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テレビ放映情報です。

にっぽんトレッキング100「絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」

NHK BSプレミアム 2017年1月25日(水)  19時00分~19時30分 

北アルプスの玄関、長野・上高地。今ではバスで直行できるこの場所も、かつては徒歩で二日かけて歩いた。そんなクラシックルートを辿り、知られざる穂高岳の絶景に出会う。

穂高や槍ヶ岳の玄関口として知られる上高地。そこへ向かうかつての登山道は、今「クラシックルート」と呼ばれ、脚光を浴びている。目の当たりにしたのは、七色に染まる峡谷の山肌。日本の近代登山の父と呼ばれるウォルター・ウェストンは、それを「驚嘆すべき色彩の響宴」と評した。さらにその先には「日本で一番雄大な眺望」とたたえた絶景が待っているという。著名な登山家たちが愛した風景を辿り、手付かずの大自然を満喫する。

出演 仲川希良  語り 渡部沙弓

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昨秋、番宣的な特集番組「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」放映されました。その中でも、大正2年(1913)に婚前旅行で上高地を訪れた光太郎智恵子にちらっと触れられました。そこでベスト10として紹介した山々を、今年に入ってからおのおの30分で詳しく取り上げています。

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そして上高地クラシックルート編が、来週水曜日の放映。

事前に制作会社さんからレファレンスがあり、岩魚止に聳え、後に光太郎智恵子が共にその思い出を語っている、桂の巨木についてご教示申し上げました。そのあたりは一昨年、山岳雑誌『岳人』さんに書かせていただきました。尺の都合などでカットされなければ、そういった話が出るものと思われます。

ぜひご覧下さい。


【折々のことば・光太郎】

おれの魂をつかんでくれ おれの有り様(やう)を見つめてくれ 「夜目遠目笠のうち」 そればつかりは真平(まつぴら)だ

詩「カフエにて」 大正元年(1912) 光太郎30歳

「夜目遠目笠のうち」は、よく見えないものを、実際よりずっと美しいものに仕立ててしまうものだということ。買いかぶらずに、醜さや汚さも内包した生身の「高村光太郎」を見てくれ、という内容です。

誰に? やはり、智恵子に、でしょう。

今朝、犬の散歩から帰ると、妻が「今、「乙女の像」がテレビで紹介されていたよ」とのたまいました。光太郎の名も紹介されていたとのこと。

テレビ朝日さん系列の「朝だ!生です旅サラダ」でした。サブタイトルが「女優・手塚理美が冬の青森で感激!!香港最新(秘)グルメ初公開 !?」。

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時折あるのですが、前日までネットにも詳細な内容が紹介されず、放映当日を迎えるパターンだったようで、まったく情報をえていませんでした。残念……。


今日は、午後からNHK BSプレミアムさんで先月放映された「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」の再放送があります。来年1月10日から、やはりNHK BSプレミアムさんで放映が始まる「にっぽんトレッキング100」の、ある意味番宣のための番組です。

ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!

NHK BSプレミアム  2016年12月10日(土)  13時30分~15時00分

山好き必見!日本の秋を満喫するベスト10を大公開!

トレッキングにぴったりの秋到来。日本の秋を満喫する、お勧めコースベスト10を大公開! 真っ赤に染まる紅葉、黄金色に輝く草原、そして心まで温まる癒やしの温泉! 女優の宮澤佐江さんは雄大な北海道・雌阿寒岳へ。モデルの仲川希良さんは上高地へと向かう知られざるクラシックルートを。タレントの田代さやかさんは紅葉真っ盛りの八幡平温泉へ。他にも黒部峡谷、奥日光、四万十川、雲仙など、北海道から九州まで深まる秋を体感!

出演 パトリックハ-ラン 宮澤佐江 田代さやか 仲川希良 青山草太 高橋庄太郎 小林千穂,
司会 森下絵里香
語り 渡部紗弓 柴崎行雄

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本編は来年1月25日(水)ですが、今回もちらっと光太郎智恵子が紹介されます。


もう1件。

あらすじ名作劇場 「銀河の詩人・宮沢賢治「風の又三郎」「雨ニモマケズ」」

BS朝日1 2016年12月14日(水) 22時00分~23時00分 

名前は聞いたことあるけど、実は読んだことがない…
でも、いまさら知らないなんて、恥ずかしくて言えない…
そんなアナタに!
「読むヒマないなら、観ればいい!」
新感覚の番組が誕生!王道・定番・世界の名作文学の“あらすじ”を、オリジナル「再現ドラマ」でわかりやすく超解説!あの有名な物語が伝えたかったこと、隠された裏話、作者にまつわる秘話も紹介。時にはゆかりの地を、ぶらりと歩くことも。
これでアナタも文学ツウ!時を超えて語り継がれる名作は、あらすじにしても名作なのです。

「観て学ぶ。名作は、あらすじだけでも面白い」をコンセプトに、文学・落語・歌舞伎・童話…あらゆる“名作"の「あらすじ」をオリジナルの超訳ドラマや朗読でわかりやすく解説!作者の知られざるエピソードや、その作品が生まれた時代背景など、裏話・秘話もあわせて紹介!

ストーリーテラー:平泉成  MC:本仮屋ユイカ

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「雨ニモマケズ」は、その「発見」の現場に光太郎が立ち会い、その後半部分を刻んだ石碑が、賢治の最初の詩碑として光太郎の揮毫により花巻に立てられました。現在も賢治の命日・9月21日に、その碑の前で「賢治祭」が開催されています。今年は当方もスピーチを仰せつかりました。

そのあたりの、光太郎と賢治の交流に関するエピソードが紹介されればいいのですが……。


【折々の歌と句・光太郎】

ヤツガレハスコシオクレテサンズベシズブロクグデンノタカムラサイウ
明治44年(1911) 光太郎29歳

そろそろ忘年会シーズンということでこの歌を。

漢字平仮名交じりで表記すれば「僕(やつがれ)は 少し遅れて 参ずべし ずぶろくぐでんの 高村砕雨」。

『高村光太郎全集』に漏れていた短歌で、『短歌研究』第十三巻第五号(短歌研究社 昭和31年=1956 5月)に所収の、堀口大学「白い手の記憶 ――高村光太郎の思い出――」に載っていたのを今年、見つけました。

堀口曰く、
 
  それは初夏の頃だったと記憶するが、一夜百首の徹夜の歌会が新詩社で催された。常に待たれる人、高村さんは、その夜もみんなに待たれたが、仲々姿は現われなかった。十時頃に電報が来た。鉄幹先生が披露された。《ヤツガレハスコシオクレテサンズベシズブロクグデンノタカムラサイウ》――
  「高村君は今夜もヨカロウらしい。」鉄幹先生がぽつんと言われた。誰やらが発信局を尋ねた。――「浅草本局です。」 ヨカロウも浅草本局も、二つながら雷門の近くにあった。その夜、会者十数人の中、百首の結字が全部出詠出来たのは晶子先生ただお一人だった。待たるる人、高村さんは遂に翌朝になっても見えずにしまった。鉄幹先生ばかりか私もがっかりしたことを覚えている。

この年の暮れに長沼智恵子と運命的な邂逅を果たす光太郎は、前年に吉原河内楼の娼妓・若太夫(真野しま)に失恋、この頃は浅草のカフェ・よか楼の女給だった「お梅」に入れあげていました。

 「ずぶろく」も「ぐでん」も泥酔状態を表す語で、「ぐでん」は現代でも「ぐでんぐでんに酔っぱらう」などと使われますね。「ずぶろく」の方は、当方、存じませんでした。

「砕雨(さいう)」は新詩社に於ける光太郎の雅号。欧米留学からの帰朝(明治42年=1909)以降も使用例が見られ、矛盾しません。

昨日ご紹介したカキの歌にしてもそうですが、巫山戯た歌を詠んで完全に師・与謝野鉄幹をないがしろにしていますね(笑)。しかしそんな光太郎を鉄幹はかわいがっていました。

昨日、NHK BSプレミアムさんで放映の「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」を拝見しました。

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大正2年(1913)、光太郎智恵子が婚前旅行で訪れ、二人で歩いた島々から岩魚留、徳本峠を越える「クラシックルート」が扱われました。

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レポーターはモデルの中川希良さん。

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事前に制作会社さんからレファレンスがあり、岩魚止に聳え、後に光太郎智恵子が共にその思い出を語っている、桂の巨木についてご教示申し上げました。

ところがその話が出ず、「あれっ?」と思っていたところ、今回の「ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!」は、来年1月10日から、やはりNHK BSプレミアムさんで放映が始まる「にっぽんトレッキング100」の、ある意味番宣のための番組で、「上高地クラシックルート」として改めて1月25日に放映があるそうです。その中で、詳しく扱われるのでしょう。

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今回の番組の中でも、ちらっと光太郎智恵子に触れられはしました。

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また、上高地で光太郎智恵子とも宿を共にした、日本近代登山の父、ウォルター・ウエストンについては、今回からある程度詳しく紹介されていました。1月の放映ではさらに詳しい話が出るものと期待します。

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また近くなりまして、詳細な情報が入りましたらご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

いみじくもふかき地中のこゝろより天然の湯は湧きてあふるる
大正9年(1920) 光太郎38歳

昨日の放映では、各地の温泉も紹介されていました。

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温泉の恩恵を受けられる日本に生まれて、本当に良かったと思います。

光太郎もやはり日本人(笑)、温泉は大好きで、温泉を詠んだ短歌も多く残しています。

テレビ放映情報です。

ザ・プレミアム にっぽんトレッキング100 紅葉 温泉 秋のオススメ BEST10!

NHK BSプレミアム  2016年11月26日(土)  21時00分~22時30分

山好き必見!日本の秋を満喫するベスト10を大公開!

トレッキングにぴったりの秋到来。日本の秋を満喫する、お勧めコースベスト10を大公開! 真っ赤に染まる紅葉、黄金色に輝く草原、そして心まで温まる癒やしの温泉! 女優の宮澤佐江さんは雄大な北海道・雌阿寒岳へ。モデルの仲川希良さんは上高地へと向かう知られざるクラシックルートを。タレントの田代さやかさんは紅葉真っ盛りの八幡平温泉へ。他にも黒部峡谷、奥日光、四万十川、雲仙など、北海道から九州まで深まる秋を体感!

出演 パトリックハ-ラン 宮澤佐江 田代さやか 仲川希良 青山草太 高橋庄太郎 小林千穂,
司会 森下絵里香
語り 渡部紗弓 柴崎行雄

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上記紹介にあるとおり、信州上高地が扱われます。しかも、トレッキングということで、車の通れない、島々から岩魚止、徳本峠を越える昔のルート。

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ここは、大正2年(1913)、光太郎智恵子が婚前旅行で訪れた場所。先に上高地に滞在していた光太郎が、後から追ってきた智恵子を迎えに岩魚留まで下りていきました。岩魚留には有名な桂の巨木があり、光太郎智恵子共々、後にこの木の思い出を語っています。

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そのあたり、昨年発行された山岳雑誌『岳人』さんに書かせていただきました。上記桂の写真も『岳人』さんから。そこでキャプションに「件(くだん)の」とあります。

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さて、花巻高村光太郎光太郎記念会さんを通し、今回放送される番組の制作会社さんから問い合わせがあり、件の桂の木についてレクチャーいたしました。尺の関係などでカットされなければ、そういう話が出るはずです。

ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

天然の湯に身をひたし人の世のこゝろのことを君は思ふか
大正9年(1920) 光太郎38歳

土曜日放映の「ザ・プレミアム」、テーマは「紅葉」と「温泉」だそうです。寒くなってきましたので、ゆっくり温泉に浸かりたいものです。

日本女子大学校での智恵子の一級上で、卒業後に雑誌『青鞜』を創005刊、その表紙絵を智恵子に依頼した平塚らいてう。学年は一つ上ですが、早生まれということもあって、智恵子と同じく今年が生誕130年にあたり、記念イベント等がいろいろ組まれています。

まずは信州上田から。 
期 日 : 2016年9月12日(月)
時 間 : 13:30~
会 場 : らいてうの家 長野県上田市真田町長字十の原1278-720
講 師 : 米田佐代子(女性史研究者・らいてうの家館長)
参加費 : 500円(含資料代)

ことしは「平塚らいてう生誕130年」です。NHKの朝ドラで004は『あさが来た』に続き、『とと姉ちゃん』で『青鞜』創刊号に載った「元始、女性は実に太陽であった」がリフレインされ、8月9日には真野響子ふんする戦後のらいてうも登場しました。でも、らいてうが戦前戦後を通じてどう生きたかは意外に知られていません。らいてう研究ひとすじの米田佐代子(らいてうの家館長)が新発見の資料も披露しながら語る「現在(いま)を生きるらいてう」秘話を、ぜひお聞きください。


NHKさんの大河ドラマ「真田丸」で注目されている真田家ゆかりの地・旧真田町にある「らいてうの家」。以前に一度、寄せていただいたことがあります。エントランスには智恵子がデザインした『青鞜』創刊号の表紙を用いた大きなガラス絵。スタッフの方々も親切ご丁寧な対応をして下さり、いきなり訪ねて行ったにもかかわらず、手料理の昼食をご相伴にあずかったことを今でもよく覚えています。


