9月22日(火)、信州安曇野の碌山美術館さんで特別企画展「高村光太郎没後70年 高村智恵子生誕140年 高村光太郎・智恵子展」を拝見し、愛車を上田市に向けました。次なる目的、髙山植物園第12回公演
「『智恵子という名の檸檬』〜わたしの手からとつた一つの檸檬を〜」観覧のためです。
そちらの会場は上田市中心街ですが、その前に、郊外塩田地区のご先祖様の墓所を参拝しました。亡父がこちらの出身、実家は伯父が継ぎ、おそらく戦国時代からそこまでの先祖代々が暮らしていた地です。
さて、無事墓参も終わり、市街に出て公演会場の犀の角さんに着きました。
大通りに面したアーケード街の一角ですが、車の通行も少なく、騒音等は無縁でした。入口はそれでも二重になっていたようですが。
開演前のステージ。脚立は開演後、そのまま大道具としても使われました。
開演までの間に、いただいたパンフレットを拝読。
「ふむふむ」でした。智恵子と同じ福島ご出身・ご在住で脚本と演出の髙山さなえさん、所属されている劇団内での「女性」役に疑問を感じ続けていたという智恵子役の下地尚子さん、二人の女性による渾身の智恵子、どうなるかといやが上にも期待感。
19:00に開演、およそ60分の上演でした。
いきなり歌から始まったのには驚かされましたが、もうそれで「つかみはOK」的な。その後、下地さん演ずる智恵子のモノローグの形で進みます。途中でそれが明らかになるのですが、智恵子は既に此の世の住人ではない、彼岸の人という設定。明治末の日本女子大学校進学あたりからの生涯、その時々の思いが語られていきます。油絵への傾倒、光太郎との出会い、その光太郎と肩を並べようと必死の努力を重ねたこと……。
信州での上演ですので、大正2年(1913)、光太郎と二人で上高地に一夏を過ごし、婚約を果たした件がかなりクローズアップされました。故郷・二本松の風物と共に、上高地の思い出も生涯鮮やかに残り続けた、みたいな。「智恵子抄」所収の「樹下の二人」(大正12年=1923)の有名なリフレイン「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」と一対で「あれが穂高岳/あの光るのが梓川」というフレーズが繰り返し使われました。後半になると、そこに帰りたい、あの頃に戻りたい、的な心の叫びとしても。
やがて、心を病み、そして迎える終焉。そこに到るまでの過程の描き方は、一部でよく言われる家事労働などに時間を取られて……というものではありませんでした。そうではなく、光太郎に追い付き肩を並べようとし続けて、しかしそれが果たせず……という感じでした。光太郎の巨大な才能に対する嫉妬も、という場面もありましたし。
レモンが小道具として効果的に使われていました。梶井基次郎の「檸檬」を下敷きにする部分もあって、「レモン」=「爆弾」という描写も。終盤には下地さんの智恵子、レモンを「がりり」と嚙みました。「酸っぱ!」とおっしゃりつつ。「いや、そこまでやるか?」でした。
その前にはゼームス坂病院での紙絵制作で、油絵では果たせなかった納得の行く芸術作品の創造に成功したことなども語られ、救いとして描かれました。
この頃になると、既に語っている智恵子はもはや魂であることが明らかにされ、あの世では光太郎と仲睦まじくやっているとも語られます。曰く「対等とか、自立とか、芸術とか、才能とか、関係ない私たちがいます」さらにラストには「嬉しかったことも、悲しかったことも、愛されたことも、愛せなかったことも、間違えたことも、戻れなかったことも、全部、私の人生だ。私、この人生で良かったよ……そう思えるよ……ね、光太郎さん」。
光太郎を極度にディスるでもなく、智恵子を単なる可哀想な被害者と描くのでもなく、その点は非常に良かったと思いました。といって、ただのお涙頂戴でもありませんでしたし。それから、光太郎の戦争加担についてもきちんと取り上げられたのにも感心しました。全体的に良いもの(こと)は良い、悪いもの(こと)は悪い、しかしそれでもどうしようもない場合もある、的なスタンスが感じられ、バランス感覚が非常に良く取れていたなと感じました。
終演後の舞台挨拶。左が下地さん、右が髙山さんです。
髙山さんは、この時以外にも舞台に乱入して下地さんとデュエットするシーンもあって、驚かされました(笑)。そういった部分などで、コミカルな演出もちりばめられ、観た方々が暗い気持ちで帰る……みたいなことにならなかったのも良かったと思います。
