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光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海作の木彫についてです。地方紙『信濃毎日新聞』さんから。

100年ぶり 善光寺仁王門の木彫り像2体の修復始まる

 善光寺(長野市)は2日、仁王門内に設置されている三宝荒神像と三面大黒天像の修復を始めた。善光寺事務局によると、両像の修復作業は100年余ぶり。同日は、文化財修復の専門家が像表面に積もったほこりを、はけを使って丁寧に落としていた。
 両像は、1919年(大正8)年に彫刻家の高村光雲と弟子の米原雲海が作った木彫り像。仁王門内の東側で守護矢を手に持つ三宝荒神像は、災害から寺や参拝者を守る。同門内の西側にある三面大黒天像には、五穀豊穣(ごこくほうじょう)の願いが込められている。
 この日は文化財修復を専門とする藤白彫刻研究所(東京都)の藤曲隆哉代表(43)=東京都=ら5人が三面大黒天像の清掃を進めた。高さ約3・5メートルある像の周辺に組んだ足場を使い、像の頭を黒く染めたほこりを丁寧に払った。
 作業は4日まで続き、像の欠落箇所の修復などを予定している。長野市内の大沢真弓さん(79)は「毎朝(像の)お顔を見ている。きれいになってお出迎えしてくれるのが楽しみです」とほほ笑んだ。
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記事を読んで「あれっ?」と思いました。たしか10年くらい前にも補修が入っていたような……という気がしまして「100年ぶり」というのに引っかかりを覚えました。

ところが調べたところ、10年前に補修されていたのは善光寺史料館さんで展示されている3分の1スケールの雛形でした。今回のものは仁王門で仁王像の裏側に据えられている完成作です。

画像にある三面大黒天像と対になっている三宝荒神像の方も補修が入り、記事が出たのが12月3日(水)。2日(火)に作業開始で4日(木)には終わるとのことですから、それほど大々的な補修ではないようです。もう既に元の通りに据えられているのではないかと思われます。

気になるのが褪色した彩色ですが、おそらくそれはそのままなのでしょう。彩色にまで手を入れるとなると、その場では不可能でしょうし、3日ばかりで終わるとも思えません。

ちなみに仁王像の方は、最初に制作された際にあえて彩色は施さなかったそうです。

光雲の談話筆記「善光寺仁王尊の製作 参考資料と新しき意企」(大正8年=1919)から。

 由来仁王像は大抵着色したものであるが、我々は少しく考ふる処があつて今度は殆ど着色をしなかつた。彩色をしようとしても我々の期待に添ふ丈の立派の着色をして呉れるものゝ無いのが其理由の一つであるが又一方着色が出来たとしても、何十年何百年経過する内には自然彩色は剥落して醜いものとなる。此場合は勢い着色の修理をすると云ふ順序となり、此修理を重ねる場合には、遂に製作当初の価値を失ふ事になるのは明らかな事である。此意味から無彩色の方が此像の存する限りは、製作当初の真価を永劫に伝へる事が出来ると云ふ理由で彩色をしなかつたのである。一体着色すると云ふ事は木の継ぎはぎの無様を隠す事にも利用されたものであるから、彩色をしないと云ふ為には、木地の無様をかくす事が出来ず、従つて醜くない様に仕上げなければならなかつたから、此辺の苦心は着色以上な処があつた。又此仁王には玉眼を入れなかつた。此理由も、要するに無着色の理由と同様である。

なるほど、と思わされました。

しかし、裏側に配した三面大黒天像と三宝荒神像は彩色を行ったわけで、そこの違いがよくわかりませんが。

これらの計4体、令和4年(2022)のご開帳時、に夜間のライトアップ、翌朝に通常の状態とを拝見して以来、見に行っておりません。来年あたりは久々に参拝しようかなと思いました。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・智恵子】

われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。


アンケート「暴力は臆病の変形――甘粕事件に関する感想――」より
大正12年(1923) 智恵子38歳

関東大震災直後のドサクサで、アナーキスト大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、そして大杉の甥の橘橘宗一少年を、憲兵大尉・甘粕正彦らが虐殺した事件に対しての感想です。しごくまっとうな意見ですね。

光太郎は大杉らのグループに対し、シンパのような立ち位置でした。

ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の先輩にして恩師でしたが、智恵子はそれを知らなかったのではないかと思われます。

光太郎が大正2年(1913)に智恵子と一夏を過ごした信州上高地。当時の登山道「クラシックルート」上にあり、光太郎智恵子も立ち寄り、詩集『智恵子抄』にも記述がある岩魚留(いわなどめ)小屋について、光太郎智恵子にからめ、『朝日新聞』さんと『毎日新聞』さんが相次いで記事にして下さいました。

先に『毎日新聞』さん。8月21日(木)、栃木版への掲載でした。メインで取り上げられているのは、昭和50年(1975)にあった不幸な出来事。こういうことがあったというのは存じませんでした。

山は博物館 島々谷で山小屋主人が水死 救助行為に災害給付金出ず

 長野県安曇村(現松本市)にある「島々(しましま)谷」の「南沢」で1975年夏、奥原信俊さん(当時50歳)が流され水死した。自分の山小屋「岩魚留(いわなどめ)小屋」の前で、増水した激流を無理に渡ろうとする男性登山者(同27歳)を見過ごせず、手助けしていた時だった。男性は「助けを求めていない」と責任を回避。県警は助けが要るほど危険は迫っていなかったと、遺族への災害給付金不支給を決定。理不尽だとの世論が高まった。
 不幸は北アルプスの上高地に至る道(約20キロ)で起きた。起点の島々集落から沢沿いに徒歩4時間かかる山小屋は、中間を少し過ぎた所にある。悲運の7月13日は大雨が降りやすい梅雨末期で、県によると上高地ではそれまで11日間で458ミリを記録。前日は期間中最大の182ミリも降った。当日も停滞前線のため雨量が増える予報が出ており、実際に午前中は雨が強かった。
  報道などによると、兵庫県明石市の男性は、槍ケ岳を目指していた。朝、登山口で警察官と区長に入山を止められたが強行。午後1時ごろ、右岸から山小屋がある左岸に渡る場所で立ち往生した。橋があるはずが、流失か水没して消えていた。
  奥原さんは、対岸で右往左往して渡れる場所を探す姿を見て、身ぶりで引き返すように促した。聞き入れないので、無事に渡らせるためロープを投げ、端を木に結ぶように指示。反対の端を持っていて流された。7人ほどいた山小屋の客から、警察に通報するよう言われた男性は戻り、途中でキャンプしていた大学山岳部員を介して駐在所に届け出た。
 大阪府寝屋川市でレストランの支配人をしていた次男の英考(ひでたか)さん(71)は、その日に知らせを受け、実家がある島々集落へ向かった。「おやじなら生きているのではないか」と信じていたが、翌日着き、1日たっても増水が収まらない沢を前に「駄目かも」とも思った。この日、捜索隊が山小屋から1・4キロ下流で遺体を発見。衣服がはがれ、体半分が埋まっていたが、英考さんが現場で対面した時は体が清められていた。
 「警察官の職務に協力援助した者の災害給付法」では、水難や山岳遭難で、警察官がその場にいれば当然する救助を義務がない人が行い、けがや死亡した場合、本人や遺族に給付金が出る。この75年、全国で死亡10人、傷病4人の適用例がある。ただ、相手に危険を避ける時間の余裕があれば該当しないとされる。県警は危険度合いや、男性が「渡れなければ引き返す気だった」と主張したことを踏まえ、早々に適用は無理と結論付けた。 地元紙によると、普段救助に当たる山小屋経営者らは「登山者が救助を求めなければ、危険な状態でも手出しする必要がないということか」と態度を硬化。残った休暇で「葬儀に顔を見せず、(穂高連峰へ)出かけた若者に非難が集中」と一般雑誌も取り上げた。当日の岩魚留小屋の客は全国紙に「逆に登山者が流されていたら、小屋の主人は強い非難を受けた」と投書した。
 県議会12月定例会の一般質問で、県警警務部長は、線路上の子供に「汽車がばく進」する状況を適用例に挙げ、「登山者の位置は安全な所、雨も小降り。危険が急迫し、命が危ない状況は認められなかった」と答弁。「お気の毒」と言いつつも「法を適用できないかという方向で検討したが給付は困難」と述べた。質問した県議は、救助隊員の士気低下を心配し再考を要請。警務部長は県内で過去28件の給付を明かし「本当に困難」と答えた。
 別の議員は「濁流を渡るべくしている登山者は、遭難一歩手前と判断し、手を差し伸べたことは当然」と、登山案内人の言葉を紹介。「本能や正義感のもと行動する前に(法が規定する)人命救助か検討し行動に移ることが要請された」と皮肉った。奥原さんの弟は「山男としてやるべきことをやった。だれを恨むものではないが、善意が踏みにじられたことは残念」と話していたという。
 妻ら遺族は12月、県と県警に、法適用が無理ならそれに準ずる措置を要請。知事は「何らかの方法で感謝を表したい」と述べた。
 男性への損害賠償請求訴訟や県警への行政不服審査など、遺族が法的対応を弁護士に依頼する中、男性とは「見舞金」300万円を受けることで合意した。それでも登山雑誌には「あやふやな行動が山小屋の主人を死なせた。登山者は『危険な状態ではなかった』といいはった。ならばなぜその意志を表さなかったのか」と投書が載った。「余計なおせっかいをして死んだといわれ」、妻は精神的に疲労しているとの記事もある。
 県警も76年3月末、「見舞金」300万円を支給。知事は県山岳遭難防止対策協会の会長名で感謝状も出した。「永年にわたり登山案内人として円満な人柄により親しまれ、遭難防止に尽力されました。功労をたたえ感謝の意を表します」とある。日付は8カ月前の遭難日だが、直接触れていない。妻は謝意を示したが、法が適用されず「満足していない。しかし、関係者の声援を受けここまでこぎつけたのはうれしい。主人は間違っていなかった」と語った。法的訴えは取りやめた。
 対応を母と兄に任せた英考さんは父の初七日から山小屋に入った。男性や県警に対し「夏山の時期で、空けておけないとの思いでいっぱい。どうこう考える余裕はなかった」と振り返る。今も「何を言ってもおやじは戻らない。相手の顔も見ていないし、恨む気持ちもない。葬式に出なかったからって、自分もその立場なら隠れていたい」と話す。体調不良などの事情で、山小屋は10年以上前から閉じている。

「山上の恋」の光太郎も往復
 大正以前、長野県松本市から旧安曇村の上高地に行く車道は無く、登山者は島々谷を歩いた。1913年8月から2カ月暮らした彫刻家で詩人の高村光太郎も往復した。
  滞在中、交際していた長沼智恵子が来ると知らせを受け、岩魚留小屋がある所へ迎えに行った。歌人の窪田空穂は「登って来る女性に目を見張った。若く美しい人で、呼吸静かに歩み寄って来る。視線は高村君に一直線に注がれていた」。 この様子を9月5日付東京日日新聞(現毎日新聞)は「美しい山上の戀(こい)」と冷やかした。「美人が登ってくる。今度は青年が下りてくる。視線が合ふと手を引き乍(なが)ら上つていつた。二人が相愛の仲は久しいもので『別居結婚』してゐる仲ぢやもの、智恵子が光太郎を訪ふたと知れた――と岡焼から便りがあつた」
 ちまたで興味本位のうわさ話になる一方、光太郎は智恵子を連れて穂高連峰や明神岳、焼岳、霞沢岳など周囲の山々を写生し、別世界の風光を堪能。2人はここで婚約した。
 島々谷の南を遠回りする梓川の各所に水力発電所を建てるため、今の国道158号と県道が通じ、上高地に車が入ったのは昭和初期だった。
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この事故で亡くなった奥原氏の子息が小屋を引き継いだものの、もうご高齢で体調不良、平成24年(2012)から休業中だそうです。それを引き継ごう、というお話で、『朝日新聞』さんの長野版、8月11日(月)の掲載でした。

(山岳ジャーナリスト近藤幸夫の新・山へ行こう)上高地へのルート /長野県■山小屋復活から未来つなぐ

 北アルプスの玄関口・上高地は、日本の近代登山発祥の地とされています。昭和初期に釜トンネルが開通して自動車で行けるようになるまでは、松本市の島々から徳本(とくごう)峠(2135メートル)を越える約20キロの山道が上高地へのメインルートでした。江戸時代以前から利用されてきたクラシックルートの復活と再生を目指すプロジェクトが現在、進行しています。
 プロジェクト代表を務めるのは昨春、島々に移住した塩湯涼(しおゆりょう)さん(30)。島々から沢沿いの登山道で、徳本峠の手前にある岩魚留(いわなどめ)小屋の営業再開などに取り組んでいます。
 松本市文化財課などによると、岩魚留小屋は1911(明治44)年、農商務省の官舎を転用し、民間会社が設立しました。木造平屋建てで約70平方メートル。現在のオーナー奥原英孝さん(71)が大けがをし、2012年から休業しています。
 クラシックルートは明治以降、著名な登山家や文化人らが通った道です。「日本近代登山の父」と称される英国人宣教師ウォルター・ウェストンや詩人高村光太郎、文豪芥川龍之介らが有名です。
 京都市出身の塩湯さんは、長崎大薬学部、同大大学院を卒業後、福岡市の製薬会社に就職しました。社会人になってから友人と登山を始め、大型連休中に北アルプスの槍ヶ岳の登った際、信州の山々に魅せられました。
 「製薬会社の仕事に不満はなかったけど、それ以上に山に関わる仕事をしたくなった」。入社1年半で退職。南アルプスの山小屋で働いたり、山仕事の会社で森林調査などを手伝ったりしました。
 こうした経験を重ね、山の関係者が集まれる場所を作りたいと考えました。SNSを通じて、島々で古い蔵を改修したカフェを営む山口浩喜(ひろき)さん(57)と知り合いになり、転機を迎えました。
 昨春、山口さんから島々の空き家を紹介され、山で働く人向けのシェアハウス「山小屋の小屋・下駄(げた)屋」を開設。自身も入居し、島々に移住しました。
 島々は、ウェストンの登山ガイドを務めた上條嘉門次の自宅があったほか、今も上高地周辺の山小屋経営者らが住んでいます。日本の近代登山の発展を見守ってきた集落なのです。
 山口さんも移住者です。島々の魅力をアピールし、クラシックルートの整備に尽力しています。奥原さんから岩魚留小屋の後継者探しを頼まれていました。「塩湯君は若いし、人柄もいい。山小屋勤務の経験もあり、みんなで支援すれば岩魚留小屋の復活は可能」
昨年11月、「岩魚留小屋再生プロジェクト」が発足しました。代表は塩湯さん、山口さんが統括に就任し、有志6人で組織を立ち上げました。
 今年9月に老朽化した岩魚留小屋の状況を調べ、改修費用の見積もりをします。クラウドファンディングで資金を募り、来年に改修工事をして27年の営業再開を目指しています。
 プロジェクトは、岩魚留小屋の営業再開だけではありません。クラシックルートは、森林鉄道の軌道跡や炭焼き窯、風穴を利用した建物跡などが残る歴史を伝える道なのです。こうした山岳遺産をめぐるツアーの実施も計画しています。
 塩湯さんは「岩魚留小屋の再生は過去と現在、そして未来をつなぐ試みです。歴史を守るだけでなく、新たな価値を創りたい」と話しています。

同様の件は『毎日新聞』さん長野版でも今年4月に報じられていました。

計画通り営業再開となりましたら、ぜひ一度行ってみようと思っております。みなさまもどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

しかし、理論家よ。昔の単純な友はそんなに仰山な事をしなかつた。そして直ちに、彼自身の内に、自然の内に、君達が図書館の中で探し廻ってゐる真理を見つけた!