続いて皇居北の丸公園の国立公文書館さんでの展示及び関連行事としての講演。 
期  日 : 平成28年9月17日(土)〜10月16日(日)
時  間 : 月~水、土、日曜日、祝日 午前9時45分~午後5時30分
        木・金曜日(9/22を除く)  午前9時45分~午後8時
会  場 : 国立公文書館 本館 東京都千代田区北の丸公園3番2号
料  金 : 無料

平成28年秋の特別展では、明治時代から現代まで、様々な分野で活躍した女性をとりあげます。明治維新後の日本では、近代化とともに、女性が社会進出を果たしました。大正、昭和を経て、女性が女性らしく生きる社会をめざす取り組みは現在も続き、昨年8月には女性活躍推進法が成立しました。女性の活躍が期待される今、当館所蔵資料等から、時代を超えて今も輝きを放つ女性たちをご紹介します。

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関連行事     記念講演会

 期  日 : 平成28年9月25日(日)
 時  間 : 14時開場 14時30分開演
 会  場 : 一橋講堂(千代田区一ツ橋2-1-2学術総合センター内)
 料  金 : 無料
 定  員 : 500名(事前予約制)
 演  題 : 赤松良子氏「均等法施行から30年をむかえて」
        森まゆみ氏「女性解放のあけぼの―「青鞜」と平塚らいてう―」

『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』『「谷根千」地図で時間旅行』などのご著書のある、元タウン誌『谷中根津千駄木』編集長で作家の森まゆみさんの講演では、らいてうにスポットが当たります。


それぞれ、智恵子にも触れていただきたいものです。

この他にもらいてう顕彰のイベント等、まだいろいろあるようですが、また近くなりましたらご紹介いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

秋立つと音する風はふるさとに似たる空より来てさむきかな
明治39年(1906) 光太郎24歳

光太郎、留学でニューヨークに滞在中の詠草です。

内容的には一昨日、昨日の記事と前後しますが、碌山美術館さんでの講演の前、8月7日(日)午前中に訪れた豊科近代美術館さんをレポートします。

前夜から宿泊していたのは、青木湖畔のホテルブルーレイク&リゾートさん。例によってさっさと就寝したので、朝は早く目が覚め、湖畔を散策。

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こんな看板がありました。

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「鹿に注意」。鹿なら見てみたいな、と思いましたが遭遇できず。「しか」し、同じ看板の裏は……

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熊はさすがにパスしたいところでした。遭遇せずに済みましたが。

朝食後、ホテルをあとに、愛車を駆って安曇野へ。1時間ほどで豊科近代美術館に到着。

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なかなか瀟洒な建物です。いきなり目的の一つ、高田博厚の彫刻がお出迎え。

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同館の通常展示は、それぞれ光太郎と縁のあった、彫刻家の高田博厚と、画家の宮芳平の作品が中心です。以前から、碌山美術館さんに足を運ぶ際には、近隣の光太郎と縁のあった芸術家の記念館なども訪れる習慣となっており、今回はこちらにお邪魔しました。

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高田の彫刻は展示室に入りきれず、中庭や廊下などにも。

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そして、光太郎の胸像。下記は同館のミュージアムショップで売っているポストカードです。

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同一の型から取ったものは、岩手花巻の花巻北高校さん、埼玉東松山の東武東上線高坂駅前のブロンズ通り、それから福井市立美術館さん、さらに同じ信州の塩尻市にある古田晃記念館さんなどにも収蔵されています。

豊科近代美術館さんの光太郎胸像は、高田が他の日本人芸術家をモデルにした胸像とともに展示されていました。森鷗外、中原中也、佐藤春夫、宮沢賢治、岩波茂雄、岸田劉生、梅原龍三郎、高橋元吉などなど。その人々はそれぞれ光太郎と縁のあった人物でもあり、同窓会というかサロンというか、そんな感じを受けました。

他のジャンルの作品を含め、同時代の彫刻家の中で、早世した碌山荻原守衛を除き、光太郎が最も高く評価した高田の作品は、やはり光太郎のそれにも通じる精神性を感じるものでした。

宮芳平の絵、当方、現物は初めて観ました。鷗外が認めたという、特異な才能を感じました。

そして、高田、それぞれに宛てた光太郎書簡のコピーが展示してあり、興味深く拝見。コピーは以前から観ていましたが、こういう場で観ることで、違った見え方がしました。


他にも信州には、光太郎と縁のあった芸術家の記念館などで、訪れたことのない場所がまだまだあり、来年以降、4月の碌山忌などを使って訪れようと思っております。


【折々の歌と句・光太郎】

ああこれ山空を劃(かぎ)りて立てるもの語らず愚(おろか)さびて立つもの
明治37年(1904) 光太郎22歳

昨日は今年から「山の日」。北アルプスの山々は、やはり素晴らしいビジュアルでした。

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4泊5日の行程を終え、先ほど、無事に帰着しました。

5日間のレポートをざっくりと書こうと思います。

8月6日(土)、愛車で千葉の自宅兼事務所を出発。一路、信州安曇野の碌山美術館さんを目指しました。夏休みの土曜ということで、中央道は八王子あたりから山梨県内に入るまで断続的に渋滞、同館には夕方に着きました。

同館では「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」が開催中で、翌7日(日)には、関連行事として当方の講演。当日の到着では途中で何かあった場合に怖いので、前のり致しました。

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当日の午前中も企画展を拝見。光太郎芸術の凝縮された、よい展示でした。

同館には展示のための棟が4つあり、メインの碌山館は、その名が冠された碌山荻原守衛の彫刻。

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それ以外の3棟を、今回の企画展に使って下さっています。
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第1展示棟には、ブロンズの光太郎彫刻10点。それから、パネル展示として作品自体が亡失し、写真のみが残っている彫刻(全て塑像)の写真25点。

第2展示棟では、光太郎の直筆詩稿、著書、そして「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」関連。

詩稿は主に彫刻制作に関する詩が選ばれ、詩の全文を活字にしたパネルが添えられていました。著書は選詩集的なものを除く、生前刊行の詩集全てと、光太郎没後に草野心平がガリ版刷りで作成した「猛獣篇」。

「乙女の像」関連では、ブロンズの小型試作、中型試作、そして実物大に印刷した十和田湖畔の像の写真。さらに構想スケッチ(実物)やデッサン(複製)など。

そして空調の関係で、杜江館に、光太郎木彫7点と、智恵子の紙絵20点(展示替え有り)、そして光太郎智恵子それぞれの油彩画が展示されています。

同じ型から取って作成されたものが各地にあるブロンズ彫刻以外は、なかなか実物を目にする機会が少ないものばかりで、興味深く拝見しました。

一つ一つのカテゴリー内の点数は決して多くはないのですが、却って、精髄的な印象を受けますし、それほど時間をかけずに見て回ることが出来ます。

また、ミュージアムショップと、無料休憩所的なスペースを兼ねたグズベリーハウスという棟では、昭和28年(1953)、ブリヂストン美術館さん作成の「美術映画 高村光太郎」が放映されており、花巻郊外太田村や、中野のアトリエで「乙女の像」を制作する光太郎自身の姿が見られます(花巻高村光太郎記念館さんでも放映しています)。

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7日(日)は午後から、近くの研成ホールにて、当方の記念講演でした。

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時間配分を誤り、肝心の「乙女の像」についての部分が短くなってしまいました(汗)。

来春刊行予定の同館の館報に、講演の筆録を乗せていただくそうですので、加筆訂正し、きちんとまとめたいと思います。


長野県松本平地区の地方紙「市民タイムス」さん、8月4日に載ったコラム。 

みすず野


安曇野市の碌山美術館で、大正から昭和期 の詩人で、彫刻家の高村光太郎の「彫刻と詩展」が始まった。なぜ、碌山美術館なのか。光太郎と碌山が親友だったからだ。美術館本館わきには、光太郎が碌山 の急死を悼んで詠じた詩「荻原守衛」の碑が、建立されている◆一部を抜粋する。「荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。/単純な彼の彫刻が日本の底 で生きてゐた。-」。二人は留学先のニューヨークで出会い、光太郎はロンドン、碌山はパリに渡り、帰国後も交友は続いた。今回は二人ではなく、光太郎の作品、それは必然的に妻智恵子への永遠の愛につながるものだが、そこに光を当てた◆「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた/かなしく白くあかるい死の床で /わたしの手からとつた一つのレモンを-」。「レモン哀歌」と題する詩の自筆原稿も見ることができる。光太郎は智恵子の精神が壊れ、童女のようになり、やがて臨終を迎えるさまをつづった◆「智恵子の裸形をこの世にのこして/わたくしはやがて天然の素中に帰らう。-」とうたい、最後に本当に裸婦像を残した。 光太郎の生き方に触れてみては。


紹介されている詩碑はこちらです。

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同展、8月28日(日)まで開催中です。ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

祈(ね)がば成るならばともあれやすからむ信濃にひとりまた旅ねする

明治34年(1901) 光太郎19歳

光太郎、みすず刈る信濃路の旅の途次に詠んだ歌です。

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4泊5日の日程で講演行脚中です。

昨日、信州入りし、安曇野碌山美術館さんで開催中の企画展「高村光太郎彫刻と詩展」を拝見。今日は同館にて企画展関連行事として、講演をさせていただきました。

90分ということで時間を頂いたのですが、あれもこれもと欲張ってしまい、後半、はしょらざるを得ませんでした。反省しております。

昨日から青木湖畔のリゾートホテルに宿泊しています。

明日は信州をあとに、三陸女川に向かいます。明後日、女川光太郎祭でまた講演です。依頼が色々入り、有り難い限りです。

詳しくは帰ってからレポート致します。

【折々の歌と句・光太郎】

電燈にあてて木蝉を わが見れば見れども飽かず虫けらの蝉

                                                                 大正13年(1924) 光太郎42歳


碌山美術館さんにて、この歌に詠まれた木彫の蝉を、久々に拝見しました。いつ見ても何度見ても、やはり素晴らしい作品です。

信州安曇野の碌山美術館さんで先週末から開催中の 「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の図録が届きました。

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B5判111ページ、立派な図録です。

同館館長・五十嵐久雄氏の「ごあいさつ」、島根県立美術館長・長谷川三郎氏の論考「彫刻家高村光太郎」、同館学芸員・武井敏氏の論考「高村光太郎の彫刻と詩―桃と乙女、そしてレモン―」、光太郎智恵子略年譜、彫刻に関わる光太郎の詩文、そして豊富な図版から成ります。図版は出展作品はもちろん、それ以外の参考図版も充実しています。

図版を見て、改めて思いました。それほど大規模な展覧会ではありませんが、光太郎智恵子芸術の精髄を集めており、二人の芸術世界を概観するには充分すぎる展示内容です。

光太郎の木彫が7点。「蝉」、「白文鳥」、「桃」、「柘榴」、「蓮根」、そして「鯰」が2種類。 ブロンズが12点。「獅子吼」、「薄命児男子頭部」、「園田孝吉胸像」、「裸婦坐像」、「腕」、「手」、「老人の首」、「黒田清輝胸像」、「光雲一周忌記念胸像」、「倉田雲平胸像」、「乙女の像(小型試作)」、「乙女の像(中型試作)」。このうち、「白文鳥」、「乙女の像(小型試作)」、「乙女の像(中型試作)」は、それぞれ2体で一対です。

さらに光太郎の作品としては、油絵の「自画像」、鉛筆書きの「乙女の像構想スケッチ」、肉筆詩稿(主に彫刻に関わる詩篇をセレクト)が18点、詩集が7冊(うち5冊は当方がお貸ししました)。

そして智恵子の紙絵の実物が40点。

22:35追記 山梨県の清春白樺美術館さんで所蔵の智恵子油絵「樟」も出品されています。書き落としました。

これほど充実した企画展ですが、それほど報道されておらず、残念です。地方紙のサイトでも開催予告的な記事は見つかりましたが、開幕した、という記事が見あたりません。今後に期待したいところです。

今後といえば、8月7日(日)、午後1時30分から当方の記念講演があります。

ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

羽を彫り眼だまをほれば木の蝉もじつと息して夕闇にはふ
大正13年(1924) 光太郎42歳

碌山美術館さんで展示されているのが、この短歌で詠まれている「蝉」です。

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今月末から始まる信州安曇野の碌山美術館さんでの企画展です。
期  日 : 2016年7月23日(土)~8月28日(日) 会期中無休
場  所 : 碌山美術館 杜江館・第Ⅰ/Ⅱ展示棟  長野県安曇野市穂高5095-1
時  間 : 9:00~17:10
料  金 : 大人 700円(600円)  高校生 300円(250円)  小中学生 150円(100円) 
       ( )内団体:20名以上)
後  援 : 安曇野市 安曇野市教育委員会 安曇野市教育会 信濃毎日新聞社 市民タイムス
協  賛 : 清水建設株式会社 株式会社中村屋 医療法人仁雄会穂高病院
       株式会社とをしや薬局 
株式会社アイダエナジー

