カテゴリ: 東北以外

昨日も上京しておりました。目的地は台東区上野の落語協会さん。
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こちらで開催された「彌生・初演の会」拝聴のためです。
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「初演の会」は毎月開かれているようで、「初演」ですから古典ではなく創作落語。昨日は鈴々舎馬桜師匠による「高村光雲」が初演されました。
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光太郎の父・光雲の談話筆記になる『光雲懐古談』を読まれた馬桜師匠が、その落語的面白さや光雲の江戸っ子的テイストなどを創作落語に出来ないか? と考えられての試みでした。

前半は『光雲懐古談』にある、光雲少年時代(まだ幕末)、ひょんなことから当代一の仏師・高村東雲の元に弟子入りすることになったくだり、修業時代に端材で彫った鼠の木彫が高僧の目にとまり、思いがけず買い上げて貰ったエピソードなど。

後半は上野ということで、光雲が主任となって東京美術学校総出で制作された上野公園の西郷隆盛像について。『光雲懐古談』には西郷像の話は出て来ませんので、他の資料をベースに、馬桜師匠が「こんなこともあったんじゃないか」という想像です。岡倉天心、勝海舟、伊藤博文、岩崎久弥、果ては明治天皇まで登場し、歴史好きにはたまらないでしょう。

ちなみに『光雲懐古談』では西郷像の件は語られていませんが大正12年(1923)に刊行された『南洲手抄言志録解』(馬場禄郎編・一指園)、昭和9年(1934)1月7日の『小樽新聞』に光雲の苦心談が語られています。共に当会発行・当方編集の『光太郎資料』第59集に載せておきました。

他の演目は、以下の通り。

やはり馬桜師匠による「宿題三題噺」。毎月の「初演の会」で、その時のお客さんから「題」を預かり、翌月までに一つの噺にまとめて披露するというもの。お題は「①大谷翔平」「②金持ち喧嘩せず」「③花見酒」。当初予定では他の噺家さんの担当だったそうですが、急遽、馬桜師匠が代役を務められました。来月分の「題」もこの日のお客さんから募り、当方以外は皆常連さんやご同業の方だったようで、いろいろ無茶振りが提案されていました(笑)。

林家たたみさんによる上方古典落語「花筏」。まだ前座の方だそうでしたが、かえってその初々しい感じに好感が持てました。

桂右團治さんで「心眼」。右團治さん、現代の落語界に詳しくない当方、そのお名前から当然男性だろうと勝手に思い込んでいましたが、囃子とともに出ていらしたのが女性だったので驚きました。落語芸術協会さんで初の女性真打だそうでした。「心眼」は光雲が(息子の光太郎も)ファンだった三遊亭圓朝が明治期に作ったものだそうで、奇縁に驚きました。

さて、馬桜師匠の「高村光雲」。来月、また高座にかかります。

山野楽器落語の一日 第二部 熱血・若手落語会

期 日 : 2024年4月5日(金)
会 場 : ヤマノミュージックサロン池袋 東京都豊島区南池袋1-19-5
時 間 : 15:00~17:00
料 金 : 2,000円

番組
 |、牛ほめ     台所おさん
 |、高村光雲    鈴々舎馬桜
 |、饅頭怖い    林家たこ蔵
 |、百年目     鈴々舎馬るこ

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

予定の彫刻はまづ潺湲楼の額を彫り、次に椿材で帯留を一ツ彫り、これは院長さんの夫人に献ずるつもり。それから小木彫と粘土の裸像、これは智恵子観音の原型。

昭和22年(1947)2月20日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋での生活、まだこの頃は戦争協力を恥じ、自らに罰を与える彫刻封印という考えには至っていなかったようです。

「潺湲楼」は山小屋に移る前に厄介になっていた総合花巻病院長・佐藤隆房邸離れ。光太郎が命名し、佐藤が「ではその文字を彫って下さい」と板を用意し、制作を始めましたました。しかし、結局途中で放棄してしまいます。
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「帯留」も佐藤家には見あたらないとのこと。ところが昨年、宮沢賢治実弟の清六夫人に送られていたことが判明し、仰天しました。しかし、戦後のドサクサで現物は残っていないということでした。

「智恵子観音」は形を変え、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として昭和28年(1953)に結実します。

昨日は都内に出ておりました。メインの目的は銀座王子ホールさんで開催された「朝岡真木子歌曲コンサート 第7回」

そちらが午後2時開演でしたので、その前に駒場の日本近代文学館さんで調べもの。
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国立国会図書館さんのデジタルコレクションリニューアルに伴い、自宅兼事務所に居ながらにして、未知の光太郎作品等の発見が相次ぎました。ただ、新たに公開されたデータの数が膨大なので、未だ調査中です。しかも自宅兼事務所のPCでは見られない「国会図書館内限定」というデータも多く、同館に出向いての閲覧も行っていますが、昨日は祝日で同館が休館。そこで、目星を付けておいた資料のうち、日本近代文学館さんにも所蔵があるものを閲覧させていただこうというわけです。

しかし、ほとんどは空振りでした。

たとえば国会図書館さんのデジコレ検索画面でこういう情報が。
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雑誌『少年倶楽部』。同誌に載った既知のものは大正15年(1926)の詩「路ばた」しかありません。そこへ来てこういう情報が出て来ると、それ以前の大正8年(1919)に「我美術界の将来」と題する文章が掲載されているかも、と思うわけです。当方作成の光太郎文筆作品等リストに「我美術界の将来」という作品はありません。期待が高まります。

ところが、実際に『少年倶楽部』の当該ページを見ると、同じ講談社発行の雑誌『雄弁』の広告。では『雄弁』に「我美術界の将来」という文章が掲載されているかというと、当該号に載っているのは「戦後の我が芸術界」。既知の作品です。広告と実際のものとで題名が変わっているわけです。よくある話ではあります。ちなみに「戦後」は「第一次世界大戦後」の意です。

それからこんなケース。
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これは当初から広告だろうとわかりましたが、「高村光太郎氏曰く」とあるので、その後に光太郎の文章が続いているはず。たしかに以下の通り、光太郎の文章がありました。
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この手の広告に載った短評で、未知のものの発見が昨年相次ぎましたので、「よっしゃ!」と思ったのもつかの間、これは雑誌『詩神』に載った既知の「田中清一詩集『永遠への思慕』読後感」からの転載でした。

こんな感じばかりでしたが、こんなことでめげていられません。今後も鋭意調査を継続します。

さて、その後、銀座王子ホールさんに移動。
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メインの目的、「朝岡真木子歌曲コンサート 第7回」を拝聴。
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光太郎詩をテキストに「組曲 智惠子抄」を作曲なさった作曲家・朝岡真木子氏の作品集が演奏されるコンサートで、ピアノは朝岡氏ご自身です。

今回は、昨秋開催された「福成紀美子ソプラノリサイタル~作曲家 朝岡真木子とともに~」で初演された「冬が来た」が、バリトンの馬場眞二氏の歌唱で演奏されました。女声による演奏もいいのですが、硬質な「冬」を謳い上げた詩ですので、男声の響きが非常にマッチしていた感じでした。

   冬が来た
 
 きつぱりと冬が来た
 八つ手の白い花も消え
 公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

 きりきりともみ込むやうな冬が来た
 人にいやがられる冬
 草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
 冬よ
 僕に来い、僕に来い
 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
 しみ透れ、つきぬけ
 火事を出せ、雪で埋めろ
 刃物のやうな冬が来た

その他、現代詩人の皆さんの作品に曲を付けられた作品など。かつて「組曲 智惠子抄」をリサイタルで取り上げられたり、CD化なさったりした清水邦子氏もご登場。毎回そうですが、その詩人の皆さんの何人かもご来場なさっていました。

終演後のホワイエ。

朝岡氏。
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清水氏、馬場氏。
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今後とも皆様がご活躍されることをを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

人から貰つた青竹の火吹竹を割つて茶杓をつくるつもりです。畳目十三本の長さにして火だめにしませう。銘を「火ふき」とつけます。火ふきは火吹きでもあり、又火噴きでもあります。光太郎好みの形にします。


昭和22年(1947)2月4日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村での7年間の蟄居生活中、作品として発表した彫刻は1点も作りませんでしたが、こうした身の回りのものは自作していたようです。

そろそろ桜便りも届き始めていますね。それに合わせて全国各地で夜間ライトアップ等が催されます。光雲、光太郎ゆかりの場所でのそれをご紹介します。

まず京都。光太郎の父・光雲が主任となって原型を制作した鋳銅の聖観音像(露座)もライトアップされます。

春のライトアップ2024

期 間 : 2024年3月23日(土)~4月3日(水)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑 国宝三門周辺 女坂 国宝御影堂 阿弥陀堂(外観のみ) 大鐘楼
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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御影堂(国宝)
寛永16(1639)年、徳川家光公によって再建されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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大鐘楼(重要文化財)
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし テーマ『一心に専(もっぱ)ら』~開宗850年への思い~
手の正しい合わせ方が分からない。仏教の話は難しそう…。お坊さんの話を今まで聞いたことがない。どのようなお方も大歓迎です! 気軽に御影堂へいらしてください。正座じゃなくて大丈夫です。椅子席もありますよ! お話の後、木魚にふれ「南無阿弥陀仏」とお称えする、木魚念仏体験の時間があります。日常を忘れ、心静かなひとときを味わってみませんか?
開始時間:18:00~ 18:45~ 19:30~ 20:15~(各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)
知恩院七不思議のひとつ「忘れ傘」をモチーフにした缶バッジを参加者全員に差し上げます!(無くなり次第終了)
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月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内!1時間30分たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:毎夜開催
 開始時間:17:45~/19:30~
 所要時間:約1時間30分
 定員:各回30名様まで
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。料金は拝観受付にてお支払いください。
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ライトアップ同時開催企画展示
 「鬼より強い守り神」 3月23日(土) ~ 3月27日(水)
  吉田瑞希・陶芸家
  「鍾馗(しょうき)」という中国から日本に伝わってきた、屋根に佇む魔除けの神様。
  友禅苑 茶室「白寿庵」(23日(土)・24日(日)のみ)、茶室「華麓庵」
 「千代紙の色とデザイン」 3月29日(金) ~ 3月31日(日)
  REKAO 桜柄の千代紙の屏風や、14枚の型で染め上げられた椿柄の屏風等を展示。
  友禅苑 茶室「華麓庵」
  REKAOの千代紙を使った御朱印帳を御朱印所にて販売します。
  販売日:3月23日(土)、24日(日)、29日(金)、30日(土)、31日(日)
 「花明 Ceramic × Scissors Vol.2」 3月29日(金) ~ 3月31日(日)
  林侑子・陶芸家
  土をハサミで切る、新しい装飾技法から生まれる土鋏作品を展示します。
  友禅苑 茶室「白寿庵」
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関連行事等も充実していますね。

もう1件、光雲、光太郎、そして智恵子らが眠る髙村家墓所のある、駒込染井霊園です。

染井霊園ライトアップ

期 日 : 2024年3月23日(土)~4月7日(日)
会 場 : 都立染井霊園 東京都豊島区駒込5-5-1
時 間 : 17:30~20:00
料 金 : 無料

園内には約100万本ものソメイヨシノが植えられ、高村光太郎、智恵子をはじめ、岡倉天心、二葉亭四迷など多くの偉人が眠っています。開花の時期には園内が一部ライトアップされ幻想的な夜桜を楽しめます。
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このブログでご紹介するのは今年が初めてですが、「染井よしの桜まつり」の一環としてかなり前から行われていたようです。今年は案内に「高村光太郎、智恵子」とあったのでこちらの検索網に引っかかりました。

夜の霊園で、というとちょっと怖いかなと思われる向きもいらっしゃるかもしれませんが、染井霊園、きれいに整備され、いわゆる「墓場」という感じではありません。

そして何と言ってもこの辺り一帯、ソメイヨシノの発祥の地です。そう思って見ると、また格別なのではないでしょうか。

それぞれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

入口の戸は夜になると凍りついて中々開きません。急須の蓋も凍りついて、湯を上からかけないととれません。


昭和22年(1947)2月3日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

花巻郊外旧太田村の山小屋、前年の冬よりは寒くなかったそうですが、それでもこういうありさまでした。

落語の公演情報です。

彌生・初演の会 =お楽しみ宿題三題噺=

期 日 : 2024年3月23日(土)
会 場 : 一般社団法人落語協会 東京都台東区上野1-9-5
時 間 : 開場 17:10 開演 17:30
料 金 : 1,500円

番組
|、宿題三題噺 林家たま平
|、名人傳   鈴々舎馬桜
|、相撲風景  林家たま平
|、心眼    桂右團治

馬桜:名人傳は、創作落語になるか?「浜野矩髄」に成ります。

@終演後、反省会を兼ねた懇親会が有ります。参加費:3000円前後 村役場です。

宿題三題は、2月24日の初演の会で題を頂きます。

メール予約:baorin@reireisha.com

鈴々舎馬桜師匠の「名人傳」が、光太郎の父・光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)からのインスパイアだそうです。

『光雲懐古談』、真面目な話が根幹ですが、ユーモア溢れる話も多く、そうした意味では落語のネタとして格好の素材です。

平成27年(2015)、NHK Eテレさんで放映された「日曜美術館 一刀に命を込める 彫刻家・高村光雲」。当時のプロデューサー氏が『光雲懐古談』を読み、その落語的面白さに惹かれて制作されました。ナレーションに俳優の石橋蓮司さんを起用し、落語っぽい語りが挿入され、いい感じでした。

元々、光雲は語り上手で知られていました。『光雲懐古談』中にまるまる一節が使われているところが複数箇所ありますが、「国華倶楽部」「国醇会」などで講話をする機会も多く、宴席などではその話芸があまりに巧みで、芸者衆などが光雲の周りにばかり集まり、美術学校の同僚たちが「高村さんとはもう飲みに行かない」とやっかんだというエピソードも伝わっています。

また、『光雲懐古談』以外に、同じ昭和4年(1929)に刊行された『漫談 江戸は過ぎる』(河野桐谷編 万里閣)などにも光雲による実に面白い談話が多数掲載されており、当方編集当会刊行の『光太郎資料』にて少しずつご紹介しています。

000今回は『光雲懐古談』中のエピソードを使っての新作落語。馬桜師匠のフェイスブック投稿から。

今日の一句
|、春深し面白すぎの懐古談
*はるふかしおもしろすぎのかいこだん

夕飯迄の時間を読書に当てる、拾い読みしていたものを始めからじっくり読む。
『高村光雲懐古談』面白い。そして為になる。
改めて感心する。幕末から明治維新の頃の浅草の様子が良く解る。
そして、仏師の修業過程が良く解ります。
噺の裏付けできちんと読み直そうと思ったのですが、違う題材でも一席出来そうな・・・。
初演の会で『高村光雲』と云う噺にこさえてますが・・・
皆さんのその目と耳で確かめて下さい!!
ご予約メール待ってます。

初演の会の準備。
高村光雲が作った上野恩賜公園の西郷隆盛の銅像を造る裏話を・・・
落語家から観たその騒動?を 探ってます。
ただ その裏付けとして、明治の歴史を改めて勉強のし直しです。
憲法発布で西郷が罪一等を減じられて、「維新の功績」を見直されて銅像を!
声が上がり、日本全国から募金をつのり出来上がった様です。
『高村光雲懐古談』を読み直しましたが・・・江戸っ子なんですね。
寄席に行って講釈や落語も聴いた。と云う前提で噺が出来上がりつつあります。

実際、光雲は(息子の光太郎もですが)三遊亭圓朝のファンでした。そこで、少なからず影響を受けていたのではないかと思われます。

ちなみにオリジナルの昭和4年(1929)版『光雲懐古談』には、「ふどう売りもの――落語になる話――」という、まさに落語を意識した項もあったりします。戦後の復刻版ではカットされていますが。

当方、予約いたしました。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生も元気で新年を迎へました。現実の世情は目で見る通りですが、本来大いに好季節に向はねばならぬ次第、あとは国民一人一人の叡智如何による事です。