帰りがけ、お二人とお話しさせていただき、碌山美術館さんでの特別展、来月、福島二本松で開催される当方も関わっているイベントやコンサートのフライヤーをお渡ししたりしました。その際、お話しし忘れましたが、再演を希望します。それも都内とか、智恵子ゆかりの福島とかで出来るとなおよいと思うのですが……。いずれにせよ、関係の皆様のますますのご活躍を祈念いたします。
午後8時過ぎ、千葉の自宅兼事務所に向けて出発。昨日も往路での難儀をぼやきましたが、復路もなかなか大変でした。やはり事故渋滞(関越道で)に巻き込まれましたし、それ以外にも交通集中による自然渋滞が、上信越道で軽井沢を過ぎたあたりから関越道に入っても。シルバーウィークを舐めていました(笑)。カーナビの女性は最初「目的地までおよそ280㌔㍍です。4時間10分ぐらいかかります」と言っていたのに、5時間半かかりました。往復で14時間運転(笑)。余談ですが。
尾形亀之助 山本和夫 平田内蔵吉 土方定一 赤木健介 菱山修三 小野十三郎
岡崎清一郎 高橋新吉 山之口貘 金子光晴
光太郎詩は「講演会で読んだ詩」「われらの死生」「突端に立つ」「戦歿報道戦士にささぐ」「三十年」「朋あり遠方に之く」。
当会の祖・草野心平が主宰した詩誌『歴程』同人によるアンソロジーですが、心平はこの時期、南京政府の宣伝部顧問として大陸にいましたので、編集や刊行に向けての雑事は、同人で美術評論家でもあった土方定一が行いました。
「2604」は昭和19年(1944)が皇紀2604年であったためです。
そちらの会場は上田市中心街ですが、その前に、郊外塩田地区のご先祖様の墓所を参拝しました。亡父がこちらの出身、実家は伯父が継ぎ、おそらく戦国時代からそこまでの先祖代々が暮らしていた地です。
さて、無事墓参も終わり、市街に出て公演会場の犀の角さんに着きました。
大通りに面したアーケード街の一角ですが、車の通行も少なく、騒音等は無縁でした。入口はそれでも二重になっていたようですが。
開演前のステージ。脚立は開演後、そのまま大道具としても使われました。
ステージ前にひな壇状に並べられた客席は、100までは行かなかったようですが、60~70はあったでしょうか。さらに最前列は床の上で桟敷席。ほぼ満席でした。固定ファンの方々や演劇のお仲間がけっこういらっしゃったようですし、興味をひかれての一見さんもいらしたようです。父祖の地だからの身贔屓ではありませんが、信州人の文化程度というのは高いものがありまして。
「ふむふむ」でした。智恵子と同じ福島ご出身・ご在住で脚本と演出の髙山さなえさん、所属されている劇団内での「女性」役に疑問を感じ続けていたという智恵子役の下地尚子さん、二人の女性による渾身の智恵子、どうなるかといやが上にも期待感。
19:00に開演、およそ60分の上演でした。
いきなり歌から始まったのには驚かされましたが、もうそれで「つかみはOK」的な。その後、下地さん演ずる智恵子のモノローグの形で進みます。途中でそれが明らかになるのですが、智恵子は既に此の世の住人ではない、彼岸の人という設定。明治末の日本女子大学校進学あたりからの生涯、その時々の思いが語られていきます。油絵への傾倒、光太郎との出会い、その光太郎と肩を並べようと必死の努力を重ねたこと……。
信州での上演ですので、大正2年(1913)、光太郎と二人で上高地に一夏を過ごし、婚約を果たした件がかなりクローズアップされました。故郷・二本松の風物と共に、上高地の思い出も生涯鮮やかに残り続けた、みたいな。「智恵子抄」所収の「樹下の二人」(大正12年=1923)の有名なリフレイン「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」と一対で「あれが穂高岳/あの光るのが梓川」というフレーズが繰り返し使われました。後半になると、そこに帰りたい、あの頃に戻りたい、的な心の叫びとしても。
やがて、心を病み、そして迎える終焉。そこに到るまでの過程の描き方は、一部でよく言われる家事労働などに時間を取られて……というものではありませんでした。そうではなく、光太郎に追い付き肩を並べようとし続けて、しかしそれが果たせず……という感じでした。光太郎の巨大な才能に対する嫉妬も、という場面もありましたし。
レモンが小道具として効果的に使われていました。梶井基次郎の「檸檬」を下敷きにする部分もあって、「レモン」=「爆弾」という描写も。終盤には下地さんの智恵子、レモンを「がりり」と嚙みました。「酸っぱ!」とおっしゃりつつ。「いや、そこまでやるか?」でした。