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「自然を師とせよ」というのがロダンの根本です。それを光太郎も受け継いでいきました。

長野県の松本平地区をカバーする『市民タイムス』さん、先週の記事から。

荻原碌山のブロンズ像「坑夫」 生徒が初の洗浄作業

 安曇野市穂高東中学校の生徒と隣接の碌山美術館の職員が23日、同校に設置されている、穂高出身の彫刻家、荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)の代表作「坑夫」のブロンズ像を磨く作業をした。偉人の功績に思いをはせながら、長年風雨にさらされ付着した汚れを取り除いた。
 前身の穂高中学校が昭和29(1954)年に開校した際、旧南安曇教育会のはからいと遺族の理解で正面玄関の前庭に設けられて以降、親しまれてきた同校のシンボルだ。美術部員4人が、洗浄剤とブラシで汚れを落とし、蜜ろうワックスを塗布して布で磨き上げると、酸性雨による雨だれ模様が一掃され、輝きを取り戻した。
 「坑夫」は碌山が巨匠ロダンに師事し、パリの美術学校で学んでいた1907年の制作。イタリア人男性がモデルの力強い作風で、日本近代彫刻の礎を築いた傑作と称される。2年生の小林要太さんは「作業に関わり、碌山は地元の宝だとあらためて感じた」と話した。3年生の山田朱里部長は、総合的な学習の時間で碌山を学んだり、清掃の時間に同館の掃除を行ったりしてきた同館との交流を振り返り「素晴らしい芸術が日常にある恵まれた環境」と感謝した。
 碌山の十三回忌に合わせ遺族が前身校に寄贈した「小児の首」をシンボルとする穂高南小や、同館が開校記念として「坑夫」を贈った穂高西中から、メンテナンスの相談が寄せられていたことを受け、碌山ゆかりの作品を屋外に設置する穂高西小や穂高北小へも同館職員が出向き、作業を済ませた。
 いずれも初めての取り組みで、碌山美術館の武井敏学芸員は「先人や関係者たちの思いが宿るもの。芸術的価値を伝える作品性が保たれれば」と話している。
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記事では光太郎に触れられていませんが、守衛の「坑夫」(明治40年=1907)はパリ留学中の習作で、当時ロンドン留学中だった光太郎がパリの守衛の元を訪れ、これを見せられて感銘を受け、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた作品です。そうした経緯もあって、昭和29年(1954)に当時の穂高中学校さんにこの像が設置された際、題字を光太郎が揮毫しました。上の画像に題字のパネルも写っています。
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酸性雨による金属劣化の問題はかなり前から指摘されています。主に工業地帯をかかえる大都市圏での話ですが、自然豊かな安曇野あたりでも無関係ではないのですね。

同館のX(旧ツイッター)投稿に、メンテナンスのビフォー(左)/アフター(右)それぞれの画像が出ています。
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全体に緑青に覆われていたような感じでしたが、ブロンズ本来の色合いに戻ったように見えますね。ワックスのおかげでしょうか、かなり光沢も出ているような。生徒さんたち、グッジョブです。

当方、SNSで神戸の「彫刻みがき隊あのね会」の方々と繋がっています。主に野外彫刻のメンテをボランティアで行われている方々で、「どこどこの彫刻をきれいにしました」的な投稿を見るたび、頭の下がる思いでいます。


自治体などの中には、こうした野外彫刻や石碑など、建てて建てっぱなし、あとは知ったこっちゃない、というスタンスが見られるところが珍しくありませんが、一方でこうした皆さんもいらっしゃるというのは素晴らしいことだと思います。そして今回の穂高東中さんの取り組みも。

また、一昨年には、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、除幕70周年を記念して、地元の皆さんを中心に、雨の中で大規模な清掃が行われました。

こうした活動がもっともっと広まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

又拓本をお預かりいたし忝く存じます、

昭和30年(1955)11月28日 硲真次郎宛書簡より 光太郎73歳

硲真次郎は詩や美術評論なども書いていた人物。光太郎とは戦前からの付き合いでした。「拓本」が何の拓本なのか、同時期の日記等を見ても詳細は書かれていません。もしかすると、上記の光太郎が揮毫した「坑夫」題字プレートの拓本か、とも思ったのですが、硲と安曇野との関係が確認できません。
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これよりも、晩年の光太郎が好んだ中国の書家の碑から採った拓本と考えた方がつじつまが合うような気もします。

信州安曇野の碌山美術館さんで開催されている「春季企画展 特別展示 智恵子紙絵 高村智恵子紙絵 高村光太郎詩稿」につき、報道が為されています。

『信濃毎日新聞』さんに折り込まれるフリーペーパー『MGプレス』さん。

安曇野・碌山美術館で「智恵子紙絵」展 6月22日まで

 安曇野市穂高の碌山美術館は6月22日まで、春季企画展「智恵子紙絵」を敷地内の杜(もり)江(え)館で開いている。碌山の友人で詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の妻・智恵子(1886~1938年)が制作した「紙絵」を3期に分けて展示。智恵子にまつわる光太郎の詩の原稿も並べている。
 洋画家だった智恵子は40代で精神を病み、後年入院した病室で、光太郎が持参した千代紙や色紙(いろがみ)をマニュキアばさみで切り抜いて別の紙に貼る「紙絵」を熱心に制作。対象は花や食膳の皿の中身などで、その数は千数百点に及んだという。
 今回は個人所有の20点ほどを借りて展示。現物は経年劣化で退色が見られるため、身内が撮影した写真も添えた。撮影年は作品によって違うが、どれも現物より色がはっきりしている。
 学芸員の武井敏さんは「智恵子の紙絵は小作品なのに存在感がある。海外でも評価されるのではと思うが、残念ながら年を追うごとに退色していく。この機会に見てほしい」。
 現在は2期目の展示で「器に魚」「シクラメン」など。6月初めからは「アジサイ」他を飾る。
光太郎の原稿は、詩集「智恵子抄」に収録された「あどけない話」や「レモン哀歌」の他、碌山の死を悼んで書いた詩「荻原守衛」などが並ぶ。
 午前9時~午後5時10分。一般900円、高校生300円、小中学生150円。同館TEL0263・82・2094
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智恵子の紙絵は元々が折り紙用のものや包装紙、さらには上記の画像に写っている「蟹」などは台紙が封筒だったりと、ちゃんとした紙が使われていないものも多く含まれています。そのため、ものによっては褪色が激しいものも。そこで入れ替えながらの展示となっています。

来月から展示されるという「アジサイ」も。今回のフライヤーにもメインで使われ、一昨年にやはり碌山美術館さんで開催された「生誕140周年高村光太郎展」でも展示されましたが、かなり色あせてしまっていました。
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ちなみにこの「アジサイ」、兵庫県の神戸文化ホールさん(昭和48年=1973竣工)外壁の巨大壁画の原画となったものです。紫陽花は神戸市の「市花」だそうで、同ホール建設の際の神戸市長が、光太郎と交流のあった彫刻家・柳原義達と同級生で、そこから人脈をたどって実現しました。
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同ホール、老朽化のため令和10年(2028)に現在の大倉山地区から三の宮地区に移転されるそうですが、この壁画は何とか残して欲しいものです。

さて、碌山美術館さんでの「智恵子紙絵」展、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

 檜材、とても見事なものおとどけ下さつて感謝してゐます。檜の膚の香りプンプンする大作をモニユマン製作後に張切つてやりたいと念願したくなりました。
昭和28年(1953)6月 西倉保太郎宛書簡より 光太郎71歳

「モニユマン」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。

詩人の西倉が、友人の材木商・浅野直也から光太郎への贈り物だった檜材を届けてくれたことに対する礼状の一節です。ただ、結局はこの木材を使っての彫刻は出来ずに終わったようです。もはやそんな余力は残っていなかったようで……。

昨日は信州安曇野に行っておりました。

今、千葉の自宅兼事務所でこれを書いておりますが、昨日は当初の予定では帰ってくるつもりではなく、塩尻にある何度か泊まった健康ランドで仮眠し、帰り道、神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さんの秘仏三面大黒天立像(高村光雲作)特別御開帳を拝観し、都内で光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエを保存する会の会合に出席、というはずでした。一度千葉の田舎まで帰ってしまうとまた都内に出るのが面倒ですので。

ところが愛車にトラブルで、帰らざるを得ない状況に。車輌本体は全くノープロブレムですが、癇癪を起こしたのはカーナビ。安曇野に着いた頃から自車の位置と画面の表示にズレが生じ始め、帰る頃には無茶苦茶になりました。南下しているのにどんどん北上していると表示され、実際にいる場所とどんどん乖離。一晩経てば治るかなとも思ったのですが、もし治らなければ大山寺さんにたどり着けません。断念して昨夜のうちに帰りました。

結局帰る途中もずっとしっちゃかめっちゃかで、信州から山梨県、神奈川県と進んでいるのに最北で新潟の妙高市まで行ったと認識。その後も長野県内や群馬県嬬恋村あたりをぐるぐるうろうろしているということになっていました。一晩経って治ったかな、と思って先ほど見てみましたが、やはり長野県野沢温泉村にいることになっています(笑)。

閑話休題。安曇野には光太郎の親友だった碌山荻原守衛の忌日・第115回碌山忌、さらに「特別展示 智恵子紙絵」拝観のため、同市の碌山美術館さんに行きました。

アルプスの山々にはまだ残雪。いい感じでした。
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館に到着すると、ちょうど本館に当たる碌山館前でアルペンホルンの演奏が行われていました。碌山忌ということで、アトラクションの演奏です。いかにも高原という感じで、「いとつきづきし」(笑)。
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隣接する杜江館での「特別展示 智恵子紙絵」を拝見。
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本来撮影禁止ですが、許可を得て撮らせていただきました。
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髙村家から拝借の、紙絵の実物と、光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏撮影の複製と、同時に展示されていました。こういう展示の仕方もありか、と思いました。
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紙絵を収蔵していた箱も。文字は光太郎の揮毫です。
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さらに光太郎草稿。
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生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の小型試作。顔は智恵子のそれです。
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アルペンホルンの演奏も終わったので、碌山館に。「女」をはじめ守衛の作品が一堂に会しています。
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裏手には光太郎詩碑。
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第一展示棟では光太郎の作品も。
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その後、休憩所兼インフォメーションコーナー的なグズベリーハウスへ。こちらではやはりアトラクションとしてコンサートが。
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そちらも終わり、午後4時、守衛の墓参。歩いていける距離ではありませんので、守衛の兄の令孫・荻原義重氏などの車に分乗して現地へ。
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昨日の信州は強風、というか烈風でしたので、山火事も怖いということで、焼香は無し。お坊様の般若心経読経や荻原氏のお話など。
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いつも書いていますが、墓碑銘は守衛と交流のあった中村不折の揮毫です。中村は太平洋画会での智恵子の師でもありました。

再び館に戻り、懇親会。
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恒例の光太郎詩「荻原守衛」全員での朗読。先導役は臼井吉見文学館の平沢重人館長。昨年は当方でした。
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代表理事、高野博元館長のご挨拶。
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祝辞を述べられた、同館理事でのあらせられる安曇野市長・太田寛氏、荻原氏。
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その後はスピーチ等おりまぜつつ、和気あいあいと懇談/会食。

途中、トイレに行った際。とっぷり日が暮れ、煉瓦造りの碌山館が実に映える感じでした。
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7時45分にお開きとなり、8時には片付けも終わって館を後にしました。

この後、最初に書いた通りの事態となって、結局千葉の自宅兼事務所まで帰った次第です。雨降山大山寺さんの秘仏三面大黒天立像(高村光雲作)特別御開帳は日を改めてリベンジに参ります。

「特別展示 智恵子紙絵」は6月22日(日)まで。公式サイトに情報が出ました。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

仕事の方はやうやく二尺ばかりのエスキスを完成、今週中に石膏にとりますが、又すぐに三尺五寸の中型原型にとりかかるので今その支度に大童です。


昭和27年(1952)12月10日 宮崎稔宛書簡より 光太郎70歳

「二尺ばかりのエスキス」が、上記「特別展示 智恵子紙絵」会場に展示されている小型試作、「三尺五寸の中型原型」は第一展示棟に並んでいる中型試作です。

新宿中村屋さんの創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻、光太郎の親友・荻原守衛らを中心に、信州安曇野ゆかりの人々の群像が明治30年代から戦後までを舞台に描かれ、光太郎も登場する臼井吉見の長編小説『安曇野全五巻。永らく絶版となっていたのが、地元の大河ドラマ誘致運動などの関係もあり、先月、復刊されました。

その関係で、『産経新聞』さん。光太郎には触れられていませんが。

3千ページ2千人超登場 “大河”すぎて最後まで読めない小説「安曇野」復刊 その攻略法

 3月、文芸評論家で小説家の臼井吉見(1905−87年)の小説「安曇野(あづみの)」(ちくま文庫)が復刊した。安曇野の名を全国に広めるきっかけになった作品といわれ、臼井の代表作だ。一方で、知る人ぞ知る〝最後まで読めない〟小説でもある。どうすれば読破できるのか。長野県安曇野市にある臼井吉見文学館の平沢重人(しげと)館長(67)に攻略法を聞いた。
 小説「安曇野」は、安曇野出身で東京・新宿「中村屋」を創業した相馬愛蔵と妻の良(黒光)を軸に、明治30年代から昭和に至るまでの激動の日本を庶民目線で描いた長編大河小説。全5部作で、原稿用紙約5600枚、約10年をかけ昭和49年に完結した。
 長らく絶版になっていたが、完結50周年の昨年、安曇野市がふるさと納税を活用したクラウドファンディングで復刊費用の一部を募り、筑摩書房に働きかけ、平成の大合併で安曇野市が誕生して20年になる今年、復刊を果たした。
押し寄せる人と情報
 5巻で約3000ページになる文庫の第一部を手に取って読み始めてみる。
 《水車小屋のわきの榛(はんのき)林を終日さわがしていた風のほかに、もの音といえば、鶫撃(つぐみう)ちの猟銃が朝から一度だけ。にわかに暗くなってきた軒さきに、白いものがちらつき出した》
 明治31年12月の安曇野の風景から穏やかに始まる。しかし、読み進めるうちに、つまずくようになる。まず、個人名が次々出てくる。覚えておくべき人物か考える間もなく増えていく。背景説明や回想も多い。人物のセリフも多く、長い。読者の自分は、いつの時代の、どの場所で、誰の話を聞いているのか…。押し寄せる人と情報の“大河”に飲まれ、本を置いた。
 平沢館長に読み始めの感想を伝えると「1巻でやめたという方が大勢います。挫折するんです」と慰めてくれた。
 なぜ読みづらいのか。まずは、総勢2000人を超える登場人物の多さ。しかも実在する人ばかりで、著名人も多く、気をとられてしまう。そして対話の場面が多いこと。当の人物とは直接関係が無さそうな対話が難易度を上げる。
「不服は申さない」
 どう読んだらいいのか。「飛ばして読みます。それどころか、最初から読む必要はまったくありません」と平沢館長。第四部のあとがき「作者敬白」で、臼井がこう書いている。
 《第一部冒頭から読んでもらおうなどと虫のいいことは考えていない。それどころか、たまたま、頁(ページ)の開かれたところから読み出してもらってかまわない。第三部、第二部と逆に頁をくってもらっても不服は申さないつもり》
 平沢館長自身、初めて読んだときは、戦後の第五部、次に戦前の第四部、大正の第三部、明治の第一、第二部の順で読破したという。
 小説の主要人物は相馬夫妻と、安曇野で私塾を開いた井口喜源治、相馬夫妻の支援を受け近代彫刻の先駆者となった荻原守衛(碌山)、社会運動家の木下尚江の5人。気に入った人物にだけに着目して読んでみるのもいいという。実在の人物同士の対話であっても、史実としてはあり得ない場面もあり、小説として楽しむ余裕も必要だ。
令和の時代に
 復刊を機に、市の『広報あづみの』で、あらすじ、見どころを紹介する連載を3月号から始めた。各巻3回、計15回にわたって連載予定で、読む手助けにしてもらう考えだ。
 平沢館長は令和の時代に「安曇野」を読む意義を次のように語る。
 「臼井の好きな言葉に『邂逅(かいこう)』(出会い)があります。臼井は出会いと対話をとても大事にしていました。気の合う人だけでなく、苦手な人との対話も。対話を通じてお互いの立場を尊重しあいながら、団結し強くなっていくという考え。自分の考えに近い人たちだけになりがちな令和のSNSの時代だからこそ、大事なことだと思います」
 今回の復刊は5巻セットを1100セット。うち400セットは学校や図書館に寄贈し、販売分700セットのうち、筑摩書房販売分200セットは約1週間で完売、安曇野市販売分500セットも残り約100セットという。販売はセットのみで価格は7040円。問い合わせは安曇野市文書館(0263・71・5123)。広報あづみのは、市のホームページに掲載しており、いつでも読むことができる。(石毛紀行)
 ◇
臼井吉見(うすい・よしみ、1905−1987年) 現在の安曇野市出身。編集者、評論家、小説家。東京帝大を卒業後、旧制中学などの教員を経て、古田晃らと筑摩書房を創立。戦後、雑誌「展望」を創刊し編集長を務め、文芸評論家としても活躍。小説「安曇野」で谷崎潤一郎賞(1974年)を受賞。
 ◇
【小説「安曇野」の主要人物】
相馬愛蔵(そうま・あいぞう、1870〜1954年) 安曇野出身の社会事業家、実業家。養蚕家を経て、東京でパン屋「中村屋」を創業。文化・芸術活動も支援。
相馬良(黒光)(そうま・りょう こっこう、1876〜1955年) 仙台出身。愛蔵の妻。夫ともに「中村屋」を創業。芸術家や文化人が集う「中村屋サロン」の中心的人物。
井口喜源治(いぐち・きげんじ、1870〜1938年) 安曇野出身。愛蔵らの協力で私塾「研成義塾」を地元で創設、国内外で活躍する人材を育てた。
荻原守衛(碌山)(おぎわら・もりえ ろくざん、1879〜1910年) 安曇野出身。欧米で美術を学び、ロダンの「考える人」を見て彫刻家に。近代彫刻の先駆者。黒光に憧れる。
木下尚江(きのした・なおえ、1869〜1937年) 松本藩の下級武士の家の出身。社会運動家、作家、新聞記者。日露戦争前には非戦を訴えた。
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臼井吉見と小説「安曇野」について語る平沢重人館長=4月1日、長野県安曇野市の臼井吉見文学館

3,000ページ程度でしたらちょろいもんだと思うのですが(笑)。

ちなみに安曇野市さんのホームページには特設サイトも設けられており、そちらには人物相関図も。2,000人のほんの一部ですが。こちらには光太郎の名も。
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来週には第115回碌山忌、さらに「特別展示 智恵子紙絵」拝観のため、同市の碌山美術館さんに行って参ります。地元でどんな感じで盛り上がっているか、見て来たいと存じます。

みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

それでは御指示通り、八日午前九時五〇分上野発の汽車で友部駅に下車いたし、ご案内をまつことにいたします、当日豪雨等のことあつても出かけます、

昭和27年(1952)10月30日 藤岡孟彦宛書簡より 光太郎70歳

孟彦は光太郎実弟。光雲四男でしたが藤岡家に養子に出ました。植物学を修め、戦前から兵庫県農業試験場に勤務、この時期には茨城県の鯉淵学園(現在の鯉淵学園農業栄養専門学校さん)に勤務していました。

その孟彦から鯉淵学園で講演をしてくれと頼まれ、11月8日に中野の中西アトリエから茨城へ。

孟彦の回想から。

 文化祭当日(11月8日)は幸い上天気であり、時刻通り宮崎稔氏付添で来園し、小出学園長、鞍田先生、石橋先生が、学園長室で迎えられた。老体のこと、どうかと聊か心配したが案外元気であって、一時間半程の話を無事終ったので安心した。大変な人気であった。(略)此日兄は古ぼけた国民服、登山帽にゴム長靴といういでたち、山小屋生活そのまゝの姿であつた。講演がすんで講堂を出て行く際、手を振りながらサヨナラと挨拶した面影は眼にしみついて離れない。その後も泊まりがけで再び来園して貰いたく、兄も学園のミリューが万更でも無く、その考はあった様だが彫刻の仕事が予定より永引いて、28年一杯かかり、29年には療養生活に入ったため、遂に実現を見ずに終ったのは返す返すも残念でならない。後に聞けば兄の講演を知らなかった、報道陣の人もあったそうであるが大げさな外面的の事の大嫌いな兄としては非公開の講演、単純素朴な学生との接触こそ、却って満足してくれたと思う。

「ミリュー」は仏語で「milieu」、「環境」の意です。

再上京後に都内から出たのは、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際と、その後の10日間ほどの花卷郊外旧太田村への一時帰村、そしてこの鯉淵学園での講演と、3回だけでした。