昭和22年(1947)1月5日 小盛盛宛書簡より 光太郎65歳

昭和22年(1947)となりました。この稿、慣例により年齢は数え年で表記していますので、年明けとともに光太郎65歳です。

001実は(実はと言うほどでもありませんが(笑))、今日、3月13日は光太郎の誕生日です。生誕141年となりました。

誕生日と言えば、光雲の誕生日。フェイスブックやX(旧ツィッター)上では、3月8日に「今日誕生日の偉人」的な書き込みで光雲の名が書き込まれていて閉口しております。実際には2月18日ですので。ではなぜそういうズレが生じているかというと、光雲の生まれた嘉永5年(黒船来航の前年です)は当然、旧暦だったわけで、それを新暦に換算すると2月18日は現在の3月8日になるとのこと。こういう換算はいかがなものかと思います。

たとえば「忠臣蔵」。赤穂浪士の吉良邸討ち入りは元禄15年(1702)12月14日。そこで現代でも12月14日前後にテレビ等で「忠臣蔵」関連の放映が為されていますが、これを新暦に換算すると1703年1月30日になります。そこで、1月30日前後に「忠臣蔵」特集を組んだとしたら「はぁ?」ですよね。

あくまで光雲の誕生日は2月18日でお願いしたいところです。

昨日は都内に出ておりました。

メインの目的は、光太郎終焉の地にして昭和32年(1957)の第一回連翹忌会場となった、中野の貸しアトリエ保存に向けての関係者会合でした。

そちらが夕方からということで、その前にギャラリー2軒をハシゴ。

まずは銀座のギャラリーせいほうさん。
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こちらでは「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」が開催中です。
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メインは光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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戸板に手をかける福の神と、扇形の地板の外に追いやられた邪鬼と。それぞれの部分での刀技の冴え、陽刻と陰刻のバランス、余白の取り方など、まさしく超絶技巧ですね。

他に光雲高弟の面々の作。

山崎朝雲。
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米原雲海。
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平櫛田中。
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孫弟子にあたる佐藤玄々。
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孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇。
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これは存じませんでしたが、高昇は光雲の高弟・山本瑞雲の系譜に連なるそうで、実の血縁と師弟の系譜と、かなり錯綜しています。息子の堅太郎氏が孫弟子、父親の高昇は曾孫弟子、逆転していますね。
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孫弟子までは概ね頭に入っていましたが、曾孫弟子となると誰が誰に師事したか存じませんで、こういう系図になるか、と、新鮮でした。ここに挙げられていない枝葉も多く存在するわけで、そうした部分での光雲の功績というものを実感させられました。弟子や孫弟子、さらにその次と、伝統的な技法をしっかり受け継いだ上でそれぞれの独自性を出し、そうやって袋小路に入らずに発展していくんだな、と。

続いて、原宿に。次なる目的地はデザイン&ギャラリー装丁夜話さん。こちらでは二人展というか三人展というか、「星センセイと一郎くんと珈琲」が開催中です。
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こちらはマンションの一室をギャラリー兼カフェとして使っており、なるほど、そういうのもありかと思いました。

香川県ご在住の山口一郎氏のドローイングが2種類。いずれも光太郎詩「レモン哀歌」オマージュです。ありがたし。

まずは「レモン」。
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アクリル絵の具で描かれたものだそうですが、ズラッと並ぶとものすごいインパクトでした。

それからずばり「レモン哀歌」。
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詩「レモン哀歌」が18行あるということで、その1行ずつが描かれています。面白い発想ですね。

今回の展示のサムネイル的に使われているこの絵もその中の1枚で、智恵子でした。詩句としては「ぱつとあなたの意識を正常にした」。
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画像は18枚を一冊にまとめて印刷したポストカードブックの表紙です。
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一冊2,200円也。デザイン&ギャラリー装丁夜話さんサイトでオンライン販売が始まりました。ぜひお買い求め下さい。

今回の展示、メインは山口氏の師・星信郎氏のデッサン。こちらはサマセット・モームからのインスパイアだそうで。
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こちらもいい感じでした。

ギャラリー2軒ハシゴの後、新宿へ。メインの目的、中野アトリエ保存に向けての関係者会合です。会場は新宿村CENTRALさん。
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PXL_20240308_070935608意外といえば意外な会場なのですが、会合メンバーのお一人、渡辺えりさんが、4月6日(土)開幕の舞台「さるすべり」の稽古でこちらを使われていて、稽古終了後にそのまま稽古場を使わせていただいたわけです。

ちなみに会合には参加されず、稽古終了後にお帰りになりましたが、「さるすべり」で渡辺さんとW主演の高畑淳子さんもいらっしゃいました。

高畑さんといえば、令和3年(2021)、テレビ東京さん系の「開運!なんでも鑑定団」にご出演。何と、高畑さんがモデルを務められた彫刻の鑑定でした。作者は先述の橋本高昇の子息にして、光雲孫弟子にあたる故・橋本堅太郎氏。高昇は智恵子と同郷の二本松出身、堅太郎氏は智恵子像を2点(二本松駅前安達駅前)作られました。意外なところでいろいろつながっているものですね。
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ちなみに鑑定額は700万円でした。さもありなんです。

高畑さん、公式プロフィールでは新潮163㌢だそうで、なるほど、シュッとした感じでした。別に渡辺さんがずんぐりむっくりなどとは申しませんが(笑)。

会合の方は、現状報告と今後の運営方針の確認や意見交換、情報交換。まだ具体的に皆様に「こうこうこうだよ」と提示できる段階ではありませんで、いずれこのブログにて詳細をご紹介いたします。

戻りますが、「近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー」は3月16日(土)、「星センセイと一郎くんと珈琲」は明日まで。それぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

春子さん千葉真亀にゆかれたよし、真亀ときくとあの苦しかつた昭和九年頃の真亀訪問を思ひだします。一週間に一度づつ菓子や果物を持つて智恵子を訪れ、追ひすがる智恵子をすかしなだめて、後ろ髪を引かれる思で帰つて来た頃がまざまざと思ひ出されます。東京へ帰ると大学病院に入院してゐる父をたづね、まつたく寧日無かつた明け暮れでした。


昭和21年(1946)12月5日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「春子さん」は宮崎の妻にして智恵子の姪。さらに智恵子の最期を看取った元看護師でもありました。「真亀」は現在の九十九里町真亀。昭和9年(1934)に智恵子が半年あまりここで療養生活を送りました。その年には光雲が死去。たしかに光太郎にとっては実に大変な一年でした。

都内から古書即売会の情報です。

この手の即売会、規模の大小はいろいろあって、以前よりぐっと減ったものの小規模なものまで含めれば常にどこかしらで開催されてはいる感じですが、今回ご紹介するのはそれなりに大規模、ネット上でも積極的に宣伝が為されています。ちなみに「ABAJ」というのは「日本古書籍商協会」さんだそうで。

ABAJ 国際 2024稀覯本フェア

期 日 : 2024年3月15日(金)~3月17日(日)
会 場 : 東京交通会館展示会場 カトレアサロンA・B 千代田区有楽町2-10-1
時 間 : 3月15日(金)12時〜19時 /16日(土)10時〜18時 /17日(日)10時〜16時
料 金 : 無料

 向春の候、皆様には益々のご健勝の事とお慶び申し上げます。いつも私共ABAJ(日本古典籍商協会)並びに会員各位に対して格別のご支援とお引き立てを賜り誠に有難うございます。
 今日、激動の国際情勢と変化を求められる世情の中で、書物の価値は益々高くなるものと確信いたしております。この度のフェアでは内外の有力書店28社の協力により精選された稀覯本を展示して皆様のご来場をお待ち申し上げます。
 2024年が皆様にとりまして大躍進の年となります様、心より祈念致します。

2024年2月吉日
ABAJ 会長(日本古書籍商協会)北澤一郎
ABAJ国際稀覯本フェア実行委員会一同
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出品目録に依れば日本の古典籍と洋書が中心ですが、日本近代ものもちらほら。

その中で、札幌の弘南堂書店さん(30年程前に一度お伺いしました)で、光太郎のそれを含む萩原朔太郎追悼文の直筆原稿25人分。
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昭和17年(1942)8月の雑誌『四季』第67号で、この年5月に没した朔太郎の追悼特集を組み、それに寄せられた原稿です。光太郎の稿は「希代の純粋詩人-萩原朔太郎追悼-」という題でした。下画像の右端です。
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一括で残っていたんだ、という感じでした。

さらに弘南堂さん、光太郎第一詩集『道程』もご出品。
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カバー欠ですが、識語署名入り。識語は聖書の一節です。

ご興味おありの方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それで「開闡郷土」の揮毫も思の外すらすら書けました。

昭和21年(1946)11月22日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

「開闡(かいせん)」は「開き広める」の意。茨城取手の素封家だった宮崎の父・仁十郎らに依頼され、取手の長禅寺に郷土の開拓発展の歴史を振り返り、功労者を顕彰する的な碑を建てることになり、その題字「開闡郷土」を光太郎が揮毫しました。ところがこの時書いた揮毫を宮崎が列車の網棚に置き忘れ、のちに再度揮毫することになります。

碑は長禅寺参道石段右側に現存しますが、繁茂する篠竹に覆われ、視認が困難な状況になっています。
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都内で一昨日から始まっている展示即売会的な展覧会です。

近代木彫の系譜Ⅰー 高村光雲の流れ ー

期 日 : 2023年3月20日(月)~4月6日(木)
会 場 : ギャラリーせいほう 東京都中央区銀座8丁目10-7
時 間 : 11:00~18:30
休 館 : 日曜休廊
料 金 : 無料

《作品展示作家》
 高村光雲     1852-1934  山崎朝雲     1867-1954  米原雲海     1869-1927
 吉田白嶺     1871-1942  平櫛田中     1872-1979  吉田芳明     1875-1945
 佐藤玄々     1888-1963  澤田政廣     1894-1988  橋本高昇     1895-1985
 宮本理三郎 1904-1998  圓鍔勝三     1905-2003  長谷川   昻   1909-2012
 鈴木 実     1930-2002  及川 茂     1940-
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「高村光雲の流れ」と謳っていますので、一番の目玉が光太郎の父・光雲のレリーフ「鬼はそと福はうち」(昭和7年=1932)。
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これは髙村家で持っているはずのものなのですが、価格が千五百万。まぁ、ほぼ非売品という意味の設定なのでしょう。

他に光雲高弟は山崎朝雲「狗子」、平櫛田中「霊亀」(田中作は他にも色々)、米原雲海「恵比寿尊像/大黒天像」など。
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さらに佐藤玄玄(朝山)や澤田政廣は光雲の孫弟子ですし、同じく孫弟子の故・橋本堅太郎氏の父君で智恵子と同郷の橋本高昇の作なども。

会場のギャラリーせいほうさん、昨年はブロンズ中心の「高村光太郎と3人の彫刻家 佐藤忠良・舟越保武・柳原義達」を開催して下さっていました。

明後日、光太郎中野アトリエ保存の件の会合で上京しますので、過日ご紹介しました「星センセイと一郎くんと珈琲」ともども、立ち寄ってみようかと思っております。

みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今日は一日買物をして歩きました。山の夜にどうしても必要なので手さげラムプを買つたら七十五円もとられたので驚きました。つまらない金物にガラスのホヤがはまつてゐるだけのラムプです。

昭和21年(1946)11月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

いわゆる新円切替はこの年2月。花巻郊外旧太田村での蟄居生活を送っていると、この日のようにたまに花巻町中心街に買い出しに出た時以外、実感がなかったようです。
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画像は光太郎の山小屋(高村山荘)内部に残されているランプ。この日に買ったものかどうか判りませんが。ランプ生活は、見かねた村人が電線を引っ張る工事をしてやった昭和24年(1949)まで続きました。

先週、埼玉県越生(おごせ)町に行って参りました。県中央部やや西寄り、秩父山塊の麓です。

基本、光太郎とは関係なく、日頃さんざん世話になっている妻に女房孝行と申しますか、ご機嫌取りと申しますか、でした(笑)。

メインの目的地は、それなりに花好きの妻のために、越生梅林さん。梅といえば昨年は水戸偕楽園さんに行ったのですが、若干盛りには早く三分咲きといったところでしたので、リベンジの意味も兼ねて(笑)。

今回の越生梅林さんでは、ほぼ満開でした。
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やけに風の強い日でしたが、それだけに快晴、青空をバックにした梅花がいい感じでした。

それから温泉好きの妻のために(当方もですが)、日帰り温泉へ。さらに妻は御朱印マニアですので、寺社めぐりも。

事前にネットで調べたところ、大慈山正法寺さんという鎌倉時代開山の古刹に、複製ながら、光太郎の父・光雲作の大黒天像がおわすという情報を得まして、そちらに。

町の中心街から少し山に入ったところで、落ちついたたたずまいでした。
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よくある「七福神巡り」の一箇所で、御本尊は聖観音菩薩ですが、大正期の職人による大黒天像も鎮座ましましています。
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閻魔様もいらっしゃり、いつもそうしていますが、「後々お世話になりに行きますのでよろしくお願い申し上げます」と念じて参りました(笑)。

お寺の方にお話を伺うと、光雲原型の大黒天像、てっきり大きめの露座と思い込んでいましたが、そうではなく、像高一尺ほど、庫裡的な一角に納められているということで、わざわざ式台まで運んできて下さいました。七福神巡り大黒天のお寺ということで、寄進されたものでしょう。
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やさしいお顔をなさっていました。

御朱印もゲット。
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越生梅林さん、昨夕、NHKさんの関東甲信越ローカルニュースでも「見頃を迎えています」的な紹介が為されていました。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

空の美しさ、殊に夜の星空のうつくしさは言語を絶してゐます。夜明け未明の東の空に北上連山が暗碧に浮き出して来る刻々の変化には思はず見とれて朝の食事の事を忘れるほどです。


昭和21年(1946)10月25日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、光害などとは無縁の地で、明け方の空の美しさはまさに絶景だったことでしょう。

3月となり、そろそろ受験シーズンも終わりに近づきつつありますね。

そんな中、先月25・26日に行われた国公立大学の2次試験のうち、京都大学さんの前期日程文系国語の問題に光太郎の文章が出題されました。

昭和15年(1940)11月に書かれ、翌年元日発行の雑誌『知性』第4巻第1号に発表された「永遠の感覚」の全文です。
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小問が5問設定され、全て記述式。字数制限はありませんが、解答欄のスペースから適度な長さで書け、ということですね。

大手予備校河合塾さんによる解答例。

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同じく代々木ゼミナールさん。
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駿台予備校さん。
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来年度以降の受験生向けでしょうか、「問題分析」も。

駿台予備校さん。
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河合塾さん。
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ちなみにこの問題、随筆扱いで、文学的文章としての出題でした。筑摩書房さん『高村光太郎全集』では第5巻、すなわち美術評論の巻、それから光太郎生前にはやはり評論集的な位置づけの『美について』(昭和16年=1941、道統社)に収められているのですが。しかし同じくこの文章を収めた『高村光太郎選集 第Ⅴ巻』(昭和26年=1951)は副題が「随想 上」で、まぁ、どちらとも取れるかなというところです。

それにしても、泉下の光太郎、このような形で自分が書いた文章が俎上に乗せられていることに苦笑しているかもしれません(笑)。

【折々のことば・光太郎】

何か揮毫する事はいつでもしますが、紙が乏しいです。和紙が不自由ですから紙さへお送りあれば書きます。


昭和21年(1946)10月18日 寺神戸誠一宛書簡より 光太郎64歳

自身では書家を名乗ったことはありませんが、特に戦後になって花巻郊外旧太田村に移ってから、頼まれて書を揮毫する機会が大幅に増えました。そして書けば書くほど、その腕前が上がっていったようです。

