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信州安曇野の碌山(ろくざん)美術館でのイベントです。4/2の高村光太郎連翹忌にて、チラシを戴きました。
 
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4月22日(月)は、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の命日、碌山忌です。
 
昨年も行った参りましたが、午後から地元の方々によるコンサート、16:00から守衛の墓参があります。そして17:00から研究発表とのことで同館学芸員補・濱田卓二氏による「荻原守衛と片岡当(まさ)の交友-岡山の女(ひと)にて予の最親友なり」があります。
 
その後は「碌山を偲ぶ会」。懇親会のようなものだと思います。昨年はこちらには参加しませんでしたが、今年は参加しようと思っています。
 
22日の碌山忌に先立ち、前日の21日(日)には「碌山忌記念講演会」というわけで、光太郎の令甥・髙村規氏による「伯父 高村光太郎の思い出」があります。
 
2泊してついでに近くにある光太郎とも縁の深い人々の記念館等も回ってこようと思っています。
 
皆様もぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】4月8日

昭和20年(1945)の今日、雑誌『週刊少国民』に詩「神潮特別攻撃隊」を発表しました。

光太郎、上高地から下山(大正2年=1913 10月)してすぐ(同12月)、次の詩を発表します。
 
   
 
 山の重さが私を攻め囲んだ
 私は大地のそそり立つ力をこころに握りしめて
 山に向かつた010
 山はみじろぎもしない
 山は四方から森厳な静寂をこんこんと噴き出した
 たまらない恐怖に
 私の魂は満ちた
 ととつ、とつ、ととつ、とつ、と
 底の方から脈うち始めた私の全意識は
 忽ちまつぱだかの山脈に押し返した
 「無窮」の力をたたへろ
 「無窮」の生命をたたへろ
 私は山だ
 私は空だ
 又あの狂つた種牛だ
 又あの流れる水だ
 私の心は山脈のあらゆる隅隅をひたして
 其処に満ちた
 みちはじけた
 山はからだをのして波うち
 際限のない虚空の中へはるかに
 又ほがらかに
 ひびき渡つた
 秋の日光は一ぱいにかがやき
 私は耳に天空のカの勝鬨をきいた
 山にあふれた血と肉のよろこび!
 底にほほゑむ自然の慈愛!
 私はすべてを抱いた
 涙がながれた
 (『高村光太郎全集』第2巻)
 
智恵子との婚約を果たし、高揚した気分が伝わってきます。
 
上高地の夢のような日々は、光太郎にとって智恵子とのかけがえのない思い出となったようです。昭和16年(1941)に刊行された詩集『智恵子抄』には、上高地がらみの詩が三篇採られています。
 
まずは智恵子との幸福な日々を思い返した一篇。大正14年(1925)の作です。
 
   狂奔する牛
 
 ああ、あなたがそんなにおびえるのは
 今のあれを見たのですね。
 まるで通り魔のやうに、
 この深山のまきの林をとどろかして、
 この深い寂寞の境にあんな雪崩をまき起して、
 今はもうどこかへ往つてしまつた011
 あの狂奔する牛の群を。
 今日はもう止しませう、
 画きかけてゐたあの穂高の三角の尾根に
 もうテル ヴエルトの雲が出ました。
 槍の氷を溶かして来る
 あのセルリヤンの梓川に
 もう山山がかぶさりました。
 谷の白楊が遠く風になびいてゐます。
 今日はもう画くのを止して
 この人跡たえた神苑をけがさぬほどに
 又好きな焚火をしませう。
 天然がきれいに掃き清めたこの苔の上に
 あなたもしづかにおすわりなさい。
 あなたがそんなにおびえるのは
 どつと逃げる牝牛の群を追ひかけて
 ものおそろしくも息せき切つた、
 血まみれの、若い、あの変貌した牡牛をみたからですね。
 けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を
 いつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう、
 もつと多くの事をこの身に知つて、
 いつかは静かな愛にほほゑみながら――
 (『高村光太郎全集』第2巻)

