQ主導による大変革を目の当たりにし、それを智恵子がどう受けとめるか、という内容です。

そういうのであれば、なぜ智恵子が「身ぶるひする程いやがつていた」「傍若無人のがさつな階級」にとことん協力したんだ、と突っ込みたくなりますが、それをやらないわけにはいかない世情だったわけで……。

つくづく「傍若無人のがさつな」人物の思うようにされる、そういう世の中に戻してはいけないと、強く思います。

【高村光太郎書誌】

本人著作(部分)18 『日本の母』 

昭和18年(1943)4月18日 春陽堂書店 日本文学報国会編
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目次
 序 徳富猪一郎
 日本の母を頌ふ 作詞 佐藤春夫
 信仰で乗切る荒波(樺太・水本ハマコさん) 甲賀三郎
 北海道の原野を開墾(北海道・浅井リヘさん) 丸山義二
 巨きな母の手(青森県・豊川やささん) 土師清二
 嬰児・妊婦の温き母(岩手県・伊藤尚子刀自) 土屋文明
 黙々と二十年(秋田県・佐々木スヱさん) 和田伝
 日本一子宝部隊長(宮城県・白戸キミさん) 辰野九紫
 雄々しや女集配手(山形県・土井於末さん) 結城哀草果
 三代続く誉れの寡婦(福島県・室井キヤさん) 加藤武雄
 忠臣の裔(東京府・篠尾はる子さん) 菊池寛
 浅草の「日本の母」(東京府・平間りつさん) 久保田万太郎
 明朗に豊かに生きてゐる人(茨城県・八代まつさん) 佐藤春夫
 出征兵を叱る慈愛(栃木県・新井種子刀自) 長谷川伸
 家の為に子の為にお国の為に(群馬県・小板橋はるさん) 佐佐木信綱
 母性愛像ををろがむ(千葉県・富田てるさん) 吉植庄亮
 遺愛の柿の木紅し(埼玉県・金子淳美さん) 大佛次郎
 女手一つに護る田畑(神奈川・村野かめよさん) 岩田豊雄
 巻頭(まきがしら)の妻の心(新潟県・星野とよさん) 貴司山治
 女手で通した牛飼(富山県・三村ちよさん) 尾崎一雄
 白衣の夫と卅七年(石川県・遠藤常盤さん) 深田久弥
 良き母は良き妻(福井県・高島フジヲさん) 中野実
 遺骨を抱きしめて(岐阜県・沼田ミツさん) 日比野士郎
 真実こもる農作物(長野県・井上ツタエさん) 川端康成
 山道の小母さん(山梨県・井上くまさん) 高村光太郎
 萩咲く日(静岡県・鈴木せいさん) 水原秋桜子
 男勝りの鎌・腰に(愛知県・橋本すずさん) 富安風生
 母ひとり子ひとり(滋賀県・高橋政栄さん) 野澤富美子
 花売り・日雇ひ二十年(京都府・谷本このさん) 川田順
 右眼犠牲の機織り(大阪府・西田フジさん) 藤澤恒夫
 老いてなほ増産報国(奈良県・松辺キクさん) 西條八十
 扶助も断り青物行商(三重県・横山ちうさん) 古谷綱武
 尊し・音なき愛の鞭(和歌山・久保まつゑさん) 大庭さち子
 心に責む子の戦病死(兵庫県・前川きみさん) 豊田正子
 故山に独り墓守り(鳥取県・山谷よしさん) 舟橋聖一
 石見の国に我見たり(島根県・岡村トキさん) 尾崎喜八
 戦死した子に済まぬ(岡山県・武田春さん) 棟田博
 港の誇る「母の水船」(広島県・中村セキノさん) 竹田敏彦
 空の子へ愛の座布団(山口県・氏木アキさん) 中山義秀
 平凡の美徳(香川県・棚田キノさん) 壺井栄
 塩田に働く健女(徳島県・西トクヱさん) 海野十三
 戦盲の夫へ戦況地図(高知県・入間貴久衛さん) 濱本浩
 五児に通ふ鍬の心(愛媛県・高井キクヨさん) 岡田禎子
 誉の家守る苦闘三年(福岡県・三原乙女さん) 白井喬二
 切々の書に戦友泣く(佐賀県・桃井フデさん) 小島政二郞
 陶土にまみれ廿年(長崎県・太田フキさん) 福田清人
 男も唸る材木担ぎ(大分県・森島マサキさん) 真杉静枝
 親の心知る子供達(熊本県・野口ハルさん) 坪田譲治
 兄は陸軍弟は海軍(宮崎県・高山ハツヲさん) 中村武羅夫
 兵隊さん故伜さん〃(広島県・小村セイさん) 戸川貞雄
 南風の章(沖縄県・比嘉カナさん) 劉寒吉
 跋 読売新聞社編集局長 中浦義親

光太郎が詩部会長を務めていた日本文学報国会によるものです。当時の『読売報知新聞』とタイアップ、同紙に49回にわたって連載された「日本の母」を一冊にまとめたもの。

黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「母」を顕彰するため、各府県の軍人援護会などの協力で取材対象者をピックアップし、光太郎ら49人の文士を現地に派遣して書かれました。

光太郎の稿「山道の小母さん」で取り上げられている井上くまは、山梨県南巨摩郡穂積村(現・富士川町上高下(かみたかおり)地区)在住の寡婦で、早くに夫を亡くし女手一つで育てた2人の息子は共に召集、この時点で次男の方は満州で戦病死していました。

それでも気丈に生きる彼女に会って感動した光太郎は、「山道のをばさん」という詩も作りました。現地にはこの際に光太郎が訪れたゆかりの地ということで、短句「うつくしきものみつ」を刻んだ碑が建てられています。

上記『朝日』さんで槍玉に挙げられている「傍若無人のがさつな」人物、こういう書籍が出版される世の中に戻したいのでしょうか。

今日、令和8年4月2日(木)は、第70回連翹忌です(「光太郎忌」という呼称は使っておりません)。本日午後には当方は、光太郎らの眠る染井霊園の髙村家墓所に参拝、その後、日比谷松本楼さんで全国から関係の方にお集まりいただき、集いを開催いたします。
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毎年同じようなことを書いていますが、昭和31年(1956)4月2日早暁、季節外れの大雪にすっぽり包まれた中野の中西利雄アトリエで光太郎が没し、ちょうど70年が経過しました。

翌年、同アトリエで記念すべき第一回連翹忌の集いが執り行われました。その際はリンゴ箱に板を渡し、テーブルクロス代わりの白い布を敷いただけの即席会場だったそうですが、50人ほどが集まり、光太郎を偲んだそうです。「連翹忌」の名付け親は、発起人だった佐藤春夫や草野心平でした。席上、春夫は黒い手帳を取り出し、次の短歌を披露しました。
 
  れんげうにかなしみのいろあらたなりきみゆきてよりひととせをへぬ
 
以後、一ツ橋如水会館、銀座資生堂パーラーなどに会場が変遷しつつ集いは連綿と続き(パリでの開催もありました)、平成11年(1999)から日比谷松本楼さんに会場が落ち着いて今日に至っています。 日比谷松本楼さんは、明治末に光太郎と智恵子が訪れ、現在でも名物の氷菓(アイスクリーム)を食べた店ですし、光太郎も参加した芸術運動「パンの会」会場として使われたこともありました。途中、東日本大震災やコロナ禍により、集いは中止して代表者による染井霊園墓参だけとした年もありましたが、まがりなりにも70回の節目を迎えられたことを喜ばしく存じます。ひとえに皆様方のご協力の賜物と感謝いたしております。

連翹忌が今日であることにちなみ、近い日でということで、明後日、NHKラジオさんが光太郎の肉声を流して下さいます。来週土曜と2週連続の前後編です。

保阪正康が語る昭和人物史 詩人・彫刻家 高村光太郎

NHKラジオ(AM) 2026年4月4日(土)/4月11日(土) ともに12:15-12:45

「放送100年 保阪正康が語る昭和人物史」は2026年4月からタイトルが「保阪正康が語る昭和人物史」になります。放送時間はNHK AM 土曜昼0時15分からです。放送後1週間、らじる★らじる聴き逃し配信でいつでも聴くことができます。

詩人で彫刻家の高村光太郎は、明治16年東京生まれ、東京美術学校を卒業した後、詩集「道程」を発表し注目されます。その後のちに妻となる長沼智恵子と生活を共にし、昭和16年に詩集「智恵子抄」を出版します。昭和27年3月にラジオ第2で放送した「自作朗読」では、光太郎が「千鳥と遊ぶ智恵子」などの詩を朗読。昭和29年1月に文化放送で放送した「彫刻と人生」では、智恵子の思い出や岩手での一人暮らしを語っています。

出演 保阪正康 梯久美子
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ついでというと何ですが(笑)、当会の祖・草野心平編が4月18日(土)と4月25日(土)です。

光太郎編については制作に協力させていただきました。流される肉声のうち、「彫刻と人生」は美術史家で晩年の光太郎に親炙した奥平英雄との対談で、昭和28年(1953)12月27日の録音、翌年1月7日に文化放送さんでオンエアされました。奥平著『晩年の高村光太郎』特装本(瑠璃書房 昭和52年)に対談を収録したカセットテープが附録として付いており、そちらをお貸ししました。NHKラジオさんで光太郎の肉声は、一昨年、昭和24年(1949)に花巻郊外旧太田村での暮らしぶりを語った「朝の訪問」(聞き手は高橋忠アナウンサー)、同じ題で昭和27年(1952)に詩人の真壁仁と対談した録音も平成28年(2016)に使われ、それらNHKさんのアーカイブに残っている以外に何か無いか? というので。

ぜひお聴き下さい。

それから、連翹忌が近いからというわけではないのかもしれませんが、立て続けに新聞各紙に光太郎の名が。

3月31日(火)、『岩手日報』さん一面コラム。

風土計

通り雨が降る午後5時。東京・千駄木の通りで若い女性の工員たちと高村光太郎はすれ違う。その時の情景を詩にしている。〈ああすれちがつた今の女工達/丸善インキ工場の女工達/君達は素直だな〉▼〈さびしさうで賑(にぎ)やかで/つつましさうで快活だ/いろんな心配事がありさうで/又いろんな夢で一ぱいさうだ〉。寂しそうで控えめでも、にぎやかで快活。不安と夢が入り交じる工員たちを詩人は優しく見守る▼年度末の今だからかもしれない。若さへの賛歌であろうこの詩が、新たな一歩を踏み出す人への応援歌に響いてくるのは。あすの入社式に臨む若者たちも、いろんな心配事とともに、いろんな夢でいっぱいだろう▼新入社員だけではない。きょう退職辞令を受け、新しい世界に飛び込む人がいる。継続雇用でも、違う仕事に取り組む人がいる。転勤で新天地に赴く人がいる。不安と夢が入り交じるのは年齢に関係あるまい▼まだ見ぬ未来には、どんな世界が待っているのだろう。詩人は工員たちの姿に想像力を働かせる。〈さびしいが又たのしい世界/遠いやうで又近いやうな世界だ〉と▼入社の後も、退社してからも、人生の道のりは長い。長渕剛さんの「乾杯」から借りれば〈遙(はる)か長い道のりを歩き始めた君に幸せあれ〉。新たな世界で、「いろんな夢」がかないますように。

引用されている詩はずばり「丸善工場の女工達」(大正9年=1920)。

   丸善工場の女工達

 「それでも善い方なのよ003
 傘貸してくれる工場なんか外に無い事よ」
 番傘の相合傘の若い女工の四五人連れ
 午後五時の夕立の中を
 足つま立つて尻はしよりしをらしく
 千駄木の静かな通を帰つてゆく

 ああすれちがつた今の女工達
 丸善インキ工場の女工達
 君たちは素直だな
 さびしさうで賑やかで
 つつましさうで快活だ
 いろんな心配事がありさうで
 又いろんな夢で一ぱいさうだ
 想像もつかない面白い可笑しい夢でね
 有り余る青春に
 ぱつと花開いた君達だ
 君達自身で悟るには勿体ないほどのだ酣酔だ
 八百屋から帰つて来る
 こののつぽのをぢさんを
 君達の一人は見て笑つたね
 をぢさんはその笑が好きなんだ
 いはれも無く可笑しい笑を
 ああ何といふ長い間私は忘れてゐた事ぞ004

 丸善の番傘の中に一かたまり
 若い小さな女工達は
 雨のしぶきに濡れながらいそいそと
 道をひろつて帰つてゆく
 どうやら通り雨らしい土砂降の雨あし
 ふと耳にした女工の言葉に
 不思議な世界は展開する
 さびしいが又たのしい世界
 遠いやうで又近いやうな世界だ
 何処かでもうがちやがちやが啼き出した

丸善インキ工場は、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の光太郎アトリエ兼住居の近くにありました。

続いて掲載順は前後しますが、3月30日(月)の『日本経済新聞』さん夕刊。

匂いで読む、大地の予兆 土壌学者・藤井一至

 ここだけの話だが、私には特殊能力が備わっている。そう思っていた。雨が降る直前に気付く。風が匂うのだ。
 残念ながら、私以外にも類似の能力を持つ人々がいる。詩人、高村光太郎もその一人だ。「五月の土壌」には「野に まんまんたる気魄(きはく)はこもる (中略) 一面に沸き立つ生物の匂よ (中略) わが足に通(かよ)つて来る土壌の熱に 我は烈(はげ)しく人間の力を思ふ」という一節がある。土の生命力を讃(たた)えている。私は雨の匂いをエッセーに、高村光太郎は土の匂いを感知して詩に残した。
 まだ5月ではないが、すでに土は匂い始めている。温暖化の影響だろうか、約110年前(大正3年)の東京の5月上旬の気温(16度)と現在の3月下旬の暖かい日の気温は近い。冬のあいだは土の匂いは少ないが、虫が動き出す暦(啓蟄(けいちつ)。今年は3月5日)を前後して土は匂いを増す。生物活動の証(あかし)だ。
 特に、長く乾燥した土に雨が降ると、独特の香りがする。これはペトリコールと呼ばれ、ペトロスは石、イコールは神々の霊液を意味する。厳密には、石ではなく土から、神々の霊液ではなく根や微生物のエキスが出ている。乾燥を耐え抜くために植物や微生物が体内にため込んだ物質、雨によって死んだり増えたりした微生物の代謝産物、すなわちオナラが放出される。ペトリコールは単一の物質ではなく、数十以上の揮発性物質を含む。土の匂いは空気と反応し、雷とともにオゾンも発生させる。私が雨の直前に感知していたのも土の匂いだった。
 雨が続くと「大地の香り」と呼ばれる匂い物質、ゲオスミンが増加する。放線菌(ストレプトマイセス属の細菌)が出すオナラだ。かつて砂漠の町を結ぶシルクロードを旅したラクダのキャラバンが迷子にならなかったのは、オアシスから漂うゲオスミンのおかげだ。細菌の出す匂いがラクダを呼び寄せ、ラクダが土を掘って水にありつくと、胞子が鼻に付着して細菌は労せず胞子を拡散できる。私の特殊能力はラクダの鼻と同じで、多くの人の嗅覚は土の匂いを敏感に感知できることが分かっている。私の特殊能力はラクダの鼻と同じで、多くの人の嗅覚は土の匂いを敏感に感知できることが分かっている。科学はいろいろと面白いことを教えてくれるが、私に現実を直視することを迫る厳しさもある。
 皆が土の匂いを感知できることで落ち込んでいるのは私だけで、社会的にはプラスの面が大きい。土砂崩れが起きる手前、近隣住民から「腐った土の匂いがした」という証言が多数ある。この前兆もゲオスミンだ。酢酸発酵と同じ原理で、湿った土で増加する酢酸を取り込んだ放線菌がゲオスミンを大量に発生させる。伝統的な知恵と先端科学を活かせたならば、事前に避難して命を守る可能性が増す。
 ゲオスミンは魚や水道の泥臭さの原因物質でもあり、私たちは口にする前に鮮度を判断できる。一方で、ゲオスミンはワインの香りに深みを与えることもある物質だ。特殊な匂いに気付くことができるかどうかは、日ごろから匂いを意識しているかどうかにかかっている。例えば、森からは松由来のピネン、広葉樹由来のリモネン(レモンの香り)などがごく微量に含まれている。土の中のあまたの微生物たちが放出している名もなき物質も多く含まれる。季節の香りを楽しむ特殊能力を持つのは私だけではないのだから。 

「土壌」といえば宮沢賢治のような気もしますが(笑)。こちらで引用されているのは「五月の土壌」。内容的には、戦後花巻郊外旧太田村に隠棲し晴耕雨読の生活に入ってからのような感じですが、第一詩集『道程』に収められた大正3年(1914)、初期の詩です。

    五月の土壌

 五月の日輪はゆたかにかがやき
 五月の雨はみどりに降りそそいで
 野に
 まんまんたる気魄はこもる
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 肉体のやうな土壌は
 あたたかに、ふくよかに
 まろく、うづたかく、ひろびろと
 無限の重量を泡だたせて
 盛り上り、もり上り
 遠く地平に波をうねらす

 あらゆる種子をつつみはぐくみ
 虫けらを呼びさまし
 悪きもの善きものの差別をたち
 天然の律にしたがつて
 地中の本能にいきづき
 生くるものの為には滋味と塒とを与へ
 朽ち去るものの為には再生の穏忍を教へ
 永劫に
 無窮の沈黙を守つて
 がつしりと横はり
 且つ堅実の微笑を見する土壌よ
 ああ、五月の土壌よ

 土壌は汚れたものを恐れず
 土壌はあらゆるものを浄め
 土壌は刹那の力をつくして進展する
 見よ
 八反の麦は白緑にそよぎ
 三反の大根は既に分列式の儀容をなし
 其処此処に萌え出る無数の微物は
 青空を見はる嬰児の眼をしてゐる
 ああ、そして
 一面に沸き立つ生物の匂よ
 入り乱れて響く呼吸の音よ
 無邪気な生育の争闘よ

 わが足に通つて来る土壌の熱に
 我は烈しく人間の力を思ふ

なるほど、「一面に沸き立つ生物の匂よ」。ふと思ったのですが、光太郎詩には「におい」「香り」が盛り込まれているのが結構あるような気がします。まんま「にほひ」という題名の詩(明治42年=1909)ともありますし、かの「レモン哀歌」(昭和14年=1939)では「トパアズ色の香気」。他にもあったような……。それを言えば、嗅覚以外にも味覚、触覚、聴覚、そして当然視覚の五感がフル活用されているようにも感じます。「五月の土壌」でも「入り乱れて響く呼吸の音」だの「わが足に通つて来る土壌の熱」だの……。こんなところに着目すれば論文の一本二本、直ぐに書けそうです(笑)。

もう1件、『東京新聞』さん。

〈視点〉「ふるさと」とは何か 福島へのラブレター 前福島特別支局長・片山夏子

 桜、菜の花が一斉に開花し、春の訪れを知らせる。福島市の支局に着任して5年8カ月。4月からは東京本社での勤務になる。
 「ある日突然、住んでいた町から人が消えた。いったいどこに消えたんだろうって不思議な気持ちになる。人の声も、生活の音も、夕飯の香りも」
 原発事故が起きた年の暮れ。福島第1原発で働く福島県浪江町の作業員が、避難で人影が消えた町の写真を見せながらつぶやいた言葉が心に残る。「何年かかっても帰りたい。山があって海があって、何があるってわけじゃないけど何より人がいい。1人でふらりと飲みに行っても親しい飲み仲間ができる。そんな町だった」
 ふるさととは何か。東京で生まれ育った私は「何年たっても故郷に」という記事を書きながら、このとき何もわかっていなかった。原発事故から10年を前に、福島に住むようになってようやく「ふるさと」の意味を実感していく。
 磐梯山、安達太良(あだたら)山、信夫(しのぶ)山…。福島の山は、雄大で険しい山もあるが、やさしい稜線(りょうせん)の山が多い。県内どこを車で走っても、周囲を山々に囲まれ、山に抱かれているような気持ちになる。それを自覚したのは、郡山市から新潟市に避難した人が福島を懐かしむ言葉がきっかけだった。「新潟にも海も山もある。でもここは平地が広く、海も山も遠く感じる」
 避難先の家々を訪ねると、よく「ふるさとに風景が似ているからここにした」と聞いた。その気持ちに胸が痛んだ。
 詩人・高村光太郎の「智恵子抄」に書かれた「ほんとの空」の意味も知った。福島では、朝焼けから夕焼け、星空まで、とにかく空をよく見た。それは日常であり、空を見て地震が来ないか、あすの天気はどうかと地元の人に教えてもらった。いくつの美しい夕日を見ただろう。周辺の山々や紺碧(こんぺき)の海とともに心に残った。
 ふるさとの風景だけではない。避難で地域のつながりが無くなったことは人々を打ちのめした。「車が通れば誰の車かすぐわかった」「雨が降ったら洗濯物を誰かが取り込んでおいてくれた」「野菜も魚ももらったりあげたりだった」「悩んでも、近所でお茶飲みしながら話すうちに気持ちが晴れた」「地域みんなで子育てをし高齢者を手伝うのは当たり前だった」
 言葉の問題もあった。「福島の言葉が聞きたくて」。福島いのちの電話には、県外避難者からそんな電話がかかってくるという。
 福島第1原発に他県から来た作業員から「コンビニでも話しかけてくれる。地元の人と交流するうちに、福島のために役に立ちたいと思うようになった」とよく聞いた。福島のために、と思わせる人間関係や人柄の良さがあった。
 いつの間にか福島は私の帰りたい場所になっていった。そして思う。記者として話を聞き、1人でも心が少し晴れる時間がつくれただろうか。これは6年近く住み、これからも通う福島へのラブレターである。

