カテゴリ: 東北以外

昨日、岐阜で今週末に開催され、蒔田尚昊氏作曲の歌曲集『智恵子抄』も演奏されるコンサート「リートデュオコンサート「二人の肖像」大梅慶子×内多瑞子」についてご紹介しましたが、同じく蒔田氏の歌曲集『智恵子抄』がプログラムに入ったコンサートが大阪でも。

北御堂コンサートvol.255〜ロマンの饗宴〜

期 日 : 2024年8月29日(木)
会 場 : 本願寺津村別院(北御堂) 大阪市北区本町4-1-3
時 間 : 12:25~12:45
料 金 : 無料

どなたでもご参加いただけます。お寺で少し休んでみませんか?皆様のお越しを心よりお待ち申しあげます。

出 演 : 永山玲奈(sop) 生田英奈(pf)
プログラム
 恩徳讃 親鸞聖人
 R.シュトラウス/作品10 《最後の葉》より 1.「献呈」 2.「何も」 8.「万霊節」
 蒔田尚昊/高村光太郎 詩《智恵子抄》より「あどけない話」
 小林秀雄/日記帳
 C.グノー/歌劇《ファウスト》より「まぁ!なんと美しい姿(宝石の歌)」
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蒔田氏の「智恵子抄」、昭和45年(1970)頃の作曲で、あまり演奏される機会が無かったと思われますが、このところ取り上げて下さる方が増えてきている感じです。当方の把握している限りでは市販されたCD等には収められたことがありませんが、YouTubeに複数の方の演奏が上がっていますし、楽譜は全音さんから昭和45年(1970)に刊行され、未だ入手可能な『日本歌曲集 3』に「あどけない話」が掲載されており、そのあたりの影響もあるのかも知れません。

今回のコンサートは会場となっている本願寺津村別院さんの主催で、月イチくらいのペースで開催されているようです。すぐお隣の相愛大学音楽学部さんとのコラボで、そちらで学ばれている方や、ご出身の方などがご出演されていると思われます。毎回、短時間の公演で、入場無料(例外があるかも知れませんが)。若手の演奏者の皆さんに発表の機会が与えられ、さらに無料で開催されるということで地域貢献にもなり、うまいこと考えるもんだと感心しました。

ところで会場の本願寺津村別院さんの別名が「北御堂」。北があれば南もあって「南御堂」はすぐ近くの真宗大谷派難波別院さん。この二つのお堂があるので「御堂筋」。

「御堂筋」といえば、「御堂筋彫刻ストリート」。最愛の妻・智恵子の顔を持つ光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作」も「みちのく」の名で並んでいます。
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コンサートをお聴きの上、併せてご覧いただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

この部落をホームスパンの生産地にしたいとかねて考へてゐましたが、緬羊(メリノー種など)も相当に農家で飼つてゐるので、去年から講習をはじめ土沢町から先生に来てもらひ、農家の娘さんでもう平織のマフラー位は織れるやうになつた人もあります。


昭和24年(1949)2月28日 更科源蔵宛書簡より 光太郎67歳

ホームスパンは羊毛を使った毛織物。「先生」は及川全三とその弟子・福田ハレ。戦前、智恵子にせがまれて買ったイギリスの染織工芸家エセル・メレ作のホームスパンの毛布が、奇跡的に二度の戦火をくぐり抜けて光太郎の手許に残り、そうした関係もあってホームスパンには並々ならぬ関心を寄せていました。

残念ながら光太郎の暮らしていた旧太田村ではホームスパン制作は根付きませんでしたが、岩手県としては現在でも特産品の一つです。

岐阜から演奏会情報です。

リートデュオコンサート「二人の肖像」大梅慶子×内多瑞子

美濃加茂市公演
 期 日 : 2024年8月24日(土)
 会 場 : 美濃加茂市立東図書館2階視聴覚ホール 岐阜県美濃加茂市本郷町9-2-22
 時 間 : 13:30開場 14:00開演 16:00終演予定
 料 金 : 全席自由1,800円

岐阜市公演
 期 日 : 2024年8月25日(日)
 会 場 : クララザールじゅうろく音楽堂 岐阜市本郷町1丁目28番地
 時 間 : 13:30開場 14:00開演 16:00終演予定
 料 金 : 全席自由2,000円

 出 演 : 大梅慶子(sop) 内多瑞子(pf)

一人の歌手とピアニストがデュエットをするように詩の世界を音楽と言葉で紡ぎます。今回は「人生の伴侶」への想いが綴られた心温まる詩を中心に選びました。言葉が音楽によって息づき、私たちの人生と結びつく瞬間。詩の物語をご一緒に体験し、その世界を愉しむ時間を過ごしませんか。

【プログラム】
 R. シューマン: 歌曲集『ミルテの花』作品25より「献呈」「くるみの木」ほか
 R. シューマン:連作歌曲『女の愛と生涯』作品42
 蒔田尚昊:歌曲集『智恵子抄』(詩:高村光太郎)
 越谷達之助: 初恋
 小林秀雄:落葉松         ほか 
  (プログラムは変更になる場合があります)
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蒔田尚昊氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」がプログラムに入っています。「より」の語が附けられていないので、全5曲を演奏されるのでしょう。ちなみにラインナップは「I 樹下の二人」「II あどけない話」「 III 同棲同類」「IV 千鳥と遊ぶ智恵子」「V レモン哀歌」です。

抜粋で取り上げられることは少なくないのですが、全曲完奏は最近ですと当方の記憶にありません。こちらの情報網にかかっていないだけで、どこかで演奏されているのかも知れませんが。

同氏、以前にも書きましたが、「冬木透」の名義でウルトラシリーズの音楽を担当もされていました。昨年には都内で「「男声合唱のためのウルトラセブン」 楽譜出版記念コンサート」と銘打ち、クラシック系とウルトラ系双方を取り上げる公演もありました。第一部が「蒔田尚昊」名義のクラシック系で、第二部は「冬木透」クレジットのウルトラ系。

YouTube上にその際の加耒徹氏による「あどけない話」「レモン哀歌」「千鳥と遊ぶ智恵子」がアップされています。


お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

電燈が近く来さうで部落の人達が電柱用の材木を運んだり、穴を掘つたりしてくれました。部落の人の好意はありがたいと思ひます。電燈が来れば仕事が多いにはかどるでせう。

昭和24年(1949)2月22日 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らし、ここまで3年余り電気無しのランプ生活でしたが、見るに見かねた村人たちが電線を引っ張って上げることになりました。

会期あと僅かですが『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎書簡が出ています。

三木露風と交流のあった人々

期 日 : 2024年7月13日(土)~9月1日(日)
会 場 : 霞城館・矢野勘治記念館 兵庫県たつの市龍野町上霞城30-3
時 間 : 9時30分~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般:200円/小~大学生・65歳以上:100円

 本年は、三木露風が亡くなってから60年にあたります。これを記念して、霞城館では、企画展「三木露風と交流のあった人々」を開催します。
 本展では、当館が所蔵する露風宛ての葉書をおさめたアルバム(2冊)の中から、露風と交流の深かった人物の葉書を紹介します。皆様のご来館をお待ちしております。
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公式情報に光太郎の名がなかったので気づかないで居たのですが、兵庫の地方紙『赤穂民報』さんに紹介記事が出(赤穂出身の俳優・河原侃二からの葉書が出ているという内容がメイン)、その中で河原以外に「同館が所蔵する露風宛ての絵はがき約240通の中から一部を紹介。「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰、劇作家の小山内薫、詩人の高村光太郎、露風が作詞した赤穂小学校の校歌を作曲した近衛秀麿などが差し出したはがきが並ぶ」と記述がありました。

『高村光太郎全集』には、光太郎から露風宛書簡は一通のみ掲載されています。明治42年(1909)12月11日付けで内容は以下の通り。

拝啓
 いつぞやは珈琲店にて御目にかかり愉快に存じ候。其後御無沙汰いたし居り候処二三日前水野君より『廃園』相届き、見れば貴下の御贈り下されたるもの、誠になつかしくありがたく存じ上げ候。『廃園』の中の詩は、小生かの地に居りし間のもの多くみなはじめて味ふことに御座候。小生は常に貴下の詩を尊重する事深きものに候へば、この『廃園』一篇の小生に与へたる喜びは一方ならぬことに御座候。序に申上候へ共、正月の『スバル』の裏絵に貴下の『カリカチユウル』を北原君のと共に出し候へば、何とぞ悪しからず思召被下度幾重にも願上候。
 右とりあへず御礼まで、余は又御目にかゝり候時にゆづり申候。
   十二月十一日夜                          高村光太郎  
 三木露風様梧下


水野君」は親友の水野葉舟、「かの地に居りし間」は欧米留学中。

露風の詩集『廃園』は明治42年(1909)9月に刊行されました。翌年には重版が出、そちらは光太郎が装幀を担当しました。上記書簡もこの重版に掲載されたものです。
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『スバル』の裏絵」は右上画像。右が露風、左が白秋です。光太郎、同じシリーズでは与謝野晶子(左下)や森鷗外(右下)らをおちょくった絵も描いています。
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現代ですと炎上案件ですが(笑)。

今回展示されているのは露風宛の諸家の葉書。上記露風宛光太郎書簡、『高村光太郎全集』には封書とも葉書とも書かれていませんが葉書にしては長い内容です。おそらく上記書簡とは別物だろうと思い、 霞城館・矢野勘治記念館問い合わせたところ、ビンゴでした。大正4年(1915)7月の絵葉書だそうで、もろに『高村光太郎全集』に漏れているものです。

同館、光太郎に関わる展示も常設で為されているという情報を以前に得、一度行ってみたいと思っていましたし、この際ですので今週末に伺うことに致しました。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】005

新年に定本「蛙」が大地書房から届きました。いやみのない装幀に出来たと思ひました。此の詩集は今よんでもいいです。擬音なども此の位真正面からゆくと一つの独立価値を持つて来ます。此の詩集はたしかに日本語の範囲をひろめました。

昭和24年(1949)1月6日 
草野心平宛書簡より 光太郎67歳

心平詩集『定本 蛙』の装幀も『廃園』重版同様に光太郎です。装幀の仕事も明治末から最晩年に至るまで、断続的に行い続けました。

昨日は久々に上京しておりました。まずは上野の東京国立博物館(トーハク)さんの常設展示・総合文化展の拝観(その後、国会図書館さんに廻って調べもの)。
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盆中でどんなもんだろうと思っていたのですが、そこそこの人出という程度、押すな押すなの盛況というわけではありませんでした。

真っ先に第18室へ。
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最も見たかった作品が、光太郎の木彫「魴鮄(ほうぼう)」(大正13年=1924)。コロナ禍中の令和3年(2021)にもひっそりと出されていたそうなのですが、その際には気づきませんで……。

同じく木彫の「鯰」(大正14年=1925)と並べて展示されています。
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あまり混んでいなかったので、さまざまな角度から見て撮影出来ました。ラッキーでした。
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魴鮄の大きな特徴である巨大な鰭(ひれ)は体側に畳まれた状態。これを広げて表現すると、光太郎の技倆なら不可能ではないのでしょうが、どうも玩具のようになってしまうような気がします。
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cfc02c35鱗(うろこ)なども省略しています。光太郎、同じことを後に「鯉」の木彫でやろうとしました。鱗を彫ると俗っぽくなる、と。しかし鱗がないとどうにも鯉感が出せず、その処理が難しい、というわけで、結局、「鯉」は完成しませんでした。ただ、土門拳による製作中のスナップが残っています。

この「鯉」、注文したのは新潟の素封家にして美術愛好家・松木喜之七でした。光太郎は「鯉」を完成出来なかったおわびにと、代わりに「鯰」を納品。この「鯰」は、現在、愛知県小牧市のメナード美術館さんで展示中です。

ちなみに松木、太平洋戦争末期の昭和19年(1944)、48歳にもなっていたのに「根こそぎ動員」ということで召集され、その年10月に南方で戦死しています。戦後、短歌も趣味だった松木の遺稿歌集『九官鳥』が上梓され、光太郎も追悼文を寄せました。

「魴鮄」と並べて「鯰」。松木に贈られたのとは別物です。さらにいうなら竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さんにもまた別の「鯰」が収蔵されています。今回のものが「鯰1」、MOMATさんは「鯰2」、メナードさんで「鯰3」です。
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「魴鮄」がほぼ真っ直ぐな姿態であるのに対し、「鯰」はゆるやかにカーブを描き、そこが実にいいところですね。このカーブの部分を前後両方向からではなく、一方向からのみ彫っているそうで、それは実に難しいとのこと。この「鯰」を見た光太郎の父・光雲は、まずその点に驚いたそうです。プロは着眼点が違いますね。
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また、近代彫刻史の専門家・髙橋幸次氏は、このカーブによって体側にできる空間に面白味がある、とおっしゃっていました。余白の美、的な。そう考えると、晩年に光太郎が取り憑かれた「書」にも通じるような気がします。無理くりかも知れませんが。

光太郎作品はもう1点、ブロンズの「老人の首」も出ています。
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光太郎生前の鋳造で、もしかすると大正15年(1926)に開催された「聖徳太子奉賛展」に出品されたそのものかもしれません。

そして光雲の「老猿」。
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昨年3月、MOMATさんでの「東京国立近代美術館70周年記念展 重要文化財の秘密」以来の拝観。

像高90㌢程なのですが、何度見てもその迫力に圧倒され、巨大な像に見えてしまいます。不思議なものですね。猿の視線が天空へと放散されているせいかもしれません。トーハクさんでは台座を高く設定しているというのもあるのでしょうが。

今回の展示は10月27日(日)までの予定。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

クリスマスにはケーキを作りましたが香料がないので不十分でした。


昭和23年(1948)12月28日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

岩手の山中の山小屋で一人クリスマスケーキを焼く66歳……。ケーキと云っても生クリームなどありません。どんなものだったのか……。

001上野の東京国立博物館(トーハク)さんの常設展示「総合文化展」。数ヶ月ごとに展示品を入れ替え、「近代の美術」の展示室(第18室)で光太郎や父・光雲の作が出されることもけっこうあります(常に、というわけではありませんが)。光太郎ですとブロンズの「老人の首」(大正14年=1925)、光雲なら「老猿」(国指定重要文化財 明治26年=1893)が多く展示されます。

現在の展示は8月6日(火)から。10月27日(日)までの予定です。「老人の首」と光雲の「老猿」がやはり出ています。

「老人の首」は、光太郎のアトリエ兼住居に花を売りに来ていた老人がモデル。零落した江戸時代の旗本のなれの果てだそうで。光太郎生前の鋳造で、昭和20年(1945)5月、花巻に疎開する直前に思想家・江渡狄嶺の妻・ミキに託したものです。
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それから光太郎木彫が2点出ています。

まず「鯰」。複数の作例があるうち「鯰1」とナンバリングをされているもの。大正14年(1925)の作です。
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ぬめぬめ感がたまりません(笑)。

この「鯰」はトーハクさんでも時々展示され、それから他館の光太郎展的な展示に貸し出されることもありますが、今回もう1点、そうでない作品が出ています。実はコロナ禍中の令和3年(2021)にも出ていたそうですが、その際は気づきませんでした。

「魴鮄(ほうぼう)」(大正13年=1924)。
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他館での光太郎展等だと、昭和41年(1966)、西武百貨店7階SSSホールで開催された「詩情に生きる〈美と愛〉 高村光太郎と智恵子展」に出されたのが最後ではないかと思われます。したがって、当方も現物を見たことがありません。出品目録によれば「個人蔵」。おそらく寄託されているのだと思われます。

現存が確認出来ている光太郎彫刻は、70種類あるかどうか。ブロンズは同一の型から抜いたものが複数存在するものが多く(代表作「手」など)、のべにすれば倍増しますが、木彫は1点ものですし。

さらに70種類程のうち、ブロンズでもそうですが、特に木彫で「大人の事情」により、ほとんど観ることが不可能になってしまっている作品もかなりの数存在します。中にはそうこうしているうちに火災で焼失してしまったらしい、と云われているものも。

