カテゴリ: 東北以外

テレビ東京系にて昨日オンエアの「開運!なんでも鑑定団」。
 
新聞の番組欄では「高村光雲に意見する天才弟子!入魂の傑作に仰天鑑定!」とのことだったので、観てみました。
 
依頼人は川越市在住のご婦人。亡くなったご主人は島根県安来市のご出身で、近所に光雲の高弟・米原雲海が住んでおり、雲海にもらったと伝えられる木彫の鑑定依頼でした。
 
鑑定に入る前の解説的な映像では、雲海だけでなく光雲についても詳しくふれ、よく作ってあるな、と感心しました。
 
雲海についてはこのブログでも以前に書いたことがあります。
 
ところが鑑定の結果、雲海の作ではなく、雲海の弟子の木山青鳥という彫刻家の作品でした(銘も入っていました)。
  
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若干、拍子ぬけというか、羊頭狗肉の感は否めませんでした。それでも80万円と、そこそこの鑑定金額ではありました。
 
木山青鳥という彫刻家については当方、全く存じませんでしたが、雲海の弟子であれば、光雲の孫弟子ということになるわけですね。ちなみに雲海は養子に入って米原姓になる前は木山姓で、青鳥は甥だそうです。
 
光雲の弟子は、光雲自身の書いたものなどでその系譜は分かっていますが、孫弟子ともなるとなかなかすぐには名前が出てきません。先日のブログでご紹介した宮城石巻の高橋英吉も、光雲の弟子・関野聖雲に師事していますから、孫弟子になります。
 
そのあたりの系譜についても、少し調べてみようかな、と思いました。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月21日

昭和29年(1954)の今日、3ヶ月ぶりに入浴しました。
 
最晩年、中野のアトリエ時代の話ですが、日記に記述があります。
 
光太郎、温泉は大好きでしたが、入浴自体はあまり好まなかったようで、普段は行水程度で済ませていたようです。花巻郊外太田村山口の山小屋時代も、村人が厚意で立派な風呂桶を作ってくれましたが、水を汲んだり沸かしたりが面倒で、また自分一人でもったいない、という感覚もあり、あまり利用しませんでした。

千葉市美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。早いもので、開幕から1ヶ月が過ぎました。
 
いろいろな方のブログ等で、おおむね好意的にご紹介いただいており、ありがたいかぎりです。
 
昨日、『朝日新聞』さんの千葉版に紹介記事が載りました。
 
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それからやはり昨日、記事自体は7/17に載ったようですが、『日本経済新聞』さんのサイトにも、紹介がアップロードされました。
 
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もう一点。「インターネットミュージアム」というサイトがあり、そちらでは動画入りで紹介されています。
 
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彫刻は動きませんが、カメラが動き、実際に観に行ったようなバーチャル体験が出来ます。
 
しかし、バーチャルはあくまでバーチャル。実際にご覧いただきたいのはもちろんです。
 
千葉展の後、岡山井原、愛知碧南と巡回しますが、これだけの規模の光太郎展、首都圏では次はいつ開催されるかわかりません。二度と開かれない、ということはないように願いたいものですが、さりとて毎年のように開かれる、というのもありえません。
 
まだご覧になっていない方、ぜひお越し下さい。また一度足を運ばれた方も、二度、三度と繰り返し観ることで、その都度新たな発見があるものです。よろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月3日

昭和11年(1936)の今日、『東京朝日新聞』に、評論「一彫刻家の要求」の第1回が掲載されました。
 
このあと、4日・5日と3回にわたって掲載されたこの評論は、前年公布された「帝国芸術院官制制定の件」による美術界の混乱に対する苦言です。
 
曰く、
 
帝国芸術院は政府の美術行政上の諮問機関だといふ事であるが、上から下に問ふだけの諮問機関では役に立たぬ。諮問されなければ黙つて居る事となるし、諮問するのは美術の表面しか分らない素人の役人風情であるから、このままでは帝国芸術院の機能は甚だ遅鈍な間の抜けたものとなるにきまつてゐる。……
 
手厳しい意見です。

昨日ご紹介した森まゆみさん著『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくるということ』に関し、『読売新聞』さんに記事が出ています。 

森まゆみさん 編集の視点で「青鞜」考察

 明治の末、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)らが創刊した雑誌「 青鞜 (せいとう ) 」をテーマにした『「青鞜」の冒険』(平凡社)を、作家の森まゆみさん(59)が出版した。
 
 地域誌の編集人を務めた経験を踏まえ、雑誌編集の視点から同誌を見つめ直した。
 「長年の宿題を果たした感じです」
 東京・千駄木で1911年、産声をあげた「青鞜」に著者は親近感を抱いてきた。同じ地域で84年、女性の仲間2人と地域誌「谷中・根津・千駄木」を創刊し、25年間続けたからだ。
 
 「女性の文芸振興や地位向上と、地域の魅力の掘り起こしと、それぞれの雑誌の内容は違います。でも女の人が集まることの面白さ、難しさなど、似ていると思うことがありました」
 
 本作は、<元始、女性は太陽であった>と高らかに唱えた「青鞜」の思想面より、経営面や誌面の出来栄えを探った点が興味深い。創刊号は、1冊25銭で1000部。地元のそば屋の広告や、読者が重なりそうな雑誌と互いに交換広告を掲載する努力もしていた。
 
 「『青鞜』の人々も、初期は苦労して広告を集めた。私たちと同じく地域に支えられていました。あの時点で女だけで雑誌を作ったのは冒険です。今のレベルから見れば習作のような掲載作にも、当時の女の悩みや暮らしが表れている」
 
 一方で、同誌が創刊1年で出版や販売の業務を外部の会社に任せた点には厳しい。「雑誌は原稿を書き、集めるだけでなく、広告取りや購読料の授受、発送、配達こそ大切です。雑誌なんて自分が売る気にならないと売れないんだから……」
 
 「谷中・根津・千駄木」は2009年に94号で終刊した。「雑誌の中で、色々な新しい提案ができた。“小所低所”に徹して身の回りを変える。大きなデモや声高に意見を上げるより、小さな地域を変えれば、全体がしっかりしてくると思う」
 
 100万人に5人しか発症しないとされる自己免疫疾患「原田病」に07年にかかり、目を患った。だが、東日本大震災後は被災地を訪ねて現地の声を聞き、『震災日録――記憶を記録する』(岩波書店)も出版した。「震災で言葉を失ったなどと男は言うけれど、女はその翌日だって米をとがなくてはならない。震災後も考えていることは変わりません。被災地との地域間交流を大切にしてゆきたい」
 
 朗らかな笑い声が、人をひきつける。
 
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記事の中で、平成19年(2007)に難病にかかられた由、記述がありました。地域雑誌『谷根千』休刊の陰にはこうした事情もあったのですね。
 
『谷根千』では、平成2年(1990)刊行の第25号に、今回のご著書の原型とも言うべき特集記事「平塚らいてうと「青鞜」-千駄木山で生まれた女の雑誌」が掲載されています。
 
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版元の「谷根千工房」さんももはや存在しませんが、古書サイト等で見かけることがあります。併せてお買い求めを。
 
今回のご著書にしても、上記の『谷根千』にしても、智恵子の描いた『青鞜』の表紙絵を用いた装丁。つくづくこの表紙はすばらしいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月2日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山口小学校で開催された稗貫郡PTA講演会で講演をしました。

現在、千葉市美術館さんで「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」が開催されていますが、8月30日(金)から、次の会場・岡山県井原市の田中(でんちゅう)美術館さんに移ります。
 
その田中美術館で、詳細情報が発表されました。
 
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関連行事として、9月29日(日)に記念講演会があります。講師は巡回の3館目になる愛知県碧南市藤井達吉現代美術館学芸員の土生(はぶ)和彦氏。ご期待下さい。
 
西日本在住の方などで、「千葉は遠いのでちょっと……」という方、ぜひ井原の方へお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月29日

昭和9年(1934)の今日、九十九里で療養中の智恵子の見舞いに訪れました。
 
智恵子が九十九里にいたのはこの年5月から12月の半年余りでしたが、毎週のように光太郎は見舞いに訪れたそうです。ただ、正確な日付が特定できる日は意外と少ないので今日を選びました。
 
明日はそのあたりを書いてみようかと思っています。

現在、千葉市美術館で開催中の企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」。そのポスターやチラシには光太郎の木彫「蟬」が使われています。
 
今回、「蟬」の木彫は3点展示されており、ポスター等に使われているのは、便宜上「蟬3」というナンバーが降られています。こちらは高村家の所有です。
 
他の「蟬」は買われて日本各地に散り、そ無題2のうち「蟬4」とナンバリングされているものは、新潟県佐渡島の渡邉家が購入しました。大正15年(1926)のことです。今でも渡邉家の方が大切に保存なさっていて、今回の企画展で久しぶりに公開されました。
 
大正時代の渡邉家のご当主は渡邉林平。「湖畔」と号し、与謝野鉄幹の『明星』や『スバル』に短歌を発表、その縁で光太郎と知り合いました。単に知り合っただけでなく、お互いに気が合ったようで、佐渡と東京と、離れていながらお互いの家を行き来したりもしていました。
 
そんな関係で、渡邉家にはこの「蟬」以外にも、光太郎筆の油絵(早世した湖畔の娘の肖像)や書幅、書簡なども多数残っています。ちなみに「蟬」は湖畔の弟で、出版社を経営していた芳松の発注です。それらは平成19年(2007)、新潟市会津八一記念館で開催された企画展「会津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」でまとめて公開されました。
 
さて、過日、湖畔の弟、芳松のご子息・和一郎氏から書籍を5冊もいただきました。『渡邉湖畔年譜』、『渡邉湖畔遺稿集』、『佐渡びとへの手紙 渡邉湖畔と文人たち』上中下の5冊です。和一郎氏、連翹忌にもご参加いただいておりますし、千葉展の初日・オープニングレセプションにもいらして下さいました。
 
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光太郎はもちろん、与謝野夫妻や会津八一などとの交流のようすが生き生きと描かれています。全て新潟での自費出版ということで、簡単に手に入るものではありません。ありがたい限りです。
 
特に「蟬」が再び日の目を見たときのくだり。芳松は早くに亡くなり、「蟬」や関連する書簡は久しく土蔵にしまい込まれていて、しまい込まれたことも忘れられていたとのこと。
 