今年は福島二本松出身の智恵子生誕140周年にもあたります。光太郎没後70年と併せ、各地でそれらを記念してのイベント等が計画(一部は既に実施)されております。

今後ともその灯を絶やすことなく、次の世代へと引き継いでいきたいと存じますので、 さらなるご助力をお願いいたします。

【高村光太郎書誌】

本人著作(部分)7 『近代作家論』岩波講座世界文学第九回配本

昭和8年(1933)8月15日 岩波書店 
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目次
 ホヰツトマン 長沼重隆  ボオドレエル 辰野隆
   ヹルハアラン 高村光太郎
 ショオ 石田憲次     ウェデキント 相良守峯  カイザー 武田忠哉

光太郎は敬愛していたベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンについて書きおろしています。

分冊もののペーパーバックで、同じシリーズに光太郎単独執筆の『現代の彫刻』があります。同じ年に出た第7回配本でした。

昨日は福島県の浜通り地区、中通り地区をうろうろしておりました。

まず向かったのは、当会の祖・草野心平を顕彰するいわき市の市立草野心平記念文学館さん。こちらでは企画展「草野心平と川内村」が一昨日に始まりまして、その拝観。
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光太郎智恵子には直接関わらないのですが、川内村は当方も毎年のように訪れさせていただいており、これは観ておかなければ、と思い、参じた次第です。

心平はいわき市の出身ですが、川内村の名誉村民に認定していただいております。そもそもは昭和24年(1949)、蛙をこよなく愛した心平の「モリアオガエルを見たい」という発言に、村の長福寺さんの矢内俊晃住職が、モリアオガエルの棲む平伏沼(へぶすぬま)が村にあるので来てほしいと手紙を出して招いたことに始まります。心平の川内村訪問は4年後の昭和28年(1953)が最初でした。

その後、すっかり同村の風土や人情が気に入った心平は、長福寺さんを宿にして何度も訪村し、心平は蔵書3,000冊を寄贈、昭和41年(1966)にはそれを納める場所兼心平の別荘として、「天山文庫」が建てられました。設立協力委員には、心平と親しかった髙村豊周(光太郎実弟)も名を連ねました。心平、長い時は半年程もここに滞在したそうです。毎年7月(雨さえ降らなければ)、ここで心平を偲ぶ「天山祭り」が開催されています。

いただいてきた簡易図録(全8ページ)の裏表紙には天山文庫、長福寺さん、平伏沼の紹介も。
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展示は長福寺さん、元同村教育長の石井芳信氏、そして同村教育委員会さん所蔵のもの。
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長福寺さん所蔵の書が圧巻でした。同寺や平伏沼に建てられた心平碑の原本となった書など。
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今回お貸し下さったのが10点ほど。特に村との関わりが色濃く表れているものに限ったとのことで、同寺ではそうでもない書をまだまだたくさんお持ちだそうです。それから村と心平を結びつけた矢内住職宛の書簡。交流のさまが生き生きと残る貴重なものです。簡易図録にはそれらの画像が無く、ちょっと残念でしたが。

それから心平の写る村での写真類が半切ほどのパネルでずらっと。天山文庫と同じ敷地内にあるかわうち草野心平記念館(阿武隈民芸館)さんにも類似のもの展示されていたり、平成元年(1989)に同村教育委員会さん刊行の『草野心平とかわうち』という書籍にやはり村でのショットが掲載されたりしていますが、それらとかぶるものがほとんど無く、ほぼ初見のものばかりで「へー」という感じでした。前日に開幕のテープカットで訪れられた遠藤雄幸川内村長も、見たことが無い写真が多いと驚かれていたそうです。
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それらは簡易図録やフライヤーにに掲載されています。
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また簡易図録には、心平と同村との交流に絞った年譜も。こちらには豊周が「天山文庫設立協力委員」の一人だったことも記されています。
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ちなみに今回の展示、天山文庫の落成と、第一回天山祭りの開催が昭和41年(1966)、そこから数えて60周年の記念という意味合いでの企画だそうで。会期は6月7日(日)までと、かなり長めです。
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それから同時開催で「スポット展示 草野天平」(3月22日(日)まで)。天平は心平の7歳下の弟で、やはり詩人。妻の梅乃ともども光太郎とも交流がありました。昭和27年(1952)、数え43歳で病没。没後の昭和34年(1959)、『定本草野天平詩集』で第2回高村光太郎賞を受賞しました。同賞は『高村光太郎全集』の印税を原資に、豊周の発案で詩と造型の2部門、10年間の期間限定で実施されたものです。

また、4月25日(土)~5月24日(日)の期間に、「小さな企画展 モリアオガエル展」が開催されるということです。

ぜひ足をお運び下さい。

……「ぜひ足をお運びください」と言えば、川内村自体にも。

東日本大震災から15年が経ち、同村の置かれている現状、非常に厳しいものがあります。今年の3.11当日にNHKさんで放映された「NHKスペシャル わたしたちの“復興” 震災15年・当事者たちの告白」を拝見し、「いやー、これほどか」と改めて思いました。

45分の番組中、3分の1ほどをとって、遠藤村長への密着取材。
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過去のアーカイヴ映像を交え、村役場はもちろん、都内の陳情先、ご自宅にも。

いつも天山祭りでお会いする村長は、にこやかにそしてユーモラスに振る舞われていますが、その陰にこれほどの苦悩がおありだったかと、粛然とさせられました。
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訪れるだけでもささやかな復興支援となります。衷心よりよろしくお願い申し上げます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)73 『道程』愛蔵版

平成11年(1999)12月25日 日本図書センター 高村光太郎著
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目次

 一九一〇年
  失はれたるモナ・リザ 生けるもの 根付の国
 一九一一年
  画室の夜 熊の毛皮 人形町 甘栗 庭の小鳥 亡命者 鳩 食後の酒 寂寥 声 風
  新緑の毒素 頽廃者より 「河内屋与兵衛」 髪を洗ふ女 「心中宵庚申」 夏 なまけもの
  手 金秤 はかなごと めくり暦 地上のモナ・リザ 葛根湯 夜半 けもの あつき日
  父の顔 泥七宝 ビフテキの皿
 一九一二年
  青い葉が出ても 赤鬚さん あをい雨 友の妻 ――に 夏の夜の食慾 或る夜のこころ
  おそれ 犬吠の太郎 さびしきみち カフエにて 梟の族 冬が来る カフエにて
  或る宵 夜 狂者の詩 郊外の人に 冬の朝のめざめ カフエにて 師走十日 戦闘
 一九一三年
  人に カフエにて 深夜の雪 人類の泉 山 よろこびを告ぐ 現実 冬が来た 冬の詩
  牛 僕等
 一九一四年
  道程 愛の嘆美 群集に 婚姻の栄誦 万物と共に踊る 瀕死の人に与ふ 晩餐
  五月の土壌 淫心 秋の祈
 解題 越山美樹
 全集・主要参考文献
 年譜

日本図書センターさんでは、この時期「愛蔵版詩集シリーズ」と銘打って、40冊を刊行。大正3年(1914)初版の『道程』もラインナップに入れて下さいました。

2月21日(土)に岩手県花巻市で開催されたトークイベント「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」につき、地元紙『岩手日日』さんが報じて下さいました。もう一紙、『岩手日報』さんでも記事が出るかなと思って待っていたのですが、今朝の段階でネット上に出ていませんで、『岩手日日』さんの記事のみ御紹介します。

会いた光太郎と賢治関わりは 3人トークで思いはせ 花巻

 トークイベント「光太郎と賢治―宮沢賢治全集ができるまで―」は21日、花巻市大通りのなはんプラザで開かれた。参加者は、関係者による講話を通じて彫刻家、詩人の高村光太郎(1883~1956年)と詩人、童話作家の宮沢賢治(1896~1933年)との関わりに思いを巡らせた。
 高村光太郎記念館で開催中の高村光太郎花巻疎開80年企画展(3月31日まで)の関連行事。高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表、林風舎の宮沢和樹代表取締役、共同園芸の瀬川正子取締役の3人が講話し、市民ら約200人が聴講した。
 このうち小山代表は、2人が詩人・草野心平主宰の詩誌「銅鑼(どら)」の同人となったことで関係が始まったことや、1926(大正15)年に東京にある光太郎アトリエで1回だけ面会したことを紹介。賢治没後の34(昭和9)年、東京で開かれた追悼会に賢治の実弟・清六が「雨ニモマケズ」が記された手帳を含む遺稿を持ち込み、光太郎や草野らが「このまま埋もれさせてはいけない」と一念発起し、数回にわたる「宮沢賢治全集」の編集刊行に取り組んだことなどを説明した。
 講和後は参加者から人脈が広がっていった経緯や、編さんに関わった賢治の親友で花巻高等女学校の音楽教師だった藤原嘉藤治に関する質問などが出された。
 父と参加した市立石鳥谷中学校2年の大竹彩未さんは「賢治作品が好きでよく読んでいる。面白い話が聞けて、人物同士の関係や作品の背景を知ることができて楽しかった」と話していた。
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その後、市役所さんからは、お聴き下さった一般の方々からのアンケート結果等も送られてきて、拝読したところ概ね好評で胸をなで下ろしました。

それにしても毎回感じますが、賢治と言えば花巻で、地元の皆さんの賢治愛。光太郎は現在の東京台東区の生まれ、没したのは中野区、最も長く住んだのは文京区ですが、それらの地域に賢治の花巻ほどのふるさと感が感じられません。それぞれの区で地元の偉人として光太郎を推しているかというとそうでもありません。文京区さんだけは公式サイト内の「文京ゆかりの文人」といページで光太郎も取り上げて下さっていますが、60名ほどの中の一人という扱いです。サムネイル画像つきでまず紹介されているのは森鷗外、夏目漱石、樋口一葉、石川啄木の4人です。鷗外・漱石・一葉はともかく、啄木の後塵を拝しているというのはくやしいところです(笑)。
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ちなみに60人ほどの中には、大正10年(1921)、菊坂に下宿して国柱会に通っていたということで賢治も含まれています。

文京区立本郷図書館さんで発行していた「谷根千ゆかりの文人まっぷ」でも同じような感じです。このエリアだけでも30人ほど。もっとも、谷中は文京区でなく台東区ですが。
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こういうところも東京一極集中ということなのでしょうか。漱石と一葉は東京出身ですが、鷗外と啄木はそれぞれ島根と岩手ですし、他の「文京ゆかりの文人」の60人ほど、「谷根千ゆかりの文人まっぷ」の30人ほども、半分くらいは地方出身者のようです。

閑話休題、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」、今月いっぱいです。ぜひ足をお運びください。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)64 『CHIEKO’S SKY』

昭和53年(1978)2月 KODANSHA INTERNATIONAL 高村光太郎著 古田草一訳
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目次
 translator's preface to someone heart of one night fear peep-show song
 one evening to a woman in the suburbs winter morning awakening to someone
 midnight snow us in admiration of love supper beneath the trees
 stampede catfish a couple at night you get prettier and prettier innocent tale
 kinds cohabiting beauty's imprisonment distant view of life Chieko riding the wind
 at the foot of the mountain lemon elegy to the deased plim wine
 Chieko's papercuts the latter half of Chieko's life atomizing dream metropolis
 guiding thouse days blizzard night monologue Chieko the Element naked form
 to play with Chieko 

「智恵子抄」の英訳です。詩文の選択は独自のものがあり、昭和31年(1956)の新潮文庫版に収められた戦後のものも含みますが、新潮文庫版と完全に一致するわけでもなく、昭和16年(1941)龍星閣刊行のオリジナルとも異なっています。

広島市に本社を置く『中国新聞』さん。文化面のコラム「緑地帯」が50周年だそうで、それを記念して50年前の昭和51年(1976)に掲載された、岡山出身の詩人・永瀬清子の連載「会いたる人々」8回分が再掲されました。平成7年(1995)に亡くなった永瀬が生前に親交のあった文学者たちの思い出を語るものです。
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ラインナップは以下の通り。

① 高村先生の呼び声
② 春芬・佐藤惣之助
③ 北川冬彦の背中
④ 詩人の妻(仲町貞子)
⑤ 前掛けと三好達治
⑥ 忙しい小熊秀雄の生命
⑦ 発見者・草野心平
⑧ うぶなる人・井伏鱒二先生

いきなり初回が「髙村先生の呼び声」。

永瀬清子 会いたる人々① 高村先生の呼び声

 高村光太郎先生が、戦後岩手の山奥から東京へ出て来られて、中野の中西伊之助画伯のアトリヱに落ちつかれたのは昭和二十七年のころだった。
 私も戦後東京から岡山へ帰ってくらしていたが、夫が再び東京で勤務することになったので上京し、絶えて久しく高村さんにお会いしようとたずねていった。
 中西家の玄関で女中さんに来意を告げると、高村さんの方へ伝えて下さったらしい。玄関につづくお座敷があけはなされていて広い中庭をへだてて高い屋根のアトリヱがみえている。すると縞(しま)のちゃんちゃんこを着た、なつかしい先生が思いがけずアトリヱの入り口にあらわれ、
 「おーい、永瀬さあん」ととてつもなく大声で呼ばれた。それはまるで岩手の山の中で猟師が谷向こうの人を呼ぶような感じで、思わず私も「はあい」と答え、胸がせまった。
 中西家の横の路地をアトリヱの方へいそぎながら高村さんがいとしく思えてならなかった。
 戦争の責任をだれよりも強く感じて岩手の雪の中に自己を流謫(るたく)し、一人悔みの詩を書いていられた。そして今ようやく新しい彫刻作品を作ることによって、すべてを出なおしたいと決心して、老いた身で東京へ出て来られたのだ。でも今私を呼ばれたその度はずれな声は、まるでいじめっ子から母の懐へとびこむ幼な子のそれのようにも聞こえたではないか。
 おおそんなことを言えば人にしかられるだろう。でも少なくとも高村さんはいろいろのことから開放されて、私と話したく思っていられるのにちがいないのだ。以前駒込林町に住んでいられ、私の詩集の序文をも書いていただいた時から十数年。智恵子夫人も今はなく戦争をへだて言うに言われぬ重く痛い月日が過ぎ去った。その時私には高村さんという山獄のようにそびえ立った人が、まるで一羽の雀(すずめ)のようにかわいそうでならなかった。

「中西伊之助」は「中西利雄」の誤記です。永瀬が中西アトリエを訪れたのは、確認出来ている限り昭和29年(1954)4月25日と翌30年(1955)2月25日の2回。それぞれ日記に「午前真壁仁、永瀬清子同道くる、午后二(時)頃辞去」「午后永瀬清子さんくる、来月インド行の由」の記述があります。

語られているのはおそらく29年4月の初回訪問のことと思われます。昭和56年(1981)の永瀬のエッセイ集『かく逢った』に加筆訂正された「高村先生の呼び声」が収録されていて、それによれば「高村さんをお訪ねしたのはそれからあと、もう一、二度あったかと思います」とありますし、全体のニュアンスも久闊を叙したという感じですので。同道したはずの真壁仁については割愛されているようです。

『かく逢った』収録の加筆訂正された稿の方が、この際の訪問に関して詳しく語られていますが、末尾の「高村さんという山獄のようにそびえ立った人が、まるで一羽の雀(すずめ)のようにかわいそうでならなかった」あたりはかなりニュアンスが異なります。

ついでですので(笑)、当会の祖・草野心平の回。

永瀬清子 会いたる人々⑦ 発見者・草野心平

 昭和八年の春、はじめて草野心平さんが私の家へいらした。何かの会合ですでにお顔みしりだったが、そのころ職のない彼は名刺印刷の注文取りをしていて、その用で来たのだった。幸い夫が名刺の注文をし、草野さんは宮沢賢治の詩集「春と修羅」を、大変いい特集だから読んでごらんなさい、と言って置いていった。
 私がその詩集を読むと全く今までにない詩集で、空の遠くに星雲が渦まいているように感じた。しかしその宮沢さんがどんな人かすこしもわからないし、そのことを尋ねようにも草野さんの所がまたわからない。名刺の注文取りはしても草野さん自身の名刺は作っていなかったのだ。でも注文した名刺が出来て来た時、きけると思い心待ちにしていたら私が留守の時、弟さんが注文品を置いていかれたので駄目(だめ)だった。こうして翌九年の二月までそのまま詩集は私の手許(もと)にあった。
 何も知らぬ私はその作品だけを頼り、「麺麭」8月号に「宮沢賢治の“春と修羅”について」紹介と感想を書いたが、その雑誌をすぐ宮沢さんに送れたら、きっと生前読んでいただけたろうに、昭和八年九月二十一日に遠い岩手県で詩人は死なれ、ただ宮沢さんについて書いた最も早いものとしてこの拙(つたな)い文章は残った。
 翌年の二月に宮沢さんの弟の清六さんが上京して来られ、その時宮沢さんの第一回追悼会が新宿モナミで催された。久々に草野さんに会って詩集がうちにあることを言うと、忘れっぽい草野さんはとてもよろこんだ。草野さんは私の所だけでなく、ありとあらゆる知人の所へその詩集を持ってまわり、そして宮沢発掘のために尽くしたのだ。
 昨年はまた福島県の老女、吉野せいさんの「洟をたらした神」のために尽くし、大きな名声をかち得た。いい作品を発見する目と世の中へ紹介するための情熱、それはなまなかな者には不可能なことで、事実彼の詩人としての大きな仕事であった。

こちらも『かく逢った』に加筆訂正され「親分草野心平さん」と改題されたものが掲載されています。そちらでは昭和28年(1953)3月15日(永瀬は「昭和二十六、七年頃」としていますが)、心平が経営していた居酒屋「火の車」開店一周年の際に訪問したことも記されています。「大きな大福帳に訪れた人の思い思いのサインが墨書されていた」とあります。そこには1ページ目に光太郎のそれも残されているのですが、永瀬の回想には書かれていません。
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この日、日記に依れば光太郎は「火の車」には立ち寄っただけで長居はしなかったらしく、永瀬とはニアミスだったと思われます。

そして新宿モナミでの宮沢賢治追悼会。これについては、やはり『かく逢った』に収められている「「雨ニモマケズ」の発見――モナミの賢治追悼会――」という文章に詳しく語られています。

また、他に「会いたる人々」で取り上げられた佐藤惣之助、北川冬彦、仲町貞子、三好達治、小熊秀雄、井伏鱒二についても、おそらく「会いたる人々」からの加筆訂正が為された文章が『かく逢った』に収められています。さらに賢治実弟の宮沢清六、木下夕爾、宮本百合子、深尾須磨子、長谷川時雨、萩原朔太郎、横光利一、正宗白鳥らについてもそれぞれ項立てされています。古書市場でそう珍しくなく入手可能ですので、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)63 『日本美の源泉』

昭和47年(1972)8月10日 中央公論美術出版 高村光太郎著
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収録作品
 日本美の源泉 埴輪の美 法隆寺金堂の壁画 夢違観音 神護寺金堂薬師如来
 藤原期の仏画 能面「深井」


「著書」と言っていいものかどうかという感じのものではあります。昭和17年(1942)の7月から12月にかけ、中央公論社から発行されていた雑誌『婦人公論』に全6回で連載された美術評論で、その草稿を同社編集者の栗本和夫が和綴じに仕立て、保管していたものをそのまま復刻し、二重函帙入り別冊解説付き限定300部・定価15,000円で刊行しました。別冊解説は当会顧問であらせられた故・北川太一先生でした。

栗本が和綴じに仕立てた時点で、第四回の冒頭部分一枚が失われていまして、復刻出版のその箇所は、仕方がないので活字で補ってあります。その失われた一枚は、同じ中央公論社の編集者だった湯川龍造が譲り受けていたそうで、令和元年(2019)に売りに出て、驚きました。
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先月18日、『毎日新聞』さんに詩人の蜂飼耳氏による以下の記事が出ました。令和5年(2023)からおおむね月イチで掲載されている「詩の遊歩道」という連載の先月分です。

詩に身体を差し入れる

005 野村喜和夫の詩集『地面の底のわれわれの顔――わが近未来近代』(思潮社)は「二十世紀日本語詩」を独自の受け止め方と解釈のもとに「書き換え」た作品から成る。
 同時刊行の評論集『萩原VS西脇――二十世紀日本語詩の可能性』(同前)で論じられる萩原朔太郎と西脇順三郎の詩はもとより、蒲原有明、高村光太郎、北原白秋、宮沢賢治、三好達治、中原中也、立原道造など、詩史に鮮烈な足跡を刻む詩人たちの作品に対して、斬新なアプローチが試みられている。
 萩原の「竹」のパロディである「カオカオカオⅠ」は、石に顔を出現させる。「顔があらわれ/石から顔があらわれ/笑みの顔うれいの顔/ときに鼻は欠け眼はつぶれて/だがあらわれつづけ」。パロディだけでなく、原詩にアレンジやサンプリングが施された作も見られる。諧謔(かいぎゃく)もパロディも、野村にふさわしい。取り上げられた詩の多くは各作者の代表作に数えられるもので、詩の読者ならなじみのある作品が多いはずだ。とすれば、ここで野村が行っていることは何か。それは、原詩の言葉に身体的に分け入ることで明らかになる秘密や魅力があるはずだと、信じることだろう。原詩を揺さぶり、刻み、解体し、繋(つな)ぎ 合わせ、謳(うた)う。
 先に触れた評論集では、西脇の重要性について念を押すような言及が繰り返されるが、それと照らし合うかたちで、詩集においても西脇を取り上げた章はとくに鮮明な印象を残す。たとえば、パロディの対象は「雨」。「名づけるとは/むかし雨という/柔らかな女神の行列がそうしたように/寺院や魚や/大地や草を/はこべやははこぐさを/うっすらと濡(ぬ)らすこと/乾いてきたら/また名づけ直さなければならない」
 西脇の「雨」について、評論集では「雨と女神は比喩し比喩される関係において対等であり、相互浸透的であり」と論じられ、一方向の比喩ではない点が強調されている。ランボーの「あけぼの」に書かれる女神と比較する視点も示される。今回の詩集と評論集はそれぞれを独立した一冊と受け取ることもできるが、併読するとき、複層的に見えてくるものがあることは確かだ。
(略)
 詩を書くこと、詩を読むことは、詩の言葉に身体を差し入れることだ。詩は、その性質からして、散文よりもずっと予定調和的な運びを好まないところがある。道なき道を突き進み、未踏の場へ出て、驚愕(きょうがく)の絶景と出会いたいのだ。