「魴鮄」もそれに近いのかな、と思っていたのですが、健在が確認出来、さらに展示が為されているということで、喜ばしい限りです。

明後日あたり、拝見に伺います。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

のりは御母上の思召のよし、何ともありがたく存じました。朝食に焼いていただくと子供の頃の事をおもひ出しますし、又「智恵子抄」の中の「晩餐」といふ詩の中の「鋼鉄をのべたやうな奴」といふ句をも思ひ出し何ともいへずなつかしい気がします。


昭和23年(1948)12月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

岩手の山中での暮らしだと、海苔はなかなか手に入りにくかったようです。

「晩餐」(大正3年=1914)は下記の通り。

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 暴風(しけ)をくらつた土砂ぶりの中を
 ぬれ鼠になつて
 買つた米が一升
 二十四銭五厘だ
 くさやの干(ひ)ものを五枚
 沢庵を一本
 生姜の赤漬
 玉子は鳥屋(とや)から
 海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
 薩摩あげ
 かつをの塩辛

 湯をたぎらして
 餓鬼道のやうに喰ふ我等の晩餐

 ふきつのる嵐は
 瓦にぶつけて1005
 家鳴(やなり)震動のけたたましく
 われらの食慾は頑健にすすみ
 ものを喰らひて己が血となす本能の力に迫られ
 やがて飽満の恍惚に入れば
 われら静かに手を取つて
 心にかぎりなき喜を叫び
 かつ祈る
 日常の瑣事にいのちあれ
 生活のくまぐまに緻密なる光彩あれ
 われらのすべてに溢れこぼるるものあれ
 われらつねにみちよ

 われらの晩餐は
 嵐よりも烈しい力を帯び
 われらの食後の倦怠は
 不思議な肉慾をめざましめて
 豪雨の中に燃えあがる
 われらの五体を讃嘆せしめる

 まづしいわれらの晩餐はこれだ

今月初めの『朝日新聞』さん岩手版から。光太郎と交流の深かった日中ハーフの詩人・黄瀛に関して。光太郎にも言及されています。

(賢治を語る)中国籍の詩友、数奇な人生 宮沢賢治学会前副代表理事・佐藤竜一さん/岩手県

 北東北の詩人・宮沢賢治の友人に、黄瀛(こうえい)(1906~2005)という詩人がいた。中国人を父に、日本人を母に持つ黄は、日本語で詩を書き、名声を得た後、国民党の将校として中国共産党の捕虜になったり、文化大革命で獄中生活を送ったりした。黄が歩んだ数奇な人生について、書籍「宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯」の著者で、宮沢賢治学会前副代表理事の佐藤竜一さん(66)に聞いた。
《黄の生い立ちは?》
 1906年、中国・重慶で生まれました。父は黄澤民(たくみん)、母は千葉出身の太田喜智(きち)。喜智は小学校を2回飛び級するほど優秀で、東京女子高等師範学校を卒業後、日清交換教員として重慶に赴任し、澤民と結婚します。
 澤民は黄が3歳の時に亡くなったため、喜智はしばらく中国を転々とした後、黄が8歳の時に千葉県に戻ります。
《詩作を始めたのは?》
 黄は中国籍のため地元の中学校に進学できず、東京の中学に通います。喜智も中国籍のため小学校教師の職を追われ、中国の天津に渡って石炭販売業を営みながら、日本の黄に送金します。
 23年、日本では大きな転機となる関東大震災が起きます。東京の中学の授業がストップしたため、黄は青島の日本中学に編入します。
 そこで高村光太郎の「道程」などを読み、詩作に励み始めます。25年には新潮社が発行する詩誌「日本詩人」の第1席に選ばれ、詩人としての名声を得ます。
 青島の日本中学を卒業後、帰国して文化学院に入学し、草野心平と交友を深めます。黄と心平は度々、光太郎のアトリエを訪れます。
《賢治との出会いは?》
 24年に賢治が詩集「春と修羅」を出版すると、心平は賢治の才能に驚き、心平が創刊し、黄も同人となっている詩誌「銅鑼(どら)」に参加しないかと誘います。賢治は快諾し、「銅鑼」に「永訣(えいけつ)の朝」を発表します。
 黄は文化学院を中退後、陸軍士官学校に入学。29年、卒業直前に行った北海道旅行の帰りに花巻に立ち寄ります。賢治は病床にありましたが、1時間ほど会話を交わしたようです。冗談好きの賢治は「お会いできて、コウエイ(光栄)です」と出迎えました。
《その後の黄の人生は?》
 黄は37年に日中戦争が起こると、日本との関係を絶ち、中国大陸で国民党の将校としての道を歩みます。しかし49年、国共内戦で中国共産党に捕らえられ、重労働を課せられて獄中へ。66年の文化大革命では日本との関係がただされ、再び獄中へと送られます。
 合計で20年もの獄中生活を体験した黄に光が当たったのは78年。重慶の四川外語学院で日本文学を教える職に就いてからです。教壇に立った黄が真っ先に取り上げたのが賢治でした。黄の教え子からはその後、中国で賢治作品を広める多くの研究者が生まれています。
 私は92年、重慶で黄に初めて面会しましたが、政治に触れる話を避けたいという気持が伝わってきました。「今も詩を書いていますか」と聞くと、「書いていません。自分の存在自体が詩でありたい」と答えました。
 黄は96年、賢治生誕100年を記念して67年ぶりに花巻を訪れ、「皆さんの力で賢治はいよいよ世界的になるところです」と語っています。


最初に紹介されている佐藤氏御著書『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』についてはこちら

今回の記事では紙幅の都合上、細かなところは語られていませんが、紹介されているエピソードだけでも黄の「数奇な人生」ぶりが分かりますね。

光太郎は黄の才能を高く評価、大正14年(1925)のアンケート「十四年度作品批評」では、真っ先に「知人のせゐか黄瀛君にひどく嘱望してゐます」とし、さらに昭和9年(1934)に刊行された黄の詩集『瑞枝』には序文を寄せました。

また、黄をモデルに彫刻も制作。
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ただ、おそらく戦災で焼けてしまったと考えられ、現存が確認できていません。

この彫刻を作っていた大正14年(1925)、黄が中国で知り合った心平を光太郎に紹介しました。そして翌年には黄や光太郎と共に心平の『銅鑼』同人でもあった賢治が光太郎のアトリエを訪問します。二人の天才、生涯ただ一度の出会いでした。さらに記事に有る通り、昭和4年(1929)の黄と賢治の会談。

そう考えると黄はいろいろなところでのキーパーソンですね。昨日触れた画家の柳敬助同様、もっともっと知られていていい存在と思われます。

最後の黄の言葉「自分の存在自体が詩でありたい」は、賢治、心平、そして光太郎にも共通する考えだったようにも思えますね。

【折々のことば・光太郎】

御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中でよみました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持がよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感嘆には十二分に共鳴を感じます。まだきつと読みかへすでせう。これは記録としても貴重な文献です。


昭和23年(1948)12月10日 小倉豊文宛書簡より 光太郎66歳

『絶後の記録』は、賢治研究家としても有名な小倉が自身の広島での被爆体験を綴ったルポです。翌年には海外輸出版が刊行され、そちらには光太郎が序文を寄せました。現在も流通している中公文庫版にはこれが転用されています。原爆の惨状が一般にはあまり知られていなかったこの時期、光太郎は書かれている内容に瞠目したようです。

また、改めてこの愚かな戦争に加担していたことへの自己嫌悪をももたらしたのではないかとも考えられます。

昨日は広島、明後日は長崎の原爆の日、来週には終戦の日。いろいろ考えさせられます。

先月末の『日本経済新聞』さんから、千葉県君津市文化財審議委員・渡邉茂雄氏の玉稿。光太郎にも随所で触れられている氏の御著書『不運の画家―柳敬助の評伝 黎明期に生きた一人の画家の生涯』に関して。

失われた肖像画を求めて 渋沢栄一ら描くも早世、作品は焼失 悲運の画家の功績語り継ぐ 渡辺茂男

 新1万円札に描かれた渋沢栄一と出くわした方も多いだろう。一方で失われてしまい、もう見られない渋沢の肖像画がある。描いたのは千葉県君津市出身の画家、柳敬助(1881~1923年)。熊谷守一や彫刻家・詩人の高村光太郎らと切磋琢磨(せっさたくま)し肖像画の第一人者となったが、42歳で早世。4カ月後の追悼展が関東大震災に遭い、代表作の多くが焼失した。
 23年9月1日は、友人らが日本橋三越で開く追悼展初日だった。柳の作品は約40点。渋沢の肖像などに加え、東京美術学校(現東京芸術大)時代に同居した熊谷の剣道着姿の絵もあった。高村や、同じく同居人だった画家の和田三造、辻永らも作品を寄せた。地震直後に作品は無事で、柳の妻・八重は墓碑銘のみ持ち帰った。ところが夜には火の手が回ってしまう。
 多くの作品が焼失したからこそ、画業を語り継がなければ――。柳と同じ君津生まれで小学校の後輩でもある私は、県立高校の社会科教諭をしながら市史編さんに携わり柳を知った。十数年前に退職した頃から本格的に資料を集めたり、絵が見つかったと聞けば調査に出向いたりし始めた。
 柳の生涯を彩ったのは、そうそうたる人々との交友だ。03年、指導者の黒田清輝の反対を押し切り美校を中退、渡米した。ニューヨークで師事したのは、パリで印象派を学んだロバート・ヘンライだ。「美術作品の価値はひとえに、目の前のものを見る画家の能力にかかっている」。残された柳の作品を見ると、ヘンライの教えを終生大事にしていたと感じる。
 現地で友となったのが彫刻家の荻原守衛(碌山(ろくざん))と高村だ。パリ、ロンドンを経て09年に帰国した柳は碌山の助けで東京・新宿のパン店、中村屋(現新宿中村屋)裏にアトリエを開くことになる。碌山は創業者の相馬愛蔵・黒光(こっこう)夫妻と同郷で、店近くにアトリエを構え親密な交際を続けていた。
 だが柳のアトリエ完成とほぼ時を同じくして碌山は死去する。完成を祝おうと柳が君津から持ってきた桜が供花となったという。碌山の故郷にある碌山美術館(長野県安曇野市)と中村屋サロン美術館(東京・新宿)に柳の絵がまとまって残るのは、この友情のためだ。
 高村は生涯の友だった。11年、柳は橋本八重と結婚し、その後アトリエも雑司が谷に移す。肖像画家としての充実期が訪れていた。面白くないのが高村だ。精神不安定も重なり「友の妻」という詩で「君の妻を思ふたびに、余の心は忍びがたき嫉妬の為に顫(ふる)へわななく」と、所帯じみた柳を激しい言葉で批判した。
 しかし高村に「智恵子抄」で有名な妻となる長沼智恵子を紹介したのも柳だった。日本女子大学校(現日本女子大)で八重の後輩だった人だ。同校とのつながりは深かったようで、渋沢を描いたのも彼が3代目校長を務めたためだと思われる。
 高村は柳の作品に辛辣な批評を寄せるなど、新たな芸術を目指す同志への愛が強烈だった。かたや柳にはにじみ出すような優しさがあり、同じ田舎の者として共感する。熊谷がスランプに陥った際、柳は交友のある作家・志賀直哉が持つ赤城山の別荘に誘い、共に出掛けた。ここで熊谷が描いた作品「赤城の雪」は、彼の画風変化のきっかけだったとも評される。
 この4月、私は柳の評伝「不運の画家」(東京図書出版)を自費出版した。柳にはキリスト教思想家の新井奥邃(おうすい)や宗教家の西田天香(てんこう)らとの縁もあり、詳述している。不運だったが才能と人に恵まれ、幸せな生涯だっただろうと思う。 (わたなべ・しげお=元高校教諭)
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関東大震災で代表作の多くが焼失し、渋沢の肖像画もそこに含まれていました。焼失した作品でも写真が残っているものは『不運の画家―柳敬助の評伝 黎明期に生きた一人の画家の生涯』に画像が掲載されていましたが、渋沢像は写真も残っていないようです。残念ですね。

氏の地元・千葉県君津市さんの『広報きみつ』7月号に、以下の記事も載りました。
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柳敬助、もっともっと知られていていい画家と思います。記事にある安曇野の碌山美術館さん等にに足をお運びいただき、柳の画業に触れていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

小生もいつか此の山中のどこかで一人で死んで発見されるでせう。部屋の中か野外か、その時次第です。死ねばあとはどうでもいいです。草木の肥料となるのが一番いいでせう。


昭和23年(1948)12月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎66歳

この予想は当たらず、7年余りのち、都内で亡くなることになります。

死ねばあとはどうでもいい」。本人はそれでいいのかも知れませんが、周りとしてはそうもいかないわけで……。逆に自分の生きた証しを必死で残そうとする(生前に自分の銅像を作らせるとか)よりは潔いのかも知れませんが……。

当方としては、光太郎本人に「死ねばあとはどうでもいい」と言われても、その鮮烈な生の軌跡の全体像を出来うる限り明らかにしていく作業は止められません(笑)。

光太郎も目にしたであろう建造物です。

一昨日の『朝日新聞』さん千葉版から。

国登録有形文化財に旧下総御料牧場貴賓館など10件を答申

 国の文化審議会は先月、千葉県成田市の旧下総御料牧場(三里塚記念公園)の貴賓館と防空壕(ごう)など計10件を国登録有形文化財(建造物)に登録するよう文部科学相に答申した。登録されれば県内の国登録有形文化財(建造物)は315件になる。
 ほかには、市川市の勝家住宅主屋と稲荷社、我孫子市の榎本家住宅主屋と離れ、北土蔵、釜場、正門、稲荷社。
 成田市によると、旧下総御料牧場貴賓館は、明治政府が招聘(しょうへい)した「お雇い外国人」の官舎として現在の富里市に明治9(1876)年に建てた純和風住宅がもと。同21(1888)年に三里塚に移築後、大正期に貴賓館となり、各国大使の接待や皇族の宿泊に利用された。成田空港の建設に伴って牧場の移転が決定し、払い下げを受けた成田市が大正期の姿に復元修理した。
 木造平屋建てで、内部には洋間のホールを配し、北面は上下窓を開けた独特の外観。
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 防空壕は鉄筋コンクリート造りで、主室の壁は厚さ70センチと、戦時下の緊張を伝えている。
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 市川市によると、勝家住宅は、東京の地主だった勝家が関東大震災を機に市川に移住し、昭和11(1936)年ごろに建てたとされ、主屋は平屋建ての近代和風住宅。洋間の応接室や座敷、仏間を配し、座敷の床周りには紫檀(したん)や赤松を用い、琵琶床と付書院を備えるなど凝った意匠になっている。精緻(せいち)な造りの稲荷社も同時期に建てられたとみられる。
 我孫子市によると、榎本家住宅は、利根川の水運業(船問屋)を生業にしていた榎本家が主屋などを昭和初期に建てたとされる。榎本家は明治期から大正期にかけて町長や衆院議員を輩出しており、同市の歴史を伝える上でも重要な建築物とされる。主屋は木造2階建ての寄せ棟造りで、その周囲に立つ離れなど五つの建造物も今回の対象になった。

三里塚御料牧場は明治8年(1875)に開場した下総牧羊場を前身とし、同18年(1885)、当時の宮内省が直轄化、成田空港の建設工事に伴い、昭和44年(1969)に栃木県の那須に移転するまで存続していました。牧場としては閉鎖された後も、今回指定された貴賓館や御料牧場事務所は保存され、三里塚記念公園として市民の憩いの場の一つとなっています。元々桜の名所でしたし、マロニエの巨木による並木も見事です。
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そこからほど近い場所に、第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も牧場を訪問、詩「春駒」を作り、その後もたびたび訪れました。昭和52年(1977)には公園内、貴賓館の庭に「春駒」の光太郎自筆稿を元にした詩碑も建立されています。
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これと対を為すように葉舟の歌碑も。元々は最晩年の光太郎が揮毫を頼まれたものですが、もはや健康状態がそれを許さず、二人と交流のあった窪田空穂が代わって筆を執りました。
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また、旧事務所は御料牧場記念館として当時の様々な史料を展示している他、小規模ながら葉舟や光太郎に関する展示も為されています。この建物も文化財指定がなされればなおよかったのですが……。
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防空壕も同じ敷地内。平成23年(2011)に一般公開が始まり、当方も一度内部を見せていただきました。皇室用と云うことで一般のそれとはけた違いの強度、まるでシェルターでした。ただし、実際に使われたことはなかったそうです。
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産業遺産、戦争遺跡、そして文学散歩のコースとしての複合遺産とも言える場所です。ぜひ足をお運び下さい。ただ、公共交通機関ですと、かつてあった鉄道は廃線となり、バスやタクシーしかありません。JRさんなり京成さんなりの成田駅までいらしていただければ、当方、隣町ですので自家用車でご案内いたします(要予約(笑))。

