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今日も光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介します。 

日本の近代美術11 近代の彫刻

平成6年(1994)4月20日 酒井忠康編 大月書店発行 定価2,718円+税

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全12巻から成る「日本の近代美術」の11巻目です。総論として酒井忠康氏の「近代の彫刻」、各論として光雲の「老猿」、光太郎の「腕」をはじめ、荻原守衛、藤川勇造ら10人の彫刻家の代表作を紹介し、簡単な評伝を収録しています。光太郎の項の担当は堀元彰氏。やはりロダンの影響、そしてロダンを超えようとする工夫などについて論じられています。図版多数。 

20世紀・日本彫刻物語

平成12年(2000)5月27日 芸術の森美術館編 札幌市芸術文化財団発行 定価記載無し

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札幌・芸術の森美術館さんでの同名の企画展図録、というより解説書です。図版はもちろん、解説の文章が充実しています。光雲ら前の世代の彫刻家から始まり、高田博厚、佐藤忠良ら次の世代までを網羅しています。光太郎や守衛世代の作家については「生命の形」と題し、ロダンの影響が述べられています。
 
やはり少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

このところ、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れています。そこで、何回かに分けて手持ちの資料の中から、光太郎とロダンとの関わり、影響といった点について論じた書籍を紹介しましょう。
 
ちなみに「これでブログのネタ、何日かもつぞ」とけしからんことも考えています。5月初めにこのブログを開設して以来、1日も休まず更新していますが、何せ光太郎・智恵子・光雲のネタだけで毎日毎日書くとなると、ネタ探しに苦労する時もあります。そうこうしているうちに、困った時はテーマを決めて手持ちの資料の紹介にあてればいいと気づきました。当方手持ちの光太郎関連資料、おそらく2,000点を超えています(ある意味しょうもないものを含めてですが)。1回に2点ずつ紹介したとしても1,000回超。3年くらいはもちますね(笑)。 

近代彫刻 生命の造型 -ロダニズムの青春-

 昭和60年(1985)6月20日 東珠樹著 美術公論社発行 定価1,800円+税

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第一部では、光太郎、荻原守衛、中原悌二郎といった近代日本彫刻家がロダンから受けた影響。第二部では『白樺』や他の美術雑誌などに見るロダン受容の系譜。第三部は「日本に来たロダンの彫刻」というわけで、例の花子関連にも言及しています。 

異貌の美術史 日本近代の作家たち

平成元年(1989)7月25日 瀬木慎一著 青土社発行 定価2524円+税

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雑誌『芸術公論』に連載された「作家評価の根本問題」をベースに、書き下ろしや他の書籍等に発表された文章をまとめたものということです。彫刻家に限らず、中村彝、梅原龍三郎、岸田劉生などの洋画家、小川芋銭や竹久夢二といった日本画家にも言及しています。光太郎に関してはずばり「高村光太郎におけるロダン」。図版が豊富に使われている点も嬉しい一冊です。
 
どちらも少し古いものですので、新刊で手に入れるのは難しいかもしれません。古書店サイト、またはAmazonさんなどでも中古品の販売がある場合がありますので、そちらをご利用下さい。  
 
または、必ずご返却いただけるのであれば当方手持ちの資料は基本的にお貸しします。お声がけ下さい。

昨日、光太郎の翻訳書『ロダンの言葉』に触れましたので、もう少し。
 
光太郎の著書、というか訳書ですが、『ロダンの言葉』正・続2冊があり、これは光太郎の代表的な業績を挙げる場合にはよく掲げられるものです。
 
正は大正5年11月に阿蘭陀書房から、続は同9年5月に叢文閣から上梓されました。光太郎が敬愛していたロダンが、折にふれて語った言葉などをまとめたものです。単行書としてまとめられる前は、『帝国文学』『アルス』『白樺』などに断続的に発表されています。
 
昭和30年代には新潮文庫に正続2冊、少し前までは岩波文庫に『ロダンの言葉抄』というラインナップがあったのですが、絶版となって久しい状態です。筑摩書房発行の『高村光太郎全集』第16巻に全文が収録されていますが、手軽に読みたい場合、最近のものとしては以下の書籍が刊行されています。 

ロダンの言葉 覆刻

 平成17年(2005)12月1日 沖積舎 定価6,800円+税

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写真製版により、正続2冊をそのまま覆刻したものです。続の方はオリジナルからの覆刻のようですが、正の方は昭和4年(1929)刊行の普及版からの覆刻のようです。金原宏行氏の解説がついています。 

 平成19年(2007)5月10日 講談社文芸文庫 講談社 定価1,300円+税

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正の方のみ収録されています。湯原かの子氏の解説、光太郎の略年譜、著書目録がついています。
 
前回も紹介しましたが、光太郎の弟で、鋳金家として人間国宝にもなった高村豊周の「光太郎回想」によれば、「兄がロダンの言葉を集めて、ああいう形式で本にまとめることをどこから思いついたか、考えてみると、少し唐突のようだが僕は「論語」ではないかと思っている」「文章の区切りが大変短い。どんなに長くても数頁にしか渉らないから、読んでいて疲れないし、理解しやすい。ことに本を読む習慣の少なかった美術学生にとって、これは有難かった。」とのことです。
 
是非ご一読を。

一週間前に行ってきた練馬区立美術館の<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」で講演された日本大学芸術学部美術学科教授の髙橋幸次氏から、同大学の「芸術学部紀要」の抜き刷りということで、玉稿を頂きました。有り難い限りです。まだ昨夕届いたばかりで、熟読していませんが、読むのが楽しみです。

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第45号抜刷 ロダン研究Ⅰ-「ロダンの言葉」成立の前提- 平成19年3月
第47号抜刷 ロダン研究Ⅱ-ジュディット・クラデルとフレディック・ロートン- 平成20年3月
第48号抜刷 ロダン研究Ⅲ-バートレットのロダン:高村光太郎のルドルフ・ダークス- 平成20年9月
第50号抜刷 ロダン研究Ⅳ-モークレールのロダン- 平成21年9月
第51号抜刷 ロダン研究Ⅴ-ポール・グセル(上)- 平成22年3月
第52号抜刷 ロダン研究Ⅴ-ポール・グセル(下)- 平成22年9月
第53号抜刷 ロダン研究Ⅵ-コキヨのロダン- 平成23年3月
第54号抜刷 ロダン研究Ⅶ-マルセル・ティレルのロダン- 平成24年3月
 
光太郎の著書、というか訳書ですが、『ロダンの言葉』正・続2冊があり、これは光太郎の代表的な業績を挙げる場合にはよく掲げられるものです。
 
正は大正5年11月に阿蘭陀書房から、続は同9年5月に叢文閣から上梓されました。光太郎が敬愛していたロダンが、折にふれて語った言葉などをまとめたものです。単行書としてまとめられる前は、『帝国文学』『アルス』『白樺』などに断続的に発表されています。
 
光太郎の弟で、鋳金家として人間国宝にもなった高村豊周の「光太郎回想」によれば、「上野の美術学校では、主だった学生はみなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的にではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の根本で人々の心を動かした。」「あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。だからあの本の影響の範囲は思いがけないほど広く、まるで分野の違う人が、若い頃にあの本を読んだ感動を語っている」とのことです。身内による身びいきという部分を差し引いても、ほぼ正確に当時の状況を物語っていると思われます。

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画像は当方手持ちの正続2冊をスキャンしたものですが、劣化防止の為パラフィン紙で覆ってあります。そのため白っぽい不鮮明な画像になっています。すみません。
 
原典としては、ロダンの母国フランスで『ロダンの言葉』という書籍があったわけではなく、色々な人が筆録したロダンの談話などの集成です。
 
髙橋氏の「ロダン研究」は、その「色々な人」-主にロダンの秘書-について、原典にあたりつつ、それぞれのロダンとの関わりや、光太郎がどのように取り上げているかなどが論じられているようです。
 
当方、文学畑の出身ですので、こういう美術史に関わる研究紀要の類を目にする機会はそう多くありません。しかし、この分野での「事実」の追究の仕方には常々感心させられています。自戒を込めてですが、文学畑の論考はどうも「事実」の追究に甘さがあり、恣意的な言葉尻の解釈に終始してしまう場合が多いと感じています。そういう意味で、髙橋氏の「ロダン研究」、熟読するのが楽しみです。
 
こうした紀要の類は、発行元に問い合わせるか、あるいは国会図書館等でも蔵書がある場合があり、国会図書館では「論文検索」で調べる事ができますし、うまくいくとネット上でPDFファイルで閲覧が可能です。

昨日から当方居住の千葉県香取市で「佐原の大祭・夏祭り」が行われています。
 
間接的にですが光雲とも関わる江戸彫刻や活人形などに飾られた山車を見に行ってきました。
 
まずこちらは「寺宿」という町内の山車に施された彫刻です。これが光雲と東京美術学校で同僚だった石川光明の家系の仕事です。

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こちらは「荒久(あらく)」という町内の山車で、山車の上部に据え付けられる巨大な人形。活人形(いきにんぎょう 「生人形」とも表記)という種類のもので、作者は三代目安本亀八。同じ亀八の作品、「下中宿」の菅原道真は、光雲に激賞されたという話も。その菅原道真をいただいた「下中宿」の山車、今日は行き会えませんでした。夜8:45~のNHK総合の関東甲信越ニュースではばっちり映っていました。

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他の山車にも幕末から明治、大正、昭和初めの職人達の精魂込めた仕事が為されています。
 
こうした木彫や人形をじっくり見たいという方のために、「水郷佐原山車会館」という博物館があります。山車の実物が展示されている他、祭りの歴史を紹介するコーナーや古い写真パネルなど、興味深い展示になっています。彫刻や工芸の歴史に興味のある方は、必見です。
 
また、周辺の古い街並みも非常に風情があります。是非一度お越しあれ。

昨日は、既に他の雑誌等に発表された文章が転載されている例を紹介しました。今日は逆のパターンです。すなわち、既に『高村光太郎全集』「光太郎遺珠」に収録されているものの、その内容や情報が転載されたものに基づいている場合です。
 
具体例を挙げましょう。
 
昭和17年(1942)に書かれた「天川原の朝」という散文があります。その前年、真珠湾攻撃の際に特殊潜航艇で出撃し、還らぬ人となった「軍神」岩佐大尉(没後二階級特進で中佐)の生家(群馬)を訪ねたレポートです。

『全集』では第20巻に掲載されています。そして『全集』第20巻の解題では、昭和17年5月31日発行『画報躍進之日本』第7巻第6号が初出となっています。しかし、さかのぼること約2ヶ月、同年4月6日発行の『読売新聞』に同じ「天川原の朝」が掲載されていることが、新たにわかりました。こうなると、『全集』の解題を訂正しなければなりません。

