カテゴリ:文学 > 短歌

6月30日(火)、堺市のさかい利晶の杜さん内のさかい利晶の杜×文豪とアルケミスト企画展 明キ星ヲ繋グ。」を拝観後、与謝野晶子記念館さん常設展示を拝見しました。

前身の「与謝野晶子文芸館」だった頃にお邪魔したことがあるのですが、その翌年にリニューアルされてからは初めてでした。
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常設展示も部分的にいろいろ入れ替えながらやられているようで、コーナー展示では「与謝野晶子と寛(鉄幹)の書」と銘打たれていました。
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明治44年(1911)、夫・寛の外遊資金を捻出するために書かれ、支援者らに買ってもらった「百首屏風」。
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複数点、出ていました。

奥の方は完全な常設展示のようで、寛・晶子夫妻の生涯の紹介など。
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人物相関図的な。
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不肖の弟子(笑)、光太郎も。
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下にモニターがあり、人物を選んで表示させることができます。
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別の場所には、光太郎の心の師・ロダンも。
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光太郎は、明治41年(1908)から翌年にかけてのパリ留学中に展覧会場でロダンに会っていますが、まだ何者でもない自分に気後れを感じたのでしょう、結局、声をかけることができませんでした。その少し前には親友だった荻原守衛は物怖じせずにロダンを訪ねていますし、明治45年(1912)の与謝野夫妻もそうでした。どうも光太郎には人見知り的な一面もあったようです。

晶子の実家の菓子舗、駿河屋を復元したコーナー。
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その脇には、夫妻の主な訪問先等を紹介する巨大なモニター。こちらもタッチパネルで都道府県ごとに検索ができます。これは存じませんでしたが、光太郎第二の故郷・岩手花巻にも夫妻の足跡が残っていました。ただし、夫妻の花巻行は昭和6年(1931)。光太郎が居着く十数年前でした。
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戦後の光太郎もたびたび宿泊した花巻温泉に夫妻の歌碑があるそうで、存じませんでした。

夫妻の足跡は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ青森十和田湖(大正14年=1925)、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市(明治44年=1911と昭和6年=1931)にも残されていますが、そちらは割愛されていました。

常設展示、こんな感じでした。

1階ロビーでは、昔の堺の街並みを再現したジオラマが展示されていたり、さまざまなグッズの販売も行われたりでした。
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ぜひ皆様も足をお運び下さい。

【高村光太郎書誌】

選集等(部分) 14 『現代名詩選(上)』

昭和44年(1969)8月25日 新潮社(新潮文庫) 伊藤信吉編
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目次
 島崎藤村 土井晩翠 与謝野鉄幹 与謝野晶子 河井酔茗 伊良子清白 薄田泣菫
 蒲原有明 石川啄木 北原白秋 三木露風 木下杢太郎 高村光太郎 川路柳虹
 野口米次郎 福士幸次郎 山村暮鳥 武者小路実篤 千家元麿 白鳥省吾 百田宗治
 福田正夫 大手拓次 三富朽葉 竹内勝太郎
 解説 伊藤信吉

巻頭の目次に詳細な表示がありませんが、採録されている光太郎詩は以下の通り。

 失はれたるモナ・リザ 寂寥 冬が来る 冬が来た 道程 秋の祈 小娘
 落葉を浴びて立つ 鉄を愛す 鯰 ぼろぼろな駝鳥 火星が出てゐる 或る墓碑銘
 首の座 上州湯檜曾風景 刃物を研ぐ人 もう一つの自転するもの 蟬を彫る 樹下の二人
 あどけない話 千鳥と遊ぶ智恵子 山麓の二人 レモン哀歌 亡き人に 梅酒
 雪白く積めり 月にぬれた手 女医になつた少女 クロツグミ 十和田湖畔の裸像に与ふ


手持ちのものは昭和61年(1986)の第24刷です。

手前味噌で恐縮ですが、執筆させていただいた書籍です。2月には出ていましたが、ようやくサイトに情報がアップされましたので、このタイミングで。

令和7年度高村光太郎記念館特別展 中原綾子への手紙 高村光太郎発中原綾子宛 書簡集

発行日 : 2026年2月28日
著者等 : 小山弘明監修
版 元 : 花巻市立高村光太郎記念館
定 価 : 1,100円(税込)

高村光太郎記念館受付で販売しています。郵送での販売も行っています。注)郵送での購入については、図録購入申込書をご覧ください。

購入をご希望の方は、申込書に必要事項をご記入のうえ、送料分の切手を同封し、ご送付ください。図録代は、現金または郵便定額小為替でお支払いください。なお、現金でお送りいただく場合は、現金書留をご利用ください。
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目次
 書簡[高村光太郎発、中原綾子宛]
  昭和四年(一九二九)
  昭和六年(一九三一)   昭和九年(一九三四)   昭和十年(一九三五)
  昭和十一年(一九三六)  昭和十二年(一九三七)  昭和十三年(一九三八)
  昭和十四年(一九三九)  昭和十五年(一九四〇)  昭和十六年(一九四一)
  昭和十七年(一九四二)  昭和十九年(一九四四)  昭和二十年(一九四五)
  昭和二十四年(一九四九) 昭和二十五年(一九五〇) 昭和二十六年(一九五一)
  年代不明
 原稿[綾子著書・主宰雑誌へ]
  「惻隠」に寄す  はしがき  みちのく便り  みちのく便り(二)
  みちのく便り(三)  みちのく便り
 参考資料
  通信事項メモ  日記  綾子「第二期明星の頃」  詩集『灰の詩』口絵 書
  綾子「高村先生のお手紙」  綾子歌集『閻浮提』から
  高村光太郎・中原綾子関連略年譜


昨年4月から今年2月にかけ、花巻高村光太郎記念館さんで4期に分けて開催された特別展「中原綾子への手紙」で展示された、光太郎から歌人の中原綾子に宛てた書簡等70点ほどの全点を画像入りで紹介するものです。いつもそう書いていますが、何度見ても光太郎の文字は味があります。
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中原綾子は与謝野晶子門下の歌人です。短歌以外に自由詩の詩集なども遺しています。光太郎とは大正期に与謝野家での歌会で知り合い、光太郎晩年まで断続的に交流が続きました。戦後の7年間、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)や、昭和27年(1952)に移り住んだ中野の貸しアトリエにも綾子は足を運んでいます。

書簡類は一昨年、綾子の令孫から花巻市に寄贈されました。大部分は筑摩書房『高村光太郎全集』に既出のものでしたが、一部、未収録のものも含まれていました。

すべての翻字と、それぞれの背景の解説を執筆させていただきました。『高村光太郎全集』に収める段階では、当会顧問であらせられた北川太一先生が筆写したものから活字にしたのですが、その筆写が誤っていたりするところもあったり、走り書きに近く判読に苦しむ文字があったりでした。その作業中、何だか集中力が途切れて当方も誤写し、花巻市の担当の方に「ここはこうじゃありませんか?」と指摘され、「ああ、たしかに」と訂正する箇所も多く、赤面しきりでした。

書簡の中で特筆すべきは、昭和10年(1935)前後の心を病んだ智恵子の具体的な病状を記した一連のもの。光太郎は親友だった水野葉舟にも同様の書簡を送りましたがその数は少なく、綾子にあてたものはかなりの分量です。そのため、光太郎智恵子の研究書などの類によく引用され、いわば『智恵子抄』裏面史のような感じで扱われています。

例えば、

ちゑ子の病状悪化とで殆と寧日なく今年も既になくならうといたして居ります、ちゑ子の狂気は日増しにわろく、最近は転地先にも居られず、再び自宅に引きとりて看病と療治とに尽してゐますが連日連夜の狂暴状態に徹夜つづき、さすがの小生もいささか困却いたして居ります、何とか方法を講ずる外ないやうに存じます、
(略)
此を書いてゐるうちにも ちゑ子は治療の床の中で出たらめの嚀語を絶叫して居る始末でございます、
看護婦を一切寄せつけられぬ事とて一切小生が手当いたし居り 殆と寸暇もなき有様です、
(昭和9年=1934 12月28日)

一日に小生二三時間の睡眠でもう二週間ばかりやつてゐます、病人の狂躁状態は六七時間立てつづけに独語や放吟をやり、声かれ息つまる程度にまで及びます、拙宅のドアは皆釘づけにしました、往来へ飛び出して近隣に迷惑をかける事二度。器物の破壊、食事の拒絶、小生や医師への罵詈、薬は皆毒薬なりとてうけつけません、今僅かに諸岡存博士の発熱療法といふのにたよつてゐます、もう三回注射しました、注射すると熱が四十度近く出て、其で幾分でも恢復の途につくのだといふ事です、まだ効果は見えませんが四五回はやつてみるつもりです、(昭和10年=1935 1月8日)

チヱ子は今日は又荒れてゐます、アトリエのまん中に屹立して独語と放吟の法悦状態に没入してゐます、さういふ時は食物も何もまつたくうけつけません、私はただ静かに同席して書物などよんでゐます、仕事はまつたく出来ません、(昭和10年=1935 1月22日)

チヱ子もさびしく病室に孤坐してひとり自分の妄想の中にひたりこみ、相変らず独語をくり返してゐる事でせう、先日あつた時わりに静かにはしてゐるものの、家に居る時と違つて如何にも精神病者らしい風姿を備へて来たのを見て実にさびしく感じました、まはりに愛の手の無いところに斯ういふ病人を置く事を何だか間違つた事のやうに感じました、 仕事といふ使命さへ無ければ一生をチヱ子の病気の為に捧げたい気がむらむらと起ります、チヱ子、チヱ子と家でくりかへし呼びます(昭和10年=1935 3月12日)

などなど。

いわゆるジェンダー系の論者やその信奉者は、こういう内容が細かく書かれていないので詩集『智恵子抄』は嘘くさい、きれいすぎる、生身の智恵子が居ない、などとほざいています。

反論は幾らでもできます。まず、いくら「詩は心の叫びだ」などといったところで、こういう内容をわざわざ詩に細かく書く必要があるのか、ということ。

また、光太郎はもし智恵子の心の病が寛解した際、心の病に関する光太郎の文筆を読んだらどう思うだろうかということを、光太郎は気にしていました。綾子がそれを指摘し、「なるほど」と思ったようです。

先日お送りした短詩について発表の御心配をうけ、小生まるで気がつかなかつた事なので成程と思ひました、
(略)
小生はまるで気がつきませんでしたが智恵子が全快でもしたあとでそれを見たら変なものだろうとも考へました、(昭和10年=1935 2月8日)

「先日お送りした短詩」は、初めて智恵子の心の病を謳った「人生遠視」です。

それでも少し後には結局、智恵子の心の病を中心にした詩を書いています。「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「山麓の二人」など。白眉というべきは「値(あ)ひがたき智恵子」。

  値(あ)ひがたき智恵子無題

 智恵子は見えないものを見、
 聞えないものを聞く。

 智恵子は行けないところへ行き、
 出来ないことを為(す)る。

 智恵子は現身(うつしみ)のわたしを見ず、
 わたしのうしろのわたしに焦がれる。

 智恵子はくるしみの重さを今はすてて、
 限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出た。

 わたしをよぶ声をしきりにきくが、
 智恵子はもう人間界の切符を持たない。

浅い読み方しかできない人は、この象徴的な詩句の一言一言の裏側にどれだけ深い光太郎の苦悩があるのかが見えないのでしょうね。

「参考資料」の項には、綾子の光太郎に関する文筆も収めました。特にいいなと思ったのは、綾子歌集『閻浮提(えんぶだい)』(昭和35年=1960)に載った短歌。60首ほどが光太郎がらみで、旧太田村の山小屋を2度訪れた際のもの、東京にいて光太郎の詩集『典型』(昭和25年=1950)を読んで戦前を思い出した詠、そして昭和31年(1956)の光太郎の死に際しての挽歌。

いくつか引いてみます。

 おどろきてわれを見たまふ先生にもの言はざるは泣かざらんため

 畏みて高村翁と人は言へわれには若き光大郎先生20250321_131554

 さよならと手を振りたまふ先生にべそかける顔をふりむけにけり

 先生を岩手の山の一つ家に閉ぢこむる雪の都にも降る

 先生のアトリエ焼けてわが知らぬ他人の家の建ちてありけり

 駒込の林町二十五番地にわがなつかしき昔は残る

 先生の小屋の屋根見ゆ萩すすき 野菊なんどは踏みしだき急ぐ

 高村光太郎 死す てふ文字が眼に痛し氷の山に月照れるごとし

 壇上に白木の柩ひとつありて森林の気は四囲をこめたり(告別式にて)

また、綾子詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)に口絵として載った光太郎色紙の画像なども。

花巻市役所の生涯学習部生涯学習課生涯学習係さんに申し込めば送って下さるそうです。ぜひお買い求め下さい。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 43『高村光太郎詩集』

平成14年(2002)3月13日 高村記念会 高村光太郎著 北川太一編
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目次
 『道程』
  失はれたるモナ・リザ 根付の国 声 廃頽者より 父の顔 泥七宝(抄) 友の妻
  人に 涙 おそれ さびしきみち 或る宵 郊外の人に 人類の泉 よろこびを告ぐ
  冬が来た 牛 道程 秋の祈 雨にうたるるカテドラル 米久の晩餐 クリスマスの夜
  鉄を愛す とげとげなエピグラム(抄)
 『猛獣篇』とその時代
  清廉 白熊 傷をなめる獅子 鯰 象の銀行 苛察 ぼろぼろな駝鳥 象 森のゴリラ
  氷上戯技 車中のロダン 火星が出てゐる 冬の奴 花下仙人に遇ふ 母をおもふ
  冬の言葉 当然事 さういふ友 上州湯桧曽風景   孤独が何で珍らしい 刃物を研ぐ人
  耳で時報をきく夜 レオン ドウベル もう一つの自転するもの ばけもの屋敷 荻原守衛
  堅冰いたる 手紙に添へて 孤坐 つゆの夜ふけに お化け屋敷の夜
  銅像ミキイヰツツに寄す へんな貧 蝉を彫る 独居自炊 美しき落葉
 『智恵子抄』
  樹下の二人 あなたはだんだんきれいになる あどけない話 同棲同類
  美の監禁に手渡す者 人生遠視 山麓の二人 風にのる智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子
  値ひがたき智恵子 レモン哀歌 荒涼たる帰宅 梅酒 松庵寺 元素智恵子
  メトロポオル 裸形 案内 あの頃 吹雪の夜の独白
 『典型』
  雪白く積めり 「ブランデンブルグ」 人体飢餓 月にぬれた手 山荒れる 典型
  クチバミ 大地うるはし 十和田湖畔の裸像に与ふ 弦楽四重奏 生命の大河
 年譜

昭和44年(1969)、旺文社文庫版『高村光太郎詩集』を定本に、四六判で出されたものです。当時の高村記念会(現・花巻高村光太郎記念会)さんの刊行です。現在も花巻高村光太郎記念館さんで販売中です。

手元にあったはずなのですが見当たりませんで、失念しておりました。

大阪から企画展示情報です。

さかい利晶の杜×文豪とアルケミスト企画展 明キ星ヲ繋グ

期 日 : 2026年6月27日(土)~9月6日(日)
会 場 : さかい利晶の杜 大阪府堺市堺区宿院町西2丁1番1号
時 間 : 9:00~18:00
休 館 : 7月21日(火)、8月18日(火)
料 金 : 大人 300円 高校生 200円 中学生以下無料

明治33年(1900)に与謝野鉄幹によって文学美術雑誌『明星』が刊行され、石川啄木、北原白秋、吉井勇などの若い歌人たちの才能を開花させました。本展では、その『明星』に関わりが深い5人の文豪に焦点をあて、直筆資料や作品集などの展示とともに、彼らの作品をパネルで紹介します。また、「文豪とアルケミスト」とのタイアップ展示として、キャラクターの等身大パネルも展示します。

展示内容とみどころ
① 歴史的資料・文学作品の展示(すべて堺市博物館蔵)
 与謝野鉄幹・晶子合筆掛軸(1934年)
 与謝野鉄幹・晶子合筆歌 貼交屏風 二曲一双(1931年以降)
 北原白秋 歌集「桐の花(初版)」(1913年)
 石川啄木 歌集「悲しき玩具(再版)」(1912年)
 高村光太郎 自筆原稿「短歌の言葉」および原稿「自伝」(1955年)
 吉井勇 与謝野晶子原稿「朝の客」(題字:吉井勇)
② 「文豪とアルケミスト」タイアップ展示・特典
 キャラクターパネル: 対象文豪5名の等身大キャラクターパネルを館内に設置。
 限定グッズ販売: さかい利晶の杜でしか手に入らない「限定アクリルスタンド」を販売。
 来場者特典(数量限定): 公式InstagramまたはX(旧Twitter)の本企画展に関する投稿を
 リポスト(リツイート)した画面を提示すると、先着で「限定しおり」が無料配布されます
 (無くなり次第終了)。
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関連イベント
 ■こども向け 絵本よみきかせ
  *日 時* 7月20日(月・祝)10:20~10:50/11:30~12:00
  *会 場* 茶室広間 ※靴下の着用が必要です
  *参加費* 無料
  *申込み* 不要、0歳児~参加OK ※読む絵本は、4歳以上の向けのものとなります
  *出 演* 声の表現 ハミングプロ代表:千代(せんだい) 真由美氏
 ■大人向け 朗読会
  *日 時* 8月11日(火・祝)10:30~11:30
  *会 場* 茶室広間 ※靴下の着用が必要です
 *参加費* 無料
 *申込み* 7月1日(水)9:00より申込み開始(先着30名)
 *出 演* 山根基世の朗読指導者養成講座修了生:藤本えり氏、望月えみこ氏

文京区立森鷗外記念館さんで開催中の特別展「近代文学でよむ文(ふみ)の京(みやこ)の坂と名所」などもそうですが、ゲーム「文豪とアルケミスト」とのタイアップ企画。各地の文学館さんなどで同様の企画がこれまでにも多数。花巻高村光太郎記念館さんと宮沢賢治記念館さんなど4館でも、令和4年(2022)にスタンプラリーの形で実施されました。ただ、キャラクターの多いゲームですので、いつもいつも光太郎が取り上げられるわけではありません。

今回は、与謝野夫妻を祀るさかい利晶の杜さんが会場ということで、夫妻に師事し、第一期『明星』によった光太郎、北原白秋、石川啄木、吉井勇が取り上げられます。

光太郎に関しては自筆原稿の展示だそうですが、「「短歌の言葉」および原稿「自伝」(1955年)」とあります。「自伝」の方は、おそらく創元社の『全詩集大成日本詩人全集』第2巻に収められた散文でしょう。筑摩書房『高村光太郎全集』第8巻に収録されています。原稿の現物は見たことがありません。
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もう1点の「短歌の言葉」というのがよくわかりません。「高村光太郎全集」等でそういう題名の作品は載っていません。もしかすると色紙や軸装されていないマクリの状態の書かな、という気もしていますがはっきりしたことは何とも……。

追記 「短歌の言葉」は光太郎ではなく与謝野寛のものでした。誤記されていたあるサイトを鵜呑みにしていました。

これは見に行くしかないかな、と思っております。皆様方も是非どうぞ。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 46 『高村光太郎選書』ミニブックスシリーズ

平成18年(2006)7月19日 リベラル社 高村光太郎著
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目次
 人に 深夜の雪 僕等 道程 樹下の二人 あなたはだんだんきれいになる 母をおもふ
 あどけない話 もう一つの自転するもの 値ひがたき智恵子 山麓の二人 レモン哀歌
 亡き人に 梅酒 最低にして最高の道 荒涼たる帰宅 報告(智恵子に) 若しも智恵子が
 女医になつた少女 山からの贈物 月にぬれた手 元素智恵子 メトロポオル 案内
 あの頃
 語句註
 高村光太郎の略歴

「ミニブックスシリーズ」の1冊で、その名の通り文庫本より小さい14.5×8.5㌢です。「豆本」というほどではありませんが。

昨日は上京しておりました。2日に分けてレポートいたします。

メインの目的が、吉祥寺の武蔵野商工会議所さんで開催された「第20回明星研究会 与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「晶子短歌の全貌を見渡す~『みだれ髪』から『白桜集』まで」。
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明星研究会さんでは年2回、研究発表会を開催されていますが、1回はこの時期で、5月29日の与謝野晶子忌日・白桜忌に合わせての設定です。