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思潮社さんから出ている野村喜和夫氏の詩集『地面の底のわれわれの顔――わが近未来近代』が紹介されていました。他に七月堂さん刊行の栗原ミライ氏著『未来形で死んでいた』も取り上げられていましたが、ここでは紙幅の都合で(「紙」ではありませんが(笑))割愛しました。

で、『地面の底の……』。「詩史に鮮烈な足跡を刻む詩人たちの作品に対して、斬新なアプローチが試みられている」ということで、その中に光太郎の名も。そんな詩集が出ていたのかと思い、早速購入しました。

地面の底のわれわれの顔―わが近未来近代

発行日 : 2025年11月30日
著者等 : 野村喜和夫
版 元 : 思潮社
定 価 : 3,400円+税

プロジェクトは完了だ、私はもう詩は書かないが、
その沈黙をこのタワーに巻きつけて、黒い繭、
朔太郎の黒い繭としてそびえる、
断乎、そびえるのだ、
(「コクーン市逍遥――朔太郎をサンプリングしながら」)

蒲原有明から吉増剛造まで―20世紀日本語詩の豊饒な可能性を、多彩な書き換え行為によって解き放つ、時間錯誤的・近未来近代的新詩集。
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目次
 Ⅰ わが近未来近代
  蝶の変容
   ――抒情ペーパー全史
  有明ベース
   智慧の相者は我を見て――現代語訳蒲原有明
   香の渦輪、彩の嵐――アレンジ蒲原有明
  光太郎ベース
   道程崩壊プログラム――カットアップ高村光太郎
   それぞれの道程――パロディ高村光太郎

  白秋ベース
   罌粟ひらく――リミックス北原白秋
   ひとぐるま――パロディ北原白秋
  百年の暮鳥
   ――『聖三稜玻璃』を思い出しながら
  朔太郎ベース
   夜汽車――現代語訳萩原朔太郎
   カオカオカオⅠ――パロディ萩原朔太郎
   カオカオカオⅡ――アレンジ萩原朔太郎
   コクーン市逍遥――朔太郎をサンプリングしながら
  順三郎ベース
   雨――パロディ西脇順三郎
   超越と永遠――アレンジ西脇順三郎
   わが完璧の詩法あるいは秋――パラフレーズ西脇順三郎
   女神VS女神――西脇、ランボーに語りかける
  光晴ベース
   女人大世界――リミックス金子光晴
   水の皮膚――金子光晴へのオマージュ
  賢治ベース
   わたくしといふ現象へのありきたりな註――リミックス宮澤賢治
   七つ森の婚礼の床の上で――アレンジ宮澤賢治
  達治ベース
   あるいは豚小屋――パロディ三好達治
   老年の日――アリュージョン三好達治
  中也ベース
   振るかな、腕なんか、無限の前に――挑発的リミックス中原中也
   ほらほらこれがぼくの骨――アレンジ中原中也
   正午――パロディ中原中也
   朝鮮女――現代語訳中原中也
  道造ベース
   ヒヤシンスハウスまで――立原道造の方へ
   月蝕句会――アリュージョン立原道造
   のちのおもひに――パラフレーズ立原道造
  雪のラプソディ
   ――抒情ペーパー全史続
 Ⅱ わが近未来近代の余白に
  戦後詩ベース
   あの青い空の波の音が聞こえるあたりに――パロディ谷川俊太郎
   赤壁と地面と私たちと――リミックス萩原朔太郎/吉増剛造
   血は流れた――吉岡実を思い出しながら
   都市と歳月と眠りと――入沢康夫を思い出しながら
 あとがき


読んでみると、想像していたものとは違っていました。目次でおわかりかと存じますが、基本、先人たちの作品のパロディです。ただ、それも「リミックス」「アレンジ」「アリュージョン」などとなっているとおり、いろいろな手法を駆使してのもの。

例えば「道程崩壊プログラム――カットアップ高村光太郎」では、詩集『道程』(大正3年=1914)所収のものを中心にした十数篇の詩から特徴的なフレーズをピックアップし(一部改変しつつ)、つなぎ合わせて一篇の詩にしています。そうかと思うと「それぞれの道程」は、「マザコン男子」「AI」「詩人」が「道程」を書いたらどうなるか……といった手法。一時期話題になった神田桂一氏と菊池良氏による『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』を想起しました。

他の詩人たちの作品に対しても、様々な手法でのアプローチ。笑える箇所が多いのですが、さりとてそれだけでなく、考えさせられる部分も。通底しているのは各作者に対するリスペクトやフレンドシップ的な感性です。「嘲笑」とか「痛罵」などとは無縁で、そこがいいと思いました。ただ、元ネタがわかっていないと理解不能の部分もあり、読み手の資質が問われます。当方もなじみのない詩人のパートではそうでした。

ぜひお買い求めを。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)60 『美について』筑摩選書96

昭和42年(1967)10月25日(日) 筑摩書房 高村光太郎著
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目次
 触覚の世界 素材と造型 彫塑総論 彫刻鑑賞の第一歩 MÉDITATIONS SUR LE MAÎTRE
 現代の彫刻 緑色の太陽 黏土と画布 工房雑感 第三回文部省展覧会の最後の一瞥
 日本画に対する感想 蝉の美と造型 木彫地紋の意義 信親と鳴滝 自刻木版の魅力
 カリカチユア 絵における詩精神 自分と詩との関係 美の日本的源泉
 天平彫刻の技法について 本邦肖像彫刻技法の推移 能の彫刻美 仏画賛 書について
 解説 生野幸吉

『美について』は、オリジナルが昭和16年(1941)に道統社から、文庫版が昭和35年(1960)に角川文庫のラインナップで、それぞれ出されていましたが、ソフトカバーの「筑摩選書」の一冊として刊行されました。さまざまな雑誌等に発表された主に美術評論の集成で、オリジナル、文庫版、そして筑摩選書版と、それぞれに収録作品がかなり異なっています。

昨日ご紹介した新潮文庫版『智恵子抄』改版と順番が前後していました。すみません。

今年も3.11が近づいてきました。思えば「あの日」から15年目の3.11ですね。

智恵子の故郷、福島県での関連イベントをご紹介します。

まずは浜通り南相馬市から。地方紙『福島民報』さん記事。

「精霊の木」3月1日 投光 福島県南相馬市の牧草地 鎮魂、再生の願い込め

000 福島県南相馬市小高区摩辰地区の牧草地に、「精霊の木」と名付けられた1本の柿の木がたたずむ。命名されてから今年で10年。「精霊の木」が知られるきっかけとなったライトアップが3月1日に行われる。
 2017(平成29)年3月、東日本大震災の犠牲者の鎮魂と被災からの再生に願いを込める「光のモニュメント」が始まった。南相馬市原町区のシンボルだった原町無線塔をサーチライトの光で再現するイベントで、市内で飲食店を営む須藤栄治さん(53)が委員長を務める。
 東京電力福島第1原発事故に伴う避難区域の設定が分かれた原町、鹿島、小高の各区を会場にして、絆を表現しようとした。小高区の会場を探していた須藤さんが、常磐自動車道を走行中、摩辰地区の整った農地を目にした。同地区は第2次世界大戦後に開拓された土地で、詩人高村光太郎の詩「開拓十周年」が刻まれた記念碑が建つ。近くの牧場には柿の木がりんとたたずみ、見る角度によってさまざまな表情をみせた。
 神秘的な姿にみせられた須藤さんは、開拓地に復興の思いを重ねた。柿の木を「精霊の木」と名付け、以来、光のモニュメント会場として投光を続けている。
 ライトアップされた幻想的な姿が広まり、写真愛好家らの人気スポットに育った。イベントも話題を呼び、会場は相双地方全域に広がった。「精霊の木の不思議な力を感じる」と須藤さんは語る。
 今年度の光のモニュメントは昨年11月から川内村で始まり、1日に精霊の木、11日に原町無線塔跡地の高見公園で締めくくられる。「これまでの10年は鎮魂と再生がメインだった。次は創造を目指したい」。須藤さんは会場となった相双地方を結ぶ物語の発信を目指している。

イベント詳細。

光のモニュメント(2025~2026)~再生と繁栄への願いを込めて~

期 日 : 2026年3月1日(日)
会 場 : 精霊の木/高村光太郎開拓十周年記念碑 福島県南相馬市小高地区
時 間 : 日没から20時頃まで
料 金 : 無料

 東日本大震災の再生と繁栄の願いを込めて、福島県相双地区各地で行われるサーチライトによるライトアップイベントです。
 11月2日から福島県川内村で始まった「光のモニュメント」は、来年3月11日まで相双地方10市町村12カ所で明かりを灯します。
 「再生と繁栄への願いを込めて」をテーマに力強い光を夜空に灯すことで、犠牲者への追悼と未来への再生、繁栄を願うととも地域に根ざした歴史や文化を再発見し、人々のつながりを深めることを目的としています。
 南相馬市では2026年1月25日に鹿島御子神社、御刀神社、3月1日に精霊の木、3月11日に高見公園で、日没から20時頃まで点灯する予定です。
追悼と未来への願いをこめて、空高くともされる光を見に訪れてみてはいかがでしょうか。
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「開拓十周年記念碑」は、光太郎最晩年の昭和30年(1955)に建てられました。小高区の金房開拓農業協同組合の発願で、中心になっていたのが平田良衛という人物。岩手盛岡で開催された岩手県開拓連盟の10周年記念式典で、同式典に寄せて作られた詩「開拓十周年」の光太郎筆跡を写した印刷物が配布されました。それを読んだ平田が感激、地元の書家にこの詩を筆写してもらって碑文としたものです。光太郎の許可を得たのかどうか微妙なところですが、数少ない光太郎生前に建てられた詩碑の一つです。

ちなみに光太郎に詩の制作を依頼したのは、岩手県開拓連盟の中心人物の一人だった藤原嘉藤治。嘉藤治は宮沢賢治の親友だった縁で、戦前の『宮沢賢治全集』編纂にも携わり、つい先週、花巻で開催されたトークイベント「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」で取り上げました。

この碑は2回、拝見に伺いました。1度目はもう20年以上前。2度目は東日本大震災後の平成28年(2016)。「精霊の木」が近くにあるというのですが、記憶にあるような無いような、という感じです。右下は過去の同イベントの際の「精霊の木」。幻想的ですね。
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イベント「光のモニュメント」自体は昨年11月から始まっていて、リレー形式で浜通り各地をつないでの開催とのこと。スタートが川内村の長福寺さんだったそうで、驚きました。当会の祖・草野心平ゆかりの寺院であるためです。

続いて中通り郡山市から。クローズドっぽい感じですが記録のためにも取り上げておきます。

第56回全青司ふくしま全国大会/第59回全青司定時総会

期 日 : 2026年3月6日(金)~8日(日)
会 場 : けんしん郡山文化センター 福島県郡山市堤下町1番2号
日 程 : 
 3月6日(金) エクスカーション(視察研修)
  JR 郡山駅 8:30  福島第一原子力発電所 10:30〜14:20 道の駅なみえ 14:50〜15:50
  JR 郡山駅 / 郡山おみやげ館 18:15
 3月7日(土) 第56回 全青司ふくしま全国大会・懇親会
  13:00 開会式(けんしん郡山文化センター 中ホール)
   第1部 基調講演 第2部 研究発表 第3部 パネルディスカッション
  18:15 大会終了
  19:30 懇親会
 3月8日(日) 第59回 全青司定時総会
  9:30 定時総会(けんしん郡山文化センター 中ホール)
  13:00 閉会式

大会のテーマ 『ほんとの空へ』

 今回で56回目を迎える全青司の全国大会は、福島青年司法書士会の主管により、福島県郡山市において開催されます。そして、本大会のテーマは、「ほんとの空へ」です。
 このテーマには、法律専門家を名乗る私たちが、司法書士の「本分」について、今一度見つめなおすことで、本来自分たちが進むべき道のりの「はじめの一歩」を踏み出そう、参加した方々にそう思ってもらえる大会にしたいとの福島実行委員会の思いが込められています。

 本大会では、プロボノ活動を考えるにあたり、あらゆる側面から捉えたうえで、今の青年司法書士がどのように動くべきかを提案します。そして、その提案が、参加者の司法書士人生にとって新たな未来、「ほんとの空へ」と繋がっていくことを信じています。
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「全青司」って何? と思って調べたところ、「全国青年司法書士協議会」の略だそうでした。

この時期での福島での全国大会開催ということで、『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語をテーマに冠し、福島第一原子力発電所の見学も組み込まれているそうです。

もう1件、こちらも郡山から。

3.11ふくしま集会 原発事故は終わってない

期 日 : 2026年3月11日(水)
会 場 : 郡山市労働福祉会館大ホール 福島県郡山市虎丸町7-7
時 間 : 13:00~
料 金 : 無料

ほんとの空の下で語られる本当の声を聴きに来てください。

福島原発事故から15年! 廃炉は本当にできるのか! 東京電力柏崎刈羽原発の再稼働を許さない! 放射能汚染土・汚染水の拡散を許さない!

報告
 ・ふるさと返せ 津島原発訴訟  ・30年中間貯蔵施設地権者会
 ・放射能汚染土壌問題      ・放射能汚染水の海洋投棄を止める取り組み
 ・311子ども甲状腺がん裁判    ・さよなら柏崎刈羽原発プロジェクト

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一昨年からやはり「ほんとの空」の語を使っての開催となっています。

原発事故から15年。もはや選挙の争点にもならなくなってしまった感がありますが、未だに双葉、富岡、大熊、浪江、葛尾、飯舘、南相馬の7市町村で帰還困難区域の指定が解除されていないわけで、まさに「原発事故は終わってない」のです。それなのに各地でなし崩し的に相次ぐ原発の再稼働、それとてトラブル続きで……。暗澹たる気持にさせられます……。

本当の意味で「ほんとの空」が戻る日の到来を、強く望みます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)57 『猛獣篇』 

昭和37年(1962)4月2日 歴程社 高村光太郎著
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目次
 清廉 
白熊 傷をなめる獅子 狂奔する牛 鯰 象の銀行 苛察 雷獣 ぼろぼろな駝鳥
 龍 よしきり鮫 マント狒狒 象 潮を吹く鯨 森のゴリラ
 「猛獣篇」について 北川太一 覚書 草野心平

光太郎七回忌記念として、当会の祖・草野心平が鉄筆を握って版下を作りました。謄写版印刷にあたったのは、当時まだ定時制高校にお勤めだった当会顧問であらせられた北川太一先生と、教え子の皆さん。250部限定での刊行でした。

連作詩「猛獣篇」を一冊にまとめる構想は大正期から既にあり、何度も刊行予告が出ましたが、結局実現せずにいました。
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「覚書」によれば、心平はどのような形で出版するか、あれやこれやといろいろ悩んだ挙げ句、結局「原点回帰」で、宮沢賢治や光太郎も同人だった大正期の同人誌『銅鑼』の昔に返り、謄写版印刷にするのが光太郎らしいと考えたとのこと。その通りですね。

手前味噌で恐縮ですが、当方著書です。著書と言っても並製の冊子に近いもので、ISBNコードも附されていないものですが。

光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで

発行日 : 2026年2月21日059
著者等 : 小山弘明
版 元 : やつかの森LLC
定 価 : 600円

「天才は天才を知る」
賢治作品が世界的に広まった背景には、光太郎と清六、嘉藤治らの尽力があった。

目次
 『春と修羅』・『銅鑼』
 光太郎と賢治、その出会い
 『宮沢賢治追悼』
 幻の書物展望社版『宮沢賢治全集』
 文圃堂版『宮沢賢治全集』
 十字屋書店版『宮沢賢治全集』
 十字屋書店『宮沢賢治研究』
 組合版『宮沢賢治文庫』
 花巻での光太郎の賢治顕彰
 筑摩書房版『宮沢賢治全集』
 光太郎と藤原嘉藤治


現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」に関わるもので、図録というわけではありませんが、20葉くらいは関連画像も入れてあります。全体で50ページほどです。

目次の通りで、光太郎と賢治、当会の祖・草野心平を介したそもそもの交流の始まりから、生涯一度きりに終わった二人の出会い、その後の光太郎が関わった賢治全集や関連書籍、全集編纂に加わった賢治の親友・藤原嘉藤治と光太郎の交流など。

光太郎と清六が初めて会った、昭和9年(134)に新宿モナミで開催された賢治追悼会の件、昭和11年(1936)に光太郎楼が碑文を揮毫して花巻町に建てられた賢治詩碑第1号の「雨ニモマケズ」碑の件、戦後の児童劇団・花巻賢治子供の会と光太郎の交流の件など、書こうと思えばまだまだいくらでもネタがあるのですが。

販売元は花巻のやつかの森LLCさん。同社からフライヤー画像が送られてきました。
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上記画像をご参照の上、お申し込み下さい。よろしくお願い申し上げます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)54 『続ロダンの言葉』 

昭和34年(1959)9月10日 新潮社(新潮文庫) 高村光太郎訳著
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目次
はしがき
アウギユスト ロダン(オクターヴ ミルボー)
若き芸術家達に(遺稿)
ロダン手記
 花について
 女の肖像
 芸術家の一日
  庭園の朝  古代彫刻の断片  庭園の夕
 ゴチツクの線と構造
 ゴチツク建築家は写真家である 
 面と相反と
 
 釣合の知識
 石のレース細工 
 外陣
 
 くりかた
 芸術と自然
  古代芸術―ギリシヤ  古代芸術の豊かさは肉づけにある  高肉とキヤロスキユロ
  ローマ及ローマ芸術  アメリカの為に
 ゴチツクの天才
  ノートルダム サン トウスターシユ 彫刻に於ける色調について 十八世紀
 断片
 手紙
ギユスターヴ コキヨ筆録
ジユヂト クラデル筆録
フレデリク ロートン外二三氏筆録
 パトレツト筆録 クラリ筆録 フレデリク ロートン筆録 フランシス ド ミオマンドル筆録
 ポール グゼル筆録
  「岡の上にて」より 「ロダンの家にて」より フイデヤスとミケランジユ 女の美
「本寺」より(手記)
ロダン論(アサア サイマンス)
ロダン夫人の死(マルセル チレル)
ロダンのモデエル達(マルセル チレル)
ドユ モーパスサンの描いたロダン
解説 北川太一

7月に同じ新潮文庫のラインナップに入れられた正編に続く出版。内容的には大正9年(1916)に叢文閣から出た初版をほぼ踏襲していますが、末尾の4篇のロダン論はオリジナルには入っていなかったものです。

解説は当会顧問であらせられた故・北川太一先生でした。

北の大地から特別展情報です。

開館30周年特別展「文学館コレクションの輝き」

期 日 : 2026年1月31日(土)~3月22日(日)
会 場 : 北海道立文学館 札幌市中央区中島公園1番4号
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日 ただし2月23日(月・祝)は開館し、2月24日(火)休館
料 金 : 一般500(400)円、高大生250(200)円 中学生以下・65歳以上無料
      *観覧料のうち( )内は10名以上の団体料金

1966年の最初の北海道文学展以来、連綿と続けられてきた収集活動。現在の資料点数は38万点を超えます。 原則、分野別・作家別などに分類され配架される資料ですが、中には収蔵時のまとまりを保ちそれぞれの特色を存分に発揮しているものもあります。 装幀の美しい本が揃う蘭繋之文庫、作家の書斎を覗いたような船山馨文庫、北海道文学論考の基礎資料が集まる小笠原克文庫……。 本展では「〇〇文庫」「〇〇コレクション」などと称されるそれらの資料群に光を当て、文学の魅力を掘り下げていきます。意外性のある資料との出会いもお楽しみに。

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関連行事
 講演会「『声』から探る近代文学―昭和初期の自作朗読を聴く」
  日時 2月23日(月・祝)14:00~15:30
  当館講堂(聴講無料)  講師 新井高子(詩人)
  定員 60名 2月10日(火)9:00から電話受付(要申込、先着順)
 ギャラリーツアー
  日時 2月14日(土)、21日(土)、3月7日(土)、14日(土)、21日(土)
  いずれも11:00~約40分 特別展示室  ご案内 当館学芸員
  定員 先着約10名 当日自由参加 ※観覧券をお求めの上、展示室入口へ。
 ミニ解説&朗読会
  学芸員による10分間ミニ解説後の朗読
  日時 2月18日(水)、28日(土)、3月4日(水)、11日(水)、18日(水)
  いずれも11:00~約40分 特別展示室
  朗読作品
   (順不同) 萩原朔太郎「猫町」/三浦綾子「銃口」より一部/船山馨「笛」/
   小笠原克「北海道 風土と文学運動」より一部/森田たま「石狩少女」より一部
  定員 先着約30名 当日自由参加 ※観覧券をお求めの上、展示室入口へ。
 講座「コレクションを語る」
  日時 3月15日(日)14:00~15:00
  当館講堂(聴講無料)  ご案内 当館学芸員
  定員 60名 3月1日(日)9:00から電話受付(要申込、先着順)