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こういう例はいくつかあり、判明したものは「光太郎遺珠」に記録、公にしています。
 
それぞれ作品名、『全集』解題での初出誌、新たに判明した掲載誌の順です。
・訳書広告ヹルハアラン『明るい時』大正10年(1921)12月1日『白樺』第12巻第12号  同年11月10日『東京朝日新聞』
・山本和夫編『野戦詩集』昭和16年(1941)4月20日『歴程』第14号    同年2月26日『読売新聞』
 
これらは内容的には同一ですので、初出掲載誌さえ訂正すればよいものです。
 
ただし、それすらもさらに訂正されるべき場合があるかも知れません。例えば「天川原の朝」にしても、4月6日に『読売新聞』に掲載されるより前に、他のマイナーな雑誌などに発表されている可能性も皆無ではありません。

それを言い出すと、現在登録されている初出掲載誌の情報は、ほとんど全て「推測」でしかないということになります。我々は「現在判明している初出誌はこれです」というスタンスで作品の解題を書いています。でも、それはあくまで「現在判明している」であって、確定ではないものがほとんどです。例外は、光太郎自身が書簡や日記、散文等で「いついつに『○○』という雑誌に発表した「××」という作品で……」のようなコメントをしっかり残している場合のみです。それすらも光太郎の勘違いがあったらおしまいです。まぁ、そこまで問題にしたらきりがありませんが……。
 
学者先生達はとかく「出典を明らかに」とのたまいますが、現在判明している典拠はこのように推測に過ぎぬ不確定なものであるということを認識してほしいと思います。それがどんなに有名な作品であっても、です。例えば「明治43年(1910)4月、我が国で初めての「印象派宣言」が世に出た。『スバル』第2年第4号に掲載された「緑色の太陽」である。」などという文言を目にすることがありますが、こういう場合も『スバル』に載った「緑色の太陽」が他の雑誌からの転載ではないとは断言できません。軽々に「初出」の語を使うのは避けるべきでしょう。
 
自戒を込めてここに書き記します。
 
「転載」がらみでは他にも色々なケースがあります。明日はそのあたりを。

一昨日、練馬区立美術館さんに講演を聴きに行く途中、江東区の東京都現代美術館さんに寄り道しました。こちらには美術図書室という施設があり、古い美術関係の蔵書が充実しているからです。
 
目当ては『芸術新聞』という古い新聞。その名の通り、美術や音楽、文学や演劇など、芸術全般についての記事が載った新聞です。昭和18年(1943)初め頃の号に、光太郎の「われらの道」という詩が載っているかも知れないと考え、調査してみました。
 
「われらの道」は、光太郎の詩集『記録』に収められたので、内容は分かっています。しかし、初出-雑誌等に初めて発表された状況-が不詳です。光太郎の手許に残された控えの原稿には「芸術新聞へ」のメモ書きが残されています。
 
さて、収蔵庫から出していただいたのは、マイクロフィルム。国会図書館では所蔵品のデジタル化が進み、館内のパソコン画面で閲覧するシステムになっていますが、他館ではまだそうしたシステムが不十分で、古い書籍や新聞雑誌等、写真撮影したマイクロフィルム(リールになっているもの)やマイクロフィッシュ(シートになっているもの)を専用の機械で閲覧するという方式が多く採られています。
 
事前に書誌情報として「欠号多」という文字を眼にしていましたので覚悟はしていましたが、やはり「われらの道」、発見できませんでした。ちょうど掲載された号が脱けているのだと思います。普通に考えれば、数十年前の特殊な分野の新聞がきっちり揃っていないというのも仕方のない話でしょう。まあ、あきらめずに探索は続けます。
 
そのままだと癪にさわりますし、まだ時間もあったので、開架コーナーから総目録的なものを取り出し、知られていない光太郎作品の掲載がないかどうか調べました。6/7のブログにも書きましたが、特定の雑誌の執筆者、記事の題名等の索引がしっかりしているものは重宝します。
 
さて、『東京美術学校校友会雑誌』『工芸』などの雑誌の総目録を調べましたが、目新しいものは見つかりません。ところが、『美術新報』という雑誌の総目録を見ると、持参した当方作成のリストに載っていない光太郎作品が記されています。題名は「美しい生命」。しかし、大喜びはできません。こういう場合、落とし穴があることがわかっているからです。
 
ともあれカウンターに行き、該当する明治43年(1910)の号を含む合冊(復刻版でした)を出してもらい、当該ページを見てみましたら、題名のあとに「高村光太郎氏(早稲田文学)」とあります。「やはりな。」と思いました。この時期の特に美術系雑誌は、他の雑誌に載った記事の転載が非常に多いのです。そこで、持参したリストで『早稲田文学』を調べてみました。しかし、「美しい生命」という題名の作品は載っていません。しかし、この時点でも大喜びはできません。まだまだ落とし穴があることがわかっているからです。

 
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当該ページをコピーし、そろそろ時間なので東京都現代美術館を後に、練馬区立美術館へ。講演を聴き、帰宅。『高村光太郎全集』を引っ張り出し、『早稲田文学』所収の作品を調べます。すると明治43年(1910)7月の第56号に載った「ENTRE DEUX VINS」という作品の一部が、コピーしてきた「美しい生命」と完全に一致することが判明しました。「やはりそうか。」と思いました。予想はしていましたが、少し悔しいものです。
 
特に古い美術系雑誌では、こういうふうに他の雑誌や新聞、書籍などから記事を転載し、さらに題名を変えてしまうというケースも結構多いのです。試みに手持ちのリストでページを繰ってみますと、備考欄に「転載」の文字がたくさん入っています。例えば明治45年(1912)の『読売新聞』に載った「未来派の絶叫」という文章は大正7年(1919)の『現代之美術』という雑誌に転載、同じ『読売新聞』に大正14年(1925)1月掲載の「自刻木版の魅力」という文章は同じ年5月の『詩と版画』という雑誌に転載、大正2年(1913)7月の『時事新報』に載った「真は美に等し」という文章は翌月の『研精美術』という雑誌に転載、というように枚挙にいとまがありません。そして、転載の際に題名が変えられることも多く、混乱することがあるのです。初めてこのケースの落とし穴にはまった時は、腹立たしいやら喜んでいた自分が情けないやらでした。以後、こういう落とし穴があるということを肝に銘じ、注意しています。
 
光太郎以外の書き手についてはよく知りませんが、この頃の美術系雑誌ではこういうこと(転載、題名の改変)が半ば当たり前のように慣習化していたのでしょうか。詳しい方、ご教示いただけるとありがたい限りです。
 
ただ、逆のケースもあるので注意が必要です。明日はその逆のケースを紹介します。

今日は練馬区立美術館さんの<N+N展関連美術講座>「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」に行って参りました。本日まで開催の日本大学芸術学部美術学科さん(N)と練馬区立美術館さん(N)の共同企画展「N+N展2012」の関連行事です。
 
「N+N展2012」は「触れる」というテーマのもと、日本大学芸術学部美術学科教職員の皆様による作品を展示していました。最近の美術界の傾向として、視覚だけに頼るのではなく、もっと五感(五官)を駆使すべしという流れがあるそうで、こちらのテーマも「触れる」ですから、自由に触れられる作品が多く展示されていました。
 
そして講演は「触れる 高村光太郎「触覚の世界」から」。講師は同大教授の髙橋幸次氏。パワーポイント等使いながら、非常にわかりやすいお話で、1時間40分ほど、あっという間でした。
 
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光太郎は昭和3年(1928)の時点で、既に五感(五官)すべてが「触覚」に帰結する、という趣旨の発言をしていることをご紹介されました。そう考えると、光太郎は時代を突き抜けていたといえるかも知れませんね。
 
それから有名な「手」の彫刻を実例に挙げての光太郎の空間認識。当方、あの彫刻の画像を名刺に使ったりしていながら、今までそういう見方をしたことがなかったのですが、てのひらの部分に空間が設定されており、それを包み込みながら回転運動、そして人差し指が指す天を目指してあがってゆくイメージがあるとのこと。確かにそう見えます。
 
下の画像は平成19年(2007)、新潟市の会津八一記念館で行われた企画展の図録の表紙です。「手」が使われているので載せさせていただきました。おわかりになるでしょうか。

 
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あのロダンの「考える人」も、実はものすごいねじり、ひねりが入ったポーズです。自分でやってみるとわかりますが、右の肘を左の膝に置いています(このあたり、ミケランジェロの影響を指摘する説もあります)。こういうイメージ、いわば「視覚で触る」というようなイメージですね。それを光太郎も意識している、と、こういうわけです。
 
実にいい勉強になりました。
 
確かに光太郎は他にも様々な彫刻で、空間認識を大事にしているな、ということに思い当たりました。明日はその辺を書いてみようと思います。

本日も香取市(旧佐原市)ネタです。佐原と光雲の間接的なつながり、ということで、昨日は佐原の大祭についてご紹介しました。もう一つ、似たような例があるので今日はそちらを。
 
JR佐原駅の改札を出て、まっすぐ南に行きますと、500㍍ほどで小高い山にぶつかります。山の上には諏訪神社。山の手前、右側は公園になっており、こちらに建っているのが下の画像の銅像です。
 
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我が国で初めて実測による日本地図を作成した、伊能忠敬の銅像です。
 
忠敬は元々は九十九里の生まれでしたが、醸造業だった佐原の伊能家に養子として入り、傾いていた家業を盛り返し、また、佐原本宿の名主としても、天明の飢饉の際に私財をなげうって窮民救済にあたったなどといわれています。そしてその名を一躍有名にした実測地図作成。これが実は隠居後の仕事だったというのですから驚きです。佐原旧市街には、現在も残る忠敬の旧居、平成10年に開館した伊能忠敬記念館などがあり、佐原観光の拠点になっています。
 
というわけで、地元の誇りというわけで、古くから顕彰活動が行われていまして、この銅像は大正八年、忠敬没後百年を記念して当時の佐原町有志が中心となって建立されました。
 
この像の作者は、大熊氏廣。安政三年生まれの彫刻家で、日本近代彫刻の草創期を担った一人。靖国神社に建つ「大村益次郎像」(明治26年=1893)など、我が国最初期の銅像の作者です。
 
もっとも、光太郎はこの大村益次郎像に対しては非常に手厳しい文章を残しています。曰く「大熊氏廣氏作の大村益次郎像は九段靖国神社前に日本最初の銅像として今日でもその稚拙の技を公衆に示してゐる。(中略)本来塑像家としての素質無く、その作るところ殆ど児戯に等しい観があつて、何等の貢献をも日本彫刻界に齎(もたら)してゐない。」(「長沼守敬先生の語るを聴く」昭11=1936『全集』第7巻)。
 
