光太郎の父・光雲とその高弟・米原雲海作の木彫についてです。地方紙『信濃毎日新聞』さんから。
光太郎は大杉らのグループに対し、シンパのような立ち位置でした。
ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の先輩にして恩師でしたが、智恵子はそれを知らなかったのではないかと思われます。
善光寺(長野市)は2日、仁王門内に設置されている三宝荒神像と三面大黒天像の修復を始めた。善光寺事務局によると、両像の修復作業は100年余ぶり。同日は、文化財修復の専門家が像表面に積もったほこりを、はけを使って丁寧に落としていた。
両像は、1919年(大正8)年に彫刻家の高村光雲と弟子の米原雲海が作った木彫り像。仁王門内の東側で守護矢を手に持つ三宝荒神像は、災害から寺や参拝者を守る。同門内の西側にある三面大黒天像には、五穀豊穣(ごこくほうじょう)の願いが込められている。
この日は文化財修復を専門とする藤白彫刻研究所(東京都)の藤曲隆哉代表(43)=東京都=ら5人が三面大黒天像の清掃を進めた。高さ約3・5メートルある像の周辺に組んだ足場を使い、像の頭を黒く染めたほこりを丁寧に払った。
作業は4日まで続き、像の欠落箇所の修復などを予定している。長野市内の大沢真弓さん(79)は「毎朝(像の)お顔を見ている。きれいになってお出迎えしてくれるのが楽しみです」とほほ笑んだ。
記事を読んで「あれっ?」と思いました。たしか10年くらい前にも補修が入っていたような……という気がしまして「100年ぶり」というのに引っかかりを覚えました。
ところが調べたところ、10年前に補修されていたのは善光寺史料館さんで展示されている3分の1スケールの雛形でした。今回のものは仁王門で仁王像の裏側に据えられている完成作です。
画像にある三面大黒天像と対になっている三宝荒神像の方も補修が入り、記事が出たのが12月3日(水)。2日(火)に作業開始で4日(木)には終わるとのことですから、それほど大々的な補修ではないようです。もう既に元の通りに据えられているのではないかと思われます。
気になるのが褪色した彩色ですが、おそらくそれはそのままなのでしょう。彩色にまで手を入れるとなると、その場では不可能でしょうし、3日ばかりで終わるとも思えません。
ちなみに仁王像の方は、最初に制作された際にあえて彩色は施さなかったそうです。
光雲の談話筆記「善光寺仁王尊の製作 参考資料と新しき意企」(大正8年=1919)から。
由来仁王像は大抵着色したものであるが、我々は少しく考ふる処があつて今度は殆ど着色をしなかつた。彩色をしようとしても我々の期待に添ふ丈の立派の着色をして呉れるものゝ無いのが其理由の一つであるが又一方着色が出来たとしても、何十年何百年経過する内には自然彩色は剥落して醜いものとなる。此場合は勢い着色の修理をすると云ふ順序となり、此修理を重ねる場合には、遂に製作当初の価値を失ふ事になるのは明らかな事である。此意味から無彩色の方が此像の存する限りは、製作当初の真価を永劫に伝へる事が出来ると云ふ理由で彩色をしなかつたのである。一体着色すると云ふ事は木の継ぎはぎの無様を隠す事にも利用されたものであるから、彩色をしないと云ふ為には、木地の無様をかくす事が出来ず、従つて醜くない様に仕上げなければならなかつたから、此辺の苦心は着色以上な処があつた。又此仁王には玉眼を入れなかつた。此理由も、要するに無着色の理由と同様である。
なるほど、と思わされました。
しかし、裏側に配した三面大黒天像と三宝荒神像は彩色を行ったわけで、そこの違いがよくわかりませんが。
これらの計4体、令和4年(2022)のご開帳時、に夜間のライトアップ、翌朝に通常の状態とを拝見して以来、見に行っておりません。来年あたりは久々に参拝しようかなと思いました。みなさまもぜひどうぞ。
【折々のことば・智恵子】
われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。
関東大震災直後のドサクサで、アナーキスト大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、そして大杉の甥の橘橘宗一少年を、憲兵大尉・甘粕正彦らが虐殺した事件に対しての感想です。しごくまっとうな意見ですね。
ところが調べたところ、10年前に補修されていたのは善光寺史料館さんで展示されている3分の1スケールの雛形でした。今回のものは仁王門で仁王像の裏側に据えられている完成作です。
