カテゴリ:東北以外 > 長野県

以前から行われていたようなのですが、一昨年までは気づきませんでご紹介していませんでした。今年はこれで項目を立てます。

秋の紅葉ライトアップ&夜間無料開放

期 日 : 2024年11月2日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 17:00~19:00
料 金 : 無料

本年も一晩だけ、 碌山館をライトアップ✨✨🍁
雨天中止 無料開放
展示室は碌山館のみご覧いただけます。
暖かい服装でお出掛けください。
ぜひお楽しみください📷
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013通常、17時で閉館となる同館ですが、この日に限りそこから2時間延長でライトアップが行われるとのこと。

ライトアップされるのは本館的な碌山館のみ。その竣工(昭和33年=1958)を見ずに亡くなりましたが、この建設には光太郎も力を貸したということで、入口裏側に設置されたプレートには光太郎の名も刻まれています。

ライトアップ時間帯の入場も碌山館のみ。光太郎のブロンズが多数展示されている第1展示棟や他の棟には入れません。入場料がかかりますが閉館前の時間に入場いただければ、他の棟も観覧できますね。

ちなみに弟2展示棟まるまると、第1展示棟の一部では、現代彫刻家の森靖(おさむ)氏の木彫を展示する「森靖展 -Gigantization Manifesto-」が開催中(12/9まで)。
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不思議な魅力のある作品群ですね。

しかし、ライトアップは雨天の場合には中止とのこと。そこで気になる長野県の天気予報を調べてみましたところ……
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「ありゃりゃりゃりゃ」という感じですね。

「一夜限りの」ということでプレミア感を狙ってらっしゃるようですし、日を改めて、というわけにもいかないようで……。その時間帯だけでも奇跡的に雨が上がっていることを期待します。

それにつけても館の建造物自体のライトアップで集客できてしまうところがすごいと思います。うらやましがっている他館のキュレーターさんなども多いのではないでしょうか。岩手花巻高村山荘あたりでもライトアップされるとそれなりに美しいとは思いますが、いかんせん熊の出没多発地帯ですし……。

【折々のことば・光太郎】

小生のその後無事、寒いので元気です。


昭和25年(1950)3月3日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

「寒いので元気」、一般的な感覚では矛盾していますが、夏の暑さにとことん弱かった光太郎にとっては、やせ我慢でも何でもなくそういうものでした。

信州安曇野の碌山美術館さんが、館報『碌山美術館報』の第44号をお送り下さいました。多謝。
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発行は3月で、おそらくネット上には既にアップされていたと思うのですが、やはり印刷物・紙媒体で頂けるのは有り難いことです。

昨年4月22日(土)に開催された、第113回碌山忌での、東京藝術大学さんの布施英利教授による記念講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」全文が文字起こしされて掲載されています。
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さらにそれを受けて、巻頭には同館学芸員の武井敏氏による「荻原守衛のスケッチ」。

守衛の絶作にして重要文化財の「女」。跪(ひざまず)いた女性が後ろで手を組み、斜め上を見上げているポージングですが、そこに秘められた仕掛けとは?
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以前にも書きましたが、何らの不自然さも感じられず、純粋な写実に見えるものの、精密に計測して実際の人体と比較すると、異様に頭部が大きく、腕も長く、乳房の位置などもおかしいとのこと。

そこでこの「女」が立ち上がったらどうなる、という図も掲載されています。
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実に不思議ですね。

そして武井氏の稿でも触れられていますが、後ろで組まれている両腕は、当初、斜め上に掲げる構想があったとのこと。そのポージングであれば、乳房の位置などは解剖学的に正しいそうです。それがどうして変更されたのか、謎は尽きません。

その他、昨年11月に開催された美術講座「スト―ブを囲んで 臼井吉見の『安曇野』を語る」も文字起こしされて掲載されています。『安曇野』は大河ドラマ誘致運動も起こっている臼井吉見の小説で、光太郎も登場します。他の箇所でも『安曇野』に触れられています。

主要箇所にはリンクを貼ってあります。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日は東京の吉川富三といふ写真家が来て弱りました。

昭和23年(1948)9月12日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎66歳

吉川富三は肖像写真を得意とした写真家。この日の様子を吉川は「快く写真ギライで有名な先生が私のカメラの前に立って下さった」と書き残していますが、やはり「快く」と言うわけではなかったようです。

この日撮影された写真(左下)は、翌年の雑誌『写真手帖』に掲載された他、日本橋三越で開催された「第三回文化人肖像写眞展」に出品、さらに昭和25年(1950)には吉川の写真集『文化人のプロフィル』にも収められました。
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また、吉川は昭和28年(1953)、帰京した光太郎を中野のアトリエに訪ねての撮影もしています(右上)。

信州レポート最終回です。

4月22日(月)、宿泊させていただいた「guest room ガーデンあずみ野」さんを後に、愛車を東に向けました。この日は碌山美術館さんでの第114回碌山忌でしたが、午後2時開始の薩摩琵琶の演奏から参加しようと思い、それまでの間は上田市に行く予定を最初から立てておりました。

信州(それから通り道の甲州も)には、光太郎と深く交流のあった人物の作品を多く所蔵・展示している美術館さんや、それらの人物そのものの記念館さん、光太郎ゆかりのスポットなどが数多くあり、碌山美術館さんもその一つですが、同館を訪問する際には他館などにも併せて足を運ぶのがルーティンです。

その一環で、前日には飯田市美術博物館さん内の日夏耿之介記念館さん、柳田國男館さんを訪れましたが、そちらは言わばイレギュラー。思いの外、早く信州に入れてしまったため、予定になかった拝観をしたわけで。

この日は当初、長野市の記念館さん二館を廻ろうと思ったのですが、ちょうど月曜日でどちらも休館日。そこで月曜に開いている館はないかと調べたところ、上田市の「KAITA EPITAPH 残照館」さんがヒットしました。こちらはかつては「信濃デッサン館」という名で、光太郎と交流のあった村山槐多の作品などが展示されていました。その時代に何度か訪れたことがあります。ところが平成30年(2018)に事実上閉館。残念に思っておりました。しかし、令和2年(2020)に「KAITA EPITAPH 残照館」としてリニューアルオープン。再開後に行ったことがありませんでしたし、昨年、映画「火だるま槐多よ」を拝見し、また槐多の絵を見たいという思いが触発されたので、伺おうと考えた次第です。

残照館さんの前に、姉妹館とも云うべき(残照館さんともども窪島誠一郎氏が館長)「戦没画学生慰霊美術館 無言館」さんを先に拝観しました。残照館さんも無言館さんも山裾ですが、無言館さんの方が手前にありますので。
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改修工事中でしたが、拝観は可能でした。

入口前の、パレットをかたどったオブジェ。白っぽい点々は桜の花びらです。
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刻まれている名は、こちらに作品や遺品等が収蔵されている人々で、そのほとんどが戦没者、そして戦時中に全国の美術学校などに在学していたり、それらの卒業生だったりして戦死した方々です。彫りの感じから、新しく刻まれたんだろうなと思われる名も散見されます。作品の収集や寄贈が今も続いているようです。

作品の収集や同館の開館に協力された、画家の野見山暁治氏が昨年亡くなりましたので、その意味でも感慨深いものがありました。

さて、館内へ。撮影禁止ですのでパンフから。
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何度も訪れていますが(最後は令和元年=2019でした)、何度訪れても粛然とさせられます。ありあまる才能や情熱をあたら散らせてしまった若者達の無念さとか、御家族や恋人への思いとか、逆に残された御家族や恋人の故人への思いとか、そういうものが直截に響いてきますので。

以前に訪れた際には気づきませんでしたが(新たに展示されたのでしょうか)、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる彫刻家・高橋英吉の木彫作品が展示されていまして、驚きました。高橋は東京美術学校彫刻科の出身ですので光太郎の後輩にも当たりますし、それをいえば西洋画科を含め他の光太郎の後輩や、光太郎実弟の豊周の教え子たる同校鋳金科出身だったり在学中だったりの人物の作品も多数。前途洋々の筈だったどれだけ多くの若者が散っていったんだ、と思いますし、その事実を知った光太郎が自らの戦争責任を恥じ、蟄居生活に入らざるを得なかった気持も理解できます。

そんなこんなで拝観終了。ちなみに平日午前中にもかかわらず、他にも拝観されている方が多数いらっしゃいました。良いことです。

こちらは拝観料を出口で支払うシステム。そこで支払いをしつつ係員の方に「残照館さんも開いてますよね?」。ところが「すみません、あちらは冬期休館で、再開が4月27日(土)なんですよ」。「ありゃま」でした。

一応、行くだけ行ってみました。もしかすると再開の準備作業をやっていたりで、こちらの身分を告げればドサクサに紛れて入れてくれるかも(それに似たことがかつて他館でありましたので)と、淡い期待を抱きつつ。
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しかし残念ながら人の気配がありませんでした。またの機会にしたいと思いました。

実はここから1㌔ほどの所に亡父の実家がありまして、このあたりは子どもの頃からよく訪れていました。祖父母や伯父らの眠る墓もありますし。今回はその墓参も目的の一つでした。下記は残照館さん前から見た亡父実家・共同墓地方面です。
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墓参の前に、残照館さん脇の前山寺さんに参拝。ついでというと何ですが、ここまで来てお参りしないのも何だかな、というわけで。

茅葺きの本堂。
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室町時代建立の三重塔。
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今回初めて気づきましたが、棟方志功の碑。
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南関東ではとっくに終わっているしだれ桜が実にいい感じでした。
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その後、祖父母等の墓参。やはり遠いのでこちらも令和元年(2019)以来。「ご存じでしょうが、さきおととし親爺が、ついでに言うならお袋も去年、そっちに行きましたので……」と念じつつ。

そして再び愛車を駆って安曇野に戻り、第114回碌山忌に参列した次第です。以上、長々書きましたが信州レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生は青年が好きです。青年のムキな気持は愛すべきです。

昭和22年(1947)7月3日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

美術学校彫刻科の後輩達が、学校改革のために校長に進言してくれという手紙を寄越したそうで、その顛末を語った後に添えられたひと言です。結局いろいろ差し障りがあって進言は実現しなかったようですが。

特に戦後、若い世代に対する光太郎の支援は目立ちました。戦時中に『週刊少国民』『少国民の友』『少国民文化』『日本少女』『少女の友』などの雑誌におぞましい翼賛詩等を書き殴っていた罪滅ぼしという側面はあったでしょう。

4月21日(日)、22日(月)と、愛車を駆って一泊二日で信州に行っておりましたが、メインの目的は安曇野市の碌山美術館さんで開催の「第114回碌山忌」および関連行事としての「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」への参加でした。

「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」が4月21日(日)の午後1:30から。休日の中央高速下り線、特に首都高から抜けた後しばらくの片側二車線区間は行楽等の皆さんで非常に混みますし、事故渋滞等も怖いので(一度、事故渋滞の影響で片道6時間以上かかったことがありました)早めに千葉の自宅兼事務所を出発しました。

そのおかげでスイスイ行けてしまい、そのままだとやけに早く着いてしまう状況に。そこで当初予定にはなかったのですが、寄り道していくことにしました。中央道岡谷ジャンクションで安曇野方面の長野道に入らず、そのまま直進し飯田市へ。

飯田市美術博物館さん内に、日夏耿之介記念館さんが併設されており、一度行ってみたいと思っていました。

日夏耿之介は、明治23年(1890)、現在の飯田市出身の詩人です。光太郎より7歳年下で、深い交流はなかったものの、おそらく直接の面識はあったと思われます。

筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には、日夏の名が2回。

まず大正13年(1924)3月1日付の、雑誌『婦人之友』編集部にいた龍田秀吉宛書簡。同誌の読者投稿詩欄の選者をお願いしたいという龍田からの依頼を断る内容です。抜粋します。

詩の選といふ事は余程厄介な事の上に兎に角感じやすい若い魂から出たものをあれこれと取捨するやうな仕事はおよそ私などには向かないのです。それのみならず私は一種の野蛮人ですから自分の趣味なり傾向なりがさういふ巣の中の小鳥のやうなやさしいものの上に何等かの意味ではたらきかけるやうな冒涜の結果がありでもしたらといふ事もおそれます。とにかく女性の詩の選を私にさせるのは世の中で不つり合の頂上でせう。(略)どうか私に私らしくない事をさせないで下さい。 その詩のやさしさに私も心ひかれる西條さんが渡欧の為め選をやめられるのは本当に適任者を失ふ事です。しかし川路柳虹氏も居られるし、又日夏耿之介氏のやうな立派な詩人も居られます。

それまで選者を務めていた西条八十が渡欧するため退任、その後釜というわけですが、光太郎は固辞し、代わりに川路柳虹や日夏の名を挙げています(実際に誰が後任になったのかまでは未だ調べていませんが)。それだけ日夏を高く評価していたことがしのばれます。

ちなみに光太郎、この後、昭和14年(1939)から同16年(1941)にかけては『新女苑』、同17年(1942)から18年(1943)の『職場の光』で投稿詩の選者を務めました。これらの際には断り切れなかったということでしょう。

他にも昭和14年(1939)に書かれた「詩の勉強」というエッセイで、やはり日夏を賞めています。

私は概して時代の老大家よりも真摯な青年層の方から良い教訓を受ける。其頃も日本詩壇の老大家とは殆ど没交渉だつたが、青年詩人からは多くの刺激をうけた。葉舟、犀星、朔太郎、耿之介、柳虹等の諸氏は常に尊敬してゐた。

「其頃」は大正初め頃をさします。「老大家」はおそらく北村透谷やら島崎藤村やら土井晩翠やらの一世代前の人々でしょう。

『高村光太郎全集』に日夏の名が出て来るのはこの2箇所だけですが、おそらく詩話会などの詩人の会合等で光太郎と日夏が顔を合わせる機会はいろいろあったと思われます。実際、昭和17年(1942)の第一回大東亜文学者大会には、光太郎、日夏共に出席しています。

2024.6 追記 『高村光太郎全集』未収録の光太郎の文章を見つけました。日夏の『英吉利浪曼象徴詩風』(昭和15年=1940)の書評でした。掲載誌は『ふらんす』第17巻第6号でした。

b7b6af5e日夏の方で光太郎をどう評していたか、あるいは光太郎がらみの回想等を遺していないか、当方、寡聞にしてよく存じません。ただ、戦後の昭和26年(1951)に日夏の編集で刊行された『近代日本詩集』(弘文堂アテネ文庫)では、14名の詩人の作品を採り、光太郎詩も含まれています。日夏によるその序文に曰く、

透谷以下の十四人をこゝに選出したのは、偶まの十四人であるが、明治の八人大正の六人を厳しく選んで獲たる数であつて、近代情趣の形成の上に正統の抒情詩的寄与をなした新旧十四個のピラアズの作品を、この篇冊にアンソロジイにして抄出したところに編者は史的意味を認めるとなすものである。

まぁ、光太郎は外せないよ、ということでしょう。ちなみに日夏、ちゃっかり自分も十四人に入れていますが、これは本人の意図というより、版元の意向でしょう。

これは日夏の編集ですが、他者の編によるこの手のアンソロジーで、光太郎、日夏の作品が共に掲載されているものは、軽く30冊はあります。

さて、前置きが長くなりましたが、飯田市の日夏耿之介記念館さん。
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一見すると普通の古民家のようです。それもそのはず、「日夏が余生を送った飯田の邸宅を復元したもの」だそうで。
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調べてみましたところ、光太郎が亡くなった昭和31年(1951)から昭和46年(1971)まで暮らした家のようです。元は数百㍍離れた稲荷神社境内に建てられ、平成元年(1989)、この地に復元されたとのこと。内部も民家の体裁を生かし、展示が為されていました。
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光太郎と交流の深かった佐藤春夫からの書簡。
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江戸川乱歩からの来翰も。
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この手の来翰をまとめた書籍が置いてあり、光太郎からのそれはないかと調べましたが、残念ながら見あたらずでした。それをもっとも期待していたのですが……。