同じような例は他にもいくつかあります。まだまだ日本のどこかに光太郎の彫刻も眠っているのかもしれません。

2020年追記 京都から5点めの「蝉」が見つかり、2020年、富山県水墨美術館さんでの企画展「画壇の三筆」にて展示されます。

さらに追記 同展、コロナ禍のため中止となりました。残念です。

2021年追記 同展、2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。

 
【今日は何の日・光太郎】 7月18日

昭和51年(1976)の今日、6月から開催されていた東京セントラル美術館の「高村光太郎―その愛と美―」展が閉幕しました。
 
この時点ではまだ「蟬4」の存在は一般に知られていませんでした。

昨年の今頃もブログに書きましたが、昨日から当方の暮らす千葉県香取市佐原地区で「佐原の大祭・夏祭り」が行われています。
 
巨大な人形を冠した10台の山車(だし)が江戸風情の残る佐原の町を練り歩いています。
 
山車には精巧な木彫が施され、中には東京美術学校で光雲と同僚だった石川光明の家系が関わったものもあります。また、人形も地元では光雲が絶賛したという言い伝えも。
 
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祭りは日曜日までの3日間。その期間が忙しいという方は、通年で山車を観られる「山車会館」という施設もあります(月曜休館)。
 
江戸の職人技にご興味のおありの方、ぜひお越し下さい。
 
といいつつ、当方、昨日はあまりの暑さに観に行く気になれず、今日は福島川内村での草野心平を偲ぶ「第48回天山祭り」に行って参ります。明日、日曜は佐原の祭りを観に行こうと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月13日

明治43年の今日、光太郎の経営する画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、画家・柳敬助の個展が開幕しました。
 
柳敬助と光太郎が知り合ったのはニューヨーク。一説には荻原守衛を光太郎に紹介したのが柳とのこと。双方帰国後も交友が続き、柳の妻・八重は日本女子大学校の卒業生だったこともあり、智恵子を光太郎に紹介する橋渡しをしました。

千葉市美術館において開催中の企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事としての講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」、つつがなく終了しました。
 
ご来場下さった皆様、ありがとうございました。
 
150名定員のところ、140名ほどのお申し込みということで、抽選にはならず良かったと思いました。せっかくお申し込みいただいても抽選ハズレでは申し訳ありませんので……。
 
当方が把握しているだけでも、県内はもとより都内や神奈川、埼玉、さらには岩手、宮城、長野、愛知、大阪、兵庫など、遠方の皆様にもおいでいただきました。ありがとうございます。また、各地のお土産をいただき、恐縮でした。
 
花巻の記念会様からは、ご来場の皆様にまでお土産ということで、花巻で新たに作られたクリアファイルが配られました。太っ腹です(笑)。
 
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やはり高村光太郎記念会事務局長にして、晩年の光003太郎と親しく接せられた北川太一先生のお話がメインということで、脇で聞き手を務めつつもいいお話だな、と感じ入っておりました。
 
講演に先立って、昨夜、かつて平成11年(1999)に北川先生が雑誌『日本古書通信』に三回にわたって寄稿された「光太郎凝視五十年」上中下を読み返したのですが、改めて感動しました。昨日のお話でも触れられた戦時中や終戦直後の知識人が「高村光太郎」をどう捉えるか、というお話-先生の御同窓だった故・吉本隆明をはじめ-など、昨日のお話以上に詳しく描かれています(必要な方はご連絡下さい)。
 
さて、これで肩の荷が一つ下りましたが、企画展はまだまだ開催中です。今後も関連行事として、学芸係長さんによる市民美術講座「光太郎・そのあゆみ」(7/20(土)、8/10(土)-申し込み不要)などが予定されています。
 
ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月8日

昭和30年(1955)の今日、一時重篤に近かった結核が小康となり、4月から入院していた赤坂山王病院を退院しました。

一昨日、神田の古書会館に行ったついでに、千駄木の森鷗外記念館にも足を伸ばしました。
 
現在、同館では企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」を開催中です。その中の「ミニ企画」として「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」というコーナーが設けられています。
 
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鷗外はあくまで小説家ですが、若い頃にはドイツ留学中に触れたゲーテなどの詩を翻訳したり、千駄木団子坂上の自宅・観潮楼(光太郎アトリエは目と鼻の先です)で歌会を催したりするなど、詩歌にも親しんでいました。観潮楼歌会には、伊藤左千夫や石川啄木、そして光太郎も参加しています。
 
鷗外の作もなかなかのもので、朴訥な中にも厳めしさが漂う、まさに鷗外その人のような歌風です。そういった関連の展示物が並ぶ中に、ミニ企画・「駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」。以下、リーフレットから引用させていただきます(図録は刊行されていませんでした)。
 
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特に目新しいものは並んでいませんでしたが、光太郎から鷗外宛の葉書は肉筆ものですのでかなり貴重です。「おやっ」と思ったのは鉄幹与謝野寛から鷗外宛の書簡。明治42年に留学から戻った光太郎の帰朝歓迎会の案内で、与謝野寛が呼びかけたというのは存じませんでした。この会には招きに応じ、鷗外も参加しています。
 
ちなみに下の画像は展示されたものと同じ雑誌『スバル』明治42年10月号の裏表紙。たまたま当方の手元にも一冊在ります。光太郎の描いた戯画で、「観潮楼安置大威徳明王」と題されていますが、鷗外を茶化したものです。大威徳明王は不動明王と同じく五大明王の一人で、仏法を守護する闘神。たしかに鷗外のイメージにぴったりといえばそうですが、光太郎、大先輩をこんなふうにいじるとは、とんでもありませんね……(笑)。
 
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企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」(含「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」)は9月8日まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今日はいよいよ千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」です。当方はあくまでサブで、メインは北川太一先生ですので気楽ですが、頑張ります!
 
【今日は何の日・光太郎】 7月7日

明治37年(1904)の今日、この年2回目の赤城山登山ををしました。後に与謝野寛、伊上凡骨ら新詩社同人も赤城を訪れ、合流しています。

昨日、神田の東京古書会館で開催中の明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観に行って参りました。
 
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古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。
 
昨日と今日が一般下見展観。実際に出品物を手に取ってみることができるのです。出品物の内容は目録に写真入りで掲載されているのですが、やはり手に取れるというところが魅力なので、行ってきました。
 
実は初めてでした。昨年は何だか忙しかったようで行きませんでしたし、その前までは平日に行くということは不可能でした。
 
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入り口のクロークでカバンを預け(出品物の盗難防止のため)、エレベータで文学関連の並んでいる4階へ。会場内は撮影禁止ですのでお見せできませんが、目録に載っている出品物が所狭しと並んでいました。
 
光太郎関連は、詩集『道程』初版や、草稿、識語署名入り献呈本、書簡などでした。そういったものは当方も持っているのですが、それでもやはり数十年前に光太郎が実際に手にしたものだと思うと、感慨ひとしおでした。また、毛筆の文字などは、写真ではよくわからない筆勢などが感じられ、やはり本物は違う、と思いました。
 
ちなみに文学関係の全ての出品物のうち、入札開始価格が最も高いのは石川啄木の書簡三通となぜか旧制盛岡中学の入学席次表のセット。600万円です。次いで中原中也から小林秀雄宛の書簡1通・400万円、夏目漱石の草稿11枚・280万円、正岡子規の書簡・250万円と続きます。ただし、入札開始価格なので、実際にはどうなるかわかりません。
 
また、今年は入札開始価格を設定せず、「ナリユキ」と記されているものがかなりありました。光太郎の署名本もそうなっています。これらは価値の判断が難しい、ということなのかなと思われます。
 
光太郎関連以外で個人的に最も興味深かったのは、価格としてはそれほどではないもの(といっても25万円)ですが、木村荘太の書簡でした。
 
木村荘太は光太郎と親しかった画家の木村荘八の兄で、明治末には智恵子と知り合う前の光太郎と、吉原の娼妓・若太夫を巡って恋敵となりました。その後、平塚らいてうから『青鞜』の編集を引き継いだ伊藤野枝(辻潤の妻、しかしアナーキスト・大杉栄と不倫恋愛中)に横恋慕(複雑な人間関係です)、そのあたりを戦後になって『魔の宴』という自伝小説に書いています。
 
木村の書簡は2通セットで、1通が伊藤野枝宛(恋文)、もう一通は大杉栄宛でした。「なんでこんなものが残っているんだ?」という感覚でした。ご存知の方はご存知の通り、大杉と野枝は大正12年(1923)、関東大震災のドサクサで、憲兵大尉・甘粕正彦に殺害されています。
 
ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の恩師です。甘粕自身も東京美術学校西洋画科で光太郎の同級生だった藤田嗣治と親しかったりと、なんとも複雑な人間模様というか人間曼荼羅というか……。ついでに言うなら木村荘太は『魔の宴』刊行直後に成田山公園で縊死。その前から成田郊外の遠山村に住んでいたのですが、なんと近くには光太郎の親友だった作家の水野葉舟も移り住んでいました。あちこちでつながります。
 
さて、明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観。会場内には明治大正昭和の名だたる文豪にまつわるお宝が所狭しと並んでいました。それらの文豪達の相関図的なものを描いてみると、とんでもないことになるのでは、などと思いました。改めて明治大正昭和という時代の凄さを感じました。
 
さて、明日は千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として、講演です。遠方からお越し下さる方もいらっしゃり、ありがたい限りです。お気を付けてお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月6日

昭和28年の今日、杉並の浴風園病院で診察を受け、正式に結核と診断されました。

閲覧数が15,000を超えました。ありがとうございます。
 
さて、千葉市立美術館では「彫刻家高村光太郎展」開催中ですが、千葉には市立でなく県立の美術館もあります。ただ、耐震改修工事のため、今年1月から再来年3月までの予定で閉館中です。
 
そこで、同美術館では収蔵作品のうち、主だったもので移動美術館を開催することになりました。例年も行っているそうですが、例年より多くの会場で行うとのこと。
 
光太郎の「手」も巡回します。「手」は現在開催中の千葉市美術館での企画展に出品されていますし、先頃仮オープンした花巻の高村光太郎記念館にも並んでいます。
 
ご存じない方のために書きますが、ブロンズの彫刻は同じ原型から作られたものが複数個存在する場合があります。「手」もそうです。国内に10点くらいはあるのではないでしょうか。このあたり、微妙な問題を含みますので余り詳しくは書けませんが、浮世絵でも初刷り、後刷りがあるように、ブロンズでも誰がいつどこから型を取ったか、という点で価値に差異ができます。
 
閑話休題。移動美術館、日程は以下の通りです。
 
7/6~21 栄会場 県立房総のむら
8/3~18 野田会場 県立関宿博物館
8/25~9/8 館山会場 県南総文化ホール
9/14~29 香取会場 県立中央博物館大利根分館
10/5~27 東金会場 東金文化会館
2014/1/31~2/16 銚子会場 銚子市市民センター
同2/22~3/19 大多喜会場 県立中央博物館大多喜城分館
 