続いて、智恵子が歿する直前、昭和13年(1938)の10月に発表された一篇。

   或る日の記
 
 水墨の横ものを描きをへて
 その乾くのを待ちながら立つてみて居る
 上高地から見た前穂高の岩の幔幕
 墨のにじんだ明神岳岳のピラミツド012
 作品は時空を滅する
 私の顔に天上から霧がふきつけ
 私の精神に些かの條件反射のあともない
 乾いた唐紙はたちまち風にふかれて
 このお化屋敷の板の間に波をうつ
 私はそれを巻いて小包につくらうとする
 一切の苦難は心にめざめ
 一切の悲歎は身うちにかへる
 智恵子狂ひて既に六年
 生活の試練鬢髪為に白い
 私は手を休めて荷造りの新聞に見入る
 そこにあるのは写真であつた
 そそり立つ廬山に向つて無言に並ぶ野砲の列
 (『高村光太郎全集』第2巻)

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この前年には廬溝橋事件が起こり、日中戦争に突入しています。終末の三行はその辺りを指しています。

して、智恵子の臨終を謳った絶唱。

   レモン哀歌
 
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた013
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう
 (『高村光太郎全集』第2巻)
 
この「山巓」は上高地を指す、というのがもっぱらの解釈です。泣けますね。
 
しかし、厳しい見方をすれば、ここで上高地を連想しているのはあくまで光太郎であって、いまわの際の、しかも既に夢幻界の住人だった智恵子がどうだったかはわかりません。
 
以上、長々と上高地がらみで書きましたが、とりあえず終わります。
 
【今日は何の日・光太郎】1月14日

昭和25年(1950)の今日、盛岡少年刑務所で講演しました。

これを記念して毎年7月に同刑務所で高村光太郎祭が開かれています。

昨日から引き続き、上高地での光太郎智恵子を追いかけます。
 
智恵子没後の昭和15年(1940)に光太郎が書いた「智恵子の半生」(『高村光太郎全集』第9巻)から。
 
大正二年八月九月の二箇月間私は信州上高地の清水屋に滞在して、その秋神田ヴイナス 倶楽部で岸田劉生君や木村荘八君等と共に開いた生活社の展覧会の油絵を数十枚画いた。其の頃上高地に行く人は皆島々から岩魚止を経て徳本峠を越えたもので、かなりの道のりであつた。その夏同宿には窪田空穂氏や、茨木猪之吉氏も居られ、又丁度穂高登山に来られたウエストン夫妻も居られた。九月に入つてから彼女が画の道具を持つて私を訪ねて来た。その知らせをうけた日、私は徳本峠を越えて岩魚止まで彼女を迎えに行つた。彼女は案内者に荷物を任せて身軽に登つて来た。山の人もその健脚に驚いてゐた。私は又徳本峠を一緒に越えて彼女を清水屋に案内した。上高地の風光に接した彼女の喜は実に大きかつた。
 
テレビ放送「絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」」で、俳優の小野寺昭さん一行も苦労していた約20㎞の山道を、智恵子は身軽に登って来たそうです。「恋」する女のパワーでしょうか。
 
それから毎日私が二人分の画の道具を肩にかけて写生に歩きまはつた。彼女は其の頃肋膜を少し痛めているらしかつたが山に居る間はどうやら大した事にもならなかつた。彼女の作画はこの時始めて見た。かなり主観的な自然の見方で一種の特色があり、大成すれば面白からうと思つた。私は穂高、明神、焼岳、霞沢、六百岳、梓川と触目を悉く画いた。彼女は其の時私の画いた自画像の一枚を後年病臥中でも見てゐた。その時ウエストンから彼女の事を妹さんか、夫人かと問はれた。友達ですと答へたら苦笑してゐた。
 
「ウエストン」はウォルター・ウェストン。イギリス人宣教師で、「趣味としての登山」という概念を日本にもたらした人です。上高地にある彼のレリーフをご存じの方も多いでしょう。
 
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光太郎画 木立と山(上高地風景) 大正2年(1913)
 