しかし、展示されていた古写真を見て、仰天しました。
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日夏の詩集『転身の頌』出版記念会の際に撮られた集合写真だそうで、大正7年(1918)のものです。ちなみに下記のキャプションは「1916」となっていますが、誤りです。
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北原白秋、堀口大学、室生犀星、森口多里など、光太郎と交流のあった面々が写っていますが、光太郎は居ません。ではなぜ驚き桃の木山椒の木(死語ですね(笑))だったかというと、バックに写っている、壁に掛けられた絵のためです。
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光太郎の絵です。

大正2年(1913)、智恵子と共に一夏を過ごした上高地で描かれ、その年の10月、岸田劉生らと興した生活社主催の油絵展覧会に出品された作品群の内の一枚で、その際の題が「焼岳」。下記は『高村光太郎 造型』(春秋社 昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)に載った画像。
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なぜこの写真にこれが? と思ったのですが、キャプションを詳しく見て納得しました。撮影場所が京橋の「鴻ノ巣」となっていたためです。

「鴻ノ巣」は「メイゾン鴻乃巣」。明治43年(1910)、奥田駒蔵という人物が日本橋小網町に開店した西洋料理店です。光太郎も中心メンバーだったパンの会で使われたり、光太郎が絵を描き、伊上凡骨が彫刻刀をふるったメニューが作られたりしました。また、智恵子が創刊号の表紙を描いた『青鞜』社員の尾竹紅吉が「五色の酒」事件を起こしたりした店でした。

同店はその後、日本橋通一丁目、さらに京橋に移転。駒蔵の令孫夫人に当たる奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』所収の年表によれば、京橋への移転は大正5年(1916)、そして大正7年(1918)の項に「1月 日夏耿之介『転身の頌』出版記念会(13日)」「『文章世界』13巻2号に『転身の頌』の会写真掲載」の記述がありました。

しかしその京橋の店も、大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまいました。おそらく懸かっていた光太郎の絵も灰燼に帰したのでしょう。

光太郎自身も昭和21年(1946)、美術史家の土方定一に宛てた書簡で「『霞沢の三本槍』は京橋の『鴻巣』の店にかけて置きましたが大震災の時焼失した事でせう」と書き残しています。絵のタイトルが「焼岳」ではありませんが。

この写真を見られたのは大きな収穫でした。

さて、館外へ。
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左は日夏の句碑「秋風や狗賓の山に骨を埋む」。「狗賓の山」は「天狗の住む山」の意で、飯田市の風越山を指すそうです。右は日夏の肖像レリーフ。「T.NISI」とサインが入っており、光太郎実弟の鋳金人間国宝・豊周の弟子筋にあたり、光太郎詩碑のブロンズパネルを複数鋳造した西大由の作かな、と思ったのですが、詳細不明です。
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追記・小杉放菴記念日光美術館さんの学芸員・迫内祐司氏より、「西常雄の作ではないか」とご教示いただきました。

日夏耿之介記念館さんに隣接して柳田國男館さんもありました。事前に調べていかなかったので、「へー」という感じでした。
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こちらは成城にあった柳田の書斎兼住居をここに移築したものだそうでした。柳田は飯田に居住したことはないそうですが、柳田の養父にして妻の父・柳田直平が旧飯田藩士だった縁とのこと。
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ちなみに光太郎と柳田も、軽く面識がありました。なんと共に同じミスコンの審査員を務めたのです。
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昭和4年(1929)、朝日新聞社主催で行われたミスコン「女性美代表審査会」で、写真審査のみで実施され、最高点を獲得したのはのちに歌人となる齋藤史でした。この年8月7日『アサヒグラフ』に、鏑木清方を除く審査員一同による座談会の筆録が掲載されています。

これ以外に柳田と光太郎が直接会った記録は見あたらないのですが、光太郎はエッセイ等の中で柳田を「柳田先生」と書き、それなりに尊敬していたようです。

愛車に戻ろうと飯田市美術博物館さん敷地内を歩いていると、何やら石碑や胸像。見てやはり驚きました。

石碑は「菱田春草誕生之地」。横山大観の揮毫でした。春草が飯田出身とは存じませんでした。
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胸像は「田中芳男像」。
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田中は明治初期、東京国立博物館や国立科学博物館、恩賜上野動物園等の礎を築いた人物で、朝ドラ「らんまん」でいとうせいこうさんが演じた里中教授のモデルです。
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光太郎の父・光雲が登場し、田中を主人公とした小説『博覧男爵』を読んで、田中も飯田出身だったことは存じていましたが、失念していました。

そんなこんなで「飯田、どんだけだよ? 恐るべし!」という感想の飯田行でした(笑)。

この後、愛車で北上し、「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」へ。さらに翌日、第114回碌山忌参列の前に、上田まで足を延ばしました。長くなりましたので、そのあたりは明日。

【折々のことば・光太郎】

今日小包拝受、砒酸鉛、展着剤まことに忝く存じました。毎日素手で虫と格闘してゐましたが、これで大に助かります。雨が多くて虫も勢よく中々大変です。

昭和22年(1947)7月12日 真壁仁宛書簡より 光太郎65歳

砒酸鉛」はかつて農薬として使われていましたが、現在は使用禁止。「展着剤」は農薬を作物に付着させるためのもの。いずれも蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村での畑で使いました。

当方、化学はまるでだめなのでよく分かりませんが「砒酸鉛」の「砒」は「砒素」と関係があるのでしょうか。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の死因、最近は皮膚病の治療に使っていた薬剤に含まれていた砒素によるものとする説を、碌山美術館さんでは提唱なさっているようで、気になります。

信州安曇野レポートを続けます。

4月22日(月)は、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の忌日「第114回碌山忌」が碌山美術館さんで行われました。前日に関連行事として行われたマルチアーティスト・井上涼氏のトークセッション「表現とアイデンティティ☆」の際に続き、この日も同館にお邪魔しました。
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午前中は地元の方々などによるコンサートが開催されてましたが、そちらは欠礼。安曇野を離れ、他へ行っておりました。そちらのアリバイ(笑)は明日以降レポートいたします。

午後1時頃、同館に到着。2時から薩摩琵琶奏者・坂麗水氏による演奏があるというので、それは聴いておこう、と。
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PXL_20240421_070610947会場は同館グズベリーハウス。演目は「文覚発心」「文覚と頼朝」そして「耳なし芳一」。

文覚は平安末期から鎌倉初期にかけての僧侶で、源頼朝に平家打倒を焚きつけた人物として知られています。、元々は遠藤盛遠という北面の武士で、懸想していた人妻・袈裟御前を誤って手にかけてしまい、それが元で出家しました。

そのあたりを守衛は自らに重ね合わせ、塑像「文覚」を制作。右画像の一番手前の腕組みしている像です。守衛が像にした人物ということで、文覚がらみが演目に選ばれたようです。

それから一般の方々にもわかりやすい「耳なし芳一」。当方、琵琶の演奏を生で聴くのは2度目でしたが、平成29年(2017)に千葉の柏で初めて聴いた時(「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」という演奏会でした)も「耳なし芳一」でした。

その後、守衛の墓参。館から車で10分程の共同墓地に、智恵子の師でもあった中村不折揮毫の守衛の墓があります。当方は荻原家当主・荻原義重氏の車に乗せていただきました。
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明治43年(1910)4月22日に守衛が新宿中村屋で亡くなった際、光太郎は奈良旅行中でした。知らせを受けて慌てて東京に舞い戻り、さらにこの墓地に駆けつけました。その際にはまだこの墓石は出来ていませんでしたが、それにしても光太郎もここに額づいたかと思うと、毎年のことながら感慨深いものがありました。こうした場合にいつもそうですが、光太郎の代参のつもりで香を手向けました。

館に戻り、午後6時からグズベリーハウスで「碌山を偲ぶ会・サポートメンバーシップ交流会」。当会主催の連翹忌の集い同様、和気あいあいと会食しつつの懇談です。
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毎年そうで、開会宣言の後、光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を参会者全員で群読します。光太郎の愛惜の思いが込められた寂しい詩なのですが、おめでたい集まりではないんだという意味では、ふさわしいといえるでしょうか。
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今年はご指名で、マイクを握って音頭を取ることになってしまいました。そこで「じゃあ、題名と一行目のみ、自分がソロで読みますので、二行目から皆さんでご唱和願います」。
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朗読しながら撮りました(笑)。

ご挨拶、ご報告、ご祝辞等。
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左から碌山美術館長・幅谷啓子氏。同館理事も務められている安曇野市長・太田寛氏。荻原家ご当主・荻原義重氏。

その後は料理に舌鼓をうちつつ、歓談。合間にスピーチ。
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当方の隣には琵琶の坂氏が座られ、いろいろお話しさせていただきました。坂氏、鎌倉にお住まいだそうで、当方、「毎年秋には北鎌倉のカフェ兼ギャラリー笛さんにお邪魔してるんですよ」と申し上げたところ、「そのお店、よく知ってます」。驚きました。しかし、以前にも同様のことがあり、笛さんをご存じない鎌倉市民はモグリなのかな、などと思いました(笑)。

それから、ちゃっかり光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエ保存運動のための署名を皆さんにお書き頂きました(実は今日もその会合があるのですが)。

そんなこんなで8時閉会。片付けの後、愛車を駆って千葉に帰りました。

最後に、同館でゲットした今年のカレンダーをご紹介します。
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A4判横の冊子型、表紙は守衛の絶作「女」です。上下見開きで1ヶ月ごとになっています。

これが発行されたことは気付いていましたが、同館所蔵の光太郎彫刻もあしらわれていまして、その件は存じませんでした。

いきなり1月が「腕」(大正7年=1918)、4月は「十和田裸婦像のための中型試作」、10月で「手」。
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井上涼氏のトークセッションの後でしたか、グズベリーハウス内に貼ってあり、4月ですから「十和田裸婦像のための中型試作」のページで、「ありゃま」。急いでミュージアムショップに行き、「カレンダー、まだありますか?」と訊いたところ、「つい最近、完売してしまいまして……」。残念……。

ところが、「これでよろしければ」と、壁に貼ってあった見本をなんとタダで下さいました。「見本」とシールが貼ってあったり、ピン穴が空いていたりでしたが、全然OKです。ありがたく頂戴して参りました。

さて、明日は碌山美術館さん以外で廻った信州各地のレポートを。

【折々のことば・光太郎】

お茶は先日の玉露はまだありますが大切なのでめつたにいれません。今度のお茶も新鮮でとてもいいです。目がさめるばかりです。

昭和22年(1947)7月9日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

若い頃からお茶好きだった光太郎ですが、蟄居生活を送っていた岩手では茶が栽培されて居らず、戦後の混乱もまだ続いていた折、茶葉の入手には苦労していました。そんな中、光太郎の茶好きを知っていた友人等が送ってくれる茶葉は非常にありがたかったようです。

一昨日、昨日と、愛車を駆って一泊二日で信州に行っておりました。レポートいたします。

メインの目的は、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛命日に合わせ、安曇野市の碌山美術館さんで開催された「第114回碌山忌」への出席でした。
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そちらが昨日でしたが、一昨日には関連行事として、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されているマルチアーティスト・井上涼氏のトークセッション「表現とアイデンティティ☆」があり、まずそちらから。

会場の研成ホール。道を挟んで美術館さんの向かいです。
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開場15分前くらい。すでに長蛇の列。
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キャパ120名でしたが、ほぼ満員でした。日曜日というのも大きかったようです。

お話は、井上氏と、碌山美術館さん学芸員の濱田卓二氏によるもので、濱田氏が聞き役でいろいろと水を向けられ、井上氏が詳しく語るという形式でした。お二人はかつて金沢美術工芸大学さんで同級生だったとのことで、井上氏は濱田氏を「濱ちゃん」と呼んでいたそうです(笑)。当方、濱田氏とけっこう長い付き合いですが、その件はまったく存じませんでしたので驚きでした。

内容的には井上氏のアーティストとしての来し方、「びじゅチューン」などの作品についての舞台裏、そしてご自身カミングアウトされているLGBTQをからめたお話。そちらはやはり井上氏がアニメーションを制作され、NHKさんの「みんなのうた」で流れたYOASOBI with ミドリーズさんの「ツバメ~レインボーバージョン」のお話をメインに。

井上氏、テレビで拝見するとおり、否、それ以上にユニークなキャラクターで、会場の笑いを誘われていました。聴衆の中には井上時の追っかけ的な方もけっこういらしたようでした。

「びじゅチューン」のお話の中では、平成30年(2018)に初回放映があった、なんと光太郎のブロンズ「手」をモチーフとした「指揮者が手」を、動画に合わせて井上氏が熱唱して下さいました。
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同番組でなにがしかの碌山作品が取り上げられていたらそちらだったのでしょうが、まだ取り上げられて居らず、そこで碌山美術館さんで展示されている「手」に白羽の矢が立ったようですが、ありがたいかぎりでした。

トーク終了後の質問タイム。当方も手を挙げて質問。「荻原守衛作品をご覧になって、どういう感想を持たれましたか」的な。当方は「とても素晴らしいと思いました」的な答えを期待しておりました。そこで、返す刀で「では、ぜひ『びじゅチューン』で守衛作品を取り上げて下さい」と言うつもりでした。ところが井上氏、「いやぁ、あまり何も感じなかったというか……」。いや、正直ですね(笑)。こういう場合、たとえそう思っていなくても空気を読んで社交辞令的に「とても素晴らしいと思いました」と返すものだと思いますが、そう思っていないことはそう思っていないと、包み隠さないところに芸術家としての矜恃を感じました。

そこで当方としても「では、ぜひ『びじゅチューン』で守衛作品を取り上げて下さい」という二の矢が継げませんでした(笑)。すると、あとで濱田氏らに「言って下さいよー」と怒られてしまいました(笑)。

ちなみに終演後等も含めて「撮影禁止」と厳しく出ていましたので当方撮影の画像はありませんが、井上氏のX(旧ツイッター)投稿から画像をお借りします。
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集合写真の方は井上上氏の「聴衆の皆さんと一緒に」という自撮りです。右手後方に当方も写っています(笑)。

この日はこの後、ゆっくり碌山美術館さんを拝観して退散し、市街地で早めの夕食を摂った後、宿泊先の「guest room ガーデンあずみ野」さんへ。
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フロントにはドイツのスタインベルグ社製のヴィンテージピアノが置かれたりし、なかなか瀟洒なお宿でした。
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この日は(翌日もでしたが)長時間の運転でしたので、けっこう疲労困憊。温泉にゆっくり浸かり、「おやすみなさい」。

急ぎ紹介すべき事項が何もなければ、あと2回程、信州レポートを続けさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

「高村光太郎詩集」(鎌倉書房)を東京の本屋で見たといふ人あり、小生方にはまるで音沙汰ありません。


昭和22年(1947)7月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

鎌倉書房版『高村光太郎詩集』は、戦前戦後を通じて初の選詩集です。編集、題字揮毫は当会の祖・草野心平でした。
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奥付に依ればこの年7月5日刊行。しかし既に前月には出ていたようです。当然、こういうものを出すという連絡等は心平から入っていましたが、「出た」という連絡が入らなかったようです。

明治末、光太郎ともどもロダニズムを日本に持ち込み、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛を偲ぶ催しが、信州安曇野の碌山美術館さんで開催されます。

第114回碌山忌

2024年4月22日(月)
 10:00~ コンサート グズベリーハウス
 13:30~ ミュージアム・トーク 約15分
 14:00~ 薩摩琵琶演奏会
       坂麗水氏 「文覚発心」「耳なし芳一」 グズベリーハウス
 16:00~ 墓参
 18:00~ 偲ぶ会
当日は入館無料 ぜひおでかけください
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関連行事としての講演会が前日に開かれます。

井上涼トークセッション「表現とアイデンティティ☆」

期 日 : 2024年4月21日(日)
会 場 : 碌山公園研成ホール 長野県安曇野市穂高5613-1
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 無料(要碌山美術館入場券)一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
定 員 : 120名(先着順・事前申込制)