ただし、会場ごとに作品の入れ替えがあるというので、「手」が全ての会場に並ぶかどうか不明です。
 
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【今日は何の日・光太郎】 7月3日

明治42年(1909)の今日、およそ3年半の留学の旅を終え、駒込林町の実家に戻りました。
 
パリからいったんロンドンに渡り、日本郵船の阿波丸に乗ったのが5/5、神戸に上陸したのが7/1です。神戸まで光雲が迎えに来ており、東京に向かう汽車の車中で、光太郎を中心に銅像会社を設立する計画を語りました。
 
当時の銅像というと、立体写真的なものでしかなく、功成り名遂げた者の自己顕示、もしくは周囲のごますりのため、景観などは無視して街頭のあちこちに乱立していました。いわば一種のブームで、光雲のプランは確かにタイムリーで十分に採算のとれるものでしたが、光太郎はそんな職人仕事は恥ずべきもの、という感覚でした。
 
この後、ロダンに代表される新しい彫刻を日本に根付かせるための、光太郎の苦闘の日々が始まります。

先週土曜日に開幕した千葉市美術館の「彫刻家高村光太郎展」。地元紙『千葉日報』さんに報じられました。

 
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右下の画像が今回の図録です。
 
A4判222ページ。巡回各美術館の担当学芸員さんと、名古屋のデザイン会社・株式会社アーティカルの小島邦康氏による力作です。
 
目次は以下の通り。003

ごあいさつ 主催者
伯父光太郎 思ひだすことなど 高村規
高村光太郎の造型―立体感と詩精神― 北川太一

図版
 Ⅰ 高村光太郎
 Ⅱ 周辺作家
 Ⅲ 高村智恵子
 
高村さんのこと 平櫛田中
高村光太郎の彫刻 木本文平
木彫家・高村光太郎 土生和彦
 
資料
高村光太郎自筆文献抄 藁科英也編
作家略歴
高村光太郎年譜
高村光太郎彫刻展覧会歴
高村光太郎総計関係文献目録
出品目録
 
これで1,800円ですので、非常にお買い得です。
 
ちなみに当方、年譜・展覧会歴・文献目録の部分を書きました。
 
それから館内で無料配布されている館の広報誌「C’n SCENE NEWS」第67号。こちらでは3ページにわたり今回の企画展の話と、同時開催の所蔵作品展「高村光太郎の周辺」についての記事があり、読みごたえがあります。
 
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会期は、8/18(日)まで。第一月曜日の今日と8/5のみ休館。金・土は20:00まで開館しています。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月1日

明治23年(1890)の今日、光太郎の弟で、後に鋳金の道に進んで人間国宝となった豊周(とよちか)が誕生しました。
 
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左から弟・道利、妹・しづ(双子です)、光雲、光太郎。光雲に抱かれているのが豊周です。

豊周は家督相続を放棄した光太郎、渡欧したまま音信不通となった道利に代わり、高村家を嗣ぎました。

というわけで、いよいよ昨日から千葉市美術館「生誕130年彫刻家高村光太郎展」が始まりました。
 
夕方からオープニングレセプションということで、関係者の顔合わせ的な会があり、行って参りました。もちろん早めに行って、実際に企画展も観て参りました。
 
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初日から(初日だから?)かなりの盛況でした。といって、展示物がよく見えないような混雑ではなく、じっくりと観て回ることができました。
 
久しぶりに観る木彫の数々(展示方法に工夫が凝らされており、「蟬」がずらっと3匹、「桃」や「柘榴」は真上から観ることもできました)、複製でない智恵子の紙絵(その数65点)など、やはり本物は違う、という感じでした。
 
ブロンズでも詩人尾崎喜八の結婚記念に贈ったミケランジェロの模刻の聖母子像や、光太郎の祖父・中島兼吉のレリーフなど、あまり展覧会に並ばないものも多く、大満足でした。まるで久しぶりに旧友に遭ったかのような感覚で、なぜか涙が出そうになりました。不謹慎なようですが、心の中で「兼吉さん(かねきっつぁん)、おひさしぶりっす。変わりはなかったかい?」みたいな(笑)。
 
光太郎智恵子と縁の深い作家……光雲やロダン、荻原守衛、佐藤朝山などの作品も並び、そちらも興味深く拝見しました。
 
会場の一角ではNHKプラネット中部が制作した15分の解説映像の放映も。的確な解説のあいまに、北川太一先生や高村規氏(光太郎令甥)が登場、それぞれの思いを語られていました。観に来られた方は皆、興味深そうに見入っていました。
 
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早速、ネットで調べますと他の方のブログやツイッター等で「良かった」的な記述がありました。ありがとうございます。
 
館の皆様、その他大勢の皆様のおかげで、実にいい展覧会が仕上がったと思います。当方も少しだけ力をお貸ししましたが、力をお貸しできたことを光栄に存じます。
 
来週、7月7日の日曜日には、北川太一先生と当方による講演が予定されております。花巻に出かける前に北川先生から送られてきた草稿を元にレジュメを作成、プロジェクタで投影する画像等も集め、準備万端です。
 
そちらの方もおかげさまで定員に近い人数のお申し込みがあったとのこと。当方からご案内差し上げた方々も、かなり申し込んでくださり、ありがたい限りです。ご期待下さい!
 
千葉市美術館。千葉市中央区役所の7・8階です。都心からは若干時間がかかりますが、ぜひぜひ足をお運び下さい!
 
【今日は何の日・光太郎】 6月30日

昭和27年(1952)の今日、河出書房から『現代短歌大系』第三巻が刊行され、光太郎短歌62首が掲載されました。
 
光太郎は短歌でも独自の境地に達し、味のある作品を数多く残しています。「蟬」などの木彫を包む袱紗(ふくさ)や袋にその木彫を歌った短歌を書くこともあり、今回の「彫刻家高村光太郎展」でも、それらが複数展示されています。

【今日は何の日・光太郎】 6月26日
 
昭和52年(1977)の今日、成田市の三里塚記念公園に、光太郎の詩「春駒」を刻んだ碑が建立、除幕されました。
 
碑陰記は草野心平、碑面のブロンズパネルは西大由氏の制作です。
 
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  春駒
 
三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場(ごれうまきば)にうつすり
もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、
雨ならけむるし露ならひかるし、
明方かけて一面に立てこめる杉の匂に、
しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ
春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ。
すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、
ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、
ただ一心に草を喰ふ。
かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい。
三里塚の春は大きいよ。
 
手元に当地の「高村光太郎詩碑建立委員会」刊行の『春駒』という冊子があります。この碑の建立の経緯や、除幕式当日の模様などが記録されています。
 
収録されている当時の成田市長による建立趣意書から。建立の前年に書かれたものです。
 
 成田市三里塚一帯は、近代畜産発祥の地として古くから牧場が開かれ、その広大な原野に数々の名馬をうみ、緑濃い自然、春の桜花の見事さは年ごとに多くの人々をひきつけました。
 詩人・彫刻家高村光太郎もまたこの地を熱愛した一人です。ことに「生涯かけたたつた一人の親友」と呼んだ小説家水野葉舟がそのはなやかな文壇生活をすて、付近駒井野に移り住んで以来いくたびかこの地を訪れ大きな自然の風物にみずからの詩心を養いました。
 大正十三年四月に書かれた詩「春駒」には、晴朗な三里塚の風景とそこに躍動する若々しい春駒の姿がいま目の前に見るようにいきいきと歌われています。
 しかし、その三里塚は新東京国際空港建設に伴い相貌を一変、かつて若草をけたてて馬たちが疾駆した牧場は大滑走路に変わり、緑深かった平原に巨大な建造物が建ち並び、ほとんど昔日の面影をとどめません。しかも歴史の焦点はここに結ばれ、長い歳月の中で数多くの紛争がくりかえされ、人々は試練の場をくぐりぬけてまいりました。
 いまこそ人間精神のみずみずしい回復を心から祈らずにはいられません。そのことの一つのささやかな着手として、成田市、地元有志はもとより想いをおなじくする者あい集い、ありし日の三里塚の自然とその自然を深く愛した芸術家の心に応えるとともに消えゆく三里塚の面影を未来に残す証として「春駒」詩碑建立を企てました。
 碑はかつての自然を最もよくとどめる旧御料牧場本部前の景勝の地を選び、詩は作者の筆跡を展大して青銅に鋳造、巨石にはめこまれる予定です。
 おそらく碑前にたたずみ詩を読むものは、この国のかがやかなりし自然と心篤かりし人々への限りない回想にさそわれ、未来への明るく力強いはげましを受け取るにちがいありません。
 この企てに多くの方々の御賛同を得、是非とも実現いたしたく別記ごらんの上、貴台の御力添えをお願い申し上げる次第であります。
 
  昭和五十一年十二月
 
高村光太郎詩碑建立準備委員会代表 成田市長 長谷川録太郎
 
なかなかの名文なので、結局全文引用してしまいました(笑)。
 
続いて除幕式での、当会顧問北川太一先生のご挨拶から。
 
 葉舟を「たつた一人の生涯かけての友」と呼んだ光太郎も、しばしばこの地を訪れましたが、詩「春駒」は葉舟がここに移った直後、大正十三年四月十日に作られ、十三日の朝日新聞に発表されています。おそらく、ここで新生涯を始めることになった葉舟とともに、この春のおおらかにもすがすがしい牧野に立って、深い感動にうたれたのでしょう。震災後最初の光太郎の詩が、このようにして生まれたのでした。詩を読み、眼を閉じると、たてがみをなびかせて野を駆ける若駒のひづめの音や、汗ばんだ馬のいきづかいまできこえてくる様です。
 この詩を契機に光太郎には動物に材料を得た猛獣篇をはじめとする力強い詩の展開が始まり、一方葉舟はさまざまな経緯はありましたが、結局後半生をここにおくって、細やかで美しい自然や人間の記録を残すことになるのです。
 
半月ほど前のこのブログにも書きましたが、この周辺、いいところです。ぜひお越しください。
 
今日から2泊3日で花巻に行って参ります。

「明治古典会七夕古書大入札会」。
 
昨年の今頃もこのブログに書きましたが、一種の年中行事です。7/5(金)~7/7(日)の3日間、神田の東京古書会館で、年に一度開かれる古書籍業界最大のイベントの一つです。
 
古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。
さて、今年の出品目録がネット上にアップロードされました。
 
光太郎関連も毎年のように肉筆原稿や書簡、署名入りの書籍などが出品されており、今年はどんなものが出ているかな、とわくわくしながら見てみました。
 
すると、詩集『道程』のカバーなしが1点、詩稿が3点(全て複数の詩が書かれたもの)、色紙が一点、葉書が10枚で1組(既に存在・内容を知られているもの)、そして一番驚いたのが識語署名入りの著書2冊です。
 
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すべて詩人の高祖保にあてたものです。一冊は随筆集『某月某日』(写真中央)、もう一冊は詩集『をぢさんの詩』(写真右)です。ともに昭和18年(1943)の刊行。画像はおそらく表紙裏の見返しの部分でしょう。
 
