カテゴリ:文学 > 短歌

昨日は上京し、お茶の水のワイム貸会議室さんで開催された「第18回明星研究会シンポジウム 大逆事件に震撼した時代~平出修・啄木・晶子」を拝聴して参りました。
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コロナ禍となって以後はオンライン限定でした明星研究会さんのシンポジウム。久しぶりに対面方式も復活(web上でも)ということで、自宅兼事務所がZOOM対応になっていませんので、ここぞとばかりに参加いたしました。

今回メインで取り上げられたのは平出修。光太郎より5歳上の明治11年(1878)、新潟の生まれ。筆名は「露花」。光太郎と同じ頃、与謝野夫妻の新詩社に加わり、明治41年(1908)に『明星』が終刊となると、翌年発刊されたその系譜を継ぐ『スバル』の編集等にあたりました。

横浜の神奈川近代文学館さんには、木下杢太郎に宛てられた書簡がごっそり所蔵されており、その中に『スバル』としての明治44年(1911)の年賀状が含まれています。

恭賀新年 明治四拾四年一月元旦 昴発行所 高村光太郎 吉井勇 江南文三 平出修

本文は印刷で、文面はこれだけですが、なぜか光太郎のが筆頭で、発行名義人だった江南の名が三番目(前年までの江南の前の発行名義人は石川啄木でした)、最後に平出の名も。

明治44年(1911)といえば、幸徳秋水・管野スガ等の大逆事件。平出は弁護士でもあり、被告の弁護にあたりました。

平出の令孫・洸氏は、明星研究会さんの世話役も務められた方でしたが、今年亡くなったそうで、昨日はその追悼を兼ねてのシンポジウムでした。
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ご発表はお三方。

まず、中川滋氏。やはり平出令孫で、洸氏の従兄弟にあたられます。
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血縁の方ということで、平出の系譜、没後の顕彰活動などについてのお話でした。

お二人目が明治大学教授・池田功氏。
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大逆事件のアウトライン、啄木は社会主義的思想に興味を持っていましたし、平出との関係もあり、この事件には非常に関心が高かったこと、事件を描いた平出の小説三編についてなど。

最後に会の中心人物・松平盟子氏。
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管野スガが晶子の短歌を激賞していたこと、スガ自身も晶子ばりの短歌を詠んでいたこと、収監後に平出が『スバル』や晶子の歌集を差し入れたりしたこと等々。

ご発表と並行し、晶子の短歌や、瀬戸内寂聴の小説『遠い声 管野須賀子』の一節を、ゲストの津田真澄氏(劇団青年座)が朗読なさいました。
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それぞれのご発表、特に新事実の披露等を含むと言うわけでは無かったようですが、平出や晶子、啄木についてそれほど詳しいわけではない当方としては、「そうだったのか」の連続で、実に興味深いものでした。

ちなみに光太郎と平出。先述の年賀状以外の関わりとしては、明治38年(1905)に光太郎から平出に宛てた書簡が一通知られています。

しばらく御無沙汰いたし居り候処益々御清福の段奉賀候 このたび御転居の御由御祝申上候 談論の筆も此より愈々麹町式の権威に神田式の辛辣を加ふべき事と存上候 失礼ながらはがきにて御移転御祝まで。

この転居に伴い、平出は自宅に法律事務所を開いたそうです。

光太郎と平出が共に写った写真が二葉確認出来ています。
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明治37年(1904)、新詩社小集での集合写真です。後列ののっぽが光太郎、その右下が平出、その右隣には鉄幹がどんと構えています。

これより前、明治34年(1901)のショット。
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投稿雑誌『文庫』(内外出版協会)が百号発行を記念し、上野の韻松亭で投書家の集まり「春期松風会」を催した際の集合写真。総勢約80人、前から六列目の左端が光太郎です。ただ、平出は写っていることはわかっていますが、何処にいるのか当方には判りません。他にも窪田空穂や水野葉舟、横瀬夜雨、伊良子清白、河合酔茗などが写っているとのことです。

そして平出は大正3年(1914)、数え37歳で骨腫瘍のため早世。光太郎はその三日前に書いた詩「瀕死の人に与ふ」で平出を謳いました。この詩は雑誌『我等』に発表され、この年刊行された光太郎第一詩集『道程』にも収められました。

   瀕死の人に与ふ

 汝の病あつく
 汝はいま死に瀕んでゐる
 暗い、深い、無間の底から不可抗の手が
 すでに汝の手を握つた
 汝はいま何を考へ
 また何を望んでゐるか
 こんこんとして睡る者よ

 汝の縁者はみな涙にひたり
 汝の友はみな愁に凍えてゐる
 感動が人人の心に常習の魔術をかけた
 その中で
 汝は睡つてゐる
 しづかに、またやすらかに
 こんこんとして睡る者よ

 起きよ、めざめよ
 汝のその從順のこころを棄てよ
 汝のそのつつしみ深い忍默を破れよ
 死に背け
 死の面上に拳(こぶし)を与へよ
 死に降服する事なく
 ひたすらに生きよ
 死はただ空洞(うつろ)である
 死はただ敗残である
 死に落つるは人間の墮落である事を知れよ
 死ぬなかれ、死ぬなかれ
 こんこんとして睡る者よ

 汝は今まで生きながら死んでゐた
 汝の仕事は皆生(いのち)のない破片に過ぎなかつた
 汝の本能と良心とがめざめかけて來た時
 汝は死の力におさへられた
 そして脆くも死んでゆかうとする
 涙と哀悼とに囲まれ
 萬人の死を死なうとする
 起きよ、睡るものよ
 その甘美の情念を却けよ
 その卑屈な平安を軽んぜよ
 汝の生きる時また汝の一生に値ふ時が
 今こそ來たのである
 ひたすらに生きよ
 生きる事のまことを捉へよ
 汝の余命は短い
 疾く起きよ
 起きて此の広大無辺のいのちを得よ
 こんこんとして睡る者よ

 汝に濺ぎかけられる多くの涙を
 汝は明かに心読せよ
 人の感情の淫奔性を洞察せよ
 汝は正しく、たじろがず、乱れず
 汝の魂に人間の本体をめざましめ
 さらにその源泉たる自然を体感せよ
 現実の微妙に溶け込めよ
 謙讓を極めた今の汝の心をもつて
 いのちに入るはただ力の有無(ありなし)である
 起きよ、めざめよ
 死は醜し
 愚かなあきらめの小康に身をまかす事なかれ
 死に勝ち、死を滅ぼし
 あくまで汝のいのちに荘厳せられつつ
 肉体の敗闕と共に
 美しく、確然たる運命に帰れ
 起きよ、めざめよ
 こんこんとして睡る者よ

けっこうな長詩ですが、それだけに理不尽な死に対する怒りがよく表されています。

話があちこちに飛びますが、光太郎、大逆事件に関してはほとんど沈黙していました。僅かに事件をモチーフとした木下杢太郎の「和泉屋染物店」を面白いとした程度です。『高村光太郎全集』に、幸徳やスガの名は出て来ません。

しかし、『平民新聞』を購読し、後には幸徳の系譜に連なる大杉栄等のシンパに近い立場にもなった光太郎、何も感じていなかったわけがありません。

その答は最晩年、当会顧問であらせられた故・北川先生が残された「高村光太郎聞き書」に。

 洋行から帰ってきても、その問題にぶつかったな。はじめっから終りまで、それはあった。それで非常に困っちゃって、どうしても最後にはその壁にぶつかる。われわれは考えないでいるよりしょうがないと思った。
 その方にとび込めば相当猛烈にやる方だからつかまってしまう。しかし自分には彫刻という天職がある。なにしろ彫刻が作りたい。その彫刻がつかまれば出来なくなってしまう。彫刻と天秤にかけたわけだ。


狡いといえば狡い考え方ですが、ある意味、仕方がなかったかも知れません。

こういう社会と無縁に芸術精進、という生活が、後の智恵子の悲劇にも繋がったわけで、智恵子が病んでからはそれを是とせず180度方向転換。自ら積極的に世の中と関わろうとします。ところがその世の中の方が15年戦争でおかしな方向に進んでしまっていたわけで、それに加担した光太郎、最大の過ちでした。

閑話休題、幸徳やスガ、そして平出修。これからも語り継がれていって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

今朝スバルの阿部三夫さんが友達と一緒に来訪。お名刺の紹介と委託のビール五本とを拝受しました。早速三人でビール三本をいただき、時ならぬ山の会飲をいたしました。阿部氏は自作詩朗読、尚浜離宮での写真も拝見しました。

昭和25年(1950)9月9日 中原綾子宛書簡より 光太郎68歳

「スバル」は戦後の第三次。与謝野夫妻の長男・光や吉井勇の勧奨で始められ、晶子の衣鉢を継いだ中原が主宰でした。光太郎はその題字を手がけた他、寄稿も多数行いました。

今年、花巻市に中原令孫から寄贈された大量の光太郎関連史料の中に、この書簡や「スバル」への寄稿原稿も含まれていました。

『日本経済新聞』さん、「歌壇」欄。11月2日(土)の掲載分です。

連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの山梨県立文学館館長で歌人でもあらせられる三枝昂之氏と、同じく歌人の穂村弘氏が、読者の投稿歌から12首ずつ選ばれ、計24首が掲載されています。

三枝氏選の一首目が、福島県郡山市の方の作品。

 安達太良と阿武隈川は必須なり智恵子の故郷校歌も市歌も 郡山 星野剛

三枝氏の評。

 星野さんからは「あの光るのが阿武隈川」と高村光太郎『智恵子抄』の一節が浮かんでくる。やはり校歌には故郷の山と川。「必須なり」がそう教える。

「智恵子の故郷」を二本松市と限定解釈すると、まず「二本松市民の歌」(作詞:朝倉修氏/補作詞・作曲:湯浅譲二氏 平成25年=2013)。いきなり歌い出しが「安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに」、そして一~三番すべてで「ほんとの空が ここにある」と繰り返されます。

 一、安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに
   四季も華やぐ このまちに  希望奏でる 朝がある
   ああ 光あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
 二、青空に舞う 花ふぶき  やさしく歌う うぐいすよ
   生命輝く このまちに  幸せ運ぶ 風がある
   ああ 理想あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
 三、霞が城の しろあとに  揺れる提灯 囃子の音
   文化煌めく このまちに  明るい笑顔 夢がある
   ああ 浪漫あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある

校歌」も、例えば昨年、統合により新たに誕生した二本松実業高校さん(作詞:校歌制作委員会/作曲:大友良英氏)では、二番に「白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の 安達太良山の 季節(とき)の雲」、三番で「瞳に映る 煌(きら)めきは 阿武隈川の 悠久(とき)の色」。さらに一~三番すべてに「ほんとの空に」のリフレイン。

 空の青さに 陽(ひ)の光
 榎戸(えのきど)の丘 一瞬(とき)の風
 力漲(みなぎ)り 舞う砂けむり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 遥(はる)かな夢を ほんとの空に

 白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の
 安達太良山の 季節(とき)の雲
 掌(てのひら)見つめ 歯を食いしばり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 明日(あす)を探して ほんとの空に

 瞳に映る 煌(きら)めきは
 阿武隈川の 悠久(とき)の色
 その身に宿る 手業の実り
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 希望を胸に ほんとの空に

 睡蓮(すいれん)の花 微笑(ほほえ)ほほえんで
 霞(かすみ)が池に 青春(とき)の影
 まっすぐな道 どこまでも往(ゆ)き
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 生きた証(あかし)を ほんとの空に

他校の校歌も同様なのでしょう。

短歌投稿者の方は郡山市ご在住だそうです。福島県は東西方向に区切ると、西部の山岳地帯が「会津」、太平洋岸は「浜通り」、その中間が二本松を含む「中通り」。さらに「中通り」も南北方向で「県北」「県中」「県南」と区分されます。「智恵子の故郷」を中通りのさらに県中地域とすると、郡山も含まれます。
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郡山市は今年、市政施行100周年だそうで、その記念式典や記念音楽祭などが大々的に行われました。そのあたりを受けての詠なのではないかと思われます。ちなみに「郡山市民の歌」(作詞:内海久二氏/作曲:古関裕而氏 昭和29年=1954)には、二番の歌詞に「輝く安達太良ささやく瀬音」とああります。

 一、あけゆく安積野希望の汽笛 あの人この街みなぎる力
 ああふるいたつふるさとは あこがれのせる若駒か 進めよわれらの郡山
 
 二、輝く安達太良ささやく瀬音 あの鳥この花しあわせ歌う
 ああうるわしいふるさとは やさしい母のまなざしか 育てよわれらの郡山

 三、働くよろこび夕べのいのり あの星この窓楽しいまどい
 ああやすらかなふるさとは あふれる夢のゆりかごか 栄えよわれらの郡山

昨日は原発の問題にも触れましたが、安達太良山、阿武隈川に代表される日本の美しい山河を二度と放射線被曝させてはならないと、切に思います。こういうことが本当の愛国心なのではないのでしょうか、と、為政者に問いたいところです。
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【折々のことば・光太郎】

あれから何にも書けず、つひにたつた一枚書きました。別封で送りましたから、ともかくも読んでみてください。あの詩篇からうけた衝動は比類なく強いものです、
昭和25年(1950)4月12日 佐藤徹宛書簡より 光太郎68歳

佐藤は大正6年(1917)、山形米沢出身。筆名の「森英介」名義で唯一の詩集『火の聖女』を翌年に刊行、この書簡は光太郎に依頼したその序文に関わります。

 このやうな詩集を私は未だ曽て見たことがない。これほど魂のさしせまつた声を未だ曾てきいたことがない。こんなに苦しい悲しみの門をくぐらせられたこともないし、又こんなに強い祈と、やすらぎの中に引きこまれたこともない。
 何といつていいかわからない。殆といふ言葉がない。
 これはもう普通いふ詩といふものを突き破つてゐる。これらの詩は内面から破裂してゐる。一行一行が内からの迸るもので吹き上げられてゐる。これまでの日本語とはまるで違つた新らしい日本語が生まれてゐる。
 精神の突面だけがラインに刻まれてゐて、およそ平面をゆるさない。これらの詩の内面ふかく立ち入ることの出来るのは、同じやうな魂のきびしさと信とに死をのりこえたもののみの事である。
 私はおそろしい詩集を見た。


光太郎による他者の詩集等の序文は珍しくありませんが、ここまでの評を与えられたものは他に見あたりません。

ところが、活字工として働いていた佐藤自ら紙型を組み、印刷まで完了しましたが、その刊行を見ることなく、その直後に胃穿孔で急逝してしまいました。

光太郎は昭和27年(1952)に遺族の依頼でその墓碑銘を揮毫。おそらく現在も佐藤の故郷・米沢の善立寺さんというお寺にひっそりと佇んでいます。

小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの新蒐品目録『書架』147号。先々週くらいに届きました。
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同店、肉筆系に力を入れられていて、時折、光太郎のそれも出るのですが、今号では3点も収録されていました。
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画像右上、表装されていないマクリの書で、短歌「天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」が書かれています。「天然の湯に入ったら、あなたの身も心もその湯に溶け出して、さながら美しい白玉に似た輝きを放ったことでしょう」といった意でしょうか。

ちなみにえびな書店さん、「湯」を「畑」としていますが、「畑」では意味が通りませんね(笑)。

さらに「人におくれる」の詞書(ことばがき)。「人」は新潟佐渡の素封家にして、与謝野夫妻の新詩社に依った歌人でもあった渡辺湖畔です。湖畔は光太郎に幼くして亡くなった娘の肖像画(大正7年=1918)を書いてもらったり、蟬の木彫を依頼したり、自身の歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀・装画を頼んだりしました。

短歌「天然の……」は大正9年(1920)3月の湖畔宛書簡に認(したた)められた四首のうちの一つで、伊豆の修善寺温泉に行ったという湖畔からの書簡への返歌です。

他の三首は以下の通り。

 いみじくもふかき地中のこゝろより天然の湯は涌きてあふるる
 天然の湯に身をひたし人の世のこゝろのことを君はおもふか
 天然の湯をしおもはむしばらくは魂とびて夢のこゝちする


書簡には「修善寺においでありし由、湯の好きな小生それをききしだけにて恍惚といたし候」とあります。くれぐれも「畑」ではありませんのでよろしく(笑)。

この書自体は、湖畔ではなく、他の人物のために書かれたのではないかと推定されます。「他の人に贈った短歌だけど……」という意味で「人におくれる」の詞書が添えられたのでしょう。

その左に色紙で「満目蕭条(まんもくしょうじょう)の美」。「満目蕭条」は光太郎が好んで揮毫した熟語です。見渡すかぎりのもの全てが物寂しい様子である、の意味。戦後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺のことかな、とも思ったのですが、やはり「満目蕭条」と書いた戦後の書はもっと崩しが激しく為されており、戦前の筆跡のように思われます。色紙も凝ったものですし、昭和7年(1932)には東京に居ながらにして「満目蕭条の美」という題名の散文も書いていますし。

もう一点、短冊も出ていました。
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やはり短歌で「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」。

欧米留学から帰った明治42年(1909)、『スバル』に「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」の総題で発表された二十五首のうちの一つです。「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」はイタリア語で「祖国歌」というほどの意味。

他の二十四首の中には、帰国して改めて接した日本人女性への幻滅が歌われているものが多く含まれます。

 ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや
 弘法の修行が巌の洞(ほら)に似る大口あけて何を語るや
 何事か重き科ありうつくしき少女を吾等あたへられざり
 この中の少女のひとり妻とせよ斯く人いはば涙ながれむ
 女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ
 海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり
 太ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと
 仏蘭西の髭の生えたる女をもあしく思はずこの国みれば


これでもか、これでもかと日本の女の醜さを嘆いています。

圧巻は以下の二首。 

 顔つくる術(すべ)も知らぬをふるさとの女はほこるさびしからずや
 少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし


「メイクもきちんとできず奇妙な化粧をした顔をさらしているその風貌を、ふるさとの女は却って誇りに思っている。それでいいのか?」「少女たちよ、眉墨をきちんと引きなさい。それができないと、この世界にこれほどに醜いものはないぞ」といったところでしょうか。特に眉墨云々は、某党の総裁候補だったあの人に贈りたい言葉です(笑)。「少女」ではありませんが(笑)。
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逆に留学中に懇ろになった西洋の女性(詳細は不明です)を讃える歌も。