講 師 : 井上涼
ナビゲーター : 濱田卓二(碌山美術館学芸員)

NHK Eテレの美術番組「びじゅチューン!」で知られるアーティスト・ 井上涼氏が自身の表現や観点、いままでやこれから、LGBTQ などについて、ナビゲーターとの会話形式でお話しします。

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案内にあるとおり、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されている井上涼氏。

同番組ではこれまでに光太郎とその父・光雲を取り上げて下さいました。

光太郎の回は「指揮者が手」。平成30年(2018)に初回放映がありました。
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光雲は一昨年初回放映の「老猿は主役じゃなくても」。
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それぞれ小学館さん発行の『びじゅチューン!DVD BOOK』に収められ、販売中。「指揮者が手」は第5巻、「老猿は主役じゃなくても」は第7巻の収録です。
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また、ロダンの「地獄の門」で、「ランチは地獄の門の奥に」という回もありました。
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井上氏、『毎日小学生新聞』さんに「井上涼の美術でござる」という連載をお持ちで、そちらでも「高村光太郎の巻」(平成31年=2019)、「高村光雲の巻」(令和5年=2023)。
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「びじゅチューン!」、「井上涼の美術でござる」、どちらも守衛作品は未だ取り上げられていないようです。今回のご訪問を機に、守衛彫刻のトリビュートをお願いしたいところです。

今回のトークセッション、申込フォームからの完全予約制ですが、まだ定員に達したというお知らせが出ていません。翌日の碌山忌ともども、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山はツツジのまつ盛りです。ヤマツツジ、ウマツツジ等、


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。たしかに光太郎の山小屋の裏山にはツツジの木が自生しています。「ウマツツジ」はレンゲツツジの別称です。

またしても始まってしまっている展覧会ですが……。

所蔵品展「冬の精華-語り来る入魂の作品たち-」

期 日 : 2023年11月17日(金)~2024年2月12日(月・祝)
会 場 : 北野美術館 長野市若穂綿内7963-2
時 間 : 9:30~16:30
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 700 円 / 高校・専門・大学生 500 円 / 中学生以下無料

冬の季節にふさわしい日本画作品を中心に、国内外作家による洋画、彫刻、工芸品などバラエティに富んだ約90点の作品をご覧ください。今回は作品の要所要所に、それぞれの画家たちのエピソード・乗り越えてきた困難や、切り開いてきた道、作品への意気込みなどを添えて展観します。
また、著名歌人や作家の短歌、俳句の短冊や、小林一茶の書画、館内茶室に江戸時代の女性俳人・加賀千代女の書画など、書跡作品も複数展示。文字からその人となりを想像してみるのも一興でしょう。
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案内文にその文字がなかったのでこれまで気づきませんでしたが、光太郎の父・光雲作の「仁王像」が出ています。

光雲で仁王といえば、同じ長野市の信州善光寺さんの仁王像が有名ですが、ポージング等異なります。仁王像も人気の図題で、光雲にも複数の作例が確認できています。
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北野美術館さん収蔵の作は、他の作例と共に平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品されました。像高30センチあまりのものですが、なかなかの優品です。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

此の山の中もやうやく春が近くなりかけたところ、今日は又雪が降つて来ました。二寸ばかりつもつて今又日がさしてきました。


昭和21年(1946)4月15日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、4月半ばでも6㌢の積雪。北東北にお住まいの方にとっては「そんなもんだよ」でしょうが、南関東の人間にとっては「へー」ですね。

光太郎と交流の深かった詩人の尾崎喜八について、『毎日新聞』さんから。

山は博物館  博物学で人引きつけた尾崎喜八 戦後「隠棲」の富士見高原で

 以前登って感動した八ケ岳の裾野、富士見高原(標高約1000メートル)で、「晩年の落日のやうな生を託すると、どうして考へ得たであらう」。詩人の尾崎喜八(1892~1974年)は太平洋戦争に協力する作品を書いたことを悔やみ、非難もされて「恥を忍び、をもてを伏せて影のやうに生きて来た」。戦後、「隠棲(いんせい)」のつもりで長野県富士見村(現富士見町)に移り住んだが、自然全体を対象にした博物学の知識が人々を引きつけ、地域が放っておかなかった。
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 尾崎は若い頃、高村光太郎の詩の「権威や世俗への反逆精神に心酔」。理想主義、人道主義の白樺派と交流し、平和主義のフランス人作家、ロマン・ロランにも傾倒した。最初の詩集「空と樹木」を30歳の1922年に出版して以降、自然を題材にした作品を次々発表した。満洲事変翌年の32年、「新戦場」で<砕かれた頭、穴のあいた、みじめな胸。それぞれの労苦の母の最愛のものだつた。吾々(われわれ)を護国の鬼などと云(い)ふのはやめてくれ>と、反戦作品も世に出した。
  一方、30代で登山を始めた。35年7月出版の文集「山の絵本」は長野県の蓼科(たてしな)山への紀行文などを収め、地質や地形、樹木や草花、鳥、チョウなど自然を優しく情景描写。人との柔らかな交流も描き、名著とされる。 
   ヒューマニストとみられたが、変わる。42年10月、詩集「此(こ)の糧」を発表。同名の詩は<大君の墾(はり)の広野に芋は作りて、これをしも節米の、混食の料(しろ)とするてふ忝(かたじけな)さよ>と銃後の姿勢を説いた。「シンガポール陷落」は<汝等(なんじ)が最後の牙城ここに潰(つぶ)ゆ。これ天の時、天の理なり>、「特別攻撃隊」は<此の敵一挙に斃(たお)さずんば皇国(みくに)危しの至誠に燃えて征(い)つたのだ>と勇ましい。44年3月も詩集「同胞と共にあり」を発表。「第二次特別攻撃隊」「学徒出陣」などを入れた。
 45年4月、空襲で東京の家が焼け、終戦を挟んで転居を繰り返した。縁故により富士見高原の山荘「分水荘」に夫婦で着いたのは、54歳の46年6月。随筆などで戦時を振り返り、「同胞への力づけや慰めとして書いた詩。一生の恨事。体と心とだけで黙々と働けば良かった」。富士見では「貧窮に洗われ、孤独の味を嚙(か)みしめ生きた。当然のむくい」。さらに「『武器を取れ!』の喇叭(らっぱ)に身をふるわせ、調べを合わせた。不幸への共犯者。忘れ去られ、無名に生きたかつた」。
 だが、村人は慕い、近付いた。孫の石黒敦彦さん(71)は「博物学の知識が引きつけた」と指摘する。その象徴が、詩「老農」にある。尾崎は植物や鳥に詳しいと連れが紹介すると、老農は<流れにゆらいでゐる白い花の水草を抜いて示した。「梅花藻ですね」と私が言ふと、目を細めてうなづいた>。たやすく答えて感心され、自宅に招待されると、書棚に図鑑や入手困難な植物学の翻訳本が並んでいた。教養ある「そんな土地柄が祖父を受け入れた」と石黒さんは話す。
 尾崎の方でも<人の世の転変が私をこゝへ導いた>で始まる詩「土地」の注釈で、「山国の信州で人は自然の支配に従順で、そこから生活の知恵を生み、勤勉と忍耐と持久と好学の精神を学び養う。それ故(ゆえ)に土地と人々とを愛さずにはいられなかった」と書いた。
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 多くの人が分水荘を訪れては話を聞き、尾崎は時に散策に誘い出した。村民の一人は「(自然を)観察され、一篇(いっぺん)の詩が熟していたのかも知れない」と回想している。尾崎は特に、各種の植物と鳥、チョウを詠み込んだ。「落葉」は<ひろびろと枯れた空の下で白樺や楡(にれ)の葉がたえまもなく散つてゐる>、「足あと」は<けさは 森から野へつゞく雪の上に、堅い水晶を刻んだやうな一羽の雉(きじ)の足あとを見つけた。それで私の心が急にあかるくなつた>、「復活祭」は<枯草(かれくさ)の上を越年(をつねん)の山黄蝶(やまきちょう)がよろめいて飛ぶ。森の小鳥が巣の営みの乾いた地衣や苔(こけ)をはこぶ>と歌った。 石黒さんは「博物学と詩の融合が祖父の特質だ」とも指摘する。例えば「巻積雲(けんせきうん)」。雲の造型に美しさを見いだしたのも尾崎の特長だ。いわし雲とも呼ぶその雲から物理学の「クラドニ図形」を連想。鉄板への振動の与え方により、上にまいた粉がさまざまな模様を描く現象に発想を広げた。これらの作品は、戦後の代表作で55年2月出版の詩集「花咲ける孤独」に収めた。 田舎暮らしを長女に心配された尾崎は52年11月、7年住んだ富士見から東京に転居したが、その後も信州を訪れた。県内を中心に数十の校歌も作詞し、歌い継がれている。分水荘は既に解体され、跡地は「ふじみ分水の森」として開放されている。
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最晩年を過ごした北鎌倉の明月院にある尾崎喜八の墓

戦時中に翼賛詩文を大量に書き、戦後はそれを悔いて信州の僻村でしばらく蟄居生活。そして村人との心温まる交流……花巻郊外旧太田村の山小屋に7年間隠棲した光太郎と共通します。

ただ、現代、光太郎の太田村での生活の意味等、広く知られているとは言い難い状況です。こういうと何ですが、ましてや知名度の点で尾崎のそれはさらに知られていないと思われます。

そうした意味ではこういう記事、ありがたいところです。ちなみに『毎日新聞』さん、同じ「山は博物館」という連載では、先月8日に光太郎の隠遁生活について「光太郎「岩手の山」に自ら流刑 己の戦争詩に「暗愚」見る」として紹介して下さいました。反論に耳を貸さないつもりもありませんが、それに対して「単に若い頃からの夢だった山暮らしをしたかっただけ」などという浅い見方しかしない輩も多く、辟易しているのですが……。

浅い見方といえば、明後日は12月8日、太平洋戦争開戦の日で、毎年、SNS上で幼稚なネトウヨが光太郎の翼賛詩の一節を掲げて喜んでいます。彼らは戦後の光太郎の真摯な反省などには目もくれません。何なんでしょうね……。

【折々のことば・光太郎】

昨日は亡父の祥月命日なので松庵寺で心ばかりの法要を営みました。佐藤夫人も参詣してくれました。今この部屋でも線香の匂をなつかしく感じてゐます。

昭和20年(1945)10月10日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

松庵寺さんは花巻市双葉町に健在の寺院。光太郎所縁の寺として門前に説明板を掲げて下さっています。

ここで亡父・光雲と、同じく10月が命日だった智恵子の法要を営んでもらいました。8月にも松庵寺さんで起請文をもらった光太郎、おそらくその2日間の出来事を合成し、詩「松庵寺」を書きました。

   松庵寺
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 奥州花巻といふひなびた町の
 浄土宗の古刹松庵寺で
 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
 まことにささやかな法事をしました
 花巻の町も戦火をうけて
 すつかり焼けた松庵寺は
 物置小屋に須弥壇をつくつた
 二畳敷のお堂でした
 雨がうしろの障子から吹きこみ
 和尚さまの衣のすそさへ濡れました
 和尚さまは静かな声でしみじみと
 型どほりに一枚起請文をよみました
 仏を信じて身をなげ出した昔の人の
 おそろしい告白の真実が
 今の世でも生きてわたくしをうちました
 限りなき信によつてわたくしのために
 燃えてしまつたあなたの一生の序列を
 この松庵寺の物置御堂の仏の前で
 又も食ひ入るやうに思ひしらべました

昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦直前に出版された『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定される「荒涼たる帰宅」以後、ほぼ翼賛詩一辺倒で、発表された詩に智恵子が謳われることはありませんでしたが、戦争も終結し、再び智恵子が詩の世界に戻ってきました。

光太郎の親友・碌山荻原守衛の顕彰にあたる信州安曇野の碌山美術館さんでの美術講座です。

美術講座「スト―ブを囲んで 臼井吉見の『安曇野』を語る」

期 日 : 2023年11月25日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 18:00~19:30
料 金 : 無料

語り手 : 太田寛さん(安曇野市長、当財団理事)
      平沢重人さん(安曇野市文書館長、臼井吉見文学館長、当財団理事) 

ダルマストーブで暖をとりながら開催する恒例の講座です。
小説『安曇野』完結50年にあたる本年、小説の最後の舞台である当館のグズベリーハウスで、『安曇野』についてお話しいたします。
第5部の臼井とかつての同僚・横沢正彦(荻原碌山研究委員会委員長)とのやりとりや、主人公の一人・荻原守衛を中心としたお話です。
暖かい服装でお出かけください。

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大河ドラマの誘致運動も起こっている小説『安曇野』がらみです。安曇野出身の臼井吉見が昭和40年(1965)から同49年(1974)にかけて刊行した全5巻の小説で、荻原守衛や支援者の相馬愛蔵・黒光夫妻、そして光太郎も登場します。

市長おん自らのご登壇ということで、市としての熱意も感じられますね。ちなみに平成29年(2017)の「ストーブを囲んで」では、当方も語り手を務めさせていただきました。

碌山美術館さんといえば、安曇野市さんの広報誌『広報あづみの』11月15日号、表紙がドーンと同館碌山館(内壁に光太郎の名も刻まれています)。
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11月5日(日)に一夜限りで行われたライトアップの様子です。紅葉も実にいい感じですね。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

着物は智恵子手織の反物二反にて宮沢さんにたのんでモンペ姿の上下羽織を縫つていただきそれを常用してゐます。宮沢さん一家は実に綿密に小生をいたはつて下さります。まつたく賢治さんのおかげと思ひます。


昭和20年(1945)6月28日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎63歳

智恵子手織の反物二反」もおそらく防空壕に入れて置いたため、4月13日の空襲による焼失を免れたようです。
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おそらく左画像のちゃんちゃんこと右画像のズボンが同じ生地のように見え、それで「上下」でしょう。右画像の格子縞のちゃんちゃんこがもう一反と思われます。

今日明日と、早世した碌山荻原守衛を除き、光太郎がほぼ唯一高く評価した同時代の日本人彫刻家・高田博厚がらみの情報を。

今日は信州安曇野発のイベント情報です。信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん記事から。

世界的彫刻家・高田博厚の功績再評価 豊科近美で15日にイベント

 世界的な彫刻家・高田博厚(1900~87)の功績を再評価する朗読と音楽のイベントが15日、高田の彫刻作品を常設する安曇野市豊科近代美術館で催される。安曇野の歴史にまつわる研究や講演活動を展開する任意団体・あづみ学校(岩隈久代表)が「日本の近代彫刻史を知る上で地勢的に恵まれた安曇野の魅力を市民の手でより高めたい」と企画した。
 欧州で活躍し、ノーベル賞作家ロマン・ロランら一流の思想家や芸術家と交流した文筆家でもある高田の著書『私の音楽ノート』を岩隈代表が朗読する。元松本市音楽文化ホール専属オルガニストの原田靖子さん=安曇野市=が、約100年前の製造とみられる西川オルガンの「リードオルガン」(足踏み式)で、著者ゆかりの名曲を朗読に乗せて奏でる。
 石川県出身の高田は、近代彫刻の父・ロダンの影響を受けた彫刻家・高村光太郎(1883~1956)との出会いを機に彫刻の道へ進み、渡仏した。その西洋的な作品群は、穂高出身の彫刻家で東洋のロダンと称された荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)と高村がともに潮流を盛り上げた日本近代彫刻の系譜を継ぐ。
 欧州の修道院風建築が特徴的な市豊科近代美術館は、公立美術館で最大となる高田の彫刻作品約200点を収蔵する。美術館建設を切望した旧豊科町が遺族の承諾と厚意を得て、高田作品を誘致した開館経緯がある。岩隈代表は「(碌山美術館が作品を収める)地元ゆかりの碌山や高村に対し、高田への評価や認知はこの地域でまだまだ。3人の作品に触れられる安曇野の潜在的な価値を市民が共有し合う機会に」と話す。
 午後2時開演。大人2500円。問い合わせや申し込みはあづみ学校(電話090・8018・5424)へ。
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記事にあるとおり、同館では高田の彫刻200点ほどを収蔵し、常設で展示しています。光太郎胸像(昭和34年=1959)も含まれています(現在、展示中かどうかはわかりかねますが)。