高村光太郎(1883~1956)の没後60年、高村智恵子(1886~1938)の生誕130年を記念して企画展を開催いたします。
木彫家・高村光雲の長男として生まれた光太郎は、幼少期より木彫の手ほどきを受け、東京美術学校や海外での研鑽を積むことでその資質を開花し、木彫・塑像に傑作を残しています。
また合わせ持っていた文学的資質は、評論・翻訳・詩作などに結実しています。「緑色の太陽」(1910)のような啓発的な評論、『ロダンの言葉』(1916)の翻訳等は、日本近代美術界を大いに刺激しました。のみならず、『道程』(1914)、『智恵子抄』(1941)等の詩作は現在もなお広く知られています。
高村自身は「私は何を措いても彫刻家である」「自分の彫刻を護るために詩を書く」と述べる一方で「詩精神(事物の中心に直入する精神)が言葉にあらわれれば詩となり、造型に形をとれば美術一般となる」とも言っています。
彫刻と詩を通して、高村光太郎の制作の根源へ思いを馳せていただければ幸いです。

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関連行事

特別企画展記念講演会 「高村光太郎作《乙女の像》をめぐって」

期  日 : 2016年8月7日(日)
場  所 : 碌山美術館 杜江館二階 
                          7/28追記 会場が美術館向かいの研成ホールに変更になりました。
時  間 : 13:30~
料  金 : 無料 (ただし入館料が必要です)
講  師 : 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)


というわけで、当方の講演があります。昨年、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん編集による『十和田湖乙女の像のものがたり』という書籍が刊行され、前半部分を執筆し、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」についてがっつり調べましたので、その成果です。元々碌山美術館さんで「乙女の像」の中型試作、小型試作を所蔵されており、「この辺の内容でどうですか」というご提案もありました。もちろんそれ以外に光太郎の生涯の俯瞰、碌山荻原守衛と光太郎との関連などについても述べる予定です。


さて、展示の方ですが、光太郎の木彫がひさびさにある程度まとめて並びます。まだ出品目録を頂いていないので、詳細は不明ですが(いずれ続報を出します)、平成25年(2013)に千葉市美術館さん、愛知碧南市藤井達吉現代美術館さん、岡山井原市田中美術館さんを巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展以来です。

その他、もちろんブロンズ彫刻、絵画、詩稿などの光太郎作品、そして智恵子紙絵の現物も出ます。さらに当方の蔵書から、光太郎の詩集をお貸ししました。『道程』(大正3年=1914)と『智恵子抄』(昭和16年=1941)は碌山美術館さんで持っているというので、それ以外の生前の単行詩集、『大いなる日に』(同17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)、『典型』(同25年=1950)、さらに没後の刊行ですが、当会の祖・草野心平が鉄筆を執ってガリ版刷りで作った光太郎七回忌記念の『猛獣篇』(同37年=1962)もお貸ししました。

そうした意味では、かなり幅広い光太郎智恵子の総合展のような企画展です。

ぜひぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや

明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学からの帰国直後、日本女性に失望シリーズ(笑)の一作です。

新宿の中村屋サロン美術館さん発のイベント情報です。 
5月29日(日)  旅行代金(おひとり様)9,800円 ※大人・子ども同額

新緑と水が煌めき、雪解けの山が美しく映える5月の安曇野。パワースポットの穂高神社で安曇野の歴史に触れ、新宿中村屋ゆかりの彫刻家 荻原守衛(碌山)の作品を展示する碌山美術館で、芸術と自然を堪能するバスツアーです。

芸術と自然に囲まれた、豊かな時間を過ごしませんか?

特典付きで大満足!
・碌山美術館学芸員によるミニレクチャー付!
・荻原家ご当主のご案内による碌山の墓参付!(希望者)
・安曇野市と中村屋から素敵なプレゼント付!

新宿(8:00)=大王わさび農場(昼食・買い物・見学)=安曇野着 穂高神社参拝(解説付)=碌山美術館(ミニレクチャー・見学)=現ご当主のご案内による碌山の墓参(希望者)=新宿(20:00予定)
※行程は道路状況等により、入れ替わる可能性がございます

添乗員:同行  受付最少人数:1名 最少催行人員:30名 バスガイド:なし 食事:1回昼食
※5月9日までに最少催行人員に達しない場合は中止とさせていただきますこと、ご了承ください
※詳しい旅行条件説明書面をお渡しいたしますので、事前にご確認の上、お申し込みください

お問い合わせ・お申し込みは
近畿日本ツーリスト個人旅行株式会社
東京都新宿区新宿3-26-13 新宿中村屋ビル3階 03-3354-4021 受付時間11:00~19:00 (土日祝18:30)

旅行企画・実施
近畿日本ツーリスト個人旅行株式会社 新宿プレミアム旅行サロン 東京都新宿区新宿3-26-13

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お申込期限はまだ先でしょうが、明日までに30名に達しないと催行中止だそうで、とりあえず早めにご紹介しておきますが、それが杞憂に終わることを祈念いたします。

中村屋サロン美術館さん、昨年も同様の企画を開催されました。おそらくそれが好評だったので、二匹目のドジョウでと思われます(笑)。こういう場合には、バスツアーというのは非常に楽ですね。しかもいろいろお土産もあるようですし(笑)。

碌山美術館さんは、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎をはじめ、碌山と縁の深かった作家の作品も収蔵、光太郎ブロンズ作品も多数お持ちです。複数の光太郎彫刻を一度に見られるのは、こちらと花巻高村光太郎記念館だけです。

7月から8月にかけては、当方も関わる企画展「光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」が開催されます。そちらはそちらとして、こちらにもぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

たらちねの母は死ねども死にまさずそこにもをるよかしこにも居るよ

昭和2年(1927) 光太郎45歳

昨日からの続きで、「母の日」がらみで。

母・わかの三回忌を前に作られました。昨日ご紹介した短歌と共に、雑誌『炬火』に発表した詩「母をおもふ」に反歌のように添えられたものです。

   母をおもふ

夜中に目をさましてかじりついた
あのむつとするふところの中のお乳。

「阿父(おとう)さんと阿母(おかあ)さんとどつちが好き」と
夕暮の背中の上でよくきかれたあの路次口。
000
鑿(のみ)で怪我をしたおれのうしろから
切火(きりび)をうつて学校へ出してくれたあの朝。

酔ひしれて帰つて来たアトリヱに
金釘流(かなくぎりう)のあの手紙が待つてゐた巴里の一夜。

立身出世しないおれをいつまでも信じきり、
自分の一生の望もすてたあの凹んだ眼。

やつとおれのうちの上り段をあがり、
おれの太い腕に抱かれたがつたあの小さなからだ。

さうして今死なうといふ時の
あの思ひがけない権威ある変貌。

母を思ひ出すとおれは愚にかへり、
人生の底がぬけて
怖いものがなくなる。
どんな事があらうともみんな
死んだ母が知つてるやうな気がする。


「死ねども死にまさず」、「そこにもをる」「かしこにも居る」。後に妻・智恵子が亡くなった後にも、智恵子は元素となって私の周りに常に居る、と光太郎は繰り返し発言しています。そうした考えの源流がここにありそうです。

長野県安曇野市の豊科近代美術館の学芸員さんから、同館友の会という組織の会報を戴きました。同館は、それぞれ光太郎と親交のあった彫刻家・高田博厚、画家の宮芳平の作品を柱としています。

そんなわけで、連翹忌関連の資料、当方編集の『光太郎資料』などをお送りしており、その添え状に「当方、高村光太郎文筆作品、彫刻・絵画作品等の資料集成をライフワークとしており、光太郎に関する稀少資料(書簡、草稿、揮毫、稀覯雑誌他)を所蔵されている個人、団体等の情報がございましたら、御一報いただければ幸甚に存じます。」と書きましたところ、応えて下さいました。

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送って下さった学芸員さんによる「昭和6年に出した2枚のハガキ」という記事が載っており、未知の光太郎書簡が紹介されていました。宛先は滞仏中の高田博厚。高田に宛てた光太郎書簡はこれまで確認できていなかったので、驚きました。さらに戦前、それからフランスに送った外信用はがきというのも驚きです。

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内容的には身辺近状の報告といったところですが、面疔を病み半強制的に入院させられたこと、「ロマン・ロラン友の会」で一緒だった片山敏彦や、パリで客死した平林初之輔などに触れており、興味深いものでした。

「僕も仕事に精進してゐます」という一節があります。しかし、この直後、智恵子の心の病が顕在化し、その看病のため、光太郎はしばらく彫刻不可能の状態に陥ります。そうした史実を踏まえて読むと、心が痛みます。

以前にも書きましたが、筑摩書房刊行の『高村光太郎全集』第21巻には、書簡宛先の人名索引が載っています。しかし、あるべきはずの名前が抜けていたりします。たくさん手紙を送っていたはずの人の名がないということで、その人あての書簡が見つかっていないのです。例えば有島兄弟、石井柏亭、志賀直哉、梅原龍三郎、岸田劉生、黒田清輝、深沢省三・紅子夫妻、吉井勇などなど。また、与謝野晶子や荻原守衛、武者小路実篤、川路柳虹、佐藤春夫などにあてたものは、それぞれ1~2通ずつしか見つかっていません(晶子、武者、佐藤あてはここ数年で見つけましたがそれでも1通ずつです)が、もっともっとあったはずです。
 
受けとった人自身が処分してしまったか、関東大震災や太平洋戦争などで焼失してしまったか、それとも人知れず眠っているかと言ったところですね。
 
新たな書簡により、少しずつ空白が埋まり、光太郎の新たな一面が見えてくるものです。人知れず眠っているものの発掘をライフワークの一環として続けて参りますので、ご協力をよろしくお願いします。


【折々の歌と句・光太郎】

春風やアルプスの雪遠く白し     明治42年(1909) 光太郎27歳

スイス経由イタリア旅行中の吟で、ここでいう「アルプス」は本物のヨーロッパアルプスのことです。

日本の中部地方には日本アルプスがあり、毎年、4月22日には、その麓の安曇野市碌山美術館さんで、光太郎の盟友・荻原守衛を偲ぶ「碌山忌」が開催されています。毎年、寄せていただき、今年も行く予定でした。さらに近くにあるいろいろな美術館さん、文学館さんに立ち寄るのも楽しみで、今年は豊科近代美術館さんに寄ろうと心に決めていました。

しかし今年は碌山忌当日に当方居住地の自治会長の集まりがあり(今年度、町内会長をやっております)、泣く泣く欠礼することにしました。

夏には碌山美術館さんで「夏季特別企画展 光太郎没後60周年記念 高村光太郎-彫刻と詩-展」があり、関連行事としての講演を頼まれておりますので、その機会に伺いますが、残念です。

テレビ放映情報です。 

15分でにっぽん百名山 安達太良山

NHKBS1 2016年2月29日(月)  18時30分~18時45分
 再放送 3月7日(月) 午前4時30分~ 午前4時48分

福島の安達太良山(1700m)、荒々しい火山と、みちのくの穏やかな自然を体感する山旅。登山口の野地温泉から、ブナなど広葉樹の紅葉に彩られた登山道を抜け、森林限界の低い偽高山帯と呼ばれる見晴らしの良いりょう線へ。最高峰の箕輪山(1728m)を経て、温泉のある山小屋で一泊、翌朝、空に突き出た山頂の姿から乳首山とも呼ばれる安達太良山の山頂をめざす。

出演 林千明   語り 三浦祥朗


NHK BSさんでは「にっぽん百名山」という30分番組を放映しています。そこで取り上げた山をさらに15分間のダイジェスト版にしたのが「15分でにっぽん百名山」。

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智恵子が愛した「ほんとの空」のある安達太良山は、昨年2月に30分の「にっぽん百名山」で取り上げられました

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その際には、光太郎智恵子についても紹介して下さいました。

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今回は15分のダイジェスト版ですが、この部分が含まれるかどうか……。期待はしていますが……。


もう1件。 

みつけよう、美 荻原守衛“女”(長野・碌山美術館)

NHKEテレ1 2016年3月2日(水)  23時50分~23時55分

「日曜美術館」40年目を機に掘り起こした映像記録を、全国の美術館の大切な所蔵作品を中心に再構成。全都道府県分47本を制作し、美術館情報とともに5分のミニ番組として放送します。あの美術館の知られざる美の宝物について、作者本人やゆかりのある人物から、とっておきのエピソードが語られます。今回は1997年の番組から彫刻家荻原守衛の「女」。守衛を励まし支えた、パトロン・相馬黒光との恋と制作を解き明かす。

語り 石澤典夫
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光太郎の盟友にしてロダンの愛弟子、碌山荻原守衛の絶作「女」が取り上げられます。元ネタは平成9年(1997)の「新日曜美術館 荻原守衛の女 〜彫刻に秘められた情念〜」。


公式サイトを見ると、他にも守衛の「坑夫」もラインナップに入っています。また、他にも光太郎と縁の深い作家の作品が。彫刻ではロダン、舟越保武、佐藤忠良、平櫛田中など。絵画では藤田嗣治、村山槐多、松本竣介など。すでに取り上げられたものもあるかも知れません。

ぜひご覧下さい。



【折々の歌と句・光太郎】


髯そつてスヰスの春の寒きかな     明治42年(1909) 光太郎27歳


3年余の欧米留学の最後近く、スイス経由でイタリア旅行をした際の作です。日本の春もまだまだ寒いですね。

光雲関連の報道を2件。

まずは長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんから。

善光寺資料館展示 三宝荒神ひな型 初の「補修の旅」

 近代日本を代表する彫刻家高村光雲(1852~1934年)と米原雲海(1869~1925年)の合作で、長野市の善光寺仁王門にある三宝荒神(さんぽうこうじん)像、三面大黒天像の試作品に当たる「ひな型」が27日、修理のため、展示してある善光寺の資料館(日本忠霊殿)から東京芸術大に搬出された。ひな型が修理で寺の外に出るのは、1919(大正8)年の制作以来、初めて。

