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光太郎の父・光雲作品が出ます。

彫刻って面白い!〜これってなんだ?からそっくりまで〜

期 日 : 2023年12月22日(金)~2024年2月12日(月・祝)
会 場 : 石川県七尾美術館 石川県七尾市小丸山台1-1
時 間 : 午前9時〜午後5時
休 館 : 毎週月曜日 ※1/8(月.祝)、2/12(月.祝)は開館、1/9(火)
      12/29(金)から1/3(水)までの6日間
料 金 : 一般350円(280円) 大学生280円(220円) 高校生以下無料
      ( )は20名以上の団体料金

 開館時の平成7年(1995)、400点に満たなかった当館の所蔵品は、現在800点を超えました。これらの所蔵品は、七尾市出身の実業家・池田文夫氏が蒐集した美術工芸品「池田コレクション」289点と、能登七尾出身の長谷川等伯の作品6点を含む「能登ゆかりの作品」に大別されます。ジャンルは絵画・工芸・彫刻・書・写真など幅広く、時代も中世から現代までと多岐にわたっています。
 当館ではこれらの作品を多くの方にご鑑賞いただくため、年に数回テーマを変えながら展覧しています。今回は「自然とともに」「彫刻って面白い!」の2テーマで計57点を紹介します。
 一言で「彫刻」といっても、粘土・石膏・ブロンズ・FRP(繊維強化プラスチック)・石・木・金属などの素材があります。技法においても、粘土のように肉付けして成形する塑像(そぞう)や、型を作って制作するもの、石や木を彫ったり組み合わせたりしたもの、さらには様々な金属を加工した作品など多種多様です。
 また、「これはなんだろう?」と思う抽象作品から、「本物そっくり!」と思える具象作品まであって、それら彫刻作品の多様性が、面白さや魅力でもあるのです。ここでは、様々な素材による、味わい深い彫刻作品34点をお楽しみください。
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七尾市出身の実業家で、美術品コレクターでもあった池田文夫氏(1907~87)が蒐集した美術工芸品を「池田コレクション」として収蔵している石川県七尾美術館さん。

光雲作の「聖観音像」(昭和6年=1931)も含まれ、これまでもたびたび展示して下さっています。他に光雲高弟の一人・山崎朝雲の彩色木彫「土部」(昭和27年=1952)、光太郎と縁の深かった高田博厚の「うずくまる女」(昭和50年=1975)なども。
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お近くの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

「記録」一巻は大本営を過信した小生の不明の記録となりました。


昭和20年(1945)12月26日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

詩集『記録』は昭和19年(1944)3月、『智恵子抄』版元の龍星閣から刊行された翼賛詩集です。戦争終結後、光太郎の戦争責任を糾弾する声がほうぼうから上がり、その際、最も槍玉に挙げられたのが『記録』でした。

「記録」というタイトルについては、同書の序文に述べられています。

「記録」といふ題名は澤田氏(注・龍星閣社主)が撰び、私が同意したものである。むろん全記録の意味ではない。いはば大東亜戦争の進展に即して起つた一箇の人間の抑へがたい感動の記録といふ方がいいかもしれない。(略)物資労力共に不足の時無理な事は決して為たくない。この詩集とても果して必ず出版せられるかどうかは測りがたい。それほど戦はいま烈しいのである。二年前の大詔奉戴の日を思ひ、今このやうに詩集など編んでゐられることのありがたさを身にしみて感ずる。戦局甚だ重大、あの時の決意を更に強く更に新たにしてただ前進するのみである。

そして昭和22年(1947)に書かれた自らの半生を省みる連作詩「暗愚小伝」でも。

    真珠湾の日

 宣戦布告よりもさきに聞いたのは
 ハワイ辺で戦があつたといふことだ。
 つひに太平洋で戦ふのだ。002
 詔勅をきいて身ぶるひした。
 この容易ならぬ瞬間に
 私の頭脳はランビキにかけられ、
 咋日は遠い昔となり、
 遠い昔が今となつた。
 天皇あやふし。
 ただこの一語が
 私の一切を決定した。
 子供の時のおぢいさんが、
 父が母がそこに居た。
 少年の日の家の雲霧が
 部屋一ぱいに立ちこめた。
 私の耳は祖先の声でみたされ、
 陛下が、陛下がと
 あえぐ意識は眩(めくるめ)いた。
 身をすてるほか今はない。
 陛下をまもらう。
 詩をすてて詩を書かう。
 記録を書かう。
 同胞の荒廃を出来れば防がう。
 私はその夜木星の大きく光る駒込台で
 ただしんけんにさう思ひつめた

太平洋戦争が始まり、もはや抒情的な詩など書いている場合ではない、そこで代わりに叙事詩的な詩でもって、この未曾有の時を「記録」するのだ、というわけでしょう。

しかし、戦後となって振り返ってみれば、その自分の選択は大きな過ちであったということに気づかされます。『道程』、『智恵子抄』などで積み上げてきた豊かな抒情詩の世界を自らぶち壊してまで挑んだ「記録」は、ただ空虚な「不明の記録」に過ぎなかった、と。この場合の「不明」はイコール「暗愚」ですね。

何度も書きますが、こうした光太郎の真摯な反省などには目もくれず、詩「十二月八日」(昭和16年=1941)の一節をSNSに上げて喜んでいる幼稚なネトウヨには怒りを覚えます。今年の12月8日には、何ととある地方議会の議員のセンセイまで。ぞっとします。

また、「暗愚小伝」中の「詩をすてて詩を書かう。/記録を書かう。」についても、それこそが「暗愚」だったと光太郎が書いているのに、それが理解できず「光太郎、すばらしい!」と言っている輩も……。頭を抱えたくなります。






新潟県から市民講座の情報です。

二葉アーツスクール2023「めだかの学校 高村光太郎にとっての新潟」

期 日 : 2023年12月23日(土)
会 場 : ゆいぽーと(新潟市芸術創造村・国際青少年センター)
      新潟市中央区二葉町2丁目5932番地7
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

講 師 : 山浦健夫氏(美術史家)

「めだかの学校」は、ゆいぽーとの自主事業として2018年の開館年にスタートしました。施設の前身である旧二葉中学校の学び舎としての特性を活かし、広く市民に開かれた生涯学習の場として親しまれています。新潟の文化や歴史など独自なテーマ設定と多彩な講師陣が人気を集める連続講座です。

高村光太郎(1883~1956)は彫刻家であり詩人であった。特に詩集『智恵子抄』はあまりにも有名である。その智恵子が光太郎と結婚する前に現在の阿賀野市に滞在していたことは、知られていない。また、光太郎が実業家で文人の渡辺湖畔(1886~1960)の招きで佐渡にわたり作品をのこしたり(大正7年10月)、長岡へも父光雲の遺作展(昭和12年5月)や鯉の制作で何度も訪ねたことも知られていない。今年は高村光太郎の生誕140年にあたる。新潟県に関わるこれらのエピソードをあわせて紹介したい。
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全4回の講座で今回が最終回。これまでに光太郎と縁のあった彫刻家・武石弘三郎や東京美術学校で同級生だった藤田嗣治らについての講座が持たれていました。

そして光太郎。案内にある通り、光太郎、そして智恵子も何度か新潟に足を運んでいます。

智恵子が光太郎と結婚する前に現在の阿賀野市に滞在していたこと」は以下。
探検バクモン「男と女 愛の戦略」。
スキーと智恵子。
『文豪たちのラブレター』。
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渡辺湖畔(1886~1960)」についてはこちら。
新潟よりいただきもの。
『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』。
平塚市美術館「画家の詩、詩人の絵-絵は詩のごとく、詩は絵のごとく」レポート。
碌山美術館夏季特別企画『生誕140周年高村光太郎展』。
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そして「長岡」関連。
長岡市駒形十吉記念美術館「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」。
新潟長岡レポート 駒形十吉記念美術館「駒形十吉生誕120年 駒形コレクションの原点」他。
和歌山県立近代美術館 小企画展「原勝四郎と同時代の画家たち」/駒形十吉記念美術館「2023年第3回展 茶の湯を楽しむ-併設展 墨の魅力」。
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002他にも智恵子の祖父・長沼次助が南蒲原郡田上町の出身で、杜氏として赴いた二本松に居着いて長沼酒造を興したことなども新潟との関わりですね。

平成23年(2011)、田上町郷土研究会さん発行の『郷土たがみ』第22号に掲載された松井郁子氏「高村智恵子と幕末の起業家長沼次助について」によれば、次助の血縁に連なる方々が田上町にご健在とのことです。ただ、さらに遡ればご先祖は元々は福島の須賀川の出だったそうですが。福島と新潟、現代も磐越道で繋がっていますが、昔は阿賀野川を使った水運などで交流が深かったようです。

こういった光太郎智恵子と新潟との関わり、確かに地元ではかえってあまり知られていないのでしょう。

これを機に新潟の皆さんに広く光太郎智恵子の世界に興味関心を抱いていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

まだ山の分教場に厄介になつてゐますが、いよいよ此の十七日から小屋に移住します。毎日通つて大工仕事をやつてゐます。道具類から造つて仕事を進めるので中々大変です。墨壺、錐、水平器などといふにびに皆自製です。机もつくり、お膳もつくり、重箱も戸棚も床の間も井桁も下水も雨戸も自分でつくります。


昭和20年(1945)11月16日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

いよいよ花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)での7年間に及ぶ生活が始まります。

始まってしまっている展覧会ですが、昨日、気が付きました。

大倉組商会設立150周年記念 偉人たちの邂逅―近現代の書と言葉

期 日 : 2023年11月15日(水)~2024年1月14日(土)
会 場 : 大倉集古館 東京都港区虎ノ門2-10-3
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌火曜日)、
      12/29~12/31 ※年始は1月1日より開館します
料 金 : 一般 1,000円 大学生・高校生 800円 中学生以下 無料

今から150年前の明治6(1873)年10月、大倉喜八郎によって大倉組商会が設立されました。大倉組商会は後に15財閥の一つに数えられる大企業に成長します。本展では大倉組商会設立から150年を数えた本年、創設者・大倉喜八郎と、嗣子・喜七郎による書の作品とともに、事業や文雅の場で交流した日中の偉人たちによる作品を展示し、詩作や書の贈答によって結ばれた交流の様を展観いたします。

大倉集古館には、大倉喜八郎と交流をもった中国清時代や、明治大正の偉人たちの書が所蔵されています。彼らは折に触れ歌を詠み、それを贈り合いました。また、喜八郎自身は、光悦流と称する自らの書風によって歌を書きあげ、嫡子の喜七郎は、松本芳翠に書を学び、友とともに漢詩を作り軸に仕立てました。大倉財閥150年をめぐる偉人たちの交流の跡を示す書の数々を展示いたします。
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はじめ、各地に同型のブロンズがある光太郎作の「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)が出ているのかと思ったのですが、さにあらずでした。出品リストによれば、展示されているのはそちらを元に光太郎の父・光雲が制作した木彫「大倉鶴彦翁夫妻像」(昭和2年=1927)。「鶴彦」は大倉の号です。
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リストでは光雲・光太郎合作となっています。現に生きている人物の肖像彫刻はやや苦手としていた光雲、光太郎に粘土で原型を作らせ、それを見ながら木彫にすることがあって、この像もその一つ。法隆寺管長・佐伯定胤の像(昭和5年=1930)などもその手法で制作されています。また、塑像となると、まるまる光太郎が代作した作品が4点ばかり確認できています。

光太郎はこんなことを書き残しています。

 首は可成作つたが、半分以上は父の仕事の下職のやうにしてやつてゐたから、半ば父の意志が入つて居り、数は沢山拵へたけれど自分の作には入らない訳だ。私が粘土で原型を拵へても、それを鋳金にしたり木彫にうつしたりする時に無茶苦茶に毀されて了ふ。法隆寺の佐伯さんの肖像なども父の名で私が原型を拵へたものだが、出来上つたものはまるで元のものとは違ふ。(「回想録」昭和20年=1945)

ある意味、仕方のないことだと思いますが。

ところで、この書きぶりだとまだ同様の作がたくさんあるような感じですね。個人の肖像などで知られていない例が相当数あるのかもしれません。

「大倉鶴彦翁夫妻像」、二十数年前に一度拝見しましたがそれ以降目にしておりません。今月末に上京する予定がありますので、その際に、と思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

草野心平さんの事大に心配してゐたところ、おてがみに同封の同君のテガミ拝受、又おてがみによりて草野夫人や子供さん達が郷里にかへられて居る事を知り、なつかしく存じました。


昭和20年(1945)11月6日 川鍋東策宛書簡より 光太郎63歳

戦時中、中国にいた心平の消息が終戦後にまるでわからず、気を揉んでいたところにもたらされた心平無事の報。心平にしても、光太郎が岩手に疎開し、そのまま居着いているとは夢にも思っていなかったため、連絡が取れなかったのでしょう。

心配は翌年3月には復員、9月に光太郎の隠棲していた太田村を訪れ、再会を果たします。

まず、仙台に本社を置く『河北新報』さん、12月6日(水)のコラムから。

デスク日誌(12/6):光るレモン

 自宅で育てている鉢植えのレモンが先月下旬にようやく色づいた。夏の猛暑の影響なのかどうか、いつもより1カ月近く遅い。
 この少し前、二本松市の智恵子記念館を訪ねた。レモン祭と銘打って開かれていた催しに引かれた。
 詩集「智恵子抄」で知られる高村光太郎が、死の際にあった妻智恵子をうたった詩「レモン哀歌」にちなんだ企画。レモン忌と称される智恵子の命日の10月5日から1カ月半、生家のライトアップや智恵子の「紙絵」作品が展示された。
 レモン哀歌では、光太郎に手渡されたレモンを「がりりと」かんだ智恵子が目にかすかな笑みを浮かべ、深呼吸を一つして息を引き取る様子が描かれる。
 痛切な作品だ。宮沢賢治の「永訣(えいけつ)の朝」と共に「近代挽歌(ばんか)の双璧」ともいわれる。切なさが胸に迫るが、重苦しい暗さはない。光太郎が「すずしく光る」と形容したレモンの視覚効果だろうか。
 ビタミンカラーのレモンは見ているだけで元気が出る。家のレモンは色づいたものから順に収穫し、これから味わう。ハイボールにでも浮かべて英気を養い、師走を乗り切ろう。

福島総局長の方が書かれたコラムです。同県二本松市にある智恵子生家/智恵子記念館さんを会場に、10月5日(木)~11月19日(日)の日程で様々なコンテンツが用意された「高村智恵子レモン祭」に足をお運びいただいたそうで、有り難い限りです。

レモン祭に関してはこちら。
高村智恵子レモン祭。
レモンの日(レモン忌)。
智恵子生家ライトアップ/テレビ放映情報。

当方もライトアップ期間に伺うつもりでおりましたが、この時期、他にいろいろ行くべき所が多く欠礼いたしました。おそらく来年以降もライトアップを行ってくださるだろうという期待の元に、と考えてのことでしたが。

続いて山口県の『宇部日報』さん、12月8日(金)の記事。

島木健作に贈った「山羊の歌」 中也の自筆署名入り本を特別展示、10日まで

002 山口市湯田温泉1丁目の中原中也記念館(中原豊館長)で、中原中也(1907~37年)の第1詩集「山羊の歌」が刊行された日に合わせた特別展示として、中也が作家の島木健作宛てに贈った自筆献呈署名入りの本が公開されている。10日まで。
  同作は1934年12月10日に文圃堂書店から限定200部(市販150部)が発行された。装丁は詩人の高村光太郎。
  島木は、権力による共産主義への弾圧から思想を捨てた過程や苦悩を描いた転向作家。小説「生活の探求」で知られる。中也が詩を発表した雑誌「文学界」の同人で、37年ごろ互いに鎌倉の雪ノ下に住み、交流した。
  多くの署名本が右に宛名、その左下にフルネームの署名が配されているのに対し「中原」と署名が名字だけなのは特徴的だという。
 奥付の通し番号は139番。3桁台での署名本は、第100部の小林秀雄宛てを除き、著名人や知人はほとんどいない。記念館は谷崎潤一郎宛てなど13冊を所蔵している。
 展示では合わせて中也の遺品である島木の名刺も並べている。
 今年9月の中原中也の会第28回大会で講演した秀明大の川島幸希学長が寄贈した。
 中原館長は「『文学界』の同人とはいえ、中也と転向作家の島木健作では作品の傾向が異なる。島木は中也追悼文『追悼』で、島木の作品を読み感想を述べる中也の姿を伝えており、中也が島木の作品に興味を持ち、評価していたことは間違いない。その交友の一端を具体的に示す資料として大変、興味深い」と話している。

数々の装幀も手がけた光太郎ですが、そのうち最も有名になった書籍の一つが『山羊の歌』でしょう。自らも味わい深い字を書けた中也が「高村さんのような字が好きなんだ、あれはいい字だよ」と語ったそうで、その目の確かさは流石ですね。
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ちなみに昨年は谷崎潤一郎宛署名の入った『山羊の歌』が、大阪の一般の方から寄贈されて同様に特別展示されたそうです。その際も『宇部日報』さんが報じていましたが、そちらには光太郎の名が書かれていませんでした。