公式サイトに情報が出るのを待っていたのですが、まだ出ていません。しかし開幕が迫っていますので、見切り発車でご紹介してしまいます。

春季企画展 特別展示 智恵子紙絵 高村智恵子紙絵 高村光太郎詩稿

期 日 : 2025年4月19日(土)~6月22日(日)
会 場 : 碌山美術館杜江館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 9:00-17:10
休 館 : 4月21日(月) 5月以降無休
料 金 : 大人 900円 高校生 300円 小中生 150円 20名様以上団体料金

高村智恵子の紙絵は、会期中展示の入れ替えを行います。

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光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の個人美術館、碌山美術館さん。

髙村家所蔵の智恵子紙絵、光太郎詩稿のそれぞれ実物が展示されます(紙絵は複製も)。めったにない機会です。常設展示では光太郎ブロンズも出ています。

併せてご紹介しますが、守衛の忌日「碌山忌」も会期中に催されます。会場内グズベリーハウスで地元の方々を中心としたコンサート、夕方から守衛の墓参(館の方、サポートメンバーの方が車を出して下さいます)、その後再びグズベリーハウスで懇親会を兼ねた碌山を偲ぶ会。昨年の模様はこちら
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また、碌山忌の関連事業として記念講演会も企画されています。

碌山美術館第115回碌山忌記念講演会 姜尚中 アートが拓く地域力

期 日 : 2025年4月19日(土)
会 場 : 穂高会館 長野県安曇野市穂高5047
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 無料(要碌山美術館入場チケット)
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かつてNHKEテレさんの「日曜美術館」で司会を務められ、同館で老朽化した碌山館(本館)補修のためのクラウドファンディングを行った際には、真っ先にメッセージを送られた姜尚中氏が講師です。ただ、既に定員となってしまっているようです。しかしキャンセル等もあるかと思われますので一応。

当方、22日の碌山忌の日に伺います。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】fbf18a8c

花巻出発の際はあんな深夜にわざわざ停車場までお見送り下され、感謝いたしました、無事東京につきましたが、ひどく忙がしい事がつづき今日に至りました、


昭和27年(1952)10月29日 
駿河哲夫宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻駅から夜行列車に乗ったのが10月11日。翌朝9時45分、上野駅に着き、大勢の出迎えを受けました。

早速、上野駅で生ビールを堪能、そしてこの日は駒込林町155番地の実家に泊まりました。

光太郎令甥の髙村規氏が、平成25年(2013)の碌山忌記念講演会「伯父 高村光太郎の思い出」で語った回想から。

 光太郎が東京へ帰って来た晩、家へ泊って久しぶりで兄弟とか伯父さん、僕の妹やなんかみんな集まって、茶の間で、自分が三十才で独立するまで住んでた家ですから、昔のまんま、仏壇でも何でも残ってるもんですから、久しぶりで物珍しげに部屋を見て回ってました。戦前からいたばあやがまだ元気でいたんですね。ばあやが挨拶に部屋へ出て来て。そしたら「おばさんまだ元気だったの、よかった。じゃあお小遣いをあげなきゃ」とか言いながら、昔とおんなじ気分で炬燵へ足を突っ込んで。その晩はかなり遅くまでしゃべってました。何を作るのか。僕は高校三年生でした。

微笑ましいエピソードです。


大正2年(1913)、光太郎が先行して滞在、あとから智恵子も後を追って現れ、結婚の約束を果たしたという信州上高地。歩いて登るしかなかった時代、光太郎智恵子も辿った「クラシックルート」にある「岩魚留小屋」に関して、『毎日新聞』さん長野版が、光太郎の名を引きつつ報じています。

歴史ある建物 CFで再生へ 「岩魚留小屋」後世に 松本・徳本峠ルートで有志ら /長野

 長野県松本市安曇の島々地区から徳本(とくごう)峠を経て、北アルプス上高地に至る登山道沿いにある休業中の山小屋「岩魚留(いわなどめ)小屋」の復活を目指すプロジェクトを、県内外の有志が始めた。小屋は明治時代に日本アルプスを世界に紹介した英国人宣教師、ウォルター・ウェストンも利用したという。現在は老朽化が進み、有志はクラウドファンディング(CF)で小屋の改修資金を募る予定。
 市教育委員会によると、徳本峠の東の標高1260メートルにある岩魚留小屋は1911(明治44)年に民間会社が開設し、木造平屋建て66平方メートル。現オーナーの奥原英考さん(71)の体調不良で2012年から休業している。老朽化のため、復活には修繕や電気などインフラ整備が必要になる。
  小屋の前を通る登山道は、1928(昭和3)年に梓川沿いの釜トンネルが開通して車が通るようになるまで、上高地に入る主要路だった。ウェストンや日本山岳会を創立した小島烏水(うすい)をはじめ、小説家の芥川龍之介や詩人の高村光太郎が歩いた近代登山の歴史を刻むクラシックルートで、登山口の島々から上高地の明神まで約20キロ。現在は土砂崩れのため通れなくなっている。
 有志らは昨年11月に「岩魚留小屋再生プロジェクト」を発足させた。代表の塩湯涼さん(29)=京都市出身=は南アルプスの山小屋で働き、島々に昨春移住。奥原さんが後継者を探していると知り、名乗りを上げた。メンバーには建築やデザインの担当者もいる。
 塩湯さんとプロジェクトリーダーの臼井幸代さん(39)は3月末、松本市の登山用品店で講演し、小屋の現状や今後の計画を説明した。塩湯さんは「歴史的価値を持つ小屋を後世に残すため、外観を保ったまま修復する。自然探検など、岩魚留小屋らしい新たな楽しみ方ができるようにしたい」と話した。臼井さんも改修資金の確保に協力を求めた。
 また、島々から徒歩4~5時間の地点にあるこの小屋は、登山者の宿泊・避難場所として安全面でも意義があるとした。今年は現地調査や廃棄物処理、トイレと水場の整備をする予定で、清掃や荷物運び、小屋見学の講習会も計画している。26年に小屋の修繕やインフラ工事に取りかかり、27年の営業再開を目指している。
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画像左奥に映っているのは桂の木です。推定樹齢数百年で、光太郎智恵子も目にしました。のちに光太郎智恵子それぞれ、桂の木の印象を文章に残しています。

「徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた」(光太郎 「智恵子の半生」昭和15年=1940)

「絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波うつ深山の桂の木」(智恵子 「病間雑記」大正11年=1912)

ここにも一度行ってみたいと思いつつ、果たせないでいます。なかなか半端な気持で行ける場所ではありませんので、しっかり計画を立てて向かわねばなりませんし。

保存の為のクラウドファンディングが立ち上がったら、微力ながら協力させていただくつもりでおります。皆様にも是非よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】002

このたびは友人藤島宇内君のお世話によりお宅のアトリエを拝借出来るやうになり、まことにありがたく、好都合にて、お宅様に対し厚く感謝いたして居ります。来る十月十三日頃参上の運びとなるかと存じますが、又いろいろ御厄介をかけるやうになりますこと恐縮の至ですが、何分お願申上げます。

昭和27年(1952)10月6日
 中西富江宛書簡より 光太郎70歳

光太郎終焉の地となった中西利雄アトリエの持ち主、利雄夫人の富江に宛てた書簡から。

こちらの保存運動も展開中です。よろしくお願い申し上げます。

永らく絶版となっていた臼井吉見の長編小説『安曇野』全五巻。新宿中村屋さんの創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻、光太郎の親友・荻原守衛らを軸に、信州安曇野ゆかりの人々の群像が明治30年代から戦後までを舞台に描かれています。守衛とのからみで光太郎も登場します。大河ドラマ化要望運動も起こっており、地元安曇野で復刊に向けてのクラウドファンディングなども為されていましたが、その甲斐あって限定復刊だそうです。

安曇野生まれの臼井は昭和15年(1940)、同郷の古田晁らと筑摩書房を設立、戦後の同21年(1946)、雑誌『展望』を創刊し、編集長に就きます。『展望』には光太郎作品がたびたび掲載されました。発刊の年に詩「雪白く積めり」、翌昭和22年(1947)には幼少期からの来し方を振り返り、戦時中の翼賛活動を自ら断罪した20篇からなる連作詩「暗愚小伝」など。

信州松本平地区をカバーする『市民タイムス』さんに先月出た記事。

臼井吉見著 長編大河小説『安曇野』文庫版 3月2日に復刊 お披露目・販売会も 長野県安曇野市

 長野県安曇野市は14日、太田寛市長肝いりで計画している絶版の長編大河小説『安曇野』(筑摩書房)の復刊が、3月2日に決まったと発表した。市内でお披露目・販売会も開く。安曇野の名を全国に広めた小説を通して、多くの先人を生んだ安曇野の風土を誇りとして再認識してもらう狙いがある。ただ、2000人を超える人物が登場する大作を読み通すのは難儀で、市民に身近に感じてもらう工夫が求められる。
 復刊数は文庫版第1~5部の1100セット(1セット税込み7040円)。お披露目・販売会は同日に堀金総合体育館で開き、文芸評論家・斎藤美奈子さんのトークなどを行う。復刊本は市内の小中学校や高校、図書館などにも置く。市の予算に加え、クラウドファンディング(CF)と企業・団体からの寄付で集まった299万6000円を費用に充てた。
 安曇野市堀金出身の作家・臼井吉見(1905~1987)の作で、昭和49(1974)年に完結した小説『安曇野』は、新宿中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻、近代彫刻の先駆者・荻原碌山など安曇野ゆかりの5人を中心として、明治から昭和にかけての激動の社会を描く。3回完読したという太田市長は14日の定例記者会見で、これだけ多くの先人を輩出した田園地域は全国的に少ないとし「先人が安曇野をベースに日本全国、世界に飛躍していった歴史(の物語)を、ぜひ若い人に読んでほしい」と話した。
 ただ、原稿用紙約5600枚分にもなる大作を読むには時間と労力がいる。太田市長は、読みやすくする改編が著作権上難しいとした上で「市の広報であらすじを紹介するなどの方法で、関心を抱いてもらう取り組みをやりたい」としている。
 市は『安曇野』を基にしたNHK大河ドラマ化も目指している。
 お披露目・販売会の参加希望者は2月4日までに、市ホームページから電子申請するか、ダウンロードした参加申込書を送付して申し込む。定員300人。
 問い合わせは市政策経営課(電話0263・71・2401)へ。
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003安曇野市さんのサイトに詳しい購入方法が書かれています。

3月2日(日)にはお披露目会もあるそうですが、早々に定員に達してしまったようです。地元の皆さんの関心の高さがうかがえます。「教育県」長野というのも背景にあるかも知れませんね。大河ドラマ化はなかなかハードルが高いと思われますが……。

今回の復刊は全五巻セットでの販売のみ。古書店のサイト等では分売も行われています。光太郎が登場するのは第二巻(第二部)。あるいは各地の公共図書館さんなどにも収蔵されているのではないでしょうか。

ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

年末年始の頃から一月一ぱいまるで筆をとらずに居りました。昨年同期に肋間神経痛を起したので今年は用心した次第でございます。


昭和27年(1952)2月1日 野末亀治宛書簡より 光太郎70歳

肋間神経痛は宿痾の肺結核によるもの。前年にはそれがひどく、農作業もほとんど放棄してしまいました。「一月一ぱいまるで筆をとらず」ということで、前月の書簡は3通しか確認出来ていませんし、毎年恒例だった書き初めも行わなかったようです。

養生に努めた結果、痛みはほぼ無くなりました。しかし結核自体が寛解するべくもなく、一時的なものだったようです。ただ、症状の改善は彫刻再開を決意する後押しにはなりました。

1月19日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版の連載「美の粋」で取り上げられました光太郎の親友であった碌山荻原守衛に関して、続編が1月26日(日)に出ました。前回もそうでしたが、見開き2ページの長い記事ですので、光太郎の名が出る部分のみ。

新宿に吹いたパリの風「中村屋サロン」群像(中) 命を凝縮した彫刻 受け継がれる思想 荻原守衛(碌山)「女」

002突然の「絶作」刻まれた理想
 主を失った部屋にその「女」(1910年)は一人残されていた。この像を制作した年の4月20日、荻原守衛(碌山)は新宿中村屋で血を吐いた。そして、その2日後、30歳で逝った。あまりに唐突な死だった。
 地面にひざまずき、手を後ろ手に組み、体をねじり上げるようにして上空を見る女性像。まるで捕虜になったかのようにも、見えない何かにとらわれているようにも見える。実際にやってみれば分かるが、かなり苦しい体勢だ。しかし、その表情には何かを悟ったかのような高貴さがある。
 モデルを務めたのは岡田みどりという女性だった。しかし、その顔は中村屋の経営者で、相馬愛蔵の妻、黒光によく似ている。黒光自身も残された像を見て、碌山が誰を思って制作したのか、悟らざるを得なかったようだ。「単なる土の作品ではなく、私自身だと直覚されるものがありました」(相馬黒光「黙移」)
 この作品に賭ける思いは強かった。友人の高村光太郎がアトリエを訪れた際に碌山は、完成間近の「女」を「やはり、どうにも気に入らない」と破壊しようとした。高村は慌てて、それを止めたという。また、別の友人、戸張孤雁は部屋の中で、薄着で震えている碌山の姿を目撃している。服は、制作中の「女」にかけてあった。
 確かに「女」は黒光への思いから生まれたものではあったのだろう。碌山美術館の武井敏学芸員は「『女』の姿は、士族の家に生まれながら貧しさにも苦しみ、夫、愛蔵の愛人問題など人生の苦難を乗り越えてきた黒光の姿に重なる」と話す。
 一方で、作品は一個人への恋慕の情にとどまらない精神性も感じさせる。黒光は進んで学び、芸術への理解もある教養の高い女性だった。「良妻賢母という旧習にとらわれることなく、自由な生き方を求めたこの時代の女性たちの姿が投影されている」(武井学芸員)ようにも見える。碌山が表現したかったのは黒光に代表される、この時代における総体としての「女」そのものだったのではないだろうか。
 碌山の愛は、届くことはなかった。黒光は苦しみながらも愛蔵を許し、その後も子供をもうけた。碌山の悩みは深かった。高村ら友人に送った手紙に胸の内を明かしている。「日暮れて谷間をさまよう旅人の如く。頭が病んでいる」「惨めだ。僕は失ってしまった。いやまだ失っていないが」。「文覚」(1908年)や「デスペア」(1909年)では、黒光への恋心から生まれた苦しみや絶望を作品に込めた。
 しかし、「女」の表情は負の感情を感じさせるどころか、どこか晴れやかですらある。そこには、碌山自身の心境の変化も表れているようにみえる。武井学芸員は「苦境を受け入れ、これからは高みを目指していこうという前向きな意志も感じさせる」と指摘する。だとすれば、次に碌山はどんな作品を生み出したのだろうか。残念ながら、それを確かめる術はない。
 碌山自身ももちろん、これが絶作になるとは知るよしもない。しかし、不思議なことに「女」を見るうちどこかでこれが最後の作品になることを知っていたのではないかと思えてくる。内面から輝くような生命の美を彫刻に求めた碌山の理想が全て刻み込まれた、まさに集大成の出来栄えだ。
 碌山の彫刻家としてのキャリアはパリ時代を含めても4年ほどにすぎない。帰国後に限ればたった2年だ。恐るべき才能であったといえる。そのあふれるほどの才能は黒光と再会することで、苦しみとともにではあったが発露を見た。「女」には碌山の命そのものが凝縮されている。
 「女」はその年の10月、碌山の兄から委託され、東京美術学校鋳金科に在学中の山本安曇が鋳造した。文展にも出品されたが、結局、3等に終わった。真の価値が認められるまでには、半世紀の時を要した。67年「女」の石こう型は、日本の近代彫刻で初めての重要文化財に指定された。
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前回メインで取り上げられた守衛の「坑夫」同様、「女」も光太郎が救ったという話。数年前に知ったのですが、光太郎、グッジョブでした。

引用部分最後に、山本安曇による「女」鋳造の件に触れられていますが、この際には光太郎実弟にしてのちに家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ豊周も参加しています。

右画像は豊周著『自画像』(昭和43年=1968 中央公論美術出版)から。

引用部分は見開き2ページの片側部分で、このあと引用しなかった後半部分が続きます。そちらでは守衛没後の柳敬助、戸張孤雁、中原悌二郎らに触れられています。

2週で「上・下」かな、と思ったのですが、3週で「上・中・下」のようです。すると2月2日(日)掲載分の「下」では、「上」「中」でほとんど触れられなかった中村彝あたりがメインになると思われます。

ちなみに新宿の中村サロン美術館さんでは、現在、「コレクション展示 中村屋サロン」が開催されています。「坑夫」「女」も出ていますし、わりとよく出品されるのでその都度ご紹介はしていませんが、光太郎の油彩画「自画像」(大正2年=1913)も出ています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お説の通り、此の小屋の湿気が神経痛にも大いに関係ある事萬々承知の上、如何ともし難き事情の下に、この五年間水牢に起居するつもりで過ごして居た次第であります。しかしこんな事は何でもありません。


昭和26年(1951)7月14日 照井欣平太宛書簡より 光太郎69歳

「水牢」は江戸時代、主に年貢未納者を水浸しにした牢に閉じこめた刑罰、またはその牢です。

翌年、光太郎再帰京後に国安芳雄と行った対談「心境を語る」では、次の記述があります。

山だから湿気がひどくて、ふとんなんかべとべとになつてしまう。その中に寝ているのだから、まるで水にくるまつているようなものだ。これは悪いことをしたから水牢に入っているのだと思つて、そんなら我慢できると思つた。水牢よりはまだいいような気がした。想像では、解らないもの凄い生活だつた。自分が寝ていると息がふとんにかかつて氷になるんです。

布団が凍るというのは、一年で最も寒い今の時期あたりだったでしょうか。今日はその山小屋に行って参ります。

1月19日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版の連載「美の粋」で、光太郎の親友であった碌山荻原守衛が取り上げられました。見開き2ページの長い記事ですので、光太郎の名が出る部分のみ。