 ひな型は、三宝荒神が高さ123センチ、三面大黒天が106センチ。仁王像の背面にある高さ2・5メートルほどの本像の制作前に、高村、米原が作った。文化財に指定されてはいないが、木造彩色でともに三つの顔と6本の腕があり、群青色の体や衣、金色の装飾が鮮やかだ。しみや欠損、カビが生えるなど傷みが目立つようになり、来年5月までの予定で修理することになった。

 27日は東京芸大大学院の保存修復彫刻研究室の3人が、付属品を外した像を緩衝材やさらしで幾重にも包み、慎重に運び出した。同大学院非常勤講師で近代彫刻が専門の藤曲隆哉さん(33)によると、伝統的な仏像彫刻の形式と近代の技法を融合させ、大正時代を代表する作品の一つという。善光寺事務局は「近代彫刻の観点での調査成果にも期待したい」としている。
(2015.8.28)


善光寺さんの仁王門には、光雲と高弟の米原雲海合作の仁王像が奉納されています。下記画像は大正時代の絵葉書です(以下同じ)。

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大正8年(1919)の開眼です。昨秋には、最大震度6弱を観測した長野県北部地震が発生、仁王像も破損しましたが、大事には至らなかったようです。

その仁王像の裏側には、三面大黒天像と、三宝荒神像が納められています。こちらも光雲・雲海の手になるものです。

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その試作(ひな形)が善光寺さんの資料館である日本忠霊殿に収蔵されていますが、そちらが東京芸術大学で補修されることになったという記事です。文化財修復の技術には定評がある同大、光雲も雲海も前身の東京美術学校で教鞭を執っていたゆかりの深い学校です。この際、きっちりと補修をしていただきたいものです。

下記は三面大黒天像のひな形。三宝荒神像のそれが写った絵葉書は未入手です。

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「高サ七尺五寸」というキャプションは、仁王門に納められている本体で、ひな形は約100㌢です。

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もう1件、『毎日新聞』さんの静岡版の記事です。昨秋ご紹介した袋井市の寺院・可睡斎さんに、明治31年(1898)頃に建てられた「活人剣」の碑に関してです。

<活人剣の碑>来月完成 李鴻章と軍医、交友の証し 袋井

 袋井市久能の禅寺・可睡斎(かすいさい)の境内に復活建立される「活人剣の碑」の工事が最終段階を迎えている。27日には制作者で金属工芸家の宮田亮平・東京芸大学長が訪れ、台座に載せる金属製の剣碑(高さ約5メートル)が据え付けられた。
 剣はサーベルの形をしておりステンレス製。表面をブロンズで覆ってある。富山県内のアトリエで制作した。この日作業員が重機などを使って台座の上に剣先が天に向かう形で慎重につり下ろした。高村光雲作とされる初代の碑は境内奥にあったが、復活碑は山門の横に建立される。
 宮田学長は「(初代の)復元ではなく現代に合わせた作品」と説明。剣の刃先の向きなど設置状態を調べ「このままでいいですね」と満足そうだった。
 初代「活人剣の碑」は、日清戦争(1894〜95年)の講和交渉のため来日した清国全権大使の李鴻章と、主治医を務めた旧陸軍軍医総監、佐藤進の交友の証しとして建立された。佐藤がいつも軍刀を身に着けている理由を尋ねた李に、「私の剣は活人剣」と答えたことが碑名の由来という。
 しかし第二次大戦中、金属供出でなくなり、台座だけが残った。地元有志らが再建委員会を設置。昨年から建設費(約3000万円)の募金活動を始めた。
 9月26日に完成を祝う「立剣式」を行い一般公開する。【舟津進】
(2015.8.29)


こちらも古絵葉書です。おそらく光雲が中心となって、上部の剣の部分を木彫で制作、それをブロンズで鋳造したものと思われます。

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色即是空とは申しますが、滅びるに任せず、修復したり再建したりができるのであれば、光雲ら先人の事績共々後世に伝えていって欲しいものです。その意味ではどちらも意義のある取り組みですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月31日 000

昭和61年(1986)の今日、徳間書店から内田康夫著『「首の女(ひと)」殺人事件』が刊行されました。

昭和57年(1982)、『後鳥羽伝説殺人事件』で始まり、現在も続く、浅見光彦シリーズの第10作です。光太郎の作った木彫の贋作を巡る事件を、名探偵浅見光彦が鮮やかに解決するというものです。

平成18年(2006)にはフジテレビさんが中村俊介さん主演で、平成21年(2009)にはTBSさんが沢村一樹さん主演で、それぞれドラマ化しています。どちらもBS放送などで、年1~2回、再放送されています。

浅見光彦シリーズはコミック化されている作品も多いのですが、この『「首の女(ひと)」殺人事件』は、それがなされていません。光太郎の「蟬」の木彫などを描かなければ成り立たないので、大変なのかも知れませんが、漫画家の皆さん、ぜひお願いします。

追記 平成30年(2018)、ぶんか社さんから、『まんがでイッキ読み! 浅見光彦 怪奇トラベルミステリー』が刊行され、夏木美香さんの画による「首の女……」が収録されました。

一昨日のことです。

昨日ご紹介した篠田桃紅さんの書籍を買いに、新刊書店に行きました。すると、毎年この時期に行われている、夏の文庫本フェア的な特設コーナーが目に付きました。「新潮文庫の100冊」、集英社文庫「ナツイチ」、「発見!角川文庫」など。

「そういえば、新潮文庫版の『智恵子抄』は、最初の頃は「新潮文庫の100冊」に入ってたんだよな……。」と思い浮かびました。この手のキャンペーンの嚆矢である「新潮文庫の100冊」は昭和51年(1976)に始まり、永らく『智恵子抄』がラインナップに入っていました。しかし、いつの間にか選から外れてしまっており、非常に残念です。復活を期待します。

また、集英社文庫さんには林静一氏の装幀による『レモン哀歌 高村光太郎詩集』、角川文庫さんには『校本 智恵子抄』があり、この辺も入れてほしいものです。

そんなことを考えながら、並んだ文庫本を見ていて、ふと、目にとまったのがこちら。

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深田久弥の名著『日本百名山』です。「あ、これも「新潮文庫の100冊」に入ったんだ。」と思いながら手に取りました。

調べてみると、一昨年くらいからラインナップに組み込まれていました(ついでに調べてみると、『智恵子抄』が入っていたのは平成21年(2009)まででした)。中高年の登山ブームを意識しての選定でしょうか。

初刊は昭和39年(1964)。以来、「なぜこの山が選ばれていないんだ」とかいった批判や、他の個人や団体の選定した「百名山」なども乱立する中、深田久弥選定の「百名山」が、確固たる地位を得ているように思われます。

やはり中高年の登山ブームを背景にしていると思われますが、「百名山」を冠したテレビ番組もいろいろと制作されており、このブログでもご紹介してきました。

TV放映情報。  絶景百名山 「秋から冬へ 上高地・徳本峠」。  にっぽん百名山「安達太良山」。  にっぽん百名山「安達太良山」/歴史秘話ヒストリア。


光太郎智恵子が大正2年(1913)に婚前旅行に行った上高地に近い穂高岳、智恵子の故郷・二本松にそびえる安達太良山が「百名山」に選定されている関係です。


さて、新潮文庫の『日本百名山』。安達太良山の項で、光太郎智恵子に触れています。一部分を抜粋します。

二本松から眺めた安達太良山、それを歌った高村光太郎の詩が、この山の名を不朽にした。この詩人と絶対愛に結ばれた妻の智恵子は、二本松の作り酒屋に生れた。彼女は東京にいると病気になり、故郷の実家に帰ると健康を回復するのが常であった。その妻のあどけない言葉を、詩人はうたった。

  智恵子は東京に空が無いといふ、
  ほんとの空が見たいといふ。

(略)

 そしてこの詩人夫妻が二本松の裏山の崖に腰をおろして、パノラマのような見晴らしを眺めた時の絶唱「樹下の二人」の一部に、

  あれが阿多多羅山、
  あの光るのが阿武隈(あぶくま)川。

 この詩と同様「ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡」っている秋の末、私もその丘へ上ってみた。

その後、実際に深田は安達太良山に登っていきます。

この他にも、『日本百名山』には、光太郎が詩に詠んだり、実際に登ったりした山がいくつか含まれています。岩手山、早池峰、磐梯山、赤城山、富士山、そして北アルプスの山々。そういうことを考えて手にとっていたら、結局、この本もレジに持って行ってしまいました(笑)。

ところで、『高村光太郎全集』には、深田の名が1回だけですが、出てきます。昭和21年(1946)3月、養徳社という出版社で編集にあたっていた喜田聿衛に宛てた書簡の一節です。

おてがミ及小包忝く拝受、深田さんの「津軽の野づら」にはリーチなど出て来るらしいのでよむのがたのしみに思へます。

『津軽の野づら』は昭和4年(1929)に深田の名で発表された小説です。初刊は同10年(1935)で、のちに養徳社から再刊されています。喜田はこの他にも亀井勝一郎の『大和古寺巡礼』などの自社刊行物を光太郎に贈呈しています。

さて、「津軽の野づら」、実際にはのちに深田と結婚する北畠八穂の作。八穂は青森出身。標準語で文章を書くことに難があったそうで、いわば深田との合作です。他にもそうした作品があり、深田と八穂が離婚したことにより、問題がややこしくなって、深田はいったん文壇から消えざるを得なくなります。その深田が復権したのは、『日本百名山』の執筆においてでした。

そのあたり、平成19年(2007)に朝日新聞社から刊行された『愛の旅人Ⅱ』という書籍に記述があります。

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この書籍には当会顧問・北川太一先生もご登場の「『智恵子抄』 高村光太郎と智恵子」も載っており、非常にいい本ですが、残念ながら絶版です。ただしamazonさんなどでは入手可能です。また、元は『朝日新聞』さんの土曜版の連載なので、記事としてはネット上に残っています。深田に関してはこちら。光太郎智恵子はこちら

というわけで、『日本百名山』、『愛の旅人Ⅱ』、ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月17日

平成13年(2001)の今日、東京オペラシティリサイタルホールで国際芸術連盟主催のコンサート「語りと音楽の世界」が開催されました。

岡野富士夫作曲、竹内知子語り、磯野鉄雄のギターで「組詩 智恵子抄 ~ギターと朗読のための~」がプログラムに入っていました。

ライヴ録音のCDがリリースされています。

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今月7日の『毎日新聞』さんに、光太郎の名が。光太郎がメインではなく、親友の荻原守衛に関する内容で、東京大学名誉教授、姜尚中氏のコラムです。 

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熊本出身の姜氏、かつてNHKEテレさんの「日曜美術館」に出演されていた頃、番組収録で信州安曇野の碌山美術館を訪れ、熊本と信州のつながりを実感されたそうです。

曰く、

つたのからまる教会風の碌山美術館には、高村光太郎と並び称される彫刻家・荻原守衛の作品が展示されているが、その守衛が夏目漱石の熱烈な愛読者であり、その号、碌山は、阿蘇を舞台にした漱石の『二百十日』の主人公のひとり、「碌さん」にちなんだらしいということが分かったのだ。

守衛の号は「碌山」。その由来は知られているようで意外と知られていない気がしますが、夏目漱石の短編小説「二百十日」(明治39年=1906)から採られています。守衛が漱石のファンだったためです。「二百十日」の登場人物の一人が「碌さん」。「碌さん」→「碌山」というわけです。

漱石は、明治29年(1896)、それまでの任地だった「坊ちゃん」の舞台、伊予松山から姜氏の故郷・熊本の旧制五高に赴任、同33年(1900)の英国留学に出るまでを過ごします。この地で中根鏡子と結婚しています。

「二百十日」は、熊本時代に同僚と阿蘇登山を試み、嵐にあって断念した経験を元に書かれました。主要登場人物は二人。「文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与える」べきだと豪語する「圭さん」。「坊ちゃん」を彷彿させられます。その威勢のいい言葉にうなずきながらも、逡巡し、それでも一生懸命生きようとする「碌さん」。

姜氏は、守衛が「圭さん」でなく「碌さん」に共感を覚えていることに注目し、次のように語っています。

「圭山」ではなく、「碌山」なのも、迷い、悩みながらも、「朋友を一人谷底から救い出す位の事は出来る」とつぶやく碌さんに、守衛が自分自身の姿を重ね合わせていたからではないか。迷いと思慕の情にあふれる「デスペア」や「女」、さらに毅然(きぜん)とした風格の「文覚」や「坑夫」などの代表作には、そうした守衛の弱さと強さが表れているように思えてならない。

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そしてご自分の中にも「碌さん」的な部分を見いだし、次のように結んでいます。

漱石や碌山とは比べようもないほど卑小だが、私の中にも碌さんに近いものがあるように思えることがある。そう思えば思うほど、熊本と長野はしっかりとした一本の糸で結ばれているようにみえる。