【折々のことば・光太郎】018

智恵子作の筆は珍宝と存じ、忝く御礼申上げます。あの筆の穂は黒松の花芽です。


昭和23年(1948)10月21日
 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

文言通りに読めば、智恵子が作った筆をもらった礼です。宮崎の妻は智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子でしたので、おそらく春子が智恵子の形見として持っていたものだったのでしょう。「黒松」は九十九里浜の防風林でしょうか。

花巻高村光太郎記念館さんには、光太郎が生前使っていた筆が7本ばかり収蔵、展示されていますが、この時の筆がそこに含まれているのかどうか、不明です。

7月26日(金)、『毎日新聞』さんの神奈川版から。

かながわの書 名碑探訪/17 茅ケ崎・平塚らいてう記念碑 書き出しに意志の強さ /神奈川

 「元始、女性は太陽であった」。女性文芸誌「青鞜」の創刊号、平塚らいてうの言葉である。表紙の装丁は長沼智恵子(のちの高村光太郎の妻)が担当し、与謝野晶子も「山の動く日来る」と賛辞の詩を贈った。
 らいてうは女性保護論争に加わり、市川房枝らとともに新婦人協会を結成。婦人参政権運動を起こした。現代では到底考えられないが、当時女性に参政権がなかったのである。「元始、女性は………」はセンセーショナルな言葉として社会現象となった。1911(明治44)年秋のことであった。
 JR茅ケ崎駅の南口に降り、海に向かって徒歩約8分で「高砂緑地」の看板に出合う。ここは実業家・原安三郎の別荘の土地だったが、今は「松籟(しょうらい)庵」として公開している。地元では憩いの場として夙(つと)に有名である。庭園に入ると高さ160センチの堂々とした碑がある。あまたの松に囲まれ、潮風に満ちた静かな庭だ。
 碑文に目を遣(や)ると、たっぷりと墨を含ませた筆で「元始」と書き進めている。 しっかりと筆を立て、紙に筆圧をかけていることが伺える。書は筆順を追うことができるため、時間推移と共に鑑賞できる数少ない芸術とも言われている。
 本文を3行に分け、行間を広くとり、漢字を大きく仮名を小さめに書き、文字の大小変化をつけている。時間をかけて鑑賞すると、らいてうの息づかいを感じとることができる。また「性・陽・正」の漢字を草書で表現し運筆リズムを作っている。当時の識者はよく草書を使う。筆で手紙を書く時に、早書きの草書が手に馴染んでいたのだろう。小学校の漢字レベルの草書は誰もが読め、常識の範囲だったのだ。
  おそらく当時の女性の筆触としては仮名文字の細線が主流だったはずだ。しかし、らいてうの運筆は全く異なり、書き出しは中国唐時代の顔真卿(がんしんけい)のような肉太のタッチである。明治の女性の意志の強さがそうさせたのだろうか。落款は「らいてう」と「明(はる)」の印を添えている。「明」は本名である。また、「らいてう」の名は雷鳥に由来する。
 「青鞜」はわずか5年間の活動で終焉(しゅうえん)を迎えた。爾来(じらい)113年の歳月が流れたが、その精神は脈々と今日まで受け継がれて来た。先の東京都知事選においても女性の知事が3期目に入るという。まさにらいてうの先見の明の証(あかし)と言えるだろう。 
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記事を書かれたのは県立高校の書道の先生だそうで、なるほど、書体や筆法などにつき的確な評が為されています。

この碑、一度拝見に伺いました。意外と新しく、平成10年(1998)の建立でした。刻まれた文字が書かれたのがいつかまでは分かりませんでしたが。すぐそばには光太郎と縁のあった八木重吉の詩碑も建てられていました。

なぜ茅ヶ崎にらいてうの碑が、というと、らいてうの夫・奥村博史が結核の治療のため、この地にあったサナトリウム・南湖院へ大正4年(1915)に入院、そのためらいてうも翌年には近くに借間を借り、奥村退院後も大正6年(1917)までこの地に住んでいたためでしょう。南湖院の建物の一部は国の登録有形文化財として、元の敷地(高砂緑地から数百㍍)の一角に残されています。八木も昭和の初めに南湖院に入院していましたし、遠く明治時代には国木田独歩も。

ぜひ足をお運びいただき、先人たちの息吹に触れてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

これから又出直して新らしい世代の為に新らしい熱情を以て尽すやうに望みます。いつでも青年を相手にしてゐるのは何よりです。その上農は国民生活の根本ですから、まことにやり甲斐のある仕事です。


昭和23年(1948)10月14日 藤岡孟彦宛書簡より 光太郎66歳

孟彦は光太郎実弟。藤岡家に養子に行き、植物学者となりました。戦前から兵庫県農業試験場に勤務していましたが、この年、茨城県の鯉淵学園に赴任。現在の鯉淵学園農業栄養専門学校です。

光太郎の父・光雲の手になる彫刻が施された祭車も出る祭礼です。

桑名石取祭

期 日 : 2024年8月2日(金)~8月4日(日)
会 場 : 春日神社(桑名宗社)周辺 三重県桑名市本町46番地
時 間 : 8月2日(金) 叩き出し  24:00~
      8月3日(土) 試楽    18:00頃~
      8月4日(日) 本楽    13:00~ 南市場整列  18:30~ 花車渡祭

 石取祭(いしどりまつり)は、桑名南部を流れる町屋川の清らかな石を採って祭地を浄(きよ)めるため春日神社に石を奉納する祭りで、毎年8月第1日曜日とその前日の土曜日に執り行われています。
 町々から曳き出される祭車は、太鼓と鉦で囃しながら町々を練り回ります。 試楽(土曜日)の午前0時には叩き出しが行われ、祭車は各組(地区)に分かれ、組内を明け方まで曳き回し、その日の夕方からも各組内を回り、深夜にはいったん終了します。
 本楽(日曜日)は午前2時より本楽の叩き出しが明け方まで行われ、いよいよ午後からは各祭車が組ごとに列を作り、渡祭(神社参拝)のための順番に曳き揃えを行います。 浴衣に羽織の正装で行き交う姿は豪華絢爛な祭絵巻を醸し出します。一番くじを引いた花車を先頭に午後4時30分より曳き出された祭車は列をなし、午後6時30分からは春日神社への渡祭が順次行われます。
 渡祭後は七里の渡し跡(一の鳥居)を経て、午後10時頃より始まる田町交差点における4台ずつの祭車による曳き別れが行われるのも見逃すことのできない場面です。
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光雲の手になる彫刻が施された祭車は「羽衣」。今年は30番目の登場だそうです。
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平成28年(2016)には、全国の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に認定されました。しかし、新型コロナウイルスの影響で令和2年(2020)と翌年は中止、一昨年は規模を縮小して再開、昨年4年ぶりに元の形に戻ったとのこと。

一昨年はBSイレブンさんで、祭りのハイライト「渡祭」の一部が生中継されました。メインの撮影場所は、春日神社(桑名宗社)さん。周辺を練り歩いた各祭車が、籤で決められた順番にここにやってきて、御神前で鉦や太鼓を打ち鳴らし、演奏・演舞を奉納。「羽衣」の祭車は5番目で、ちょうど放送開始の時に映りました。
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今年は地元ケーブルテレビで中継されるそうです。

昨年の様子がこちら。0:53頃から「羽衣」の祭車が映ります。


お近くの方、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

村の人々が小生に風呂場を寄附してくれ、今大工さんが建築中です。今年の冬は助かります。

昭和23年(1948)9月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋には風呂が無く、行水で済ませていたようです。そこで村人達や宮沢家、佐藤隆房らが光太郎に風呂を寄進しました。
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現物が現存しており、平成29年(2017)に花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻の湯」で展示されました。

しかし、コスパが悪く、大量に薪を必要としたため、あまり使われることはありませんでした。

信州安曇野の碌山美術館さんが、館報『碌山美術館報』の第44号をお送り下さいました。多謝。
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発行は3月で、おそらくネット上には既にアップされていたと思うのですが、やはり印刷物・紙媒体で頂けるのは有り難いことです。

昨年4月22日(土)に開催された、第113回碌山忌での、東京藝術大学さんの布施英利教授による記念講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」全文が文字起こしされて掲載されています。
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さらにそれを受けて、巻頭には同館学芸員の武井敏氏による「荻原守衛のスケッチ」。

守衛の絶作にして重要文化財の「女」。跪(ひざまず)いた女性が後ろで手を組み、斜め上を見上げているポージングですが、そこに秘められた仕掛けとは?
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以前にも書きましたが、何らの不自然さも感じられず、純粋な写実に見えるものの、精密に計測して実際の人体と比較すると、異様に頭部が大きく、腕も長く、乳房の位置などもおかしいとのこと。

そこでこの「女」が立ち上がったらどうなる、という図も掲載されています。
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実に不思議ですね。

そして武井氏の稿でも触れられていますが、後ろで組まれている両腕は、当初、斜め上に掲げる構想があったとのこと。そのポージングであれば、乳房の位置などは解剖学的に正しいそうです。それがどうして変更されたのか、謎は尽きません。

その他、昨年11月に開催された美術講座「スト―ブを囲んで 臼井吉見の『安曇野』を語る」も文字起こしされて掲載されています。『安曇野』は大河ドラマ誘致運動も起こっている臼井吉見の小説で、光太郎も登場します。他の箇所でも『安曇野』に触れられています。

主要箇所にはリンクを貼ってあります。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨日は東京の吉川富三といふ写真家が来て弱りました。

昭和23年(1948)9月12日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎66歳

吉川富三は肖像写真を得意とした写真家。この日の様子を吉川は「快く写真ギライで有名な先生が私のカメラの前に立って下さった」と書き残していますが、やはり「快く」と言うわけではなかったようです。

この日撮影された写真(左下)は、翌年の雑誌『写真手帖』に掲載された他、日本橋三越で開催された「第三回文化人肖像写眞展」に出品、さらに昭和25年(1950)には吉川の写真集『文化人のプロフィル』にも収められました。
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また、吉川は昭和28年(1953)、帰京した光太郎を中野のアトリエに訪ねての撮影もしています(右上)。

7月7日(日)、『読売新聞』さんの日曜版に光太郎の父・光雲の名が出ました。「旅を旅して」という、紀行文や小説、映画、詩歌などに残された「旅の記憶」を記者がたどる連載で、光雲が主任となって、東京美術学校総出で制作された皇居前広場の「楠木正成像」がらみです。
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像に使われた銅は、愛媛県の別子銅山で産出されたもの。そもそも像は銅山の開坑200周年記念という意味合いもあって、住友家から寄贈されました。記事はその別子銅山の「今」がレポートされていました。

旅を旅して 森になった街…別子(べっし)銅山(愛媛県新居浜市)  まるで考古学者のように、産業遺跡を発掘したい。――――荒俣宏「黄金伝説」(1990年) 

001 森になった街――との呼び名通りだった。赤レンガの塀とか、学校跡の石組みとか、静寂の中、むせかえる山の緑のあちこちに、先人の生活の跡が見て取れた。
 江戸中期から1973年の閉山まで65万トンもの銅を産出した別子銅山は、往時の活況を伝える産業遺産が南北約20キロにわたって点在する。標高が1000メートルを超える旧別子のエリアには明治後期、鉱山労働者や家族ら、1万人以上が暮らしたのだという。
 その事跡を確かめようと、作家の荒俣宏さんが山に分け入ったのは春、4月だった。温暖な四国だ。麓で満開の桜を見、軽装で赴いたところ、雪と氷が覆う「厳冬ムード」「冷寒地獄の眺め」で「滑落して死ぬのかと覚悟したりもした」と苦行を 綴つづ っている。
 観光の拠点、マイントピア別子の 永易ながやす 舞さん(26)によると冬の間、銅山関連のツアーは休止にするらしい。今は山歩きには絶好の季節で、頂の 銅山越どうざんごえ (1294メートル)まで、2時間弱の散策を楽しんだ。
 険しい斜面の所々、わずかな平地が石垣で補強され、急階段が据えてある。案内板にかつて、そこにあった建物が写真と共に紹介してあった。
 寺、醸造所、測候所……。巨大な倉庫は明治の頃、劇場にも転用され、上方の名優が歌舞伎を上演した、との説明書きがあった。1000人超の収容規模だったとか。休息の日、山に響いたであろう、拍手や歓声を想像した。
 ゴール近く、歓喜坑は最初の坑口で、1691年にここから採掘が始まった。銅山を経営し、発展の礎とした住友グループの聖地で、新入社員や幹部社員が研修で訪れる。「感激する新人さんも多い」とガイドの石川潔さん(73)が教えてくれた。
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 銅山越の北、 東平とうなる エリアにバスで向かう途中、急斜面にへばりつく社宅跡が見えた。その数2百数十、まさに天空都市の様相である。本当に人が?と、にわかに信じがたい傾斜だ。けれど、近くの歴史資料館には急坂で遊ぶ子らの写真が確かに掲げてあった。
 永易さんは高校時代、東平エリアの元住民から聞き取りをした経験がある。「プールで良いタイムを出したとか、大切な思い出を伺いました」
 実体験を話せる人の多くが鬼籍に入った。この国の近代化を支えた名も無き人たちの記憶、記録を、いかに次世代へと受け渡していくか。思いを巡らす日々だという。
◇ 荒俣宏 (あらまた・ひろし)
 1947年、東京生まれ。約10年間のサラリーマン生活の後、翻訳や事典編集に携わる。87年、小説「帝都物語」で日本SF大賞。94年にはライフワークの「世界大博物図鑑」(全5巻、別巻2)が完結した。「近代成金たちの夢の跡」探訪記、との副題を掲げた表題作は、明治維新以降、日本の近代化に貢献した地場産業の現場を巡り、サトウキビ王や石炭王、鉄道王ら、ずぬけた頭脳、行動力で時代を先導した「飛びっきりのヒーロー」の生涯を紹介する。逸話、雑学満載、筆者の面目躍如の1冊。

