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昭和6年(1931)に光太郎が訪れ、紀行文「三陸廻り」で紹介した宮城県女川町で、永く光太郎顕彰活動を続けられているの女川光太郎の会さん。このたび県から表彰されたそうです。

地元紙『石巻かほく』さん記事。

住みよいみやぎづくり功績賞 「女川・光太郎の会」が受賞、地域活性と文化振興

 地域社会づくりに貢献した個人や団体を県が表彰する本年度の「住みよいみやぎづくり功績賞」に、女川町民有志で組織する「女川・光太郎の会」が選ばれた。町に紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の功績を伝え、地域の活性化や文化振興に貢献していることが評価された。
 女川・光太郎の会は、戦前に町を訪れた光太郎の功績を後世に伝えるため1992年に発足。同年夏、女川湾の近くに三つの文学碑を建立した。
 文学碑は東日本大震災の津波で流出するも、2020年に再建を果たした。紀行文や詩の朗読などを行う「光太郎祭」も、光太郎が三陸に向けて東京を出発した8月9日に合わせて毎年開催している。
 伝達式が17日、石巻市あゆみ野5丁目の県石巻合同庁舎であった。県東部地方振興事務所の石川佳洋所長が「会の活動は全国から女川を訪れるきっかけになっている。若い世代にも伝承の思いが伝わっているのがすばらしい」とたたえ、須田勘太郎会長(84)に表彰状を手渡した。
 須田会長は「光太郎祭は震災を乗り越えて今年で34回になるが、会員の高齢化が課題になっている。表彰は団体を知ってもらう機会になり、存続させていくための力になる」と話した。
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「住みよいみやぎづくり功労賞」は、昭和45年(1970)に開始された「感謝のことば」という県民の隠れた善行や小さな善意に対して知事が表彰するという事業を引き継いだ事業で、平成18年(2006)度から表彰対象に「安全・安心まちづくり」等を加え、通常の表彰ではなかなか推薦対象とならないようなより広い範囲の地域社会への貢献に対し、知事の感謝状を贈呈するというものだそうです。

女川光太郎の会さん、「文化芸術の振興に尽くした者――地域の伝統芸能等を伝承している町内会等,子どもを対象にした演劇,音楽等の活動で地域に貢献しているもの等」という項目での認定なのでしょう。

記事に誤りがありますが、女川町に光太郎文学碑が建立されたのは平成3年(1991)。女川在住で画家でもあった貝(佐々木)廣氏が中心となり「高村光太郎文学碑建立実行委員会」を立ち上げ、実現しました。光太郎は紀行文「三陸廻り」(昭和6年=1931)で自筆の挿画を添えて女川町を紹介しました。また、のちに昭和12年(1937)になってから、女川港で見た水揚げの記憶を元に詩「よしきり鮫」も執筆しています。それらを受けて「光太郎ほどの偉人がこの女川を様々な形で取り上げてくれたのに、そのことを語り継がないでどうする」ということだったそうです。
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碑は三基(数え方によっては四基)、同時に建てられました。中央にメインの碑。5面のプレートを持ち、光太郎短歌「海にして……」(明治42年=1909の作で、女川とは直接の関係はありませんが「海」つながりで)自筆揮毫を中心に、紀行文「三陸廻り」の一節(当会顧問であらせられた北川太一先生揮毫)が2面、それが『時事新報』に載った際の光太郎自筆挿画が2面。
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「海にして……」の揮毫が変体仮名等で読みづらいという配慮で、真下には活字に起こした小さな碑も。これを一つと数えるかどうかで、先述の三基か四基かが分かれます。
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挿画の方の上画像は除幕された頃、当方が撮影したものですが、当初はこのように金色のプレートでした。現在は後述する東日本大震災による被害、その後の風雪などでくすんだ色に変わってしまっていますが……。

左右には詩「よしきり鮫」と「霧の中の決意」(昭和6年=1931)、こちらは光太郎自筆原稿が拡大して刻まれました。下画像はやはり震災前に当方が撮ったものです。
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除幕された平成3年(1991)には、それを記念して仙道作三氏作曲、山本鉱太郎氏脚本によるオペラ「智恵子抄」公演も女川で行われました。
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当初の「高村光太郎文学碑建立実行委員会」が、翌平成4年(1992)から女川光太郎の会となり、第1回女川光太郎祭を開催。光太郎詩文の朗読や音楽演奏、北川太一氏を講師に招き、講演(現在は当方が引き継いでおります)など。

その後、女川光太郎祭は、コロナ禍での中止はあったものの、東日本大震災のあった平成23年(2011)にも開催され、続いています。大震災時には貝(佐々木)氏が津波に呑まれて亡くなり、文学碑も倒壊、「よしきり鮫」碑と短歌を活字で刻んだ碑は行方不明となりました。残った二基の碑は半分水没していましたが、会の皆さんの御尽力や町の協力もあり、令和2年(2020)に再建されました。
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上画像は震災翌年の平成24年(2012)、下画像は再建後です。
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震災、石碑、といえば、女川町では震災後、津波到達地点より高い場所に避難の際の目印として建てられた「いのちの石碑」全21基。建立費用はかつて光太郎文学碑でそうしたことに倣い、全額寄付で集められました。このプロジェクトを立ち上げた、震災直後に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちの企画書に明記されました。
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津波で還らぬ人となった貝(佐々木)氏の精神が受け継がれたわけで……。

そんなこんなで女川光太郎の会さんが、「住みよいみやぎづくり功績賞」受賞。喜ばしい限りです。

光太郎忌日の4月2日(水)には、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで光太郎を偲ぶ第69回連翹忌の集いを開催いたします。女川光太郎の会さんからは、亡くなった貝(佐々木)氏に代わって運営の中心となられている奥さまの英子さんと笠松弘二氏、「オペラ智恵子抄」の智恵子役で、毎年女川光太郎祭に参加され、アトラクション演奏もなさっている本宮寛子氏、さらに作曲された仙道氏も久しぶりにご参加下さいます。今回の受賞について、英子さんにスピーチしていただくつもりです。

女川での光太郎顕彰、今後のますますの発展を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

先日のオハガキで天平さん逝去の事を知り、いたましい事に思ひました、からださへよければまだうんとのびる人だつたと思ひます、


昭和27年(1952)5月23日 草野心平宛書簡より光太郎70歳

「天平さん」は当会の祖・草野心平の実弟にして、心平同様に詩の道へ進んだ草野天平。この年、数え43歳で病没しました。

下って光太郎も歿した後の昭和33年(1958)、『定本草野天平詩集』が刊行され、それに対し故人であるにもかかわらず第2回高村光太郎賞が授与されました。粋な計らいでした。

今回の女川光太郎の会さんの受賞も、亡き貝(佐々木氏)も共に表彰されたと考えたいところです。

昨日で東日本大震災から14年でした。

14年前のあの日、津波に呑まれて還らぬ人となった、当時女川光太郎の会事務局長であらせられ、宮城県女川町の光太郎文学碑の建立(平成3年=1991)や、その後の女川光太郎祭の開催に尽力されていた貝(佐々木)廣氏を、千葉から偲ばせていただきました。
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画像は震災前の平成18年(2006)、貝(佐々木氏)が発表者のお一人だった、荒川区さん主催の「光太郎・智恵子フォーラム」の際のものです。司会は当方が務めさせていただきました。

午前中には3月8日(土)に足を運んだ福島県いわき市の草野心平記念文学館さんでの文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」についてこのブログにレポートを書いていました。その講師のお一人、東日本大震災での原発被災についての旧ツイッター投稿で有名になられた和合亮一に関し、その日の『日本経済新聞』さんがコラムで取り上げていたのに気づきました。

春秋

「なんで東電の言葉を信じてたんだろうね」。そう語ったのはクリーニング店主の女性だ。「大きい会社なんだから、責任持ってやってくれっから」と考えていた、と。福島出身の詩人、和合亮一さんが原発事故の直後に書き留めた地元の声の一つだ(「詩の邂逅(かいこう)」)▼多くの住民の素朴で率直な思いだったろう。震災前、和合さんが教師として勤める高校の保護者会の場でも「絶対に大丈夫」との説明が繰り返されていたという。専門家が言うのなら。住民は、あるいは日本全体が、会社側の説明に乗っていた。それはしかし、未曽有の激震と大津波を前に、もろくも土台から崩れ落ちた▼危機は本当に予見できなかったのか。旧経営陣が強制起訴された裁判は、最高裁が無罪と判断した。想定された結末ではある。要因が複雑な巨大事故で、一度は不起訴とされた個人の刑事責任を立証するのは極めて難しいからだ。現行法にとどまらず、法人に高額な賠償金を科す「組織罰」などの新制度も考える時だろう▼何もなくても涙が出る、子供でなく自分の世代の災害でよかったと思いたい……。和合さんと話す被災者の声は悲痛だ。和合さんは事故当時の詩作で「絶対は無い」と繰り返した。安全神話が消えた今、あの惨禍の再発をどう防ぐか。処罰や賠償とは別に、避けては通れぬ将来への責任であろう。14年目の3.11が巡りくる。

3月8日(土)、福島浜通り地区をほぼ縦断しながら考えたのは、やはり原発の件でした。常磐自動車道には「これより帰還困難区域」の標識がまだ立っています。調べたところ、いまだに7つもの自治体(南相馬市、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村)に同区域が設定されているとのこと。当会の祖・草野心平がらみでたびたびお邪魔している川内村さんは入っていませんが、それでもまだまだという感じです。

一面コラム、心平、と言えば、3月5日(水)の『朝日新聞』さん。

天声人語

カエルの詩人と言われた草野心平に「冬眠」という作品がある。故郷の福島県いわき市にある記念文学館で、自筆原稿を見た。400字詰めの用紙の真ん中に、ぽつんと「●」があるだけ。土の中での孤独、静寂、暗闇。そんなものを凝縮させたのだろうか▼きょうは二十四節気のひとつ、啓蟄(けいちつ)である。長井冬の眠りから覚めた虫や小動物たちがもぞもぞとうごめき出す。先週末の思わぬ暖かさで、一足早く穴ぐらを出ていたのも、いたかもしれない▼それが一転。都心ではきのう、夕刻から冷たい雨が降り始めた。大雪になる恐れから、高速道路が通行止めになった。地表に這い出ようとしていたカエルたちも、こりゃいかんと慌てて引き返したに違いない▼春の神様はじつに思わせぶりで、いったん天気が回復しても、もう一度、真冬並みの寒さになる地域もあるようだ。一方で、ダウンコートにマフラー姿で出社したのに、帰りの電車では汗ばんだりする。そうやって一進一退を繰り返しながら、季節は巡ってゆくのだろう▼カエルの声を聞けば詩情を誘われ、「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」。そう言ったのは古今集である。でもビルの街では、春を迎えた彼らの喜びを耳にすることはかなわない。草野心平の「春のうた」で、その日を想像してみる▼〈ほっ まぶしいな。/ほっ うれしいな。/みずは つるつる。/かぜは そよそろ。/ケルルン クック。/ああいいにおいだ。〉もう、あとわずかだ。

「冬眠」は、「世界一短い詩」とも称されています。昭和3年(1928)、光太郎が序文を書いた心平詩集『第百階級』に収められました。
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冬眠から醒めたカエルたちが、充満した放射線に驚いて「こりゃいかんと慌てて引き返」す、そんな状況にしてはいけないと、改めて思うのですが……。

【折々のことば・光太郎】

今年は多分五月末か六月初旬頃十和田湖に行く事になりさうです。その頃が風景絶佳とききました。


昭和27年(1952)4月11日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎70歳

「十和田湖に行く」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための現地下見です。この際には心平も同行しました。

3月8日(土)、福島県相馬市図書館さんで今月1日に始まった「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」というミニ展示、歴史資料収蔵館で光太郎の父・光雲の孫弟子にあたる佐藤玄々(朝山)の彫刻を拝見後、愛車を南に向け、いわき市に向かいました。この日メインの目的であるいわき市立草野心平記念文学館さんでの文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」拝聴のためです。

途中で昼食を摂り、さらに若干早く着いてしまったので、館近くの小川諏訪神社さんに参拝。
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当会の祖・草野心平が生まれ育った旧小川村ということで、もしかすると少年時代の心平が訪れたんじゃないかな、などと思いながら参詣いたしました。もっとも、悪童だったであろう心平のことですので、屋根によじ登ったり床下に入り込んだりといった悪さをしていたかもしれません(笑)。

さて、館に到着。
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まずは光太郎をはじめ(言葉の綾ではなく、実際に導線上の「い」の一番に光太郎です)、様々な人物からの来翰などが並んでいる常設展を拝見しました。さらに「スポット展示」ということで、心平実弟にして光太郎と交流があり、歿後に第2回高村光太郎賞を受賞した草野天平に関わる展示も為されていました。以前の天平のスポット展示では、天平が受け取った高村光太郎賞の賞牌(光太郎が彫った木皿を光太郎実弟の豊周が鋳金したもの)が展示されましたが、残念ながら今回は無し。

講演会の受付を済ませ、ホールへ。午後2時、開会。
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講師は福島大学さん名誉教授の澤正宏氏、そして同大で氏の薫陶を受けられた詩人の和合亮一氏。講演というより、澤氏のご編著『草野心平研究資料集』第1回配本 全3巻(クロスカルチャー出版)を軸とした公開対談という趣でした。
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澤氏は智恵子の故郷・二本松市の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会さん主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさっていて、久しぶりにお目に掛かりました。和合氏とはさらに久しぶりで、このブログを始める前(さらに言うなら東日本大震災前)の平成20年(2008)と翌年の智恵子を偲ぶレモン忌の集いでお会いして以来でした。お二人のお話、随所で光太郎にも触れて下さり、ありがたく存じました。

それ以外に興味深かったのは戦時中の件。戦前にはアナキストとも言える立ち位置だった心平が、日中戦争時には中華民国政府(王精衛政権)の宣伝部顧問となり、光太郎も参加した大東亜文学者大会の実施に奔走したりしました。大政翼賛会中央協力会議の議員や日本文学報国会詩部会長を務めた光太郎と重なります。しかし心平、光太郎ほどには戦意高揚の翼賛詩的なものを書いていません。それを書けないほど忙しかったのではないかと当方は考えています。また、戦後、光太郎は自らの戦争責任を断罪する連作詩「暗愚小伝」を発表しましたが、心平はそうしたこともしませんでした。心平にしてみれば「言い訳はしたくない」という気持ちだったのではないでしょうか。

この時期、東京大空襲80年ということもあり、いろいろ考えさせられました。

ちなみに心平、敗戦時も中国にいて、国民政府軍に拘束され、収容所行き。その際に持っていた光太郎や宮沢賢治からの来翰、光太郎に貰った智恵子の紙絵四枚なども含め、財産は没収されました。紙絵に関しては後に「いまとなってはむしろ、私の家なんかにあるよりは中国のどこかの家に飾ってあってくれれば、とも思うのだが。」(「高村光太郎・智恵子」昭和39年=1964 『新潮』掲載)と、心平は書きました。

終演後、お二人とお話しさせていただきました。

澤氏からはお願い。『草野心平研究資料集』の今後の配本に、当方が平成28年(2016)、心平を偲ぶ「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」で「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題して語ったものの筆記(心平記念館さんの館報第19号に掲載)を転載したいとのこと。大したお話をしたわけでもないのにそんなのを載せて下さるとは、と、逆に恐縮してしまいました。

和合氏には、ドサクサに紛れて昨年刊行された御著書『エッセイ三昧』を持参し、サインしていただきました(笑)。
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お二人の今後のさらなるご活躍、同館のますますのご発展を祈念いたします。

以上、福島浜通りレポートを終了いたします。

【折々のことば・光太郎】

山では今バツケが出てきたところです。


昭和27年(1952)4月3日 森荘已池宛書簡より 光太郎70歳

「バツケ」は新仮名遣いでは「バッケ」。ふきのとうを表す方言です。蟄居生活を送っていた岩手花巻郊外旧太田村では4月頃芽を出すのですね。

当会事務所兼自宅の裏山ではもう盛んに出ています。
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かたわらにはオオイヌノフグリも咲いていました。
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こう書くとのどかな里山のようで、まぁ実際、昼間はそうなのですが、油断は禁物。下の画像は何かお判りでしょうか。
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おそらくイノシシの足跡です。

17歳で逝ってしまった愛犬が健在の頃、夕方、一緒に散歩していて3回ほど遭遇しました。春になり、きゃつらも活発になってきたようです。

昨日は福島県に行っておりました。本来、そちらのレポートを書くべきですが、先に同じ福島県でのイベントを2件ご紹介します。うち1件はもう明後日でして。

それぞれ光太郎智恵子には直接関わりませんが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」、そこから派生した「ほんとうの空」の語を冠して下さっています。

25年3・11ふくしま集会 ~原発事故は終わってない~

期 日 : 2025年3月11日(火)
会 場 : 郡山市労働福祉会館大ホール 福島県郡山市虎丸町7-7
時 間 : 集会 13:00~ デモ行進 15:45~
料 金 : 無料

ほんとの空の下で語られる本当の声を聴きに来てください。

311原発いらない福島実行委員会では、「原発事故は終わっていない」をスローガンに集会を開催します。今年の基調講演は、後藤政志さんです。「原発に頼ることの愚かさ」についてお話していただきます。集会の後にライブ(会場:Kouriyama#9 開演17:30)もあります。
ぜひ、お出かけください。

【基調講演】「原発に頼ることの愚かさ」
       講師 後藤政志さん(元東芝原発設計技術者・原子力市民委員会委員)
【パネルディスカッション】
      「福島第一原発事故について私たちが知るべきこと~現状と今後に備えて~」
       コーディネーター・片岡輝美さん 
       パネラー 後藤政志さん 千葉親子さん
【女川原発差止め訴訟からビデオメッセージ】
【福島の取り組みからの報告】

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昨年の石破政権発足後、原子力政策に関してそれまでの「可能なかぎり依存度を低減する」という文言が削られ、ちゃっかり「原子力の最大限利用」という真逆の文言が加えられました。原発の老朽化や廃棄物の処理、避難計画の不備等、問題点には蓋をして、です。期待されていた再生可能エネルギー関連でも不祥事等が連発。原発回帰を進めるためにわざわざそうした工作を行っているのではと勘ぐりたくなります。