新宿に吹いたパリの風「中村屋サロン」群像(上) 未開地のパン屋に最先端の芸術006

ロダンに学ぶ碌山の凱旋
 低くのしかかるようなJR山手線の高架越しに見上げた西新宿の高層ビル群はひときわ高く見えた。1日の乗降客数が世界一を誇る新宿駅を抱える街は四六時中人であふれている。100年ほど前、ここが、まだみすぼらしい未開地であったときのことを想像するのは難しい。
 雑踏を縫うようにして歩くこと数分。新宿中村屋にたどり着いた。現在、菓子やインドカレーで知られるこの店は、芸術に命をかけた若者たちのたまり場でもあった。
 その物語は一人の青年がパリから戻ったところから始まる。名前を荻原守衛(碌山)という。
 「坑夫」(1907年)は日本近代彫刻の嚆矢(こうし)と称される作品だ。建物の装飾や愛玩物としての彫刻ではなく、彫刻のための彫刻を生涯追求した。元々は画家志望だったが、パリに留学中だった04年5月、オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て衝撃を受け、彫刻家に転身。2度目のパリ滞在の際には、ロダンから直接指導を受けた。「坑夫」はその時代に制作された。
 碌山の故郷にある碌山美術館(長野県安曇野市)には「坑夫」をはじめとするブロンズ像が多く残されている。同館の武井敏学芸員は「彫刻の本当の美しさは見かけではなく、内側から発する生命力にあると考え、その表現を追求した」と話す。
 パリ時代に制作した作品のうち、現存するのは「坑夫」を含め3点にすぎないが、すでに並々ならぬ力量を持っていたことが分かる。「坑夫」では、頭と首、胸が自然に連携しており、塊のように感じられる。それが肉体労働に従事する男の生命力そのもののようにして迫ってくる。
 この作品を高く評価し、石こうにとって日本に持ち帰るよう勧めたのが、彫刻や絵画を手掛け、詩人としても知られる高村光太郎だった。碌山と高村は互いの留学中に知己を得、ともにロダンに心酔したという共通点もあり、交友を深めていった。
 「坑夫」が制作された07年、日本では第1回の文部省美術展覧会(文展)が開催された。日本画、西洋画、彫刻の3部門があったが、彫刻部門への応募は、わずか44点だった。08年に開かれた第2回文展に「坑夫」は出品されたがその荒々しいタッチのため「未完成」と見なされ落選している。日本では、近代彫刻というものがまだまだ根付いていなかった。そんな状況において、高村は碌山のよき理解者と007なる。
 3回目の文展で3等賞を受賞したのが、「北條虎吉像」(09年)だ。帽子商会組合の会長への寄贈を受け制作されたこの作品には、生命力の一層の深化が見られる。塊を捉える目は卓越し、繊細な表情も息づいている。高村は「この作には自然のMOUVEMENTがある。(中略)。此の作には人間が見えるのだ。従つて生(ラヴイ)がほのめいてゐるのだ」と激賞した。
 碌山は、フランスの美術学校、アカデミー・ジュリアンで彫刻を学んだだけでなく、学内のコンペではグランプリを獲得するほどの実力を持っていた。当時、最先端の芸術を学んだ将来を嘱望される彫刻家であり、日本にパリの風を運ぶ使者だった。

記事はこのあと倍以上の長さで続きます。内容的にはタイトルの通り、守衛と同郷の相馬愛蔵が経営していた新宿中村屋さんに守衛が世話になる件、相馬夫人・黒光とのからみ、そして彫刻作品「文覚」と「デスペア」。
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また、欄外に「KEYWORD」として「中村屋サロン」。

 明治から昭和初期にかけて、芸術に理解のあった中村屋の創業者・相馬愛蔵、黒光夫妻のもとに多くの芸術家が集い、生まれた。昭和40年代に、安曇野出身の作家、臼井吉見は相馬夫妻の中心とした小説「安曇野」の中で、その様子を「ヨーロッパのサロンのようだった」と表現したことから、のちに「中村屋サロン」と呼ばれるようになった。
 西洋で彫刻を学び、相馬夫妻と交流のあった荻原碌山が、帰国後、中村屋に出入りするようになると、その友人や教えを請う若者も出入りするようになった。日本近代彫刻を代表する高村光太郎、中原悌二郎、戸張孤雁のほか、画家の柳敬助、斎藤与里、中村彝など日本美術史に名を刻む数々の才能が生まれた。また、美術以外でも、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースをかくまうなど、多用なジャンルの交流の場となった。

守衛絶作の「女」には触れられていませんでした。タイトルに「(上)」とあるので、「(中)」ないし「(下)」が今後あって、その中で取り上げられるのでしょう。

ちなみに「KEYWORD」に記述のある臼井吉見の『安曇野』。大河ドラマ化要望運動も起こっており、永らく絶版となっていたものが限定復刊というニュースも飛び込んできています。お披露目会が3月だそうで、また近くなりましたらご紹介いたします。

4年後の2029年には、守衛生誕150周年を迎えます。顕彰運動がより一層盛り上がることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生肋骨のヒビはまだ癒着せぬようで物を持つたり、つよいセキをすると痛みますが、肋間神経痛の方はだんだん軽減してきました。


昭和26年(1951)6月7日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

日記によれば5月14日に屋外で転倒、左の肋骨を強打したとのこと。居住していた山口部落には医者も居らず、見かねた知り合いの『花巻新報』記者が5月26日に骨接ぎ医を社用車で連れてきて治療してもらったそうです。

光太郎の父・光雲の木彫関連で2件。

まずは長野県。松本平地区を中心に発行されているタウン紙的な『MGプレス』さん記事。

えびす・大黒像の「里帰り祭」松本市の深志神社「商都松本」の伝統継承 商売繁盛願い込め60年近く続く行事

 松本市の深志神社と境内の恵比寿(えびす)神社で18~20日、商家の神とされる「えびす」の祭りが行われた。深志神社特有の祭りが、個人や企業などが所有するえびす、大黒像を年に1度神社へ持参し、商売繁盛の運気を高める「里帰り祭」。にぎわいを見せた「商都松本」の伝統を継承しようと60年近く続く行事だ。
 恵比寿神社(本町一丁目所有)では、江戸時代中期から祭りが行われたようだ。現在は19日に恵比寿神社、20日に深志神社でえびす祭を実施している。
 その前の18日に行う里帰り祭。深志神社の牟禮(むれ)仁宮司(76)によると、始まったのは1967(昭和42)年ころ。希望者に提供したえびすや大黒像を神社に「里帰り」させてもらい、「この1年の無事への感謝と、今後の繁栄を祈念する」趣旨だという。
 今年の祭りで里帰りした像は約70体。中には伊勢町生まれで幕末から明治の彫刻家・原田蒼渓(そうけい)(1835~1907年)、彫刻家・高村光雲(1852~1934年)の作品も持ち込まれた。
 同神社氏子総代会会長の春日孝介さん(75、深志1)が持参した像には、足裏に「立川内匠富昌」の文字が書かれている。江戸時代に諏訪立川流の建築彫刻の作風を確立した二代目立川和四郎富昌(わしろうとみまさ)(1782~1856年)の作品の可能性がある。春日さんは「普段は家の神棚に飾っている。家を代々守っていくことがないと、こうしたものは残っていかないので、大切にしていきたい」と話した。
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なるほど、ずらりと並んだ恵比寿/大黒天像、壮観ですね。記事にあるものが光雲の真作かどうかは不明ですが、贋作であってほしくないものです。

記事では詳細が判らないのですが、持ちよられたこれらの像、そのまま奉納されるわけではないのでしょうね、いくら何でも。

もう1件、既に始まっている企画展示の情報で、栃木県から。

開館20周年記念特別展 松方正義と那須野が原

期 日 : 2024年11月23日(土)~2025年1月19日(日)
会 場 : 那須野が原博物館 栃木県那須塩原市三島5-1
時 間 : 午前9時~午後5時まで
休 館 : 月曜日(休日の場合は開館)、年末年始(12月29日~1月3日)
料 金 : 一般 300円(250円)、高校生・大学生 200円(150円)
      小学生・中学生 100円(50円) ※( )内は20名以上の観覧料

明治時代に政治家・財政家として活躍した松方正義は、那須野が原の開拓に大きな影響を与えた人物でした。没後100年を迎える令和6年を機に、松方正義の一生を取り上げ、人物像に焦点を当てながら、政界における事績をたどります。また、正義と那須野が原の関係について注目し、正義が那須野が原開拓に及ぼした影響と展開された農場経営の実像を探ります。

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関連事業
 記念講演会①「那須野が原開墾と松方正義」
  日時 11月30日(土)午後2時~4時 講師松方峰雄氏(松方家当主)
  会場 那須野が原博物館 研修室定員50人(先着順) 費用無料
  申込み 電話でお申込みください(℡0287-36-0949)

 記念講演会②「松方正義の鹿児島県における評価~その生涯と功績~」
  日時 12月7日(土)午前10時~12時 講師原口泉氏(志學館大学教授)
  会場 那須野が原博物館 研修室定員50人(先着順) 費用無料
  申込み 電話でお申込みください(℡0287-36-0949)

 記念講演会③「松方正義・巌と千本松農場」
  日時 12月14日(土)午前10時~12時講師金井忠夫氏(那須野が原博物館特別研究員)
  会場 那須野が原博物館 研修室定員50人(先着順) 費用無料
  申込み 電話でお申込みください(℡0287-36-0949)

 別邸見学会
  日時 12月1日(日)①午前9時~12時、②午後1時~4時
  講師 松方峰雄氏(松方家当主) 三野進一氏(那須千本松牧場本部長)
     金井忠夫氏(那須野が原博物館特別研究員)
  会場 松方別邸定員各20人(先着順)
  内容 松方別邸の内部見学 費用 1,000円
  申込み 電話でお申込みください(℡0287-36-0949)

松方正義は明治の元勲。その子、松方三郎も国立西洋美術館さんの元となった「松方コレクション」で有名ですね。フライヤー裏面に画像が載っていますが、光雲が制作した松方の銅像原型(明治24年=1891)が出品されています。
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木彫原型は東京藝術大学大学美術館さんの所蔵で、借り受けての出品です。

銅像の写真は全国の銅像について写真入りで紹介している『偉人の俤(おもかげ)』という書籍から。同書刊行の昭和3年(1928)の時点では、この銅像、那須に立っていたことになっているのですが、現存しているのでしょうか? 
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「高村幸吉」は光雲の通称(本名は「光蔵(みつぞう)」でしたが、高村東雲に弟子入りの際、呼びにくい、と、「幸吉」に改めさせられました)、「岡崎庄次郎」は岡崎雪声の本名です。

ネットで調べても、松方の地元・鹿児島に立つ別の像の情報しか見つかりません。おそらく戦時中の金属供出にやられてしまったのかな、と思っておりますが、情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。

また、原型の制作年は明治24年(1891)と記録されているのに対し、銅像は明治41年(1908)建立と、20年近くタイムラグがあります。このあたりも謎ですね。こうなると現地に足を運んでみなきゃ、というのが当方の悪癖なのですが(笑)。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あなたは殊に父上を敬愛して居られましたから、今度どんなに力落としをされたかと思つて申し上げる言葉もありません。どうか勇気をふるひ起してください。 人の生死は人力の及ぶところではありません。小生も夙に覚悟をきめて居ります。たゞ命のある限り人生を信じてゆくに過ぎません。


昭和25年(1950)7月5日 相馬文子宛書簡より 光太郎68歳

相馬文子は、光太郎と同年だった歌人・相馬御風の息女。御風の逝去を知らせる書簡を光太郎に送り、その返信の一節です。

以前から行われていたようなのですが、一昨年までは気づきませんでご紹介していませんでした。今年はこれで項目を立てます。

秋の紅葉ライトアップ&夜間無料開放

期 日 : 2024年11月2日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 17:00~19:00
料 金 : 無料

本年も一晩だけ、 碌山館をライトアップ✨✨🍁
雨天中止 無料開放
展示室は碌山館のみご覧いただけます。
暖かい服装でお出掛けください。
ぜひお楽しみください📷
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013通常、17時で閉館となる同館ですが、この日に限りそこから2時間延長でライトアップが行われるとのこと。

ライトアップされるのは本館的な碌山館のみ。その竣工(昭和33年=1958)を見ずに亡くなりましたが、この建設には光太郎も力を貸したということで、入口裏側に設置されたプレートには光太郎の名も刻まれています。

ライトアップ時間帯の入場も碌山館のみ。光太郎のブロンズが多数展示されている第1展示棟や他の棟には入れません。入場料がかかりますが閉館前の時間に入場いただければ、他の棟も観覧できますね。

ちなみに弟2展示棟まるまると、第1展示棟の一部では、現代彫刻家の森靖(おさむ)氏の木彫を展示する「森靖展 -Gigantization Manifesto-」が開催中(12/9まで)。
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不思議な魅力のある作品群ですね。

しかし、ライトアップは雨天の場合には中止とのこと。そこで気になる長野県の天気予報を調べてみましたところ……
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「ありゃりゃりゃりゃ」という感じですね。

「一夜限りの」ということでプレミア感を狙ってらっしゃるようですし、日を改めて、というわけにもいかないようで……。その時間帯だけでも奇跡的に雨が上がっていることを期待します。

それにつけても館の建造物自体のライトアップで集客できてしまうところがすごいと思います。うらやましがっている他館のキュレーターさんなども多いのではないでしょうか。岩手花巻高村山荘あたりでもライトアップされるとそれなりに美しいとは思いますが、いかんせん熊の出没多発地帯ですし……。

【折々のことば・光太郎】

小生のその後無事、寒いので元気です。


昭和25年(1950)3月3日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

「寒いので元気」、一般的な感覚では矛盾していますが、夏の暑さにとことん弱かった光太郎にとっては、やせ我慢でも何でもなくそういうものでした。

信州安曇野の碌山美術館さんが、館報『碌山美術館報』の第44号をお送り下さいました。多謝。
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発行は3月で、おそらくネット上には既にアップされていたと思うのですが、やはり印刷物・紙媒体で頂けるのは有り難いことです。

昨年4月22日(土)に開催された、第113回碌山忌での、東京藝術大学さんの布施英利教授による記念講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」全文が文字起こしされて掲載されています。
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さらにそれを受けて、巻頭には同館学芸員の武井敏氏による「荻原守衛のスケッチ」。

守衛の絶作にして重要文化財の「女」。跪(ひざまず)いた女性が後ろで手を組み、斜め上を見上げているポージングですが、そこに秘められた仕掛けとは?
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以前にも書きましたが、何らの不自然さも感じられず、純粋な写実に見えるものの、精密に計測して実際の人体と比較すると、異様に頭部が大きく、腕も長く、乳房の位置などもおかしいとのこと。

そこでこの「女」が立ち上がったらどうなる、という図も掲載されています。
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実に不思議ですね。

そして武井氏の稿でも触れられていますが、後ろで組まれている両腕は、当初、斜め上に掲げる構想があったとのこと。そのポージングであれば、乳房の位置などは解剖学的に正しいそうです。それがどうして変更されたのか、謎は尽きません。

その他、昨年11月に開催された美術講座「スト―ブを囲んで 臼井吉見の『安曇野』を語る」も文字起こしされて掲載されています。『安曇野』は大河ドラマ誘致運動も起こっている臼井吉見の小説で、光太郎も登場します。他の箇所でも『安曇野』に触れられています。

主要箇所にはリンクを貼ってあります。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日は東京の吉川富三といふ写真家が来て弱りました。

昭和23年(1948)9月12日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎66歳

吉川富三は肖像写真を得意とした写真家。この日の様子を吉川は「快く写真ギライで有名な先生が私のカメラの前に立って下さった」と書き残していますが、やはり「快く」と言うわけではなかったようです。

この日撮影された写真(左下)は、翌年の雑誌『写真手帖』に掲載された他、日本橋三越で開催された「第三回文化人肖像写眞展」に出品、さらに昭和25年(1950)には吉川の写真集『文化人のプロフィル』にも収められました。
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また、吉川は昭和28年(1953)、帰京した光太郎を中野のアトリエに訪ねての撮影もしています(右上)。

信州レポート最終回です。

4月22日(月)、宿泊させていただいた「guest room ガーデンあずみ野」さんを後に、愛車を東に向けました。この日は碌山美術館さんでの第114回碌山忌でしたが、午後2時開始の薩摩琵琶の演奏から参加しようと思い、それまでの間は上田市に行く予定を最初から立てておりました。

信州(それから通り道の甲州も)には、光太郎と深く交流のあった人物の作品を多く所蔵・展示している美術館さんや、それらの人物そのものの記念館さん、光太郎ゆかりのスポットなどが数多くあり、碌山美術館さんもその一つですが、同館を訪問する際には他館などにも併せて足を運ぶのがルーティンです。

その一環で、前日には飯田市美術博物館さん内の日夏耿之介記念館さん、柳田國男館さんを訪れましたが、そちらは言わばイレギュラー。思いの外、早く信州に入れてしまったため、予定になかった拝観をしたわけで。

この日は当初、長野市の記念館さん二館を廻ろうと思ったのですが、ちょうど月曜日でどちらも休館日。そこで月曜に開いている館はないかと調べたところ、上田市の「KAITA EPITAPH 残照館」さんがヒットしました。こちらはかつては「信濃デッサン館」という名で、光太郎と交流のあった村山槐多の作品などが展示されていました。その時代に何度か訪れたことがあります。ところが平成30年(2018)に事実上閉館。残念に思っておりました。しかし、令和2年(2020)に「KAITA EPITAPH 残照館」としてリニューアルオープン。再開後に行ったことがありませんでしたし、昨年、映画「火だるま槐多よ」を拝見し、また槐多の絵を見たいという思いが触発されたので、伺おうと考えた次第です。

残照館さんの前に、姉妹館とも云うべき(残照館さんともども窪島誠一郎氏が館長)「戦没画学生慰霊美術館 無言館」さんを先に拝観しました。残照館さんも無言館さんも山裾ですが、無言館さんの方が手前にありますので。
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改修工事中でしたが、拝観は可能でした。

入口前の、パレットをかたどったオブジェ。白っぽい点々は桜の花びらです。
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刻まれている名は、こちらに作品や遺品等が収蔵されている人々で、そのほとんどが戦没者、そして戦時中に全国の美術学校などに在学していたり、それらの卒業生だったりして戦死した方々です。彫りの感じから、新しく刻まれたんだろうなと思われる名も散見されます。作品の収集や寄贈が今も続いているようです。