さながら「坊ちゃん」のように、某大学の学長職を投げ打って飛び出した氏は、「圭さん」に近いような気もするのですが……。


さて、光太郎。以前に書きましたが、文展(文部省美術展覧会)の評を巡って、漱石に噛みつきました。同様に、恩師・森鷗外にも喧嘩を売ったり(ただし、「文句があるならちょっと来い」と呼びつけられると、しおしおっとなってしまいましたが)と、「権威」というものにはとにかく逆らっていた光太郎。「圭さん」に近いような気がします。

歴史に「たら・れば」は禁物とよく言いますが、守衛と光太郎、名コンビとしての二人三脚が続いていたら、と思います。かえすがえすも守衛の早逝(明治43年=1910)が惜しまれます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月13日

平成10年(1998)の今日、短歌新聞社から大悟法利雄著『文壇詩壇歌壇の巨星たち』が刊行されました。

大悟法利雄は明治31年(1898)、大分の生まれ。若山007牧水の高弟、助手として知られた歌人。沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた他、編集者としても活躍しました。

同書には、「高村光太郎 父光雲をいたわる神々しい姿」という章があります。おそらく昭和3年(1928)の光雲の喜寿祝賀会での光太郎一家、戦前の駒込林町のアトリエの様子、戦後、中野のアトリエに「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り終えた光太郎を訪ねた際の回想などが記されています。

当方刊行の『光太郎資料』第37集に引用させていただきました。ご入用の方は、こちらまで。

一昨日行って参りました長野のレポート、2回目です。

メインの目的地、碌山忌会場の安曇野市の碌山美術館さんに着きました。

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昨年までは、有志での守衛の墓参が、午後に行われていましたが、今年は午前中だったため、見送りました。まずは守衛の彫刻作品がまとめて収めてある碌山館へ。こちらの彫刻群とは1年ぶりの対面です。

続いて第1展示棟に行き、光太郎の彫刻群を拝見。新しく「十和田湖畔の裸婦群像のための小型試作」(像高約56㌢)が増えていました。中型試作(同約112㌢・小型の約2倍)は以前からあり、これで中型と小型のそろい踏みとなりました。どちらも全国各地に存在するものですが、2種類が揃っているところはここだけではないかと思われます。

ちなみに原寸(同約220㌢・中型の約2倍)のものは十和田湖畔と、箱根彫刻の森美術館さんにしかありません(石膏原型は東京芸術大学さん)。

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さらに杜江館で展示中の守衛の絵画、第2展示棟で開催中の企画展「荻原守衛の軌跡をみる-書簡・日記・蔵書-」を拝見しました。肉筆のものは、作者の体温が伝わってきます。守衛の肉筆をまとめてみるのは初めてで、興味深く拝見しました。企画展の方では、光太郎から守衛宛の葉書も展示されていました。こちらも現物を見るのは初めてでした。

企画展の会場には、この日、同館から刊行された書籍『荻原守衛書簡集』が置いてあり、パラパラめくっていると、そこにお世話になっている武井学芸員がいらして、「こちら、どうぞ」ということで、同書を一冊戴いてしまいました。定価4,000円もするものですので、有り難いやら恐縮するやらでした。

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同書、それから碌山忌に関して、長野の地方紙『信濃毎日新聞』さんで報道されました。 

荻原碌山、命日に理解深める 安曇野の美術館開放

 安曇野市穂高の碌山(ろくざん)美術館は、同市出身の彫刻家荻原碌山(本名・守衛(もりえ)、1879~1910年)の命日の22日、第105回碌山忌を開いた。同館を無料開放し、学芸員が彫刻作品を解説。碌山が画家を目指して上京した19歳から晩年までの書簡約150通を収録した「荻原守衛書簡集」もこの日に合わせ発刊した。

 学芸員の武井敏さん(41)は来館者に、碌山の彫刻作品で残っているのは15種類だけで、同館では全てが見られると紹介。有名な作品「女」など、人妻の相馬黒光(こっこう)への恋愛と苦悩をモチーフに作られた作品が多いと説明した。美術館友の会会員ら十数人は、穂高の生家近くの墓も訪ねた。

 書簡集は、没後100年に合わせ発刊した作品集に続く記録集。東京、ニューヨーク、パリに滞在したそれぞれの時期に、郷里の先輩井口喜源治や長兄の荻原十重十(とえじゅう)らに宛てた手紙を、原本が残る物は全て写真で紹介し、思いが感じられるようにした。

 碌山が親しく交流した米国人画家・美術史家のウォルター・パッチに宛てた手紙(米スミソニアン博物館所蔵)は自筆の英文。武井さんは「芸術的な思いが深まっていく様子や、日露戦争など社会情勢への考えが読み取れる」とする。A4変形判、411ページ。同館で4千円(税込み)で販売する。

 同館は、碌山の書簡や日記など約50点を並べた企画展も5月24日まで開いている。4月27日は休館。

報道には記載がありませんが、守衛がロダンに宛てた書簡も掲載されており、そこには光太郎の名も。明治40年11月、当時留学でロンドンに住んでいた光太郎が守衛に会いにパリに来て、さらに二人でムードンのロダン邸を訪れた際のことが書かれています。その際はロダンは不在で、内妻のローズ・ブーレにパリ市内のアトリエを訪ねるように言われたものの、光太郎がロンドンに帰る都合でそれが果たせなかったと書かれています。この書簡については全く存じませんで、驚きました。

同書には、先述の光太郎から守衛宛の葉書も掲載されています。

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その後、杜江館2階で開催された碌山忌記念講演会「荻原守衛の書簡をめぐって」を拝聴しました。講師は信州大学名誉教授で同館顧問の美術史家・仁科惇氏。『荻原守衛書簡集』の編集委員長として、さまざまなご苦労があったというお話をされました。

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講師の仁科氏(右)を紹介する五十嵐館長(左)です。

続いて碌山研究発表ということで、武井学芸員による「新井奥邃(おうすい)と荻原守衛」。

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新井奥邃は思想家。守衛は留学に出る前、明治33年(1900)から翌年にかけ、明治女学校の敷地内に住んでいましたが、同じ時期に奥邃も明治女学校で教壇に立っており、そこで守衛は奥邃の思想に感化を得たらしいとのこと。

ちなみに光太郎も奥邃の思想に共感を示しています。守衛とも交流のあった画家の柳敬助に宛てた書簡(大正5年=1916)に奥邃の名が見えます。

余程以前に君から新井奥邃翁の「読者読」の一遍を恵まれた事がありました それから後僕は此の黒い小さな書を常に身辺に置いて殆と何百回か読み返しました そして此頃になつてだんだん本当に翁の言が少しづゝ解つて来た様に思はれます 其は意味が解つたといふので無しに僕の内の望む処と翁の言とがますます鏡に合はせる程一致して来たのを感ずる様になつたのです それて尚更愛読して自分の勇気をやしなはれてゐます 此事を君に感謝します 翁の言を集めた書が其後印行された事がありますか 若しあつたら其もいつか読みたいと思つてゐます かういふ書はくり返し読めばよむ程尽きぬ味が出て来ます

しかし、『高村光太郎全集』で、奥邃の名が出てくるのはここだけです。光太郎と奥邃については、今後の検討課題です。


講演会、研究発表が終わり、グズべりーハウスという棟で、毎年恒例の「碌山を偲ぶ会」。

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昨年から、要項に光太郎詩「荻原守衛」が印刷され、冒頭に参加者全員でそれを朗読するという試みが始められました。

参加者の方のスピーチもあり、今月2日の第59回連翹忌にご参加いただいた新宿中村屋サロン美術館さんの河野女史のスピーチも。

当方もスピーチさせていただき、来週の花巻高村光太郎記念館リニューアルオープンや、『十和田湖乙女の像のものがたり』について話して参りました。さらには来年が光太郎歿後60年、智恵子生誕130年という件も。(「企画展で取り上げて下さい」という意味です)スピーチというより、営業です(笑)。

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その後は愛車を駆って一路、千葉の自宅兼事務所まで。強行軍でしたが、有意義な1日でした。

以上、長野レポートを終わります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月24日

昭和5年(1930)の今日、東京向丘の大圓寺で、観音開眼大供養会が行われました。

像は光雲が顧問として監督に当たり、高弟の山本瑞雲が主任として作られた木彫仏です。さらにそれを原型として境内に露座の鋳造仏も開眼され、同じ像の木像と鋳像が同時に奉納されるという異例の事が行われました。

他にも大圓寺さんには光雲がらみの像が多く安置されており、いずれ行ってみようと思っています。

昨日は、光太郎の親友、碌山荻原守衛の105回目の命日、「碌山忌」ということで、信州安曇野の碌山美術館さんに行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

一昨年から、車でお伺いしています。その方が、電車の時間を気にしなくて済みますし、現地で動きがとれます。さらに、同じ方角で光太郎と関連のある人物を扱った美術館、文学館等を訪れるようにしています。一昨年は画家・村山槐多の作品が収蔵されている上田市の信濃デッサン館さん、昨年は安曇野市の臼井吉見文学館さん(臼井は編集者)を訪れました。

今年は、というと、2ヶ所に寄り道しました。1ヶ所目は、山梨県笛吹市の釈迦堂遺跡博物館さん。中央道の釈迦堂パーキングエリア(下り線)の裏手にあり、PAに車を駐めて、歩いていけます。

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こちらに寄るのはまったく予定外でした。そういう施設があるというのは何となく知っていましたが、単純にトイレ休憩のため、同PAに寄ったところ、看板が出ていて、「ああ、歩いていけるんだ」と知り、行ってみました。当方、古代史にも興味がありますので。

釈迦堂遺跡は中央道建設に際して発見された遺跡で、特に縄文時代の地層から1,000点を超す土偶が出土し、中には重要文化財に指定されたものもあります。同館は高台にあり、甲府盆地がよく見渡せます。あちこちに桃の花も。

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行ってみて、驚きました。同じ笛吹市にある青楓美術館さんとの共催企画で「津田青楓の描いた花たち」という企画展が開催されていたのです。全く存じませんでした。

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津田青楓(せいふう)は光太郎より3歳年上の画家。光太郎同様、パリに留学し、そこで光太郎と知り合って、一時は光太郎と親密な付き合いがありました。筑摩書房の『高村光太郎全集』第11巻と第19巻には光太郎の俳句が多数収録されていますが、その中のかなりの部分が津田に宛てて書かれた書簡から採録されたものです。
 
また、津田は智恵子とも知り合いで、以下の智恵子の残した言葉としてよく使われるものは、津田の回想『漱石と十弟子』に書かれています。

世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。

さて、釈迦堂遺跡博物館内へ。1階が企画展示でしたので、まずそちらを拝観。津田の描いた花の絵が約30点、展示されていました。館外の桃の花、館内には花の絵、心が和みました。

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2階は常設展示で、発掘された土偶などの遺物。こちらも興味深く拝見しました。

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時代が下って古墳時代の造型である埴輪に関して、光太郎は「埴輪の美と武者小路氏」という散文などに記述しています。ところが光太郎存命中にはまだ縄文時代についての研究がそれほど進んでおらず、土偶についての発言は確認できていません。もし光太郎が此等の土偶を見ていたら、どんな発言を残しただろうと思いました。

さて、再び中央道に戻って、八ヶ岳と南アルプスの間を抜け、長野方面へ。思ったより雲が多く、山容はきれいには見えませんでした。諏訪インターで一般道に下り、次の立ち寄り地、下諏訪町立今井邦子文学館を目指しました。今井は光太郎より7つ年下の歌人。大正4~5年(1915~1916)、光太郎彫刻のモデルを務めました。ただし、残念ながら彫刻は現存しません。写真撮影は、光太郎の実弟・豊周です。

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場所は諏訪大社の下社秋宮にほど近い、旧中山道から一本入った狭い道沿いです。邦子の父の実家で、元は茶店だった建物だそうです。幕末の和宮降嫁、江戸東下の際に行われた、現在で言うところの国勢調査的な記録が残っており、それによると間口4間半、畳数25畳だとのこと。ここで邦子は少女時代を過ごしました。

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入場は無料。2階が展示スペースになっており、原稿、書簡、作品掲載誌、遺品などが並んでいました。光太郎の彫刻の写真も。

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邦子の夫の健彦は、大正13年(1924)、当時の衆議院千葉2区から出馬し、当選。戦後まで代議士を務めました。当時の千葉2区は、当方の住む香取市や銚子を含む区域で、居住はしていなかったようですが、夫妻の足跡が残っています。健彦は銚子の名誉市民ですし、当方の住む香取市の香取神宮には、邦子の歌碑があります。そんな縁もあって、興味深く拝見しました。

その後、せっかく近くまで行ったので、諏訪大社下社秋宮へ。

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こういうところに来ると、清浄な気分になります。ところが、逆に邪悪な心で各地の文化財に油のような液体をまくという事件が発生していますが、何を考えてそういうことをやっているのか、さっぱり理解できません。先述の香取神宮も被害に遭っています。

桜もまだ残っていましたし、境内脇には展望台があって、諏訪湖が望めました。

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門前のそば屋さんで昼食。風情のある建物でした。他にも古い家並みが残り、こういうところは当方、大好きです。

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山菜そばと、天ぷらを単品で頼みました。右下はそばかりんとう。


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さて、また愛車に乗り込み、いざ、メインの碌山美術館さんへ。以下、明日。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月23日