寄贈者の川島幸希氏、『日本古書通信』さんにこの手の署名本に関する考察をたびたび発表なさっています。また、ご自身が学長を務められている秀明大学さんでそれらを展示なさったこともあり、当方、2回ほど拝見に伺いました。最初は光太郎の『道程』特装本が出品された平成26年(2014)の学祭・飛翔祭。その際には三好達治ら宛の署名が入った『山羊の歌』も出ていました。

今回寄贈された島木健作宛は奥付の番号が139番。昨年展示された谷崎宛は18番。他に谷川徹三に16番、仏文学者の中島健蔵へ19番、志賀直哉宛で20番がそれぞれ贈られています。三角関係等いろいろあった腐れ縁の小林秀雄には100番でした。他は当方の専門ではないので存じません。

で、当然、光太郎宛もあったと推定され、おそらく1桁の番号だったのでしょう。しかし、それ以前に光太郎が処分したり、誰かが借りパクでもしたりしていない限り、昭和20年(1945)4月13日の空襲で光太郎アトリエ兼住居共々焼失したと推理できます。返す返す戦争の愚かさを感じます。

戦争の愚かさといえば、予想通り一昨日の12月8日(金)、太平洋戦争開戦の日には、SNS上で光太郎詩『十二月八日』を引用して「大日本帝国バンザイ!」的な書き込みをしている愚か者が目立ちました。超迷惑です。

【折々のことば・光太郎】

今日の明治節を迎へて感慨無量です。明治大帝に対して申わけなき次第、言上すべき言葉もありません。


昭和20年(1945)11月3日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎63歳

終戦から3ヶ月弱、まだ皇国史観から抜け出せていなかったことが見て取れます。ただし「申わけなき次第」は、米英に敗れてしまったことを指すわけではなく、勝ち目のない無謀な戦争を仕掛けたことを指すと思われます。

キーワード「高村智恵子」でヒットしました。神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙『タウンニュース』さん記事。

小田原在住天羽間さん 切り絵の原画展 東口図書館で10日まで

 小田原市曽比在住のイラストレーター天羽間(あまはま)ソラノさん(61)が12月10日(日)まで、小田原駅東口図書館で切り絵イラストの原画展を開催している。
 天羽間さんは洋画家の高村智恵子の切り絵作品に感銘を受けて、2005年から切り絵の創作を開始した。06年にギャラリーコンペで賞を初めて受賞した後、化粧品メーカー「資生堂」の宣伝広告物や本の装幀イラストなどの製作を行ってきた。
 原画展ではこれまで製作してきた作品約30点が展示されている。天羽間さんは「たくさんの人に見に来ていただきたいです」と話している。午前9時から午後6時(最終日は4時)。問い合わせは同館【電話】0465・20・5577。
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展覧会詳細は以下の通り。

天羽間ソラノ 切り絵イラスト原画展

期 日 : 2023年11月28日(火)~12月10日(日)
会 場 : 小田原駅東口図書館 多目的スペース 神奈川県小田原市栄町1-1-15
時 間 : 午前9時~午後6時 最終日は午後4時まで
料 金 : 無料

小田原市在住で、本の装丁イラストなどで活躍中の天羽間ソラノさんの切り絵イラスト原画展を開催します。細密で美しい切り絵をぜひ見に来てください。
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天羽間氏という方、当方寡聞にして存じ上げませんでしたが、各種デザインの多方面で活躍なさっている方だそうです。調べてみましたところ、プロフィール的なページに確かに「2005年 高村智恵子が精神分裂病を発症した後に、切り絵細工を始めた作品に感銘を受け、「折り紙」を使ったシンメトリーの切り絵の創作を開始する。」という記述がありました。

智恵子紙絵からのインスパイアというと、もろに智恵子の紙絵や油絵、『青鞜』の表紙絵などをモチーフとした切り絵等を発表されている谷澤紗和子氏が思い浮かびます。天羽間氏、谷澤氏とは異なり、智恵子作品そのものをモチーフとされているわけではないようですが。

上記画像の作品もおそらくシンメトリーで制作されているようです。その精緻さに舌を巻かされます。

もう会期が明日までとのことですが、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

十月十七日に此村に移転してからまだ分教場(風の又三郎そつくりの学校です)に御厄介になりながら毎日小屋に通つて雑作を自分で作つてゐます。昨日は炉の自在カギをつくりました。今度は井桁にかかります。


昭和20年(1945)11月1日 水野葉舟宛書簡より 光太郎63歳

近くの(といっても1㌔弱離れていますが)分教場に寝泊まりしながら山小屋の造作にかかっていました。嬉々として大工仕事に精を出している様子がうかがえます。この頃詠んだ光太郎の句に「新米のかをり鉋のよく研げて」という吟があります。いい句ですね。
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都内から演奏会情報です。

歌曲個展+5 ドイツロマン派の歌曲――残照の時――

期 日 : 2023年12月16日(土)
会 場 : やなか音楽ホール 東京都台東区谷中3-23-8
時 間 : 14:30開場 15:00開演
料 金 : 一般3,500円 学生2,000円 全席自由

曲 目 : 
 リヒャルト・シュトラウス
  4つの最後の歌 Vier Letzte Lieder
 フーゴ・ヴォルフ
  ミケランジェロの詩による3つの歌曲 Drei Lieder nach Michelangelo
 ヨハネス・ブラームス
  4つの厳粛な歌 作品121 Vier ernste Gesänge Op.121
 ロベルト・シューマン
  暁の歌 作品133 Gesänge der Frühe Op.133(ピアノ独奏)
 根本卓也
  組曲『智恵子抄』(新作初演)

出 演 :
 ソプラノ 坂口真由  バスバリトン 牧山亮  ピアノ 蓜島啓介

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当方は寡聞にして存じ上げませんが、根本卓也氏という作曲家の方による組曲「智恵子抄」がプログラムに入っています。氏のHPには「こちらは、以前《亡き人に》という題で発表した重唱曲に、ソプラノ・バスバリトン・ピアノそれぞれのソロ曲を一曲ずつ足す形で組曲にしました。詩は全て高村光太郎の『智恵子抄』から採っています。」とのこと。そういえば昨年でしたか、他の演奏会で正規のプログラムではなくアンコールで「亡き人に」が演奏された、的な記述をSNSで見たような気がしています。

それから「おやっ」と思ったのが、「ミケランジェロの詩による3つの歌曲」。ロダンと共に光太郎が終生敬愛し続けた、あのミケランジェロが詩を書いていたというのは存じませんでした。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。残念ながら当方、この日は法事が入っておりまして伺えませんが。

【折々のことば・光太郎】

午後二時頃分教場に到着、今晩は分教場に宿泊、明日よりだんだんに小屋の整備にかかります。


昭和20年(1945)10月17日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎63歳

約1ヶ月厄介になった、花巻病院長・佐藤隆房宅を出て、旧太田村山口地区に入りました。既に村民らの手で鉱山の飯場小屋が移設されていましたが、内部の造作等は未完成で、ここからまた1ヶ月は旧太田小学校山口分教場に寝泊まりしながら自分で大工仕事をしました。ちなみに光太郎に太田村移住を勧めたのは、山口分教場の教師・佐藤勝治でした。

ここから7年間に及ぶ太田村での暮らし。当初は若い頃からの夢だった北方の僻村での生活の実現、文化集落の建設といった無邪気な夢想の部分がありましたが、自らの戦争責任の省察が進むとともに、徐々に「自己流謫」(流謫=流罪)へと変容していきます。

光太郎と交流の深かった詩人の尾崎喜八について、『毎日新聞』さんから。

山は博物館  博物学で人引きつけた尾崎喜八 戦後「隠棲」の富士見高原で

 以前登って感動した八ケ岳の裾野、富士見高原(標高約1000メートル)で、「晩年の落日のやうな生を託すると、どうして考へ得たであらう」。詩人の尾崎喜八(1892~1974年)は太平洋戦争に協力する作品を書いたことを悔やみ、非難もされて「恥を忍び、をもてを伏せて影のやうに生きて来た」。戦後、「隠棲(いんせい)」のつもりで長野県富士見村(現富士見町)に移り住んだが、自然全体を対象にした博物学の知識が人々を引きつけ、地域が放っておかなかった。
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 尾崎は若い頃、高村光太郎の詩の「権威や世俗への反逆精神に心酔」。理想主義、人道主義の白樺派と交流し、平和主義のフランス人作家、ロマン・ロランにも傾倒した。最初の詩集「空と樹木」を30歳の1922年に出版して以降、自然を題材にした作品を次々発表した。満洲事変翌年の32年、「新戦場」で<砕かれた頭、穴のあいた、みじめな胸。それぞれの労苦の母の最愛のものだつた。吾々(われわれ)を護国の鬼などと云(い)ふのはやめてくれ>と、反戦作品も世に出した。
  一方、30代で登山を始めた。35年7月出版の文集「山の絵本」は長野県の蓼科(たてしな)山への紀行文などを収め、地質や地形、樹木や草花、鳥、チョウなど自然を優しく情景描写。人との柔らかな交流も描き、名著とされる。 
   ヒューマニストとみられたが、変わる。42年10月、詩集「此(こ)の糧」を発表。同名の詩は<大君の墾(はり)の広野に芋は作りて、これをしも節米の、混食の料(しろ)とするてふ忝(かたじけな)さよ>と銃後の姿勢を説いた。「シンガポール陷落」は<汝等(なんじ)が最後の牙城ここに潰(つぶ)ゆ。これ天の時、天の理なり>、「特別攻撃隊」は<此の敵一挙に斃(たお)さずんば皇国(みくに)危しの至誠に燃えて征(い)つたのだ>と勇ましい。44年3月も詩集「同胞と共にあり」を発表。「第二次特別攻撃隊」「学徒出陣」などを入れた。
 45年4月、空襲で東京の家が焼け、終戦を挟んで転居を繰り返した。縁故により富士見高原の山荘「分水荘」に夫婦で着いたのは、54歳の46年6月。随筆などで戦時を振り返り、「同胞への力づけや慰めとして書いた詩。一生の恨事。体と心とだけで黙々と働けば良かった」。富士見では「貧窮に洗われ、孤独の味を嚙(か)みしめ生きた。当然のむくい」。さらに「『武器を取れ!』の喇叭(らっぱ)に身をふるわせ、調べを合わせた。不幸への共犯者。忘れ去られ、無名に生きたかつた」。
 だが、村人は慕い、近付いた。孫の石黒敦彦さん(71)は「博物学の知識が引きつけた」と指摘する。その象徴が、詩「老農」にある。尾崎は植物や鳥に詳しいと連れが紹介すると、老農は<流れにゆらいでゐる白い花の水草を抜いて示した。「梅花藻ですね」と私が言ふと、目を細めてうなづいた>。たやすく答えて感心され、自宅に招待されると、書棚に図鑑や入手困難な植物学の翻訳本が並んでいた。教養ある「そんな土地柄が祖父を受け入れた」と石黒さんは話す。
 尾崎の方でも<人の世の転変が私をこゝへ導いた>で始まる詩「土地」の注釈で、「山国の信州で人は自然の支配に従順で、そこから生活の知恵を生み、勤勉と忍耐と持久と好学の精神を学び養う。それ故(ゆえ)に土地と人々とを愛さずにはいられなかった」と書いた。
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 多くの人が分水荘を訪れては話を聞き、尾崎は時に散策に誘い出した。村民の一人は「(自然を)観察され、一篇(いっぺん)の詩が熟していたのかも知れない」と回想している。尾崎は特に、各種の植物と鳥、チョウを詠み込んだ。「落葉」は<ひろびろと枯れた空の下で白樺や楡(にれ)の葉がたえまもなく散つてゐる>、「足あと」は<けさは 森から野へつゞく雪の上に、堅い水晶を刻んだやうな一羽の雉(きじ)の足あとを見つけた。それで私の心が急にあかるくなつた>、「復活祭」は<枯草(かれくさ)の上を越年(をつねん)の山黄蝶(やまきちょう)がよろめいて飛ぶ。森の小鳥が巣の営みの乾いた地衣や苔(こけ)をはこぶ>と歌った。 石黒さんは「博物学と詩の融合が祖父の特質だ」とも指摘する。例えば「巻積雲(けんせきうん)」。雲の造型に美しさを見いだしたのも尾崎の特長だ。いわし雲とも呼ぶその雲から物理学の「クラドニ図形」を連想。鉄板への振動の与え方により、上にまいた粉がさまざまな模様を描く現象に発想を広げた。これらの作品は、戦後の代表作で55年2月出版の詩集「花咲ける孤独」に収めた。 田舎暮らしを長女に心配された尾崎は52年11月、7年住んだ富士見から東京に転居したが、その後も信州を訪れた。県内を中心に数十の校歌も作詞し、歌い継がれている。分水荘は既に解体され、跡地は「ふじみ分水の森」として開放されている。
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最晩年を過ごした北鎌倉の明月院にある尾崎喜八の墓

戦時中に翼賛詩文を大量に書き、戦後はそれを悔いて信州の僻村でしばらく蟄居生活。そして村人との心温まる交流……花巻郊外旧太田村の山小屋に7年間隠棲した光太郎と共通します。

ただ、現代、光太郎の太田村での生活の意味等、広く知られているとは言い難い状況です。こういうと何ですが、ましてや知名度の点で尾崎のそれはさらに知られていないと思われます。

そうした意味ではこういう記事、ありがたいところです。ちなみに『毎日新聞』さん、同じ「山は博物館」という連載では、先月8日に光太郎の隠遁生活について「光太郎「岩手の山」に自ら流刑 己の戦争詩に「暗愚」見る」として紹介して下さいました。反論に耳を貸さないつもりもありませんが、それに対して「単に若い頃からの夢だった山暮らしをしたかっただけ」などという浅い見方しかしない輩も多く、辟易しているのですが……。

浅い見方といえば、明後日は12月8日、太平洋戦争開戦の日で、毎年、SNS上で幼稚なネトウヨが光太郎の翼賛詩の一節を掲げて喜んでいます。彼らは戦後の光太郎の真摯な反省などには目もくれません。何なんでしょうね……。

【折々のことば・光太郎】

昨日は亡父の祥月命日なので松庵寺で心ばかりの法要を営みました。佐藤夫人も参詣してくれました。今この部屋でも線香の匂をなつかしく感じてゐます。

昭和20年(1945)10月10日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

松庵寺さんは花巻市双葉町に健在の寺院。光太郎所縁の寺として門前に説明板を掲げて下さっています。

ここで亡父・光雲と、同じく10月が命日だった智恵子の法要を営んでもらいました。8月にも松庵寺さんで起請文をもらった光太郎、おそらくその2日間の出来事を合成し、詩「松庵寺」を書きました。

   松庵寺
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 奥州花巻といふひなびた町の
 浄土宗の古刹松庵寺で
 秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
 まことにささやかな法事をしました
 花巻の町も戦火をうけて
 すつかり焼けた松庵寺は
 物置小屋に須弥壇をつくつた
 二畳敷のお堂でした
 雨がうしろの障子から吹きこみ
 和尚さまの衣のすそさへ濡れました
 和尚さまは静かな声でしみじみと
 型どほりに一枚起請文をよみました
 仏を信じて身をなげ出した昔の人の
 おそろしい告白の真実が
 今の世でも生きてわたくしをうちました
 限りなき信によつてわたくしのために
 燃えてしまつたあなたの一生の序列を
 この松庵寺の物置御堂の仏の前で
 又も食ひ入るやうに思ひしらべました

昭和16年(1941)、太平洋戦争開戦直前に出版された『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定される「荒涼たる帰宅」以後、ほぼ翼賛詩一辺倒で、発表された詩に智恵子が謳われることはありませんでしたが、戦争も終結し、再び智恵子が詩の世界に戻ってきました。

光太郎に私淑し、そのDNAを受け継いだ彫刻家の一人、佐藤忠良について『読売新聞』さんから。

御堂筋から撤去されて5年、彫刻家・佐藤忠良の作品はどこへ…市が展示場所模索

002 大阪市のメインストリート・御堂筋に展示されていた彫刻家、佐藤 忠良ちゅうりょう 氏(1912~2011年)の彫刻作品が撤去され、約5年間、眠ったままになっている。市が設置を依頼していたビル所有者の要望で撤去した後、展示先が見つからないためだ。他の28作品は御堂筋に並ぶが、唯一見られない状態で、関係者からは「素晴らしい作品。新たな場所を早く見つけてほしい」との声が上がる。