作品の収集や同館の開館に協力された、画家の野見山暁治氏が昨年亡くなりましたので、その意味でも感慨深いものがありました。

さて、館内へ。撮影禁止ですのでパンフから。
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何度も訪れていますが(最後は令和元年=2019でした)、何度訪れても粛然とさせられます。ありあまる才能や情熱をあたら散らせてしまった若者達の無念さとか、御家族や恋人への思いとか、逆に残された御家族や恋人の故人への思いとか、そういうものが直截に響いてきますので。

以前に訪れた際には気づきませんでしたが(新たに展示されたのでしょうか)、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる彫刻家・高橋英吉の木彫作品が展示されていまして、驚きました。高橋は東京美術学校彫刻科の出身ですので光太郎の後輩にも当たりますし、それをいえば西洋画科を含め他の光太郎の後輩や、光太郎実弟の豊周の教え子たる同校鋳金科出身だったり在学中だったりの人物の作品も多数。前途洋々の筈だったどれだけ多くの若者が散っていったんだ、と思いますし、その事実を知った光太郎が自らの戦争責任を恥じ、蟄居生活に入らざるを得なかった気持も理解できます。

そんなこんなで拝観終了。ちなみに平日午前中にもかかわらず、他にも拝観されている方が多数いらっしゃいました。良いことです。

こちらは拝観料を出口で支払うシステム。そこで支払いをしつつ係員の方に「残照館さんも開いてますよね?」。ところが「すみません、あちらは冬期休館で、再開が4月27日(土)なんですよ」。「ありゃま」でした。

一応、行くだけ行ってみました。もしかすると再開の準備作業をやっていたりで、こちらの身分を告げればドサクサに紛れて入れてくれるかも(それに似たことがかつて他館でありましたので)と、淡い期待を抱きつつ。
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しかし残念ながら人の気配がありませんでした。またの機会にしたいと思いました。

実はここから1㌔ほどの所に亡父の実家がありまして、このあたりは子どもの頃からよく訪れていました。祖父母や伯父らの眠る墓もありますし。今回はその墓参も目的の一つでした。下記は残照館さん前から見た亡父実家・共同墓地方面です。
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墓参の前に、残照館さん脇の前山寺さんに参拝。ついでというと何ですが、ここまで来てお参りしないのも何だかな、というわけで。

茅葺きの本堂。
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室町時代建立の三重塔。
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今回初めて気づきましたが、棟方志功の碑。
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南関東ではとっくに終わっているしだれ桜が実にいい感じでした。
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その後、祖父母等の墓参。やはり遠いのでこちらも令和元年(2019)以来。「ご存じでしょうが、さきおととし親爺が、ついでに言うならお袋も去年、そっちに行きましたので……」と念じつつ。

そして再び愛車を駆って安曇野に戻り、第114回碌山忌に参列した次第です。以上、長々書きましたが信州レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生は青年が好きです。青年のムキな気持は愛すべきです。

昭和22年(1947)7月3日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

美術学校彫刻科の後輩達が、学校改革のために校長に進言してくれという手紙を寄越したそうで、その顛末を語った後に添えられたひと言です。結局いろいろ差し障りがあって進言は実現しなかったようですが。

特に戦後、若い世代に対する光太郎の支援は目立ちました。戦時中に『週刊少国民』『少国民の友』『少国民文化』『日本少女』『少女の友』などの雑誌におぞましい翼賛詩等を書き殴っていた罪滅ぼしという側面はあったでしょう。

4月21日(日)、22日(月)と、愛車を駆って一泊二日で信州に行っておりましたが、メインの目的は安曇野市の碌山美術館さんで開催の「第114回碌山忌」および関連行事としての「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」への参加でした。

「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」が4月21日(日)の午後1:30から。休日の中央高速下り線、特に首都高から抜けた後しばらくの片側二車線区間は行楽等の皆さんで非常に混みますし、事故渋滞等も怖いので(一度、事故渋滞の影響で片道6時間以上かかったことがありました)早めに千葉の自宅兼事務所を出発しました。

そのおかげでスイスイ行けてしまい、そのままだとやけに早く着いてしまう状況に。そこで当初予定にはなかったのですが、寄り道していくことにしました。中央道岡谷ジャンクションで安曇野方面の長野道に入らず、そのまま直進し飯田市へ。

飯田市美術博物館さん内に、日夏耿之介記念館さんが併設されており、一度行ってみたいと思っていました。

日夏耿之介は、明治23年(1890)、現在の飯田市出身の詩人です。光太郎より7歳年下で、深い交流はなかったものの、おそらく直接の面識はあったと思われます。

筑摩書房さんの『高村光太郎全集』には、日夏の名が2回。

まず大正13年(1924)3月1日付の、雑誌『婦人之友』編集部にいた龍田秀吉宛書簡。同誌の読者投稿詩欄の選者をお願いしたいという龍田からの依頼を断る内容です。抜粋します。

詩の選といふ事は余程厄介な事の上に兎に角感じやすい若い魂から出たものをあれこれと取捨するやうな仕事はおよそ私などには向かないのです。それのみならず私は一種の野蛮人ですから自分の趣味なり傾向なりがさういふ巣の中の小鳥のやうなやさしいものの上に何等かの意味ではたらきかけるやうな冒涜の結果がありでもしたらといふ事もおそれます。とにかく女性の詩の選を私にさせるのは世の中で不つり合の頂上でせう。(略)どうか私に私らしくない事をさせないで下さい。 その詩のやさしさに私も心ひかれる西條さんが渡欧の為め選をやめられるのは本当に適任者を失ふ事です。しかし川路柳虹氏も居られるし、又日夏耿之介氏のやうな立派な詩人も居られます。

それまで選者を務めていた西条八十が渡欧するため退任、その後釜というわけですが、光太郎は固辞し、代わりに川路柳虹や日夏の名を挙げています(実際に誰が後任になったのかまでは未だ調べていませんが)。それだけ日夏を高く評価していたことがしのばれます。

ちなみに光太郎、この後、昭和14年(1939)から同16年(1941)にかけては『新女苑』、同17年(1942)から18年(1943)の『職場の光』で投稿詩の選者を務めました。これらの際には断り切れなかったということでしょう。

他にも昭和14年(1939)に書かれた「詩の勉強」というエッセイで、やはり日夏を賞めています。

私は概して時代の老大家よりも真摯な青年層の方から良い教訓を受ける。其頃も日本詩壇の老大家とは殆ど没交渉だつたが、青年詩人からは多くの刺激をうけた。葉舟、犀星、朔太郎、耿之介、柳虹等の諸氏は常に尊敬してゐた。

「其頃」は大正初め頃をさします。「老大家」はおそらく北村透谷やら島崎藤村やら土井晩翠やらの一世代前の人々でしょう。

『高村光太郎全集』に日夏の名が出て来るのはこの2箇所だけですが、おそらく詩話会などの詩人の会合等で光太郎と日夏が顔を合わせる機会はいろいろあったと思われます。実際、昭和17年(1942)の第一回大東亜文学者大会には、光太郎、日夏共に出席しています。

2024.6 追記 『高村光太郎全集』未収録の光太郎の文章を見つけました。日夏の『英吉利浪曼象徴詩風』(昭和15年=1940)の書評でした。掲載誌は『ふらんす』第17巻第6号でした。

b7b6af5e日夏の方で光太郎をどう評していたか、あるいは光太郎がらみの回想等を遺していないか、当方、寡聞にしてよく存じません。ただ、戦後の昭和26年(1951)に日夏の編集で刊行された『近代日本詩集』(弘文堂アテネ文庫)では、14名の詩人の作品を採り、光太郎詩も含まれています。日夏によるその序文に曰く、

透谷以下の十四人をこゝに選出したのは、偶まの十四人であるが、明治の八人大正の六人を厳しく選んで獲たる数であつて、近代情趣の形成の上に正統の抒情詩的寄与をなした新旧十四個のピラアズの作品を、この篇冊にアンソロジイにして抄出したところに編者は史的意味を認めるとなすものである。

まぁ、光太郎は外せないよ、ということでしょう。ちなみに日夏、ちゃっかり自分も十四人に入れていますが、これは本人の意図というより、版元の意向でしょう。

これは日夏の編集ですが、他者の編によるこの手のアンソロジーで、光太郎、日夏の作品が共に掲載されているものは、軽く30冊はあります。

さて、前置きが長くなりましたが、飯田市の日夏耿之介記念館さん。
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一見すると普通の古民家のようです。それもそのはず、「日夏が余生を送った飯田の邸宅を復元したもの」だそうで。
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調べてみましたところ、光太郎が亡くなった昭和31年(1951)から昭和46年(1971)まで暮らした家のようです。元は数百㍍離れた稲荷神社境内に建てられ、平成元年(1989)、この地に復元されたとのこと。内部も民家の体裁を生かし、展示が為されていました。
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光太郎と交流の深かった佐藤春夫からの書簡。
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江戸川乱歩からの来翰も。
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この手の来翰をまとめた書籍が置いてあり、光太郎からのそれはないかと調べましたが、残念ながら見あたらずでした。それをもっとも期待していたのですが……。

しかし、展示されていた古写真を見て、仰天しました。
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日夏の詩集『転身の頌』出版記念会の際に撮られた集合写真だそうで、大正7年(1918)のものです。ちなみに下記のキャプションは「1916」となっていますが、誤りです。
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北原白秋、堀口大学、室生犀星、森口多里など、光太郎と交流のあった面々が写っていますが、光太郎は居ません。ではなぜ驚き桃の木山椒の木(死語ですね(笑))だったかというと、バックに写っている、壁に掛けられた絵のためです。
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光太郎の絵です。

大正2年(1913)、智恵子と共に一夏を過ごした上高地で描かれ、その年の10月、岸田劉生らと興した生活社主催の油絵展覧会に出品された作品群の内の一枚で、その際の題が「焼岳」。下記は『高村光太郎 造型』(春秋社 昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)に載った画像。
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なぜこの写真にこれが? と思ったのですが、キャプションを詳しく見て納得しました。撮影場所が京橋の「鴻ノ巣」となっていたためです。

「鴻ノ巣」は「メイゾン鴻乃巣」。明治43年(1910)、奥田駒蔵という人物が日本橋小網町に開店した西洋料理店です。光太郎も中心メンバーだったパンの会で使われたり、光太郎が絵を描き、伊上凡骨が彫刻刀をふるったメニューが作られたりしました。また、智恵子が創刊号の表紙を描いた『青鞜』社員の尾竹紅吉が「五色の酒」事件を起こしたりした店でした。

同店はその後、日本橋通一丁目、さらに京橋に移転。駒蔵の令孫夫人に当たる奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』所収の年表によれば、京橋への移転は大正5年(1916)、そして大正7年(1918)の項に「1月 日夏耿之介『転身の頌』出版記念会(13日)」「『文章世界』13巻2号に『転身の頌』の会写真掲載」の記述がありました。

しかしその京橋の店も、大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまいました。おそらく懸かっていた光太郎の絵も灰燼に帰したのでしょう。

光太郎自身も昭和21年(1946)、美術史家の土方定一に宛てた書簡で「『霞沢の三本槍』は京橋の『鴻巣』の店にかけて置きましたが大震災の時焼失した事でせう」と書き残しています。絵のタイトルが「焼岳」ではありませんが。

この写真を見られたのは大きな収穫でした。

さて、館外へ。
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左は日夏の句碑「秋風や狗賓の山に骨を埋む」。「狗賓の山」は「天狗の住む山」の意で、飯田市の風越山を指すそうです。右は日夏の肖像レリーフ。「T.NISI」とサインが入っており、光太郎実弟の鋳金人間国宝・豊周の弟子筋にあたり、光太郎詩碑のブロンズパネルを複数鋳造した西大由の作かな、と思ったのですが、詳細不明です。
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追記・小杉放菴記念日光美術館さんの学芸員・迫内祐司氏より、「西常雄の作ではないか」とご教示いただきました。

日夏耿之介記念館さんに隣接して柳田國男館さんもありました。事前に調べていかなかったので、「へー」という感じでした。
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こちらは成城にあった柳田の書斎兼住居をここに移築したものだそうでした。柳田は飯田に居住したことはないそうですが、柳田の養父にして妻の父・柳田直平が旧飯田藩士だった縁とのこと。
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ちなみに光太郎と柳田も、軽く面識がありました。なんと共に同じミスコンの審査員を務めたのです。
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昭和4年(1929)、朝日新聞社主催で行われたミスコン「女性美代表審査会」で、写真審査のみで実施され、最高点を獲得したのはのちに歌人となる齋藤史でした。この年8月7日『アサヒグラフ』に、鏑木清方を除く審査員一同による座談会の筆録が掲載されています。

これ以外に柳田と光太郎が直接会った記録は見あたらないのですが、光太郎はエッセイ等の中で柳田を「柳田先生」と書き、それなりに尊敬していたようです。

愛車に戻ろうと飯田市美術博物館さん敷地内を歩いていると、何やら石碑や胸像。見てやはり驚きました。

石碑は「菱田春草誕生之地」。横山大観の揮毫でした。春草が飯田出身とは存じませんでした。
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胸像は「田中芳男像」。
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田中は明治初期、東京国立博物館や国立科学博物館、恩賜上野動物園等の礎を築いた人物で、朝ドラ「らんまん」でいとうせいこうさんが演じた里中教授のモデルです。
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光太郎の父・光雲が登場し、田中を主人公とした小説『博覧男爵』を読んで、田中も飯田出身だったことは存じていましたが、失念していました。

そんなこんなで「飯田、どんだけだよ? 恐るべし!」という感想の飯田行でした(笑)。

この後、愛車で北上し、「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」へ。さらに翌日、第114回碌山忌参列の前に、上田まで足を延ばしました。長くなりましたので、そのあたりは明日。

【折々のことば・光太郎】

今日小包拝受、砒酸鉛、展着剤まことに忝く存じました。毎日素手で虫と格闘してゐましたが、これで大に助かります。雨が多くて虫も勢よく中々大変です。

昭和22年(1947)7月12日 真壁仁宛書簡より 光太郎65歳

砒酸鉛」はかつて農薬として使われていましたが、現在は使用禁止。「展着剤」は農薬を作物に付着させるためのもの。いずれも蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村での畑で使いました。

当方、化学はまるでだめなのでよく分かりませんが「砒酸鉛」の「砒」は「砒素」と関係があるのでしょうか。光太郎の親友だった碌山荻原守衛の死因、最近は皮膚病の治療に使っていた薬剤に含まれていた砒素によるものとする説を、碌山美術館さんでは提唱なさっているようで、気になります。

信州安曇野レポートを続けます。

4月22日(月)は、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の忌日「第114回碌山忌」が碌山美術館さんで行われました。前日に関連行事として行われたマルチアーティスト・井上涼氏のトークセッション「表現とアイデンティティ☆」の際に続き、この日も同館にお邪魔しました。
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午前中は地元の方々などによるコンサートが開催されてましたが、そちらは欠礼。安曇野を離れ、他へ行っておりました。そちらのアリバイ(笑)は明日以降レポートいたします。

午後1時頃、同館に到着。2時から薩摩琵琶奏者・坂麗水氏による演奏があるというので、それは聴いておこう、と。
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PXL_20240421_070610947会場は同館グズベリーハウス。演目は「文覚発心」「文覚と頼朝」そして「耳なし芳一」。

文覚は平安末期から鎌倉初期にかけての僧侶で、源頼朝に平家打倒を焚きつけた人物として知られています。、元々は遠藤盛遠という北面の武士で、懸想していた人妻・袈裟御前を誤って手にかけてしまい、それが元で出家しました。

そのあたりを守衛は自らに重ね合わせ、塑像「文覚」を制作。右画像の一番手前の腕組みしている像です。守衛が像にした人物ということで、文覚がらみが演目に選ばれたようです。

それから一般の方々にもわかりやすい「耳なし芳一」。当方、琵琶の演奏を生で聴くのは2度目でしたが、平成29年(2017)に千葉の柏で初めて聴いた時(「智恵子から光太郎へ 光太郎から智恵子へ ~民話の世界・光太郎と智恵子の世界~」という演奏会でした)も「耳なし芳一」でした。

その後、守衛の墓参。館から車で10分程の共同墓地に、智恵子の師でもあった中村不折揮毫の守衛の墓があります。当方は荻原家当主・荻原義重氏の車に乗せていただきました。
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明治43年(1910)4月22日に守衛が新宿中村屋で亡くなった際、光太郎は奈良旅行中でした。知らせを受けて慌てて東京に舞い戻り、さらにこの墓地に駆けつけました。その際にはまだこの墓石は出来ていませんでしたが、それにしても光太郎もここに額づいたかと思うと、毎年のことながら感慨深いものがありました。こうした場合にいつもそうですが、光太郎の代参のつもりで香を手向けました。

館に戻り、午後6時からグズベリーハウスで「碌山を偲ぶ会・サポートメンバーシップ交流会」。当会主催の連翹忌の集い同様、和気あいあいと会食しつつの懇談です。
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毎年そうで、開会宣言の後、光太郎詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)を参会者全員で群読します。光太郎の愛惜の思いが込められた寂しい詩なのですが、おめでたい集まりではないんだという意味では、ふさわしいといえるでしょうか。
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今年はご指名で、マイクを握って音頭を取ることになってしまいました。そこで「じゃあ、題名と一行目のみ、自分がソロで読みますので、二行目から皆さんでご唱和願います」。
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朗読しながら撮りました(笑)。

ご挨拶、ご報告、ご祝辞等。
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左から碌山美術館長・幅谷啓子氏。同館理事も務められている安曇野市長・太田寛氏。荻原家ご当主・荻原義重氏。

その後は料理に舌鼓をうちつつ、歓談。合間にスピーチ。
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当方の隣には琵琶の坂氏が座られ、いろいろお話しさせていただきました。坂氏、鎌倉にお住まいだそうで、当方、「毎年秋には北鎌倉のカフェ兼ギャラリー笛さんにお邪魔してるんですよ」と申し上げたところ、「そのお店、よく知ってます」。驚きました。しかし、以前にも同様のことがあり、笛さんをご存じない鎌倉市民はモグリなのかな、などと思いました(笑)。

それから、ちゃっかり光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエ保存運動のための署名を皆さんにお書き頂きました(実は今日もその会合があるのですが)。

そんなこんなで8時閉会。片付けの後、愛車を駆って千葉に帰りました。

最後に、同館でゲットした今年のカレンダーをご紹介します。
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A4判横の冊子型、表紙は守衛の絶作「女」です。上下見開きで1ヶ月ごとになっています。