かつてミュージアムショップでゲットしたポストカード(左)とA4判クリアファイル(右)。クリアファイルの方は右上に光太郎が居ます。
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それから、個人的には日本初のオルガンといわれる西川オルガンが使われる、というのが気になるところではあります。

お近くの方、ぜひどうぞ。

明日は埼玉県東松山市から、やはり高田関連の情報をお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

大変遅れましたし、又だんだん切りつめて短くなりました、 おまけに詩の主題が少々へんなので、果してどうかとおもひます、一度御検読の上、雑誌に不都合のありさうな時は掲載中止に願ひます、「婦人之友」の例もありますから此点気にかかります、


昭和16年(1941)11月19日 栗本和夫宛書簡より 光太郎59歳

栗本は中央公論社の編集者。この書簡は翌年元日発行の『婦人公論』に掲載された詩「必死の時」に関わります。

「婦人之友」の例」は、この年7月、『婦人之友』に掲載された詩「事変はもう四年を越す」が、発売後に問題視され、店頭で頁が破り取られる処分を受けたことを指します。
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 さみだれけむるお濠の緑のかなたに、
 赤い煉瓦のぶざまな累積、
 高いアンテナと黒い明治の尖塔と、
 その又上に遠く悲しくさむざむと
 墓のやうな議事堂のやせたドオム、
 この支離滅裂なパノラマのいちばん下を
 ひけ時の群衆と電車がうごく。


この一節が当局により「宮城の濠を中心とせるパノラマを支離滅裂となすは不穏当」とされました。

光太郎、国会議事堂の建築に関しては、昭和11年(1936)、竣工当初からけちょんけちょんに評していました。

新議事堂のばかばかしさよ。迷惑至極さよ。何処に根から生えた美があるのだ。猿まねの標本みたいでわれわれは赤面する。新議事堂の屋根の上へ天から巨大な星でも墜ちて来い。(「某月某日」)

昨日は智恵子忌日「レモンの日」でした。「レモン忌」とも称しますが、「××の日」としていただけると、取り上げられやすいように感じます。皆様のSNS等拝見しますと、カーナビが「今日は「レモンの日」です」としゃべったりだそうですし。

さて、「レモンの日」がらみで、信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さんの一面コラム「みすず野」。このコラム、「中の人」が光太郎智恵子ファンなのでしょうか。高い頻度で夫妻に触れられています。多謝。

2023.10.5 みすず野

 ともに明治生まれで、50代で亡くなった2人の女性に思いをはせる。新刊コーナーの『杉田久女全句集』(角川ソフィア文庫)は帯書きに〈師・虚子による破門後、未発表の句も収録〉とある。図書館へ行かなくても手元に置けるようになった◆編者の坂本宮尾さんが句の背景や味わいどころを挙げた〈十五句鑑賞〉には、もちろん代表句の〈紫陽花に秋冷いたる信濃かな〉が入っている。城山公園に句碑が立つ。随筆選から漏れたが、これを機に父のふるさと松本への愛着をつづった佳文も読まれ、もっと多くの市民が〈女性俳句の先駆者〉ゆかりの地を誇れたらいい◆もう一人は高村智恵子。夫・光太郎の詩集『智恵子抄』に収められた〈レモン哀歌〉にちなみ、きょうはレモン忌。光太郎は滞在中の上高地から―徳本峠で待っていても同じなのに―岩魚留まで迎えに行った。待てなかったのだ。汗を拭い、顔をほころばせる智恵子が目に浮かぶ◆峠道の復旧に汗をかく人たちがいる。何かお手伝いができないだろうか。日本近代登山の黎明期を支えた古道だから1人の名というわけにはいくまいが、ひそかに「智恵子の道」と呼びたい。

大正2年(1913)夏、先に上高地に滞在していた光太郎が、後を追って入山してきた智恵子を迎えに行った件について触れて下さいました。この後、二人は一夏を上高地で過ごし、結婚の約束を果たします。

ひそかに「智恵子の道」と呼びたい」道はクラシックルートとも呼ばれる旧道。たびたび土砂災害に見舞われ、今も「峠道の復旧に汗をかく人たちがいる」。ありがたいことです。

さて、「レモンの日」ということで、今週に入ったあたりから、全国の学校さん、各種施設さん等での給食などで、レモンを使ったメニューの提供が相次ぎました。こちらもありがたいことです。

その中で福島県福島市の平田小学校さん。昨日はずばり「レモンの日献立」。自校給食で同校独自のものだったのか、センター給食で複数校に提供されたのかわかりかねますが、同校サイトから。

レモンの日献立。〔給食〕

本日はレモンの日献立で「さばの味噌煮・レモン和え・ざくざく汁・ごはん・牛乳」でした。レモンの日は、安達町(現在の二本松市)出身の洋画家・高村智恵子さん、夫で詩人の高村光太郎さんにちなんだ日だそうです。智恵子さんが好きだったさばの味噌煮、二本松の郷土料理「ざくざく」が提供されました。さっぱりとしたレモン和えとともに美味しくいただきました。ごちそうさまでした。
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智恵子さんが好きだったさばの味噌煮」の出典が不明なのですが……。「ざくざく」は当方も何度か口にしましたが、「福島県の」あるいは「中通りの」ではなく、「二本松の」郷土料理なのですね。

「レモンの日」の定着、そこから波及して光太郎智恵子の世界が世の皆さんに広く知られていくことを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

今度はたつた三日間限りの委員でありますから何の提案も出来ないでせう、


昭和15年(1940)12月6日 小野綾子宛書簡より 光太郎58歳

この月16日から18日にかけて開催された大政翼賛会臨時協力会議に関わります。光太郎は岸田国士のたっての薦めで委員に就任し、翌年まで都合3回、会議に出席しました。

この時の会議では「何の提案も出来ない」と云いつつ、「芸術政策の中心」「国宝、特別保護建築物の防空施設」などについて発言しました。

ニュース映像が残っています。どこかに光太郎が映り込んでいるかもしれません。


智恵子を亡くした後の空虚感を埋めるため、さらには「芸術家あるある」の俗世間とは極力交わらない生活が智恵子を追い詰めたという反省、さらにはそんな生活をしていては自分も精神の危機を迎えるかも知れないという危惧もあったのでしょう、光太郎は一転して社会と向き合う方向に梶を切りました。その社会の方がおかしな方向にどんどん突き進んでいたのが、光太郎にとっての大きな悲劇でした。

昨日、光太郎自身の書について書きましたが、光太郎詩を書いて下さった作品も含まれる現代の書の展覧会が長野県で開催中でした。気づくのが遅れ、明日までです。

表具師北岡芳仙洞 創作箔アートパネル展

期 日 : 2023年9月2日(土)~9月11日(月)
会 場 : かんてんぱぱガーデン 長野県伊那市西春近広域農道沿い
時 間 : 9:00〜17:00 最終日は13:00まで
料 金 : 無料

染めた和紙と織物に金銀箔をあしらった屏風やパネルなど200点以上。

和紙と織物を染め、金銀箔をあしらった唯一無二の作品を展示販売いたします。新作六曲一双屏風や新作パネル・行燈・花掛・置時計など多種多様です。表具師古来の糊と技法を生かした新しい表現の数々。全ホール使用の展覧会は二回目となります。みなさまのご清遊を心よりお待ち申し上げております。

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長野県北部の中野市にお店を構えられている芳仙洞さんという老舗表具店さんの主催。

光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を書家の方が書かれた作品も展示されているそうです。
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長野市の書家、久保皐泉さんとの共作。高村光太郎の「道程」。墨染、絹、銅箔。何度も書き直したという久保さん。久保さんの作品の中でも異色ですが、とてもシックな仕上がりではないかと。広い会場でその雰囲気を是非、感じて頂けたらと思います。

横長の作品ですが、なるほど、マクリの状態ではなく、きれいに表装されているようです。茶色っぽい部分が銅の箔なのですね。へーっと思いました。

書の方は詩の内容が内容だけに雄渾な感じで、てっきり男性の作品かと思い込んでいましたが、久保さんという方、女流の書家だそうです。意外といえば意外でした。そういう決めつけがジェンダー平等に反するのかも知れません。

書家の皆さんには、光太郎詩文、どんどん取り上げていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

今日は岡倉先生の珍しき写真一葉お貸し下され難有存じます。團十郎製作後に天心像を作りたく、その時の参考に暫く拝借いたします、


昭和12年3月31日 松下英麿宛書簡より 光太郎55歳

「岡倉先生」は岡倉天心、「団十郎」は九代目市川團十郎。南品川ゼームス坂病院に智恵子を入院させたことによって、彫刻制作の時間が取れるようになりました。しかし團十郎像は九分通り出来上がったものの、未完。天心像は着手したのかどうかも確認できていません。

まずは8月21日(月)、信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さんの一面コラム「みすず野」。このコラム、たびたび光太郎にふれて下さっていますが(今月4日にも)、またしても光太郎の名。

2023.8.21 みすず野

〈日本山岳史上、最大のハプニング〉は―現在の上高地帝国ホテルが開業した翌年―昭和9(1934)年8月21日に明神池で起きた。〈オカミさん事件〉と言い伝えられる(牛丸工さん著『内野常次郎小伝―上高地の常さん』)◆秩父宮妃殿下を「オカミさん」と呼んだのだから、大変だ。時は戦前。昭和天皇の弟宮のきさきである。お付きの人たちのうろたえぶりを松本出身の作家・山本茂実さんが『喜作新道』に〈この男は少しバカでございますから...〉と書いている。宮様の〈常さん、オカミさんでよろしい!〉の一声に一堂は胸をなで下ろす◆ウォルター・ウェストンと上条嘉門次の出会いに始まって、数々の登山家や芸術家―例えば高村光太郎に窪田空穂、近くだと『氷壁』の井上靖など―が上高地の名を広めた。もちろん人々の足を向けさせたのは山岳と清流がつくる景観だが、さまざまな人生があったことも語り継ぎたい◆偉業を成し遂げたわけではないけれど、伝わる無欲と天衣無縫の人柄から一服の清涼をもらう。常さんは〈少しバカ〉どころか、山本さんと牛丸さんも書いておられるように〈上高地の大恩人〉である。

まぁ、今回の光太郎は話のついで、的な感じですが(笑)。

それにしても、〈オカミさん事件〉。存じませんでした。ただ、フリー百科事典ウィキペディアの勢津子妃殿下の項にちゃんと記述がありますね。また、手元にある上高地関連の書籍や雑誌などを調べてみましたところ、やはり記載されていました。読み飛ばしていました。下記は令和2年(2020)発行の『山と渓谷』増刊号「最も美しい上高地」から。
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内野常次郎の名は『高村光太郎全集』に見あたりませんが、上條嘉門次の弟子だったということで、大正2年(1913)に智恵子と共に一夏を上高地で過ごした光太郎も会っていたかもしれません。嘉門次については光太郎、「信州上高地の強力嘉門次の四角な手の立派さにも打たれた。」(随筆「手」 昭和2年=1927)と書き記しています。「強力」は「きょうりょく」ではなく「ごうりき」ですね。

それにしても「オカミさんでよろしい!」と言われたという秩父宮親王の神対応、見事です。

これより以前の昭和3年(1928)、ご夫妻のご成婚に際し、光太郎が詩を寄せています。これもある意味、失礼な詩。題して「或る日」。

  或る日(昭和三年九月二十八日)000

 今日はあの人の結婚する日だ。
 秋が天上の精気を街(ちまた)に送る。
 こんな日に少女が人に嫁ぐのはいい。
 
 山でも一緒に歩きたいほど
 あのいきいきした好い青年が
 こんな日に少女(をとめ)の肌を知るのはいい。
 
 むづかしい儀式と荘厳とが
 あの二人を日ねもす悩ますさうだが、
 何もかもどしどし通過して
 結局二人きりになればいいのだ。
 
 さうしてこの初秋のそよそよする夜に
 二人一しょにねればいいのだ。

002宮様のご成婚ということが明記されていませんが、サブタイトルの「昭和三年九月二十八日」がその日ですので、それでわかるだろ、ということです。ただし、これは戦後になって『高村光太郎選集』(昭和28年=1953完結)に収められる際に付されたものらしく、光太郎の手元に残された草稿にはありません。初出発表誌が不明なので、確かめられませんが。

やはり戦後の昭和25年(1950)、この詩を雑誌『サンデー毎日』に転載させてくれ、という依頼があり、光太郎は承諾しました。ところが、発行された同誌を見て、仰天。挿絵が田舎の花嫁の輿入れ風景になっていたためです。このあたり、以前にも書きました

また、この詩以外にも、昭和28年(1953)、親王が50歳の若さで急逝された際、「悲しみは光と化す」(『朝日新聞』)という談話で、哀悼の意を表しています。国民に人気の高かった秩父宮雍仁親王には、光太郎も親近感を抱いていたようです。余談ですが、光太郎の歿後、当会の祖・草野心平が、そこから題名を拝借して、光太郎追悼文(新潮文庫版『智恵子抄』解説)を書いています。

閑話休題。上高地という場所、「みすず野」にあるとおり、本当にさまざまな人々の人生が交錯した場所なのだな、と、改めて思いました。実は当方、足を踏み入れたことがありませんで、いずれ、と思っております。

【折々のことば・光太郎】

父は今晩三時とうとう眠るやうに長逝しました。お葬式を十四日にするので今度参上するのは初七日をすませてからになるでせう。 ちゑさんの容態が気になりますが仕方がありません。


昭和9年(1934)10月10日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

光太郎の父・光雲が数え83歳の生涯を閉じました。智恵子は心を病んで、九十九里浜に移り住んでいた母親と妹夫婦の元に預けられています。義父の死が理解出来る状態だったかどうか……。

地方紙記事から3件。

まず、信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さんの一面コラム。

2023.8.4 みすず野

東京美術学校の草創期だから明治半ばだろう。岡倉天心校長が学生を飲みに誘う。集まったのは下村観山、菱田春草、横山大観...橋本雅邦先生もいた。後に名を成す大家の修業時代とはいえ、すごい顔ぶれの飲み会があったものだ(『作家と酒』平凡社)◆こちらは詩人の交流。草野心平は若い頃、屋台の焼き鳥屋を開く。素人商売だから翌日の酒を仕入れる金が残らない。心配して友達の高村光太郎がたびたび様子を見に来た。2人は―詩誌で心を通わせ合った―宮澤賢治の葬儀に駆け付け、遺稿の詰まったトランクの中から〈雨ニモマケズ〉の手帳を手に取る◆こうした逸話は―互いに鍛え合い、信頼し合える―友や出会いの大切さにあらためて気付かせてくれる。同僚は自分を高みへと導く〝春草〟かもしれない。一別以来はがきも出していない友は〝賢治〟でなかろうか◆前掲書からもう一つ。村上春樹さんが〈小澤征爾さんがうちに遊びに見えたとき〉と書いている。マエストロは米国ビール〈ブルー・リボン〉を懐かしがり、くいくい飲んだ。ニューヨークでの助手時代は収入がほとんどなく、安い銘柄しか飲めなかったという。