しかし戦後の物資不足が解消していなかったこの時期、やはりきちんとした紙は不足していまして、時に粗悪なボール紙や障子紙に揮毫することもありました。

光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場でもあった中野区の中西利雄アトリエ保存運動について、1月の『東京新聞』さんに続き、『読売新聞』さんでもご紹介下さいました。X(旧ツイッター)やフェイスブックではシェアしておいたのですが、こちらでも取り上げさせていただきます。

光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵

 詩集「智恵子抄」などで知られる詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごした中野区にあるアトリエを保存しようと、関係者が動き出している。昨年1月にアトリエの所有者が亡くなり、管理が難しくなっているためで、関係者らは「歴史的に価値のある大切なアトリエをなんとか残したい」と知恵を絞っている。
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■「乙女の像」制作
 高村は下谷区(現在の台東区)生まれ。文京区千駄木にアトリエを構えたが、戦災で住居は焼失し、岩手県花巻市に疎開した。中野区のアトリエには戦後の1952年に移り、亡くなるまでの約4年間を過ごした。青森県の十和田湖畔に立つ彫刻の代表作「乙女の像」の塑像もここで制作したという。
 アトリエは、斜めの屋根が特徴的な木造一部2階建て。施工主は洋画家の中西利雄(1900~48年)で、建築家の山口文象(1902~78年)が設計を務めた。建物は中西が亡くなった48年に完成したため、貸しアトリエとして使われ、高村だけでなく、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らも滞在していたという。
 完成から70年以上が経過したアトリエは、青系の色だった外壁が白くなったが、造りはほとんど変わっていない。縦約3メートル、横約2・5メートルの大きな窓は当時のままで、高村の親戚に当たる桜井美佐さん(60)は「光太郎も同じ窓から外の景色を見ていたのだと実感できて感動する。都内ではゆかりの建物は珍しく、貴重だ」と強調する。
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■「企画書」を作成
 しかし、アトリエを管理していた中西の息子の利一郎さんが昨年1月に亡くなった。建物の老朽化は進み、アトリエは現在非公開になっている。利一郎さんの妻の文江さん(73)は「維持費もかかるし、このまま残しておくのは危ない。公的な機関が動いてくれればいいが、そうでなければ壊すしかない」と頭を悩ます。
 そこで立ち上がったのが、利一郎さんと親交があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠さん(71)だ。曽我さんはアトリエを後世に残すための「企画書」を作成。曽我さんら有志は、アトリエの保存に向けた組織設立を模索している。
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■CF活用視野
 老朽化した建物の保存を巡っては、明治時代の作家・樋口一葉(1872~96年)が通ったとされる文京区本郷の「旧伊勢屋質店」も解体の危機に陥った建物の一つ。元の所有者が「個人で維持するのは限界」と売却の意向を示したが、2015年に跡見学園女子大(文京区)が取得し、現在は週末を中心に内部を一般公開している。
 曽我さんも、アトリエを改修した後、高村らゆかりのある芸術家の資料を展示するスペースを設けることを想定している。中野区や都などへの働きかけのほか、クラウドファンディング(CF)の活用も視野に入れているという。
 曽我さんは「高村や中西の芸術や歴史を後世に残すためにも、アトリエは非常に価値があるものだ。中西家に負担をかけずに、なんとか保存できるやり方を考えていきたい」と話している。
 保存方法の提案や問い合わせは曽我さん(090・4422・1534)へ。

曽我氏を中心としたこの運動の会合、先月、初めて行われましたが、来週また開催されるので出席して参ります。

先月も書きましたが、この手の件に関し、良いお知恵をお持ちの方、ご教示いただければ幸いです。曽我氏メールは以下の通りです。sogakousei@mva.biglobe.ne.jp

【折々のことば・光太郎】

五日には小生花巻町に出かけ、松庵寺と申す浄土宗の古刹にて、智恵子の命日と亡父十三回忌の法要をいとなみました。かかる遠方の土地にて焼香されるとは智恵子も父も思ひかけなかつた事でせう。現時の有為転変はまるで物語をよむやうです。小生健康、好適の季節に朝夕心爽やかに勉強してゐます。早く世の中が直つてアトリヱ建築の出来る日の来る事が待たれます。


昭和21年(1946)10月13日 椛澤ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

既に前年から、後の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」につながる「智恵子観音」の構想はありましたが、さすがに七尺もの大作という予定ではなかったようです。

昭和27年(1952)になって、「乙女の像」建立計画が具体化すると、花巻郊外旧太田村では資材の調達なども不可能ということで、再上京、中野のアトリエに入ることになります。

既に始まっている展示です。

状況をわかりやすくするため、『北海道新聞』さん記事から。

賢治、有島の初版本 100年の時超えて 道立文学館 特別展に200冊

015 道立文学館(札幌)で特別展「100年の時を超える」が開かれている。宮沢賢治の詩集「春と修羅」(1924年=大正13年)、有島武郎の訳した「ホヰットマン詩集」(2冊、21、23年)初版本など主に明治、大正期に出版された約200点を、外国文学、詩集、歌集・句集・川柳、小説など6項目に分けて展示している。
 すべて道立文学館の所蔵。ケースに入って手にすることはできないが、主な作者や本の概要、装丁などについて解説文を付けている。
 このうち外国文学では、米国の詩人ウォルト・ホイットマンの「ホヰットマン詩集」は、有島が翻訳と装丁を手がけた。表紙はホイットマンの手書きの原稿の写しの上に、表題を記した紙を斜めに貼っている。
 貴重なのは宮沢賢治の「春と修羅」で、賢治の生前に刊行された唯一の詩集。萩原朔太郎の初詩集「月に吠える」(17年)は54編を収録し、病的で奇怪な感覚を描いて反響を呼び、日本の近代詩を代表する詩集となった。高村光太郎の第1詩集「道程」(14年)は初版本と白布装の「異本」があり、異本には高村直筆の書き込みがある。
 このほか画家竹久夢二が装丁した吉井勇「源氏物語情話」(18年)、坪内逍遥の「新曲 浦島」(04年)、芥川龍之介の名作童話「杜子春」などを収めた豪華本「三つの宝」(28年)もある。
 苫名直子副館長は「100年前の本に込められた作り手の思いとともに、200点を超える書籍を見て日本の近代文学のバリエーションの豊かさを感じ取ってほしい」と話している。
 3月24日まで。月曜休館。一般500円、高大生250円、中学生以下と65歳以上無料。問い合わせは同館、電話011・511・7655へ。

開催情報を。

特別展「100年の時を超える ―〈明治・大正期刊行本〉探訪―」

期 日 : 2024年2月3日(土)~3月24日(日)
会 場 : 北海道立文学館 札幌市中央区中島公園1番4号
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日(ただし、月曜日が祝日等の場合は開館)
料 金 : 一般500(400)円、高大生250(200)円、中学生以下・65歳以上無料
      ( )内は10名以上の団体料金

 明治・大正――この時代、西洋の制度や文化を取り入れて世の中が大きく変わり、今の我々の社会や生活の基盤がつくられます。多くの混乱を伴いながら急速な近代化への道を進む中で、本の世界にも当時の文学の新潮流や社会情勢が反映され、多種多様な書籍が出版されました。併せて装幀も抒情的な感性を示すもの、色鮮やかでモダンなものなどが次々と登場し、魅力が尽きません。
 北海道立文学館では、貴重な初版本も含め、この時期に刊行された本を多数所蔵しています。1926年に大正が幕を閉じてから、100年が経とうとする今、近代日本の息吹を感じさせる本の数々によって、明治・大正という時代に思いを馳せていただければ幸いです。
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フライヤーには画像がありませんが、光太郎第一詩集『道程』の通常版と「異本」と、二種類が出ているとのこと。

通常版は当方の書架にも一冊ありますが、紺色の紙の表紙です。
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こちらと、さらに白い布装だという「異本」。おそらく献本として少部数作られた私家版と思われます。

この私家版『道程』に関しては、稀覯本研究家であらせられる秀明大学さん学長・川島幸希氏が、平成24年(2012)4月の『日本古書通信』さんの連載「私がこだわった初版本」で紹介され、さらに平成26年(2014)には同大の学祭・飛翔祭の際に展示なさいました。

今回展示されているという「異本」、これと同一のものか、あるいは川島氏が所蔵されていたものか(氏は入手なさったものも手許に置いておかないことが多いようなので)、という感じです。

ちなみに文語定型詩全盛だった当時の「詩集」という概念を突き抜けていた『道程』、売れ行きはさんざんで、光太郎曰く、きちんと版元から売れたのは七冊だけだったとのこと。現在残っているもののほとんどは光太郎から友人知己等に贈られたものと推定されます。

刊行翌年の大正4年(1915)以降、残本を改装して奥付を変えたものが何度か刊行され、国会図書館さんでデジタルデータとして公開されているものもこちらです。道立文学館さんで今回展示されているものは、同館の所蔵リストに依れば大正3年(1914)刊とのことですので、これではないでしょう。

他に宮沢賢治の『春と修羅』、北原白秋が『思ひ出』、薄田泣菫の『白羊宮』、吉井勇著・竹久夢二装幀『源氏物語情話』、萩原朔太郎『月に吠える』などが並んでいます。

文豪マニアの方など、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

この四日の朝山を降りて花巻に来ました、智恵子の祥月命日と亡父の十三回忌の法要を五日に当地の松庵寺といふ浄土宗のお寺で営みました。


昭和21年(946)10月7日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

光太郎、敬虔な仏教徒というわけではなかったのですが、この手の法要はほとんど欠かしませんでした。 

光太郎の父・高村光雲が主任となって、東京美術学校総出で作られた「西郷隆盛像」関連で2件。

まずは今日から5日間限定で開催の展示です。

出張!江戸東京博物館

期 日 : 2024年2月21日(水)~2月25日(日)
会 場 : 東京都美術館 ロビー階第4公募展示室、1階第4公募展示室、2階第4公募展示室
      東京都台東区上野公園8-36
時 間 : 9:30~17:30
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

 江戸東京博物館は、江戸東京の歴史と文化をふりかえり、未来の都市と生活を考える場として、平成5年(1993)3月28日に開館しました。これまで国内はもとより、海外からも多くの方々が江戸東京博物館に足を運んでくださいました。
 開館から約30年経過した現在、大規模改修工事のため、2025年度中(予定)まで休館の予定です。そのため、ご覧いただけない常設展示室の一部を、上野の東京都美術館で展示することとなりました。
 本展では、第4公募展示室のロビー階と1階のフロアで、常設展示室の一部をまとめた展示をご覧いただきます。おなじみの「千両箱」や「人力車」などの体験模型を中心に、その関連資料を展示します。
 また2階の第4公募展示室では特集展示として、開催場所である上野の歴史を錦絵や絵葉書からご紹介します。現在でも上野のシンボルとなっている西郷隆盛の銅像や不忍池など、現代と重なる風景を見ることができます。もしかすると、東京都美術館への道の途中で見かけるものもあるのかも知れません。
 本展で多彩な江戸博コレクションをご覧いただき、当館の魅力や江戸東京の歴史と文化を体感していただけますと幸いです。
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というわけで、現在改修工事中の江戸東京博物館さんから、展示品の出開帳。三の丸尚蔵館さんなどでも行っていた手法ですね。

かつての常設展からの出品と、会場が上野ですので「特集展示「上野の山」をめぐる」の二本立てのようで、後者の方で、西郷隆盛像を描いた錦絵が展示されます。
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楊斎延一が明治32年(1899)に描いた「上野山王台西郷隆盛銅像」。

平成30年(2018)、東京藝術大学大学美術館で開催された「NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」展」の際、ミュージアムショップでこちらをあしらったクリアファイルが2種類販売されていて、ゲットいたしました。
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ちなみに今回はこの絵を含む「入場者特典カード」が10種類作られ、無料配付されるそうです。ただし、日替わりで2種類ずつ、選べないとのことですが。
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錦絵の展示がもう1点、藤山種芳が描いた「上野山王台故西郷隆盛翁銅像」。こちらも明治32年(1899)です。
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他にも展示されるかもしれません。

当方もこの手の錦絵を何点か所持しておりまして、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。

ところで西郷隆盛像、テレビ番組でも取り上げられます。

カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」

地上波NHK総合 2024年2月25日(日) 04:15〜04:18

100年の間に震災と戦争によって2度焼け野原となり、そこから不死鳥のようによみがえった都市・東京。NHKは、東京を撮影した白黒フィルムを世界中から収集、現実にできるだけ近い色彩の復元に挑んだ。色を取り戻した東京は、どんな表情を見せるのか。今回は上野にしぼって、激動の歩みを、初公開フルカラー映像でたどる。

語り 塚原愛アナウンサー


平成26年(2014)に、やはり地上波NHK総合さんで放映された特番「カラーでよみがえる東京~不死鳥都市の100年~」から、都内の区域ごとに細切れにして放映され続けている番組の上野編です。昨年末にも放映があって拝見。西郷隆盛像が二つの時期で取り上げられました。

最初は大正12年(1923)の関東大震災。同じ動画は昨年放映された「NHKスペシャル 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編」でも使われていて、これは予想していました。
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ところがこれだけでなく、なんと戦時中の動画も。昭和18年(1943)、早稲田大学海軍予備学生壮行会が西郷像の前で開催され、その際に撮影されたものでした。
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この手の動画だと、国立競技場で行われた雨中の出陣学徒壮行会のものが有名でよく使われますが、西郷像の前でこんな催しがあったというのは存じませんでした。
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つくづくこういう時代に戻してはいかんな、と思いました。こういう時代に戻したくて仕方のない輩が政権を握っている国ですが……。

館外展示「出張!江戸東京博物館」/カラーでよみがえる東京「上野公園〜西郷さんは見ていた〜」、それぞれぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生の論難はすべて快くうけるつもりです。壺井さんのはよみましたが小田切さんのはまだ見ません。時間が一切を裁断するでせう。

昭和21年(1946)9月24日 小盛盛宛書簡より 光太郎64歳

「壺井さん」は壺井繁治、「小田切さん」は小田切秀雄。ともに戦時中の光太郎の翼賛詩等を痛烈に批判しました。それに対し、弁解めいたことは言わないよ、と、こういうところが光太郎です。
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しかし、戦時中、特高に逮捕されていた小田切はともかく、自らも翼賛詩を書いていながら戦後になるとそれを無かったかの如く批判に転じた壺井は、まさに「おまいう」。そういう点などを後に糾弾され、詩壇からは葬られて行く感じです。

昨年、コロナ禍により3年間中止としておりました高村光太郎を偲ぶ連翹忌を4年ぶりに開催いたしましたが、今年も下記の通り実行できる運びとなりました。お誘い合わせの上、ご参加下さい。


日 時  令和6年4月2日(火) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線 京浜東北線 有楽町駅  地下鉄日比谷線 千代田線 三田線 日比谷駅下車
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会 費  12,000円(含食事代金)
           諸物価異常高騰の折、申し訳ありませんが改訂させていただきました。

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(金)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替
  「払込取扱票」にて郵便局よりお願いいたします。
   ATM、窓口にて取り扱い可能です。申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。
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  ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(土)までにご連絡頂ければ、
  後日、返金いたします。

  参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
  事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

  複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
  参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

  ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

配布物について
  会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
  4月1日(月) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
  残部は欠席の方等にお送りいたします。公序良俗に反するものでなければ
  特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
  当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
  書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

  当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いを
  お願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。
  当方、午後3時頃には会場入りしております。
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着席ビュッフェ形式で行います。ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

作品は殆ど失ひましたが小生の内に生きてゐる彫刻はやがて姿をあらはして来るでせう。山に来てから準備はしてゐますがまだ資材が整はないので彫刻の仕事はちつとも進みません。


昭和21年(1946)9月18日 福永武彦宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移り住んでほぼ1年。まだこの時期は山小屋で彫刻制作をするつもりだったようです。しかし、その後、自らの戦争責任を悔悟する中で、自らへの最大の罰として、彫刻制作を封印するに至ります。