銅山近代化 先人の足跡
 明治初めまで製錬した 粗銅あらどう は人が背負って麓へ運んだ。重さは男が45キロ、女は30キロ、命の危険もある険しい山道を最盛期は数百人が往復したという。
 牛車道の整備を経て、1893年(明治26年)には標高1100メートルの地点から専用鉄道が走った、というから驚く。
 その第1号、ドイツ製蒸気機関車は、新居浜市街にある別子銅山記念館で見られる。
 館内には坑道の模型も展示してあり、総延長700キロ、高低差2300メートルという規模に2度驚く。「 螺灯らとう 」は鯨油を浸した綿を、サザエの殻に詰めたランプで、明治半ばまで坑道ではこの灯を頼りに作業していた。
 「先人の苦労のほどを想像してもらえたら」と館長の神野和彦さん(62)は話す。
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 新居浜への旅で荒俣宏さんは銅山や街の発展に尽くした2人の偉人の足跡を追った。
 広瀬 宰平さいへい (1828~1914年)は住友初代総理事で銅山の近代化策を作った。
 牛車道や鉄道のほか、製錬所の整備やダイナマイトの本格使用等々。荒俣さんが注目したのが労働者への目配りで例えば旧別子山中で跡を見た醸造所は、うまい酒やみそ、しょうゆを提供し、食生活を充実させる目的で造られた。
 人徳だろう。その名を冠した広瀬公園には市が保全した旧宅(国重要文化財・名勝)や記念館があり、小学生らが授業で功績を学ぶそうだ。
 同じく鉱山の最高責任者を務めた鷲尾 勘解治かげじ (1881~1981年)は昭和初めに早くも閉山後を見据え、幹線道路や港、臨海部の埋め立てなどの案を練り、工業都市の礎を築いた。これらの多くが今も機能する一方、海に近い大規模社宅は防災上の問題や再開発でほぼ姿を消した。
 取り壊し前、市が調査し、一部で保存・整備を進める。市別子銅山文化遺産課の 秦しん野の親ちか史し さん(63)は「各所でぎりぎり残った産業遺産に、どう歴史的、文化的な価値を見いだすか」自問を続けている。
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●ルート 羽田空港から松山空港まで約1時間30分。連絡バスでJR松山駅まで15分。松山駅から新居浜駅まで特急で約1時間10分。
●問い合わせ マイントピア別子=(電)0897・43・1801、別子銅山記念館=(電)0897・41・2200、新居浜市観光物産協会=(電)0897・32・4028、広瀬歴史記念館=(電)0897・40・6333
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[味]もちもち生地のカレーパン
 伊予路の銘菓、別子 飴あめ は明治元年以来の変わらぬ味で、根強い人気を誇る。「地元産品を使った新しい土産を」と、商品開発に余念がない別子飴本舗((電)0897・45・1080)7代目、越智秀司さん(71)が取り組んだのがカレーパンだ。別商品の製造用に導入した大型フライヤーを活用するため、元パン職人の工場長と知恵を出し合ったのがきっかけ。うどんだしを混ぜたルーや、愛媛県産のヤマノイモ「やまじ丸」を練り込んだもちもち食感の生地が特徴で、2020年の発売以来、コンテストで金賞に輝くなど人気を博している。半熟卵(378円)=写真右=や甘とろ豚(同)など、店頭で揚げたてを提供するほか、冷凍商品の通販も。今年は神奈川県横須賀市の商工会議所の協力を得て開発した「よこすか海軍カレー」(同)が加わった。
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ひとこと…読み応えある紀行
 皇居の外苑、勇壮な楠木正成像は別子銅山開坑200年を記念して、住友家が献納した――。荒俣さんは新居浜の歴史を意外なエピソードからひもとく。高村光雲が頭の造形を手掛け、内部までみっちり銅が詰まった逸品は、なぜ、皇居前への設置が許されたのか。体当たりで謎解きに挑む紀行は実に読み応えがある。

四国には光太郎や光雲らの足跡も直接は残って居らず、ほとんど行く機会もありませんで、別子銅山がこういう現状だというのは存じませんでした。てっきり現在も採掘が続いているものとばかり思い込んでいました。

ちなみに記事の後半で触れられている広瀬宰平、楠木正成像の制作と並行して、自身の像も光雲に制作を依頼しました。

明治34年(1901)には銅山に近い当時の中萩村に除幕設置されました(左下)が、戦時中の昭和19年(1944)には例によって金属供出のため失われました。しかし、東京藝術大学さんに奇跡的に木彫原型(中央下)が保存されており、それをもとに平成15年(2003)、元の場所、現在の広瀬公園に二代目の像(右下)が据えられました。
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一度見に行ってみたいのですが、なかなか果たせないでいます。

いずれ銅山記念館等と併せて、と思っております。また、荒俣宏氏の『黄金伝説』も読んでみようと思いました。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

転地のよし、猫実ならば大にいいだらうと想像します。猫実といふところは小生の祖父の釣によく行つたところです。それで名をおぼえてゐました。


昭和23年(1948)8月12日 草野心平宛書簡より 光太郎66歳

「猫実(ねこざね)」は、現在の千葉県浦安市。江戸川河口に近く、少し東に宮内庁の鴨場があったりする海っぺたです。

当会の祖・心平、このころ胸を患い、静養のため彼の地に独居。翌年には石神井に移り、家族を呼び寄せます。一年程でしたが同じ千葉県民だったと思うとさらに親近感が涌きます(笑)。

北海道から企画展示等の情報です。

来釧した文豪たち 「文豪とアルケミスト」も釧路に来た!!

期 日 : 2024年7月27日(土)~10月20日(日)
会 場 : 釧路文学館 釧路市北大通10丁目2番地(釧路市中央図書館6階)
時 間 : 9:30~19:30
休 館 : 毎週月曜日(祝日除く)・毎月最終金曜日
料 金 : 無料

石川啄木をはじめ、草野心平や河東碧梧桐、高浜虚子など釧路に訪れたことのある文豪のほか、里見弴に師事していた釧路ゆかりの作家・中戸川吉二、原野の詩人・更科源蔵と高村光太郎など釧路文学館が所蔵する関連史料を展示します。
なお、会期中はDMM GAMES配信のゲーム「文豪とアルケミスト」とタイアップし、記念グッズの販売や等身大パネルを展示します。

等身大パネル展示
◆釧路文学館:石川啄木(夜の散歩衣裳) 高村光太郎(平服) 草野心平(パーカー衣裳)
◆釧路港文館:石川啄木(平服) 釧路市大町2-1-12
◆北海道立釧路芸術館:石川啄木(作業着衣裳) 釧路市幸町4-1-5
◆釧路フィッシャーマンズワーフMOO:石川啄木(和装) 釧路市錦町2-4
◆釧路市生涯学習センター まなぼっと幣舞:石川啄木(制服)

記念グッズ販売
タイアップ企画開催を記念して、釧路文学館でポストカード、クリアファイル、缶バッヂを販売します。クリアファイルには来釧した文豪たちと釧路の風景がデザインされています。

スタンプラリー開催
会期中に釧路文学館・釧路港文館または道立釧路芸術館を巡ろう! スタンプを集めると、「オリジナルしおり」をプレゼント!

釧路市図書館合同展示開催!
会期中、釧路市内にある図書館と連動して関連展示を開催します。
◆釧路市中央図書館:各フロアの特色にあった展示をおこないます。
◆東部地区図書館:「文学と友情」
◆中部地区図書館:「文豪とその名作」
◆西部地区図書館:「文豪と食」

マンスリー朗読会
①7月27日(土)  18:00~19:00
 【会場】釧路文学館 【朗読者】ジスイズ朗読会 【作品】夏の夜咄~小泉八雲の怪談
②8月25日(日)13:00~14:00
 【会場】中央図書館 【出演者】釧路演劇協議会
③9月8日(日)13:00~14:00
 【会場】中央図書館 【朗読者】リーディングサービスコスモス

初心者向け短歌教室 コスプレOK!
 【日時】8月10日(土) 【会場】文学会議室 【講師】簑島智恵子(釧路歌人会会長)


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オンラインゲーム「文豪とアルケミスト」(文アル)とのコラボ企画です。釧路ということで、石川啄木がメインですが、啄木と交流のあった光太郎や、光太郎と親しかった道出身の更科源蔵、当会の祖・草野心平も取り上げて下さるそうで。

「文アル」関連では、先頃、光太郎も登場人物として名を連ねた舞台「文豪とアルケミスト 旗手達ノ協奏(デュエット)」が上演されましたし、岩手花巻では、宮沢賢治と光太郎を前面に押し出したスタンプラリーが一昨年開催され、それぞれ多くのファンの方々でにぎわいました。また、福岡の北原白秋生家・記念館さんでも一昨年「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」の際にタイアップ企画で光太郎が取り上げられましたし、このブログサイトではご紹介しませんでしたが、昨年には高知の吉井勇記念館さん開館20周年記念で香美市立図書館かみーるを会場に「『文豪とアルケミスト』にみる吉井勇と文豪たち」と題した座談会が開催され、やはり光太郎の等身大パネルが出たそうです。

遡れば平成29年(2017)には森田成一さんによる朗読CDもリリースされています。

文豪たちに親しんでもらう入口としてはこういう方向性もありだと思われます。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

六月中は五月から引きつづいて来客殆ど連日に及び、畑仕事を大いに邪魔されました。来る人は皆遠方から、相当の好意を以て来てくれるのですから、歓迎するのですが、あとで仕事の手遅れを取かへすのに大骨折です。多い日は来客八人に及びました。


昭和23年(1948)7月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村での生活。自分では謹慎や蟄居のつもりでいても、世間が放っておかないわけで、痛し痒しでした。

明日開幕です。いわゆるコレクション展で、光太郎木彫1点が出ます。

なつやすみ所蔵企画展 額縁のむこうのFRANCE -心惹かれる芸術の地-

期 日 : 2024年7月13日(土)~9月23日(月・祝) 8/19に一部展示替え
会 場 : メナード美術館 愛知県小牧市小牧5-250
時 間 : 午前10時から午後5時
休 館 : 月曜日(
祝休日の場合は直後の平日
料 金 : 一般 1,000円 (800円) 高大生 600円 (500円) 小中生 300円 (250円)
      ( )内は20名以上の団体

 歴史を感じる建物やおしゃれな人々、そして芸術。心惹かれるものが多くあるフランス。
 この展覧会は、メナード美術館のコレクションからセザンヌやマティス、ブラックといったフランスの美術作品、さらに藤田嗣治や佐伯祐三らフランスに学んだ日本出身の作家たちの作品を、絵画を中心に約80点ご紹介するものです。
 時代を力強く生きる女性たちとその装い、街や農村・避暑地の風景、また20世紀に起こったフォーヴィスムとキュビスムという美術革命などをテーマに、フランスという国とそこで展開された芸術をお楽しみいただきます。
 作家たちが、フランスのどこに惹かれ、いかに表現したのか。額縁を絵画の中と私たち鑑賞者をつなぐものとして、作品からフランスへと思いをめぐらせてみてください。

展示構成《Le paradigme de la transparence. 23. T. T. -1》
 Introduction アントロドゥクシオン この展覧会のはじまりに
  ブールデル/マイヨール/アーチペンコ/高田博厚
 Les Femmes レ ファム 憧れのフランス女性
  クールベ/マネ/ドガ/ロダン/ルノワール/マティス/ピカソ/シャガール/フジタ他
 Les Paysages レ ペイザージュ フランス各地の風景
  モネ/ルソー/ガレ/スーラ/ヴラマンク/ドラン/ユトリロ/佐伯祐三/荻須高徳他
 La Libération ラ リベラシオン フォーヴとキューブ:ふたつの解放
  セザンヌ/ゴーギャン/ゴッホ/マティス/ヴァン・ドンゲン/ピカソ/ブラック他
 L’Étranger エトランジェ 異国の地で出会った美術
  藤島武二/岡田三郎助/高村光太郎/安井曾太郎/梅原龍三郎/長谷川潔/舟越桂他
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光太郎彫刻は、木彫の「鯰」が出ます。
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元々は新潟の素封家・松木喜之七に贈られたもの。直接フランスとは関わりませんが、ロダン流のモドレ(肉づけ)をカーヴィングの木彫に取り入れたという点では、フランス式とも言えるでしょう。

同館では同じく木彫の「栄螺」もお持ちですが、今回は出ません。

光太郎木彫が出る度に書いていますが、木彫は出品が少なく、貴重な機会です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

二ツ堰から徒歩で観音山といふ山上の観音さまの縁日、お神楽見物にまゐり、多田等観さんに招かれて御馳走になり、更に夕方からは村長さん夫妻の案内にて鉛温泉に一泊。久しぶりに温泉に入浴して愉快でした。温泉の主人も挨拶に来ました。


昭和23年(1948)4月27日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

多田等観は僧侶にしてチベット仏教学者。戦時中、チベット将来の品々を花巻に疎開させた縁もあり、円万寺観音堂の堂守を務め、隣村に住む光太郎と意気投合してお互いに行き来していました。

鉛温泉は、現在も続く藤三旅館さん。深さ約1.3㍍の白猿の湯が名物です。

昨日は東京都中野区に行っておりました。光太郎終焉の地にして、昭和32年(1957)の記念すべき第一回連翹忌会場でもあった、建築家・山口文象設計になるの中西利雄アトリエ保存運動「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の4回目の会合でして。

少し早めに行き、中野駅南口近く、旧桃園町を歩きました。最晩年の昭和29年(1954)以降、外出もままならなくなった光太郎が貸しアトリエの大家さんだった中西利雄夫人に託した膨大な買い物などを頼むメモが残されていて、その中に下記の地図が含まれています。通常の地図と同じく北が上、右上の方が中野駅方面で、左下の「中西」と書いてあるところがアトリエです。
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現代の地図では下記の紫の枠内、左下の☆がアトリエです。
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およそ70年経って、書かれている様々なお店がどうなっているのか、地図を片手に歩いてみました。先月、「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」を拝見した折にも歩きましたが、その際は光太郎の書いた地図については失念していました。

さて、まず地図右上の「薬局」。瀟洒な会計学院の建物になっていました。
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昭和27年(1952)に中野に移ってから、常に健康を害していた光太郎。様々な薬品の購入を中西夫人に託しましたが、おそらくここで買われたものが多かったはず。
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薬局のはす向かいに「豆腐屋」。おそらくこちらが元は豆腐屋さんだったのではないかというお店(左下)。古民家カフェになっていました。
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右上は光太郎の地図で「果物」と書かれているお店。こちらのみ、光太郎の地図と同じ業種で存続していました。ただし、建物は建て替わっています。

そのお隣は光太郎の地図では「魚ヤ」ですが、現在はリサイクル着物店。光太郎メモに最も頻出する「神田屋肉屋」と「八百屋」、さらには「スワン」(洋品店だったそうです)、「松屋酒屋」、「時計屋」はまったく痕跡がありません。普通の民家になっていたりでした。
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そのあたりに古そうな和菓子屋さんがあったので、聞き込み調査をしましたが、こちらのお店は創業60年程だそうで、光太郎が居た70年前には未だ開業していなかったとのこと。
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光太郎地図で「フミヤ」となっているところは、現在はコンビニに。
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やはり70年という時間の経過を感じざるを得ませんでした。

逆に、光太郎の書いた地図やメモには記載がありませんが、古いものも。

公民館的な。
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それから、戦争遺跡と言えるでしょう。戦時中の昭和18年(1943)建立の石碑。
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ついでですので、中西アトリエにも行きました。
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PXL_20240710_084151737とにかくこの建物は残さにゃいかん、と、決意を新たに致しました。

その後、中野駅北口に回り、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」会合会場のスマイル中野さんへ。

代表の渡辺えりさん、実務の中心の曽我貢誠氏のもと、現状報告やら今後の活動についてやらのもろもろ。

会のメンバーその他があちこちでお願いしている保存に賛同するという署名はおよそ1,200名分集まったそうです。海外からも届けられているとのことで、感謝に堪えません。

今後、アトリエの所有者である中西家の意向確認、それから関係団体との交渉など、まだまだ課題が山積の状況です。
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署名につきましては、まだまだ受付中。このブログサイト内のこちらのリンク、それから下記画像等をご参照の上、ご協力いただければ幸いです。
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また、当方、今後も様々な場所に出没し、行った先々で署名をお願いいたします。そうした際にも快くご協力いただければ幸いに存じます。

さらに、健全な意図の元に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」で活動してみたいという方もウェルカムです。曽我氏までご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡に於ける美術工芸学校の創設発足は本年を記念する最も意義ふかき事業と存ぜられます、幸に貴下の如き適任者が当県に居られてその創業の際に之が鞅掌にあたられる事此上なきよろこびです。この有望な岩手の美術工芸をどこまでももり立て育て上げて下さい。岩手は確かに日本のホープです。


昭和23年(1948)4月18日 森口多里宛書簡より 光太郎66歳

戦前から光太郎と交流のあった美術史家・森口は、この年開校した県立美術工芸学校の初代校長に就任しました。岩手で暮らし始めて丸三年近く経った光太郎、「岩手は確かに日本のホープです。」とまで書くようになりました。

東日本大震災で甚大な被害を受けた光太郎ゆかりの宮城県女川町に、光太郎文学碑の精神を受け継いで建てられた「いのちの石碑」関連で、建立の中心メンバーだった元中学生と先生が、高知県の学校さんで特別授業という件。6月14日(金)には、いの町の伊野中学校さんで行われたことをご紹介しましたが、翌日、同県東洋町の中学校さんでも同様の防災授業を実施なさいました。