会場での対面型と、Zoom使用によるオンライン開催でしたが、会場の方でも100名近く集まられたでしょうか。
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ご発表はお三方の歌人。それぞれが「明治」「大正」「昭和」を担当され、それぞれの時期の晶子短歌を中心に、さらに事蹟や社会情勢などを追ったものでした。

まず古谷円氏。演題は「明治の晶子、ほとばしる豊かな抒情『みだれ髪』~『青海波』」。
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晶子がはなばなしくデビューした明治期ですが、「恋」を一つのキーワードにその時期を。ただ、歌集の中で晶子が「恋」の語を多用したのは、実は明治期より大正期だったそうですが。また、かの『みだれ髪』についても、晶子自身、後になって「取るにたらないものだった」的な自作評をしていたというあたり、興味深いものでした。
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光太郎も第一詩集『道程』(大正3年=1914)については、同じようなことを語っています。

「道程」の構成がいはゆる詩集のやうでなくて、むしろ一つの雑綴のやうであるといふ 人もあるが、その通りである。当時私は世人のいふ詩集といふ特殊観念に鼻もちがならず、(詩集にガラスの宝石をちりばめるといつたやうな観念だ。)ただ製作順に自己の詩を並べて、注意深い読者におのつから筆者内面のエヴオリユウシヨンを見てもらはうとしたのである。それ故、装幀も無装飾、まるで違つたカテゴリイに属する詩篇も平気で並べたのである。お上品な、いはゆる詩人気質の好きな人は始から「道程」などを手に取らない方がいい。(「某月某日」昭和16年=1941)

ただ、ここにはある種の自負心は感じられますが。

続いて米川千嘉子氏が、「大正の晶子、人生にわたる浪漫『夏より秋へ』~『瑠璃光』」と題してのご発表。
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晶子というと「明治の歌人」というイメージがありますが、最も旺盛に執筆や出版を行っていたのが大正期ということで、さらに夫の寛との関係性の変化、生活上の苦労、明治期と異なる様々なモチーフ(滞欧体験、連作の試み、羈旅歌的な作他)や新たなジャンル(感想集、評論集、『源氏物語』訳、自由詩など)への挑戦といったお話。

智恵子の先輩にして『青鞜』主宰だった平塚らいてう等とのいわゆる「母性保護論争」などについても言及されました。

トリの松平盟子氏で、「昭和の晶子、その変節と不変『心の遠景』~『白桜集』」。
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昭和2年(1927)に与謝野家は荻窪に移り、同10年(1935)に寛、そして同17年(1942)に晶子が逝去。いわば晩年ですね。この頃になると晶子の作品発表先が、主宰していた雑誌『冬柏』は別として、『横浜貿易新報』などに限られていたというお話など。晶子自身も現場近くに居たという、関東軍による張作霖爆殺事件(昭和3年=1928)以後、満州事変(同6年=1931)、日中戦争(同12年=1937)と推移していく世情の中で、ある意味、かつての晶子スタイルの作は世の中にとって不要とされていくさまなど。

そして晶子も翼賛的歌文を書くように。松平氏、昭和9年(1934)の散文集『優勝者となれ』序文の一節を引かれていました。

 目前の日本は、国家としても、個人としても、破天荒の飛躍を断行しつつ、歴史を新しくする一大転機の中に動いてゐる。無用の旧憤、有害なる前例は之を破らねばならぬ。すべての人が各自の能力相応に日本の進転を円滑にする歯車の一つとして国民の本文を尽さねばならぬ。(略)この一大転機に歓呼して進む日本人は、もとより百難千苦の抵抗を前途に覚悟してゐる。

どこぞの大統領と会ってぴょんぴょん跳びはねた愚物が涙を流して有り難がるような文章ですね。

また、遡って昭和7年(1932)には、昭和とは思えないような文語定型の翼賛詩も発表しています。これは存じませんでした。
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昨年亡くなった晶子研究の泰斗・逸見久美氏はこのあたり、寛の代筆ではないかとおっしゃっていたそうです。さもありなん、ですね。

休憩を挟んで、最後に発表のお三方が揃ってご登壇なさり「まとめ 人生の歓喜も悲哀も詠み尽くすということ」。
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ちなみにスクリーンの下に写っている茶髪はシャンソン系歌手のモンデンモモさんです。2週間ぶりに会いました(笑)。荻窪の晶子顕彰団体・杉並与謝野晶子研究会さんに所属されているそうです。そういえば昨冬、当方が発表を仰せつかった「第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ」にもいらしていました。少し前から晶子短歌モチーフの曲を作られ、歌われているそうで。

関係の皆様のますますのご活躍、そして晶子研究のさらなら進展を祈念いたし、都内レポートその1、終わります。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 28 『日本の詩歌 10 高村光太郎』中公文庫

昭和49年(1974)9月10日 中央公論社 編集委員 伊藤信吉/伊藤整/井上靖/山本健吉
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目次
 道程
  失はれたるモナ・リザ 生けるもの 根付の国 画室の夜 食後の酒 寂寥 声
  新緑の毒素 廃頽者より 髪を洗ふ女 なまけもの 手 地上のモナ・リザ 父の顔
  泥七宝 犬吠の太郎 さびしきみち 冬が来る 夜 狂者の詩 山 よろこびを告ぐ
  冬が来た 冬の詩 牛 道程 群集に 万物と共に踊る 五月の土壌 秋の祈 失走
  白昼の空気 あたり前 PRÉSENTATION  秒刻 マデル 豆腐屋
 道程以後
  わが家 花のひらくやうに 海はまろく 湯ぶねに一ぱい 晴れゆく空 無為の白日
  小娘 丸善工場の女工達 雨にうたるるカテドラル ラコツチイ マアチ 米久の晩餐
  クリスマスの夜 下駄 冬の送別 沙漠 落葉を浴びて立つ とげとげなエピグラム
  新茶
 猛獣篇
  清廉 白熊 傷をなめる獅子 狂奔する牛 鯰 象の銀行 苛察 ぼろぼろな駝鳥 竜
 猛獣篇時代
  聖ジヤンヌ 秋を待つ 火星が出てゐる 冬の奴 怒 花下仙人に遇ふ 母をおもふ
  その年私の十六が来た 詩人 偶作 平和時代 寸言 或る墓碑銘 冬の言葉 当然事
  さういふ友 あの音 夏書 焼けない心臓 街上比興 上州湯桧曽風景 或る筆記通話
  無題 激動するもの 上州川古「さくさん」風景 或る親しき友の親しき言葉に答ふ
  孤独が何で珍しい のつぽの奴は黙つてゐる 機械、否、然り 友よ 霧の中の決意
  非ヨオロツパ的なる もう一つの自転するもの ばけもの屋敷 お化け屋敷の夜
  つゆの夜ふけに
 造型篇
  五月のアトリエ 鉄を愛す 月曜日のスケルツオ 車中のロダン 後庭のロダン 葱
  美を見る者 最後の工程 首の座 刃物を研ぐ人 似顔 村山槐多 鯉を彫る 荻原守衛
  孤坐 蝉を彫る 十和田湖畔の裸像に与ふ 偶作
 独居自炊
  秋風辞 地理の書 銅像ミキイヰツツに寄す へんな貧 最低にして最高の道
  百合がにほふ 手紙に添へて 新緑の頃 氷上戯技 晴天に酔ふ 独居自炊 われらの道
  美しき落葉 石くれの歌 春駒
 智恵子抄
  人に 涙 おそれ からくりうた 或る宵 郊外の人に 冬の朝のめざめ 深夜の雪
  人類の泉 人に 僕等 愛の嘆美 晩餐 樹下の二人 金 夜の二人
  あなたはだんだんきれいになる あどけない話 同棲同類 美の監禁に手渡す者
  人生遠視 風にのる智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子 値ひがたき智恵子 山麓の二人
  レモン哀歌 亡き人に 梅酒 荒涼たる帰宅 うた六首 もしも智恵子が 元素智恵子
  メトロポオル 裸形 案内 あの頃 吹雪の夜の独白 噴霧的な夢 松庵寺
  智恵子と遊ぶ
 典型
  雪白く積めり
  暗愚小伝
   家
    土下座 ちよんまげ 郡司大尉 日清戦争 御前彫刻 建艦費 楠公銅像
   転調
    彫刻一途 パリ
   反逆
    親不孝 デカダン
   蟄居
    美に生きる おそろしい空虚
   二律背反
    協力会議 真珠湾の日 ロマン ロラン 暗愚 終戦
   炉辺
    報告 山林
  「ブランデンブルグ」  人体飢餓 悪婦 月にぬれた手 鈍牛の言葉 典型
  田園小詩
   山口部落 かくしねんぶつ クロツグミ クチバミ 別天地 ヨタカ
  女医になつた少女 山の少女 山のともだち 餓鬼 わが詩をよみて人死に就けり
 詩人の肖像 山本健吉
 鑑賞 伊藤信吉
 年譜 

刊行された単行詩集の配列をもとにした編集です。文庫本としては異例の多くの作品を掲載し、さらに一篇ごとに伊藤信吉による的確な解説文が附されています。残念ながら絶版ですが。

手持ちのものは平成3年(1991)の9版です。

直接は光太郎智恵子等に関わらないでしょうが……。

第20回明星研究会 与謝野寛・晶子を偲ぶ会 「晶子短歌の全貌を見渡す~『みだれ髪』から『白桜集』まで」

期 日 : 2026年5月31日(日)
会 場 : 武蔵野商工会議所 東京都武蔵野市吉祥寺本町1-10-7
      Zoom オンライン (定員100名)
時 間 : 14:00~16:30
料 金 : 2,000円
主 催 : 明星研究会
共 催 : 与謝野晶子倶楽部
協力・後援 : 国際啄木学会 落合直文顕彰会 日本現代詩歌文学館 平出修の会 
        劇団青年座

明星研究会の「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」は、本年で20回を迎えます。それを記念して、晶子が生涯に詠んだ短歌を、23冊の詩歌集を中心に総合的に検証したいと思います。

晶子は明治・大正・昭和の3つの時代を生きました。それは近代と呼ばれる時空を心身に引き受けながら、内なる真実を追い求め、歌い続けることでもありました。恋にとどまらぬ多様なテーマを詠んだ晶子が、年齢・環境の変化をとおして成熟変貌していった経緯も見直したいところです。

今回は3人の歌人が迫ります。多くの皆さまのご参加をお待ちしています。

 ●プログラム●
 ①14:00~14:05 開会あいさつ
 ②14:05~14:45 
  講演「明治の晶子、ほとばしる豊かな抒情『みだれ髪』~『青海波』」古谷円
 ③14:45~15:25
  講演「大正の晶子、人生にわたる浪漫『夏より秋へ』~『瑠璃光』」米川千嘉子
 ④15:25~16:05
  講演「昭和の晶子、その変節と不変『心の遠景』~『白桜集』」松平盟子
 【休 憩】
 ⑤16:15~16:30
  まとめ「人生の歓喜も悲哀も詠み尽くすということ」古谷・米川・松平
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光太郎が『明星』出身ということで、明星研究会さんでは2度ほど発表もさせていただき、片足を突っ込んでいる状態です。事務局の仕事をやってくれ的なことも言われているのですが逃げ回っているところもあります(笑)。

今回は20回記念。「晶子が生涯に詠んだ短歌を、23冊の詩歌集を中心に総合的に検証」だそうです。

23冊中、『傑作歌選別輯高村光太郎与謝野晶子』(大正4年=1915)は2人の共著、また、『青海波』(明治45年=1912)の扉題字と扉絵、『白桜集』(昭和17年=1942)では光太郎が序文を担当しています。
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また、「23冊」に入っているかどうか不分明ですが、『晶子短歌全集 第三巻』(大正9年=1920)には挿画も。
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それから「23冊」中では晶子が光太郎に触れた箇所、光太郎作品の引用や評釈なども実に数多く。今回のどなたかのお話に、そういったことが少しでも含まれれば、とは思っております。

Zoomでのオンライン参加も用意されています。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 22 『高村光太郎詩集』

昭和44年(1969)1月10日 白鳳社 高村光太郎著 浅野晃編
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目次
 人に 
さびしきみち 郊外の人に 冬の朝のめざめ 山 冬の詩 牛 僕等 道程 秋の祈
 わが家 丸善工場の女工達 雨にうたるるカテドラル 米久の晩餐 クリスマスの夜
 落葉を浴びて立つ 樹下の二人 鉄を愛す 春駒 白熊 傷をなめる獅子 車中のロダン
 無口な船長 後庭のロダン 葱 鯰 象の銀行 夜の二人 聖ジヤンヌ 火星が出てゐる
 あなたはだんだんきれいになる 二つに裂かれたベエトオフエン 花下仙人に遇ふ
 母をおもふ 冬の言葉 ぼろぼろな駝鳥 当然事 あどけない話 同棲同類 旅にやんで
 首の座 上州湯桧曽風景 或る親しき友の親しき言葉に答ふ 刃物を研ぐ人 南極
 風にのる智恵子 荻原守衛 千鳥と遊ぶ智恵子 値ひがたき智恵子 晴天に酔ふ
 
手紙に添へて 潮を吹く鯨 地理の書 山麓の二人 レモン哀歌 芋銭先生景慕の詩
 亡き人に 銅像ミキイヰツツに寄す 冬 へんな貧 蝉を彫る 梅酒 山林
 
「ブランデンブルグ」 山口部落 クロツグミ ヨタカ 岩手の人 もしも智恵子が
 女医になつた少女 山の少女 山からの贈物 月にぬれた手 元素智恵子 メトロポオル
 典型 東北の秋 十和田湖畔の裸像に与ふ
 
詩人の生涯(神保光太郎)
 鑑賞ノート(鈴木亨)
 年譜
 索引

ほぼ編年体の構成。函入りの上製本(愛蔵版)と、白いカバーの並製本が存在します。手持ちのものは昭和49年(1974)の第6刷です。

昨日ご紹介した旺文社文庫の『高村光太郎詩集』と順番が前後していました。すみません。

短歌系の話題で2件。

まずは1月14日(水)に皇居・宮殿「松の間」で開かれた歌会始の儀に関連して、『福島民友新聞』さんから。

「空がきれい」亡き妻の言葉歌に…歌会始、福島の86歳佳作

007 新春恒例の「歌会始の儀」が14日、皇居・宮殿「松の間」で開かれた。題は「明」で、天皇、皇后両陛下や皇族、一般の入選者10人の歌が独特の節回しで披露された。天皇陛下は、新たな年の平安を祈った時の気持ちを詠まれた。昨年9月に成年式を終えた秋篠宮家の長男悠仁さまは初めて出席した。
 福島県内関係では、福島市の逸見征勝さん(86)が詠んだ「退院にあらず転医の道すがら『空がきれい』と妻は明るし」が佳作に選ばれた。逸見さんは2019年に初入選して以来の応募で、24年に亡くなった妻静子さんとの日常を歌にした。
 逸見さんは「図らずも妻にささげる歌になった。ご厚意に感謝する」と喜ぶ。
 登山好きで長年「山」を短歌にし続け、吾妻山を歌った19年の歌会始で初入選した。しかしこの後、静子さんが倒れ、リハビリ生活に。「そんな中、妻が空を見て『きれい』と言った。この言葉を歌にしたかった」。気丈な静子さんの姿がお題の「明」に重なった。自身もここ数年で足腰を痛め、リハビリのため通院する日々を送る。山や短歌から遠のいた。応募は19年以来。
 きっかけは知人が持ってきた今年の歌会始の募集記事だった。作品を練る中で、妻の何げない一言が思い出されたという。
 「山にこだわってきたが、生活の変化に合った短歌を詠みたい」。共にリハビリに励む仲間との時間をはじめ、日常の一こまを歌にしようと思いを巡らせる逸見さん。創作意欲に火を付けてくれた静子さんに「ヒントをありがとう」と口にした。

佳作に選ばれた短歌、直接光太郎智恵子に関わるわけではありませんし、作者の方がそれを意識していなかったのではとも思いますが、「福島」「空」「山」「病妻」といったキーワードから、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)が彷彿とさせられるものですね。あと一歩及ばず「佳作」ということで、皇居・宮殿「松の間」でのご本人による披露には至りませんでしたが。

平成25年(2013)の歌会始では、やはり福島の方が「安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む」という歌で入選され、「(高村光太郎の)『智恵子抄』にうたわれたように、安達太良山の上には福島の本当の空がある。津波の影響や原発の問題がある中、福島のよさを知ってもらおうと歌を作りました」とのコメントを発表されました。それが頭にあったので、今回の方の作にも一脈通じるものがあるなと思った次第です。

続いてNHK財団さん、NHK厚生文化事業団さん主催の「新・介護百人一首」。2ヶ月前の話ですが、発表された入選作中の一首に、こちらは完全に「智恵子抄」の語。

「新・介護百人一首2025」入選作品100首が決定!

 このたび、皆さまからたくさんのご応募をいただきました「新・介護百人一首2025」につきまして、厳正なる選考の結果、入選作品100首が決定いたしました。
 入選作品100首は、こちら→(2025 入選作品100首)よりご覧いただけます。ぜひ「介護する」「介護される」中で感じた思いが込められた短歌をお楽しみください。
 今回も全国から 5,840人の皆さまより、合計 12,943首の短歌が寄せられました。ご応募いただいた皆さま、誠にありがとうございました。
 なお、入選作品を収めた作品集は 2026年2月頃 に発行し、応募者の皆さまへ進呈する予定です。
 これからも「新・介護百人一首」にご注目ください。
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百首に選ばれたうちの一首がこちら
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手を振りてデイサービスに妻は行き静かになりて智恵子抄読む」。歌会始の福島の方の作品に通じる内容。これも福島の方の作歌だったら出来過ぎかなと思いましたが、茨城県の方の作品です。

どちらの歌も、作者の方の姿に光太郎が重なって見えます。光太郎の場合は智恵子に対し「介護」ではなく「看護」でしたが。

それにしても、いずれこうした立場になることもあり得るな、と思いました。逆も然りです。心の準備はしておきたいものですね。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)34 『印象主義の思想と芸術』 筑摩選書

昭和24年(1949)8月5日 筑摩書房 高村光太郎著
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目次
 一 概観  二 エドワール マネ  三 クロード モネ及び新印象派画家
 四 アルフレ シスレー  五 カミーユ ピサロ  六 オーギユスト ルノワール
 七 エドガー ドガ其他  八 ポール セザンヌ 附 後期印象派
 九 附言  年表

昨日ご紹介した『造型美論』とセットで、戦時中の昭和17年(1942)に厚冊のハードカバーで出された『造型美論』を、2分割してペーパーバック化したうちの一冊です。「印象主義の思想と芸術」は、元々は大正4年(1915)に単体で刊行されたものでしたが、昭和17年(1942)の『造型美論』に組み入れられ、そしてまた切り離されて刊行されました。

光太郎第二の故郷・岩手花巻から。

まずは1月15日(木)発行の『広報はなまき』。毎月15日発行分には最終ページに「花巻歴史探訪[郷土ゆかりの文化財編]」という連載が為されており、市の施設などに所蔵されている逸品の数々が紹介されています。光太郎に関しても時折取り上げられ、今号も。
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一昨年にご遺族から市に寄贈された、与謝野晶子の弟子にして主に第二期『明星』に依った歌人の中原綾子に宛てた光太郎書簡のうちの一通です。

歌人・中原綾子宛のはがき 太田村山口から発出

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。昭和20年4月の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は、同年5月、宮沢賢治の実家に疎開しました。敗戦後の同年10月には、太田村(当時)の山口地区に移住し、粗末な山小屋(現在の高村山荘)で7年間一人暮らしをしました。
 このはがきは、昭和26年3月に、光太郎が歌人・中原綾子宛てに2枚続けて出したはがきの1枚です。肋間(ろっかん)神経痛に悩まされ、1カ月ほど花巻病院長宅や温泉で療養したことが書かれています。花巻病院長とは、宮沢賢治の主治医でもあった佐藤隆房のことです。佐藤は、光太郎の花巻疎開にも尽力し、光太郎没後は財団法人高村記念会を設立。光太郎が住んだ「高村山荘」の保存と光太郎の顕彰に力を注ぎました。
 使われているのは昭和26年の年賀はがきですが、光太郎は3月に使っています。ちなみに、お年玉くじ付き年賀はがきは、昭和25年から始まりました。

