カテゴリ: 東北以外

都内から演劇公演の情報です。

劇団「喜び」40回記念公演 一人芝居 智恵子抄

期 日 : 2024年11月21日(木)~11月24日(日)
会 場 : 荻窪小劇場 東京都杉並区荻窪3-47-18 第五野村ビル1F
時 間 : 開場 13:30 開演 14:00
料 金 : 前売 一般4,000円 中高生2,000円  当日 一般4,500円 中高生2,000円

彫刻家であり詩人でもある、高村光太郎その妻智恵子。珠玉の愛の物語『智恵子抄』を一人芝居でお届けします。

皆さまへ、高村光太郎「智恵子抄」との出逢いは、20代後半でした。 あの頃は人生が180度変わる出来事に襲われ、それ以来私は、人を信じる事が出来なくなりました。 トンネルの中を歩いているような数年を過ごしたある時、祖父の書斎で「智恵子抄」を見つけました。 何気なくパラパラと捲り、随筆「智恵子の半生」を読むうちに涙がとめどなく流れ嗚咽していました。 ようやく心の糧になるものに巡り会えた! そんな気持ちでした。それから毎日、智恵子抄を読むうちに、 光太郎 智恵子の生き様に涙し、また励まされ、胸をときめかせました。 稀有な愛の世界を一人でも多くの人に伝えたい。それが私の願いになっていきました。 地元富山では、10年前から一人芝居として「智恵子抄」を公演し好評を得て再演を重ねました。 もっと沢山の方に知って頂きたくて、東京公演を決定しました。

皆様のお越しを心よりお待ちしています♡

出 演 : 茶山千恵子
朗 読 : 一柳みる(劇団昴) 西山水木(下北澤姉妹社) 
      小飯塚貴世江(キヨエコーポレーション)

本編の前にゲストの朗読があります(15分) 宮崎春子 「紙絵のおもいで」
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富山県高岡市ご在住の茶山千恵子氏。地元で光太郎智恵子に関する市民講座講師を務められたり、ご自宅を開放なさって花巻のやつかの森LLCさん考案の「光太郎レシピ」を元に調理された「光太郎ランチ」を予約の方に振る舞われたりと、精力的に活動されています。

今回の「一人芝居智恵子抄」は、令和元年(2019)に富山で上演されたものの再演のようです。

本編の前に、日替わりでゲストの方が朗読をなさるそうです。題目は宮崎春子「紙絵のおもいで」(昭和34年=1959)。春子は智恵子の姪にあたり、智恵子が昭和10年(1935)に南品川ゼームス坂病院に入院後、当時の一等看護婦の資格を持っていたことから、病院で一緒に生活する付き添いをしていました。そしてほとんど唯一、智恵子の紙絵制作の現場を目撃した人物です。
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春子は戦争が終わった昭和20年(1945)12月、光太郎の仲立ちで、光太郎と親交のあった茨城の詩人・宮崎稔と結婚しました。光太郎はそれ以前の同年始めに智恵子紙絵の約3分の1を宮崎家に疎開させており、上記は戦後になってそれを見る春子を写したショットです。

招待券を頂いてしまいまして、お邪魔します。ただ、日程調整がうまくゆかず最終日になっていまいますが。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の病状記を書いておいて下さる事は興味もあるし一般の参考にもなると思いひます、春子さんとお二人で協力されたら面白いとおもひます、 病状と一緒に切抜絵制作の実際をもみたまま書かれるやうにとおもひます、 今盛岡で切抜絵の展覧会をやつて居ます。末日頃小生も一寸見にゆくつもりでゐます。