もう1件。

第18回 声楽アンサンブルコンテスト全国大会- 感動の歌声 響け、ほんとうの空に。 -

期 日 : 2025年3月20日(木・祝)~3月23日(日)
      3月20日(木・祝) 中学校部門 
      3月21日(金) 高等学校部門
      3月22日(土) 小学生・ジュニア部門、一般部門
      3月23日(日) 各部門金賞受賞団体による本選、表彰式
会 場 : ふくしん夢の音楽堂(福島市音楽堂) 福島県福島市入江町1-1
時 間 : 各日、開場9:30 開演10:00
料 金 : 各部門予選  前売り 2,500円 当日 3,000円 
      本選     前売り 3,000円 当日 3,500円
      4日間通し券 前売りのみ 9,000円

 声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名までの少人数編成の合唱グループによるコンテストです。
 全国の合唱レベルの向上を図るとともに、歌うことの楽しさを福島から全国に発信することを目的として、2008年(平成20年)から開催、今大会で第17回目を迎えました。
 本大会の特色として、伴奏楽器及び伴奏の形態が自由で多様な合唱音楽を追求、部門、年代を越えて演奏し合います。また、海外の合唱グループも公募し、音楽を通じて交流を図ります。
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平成23年(2011)に予定されていた第4回大会が東日本大震災発生直後で中止となり、平成25年(2013)の第6回大会からサブタイトルに「ほんとうの空」の語を冠し続けて下さっています。

コロナ禍による中止もあり、一昨年から旧に復しましたが、その後、出演団体も増加しています。智恵子の母校・福島高等女学校の後身で、かつて鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための 組曲 智恵子抄」を持ち歌にしていらした福島県立橘高等学校合唱団さんが出場なさいます。

それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

花や虫や雪や雲や鳥や人の事が書いてあり、巻末の方には次々とフランスの芳りに満ちた文章があつたのでどんなに喜んだ事でせう。山中にゐて小生フランスに飢ゑてゐる次第です。


昭和27年(1952)4月10日 串田孫一宛書簡より 光太郎70歳

エッセイ集『孤独なる日の歌』を贈られ、その礼状の一節です。串田は当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人でした。

最近流行りの個人開設型オンラインショップ。中小企業さん、個人商店さん、それから純粋に個人の方も出店なさっています。

そのうちのminneさんというサイトに登録されている小野屋善行商店さんというショップで、流行りの「文豪」ものグッズをいろいろと出品されていますが、光太郎もラインナップに入れて下さいました。

【少部数テスト販売】高村光太郎(文豪のしおり)

文豪のしおり、高村光太郎「火星が出てゐる」

しっとりした触感の特殊紙に、クリアインクで地紋が印刷されています。
厚みは0.38ミリ。しっかりとした質感があり、しおりとして使いやすいです。

※本商品はAdobe Illustratorで入稿データを作り、印刷屋さんに発注して印刷したものです。
(家庭用プリンターや、コンビニプリントは使用しておりません)

定価 350円(税込)
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同店では以前から「文豪のしおり」「文豪スマホケース」「文豪アクリルキーホルダー」の、それぞれをいろいろ取り揃えてらっしゃいますが、今月初めに「文豪のしおり」が「少部数テスト販売」ということで種類が増やされました。

「少部数テスト販売」のラインナップは以下の通り。
 夢野久作「瓶詰地獄」 菊池寛「恩讐の彼方に」 高村光太郎「火星が出てゐる」
 三好達治「雪」 泉鏡花「天守物語」 梶井基次郎「檸檬」 萩原朔太郎「天上の縊死」

以前から売られているのは以下の通り。
 中原中也「北の海」 太宰治「人間失格」 江戸川乱歩「黒蜥蜴」
 佐藤春夫「星のために」 宮沢賢治「星めぐりの歌」 芥川龍之介「羅生門」
 北原白秋「片恋」 織田作之助「勧善懲悪」 坂口安吾「風と光と二十の私と」
 中島敦「山月記」
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光太郎と梶井は売り切れてしまったようですが、売り切れるということは人気が高かったということなので、追加で制作していただけるのではないでしょうか。ちなみに光太郎の最後の一枚を注文したのが当方のようです(笑)。

印刷されているのは詩「火星が出てゐる」(大正15年=1926)の一節。「あなたの好きな高村光太郎の詩は?」といったアンケートでもやれば、第10位くらいに入るのではないかと思われます(笑)。かえってそのくらいの玄人好みの作品を扱って下さるのもありがたいところです。

ぜひ追加販売をお願いしたいところですし、そうなった際には皆様、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

遠路を恐縮でした。御一緒に温泉で二夜を過ごした事は愉快でした。小生の録音はやはり変な声でした。それに少々しやべり過ぎたやうです。


昭和27年(1952)4月3日 真壁仁宛書簡より 光太郎70歳

真壁は山形在住の詩人。前月27日に花巻温泉松雲閣真壁との対談が録音され、30日にNHKラジオでオンエアされた事に関わります。

録音された自分の声を聞くと違和感を感じますね。これは自分では声帯の振動が頭蓋骨を通じて直接的に伝えられる「骨導音」という音を聞き慣れているからで、現代では常識ですが、当時はそういう知識が広まって居らず、光太郎、ことあるごとにマイクなどのせいにして怒っていました。

岡山県からイベント情報です。

岡山県詩人協会 第10回詩を楽しむ会ー智恵子抄ー

期 日 : 2025年3月16日(日)
会 場 : 岡山市オリエント美術館地下講堂 岡山市北区天神町9-31
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 500円

高村高太郎作智恵子抄及び安藤次男(郷土の詩人)の詩・散文の朗読、詩人の斉藤恵子さんの講演

申し込み不要

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岡山県詩人協会さんの主催。同会の初代会長は、光太郎と交流のあった現在の赤磐市出身の永瀬清子でした。

ちなみに「高村高太郎」ではなく「高村光太郎」なのですが、遠く大正時代から「あるある」ですので仕方ありますまい(笑)。
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ご興味お有りの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

例のテープ式録音などの不完全なものは殆ど聴くに堪へぬものになり勝ちで、しばしばラジオできかされて、ひんしゅくして居ます。設備と技術との未熟なものにひつかかる事を、おそれてゐます。


昭和27年(1952)3月5日 真壁仁宛書簡より 光太郎70歳

真壁は山形在住の詩人。NHKラジオで光太郎と真壁の対談を放送したいということで、それに対する返答の一節です。

光太郎としては乗り気ではありませんでしたが、結局、この月27日に花巻温泉松雲閣で録音が行われ、30日にオンエアされました。この対談はカセットテープやCDに収録されて市販もされていますし、NHKラジオ第2さんで平成28年(2016)に放送されたりもしています。

当初、収録に難色を示していた光太郎でしたが、始まると興が乗ってきたようで、当初予定になかった自作詩朗読も録音させました。いずれも「智恵子抄」所収の「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」でした。

自作詩朗読

明日から3月ですね。ここ数日、関東では春の陽気となっています。自宅兼事務所のある千葉では一昨日、昨日と最高気温が15℃ほどでしたし、明日は20℃くらいになるそうです。

そんなこんなで、自宅兼事務所の裏山では梅がほぼ満開となっています。梅に付きもののウグイスの鳴き声もしきりに聞こえています。
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冬を愛し、「冬が来た」などの冬の詩をたくさん遺した光太郎ですが、春の詩も書いています。
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    梅花かをる

 梅花(ばいくわ)かをる。
 霜白き厳寒の天地を破りて
 梅花のかをりすでに春をめぐらす。
 日本の梅花いさぎよくして
 かの羅浮仙(らふせん)の妖気を帯びず、
 そのかをり直ちに剣(つるぎ)を感ぜしめ、
 清浄(しやうじやう)、人を奮起せしむ。
 されば若き武人の箙(えびら)に挿さんとするは
 一枝(いつし)の梅花に外ならず、
 花かんばしくして
 人また千載に遺芳をおくる。
 梅花のかをりふと路にただよふ時
 人たちまち精神の高きにつき
 心に汚(けが)れなからんことを期す。
 凜冽のあした梅花かをりて
 武人の道統さらに新しく、
 厳冬のうちに炸裂して
 天と地とに脈脈の生気を息吹くもの、
 梅花かをる、梅花かをる。
 いま皇国未曾有の戦機迫りて
 人ただ大義奉公の一念に燃ゆ。
 この年二月梅花また白玉(はくぎよく)を点綴して
 そのかをり人心を粛然たらしむ。
 ゆくりなく社頭の臥龍(ぐわりよう)を拜して
 梅花にかをる皇国古今の節義をおもふ。

終戦の年(昭和20年=1945)2月、日本報道社発行の雑誌『征旗』に載った詩です。

執筆は草稿欄外に書かれたメモに依れば「一月十日夜」です。1月10日では東京で梅は咲いていなかったでしょう。しかし、雑誌が発行される頃には梅も咲き始めるだろうということで梅をモチーフにしています。

この手の虚構は光太郎お家芸の一つで、「智恵子抄」所収の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)でも同じことをやっています。

写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」の一節。執筆は2月23日で、どう考えても桜には早い時期です。しかし、発表されたのが雑誌『新女苑』の4月号で、まさに桜の時期です。まぁ、「この詩が読者の目に触れる頃には写真の前に挿した桜の花かげに、すずしく光るレモンを置こう」ということなのでしょう。

こうしたインチキは光太郎に限らず多くの文学者がやっていたでしょうし、現代でも行われているような気もしますが。テレビ番組などで暮れのうちに撮影しているのに、オンエアが年明けなので「あけましておめでとうございます!」とやっているのと同じですね。

さて、「梅花かをる」。文語の格調に逃げ、「武人の道統」「皇国未曾有の戦機」「大義奉公の一念」といった空虚な語を連ね、現代の感覚では「イタい」詩です。しかし、前年あたりまでの狂気を孕んだような「鬼畜米英覆滅すべし」といった調子ではなくなり、もはや諦念も漂っているように感じます。

前年まではこんな感じでした。
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   黒潮は何が好き006

 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。
 空母、戦艦、巡洋艦、
 駆艦、潜艇、輸送船、
 「世界最大最強」を
 頂戴したいと待つてゐる。
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 来い、空母、
 来れ、戦艦、
 「世界最大最強」の
 メリケン製の全艦隊。
 色は紺染め、
 白波たてて、
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。

はっきり言えば光太郎、狂ってましたね。

ところが現代に於いても、こういう作品こそ光太郎詩の真骨頂、これぞ皇国臣民の鑑、惰弱な現代人はここに学べ、と、涙を流してありがたがる輩が少なからずいるのも現状です。嘆かわしい。

いろいろなところで言及されていますが、今年は昭和100年、戦後80年。これを機に「あの時代」を正しく省察すべきと思われます。

【折々のことば・光太郎】

今雪の下でホウレン草が育つてゐることでせう。もうハンの木の花が出かかつてゐます。

昭和27年(1952)3月5日 内村皓一宛書簡より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。梅はまだだったようですが、小屋の周りに自生していた榛の木(やつか)の花がほころびつつあったようです。榛の木の花も杉や檜同様、花粉症のアレルゲンとなるそうですが……。

福島から講演会情報です。当会の祖・草野心平がメインですが、おそらく光太郎にも触れていただけるであろうと思われますので……。

文芸講演会「詩人・草野心平─いかに心平が心平になったか」

期 日 : 2025年3月8日(土)
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

講 師 : 澤正宏氏(福島大学名誉教授)、和合亮一氏(詩人)

草野心平と同郷の福島県で詩を教える澤氏と、詩を書く和合氏の師弟コンビが、草野心平の詩について語ります。

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講師お二人のうち、澤氏は智恵子の故郷・二本松市の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会さんにいろいろご協力下さり、同会主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさいました。他にもNHKカルチャーさんでの講座、様々な御著書御編著等で心平や光太郎について取り上げて下さっています。

和合氏はつい先日も御著書を紹介させていただきました。福島大学さんのご出身ということで、その頃に澤氏の薫陶を受けられたのでしょう。

講演テーマが「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」。光太郎をして「詩人とは特権ではない。不可避である。詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。」と評せしめた心平ですので、光太郎との交流が生じなかったとしても不可逆的に詩人となっていたと思われますが、光太郎と親しく交わったことでより一層、花開いたのではないかと思われます。そういったお話になることを期待いたしております。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

その後の都合を見てゐましたが、どうもまだ下山出来さうもありません。やりかけの仕事がまだ片付きません。今年は山も異常に温く、畑の青菜が育ちお雑煮に使へさうです。阿部さんにもらつたお餅もあり、元日には先生御一家をしのんで杯をあげませう。

昭和26年(1951)12月28日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎69歳

正月をわが宅で過ごされませんか、という総合花巻病院長・佐藤隆房の誘いに対する断りの返答です。

結局、こうして昭和26年(1951)が暮れて行きました。

刊行から3ヶ月近く経ってしまい、新刊とは言い難いのですが……。

エッセイ三昧 

発行日 : 2024年11月25日
著者等 : 和合亮一
版 元 : 田畑書店
定 価 : 2,750円(税込)

東日本大震災直後の福島からTwitterで詩を発信し続け、その詩は世界各国で翻訳されて、フランスでは第一回ニュンク・レビュー・ポエトリー賞を受賞。世界が認める詩人・和合亮一はまた、福島の高校で教鞭をとる国語教師でもある。毎朝、通勤電車に揺られて学校に通う日々、巣立っていく息子への思い……ごく普通の生活から〝詩〟が生まれていく過程を、直截に、ユーモアを交えて綴った、ほぼ10年にわたるエッセイの集大成! 特に中原中也、三好達治、草野心平から谷川俊太郎など19人の詩人について、その詩の本質を平易に、また柔らかく語った「ルミナスラインをあなたへ」は圧巻。

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目次
 朝の文箱(南日本新聞連載)12篇
  手と手に/父心/床屋で祖父に励まされる/日曜日には襟を正して 他
 詩ノ交差点アリマス(河北新報連載)72篇
  詩を書いている和合です/講演しながら耳を澄ませ 他
 震災からの日々(各紙誌掲載)12篇
  骨が記憶する揺れ/十年目の春/あのときの子どもたち 他
 詩人のあぐら(平凡社「こころ」連載)8篇
  千の天使の三点シュート/五十二ニシテビラヲ配ル 他
 通勤の車窓から(各紙誌掲載)7篇
  竹、竹、竹が生え。/震災と賢治/月に叫んじゃえ 他
 ルミナスラインをあなたに(雑誌「一個人」連載)22篇
  長田弘/茨木のり子/いとう りおな/関根弘/菊田心/吉野弘/金子みすず/高橋順子
  高村光太郎/三好達治/室生犀星 1/室生犀星 2/草野心平 1/草野心平 2/大岡信
  大和田千聖/谷川俊太郎/中原中也 1/中原中也 2/田村隆一/野口武久/石垣りん


福島市ご在住の詩人・和合亮一氏が新聞・雑誌等に連載されたエッセイの集成です。先日上京した折、日本橋の丸善さんにフラッと立ち寄り、発見しました。

雑誌『一個人』に連載されていた「ルミナスラインをあなたに」中に光太郎の項がありました。ちなみに「ルミナスライン」とは、和合氏曰く「詩の中に、あなたにとって輝くようなフレーズが見つかるといい。それを「ルミナスライン」(光る詩の行)と呼んでいきたい」。そこで、古今の詩人(職業的詩人以外も含む)の作品を毎回一篇ずつ取り上げ、わかりやすく解説。光太郎詩は「冬が来た」(大正2年=1913)でした。他に当会の祖・草野心平の項でも光太郎に言及されています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

写真お送り下さつてありがたく御礼申上げます、一九五一年のよい記念になりますし新生活発足の日の貴下の撮影といふ事に愉快な意味を感じます、

昭和26年(1951)12月6日 佐久間晟宛書簡より 光太郎69歳

佐久間佐久間晟氏は宮城県歌人協会会長などを歴任された歌人。光太郎と交流のあった前田夕暮門下でした。奥さまでやはり歌人のすゑ子氏とこの年にご結婚、新婚旅行の中で花巻郊外旧太田村に逼塞していた光太郎の山小屋を訪ねられました。

平成17年(2005)、お二人が同人となられていた歌誌『地中海』に、光太郎訪問記等がすゑ子夫人のご執筆で掲載され、その後、当方、仙台でご夫妻と面会、詳しくお話を伺うことができまして、その際の聞き書きを『高村光太郎研究』第28号(平成19年=2007、高村光太郎研究会)に寄稿いたしました。

右のお二人が佐久間夫妻、左端は夫妻が泊まられた花巻温泉松雲閣の仲居さん・八重樫マサ。夫妻を山小屋に案内したそうです。

3番組ご紹介します。

まず再放送。

にほんごであそぼ「喜び」

地上波NHK Eテレ 2025年2月15日(土) 07:00~07:10

書道で学ぶにほんご(青柳美扇)・立体紙切り(辻笙)・ぐうたらちんたら/喜び、朗読(高杉真宙)/「智恵子抄 深夜の雪」高村光太郎、漢字アニメ/喜、偉人とダンス/喜びとは苦悩の大木に実る果実である(ヴィクトル・ユーゴー)、うた「ほのぼのよき」

【出演】南野巴那 高杉真宙 青柳美扇 辻笙 世田一恵 中村彩玖 川原瑛都 川田秋妃

2月10日(月)に初回放映があり、昨日も再放送がありましたが、また明朝にオンエアされます。

俳優・高杉真宙さんによる光太郎詩「深夜の雪」朗読が含まれます。
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NHKプラスさんで配信も為されていますが、ぜひご覧下さい。

同じくNHK Eテレさん。こちらも初回放映ではないと思うのですが……。

NHK高校講座 言語文化 冬が来た(高村光太郎)

地上波NHK Eテレ 2025年2月18日(火) 01:40〜02:00

この講座では、優れた日本の古典作品や、漢文・漢詩、明治時代以降に発表された文学的な文章を読み味わいます。また、それぞれの時代の人々の感じ方や考え方を紐解きます。

口語自由詩で描かれる風景を味わいます。今回、取り上げるのは高村光太郎作の口語自由詩「冬が来た」。まずは、リズムを確かめながら音読します。その後、作者は冬をどのようなものとして捉えているか、考えていきます。

【出演】高等学校教諭…齋藤祐,木本景子,【朗読】高山久美子
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こちらは公式サイトに動画が上がっていますが、このとおりの画面で放映されるのかどうか……。

ついでというと何ですが、もう1件。おそらく光太郎らにはからまないと思われますが、一応。

じゅん散歩

地上波テレビ朝日 2025年2月17日(月)~2月21日(金) 09:55〜10:25

「一歩歩けば、そこにひとつの出会いが生まれる…」
三代目散歩人・高田純次が“一歩一会(いっぽいちえ)"をテーマに自由気ままに街を歩きます!

