コロナ禍となって以後はオンライン限定でした明星研究会さんのシンポジウム。久しぶりに対面方式も復活(web上でも)ということで、自宅兼事務所がZOOM対応になっていませんので、ここぞとばかりに参加いたしました。
今回メインで取り上げられたのは平出修。光太郎より5歳上の明治11年(1878)、新潟の生まれ。筆名は「露花」。光太郎と同じ頃、与謝野夫妻の新詩社に加わり、明治41年(1908)に『明星』が終刊となると、翌年発刊されたその系譜を継ぐ『スバル』の編集等にあたりました。
横浜の神奈川近代文学館さんには、木下杢太郎に宛てられた書簡がごっそり所蔵されており、その中に『スバル』としての明治44年(1911)の年賀状が含まれています。
本文は印刷で、文面はこれだけですが、なぜか光太郎のが筆頭で、発行名義人だった江南の名が三番目(前年までの江南の前の発行名義人は石川啄木でした)、最後に平出の名も。
明治44年(1911)といえば、幸徳秋水・管野スガ等の大逆事件。平出は弁護士でもあり、被告の弁護にあたりました。
平出の令孫・洸氏は、明星研究会さんの世話役も務められた方でしたが、今年亡くなったそうで、昨日はその追悼を兼ねてのシンポジウムでした。
ご発表はお三方。
まず、中川滋氏。やはり平出令孫で、洸氏の従兄弟にあたられます。
血縁の方ということで、平出の系譜、没後の顕彰活動などについてのお話でした。
お二人目が明治大学教授・池田功氏。
大逆事件のアウトライン、啄木は社会主義的思想に興味を持っていましたし、平出との関係もあり、この事件には非常に関心が高かったこと、事件を描いた平出の小説三編についてなど。
最後に会の中心人物・松平盟子氏。
管野スガが晶子の短歌を激賞していたこと、スガ自身も晶子ばりの短歌を詠んでいたこと、収監後に平出が『スバル』や晶子の歌集を差し入れたりしたこと等々。
ご発表と並行し、晶子の短歌や、瀬戸内寂聴の小説『遠い声 管野須賀子』の一節を、ゲストの津田真澄氏(劇団青年座)が朗読なさいました。
それぞれのご発表、特に新事実の披露等を含むと言うわけでは無かったようですが、平出や晶子、啄木についてそれほど詳しいわけではない当方としては、「そうだったのか」の連続で、実に興味深いものでした。
ちなみに光太郎と平出。先述の年賀状以外の関わりとしては、明治38年(1905)に光太郎から平出に宛てた書簡が一通知られています。
しばらく御無沙汰いたし居り候処益々御清福の段奉賀候 このたび御転居の御由御祝申上候 談論の筆も此より愈々麹町式の権威に神田式の辛辣を加ふべき事と存上候 失礼ながらはがきにて御移転御祝まで。
この転居に伴い、平出は自宅に法律事務所を開いたそうです。
光太郎と平出が共に写った写真が二葉確認出来ています。
明治37年(1904)、新詩社小集での集合写真です。後列ののっぽが光太郎、その右下が平出、その右隣には鉄幹がどんと構えています。
これより前、明治34年(1901)のショット。
投稿雑誌『文庫』(内外出版協会)が百号発行を記念し、上野の韻松亭で投書家の集まり「春期松風会」を催した際の集合写真。総勢約80人、前から六列目の左端が光太郎です。ただ、平出は写っていることはわかっていますが、何処にいるのか当方には判りません。他にも窪田空穂や水野葉舟、横瀬夜雨、伊良子清白、河合酔茗などが写っているとのことです。
そして平出は大正3年(1914)、数え37歳で骨腫瘍のため早世。光太郎はその三日前に書いた詩「瀕死の人に与ふ」で平出を謳いました。この詩は雑誌『我等』に発表され、この年刊行された光太郎第一詩集『道程』にも収められました。
瀕死の人に与ふ
けっこうな長詩ですが、それだけに理不尽な死に対する怒りがよく表されています。
話があちこちに飛びますが、光太郎、大逆事件に関してはほとんど沈黙していました。僅かに事件をモチーフとした木下杢太郎の「和泉屋染物店」を面白いとした程度です。『高村光太郎全集』に、幸徳やスガの名は出て来ません。
しかし、『平民新聞』を購読し、後には幸徳の系譜に連なる大杉栄等のシンパに近い立場にもなった光太郎、何も感じていなかったわけがありません。
その答は最晩年、当会顧問であらせられた故・北川先生が残された「高村光太郎聞き書」に。
洋行から帰ってきても、その問題にぶつかったな。はじめっから終りまで、それはあった。それで非常に困っちゃって、どうしても最後にはその壁にぶつかる。われわれは考えないでいるよりしょうがないと思った。
その方にとび込めば相当猛烈にやる方だからつかまってしまう。しかし自分には彫刻という天職がある。なにしろ彫刻が作りたい。その彫刻がつかまれば出来なくなってしまう。彫刻と天秤にかけたわけだ。
狡いといえば狡い考え方ですが、ある意味、仕方がなかったかも知れません。
こういう社会と無縁に芸術精進、という生活が、後の智恵子の悲劇にも繋がったわけで、智恵子が病んでからはそれを是とせず180度方向転換。自ら積極的に世の中と関わろうとします。ところがその世の中の方が15年戦争でおかしな方向に進んでしまっていたわけで、それに加担した光太郎、最大の過ちでした。
閑話休題、幸徳やスガ、そして平出修。これからも語り継がれていって欲しいものです。
【折々のことば・光太郎】
今朝スバルの阿部三夫さんが友達と一緒に来訪。お名刺の紹介と委託のビール五本とを拝受しました。早速三人でビール三本をいただき、時ならぬ山の会飲をいたしました。阿部氏は自作詩朗読、尚浜離宮での写真も拝見しました。
「スバル」は戦後の第三次。与謝野夫妻の長男・光や吉井勇の勧奨で始められ、晶子の衣鉢を継いだ中原が主宰でした。光太郎はその題字を手がけた他、寄稿も多数行いました。
今年、花巻市に中原令孫から寄贈された大量の光太郎関連史料の中に、この書簡や「スバル」への寄稿原稿も含まれていました。