館蔵資料のうち、肉筆もの、稀覯本など含む、まとめて寄贈されたコレクションにスポットを当てての展示だそうです。

公式サイトに出品リストは出ていませんが、光太郎の第一詩集『道程』(大正3年=1914)も出ているとのこと。地元紙『北海道新聞』さんの報道で知りました。ネット上ではリード文的なところしか読めませんが。

初版本、直筆稿…寄贈資料で作品に光 道立文学館で開館30周年特別展「文学館コレクションの輝き」

北海道立文学館(札幌市中央区中島公園)が作家や収集家からまとめて寄贈を受けた資料に光を当てた開館30周年特別展「文学館コレクションの輝き」が、同館で開かれている。詩人で彫刻家、画家の高村光太郎の初詩集「道程」(1914年)の初版本や、札幌出身の小説家船山馨(14~81年)の代表作「石狩平野」の自筆原稿など貴重な資料が並ぶ。
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小説家船山馨の代表作「石狩平野」の自筆原稿や親友の佐藤忠良が描いた口絵原画などが並ぶコーナー

同館では大正3年(1914)の『道程』を二冊お持ちで、一冊は通常のもの、それからもう一冊は白布装の異装本。こちらには光太郎自筆の書き込みも為されています。それらは一昨年に開催された特別展「100年の時を超える ―〈明治・大正期刊行本〉探訪―」で展示されました。今回も2種類出しているのかどうかは不明ですが。

どちらも今回のコンセプトであるまとめて寄贈されたコレクション中の「高橋留治文庫」に含まれています。「北海道拓殖銀行に勤める傍ら詩書を愛読した高橋留治氏(1911(明治44)年-1984(昭和59)年)が遺した膨大なコレクション」だそうで。高橋氏は、光太郎と交流の深かった詩人・宮崎丈二の研究もなさっていて、『評伝 無冠の詩人 宮崎丈二――その芸術と生涯――』(昭和49年=1974 北書房)という著書もおありでした。そこで同館ではやはり「高橋留治文庫」中の資料を中心に、平成28年(2016)には「文学館の中の美術―宮崎丈二」が開催されたりもしています。

公式サイトに出品リストは出ていませんが、フライヤーで紹介されているいわば「目玉」は、以下の通り。

・「北海道国郡全図」松浦開拓判官阿部弘(松浦武四郎) 明治2年(1869)
・船山馨自筆原稿「石狩平野」 昭和40年(1965)頃
・小笠原克『北海道 風土と文学運動』 昭和53年(1978)
・宮沢賢治『春と修羅』 大正13年(1924)
・蘭繁之によって作られた豆本全422集の内の一部 


このうち賢治の『春と修羅』も「高橋留治文庫」に含まれるものです。

関連行事も充実していますね。

ぜひ足をお運び下さい。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)42 『みちのくの手紙 ―高村光太郎書簡集』

昭和28年(1953)2月5日 中央公論社 宮崎稔編
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目次
 昭和二十年 昭和二十二年 昭和二十三年 昭和二十四年 あとがき
 口絵写真 高村光太郎


姻戚だった茨城在住の詩人・宮崎稔が、自身や父で素封家だった仁十郎、妻・春子(智恵子の姪)に宛てた光太郎書簡を活字にしたものです。

収められているのは昭和20年(1945)と、同22年(1947)~24年(1949)のもの。抜けている21年(1946)と25年(1950)以後のものもあるのですが、採録されませんでした。その理由は不明です。

昭和22年(1947)の歌集『白斧』もそうでしたが、光太郎はこの出版に不同意。したがって奥付に光太郎の名は記されていません。それでも宮崎は強引に刊行に踏み切りました。こうした点が光太郎にとっては悩みの種の一つで、『高村光太郎全集』別巻の年譜では、当会顧問であらせられた北川太一先生、宮崎が没したこの年4月27日の項に「何かと光太郎の身辺を案じ、一面では光太郎の心労の一因でもあった宮崎稔が胃潰瘍による吐血の末、四十三歳で没した」と書きました。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の高村光太郎花巻疎開80年企画展「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」につき、先月の地元紙『岩手日報』さんに続き、やはり地元紙の『岩手日日』さんが報じて下さいました。

花巻ゆかり 2人に焦点 高村光太郎記念館 賢治全集、写真展示

 詩人、童話作家の宮沢賢治(1896~1933年)と、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の関わりに焦点を当てた企画展は、花巻市太田の高村光太郎記念館で開かれている。
 賢治を世に広めるために光太郎が果たした役割などを資料で紹介し、花巻にゆかりある両偉人の人生が交錯した軌跡をたどる。3月31日まで。
 光太郎と賢治は、東京の光太郎のアトリエで1度だけ面会した。賢治没後の34(昭和9)年、東京で開かれた賢治追悼の会に賢治の実弟・清六が「雨ニモマケズ」の記された手帳を含む遺稿を持ち込み、これに光太郎をはじめとする著名人が感銘を受けた。それから全集刊行の動きが起こり、光太郎と詩人草野心平の手により同年、「宮沢賢治全集」(全3巻)が初めて文圃堂から刊行された。
 高村光太郎花巻疎開80年企画展「光太郎と賢治-宮沢賢治全集ができるまで」と銘打った同展では、最初の全集に加え、宮沢賢治全集全7巻(十字屋書店)、宮沢賢治文庫全7巻(日本読書組合)、宮沢賢治全集全11巻(筑摩書房)、光太郎揮毫(きごう)の書軸「東ニ病気ノ母アレバイッテ看病シテヤリ」、花巻で過ごす光太郎の写真などを展示。編さん者の一員として関わった賢治の友人の藤原嘉藤治の生涯や、光太郎、嘉藤治、清六の関係性にも触れている。
 展示している全集は、いずれも光太郎が編集や装幀作業に関わっており、自ら書きつづった題字や表紙の印刷についての所感も残されている。
 同展は市が主催。監修した高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表は「賢治を世の中に出す大きな力になった一人が光太郎。2人をつないだ草野心平、清六、そこを埋めた嘉藤治らにより、賢治の作品が現在も読まれているということを知ってもらいたい」と意義を語る。
 今月21日午前10時からは、同市大通りのなはんプラザで小山代表、宮沢和樹林風舎代表取締役、瀬川正子共同園芸取締役によるトークイベントを開催する。参加無料。

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取材を受けたのは昨年12月でして、その折には「年内には記事にしたい」ということでしたが、一昨日に掲載されました。感触としては、記者氏、全くといっていいいほど賢治と光太郎の関わりをご存じなく、実に興味深そうで、「こりゃベタ記事にはするべきでない」と考えられたようで、お渡しした50ページほどの冊子資料を読み込まれてから大きく取り上げて下さったようです。ネット上ではリード文部分のみの公開となっていますが。

冊子資料は同館で販売されているかどうか(いろいろ面倒な事情がありまして)。記事の最後にあるトークイベントの際には大々的に売られると思われます。
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ぜひ足をお運び下さい。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)39 『独居自炊』 

昭和26年(1951)6月15日 龍星閣 高村光太郎著
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目次
 独居自炊
 子供の頃
  父光雲のこと 母と姉 父の道をついで
 姉のことなど 母のこと 美術学校時代 彫刻家ガツトソン・ボオグラム氏
 ロダンの手記談話録 七月の言葉 一夏安居の弁 「道程」について 自分と詩との関係
 小刀の味 生きた言葉 触覚の世界 自作肖像漫談 へんな貧 春さきの好物 雷ぎらひ
 しやつくり病 ほくろ 悠久山の一本欅 谷中の家 二世代 蟻と遊ぶ 日記より
 がんがん三つ口 新茶の幻想 三十年来の常用卓 智恵子のにひ盆

光太郎エッセイ集としては2冊目。ただし戦時中の昭和18年(1943)、同じ龍星閣から出た『某月某日』とかなりの部分がかぶっています。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の高村光太郎花巻疎開80年企画展「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」につき、地元紙『岩手日報』さんが報じて下さいました。

賢治全集 支えた光太郎 花巻で企画展 デザインした貴重初版 作品広めた弟らも紹介

 彫刻家・詩人高村光太郎(1883~1956年)らと宮沢賢治全集の関わりを伝える企画展が、花巻市内で開かれている。光太郎が装丁した全集を展示し、賢治の実弟らも編集に携わったエピソードなどを紹介。貴重な資料から、賢治作品を世に広めようと尽力した功労者の軌跡を知ることができる。
 同市太田の高村光太郎記念館に数十点の資料が並ぶ。見どころは童話や詩を集約した4種類の全集計28冊で、珍しい初版も含まれる。企画展を主催した市によると、全集をまとめて披露するのは初の試み。初版は数が少なく、劣化もあり、一般の人が目にするのは貴重な機会という。
 展示資料で光太郎が全集の題字などをデザインしたと解説。編集に関わった賢治の実弟・清六と親友・藤原嘉藤治(かとうじ)のやりとりを記す書簡の複製には、方言を分かりやすく言い換えようとしていた記録などが残り、当時の思いに触れることができる。
 光太郎関連の事業に取り組む同市の合同会社「やつかの森」が協力。藤原正代表は「彫刻家の光太郎がこだわったデザインを見てほしい。賢治のために力を添えたことはあまり知られていない」と説明する。
 同社によると、戦争空襲で宮沢家を頼り、同市旧太田村に疎開した光太郎が、賢治作品を高く評価していたという。
 3月31日まで。午前8時半~午後4時半。期間中無休。入館料は一般350円、高校生・学生250円、小中学生150円。
 2月21日は同市大通りのなはんプラザで、全集をテーマにしたトークショーを開催。全国で光太郎の顕彰活動を行う小山弘明さん=千葉県香取市=らを招く。問い合わせは市生涯学習課(0198・41・3587)へ。

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記事を書かれたのが新人記者氏だそうで、いろいろ突っ込みどころがあるのですが(光太郎が疎開したのは花巻町中心街の宮沢家で太田村には戦後になってから移ったとか、当方は「全国で顕彰活動」というわけではないとか)、大きく取り上げて下さったのはありがたいところです。

ところで記事終末にある関連行事としてのトークイベントのフライヤーが完成したそうで、載せておきます。
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足をお運びくださらば幸甚に存じます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)25 『をぢさんの詩』

昭和18年(1943)11月3日 武蔵書房 高村光太郎著
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目次
 序 
さくら 軍艦旗 こどもの報告 カタバミの実 約束 路ばた 迎火 少年に与ふ
 少女に 少女立像 五月のうた 少女の思へる 少女よ こころに美をもつ 変貌する女性
 新しき日に 逞しき一念 手紙に添へて 与謝野夫人晶子先生を弔ふ 山道のをばさん
 女性はみんな母である わが大空 新穀感謝のうた 歩くうた 鬱勃たる健康
 私は青年が好きだ 神の如く行へ みなもとに帰るもの 純潔のうた 四月の馬場
 新緑の頃 みかきにしん 漁村曙 仕事場にて 神これを欲したまふ さかんなるかな造船
 供木のことば 無口な船長 春駒 氷上戯技 大きな嚔 晴天に酔ふ 初夏言志
 
先生山を見る 偶成二首 蝉を彫る 提督戦死

青少年向けとして編まれた翼賛詩集です。交流のあった詩人の高祖保が編纂に当たってくれました。高祖には申し訳ありませんが、平易な口調で書かれた詩が多く、それだけにかえってグロテスクさが際立ちます。「これこそが光太郎詩の精髄、真髄、真骨頂」と涙を流さんばかりにありがたがる意味不明のあんぽんたんがいて困っているのですが……。

1月21日(水)の『朝日新聞』さん一面コラム「天声人語」。光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)と「道程」(同3年=1914)を引いて下さいました。

(天声人語)きつぱりと冬が来た

「冬が来た」と題した詩を、高村光太郎が編んでいる。それは〈きつぱりと冬が来た〉と始まる。〈八つ手の白い花も消え/公孫樹の木も箒になつた〉。ご存じの方も多いだろう。あの有名な詩〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉と同じ詩集に載っている▼寒い冬が、やって来た。きのうは大寒の入りだった。1年で、もっとも冷え込みが厳しい時期とされる。実際に今週、強い寒気が列島に流れ込み、しばらく居座るようだ▼名著『風土』で、和辻哲郎は寒さと冷たさについて考察している。乾いた西欧の冬に、冷たい空気はあっても、身に沁みるような寒さはない。湿潤な日本の冬と違って「人間を委縮させずにはおかないような、暴圧的な寒さはない」と論じた▼思い出すのは、かつて駐在した旧満州の地、中国東北部の乾燥した冬だ。零下30度にもなる冷気は寒さというより、痛みだった。ゾクッとしたときはもう手遅れとも言われた。見えない何かに体が蝕(むしば)まれる恐怖である▼土地の人は“先”に注意するよう教えてくれた。耳の先、手や足の先、頭の先。そういえば「冷たい」の語源は「爪痛し」との説がある。靴下を重ね、手袋をはめ、人は丸くなって、じっと、待つ。天地の道、極まれば則(すなわ)ち反(かえ)ると唱えながら、春を待つ▼高村は書く。〈ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ〉。近所にある梅の木に目をやれば、その枝に、ぷくりとした芽がゆれていた。

まったくこの冬の寒さは厳しく感じられます。ひと頃、毎年のように暖冬だと言われていた時期は何だったんだろうという感じです。まぁ、これが本来の自然の姿なのでしょうが。

自宅兼事務所のある比較的温かな千葉県の北東部でも、既に2回降雪がありました。最初は1月2日(金)から翌日未明にかけて。
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この時は4~5㌢の積雪。それから一昨日も、朝起きたらうっすらと屋根に積もっていました。どうもまだ降るような気がしています。「カマキリが高い場所に卵を産むとその冬は積雪が多い」という俗信があり、そのとおり昨秋、2階のベランダの外壁に産卵したカマキリがいまして。
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それにしても、雪国の皆さんのご苦労はいかばかりかと存じます。ご自愛下さい。

しかし、冬至を過ぎて一ヶ月、確実に陽光は春近しの感を呈してきました。もう少しの辛抱ですね。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)24 『随筆 某月某日』

昭和18年(1943)4月20日 龍星閣 高村光太郎著
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目次
 十二月八日の記 子供の頃 美術学校時代 姉のことなど 母のこと ロダンの手記談話録
 某月某日 七月の言葉 一夏安居の弁 詩の深さ 中央協力会議の印象
 芸術による国威宣揚 美の力 戦時下の芸術家 某月某日 美術館の事その他 戦時の文化
 間違のこと 自作肖像漫談 春さきの好物 雷ぎらひ 普遍と独白 しやつくり病
 上野の現代洋画彫刻 某月某日 三十年来の常用卓 某月某日 ほくろ 悠久山の一本欅
 谷中の家 某月某日 蟻と遊ぶ 豊島与志雄氏著「猫性語録」 小感 某月某日
 がんがん三つ口 新茶の幻想 

光太郎初の随筆集です(一部、随筆と言うより評論と言った方が良いものも含みます)。タイトルの「某月某日」は、その題で『改造』、『歴程』、『知性』、『帝国大学新聞』に寄稿していて、そこから採りました。他もすべて新聞、雑誌等への寄稿からの転載で、書き下ろしは含まれません。

版元は『智恵子抄』と同じ龍星閣。おそらく、光太郎の美術評論集『美について』(道統社)と『造型美論』(筑摩書房)が相次いで刊行され、それなりに好評だったため、社主の沢田伊四郎が、それなら随筆集もと思い立ったのではないかと考えられます。

同年10月の第2刷から函がカバーに代わり、昭和19年(1944)の第3刷まで確認出来ています。計45,000部が刊行されました。

このブログ中、昨年の大晦日に書いた記事で少しだけご紹介しておいた新刊書籍ですが、改めて。

「大東亜戦争」幻想化と「戦争責任」の精神史 擬態に対峙する詩人たち

発行日 : 2025年12月30日
著者等 : 小関素明著
版 元 : 人文書院
定 価 : 6,800円+税

戦後社会に瀰漫する欺瞞と擬態、その正体を暴く

開戦の報に国民が覚えた高揚感。そして敗戦後、その熱狂をまるで“なかったこと”のように振る舞い始めた国民。この巨大な断絶の深淵には何が横たわっているのか。「大東亜戦争」という呼称が国民に与えた幻想と、戦後の空虚な平和主義の根源にある欺瞞を解き明かし、我々が未だ直視できずにいる「戦争責任」に対峙する。

著者 小関素明
1962年生まれ。立命館大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、立命館大学教授。専門は近代日本政治史・近代日本政治思想史。著書に『日本近代主権と「戦争革命」』(日本評論社、2020年)、『日本近代主権と立憲政体構想』(日本評論社、2014年)、『現代国家と市民社会』(共編著、ミネルヴァ書房、2005年)、『新しい公共性』(共編著、有斐閣、2003年)など。
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目次
 はじめに
 序章 情念に分け入る精神史をめざして
  1 本書の問題意識――「戦争協賛」と「戦争責任」の思想化に向けて
  2 本書の分析課題と視座
  3 本書で使用する史料について
 第Ⅰ部 「大東亜戦争」の幻影と煩悶
  第一章 日米開戦の衝撃と翻弄
   1 開戦の衝撃と変貌する詩人たち
   2 「宣戦の詔書」の作用――高揚感の国民的拡がり
   3 「大東亜戦争」の特性と天皇制の関涉
  第二章 表現者の幻覚と煩悶――「真の自己」の渇望と探究
   1 自我と美感の転相――高村光太郎
   2 表現の原郷への帰還と「本当の自己」との葛藤――野口米次郎
   3 言語表現の新境の眺望と天皇
  第三章 「大東亜戦争」道義化の蹉跌
   1 「国民文学」の蹉跌と「大東亜戦争」聖戦化の限界
   2 「メシア国家」の幻影――「近代の超克」論の限界
   3 「戦意高揚」戦略の限界
  第四章 敗戦時における国民の擬態の前景化
   1 心的空白状態の到来
   2 「民主化」受容の屈曲――他動的「国民主権」の到来
   3 死の至近化と言葉の限界効用
 第Ⅱ部 孤塁からの開削
  第五章 「荒地」への収斂
   1 「戦争体験」の特質とその思想化
   2 「紙屑を捨てない」主体性――「何も信じない」ことを原点に
   3 詩作のオントロギー—―「詩の特権性」としての「在らざるものの力」の創造
  第六章 「橋上の人」の写像と射程
   1 「直接性」への懐疑――庶民感覚と兵士の目線への不信
   2 「荒地」という「可能性」――文明の蘇生に向けて
   3 「橋上」からの近代批判
  第七章 戦後社会の擬態の摘発
   1 「深い絶望」の探求
   2 バチルスとしての教説的「平和主義」に抗して――『死の灰詩集』批判
   3 病巣への肉迫
  第八章 戦争責任の実効化と言語表現の新地平
   1 「意味の回復」と愛への覚醒
   2 金子光晴における象徴主義の刷新
   3 表現のアポリアを超えて
   4 孤独の快楽と可能性としての「間隙」への対峙
  終章「大東亜戦争」と「戦争責任」の精神史から見えてくるものは何か
 あとがき
 事項索引
 人名索引

第二章「表現者の幻覚と煩悶――「真の自己」の渇望と探究」中に「1 自我と美感の転相――高村光太郎」という項がありますが、そこ以外にも随所(特に前半)で光太郎に触れられています。

タイトルに「大東亜戦争」の語が使われていますが、右翼がよく「あの戦争は欧米列強の植民地支配から東亜を解放するための聖戦だった」という文脈でその語を使うのとは異なります。著者・小関氏は、「 「大東亜戦争」という呼称は、日米開戦四日後の一九四一年一二月一二日の閣議において定められた呼称であり、日本の戦争目的を粉飾するための独善性が色濃く投影されており、学術用語としてはアジア・太平洋戦争という呼称の方が相応しいのはいうまでもない」としつつ、「しかし、当時の日本国民のほぼすべてが、アジア・太平洋戦争ではなく、「大東亜戦争」という呼称に表象された理念に魅了されて戦争に同調し、協力した。(略)それをアジア・太平洋戦争という学術用語に置き換えたのでは、戦争に同調した国民の心理と情念に肉迫しにくい」というスタンスから、「大東亜戦争」で統一されています。

そして「世界の大国米国と戦端を開くに際して、甚大な犠牲が予想されるにもかかわらず、多くの国民はどのような感覚で開戦を受感し、高揚感にとらわれたのか、敗戦後に自ら戦争目的に雷同し陶酔した直近の過去にどう向き合ったのかということの検証」といった点が本書のテーマと位置づけられています。

そこで前半では、光太郎、三好達治、野口米次郎といった、翼賛詩を数多く書いた詩人たちの作品を俎上に乗せ、作者自身の内面の剔抉、それらの作品の受容状況といったところが語られます。