ミヤギテレビさんのローカルニュース。

<高知県で防災の講演>『震災』の教訓伝える<いのちの石碑>活動した宮城の中学校卒業生 『南海トラフ』の津波から命を守るためにー

『東日本大震災』後、宮城・女川町で避難の教訓を伝える<いのちの石碑>を建てる活動を行った中学校の卒業生が、高知県の中学校で防災の講演を行った。
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『南海トラフ』の津波から命を守るためにー。伝えたのは日ごろの備えと地域の絆づくりだ。

 宮城県から800キロ以上離れた高知県東部、徳島県との県境にある東洋町。海からすぐ近くにある全校生徒17人の甲浦中学校に、6月 震災の教訓を伝えるため宮城県から訪れた人がいる。
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 女川町出身・伊藤唯さん
「こんにちは。さっき紹介してもらいました伊藤唯と申します。よろしくお願いします」
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女川町出身の伊藤唯さんと、震災当時 女川町の中学校教員だった阿部一彦さん。

甲浦中学校の教員が防災研修で去年女川町を訪れた縁で、伊藤さんと阿部さんは地域の防災を考える講演会に招かれた。
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「机の下に潜ったんだけれど、揺れがすごいの。しがみついているのも必死だし、状況が理解できなくて。高台にある総合体育館に避難して、その時に津波を見たんだけれど、生き延びた後なんていったらいいかわからないけれど、必死だったので、何かを考えて行動することができない」
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『東日本大震災』の津波で、宮城・女川町は800人以上が犠牲となり、町は壊滅的な被害を受けた。
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一方の、高知・東洋町は『南海トラフ』の最大クラスの地震が発生した場合、5分後には最初の津波が到達し、最大19メートルの浸水想定となっている。
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津波避難タワーの建設など対策が進められているが、高知県の被害想定では東洋町の津波による犠牲者は人口の半分近く、1000人にのぼると推計されている。
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伊藤さんは、震災直後に入学した中学校で同級生と一緒に命を守る防災活動を行った。

女川1000年後のいのちを守る会 伊藤唯さん
「1・絆を深める、 2・高台に避難できるまちづくり、 3・記録に残す。3つの対策を考えました」
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避難の教訓を、記録として1000年後まで伝えたい。
生徒自ら募金活動を行い、女川町の各浜の最高津波到達地点より高い場所に避難の目印として<いのちの石碑>を建てる活動を行った。
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女川1000年後のいのちを守る会 阿部一彦さん
「一番知っているのは、住んでいるみなさんなんです。自分たちの感覚で、こうしたいと言って絆とか高台とか記憶に残すことをやった。みなさんには、また別のやり方がある」

甲浦中学校では、大きな地震がきたら徒歩で10分ほどの小学校の裏山へ避難する計画だ。
津波到達まで時間が限られる中での避難行動。

震災当時の体験を聞いて、生徒たちは命を守るため自分たちにできることを考えた。

甲浦中学校の生徒
「地域の人と絆を深めて、どうすればいい?もし災害が起きて絆を深めていたら避難しやすいし…」
「(運動会などで)誰でも高齢者でも遊べるボッチャとかそういうゲームをしたらいい」
「高台に避難できるまちづくりをしたい」
「地域との交流活動をもっと増やして、もし災害が起きて避難した後も、交流があって助けてくれたりストレスが減ったらいいと思いました」
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生徒たちが考えたのは、地域の人と一緒に避難するための日ごろからの絆づくりだった。

女川1000年後のいのちを守る会 伊藤唯さん
「いま私がやっているのは、みんなもやってほしいんだけれど、家族の安否がわからなくて3日も4日もわからないと、いろんなことを考えます。私は、今東京に住んでいるんだけれど、家族と離れているので、毎日連絡をとって明日どこにいるの、明日何をしているとか確認するようにしている。それを知っていると災害が起きた時に、今あそこにいると言っていたから大丈夫だなとかわかって安心できる」
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もしもに備えて日頃からできることをー。宮城・女川町から高知へ伝える教訓だ。

甲浦中学校 鶴和節子校長
「自分一人でできることは限りがある。まわりのひと、きょう来ている保護者の方、行政の方、地域のみなさんと一緒に進めたい」
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甲浦中学校 生松莉子さん
「自分の想像しているより地震がきたらつらいんだと思った。まだ家具の固定とか、夜地震が起こったときの対策もあまりしていないので、横にすぐ逃げられるように、靴を置いたりしておくとか対策をもっとしておきたい」

宮城・女川町の高台で津波避難の教訓を伝える<いのちの石碑>。
教訓が、全国の人の心の中に刻まれるように、これからも伝え続ける。
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女川1000年後のいのちを守る会 阿部一彦さん
「命は大事だよということは、もちろんだけれど、自分でやってみよう、何かできるのではと少しでも思ってもらえればそれでいい」

女川1000年後のいのちを守る会 伊藤唯さん
「震災のこと、防災のこと、学ぶことを楽しんでもらえればいいと思う。一歩踏み出す勇気、自分にもなにかできるんじゃないかと思ってほしかった。実行してもらえれば嬉しい」

遠く高知まで出向かれてお話しをなさったお二人には頭が下がりますし、予想される南海トラフ地震に向けて対策を取ろうとされている高知県の学校さんも素晴らしいと思います。

ただ、ひっかかったのは、「高知県の被害想定では東洋町の津波による犠牲者は人口の半分近く、1000人にのぼると推計されている」という一節。言葉尻をとらえるわけではありませんが、「事前の対策が不十分であれば」的な但し書きを附け、「犠牲者ゼロを目指して万全の対策を行う」といった方向性でなければいけないのではないでしょうか。「言われなくてもやってるよ」ということかもしれませんが……。

こうした動きが全国に広まって欲しいものだと、改めて思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

鶏が卵を抱いてゐる由、たのしみでせう。こちらの山の中では鶏をかつても皆狐にとられてしまひます。狐は夜来てうまくとつてゆきます。


昭和23年(948)3月28日 高村美津枝宛書簡より 光太郎66歳

駒込林町の光太郎実家で暮らす令姪に送ったはがきから。まだ食糧事情の不安定だった昭和23年(1948)当時、都内の屋敷町でも鶏を飼うなどしていたのですね。光太郎が隠棲していた花巻郊外旧太田村では養鶏は不可能という理由、なるほどね、という感じでした。

都内の古書籍商の皆さんで作る明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼、入札するシステムとなっている「七夕古書大入札会」。「日本最大の古書市」という触れ込みで長年続いています。今年で第59回だそうです。

出品物を手にとって見られる「一般下見展観」が下記の要領で行われます。

令和6年 第59回 七夕古書大入札会一般下見展観

期 日 : 2024年7月5日(金)・7月6日(土)
会 場 : 東京古書会館 東京都千代田区神田小川町3-22
時 間 : 7/5 10:00~18:00  7/6 10:00~17:00
料 金 : 無料
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コロナ禍前までは確かに「日本最大の古書市」というに相応しい活況でした。令和2年(2020)にパンデミック対応で中止、翌年には大幅に規模を縮小して再開、令和4年(2022)からシステム的には旧に復したのですが、その年と昨年と、出品点数はコロナ禍前から比べると半減に近くなりました。今年もそれに近いようです。

光太郎がらみの出品物は、2点。かつては5~6点は必ず出ていた感じでしたが。まぁ、昨年はゼロでしたので、それに比べれば……とは思います。

戦後の色紙揮毫が1点。
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短歌で「吾山になか(が)れてやまぬ山みつ(づ)のやみかたくして道はゆくなり」。昭和24年(1949)前後のもので、複数の揮毫例が確認できているものです。「ま」を「万」、「み」を「ミ」と変体仮名的な文字の選択にする、光太郎書の特徴がよく表れています。

余談ですが、「み」を「ミ」と書くため、「美しきものミつ」と書かれた短句を「美しきもの三つ」と誤読し、「三つとは、第一に○○、二番目に××で……」と噴飯ものの解釈が為されていたりして困っています。

書簡五通が一括で。
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姻戚となった詩人の宮崎稔に宛てたもの。おそらく『高村光太郎全集』既収のものです。文面が短い葉書ではなく、封書ですので、これはこれで額装したり、或いは思い切って軸装したりすると味のあるものになりそうな気はしますが。

完全に光太郎のものは以上2点。あとは「おやっ」と思ったのがこちら。
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光太郎が詩部会長を務めていた、戦時中の日本文学報国会関係の印刷物。精査するといろいろ解るような気がしないでもありません。

他に様々な文豪らの肉筆ものや稀覯本のたぐい等々。

一般下見展観では、普段はガラスケース越しにしか目に出来ないこれらを、手に取って見ることが出来ます(色紙は壁に掛けられていて無理かも知れませんが)。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

来年の冬はことによつたら一月から三月一ぱいの三ヶ月間、大沢温泉に下宿しようかと今日考へつきました。温泉でも追々設備が整ふでせうし、それまでには小生にも経済上の余裕がいくらか出来るかと思つてゐます。さうすれば皆さんに御心配をかける事も少く、小生も温泉に温まつて越冬出来れば風邪もまづひかぬでせう。仕事も却つて出来るでせう。電燈もあるし、食事も賄つてもらへば時間が出来ます。四月に小屋へかへつて来て、畑にかかればいいと思ひます。配給品は学校か村の人にたのんで時々とりに来ればいいわけです。


昭和23年(1948)3月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

大沢温泉さんでの冬籠もり、なかなかいい思いつきのようでしたが、実現には至りませんでした。自炊部ではなく食事付きで、となるとやはり経済的に難しかったようです。ただ、昭和26年(1951)には2週間近く滞在したことはありました。

当方も家のことや経済的な部分などまったく考えなくていいのなら、自炊部でいいので大沢温泉さんで暮らしたいと思ったりもしています(笑)。

このところ上京する機会が多いのですが、今週末も。

まずは六本木の国立新美術館さんで6月26日(水)に開幕した「日本教育書道芸術院 第43回同人書作展」を拝見しました。お世話になっている書家の菊地雪渓氏から「ぜひ足をお運びください」というご案内を頂きまして。
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菊地氏の出展作。杜甫の漢詩ですね。
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その菊地氏、師に当たられる方が光太郎詩「龍」(昭和3年=1928)を書かれたとのことで、見に来てくれというお話。そういえば昨年、氏を通して「詩の文言はこれでいいのか?」的なレファレンス依頼があったことを思い出しました。「ああ、あの時の……」というわけで。

で、こちらが当該作。
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力強い光太郎詩そのままに雄渾な筆遣いの堂々たる大作でした。

他にも光太郎詩を書いて下さった方が複数。ありがたし。

「葱」(大正15年=1926)。
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光太郎詩の中ではマイナーな作なので、少し解説しますと、立川農事試験場の場長・佐藤信哉から贈られた葱の美しさを題材にした詩です。

佐藤の妻、すみ子(スミ 旧姓・旗野)は、智恵子の数少ない親友の一人で、新潟県東蒲原郡三川村(現・阿賀町)五十島出身でした。スミの姉・ヤヱが日本女子大学校で智恵子と同期でしたが、明治43年(1910)に急逝。しかし同じく日本女子大学校卒だった妹のスミとの交遊は続き、智恵子は大正2年(1913)1月から2月、そして大正5年(1916)8月にも旗野家に長期滞在し、スキーや水泳に興じたりました。

「智恵子抄」から「樹下の二人」(大正12年=1923)。
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かなりの長詩ですので抜粋ですね。

詩集『道程』収録作「なまけもの」(明治44年=1911)。
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智恵子と知り合う半年程前、浅草雷門前のカフェよか楼の女給・お梅に入れあげ、通い詰めていた頃の日常が描かれています。

そして云わずと知れた「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。
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ありがとうございました。

古いものでは明治末から、もっとも新しいものでもこの「レモン哀歌」。100年前後経っています。1世紀を経てもまだ光太郎詩が現代人の琴線に触れていると思うと、嬉しい限りです。

7月7日(日)迄の会期です。ぜひ足をお運びください。

明日は阿佐谷の「名曲喫茶ヴィオロン」さんでの「ノスタルジックな世界 ライブ 朗読&JAZZ演奏」の模様をレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

お茶たくさんと和紙、きざみなどいろいろ細かいお心づくしのもの忝く、たのしくいただきました。和紙は昔の雅邦紙のやうに見えるもの、どんな工合のものか、今度筆を染めるのがたのしみです。純粋な半紙も珍重です。


昭和23年(1948)3月6日 多田政介宛書簡より 光太郎66歳

光太郎自身もこの時期、彫刻封印の代わりといっては何ですが、書に強い関心を持ち、数々の優品を生み出しました。

戦後2年半ほど経ち、そろそろ物資不足も解消しつつあったようで、それなりの紙が贈られてきました。「雅邦紙」はその名の通り、画家の橋本雅邦(光太郎の父・光雲と東京美術学校で同僚でした)が愛用した種類の紙です。

戦後間もない頃には揮毫を頼まれてもちゃんとした紙が無く、粗悪なボール紙のようなものを色紙代わりにしていたこともありました。

百貨店さんのイベントを2件。

まずは三越日本橋本店さん。

木の呼吸 ー伝統と革新ー

期 日 : 2024年7月3日(水)~7月8日(月)
会 場 : 日本橋三越本店本館6階美術特選画廊 東京都中央区日本橋室町1-4-1
時 間 : 午前10時~午後7時(最終日は午後5時閉場)
料 金 : 無料

このたび日本橋三越本店では 木の呼吸 伝統と革新 を開催いたします。日本古来より受け継がれてきた伝統的技術「木彫」。自然の中ではぐくまれてきた木々との対話を通し、匂いや木肌を感じ取りながら作家それぞれの卓越した技術により、一つの素材が作品へと昇華されます。本展では近代巨匠作家の秀作から、俊英若手作家の作品 約30余点を展観いたします。
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プレスリリース等で使われているサムネイル画像は現代の作家さんの作品ですが(左・佐藤丹山氏、右・百々謙三氏)、光太郎の父・光雲の作も出展されます。最晩年の昭和7年(1932)作の「鬼はそと福はうち」。今年3月に銀座のギャラリーせいほうさんさんで開催された「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」でも展示されました。それから、同じく山崎朝雲の「仔犬」。
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近代はこの師弟二人ですが、他に現代作家でサムネイルのお二人以外に秋山隆、石川時彦、榎戸項右衛門、木村俊也、澤田志功、下山直紀、丸山達也の各氏。系譜を辿ると光雲や朝雲に連なるという方もいらっしゃるのでしょうか?

