4月22日(水)、第116回碌山忌のため安曇野市の碌山美術館さんにお邪魔しましたが、そちらに着く前の寄り道について。
信州、それから隣接し、こちらからの通り道にもなる甲州には、光太郎智恵子ゆかりの人物の記念館等や、光太郎智恵子の作品を所蔵・展示して下さっている美術館等がかなりあり、碌山美術館さんに足を運ぶ際にはそれらにも立ち寄るのがルーティンでして、それがまた一つの楽しみになっています。
今年立ち寄ったのは、長野市信里(のぶさと)地区の小山清茂記念展示室。同地出身の作曲家・小山清茂(大正3年=1914~平成21年=2009)を顕彰する施設です。
清茂には光太郎詩に作曲した「樹下の二人」という曲があります。昭和50年(1975)の作品で、箏曲です。奏者が箏を弾きながら「あれが阿多多羅山……」と語るスタイル。歌うというよりは語る感じです。箏曲奏者の友渕のりえ氏による委嘱作品で、全音楽譜出版さんから楽譜が公刊され、友渕氏のCD「日本の唄 友渕のりえの世界」(平成3年=1991)に収められています。
その後も箏曲奏者の方々に時折取り上げられ、下野戸亜弓氏の2種類のCD「下野戸亜弓箏曲リサイタル2005」(平成17年=2005)、「万葉の恋歌 箏歌<KotoUta>をうたう」(平成25年=2013)にも収められています。
演奏会でも、最近ですと朝香麻美子氏が平成29年(2017)に都内の紀尾井ホールさんで開催された「箏・三弦リサイタル ~女性のあり方をよむ~」で取り上げて下さいました。
それから、浜根由香氏。平成26年(2014)に、東日本大震災の復興支援ということもあり、津波被害の大きかった福島県南相馬市で開催された「浜根由香 東北を謳う」というコンサートでこの曲も演奏して下さいました。その際は拝聴に伺い、浜根氏とお話しさせていただきましたし、後日発行されたライブ録音のCDも送っていただきました。ところが浜根氏、ほどなく平成28年(2016)にまだお若くして急逝。報せを受けて絶句しました……。
その「樹下の二人」作曲者の小山清茂の記念室が長野市にあるということで、参上。ちなみに小山清茂、当方と戦国時代まで遡ればつながるであろう遠い遠い親戚のようです。当方、死んだ父親は信州上田の出身で、先祖は真田氏と同じ滋野一党の国衆末席。天文年間の武田氏の信州侵攻に伴って居城を落とされ、そのまま真田もろとも武田の配下に入りましたが、一族の一部は武田と対立していた村上義清を頼って北上、村上義清は上杉と与しました。おそらく地理的に見て清茂の先祖はそちらの一派と思われます。
さて、小山清茂記念展示室。篠ノ井村山健康スポーツセンターさんの中に設けられていて、長野市のとっぱずれというわけでもありませんが、そこそこの山の中でした。我らの先祖も参戦したであろう川中島の古戦場もそう遠くない場所です。
附近はこんな風景。いかにも山里といった感じでした。
そして篠ノ井村山健康スポーツセンターさん。
元は同じ建物の別の部屋だったそうですが、現在は広い会議室的な部屋の一角をアコーディオンカーテンなどで仕切り、普段は施錠しています。
アコーディオンカーテン向かい側の壁には、やはりこのあたり出身の漫画家・岡村延博氏の描いた清茂。
解錠していただいて、中へ。
所狭しとばかりに遺品や写真、楽譜、レコードなど。
あまり期待していなかったのですが「樹下の二人」関連もあり(同曲、代表作というほどではないので)、「おお!」でした。
まず直筆の楽譜。
作曲を委嘱した箏曲奏者・友渕のりえ氏の色紙。
友渕氏、おそらく平成28年(2016)の開室に際して協力されたのでしょう。その前年の揮毫です。
年譜にも「樹下の二人」作曲が記載されていました。
思わず「ぷっ」と吹きだしたのがこちら。
清茂が作曲した地元の鬼無里中学校さんの校歌をプリントしたタペストリーですが、作詞が……
何と当会の祖・草野心平でした(笑)。これは存じませんでした。
ちなみに鬼の無い里と書いて「きなさ」と読みますが、旧鬼無里村は山一つ越えたところで、現在は長野市に編入されています。鬼無里中学校さん、今年度限りで閉校だそうで……。そうなるとこのコンビによる校歌も無くなってしまうわけでしょうから、残念です。下記は同校サイトから。
帰ってから調べたところ、心平・清茂コンビの校歌は他にもけっこうあり、平成25年(2013)に夏の全国高校野球を制した群馬の前橋育英高校さんのそれもそうでした。となると、甲子園球場にこのコンビの手になる校歌がガンガン流されていたのですね。気づいていませんでした。
そうして小山清茂記念展示室をあとに、碌山美術館さんへと向かいました。ここで昨日の「信州レポート その1 第116回碌山忌。」につながります。