他に坂口安吾や太宰治、武者小路実篤、火野葦平らの小説家、斎藤茂吉ら歌人等にも言及されますが、メインは詩。これについてはこのように語られています。

 なぜ詩なのか。それは詩の特質ともいうべき言葉の精妙さと関連している。短縮した表現で人間の内面世界を表さなければならない詩は、散文以上に言葉の濃度と旋律に重きが置かれる。読み手は濃密な言葉と旋律に載せられた表現者の内面世界を解凍し、それに共感、心服したり、覚醒させられたりする。それが読み手に影響を与えるためには、詩は読み手にも共通する思いを掬い取るとともに、それを明晰化し、さらには一歩先んじていることが必要である。

そうしてそういう機能を担った光太郎の翼賛詩考察。なかなかに鋭い視点でした。特に光太郎ファンとして心が痛んだのは、「撃つ」という語に関して。

まぁ、「撃ちてし止まん」などとプロパガンダ的スローガンに使われ、当時の流行語のような側面もあったと思いますが、光太郎も複数の翼賛詩で「撃つ」という語を多用しています。しかし小関氏にかかれば「これはさらに露骨にいえば敵を「殺す」ということである」「高村は「殺す」、「みなごろし」という直截な表現を避けながら、事実上敵を「殺す」ということに「この生活の一切をかけ」る決意を「美の世界を守りぬこう」という覚悟に重ね合わせて述べているが、「撃つ」というベールを被せた表現に逆に表現者の苦渋と義務感のうち混じった壮絶さを感じさせる」。

この生活の一切をかけ」「美の世界を守りぬこう」は、詩「決戦の年に志を述ぶ」(昭和18年=1943)の一節です。更にいうなら小関氏曰く「ここに芸術性は何もない」。まったくその通りです。しかし、「こうした詩こそ光太郎の真骨頂」と涙を流して有り難がる愚物が多いのも現状ですが。
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平時であれば決して許されない殺人教唆的な物言い、さらにはこうした詩に鼓舞されて戦場へ赴いた多くの前途有為な若者たちが逆に「撃」たれたこと、それらを深く悔いて、戦後の光太郎は花巻郊外旧太田村に7年間の蟄居生活を送ることになります。そこは本書の主旨ではないので、戦後の壮絶な蟄居生活にはほとんど触れられていないのが残念といえば残念ですが。

後半はほとんどの国民が「敗戦後、その熱狂をまるで“なかったこと”のように振る舞い始めた」ことの検証。ここでは天皇制の問題にも触れつつ、鮎川信夫や金子光晴、吉本隆明ら、「荒地派」がメインです。同派は「敗戦後の日本社会の気運がいかに欺瞞に覆われ、それを看過してやり過ごすことがいかに人間の存在を歪めるかということを詩表現のモチーフとして拘りつづけた一群の詩人たち」と位置づけられています。まぁ、それはそうなのでしょう。ただ、金子などは数は少ないながらも戦時中にコテコテの翼賛詩を書いていたことにはほとんど触れられていないようで、その上で論じていただければ、という気はしました。

それにしても戦後80年、そして実にきな臭い状況に陥っているこの国を二度と誤った道に進ませないためにも、こうした問題を考える上で実に示唆に富んだ書籍です。ぜひお買い求めを。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)16 『道程』改訂版 百五十部限定版

昭和15年(1940)11月20日 山雅房 高村光太郎著
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目次
 道程
  失はれたるモナ・リザ  明治四十三年十二月十四日
  画室の夜        明治四十四年一月十二日
  寂寥                       明治四十四年三月十三日
  声           明治四十四年五月二十日
  新緑の毒素       明治四十四年六月十一日
  はかなごと
  地上のモナ・リザ    明治四十四年七月六日
  父の顔         明治四十四年七月十二日 
  泥七宝         明治四十四年七月――翌年六月
  ――に         明治四十五年七月二十一日
  或る夜のこころ     大正元年八月十八日
  おそれ
  犬吠の太郎       大正元年九月二十六日
  さびしきみち      大正元年十月八日
  梟の族         大正元年十月二十日
  或る宵         大正元年十月二十三日
  郊外の人に       大正元年十一月二十五日
  冬の朝のめざめ     大正元年11月三十日
  戦闘          大正元年十二月十四日
  人に          大正二年二月十八日
  人類の泉        大正二年三月十五日
  山           大正二年十一月四日
  冬の詩         大正二年十二月六日
  牛           大正二年十二月七日
  僕等          大正二年十二月九日
  道程          大正三年二月九日
  愛の嘆美        大正三年二月十二日
  婚姻の栄誦       大正三年三月六日
  万物と共に踊る     大正三年三月九日
  瀕死の人に与ふ     大正三年三月十四日
  晩餐          大正三年四月二十五日
  五月の土壌       大正三年五月十六日
  秋の祈         大正三年十月八日
 道程 以後
  わが家         大正五年
  小娘          大正六年
  無為の白日
  海はまろく
  雨にうたるるカテドラル 大正十年十月
  沙漠
  クリスマスの夜     大正十一年一月
  冬の送別        大正十一年四月
  五月のアトリエ     大正十一年五月
  ラコツチイ・マアチ   大正十一年十一月
  落葉を浴びて立つ    大正十一年十一月
  樹下の二人       大正十二年三月
  鉄を愛す        大正十二年五月
  氷上戯技
  珍客
  葱
  車中のロダン      大正十四年
  後庭のロダン      大正十四年二月
  十大弟子        大正十五年
  聖ジヤンヌ       大正十五年
 猛獣篇 時代
  清廉          大正十三年十二月
  傷をなめる獅子     大正十四年
  狂奔する牛
  鯰           大正十五年
  苛察          大正十五年
  雷獣          大正十五年六月
  龍           大正十六年
 【編纂者の言葉】 三ツ村繁蔵

大正3年(1914)刊行のオリジナル『道程』から詩篇を抜粋し、さらにその後の作品を加えて刊行されました。表紙に昭和11年(1936)の雑誌『歴程』初出のペン素描「獅子の首」を金押しであしらっています。

昭和17年(1942)に、この詩集により同16年度の第一回帝国芸術院賞を受賞。出版された昭和15年(1940)には光太郎は大政翼賛会中央協力会議議員にも就任し、上梓や受賞にはそのための箔づけというかご褒美というか、そういう匂いが感じられます。

ご当地フレーム切手を除き、唯一、光太郎肖像が切手デザインに使われた平成12年(2000)の「20世紀デザイン切手」シリーズ第9集に含まれる80円切手は、この詩集に関わります。これは昭和15年(1940)から同20年(1945)までの題材8種類を1シート10枚構成にしたものでした。
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アンソロジーものの新刊です。

パリと日本人 近代文学セレクション

発行日 : 2025年12月
著者等 : 高村光太郎、林芙美子ほか 著 和田博文 編
版 元 : 平凡社
定 価 : 2,200円+税

日本人は憧れの都をどう描いたか――第一次世界大戦期から1960年代にかけてのパリにまつわるエッセイ、小説、詩のアンソロジー。

第一次世界大戦期にあたる1910年代から、五月革命が勃発する1960年代後半まで、多くの日本人が花の都パリを訪れた。彼らの目に、激動の時代のパリはどう映ったのか。最先端の美術に触れ、新たな画風を模索した蕗谷虹児、職を辞して、異国の街で思索を紡いだ森有正……。小説家や画家、哲学者など、多彩な人々によるパリを描いた31編のエッセイ・小説・詩を一冊に編む。
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目次
 第1章 憧憬の都市と、第一次世界大戦の空襲・長距離砲 第一次世界大戦以前のパリと日
 本人
  巴里の旅窓より  与謝野晶子
  雨にうたるるカテドラル  高村光太郎
  ルノワル先生  梅原龍三郎
  戦争の空気に包まれたる巴里(抄)  島崎藤村
  リュウ・ドュ・テアトルの頃  長谷川昇
  爆弾下の巴里──千九百十八年三月──  吉江喬松
  巴里の此頃  森田恒友
 第2章 ツーリズムの時代、リベリテ・エガリテという幻想 一九二〇年代~三〇年代前半
 のパリと日本人
  パリー  岡本一平
  牢屋の歌  大杉栄
  日本贔屓  獅子文六
  巴里の懺悔  芹沢光治良
  秋の一日  九鬼周造
  レヴュウ『パリゼット』  白井鐵造
  私の巴里四年  蕗谷虹児
  佐伯君の死とその前後  伊藤廉
  夜のモンマルトル  酒井潔
  異国食餌抄  岡本かの子
  『滞欧画信』より  竹久夢二
  泥手・泥足  金子光晴
  巴里の片言  林芙美子
 第3章 ファシズムの跫音、占領下のパリ ファシズムの時代のパリと日本人
  革命祭  野上弥生子
  ルーヴルの立退き  大森啓助
  巴里の雨  久生十蘭
  街頭スケッチ  関口俊吾
 第4章 哲学思想・ソルボンヌ・五月革命 一九四五年の敗戦~一九六〇年代末のパリと日
 本人
  渡仏前後  小川国夫
  私のエコール・ド・パリ地図  辻邦生
  わが哲学時代から  辻邦生
  パリの冬とその街  森有正
  ソルボンヌの壁新聞  開高健
  パリ・その象徴  草野心平
  「五月革命」のパリから  朝吹登水子
 編者エッセイ パリの視覚装置と、オルセー美術館  和田博文
 あとがき

「パリ」に特化したアンソロジーで、リアルタイムでのパリ、あるいは日本に帰ってから記憶を記したものなどがほとんどのようです。

のべ30名程の詩文が採択されていますが、登録情報としては「高村光太郎、林芙美子ほか 著」となっている他、帯に大きく印刷されている「はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです」は、本書に採択されている光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)の一節です。

他に光太郎と関わりの深かった面々の作品も多数掲載されています。与謝野晶子、梅原龍三郎、草野心平、岡本一平など。

ちなみに編者の和田博文氏は、同じ平凡社さんから『日本人美術家のパリ 1878-1942』という書籍も刊行されています。アンソロジー系でも筑摩書房さんからちくま文庫の一冊として『猫の文学館Ⅰ 世界は今、猫のものになる』など。

ぜひお買い求め下さい。000

【折々のことば・智恵子】

ほんとうに両人のいたづらをお目にかける様なものなのです。極りのわるひ展覧会です。くだらないものと御承知で、見にいらしつて下さいまし。

「『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会」案内状より
明治45年(1912) 智恵子27歳

光太郎と知り合った翌年、光太郎の手を離れた画廊・琅玕洞で開催された田村俊子の「あねさま人形」と智恵子の「うちわ絵」の二人展案内状から。

ことによると文面の執筆は田村かもしれませんが。

監修させていただいた「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」の関係で、12月15日(月)・16日(火)と1泊2日で花巻に行っておりました。

14日(日)にちょっとした降雪があったそうで、郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんはこんな感じ。
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入ってすぐ、「おっ!」と思ったのがこちら。まだ正式に展示が始まってはいなということですが、花巻南高校さん書道部の生徒さんたちの書。

追記:書道部さんではなく、授業で書道を選択された生徒さんたちだそうでした。
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すべて違う生徒さんの作品で、それぞれ思い思いに光太郎詩の一節を書いて下さっています。「卒業記念」的な意味合いもあるそうで。こういうのを見ると、不覚にもうるっときてしまいます(笑)。

同校の文芸部さんと家庭クラブさんにはいろいろとお世話になっていますが、今度は書道部さんも巻き込んだか、という感じでした(笑)。若い世代に光太郎を知ってもらうという意味でも、良い試みですね。

奥の企画展示室へ。
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花巻と光太郎を結びつけたキーパーソンである宮沢賢治との繋がりに焦点を当てました。
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2人が実際に顔を合わせたのは、大正15年12月のたった1度だけでした。しかし、2人の天才は、それぞれの作品を通してお互いを深く敬愛していましたし、残念ながら賢治が歿してからになりますが、その結びつきはより強固なものとなっていくことになります。

昭和8年(1933)に賢治が亡くなり、すぐ翌年には光太郎も編集者として名を連ねた『宮沢賢治全集』の刊行が始まります。光太郎が関わった賢治の全集は4種類。それらにより、生前は無名の地方詩人に過ぎなかった賢治の名が世に広く知られていくことになります。

そこで今回の展示では、光太郎が関与した4種類の全集にスポットを当て、それらの成立過程やさらに派生して刊行された書籍、それらに関わった人々の思いといったところを前面に押し出しました。

最初の文圃堂版全三巻(昭和9年=1934~同10年=1935)。
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それを補完する形で出された十字屋版(昭和14年=1939~昭和19年=1944)。
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『全集』とは冠されていませんが、戦後の日本読書購買利用組合『宮沢賢治文庫』(昭和21年=1946~同24年=1949)。
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そして筑摩書房版(昭和30年=1955~同32年=1957)。
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装幀、題字揮毫は全て光太郎です。特に筑摩書房版は、光太郎のこの手の仕事の最後のものとなりました。

賢治作品を世に出す強い意志を持って臨んだ実弟の清六、賢治の親友だった藤原嘉藤治についても詳しく紹介されています。当会の祖・草野心平についても。
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テレビモニターでは、昭和11年(1936)、光太郎が碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」碑除幕式の様子。碑の近くの桜地人館さんで常時上映されているものです。
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桜地人館さんでは、戦後の光太郎書も貸して下さいました。これまで門外不出だったものですが。
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右上は、藤原嘉藤治の顕彰をなさっている瀬川正子氏ご提供の写真。世に出るのは初めてではないかと思われるものです。

賢治の遺言で、没後に配付された「国訳妙法蓮華経」。
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なかなかに充実した展示でした。

その他、同時開催中の4月に始まった特別展「中原綾子への手紙」(2月28日(土)まで)。
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先月末まで開催されていた企画展「昔なつかし花巻駅」に出品されていたジオラマは、第一展示室に移動されていました。
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その後、隣接する高村山荘(光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋)へ。
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少し早かったのですが、寒いので(笑)、宿泊先の光太郎も愛した大沢温泉さんへ。
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最近は予約を取るのもけっこう一苦労です。

翌朝(昨日ですが)、再び高村光太郎記念館さんに。この日はNHKさんの取材ということで。余裕を持って行きましたので、まずまた山荘に。夜のうちに新たに雪が降り積もることもほぼなく、助かりました。
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さらに奥の「雪白く積めり」碑。この地下には光太郎の遺髯が埋まっています。
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碑の前の広場。熊の足跡でしょうか。
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明らかに狐や兎ではありません。

裏山の智恵子展望台からの眺め。
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記念館に戻り、取材を受けました。NHKさん以外に地方紙『岩手日日』さんにも。

NHKさんには、「民間通信員」という制度があり、業務委託された民間の方が取材、撮影なさり、放送局でそれを編集し放映するシステムになっています。今回いらしたのは旧知の北山公路氏。花巻のタウン誌『Machicoco』の編集・発行もなさっている方です。
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早速昨日のうちに夕方のローカルニュースで流れ、ネットにも出ました。

高村光太郎と宮沢賢治のつながり紹介する企画展 花巻

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 詩人で彫刻家の高村光太郎と花巻市出身の詩人で童話作家の宮沢賢治のつながりを紹介する企画展が、花巻市で開かれています。
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 花巻市の「高村光太郎記念館」で開かれている企画展では、光太郎が賢治の作品に出会って賢治の家族と交流を深め、賢治の死後に発行された全集の編集や装丁を手がけた過程などが、4種類の全集などとともに紹介されています。
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 また、賢治の作品を広めた、賢治の弟の清六や賢治の親友の藤原嘉藤治の功績も一緒に紹介されていて、昭和11年に市内に設置された「雨ニモマケズ」が刻まれた賢治の詩碑の除幕式を撮影した動画を見ることができます。
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 企画展を監修した高村光太郎研究者の小山弘明さんは「生前は無名だった賢治が世界的に有名になった過程に、光太郎が関わっていたことを広く知ってほしい」と話していました。
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 また、主催する花巻市生涯学習課の菊池功昇課長補佐は「賢治と花巻の関わりは広く知られているが、光太郎と花巻の関わりについても、もっと市民に知ってほしい」と話していました。
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 この企画展は、来年3月末まで開かれています。

次回は来年2月21日(土)、関連行事として、清六令孫にして林風舎代表取締役・宮沢和樹氏、藤原嘉藤治の顕彰を勧められている瀬川正子氏とのトークショーの際に参ります。

というわけで、皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・智恵子】

この福島がいゝ人もあるか知れませんが私には一向よくもありませんねー 住めばみやこの習にて人気少ない家郷の山川もしのぶの空にすむ身には降りしきる五月雨につけ何となうなつかしう存られ候

明治34年(1901)7月5日 安田卯作宛書簡より 智恵子16歳

安田卯作は智恵子の母校・油井村の油井小学校に勤務していた教師です。この年、同校高等科を卒業した智恵子は福島町(現・福島市)の町立高等女学校に進み、大熊ヤスら同級生とともに町内の弁護士方に下宿していました。3ヶ月程でホームシックになっていたようです。

「しのぶの空」は女学校近くの信夫山(しのぶやま)に関わります。『古今和歌集』や『小倉百人一首』に収められた源融(河原左大臣)の有名な歌「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」も背景にあるでしょう。

そして故郷の山川を「偲ぶ」と、信夫山の「しのぶ」の掛詞(かけことば)。智恵子少女の教養の高さが窺えます。また、その筆跡の見事さも。
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文治堂書店さんからPR誌を兼ねた文芸同人誌『とんぼ』の第二十一号が届きました。同社は当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著作をはじめ、光太郎がらみの出版物を多く刊行なさっており、当会としてはいわば先代からのおつきあい。そこでいつのまにか連載を持つことになっていて、「連翹忌通信」の題で書かせていただいています。
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そうそう持ちネタがあるわけでもなく、また、読者層も少々異なるようなので、このブログに書いたようなことを換骨奪胎したり、逆に膨らませたりして書いています。

今号は「マドモワゼル・ウメ」。

光太郎が智恵子と知り合う直前にいい仲だった、淺草雷門のカフェ「よか楼」の女給・お梅に関してです。光太郎は詩「食後の酒」(明治44年=1911)に「マドモワゼル・ウメ」としてお梅を謳った他、複数の詩文で彼女について書き残しています。

 雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

当時、よか楼では女給の顔写真を載せた新聞広告を盛んに出していたというので、お梅も写っているだろうと思い、調査した件を書きました。
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結果、かなりのパターンの広告が見つかったのですが、女給の名が記されて居らず、お梅と断定できるものはありませんでした。

ところが、こうした広告でないところで、お梅の写真を確認できました。
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掲載されていたのは、光太郎実弟にして家督相続を放棄した光太郎に代わり髙村家を継いだ豊周による『光太郎回想』という書籍です。

豊周曰く

兄の好きになる女性は、ずっと通して顔だちに共通のところがある。いわば智恵子風の平たい丸顔で、お梅の顔も智恵子に似ていたと後から気がついた。それから推して、若太夫の顔もそんな風で、兄ははじめて智恵子と会ったとき、「若太夫に似ているな」と第一印象で思ったそうだ。

「若太夫」はお梅の前に入れ込んでいた、吉原河内楼の娼妓です。彼女については『とんぼ』の前号に書きました。

「光太郎回想」には3種類の版があります。まず、有信堂から昭和37年(1962)に刊行されたオリジナル、続いて、その全文にさらに他の光太郎に関する短文等を併せて編まれ、同じ有信堂から昭和47年(1972)に刊行された『定本光太郎回想』、そして名著の復刻的なコンセプトのシリーズ「人間叢書」のラインナップで平成12年(2000)に刊行された日本図書センター版です。
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手許には、最も本文の分量が多い『定本光太郎回想』しかありません。数十年前、オリジナルと定本を比較し、こっちの方が内容が充実している、というわけで「定本」のみを購入しました。ところが、オリジナルと「定本」では掲載されている画像の種類が異なり、お梅のそれを含む「定本」に載っていない写真がオリジナルにたくさんありました。逆も又然りでしたが。購入時にはそこまでは気づきませんでした。

そんなこんなを今号の『とんぼ』に書きました。

奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。頒価600円だそうで。
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今日の記事最上部リンクからも注文可と思われますが。

ちなみにオリジナル『光太郎回想』には、他にも昭和31年(1956)4月2日に光太郎が亡くなった際の死に顔の画像も出ています。さすがにここに載せるにはためらいますが……。

【折々のことば・智恵子】

日本にだつて一人ぐらゐ、正しい事のために利害なんかを度外に置いて、大地にしつかりと誠実な根を持ち、まつすぐに光りに向つて、その力いつぱいの生活をする喬木のやうな政治家があつてもいゝだらうとおもひます。さういふ政治家なら有頂天になつて投票することでせうとおもひます。


アンケート「棄権――総選挙に誰れを選ぶか?」より
 大正13年(1924) 智恵子39歳

この時代、女性には選挙権がありませんでしたが、もしあったらという仮定の下での回答です。

後の部分では「私達がほんとに尊敬し信ずることの出来る政治家が出てくれなければ、棄権するよりほかないかとおもはれます。情実や術数の巣のやうな政党なんかてんでだめですね。」とも。

100年経っても「利害」「情実や術数の巣のやうな政党」に牛耳られているこの国の現状を見て、泉下の智恵子はどう思うでしょうか……。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展情報です。

高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで

期 日 : 2025年12月13日(土)~2026年3月31日(火)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 12月28日(日)~1月3日(土)
料 金 : 一般 350(300)円 高校生・学生250(200)円 小中学生150(100)円
      ( )内は20名以上団体料金 高村山荘は別途料金 