今は美術館の一室に…
 市は1992年、格調高いまちづくりを進めようと、「御堂筋彫刻ストリート」事業を開始。2009年までに、企業などからルノワールや高村光太郎ら、いずれも著名な芸術家らの彫刻29作品の寄贈を受け、御堂筋の淀屋橋―心斎橋間(約2キロ)沿いの市有地歩道や、民間のビルの一角に設置した。
 このうち撤去されたままとなっているのは、佐藤氏の「布」(高さ70センチ)。左手に布を持つ裸婦の像で、評価額は1300万円とされる。市は、大和銀行(現・りそな銀行)から003寄付を受け、同行支店が入るビル所有者の協力を得て、1993年から心斎橋付近の御堂筋沿いに展示していた。
  しかし、2015年にビル所有者が代わり、16年に銀行の支店も別の場所に移転。この際、ビルの外装工事を実施するため、所有者が作品の移動を市に求めた。
 市は現状維持を求めたが、工事に支障が出る恐れがあることなどを理由に断られ、18年夏に作品を撤去。市立美術館(天王寺区、休館中)の一室で保管されてきた。
 元々の場所付近で再設置を模索した市は、地元企業でつくる「御堂筋まちづくりネットワーク」(中央区)などに協力を依頼してきたものの、色よい返事は得られなかった。
 このため市は範囲を広げて探している。市幹部は「御堂筋の魅力を高めるため寄贈を受けており、御堂筋以外での設置は考えられない。なるべく早く探したいのだが……」と話す。
 一方、佐藤氏の作品100点以上を所蔵する佐川美術館(滋賀県守山市)の学芸員で、作品に詳しい馬場まどかさんは「高い価値を持つ作品を市民が見られないのは残念。市には柔軟に対応し、新しい場所を見つけてほしい」と求めている。

 ◆ 佐藤忠良= 宮城県出身で、戦後日本の具象彫刻を代表する彫刻家。素朴な女性像が有名で、「群馬の人」など数々の傑作を生み出した。ロングセラーの絵本「おおきなかぶ」の挿絵を描いたことでも知られる。

大阪御堂筋の彫刻群。記事にあるとおり、平成4年(1992)から設置が始まりました。第1号がロダンの「イヴ」。光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)のための中型試作」も「みちのく」の題で平成6年(1994)、旧三和銀行さんの寄贈によりラインナップに入りました。当方、2度ほど拝見に伺っています。最後は平成21年(2009)にザッキンの「女のトルソ」が設置され、全29体……のはずでしたが、逆に佐藤忠良の「布」が平成30年(2018)に撤去されてしまったそうで……。

これが光太郎と縁のあった忠良の作品だということで当方も報道に気がつきましたが、他の作家のものだと気づかなかったかもしれません。もっとも、忠良作品は御堂筋にはもう1体「レイ」という作があり、こちらは健在ですが。それにしても何だかなぁ……という感じですね。

御堂筋の彫刻群といえば、平成23年(2011)と令和2年(2020)、それぞれ謎の赤い服や花輪がつけられるという「事件」がありました。こういうと大阪の皆さんの気に障るかもしれませんが、この手のパブリックアートを軽んじる風土があるのでしょうか。
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もっとも、パブリックアートと称するものの中には、アートだかガラクタだか分からないと言われても仕方がないものも存在しますが。

ただ、今回報じられた「布」はとりあえず保存は為されているのでまだましですね。今年7月には、旧広島駅ビルの壁面を飾っていた、忠良と同じく光太郎と交流があってそのDNAを受け継いだ舟越保武の彫刻が令和2年(2020)にビルの建て替えに伴って廃棄されていたという件が報じられました。この報道に接した時は腹が立つやら情けないやらでした……。

ちなみに忠良と舟越は親しい間柄で、二人による対談集には光太郎について語り合っている部分があったりします。

二人の間には他にも光太郎がらみの共通点が色々。

まず、二人とも「高村光太郎賞」の受賞者です。同賞は最初の『高村光太郎全集』(筑摩書房)の印税を原資に、昭和33年(1958)から10年間限定で造型と詩二部門で開催されました。忠良は昭和35年(1960)の第三回、舟越は同37年(1962)の第五回受賞です。

二人の合作的なモニュメントも。北海道釧路市の幣舞(ぬさまい)橋です。二人、ではなくやはり光太郎のDNAを受け継ぐ柳原義達(第一回高村光太郎受賞者)、本郷新(高村光太郎賞選考委員)も加わった四人の合作で、光太郎の「乙女の像」へのオマージュ的な意図も見え隠れします。ちなみに本郷に関してはネット上などでなぜか「高村光太郎に師事」という記述が為されることが多いのですが、光太郎は弟子という弟子は一切取りませんでした。アドバイス程度は受けたのでしょうが、「師事」という語は使わないでいただきたいものです。

また、忠良の息女は女優の佐藤オリエさん。昭和45年(1970)にTBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました(光太郎は故・木村功さん)。そこで忠良はオリエさんをモデルに「智恵子抄のオリエ」という彫刻も残しています。
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舟越の息女は、絵本編集者の末盛千枝子さん。漢字は異なりますが、光太郎に「ちえこ」と名付けられました。当方、オリエさんとは面識がありませんが、末盛さんとはたびたびお会いしています。そこで前述の広島の報道にはなおさら心が痛みました。

そして御堂筋。舟越の彫刻も御堂筋彫刻ストリートに設置されています。忠良、舟越、光太郎の作品が野外で同時に見られるのはここだけではないでしょうか。

御堂筋、将来的には車道を廃し、すべて歩行者用道路とする計画もあるやに聞きます。その際には(できればそれを待たずに)、忠良作品「布」もしかるべき場所に再設してほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

智恵子のお墓、お詣りして下さつたさうでまことにありがたく存じます。おまけに大変な風雨の日であつたさうで尚更忝く存じます。墓所も何も今では見廻る家人もなく荒れ果ててゐることと心苦しく存ぜられます。五日には花巻でも雨でしたが、智恵子の切抜絵の額の前へ心ばかりの線香を焚き、お茶を上げ、林檎や茸を供へたのみでした。


昭和20年(1945)10月9日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

10月5日の智恵子命日に関わります。「智恵子のお墓」、というか髙村家の墓所は染井霊園ですが、この時点では光太郎に代わって髙村家を継いだ実弟・豊周の一家は疎開先の長野からまだ戻っていませんでした。

翌10日には、花巻町中心街の松庵寺で、父・光雲のと併せて法要をしてもらいます。

師走に入り今更感がありますが、妻と共に一昨日に行って参りました紅葉狩りのレポートを。

行き先は隣町の成田山新勝寺さんとそちらに付随する成田山公園。先々週くらいに放映されたチバテレさんのローカルニュースで「紅葉が見頃を迎えました」的なのがあり、行ってみようかと。

車を駐める都合も考え、まずは成田山公園。さっそくいい感じに木々の葉が色づいていました。
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成田山公園といえば園内に書道美術館さんがあり、平成26年(2014)に与謝野晶子の書を拝見に伺いまして、それ以来でした。

さらに成田山公園といえば、明治末に吉原の娼妓・若太夫を巡って光太郎とすったもんだのあった小説家・木村荘太がここで自裁しました。昭和25年(1950)のことでした。同行した妻にはそんな話をするのも何なので黙っていましたが。

公園を通り抜けると、裏手から新勝寺さんの境内に入ります。こちらにも紅葉した木々がそこここに。
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実は当方、隣町に住んでいながら新勝寺さんにお参りするのは初めてでした。信心深さに欠けるもので(笑)。

ただ、以前からこちらの釈迦堂という堂宇は見てみたいと思っておりましたので、この機会に。元々は本堂だったものです。
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こちらが何なのかといいますと、光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929 万里閣書房)中に「成田不動と其堂羽目彫刻」という章があって、こちらの外壁に施された五百羅漢のレリーフを写真入りで紹介していますし、他の章でも触れられています。こりゃ一見の価値はあるな、というわけで。
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その五百羅漢像がこちら。
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作者は松本良山。光雲が師事した高村東雲のさらに師・高橋鳳雲らと共に江戸三代仏師の一人に数えられた名工です。確かに見事ですね。

他に「二十四孝図」。こちらは『光雲懐古談』では触れられていませんが、島村俊表という彫物師の作。やはり江戸期の作です。
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さらに他の箇所にも見事な彫り物。作者はよく分からないのですが。
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他の堂宇にも。

一切経堂。
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三重塔。キンキラキンですが、現代のものではなく江戸中期の建築で重要文化財です。
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それから、彫刻とは関係なく、現代の建物ですが、光輪閣。大人数での行事等を行うための施設です。
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中に480畳の大広間があり、そちらの襖絵は、親しくさせていただいている女優の一色采子さんのお父さまにして、同郷の智恵子をモチーフにした絵も複数描かれた故・大山忠作画伯の手になるものです。たまに公開している場合があり、あわよくばと思って行ってみたのですが、やはり非公開でした。

ちなみに襖絵の一部はこんな感じ。分割民営前の郵政省時代、昭和の終わりか平成の初め頃発行された40円絵葉書10枚セットです。
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最初と最後にあしらわれた絵は新勝寺さんの所蔵ではありません。最後が舞台「智恵子抄」で智恵子を演じられた有馬稲子さんを描かれたもの。これが入っていたので購入しました。

ちなみに一色さんのフェイスブックを見ましたところ、来年秋に一般公開が為されるそうでした。
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その後、門前に出て昼食。参道も当方の好きな古建築が随所に残り、いい感じです。右下は旅番組、散歩番組などでよく紹介される老舗のうなぎ屋・川豊さん。ここでは食べずに安い蕎麦での昼食でしたが(笑)。
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平日にもかかわらず、善男善女(当方は違いますが(笑))の皆さんで賑わっていました。

自宅兼事務所の庭でも、一本だけある楓が色づいています。
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北国ではとっくに終わっていると思いますが、やはり房総は温暖なのですね。

というわけで、来週末ぐらいまではまだ紅葉が見られるでしょう。成田山、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

太田村にはまだ小屋が建ちません。村の人が営林署から山小屋の小さなのを払下げてもらつてそれを移したいとしてゐるやうです。丸太と藁の小屋よりも雪に強い方がよいといつてゐます。雪は四尺以上のやうな話で、零下二十度といふ事です。小生初めての経験なのでたのしみです。小生の耐寒力のいいためしになります。

昭和20年(1945)9月12日 水野葉舟宛書簡より 光太郎63歳

成田郊外三里塚に隠棲していた水野葉舟宛書簡から。山小屋の図面が書き込まれていました。おおむねこの通りの造作となりました。
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一週間前になりますが、埼玉県東松山市で市民講座の講師を務めさせていただきました。クローズドのものでしたので事前にご紹介しませんでしたし、速報する必要もないので取り上げてきませんでしたが、この辺でレポートしておきます。

主催は同市の「きらめき市民大学」さん。シニアの方々対象の生涯学習施設です。
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外部講師等を招いての座学的な講義のプログラムがあり、講師としてお招きいただいた次第です。今回で4回目でした。初回は令和元年(2019)、その後コロナ禍があり、2回目3回目は昨年(年度をまたぎました)。

生徒さんは入れ替わっていますので、毎回ほぼ同じ内容です。題して「高村光太郎と東松山」。
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光太郎自身は同市に足跡を残したことが確認できていませんが、同市の元教育長であらせられた故・田口弘氏が光太郎と交流が深く、さらにそこに氏と意気投合した高田博厚がからんで、光太郎関連のもろもろが同市に残されていますので、そのあたりがメイン。

1時間半の持ち時間で、前半は光太郎の人となりのダイジェスト、後半に田口氏を中心にした同市と光太郎の関わりをお話しさせていただきました。
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「きらめき市民大学」さん、座学以外に生徒の皆さんがグループを組んでの課題研究的なことにも取り組んでいらっしゃいます。そのレポートをまとめた冊子が作られており、昨年度の分をいただきました。
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「歴史・郷土文化A班」という方々(お一人、連翹忌の集いにもご参加下さっています)による「高田博厚と高坂彫刻プロムナード」というレポートが載っており、当方のお話しした内容とかぶるいろいろが。さらに高田に関しては実に詳細に調べられていて、興味深く拝読しました。

同市、埼玉県でも秩父山塊の麓に位置する街で、自然は豊かですが「首都圏」とは言い難く、おそらく大きなカルチャーセンター等は市内や近隣には無いのだと思われます。しかしニーズはあるわけで、その受け皿として「きらめき市民大学」。

やはりカルチャーセンター等のない地方都市だと、公立図書館さんや公民館さんなどが主体となっての各種講座等が開かれる場合がありますが、その頻度は限られるようです。「きらめき市民大学」さんの場合は基本的に週1回で年に40日程度。「課題研究」に関してはおそらく開講日でなくとも自主的に活動にあたられることもあるのではないかと思われます。

そんなこんなで「きらめき市民大学」さん、今年、全国市民大学連合さんから「優良市民大学」に認定されたとのこと。全国約400の市民大学について調査、検討し、全国で先導的な市民大学25校のうちの1つとしてだそうです。すばらしいと思います。

各地の社会教育担当の皆さん、御参考までに。

【折々のことば・光太郎】

今居る校長先生のお宅は花巻第一の好風景の地なので離れ難い気がします。旧お盆の数日間は月がよかつたので、夏の夜の月明下の北上山脈や早池峰の絶景を満喫しました。


昭和20年(1945)8月28日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎63歳
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8月10日の花巻空襲で疎開先の宮沢賢治実家を焼け出され、現在の市役所近くの佐藤昌宅に厄介になっていた時の書簡の一節です。画像にあるスケッチが添えられていました。

昨日は千葉市に行っておりました。同市ご在住のジャズシンガー・潮見佳世乃佳世乃さんの「CD発売記念LIVE 歌物語✖️JAZZ」拝聴のためです。

会場は県庁近くの千葉アートサロンさん。ライヴハウス的なスペースと、他のフロアにはギャラリーもあるようで。昭和の香りが色濃く漂う外観で「おお」と思いました(笑)。
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潮見さんのライヴは過去3回拝聴しましたが、最後はやはり千葉市で令和3年(2021)6月でしたので約1年半ぶり。今回を含め、すべて潮見さんのレパートリーの一つ「歌物語 智恵子抄」がプログラムに入ったものでした。今回は「CD発売記念」ということでしたが、CDは「智恵子抄」ではなく、「歌物語 遠野物語」。最初のMCはその「盤宣」でした。
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潮見さん、他にも「歌物語」と銘打ったレパートリーをたくさんお持ちです。そのシリーズ、亡くなったお父さまの高岡良樹氏が始められたもので、お父さまもかつて「歌物語 智恵子抄」を演(や)られたそうです。そちらは当方聴けませんでしたが。

潮見さんの「歌物語 智恵子抄」、伴奏は平成27年(2015)に大田区大森で初めて拝聴した際はフォークギターとキーボード、令和3年(2021)の熱海での公演ではベードルのピアノ、直後の千葉市ではピアノプラス箏でした。今回はピアノに尺八。「不易と流行」と申しますが、変えない部分と変えていく部分と、しっかり考えられているようです。
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ピアノは熱海での公演と同じく沢村繁さん。尺八が大河内淳矢さん。
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やはり「和」のテイストが入ると「智恵子抄」の世界観がより鮮烈になる気がします。
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「智恵子抄」に入る前に、「智恵子抄」以外の光太郎詩の朗読がありました。季節柄、ということでしょう、「美しき落葉」(昭和19年=1944 戦時中にしては珍しく翼賛的な内容をほぼ含まない詩です)と「冬が来た」(大正2年=1913)。
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そして「智恵子抄」。基本的な構成はこれまでとおそらく同一でした。語りだけ、メロディー付きとバリエーションに富み、構成的にもドラマチックです。取り上げられた詩は以下の通り。

「樹下の二人」(大正12年=1923)
「あどけない話」(昭和3年=1928)
「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)
「風にのる智恵子」(昭和10年=1935)
「値ひがたき智恵子」(昭和12年=1937)
「山麓の二人」(昭和13年=1938)
「レモン哀歌」(昭和14年=1939)
「亡き人に」(同)

このうち、「千鳥……」と「風にのる……」は二つの詩の詩句を行ったり来たり。

第一部が「歌物語 智恵子抄」で、第二部はお召し物もがらっと変えて「レフト・アローン」などジャズのスタンダードナンバー等でした。潮見さん、「智恵子抄」とジャズはよく合う、とおっしゃって、毎回そうなさっていますが、確かにそうですね。
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インストで大河内さんと沢村さんによる「ルパン三世 PART2」オープニングテーマも。盛り上がりました。

やはり音楽はいいものですね。自分も趣味でやっていた音楽活動、いろいろ忙しくて止めてしまいましたが、また余裕が出来たら始めようかと思いました。

お三方、今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

本阿弥光悦は京都の鷹ヶ峯で当時の最高文化の部落を作りました。形は違ひますが、小生の企てもいく分似たところがあります。


昭和20年(1945)8月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

花巻郊外太田村への移住について。この段階では、若い頃から北方の僻地で生活することを夢みていたことが実現できる喜びが大きかったようです。実際にその生活を始めてから、自らの戦争責任への省察が始まります。

時折、本当に時折ですが、光太郎のブロンズ彫刻が売りに出されます。ブロンズは同一の型から同じ物が作れますので、光太郎歿後に鋳造された物が販路に乗るわけです。といっても無制限に鋳造されることもないので、やはり貴重な機会ではあります。

まず、大阪で昨日始まった展示即売会。「手」(大正7年=1918)が出ています。

古美術上田 EXHIBITION

期 日 : 2023年11月23日(木)~11月30日(木)
会 場 : 竹井事務所 大阪市西区新町1-2-13 新町ビル2F 206号
時 間 : 13:00~19:00
料 金 : 入場無料