もう1件、同様の催しで、そごう千葉店さん。

近代木彫秀作展008

期 日 : 2024年7月2日(火)~7月8日(月)
会 場 : そごう千葉店 千葉市中央区新町1000番地
時 間 : 午前10時~午後8時 最終日は午後4時閉場
料 金 : 無料

近代木彫を代表する彫刻家 高村光雲、平櫛田中や、鎌倉時代の名佛師運慶・快慶の流れをくむ現代の大佛師 松本明慶氏の作品を中心にご紹介いたします。

こちらは先月、そごう大宮店さん、それから先月から今月にかけ、大和百貨店富山店さんで行われたものと同じ業者さんによる巡回のようです。それぞれ光雲の聖徳太子像が出ていました。今回もそうだろうと思われます。

ちなみに令和2年(2020)にも千葉そごうさんで同様の展示即売がありまして、その際は光雲の「孔子像」、「大国主命」、レリーフの「瑞雲」、それから光雲の師・髙村東雲の孫にあたり光雲に師事した髙村晴雲の「釈迦如来像」が出ていました。

光雲の木彫、じっくり見られる機会はあまり多くありません。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

送つて下さつた貴下の小説「塔」をまだ雪に埋まつてゐる小屋の中でいただきました。貴下の小説をよむのははじめてなのでひどくたのしみに思ひます。感謝。
昭和23年(1948)2月23日 福永武彦宛書簡より 光太郎66歳

福永は光太郎を尊敬していたようで、こまめに著書を贈っていました。前年にはボードレールに関する評論を贈っています。また、個人的な悩みの相談もしていたようです。

ネット上で情報を見つけました。三重県から朗読の公演情報です。

第3回文色草子朗読ライブ 詩人、四人。 高村光太郎×柴田トヨ 茨木のり子×東君平

期 日 : 2024年6月30日(日)
会 場 : 四日市市立図書館 2階視聴覚ホール 三重県四日市市久保田一丁目2-42
時 間 : 午前10時30分から
料 金 : 無料

文色草子朗読組(あいろぞうしろうどくぐみ)による、大人のための朗読会です。
高村光太郎×柴田トヨ 茨木のり子×東君平 この4人の作品の中から21作品を9人で朗読します。
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フライヤーによれば、光太郎詩は「当然事」(昭和3年=1928)、「象」(昭和12年=937)、「牛」(大正3年=1914)、「人類の泉」(大正2年=1913)、「道程」(大正3年=1914)。まだあるかも知れません。

「詩人、四人。」だそうで、光太郎以外には、満101歳まで現役であらせられた故・柴田トヨ氏、女流詩人の草分けの一人・茨木のり子、絵本作家の故・東君平氏。光太郎とこの3人の作品で、どのような化学反応が起こるかな、という感じですね。

お近くの方(遠くの方も(笑))、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ただの来訪なら構はないのですが、こちらに住み込まうといふ意図のあるのがイヤです。他の人の来訪とは性質が違ふので困ります。こんな人に来られてはやりきれず、北海道の奥へでもゆきたくなります。場合によつてはアメリカへ移住するのもいいなどと空想してゐます。

昭和23年(1948)2月16日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

光太郎、ストーカー被害に遭っていました。相手は戦前から知っていた老女。趣味で短歌などを詠んでいたようです。光太郎のアトリエがあった駒込林町に近い根津に住んでいて、そのころはどうということもなかったのですが、戦後、光太郎が花巻郊外旧太田村に隠棲をはじめると、「身の回りの世話をしたい」などと手紙を寄越し、実際に太田村まで押しかけてきたことも。

その被害は昭和27年(1952)、「乙女の像」制作のため太田村を後にして再上京したあとも続いたようです。

愛知県から演奏会情報です。

藤木大地(カウンターテナー)&佐藤卓史(ピアノ)リサイタル 白鳥の歌/智恵子抄

期 日 : 2024年7月6日(土)
会 場 : 宗次ホール 愛知県名古屋市中区栄4丁目5番14号
時 間 : 14:00~ 
料 金 : 指定席:4,500円(税込)
      ※学生、ハーフ60(後半のみ鑑賞の当日券):2,700円

愛する人の不在をテーマにした『白鳥の歌』と、愛する妻との出会いと別れを綴った『智恵子抄』。「あどけない話」は今回が世界初演です。藤木大地さんの唯一無二の歌声と、美しいディクションをご堪能ください!

出 演 : 藤木大地(カウンターテナー) 佐藤卓史(ピアノ)
曲 目 :
 シューベルト:最晩年の歌曲集「白鳥の歌」とピアノ・ソナタから
 『愛の使い』 Liebesbotschaft D957-1(詩:レルシュタープ)
 『兵士の予感』 Kriegers Ahnung D957-2(詩:レルシュタープ)
 『セレナーデ』 Ständchen D957-4(詩:レルシュタープ)
 ピアノ・ソナタ 第19番 ハ短調 D958~第3楽章 [ピアノソロ]
 『漁師の娘』 Das Fischermädchen D957-10(詩:ハイネ)
 『海辺にて』 Am Meer D957-12(詩:ハイネ)
 『ドッペルゲンガー』 Der Doppelgänger D957-13(詩:ハイネ)
 ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D960~第2楽章 [ピアノソロ]
 『鳩の便り』 Die Taubenpost D965A(詩:ザイドル)
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 中田喜直:鳩笛の唄(詩:清水みのる)
 石渡日出夫:汚れっちまった悲しみに(詩:中原中也)
 橋本國彦:お六娘(詩:林柳波)
 橋本國彦:三枚繪 [ピアノソロ]
  1.雨の道
  2.踊子の稽古帰り
  3.夜曲
 佐藤卓史:あどけない話(詩:高村光太郎『智恵子抄』より)[世界初演]
 加藤昌則:レモン哀歌(詩:高村光太郎『智恵子抄』より)
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カウンターテナーの藤木大地氏。昨年あたりから加藤昌則氏作曲の「レモン哀歌」をレパートリーの一つになさっていて、今回を含めあちこちの演奏会で披露なさっています。

こちらで確認できてご紹介したのは以下の通り。
藤木大地&みなとみらいクインテット マチネ(昼公演)/藤木大地&みなとみらいクインテット 「藤木大地&みなとみらいクインテット」ネットワーク・プロジェクト
合唱コンクール課題曲コンサート2023~藤木大地を迎えて~
Hakuju Hall 20周年記念 カウンターテナーの饗宴/藤木大地カウンターテナー・リサイタル
りゅーとぴあ室内楽シリーズNo.49 藤木大地&みなとみらいクインテット/ムジークフェストなら 藤木大地&みなとみらいクインテット

実は今年5月にも「ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2024 藤木大地(カウンターテナー)+みなとみらいクインテットによる歌の豊穣〈ORIGINES(オリジン)―すべてはここからはじまった〉」というコンサートがあり、そちらでも加藤氏の「レモン哀歌」が入っていたのですが、こちらは当方が見落としていました。すみません。他にも見落としがあったかも知れません。

そして今回はピアノ演奏を担当される佐藤卓史氏の作曲になる「あどけない話」もプログラムに入っています。初演だそうで。また一つ新たな光太郎がらみの作品が誕生したかと喜ばしく存じます。

いずれ加藤氏の「レモン哀歌」ともども、藤木氏がCDをリリースされて収録され、さらに新曲も……などと勝手な希望を述べておきます(笑)。

さて、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

分教場にラジオが備へられる事になりました。


昭和23年(1948)1月25日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村、光太郎の山小屋にはまだ電線気が通じて居らず、当然、ラジオも聴けませんでしたし、灯りはランプでした。見かねた村人達が翌年、電線の延引工事をしてやりました。山小屋から1㌔㍍ほどの分教場にはさすがに電線が来ていたようですが、ラジオが入ったのがようやくこの頃。隔世の感がありますね。

ちなみに山小屋周辺、携帯の電波は未だに圏外だったりします(笑)。

公益社団法人日本写真家協会さん主催のイベントです。

第4回知っておきたい写真著作権&肖像権セミナー・名古屋

期 日 : 2024年7月6日(土)
会 場 : 電気文化会館 愛知県名古屋市中区栄二丁目2番5号
時 間 : 14:00~16:00 
料 金 : 無料(事前申込制)
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第1部 「写真家が守る著作権とフィルムデジタイズ」
講師:髙村達(写真家/日本写真家協会副会長/日本写真著作権協会理事)
髙村達は髙村光雲の曾孫にあたり髙村家の作品と共に著作権の継承者だが、自身の作品制作と並行しつつ作品鑑定やデジタル化によるアーカイブを進めている。本セミナーでは、高村智恵子の紙絵(オリジナル作品)と、フィルムのデジタルアーカイブの現状、そして経年における作品の退色に対して智恵子がさした色をどう再現するのか、写真原板のデジタル化の重要性をお伝えします。
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第2部「写真著作権とアーカイブ」-日本人写真家が捉えた1960年代のアメリカの日常
講師:棚井文雄(写真家/日本写真著作権協会常務理事/文化庁文化審議会著作権分科会委員)
「写真著作権」を保持すること、作品の利活用のための「アーカイブ」、その重要性を、1960年代アメリカを捉えた渡邊澄晴の作品の発掘から保存までのドキュメントとともに伝える。これらの作品は、1965年に三木淳によって写真集にまとめられ、半世紀を経てデジタルア ーカイブ化された。そのことは、著作権の重要性とともに、2018年に『アサヒカメラ』が見開きで紹介。写真家にとっての 「写真著作権」「アーカイブ」に必要なこととは?具体例とともに紹介します。

というわけで、光太郎実弟にして鋳金分野で人間国宝だった豊周の令孫・髙村達氏が講師としてご登壇。智恵子の紙絵を例にフィルムからのデジタルデータ化などについてお話しされるとのこと。

実は今月、都内で開催された「アート・ドキュメンテーション学会 第35回(2024)年次大会」でも達氏による同様のお話があったようなのですが、そちらは当日になって知った次第で、このブログではご紹介できませんでした。

智恵子の紙絵はその大半が髙村家に保管されており、達氏の父君で、やはり写真家であらせられた故規氏が撮影されたデータも残っています。ただ、そのデータがおそらくフィルムによるアナログデータなのでしょう。それをデジタル化することに関し、その意義、課題といったお話だと思われます。

規氏、智恵子の紙絵以外にも、伯父・光太郎や祖父にあたる光雲の彫刻作品、父・豊周の鋳金作品も撮影、各種展覧会の図録に使われ続けている他、写真集としても刊行されました。
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上画像は規氏ご葬儀の際に祭壇に飾られた三冊。左から『髙村豊周作品集 鋳』(昭和56年=1981 髙村豊周作品集刊行会)、『高村光太郎彫刻全作品』(昭和54年=1979 六耀社)、そして『髙村規全撮影 木彫 髙村光雲』(平成11年=1999 中教出版)。これらに収められた写真のデータ化も、子息の達氏によって進められているのでしょう。

ゆくゆくは彫刻作品等は3Dデータとの作成、しかるべき機関等での保存、そういった方向に進むことを望みます。竹橋の東京国立近代美術館さん等では、そういった取り組みも為されつつあるやに聞きます。下画像は同館インスタグラム、光太郎の親友・荻原守衛の「坑夫」に対しての作業の様子。
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そして今回のお話は、智恵子の紙絵に焦点を絞って。彫刻や鋳金とは違い、劣化の激しい素材を使っての作品でして、実際、二本松市の智恵子記念館さんで所蔵している紙絵はかなり褪色が進んでしまっています。元々が光太郎が智恵子の元に届けた千代紙や包装紙などが原材料ですから、いたしかたありません。

デジタルデータとて万全ではないのでしょうが、補完、保存、といった部分では大きく効力を発揮するでしょう。広く美術関係の皆さんに聴いていただきたい内容です。ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今年は日本の経済界が吉凶いづれかに決定しさうに思はれます。破滅も亦よささうです。一切が淘汰されてしまふのも。


昭和23年(1948) 鎌田敬止宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村での山小屋暮らしも2年余りが過ぎ、ある種の「無常観」に包まれつつあるようです。

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は、中野駅近くのテアトルBONBONさんにて上演中の「夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】」拝見。

そちらが午後2時開演でしたので、午前中に国会図書館さんに立ち寄りました。このサイトで何度か触れているデジタルコレクションリニューアルに伴う調査が未了でして、同館まで出向かないと引っぱり出せないデータがかなり多く、それらの閲覧です。『高村光太郎全集』等に漏れている光太郎の文章(日夏耿之介著書の書評)、生前の光太郎を知る人々の回想文、弘田龍太郎が戦時中に作曲した「ぼろぼろな駝鳥」の楽譜(レコードは持っていましたが、楽譜は未見でした)などを見つけることが出来ました。

その調査は予想外に時間が掛かり、気がつくと正午を廻っていて、慌てて6階に駆け上がって(実際にはエレベータですが(笑))食堂で「国会図書館カレー」を掻き込み、中野へ。

テアトルBONBONさん、光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中西利雄アトリエと指呼の距離です。中野駅から、おそらく光太郎が何度も歩いたであろう道を通って行きました。
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帰ってから気づいたのですが、中西利雄子息の故・利一郎氏からお借りしてコピーを取らせていただいた、かつて光太郎が氏のお母さま(利雄夫人・富江さん)に託した買い物を頼む膨大なメモの中に、この辺りの地図もあったはず。探してみたところ、ビンゴでした。
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この地図で左上の二股に分かれた道沿い、「時計屋」とある右上辺りが現在のテアトルBONBONさんでしょう。次に中野に行く時は、この地図など(駅北口の地図もありました)を片手に周辺を歩いてみたいと思いました。地図にある店舗、もしくはその名残くらいは現存しているかもしれません。

さて、ちょうど開場時間。
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PXL_20240621_044008043受付後、「夢のれん」さんを主宰なさり、今回の公演の演出も手がけられた大谷恭代氏とお話しさせていただきました。受付の脇にはアトリエ保存のための署名コーナーを設けて下さり、その御礼など。

アトリエ保存会のメンバーに、「夢のれん」さんのご所属ではないのですが、遠藤哲司氏という役者さんがいらっしゃり、「夢のれん」さんの方々とも親しくされているということで、同氏のお骨折りもあってこのような形でご協力を賜りました。まことに感謝に堪えません。5日間、全8回の公演で、多くのご署名が集まることを願って已みません。

客席へ。キャパ120だそうで、平日の昼間でしたがほぼ満席。「夢のれん」さんの固定ファンのような方々が多いのかな、という印象でした。あとはやはり清水邦夫という巨匠の作品である点も大きいのでしょう。


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物語の舞台は昭和11年(1936)の「ゼームス坂教会」。史実でその前年から智恵子が入院していたゼームス坂病院の隣、という設定です。教会の存在はおそらく清水氏の創作でしょう。登場人物は教会の牧師と4人の娘、それから境の塀を乗り越えてやってくる智恵子ら入院患者、そして光太郎や軍人たちなどの外部の人物。ちなみに2.26事件の約2ヶ月後というわけで、憲兵が当たり前に登場します。

智恵子は心を病んで入院しているのですが、これも清水氏の創作で、光太郎は既に死んでいると思い込んでいます。そこで見舞いに来る光太郎をニセモノだと認識。光太郎はそれに戸惑いつつも、話を合わせるという設定。しかし、観ているうちに、智恵子の方が正しいんじゃないか? と思えても来ました。史実では光太郎は存命だったわけですが、智恵子の中の「かつての光太郎」、光太郎自身の思う「あるべき自分」はもはやここには居ない、みたいな。

実際、この時期くらいから光太郎はどんどん変貌していきました。大正末から昭和初期には当会の祖・草野心平らの影響もあってアナキスト系に近い立ち位置だったのが、満州事変、そして今回の物語の舞台の翌年、日中戦争開戦ともなると、どんどん右傾化していきます。「芸術家あるある」の、俗世間とは極力交渉を絶ち、孤高の姿勢を貫くというライフスタイルが智恵子を追い詰め、心の病に至らしめたという反省、そしてそんな生活を続けていては自分もおかしくなるという危惧があったように感じます。そこで自ら積極的に俗世間と交わる方向に梶を切ったところ、世の中の方がおかしな方向に進んでいた、というわけで。

やがて智恵子が亡くなり、手向けの詩集『智恵子抄』刊行後は、光太郎は詩の中で智恵子を謳うことを止めてしまいます。それが復活するのは戦後。その間、詩と言えばほとんど愚にもつかない翼賛詩一辺倒、戦争とは直接関わらない身辺雑記的な詩もわずかに書かれましたが、そこに智恵子が謳われることはありませんでした。

「哄笑」、昭和11年(936)が舞台ですので、そこまで描かれることはありませんでしたが、そういう部分が暗示されているんじゃないかなと思って観ていました。

それから教会の一家、憲兵以外の軍人、入院患者たち、それぞれに苦悩や悔恨などを抱えています。複雑な人間ドラマです。それぞれの役者さんの熱量で、不思議な世界観が存分に表現されていました。特に智恵子役の槇由紀子さんという方、故・松本典子さんが乗り移ったかのような……。といっても当方、松本さんの智恵子を観たわけではないのですが……。
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ちなみに会場では脚本の冊子も販売されています。一部1,500円。河出書房新社さんから刊行された『清水邦夫全仕事 1981~1991』に載っているのですが、絶版となっており入手困難なので貴重です。

公演は明日まで。昨日の段階では残席状況、以下の通り。

 6/22(土)  ◆13:00🔺←あと数席💦
                 ◇18:00⭕️←オススメ🌸
           当日券あり☘️
 6/23(日)  ◇12:00🔺←残少々
                 ◆16:00⭕️←オススメ🌸

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

御書面中小生の現状を羨望し居らるる方々も有之由拝承候処、これは聊か他家の花紅しの類にて、その方々に小生と同じ生活が一ヶ月もつづけられ候や否やは疑問のやうに存ぜられ候へ共果して如何。