草創期なんだからある意味仕方がないじゃないかと思いますが、どうでしょうか? ちなみに光太郎、勘違いしています。大村像完成より古い明治13年に、金沢兼六園に建てられた「日本武尊像」が日本初の銅像という説が有力です。参考までに光雲が関わった皇居前広場の「楠木正成像」は明治29年(1896)、上野の「西郷隆盛像」は同30年(1897)の竣工です。
 
さて、大熊は「東京彫工会」とう組織に所属していました。元々は例の石川光明ら、牙彫(げちょう=象牙彫刻 廃仏毀釈のあおりで木彫の注文が激減したため外国人向けに作られ、一世を風靡 光明は一時期牙彫に専心)の人々が中心になって作られた団体ですが、光雲も参加しています。
 
というわけで、大正8年(1919)頃、次のような会話が交わされていたかもしれません。
 
大熊 「今度、下総の佐原という町に伊能忠敬翁の銅像を造ることになりました。」
光雲 「ほう、佐原ですか。先頃亡くなった石川光明先生の先々代の頃、あそこの祭りの山車を何台か手がけたと聞きましたな。」
大熊 「なるほど。そうだ、山車といえば、活人形の安本亀八さんが、佐原の山車の人形を作るとも聞いていますぞ。」
光雲 「そいつは楽しみですなあ。」
 
こんな想像をすると、何とも楽しいではありませんか。
 
しかし、佐原の伊能忠敬像、説明板には忠敬の業績ばかりで、作者大熊の名が記されていません。一般に銅像というもの、「誰が作った」より「誰を作った」の方ばかり注目されている嫌いがあるように思われます。「渋谷のハチ公の作者は?」と訊かれて「安藤照」とパッと答えられる人はまずいないでしょう(現在は二代目ハチ公で照の子息、士(たけし)の作)。かくいう当方も、今、ネットで調べて書いています(笑)。
 
日本彫刻史をしっかり押さえるためにも、こうした風潮には釘を刺したいものです。

以前にも書きましたが、当方、千葉県香取市在住です。その中でも平成の大合併で香取市となるまでは佐原市といっていた区域で暮らしています。ここは千葉県の北東部に位置し、成田や銚子にも近い水郷地帯です。
 
もともとは古代に香取神宮の門前町としてその発展を始めましたが、江戸の昔には利根川の水運、水郷地帯特産の米を利用しての醸造業などを中心に商都として栄え、「小江戸」と称されました。日本で初めて実測による地図を作成したかの伊能忠敬も、佐原で醸造業を営んでいました。
 
しかし、明治に入り、鉄道網の整備と共に水運が廃れ、佐原の街の発展もかげりを見せます。そのおかげ、というと語弊がありますが、太平洋戦争時には空襲をまぬがれました。銚子には空襲がありましたし、成田では空襲はなかったものの、撃墜されたB29が炎上しての火災があったそうです。そのおかげ(こちらはほんとにそのおかげです)で、旧市街では江戸期から戦前の商家建築が多数残り、平成8年、関東で初めて重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
 
それまではさびれた街でしたが、もともと営業していた店は息を吹き返し(幕末に建てられた店がそのまま営業しています)、廃屋になりかけていた古民家もおしゃれなカフェやレストランなどにリニューアル、現在では休日ともなれば都心方面からのバスツアーなど、観光客の皆さんでにぎわっています。昨年の震災で受けた被害からも徐々に復興してきました。ただ、まだ足場を組んで修理中の建物も多いのですが。
 
余談になりますが、佐原では古い街並みを利用しての映画、テレビなどのロケもよく行われています。後のブログでも書こうと思っていますが、昭和42年公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻主演)のロケも行われたのではないかと思っています(確証がないのですが)。
 
というわけで、古来から佐原には文人墨客の滞在、来訪が多くありました。近代でも有名どころでは、芥川龍之介にその名もずばり「佐原行」という小品がありますし、与謝野晶子、若山牧水、柳原白蓮、新村出(かの『広辞苑』編者)なども訪れています。あまり有名ではありませんが、光太郎の彫刻のモデルを務めたこともある歌人・今井邦子の夫も佐原にゆかりの人物です。実は佐原、古い街並み保存などの方面には力を入れていますが、文人との関わりなどの方面はまだまだ光を当てていません。
 
近隣の銚子や成田には光太郎、智恵子の足跡が残されています。しかし佐原と光太郎には、今のところ深い関わりは発見できていません。今後、佐原に住んでいた誰々に宛てた書簡などが出て来る可能性も皆無ではありませんが、おそらくないでしょう。大正元年に光太郎と智恵子は銚子の犬吠埼で「偶然に」出会っていますが、この頃の東京から銚子へのルートとしては佐原経由の成田線がまだ開通しておらず、もう少し南の八日市場・旭経由の総武線で往復し、佐原は通っていないと思われます。
 
ただ、間接的なつながり-光太郎というより光雲との-はいくつかあります。その一つが来週末に行われる「佐原の大祭・夏祭り」です。先日のブログに書いた佐原の骨董市が行われる八坂神社の祭りです。
 
佐原の大祭は夏と秋の二回、それぞれ3日間ずつ行われます。夏と秋では異なる地区が担当します。旧市街中心を流れる小野川を境に夏は東岸の「本宿」(旧市街の中でもより古くから発展していた地区)、秋は西岸の「新宿」(旧市街の中では比較的新しく発展した地区)が担当です。基本的には山車(だし)の引き回しをする祭りです。江戸期に繁栄していた頃、佐原の商人達がこぞって豪勢な山車を作らせ、その妍(けん)を競いました。

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山車の命は上部に据えられる巨大な人形と、山車全体を覆う木彫です。
 
まず、木彫の方では、先のブログで紹介した、東京美術学校で光雲の同僚だった石川光明の家系が関わっています。来週末に行われる夏祭りでは本宿地区10台の山車が出ますが、そのうちの4台に石川系の木彫が施されています。それぞれ江戸後期から幕末に作られたもので、「寺宿」「船戸」(本宿の中のさらに細かな町名です。以下同じ)の山車には、光明の先々代、豊光の門人であった石川常次郎の彫刻が、「下新町」の山車(こちらは秋ですが)にはやはり豊光の門人であった石川三之介の彫刻が施されています。また、詳細は不明とのことですが、「仁井宿(にいじゅく)」の山車にも石川系の彫刻が入っているらしいとのことです。佐原の商人達は、当時の江戸の有名な宮彫師(神社仏閣の外装などを手がける職人)であった石川一派に依頼したというわけです。どれも非常に精緻な木彫で、江戸の職人の水準の高さがよくわかります。
 
残念ながら高村一派の木彫が入った山車はありません。光雲は、自分の地元の駒込林町の祭礼で使う御輿(みこし)の木彫などは手がけていますが、あくまで地元だからであって、やはり御輿や山車の彫刻は仏師としての仕事の範疇から外れるのだと思います。
 
それから人形。佐原の山車には一部の例外を除き、歴史上の人物や神話の神々などの巨大な人形が据え付けられています。夏祭りで出る山車のうち、「下仲町」の人形・菅原道真(大正十年)、「荒久(あらく)」の人形・経津主神(ふつぬしのかみ=香取神宮の祭神 大正九年)の作者は、三代目安本亀八(かめはち)。これらの人形はとてつもなくリアルな「活人形(いきにんぎょう)」という種類のもので、これは幕末から明治、大正にかけて見世物小屋などで展示されることが多かったということです(一番下のリンクで画像が出ます)。光雲は活人形の祖、松本喜三郎を賞賛する文章を残しており、昭和四年に刊行された『光雲懐古談』に収められています。さて、「下中宿」の菅原道真。町内の人が書いた説明板には光雲がこの人形を見て絶賛した旨の記述があります。ただし、今のところ出典は確認できていません。
 
いずれ光雲の書き残したもの(多くは談話筆記)も体系的にまとめようと思っていますので、そうした中で調査してみたいと思います。
 
というような光雲との間接的なつながりのある祭りです。来週末の13日(金)から15日(日)の3日間。重要伝統的建造物群を背景に練り歩く山車を見るだけでもいいものです。タイムスリップしたような感覚も味わえます。十数年前までは、八坂神社に見世物小屋の興業が出ていました。さすがにそれは無くなりましたが、情緒溢れるレトロな雰囲気は昔のままです。といって、静かな祭りではなく、山車をその場でドリフトさせる「「の」の字回し」(平仮名の「の」のような動きということです)などの勇壮な曲引きもあったりしますし、山車に乗る「下座連(げざれん)」の人達の笛や太鼓の演奏も見事なものです。これも音楽史、民俗史的に貴重なもののようです。
 
是非、お越しください。
 
以下のサイトを参照させていただきました。
 
国指定重要無形民俗文化財 佐原の大祭
 
『生人形師 三代目 安本亀八展~日本人形の極致~』水郷佐原山車会館  

昨日に続き、骨董市ネタです。
 
数年前のことでした。市に参加しているある店の店頭に、額に入れられた「光太郎の葉書」が並んでいました。葉書ですので表裏になっていますが、裏面(文面)の方がこちらに向けてあり、表面(宛名面)の方はコピーで横に並べてあります。
 
山梨出身のマイナーな詩人・野沢一(はじめ)にあてたもので、『高村光太郎全集』には2通、山梨県立文学館所蔵のものが掲載されています。実際に同館でそれを見たこともありました(細かな文面までは頭に入っていませんでしたが)。そこで、「野沢宛か、あってもおかしくないな。」と思いました。書かれている内容も野沢の質問に対しての解答になっており、筋が通っています。筆跡も問題なさそうです。
 
値段を訊いてみると、「額付きで5万円」とのこと。まあ、妥当な値段です。さすがに財布に5万円は入っていませんし、こんな所ではカード払いなど不可能です。しかし、会場になっている神社の近くにコンビニがあったので(今は閉店してしまいましたが)、そこのATMから下ろせば何とかなります。その時点では、もう半分以上買う気になっていました。
 
もう少し確認しようと、店主に頼み、額から出して貰い、手に取ってみました。すると、額のガラス越しの時には感じなかった違和感。形的には見慣れた光太郎の筆跡ですが、どうにも筆跡に力がないのです。うまくいえませんが、光太郎の筆跡に接した際に感じられるオーラのようなものが漂ってこない、ということです。この時点で、だいぶ疑いが濃くなりました。
 