その前にはゼームス坂病院での紙絵制作で、油絵では果たせなかった納得の行く芸術作品の創造に成功したことなども語られ、救いとして描かれました。
この頃になると、既に語っている智恵子はもはや魂であることが明らかにされ、あの世では光太郎と仲睦まじくやっているとも語られます。曰く「対等とか、自立とか、芸術とか、才能とか、関係ない私たちがいます」さらにラストには「嬉しかったことも、悲しかったことも、愛されたことも、愛せなかったことも、間違えたことも、戻れなかったことも、全部、私の人生だ。私、この人生で良かったよ……そう思えるよ……ね、光太郎さん」。
光太郎を極度にディスるでもなく、智恵子を単なる可哀想な被害者と描くのでもなく、その点は非常に良かったと思いました。といって、ただのお涙頂戴でもありませんでしたし。それから、光太郎の戦争加担についてもきちんと取り上げられたのにも感心しました。全体的に良いもの(こと)は良い、悪いもの(こと)は悪い、しかしそれでもどうしようもない場合もある、的なスタンスが感じられ、バランス感覚が非常に良く取れていたなと感じました。
終演後の舞台挨拶。左が下地さん、右が髙山さんです。
髙山さんは、この時以外にも舞台に乱入して下地さんとデュエットするシーンもあって、驚かされました(笑)。そういった部分などで、コミカルな演出もちりばめられ、観た方々が暗い気持ちで帰る……みたいなことにならなかったのも良かったと思います。
帰りがけ、お二人とお話しさせていただき、碌山美術館さんでの特別展、来月、福島二本松で開催される当方も関わっているイベントやコンサートのフライヤーをお渡ししたりしました。その際、お話しし忘れましたが、再演を希望します。それも都内とか、智恵子ゆかりの福島とかで出来るとなおよいと思うのですが……。いずれにせよ、関係の皆様のますますのご活躍を祈念いたします。
午後8時過ぎ、千葉の自宅兼事務所に向けて出発。昨日も往路での難儀をぼやきましたが、復路もなかなか大変でした。やはり事故渋滞(関越道で)に巻き込まれましたし、それ以外にも交通集中による自然渋滞が、上信越道で軽井沢を過ぎたあたりから関越道に入っても。シルバーウィークを舐めていました(笑)。カーナビの女性は最初「目的地までおよそ280㌔㍍です。4時間10分ぐらいかかります」と言っていたのに、5時間半かかりました。往復で14時間運転(笑)。余談ですが。
【高村光太郎書誌】
詩華集 68 『歴程詩集 2604』
昭和19年(1944)10月18日 青磁社 土方定一編
高村光太郎 尾崎喜八 逸見猶吉 草野心平 藤原定 馬淵美意子 伊藤信吉 大江満雄尾形亀之助 山本和夫 平田内蔵吉 土方定一 赤木健介 菱山修三 小野十三郎
岡崎清一郎 高橋新吉 山之口貘 金子光晴
光太郎詩は「講演会で読んだ詩」「われらの死生」「突端に立つ」「戦歿報道戦士にささぐ」「三十年」「朋あり遠方に之く」。
当会の祖・草野心平が主宰した詩誌『歴程』同人によるアンソロジーですが、心平はこの時期、南京政府の宣伝部顧問として大陸にいましたので、編集や刊行に向けての雑事は、同人で美術評論家でもあった土方定一が行いました。
「2604」は昭和19年(1944)が皇紀2604年であったためです。



























































































































































































































日夏の方で光太郎をどう評していたか、あるいは光太郎がらみの回想等を遺していないか、当方、寡聞にしてよく存じません。ただ、戦後の昭和26年(1951)に日夏の編集で刊行された『近代日本詩集』(弘文堂アテネ文庫)では、14名の詩人の作品を採り、光太郎詩も含まれています。日夏によるその序文に曰く、

















































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