◎特別展「中原綾子への手紙」
 ■会期…2月28日(土)まで
《同時開催》 ◎高村光太郎花巻疎開80年企画展「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」
 ■会期…3月31日(火)まで


記事にあるとおり、花巻高村光太郎記念館さんで特別展「中原綾子への手紙」が開催中ですが、寄贈された書簡がかなりの量なので、4期に分けての展示です。今回紹介されたものが現在出ているかどうかは不明です。

ちなみに文面は以下の通り。001

おてがみ忝くいただきました。小生今冬
は旧臘おしせまつてから肋間神経痛と
いふものにやられ、中々ひどく字も書けない
位でした。それで一カ月近く、山を不在に
して花巻病院長私宅や温泉に行つて
ゐました。山に帰つてからも痛みはまだ
治らず、雪道歩行困難なので引籠つて
ゐます。不在中の郵便物山積、整理
もつかず、又筆とるのが苦手なので爾
来諸方に御無音失礼してゐます。
御恵贈の小包はたしかに年末年始の頃
無事落手しまして、いろいろ珍らしくいた
だきましたが、発病当時の事とて、つい
其由申上げずにそのままだつたものと思へます
ツヅク

この年の光太郎は結核性の肋間神経痛に悩み、それまで行っていた農作業もほぼ放棄するほど症状が悪化していました。ただ、翌年になると小康状態を得ることになります。 「花巻病院長」は佐藤隆房。宮沢賢治の主治医で、その詩「S博士に」のモデルとしても知られています。宮沢家ともども光太郎の花巻疎開に尽力、宮沢家が昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲で全焼した後、郊外旧太田村に移るまで約1ヶ月間、光太郎を自宅離れに仮寓させてもくれました。「温泉」は隣村・湯口村(現・花巻市)の大沢温泉さんです。

同展についてはこちら。

花巻レポート 高村光太郎記念館特別展「中原綾子への手紙」他。
『広報はなまき』8月15日号。
東北地方紙記事等。

寄贈された書簡の全文を翻字し、画像や解説をつけて図録的な書籍として出版する企画が進行中です(執筆を担当しています)。2度ほどゲラの確認を致しましたが、翻字にしても解説文にしても我ながら誤字脱字が多く「バカか、お前は」と自分で自分を叱りたくなっております(笑)。wordで原稿を作成したのですが、普段使い慣れていないせいかもしれません。そちらに関してはまた改めてご紹介いたします。

さて、特別展「中原綾子への手紙」、2月28日(土)までです。同時開催の「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」ともども、よろしくお願い申し上げます。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)20 『美について』

昭和16年(1941)8月20日 道統社 高村光太郎著
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目次
 詩精神 国民的美意識 芸術と国民生活 永遠の感覚 奉祝展に因みて 彫刻家の場合
 美の健康性 芸術上の良知 自分と詩との関係 肖像雑談 言葉の事 美 書について
 気について 比例均衡 美意識について 小刀の味 彫刻新人展評 一彫刻家の要求
 詩人の知つた事ではない 日本語の新しい美 七つの芸術 童謡、民謡、小唄 冬二題
 触目いろいろ 生きた言葉 触角の世界 楽聖をおもふ 日本工業美術界に望む 
 彫刻的なるもの 或る音の幻想 自刻木版の魅力 美の立場から 裸体画について 家
 彫刻鑑賞の第一歩 バーナード・リーチを送る 芸術鑑賞その他 ホヰトマンのこと
 岩石のやうな性格 ロダン逝く 芸術雑話 ガツトソン・ボーグラム先生 芭蕉寸言

さまざまな雑誌等に発表された美術評論、文芸評論の集成で、奥付に依れば『智恵子抄』と同じ日の刊行です。昭和17年(1942)8月31日の第10版まで確認できています。手持ちのものは昭和16年(1941)9月15日の2刷です。

目次部分に誤植が多く、「日本語の新しい美」は「日本語の新しい美を」と「を」が抜けていますし、「ホヰトマン」は「ホヰツトマン」、また、「触角」は「触覚」です(光太郎は昆虫ではありません(笑))。

昨日は上京、「第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ」に出演しておりました。
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会場は御茶ノ水のワイム貸会議室さんでしたが、zoomによるオンラインでの同時配信も行われました。
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カメラで司会者・発表者の顔を写す部分、パワーポイントのスライドショーとも連動させての部分もある配信だということで、時代は進んでいるんだなぁ、という感じでした。このあたりの新技術や風潮が広まったのだけは、コロナ禍による良かったことだと思います。

当方を含む3人の発表。

まずは大阪堺の与謝野晶子記念館学芸員・森下明穂氏。「与謝野晶子 美しい本の世界へ」と題してのご発表でした。
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主に装幀に関わるお話で、どんな人物がどういう感じで晶子著書の装幀を行ったか、といったお話を、画像をふんだんに使われてのご発表でした。

なるほど、発表題にある通り美しいものが多く、各装幀者や晶子のこだわりといったものが垣間見えました。また、時期による流行のような点も。
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主な装幀者は、藤島武二、中澤弘光、有島生馬、石井柏亭、津田青楓、正宗得三郎、山本鼎など。光太郎の人脈ともほぼ重なる人々です。

それから、光太郎というより、実弟の豊周と昵懇の間柄だった広川松五郎。ここで広川が出てくるか、と、驚きました。
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挿画についてもお話があり、すると、光太郎にも触れられました。光太郎は晶子の夫・寛の著書では装幀を手がけましたが、晶子の著作では装幀は行っていません。しかし、光太郎の挿画は使われています。
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右下が大正9年(1920)の『晶子短歌全集 第三巻』に載った光太郎の挿画。ちなみにあと2点は第一巻、第二巻の藤島武二、中澤弘光によるものです。

この光太郎の挿画については当方の発表の中でも触れましたので、現物も持参し、会場に展示させていただきました。他の光太郎装幀本・挿画の載った書籍、ついでに彫刻も。
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続いて当方の発表。
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今回のシンポジウムの総題が「『明星』と美術」ということでしたので、新詩社メンバー中、美術実作者として活躍した光太郎についてしゃべれ、ということで担ぎ出されました。

第一期『明星』(明治33年=1900~同41年=1908)、その後継誌ともいうべき第一期『スバル』(明治42年=1909~大正2年=1913)、その少し後くらいまでにスポットを当て、光太郎を取り巻く当時の文学界・美術界などについて、光太郎との関わりからべしゃくらせていただきました。

そのために今回作成したのが、下記の人物相関図。
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はなはだ不完全なもので、しかも線が錯綜して見づらいものですが、とりあえずこのくらいかな、という感じです。本当はあと30人ほどは入れたいところですし、線の結びつきも、両端にいるこの人物とこの人物がこういう関係があったというのを、もうこれ以上線が引けないということで随分と割愛しています。たとえば右上の方にいる荻原守衛と右下の方に配した斎藤与里が留学仲間だったとか、これも右上の方にある『少女世界』に晶子も寄稿していたとか、同様に下の方には光太郎が度々寄稿した『文章世界』だの『詩歌』だの『早稲田文学』だのも配したものの、名を出した人物でこれらに寄稿している人物がいるはずで、その線は書いてありません。

これが大正後半や昭和に入ると違った様相を呈します。また、与謝野夫妻なり、啄木なり白秋なり守衛なりを中心に据えればまた異なる感じの相関図が出来上がるでしょう。それぞれがご専門の方々がそれらを造り、つなぎ合わせて畳一枚分くらいの大曼荼羅のようなような相関図が出来れば面白いな、などという話もさせていただきました(笑)。

これを作ったことで、自分でも今までわかっていなかったことがおぼろげながら見えてきた感じがしました。すなわち、なぜ光太郎が様々な分野に手を出していたのか、です。美術方面では彫刻、絵画、装幀、書、建築、美術評論など、文学方面では詩、短歌、俳句、随筆、翻訳、戯曲など。もちろんそれぞれに才能があったからですが、それ以外に光太郎自身、好奇心というか、新しいことに挑戦しようという積極性というか、そういうものがあって、いろいろやったわけです。ここまではこれまでもそう思っていたのですが、今回、相関図を作ったことで、光太郎のそうしたマルチな才能が周囲から重宝されていたと思いあたりました。

光太郎と同世代の人物たちにしてみれば、一世代前の巨匠たち(黒田清輝、藤島武二、与謝野寛、森鷗外など)に頼みにくいことも光太郎になら頼めるし、光太郎としても留学からの帰朝後、父・光雲を頂点とする日本彫刻界とは距離を置いたので生活の途に困り、仕事の注文が入ればありがたいと、まぁ、ウィンウィンの関係だったと言えるのではないでしょうか。

しかし光太郎も唯々諾々と各注文に応じていたわけでもなく、けっこう毒をしのばせたりもし、一筋縄ではいかなかったとも感じました。

休憩後、最後のご発表は主催の明星研究会をとりまとめてらっしゃる歌人・松平盟子氏。
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時系列に沿って『明星』発刊の前後からの新詩社と美術家たちの関わりなどについてのお話。題して「憧憬と戦略 『明星』を彩った洋画家と晶子短歌」。

第一期『明星』が単なる短歌雑誌ではなく、後の『白樺』同様、美術にも軸足を置いていたという件、そこには与謝野寛の西洋美術への「憧憬」があり、また、翻訳文学の紹介や、晶子を含む女性を積極的に登用し、それまでにない誌面が作られていったという流れでした。そこが主宰の寛の「戦略」ですね。光太郎も留学先から翻訳を寄稿しています。

特に関わりが深かったのが、黒田清輝や藤島武二(共に光太郎の美校時代の恩師でもあります)らの白馬会、さらに一條成美や長原孝太郎(止水)、そして美術家ではありませんが、美校の教壇にも立った(やはり光太郎の恩師に当たります)森鷗外。そして鷗外と親しかった原田直次郎などにも触れられました。

そういう『明星』のコンセプトを反映させた晶子短歌の実際の表現といった点にも言及されました。
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第一期『明星』がそうした雑誌であったからこそ、美校在学中の光太郎がぜひ書かせてくれ、と、新詩社に加入したんだろうなと、実感が湧きました。単なる短歌の雑誌に留まるものであったなら、光太郎がそれほど関心を示したとも思えません。
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さて、zoomによるオンラインでの同時配信が行われましたが、アーカイブ配信(有料)もするそうです。詳しくはこちらにある連絡先まで。

同シンポジウム、来年には第20回記念とのこと。今後の関係の皆様のますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

旧冬私ども結婚の節は御多用の御内をお揃で御臨席下されましてありがたく存じました。また其折は結構なお祝ひを頂戴いたし御礼を申上げます


大正4年(1915)1月3日 柳八重宛書簡より 智恵子30歳

前年12月22日、上野精養軒で行った光太郎との結婚披露宴参列への礼状から。「お揃」は、八重の夫・柳敬助も出席したことを指します。

八重は智恵子の日本女子大学校での先輩、敬助は光太郎の留学仲間。明治44年(1911)、柳夫妻が光太郎智恵子を引き合わせました。元々は智恵子の方から、先輩芸術家の話を聴く一環として留学帰りの光太郎を紹介して欲しいと持ちかけたのですが、柳夫妻としても、帰朝後に荒れた生活を送っていた光太郎を案じ、「芸術の話ができる女友達でも出来れば」と、応じたと思われます。

都内からシンポジウムのご案内です。

第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ

期 日 : 2025年12月20日(土)
会 場 : ワイム貸会議室 お茶の水 Room B  千代田区神田駿河台2-1-20
      Zoom オンライン (定員100名)
時 間 : 14時~16時30分
料 金 : 2,000円

 『明星』は、文芸と美術が共鳴しながら鮮度の高い情報を発信し続けた目覚ましい雑誌でした。
 創刊時の明治33年4月こそタブロイド紙の体裁でしたが、同年9月から雑誌スタイルに移行し、41年11月に終刊するまで、文芸と美術が相互に響き合う斬新な美学としてそれは続いたのです。アールヌーヴォーの影響を受けた一條成美の初期の表紙は若者の心を捉えるのに十分でした。
 しかし、何と言っても『明星』を画期的な文芸誌にしたのは、美術団体「白馬会」との密接なかかわりによるものです。「白馬会」は黒田清輝らを中心に結成されましたが、メンバーのうち藤島武二、和田英作らは『明星』の表紙を印象的に飾りました。また、与謝野晶子の有名な歌集『みだれ髪』『小扇』の装丁と表紙は藤島によるものです。同じく「白馬会」の中澤弘光は、詩歌集『恋衣』の表紙・挿画を手始めに、多くの晶子歌集や『新訳源氏物語』『新訳栄華物語』の表紙・挿画を彩ることになります。
 忘れてならないのは、『明星』同人で、彫刻家・詩人の高村光太郎の存在です。
 今回は、『明星』と美術との記念碑的なかかわりを多角的に探ってみたいと思います。
 対面とZoomとのハイブリッドで開催いたします。

●申し込み手順● 下記 ① から ② へ進んでください
①.以下の口座に、参加費一人2千円、をお振り込み願います
 三井住友銀行 下丸子支店(普通)3897723
 受取人名:AKIKO 2005 YEAR ダイヒヨウ マツダイラ メイコ
②.お振込み後に、下記にアクセスして必要事項を記入し送信していただいてお申し込みが完了します。オンラインの方には前日を目途にZoomアクセス先をメールで送ります
●申し込み〆切● 12月18日(木)15:00(定員100名)

●プログラム● 講演
 「與謝野晶子 美しい本の世界へ」 森下明穂(与謝野晶子記念館・学芸員)
 「美術実作者としての高村光太郎」 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会・代表)
 「憧憬と戦略 ― 『明星』を彩った洋画家と晶子短歌」 松平盟子(歌人) 
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というわけで、明星研究会さん主催のシンポジウムです。

発表が、同会主宰の松平盟子氏、大阪の与謝野晶子晶子記念館学芸員・森下明穂氏、そして当方。テーマが「美術」なので「明星」→「美術」とくれば「光太郎」ということで、担ぎ出されました。

松平氏、森下氏のお話は必聴。当方はオマケですが(笑)、以下のような感じです。

全体としては光太郎も参加した第一次『明星』の時代から、その後継誌『スバル』、そして第二次『明星』が始まった頃に焦点を当て、明治30年代後半から大正10年頃までを中心に、垣根が低かった当時の文学界・美術界、そこにおける光太郎の立ち位置、そんな話をさせていただきます。

資料として、まず光太郎を中心に据えたその頃の人物相関図を作ってみました。軽い気持で作り始めたのですが、後から後から「この人物とも関わっていたっけ」「誰々も○○の一員だったなぁ」などと増え続け、総勢150名ほどになってしまいました(笑)。増やせばもっと増えるのですが、きりがないのでやめました。甚だ不完全なものですが、これを作ったことでかなり自分自身の勉強になりました(笑)。

それから『明星』をはじめ主に新詩社に関係する雑誌への光太郎の寄稿状況、新詩社関係者の著作への関わり(序文執筆、装幀、挿画、題字揮毫など)をまとめた表も。さらにパワーポイントのスライドショーでは装幀、挿画、題字揮毫に加え、依頼されて制作した彫刻や肖像画なども投影する予定ですし、現物も持って行けるものは持参して展示します。

御茶ノ水のワイム貸会議室さんでの対面型、お越しになりにくい方のためにZoom オンラインと2本立てです。ぜひどうぞ(出来ればお越し頂くのがベストですが)。

【折々のことば・智恵子】

必要以外何物も有(も)たない事(或る程度の必要をも満さなくても差支ないこと)=貧乏なこと。 本能の声を無視しないこと。 どんな場合にも外的な理由に魂を屈しないこと。 赤裸(せきら)なこと。


散文「貧しく、飾らず、単純であれ」より 大正12年(1923) 智恵子38歳

「生活の倦怠を如何にして救ふか」のテーマで、原阿佐緒、山川菊江らのそれと共に掲載された文章の一節です。智恵子の書いたもののうち有名なものの一つで、この一節はよく取り上げられています。

定収入というものを持たず、徐々に世間に認められてはいたものの、売れっ子というわけではなかった光太郎。まして智恵子はこの時期、描いた絵が売れるということはまったくなく、かつかつの生活でした。

『智恵子抄』に収められた光太郎のエッセイ「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

 彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。

こうした状況も智恵子を追い詰めた一つの要因であったことはまちがいないでしょう。

それよりも、智恵子自身が「こういう生活に不満を抱いてはいけない」と自らに言い聞かせていたわけで……。

昨日に続き、光太郎第二の故郷・岩手花巻からの情報を。今月15日発行の『広報はなまき』。同誌は基本的に1日と15日、月2回の発行で、15日の発行分に為されている連載「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」で、花巻高村光太郎記念館さんで開催されている特別展中原綾子への手紙」関連で、光太郎から歌人の中原綾子に宛てた葉書が取り上げられています。ちなみに同欄の昨年9月15日号掲載分には綾子主宰の雑誌『スバル』に寄稿したエッセイ「みちのく便り」の草稿が紹介されました。
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発信の日付は昭和26年(1951)7月1日。文面は以下の通りです。
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 今日阿部三夫さんからのハガキに
 よりますと七月に御来訪の
 おつもりといふ事ですが、山ももう
 夏の季節となり、相当に暑い日も
 ありますので、二ツ堰からの御徒歩は
 無理かと存ぜられますし、二ツ堰のあの
 運送屋さんは今病気をしてゐて、
 お供もできない次第、 時候のよい時
 までおのばしになつた方がよくは
 ないかと考へられますので此事一寸
 申上げます。 小生打身の方は全治、
 神経痛は少〻残つてゐますが減退しました。

当時、綾子は雑誌『スバル』(第3次)を主宰しており、「阿部三夫」はその編集等に当たっていた人物のようです。原稿の受け渡しなどの用事もあったのか、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を何度か訪れてもいます。

この葉書の翌月の8月21日にも。その日の光太郎日記には「阿部三夫氏と友人一人来訪、ビール4本つまみものをもらふ、詩や歌の朗読をきく、三時辞去。」とあります。

また、前年9月に綾子に送った葉書にも、阿部の来訪の様子が。003

 今朝スバルの阿部三夫さんが友達
 と一緒に来訪、 お名刺の紹介と
 委托のビール五本とを拝受しまし
 た。早速三人でビール三本をいただ
 き、時ならぬ山の会飲をいたし
 ました。阿部氏は自作詩朗読、
 尚浜離宮での写真も拝見し
 ました、ここでお弁当をつかひ、
 正午少し過ぎに辞去されました、
 スバル表紙の事について阿部氏に
 御伝言をたのみましたから、いづれ
 お話あることと存じます。

残念ながら昭和24年(1949)、25年(1950)の光太郎日記は大半が失われており、この時の様子は日記で確認できません。

26年7月1日の葉書では、綾子自身も光太郎の山小屋を訪問したいという旨を阿部から伝えられたと書かれ、しかし今は暑い最中(さなか)、もう少し涼しくなってから、的な返答をしました。

それを受けて綾子の訪問は9月14日・15日に為されました。この件についての光太郎日記。

 午前花巻にゆかうとしてゐる時、中原綾子さん突然来訪。ダツトサンで来た由。花巻行を中止、中原さん今夜田頭さんに泊る事になり、夕方まで談話。いろんな食品をもらふ。開拓の方を案内し、夕方田頭さんにゆかれる(9月14日)

 十二時頃中原さんくる、午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。四時迎ひの自動車来る。中原さん辞去。台温泉泊りの由。(略)中原さん持参の食パン美味、中原さん一年の間に大層年よりじみ、皺など目立つ。胃酸過多といふ。そのためか。顔いろもあし。(9月15日)


「一年の間に大層年よりじみ」とある通り、前年11月にも山小屋を訪問していました。「田頭さん」は屋号で、元太田村長の高橋雅郎宅、「台温泉」は大田村同様、のちに花巻市に編入された湯本村の鄙びた温泉地です。光太郎も何度か宿泊に訪れています。