超名品!高村光雲の息子であり、智恵子抄で有名な“高村光太郎” 代表作「手」を11月23日~30日の1週間限定で展示販売 ~あの超貴重品を手に入れる今世紀最後のチャンス! 昭和初期美術の名品と共にガラス越しではなく“間近”で!~

株式会社竹井事務所は、竹井事務所2F(所在地:大阪市西区新町1-2-13 新町ビル2F 206号)にて高村光太郎の「手」を中心に、古美術上田による昭和初期美術の展示・販売会を2023年11月23日(木)から11月30日(木)の期間限定で開催します。

昭和初期の日本は、第一次世界大戦による好況が終わり、戦後恐慌によって日本全体が貧しくなった時代です。そんな中で作り上げられた美術品には作家の強い意志が感じられ、その象徴の一つとして高村光太郎の「手」がしばしば挙げられます。不遇の時代に作られた逞しい作品の力と美を間近でご高覧下さい。

【主な展示・販売品】
 ・高村光太郎「手」 ・鋳銅金鶏鳥置物  ・純銀鵞置物  ・青銅器倣花瓶
 ・鋳銅蟹香炉  ・鋳銅蜂文花瓶  ・鋳銅篝火形香炉  他

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会場の「竹井事務所」さんは大阪ですが、主催の「古美術上田」さんは東京都文京区(そこで、下記の別の業者さんによるオークション会場も都内ですし、この記事のカテゴリは「東京都」としました)。

上記の説明文、突っ込みどころが多いのですが……。

まず「今世紀最後のチャンス」。今世紀はまだ80年近く残っていますし……。まぁ、貴重な機会であることはその通りですね。それから「昭和初期」と謳っていますが、「手」は大正7年(1918)の作と確認できています。まぁ、他の展示品の多くが「昭和初期」なのでしょう。

そして、「手」の販売価格。書いてありません。「応談」ということでしょうか。台座を見るとどうも古い鋳造ではないようなのですが、どのくらいで考えているかと、気になりますね。

もう1件、美術品オークションから。

第764回毎日オークション 絵画・版画・彫刻

期 日 : 2023年12月7日(木)、8日(金)
会 場 : 東京毎日オークションハウス 
       東京都江東区有明3-5-7 TOC有明ウエストタワー5階
時 間 : 12/7(木) 16:00 - (Session1 online)
      12/8(金) 12:00 - (Session2 Auction House)
料 金 : 入場無料

こちらでは、やはりブロンズの「薄命児男子頭部」(明治38年=1905)が出ます。

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006欧米留学に発つ前年、浅草の花やしきで見た、曲芸の幼い兄妹がモデルです。もともと右画像のように兄妹の群像として作られました。親方に怒られて泣いている妹をかばう兄、という構図。しかし、残念ながら現存するのは兄の頭部のみです。

同型のものは、髙村家、碌山美術館さん、千葉県立美術館さん、花巻高村光太郎記念館さんなどにあります。

ところでこの手のオークション、以前はこのブログで度々ご紹介していましたが、一度、光太郎の父・光雲作の木彫ということで出品されていたものが、画像を見ただけでもあまりに「いけない」ものだったので、以後、ここで取り上げるのをやめていました。ただ、今回はブロンズで、まず間違いなさそうなのでご紹介します。

予想落札価格的な設定が100万から150万。まぁ、妥当な線でしょう。「代表作」とは言えない「薄命児」でこの値段ですから、上記の「手」はその数倍ではないかと思われます。

懐に余裕のおありの方(個人でも法人でも)、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今朝は西鉛の山のマタギが宮沢さんところへ訪ねて来たので、熊捕りの話をききました。

昭和20年(1945)8月3日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

「西鉛」は花巻南温泉峡の一番奥にあった西鉛温泉。光太郎は花巻の宮沢家に疎開後、肺炎で高熱を発して約1ヶ月臥床した予後を養うため、6月に1週間程当時に音すれました。

そのあたりのマタギは、賢治の「なめとこ山の熊」に登場しますね。

まだだと思っていたら、始まっていました。

秋のライトアップ2023(夜間特別拝観)

期 間 : 2023年11月16日(木)~12月2日(土)
時 間 : 17時30分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       三門周辺、友禅苑、女坂、国宝御影堂、阿弥陀堂(外観のみ)、鐘楼
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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みどころ

国宝 御影堂
寛永16(1639)年、徳川家光公によって建立されました。
間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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重要文化財 大鐘楼
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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近年はプロジェクションマッピング(鐘楼の画像に見える葵の御紋など)も取り入れたりしています。

また、例年そうですが、「月かげプレミアムツアー」や「フォトコンテスト」など期間中にさまざまなイベントも企画されています(最上部リンクご参照)。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今は青葉の世界となり、北上川がこんこんと満溢して流れてゐます。朝夕河畔へ散歩にゆきます。ここに居ると宮沢賢治の詩がよく分かります。


昭和20年(1945)7月2日 椛澤ふみ子宛書簡より

5月に東京から花巻に疎開し、この時期は未だ花巻に空襲が無く、つかのまの平和でした。

いただきものの書籍と雑誌をご紹介します。

まず書籍。光太郎と親交のあった、岡山県出身の詩人・永瀬清子の詩集です。

永瀬清子詩集

2023年10月13日 永瀬清子著 谷川俊太郎選 岩波書店(岩波文庫) 定価1,050円+税

女の生きにくい世の中で身を挺して書き継いだ、勁く、やさしく、あたたかい、〈現代詩の母〉永瀬清子の決定版詩集。

妻であり母であり農婦であり勤め人であり、それらすべてでありつづけることによって詩人であった永瀬清子(1906-95)。いわば「女の戦場」のただ中で書きつづけた詩人の、勁い生命感あふれる詩と短章。茨木のり子よりずっと早く、戦前から現代詩をリードしてきた〈現代詩の母〉のエッセンス。(対談=谷川俊太郎)

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目次
 はしがき(谷川俊太郎)無題
 [詩]
  『グレンデルの母親』――(歌人房、一九三〇)より
  『諸国の天女』――(河出書房、一九四〇)より
  『大いなる樹木』――(桜井書店、一九四七)より
  『美しい国』――(爐書房、一九四八)より
  『焰について』――(千代田書院、一九五〇)より
  『山上の死者』――(日本未来派発行所、一九五四)より
  『薔薇詩集』――(的場書房、一九五八)より
  『永瀬清子詩集』――(昭森社、一九六九)より
  『海は陸へと』――(思潮社、一九七二)より
  『続 永瀬清子詩集』――(思潮社、一九八二)より
  『あけがたにくる人よ』――(思潮社、一九八七)より
  『卑弥呼よ 卑弥呼』――(手帖舎、一九九〇)より
 [短章ほか]
  『諸国の天女』――(河出書房、一九四〇)より
  『女詩人の手帖』――(日本文教出版、一九五二)より
  『蝶のめいてい 短章集1』――(思潮社、一九七七)より
  『流れる髪 短章集2』――(思潮社、一九七七)より
  『焰に薪を 短章集3』――(思潮社、一九八〇)より
  『彩りの雲 短章集4』――(思潮社、一九八四)より
 渦巻の川――わが詩作の五十年(永瀬清子)
 《対談》やさしさを教えてほしい(永瀬清子・谷川俊太郎)
 《研究ノート》(白根直子)
 永瀬清子自筆年譜

先にハードカバーがあっての文庫化ではなく、初めから文庫本としての刊行です。永瀬が亡くなったのが平成7年(1995)、没後30年近く経ったわけですが、この時期に岩波文庫さんのラインナップに入るというのが稀有といえば稀有と思われます。

永瀬の故郷・岡山県赤磐市の教育委員会にお勤めで、永瀬の顕彰活動に当たられている白根直子氏(今回も解説的な《研究ノート》をご執筆)から送られてきました。同市ではこれまでも永瀬について多方面でその名を知らしめる活動をなさっていて、今年は伝記漫画も刊行されましたし、永瀬の名をしっかり後世に伝え続けるぞ、という気概が感じられます。すばらしい。

永瀬は谷川俊太郎氏と交流が深く、その谷川氏による選です。また、谷川氏による「はしがき」、生前の永瀬と谷川氏の対談も収録されており、谷川ファンにもおすすめですね。

残念ながら光太郎が書いた永瀬詩集『諸国の天女』(昭和15年=1940)の序文は掲載されていませんが、「短章ほか」と題された散文を集めた項、谷川氏との対談などで、随所に光太郎の名が出て来ます。

特に「へー」と思ったのが、こちら。

 高村光太郎氏がある時夫人のことを
「智恵子は画家でしたが、僕が彫刻家としての立場から、あまりに厳しくその絵を批評したのを本当に今から思うと可哀想なことをしたと思います。芸術家には賞讃と云うことが必要なのです。その事によって心をゆたかにされ、のびてゆけるのです」とおっしゃったことがあり深く心を打たれた。


おそらく同じ時のことを谷川氏との対談の中でも。

 高村光太郎先生のところへお寄りしてお話ししていたら、高村先生もやはり奥さんの病気の原因が自分にありはしないかと苦しんだとおっしゃってました。ご自分が彫刻家なので、芸術に対して高い要求を持っているから、智恵子さんが絵を描いているのをちっともほめてやれなかった。そのことが悪かったんじゃないか、といろいろおっしゃいました。結局、お医者さんにも訊いたりしたんですけれども、それは原因じゃないと言われたそうです。

その他、永瀬と光太郎が共に出席し、かの『雨ニモマケズ』が「発見」されたという、昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた宮沢賢治追悼の会の話なども。

ぜひお買い求め下さい。

紹介すべき事項がまだ山積していますので、いただきものつながりでもう一冊。光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんを介して届きました。

門 ⅩⅦ

2023年8月24日 岩手県立花巻南高等学校文芸部
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目次(抄)
 特集Ⅰ 「銀河鉄道の妹・宮沢トシ」を追って
  座談 宮沢賢治・トシ研究者 山根知子教授をかこんで
  文芸研究 銀河鉄道の妹たちへ 
   ――妹宮沢トシが花巻高等女学校『校友会誌』に託し、
        兄宮沢賢治が雑誌『女性岩手』に寄せた思い――
  コラム 「宮沢トシの勇進」寄贈に感謝して
 特集Ⅱ 聖地開演
  一幕 「こども本の森遠野」
  二幕 「高村光太郎記念館」
 随筆
 詩
 小説
 短歌
 戯曲
 花南文芸部活動録
 編集後記


賢治の妹・トシが通った旧制花巻高等女学校の後身である花巻南高校さん(現在は共学です)。少し前の話ですが、令和元年(2019)、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)そばのスポーツキャンプむら屋内運動場(旧山口小学校跡地 通称・高村ドーム)で開催された第62回高村祭では、当時の同校3年生の生徒さんが光太郎詩朗読をなさってくださいました。ちなみに高村祭はこの第62回を以て休止。おそらく最後の高村祭となるのでしょう。

で、同校文芸部さんで出されているもので、おそらく年刊でしょう。高校生の文芸誌とあなどるなかれ、100ページ超のきちんと印刷製本されたもので、写真等も豊富に使われています。内容的にももりだくさんですし、何より生徒さんたち、それぞれに実にしっかりしたものを書かれています。

特集は賢治没後90年ということもあるのでしょう、賢治の妹・トシがらみ。ノートルダム清心女子大学教授の山根知子氏を招いて同校で開かれた座談会の様子など。当方は山根教授とお会いしたことはないと思うのですが、上記永瀬清子関連で岡山県赤磐市で開催された講演会の講師をなさった方で、奇縁に驚きました。

他の項で光太郎についても触れて下さっています。まず、今年2月に花巻で行われた宮沢和樹氏(賢治実弟清六令孫  林風舎代表取締役)と当方との公開対談高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」のレポート。さらに、それとは別に旧太田村の高村山荘、高村光太郎記念館さん訪問記的なものも。ありがたし。

そういえば、今月初めに開催された、花巻高村光太郎記念館企画展「光太郎と吉田幾世」の関連行事としての当方の同題の講座にも、顧問の先生と生徒さんがお一人、聴きに来て下さっていました。

若い世代の皆さんに光太郎やそこに連なる人々の世界を広く知っていただきたい、というのが当方の目指す点のひとつでして、そうした意味ではこちらの取り組みは非常にありがたく存じますし、「文学の聖地」として花巻を盛り上げようという生徒さんたちの熱意には心打たれました。

ちなみに智恵子の故郷・福島でも、いわき市の高校の文芸部さんが智恵子に関するもろもろを……という件が昨日の地方紙『福島民報』さんで報じられています(改めて後日紹介します)。

この国もまだまだ捨てたもんじゃないな、と思う今日この頃です。

【折々のことば・光太郎】

小生今に智恵子観音といふ彫刻を作りますから、それに一度紫陽花を生けてください。

昭和20年(1945)7月3日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎63歳

智恵子観音」。ここでは具体的に語られていませんが、昭和25年(1950)に太田村の山小屋と志戸平温泉で神崎清と行った対談「自然と芸術」中に以下の発言があります。

智恵子の顔とからだを持った観音像を一ぺんこしらえてみたいと思っています。仏教的信仰がないからおがむものではないが、美と道徳の寓話としてあつかうつもりです。ほとんどはだかの原始的な観音像になるでしょう。できあがったら、あれの療養していた片貝の町(千葉県)におきたいと考えています。

この構想は、さらに2年経って昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として具現化します。

お世話になっている書家の菊地雪渓氏から招待状を頂き、「第45回東京書作展」を拝見して参りました。

会場は上野の東京都美術館さん。
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昨年はそれが無かったようなので欠礼しましたが、今年は上位入賞作に光太郎詩を書かれた作品があるとのことで。

こちらがその作品。
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光太郎が花巻郊外旧太田村の山小屋で蟄居席活を始めた直後の昭和20年(1945)に書かれた詩「雪白く積めり」の一節です。高田月魁氏という方、これではない作の方が最高賞に当たる内閣総理大臣賞/東京書作展大賞に選ばれていました。

その他の入選作でも光太郎詩文を書かれた方が複数いらっしゃり、有り難く存じました。

散文「満目蕭条の美」(昭和7年=1932)から。
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詩「平和時代」(昭和3年=1928)全文。
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詩「芋銭先生景慕の詩」(昭和14年=1939)より。「芋銭」は日本画家・小川芋銭です。
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見落としがなければ光太郎詩文を題材にしたものは以上でした。

「あれっ」と思ったのが、こちら。
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光太郎の親友・荻原守衛の書簡(片岡当宛・年月日不明)の一節が書かれています。文学系で光太郎と交遊のあった人物の作品から題を採ったものは多く見かけます(今回も北原白秋やら与謝野晶子やらが目立ちました)が、書道展で守衛の名に接する機会は今まで無かったような気がします。

しかし、いい文言です。

蕾ニシテ凋落センモ亦面白シ 天ノ命ナレバ之又セン術ナシ 唯人事ノ限リ尽シテ待タンノミ 事業ノ如何ニアラズ心事ノ高潔ナリ 涙ノ多量ナリ以テ満足ス可キナリ

満30歳で夭折した守衛晩年の書簡と思われますが、自身の運命を予言しているかのような……。

招待券を下さった菊池氏の作。
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菊地氏も令和元年(2019)の同展で内閣総理大臣賞/東京書作展大賞に輝かれています。

同展、昨日開幕で、11月24日(金)まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

毎日花巻の地理踏査、先日は詩碑に詣でました、清六さんが写真をとつてくれましたがまだ出来ません、警戒警報頻発、昨夜も十二時頃サイレンに起されました、

昭和20年(1945)7月2日 宮崎稔宛書簡より 光太郎63歳

5月16日に花巻の宮沢家に疎開、翌日から結核性の肺炎で約1ヶ月臥床した光太郎ですが、この頃には本復。賢治実弟・清六の案内で、自らが昭和11年(1936)に揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑を初めて見に行きました。除幕の際は智恵子が南品川ゼームス坂病院に入院中ということもあり、訪れませんでした。

光太郎の親友・碌山荻原守衛の顕彰にあたる信州安曇野の碌山美術館さんでの美術講座です。

美術講座「スト―ブを囲んで 臼井吉見の『安曇野』を語る」

期 日 : 2023年11月25日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 18:00~19:30
料 金 : 無料

語り手 : 太田寛さん(安曇野市長、当財団理事)
      平沢重人さん(安曇野市文書館長、臼井吉見文学館長、当財団理事) 

ダルマストーブで暖をとりながら開催する恒例の講座です。
小説『安曇野』完結50年にあたる本年、小説の最後の舞台である当館のグズベリーハウスで、『安曇野』についてお話しいたします。
第5部の臼井とかつての同僚・横沢正彦(荻原碌山研究委員会委員長)とのやりとりや、主人公の一人・荻原守衛を中心としたお話です。
暖かい服装でお出かけください。

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大河ドラマの誘致運動も起こっている小説『安曇野』がらみです。安曇野出身の臼井吉見が昭和40年(1965)から同49年(1974)にかけて刊行した全5巻の小説で、荻原守衛や支援者の相馬愛蔵・黒光夫妻、そして光太郎も登場します。

市長おん自らのご登壇ということで、市としての熱意も感じられますね。ちなみに平成29年(2017)の「ストーブを囲んで」では、当方も語り手を務めさせていただきました。