裏返して宛名面を見てみると、更におかしなことが。消印がないのです。消印がないということは、投函されていないということですね。なぜ投函されていないのか、と考えれば、答えはこれが偽物だから、です。
 
消印がないからといって、一概に偽物とは言えません。実際、消印がない本物も存在します。直接手渡したか、他の何かと一緒に封書や小包にして送ったかであれば、消印はなくてもおかしくはないので。しかしこの葉書は筆跡が弱すぎる。結局買うのはやめました。
 
逆に、消印が押してある偽物も見たことがあります。というか、現在も他の方のブログで、我が家の家宝です、みたいに紹介されています。これはどうみても筆跡が違うし、内容もおかしいし、何より光太郎の住所が間違っています。ここまで来ると程度が低すぎてすぐわかります。ただ、どうして消印が押してあるのかは謎ですが。
 
家に帰って、調べてみたところ、例の葉書に書かれていた内容は、現存する野沢宛2通の内の1通と同じでした。誰かが未使用の古い葉書に光太郎の筆跡を巧妙に真似て、書き写したということでしょう。偽物は今までに何点か見ましたが、筆跡を真似る技術では、これが一番でした。ある意味、すごい才能です。でもいかんせん、書かれた文字に「力がない」。それでも形はそっくりです。こういう才能をもっと他の部分で使うことはできないのでしょうか……。悲しくなります。
 
手前ミソになりますが、だまされなかった自分の眼力をほめたくなりました。テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」という番組、よく見ているのですが(ちなみに5月のオンエアで光雲の弟子筋にあたる木彫家の作品が出ており、興味深く拝見しました)、「鑑定士」と称する人がよく「力がない」ということを言っています。この経験をするまで、「ほんとかよ」と思っていました。しかし、わかるものなんですね。実感しました。

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昨日、当方の暮らす市内の神社で月に一度の骨董市があり、行ってきました。
 
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骨董市ですから、焼き物やら刀剣やらが主なのですが、とりあえず当方、だいたい毎月行っています。一部の業者が古書籍や「刷り物」といわれる一枚物の印刷資料等を持ってきていることがありますので。
 
結局昨日は何も買わず帰りましたが、時々買うのが、光太郎、智恵子、光雲ゆかりの地の古い絵葉書、特に戦前の発行と思われるモノクロのものです。先月は会津磐梯山のものを買いました。こうした骨董市だけでなく、古書店の店頭やネット販売や目録販売などでも気がつけば買っています。ネット販売や目録販売では結構高めの値段ですが(一枚数千円するものもあります)、骨董市などでは一枚100円くらいが相場ですし、宝探し的雰囲気が味わえて面白いものです。
 
光太郎たちがそこを訪れた時期にできるだけ近い時期の画像、ということで、ちょっとしたものを書く時に挿画として使えます。また、今は失われてしまった建造物などの画像は、結構貴重だと思います。
 
こうした古い絵葉書を使って、当方が刊行しています冊子『光太郎資料』にて光太郎たちの故地を紹介しています。『光太郎資料』については、後ほどのこのブログで紹介いたします。
 
昨年、群馬県立土屋文明記念文学館で開催された「第72回企画展 『智惠子抄』という詩集」の際には、当方手持ちの書籍やらポスターやらいろいろなものを出品物としてお貸ししたのですが、大正元年に光太郎と智恵子が「偶然」出会った銚子の犬吠埼や、大正2年に二人が一夏を過ごした上高地、昭和9年に智恵子が療養のために滞在した九十九里の絵葉書も当方のお貸ししたものが出品されました。ただし、あくまで光太郎たちがそこを訪れた時期にできるだけ近い時期の画像、ということで彼らの目に映った風景と若干異なるかも知れません。それでも、現在の姿より往時に近いものであることは確かでしょう。
 
さて、例によってお願いです。風景だけでなく、光太郎や光雲の彫刻(主に銅像)の絵葉書も集めているのですが、特に以下のものを探しています。もしお持ちの方で、譲っていただけるとか、画像を提供していただけるという方がいらっしゃいましたら、ご連絡下さい。
 
光太郎彫刻 
 宮城県 青沼彦治像(光雲代作) 志田郡荒雄村公園 大正14年(1925)
  除幕記念の袋入り5枚組のものを入手しましたが像が大写しになっているものがありません。
 千葉県 赤星朝暉胸像 千葉県立松戸高等園芸学校 昭和10年(1935)
 岐阜県 浅見与一右衛門像(光雲代作) 恵那郡岩村町 大正7年(1918) 
 
光雲彫刻
 秋田県 坂本東嶽像 仙北郡千屋村浪花字一丈木 大正12年(1923)
 栃木県 松方正義像 那須郡西那須野村 明治41年(1908)
 福井県 大和田荘七像 敦賀町永厳寺境内 明治44年(1911)
   〃  松島清八像 福井市足羽公園内 明治39年(1906)
 愛媛県 広瀬宰平像 新居郡中萩村字中村 明治31年(1898)
 
参考:屋外彫刻調査保存研究会ページhttp://www4.famille.ne.jp/~okazaki/zenkokuchousa1.htm

昨日紹介した小説、下八十五著「盗作か? 森鴎外の『花子』」を読んで、改めて花子のことが気になり、手持ちの資料の中から花子関連をもう一度読んでみました。
 
つくづく不思議な女性です。きら星の如くそれぞれ違った光彩を放つ光太郎人脈の中でも、ひときわ異彩を放っている一人だと思います。
 
昨日書いた通り、花子は明治末から大正にかけ、欧州各地で日本人一座を率いて公演を続け、各地で絶賛されました。しかし、現在の日本で彼女の名を知っている人がどれだけいるか、このギャップ。それは花子が欧州で活躍していた頃からそうでした。
 
一つには、芝居の内容の問題があると思います。仮に花子一座が日本で公演したら、嘲笑と怒号に包まれたことでしょう。女性が切腹をしたり、剣豪と柔術家が闘ったりという荒唐無稽な内容なのです。これは何も花子の責任ではなく、外国人興行主の意向です。当時の欧州では正しい日本文化など理解されていませんから、過度に日本情調を演出した内容が受けていたのです。したがって当時の日本ではキワモノ扱い。どんなに花子が名声を勝ち得ても、本国日本では無視され続けていました。その流れが現代まで続いているのです。
 
そんな中で、花子に着目した鷗外や光太郎は、矢張り炯眼の持ち主と言えるでしょう。そして彼女を彫刻のモデルにしたロダンも。
 
驚いたことに花子一座の芝居は、全て日本語で演じていたそうです。プログラムやパンフレットの類には、あらすじ等が細かく書かれていたと言うことですが、一つ一つの台詞など、観客にはわかりません。それでも観客がこぞって花子を絶賛したのは、言葉を超えて伝えられた彼女の表現力のせいだと思います。ちょうど我々が、言葉の意味はわからなくとも外国のオペラやミュージカルに感動するのと同じでしょう。ロダンも、クライマックスに切腹して果てる断末魔の花子の表情に惹かれ、彫刻にすることを思い立ったそうです。荒唐無稽な内容がどうあれ、そうした表現力で観客を虜にした花子、立派な女優だと思います。
 
さて、下氏の調査等のおかげもあり、花子の故郷・岐阜県では、花子を見直そうという動きが巻き起こりました。花子の妹の孫に当たる澤田助太郎氏(連翹忌にご参加いただいたこともあります)は、詳細な評伝を書かれました。 

ロダンと花子

澤田助太郎著 中日出版社 平成8年(1996)10月 定価1,456円+税

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また、岐阜県としてもこんな本を出しています。 

マンガで見る日本真ん中面白人物史シリーズ3 花子 ロダンに愛された国際女優

澤田助太郎原案 里中満智子構成 大石エリー作画 岐阜県 平成12年(2000)3月 定価記載なし

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この漫画、昭和2年(1927)に光太郎が岐阜の花子を訪れる所から始まりますが、光太郎、随分とイケメンに描かれています。風采のあがらぬおっさんに描かれなくてよかったと思いますが(笑)。

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さらにこちらは4年前にお隣愛知で開かれた企画展のパンフレットです。 

特別展花子とロダン-知られざる日本人女優と彫刻の巨匠との出会い-

一宮市尾西歴史民俗資料館 平成20年10月

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それぞれ光太郎にも言及されています。
 
最後にもう一つ。花子が持ち帰ったロダンの彫刻二点は、現在は新潟市美術館さんに収められているそうです。今度新潟方面に行く時には、見に行ってみようと思っています。

新刊情報です。 

盗作か? 森鴎外の『花子』

下八十五著 文芸社 平成24年7月15日(まだ7/15になっていませんが奥付記載の日付です) 定価1,600円+税

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最初に断っておきますが、これは、あくまで小説です。光太郎を含め、登場人物のほとんどが実在の人物ですし、書かれている出来事の大半も事実ですが、あくまで小説です。
 
内容を紹介する前に、主要登場人物をめぐる史実を説明しておかなければならないでしょう。
 
台風の目となるのは、女優・花子。実在の人物なのですが、ご存知でしょうか。
 
明治元年、岐阜県の生まれ。本名・太田ひさ。旅芸人一座の子役、芸妓、二度の結婚失敗を経て、明治34年(1901)、流れ着いた横浜で見たコペンハーゲン博覧会での日本人踊り子募集の広告を見て、渡欧。以後、寄せ集めの一座を組み、欧州各地を公演。非常な人気を博しました。明治39年、ロダンの目にとまり、彫刻作品のモデルを務めます。
 
ここでもう一人のキーパーソン、森鷗外。明治43年、雑誌『三田文学』に短編小説「花子」を発表。花子が初めてロダンのアトリエを訪れた際の様子が、通訳として同行した日本人留学生「久保田某」の視点で描かれています。
 
花子とロダンとの交流は、大正六年のロダン死去まで続き、ロダンが作った花子の彫刻は数十点。大正十年、そのうち2点を入手し帰国、岐阜に帰ります。昭和2年、光太郎が岐阜の花子を訪問。この時の様子は同じ年、光太郎が刊行したロダンの評伝に描かれています。昭和20年、花子、死去。やがて人々から忘れ去られていきます。
 
ここまでは史実です。
 
さて、この「盗作か? 森鴎外の『花子』」、冒頭に書きましたがあくまで小説です。小説なので虚実ない交ぜになっています。明治43年に発表された鷗外の小説「花子」に登場する通訳の「久保田某」のモデルが、鷗外の家で書生兼鷗外の長男・於菟(おと)の家庭教師であった大久保栄という人物で、「花子」は大久保の手記の盗作あるいは剽窃ではないか、という仮説が検証されていきます。
 