一昨日の『東京新聞』さん、社説欄に光太郎の名が。

<社説>週のはじめに考える 「おまかせ」が過ぎると012

 正直、「回っていない方」にはあまり明るくないのですが、白木のカウンターでいただくような高級な寿司(すし)店でよく採用されているのが、「おまかせ」という注文の仕方です。注文といっても、おまかせですから、どんな寿司が、どんな順番で出てくるかは寿司職人の胸一つ。旬を考え、ネタを吟味し、客の食べるペースにも気を配って「はい、トロです」などと順次、供してくれる仕組みです。
 こうした「おまかせ」を創始したのは、戦前戦後と東京で活躍した藤本繁蔵という寿司職人だといいます。何年か前のNHKの特集番組で初めて知ったのですが、白木のカウンターの採用も、この人を嚆矢(こうし)とするとか。高級寿司店ばかりを渡り歩いて「天才」の名をほしいままにし、多くの著名人らの舌もとりこにした伝説の職人だったようです。
◆「自分で決める」から解放
 その「おまかせ」は寿司を出す順番、いわば構成の妙も含めて職人の力量が問われるわけですが、味覚も食材の知識も覚束(おぼつか)ない者にとっての“利点”は「自分で決める」からの解放かもしれません。「こんなものを頼んだら季節外れだと笑われないか?」などとびくつかずにすみますから、心穏やかに、職人が技を凝らした一貫一貫を味わえるというものです。
 寿司だけでなく、和洋中どの料理にもある「コース」も同じ。いちいち何を、どんな順番で注文するか自分で決めなくてよい。それが客をして「コース」を選ばせる理由の一つではないでしょうか。
 考えてみると、外食に限らず、私たちは暮らしのいろんな場面で「おまかせ」に浸っています。極端なことを言えば、自動ドアだってそうですが、デジタル時代の当節はなおさら。リポートなどの作成で頼りにする人も増えているらしい生成AI(人工知能)こそ、「おまかせ」の極致でしょう。
 もっと身近なところでは、例えば道案内です。特に地理的に詳しくない場所に行く時など、経路の選択は、ほぼ全面的にスマホなどの地図アプリに「おまかせ」という人が今や多数派かと。代表詩の『道程』で<僕の前に道はない>とうたった高村光太郎は、既に目の前の画面にある道を従順に進む<僕>たちを見て、さて、泉下で何を思っているでしょう。
◆まれに見る「選挙イヤー」
 道の選択といえば、今年、2024年は、まれに見る「選挙イヤー」です。台湾総統選は今月、既に終わりましたが、2月にインドネシア大統領選、3月にロシア大統領選があり、4月には韓国、4~5月にはインドで総選挙が予定されています。そして11月には米大統領選が。結果いかんでは、動揺が世界中に及ぶでしょう。
 そして、わが国でも今年は、衆院の解散・総選挙の可能性が高いとみられています。派閥パーティーの裏金問題で大揺れ、岸田内閣の支持率も急落する中、自民党は9月末で任期満了の総裁選を前倒しし、「党の顔」をすげ替えた上で総選挙に臨むのではないか-といった観測も飛び交っています。
 その場合、懸念されることの一つが、低投票率。ただでさえ衆院選は過去4回連続で60%に届かなかったのに、裏金問題などで増大した政治不信がさらに足を引っ張る恐れがあります。でも、国の進む道を左右する大事な選択の機会です。ここは、さすがに「おまかせ」はまずい。寿司でいうなら、自分の胃袋とよくよく相談し、本当に自分が食べたいネタを自分で決めなくてはなりません。
 「政治的無関心」とは、日本や世界の命運を誰かに「おまかせ」にすることでしょう。確かに、政治的な出来事をフォローし、考えを深めるのは面倒といえば面倒です。でも、恐れるのは、その面倒を省き「おまかせ」に慣れきってしまううちに、自分で考え、自分で決めるという回路が錆(さ)びついてしまわないか、という点です。
◆錆びつく思考回路、記憶
 元日に発生した能登半島地震でもそうでしたが、災害時には携帯電話が使えなくなることが少なくない。しかし、やっと公衆電話をみつけ、いざかけようとしたら、家族や友人の電話番号を覚えていないことにはたと気づく…というのは、いかにも現代人に起こりそうなことでしょう。そう。電話番号の記憶をスマホに「おまかせ」にするうち、私たちの記憶は錆びついてしまうのです。
 さて正月も暮れていきますが、年始につきものの「福袋」こそ、「おまかせ」の典型でしたね。中身が分からない点がみそですが、あれは価格より価値の高い商品が入っているのが前提で、だからこその「福」のはず。でも選挙の場合は違います。「おまかせ」の袋から「福」が出てくることはまずないと考えるべきでしょう。

何が出てくるかのワクワク感や、ルーティンにこだわっていては得られない意外性といったものを楽しみたいのなら「おまかせ」も悪くはないと思います。また、いろいろ考えて組み合わせるのが面倒だったり、お店の人に手間をかけるのが申し訳ないと思ったりの場合。例えば当方、コンサート等によく持参するのですが、アレンジフラワーやら花束やら。また、お菓子の詰め合わせなどもそうでしょう。既成のものを頼んでしまった方が自分にとっても、お店にとっても、圧倒的に楽ですね。

しかし、後半にあるとおり、政治の世界での「おまかせ」は駄目ですね。ところがそれがまかり通っているのが現状でしょう。「「○○党」という字しか書けない」と公言し、思考停止に陥っている輩の何と多いことか。

それにしても、最後の方に挙げられたスマホの電話帳の例にはドキリとさせられました。といって、今さら紙のアドレス帳というわけにもなかなかいきませんし……。

たしかにこうした現代人のライフスタイル、泉下の光太郎はどう見るかと考えさせられますね。

【折々のことば・光太郎】

御帰還後も御無事でお過ごしの事と存じます、ますます御元気で進んでください。小生東北の山間で頗る元気に健康にやつて居ります。


昭和21年(1946)7月29日 大木実宛書簡より 光太郎64歳

大木は大正2年(1913)生まれの詩人。光太郎は戦時中の昭和18年(1943)、大木の第三詩集『故郷』の序文を頼まれて書いています。

この時期の「帰還」はイコール「復員」だろうと思って調べたところ、やはりそうでした。何と召集されたのは結婚3ヶ月後だったそうでした。

大木や、当会の祖・草野心平などは無事だったクチですが、光太郎と交流があった文学者たちの中には、高祖保など戦場の露と消えた人々も。そういう報せも届き始めていたと思われます。

昨日は茨城県北茨城市の天心記念五浦美術館さんにお邪魔しておりました。
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こちらで開催中の「天心が託した国宝の未来 -新納忠之介、仏像修理への道」展拝観のためです。
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先月開幕し、気にはなっていたのですが、最近になって光太郎の父・光雲関連の出品物があるということを知り、馳せ参じた次第です。
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新納忠之介(明治2年=1869~昭和29年=1954)は、東京美術学校で光雲に学び、卒業後は3年ほど母校の教壇に立った後、岡倉天心の美術学校事件に連袂辞職、奈良で日本美術院第二部の院長に就任し、仏像修理のスペシャリストとして活躍しました。

新納の子孫から関連資料2,000点あまりが寄贈され、その中から主に奈良の仏像修復に関わるものなどが展示されています。

ちなみに今回展示されては居ませんが、寄贈資料の中には光太郎から新納宛の『高村光太郎全集』未収録葉書が一通、さらに光雲(20通ほど)、光太郎実弟・豊周(1通)から新納宛の書簡が含まれており、一昨年の夏に閲覧に伺いました。

今回展示されている光雲関連のうち、メインは「「日本木彫の技術」木寄法 第参図」。大正15年(1926)のもの。美校で光雲が仏像の寄せ木造りの手法を講義する際に使ったと思われる青写真です。
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大正15年(1926)といえば、新納は既に奈良に移っていますが、後進の指導にでも使うためでしょうか、譲り受けたと推定されます。

光雲作の仏像等も、大きなものは寄せ木造りで出来ており、代表例の一つが信州善光寺さんの仁王像。そういえば、そちらの制作に当たって奈良東大寺さんの金剛力士像も参考にされていまして、その調査には新納も協力、髙村家には新納から送られた金剛力士像の資料も現存し、一昨年、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」などで展示されました。

寄せ木造りといえば、明治中頃の「楠公銅像」木型もそうでしょう。制作は美校総出で行われ、新納も参加しました。そこでその際の集合写真も出ていました。
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あちこちで見かける写真ですが、新納も写っているとは存じませんでした。
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その他、やはり集合写真類で光雲が写っているものが数葉。常設展的な「岡倉天心記念室」での展示にもそれがありました。
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さて、企画展詳細。

天心が託した国宝の未来 -新納忠之介、仏像修理への道

期 日 : 2023年12月9日(月)~2024年2月12日(月・振休)
会 場 : 茨城県天心記念五浦美術館 茨城県北茨城市大津町椿2083
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般320(260)円/満70歳以上160(130)円/高大生210(150)円/小中生150(100)円
      ※( )内は、20名以上の団体料金

 新納忠之介(にいろちゅうのすけ)(1869-1954)は、東京美術学校を優秀な成績で卒業し、岡倉天心の強い勧めにより、文化財の修理に生涯を捧げた人物です。明治31(1898)年、岡倉天心が創設した日本美術院に参加後、多くの仏像修理に携わり、天心の推進した文化財保護行政の一翼を担いました。また、天心没後には、日本美術院の国宝修理部門が「美術院」と改称して独立し、新納はその中心を担いました。
 それまで確立した修理法が無かった仏像修理において、新納は試行錯誤を重ね、現状維持を基本とする新たな修理法を確立させました。その技術は今日まで引き継がれています。
 本展覧会では、修理図面や研究ノート、書簡といった新納忠之介旧蔵資料の他、新納が模刻した仏像等の彫刻作品も展示します。これらの品を通して、天心の目指す文化財保存の道をひたすらに歩んだ新納の業績を紹介します。
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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

畑のものいろいろ作って食べてゐます。こちらでも米の欠配がありましたが、東京よりはまだいいでせう。山には何かしらたべるものがあります。小生健康。

昭和21年(1946)7月28日 蔵石徳太郎宛書簡より 光太郎64歳

蔵石は、前年の空襲で全焼してしまった本郷区駒込林町25番地の光太郎自宅兼アトリエの隣人の植木屋でした。アトリエ地所は蔵石からの借地でした。

光太郎の父・光雲の木彫が出ています。

新春特別展 新春工芸名品展

期 日 : 2024年1月5日(金)~3月9日(土)
会 場 : 敦井美術館 新潟市中央区東⼤通1-2-23 北陸ビル1F
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 日曜・祝日
料 金 : 一般500円 大高生300円 中小生200円 団体割引・20名以上

新春を寿ぎ、吉祥文の工芸作品を中心に、干支や富士山などお正月にふさわしい絵画を展示いたします。
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光雲の作品は「木彫 ちゃぼ」。同館サイトの「収蔵作品」に画像がありました。
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宮内庁三の丸尚蔵館さん収蔵のものとよく似ています。ただし三の丸尚蔵館さんのものは雌雄のつがいですが、こちらは雄鶏単体。明治22年(1889)の作で、一般人から注文を受けて制作したものですが、半ば強引に日本美術協会展に出品させられ、それが明治天皇の眼に留まり、お買い上げとなった作です。その辺りの経緯、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』に詳しく記されています。青空文庫さんで無料公開中です。

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もう一つ、別の「矮鶏」があったとは存じませんでした。光雲の場合、同一図題の木彫を複数制作することはよくあるのですが。

それにしても敦井美術館さんの出品目録に「明治22年(1889)」とあり、これは三の丸尚蔵館さん収蔵のものと同じ年です。『光雲懐古談』には同じ年にもう一体彫ったという記述はなく、どういうことなのかな、という感じです。画像で見る限り間違いなさそうなものなのですが……。

他の出品物、彫刻では光雲高弟の一人・山崎朝雲の「大黒天」、日本画では横山大観や前田青邨、洋画で梅原龍三郎、陶芸には宮川香山、富本憲吉などビッグネームが並んでいます。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昼間は九十度以上にのぼる日もたまにありますが、夜は七十度位に下がります。蚊が夜は少いので蚊帳はつりません。蚊えぶしだけでねます。


昭和21年(1946)7月27日 椛沢ふみ子書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の夏。「九十度」「七十度」は華氏ですね。現在一般的な摂氏に直すとそれぞれ33℃、21℃ほどです。

昨日はふと時間が出来まして、隣町の成田市に行っておりました。細かく言うと、市の南部、成田空港を擁する三里塚地区。かつて宮内庁の旧御料牧場があった場所です。関東大震災後、そこからほど近い場所に第一期『明星』時代からの光太郎の親友であった水野葉舟が移り住んだことから、大正末に光太郎も訪問、詩「春駒」を作りました。

御料牧場の跡地の一角に整備された三里塚記念公園に、「春駒」を刻んだ詩碑が昭和52年(1977)に建立されていまして、何度も拝見に伺ったのですが、最近になってその近くに別のオブジェがあることを知りました。

それがこちら。
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空港関連施設の高いコンクリート壁、100㍍ほどにわたって描かれた壁画。地元の方々の手になるもののようです。

その1枚目が、「春駒」。隣町に住んでいながらこういうものがあったというのを全く存じませんで、汗顔の至りでした。
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先述の詩碑にも使われた光太郎自筆原稿を写したものです。

これが1枚目で、このあと、「むかしの三里塚」ということで戦前からの御料牧場が描かれた壁画がずらっと。まさに光太郎も目にした風景です。
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この後は現代の三里塚を描いた作品など。そちらは割愛させていただきます。

いつ頃描かれたものか明記はされていないのですが、近くの小学校を描いた絵のキャプションに「平成四年四月、七〇〇名、二一学級の児童が学んでいます」とあるので、その頃と思われます。

近くまで来ましたので、「春駒」詩碑も久しぶりに拝見。一昨年、やはり近くの三里塚コミュニティセンターさんで開催された「三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』展」を観に行った時は、上記画像の貴賓館が改修工事中で詩碑のある一角にも立ち入れませんでした。
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すっかり冬枯れて箒になっていますが、並木はパリ時代に光太郎が愛したマロニエです。

以前は詩碑まで勝手に行けたのですが、今は敷地内の御料牧場記念館さんの方にお願いして柵を開けていただくようになっていました。ちなみにやはり同じ敷地内のやんごとなき方々のための防空壕も同じ扱いです。
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貴賓館。改修工事もすっかり終わっているようで。

ここの庭のような一角に、葉舟の歌碑(左)と「春駒」詩碑(右)が並んで(といっても少し離れていますが)立っています。
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葉舟歌碑には短歌「我はもよ野にみそぎすとしもふさのあら牧に来て土を耕す」が刻まれています。昭和29年(1954)、元々光太郎が揮毫する予定で一度は承諾したのですが、健康状態がすぐれず、代わりに窪田空穂が筆を揮いました。

そして「春駒」詩碑。
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ブロンズパネル制作は西大由、光太郎実弟にして鋳金家だった豊周の弟子筋です。花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くの「雪白く積めり」詩碑パネルも西の手になるものでした。

碑陰記の筆跡は当会の祖・草野心平。
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何度も訪れた場所ですが、昭和52年(1977)の除幕の際にはここに西や当会顧問であらせられた故・北川太一先生、葉舟子息にして光太郎とも交流のあった元総務庁長官の故・水野清氏なども列席されたのだな(心平は欠席)と思うと、感慨深いものがありました。
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このあたり、昔から桜の名所です。その頃にぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

肋膜だつたとは驚きました。十分によく治してしまつて下さい。此頃は若い人のかかる病気に年輩の者もかかるやうです。脂とタンパクの不足の為かも知れません。

昭和21年(1946)7月15日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の光太郎から三里塚の葉舟へ。光太郎が山村での独居自炊を決心した陰には、親友の葉舟が開墾生活を送っていたことの影響も考えられます。他にも辺境で活動していた友人知己は少なからずいましたが。