昭和23年(1948)1月13日 宮沢政次郎宛書簡より 光太郎66歳

賢治の父・政次郎宛の書簡から。候文を意訳すれば、「御手紙の中に、光太郎の生活っていいなぁ、憧れるよ、などという方々がいるというお話でしたが、「隣の芝生は青い」の例えの通りで、山の暮らしを甘く見ているのでしょう。この暮らしを1ヶ月も続けられるとは到底思えませんが、いかがお考えですか?」といった感じですね。

厳冬期はマイナス20℃、醤油や万年筆のインクが室内で凍り、寝ている頭に隙間から吹き込んだ雪が積もり、メートル単位で雪が積もる、そんな暮らしですから。下の画像はまだ初冬の雪が少ない時期のものです。
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004東日本大震災後、光太郎ゆかりの地、宮城県女川町で建てられた全21基の「いのちの石碑」。津波対策として避難の目印となるランドマークです。同町に平成3年(1991)に立てられた光太郎文学碑に倣い、建設費用は当時の中学生たちが募金で集めたもので、いわば光太郎文学碑の精神を受け継ぐ活動です。

この活動、令和3年(2021)にオンラインで開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」の中で、天皇陛下がご紹介。また、令和元年(2019)にはNHKさん制作のドラマ「女川 いのちの坂道」でモチーフとなるなどもしています。その他、防災の観点から、あちこちで紹介されています。

建設の中心メンバーの中には、女川町で毎年8月に開催されている「女川光太郎祭」に複数年参加され、光太郎詩文を朗読して下さった方もいらっしゃいます。

先週の『高知新聞』さん。

自分も、周囲の命も守ろう 「いのちの石碑」建立進める宮城・女川の被災体験者、いの町伊野中で授業

 宮城県女川町で東日本大震災の津波被害の教訓を伝える「いのちの石碑」を建立した元中学生と恩師が14日、いの町の伊野中学校で防災授業を行い、自身や周囲の命を守る大切さを生徒に訴えた。
 女川町は2011年3月に14・8メートルの津波に襲われ人口の約1割の827人が犠牲になった。発生直後に地元中学に入学した生徒らが、後世の人の命を守ろうと石碑建立を発案。募金活動を行い、13年から町内の高台21地点に建てた。
 今回は発案者の一人、伊藤唯さん(26)=横浜市=と共に取り組んだ教諭の阿部一彦さん(58)=現・石巻市立北上中校長=が来高。約220人を前に伊藤さんは「机の脚を持っていないと耐えられない揺れで、訳が分からなかった」「朝起きて『夢ではなかった』と気付く生活だった」と当時の体験を紹介。生徒から「生きているうちにやりたいことは?」と質問されると「震災後、小さな後悔が積み重なった。だからやりたいことは全部やります」と宣言した。
 阿部さんは「目的は石碑を建てるのではなく、絆をつくることだ」と説明。「隣の人にできることを何かやってと種をまきに来た。行動を起こすには勇気が必要だが、ぜひ一歩踏み出して」と呼びかけた。
 伊野中3年の岡田あんじさん(14)は「生きていることの大切さを実感した。絆を深められるよう、地域で交流できる場をつくりたい」と話していた。
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中心メンバーの皆さん、石碑を建てて終わりではなく、このように活動を紹介したり、防災への呼びかけを行ったりなさっています。今年3月には地元の母校での特別授業の様子が大きく報じられました。今回は遠く高知まで出向かれてのご活動。頭が下がります。

逆に各地の学校さんが校外学習修学旅行等で女川町を訪れて中心メンバーのお話を聞く、ということもありました。ただ、ごく最近、そうした報道を目にしなくなりまして、そうした機会が減ったからなのか、それとも当たり前に行われるようになって報道しきれていないのか、後者であればいいと思うのですが……。

いずれにしても、関係者の皆さん、今後ともこうした活動を続けられることを希望いたします。また、全国の学校関係者さんその他、ご参考にしていただきたく存じます。

【折々のことば・光太郎】

いただいたあの素晴らしい鮎はあれから二日間に亘つて見事な御馳走になりました。骨は夜間たづねて来る狐にやりました。


昭和23年(1948)1月13日 照井登久子宛書簡より 光太郎66歳

同じ書簡の終末部分には「兎と狐とキツツキとを友達にして雪の山もたのしい日がつづきます」としたためてあります。

画像は昨年、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)附近で撮影したキツネの足跡です。
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6月15日(土)のことですが、千葉県匝瑳(そうさ)市にある松山庭園美術館さんに行って参りました。

そもそもは先月末の地元のタウン紙に載った紹介記事。
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「第21回猫ねこ展」だそうで、こちらを拝読し、猫好きの妻を連れて行こうと考えました。

ちなみに妻に溺愛されているのはこいつです。子猫の時に娘が拾ってきて、今月で8歳になりました。
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あくまで溺愛しているのは妻であって、当方ではありません(笑)。

閑話休題。同館について調べてみると、光太郎とゆかりの作家達の作品も複数点が収蔵展示されていることが分かり、これは行かねば、と思った次第です。

自宅兼事務所から1時間弱。
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「庭園美術館」と謳うだけあって、なるほど、里山的な環境を取り入れた庭園。新緑がいい感じでした。
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楓の木が多いので、紅葉シーズンは見事でしょう。館のパンフレットも紅葉をあしらっていました。
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元々はアート作家・此木三紅大(このきみくお)氏がご自身のアトリエを美術館に改修されたそうで、開館25周年だそうです。

此木氏、猫好きなのでしょう。猫をモチーフとした氏の作品がお出迎え。
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氏の作品に混じって、氏が集められたと思われる年代物の猫アート、猫オブジェもあちこちに。
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既に「猫だらけ」(笑)。

さて、第一目的の常設展示室へ。
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まずは、何はなくともこれが観たかった、光太郎曰く「火だるま槐多」こと村山槐多のデッサン。4月に信州で見逃しましたので。
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右側に槐多自身の詩が書き込まれています。

われもし盲せば/この語程かなしく辛きはあらず、/われには更に二十年の艶麗なる視覚世界のまてるに、/大丈夫 天は俺を愛して居るぞ

いいですね。

他にも光太郎人脈。

光太郎が東京美術学校彫刻科を卒業してから入学し直した西洋画科で教鞭を執っていた藤島武二。ちなみにその際の同級生には藤田嗣治、岡本一平などがいました。ただし光太郎、そちらは卒業せず、中退の形で欧米留学に出ました。そこで卒業生名簿の西洋画科の項には名が無く、藤田や岡本と同級生だったことは意外と知られていないようです。
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大正初め、ヒユウザン会(のち、フユウザン会)で光太郎と一緒だった萬鉄五郎。
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主宰する雑誌『雑記帳』に光太郎の寄稿を仰いだ松本竣介。
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他に三岸好太郎、長谷川利行などのビッグネームも。
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これらを堪能したところで、第二目的の「猫ねこ展」。猫好きの妻は既にそちらに(笑)。
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プロアマ問わずの公募展で、何と350名、500点ほどの「猫」。絵画あり、彫刻あり、写真あり、クラフト系あり、モチーフ的にも写実にとどまらず、パロディあり、オマージュあり……。とにかく「猫づくし」です(笑)。
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右上の縦に2枚並んでいる絵は、お笑い芸人コンビ・U字工事さんのお二人の作。6月5日(水)にオンエアのあったBS-TBSさんの番組「ねこ自慢」で、お二人が同館をご訪問、「猫ねこ展」紹介の後、お二人も猫絵に挑戦、というコンセプトで描かれたものでした。
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ちなみに、観覧者を対象に展示作品の人気投票があり、当方が選んだのはこちら。
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こうしたメッセージ性もアートの重要な要素ですから。

展示室にはリアル猫も(笑)。
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同館、10匹の猫がいて、気ままに過ごしています。

「ねこ自慢」から。
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この日はこのうち7~8匹程と遭遇できました。

まず既に入場する前から。
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同一の個体かどうか、のちほどバックヤードでご飯中の黒猫も(笑)。
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下の画像の子は我々が到着してから帰るまで、ずっとこうでした(笑)。
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オッドアイの子も。
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まだまだ居ます(笑)。
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まさに「猫まみれ」(笑)。

「第21回猫ねこ展」、7月28日(日)までの開催です。ただし、金土日および祝日のみの開館ですのでご注意下さい。

帰途、回り道をして、隣接する旭市の「道の駅 季楽里(きらり)あさひ」さんに立ち寄りました。
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花卉の販売コーナーが充実しており、「あるかな?」と思って入ったところ、ありました。
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グロキシニアです。通常の花屋さんなどだとほとんど見かけません。明治45年(1912)5月末か6月初頭、竣工成った駒込林町の光太郎アトリエ兼住居の新築祝いとして、前年に知り合った智恵子が持参した花です。その後光太郎は、くりかえしこの花を詩文に謳い込みました。

かつて二本松でいただいたもの一昨年購入したものは枯れてしまい、またぜひ入手したいと思っていましたので、タイムリーでした。

というわけで、松山庭園美術館さん、道の駅 季楽里(きらり)あさひさん、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

鎌田さんから数日前に「智恵子抄」の再出版の見本を送つて来ましたが、貴下のおてがみによると、澤田さんと十分の諒解が無かつたことが分り、その当時澤田さんの許諾をうけたやうに申された鎌田さんの言を信じてゐた小生としては、何だかみんなイヤになりました。又当分出版に関係するのは止めようかと考へてゐます。


昭和23年(1948)1月11日 森谷均宛書簡より 光太郎66歳

オリジナル『智恵子抄』は太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に澤田伊四郎の龍星閣から刊行され、戦時にもかかわらず昭和19年(1944)の13刷まで増刷されました。その後、戦争の影響で龍星閣は休業。戦後になると店頭からは『智恵子抄』が消えてしまっていました。

そこで休業中の龍星閣に代わって、白玉書房の鎌田敬止が『智恵子抄』復刊を企図し、澤田から許諾を得たので、と光太郎に打診。光太郎もGOサインを出し、さらに戦後の詩「松庵寺」「報告」を追加して前年に刊行されました。

しかし、澤田が「鎌田に許諾した覚えはない」と言いだし(このあたり、真相は闇の中です)、昭和25年(1950)に龍星閣が復興すると、翌年から『智恵子抄』の再刊を始めます。

ここまでいかずとも似たようなトラブルが他にもあり、光太郎にとって受難の時期でした。

光太郎とも交流のあった詩人、永瀬清子。出身地の岡山県赤磐市では地道にさまざまな顕彰活動が続けられています。命日の2月17日には朗読会などを兼ねた「紅梅忌」の集いが開催される他、「永瀬清子展示室」が設けられ、さまざまな企画展示が為されていますし、研究紀要というか顕彰活動の記録というか、年刊で『永瀬清子の詩の世界』という冊子も発行されています。また、最近ではすごろく伝記マンガなども発行されました。

先週また、赤磐市教育委員会さんから冊子が届きました。題して『永瀬清子の光を受けて』。A4判50ページ程、3月31日(日)発行と奥付にありました。
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RSK山陽放送さん制作のラジオ番組「朝耳らじお5・5」「朝耳らじおGoGo」内のコーナー「永瀬清子の光を受けて」でオンエアされた内容を文字起こししたものを根幹に、永瀬の遺文なども収められています。

前者では、当会の祖・草野心平や宮沢賢治に触れられています。

後者のうち、昭和64年(1989)1月に雑誌『黄薔薇』に載った永瀬のエッセイ「(心辺と身辺)'88の秋」で、光太郎にも触れられていました。前年に亡くなった当会の祖・草野心平がらみの項の中でです。その年、福島県でのイベントに出席した永瀬が、そのついでに智恵子の故郷・二本松霞ヶ城の智恵子抄詩碑に詣でた話。同碑は昭和35年(1960)、正式な光太郎詩碑としては2番目に建立されたもので、設計や詩の選定など、心平が骨を折りました。
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画像は先月、「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の際に撮影したもの。

ここで永瀬は光太郎や、生前に会うことの叶わなかった智恵子、そして病床に臥せっていた心平に思いを馳せました。当方もまた行く機会があれば、永瀬もここに来たんだなぁと思い巡らせることに致します(笑)。

永瀬と言えば、やはり先週、『朝日新聞』さんの一面コラム「天声人語」で取り上げられました。

 天声人語

私が生まれ育った家には、風呂がなかった。だから隣家で、もらい湯をした。前掛けをしたおばあさんが薪(まき)をくべ、パチパチと焚(た)きあげる湯だった。かまどの前にすわる彼女の姿と、しわだらけの小さな手を今でも覚えている▼遠い記憶が蘇(よみがえ)ったのは、岡山県赤磐市にある永瀬清子の生家を訪ねたからだ。詩人が暮らした農家は、田畑のなかで朽ちかけていたのを支援者等が改修し、一般公開されている。五右衛門風呂も再生され、体験入浴できる▼明治に生まれた永瀬は大阪や東京での生活を経て、終戦の直後、39歳で古里に戻った。〈二反の田と五寸のペンが私に残った〉と始まる詩はこう続く。〈詩を書いて得たお金で私は脱穀機や荷車を買った。/もうどちらがなくても成り立たないのだ〉▼農婦であり、母として田園に生きた詩人である。苗を植え、風呂を焚き、家事をこなしてから、深夜にちゃぶ台の茶碗(ちゃわん)をのけて、むさぼるように詩作に励んだそうだ▼「この家は風が気持ちいいんです」。生家保存会の横田都志子さん(58)は話した。詩人が感じた夜明け前の山の色、風の香り、揺れる葉の音。そんな自然に触れ、「彼女の詩がより分かった気がします」▼私も五右衛門風呂に入らせてもらった。熾火(おきび)がじわじわと湯を温め、心地よい。ふわり白煙が青い空に泳ぐ。〈一日、昔の風が吹いて来て私を騒がせた。/どこに今までさまよっていたのか/おそらく世界の涯までも流れていたのか〉。無性に故郷が懐かしくなった。

永瀬の生家は令和3年(2021)に改修を終え、一般公開が為されています。当方、平成25年(2013)に足を運びましたが、その頃は「天声人語」にあるように「田畑のなかで朽ちかけていた」状態でした。それが建物内にギャラリーとカフェを作るなどし、活用されています。建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動の参考にもなるかも知れませんので、折を見てまた行ってみたいと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おたよりで松木といふところをも想像してゐます。小倉豊文さんにもお会ひの由、よろしくお伝へ下さい。あなたの詩は雑誌でいつも気をつけて読んで居ります。去年竹内てるよさんがこの山の中へ来たのには驚きました。今此辺はかなり雪ふかくなつてゐます。

昭和23年(1948)1月14日 永瀬清子宛書簡より 光太郎66歳

その永瀬宛の書簡の一節です。永瀬宛の書簡は『高村光太郎全集』では昭和27年(1952)にしたためられた1通のみの収録でしたが、その後、ご遺族から情報提供があり、新たに4通が確認できています。

「松木」は永瀬が暮らしていた豊田村松木(現・赤磐市)。「小倉豊文さん」は『宮沢賢治の手帳研究』(昭和27年=1952)を著すなど賢治研究でも知られ、広島での被爆体験を綴った『絶後の記録』(昭和24年=1949)には光太郎が序文を寄せました。「竹内てるよさん」は詩人。確認できている限り、てるよの著書5冊の題字を光太郎が揮毫しています。ともに永瀬・光太郎共通の知り合いでした。

昨日、年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』最新号中の当方の連載についてご紹介しました。今号では、建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関しても複数箇所で触れられています。

まず、会の代表、渡辺えりさんの名で、大きく広告的な内容で1ページまるまる。題して「高村光太郎終焉の地、「中西アトリエ」保存活動にご協力を」。
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それ以外にも、会の中心人物にして日本詩人クラブ理事・曽我貢誠氏の4ページに亘る長詩「光太郎爺さんと連翹と――中西利一郎氏の話から――」。さらに曽我氏、エッセイ的な「最も大切な物は朽ちやすい」(1ページ)でも。ともにアトリエの所有者であらせられた故・中西利一郎氏との思い出が根幹です。