一昨年発行のアンソロジー『作家と酒』から。ただ、「宮澤賢治の葬儀」は誤りで、正しくは没した翌年に新宿で開かれた追悼会ですが……。

互いに鍛え合い、信頼し合える―友や出会いの大切さ」。そのとおりですね。

続いて『信濃毎日新聞』さん。

「震災を自分事に」 松川高ボランティア部、4年ぶり東日本大震災の被災地訪問 石巻市と女川町

 松川高校(松川町)ボランティア部の生徒7人が4日、東日本大震災で被災した宮城県沿岸部の石巻市と女川町を訪ねた。震災直後から続く被災地訪問は、新型コロナウイルス感染症の影響で途絶えていたため4年ぶり。被災地に寄り添う取り組みを次代につなげた。
 ボランティア部は町特産のリンゴを石巻市に届けたり、現地でがれきの撤去を手伝ったりしてきた。同市の避難所で咲いていたペチュニアの種を譲り受け、生徒や松川町民が育てて「お里帰り」させる取り組みもしている。
 この日は、子どもが中心となって建てた女川町の「女川いのちの石碑」を見学し、石巻市の「みやぎ東日本大震災津波伝承館」に移動。解説員から地震や津波の規模、身を守るすべについて教わった。
 津波で児童74人、教職員10人が亡くなった石巻市の大川小学校跡地の震災遺構では、次女を失った大川伝承の会共同代表の鈴木典行さん(58)が当時の生々しい状況を説明。「津波の教訓は、逃げたら戻らないということ。戻ったら流される」と訴えた。
 松川高2年の関根諒さん(16)は東京電力福島第1原発事故を受け、4歳の時に福島県大熊町から駒ケ根市に移り住んだ。「東北には『戻る』というより『行く』という感覚。大川小で悲惨な話を聞き、震災を自分事として考えられた」と話した。部長の3年小田切彩風(あやか)さん(18)は「学んだことを後輩たちに伝えたい」と言葉に力を込めた。
 現地訪問は3~5日の日程。3日は宮城県内の小中学校や高校で児童生徒と交流した。5日は福島県双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館を見学する。
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いのちの石碑」は、東日本大震災による大津波で甚大な被害を受けた宮城県女川町に建てられたもの。震災後、当時の中学生たちが、大地震の際に避難する目印として津波到達地点より高い場所に設置を続けました。かつて「100円募金」で建てられた女川港の高村光太郎文学碑に倣い、費用は全て募金で賄われました。
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今日はその女川町に参ります。明日、光太郎を顕彰する「女川光太郎祭」ですので。

同祭につき、仙台に本社を置く『河北新報』さん系の『石巻かほく』さんが予告記事を出して下さいました。

光太郎の思いに触れて 女川で祭り、4年ぶり 朗読や講演 9日

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第32回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日午後2時から、同町まちなか交流館ホールで開かれる。
 光太郎がのこした紀行文や詩の朗読などを通して光太郎の思いに触れる。記念講演では高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎 その生の軌跡 最晩年」と題して講演する。朗読には同町を含む東北と東京から計10人が参加する予定。ギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)、オペラ歌手本宮寛子さんの献奏、献歌もある。
 光太郎は1931年8月に三陸沿岸を巡る旅の途中に女川を訪れ、数々の詩や散文などの作品をのこした。光太郎祭は、地元有志らで組織する女川・光太郎の会が92年から開いてきた。新型コロナウイルス感染拡大の影響で2020年から中止が続き、4年ぶりの開催。誰でも参加できる。
 連絡先は事務局の佐々木さん090(6686)7811。

光太郎祭の通常開催は4年ぶり。当方は東日本大震災からちょうど10年だった一昨年の3.11に訪れて以来の女川です。長かったような、短かったような……。

【折々のことば・光太郎】

しばらく方々を歩いてゐましたが先日帰宅しました、 秋になりましたがお変りありませんか、

昭和8年9月19日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の療養のため、東北、北関東の温泉を約半月廻りました。

この葉書は塩原で撮った写真を絵葉書にし、送りました。確認できている限り、智恵子生前最後の写真です。
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最近、白黒写真をカラー化できるアプリ的なものが出回っており、やってみました。やっぱり雰囲気が少し変わりますね。しかし、AI、もうちょっとがんばれよ、という感じですが。

7月23日(日)、安曇野市の碌山美術館さんをあとに、愛車を南に向けました。目指すは松本市。

甲信方面はなぜか光太郎と交流のあった人物の記念館や、それらの人物の作品を収めた美術館等が多く、碌山美術館さんに行った際にはもう一つ、ハシゴして帰るのが昔からのルーティーンです。

今回訪れたのは、松本市のはずれ、のどかな田園地帯の一角にあるにある窪田空穂記念館さん。窪田空穂の生家のかたわらに建てられています。
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窪田は光太郎より6歳年上の明治10年(1877)生まれ。初期の『明星』に参加した歌人で、その頃から光太郎と交流がありました。そして光太郎がらみで最も多く取り上げられるのが、大正2年(1913)夏、上高地の清水屋旅館でたまたま同宿となったこと。この際には智恵子も後から光太郎を追いかけて上高地に現れ(しめしあわせていたのですが)、ここで二人は結婚の約束をしました。

窪田が下山するのと入れ違いに智恵子が登ってきて、窪田は智恵子を迎えに途中の岩魚止までやってきた光太郎と智恵子を目撃、帰京後、『東京日日新聞』に「美くしい山上の恋―洋画家連口アングリ―」というゴシップ記事を匿名で寄稿した他、複数の回想でこの夏の上高地の様子や、その前後の『明星』時代の光太郎について書き残しています。

まずは生家。
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玄関には式台があり、なかなかの格式です。名家だったことがよくわかります。
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衝立の裏側は、何やら洋画風の絵。
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座敷の感じや、むき出しの梁(はり)など、古建築好きにはたまりません。
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縁側にはちょっと変わった七夕飾り。おそらくこの辺りは旧暦で実施するのでしょう。
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庭からの外観。
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戦時中、窪田が疎開的に帰って来て暮らしていたという離れ。
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道をはさんで反対側の記念館。
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撮影禁止という表示が見あたらなかったので……。
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大正2年(1913)、光太郎と同宿だった上高地関連。光太郎の名も。
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右は昭和9年(1934)刊行の『日本アルプスへ・日本アルプス縦走記』に載った挿画。画家の茨木猪之吉が描いたもので、光太郎を含む、大正2年(1913)夏に同宿だった面々のカリカチュアです。
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馬面だった光太郎の特徴をよく捉えてはいますが、若干の悪意を感じますね(笑)。

展示はされていなかったのですが、こちらには上高地で光太郎が描いたスケッチが収蔵されているとのことです。ただし、「写真」とあるので複製と思われます。
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なかなかいい絵ですね。しかし、光太郎筆に間違いはなさそうですが、元ネタがよくわかりません。上高地からの下山後、10月に神田三崎町のヴヰナス倶楽部で、岸田劉生らと開催した「生活社主催油絵展覧会」に出品されたペン画3点のうちの一つかとも思われますが。光太郎、この際には他に彫刻1点、上高地での油絵21点も出品しました。

拝見し終わって帰途に就きました。まだ午前中でしたが、日曜でしたので夕方近くになると中央道が大渋滞になるだろうと予測。それを避けるためです。それでも韮崎付近で工事プラス事故で渋滞、小仏トンネル入り口あたりでも自然渋滞。さほどではなかったので途中で昼食を摂っても4時間少しで帰り着きました。

以上、信州レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

あなたのてがみを病院でよみました、面疔が急に出来て、診察してもらひにいつたら即刻無理に入院させられてしまひ重態扱ひなので一時閉口しましたが早い手当てがきいて間も無く快方に赴き、もう退院しました。

昭和6年(1931)7月7日 高田博厚宛書簡より 光太郎49歳

「面疔(めんちょう)」は、黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。化膿性で進行すると脳膜炎に移行すると、昔は恐れられていました。光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中にも面疔を発症しています。

書簡はパリに渡った高田に宛てたもの。現在確認できている高田宛書簡二通のうちの一通です。現物は高田の作品を多数展示している安曇野市の豊科近代美術館さんで所蔵しています。

2回に分けて信州レポートをお届けします。

7月22日(土)夜、千葉の自宅兼事務所から愛車を西に向け、出発。電車ですと7時間くらいかかるのですが、車なら渋滞がなければ4時間ちょっと。どうしても車で渋滞を避けて行くのを選択してしまいます。ただ、夜間にも拘わらず新宿近辺で渋滞が発生しており、少し難儀しました。

日付が変わった頃、塩尻市の健康ランドに到着。以前にも利用したことがありまして、今回もここで仮眠を取って夜を明かしました。

翌朝。前夜に岡谷の辺りで土砂降りだったのですが、晴れました。
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一路、安曇野市の碌山美術館さんへ。4月の碌山忌以来です。
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こちらでは夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』が開催中です。

会場は数棟あるうちの2棟。まず、第2展示等。
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同館所蔵の光太郎ブロンズ10点、すべて展示されています。普段はお隣の第1展示棟で入れ替えながら常設展示されていますが、10点全てが並ぶのは初めてでしょう。平成28年(2016)の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の際には、まだ同館で所蔵しておらず、借り受けだったものもありましたので。
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ほぼ制作順に見ていくと、「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)、「園田孝吉胸像」(大正4年=1915)。
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「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「腕」(大正7年=1918)。
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「手」(大正7年=1918)、「老人の首」(大正14年=1925)。
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「腕」と「手」の前後関係ははっきりしないのですが、最近見つけた「手紙」と題する光太郎の文章(大正8年=1919)を読むと、「手」の方が先で、その後、類作的に「腕」、「ピアノを弾く手」「足」などの人体パーツの作品を作っていったのではないかと思われます。

「光雲一周忌記念胸像」(昭和10年=1935)、間が開きますが「乙女の像(小型試作)」(昭和27年=1952)。
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この間には心を病んだ智恵子の看病、そして死、戦時下での物資不足による彫刻不能の状態、せっかく作ったものは金属供出、そして戦後の蟄居生活の中で自らに課した彫刻封印などがあり、大作は残されていません。

「乙女の像(中型試作)」(昭和28年=1953)、そして絶作にして未完の「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)。
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その他、古写真のパネル。
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現存が確認できていない「黄瀛の首」(大正15年=1926)、土門拳の撮影です。
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髙村家からの借り受けで、直筆の詩稿現物。複製ではありません。

詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)。同館に立つ光太郎詩碑に刻まれているものです。
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『智恵子抄』中の絶唱、「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。戦後の連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)中の「美に生きる」。
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これらの現物、久々に見ました。「美に生きる」は初見かも知れません。

スケッチも、複製でなく現物。
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詩稿やスケッチなどは一般のお客さんにとっては現物でも複製でもあまり関係ないのかな、という気はしないでもないのですが、当方にしてみれば、アゲアゲでした(笑)。

光太郎著書類。同館所蔵の『道程』(大正3年=1914)。
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あとは当方がお貸ししたもの。

光太郎の「黒歴史」である、戦時中の翼賛詩集三冊。『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)。
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戦後の詩集から2冊。『典型』(昭和25年=1950)と、『猛獣篇』(昭和37年=1962)。
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『典型』の題字は光太郎の自刻木版。『猛獣篇』は当会の祖・草野心平による鉄筆ガリ版刷りです。この2冊がこうして並ぶのも、心平と光太郎の関わりを顧みれば、感慨深いところです。

光太郎のペン画が口絵に使われた書籍2冊。ともに大正9年(1920)の刊行の『晶子短歌全集 第三巻』と渡辺湖畔著『若き日の祈祷』。
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「手」と「裸婦坐像」がそれぞれ描かれており、彫刻そのものと共に展示されるのは初めてではないでしょうか。彫刻そのものと見比べていただきたいと思い、当方の判断で展示に加えていただきました。

続いて杜江館。こちらは智恵子関連です。
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神戸文化ホールさんの巨大壁画の原画となった「あじさい」他、智恵子紙絵の現物5点。「あじさい」は褪色が進んでしまっているのが残念でしたが……。
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『青鞜』(当方蔵)と『智恵子抄』(同館蔵)。
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さらに本館ともいうべき碌山館を拝見、旧知の武井学芸員とお話しさせていただき、今回のポスターを頂きました。ありがたし。
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受付後ろのミュージアムショップには、新製品である純錫製「荻原守衛 ミニチュア彫刻」全5種。
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というわけで、碌山美術館特別企画『生誕140周年高村光太郎展』、9月10日(日)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変あたたかになり、ちゑ子が又土いぢりを始めました。いろんな植木がもう芽を出しました。白文鳥の雛は三羽かへりましたが、育たずに終わりました、

昭和6年(1931)3月9日 水野葉舟宛書簡より 光太郎49歳

土いぢり」は一瞬、粘土による彫塑かとも思ったのですが(作品の現存は確認できていないものの、智恵子も彫刻制作に取り組んだ時期がありました)、植物の話が出ているので、園芸的な方面でしょう。

白文鳥」は、この頃光太郎が制作した木彫の関係で飼っていたものと思われます。
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光太郎智恵子の姿にも重なるような「白文鳥」のつがい。孵った雛は育たなかったそうで、子どもができなかった(作らなかった?)光太郎智恵子にオーバーラップします。

約半年後には智恵子の心の病が顕在化しますが、こんなことも一つのトリガーだったかもしれません。

昨夜、自家用車で千葉の自宅兼事務所を出まして、塩尻の健康ランドで一泊、安曇野市の碌山美術館さん、松本市の窪田空穂記念館さんとハシゴしております。
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詳しくは帰りましてから。

信州安曇野の碌山美術館さんでの展示です。

夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』

期 日 : 2023年7月21日(金)~9月10日(日)
会 場 : 碌山美術館第二展示棟 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 9:00~17:10
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
      ※障がい者手帳をお持ちの方は半額
      20名様以上団体料金 大人800円/高校生250円/小中生100円

高村光太郎の当館が所蔵する彫刻を10点、詩直筆原稿4点・彫刻10点 高村智恵子の紙絵10点(会期中入れ替えあり)を展示します。
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同館では光太郎ブロンズ彫刻を10点所蔵しており、その全てが並びます。通常、常設展示として第一展示棟にそれらを入れ替えながら展示して下さっているのですが、10点全てを出すのはこういう機会でもないと、というところです。
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10点の内訳は、

「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)
「園田孝吉胸像」(大正4年=1915)
「裸婦坐像」(大正6年=1917)
「腕」(大正7年)
「手」( 〃 )
「老人の首」(大正14年=1925)
「光雲一周忌記念胸像」
(昭和10年=1935)
「乙女の像(小型試作)」
(昭和27年=1952)
「乙女の像(中型試作)」(昭和28年=1953)
「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)

です。すべて光太郎歿後の鋳造と思われますが、光太郎作品の鋳造を多く手がけた齋藤明氏(光太郎実弟・髙村豊周の弟子筋)のそれも含まれ、いい「抜き」になっています。

ただ、残念ながら光太郎木彫は同館に所蔵が無く、貸し出しも受けないそうです。

他に、髙村家からの借り受けで、智恵子紙絵の実物と、光太郎詩稿。さらに当方が関連書籍6冊お貸ししました。戦時中の翼賛詩集三冊、戦後の詩集『典型』(昭和25年=1950)、光太郎没後に草野心平が鉄筆を執りガリ版刷りで刊行された『猛獣篇』(昭和37年=1962)、智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』(明治45年=1912)。『道程』(大正3年=1914)と『智恵子抄』(昭和16年=1941)は、同館が所蔵しているものが並ぶようですのでお貸ししませんでした。

お送りするのに使った箱が少し大きめだったので、自作ブロンズ彫刻を描いた光太郎ペン画が口絵として使われている書籍も2冊同梱しましたところ、そちらも展示して下さるそうです。『晶子短歌全集 第三巻』と渡辺湖畔著『若き日の祈祷』。ともに大正9年(1920)の刊行です。
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口絵のページを開いてこんな感じで並べてくれ、とお願いしておきました。

当方、7月23日(日)に伺う予定で居ります。皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

少しのんきな位になつてたのしく此世を暮してゆかれるといいがなあとよく思ひます。 それには「自然」に眼を向ける事、毎朝太陽を見る事、深呼吸、雨の音をきく事、 星の知識を学ぶ事、 草木をいぢくる事、 鳥獣の友達となる事、 うたをうたふ事、 そんな事をしてゐるうちに心が自然とのびやかになる事だらうと思ひます。