 高村光太郎は、当時、無名だった宮沢賢治の作品に出会い、宮沢賢治を広く後世に知らしめるための大きな役割を果たしましたが、37歳で早逝した宮沢賢治の今日に至る評価に高村光太郎が関与したことは一般的には知られていません。
 賢治没後の昭和9年(1934)、光太郎も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会では、実弟の清六がトランクに入った賢治の遺稿を披露しました。その中の手帳には「雨ニモマケズ」の詩もあり、光太郎をはじめとする著名人たちが感銘を受け、全集刊行へと動き出します。
 当企画展では、光太郎が携わった4つの「宮沢賢治全集」に注目し、編集や装幀作業に係わるエピソードや宮沢賢治評について紹介します。また、賢治没後、清六と共に藤原嘉藤治が、文圃堂版と十字屋版の全集に編纂者の一員として携わっていたことにも焦点をあてています。

関連行事 トークイベント 光太郎と賢治―宮沢賢治全集ができるまで―
 2026年2月21日(土) 10:00~11:30
 なはんプラザ コムズホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号
 講師 
  宮沢和樹 株式会社林風舎代表取締役
  瀬川正子 株式会社共同園芸取締役 第35回(2025年)イーハトーブ賞受賞
  小山弘明 高村光太郎連翹忌運営委員会代表

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光太郎が携わった4つの「宮沢賢治全集」」は、以下の通りです。

・文圃堂書店版『宮沢賢治全集』 全三巻 昭和9年(1934)~同10年(1935)
・十字屋書店版『宮沢賢治全集』 全六巻+別巻一 昭和14年(1939)~同19年(1944)
・日本読書購買利用組合『宮沢賢治文庫』 既刊六冊 昭和21年(1946)~同24年(1949)
・筑摩書房版『宮沢賢治全集』 全十一巻 昭和30年(1955)~同32年(1957)

このうち、『宮沢賢治文庫』は「全集」と冠されていませんが、先行する十字屋書店版に収録されていなかった作品も網羅するつもりで刊行が始まったものです。ただ、当初予定は全十一冊でしたが、第五冊及び第八冊以降が未刊のまま中絶してしまいました。

これら四種類の現物や、成立過程、周辺人物などについての解説パネルで構成されます。

解説パネルを執筆させていただきましたが、書き始めたら「あれも書きたい、これにも触れたい」で止まらなくなり(笑)、50枚程になってしまって、とても全てを出せませんので「ここから適当にセレクトして下さい」とお願いしました。パネルにならなかった稿も含め、図版を入れた冊子が作られ、販売される予定です。よろしければお買い求め下さい。
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詳細はまた改めて紹介いたしますが、来春2月21日(土)に花巻駅前のなはんプラザさんで関連行事としてのトークイベントが行われ、登壇いたします。こちらもぜひどうぞ。

ところで、企画展自体の詳細情報が、まだ花巻市さんのサイトに上がっていません。今月1日発行の『広報はなまき』には、トークイベントと共に小さく紹介されていますが。
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この手の企画展示の情報などは遅くとも1ヶ月前位には出していただきたいのですが、いつもギリギリ、下手すると始まってから出されます。もうそういうもの、という感じになってしまっているようで……。

追記 12月10日(水)に市の方で詳細情報を出しましたので、最上部、リンクを貼りました。

同時開催で、4月に始まった特別展「中原綾子への手紙」も2月28日(土)まで開催しています。併せてご覧下さい。

【折々のことば・智恵子】

芸術――文学の使命は、それら一切のコンヴエンシヨンを如何に離れて、輝く天然の光りのうちにその全きを理法と愛とに生きむがため、一切を鋳なほし、息づまつた熱鬧に涼風をおくる、天に向つてあげる烽火ではあるまいか。

散文「現代日本の文学に対するアマチユアの注文と感想」より
大正12年(1923) 智恵子38歳

この文章は文学全般をイメージしてのものですが、光太郎同様、智恵子も賢治作品を愛していました。「輝く天然の光りのうちにその全きを理法と愛とに生きむがため、一切を鋳なほし、息づまつた熱鬧に涼風をおくる、天に向つてあげる烽火」、まさに賢治作品を彷彿とさせられます。

当会の祖・草野心平の回想「光太郎と賢治」(昭和31年=1956)から。 

 ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。

平凡社さんで刊行が続いているアンソロジー「作家と〇〇」シリーズ、第8弾だそうです。同じシリーズで令和3年(2021)に刊行された『作家と酒』にも光太郎作品が載っていますが、今回も採用して下さいました。
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作家とお風呂

発行日 : 2025年11月18日(火)
著者等 : 平凡社編集部
版 元 : 平凡社
定 価 : 2,000円+税

文豪から現代の人気作家まで、お風呂への愛が詰まったエッセイ、詩、漫画作品を収録。大好評の「作家と〇〇」シリーズ、第8弾。
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【収録作品(掲載順)】
 Ⅰ 女湯のできごと
    花嫁 石垣りん
    久しぶりの銭湯 俵万智
    ゆず湯 星野博美
    女湯のほうが楽しいに決まってる! 鈴木いづみ
    摩周湖紀行─北海道の旅より─ より 林芙美子
 Ⅱ 銭湯大好き
    底なし銭湯 さくらももこ
    フルーツ牛乳の味 ヤマザキマリ
    銭湯好き 高橋みどり
    銭湯入口のサボテン 大竹伸朗
    銭湯 別役実
    湯の思い出 古井由吉
    ぼくの銭湯論 より 田村隆一
    江戸っ子比べ 前川つかさ
 Ⅲ 我が家のお風呂
    苦笑風呂 古川緑波
    住居 長谷川時雨
    セントウ開始! 青島幸男
    きりなしうた 谷川俊太郎
    風呂を買うまで 岡本綺堂
    トキワ荘物語 赤塚不二夫
 Ⅳ 温泉郷にて その1
    忘れられぬ印象 芥川龍之介
    温泉のお婆ちゃん 宇野千代
    男湯と女湯 より 山下清
    私の温泉 木村荘八
    年頭の混浴 津島佑子
    湧き出ずる泉 小林エリカ
    「浴泉記」など 堀辰雄
    其中日記 より 種田山頭火
 Ⅴ 温泉郷にて その2
    温泉 太宰治
    石段上りの街 萩原朔太郎
    伊香保土産 島崎藤村
    湯ぶねに一ぱい 高村光太郎
    山の湯の旅 上村松園
    天谷温泉は実在したか 種村季弘
    下部 つげ義春
    サウナの正しい入り方 椎名誠
 Ⅵ なぜ人は風呂を好むか
    更くる夜 内海誓一郎に 中原中也
    温泉雑記 より 川端康成
    人生三つの愉しみ より 坂口安吾
    電車と風呂 寺田寅彦
    銭湯の熱さ 半藤一利
    習慣というもの より 北杜夫
    フロマンガ より 吉田戦車
    南太平洋科学風土記 より 海野十三(佐野昌一)
    ホテル―旅館―銭湯考 朝永振一郎
    温泉2 中谷宇吉郎
    入湯戯画 小出楢重
    混浴の思想 浅田次郎
    お風呂で考えた○○ 大槻ケンヂ
 著者略歴・出典

光太郎詩「湯ぶねに一ぱい」(大正5年=1916)が掲載されています。

    湯ぶねに一ぱい

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 湯は
 しづかに満ちこぼれてゐる
 爪さきからそろそろと私がはいれば
 ざあつとひとしきり溢れさわいで
 またもとの湯ぶねに一ぱい――
 かすかに湧き出る地中の湯は
 肩をこえて
 なめらかに岩角から流れ落ちる
 涌いてはながれ
 涌いてはながれ
 しづまり返つた山間の午後
 私は止め度もなく湧いて流れる
 温泉に身をとろかして
 心のこゑをきく
 止め度なく湧いて来るのは地中の泉か
 こころのひびきか
 しづかにして力強いもの
 平明にして奥深いもの
 人知れず常にこんこんと湧き出でるもの
 ああ湧き出でるもの
 声なくして湧き出でるもの
 止め度なく湧き出でるもの
 すべての人人をひたして
 すべての人人を再び新鮮ならしめるもの
 しづかに、しづかに
 満ちこぼれ
 流れ落ちるもの
 まことの力にあふれるもの


この時期は日記も残って居らず、今一つ光太郎の詳細な行動が不明なのですが、執筆とそう遠くない時期にどこか山間の温泉に身を浸したことがうかがえます。温泉好きだった光太郎、ふらりと上州や那須などの温泉に浸かりにいくことがしばしばありました。

だいぶ後ですが、昭和17年(1942)、上州宝川温泉で入浴中の光太郎を写したショットが残っています。
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また、尾崎士郎の『関ヶ原』というエッセイ集(昭和16年=1941)に、こんな逸話が。

 記憶がよくないからまちがつてゐたら訂正するが、高村光太郎氏(だつたらうと思ふ)が、何時であつたか水上(温泉)のずつと奥にある藤原の高原地方を旅行してゐるときに、ある村の温泉にひたつたことがある。川の流れをうまく利用して自然に噴出する温泉を引き入れた石垣でかこんだ野天風呂でやつと一人がのうのうと両足を伸ばすに足るほどの広さであつたが、いい気持でぐつたり腰を落ちつけてゐるうちに、ふと眼の前で何か動き出したものがあるので何気なく眼を向けると、石垣の窪みに出来た穴の中から一ぴきの蛇が首(といつても首だが頭だかよくわからないが)をつき出してゐるのである。これはいかんと思つて反対側の石垣からとび出さうとすると、そつちの穴にも同じやうなやつが一ぴき首を出してゐる。右にも左にもゐるのである。まるで蛇にかこまれたやうなかたちであるが、今となると出ることも出来なければ引つ込むこともできず、ぢつとしてゐるうちにふと気がついて、それも窮余の策であつたにちがひないが、身に寸鉄も帯びないときであるだけに、恐らくそんな考へがうかんだものと思はれる。そのまま身体をうかすやうにして立ちあがつた。すると××××××××つきつけられた蛇が慌てて首をひつこめたのである。到底敵すべからずと思つたのか、それとも見るに忍びないと観じたのか、――まるで嘘のやうな話であるが一ぴき一ぴきと首を引つこめて、そのまま消えるやうに穴のおくへ逃げこんでしまつた。達人といへども裸でなかつたらこんな堂々たる応対のできる筈もなかつたであらう。蛇の眼には心頭を滅却した××××××槍の穂先のごとく見えたのかも知れぬ。かういふ芸当がいかなるときにでもできるといふ性質のものではない。

××××××××」は最初から伏せ字になっています。「高村光太郎氏(だつたらうと思ふ)」なので、確実に光太郎のエピソードとは言い切れませんが、有り得なくはないかな、と思います(笑)。蛇をも震え上がらせる「××××××××」、どんだけだよ、という感じですが(笑)。

閑話休題、『作家とお風呂』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・智恵子】

今日この庭を立ち離るゝもひたすら畏き勅語の主旨に従ひさとし給ひし日頃の御教をしるべとして婦女たる道を踏迷ふことなく天晴本校卒業生たるの名誉を保たんことをつとむべしと思ふ心を一同に代りて聊か答ひ奉るになん


「町立福島高等女学校卒業式答辞」より 明治36年(1903) 智恵子18歳

高等女学校卒業式で、総代として読んだ答辞の終末部分です。『福島民友新聞』に全文が引用されました。

例年は声の良い生徒が答辞を読むという慣例があったそうですが、この年は、智恵子の成績が余りに優秀で、声の善し悪しなど関係なく、総代は智恵子と衆目の一致だったそうです。

しかし、その後の智恵子は「ひたすら畏き勅語の主旨に従ひさとし給ひし日頃の御教をしるべとして婦女たる道を踏迷ふことなく」という人生は送りませんでしたが……。
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昨日は都内で開催された第68回高村光太郎研究会に参加しておりました。レポートいたします。

会場は文京区のアカデミー向丘さん。
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お二人の方の発表でした。

まず、中島宏美氏。「吹木文音」のペンネームで詩人として活動されています。
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発表題は「智恵子へ寄せる思い」。

氏は智恵子のソウルマウンテン・安達太良山を望む福島郡山にお住まいだったこともおありだそうで、小学校4年生の頃に読まれた新潮文庫版の『智恵子抄』の思い出、智恵子紙絵の美しさ、そして智恵子という人物そのものの魅力などについて、詩人ならではの視点で語られました。

下画像はレジュメ1ページ目です。
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稀有な詩集としての『智恵子抄』の特徴、価値などについて、「私見」と断りながらもなかなかに的確な解釈で、首肯させられました。

また、現代人の感覚だけで読むことの危うさ、と言ったお話も。氏は『源氏物語』のご研究もなさっており、その際の態度が『智恵子抄』解釈にも生かされているような気がしました。氏曰く「安易なフェミニズム/ジェンダー論で語るのは危険」、「智恵子を悲劇のヒロインと捉えるべきでない」とのことで。

つい先日も書きましたが、当会顧問であらせられた故・北川太一先生も、「はじめこの詩集は光太郎の一方的な思いこみにすぎず、光太郎の声だけしか聞こえない単なる幻想の産物だと批判した者もあった。しかし智恵子に関する資料が徐々に発掘され、智恵子が肉声で語りはじめるにつれて、その生の軌跡はますますリアリティを加え、文学としての評論、創作はもとより、ドラマ、オペラ、歌曲、舞踊、邦楽等々芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。」と述べられ、「安易なフェミニズム/ジェンダー論」などに疑問を呈されています。

かつてテレビ等で引っ張りだこだった「フェミニズム/ジェンダー論」者の女性は、もう最初から『智恵子抄』には拒絶反応を示し、ろくに確かめもしないまま「家事労働に追われて智恵子は才能を発揮出来なかった」とか「『智恵子抄』は智恵子の才能を押し潰す男の論理」といった発言を現在も繰り返しているようですが、そういう見方は論外ですね。

続いて武蔵野美術大学の前田恭二教授。
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雑司ヶ谷の季節――ヒューザン会、智恵子と読売新聞」と題されてのご発表でした。

雑司ヶ谷は現在の豊島区、文京区にまたがる一帯の地名で、明治末から大正初め、ここに集った美術家・文学者たちが一種のコミュニティーを形成していたというお話。同様のケースで「田端文士村」「池袋モンパルナス」などは有名ですが、雑司ヶ谷のそれはまだ注目度が低いものの、美術史・文学史上、いろいろと重要な出来事の背景に雑司ヶ谷での地縁が作用している、というわけで。なるほど、炯眼だなと思わせられました。

美術方面では斎藤与里、津田青楓、柳敬助、戸張孤雁、正宗得三郎、本間国雄、坂本繁二郎ら。文士としては上司小剣、正宗白鳥、三木露風、相馬御風、小川未明、徳田秋声、内田百閒、人見東明、谷崎潤一郎、秋田雨雀、中村星湖など。光太郎と何らかの関わりのあった面々が大半です。

そして智恵子も。智恵子は明治44年(1911)のおそらく3月から、すぐ下の妹・セキと共に雑司ヶ谷719番地に住んでいました。近くに住んでいた津田青楓には、師事、とまではいかないものの、絵のアドバイスを受けたりもしています。智恵子の言葉として有名な「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの」は、その頃、青楓に語られたものです。ただ、青楓が『漱石と十弟子』中でその言葉を文字にしたのは昭和23年(1948)になってからなので、微妙なニュアンスの違いはあるかも知れませんが。

先程の面々、共通点としては、早稲田出身者が多いということが挙げられます。それから、『読売新聞』の関係者も。人見東明は読売新聞社に勤務していたそうですし。それから、智恵子も所属していた太平洋画会や、光太郎も出入りしていた中村屋サロンの関係も垣間見えます。

またまた智恵子ですが、智恵子にも早稲田や『読売新聞』の影がちらつきます。雑司ヶ谷在住時の明治45年(1912)4月には早稲田大学高等予科教室で開催された早稲田文学者主催の装飾美術展覧会に作品を出品しています(前年に智恵子と知り合った光太郎もですが)。それから、同じ年の6月には『読売新聞』に連載「新しい女」の第17回として、「最も新しい女画家」の題で智恵子が好意的に紹介されています。
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このあたり、雑司ヶ谷という地縁も無関係ではないだろうということです。連載「新しい女」は、第1回が与謝野晶子。その他、松井須磨子や三浦環、『青鞜』にも寄稿していた国木田独歩の妻・治子、中村屋の相馬黒光などが取り上げられましたが、この時点での知名度は智恵子は彼女たちほどではなく、確かにおかしいといえばおかしいところです。

そして雑司ヶ谷に集った美術家たちが、光太郎も参加したヒユウザン会(会場が読売新聞社)や、文展に反旗を翻した二科会にも繋がっていくというお話。「おお」という感じでした。

来月、明星研究会さんでの発表を仰せつかっており、明治末から大正前半頃の光太郎の立ち位置について光太郎を中心とした人物相関図なども作成し、お話しする予定なのですが、大いに参考になりました。

発表はこのように素晴らしいものでしたが、残念なことに参加者があまり多くありませんでした。まぁ、毎年のことといえばそうなのですが(今時、ホームページが存在しない団体ですので……)。ほぼ毎回欠かさず参加されている方の中には他の外せない会合があるやに聞きまして、どうもこの時期はこの手のイベントが重なるので致し方ないかなとも思います。当方も来週は「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」で発表がありますし、どちらかが1週ずれていたらアウトでした。それでも、当方の投稿を読まれて初めてご参加下さった京都大学の学生さんなどもいらっしゃり、良かったと思いましたが。

高村光太郎研究会、こんな感じで年に一度の研究発表会をおこなっていますし、年会費3,000円で入会されると会誌『高村光太郎研究』(4月発行で、主に前年に研究発表をなさった方がそれを元にご執筆。それプラス当方の連載「光太郎遺珠」「高村光太郎没後年譜」など)が送られてきます。

ぜひご入会下さい。

【折々のことば・光太郎】

一体大家達があとからあとからいろんな違つた技巧を採用するといふ事が確かでせうか。どうも怪しい。私はさう思ひません。


光太郎訳 ロダン「続ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

「不易と流行」ということを考えさせられます。

4件ご紹介します。

まず、石川県立美術館さん他で開催中の「令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨復興支援事業 ひと、能登、アート。」について、地元紙『北国新聞』さん。

教科書で見た至宝集う 「ひと、能登、アート。」開幕 国宝、重文など86点

●県立美術館など3会場で順次
 東京の美術館や博物館の名品が金沢に集結する特別展「ひと、能登、アート。」(北國新聞社共催)は15日、石川県立美術館で開幕した。東京国立博物館(東博)をはじめ、約30の文化施設や個人が所有する国宝、重要文化財(重文)など86点が、金沢市内3会場で展示される。県立美術館では43点が並び、来場者は教科書で目にするほど著名な文化財の「オールスター」を心ゆくまで鑑賞した。
 同展は県、金沢市、東博などが来年3月1日まで主催し、県立美術館、国立工芸館、金沢21世紀美術館で順次、名品を並べる。3館合同の展覧会は初めて。
 重文に指定されている高村光雲の彫刻「老猿」は、オオワシと格闘した後の気迫に満ちたサルの姿を表現している。大正天皇のご成婚25周年を祝い献上された平福百穂(ひゃくすい)の屏風「丹鶴青瀾(たんかくせいらん)」は青い波と金泥が織りなすダイナミックな背景に、夫婦円満や長寿を象徴する鶴が対照的に描かれている。
 このほか、七尾生まれの画聖・長谷川等伯の重文「牧馬図屏風(ぼくばずびょうぶ)」と「烏鷺図(うろず)屏風」、高い人気を誇る江戸時代中期の絵師伊藤若冲の「松梅孤鶴図(しょうばいこかくず)」、菱川師宣の「見返り美人図」なども来場者の注目を集めた。
●知事「オールスター」
 開会式では、馳浩知事があいさつで今回の特別展を「美術・工芸・博物館のオールスター戦」とたとえ、「石川にはアートの底力がある。県民の湧き上がる力をもっと応援していきたい」と語った。東博の藤原誠館長、北國新聞社の小中寿一郎社長もあいさつした。
 会期は県立美術館が12月21日まで、国立工芸館が12月9日〜来年3月1日、金沢21世紀美術館が12月13日〜来年3月1日となる。入場料は一般千円、大学生800円、高校生以下無料。昨年の能登半島地震と豪雨の復興支援を目的としており、内灘町以北の住民のほか、被災後に能登から移住した人は無料となる。
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同じ件で『朝日新聞』さん石川版。

国宝、重文が金沢に集合、復興応援 3施設に86件の文化財

 2024年の能登半島地震や奥能登豪雨で被災した地域と人々を励まそうと、東京を中心とする美術館・博物館などの文化財を、金沢市内で展示する「ひと、能登、アート。」(朝日新聞社など後援)が15日、始まった。
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 東京国立博物館が呼びかけ、約30の美術館・博物館や個人などが所有する文化財計86件を、金沢の3館に分けて展示する。15日に開幕した石川県立美術館(12月21日まで)では、室町時代の雪舟等楊(とうよう)による国宝の水墨画「秋冬山水図」をはじめ、重要文化財では江戸時代の尾形光琳の「風神雷神図屛風(びょうぶ)」、明治時代の高村光雲の「老猿」、黒田清輝の「湖畔」など、教科書でも取り上げられるような名作40件あまりが展示されている。
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 開会式で東京国立博物館の藤原誠館長は「作品の背後にある人の思いや祈りに触れ、再生への希望を感じ取ってもらいたい。多くの人が足を運んで、被災地へ思いをはせていただけたら大変光栄です」と話した。
 野々市市から夫婦で訪れた主婦の高田みどりさん(51)は「有名な作品を直接見ることができて感激した」と話す。「被災された方も、作品を見て前向きな気持になってもらいたい」
 金沢21世紀美術館(12月13日~2026年3月1日)では、ルノワールやルソーといった西洋の名画など15件が展示される予定。国立工芸館(12月9日~26年3月1日)では30件近くが出展され、重要文化財の遮光器土偶のほか、国宝の「秋草文壺(あきくさもんつぼ)」など工芸品が中心となる見込み。
 問い合わせは県文化振興課(076・225・1371)へ。