 ふるさとはいともなつかしかのひとのかのふるさとはさらになつかし
 ふるさとの少女を一のたのみとし火の唇はすて来しものを
 きらきらと暗き夜半にも汝が耳の耳環の玉は近く光りき

この流れで、短冊に書かれている「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」です。

おそらくニューヨークやロンドンではなく、パリでのことと思われますが、「火の唇」を持ち、「きらきら」の「耳環」を着けていた「あたたかくふくよかなりし君」と、どんなロマンスがあったのか……というところです。

当方、この手の肉筆物は、よほどの事がないと購入しません。財力が保(も)ちませんから。ところがつい先日、「よほどの事」が出来(しゅったい)しました。

京都の思文閣さんで売りに出した、歌人・中原綾子旧蔵の光太郎色紙

中原令孫から花巻市に光太郎書簡等がごっそり寄贈され、来年以降、花巻高村光太郎記念館さんで展示されることとなりそうです。また、市では寄贈資料を図版入りで紹介する書籍を刊行することを検討されている由。予算が通れば当方が解説等執筆します。

そこへ来て、中原旧蔵の書ですから、これは一緒に展示されるべきものです。市で購入して下さればそれで済むのですが、そんな予算は組んでいないわけで、こちらで手に入れました。2点出ていたのですが、そのうち、今様体(七五調四句)の「観自在こそ……」を書いたもので、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)で口絵として使われていたものです。

オークション形式で、開始価格では落とせないだろうと思い、色を付けて入札しました。それでも無理かな、とも思ったのですが、落とせまして、先日、届きました。
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当時のものと思われるタトウにくるまれていました。
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中原の直筆なのでしょう。「高村光太郎先生色紙 昭和廿六年九月岩手県太田村山口にて染筆たまはりりたるもの。 綾子誌す」の但し書き。調べてみましたところ、昭和26年(1951)9月15日の日記に確かに「十二時頃中原さんくる。午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。」の記述がありました。

色紙裏面には中原の蔵印も捺されていました。
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表(おもて)面は「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。「観自在」は観音菩薩。そこで、無理くり現代語訳してみると、こんな感じでしょうか。「観音菩薩は何ととうといのだろう(「こそ」+已然形「けれ」で強調の係り結びです)。眼を開いて今日改めてそのお姿を見てみると、この世にある平凡ないつものお姿で、我が身を離れずに寄り添って下さっている」。

若干、意味不明です。どうやって観音様のお姿を見るのでしょうか。手元に観音像があった時期もありました。しかし、異論もありましょうが、当方はこう読みます。「観音菩薩」=「亡き智恵子」。

光太郎の感覚としては、「我が身を離れずに寄り添って下さっている」のは、亡き智恵子でした。

  亡き人に

 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし 
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処そこにゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ


   元素智恵子 

 智恵子はすでに元素にかへった。
 わたくしは心霊独存の理を信じない。
 智恵子はしかも実存する。
 智恵子はわたくしの肉に居る。
 智恵子はわたくしに密着し、
 わたくしの細胞に燐火を燃やし、
 わたくしと戯れ、
 わたくしをたたき、
 わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
 精神とは肉体の別の名だ、
 わたくしの肉に居る智恵子は、
 そのままわたくしの精神の極北。
 智恵子はこよなき審判者であり、
 うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、
 耳に智恵子の声をきくときわたくしは正しい。
 智恵子はただ嬉々としてとびはね、
 わたくしの全存在をかけめぐる。
 元素智恵子は今でもなほ
 わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。

光太郎は敬虔な仏教徒だったわけでもなく、あながち牽強付会とも言えないような気がするのですが……。

ただ、そうだとすると、死してなおそこまで「聖女」化された智恵子は、ある意味、可哀想だったようにも思えますが……。

閑話休題、上記えびなさんの出品物、収まるべき所に収まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

お手紙拝見しましたが「智恵子抄」以後には一冊になるほどの数量がありません、これはまづものにならないと思ひます、


昭和24年(1949)12月20日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎67歳

澤田は昭和16年(1941)、オリジナルの『智恵子抄』を上梓した版元・龍星閣主です。龍星閣は戦時中に休業し、この年ふたたび出版業を始めました。そこで、『智恵子抄』の続篇的なものを出したい、という懇願に対する返答の一節です。

結局、翌年の元日に雑誌『新女苑』に発表した連作詩「智恵子抄その後」(「元素智恵子」も含みます)を根幹とした詩文集『智恵子抄その後』が出版されることにはなるのですが、題名とは裏腹に、智恵子とは全く無関係の随筆も多く含みます。

テレビ放映情報です。

英雄たちの選択 我は女の味方ならず 〜情熱の歌人・与謝野晶子の“男女平等”〜

NHK BS1/NHK BS4K 2024年9月2日(月) 21:00~22:00

「みだれ髪」など情熱の歌人として知られる与謝野晶子は人気評論家だった。おりしも女性の権利拡張を目指す運動が盛んになる中、母性保護をめぐり平塚らいてうと大論争に。
 
与謝野晶子は言論弾圧が厳しい時代に、歯に衣着せぬ評論で人気を集め、あらゆるジャンルの評論を雑誌、新聞に載せた。中でも力を入れたのが「男女平等」。女性も仕事をすることで男性から経済的自立することが必要と主張。おりしも女性の権利拡張を「母親になれるのは女性だけ」という理由で推し進めようとしていた女性解放運動家の平塚らいてうと「母性は保護されるべきか」をめぐり激しく対立、大論争を繰り広げる。その結果は?

出演者
【司会】磯田道史 浅田春奈
【出演】歌人…松村由利子 ジャーナリスト…浜田敬子
【語り】松重豊

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メインは光太郎の姉貴分・与謝野晶子。智恵子の先輩にして智恵子に『青鞜』の表紙絵を依頼した平塚らいてうとの「母性保護論争」が取り上げられます。さらに山川菊栄らも参戦し……。

NHKさんでは令和2年(2020)にオンエアされた「先人たちの底力 知恵泉「新しい女の生き方 明治・大正編 平塚らいてう」でも同じ問題を取り上げました。その際はサブタイトルの通りらいてう視点からの制作で、今回は晶子側からの反証的な。

ダメ夫(鉄幹ファンの皆さん、すみません(笑))の元、11人もの子を筆一本で育てた晶子と、年下の「若いツバメ」と最初は入籍しない事実婚で子育てしつつ女性の権利拡大を訴えたらいてう。およそ100年前の話ですが、現代でもあまり状況は変わっていないような……。

光太郎智恵子には直接関わりませんが、夫妻とそれぞれ交流の深かった二人のバトル、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生が東京へ出かけることは今のところ一寸むつかしいやうに考へられます。東京の街を歩ける服装すら今はありません。発表会の模様をあとできくのが楽しみに思へます。


昭和24年(1949)4月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

発表会」は舞踊家だった藤間のリサイタル。藤間が戦時中から構想を温めていた「智恵子抄」舞踊化が為されました。この手の「智恵子抄」二次創作の嚆矢でした。
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3件ご紹介します。

まず天台宗さんとして発行されている『天台ジャーナル』さん。檀信徒さんなど向けの月刊機関紙的なもののようで、今月号です。連載コラムと思われるコーナーに光太郎の言葉をメインで紹介していただきました。

素晴らしき言葉たち

いくら非日本的でも、日本人が作れば
日本的でないわけには行かないのである。  高村光太郎

 詩人であり歌人であるとともに彫刻家、画家であった高村光太郎の言葉です。ですから、芸術分野を指す言葉でしょうが、他の分野にもいえることではないでしょうか。最近、特に話題となっている和食ブームについてもいえると思います。
 伝統的な和食でない中国由来の「ラーメン」やインドを発祥とする「カレー」などは、もとは非日本的な食べ物でしたが、今ではすっかり「和食」となっています。発祥の地である中国には日本のラーメン店が、同じくインドでも日本のカレー店が展開されているそうです。
 明治維新後、日本は先行する欧米の模倣でなんとか国を造りあげてきました。モノづくりでも「安かろう、悪かろう」といわれる時代を経て、「さすが日本製」といわれるほどになり、品質を誇れるまでになりました。
 その過程で、日本独自のアイデアが付け加えられてオリジナルよりも価値が高いものが創造されることになったようです。
 例えば温水洗浄便座なども元はアメリカで開発されたものですが、それを進化させたものだといいます。今では、日本中どこでもみられるようになりました。温水洗浄便座以外でも、モノづくりや食べ物の分野をはじめ、日本の創意工夫が活かされた例が多くなりました。
 このところ、経済状況が沈滞し国力の伸びがなくなって久しい日本ですが、この国の得意とする「日本的な」創意工夫をもって生き延びていくことが、これまで以上に求められていると思います。

いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」元ネタは欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)の『スバル』に発表した評論「緑色の太陽」です。

前年の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された画家・山脇信徳が描いた印象派風の絵画「停車場の朝」に対し、光太郎と親交の深かった石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」と、けちょんけちょんにけなしました。しかしフランスで印象派やフォービスムなどのポスト印象派に実際に触れてきた光太郎は、「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」とし、作品は作者それぞれの感性によって作られるべきもので、「緑色の太陽」があったっていいじゃないかと山脇を擁護しました。所謂「地方色論争」です。

そんな中で「いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」。さらにどんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。」。

ジャンルは違いますが、思い出すのは作曲家・三善晃のパリ音楽院時代のエピソード。コッテコテのフランス風の曲のつもりで作曲し、どうだ、とばかりに披露すると、「素晴らしい! 何て日本的な曲なんだ!」。そんなもんでしょう。『天台ジャーナル』さんでは、また違った方向に話が進んで行っていますが。

続いて『朝日新聞』さん栃木版、読者の投稿による短歌と俳句欄「歌壇・俳壇」。短歌の方で次の詠が入選していました。那須高原にお住まいの高久佳子さんという方の作。

『智恵子抄』初給料で買った本六十年経て回し読みする 

60年前というと、昭和39年(1964)。その頃流通していた『智恵子抄』といえば、草野心平編になる新潮文庫版もありましたが、わざわざ「初給料で」ということは、函入り布装の龍星閣版でしょう。
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昭和16年(1941)刊行のオリジナルは白い和紙の表紙で、太平洋戦争の激化に伴う龍星閣休業の昭和19年(1944)第13刷まで確認出来ています。戦後になって昭和25年(1950)に龍星閣が再開し、翌年に復元版としてこの赤い表紙のバージョンが出されました。それ以前に昭和22年(1947)に出た白玉書房版がありましたが、こちらは龍星閣の許諾をきちんと得ずに出されたということで、絶版になっていました。

その後、すったもんだがありましたが、この赤い表紙の復元版は版を重ね、現在でも細々と新刊として販売が続いているようです。

画像は昭和26年(1951)の復元版初版。後のものは函の題字も表紙の布と同じ朱色になり、函の色はもっと黄色っぽくなります。

もう1件、『朝日新聞』さんから。岩手版に不定期連載(?)されている「賢治を語る」、5月18日(土)分です。

(賢治を語る)名プロデューサー光太郎 花巻高村光太郎記念会・高橋卓也さん

 北東北の詩人・宮沢賢治。その存在を広く世界や後世に知らしめた人物がいる。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883〜1956)。「名プロデューサー」としての顔を持つ光太郎と、賢治の関係について、一般財団法人花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さん(47)に聞いた。
 《光太郎と賢治の出会いは?》
 賢治の生前唯一の詩集「春と修羅」が刊行されたのは1924年。日本を代表する彫刻家だった光太郎は翌年、草野心平に勧められてこの詩集を読み、詩的な世界に感銘を受けます。「注文の多い料理店」も借りて読み、親友の作家にまた貸しするほど入れ込みます。
 2人が出会ったのは1926年冬。花巻農学校を退職した賢治が、タイプライターやチェロを学ぶために上京した際、光太郎を訪ねます。突然の来訪だったため、仕事をしていた光太郎が「明日の午後明るいうちに来て下さい」と言うと、賢治は「また来ます」とそのまま帰っていったようです。賢治は再来せず、1933年に死去したため、2人が出会ったのはその一度きりでした。
 《死語、光太郎は賢治の全集を出します。》
 賢治が亡くなった翌年、東京・新宿で追悼会が開かれ、光太郎も出席します。その際、賢治の弟・清六が持参した、賢治の原稿が入ったトランクの中から、「雨ニモマケズ」が記された小さな黒い手帳が見つかります。
 残された原稿の束や手帳を見て心動かされた光太郎や心平の尽力で、賢治全集の刊行が決定し、光太郎はその全集の題字を書いています。
 《詩碑「雨ニモマケズ」の字も光太郎です》
 1936年秋、花巻に賢治の初めての詩碑「雨ニモマケズ」が建つことになり、光太郎に字が依頼されました。ただ、誰がどこで間違えたのか、詩碑には除幕の段階で計4ヶ所、漏れや誤りがありました。
 戦後の1946年、光太郎は訂正を行うため、自ら足場に登って詩碑に筆で挿入・訂正を行い、石工がその場で追刻をしました。光太郎は「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったそうです。
 《戦中、光太郎は花巻に疎開します。》
 1945年4月、空襲で東京のアトリエを焼失した光太郎は、花巻の宮沢家に誘われる形で、5月中旬、清六の家に身を寄せます。
 ところが、その花巻の家も8月10日の花巻空襲で焼けてしまいます。
 その際、空襲を経験した光太郎が、清六に「花巻でも空襲があるかもしれないので、防空壕(ごう)を作り、大切なものを避難させておいた方が良い」と助言していたため賢治の原稿は防空壕の中で、かろうじて焼失を免れました。まさに光太郎の助言のお陰です。
 《光太郎はその後も花巻で暮らし続けます。》
 約7年間、杉皮ぶきの屋根の3畳半の山小屋で独りで暮らし続けます。零下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔に雪がかかるような厳しい生活でした。
 亡き妻、智恵子の幻を追いながら、善と美に生き抜こうとした。高潔で理想主義的な生活から素晴らしい作品が生まれました。
 光太郎の芸術は、第一に彫塑(ちょうそ)、第二に文芸、第三に書と画、と言われますが、無名だった賢治の作品を守り、その存在を広く世の中に伝えた「名プロデューサー」としての仕事は、この国の文学に極めて大きな財産を残した、彼のもう一つの偉大な「芸術」だったと言えるかも知れません。


光太郎と賢治、花巻の縁が端的に記されています。こうした縁から、宮沢家では未だに光太郎の恩を忘れていないという感じで、実に有り難く、恐縮している次第です。

ちなみに記事には紹介がありませんでしたが、花巻高村光太郎記念館さんではテーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中ですし、常設展示では賢治と光太郎の縁的なところにも力を入れています。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

このたびはのびのびと潺湲楼に奄留、思ひがけなき揮毫も果し、デリシヤスの初収穫をも賞味し、お祝いの佳饌にも陪席、又久しぶりにて母にもあひ、まことにめぐまれた一週間でございました。

昭和22年(1947)10月16日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳

潺湲楼(せんかんろう)」は、佐藤邸離れ。旧太田村へ移住する直前の昭和20年(1945)9月から約1ヶ月、光太郎はここで起居し、その後も街に出て来るとここに宿泊しました。

デリシヤス」は林檎。「久しぶりにて母にあひ」は、大正14年(1925)に歿した母・わかに実際に会ったわけではなく(それではホラーです(笑))、双葉町の松庵寺さんでわかの二十三回忌法要を営んで、会ったような気になったということです。

その際に詠んだ短歌が「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」。おそらくデリシャス種の林檎を供えたのでしょう。この歌を刻んだ歌碑などが、松庵寺さんに残っています。

福島から市民講座の情報です。

澤正宏先生の春の講座「与謝野晶子と高村光太郎」

期 日 : 2024年3月25日(月)000
会 場 : NHKカルチャー郡山教室 
      福島県郡山市麓山1-5-21 NHK郡山放送会館内
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 会員 2,519円 一般(入会不要) 2,860円

講 師 : 澤正宏 福島大学名誉教授 

歌人であり詩人でもあった二人は、晶子の新詩社を通してつながりがあった。二人の人間や社会や自然などの見方には対照的な特色があるので、詩歌を読みながらそれらの特色を詳しく見て行きたいと考えます。


澤氏、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰に当たられている智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさいました。

最近ですと、昨年刊行された『草野心平研究資料集』(クロスカルチャー出版)の編集に当たられたりもなさっています。

今回は、光太郎の本格的文学活動の出発点たる雑誌『明星』主宰の与謝野鉄幹夫人・晶子との関わり。晶子は光太郎の5歳年上で、よき姉貴分でした。
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右上は雑誌『スバル』第2年第2号(明治43年=1910)の裏表紙を飾った光太郎の絵。口から蛇を吹き出すエジプトの女神ですが、モデルは晶子です。このシリーズで光太郎は森鷗外、北原白秋なども茶化して描いています。まぁ、親しみの表れですね。

他に、晶子の著書に挿画や序文を寄せたことも複数回ありましたし、晶子の有名な「百首屏風」と同じようなコンセプト(鉄幹の渡航費用捻出のための販売用)で光太郎が絵を描き、晶子が短歌を揮毫した屏風も現存します。そうした交流は晶子が亡くなる昭和17年(1942)まで、断続的、不即不離に続きました。

そういった話プラス、作品面での2人の対比といったお話になるようです。興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昨日にひきかへて今日は午后猛烈な風が吹き出し、ザラメ雪を交へてすごい吹雪風景となりました。風が積雪を吹き上げて煙のやうに空にまひ上げ、一望ただ白く、向うの森も見えなくなります。

昭和22年(1947)1月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

「地吹雪」というやつですね。

この書簡には、イラストも附けてありました。花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の雪上に見られる狐と兎と鼠の足跡です。
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まず、新刊書籍の紹介を。2ヶ月ほど経ってしまっていますが。歌集です。