謎解きの探偵役、前半は光太郎です。昭和2年、岐阜の花子を訪れる前に森於菟の家に立ち寄った光太郎は、於菟から件(くだん)の仮説を聞かされ、謎解きを依頼されます。しかし光太郎は踏み込んだ調査が出来ずあえなく帰京(ある意味情けない!)。調査は光太郎死後、光太郎旧知の元新聞記者・山岡(著者の下氏がモデルです)に引き継がれ、実に百年近い歳月を経て、真実が明るみになる、というストーリーです。ネタバレになるのでオチはここには書きませんが。
 
全四百余ページの大作です。あくまで小説ですが、山岡が、花子や大久保の出自やら現在の子孫やらを捜し当て、当時の状況を解明していくくだりなどは、おそらくほぼ著者・下氏の調査体験の通りと思われ、非常な労苦に頭が下がります。現在刊行されている花子の評伝の類は、下氏の調査結果を基にしています。
 
全四百余ページの大作ですが、当方、2日で読破しました。皆さんも是非お買い求め下さい。
 
ただ、本書を読む前に、鷗外の「花子」、光太郎の「オオギユスト ロダン」中の「十七.小さい花子(プチトアナコ)」を先に読んでおくことをお勧めします。鷗外の花子は「青空文庫」で、光太郎の方はアルス刊の『ロダン』、筑摩書房『高村光太郎全集』第七巻、あるいは春秋社版『高村光太郎選集3』に掲載されています。後の二つは大きめの公共図書館なら置いてあると思います。

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明日も花子ネタで行ってみようと思っています。

明治古典会七夕古書大入札会、冊子の目録が届きました。頒価2500円ですが、以前、大口の買い物をしたということで、無料で頂きました。ありがたいことです。

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「たかが目録が2,500円?」というなかれ。A4判280余頁、カラー図版多数の豪華なものです。この時代の文学者の位置づけ的なものも表れ、後に「平成24年頃にはこの作家が人気が高かったんだ」という資料にもなります。
 
時間があったので、近代文学関連のみ最低入札価格の高額ランキングを調べてみました。あくまで業者が設定した最低入札価格ですので、実際にいくらで落札されるかは不明です。ことによると応札なし、ということもあり得ます。また、今年の出品物に限っての話ですので、ご了承下さい。これがイコール現代の作家の人気ランキングというわけではないということです。出品物の状態にも左右されますし、たまたまエントリーのない作家もいますから。
 
150万円以上に設定されているのは次の通りでした。
 
 岩波茂雄宛宮澤賢治書簡 500万003
 永井荷風草稿 400万
 更級源蔵宛高村光太郎書簡9通 署名本9冊付 350万
 芥川龍之介未定稿 300万
 森鷗外書巻「古稀庵記」 220万
 正岡子規宛夏目漱石書簡 200万
 斎藤緑雨採集草稿 樋口一葉・幸徳秋水関連 200万
 夏目漱石 我輩ハ猫デアル① 150万
 野呂邦暢草稿 150万
 
やはり書籍は「猫」1点だけでした。他は肉筆物です。堂々の1位は、賢治の書簡。夭折ということで、賢治の書簡は非常に少ないのでこの値段もうなずけます。宛先も岩波書店の社長で、メジャーどころですし。
 
光太郎の書簡が第3位ですが、9通セット、署名本9冊付と言うことで、一種の人海戦術のようなものですね。それを言ったら野呂の草稿も約150枚で150万ですから、もっと短いものだったらランク外です。
 
「猫」①以外、書籍だけに限定して高額商品を調べたところ、以下の通りでした。何冊もセットで出ているものは除きました。ただし、「猫」は元々全三巻ですので除いていません。
 
 宮澤賢治 『春と修羅』① 78万002
 中原中也 『山羊の歌』 60万
 宮澤賢治 『春と修羅』② 50万
 北原白秋 『邪宗門』署名入り 50万
 上田敏 『海潮音』40万
 夏目漱石 『我輩ハ猫デアル』② 40万
 与謝野晶子 『みだれ髪』 40万
 高村光太郎 『道程』 40万
 神崎武夫 『寛容』 40万
 太宰治 『駈込み訴へ』 40万
 福永武彦 『福永武彦詩集』40万
 
同じ「猫」でも、40万の出品もあります。白秋の『邪宗門』は署名入りという付加価値があります。光太郎『道程』は同率第5位ですね。金額がすべてではありませんが、光太郎ファンとしては、やはり嬉しいものです。それだけ認められている、ということですから。
 
「高村光太郎? 何それ? 全然人気がないからもう値段つかないよ」という時代が来ないでほしいと祈ります。祈るだけでなく、「光太郎はこんなに素晴らしい」ということをアピールし続けたいと思います。
 
それにしても、こういうものをポンと買えるのはどういう人なんだろうと、興味がありますね。こういうものを購入する方にお願いしたいのは、「死蔵しないでほしい」ということです。こういうものは日本国民共有の文化遺産ととらえ、研究等の用に役立てるべきだと思います。金額や希少価値にのみ拘泥して何ら世の役に立てず金庫にしまわれてしまっては、それこそ宝の持ち腐れです。活用されてこその宝です!

新着情報です。
 
2012年7月6日(金)~8日(日)の3日間、東京神田の東京古書会館で、年に一度開かれる古書籍業界最大のイベントの一つ、「明治古典会七夕古書大入札会」が開かれます。
 
古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。光太郎関連も毎年のように肉筆原稿や書簡、署名入りの書籍などが出品されており、目が離せません。
 
さて、今年の「明治古典会七夕古書大入札会」、昨日、出品目録がネット上にアップロードされました(これも今か今かと心待ちにしていました)。冊子の目録もおっつけ届くはずです(簡易版の目録は先週届いています)。ちなみに冊子の目録、ご希望の方は明治古典会加盟の古書店に請求すれば手に入ります(2,500円のはずです)。当方、何度か取引があった本郷の文生書院様にお願いしてあります。
 
光太郎関連、今年は例年にましてたくさん出品されています。

最低入札価格が設定されており、人気の商品はここからどんどん値が上がっていきます。
 
驚いたのは、詩集『道程』のカバー付きが出たこと。状態にもよりますが、カバー無しであれば10万円位で時々出ますが、カバー付きはここ数十年で、公の市場には数回しか出ていないはずです(当方もカバー無しは一冊持っています)。最低入札価格が40万円ですが、おそらくここから跳ね上がるでしょう。ただ、「背少傷(背の部分にそれとわかる傷があって痛んでいる)」ということなので、驚く程の値段にはならないかも知れません。稀覯本コレクターの方々は、本当に状態を気にしますので。

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それにしても、以前と比べると古書価もぐっと下がりました。やはり長引く不況の影響なのでしょう。試みに昔の目録を調べてみました。バブル真っ盛りの平成2年頃の目録では最低入札価格の記載がなく、比較できませんが、既にバブルがはじけた後の平成9年の目録と比較しても、明らかに値が下がっています。
 
例えば、宮澤賢治『春と修羅』。平成9年の最低入札価格は105万なのに対し、今年は2冊出品されていて、50万と78万。与謝野晶子の『みだれ髪』は、平成9年に100万だったのが、今年は40万。状態にもよるので、単純な比較はできませんが。ちなみに当方の記憶に間違いがなければ、『春と修羅』はバブルの頃には250万位の値がついたはずです。
 
『道程』も「40万」と聞くと「安いな」という感覚です。10数年前、カバー付きを持っているという古書店主と話をした時に「150以下では手放せないね」と言っていたのが記憶に残っていますので。もっとも40万から値が上がると予想しています。いくらになるのか興味深い所です。
 
しかし、こうした書籍系の値は下がっているものの、ここ数年、肉筆系の出品物は以前にも増して充実しているなと感じます。やはり古書店側も書籍系の値が下がっているためにいろいろ考えてこういうものを積極的に掘り出しているのではないでしょうか。ただし、落とし穴もありますね。今回の光太郎関連の出品物の中にも、いけないものが混ざっています。差し障りがあるので特定はしませんが。
 
さて、7月6日(金)~8日(日)の3日間のうち、6日、7日が一般公開。とても手の出る値段ではないので、入札はしませんが、目の保養のためどちらかの日に観に行ってみようと思っています。

新刊ではなく、昨年発行されたものですが、つい先程届きましたので紹介します。 

高村光雲と石川光明

 平成23年(2011)9月 清水三年坂美術館編・発行 定価2,000円

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昨年8月から11月にかけ、京都清水寺近くの清水三年坂美術館さんで開催された企画展「帝室技芸員series3 彫刻 高村光雲と石川光明」の図録です。光太郎の父・光雲と、もう一人、同時代の、というか同じ嘉永五年生まれの彫刻家・石川光明(こうめい)、二人の作品を約三十点ずつ集めた企画展だったようです。
 
不覚にも、この企画展があったことを知りませんでした。京都は大好きな街の一つですし、知っていれば観に行ったのですが、残念なことをしました。ただ、図録だけは同館のオンライン販売で入手できました。
 
光雲と光明、同じ年に生まれた彫刻家同士というだけでなく、もっとたくさんの共通点があります。まず、同じ浅草の生まれであること。そして、光雲は仏像彫刻の「仏師」の家に弟子入りし、光明は神社仏閣の外装などを主に行う「宮彫師」の家に生まれたという違いはありますが、ともに廃仏毀釈による苦難の時代を経て、復権した木彫で名を為したこと。そして共に東京美術学校(現・東京芸術大学)教授となり、共に帝室技芸員に任じられたこと。共に各種の博覧会や皇居造営の際の彫刻に腕を振るったこと、など。したがって、二人は莫逆の友です。この図録に、先に逝った光明を惜しむ光雲の談話(初出『美術之日本』第5巻第9号 大正2年=1913 9月)も掲載されていますが、友を失った光雲の語り口には、哀惜の意が深く込められています。
 
さて、図録に収められた光雲作品、当方も初めて見るものがほとんどでした。平成11年に中教から刊行された『高村規全撮影 木彫高村光雲』、平成14年に千葉市美術館他四館で開催された企画展の図録『高村光雲とその時代展』、それぞれ100点近くの光雲作品写真が掲載されていますが、今回掲載されている物との重複はほんの数点です。
 
驚いたのは同じモチーフ(例えば鍾馗、西王母、獅子頭など)の彫刻だから同一のものだろうと思うと、よく見たら木目や彩色の工合などが微かに違い、別の作品だとわかることです。もう光雲の頭の中にはそれぞれのモチーフの設計図が叩き込まれており、寸分違わぬものが幾つも出来るのですね。
 