葉書も1枚ついています。官製葉書の様式や住所氏名のゴム印などから判断し、おそらく同じ時期のものです。今のところ高祖宛書簡は滋賀の彦根市立図書館に収蔵されている1通(「光太郎遺珠」⑦所収)しか確認できていませんので、文面は不明ながら新発見です。
 
高祖は『をぢさんの詩』の編集作業をやってくれた詩人で、光太郎が書いた同書の自序には高祖に対する謝意が述べられています。また、戦後になって高祖の追悼文(昭和20年=1945・戦病死)も光太郎は書いています。
 
このあたりについてはいずれまた項を改めて書きます。
 
そして今回出てきたのがその高祖に宛てた長い識語入りの『をぢさんの詩』。その識語もなかなか味のある文章です。
 
ところで最低入札価格ですが、「ナリユキ」となっています。今年の明治古典会七夕古書大入札会では、このように最低入札価格を設定していない出品物が結構あります。どのくらいの値がつくのか興味深いところですが、できればどこかの公共機関で手に入れ、自由に閲覧できるようにしてほしいものです。特に光太郎に興味があるわけでもなく幅広く集めていて、自分の蒐集品は絶対公開しない偏狭なコレクターの手に入り、死蔵されてしまうともうおしまいですから……。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月25日

明治45年(1912)の今日、光太郎の手を離れた神田の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)で、田村俊子と智恵子による「あねさまとうちわ絵」展が始まりました。
 
数年前、神奈川近代文学館に特別資料として寄贈された木下杢太郎関連の資料の中に、この展覧会の案内が印刷された木下宛の書簡(「光太郎遺珠」②所収)が含まれていました。これを見つけたときの驚きは、新資料発見の五指に入ります。
 
曰く、
    ◎『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会
長沼ちゑの『うちわ絵』と田村としの『あねさま』の展覧会を来る二十五日から二十九日まで五日間琅玕洞で開催いたします
 ほんとうに両人のいたづらをお目にかける様なものなのです。
 極りのわるひ展覧会です。くだらないものと御承知で、見にいらしつて下さいまし。
(以下略)

一昨日から昨日にかけ、京都に行って参りました。無題1
 
目的は京都国立近代美術館さんで開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」の拝観でしたが、少しだけ観光もしてきました。
 
当方の乗った夜行バス、京都着は午前6時過ぎ。この時間ではさすがに美術館は開いていませんので、館の空く9時半までの時間をつぶさなければなりません。
 
さて、光太郎といえば智恵子。智恵子といえば福島。福島といえば今年は「八重の桜」。というわけで(強引ですが)、それ関係の場所を巡りました。
 
まず、現在「八重の桜」で展開中の戊辰戦争が終わり、明治になってから八重が暮らした新島邸
 
京都御所の裏にたたずんでいます。
 
こちらも内部の拝観には時間が早かったので、門の外から見ただけでしたが、趣のある建物でした。
 
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鴨川べりに出て、コンビニでパンとコーヒーを買って朝食。その後、まだ時間が早いので下鴨神社さんまで足を伸ばしました。ここは福島や光太郎との縁はないとは思うのですが、一度行ってみたかったので。
 
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さらに、京都国立近代美術館さんに近い金戒光明寺さんに行きました。ここは以前にも行ったことがあるのですが、幕末に京都守護職・会津藩本陣が置かれたところです。

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以前のブログにも書きましたが、「八重の桜」での金戒光明寺でのシーン(外観)は、当方の暮らす千葉県香取市にある観福寺さんというところで撮影されました。さすがに本家(笑)の方が立派です。
 
本堂に上がると、参拝者が自由に書くノー000トが。見ると、その前の日の日付で「福島から来ました。最後まで諦めなかった会津様を見習い、諦めずにがんばろうと思います」という書き込み。日本全体では被災の記憶が薄れつつあるようで、閣僚のトンデモ発言なども飛び出していますが、まだまだ被災地での被災は続いています。ほんとうにがんばってほしいものです。
 
金戒光明寺さんでは、以前に行ったときには足を踏み入れなかった会津藩士の墓所にも行きました。本堂でもここでも、手を合わせつつ心の中で「福島の復興を見守っていてください」とお願いして参りました。
 
ちょうど9時半くらいになったので、京都国立近代美術館さんに行き、「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観ました。
 
昨日書き忘れましたが、光太郎以外にも岸田劉生、清宮彬、バーナード・リーチ、石井柏亭・鶴三兄弟、硲伊之助、柳敬助、高村豊周など、光太郎の周辺にいた人物の作品も多く、興味深く拝見しました。
 
長谷川昇という画家の作品も一点。こちらは東京美術学校で彫刻科を卒業したあと西洋画科に再入学した光太郎の、西洋画科での同級生で、会津出身です。
 
というわけで、今回の京都行は、京都にいながら福島を偲ぶ旅でもありました。また近いうちに福島にも行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月24日

昭和14年(1939)の今日、銀座三昧堂ギャラリーで開催されていた、南洋パラオで暮らしていた異端の彫刻家・杉浦佐助の個展が閉幕しました。

光太郎は図録に推薦文を書いています。

昨夜、居住地域から夜行バスに乗って、京都に行って参りました。
 
京都国立近代美術館で開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」を観るためです。帰りは新幹線を使い、先ほど帰って参りました。
 
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今月初めのこのブログでご紹介しましたが、光太郎の水彩画とされる作品が一点、出品されています。光太郎顕彰の世界ではその存在が知られていなかったものです。
 
芝川照吉(明治4=1871~大正12=1923)は、企画展の副題にもあるとおり、青木繁や岸田劉生を援助した実業家で、そのコレクション総数は1,000点以上だったそうです。しかし、関東大震災や、没後の売り立て(競売)で散逸、最後に残った180点ほどが京都国立近代美術館に寄贈されました。今回の展覧会はそれを中心に、関連作品をまじえて構成されています。
 
絵画以外にも工芸作品が多く、同館自体が京都という土地柄上、工芸の収集、展示に力を入れているということもあり、館としてはうってつけだったようです。
 
さて、光太郎の水彩画。「劇場(歌舞伎座)」と題された八つ切りのあまり大きくないものです。制作年不明とキャプションに書かれています。「印象派風」というと聞こえはいいのですが、はっきりいうと何が何だかさっぱりわからない絵です。かろうじて歌舞伎の定式幕が描かれているのが判然とするので、「歌舞伎座」という副題が納得出来るという程度です。
 
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千葉市美術館の学芸員さんから情報を得、画像も送っていただいたのですが、本当に光太郎の作品なのか半信半疑でした。今日、実際に作品を見てもまだ半信半疑でした。

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数年前に大阪の阪急文化財団逸翁美術館でもそれまで知られていなかった光太郎の絵画が出ましたが、こちらは日本画で、与謝野晶子が自作の短歌を書き、絵を光太郎が担当したもの。来歴もはっきりしていましたし、絵も類例があるものなので、即座に間違いないと思いました。
 
しかし、今回の水彩画は、芝川照吉のコレクションという点で来歴は大丈夫だろうと思いつつ、類例がないことが気にかかっていました。
 
そう思いつつ、企画展会場の最後にさしかかると、芝川没後の大正14年(1925)に開かれた売り立て(競売)の目録がパネルに拡大コピーされて展示してありました。「おっ」と思い、詳しく観ると、最後の辺りに今回の水彩画と思われるものもちゃんと載っていました。
 
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上記はその売り立て会を報じた新聞記事です。

これで少なくとも大正末の時点ではこの作品が光太郎作と認定されていたことは間違いないのでしょう。また、売り立ての「後援」に、光太郎と親しかった画家・石井柏亭が名を連ねています。これはこの作品が間違いない一つの証左になりそうです。さらに、他の出品物はやはり岸田劉生やら青木繁やらのもの。いけないものはまざっていないようです。
 
というわけで、今回の水彩画も間違いないものだろうと思いますが、まだ確定はできにくいところがあります。もう少し調べてみるつもりではありますが。
 
明日も京都レポートを。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月23日

大正4年(1915)の今日、浅草山谷八百善で開かれた、北京移住のため離日する陶芸家・バーナード・リーチの送別会に出席しました。
 
今日観てきた芝川コレクションにもリーチの作品が多数含まれていました。

過日、昭和9年(1934)に智恵子が療養した九十九里を訪れ、帰ってからネットでその近辺についてもう一度調べました。
 
すると、智恵子に関しいろいろと情報を載せている「阿多多羅山」というサイトがあり、それにより意外な事実がわかりました。以下、抜粋させていただきます。

海岸通りの県道に面して「智恵子療養の跡地」と墨で書かれた白い標柱が立っています。ここに智恵子が療養していた「田村別荘」があったといわれています。精神分裂症が悪化した智恵子は、昭和九年一九三四)五月から十二月まで、転地療法のため母や妹家族と一緒にこの家に住んでいました。智恵子一家が去った後の「田村別荘」は、地元の人が買い取り、対岸の大網白里町へ移された後「智恵子抄ゆかりの家」として再築して保存されました。
 
しかし、年月が経ち、訪れる観光客も少なくなった一九九七年頃、前夜の強風雨で家屋が被害を受けたのを機に、取り壊わされて跡形もなくなりました。
 
「智恵子抄ゆかりの家」は取り壊わされましたが、「田村別荘」が本来あった真亀納屋の住居跡に、田村別荘跡を示す白木の標柱を建て、史跡を守ろうとする人がいました。
九十九里町役場に隣接する「九十九里いわし博物館」に勤める町臨時職員で学芸員の永田征子(元高校教諭)です。当時、智恵子が療養していた田村別荘跡は、現在プチホテル「グリーンハウス」とテニスロッジ「あぶらや」が経営するテニスコート場内にありました。テニスコート場の中間に残された低い土塁あたりが、当時智恵子の療養していた田村別荘のあった場所だそうです。当時、ここは黒松の防風林で、田村別荘から漁師の藁葺屋根の先に、九十九里の波打ち際が見えたと言われています。
 
永田征子は地主の了解を貰い、九十九里町教育委員会の協力を得て、記念の標柱を製作し建てることにしました。二〇〇四年七月二十九日夕方、地主に立ち会ってもらい、永田は「ここに建てさせていただきたいのですが」と、テニスコートの入口で県道に面した場所を決めました。その場で、教育委員会の係員の手で、「智恵子療養の跡地」と筆文字で書かれた木製の白い標柱が建てられたのです。
 
 その翌日の七月三十日朝、「九十九里いわし博物館」内で、ガス爆発事故がありました。博物館の一部が大破し、書庫で仕事をしていた永田征子はその事故で即死したのです。千葉県警の調べでは、爆発現場とされる文書収蔵庫の床下の数カ所からガスの成分が噴き出していて、爆発原因は地面から噴き出た天然ガスの可能性が高いとみられています。
 