光太郎と智恵子が上高地で夢のような日々を送っていた時、下界ではちょっとした騒ぎが巻き起こりました。写真週刊誌ならぬ『東京日日新聞』に、次の記事が載ったのです。
 
美くしい山上の恋 洋画家連口アングリ
 
信州鎗ヶ岳の麓の上高地温泉、此附近には文士の窪田空穂氏や美術学校の生徒などがゐる、或日の事此美術家の群が遊びにいつて麓の道を見下してゐると一人の美人が二人の強力に荷物を背負はせ乍ら登つてくる、其姿がいかにもいたいけである、どこからどこへこの美人はゆくのであらう、近くなつたら手を引いてやつて山中には珍らしい美人から感謝の言葉を戴かうと思つてゐると今度は山上から一人の青年が強力を連れてとぼとぼと下りてくる、と下から美人、上から青年、ハタと視線が合うと握手して手を引き乍ら俄に元気づいて温泉の方へ向つて上つていつた。美術家連は唖然として狐につまゝれたよう、此男女こそは誰あらう彫刻家の泰斗高村光雲氏の息高村光太郎氏と青鞜社員で女流洋画家の長沼智恵子である。二人が相愛の仲は久しいもので今では「別居結婚」をしてゐる仲ぢやもの、二人して日本アルプスの大景に接し乍ら文展の製作を急がうと、その企てから智恵子が早く滞在してゐる、光太郎氏を訪ふたものと知れた――と岡焼からの便りがあつた。

寄稿したのは、上高地清水屋旅館で同宿だった歌人・窪田空穂と推定されています。窪田、自分で「文士の窪田空穂氏や美術学校の生徒などがゐる」などと書き、執筆者がわからないような細工をしましたが。

光太郎は「智恵子の半生」で次のように書きます。
 
当時東京の或新聞に「山上の恋」といふ見出しで上高地に於ける二人の事が誇張されて書かれた。多分下山した人の噂話を種にしたものであらう。それが又家族の人達の神経を痛めさせた。(中略)
 それ以来私の両親はひどく心配した。私は母に実にすまないと思った。父や母の夢は皆破れた。 所謂 (いはゆる ) 洋行帰りを利用して彫刻界へ押し出す事もせず、学校の先生をすすめても断り、然るべき江戸前のお嫁さんも貰はず、まるで了見が分らない事になつてしまつた。実にすまないと思つたが、結局大正三年に智恵子との結婚を許してもらうように両親に申出た。両親も許してくれた。
 
結局はこの記事が決め手の一つになり、二人は結婚するわけで、何が功を奏するかわかりませんね。
 
この上高地での記憶は、光太郎にとって忘れがたいものだったようで、後々まで詩の中にくり返し謳われます。明日はそのあたりを。
 
【今日は何の日・光太郎】1月13日

明治17年(1884)の今日、光太郎の祖母、すぎが歿しています。

昨夜、1/8のブログで紹介したテレビ番組「絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」」。を観ました。
 
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戦前の絵葉書 日本アルプス上高地 徳本峠
 
大正2年(1913)7月から10月にかけ、光太郎は上高地の清水屋に滞在。9月には智恵子も来て、一緒に画を描いたそうです。光太郎の絵はこの年10月に神田三崎町のヴヰナス倶楽部で開かれた生活社主催の展覧会に出品されました。
 
二人で下山したのが10月8日。二人が結婚披露宴を行ったのは翌大正3年(1914)ですので、婚前旅行です。やるなぁ、という感じですね。光太郎と智恵子、上高地で結婚の約束を結んだとのことです。
 
さて、番組ですが、俳優の小野寺昭さんとイラストレーターの中村みつをさんが、山岳ガイドの方の案内で、麓の島々から徳本峠を経由、上高地までの約20㎞の山道を歩くというものでした。
 
番組冒頭近く、上高地の歴史を紹介するあたりで、光太郎・智恵子もここを歩いたとの説明がありました。二人にふれるのはこれだけかな、と、ちょっとがっかりしましたが、さにあらず。途中の岩魚止でかつて営業していた山小屋での小休止の際、かたわらに立つ桂の巨木にからめ、光太郎・智恵子と上高地について約3分間、紹介がありました。
 
光太郎も智恵子も、見事に色づいた上高地の桂の木について書き残しています。番組では下記の二人の文筆作品を紹介していました。よく調べているな、と感心しました。ただし、「歌人の高村光太郎」と言っていたのはいただけません。
 
光太郎
徳本峠の山ふところを埋めていた桂の木の黄葉の立派さは忘れがたい。彼女もよくそれを思い出して語った。
「智恵子の半生」昭和15年(1940) 『高村光太郎全集』第9巻
 