燃える花

2023年11月15日 沢本ひろみ著 文芸社 定価1,000円+税

「古と今は変はりて変はらざり 逢瀬の後は後朝のメール」「『レモン哀歌』の一語一語は哀しみと愛の重さで胸にしたたる」「軒借りて過ぐるを待ちぬ時の雨 嵯峨の紅葉は濡れまさりつつ」──鋭い感性と溢れる思いで読んだ短歌の数々を、〈黎明〉〈友〉〈初恋〉〈京の旅〉〈母〉〈愛〉など、カテゴライズしてまとめた。短歌による自分史ともいえる、素の作者が詰まった一冊。

著者プロフィール
本名・宮崎裕巳。東京都出身。早稲田大学教育学部卒業。都立高校の国語科教師として長年勤務し、後、私立高校でも教鞭を執る。2021年11月より「塔」短歌会に所属。東京都在住。
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目次
 黎明
  自然/音楽/文学/日本舞踊/房総にて/蓼科にて/諸々
 友
 初恋―初夏の陽―
 ヨーロッパ旅行
  パリ/グラナダ/アテネ/ドイツ
 京の旅
 恋―触れられぬ背―
 歌舞伎
  鷺娘/吉野山/梅川忠兵衛/紅葉狩/船弁慶/市川海老蔵丈/歌舞伎見物
 母
 愛 ―燃える花―
 後書き


内容説明欄に「『レモン哀歌』の一語一語は哀しみと愛の重さで胸にしたたる」と、光太郎がらみの歌が一首引かれていますが、これ以外にも二首、光太郎や智恵子抄からのインスパイアが。ありがたし。

「後書き」から。

 私が短歌に心を惹かれたのは、高校生の時です。現代文の授業で近代の短歌を学習し、その時初めて与謝野晶子や若山牧水、石川啄木などの歌と出会いました。目を瞠るような思いで読んだのをよく覚えています。五七五七七という制限された枠組みの中に秘めている豊かな世界に魅了されました。
 同じ頃に詩や小説にも目が啓き、様々な文学に親しんで過ごす内に、少しずつ歌を作り始めたのは、自然な成り行きであったかもしれません。


その後社会人となられ、一時期短歌の世界から離れられていたのが、ふとまた作歌を始められたとのこと。ところがいわゆる「現代短歌」にはある種の違和感を感じられているそうです。

 現代の歌はことごとく写実的な日常詠でなくてはならないのか。それ以外の歌は受け入れられないのか。私は悩みました。
 そんな私の中に、かつて心を躍らせて読んだ明治の歌人達の歌が甦りました。「哀しい」「さびしい」「恋しい」等の語をためらわずに用い、時には自分の感情をたたきつけるように直截に表現した歌。(略)多彩な人々が、自由に個性的に詠んだ歌の世界は、私に小さな勇気をくれました。
 
そこで、時代遅れかもしれないスタイルで、切実な思いやらを自分らしく自由に言葉にすることを心がけているとのことです。

腑に落ちました。いいな、と思える歌が多く、なぜそう感じたかというと、当方もよく眼にする「明治の歌人達の歌」に範を採られているからなのですね。

ちなみに与謝野夫妻の『明星』が本格的な文学活動の出発点だった光太郎も、生涯に1、000首近い短歌を詠んでいます。詩と異なり、手控えの原稿に残すことをしなかったので、未知のものも続々見つかり続けています。高村光太郎研究会さんから4月発行予定の『高村光太郎研究』に、昨年新たに見つけたもの三首を紹介する予定です。

さて、取り上げるべき事項がまた山積して参りまして、『智恵子抄』がらみで近々開催される朗読会の件もご紹介しておきます。

大人のための朗読会

期 日 : 2024年2月4日(日)
会 場 : 佐野市立図書館 栃木県佐野市大蔵町2977
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

高村光太郎作「レモン哀歌 他」、森鴎外作「高瀬舟」、太宰治作「貨幣」の朗読を行います。
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もう1件、『毎日新聞』さんの京都版に、舞鶴市での朗読会の案内も出ていました。ただしこちらはネットで調べてもそれ以上の情報が出て来ませんで……。

第140回かざはな朗読会 

2月2日(金)13時半、舞鶴市溝尻の市勤労者福祉センター。舞鶴今昔物語より「消えた温泉」など、宮沢賢治作「雪渡り」、高村光太郎作「智恵子抄」より。参加無料。主催は朗読愛好会かざはな。

以上、よろしくお願いします。

【折々のことば・光太郎】

痩せてバツタのやうな此の部落の子供達は見かけよりも健康で、元気で、毎日午前十時半の体操の時間には角力やリレー競争で運動会のやうな騒ぎです。分教場の生徒(尋常科)男女合せて三十八名、皆性質のよい、素直な、ハキハキした子供達です。これで田植や草刈には一ぱしの役をつとめて居ます。小生の小屋へもよく野菜や漬物などを持つて農家から使ひに来ます。「コレ、ケル」といひます。「コレヲ進上」といふ意味です。


昭和21年(1946)7月17日 和田豊彦宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、山小屋近くの山口分教場の子供たちについて。戦後となりましたが、教育基本法はまだ施行前で「尋常科」の呼称が残っていたのでしょう。和田は光太郎もたびたび寄稿した『週刊少国民』の編集に当たっており、送られてくる同誌を子供たちに貸してやって……という話の流れです。

おそらく光太郎は登場しないとは思われますが……。

偉人の年収 How much? 歌人 与謝野晶子

NHK Eテレ 2024年1月8日(月) 19:30~20:00 

教科書に載るような偉人たちはいくら稼いでいたの?お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる!今回は「情熱の歌人」与謝野晶子の素顔に迫ります。

愛の歌集「みだれ髪」で衝撃的にデビューした与謝野晶子。初めての収入は何に使った?夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意するため、晶子が始めたこととは?大正時代には男女の意識の変革を訴え、昭和になるとあることに打ち込んだ晶子。鉄幹死後の晩年の年収は?グローバルな視点でいまの私たちにも訴えかけてくる与謝野晶子の姿を今野浩喜が演じ、谷原章介、山崎怜奈と語り合う。

出演者 【司会】谷原章介 山崎怜奈 【出演】今野浩喜
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昨年からレギュラー放映されている番組で、上記番組紹介欄にあるとおり「お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる」というコンセプトです。

何度か拝見しましたが、当方事務所兼自宅のある千葉県香取市の偉人・伊能忠敬の回や、当方がある意味光太郎以上に尊敬する土方歳三の回などは、特に興味深いものでした。

毎回、再現V的な中で今野浩喜さんがそれぞれの偉人に扮し、スタジオのMC谷原章介さんと山崎怜奈さんに突っ込まれるという作り。今回も今野さんが与謝野晶子を無理くり演じられます。
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晶子の夫・鉄幹与謝野寛は、本格的に文学的活動を始めた頃の光太郎の師。晶子も光太郎の姉貴分といった立ち位置でした。そこで「夫・与謝野鉄幹のヨーロッパ留学を実現するための費用4000万円(現在価値)を用意」には光太郎も関わります。明治44年(1911)のことです。

その費用の捻出のため、晶子は自作の短歌百首を散らし書きした「百首屏風」を複数制作して販売しました。それ以外に、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を揮毫した屏風も作られました。下記は阪急グループの創始者・小林一三の旧蔵品。
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また、後から晶子も寛を追って渡欧しますが、その際、寛から晶子への指示は「あなた一人で来るのは無理だろうから光太郎君についてきてもらいなさい」。さすがに光太郎の随伴は実現しませんでしたが。

その後も与謝野夫妻と光太郎の交流は続き、不即不離の関係でした。現在確認できている光太郎生涯最後の短歌にも晶子が詠われました。

十和田湖に泛びてわれの言葉なし晶子きたりて百首うた詠め

昭和27年(1952)、彫刻家としての生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、十和田湖に遊んだ際の詠です。「泛びて」は「うかびて」と読みます。寛は昭和10年(1935)、晶子も昭和17年(1942)、既に亡くなっているのですが。

そんなわけで、番組内でちらっとでも光太郎に触れられるとありがたいのですが……。ともあれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

お約束してゐた「海にして」の揮毫、硯が凍って書けませんでしたが、この二三日時候ゆるみ、雪もとけはじめました位、今日悪筆をふるひましたので別封でお送りしました。


昭和21年(1946)3月25日 岡崎清一郎宛書簡より 光太郎64歳

「海にして」は明治39年(1906)、光太郎が渡米の折に船中で詠んだ短歌です。

海にして太古の民のおどろきをわれ再びす大空のもと

光太郎自身は、「此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屡〻(しばしば)揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」(「ある日の日記」雑誌『キング』第5巻第9号 昭和4年=1929)と書いています。

7月23日(日)、安曇野市の碌山美術館さんをあとに、愛車を南に向けました。目指すは松本市。

甲信方面はなぜか光太郎と交流のあった人物の記念館や、それらの人物の作品を収めた美術館等が多く、碌山美術館さんに行った際にはもう一つ、ハシゴして帰るのが昔からのルーティーンです。

今回訪れたのは、松本市のはずれ、のどかな田園地帯の一角にあるにある窪田空穂記念館さん。窪田空穂の生家のかたわらに建てられています。
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窪田は光太郎より6歳年上の明治10年(1877)生まれ。初期の『明星』に参加した歌人で、その頃から光太郎と交流がありました。そして光太郎がらみで最も多く取り上げられるのが、大正2年(1913)夏、上高地の清水屋旅館でたまたま同宿となったこと。この際には智恵子も後から光太郎を追いかけて上高地に現れ(しめしあわせていたのですが)、ここで二人は結婚の約束をしました。

窪田が下山するのと入れ違いに智恵子が登ってきて、窪田は智恵子を迎えに途中の岩魚止までやってきた光太郎と智恵子を目撃、帰京後、『東京日日新聞』に「美くしい山上の恋―洋画家連口アングリ―」というゴシップ記事を匿名で寄稿した他、複数の回想でこの夏の上高地の様子や、その前後の『明星』時代の光太郎について書き残しています。

まずは生家。
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玄関には式台があり、なかなかの格式です。名家だったことがよくわかります。
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衝立の裏側は、何やら洋画風の絵。
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座敷の感じや、むき出しの梁(はり)など、古建築好きにはたまりません。
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縁側にはちょっと変わった七夕飾り。おそらくこの辺りは旧暦で実施するのでしょう。
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庭からの外観。
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戦時中、窪田が疎開的に帰って来て暮らしていたという離れ。
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道をはさんで反対側の記念館。
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撮影禁止という表示が見あたらなかったので……。
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大正2年(1913)、光太郎と同宿だった上高地関連。光太郎の名も。
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右は昭和9年(1934)刊行の『日本アルプスへ・日本アルプス縦走記』に載った挿画。画家の茨木猪之吉が描いたもので、光太郎を含む、大正2年(1913)夏に同宿だった面々のカリカチュアです。
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馬面だった光太郎の特徴をよく捉えてはいますが、若干の悪意を感じますね(笑)。

展示はされていなかったのですが、こちらには上高地で光太郎が描いたスケッチが収蔵されているとのことです。ただし、「写真」とあるので複製と思われます。
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なかなかいい絵ですね。しかし、光太郎筆に間違いはなさそうですが、元ネタがよくわかりません。上高地からの下山後、10月に神田三崎町のヴヰナス倶楽部で、岸田劉生らと開催した「生活社主催油絵展覧会」に出品されたペン画3点のうちの一つかとも思われますが。光太郎、この際には他に彫刻1点、上高地での油絵21点も出品しました。

拝見し終わって帰途に就きました。まだ午前中でしたが、日曜でしたので夕方近くになると中央道が大渋滞になるだろうと予測。それを避けるためです。それでも韮崎付近で工事プラス事故で渋滞、小仏トンネル入り口あたりでも自然渋滞。さほどではなかったので途中で昼食を摂っても4時間少しで帰り着きました。

以上、信州レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

あなたのてがみを病院でよみました、面疔が急に出来て、診察してもらひにいつたら即刻無理に入院させられてしまひ重態扱ひなので一時閉口しましたが早い手当てがきいて間も無く快方に赴き、もう退院しました。

昭和6年(1931)7月7日 高田博厚宛書簡より 光太郎49歳

「面疔(めんちょう)」は、黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。化膿性で進行すると脳膜炎に移行すると、昔は恐れられていました。光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中にも面疔を発症しています。

書簡はパリに渡った高田に宛てたもの。現在確認できている高田宛書簡二通のうちの一通です。現物は高田の作品を多数展示している安曇野市の豊科近代美術館さんで所蔵しています。

淡交社さん発行の『月刊なごみ』。女性向け茶道の雑誌です。早稲田大学名誉教授にして国語学者の中村明氏の連載「手紙の風景 作家のセンスを学ぶ」という連載が為されており、今月号は「弥生の便り 高村光太郎から北原白秋へ」。ちなみに表紙は牧瀬里穂さんです。
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大正2年(1913)3月23日の光太郎書簡の一節が紹介されています。

全文は下記の通り。『高村光太郎全集』に掲載されていました。『なごみ』には色を変えた部分が引用され、中村氏の解説がついています。

大変御無沙汰いたして居ります 先日は「桐の花」を御送り下さつてほんとにうれしく存じました 私達の命は日に日に歩んでゆきます 其故周囲に対する心も日に日に移り変つてゆきますが あなたの芸術に接すると不思議に私の心は如何なる時にも動揺を感じます そしてあなたも(恐らくは)自覚なさらない或る大きな力が私の命に手をかけます 私はいつでもあなたの芸術の尊敬者であり得る事を喜んで居ます もう春が来ました あなたの御健康を心から祈ります 三月二十三日 高村光太郎 北原白秋様机下

白秋の第一歌集『桐の花』の受贈礼状です。巻紙に墨書されています。ちなみに『桐の花』、最初の一首が有名な「春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面の草に日の入る夕」です。

光太郎と白秋、与謝野夫妻の『明星』以来、さらに光太郎が欧米留学から帰国した直後の「パンの会」などでの付き合いでしたが、光太郎は明治44年(1911)には白秋の詩集『邪宗門』の第二版の装幀、挿画を手がけたり、その後も折に触れ、白秋に関わる文章を執筆したりしています。もちろん昭和17年(1942)に白秋が亡くなった際も追悼文を複数書いています。

短歌も。

白秋がくれし雀のたまごなりつまよ二階の出窓にてよめよ

雀のたまご」は本当の卵ではなく、大正10年(1921)に刊行された白秋の歌集『雀の卵』です。上記『桐の花』同様、白秋から贈られた際に、礼状としてこの短歌のみをしたためて返礼としました。粋ですね(笑)。「つま」はもちろん智恵子です。「二階の出窓」は駒込林町の自宅兼アトリエのそれでしょう。

他にも『高村光太郎全集』には、計23通の白秋宛書簡が掲載されています。そのうち21通は明治末から大正末までのもの。明治45年(1912)3月の葉書には、光太郎の自画像も描かれています。
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光太郎、白秋ともども「パンの会」の主要メンバーだった木下杢太郎の戯曲『十一人の偏盲』にふれたものです。杢太郎、この中で光太郎を「二十四歳。また極めて穎悟にして才学あり。諸国の語に通じたれども、黠詐の性格にして一事に固執し難く且自らを優良に観せむとする不断の懸念あり。体格長大にして白皙の美男子。言語動作も亦円滑にして、往々婦女の如き媚容を為す」とおちょくっています。そこで「こん度杢さんに会つたらポカリとひとつ頭をぶたうと思つてます」。

文豪達の若き日の微笑ましい交遊のさまが見て取れますね。

その後、期間が空いて昭和4年(1929)が1通、同15年(1940)で1通です。昭和に入ると光太郎と白秋、それまでより疎遠になったのでしょうか、それとも見つかっていないだけで、まだまだ白秋宛書簡、何処かに眠っているのでしょうか。情報をお持ちの方は御教示いただければ幸いです。

さて、『なごみ』3月号、ぜひお買い求めを。電子版もあるそうです。

【折々のことば・光太郎】

羅馬よりナポリに遊びに参り候。明日はヹスヸオ登山の積り。ホテルの窓より見れば暗き夜の空に大きなる篝火を焚き居る如き火の山に候。明日の好運を祈りて寝ね申すべく候。


明治42年(1909)4月15日 与謝野寛宛書簡より 光太郎27歳

欧米留学最後を締めくくる1ヶ月のイタリア旅行も終盤です。「ヹスヸオ」はヴェスヴィオ山。活火山です。書簡の通り、登ったのかどうかは不明なのですが、およそ40年後の昭和23年(1948)に書かれた詩「噴霧的な夢」では、亡き智恵子とこの山に登った夢を見たことが記されています。曰く「あのしやれた登山電車で智恵子と二人、/ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。/夢といふものは香料のやうに微粒的で/智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。/ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは/ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)のやうに吹き出てゐた。

昨日のこのブログで、先週、地方紙二紙に掲載された一面コラムをご紹介しましたが、昨日の『福島民報』さんの一面コラムにも智恵子の名が出ていました。アニソン歌手の水木一郎さんが12月6日(火)に亡くなったことを受けてのものです。

あぶくま抄 ロケットパンチ

♪空にそびえるくろがねの城…。歌い出しから胸は躍った。♪無敵の力はぼくらのために…。強靱[きょうじん]なパワーで自分たち子どもが守られているような気がした。「マジンガーZ」の主題歌を半世紀にわたって歌い続けた水木一郎さんが世を去った▼「アニメソングの帝王」と評され、持ち歌は1200曲を超えるが、当初は子ども相手の歌と軽んじられた。アニメが世界に誇る日本の文化に定着するまで並々ならぬ苦労があったからこそ、若手に優しいまなざしを向け、アニキと慕われた▼実父のように敬愛した小野町出身の作詞家丘灯至夫さんから、10曲以上の楽曲を受けて足場を築く。仲間と登山部を結成して2015(平成27)年、安達太良山に登った。丘さん作詞のヒット曲「智恵子抄」の譜面を山頂で配り、「ほんとの空」に感謝の歌声をささげた。恩義を忘れぬ人柄がしのばれる▼革ジャンに赤いスカーフを巻いた姿は、昭和の子どもを熱狂させた正義のヒーローそのものだった。不穏な令和の今に憤りを感じつつ旅立ったに違いない。追悼にふさわしい言葉が浮かんできた。地球の平和を乱す不義へ、天上から今度は自ら飛ばせ、鉄拳ロケットパンチ。
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水木さんが「アニソン登山部」を結成されたというのは存じていましたが、故・丘灯至夫氏作詞の「智恵子抄」(昭和39年=1964 二代目コロムビア・ローズさん歌唱)のからみだったとは初めて知りました。山頂で歌われたということも。そういえば水木さん、都内で開催された「丘灯至夫さんの作品を歌う会」にも参加なさっていました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、先月から今月にかけ、全国の地方自治体さんの広報誌に光太郎やその父・光雲、さらに智恵子の名。まぁ、どれもほんのちょっとですが(笑)。