  光太郎の詩碑「千鳥と遊ぶ智恵子」や、「智恵子療養の跡地」の標柱などは、千鳥の遊ぶ浜辺と共に、今も九十九里町に人々に大切にされています。

 
驚きました。九十九里いわし博物館での爆発事故は、同じ千葉県内ということもあり、記憶に残っていましたが、その時亡くなった方が智恵子顕彰の活動をされていたとは存じませんでした。さらに、過日見てきた標柱ができた翌日に事故に遭われていたとは……。
 
ちなみに爆発事故を報じた当時の報道の抜粋です。 

千葉・九十九里のいわし博物館で爆発 1人死亡1人重体 

 30日午前8時57分ごろ、千葉県九十九里町片貝、町立の「九十九里いわし博物館」で爆発が起きた、と隣接する町役場から119番通報があった。山武郡市消防本部によると、鉄筋コンクリート平屋建て約800平方メートルの屋根の一部が吹き飛び、壁が崩れた。同館の臨時職員で、同町西野の川島秀臣さん(63)が全身に大やけどを負って旭中央病院に運ばれたが重体。同じく同館臨時職員で、同県東金市求名の永田征子さん(66)とみられる女性1人ががれきの下から発見されたが、全身を強く打っており死亡した。
  同町役場によると、開館は午前9時で、爆発が起きた時、館内には8時半に出勤した職員2人がいたという。
 現場は町の中心部。隣にある九十九里町役場では、「ドーン」という大きな音がして、席に座っていた職員たちもビリビリという震動を感じた。職員が驚いて見に行くと、博物館から白い煙が上がり、20センチほどのコンクリート片が駐車場などに散乱していた。
 
 
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最初は爆発の原因がわからなかったのですが、続報によれば……
 
爆発を引き起こしたのは、横浜・川崎の湾岸地域から千葉県にかけての関東平野南部地域に広がる「南関東ガス田」の天然ガス。千葉県警は、地表にわき出た天然ガスが文書収蔵庫のコンクリート床の亀裂から室内に入り充満、引火して爆発したとみている。
 
とのことです。
 
9年前の事故ですが、改めてご冥福をお祈りいたします。

ちなみに在りし日の田村別荘、こんな感じでした。最後の画像は取り壊された直後。この時点ではサボテンの木が残っていましたが、もうありません。


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【今日は何の日・光太郎】 6月22日

昭和27年(1952)の今日、裸婦像建造のための十和田湖視察を終え、花巻郊外太田村山口の小屋に帰りました。

【今日は何の日・光太郎】 6月21日

昭和9年(1934)の今日、九十九里浜で療養していた智恵子のもとに、光雲から貰ったメロンを送りました。
 
『高村光太郎全集』第21巻に、以下の書簡(はがき)が掲載されています。
 
昭和9年6月21日 千葉県山武郡豊海村真亀 田村別荘内 斎藤様方 長沼せん子様 駒込林町二五より
 
 今日父の家からメロンを一個もらひましたので小包でお送りしました。包は大きいけれど中は一個だけです。二十三日頃が喰べ頃です。東京は又晴天となり真夏のやうです。それでも此頃はおかげで彫刻が出来るので助かります。
 
宛名の「千葉県山武郡豊海村真亀」は、現在の山武郡九十九里町。「斎藤様」は智恵子の妹・セツ夫妻。「長沼せん子」は智恵子の母です。
 
統合失調症が悪化した智恵子は、この年5月から12月まで、セツ夫妻が住んでいた九十九里で、斎藤一家、母・センと療養生活を送りました。光太郎はほぼ毎週、東京から九十九里に見舞いに訪れていたそうです。
 
そして79年前の今日、九十九里にメロンを送ったとのこと。
 
だから、というわけではありませんが、一昨日、九十九里町に行って参りました。隣接する東金(とうがね)というところに光太郎とは無関係の用事があり、それを済ませてからついでに行った次第です。
 
同じ千葉県内でも、九十九里町は生活圏ではありません。九十九里浜の北端あたりは時折行くのですが、九十九里町はかなり南の方なので、めったに行きません。考えてみると、数年前に二本松の「智恵子のまち夢くらぶ」さんの研修旅行でガイド役をやって以来の訪問でした。
 
東金の台方ICから東金九十九里道路に乗り、東へ。まずは九十九里ICで下りる直前にある今泉PAに寄りました。ここには平成10年(1998)に建立された光太郎・智恵子の像があります。
 
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制作は日展作家の久保田俶通氏。光太郎・智恵子それぞれの単体の像は日本各地に結構ありますが、二人を群像にしたものはこれが唯一です。
 
今泉PAを後に、九十九里ICで下りると、目の前は国民宿舎・サンライズ九十九里です。その裏手に、昭和36年(1961)建立の「千鳥と遊ぶ智恵子」碑があります。
 
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光太郎の肉筆を拡大して石に刻んだもので、地元の文学愛好者や草野心平の骨折りで建てられました。建立当初はこの碑から九十九里浜が望める位置関係だったのですが、その後、碑と海岸線の間に九十九里波乗り道路が出来てしまい、残念な状況です。現在は碑の近くからトンネルをくぐらないと浜にたどり着けません。
 
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一昨日は風が強く、海もだいぶしけていました。
 
さらにサンライズ九十九里前の県道を南下し、真亀川にかかる橋を渡った大網白里町に、智恵子が療養していた「田村別荘」がかつて移築・保存されていました。しかし、地元でのさまざまな行き違いから、平成11年(1999)に突如解体されてしまいました。これも残念です。
 
さて、今回の九十九里行きは、この「田村別荘」が移築される前、もともと立っていた場所を探訪しようと思い立ってのことでした。恥ずかしながら、その元の場所をこれまで確認していませんでした。
 
少し前に、他の方のサイトで県道沿いのテニスコート付近、という情報を得ていましたので、碑の近くの適当なところに車を駐めて歩き、探してみました。民家の軒先では魚の干物制作中。さすが九十九里浜です。
 
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すると、サンライズ九十九里のはす向かい辺りにテニスコートがあり、そこに標柱が立っていました。
 
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以前は碑の近く、県道の東側を一生懸命探して見つからなかったのですが、逆に県道の西側でした。
 
ここだったのか……と、感慨深いものがありました。

平成30年(2018)追記 この標柱も無くなってしまいました。
 
その後、ちょうど昼時だったので、近くの海鮮料理店に行き、昼食。焼肉店のように各テーブルにコンロがあり、自分で頼んだものを焼くシステムになっている店でした。当方が頼んだのは本蛤(はまぐり)何とかセット(笑)。
蛤×4、イワシ2尾、ホタテとサザエが一つずつ。さらに別メニューで焼きおにぎりも注文しました。
 
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これで2,000円ちょっと。安くはありませんが、十分元は取れる内容です。とにかく美味。満足して帰って参りました。
 
帰ってから、さらにネットで調べたところ、他の方のサイトで意外な-ある意味感動的な-記述を見つけました。明日はそのあたりを書こうと思っています。

昨日は横浜みなとみらいホールにて、フルート奏者・吉川久子さんのコンサート、「こころに残る美しい日本のうた 智恵子抄の世界に遊ぶ」を聴いて参りました。
 
とてもいい演奏会でした。
 
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もちろん吉川さんの演奏がメインで、曲間に吉川さんご自身が『智恵子抄』収録詩の朗読をなさったり、光太郎智恵子についての解説をなさったりという構成でした。
 
曲目は以下の通り。
 
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直接、智恵子に関わる曲はありませんでしたが、既存の曲の組み合わせでもたしかに『智恵子抄』の世界がうまく表現されていたように感じました。
 
吉川さんのフルートはもちろんすばらしく、伴奏のお二人(キーボード・海老原真二さん、パーカッション・三浦肇さん)の演奏も非常に工夫されていました。特にパーカッションは、いろいろな楽器……というより道具? を使って、効果音のような音を奏でていたのが面白く感じました。時に鳥のさえずり、時に虫の声、そうかと思えば川のせせらぎ、九十九里の波の音、などなど。
 
さらに曲間の吉川さんのMC。通り一遍の解説でなく、よく調べているな、と感心いたしました。数年前に発見された光太郎の短歌「北国の/女人はまれに/うつくしき/うたをきかせぬ/ものの蔭より」を引用されて、智恵子が時折、造り酒屋だった実家の杜氏たちが歌っていた酒造りの歌などを口ずさんでいたことに結びつけるなど。この短歌、一般にはほとんど知られていないはずですので。また、太陽が赤いという固定観念に異を唱える光太郎の評論「緑色の太陽」の話、智恵子の恩師・服部マスの話など、ずいぶんお調べになったのがわかりました。実際、二本松にも行かれたというお話でした。
 
それにしても、平日の昼間にもかかわらず、440席ほぼ満員でした。吉川さん、「こころに残る美しい日本のうた」と冠したコンサートはこれまでも定期的に続けてこられたようで、コアなファンがいらっしゃるようでした。「智恵子抄」だから、というお客さんがどの程度だったのか、興味のあるところですが。
 
いつも同じことを書いていますが、こういう形でも光太郎・智恵子の世界を広めていただけるのは、本当にありがたいことです。
 
当方も明日は二本松に参り、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座’13」にてしゃべって参ります。このところ、月に1~2件、この手の仕事が入っています(もっと増えるといいのですが……)。与えられた場で光太郎・智恵子の世界を無題1広めて行きたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月15日

昭和27年(1952)の今日、裸婦像制作のための現地視察で、十和田湖に向けて花巻郊外太田村の山小屋を出発しました。
 
画像は一昔前のテレホンカードです。
 
裸婦像に関しては、また折を見て詳述します。
 

大阪市の映画館、シネ・ヌーヴォさんで表記のイベントが開催中です。

5月25日~6月21日まで、1950~60年代の中村登監督作品を24本、入れ替えつつ1日に3~6本上映しています。
 
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このブログでもたびたび紹介してきました昭和42年(1967)公開、岩下志麻さん主演の「智恵子抄」もラインナップに入っています。
 
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6月7日に1回目の上映が終わってしまいましたが、今日から4日間、以下の日程で再上映されます。

2013年6月12日(水) 11時50分~  13日(木) 10時00分~  14日(金) 13時35分~  15日(土) 16時40分~
 
急なご紹介で申し訳ありません。昨日、ネットで調査中に知ったもので……。関西方面の方、ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月12日

平成13年(2001)の今日、宮沢賢治の弟・清六が歿しました。
 
賢治の8歳下の実弟として、明治37年(1904)に生まれた清六は、昭和20年(1945)に空襲で東京を焼け出された光太郎を花巻に招き、その後も何かと光太郎のために世話を焼いてくれました。また、光太郎と一緒に賢治全集の編集にも当たりました。