大正9年(1920)の今日、福島油井村の智恵子の母・センに宛てて手紙を送りました。

銀座の園芸店からダリアの球根を送る手配をした旨、記述があります。このダリアは智恵子生家で美しく咲きほこっていたとのこと。

信州軽井沢からのイベント情報です。 

軽井沢町立中軽井沢図書館 ☆青木館長朗読会☆

   2015年3月14日(土) 14時00分から
  
 軽井沢町立中軽井沢図書館多目的室 軽井沢町大字長倉3037番地18

室生犀星 著  “我が愛する詩人の伝記より「高村光太郎」” を朗読します。

はじめにネットでこの情報を見つけた時は、図書館の館長さんというと、ステレオタイプの連想で胡麻塩頭の神経質そうなおじいさんだろう、そんなの聴きたがる人がいるのかな、と、勝手に思つたのですが、調べてみると、さにあらずでした。

「青木館長」は、元NHKアナウンサーの青木裕子さん。NHKを定年退職後の現在もフリーとしてNHKさんのラジオ番組「視覚障害ナビ・ラジオ」という番組に出演なさっているそうです。こちらは視覚障害者の方々向けのものだそうですが、その中で朗読を披露されることもあるとのこと。

さらに軽井沢に「軽井沢朗読館」を設立、朗読の活動無題にも取り組まれているそうです。

という方ですので、わざわざ「青木館長朗読会」と告知するのもうなずけますね。

お近くの方、ぜひどうぞ。

それにしても犀星の「我が愛する詩人の伝記」、オリジナルは昭和33年(1958)の刊行です。昨年は金沢の犀星記念館の市民講座で扱われましたし、なかなか色あせない魅力を放つものです。中公文庫で出ていた復刻版も絶版ですが、古書市場で手に入ります。ぜひお読み下さい。

軽井沢は犀星が昭和6年(1931)に別荘を建て、亡くなる昭和36年(1961)まで毎年夏にはそこで過ごしたそうです。その別荘が室生犀星記念館として公開されています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月24日

昭和57年(1982)の今日、東急百貨店日本橋店七階グランドホールで開催されていた「生誕100年記念 高村光太郎展 智恵子その愛と美」が閉幕しました。

2月19日からの会期でしたが、その前になんば高島屋で000の大阪展が1月21日~26日でした。いずれも6日間だけの開催でした。

そのわりには光太郎の彫刻が約50点、絵画が約20点、書が約40点、智恵子の紙絵も20点に油絵も1点、さらに光太郎智恵子それぞれの書簡約20点、光太郎詩稿約20点、著書も約30点と、大規模な展覧会でした。それだけの逸品が並んだのに、6日間ずつというのが信じられません。

ところで、この年は正確に言うと生誕99年ですが、もうすぐ100年ということで「生誕100年記念」と謳ったようです。

ちなみに来年、平成28年(2016)は、智恵子生誕130年、光太郎没後60年です。それを冠した企画展等をぜひ開催していただきたいものです。全国の美術館、文学館、イベント会社などの皆様、よろしくお願いいたします。

過日ご紹介しました登山系雑誌の『岳人(がくじん)』さんの最新号、2015年3月号が、昨日、発売になりました。

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表紙は畦地梅太郎の版画。いいですね。

特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」が、30ページほどで組まれています。

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そのうち、8ページが「高村光太郎と智恵子の上高地」。光太郎詩文と拙稿です。

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上高地は、大正2年(1913)の夏、光太郎智恵子が一ヶ月ほどを共に過ごし、ここで結婚の約束を結んだ場所です。その辺りの経緯と、のちに智恵子が心を病んでしまってから、光太郎がその当時を回想して書いた詩文などに触れてみました。

編集部からは、引用部分を除き2,000字程度という指定で、先日の「歴史秘話ヒストリア」ではありませんが、短い尺の中に収めるのに苦労しました(笑)。もっと書きたいことがたくさんあったのですが、その中の一部は他の方の記事に書かれていましたので、安心しました。

他に尾崎喜八や竹内てるよ、草野心平に北原白秋といった、光太郎と縁の深かった詩人も取り上げられ、また、現代の山岳詩人・正津勉氏の玉稿もあり、非常に読みごたえのある特集です。

大規模書店なら店頭に並んでいますし、アウトドア用品メーカーのモンベルさんのショップにも並びます。また、版元やAmazonなどのネット通販でも入手可能です。定価は680円+税。ぜひお買い求め下さい!


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月15日

昭和54年(1979)の今日、書道雑誌『墨美』288号で、光太郎の特集「高村光太郎遺愛 黄山谷 子瞻帖(しせんじょう)」が組まれました。

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黄山谷は、中国北宋の進士、黄庭堅(こうていけん)の号。草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。
 
光太郎は山谷の書を好み、最晩年には中野のアトリエの壁に黄山谷の書、「伏波神祠詩巻」の複製を貼り付け、毎日眺めていました。

「子瞻帖」は、黄山谷が師である蘇東坡の略歴を詩文にしたものです。光雲がその拓本を入手、光太郎がそれに惚れ込み、大切にしていたという品です。光太郎から書家の西山秋崖の手に渡りました。そうした経緯にも触れられています。

まずは新刊紹介です。

YAMAKEI CREATIVE SELECTION Frontier Books 山小町 -恋-

やぎた 晴著   山と渓谷社刊   発売日:2014年12月19日   定価 1,900円+税

版元サイトより

雄大な山に抱かれて成長するひとりの女性の姿を描く山岳小説。

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京都在住の保母にして山ガール・佳子と、安曇野出身で現在は東京でサラリーマン生活を始めた春生。ともに思い立って単独行に入った北アルプスで出会い、恋に落ちるというストーリーです。

台風の接近に伴う暴風雨に見舞われ、ハラハラドキドキの展開になります。このあたり、「タイタニック」を髣髴とさせますが、貴族の娘とプータロー、大惨事といったケレン味はなく、あくまで現実にありそうな話です。

また、明記されてはいませんが、昭和40年代が舞台のようで、レトロ感もあふれています。「歌声喫茶」「ラッパズボン」「おさげ髪」etc。

上高地も舞台の一つとなります。そこで、大正2年(1913)、光太郎智恵子が婚前旅行で上高地に1ヶ月程をともにしたことに、少しだけ触れられています。

ところで驚いたのは、オンデマンド出版であること。デジタル版と紙媒体があり、紙媒体の方は注文を受けてから製本、発送するというシステムになっています。楽譜などは以前からそういう形態で販売されていますが、通常の書籍もこうなってきたか、という感じです。

ところで「上高地」ということでもう1件。005

『山小町―恋―』版元の山と渓谷社刊行の雑誌『山と渓谷』と並ぶ有名な山岳雑誌に『岳人』があります。来月発行の3月号で、「言葉の山旅 山を詠う―上高地・北アルプス編―」という特集が組まれます。

今月号に載った次号予告には、「山を想えば人恋し、人を想えば山を恋し」。山々は時代を問わず人の心をひきつけてやまない。山を詠い、人を詠い、自らの心を詠う。詩人たちが綴る言葉の世界に導かれ、山へ思いを馳せてみませんか。」とあります。

この中で、光太郎智恵子も扱われます。実は、岩手花巻の㈶ 高村光太郎記念会さんを通じ、当方に執筆依頼がありました。光太郎詩文と拙稿とで8ページ程になります。

光太郎智恵子以外には、若山牧水を取り上げるそうです。

発売は2月14日。大きな書店なら店頭に並びますし、アウトドア用品メーカーのモンベルのショップにも並びます。また、ネット通販でも入手可能。ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月29日

大正5年(1916)の今日、美術評論家の坂井犀水の慰労会に出席、彫刻「ラスキン胸像」を贈りました。

下記は当時の『読売新聞』です。

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「ラスキン胸像」は、ニューヨークで光太郎が師事したガットソン・ボーグラムの模刻です。

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長野県の松本平地区で発行されている『市民タイムス』という地方紙があります。そちらの一面コラム「みすず野」で、昨日、光太郎に触れて下さいました。 

みすず野 1月23日(金)

雪はしんしんと降る、と言う。雨はさんさん、ざんざんであり、日はさんさんと照る、と言う。日本語の表現は多様で、美しく、趣深い。雪のしんしんは、漢字では「深深」、夜がしんしんと更ける、しんしんと冷えると同じで、ひっそり静まり返るさまを表す◆確かに、雪が降り積もる日は、昼間でも車のエンジン音など音が吸い込まれて、とても静かである。「雪白く積めり。/雪林間の路をうづめて平らかなり。/ふめば膝を没して更にふかく/その雪うすら日をあびて燐光を発す。(後略)」と詠ったのは、詩人で彫刻家の高村光太郎だ◆光太郎は、昭和20(1945)年4月の東京空襲で焼け出され、宮沢賢治との縁で岩手花巻に疎開、敗戦後は花巻郊外の山小屋に移り、独り農耕自炊の生活を7年間続けた。冬は深い雪に閉ざされ、つらく厳しいものだったが、自らに戦争責任の罪を科した。「雪白く積めり」の詩には、その覚悟が込められている◆中信地方も湿った雪が降り、交通機関は乱れ、多くの人が雪かきに追われた。山間部は大雪だろう。高齢者宅など心配になる。車の運転に焦りは禁物、余裕を持って出勤を。
 
 
引用されている詩「雪白く積めり」は昭和20年(1945)、花巻郊外太田村の山小屋に移って間もない頃に書かれたものです。この詩を刻んだ碑が、のちに山小屋近くに建てられ、毎年5月15日には、この碑の前の広場で光太郎を偲ぶ高村祭が行われています。
 
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こちらが、光太郎が暮らしていた当時の山小屋の写真。
 
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こちらは去年の今頃の山小屋の写真です。
 
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この冬は、東北でも信越方面でも積雪量が多く、雪崩などの被害もかなり報道されています。暦の上ではもうすぐ立春。気温はまだまだ低い状態ですが、昼間の陽射しには、確実に春の息吹が感じられます。雪国の皆さん、もう少しの辛抱です。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月24日

昭和28年(1953)の今日、終の棲家となった中野のアトリエに、十和田湖畔の裸婦群像制作のための機材、資材類が届きました。
 
当日の日記から。
 
大宮工作所より回転台、心棒届く、又板も届く、 小坂さんくる、とりつけ夕方になる、
 
「小坂さん」は小坂圭二。裸婦像制作の際に助手を務めた、新制作派所属の彫刻家です。下の画像、左の人物です。
 
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「回転台」は、上の画像で、像の足もとに写っています。もともと軍用で、高射砲の台座に使われていたものだということです。

先週22日の土曜日、長野県白馬村を震源に起こった最大震度6弱の長野県北部地震。負傷された方が出たり、建造物の倒壊があったりと、心が痛みますが、亡くなった方がいなかったというのが何よりでした。
 
昨日の『信濃毎日』さんの報道です。

善光寺の仁王像が破損 「吽形」衣の先端折れる

 長野市の善光寺で26日までに、仁王門にある仁王像の一部が壊れているのが見つかった。県北部で22日夜に起きた地震の影響とみられ、善光寺は今後、修復する。
 仁王像は、向かって左側が口を開けた「阿形(あぎょう)」、右側が口を閉じた「吽形(うんぎょう)」。善光寺事務局によると、壊れていたのは吽形がまとう細長い衣「天衣(てんね)」の先端部分。寄せ木造りの接ぎ目付近で折れ、長さ1メートルほどの天衣の先端部分が地面に落ちた。
 現在の仁王門は1918(大正7)年に再建されたもので、仁王像はそれに合わせて造られた。彫刻家の高村光雲(1852〜1934年)と、弟子の米原雲海(1869〜1925年)の合作。文化財には指定されていない。
 
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大事にはいたらずに済んだようでよかったと思います。この像は一丈六尺、5メートル近い像ですので、倒れれば山門自体も大破したでしょうし、人が下敷きにでもなったら、ひとたまりもありません。
 
ちなみにこちらが開眼当時のお姿。古絵葉書です。
 
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足もとのこの部分が、バッキリいってしまったようですね。
 
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まずは被災した方々の支援でしょうが、そのあたりが落ち着いたら、きちんとした修復が為されることを望みます。
 
しかし、記事を読んで気になったのは、最後の「文化財には指定されていない。」の一言。
 
たしかにその通りです。というか、光雲の代表作の一つ、「老猿」は国の重要文化財に指定されていますが、それ以外にあまたある、光雲作の仏像、銅像などの類で文化財指定がされているものはほとんどないのではないかと思います。有名な「西郷隆盛像」や「楠正成像」ですらそうです。光雲作に限らず、近代の仏像、銅像で文化財指定を受けているものは、やはりほとんどありません。
 
まだ「新しい」という感覚なのかも知れません。しかし今年は元号に換算すれば明治147年、大正103年、昭和89年です。そろそろ近代の作品も、どんどん文化財指定対象として考えていい時期ではないのでしょうか。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 11月28日
 
昭和24年(1949)の今日、山形市美術ホールで開催されていた「智恵子遺作切抜絵展覧会」が閉幕しました。
 
戦時中、焼失を懼れ、光太郎は智恵子の紙絵を山形、茨城取手、そして花巻の三ヶ所に分けて疎開させていました。そのうち山形の真壁仁に預けられたものの中から作品を選択、この展覧会が開催されました。
 