2月17日(月) 三代目散歩人・高田純次が「根津」を散策▽人気の谷根千! 文豪に愛された街▽ボールペンだけで描く繊細アート▽ニラたっぷりの絶品中華そば

2月18日(火) 三代目散歩人・高田純次が「谷中」を散策▽外国人殺到! 名物商店街▽俊足でお馴染み…韋駄天をまつる寺▽空中庭園で人気の芋ブリュレ

2月19日(水) 三代目散歩人・高田純次が「千駄木」を散策▽人気の谷根千! 坂道と路地の街▽種類豊富! 家族で営む豆の専門店▽希少品も…舶来のボタンギャラリー

2月20日(木) 三代目散歩人・高田純次が「日暮里」を散策▽工房が並ぶ“モノづくり"の街▽職人技! ブリキ缶の塗装とは…▽全国土産品のアウトレット店

2月21日(金) 三代目散歩人・高田純次が「谷中」を散策▽人気の谷根千! リノベ施設巡り▽日本画に魅了された米国人芸術家▽街のシンボル“ヒマラヤ杉"とは…

【出演】高田純次
◆テーマ曲:斉藤和義
 『純風』 ◆エンディング曲:山下圭志 『一瞬の光』
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来週1週間が、光太郎のホームタウン・谷根千及び日暮里。「人気の谷根千! 文豪に愛された街」というワードもあり、気になるところです。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

おハガキで御主人御逝去の事を知りました、おくやみ申上げます、戦争以来人の死ぬのを何とも思はなくなりましたが、旧知の方の他界はやはり感慨を起させられます、

昭和26年(1951)11月17日 山端静子宛書簡より 光太郎69歳

山端静子(しづ)は直ぐ下の実妹。夫の寅三逝去の報せに対する返信の一節です。「何とも思はなくなりました」は無関心という意味ではなく、死者10万人とも言われる東京大空襲、さらに終戦5日前にも花巻空襲を経験し、人は呆気なく逝くものだという無常観のようなものを刻みつけられたということでしょう。

今日のお題は「地方紙及び自治体等広報誌より」とさせていただきました。

まずは地方紙、といっても『東京新聞』さんですが、東京も一地方ですね。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄についての講演会予告記事です。

水彩画の革新者・中西利雄の生涯や芸術を深掘り 中野で15日に講演会

 東京都中野区ゆかりの水彩画家で「水彩画の革新者」と呼ばれた中西利雄(1900~48)の生涯や芸術を掘り下げる講演会「中西利雄 人と作品」が15日、中野区産業振興センター3階(中野2)で開かれる。「中野たてもの応援団」主催。
 中西利雄は現在の中央区生まれ。27年東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科卒業。関東大震災後、中野区内に居を構えた。近代的水彩画法を編み出したことで昭和の水彩画史に足跡を残した。
 現在も区内に残るアトリエは、後に詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年滞在し、制作の場として利用した。建築家ら有志が、アトリエの保存に向けて「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存活動を続けている。
 講師は中西利雄研究の第一人者で、茨城県近代美術館の山口和子主席学芸員。
 午後2~4時、定員60人。参加無料。事前申し込みは同応援団の十川(そがわ)さん=メール=y-sogawa@tubu.jp、電090(8056)0327=へ。

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続いては、岐阜県白川町さんの広報誌『広報しらかわ』今月号に載った『町立図書館 楽集館だより』から。

館長だより▼2月に寄せて

 寒さ厳しい2月になりました。旧暦名では如月(きさらぎ)です。寒い時期、衣(ころも)を更(さら)に重ね着すると言う意味から「衣更着」(きさらぎ)と言うようになったという説があります。そこで厳しい寒さで連想されるのが高村光太郎の詩『冬が来た』です。「きっぱりと冬が来た」で始まる光太郎の詩は鋭利な刃物を連想させるような、透き通る簡潔な表現で、冬をよく表しています。彫刻家でもある光太郎は余分なものを削ぎ落とす作業を通して「冬よ僕に来い」と冬と対峙している鋭い姿勢を見せています。読み手の襟を正すような冬を代表する詩です。
 また冬は空気が澄んで星が綺麗に見える季節です。寒さで丸まった背中を伸ばして空を見上げてみましょう。凍てついた空に無窮の宇宙を感じることと思います。そこでお薦めするのが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』です。(星まつりの夜のお話なので季節は違いますが)列車に乗りながらの星めぐりは空想を駆り立てることと思います。『銀河鉄道999』や『千と千尋の神隠し』は『銀河鉄道の夜』の影響を受けた作品です。それだけ魅力ある作品と言えるでしょう。
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「冬が来た」というより、もういいから行ってくれ! という時期ですが(笑)。

光太郎と縁の深い宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも言及。たしかにこの時期、星がきれいですね。当方、毎朝「朝メシよこせ~」と言う愛猫に夜明け前に起こされ、ベランダからまだ明けやらぬ星空を眺めますが、千葉の田舎ですので光害もほとんどなく、よく晴れた日にはゆっくりと空を横切る人工衛星も見えるくらいです。

もう1件、長崎県雲仙市さんの広報誌『広報うんぜん』、やはり今月号です。

ぽつり(広報担当の独り言)

 年男の誓いを書いたのが2年前。あっという間に50になる年を迎えてしまった。こんな勢いで年を取るとは。中学時代に習った高村光太郎の「道程」が、最近やけに脳裏をかすめる。
 「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」。常に開拓者であれと、エールのような言葉と受け取っていた。自分の後ろにはどんな道が出来ているんだろう。怖くて振り返ることができない。20代、30代のころに見ていた50代の先輩は、もっと凜として堂々として、「ザ・大人」という雰囲気の人ばかりで、ずっと背中を追いかけていた。今、自分がそんな大人になれているだろうか。私の背中は、後輩の目にどう映っているだろうか。
 恐る恐る20代の同僚にぼやいてみた。返ってきたのは「それに気付くだけでも成長しているってことじゃないですかね」ですって。参った。慰めにも似た悟りの言葉。俺より大人じゃん。そうだ、振り返るにはまだ早い。「やたらと計算するのは棺桶に近くなってからでも、十分出来るぜLIFE IS ON MY BEAT」。高村光太郎からの氷室京介コンボ。中学時代から変わらぬ脳みそと心意気だけで全力疾走することを、1カ月遅れの年初の誓いとします。(亮)
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広報担当氏、「道程」から氷室京介さんの「ON MY BEAT」を連想なさっていますが、世代の違いでしょうか、当方は中島みゆきさんの「断崖-親愛なる者へ-」を連想します。「走り続けていなけりゃ倒れちまう/自転車みたいなこの命転がして/息はきれぎれそれでも走れ/走りやめたらガラクタと呼ぶだけだ、この世では」(笑)。

岐阜県白川町さんにしても、長崎県雲仙市さんにしても、光太郎とは関わりのない街です。それでもこうして取り上げていただき、ありがたいかぎりです。他の自治体の方々もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

上の原の写真は皆焼かれてしまつたのでせう。あの湯の小屋の入浴中の写真などおもしろかつたですが。 九年もたつたとは小生にも感じられません。


昭和26年(1951)10月31日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

戦時中の昭和17年(1942)10月、詩人の西山、同じく風間光作と3人で群馬県の宝川温泉から湯の小屋温泉を訪れた思い出に関わります。光太郎、宝川温泉の方は昭和4年(1929)に続き、2度目の訪問でした。

下記は宝川温泉でのショット。一緒に写っているのは宿の主人・鈴木重郎。西山か風間のどちらかがシャッターを切りました。光太郎の手元にも同じ写真があったはずですが、戦災で焼けてしまいました。光太郎の入浴中の写真、ぜひ見てみたかったと思いました(笑)。
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下記は湯の小屋温泉の古絵葉書。
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光太郎が訪れた当時、鄙びた温泉地でしたが、バブル期にはリゾートホテル、ペンション等も建ち、今も宿の軒数は多く存在します。ただ、バブル崩壊後に廃業した所も多いそうです。逆に、廃校となった分校の木造校舎を使った宿も新たにオープンしたりしています。由緒がありそうなのは「照葉荘」という宿。重厚な木造和風建築で、おそらくここに光太郎が逗留したのではないかと思われますが、詳細は不明です。泉質は単純泉、高温の湯で知られ、一帯は奥州藤原氏ゆかりの落人部落との伝説があります。

風間の回想に依れば、光太郎が語った話として、最初に光太郎が訪れた昭和4年(1929)、宝川から湯の小屋までの山道を、熊と遭遇した際のために日本刀を腰に差して歩いたとのこと。さすがに東京から刀を持って汽車に乗って行ったとも思えず、宝川で借りたのではないでしょうか。古武士のような風貌の光太郎、帯刀姿もさまになっていたのではないかと思われます(笑)。






















昨日、都内で『東京新聞』さんの取材を受けました。光太郎終焉の地にして第一回連翹忌の会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ保存関係です。そちらが午後だったので、午前中は都内を通り越し、北鎌倉へ。光太郎実妹の令孫夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんで始まった「高村光太郎と尾崎喜八」展を拝見して参りました。

尾崎喜八は光太郎より9歳年少の詩人。光太郎と家族ぐるみの交流がありました。その喜八を偲ぶ「臘梅忌」が本日、喜八の墓のある明月院さん、それからその裏手の笛さんで関係者の方々がお集まりになってこぢんまりと執り行われるのですが、今日は他用のため参列できませんで、昨日のうちにご挨拶かたがた参上した次第です。

まずは明月院さんで墓参。
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中高生と思われるグループが多数。修学旅行か校外学習かというところでしょうが、春や秋でなくてもそうなんだ、という感じでした。

本堂裏手、尾崎家のそれを含む墓所は、通常、一般人の立ち入り不可ですが、喜八令孫の石黒敦彦氏の御名を出して参拝させていただきました。
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こういう場合の常ですが、光太郎の代参のつもりで手を合わせました。
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喜八、妻の實子(光太郎親友の水野葉舟の娘)、そして二人の息女にして、当方もお話を伺ったことのある榮子さん(駒込林町の光太郎アトリエで、智恵子にだっこしてもらったことがおありだそうでした)。

明月院さんを出て、さらに坂を上っていくと、笛さん。
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毎年秋にも光太郎と喜八に関わる展示をなさっているのですが、今回は近くにお住まいの石黒氏が、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が光太郎と喜八の関わりについて書かれた玉稿をまとめた書籍『高村光太郎と尾崎喜八』を刊行なさるということで、その記念のイレギュラー開催です。
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ゲラが展示されていて、拝見。
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完成が楽しみです。

他の展示。

まずは喜八夫妻の結婚祝いに光太郎が贈ったブロンズの「聖母子像」(大正13年=1924)。ミケランジェロの同名作品の模刻ですが、一点物です。
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おそらく出版された書籍類には載っていない古写真。

光太郎実妹・しづ(静子)の子息にして、笛の奥さま・加寿子さんのお父さまの結婚式。昭和18年(1943)だそうです。
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光太郎や、光太郎に代わって髙村家を嗣いだ実弟の豊周も。
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左下は少年時代の光太郎、すぐ下の道利・しづの双子、豊周。
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右上は晩年のしづ、それから幼少期の笛の奥さま。

その他、光太郎と喜八らの写った写真など。
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戦前の一時、尾崎夫妻は杉並に居住していましたが、そのすぐ近くに住んでいて、光太郎や夫妻と交流のあった江戸狄嶺関連も。
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光太郎が江渡のために設計し、江渡が拓いた農場に建てられた霊堂「可愛御堂」。
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なかなかに充実した展示でした。

当方がお邪魔した際にはご主人しかいらっしゃらず、美味なる珈琲をいただいて、「それでは」と、店を後にして北鎌倉駅をめざして坂を下りていると、奥さまが坂を上って来られました。そこでしばし立ち話。さらに奥さまと別れて1分後には、やはり坂を上られる石黒氏と遭遇。笑ってしまいました。4月の連翹忌にはまたお三方とお会い出来そうです。

さて、笛さんでの展示、3月4日(火)までの火・金・土・日曜(今日と2月22日(土)を除く)、11時~16時です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おてがみなつかしくよみました。その後の御消息が分つてよろこびました。小生にもいろいろの事がありましたが結局大変自分の気持にあつた生活の出来るやうになりました。ここで仕事したいと思つてゐます。東京ではとても出来ないやうないい毎日の生活を送ることが出来て感謝してゐます。


昭和26年(1951)9月7日 吉野登美子宛書簡より 光太郎69歳

吉野登美子は元・八木重吉夫人。八木重吉は光太郎より15歳年下の詩人。昭和2年(1927)に結核のため、早世しました。その遺稿を未亡人・登美子が戦時中も守り続け、昭和17年(1942)は光太郎や八木と親しかった草野心平らの尽力で『八木重吉詩集』が刊行されました。光太郎はその序文や題字を揮毫したりしました。

登美子は戦後、やはり光太郎と交流があって、妻に先立たれていた鎌倉在住の歌人の吉野秀雄と再婚。この書簡も鎌倉に送られました。

3件ご紹介します。

まず、2月2日(日)『朝日新聞』さん一面コラム。

天声人語

たった一人。白く息を吐きながら、ギュッギュッと新雪を踏みしめていく。教科書で出会った高村光太郎の「道程」は、読みかえすたびにそんな光景を思い起こさせる▼〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ〉。自分の力で人生を切り開く。詩人が決意を文字にしたのは、ある年の2月のこと。詩の舞台は冬というわが想像も、そう間違っていないのかもしれない▼さて、そんな雪景色に今朝は一変しているだろうか。都心を含めた関東甲信では雪が積もるかもしれないと、気象庁が警戒を呼びかけている。交通機関の乱れのおそれもある。気が気でないのは受験生たちだろう▼首都圏では中学受験の熱が高く、いまがピークだ。きのうの早朝は電車の中で、親子連れを何組も見かけた。やや緊張した面持ちの子。マフラーを巻き直してやったりと、何くれとなく世話をやく親。どちらも大変だ。私立大でも入試が始まっている▼週明け以降には、強い寒波がやってくる。暖かい格好で備え、受験会場までの道程では、凍った路面で転んだりせぬようにくれぐれもご注意を▼冒頭の詩は、初出時には100行を超える長い作品だった。そこに、若者へのこんなエールがある。〈歩け、歩け/どんなものが出て来ても乗り越して歩け/この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ〉。あすは立春。厳しい月日を越えた者に、きっと花は咲く。

引用されている光太郎詩代表作の一つ「道程」は、111年前の大正3年(1914)3月、雑誌『美の廃墟』に発表されました。その時点では102行の長大なものでした。それが同年10月、詩集『道程』に収められた際にバッサリとカットされ、現在流布している9行の形に。光太郎自身がお蔵入りにした初出形の方もなかなかに味わい深いものです。花巻高村光太郎記念館さんには映像と朗読で光太郎詩を紹介するブースがあり、そちらでベテラン声優の堀内賢雄さんによる朗読が聴けますが、「道程」初出形もラインナップに入っています。102行だけあって約7分にもわたります。

それにしても、謳われてから111年経っても我々の心の琴線にしっかり触れる点、やはり素晴らしいと思います。

続いて同日『産経新聞』さん。

印象派の「後」か「後期」か 日本語メモ

  令和5~6年に開かれた「モネ 連作の情景」展は、東京と大阪で計91万人を動員しました。モネやルノワールら印象派の人気は、彼らに続くゴッホやゴーギャンといった「後期印象派」とともに根強いようです。
 昨年、美術史家の高階秀爾さんが他界されました。高松宮殿下記念世界文化賞で選考委員長(絵画・彫刻部門)も務めた同氏は、「『後期印象派』は誤訳」という文章を残しています(朝日新聞夕刊、平成15年6月4日)。いわく「後期印象派」のもととなった英語「ポスト・インプレッショニズム」の「ポスト」は「以後」という意味だから、「後期印象派」は誤訳である。つまり「後期印象派」では「印象派の後期(後半)の画家」になってしまうのであり、正しくは「印象派の後の画家」である、というわけです。
 高階さんは、民芸研究家の柳宗悦が「後印象派」を雑誌『白樺』(明治45年1月号)で紹介したことに言及。「後印象派」は原語に忠実であるが、すわりが悪く、いつの間にか「後期印象派」という訳語が定着してしまったと書きます。ならば「後期印象派」の初出はいつでしょうか?
 調べてみると『後期印象派』(木村荘八、高村光太郎、岸田劉生・共著)という書籍が大正2年8月に発行されています。また、同5年9月には『立体派と後期印象派』が作家の久米正雄の翻訳で出ていました。久米はその序文で、木村荘八らの訳文を大いに参考にした旨を記しています。
 柳宗悦がせっかく「後印象派」と正しく訳したのに、いつの間にか定着してしまった「後期印象派」。「後」と「後期」、1文字で意味がまったく異なってしまう翻訳の怖さといったところでしょうか。ちなみに近年では「後期印象派」ではなく「ポスト印象派」と呼称するようです。

002言葉に関するコラムのようです。キーワードは「後期」。「『後期印象派』(木村荘八、高村光太郎、岸田劉生・共著)という書籍」は、正しくは雑誌『現代の洋画』第17号で、サブタイトルが「後期印象派」。『現代の洋画』は、明治末から大正にかけ、青年画家たちの活動を裏方として支援、我が国洋画界の発展に寄与し、ゴッホらを支えたペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれていた北山清太郎が主宰していました。

確かに現代の感覚で「後期」というと、「前期」「後期」あるいは「前期」「中期」「後期」と分けたうちの一つ、「後期印象派」と言ったら「印象派」の一部という感じです。

しかし「ポスト」にあたるうまい日本語が存在せず、北山や編集に当たった光太郎らは仕方なく「後期」の語をあてたのではないでしょうか。あるいは明治末から大正の段階で、「後期」の語の用法が現代と全く同一だったとも言いきれないような気もします。いずれにせよ現代でもうまい訳語がないので「ポスト印象派」としているわけで……。