2回の訪問それぞれの折に、歌人だった綾子は短歌を詠んでいます。

2度目の訪問時のもの。

  奥州街道を行く

 先生の小屋の屋根見ゆ萩すすき 野菊なんどは踏みしだき急ぐ

 すこやかに師おはしまし自在鉤につもれる煤の厚くなり居り

 しぐれかとたちいでて見ればひと叢(むら)のやつかの梢(うれ)を渡る風なり

 みちのくの清水(きよみず)の野に人と見し一世一代の仲秋の月

 さしわたし二(に)千里(せんり)と見る暈(かさ)を着て月の占めたる空ひろし広し

  台温泉にて

 ないしよごとするがやうにも一人来て山の温泉(いでゆ)におくる夜昼

 花巻を過ぎてまた入る山の道太田村とは方角遠(ちが)ふ

 そつとしておきたき心にかかはり無し田舎芸者は広間で騒ぐ

 東京へ帰りたくなきしたごころ相手のあらば心中もせむ

最初の訪問時、さらに昭和31年(1956)4月2日の光太郎逝去時のものなどと併せ、綾子歌集『閻浮提(えんぶだい)』(昭和35年=1960)に収められました。

今回『広報はなまき』で紹介された葉書、綾子歌集『閻浮提』、そして光太郎日記で「新小屋にて色紙五枚揮毫」とあるうちの一枚(「観自在こそ……」)、特別展「中原綾子への手紙」で花巻高村光太郎記念館さんにて展示中です。ぜひ足をお運びの上、実物をご覧下さい。
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【折々のことば・光太郎】

単純は完全である。貧寒は無能である。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

ごてごてとした余計なものをそぎ落とした理想的な「単純」と、「単純」を目指しつつしかし実は中身の乏しい「貧寒」とは似て非なり、ということでしょう。

毎年ご紹介してきたのですが、今年は完全に忘れていました。都内の古書籍商さんの組合・明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼して入札するシステムとなっている「七夕古書大入札会」。入札が7月6日(日)、出品物を手に取って見られる下見展観が7月4日(金)、7月5日(土)の2日間で行われていました。

以前は「日本最大の古書市」という触れ込みで、確かに文学系においては珍しい出品物が多く、しかも現物を見られるということで、ほぼ毎年、下見展観に足を運んでいましたが、特にコロナ禍以後は規模が縮小し(目録が最盛期の4分の1くらいの厚さに)、光太郎に関しては目新しい出品物もなく、足が遠のいておりました。また、今月初め頃は「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」の準備等でバタバタしており、完全に忘れていました。

今年。やはり出品点数は少なかったものの、光太郎関連で「へー」というものが出ていました。3点で、すべて短歌がらみでした。

目録番号順に、まずは歌幅。
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短歌「おほきなるちからとあつきなくさめとわれにくたかきそらをみるとき(おほきなる力とあつきなぐさめと我に来たかき空を見る時)」が認(したため)められています。短歌自体は明治39年(1906)、欧米留学のため横浜港から乗った貨客船アセニアンで外洋に漕ぎ出した際に詠んだもの。翌年の雑誌『明星』に発表されました。

ただ、揮毫は大正期と思われます。令和3年(2021)、富山県水墨美術館さんで開催され、当方もいろいろとお手伝いした「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際にお借りした大正7年(1918)揮毫の歌幅2点が、その書きぶり等、非常によく似ています。
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ちなみに左の二幅はそれぞれ「さどかしまあらきなみちにまもられてわかたましひはとこひさにゆく(佐渡島荒き波路に守られて吾が魂は常久にいく)」、「こしのうみなみはあらしとひとはいへとわかのるふねにつつかあらめやも(越の海波は荒しと人は言へど吾が乗る船につつがあらめやも)」と読みます。

まぁ、同一人物の筆跡ですから何とも云えませんが、次に掲げるような戦後の書とは明らかに違う感じで。かなりの部分が変体仮名的な用字になっています。

その戦後の書。
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揮毫例が複数存在する短歌で「太田村やまくちやまの山かけにひえをくらひて蟬彫る吾は(太田村山口山の山蔭に稗を食らひて蟬彫る吾は)」。戦後の物資欠乏時らしく、有り合わせの紙に書いた感がありますね。

そして書簡が一通。
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斎藤茂吉に宛てたもので、茂吉の歌文集『高千穂峰』と歌集『暁紅』(共に昭和15年=1940)を贈られた礼状です。

拝啓 改造社版の“高千穂峰”を拝受ありがたく存居りしところつづいて岩波版の“暁紅”をいただき御礼の申上げやうもございません
“高千穂”の方は未踏の地とて地図をひろげながら拝読いたしました
“暁紅”の方は今夏こよなきたのしみに存じます いつもいただくのみにて恐縮に存じますが 謹んで御厚情を感謝いたします
   七月八日   高村光太郎
 斎藤茂吉様
     御座下

茂吉宛の書簡はこれまで確認出来ておらず(あっただろうという推理は出来ていましたが)、これが一番驚きました。

この書簡、落札した業者の方が早速ヤフオクに出品しています(7月22日(火)終了)。
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「七夕古書大入札会」、ほとんど一般の方はご存じないかと思われまし、入札システムも複雑ですので、ネットオークションに出れば入手しやすいということは言えるでしょう。

収まるべきところに収まってほしいものですが。

【折々のことば・光太郎】

昨日御来訪の趣をききましたが折から肋間神経痛発作のため臥床中でありましたため失礼いたしました、あしからず御了承下さい、その節はいただきものいたし感謝いたしました、雑誌はたのしくよんで居ります、

昭和30年(1955)9月27日 上田静栄宛書簡より 光太郎73歳

上田は智恵子の親友だった田村俊子に師事した人物。遠く大正3年(1914)の光太郎智恵子結婚披露直後くらいには俊子に連れられて駒込林町の光太郎宅を訪れ、当時としては珍しかったレモネードをご馳走になったりしています。

昨日は上京し、お茶の水のワイム貸会議室さんで開催された「第18回明星研究会シンポジウム 大逆事件に震撼した時代~平出修・啄木・晶子」を拝聴して参りました。
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コロナ禍となって以後はオンライン限定でした明星研究会さんのシンポジウム。久しぶりに対面方式も復活(web上でも)ということで、自宅兼事務所がZOOM対応になっていませんので、ここぞとばかりに参加いたしました。

今回メインで取り上げられたのは平出修。光太郎より5歳上の明治11年(1878)、新潟の生まれ。筆名は「露花」。光太郎と同じ頃、与謝野夫妻の新詩社に加わり、明治41年(1908)に『明星』が終刊となると、翌年発刊されたその系譜を継ぐ『スバル』の編集等にあたりました。

横浜の神奈川近代文学館さんには、木下杢太郎に宛てられた書簡がごっそり所蔵されており、その中に『スバル』としての明治44年(1911)の年賀状が含まれています。

恭賀新年 明治四拾四年一月元旦 昴発行所 高村光太郎 吉井勇 江南文三 平出修

本文は印刷で、文面はこれだけですが、なぜか光太郎のが筆頭で、発行名義人だった江南の名が三番目(前年までの江南の前の発行名義人は石川啄木でした)、最後に平出の名も。

明治44年(1911)といえば、幸徳秋水・管野スガ等の大逆事件。平出は弁護士でもあり、被告の弁護にあたりました。

平出の令孫・洸氏は、明星研究会さんの世話役も務められた方でしたが、今年亡くなったそうで、昨日はその追悼を兼ねてのシンポジウムでした。
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ご発表はお三方。

まず、中川滋氏。やはり平出令孫で、洸氏の従兄弟にあたられます。
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血縁の方ということで、平出の系譜、没後の顕彰活動などについてのお話でした。

お二人目が明治大学教授・池田功氏。
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大逆事件のアウトライン、啄木は社会主義的思想に興味を持っていましたし、平出との関係もあり、この事件には非常に関心が高かったこと、事件を描いた平出の小説三編についてなど。

最後に会の中心人物・松平盟子氏。
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管野スガが晶子の短歌を激賞していたこと、スガ自身も晶子ばりの短歌を詠んでいたこと、収監後に平出が『スバル』や晶子の歌集を差し入れたりしたこと等々。

ご発表と並行し、晶子の短歌や、瀬戸内寂聴の小説『遠い声 管野須賀子』の一節を、ゲストの津田真澄氏(劇団青年座)が朗読なさいました。
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それぞれのご発表、特に新事実の披露等を含むと言うわけでは無かったようですが、平出や晶子、啄木についてそれほど詳しいわけではない当方としては、「そうだったのか」の連続で、実に興味深いものでした。

ちなみに光太郎と平出。先述の年賀状以外の関わりとしては、明治38年(1905)に光太郎から平出に宛てた書簡が一通知られています。

しばらく御無沙汰いたし居り候処益々御清福の段奉賀候 このたび御転居の御由御祝申上候 談論の筆も此より愈々麹町式の権威に神田式の辛辣を加ふべき事と存上候 失礼ながらはがきにて御移転御祝まで。

この転居に伴い、平出は自宅に法律事務所を開いたそうです。

光太郎と平出が共に写った写真が二葉確認出来ています。
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明治37年(1904)、新詩社小集での集合写真です。後列ののっぽが光太郎、その右下が平出、その右隣には鉄幹がどんと構えています。

これより前、明治34年(1901)のショット。
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投稿雑誌『文庫』(内外出版協会)が百号発行を記念し、上野の韻松亭で投書家の集まり「春期松風会」を催した際の集合写真。総勢約80人、前から六列目の左端が光太郎です。ただ、平出は写っていることはわかっていますが、何処にいるのか当方には判りません。他にも窪田空穂や水野葉舟、横瀬夜雨、伊良子清白、河合酔茗などが写っているとのことです。

そして平出は大正3年(1914)、数え37歳で骨腫瘍のため早世。光太郎はその三日前に書いた詩「瀕死の人に与ふ」で平出を謳いました。この詩は雑誌『我等』に発表され、この年刊行された光太郎第一詩集『道程』にも収められました。

   瀕死の人に与ふ

 汝の病あつく
 汝はいま死に瀕んでゐる
 暗い、深い、無間の底から不可抗の手が
 すでに汝の手を握つた
 汝はいま何を考へ
 また何を望んでゐるか
 こんこんとして睡る者よ

 汝の縁者はみな涙にひたり
 汝の友はみな愁に凍えてゐる
 感動が人人の心に常習の魔術をかけた
 その中で
 汝は睡つてゐる
 しづかに、またやすらかに
 こんこんとして睡る者よ

 起きよ、めざめよ
 汝のその從順のこころを棄てよ
 汝のそのつつしみ深い忍默を破れよ
 死に背け
 死の面上に拳(こぶし)を与へよ
 死に降服する事なく
 ひたすらに生きよ
 死はただ空洞(うつろ)である
 死はただ敗残である
 死に落つるは人間の墮落である事を知れよ
 死ぬなかれ、死ぬなかれ
 こんこんとして睡る者よ

 汝は今まで生きながら死んでゐた
 汝の仕事は皆生(いのち)のない破片に過ぎなかつた
 汝の本能と良心とがめざめかけて來た時
 汝は死の力におさへられた
 そして脆くも死んでゆかうとする
 涙と哀悼とに囲まれ
 萬人の死を死なうとする
 起きよ、睡るものよ
 その甘美の情念を却けよ
 その卑屈な平安を軽んぜよ
 汝の生きる時また汝の一生に値ふ時が
 今こそ來たのである
 ひたすらに生きよ
 生きる事のまことを捉へよ
 汝の余命は短い
 疾く起きよ
 起きて此の広大無辺のいのちを得よ
 こんこんとして睡る者よ

 汝に濺ぎかけられる多くの涙を
 汝は明かに心読せよ
 人の感情の淫奔性を洞察せよ
 汝は正しく、たじろがず、乱れず
 汝の魂に人間の本体をめざましめ
 さらにその源泉たる自然を体感せよ
 現実の微妙に溶け込めよ
 謙讓を極めた今の汝の心をもつて
 いのちに入るはただ力の有無(ありなし)である
 起きよ、めざめよ
 死は醜し
 愚かなあきらめの小康に身をまかす事なかれ
 死に勝ち、死を滅ぼし
 あくまで汝のいのちに荘厳せられつつ
 肉体の敗闕と共に
 美しく、確然たる運命に帰れ
 起きよ、めざめよ
 こんこんとして睡る者よ

けっこうな長詩ですが、それだけに理不尽な死に対する怒りがよく表されています。

話があちこちに飛びますが、光太郎、大逆事件に関してはほとんど沈黙していました。僅かに事件をモチーフとした木下杢太郎の「和泉屋染物店」を面白いとした程度です。『高村光太郎全集』に、幸徳やスガの名は出て来ません。

しかし、『平民新聞』を購読し、後には幸徳の系譜に連なる大杉栄等のシンパに近い立場にもなった光太郎、何も感じていなかったわけがありません。

その答は最晩年、当会顧問であらせられた故・北川先生が残された「高村光太郎聞き書」に。

 洋行から帰ってきても、その問題にぶつかったな。はじめっから終りまで、それはあった。それで非常に困っちゃって、どうしても最後にはその壁にぶつかる。われわれは考えないでいるよりしょうがないと思った。
 その方にとび込めば相当猛烈にやる方だからつかまってしまう。しかし自分には彫刻という天職がある。なにしろ彫刻が作りたい。その彫刻がつかまれば出来なくなってしまう。彫刻と天秤にかけたわけだ。


狡いといえば狡い考え方ですが、ある意味、仕方がなかったかも知れません。

こういう社会と無縁に芸術精進、という生活が、後の智恵子の悲劇にも繋がったわけで、智恵子が病んでからはそれを是とせず180度方向転換。自ら積極的に世の中と関わろうとします。ところがその世の中の方が15年戦争でおかしな方向に進んでしまっていたわけで、それに加担した光太郎、最大の過ちでした。

閑話休題、幸徳やスガ、そして平出修。これからも語り継がれていって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

今朝スバルの阿部三夫さんが友達と一緒に来訪。お名刺の紹介と委託のビール五本とを拝受しました。早速三人でビール三本をいただき、時ならぬ山の会飲をいたしました。阿部氏は自作詩朗読、尚浜離宮での写真も拝見しました。

昭和25年(1950)9月9日 中原綾子宛書簡より 光太郎68歳

「スバル」は戦後の第三次。与謝野夫妻の長男・光や吉井勇の勧奨で始められ、晶子の衣鉢を継いだ中原が主宰でした。光太郎はその題字を手がけた他、寄稿も多数行いました。

今年、花巻市に中原令孫から寄贈された大量の光太郎関連史料の中に、この書簡や「スバル」への寄稿原稿も含まれていました。

『日本経済新聞』さん、「歌壇」欄。11月2日(土)の掲載分です。

連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの山梨県立文学館館長で歌人でもあらせられる三枝昂之氏と、同じく歌人の穂村弘氏が、読者の投稿歌から12首ずつ選ばれ、計24首が掲載されています。

三枝氏選の一首目が、福島県郡山市の方の作品。

 安達太良と阿武隈川は必須なり智恵子の故郷校歌も市歌も 郡山 星野剛

三枝氏の評。

 星野さんからは「あの光るのが阿武隈川」と高村光太郎『智恵子抄』の一節が浮かんでくる。やはり校歌には故郷の山と川。「必須なり」がそう教える。

「智恵子の故郷」を二本松市と限定解釈すると、まず「二本松市民の歌」(作詞:朝倉修氏/補作詞・作曲:湯浅譲二氏 平成25年=2013)。いきなり歌い出しが「安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに」、そして一~三番すべてで「ほんとの空が ここにある」と繰り返されます。

 一、安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに
   四季も華やぐ このまちに  希望奏でる 朝がある
   ああ 光あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
 二、青空に舞う 花ふぶき  やさしく歌う うぐいすよ
   生命輝く このまちに  幸せ運ぶ 風がある
   ああ 理想あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
 三、霞が城の しろあとに  揺れる提灯 囃子の音
   文化煌めく このまちに  明るい笑顔 夢がある
   ああ 浪漫あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある

校歌」も、例えば昨年、統合により新たに誕生した二本松実業高校さん(作詞:校歌制作委員会/作曲:大友良英氏)では、二番に「白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の 安達太良山の 季節(とき)の雲」、三番で「瞳に映る 煌(きら)めきは 阿武隈川の 悠久(とき)の色」。さらに一~三番すべてに「ほんとの空に」のリフレイン。

 空の青さに 陽(ひ)の光
 榎戸(えのきど)の丘 一瞬(とき)の風
 力漲(みなぎ)り 舞う砂けむり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 遥(はる)かな夢を ほんとの空に

 白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の
 安達太良山の 季節(とき)の雲
 掌(てのひら)見つめ 歯を食いしばり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 明日(あす)を探して ほんとの空に

 瞳に映る 煌(きら)めきは
 阿武隈川の 悠久(とき)の色
 その身に宿る 手業の実り
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 希望を胸に ほんとの空に

 睡蓮(すいれん)の花 微笑(ほほえ)ほほえんで
 霞(かすみ)が池に 青春(とき)の影
 まっすぐな道 どこまでも往(ゆ)き
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 生きた証(あかし)を ほんとの空に

他校の校歌も同様なのでしょう。

短歌投稿者の方は郡山市ご在住だそうです。福島県は東西方向に区切ると、西部の山岳地帯が「会津」、太平洋岸は「浜通り」、その中間が二本松を含む「中通り」。さらに「中通り」も南北方向で「県北」「県中」「県南」と区分されます。「智恵子の故郷」を中通りのさらに県中地域とすると、郡山も含まれます。
無題
郡山市は今年、市政施行100周年だそうで、その記念式典や記念音楽祭などが大々的に行われました。そのあたりを受けての詠なのではないかと思われます。ちなみに「郡山市民の歌」(作詞:内海久二氏/作曲:古関裕而氏 昭和29年=1954)には、二番の歌詞に「輝く安達太良ささやく瀬音」とああります。

 一、あけゆく安積野希望の汽笛 あの人この街みなぎる力
 ああふるいたつふるさとは あこがれのせる若駒か 進めよわれらの郡山
 
 二、輝く安達太良ささやく瀬音 あの鳥この花しあわせ歌う
 ああうるわしいふるさとは やさしい母のまなざしか 育てよわれらの郡山

 三、働くよろこび夕べのいのり あの星この窓楽しいまどい
 ああやすらかなふるさとは あふれる夢のゆりかごか 栄えよわれらの郡山

昨日は原発の問題にも触れましたが、安達太良山、阿武隈川に代表される日本の美しい山河を二度と放射線被曝させてはならないと、切に思います。こういうことが本当の愛国心なのではないのでしょうか、と、為政者に問いたいところです。
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【折々のことば・光太郎】

あれから何にも書けず、つひにたつた一枚書きました。別封で送りましたから、ともかくも読んでみてください。あの詩篇からうけた衝動は比類なく強いものです、
昭和25年(1950)4月12日 佐藤徹宛書簡より 光太郎68歳

佐藤は大正6年(1917)、山形米沢出身。筆名の「森英介」名義で唯一の詩集『火の聖女』を翌年に刊行、この書簡は光太郎に依頼したその序文に関わります。

 このやうな詩集を私は未だ曽て見たことがない。これほど魂のさしせまつた声を未だ曾てきいたことがない。こんなに苦しい悲しみの門をくぐらせられたこともないし、又こんなに強い祈と、やすらぎの中に引きこまれたこともない。
 何といつていいかわからない。殆といふ言葉がない。
 これはもう普通いふ詩といふものを突き破つてゐる。これらの詩は内面から破裂してゐる。一行一行が内からの迸るもので吹き上げられてゐる。これまでの日本語とはまるで違つた新らしい日本語が生まれてゐる。
 精神の突面だけがラインに刻まれてゐて、およそ平面をゆるさない。これらの詩の内面ふかく立ち入ることの出来るのは、同じやうな魂のきびしさと信とに死をのりこえたもののみの事である。
 私はおそろしい詩集を見た。