その葉舟、約半年後に肋膜炎でこの世を去ります。

新聞各紙から2件。

まずは光太郎第二の故郷・岩手の『岩手日報』さんから。1月13日(土)に出た「岩手とロダン“考える”」という記事を受けてのコラムです。

展望台 高村光太郎のアイドル

 「知らないグループが増えたな~」
 大みそかのNHK紅白歌合戦。ここ最近、冒頭のつぶやきの方が恒例となりつつある。そんなワタシでも注目したのは、音楽ユニットYOASOBI(ヨアソビ)の大ヒット曲「アイドル」だった。
 子どもから大人まではまるキャッチーで中毒性のある曲調。ビルボードのグローバルチャート(米国を除く)で日本語曲として初めて1位を獲得するなど、とにかく世の中を席巻した。
 時をさかのぼること100年前、同じく日本中を席巻したのがフランスの彫刻家ロダンだった。ブームの火付け役となったのが、花巻市ゆかりの高村光太郎。本県では花巻へ疎開した後の山小屋(高村山荘)暮らしのイメージが強く、最初は結びつかなかった。だが興味を持ち調べると、面白い話がいくつもあった。
 20代からロダンの造形に傾倒した光太郎、1908(明治41)年にはフランスのロダン邸を訪ねた。本人は不在で夫人に待たせてもらったが、部屋にある素描にすら参ってしまい、逃げるように帰ったという。
 光太郎は帰国後、知りたいロダンの秘密、これこそ私なりの愛、とばかりに対話録の翻訳に取りかかり、16(大正5)年に「ロダンの言葉」として出版。光太郎にとって、まさにロダンは完璧で究極のアイドルだったのだろう。
 現在、ロダンの代表作「考える人」が陸前高田市立博物館で展示中。台座を含めると高さ3㍍を超え、想像よりも大きい。誰も彼もとりこにした造形の美しさを、ぜひ間近で見てほしい。


光太郎がロダン邸を訪れたのは確認できている限り2回ありました。最初は明治40年(1907)11月、当時ロンドンにいた光太郎がパリの荻原守衛の元を訪れ、パリ郊外ムードンのロダン邸を一緒に訪れました。しかし、ロダンは留守。妻のローズ・ブーレはパリ市内のアトリエに廻るよう勧めましたが、光太郎がロンドンに帰る時間の都合であきらめたと、守衛からロダン宛の書簡に記されています。

2度目は年月日がはっきりしません。ロンドンを引き払ってパリに移り(明治41年=1908 6月10日)、帰国の途に就く(明治42年=1909 5月)までの約1年の間であることは間違いありませんが。晩年に書かれたエッセイ「遍歴の日」(昭和26年=1951)に次の一節があります。

 ロダンには熱中していたけれど、やはり訪問する気にはなれなかつた。訪問客が多くて困るだろうということも察しられたし、それを無理おしして出かけてゆく神経の太さもなかつた。アトリエの外を通つたり、展覧会でも遠くからロダンの姿を見かけるといつた程度だつた。ある日曜日、有島、山下などの諸君の発意で、多勢でロダンのムードンのアトリエに行つてみようということになつて、僕もついて行つたが、ロダンは留守だつた。奥さんがロダンの部屋に案内してくれた。扇の地紙の形をした大きな机があつて、要のところに椅子がある。僕はロダンの椅子に腰かけ、床の上にうず高く積み重ねてあるたくさんのデツサンをあかず見た。一枚一枚台紙に貼つて整理されている無数のデツサンを次々に見ていると、実に威圧される感じだつた。庭に出ると、ちようど白い布をグルグル巻いてバルザツクの像が立つていた。布でつつんであつても、大きな量塊の感じが強く出ていて、今でもそれが印象にのこつている。

「有島」は有島生馬、「山下」は山下新太郎です。展覧会でせっかく姿を見かけたロダンにも声をかけずじまい。高村家の家訓として、「あつかましいことは厳禁」といった戒めがあったのですが、それよりも「自分はまだ何者でもない」という気後れのようなものが先に立っていたのではないでしょうか。

もう1件、過日、ちらっとご紹介した岡山出身の詩人・永瀬清子のからみで、『毎日新聞』さんの岡山版から。

 日々の暮らし つむぐ言葉 赤磐出身の詩人、永瀬清子 来月17日 無料朗読会 ピアノの弾き語りも /岡山

012 岡山県赤磐市は、市出身の詩人で「現代詩の母」ともいわれる永瀬清子(1906~95年)を広く知ってもらおうと2月17日、市くまやまふれあいセンター(同市松木)で朗読会「永瀬清子の詩の世界~貴方がたの島へ」を開く。
 永瀬は2歳までを現赤磐市で、その後は父親の転勤や結婚のため金沢や名古屋、東京で過ごした。学生時代に始めた詩作は結婚後も続け、昭和初期には高村光太郎や宮本百合子らに認められるなど、当時随一の女性詩人の一人となった。
 45年、戦況の悪化に伴い帰郷し、農業をしながら結婚生活や子育て、古里を詩に詠んだ。後進の指導にも情熱を傾けた。
 朗読会は赤磐市が毎年、永瀬の誕生日で命日でもある2月17日前後に開いている。副題「貴方がたの島へ」は、岡山県瀬戸内市・長島にある国立ハンセン病療養所「長島愛生園」に通い、約40年間にわたって詩を指導した永瀬が入所者への思いをつづった詩の題名。
 当日は市民による詩の朗読などのほか、シンガー・ソングライターの沢知恵(ともえ)さん(52)による「永瀬清子とハンセン病療養所」と題したピアノの弾き語りコンサートもある。
 沢さんは音楽活動の傍ら、永瀬と同じように長年、瀬戸内のハンセン病療養所に通っている。2014年に岡山市に移住し、岡山大大学院でハンセン病療養所の音楽文化を研究した。永瀬の詩に曲をつけた楽曲や、ハンセン病患者の隔離の歴史に関する著書もある。 主催者の一つで「赤磐市永瀬清子の里づくり推進委員会」の担当者は「多感な青春時代、結婚の戸惑い、子育ての悩みなどそれぞれの人生のステージで、自分の気持ちを代弁してくれているように感じられる永瀬の詩の魅力を知って欲しい」と話している。
 午後1時半~4時。入場無料だが、事前申し込みが必要(先着順)。問い合わせ・申し込みは市教委熊山分室(086・995・1360)


いつもながらに赤磐市さんの永瀬清子顕彰の取り組みには頭が下がります。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今胡瓜が伸びるさかり、ゑん豆、いんげんは実をつけ、トマトは蕾、茄子も蕾、南瓜は成長の途中、葱は仮植、稗は雑草のやうに繁つてゐます。時無大根や山東菜などは既に賞味、とりたての美味に感嘆しました。ジヤガが秋にどの位とれるかたのしみです。


昭和21年(1946)7月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移住し、生まれて初めて取り組んだ農作業も、そこそこ成果を上げているようです。行き当たりばったりや思いつきなどではなく、文献等でしっかり研究し、さらに村民に謙虚に教えを請うてちゃんと計画を立てるという姿勢が成功の要因でした。数年後に近くの開拓地に入植した元軍人はまったくの我流を押し通そうとし、村人の忠告に一切耳を傾けず、結局、うまくいかずに撤退しました。

当時の光太郎が書いた「農事メモ」というノートが残っています。
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最近の新聞記事から2件。

まず1月17日(水)、『読売新聞』さん一面コラム。

編集手帳

高村光太郎には冬の詩が多くあり「冬の詩人」と呼ばれる。詩集「道程」のなかに収まる「冬が来た」は、〈刃物のような冬が来た〉という一節でしめくくられる◆人生を厳しい冬にたとえ、乗り越えていく光太郎の強い意志を示す詩だが、小欄には今はまぶしいだけに思えるところがある。〈刃物のような冬〉が、能登地震の被災地では人々が乗り越えられる程度を超えていよう◆雪が降り続いている。避難所では低体温症などの懸念がいっそう深刻になってきた。依然、孤立した集落に暮らす住民も多い。どうか立ち向かったりせずに、広域避難を急いでもらいたい◆輪島市ではきょう、中学生が同じ石川県の中南部に位置する白山市に集団避難する。小学生は年齢的に親元を離れにくいため、中学生のみが対象になった。被災地の教育を軌道に戻す呼びかけに約250人の生徒が応じた◆バスに乗る生徒たちに贈りたい一節が先の詩にある。〈冬よ/僕に来い、僕に来い/僕は冬の力、冬は僕の餌食だ〉。気持ちを強く持って、刃物のような冬に打ち勝ってほしい。親やきょうだいを残して、さみしいだろうけれど。

昨夏のような酷暑でも困りますが、厳冬期のしかも雪国で難儀されている皆さんには、心よりお見舞い申し上げたく存じます。

もう1件、ネット上でみつけた記事です。米国ワシントン州のシアトルで刊行されている在外邦人向け邦字新聞の『北米報知』さん、1月16日(火)の掲載です。

龍と宝珠〜地球からの贈りもの〜宝石物語

 辰、竜、龍。年末年始がやってくるたび、干支とそれに当てはまる漢字が、日常で使用する該当の字とは違うことが疑問だった。十二時辰や十干十二支という暦や時間、方位などを表す物がベースになっていると知ったのは、いつの事だったか。
 そもそも辰(龍)は十二支の中で唯一の架空生物。考えてみると、西洋と東洋の龍に対する認識には差がある。西洋は羽があって火を噴いたりして悪者であることが多いに対し、東洋では基本的には水を司る神であり、うねる様に体躯を動かす。私が龍という存在を意識したのは、間違いなく「まんが日本昔ばなし」のオープニングの龍。龍に乗っていた子どもが何の昔話の主人公だったかは忘れてしまったが、子どもを乗せているぐらいだから「怖い」という印象ではなかった気がする。その後は世界的超人気アニメ「ドラゴンボール」の神龍。そして大人になった今の「推し」龍と言えば、浅草寺と略して呼ばれることが多いが、正式名に龍を冠する金龍山浅草寺で見られるさまざまな龍。今年の夏に経年劣化で剥がれてしまった本堂の川端龍子画「龍之図」、お水舎の天井画である東韶光による「墨絵の龍」と高村光雲作の龍神像。それに雷門の赤い大提灯の下の部分には彫刻された龍が。そのほかにも至る所に水の神である龍が潜んでいて、幾度とない火事に見舞われた浅草寺を守っている。因みに、日光東照宮の薬師堂の天井にいる「鳴き龍」もお薦め。雨の降った後などは龍がよく鳴くと言われている。
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▲東韶光画の天井絵「墨絵の龍」。光の位置によって見え方が変わる、迫力の龍

 龍のイメージの基となった蛇をモチーフにしたジュエリーはかなりデフォルメされた物から鱗まで詳細なデザインまで多種多様。それが龍となると一気に選択の幅が狭くなる。角、髭、爪など鋭利な部分が多いこともあり、模った物だと軽く凶器になる。ネットを見るとそういった凶器みたいなジュエリーもあるが、日常使いを考えるのであれば、龍のモチーフが彫られた程度の凹凸がせいぜいでは。龍に関連付くジュエリーというのは中々難しい。こじつけるとすれば、龍の持つ如意宝珠に因んだ物などはどうだろうか。
 宝珠は、本来は前足2本しかない黒龍が持っているものということだが、剥がれた浅草寺の龍も黒龍ではないので、あくまでも「基本的には」という事だろう。宝珠と言うと水晶を思い浮かべる人も多いだろうが、個人的に、数珠の進化系のようなパワーストーンを連ねたブレスレットなどは芸がないと思ってしまう。代わりに、ドーム型や円錐形にツルっとしているカボションカットなどのジュエリーはどうだろうか?
 宝石の多くは、ファセット(面)と呼ばれるカット面がいくつも施されている。たとえば、ラウンドのダイヤモンドは通常58面である。光の反射を効率よくするために面があるが、面の無いカボションカットはまた別の味わいがある。面を取ることで、より多く削ってしまう原石の部分を削減し、色の深みを引き出すのもカボションカットの長所と言えるだろう。さらには、アステリズムと呼ばれるスタールビーやスターサファイヤに見受けられる星状の線が出る現象。猫目石の名の如く、中央に黄金の光の筋が見えるようなシャトヤンシー現象。オパールやムーンストーンなどの、内側で光が反射して踊っているような、視覚的効果や現象なども引き出す。
 ブルガリが昨年晩秋にカボション・コレクションというシリーズを発表したが、これは地金でカボションカットを表現している。このコレクションが象徴するように、カボションカットの宝石の地位を押し上げたのは色の魔術師と呼ばれるブルガリだと言える。50年代以降、カボションカットの紫のアメシストと緑のペリドットの組み合わせたネックレスなど、それまでハイジュエリーとは分類されにくかった半貴石の地位を押し上げた張本人。
 宝珠の様な滑らかさと艶やかさ。見つめると吸い込まれそうなそれぞれの色の深みが堪能できるカボションカット。変革の年と言われる辰年に是非トライしてはいかがだろうか。

415939502_7132432230154910_7550647139489207099_nご執筆は宝石鑑定士の金子倫子氏。在米経験もおありだそうですが、現在は帰国されているとのこと。

画像は浅草寺さん本堂右手前にある手水舎の天上画。この下に光太郎の父・光雲作の「沙竭羅龍王像」が鎮座ましましています。

12年前の辰年の際にはそうでもなかったように記憶しているのですが、今年はやけにこの像があちこちで取り上げられているのが目に付きます。いいことです。右画像は光雲令曾孫にして写真家の髙村達氏撮影になるショット。すばらしい感じですね。

元々は本堂裏手にあった池の噴水に据えられていたもので、関東大震災の際にはこの池のおかげで浅草寺さんは焼失を免れたとのこと(その後、昭和20年(1945)の東京大空襲ではやられてしまいましたが)。地震にはご利益がありそうなので、近くに行った際には久しぶりに参拝し、鎮護国家を祈願して来ようかと存じます。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ゑんどう豆が芽を出しました。ささぎはまだ。今ゼンマイが盛んでワラビが出かかりました。ホロホロといふ花芽をとつてたべます。春日うらうらと山村をくゆらし林間に珍奇の花を人知れず咲かせてゐます。


昭和21年(1946)5月6日 真壁仁宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村もようやく春本番。「ホロホロ」は「ウコギ」の方言のようです。

能登半島地震の被災地にも早く春が訪れて欲しいものですね。

昨日は光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエに保存運動が起きている件をご紹介しました。

今日は逆の件を。先月5日、『朝日新聞』さん夕刊に出た記事です。

戦前のまま、時とまったアトリエ 老朽化、近く取り壊し 木彫家・三木宗策が使用

015 東京都北区の路地の奥に、木彫家、三木宗策(そうさく)(1891~1945)が使ったアトリエが残されている。戦前のアトリエが現存するのは珍しく、木彫の像を制作するための石膏(せっこう)原型も保存されていた。当時の息づかいが聞こえてきそうなアトリエだが、老朽化のため、近く取り壊されることが決まった。
 「まるでそこだけ時間が止まっているようでした。見上げた高い屋根裏と上の棚に並んだ石膏(せっこう)の原型から、70年のときを超えて作家の存在を感じました」
 福島県郡山市美術館の中山恵理学芸員は2015年初秋、アトリエに初めて入ったときの感動をそう話す。その年、地元出身だった三木の没後70年展を企画していた。準備が大詰めを迎えたころ、アトリエが現存することを親族から教えられた。

高さ6㍍の吹き抜け
 建物は木造2階建てで、北面の大きなガラス窓の木枠にはツタがからまり、年月を感じさせる。アトリエは約30平方㍍の床面から2階の屋根裏まで吹き抜けの空間構造で、最高部まで高さは 6㍍を超す。
 郡山市出身の三木は14歳で上京し、高村光雲門下の山本瑞雲(ずいうん)に学んだ。22歳で独立。代表作は、全体の高さが3㍍を超える燈明(とうみょう)寺(東京都江戸川区)の本尊・不動明王だ。45(昭和20)年11月、疎開先の郡山市で53歳で病死した。
 東京芸術大学の調査によると、アトリエの建築年代は大正末から昭和初めとされる。三木の次男で美術評論家・三木多聞(1929~2018)の著書「三木宗策の木彫」によると、三木は19(大正8)年までにこの地に転入し、その後、アトリエ付き住宅を建てたらしい。