最後に『日本教育新聞』さん、昨日の掲載記事です。

サトー先生の「きょういく日めくり」~きょうも楽しく学校へ行くために~【第19回】「いつの間にか」が名人ワザ

003 導入(ツカミ)はおもしろいけど授業始まったら睡眠タイム……新米教員時代のボクに、ぜひ見せてやりたかったなあ、E先生の名人ワザを。
 「プロ野球で二刀流と言えばだれかな?」『大谷!』「そのとおり。大谷選手の出身地はどこ?」『北海道や』『福島?』『岩手』「正解!」。
 思ったことを自由に言える雰囲気が教室にあった。
 「岩手県の花巻東高出身。彼のおねえさんと野球部のコーチがその後結婚して」
 マニアックな芸能ネタは、やがてご当地岩手県花巻の、わんこそばや満州ニララーメン(通称「マニラ」)などの麺類紹介へ。「先生それ全部食べたんか?」と思わず生徒が聞くほどの、リアルな食レポ情報がぽんぽん飛び出すうち、
 「……でもな、岩手でラーメン食べたら、そのあとぜひ、「元祖二刀流」のすごい人の家に行っといで。その人の名は、ジャジャーン。高村光太郎!」
 「タカムラ?」といぶかる生徒たちをものともせず、当時、日本を代表する彫刻家かつ詩人の、「元祖二刀流」偉人・高村光太郎について一気に解説。
 「でも、もともと光太郎は岩手の人じゃない。東京のど真ん中に住んでたのが、敗戦後、屋根まで雪に埋まる山の中へ逃げるように移り住んだ。自分で「小屋」とさげすむ小さな家。あっ、その家の写真、資料プリントにあるから見てよ。二刀流成功者の家やのに、なんとちっぽけな。実はこの人、戦時中に「戦争バンザイ」という詩をいっぱい書いてしまって……」
 大谷選手の話が高村光太郎に移り、やがて資料集や教科書の年表を駆使した従軍作家や戦争文学の話へと展開―繰り広げられる本格的「授業」!
 いつの間にか引きずり込むのが名人ワザ。導入「方法」を参観に行ったボクが、完全に授業「内容」に引き込まれ、ひとつカシコくなりました。
佐藤功(さとう・いさお。大阪大学人間科学研究科元教授)

当方も講演や市民講座のツカミで、大谷選手の二刀流から光太郎の二刀流へと振ることをよくやっています(笑)。日本中の学校さんでこういう授業が展開されてほしいものです。ただ、「元祖二刀流」は光太郎ではなく宮本武蔵ですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】004

人の来ない夜に書き、別封で同送しました。天といふ字はむつかしく、二十枚書いた中の四枚だけ選びました。


昭和26年(1951)8月11日 
草野心平宛書簡より 光太郎69歳

当会の祖・草野心平の詩集『天』が翌月刊行されましたが、その題字です。光太郎はこれ以外にも心平詩集の題字を多く手掛けましたが、心平自身はこの「天」の字が、最も気に入っていたようです。

「彫刻」「詩」の二刀流として語られることの多い光太郎ですが、「書」を入れて「三刀流」としてもいいくらいです。

「あじさい寺」として有名な北鎌倉明月院さん裏手(徒歩365歩)にあるカフェ兼ギャラリー笛さん。光太郎実妹・しづ(静子)令孫ご夫妻が営まれています。

毎年秋に、お近くにご在住の石黒敦彦氏(光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八令孫)と共に、両家に伝わる光太郎・喜八関連の品々を展示する「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情」を開催なさっています。昨年の様子はこちら

同様の展示を今年はこの時期にも開催。先週土曜から始まっているそうです。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9

期 日 : 2025年1月31日(金)~3月4日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

4月に発行される北川太一著「高村光太郎と尾崎喜八」を記念して100年のメモリアルを両家の孫の世代所有の資料で構成して展示
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石黒氏が編集なさり、当会顧問であらせられた北川太一先生が光太郎と喜八の関わりについて書かれた玉稿等を集めた『高村光太郎と尾崎喜八』という書籍が刊行されるとのことで、それを記念しての開催だそうです。「100年のメモリアル」というのは、北川先生がご存命であれば今年3月28日で満100歳になられるはずだったことに因みます。

展示風景、笛さんオーナー山端氏のフェイスブックからお借りしました。
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光太郎が尾崎夫妻の結婚祝いに贈ったブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)も展示されています。ミケランジェロの模刻で、他に鋳造されたことが確認出来ていない一点物です。ちなみに喜八の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の息女で、光太郎は我が子のようにかわいがっていました。

時間を見つけて行って参ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

赤城写生帖といふやうなもの、まるで忘れても居ましたし、思ひ出さうとしても思い出せません。しかし、小生のものらしく、それがどうして貴下のところにあるのか実に不思議に堪へません。卅七年といへば日露戦当時、小生が美術学校に居た頃と思ひますが、そんなものが出て来ると怖いやうな気がします。

昭和26年(1951)7月14日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

「赤城写生帖」は、明治37年(1904)、数え22歳で美校研究科在学中の光太郎が葉舟と共に滞在していた上州赤城山で描いたスケッチ帖です。原本は葉舟が保管、詩人の西山の手に渡りましたが、その後の行方が不明です。

光太郎没後の昭和31年(1956)、『智恵子抄』版元の龍星閣から猪谷六合雄解説で『赤城画帖』として刊行されました。猪谷は日本スキー界の草分けですが、光太郎等が宿泊した赤城の猪谷旅館の子息でした。
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オンラインでの講座を2件ご紹介します。

戦争とモダニズムの詩学 現代詩の源流と詩作のヒント

期 日 : 2025年2月8日(土)
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 一般3,850円
主 催 : 朝日カルチャーセンター新宿教室

 1920年代から30年代は、現代詩の源流ともいうべきモダニズム詩の時代。今から見ても斬新・お洒落で、胸を打つ作品が沢山生まれました。一方で、それは戦争はじめ動乱の時代、人間性が危機に直面する時代でした。様々な危機に直面して、詩人たちが思いを託したのが機械や動物など「人間ではないもの」のイメージです。
 こうした表象を探りつつ、近年話題となった左川ちかや、萩原恭次郎、高村光太郎その他の詩を探訪し、バラエティ豊かな作品から、詩を創作する際のヒントも提示します。
 Zoomウェビナーを使用したオンライン講座です。見逃し配信(1週間限定)はマイページにアップします。

講 師 : 鳥居万由実
 文学研究者、詩人、東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程修了。近著に『「人間ではないもの」とは誰か: 戦争とモダニズムの詩学』(2022年、青土社)。2008年、第一詩集『遠さについて』(ふらんす堂)により中原中也賞最終候補。他に、実験的散文集『07.03.15.00』(ふらんす堂、2015年)がある。
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講師の鳥居氏、紹介文にあるとおり青土社さんから『「人間ではないもの」とは誰か-戦争とモダニズムの詩学-』を刊行されています。同書ではまるまる一章費やして光太郎にも触れて下さいました。

もう1件。

心に響くオンライン朗読講座~基本スキル編~

期 日 : 2025年2月14日(金)・2月28日(金)・3月14日(金)
時 間 : 10:30~12:00
料 金 : 9,900円
主 催 : NHKカルチャー西宮ガーデンズ教室

声の響きや作品の息遣いを楽しみながら、朗読の世界に心を遊ばせてみましょう。伝わる声づくりから明瞭な発音、声の表現力の磨き方、朗読の基本をオンラインで受講していただけます。声と言葉の豊かさは心の豊かさ。人生をより豊かに、実りあるものにしてくれます。ぜひ、朗読にチャレンジしてみてください。

●1回目:ここちよく声を出すために 「あどけない話」高村光太郎等
 伸びやかな声のためのストレッチ、声を心を安定させる腹式呼吸、明瞭な発音の基本
●2回目:声の可能性にチャレンジ 「やまなし 五月」宮沢賢治
 ベストボイスを探す、苦手な発音を克服、声の5要素を深める
●3回目:声の表現力を広げる 「やまなし 十二月」宮沢賢治
 朗読の手順、作品の息遣いを伝える表現

講 師 : 川邊暁美(朗読家・神戸女学院大学非常勤講師)
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川邊氏は同様の講座で昨年1月11月にも講師を務められました。たびたび光太郎作品を取り上げて下さり、ありがたいかぎりです。

それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あの写真は今年撮影したものです。標柱再建に際して文字を書いてゐるところを偶然撮影されたものです。


昭和26年(1951)6月20日 矢沢高佳宛書簡より 光太郎69歳

「あの写真」は、『文藝春秋』第29巻第9号の巻頭グラビアページに載った田村茂の撮影になるもの。父・光雲の十三回忌を記念して、昭和21年(1941)に山小屋脇に栗の実を植え、建てた標柱が傷んだため、この年再建した際のものです。
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標柱は光太郎没後に石材にコピーされ、巨木に生長した栗の木の傍らに建てられました。現物は高村光太郎記念館さんで保存しています。

その後、残念ながら平成29年(2017)頃にこの栗の木が枯死してしまい、倒壊の危険があるということで、やむなく伐採されてしまいました。石の標柱は元の場所に現存しています。
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雑誌の新刊です。

『実践国語教育』2025年2/3月号

発行日 : 2025年3月1日(1月16日発売)
版 元 : 明治図書出版株式会社
定 価 : 960円(税込)

特集 学年末の「読むこと教材」単元計画バリエーション
 全学年総点検! 年度末の国語授業「やることリスト」
 小学校 学年末の「読むこと教材」単元計画バリエーション
 中学校 学年末の「読むこと(詩)教材」単元計画
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005小中学校教員向けの専門誌です。この時期に扱うべき教材として各学年の教科書に載っている作品の、さまざまな実践例の紹介がメインとなっています。

光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)も取り上げられています。東京書籍さん発行の現行の中学3年生用教科書『新しい国語』の最後のあたりに掲載があります。

広島の原爆投下の日を題材にした栗原貞子の詩「生ましめんかな」とセットで2時間扱い。兵庫県の公立中学校教諭の方の作成した実践例、計画案が載せられています。題して「詩から「死」の描き方を考える」。1時間目は「レモン哀歌」、2時間目に「生ましめんかな」。それぞれ伝統的な一斉授業の形態ではなく、グループ学習で、生徒たちが少人数で話しあいながら読みを深めていくという感じ。各グループで出た感想、意見等をワークシートに書き込んだり、あとでそれを共有しあったりという、生徒主体の活動が中心です。

生徒さんたちが実際に書き込みを行ったワークシートの例。
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出て来た意見等。なかなかに優秀な生徒さんたちのようですね。
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ここに到るまでの光太郎智恵子がどのような道程を歩んできたのか、また、智恵子死後の光太郎がどうなってゆくのか、そのあたりまではさすがに中学校の授業では詳細に掘りさげることは不可能でしょう。しかし、興味を持った生徒さんが、光太郎智恵子の世界に踏み込んでいけるような働きかけが、全国の学校さんで為されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

拙詩集のプリーはくだらんです。もつと若い人にやるべきだつたと思ひます。

昭和26年(1951)6月7日 川路柳虹宛書簡より 光太郎69歳

この年、前年に刊行された詩集『典型』が読売文学賞に選ばれたことに関します。「プリー」は「グランプリ(Grand Prix)」の「プリー」で「栄誉」の意。この場合は「受賞」ということでしょう。
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結局、賞金もほぼ全額、蟄居生活を送っていた旧太田村の山口小学校や青年団などに寄付してしまいます。

やはり年またぎの案件です。昨年12月30日(火)の『読売新聞』さんから。

[時代の証言者]キッチンから幸せ 平野レミ<23>神さまは靴のかかとに

  父は、私たちが結婚した時に「はいよ」と色紙を渡してくれました。そこには筆で父の詩が書いてありました。
   「風つよければ 神さまは 靴のかかとに  棲す み給う」
 父に「どんな意味?」と尋ねたけれど、「いいんだ、詩というものは自由に解釈をすればいいんだ」と、何も教えてくれませんでした。
 結婚してからも、私はしょっちゅう千葉の松戸の実家に帰ったり、父や母に我が家に来てもらったりして、子育てを助けてもらいました。
 父は息子たちをかわいがり、少し実家に帰らないと「寂しくて死んじゃうよ」と電話してくる。松戸の家は高台にあり、遠くからでも、家の前でステテコをはいて仁王立ちになって私たち家族を待つ父の姿が見えました。おんぶひもで長男の唱を背負ってあやす写真も残っています。
 父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。終戦日には「今後一体どうしたらいいかわからぬ」、私が結婚した72年の暮れには、私が幸せそうなので「今年はとにかくよかった よかった」と書いています。
 86年11月の朝に「今日は何かが起こるかもしれぬ」と筆で書き、その日に心筋 梗塞こうそく で入院します。いつもと違う何かを感じたのかもしれません。父は集中治療室から帰ってきても「詩を書くぞ」と、意識がはっきりしていたけれど、急変します。父の日記の最後は私が病室で「お父さん大好き、死んじゃだめ」と書きました。入院して1週間ほど、11月11日に86歳で亡くなりました。
 《平野威馬雄は、大杉栄や菊池寛、高村光太郎ら多くの作家・詩人たちと親交を結んだ。「フランス象徴詩の研究」といった学術書、戦中に薬に溺れた自伝「アウトロウ半歴史」、超常現象に関する「お化け博物館」「UFO入門」など多彩な本を残す》
 病室の父が「死んだら横浜の外人墓地がいいね」と言ったことがあります。「どうして?」と聞くと、「日本の墓は暗くて幽霊が出そうでおっかないや」。純日本風の暮らしが好きで、お化けの研究もしていたほどなのに。
 父は生まれが横浜で、祖父の兄で鉱山技師だったオアーガスタス・ブイの墓が外人墓地にあり、みんなで墓参りにも行ったことがあります。父の遺言と思い、横浜外人墓地に父の墓を作ることにしました。
 父が亡くなって、父にもらった色紙を読み返しました。私につらいことが強風のように襲いかかっても、神様がかかとを支えているから大丈夫。風に負けずに前に進め、いつも支えているというエール。父は神様と書きましたが、私にとって、かかとにいてくれたのは父でした。そんな感謝の思いを込め、父の墓に色紙の文字を彫りました。いまその墓には母も夫の和田(誠)さんも眠っています。
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料理研究家の平野レミさんによる連載。昨年11月から始まり、まだ続いているようです。この日はお父さまで詩人・仏文学者の平野威馬雄氏に関する内容。編集さんによる注で、威馬雄氏が光太郎と関わりがあったことに触れられました。
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記事にある威馬雄氏の自伝『アウトロウ半歴史』(昭和53年=1978 株式会社 話の特集)、だいぶ前に拝読しましたが、「高村光太郎の抒情詩的エピソード」という項を含み、興味深いものでした。
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威馬雄氏は、当会の祖・草野心平や尾崎喜八ほどには光太郎との縁は深くなかったのですが、わずかな僅かな関わり合いだったからこそ見せた一面があったように思われます。

時は太平洋戦争開戦前年の昭和15年(1940)、日中戦争は既に泥沼化していた時期ですし、日独伊三国同盟が締結される年です。防共協定は既に結ばれていました。

所は三河島のトンカツ屋「アメリカ屋」(のち「東方亭」)。光太郎戦前からの行きつけの店で、店主の細田藤明とは個人的にも懇意にしていました。細田の長女・明子は苦学の末、戦後に医師となり、光太郎は彼女をモデルに詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりもしています。

威馬雄氏も「アメリカ屋」常連の一人で、ここで光太郎と知り合い、駒込林町のアトリエ兼住居にも招かれたり、光太郎も威馬雄氏の家を訪ねたりしたとのこと。その中で、ドイツ軍によるパリ占拠に憤っていた光太郎の姿が描かれています。

「平野さん、この新聞見てごらんなさい。どうお考えになりますか?」と、ある夜、レインコートのポケットからしわくちゃになった新聞をとり出して、テーブルの上にひろげた高村さんの手は心もち顫えていた。
 それは、西部戦線ドイツ軍陣地で、タス特派員が発したリポートで、ドイツ軍の機動力は驚異的で、ヒトラーの軍はパリへ、ロンドンへと破竹の勢いで突進している……という意味の記事だった。
「とにかくナチは野蛮ですからね。私はとても心配なのです……パリが心配なのです……もし独軍にやられたら、ロダンもセザンヌも、ミレーも、いやルーブル美術館そのものが灰になってしまうのではなかろうか。あの美しいシャンゼリゼの並木、凱旋門……何もかもが、こうして眼をつぶっていると……みえてくるのです。ノートルダムの怪獣が苦悶の叫びをあげている……その声がきこえるようです……セイヌ河の波上……あの碧く澄んだ照り返しすら、血の色に染まってしまうのではないかとおもうと……」老詩人の眼はうるんでいた。
(略)
 それから数日後の夕方……高村さんはアメリカ屋でぼくを待っていた。その表情からはいつものにこやかな人なつこい微笑が消えて、妙にこわばった顔つきだった。
「大変なことになりました。ご存じでしょうが、とうとう……やっぱりわれわれの古里は野獣の手に落ちてしまったんです……」老詩人の眼は涙で一杯だった。
「これ見てください……もうお読みになったでしょうが……」と、又しても、しわくちゃな新聞を卓上に拡げた。
「仏国遂に独へ降伏――ペタン首相は十七日(昭和十五年六月十七日)ドイツに対し遂に降伏を申し出ると共に、フランス全軍に対し既に戦闘行為を停止すべき命令を発したる旨正式に発表した……」
 六月四日から本格的なフランス総攻撃を始めたドイツ軍は、十四日にはパリに入城したのだ。
「今ごろ、勝ち誇ったドイツ兵は、なだれを打ってパリに侵入しているでしょう。どんなに多くの芸術家たちの命が消されていることでしょう」高村さんはとても今日は一人でいるに耐えられない、と言った。そして、一緒にぜひうちに来てくれという。孤独な老詩人は、魂のよりどころともいうべき芸術の都パリを失った悲しみに、がまんできなかったのだろう。

光太郎、オフィシャルな場面では日本の同盟国・ドイツを非難する発言はしませんでした。さりとて擁護する発言もしていませんし、『高村光太郎全集』にはヒトラーの名は一回も出て来ず、注意深く言及を避けていたようにも思われます。仏文学者だった威馬雄氏が日米ハーフの、当時としては社会的弱者だったこともあり、本音の部分を吐露したというところでしょうか。

ところで、レミさんによれば「父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。」とのこと。昨年末に再放送された、レミさんの生涯を追ったNHKさんの「だから、私は平野レミ」(初回放映は昨年2月)でも、威馬雄氏の日記が取り上げられていました。おそらく光太郎の名もところどころに記されているのでしょう。ぜひ読みたいものだと思いました。なかなか難しいのかも知れませんが、公刊されることを望みます。

自伝『アウトロウ半歴史』には、光太郎以外にも多くの人物との交流の様子が描かれています。もちろん威馬雄氏のドラマチックな来し方も。
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古書市場等で入手可。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