智恵子
絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波うつ深山の桂の木。清らかに美しく、強くやさしい魂への、最後の思慕愛執も、いつか溢るゝ感謝となり、愛の個性は姿を消し。
「病間雑記」大正12年(1923) 『高村光太郎全集』別巻
 
他にも光太郎、智恵子と上高地については、いろいろとありますので、明日はその辺を。
 
【今日は何の日・光太郎】1月12日

昭和21年(1946)の今日、宮澤賢治の弟・清六を介し、花巻町役場より戦災見舞金80円を受け取っています。

昨日、智恵子も関わった雑誌『青鞜』に関する朝日新聞の報道を御紹介しました。
 
今回、『青鞜』をまとめて入手、公開したのはNPO法人平塚らいてうの会さんです。
 
同会は、女性の自立、平和・協同・自然を愛したらいてうの志を受け継ぎ、その顕彰活動を行っている団体です。
 
本部は東京小石川ですが、同会が運営する「らいてうの家」という記念館が、長野県上田市にあります。
 
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上田といっても、旧真田町(かの真田家の故地です)だった区域で菅平に近い四阿(あずまや)高原という、雪深いところです。したがって11月中旬から4月中旬までは冬期間閉鎖の措置になっています。
 
当方、一昨年の秋にお邪魔いたしました。一昨年は『青鞜』創刊100周年という節目の年で、そのあたりに的を絞った展示-智恵子にもふれる-がなされていたためです。実は上田は当方父祖の地で、祖父母が存命中にはよく行っていました。ただ、父祖の地は同じ上田でも別所温泉に近い塩田平という地区で、少し離れています。
 
さて、千葉から自家用車で行くか、公共交通機関で行くか迷ったのですが、久しぶりにローカル列車の別所電鉄にも乗ってみたいなと思いましたので、結局公共交通機関を利用しました。らいてうの家に行くには上田駅から路線バスのつもりでした。ところが上田駅に着いて、バス停でいくら探しても四阿高原行きがありません。観光案内所で訊いたところ、やはり四阿高原方面のバスは存在しない、とのこと。仕方なくタクシーで行きましたが、山道を30分以上、かなりの料金でした。次に行く時は自家用車で行こうと思いました。
 
さて、ようやくたどり着くと、針葉樹の森に囲まれたコテージ風の小さな建物。エントランスには智恵子がデザインした『青鞜』創刊号の表紙を用いた大きなガラス絵。いい感じです。
 
光太郎顕彰活動をしている者である旨をお伝えすると、歓待していただきました。昨日も御紹介した折井美耶子氏はじめ、スタッフの方が細かく展示の説明をしてくださいました。らいてうの遺品、『青鞜』関連の資料の数々など、非常に興味深く拝見しました。今回入手された『青鞜』もこちらに収蔵されるのではないのでしょうか。
 
さらには、「私たちはこれからお昼ご飯なんですが、よろしかったらご一緒にどうぞ」と、ご馳走になってしまいました。秋と言うことで栗ご飯やら、郷土料理やら、非常にありがたくいただきました。
 
ここでしか手に入らない智恵子デザインの『青鞜』表紙絵をあしらったクリアファイル、一筆箋、それかららいてう関連の書籍を買い求め、その後は上田駅前に一泊。祖父母と伯父の墓参をし、別所温泉に浸かって帰りました。
 
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らいてうの家、交通の便は良くありませんが、非常にいいところです。すぐ近くにリゾートホテルもありますので、そちらを予約して行かれるのもいいかと思います。ぜひ足をお運び下さい。ただし、先述の通り11月中旬から4月中旬までは冬期間閉鎖。今は開いていません。また、東京本部の方でも、いろいろとイベント等を開催しています。
 