小学館発行の雑誌『サライ』7月号。昨日発売されまして、早速買ってきました。
 
今月29日から始まる千葉市美術館の企画展「生誕130年彫刻家高村光太郎展」の記事が6ページにわたり載っています。
 
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感心したのは「詩魂を以て木と青銅に生命を刻む」というコピーです。このライターさん、なかなかよく光太郎の精神を理解しています。
 
今後もこうした雑誌、あるいはTV等でもどんどん紹介していただきたいものです。また、いろいろな方のブログで「ぜひ行かなくちゃ」みたいな記述を見かけます。ありがたい限りです。
 
昨日、図録の最終原稿がメールで届きました。出品目録もついており、結局、光太郎作品は千葉では木彫15点、ブロンズ32点が並びます。その他に智恵子の紙絵が65点。光太郎素描や遺品、荻原守衛他周辺作家の作品も出品されます。
 
巡回で岡山井原の田中美術館、愛知碧南藤井達吉現代美術館も廻りますが、点数的には最初の千葉が最多です。以前のブログで井原と碧南には智恵子の紙絵が出ない、的なことを書いてしまったような気がしますが、井原で43点、碧南で26点出ることになりました。
 
この機会を是非お見逃しなく。
 

【今日は何の日・光太郎】 6月11日

明治45年(1912)の今日、雑誌『文章世界』に詩「青い葉が出ても」が掲載されました。
 
はなが咲いたよ000
はなが散つたよ
あま雲は駆けだし
蛙は穴からひよつこり飛び出す
やあれやあれ
はなが散つたよ
青い葉が出たよ
青い葉が出ても
とんまな人からは便りさへないよ
女だてらに青い葉が出ても
やあれ青い葉が出ても
ちよいと意地を張つたよね
 
今ひとつ何が言いたいのかよくわからない詩ですが、どうも智恵子の姿が見え隠れするような気がします。
 
智恵子には故郷・二本松での縁談が持ち上がったと光太郎に告げ(ブラフの可能性も出て来ました)、この1ヶ月後には「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」で始まる有名な詩「人に」(原題「N――女史に」)を書いています。
 
ちなみに画像は我が家の紫陽花です。

朗読のイベント情報を見つけました。

第4回  柴川康子 「語りの会」003

期 日 : 2013年 6月12日(水) 14日(金)
会 場 : 江東区清澄庭園 「涼亭」
料 金 : 
各回 800円  
定 員 : 各回 20名

時間と演目
 12日(水)
  14:00~14:30 宮澤賢治 虔十公園林・雨ニモマケズほか
  15:30~16:00 宮澤賢治 林と思想ほか/高村光太郎 道程全文ほか
  18:00~18:30 加島祥造「老子・タオ」より 「荘子」より
  19:00~19:30 加島祥造 「離思」序詩ほか 画帖より
 14日(金)
  14:00~14:30 加島祥造「老子・タオ」より 「荘子」より
  15:30~16:00 加島祥造 「離思」序詩ほか 画帖より
  18:00~18:30 宮澤賢治 林と思想ほか/高村光太郎 道程全文ほか
  19:00~19:30 宮澤賢治 虔十公園林・雨ニモマケズほか
 
*演目は変更になる場合がございます。予めご了承ください。
*14:00と16:00の会は別途入園料がかかります。
(一般、中学生150円 65歳以上70円)
問い合わせは emputy@nifty.com
 
光太郎を取り上げていただけるのはありがたいことです。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月10日

明治41年(1908)の今日、ロンドンを発ち、留学の最終目的地、パリへ向かいました。
 
昨年のこのブログにも書きましたが、従来、どんなルートでパリに渡ったか不明でした。しかし、新たに見つけた昭和17年(1942)の「海の思出」という散文によれば、イギリスのニューヘヴンからフランスのディエップに至る航路を使ったとのことでした。

成田市に「三里塚記念公園」という000場所があります。「三里塚」という地名で、一定以上の年代の人はピンと来るかと思いますが、空港の近くです。先日、隣町・成田市に買い物に行った際、市街地から少し足を伸ばして立ち寄ってきました。
 
このあたり一帯は江戸時代には幕府が直轄していた馬の放牧場でした。明治に入り、文明開化の流れの中で牧羊が始められ、光太郎が生まれた明治18年(1885)には宮内省直轄化、同21年(1888)には宮内省御料牧場となりました。
 
その後、空港建設のため昭和44年(1969)に閉鎖されるまで存続しました。
 
閉場後は敷地の一部が記念公園として整備され、皇室の方々がお泊まりになった貴賓館(写真上)、明治期に植えられた日本では珍しいマロニエ(栃)の並木(写真下)などが遺されています。当方が訪れたとき、ちょうどマロニエの白い花が咲いていました。秋には子供のこぶし大の実がなります。
 
大正13年(1924)、光太郎の親友・水野葉舟がこの付近に移り住み、光太郎も何度かこの辺りを訪れており、同じく大正13年には御料牧場の馬を謳った「春駒」という詩も作っています(またのちほど紹介します)。
 
公園内にはその春駒の自筆原稿をブロンズに拡大鋳造した詩碑、葉舟の短歌を刻んだ歌碑も立っています。葉舟の歌碑は、もともと最晩年の光太郎が揮毫を依頼され、一度は引き受けたのですが、健康状態がそれを許さず、代わりに窪田空穂が筆を執りました。
 
また、公園として整備された際に建てられた小さな記念館には、葉舟や光太郎にかかわるミニ展示もなされています。
 
もう一人、光太郎と縁の深い人物として、明治末に吉原河内楼の娼妓・若太夫を奪い合った恋敵・木村荘太(作家。画家・荘八の兄)も大正期にこの付近に移り住んでいました。記念館には荘太に関わる展示もあります。
 
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生活圏内なので、何度もここには行きましたが、今回、新たに一昨年から一般公開が始まった貴賓館裏手にある戦時中の防空壕を見せていただきました。以前はこんなものが遺っていたことすら知りませんでした。
 
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御料牧場ということで、やんごとなき方々のために作られたものです。したがって、一般の防空壕とは比較にならないほどのとんでもなく堅牢な造作になっており、コンクリートは厚さ70㌢、直撃弾を喰らった際の爆風逃がしなども整備されています。防空壕というより、シェルターです。ちなみに施工は今も続く大手建設会社・間組です。
 
しかし、戦時中にやんごとなき方々が御料牧場にいらしたというはっきりした記録もないそうですし、実際には成田には空襲はありませんでしたので、この壕は使用されずじまいでした。
 
防空壕といえば、光太郎のすぐ下の弟・道利は戦時中に誤って防空壕に転落した怪我が元で亡くなりましたし、光太郎自身も東京のアトリエを焼け出されて疎開した花巻の宮澤賢治生家でも空襲に遭い、宮澤家の皆さんの機転で、光雲の遺品や身の回りの品々、賢治の遺品なども防空壕に入れたおかげで無事だったという逸話があります。壕の中を歩きながらそんなことを思い出し、改めて光太郎の生きた激動の時代に思いをはせました。
 
というわけで三里塚記念公園。ぜひ一度、足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月9日

昭和42年(1967)の今日、丸の内ピカデリーで開かれていた松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻主演)の完成記念特別披露公開が最終日を迎えました。

横浜でのコンサート情報です。以下、『産経新聞』さんのサイトから。 

フルート奏者の吉川さん「智恵子抄」の世界に挑戦 福島に思いはせ14日に横浜でコンサート

 日本の美しい旋律を演奏し続ける横浜市在住のフルート奏者、吉川久子さんが14日、詩人・高村光太郎が妻、智恵子との愛をつづった詩集「智恵子抄」をテーマにしたコンサートを開く。智恵子は光太郎と暮らした東京から故郷・福島を思い続けた。吉川さんは演奏を通じて、東日本大震災に伴う福島第1原発事故から2年以上が過ぎても避難生活を続ける被災者へ思いをはせたいと意気込む。(渡辺浩生)
 
 吉川さんは7年前からコンサート「こころに残る美しい日本のうた」を毎年開催。東日本大震災直後の一昨年4月には、岩手県出身の宮沢賢治を題材にチャリティー演奏会を実施し、被災者の心の支えとして当時注目された代表作「雨ニモマケズ」も朗読した。
 今年、「智恵子抄」に着目したのも、故郷に戻れぬ福島県の被災者を「忘れてはならない」という思いがあるからだ。
 「智恵子は東京に空が無いといふ」(あどけない話=智恵子抄に収録)。智恵子は東京になじめず、福島県中部の名山、安達太良山(あだたらやま)の上の「ほんとの空が見たい」と言い続けた。 智恵子の心は時代を超えて被災者とも通じている-。5月、智恵子の故郷、同県二本松市を訪ねた吉川さんは、「同じ青空を見上げて」そう感じた。
 コンサートでは、智恵子や福島にちなんだ唱歌・童謡の演奏や詩の朗読を通じて光太郎と智恵子の愛の世界、智恵子の望郷の念を表現する。キーボードは海老原真二氏、パーカッションは三浦肇氏が担当。
 14日午後1時開場、1時半開演。横浜みなとみらいホール小ホール。申し込み・問い合わせは「心に残る美しい日本の曲を残す会事務局」((電)03・5540・8675)まで。
 

このコンサートについて検索してみたところ、いろいろとヒットしました。イベント情報的なサイトから。 

吉川久子フルートコンサート『こころに残る美しい日本のうた』 智恵子抄の世界に遊ぶ

期 日 : 2013年 6月14日(金)
会 場 : 横浜みなとみらいホール小ホール
時 間 : 1時開場  1時半開演
料 金 : 全席自由 2,500円

「東京に空がない」という詩の一節で知られる『智恵子抄』は、詩人で彫刻家の高村光太郎が妻智恵子との愛を綴った詩集。 
 
大正三年に結婚した二人でしたが、洋画家だった智恵子は東京に馴染めず、油絵もなかなか評価されず悩んでいました。そんなおり、実家の破産も重なり、昭和六年頃から精神を病みはじめ、昭和十六年に七年にわたる闘病生活のすえ五十二歳で旅立ちます。 
『智恵子抄』には、二人が共有した時代の愛と喜び、生活の変転、人の世の悲しみが詠われています。

第八回を数える今回の「こころに残る美しい日本のうた」は、フルート奏者の吉川久子が、かつて映画や舞台にもなり、多くの人々に感動をあたえた『智恵子抄』に挑戦し、現代にも通じる光太郎と智恵子の愛の強さ、愛の深さを音の世界で表現します。 

[出演]
吉川 久子/フルート
東京生まれ、鎌倉育ち。横浜在住。ソリストとしてクラシックは勿論、幅広い楽曲を優雅に親しみやすく奏でるフルート奏者。リラックスタイムを演出するコンサートは大好評で、「マタニティーコンサート」の草分け的存在。1993年、秋篠宮紀子妃殿下のご臨席を仰ぎ、フルートの音を披露。コロンビア ミュージックエンターテインメント、エム・アイ・シー、キングレコードから多数のCDアルバムも発売されている。チェコフィルハーモニー六重奏団等、海外アーティストとの共演も多く、高い評価を獲得している。
 