画像にある三面大黒天像と対になっている三宝荒神像の方も補修が入り、記事が出たのが12月3日(水)。2日(火)に作業開始で4日(木)には終わるとのことですから、それほど大々的な補修ではないようです。もう既に元の通りに据えられているのではないかと思われます。
気になるのが褪色した彩色ですが、おそらくそれはそのままなのでしょう。彩色にまで手を入れるとなると、その場では不可能でしょうし、3日ばかりで終わるとも思えません。
ちなみに仁王像の方は、最初に制作された際にあえて彩色は施さなかったそうです。
光雲の談話筆記「善光寺仁王尊の製作 参考資料と新しき意企」(大正8年=1919)から。
由来仁王像は大抵着色したものであるが、我々は少しく考ふる処があつて今度は殆ど着色をしなかつた。彩色をしようとしても我々の期待に添ふ丈の立派の着色をして呉れるものゝ無いのが其理由の一つであるが又一方着色が出来たとしても、何十年何百年経過する内には自然彩色は剥落して醜いものとなる。此場合は勢い着色の修理をすると云ふ順序となり、此修理を重ねる場合には、遂に製作当初の価値を失ふ事になるのは明らかな事である。此意味から無彩色の方が此像の存する限りは、製作当初の真価を永劫に伝へる事が出来ると云ふ理由で彩色をしなかつたのである。一体着色すると云ふ事は木の継ぎはぎの無様を隠す事にも利用されたものであるから、彩色をしないと云ふ為には、木地の無様をかくす事が出来ず、従つて醜くない様に仕上げなければならなかつたから、此辺の苦心は着色以上な処があつた。又此仁王には玉眼を入れなかつた。此理由も、要するに無着色の理由と同様である。
なるほど、と思わされました。
しかし、裏側に配した三面大黒天像と三宝荒神像は彩色を行ったわけで、そこの違いがよくわかりませんが。
これらの計4体、令和4年(2022)のご開帳時、に夜間のライトアップ、翌朝に通常の状態とを拝見して以来、見に行っておりません。来年あたりは久々に参拝しようかなと思いました。みなさまもぜひどうぞ。
【折々のことば・智恵子】
われわれが死せるものに生命を与へ得ない限り、これに手を触れる事はゆるされない。他人の生命に手をかけるなんて、何といふ醜悪な考でせう。暴力こそ臆病の変形です。
アンケート「暴力は臆病の変形――甘粕事件に関する感想――」より
大正12年(1923) 智恵子38歳
関東大震災直後のドサクサで、アナーキスト大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、そして大杉の甥の橘橘宗一少年を、憲兵大尉・甘粕正彦らが虐殺した事件に対しての感想です。しごくまっとうな意見ですね。
光太郎は大杉らのグループに対し、シンパのような立ち位置でした。
ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の先輩にして恩師でしたが、智恵子はそれを知らなかったのではないかと思われます。

























































































日夏の方で光太郎をどう評していたか、あるいは光太郎がらみの回想等を遺していないか、当方、寡聞にしてよく存じません。ただ、戦後の昭和26年(1951)に日夏の編集で刊行された『近代日本詩集』(弘文堂アテネ文庫)では、14名の詩人の作品を採り、光太郎詩も含まれています。日夏によるその序文に曰く、

















































![1713690525214[1]](https://livedoor.blogimg.jp/koyama287/imgs/4/9/495cab07-s.jpg)






























宮様のご成婚ということが明記されていませんが、サブタイトルの「昭和三年九月二十八日」がその日ですので、それでわかるだろ、ということです。ただし、これは戦後になって『高村光太郎選集』(昭和28年=1953完結)に収められる際に付されたものらしく、光太郎の手元に残された草稿にはありません。初出発表誌が不明なので、確かめられませんが。








































