これが発行されたことは気付いていましたが、同館所蔵の光太郎彫刻もあしらわれていまして、その件は存じませんでした。

いきなり1月が「腕」(大正7年=1918)、4月は「十和田裸婦像のための中型試作」、10月で「手」。
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井上涼氏のトークセッションの後でしたか、グズベリーハウス内に貼ってあり、4月ですから「十和田裸婦像のための中型試作」のページで、「ありゃま」。急いでミュージアムショップに行き、「カレンダー、まだありますか?」と訊いたところ、「つい最近、完売してしまいまして……」。残念……。

ところが、「これでよろしければ」と、壁に貼ってあった見本をなんとタダで下さいました。「見本」とシールが貼ってあったり、ピン穴が空いていたりでしたが、全然OKです。ありがたく頂戴して参りました。

さて、明日は碌山美術館さん以外で廻った信州各地のレポートを。

【折々のことば・光太郎】

お茶は先日の玉露はまだありますが大切なのでめつたにいれません。今度のお茶も新鮮でとてもいいです。目がさめるばかりです。

昭和22年(1947)7月9日 多田政介宛書簡より 光太郎65歳

若い頃からお茶好きだった光太郎ですが、蟄居生活を送っていた岩手では茶が栽培されて居らず、戦後の混乱もまだ続いていた折、茶葉の入手には苦労していました。そんな中、光太郎の茶好きを知っていた友人等が送ってくれる茶葉は非常にありがたかったようです。

一昨日、昨日と、愛車を駆って一泊二日で信州に行っておりました。レポートいたします。

メインの目的は、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛命日に合わせ、安曇野市の碌山美術館さんで開催された「第114回碌山忌」への出席でした。
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そちらが昨日でしたが、一昨日には関連行事として、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されているマルチアーティスト・井上涼氏のトークセッション「表現とアイデンティティ☆」があり、まずそちらから。

会場の研成ホール。道を挟んで美術館さんの向かいです。
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開場15分前くらい。すでに長蛇の列。
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キャパ120名でしたが、ほぼ満員でした。日曜日というのも大きかったようです。

お話は、井上氏と、碌山美術館さん学芸員の濱田卓二氏によるもので、濱田氏が聞き役でいろいろと水を向けられ、井上氏が詳しく語るという形式でした。お二人はかつて金沢美術工芸大学さんで同級生だったとのことで、井上氏は濱田氏を「濱ちゃん」と呼んでいたそうです(笑)。当方、濱田氏とけっこう長い付き合いですが、その件はまったく存じませんでしたので驚きでした。

内容的には井上氏のアーティストとしての来し方、「びじゅチューン」などの作品についての舞台裏、そしてご自身カミングアウトされているLGBTQをからめたお話。そちらはやはり井上氏がアニメーションを制作され、NHKさんの「みんなのうた」で流れたYOASOBI with ミドリーズさんの「ツバメ~レインボーバージョン」のお話をメインに。

井上氏、テレビで拝見するとおり、否、それ以上にユニークなキャラクターで、会場の笑いを誘われていました。聴衆の中には井上時の追っかけ的な方もけっこういらしたようでした。

「びじゅチューン」のお話の中では、平成30年(2018)に初回放映があった、なんと光太郎のブロンズ「手」をモチーフとした「指揮者が手」を、動画に合わせて井上氏が熱唱して下さいました。
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同番組でなにがしかの碌山作品が取り上げられていたらそちらだったのでしょうが、まだ取り上げられて居らず、そこで碌山美術館さんで展示されている「手」に白羽の矢が立ったようですが、ありがたいかぎりでした。

トーク終了後の質問タイム。当方も手を挙げて質問。「荻原守衛作品をご覧になって、どういう感想を持たれましたか」的な。当方は「とても素晴らしいと思いました」的な答えを期待しておりました。そこで、返す刀で「では、ぜひ『びじゅチューン』で守衛作品を取り上げて下さい」と言うつもりでした。ところが井上氏、「いやぁ、あまり何も感じなかったというか……」。いや、正直ですね(笑)。こういう場合、たとえそう思っていなくても空気を読んで社交辞令的に「とても素晴らしいと思いました」と返すものだと思いますが、そう思っていないことはそう思っていないと、包み隠さないところに芸術家としての矜恃を感じました。

そこで当方としても「では、ぜひ『びじゅチューン』で守衛作品を取り上げて下さい」という二の矢が継げませんでした(笑)。すると、あとで濱田氏らに「言って下さいよー」と怒られてしまいました(笑)。

ちなみに終演後等も含めて「撮影禁止」と厳しく出ていましたので当方撮影の画像はありませんが、井上氏のX(旧ツイッター)投稿から画像をお借りします。
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集合写真の方は井上上氏の「聴衆の皆さんと一緒に」という自撮りです。右手後方に当方も写っています(笑)。

この日はこの後、ゆっくり碌山美術館さんを拝観して退散し、市街地で早めの夕食を摂った後、宿泊先の「guest room ガーデンあずみ野」さんへ。
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フロントにはドイツのスタインベルグ社製のヴィンテージピアノが置かれたりし、なかなか瀟洒なお宿でした。
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この日は(翌日もでしたが)長時間の運転でしたので、けっこう疲労困憊。温泉にゆっくり浸かり、「おやすみなさい」。

急ぎ紹介すべき事項が何もなければ、あと2回程、信州レポートを続けさせていただきます。

【折々のことば・光太郎】

「高村光太郎詩集」(鎌倉書房)を東京の本屋で見たといふ人あり、小生方にはまるで音沙汰ありません。


昭和22年(1947)7月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

鎌倉書房版『高村光太郎詩集』は、戦前戦後を通じて初の選詩集です。編集、題字揮毫は当会の祖・草野心平でした。
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奥付に依ればこの年7月5日刊行。しかし既に前月には出ていたようです。当然、こういうものを出すという連絡等は心平から入っていましたが、「出た」という連絡が入らなかったようです。

明治末、光太郎ともどもロダニズムを日本に持ち込み、光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛を偲ぶ催しが、信州安曇野の碌山美術館さんで開催されます。

第114回碌山忌

2024年4月22日(月)
 10:00~ コンサート グズベリーハウス
 13:30~ ミュージアム・トーク 約15分
 14:00~ 薩摩琵琶演奏会
       坂麗水氏 「文覚発心」「耳なし芳一」 グズベリーハウス
 16:00~ 墓参
 18:00~ 偲ぶ会
当日は入館無料 ぜひおでかけください
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関連行事としての講演会が前日に開かれます。

井上涼トークセッション「表現とアイデンティティ☆」

期 日 : 2024年4月21日(日)
会 場 : 碌山公園研成ホール 長野県安曇野市穂高5613-1
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 無料(要碌山美術館入場券)一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
定 員 : 120名(先着順・事前申込制)

講 師 : 井上涼
ナビゲーター : 濱田卓二(碌山美術館学芸員)

NHK Eテレの美術番組「びじゅチューン!」で知られるアーティスト・ 井上涼氏が自身の表現や観点、いままでやこれから、LGBTQ などについて、ナビゲーターとの会話形式でお話しします。

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案内にあるとおり、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」で、アニメーション制作、歌の作詞作曲、歌唱、美術作品の解説まで担当されている井上涼氏。

同番組ではこれまでに光太郎とその父・光雲を取り上げて下さいました。

光太郎の回は「指揮者が手」。平成30年(2018)に初回放映がありました。
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光雲は一昨年初回放映の「老猿は主役じゃなくても」。
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それぞれ小学館さん発行の『びじゅチューン!DVD BOOK』に収められ、販売中。「指揮者が手」は第5巻、「老猿は主役じゃなくても」は第7巻の収録です。
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また、ロダンの「地獄の門」で、「ランチは地獄の門の奥に」という回もありました。
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井上氏、『毎日小学生新聞』さんに「井上涼の美術でござる」という連載をお持ちで、そちらでも「高村光太郎の巻」(平成31年=2019)、「高村光雲の巻」(令和5年=2023)。
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「びじゅチューン!」、「井上涼の美術でござる」、どちらも守衛作品は未だ取り上げられていないようです。今回のご訪問を機に、守衛彫刻のトリビュートをお願いしたいところです。

今回のトークセッション、申込フォームからの完全予約制ですが、まだ定員に達したというお知らせが出ていません。翌日の碌山忌ともども、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山はツツジのまつ盛りです。ヤマツツジ、ウマツツジ等、


昭和22年(1947)5月26日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。たしかに光太郎の山小屋の裏山にはツツジの木が自生しています。「ウマツツジ」はレンゲツツジの別称です。

またしても始まってしまっている展覧会ですが……。

所蔵品展「冬の精華-語り来る入魂の作品たち-」

期 日 : 2023年11月17日(金)~2024年2月12日(月・祝)
会 場 : 北野美術館 長野市若穂綿内7963-2
時 間 : 9:30~16:30
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 700 円 / 高校・専門・大学生 500 円 / 中学生以下無料

冬の季節にふさわしい日本画作品を中心に、国内外作家による洋画、彫刻、工芸品などバラエティに富んだ約90点の作品をご覧ください。今回は作品の要所要所に、それぞれの画家たちのエピソード・乗り越えてきた困難や、切り開いてきた道、作品への意気込みなどを添えて展観します。
また、著名歌人や作家の短歌、俳句の短冊や、小林一茶の書画、館内茶室に江戸時代の女性俳人・加賀千代女の書画など、書跡作品も複数展示。文字からその人となりを想像してみるのも一興でしょう。
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案内文にその文字がなかったのでこれまで気づきませんでしたが、光太郎の父・光雲作の「仁王像」が出ています。

光雲で仁王といえば、同じ長野市の信州善光寺さんの仁王像が有名ですが、ポージング等異なります。仁王像も人気の図題で、光雲にも複数の作例が確認できています。
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北野美術館さん収蔵の作は、他の作例と共に平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品されました。像高30センチあまりのものですが、なかなかの優品です。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

此の山の中もやうやく春が近くなりかけたところ、今日は又雪が降つて来ました。二寸ばかりつもつて今又日がさしてきました。


昭和21年(1946)4月15日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、4月半ばでも6㌢の積雪。北東北にお住まいの方にとっては「そんなもんだよ」でしょうが、南関東の人間にとっては「へー」ですね。

光太郎と交流の深かった詩人の尾崎喜八について、『毎日新聞』さんから。

山は博物館  博物学で人引きつけた尾崎喜八 戦後「隠棲」の富士見高原で

 以前登って感動した八ケ岳の裾野、富士見高原(標高約1000メートル)で、「晩年の落日のやうな生を託すると、どうして考へ得たであらう」。詩人の尾崎喜八(1892~1974年)は太平洋戦争に協力する作品を書いたことを悔やみ、非難もされて「恥を忍び、をもてを伏せて影のやうに生きて来た」。戦後、「隠棲(いんせい)」のつもりで長野県富士見村(現富士見町)に移り住んだが、自然全体を対象にした博物学の知識が人々を引きつけ、地域が放っておかなかった。
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 尾崎は若い頃、高村光太郎の詩の「権威や世俗への反逆精神に心酔」。理想主義、人道主義の白樺派と交流し、平和主義のフランス人作家、ロマン・ロランにも傾倒した。最初の詩集「空と樹木」を30歳の1922年に出版して以降、自然を題材にした作品を次々発表した。満洲事変翌年の32年、「新戦場」で<砕かれた頭、穴のあいた、みじめな胸。それぞれの労苦の母の最愛のものだつた。吾々(われわれ)を護国の鬼などと云(い)ふのはやめてくれ>と、反戦作品も世に出した。
  一方、30代で登山を始めた。35年7月出版の文集「山の絵本」は長野県の蓼科(たてしな)山への紀行文などを収め、地質や地形、樹木や草花、鳥、チョウなど自然を優しく情景描写。人との柔らかな交流も描き、名著とされる。 
   ヒューマニストとみられたが、変わる。42年10月、詩集「此(こ)の糧」を発表。同名の詩は<大君の墾(はり)の広野に芋は作りて、これをしも節米の、混食の料(しろ)とするてふ忝(かたじけな)さよ>と銃後の姿勢を説いた。「シンガポール陷落」は<汝等(なんじ)が最後の牙城ここに潰(つぶ)ゆ。これ天の時、天の理なり>、「特別攻撃隊」は<此の敵一挙に斃(たお)さずんば皇国(みくに)危しの至誠に燃えて征(い)つたのだ>と勇ましい。44年3月も詩集「同胞と共にあり」を発表。「第二次特別攻撃隊」「学徒出陣」などを入れた。
 45年4月、空襲で東京の家が焼け、終戦を挟んで転居を繰り返した。縁故により富士見高原の山荘「分水荘」に夫婦で着いたのは、54歳の46年6月。随筆などで戦時を振り返り、「同胞への力づけや慰めとして書いた詩。一生の恨事。体と心とだけで黙々と働けば良かった」。富士見では「貧窮に洗われ、孤独の味を嚙(か)みしめ生きた。当然のむくい」。さらに「『武器を取れ!』の喇叭(らっぱ)に身をふるわせ、調べを合わせた。不幸への共犯者。忘れ去られ、無名に生きたかつた」。
 だが、村人は慕い、近付いた。孫の石黒敦彦さん(71)は「博物学の知識が引きつけた」と指摘する。その象徴が、詩「老農」にある。尾崎は植物や鳥に詳しいと連れが紹介すると、老農は<流れにゆらいでゐる白い花の水草を抜いて示した。「梅花藻ですね」と私が言ふと、目を細めてうなづいた>。たやすく答えて感心され、自宅に招待されると、書棚に図鑑や入手困難な植物学の翻訳本が並んでいた。教養ある「そんな土地柄が祖父を受け入れた」と石黒さんは話す。
 尾崎の方でも<人の世の転変が私をこゝへ導いた>で始まる詩「土地」の注釈で、「山国の信州で人は自然の支配に従順で、そこから生活の知恵を生み、勤勉と忍耐と持久と好学の精神を学び養う。それ故(ゆえ)に土地と人々とを愛さずにはいられなかった」と書いた。
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 多くの人が分水荘を訪れては話を聞き、尾崎は時に散策に誘い出した。村民の一人は「(自然を)観察され、一篇(いっぺん)の詩が熟していたのかも知れない」と回想している。尾崎は特に、各種の植物と鳥、チョウを詠み込んだ。「落葉」は<ひろびろと枯れた空の下で白樺や楡(にれ)の葉がたえまもなく散つてゐる>、「足あと」は<けさは 森から野へつゞく雪の上に、堅い水晶を刻んだやうな一羽の雉(きじ)の足あとを見つけた。それで私の心が急にあかるくなつた>、「復活祭」は<枯草(かれくさ)の上を越年(をつねん)の山黄蝶(やまきちょう)がよろめいて飛ぶ。森の小鳥が巣の営みの乾いた地衣や苔(こけ)をはこぶ>と歌った。 石黒さんは「博物学と詩の融合が祖父の特質だ」とも指摘する。例えば「巻積雲(けんせきうん)」。雲の造型に美しさを見いだしたのも尾崎の特長だ。いわし雲とも呼ぶその雲から物理学の「クラドニ図形」を連想。鉄板への振動の与え方により、上にまいた粉がさまざまな模様を描く現象に発想を広げた。これらの作品は、戦後の代表作で55年2月出版の詩集「花咲ける孤独」に収めた。 田舎暮らしを長女に心配された尾崎は52年11月、7年住んだ富士見から東京に転居したが、その後も信州を訪れた。県内を中心に数十の校歌も作詞し、歌い継がれている。分水荘は既に解体され、跡地は「ふじみ分水の森」として開放されている。
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最晩年を過ごした北鎌倉の明月院にある尾崎喜八の墓

戦時中に翼賛詩文を大量に書き、戦後はそれを悔いて信州の僻村でしばらく蟄居生活。そして村人との心温まる交流……花巻郊外旧太田村の山小屋に7年間隠棲した光太郎と共通します。

ただ、現代、光太郎の太田村での生活の意味等、広く知られているとは言い難い状況です。こういうと何ですが、ましてや知名度の点で尾崎のそれはさらに知られていないと思われます。

そうした意味ではこういう記事、ありがたいところです。ちなみに『毎日新聞』さん、同じ「山は博物館」という連載では、先月8日に光太郎の隠遁生活について「光太郎「岩手の山」に自ら流刑 己の戦争詩に「暗愚」見る」として紹介して下さいました。反論に耳を貸さないつもりもありませんが、それに対して「単に若い頃からの夢だった山暮らしをしたかっただけ」などという浅い見方しかしない輩も多く、辟易しているのですが……。

浅い見方といえば、明後日は12月8日、太平洋戦争開戦の日で、毎年、SNS上で幼稚なネトウヨが光太郎の翼賛詩の一節を掲げて喜んでいます。彼らは戦後の光太郎の真摯な反省などには目もくれません。何なんでしょうね……。

【折々のことば・光太郎】

昨日は亡父の祥月命日なので松庵寺で心ばかりの法要を営みました。佐藤夫人も参詣してくれました。今この部屋でも線香の匂をなつかしく感じてゐます。

昭和20年(1945)10月10日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

松庵寺さんは花巻市双葉町に健在の寺院。光太郎所縁の寺として門前に説明板を掲げて下さっています。

ここで亡父・光雲と、同じく10月が命日だった智恵子の法要を営んでもらいました。8月にも松庵寺さんで起請文をもらった光太郎、おそらくその2日間の出来事を合成し、詩「松庵寺」を書きました。

   松庵寺
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 奥州花巻といふひなびた町の
 浄土宗の古刹松庵寺で
 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
 まことにささやかな法事をしました
 花巻の町も戦火をうけて
 すつかり焼けた松庵寺は
 物置小屋に須弥壇をつくつた
 二畳敷のお堂でした
 雨がうしろの障子から吹きこみ
 和尚さまの衣のすそさへ濡れました
 和尚さまは静かな声でしみじみと
 型どほりに一枚起請文をよみました
 仏を信じて身をなげ出した昔の人の
 おそろしい告白の真実が
 今の世でも生きてわたくしをうちました
 限りなき信によつてわたくしのために
 燃えてしまつたあなたの一生の序列を
 この松庵寺の物置御堂の仏の前で
 又も食ひ入るやうに思ひしらべました

昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦直前に出版された『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定される「荒涼たる帰宅」以後、ほぼ翼賛詩一辺倒で、発表された詩に智恵子が謳われることはありませんでしたが、戦争も終結し、再び智恵子が詩の世界に戻ってきました。

光太郎の親友・碌山荻原守衛の顕彰にあたる信州安曇野の碌山美術館さんでの美術講座です。

美術講座「スト―ブを囲んで 臼井吉見の『安曇野』を語る」

期 日 : 2023年11月25日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 18:00~19:30
料 金 : 無料

語り手 : 太田寛さん(安曇野市長、当財団理事)
      平沢重人さん(安曇野市文書館長、臼井吉見文学館長、当財団理事) 

ダルマストーブで暖をとりながら開催する恒例の講座です。
小説『安曇野』完結50年にあたる本年、小説の最後の舞台である当館のグズベリーハウスで、『安曇野』についてお話しいたします。
第5部の臼井とかつての同僚・横沢正彦(荻原碌山研究委員会委員長)とのやりとりや、主人公の一人・荻原守衛を中心としたお話です。
暖かい服装でお出かけください。

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大河ドラマの誘致運動も起こっている小説『安曇野』がらみです。安曇野出身の臼井吉見が昭和40年(1965)から同49年(1974)にかけて刊行した全5巻の小説で、荻原守衛や支援者の相馬愛蔵・黒光夫妻、そして光太郎も登場します。

市長おん自らのご登壇ということで、市としての熱意も感じられますね。ちなみに平成29年(2017)の「ストーブを囲んで」では、当方も語り手を務めさせていただきました。

碌山美術館さんといえば、安曇野市さんの広報誌『広報あづみの』11月15日号、表紙がドーンと同館碌山館(内壁に光太郎の名も刻まれています)。
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11月5日(日)に一夜限りで行われたライトアップの様子です。紅葉も実にいい感じですね。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

着物は智恵子手織の反物二反にて宮沢さんにたのんでモンペ姿の上下羽織を縫つていただきそれを常用してゐます。宮沢さん一家は実に綿密に小生をいたはつて下さります。まつたく賢治さんのおかげと思ひます。


昭和20年(1945)6月28日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎63歳

智恵子手織の反物二反」もおそらく防空壕に入れて置いたため、4月13日の空襲による焼失を免れたようです。
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おそらく左画像のちゃんちゃんこと右画像のズボンが同じ生地のように見え、それで「上下」でしょう。右画像の格子縞のちゃんちゃんこがもう一反と思われます。

今日明日と、早世した碌山荻原守衛を除き、光太郎がほぼ唯一高く評価した同時代の日本人彫刻家・高田博厚がらみの情報を。

今日は信州安曇野発のイベント情報です。信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん記事から。

世界的彫刻家・高田博厚の功績再評価 豊科近美で15日にイベント

 世界的な彫刻家・高田博厚(1900~87)の功績を再評価する朗読と音楽のイベントが15日、高田の彫刻作品を常設する安曇野市豊科近代美術館で催される。安曇野の歴史にまつわる研究や講演活動を展開する任意団体・あづみ学校(岩隈久代表)が「日本の近代彫刻史を知る上で地勢的に恵まれた安曇野の魅力を市民の手でより高めたい」と企画した。
 欧州で活躍し、ノーベル賞作家ロマン・ロランら一流の思想家や芸術家と交流した文筆家でもある高田の著書『私の音楽ノート』を岩隈代表が朗読する。元松本市音楽文化ホール専属オルガニストの原田靖子さん=安曇野市=が、約100年前の製造とみられる西川オルガンの「リードオルガン」(足踏み式)で、著者ゆかりの名曲を朗読に乗せて奏でる。
 石川県出身の高田は、近代彫刻の父・ロダンの影響を受けた彫刻家・高村光太郎(1883~1956)との出会いを機に彫刻の道へ進み、渡仏した。その西洋的な作品群は、穂高出身の彫刻家で東洋のロダンと称された荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)と高村がともに潮流を盛り上げた日本近代彫刻の系譜を継ぐ。
 欧州の修道院風建築が特徴的な市豊科近代美術館は、公立美術館で最大となる高田の彫刻作品約200点を収蔵する。美術館建設を切望した旧豊科町が遺族の承諾と厚意を得て、高田作品を誘致した開館経緯がある。岩隈代表は「(碌山美術館が作品を収める)地元ゆかりの碌山や高村に対し、高田への評価や認知はこの地域でまだまだ。3人の作品に触れられる安曇野の潜在的な価値を市民が共有し合う機会に」と話す。
 午後2時開演。大人2500円。問い合わせや申し込みはあづみ学校(電話090・8018・5424)へ。
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記事にあるとおり、同館では高田の彫刻200点ほどを収蔵し、常設で展示しています。光太郎胸像(昭和34年=1959)も含まれています(現在、展示中かどうかはわかりかねますが)。

かつてミュージアムショップでゲットしたポストカード(左)とA4判クリアファイル(右)。クリアファイルの方は右上に光太郎が居ます。
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それから、個人的には日本初のオルガンといわれる西川オルガンが使われる、というのが気になるところではあります。

お近くの方、ぜひどうぞ。

明日は埼玉県東松山市から、やはり高田関連の情報をお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

大変遅れましたし、又だんだん切りつめて短くなりました、 おまけに詩の主題が少々へんなので、果してどうかとおもひます、一度御検読の上、雑誌に不都合のありさうな時は掲載中止に願ひます、「婦人之友」の例もありますから此点気にかかります、


昭和16年(1941)11月19日 栗本和夫宛書簡より 光太郎59歳

栗本は中央公論社の編集者。この書簡は翌年元日発行の『婦人公論』に掲載された詩「必死の時」に関わります。

「婦人之友」の例」は、この年7月、『婦人之友』に掲載された詩「事変はもう四年を越す」が、発売後に問題視され、店頭で頁が破り取られる処分を受けたことを指します。
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 さみだれけむるお濠の緑のかなたに、
 赤い煉瓦のぶざまな累積、
 高いアンテナと黒い明治の尖塔と、
 その又上に遠く悲しくさむざむと
 墓のやうな議事堂のやせたドオム、
 この支離滅裂なパノラマのいちばん下を
 ひけ時の群衆と電車がうごく。


この一節が当局により「宮城の濠を中心とせるパノラマを支離滅裂となすは不穏当」とされました。

光太郎、国会議事堂の建築に関しては、昭和11年(1936)、竣工当初からけちょんけちょんに評していました。

新議事堂のばかばかしさよ。迷惑至極さよ。何処に根から生えた美があるのだ。猿まねの標本みたいでわれわれは赤面する。新議事堂の屋根の上へ天から巨大な星でも墜ちて来い。(「某月某日」)

昨日は智恵子忌日「レモンの日」でした。「レモン忌」とも称しますが、「××の日」としていただけると、取り上げられやすいように感じます。皆様のSNS等拝見しますと、カーナビが「今日は「レモンの日」です」としゃべったりだそうですし。

さて、「レモンの日」がらみで、信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さんの一面コラム「みすず野」。このコラム、「中の人」が光太郎智恵子ファンなのでしょうか。高い頻度で夫妻に触れられています。多謝。

2023.10.5 みすず野

 ともに明治生まれで、50代で亡くなった2人の女性に思いをはせる。新刊コーナーの『杉田久女全句集』(角川ソフィア文庫)は帯書きに〈師・虚子による破門後、未発表の句も収録〉とある。図書館へ行かなくても手元に置けるようになった◆編者の坂本宮尾さんが句の背景や味わいどころを挙げた〈十五句鑑賞〉には、もちろん代表句の〈紫陽花に秋冷いたる信濃かな〉が入っている。城山公園に句碑が立つ。随筆選から漏れたが、これを機に父のふるさと松本への愛着をつづった佳文も読まれ、もっと多くの市民が〈女性俳句の先駆者〉ゆかりの地を誇れたらいい◆もう一人は高村智恵子。夫・光太郎の詩集『智恵子抄』に収められた〈レモン哀歌〉にちなみ、きょうはレモン忌。光太郎は滞在中の上高地から―徳本峠で待っていても同じなのに―岩魚留まで迎えに行った。待てなかったのだ。汗を拭い、顔をほころばせる智恵子が目に浮かぶ◆峠道の復旧に汗をかく人たちがいる。何かお手伝いができないだろうか。日本近代登山の黎明期を支えた古道だから1人の名というわけにはいくまいが、ひそかに「智恵子の道」と呼びたい。

大正2年(1913)夏、先に上高地に滞在していた光太郎が、後を追って入山してきた智恵子を迎えに行った件について触れて下さいました。この後、二人は一夏を上高地で過ごし、結婚の約束を果たします。

ひそかに「智恵子の道」と呼びたい」道はクラシックルートとも呼ばれる旧道。たびたび土砂災害に見舞われ、今も「峠道の復旧に汗をかく人たちがいる」。ありがたいことです。

さて、「レモンの日」ということで、今週に入ったあたりから、全国の学校さん、各種施設さん等での給食などで、レモンを使ったメニューの提供が相次ぎました。こちらもありがたいことです。

その中で福島県福島市の平田小学校さん。昨日はずばり「レモンの日献立」。自校給食で同校独自のものだったのか、センター給食で複数校に提供されたのかわかりかねますが、同校サイトから。

レモンの日献立。〔給食〕

本日はレモンの日献立で「さばの味噌煮・レモン和え・ざくざく汁・ごはん・牛乳」でした。レモンの日は、安達町(現在の二本松市)出身の洋画家・高村智恵子さん、夫で詩人の高村光太郎さんにちなんだ日だそうです。智恵子さんが好きだったさばの味噌煮、二本松の郷土料理「ざくざく」が提供されました。さっぱりとしたレモン和えとともに美味しくいただきました。ごちそうさまでした。
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智恵子さんが好きだったさばの味噌煮」の出典が不明なのですが……。「ざくざく」は当方も何度か口にしましたが、「福島県の」あるいは「中通りの」ではなく、「二本松の」郷土料理なのですね。

「レモンの日」の定着、そこから波及して光太郎智恵子の世界が世の皆さんに広く知られていくことを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

今度はたつた三日間限りの委員でありますから何の提案も出来ないでせう、


昭和15年(1940)12月6日 小野綾子宛書簡より 光太郎58歳

この月16日から18日にかけて開催された大政翼賛会臨時協力会議に関わります。光太郎は岸田国士のたっての薦めで委員に就任し、翌年まで都合3回、会議に出席しました。

この時の会議では「何の提案も出来ない」と云いつつ、「芸術政策の中心」「国宝、特別保護建築物の防空施設」などについて発言しました。

ニュース映像が残っています。どこかに光太郎が映り込んでいるかもしれません。


智恵子を亡くした後の空虚感を埋めるため、さらには「芸術家あるある」の俗世間とは極力交わらない生活が智恵子を追い詰めたという反省、さらにはそんな生活をしていては自分も精神の危機を迎えるかも知れないという危惧もあったのでしょう、光太郎は一転して社会と向き合う方向に舵を切りました。その社会の方がおかしな方向にどんどん突き進んでいたのが、光太郎にとっての大きな悲劇でした。

昨日、光太郎自身の書について書きましたが、光太郎詩を書いて下さった作品も含まれる現代の書の展覧会が長野県で開催中でした。気づくのが遅れ、明日までです。

表具師北岡芳仙洞 創作箔アートパネル展

期 日 : 2023年9月2日(土)~9月11日(月)
会 場 : かんてんぱぱガーデン 長野県伊那市西春近広域農道沿い
時 間 : 9:00〜17:00 最終日は13:00まで
料 金 : 無料

染めた和紙と織物に金銀箔をあしらった屏風やパネルなど200点以上。

和紙と織物を染め、金銀箔をあしらった唯一無二の作品を展示販売いたします。新作六曲一双屏風や新作パネル・行燈・花掛・置時計など多種多様です。表具師古来の糊と技法を生かした新しい表現の数々。全ホール使用の展覧会は二回目となります。みなさまのご清遊を心よりお待ち申し上げております。

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長野県北部の中野市にお店を構えられている芳仙洞さんという老舗表具店さんの主催。

光太郎詩「道程」(大正3年=1914)を書家の方が書かれた作品も展示されているそうです。
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長野市の書家、久保皐泉さんとの共作。高村光太郎の「道程」。墨染、絹、銅箔。何度も書き直したという久保さん。久保さんの作品の中でも異色ですが、とてもシックな仕上がりではないかと。広い会場でその雰囲気を是非、感じて頂けたらと思います。

横長の作品ですが、なるほど、マクリの状態ではなく、きれいに表装されているようです。茶色っぽい部分が銅の箔なのですね。へーっと思いました。

書の方は詩の内容が内容だけに雄渾な感じで、てっきり男性の作品かと思い込んでいましたが、久保さんという方、女流の書家だそうです。意外といえば意外でした。そういう決めつけがジェンダー平等に反するのかも知れません。

書家の皆さんには、光太郎詩文、どんどん取り上げていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

今日は岡倉先生の珍しき写真一葉お貸し下され難有存じます。團十郎製作後に天心像を作りたく、その時の参考に暫く拝借いたします、


昭和12年3月31日 松下英麿宛書簡より 光太郎55歳

「岡倉先生」は岡倉天心、「団十郎」は九代目市川團十郎。南品川ゼームス坂病院に智恵子を入院させたことによって、彫刻制作の時間が取れるようになりました。しかし團十郎像は九分通り出来上がったものの、未完。天心像は着手したのかどうかも確認できていません。

まずは8月21日(月)、信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さんの一面コラム「みすず野」。このコラム、たびたび光太郎にふれて下さっていますが(今月4日にも)、またしても光太郎の名。

2023.8.21 みすず野

〈日本山岳史上、最大のハプニング〉は―現在の上高地帝国ホテルが開業した翌年―昭和9(1934)年8月21日に明神池で起きた。〈オカミさん事件〉と言い伝えられる(牛丸工さん著『内野常次郎小伝―上高地の常さん』)◆秩父宮妃殿下を「オカミさん」と呼んだのだから、大変だ。時は戦前。昭和天皇の弟宮のきさきである。お付きの人たちのうろたえぶりを松本出身の作家・山本茂実さんが『喜作新道』に〈この男は少しバカでございますから...〉と書いている。宮様の〈常さん、オカミさんでよろしい!〉の一声に一堂は胸をなで下ろす◆ウォルター・ウェストンと上条嘉門次の出会いに始まって、数々の登山家や芸術家―例えば高村光太郎に窪田空穂、近くだと『氷壁』の井上靖など―が上高地の名を広めた。もちろん人々の足を向けさせたのは山岳と清流がつくる景観だが、さまざまな人生があったことも語り継ぎたい◆偉業を成し遂げたわけではないけれど、伝わる無欲と天衣無縫の人柄から一服の清涼をもらう。常さんは〈少しバカ〉どころか、山本さんと牛丸さんも書いておられるように〈上高地の大恩人〉である。

まぁ、今回の光太郎は話のついで、的な感じですが(笑)。

それにしても、〈オカミさん事件〉。存じませんでした。ただ、フリー百科事典ウィキペディアの勢津子妃殿下の項にちゃんと記述がありますね。また、手元にある上高地関連の書籍や雑誌などを調べてみましたところ、やはり記載されていました。読み飛ばしていました。下記は令和2年(2020)発行の『山と渓谷』増刊号「最も美しい上高地」から。
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内野常次郎の名は『高村光太郎全集』に見あたりませんが、上條嘉門次の弟子だったということで、大正2年(1913)に智恵子と共に一夏を上高地で過ごした光太郎も会っていたかもしれません。嘉門次については光太郎、「信州上高地の強力嘉門次の四角な手の立派さにも打たれた。」(随筆「手」 昭和2年=1927)と書き記しています。「強力」は「きょうりょく」ではなく「ごうりき」ですね。

それにしても「オカミさんでよろしい!」と言われたという秩父宮親王の神対応、見事です。

これより以前の昭和3年(1928)、ご夫妻のご成婚に際し、光太郎が詩を寄せています。これもある意味、失礼な詩。題して「或る日」。

  或る日(昭和三年九月二十八日)000

 今日はあの人の結婚する日だ。
 秋が天上の精気を街(ちまた)に送る。
 こんな日に少女が人に嫁ぐのはいい。
 
 山でも一緒に歩きたいほど
 あのいきいきした好い青年が
 こんな日に少女(をとめ)の肌を知るのはいい。
 
 むづかしい儀式と荘厳とが
 あの二人を日ねもす悩ますさうだが、
 何もかもどしどし通過して
 結局二人きりになればいいのだ。
 
 さうしてこの初秋のそよそよする夜に
 二人一しょにねればいいのだ。

002宮様のご成婚ということが明記されていませんが、サブタイトルの「昭和三年九月二十八日」がその日ですので、それでわかるだろ、ということです。ただし、これは戦後になって『高村光太郎選集』(昭和28年=1953完結)に収められる際に付されたものらしく、光太郎の手元に残された草稿にはありません。初出発表誌が不明なので、確かめられませんが。

やはり戦後の昭和25年(1950)、この詩を雑誌『サンデー毎日』に転載させてくれ、という依頼があり、光太郎は承諾しました。ところが、発行された同誌を見て、仰天。挿絵が田舎の花嫁の輿入れ風景になっていたためです。このあたり、以前にも書きました

また、この詩以外にも、昭和28年(1953)、親王が50歳の若さで急逝された際、「悲しみは光と化す」(『朝日新聞』)という談話で、哀悼の意を表しています。国民に人気の高かった秩父宮雍仁親王には、光太郎も親近感を抱いていたようです。余談ですが、光太郎の歿後、当会の祖・草野心平が、そこから題名を拝借して、光太郎追悼文(新潮文庫版『智恵子抄』解説)を書いています。

閑話休題。上高地という場所、「みすず野」にあるとおり、本当にさまざまな人々の人生が交錯した場所なのだな、と、改めて思いました。実は当方、足を踏み入れたことがありませんで、いずれ、と思っております。

【折々のことば・光太郎】

父は今晩三時とうとう眠るやうに長逝しました。お葬式を十四日にするので今度参上するのは初七日をすませてからになるでせう。 ちゑさんの容態が気になりますが仕方がありません。