碌山美術館さんといえば、安曇野市さんの広報誌『広報あづみの』11月15日号、表紙がドーンと同館碌山館(内壁に光太郎の名も刻まれています)。
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11月5日(日)に一夜限りで行われたライトアップの様子です。紅葉も実にいい感じですね。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

着物は智恵子手織の反物二反にて宮沢さんにたのんでモンペ姿の上下羽織を縫つていただきそれを常用してゐます。宮沢さん一家は実に綿密に小生をいたはつて下さります。まつたく賢治さんのおかげと思ひます。


昭和20年(1945)6月28日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎63歳

智恵子手織の反物二反」もおそらく防空壕に入れて置いたため、4月13日の空襲による焼失を免れたようです。
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おそらく左画像のちゃんちゃんこと右画像のズボンが同じ生地のように見え、それで「上下」でしょう。右画像の格子縞のちゃんちゃんこがもう一反と思われます。

昨日は銚子市に行っておりました。

どの程度光太郎智恵子に触れられているのか不明でしたので、事前にご紹介しませんでしたが、銚子市ジオパーク・芸術センターさんで昨日始まった「ぎょうけい館資料展」を拝見。

大正元年(1912)に光太郎智恵子が逗留し、愛を確かめ合った宿にして、残念ながら今年1月に廃業となってしまったぎょうけい館(元・暁鶏館)さんに関わる展示です。
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銚子市観光協会さんのサイトで「ぎょうけい館の長い歴史と、その中で旅館を訪れた人々について、そして旅館に残された作品を紹介」とありましたので、光太郎智恵子関連の展示もあるかと思い、見に行った次第です。

銚子市ジオパーク・芸術センターさん、廃校になった中学校を転用した施設でした。
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廃校と言っても、そう古い建物ではありません。
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教室を転用した展示室が4室ほど有り、そのうちの1室で「ぎょうけい館資料展」。
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ロゴは昔使われていた「暁鶏館」時代のものですね。

廃業以前に館内に展示されていた品々などが並んでいました。古写真、古絵葉書、鳥瞰図、そして宿泊した著名人の書など。書は伊藤博文、高浜虚子、稲畑汀子(虚子の孫)。光太郎が訪れた大正元年(1912)には光太郎はまだ無名の若造でしたので、光太郎は書などは残さなかったようです。

残念ながら、光太郎智恵子に関しては、「ぎょうけい館を訪れた著名人」という年表に名があったのと、宿泊室にでも置いてあったらしい冊子が展示されていて、そこに詩「犬吠の太郎」(大正元年=1912)、「人に」(同)が掲載されていた程度でした。ただ、古写真、古絵葉書などは光太郎智恵子が訪れた当時のものも含まれるかと思われます。

他に年表に名があったのは、島崎藤村、国木田独歩、尾崎紅葉、岡倉天心、泉鏡花、田山花袋、前田夕暮、若山牧水、高浜虚子、内田百閒、伊藤博文、渋沢栄一、野口英世ら。

一応、開催情報を。

ぎょうけい館資料展

期 日 : 2023年11月14日(火)~12月17日(日)
会 場 : 銚子市ジオパーク・芸術センター 千葉県銚子市八木町1777-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日、11月23日(木・祝)
料 金 : 無料

 犬吠埼に建つ「ぎょうけい館」。その創立は明治7年に遡り、旅館からの絶景は人々を魅了し、長きにわたって数々の著名人が宿泊しました。
 しかし、多くの方に惜しまれながらも、令和5年1月31日をもってぎょうけい館は閉店となりました。閉館後、所有している絵画などの資料は銚子市に寄贈されました。
 今回の企画展では、ぎょうけい館の長い歴史と、その中で旅館を訪れた人々について、そして旅館に残された作品を紹介します。
※ご来場者アンケート回答でぎょうけい館タオルをプレゼント!


アンケートに回答し、「ぎょうけい館タオル」を貰ってきました。廃業前に宿泊客等に配られていたものでしょう。ロゴ入りです。もったいなくて使えません(笑)。
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タオルプレゼントはなくなり次第終了だそうです。

銚子市ジオパーク・芸術センターさん、「ジオ」と冠していますので、他の常設と思われる展示はその関係がメインでした。
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他に考古資料等も。

銚子は白亜紀の地層が露頭になっていたりと地質学的に貴重な場所だそうで、市としては最近その方面での街おこしに力を入れているようです。先月には「第13回日本ジオパーク全国大会in関東」が開催されたりもしました。

しかし、暁鶏館をはじめ、文人墨客の来訪も多かった地ですので、そうした関連の展示も今後やっていただきたいところです。銚子出身で光太郎とも交流が深かった詩人・画家の宮崎丈二遺品などが市に寄贈されていますし。光太郎をはじめ室生犀星、梅原龍三郎、武者小路実篤、木村荘八、岸田劉生、長与義郎、佐藤惣之助、高田博厚らからの書簡も含まれています。「銚子市デジタルアーカイブ」としてオンラインでの公開は為されていますが。

会場を後に、昼食を摂りに犬吠埼方面へ。

よく行く寿司屋さんが火曜定休でしたので、犬吠埼の少し北、海鹿島(あしかじま)にある海鮮料理の店へ。
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一山いけす」さん。その名の通り、店内に大きな生け簀があって、魚や伊勢海老が。
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うに丼を注文しました。伊勢海老のお吸い物付き。ついでに玉子の寿司を単品で。
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同行した妻はうにとマグロ丼。
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さらにハマグリやホタテも注文。口福でした(笑)。

窓の外はすぐ太平洋。ここも銚子ジオパークの一角です。
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上は「とんび岩」。確かにトンビっぽいですね。これも白亜紀の露頭です。

はとバスさんのツアーやら、埼玉県のとある市の教育委員会ご一行様のマイクロバスやらが次々とやってきて、平日にもかかわらず満員盛況でした。

あまり書きたくはないのですが、銚子市は、元首相とのズブズブで少し前に社会問題化した(結局有耶無耶なまま幕引き?)ある学校法人の誘致が元で財政破綻という状況です。そういうお馬鹿な行政の肩を持つ気はさらさらありませんが、亡母の出身地でもあり、衰退していくのを見るに忍びないという気持は一入です。

ぜひ足をお運びいただき、地元経済活性化に貢献していただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

東京を五月十五日出発、花巻に十六日到着、宮沢様のお宅に迎へられ、大に安心しましたら翌日から高熱を発し、肺炎と診断され、爾来臥床、御当家の一方ならぬお世話をうけて昨今漸く病床に起き上つて筆がとれるほど恢復して来ました。全快も程近い事とたのしみにして居ります。東京にて五月十五日までゐた藤岡氏の家も其後罹災焼失した由にて、それ以前に花巻に来られた事は天の恵みと存ぜられます。


昭和20年(1945)6月6日 真壁仁宛書簡より 光太郎63歳

4月13日の空襲で自宅兼アトリエを失った後、ちかくにあった妹の婚家に転がり込んでいましたが、書簡の通り5月には花巻の宮沢賢治実家に疎開。その後、妹の婚家も空襲に逢って全焼。花巻到着後すぐに結核性の肺炎で1ヶ月近くの臥床。踏んだり蹴ったりでした。

10月24日(火)、『毎日新聞』さんの奈良版記事から。飛鳥時代、「蝦夷(えみし)」と呼ばれた東北方面の人々と都のあった飛鳥との関わりについてです。

「万葉古道」を尋ねて 交流・別れ・流浪/127 山田道/4 蝦夷の民、飛鳥京目指す

 大和政権が律令による中央集権化を進めた7世紀ごろ、国への反抗、服従を繰り返した最北の民・蝦夷(えみし)が、恭順の意思を示すため、山田道を飛鳥の京(みやこ)を目指してやって来た。
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 この連載で万葉時代に入れている時期だ。蝦夷は、「日本書紀」には景行紀から持統紀までに登場。斉明紀(7年間)には32カ所に蝦夷の字が出る。始まりは、6世紀半ば、大和朝廷が地方豪族を任じた国造(くにのみやつこ)の支配地域から外れた東北地方以北の住民を、政権の側から呼んだ名だった。蝦夷の地は、新潟、宮城両県の中部を結ぶ線の北だが、境界は時代により変化している。
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 581(敏達天皇10)年2月の「書紀」の記述は、蝦夷と国の関係を示す。
  「蝦夷数千、辺境に寇(あたな)ふ(害意を示す)」。首領らを呼び「詔(みことのり)して」今「(景行天皇の世のように)元悪を誅(ころ)さむとす」と言うと首領らは「恐懼(かしこ)みて(恐れ敬い)」、「泊瀬(はつせ)(桜井市)の中流(川の中)に下て、三諸岳(みもろのおか)(三輪山)に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)」った。「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫」、「天闕(みかど)に事(つか)へ奉らむ」。
 敏達天皇の訳語田(おさだの)幸玉宮は磐余(いわれ)にあった。蝦夷は、東国からの街道が通じていた名張を経て初瀬の谷の道を下ったのだ。
 次は蝦夷との緊張を示す。
 647(大化3)年、「渟足柵(ぬたりのき)(新潟市付近)を造りて、柵戸(きのへ)(屯田兵)を置く」。 
 万葉歌に出る北限地周辺の一つに、東山道は巻十四「東歌」にある「陸奥國」の「安達太良(あだたら)の嶺」(福島県)(3428)がある。高村光太郎の詩集「智恵子抄」が名を広めた。北陸道は、佐渡島の対岸にある神の山「弥彦(いやひこ)」(新潟県弥彦村)(巻十六 3883)。 福島県の南側は防人たちの出身地だ。
 蝦夷の生活、姿の描写も「書紀」にある。 659(斉明天皇5)年7月、遣唐使は「道奥(陸奥)の蝦夷男女二人」を伴い、唐第3代の高宗に見せた。
 高宗が「此等(これら)の蝦夷の國」の位置を問うと、使者は「國は東北に有り」、蝦夷には「三種有り。遠き者をば、都加留(つかる)(津軽)と名(なづ)け、次の者をば麁(あら)蝦夷と名け、近き者をば熱(にき)蝦夷と名く」と答えた。2人は熱蝦夷で毎年、朝廷に「入(まい)り貢(たてまつ)る」。蝦夷の「國」には「五穀」は無く「肉(しし)を食(くら)ひて存活(わたら)ふ」。家屋は「無し。深山の中にして、樹の本に止住(す)む」。
 高宗は初めに「日本國の天皇(すめらみこと)」の平安を尋ね、「日本」の国号の最古の使用例の一つとされるが、誤写の可能性も指摘される。それまで中国書で日本は「倭国」であり、日本人も自ら倭と呼んでいた。
 皇帝は2人の蝦夷を見て「身面(むくろかほ)の異(け)なるを見て、極理(きはま)りて(この上なく)喜び怪む(不思議だ)」と珍しがったが、2人は倭人の生活圏に一番近い蝦夷だった。同行させたのは倭国が多様で大きいと示したかったのだろう。わざと異装をさせていたのではないか。蝦夷の地は倭国の外と意識されていたことも分かる。2人は飛鳥に寄っただろうし、7世紀、東国から飛鳥京に行くには、山田道を通った。 西日本で稲作が広がった弥生~古墳時代の紀元前5~紀元6、7世紀、北海道は稲作をせず、狩猟、漁、採集を中心とした続縄文文化の時代だった。同文化は後期(3~6世紀ごろ)には、東北地方北部にも渡り広まる。 稲作は、弥生時代前期に本州日本海側北端の津軽に伝わった後、中期以降は衰退、7世紀末頃までその状態が続く。
 唐に行った蝦夷の説明と続縄文文化の特徴は重なる部分がある。
 「夷」は中国では、東方の未開蛮族を指す。蝦夷は蔑称だが、強さも意味した。「乙巳(いっし)の変」(645年)で殺された蘇我入鹿の父親で、自宅に火をかけて死んだ大臣の名は蝦夷だ。「壬申(じんしん)の乱」(672年)の大海人皇子方の「豪傑」の一人に鴨君蝦夷がいる。
 斉明紀には、「渡嶋(わたりのしま)の蝦夷」が出る。「渡嶋」は北海道とみられるが、斉明4年には「阿倍引田臣比羅夫、肅愼(みしはせ)を討ちて、生羆(ひぐま)二つ・羆の皮七十枚を獻(たてまつ)る」。ヒグマは北海道に生息し本州にはいない。
 「書紀」は蝦夷と肅愼を区別した。
 斉明6年3月にも、阿倍臣に肅愼国を討たせた。臣が「陸奥の蝦夷」を船に乗せて行くと、「渡嶋の蝦夷」が海辺に居て「肅愼が我らを殺そうとする」と助けを求めた。戦いとなり「賊破れて己が妻子を殺す」。5月には一転して「石上(いそのかみの)池(いけ)の邊(ほとり)」(天理市)で「肅愼四十七人に饗(あへ)たまふ(饗応した)」。
 「書紀」は、蝦夷と肅愼の関係には触れていない。現在のアイヌ文化の形成は13世紀以後とされる。 7世紀、飛鳥に来た蝦夷はどんな文化、歴史を持っていたのか。以上のように、なお不明な点が多い。

「蝦夷」というと、平安初期の阿弖流為と坂上田村麻呂との戦いや、さらに平安末期の前九年・後三年の役などが有名ですが、それらより遡る飛鳥時代、蝦夷とヤマト王権との関わりを追っています。

それ以前から、ヤマト王権と小競り合いがあった蝦夷のうち、降伏したり捕虜になったりした者たちは「俘囚」として全国各地に強制的に移住させられるなどしていました。西日本でも蝦夷風の蕨手刀が出土するのがその証左。ちなみに鬼婆伝説で有名な観世寺さん(智恵子生家近く)で「鬼婆の出刃包丁」として伝えられ、展示されているのは蕨手刀です。

それでも「まつろわぬ」者たちも存続し、阿弖流為の乱に繋がりますし、処遇改善を求める俘囚の反乱なども頻発、平将門の挙兵もそうした流れの中に位置づける説もあります。遣唐使に連れられて海を渡ったという「蝦夷男女二人」も俘囚でしょう。

飛鳥京を経て唐の都・長安に渡った蝦夷。もしかすると「飛鳥には空が無い」「長安にも空が無い」とつぶやいたかも知れません。1,300年後に「東京に空が無い」と語った智恵子、蝦夷の血を色濃く受け継いだであろうその出自から、「あどけない話」が読み取れる気もします。無理くりですが(笑)。さらに言うなら、若い頃から北方の風土に惹かれ続け、ついに晩年には花巻郊外に隠棲した光太郎にも蝦夷の血が受け継がれていたのかも知れません。いっそう無理くりですが(笑)。

飛鳥時代ついでに奈良時代がらみで。

テレビ番組の再放送情報です。

再 興福寺 国宝誕生と復興の物語 つなぐ!天平の心

NHK BSプレミアム 2023年11月14日(火) 23:00〜00:00

平家南都焼き討ちに負けるな!大修理始まる奈良の象徴五重塔に匠がしかけた驚きの技!運慶が学んだ阿修羅の秘密!無著と法相六祖と天平彫刻を徹底比較!大迫力ドローン映像。

奈良興福寺が守り続けてきた天平の心と国宝の数々を探る▽秘仏続々登場!北円堂運慶作の弥勒・無著・世親や南円堂康慶作の観音・法相六祖▽古代と中世のハイブリッド?五重塔が美しい理由▽高村光太郎たたえた天平彫刻の写実と歴代美術史家が絶賛した無著像のリアルを徹底比較▽康慶の仏像に異を唱えた藤原氏!その革新性とは▽東大大学院日本建築研究の海野聡と奈良博彫刻担当の山口隆介が天平の心と中世の職人と仏師の思いに迫る

【出演】興福寺貫首 森谷英俊 奈良国立博物館学芸部主任研究員 山口隆介 
    東京大学大学院工学系研究科准教授 海野聡
【語り】柴田祐規子 【朗読】小澤康喬
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BS8Kさんで今年2月に初回放映があった番組で、2KのBSプレミアムさんでも3月と7月に放映がありました。

光太郎の評論美の日本的源泉」(原題は「日本美の源泉」)が使われます。
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ぜひ御覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

只今はとりあへず妹の家に立退いてゐますが五月中旬には岩手県花巻町の宮沢賢治さんの実家にまゐります。一時そこに滞在して木彫材料を得て仕事する気でゐます。これからは諸方を行脚いたします。


昭和20年(1945)4月30日 西出大三宛書簡より 光太郎63歳

4月13日の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎。その月のうちには花巻への疎開を決意していました。

前年には陸軍軍医学校での講習を受ける為に上京していた賢治の主治医だった佐藤隆房に花巻疎開を勧められていましたし、焼失してしまったと思われるものの、宮沢家からの誘いの書簡等もあったと思われます。

昨日は北鎌倉に行っておりました。

光太郎の直ぐ下の妹・しづの令孫夫妻がやられているカフェ兼ギャラリー「笛」さんで、「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その10」展示と、関連行事としての朗読会にお邪魔。
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まずは展示を拝見。光太郎、そして光太郎と交流が深く、晩年は笛さんの近くに居住していた尾崎喜八に関わるさまざまです。
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光太郎から尾崎の結婚祝い(新婦は光太郎の親友・水野葉舟息女)に贈られたブロンズの「聖母子像」(ミケランジェロ模刻)も。
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一度火災に遭って、現在は読めなくなってしまった台座裏面の但し書きの画像。
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店名の由来となった世界各国のさまざまな笛。店主の山端氏が集められ、ご自身で演奏もなさいます。
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午後3時、朗読会の開始です。