お手伝の人を考へて下さつた事忝い事ですが、やはり一人で静養してゐた方が結局いいやうです。お手伝がゐると却つて身心を使ふやうになりますから。

昭和26年(1951)3月21日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

結核が昂進し、苦しんでいる光太郎に対し、心平が家政婦さんを雇ったら? 必要なら手配します的な申し出をしたようですが、断りました。1年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京し、さらに3年経った昭和30年(1955)になって、初めて自分では食事の支度などどうすることも出来なくなり、家政婦を雇います。

最近の地方紙さん2紙の一面コラムで光太郎に言及されたものを2件。偶然でしょうが、どちらも「光太郎」以外に「登山」もキーワードでした。まぁ、「光太郎」はそれぞれ枕ですが(笑)。

まず12月22日(日)、『信濃毎日新聞』さん。

斜面 安達太良山の教訓002

「東京に空が無い」と話す妻、智恵子の言葉をうたった高村光太郎の詩に、阿多多羅山(あたたらやま)という山が出てくる。その上に毎日出ている青い空こそが「ほんとの空」だと。福島県の中部にある標高約1700メートルの活火山安達太良山(あだたらやま)のことだ◆直近の噴火は1900年。火口付近の硫黄採掘所で働いていた60人以上が犠牲になった。最初の小噴火で親方の言うことを聞かずに逃げた少年1人が無事だったが、まだ大丈夫とみた親方の指示で他の人はとどまり、すぐ後の噴火で爆風に巻き込まれた◆木曽町で先月開かれた御嶽山噴火10年のシンポジウムで磐梯山噴火記念館の佐藤公(ひろし)館長が説明していた。1888年に起きた同じ福島の磐梯山噴火と違い安達太良山の犠牲者はほぼ地元以外の人たち。地域で慰霊の機会は少なく、災害の事実はいつしか忘れられていったという◆時を経て1997年、安達太良山で再び犠牲者が出る。登山グループの女性4人が火山ガスに襲われ、次々に中毒死した。気象台は当時、火山活動の活発化に注意を呼びかけていた。もし約100年前の教訓が浸透していたら別の展開もあっただろうか◆深田久弥は著書の「日本百名山」で1900年の噴火を振り返り、火口の印象を「悲惨な歴史は知らずげに、こっそり秘められた仙境といった感じ」と書いた。「あれから10年、40年…」。そんな災害関連報道を今年もよく目にした。節目は来年も訪れる。諦めず粘り強く、伝え続けたい。

自然災害の多い国です。今年も特に能登の皆さんは元日の大地震に、その後の豪雨にと、大変な年でした。火山噴火に伴う甚大な被害はなかったように思いますが、安心は出来ませんね。地震にしても雨にしても噴火にしても、被害が出ない程度の規模で少しずつエネルギーを分散して発生するということであればいいのでしょうが、こればかりは……というところです。

続いて『千葉日報』さん、一昨日の掲載分。

忙人寸語001

「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。大正、昭和に活躍した彫刻家で詩人の高村光太郎の代表作「道程」の一節。将来を切り開こうとする強い意志が感じられ、若き日に愛唱した方も多かろう▼気概はいつまでも大切にしたいものの、夏山登山では整備された登山道を歩くことが原則。貴重な植生を守り、道迷いや滑落による遭難防止につながる▼その登山道の維持には人の手が欠かせない。多くは山小屋や山岳団体の関係者が手弁当で担い、地元の自治体が維持費を工面しているケースもあるようだ▼「秩父三山」の一座、両神山(標高1723㍍)は日本百名山にも数えられ、鋸(のこぎり)歯のような山容が特徴。山頂近くの尾根にツツジの一種のアカヤシオが群生しており、春は山肌が桃色に染まる▼年間約3万人が訪れる人気山域の故に登山道は劣化し、台風による倒木や崩落箇所も増加。地元の小鹿野町は対策費を捻出すべくクラウドファンディング(CF)を開始。何度か歩いた経験がある身として、些少(さしょう)ながら寄付をさせていただいた▼県内で唯一「岳」の名を冠した伊予ヶ岳も南房総市が登山環境整備を掲げCFに挑戦。当初の目標額200万円を早々に達成、市は目標額を500万円に引き上げた。郷土の誇る低名山が安全に登山を楽しめる場所であってほしい。支援の広がりを願ってやまない。

千葉県民ですが、「伊予ヶ岳」は存じませんでした。「県内で唯一「岳」の名を冠した」だそうで。そもそも千葉県は県全体が東京スカイツリーより低い県(笑)。「岳」があるとは思ってもいませんでした。

伊予ヶ岳、埼玉の両神山、そういえば『信毎』さんで取り上げられた安達太良山でも登山道整備のためのCFが行われていました。自然災害の多い国ですが、それを補って余りある人々の支援の輪で、この国をよりよくしていけるような来年となることを期待します。

【折々のことば・光太郎】

御申越の原稿は暇があれば書かうと思ひますが今月中はとてもダメなのでもつとあとになるでせう、「彫刻になる顔」とでもするか、「山口淑子の首」とでも題しませうか、

昭和25年(1950)11月20日 藤島宇内宛書簡より 光太郎68歳

李香蘭こと故・山口淑子さん。光太郎は写真で見たそのお顔に、彫刻的興味を惹かれていたようです。山小屋を訪ねた藤島にもそういう話をし、藤島が当時務めていた新潮社の雑誌にそうした内容をエッセイで書いてくれ、と頼んだようです。しかし結局、彫刻もエッセイも実現しませんでした。

新刊です。

継続する植民地主義の思想史

発行日 : 2024年11月20日
著者等 : 中野敏男
版 元 : 青土社
定 価 : 3,600円+税

過去の歴史を引き受け、未来の歴史をつくりだすために
「戦後八〇年」を迎える現在、いまもなお植民地主義は継続している――。近代から戦前―戦後を結ぶ独自の思想史を描き、暴力の歴史を掘り起こす。日本と東アジアの現在地を問う著者の集大成。
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目次
 序章 継続する植民地主義を問題とする視角
  はじめに――植民地主義の継続という問題
  一 暴力の世紀――「冷戦」という語りが隠したもの
  二 「戦後」に継続する植民地主義――日本の暴力の世紀
  三 植民地主義の様態変化とそれを通した継続――思想史への問い
 第一部 植民地主義の総力戦体制と合理性/主体性―合理主義と主体形成の隘路
  第一章 植民地主義の変容と合理主義の行方―合理主義に拠る参与と抵抗の罠
   はじめに――システム合理性への志向と植民地主義の変容
   一 産業の合理化と植民地経済の計画――「満州国」という経験
   二 総力戦体制の合理的編成と革新官僚
   三 参与する合理的な社会科学
  第二章 植民地帝国の総力戦体制と主体性希求の隘路―三木清の弁証法と主体
   はじめに――植民地主義の総力戦体制と「転向」という思想問題
   一 方向転換と知識人の主体性
   二 有機体説批判と主体の弁証法
   三 ヒューマニズムから時務の論理へ
   四 帝国の主体というファンタジー
 第二部 詩人たちの戦時翼賛と戦後詩への継続
  第三章 近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程
   はじめに――近代詩人=高村光太郎の「暗愚」
   一 「自然」による救済の原構成――第一の危機と「智恵子」の聖化
   二 神話を要求するモダニティ――第二の危機と「日本」の聖化
   三 「暗愚」という悔恨とモダニズムの救済――第三の危機と「生命」の聖化
   小括

  第四章 戦後文化運動・サークル詩運動に継続する戦時経験―近藤東のモダニズム
   はじめに――継続する詩運動のリーダー近藤東の記憶
   一 戦後詩の場を開示する戦中詩
   二 「勤労詩」という愛国の形
   三 「戦後」への詩歌曲翼賛
   四 排除/隠蔽されていくもの
   小括
 第三部 「戦後言論」の生成と植民地主義の継続―岐路を精査する
  第五章 戦後言説空間の生成と封印される植民地支配の記憶
   はじめに――「国全体の価値の一八〇度転換」?
   一 敗戦国への「反省」、総力戦体制の遺産
   二 ポツダム宣言の条件と天皇制民主主義という思想
   三 「八月革命」という神話――構成された断絶
   四 加害の記憶の封印、民族の被害意識の再覚醒
   五 「自由なる主体」と「ドレイ」――主体と反主体
  第六章 戦後経済政策思想の合理主義と複合化する植民地主義
   はじめに――有沢広巳の戦後の始動
   一 「植民地帝国の敗戦後」という経済問題
   二 戦後経済政策の始動と自立経済への課題
   三 「もはや戦後ではない」という危機感とその解決――賠償特需
   四 「開発独裁」と連携する植民地主義
   五 技術革新の生産力と国際分業の植民地主義
   六 原子力という袋小路――植民地主義に依存する経済成長主義の帰結   
 第四部 戦後革命の挫折/「アジア」への視座の罠
  第七章 自閉していく戦後革命路線と植民地主義の忘却
   はじめに――日本共産党の「戦後」を総括すること
   一 金斗鎔の国際主義と日本共産党の責務
   二 戦後革命路線の生成と帝国主義・植民地主義との対決回避
   三 五五年の分かれ
   四 正当化された「被害」の立場/忘却される植民地主義
  第八章 「方法としてのアジア」の陥穽/主体を割るという対抗
   はじめに――「アジア」への関心へ
   一 「戦後」をいかに引きうけるか
   二 アジア主義という陥穽
   三 主体を割るという対抗
 第五部 植民地主義を超克する道への模索
  第九章 植民地主義を超克する民衆の出逢いを求めて
   はじめに――「反復帰」という思想経験に学ぶ
   一 「反復帰」という対決の形
   二 共生の可能性を求めて――「集団自決」の経験から
   三 植民地主義の記憶の分断に抗して――「重層する戦場と占領と復興」への視野
   四 民衆における異集団との接触の経験
   五 沖縄の移動と出会いの経験に別の可能性を見る
  結章
   一 合理性と主体性という罠
   二 植民地主義の様態変化と資本主義・社会主義の行方
   三 植民地主義の「継続」を問う意味。「小さな民」の視点
 あとがき
 文献目録
 索引


「文献目録」「索引」まで含めると500ページほどの労作です。

過日ご紹介した辻田真佐憲氏著『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』(中央公論新社)にしてもそうですが、来年で第二次大戦終結80年、ついでにいうなら昭和100年ということもあり、あの時代への考察が今後とも流行りとなるような気がします。

ただし、「あの時代」と区切ってしまうのではなく、戦後、そして現在へと継続して通底する何かが存在するわけで、本書ではそのうちタイトルにもある「植民地主義」にスポットをあてています。

一部の書き下ろし部分を除き、大半は90年代末から一昨年までのものの集成。したがって、現在も泥沼化しているウクライナ問題への言及はほぼありませんが、逆に忘れ去られかけている(しかし解決したとは言い難い)諸問題への言及も多く、いろいろ考えさせられます。

「第二部 詩人たちの戦時翼賛と戦後詩への継続」中の「第三章 近代的主体への欲望と『暗愚な戦争』という記憶―高村光太郎の道程」30ページ超がまるっと光太郎がらみ。元は平成8年(1996)に柏書房さんから刊行された『ナショナリティの脱構築』という書籍に収められたものだそうですが、存じませんでした。

青年期に「根付の国」(明治44年=1911)などでさんざんに日本をこきおろしていた光太郎が、十五年戦争時には一転して翼賛に走ったことに対し、そこに到るまでをつぶさに辿りつつ、ある種の必然性を見出しています。ちち・光雲や妻・智恵子との生活史、そして精神史の変遷を抜きに語れない、そしてそれは「豹変」ではなかった、的な。この読み方には好感を覚えました。ある人間の、「それまで」をあまり考えず、「その時」だけに着目したところで、正しく考察出来るわけがありませんから。

そして戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活を、連作詩「暗愚小伝」を元に読み解き、さらに最晩年、開拓や原子力へ期待を寄せる詩文を書いていたことに触れ、それとて形を変えた「翼賛」だったと、かなり手厳しい評。曰く「「悔恨」の陥穽に落ちて総括されずに残った、戦中と戦後との連続の一例」。なるほど、そういわれても仕方がありません。しかし、「悔恨」すらしなかった多くの文学者、美術家たちと比較し、光太郎はとにもかくにも「悔恨」を形にした数少ない例であることは声を大にして言いたいところですが。

というわけで、ぜひお買い求めの上、お読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

このやうな記念碑が温泉に出来て、今日はその除幕式でした。秋晴れのいい天気で一ぱいやつてきました。


昭和25年(1950)10月8日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳
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「記念碑」はグループ企業としての花巻温泉社長だった故・金田一国士の業績を称える碑で、碑文の詩「金田一国士頌」を光太郎がこのために作りました。光太郎生前唯一の、オフィシャルな光太郎詩碑です。ただし、書は光太郎の筆跡ではなく金田一の腹心でもあった太田孝太郎の手になるもの。太田は盛岡銀行の常務などを務めるかたわら、書家としても活動していました。

下は除幕式の集合写真です。
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一昨日届きまして、半分ほど読んだところです。

ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く

発行日 : 2024年12月10日
著 者 : 辻田真佐憲
版 元 : 中央公論新社
定 価 : 2,400円+税

何がわれわれを煽情するのか? 北海道から沖縄までの日本各地、さらにアメリカ、インド、ドイツ、フィリピンなど各国に足を運び、徹底取材。歴史や文化が武器となり、記念碑や博物館が戦場となる――SNS時代の「新しい愛国」の正体に気鋭が迫る!
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目次
はじめに
【第一部】個人崇拝の最前線 偉大さを演出する
 第一章 トランプの本拠地に潜入する 米国/トランプタワー
 第二章 親日台湾の新たな「聖地」 台湾/紅毛港保安堂、桃園神社
 第三章 安倍晋三は神となった 長野県/安倍神像神社
 第四章 世界一の巨像を求めて インド/統一の像
 第五章 忘れられた連合艦隊司令長官 佐賀県/陶山神社、奥村五百子女史像
 第六章 「大逆」の汚名は消えない 山口県/向山文庫、伊藤公記念公園
【第二部】「われわれ」の系譜学 祖国を再発見する
 第七章 わが故郷の靖国神社 大阪府/伴林氏神社、教育塔
 第八章 消費される軍神たち 長崎県/橘神社、大分県/広瀬神社
 第九章 自衛隊資料館の苦悩 福岡県/久留米駐屯地広報資料館、山川招魂社
 第十章 「日の丸校長」の神武天皇像 高知県/旧繁藤小学校、横山隆一記念まんが館
 第十一章 旧皇居に泊まりに行く 奈良県/HOTEL賀名生旧皇居、吉水神社
 第十二章 「ナチス聖杯城」の真実 ドイツ/ヴェーヴェルスブルク城、ヘルマン記念碑
 第十三章 感動を呼び起こす星条旗 米国/マクヘンリー砦、星条旗の家
【第三部】燃え上がる国境地帯 敵を名指しする
 第十四章 祖国は敵を求めた ドイツ/ニーダーヴァルト記念碑
 第十五章 「保守の島」の運転手たち 沖縄県/尖閣神社、戦争マラリア慰霊碑
 第十六章 観光資源としての北方領土 北海道/根室市役所、納沙布岬
 第十七章 「歴史戦」の最前線へ 東京都/産業遺産情報センター、長崎県/軍艦島
 第十八章 差別的煽情の果てに 京都府/靖国寺、ウトロ平和記念館
 第十九章 竹島より熱心な「島内紛争」 島根県/隠岐諸島
 第二十章 エンタメ化する国境 インド/アタリ・ワガ国境、中国/丹東
【第四部】記念碑という戦場 永遠を希求する
 第二十一章 もうひとつの「八紘一宇の塔」 兵庫県/みどりの塔
 第二十二章 東の靖国、西の護国塔 静岡県/可睡齋
 第二十三章 よみがえった「一億の号泣」碑
 岩手県/鳥谷崎神社、福島県、高村智恵子記念館
 第二十四章 隠された郷土の偉人たち 秋田県/秋田県民歌碑、佐藤信淵顕彰碑
 第二十五章 コンクリートの軍人群像 愛知県/中之院、熊野宮新雅王御塋墓
 第二十六章 ムッソリーニの生家を訪ねて イタリア/プレダッピオ
 第二十七章 記念碑は呼吸している ベトナム/マケイン撃墜記念碑、大飢饉追悼碑
 第二十八章 けっして忘れたわけではない 
フィリピン/メモラーレ・マニラ1945、バンバン第二次大戦博物館
【第五部】熱狂と利害の狭間 自発的に国を愛する
 第二十九章 戦時下の温泉報国をたどる 
和歌山県/湯の峰温泉、奈良県/湯泉地温泉、入之波温泉
 第三十章  発泡スチロール製の神武天皇像 岡山県/高島行宮遺阯碑、神武天皇像
 第三十一章 軍隊を求める地方の声 新潟県/白壁兵舎広報史料館、高田駐屯地郷土記念館
 第三十二章 コスプレ乃木大将の軍事博物館 栃木県/戦争博物館、大丸温泉旅館
 第三十三章 「救国おかきや」の本物志向 兵庫県/皇三重塔、中嶋神社
 第三十四章 右翼民族派を駆り立てる歌 岐阜県/「青年日本の歌」史料館
 第三十五章 郷土史家と「萌えミリ」の威力 
熊本県/高木惣吉記念館、軽巡洋艦球磨記念館
総論
あとがき
地図
参考文献 

日本全国、そして海外のいわば「キナ臭い」場所を訪れてのレポートです。目次を見れば自ずと著者の辻田氏のスタンスは見えてくるでしょう。

さらに「まえがき」から。

 愛国的な物語や神話のたぐいは「つくられた伝統」だと批判され、ファクトにもとづかない俗説としてすぐに切って捨てられやすい。だが、歴史や社会はしばしばその俗説とされるものに動かされてきた。
 たとえば、神武天皇が唱えたとされる八紘一宇(はっこういちう)という理念は、歴史の専門家からは取るに足りないものと笑われるのかもしれない。だが、この理念ほど日本社会に影響を与えたものも少ないのであって、それにくらべれば最新の学説なるもののほうがかえって蜉蝣(かげろう)の命に過ぎない。
 そのため本書では、国威発揚にまつわるものごとを頭ごなしに否定しない。ただし、それを手放しで礼讃することもしない。言い換えれば、「二流」「三流」と見下される史跡にも真剣に向き合い、それを軽視することなく、と同時にそれに飲み込まれることなく、内部に取り込んでいく。こうした取り組みこそが、戦後八〇年と昭和一〇〇年の節目を迎えようとする今日、きわめて重要だと考えるからである。