【今日は何の日・光太郎】1月11日

昭和20年(1945)の今日、光太郎の弟、道利が防空壕に転落した事故が元で歿しま

近々放映されるテレビ番組の情報です。 

BSフジ・181 2013年1月11日(金) 22時00分~22時55分 
 
小野寺昭が、秋と冬の二つの季節を感じられる徳本峠へ!そこには奇跡の絶景が…。

番組内容
徳本峠と書いて、とくごうとうげ、と読む。そう答えられる人は、相応の登山のキャリアがある方かもしれない。この峠は標高2135メートル、北アルプスの南部、百名山の穂高連峰を望む稜線の途中にあり、まさに知る人ぞ知るといった山深き場所。だが車道が開通する以前は、日本有数の観光名所・上高地へ至るメインルートでもあった。この峠を通過するルートは「徳本峠越え」と呼ばれ、かつては芥川龍之介、高村光太郎・智恵子夫妻など、多くの著名人も足跡を印していた。そして何よりも、明治中期、ウオルター・ウェストン、上條嘉門次らによる近代登山の幕開けを告げた、歴史的な道であったことを忘れてはならない。そうした背景から登山者の間では、“一度は登っておきたい道"とさえ言われている。今回、その古典的ルートをゆくのは、番組ナレーター・小野寺昭。しかし上高地までは、山麓の宿場からなんと20キロに及ぶ長き道。そこで小野寺は、自著のイラストも手掛け、登山家でもある画家の中村みつをさんにパートナーを依頼。さらにこの道を知り尽くした地元ガイド石塚聡実氏も加わり、このロングルートにチャレンジ。  季節は、登山口が秋、峠が冬という厳しい時期。想像以上の苦しい登山となりながらも、アルプスの黎明期を彩った人々の息使いを感じながら2日間を歩きとおした。 そこで出会ったのは、赤と白、二つの季節がひとつのフレームに同居する、この時期だけの奇跡の絶景だった…。

出演者 ナレーター:小野寺昭

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どの程度、光太郎・智恵子に触れるのか、何とも言えませんが……。光太郎・智恵子と上高地についても、いずれ機会を見つけてこのブログで書こうと思っています。
 
それから、有料のCS放送で3件。すべて昨年にも放映されたものですが、またオンエアがあります。

2013/01/11(金)18:00~20:15 【衛星劇場】 松竹映画「智恵子抄」
2013/01/13(日)4:00~5:00 【フジテレビONE】もっと温泉に行こう! #38「花巻編」
2013/01/13(日)8:00~8:30 【旅チャンネル】山崎まゆみの混浴秘湯めぐり Part2 #1 青森・酸ヶ湯温泉
 
松竹の「智恵子抄」は暮れに集中的に何回かオンエアされましたが、とりあえず1/11で一旦途切れるようです。
 
「もっと温泉に行こう!」と「山崎まゆみの……」は、昨年、たまたまスカパー!無料キャンペーンの日に放送されたので、当方、見ることができました。けっこう繰り返し何度も放映されていますが、通常は有料で、契約していないと見られません。
 
【今日は何の日・光太郎】1月8日

昭和29年(1954)の今日、赤坂の料亭・山の茶屋で佐藤春夫、田村剛、谷口吉郎、安部能成と対談「自然の中の芸術」を行いました。
 
十和田湖畔の裸婦像をめぐる座談会で、雑誌初出は同年3月1日発行の『心』第7巻第3号。文治堂書店刊行の『高村光太郎資料』第3巻に収められています。
 
『高村光太郎全集』では1対1の対談は網羅されていますが、3人以上での座談は収録されていません。文治堂さんの『高村光太郎資料』第3巻および当方編集の「光太郎遺珠」がそれを補っています。

大正8年(1919)9月15日、長野県は善光寺さんで、明治24年(1891)の大火で焼失した仁王像に代わる新しく作られた仁王像の開眼供養が行われました。
 
阿形・吽形、ともに高さ一丈六尺、いわゆる「丈六」です。現在の単位に直せば4.84848485 メートル。ただ、実際には台座を含めるともう少し高いようです。あまりに巨大すぎて、東京から長野までの運搬のため、特別に無蓋貨車をあつらえたという話も伝わっています。材は木曾檜だそうです。この仁王像の作者が、光雲と米原雲海です。
 
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同じ仁王門の、仁王像の裏側にも光雲・雲海合作の三宝荒神、三面大黒天が据えられています。こちらは一回り小さいものですが、それでも七尺五寸(2.27272727 メートル)です。
 
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ちなみに上の画像はすべて大正8年(1919)の開眼供養記念の絵葉書です。
 
これら四体の像は、今も善光寺を訪れる善男善女を迎えてくれています。当方も昨年の暮、家族旅行で立ち寄りました。ブロンズの銅像とはまた違う、木の温かみが感じられるものです。
 