そういった点を抜きにしても、その超絶技巧には舌を巻きます。この点は光明の作品にも言えることですが、「ここまでやるか」という細部まで細密に彫っています。例えば上の画像の観音像が手にしている蓮。実際に見た訳ではないので断言はできませんが、他の作品の例を当てはめれば、別に作って手に差し込んであるのではなく、一本の木から掘り出してあり、手とつながっているはずです。後ろの髪飾りや首飾りも同様です。
 
こうした作り方を光太郎は芸術ではなく職人仕事だ、と蔑む部分があったようです。光雲自身も自分を芸術家とは捕らえていませんでした。
 
当方など、実作者ではない立場から、「凄いものは凄い」「美しいものは美しい」と思います。明治初期の工芸、特に欧米向けの輸出品の中には、有象無象の作家が超絶技巧を見せようとするあまり、ゴテゴテとした装飾過剰に走ったゲテモノのような作品もあります。しかし、光雲の木彫にはそういう嫌らしさは感じられません。
 
明治期の彫刻、ゲテモノは別として、もっともっと評価されていいと思います。

6月16日土曜日、二本松に行く途中、三宅坂の国立国会図書館に寄り道しました。以前も書きましたが、当方の居住地から都心まで出るのも一苦労で(高速バスで約1時間30分1,700円、JRの普通列車で約2時間、1,620円)、こういう機会も活用しています。

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このところ、光太郎作詞の歌曲について調査をしています。同時代や後世の作曲家が元々あった光太郎の詩に曲をつけたものではなく(それはそれで重要なのですが)、最初から光太郎が歌の歌詞として詩を作ったものについて主に取り組んでいます。
 
光太郎は歌の作詞にはあまり熱意を持っておらず、このカテゴリーに属するものの数は多くありません。そういう意味では同時代の北原白秋、三木露風、野口雨情等と比べると異質です。また、北川太一先生のご指摘によれば、光太郎には校歌の作詞が一篇もないとのこと。たしかに校歌というもの、名だたる詩人に依頼することが多いものですね。実際、光太郎の日記にも依頼があったことは記されていますが、引き受けたという記述は見あたりません。「おらが村の学校の校歌は光太郎作詞だ」という方がもしいらしたら、大発見です。ご教示下さい。
 
ただ、校歌は作っていない光太郎ですが、岩波書店の「社歌」は作詞しています。これを含め、10曲たらずですが、最初から光太郎が歌の歌詞として詩を作ったものについて調査をしています。作曲者が誰で、レコードや楽譜はいつどこから発行され、レコードなら誰が歌い、ラジオでの放送は、独唱・合唱誰が編曲し、現在手に入るCDは、などなど、こういったことについてまとまった記録がありませんので、すこしずつやっているわけです。誰かがまとめておかないと、こうした事実も歴史の波に埋もれてしまいますから。
 
しかし、これが予想外に難航しています。楽譜やレコードの類は一般の古書籍ほど市場が確立していませんし、図書館等にもあまり所蔵されていません。それでも国会図書館では、当方未知の資料が最近になって館内限定閲覧のデジタル資料に登録されたので、調べに行って参りました。
 
いろいろな書籍やインターネットサイトで調べても脱漏や事実誤認が多く、なかなか全貌を明らかにするのは困難です。平安時代とかではなく、たかだか数十年前の話なんですけどね。
 
調査の結果わかったこと、楽譜などは、当方の発行しています冊子『光太郎資料』に少しずつ掲載しています。『光太郎資料』については、また後ほどこのブログでご紹介いたします。
 
話は変わりますが、またやってしまいました。先程気がついたのですが、昨夜、テレビ東京系の『乃木坂浪漫』で「智恵子抄」の朗読があったとのこと。

先月も同じ番組で「道程」その他の朗読があったのを見逃しました。この番組、yahoo!のテレビ番組の内容検索でひっかからないので、うっかりしていました。後でDVDにでもして発売してほしいものです。

今週いただいた新刊資料2冊を紹介します。奇しくも双方とも、今年亡くなった吉本隆明氏に関連するものです。

ご存知の方も多いかとは思いますが、氏は昭和三十年代から光太郎を論じはじめ、その論評が未だに我々研究者のバックボーンの一つとなっています。 

資料集 永瀬清子の詩の世界

赤磐市教育委員会編 平成24年(2012)3月31日 赤磐市教育委員会熊山分室 非売品?

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岡山県から届きました。光太郎と親交のあった詩人、赤磐市ゆかりの永瀬清子に関する資料です。以前、「遺珠」①にて永瀬宛光太郎書簡を御遺族の方を通じてご提供いただいたりしたご縁です。ありがたいことです。

光太郎の名は出て来ませんが、光太郎が序文を執筆した詩集『諸国の天女』に触れる部分等があります。

目次を抄録します。
 
 永瀬清子講演録「のびゆくひと」
 永瀬清子の詩の世界-焔に薪を 石原武
 永瀬清子の詩の世界-私は地球 吉本隆明
 対談 感覚をもとめつつ労働する 井坂洋子 伊藤敏恵
 永瀬清子の詩の世界-光っている窓 谷川俊太郎 山根基世
 永瀬清子の詩の世界- 西本多喜江
 
吉本氏をはじめ、錚々たるメンバーです。吉本氏が永瀬清子にも目を向けていたというのは、当方、寡聞にして存じませんでした。
 
それにしても、地方の一教育委員会が、地元の詩人についてこのようにしっかりと顕彰事業を行っているというのが素晴らしいと思います。当方の持論で、あちこちで同じようなことを書いたり喋ったりしていますが、どんなにすぐれた芸術作品でも、後の時代の人間がその価値を正しく理解し、次の世代へと受けつぐ努力をしなければ、やがては歴史の波の中に埋もれてしまうものです(光太郎も例外ではありません)。そういった意味では、赤磐市の取り組みは、そうはさせまいという意気込みが伝わってきます。 

雑誌『春秋』539号

春秋社 平成24年(2012)5月25日 定価71円

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当会顧問・北川太一先生から頂きました。先生の玉稿「死なない吉本」が紙面を飾っています。
 
北川先生と吉本氏は戦争を挟んだ数年間、東京府立化学工業学校・東京工業大学で机を並べ、互いのお宅を行き来する仲だったとのこと。もちろんそこには「光太郎」という共通項があったわけです。
 
これまでに発表された追悼談話の数々は、氏を半ば神格化しつつあるかと思います。確かに当方などにとっては雲上人ですし、もう少し前の世代のある立場の人々にとっては、北川先生も引用なさっている通り「日本の英雄」的な扱いも無理からぬことです。しかし、それを「「よせやい!」という彼一流の苦笑いさえ見えるようだ。」と評するあたたかな北川先生の眼差しが感じられます。
 
さて、このブログを書いている今日、これから一寝入りして国会図書館経由で福島・二本松に向かいます。

最近入手した光太郎関連の書籍ですが、少し前に出版されたものを紹介します。調査がゆきとどきませんで、最近までこれらの書籍の存在に気づきませんでした。 

南海漂蕩 ミクロネシアに魅せられた土方久功 杉浦佐助 中島敦

 岡谷公二著 冨山房インターナショナル 平成19年(2007)11月29日 定価2,400円+税

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サブタイトルに名前のある3人は、大正から昭和初期にかけ、日本統治下のパラオに流れていった人々です。3人のうち光太郎と親交のあったのは、ともに彫刻家の土方久功(ひさかつ)と杉浦佐助。光太郎との交流を含めた3人の南島生活を中心とした評伝です。
 
杉浦佐助は昭和14年(1939)に開かれた彼の個展のパンフレットに、光太郎が「恐るべき芸術的巨弾-杉浦佐助作品展覧会」という文章を寄せ、絶賛しました。今では全くといっていいほど忘れ去られた彫刻家ですが、著者岡谷氏が幻の作品を探すくだりなどは、読んでいてワクワクさせられました。 
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左から川路柳虹(詩人)、杉浦、光太郎。右端の人物は不明です。

土方に関しても光太郎は昭和28年(1953)の『朝日新聞』に「現代化した原始美-土方久功彫刻展-」という文章を寄せています。のちに土方著『文化の果にて』(『智恵子抄』版元の龍星閣刊行)の序文として転用されました。

大江戸座談会

 竹内誠監修 柏書房 平成18年(2006)12月25日 定価2,800円+税

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昭和初期に刊行された雑誌『江戸時代文化』『江戸文化』に掲載された座談会の復刻です。画家の伊藤晴雨、編集者の山下重民らの有名どころから、元南町奉行所の与力、直心影流の達人、和宮に仕えた旧幕臣、江戸の商人など、さまざまな階層の人々が14のテーマで行った座談です。
 
光太郎の父・光雲も「江戸の見世物」「江戸の防御線-見附の話」「彰義隊」の3回に出席し、記憶を語っています。
 
光雲が江戸から明治初期にかけてを回想して語った回顧録の類は多く、光太郎が生まれ育った環境を知る上でも貴重な記録です。当方が発行しております冊子『光太郎研究』にそのあたりを少しずつ掲載しています。いずれはこの座談会も掲載しようと思っています。
 
冊子『光太郎研究』についてはまた後ほど紹介いたします。

先日、近々行われる光太郎関係のイベントをご紹介しましたが、もう1件見つけました。

東海メールクワィヤー第55回定期演奏会 清水脩作品特集

期 日 : 2012年6月24日(日)
会 場 : 愛知県芸術劇場コンサートホール
時 間 : 13:30~
料 金 : 2,000円


「東海メールクワィヤー」さんは名古屋を拠点として活動している歴史ある男声合唱団です。作曲者自らの指揮による演奏、委嘱作品などにも力を入れており、それらはレコーディングもされ、古くはアナログレコード、最近ではCDにもなっており、貴重な音源です(邦人作曲家の合唱曲はあまり音盤になっていないのです)。
 
こういった音盤や楽譜の類は一般の書籍ほどに市場が確立されておらず、図書館等での収集もあまり進んでいません。放っておくと散逸し、記録も残らないので、当方、気が付けば入手するように勤めています(まぁ、自分でも音楽活動に取り組んでいるので、そういった部分での興味もあるのですが)。このあたり、詳しくは北川太一先生より名跡を引き継ぎ、今年から当方が発行しております冊子『光太郎資料』に関連するコーナーを設けました。後日のブログで紹介します。

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さて、今回の演奏会では五部構成のプログラムの中に「梅酒」「智恵子抄巻末のうた六首」が含まれています。やはり東海メールクワィヤーさんの委嘱により作曲された男声合唱です(「巻末のうた」の方は後に混声版も作られました)。
 