昭和25年(1950)4月23日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

春子の夫・稔に宛てた書簡から。主に春子への聞き書きのような形で稔が智恵子の病状記録を残そうとしていたようですが、この時点ではそれは実現しませんでした。

盛岡での紙絵展は4月19日~30日、川徳画廊で開催されていました。宮崎家とは別に花巻の佐藤隆房宅に疎開させた紙絵の中からセレクトしてのものでした。

2件ご紹介します。

まず、『北海道新聞』さん、10月31日(木)の一面コラム。

<卓上四季>女川原発の再稼働

詩人・彫刻家の高村光太郎は東北の三陸地方を旅行している。1936年のことだ。石巻を起点に、金華山、牡鹿(おしか)半島、女川(おながわ)を船でめぐった。切り立った断崖が続き、白い波がきらめく。リアス海岸がつくる風景は<鮮やかであり、またその故にとめどなく寂しい>▼この旅から90年近くたつ。陸路であれば、つづら折りの険しい道を抜けて、光太郎の描写さながらの景色を目にする。いや、彼の目に触れなかった巨大施設が牡鹿半島にある。東北電力の女川原発だ▼13年前の東日本大震災で絶体絶命の危機に追い込まれた。高さ13メートルの津波に襲われ、外部電源5回線のうち4回線を失う。2号機は浸水で非常用ディーゼル発電機2基が止まる。まかり間違えば、福島第1原発と同じ過酷事故が起きていた▼2号機が被災原発として初めて再稼働した。6千億円に迫る巨費を投じ、高さ29メートルの防潮堤を新設するなど安全対策を講じた。だが巨大地震と大津波に何度も見舞われてきた土地だ。心配は消えない▼なにより避難の問題が手付かずのままだ。半島は避難路が乏しい。自然災害と原発事故が同時発生したらどうするのか▼原発の30キロ圏内に暮らす人は18万8千人弱。陸路と海路がいずれも閉ざされ、どこにも逃げ道がなくなる―。想像したくないが、能登半島地震の惨状が教えていないか。
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まず断っておくと、「1936年」は誤りで、正しくは「1931年」です。1931年は昭和6年で、この「6」を混入させてしまったのではないでしょうか。

それはともかく、紀行文「三陸廻り」執筆のため訪れた宮城県女川町の女川原発。反対派の声も大きなものがあったのですが、とうとう再稼働してしまいました。そうかと思ったら、あっという間にトラブルで停止。「やめろ」という天の声ではないですかね。

ところで、先の衆議院選挙。原発はほとんど争点にもなりませんでしたが、現政権の裏金問題・旧統一教会問題だけでなく、原発回帰を強硬に押し進める点に対しても「No」を突きつけるつもりで投票した方も少なからず存在するのでは、と思います。少なくとも当方はそうです。

その衆議院選挙がらみで、11月3日(日)の『山口新聞』さん一面コラム。

四季風 冬の向き合い方

日増しに風が冷たく感じるようになってきた。冬の到来を告げる立冬も近く、やがて紅葉が終わると木枯らしの吹く時季を迎える▼「きっぱりと冬が来た」で始まる詩がある。彫刻家で詩人、高村光太郎の「冬が来た」で、教科書にも載っていたこともあり、ご存じの方もいるだろう▼前後を省略するが「人にいやがれる冬 草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た 冬よ僕に来い、僕に来い 僕は冬の力 冬は僕の餌食だ」とある▼木枯らしが吹きイチョウも落葉し、誰もが嫌うような厳しい冬。それを自ら受け止め力に変えて成長していく精神が描かれていると解釈するが、どうも先の衆院選が浮かんでくる ▼「おごり」という党内論理に終始し国民の支持離れを招き、冬のような厳しい審判を受け過半数割れした与党。これから、その冬とどう向き合うかにある▼特別国会の首相指名選挙で、石破茂首相が再選出されたとしても厳しい国会運営は避けられない。石破首相は「選挙で示された民意を厳粛、謙虚に受け止め、丁寧にこれからの政権運営にあたっていく」とする、今後を見極めたい。詩の最後は「刃物のや(よ)うな冬が来た」とある。15年前の下野を忘れないためにも。
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ただ、まだ今後の政局がどうなっていくか、不透明ですね。注意して見ていきたいところです。