昭和9年(1934)10月10日 長沼セン宛書簡より 光太郎52歳

光太郎の父・光雲が数え83歳の生涯を閉じました。智恵子は心を病んで、九十九里浜に移り住んでいた母親と妹夫婦の元に預けられています。義父の死が理解出来る状態だったかどうか……。

地方紙記事から3件。

まず、信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さんの一面コラム。

2023.8.4 みすず野

東京美術学校の草創期だから明治半ばだろう。岡倉天心校長が学生を飲みに誘う。集まったのは下村観山、菱田春草、横山大観...橋本雅邦先生もいた。後に名を成す大家の修業時代とはいえ、すごい顔ぶれの飲み会があったものだ(『作家と酒』平凡社)◆こちらは詩人の交流。草野心平は若い頃、屋台の焼き鳥屋を開く。素人商売だから翌日の酒を仕入れる金が残らない。心配して友達の高村光太郎がたびたび様子を見に来た。2人は―詩誌で心を通わせ合った―宮澤賢治の葬儀に駆け付け、遺稿の詰まったトランクの中から〈雨ニモマケズ〉の手帳を手に取る◆こうした逸話は―互いに鍛え合い、信頼し合える―友や出会いの大切さにあらためて気付かせてくれる。同僚は自分を高みへと導く〝春草〟かもしれない。一別以来はがきも出していない友は〝賢治〟でなかろうか◆前掲書からもう一つ。村上春樹さんが〈小澤征爾さんがうちに遊びに見えたとき〉と書いている。マエストロは米国ビール〈ブルー・リボン〉を懐かしがり、くいくい飲んだ。ニューヨークでの助手時代は収入がほとんどなく、安い銘柄しか飲めなかったという。

一昨年発行のアンソロジー『作家と酒』から。ただ、「宮澤賢治の葬儀」は誤りで、正しくは没した翌年に新宿で開かれた追悼会ですが……。

互いに鍛え合い、信頼し合える―友や出会いの大切さ」。そのとおりですね。

続いて『信濃毎日新聞』さん。

「震災を自分事に」 松川高ボランティア部、4年ぶり東日本大震災の被災地訪問 石巻市と女川町

 松川高校(松川町)ボランティア部の生徒7人が4日、東日本大震災で被災した宮城県沿岸部の石巻市と女川町を訪ねた。震災直後から続く被災地訪問は、新型コロナウイルス感染症の影響で途絶えていたため4年ぶり。被災地に寄り添う取り組みを次代につなげた。
 ボランティア部は町特産のリンゴを石巻市に届けたり、現地でがれきの撤去を手伝ったりしてきた。同市の避難所で咲いていたペチュニアの種を譲り受け、生徒や松川町民が育てて「お里帰り」させる取り組みもしている。
 この日は、子どもが中心となって建てた女川町の「女川いのちの石碑」を見学し、石巻市の「みやぎ東日本大震災津波伝承館」に移動。解説員から地震や津波の規模、身を守るすべについて教わった。
 津波で児童74人、教職員10人が亡くなった石巻市の大川小学校跡地の震災遺構では、次女を失った大川伝承の会共同代表の鈴木典行さん(58)が当時の生々しい状況を説明。「津波の教訓は、逃げたら戻らないということ。戻ったら流される」と訴えた。
 松川高2年の関根諒さん(16)は東京電力福島第1原発事故を受け、4歳の時に福島県大熊町から駒ケ根市に移り住んだ。「東北には『戻る』というより『行く』という感覚。大川小で悲惨な話を聞き、震災を自分事として考えられた」と話した。部長の3年小田切彩風(あやか)さん(18)は「学んだことを後輩たちに伝えたい」と言葉に力を込めた。
 現地訪問は3~5日の日程。3日は宮城県内の小中学校や高校で児童生徒と交流した。5日は福島県双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館を見学する。
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いのちの石碑」は、東日本大震災による大津波で甚大な被害を受けた宮城県女川町に建てられたもの。震災後、当時の中学生たちが、大地震の際に避難する目印として津波到達地点より高い場所に設置を続けました。かつて「100円募金」で建てられた女川港の高村光太郎文学碑に倣い、費用は全て募金で賄われました。
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今日はその女川町に参ります。明日、光太郎を顕彰する「女川光太郎祭」ですので。

同祭につき、仙台に本社を置く『河北新報』さん系の『石巻かほく』さんが予告記事を出して下さいました。

光太郎の思いに触れて 女川で祭り、4年ぶり 朗読や講演 9日

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第32回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日午後2時から、同町まちなか交流館ホールで開かれる。
 光太郎がのこした紀行文や詩の朗読などを通して光太郎の思いに触れる。記念講演では高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が「高村光太郎 その生の軌跡 最晩年」と題して講演する。朗読には同町を含む東北と東京から計10人が参加する予定。ギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)、オペラ歌手本宮寛子さんの献奏、献歌もある。
 光太郎は1931年8月に三陸沿岸を巡る旅の途中に女川を訪れ、数々の詩や散文などの作品をのこした。光太郎祭は、地元有志らで組織する女川・光太郎の会が92年から開いてきた。新型コロナウイルス感染拡大の影響で2020年から中止が続き、4年ぶりの開催。誰でも参加できる。
 連絡先は事務局の佐々木さん090(6686)7811。

光太郎祭の通常開催は4年ぶり。当方は東日本大震災からちょうど10年だった一昨年の3.11に訪れて以来の女川です。長かったような、短かったような……。

【折々のことば・光太郎】

しばらく方々を歩いてゐましたが先日帰宅しました、 秋になりましたがお変りありませんか、

昭和8年9月19日 長沼セン宛書簡より 光太郎51歳

心を病んだ智恵子の療養のため、東北、北関東の温泉を約半月廻りました。

この葉書は塩原で撮った写真を絵葉書にし、送りました。確認できている限り、智恵子生前最後の写真です。
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最近、白黒写真をカラー化できるアプリ的なものが出回っており、やってみました。やっぱり雰囲気が少し変わりますね。しかし、AI、もうちょっとがんばれよ、という感じですが。

7月23日(日)、安曇野市の碌山美術館さんをあとに、愛車を南に向けました。目指すは松本市。

甲信方面はなぜか光太郎と交流のあった人物の記念館や、それらの人物の作品を収めた美術館等が多く、碌山美術館さんに行った際にはもう一つ、ハシゴして帰るのが昔からのルーティーンです。

今回訪れたのは、松本市のはずれ、のどかな田園地帯の一角にあるにある窪田空穂記念館さん。窪田空穂の生家のかたわらに建てられています。
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窪田は光太郎より6歳年上の明治10年(1877)生まれ。初期の『明星』に参加した歌人で、その頃から光太郎と交流がありました。そして光太郎がらみで最も多く取り上げられるのが、大正2年(1913)夏、上高地の清水屋旅館でたまたま同宿となったこと。この際には智恵子も後から光太郎を追いかけて上高地に現れ(しめしあわせていたのですが)、ここで二人は結婚の約束をしました。

窪田が下山するのと入れ違いに智恵子が登ってきて、窪田は智恵子を迎えに途中の岩魚止までやってきた光太郎と智恵子を目撃、帰京後、『東京日日新聞』に「美くしい山上の恋―洋画家連口アングリ―」というゴシップ記事を匿名で寄稿した他、複数の回想でこの夏の上高地の様子や、その前後の『明星』時代の光太郎について書き残しています。

まずは生家。
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玄関には式台があり、なかなかの格式です。名家だったことがよくわかります。
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衝立の裏側は、何やら洋画風の絵。
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座敷の感じや、むき出しの梁(はり)など、古建築好きにはたまりません。
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縁側にはちょっと変わった七夕飾り。おそらくこの辺りは旧暦で実施するのでしょう。
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庭からの外観。
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戦時中、窪田が疎開的に帰って来て暮らしていたという離れ。
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道をはさんで反対側の記念館。
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撮影禁止という表示が見あたらなかったので……。
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大正2年(1913)、光太郎と同宿だった上高地関連。光太郎の名も。
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右は昭和9年(1934)刊行の『日本アルプスへ・日本アルプス縦走記』に載った挿画。画家の茨木猪之吉が描いたもので、光太郎を含む、大正2年(1913)夏に同宿だった面々のカリカチュアです。
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馬面だった光太郎の特徴をよく捉えてはいますが、若干の悪意を感じますね(笑)。

展示はされていなかったのですが、こちらには上高地で光太郎が描いたスケッチが収蔵されているとのことです。ただし、「写真」とあるので複製と思われます。
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なかなかいい絵ですね。しかし、光太郎筆に間違いはなさそうですが、元ネタがよくわかりません。上高地からの下山後、10月に神田三崎町のヴヰナス倶楽部で、岸田劉生らと開催した「生活社主催油絵展覧会」に出品されたペン画3点のうちの一つかとも思われますが。光太郎、この際には他に彫刻1点、上高地での油絵21点も出品しました。

拝見し終わって帰途に就きました。まだ午前中でしたが、日曜でしたので夕方近くになると中央道が大渋滞になるだろうと予測。それを避けるためです。それでも韮崎付近で工事プラス事故で渋滞、小仏トンネル入り口あたりでも自然渋滞。さほどではなかったので途中で昼食を摂っても4時間少しで帰り着きました。

以上、信州レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

あなたのてがみを病院でよみました、面疔が急に出来て、診察してもらひにいつたら即刻無理に入院させられてしまひ重態扱ひなので一時閉口しましたが早い手当てがきいて間も無く快方に赴き、もう退院しました。

昭和6年(1931)7月7日 高田博厚宛書簡より 光太郎49歳

「面疔(めんちょう)」は、黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。化膿性で進行すると脳膜炎に移行すると、昔は恐れられていました。光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中にも面疔を発症しています。

書簡はパリに渡った高田に宛てたもの。現在確認できている高田宛書簡二通のうちの一通です。現物は高田の作品を多数展示している安曇野市の豊科近代美術館さんで所蔵しています。

2回に分けて信州レポートをお届けします。

7月22日(土)夜、千葉の自宅兼事務所から愛車を西に向け、出発。電車ですと7時間くらいかかるのですが、車なら渋滞がなければ4時間ちょっと。どうしても車で渋滞を避けて行くのを選択してしまいます。ただ、夜間にも拘わらず新宿近辺で渋滞が発生しており、少し難儀しました。

日付が変わった頃、塩尻市の健康ランドに到着。以前にも利用したことがありまして、今回もここで仮眠を取って夜を明かしました。

翌朝。前夜に岡谷の辺りで土砂降りだったのですが、晴れました。
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一路、安曇野市の碌山美術館さんへ。4月の碌山忌以来です。
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こちらでは夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』が開催中です。

会場は数棟あるうちの2棟。まず、第2展示等。
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同館所蔵の光太郎ブロンズ10点、すべて展示されています。普段はお隣の第1展示棟で入れ替えながら常設展示されていますが、10点全てが並ぶのは初めてでしょう。平成28年(2016)の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の際には、まだ同館で所蔵しておらず、借り受けだったものもありましたので。
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ほぼ制作順に見ていくと、「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)、「園田孝吉胸像」(大正4年=1915)。
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「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「腕」(大正7年=1918)。
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「手」(大正7年=1918)、「老人の首」(大正14年=1925)。
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「腕」と「手」の前後関係ははっきりしないのですが、最近見つけた「手紙」と題する光太郎の文章(大正8年=1919)を読むと、「手」の方が先で、その後、類作的に「腕」、「ピアノを弾く手」「足」などの人体パーツの作品を作っていったのではないかと思われます。

「光雲一周忌記念胸像」(昭和10年=1935)、間が開きますが「乙女の像(小型試作)」(昭和27年=1952)。
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この間には心を病んだ智恵子の看病、そして死、戦時下での物資不足による彫刻不能の状態、せっかく作ったものは金属供出、そして戦後の蟄居生活の中で自らに課した彫刻封印などがあり、大作は残されていません。

「乙女の像(中型試作)」(昭和28年=1953)、そして絶作にして未完の「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)。
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その他、古写真のパネル。
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現存が確認できていない「黄瀛の首」(大正15年=1926)、土門拳の撮影です。
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髙村家からの借り受けで、直筆の詩稿現物。複製ではありません。

詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)。同館に立つ光太郎詩碑に刻まれているものです。
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『智恵子抄』中の絶唱、「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。戦後の連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)中の「美に生きる」。
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これらの現物、久々に見ました。「美に生きる」は初見かも知れません。

スケッチも、複製でなく現物。
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詩稿やスケッチなどは一般のお客さんにとっては現物でも複製でもあまり関係ないのかな、という気はしないでもないのですが、当方にしてみれば、アゲアゲでした(笑)。

光太郎著書類。同館所蔵の『道程』(大正3年=1914)。
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あとは当方がお貸ししたもの。

光太郎の「黒歴史」である、戦時中の翼賛詩集三冊。『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)。
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戦後の詩集から2冊。『典型』(昭和25年=1950)と、『猛獣篇』(昭和37年=1962)。
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『典型』の題字は光太郎の自刻木版。『猛獣篇』は当会の祖・草野心平による鉄筆ガリ版刷りです。この2冊がこうして並ぶのも、心平と光太郎の関わりを顧みれば、感慨深いところです。

光太郎のペン画が口絵に使われた書籍2冊。ともに大正9年(1920)の刊行の『晶子短歌全集 第三巻』と渡辺湖畔著『若き日の祈祷』。
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「手」と「裸婦坐像」がそれぞれ描かれており、彫刻そのものと共に展示されるのは初めてではないでしょうか。彫刻そのものと見比べていただきたいと思い、当方の判断で展示に加えていただきました。

続いて杜江館。こちらは智恵子関連です。
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神戸文化ホールさんの巨大壁画の原画となった「あじさい」他、智恵子紙絵の現物5点。「あじさい」は褪色が進んでしまっているのが残念でしたが……。
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『青鞜』(当方蔵)と『智恵子抄』(同館蔵)。
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さらに本館ともいうべき碌山館を拝見、旧知の武井学芸員とお話しさせていただき、今回のポスターを頂きました。ありがたし。
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受付後ろのミュージアムショップには、新製品である純錫製「荻原守衛 ミニチュア彫刻」全5種。
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というわけで、碌山美術館特別企画『生誕140周年高村光太郎展』、9月10日(日)までの会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変あたたかになり、ちゑ子が又土いぢりを始めました。いろんな植木がもう芽を出しました。白文鳥の雛は三羽かへりましたが、育たずに終わりました、

昭和6年(1931)3月9日 水野葉舟宛書簡より 光太郎49歳

土いぢり」は一瞬、粘土による彫塑かとも思ったのですが(作品の現存は確認できていないものの、智恵子も彫刻制作に取り組んだ時期がありました)、植物の話が出ているので、園芸的な方面でしょう。

白文鳥」は、この頃光太郎が制作した木彫の関係で飼っていたものと思われます。
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光太郎智恵子の姿にも重なるような「白文鳥」のつがい。孵った雛は育たなかったそうで、子どもができなかった(作らなかった?)光太郎智恵子にオーバーラップします。

約半年後には智恵子の心の病が顕在化しますが、こんなことも一つのトリガーだったかもしれません。

昨夜、自家用車で千葉の自宅兼事務所を出まして、塩尻の健康ランドで一泊、安曇野市の碌山美術館さん、松本市の窪田空穂記念館さんとハシゴしております。
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詳しくは帰りましてから。

信州安曇野の碌山美術館さんでの展示です。

夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』

期 日 : 2023年7月21日(金)~9月10日(日)
会 場 : 碌山美術館第二展示棟 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 9:00~17:10
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 900円 高校生 300円 小中生 150円
      ※障がい者手帳をお持ちの方は半額
      20名様以上団体料金 大人800円/高校生250円/小中生100円

高村光太郎の当館が所蔵する彫刻を10点、詩直筆原稿4点・彫刻10点 高村智恵子の紙絵10点(会期中入れ替えあり)を展示します。
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同館では光太郎ブロンズ彫刻を10点所蔵しており、その全てが並びます。通常、常設展示として第一展示棟にそれらを入れ替えながら展示して下さっているのですが、10点全てを出すのはこういう機会でもないと、というところです。
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10点の内訳は、

「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)
「園田孝吉胸像」(大正4年=1915)
「裸婦坐像」(大正6年=1917)
「腕」(大正7年)
「手」( 〃 )
「老人の首」(大正14年=1925)
「光雲一周忌記念胸像」
(昭和10年=1935)
「乙女の像(小型試作)」
(昭和27年=1952)
「乙女の像(中型試作)」(昭和28年=1953)
「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)

です。すべて光太郎歿後の鋳造と思われますが、光太郎作品の鋳造を多く手がけた齋藤明氏(光太郎実弟・髙村豊周の弟子筋)のそれも含まれ、いい「抜き」になっています。

ただ、残念ながら光太郎木彫は同館に所蔵が無く、貸し出しも受けないそうです。

他に、髙村家からの借り受けで、智恵子紙絵の実物と、光太郎詩稿。さらに当方が関連書籍6冊お貸ししました。戦時中の翼賛詩集三冊、戦後の詩集『典型』(昭和25年=1950)、光太郎没後に草野心平が鉄筆を執りガリ版刷りで刊行された『猛獣篇』(昭和37年=1962)、智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』(明治45年=1912)。『道程』(大正3年=1914)と『智恵子抄』(昭和16年=1941)は、同館が所蔵しているものが並ぶようですのでお貸ししませんでした。

お送りするのに使った箱が少し大きめだったので、自作ブロンズ彫刻を描いた光太郎ペン画が口絵として使われている書籍も2冊同梱しましたところ、そちらも展示して下さるそうです。『晶子短歌全集 第三巻』と渡辺湖畔著『若き日の祈祷』。ともに大正9年(1920)の刊行です。
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口絵のページを開いてこんな感じで並べてくれ、とお願いしておきました。

当方、7月23日(日)に伺う予定で居ります。皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

少しのんきな位になつてたのしく此世を暮してゆかれるといいがなあとよく思ひます。 それには「自然」に眼を向ける事、毎朝太陽を見る事、深呼吸、雨の音をきく事、 星の知識を学ぶ事、 草木をいぢくる事、 鳥獣の友達となる事、 うたをうたふ事、 そんな事をしてゐるうちに心が自然とのびやかになる事だらうと思ひます。


昭和3年(1928)10月27日 水野葉舟宛書簡より 光太郎46歳

その通りだなぁ、という気がしますね。

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