鹿児島県いちき串木野市さんの『広報いちき串野』11月24日号。
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同市は「短歌のまち」を標榜しているそうで、同市出身の歌人・萬造寺斉の紹介。与謝野夫妻の新詩社を通じ、光太郎とも交流がありましたので、光太郎の名も出して下さいました。

続いて、新潟県新発田市さんの『広報しばた』12月1日号。
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それ以前の号から「もっと知りたい! 郷土の偉人 大倉喜八郎」という連載が為されていたようで、この号では大倉と交流のあった人々の紹介。「芸術家」として、木彫による肖像彫刻の制作を依頼された光雲、そのための原型塑造を作った光太郎の名が出ています。

さらに、市町村ではなく、県。群馬県さんの広報誌の増刊的な『tsulunos PLUS(ツルノスプラス)』の12月号。特集が「群馬発、世界に誇る温泉文化」だそうで、草津温泉の紹介の中に光太郎智恵子の名。
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ただし、「「草津」の碑」は智恵子療養のために訪れた昭和8年(1933)の作ではなく、昭和2年(1927)のものですが。

最後に智恵子の故郷、福島県二本松市さんの『広報にほんまつ』12月号。「第27回 智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」表彰式の話題。
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光太郎つながりで花巻からも募集していたのですね。

少しずつですが、いろいろ取り上げて下さりありがたいことです。しかし、「高村光太郎? 誰、それ?」、「高村光雲? 知らんなぁ」、「高村智恵子? 聞いたことない」という状況になると、こうは行きませんので、そうならないよう努力いたします(笑)。

【折々のことば・光太郎】

細雨、涼、 横になると痰せきが出る、相当に出るやうになる、


昭和30年(1955)6月26日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結果のため、赤坂山王病院に入院したものの、病状は一進一退でした。治癒に至るには既に進行しすぎていたようです。

いわゆるカルチャースクールでの市民講座。教室での対面受講とオンライン受講が選べるそうです。

続・文学者の短歌 in 大阪

期 日 : 2022年12月3日(土)
会 場 : 毎日文化センター 大阪市北区梅田3-4-5毎日新聞ビル2階 
時 間 : 13:00~14:00
料 金 : 2,750円
講 師 : 松村正直(歌人)
1970年生まれ。歌集に『駅へ』『やさしい鮫』『午前3時を過ぎて』『風のおとうと』『紫のひと』、評論集 『短歌は記憶する』『樺太を訪れた歌人たち』『戦争の歌』、評伝 『高安国世の手紙』、時評集『踊り場からの眺め』、同人誌「パンの耳」。現在「角川短歌」に「啄木ごっこ」を連載中。

 今年2月に実施した「文学者の短歌」が好評につき、第二弾の続編を開催します! 近代以降、短歌は多くの人々に親しまれてきました。歌人として知られる人物だけでなく、さまざまな文学者たちも歌を詠んできたのです。短歌は若き日の彼らの文学の出発点となり、また終生愛する詩型ともなりました。
 本講座では、柳田国男(民俗学者)、高村光太郎(詩人、彫刻家)、加藤楸邨(俳人)、中原中也(詩人)、三浦綾子(小説家)らの短歌を紹介しつつ、その時代背景や人生をたどります。その上で、短歌という詩型の持つ特徴や魅力に迫りたいと思います。

オンライン受講について
・事前にZoom公式サイトから最新Zoomアプリをインストールしてください。
・講座当日の10:30までに視聴URL(ウェビナーIDとパスコード)をお知らせします。
・開講当日の開始15分前から入室可能です。
・「Zoom」ウェビナーは受講者側のお名前や映像、音声は配信されません。ウェブカメラやマイクは不要です。
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今年2月に「文学者の短歌」というオンライン講座があり、その続編だそうです。2月に取り上げられたのは、森鷗外、芥川龍之介、村岡花子、宮沢賢治、中島敦、北杜夫、石牟礼道子など。今回取り上げられる人々と併せ、いわゆる「歌人」ではなかった人々の短歌、ということですね。

光太郎の場合、本格的な文学活動の出発点が短歌でした。東京美術学校在学中の明治33年(1900)、与謝野夫妻の新詩社に加わり、機関誌『明星』に「砕雨」と号して多くの短歌を発表しています。それ以前に俳句が『読売新聞』に掲載されたりもしましたが、そちらはあくまで投稿の域を出ませんでした。

その後、大正期の第二次『明星』にも多くの短歌を寄せたり、木彫を作るとその袋や袱紗(智恵子の手縫い)に短歌をしたためたりもしました。そして晩年まで折に触れて歌作を続け、結局、『高村光太郎全集』には800首ほどが掲載されていますし、平成10年(1998)の『全集』完結後も10首あまり見つかっています。短歌は詩と異なり、手元に控えの原稿を残さなかったので、今後も見つかる可能性が高いと思われます。

やはり詩であれだけの(どれだけだ(笑))世界を構築した光太郎、短歌でも素晴らしいものをたくさん残しています。初期のものは、鉄幹による添削が激しく入っているとのことですし、また、いわゆる「歌人風」に逆らった、巫山戯た短歌も目につきますが。

講座はオンラインでも配信されるとのこと。この対面式とオンラインとの併用(特にアーカイブ配信まである場合)は、コロナ禍によるいい意味での副産物といえるでしょう。コロナ禍以前は対面式の講座等は一度その場でやったらそれで終わり、という感じでしたから、遠方だったり、その日に都合がつかなかったりの場合に対応できませんでした。

当方も12月10日(土)、都内で開催される日本詩人クラブさんの例会で講演をしますが、そちらのオンライン配信があるそうです。例会自体はクローズドで、配信も欠席会員のためのライブ配信だと聞いていますが、もしかすると一般の方も試聴可能かも知れません。

また、それに先立つ12月3日(土)には、花巻高村光太郎記念館さんで、現在開催中の企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の解説等を収録します。こちらは期間限定配信のようです。

それぞれ詳細が分かりましたらまたご紹介します。

閑話休題、「続・文学者の短歌 in 大阪」、ぜひお申し込みを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜の原稿清書、 午后「書道全集」の人くる、原稿渡し、4枚、


昭和30年(1955)2月15日の日記より 光太郎73歳

「原稿」は、平凡社から翌月刊行された『書道全集 第七巻 隋・唐Ⅰ』の月報のためのもの。「黄山谷について」と題し、光太郎が愛した黄山谷(庭堅)の書の魅力を綴っています。
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日本金融通信社さんが発行している金融専門週刊紙『ニッキン』。一面コラムでしょう、9月9日(金)の掲載分。

ニッキン抄

夜、帰宅後に部屋の電気をつけて一瞬はっとした。体長10センチ程のヤモリが窓ガラスの内側に張り付いていたからだ。夏から秋にかけて目撃するが、室内では初めて。見た目が苦手で、何とか外へ逃がした▼入った経路はエアコンの室外機だろうか、寄せ付けないためには……。ネットで侵入対策を調べていると、ヤモリの意外な事実が。東京都を始め、複数の県で絶滅の恐れがある野生生物に指定されているのだという。身近な生き物に迫る危機の一端を知った▼気候変動と並び、世界の重要テーマになった「生物多様性」。12月にはカナダでCOP15が開かれ、国際目標も決まる。多くの種を失えば、人類の存続をも脅かす。企業の行動変容を促すために金融の力を発揮してほしい▼高村光太郎の短歌にある。「はだか身のやもりのからだ透きとほり 窓のがらすに月かたぶきぬ」。白い身体が夜の月光で透き通ると。次のヤモリ来訪時は野生の命の神秘を感じつつ、温かく見守ろう。

引用されている短歌は、大正13年(1924)の作。「工房より」の題で10月1日発行の第二次『明星』第5巻第5号に掲載された50首(!)のうちの一つです。

こちらは短歌のコーナーではなく、光太郎に任された割り当てページがあるので、勝手に短歌を載せさせてもらう、的な感じだったようです。

短歌50首の前に置かれていた「近状」と題する散文の一節。

 今年は徒言歌が時々出来た。自分だけの理由があるのだが、与謝野先生にお渡ししたら削られてしまふ歌ばかりだから、最近のを五十首ばかりだしぬけに自分が貰つた積で居る此の頁へ書き続けて置かうと考へた。詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる。短歌では詩の表現の裏側に潜むかういふレアリテから進みたくなつた。

徒言歌」は「ただごとうた」。厳密に言うと『古今和歌集』仮名序に挙げられた「六義(りくぎ)」の一つで、難しい規程があるようですが、のちに「物にたとえていわないで直接に表現する歌、深い心を平淡に詠む歌」と解されるようになりました。だから「レアリテ」(「リアリティ」の仏語表記)なのでしょう。

50首中、3首がヤモリを詠んだ歌です。『ニッキン』さんに引用されているもの以外では、

木に彫るとすればかはゆきはだか身の守宮の子等はわが床に寝る

手にとれば眼玉ばかりのやもりの子咽喉なみうたせ逃げんとすなり


守宮」が「やもり」の漢字表記です。「」は「とこ」ではなく「ゆか」だと思うのですが、どうでしょうか。さすがに布団の中には入ってこないような気がするのですが……。

そういえば「ニッキン抄」筆者の方、室内にヤモリがいて驚いたそうですが、当方も同じ経験があります。自宅兼事務所の階段にのうのうとしていました(笑)。すぐにちりとりを使って外に逃がしてやりましたが。放っておくと、自宅兼事務所には凄腕のハンターが居ますので、たちまち餌食になります(笑)。
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まだヤモリを捕らえたことはないようですが、トカゲはしょっちゅうです。たいていはシッポを切って逃げていきますが、仕留めたこともたびたび。蝉まで捕まえますし(笑)。庭に出した時には注意しているのですが……。

閑話休題。

光太郎、「近状」の中で「詩に燃えてゐる自分も短歌を書くと又子供のやうにうれしくなる」と書いています。短歌は光太郎の本格的文学活動の出発点だったこともあり、いわば原点回帰的な感覚があったのでしょう。譬えはよくありませんが、大人になってから子供の頃の遊びをふとやってみたときの懐かしさというか、郷愁というか、そんな感じでしょうか。

同様のことは、この時期取り組んでいた木彫にも言えるような気がします。

昭和2年(1927)に書かれた連作詩「偶作十五篇」中の1篇に「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」とあります。
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ブロンズに鋳造する粘土塑造は真剣勝負、木彫はもっと肩の力を抜いて楽しみながら、という感覚だったように思われます。彫刻に関しては、塑造(モデリング)より木彫(カーヴィング)が光太郎の出発点でしたし。

そこで、ほとんどの木彫作品に、関連する短歌を添えていた(智恵子手縫いの袋や袱紗に揮毫しました)ことに、妙に納得が行くのです。

揚げものにあげるをやめてわが見るはこの蓮根のちひさき巻葉

あながちに悲劇喜劇のふたくさの此世とおもはず吾もなまづ

ざくろの実はなやかにしてやゝにがしこのあぢはひをたれとかたらん

山の鳥うその笛ふくむさし野のあかるき春となりにけらしな

いはほなすさゝえの貝のかたき戸のうごくけはひのほのかなるかも

遠く来るうねりはあをくとど崎の岩白くしてなきしきる

小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん


色を変えた語がそれぞれの歌を添えた木彫のモチーフです。最後の二首、「小鳥」は文鳥です。雌雄のつがいで作られたので、二首あります。

ところでヤモリを「木に彫るとすれば」と謳った光太郎。実際に彫ったかどうか分かりません。今のところ作品として発表したものの中には確認出来ていません。もしヤモリの木彫が作品として売られていたとすれば、上記三首のどれか、あるいは似たような歌が添えられていたことでしょう。どこかからひょっこり出て来ないかと、淡い期待を抱いております。

【折々のことば・光太郎】

くもり、やや寒、 大和ミエ子といふ人来訪の由、皿などもらふ、


昭和28年(1953)12月29日の日記より 光太郎71歳

光太郎終焉の地となった中野の貸しアトリエ。光太郎との面識が無いような人物等のいきなりの来訪、あるいは知った顔でも光太郎の具合が良くない時などは、大家の中西夫人が用件だけ聞いて帰ってもらうという感じでした。そこで「来訪の由」。この日がどちらの場合だったかは分かりかねますが。

大和ミエ子」は詩人・作詞家。当方、存じ上げない名前でしたが、しかし、インターネットというのはつくづく便利なものですね。何でもかんでも出て来る情報は鵜呑みには出来ませんが、調べるとちゃんと記述があります。このように『高村光太郎全集』を読んだだけでは素姓の分からなかった人物についても、かなり判明しました。

昨日に続き、明日、没後80周年となる与謝野晶子関連で。

『産経新聞』さんのおそらく関西版で、「火に燃えて動きし 与謝野晶子」という特集記事が3回にわたって掲載されました。その第1回では光太郎についても触れて下さっています。

火に燃えて動きし 与謝野晶子  (上)国を愛し家族を愛し まことの心歌い上げ

  激しい恋心を大胆に表現した第1歌集「みだれ髪」で文壇に衝撃を与え、詩や評論、源氏物語の現代語訳など多彩な足跡を残した堺市出身の歌人、与謝野晶子。感じたことを感じたままに、刺激的な表現も辞さなかった創作や言動はときに物議をかもした。文学でも家庭でも、情熱の火を燃やし続けた歌人は、今年が没後80年。命日の29日を前にその足跡をたどってみたい。
※火に燃えて動きし…晶子の代表的な詩「山の動く日」の一節。自立に向け動き出す女性たちを火山にたとえた
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挑戦的な言葉
〈あゝをとうとよ君を泣く/君死にたまふことなかれ〉
多作だった晶子の作品のなかで、夫の与謝野鉄幹が主宰する雑誌「明星」に発表された「君死にたまふこと勿れ」は、最もなじみのある作品といえるだろう。日露戦争に出征した弟・鳳籌三郎(ほうちゅうざぶろう)への思いを詠んだ長詩だ。
  晶子は、堺の実家の和菓子商「駿河屋」を継ぐ立場にあった籌三郎の身を案じる肉親の情をストレートに歌い上げる。
〈旅順の城はほろぶとも/ほろびずとても何事か〉など、国を挙げて戦争に協力する風潮が支配的だった当時の社会に挑戦的ともとれる言葉を重ね、論争を巻き起こしたことは有名だ。
 明治・大正期の詩人で評論家の大町桂月(1869~1925年)は「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしと言ふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判。危険思想と評して晶子を攻撃した。
 これに対し、晶子は明星で発表した反論文「ひらきぶみ」の中で、戦地に赴く兵士を駅で見送る親兄弟たちが大声で万歳を叫ぶ一方で、気を付けて無事帰るよう伝える場面も見られることを挙げ「彼れもまことの声、これもまことの声、私はまことの心をまことの声に出だし候とより外に、歌のよみかた心得ず候」とした。
 論争は鉄幹らが桂月宅に直接出向いて会見し、桂月が攻撃の矛を収めたことで決着した。出征していた籌三郎は帰還し、のちに家業を継いでいる。

思いを率直に
 反戦・非戦の詩として語られることの多い「君死にたまふこと勿れ」。ただ、与謝野晶子記念館(堺市)の矢内一磨学芸員は「戦争賛成か反対かといった単純な色分けでは理解できない」と指摘する。
 晶子と交流のあった文学者たちも「反戦でも何でもない。ただ弟に生きて帰れと言っただけなんだ」(高村光太郎)、「戦争否定の詩とか平和主義の詩とか読む現代の流行は、当年それを乱臣賊子の詩と読んだ人があつたのと同様に読む者の勝手であらう。しかしそのどちらも同じやうに作者晶子にとつては恐らく迷惑な事であらう」(佐藤春夫)など、懐疑的な見方を示していた。
 「ひらきぶみ」では「この国に生れ候私は、(中略)この国を愛で候こと誰にか劣り候べき」と愛国の心を強調。明治天皇の崩御の際には嘆き悲しむ心情を詠み、太平洋戦争中の昭和17年、四男の出征では「水軍の大尉となりてわが四郎 み軍(いくさ)に往く 猛く戦へ」と鼓舞する短歌を歌っている。
  矢内氏は「戦争肯定か反対か、でわける考え方は一見わかりやすいが、そこで思考停止に陥ってしまい、晶子の本質をとらえられなくなる恐れがある。そのときどきに感じた思いを率直に表現するのが晶子の作風」と話す。その心を晶子はこう表現する。「歌は歌に候。(中略)まことの心を歌ひおきたく候」(ひらきぶみ)

認め合った2人
 論争では敵役に回った桂月だが、晶子の才能を認め、もり立てた理解者でもあった。
 民俗学者で歌人・釈迢空としても知られた折口信夫(1887~1953年)は、晶子への追悼文で「晶子さんをあれだけの人として(中略)相当早い時期に認めたのは大町桂月さんでした」と寄せている。
 旅と酒を愛し、多くの紀行文を残した桂月は大正14年に死去。晶子は新聞「横浜貿易新報」(神奈川新聞の前身)でその死を深く悼んだ。
 「今思ひ出すと、当時私のやうな者を眼中に置いて下さつた先生の厚意を感謝したい。猶お目に掛るたびに先生が私の歌を褒めて激励して下さつたことも永く忘れることが出来ない」。桂月は晶子の才能を愛し、晶子もその恩を忘れることはなかった。