昭和3年(1928)10月27日 水野葉舟宛書簡より 光太郎46歳

その通りだなぁ、という気がしますね。

光太郎の親友だった碌山荻原守衛を顕彰する信州安曇野の碌山美術館さん。守衛作品を純錫製のミニチュアにしたもの5種を発売なさいました。

純錫製「荻原守衛 ミニチュア彫刻」全5種

新しいミュージアムグッズ 錫製品に荻原守衛彫刻シリーズが、ついに登場。作品を3Dスキャンし、3Dプリンターで出力した像の修整を経て型取りした、精巧なミニチュアです。木台座、桐箱付、各4,600円。 別途送料とお振込手数料がかかります。 ※ご注文頂いてからの製造につき、お手元届くまで半月ほどお時間をいただくことがございます。ご了承くださいませ。
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《女》高さ 約6.5cm 《坑夫》高さ 約5cm 
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《宮内氏像》高さ 約5cm 《文覚》高さ 約5cm 《女の胴》高さ 約5.5cm

いい感じですね。

5点中、守衛絶作の「女」と留学中の作品「坑夫」は、光太郎がその保存に関わったものです。
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「女」は、令和2年(2020)にトーハクさんと藝大さんの協力の下、ブロンズで像高25㌢ほどの縮小模刻が発売されましたが、今回のものはさらに小さいサイズで価格もお手頃です。しかも小さいからといって侮る勿れ、ちゃんと3Dスキャンによる制作です。

光太郎作品もこんな感じでのミニチュア化があってもいいように感じました。ブロンズの「手」とか、木彫の「蟬」「鯰」「白文鳥」など。ただ、大人の事情で難しいでしょうね。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」は、地元の土産物店などで昔からミニチュアが作られていますが、しょせんお土産品ですので……。

ちなみに光太郎の父・光雲の「老猿」は、平成27年(2015)にポリストーン(石粉、合成樹脂混合)製のレプリカ(像高20㌢)がトーハクさんから出ていますし、「西郷隆盛像」も3D彫刻複製といううたい文句で販売されています(像高37㌢)。

閑話休題、碌山美術館さんのシリーズ、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ちゑ子への御葉書は直ぐ転送いたします ちゑ子は医者の言葉によつて今年は海へ行く事にして 福島県相馬郡原釜 金波館に滞在して居ります いつでもあなたからのお便りを大変うれしがつて居りますから 時々御葉書をやつて下さい

大正6年(1917)8月9日 旗野すみ子宛書簡より 光太郎35歳

旗野すみ子(スミ)は、日本女子大学校での智恵子の後輩。新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島に住んでいました。スミの姉・ヤヱがやはり日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在しました。スミは後に結婚して再上京、立川の農事試験場付近に住み、光太郎智恵子夫婦と交流が続きます。
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こちらは大正2年(1913)の『読売新聞』。

さらに大正5年(1916)、旗野家で撮られた写真。左端が智恵子、後列中央がスミです。
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福島県相馬郡原釜 金波館」は、結婚前の少女時代から智恵子が家族共々何度も訪れていた定宿。現在の南相馬市原釜尾花海水浴場です。

地方紙2氏から、冊子の刊行に関する報道を2本。

まずは『岩手日日』さん。過日ご紹介した、花巻市さん刊行のThe Onsen of Hanamaki 花巻温泉』について。

温泉郷の記憶、英語で発信=岩手県花巻市

 岩手県花巻市は、彫刻家・詩人の高村光太郎が市内の温泉に滞在した際の思い出を語った「花巻温泉」を英訳し、A5判52ページの冊子を作った。簡易な板で仕切られた“混浴”で起きるドタバタなど、1945年から52年にかけて花巻で暮らした光太郎が体験した情景が描写されている。
 地元の旅館関係者らによると、外国人客の多くは花巻に宿泊しても、すぐに他市町村の有名な観光スポットに流れてしまうのが悩みの種。ガイドブックには今の情報しか書かれていないのが一般的だが、過去に目を向け、在り続けるものと消え去ったものに気付いてもらうのはどうかと考えた。制作を企画した地域おこし協力隊の森川沙紀さん(36)は「光太郎が暮らした頃から今へと、時間の旅を楽しむガイドになれば」と話している。
 日本語の原文を併記。100部を制作し、学校や旅館などに配布する。
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花巻市さんのサイトにも紹介が出ています。ご覧下さい。

ただ、普通に販売しても十分に売れると思われるクオリティなのですが、商売っ気があまりないようで、PDFファイルで全文の公開なども為されています。しかし、英訳なさった森川氏からのメールに依れば、好評なら増刷ということだそうで、ぜひそうあってほしいものです。

続いて信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん。

碌山館の変遷 小冊子に 初代は新宿中村屋敷地内

 安曇野市穂高出身の彫刻家荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)の功績を伝える碌山美術館(安曇野市穂高)は開館記念日(4月22日)に合わせ、小冊子『三つの碌山館-荻原守衛顕彰110年のあゆみ-』を刊行した。開館65周年の節目に合わせ、日本近代彫刻の先覚者、碌山の作品資料を保存・展示してきた「碌山館」の歴史を振り返った。
 没後、大正6(1917)年まで、新宿中村屋の敷地内に開設された碌山館、その後郷里へ移された作品資料を昭和33(1958)年まで公開した生家一角の碌山館、そして、昭和33年に開館し赤れんがの外観で愛される現在の3代目の碌山館の変遷を紹介した。
 武井敏学芸員(49)が執筆。資料を読み解く中で新たな見解も見いだした。これまで明治44年とみられてきた新宿中村屋への生前のアトリエを移築した時期について「遅くとも明治43年9月3日までには移築されていたと考えられる」と認識を改めた。武井学芸員は「碌山館とは、美術を欲求する学生らが飢えをしのぐ刺激を得た場であり、美術教育の代替えの場であった」とし「没後直後から今日まで途切れることなく、碌山の作品が公開され続けてきた成果は大きい」と考察する。
 B6判87ページ、税込み400円。問い合わせは碌山美術館(電話0263・82・2094)へ。
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『三つの碌山館』、4月22日(土)の第113回碌山忌の折に戴いて参りました。何か所かで光太郎にも触れられています。
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碌山美術館さんから取り寄せることも可能でしょう。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

却て近い友達にはあらたまつて話しにくいものだ 君は今雑誌の事で多忙だらうとおもふが三四日うちに牛鍋でも一緒にたべたいとおもつて居る 水野君もびつくりして居た 併し僕はこの事については考へるだけのことを考へたつもりでゐる


大正3年(1914)12月26日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎32歳

「この事」は智恵子との結婚です。

4月22日(土)は、光太郎の親友・碌山荻原守衛の113回目の忌日「碌山忌」で、信州安曇野の碌山美術館さんにお邪魔しておりましたした。

途中で昼食を摂りながらなどでしたが、中央高速が激混みで、千葉の自宅兼事務所から5時間以上かかりました。
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コロナ禍のため中止されていた記念講演会は昨年から復活したものの、昨年はまだコロナ禍前に行われていたコンサートや偲ぶ会などは行われませんでした。今年はそれらも復活。コロナ禍前の形が完全復活しました。
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昨年、クラウドファンディングにより補修された、昭和33年(1958)竣工の本館的な碌山館。
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補修といっても、あからさまに直しました、というのが見えず、自然な感じでした。しかし、中に入ると、壁などが実にきれいになっていて、おお、という感じでした。
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ちなみに以前にもご紹介していますが、こちらの入り口裏側の壁には光太郎の名も刻まれています。開館前に亡くなった光太郎ですが、準備段階でいろいろアドバイスをしたりということがあったためです。
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第1展示棟では、常設展示で光太郎ブロンズも数点、第2展示棟では、柳敬助展。
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柳は守衛、光太郎、共通の友人の画家で、明治44年(1911)には妻の八重ともども、光太郎に智恵子を紹介する労を執ってもくれました。

休憩室的なグズベリーハウス。こちらも補修が入っていました。
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令和2年(2020)に発売された守衛絶作「女」のミニチュア
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コロナ禍前に当方が寄贈した切手系。
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午後1時半、近くの研成ホールにて、東京藝術大学教授の布施英利氏による記念講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」。ちなみにこちらでは平成28年(2016)に当方も講演をさせていただきました。
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布施氏、美術解剖学がご専門ということで、守衛の遺したスケッチ・デッサンや「女」などを検証。実に正確に描かれたり作られたりしている部分と、かなりのデフォルメが為されている部分とがある、といったお話で、非常に興味深く拝聴いたしました。
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特に「女」。
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何らの不自然さも感じられず、純粋な写実と思い込んでおりましたが、実際の人体と比較すると、異様に頭部が大きく、腕も長く、乳房の位置などもおかしいとのこと。それを感じさせない守衛の技倆には舌を巻かされます。同様のことはミケランジェロやロダンの彫刻にもよくある話なのですが、「女」もそうだったのかと、目からウロコでした。

さらに、遺されたデッサンによると、「女」の最初の構想は、腕を斜め上に伸ばしているポーズだったのではないかといった考察も。

その後、車で移動して午後4時から守衛の墓参。
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例年、お坊様には午前中に来ていただいて読経してもらうそうですが、今年は一般の墓参の時に。

また美術館さんに帰り、この日最後の行事、「偲ぶ会」の準備。その頃にはとっぷり日も暮れ、寒くなって参りまして、会場のグズベリーハウスの薪ストーブに火が入りました。
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午後6時、開会。参加者全員で光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を群読。その後、懇親会的な。
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過日、当会主催で執り行いました第67回連翹忌の集い同様、4年ぶりということで、皆さん、またこうして集まれたことを心から喜んでいるという風でした。もちろん当方もですが。来年以降も継続して行われ続けてほしいものです。

以上、信州安曇野レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

早くお帰りになつて下すつた方が 其はうれしいに極つてますけれども 御都合があるのもかまはず 無理にお帰りになつては却て私が すまない気がします 私はほんとに安らかな心持ちであなたを遠くおもひ抱いて居りますから


大正2年(1913)1月28日(推定) 長沼智恵子宛書簡より 光太郎31歳

現存が確認できている、結婚前に書かれた智恵子宛唯一の書簡から。全文はこちら

智恵子は新潟の旗野家に長逗留していました。吉田東伍ゆかりの旗野家の長女・ヤヱ(八重)は日本女子大学校で智恵子と同級、妹のスミ(澄/澄子)も女子大学校卒でした。

昨日から信州に来ております。
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昨日は安曇野の碌山美術館さんにて開催された、光太郎の親友・碌山荻原守衛を偲ぶ第113回碌山忌に参加させていただきました。
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今日は帰りがけに都内に立ち寄り、染色工芸家の志村ふくみ氏・洋子氏母子の作品展示販売会「五月のウナ電」を拝見して帰る予定です。

詳しくは帰りましてから。

展覧会情報、2件ご紹介します。

まずは今日開幕、光太郎の父・光雲の木彫が出ます。

近代・モダン 新しい時代の絵画をもとめて

期 日 : 2023年4月22日(土)~6月11日(日)
会 場 : サンリツ服部美術館 長野県諏訪市湖岸通り2-1-1
時 間 : 9:30~16:30
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人1,100(1,000)円 小中学生400(350)円
      ( )は団体20名様以上の料金

 この度サンリツ服部美術館では、明治期から昭和期の画家たちの作品を、木彫や陶磁器などの立体作品も交えながらご紹介します。
 明治期に本格的に欧米の国々と接するようになった日本では、海外からもたらされた新しい制度や文化にふれ、政治や産業など様々な分野で近代化が進みました。芸術の分野でも、絵画などを学ぶための美術学校が開校され、さらに政府主催の公募展も開かれるようになります。芸術家たちは互いに対抗したり協調したりしながら、新しい時代の息吹のなかで活発に制作を行うようになったのです。
 大正期から昭和初期にかけて、個性や自由を尊ぶ風潮が強まりましたが、東洋の古典的な作品に立ち返り、理想美を追いもとめて創作に取り入れる画家があらわれたのもこの時期です。 
 彼ら芸術家たちが、自分の生きる時代にふさわしい美術をもとめて作り出した多彩な作品をお楽しみください。

主な出品作品
・山元春挙 《若竹図》 明治から昭和期 20世紀
・橋本雅邦 《蓬莱山》 明治期 19から20世紀
・竹内栖鳳 《梅園日暖》 大正から昭和期 20世紀
・伊藤小坡 《虫売図》 昭和期 20世紀
・川合玉堂 《田家早春》 明治から昭和期 20世紀
・横山大観 《蘭図扇子》 明治から昭和期 20世紀
・富本憲吉 《白磁壺》 1936(昭和11)年
・奥村土牛 《スペインの壺》 昭和期 20世紀
・小倉遊亀 《枝椿》 大正から昭和期 20世紀
・岸田劉生 《蕪》 1926(大正15)年         
・高村光雲 《端午(鍾馗像)》 1894(明治27)年 ほか
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サンリツ服部美術館さん、セイコーグループの服部一郎氏のコレクションを元にした美術館です。

光雲の「鍾馗像」は平成30年(2018)に同館で催された「明治維新150年記念 幕末から昭和の芸術家たちと近代数寄者のまなざし」展にも出品され、拝見して参りました。
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工房作か、光雲単独制作か不分明ですが、なかなかの佳品でした。

もう1件、既に始まっていますが岡山から。

リニューアルオープン記念 所蔵名品展「平櫛田中美術館の精華ー平櫛田中全館展示ー」

期 日 : 2023年4月18日(火)~7月9日(日)
会 場 : 井原市立平櫛田中美術館 岡山県井原市井原町315
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 500円(15人以上の団体400円)
      高校生以下、市内在住の65歳以上、身体障害者手帳等をお持ちの方は無料

 井原市出身の彫刻家・平櫛田中が故郷のために寄贈した作品をコレクションの基盤とし、昭和44年に開館した当館は令和5年4月18日にリニューアルオープンします。
 リニューアル後第1弾の展覧会では、リニューアルオープンを記念して、当館の1,000点を超えるコレクションの中から選りすぐりの平櫛田中作品を一堂に展示します。平櫛田中(1872-1969)は、現在の井原市西江原町に生まれ、大阪で人形師・中谷省古に師事しました。その後、上京した田中は、彫刻家・高村光雲の門戸を叩き、彫刻家の道を歩み始めます。日本に近代化の波が押し寄せる中、日本美術の再興を目指す岡倉天心の感化も受けながら近代と伝統が融合した独自の芸術表現を探求します。
 当館のコレクションの中でも人気の高い《試作鏡獅子》や《幼児狗張子》など展示総数約90点の作品を、新たに生まれ変わった展示室で存分にお楽しみください。
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光雲や光太郎の作品が出ているわけではなさそうなのですが、光雲高弟の一人ということで、ご紹介しておきます。

一昨年からリニューアル工事が始まり、2年がかりでとうとう落成したか、という感じですね。当方、10年前に同館で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の際にお邪魔しました。どんな感じに建て替わったのか、気になるところです。

それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お姉様からもしばらくお消息がありませんので心配して居りますがやはりご無事なのでせうね


大正2年(1913)1月16日 長沼セキ宛書簡より 光太郎31歳

セキは智恵子のすぐ下の妹です。

智恵子はこの月から翌月にかけ、日本女子大学校での後輩・旗野スミの実家(新潟県東蒲原郡三川村)に逗留していました。スミの姉・ヤヱが智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし妹のスミとの交遊は続いていました。ここで智恵子は、日本に伝わってまだ間もないスキーに興じたりしていたそうです。

信州安曇野の碌山美術館さん。光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎のブロンズ作品も多数所蔵、入れ替えながら展示して下さっています。

今年7月から8月にかけ、昭和33年(1958)竣工の本館(碌山館)修復のためのクラウドファンディングが行われました。当初目標額は700万円。それがあっという間に達成され、セカンドゴールの1,200万円、サードゴールの1,800万円も次々にクリア。最終的には、1,088名の方から総額23,702,000円が集まったそうです。