光太郎による他者の詩集等の序文は珍しくありませんが、ここまでの評を与えられたものは他に見あたりません。

ところが、活字工として働いていた佐藤自ら紙型を組み、印刷まで完了しましたが、その刊行を見ることなく、その直後に胃穿孔で急逝してしまいました。

光太郎は昭和27年(1952)に遺族の依頼でその墓碑銘を揮毫。おそらく現在も佐藤の故郷・米沢の善立寺さんというお寺にひっそりと佇んでいます。

小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの新蒐品目録『書架』147号。先々週くらいに届きました。
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同店、肉筆系に力を入れられていて、時折、光太郎のそれも出るのですが、今号では3点も収録されていました。
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画像右上、表装されていないマクリの書で、短歌「天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」が書かれています。「天然の湯に入ったら、あなたの身も心もその湯に溶け出して、さながら美しい白玉に似た輝きを放ったことでしょう」といった意でしょうか。

ちなみにえびな書店さん、「湯」を「畑」としていますが、「畑」では意味が通りませんね(笑)。

さらに「人におくれる」の詞書(ことばがき)。「人」は新潟佐渡の素封家にして、与謝野夫妻の新詩社に依った歌人でもあった渡辺湖畔です。湖畔は光太郎に幼くして亡くなった娘の肖像画(大正7年=1918)を書いてもらったり、蟬の木彫を依頼したり、自身の歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀・装画を頼んだりしました。

短歌「天然の……」は大正9年(1920)3月の湖畔宛書簡に認(したた)められた四首のうちの一つで、伊豆の修善寺温泉に行ったという湖畔からの書簡への返歌です。

他の三首は以下の通り。

 いみじくもふかき地中のこゝろより天然の湯は涌きてあふるる
 天然の湯に身をひたし人の世のこゝろのことを君はおもふか
 天然の湯をしおもはむしばらくは魂とびて夢のこゝちする


書簡には「修善寺においでありし由、湯の好きな小生それをききしだけにて恍惚といたし候」とあります。くれぐれも「畑」ではありませんのでよろしく(笑)。

この書自体は、湖畔ではなく、他の人物のために書かれたのではないかと推定されます。「他の人に贈った短歌だけど……」という意味で「人におくれる」の詞書が添えられたのでしょう。

その左に色紙で「満目蕭条(まんもくしょうじょう)の美」。「満目蕭条」は光太郎が好んで揮毫した熟語です。見渡すかぎりのもの全てが物寂しい様子である、の意味。戦後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺のことかな、とも思ったのですが、やはり「満目蕭条」と書いた戦後の書はもっと崩しが激しく為されており、戦前の筆跡のように思われます。色紙も凝ったものですし、昭和7年(1932)には東京に居ながらにして「満目蕭条の美」という題名の散文も書いていますし。

もう一点、短冊も出ていました。
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やはり短歌で「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」。

欧米留学から帰った明治42年(1909)、『スバル』に「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」の総題で発表された二十五首のうちの一つです。「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」はイタリア語で「祖国歌」というほどの意味。

他の二十四首の中には、帰国して改めて接した日本人女性への幻滅が歌われているものが多く含まれます。

 ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや
 弘法の修行が巌の洞(ほら)に似る大口あけて何を語るや
 何事か重き科ありうつくしき少女を吾等あたへられざり
 この中の少女のひとり妻とせよ斯く人いはば涙ながれむ
 女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ
 海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり
 太ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと
 仏蘭西の髭の生えたる女をもあしく思はずこの国みれば


これでもか、これでもかと日本の女の醜さを嘆いています。

圧巻は以下の二首。 

 顔つくる術(すべ)も知らぬをふるさとの女はほこるさびしからずや
 少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし


「メイクもきちんとできず奇妙な化粧をした顔をさらしているその風貌を、ふるさとの女は却って誇りに思っている。それでいいのか?」「少女たちよ、眉墨をきちんと引きなさい。それができないと、この世界にこれほどに醜いものはないぞ」といったところでしょうか。特に眉墨云々は、某党の総裁候補だったあの人に贈りたい言葉です(笑)。「少女」ではありませんが(笑)。
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逆に留学中に懇ろになった西洋の女性(詳細は不明です)を讃える歌も。

 ふるさとはいともなつかしかのひとのかのふるさとはさらになつかし
 ふるさとの少女を一のたのみとし火の唇はすて来しものを
 きらきらと暗き夜半にも汝が耳の耳環の玉は近く光りき

この流れで、短冊に書かれている「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」です。

おそらくニューヨークやロンドンではなく、パリでのことと思われますが、「火の唇」を持ち、「きらきら」の「耳環」を着けていた「あたたかくふくよかなりし君」と、どんなロマンスがあったのか……というところです。

当方、この手の肉筆物は、よほどの事がないと購入しません。財力が保(も)ちませんから。ところがつい先日、「よほどの事」が出来(しゅったい)しました。

京都の思文閣さんで売りに出した、歌人・中原綾子旧蔵の光太郎色紙

中原令孫から花巻市に光太郎書簡等がごっそり寄贈され、来年以降、花巻高村光太郎記念館さんで展示されることとなりそうです。また、市では寄贈資料を図版入りで紹介する書籍を刊行することを検討されている由。予算が通れば当方が解説等執筆します。

そこへ来て、中原旧蔵の書ですから、これは一緒に展示されるべきものです。市で購入して下さればそれで済むのですが、そんな予算は組んでいないわけで、こちらで手に入れました。2点出ていたのですが、そのうち、今様体(七五調四句)の「観自在こそ……」を書いたもので、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)で口絵として使われていたものです。

オークション形式で、開始価格では落とせないだろうと思い、色を付けて入札しました。それでも無理かな、とも思ったのですが、落とせまして、先日、届きました。
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当時のものと思われるタトウにくるまれていました。
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中原の直筆なのでしょう。「高村光太郎先生色紙 昭和廿六年九月岩手県太田村山口にて染筆たまはりりたるもの。 綾子誌す」の但し書き。調べてみましたところ、昭和26年(1951)9月15日の日記に確かに「十二時頃中原さんくる。午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。」の記述がありました。

色紙裏面には中原の蔵印も捺されていました。
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表(おもて)面は「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。「観自在」は観音菩薩。そこで、無理くり現代語訳してみると、こんな感じでしょうか。「観音菩薩は何ととうといのだろう(「こそ」+已然形「けれ」で強調の係り結びです)。眼を開いて今日改めてそのお姿を見てみると、この世にある平凡ないつものお姿で、我が身を離れずに寄り添って下さっている」。

若干、意味不明です。どうやって観音様のお姿を見るのでしょうか。手元に観音像があった時期もありました。しかし、異論もありましょうが、当方はこう読みます。「観音菩薩」=「亡き智恵子」。

光太郎の感覚としては、「我が身を離れずに寄り添って下さっている」のは、亡き智恵子でした。

  亡き人に

 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし 
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処そこにゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ


   元素智恵子 

 智恵子はすでに元素にかへった。
 わたくしは心霊独存の理を信じない。
 智恵子はしかも実存する。
 智恵子はわたくしの肉に居る。
 智恵子はわたくしに密着し、
 わたくしの細胞に燐火を燃やし、
 わたくしと戯れ、
 わたくしをたたき、
 わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
 精神とは肉体の別の名だ、
 わたくしの肉に居る智恵子は、
 そのままわたくしの精神の極北。
 智恵子はこよなき審判者であり、
 うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、
 耳に智恵子の声をきくときわたくしは正しい。
 智恵子はただ嬉々としてとびはね、
 わたくしの全存在をかけめぐる。
 元素智恵子は今でもなほ
 わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。

光太郎は敬虔な仏教徒だったわけでもなく、あながち牽強付会とも言えないような気がするのですが……。

ただ、そうだとすると、死してなおそこまで「聖女」化された智恵子は、ある意味、可哀想だったようにも思えますが……。

閑話休題、上記えびなさんの出品物、収まるべき所に収まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

お手紙拝見しましたが「智恵子抄」以後には一冊になるほどの数量がありません、これはまづものにならないと思ひます、


昭和24年(1949)12月20日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎67歳

澤田は昭和16年(1941)、オリジナルの『智恵子抄』を上梓した版元・龍星閣主です。龍星閣は戦時中に休業し、この年ふたたび出版業を始めました。そこで、『智恵子抄』の続篇的なものを出したい、という懇願に対する返答の一節です。

結局、翌年の元日に雑誌『新女苑』に発表した連作詩「智恵子抄その後」(「元素智恵子」も含みます)を根幹とした詩文集『智恵子抄その後』が出版されることにはなるのですが、題名とは裏腹に、智恵子とは全く無関係の随筆も多く含みます。

テレビ放映情報です。

英雄たちの選択 我は女の味方ならず 〜情熱の歌人・与謝野晶子の“男女平等”〜

NHK BS1/NHK BS4K 2024年9月2日(月) 21:00~22:00

「みだれ髪」など情熱の歌人として知られる与謝野晶子は人気評論家だった。おりしも女性の権利拡張を目指す運動が盛んになる中、母性保護をめぐり平塚らいてうと大論争に。
 
与謝野晶子は言論弾圧が厳しい時代に、歯に衣着せぬ評論で人気を集め、あらゆるジャンルの評論を雑誌、新聞に載せた。中でも力を入れたのが「男女平等」。女性も仕事をすることで男性から経済的自立することが必要と主張。おりしも女性の権利拡張を「母親になれるのは女性だけ」という理由で推し進めようとしていた女性解放運動家の平塚らいてうと「母性は保護されるべきか」をめぐり激しく対立、大論争を繰り広げる。その結果は?

出演者
【司会】磯田道史 浅田春奈
【出演】歌人…松村由利子 ジャーナリスト…浜田敬子
【語り】松重豊

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メインは光太郎の姉貴分・与謝野晶子。智恵子の先輩にして智恵子に『青鞜』の表紙絵を依頼した平塚らいてうとの「母性保護論争」が取り上げられます。さらに山川菊栄らも参戦し……。

NHKさんでは令和2年(2020)にオンエアされた「先人たちの底力 知恵泉「新しい女の生き方 明治・大正編 平塚らいてう」でも同じ問題を取り上げました。その際はサブタイトルの通りらいてう視点からの制作で、今回は晶子側からの反証的な。

ダメ夫(鉄幹ファンの皆さん、すみません(笑))の元、11人もの子を筆一本で育てた晶子と、年下の「若いツバメ」と最初は入籍しない事実婚で子育てしつつ女性の権利拡大を訴えたらいてう。およそ100年前の話ですが、現代でもあまり状況は変わっていないような……。

光太郎智恵子には直接関わりませんが、夫妻とそれぞれ交流の深かった二人のバトル、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生が東京へ出かけることは今のところ一寸むつかしいやうに考へられます。東京の街を歩ける服装すら今はありません。発表会の模様をあとできくのが楽しみに思へます。


昭和24年(1949)4月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

発表会」は舞踊家だった藤間のリサイタル。藤間が戦時中から構想を温めていた「智恵子抄」舞踊化が為されました。この手の「智恵子抄」二次創作の嚆矢でした。
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3件ご紹介します。

まず天台宗さんとして発行されている『天台ジャーナル』さん。檀信徒さんなど向けの月刊機関紙的なもののようで、今月号です。連載コラムと思われるコーナーに光太郎の言葉をメインで紹介していただきました。

素晴らしき言葉たち

いくら非日本的でも、日本人が作れば
日本的でないわけには行かないのである。  高村光太郎

 詩人であり歌人であるとともに彫刻家、画家であった高村光太郎の言葉です。ですから、芸術分野を指す言葉でしょうが、他の分野にもいえることではないでしょうか。最近、特に話題となっている和食ブームについてもいえると思います。
 伝統的な和食でない中国由来の「ラーメン」やインドを発祥とする「カレー」などは、もとは非日本的な食べ物でしたが、今ではすっかり「和食」となっています。発祥の地である中国には日本のラーメン店が、同じくインドでも日本のカレー店が展開されているそうです。
 明治維新後、日本は先行する欧米の模倣でなんとか国を造りあげてきました。モノづくりでも「安かろう、悪かろう」といわれる時代を経て、「さすが日本製」といわれるほどになり、品質を誇れるまでになりました。
 その過程で、日本独自のアイデアが付け加えられてオリジナルよりも価値が高いものが創造されることになったようです。
 例えば温水洗浄便座なども元はアメリカで開発されたものですが、それを進化させたものだといいます。今では、日本中どこでもみられるようになりました。温水洗浄便座以外でも、モノづくりや食べ物の分野をはじめ、日本の創意工夫が活かされた例が多くなりました。
 このところ、経済状況が沈滞し国力の伸びがなくなって久しい日本ですが、この国の得意とする「日本的な」創意工夫をもって生き延びていくことが、これまで以上に求められていると思います。

いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」元ネタは欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)の『スバル』に発表した評論「緑色の太陽」です。

前年の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された画家・山脇信徳が描いた印象派風の絵画「停車場の朝」に対し、光太郎と親交の深かった石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」と、けちょんけちょんにけなしました。しかしフランスで印象派やフォービスムなどのポスト印象派に実際に触れてきた光太郎は、「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」とし、作品は作者それぞれの感性によって作られるべきもので、「緑色の太陽」があったっていいじゃないかと山脇を擁護しました。所謂「地方色論争」です。

そんな中で「いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」。さらにどんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。」。

ジャンルは違いますが、思い出すのは作曲家・三善晃のパリ音楽院時代のエピソード。コッテコテのフランス風の曲のつもりで作曲し、どうだ、とばかりに披露すると、「素晴らしい! 何て日本的な曲なんだ!」。そんなもんでしょう。『天台ジャーナル』さんでは、また違った方向に話が進んで行っていますが。

続いて『朝日新聞』さん栃木版、読者の投稿による短歌と俳句欄「歌壇・俳壇」。短歌の方で次の詠が入選していました。那須高原にお住まいの高久佳子さんという方の作。

『智恵子抄』初給料で買った本六十年経て回し読みする 

60年前というと、昭和39年(1964)。その頃流通していた『智恵子抄』といえば、草野心平編になる新潮文庫版もありましたが、わざわざ「初給料で」ということは、函入り布装の龍星閣版でしょう。
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昭和16年(1941)刊行のオリジナルは白い和紙の表紙で、太平洋戦争の激化に伴う龍星閣休業の昭和19年(1944)第13刷まで確認出来ています。戦後になって昭和25年(1950)に龍星閣が再開し、翌年に復元版としてこの赤い表紙のバージョンが出されました。それ以前に昭和22年(1947)に出た白玉書房版がありましたが、こちらは龍星閣の許諾をきちんと得ずに出されたということで、絶版になっていました。

その後、すったもんだがありましたが、この赤い表紙の復元版は版を重ね、現在でも細々と新刊として販売が続いているようです。

画像は昭和26年(1951)の復元版初版。後のものは函の題字も表紙の布と同じ朱色になり、函の色はもっと黄色っぽくなります。

もう1件、『朝日新聞』さんから。岩手版に不定期連載(?)されている「賢治を語る」、5月18日(土)分です。

(賢治を語る)名プロデューサー光太郎 花巻高村光太郎記念会・高橋卓也さん

 北東北の詩人・宮沢賢治。その存在を広く世界や後世に知らしめた人物がいる。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883〜1956)。「名プロデューサー」としての顔を持つ光太郎と、賢治の関係について、一般財団法人花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さん(47)に聞いた。
 《光太郎と賢治の出会いは?》
 賢治の生前唯一の詩集「春と修羅」が刊行されたのは1924年。日本を代表する彫刻家だった光太郎は翌年、草野心平に勧められてこの詩集を読み、詩的な世界に感銘を受けます。「注文の多い料理店」も借りて読み、親友の作家にまた貸しするほど入れ込みます。
 2人が出会ったのは1926年冬。花巻農学校を退職した賢治が、タイプライターやチェロを学ぶために上京した際、光太郎を訪ねます。突然の来訪だったため、仕事をしていた光太郎が「明日の午後明るいうちに来て下さい」と言うと、賢治は「また来ます」とそのまま帰っていったようです。賢治は再来せず、1933年に死去したため、2人が出会ったのはその一度きりでした。
 《死語、光太郎は賢治の全集を出します。》
 賢治が亡くなった翌年、東京・新宿で追悼会が開かれ、光太郎も出席します。その際、賢治の弟・清六が持参した、賢治の原稿が入ったトランクの中から、「雨ニモマケズ」が記された小さな黒い手帳が見つかります。
 残された原稿の束や手帳を見て心動かされた光太郎や心平の尽力で、賢治全集の刊行が決定し、光太郎はその全集の題字を書いています。
 《詩碑「雨ニモマケズ」の字も光太郎です》
 1936年秋、花巻に賢治の初めての詩碑「雨ニモマケズ」が建つことになり、光太郎に字が依頼されました。ただ、誰がどこで間違えたのか、詩碑には除幕の段階で計4ヶ所、漏れや誤りがありました。
 戦後の1946年、光太郎は訂正を行うため、自ら足場に登って詩碑に筆で挿入・訂正を行い、石工がその場で追刻をしました。光太郎は「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったそうです。
 《戦中、光太郎は花巻に疎開します。》
 1945年4月、空襲で東京のアトリエを焼失した光太郎は、花巻の宮沢家に誘われる形で、5月中旬、清六の家に身を寄せます。
 ところが、その花巻の家も8月10日の花巻空襲で焼けてしまいます。
 その際、空襲を経験した光太郎が、清六に「花巻でも空襲があるかもしれないので、防空壕(ごう)を作り、大切なものを避難させておいた方が良い」と助言していたため賢治の原稿は防空壕の中で、かろうじて焼失を免れました。まさに光太郎の助言のお陰です。
 《光太郎はその後も花巻で暮らし続けます。》
 約7年間、杉皮ぶきの屋根の3畳半の山小屋で独りで暮らし続けます。零下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔に雪がかかるような厳しい生活でした。
 亡き妻、智恵子の幻を追いながら、善と美に生き抜こうとした。高潔で理想主義的な生活から素晴らしい作品が生まれました。
 光太郎の芸術は、第一に彫塑(ちょうそ)、第二に文芸、第三に書と画、と言われますが、無名だった賢治の作品を守り、その存在を広く世の中に伝えた「名プロデューサー」としての仕事は、この国の文学に極めて大きな財産を残した、彼のもう一つの偉大な「芸術」だったと言えるかも知れません。


光太郎と賢治、花巻の縁が端的に記されています。こうした縁から、宮沢家では未だに光太郎の恩を忘れていないという感じで、実に有り難く、恐縮している次第です。

ちなみに記事には紹介がありませんでしたが、花巻高村光太郎記念館さんではテーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中ですし、常設展示では賢治と光太郎の縁的なところにも力を入れています。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

このたびはのびのびと潺湲楼に奄留、思ひがけなき揮毫も果し、デリシヤスの初収穫をも賞味し、お祝いの佳饌にも陪席、又久しぶりにて母にもあひ、まことにめぐまれた一週間でございました。

昭和22年(1947)10月16日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳

潺湲楼(せんかんろう)」は、佐藤邸離れ。旧太田村へ移住する直前の昭和20年(1945)9月から約1ヶ月、光太郎はここで起居し、その後も街に出て来るとここに宿泊しました。

デリシヤス」は林檎。「久しぶりにて母にあひ」は、大正14年(1925)に歿した母・わかに実際に会ったわけではなく(それではホラーです(笑))、双葉町の松庵寺さんでわかの二十三回忌法要を営んで、会ったような気になったということです。

その際に詠んだ短歌が「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」。おそらくデリシャス種の林檎を供えたのでしょう。この歌を刻んだ歌碑などが、松庵寺さんに残っています。

福島から市民講座の情報です。

澤正宏先生の春の講座「与謝野晶子と高村光太郎」

期 日 : 2024年3月25日(月)000
会 場 : NHKカルチャー郡山教室 
      福島県郡山市麓山1-5-21 NHK郡山放送会館内
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 会員 2,519円 一般(入会不要) 2,860円

講 師 : 澤正宏 福島大学名誉教授 

歌人であり詩人でもあった二人は、晶子の新詩社を通してつながりがあった。二人の人間や社会や自然などの見方には対照的な特色があるので、詩歌を読みながらそれらの特色を詳しく見て行きたいと考えます。