堺に残る歌碑の数々
 明治34年6月、与謝野晶子は生まれ育った堺を後に上京し、恋心を募らせていた歌の師、鉄幹のもとへ走った。歌集「みだれ髪」にそのときの心情を伝える一首がある。
  〈狂ひの子われに焔(ほのお)の翅(はね)かろき百三十里あわただしの旅〉(恋に狂った私は炎でできた羽をつけ百三十里を飛んでいく。あわただしい旅…)
 その後、鉄幹との新生活をスタートさせた晶子だが、結婚に反対していた兄、鳳秀太郎とは絶縁状態になるなど、失ったものも大きかった。晶子の長男、光の回想によれば晶子の父、鳳宗七が死去した際、喪主だった秀太郎は葬儀のために堺に戻ってきた晶子の参列を拒否したという。
〈古さとの小さき街の碑に彫られ百とせの後あらむとすらむ〉(故郷で私の歌は碑に彫られ、100年後にもあり続けるでしょう)
 自分を歓迎しない故郷への複雑な感情が詠ませた歌だろうか。しかし、ふるさとは晶子の歌をたたえる。与謝野晶子記念館によると、晶子の歌碑は堺市内だけで26基を数えるという。自分の心情に忠実に生きた晶子の文学が持つ魅力ゆえなのかもしれない。

よさの・あきこ 1878~1942年。堺県堺区甲斐町(現・堺市)に生まれる。明治31年、与謝野鉄幹の短歌に刺激を受け、本格的に歌作に開眼。33年、鉄幹の東京新詩社に参加し「明星」で短歌を発表した。34年、歌集「みだれ髪」を出し、鉄幹と結婚。近代日本の浪漫主義を代表する歌人として多くの作品を残した。婦人問題・教育問題など時事評論の分野でも積極的な発言を続けた。

  君死にたまふこと勿れ(旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて)

 あゝをとうとよ君を泣く
 君死にたまふことなかれ000
 末に生れし君なれば
 親のなさけはまさりしも
 親は刃をにぎらせて
 人を殺せとをしへしや
 人を殺して死ねよとて
 二十四までをそだてしや

 堺の街のあきびとの
 旧家をほこるあるじにて
 親の名を継ぐ君なれば
 君死にたまふことなかれ
 旅順の城はほろぶとも
 ほろびずとても何事か
 君知るべきやあきびとの
 家のおきてに無かりけり

 君死にたまふことなかれ
 すめらみことは戦ひに
 おほみづからは出でまさね
 かたみに人の血を流し
 獣の道に死ねよとは
 死ぬるを人のほまれとは
 大みこゝろの深ければ
 もとよりいかで思されむ

 あゝをとうとよ戦ひに
 君死にたまふことなかれ
 すぎにし秋を父ぎみに
 おくれたまへる母ぎみは
 なげきの中にいたましく
 わが子を召され家を守り
 安しと聞ける大御代も
 母のしら髮はまさりけり

 暖簾のかげに伏して泣く
 あえかにわかき新妻を
 君わするるや思へるや
 十月も添はでわかれたる
 少女ごころを思ひみよ
 この世ひとりの君ならで
 あゝまた誰をたのむべき
 君死にたまふことなかれ
    「明星」明治37年9月号

君死にたまふこと勿れ」。記事にあるとおり、発表時に大町桂月らによってバッシングにあったことは有名ですが、桂月が「晶子の才能を認め、もり立てた理解者でもあった」というのは存じませんでした。

桂月といえば、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、元々、十和田湖周辺の国立公園指定15周年を記念し、十和田湖の観光開発等に功績のあった桂月、元青森県知事・武田千代三郎、地元の村長だった・小笠原耕一の三人を顕彰するモニュメントとして作られたものでした。

そこで光太郎、「君死にたまふこと勿れ」バッシングを念頭に、

僕は若い頃大町さんに怒鳴られたりなんかして、よく知つてゐるんだから、貴様こんなものを立てたといつて怒られるだらうといふ事が、頭に出て来て、それでどうも弱つたんです。
(座談「自然の中の芸術」 昭和29年=1954)

と発言しています。

どういうシチュエーションで光太郎が桂月に怒鳴られたのかは不明ですが、桂月にしてみれば、光太郎は「非国民」与謝野晶子の生意気な弟分、という感覚があったのかも知れません。

それにしても「君死にたまふこと勿れ」、現代のロシアの女性たちも同じようなことを考えている、と信じたいものです。「すめらみこと」ならぬ「大統領」は「戦ひに おほみづからは出でまさね」ですから。

「火に燃えて動きし 与謝野晶子」、この後、「(中)コロナの〝失政〟100年前に見通していた晶子」「(下)「源氏物語」現代語訳の先駆け 小林一三ら財界人が支援」と続きます。長いので割愛しますが、晶子のエネルギッシュな活動ぶりに改めて感心させられました。

【折々のことば・光太郎】

花巻の阿部博氏よりリンゴ一箱届く


昭和27年(1927)12月27日の日記より 光太郎70歳

阿部博氏」は花巻の林檎農家。宮沢賢治の教え子でもあります。かつて光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋にも足繁く通っていました。帰京後もリンゴを送ってくれ、東京の店頭で売られているリンゴが不味いと感じていた光太郎は感謝していました。


明後日、5月29日(日)は、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の忌日「白桜忌」です。晶子は昭和17年(1942)に亡くなりましたので、今年は没後80周年ということになり、例年よりも注目が集まっているように感じます。

角川文化振興財団さん発行の雑誌『短歌』。東京大学教授の坂井修一氏による評論「かなしみの歌びとたち」という連載が一昨年から為されていますが、今年4月号5月号の記事をご紹介します。
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まず4月号。副題は「『白櫻集』の残したもの」。晶子の遺作歌集にして、晶子没年の昭和17年(1942)9月刊行の『白櫻集』を中心に据えられています。

『白櫻集』、序文を光太郎と有島生馬が書いています。
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晶子には弟子もたくさんいたはずですが、それらを差し置いて遺稿集の序文を光太郎、有島生馬が書いているというのが意外といえば意外です。確かに光太郎はこの時点では晶子と直接交流があった人物の中では「重鎮」の部類だったかも知れませんが……。ただ、仮にそこで弟子筋から文句が出たとしても、それを黙らせるに足る、本質を突いたいい文章ですね。

坂井氏、この光太郎の序文を引きつつ、やはり光太郎同様、晶子がたどり着いた晩年の歌境を高く評価されています。

ちなみに題名の『白櫻集』は、晶子の戒名「白桜院鳳翔晶燿大姉」にちなむとのこと。当方、勘違いしておりました。芥川龍之介の「河童忌」や太宰治の「桜桃忌」同様、先に『白櫻集』ありきで、そこから忌日の「白櫻忌」が命名された、と。

続いて5月号。「近代ならざる近代短歌の意義について」。こちらでは晶子をはじめ、近代歌人の作に「我」や「世俗」はあっても、「市民」という意識が不在だ、という論が展開されています。晶子にしても石川啄木にしても、「市民」意識は短歌より詩や評論などでそれが表されている、と。なるほど、と思いました。

そうした論の中で、晶子が「山の動く日」を寄せた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)の智恵子による表紙絵画像が載っています。ただし、今号には智恵子・光太郎の名は出て来ませんが。

そして『短歌』、既に6月号も出ています。未読ですが、坂井氏、5月号を受け、「市民」を前面に押し出したプロレタリア短歌に言及されているのではないかと思われます。5月号にそういう予告的な一節がありましたので。

「かなしみの歌びとたち」、いずれ単行本化されることを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

藤島氏と二人ニユートーキヨー、東生園、ブロードヱー、日劇、ストリツプ見物、電車でかへる、

昭和27年(1952)12月25日の日記より 光太郎70歳

藤島氏」は、光太郎の身の回りの世話等をしてくれていた詩人の藤島宇内、「ニユートーキヨー」はビアホール、「東生園」は銀座に今も健在の中華料理店です。「ブロードヱー」は浅草の「六区ブロードウェイ」、「日劇」は有楽町にあった劇場です。

ストリツプ」は浅草で見たと思われます。数え70歳(もうすぐ71歳)の光太郎、性的関心というより、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、モデル以外の女体も見ておきたかったということなのでしょう。あるいはそれを言い訳にしてのただのエロジジイだったのかもしれませんが(笑)。

過日届いた、都下小金井市の美術系専門古書店、えびな書店さんの新蒐品目録。光太郎の書(軸装された歌幅)が写真入りで紹介されています。
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書かれているのは、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋で詠まれた短歌で、「太田村やまく(ぐ)ちやまの山かけ(げ)にひえをくらひて蝉彫る吾は」。

001光太郎自身、この短歌が気に入っていたようで、複数の揮毫例が存在しますし、日記にも「誰々のために蝉の歌を揮毫」的な記述が散見されます。

駒場の日本近代文学館さんには、色紙に書かれたものが所蔵されており、10月から先月末にかけ、富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で展示されました。

えびな書店さんの方では平仮名だった「やまく(ぐ)ちやま」が、こちらでは「山口山」と漢字表記です。

おそらく、ですが、用紙の縦横のバランスを考え、そうしたのではないかと考えられます。基本は「山口山」と漢字表記にするところを、えびな書店さんの方では、色紙より横に長い用紙のため、平仮名を使って字数を増やしているように思われますが、どうでしょうか。書家の方々のご意見を伺いたいものです。

ところで、近代文学館さんの色紙も載っている「画壇の三筆展」の図録、会期終了後に、まだ残部があればお分け下さい、とお願いし、15部入手しました。来春開催予定の第66回連翹忌にて販売予定ですが、どうしても早く手に入れたい、という方、当ブログコメント欄(非表示設定可)、当方フェイスブック、ツイッター等からご連絡下さい。代金+送料で2,570円となります。また、富山県水墨美術館さんに直接申し込まれても入手できるのではないでしょうか。
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【折々のことば・光太郎】

中原さん一年の間に大層年よりじみ、皺など目立つ。胃酸過多といふ。そのためか。顔いろもあし。

昭和26年(1951)9月15日の日記より 光太郎69歳

中原さん」は、昨日もこの項で紹介た、歌人の中原綾子。光太郎とは智恵子存命中からの知り合いでした。

一年の間に」ということは、前年にも、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に中原が訪ねてきたということになります。ところが、昭和24年(1949)、25年(1950)の日記はそのほとんどが失われており、光太郎側の資料では詳細不明です。

平成14年(2002)、中央公論事業出版さん発行、松本和雄編著の『歌人 中原綾子』には、以下の記述があります。

 綾子は昭和二四年(一九四九)、五一歳の一一月二六、二七日、「スバル」創刊号への題字依頼を兼ねてこの山小屋を訪ねた。
 宿泊は太田村村長宅。「雪の中に埋っている小さい、小さい小舎に泊めて下さるとばかり思っていたのに、夜通しお話がしたかったのに、先生は提灯さげて私を村長さんの家につれてゆかれました。」


そして、その折に詠まれた綾子の短歌。
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そして、光太郎日記に残っている昭和26年(1951)の再訪時。
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光太郎、ストイックもいいのですが……。やはり亡き智恵子に対する想いは強かったのでしょうし、数え69歳の身では、もはや「据え膳喰わぬは……」という感じでもなかったのかも知れません。

それにしても、日記。公開を前提としていない日記とはいえ、「大層年よりじみ、皺など目立つ」まで書くか、と思いますね。綾子は満で53歳、まだまだ十分に「女」だったはずですが。

基本、自然科学系の企画展示なのですが……。

身近な海のベントス展

期 日 : 2021年10月12日(火)~12月26日(日)
会 場 : 兵庫県立人と自然の博物館 兵庫県三田市弥生が丘6
時 間 : 10時~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人200(150)円 大学生150(100)円 70歳以上100(50)円
      ( )内団体料金 高校生以下無料 

水の底に生息する生物を総称してベントス(底生生物)といいます。私たちの生活圏のすぐそばにある沿岸海洋には、カニ、貝類、海藻などの多種多様なベントスが生息しています。本展示企画では、兵庫県を中心とした日本沿岸で見られるベントスと人の生活、文化、歴史との関わりについて紹介します。標本や展示を見て少しでもベントスに興味を持っていただければ幸いです。

身近な海には驚くほど多様な生物が生息しています。海の生物多様性、そして人と海、人とベントスの関係を標本、地形模型、映像、水槽展示を通してお伝えします。
・美しいカニ類、貝類、海藻類などの標本を約100点展示(予定)
・地味で不思議なベントス「フジツボ」を10種類以上水槽展示(予定)
・超貴重。詩人・高村光太郎が海を前に詠んだ短歌の直筆短冊も公開
・ダイバーが25年に渡って撮影した神戸の海洋生物を大迫力の画面でスライドショー上映
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005超貴重。詩人・高村光太郎が海を前に詠んだ短歌の直筆短冊」は、当方所蔵のものです。揮毫されている短歌は明治39年(1906)、留学のため横浜港を出航したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアンの船上で詠んだ短歌。翌年元日発行の雑誌『明星』未歳第1号に掲載されました。

光太郎にとって、初めての長い船旅で、季節風の影響もあり、海は大荒れ。しかも乗った船、アセニアンが総排水量3,882トン、外洋を航海する船としては小さなもので、大揺れだったそうです。そのワイルドな海に乗り出した感覚を、まるで太古の民が初めて丸木舟で外洋に漕ぎ出した時に感じた驚きのようだとしています。

その時点では「海を観て太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」。それが明治43年(1910)の雑誌『創作』に再録された際には、初句が「海にして」と改められており、以後、その形で流布しました。

短冊の初句は「海をみて」。従って、明治43年(1910)以前の揮毫と推定できます。

この短冊、元々光太郎の父・光雲の弟子であった故・小林三郎氏の旧蔵で、小林氏のご息女(この方も亡くなっています)からいただきました。富山県水墨美術館さんで今週から始まる「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」にお貸しすることも考えていたのですが、同展、短冊や色紙などの小さな書はあまり出さず、大幅のものを中心にということで、それは無くなりました。

会場の兵庫県立人と自然の博物館さんの学芸員氏が、平成30年(2018)翌年、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された女川光太郎祭(昨年、今年はコロナ禍のため中止)にご参加、光太郎詩の朗読をなさいまして、その関係で、こちらに貸し出し依頼が来ました。

この他、光太郎智恵子光雲関係のさまざま、依頼があれば展示等のためにお貸ししますし、当方手元に無いものは、仲介できる場合もありますので、ご関係の方、お考え下さい。

さて、「身近な海のベントス展」。コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐうちち黒沢尻より斎藤充司氏他4人の小学教師遊びにくる、豚鍋をつくりて食事。ジン酒一本もらふ。皆「典型」持参。署名。


昭和26年(1951)1月8日の日記より 光太郎69歳


「斎藤充司氏」に関しては、こちら。日記が失われている前年の昭和25年(1950)にも、少なくとも2回、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋を訪問し、写真を撮影しています。

「典型」は、やはり前年に刊行された、光太郎生前最後の詩集(選詩集等を除く)です。

都下小金井市の古書店・えびな書店さんの新蒐品目録が届きました。同店、以前にもご紹介しましたが、美術系が中心で、書籍も扱っていますが、どちらかというと肉筆などの一枚物に力を入れられています。
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今号では、光太郎の肉筆色紙表装済みが出ています。
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003短歌で、「熊いちこ奥上州の山そはにひとりたうへてわれ熊となる」と書いてあります。伝統的な書き方として、濁点は省略。したがって、「いちこ」が「いちご」、「山そは」で「山そば(山岨)」、「たうへて」は「たうべて(食うべて=「食べて」の意)」です。

大正13年(1924)10月、雑誌『明星』(第二期)の第5巻第5号に「工房より」の題で発表した50首のうちのひとつです。『明星』では「山そは」は「山峡(やまかい)」となっていますが、光太郎自らが校訂をしたとされている、昭和4年(1929)刊行の『現代日本文学全集 第三十八篇 現代短歌集 現代俳句集』に再録した際に「山岨」と改訂されています。

この色紙が書かれたのも、おそらくそれほど離れた時期ではなく、大正末から昭和初め頃と推定されます。筆跡的にもその頃の特徴が表れていますし。

光太郎、明治末から戦時中にかけ、断続的に何度も上州の温泉地めぐりをしています。それもどちらかというと、人里近い温泉街は避け、山間の「秘湯」と言われるようなところを多く廻りました。『明星』にこの歌を発表した大正13年(1924)も、6月に奥上州の温泉地に行ったことが年譜に記されています。ただ、この際は具体的な行き先が不明です。

「熊いちご」は野いちごの一種。ヘビイチゴと似ていますが、もっと丈が高くなるそうです。

それにしても、惚れ惚れするような筆跡ですね。戦後の花巻郊外旧太田村での、彫刻刀で彫り込むような書と違い、あまり気負いなく、さらさらっと書いているようにも見えますが、それでも文字の配置、改行の仕方など、独特の優れた空間認識が見て取れます。

ついでというと何ですが、もう1点。少し前、今年1月にネット上に出たものですが、札幌の古書店・弘南堂さんの目録から。
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弟子屈に住んでいた詩人の更科源蔵旧蔵の、寄せ書き帳。昭和2年(1927)作の連作詩「偶作十五篇」中の2篇が書かれています。上の方が「木を彫ると心があたたかくなる 自分が何かの形になるのを 木はよろこんでゐるやうだ」、下の頁は「急にしんとして 山の匂のしてくる人がある」。

おそらく上記の「熊いちご」と、そう離れていない時期の揮毫と思われます。この書もいつまでも眺めていられそうです。

「ここにこういう光太郎の書の優品があるよ」といった情報、御教示いただけると幸いです。ただ、偽物が多いのも事実で、悩ましいところですが……。

【折々のことば・光太郎】

夜土間で紙に排便。外は雪にて出られず。排便はそのまま外に持ち出す。

昭和22年(1947)12月11日の日記より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋、便所は別棟で、小屋の外にありました。積雪のひどいときには、こうせざるを得なかったわけですね。

光太郎の蟄居生活、よく、「気ままでのんびりした一人暮らし」、「戦争協力への反省をしていることをアピールするポーズ」的に評したものを見かけます。豪雪の夜、土間の片隅で紙に排便をしている老いた巨軀を想像すると、当方にはそういう表現はできませんね。

『朝日新聞』さんの投稿短歌欄。全国での入選作は、毎週日曜日に「朝日歌壇」として、俳句の「朝日俳壇」とともに掲載されています。かつては石川啄木、窪田空穂、島木赤彦、佐佐木信綱、斎藤茂吉らもその選に当たっていた、伝統あるコーナーです。