この秋から早速改修工事が始まり、それもほぼ終わったようです。

地元紙『信濃毎日新聞』さん、11月17日(木)の記事。

美術館を守ろう CFで広がる支援の輪、改修や展示充実に 中信の文化施設で予想超える反響

 中信地方の美術館が施設を維持・管理していくために行ったクラウドファンディング(CF)に県内外から多くの支援が寄せられている。新型コロナ下で集客が安定せず、美術館の経営が厳しさを増す中、文化施設を後世に残したいという趣旨に大勢が賛同。関係者らは予想を超えた反響を喜び、施設を守っていく決意を新たにしている。
 安曇野市出身の彫刻家、荻原碌山(ろくざん)(本名守衛(もりえ))の作品を展示する同市穂高の碌山美術館で今月上旬、国登録有形文化財「碌山館」の改修工事が始まった。壁の剥離やひびを直し、扉や雨どいを修繕する。工事は12月中に完了する見込みで、碌山館の展示物は一時的に美術館の別の建物に移している。
 碌山館は1958年4月に開館。教会風のれんが造りで市内観光の見どころの一つとなっていたが、壁にひびが入ったり、雨漏りしたりするなど傷みも目立っていた。新型コロナの感染拡大で来館者が減少し、自己資金での修繕は難しいとみて、7月15日から8月末までCFで改修工事の資金を募った。
 目標の700万円は開始2週間で突破し、8月末までに県内外の1088人から2370万円余が集まった。「結婚式の前撮り写真を撮影した思い出の場所」「なくならないでほしい」など多くのメッセージも寄せられた。中には支援金を手渡しに訪れる人もいたという。
 碌山館はもともと、地元住民らの寄付によって建てられた。学芸員の武井敏さんは想定を超える支援に感謝しつつ「この場所と雰囲気を守っていかねばならないと感じた」と気を引き締める。残った資金は別の建物の改修などに充てる方針という。
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 同市穂高有明の絵本美術館「森のおうち」は、4月20日から5月末にかけてCFで運営資金を募集。入館者数の減少に加え、併設して営業している結婚式場や宿泊施設の収入も落ち込んだことから、施設を存続させるため広く協力を求めた。絵本作家いせひでこさんや作家の柳田邦男さんらも応援メッセージを寄せ、県内外の513人から目標の800万円を超える1400万円が集まった。
 資金は人件費や光熱費など運営資金の他、施設の魅力向上に使う。展示品を並べるショーケースを新調し、美術館のじゅうたんを張り替え、敷地内に桜の木を植えることも計画する。学芸員の米山裕美さんは「皆さんに支援をいただける施設なんだと実感し、励みになる」と話した。
 展示内容の充実にCFを活用する施設もある。木曽町新開に19日にオープンする公設民営の「ふるさと体験木曽おもちゃ美術館」は、館内で遊べるおもちゃを拡充する費用として9月20日にCFを開始。当初目標の300万円は10月中に超え、今月5日までに413万円余が集まった。
 木製の積み木やパズルなどベースとなる備品は町が購入するが、指定管理者として施設を運営する同町のNPO法人「ふるさと交流木曽」は、「木曽らしい体験ができるプログラムを充実させたい」と判断。地元特産の野菜や果物をかたどった木のおもちゃ、木曽五木を加工したおもちゃなどを新たに製作する。星野太郎副館長は「子どもたちに木曽町特産の木になじんでもらい、町の魅力や文化も伝えていきたい」と話している。

で、今月初め、「返礼品」が届きました。寄付のコースによって、あらかじめこれこれ、と指定出来るシステムで、当方が申し込んだのは鋳金製のペーパーウェイト。材質は錫で、同館のワークショップで扱われているものです。その他、ポストカードと無料入館券。
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煉瓦造りのロマネスク風の碌山館がモチーフ。いやぁ、実にシャレオツですね。

ところで同館、12月21日(水)~12月31日(土)まで冬期休館だそうです。で、来年1月1日(日)から再び開館とのこと。1月の方が寒い気がするのですが(笑)。

きれいになった同館、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

后関先生くる、退院の話相談


昭和30年(1955)7月2日の日記より 光太郎73歳

宿痾の肺結核の悪化で4月末に赤坂山王病院に入院しましたが、退院の話。しかし、治癒したわけではなく、逆に治癒の見込みも薄く、といって、今すぐどうこうというわけでもないので、それなら高い入院費を払い続けるよりは、自宅療養に切り替えてはどうかという話でした。

ちなみに光太郎の生命の炎、燃えつきるまであとちょうど9ヶ月でした。

光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の故郷である、長野県安曇野市の『広報あづみの』の11月23日号。先月、地元紙で報じられた小説「安曇野」のNHK大河ドラマ化誘致の件について、大きく取り上げられています。
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小説『安曇野』は、光太郎とも交流のあった同市出身の臼井吉見が昭和40年代に執筆した長編小説で、守衛を含む安曇野の人々が中心に描かれ、守衛との絡みで光太郎も登場します。ぜひ実現していただきたいところですが……。

そういえば、以前、碌山美術館の方に「「おひさま」の時には観光客が激増したなぁ」というお話を伺いました。「おひさま」は、井上真央さん主演で平成23年(2011)に放映された朝ドラで、やはり安曇野が舞台の一つでした。
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「夢よもう一度」ということでしょうか。

しかし、大河ドラマといえば、平成28年(2016)の「真田丸」も前半は長野県が主要な舞台でしたから、「長野県ばっかりズルい」となりかねませんが……。
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まあ、この手の招致活動は数年越しになることが多いので、今後の推移を見守りたいと存じます。

【折々のことば・光太郎】

筑摩書房の人くる、「文学アルバム」有島武郎篇のため、「手」の写真を使ふこと承諾、本納寺を教へる、


昭和30年(1955)2月21日の日記より 光太郎73歳

007「文学アルバム」は、筑摩書房で刊行していた『日本文学アルバム』。翌年の光太郎歿後には光太郎篇も刊行されました。

その有島武郎篇に、有島旧蔵の光太郎ブロンズ「手」の写真を載せたいという申し出。そちらは現在、竹橋の東京国立近代美術館さんに収蔵されていますが、この当時、有島と交流の深かった秋田雨雀を通じて雑司ヶ谷の本納寺に納められていました。

ちなみに11月20日(日)の『日本経済新聞』さん、この「手」の写真をズドンと中央に配し、「パンの会 文学との響き合い(下) 高村光太郎、作家の主観を重視」という記事を掲載して下さいました。「美の粋」という連載の一環です。余裕があれば、来週、ご紹介します。

光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海による仁王像の立つ信州善光寺さんがらみのテレビ番組を2件。

ブラタモリ#222 善光寺〜善光寺はなぜ多くの人を引きつける?〜

地上波NHK総合 2022年11月12日(土) 19:30~20:15

「ブラタモリ#222」で訪れたのは長野県の善光寺。旅のお題「善光寺はなぜ多くの人を引きつける?」を探る▽ご本尊は絶対秘仏…驚きの御開帳システムとは▽衝撃の創建物語!聖徳太子が阿弥陀如来にフラれ、皇極天皇が地獄から救い出されて…▽上杉、武田、織田、徳川、豊臣…名だたる武将に愛された数奇な運命▽扇状地と断層が生んだ奇跡の立地とは?▽善光寺名物・七味誕生秘話▽ピンチをチャンスに?出開帳で日本中が大熱狂!

【出演】 タモリ 野口葵衣 【語り】草彅剛
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同じ日にもう1件。

土曜スペシャル いい旅・夢気分 2022秋 〜紅葉めざして乗り継ぎ旅SP〜

地上波テレビ東京 2022年11月12日(土) 18:30〜20:54

にっぽん全国、その季節に「一番行きたい名所」「一番見たい絶景」「一番食べたい料理」を求めて、鉄道や路線バスを乗り継ぎながら、絶景の紅葉を目指し旅します。絶景の紅葉と旬の料理、一度は泊まりたい極上宿をご紹介しながら、親しい間柄だからこそ聞ける本音など、出演者の素顔も垣間みることのできるTHE旅番組「いい旅・夢気分」!

① 今回は8月に解散したバス旅Zの名コンビ田中要次と羽田圭介がマドンナ神田愛花と共に岩手・盛岡〜秋田・田沢湖をめざし、みちのく湯めぐり旅を満喫します。時間に追われていた「バス旅Z」では堪能できなかった「紅葉」と「渓谷」散策を楽しみ、秘湯の温泉や山の幸に舌鼓!ゆったりとした旅に「バス旅Z」の思い出話に花が咲かせたかと思いきや、バスに乗り遅れる珍ハプニングも!果たして無事ゴールできるのか⁉

② SixTONESの髙地優吾とじゅんいちダビッドソンは群馬・みなかみ町へ!
キャンプ・バイクの共有の趣味を持つ二人は紅葉のピークを迎えた「谷川岳ロープウェイ」で絶景を堪能。温泉ソムリエの資格を持つ髙地の希望で温泉天国・群馬のいで湯を路線バスに乗り継ぎながらハシゴ!さらに地元・みなかみの食材を集め、紅葉のグランピングを満喫。簡単にできるキャンプ㊙技や料理も公開!二人の本音と素顔は必見です!

③ 島崎和歌子、相田翔子、鈴木蘭々のプライベートでも仲良しな平成の元アイドル3人組は信州の秋を大いに満喫する旅に!善光寺の参道と紅葉の散策路での食べ歩き、小布施で旬の栗と信州そばに舌鼓!湯田中では古き良き温泉街で信州の秋の味覚の珍しいスイーツを発見!昔の思い出話にも花を咲かせ女子旅ならではの旅を満喫!志賀高原では、紅葉のじゅうたんと感動のラストが!周辺のオススメ紅葉絶景露天風呂も紹介します!

出演者
【岩手県・盛岡市〜秋田県・田沢湖】田中要次、羽田圭介、神田愛花
【群馬県・みなかみ町】髙地優吾(SixTONES)、じゅんいちダビッドソン
【長野県・長野市〜小布施〜湯田中〜北志賀高原】島崎和歌子、相田翔子、鈴木蘭々

ナレーター:宮崎美子

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それぞれ、仁王像について少しでも触れていただけるとありがたいのですが……。

「少しでも」と言えば、過日ご紹介したやはりテレビ東京さんの「土曜スペシャル 千原ジュニアのタクシー乗り継ぎ旅12 秋田〜青森・世界遺産」。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ、青森十和田湖、しかも「乙女の像」すぐ近くの十和田神社さんがチェックポイントの一つということで、「乙女の像」の紹介もあるかなと思って拝見しましたが、残念ながら「乙女の像」、紹介はなく、写り込んだのもほんの一瞬でした。

出演された千原ジュニアさんと勝村政信さん、十和田湖畔を徒歩で秋田側から青森側に入られ、その後、「乙女の湖道」から十和田神社さんまで約1㌔歩かれましたが、その間がビデオの早廻しとなり、約4秒(笑)。「乙女の像」の脇も通られましたが、この場面、コマ送りにしてもブレています。
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この間、コンマ1秒以下(笑)。ま、しかたありますまい。ちなみに平成29年(2017)にオンエアのあった「ブラタモリ #81 十和田湖・奥入瀬 ~十和田湖は なぜ“神秘の湖”に?~」では、「乙女の像」、約2秒間の出演でした(笑)。

このシーン以前の、秋田田沢湖の「たつこ像」は、それなりに紹介されていました。
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「たつこ像」は、昭和43年(1968)、光太郎と交流のあった舟越保武の作品。よく「乙女の像」と混同されて閉口しているのですが……。像全身が金色であるのは、「乙女の像」に、最初、金メッキを施して湖中へ沈めるという光太郎の構想があったものの、結局は実現しなかったことを受け、その代わりに、という理由もあります。

同じ番組での十和田神社さん。
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さて、上記「ブラタモリ#222 善光寺〜善光寺はなぜ多くの人を引きつける?〜」及び「土曜スペシャル いい旅・夢気分 2022秋 〜紅葉めざして乗り継ぎ旅SP〜」、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

校閲を全部終り、まとめる、「あとがき」だけのこる、

昭和29年(1954)11月12日の日記より 光太郎72歳

現在も版を重ねている岩波文庫版『高村光太郎詩集』関連です。これが、自ら校閲した最後の著書となりました。

いずれも先週掲載された新聞記事、2件ご紹介します。

まずは長野県発。『毎日新聞』さん。

碌山美術館、修繕へ 目標の3倍以上の寄付集まる 長野・安曇野

 日本近代彫刻の先駆け、荻原碌山(ろくざん)の作品を展示する「碌山美術館」(長野県安曇野市穂高)は11月から、クラウドファンディング(CF)で集めた資金を利用して修繕工事に入る。中心施設の「碌山館」(建築面積約110平方メートル)は、国の登録有形文化財。1958年の開館から64年たち、老朽化が目立っていた。資金が課題だったが目標の3倍以上の寄付が集まり、由緒ある建物と貴重な収蔵品を守るめどがたった。
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   ◇余剰は「喜ばれる形で活用」
 碌山館は壁はレンガ、屋根は瓦ぶきで、屋根上の尖塔が印象的だ。側面は上部が丸いアーチ型の窓が横に並ぶ。キリスト教の洗礼を受けていた碌山のため、教会ふうのデザインが採用されている。設計者は日本を代表する建築家の今井兼次(1895~1987年)。自身もキリスト教徒で、早稲田大で教授を務め、多数の建築家を育てた。作品には、長野県の燕(つばくろ)岳に建つ山小屋「燕山(えんざん)荘本館」、千葉県の大多喜(おおたき)町庁舎、キリスト教迫害による殉教者を紹介する長崎市の「日本二十六聖人記念館」などが知られる。
 碌山館の傷みは、雨漏りのほか、外装のレンガや屋根の縁のコンクリートの亀裂、ドアの色あせもある。見積もりでは修繕費は500万円。これに諸経費などを足して700万円をCFの目標にした。7月15日に開始すると、碌山美術館に愛着を持つ人らから寄付が相次ぎ、8月31日の締め切りまでに1088人から3・3倍の2370万円が集まった。
 収入を支えてきた入館者は新型コロナウイルスの影響で、感染拡大前だった2019年の約2万7000人から、21年は約1万5000人に減り、22年も同程度か上向いてもわずかの予測。そのためCFに頼った。
 工事は11月8日から1カ月を予定している。予想以上の資金が集まったため、碌山と親交があった高村光太郎らの作品を集めた第1展示棟(1982年開館、約160平方メートル)の床なども直すことにしたが、時期は未定だ。
 それでも資金の余剰が出るとみられ、武井敏学芸員は「応援コメントもたくさんいただいた。その気持ちに寄り添い、残りは来館者が喜ぶ形で有効活用したい」と話した。

 ◇設計者「心の結集で建った」
 設計者の今井兼次は、碌山館の設計前、現地を訪れた時の感慨を雑誌に書いている。「雪降りしきる中に(背後にある北アルプスの)常念岳のきびしい山肌を間近に見て、その環境下に置かれるであろう建築の将来についてあれこれと思いめぐらした」。さらに、「碌山先生の精神的な人間像を心に求めながら働いた。降雪の中に立ちつづける美術館への想念のみが、私の設計意図を最後まで導いてくれた」。
 「碌山美術館誌」によると、太平洋戦争を挟んで地元に碌山顕彰の機運が高まり、「碌山美術館設立委員会」ができた。建設資金は企業や団体、小中高生ら個人の寄付を中心に、30万人もの人から700万円以上を集めた。これに県と旧穂高町の補助金を足して総額は837万円になった。敷地は穂高中(現穂高東中)の土地660平方メートルの無償提供を受け、私有地545平方メートルを買い足した。
 1957年に着工し、穂高中の生徒がレンガや瓦の運搬などで協力。碌山の親族が保管していた作品を運び込み、碌山の49回忌に当たる1958年4月22日に開館した。
 今井は別の雑誌に「心の結集で建った碌山美術館」と題し、「資金といい、労力奉仕といい、多数の人々の力の結集で出来たという点で最大の価値がある」と書いた。武井敏学芸員は「設立当初から周囲の人々に支えられてきた美術館だ」と感謝する。
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 ■人物略歴 ◇荻原碌山
1879~1910年。長野県東穂高村(現安曇野市)の農家に生まれ、本名は守衛(もりえ)。17歳ごろに油絵に目覚め、21歳で渡米して絵画を学んだ。渡仏していた24歳の時、オーギュスト・ロダンの彫刻「考える人」に出会い、感動。彫刻を志すようになった。28歳で帰国し、東京で次々と制作。30歳の時に突然吐血し、死亡した。死因は不明で、持病だった皮膚病の薬の影響で内臓を害していたとも言われる。作品のうち「北條虎吉像」と「女」は国の重要文化財。