奥付画像を載せておきます。ご入用の方、1部600円だそうですが、お申し込み下さい。また、文治堂さんのサイトからも注文可です。
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さて、アトリエ保存に関してですが、6月1日(土)、NHKさんの東北6県向けの情報番組「ウイークエンド東北」でも取り上げて下さいました。
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まずは4月2日(火)、日比谷松本楼さんで開催した当会主催の連翹忌でのロケ。
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息巻く渡辺えりさん(笑)。

「あそこのアトリエ」とは何ぞや? ということで、現地取材。
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ここに最晩年の光太郎がいたんだよ、ということで。
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下の画像は、アトリエで中西氏が保管されていた写真です。背景はアトリエの外壁。この写真、当方も初めて見ました。
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しかしこのアトリエ、老朽化が目立ち……という紹介。
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多少順番が前後していますが、アトリエロケの後は、東北各地で光太郎や智恵子の顕彰に当たられている人々のご紹介。

まずは智恵子の故郷・福島二本松。
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こちらで智恵子顕彰にあたられている「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さん熊谷代表。
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同会主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の際、智恵子生家での撮影でした。

続いて、花巻でのロケが入りますが、諸事情により、明日に回します。

最後に光太郎最後の大作「乙女の像」が据えられた十和田湖。この像の塑像原型が中野のアトリエで制作されました。
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こちらでボランティアガイドを務められている吉崎明子さん。当方、さんざんお世話になった方です。お元気そうで何よりでした。
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光太郎が像に込めた思いの中には、15年戦争と、さらに戦後の混乱期を生きた光太郎の平和に対する希求も含まれているということで、吉崎さん、自らの戦争体験と重ね合わせ……。
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そして、アトリエ。
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ちなみに十和田湖畔の観光交流センター「ぷらっと」には、光太郎コーナーもあり、平成30年(2018)には、中野のアトリエで像の制作の際に実際に使われた大きな彫刻用の回転台が寄贈され、展示中です。

割愛した花巻編では、主に「食」を通じて光太郎顕彰に取り組まれているやつかの森LLCさんの井形幸江さんがご出演。そちらは実際のやつかの森さんの最新の活動と合わせ、明日、ご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

日報社からもらつた一級酒一升は元日に皆のんでしまひました。一級酒といつてもまるでたわいの無い酒で一升のんでもさつぱり陶然としませんでしたが、それでも何となくめでたい気がしました。


昭和23年(1948)1月6日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

戦後間もない時期で、酒の品質などもまだあまりよくなかったのかも知れませんが、それにしても一升とは……(笑)。

たまたまですが、演劇の公演情報、3連発となりました。

夢のれんプロデュースvol.7 【哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー】

期 日 : 2024年6月19日(水)~6月23日(日)
会 場 : テアトルBONBON 東京都中野区中野3丁目22-8
時 間 : 6月19日(水) 19:00~      6月20日(木) 19:00~
      6月21日(金) 14:00~/19:00~   6月22日(土) 13:00~/18:00~
      6月23日(日) 12:00~/16:00~
料 金 : 4,500円 学割・リピーター割 3,500円

脚 本 : 清水邦夫
演 出 : 大谷恭代

昭和11年5月上旬。南品川ゼームス坂教会、集会室。この約二ヶ月前に二・二六事件が起こった…
教会の隣にはゼームス坂病院があり、詩人で彫刻家の高村光太郎の妻、智恵子をはじめ、多くの精神病患者が入院している。智恵子は夫の光太郎がすでに死んでいると思い込み、目の前に現れる光太郎を受け入れない。智恵子は自ら狂気の世界へ逃げたのか、光太郎の過剰とも言える愛が彼女を追い詰めたのか…
ドイツからやってきた飛行船ツェッペリンのように、しなやかで、気まぐれで、愛すべきキラキラした不良少年・少女たちが闊歩していた東京の街に、軍靴の音が響き始めてきた…


「智恵子抄」の高村智恵子とその夫 高村光太郎 愛の物語です。かなり昔に打診したのですが生前の作者の希望により、外部上演の許可が下りませんでした。今回、元木冬社の方々や各方面の皆様に確認・協力をいただき上演の運びとなりました🙇‍♀️ まだまだ未熟な主宰・演出ですが清水作品の世界観を舞台上に広げられるよう誠心誠意、丁寧に創り上げます❗️
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オリジナルは故・清水邦夫氏作・演出の、ある意味伝説の舞台です。初演は平成3年(1991)、再演が同5年(1993)。いずれも木冬社さんとしての公演で、光太郎役は小林勝也さん、智恵子役は清水氏の奥様だった故・松本典さんが演じられました。再演の際は地方巡回も行われました。当方、平成29年(2017)にたまたま泊まった十和田市のビジネスホテルで十和田公演の際に書かれた松本さん、小林さんらの色紙が飾られているのを見つけ、驚きました。
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004その後、木冬社さんは平成13年(2001)に解散、清水氏も松本さんも亡くなり、再演されることはないのだろうと半ば諦めていましたが、さにあらずでした。

オリジナルの舞台は拝見出来ず、パンフレットは古書店で入手、脚本は河出書房新社さんから刊行された『清水邦夫全仕事 1981~1991』(絶版)で拝読いたしました。光太郎智恵子以外のキャストはすべて架空の人物と思われ、今回のフライヤーにも使われている昭和4年(1929)に飛来した飛行船・ツェッペリン号が一つのモチーフとなった、不思議な世界観です。

当方、6月21日(金)の回を予約いたしました。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の歌集の広告を見られたさうですが、あれは小生の意に反して十字屋と編者とが強引に出版するもので、書名の「白斧」といふのも誰がつけたか、小生の認知せぬものです。小生は生前歌集は出さぬ主張を持つてゐたのでこの出版には閉口してゐます。内容も小生の校閲を経てゐません。


昭和22年(1947)12月5日 和田豊彦宛書簡より 光太郎65歳

005明治末からの光太郎短歌を集めた歌集『白斧』に関わります。光太郎姻族となった宮崎稔が、光太郎短歌を集めて出版することを提案、光太郎は拒否しましたが、宮崎は上梓を強行しました。そこで光太郎は、あくまで自分とは関わりのないところでの出版である旨を明記せよ、と書き送りました。

タイトルの『白斧』は、明治37年(1904)の第一期『明星』にに載った短歌35首の総題から採られました。総題を付けたのはおそらく鉄幹与謝野寛で、元としたのは「刻むべき利器か死ぬべき凶器(まがもの)か斧の白刃(しらは)に涙ながれぬ」。自分で総題を付けたわけではないので記憶になかったのでしょう。「「白斧」といふのも誰がつけたか」というのはそういうわけです。

ちなみに光太郎、詩とは異なり、短歌は手控えの原稿を残しませんでした。そこで現在でもこれまで知られていなかった短歌の発見が相次いでいます。平成10年(1998)の『高村光太郎全集』完結後に見つかった光太郎短歌は20首ほどにもなります。

都内から演劇公演の情報です。

葵の会第二十三回公演 青鞜の女たち

期 日 : 2024年6月15日(土)
会 場 : 府中市中央文化センター ひばりホール 東京都府中市府中町2丁目25
時 間 : 1回目13時〜  2回目16時半〜
料 金 : 無料

明治末期に雑誌「青鞜」を創刊した平塚雷鳥を中心に集う女性たちの物語

脚 本 : 高垣葵     脚 色 : 瀧田千聰
演 出 : 吉澤佳代子   出 演 : 葵の会

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令和3年(2021)に、同じ脚本で、町田市の市民劇団・ひなた村劇団さんが町田市で上演なさいました。また、同じひなた村劇団さんで「第29回たちかわ真夏の夜の演劇祭」の中でもプログラムに入りました。当方、町田での公演を拝見に伺いました

今回のフライヤー裏面を見るとわかりますが、登場人物がとにかく多く、史実として伝えられる『青鞜』周辺のさまざまなエピソード(それ以外も)がてんこ盛りです。

光太郎智恵子も登場し(フライヤーでは「千恵子」と誤植されていますが)、『青鞜』とは直接関わらない、犬吠埼やずっと後の九十九里での場面なども含まれています。

今回演じられるのは「葵の会」さん。脚本を書かれた故・高垣葵氏と関係があるのでしょうか。ちなみに高垣氏、黒柳徹子さんもご出演なさった伝説的ラジオドラマ「一丁目一番地」(昭和32年=1957)などを手がけられた脚本家で、父君はかの高垣眸です。

というわけで、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ拝見、あなたの精進のありさまをよんで、大変うれしく感じました。宮澤賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでゆくやうに見えます。


昭和22年(1947)11月30日 渡辺正治宛書簡より 光太郎65歳

故・渡辺正治氏は、劇作家・女優の渡辺えりさんのお父さまです。

光太郎との出会いは太平洋戦争末期の昭和20年(1945)4月、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居が空襲により全焼する3日前でした。当時、中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場で働いていた渡辺氏、戦後は郷里・山形に帰られ山形大学に入学、教職の道に進まれます。

おそらく大学在学中、「昭和20年4月に東京でお会いした者ですが、大学に入り直して……」的な書簡を光太郎に送ったのでしょう。それに対する返答の一節です。

このハガキと、最初の出会いの時に光太郎に贈られた『道程 再訂版』は、えりさんを通じて花巻高村記念館さんに寄贈されました。

講座的なイベントを2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻から。

移住者交流会・花巻めぐりバスツアー 花巻エリア編

期  日 : 2024年6月8日(土)
集合場所 : 花巻市生涯学園都市会館(まなび学園) 岩手県花巻市花城町1-47
時  間 : 9時45分   受付開始 
       10時00分 まなび学園出発
       15時00分 アンケート記入・解散
料  金 : 昼食代:1,000円程度
対  象 : 花巻市へ移住希望の方 花巻市外からの移住者(時期は問いません)
       移住者と交流したい市民
見学場所 : まなび学園、こどもセンター、母ちゃんハウスだぁすこ
       高村光太郎記念館、花巻図書館、花巻市文化会館
       また、バス車内から花巻エリアのマストスポットを眺めます。
昼  食 : マルカンビル大食堂(各自注文・支払いをお願いします。)
       移住の先輩トーク&交流タイム
〆  切 : 6月5日(水)

 花巻市外から移住した方、移住者と交流したい市民、市へ移住希望の方向けに交流会・バスツアーを開催します。「ここはおさえておきたい!花巻マストスポット」を中型バス・フラワーロール号で巡ります。
 6月は花巻エリア編と東和エリア編を実施します。また、年度内に石鳥谷エリア編と大迫エリア編も実施予定です。花巻市の魅力を知り、交流を楽しみましょう。
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なるほどね、という感じですね。高村光太郎記念館さんも廻って下さるということで、ありがたいところです。

他の自治体等のこの手の事業の関係者さん、ご参考までに。

もう1件、福岡から市民講座の情報です。

遊友塾 日本の文学作品を読む 第3回

期 日 : 2024年6月12日(水)
会 場 : ふくふくプラザ6階 601号室 福岡市中央区荒戸3丁目3番39号
時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料

講 師 : 船津正明先生(元九州大学非常勤講師)
内 容 : 『平家物語』~小督~  高村光太郎『道程』
申 込 : 6/5までに当仁公民館まで(電話可)092-751-6824
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講師の船津氏、幅広く日本文学全般に関する講座をなさっているようで、今回は「平家物語」と光太郎「道程」。

「道程」に関しては、令和2年(2020)に開催された同じ遊友塾さんの講座でも扱われていました。

こちらも主体は自治体さんのようです。そうでないとなかなか「無料」というわけにはいかないでしょう。

当方もあちこちで市民講座講師を務めさせて頂いておりますが、やはり自治体さん等が主体で「無料」の際にはそこそこ集まるものの、民間の運営で「有料」となると人集めに苦労する場合があるようです。

過日ご紹介した6月9日(日)にやはり花巻で行われる「五感で楽しむ光太郎ライフ」、「有料」の、しかも1,000円(ほぼ昼食代ですが)ということで、どうなのかなと思っていたのですが、定員を上回る103名もの申込があったと言うことで、胸をなで下ろしております。

閑話休題、上記2件、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】[]

今日は青年達が集つて小屋のまはりにヤトヂを造つてくれました。此の風除けが出来ると城砦のやうになり、まつたく冬らしくなります。其後雨がふつて雪は消えました。

昭和22年(1947)11月14日
宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

「ヤトヂ」は「家閉じ」なのでしょう。茅(かや)の束で家屋の周りを囲み、雪よけとするものです。この年は11月12日に初雪、さっそく3㌢ほど積もったそうです。

本日開幕です。

近代木彫秀作展

期 日 : 2024年5月29日(水)~6月4日(火)
会 場 : 大和百貨店富山店 5階コミュニティギャラリー 富山市総曲輪3丁目8番6号
時 間 : 10:00~19:00
料 金 : 無料

今展は、大仏師松本明慶先生の仏像彫刻作品を中心とした木彫作品約40点の展観です。

《出品予定作家》
 松本明慶 高橋勇二 高村光雲 平櫛田中 他

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フライヤーに光太郎の父・光雲の「太子像」。光雲が得意としたモチーフの一つで、複数の作例が確認できています。ただ、画像だけでは、弟子の手が入った「工房作」なのか、光雲単独の作なのかは判然としません。

おそらく5月8日(水)~18日(土)、そごう大宮店さんで開催された同名の展観の巡回的な、同じ業者さんによるものだと思われます。

光雲の木彫、間近に見られる機会はそう多くありません。

ところで「光雲」「弟子」といえば、昨夜、地上波テレビ東京さん系でオンエアされた「開運!なんでも鑑定団」。番組予告欄に「上野&皇居前のアノ像を作った…<天才彫刻家作>ウマすぎる像」とあったので、てっきり光雲だと思って紹介したのですが、光雲ではなく、上野公園の西郷隆盛像の犬、皇居前広場の楠正成像の馬を手がけ、「馬の後藤」と呼ばれた後藤貞行の作でした。「ウマすぎる像」の「ウマ」は「馬の後藤」に引っかけていたのですね。気づきませんで、「そうだったのか、やられた!」という感じでした。

依頼品はその後藤作という馬の丸彫り。
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以前に同じ番組で、レリーフが出たことがありましたが、丸彫りは初めてではないでしょうか。

作者紹介のVはいつもどおり秀逸な出来でした。光雲にも触れて下さいました。
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この「ツン」の部分は後藤の手になるものだ、と。

西郷像より前に楠公像制作の依頼があった際(いろいろあって除幕は西郷像の方が先でしたが)は、後藤は東京美術学校に勤務しておらず……しかし、馬の部分にはどうしても後藤の手を借りたい光雲は校長・岡倉天心に直談判。このエピソードは『光雲懐古談』に語られています。
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そうして美校に雇ってもらった後藤ですが、だからといって妙な忖度はせず、光雲ともやり合いました。このあたり、気骨を感じますね。
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「なるほど、そういうものか」と、後藤の方が折れましたが。

依頼品は、明治天皇に献上された南部馬「金華山号」に関わるもののようでしたが、そうだと断定できない、また、「おそらく後藤の作」としか言えないという点で金額は差っ引かれました。それでも高額の鑑定がつきました。

後藤貞行、もっともっと注目されていい彫刻家だと思います。

さて、富山大和さんの「近代木彫秀作展」。お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

花巻滞在中にはレコードコンサートであのバツハの「ブランデンブルグ」をきいて感動したり、「モロツコ」の映画再演を見たりしました。十数年前見たデイトリヒを久しぶりで又見て、昔の映画情趣を味ひました。今日のアメリカのスリラアなどに比べると随分テムポののろいものですがやはりいいものがあります。芸術の世界では古いものににも価値が厳存するので面白くおもひます。

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昭和22年(1947)10月24日 椛沢ふみ子宛書簡より
 光太郎65歳

隠棲していた旧太田村から花巻町に出ると、賢治実弟の清六らとともに映画を観ることもしばしばでした。この際は、ゲイリー・クーパー、マレーネ・ディートリヒ主演の「モロッコ」。昭和5年(1930)公開のアメリカ映画でした。

芸術の世界では古いものににも価値が厳存するので面白くおもひます。」そのとおりですね。

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