店主の山端氏は、尾崎のエッセイ「音楽への愛と感謝」から、光太郎との出会いを語る部分を。奥様は光太郎詩「こころに美をもつ」(昭和17年=1942)と「深夜の雪」(大正2年=1913)で。
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ご常連の方、尾崎令孫の石黒敦彦氏、奥様のはとこに当たられる、高村豊周令孫も。
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当方は光太郎が戦後になって「智恵子抄」収録詩を朗読した肉声の入ったCDを持参、皆さんに聴いていただきました。

最後に再び山端氏。光太郎詩「山からの贈物」(昭和24年=1949)。
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その後、歓談タイム。「山からの贈物」ということで、鎌倉の山の方で採れたという巨大なトウガンなどが振る舞われました。
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展示の方は、11月28日(火)までの火・金・土・日曜日に見られます。
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「あじさい寺」として有名な明月院さん(尾崎家の墓所もあるそうで)の裏手です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】19258d8f-s

炭化沈香木 一寸珍に候へば少々進じまゐらせ候 茶にでもお使ひ下さらば幸甚


昭和20年(1945)4月 山端敏夫宛書簡より

「沈香(じんこう)」は香木の一種です。東南アジア原産で、おそらく日本では産出しないものでしょう。木彫の材としても使われます。

その沈香の炭を進呈するよ、茶を点てる時にでも使って下さい、と。宛先は「笛」店主山端氏の奥様の御尊父(光太郎の妹・しづの四男)です。この書簡、今年は出ていませんでしたが、昨年は展示されていました。

なぜ炭? というと、4月13日の空襲で焼けたということでしょう。光太郎、転んでもただでは起きません(笑)。

制作にちょっとだけ関わらせていただきました。

千葉県立図書館さんのサイトから。

千葉県誕生150周年記念「房総文学カード」(第2弾)の配布について

 第1弾に好評をいただいた「房総文学カード」。その第2弾を、今月25日より配布します。千葉県ゆかりの文学作品をとりあげ、作者やその舞台となった地に関する情報を満載したカードで、QRコードから作品を読むこともできます。第2弾も選べる5種類。ぜひ集めてみてください。
 チラシはこちら(PDF:244KB)

配布期間  令和5年10月25日(水)~なくなり次第終了
配布場所  千葉県立図書館3館(中央・西部・東部図書館)カウンター
枚  数  初刷限定各150枚
問い合わせ
千葉県立東部図書館 読書推進課 〒289-2521 旭市ハの349
TEL 0479-62-7070 FAX 0479-62-7466 E-mail:elib-kouza@mz.pref.chiba.lg.jp
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トータルナンバー008が「高村光太郎 智恵子抄 九十九里エリア 九十九里町」。現物がこちらです。名刺サイズで両面印刷。
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千葉県立図書館さん、中央、西部、東部3館中の、当方が自宅兼事務所をかまえる香取市に隣接する旭市にある東部図書館さんで企画されました。同館にて6月に文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」講師を仰せつかったご縁で、使用する画像について御相談をうけました。

ちなみにカードと共に図書館だより的なリーフレット「知識は旅をする」第78号も一緒にお送り下さいました。6月の講座の様子がレポートされています。
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「先生のユーモアある語り口にしばしば笑いも起き」……当人はいたって真面目に話していたつもりなのですが(笑)。

また、没後90年ということで、光太郎と縁の深かった宮沢賢治についても言及されています。
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で、文学カード。「九十九里町の『智恵子抄』詩碑の写真とかでいいんじゃないですか?」とも申し上げましたが、九十九里で半年あまり療養生活を送った智恵子の紙絵を使いたい、ということで、花巻高村光太郎記念会さん所蔵の紙絵を紹介いたしました。

今回が第2弾ということで、第1弾は9月に発行されていました。
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ラインナップ、一応活字にしておきます。

第1弾
 001 芥川龍之介「海のほとり」 九十九里エリア:一宮町
 002 伊藤左千夫「野菊の墓」 東葛・湾岸エリア:松戸市ほか
 003 佐藤春夫 「犬吠岬旅情のうた」 香取・東総エリア:銚子市
 004 田山花袋 「ある日の印旛沼」 印旛エリア:印西市・佐倉市ほか
 005 長塚節  「炭焼のむすめ」 南房総・外房エリア:鴨川市
第2弾
 006 大町桂月 「鹿野山」 内房エリア:君津市
 007 若山牧水 「水郷めぐり」 香取・東総エリア:香取市
 008 高村光太郎「智恵子抄」 九十九里エリア:九十九里町
 009 原民喜  「千葉海岸の詩」 東葛・湾岸エリア:千葉市
 010 宮本百合子「漁村の婦人の生活」 南房総・外房エリア:南房総市


著作権の切れているものを対象にしているそうで、各カードにはQRコードが印刷され、青空文庫さんにアクセス出来るようになっています。
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右は第2弾のPR画像。赤い変なの(笑)は、千葉県のゆるキャラ・「チーバくん」です。左側の真横から見ると、何と千葉県の形をしているというすぐれもの。よく間違われるのですが、決してメタボ犬ではありません。そもそも「犬」ではありません。「不思議ないきもの」です。

カードのイメージとしては永谷園さんの「東海道五十三次カード」だそうで(若い人には「何のことやら?」かもしれませんが)、今後も順次追加されていく予定とのことです。

そこで光太郎の再登板もあり得るというお話で、ありがたいかぎりです。

それぞれ千葉県立図書館さん3館で無料配布中。ぜひゲットして下さい。

【折々のことば・光太郎】

目下小生新らしい丈夫な壕を造りかけてゐます。一人でやるので中々はかどりません。艦載機の銃撃に備へるためです。


昭和20年3月24日 舟川栄次郎宛書簡より 光太郎63歳

駒込林町の光太郎アトリエ兼住居、3月10日の東京大空襲では大きな被害を免れましたが、その後も断続的に空襲が続き、結局、4月13日の空襲で跡形もなく焼け落ちてしまいます。

その前に掘った防空壕に彫刻刀や砥石、布団類などを入れて置いたのですが、その中にかつて智恵子が欲しがって入手した、英国の染織工芸家、エセル・メレ作のホームスパンの毛布が含まれていました。この毛布はその後の8月10日にあった花巻空襲もくぐり抜け、奇跡的に現存します。
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始まってしまっている展覧会です。

五百亀記念館開館10周年記念企画展 秋川雅史彫刻展~彫り奉らん~

期 日 : 2023年10月12日(木)~12月17日(日)
会 場 : 五百亀記念館 愛媛県西条市明屋敷238番地2
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日、祝日の翌日
料 金 : 無料

西条市出身のテノール歌手、秋川雅史氏が音楽活動のほか彫刻の分野においても才能を発揮し、制作に挑み続ける初期の作品から最新作までを紹介。また、彫刻師・近藤泰山及び地元で活躍する石水信至、杉森哲明両彫刻師の作品、さらに伊曽乃神社祭礼絵巻の特別展示を行い「西条祭りとだんじり」をもう一つのテーマに地元色豊かに空間を彩ります。

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フライヤーに使われている彫刻は、秋川氏が一昨年、二科展入選を果たされた受賞作。皇居前広場に建つ光太郎の父・光雲作の楠正成像模刻です。今年5月には、上野の森美術館さんで開催された「第4回日本木彫刻協会展」で展示が為されました。その他、これまでの秋川氏の作品がメインです。

で、公式サイトなどにその記述がないので気づかずにいましたが、秋川氏が蒐集された彫刻コレクションも展示されており、光太郎の父・光雲、そして高弟の一人・平櫛田中の作も出ているそうです。

光雲の作はおそらく「寿老舞」。令和元年(2019)、秋川氏がテレビ東京さん系の「開運! なんでも鑑定団」に鑑定依頼をなさった作です。その後、平塚市美術館さん他を巡回した「リアル(写実)のゆくえ 現代の作家たち 生きること、写すこと」展に出品されました。
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お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

幸ひ無事元気でゐます、屋根瓦を五六枚やられた程度ですみました、昨夜も相当賑やかな事でしたが罹災者の事を考へて終夜火事で明るい路上をうろついてゐました、そのうち太陽が煙の中へ臙脂色に登つて来ました、実に不思議な色でした。此家もそのうちにはやられる事と思つて今所持の物を諸方に分散する事を始めました。


昭和20年(1945)3月10日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎63歳

いわゆる東京大空襲の日の書簡です。「屋根瓦を五六枚やられた」のは機銃掃射によるものと思われます。これを機に、智恵子紙絵、光雲遺作、それから自分の作品の一部を郊外に住む友人等の元に疎開させました。

疎開させた光雲作品には光太郎が最も高く評価していた「洋犬の首」が含まれていました。
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光太郎が生まれるずっと以前、少年時代の光雲が横浜で見た西洋犬に衝撃を受け、帰ってすぐ記憶の確かなうちに彫ったという習作です。後の光太郎の木彫に通じるテイストが溢れています。

昨日も書きましたが、結局、4月13日の空襲で光太郎自宅兼アトリエは全焼します。

招待状を頂いており馳せ参じる予定なのですが、このサイトでご紹介するのを失念していました。というか、紹介したつもりでいたら「しまった、書いてなかった!」状態でした。すみません。

福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~

期 日 : 2023年11月4日(土)
会 場 : 王子ホール 東京都中央区銀座4-7-5
時 間 : 14:00開演(13:30開場)
料 金 : 4,500円(全席自由)

予定プログラム : 朝岡真木子作曲作品
 秋です      詩:西岡光秋
 しだれ桜     詩:岡崎カズヱ
 露草 〈初演〉      詩:こわせ・たまみ
 海の待宵草    詩:こわせ・たまみ
 きつねのよめいり 詩:野上彰
 金木犀の秋〈初演〉詩:冨永佳与子
 冬が来た〈初演〉    詩:高村光太郎
 組曲「みだれ髪」〈改訂初演〉短歌:与謝野晶子
 さんまのうた   詩:大竹典子
 だんごむし    詩:矢崎節夫
 うめぼし     詩:浅田真知
 黒豆のなっとう  詩:中野惠子
 おにぎりのうた  詩:柏木隆雄
 わすれない    詩:星乃ミミナ    ほか

出 演 :
 福成紀美子(ソプラノ)、朝岡真木子(作曲・ピアノ)
 特別ゲスト 下野 昇(テノール)
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作曲家・朝岡真木子氏。平成13年(2001)、組曲「智恵子抄」のうち「人に」「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」の4曲を作曲され、初演。令和元年(2019)に「値ひがたき智恵子」を加えて完成版として初演。共にソプラノの伊藤晶子氏の歌唱でした。

昨年には同組曲を含む楽譜集『朝岡真木子歌曲集2』が刊行され、メゾソプラノの清水邦子氏が全曲演奏、さらに今年に入ってCD化もなされました。その前後、清水氏や他の方の歌唱で、様々な機会に抜粋の演奏がくり返されていますし、今年の第67回連翹忌の集いでも「人に」を清水氏の歌唱、朝岡氏のピアノでご披露いただきました。連翹忌と言えば、渡辺えりさんの無茶振りで(笑)えりさんの朗読のBGMも朝岡氏にお願いしました。

その朝岡氏が新作として「冬が来た」を作曲なさり、今回のコンサートで初演が為されます。ありがたし。歌唱は福成紀美子氏、ピアノはこうした場合にほとんどそうですが、朝岡氏ご自身です。

もう明日になってしまいましたが、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

思ひきつて静養にゆかれた事をよろこびます、十分効果のあるまで落ちついて滞在せられるやうに申進めます、小生は地下霊泉の信仰者で、地底ふかき所から自然が人間に贈るこの無類の霊気は必ず人の身体と精神とを健康に導くものと確信してゐます、


昭和19年(1944)12月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎62歳

健康を害して福島の湯岐温泉に湯治に出かけた宮崎に宛てた書簡から。光太郎の温泉好きは若い頃からでしたが、単に「温泉はいいですよ」ではなく「小生は地下霊泉の信仰者で、地底ふかき所から自然が人間に贈るこの無類の霊気は必ず人の身体と精神とを健康に導くものと確信」。笑えます。

当方も昨日まで花巻南温泉峡・大沢温泉さんに2泊し、光太郎も浸かった露天風呂を朝に晩に堪能して参りました。帰って来てもそれほど疲労を感じていないのは温泉の効用かも知れません。

その花巻レポート、明日は書かせていただきます。

昨日は埼玉県に行っておりました。主目的は、東松山市で開催中の「彫刻家 高田博厚展2023」拝見でした。

そちらに行く前、東松山にほど近い鶴ヶ島市に寄り道。
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安養山善能寺さんという寺院です。少し前、こちらにあるお堂の中に光太郎の父・光雲作の仏像と、光太郎の書を板に写したものなどがある、という情報を得まして、そちらを拝観させていただこうというわけで。

目指すお堂は山門を入った境内ではなく、駐車場にありました。
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ところが扉に鍵がかかっていまして、寺務所に行ってご住職に開けていただきました。ご住職、これから法事なので、ということで「一瞬でもいいですか?」「一瞬でいいです」。

さすがに一瞬(原義は「一度またたきをするほどの極めて僅かな時間」)とは行きませんでしたが(笑)、許可を得て写真を撮らせていただきました。
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光雲作という観音像は、おそらく木彫金箔張り。ただ、箔は剥離している部分もあり、100年程は経っている感じです。また、銘などは確認出来ませんでしたが、いいものであることは間違いないようです。

その右に光太郎書「甘酸是人生」を写した板。鶴ヶ島市と東松山市の間に位置する坂戸市の玄石庵さんの作と思われます。オリジナルの書は花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。平成27年(2015)、当方もちょっとだけ制作に協力させていただいたNHKさんの「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」で取り上げられた書です。花巻の林檎農家・阿部氏に贈られました。「甘酸」は林檎の味にかけています。
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さらに堂内には、光太郎の書いた般若心経を写した、おそらく陶板も。
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やはり埼玉県のときがわ町にある正法寺さんと言う寺院に、平成11年(1999)、同様の衝立が奉納されており、何か関係があるのかも知れません。正法寺さんのものは全文ですが、こちらは冒頭部分のみ。

善能寺さんのご住職によれば、それぞれ檀家衆からのご寄進、的なお話でしたが、詳しいことを聴いている時間がありませんでした。それでもお忙しい中で対応して下さり、感謝です。

善能寺さんを後に、愛車を北に向け、東松山へ。中心街に着く前、高坂地区を通りましたので、「高坂彫刻プロムナード」にも立ち寄りました。光太郎胸像を含む、高田博厚の彫刻32体が並んでいます。
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各地にある同型のものを含め、何度も拝見していますが、何度見てもいいものです。特に東松山のものは、色がいい感じに落ち着いています。

さらに北上し、「彫刻家 高田博厚展2023」会場の市民文化センターさんへ。
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昨年から同展会場がこちらになりました。それ以前は市役所向かいの総合会館さんでした。
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メインの高田の彫刻群。2室使っての展示でした(昨年は1室だけだったような……)。
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光太郎も詩のモチーフにしたフランスの詩人、レオン・ドゥーベルなど、主として肖像彫刻群が中心でした。
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鎌倉にあった高田のアトリエの一部を再現したコーナー。
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同じく鎌倉にあった高田愛用のピアノ。
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平成30年(2018)、高田博厚彫刻展の関連行事として行われた堀江敏幸氏との公開対談で同市を訪れられた、故・野見山暁治氏追悼コーナーも設けられていました。
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昨年もなされていましたが、高田が肖像を制作した人々などに関する展示も。

光太郎。
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同市と高田とを結びつけた、元同市教育長の故・田口弘氏。
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光太郎、高田、そして田口氏三人の関連年表。
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元は当方が作って、同市での市民講座「高田博厚、田口弘、高村光太郎 東松山に輝いたオリオンの三つ星」でレジュメの一部として配付したものです。昨年も展示されていたのかも知れませんが、気づきませんでした。「ありゃま」でした(笑)。

その他、一週間前に開催された「ひがしまつやまアートフェスタin高坂彫刻プロムナード」で、市民の皆さんが作られた彫刻なども。
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こんな感じで「彫刻の街」的な進め方もありだな、と思いました。

拝観後、関連行事としての講演会を拝聴。講師は同市にお住まいの陶芸家・畠山圭史氏。
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当方は拝見していませんでしたが、令和元年(2019)の連続テレビ小説「スカーレット」で、実技指導やストーリー構成に関わられたそうですし、氏の作品が劇中でも使われたとのこと。
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陶芸家としては異色のご経歴の方です。元々、カーデザイナーであらせられたのが、そのお仕事の中で粘土を使ううちに、粘土で形を作る魅力に取り憑かれ、脱サラして陶芸界に入られたとのこと。そこで、同じく粘土で造型を行うお立場から、高田の彫刻について私見を述べられたりなさいました。機械による制作ではない「手」での造型ということで(ご自身の陶器に関してもそうでしたが、「指の跡」という語を多用なさっていました)、相通じるものがある、と。また、そういう点で、光太郎と同じ明治16年(1883)生まれの北大路魯山人の作に衝撃を受けたともおっしゃっていました。