また、ある章の末尾には、

 わたしはかつて『「戦前」の正体』という本のなかで、戦前の日本を六五点と評価したことがある。過去を採点するなどという傲慢な行為をあえてしたのは、ここで述べたような戦前と戦後の適切な接続を試みたかったからにほかならない。
 戦前の評価となると、ひとつの過ちも認めず一〇〇点満点をつけて恥じない右派と、完全に暗黒時代だと断じて〇点をつけて憚らない左派にわかれやすい。だが、欧米列強の侵略に対抗して、あの短期間で近代国家を築き上げた功績をまったく否定することはできない。かといって、その過程で問題行為がまったくなかったというのも無理があろう。そこで、反省すべきは反省し、継承すべきは継承するという是々非々の立場を取るべきということで、六五点という数字をつけたのである。

とあります。辻田氏のバランス感覚がよく表されています。六十五点には異論もありましょうが。

さて、われらが光太郎。「第二十三章 よみがえった「一億の号泣」碑」で、花巻市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社さんにある「一億の号泣」詩碑がメインで扱われています。「一億の号泣」は鳥谷崎神社で終戦の玉音放送を聴いた体験を描いた詩です。

この章、昨年発行された『文學界』2023年11月号に掲載の連載「煽情の考古学」の第二十二回「花巻に高村光太郎の戦争詩碑を訪ねる」に加筆したものでした。本書全体としては「煽情の考古学」プラス他誌に載った玉稿も取り入れられています。

目次にはありませんが、花巻郊外旧太田村の高村山荘(光太郎が七年間過ごした山小屋)、隣接する高村光太郎記念館さんもレポートされています。

そして、福島二本松の智恵子生家/智恵子記念館さん。直接的には戦争に関わる展示はありませんが、智恵子が遺した紙絵の中に、光太郎の父・光雲が原型を手がけた皇居前広場の楠木正成像をモチーフとした作品があり、「まるでその後の光太郎の歩む道を暗示しているかのようだった」。
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なるほど。

その光雲については、一つ前の章「第二十二章 東の靖国、西の護国塔 静岡県/可睡齋」で触れられています。日清戦争がらみで建てられた「活人剣の碑」についてです。

同碑に関してはこちら。
 光雲関連報道。
 光雲関連追補。
 「<活人剣の碑>来月完成 李鴻章と軍医、交友の証し 袋井」。
 活人剣の碑 紙芝居に 地元有志ら、小中学校へ贈呈 袋井 /静岡
 静岡袋井「YUKIKO展(可睡齋の「活人剣物語」と地域の昔話他)」。

それにしても、目次の通り北は北海道から南は沖縄まで、さらに海外と、こんなにたくさん廻ったのかと、脱帽です。まさに労作。それから、ルポに登場する人々。箱物であればその館長さんやらキュレーターさんやら、神社であれば宮司さん、タクシー運転手の方(地元民代表的な)等々。ほんとに世の中にはいろんな人がいるもんだと時に呆(あき)れたりもしました。

ところで今日は太平洋戦争開戦の日。辻田氏曰くの戦前と戦後の連続性、非連続性といった点、まだまだ検証が必要な事柄だと思いますし、今後もそれが変容していくまさにリアルな流れの中に我々が置かれているわけで、他人事ではありませんね。

というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

抽象美もさる事ながら、人間の具象に対する慾求本能は時代の如何に拘らず強大なものと存ぜられます、


昭和25年(1950)9月2日 西出大三宛書簡より 光太郎68歳

あくまで具象彫刻にこだわった光太郎ならではの言です。

だからといって、『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』でいくつも取り上げられている銅像など全てがいいものとは思えませんが。

『朝日新聞』さんでは一面トップでした。谷川俊太郎氏の訃報。
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共同通信さん配信記事から。

詩人の谷川俊太郎さん死去 「二十億光年の孤独」

013 親しみやすい言葉による詩や翻訳、エッセーで知られ、戦後日本を代表する詩人として海外でも評価された谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが13日午後、老衰のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男賢作(けんさく)さん。
 父は哲学者谷川徹三。10代で詩作を始め、1952年、20歳の時に第1詩集「二十億光年の孤独」でみずみずしい言語感覚を持つ戦後詩の新人として注目された。
 詩人の川崎洋さんと茨木のり子さんが創刊した詩誌「櫂」に参加。現代詩に限らず、絵本、翻訳、エッセー、童謡の歌詞、ドラマの脚本など半世紀以上にわたって活躍した。「朝のリレー」など国語教科書に採用された詩も多く、幅広い年代の人々に愛読された。
 他の詩集に「六十二のソネット」「ことばあそびうた」「定義」。歌詞に「鉄腕アトム」や「月火水木金土日の歌」など。
 翻訳作品は「マザー・グースのうた」の他、スヌーピーとチャーリー・ブラウンが人気の漫画「ピーナッツ」シリーズや絵本「スイミー」など。

光太郎から谷川氏宛の書簡が1通、確認出来ています。
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“62のソネツト”感謝、小生、まじめな人の詩に接するのは いつでも大きなよろこびであり、又それによつて勇気づけられます、 今少しからだを痛めてゐるので猶更よむのにいいです。

昭和28年(1953)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作のため中野に借りていた中西利雄アトリエから発信されたもので、氏の第二詩集『62のソネット』受贈礼状です。

この書簡、『高村光太郎全集』には洩れていたもので、『特装版現代史読本 谷川俊太郎のコスモロジー』(平成元年=1989 思潮社)中の「資料 2 献本のお礼状より2 『六十二のソネット』」に掲載されていました。
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その情報を得てこの書籍を入手、その後、この『62のソネット』が花巻に現存という情報もつかみました。

昭和46年(1971)に島根大学の広瀬朝光教授がまとめた、光太郎が蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)及び旧高村記念館所蔵の光太郎蔵書のリストに『62のソネット』が載っていました。谷川氏による「高村光太郎様 谷川俊太郎」の識語が書き込まれているとのことでした。さらに昭和27年(1952)の第一詩集『二十億光年の孤独』、同30年(1955)刊行の第三詩集『愛について』も同様に献呈署名が書かれたものがあったそうです。光太郎の遺品や蔵書類の多くは、光太郎没後に中野のアトリエから花巻に寄贈されました。その中にちゃんと残っていたのですね。

そこで、『62のソネット』以外の光太郎からの受贈礼状がお手許にないかどうか、谷川氏に問い合わせてみました。

すると、ほどなく氏から直筆のご返信。
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残念ながら他には無い、とのこと。しかし、一筆箋一枚の短いものですが、氏の直筆ということで「家宝」レベルです。

光太郎からの礼状は、平成28年(2016)に静岡三島の大岡信ことば館さんで開催された「谷川俊太郎展・本当の事を云おうか・」、同30年(2018)に東京オペラシティアートギャラリーさんでの「谷川俊太郎展 TANIKAWA Shuntaro」で展示され、それぞれ拝見して参りました。

この書簡を含め、『高村光太郎全集』には氏のお名前は出て来ませんが、お父さまの徹三氏と光太郎は宮澤賢治がらみで交流があり、徹三氏の名は2回出て来ます。

さて、各種メディアにいろいろ出た氏の訃報や追悼記事等の中で、『読売新聞』さんに出たものの中に、氏のお言葉で光太郎に触れたものが引用されていました。

「僕は今、死んでも宇宙のエネルギーと一体になれる」…谷川俊太郎さん92歳で死去

 戦後の日本の詩を牽引してきた谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが92歳で死去し、国内外の多くの読者の間で悲しみが広がっている。「二十億光年の孤独」や「朝のリレー」など、70年以上にわたって親しみやすく柔らかな作品を発表してきた。
  新潮社などによると、谷川さんは13日午後10時5分、老衰のため東京都内の病院で死去した。葬儀は近親者で済ませた。
 谷川さんは東京生まれ。1952年、20歳の時、詩集「二十億光年の孤独」を出版した。「二十億光年の孤独に/僕は思わずくしゃみをした」などのフレーズに代表される詩は、終戦の傷痕が残る時代に、宇宙的な感覚と生きる喜びを表現した作品として高く評価された。
 大岡信、茨木のり子らと詩誌「櫂」に参加。戦争の時代を踏まえた硬質な作品が目立つ戦後詩壇の中で、みずみずしい感性を持つ新しい世代の詩人として注目された。
 作詞や翻訳など様々な分野でも活躍。アニメ「鉄腕アトム」の主題歌の作詞を手がけ、犬のスヌーピーが登場する米国の人気漫画「ピーナッツ」シリーズの翻訳を続けた。「朝のリレー」の詩は国語教科書やテレビCMに採用された。
 93年「世間知ラズ」で第1回萩原朔太郎賞、2010年「トロムソコラージュ」で第1回鮎川信夫賞を受賞。世界20か国語以上に詩などが翻訳された功績がたたえられ、19年に国際交流基金賞が贈られた。
 詩人のねじめ正一さん(76)は「詩のグラウンドを広く使えた人で、谷川さんに袋小路はなかった。(戦争体験者を中心とした)『荒地』派が身構えながら硬質な言葉を繰り出したのに対して、柔らかく分かりやすい言葉で難しいことを伝えることができた人だった」としのんだ。

「詩を書くしか能がないんです」
 口にした言葉がそのまま、詩になる人だった。
 2019年11月に行われた国際交流基金賞の授賞式。車いすで記者会見の場に現れた谷川さんは、詩を70年書き続けた感想を聞かれ、「うんざりしてますけどね……。詩を書くしか能がないんです」と周囲を笑わせた。
 「僕は権威になるのが嫌。できれば道化役みたいになりたい」と穏やかに語り、「人間の成長を木の年輪にたとえると、中心に生まれた自分がいて、3歳、5歳と周りに年輪ができ、最後の年輪が今の自分。自分の中に常に幼児である自分もいる」。みずみずしい詩を生み続ける秘密を明かした。
  万有引力とは
  ひき合う孤独の力である
  宇宙はひずんでいる
  それ故みんなはもとめ合う
 「二十億光年の孤独」は1950年、18歳の若さで文芸誌に発表した。一人っ子で大切に育てられた幼年時代、軽井沢の別荘で見た満天の星などを想像させる。戦争の傷痕が残る時代、清新な詩は多くの人に受け入れられた。
 でも、谷川さんはどんな自分の言葉も勝手に心から離れ、詩になってしまう 哀かな しみを抱えた人のようにも見えた。
 <何ひとつ書く事はない(略)本当の事を 云い おうか/詩人のふりはしてるが/私は詩人ではない>。65年に発表した詩「鳥羽」の一節だ。詩人は言葉を超えた、本当の人の魂との触れ合いや 詩情ポエジー を求めてさまよった。家庭生活のうえでは3度の離婚を重ねた。「高村光太郎は智恵子を狂わせ、中原中也は女性トラブルを経験した。詩的な生き方を貫くと、世間とどうしてもぶつかってしまう」と言った。
 ひらがなの詩、定型詩、極端に短い詩。様々な技法を試した。本当の詩を探す旅を続け、90歳を超えておむつをつけるようになった自分もまた詩に詠んだ。
  これを身につけるのは
  九十年ぶりだから
  違和感があるかと思ったら
  かえってそこはかとない
  懐かしさが蘇ったのは意外だった (「これ」より)
 書いた詩は、発表しただけで2500編以上といわれる。「最近、宇宙は目に見えない、ビッグバンのエネルギーに満ちているように見えてきた。僕は今、死んでも宇宙のエネルギーと一体になれると思う」
 その詩は、日本語の夜空に永遠に瞬き続けるはずだ。

恋多き人だった氏の側面が見て取れますね。

他にも、光太郎と交流が深かった永瀬清子の顕彰にも関わられたり、当会の祖・草野心平の葬儀に際して弔辞として追悼詩を贈られたりと、いろいろご縁を感じる方でした。

ちなみに心平の追悼詩はこちら。

   ●(巨きなピリオド)003
 
 ミスタア・クサアノ
 本格的に
              ●
 始めたミスタア・クサアノ

 「文化なんてなくたっていいじゃないか」
 とあなたは言って

 富士山は今日も
 ギギギギギギギギ。
 ギッ。
 ただあるだけである。

 けれど蛙は鳴き続けています
 白いページの田んぼで
 おかげで意味ありげな奴らの
 うるさい喚き声を聞かずにすむ

 ありがとう心平さん
 笑顔ありがとう
 声ありがとう
 あなたという骨と肉ありがとう
 僕が女だったら
 きっと一度はひとつ寝床に入っていた
 無理矢理にでも

 かたむく天に。
 鉤の月。

 るるり。
 るるり。
   りりり。

 僕もいつか
 死んだら死んだで生きてゆきます。


        一九八八年十一月二十八日

最終連は、心平詩「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」中の「死んだら死んだで生きてゆくのだ」という一節へのオマージュです。その「いつか」がとうとう来てしまったんだなぁ、という感じです。

しかし、氏の肉体は「死んだ」としても、その精神や業績は、これからも多くの人々の中に「生きて」ゆくのだと思います。合掌。

【折々のことば・光太郎】

十二日に東京から早稲田大学の学生といはれる山本茂実氏外一名来訪、その時の話に、草野心平氏は受賞後急逝されたといはれたので、大いに驚き、どう思つていいのか迷つてゐたのでした。あまりハツキリ二人の人がいふので気味わろく思ひました、おハガキが届いて誤聞確認、大安心。


昭和25年(1950)6月17日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

早稲田大学の学生といはれる山本茂実氏」は、のちに「あゝ野麦峠」で有名になります。心平急逝と、とんでもないデマをもたらしたものですね。

まぁ、光太郎の死亡説もたびたび誤報として流れていたようですが。

中野区で開催、そして今日閉幕の、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」にスタッフとして毎日詰めておりまして、昨日は午前中の当番を終え、北鎌倉に向かいました。

光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫御夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんでの展示「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11」を拝観。

一昨年から関連行事として朗読会が催されるようになり、一昨年昨年はその日に合わせて伺っていたのですが、今年はアトリエ展の搬入・会場設営の日とかぶってしまい、その後もいろいろあって昨日になって漸くお邪魔した次第です。
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こちらに伝わる光太郎がらみの品々、そしてすぐお近くにお住まいの尾崎喜八令孫・石黒敦彦氏がお持ちの品々で、光太郎と尾崎喜八の一家との交流の様子などを展示。
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基本、カフェですので、同じ空間でお客さんが普通に珈琲を召し上がっています。
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そのかたわらにとんでもなく貴重なものが並んでいて、毎年のことながら不思議な感じです。

特に貴重なのが、光太郎ブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)。光太郎オリジナルではなく、ミケランジェロ作品の模刻ですが、おそらくこの一点しか鋳造されていませんし、石膏原型の現存が確認できていません。一点物です。尾崎夫妻の結婚祝いにと贈られた物。尾崎の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の息女でした。
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当初予定では11月26日(火)まででしたが、会場の都合により明日までに変更になってしまいました。その日程変更の件もご紹介が遅れまして、申し訳なく存じます。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

いい音楽が流れるなかで心ゆくばかり踊る法悦を小生も想像出来るやうな気がします、


昭和25年(1950)6月2日(日) 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

舞踊家の藤間節子(のち黛節子と改名)が、前年、帝国劇場で「智恵子抄」を含むリサイタルを開催、この年、再演が為されるということで、その報せに対する返信です。

9月末に刊行されたもの。どちらかというと小学生向けとして編まれた書籍なのでしょうが、豆知識満載で唸らされました。

日本のことばずかん いきもの

発行日 : 2024年9月27日
著者等 : 神永曉監修
版 元 : 講談社
定 価 : 2,500円+税

和歌や文学作品に登場する「いきもの」にまつわる美しい日本語に名画や浮世絵、美しい写真などが添えられた、子どものことばの力を育てるシリーズの6作目を刊行します。監修は国語辞典のレジェンド、37年間、辞書編集一筋の神永曉氏。

6作目のテーマは「いきもの」、つまり動物や鳥、虫にまつわる言葉。日本人がいきものを慈しみながら育んできた言葉の世界をその言葉のイメージをさらに広げる、絵画や写真など美しいビジュアルと合わせてご紹介することばのずかん。

言葉を獲得することは、表現する力を大きく広げることにもつながります。「そら」「いろ」「かず」「はな」「あじ」につづくシリーズ6作目。

目次
 この本の使い方
 きせつといきもの〈春〉 春駒001
 きせつといきもの〈夏〉 ほたるがり
 春のいきものをよんだ歌や俳句
 夏のいきものをよんだ俳句
 物語とねこ ねこかわいがり
 物語にえがかれたねこ
 いきものオノマトペ びょうびょう
 いきものの昔のオノマトペ
 なんの虫かな? 虫がつく漢字
 いきものの数え方 匹
 いきものを数えることば
 きせつといきもの〈秋〉 わたり鳥
 きせつといきもの〈冬〉 冬ごもり
 秋のいきものをよんだ歌や俳句
 冬のいきものをよんだ歌や俳句
 いきものの形やもよう くま手
 いきものの形やもように注目!
 想ぞうのいきもの しし
 想ぞうから生まれたいきもの
 いろいろないきものの話
  ねがいがこめられた十二支のいきもの
 鳥の別名 春告鳥
 身近な鳥のもうひとつの名前
 いきもののことわざ 井の中のかわず
 いきもののことわざ・慣用句

この本では、「いきもの」にかかわることばと、それにかんする写真や絵画を一〇〇いじょう、しょうかいしています」だそうで、オールカラー約50ページで、ぜいたくに美術作品や古典文学等の画像、四季折々の写真などを使いながら、さらに文学作品の一節等もふんだんに引用。そして古き良き美しき日本語の数々がしっかりと解説されています。

いきなり最初の方に、「きせつといきもの〈春〉 春駒」。光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)の一節が大きく使われています。11月13日(水)付けで版元の講談社さんサイトに出た花森リド氏のブックレビューでその件にふれられ、知った次第です。
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009「春駒」、一般的な国語辞典レベルでは見出し語として載っていませんが、さすがに『広辞苑』には項目が立てられていました。

詩「春駒」は①の意味でこの語を使っていますが、④のニュアンスも込められているかも知れません。親友だった水野葉舟が移り住んだ成田の三里塚御料牧場を訪れ、「春駒」の姿を見て書かれた詩であると同時に、新生活を始めた葉舟や自分の姿をそこに投影もしているかな、と。

それにしても『広辞苑』レベルの語をズドンと持ってくるあたり、小学生向けといいつつ、妥協しない姿勢が見て取れて好感が持てます。

他にも、各ページ、「へー」「なるほど」の連続でした。よくある早速明日、誰かに教えたくなるトリビア的豆知識のような。また、こういう美しい日本語を過去のものとして滅ぼしてはいかんな、とも思いました。

そして、先述の通り、ぜいたくに美術作品の画像が使われていますので、見ていて心安らぎます。

表紙からして伊藤若冲。本文中には小林清親、円山応挙、竹内栖鳳、狩野永徳、歌川芳虎、歌川広重、「鳥獣戯画」、そして東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生だった藤田嗣治など。
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いいですね、藤田の猫。

それ以外の箇所も、現在、空前の猫ブームだそうで、猫が目立ちます。
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ちなみにこれで6巻目となった「いきものずかん」シリーズとしての内容見本というか、フライヤーというかも挟まっていました。
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他の巻でも光太郎が扱われていたりするのでしょうか? 大きめの書店で調べてみます。

というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生のこの小屋の光線では三、四寸以上の大きさの彫刻を作ることは無理だと思ひます、それでもこの夏には蟬を一匹作るつもりでゐます、出来れば赤蛙も作りたいです、小鳥がいいのですがこれは中々つかまりません、東京ではいつも小鳥屋で求めましたが、ほんとは山の鳥の方がいいわけです、今はカツコオ、ホトトギスが来て鳴きます、カツコオには近寄れますが、ホトトギスには中々近寄れません、どちらも姿のいい鳥です、


昭和25年(1950)6月1日 奥平英雄宛書簡より 光太郎68歳

詩でもそうでしたが、光太郎、彫刻でもさまざまな「いきもの」をモチーフにしていました。「自然」の造型美ということに打たれていたのでしょう。

芸術の秋、ということなのでしょう。毎年のことですが、この時期は各種イベントが目白押しです。

今月末から来月頭にかけ全国で行われる演奏会等でも、光太郎智恵子にからむものを、昨日ご紹介した2件以外に5件ばかり把握しております。

さすがに5件一気にというわけには行きませんので、分割して。

まずは兵庫県西宮市から。

関西歌曲研究会 日本歌曲の流れ 第101回演奏会 シリーズ 詩人 ~うたびと~vol.1 詩(うた)はどこから来た?