【折々のことば・光太郎】003

東京はもう春のやうですがこちらはまだ雪が残つてゐて山ハンノキの花がぶらさがつてゐる程度です。それでも例年より春が早く来さうです。


昭和25年(1950)3月29日 髙村規宛書簡より
 光太郎68歳

令甥の故・髙村規氏宛のイラスト入り葉書から。

「きつぱりと冬が来た」と、冬を礼讃した光太郎も、さすがにマイナス20℃にもなる岩手の冬はこたえたようで、春が待ち遠しい心境にもなったのでしょう。

昨日は愛車を駆って埼玉県東松山市に行っておりました。市役所さん向かいの総合会館さんで開催中の「彫刻家 高田博厚展2024」を拝観して参りました。高田博厚は光太郎と知遇を得たことから彫刻の道を志し、光太郎もその才能を高く買っていた彫刻家です。
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入口には過去のポスター一覧。
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昨年一昨年は市民文化センターさんでの開催でしたが、今年は第1回の平成30年(2018)からコロナ禍で中断となる前年の令和2年(2020)までの会場に戻りました。
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メインである高田の彫刻群(鎌倉にあった高田のアトリエ閉鎖に伴い、東松山市に寄贈されたもの)以外に、過去2年間は地元の高校生などによる展示品も多く出品され、スペースが多く取れる市民文化センターさんでの開催でしたが、今年はそれがなかったため、元の会場に戻ったようです。あるいは逆に元の会場に戻すために他の出品物を用意しなかったのかも知れませんが。

そんなわけで、今年はこぢんまりとした展示でした。

高田の彫刻群。
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すべてではありませんが、彫刻と、モデルの人物を描いたデッサンが組み合わされており、面白いと思いました。左下はコクトー、右下がロマン・ロラン。
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哲学者・アラン(左下)、マハトマ・ガンジー(右下)。
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鎌倉のアトリエの再現。
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パネルで高田と同市の関わりの紹介。光太郎にも触れられています。
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キーマンは同市の元教育長であらせられた故・田口弘氏。氏は高田との深い交流から、東武東上線高坂駅前の彫刻プロムナード整備などにも尽力されました。

光太郎胸像を含む、その彫刻プロムナードの解説タペストリーも展示。
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光太郎、高田、そして田口氏の関連年譜。
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おおもとは当方が作成したものです(笑)。
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カラーコピーの簡易図録(無料)をゲット。
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ところで昨日は、というか一昨日から今日までの3日間で、同市に於いて日本最大級のウォーキングイベントである日本スリーデーマーチが開催されています。昨日は中日(なかび)でした。そのため市内を歩いている参加者の皆さんが多く、市役所さんの駐車場が閉鎖、駐車に少し苦労しました。
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このスリーデーマーチを同市に誘致したのも田口氏。その裏にはやはり光太郎。右上画像は平成19年(2007)のものです。

ちなみに、そんなこんなのお話を、毎年、同市の生涯学習施設「きらめき市民大学」さんの講座で話させていただいております。今年も9月の末にべしゃくって参りました。この講座と高田博厚展とで、年に2回は同市にお邪魔しています。

スリーデーマーチの混雑と交通規制を避け、往路と違う道で帰ろうとしたら、期せずして市立図書館さんの前に出ました。「ついでだから見ていくか」と、地下駐車場へ。

何を、というと、こちらです。
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田口氏がいわゆる「終活」の一環として、平成28年(2016)に同市へ寄贈した光太郎関連の品々を展示する「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」です。氏の没後、平成30年(2018)にオープン、こけら落とし記念の講演もさせていただきました。
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光太郎からの書簡類(複製)。
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贈られた書(複製)。
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田口氏が集められた光太郎関連のスクラップや、氏が行ったご講演の原稿等。
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このあたりは固定の展示ですが、光太郎著書類は定期的に入れ替えているようです。
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左上は光太郎訳のロマン・ロランの戯曲『リリユリ』(大正13年=1924)。右上はやはりロマン・ロランで片山敏彦訳の『愛と死の戯れ』(同)。光太郎の題字揮毫・装幀です。
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ロダン系で、左から光太郎訳の『ロダンの言葉』(大正5年=1916)、同じく『続ロダンの言葉』(同9年=1920)、光太郎著の評伝『ロダン』(昭和2年=1927)。