澤氏、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰に当たられている智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさいました。

最近ですと、昨年刊行された『草野心平研究資料集』(クロスカルチャー出版)の編集に当たられたりもなさっています。

今回は、光太郎の本格的文学活動の出発点たる雑誌『明星』主宰の与謝野鉄幹夫人・晶子との関わり。晶子は光太郎の5歳年上で、よき姉貴分でした。
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右上は雑誌『スバル』第2年第2号(明治43年=1910)の裏表紙を飾った光太郎の絵。口から蛇を吹き出すエジプトの女神ですが、モデルは晶子です。このシリーズで光太郎は森鷗外、北原白秋なども茶化して描いています。まぁ、親しみの表れですね。

他に、晶子の著書に挿画や序文を寄せたことも複数回ありましたし、晶子の有名な「百首屏風」と同じようなコンセプト(鉄幹の渡航費用捻出のための販売用)で光太郎が絵を描き、晶子が短歌を揮毫した屏風も現存します。そうした交流は晶子が亡くなる昭和17年(1942)まで、断続的、不即不離に続きました。

そういった話プラス、作品面での2人の対比といったお話になるようです。興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昨日にひきかへて今日は午后猛烈な風が吹き出し、ザラメ雪を交へてすごい吹雪風景となりました。風が積雪を吹き上げて煙のやうに空にまひ上げ、一望ただ白く、向うの森も見えなくなります。

昭和22年(1947)1月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

「地吹雪」というやつですね。

この書簡には、イラストも附けてありました。花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の雪上に見られる狐と兎と鼠の足跡です。
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まず、新刊書籍の紹介を。2ヶ月ほど経ってしまっていますが。歌集です。

燃える花

2023年11月15日 沢本ひろみ著 文芸社 定価1,000円+税

「古と今は変はりて変はらざり 逢瀬の後は後朝のメール」「『レモン哀歌』の一語一語は哀しみと愛の重さで胸にしたたる」「軒借りて過ぐるを待ちぬ時の雨 嵯峨の紅葉は濡れまさりつつ」──鋭い感性と溢れる思いで読んだ短歌の数々を、〈黎明〉〈友〉〈初恋〉〈京の旅〉〈母〉〈愛〉など、カテゴライズしてまとめた。短歌による自分史ともいえる、素の作者が詰まった一冊。

著者プロフィール
本名・宮崎裕巳。東京都出身。早稲田大学教育学部卒業。都立高校の国語科教師として長年勤務し、後、私立高校でも教鞭を執る。2021年11月より「塔」短歌会に所属。東京都在住。
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目次
 黎明
  自然/音楽/文学/日本舞踊/房総にて/蓼科にて/諸々
 友
 初恋―初夏の陽―
 ヨーロッパ旅行
  パリ/グラナダ/アテネ/ドイツ
 京の旅
 恋―触れられぬ背―
 歌舞伎
  鷺娘/吉野山/梅川忠兵衛/紅葉狩/船弁慶/市川海老蔵丈/歌舞伎見物
 母
 愛 ―燃える花―
 後書き


内容説明欄に「『レモン哀歌』の一語一語は哀しみと愛の重さで胸にしたたる」と、光太郎がらみの歌が一首引かれていますが、これ以外にも二首、光太郎や智恵子抄からのインスパイアが。ありがたし。

「後書き」から。

 私が短歌に心を惹かれたのは、高校生の時です。現代文の授業で近代の短歌を学習し、その時初めて与謝野晶子や若山牧水、石川啄木などの歌と出会いました。目を瞠るような思いで読んだのをよく覚えています。五七五七七という制限された枠組みの中に秘めている豊かな世界に魅了されました。
 同じ頃に詩や小説にも目が啓き、様々な文学に親しんで過ごす内に、少しずつ歌を作り始めたのは、自然な成り行きであったかもしれません。


その後社会人となられ、一時期短歌の世界から離れられていたのが、ふとまた作歌を始められたとのこと。ところがいわゆる「現代短歌」にはある種の違和感を感じられているそうです。

 現代の歌はことごとく写実的な日常詠でなくてはならないのか。それ以外の歌は受け入れられないのか。私は悩みました。
 そんな私の中に、かつて心を躍らせて読んだ明治の歌人達の歌が甦りました。「哀しい」「さびしい」「恋しい」等の語をためらわずに用い、時には自分の感情をたたきつけるように直截に表現した歌。(略)多彩な人々が、自由に個性的に詠んだ歌の世界は、私に小さな勇気をくれました。
 
そこで、時代遅れかもしれないスタイルで、切実な思いやらを自分らしく自由に言葉にすることを心がけているとのことです。

腑に落ちました。いいな、と思える歌が多く、なぜそう感じたかというと、当方もよく眼にする「明治の歌人達の歌」に範を採られているからなのですね。

ちなみに与謝野夫妻の『明星』が本格的な文学活動の出発点だった光太郎も、生涯に1、000首近い短歌を詠んでいます。詩と異なり、手控えの原稿に残すことをしなかったので、未知のものも続々見つかり続けています。高村光太郎研究会さんから4月発行予定の『高村光太郎研究』に、昨年新たに見つけたもの三首を紹介する予定です。

さて、取り上げるべき事項がまた山積して参りまして、『智恵子抄』がらみで近々開催される朗読会の件もご紹介しておきます。

大人のための朗読会

期 日 : 2024年2月4日(日)
会 場 : 佐野市立図書館 栃木県佐野市大蔵町2977
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

高村光太郎作「レモン哀歌 他」、森鴎外作「高瀬舟」、太宰治作「貨幣」の朗読を行います。
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もう1件、『毎日新聞』さんの京都版に、舞鶴市での朗読会の案内も出ていました。ただしこちらはネットで調べてもそれ以上の情報が出て来ませんで……。

第140回かざはな朗読会 

2月2日(金)13時半、舞鶴市溝尻の市勤労者福祉センター。舞鶴今昔物語より「消えた温泉」など、宮沢賢治作「雪渡り」、高村光太郎作「智恵子抄」より。参加無料。主催は朗読愛好会かざはな。

以上、よろしくお願いします。

【折々のことば・光太郎】

痩せてバツタのやうな此の部落の子供達は見かけよりも健康で、元気で、毎日午前十時半の体操の時間には角力やリレー競争で運動会のやうな騒ぎです。分教場の生徒(尋常科)男女合せて三十八名、皆性質のよい、素直な、ハキハキした子供達です。これで田植や草刈には一ぱしの役をつとめて居ます。小生の小屋へもよく野菜や漬物などを持つて農家から使ひに来ます。「コレ、ケル」といひます。「コレヲ進上」といふ意味です。


昭和21年(1946)7月17日 和田豊彦宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、山小屋近くの山口分教場の子供たちについて。戦後となりましたが、教育基本法はまだ施行前で「尋常科」の呼称が残っていたのでしょう。和田は光太郎もたびたび寄稿した『週刊少国民』の編集に当たっており、送られてくる同誌を子供たちに貸してやって……という話の流れです。

おそらく光太郎は登場しないとは思われますが……。

偉人の年収 How much? 歌人 与謝野晶子

NHK Eテレ 2024年1月8日(月) 19:30~20:00 

教科書に載るような偉人たちはいくら稼いでいたの?お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる!今回は「情熱の歌人」与謝野晶子の素顔に迫ります。

愛の歌集「みだれ髪」で衝撃的にデビューした与謝野晶子。初めての収入は何に使った?夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意するため、晶子が始めたこととは?大正時代には男女の意識の変革を訴え、昭和になるとあることに打ち込んだ晶子。鉄幹死後の晩年の年収は?グローバルな視点でいまの私たちにも訴えかけてくる与謝野晶子の姿を今野浩喜が演じ、谷原章介、山崎怜奈と語り合う。

出演者 【司会】谷原章介 山崎怜奈 【出演】今野浩喜
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昨年からレギュラー放映されている番組で、上記番組紹介欄にあるとおり「お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる」というコンセプトです。

何度か拝見しましたが、当方事務所兼自宅のある千葉県香取市の偉人・伊能忠敬の回や、当方がある意味光太郎以上に尊敬する土方歳三の回などは、特に興味深いものでした。

毎回、再現V的な中で今野浩喜さんがそれぞれの偉人に扮し、スタジオのMC谷原章介さんと山崎怜奈さんに突っ込まれるという作り。今回も今野さんが与謝野晶子を無理くり演じられます。
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晶子の夫・鉄幹与謝野寛は、本格的に文学的活動を始めた頃の光太郎の師。晶子も光太郎の姉貴分といった立ち位置でした。そこで「夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意」には光太郎も関わります。明治44年(1911)のことです。

その費用の捻出のため、晶子は自作の短歌百首を散らし書きした「百首屏風」を複数制作して販売しました。それ以外に、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を揮毫した屏風も作られました。下記は阪急グループの創始者・小林一三の旧蔵品。
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また、後から晶子も寛を追って渡欧しますが、その際、寛から晶子への指示は「あなた一人で来るのは無理だろうから光太郎君についてきてもらいなさい」。さすがに光太郎の随伴は実現しませんでしたが。

その後も与謝野夫妻と光太郎の交流は続き、不即不離の関係でした。現在確認できている光太郎生涯最後の短歌にも晶子が詠われました。

十和田湖に泛びてわれの言葉なし晶子きたりて百首うた詠め

昭和27年(1952)、彫刻家としての生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、十和田湖に遊んだ際の詠です。「泛びて」は「うかびて」と読みます。寛は昭和10年(1935)、晶子も昭和17年(1942)、既に亡くなっているのですが。

そんなわけで、番組内でちらっとでも光太郎に触れられるとありがたいのですが……。ともあれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

お約束してゐた「海にして」の揮毫、硯が凍って書けませんでしたが、この二三日時候ゆるみ、雪もとけはじめました位、今日悪筆をふるひましたので別封でお送りしました。


昭和21年(1946)3月25日 岡崎清一郎宛書簡より 光太郎64歳

「海にして」は明治39年(1906)、光太郎が渡米の折に船中で詠んだ短歌です。

海にして太古の民のおどろきをわれ再びす大空のもと

光太郎自身は、「此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屡〻(しばしば)揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」(「ある日の日記」雑誌『キング』第5巻第9号 昭和4年=1929)と書いています。

7月23日(日)、安曇野市の碌山美術館さんをあとに、愛車を南に向けました。目指すは松本市。

甲信方面はなぜか光太郎と交流のあった人物の記念館や、それらの人物の作品を収めた美術館等が多く、碌山美術館さんに行った際にはもう一つ、ハシゴして帰るのが昔からのルーティーンです。

今回訪れたのは、松本市のはずれ、のどかな田園地帯の一角にあるにある窪田空穂記念館さん。窪田空穂の生家のかたわらに建てられています。
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窪田は光太郎より6歳年上の明治10年(1877)生まれ。初期の『明星』に参加した歌人で、その頃から光太郎と交流がありました。そして光太郎がらみで最も多く取り上げられるのが、大正2年(1913)夏、上高地の清水屋旅館でたまたま同宿となったこと。この際には智恵子も後から光太郎を追いかけて上高地に現れ(しめしあわせていたのですが)、ここで二人は結婚の約束をしました。

窪田が下山するのと入れ違いに智恵子が登ってきて、窪田は智恵子を迎えに途中の岩魚止までやってきた光太郎と智恵子を目撃、帰京後、『東京日日新聞』に「美くしい山上の恋―洋画家連口アングリ―」というゴシップ記事を匿名で寄稿した他、複数の回想でこの夏の上高地の様子や、その前後の『明星』時代の光太郎について書き残しています。

まずは生家。
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玄関には式台があり、なかなかの格式です。名家だったことがよくわかります。
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衝立の裏側は、何やら洋画風の絵。
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座敷の感じや、むき出しの梁(はり)など、古建築好きにはたまりません。
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縁側にはちょっと変わった七夕飾り。おそらくこの辺りは旧暦で実施するのでしょう。
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庭からの外観。
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戦時中、窪田が疎開的に帰って来て暮らしていたという離れ。
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道をはさんで反対側の記念館。
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撮影禁止という表示が見あたらなかったので……。
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大正2年(1913)、光太郎と同宿だった上高地関連。光太郎の名も。
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右は昭和9年(1934)刊行の『日本アルプスへ・日本アルプス縦走記』に載った挿画。画家の茨木猪之吉が描いたもので、光太郎を含む、大正2年(1913)夏に同宿だった面々のカリカチュアです。
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馬面だった光太郎の特徴をよく捉えてはいますが、若干の悪意を感じますね(笑)。

展示はされていなかったのですが、こちらには上高地で光太郎が描いたスケッチが収蔵されているとのことです。ただし、「写真」とあるので複製と思われます。
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なかなかいい絵ですね。しかし、光太郎筆に間違いはなさそうですが、元ネタがよくわかりません。上高地からの下山後、10月に神田三崎町のヴヰナス倶楽部で、岸田劉生らと開催した「生活社主催油絵展覧会」に出品されたペン画3点のうちの一つかとも思われますが。光太郎、この際には他に彫刻1点、上高地での油絵21点も出品しました。

拝見し終わって帰途に就きました。まだ午前中でしたが、日曜でしたので夕方近くになると中央道が大渋滞になるだろうと予測。それを避けるためです。それでも韮崎付近で工事プラス事故で渋滞、小仏トンネル入り口あたりでも自然渋滞。さほどではなかったので途中で昼食を摂っても4時間少しで帰り着きました。

以上、信州レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

あなたのてがみを病院でよみました、面疔が急に出来て、診察してもらひにいつたら即刻無理に入院させられてしまひ重態扱ひなので一時閉口しましたが早い手当てがきいて間も無く快方に赴き、もう退院しました。

昭和6年(1931)7月7日 高田博厚宛書簡より 光太郎49歳

「面疔(めんちょう)」は、黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。化膿性で進行すると脳膜炎に移行すると、昔は恐れられていました。光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中にも面疔を発症しています。

書簡はパリに渡った高田に宛てたもの。現在確認できている高田宛書簡二通のうちの一通です。現物は高田の作品を多数展示している安曇野市の豊科近代美術館さんで所蔵しています。

淡交社さん発行の『月刊なごみ』。女性向け茶道の雑誌です。早稲田大学名誉教授にして国語学者の中村明氏の連載「手紙の風景 作家のセンスを学ぶ」という連載が為されており、今月号は「弥生の便り 高村光太郎から北原白秋へ」。ちなみに表紙は牧瀬里穂さんです。
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大正2年(1913)3月23日の光太郎書簡の一節が紹介されています。

全文は下記の通り。『高村光太郎全集』に掲載されていました。『なごみ』には色を変えた部分が引用され、中村氏の解説がついています。

大変御無沙汰いたして居ります 先日は「桐の花」を御送り下さつてほんとにうれしく存じました 私達の命は日に日に歩んでゆきます 其故周囲に対する心も日に日に移り変つてゆきますが あなたの芸術に接すると不思議に私の心は如何なる時にも動揺を感じます そしてあなたも(恐らくは)自覚なさらない或る大きな力が私の命に手をかけます 私はいつでもあなたの芸術の尊敬者であり得る事を喜んで居ます もう春が来ました あなたの御健康を心から祈ります 三月二十三日 高村光太郎 北原白秋様机下

白秋の第一歌集『桐の花』の受贈礼状です。巻紙に墨書されています。ちなみに『桐の花』、最初の一首が有名な「春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕」です。

光太郎と白秋、与謝野夫妻の『明星』以来、さらに光太郎が欧米留学から帰国した直後の「パンの会」などでの付き合いでしたが、光太郎は明治44年(1911)には白秋の詩集『邪宗門』の第二版の装幀、挿画を手がけたり、その後も折に触れ、白秋に関わる文章を執筆したりしています。もちろん昭和17年(1942)に白秋が亡くなった際も追悼文を複数書いています。

短歌も。

白秋がくれし雀のたまごなりつまよ二階の出窓にてよめよ

雀のたまご」は本当の卵ではなく、大正10年(1921)に刊行された白秋の歌集『雀の卵』です。上記『桐の花』同様、白秋から贈られた際に、礼状としてこの短歌のみをしたためて返礼としました。粋ですね(笑)。「つま」はもちろん智恵子です。「二階の出窓」は駒込林町の自宅兼アトリエのそれでしょう。

他にも『高村光太郎全集』には、計23通の白秋宛書簡が掲載されています。そのうち21通は明治末から大正末までのもの。明治45年(1912)3月の葉書には、光太郎の自画像も描かれています。
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光太郎、白秋ともども「パンの会」の主要メンバーだった木下杢太郎の戯曲『十一人の偏盲』にふれたものです。杢太郎、この中で光太郎を「二十四歳。また極めて穎悟にして才学あり。諸国の語に通じたれども、黠詐の性格にして一事に固執し難く且自らを優良に観せむとする不断の懸念あり。体格長大にして白皙の美男子。言語動作も亦円滑にして、往々婦女の如き媚容を為す」とおちょくっています。そこで「こん度杢さんに会つたらポカリとひとつ頭をぶたうと思つてます」。

文豪達の若き日の微笑ましい交遊のさまが見て取れますね。

その後、期間が空いて昭和4年(1929)が1通、同15年(1940)で1通です。昭和に入ると光太郎と白秋、それまでより疎遠になったのでしょうか、それとも見つかっていないだけで、まだまだ白秋宛書簡、何処かに眠っているのでしょうか。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

さて、『なごみ』3月号、ぜひお買い求めを。電子版もあるそうです。

【折々のことば・光太郎】

羅馬よりナポリに遊びに参り候。明日はヹスヸオ登山の積り。ホテルの窓より見れば暗き夜の空に大きなる篝火を焚き居る如き火の山に候。明日の好運を祈りて寝ね申すべく候。


明治42年(1909)4月15日 与謝野寛宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行も終盤です。「ヹスヸオ」はヴェスヴィオ山。活火山です。書簡の通り、登ったのかどうかは不明なのですが、およそ40年後の昭和23年(1948)に書かれた詩「噴霧的な夢」では、亡き智恵子とこの山に登った夢を見たことが記されています。曰く「あのしやれた登山電車で智恵子と二人、/ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。/夢といふものは香料のやうに微粒的で/智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。/ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは/ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)のやうに吹き出てゐた。

昨日のこのブログで、先週、地方紙二紙に掲載された一面コラムをご紹介しましたが、昨日の『福島民報』さんの一面コラムにも智恵子の名が出ていました。アニソン歌手の水木一郎さんが12月6日(火)に亡くなったことを受けてのものです。

あぶくま抄 ロケットパンチ

♪空にそびえるくろがねの城…。歌い出しから胸は躍った。♪無敵の力はぼくらのために…。強靱[きょうじん]なパワーで自分たち子どもが守られているような気がした。「マジンガーZ」の主題歌を半世紀にわたって歌い続けた水木一郎さんが世を去った▼「アニメソングの帝王」と評され、持ち歌は1200曲を超えるが、当初は子ども相手の歌と軽んじられた。アニメが世界に誇る日本の文化に定着するまで並々ならぬ苦労があったからこそ、若手に優しいまなざしを向け、アニキと慕われた▼実父のように敬愛した小野町出身の作詞家丘灯至夫さんから、10曲以上の楽曲を受けて足場を築く。仲間と登山部を結成して2015(平成27)年、安達太良山に登った。丘さん作詞のヒット曲「智恵子抄」の譜面を山頂で配り、「ほんとの空」に感謝の歌声をささげた。恩義を忘れぬ人柄がしのばれる▼革ジャンに赤いスカーフを巻いた姿は、昭和の子どもを熱狂させた正義のヒーローそのものだった。不穏な令和の今に憤りを感じつつ旅立ったに違いない。追悼にふさわしい言葉が浮かんできた。地球の平和を乱す不義へ、天上から今度は自ら飛ばせ、鉄拳ロケットパンチ。
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水木さんが「アニソン登山部」を結成されたというのは存じていましたが、故・丘灯至夫氏作詞の「智恵子抄」(昭和39年=1964 二代目コロムビア・ローズさん歌唱)のからみだったとは初めて知りました。山頂で歌われたということも。そういえば水木さん、都内で開催された「丘灯至夫さんの作品を歌う会」にも参加なさっていました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、先月から今月にかけ、全国の地方自治体さんの広報誌に光太郎やその父・光雲、さらに智恵子の名。まぁ、どれもほんのちょっとですが(笑)。