期 日 : 2024年10月24日(木)
会 場 : 兵庫県立芸術文化センター神戸女学院小ホール 兵庫県西宮市高松町2-22
時 間 : 18:30~
料 金 : 全席自由 3,000円

出演・曲目(五十音順)
 声楽
  青木耕平  レモン哀歌  詩:高村光太郎 曲:別宮貞雄
  大岡美佐  はなのいろは    歌:小野小町 曲:山田耕筰
  尾崎比佐子 椰子の実   詩:島崎藤村 曲:大中寅二
  木寺聖子  日本の雨の歌 歌:詠み人知らず 曲:マルクス
  総毛創   秋の眸    詩:竹久夢二 曲:松下倫二
  松井るみ  「3つの日本の抒情詩」より 
歌:山部赤人/源当純 曲:ストラヴィンスキー
  矢野文香  もう一度の春 詩:ロセッティ 曲:木下牧子
  山本久代  花のゆくえ  詩:竹久夢二 曲:木下牧子
  吉岡仁美  ひさかたの  歌:紀友則 曲:伊能美智子
  吉永裕恵  わすれな草  詩:竹久夢二 曲:藤井清水   
 ピアノ
  丸山耕路

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昭和57年(1982)、故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」から「レモン哀歌」がプログラムに入っています。別宮氏の「歌曲集 智恵子抄」、息が長いというか、また最近になってけっこう取り上げられるようになった感があります。

もう1件、こちらは大阪から。

第15回サンセットファミリーコンサート 海辺の音楽会~あなたに贈る歌~

期 日 : 2024年10月27日(日)
会 場 : ATC海辺のステージ 大阪市住之江区南港北2丁目1-10
時 間 : 15:00~16:30
料 金 : 無料

◆プログラム◆
【第1部】相愛大学音楽学部 コーラスグループ「Lilla」によるステージ
 ・アラン・メンケン/映画「リトル・マーメイド」より"アンダー・ザ・シー"
 ・コブクロ/この地球の続きを
 ・ゴダイゴ/銀河鉄道999
 ・ミマス/COSMOS
 ・夏の歌・秋の歌メドレー
  「茶摘み~夏は来ぬ~我は海の子~旅愁~故郷の空~夕焼け小焼け」
 ・クロード=ミッシェル・シェーンベルク/ミュージカル「レ・ミゼラブル」より"民衆の歌"
  ほか
【第2部】相愛大学大学院音楽研究科生、音楽専攻科生による独唱
 ・A.ドヴォルザーク/歌劇《ルサルカ》より"月に寄せる歌"
 ・蒔田尚昊/高村光太郎 詩《智恵子抄》より「あどけない話」
 ・小林秀雄/日記帳
 ・G.F.ヘンデル/《イタリア語のデュエット集》より"夜明けに微笑むあの花を"HWV 192
 ・W.A.モーツァルト/アヴェ・ヴェルム・コルプス
  ほか
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蒔田尚昊氏作曲の歌曲集『智恵子抄』から「あどけない話」が取り上げられます。

ご出演の皆さんが相愛大学さんのご関係の方々。相愛大学さんといえば今年8月に大学近くの本願寺津村別院(北御堂)さんで開催された「北御堂コンサートvol.255〜ロマンの饗宴〜」でも、同曲が演奏されました。

その際に歌われた永山玲奈さんという方、今回のフライヤーにもお名前があり、その方の歌唱なのでしょう。

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おてがみやポスターなどいただきました、智恵子の切り抜き絵につき大変皆様のお世話さまになります事恐縮至極です、智恵子もあの頃、盛岡でこれらの作品が人々の目に触れやうとは思ひもかけなかつた事でせう、不思議な因縁だと思ひます、
昭和25年(1950)1月10日 黒須忠宛書簡より 光太郎68歳

前年の山形での開催に続き、この年は4月に盛岡の川徳画廊、5月には花巻の寿デパートで智恵子の紙絵の展覧会が開催されました。

盛岡展に関しては、黒須が勤務していた新岩手日報社の肝煎りでした。

昨日、当会刊行の冊子『光太郎資料』62集についてご紹介しました。

毎号、同時代人の光太郎訪問記や回想のうち、広く紹介されていないものを掲載するコーナーを設けていますが、今号では「木像生」という人物の書いた「都会情景 カフエー譚」(大正3年=1914 1月1日発行『朝鮮公論』第2巻第1号)を取り上げました。

明治末から大正初めにかけての、東京市内のカフェ事情をまとめたもので、光太郎の名と共に、さまざまなカフェが紹介されています。それと合わせ、実際に光太郎の詩文にそれらのカフェがどう描かれているか、『光太郎資料』では解説欄に記しました。

一部、骨子をご紹介します。

まず、明治44年(1911)に京橋日吉町(現・銀座八丁目)に上野の精養軒が開店した「カフェー・プランタン」。この年に発表された光太郎の短章連作詩「泥七宝」(『全集』第一巻)にその名が現れます。

 八重次の首はへちまにて
    小雛の唄は風鈴にて
 さてもよ、がちやがちやの虫の籠は
 「プランタン」てね、轡蟲の竹の籠
 

他にも「泥七宝」中にはその名は現れないものの、プランタンで書かれたものがあると、後年の光太郎が回想しています。「八重次、小雛は新橋の芸妓」の一節と共に。

続いて「カフェー・ライオン」。プランタンと同じく精養軒の経営で、やはり明治44年(1911)、銀座尾張町に開店し、こちらも光太郎詩、ずばり「カフェライオンにて」(大正2年=1913)に謳われています。

「都会情景 カフエー譚」に曰く「カフエー、ライオンは尾張町の電車交差点にある。三階は二百名ばかり居るカフエークラブ会員の遊ぶ処で二階は食堂、階下が賑やかなバーだ。此処でビールが一杯売れるとライオンの形をしたものがヌツと現はれてウヲ――と自働車のラッパの様な声を出す。即ちライオンといふ店の名がある所以だらう」。

さらに、光太郎も中心人物の一人だった芸術運動「パンの会」御用達の「メイゾン鴻の巣(鴻乃巣)」。鎧橋の袂に開店し、その後移転を重ねましたが、発祥の地には中央区教委さんによる案内板が立っています。

そして、浅草雷門の「よか楼」。

欧米留学から帰朝した翌年、明治43年(1910)に入れあげていた「モナ・リザ」こと吉原河内楼の娼妓・若太夫にふられた後、光太郎は今度は「よか楼」の女給・お梅に首ったけになります。お梅目当てで、一日に5回も「よか楼」に足を運んだことも。お梅が他の客の元に行っていて自分の方に来ないと癇癪を起こして暴れたり……(笑)。ほとんどストーカーですね。

そのお梅、若太夫以上に光太郎詩文にたくさん登場します。

わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ/辛き酒を再びわれにすすむる/マドモワゼル・ウメの瞳の深さ
(「食後の酒」 明治44年=1911)

「霧島つつじの真赤なかげに/サツポロの泡をみつむる/マドモワゼルもねむたし」
(「なまけもの」 同)

「マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り/白いナプキンにボルドオはしみ/夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ」
(「ビフテキの皿」 同)

「さう、さう/流行(はやり)の小唄をうたひながら/夕方、雷門のレストオランで/怖い女将(おかみ)の眼をぬすんで/待つてゐる、マドモワゼルが/待つてゐる、私を――」
(「あをい雨」明治45年=1912)

「真面目、不真面目、馬鹿、利口/THANK YOU VERY MUCH, VERY VERY MUCH,/お花さん、お梅さん、河内楼の若太夫さん/己を知るのは己ぎりだ」
(「狂者の詩」 大正元年=1912)

雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。」
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

「都会情景 カフエー譚」では、お梅は以下のように紹介されています。

又下膨れの丸顔で銀杏返しに結つて居る梅子(二〇)は『元禄梅子』と定連から呼ばれて居るが、此の女は多少文字の素養もあつて永井荷風の小説や晶子の歌集を始め、新らしい作家の著作は片つ端からドンドン渉猟して、衣裳は僅か小さな葛籠(つづら)一つしか持たない代りに書物ならば大葛籠三杯も持つて居るといふ風変りな女だ。そんな所から正宗白鳥、高村光太郎、前田木城、海野美盛、其他の文士画家連には随分肝膽相照して居る人が多い。竹子が踊や長唄を相応にやれる程に多芸ではないが、ハーモニカだけは袖の中から放したことはなく、竹子の歌ふ仏蘭西の国歌に合わせて之を吹くのが唯一つの芸である。

文学好きだったということは、光太郎等の回想にも書かれていましたが、より詳しく描かれています。さらに年齢。「都会情景 カフエー譚」が書かれた大正3年(1914)の時点で二十歳となっています。ということは、光太郎に尻を追いかけ回されていた明治44年(1911)にはまだ17かそこら。ただ、この業界の常で、さばを読んでいた可能性も大いにありますが。

そしてこんな記述も。

ヨカローは実に此の官能世界の一歩を約して思ひ切り繁昌して居るので。これは例の美人の首を利用した新聞広告のきゝ目であること勿論であるが、実際にも此処の女中は粒選りの代物が多い。

注目すべきは「例の美人の首を利用した新聞広告」。「例の」ということは、かなり有名だったと思われます。

光太郎の「ヒウザン会とパンの会」にも、

「よか楼」の女給には、お梅さんはじめ、お竹さん、お松さんお福さんなんてのがゐて、新聞に写真入りで広告してゐた。

とあり、松崎天民ら他の同時代人の回想等にも「よか楼」の新聞広告の件が語られています。

この広告、何としても実地に見てみたいものだと思っておりました。そこでまず活用したのが国会図書館さんのデジタルデータ。すると、まず新聞ではありませんが、『東京大正博覧会要覧』(大正3年=1914)に広告そのもの(左下)を発見しました。
東京大正博覧会要覧 19130815都新聞 案内広告百年史 東京日日新聞2
それから、戦後の書籍で、明治大正の広告事情を紹介したものの中に、『都新聞』(大正2年=1913、中央)と『東京日日新聞』(大正3年=1914、右上)に載った広告。

なるほど、女給たちの写真入りです。しかし、大正2、3年では、光太郎が通っていた明治44年(1911)より少し後なので、もしかするとお梅はもう居ないかも知れません。そこで「明治44年当時の広告はないか」。思い出したのが、「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」。武蔵野美術大学さんの前田恭二教授によって継続中の連載で、『読売新聞』さんの明治期からの過去記事データベース「ヨミダス」が活用されています。「もしかすると「ヨミダス」、広告も検索対象にしているんじゃないか?」と思ったわけです。

隣町の県立図書館さんの分館にダッシュ(笑)。閲覧用PCで「ヨミダス」を立ち上げて頂き、キーワード「よか楼」でポン。すると、ビンゴでした! 何度も広告が出ており、同一の写真を使ったものが多かったのですが、写真の種類で言うと5種類、見つかりました。
y19110704-2 y19110907-2
古い順に、明治44年(1911)7月4日(左上)、同9月7日(右上)、同10月31日(左下)、明治45年(1912)3月6日(下中央)、同7月12日(右下)です。
y19111031-2 y19120306-2 y19120710-2
さらに他紙のデータベースも当たりました。『毎日新聞』さんの「毎索」ではヒットせず。しかし、『朝日新聞』さんの「クロスサーチ」では、「ヨミダス」以上の大漁。

明らかに『読売新聞』さんのものと同一の写真を除くと、8件。
2a19120128 2a19120317
2a19120515 2a19120713
2a19121209 2a19140307
2a19141020 2a19141103
左上から順に、明治45年(1912)1月28日、同3月17日、同5月15日、同7月13日、同じ1912年で改元後の大正元年12月9日、大正3年(1914)3月7日、同10月20日、同11月3日です。

お梅はナンバー2くらいだったようですので、上記画像の中にお梅がいるとみて間違いないでしょう。どれがお梅だかは特定できませんが。

お梅にぞっこんだった明治44年(1911)の暮、光太郎の前に智恵子が現れます。それまで素人女性には興味を抱かなかった光太郎、すぐに智恵子に鞍替えというわけではありませんが、ずっと智恵子は気になる存在として光太郎内部に居続け、しかし、こんな自分と一緒になっても苦労するだけだとか、自分に智恵子と添い遂げる資格があるのだろうかなどと悩みます。そのあたりの逡巡が翌年の詩「涙」「おそれ」などに謳われました。そういいつつ、その前に「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」(「人に」 のちに『智恵子抄』巻頭を飾りました)などとも語りかけ、ズルい奴です(笑)。

まあ、結局は大正元年(1912)、銚子犬吠埼に智恵子が光太郎を追ってやってきたことで、光太郎も覚悟を固めたのだと思います。そしてお梅との関係も解消。この前後でしょう。

お梅さんが朋輩と私の家へ押しかけて来た時、智恵子の電報が机の上にあつたので怒つて帰つたのが最後だつた。その頃、私の前に智恵子が出現して、私は急に浄化されたのである。お梅さんはある大学生と一緒になり、二年ほどして盲腸で死んだ。谷中の一乗寺にその墓があるが、今でも時々思ひ出してお詣りしてゐる。(「ヒウザン会とパンの会」)

お梅も可哀想な女性だったと思います。

ところで、お梅の前に入れ込んでいた吉原河内楼の若太夫についても、後日譚等わかってきましたので、いずれご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

又いただいたカフエはまことに珍しく、此の山の中がまるでフランスのやうに感ぜられ、ここの森のたたずまひさへフオンテンブロオの森の心地いたします。
昭和24年(1949)11月23日 立花貞志宛書簡より 光太郎67歳

こちらの「カフエ」はコーヒーの意味ですね。

立花貞志は戦前に岩手県芸術協会の立ち上げに関わり、宮沢賢治と面識もあった人物で、この頃盛岡のサン書房という出版社に勤務していました。

ところで、コーヒーと言えば、コーヒーをメインにしていた「カフェ・パウリスタ」。「都会情景 カフエー譚」にも紹介されていますし、江口渙などの回想に依れば智恵子や青鞜社のメンバー等が通っていたそうですが、光太郎詩文にはその名が出て来ません。同時代人の回想でも光太郎がパウリスタに通っていたという記述は見当たりません。

ところが、ネット上では「高村光太郎も通っていたパウリスタ」的な記述が溢れています。老婆心ながら「違うよ」と言わせていただきます。全く行ったことがないというわけでもないのでしょうが、上記のさまざまなカフェは酒がメインで、パウリスタは後の純喫茶に近い形。光太郎のニーズとは少し異なっていたようです。

頼まれましたので、出演して参ります。

☆ポエトリーユニオン☆@浅草

期 日 : 2024年10月12日(土)
会 場 : 浅草の和モダン レンタルギャラリーブレーメンハウス 東京都台東区浅草1-37-7
時 間 : 14:00~
料 金 : 1,000円

浅草寺の近くのギャラリーで味わい深いオープンマイクをやります。

当イベントはオープンマイクです。1人の持ち時間8分。好きな絵について語った後、詩を1篇(時間内なら2篇OK)朗読して下さい。

会場1階は萩原哲夫氏の展覧会となっています。ご都合の良い方は早めにお越しいただき、鑑賞していただければ幸いです。

飲み物はペットボトル持参でゴミはお持ち帰りいただけますよう、お願い申し上げます。

『私達の日々は風景の連続ともいえるでしょう。
 美しい瞬間を画家が描いた風景の前に、人は立ちどまります。
 詩人の語る詩情にも絵はあります。
 朗読する詩人達の肉声を通してそれぞれの風景を想像して
 分かち合う午後のひと時をご一緒しましょう。』

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仕掛け人は連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの詩人・服部剛氏。この手のイベントをよく主催されているようです。

氏から「光太郎について語ってくれ」と言われ、お受けすることに致しました。他は現役の詩人の皆さんがマイクを握られるのでは、と思われます。

聴くだけでも可でしょうし、ぜひ語りたいという方もまだ受付中と思われます。上記フライヤー画像ご参照の上、お申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩を六篇自分勝手に選択して書きぬき、別封で送ります。多分明日二ツ堰の局までゆけるでせう。今日は暴風雨ですが。「続智恵子抄」ではあまり月並みと思ひ、「智恵子抄その後」としましたがおかしいでせうか。

昭和24年(1949)10月30日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎67歳

粕谷は編集者。連作詩「智恵子抄その後」6篇――「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」――は、翌年1月の『新女苑』に発表されました。