今回は自宅兼事務所隣町の成田市から圏央道→関越道→上信越道と乗り継いで長野市の小山清茂記念展示室、そして更埴市から長野道に入って安曇野碌山美術館さん。帰りは長野道→中央道→首都高→東関道で帰りました。1都7県を走破し、我ながらよくやるよ、です(笑)。さすがに疲れて昨日は、朝5時に猫に起こされて餌やりをしてから二度寝。そのためブログの更新が遅れました(笑)。
これに懲りずに甲信方面に行く際にはさらなるスポット拝観を続けるつもりで居ります。まだまだ行くべきところが残されていますので。
以上、信州レポートを終わります。
信州、それから隣接し、こちらからの通り道にもなる甲州には、光太郎智恵子ゆかりの人物の記念館等や、光太郎智恵子の作品を所蔵・展示して下さっている美術館等がかなりあり、碌山美術館さんに足を運ぶ際にはそれらにも立ち寄るのがルーティンでして、それがまた一つの楽しみになっています。
今年立ち寄ったのは、長野市信里(のぶさと)地区の小山清茂記念展示室。同地出身の作曲家・小山清茂(大正3年=1914~平成21年=2009)を顕彰する施設です。
清茂には光太郎詩に作曲した「樹下の二人」という曲があります。昭和50年(1975)の作品で、箏曲です。奏者が箏を弾きながら「あれが阿多多羅山……」と語るスタイル。歌うというよりは語る感じです。箏曲奏者の友渕のりえ氏による委嘱作品で、全音楽譜出版さんから楽譜が公刊され、友渕氏のCD「日本の唄 友渕のりえの世界」(平成3年=1991)に収められています。

演奏会でも、最近ですと朝香麻美子氏が平成29年(2017)に都内の紀尾井ホールさんで開催された「箏・三弦リサイタル ~女性のあり方をよむ~」で取り上げて下さいました。
それから、浜根由香氏。平成26年(2014)に、東日本大震災の復興支援ということもあり、津波被害の大きかった福島県南相馬市で開催された「浜根由香 東北を謳う」というコンサートでこの曲も演奏して下さいました。その際は拝聴に伺い、浜根氏とお話しさせていただきましたし、後日発行されたライブ録音のCDも送っていただきました。ところが浜根氏、ほどなく平成28年(2016)にまだお若くして急逝。報せを受けて絶句しました……。
その「樹下の二人」作曲者の小山清茂の記念室が長野市にあるということで、参上。ちなみに小山清茂、当方と戦国時代まで遡ればつながるであろう遠い遠い親戚のようです。当方、死んだ父親は信州上田の出身で、先祖は真田氏と同じ滋野一党の国衆末席。天文年間の武田氏の信州侵攻に伴って居城を落とされ、そのまま真田もろとも武田の配下に入りましたが、一族の一部は武田と対立していた村上義清を頼って北上、村上義清は上杉と与しました。おそらく地理的に見て清茂の先祖はそちらの一派と思われます。
さて、小山清茂記念展示室。篠ノ井村山健康スポーツセンターさんの中に設けられていて、長野市のとっぱずれというわけでもありませんが、そこそこの山の中でした。我らの先祖も参戦したであろう川中島の古戦場もそう遠くない場所です。
附近はこんな風景。いかにも山里といった感じでした。
そして篠ノ井村山健康スポーツセンターさん。
元は同じ建物の別の部屋だったそうですが、現在は広い会議室的な部屋の一角をアコーディオンカーテンなどで仕切り、普段は施錠しています。
アコーディオンカーテン向かい側の壁には、やはりこのあたり出身の漫画家・岡村延博氏の描いた清茂。
解錠していただいて、中へ。
所狭しとばかりに遺品や写真、楽譜、レコードなど。
あまり期待していなかったのですが「樹下の二人」関連もあり(同曲、代表作というほどではないので)、「おお!」でした。
まず直筆の楽譜。
作曲を委嘱した箏曲奏者・友渕のりえ氏の色紙。
友渕氏、おそらく平成28年(2016)の開室に際して協力されたのでしょう。その前年の揮毫です。
年譜にも「樹下の二人」作曲が記載されていました。
思わず「ぷっ」と吹きだしたのがこちら。
清茂が作曲した地元の鬼無里中学校さんの校歌をプリントしたタペストリーですが、作詞が……
何と当会の祖・草野心平でした(笑)。これは存じませんでした。
ちなみに鬼の無い里と書いて「きなさ」と読みますが、旧鬼無里村は山一つ越えたところで、現在は長野市に編入されています。鬼無里中学校さん、今年度限りで閉校だそうで……。そうなるとこのコンビによる校歌も無くなってしまうわけでしょうから、残念です。下記は同校サイトから。
帰ってから調べたところ、心平・清茂コンビの校歌は他にもけっこうあり、平成25年(2013)に夏の全国高校野球を制した群馬の前橋育英高校さんのそれもそうでした。となると、甲子園球場にこのコンビの手になる校歌がガンガン流されていたのですね。気づいていませんでした。