このブログでも何度かご紹介しましたが、碌山美術館さんのクラウドファンディング。わずかな期間で目標額の3.3倍も集まったそうで、まだまだこの国も捨てたもんじゃないなと実感させられます。かたやまったく必要とは思われない事項に対し、湯水の如く税金が投入される事態、何とかならないものでしょうか……。

もう1件。9月16日(金)の『朝日新聞』さん山梨版から。

外国人を支援するスリランカ人・インディカ・トシさん

 来日して14年になるスリランカ人の男性が、日本の暮らしで困っている外国人を支援している。自分自身、肌の色で差別され、日本を離れようと思った時、思いとどまるきっかけになったのは、ある詩だった。
 甲府市の人材会社「アンサーノックス」で、管理マネジャーとして様々な外国人の相談に乗る。日本語、英語、ヒンディー語、シンハラ語、ドイツ語を操る。
 日本語に興味を持ったのは中学生の時に、夏目漱石の「こころ」を読んだのがきっかけだった。原書に触れたいと、高校生の頃から学び始めた。スリランカの大学で言語学と日本語を学び、公務員として辞書編纂(へんさん)の仕事をした。
 さらに学びたいと、2008年に来日した。富士山があってきれいかな、とネットで見て思い、山梨を選んだ。だが、一緒に来た友達が、2週間でホームシックで帰国。知り合いもおらず不安になった。
 この年はリーマン・ショックで、アルバイトも見つからなかった。やっとコンビニの求人を見つけて面接に行くと、「肌の黒い外国人が店員だと、怖くて客が来なくなる」と断られた。
 びっくりした。日本の何もかもが嫌になった。信号で流れてくるアナウンスの音も嫌で、山に囲まれた甲府盆地も、刑務所のようで息苦しく感じた。
 ある夜、散歩をしていると、古本屋からジャズのレコードが流れてくるのが聞こえた。音に誘われるように中に入った。立っている場所もないほど、本がぎっしりあった。
 「どんなものに興味があるの?」と店主が声をかけてくれた。「近代文学」というと、本の山を紹介された。手に取ったのは、高村光太郎の詩「道程」だった。
 僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る
 言葉が心に染み渡った。誰かが作った道を行くのではなく、「自分で道を切り開くしかない」と思った。せっかく日本に来たのだから、ここに残ろう。
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 古本屋に通うようになり、心が落ち着いた。文学が好きな日本語学校の先生の家も頻繁に訪れ、夏目漱石や国木田独歩、森鷗外の本も読みあさった。
 山梨英和大学で言語学を学び、スリランカのシンハラ語と日本語の電子辞書のソフトも作った。奨学金を受けながら、山梨大学教育学部の修士課程も終え、その後、山梨学院大学大学院で国際政治学を学んだ。
 その後、進路で悩んだ。このまま博士課程までいき、研究を続けるのか、就職をするのか。
 たまたま、ペルー人の友達から、いまの会社を紹介された。代表と面接をした時、スリランカの駄菓子を出された。「私の地元のものを出してくれた」と感激した。こまやかな気遣いで、外国人も大事にしてくれている会社だと思った。
 「私でよければ働かせてほしい」
 会社にはこれまで50カ国以上の外国人が相談に来たり働いたりしてきた。管理マネジャーの仕事とは別に、外国人が診断書などを読めない時に翻訳や通訳をしたり、入国管理局とのやりとりをしたりなどボランティアで世話をする。「甲府まちゼミ」では、無料でヨガを教える。
 留学生だった時、自分も悩んだ。「外国人の気持ちはよく分かる。なんとかしてあげたい」
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インディカさんが手にされているのは、昭和16年(1941)発行の『詩集 道程 改訂版』の普及版です。やはりすぐれた詩は、国境を超えて人の心の琴線に触れるのですね。

「国境を超えて」と言えば、先述の碌山美術館さんのクラウドファンディング。支援なさった方のお名前が載ったサイトを見ると、海外からの支援もあったようです。ありがたい限りですね。

【折々のことば・光太郎】

車で日比谷 ブダペスト四重奏をきく、

昭和29年(1954)2月3日の日記より 光太郎72歳

日比谷」は日比谷公会堂、「ブダペスト四重奏」は、ブダペスト弦楽四重奏団。大正6年(1917)に結成され、メンバーを入れ替えつつ昭和42年(1967)まで活動しました。

当時のメンバーは全員ロシア出身。しかし活動の拠点はアメリカだったそうです。東西冷戦も既に始まっていた時期ですが、やはり優れた芸術は国境を超えるということでしょう。

光太郎、この夜の模様を詩にしています。001

   弦楽四重奏

外套のえりを立てて
バルトークにくるまつている。
ストールをなびかせて
ミローがささやく。
日比谷公会堂のホールやポーチに
人があふれて動いている。
演奏がすんだばかりの
超現実の時間がながれ、
どこにいるのか、どこにゆくのか、
ともかく生きているものの大群団が
階段の方へ向いている。
バルトークの悲しみや怒りが
第三の天で鳴つている。
冬の夜風は現世を吹くが、
あの四重奏がもっと底から悲しくて痛くて。

この夜の演奏曲目は、バーバーの「弦楽四重奏曲 Op.11」、バルトークの「弦楽四重奏曲第6番」、ミヨーの「弦楽四重奏曲第12番」でした。

信州安曇野の碌山美術館さん。光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎、柳敬助ら、守衛の周辺にいた作家の作品も収蔵、展示なさっています。

現在、コレクション展的な「中村屋サロンの芸術家たち」が開催されていて、光太郎の「裸婦坐像」(大正5年=1916頃)、「十和田湖裸婦像のための小型試作」(昭和27年=1952)も展示されています。
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出品目録的には以下の通りです。

彫刻11点
 戸張孤雁 《をなご》1910年  《足芸》1914年
 中原悌二郎 《老人》1910年 《若きカフカス人》1919年 《憩える女》1919年
 高村光太郎 《裸婦坐像》1916年頃  《十和田湖裸婦像のための小型試作》1952年
 保田龍門 《臥女》1924年 《裸婦立像》1927年
 堀進二 《中原悌二郎像》1916年 《中村彝氏頭像》1969年
平面(デッサン、油彩等)(12点)
 荻原守衛 《こたつ十題其一》1910年頃 《こたつ十題其二(複製)》1910年頃
  ※会期中入れ替えます
 戸張孤雁 《荒川堤》1910年《橋を渡る農婦》制作年不詳
 柳敬助 《荻原守衛肖像》1910年頃 《千香》1910年頃 《婦人》1910年
 齋藤与里 《花あそび》1950年 《山峡秋色》1957年
 鶴田吾郎 《窓辺》制作年不詳 《ネパール国境のヒマラヤ》制作年不詳
      《リガ》制作年不詳

そちらの関連行事として、市民講座が開かれます。

美術講座「中村屋サロン展の作家たち」

期 日 : 2022年9月10日(土)
会 場 : 碌山美術館 杜江館2階 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 18:30~20:00
料 金 : 無料
講 師 : 武井敏氏(碌山美術館学芸員)


ご興味のある方、コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひどうぞ。

ところで碌山美術館さんというと、本館に当たる碌山館修繕のためのクラウドファンディングが、明日まで実施されています。

当初目標額は700万円でしたが、あっという間にそれを達成、その後も寄附の勢いとどまらず、「セカンドゴール」に設定されていた1,000万円、「サードゴール」の1,800万円もクリア。今朝の段階で2,100万円を突破しています。

世の中、まだまだ捨てたものではないなと実感させられました。繰り返しますが、明日までの実施です。さらなる支援をよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

小屋の中ゐろりでいろいろ撮影、井戸水くみ、大根きざみ、スルガさん宅でそば食を皆でやる。

昭和28年(1953)11月27日の日記より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京して以来、およそ1年2ヶ月ぶりに帰った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)。

前日に続き、この日もブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」の撮影が行われました。
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光太郎帰村についての報道については、こちら

正直、これほど早く達成するとは思っていませんでした。

信州安曇野の碌山美術館さん。64年前に建てられた煉瓦造りの本館「碌山館」の損傷が激しく、コロナ禍による入館者激減などもあり、修繕費用を募るクラウドファンディングが行われていますが、昨日、目標額の700万円に到達したとのこと。まだまだ世の中捨てたもんじゃないなと思いました。

受付の始まった7月15日(金)にこのブログでご紹介し、「まぁ、達成できるだろう」とは思っていましたが、たった2週間での目標額到達。いかに同館が地域に、さらに全国的に愛されてきたかがわかりますね。

「まぁ、達成できるだろう」とは思っていましたが、このブログでもう一押しするか、と思っていた矢先で、そのためのネタも見つけてありました。当方、クラウドファンディングには詳しくありませんが、目標額をクリアしても終わりでなく、さらに支援を受け付けるようなので、ご紹介します。SBC信越放送さんのローカルニュース、7月21日(木)のオンエアでした。

雨漏り…レンガに亀裂…「碌山美術館」ピンチ! 修繕費は500万円超…どうする? 館長 長野・安曇野市

長野県内有数の観光地・安曇野のシンボルのひとつに碌山(ろくざん)美術館があります。教会をイメージさせるレンガ造りの趣きのある建物。この建物がピンチとなっています。館長が美術館を守るため選んだ方法とは?
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安曇野市穂高にある碌山美術館。

(幅谷啓子館長)「坑夫っていうのは、パリで作ったのを持ち帰った作品、高村光太郎が絶賛して持ち帰るようにすすめてくれた作品」
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美術館には明治時代の彫刻家・荻原碌山(おぎはら・ろくざん)の代表作の彫刻15点が、展示されています。碌山は、現在の安曇野市の出身、近代彫刻の礎を築きました。
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作品が展示される「碌山館(ろくざんかん)」。
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教会をイメージさせるレンガづくりが特徴の美術館は、住民の力で造られました。建設されたのは、今から64年前の1958年のこと。「碌山の美術館を作ろう」と、地元の教員たちが呼びかけ、賛同した人々、およそ30万人からの寄付金で、誕生しました。
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その証は、今も美術館に残っています。「開館に携わって頂いた方約30万人の方たちの力で生まれましたっていうプレート」
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幅谷館長が、美術館の異変に気づいたのは、2021年の夏のことでした。「風とか雨が強い時は雨が流れ落ちる状態、こういう跡があるんですけどずっと流れたような跡があります」美術館を襲った雨漏り。
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外の壁のコンクリートやレンガにも亀裂が入っていました。「これをこのまま放置しとくとどんどんひどくなるし」
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美術館の修繕は、待ったなしの状態。ですが、500万円以上かかる費用を捻出できる状況にないのです。
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「入館者の方が減ってまして、運営面も大変になりまして預貯金を取り崩して今運営をしている状態」新型コロナの感染拡大で、来館者が激減。コロナ前は、年間、2万7千人ほどが訪れていましたが、2021年はおよそ1万5千人にまで減りました。

美術館をどう守っていけばいいのか? 幅谷館長が、7月ある挑戦を始めました。インターネットで寄付を募る「クラウドファンディング」です。
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住民の寄付で誕生した美術館。もう一度、住民の力に美術館のこれからをゆだねることに決めました。「皆さんの力で修理を始めたいと思って、碌山の彫刻をこれからもずっと長く皆さんに親しんでもらいたい、この碌山館を作品とともに長く後世に伝えたい」目標金額は700万円。
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住民の力で誕生した美術館、幅谷館長の思いは届くのでしょうか? 寄付の募集期間は、8月31日までです。
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8月31日(水)まで、寄附の受付は継続されるようです。目標金額以上、いくら集まっても困ることはないでしょう。こうなったら大台突破も有りうるかもしれませんし、ぜひよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

夜熊谷氏(AK)来訪せし由、 九時半「九十九里」放送の中に余のもの引用の由。

昭和28年(1953)9月24日の日記より 光太郎71歳

AK」はJOAK、NHKさんの東京放送ですね。昭和9年(1934)、半年あまり智恵子が療養した千葉の九十九里浜を紹介する番組内で、光太郎作品を引用するその許諾ということでしょう。当該番組、録画放映の技術はまだ確立されておらず、おそらくテレビではなくラジオだったと思われます。

お世話になっております信州安曇野の碌山美術館さんから、書簡が届きました。

何かと思えばこういう内容で……。
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同館のフェイスブックにこの件が出ていました。

【予告】7月15日(金)からクラウドファンディングに挑戦します!

碌山美術館はこれまで、施設の拡大とともに碌山と関係の深い優れた芸術家たちの作品コレクションを充実させ、 日本近代彫刻の展開をご覧いただけるよう努めてきました。

しかし64年の月日による傷みが「碌山館」を侵食しています。当館の本館にあたる荻原守衛の作品を展示する「碌山館」には雨漏りが見られ、修繕は早急の課題です。本来であれば補助金や自己資金で賄うところですが、昨年から続く新型コロナウイルス感染症の影響で、収入が大幅に減少し、今はなんとか積立金を取り崩しながら運営しているのが現状です。

この状況を打破し、貴重な作品を守り未来へとつなぐ為に、クラウドファンディングに挑戦することといたしました。目標金額は700万円。目標に届かなければいただいたご支援は全て返金になってしまう「All or Nothing」というルールです。クラウドファンディングでは、公開直後の5日間でどれだけ支援を集められるかが成功のポイントだといわれております。

そこで、今回の取り組みに少しでも共感していただけましたら、公開直後のタイミングで、ぜひご支援をいただけないでしょうか?

今回皆様からいただいた資金は、碌山館の修繕費に充てさせていただき、雨漏りの修繕、扉の再塗装などもあわせておこない、美しい姿で皆様をお迎えいたします。長い歴史の中でたくさんの方々のお力をお借りしてここまでつないできた想いを後世へつないでいきたい。そのために一生懸命取り組んでまいります。

是非、ご支援ください。

▼詳細・ご支援方法は7月15日(金)以降下記からご覧いただけます。
第一目標金額:700万円
支援募集期間:7月15日(金)9時〜8月31日(水)23時

申込書を兼ねたフライヤーも同封されていました。
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同館は、光太郎の親友だった碌山荻原守衛の個人美術館ですが、光太郎ブロンズも複数所蔵されており、第1展示棟で入れ替えながら常設展示して下さっています。

そしてメインの建物が、碌山館。昭和33年(1958)の竣工で、ロマネスク様式の教会風。安曇野のシンボル的な建造物でもありますね。
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入り口の内壁には、守衛を支えた人物ということで、光太郎の名も刻まれています。
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内部には、国指定重要文化財の「女」をはじめ、現存する守衛彫刻の全作品。

その碌山館が、ピンチです。こんなところにもコロナ禍の影響か、という感じですが。

当会としまして、早速、3万円コースで申し込み、入金を致しました。皆様方におかれましても、是非とも御支援のほど、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

午前十時半出かけ車で浴風園、レントゲン検査、結局結核性と分る、静脈瘤ではないらし、いろいろ注意をきいてかへる、


昭和28年(1958)7月6日の日記より 光太郎71歳

「浴風園」は、現在の浴風会病院さん。こちらの医師・尼子富士郎に診てもらい、正式に結核と診断されました。自覚症状もあって自分ではわかっていたはずですが、これまで対外的には認めていませんでしたが、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の原型も完成し、一区切り、ということだったのでしょう。

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