全国の選に漏れたものなのか、それとも別口で募集しているのか、寡聞にして存じませんが、地方版にも「歌壇」欄が掲載されています。

少し前ですが、1月15日(金)、当方自宅兼事務所のある千葉県版のもの。
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智恵子の名を詠み込んだ歌が一首。曰く

 福島の旅に見上げるあかね雲智恵子の愛でし空に続くか

いい歌ですね。

「福島の旅」ということですが、智恵子の故郷・二本松で詠まれたものではないのでしょう。二本松での詠歌であれば、そこに広がる空が「智恵子の愛でし空」そのものです。少し離れた場所、しかし同じ福島県内ということで、「智恵子の愛でし空に続くか」とされているのだと思われます。

それを言ったら、空は地球上、何処へでも繋がっていますが、そうすると「続く」とはならないわけで、そのあたりが巧いと思う所以です。

言わずもがなかも知れませんが、『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」へのオマージュですね。

ところで、欄外に編集部よりの「おことわり」の文言。

「歌壇」「俳壇」は、新型コロナウイルス対応の緊急事態宣言に伴う編集作業の都合により、しばらく休載します。投稿の受付も休みます。再開の時期については改めて紙面でお伝えします。

とのこと。「こんなところにもコロナ禍の影響か」と思いましたが、考えてみればさもありなん、です。

例年11月頃、当会として、皆様からお送りいただいた郵便物に貼られていた切手を切り取り、JOCS日本キリスト教海外医療協力会さんに送っていたのですが、昨年はやはりコロナ禍のため、切手等を整理するボランティアさんの活動を休止せざるを得なくなり、現在、受付を停止中とのこと。似たような例ですね。

また、短歌ということになると、これも例年1月に開催されていた「宮中歌会始」。こちらもコロナ禍のため延期だそうで、「こんなところにもコロナ禍の影響か」と思いました。

歌会始といえば、平成25年(2013)の歌会始では、福島郡山の方が詠んだ下記の歌が入選しました。

 安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む

上記「朝日歌壇」の歌同様、『智恵子抄』からのインスパイアが入っているという作です。

光太郎が「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」と謳ったことが、人々の記憶から無くなってしまうと、特に「朝日歌壇」の歌などは成立しなくなってしまいます。「智恵子って誰?」、「何で空を愛でるの?」ということになってしまいます。
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そうならないためにも、光太郎智恵子の顕彰活動、心して続けていかねばと思う今日この頃です。

【折々のことば・光太郎】

昨日の川鍋東策氏よりのテガミにより、草野心平君の消息わかり、又黄瀛の生きてゐた事もわかる。
昭和21年(1946)4月6日の日記より 光太郎64歳

心平は戦時中、中華民国中央政府(汪兆銘政権)顧問として中国に居り、この年3月末に帰還。黄瀛は対立する国民政府軍の将校でした。交流の深かった二人の健在を知って、安堵したのでしょう。ただし、黄瀛はのちの文化大革命で投獄。生前、光太郎と再び相まみえることは叶いませんでした。

昨日放映の「NHK短歌」を拝見しました。司会は女優の有森也実さん、選者・講師は歌人の寺井龍哉さん。
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ゲストに当会会友の渡辺えりさん。
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渡辺さん、高校時代の演劇部で寺山修司の短歌に触れ、その後も現代歌人の方々と親交がおありだそうで。

光太郎と交流をお持ちだったお父さま・渡辺正治氏のお話も。ただ、光太郎の名は出ませんでしたが。
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トークを伴う番組に出演されると、とかく暴走される(笑)渡辺さんですが、昨日も案の定……。
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『万葉集』の恋歌を解釈するというコーナーの中で。静止画面にしてもブレています(笑)。

お父さま同様、光太郎と交流のあった宮沢賢治には触れて下さいました。
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またご出演なさりたいとのことですので、次はぜひ光太郎の短歌についても語っていただきたいものです。
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明日、再放送があります

NHK短歌 題「たとえば」004

NHK Eテレ 2020年12月22日(火) 15時00分~15時25分

選者は寺井龍哉さん。ゲストは演出家、女優の渡辺えりさん。題は「たとえば」。「万葉恋の歌」のコーナーでは大伴旅人を見送った児島という女性の歌を紹介する。

司会 有森也実  ゲスト 渡辺えり  出演 寺井龍哉

画像は渡辺さんのフェイスブックから採らせていただきました。

ご覧になっていない方、ぜひどうぞ。

ところで、短歌といえば、都内の古美術商、田島美術店さんで、光太郎が短歌をしたためた書を売りに出しているのに気付きました。

天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」。大正9年(1920)、『明星』の歌人、渡辺湖畔に贈った十首ほどのうちの一首です。湖畔に贈った書そのものではないのでしょうが、「人におくれる」の詞書が附されています。


【折々のことば・光太郎】

秋涼、十六夜、 賢治さん十三回忌、午前九時過宮沢老人等と共に賢治さん忌につき日蓮宗の寺に参詣、経料五円つつむ。十一時一旦帰宅。十二時過宮沢邸にて中食、二時頃詩碑にゆく、三十余人あつまる、


昭和20年(1945)9月21日の日記より 光太郎63歳

賢治忌日の賢治祭に、光太郎が初めて参加した記述です。この後、昭和27年(1952)まで毎年参加し、ほぼ必ず講話、講演等を行いました。

新刊です

歌人番外列伝|異色歌人逍遥

2020年11月16日 塩川治子著 短歌研究社 定価2,500円+税

「この一集は塩川さんのウィットに富む眼差しにより、信濃はもとより日本の歴史、文化をより豊かに語り伝える才筆の一集である」(春日真木子・序)

他分野で名を成すとともに、独自の歌境を切り拓いた二十世紀の「番外歌人」たち。
歴史上の人物が残した歌を辿る「異色歌人逍遥」。
多くの文化人が集った軽井沢に居を構えて四十余年、数々の交流の思い出も交えつつ、歌集を繙いてゆく────
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目次003

序 春日真木子
【歌人番外列伝】
 一 回生の人──鶴見和子
 二 越しびと──片山廣子
 三 孤涯の人──小林昇
 四 琉球の女──久志富佐子
 五 不知火の人──石牟礼道子
 六 博士の面影──河上肇
 七 歌あらば──二人の死刑囚
 八 剣に代ふる──尾崎咢堂
 九 歌の孤立者──大熊信行
 十 白斧の人──高村光太郎
 十一 涙の歌人──堀口大学
 十二 夢のうたびと──福永武彦
 十三 政塵の人──井出一太郎004
 十四 科学者の憂い──湯川秀樹
 十五 土佐の女──大原富枝
 十六 理論と詩──石原純
 十七 ラケットをもった貴婦人──朝吹磯子
 十八 知の巨人の愛──加藤周一
 十九 ざんげ歌の哀しみ──小原保
 二十 実りのひとつ──宮沢賢治
 二十一 農民とともに──若月俊一
 二十二 太陽でありたかった女──平塚らいてう
 二十三 この世の外──大伴道子
 二十四 火の国の女──高群逸枝
 二十五 忍ぶ女ひと ──津田治子
 二十六 ロマンの人──中河与一
 二十七 叫ばむとして──宇佐見英治
 二十八 残夢──徳富蘇峰
 二十九 斜陽の女──太田静子005
 三十 草雲雀の人──立原道造
【異色歌人逍遥】
 一 紫式部
 二 源実朝
 三 樋口一葉
 四 只野真葛
 五 本居宣長
 六 高井鴻山
 七 賀茂真淵
 八 上田秋成
 九 道元
 十 良寛
あとがき

光太郎を始め、いわゆる専門の「歌人」ではない人々の短歌を紹介し、論評を加えています。元々雑誌『雅歌』に連載されていたもののようですが、存じませんでした。

光太郎の項は「白斧の人──高村光太郎」という小題。「白斧」は、昭和23年(1943)に刊行された光太郎歌集の題名です。上記目次脇にスペースが出来てしまったので画像を載せておきました。上は通常版、下は特製限定本(850部)です。特製限定本には光太郎の揮毫を写真製版したページが4ページ。一番下の画像がそのうちの1ページで、明治39年(1906)、留学のため渡米する船中で詠んだ「地を去りて七日十二支六宮のあひだにものの威を思ひ居り」が書かれています。

『白斧』という題名は、明治37年(1904)の『明星』にに載った短歌35首の総題から採られました。総題を付けたのはおそらく鉄幹与謝野寛ですが、元としたのは「刻むべき利器か死ぬべき凶器(まがもの)か斧の白刃(しらは)に涙ながれぬ」。

さて、「白斧の人──高村光太郎」。この「刻むべき……」に始まり、明治末から晩年までの20首ほどを取り上げつつ、光太郎の歩みを簡略に紹介しています。短歌はその名の通り短いので、それらを引きつつ生涯を俯瞰するというのは、紙幅もそれほど取らずにすむので、なるほどと思いました。これが詩ですとそうはいかないでしょう。

特に目新しいことは書かれていなかったのですが、ただ、引用されている短歌に、『高村光太郎全集』等にみあたらないものが1首。

いたづらに世にながらへて何かせむこの詩ひとつに如かずわが歌

というものですが、当方、存じませんでした。出典や初出掲載紙といった情報が書かれておらず、何かご存じの方はご教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

午前六時24分花巻駅発盛岡行。細雨。


昭和20年(1945)8月25日の日記より 光太郎63歳

終戦からまだ10日ですが、早くも講演を頼まれ、初めて盛岡に行きました。この際に見た岩手山の印象が、詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)に反映されているのではないかと思われます。

『毎日新聞』さん、今月2日の夕刊文化面に掲載された記事です。 

大岡信と戦後日本/28 折々のうた 詩歌の喜びと驚きを示す

003 大岡信のコラム「折々のうた」は、1979年1月から2007年3月まで朝日新聞に連載された。古今の短歌、俳句、詩や歌謡の一節を掲げ、鑑賞を180字の短文でつづるという前例のない企画だった。何度かの休載期間を挟みながら足かけ29年、休刊日を除く毎日続き、計6762回に及んだ(『新 折々のうた9』07年)。
 「折々のうた」といえば朝刊1面のイメージだが、スタート時は最終面に載っていた。同紙創刊100周年の79年1月25日朝刊から曽野綾子氏の連載小説「神の汚れた手」が始まるが、「折々のうた」はその左横の小さなスペースに置かれた。「現代の万葉集」とも呼ばれた大アンソロジーの出発はささやかだった。
  第1回は高村光太郎(1883~1956年)の短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」。解説する大岡の文章の一部を引く。
 <美校生だった彼が、明治三十九年二月、 彫刻修業のため渡米したとき、船中で作ったもの。(中略)高村青年は緊張もしていただろう。不安と希望に胸を騒がせてもいただろう。けれど歌は悠揚のおもむきをたたえ、愛誦(あいしょう)に堪える>
  美校は東京美術学校(現・東京芸術大)。詩集『道程』『智恵子抄』で名高い詩人の、 わざわざ若き日の短歌を初回に出したところに並々ならぬ意欲がうかがえる。翌日以降は江戸中期の俳人、加舎白雄(かやしらお)の俳句、上田秋成(江戸中期の文人)の短歌、白居易(唐代の詩人)の漢詩と続く。時代もジャンルも実に多様だ。
 当時の同紙編集幹部が最終面の扱いを「もったいない」と考え、3カ月余り後の5月から1面に移す。これで話題となり、翌80年に菊池寛賞を受賞する。また1年分を加筆・修正してまとめ、岩波新書で刊行する形を取ったことも読者を広げた(総索引を含めシリーズ計21冊)。
 ところで、「折々のうた」が始まった時、記者は高校2年。その頃同紙を読んでいたが、存在を意識したのは1面に移った3年の時だった。 詩の魅力が、わずか2行の引用で表現されているのに目を見張った。
 例えば宮沢賢治(1896~1933年)の「海だべがど おら おもたれば/やつぱり光る山だたぢやい」(「高原」)。大岡は、「ホウ/髪毛(かみけ)風吹けば/鹿(しし)踊りだぢやい」と続くことを紹介したうえで、こう記す。<詩全体は、海かなと思ったが、やっぱり光る山だったぞ、風が吹けば、鹿踊りにかぶる面の髪みたいに、髪が踊るぞ、という意味だろう。(中略)この方言詩は生きている>(新書版『折々のうた』)。
 詩のリズム感とともに、凝縮された解説文から読者は「生きている」詩の脈動を感じ取ることができる。同様に、このコラムを窓として詩の世界の豊かさを見た人々は多くいただろう。 詩人の蜂飼耳さん(46)は小学生の頃、既にあったこの欄に、自然になじんでいたという。「『折々のうた』は、ジャンルの垣根を取り払い、時代や言語を超えて詩歌の『喜び』と『驚き』が併存することを可能にした方法そのものだった」。確かに欧米その他の翻訳詩も取り上げられた。
 大岡自身は出発時点の思いを「『日本詩歌の常識づくり』。和歌も漢詩も、歌謡も俳諧も、今日の詩歌も、ひっくるめてわれわれの詩、万人に開かれた言葉の宝庫」と述べていた(同書あとがき)。それが長く人々を引き付けたのは、彼が「硬直しない感受性の持ち主」で「言葉と詩の関係を、先入観なく根本から考えることのできる人」(蜂飼さん)だったからだろう。
 連載が終わった後、作家の丸谷才一(25~12年)は毎日新聞に、新書シリーズ全巻を対象とする書評を寄せ、「コラムの成功」を勅撰(ちょくせん) 和歌集になぞらえた。「共同体が詞華集(アンソロジー)によって詩情を教える風習は、明治維新によって残念ながら断絶された。大岡信の『折々のうた』は(中略)長きにわたるわが短詩形文学の富を誇っている」(07年12月2日朝刊)
 その「成功」は新聞界に広く影響を及ぼし、 ヒントにした欄が各紙に登場した。では、「折々のうた」はどんな時代に、いかなる問題意識によって取り組まれたのか。

同紙では昨年から月イチ005の連載で「大岡信と戦後日本」が掲載されており、その第28回。氏の業績の一つ、『朝日新聞』さんに連載された伝説のコラム「折々のうた」が取り上げられています。他紙のコラムについてその意義を実に好意的に評していて、『毎日』さんの懐の深さといいますが、そういうものを感じますね。

その「折々のうた」、記念すべき第一回で大岡氏が取り上げたのが、光太郎短歌「海にして……」。この歌、光太郎短歌の中では代表作の一つといっていい詠です。

それが大岡氏の没後、単に「高村光太郎の代表的短歌」というだけでなく、「大岡信氏が「折々のうた」連載の第一回で取り上げた歌」という新たな評が付け加わったような感もあります。

今後とも、大岡氏の業績と共に、語り継がれていって欲しいものです。


【折々のことば・光太郎】

口語歌は既に成り立つてゐると思ふ。在来の歌と両立してゆくのに何の不思議も無い。生活内容と感じ方とモチヴとが互に相違してゐるだけの事で、どちらが抹殺せられる事も出来ない時代に僕たちは生きてゐる。

アンケート「口語歌をどう見るか(批判)」全文
大正14年(1925) 光太郎43歳

明治39年(1906)詠の「海にして……」はまだ文語歌ですが、大正に入ると光太郎も口語歌を量産するようになります。ほとんどは雑誌『明星』(第二次)に寄せたものでした。

このブログの平成28年(2016)の1年間、大岡氏の「折々のうた」のパクリで【折々の歌と句・光太郎】と題し、366(閏年でしたので)の光太郎短歌・俳句・川柳などの定型作品を毎日1つずつ紹介しました。暇な時にでもお目通し下さい。

昨日、朝刊を開きましたら社会面にテノール歌手・永田峰雄氏の訃報。

『朝日新聞』さんから。

テノール歌手、永田峰雄さん死去 欧州を拠点に活躍

 永田峰雄さん(ながた・みねお=テノール歌手)が8日死去した。66歳だった。葬儀は近親者で営む。
 91年にザルツブルク音楽祭に出演し、欧州を拠点に国際的に活躍。モーツァルトを得意とした。東京芸大、愛知県立芸大、洗足学園音大などで指導した。


氏の所属事務所・株式会社AMATIさんののサイトから。 

弊社所属声楽家 永田峰雄(ながた みねお)が7月8日000に逝去しました 享年66歳でした
ここに故人の数々の名演を胸に 哀悼の意をもってお知らせします

永田峰雄は新潟県長岡市に生まれ 東京芸術大学卒業 同大学院修了しました 1991年ザルツブルク音楽祭『サティリコン』に出演して以来 ドイツを拠点にヨーロッパで活躍しました ヴュルツブルク トリーア ギーセン ボン ミュンスター等の歌劇場と専属契約を結びモーツァルト歌手として様式感ある端正な歌唱と柔軟なベルカント唱法が絶賛されたことは広く知られています 日本においても新国立劇場 びわ湖ホール等で数々のオペラ公演 オーケストラとの共演で高い評価を得てまいりました 近年は東京藝術大学 愛知県立芸術大学 洗足学園音楽大学等で後進の指導にも情熱を注いでいました


当方、直接は存じ上げない方でしたが、かつてCDを1枚、購入させていただきました。平成15年(2003)、カメラータトウキョウさんリリースの「別宮貞雄歌曲集「智恵子抄」/ロベルト・シューマン歌曲集「詩人の恋」」。歌唱が永田氏で、ピアノはアメリカのアントニー・シピリ氏。

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氏の訃報を受けて、昨日、久しぶりに聴いてみましたが、20年ほど前の録音で、そろそろ円熟期に入ろうかという氏の伸びやかな歌声、いい感じでした。