鹿児島県いちき串木野市さんの『広報いちき串野』11月24日号。
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同市は「短歌のまち」を標榜しているそうで、同市出身の歌人・萬造寺斉の紹介。与謝野夫妻の新詩社を通じ、光太郎とも交流がありましたので、光太郎の名も出して下さいました。

続いて、新潟県新発田市さんの『広報しばた』12月1日号。
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それ以前の号から「もっと知りたい! 郷土の偉人 大倉喜八郎」という連載が為されていたようで、この号では大倉と交流のあった人々の紹介。「芸術家」として、木彫による肖像彫刻の制作を依頼された光雲、そのための原型塑造を作った光太郎の名が出ています。

さらに、市町村ではなく、県。群馬県さんの広報誌の増刊的な『tsulunos PLUS(ツルノスプラス)』の12月号。特集が「群馬発、世界に誇る温泉文化」だそうで、草津温泉の紹介の中に光太郎智恵子の名。
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ただし、「「草津」の碑」は智恵子療養のために訪れた昭和8年(1933)の作ではなく、昭和2年(1927)のものですが。

最後に智恵子の故郷、福島県二本松市さんの『広報にほんまつ』12月号。「第27回 智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」表彰式の話題。
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光太郎つながりで花巻からも募集していたのですね。

少しずつですが、いろいろ取り上げて下さりありがたいことです。しかし、「高村光太郎? 誰、それ?」、「高村光雲? 知らんなぁ」、「高村智恵子? 聞いたことない」という状況になると、こうは行きませんので、そうならないよう努力いたします(笑)。

【折々のことば・光太郎】

細雨、涼、 横になると痰せきが出る、相当に出るやうになる、


昭和30年(1955)6月26日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結果のため、赤坂山王病院に入院したものの、病状は一進一退でした。治癒に至るには既に進行しすぎていたようです。

いわゆるカルチャースクールでの市民講座。教室での対面受講とオンライン受講が選べるそうです。

続・文学者の短歌 in 大阪

期 日 : 2022年12月3日(土)
会 場 : 毎日文化センター 大阪市北区梅田3-4-5毎日新聞ビル2階 
時 間 : 13:00~14:00
料 金 : 2,750円
講 師 : 松村正直(歌人)
1970年生まれ。歌集に『駅へ』『やさしい鮫』『午前3時を過ぎて』『風のおとうと』『紫のひと』、評論集 『短歌は記憶する』『樺太を訪れた歌人たち』『戦争の歌』、評伝 『高安国世の手紙』、時評集『踊り場からの眺め』、同人誌「パンの耳」。現在「角川短歌」に「啄木ごっこ」を連載中。

 今年2月に実施した「文学者の短歌」が好評につき、第二弾の続編を開催します! 近代以降、短歌は多くの人々に親しまれてきました。歌人として知られる人物だけでなく、さまざまな文学者たちも歌を詠んできたのです。短歌は若き日の彼らの文学の出発点となり、また終生愛する詩型ともなりました。
 本講座では、柳田国男(民俗学者)、高村光太郎(詩人、彫刻家)、加藤楸邨(俳人)、中原中也(詩人)、三浦綾子(小説家)らの短歌を紹介しつつ、その時代背景や人生をたどります。その上で、短歌という詩型の持つ特徴や魅力に迫りたいと思います。

オンライン受講について
・事前にZoom公式サイトから最新Zoomアプリをインストールしてください。
・講座当日の10:30までに視聴URL(ウェビナーIDとパスコード)をお知らせします。
・開講当日の開始15分前から入室可能です。
・「Zoom」ウェビナーは受講者側のお名前や映像、音声は配信されません。ウェブカメラやマイクは不要です。
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今年2月に「文学者の短歌」というオンライン講座があり、その続編だそうです。2月に取り上げられたのは、森鷗外、芥川龍之介、村岡花子、宮沢賢治、中島敦、北杜夫、石牟礼道子など。今回取り上げられる人々と併せ、いわゆる「歌人」ではなかった人々の短歌、ということですね。

光太郎の場合、本格的な文学活動の出発点が短歌でした。東京美術学校在学中の明治33年(1900)、与謝野夫妻の新詩社に加わり、機関誌『明星』に「砕雨」と号して多くの短歌を発表しています。それ以前に俳句が『読売新聞』に掲載されたりもしましたが、そちらはあくまで投稿の域を出ませんでした。

その後、大正期の第二次『明星』にも多くの短歌を寄せたり、木彫を作るとその袋や袱紗(智恵子の手縫い)に短歌をしたためたりもしました。そして晩年まで折に触れて歌作を続け、結局、『高村光太郎全集』には800首ほどが掲載されていますし、平成10年(1998)の『全集』完結後も10首あまり見つかっています。短歌は詩と異なり、手元に控えの原稿を残さなかったので、今後も見つかる可能性が高いと思われます。

やはり詩であれだけの(どれだけだ(笑))世界を構築した光太郎、短歌でも素晴らしいものをたくさん残しています。初期のものは、鉄幹による添削が激しく入っているとのことですし、また、いわゆる「歌人風」に逆らった、巫山戯た短歌も目につきますが。

講座はオンラインでも配信されるとのこと。この対面式とオンラインとの併用(特にアーカイブ配信まである場合)は、コロナ禍によるいい意味での副産物といえるでしょう。コロナ禍以前は対面式の講座等は一度その場でやったらそれで終わり、という感じでしたから、遠方だったり、その日に都合がつかなかったりの場合に対応できませんでした。

当方も12月10日(土)、都内で開催される日本詩人クラブさんの例会で講演をしますが、そちらのオンライン配信があるそうです。例会自体はクローズドで、配信も欠席会員のためのライブ配信だと聞いていますが、もしかすると一般の方も試聴可能かも知れません。

また、それに先立つ12月3日(土)には、花巻高村光太郎記念館さんで、現在開催中の企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の解説等を収録します。こちらは期間限定配信のようです。

それぞれ詳細が分かりましたらまたご紹介します。

閑話休題、「続・文学者の短歌 in 大阪」、ぜひお申し込みを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜の原稿清書、 午后「書道全集」の人くる、原稿渡し、4枚、


昭和30年(1955)2月15日の日記より 光太郎73歳

「原稿」は、平凡社から翌月刊行された『書道全集 第七巻 隋・唐Ⅰ』の月報のためのもの。「黄山谷について」と題し、光太郎が愛した黄山谷(庭堅)の書の魅力を綴っています。
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日本金融通信社さんが発行している金融専門週刊紙『ニッキン』。一面コラムでしょう、9月9日(金)の掲載分。

ニッキン抄

夜、帰宅後に部屋の電気をつけて一瞬はっとした。体長10センチ程のヤモリが窓ガラスの内側に張り付いていたからだ。夏から秋にかけて目撃するが、室内では初めて。見た目が苦手で、何とか外へ逃がした▼入った経路はエアコンの室外機だろうか、寄せ付けないためには……。ネットで侵入対策を調べていると、ヤモリの意外な事実が。東京都を始め、複数の県で絶滅の恐れがある野生生物に指定されているのだという。身近な生き物に迫る危機の一端を知った▼気候変動と並び、世界の重要テーマになった「生物多様性」。12月にはカナダでCOP15が開かれ、国際目標も決まる。多くの種を失えば、人類の存続をも脅かす。企業の行動変容を促すために金融の力を発揮してほしい▼高村光太郎の短歌にある。「はだか身のやもりのからだ透きとほり 窓のがらすに月かたぶきぬ」。白い身体が夜の月光で透き通ると。次のヤモリ来訪時は野生の命の神秘を感じつつ、温かく見守ろう。

引用されている短歌は、大正13年(1924)の作。「工房より」の題で10月1日発行の第二次『明星』第5巻第5号に掲載された50首(!)のうちの一つです。

こちらは短歌のコーナーではなく、光太郎に任された割り当てページがあるので、勝手に短歌を載せさせてもらう、的な感じだったようです。

短歌50首の前に置かれていた「近状」と題する散文の一節。

 今年は徒言歌が時々出来た。自分だけの理由があるのだが、与謝野先生にお渡ししたら削られてしまふ歌ばかりだから、最近のを五十首ばかりだしぬけに自分が貰つた積で居る此の頁へ書き続けて置かうと考へた。詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる。短歌では詩の表現の裏側に潜むかういふレアリテから進みたくなつた。

徒言歌」は「ただごとうた」。厳密に言うと『古今和歌集』仮名序に挙げられた「六義(りくぎ)」の一つで、難しい規程があるようですが、のちに「物にたとえていわないで直接に表現する歌、深い心を平淡に詠む歌」と解されるようになりました。だから「レアリテ」(「リアリティ」の仏語表記)なのでしょう。

50首中、3首がヤモリを詠んだ歌です。『ニッキン』さんに引用されているもの以外では、

木に彫るとすればかはゆきはだか身の守宮の子等はわが床に寝る

手にとれば眼玉ばかりのやもりの子咽喉なみうたせ逃げんとすなり


守宮」が「やもり」の漢字表記です。「」は「とこ」ではなく「ゆか」だと思うのですが、どうでしょうか。さすがに布団の中には入ってこないような気がするのですが……。

そういえば「ニッキン抄」筆者の方、室内にヤモリがいて驚いたそうですが、当方も同じ経験があります。自宅兼事務所の階段にのうのうとしていました(笑)。すぐにちりとりを使って外に逃がしてやりましたが。放っておくと、自宅兼事務所には凄腕のハンターが居ますので、たちまち餌食になります(笑)。
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まだヤモリを捕らえたことはないようですが、トカゲはしょっちゅうです。たいていはシッポを切って逃げていきますが、仕留めたこともたびたび。蝉まで捕まえますし(笑)。庭に出した時には注意しているのですが……。

閑話休題。

光太郎、「近状」の中で「詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる」と書いています。短歌は光太郎の本格的文学活動の出発点だったこともあり、いわば原点回帰的な感覚があったのでしょう。譬えはよくありませんが、大人になってから子供の頃の遊びをふとやってみたときの懐かしさというか、郷愁というか、そんな感じでしょうか。

同様のことは、この時期取り組んでいた木彫にも言えるような気がします。

昭和2年(1927)に書かれた連作詩「偶作十五篇」中の1篇に「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」とあります。
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ブロンズに鋳造する粘土塑造は真剣勝負、木彫はもっと肩の力を抜いて楽しみながら、という感覚だったように思われます。彫刻に関しては、塑造(モデリング)より木彫(カーヴィング)が光太郎の出発点でしたし。

そこで、ほとんどの木彫作品に、関連する短歌を添えていた(智恵子手縫いの袋や袱紗に揮毫しました)ことに、妙に納得が行くのです。

揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづ

ざくろの実はなやかにしてやゝにがしこのあぢはひをたれとかたらん

山の鳥うその笛ふくむさし野のあかるき春となりにけらしな

いはほなすさゝえの貝のかたき戸のうごくけはひのほのかなるかも

遠く来るうねりはあをくとど崎の岩白くしてなきしきる

小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん


色を変えた語がそれぞれの歌を添えた木彫のモチーフです。最後の二首、「小鳥」は文鳥です。雌雄のつがいで作られたので、二首あります。

ところでヤモリを「木に彫るとすれば」と謳った光太郎。実際に彫ったかどうか分かりません。今のところ作品として発表したものの中には確認出来ていません。もしヤモリの木彫が作品として売られていたとすれば、上記三首のどれか、あるいは似たような歌が添えられていたことでしょう。どこかからひょっこり出て来ないかと、淡い期待を抱いております。

【折々のことば・光太郎】

くもり、やや寒、 大和ミエ子といふ人来訪の由、皿などもらふ、


昭和28年(1953)12月29日の日記より 光太郎71歳

光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエ。光太郎との面識が無いような人物等のいきなりの来訪、あるいは知った顔でも光太郎の具合が良くない時などは、大家の中西夫人が用件だけ聞いて帰ってもらうという感じでした。そこで「来訪の由」。この日がどちらの場合だったかは分かりかねますが。

大和ミエ子」は詩人・作詞家。当方、存じ上げない名前でしたが、しかし、インターネットというのはつくづく便利なものですね。何でもかんでも出て来る情報は鵜呑みには出来ませんが、調べるとちゃんと記述があります。このように『高村光太郎全集』を読んだだけでは素姓の分からなかった人物についても、かなり判明しました。

昨日に続き、明日、没後80周年となる与謝野晶子関連で。

『産経新聞』さんのおそらく関西版で、「火に燃えて動きし 与謝野晶子」という特集記事が3回にわたって掲載されました。その第1回では光太郎についても触れて下さっています。

火に燃えて動きし 与謝野晶子  (上)国を愛し家族を愛し まことの心歌い上げ

  激しい恋心を大胆に表現した第1歌集「みだれ髪」で文壇に衝撃を与え、詩や評論、源氏物語の現代語訳など多彩な足跡を残した堺市出身の歌人、与謝野晶子。感じたことを感じたままに、刺激的な表現も辞さなかった創作や言動はときに物議をかもした。文学でも家庭でも、情熱の火を燃やし続けた歌人は、今年が没後80年。命日の29日を前にその足跡をたどってみたい。
※火に燃えて動きし…晶子の代表的な詩「山の動く日」の一節。自立に向け動き出す女性たちを火山にたとえた
003
挑戦的な言葉
〈あゝをとうとよ君を泣く/君死にたまふことなかれ〉
多作だった晶子の作品のなかで、夫の与謝野鉄幹が主宰する雑誌「明星」に発表された「君死にたまふこと勿れ」は、最もなじみのある作品といえるだろう。日露戦争に出征した弟・鳳籌三郎(ほうちゅうざぶろう)への思いを詠んだ長詩だ。
  晶子は、堺の実家の和菓子商「駿河屋」を継ぐ立場にあった籌三郎の身を案じる肉親の情をストレートに歌い上げる。
〈旅順の城はほろぶとも/ほろびずとても何事か〉など、国を挙げて戦争に協力する風潮が支配的だった当時の社会に挑戦的ともとれる言葉を重ね、論争を巻き起こしたことは有名だ。
 明治・大正期の詩人で評論家の大町桂月(1869~1925年)は「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判。危険思想と評して晶子を攻撃した。
 これに対し、晶子は明星で発表した反論文「ひらきぶみ」の中で、戦地に赴く兵士を駅で見送る親兄弟たちが大声で万歳を叫ぶ一方で、気を付けて無事帰るよう伝える場面も見られることを挙げ「彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候」とした。
 論争は鉄幹らが桂月宅に直接出向いて会見し、桂月が攻撃の矛を収めたことで決着した。出征していた籌三郎は帰還し、のちに家業を継いでいる。

思いを率直に
 反戦・非戦の詩として語られることの多い「君死にたまふこと勿れ」。ただ、与謝野晶子記念館(堺市)の矢内一磨学芸員は「戦争賛成か反対かといった単純な色分けでは理解できない」と指摘する。
 晶子と交流のあった文学者たちも「反戦でも何でもない。ただ弟に生きて帰れと言っただけなんだ」(高村光太郎)、「戦争否定の詩とか平和主義の詩とか読む現代の流行は、当年それを乱臣賊子の詩と読んだ人があつたのと同様に読む者の勝手であらう。しかしそのどちらも同じやうに作者晶子にとつては恐らく迷惑な事であらう」(佐藤春夫)など、懐疑的な見方を示していた。
 「ひらきぶみ」では「この国に生れ候私は、(中略)この国を愛で候こと誰にか劣り候べき」と愛国の心を強調。明治天皇の崩御の際には嘆き悲しむ心情を詠み、太平洋戦争中の昭和17年、四男の出征では「水軍の大尉となりてわが四郎 み軍(いくさ)に往く 猛く戦へ」と鼓舞する短歌を歌っている。
  矢内氏は「戦争肯定か反対か、でわける考え方は一見わかりやすいが、そこで思考停止に陥ってしまい、晶子の本質をとらえられなくなる恐れがある。そのときどきに感じた思いを率直に表現するのが晶子の作風」と話す。その心を晶子はこう表現する。「歌は歌に候。(中略)まことの心を歌ひおきたく候」(ひらきぶみ)

認め合った2人
 論争では敵役に回った桂月だが、晶子の才能を認め、もり立てた理解者でもあった。
 民俗学者で歌人・釈迢空としても知られた折口信夫(1887~1953年)は、晶子への追悼文で「晶子さんをあれだけの人として(中略)相当早い時期に認めたのは大町桂月さんでした」と寄せている。
 旅と酒を愛し、多くの紀行文を残した桂月は大正14年に死去。晶子は新聞「横浜貿易新報」(神奈川新聞の前身)でその死を深く悼んだ。
 「今思ひ出すと、当時私のやうな者を眼中に置いて下さつた先生の厚意を感謝したい。猶お目に掛るたびに先生が私の歌を褒めて激励して下さつたことも永く忘れることが出来ない」。桂月は晶子の才能を愛し、晶子もその恩を忘れることはなかった。

堺に残る歌碑の数々
 明治34年6月、与謝野晶子は生まれ育った堺を後に上京し、恋心を募らせていた歌の師、鉄幹のもとへ走った。歌集「みだれ髪」にそのときの心情を伝える一首がある。
  〈狂ひの子われに焔(ほのお)の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅〉(恋に狂った私は炎でできた羽をつけ百三十里を飛んでいく。あわただしい旅…)
 その後、鉄幹との新生活をスタートさせた晶子だが、結婚に反対していた兄、鳳秀太郎とは絶縁状態になるなど、失ったものも大きかった。晶子の長男、光の回想によれば晶子の父、鳳宗七が死去した際、喪主だった秀太郎は葬儀のために堺に戻ってきた晶子の参列を拒否したという。
〈古さとの小さき街の碑に彫られ百とせの後あらむとすらむ〉(故郷で私の歌は碑に彫られ、100年後にもあり続けるでしょう)
 自分を歓迎しない故郷への複雑な感情が詠ませた歌だろうか。しかし、ふるさとは晶子の歌をたたえる。与謝野晶子記念館によると、晶子の歌碑は堺市内だけで26基を数えるという。自分の心情に忠実に生きた晶子の文学が持つ魅力ゆえなのかもしれない。

よさの・あきこ 1878~1942年。堺県堺区甲斐町(現・堺市)に生まれる。明治31年、与謝野鉄幹の短歌に刺激を受け、本格的に歌作に開眼。33年、鉄幹の東京新詩社に参加し「明星」で短歌を発表した。34年、歌集「みだれ髪」を出し、鉄幹と結婚。近代日本の浪漫主義を代表する歌人として多くの作品を残した。婦人問題・教育問題など時事評論の分野でも積極的な発言を続けた。

  君死にたまふこと勿れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

 あゝをとうとよ君を泣く
 君死にたまふことなかれ000
 末に生れし君なれば
 親のなさけはまさりしも
 親は刃をにぎらせて
 人を殺せとをしへしや
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや

 堺の街のあきびとの
 旧家をほこるあるじにて
 親の名を継ぐ君なれば
 君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも
 ほろびずとても何事か
 君知るべきやあきびとの
 家のおきてに無かりけり

 君死にたまふことなかれ
 すめらみことは戦ひに
 おほみづからは出でまさね
 かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは
 死ぬるを人のほまれとは
 大みこゝろの深ければ
 もとよりいかで思されむ

 あゝをとうとよ戦ひに
 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに
 おくれたまへる母ぎみは
 なげきの中にいたましく
 わが子を召され家を守り
 安しと聞ける大御代も
 母のしら髮はまさりけり

 暖簾のかげに伏して泣く
 あえかにわかき新妻を
 君わするるや思へるや
 十月も添はでわかれたる
 少女ごころを思ひみよ
 この世ひとりの君ならで
 あゝまた誰をたのむべき
 君死にたまふことなかれ
    「明星」明治37年9月号

君死にたまふこと勿れ」。記事にあるとおり、発表時に大町桂月らによってバッシングにあったことは有名ですが、桂月が「晶子の才能を認め、もり立てた理解者でもあった」というのは存じませんでした。