大空襲の戦火も免れ
 アトリエは、23(大正12)年の関東大震災にも耐えたという話が遺族に伝わる。だが、確実なのは、45(昭和20)年4月13~14日、現在の豊島区、北区、荒川区にかけての米軍による「城北大空襲」の戦火を免れたことだ。
 戦後は子ども部屋や書架など遺族の生活空間として使われてきたという。次第にアトリエとしての存在も家族以外からは忘れられた。
 連絡を受けた中山学芸員ら彫刻関係者らは、残された石膏原型などを郡山市内の施設に運び出し、一時保管した。同美術館ではアトリエの記録や資料の調査をしたのち、所蔵先について検討するという。
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残った石膏原型50点
 いまのところ、アトリエに残された石膏原型約50点のうち、10点は現存する作品の原型、6点は写真だけが残る作品の原型だと確認された。所在不明だった木彫「傷つきたる鳥人」(40年)もみつかった。
 調査にかかわった彫刻家・修復家の藤曲隆哉さんによると、三木は、最初に粘土で塑像(そぞう)を制作したのち石膏原型をつくり、星取り機を用いて木彫の完成作をつくる手順で制作していたという。原型にいくつかの点(星)をうち、その点を星取り機で木に写し取り、空間上の点の位置関係を頼りに彫る。
 藤曲さんは「石膏原型は資料の域を超えることはない」としながらも、「作家本人の純粋な手が入っている。完成作品と原型を比較する価値はあると考えられる」と話している。

三木宗策は、記事にあるとおり、光太郎の父・光雲の孫弟子です。孫弟子ではありますが、光雲との合作もありました。

光雲とゆかりの深い、文京区の金龍山大圓寺さんに、昭和4年(1929)から同8年(1933)にかけて七尊の木彫観音像が寄進され、そのうち五尊は光雲と山本瑞雲(光雲高弟にして宗策の直接の師)、二尊が光雲と宗策の合作という扱いでした。こうした場合、合作という条、メインに鑿を振るったのは瑞雲や宗策なのでは、と思われます。
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これら七観音は戦災で全て焼失、聖観音像のみ鋳銅されたものが大圓寺さん境内に露座でおわしますが、それぞれの胎内仏は現存します。七観音それぞれの開眼供養の際、胎内仏のコピーが鋳銅で造られ、檀家や寄進者に配付されました。像高10㌢弱の懐中仏です。そのうち「准胝(じゅんてい)観音」の鋳銅が花巻市に寄贈され、一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで行われた企画展示「高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」に出品されました。

その後、七観音すべてがセットで売りに出ているのを見つけ、購入しました。上記十一面観音、千手観音の懐中仏がこちら。
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この件はまた後日、ご紹介いたします。

その宗策の使っていたアトリエが取り壊されるということで、記事が出たのは先月初めでしたから、既に解体済みかもと思われます。

この記事で知ったのですが、宗策の次男が故・三木多聞氏。昭和46年(1971)、至文堂さん刊行の『近代の美術 第7号 高村光太郎』の編者を務められたほか、光雲、光太郎に触れた論考をいろいろ書かれていました。かつて連翹忌にもご参加下さったそうです。
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お素人さんではない多聞氏が子息だったにもかかわらず、アトリエ保存という話にならなかったということを考えると、今回の取り壊しの件、仕方がないといえばそれまでなのかもしれません……。余人にはうかがい知れぬ事情等、いろいろあるでしょうし……。

そう考えると、昨日ご紹介した光太郎ゆかりの中野のアトリエ保存の件も、もちろんきちんと保存・活用が為されればそれに越したことはないのですが、なかなか難しいのかな、という感じですね……。

また詳しい情報が入りましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

「北方風物」は先日拝受、小生の素描はインキで画きたるため印刷によく出なかつたものと見え甚だ生彩を欠いてすみませんでした。


昭和21年(1946)4月27日 更科源蔵宛書簡より 光太郎64歳

光太郎、7年間の花巻郊外旧太田村の山小屋暮らしの中で、折に触れ身の回りの自然や道具類などをスケッチし続けました。『北方風物』は、詩人の更科源蔵が北海道で刊行していた雑誌です。
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一昨日の『東京新聞』さんに、光太郎終焉の地・中野の貸しアトリエ保存運動についての記事が大きく出ました。

高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野  残したい 代表作「乙女の像」塑像も制作

014 「智恵子抄」「道程」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、彫刻の代表作「乙女の像」の塑像を制作したアトリエが中野区にある。所有者が昨年死去し、受け継いだ妻は「これ以上、個人での保存や活用は難しい」と頭を悩ます。専門家らは貴重な建物と評価し、保存の道を模索している。
 アトリエは中野駅から徒歩10分ほどの住宅街にたたずむ。施工主は大正から昭和にかけて活躍し、「水彩画の巨匠」と呼ばれた洋画家中西利雄(1900~48年)。設計は近代日本建築運動を先導した建築家山口文象(1902~78年)。完成した1948年に利雄が死去したため、貸しアトリエとして使われ、彫刻家のイサム・ノグチ(1904~88年)らが滞在した。
 建坪17坪のアトリエは、斜めの屋根が目を引く一部2階建て。天井が高く、日光が安定して差し込むよう北側に縦3メートル、幅2・5メートルの大きな窓があるのが特徴だ。作品が見下ろせる2階部分は、楽団の演奏場所として造られた。外壁は現在は白いが、建築当時はすみれ色に塗られていた。
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 光太郎は38年に妻智恵子を失った後、終戦間際から岩手・花巻で過ごした。晩年上京し、52~56年にアトリエで生活し、亡くなった。アトリエ前を流れていた川(現在は暗渠(あんきょ)化)に咲くレンギョウを好み、棺(ひつぎ)にこの花がささげられたという逸話から、命日は「連翹(れんぎょう)忌」と命名され、第1回もこのアトリエで開かれた。光太郎の姪(めい)の娘にあたる櫻井美佐さん(60)は「光太郎をしのぶ建物は都内にここしか残っていない。この景色を見ていたと思うと不思議な感覚になる」と大伯父へ思いをはせる。
 アトリエは利雄の長男、利一郎さんが所有者として「自分の生きているうちは」と外壁にペンキを塗るなどして大切に維持してきたが、昨年1月に死去。相続した妻の文江さん(73)は建物の老朽化などから、一度は解体を決心した。
◆「貴重な建築」有志が保存模索
 昨年秋、利一郎さんと交友があった日本詩人クラブ理事の曽我貢誠(こうせい)さん(71)が「芸術的、歴史的に価値がある文化遺産」として保存を提案。有志で会を立ち上げ、クラウドファンディングなどを視野に活動を始めた。
 近代住宅史が専門の内田青蔵・神奈川大建築学部特任教授は建物について「戦前から戦後に活躍した山口文象による貴重な事例で、オリジナルが残っている。モダニズムを象徴する無駄のない空間を創る思想が現れた建物だ」と評価する。
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 歴史ある建物を調査する「伝統技法研究会」のメンバーで建築士の十川百合子さん(69)も調査に入り、「中野には棟方志功ら文化人が創作の場を構えた。中西利雄と山口文象が生み、地元に愛されてきた建築は貴重」とし、オリジナルを尊重しながら補強して保存する方法を提案。文江さんは区など公的な機関による対応を希望している。
 アトリエは非公開。保存・活用法の提案や問い合わせは曽我さん=電090(4422)1534、メールsogakousei@mva.biglobe.ne.jp=へ。
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記事にもある曽我貢誠氏制作の「アトリエ保存企画書」がこちら。
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曽我氏と関わりの深い文治堂書店さんのHPにPDFで掲載されています。7ページ目の「これからの主な予定」という項に関しては、まるで予定通りに進んでいないようですが……。

フライヤー的なものも。
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また、記事にあるとおり、アトリエの設計はモダニズム建築家の山口文象(この件、当方もアトリエ保存運動が起こるまでは存じませんでした)。山口は北鎌倉の宝庵さん、現在は新宿区立林芙美子記念館さんの一部として活用されている林芙美子邸などを手がけたそうです。そうした和風の建築は現存、活用されているものの、山口が設計したモダンスタイル木造住宅作品は、この中西利雄アトリエが現存する唯一のものだとのこと。『東京新聞』さん記事を受けて、都市プランナーの伊達美徳氏が書かれたブログにその辺りが解説されていますのでリンクを貼らせていただきます。

ついでですのでもう1件。『東京新聞』さん記事に、「彫刻の代表作「乙女の像」の塑像を制作したアトリエ」と紹介されていますが、その制作の模様がブリヂストン美術館(現・アーティゾン美術館さん)制作の「美術映画 高村光太郎」(昭和28年=1953)と「美術家訪問 第7集」(昭和33年=1958)に含まれています。

昨年、アーティゾン美術館さんで開催された「創造の現場―映画と写真による芸術家の記録」展でそれらの動画が会場で常時公開され、それを受けてYouTubeでもアップされましたので貼り付けておきます。当時のアトリエ内部の様子(1:47頃から)、ご覧下さい。


明日もこの件で。

【折々のことば・光太郎】

以前「婦人公論」に「日本美の源泉」といふのを六ヶ月つづいて書いたことがありましたが、若しやあの切抜を貴下が持つて居られたら暫く拝借願へないでせうか。来月あたりから此処で日本美について毎月一回づつ六ヶ月間講演をやらうかと考へてゐますが、あの原文をテキストにして述べたいと思つてゐます。禅の提唱のやうに、美を中心にして万般の事に亘つて語るつもりで居ます。

昭和21年(1946)4月19日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、移住当時はここに最高の文化部落を造る、といった意気込みがありまして、その一環でしょう。ことによるとこの地に光太郎を招いた分教場(講演会場)の教師・佐藤勝治が宮沢賢治の信奉者でしたので、その提案でかつての賢治の羅須地人協会的な実践を……という話になったのかも知れません。「日本美の源泉」についてはこちら

またしても始まってしまっている展覧会ですが……。

所蔵品展「冬の精華-語り来る入魂の作品たち-」

期 日 : 2023年11月17日(金)~2024年2月12日(月・祝)
会 場 : 北野美術館 長野市若穂綿内7963-2
時 間 : 9:30~16:30
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般 700 円 / 高校・専門・大学生 500 円 / 中学生以下無料

冬の季節にふさわしい日本画作品を中心に、国内外作家による洋画、彫刻、工芸品などバラエティに富んだ約90点の作品をご覧ください。今回は作品の要所要所に、それぞれの画家たちのエピソード・乗り越えてきた困難や、切り開いてきた道、作品への意気込みなどを添えて展観します。
また、著名歌人や作家の短歌、俳句の短冊や、小林一茶の書画、館内茶室に江戸時代の女性俳人・加賀千代女の書画など、書跡作品も複数展示。文字からその人となりを想像してみるのも一興でしょう。
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案内文にその文字がなかったのでこれまで気づきませんでしたが、光太郎の父・光雲作の「仁王像」が出ています。

光雲で仁王といえば、同じ長野市の信州善光寺さんの仁王像が有名ですが、ポージング等異なります。仁王像も人気の図題で、光雲にも複数の作例が確認できています。
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北野美術館さん収蔵の作は、他の作例と共に平成14年(2002)に茨城県近代美術館さん他を巡回した「高村光雲とその時代展」に出品されました。像高30センチあまりのものですが、なかなかの優品です。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

此の山の中もやうやく春が近くなりかけたところ、今日は又雪が降つて来ました。二寸ばかりつもつて今又日がさしてきました。


昭和21年(1946)4月15日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村、4月半ばでも6㌢の積雪。北東北にお住まいの方にとっては「そんなもんだよ」でしょうが、南関東の人間にとっては「へー」ですね。

戦前戦後に光太郎と交流のあった岡山県豊田村(現・赤磐市)出身の詩人、永瀬清子を中心に据えた展示です。

永瀬清子展示室企画展「マンガで読む永瀬清子」

期 日 : 2023年12月8日(金)~2024年3月31日(日)
会 場 : 永瀬清子展示室 岡山県赤磐市松木621-1 赤磐市くまやまふれあいセンター2階
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 無料

今春、永瀬清子の生涯がマンガになりました。永瀬清子が誕生し詩人を志す過程を中心に描いており、赤磐市立図書館などで読むことができます。この展示では、マンガを描くのに使われた資料とマンガ『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』とともに、永瀬清子の生涯を紹介します。
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案内文にあるとおり、昨年、永瀬の伝記マンガ『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』(シナリオ 和田静夫氏/マンガ 藤井敬士氏/赤磐市教育委員会発行)が刊行され、それを記念しての展示です。

マンガには光太郎も登場します。昭和9年(1934)、新宿のモナミで開催された宮沢賢治追悼会の場面、昭和15年(1940)に永瀬が自らの詩集『諸国の天女』序文を光太郎に依頼するシーンなど。

展示ではそのあたり、どういうふうに扱われているのか不明ですが、永瀬の年譜等展示されていれば、触れられていると思われます。

また、期間中の2月17日(土)には第25回朗読会「永瀬清子の詩の世界―貴方がたの島へ」も開催されます。
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007プログラムにはシンガーソングライター・沢知恵さんのコンサートも。永瀬は生前、ハンセン病療養施設への支援活動なども行っていましたが、沢さんも同様の活動に取り組んでいて、そうした関係でしょう。

余談になりますが、沢さんのお祖父様・金素雲の訳詩集『乳色の雲』(昭和15年=1940)には光太郎が挿画を寄せており、奇縁を感じました。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

四月十三日がまた廻りくるにつて、昨年のあの時の貴下の御厚情と一方ならぬご助力とを思ひ出し、真に忝い事だと思つてゐます。其後お訪ね下さつた宮沢家も全焼し、今年は此の山の中の一軒家で記念の日を迎へます。

昭和21年4月9日 寺田弘宛書簡より 光太郎64歳

昨年のあの時」は、米軍の空襲により駒込林町のアトリエが灰燼に帰した昭和20年4月13日を指します。この際、寺田が真っ先に光太郎の元を訪れ、燃えさかるアトリエを茫然と見る光太郎の姿を回想に残しています。

1週間経ってしまいましたが、群馬県の地方紙『上毛新聞』さん、今年元日に掲載された一面コラムです。

三山春秋 詩人の室生犀星が萩原朔太郎を訪ねて来たのは...