まだ新盤で手に入るようです。是非お買い求め下さい。


今朝は今朝で、やはり社会面に、宮中歌会始の選者も務められた歌人の岡井隆氏の訃報。やはり『朝日新聞』さんから。 

岡井隆さん死去 歌人、現代歌壇を牽引

 前衛的な短歌の詠み手として知られ001、現代歌壇を牽引(けんいん)し、皇族の和歌の相談役も務めた歌人の岡井隆(おかい・たかし)さんが10日、心不全で死去した。92歳だった。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。
 1928年、名古屋市生まれ。46年に結社「アララギ」に入会。慶応大学医学部卒業後、内科医として病院に勤務する傍ら、歌を詠んだ。
 終戦直後、短歌や俳句を格下の文学と見なす「第二芸術論」が起こると、それに応答する形で50年代半ばから、寺山修司や塚本邦雄とともに前衛短歌運動を展開。60年安保闘争といった社会の動きを、極めて実験的な表現で詠んだ。
 70年には医師としての立場や歌壇での名声を捨てて九州へ出奔。5年間の沈黙を経て歌壇に復帰した。その後は、和歌のように韻律の美しさを重んじる作品や、口語と文語を自由に交ぜた歌など、短歌の可能性を極限まで追究した。
 92~2014年に宮中歌会始の選者。かつてマルクス主義者を自称した歌人だっただけに、選者を引き受けた時は一部から批判が上がり、話題となった。07~18年には当時の天皇、皇后両陛下や皇族の和歌御用掛(ごようがかり)も務めた。
 歌集「禁忌と好色」で迢空賞、「親和力」で斎藤茂吉短歌文学賞などを受賞。評論・エッセーなどを含む「岡井隆コレクション」で現代短歌大賞。詩人でもあり、「注解する者」で高見順賞を受けた。16年には文化功労者に選ばれた。文芸評論家としても活躍した。
 代表歌に〈父よ父よ世界が見えぬさ庭なる花くきやかに見ゆといふ午(ひる)を〉「天河庭園集」、〈キシヲタオ……しその後(のち)に来んもの思えば夏曙(あけぼの)のerectio penis〉「土地よ、痛みを負え」などがある。
 歌誌「未来」編集・発行人を最期まで務めた。
 <歌人・細胞生物学者 永田和宏さんの話> 政治的なことも巧みな比喩で表現し、前衛短歌運動の一番の立役者。それまで「私」と言えば作者を指したが、その縛りから「私」を解放し、暗喩や口語文体を駆使して表現方法を広げ、一つの時代をつくった。医師でもあり、私がサイエンスの道との両立に悩んだ時、相談に乗ってもらったこともある。

一面コラム「天声人語」でも。 

(天声人語)岡井隆さん逝く

 歌集『現代百人一首』が刊行されたのは25年前のこと。〈みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ すぎかきすらの はっぱふみふみ〉。テレビで耳にしたCM短歌が、斎藤茂吉や釈迢空の歌と同格に扱われ、新鮮な驚きを覚えた▼その選者で、戦後歌壇を牽引(けんいん)した岡井隆さんが亡くなった。92歳。内科医にして歌会始の選者、皇族の和歌御用掛を務めたという経歴からは想像できないほど、その歩みは波乱に満ちている▼〈一時期を党に近づきゆきしかな処女(おとめ)に寄るがごとく息づき〉。慶応大学の医学生だったころ、マルクス主義にひかれた。共産党系の診療所に詰めていた一夜、警察の家宅捜索を受ける。「歌集や歌誌の原稿まで押収された」とかつて本紙の取材に語った▼家庭や名声をかなぐり捨て、若い女性と九州へ逃避行したのは40代。有名歌人の「蒸発」は騒動を招く。だがその女性とは長続きせず、九州の病院で働くことに。〈女(をみな)とは幾重(いくへ)にも線状(すぢ)あつまりてまたしろがねの繭と思はむ〉。後にそんな官能的な歌を詠んでいる▼「短歌は危機の時を通り越し、廃墟の残骸の中にある」と歌壇の行く末を案じた。「私自身は選歌・添削・講師としてその廃墟に立ち、わずかに再建を夢みている」と繰り返し語っている▼功成り名を遂げたあとも、円熟の歌境に安住することはなかった。ナンセンスなCMから独創的、実験的な作品にまで光を当て、歌の可能性を極限まで広げる。破格、破調の堂々たる生き方であった。

氏の御著書もかつて当方、一冊、購入いたしました。

岩波書店さんから、平成11年(1999)に刊行された『詩歌の近代』。タイトル通り近代詩歌の概説で、光太郎、特に戦争詩について取り上げて下さっています。

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それから、至文堂さんから昭和59年(1984)に発行された雑誌『国文学 解釈と観賞』第49巻第9号「特集=高村光太郎」。岡井氏は「光太郎における短歌の役割」という論考を寄せられています。おそらく調べればこの手の雑誌等にもっと光太郎に言及したものもありそうですが、すぐ思い浮かんだのはこちらでした。

ご両人のご冥福、衷心よりお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

悠ゝ無一物満喫荒涼美  短句揮毫 昭和23年(1948) 光太郎66歳

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元ネタがありまして、連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」(昭和22年=1947)に書かれた、「いま悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の一節です。他に「悠々たる無一物に荒涼の美を満喫せん」と書いた揮毫も存在します。こちらはそれらを漢文風にしたものですね。花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の厳しい自然環境を「荒涼の美」ととらえたわけですか。

昭和23年(1948)6月22日の日記には、「終日揮毫。有賀氏のため色紙に書く。「悠ゝ無一物満喫荒涼美」」の記述があります。有賀剛は、光太郎と交渉のあった彫刻家・笹村草家人の友人で、神田小川町に汁粉屋を営んでいました。

広島に本社を置く『中国新聞』さん。昨日のデジタル版から。紙面にも載ったのでしょうか。

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広島ご出身の歌人・作家の東直子さんによる短歌を中心とした連載エッセイです。写真撮影も東さんだそうで。

言ノ葉ノ箱 丘の上から

 ≪稲は刈り取られた寒い田甫(たんぼ)を見遥るかす道灌山の婆の茶店に腰を下ろした時、居士は、
「お菓子をおくれ。」と言った。茶店の婆さんは大豆を飴(あめ)で固めたような駄菓子を一山持って来た。居士は、「おたべや。」と言ってそれを余に勧(すす)めて自分も一つ口に入れた。居士は非常に興奮しているようであったが余はどういうものだか極めて冷かに落着いて来た。何も言わずにただ居士の唇(くちびる)の動くのを待っていた。≫
 「居士」は正岡子規、「余」は作者である高浜虚子を指す。「子規居士と余」というタイトルで、俳句の師であった子規についての高浜虚子による回想記である。ここに出てくる道灌山は、現在は東京都の荒川区、JR西日暮里駅あたりにある高台で、駅のある低地の道から急な階段を上ってたどりつく、山というより丘のような場所である。

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 虚子は、葉書で子規の住む根岸に呼び出され、「うちよりは他(よそ)の方がよかろう」と言われて道灌山まで二人で歩いて行った。大人の足で20分ほどで到着する距離だが、子規が結核療養中だったことを考えると、もう少し時間をかけたかもしれない。わざわざ出かけたのは、虚子が自分の後継者になってくれるかどうか、改めて確認するためである。虚子の快諾を期待していたが、21歳とまだ若い虚子は、「私(あし)は学問をする気はない」とすげなく断ってしまう。俳句史では「道灌山事件」と呼ばれるエピソードである。子規はさぞかし落胆したことだろう。

村つづき青田を走る氣車(きしや)見えて諏訪(すは)の茶店はすずしかりけり
                    正岡子規

 道灌山の諏方神社の茶屋から見えた風景を詠んでいる。虚子と話した茶屋だろう。諏方神社は今も存在するが、茶屋はない。青田を走る「氣車」は、隣接する田端から伸びていた日本鉄道の車両だろう。田端駅ができたのが、明治29年4月。この歌が作られたのが明治31年初夏。氣車が青田を走り抜ける景色は、とても新鮮だっただろう。「道灌山事件」は明治28年の冬なので、そのときまだ「氣車」は走っていなかったのだ。道灌山でいったん決裂した二人だが、諸事情で仕事を失った虚子は、子規の協力を得て、明治31年から俳誌「ホトトギス」の編集に携わることになる。虚子が自分の所に戻ってきた嬉(うれ)しさが「すずしかりけり」に込められている気がする。

 現在、諏方神社の高台からは、山手線、京浜東北線、東北新幹線、北陸新幹線、山形新幹線、京成線などの車両が行き交うのが見える。
 神社のそばに荒川区立第一日暮里小学校があり、校門前にふくろうの石像が首をかしげている。高村光太郎の記念碑で、「正直親切」という揮毫(きごう)と「君たちに」という子どもたちへのメッセージを込めた詩も刻まれている。

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 道灌山から続く高台から、田端駅北口に続く坂道は、新海誠監督のアニメーション映画「天気の子」の舞台として印象深く描写されていた。
 見晴らしのよい丘の上に、様々な人の時間が繋(つな)がり続けている。

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光太郎直筆の文字を写した「正直親切」を校訓として下さっている荒川区立第一日暮里小学校さんに触れられています。同校は明治25年(1892)、光太郎が尋常小学校の課程を卒(お)えた、日暮里小学校の後身です。「「君たちに」という子どもたちへのメッセージを込めた詩」は光太郎の詩ではなく、現代のものです。

近くには智恵子も通った太平洋美術会研究所さん、子規庵朝倉彫塑館さんなどがあり、当方も大好きなエリアです。コロナ禍が収まったら、またのんびり歩きたいものです。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

乾坤美にみつ  短句揮毫  昭和14年(1939)頃 光太郎57歳頃

「乾坤(けんこん)」は「天地」とほぼイコールです。

『日本農業新聞』さんの一面コラムに、光太郎の短歌。6月25日(木)の掲載です。 

四季 厄災の中で詩歌がどれほど心を慰めてくれることか 000

厄災の中で詩歌がどれほど心を慰めてくれることか。岩波文庫別冊『声でたのしむ 美しい日本の詩』で、改めて実感した▽編者は最高の“ 目利き”の大岡信、谷川俊太郎ご両人で、肝は〈声でたのしむ〉。谷川さんは末尾で「つい百年前まで詩は吟じるのが当たり前だった」と説く。確かに声を出すのと、ただ字面を目で追うのとは感じ方、体感する言の葉の響きが違う▽和歌から近・現代詩まで幅広い。珠玉作をいくつか。〈うらうらに照れる春日に雲雀(ひばり)あがり情悲しも独りおもへば〉( 大伴家持)。〈海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと〉(高村光太郎) 。〈マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや〉(寺山修司)。既に万葉の時代に情を〈こころ〉と読む。光太郎の歌は青年の大志と不安を指す。寺山の〈身捨つる祖国〉の大胆な表現に驚く▽ちょうど「青嵐(せいらん)」の時分で詩は茨木のり子「六月」がいい。〈どこかに美しい人と人との力はないか〉と問い〈したしさとおかしさとそうして怒りが鋭い力となってたちあらわれる〉と結ぶ。与謝野晶子の〈君死にたまふことなかれ〉。副題は「 旅順口包囲軍の中に在る弟を歎(なげ)きて」。代表的な反戦歌でもある▽朗読こそが詠み人の魂に近づく道かもしれない。

引用されている光太郎の短歌は、明治39年(1906)、3年半にわたる欧米留学の旅立ちに際し、横浜港から乗船したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアン船上で詠んだものです。引用元の『声でたのしむ 美しい日本の詩』の編者のお一人・故大岡信氏が、『朝日新聞』さん紙上で連載されていた「折々のうた」の、記念すべき第一回に取り上げられもしました。

光太郎自身は、「此の歌、余の代表作の如く知人の001間に目され、屡〻(しばしば)揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。雑誌『キング』第5巻第9号 昭和4年=1929と書いていますが、なかなかどうしてやはり「秀歌」といっていいものだと思います。

ちなみに『声でたのしむ 美しい日本の詩』、このブログではご紹介しませんでしたが、岩波書店さんから今年初めに刊行されています。

是非お買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

上州と聞けば赤城山 高橋成重、萩原恭次郎

アンケート「上州とし聞けば思ひだすもの、事、人物」全文
 昭和10年(1935) 光太郎53歳

雑誌『上州詩人』第17号に掲載されました。「高橋成重」は、高橋元吉が一時期使っていた筆名「高橋成直」の誤植です。

昨日ご紹介したアンケート「山と海」でも、山としては何度も訪れた赤城山を挙げ、海ではアセニアン船上での太平洋航海を語っています。

雑誌の新刊です。

2020年4月25日 角川文化振興財団 定価950円(税込)

角川『短歌』は、1954年創刊の短歌総合誌。「自分だけのこの想い」を伝える究極の定型韻文詩・短歌の奥深さと楽しさをご堪能ください。

目次
グラビア うたの館めぐり さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館 今野寿美
     「明星」のビジュアルデ・ザイン
特集 日常・社会はどう歌うか
特集 「明星」創刊120年
なぜ「明星」はうまれたか? 明治のロマンの豊饒を形象した「明星」……松平盟子
「明星」の意義と対外的評価 一世紀の後……内藤 明
プロデューサー鉄幹の思想とメディア戦略〈星の子〉は「太陽」とたたかうために生まれた……太田 登
与謝野鉄幹と正岡子規 わがままな自我への反感……大辻隆弘
浪漫主義と自然主義とは何だったのか 「明星」における「浪漫主義」と「自然主義」……田口道昭
女うたの夜明けと現在へのつながり 「暗示の、ひらめきだつたのです」……今野寿美
「明星」が輩出した歌人たち
《与謝野晶子》 「身体」と「恋」と「京」……米川千嘉子
《石川啄木》 「血に染めし」から「はたらけど」へ―「明星」と石川啄木……池田 功
《吉井勇、北原白秋》 北原白秋、吉井勇―歌つくりと歌よみと……細川光洋
《森鷗外、上田敏》 「明星」の魂の父と母 森鷗外と上田敏……渡 英子
《山川登美子》 山川登美子―「明星」というるつぼで……古谷 円

「短歌を語る」 尾崎左永子 聞き手:中川佐和子
季節の歌 五月 さいとうなおこ 選
コラム うたの名言……佐佐木幸綱
エッセイ
「みじかすぎるうた」第5回…上野 誠
「かなしみの歌びとたち ―近代の感傷、現代の苦悩―」 第五回 与謝野寛と自然主義…坂井修一
「啄木ごっこ」第19回……松村正直

 

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お目当ては、「特集 「明星」創刊120年」。松平盟子様はじめ、明星研究会の皆さんがご執筆なさっています。

光太郎の本格的な文学活動の出発点となった雑誌『明星』、ということで、光太郎の名も挙げて下さっています。ただ、光太郎はその後、軸足を短歌ではなくしてしまったので、晶子や啄木、吉井勇らと異なり、「「明星」が輩出した歌人たち」の章では、項目とはなっていませんが。

グラビアページは、大阪の「さかい利晶の杜 与謝野晶子記念館」さん。平成27年(2015)のリニューアルオープンで、当方、旧与謝野晶子記念館の時代には行ったことがありますが、新装後は未踏。いずれそのうち、と思っております。

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それから、「「明星」のビジュアル・デザイン」というグラビアも。

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上記リンクの公式サイトから注文できます。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

裏の山へ植林に行くようなお気持で行つてらつしやい。

雑纂「歓送の辞――永瀬清子の「アジア諸国会議」行に―― 」全文
昭和30年(1955) 光太郎73歳

永瀬清子岡山赤磐出身の女流詩人。光太郎は詩集「諸国の天女」(昭和15年=1940)に序文を書いてやるなどしています。

「アジア諸国会議」は、正確には「アジア諸国民会議」。インドのニューデリーで開催され、植民地主義、原水爆問題など、アジアに共通する問題について意見交換する趣旨だったそうです。永瀬は「詩人」としてではなく、「婦人団体代表」ということでの参加でした。

かつて自らが留学のために洋行してから約半世紀。その頃と比べものにならないほど近くなった「外国」。そういった感覚が「裏の山へ……」という一言に表されているようです。

昨日の『毎日新聞』さん朝刊、「歌壇/俳壇」のページから。明星研究会等でお世話になっている、歌人の松平盟子氏の玉稿です。

「「明星」創刊120年 理想の火、俊秀集め=松平盟子002

 もし与謝野鉄幹という詩人が出現しなかったら。もし「明星」という文芸美術誌が鉄幹によって創刊されなかったら。歴史に「もし」はないが、そう仮定したくなるのは、二十世紀初頭を彩るこの雑誌から優れた詩人・歌人を多く輩出したからだ。与謝野晶子、石川啄木、北原白秋、吉井勇、高村光太郎。名を列挙するだけで納得されよう。
 では、なぜ「明星」にかくも俊秀たちが集まったのか。

 創刊は一九〇〇(明治三十三)年四月。ただしページ数も限られたタブロイド版で、雑誌形態に移行したのは同年九月。 ここから「明星」は飛躍的に読者を増やす。それは形態の違いによるものではなく、雑誌本体が画期的であったからだった。
 まず表紙画に読者は驚倒しただろう。瞼(まぶた)を伏せ髪を長く垂らした若い女性は乳房もあらわな半裸。しかし片手に持つ白百合が聖女の面持ちを演出し、その周囲には大小の星が輝く。フランスのポスター画家ミュシャの模倣ではあったが、まさに西洋の匂いが横溢( おういつ)する。
 次に注目すべきは鳳(のちの与謝野)晶子の歌の鮮烈さだろう。鉄幹との恋愛以前にあって、こんな歌が掲載されている。
 ・病みませるうなじに細きかひなまきて熱にかわける御口(みくち)を吸はむ
 鉄幹が多忙で発熱したと知り、ではあなたの首に腕をまき口づけして差し上げましょうの意。この大胆さは翻訳文学の影響下にあってのものだろう。「明星」は創刊号から外国文学の紹介にページを割き、留学などで欧州にある画家の滞在記が載った。西欧の美術本からの図版とおぼしき作品も数多く本誌を飾ることになる。鉄幹に宛てた晶子、山川登美子らの私信さえも掲載され、リアルタイムのSNSにも似た様相を呈する。
 重要なのは十項目余の「新詩社清規」だろう。「明星」の発行母体は東京新詩社。ゆえに同社の規則である。虚名のために詩を書かない。過去の詩歌の模倣ではなく、新しい「国詩」を目指して互いに「自我独創」の詩を楽しむべし。交情はあっても師弟の関係はなし。このような理想の火が燃やされた。
 二十世紀スタート直前。日清戦争に勝利し自己肯定感を抱く日本人は、新世紀をときめきつつ迎えようとしていた。鉄幹の野心は新時代の詩歌を「明星」で展開することにあり、その勢いと華やかさに惹(ひ)かれた若者たちが続々と集まったのである。(まつだいら・めいこ=歌人)