続いて、少し前ですが『毎日新聞』さん北九州版。読者の方の投稿欄のようです。

はがき随筆 冬 小倉南区星和台 山口敬司(73)/福岡

 少年時代に読んだ高村光太郎の詩「冬が来た」をこの日、独唱した。冒頭、「きっぱりと冬が来た」、末尾「刃物のやうな冬が来た」。
 霜月、未明にベッド頭上の窓をまるで切り裂くような雷が鳴り、カサカサと音をたてて落ち葉の上をたたく時雨の音を聞いた。
 ふと目を覚まし、暦を見る。残すところ、あと2枚だ。独唱のごとく、ものみな枯れる冬に立ち向かわなければならない。
 73歳という人生を。厳しく生きる術を。そこに老齢の未来があることを信じて。そして輝かしいということも。冬が来た。

まだ11月ですが、たしかにもう冬が来た感がいっぱいですね。秋はどこへ行ってしまったんだ? と思わされます。

光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)、この時期のコラム等にはよく取り上げられます。
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最後に『朝日新聞』さん青森版。

森佳正の青森ウォッチング アートは全身で体感が大事 NHK「鈴木京香の東北おとな旅」

000 宮城県出身の俳優・鈴木京香さんが、改めて東北の魅力を再発見してみようというNHKの紀行番組「鈴木京香の東北オトナ旅」。今回の「青森県十和田市編」は8月にパイロット版の30分で放送され、10月には43分の完全版として放送された。
 「オトナ旅」ということもあって、番組では、自然・建築・アート・人気スポット・伝統工芸・夜の街の六つのテーマで十和田を紹介していた。
 冒頭で、十和田の代名詞である十和田湖を久しぶりに訪れた京香さんは、湖畔にたたずむ乙女の像を鑑賞した。
 像を造った高村光太郎による直筆の詩が刻まれた碑銘を読み上げる。
 「この原始林の圧力に堪へて立つなら幾千年でも黙って立ってろ」
 作品名の「乙女」から抱くイメージとは大きく異なる光太郎のメッセージに京香さんは、「ものすごく生命の力強さを詠んだ言葉ですね」と感嘆していた。
 番組のハイライトは、十和田市現代美術館に常設展示されている作品《ザンプラントSumpf Land》だ。
 造型作家の栗林隆氏の空間芸術作品で、真っ白の部屋の天井にポコっと首だけが出せる穴が空いている。その天井穴から顔を出した京香さんは、眼前の別世界を見て思わず声を上げた。
 「私、『地獄の黙示録』になっている!」
 主人公が、ジャングルの沼からすっと顔を出す、あの名シーンをさながら再現したかのような、緑が生い茂る湿地に鏡のように張る一面の水面が飛び出した首の周りを360度囲んでいたのだった。
 京香さんも、「全く予備知識なく来てよかった」と大満足。作品名を調べたら、ザンプ(Sumpf)が湿地の意味だから感動は半減していたかもしれない。アート作品は、まず、予備知識なく全身で体感するのが大事だと、この番組は教えてくれた。


NHKさんの東北限定番組「鈴木京香の東北オトナ旅」。「8月にパイロット版の30分で放送」とありますが、そちらは旧NHKプラスさんの配信で拝見しました。
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その後、10月17日(金)に「43分の完全版」の放映があったそうで、そちらは存じませんでした。
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民放さんでもそうですが、こうした地方限定の番組、系列のBS局などで放映してほしいものだと思いました。

さて、最初に戻りますが、「令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨復興支援事業 ひと、能登、アート。」、それから十和田湖も、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

一つの胴と四つの肢体。此が実に無限だ。どんなにいろいろの事が此で物語れる事ぞ!

光太郎訳 ロダン「続ロダンの言葉 フランシス ド ミオマンドル筆録」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

作品モチーフとしての人体について。胸像や頭部のみと異なり、四肢を使うことができれば表現の幅はぐっと広がるわけで。ロダン代表作の一つ「カレーの市民」など、まさにその具体例ですね。
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光太郎の「乙女の像」、それから人体ではありませんが、光雲の「老猿」などにも言えることだと思います。

光太郎も寄稿した戦前の地方詩誌の復刻です。

詩誌 門 【復刻版】

発行日 : 近日刊行(2025年10月)
著者等 : 【解題】外村彰(安田女子大学文学部教授)
版 元 : 三人社
定 価 : 30,000円+税

敗戦の年、ビルマの野戦病院に没した詩人・高祖保。18歳で編んだ稀覯誌『門』は高祖の作風模索の経緯を教えてくれるのと同時に、高村光太郎や三好達治をはじめとした既成詩人たちの寄稿も多く眼を惹く。シンプルな装幀かつ誌面構成で、純粋な詩世界を希求せんとする高祖の篤実な姿勢がよく伝わる。総じて同誌は、当時の地方同人詩誌の高い水準を保った達成例を示すものと云えるであろう。高祖が関わった詩誌三誌を附録につけて、若き詩魂の証をここに復刻する。

体裁/A5判、上製、布装 総約510頁
巻末・附録/解題・総目次・執筆者索引、文芸誌『湖光る』創刊号、詩誌『処女地』第6年第1輯、詩誌『声』第壱輯、第参輯、叢書4(『湖光る』『処女地』は表紙・目次・高祖関連の作品および奥付等を部分収録。『声』第2輯は未見)
原誌提供/彦根市立図書館

執筆者一覧
 相川俊孝 
明石染人 麻生恒太郎 安西冬衛 生田花世 井口廸夫 石川善助 石田象夫
 岡崎清一郎 尾形亀之助 喜志邦三 木俣修 黒部政二郎 高祖保 後藤八重子 近藤東
 佐後淳一郎 佐藤清 澤田勇二良 白鳥省吾 高村光太郎 竹内勝太郎 角田竹夫
 外山卯三郎 中西悟堂 南江二郎 野口米次郎 野長瀬正夫 野村吉哉 春山行夫
 平木二六 堀場正夫 峰専治 三好達治 村野四郎 百田宗治 森田恵之介 渡邊修三
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高祖保は岡山県出身の詩人。少年時代に滋賀県の彦根に引っ越し、旧制彦根中学時代から詩に親しんで、今回復刻される『門』なども彦根で刊行しました。昭和18年(1943)には光太郎の年少者向け翼賛詩集『をぢさんの詩』の編集実務を担当、光太郎にいたく感謝されました。このあたり、子息の宮部修氏が書かれた高祖の評伝『父、高祖保の声を探して』に記述があります。最期はビルマ(現・ミャンマー)で戦病死しています。

確認出来ている限り、『門』への光太郎寄稿は2回。創刊号(昭和3年=1928)に「その詩」という詩、終刊号(昭和5年=1930)には「詩そのもの」という散文を寄せています。その他、よくあるケースで、きちんとした作品ではなく、寄稿者から送られた書簡をそのまま巻末の編集後記的なページに転載する例があり、もしかすると光太郎のそれも有るかも知れませんが、未確認です。

『門』への寄稿者、上記にあるとおりですが、なかなかのメンバーの名が並んでいます。このうち、光太郎と交流のあった面々も10名以上です。

今回の版元の三人社さん、京都の書肆ですが、この手の戦前・戦後の地方詩誌などの復刻を多く手がけられていました。例えば上記内容見本画像の下の方にも記述がありますが、『椎の木』。こちらにも光太郎がたびたび寄稿しています。ただ、こちらの内容見本には光太郎の名が無く、復刻されているのを存じませんでした。

こういう地方の詩歌誌で、光太郎が寄稿したことがわかっていながら、国会図書館さん、日本近代文学館さん、その他各地の図書館さんや文学館さんなどに所蔵が確認出来ず、復刻も為されていないため『高村光太郎全集』にもれている作品がけっこうあります。中には題名や出版年月日まで分かっているのに見つからないものもあります。「よっしゃあ、見つけたぁ!」と思って閲覧させてもらったら、光太郎のページだけ切り取られていて見られなかったことも(笑)。

そういった知られざる作品を掘り起こすのがライフワークの一つとなっていますが、その意味では、今回のような復刻はありがたいことです。実際、それで探していたものを見つけたとか、不明だった詳しい初出誌情報等が判明したということも少なくありませんし。

なかなか商業的には成り立ちにくい企画とは存じますが、こういうことの灯を絶やさないでほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

レムブラントはルーヴルで模写をする事によつて会得されはしません。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

レンブラントに限らず、過去の巨匠の作品を模写(彫刻なら模刻)するだけでは、その精神を真に理解するのは不可能ということです。模写(模刻)によって分かることも少なからずありましょうが、それで制覇した気になっては駄目だよ、ということでしょう。

栃木県から企画展情報です。

『歴程』と逸見猶吉、岡安恒武

期 日 : 2025年10月11日(土)~2026年3月22日(日)
会 場 : 栃木市立文学館 栃木県栃木市入舟町7-31
時 間 : 9時30分〜17時00分
休 館 : 月曜日(月曜日が祝日の場合は開館し、火曜日休館)
      祝日の翌日(祝日の翌日が土曜・日曜・祝日の場合は開館)
      年末年始(12月29日〜1月3日)
料 金 : 一般 330円(260円) 中学生以下 無料
      ※( )内は、20名以上の団体割引料金

 現代詩の雑誌『歴程』は、昭和10年(1935)5月に本市ゆかりの詩人である逸見猶吉(へんみゆうきち 1907~1946)が初代編輯兼発行人となり、草野心平、中原中也ら8名によって創刊されました。現代詩を代表する詩人たちが集ったこの雑誌は、戦時中の中断を経て戦後に復刊、現在に続いています。
 本展では、昭和27年(1952)に同誌の同人となった本市出身の詩人・岡安恒武(おかやすつねたけ 1915~2000)とともに、二人の生涯と作品を収蔵品を中心に紹介します。

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関連行事
 1 文学散歩「逸見猶吉ゆかりの地めぐり」
  案内:渡瀬遊水池ガイドクラブ  日時:2026年2月14日(土) 13:30~15:30
  場所:渡瀬遊水池内(谷中村史跡保存ゾーンなど)  参加費:無料

 2 ワークショップ「ミニヨシ灯りづくり」
  講師:渡瀬ヨシ愛好会     日時:2025年12月7日(日) 10:30~12:00
  場所:文学館1階とちぎサロン   参加費:400円

 3 学芸員によるギャラリートーク
  日時:2025年10月25日(土)、12月14日(日)、2026年3月7日(土) 13:30~14:00
  参加費:無料


光太郎もたびたび寄稿したり、その絵が表紙などを飾ったりした詩誌『歴程』。てっきり最初の編輯兼発行人は当会の祖・草野心平だと思い込んでおり、逸見猶吉だったというのは存じませんでした。

ちなみに『歴程』への光太郎寄稿、その最後のものは「逸見猶吉の死」という文章でした。昭和23年(1948)のことでした。

 逸見猶吉の満州客死にはまつたくやりきれない感をうけた。その報をきく前に、何となく逸見猶吉があぶないといふ気がかりは強くしてゐたが、それは彼の烈しい気象を考へて満州の当時の事情と思ひ合せ、万一むちやな闘争でもやりはしないかと思つたからであつた。聞くところによると、さすがに大人のやうになつた彼は、終戦後おだやかに身を処して過激な行動などもなく、食品か何かを売つたりして生活してゐたさうであるが、あの「ウルトラマリン」を書いた此の詩人のさういふ姿を想像するのさへ痛々しい。かういふ苦労と無理と多分甚だしい栄養不足等から結核が急に悪化したに違ひなく、かつては強靱そのもののやうだつた彼もつひに満州に於ける日本瓦解と共に仆れた。
 逸見猶吉の詩の魅力はその稀有な高層気圏的気稟にある。その詩に於ける思想も生活も言葉もすべて此の稀元素のやうな気稟の噴煙を吐かしめる因数的存在としてのみ意味がある。彼の詩は字面のどこにもなくて、しかも字面に充実して人を捉へる。その由来を究尽してゆくと何もないところに出てしまふくせに、究尽の手の脈には感電のやうなシヨツクが止まない。詩の不可思議をまざまざと示す彼の詩は、殆ど類を絶して、彼以後に彼の如き声をきかない。彼のやうな詩人は多作であり得るわけがないから、恐らく遺した詩は極めて少いであらう。ウラニウムのやうに少くて、又そのやうに強力な放射能を持つてゐるのだ。今座右に一篇の詩もない。しかし曽てよんだ彼の詩のひびきはりんりんと耳朶をうつてやまない。思想も生活も言葉も此の無形の実在に圧倒され、慴伏せられて遂に思ひ出せない。その詩人が死んだら、もう二度とその類の詩をきき得ないといふ稀有な詩人が、こんどのどさくさの中の多くの死にまじつて死んだのである。


哀惜の念を滲ませつつ、実に的確な評をも与えています。

個人的にも、昭和4年(1929)には、光太郎と逸見、心平、それから高田博厚、岩瀬正雄、岡本潤、横地正次郎の総勢7名で群馬の赤城山に登り、泊まった宿で夜中に酒が無くなると、赤城神社に奉納されていた御神酒を拝借、などということをやっていたりした間柄でした。

もう一人、今回の企画展で取り上げられる岡安恒武。従来、光太郎との直接の交流は確認出来ていませんでしたが、つい最近、光太郎から岡安宛の書簡を発見したばかりなので、驚きました。

昭和21年(1946)に岡安が編集にあたり(発行人は岡安の兄・岡安大仁)、栃木で発行されていた雑誌(というより冊子)『地人』第3号に、「高村光太郎先生ヨリ」の題で全文が引用されています。
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「地人」毎号忝く、御礼申上げます。宮沢賢治精神に基く地人塾の存在は心強く、どこまでもやり通していただく事を切望いたします。ここでも佐藤勝治さんが「ポラーノの広場」をつよい信念を以てはじめられました。小生此地に来て親しく宮沢賢治さんの委細を見聞するに従ひ、ますますその人の大と深とが身にしみて感じられます。

『地人』は宮沢賢治の「羅須地人協会」から名を採り、賢治精神に基づいて賢治作品や評論等を掲載したもので、花巻で発行されていた同様の『ポラーノの広場』を引き合いに出しています。こちらの編集は光太郎に花巻郊外太田村移住を勧めた分教場教師・佐藤勝治で、光太郎も度々寄稿していました。

光太郎の遺した郵便物等の授受の記録「通信事項」昭和21年(1946)2月20日の受信記録には「「地人」二号 」、2月22日の発信記録には「岡安恒武氏へハカキ」の記述があり、この書簡を指していると考えて間違いなさそうです。

この『地人』、昭和24年(1949)まで発行が確認出来ています。逸見も光太郎や心平同様、賢治には並々ならぬ関心を寄せており、改めて賢治の影響力に感嘆します。
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こちらは昭和9年(1934)の「宮沢賢治一周年追悼会」なる会合の集合写真。逸見と心平が写っています。当然ここにいるべき光太郎の姿がありませんが、智恵子の心の病が昂進し、さらに父・光雲が危篤状態に近い頃でしたので、無理だったのでしょう。岡安はまだ二十歳そこそこで、こうした席にはまだ参加していない感じです。もしかすると、最後列の学生服二人のうちのどちらかが岡安だったりするかも知れませんが……。

その二人を取り上げた企画展ということでこれは行かざあなるまい、と思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

もちろん凡庸な人間が自然を模写しても決して芸術品にはなりません。それは彼が「見」ないで眺めるからです。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「見る」と「眺める」、英語の「watch」と「see」のような感じでしょうか。

もう12回目か、という感じです。北鎌倉明月院さん裏手(徒歩365歩)にあるカフェ兼ギャラリー笛さんでの光太郎と尾崎喜八にかかわる展示です。

笛さんのオーナー・山端氏の奥様が光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫で、さらにすぐ近くにお住まいの、白樺派の一員で光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏と共同で、両家に残る光太郎・尾崎の関連資料等が展示されます。一度に展示できる量ではないので、毎年少しずつ入れ替えながら開催されています。

さらに今年は、石黒氏の編集で当会顧問であらせられた北川太一先生の光太郎と尾崎の交流を追った玉稿の集成『高村光太郎と尾崎喜八』出版記念ということで、1月から3月にかけてもイレギュラーで展示が為され、6月には石黒氏、山端氏、そして『高村光太郎と尾崎喜八』の装幀を担当された版画家の
山室眞二氏によるトークイベントもありました。

そんなこんなで、毎年秋の展示はどうするのかな、と思っていたのですが、例年通り行うそうです。

回想「高村光太郎 尾崎喜八」詩と友情 その12

期 日 : 2025年10月10日(金)~11月18日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 詩の朗読会 11月15日(土) 15:00~
 高村光太郎と尾崎喜八の詩を朗読します。詩を朗読して下さる方を募集しています。

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今回の展示内容の詳細は不明ですが、過去には光太郎が尾崎夫妻の結婚祝いに贈ったブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)も展示されました。ミケランジェロ作品の模刻で、他に鋳造されたことが確認出来ていない実に貴重な一点物です。尾崎の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の息女で、光太郎は我が子のようにかわいがっていました。
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関連行事としての朗読会は、令和4年(2022)から始まりました。ほとんどが一般の方で、今年も朗読者募集中とのことです。当方も一度出演、といっても、自分で朗読はせず(笑)、昭和27年(1952)に録音された光太郎自身の朗読音源を聴いていただきました。

今年の第69回連翹忌の集い、さらに7月に開催された「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」で光太郎詩の朗読をお願いしたフリーアナウンサーの早見英里子さんと、朗読家出口佳代さんのコンビにお声がけしたところ、ぜひ参加したいとのことでした。お二人は光太郎智恵子ゆかりの地で朗読をなさり、自撮りでの動画をSNSにアップされることをなさっていて、今後も続けたいということでしたので、渡りに船だったようです。

ぜひ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

人間の叡智と誠実との最高の証跡である美しい作品は、人間につき、又世界について言ひ得る限りの事を言ひ尽してゐます。そして又其外に知る事の出来ないもののある事を会得させます。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

ロダンも非常にポジティブな人だったようです。そうした面は光太郎、そして尾崎にも受け継がれていきました。

昨今のちょっとした「文豪」ブームもあり、各地で「文学フリマ」系の催しが行われています。昨年は岩手盛岡で開催された「同人誌展示即売会 岩漫63」というイベントに花巻高村光太郎記念館さんが出店したりということもありました。

さて、今週末に大阪で開催される「文学フリマ大阪13」。1,233出店・1,422ブース だそうで、すごい数字ですね。

文学フリマ大阪13

期 日 : 2025年9月14日(日)
時 間 : 12:00〜17:00
料 金 : 無料

作り手が「自らが《文学》と信じるもの」を自らの手で販売する、文学作品展示即売会です。
入場無料・来場にあたっての事前予約は不要です。ぜひお越しください!
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X(旧ツィッター)投稿で把握したのですが、「装幀室白亜」さんという方が、光太郎詩「レモン哀歌」モチーフの商品を販売されるとのこと。ありがたし。
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上記主催者さんのリンクを見ますと、今後も各地で開催が続くようで。
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これまであまり注意を払っていなかったのですが、これからは少し気にしてみます。場合によっては当会として出店するのもありかな、などという気もしています。

というわけで、とりあえず「文学フリマ大阪13」。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

現状のままで、其の力が或は控目であつたり、或は奔放であつたりしても、原素は完全です。其を変へる事は、其を破壊することです。……修正! 修飾! かういふ偏見から「理想派」が出て来るのです。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

「写実」の重要性を述べた箇所から。造型だけでなく、文学や舞台芸術などにも通じることだと思います。また、「修正」を否定するという意味では歴史観などにも言えることではないでしょうか。「修正主義」が大流行で、しかしそれを巻き起こしている当人達は「修正」しているという意識が希薄で自らが「正論」だと主張しているのが問題点ですが……。

7月30日(水)にAmazonさんに注文したところ、届いたのが8月25日(月)でした。時々こういうことがあるんですが何なんでしょうね? 