▼詩人の室生犀星が萩原朔太郎を訪ねて来たのは1914(大正3)年。前橋駅で初めて顔を合わせた時、互いの印象は最悪だった。「肩を怒らし、粗野で荒々しい感じ」(朔太郎)、「何て気障(きざ)な虫酸(むしず)の走る男」(犀星)と語っている▼詩から想像していた風貌とのギャップに双方ともに落胆したが、およそひと月の滞在中に仲は深まる。犀星が上京すると今度は朔太郎が頻繁に会いに行き、一緒に高村光太郎の家を訪ねたり、上野公園へ出かけたりした▼互いの存在は創作の刺激になったのだろう。出会った頃は作品が評価されず暮らしも苦しかった犀星は才能を開花。「二魂一体」(犀星)と言うほどに、生涯の親友となった▼莫逆(ばくぎゃく)の友、心腹の友など友情にまつわる言葉は多い。その存在によって吉がもたらされることもあれば凶に転ぶこともある▼「益者三友損者三友」は論語の教えである。自分のためになる友は三通り、ためにならない友も三通りいる。前者は直言してくれる者、誠実な者、物事を深く知っている者であり、後者は不正直、不誠実、口先だけの者。大切にすべき人を説くこの思想は、江戸時代には広く庶民にも浸透していたという▼新しい年を迎えた。辰(たつ)年は変化の多い年とされる。それぞれの身にも小さな波、大きな波が寄せるかもしれない。行き詰まったとき頼りになるのは益者の友。相手にとっての自分も、そうありたい。

光太郎に朔太郎、犀星。年齢的には光太郎が最年長の明治16年(1883)の生まれ、次いで明治19年出生の(1886)の朔太郎(智恵子と同年です)、そして犀星が最も若く明治22年(1889)の生まれです。
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光太郎は朔太郎、犀星とはそれほど親しかったわけではありませんでしたが、「三山春秋」にあるとおり、二人が駒込林町のアトリエに揃って訪ねてきたことがあり、その件は犀星の随筆「天馬の脚」(昭和4年=1929)に述べられています。

それによれば犀星の光太郎評は「裏側へのびてゆく奥の深い人である。小説を書いてゐたら別の意味の志賀君のやうな人になつてゐたらう。物を研め考へることは当今の文人の比ではない。話をしてゐても気取らず平明で、それでゐてある程度まで他人を容れない冴えをもつてゐる。」「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騒がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、青年の峠を通り抜けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出来であつた。」。そして帰り道、犀星が朔太郎に「かうして高村君を君と訪ねてかへると一寸若くなつたやうな気がするね。」すると「萩原も笑ひながら、いろいろな意味でねと言つた。

当方、朔太郎に関してはあまり詳しくないのですが、朔太郎もこの際の訪問記的なことを書いているのでしょうか。御存じの方、御教示いただければ幸いです。

しかし犀星、光太郎歿後に書かれた『我が愛する詩人の伝記』(昭和33年=1958)では、光太郎をディする方向に梶を切っていますが……。

光太郎にとっての「益者の友」といえるのは、同年生まれだった水野葉舟、そしてちょうど20歳下でしたが、当会の祖・草野心平でしょうか。
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無理くりですが、今日は「成人の日」。新成人の皆さんも、「益者の友」といえる友を得て、人生を豊かにしていっていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

フキノタウは三里塚の土の香りをなつかしいと思ひました。こちらでも此頃やうやく雪の下からフキノタウを発見しました。出はじめれば無限にあるわけです。 いただいたのは早速蕗味噌に作つて賞味します。


昭和21年(1946)4月1日 水野葉舟宛書簡より 光太郎64歳

光太郎もたびたび訪れた千葉三里塚に隠棲していた葉舟からフキノトウが送られ、その礼状の一節です。温暖な房総と雪深い花巻郊外旧太田村では、春の訪れが何ヶ月もずれます。当方も今月末に房総から花巻郊外旧太田村に足を運ぶ予定でいますが、その点のみが気の重いところです。

昨年12月22日(金)、『日本経済新聞』さんの記事から。

日本復帰70年 「奄美のガンジー」泉芳朗を語り継ぐ

 鹿児島県奄美地方で12月25日は特別な日だ。1946年のGHQ(連合国軍総司令部)の二・二宣言で、奄美を含む北緯30度以南の島々は米軍統治下におかれた。その後、奄美群島が悲願の日本復帰を果たしたのが70年前、53年のこの日だった。
 復帰運動の先頭に立ったのが泉芳朗(ほうろう)(1905〜59年)だ。ハンガー・ストライキを実施し、復帰を訴えた姿からインドのマハトマ・ガンジーになぞらえ「奄美のガンジー」と呼ばれている。
 私が代表を務める「泉芳朗先生を偲(しの)ぶ会」では、功績を後世に伝えようと記念碑建立や出前授業を行っている。設立したのは私の父、豊春だ。泉先生の秘書を務め、復帰運動をそばで支えた。59年に泉先生が亡くなったあとは、奄美群島の各市町村が12月25日を日本復帰記念日に制定するよう奔走した。私も幼いころから話を聞かされ、実際にお目にかかったこともある。当時は親戚のおじさんだと思っていた。
 泉先生は、鹿児島県の徳之島出身。学校を卒業後、小学校で教員をする傍ら、詩作に打ち込んだ。28年に上京し、詩人の高村光太郎とも交友。再び島に戻った後は、教育者と詩人の二足のわらじで活動した。
 外国となった奄美は本土への渡航が制限され、黒糖や大島紬(つむぎ)など特産品の流通も禁止された。生活は苦しく、島民は密輸や密航に手を染めた。復帰を望む声が東京在住の奄美出身者らから広がり、51年2月には奄美で復帰協議会が結成される。議長に就任したのが教育者として信頼を集めていた泉先生だった。
 直後に始まった満14歳以上を対象とした請願署名には、実に島民の99.8%が名を連ねた。私の父の名前もそこに見られる。大規模な集会も開催され、取り締まる米兵との衝突も起きた。

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 51年8月に泉先生は名瀬市(現鹿児島県奄美市)の高千穂神社で5日間の断食を決行し、多くの島民が後に続いた。泉先生の詩「断食悲願」には強い決意がにじむ。〈膝を曲げ 頭を垂れて/奮然 五体の祈りをこめよう/祖国帰心/五臓六腑の矢を放とう〉。詩の力は復帰運動を戦う島民の大きな力となり、うねりは一層大きくなった。
 しかし、すぐには実を結ばなかった。52年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効され日本は主権を回復。北緯29度線以北の島々は復帰を果たしたが、奄美は依然、米軍統治下におかれた。この日は奄美では「痛恨の日」と呼ばれている。
 その翌日、泉先生は子供たちの前に日本国旗を示し、祖国の旗を覚えておくよう呼びかけた。そのことで米軍から注意を受けた際、一歩も譲らず説き伏せたという。父はよくその場面をあげ、胆力のすさまじさを語っていた。同年には名瀬市長に当選し「市政と復帰一如」をスローガンに精力的に活動する。教育者、詩人、政治家の3つの顔で、島民を鼓舞し続けた。
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 53年8月にダレス米国務長官が奄美を日本に返す用意があると発表した「ダレス声明」を経て、その日はやってきた。同年12月25日、奄美は歓喜に沸いた。泉先生は「皆さん、これで八年の苦難は達成して、きょう、この日の我々は、本当の日本人になったのであります」と挨拶し、万歳三唱した。島民はちょうちん行列で喜びあった。
 今年の復帰70周年の日にも、ちょうちん行列が予定され、当時の光景がよみがえるはずだ。奄美が米軍統治下にあったことを知らない世代も増えた。泉先生の功績とともに、先人たちの悲願の先に、今があることを伝えていきたい。
  
12月25日(月)に行われた奄美群島の米軍統治下からの日本復帰70周年記念式典に先立ち、復帰運動を主導した泉芳朗の功績を振り返るといったコンセプトの記事です。

徳之島の
伊仙村(現伊仙町)出身で、戦後は名瀬市長も務めた泉ですが、戦前は教員を務めるかたわら詩人としても活動し、10年ほどは東京に在住していました。その頃光太郎とも親交を結び、光太郎も出席した座談会の司会を務めたり、自身の主宰する雑誌の題字を光太郎に揮毫して貰ったりした他、光太郎と同じ書籍や雑誌に寄稿することもしばしばでした。戦後も光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、岩手から帰京した直後の昭和27年(1952)に、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪問しています。くわしくはこちら

先月の奄美群島の日本復帰70周年。今一つ報道されなかったように感じています。九州の地方紙などでは改めて占領下を振り返る特集記事などが出ていましたが……。沖縄が永らく米軍統治の扱いだったことは歴史の教科書にも記載がありますが、小笠原諸島、そして奄美群島もそうであったことは忘れられつつあるように思われます。ウクライナの件など、世界的にも領土問題が顕在化しているこの時期、過去に学ぶ必要をひしひしと感じるのですが……。

【折々のことば・光太郎】

おハガキ二通及「週刊朝日」二冊、珍しい新聞一束拝受、ありがたく存じました。 小屋の写真はよくうつつてゐると思ひました。談話の筆記は所々間違へたりしてゐます。ともかく、こんな小屋に独居自炊してゐると思つて下さい。人家からは三丁程離れた山腹で下に見える湧き水の水を汲んで炊事してゐます。勝手元の厨芥を夜兎が来てたべるやうです。鼠は夕方遠くからやつて来て小生の座辺へも平気で来ます。大切なローソクをかぢるのは閉口です。

昭和21年(1946)3月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

光太郎の元に送られた『週刊朝日』のうち、この年2月24日号(第48巻第7号)には、花巻郊外旧太田村の光太郎の暮らしぶりが紹介されました。この手の記事としては最も早い時期のものの一つです。
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題して「雪にもめげず 疎開の両翁を東北に訪ふ」。故郷・山形に居た斎藤茂吉も紹介されています。

少し前にご紹介した佐高真氏著『反戦川柳人 鶴彬の獄死』の中で、歴史作家の藤沢周平が同郷の茂吉に対し、戦後も皇国史観から抜け出せず、戦争協力への反省も行わなかったことを痛烈に批判したことが紹介されています。また佐高氏もこう書いています。

 光太郎より一つ年上だった茂吉は、一九四五年の四月に故郷に疎開し、大石田の名家の離れに住んだ。その時、茂吉六十三歳。妻子と離れての独居で病気をしたりもしているが、上下二部屋ずつある家で、光太郎の小屋とは比ぶべくもなかった。また、結城哀草果とか板垣家子夫とか、地元の歌の弟子が献身的に世話をしている。

光太郎も太田村の山小屋に入る前は、花巻町の佐藤隆房邸に厄介になっており、佐藤や宮沢賢治実弟の清六らが献身的に世話してくれていました。その生活を続けなかったところにも光太郎の偉さがあるというわけですね。

昨秋から始まっている展示です。年末年始休館が明けて今日再開します。

コレクション展 衣裳は語る──映画衣裳デザイナー・柳生悦子の仕事

期 日 : 2023年10月7日(土)~2024年3月31日(日)
会 場 : 世田谷文学館 東京都世田谷区南烏山1-10-10
時 間 : 10:00~18:00
休 館 : 毎週月曜日 1月8日(月・祝)、2月12日(月・祝)は開館、翌日休館
料 金 : 一般 200円 大学・高校生 150円 65歳以上・小中学生 100円

 1950年代から80年代まで、数々の映画で衣裳デザインを担当した柳生悦子(やぎゅう・えつこ 1929~2020)。舞台衣裳デザインの道を志していた柳生は東京美術学校在学中から映画美術監督・松山崇に師事、美術助手として映画制作に携わります。『ロマンス娘』(東宝 1956年)で映画衣裳を手がけるようになり、以降「三人娘」「若大将」「社長」「クレージー」ものなどの東宝の人気シリーズから音楽映画、文芸作品、時代劇、戦争、SF映画などあらゆるジャンルの映画衣裳デザイナーとして活躍していきます。85年の『Mishima』(日米合作映画・日本未公開)、88年の『敦煌』(大映・電通)まで作品数は100本以上に上ります。
 現在でこそ映像作品におけるコスチューム・デザインは作品を成り立たせる重要な要素として認識されていますが、柳生がキャリアをスタートした1950年代から60年代の映画界はモノクロからカラー、ワイド画面への転換期と軌を一にし、登場人物たちの色調やスタイルを全体バランスの中で考える専門職としての衣裳デザイナーの必要性がようやく認められはじめた時期でもありました。柳生は手さぐりの中で、映画全体と調和する「グッド・デザイン」とは何かを追求し続けました。
 世田谷文学館は柳生の生前、約3000点に及ぶデザイン画の寄贈を受けました。本展は、歳月を経てなお色彩鮮やかなデザイン画の数々を中心に構成し、映画衣裳デザイナーのパイオニア・柳生悦子の仕事をご紹介いたします。約400点の衣裳デザイン画を閲覧できるデジタル展示とともにお楽しみください。
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昨年末にX(旧ツイッター)世田谷文学館さんの公式アカウントに出た投稿で、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」岩下志麻さんが演じられた智恵子役の衣裳に関する展示も為されているということを知った次第です。
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手許の資料とつつきあわせてみますと、何点かは「ああ、このシーンでの衣裳か」という感じでした。
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ちなみに光太郎役は丹波哲郎さんでした。
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改めてお着物をよく見てみますと、意外と凝った柄になっていますね。しかしそれが違和感を感じさせず、非常に自然です。柳生さんという方、存じませんでしたが、いい仕事をなさっていましたね。
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ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

苦しめる間は必ず進みます。これでもういいと思つた時はお仕舞です。


昭和21年(1946)3月19日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

なるほど。

元日には能登半島での大地震、昨日は羽田空港での事故と、大変な幕開けになってしまった2024年です。亡くなられた方々に心より哀悼の意を表したく存じます。

こんな時こそ神仏のご加護にすがり、心落ちつけたいものです。今年は辰年ということで、龍神様。台東区の浅草寺さんお水舎に鎮座まします、光太郎の父・光雲作の「沙竭羅龍王像」が注目されています。

昨年12月28日(木)の『東京新聞』さん。「想像膨らむ「辰」の由来 干支で唯一架空の生き物」という記事で取り上げて下さいました。

想像膨らむ「辰」の由来 干支で唯一架空の生き物

008 来年の干支(えと)は「辰(たつ)」。龍(竜)とも解せられ、十二支の中では唯一、想像上の生き物だ。辰が干支の一つに選ばれた理由を探るとともに、龍が祀(まつ)られている都内の寺社を訪ねた。

◆干支の起源は天体 農耕始める目安に
 なぜ干支に辰(龍)が入ったか。ワニが転じて龍になったとか、インドの教典が起源など諸説あるが、天体からとられたと天文学者の新城(しんじょう)新蔵(1873~1938年)が説いている。新城は宇宙物理学を専門としたが、中国天文学の権威でもあり、戦前に京都帝国大学総長も務めた人物。
 新城は「東洋天文学史大綱」に「古代中国では農作業を行う暦に恒星の『大火』を用いた。大火とは、さそり座のアンタレス」「殷(いん)の時代は大火を『辰』と呼び、守護神扱いした」と記す。十二支を制定する際に5番目が辰となったのは「大火が五月の星だから」という。さそり座は夏の星座で、赤く目立つアンタレスは農耕を始めるのに良い目安になったと想像できる。
 今の時期は、夜空にアンタレスを見ることはできない。多摩六都科学館(西東京市)にお願いして世界最大級のプラネタリウムにさそり座を投影してもらった。南の空、天の川付近に輝く。「アンタレスはさそりの心臓あたり」と天文グループリーダーの齋藤正晴さん。
 中国の星座ではおとめ座、てんびん座、さそり座、いて座にかけての領域を四神獣の青龍に見立てており、辰の星があるから龍に置き換わっていったのではないだろうか。

◆田無神社に5龍神
 龍の神社といえば、西武新宿線・田無駅の近くにある田無神社(西東京市)だ。「鎌倉時代の創建以来、祭神の級津彦命(しなつひこのみこと)・級戸辺命(しなとべのみこと)は龍神として祀っている」と賀陽(かや)智之宮司。現在は五行思想に基づいて本殿内に金龍、境内各所に黒龍、白龍、赤龍、青龍が配され、五龍神として信仰されている。
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    青梅街道に面した南側の一の鳥居をくぐると、すぐ右に赤龍がある。参道を進んで二の鳥居の西に白龍、本殿・拝殿の東に青龍、北参道わきには黒龍が置かれている。
   中国の神話にある四神獣は東が青龍、南が朱雀(すざく)、西が白虎(びゃっこ)、北が玄武だが、田無神社ではいずれも龍だ。金龍は拝観することはできないが、おみくじの入った置物には金龍もある。

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 本殿・拝殿には龍の彫刻が施されている。境内にはイチョウの木が立ち並び、参拝者の中には手を触れて祈る人も。神木「龍木」として親しまれているようだ。
 田無神社にはこんなエピソードもある。作家の五木寛之さんが早稲田大に入った1952年の春から夏にかけ、この神社の床下をねぐらにしていたというのだ。五木さんは「あちこちの神社にお世話になった」のだが「最も快適だったのは田無神社の床下である」と雑誌の随想に書いている。