お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください。

4/22(日)、信州穂高の碌山美術館さんで開催された碌山忌に行って参りました。
 
碌山(ろくざん)とは、光太郎と交流のあった彫刻家、荻原守衛(明12=1879~同43=1910)の号。守衛と光太郎はお互いが留学中だった明治末にニューヨークで知り合い、その後光太郎が移り住んだロンドンやパリでも交流を深めました。お互いの帰国後も、手を携え、古い日本彫刻界に新風を送り込む役割を果たしたのです。しかし、守衛は数え32歳の若さで夭折。現在残っている彫刻は15点だけだそうです。それでも古い日本彫刻界に新風を送り込んだ功績は大きく、彼の絶作「女」は国の重要文化財に認定されています。
 
碌山美術館さんはそんな守衛の功績を後世に残すべく、碌山の故郷、信州穂高に昭和33年に開館しました。碌山作品の他、光太郎の作品もたくさん展示されていますし、何度も光太郎に関わる企画展を開催、現在も学芸員の方が我が連翹忌に欠かさず参加して下さっています。
 
さて、4月22日は守衛の命日、碌山忌ということで、行って参りました。4月も中旬ということで、関東ではとっくに桜は散っていましたが、信州はまさに満開の時期でした。
 
当方が着いたのは昼前で、まずは守衛の墓参。美術館自体はたしか4回目の訪問でしたが、守衛の墓は初めて行きました。館から車で10分ほどだったでしょうか。館の方に送っていただきました。やはり守衛と交流のあった画家、中村不折(太平洋画会での智恵子の師でもあります)の筆で墓碑銘が書かれていました。光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。
 
その後は美術館に戻り、館内の見学と、碌山忌コンサート。高村光太郎研究会の会員で、「雨男 高村光太郎」の著者、西浦基さんも大阪から駆けつけていました。

 
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15:00から新宿中村屋CSR広報室長・吉岡修一氏の講演「新宿中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光の商人道と中村屋サロン」を聴きました。新宿中村屋を創業した相馬愛蔵(明3=1870~昭29=1954)も穂高の出身。同郷の守衛をはじめ、多くの文化人が店に出入りし、「中村屋サロン」が形成されました。守衛の生前には光太郎もしばしば訪れたということで、現在でも光太郎の描いた油絵「自画像」が中村屋に残っています。しかし、吉岡氏曰く、あちこちの企画展等への貸し出しが非常に多く、光太郎は「中村屋一出張の多い男」だそうです(笑)。
 
続いて、学芸員の武井敏氏による研究発表「相馬黒光の追憶」。かつて光太郎も真壁仁との対談(昭和27年=1952 3月30日放送『全集』第11巻)で出演したNHKのラジオ番組「朝の訪問」で、相馬愛三の妻、黒光が出演した回の録音を聴かせていただきましたが、残念ながら、列車の時間があり、途中で退出いたしました。
 
碌山美術館では立派な研究紀要なども発行され、研究の拠点としての役割も果たしています。西浦さんとも話しましたが、光太郎顕彰にもこういう拠点があれば……というのが正直な感想です。
それを抜きにしても、碌山美術館、とてもいいところです。昨年度のNHK連続テレビ小説「おひさま」の舞台になった安曇野、他にも見所がたくさんあります。ぜひお越し下さい。

碌山美術館と周辺での光太郎スポット

碌山館……レンガ作りの重厚な建物。守衛の彫刻作品を収めています。入口の壁には、「碌山の芸術を守り支えた先人の名を刻む」という石のプレートがはめ込まれており、守衛を援助した黒光、実兄・荻原本十、友人の戸張孤雁と光太郎の四人の名が刻まれています。

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第一展示棟……守衛の友人や系譜につながる彫刻家、画家の作品が展示されています。「手」「腕」など光太郎の彫刻も多数。
 
「荻原守衛」詩碑……碌山館の裏手に平成12年(2000)に建てられました。光太郎の詩「荻原守衛」が刻まれています。
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「坑夫」……隣接する穂高東中学校に建つ守衛の彫刻です。台座にはめ込まれた題字を晩年の光太郎が揮毫しました。この彫刻「坑夫」は、守衛滞仏中の明治40年(1907)の作で、守衛の元を訪れた光太郎が、是非日本に持ち帰るように助言したといわれています。こちらには昭和30年(1955)に建立されました。


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