閑話休題。土曜美術出版さん発行の月刊誌『詩と思想』の8月号です。
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目次的には以下の通り。

 【巻頭言】石川逸子:詩の仕事
 特集 敗戦の記憶・現在の戦争
 【インタビュー】
  河津聖恵×佐川亜紀:河津聖恵さんに聞く
 【アンソロジー】
  金時鐘:在日朝鮮人  八重洋一郎:おお マイ・ブルースカイ  石川逸子:黒い橋
  龍秀美:寓話  堀場清子:影  栗原貞子:ヒロシマというとき
  柴田三吉:ちょうせんじんが、さんまんにん  うえじょう晶:骨笛
  冨岡悦子:忘却にあらがう  河野俊一:今もなお
 【評論】
  高良勉:沖縄戦の記憶と被植民地状況
  中島悦子:高村光太郎の戦後/戦後の谷川俊太郎
  金正勲:李石城の平和への眼差し
  中村純:軍隊と性暴力
  丁章:無国籍在日サラム詩人を生きる―戦後100年をめざして
  岡和田晃:アイヌに対する「文化戦争」、「共生」という包摂、「北方領土」の欺瞞
  永井ますみ:「問天」入力で学んだこと
  佐川亜紀:「戦後」ではなく「敗戦のたいせつさ」―特集について
 【詩作品】38篇
 【詩人論】美濃千鶴:石垣りんを読みかえす
 【連載】郷原宏:歌と禁欲―現代詩論史論 第15回
 【連載】清水茂遺稿集6 場の記憶について
 【この土地に生きて】中原秀雪:詩人丸山薫が現代に遺したもの
 【艀船を泊めて】徐載坤:〈詩の国〉から〈伝統詩歌の国〉への発信
 【私の好きな詩と詩人】江田つばき:実感
 【わが詩の源流】川井麻希/柊月めぐみ/安藤一宏
 【詩人の眼】川島洋:加速する社会と詩
 【バイリンガル・ポエム】苗村吉昭:単線の神さま
 【詩誌評】清水善樹:画像添えの詩は反則か①
 【詩書評】北原千代:白熱した批評
 【研究会だより】中井ひさ子
 【追悼 愛敬浩一】石毛拓郎
 【特別書評】愛敬浩一
 【読者投稿欄】小島きみ子/加藤思何理
 【新刊review】
 【読者投稿作品】
 【選評】
 他

戦後80年ということもあり、特集が「敗戦の記憶・現在の戦争」と題されています。その中で詩人・中島悦子氏による「高村光太郎の戦後/戦後の谷川俊太郎」が6ページ。前半では光太郎が書いた翼賛詩、戦後の詩、それから詩ではなく文章「詩の朗読について」(昭和16年=1941)、「戦争と詩」(昭和19年=1944)から引用しつつ、論じられています。

曰く「高村が戦意高揚の詩を詩を書く背景には、もうひとつ日本語への賛美もあった」「日本語を世界の最上と位置づけ」「詩を書くことが武器をもって戦う事と同一視」。確かに光太郎は日本語をこよなく愛し、日常の口語に内包される機微の美しさといった点についても繰り返し論じていました。それらはへたな国語学者らの論説などよりも胸にストンと落ちるもので、バックボーンとしてきちんとした理論を持った上で詩作に当たっていたことがわかるものです。

それだけに、再び中島氏曰く「それだからこそ自信にあふれた戦争賛美を堂々と書くことができたのだろうか」。たしかにそういう一面はあるでしょう。

そして戦後。連作詩「暗愚小伝」から引用しつつ、戦時中の行動に対する光太郎の真摯な悔恨、反省を高く評価しています。三たび中島氏曰く「その個人の内省は文学史上記憶に値する」。

そして後半では、光太郎とも交流のあった故・谷川俊太郎氏について。昭和6年(1931)生まれの谷川氏が、180度転換した敗戦時の社会、特に学校教育をどのようにとらえていたかなど。

他に「アンソロジー」として、金時鐘氏、栗原貞子などの主に終戦に関わる詩が紹介されています。「おや?」と思ったのが、女性史研究家として名高かった故・堀場清子氏の詩が収められていたこと。「影」と題されたもので、原爆投下直後の広島の様子が謳われていました。氏に被爆体験がおありだったことを失念していました。

その他、ずっと後の方のページで、詩人の愛敬浩一氏の追悼記事(今年5月に亡くなったそうです)が出ており、驚きました。直接存じ上げていた訳ではありませんが、いろいろお世話になっている文治堂書店さんを通じ、氏が主宰されていた同人誌『季刊 詩的現代』の第4号(平成25年=2013)、「特集『道程』からの百年」の載った号をいただきましたので。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『詩と思想』8月号。既に9月号が出ているようで、最新号ではありませんが、何とか入手するなり図書館等で閲覧するなりしていただければと存じます。

【折々のことば・光太郎】

自然は決してやり損はない。自然はいつでも傑作を作る。此こそわれわれの大きな唯一の何につけてもの学校だ。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

こうした一節を読むにつけ、いかにロダンの思想が光太郎の血肉となっているか、という気にさせられます。

8月9日(土)に宮城県女川町のまちなか交流館さんで開催された第34回女川光太郎祭につき、仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さんが8月19日(火)に報じて下さいました。

女川で功績しのぶ「光太郎祭」 詩や紀行文を朗読

 1931年に女川町などを旅し、詩や紀行文を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の功績をしのぶ第34回光太郎祭が9日、女川町まちなか交流館であり、来場した約50人が詩や紀行文の朗読に聞き入った。
 ギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)が奏でる旋律に乗せ、11人がそれぞれ詩や紀行文を情感を込めて朗読した。「智恵子は東京に空が無いといふ」で始まる詩「あどけない話」は石巻市万石浦小5年の佐藤結土さんが担当。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」で知られる詩「道程」を女川一中3年平塚功竜さんが読み上げた。
 主催の「女川・光太郎の会」は3月、県から「住みよいみやぎづくり功績賞」を受けた。須田勘太郎会長は「(朗読を聞きながら)光太郎さんが旅した90年以上前の女川を想像してほしい」とあいさつした。
008
一読して「あれ、こんだけ?」と思いました。というのは、記者氏に捕まって、これまでのいきさつや光太郎文学碑などについてあれこれ質問を受けたのですが、その内容が反映されていないためです。「ま、他にニュースが多くて紙面を割けなかったんだろう」と思っておりました。

ところがあにはからんや、前日の8月18日(月)、同紙の一面コラムで詳しく紹介されていました。

河北春秋

「牡鹿半島のつけ根のぎゅっとくびれて取れ相(そう)な処(ところ)、その外側の湾内に女川がある」。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が1931年に著した紀行文『三陸廻(めぐ)り』の一節だ▼取材旅行では宮城の石巻、気仙沼、岩手の釜石、宮古などを巡った。立ち寄った宮城県女川町では顕彰活動が続いている。91年には、町民有志が詩などを刻んだ3基の文学碑を海岸に建てた。毎年8月9日、県内外の人が紀行文や詩を朗読する光太郎祭は今年、34回を数えた▼幾多の試練があった。活動の中心だった女川の画家貝広さんは、東日本大震災の津波で亡くなった。碑は流され、一つが見つかっていない▼「町が夜になると急に立ち上がる。ただ海から来た人々への夜の饗宴(きょうえん)の為(ため)にのみあるかと思う程、此(こ)の小さな町が一斉に一個の盛り場となる」「極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている」。紀行文は町民にかつての隆盛を思い起こさせ、気概と誇りを与えた▼主催する「女川・光太郎の会」は3月、県の「住みよいみやぎづくり功績賞」を受けた。しかし、会員は年を重ね負担は小さくないという。光太郎は他者を魅了する女川の自然や気風に着目し、広く発信した。後世に手渡していきたい文学イベントである。(2025・8・18)

最後の一節を読み、当会の祖・草野心平が昭和21年(1946)に書いた「一つの韻律」という文章を連想しました。これは岩手花巻で現在も続く宮沢賢忌日の集いである「賢治祭」に初めて参加しての感想を綴ったものです。

その一節。

 文学者に限らず色んな人々の碑や銅像が全国でならば相当の数にのぼるだろうが、毎年休むことなくこうした催しがそれらの前で行われているということは、賢治祭を除いては恐らく一つもないであろうと、しかも参列者は近郷近在ばかりではないのである。村や町の鎮守の祭とかお盆の行事とかいうように、この催しはもう極く自然に続いて行くだろうし、続けられてゆくことを心から私も希わずにはいられなかつた。

昭和21年(1946)当時ではまさにそういう状況だったのでしょう。その後、こうした個人顕彰の催しはどんどん増えていったと思われます。当会主催の連翹忌の集いもその一つですし、女川光太郎祭も。しかし、中には一時華々しく行われていたものの、無くなってしまったというものもあるでしょう。光太郎関連でも、5月15日に花巻郊外旧太田村の光太郎が蟄居していた山小屋の敷地で行われていた「高村祭」などがそうです(「高村祭」は何とか形を変えてでも復活させたいという機運がありますが)。

やはりそれが「村や町の鎮守の祭とかお盆の行事とかいうように、この催しはもう極く自然に続いて」いたのかどうかというところに、残っているか残らなかったか、または復活させようという意見が出るか出ないかの分かれ目があるように感じます。

「河北春秋」にあるとおり、女川光太郎祭は「後世に手渡していきたい」ものだと改めて感じました。

【折々のことば・光太郎】

到る処に違つた時代の傑作がある。……が同じ愛によつて皆一つに寄る。皆結びつけられてゐる。

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

優れた芸術は時代を越えて愛される、ということが言いたいのでしょう。しかし、当会顧問であらせられた北川太一先生曰く「どんなに優れた芸術でも、後の時代の人々が次の世代へと受け継いでいく努力を怠れば、あっという間に歴史の波の中に呑み込まれてしまう」。実際、そういう例も少なからずありますね。そこで当方、光太郎智恵子らの芸術がそうならないよう、語り継ぐ努力を惜しまぬ所存です。

今年も8月15日が巡ってきました。

特に今年は終戦から80周年ということで、その関係の報道やテレビ番組放映等が多く為されているように感じます。各種メディアの中には、戦時中に軍部や大政翼賛会に加担してしまった反省という視点からのものも多く見うけられています。

そんなこんなで『沖縄タイムス』さん、一昨日の記事。戦時中のメディアや光太郎らの文学作品等の状況、現代におけるそれらの受容の在り方、そして新たな作品までが論じられています。

[混沌の先に 戦後80年 戦争と表現]戦争に向き合い表現模索 小説書き忘却にあらがう 作家の豊永・砂川さん 大きな歴史 自分の言葉に

005 文学や映像などの表現者は、争いが絶えないこの世界とどう向き合おうとしているのか。抵抗の手段となる一方で加担することもある「もろ刃の剣」。戦争を巡る過去を引き寄せ、今を生きる「私」とつなぐ表現を模索する人たちの姿を追う。

 遠くに青い海が輝き、視線を横に向けると広大な土地を占める米軍普天間飛行場が目に入る-。沖縄戦の激戦地だった宜野湾市の嘉数高台公園。日本軍の組織的戦闘が終結したとされる6月23日の「慰霊の日」の前日、学生時代よく訪れたこの場所に足を運んだ豊永浩平さん(22)は「小説を書くことで歴史とつながり、忘却にあらがいたい」と決意を新たにした。
 豊永さんは、沖縄戦を描いた小説「月(ちち)ぬ走(は)いや、馬(うんま)ぬ走(は)い」で、昨年の群像新人文学賞と野間文芸新人賞を受賞した注目の新鋭作家だ。
 受賞作は沖縄戦からの約80年の歳月をさまざまな人の語りによってつづった物語。日本軍兵士の残虐な行為から、現代の若者らが直面する貧困や暴力までが「根っこ」でつながる様を浮かび上がらせた。沖縄戦だけでなく、その後の米軍統治、復帰後も続く基地負担などの矛盾を描き出してきた「沖縄文学」の系譜にも連なる作品だ。
 沖縄で生まれ育ち、基地や戦跡などはずっと身近にあったもの。しかし、過去の記憶と自分たち若い世代が「接続していない」感覚を持ち続けてきたという。本格的に小説を書くようになったのは地元の琉球大に進学してから。「沖縄で物語を書く者として、過去の戦争を避けては通れない」との思いがあった。
 6月に那覇市で開かれたトークイベント。ウクライナやガザなどで続く戦争も念頭に、豊永さんは「おじいやおばあが生きた時代を、どうすれば捉えられるのか。自分たちの(世代の)側から80年前の過去を、どうにか引き寄せたい」と力を込めた。

006 日本人300万人以上が犠牲になったとされる先の大戦。なぜ私たちはあの戦争に突き進み、多くの悲劇を生み出してしまったのか。戦後文学は、そうした問いに向き合い続けてきた。戦場の狂気を描いた大岡昇平の「野火」、原爆投下後の広島を舞台にした井伏鱒二の「黒い雨」…。その水脈は現代の作家にも続いている。
 北海道に侵攻したロシア軍と自衛隊の戦闘を描き、今年マンガ化もされ話題を集める小説「小隊」。著者で芥川賞作家の砂川文次さん(35)もそうした1人だ。
 物語では、自衛隊の小隊長・安達が一つ一つの任務を着実にこなす中で、あっという間に泥沼の戦闘に引きずり込まれてゆく。「命令を淡々とこなすだけで地獄絵図になってしまうことがある」と砂川さん。「描きたかったのは戦争そのものより、そうした不条理だった」と振り返る。
 砂川さんは大学卒業後、陸上自衛隊で6年働いた。北海道の駐屯地でも勤務し、ロシア軍の侵攻を想定した訓練があったという。「小隊」はその経験も基に「単なるシミュレーションでなく、最前線の人たちがどうなってしまうのかを踏み込んで書いてみた」作品だ。
 実際の戦争を体験していない自衛隊員らは、いざ戦闘が始まれば敵兵と殺し合い、必死に生き延びようとするしかない。その中で「平時」の常識やモラルも揺らいでいく。それは自衛隊員に限らず、誰もが巻き込まれうる事態なのではないか。
007 「戦争を過去として切り分けるのは危ない」と砂川さんは憂慮する。「自分たちは戦後に身を置いているけれど、戦前からの土壌の上にも立っている。自虐でも賛美でもなく、戦争を含めた大きな歴史を自分の言葉にしていくことが大事なんだと思うんです」

ジャンル超え惨状描写  文学・映画・アニメまで
 「生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも」。原爆投下直後の広島の地下室で、重傷を負った助産師が取り上げた新たな命。栗原貞子さんの詩「生ましめんかな」は、各地に生々しい焼け跡が残る1946年3月に発008表された。絶望の淵で生まれた命の息吹をつづる最初期の原爆詩は、今も読み継がれる。
 フィリピンで米軍の捕虜になった大岡昇平の小説「俘虜記」(48年)、広島で目撃した惨状を描いた丸木位里・俊夫妻の連作絵画「原爆の図」(50~82年)…。自身の体験に基づく作品を中心に、戦争を巡る表現はさまざまな分野に広がった。
 沖縄戦の悲劇を伝える53年の映画「ひめゆりの塔」は大ヒット。73年連載開始の中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」は20言語以上に翻訳され、世界中に被爆の実相を伝えた。94年初演の井上ひさしさん作の舞台「父と暮せば」は、生き延びた人々の罪悪感に着目し、死者との対話を描いた。
 「戦後」が年月を重ねる中、表現の営みは世代を超えて続いてきた。70年発表のフォークソング「戦争を知らない子供たち」は、ベトナム戦争のさなかで平和を願う戦後生まれの若者たちの心情をストレートに歌った。
 大岡の小説「野火」を映画化し、2015年に劇場公開した塚本晋也監督は、戦場の「痛み」を喚起させる壮絶な映像で観客の想像力に訴えかけた。16年のアニメ映画「この世界の片隅に」の片渕須直監督は、戦時下の市井の日常を丁寧に描くことで、現在と地続きであると強く印象づけた。009
 タイムスリップした少女が特攻隊員に恋をする汐見夏衛さんの小説「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」(16年)は、20年代に入って交流サイト(SNS)で人気に火が付き、ベストセラーに。誰にも身近な「恋愛」を通し戦争の不条理を伝える物語が多くの若い読者の心を捉えた。

戦意高揚 作家が加担 エンタメに軍部介入 漫画分野は侵害少なく
 国内の戦意高揚のために軍部が目を付けたのがエンターテインメントだった。定番の娯楽だった文学はもとより、子ども向け読み物も言論統制の対象に。一部の作家は積極的に扇動に加担し、戦後に糾弾された。
 「皇軍の苦労が捨石にならぬやうに、もつともつと官民一致を来したい」。1937年に作家林芙美子が新聞に寄稿した檄文(げきぶん)だ。高村光太郎は「神の国なる日本」は「老若男女みな兵なり」と鼓舞し、火野葦平は「万歳を声の続く限り絶叫して死にたい」と書いた。高村や火野ら名だたる文人は戦後、新興の新日本文学会に「直接的な責任」があったと指弾された。
 「日本児童文学の父」とされ、やなせたかしさんに影響を与えた小川未明も例外ではない。童話「僕も戦争に行くんだ」をはじめとする作品で米英への憎悪をあおり「愛国的児童像を繰り返し説いた」と、文学研究者の増井真琴さんは指摘する。
 漫画分野では、32年の第1次上海事変で爆弾を抱えて敵陣に突進し、命と引き換えに道を開いたと010たたえられた「肉弾三勇士」が、田河水泡の人気漫画「のらくろ」などでも描かれ、子どもから英雄視された。
 他方、京都精華大の吉村和真理事長(マンガ研究)は、影響力が小さいとみられていた当時の漫画が「他分野よりは公権力に介入されずに済み、エンタメを生み出す活力を戦後につなぐことができた」とみる。侵害されなかった「自由さ」が漫画を、世界に誇る文化に押し上げたと分析する。
 吉村さんは今年、戦争に関する漫画を集めた巡回展「マンガと戦争展2」を監修。「漫画は、世界中の人々が文化を理解し合うことに役立っている。戦争に利用された過去と異なり、新たな戦争に対抗する文化的な力になったと考えています」

引用されている(一部誤記がありますが)光太郎の詩は、ずばり「十二月八日」。昭和16年(1941)12月8日の開戦の詔勅を聴いて、ほぼ一気呵成に書き上げたものです。この日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していましたが、予定の時刻を過ぎても会議が始まらず、待たされている間に開戦の詔勅が放送され、会議は当初5日間の予定が1日で打ち切りになったそうです。

   十二月八日
戦時アトリエ前ピン
 記憶せよ、十二月八日
 この日世界の歴史あらたまる。
 アングロ・サクソンの主権、
 この日東亜の陸と海とに否定さる。
 否定するものは彼等のジヤパン、
 眇たる東海の国にして
 また神の国たる日本なり。
 そを治(しろ)しめたまふ
明津御神(あきつみかみ)なり。
 世界の富を壟断するもの、
 強豪米英一族の力、
 われらの国に於て否定さる。
 われらの否定は義による。
 東亜を東亜にかへせといふのみ。
 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
 われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
 われら自ら力を養ひてひとたび起つ、
 老若男女みな兵なり。
 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
 世界の歴史を両断する
 十二月八日を記憶せよ。

昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』第19巻第2号に発表されました。

毎年、12月8日前後には幼稚なネトウヨどもがこの詩をSNSに挙げて喜んでいます。ついでに言うなら笑ってしまうような誤字だらけで、例えば「本来は「大日本帝国」だが、米英いうところの「ジャパン」」という意味での「彼等のジヤパン」という一節が「我等ジヤパン」となっていたり(笑)。「お前、ほんとに右翼か?」と突っ込みたくなります(笑)。光太郎本人が戦後になってこうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔いて、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。

戦後、光太郎以外の殆どの文学者は、同様の作品を戦時中に発表していたにもかかわらず、それらを「無かったこと」にしたり、「あれは軍や大政翼賛会の命令で仕方なく書いたものだ」と開き直ったりしました。南京大虐殺やらを「無かったこと」にしたい幼稚なネトウヨどもは、戦後の光太郎の深い反省を「無かったこと」にしたいようです。

ちなみに『沖縄タイムス』さんで「新興の新日本文学会に「直接的な責任」があったと指弾」とありますが、同会の創設に関わった壺井繁治なども戦時中は翼賛詩を発表しています。

   鉄瓶に寄せる歌
 
 お前を古道具屋の片隅で始めて見つけた時、錆だらけだつた。
 俺は暇ある毎に、お前を磨いた。
 磨くにつれて、俺の愛情はお前の肌に浸み通つて行つた。
 お前はどんなに親しい友達よりも、俺の親しい友達となつた。

 お前は至つて頑固で、無口であるが、
 真赤な炭火で尻を温められると、唄を歌ひ出す。
 ああ、その唄を聞きながら、厳しい冬の夜を過したこと、幾歳だらう。
 だが、時代は更に厳しさを加へ来た。俺の茶の間にも戦争の騒音が聞えて来た。

 お前もいつまでも俺の茶の間で唄を歌つてはゐられないし、
 俺もいつまでもお前の唄を楽しんではゐられない。
 さあ、わが愛する南部鉄瓶よ。さやうなら。行け! 
 あの真赤に燃ゆる熔鉱炉の中へ! 

 そして新しく熔かされ、叩き直されて、
 われらの軍艦のため、不壊の鋼鉄鈑となれ!
 お前の肌に落下する無数の敵弾を悉くはじき返せ!

まさに「おまいう」(そろそろ「死語」ですが)ですね。ちなみにその壺井には吉本隆明らの手によって、特大ブーメランが帰って来、詩壇から抹殺のような感じになったようです。
012
だからといって、200篇ほどの翼賛詩文を乱発した光太郎の罪が消える訳ではありません。それでもそれを悔い、7年間もの蟄居生活を送ったことは評価されるべきでしょう。それを「無かったこと」にするのは許されることではありませんね。

【折々のことば・光太郎】

此の美の力がわれわれの感覚外で、われわれを擒にしてゐるのか。眼が見えずに見えるのか。其の幻術は建築の力によるのか。其の不朽な現前の功によるのか。其の平静な壮麗の徳によるのか。此の不可思議物は、特殊な一感覚に制限された範囲を超えて受感性に力を及ぼす。


光太郎訳ロダン「夜の本寺」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「本寺」はノートルダム大聖堂。夜間の暗闇の中であっても荘厳な美が幻想的に押しよせてくるように感じられる不思議、というわけです。

「十二月八日」を書いた頃の光太郎も押しよせてくる「大東亜共栄圏」「八紘一宇」といった幻想の「擒(とりこ)」と化してしまっていたのではないでしょうか。

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