同市の吉澤教育長による終演後の謝辞。
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実は当方、亡父の仕事の都合で小5の途中から中2が終わるまで、同市に3年半程居住しておりまして、何と、吉澤教育長、中2の時の同級生、それもわりと仲の良い存在でした。ちょっと前にそういうことが判明し、教育委員会の方を通じて当方の訪問は伝えてありました。この後、約45年ぶりに久闊を叙しました。

閑話休題、「彫刻家 高田博厚展2023」、11月7日(火)までが会期です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

一昨日は早速お話の桜材の一端 御持参下され、尚又その節貴重な食品まで頂戴、感謝に堪へません、


昭和19年(1944)4月13日 内山義郎宛書簡より 光太郎63歳
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以前にもご紹介しましたが、当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人だった内山義郎に宛てた葉書で、10年ちょっと前に入手しました。住所が「比企郡今宿村」となっています。東松山市に隣接する現在の鳩山町です。どうも内山が疎開していたのではないかと考えられます。「観音院」という寺院、令和元年(2019)に行ってみましたが、建物は残っていたものの既に廃寺状態でした。

画家・柳敬助。光太郎より2歳年上で、東京美術学校の西洋画科、さらに黒田清輝の白馬塾に学びました。アメリカ留学中に光太郎、さらに荻原守衛と親しくなり、帰国後も交流が続きました。光太郎とは留学前から面識があった可能性がありますが、親交を持つようになったのはニューヨークでのことです。
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さらに柳の妻・八重は日本女子大学校での智恵子の先輩。そこで、明治44年(1911)、光太郎智恵子の最初の出会いの際には八重も同席していました。

そこで、光太郎を扱った映画や演劇、小説などでは、光太郎と智恵子を結びつけた重要な役どころとして柳夫妻が登場することが多く、当方執筆のジュブナイル「乙女の像ものがたり」でもそうさせていただきました。



動画は、一昨年、「乙女の像ものがたり」を「おもしろい」と言って下さった朗読家・北原久仁香さんによるものです。

その柳敬助、今年が没後100年にあたります。関東大震災のあった大正12年(1923)の5月、病のため数え43歳の若さでなくなっています。没後に日本橋三越で開催された遺作展は、ちょうど関東大震災当日が初日で、多くの作品が灰燼に帰してしまいました。

没後100年を記念して柳の出身地・千葉県上総地域で偲ぶイベントが、2件ヒットしました。

第116回 房総の地域文化講座 没後100年、画家・柳敬助の生涯

期 日 : 2023年11月5日(日)
会 場 : 木更津市中央公民館 千葉県木更津市富士見1丁目2番1号
時 間 : 14:00~15:20
料 金 : 400円

講 師 : 渡邉茂男氏 (君津市文化財審議会委員)

本年は、君津市泉出身の著名な洋画家、柳敬助の没後100年にあたります。わが国の西洋画黎明期に活躍した柳敬助の生涯や生き方を、房総や京都などに残された新出絵画などを含めて、高村光太郎、荻原碌山、新宿中村屋夫妻などとの出会いの中でお話しします。

地方紙『新千葉新聞』さんに予告記事。

房総の地域文化講座 講師は渡邉茂男氏

 房総の地域文化を学ぷ会(会長・篠田芳夫、元君津地方公民館運営審議会委員連絡協議会会長)主催、「第116回房総の地域文化講座」が、11月5日(日)午後2時から3時20分まで(受付開始は午後1時30分)、木更津市中央公民館(JR木更津駅西口前「スパークルシティ木更津」6階)の第7会議室で開かれる。
 テーマは『没後100年、画家・柳敬助の生涯』。講師は渡邉茂男氏(君津市文化財審議会委員)。
 今年は、君津市泉出身の著名な洋画家、柳敬助の没後100年にあたる。
わが国の西洋画黎明期に活躍した朷敬助の生涯や生き方を、房総や京都などに残された新出絵画などを含めて、高村光太郎、荻原碌山、新宿中村屋夫妻などとの出会いの中で話す。
 会員でなくても受講できる。受講料(中学生以上)は非会員のみ400円、会員は無料。非会員は事前申し込みが必要。
 なお、同公民館には駐車場がないが、近くの成就寺境内の市借用無料駐車場が利用できる(周辺に有料駐車場もあり)。またマスク着用など、コロナ感染防止策に協力を求めている。
 参加申し込み・問い合わせは筑紫敏夫(つくしとしお)幹事長までメールか電話で。
 ℡090-3431-9483(留守電に伝言メッセージを入れてください。折り返し連絡します)。
 メールアドレス toshi-551223@kzh.biglobe.ne.jp
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また、木更津市に隣接する君津市小糸地区(ピンポイントで柳の出身地の近くだそうで)では、柳の作品展示。「第52回小糸地区文化祭」の一環ということで、明日、明後日です。
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お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

何しろかういふ時ですから全力を出して自分の為すべき事を為すのみです、正しい美の世界を日本からまづ生み出してゆかねばなりません、その地ならしをするだけでも果し得れば本懐と思つてゐます、


昭和19年(1944)3月15日 伊藤海彦宛書簡より 光太郎62歳

昭和19年(1944)となり、戦争も末期に入ってきました。相変わらず様々な翼賛運動に関わっていた光太郎ですが、その根底にはこういう心境、そして人心を荒廃から護るという使命感のようなものがあったようです。

一方で、遠く明治末、柳と共に過ごしたアメリカで受けた人種差別に対する遺恨というか、意趣返しというか、そういう一面も確かにありました。

岡山県から演奏会情報です。

岡山市民合唱団鷲羽 第50回記念定期演奏会

期 日 : 2023年10月29日(日)
会 場 : 岡山シンフォニーホール 大ホール 岡山県岡山市北区表町1丁目5-1
時 間 : 14:30開場 15:00開演
料 金 : 前売1,500円 当日2,000円

曲 目 : 
 Ⅰ.混声合唱とピアノのための「信じる」 谷川俊太郎作詞 松下耕作曲
   指揮・大森紀美子 ピアノ・平わか
 Ⅱ.「智恵子抄 三章」岡山市民合唱団鷲羽 第50回定期演奏会記念作品 
   高村光太郎作詞 上月明作曲 指揮・上月明 ピアノ・松原久美子

 Ⅲ.第50回記念定期演奏会特別ステージ 
   皆様と共に振り返る「鷲羽」の半世紀~あの名曲を再び
   Memory 浜辺の歌 案山子 ほか

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存じ上げない方ですが、上月明氏という方の作曲で「智恵子抄 三章」。「第50回定期演奏会記念作品」とあるので、委嘱初演なのでしょうか。また、同じ岡山の作曲家・青木省三氏にやはり「智恵子抄 三章」という合唱曲と、それを編曲した独唱曲(平成29年=2017に千葉県の柏で拝聴しました)があるのですが、何か関連はあるのでしょうか。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

尚つひでに「某月某日」を同封いたしました、おんつれづれの時にでも御披見下さい。

昭和18年(1943)7月27日 高祖保宛書簡より 光太郎61歳

『某月某日』は、この年4月に『智恵子抄』版元の龍星閣から刊行された光太郎の随筆集。草野心平主宰の詩誌『歴程』に載った同題の半連載などを集めたものです。
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市民講座のご案内です。

高村光太郎『智恵子抄』を語り合おう 

期 日 : 2023年10月29日(日)、11月26日(日)
会 場 : 市民大学たかおか学遊塾 富山県高岡市末広町1番7号 高岡市生涯学習センター
時 間 : 14:00~16:00 
料 金 : 運営費1,000円 資料代300円(2回分) 合計1,300円
講 師 : 茶山千恵子

高村光太郎の人生に妻の智恵子はどのような影響を与えたのか、『智恵子抄』を読んで語り合いましょう。 10月29日(日) 「智恵子の半生」を朗読し深く読み取る 11月26日(日) 『智恵子抄』誕生秘話

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講師の茶山さん、これまでもたかおか学遊塾さんで同様の講座講師を務められた他、同塾主催のイベント「たかおか学遊フェスタ」で光太郎詩朗読をなさったり、劇団「よろこび」として演劇でも「智恵子抄」を取り上げて下さったりしました。

さらに今年の第67回連翹忌にご参加下さり、その後、ご自宅を開放されて予約制で振る舞う「光太郎ランチ」などの活動にも取り組まれています。ありがたし。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

一寸甲州の方に旅行してゐたところ帰宅、御恵贈のめづらしき蛍烏賊といふもの拝受、まことにありがたく存じました、 暑さにやられて小生殆ど半病人のやうな有様で日を送つて居ります、


昭和17年(1942)8月24日 前田健次郎宛書簡より 光太郎60歳

この年10月、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のため、山梨県南巨摩郡穂積村(現・富士川町)上高下(かみたかおり)地区を訪れました。

黙々とわが子を育み、戦場に送る無名の「日本の母」を顕彰する運動の一環です。軍人援護会の協力の下、各道府県・植民地の樺太から一人ずつ(東京府のみ2人)「日本の母」が選考され、光太郎をはじめ、当代一流の文学者がそれぞれを訪問、そのレポートが『読売報知新聞』に連載されました。さらに翌年には『日本の母』として一冊にまとめられ、刊行されています。
 
井上くまは、女手一つで2人の息子を育て、うち1人は光太郎が訪ねた時点で既に戦病死、しかしそれを誇りとする、この当時の典型的な「日本の母」でした。光太郎はまた、『読売報知新聞』のレポート以外にも、くまをモデルに詩「山道のをばさん」という詩も書いています。
 
昭和62年(1987)には、光太郎が上高下を訪れたことを記念して、光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句を刻んだ碑が建てられています。冬至の前後にはここから「ダイヤモンド富士」が見えるということで、名所となっています。

で、井上家訪問が10月14日。ところが最近発見したこの書簡では8月にも甲州を訪れたと記述があり、その事実はこれまで知られていませんでした。「暑さにやられて小生殆ど半病人のやうな有様」とあるので8月で間違いありません。どうも井上家訪問の下準備的な感じで甲州に行き、現地の軍人援護会などの関係者と打ち合わせをして来たのではないかと思われます。

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は中野区で開催された朗読公演「くつろぎの朗読」拝聴でしたが、その前に駒場東大前の日本近代文学館さんで調べもの。
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コロナ禍以後、初めてで、数年ぶりでした。

SNSで花巻の方から「ご存じかも知れませんが、ある雑誌の×巻×号に光太郎のアンケート回答が載っている」という情報がもたらされ、当方が作成した光太郎文筆作品リストと照らし合わせてみると記載がなく、またその雑誌はよく行く国会図書館さんに収蔵がないので行った次第です。

ところが、実際に閲覧してみると、「あれ? これ、知ってるぞ」。帰ってから調べてみると、なんとまあ、リストにそのアンケート回答を載せるのを忘れていました。チョンボでした。しかしチョンボに気がつけたのを良しとしましょう。

まぁ、それでも他の雑誌に載った戦後の光太郎訪問記で、「これは」というものが見つかったりもし、無駄足には成らずに済みました。

さらに帰りがけ、受付兼ミュージアムショップで、ポストカードを1枚ゲット。
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光太郎と親しかった木下杢太郎の詩集『食後の唄』(大正8年=1919)をモチーフにしたもの。一番左の画像は杢太郎自身の描いた同書の挿画ですが、杢太郎や光太郎が中心メンバーだった芸術至上主義運動「パンの会」の様子を描いたものです。で、右下の緑色の帽子を被ってこちらを振り向いているチョビひげの人物が、光太郎と言われています。同館のポストカード、光太郎の『有機無機帖』由来のものは存じておりましたが、こちらは「ありゃ、こんなのあったんだ」でした。

その後、中野へ。東中野駅でJRを降りて、昼食を摂りつつぶらぶら歩き、「くつろぎの朗読」会場のオルタナティブスペースRAFTさんへ。
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江戸川乱歩の短編「火縄銃」との2本立てでしたが、「智恵子抄」の方が長い時間を取って下さいました。
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読み手は声優・ナレーターの出口佳代さんという方。よどみなくしっとりとした大人のお声で、実に聴きやすい朗読でした。

「高村光太郎の智恵子抄を、時系列に沿って、解説をナレーションしながら読んでいきます」という予告が出ていましたが、その通りで、適度に時代背景や事実関係などの解説を交えつつ展開。

朗読された詩は「人に(いやなんです)」、「僕等」、「我が家」、「道程」、「樹下の二人」、「あなたはだんだんきれいになる」、「あどけない話」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「風にのる智恵子」、「レモン哀歌」、そして戦後の「元素智恵子」。それ以外に智恵子書簡も。

クラシック系のCDをBGMに使われていました。バッハのカンタータBWV147「主よ、人の望みの喜びよ」や「G線上のアリア」、サティの「ジムノペディ」、ベートーベンのピアノソナタ「悲愴」など。選曲も的確でしたし、さらに感心したのは、長めの詩の朗読の際、BGMが終わると同時に朗読も終わるという実にナイスなタイミングの取り方。舌を巻きました。

「智恵子抄」。こういう展開になる、とわかっていても、やはり聴いていてじーんと来てしまいました。

終演後、少しお話をさせていただき、その後、中野の街へ。

中野と言えば、光太郎終焉の地です。会場のオルタナティブスペースRAFTさんから少し南下すると、桃園川緑道。川は暗渠となっており、地上部分は石畳の歩道が延々東西に続いています。西に1㌔ちょっと歩くと、緑道沿いにそこだけ時が止まったかのような建物。
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戦後、水彩画家の中西利夫が自身のために建てたアトリエですが、利夫はこのアトリエをほとんど使うことなく昭和23年(1948)に急逝。その後、貸しアトリエとなり、イサム・ノグチがここを使った後、昭和27年(1952)10月に花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎が入りました。ここで生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作した光太郎、翌年には一時的に太田村に帰ったものの、もはや健康状態が山での生活に耐えられず、またここに戻り、昭和31年(1956)4月2日早暁、ここでその生涯を閉じました。翌年の第一回連翹忌もここで行われています。

当時中学生で、光太郎にかわいがられた中西家子息・利一郎氏がご存命の頃、3回、中に入れていただきました。その最後の機会は、平成28年(2016)、当方も出演させていただいたATV青森テレビさん制作の「「乙女の像」への追憶~十和田国立公園指定八十周年記念~」という番組のロケの際でしたので、いや、もう7年も経つか、という感じでした。

このアトリエの保存・活用運動が起こっているのですが、その後、どうなっているのか……。
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というわけで、まとまりませんが、都内レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

きたない本ですが「大いなる日に」といふ詩集を出しましたので別便でお贈りいたしました。


昭和17年(1942)4月30日 篠田定吉宛書簡より 光太郎60歳

前年の『智恵子抄』に続く、光太郎第三詩集です(昭和15年=1940の『道程 改訂版』は除く)。それまでとは一変し、翼賛詩一辺倒。さらに翌年には年少者向けの『をぢさんの詩』、そしてその翌年には『記録』と、光太郎黒歴史詩集の出版が相次ぎます。
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画像はこの夏、信州安曇野の碌山美術館さんで開催された「特別企画 生誕140周年高村光太郎展」の際にお貸ししたもろもろのうち黒歴史三点セット。これこそ光太郎詩の真髄、と涙を流して有り難がる愚かとしか言いようのない自称・研究者が居るのには呆れます。

和歌山と新潟から、それぞれ光太郎作品が出ている展覧会の情報です。

まず和歌山。光太郎筆の油絵が出ています。

小企画展「原勝四郎と同時代の画家たち」

期 日 : 2023年10月7日(土)~12月24日(日)
会 場 : 和歌山県立近代美術館 和歌山市吹上1-4-14
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 本展のみ 一般350円、大学生240円
      特別展「原勝四郎展 南海の光を描く」一般800円、大学生500円