新詩社発行の雑誌『明星』が創刊されたのが明治33年(1900)なので、今年はちょうど120年という節目の年です。

光太郎作品が同誌に初めて載ったのは、創刊の年10月の第7号でした。この時光太郎、数え18歳でした。

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本名ではなく、「篁(たかむら)砕雨(さいう)」の号を使用しています。青年らしい気概に溢れている点など、後の口語自由詩にもつながる要素が見て取れます。ただ、留学以前の掲載作は、与謝野寛(鉄幹)の添削が激しく入り、光太郎は「自分の作とは言えない」という感覚もあったようです。

光太郎の文筆作品は、これ以前にも『東京美術学校校友会雑誌』に短歌、『読売新聞』に俳句、そして雑誌『ホトトギス』にも俳句が載りましたが、それらは単発だったり、一投稿者としての掲載だったりでしたので、光太郎の本格的文学活動の出発点は、やはりこの『明星』と言っていいでしょう。

この後、光太郎は明治40年(1907)までの間に、短歌やエッセイ、戯曲などを断続的に寄稿しています。同39年(1906)からは、留学先のニューヨークからの寄稿でした。

下記画像は明治34年(1901)1月、新詩社の「鎌倉小集」という集まりでの記念撮影。由比ヶ浜で焚き火をして20世紀の迎え火としたそうです。

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後列左端が光太郎、同じく後列右から二人目が与謝野寛、前列の右端が、光太郎の親友だった水野葉舟です。光太郎、数え19歳ですが満ですと17歳。まだ若干のあどけなさが残っていますね。

松平氏を中心とする明星研究会さんでは、毎年春に「与謝野寛・晶子を偲ぶ会」を開催されていて、今春は3月20日(金)に「明治浪漫主義の鮮やかなる狼煙~「明星」創刊120年」と題し、講演や対談が予定されていたのですが、新型コロナのために中止となってしまいました。

これも毎年、秋には研究会が持たれていますので、そのころにはコロナ騒ぎも収束し、例年通り開催できることを切に祈っております。


【折々のことば・光太郎】

三、酒を少しのむといゝ気持になります。友達と麦酒をのむのは楽しみです。
四、自然に任せて節酒などしてゐませんが、おのづから矩を踰えずです。

アンケート「名士の飲酒所感」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

「三」は「酒が身体に齎(もたら)す御体験について。」、「四」が「飲酒或は節酒に対して何か御自身で御実行になつてゐらるゝことはございませんか。」という問いへの回答です。

当方、アルコールを摂取する習慣がほぼほぼ無くなりましたが、雰囲気で酔えますので、「三」の回答には賛成します。ただし、「おのづから矩(のり)を踰(こ)えず」(『論語』からの引用で、「自分の思うがままに行動しても、正道から外れない」の意)ではない人が同席するのは勘弁こうむりたいですね(笑)。

東京都の小池知事は、新型コロナ感染予防のため、「若者はカラオケ・ライブハウス、中高年はバー・ナイトクラブなど接待を伴う飲食店を控えて」と要請しています。この状況下では仕方がないでしょう。もっとも、自粛要請など何処吹く風、の「ワーストレディー」も居るようですが。

こういう刊行物があったとは存じませんでしたが、うたごえ新聞社さん発行の『うたごえ新聞』。「にほんのうたごえ全国協議会機関誌」だそうで、昭和30年(1955)創刊とのこと。

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タブロイド判8ページ、週刊だそうで、上記は同社サイトから採らせていただきましたが、現物はモノクロ印刷です。合唱系をメインに、全国の演奏会情報や講習会などのイベント紹介、また、合唱に限らず、独唱歌曲系、器楽系、そしてうたごえ喫茶などに関する記事も載っています。

で、その3月16日号に「私とこの歌 「智恵子抄巻末のうた六首」」という記事が載っているという情報を得まして、取り寄せてみました。

「私とこの歌」は、アマチュア合唱団等で歌われている方からの寄稿のようで、今回は宮城県の医療のうたごえ合唱団セデスさんに所属されている、横田渉氏が書かれています。

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「智恵子抄巻末のうた六首」は、故・清水脩氏により、昭和39年(1964)、愛知の合唱団・東海メールクワイヤーさんの委嘱で、男声合唱曲として作曲されました。のちに混声版も出ています。題名の通り、詩集『智恵子抄』に収められた短歌六首がテキストです。

ひとむきにむしやぶりつきて為事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子
気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり
いちめんに松の花粉は浜をとび智恵子尾長のともがらとなる
わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき
この家に智恵子の息吹みちてのこりひとりめつぶる吾(あ)をいねしめず
光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき


当方、レコードやCD、それから平成24年(2012)、千葉県合唱祭で、船橋の合唱団・HGメンネルコールさんが演奏されたのを聴いたことがあります。

最近も、ぽつりぽつりと取り上げられています。
 所沢メンネルコール 第30回記念演奏会~歌は心のよろこび。
 コーロ・カンパーニャ 第7回コンサート/米津玄師さん「Lemon」。
 北海道教育大学札幌校グリークラブ・混声合唱団 OB・OG演奏会。

今後も歌い継がれていってほしいものです。

また、故・清水氏、これ以外にも、昭和30年代から、光太郎詩をテキストとしてさまざまな楽曲を作曲して下さいました。合唱(混声、男声)、独唱歌曲、箏曲など。こうした傾向も現代の作曲家さんたちに、受け継いでいっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

沢山あつて困ります。日本のを一人だけお答へしませう。
一、弟橘比売命。
二、姫の御歌をよめば理由は申上げるまでもないと思ひます。
「真嶺(さね)さし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」

アンケート「私の好きなロマンス中の女性」全文
 大正9年(1920) 光太郎38歳

アンケート設問の「一」は、「好きなロマンス中の女性」、「二」は「その好きな理由」です。

弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)は、『古事記』や『日本書紀』に登場する神話上の人物ですが、日本武尊(やまとたけるのみこと)の妻です。夫の東征に際し、現在の東京湾・馳水(はしりみず)で、暴風雨を鎮めるために、自ら生け贄となって海中に身を投じました。引用されているのはその際の辞世の歌です。

のちに光太郎芸術世界の構築のため、自ら「生け贄」となった智恵子を彷彿とさせる、というと、牽強付会に過ぎましょうか?

2本ご紹介します。まず、再放送ですが。 

偉人たちの健康診断「与謝野晶子 悩める乙女と恋の病」

NHK BSプレミアム 2020年2月13日(木) 8:00~9:00

自らの恋心を赤裸々に官能的につづり、世間を騒がせた歌人・与謝野晶子。その素顔は引っ込み思案で内気な文学少女だった。何が晶子を「情熱の歌人」に変貌させたのか?それは晶子を襲った深刻な病…「恋の病」だった。恋は人の脳にどのような影響を与えるのか?脳科学と心理学から恋の病の症状を診断。さらに鉄幹と結婚後、破綻の危機に直面した夫婦関係を劇的に改善した晶子の秘策にも迫る。愛に生きた人生を健康面から読み解く。

【出演】関根勤 カンニング竹山 光浦靖子  【解説】森下明穂 植田美津恵  【司会】渡邊あゆみ

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2月6日(木)の本放送、北原白秋や石川啄木には触れられたものの、残念ながら光太郎の名は出ませんでしたが、興味深く拝見しました。お世話になっている明星研究会の松平盟子氏もご出演。

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晶子の生涯をひもときながら、その時々の「病」を「診断」。まずは……

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妻子ある寛(鉄幹)との道ならぬ恋について。光太郎智恵子につながる部分もあるな、と思いながら観ていました。

結婚後、しばらく経つと、寛の方が……

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『みだれ髪』で時代の寵児となった晶子に対し、古くさいと言われるようになった寛。これも立場を変えると光太郎に対する智恵子の苦悩にも似ているように感じました。

そして晶子も……

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これまた智恵子にもあてはまるような。「感情を表に出すのが苦手」という部分はもろにそうでしたし、光太郎の彫刻制作を優先させるため、自分の油絵制作の時間を削っていたエピソードは「いい妻」であろうとしたということに思えます。次の「仕事や家事に手が抜けない」。油絵は完璧な作を目指し、結局、うまくいかずに完成させることができなくなってしまった智恵子。家事の部分では、それを放棄して1年のうち数ヶ月は福島の実家に帰っていたこともありました。そう考えると、自分の油絵制作の時間を削ってまで率先して家事に取り組んだ時と、大きな振幅がありますね。それがそのまま智恵子の心理状態のアンバランスさを表しているような……。

そして「弱音」。有名な「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節「東京に空が無い」「ほんとの空が見たい」「阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だ」あたりは、智恵子の遠回しの「弱音」だったように思われます。それを光太郎がどの程度、理解していたのか……。

しかし、寛と晶子、こちらは智恵子のように心の病となることはありませんでした。その契機となったのは……

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不安定になった寛をパリへと送り出し、のちに自らもその後を追った晶子。帰国後も、国内各地に旅を重ねることで、夫婦の絆が再構築されたというのです。

たしかに光太郎智恵子も、与謝野夫妻のようにしていれば、また違った結末になったでしょう。

そして寛に先立たれ、自らも死の床についた晶子。

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ここでも昭和13年(1938)、南品川ゼームス坂病院で、「昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つ」(昭和14年=1939 「レモン哀歌」)し、その生を終えた智恵子の姿がダブりました。しかし、晶子は数え65歳でそれなりに幸福な天寿を全うし、智恵子は同じく53歳で「七年の狂気は死んで終つた」(昭和15年=1940 「梅酒」)。ある意味、対照的でもあります。

というわけで、「偉人たちの健康診断」、与謝野夫妻専門の方に言わせれば突っ込みどころがいろいろあるのでしょうが、そうでもない当方、興味深く拝見しました。見逃した方、ぜひ再放送をご覧下さい。


テレビ放映情報ということになりますと、もう1件。 

聖火ロード5min.「青森 巨大ねぷたでリレーを彩る!」

NHK BS1 2020年2月10日(月)24時00分~24時05分=2月11日(火)午前0時00分~0時05分

3 月 26 日、福島県をスタートする“東京 2020 オリンピック聖火リレー”。121 日間をかけて全国 857市区町村を巡る。聖火が駆け抜ける地域は、各地を代表する魅力あふれる場所。歴史あふれる街道や、地域の営みを感じる街並み…。そんな地域色豊かな“聖火ロード”を、聖火を迎える各地の動きとともに、47都道府県ごとに5分間で紹介。

スタートは弘前城▽東北で唯一の江戸時代から残る天守閣▽ブナの原生林が広がる白神山地の玄関口の西目屋村も▽五所川原では立佞武多の館で歓迎式典▽高校生もお囃子でお出迎え▽さらに十和田湖湖畔を巡り▽八戸市館鼻漁港の朝市にも!

出演 泉浩  語り 満仲由紀子

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昨秋から断続的に放映されている5分間番組です。

東京オリンピックの聖火リレー、青森県内では十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」から、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」までもコースに入っています。まぁ、5分間番組ですし、サブタイトルが「ねぷた」ですので、十和田湖がどの程度紹介されるか、というところですが、ぜひご覧下さい。ちなみに2月12日(水)24:00~(=2月13日(木)午前0時00分~)は岩手編だそうです。


【折々のことば・光太郎】

通俗的に云つて「職人気質」と云つた気風を極度に持つてゐたやうで、その気分からの潔白さが父の人格に漲つて居るやうに思ひます。今の芸術家に見出せないやうな神経質な潔白さです。

談話筆記「恵まれたる優生遺伝の名家」より
 大正11年(1922) 光太郎40歳

光太郎、作品の芸術性といった点に於いてはあまり高い評価ができないと感じていた父・光雲に対し、その人格という部分ではこのように捉えていました。

都内から書道展の情報です。 

幕末・明治 偉人の書展

期 日 : 2020年2月12日(水)~2月18日(火)
会 場 : 小田急百貨店新宿店 本館10階 美術画廊・アートサロン
       東京都新宿区西新宿1丁目1番3号
時 間 : 朝10時→夜8時 最終日は午後4時30分まで
料 金 : 無料

幕末・明治期にスポットを当て、墨蹟の中でも大変人気が高く入手困難な西郷隆盛をはじめ、いま話題の渋澤栄一や、激動の時代を駆け抜けた維新の志士たちの遺墨を一堂に展示販売いたします。
また、夏目漱石、樋口一葉など同時代の文士の書も併せて展覧いたします。
歴史上の偉人たちの人柄そのものといえる書の魅力を、より身近に感じていただける、またとない機会となります。

《出品予定作家》
西郷隆盛、徳川慶喜、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、福澤諭吉、伊藤博文、渋澤栄一、正岡子規、夏目漱石、樋口一葉、高村光太郎、与謝野晶子 他(順不同・敬称略)


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問い合わせたところ、光太郎の作品は、明治39年(1906)、留学のため横浜港を出航したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアンの船上で詠んだ短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」をしたためた色紙(?)とのことでした。当会の祖・草野心平の鑑がついているそうです。

短歌自体は明治39年(1906)の作で、翌年元日発行の雑誌『明星』未歳第1号に掲載されましたが、この短歌、のちのちまで求められて揮毫した例が多く、この情報だけだといつ頃書かれたものかは不明です。

昭和4年(1929)9月1日発行の雑誌『キング』(大日本雄弁会講談社)第5巻第9号には、「ある日の日記(抄)」という文章が載っており(『高村光太郎全集』には漏れていたものです)、この短歌に関し、次のように述べています。

 某社の依頼により自作短歌の中より五十首を選む。二十年来詠みすてし短歌の数はかなりの量に上るべきなれど、その都度書きとめもせざれば多く忘れ果てたり。記憶に存するものの中(うち)稍収録に堪ふと認むるものをともかくも五十首だけ書きつく。
 海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
といふ単純幼稚なる感慨歌は一九〇七年渡米の際、太平洋上の暴風雨中に作りし歌なれば完全に二十年前のものなり。此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屢〻揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。


一九〇七」とあるのは光太郎の記憶違いです。「某社」は改造社。この月発行された『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に関わります。同書には「海にして…」を筆頭に、明治末から大正13年(1924)までの短歌44首と、簡略な自伝が掲載されています。

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此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屢〻揮007毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。」そう言ってしまったら、身も蓋もないような気がしますが(笑)、実際、この歌の揮毫は多数現存します。当方も短冊を一点持っています(右画像)。

『明星』での発表形、初句は「海にして」ではなく「海を観て」となっていました。当方の短冊もそうなっています(ひらがなで「みて」ですが)。それが明治43年(1910)の雑誌『創作』に再録された際には「海にして」と改められており、明治42年(1909)に留学から帰国した後、改訂するまでの間の揮毫と思われます。光太郎の父・光雲の弟子であった故・小林三郎氏の旧蔵で小林氏のご息女(この方も亡くなっています)からいただきました。


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ちなみにこちらが光太郎が乗り、船上でこの短歌を詠んだアセニアン。香港~バンクーバーをつないでいた貨客船で、光太郎は横浜から乗船しました。スペルは「ATHENIAN」。光太郎の書いたものでは「アゼニヤン」となっていますが、現在では「アセニアン」と表記するのが一般的なようです。総排水量3,882トン、外洋を航海する船としては、小さなものでした。

さて、小田急百貨店さんの「幕末・明治 偉人の書展」。光太郎以外にも、光太郎の姉貴分・与謝野晶子の書なども展示されます。ご都合の付く方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

人間が一番求めてゐる事は清らかな美であつて、さまざまな望みが満たされた上にも、結局は此処に来るのだと思ふ。

談話筆記「令嬢の美しさと女優の美しさ」より
大正8年(1919) 光太郎37歳

ゴテゴテと塗りつけた化粧はNG、という話の流れからの発言です。いかにも「自然」を尊ぶ光太郎、ですね。

光太郎の本格的な文学活動の出発点、『明星』における光太郎の師・与謝野晶子をメインとしたテレビ番組です。 

偉人たちの健康診断「与謝野晶子 悩める乙女と恋の病」

NHK BSプレミアム 2020年2月6日(木) 20:00~21:00  再放送 2月13日(木) 8:00~9:00

自らの恋心を赤裸々に官能的につづり、世間を騒がせた歌人・与謝野晶子。その素顔は引っ込み思案で内気な文学少女だった。何が晶子を「情熱の歌人」に変貌させたのか?それは晶子を襲った深刻な病…「恋の病」だった。恋は人の脳にどのような影響を与えるのか?脳科学と心理学から恋の病の症状を診断。さらに鉄幹と結婚後、破綻の危機に直面した夫婦関係を劇的に改善した晶子の秘策にも迫る。愛に生きた人生を健康面から読み解く。

【出演】関根勤 カンニング竹山 光浦靖子  【解説】森下明穂 植田美津恵  【司会】渡邊あゆみ


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この番組では、昨年、「東京に空が無い “智恵子抄”心と体のSOS」ということで、光太郎智恵子を取り上げて下さいました。智恵子が色覚異常だったと断定してしまった部分は納得が行きませんでしたが、それ以外はおおむね首肯できる内容でした。

今回は、「恋の病」に苦しんだ晶子だそうで、これもまた面白そうです。ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

人間の世にはいつの時でも水底に立つ者と、水面に動く者とが居た様です。水の意味を真に感ずる者は、言ふ迄もなく水底に立脚地を持つ者のみの事であります。水面に動く者の喜怒哀楽はすべて泡沫のように無駄です。水底に立つ者の心は直ちに水の本体と関係します。

散文「〔イェルゲンセン「癩病患者に与へる接吻」訳にそへて〕」より 
大正5年(1916) 光太郎34歳

「水面に動く者」=「目立つ場所、スポットライトの当たる場所で軽佻浮薄な活動にうつつを抜かし、世間の評価に一喜一憂する者」、「水底に立つ者」=「目立たぬ場所で己を空しゅうし、全体の利益を考えて慎重に行動する者」といったところでしょうか。

光太郎自身は自分を「水底に立つ者」と定義し、経営的にはまるで成り立たなかった画廊「琅玕洞」などの活動がそれに当たるとしています。

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