桂月といえば、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々、十和田湖周辺の国立公園指定15周年を記念し、十和田湖の観光開発等に功績のあった桂月、元青森県知事・武田千代三郎、地元の村長だった・小笠原耕一の三人を顕彰するモニュメントとして作られたものでした。

そこで光太郎、「君死にたまふこと勿れ」バッシングを念頭に、

僕は若い頃大町さんに怒鳴られたりなんかして、よく知つてゐるんだから、貴様こんなものを立てたといつて怒られるだらうといふ事が、頭に出て来て、それでどうも弱つたんです。
(座談「自然の中の芸術」 昭和29年=1954)

と発言しています。

どういうシチュエーションで光太郎が桂月に怒鳴られたのかは不明ですが、桂月にしてみれば、光太郎は「非国民」与謝野晶子の生意気な弟分、という感覚があったのかも知れません。

それにしても「君死にたまふこと勿れ」、現代のロシアの女性たちも同じようなことを考えている、と信じたいものです。「すめらみこと」ならぬ「大統領」は「戦ひに おほみづからは出でまさね」ですから。

「火に燃えて動きし 与謝野晶子」、この後、「(中)コロナの〝失政〟100年前に見通していた晶子」「(下)「源氏物語」現代語訳の先駆け 小林一三ら財界人が支援」と続きます。長いので割愛しますが、晶子のエネルギッシュな活動ぶりに改めて感心させられました。

【折々のことば・光太郎】

花巻の阿部博氏よりリンゴ一箱届く


昭和27年(1927)12月27日の日記より 光太郎70歳

阿部博氏」は花巻の林檎農家。宮沢賢治の教え子でもあります。かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋にも足繁く通っていました。帰京後もリンゴを送ってくれ、東京の店頭で売られているリンゴが不味いと感じていた光太郎は感謝していました。


明後日、5月29日(日)は、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の忌日「白桜忌」です。晶子は昭和17年(1942)に亡くなりましたので、今年は没後80周年ということになり、例年よりも注目が集まっているように感じます。

角川文化振興財団さん発行の雑誌『短歌』。東京大学教授の坂井修一氏による評論「かなしみの歌びとたち」という連載が一昨年から為されていますが、今年4月号5月号の記事をご紹介します。
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まず4月号。副題は「『白櫻集』の残したもの」。晶子の遺作歌集にして、晶子没年の昭和17年(1942)9月刊行の『白櫻集』を中心に据えられています。

『白櫻集』、序文を光太郎と有島生馬が書いています。
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晶子には弟子もたくさんいたはずですが、それらを差し置いて遺稿集の序文を光太郎、有島生馬が書いているというのが意外といえば意外です。確かに光太郎はこの時点では晶子と直接交流があった人物の中では「重鎮」の部類だったかも知れませんが……。ただ、仮にそこで弟子筋から文句が出たとしても、それを黙らせるに足る、本質を突いたいい文章ですね。

坂井氏、この光太郎の序文を引きつつ、やはり光太郎同様、晶子がたどり着いた晩年の歌境を高く評価されています。

ちなみに題名の『白櫻集』は、晶子の戒名「白桜院鳳翔晶燿大姉」にちなむとのこと。当方、勘違いしておりました。芥川龍之介の「河童忌」や太宰治の「桜桃忌」同様、先に『白櫻集』ありきで、そこから忌日の「白櫻忌」が命名された、と。

続いて5月号。「近代ならざる近代短歌の意義について」。こちらでは晶子をはじめ、近代歌人の作に「我」や「世俗」はあっても、「市民」という意識が不在だ、という論が展開されています。晶子にしても石川啄木にしても、「市民」意識は短歌より詩や評論などでそれが表されている、と。なるほど、と思いました。

そうした論の中で、晶子が「山の動く日」を寄せた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)の智恵子による表紙絵画像が載っています。ただし、今号には智恵子・光太郎の名は出て来ませんが。

そして『短歌』、既に6月号も出ています。未読ですが、坂井氏、5月号を受け、「市民」を前面に押し出したプロレタリア短歌に言及されているのではないかと思われます。5月号にそういう予告的な一節がありましたので。

「かなしみの歌びとたち」、いずれ単行本化されることを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

藤島氏と二人ニユートーキヨー、東生園、ブロードヱー、日劇、ストリツプ見物、電車でかへる、

昭和27年(1952)12月25日の日記より 光太郎70歳

藤島氏」は、光太郎の身の回りの世話等をしてくれていた詩人の藤島宇内、「ニユートーキヨー」はビアホール、「東生園」は銀座に今も健在の中華料理店です。「ブロードヱー」は浅草の「六区ブロードウェイ」、「日劇」は有楽町にあった劇場です。

ストリツプ」は浅草で見たと思われます。数え70歳(もうすぐ71歳)の光太郎、性的関心というより、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、モデル以外の女体も見ておきたかったということなのでしょう。あるいはそれを言い訳にしてのただのエロジジイだったのかもしれませんが(笑)。

過日届いた、都下小金井市の美術系専門古書店、えびな書店さんの新蒐品目録。光太郎の書(軸装された歌幅)が写真入りで紹介されています。
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書かれているのは、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で詠まれた短歌で、「太田村やまく(ぐ)ちやまの山かけ(げ)にひえをくらひて蝉彫る吾は」。

001光太郎自身、この短歌が気に入っていたようで、複数の揮毫例が存在しますし、日記にも「誰々のために蝉の歌を揮毫」的な記述が散見されます。

駒場の日本近代文学館さんには、色紙に書かれたものが所蔵されており、10月から先月末にかけ、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示されました。

えびな書店さんの方では平仮名だった「やまく(ぐ)ちやま」が、こちらでは「山口山」と漢字表記です。

おそらく、ですが、用紙の縦横のバランスを考え、そうしたのではないかと考えられます。基本は「山口山」と漢字表記にするところを、えびな書店さんの方では、色紙より横に長い用紙のため、平仮名を使って字数を増やしているように思われますが、どうでしょうか。書家の方々のご意見を伺いたいものです。

ところで、近代文学館さんの色紙も載っている「画壇の三筆展」の図録、会期終了後に、まだ残部があればお分け下さい、とお願いし、15部入手しました。来春開催予定の第66回連翹忌にて販売予定ですが、どうしても早く手に入れたい、という方、当ブログコメント欄(非表示設定可)、当方フェイスブック、ツイッター等からご連絡下さい。代金+送料で2,570円となります。また、富山県水墨美術館さんに直接申し込まれても入手できるのではないでしょうか。
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【折々のことば・光太郎】

中原さん一年の間に大層年よりじみ、皺など目立つ。胃酸過多といふ。そのためか。顔いろもあし。

昭和26年(1951)9月15日の日記より 光太郎69歳

中原さん」は、昨日もこの項で紹介た、歌人の中原綾子。光太郎とは智恵子存命中からの知り合いでした。

一年の間に」ということは、前年にも、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に中原が訪ねてきたということになります。ところが、昭和24年(1949)、25年(1950)の日記はそのほとんどが失われており、光太郎側の資料では詳細不明です。

平成14年(2002)、中央公論事業出版さん発行、松本和雄編著の『歌人 中原綾子』には、以下の記述があります。

 綾子は昭和二四年(一九四九)、五一歳の一一月二六、二七日、「スバル」創刊号への題字依頼を兼ねてこの山小屋を訪ねた。
 宿泊は太田村村長宅。「雪の中に埋っている小さい、小さい小舎に泊めて下さるとばかり思っていたのに、夜通しお話がしたかったのに、先生は提灯さげて私を村長さんの家につれてゆかれました。」


そして、その折に詠まれた綾子の短歌。
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そして、光太郎日記に残っている昭和26年(1951)の再訪時。
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光太郎、ストイックもいいのですが……。やはり亡き智恵子に対する想いは強かったのでしょうし、数え69歳の身では、もはや「据え膳喰わぬは……」という感じでもなかったのかも知れません。

それにしても、日記。公開を前提としていない日記とはいえ、「大層年よりじみ、皺など目立つ」まで書くか、と思いますね。綾子は満で53歳、まだまだ十分に「女」だったはずですが。

基本、自然科学系の企画展示なのですが……。

身近な海のベントス展

期 日 : 2021年10月12日(火)~12月26日(日)
会 場 : 兵庫県立人と自然の博物館 兵庫県三田市弥生が丘6
時 間 : 10時~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人200(150)円 大学生150(100)円 70歳以上100(50)円
      ( )内団体料金 高校生以下無料 

水の底に生息する生物を総称してベントス(底生生物)といいます。私たちの生活圏のすぐそばにある沿岸海洋には、カニ、貝類、海藻などの多種多様なベントスが生息しています。本展示企画では、兵庫県を中心とした日本沿岸で見られるベントスと人の生活、文化、歴史との関わりについて紹介します。標本や展示を見て少しでもベントスに興味を持っていただければ幸いです。

身近な海には驚くほど多様な生物が生息しています。海の生物多様性、そして人と海、人とベントスの関係を標本、地形模型、映像、水槽展示を通してお伝えします。
・美しいカニ類、貝類、海藻類などの標本を約100点展示(予定)
・地味で不思議なベントス「フジツボ」を10種類以上水槽展示(予定)
・超貴重。詩人・高村光太郎が海を前に詠んだ短歌の直筆短冊も公開
・ダイバーが25年に渡って撮影した神戸の海洋生物を大迫力の画面でスライドショー上映
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005超貴重。詩人・高村光太郎が海を前に詠んだ短歌の直筆短冊」は、当方所蔵のものです。揮毫されている短歌は明治39年(1906)、留学のため横浜港を出航したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアンの船上で詠んだ短歌。翌年元日発行の雑誌『明星』未歳第1号に掲載されました。

光太郎にとって、初めての長い船旅で、季節風の影響もあり、海は大荒れ。しかも乗った船、アセニアンが総排水量3,882トン、外洋を航海する船としては小さなもので、大揺れだったそうです。そのワイルドな海に乗り出した感覚を、まるで太古の民が初めて丸木舟で外洋に漕ぎ出した時に感じた驚きのようだとしています。

その時点では「海を観て太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」。それが明治43年(1910)の雑誌『創作』に再録された際には、初句が「海にして」と改められており、以後、その形で流布しました。

短冊の初句は「海をみて」。従って、明治43年(1910)以前の揮毫と推定できます。

この短冊、元々光太郎の父・光雲の弟子であった故・小林三郎氏の旧蔵で、小林氏のご息女(この方も亡くなっています)からいただきました。富山県水墨美術館さんで今週から始まる「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」にお貸しすることも考えていたのですが、同展、短冊や色紙などの小さな書はあまり出さず、大幅のものを中心にということで、それは無くなりました。

会場の兵庫県立人と自然の博物館さんの学芸員氏が、平成30年(2018)翌年、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された女川光太郎祭(昨年、今年はコロナ禍のため中止)にご参加、光太郎詩の朗読をなさいまして、その関係で、こちらに貸し出し依頼が来ました。

この他、光太郎智恵子光雲関係のさまざま、依頼があれば展示等のためにお貸ししますし、当方手元に無いものは、仲介できる場合もありますので、ご関係の方、お考え下さい。

さて、「身近な海のベントス展」。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐうちち黒沢尻より斎藤充司氏他4人の小学教師遊びにくる、豚鍋をつくりて食事。ジン酒一本もらふ。皆「典型」持参。署名。


昭和26年(1951)1月8日の日記より 光太郎69歳


「斎藤充司氏」に関しては、こちら。日記が失われている前年の昭和25年(1950)にも、少なくとも2回、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問し、写真を撮影しています。

「典型」は、やはり前年に刊行された、光太郎生前最後の詩集(選詩集等を除く)です。

都下小金井市の古書店・えびな書店さんの新蒐品目録が届きました。同店、以前にもご紹介しましたが、美術系が中心で、書籍も扱っていますが、どちらかというと肉筆などの一枚物に力を入れられています。
001 006
今号では、光太郎の肉筆色紙表装済みが出ています。
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003短歌で、「熊いちこ奥上州の山そはにひとりたうへてわれ熊となる」と書いてあります。伝統的な書き方として、濁点は省略。したがって、「いちこ」が「いちご」、「山そは」で「山そば(山岨)」、「たうへて」は「たうべて(食うべて=「食べて」の意)」です。

大正13年(1924)10月、雑誌『明星』(第二期)の第5巻第5号に「工房より」の題で発表した50首のうちのひとつです。『明星』では「山そは」は「山峡(やまかい)」となっていますが、光太郎自らが校訂をしたとされている、昭和4年(1929)刊行の『現代日本文学全集 第三十八篇 現代短歌集 現代俳句集』に再録した際に「山岨」と改訂されています。

この色紙が書かれたのも、おそらくそれほど離れた時期ではなく、大正末から昭和初め頃と推定されます。筆跡的にもその頃の特徴が表れていますし。

光太郎、明治末から戦時中にかけ、断続的に何度も上州の温泉地めぐりをしています。それもどちらかというと、人里近い温泉街は避け、山間の「秘湯」と言われるようなところを多く廻りました。『明星』にこの歌を発表した大正13年(1924)も、6月に奥上州の温泉地に行ったことが年譜に記されています。ただ、この際は具体的な行き先が不明です。

「熊いちご」は野いちごの一種。ヘビイチゴと似ていますが、もっと丈が高くなるそうです。

それにしても、惚れ惚れするような筆跡ですね。戦後の花巻郊外旧太田村での、彫刻刀で彫り込むような書と違い、あまり気負いなく、さらさらっと書いているようにも見えますが、それでも文字の配置、改行の仕方など、独特の優れた空間認識が見て取れます。

ついでというと何ですが、もう1点。少し前、今年1月にネット上に出たものですが、札幌の古書店・弘南堂さんの目録から。
005
弟子屈に住んでいた詩人の更科源蔵旧蔵の、寄せ書き帳。昭和2年(1927)作の連作詩「偶作十五篇」中の2篇が書かれています。上の方が「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」、下の頁は「急にしんとして 山の匂のしてくる人がある」。

おそらく上記の「熊いちご」と、そう離れていない時期の揮毫と思われます。この書もいつまでも眺めていられそうです。

「ここにこういう光太郎の書の優品があるよ」といった情報、御教示いただけると幸いです。ただ、偽物が多いのも事実で、悩ましいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

夜土間で紙に排便。外は雪にて出られず。排便はそのまま外に持ち出す。

昭和22年(1947)12月11日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、便所は別棟で、小屋の外にありました。積雪のひどいときには、こうせざるを得なかったわけですね。

光太郎の蟄居生活、よく、「気ままでのんびりした一人暮らし」、「戦争協力への反省をしていることをアピールするポーズ」的に評したものを見かけます。豪雪の夜、土間の片隅で紙に排便をしている老いた巨軀を想像すると、当方にはそういう表現はできませんね。

『朝日新聞』さんの投稿短歌欄。全国での入選作は、毎週日曜日に「朝日歌壇」として、俳句の「朝日俳壇」とともに掲載されています。かつては石川啄木、窪田空穂、島木赤彦、佐佐木信綱、斎藤茂吉らもその選に当たっていた、伝統あるコーナーです。

全国の選に漏れたものなのか、それとも別口で募集しているのか、寡聞にして存じませんが、地方版にも「歌壇」欄が掲載されています。

少し前ですが、1月15日(金)、当方自宅兼事務所のある千葉県版のもの。
001000
智恵子の名を詠み込んだ歌が一首。曰く

 福島の旅に見上げるあかね雲智恵子の愛でし空に続くか

いい歌ですね。

「福島の旅」ということですが、智恵子の故郷・二本松で詠まれたものではないのでしょう。二本松での詠歌であれば、そこに広がる空が「智恵子の愛でし空」そのものです。少し離れた場所、しかし同じ福島県内ということで、「智恵子の愛でし空に続くか」とされているのだと思われます。

それを言ったら、空は地球上、何処へでも繋がっていますが、そうすると「続く」とはならないわけで、そのあたりが巧いと思う所以です。

言わずもがなかも知れませんが、『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」へのオマージュですね。

ところで、欄外に編集部よりの「おことわり」の文言。

「歌壇」「俳壇」は、新型コロナウイルス対応の緊急事態宣言に伴う編集作業の都合により、しばらく休載します。投稿の受付も休みます。再開の時期については改めて紙面でお伝えします。

とのこと。「こんなところにもコロナ禍の影響か」と思いましたが、考えてみればさもありなん、です。

例年11月頃、当会として、皆様からお送りいただいた郵便物に貼られていた切手を切り取り、JOCS日本キリスト教海外医療協力会さんに送っていたのですが、昨年はやはりコロナ禍のため、切手等を整理するボランティアさんの活動を休止せざるを得なくなり、現在、受付を停止中とのこと。似たような例ですね。

また、短歌ということになると、これも例年1月に開催されていた「宮中歌会始」。こちらもコロナ禍のため延期だそうで、「こんなところにもコロナ禍の影響か」と思いました。

歌会始といえば、平成25年(2013)の歌会始では、福島郡山の方が詠んだ下記の歌が入選しました。

 安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む

上記「朝日歌壇」の歌同様、『智恵子抄』からのインスパイアが入っているという作です。

光太郎が「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」と謳ったことが、人々の記憶から無くなってしまうと、特に「朝日歌壇」の歌などは成立しなくなってしまいます。「智恵子って誰?」、「何で空を愛でるの?」ということになってしまいます。
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そうならないためにも、光太郎智恵子の顕彰活動、心して続けていかねばと思う今日この頃です。

【折々のことば・光太郎】

昨日の川鍋東策氏よりのテガミにより、草野心平君の消息わかり、又黄瀛の生きてゐた事もわかる。
昭和21年(1946)4月6日の日記より 光太郎64歳

心平は戦時中、中華民国中央政府(汪兆銘政権)顧問として中国に居り、この年3月末に帰還。黄瀛は対立する国民政府軍の将校でした。交流の深かった二人の健在を知って、安堵したのでしょう。ただし、黄瀛はのちの文化大革命で投獄。生前、光太郎と再び相まみえることは叶いませんでした。

昨日放映の「NHK短歌」を拝見しました。司会は女優の有森也実さん、選者・講師は歌人の寺井龍哉さん。
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ゲストに当会会友の渡辺えりさん。
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渡辺さん、高校時代の演劇部で寺山修司の短歌に触れ、その後も現代歌人の方々と親交がおありだそうで。

光太郎と交流をお持ちだったお父さま・渡辺正治氏のお話も。ただ、光太郎の名は出ませんでしたが。
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トークを伴う番組に出演されると、とかく暴走される(笑)渡辺さんですが、昨日も案の定……。
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『万葉集』の恋歌を解釈するというコーナーの中で。静止画面にしてもブレています(笑)。

お父さま同様、光太郎と交流のあった宮沢賢治には触れて下さいました。
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またご出演なさりたいとのことですので、次はぜひ光太郎の短歌についても語っていただきたいものです。
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明日、再放送があります

NHK短歌 題「たとえば」004

NHK Eテレ 2020年12月22日(火) 15時00分~15時25分

選者は寺井龍哉さん。ゲストは演出家、女優の渡辺えりさん。題は「たとえば」。「万葉恋の歌」のコーナーでは大伴旅人を見送った児島という女性の歌を紹介する。

司会 有森也実  ゲスト 渡辺えり  出演 寺井龍哉

画像は渡辺さんのフェイスブックから採らせていただきました。

ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。

ところで、短歌といえば、都内の古美術商、田島美術店さんで、光太郎が短歌をしたためた書を売りに出しているのに気付きました。

天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」。大正9年(1920)、『明星』の歌人、渡辺湖畔に贈った十首ほどのうちの一首です。湖畔に贈った書そのものではないのでしょうが、「人におくれる」の詞書が附されています。


【折々のことば・光太郎】

秋涼、十六夜、 賢治さん十三回忌、午前九時過宮沢老人等と共に賢治さん忌につき日蓮宗の寺に参詣、経料五円つつむ。十一時一旦帰宅。十二時過宮沢邸にて中食、二時頃詩碑にゆく、三十余人あつまる、


昭和20年(1945)9月21日の日記より 光太郎63歳

賢治忌日の賢治祭に、光太郎が初めて参加した記述です。この後、昭和27年(1952)まで毎年参加し、ほぼ必ず講話、講演等を行いました。

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