毎年恒例、北鎌倉での展示情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11

期 日 : 2024年10月8日(火)~11月26日(火)の火・金・土・日曜日
      追記:当初予定から変更で11月19日(火)までとなりました。
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 11月9日(土) 15:00~
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光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫御夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんでの展示。すぐ近くに住んでいて、光太郎と深い交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏のご協力もあり、光太郎と尾崎の交流(尾崎の妻は光太郎の親友・水野葉舟の娘の實子でした)を辿る展示が為されます。光太郎と尾崎それぞれの肉筆や写真、年によっては光太郎が尾崎の結婚祝いに贈ったブロンズの「聖母子像」(ミケランジェロ模刻)も。

一昨年からは関連行事として光太郎と尾崎の詩をとりあげる朗読会も催されています。当方、今年は「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品物をお貸しし、その搬入と会場設営の日に当たってしまいましたので欠礼いたしますが、展示の方は会期中に拝見に伺うつもりで居ります。

皆様も是非どうぞ。朗読者も募集中だそうです。奮ってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

何を表現しても芸術そのものは健康であるべきです。

昭和24年(1949)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

光太郎、造型にしても文筆にしても、病的な表現は嫌いました。若い頃には彫刻で「妖気」のようなものを表そうとしたこともありましたが、のちにそういうやり口は誤りだったと否定しました。

「山の詩人」といわれた尾崎にもそういう精神は通底していて、それだけに二人が結びついたのだと思われます。

昨日は日帰りで兵庫県たつの市に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

そもそもは、同市の霞城館さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」に、光太郎から三木露風宛の書簡が出ているという情報を得たためで、そちらの拝見がメインでした。同市は露風の故郷です。

千葉の自宅兼事務所から同市までどう行くか。初め、自宅兼事務所から車で1時間弱の茨城空港から神戸に飛んで……と考えました。一昨年、神戸市に行った際にはそうしましたので。ところが、その折は早めに航空券を予約したので安かったのですが、今回、間際になって行くことを決めたため、それだと馬鹿高い料金。その上、神戸空港からたつの市までのアクセスも調べてみると意外と不便でした。乗りかえ、乗りかえで2時間弱。そこで千葉から鉄道で行くことにしました。

最寄り駅から4:50の始発に乗り、9:45に山陽新幹線の姫路駅に到着。同駅から見えた世界遺産姫路城。
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ここからJR姫新線に乗り、本竜野駅まで。露風の故郷とあって、いきなりホームに「赤とんぼ」像。「駅のホームに作るか、すごいな」でした。
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同様の像は駅前にもありましたし、ちょっと歩くと側溝の蓋が赤とんぼデザインになっている場所も。愛されていますね(笑)。
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炎天下を1㌔ほど歩き、霞城館・矢野勘治記念館さんに到着(途中、寄り道もしたのですが、そのあたりは明日)。
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拝観料200円(安!)を払って、早速、拝見。
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撮影禁止という表示が見あたりませんでしたので、撮らせていただきました。こんな感じで、各界から露風宛の絵葉書が並んでいます。

光太郎からのもの。『高村光太郎全集』には洩れているものです。
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歌人の西村陽吉との連名です。
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まずその点が意外でした。西村は光太郎も寄稿したり表紙画を描いたり装幀したりした雑誌『朱欒』や『創作』等の版元、東雲堂の養子に入った人物なので、光太郎と交流があったことは推測されますが、『高村光太郎全集』にはその名が出て来ません。一緒に旅をする程の仲だったのか、と、意外でした。

また、旅先が埼玉の山間部、飯能や名栗。日付が大正4年(1915)7月19日となっています。この時期に光太郎が埼玉に行っていたというのもこれまでの年譜に記されていませんし、光太郎、埼玉は普段通過するばかりで、目的地だったことは他に一度もありません(まぁ、別に埼玉を忌避していたわけでもなく、特に用事がなかったということなのでしょうが)。そこにきて埼玉の地名が出てきたので実に意外でした。

一瞬、大正でなく昭和4年(1929)かな、と思いました。この年にはお隣の群馬県の温泉地をほうぼう歩いていましたし。また、貼られている一銭五厘の切手は、大正4年(1915)でも昭和4年(1929)でも共通ですので(細かく見れば違うらしいのですが、ぱっと見の判断は当方には出来ません)。しかし、絵葉書の様式(差出面の通信欄の面積)を見れば大まかな時期が判別でき、昭和4年ではありえません。

光太郎からのものはこの一通のみでしたが、他の人物からのものがずらり。やはりメインは「赤とんぼ」などで黄金コンビを組んだ山田耕筰からの来翰でしたが。
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北原白秋やら坂本繁二郎やら、その他、窪田空穂、小山内薫、前田夕暮、石井漠、堀口大学などなど、かなり光太郎の人脈ともかぶっています。
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展示されているのがすべて大正期の絵葉書です。露風が送られてきた絵葉書だけを貼り付けたアルバムを作っていたためです。この頃はまだ絵葉書というのがある意味珍しかったというのもあったでしょうし、それらを集めておいて見返し、自分もその土地に行った気分を味わっていたのかも知れません。「なるほどね」という感じでした。

他の展示も見学。露風のコーナーではやはり「赤とんぼ」。
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光太郎装幀の露風詩集『廃園』重版もありました。
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さらに同じ敷地内には矢野勘治記念館さん。矢野は正岡子規に師事した人物で、本業は実業家でしたが、旧制一高の寮歌「嗚呼(ああ)玉杯に花うけて」を作詞したことで有名です。

周辺には露風の生家や、露風が買い物をしたであろう店などが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定された古い街並みが広がっています。そのあたりは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

いまパウロの事をまざまざとおもひ、考へてまことにつよい反省に心が裸にされたやうに感じて居ります。小生は美の使徒として生きてをりますがパウロに向ふと甚だまぶしくて殆ど直視できない程に感じます。


昭和24年(1949)3月6日 田口弘宛書簡より 光太郎67歳

故・田口弘氏は埼玉県東松山市の教育長を永らく務められました。戦時中から光太郎と交流があり、光太郎はこの時には敬虔なクリスチャンだった氏に、子息の誕生祝いとして聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」を揮毫して贈りました。その送り状の一節です。
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この書、当方は氏のご生前に埼玉のご自宅で拝見、令和3年(2021)に富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際には「ぜひともこれもラインナップに入れて下さい」とお願いして展示していただきました。現在、精密複製が埼玉県東松山市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」に展示されています。

光太郎自身は洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、自らを「美の使徒」と位置づけていたというのは興味深いところです。

会期あと僅かですが『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎書簡が出ています。

三木露風と交流のあった人々

期 日 : 2024年7月13日(土)~9月1日(日)
会 場 : 霞城館・矢野勘治記念館 兵庫県たつの市龍野町上霞城30-3
時 間 : 9時30分~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般:200円/小~大学生・65歳以上:100円

 本年は、三木露風が亡くなってから60年にあたります。これを記念して、霞城館では、企画展「三木露風と交流のあった人々」を開催します。
 本展では、当館が所蔵する露風宛ての葉書をおさめたアルバム(2冊)の中から、露風と交流の深かった人物の葉書を紹介します。皆様のご来館をお待ちしております。
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公式情報に光太郎の名がなかったので気づかないで居たのですが、兵庫の地方紙『赤穂民報』さんに紹介記事が出(赤穂出身の俳優・河原侃二からの葉書が出ているという内容がメイン)、その中で河原以外に「同館が所蔵する露風宛ての絵はがき約240通の中から一部を紹介。「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰、劇作家の小山内薫、詩人の高村光太郎、露風が作詞した赤穂小学校の校歌を作曲した近衛秀麿などが差し出したはがきが並ぶ」と記述がありました。

『高村光太郎全集』には、光太郎から露風宛書簡は一通のみ掲載されています。明治42年(1909)12月11日付けで内容は以下の通り。

拝啓
 いつぞやは珈琲店にて御目にかかり愉快に存じ候。其後御無沙汰いたし居り候処二三日前水野君より『廃園』相届き、見れば貴下の御贈り下されたるもの、誠になつかしくありがたく存じ上げ候。『廃園』の中の詩は、小生かの地に居りし間のもの多くみなはじめて味ふことに御座候。小生は常に貴下の詩を尊重する事深きものに候へば、この『廃園』一篇の小生に与へたる喜びは一方ならぬことに御座候。序に申上候へ共、正月の『スバル』の裏絵に貴下の『カリカチユウル』を北原君のと共に出し候へば、何とぞ悪しからず思召被下度幾重にも願上候。
 右とりあへず御礼まで、余は又御目にかゝり候時にゆづり申候。
   十二月十一日夜                          高村光太郎  
 三木露風様梧下


水野君」は親友の水野葉舟、「かの地に居りし間」は欧米留学中。

露風の詩集『廃園』は明治42年(1909)9月に刊行されました。翌年には重版が出、そちらは光太郎が装幀を担当しました。上記書簡もこの重版に掲載されたものです。
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『スバル』の裏絵」は右上画像。右が露風、左が白秋です。光太郎、同じシリーズでは与謝野晶子(左下)や森鷗外(右下)らをおちょくった絵も描いています。
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現代ですと炎上案件ですが(笑)。

今回展示されているのは露風宛の諸家の葉書。上記露風宛光太郎書簡、『高村光太郎全集』には封書とも葉書とも書かれていませんが葉書にしては長い内容です。おそらく上記書簡とは別物だろうと思い、 霞城館・矢野勘治記念館問い合わせたところ、ビンゴでした。大正4年(1915)7月の絵葉書だそうで、もろに『高村光太郎全集』に漏れているものです。

同館、光太郎に関わる展示も常設で為されているという情報を以前に得、一度行ってみたいと思っていましたし、この際ですので今週末に伺うことに致しました。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】005

新年に定本「蛙」が大地書房から届きました。いやみのない装幀に出来たと思ひました。此の詩集は今よんでもいいです。擬音なども此の位真正面からゆくと一つの独立価値を持つて来ます。此の詩集はたしかに日本語の範囲をひろめました。

昭和24年(1949)1月6日 
草野心平宛書簡より 光太郎67歳

心平詩集『定本 蛙』の装幀も『廃園』重版同様に光太郎です。装幀の仕事も明治末から最晩年に至るまで、断続的に行い続けました。

今月初めの『朝日新聞』さん岩手版から。光太郎と交流の深かった日中ハーフの詩人・黄瀛に関して。光太郎にも言及されています。

(賢治を語る)中国籍の詩友、数奇な人生 宮沢賢治学会前副代表理事・佐藤竜一さん/岩手県

 北東北の詩人・宮沢賢治の友人に、黄瀛(こうえい)(1906~2005)という詩人がいた。中国人を父に、日本人を母に持つ黄は、日本語で詩を書き、名声を得た後、国民党の将校として中国共産党の捕虜になったり、文化大革命で獄中生活を送ったりした。黄が歩んだ数奇な人生について、書籍「宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯」の著者で、宮沢賢治学会前副代表理事の佐藤竜一さん(66)に聞いた。
《黄の生い立ちは?》
 1906年、中国・重慶で生まれました。父は黄澤民(たくみん)、母は千葉出身の太田喜智(きち)。喜智は小学校を2回飛び級するほど優秀で、東京女子高等師範学校を卒業後、日清交換教員として重慶に赴任し、澤民と結婚します。
 澤民は黄が3歳の時に亡くなったため、喜智はしばらく中国を転々とした後、黄が8歳の時に千葉県に戻ります。
《詩作を始めたのは?》
 黄は中国籍のため地元の中学校に進学できず、東京の中学に通います。喜智も中国籍のため小学校教師の職を追われ、中国の天津に渡って石炭販売業を営みながら、日本の黄に送金します。
 23年、日本では大きな転機となる関東大震災が起きます。東京の中学の授業がストップしたため、黄は青島の日本中学に編入します。
 そこで高村光太郎の「道程」などを読み、詩作に励み始めます。25年には新潮社が発行する詩誌「日本詩人」の第1席に選ばれ、詩人としての名声を得ます。
 青島の日本中学を卒業後、帰国して文化学院に入学し、草野心平と交友を深めます。黄と心平は度々、光太郎のアトリエを訪れます。
《賢治との出会いは?》
 24年に賢治が詩集「春と修羅」を出版すると、心平は賢治の才能に驚き、心平が創刊し、黄も同人となっている詩誌「銅鑼(どら)」に参加しないかと誘います。賢治は快諾し、「銅鑼」に「永訣(えいけつ)の朝」を発表します。
 黄は文化学院を中退後、陸軍士官学校に入学。29年、卒業直前に行った北海道旅行の帰りに花巻に立ち寄ります。賢治は病床にありましたが、1時間ほど会話を交わしたようです。冗談好きの賢治は「お会いできて、コウエイ(光栄)です」と出迎えました。
《その後の黄の人生は?》
 黄は37年に日中戦争が起こると、日本との関係を絶ち、中国大陸で国民党の将校としての道を歩みます。しかし49年、国共内戦で中国共産党に捕らえられ、重労働を課せられて獄中へ。66年の文化大革命では日本との関係がただされ、再び獄中へと送られます。
 合計で20年もの獄中生活を体験した黄に光が当たったのは78年。重慶の四川外語学院で日本文学を教える職に就いてからです。教壇に立った黄が真っ先に取り上げたのが賢治でした。黄の教え子からはその後、中国で賢治作品を広める多くの研究者が生まれています。
 私は92年、重慶で黄に初めて面会しましたが、政治に触れる話を避けたいという気持が伝わってきました。「今も詩を書いていますか」と聞くと、「書いていません。自分の存在自体が詩でありたい」と答えました。
 黄は96年、賢治生誕100年を記念して67年ぶりに花巻を訪れ、「皆さんの力で賢治はいよいよ世界的になるところです」と語っています。


最初に紹介されている佐藤氏御著書『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』についてはこちら

今回の記事では紙幅の都合上、細かなところは語られていませんが、紹介されているエピソードだけでも黄の「数奇な人生」ぶりが分かりますね。

光太郎は黄の才能を高く評価、大正14年(1925)のアンケート「十四年度作品批評」では、真っ先に「知人のせゐか黄瀛君にひどく嘱望してゐます」とし、さらに昭和9年(1934)に刊行された黄の詩集『瑞枝』には序文を寄せました。

また、黄をモデルに彫刻も制作。
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ただ、おそらく戦災で焼けてしまったと考えられ、現存が確認できていません。

この彫刻を作っていた大正14年(1925)、黄が中国で知り合った心平を光太郎に紹介しました。そして翌年には黄や光太郎と共に心平の『銅鑼』同人でもあった賢治が光太郎のアトリエを訪問します。二人の天才、生涯ただ一度の出会いでした。さらに記事に有る通り、昭和4年(1929)の黄と賢治の会談。

そう考えると黄はいろいろなところでのキーパーソンですね。昨日触れた画家の柳敬助同様、もっともっと知られていていい存在と思われます。

最後の黄の言葉「自分の存在自体が詩でありたい」は、賢治、心平、そして光太郎にも共通する考えだったようにも思えますね。

【折々のことば・光太郎】

御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中でよみました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持がよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感嘆には十二分に共鳴を感じます。まだきつと読みかへすでせう。これは記録としても貴重な文献です。


昭和23年(1948)12月10日 小倉豊文宛書簡より 光太郎66歳

『絶後の記録』は、賢治研究家としても有名な小倉が自身の広島での被爆体験を綴ったルポです。翌年には海外輸出版が刊行され、そちらには光太郎が序文を寄せました。現在も流通している中公文庫版にはこれが転用されています。原爆の惨状が一般にはあまり知られていなかったこの時期、光太郎は書かれている内容に瞠目したようです。

また、改めてこの愚かな戦争に加担していたことへの自己嫌悪をももたらしたのではないかとも考えられます。

昨日は広島、明後日は長崎の原爆の日、来週には終戦の日。いろいろ考えさせられます。

昭和6年(1931)8月から9月にかけ、光太郎が新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために三陸海岸一帯を船で訪れたことを記念して行われている「女川光太郎祭」。昨年、コロナ禍明けで4年ぶりに通常開催され、今年も行われます。

女川光太郎祭

期 日 : 2024年8月9日(金)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料

詳しい文書等来ていないのですが、ほぼほぼ例年通りという連絡が入っておりまして、概ね下記のような流れでしょう。多少の順番の変更等はあるかも知れません。

10:00~ 高村光太郎文学碑へ献花
14:00~ 式典等
 黙祷
 第33回記念講演 「智恵子、その生涯」 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 ご挨拶 女川光太郎の会
 献花の模様動画投影
 光太郎紀行文・詩の朗読 町内外の皆さん
 祝辞
 アトラクション演奏

18:00頃~
 懇親会

午前中には、平成23年(2011)の東日本大震災の際に津波で倒壊し、令和2年(2020)に復旧された光太郎文学碑(津波でなくなった貝(佐々木)廣氏が平成のはじめに建立に奔走)への献花。おそらく当方も関係者代表の一人としてでやらせていただきます。午後の式典の中でその模様の動画を投影するはずです。
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震災前は式典が碑の前で行われており碑に直接献花、震災後しばらくはかつての健在だった頃の碑の写真に会場内で献花していましたが、昨年から上記のような流れになりました。

式典では、亡き北川太一先生のあとを受けまして、当方、毎年記念講演をさせていただいております。昨年までは光太郎の生涯を時期に分けて紹介して参りました。智恵子の生き様についても聴いてみたいという要望が昨年寄せられ、今年は「智恵子、その生涯」と題してやらせていただきます。
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その後、町内外の方々による光太郎詩文の朗読。おそらくギタリスト・宮川菊佳氏の伴奏に乗せて行われます。

昨年の模様。
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さらに宮川氏、それからオペラ歌手の本宮寛子氏のアトラクション的演奏。本宮氏は平成3年(1991)、女川町で「オペラ智恵子抄」(山本鉱太郎氏脚本、仙道作三氏作曲)が上演された際に智恵子役を演じられ、それ以来女川町に通い続けていらっしゃいます。

終了後は会場近くの町中華さんで懇親会。年に一度お会いする方々が多く、当方としては今から楽しみです。

ご都合のつく方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生も仕事は七十歳からと信念致しまして、目下心身の涵養につとめて居ります。

昭和23年(1948)10月21日 宮崎仁十郎宛書簡より光太郎66歳

仕事」は彫刻。花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らしの中で、発表する作品としての彫刻制作は完全に封印したことが語られています。少し前までは今年こそ少しずつやります、的な感じだったのですが。

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