清水脩(明44=1911~昭61=1986)は、この他にも光太郎の詩にいろいろと曲をつけており、ジャンルも合唱(男声・混声)、独唱、現代箏曲などと、多岐に及んでいます。こうした形でも光太郎作品を取り上げていただけるのはありがたい限りです。
 
先日も書きましたが、光太郎、智恵子関連で他にもこんなイベントがある、という情報をお持ちの方はお知らせいただければ幸いです。こちらでもできる限り調べているのですが、テレビ放映を含め、終わってしまってから気づくこともありまして……。書籍やCD、DVDなどの類は少し情報が送れても入手できますが、イベントやテレビ放映などは期日が決まっているもので、逃す危険性がありますから。

いったん中断しましたが、『高村光太郎全集』補遺作品集として毎年連翹忌の日に世に出しています「光太郎遺珠」、平成19年に刊行した②の内容を紹介します。 

「光太郎遺珠」②

 平成19年(2007)4月2日 高村光太郎談話会
 
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俳句2句                                                      大3 『睡蓮』
短歌4首                                                     〃
散文「ツルゲーネフの再吟味」                     昭9 『ツルゲーネフ全集内容見本』
 〃 「木下利玄全集内容見本」                       昭14 『木下利玄全集内容見本』
雑纂「日本人名録」                                       昭24 『毎日年鑑昭和二十五年版』
短句1篇                                                         昭23(推定)
書簡3201 平櫛倬太郎(田中)宛                明39
 〃 3202     〃                                      〃
 〃 3203 太田正雄(木下杢太郎)宛          明44
 〃 3204     〃                                         〃
 〃 3205     〃                                      明45
 〃 3206 Henri Matisse(アンリ・マチス)宛          〃
 〃 3207 真山孝治宛                                 大2(推定)
 〃 3208 太田正雄(木下杢太郎)宛          大3
 〃 3209 佐藤春夫宛                                   年代不明(大正期と推定)
 〃 3210 硲眞次郎宛                                   昭5
 〃 3211 米澤理蔵宛                                   昭7
 〃 3212 吉野秀雄宛                                   昭9
 〃 3213    〃                                           〃
 〃 3214    〃                                          昭11
 〃 3215 森川勇作宛                                   昭13
 〃 3216 吉野秀雄宛                                     〃
 〃 3217 神保光太郎宛                                昭15
 〃 3218 吉野秀雄宛                                      〃
 〃 3219 平櫛田中宛                                   昭16
 〃 3220  森下文一郎宛                                 昭17(推定)
 〃 3221 神保光太郎宛                                  〃
 〃 3222 吉野秀雄宛                                   昭20
 〃 3223 天江富弥宛                                   昭21
 〃 3224 黒須忠宛                                      昭26
 〃 3225 長嶌三芳宛                                     〃
 〃 3226 野末亀治宛                                   昭27頃
 〃 3227 谷川俊太郎宛                                昭28(推定)
 〃 3228 武者小路実篤古稀祝賀会宛          昭29
題字「八木重吉詩集のための「麗日」「花がふつてくるとおもふ」    昭18
智恵子書簡68 太田正雄(木下杢太郎)宛   明45
参考資料 パン大会案内                                明43

 
平成18年(2006)に「光太郎遺珠」①を刊行し、その後1年間で見つけた新資料です。この年はやはり書簡がものすごくたくさん見つかりました。特に大きな発見は、智恵子書簡。田村俊子と二人で開いた「『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会」の案内状です。
 
こういったものをどうやって見つけるのか、後ほどその方法も書いてみたいと思っています。
 
今回紹介した「光太郎遺珠」②、現物は当方手許にある一冊だけとなってしまいました。ただ、データの形では提供できますので、ご希望の方はお声がけ下さい。

さて、昨日観て参りました渡辺えりさん率いる劇団おふぃす3○○(さんじゅうまる)さんの舞台、「月にぬれた手」と「天使猫」をレポートします。
 
会場は座・高円寺さん。休日で二本立てということもあって、二公演とも233席、満員でした。ちなみに花巻高村記念会の高橋氏もいらしていました。夜行バスで花巻との往復だそうで、お疲れ様です。

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昨日は昼の部でまず13:00開演の「天使猫」。宮澤賢治が主人公です。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という賢治の名言を軸に、理想と現実のはざまで苦悩・葛藤する賢治の姿が描かれています。そんな賢治を温かく見守る弟の清六や妹のトシ、逆に非難・嘲笑する人々、そして賢治を取り巻く「イーハトーヴ」の大自然などとのからみが、幻想的な賢治童話に乗せて展開されます。

<配役>
 猫/保坂嘉内/きつね/生徒B/紳士……手塚とおる
 宮沢賢治……土屋良太
 トシ/ひばりの母/山猫/ヤス……馬渕英俚可
 清六/岩手山……宇梶剛士
 (山の役、というのもすごいものがありました。渡辺さんのブログに画像があります。)
 信夫/校長/うさぎの父/生徒A/別当/政次郎……谷川昭一朗
 絹江/ホモイ/イチ……渡辺えり
 キヌ/稲妻小僧……奥山隆   斎藤……醍醐直弘   川村……原田菜奈
 菊地/ひばりの子……佐藤友紀 小原……石山知佳   伊藤……加藤ちえり
 清六少年……川口龍      シゲ……加藤亜依   マツ……川崎侑芽子
 タケ……小出奈央       ウメ……金田彩乃

光太郎は配役として設定されていませんが、ストーリーの中で何度も「高村光太郎先生」として語られました。

夜の部は17:00開演で「月にぬれた手」。光太郎が最晩年を過ごした中野のアトリエ、それに先立つ花巻の山小屋が物語の舞台です。戦時中に自分が書いた詩を読んで散っていった若い命、夢幻界の住人となった智恵子に対する悔恨が浮き彫りにされています。最晩年の光太郎は「脱却」という語を好んで使いましたが、そこに到るまでにはどれほどの苦悩があったことか……。この舞台ではそれを表現しようとしているのだと思います。木野花さん演じる村の農婦が光太郎に投げつける「戦争中にこいづが書いた詩のせいでよ、その詩ば真に受げて、私の息子二人とも戦死だ。」「おめえがよ、そんなにえらい芸術家の先生なんだらよ。なしてあんだな戦争ば止めながった? なしてあおるだげあおってよ。自分は生ぎでで、私の息子だけ死ねばなんねんだ。」という台詞、重たいものがありました。
 
「天使猫」にしてもそうですが、重いテーマを扱いながら、ユーモラスな描写も多く(ウサギのかぶりもので走り回る渡辺さんには客席から爆笑が起こりました。)、それが救いとなっている部分も多かったと思います。特に「月にぬれた手」では、光太郎ファンにしかわからないような小ネタが散りばめられていたり、当方もよく存じ上げている実在の方々がモデルになっていたりと、そうした部分でも楽しめました。

<配役>
高村光太郎……金内喜久夫                智恵子……平岩紙
わか(光太郎の母)……神保共子      春子(智恵子の姪)……藤谷みき

【光太郎と交流を持つ近隣の住人たち】
はじめ/秀……神保共子                   良枝(はじめの母)/伸……木野花
節子(秀の娘)……平岩紙

【光太郎を訪ねてくる人々】
長沼千代子……渡辺えり                    田辺正夫/北山……小椋毅
八千代(正夫の婚約者)……藤谷みき

【山口小学校】
校長……木野花                               村長……藤谷みき
子供たち……加藤亜依、小出奈央、佐藤友紀、醍醐直弘、内川啓介
 
「天使猫」は6/3(日)まで。「月にぬれた手」は5/28(月)まで。まだ若干の空席のある日もあるそうですので、おふぃす3○○(さんじゅうまる)さんまでお問い合わせ下さい。

今日は渡辺えりさん率いる劇団おふぃす3○○(さんじゅうまる)さんの舞台、「月にぬれた手」と「天使猫」の二本立てを観に行きます。

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開演は午後なので、午前中は国会図書館さんで調べもの。当方、千葉県在住ですが、千葉県といっても田舎の方で、都心に出るのも一苦労でして、上京(本当にそういう感覚です)する際には複数の用事を片付けることにしています。

詳しくは帰ってからご報告致します。

名古屋の方からこんなニュースがあったとお知らせいただきました。

高村光雲の木彫を無断売却=横領容疑、元美術商逮捕―横山大観作品も質入れ―警視庁

時事通信 5月15日(火)16時36分配信

 預かっていた高村光雲作の木彫を2500万円で勝手に売却し、横領したとして、警視庁捜査2課などは15日、業務上横領容疑で、鳥取市桂見、元美術商の山本麿容疑者(47)を逮捕した。同課によると、容疑を認めており、売却益は遊興費や借金返済に充てたという。山本容疑者は他の美術商らから横山大観や東山魁夷作の絵画など約11点の販売委託も受けていたが、いずれも質の出し入れを繰り返していた。
 逮捕容疑は昨年9月、静岡県内の美術館に販売する名目で、東京都練馬区の美術商から預かった高村光雲作の木彫を別の美術商に2500万円で売却し、横領した疑い。
 同課によると、山本容疑者が美術館に売却する話を持ち掛け、4000万円で商談が成立したが、売却話は架空だったという。 
 
バブルがはじけてだいぶ経ちますが、光雲の木彫ともなるとこのくらいの金額になるのですね。
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ムンクの「叫び」はオークションで96億円という話でしたが……。

4/22(日)、信州穂高の碌山美術館さんで開催された碌山忌に行って参りました。
 
碌山(ろくざん)とは、光太郎と交流のあった彫刻家、荻原守衛(明12=1879~同43=1910)の号。守衛と光太郎はお互いが留学中だった明治末にニューヨークで知り合い、その後光太郎が移り住んだロンドンやパリでも交流を深めました。お互いの帰国後も、手を携え、古い日本彫刻界に新風を送り込む役割を果たしたのです。しかし、守衛は数え32歳の若さで夭折。現在残っている彫刻は15点だけだそうです。それでも古い日本彫刻界に新風を送り込んだ功績は大きく、彼の絶作「女」は国の重要文化財に認定されています。
 
碌山美術館さんはそんな守衛の功績を後世に残すべく、碌山の故郷、信州穂高に昭和33年に開館しました。碌山作品の他、光太郎の作品もたくさん展示されていますし、何度も光太郎に関わる企画展を開催、現在も学芸員の方が我が連翹忌に欠かさず参加して下さっています。
 