海老沢 真二/キーボード
関西にて、フォークヂュオ「紙ふうせん」のサポートキーボーディストとしてプロ活動を開始。上京後、岡村孝子、あみん、森口博子、森公美子、喜多郎、TOSHI(XJpan)等々、様々なアーティストのコンサートツアーサポート、レコーディングセッションに参加。喜多郎ワールドツアーにも数年にわたり参加する。その他、中国人アーティストとのコラボレーション等様々なジャンルで活動。吉川久子の新譜「アニマ」にもアレンジャー、プレーヤーとして参加している。
 
三浦  肇/パーカッション
打楽器奏者として数々のオーケストラに参加。スタジオワークからライブ演奏まで、幅広いフィールドで活躍を続ける一方、ドラム教室を開催。後進の指導を通じ、打楽器の魅力を広く伝えている。吉川久子の新譜「アニマ」にも参加している。 

後援:横浜市文化観光局・神奈川新聞社・TVK(テレビ神奈川) 

チケット取扱:みなとみらいホールチケットセンターにて発売
チケット予約:ビー・ビー・ビー株式会社内「心に残る美しい日本の曲を残す会」
事務局 担当:榎本 ☎03-5540-8675 FAX.03-5540-8501
 
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何とか都合をつけて聴きに行ってみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月7日

昭和28年(1953)の今日、最晩年を過ごした中野のアトリエで、十和田湖畔の裸婦像原型からの石膏取りが始まりました。

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大阪・堺発の新着情報です。 

「町家歴史館 清学院」で河口慧海がインドから持ち帰った白檀の香木で高村光雲が彫った大黒天像を初公開

 仏教の原典を求めて日本人で初めてヒマラヤを越えてチベットに入った、堺出身の河口慧海(1866年から1945年)が、インドから持ち帰った白檀(びゃくだん)の香木で、近代彫刻界の巨匠・高村光雲(1852年から1934年)が彫った「荒作大黒天(あらづくりだいこくてん)」を、「町家歴史館 清学院」で初公開します。
大黒天像は、大阪府大東市在住で新潟県妙高市・赤倉温泉出身の北村哲朗さんが所蔵されているもので、慧海は大正末頃から戦前にかけて毎年夏になると、赤倉温泉で朝晩湯につかりながら、仏典の研究を続けたと言われています。赤倉温泉で慧海は、彫刻界の巨匠・高村光雲や日本画家の松林桂月(1876年から1963年)とも親しく交わりました。
今回公開される大黒天像は、慧海や光雲と親交のあった北村さんの祖父、故北村岩次郎氏が、二人に依頼して、慧海がインドから持ち帰った白檀の香木を使って光雲が彫ったものです。慧海が名付けた「荒作大黒天」という銘にふさわしく、鑿(のみ)痕も荒々しい個性的な作風です。
同時に、慧海が赤倉温泉で揮毫(きごう)した直筆の扁額「観自在」や、河口慧海と高村光雲、松林桂月の交友をしのばせる写真パネル等も展示します。
 
展示名称 小さな特別展示 「河口慧海と高村光雲」
 
開催期間 平成25年6月1日から6月30日(火曜休館)

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河口慧海。文中にもあるとおり、日本人で初めてチベットに入った僧侶です。戦時中、光太郎が河口の坐像(戦災で消失)などを制作していたことは知っていました。制作中の写真も残されています。

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しかし、寡聞にして光雲ともつながりがあるのは存じませんでした。
 
今回展示される光雲作の大黒天、きれいに仕上げる通常の光雲彫刻と大きく異なり、粗彫りのままです。類例が全くないわけではありませんが、このレベルの粗彫りは非常に珍しいものです。江戸時代の円空の作品を彷彿とさせますね。
 
また京都/堺でセットにして観てこようかな、と思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月3日

大正11年(1922)の今日、智恵子の妹・ミツが歿しました。

その遺児・春子は智恵子の父・今朝吉の養女となり、のちに看護婦となって晩年の智恵子を看取ります。

先頃、京都と大阪の堺に行って参りました。京都では大覚寺さんで新たに見つかった光雲の木彫などを観、堺では与謝野晶子の命日・白桜忌のつどいに参加して参りました。
 
ところが、その京都と堺から、また新たな情報が舞い込んできました。
 
まずは京都。
 
京都国立近代美術館さんで開催中の企画展「芝川照吉コレクション展~青木繁・岸田劉生らを支えたコレクター」に、光太郎の水彩画が出品されているとのこと。

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以下、文化庁さんのサイトから抜粋させていただきます。
 
 芝川照吉という名のコレクターをご存じでしょうか。その人物が,わが国近代美術を代表する青木繁や岸田劉生を世に送り出した張本人だということを知れば,いやが上にも興味がそそがれるにちがいありません。
 そしてこの「芝川コレクション」には,当初1000点を超える作品が集結していましたが,このたび遺族の手元に残された現存する178点が,京都国立近代美術館に一括収蔵の運びとなりました。
 それら貴重な作品群を,関西でははじめて公開する記念の展覧会を開催いたします。
 青木繁が没した翌年(1912年),坂本繁二郎,正宗徳三郎らが中心となって青木繁の遺作展の開催と『青木繁画集』の刊行が計画されました。この時それらの実現に向けて,全面的に資金援助したのが芝川だったのです。そしてこれらの事業を主宰した人たちから,お礼として青木の作品を譲り受け,とりわけ代表作《女の顔》は,芝川家ご遺族の手によって今日まで残された貴重な作品といって過言ではありません。
 さらに本コレクションの核を成す岸田劉生を中心とする草土社の画家たちの作品も見逃せません。岸田劉生が芝川照吉を描いた《S氏の像》(1914年)頃から,ふたりの親密な関係がはじまり,東京国立近代美術館が所蔵する重要文化財の《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年)もコレクションに含まれていたのです。
 
というわけで、そのコレクションの中に、光太郎の水彩画が含まれていたわけです。題名は「劇場(歌舞伎座)」。制作年は不明、23.5×35.4センチの小さな絵です。
 
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当方、つてを頼って画像データを入手しました(さすがにこのブログでは転載できませんが)。不思議な絵です。これだけがポッと出てきて「光太郎作の水彩画だ」と言われても、信用できません。しかし、芝川コレクション自体の来歴がしっかりしているので、信用できると思います。
 
この芝川コレクション、国立国会図書館のデジタルデータに当時の図録が納められており、光太郎の名も目次に載っています。ところが光太郎の作品が載っているページが欠損しており、どんなものか以前から気になっていました。
 
ただ、芝川コレクション全体は膨大なものだったようなので、今回の水彩画以外にも光太郎作品が入っていた可能性もあります。しかし、大正12年(1923)の関東大震災などで失われてしまったものも多いとのこと。残念です。
 
さて、今回の「芝川照吉コレクション展」。光太郎の水彩画以外にも、光太郎の近くにいた作家の作品が数多く含まれています(出品リスト)。岸田劉生、柳敬助(光太郎の親友・妻、八重を介して智恵子が光太郎に紹介されました)、石井鶴三、高村豊周(下記参照)、富本憲吉、石井柏亭、奥村博(平塚らいてうの「若いツバメ」)、清宮彬、バーナード・リーチなどなど。会期は6月30日まで。
 
これはまた京都に行かなければならないなと思っています。
 
さらに大阪・堺からも新着情報が。明日、紹介します。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月2日

昭和47年(1972)の今日、光太郎の弟で、鋳金の道に進み、人間国宝に認定された高村豊周(とよちか)が歿しました。
 
ほとんどの光太郎塑像の鋳造を担当し、光太郎没後は連翹忌などその顕彰活動に奔走しました。また、光太郎に関するたくさんの回想録は、すぐ身近にいた立場からのもので、非常に貴重なものです。光太郎同様、文才にも恵まれ、歌会始の召人に任ぜられた他、四冊の歌集を遺しました。

京都・大阪レポートの2回目です。
 
午前中、京都大覚寺の「大覚寺の栄華 幕末・近代の門跡文化」展を観て、一路、大阪は堺に向かいました。京都から新大阪まで新幹線、その後、地下鉄と路面電車を乗り継ぎ、堺市の覚応寺さんというお寺に向かいました。こちらで昨日、与謝野晶子の命日・白桜忌が行われました。
 
 
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左の画像はパンダ顔の路面電車、阪堺電気軌道阪堺線。歴史は古く、明治末には走っていたとのことで、晶子も使ったのではないでしょうか。当方、天王寺から乗りましたが、どこまで乗っても200円。これにはちょっと驚きました。
 
会場の覚応寺さんに行くには神明町という駅で降りましたが、あと3駅行くと、晶子生家跡のある大小路駅でした。昨日は強行日程だったので行きませんでしたが、また日を改めて周辺を散策してみようと思っています。
 
右上の画像は白桜忌会場となった覚応寺さんと道をはさんだ向かいにある西本願寺堺別院さん。味のある建物だな、と思っていたら、案の定、明治の昔に堺県庁として使われていたとのこと。
 
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さて、覚応寺さん。明治期のここの住職が晶子と鉄幹を引き合わせたということで、ここで白桜忌が開かれているそうです。境内には有名な晶子短歌「その子はたち櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」を刻んだ碑がありました。
 
会場は本堂。大阪在住の高村光太郎研究会会員・西浦氏も到着。受付を済ませて入ると、正面に晶子遺影、サイドには与謝野夫妻直筆の短冊や晶子肖像画などが飾られていました。
 
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午後1時半の開会。お寺での開催ということで、覚応寺院主さんの読経や晶子実家鳳家の方による代表焼香があったりと、宗教色の強いものでした。ただ、それだけでなく、地元の方々による献茶、献歌、献句、そしてコーラスもありました。曲は晶子に関わるもの3曲。「茅渟の海」「ミュンヘンの宿」そして「君死にたまふことなかれ」。堺の人々が晶子顕彰に力を入れている様子に感心させられました。
 
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その後、国立台湾大学日本語文学系教授にして与謝野晶子倶楽部副会長の太田登氏による講演「晶子における現在的意味を考える-堺の晶子から世界の晶子へ-」と続きました。
 
現在の近隣諸国とのぎくしゃくした国際情勢をふまえ、主に大正期の著述から世界平和を訴えていた晶子の姿、その思想的水脈としてのトルストイとの関連などのお話でした。
 
下の画像は太田氏の新刊「与謝野晶子論考-寛の才気・晶子の天分-」。白桜忌に合わせて昨日の刊行で、版元の八木書店出版部さんが会場内で販売していましたので購入しました。与謝野夫妻と光太郎との関わりについてはまだまだ調べなければならないことがあるので、その手引きとしたいと思います。
 