 本展では、特別展「原勝四郎展 南海の光を描く」の開催に合わせ、当館の洋画コレクションを中心に、一部借用作品も交えて、原勝四郎(1886-1964)と同時代に活躍した画家たちの作品を紹介します。
 原勝四郎は、和歌山県立田辺中学校を卒業後、1905(明治38)年から1906(明治39)年と、1909(明治42)年から1916(大正5)年の二度、画家を志して上京しています。その後1917(大正6)年末から1921(大正10)年4月までフランスに赴きました。帰国後は故郷の田辺へと戻り、1931(昭和6)年からは現在の白浜町に移住して絵を描き続けました。
 原が東京にいた期間は、ヨーロッパ留学から帰国した若い美術家を中心に、新しい美術表現が次々に紹介されていた時期です。今回の展示では、東京美術学校西洋画科の教授であり、原も通った白馬会葵橋洋画研究所の設立者である黒田清輝をはじまりに、原が東京で面識を得て生涯にわたって兄事することになった山下新太郎や、原と同世代の画家たちの作品を通して、原も体感していたであろう、明治時代末から大正時代にかけての東京の美術動向をまず紹介します。
 原がフランスに赴いたのは、ちょうど第一次世界大戦の最中であったこともあり、原自身の絵画学習には困難が伴いました。しかし原に先んじて、またその後に続いてヨーロッパに留学し美術を学んだ日本人は多く、 藤田嗣治のようにパリで大きな成功を収めた画家も生まれます。本展では続いて、原がフランス滞在中に交流をもった青山熊治や長谷川潔など、同時期にフランスへ留学していた日本人画家たちの作品を紹介します。
 帰国後の原は、田辺と白浜を拠点に、画壇とは距離をとって制作を続けました。しかし、1年に1回、戦前は二科展、戦後は二紀展への出品を自らに課し、それが唯一と言っていい中央での作品発表の機会でした。 本展最後には、原を経済的に支援した大阪の実業家、山本發次郎が収集の対象とした佐伯祐三や、原が交流を持った小出楢重らの作品と、戦後、二紀会への参加を促し、親しい交流を持った鍋井克之や、戦前から親交のあった熊谷守一らの作品を通して、1920年代から戦後にかけての絵画を紹介します。
 原が活躍した同じ時代の作品をご覧いただくことで、原自身の表現の特徴もより明確に見えてくるはずです。 どうぞ「原勝四郎展」と合わせてご観覧ください。
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同館と田辺市立美術館さんの共催で特別展「原勝四郎展 南海の光を描く」が開催されており、そちらと「同時開催」という扱いで、館蔵品等の中から大正・昭和前期の様々な作家の作品を出しています。黒田清輝、岸田劉生、有島生馬、梅原龍三郎、萬鉄五郎、藤田嗣治ら光太郎と交流のあった面々の作、さらにロダンのブロンズも。出品目録はこちら

光太郎の油彩画「佐藤春夫像」(大正3年=1914)も。佐藤が和歌山出身ということもあり、同館ではこれまでもそれなりの頻度でこの絵を出して下さっていますし、他館への貸し出し等も行って下さっています。当方、同館蔵と思い込んでいましたが、「個人蔵」とあり、寄託品なのでしょう。

もう一件、新潟。こちらは書です。

2023年第3回展 茶の湯を楽しむ-併設展 墨の魅力

期 日 : 2023年9月30日(土)~12月17日(日)
会 場 : 駒形十吉記念美術館 新潟県長岡市今朝白2丁目1番4号
時 間 : 午前10:00~午後5:00
休 館 : 月・火曜日(祝日・振替休日の場合は開館し翌日が休館)
料 金 : 一般 500円 団体 400円 団体は20名様以上
      大学・高校生 300円  中学・小学生 100円

 茶道は「総合芸術と言われ、日本の伝統文化を代表するもので、その精神は、禅宗の考え方に基づいています。」などと言われると、なんだか面倒そう、難しそうと思ってしまいます。
 日本を代表するグラフィックデザイナー田中一光氏は、「知性と感性を誇りとする最も新しい感覚の遊び」であり「さまざまな領域の美の融合を演出できる世界」であり「茶会は環境全体がインスタレーションであり、茶事はパフォーマンス」と言います。殆ど現代アートではないですか?
 難しく考えずにぜひこの不思議の世界を体験してみましょう。今回はお茶会の形式で作品を展示いたしました。茶会とは客をもてなして「一座建立(こんりゅう)」を楽しみ、主客が直心の交わりをもつこと。そのため道具の取り合わせやお料理の仕立てに、亭主の個性が表徴されます。
 茶会に招待されと思ってぜひ作品をご覧ください。
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003昭和12年(1937)、新潟長岡で光太郎の父・光雲の作を集めた「高村光雲遺作木彫展観」が開催され、その観覧のため訪れた光太郎が、地元の美術愛好家グループ(駒形十吉も含みます)に揮毫して贈った色紙が展示されています。

短歌で「ちちよけふ子は長岡のはつなつにいとどこほしくおん作を見し」。

「こほし」は「こひし」に同じ。漢字で書けば「恋し」です。

一昨年、同館で開催された「駒形十吉生誕120年  駒形コレクションの原点」展に、光太郎写真などの関連資料と共に出品され、拝見して参りました。その時以来の展示のようです。

茶会をイメージしての展示ということで茶道具の逸品や、茶掛けとしての書の優品が出ています。出品目録はこちら

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日秋葉原駅より葱一俵配達有之、荷札紛失いたし居りますが、これは必ず立川貴下の御厚情と拝察、青物不足の昨今ことにありがたくおうけとりいたしました、右略儀ながらとりあへず御礼まで申述べます、


昭和17年(1942)1月26日 佐藤信哉宛書簡より 光太郎60歳

太平洋戦争開戦から2ヶ月足らずですが、既に食料不足は深刻でした。

佐藤は立川農事試験場の場長。その妻、すみ子(スミ)は、亡き智恵子の数少ない親友の一人で、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島出身でした。スミの姉・ヤヱが日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし同じく日本女子大学校卒だった妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在しました。左下の写真、左端が智恵子、後列中央がスミ、大正5年(1916)の撮影です。
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光太郎、大正15年(1926)にはやはり佐藤夫妻から贈られた葱をモチーフに、ずばり「葱」という詩も書いています。この詩を刻んだ詩碑が、農事試験場の後身・東京都農林総合研究センターの一角に平成8年(1996)に建てられました。

昨日はぶらりと銚子犬吠埼に行って参りました。ほぼ生活圏なのですが、最近はあまり銚子に所用も無く、久しぶりでした。

ふと、新鮮なネタを使った寿司が食べたくなったというのもあるのですが、今年1月に廃業となった旅館・ぎょうけい館さんの現状を見ておこうと行った次第です。SNS上で解体している、という情報が出ていまして……。

ぎょうけい館さん、元は漢字で「暁鶏館」と書き、明治7年(1874)創業の老舗でした。大正元年(1912)夏には前年に知り合った光太郎智恵子が宿泊、愛を確かめ合いました。光太郎、この年の12月には、雑誌『朱欒』へ、後に『智恵子抄』に収めた詩「郊外の人に」を発表、その中で「わがこころは今大風の如く君に向へり」と高らかに宣言しています。

また、ここで働いていた知的障害のあった青年を主人公に「犬吠の太郎」という詩も作りました。
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その後、経営が代わり、建物も創業当時のものはとっくに建て替わっていましたが、「ぎょうけい館」の名は受け継がれてきていました。

当方、宿泊したことはありませんでしたが、食事を摂ったことはあり、また、各種打ち合わせ等でロビーを使わせていただいたことも。

やはりコロナ禍が大きかったのでしょう、1月に閉館となりました。

そして昨日の様子。工事関係の皆さんはちょうど昼食休憩だったようでした。
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「はーーーーーー」という大きなため息が……。「色即是空」「諸行無常」とは申しますが……。

明治期に作られ、生け簀として使われていた波打ち際の石組みはそのまま。
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そちらから見た犬吠埼灯台
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逆に灯台側から見たぎょうけい館址。
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「ふーーーーーー」と、再び大きなため息……。

更地にして、今後、どうなるのか、ネットで情報を探してみましたが見つかりませんでした。更地にしておくのではなく、なにがしかの活用がなされてほしいもので、さらに「暁鶏」の名も残していただきたいものです。

隣接していた「磯屋」さんという大きなホテル(こちらには当方、何度か宿泊しました)は数年前に廃業、しかし、「銚子グランドホテル」として再オープンするなど、明るい兆しも見えます。今後に期待したいところです。002

【折々のことば・光太郎】

今度「造型美論」といふ本を出しましたから別便でお送りします。一応御覧下さい。


昭和17年(1942)2月3日 
田村昌由宛書簡より 光太郎60歳

『造型美論』はこの年1月、筑摩書房から刊行された美術評論集です。書き下ろしではなく、かつて雑誌等に発表したものの集成。前年には同じ趣旨の『美について』を道統社から上梓しており、そちらの売れ行きがけっこう良かったようで、二匹目のドジョウを狙ったようです。

早世した碌山荻原守衛を除き、光太郎がほぼ唯一高く評価した同時代の日本人彫刻家・高田博厚。光太郎連翹忌が縁で、高田本人と、埼玉県東松山市の元教育長の故・田口弘氏が親しくなり、同市では高田の顕彰活動にも力を入れています。

平成29年(2017)、鎌倉にあった高田のアトリエが閉鎖された際に、大量の高田作品が同市に寄贈され、翌年から「彫刻家 高田博厚展」がこの時期に開催されるようになりました。

で、今年。

彫刻家 高田博厚展2023

期 日 : 2023年10月16日(月)~11月7日(火)
会 場 : 東松山市民文化センター 埼玉県東松山市六軒町5番地2
時 間 : 午前9時から午後5時まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

東松山市では、高田博厚のアトリエに残されていた彫刻作品や絵画等を2017年にご遺族から寄贈していただきました。以来、顕彰事業として展示会や講演会を毎年開催しています。今回は彫刻作品に加え、デッサンの一部を展示します。ぜひこの機会に彫刻家、高田博厚の世界をご堪能ください。

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関連行事が充実しています。

彫刻家 高田博厚展2023 特別講演会

演 題 : 「粘土から生まれる芸術~高田博厚の彫刻作品から見えるもの~」
講 師 : 陶芸家 畠山圭史氏
      東松山市在住
      日産自動車のカーデザイナーから陶芸家へ転身、
      NHK連続テレビ小説「スカーレット」で陶芸指導及び
      作品「水が生きている皿」を提供
期 日 : 2023年10月28日(土)
会 場 : 東松山市民文化センター 埼玉県東松山市六軒町5番地2
時 間 : 午後2時から午後3時30分
料 金 : 無料

定 員 : 80名(定員に達した場合は抽選)
申 込 : 9月1日(金曜日)から10月20日(金曜日)まで
      電子申請フォームにてお申し込みください。
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ひがしまつやまアートフェスタin高坂彫刻プロムナード

期 日 : 2023年10月22日(日)
会 場 : 高坂彫刻プロムナード 東武東上線高坂駅西口 埼玉県東松山市高坂1333-2
      雨天時は東松山市民文化センター
時 間 : 10時00分から15時00分まで

ワークショップ
 1.ECONECOペーパークラフト体験(イラストレーター 絵子猫)
 2.木に絵を描いてオリジナルストラップを作ろう!(うらら工房)
 3.絵本のせかいであそぼう~ぐりとぐらの帽子をつくる~(市立図書館)
 4.だれでもできる石こうアート(彫刻家 中澤庸江)
 5.作品展示(東松山美術協会)
 6.高田博厚に挑戦!一日彫刻家体験(東松山文化まちづくり公社)
 (注)2~6は参加無料、1はシャカシャカしおり作り500円、ミニ缶バッジ作り300円
 (注)6は事前申し込み制

ステージイベント
 10時00分 オープニングセレモニー
       ミニコンサート ヴァイオリニスト 榎本郁 ソプラノ歌手 利根川佳子
 10時40分 紙芝居「高坂彫刻プロムナードの偉人たち」 
 11時00分 大東文化大学ギタークラブ
 12時10分 白山中学校アンサンブル
 12時30分 白山中学校吹奏楽部
 13時00分 紙芝居「高坂彫刻プロムナードの偉人たち」ガンジー 宮沢賢治 新渡戸稲造
 13時30分 二胡演奏者 石崎幹夫
 14時00分 バイオリニスト 小澤薫 ピアニスト 宮林薫
 14時50分 閉会​

彫刻ガイドツアー
 きらめき市民大学の学生クラブ「高田博厚と遊ぼう会」によるガイドツアー。
 作品の説明を聞きながら、彫刻プロムナードをお楽しみください。
 集合時間(所要時間約1時間)
  1回目11時00分から
  2回目13時30分から
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高坂彫刻プロムナードには、光太郎胸像(昭和34年=1959)も含まれています。
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画像は平成30年(2018)、高田博厚彫刻展の関連行事として行われた堀江敏幸氏との公開対談で同市を訪れた、故・野見山暁治氏と光太郎胸像。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

本当にあるのですね。 あたたかい十三文の靴下。送つていたゞいて、小生の特大の足もよろこんでゐます。ばけもの屋敷で、あたたかい冬がこせそうです。有り難う存じます。


昭和16年(1941)12月10日 西倉保太郎宛書簡より 光太郎59歳

006身長が180センチ以上あった光太郎、当時としては大男。足のサイズはさらに規格外で、昭和5年(1930)のアンケート回答「自画像」には、「十三文半」と書いています。一文が約2.5㌢ですので、おおむね33.75㌢となります。

普通に売られていない特大サイズの靴下を送られた礼状ですが、「十三文半」ではなく「十三文」。それでもありがたかったようです。

ちなみに先述の故・田口弘氏も、戦後、花巻郊外旧太田村に蟄居していた光太郎にやはり特大の短靴を送りました。

光太郎曰く「小生の足のサイズを御記憶ありて心にかけてこの短靴をお探し下さつた御厚情に心をうたれました。使用中のものは既に破れはてて居りましたので此の春から早速役に立ち、まことにありがたく存じます、

今日明日と、早世した碌山荻原守衛を除き、光太郎がほぼ唯一高く評価した同時代の日本人彫刻家・高田博厚がらみの情報を。

今日は信州安曇野発のイベント情報です。信州松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん記事から。

世界的彫刻家・高田博厚の功績再評価 豊科近美で15日にイベント

 世界的な彫刻家・高田博厚(1900~87)の功績を再評価する朗読と音楽のイベントが15日、高田の彫刻作品を常設する安曇野市豊科近代美術館で催される。安曇野の歴史にまつわる研究や講演活動を展開する任意団体・あづみ学校(岩隈久代表)が「日本の近代彫刻史を知る上で地勢的に恵まれた安曇野の魅力を市民の手でより高めたい」と企画した。
 欧州で活躍し、ノーベル賞作家ロマン・ロランら一流の思想家や芸術家と交流した文筆家でもある高田の著書『私の音楽ノート』を岩隈代表が朗読する。元松本市音楽文化ホール専属オルガニストの原田靖子さん=安曇野市=が、約100年前の製造とみられる西川オルガンの「リードオルガン」(足踏み式)で、著者ゆかりの名曲を朗読に乗せて奏でる。
 石川県出身の高田は、近代彫刻の父・ロダンの影響を受けた彫刻家・高村光太郎(1883~1956)との出会いを機に彫刻の道へ進み、渡仏した。その西洋的な作品群は、穂高出身の彫刻家で東洋のロダンと称された荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)と高村がともに潮流を盛り上げた日本近代彫刻の系譜を継ぐ。
 欧州の修道院風建築が特徴的な市豊科近代美術館は、公立美術館で最大となる高田の彫刻作品約200点を収蔵する。美術館建設を切望した旧豊科町が遺族の承諾と厚意を得て、高田作品を誘致した開館経緯がある。岩隈代表は「(碌山美術館が作品を収める)地元ゆかりの碌山や高村に対し、高田への評価や認知はこの地域でまだまだ。3人の作品に触れられる安曇野の潜在的な価値を市民が共有し合う機会に」と話す。
 午後2時開演。大人2500円。問い合わせや申し込みはあづみ学校(電話090・8018・5424)へ。
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記事にあるとおり、同館では高田の彫刻200点ほどを収蔵し、常設で展示しています。光太郎胸像(昭和34年=1959)も含まれています(現在、展示中かどうかはわかりかねますが)。

かつてミュージアムショップでゲットしたポストカード(左)とA4判クリアファイル(右)。クリアファイルの方は右上に光太郎が居ます。
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それから、個人的には日本初のオルガンといわれる西川オルガンが使われる、というのが気になるところではあります。

お近くの方、ぜひどうぞ。

明日は埼玉県東松山市から、やはり高田関連の情報をお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

大変遅れましたし、又だんだん切りつめて短くなりました、 おまけに詩の主題が少々へんなので、果してどうかとおもひます、一度御検読の上、雑誌に不都合のありさうな時は掲載中止に願ひます、「婦人之友」の例もありますから此点気にかかります、


昭和16年(1941)11月19日 栗本和夫宛書簡より 光太郎59歳

栗本は中央公論社の編集者。この書簡は翌年元日発行の『婦人公論』に掲載された詩「必死の時」に関わります。

「婦人之友」の例」は、この年7月、『婦人之友』に掲載された詩「事変はもう四年を越す」が、発売後に問題視され、店頭で頁が破り取られる処分を受けたことを指します。
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 さみだれけむるお濠の緑のかなたに、
 赤い煉瓦のぶざまな累積、
 高いアンテナと黒い明治の尖塔と、
 その又上に遠く悲しくさむざむと
 墓のやうな議事堂のやせたドオム、
 この支離滅裂なパノラマのいちばん下を
 ひけ時の群衆と電車がうごく。


この一節が当局により「宮城の濠を中心とせるパノラマを支離滅裂となすは不穏当」とされました。

光太郎、国会議事堂の建築に関しては、昭和11年(1936)、竣工当初からけちょんけちょんに評していました。

新議事堂のばかばかしさよ。迷惑至極さよ。何処に根から生えた美があるのだ。猿まねの標本みたいでわれわれは赤面する。新議事堂の屋根の上へ天から巨大な星でも墜ちて来い。(「某月某日」)

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