そうして小山清茂記念展示室をあとに、碌山美術館さんへと向かいました。ここで昨日の「信州レポート その1 第116回碌山忌。」につながります。
今回は自宅兼事務所隣町の成田市から圏央道→関越道→上信越道と乗り継いで長野市の小山清茂記念展示室、そして更埴市から長野道に入って安曇野碌山美術館さん。帰りは長野道→中央道→首都高→東関道で帰りました。1都7県を走破し、我ながらよくやるよ、です(笑)。さすがに疲れて昨日は、朝5時に猫に起こされて餌やりをしてから二度寝。そのためブログの更新が遅れました(笑)。
これに懲りずに甲信方面に行く際にはさらなるスポット拝観を続けるつもりで居ります。まだまだ行くべきところが残されていますので。
以上、信州レポートを終わります。
【高村光太郎書誌】
本人著作(部分)28 『世界美術全集 第17巻 ルネサンスⅡ 西洋十六世紀』
昭和26年(1951)3月25日 平凡社 下中弥三郎編
目次
ルネサンスの偉大と頽廃
光太郎はこのシリーズ5冊に寄稿しましたが、この巻がその分量が最も多く、ミケランジェロの項はほぼ光太郎の筆になるものです。
「ミケランジェロ・ブオナローティ」及び「図版解説」中の「2 アダムとエバの楽園追放」「4 サン ピエトロ寺のクーポラ」「24 スカラの聖母」「25 ピエタ」「26 奴隷(部分)」「27 ダビデ(頭部)」「28 モーセ(部分)」「29 聖母子」「30 朝」「32 夕」「34 ロンダニー二のピエタ」「35 ブルタス胸像」「56 システィーナ礼拝堂天井画」「57 アダムの創造」「59 エレミヤの右の裸像」「60 人体デッサン」「61 顔デッサン」「62 キリスト(「最後の晩餐」中央像)」です。
目次
ルネサンスの偉大と頽廃
イタリアの美術
イタリア美術総説 イタリアの建築 イタリアの彫刻 レオナルド・ダ・ヴィンチ
ミケランジェロ・ブオナローティ ラファエルロ・サンツィオ
フィレンツェ画派とシエナ画派 北イタリア画派 ヴェネツィア画派 イタリアの工芸
スペインの美術
フランスの美術
ネーデルランドの美術
イギリスの美術
ドイツの美術
図版
原色版 一六図 グラビア版 一四八図 本文挿図 二四三図
参照地図
図版解説
年表
参考書目録
挿図目録
図版目録
光太郎はこのシリーズ5冊に寄稿しましたが、この巻がその分量が最も多く、ミケランジェロの項はほぼ光太郎の筆になるものです。
「ミケランジェロ・ブオナローティ」及び「図版解説」中の「2 アダムとエバの楽園追放」「4 サン ピエトロ寺のクーポラ」「24 スカラの聖母」「25 ピエタ」「26 奴隷(部分)」「27 ダビデ(頭部)」「28 モーセ(部分)」「29 聖母子」「30 朝」「32 夕」「34 ロンダニー二のピエタ」「35 ブルタス胸像」「56 システィーナ礼拝堂天井画」「57 アダムの創造」「59 エレミヤの右の裸像」「60 人体デッサン」「61 顔デッサン」「62 キリスト(「最後の晩餐」中央像)」です。




























































































































































































日夏の方で光太郎をどう評していたか、あるいは光太郎がらみの回想等を遺していないか、当方、寡聞にしてよく存じません。ただ、戦後の昭和26年(1951)に日夏の編集で刊行された『近代日本詩集』(弘文堂アテネ文庫)では、14名の詩人の作品を採り、光太郎詩も含まれています。日夏によるその序文に曰く、

















































![1713690525214[1]](https://livedoor.blogimg.jp/koyama287/imgs/4/9/495cab07-s.jpg)






























宮様のご成婚ということが明記されていませんが、サブタイトルの「昭和三年九月二十八日」がその日ですので、それでわかるだろ、ということです。ただし、これは戦後になって『高村光太郎選集』(昭和28年=1953完結)に収められる際に付されたものらしく、光太郎の手元に残された草稿にはありません。初出発表誌が不明なので、確かめられませんが。