チラシ、パンフレット等お持ちの方、あるいはそれらが保管されている図書館さん等の情報をお持ちの方は、こちらまでお知らせ願えれば幸いです。

昨日、NHK Eテレさんの「日曜美術館 野の花のように描き続ける ~画家・宮芳平」を見ました。光太郎とも交流のあった無名の画家、宮芳平についてでした。宮に関しては、ほとんど知識がなかったこともあり、非常に興味深いものでした。
 
残念ながら、光太郎の名は出ませんでしたが、森鷗外との関わりが比較的大きく取り上げられていました。以前にも書きましたが、鷗外の短編小説「天寵」の主人公が宮をモデルとしています。
 
宮は、鷗外が審査委員長をしていた文展(文部省美術展覧会)に応募、しかし、渾身の作だったにもかかわらず落選。そこで、宮はなんと、鷗外の自宅に乗り込んで、なぜ落選なのかと問い詰めたそうです。さすがに鷗外は大人です。宮の絵はいい絵だと褒めました。大衆や審査員におもねるような絵ではない、と。結局、そういう絵ではないから入選しない、ということなのでしょうか。
 
当方、同じように、文展に渾身の作で応募しながら落選した智恵子を重ねて見ました。ほんの一握りを除いて、多くの画家(画家志望者)が、同じような道をたどったのではないかという気がします。審査委員長の自宅に押しかけたのは、他にいなかったと思いますが……。
 
その後、鷗外は宮を気に入り、作品を購入してやったり、「見聞を広めるように」と、知り合いの文化人の名刺を渡したりしたそうで、おそらく、そこで光太郎も紹介されたのではないかと推測しました。
 
その後、生活上の理由もあり、宮は信州に美術教師として赴任していき、そこで生徒に絵を教える中で、自身の作風も変化していきました。番組サブタイトルの「野の花のように描き続ける」は、このあたりからの作風を表しています。
 
さて、「日曜美術館 野の花のように描き続ける ~画家・宮芳平」。8月10日(日)  20時00分~20時45分に再放送があります。見逃した方はご覧下さい。
 
関連する展覧会がこちら。
期 日 : 平成26年 7月19日(土)~9月7日(日)
会 場 : 豊科近代美術館
休館日 
 7月22日 28日 8月4日 11日 18日 25日 9月1日
   9:00~17:00 (入館受付は16:30まで)
   一般600円(500円) 高校大学生400円(300円) 中学生以下無料
    
  ※( )内は20名以上の団体
主催  安曇野市豊科近代美術館 (公財)安曇野文化財団 読売新聞社 美術館連絡協議会
共催 TSBテレビ信州
 
当館の主要収蔵作家のひとり、画家・宮芳平(1893-1971)の生誕120年を記念した展覧会を開催します。これは茅野市美術館、練馬区立美術館、島根県立石見美術館、新潟県立近代美術館、そして当館へと巡回する宮にとって生前・没後をあわせて最大級の展覧会です。
1893年、新潟県で生まれた宮芳平は旧制柏崎中学を卒業後、父の許しを得て、1913年、東京美術学校(現東京藝術大学美術学部)に入学します。1914年、あらん限りの力をふりしぼって描いた《椿》が文展に落選し、落選の理由を聞きに文展の審査委員であった森鷗外を訪ねた縁で知遇を得ます。その後、森鷗外は宮を主人公のモデルとした短編小説『天寵』を執筆しています。同じころ、実業家であった父の死や、学生結婚、出産などで生活は困窮し、東京美術学校を退学します。貧困の生活の中、東京から柏崎、平塚へと住処を移しますが、師事をしていた洋画家・中村彝の紹介で、1923年、長野県諏訪で美術教師の職に就きます。そして、諏訪で35年間の教師生活を送ります。裕福とは言えない生活の中で、宮の家族や諏訪の自然、学校生活や個人通信誌『AYUMI』による教え子など関係した人々との心の対話が宮の画家としての歩みを支え続けました。退職後は教え子や知人からアトリエ兼住居を贈られ、終の住処を得ます。本展では、初期のロマンティシズムにあふれる作品から、諏訪の生活の中で生まれた風景や人物等の作品、さらに、晩年のローマ、エルサレム等をまわる聖地巡礼の旅により生まれた「聖地巡礼シリーズ」や「太陽シリーズ」までを展示します。油彩画に加え、素描、銅版画、ペン画を通して、純粋、誠実に芸術を求め、一心に生きた画家・宮芳平の歩みをみつめます。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 8月4日
 
昭和28年(1953)の今日、彫刻「大町桂月記念メダル」の制作を始めました。
 
十和田湖畔の裸婦群像除幕式(同年10月21日)の際、記念として、関係者一同に配布された、光太郎制作になるブロンズのメダルです。このメダルには十和田の三恩人―大町桂月、武田千代三郎、小笠原耕一―の名が刻まれ、さらに桂月の肖像をレリーフにしてあります。百五十個が鋳造されました。

この年の光太郎日記には、八月に制作を始め、翌月には完成したこと、アトリエを訪れた桂月の子息が「亡父によく似ている」と語ったことなどが記されています。この後に取りかかった「倉田雲平胸像」は未完のまま絶作となったため、完成した彫刻としては、このメダルが光太郎最後の作品です。

現在、石膏原型は高村家に残り、各種企画展にはこちらが出品されています。鋳造されたメダルは、十和田市の奥入瀬渓流館、青森市の青森近代文学館で見ることができます。

追記 奥入瀬渓流館のものは、その後、十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」に移されました。

一昨日、信州安曇野碌山美術館さんで開催された第104回碌山忌に行って参りましたが、その前に立ち寄った所があります。
 
同じ安曇野市にある臼井吉見文学館さん。
 
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臼井吉見は編集者、作家。やはり安曇野の生まれです。
 
昭和15年(1940)、同郷の古田晁らと筑摩書房を設立、同21年(1946)、雑誌『展望』を創刊、編集長に就きます。
 
『展望』には、発刊の年に詩「雪白く積めり」が掲載された他、翌昭和22年(1947)には20篇からなる連作詩「暗愚小伝」が載るなど、光太郎作品がたびたび掲載されました。
 
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「暗愚小伝」は、ある意味、光太郎のターニングポイントになった作品群です。戦時中、国策協力の詩を乱発していた光太郎が、敗戦後、自分の詩が多くの前途有望な若者を死地に追いやった反省から、「自己流謫」……自分で自分を流刑に処するという境地に至って書かれました。20篇の連作詩で、幼少期からその当時に至る自己の精神史を語っています。
 
「暗愚小伝」の載った号に記された「編輯後記」で、臼井はこう書いています。
 
 つづいて二回の戦火に遭ひ、遠く岩手の山奥にみづからの手でしつらへた住ひに孤坐する高村光太郎氏が、想を構へること二年間、稿成つて珠玉二十篇を寄せられたことは感謝にたへない。歌ふところは孤独な老詩人の生涯の精神史であり、題して暗愚小伝といふ。電燈のつかない山小屋の榾火のあかりで鏤骨の推敲を重ねられた夜々をおもひ感慨なきを得ない。この詩人の数多い詩業のなかで本篇の占める特異な位置と意味については贅言するに及ぶまい。
 
掲載誌の編輯後記ということもあり、ここでは褒めています。しかし、これは言わば「建前」。昭和48年(1973)に有精堂から刊行された「日本文学研究資料叢書 高村光太郎・宮沢賢治」所収の「高村光太郎論」では、「本音」が出ています。
 
詩稿を手にして、ぼくはいたく失望したことをいまでも覚えている。これをかきあげないかぎり、一行も他の文章はかけないとまで言われ、骨にきざむ思いで苦心されたものであっただけに、いたましい思いなしには読み通せないものであった。そこには詩のリズムは消え失せて、説明ふうの言葉だけが並んでいたといっても過言ではなかった。
 
編集者というもの、なかなか一筋縄で000はいかないものです。
 
さらに臼井は、昭和39年(1964)から、実に10年かけて長編大河小説『安曇野』全五巻を書きました。新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻、木下尚江、荻原守衛、井口喜源治ら、安曇野に生きる人々の群像が描かれています。
 
第二部では守衛との絡みで光太郎も登場します。
 
さて、安曇野市臼井吉見文学館さん。
 
その『安曇野』の原稿をはじめ、臼井の遺品や著書、蔵書、揮毫、書簡などが展示されています。平日ということもあり、他に入場者もなく、学芸員の方が細かく説明して下さいました。ありがたいかぎりでした。
 
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光太郎の原稿や、臼井宛の書簡の類はないかと期待していたのですが、そういうものはないとのこと。その点は少し残念でした。
 
安曇野方面には、他にも光太郎とゆかりのあった人物に関わる文学館、美術館のたぐいがたくさんあります。これからも、毎年、碌山忌にはお邪魔すると思いますので、そうした施設を毎年少しずつ制覇していきたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月24日

平成9年(1997)の今日、NHK総合テレビで放映された「夢用絵の具」で、智恵子が扱われました。
 
サブタイトルは「ふたつの緑 高村智恵子」。003
 
この番組は毎回一つの「色」を軸に、その色と関わりの深い一人の人物をからめて描くというコンセプトの45分番組でした。平成8年(1996)の11月に単発で、その後、同9年の4月から翌年3月まで1年間、毎週木曜日の夜に放映されました。
 
MCは堺正章さん、大島さと子さん、テーマソングは辛島みどりさん。智恵子の回のゲストは浅野ゆう子さんでした。
 
「日本初の印象派宣言」とも言われる光太郎の評論、「緑色の太陽」に触発され、画家への道を目指す智恵子。しかし太平洋画会では、師・中村不折に人体を描くのに緑の多用は避けるべき、とたしなめられます。
 
絵画制作に絶望後、心を病んだ智恵子が作り始めた紙絵。そこにも鮮やかな緑が……。
 
平成10年(1998)には、好評だった回の内容をまとめた『夢用絵の具 心を染めた色の物語』(中村結美/夢用絵の具プロジェクト著、駿台曜曜社)が刊行されました。

昨日、信州は安曇野に行って参りました。光太郎の朋友・荻原守衛(碌山)の忌日・碌山忌だったためです。
 
会場は安曇野市の碌山美術館さん。
 
昨年は雪だったことを思い出し、ヒヤヒヤしながらハンドルを握りましたが、今年は大丈夫でした。ただし、夕方にはやはり寒いと感じましたし、帰りの道中、八王子付近では土砂降りの雨に見舞われました。
 
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先週の福島同様、まだ桜の花が残っていました。ヤマブキや連翹も花盛り。
 
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こちらは館の庭にある光太郎の詩碑ですが、右上に連翹が写っているのがおわかりでしょうか。以前は気がつきませんでしたが、光太郎詩碑があるから連翹を植えて下さっていたとしたら、ありがたいことです。
 
午後3時頃、碌山美術館さんに到着。所館長、学芸員の武井氏、それから今年の連翹忌にご参加下さった五十嵐理事といった顔なじみの方々にお出迎えいただきました。
 
まずは碌山館で、今年1月と2月にテレビ東京系「美の巨人たち」で取り上げられた絶作の「」をはじめ、1年ぶりに守衛の彫刻の数々を拝見しました。
 
第一展示棟では、光太郎ブロンズ。昨年、千葉市美術館他で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」でお借りした「腕」、「園田孝吉胸像」、それから「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」、「手」、さらに新しく購入した「倉田雲平胸像」。
 
第二展示棟では、企画展「小品彫刻の魅力ー動きの表現-」が昨日から始まり、ここにも光太郎の「裸婦坐像」が展示されていました。他には橋本平八、戸張孤雁など。
 
下の画像は館で販売しているポストカードです。
 
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午後4時、例年通り車に分乗して、守衛の墓参。現地で荻原家当主の義重氏から興味深いお話を色々うかがえました。守衛の墓標は画塾・不同舎の先輩、中村不折の筆になるものですが、「故荻原守衛君之墓」と書かれた揮毫から、遺族が違和感を感じて「君」の字を除いたとのこと。その「君」の字だけ、荻原家に伝わっていたそうです。他にも荻原家が改宗して、戒名も変わった話など。
 
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墓参の後、再び館に戻り、午後5時から学芸員の武井氏による研究発表会。
 
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明治41年(1908)、欧米留学から帰る途中で立ち寄ったイタリア、ギリシャ、エジプトでの足取りと、その時に描かれたスケッチブックに関する考察でした。帰国時の守衛の足取りはまだ不明な点が多いそうです。ただ、スケッチブックにはギリシャのアクロポリスやエジプトのピラミッドも描かれているとのこと。
 
ちなみに光太郎は翌年帰国しましたが、ほとんど船中無一文だったため、寄港地のどこにも上陸しなかったそうです。
 
後述する「碌山を偲ぶ会」の席上でも、参会者の方からお話が出ましたが、守衛は日本郵船の因幡丸で明治41年(1908)の3月13日に日本に着いたらしいとのこと。
 
当方、一昨年、高村光太郎研究会の研究発表で、やはり欧米留学時の光太郎の船旅について発表した関係で、そうした船を巡る話は興味深いものがありました。
 
午後6時15分。館内のコテージふうの施設、グズベリーハウスにて、「碌山を偲ぶ会」。昨年に引き続き、お邪魔しました。
 
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はじめに光太郎の詩「荻原守衛」(上記の詩碑に刻まれています)を参会者全員で朗読。光太郎にふれていただき、ありがたいかぎりでした。
 