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その後、西浦氏に車で南海電鉄の堺東駅まで送っていただき、帰途につきました。強行日程でしたが実りの多い京阪訪問でした。
 
しかし、来月にはもう一度京都に行く用事が出来てしまいました。詳細はまた後ほど。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月30日

昭和21年の今日、農民芸術社から雑誌『農民芸術』が刊行されました。

光太郎は宮沢賢治に関する散文「第四次元の願望」を寄せています。

京阪に行って参りました。2回に分けてレポートします。
 
昨日の夜、居住地から夜行バスで京都に向かいました。夜行バスなるものを使うのは初めてでした。午後9時に出発、今朝6時20分に京都駅八条口に到着。運賃は片道で8820円。新幹線を利用するより格段に安い金額ですし、眠っている間に着くので時間の有効活用という意味でもいい方法でした。ただし、寝心地はあまりよくありませんでした。乗り心地を取るか、時短と金額の安さを取るか、という選択ですね。
 
目指すは嵯峨野の大覚寺さん。霊宝殿という宝物館で先月から「大覚寺の栄華 幕末・近代の門跡文化」展が開かれていまして、昨年末、新たに大覚寺さんで発見された光雲の木彫三点が初めて公開されています。
 
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図録は刊行されず、上記のチラシが図録代わりでした。
 
発見された木彫は3点。いずれも20センチちょっとの小さなものですが、光雲の職人技が冴えわたっています。
 
最も古いのが「木造聖観音菩薩立像」。大正5年(1916)4月3日と箱書にありました。
 
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続いて「木造白衣大士」。箱書は大正6年(1917)12月。こちらはチラシに画像がありません。
 
もう1点が「木造聖徳太子孝養像」。大正7年(1918)11月23日作の箱書。
 
光雲は多くの弟子を抱え、弟子がメインで作った作品も光雲が仕上げに手を入れれば光雲のクレジットが入る、という工房スタイル-ガラス工芸のエミール・ガレの工房と似ています-だったとのことですが、弟子の手がほとんど入っていない場合のクレジットは「高光雲」となっているそうです。今回の3点は全て「」が使われていました。
 
それから、元々大覚寺さんにある無題2ことが知られていて、報道はされなかったのですが、光雲筆の墨画「ひよこ図」(昭和9年=1934)も展示されていました。逆に当方はこの作品の存在を知らず、こんなものもあったんだ、という感じでした。
 
それ以外には、こちらの研究とは関わりませんが、鎌倉~江戸期の五大明王像や、堂宇内の狩野派の障壁画など、観るべきものが多く、また、市街地から離れた嵯峨野の風情も堪能いたしました。
 
「大覚寺の栄華 幕末・近代の門跡文化」展は明後日までですが、今後も寺宝の一つの目玉として、光雲作品は常設で観られるようにしてほしいものです。
 
午後からは大阪・堺にて与謝野晶子忌日・白桜忌に初めて参加して参りました。明日はそちらをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月29日

昭和14年(1939)の今日、茨城県取手市の長禅寺で、光太郎が題字のみ揮毫した「小川芋銭先生景慕の碑」が除幕されました。
 
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小川芋銭(うせん)は、茨城県牛久沼のほとりに暮らし、河童の絵を描き続けた日本画家です。光太郎と同じく、取手の分限者、宮崎仁十郎(その息子、稔は光太郎が出雲の神となって、智恵子の看護をした姪の春子と結婚します)と交友があり、その縁で光太郎が碑の揮毫をしました。また、光太郎は同じ年に「芋銭先生景慕の詩」という詩も書いています。
 
取手長禅寺さんにはもう一つ、光太郎が題字を揮毫した「開闡(かいせん)郷土」碑も残っています。

昨日、神田の古書店八木書店様からメールマガジンが届きました。
 
その中に光太郎とも縁の深かった与謝野晶子の忌日、白桜忌(はくおうき)の案内が書かれていました。八木書店様には出版部もあり、逸見久美氏、太田登氏などの鉄幹・晶子論を刊行されている関係だと思いますが、後援として名前を連ねています。 

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晶子の命日(5月29日)をしのび、晶子ゆかりの寺・覚応寺において白桜忌が開催されます。
【日時】5月29日(水曜)午後1時30分
【場所】覚応寺(阪堺線「神明町」下車 東へ徒歩約1分)
【参加費】1,000円
【主催】白桜忌実行委員会
【プログラム】
〈講演〉「晶子における現代的意味を考える -堺の晶子から世界の晶子へ-」
(講師)太田 登(天理大学名誉教授・国立台湾大学日本語文学系教授)
〈合唱〉「君死にたまふことなかれ」他
(出演)堺市更生保護女性会コーラス部
【問合せ】白桜忌実行委員会  電話 072-258-0948
 
「白桜忌」という名は、昭和17年(1942)に刊行された晶子の遺稿歌集『白桜集』に由来するのだと思います。この『白桜集』、光太郎が序文を書いています。

追記・逆でした。晶子の戒名が「白桜院鳳翔晶燿大姉」が先にありきで、それにちなんで『白桜集』だそうで。
 
さて、5月29日。たまたまですが、少し前からこの日は大覚寺さんで新たに見つかった光雲の木彫三点を観ようと、京都に行く計画を立てていました。
 
もう一件、こちらは先方の都合でどうなるかわかりませんが(返答待ち)、京都で別件の調査が入るかもしれません。ただ、京都と堺ならそれほど離れていないと思うので、余裕があれば白桜忌にも行ってみようかと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月23日

昭和36年(1961)の今日、山形県酒田市の本間美術館で「高村光太郎の芸術」展が開幕しました。

昨日は乃木坂国立新美術館で太平洋美術展を観たあと、原宿のアコスタディオさんに向かいました。シャンソン歌手・モンデンモモさんのライブです。何度もご紹介してきていますが、光太郎の詩にご自分で作曲され、発表なさっています。
 
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今回は2部構成でした。1部は主に明治末から大正初めの光太郎智恵子が結ばれる時期にポイントを絞り、新曲も多く交えてステージを組みました。モモさんの凄いところは、聴くたびに曲が増えていることです。昨日も今までなかった「N-女史に」とか「或る夜のこころ」、「淫心」などが披露されました。また、智恵子が雑誌『青鞜』の表紙を描いたことをふまえ、平塚らいてうにもからめ、らいてうの書いた「元始、女性は太陽であつた」も歌にしていました。
 
2部は旧曲からのセレクトで、光太郎智恵子の後半生を謳うステージ。その冒頭で5分ほど時間をいただき、レクチャーして参りました。1部で扱われていた明治末から大正初めは、光太郎の内部で満たされない思いが渦を巻き、詩として吐き出されていたり、智恵子との恋愛の成就でそれが満たされ、有頂天になって高らかに詩が謳われたりしたこと、その後は平穏な生活が続き、詩作が途絶えたことなどです。光太郎に限らず詩人全般に言えることですが、平穏な日々を送っている間は詩作が少なく、マイナスの鬱屈した思いや逆にプラスの高揚感で満たされている日々になると詩作が増えます。
 
光太郎に関して言えば、大正3年(1914)の結婚披露から10年ほどの間は詩作が少なく、比較的平穏な日々だったといえます。それが大正12年(1923)頃から再び詩作が多くなるのは、智恵子との生活に「きしみ」が見えてきたからだ、ということで、2部につなげました。このレクチャーが意外と好評だったのでよかったと思います。どさくさに紛れて光太郎生誕130周年記念で花巻の記念館がリニューアルオープンしたことや、来月から始まる「彫刻家・高村光太郎展」の宣伝もさせていただきました。
 
2部まで終わり、アンコールは「道程~冬が来た」。お客様(坂本富江様もいらしていました)の反応も上々でした。光太郎詩以外にも、サティの「Je te veux」やフォーレの「夢のあとに」を歌付きで入れたのも良かったと思います。相変わらず伴奏の砂原嘉博さんのピアノも冴え渡っていました。
 
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終演後の会場で
 
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地下のホールから地上に上がると、なぜかキティーちゃんとダニエル君(笑)。同じビルを拠点にサンリオさんのイベントカーが走り回っていました。
 
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【今日は何の日・光太郎】5月20日

明治19年(1886)の今日、福島県安達郡油井村(現・二本松市)で、智恵子が誕生しました。
 
智恵子は生誕127年になります。

今日も上京、2件用事を片付けてきました。001
 
1件目は乃木坂の国立新美術館で開催中の第109回太平洋展を観ること、もう1件は原宿アコスタディオさんで開催されたモンデンモモさんのライブに出演することです。2件の場所が近かったので、まとめました。
 
今日はまず太平洋展のレポートを。
 
「一般社団法人太平洋美術会」さんの団体展で、この団体は明治末に日本女子大学校を卒業した智恵子が所属していた「太平洋画会」の後身です。高村光太郎研究会に所属され、連翹忌などのイベントに欠かさずご参加くださる坂本富江様がこちらの会員で、坂本様の作品も並ぶとのことで、見に行って参りました。
 
当方、美術館にはよく足を運びますが、ほとんどは個人作家、それも光太郎と縁のあった作家-したがって少し前の時代の作家-の企画展です。考えてみると、団体展、それも現代の、となると初めて観ました。
 
油絵、水彩画、版画、染織作品、彫刻の五部門が一堂に会し、とんでもない点数の作品が並んでいました。
 
絵画が中心でしたが、ほとんどが100号前後の大きなもの。圧倒されました。圧倒はされましたが、不快なものではありませんでした。意外とわかりやすい具象の作品が多かったせいだと思います。
 
また、版画や染織の作品にも非常に好感が持てました。002
 
さて、坂本様の作品。これも100号の大きな絵です。
 
題して「智恵子抄の里(二本松市)」。桜と針葉樹のある野の道、その向こうに安達太良山、その上には「ほんとの空」。昨年、坂本様の出版なさった「スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅」と同一のモチーフです。
 
100号もあって自宅に飾るのは不可能ですが、先週リニューアル成った花巻の高村光太郎記念館や、今日、このあとに行ったモンデンモモさんのライブ、それからもちろん連翹忌などでこうしたものが飾られるといい感じだな、と思いました。
 
しかし、「美」を生み出そうとする人間のエネルギーというか、意欲というか、そういうものを非常に感じた展覧会でした。自分も絵心があれば、挑戦してみたいと思うのですが……。
 
会期は5/27(月)までです。
 
明日のブログでは、この後行った、原宿でのモンデンモモさんのライブについてレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎】5月19日

明治26年(1893)の今日、智恵子の両親斎藤今朝吉・セン夫妻が、センの養父長沼次助と夫婦で養子縁組、数え8歳だった智恵子も斎藤姓から長沼姓になりました。
 

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