◆金龍出現で松林1000株 浅草寺の山号に
 龍と縁の深い寺といえば浅草寺(台東区)。東京最古といわれているこの寺の山号は金龍山という。飛鳥時代の628年、隅田川から本尊の観音様が現れた時、金龍が天空から舞い降り、一夜で千株の松林ができあがったという縁起がある。春と秋に奉納される「金龍の舞」の由来だ。
  最初に龍がいるのは雷門。赤い大ちょうちんの底に木彫りの龍が施されている。雷門の南側には風神像と雷神像、北側には龍神像2体が奉安されている。門の正式名称は「風雷神門」だが、江戸時代後期にはすでに雷門と呼ばれるようになった。
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  仲見世を抜けて宝蔵門へ。「小舟町」と記された赤ちょうちんの底にも木彫りの龍がいる。本堂に向かう手前東側のお水舎(みずや)では高村光雲作の龍神像が立ち、足元では龍の口から水が注がれている。天井には東韶光(あずましょうこう)が描いた「墨絵の龍」がにらみをきかせる。
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 本堂の天井にも川端龍子の「龍之図」があったが今年7月に剝落してしまい、現在は高精細の複製画が掲示されている。

雑誌『家庭画報』さんの新春特大号でも。
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特集「辰年の開運祈願 龍神絶景を行く」の中の「あなたの町にも龍はいる!日本全国の社寺建築に息づく龍の傑作選」という記事です。

●浅草寺(東京都) 都内最古の寺院で神像を囲む8体の龍

約1400年前、今の隅田川で聖観世音菩薩の像が、漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の投網にかかったことを由緒に持つ「浅草寺」。御水舎には明治から大正にかけて活躍した彫刻家・高村光雲作の龍神像を据え、その周りを8体の龍が囲む。天井にも「墨絵の龍」が描かれている。
浅草寺 住所:東京都台東区浅草2-3-1 TEL:03(3842)0181
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開運・招福にご利益のあるとされる龍神様。年明け早々の暗雲を祓っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

明日は小生の誕生日なので、取つて置いた少しばかりの小豆を煮て明朝は赤飯を祝ふつもりです。

昭和21年(1946)3月12日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

この項、慣例により光太郎の年齢は数え年で記載していますので食い違いますが、翌13日は満63歳の誕生日でした。日記によれば、朝のうちに近くの分教場の先生が用事で訪ねてきた以外は訪問者もなく、一人で祝う誕生日でした。

まずは昨日の能登半島を震源とする地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。

昨日の元旦は、例年通り九十九里浜に初日の出を拝みに行きました。以前は智恵子が療養していた現・九十九里町まで足を延ばしておりましたが、やはり少し遠いということもあり、ここ3年は隣町の旭市で拝観。同じ九十九里浜の一部ではあります。

旭市と言えば、平成23年(2011)の東日本大震災時には津波が発生、全壊家屋300戸以上、半壊も約1,000戸、確認されているだけで14名の尊い命が犠牲となり、2名の方はいまだ行方不明です。
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下の方の赤枠で囲まれている部分が、90年前に智恵子が療養し、週に一度は光太郎が訪れていた現・九十九里町です。当方自宅兼事務所のある香取市は右上の方。

午前6時過ぎ、旭市の海岸に到着。一昨日の大晦日は夜になっても雨がぱらついており、どうかと思っていたのですがまずまずの好天でした。
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右手に目をやると、かつて智恵子が居た九十九里町方面。
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昨年の正月飾り等を持参、それを焚き付けにして、あとは流木を集め、焚き火。令和6年(2024)の迎え火としました。
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波乗り初めのサーファーさんたち。小学生くらいの少年もいました。
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6時45分頃、水平線から太陽。
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10年以上九十九里浜で初日の出を拝んできましたが、いつも水平線上に雲がかかっていて、水平線から上る太陽を見たのは今年が初めてでした。

ちなみに左下は一昨年、右下は昨年の初日の出です。
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いつもこんなふうに雲の上から日が昇る、という感じだったのが、今年は水平線からのご来光で、驚きました。もっとも、やはり雲があっていったん隠れてしまいましたが。
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波打ち際に鳥がいて、智恵子の友達だった千鳥かと思ったので近づいてみましたが、どうやら鷗のようでした。

やがて雲の上に太陽。
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令和6年も光太郎智恵子の世界が盛り上がることを祈念し、手を合わせました。

それにしても、13年前にこの海が牙を剥いたことなどほぼほぼ忘れていましたが、昨日のニュース映像で改めて地震の恐ろしさを再認識しました。身を引き締めて今年1年を過ごそう、と思う次第です。

【折々のことば・光太郎】

此処へ来てからお風呂にはまだ一度も入りません。しかし湯を沸して時々からだ拭きをやり、下着もとりかへて洗濯をちよいちよいやります。

昭和21年(1946)3月7日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)で暮らし初めて約5ヶ月。小屋には風呂がありませんでした。のちに見かねた村人たちが風呂を作ってやりますが、大量の薪が必要で効率が悪く、結局あまり使いませんでした。その代わり、落ちついてからは大沢温泉さんなどに足繁く通うようになります。

新春を彩るにふさわしい企画展です。

開館記念展 皇室のみやび 第2期 近代皇室を彩る技と美

期 日 : 2024年1月4日(木)~3月3日(日)
      前期:1月4日(木)―2月4日(日) 後期:2月6日(火)―3月3日(日)
会 場 : 皇居三の丸尚蔵館 東京都千代田区千代田1-8 皇居東御苑内
時 間 : 午前9時30分〜午後5時
休 館 : 月曜日(ただし月曜が祝日または休日の場合は開館し、翌平日休館)
料 金 : 一般1,000円、大学生500円

本展は、今年11月に開館30年を迎える三の丸尚蔵館が、令和という新たな時代に、装いを新たに「皇居三の丸尚蔵館」として開館することを記念して開催するものです。約8か月にわたって開催する本展では、「皇室のみやび」をテーマに、当館を代表する多種多彩な収蔵品を4期に分けて展示します。これらは、いずれも皇室に受け継がれてきた貴重な品々ばかりです。長い歴史と伝統の中で培われてきた皇室と文化の関わり、そしてその美に触れていただければ幸いです。

※出品作品は全て国(皇居三の丸尚蔵館収蔵)の作品です。

皇居三の丸尚蔵館の収蔵作品には、明治時代以降に宮中において室内装飾として使用された美術工芸品類が含まれています。なかでも、明治22 年(1889)に大日本帝国憲法発布式が行われた場所でもある明治宮殿を飾った作品は、当時の著名な作家が最高の技術を凝らしたものです。第2期では、それらの作品とともに御即位や大婚25 年(銀婚式)など皇室の御慶事を契機として制作された作品、さらに明治・大正・昭和の三代の天皇皇后にゆかりのある品々をご紹介します。

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今秋リニューアルオープンした皇居三の丸尚蔵館さんの開館記念展。第1期の「三の丸尚蔵館の国宝」が既に先月から始まっており、年明けから第2期「近代皇室を彩る技と美」期間に入ります。
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光太郎の父・光雲の木彫、絶対になにがしかは出品されるだろうと予想し、何が出るかなといろいろ調べていたのですが詳細が分からずやきもきしていたところ、昨日になって詳細が発表されました。

それによると光雲作は「猿置物」(大正12年=1923)。昭和天皇の弟の秩父宮殿下から、母親の貞明皇后陛下に献上されたもので「三番叟」とも称されます。
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第2期の中でさらに前期(1月4日(木)―2月4日(日))、後期(2月6日(火)―3月3日(日))に分かれ、前期のみの展示だそうです。

他の目玉の展示品は川合玉堂の「昭和度 悠紀地方風俗歌屏風」、横山大観で「日出処日本」、海野勝珉による「蘭陵王置物」(重要文化財)など。いずれも新春らしく吉祥感あふれる作です。

出品目録がこちら。
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観覧には予約が必要ですが、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の冬籠ももう半分通り越して残り惜しいやうな、又春が待たれるやうないろいろの気がします。今年は暖冬に属してゐるやうで零下二〇度の日は一朝だけでした。吹雪のひどいのも一晩だけ。幸に健康でゐます。


昭和21年(1946)2月7日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎64歳

マイナス20℃の日があっても暖冬ですか……。岩手県、おそるべしです。

来年の話ではありますが、もう2週間足らず後ですので……。

モンデンモモ ニューイヤーコンサート2024

期 日 : 2024年1月5日(金)
会 場 : 紅葉丘文化センター 東京都府中市紅葉丘2丁目1番地
時 間 : 15:00頃
料 金 : 無料(当日午前中から整理券配付のようです)

歌い始めがどんなふう?ってすごくその年を表しますね 来年2024年の歌い初めはこんな風〜 いつもミュージカルやお芝居のお稽古にお世話になっている地元の文化センターからオファーいただきました 各ジャンルの作品精一杯お届けしてみますね

出演
 歌 お話 モンデンモモ   ピアノ おのゆみ

予定曲目
 愛の賛歌 アヴェマリア オペラ夕鶴より さよならのアリア みだれ髪 レモン哀歌
 百万本のバラ さよならはダンスの後に 天城越え ラ・クンパルシータ 私はマリア
 古代への旅 他 

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「智恵子抄」をはじめ、光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手・モンデンモモさんのコンサートです。

「レモン哀歌」がプログラムに入っています。平成6年(1994)にリリースされたCD「REQUIEM」に収録されていた曲ですから、もう30年歌い継がれていることになりますね。

最近は鳥取やら島根やら、あちらの方での活動が中心となりつつあるようですが、ご自宅は東京都府中市で、そちらでの開催です。

お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

砥石の凍結の危険のため彫刻も大工仕事も出来ないのが残念です。


昭和21年(1946)2月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

厳寒期にはマイナス20℃にもなる花巻郊外旧太田村の山小屋。砥石は水で濡らして使用するため、その水がしみ込んで凍結すると膨張し、砥石自体が割れてしまいます。

光太郎の名が出た新聞記事を2件。

まずは昨日の『千葉日報』さん。銚子市ジオパーク・芸術センターさんで開催中の「ぎょうけい館資料展」の紹介です。

伊藤博文ら著名人も訪れる 閉館の老舗宿、歩みに光 銚子「ぎょうけい館」30点展示で回顧

 明治期に創業し、1月末に閉館した銚子市犬吠埼の老舗旅館「ぎょうけい館」の歩みを紹介する企画展が、市ジオパーク・芸術センターで17日まで開かれている。昔の写真や館内に飾られていた美術品など約30点を展示している。
 展示などによると、海に臨む旅館からの絶景は多くの人々を魅了。伊藤博文や島崎藤村、国木田独歩、高村光太郎ら著名人も訪れたという。企画展は、閉館後に同旅館から市に寄贈された資料を活用した。
 大正から昭和に全国各地の鳥瞰(ちょうかん)図を手がけた吉田初三郎の作品「銚子遊覧交通名勝鳥瞰図」は、かつて館内の食堂や受付に飾られた。同旅館と犬吠埼灯台を含む名所や街並みが描かれている。
 旅館の外観写真展示では、明治後期の趣ある日本家屋風から平成以降の白い建物に至る変遷をたどれる。パンフレットや、ゆかりの文人の作品も紹介している。
 我孫子市から夫と来場した田口美由紀さん(65)は同旅館を繰り返し訪れていたといい「海の景色がきれいで料理もおいしいし、温かいスタッフばかりだった。飾ってあったものも見られて懐かしい」と話した。
 観覧無料、午前9時~午後5時。問い合わせは銚子資産活用協議会事務局(市教委文化財・ジオパーク室)(電話)0479(21)6662。
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同展、会期が明日まででして、もう少し早く紹介してくれれば良かったのに、という感じではありますが……。

続いて『朝日新聞』さん、12月13日(水)夕刊。

目立つ「本格」、刑事と挑む謎解き ミステリー小説ランキング、紹介

 年末の風物詩、ミステリー小説のランキングが出そろった。主なランキング(「週刊文春ミステリーベスト10」「このミステリーがすごい!」「本格ミステリ・ベスト10」「ミステリが読みたい!」)の上位作品には、謎解きプロセスの純度が高い「本格」作品が目立つ。
 文春、このミス、ミス読み1位、本ミス2位と圧倒的な支持を集めたのが米澤穂信「可燃物」(文藝春秋)。群馬県警捜査第一課の葛(かつら)警部を探偵役にした五つの事件が並ぶ。意外な凶器を扱った「崖の下」に始まり、動機探しや犯人当てなど、一編ごとに異なる趣向を施した謎解きのショーケース。著者初の警察ミステリーとのふれこみだが、組織内部のさや当てを描くような警察小説ではない。現実の捜査機関を使い、わかりやすく手がかりを提示することで、読み手に純粋な知恵比べを挑む。超常現象や未来技術を使った特殊設定ミステリーへの一つの回答とも言えよう。
 文春2位の東野圭吾「あなたが誰かを殺した」(講談社)も刑事が探偵役。ガリレオと並ぶ人気シリーズ探偵、加賀恭一郎ものの新作は別荘地で起きた一夜の連続殺人に始まる。犯人はすぐに逮捕されるが詳細を黙秘。被害者遺族が真相解明のために開いた会合に立会人として参加した加賀は、生存者の証言を一つひとつ検証していく。遺族それぞれが抱える秘密を小さな矛盾からあらわにし、事件の全容に迫っていくプロセスが鮮やかだ。
 一方、このミス2位、百鬼夜行シリーズ17年ぶりの長編となる京極夏彦「鵼(ぬえ)の碑(いしぶみ)」(講談社)は日光を主舞台に、「姑獲鳥の夏」からの面々が関わる五つの物語が並走する。とらえどころのない鵼そのままにもつれあう展開は、まさに本格ものの土台を揺さぶるアンチ・ミステリー。読み手を謎迷宮に誘う。
 ベテラン勢が上位を占めるなか、ロジックの大伽藍(がらん)を築いて本ミス1位となったのが鬼才、白井智之の「エレファントヘッド」(KADOKAWA)。精神科医が謎の薬を手にしたことで幸福な家族に悲劇が起きるのだが、猟奇的な不可能犯罪の連打、薬に端を発するぶっとんだ特殊設定、そこから生み出される多重推理を経ての合理的解決まで、冒頭から1行たりとも読み飛ばせない。持ち味のグロさ満載なのに、なんと美しい本格ミステリーなのかとため息をつく。
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 気鋭でいえば、文春、このミス2位の井上真偽「アリアドネの声」(幻冬舎)も収穫。大地震により地下5階に取り残された「見えない、聞こえない、話せない」女性を地上へと救出するタイムリミット・サスペンス。手に汗握る展開と、ラストの衝撃が心に残る。
 このミス、本ミス10位の荒木あかね「ちぎれた鎖と光の切れ端」(講談社)は昨年の江戸川乱歩賞受賞者の新作。クリスティの二つの有名作品へのオマージュを二部構成で展開する。前半は孤島ものの本格ミステリー、後半は連続殺人をめぐるサスペンスでありながら、共通する謎に別解を提示する意欲的な作りになっている。
 本格好きの記者のベストは白井作品だが、偏愛の一冊が柳川一「三人書房」(東京創元社)。江戸川乱歩になる前の平井太郎が、周りで起きた不思議な事件の数々を解き明かす。同時代を生きた宮沢賢治、宮武外骨、高村光太郎ら著名人の登場も楽しい。「二銭銅貨」発表から百年の節目にふさわしい、乱歩ファン必読の連作短編集だ。

残念ながら各種ランキング上位には漏れたようですが、柳川一氏『三人書房』を番外編として紹介して下さいました。
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記事には「乱歩ファン必読」とありますが、光太郎ファンも必読ですのでよろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

山小屋周囲積雪すでに三尺平均に及び、郵便屋さんも時々休みます。いよいよ冬籠りです。燈火なきため夜間執筆は不能です。蠟燭入手さへ困難な状態ですから。 夜は柴を焚いて暖と光とをとります。


昭和20年(1945)12月28日 竹之内静雄宛書簡より 光太郎63歳

激動の昭和20年(1945)も、こうして暮れて行きました。

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