さて、4月22日は守衛の命日、碌山忌ということで、行って参りました。4月も中旬ということで、関東ではとっくに桜は散っていましたが、信州はまさに満開の時期でした。
 
当方が着いたのは昼前で、まずは守衛の墓参。美術館自体はたしか4回目の訪問でしたが、守衛の墓は初めて行きました。館から車で10分ほどだったでしょうか。館の方に送っていただきました。やはり守衛と交流のあった画家、中村不折(太平洋画会での智恵子の師でもあります)の筆で墓碑銘が書かれていました。光太郎の代参のつもりで手を合わせて参りました。
 
その後は美術館に戻り、館内の見学と、碌山忌コンサート。高村光太郎研究会の会員で、「雨男 高村光太郎」の著者、西浦基さんも大阪から駆けつけていました。

 
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15:00から新宿中村屋CSR広報室長・吉岡修一氏の講演「新宿中村屋の創業者 相馬愛蔵・黒光の商人道と中村屋サロン」を聴きました。新宿中村屋を創業した相馬愛蔵(明3=1870~昭29=1954)も穂高の出身。同郷の守衛をはじめ、多くの文化人が店に出入りし、「中村屋サロン」が形成されました。守衛の生前には光太郎もしばしば訪れたということで、現在でも光太郎の描いた油絵「自画像」が中村屋に残っています。しかし、吉岡氏曰く、あちこちの企画展等への貸し出しが非常に多く、光太郎は「中村屋一出張の多い男」だそうです(笑)。
 
続いて、学芸員の武井敏氏による研究発表「相馬黒光の追憶」。かつて光太郎も真壁仁との対談(昭和27年=1952 3月30日放送『全集』第11巻)で出演したNHKのラジオ番組「朝の訪問」で、相馬愛三の妻、黒光が出演した回の録音を聴かせていただきましたが、残念ながら、列車の時間があり、途中で退出いたしました。
 
碌山美術館では立派な研究紀要なども発行され、研究の拠点としての役割も果たしています。西浦さんとも話しましたが、光太郎顕彰にもこういう拠点があれば……というのが正直な感想です。
それを抜きにしても、碌山美術館、とてもいいところです。昨年度のNHK連続テレビ小説「おひさま」の舞台になった安曇野、他にも見所がたくさんあります。ぜひお越し下さい。

碌山美術館と周辺での光太郎スポット

碌山館……レンガ作りの重厚な建物。守衛の彫刻作品を収めています。入口の壁には、「碌山の芸術を守り支えた先人の名を刻む」という石のプレートがはめ込まれており、守衛を援助した黒光、実兄・荻原本十、友人の戸張孤雁と光太郎の四人の名が刻まれています。

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第一展示棟……守衛の友人や系譜につながる彫刻家、画家の作品が展示されています。「手」「腕」など光太郎の彫刻も多数。
 
「荻原守衛」詩碑……碌山館の裏手に平成12年(2000)に建てられました。光太郎の詩「荻原守衛」が刻まれています。
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「坑夫」……隣接する穂高東中学校に建つ守衛の彫刻です。台座にはめ込まれた題字を晩年の光太郎が揮毫しました。この彫刻「坑夫」は、守衛滞仏中の明治40年(1907)の作で、守衛の元を訪れた光太郎が、是非日本に持ち帰るように助言したといわれています。こちらには昭和30年(1955)に建立されました。


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昨日のテレビ朝日系「徹子の部屋」、ゲストは渡辺えりさんでした。貴重なお話がたくさん聞けました。
 
今年87歳になられる渡辺さんのお父様は光太郎と面識があり、お父様が光太郎と出会った時のエピソードをご紹介、光太郎署名入りの『道程 再訂版』や、光太郎からの葉書をご持参、黒柳さんも興味深そうでした。
 
お父様と光太郎にまつわるエピソードは、以下の書籍・雑誌に記述があります。 

 中央公論社 平成15年(2003) 渡辺えり子(美輪明宏さんの勧めで改名する前の渡辺さんです)

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ちなみに当方の持っている『思い入れ歌謡劇場』に、渡辺さんにサインをしていただきました。 

月刊絵手紙2003年6月号通巻90号003

日本絵手紙協会 平成15年(2003)
 
渡辺正治氏(お父様です)の「昭和20年4月10日光太郎先生との一期一会」2ページ。先の『道程』や葉書の画像も掲載されています。

ただ、ちょっと古い雑誌でして、ざっとネットで探した範囲ではバックナンバーも完売してしまって販売されていないようです。入手には古書市場だのみとなりますね。

 
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こちらの書簡については、平成18年(2006)高村光太郎記念会発行の『光太郎遺珠』北川太一・小山弘明編にも掲載させていただいております。『光太郎遺珠』とは何か? また後ほどのブログで紹介いたします。 

牛田守彦著 ぶんしん出版 平成23年(2011)

昨日の「徹子の部屋」オンエアで紹介されたものですが、当方、こちらの書籍は存じませんでした。早速購入しようと思います。 
 
また、今月17日から公演が始まる舞台、光太郎・智恵子を描いた『月にぬれた手』、宮澤賢治が主人公の『天使猫』についてもお話がありました。当方、5/26(土)のチケットを購入、2本立てで見に行って参ります。
 
今日は夜7:30~8:00、NHKBSプレミアムの「きらり!えん旅」で、由紀さおりさんが二本松を訪れた模様が放映されます。再放送は5/16(水)午前11:00~11:30、5/17(木)午後3:30~4:00です。

いろいろなところで光太郎、智恵子が取り上げられ、嬉しい限りです。この流れを途切らせないようにしたいものです。
 
また、明日5/11(金)、地上波テレビ東京系11時35分~12時30分、大人の極上ゆるり旅「岩手・花巻温泉郷/中伊豆・名湯巡り」が放映されます。元「わらべ」の高橋真美さんと、温泉エッセイストの山崎まゆみさんが、光太郎も時折滞在した花巻・鉛温泉を訪れます。

この番組、一回の収録で何回かに分けてオンエアされるようで、4/27の放映は、同じお二人が、やはり光太郎が愛した花巻・大澤温泉と花巻温泉を訪れた模様でした。この回では、宮澤賢治に関しては詳しく取り上げていましたが、光太郎の話は出てきませんでした(背景に光太郎の揮毫した書が映りましたが)。今回の鉛温泉はどうでしょうか? 

4月14日(土)、横浜のそごう美術館さんを後にし、000一路、新宿へと向かいました。
 
老舗のライヴハウス、ミノトール2さんにて、高木馨さんの『高村光太郎考 ぼろぼろな駝鳥』出版記念イベントがあったためです。同書は、昨年10月に文治堂書店さんから刊行されました。原稿用紙500枚という大作です。
 
さて、イベントは高木さんの親友で詩人・刀道の達人、佐土原台介氏の司会で始まりました。
 
光太郎関連では、中西利一郎氏の興味深いお話がありました。中西氏は、水彩画家の故・中西利雄氏(明33~昭23)のご子息で、中野区ご在住です。光太郎がその最晩年、十和田湖畔に建つ裸婦像(通称・乙女の像)の制作のため借りたのが中西利雄のアトリエ。

ちなみに光太郎はこちらの庭に咲いていた連翹を愛し、そこから光太郎の命日が「連翹忌」と命名されました。中西利一郎氏は、写真のパネル等を持参され、光太郎の回想を披瀝されました。
 
続いて当方のスピーチ。連翹忌についての話をメインに、15分ほどしゃべらせていただきました。
 
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その後は高木さんのお仲間のみなさんによるアトラクション。シンガーソングライター小藤博之さん、
ピアノ引き語りいまむら直子さんとシューフィーズの皆さん、アコースティックギター中村ヨシミツさんと歌の三原ミユキさん、フラメンコ手下倭里亜さんと手下ダンススタジオの皆さん。
 
この手のイベントが有れば、出来る限り駆けつけますし、しゃべれと言われればしゃべりますので、お声がけ下さい。

ブログ、開設したばかりで最近の報告が追いつきません。
 
4月14日(土)、まずは横浜のそごう美術館さんに行って参りました。お目当ては企画展「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」(会期は4/22までで、もう終わってしまっています)。


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現在は福島のいわき市立美術館で巡回開催中(6/17まで)。
 
赤羽末吉、いわさきちひろ、武井武雄、司修、ますむらひろしなど、後世のアーティスト達が表現した賢治の世界がメインでしたが、そこに光太郎の書も展示されました。岩手花巻、羅須地人協会の跡地に建つ「雨ニモマケズ」を刻んだ詩碑の元になった光太郎の揮毫です。
 
光太郎と賢治、二人が直接会ったのは大正15年の秋、おそらく一度しかありません。しかし、お互いにお互いの芸術世界を激賞していました。そうした縁もあり、賢治没後の昭和11年(1936)に建てられた碑の揮毫を光太郎が引き受けたのです。
 
当方、碑は何度も見ましたし、拓本も持っているのですが、やはり元の筆跡はまた違った感じがしました。

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それにしても光太郎の筆跡のすばらしさ。この揮毫に限らず、光太郎書の全般にいえることですが、どれもものすごい芸術的な書、というわけではなく、当たり前の書法で当たり前に書いています。しかし、そこから漂う「品格」「気」とでもいうのでしょうか、それは絶対に真似の出来ないものだと思います。

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平成24年(2012)4月2日、東京日比谷の松本楼において、第56回連翹忌が行われました。昨年は震災の影響で集まりは中止、こうして皆さんとお会いするのは2年ぶりとなりました。
 
まず、一昨年の連翹忌まで、毎回元気に参加なさっていた宮城・女川光太郎の会の貝廣さんをはじめ、震災で犠牲になられた方々への黙祷。
 
乾杯のあとは、各地で活躍される方々からスピーチをいただきました。
 
高村光太郎記念会事務局長にして当会顧問をお願いいたしました、北川太一先生
女川光太郎の会の笠松さん、佐々木さん
岩手・高村記念会の高橋さん
光太郎・智恵子を主人公とした舞台「月にぬれた手」を上演される女優の渡辺えりさんとお仲間のみなさん
長野・碌山美術館の武井さん
昨年、「北川太一とその仲間達」を上梓された文治堂書店さん
やはり昨年、文治堂書店さんより力作「高村光太郎考 ぼろぼろな駝鳥」を刊行された高木馨さん
今年、「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」を刊行される坂本富江さん
光太郎のご親族で、鎌倉でギャラリー笛を開かれている山端ご夫妻
生前の光太郎を知る鋳金家・人間国宝の斎藤明先生
オペラ「智恵子抄」等でご活躍の歌手・本宮寛子さん
福島・智恵子のまち夢くらぶ熊谷さん
 
他にも大勢の方にスピーチをいただきました。ありがとうございました。
 
来年の第57回連翹忌も、どうぞよろしくお願いします。

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