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その後は会食しつつ、いろいろな方のお話を聞いたり、当方もスピーチをしたり、ヤマハの文化財級のオルガン伴奏で「ふるさと」をみんなで歌ったりと愉しい時間を過ごしました。
 
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午後8時過ぎ、散会。一路、千葉の自宅に帰りました。
 
碌山忌、今年で104回目だそうです。ということは、まだ58回の連翹忌と違い、もう守衛本人を知っている方はいらっしゃいません(連翹忌でも光太郎本人を知っている方はだいぶ少なくなりましたが)。それでも地元・安曇野の方々を中心に、守衛の魂を受け継いでいこうという気概が感じられます。末永く続けていって欲しいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月23日

平成20年(2008)の今日、故・小沢昭一さんのCD「昭一爺さんの唄う童謡・唱歌」がリリースされました。
 
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光太郎作詞、飯田信夫作曲の戦時歌謡「歩く歌」が入っています。
 
以下、小沢さんが亡くなった一昨年のこのブログからコピペです。
 
この歌が作られたのは昭和15年(1940)、オリジナルのレコードとしては「侍ニツポン」「隣組」なども歌った徳山璉(たまき)によるものなどがビクターから発売され、ヒットしました。
 
また、曲と曲の合間には、小沢さんの語りによるそれぞれの曲の解説など。「歩くうた」に関しては「しつこい歌」とおっしゃっています。たしかに、全部で4番まであり、その中で「あるけ」という単語がなんと48回も出てきます。
 
しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、このCDでは1,2番のみが歌われています。
 
光太郎自身、しつこさに辟易したわけでもないのでしょうが、後に詩集『をぢさんの詩』に収録した際、歌としての3番をカットしています。

信州安曇野の碌山美術館様より、同館館報の第34号をいただきました。B5判、72ページもある分厚いものです。ありがとうございます。
 
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表紙は同館にて新しく収蔵した光太郎彫刻「倉田雲平胸像」。長野出身の彫刻家・酒井良氏が解説されています。
 
十和田湖畔の裸婦像制作後に取り組み、結局、未完のまま光太郎は歿してしまいました。しかし、未完ゆえの荒々しいタッチが不思議な迫力をかもし出している彫刻です。モデルは日華ゴム(現・ムーンスター)の創業者・倉田雲平です。
 
後半、光太郎の甥・高村規氏による「伯父 高村光太郎の思い出」が掲載されています。
 
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昨年4月、同館で催された碌山忌記念講演会の筆録です。
 
こちらは18ページもあり、非常に読み応えがあります。内容的にも、近親者として見た光太郎の様々なエピソードが紹介されており、非常に興味深いものです。表紙の「倉田雲平胸像」についても記述があります。
 
他にも学芸員の武井敏氏による「碌山研究 荻原守衛のイタリア・エジプト旅行② ―フィレンツェ篇―」、「美術講座 ストーブを囲んで 名誉副館長荻原孝子さんを語る 碌山の芸術に捧げた生涯」など、興味深い記事が満載です。
 
4/2(水)の連翹忌にご参加頂ける方には、無料でお配りいたします。
 
それ以外の方、お問い合わせはこちらまで。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月26日

昭和19年(1944)の今日、茨城取手の長禅寺で、講話を行いました。
 
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取手には、光太郎と親交の深かった宮崎仁十郎・稔の親子が住んでいました。のちに戦後になって、光太郎が仲介して、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と稔が結婚します。
 
宮崎家との関係から、長禅寺には光太郎の筆跡を刻んだ碑が二基現存しています。一基は昭和14年(1939)に建てられた「小川芋銭先生景慕之碑」。小川芋銭(うせん)は日本画家。取手に近い牛久に暮らし、河童の絵を描き続け、やはり宮崎家と交流がありました。もう一基は昭和23年(1948)建立の「開闡(かいせん)郷土」碑。ともに題字のみ光太郎の揮毫です。
 
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左:「小川芋銭先生景慕之碑」  右:「開闡郷土」碑
 
長禅寺は戦時中、錬成所という社会教育のための機関が置かれていたとのことで、ここで光太郎の講話が行われました。やはり宮崎家の肝煎りです。聴衆は40名程。母についての話があったということですが、それ以上詳しいことは不明です。

福島の現代詩研究会様より、同人誌『現代詩研究』71号をいただきました。
 
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二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」代表の熊谷健一氏が書かれた「智恵子光太郎婚約の地を訪ねて ―智恵子のまち夢くらぶ 第九回研修の旅―」が2ページにわたり掲載されています。
 
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夢くらぶさんでは毎年、光太郎智恵子ゆかりの地への研修旅行を行っており、今年は信州上高地、安曇野へ行かれた由。
 
同人誌の刊行にしても、研修旅行にしても、それから過日ご紹介したモンデンモモさんのように音楽を通しての顕彰活動。こうした地道な取り組みには本当に頭が下がります。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月10日

大正14年(1925)の今日、光太郎の母・わかが大腸カタルのため歿しました。
 
わかは数え68歳でした。昨日は光太郎の姉・咲の命日。今日は母・わかの命日。こういうこともあるんですね。
 
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4/22(月)に安曇野市穂高の碌山美術館で行われた碌山荻原守衛の命日「碌山忌」のレポートです。
 
午後から館の庭で地元の皆さんによるコンサートがありましたが、そちらは欠礼いたしました。4時頃に「碌山友の会」の方などが車を出してくださり、4㎞ほど離れた場所にある守衛の墓参に行きました。
 
その後、5時から研究発表ということで、学芸員補・濱田卓二氏による「荻原守衛と片岡当(まさ)の交友-岡山の女(ひと)にて予の最親友なり」が行われました。
 
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守衛は、はじめ画家を志し、明治32年(1899)に上京、画塾・不同舎に通うため、明治女学校の敷地内にあった草庵で1年半ほど暮らします。
 
一方の片岡当は守衛より一つ年上。守衛が東京で暮らしていた頃、明治女学校に在学しており、ここで二人の交流が始まったとのこと。
 
守衛は明治34年(1901)に留学のため渡米。しかし、苦労の連続でした。その時、折れそうになる心を救ったのが片岡当からの手紙で、それを読んで一念発起、再び頑張ることができたそうです。そんな縁で守衛は恩人の井口喜源治に宛てた手紙の中で、当を「岡山の女(ひと)にて予の最親友なり」と紹介していたわけです。
 
その後、明治37年(1904)にロダンの「考える人」を見て彫刻に転向、同39年(1906)にニューヨークに来た光太郎と知り合い、やがて意気投合します。
 
相前後して帰朝した守衛と光太郎、共に手を携えて新しい彫刻を日本に根付かせるつもりでいましたが、明治43年(1910)、守衛は急逝。光太郎の衝撃はいかばかりであったことか……。
 
その一端を示すのが、穂高からやはり親友だった陶芸家のバーナード・リーチに送った以下の葉書です。
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殴り書きのような文字、そして文面からは、同志を失った悲しみと、そして怒りも感じられます。
 
片岡当はその頃、郷里岡山で教員をしていたそうですが、守衛の死を新聞で知り、日記にその衝撃を記しています。勤務先の学校でその記事を目にして涙を流したこと、自宅に保管してあった守衛からの来翰21通(現存せず)を引っ張り出して感懐にふけったことなどが記されています。
 
当は、翌年には穂高の守衛の墓に詣で、守衛の実家の人をして「あんな女性が奥さんになってくれていたらよかった」と言わしめたとのこと。その後、官吏と結婚し京城に渡り、終戦後に帰国。昭和36年(1961)に亡くなったそうです。
 
こうした経緯はすでに知られていたことだそうですが、濱田氏の発表では、岡山市内の当の実家のあった辺りの様子、当の日記の問題のページの画像などが提示され、また、明治女学校内にあった守衛の暮らした草庵の場所等も特定したり、興味深いものでした。
 
サプライズがありました。当のお孫さんにあたる岩田圭二氏が西東京市からいらしていました。氏の話によれば、当はその晩年に守衛が好きだったと、近親者にもらしていたそうです。
 
ドラマチックですね。
 
研究発表のあと、館内のグズベリーハウスという建物にて、「碌山を偲ぶ会」が催されました。山田理事長、所館長をはじめ館の皆様や、荻原家の現当主の方、守衛研究者の仁科惇先生、先ほどの岩田氏、「碌山友の会」の皆さんなど、約30名ほどでしたか、飲んで食べて、守衛について語り合いました。当方も簡単にスピーチ。
 
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長野県出身のシンガーソングライター、三浦久氏も参加されており、ずばり「碌山」という曲の入ったCDアルバムをいただいてしまいました。ありがとうございます。

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8時過ぎにお開きとなり、それから愛車を駆って千葉に帰りました。さすがに自宅に帰り着いたのは日付が変わってからになりましたが、有意義な2日間でした。
 
碌山忌、碌山を偲ぶ会、参加は自由のようです。当方、他に何もない限り毎年参加することになりそうです。ぜひ皆さんも足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】4月24日

平成16年(2004)の今日、福島県立美術館で企画展「高村光太郎展」が開幕しました。

同展はその後、東京の損保ジャパン東郷青児美術館(7/7~8/29)、広島のふくやま美術館(10/1~11/28)を巡回しました。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛の命日・碌山忌に参加のため、1泊2日で長野に行って参りましたのでレポートいたします。
 
21日(日)の朝、長野に向けて出発しました。昨年は電車で行ったのですが、どうも車で行った方が早いし、現地で動きがとれると考え、今年は自家用車で行きました。観測史上もっとも遅い雪だったそうで、中央道から長野道に入ったあたりではまだ雪が降っていました。

昼過ぎに安曇野の碌山美術館に到着000。この日は記念講演ということで、午後1時半から光太郎の令甥・髙村規氏の「伯父 高村光太郎の思い出」がありました。

氏は光太郎の実弟で、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を継いだ鋳金家の豊周(とよちか)のご長男です。
 
豊周はほとんどの光太郎塑像の鋳造を担当し、のちに鋳金の道で人間国宝にも選ばれました。家督を継いだため、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の155番地の光雲邸に住み、氏は現在もここで生活なさっています。
 
光太郎も明治45年(1910)に同じ林町の25番地にアトリエを建ててもらって独立するまでここで暮らしていました。
 
アトリエ竣工後は光雲邸は「155番地」、光太郎アトリエは「25番地」と、お互い番地で呼び合っていたそうで、氏も光太郎を「25番地の伯父さん」と呼んでいたそうです。
 
題目の通り、幼少年期から青年期にかけての光太郎の思い出がいろいろと語られ、聴衆は興味深げに聞き入っていました。
 
碌山忌自体は翌日の22日なので、当方、この日は長野に1泊しました。安曇野から1時間ほどの上田市にある別所温泉に宿を取っておきました。
 
別所温泉、光太郎は昭和2年(1927)の7月に白根、草津などとともにこの地を訪れています。ただ、どの宿に泊まったなどの詳細は不明です。
 
以前のブログにも書きましたが、当方にとっては、麓の塩田という地区に父親の実家があり、子供の頃から慣れ親しんだ温泉です。
 
ゆっくり温泉につかり、翌日。碌山美術館には16時からの守衛墓参に間に合えば良いと思い、別所から塩田、隣接する青木村、旧武石村などにある寺社仏閣、城跡などを探訪しました。当方先祖の墓参りも致しました。塩田は鎌倉時代に北条氏によって栄え、戦国時代にはかの武田信玄も居留した地です。「信州の鎌倉」と呼ばれ、平安末から鎌倉にかけての寺社仏閣が数多く残されており、木造三重の塔や茅葺きの堂宇、変わった形の神社建築など、歴史遺産の宝庫です。また、旧武石村には当方の先祖(真田家に仕えていたそうです)が開いたという山城の跡があり、ここは今回初めて訪れました。

また、塩田の一角にある信濃デッサン館さんも観て参りました。光太郎と縁のあった画家、村山槐多の作品などが展示されています。
 
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千葉ではとっくに散ってしまった桜や連翹も真っ盛りでした。しかし、雪と花が同時に見られるとは思っていませんでした。
 
15時過ぎに安曇野に到着、守衛の墓参に参加、その後は学芸の方による研究発表と、「碌山を偲ぶ会」という懇親会です。そちらはまた明日。
 
【今日は何の日・光太郎】4月23日

昭和29年(1954)の今日、筑摩書房から刊行の『現代日本文学全集24 高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治』の口絵用に、「いろはにほへと」と揮毫しました。

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【今日は何の日・光太郎】4月22日

明治43年(1910)の今日、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛が新宿中村屋にて没しました。

というわけで、今日は碌山忌。守衛の故郷・信州安曇野の碌山美術館で昨日からイベントが開かれています。

昨日は記念講演会で、光太郎の令甥・髙村規氏による「伯父 高村光太郎の思い出」がありました。

当方、昨日朝に千葉を立ち、自家用車にて現地入り。講演会を聴いた後は安曇野からひと山越えて上田市の別所温泉に宿泊しました。

今日も碌山美術館で、研究発表「荻原守衛と片岡当の交友ー岡山の女(ひと)にて予の最親友なり」や地元の皆さんによるコンサート、守衛の墓参などが行われます。

このあとまたひと山越えて行って参ります。しかし昨日は季節はずれの雪。路面凍結に気を付けます。

詳しくは帰ってからレポートします。

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