ミニ展示ですが、なかなか見応えがあります。

「彫刻家 高田博厚展2024」は今月14日(木)まで。併せてこちらの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」、彫刻プロムナードと、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

十九日には賢治詩碑の除幕式ある由にて招待をうけましたので、是非参列いたしたいと存じますが、久しぶりにて先生はじめ皆様にもおめにかかりたく、十八日午後参邸一泊をお願ひ申上げます。

昭和25年(1950)3月15日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎68歳

「賢治詩碑」は、宮沢賢治が奉職していた花巻農学校跡地(現・ぎんどろ公園)に建てられた「早春」詩碑(左下)。
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やはりこの年、花巻温泉に建てられた光太郎詩「金田一国士頌」を刻んだ碑(右上)と、どうやら同じ石材から切り出された双子の碑です。林檎を包丁でスパッと半分に切った状態を思い浮かべていただけると話が早いのですが、なるほど、二つの碑を碑面で合わせればぴったりくっつきそうです。

以前から行われていたようなのですが、一昨年までは気づきませんでご紹介していませんでした。今年はこれで項目を立てます。

秋の紅葉ライトアップ&夜間無料開放

期 日 : 2024年11月2日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 17:00~19:00
料 金 : 無料

本年も一晩だけ、 碌山館をライトアップ✨✨🍁
雨天中止 無料開放
展示室は碌山館のみご覧いただけます。
暖かい服装でお出掛けください。
ぜひお楽しみください📷
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013通常、17時で閉館となる同館ですが、この日に限りそこから2時間延長でライトアップが行われるとのこと。

ライトアップされるのは本館的な碌山館のみ。その竣工(昭和33年=1958)を見ずに亡くなりましたが、この建設には光太郎も力を貸したということで、入口裏側に設置されたプレートには光太郎の名も刻まれています。

ライトアップ時間帯の入場も碌山館のみ。光太郎のブロンズが多数展示されている第1展示棟や他の棟には入れません。入場料がかかりますが閉館前の時間に入場いただければ、他の棟も観覧できますね。

ちなみに弟2展示棟まるまると、第1展示棟の一部では、現代彫刻家の森靖(おさむ)氏の木彫を展示する「森靖展 -Gigantization Manifesto-」が開催中(12/9まで)。
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不思議な魅力のある作品群ですね。

しかし、ライトアップは雨天の場合には中止とのこと。そこで気になる長野県の天気予報を調べてみましたところ……
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「ありゃりゃりゃりゃ」という感じですね。

「一夜限りの」ということでプレミア感を狙ってらっしゃるようですし、日を改めて、というわけにもいかないようで……。その時間帯だけでも奇跡的に雨が上がっていることを期待します。

それにつけても館の建造物自体のライトアップで集客できてしまうところがすごいと思います。うらやましがっている他館のキュレーターさんなども多いのではないでしょうか。岩手花巻高村山荘あたりでもライトアップされるとそれなりに美しいとは思いますが、いかんせん熊の出没多発地帯ですし……。

【折々のことば・光太郎】

小生のその後無事、寒いので元気です。


昭和25年(1950)3月3日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

「寒いので元気」、一般的な感覚では矛盾していますが、夏の暑さにとことん弱かった光太郎にとっては、やせ我慢でも何でもなくそういうものでした。

毎年恒例のイベントです。衆議院選挙の関係で、当初予定から開催期間が変更となっています。

彫刻家 高田博厚展2024

期 日 : 2024年10月29日(火)~11月14日(木)
会 場 : 東松山市総合会館 埼玉県東松山市松葉町1-2-3
時 間 : 午前9時から午後5時まで
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

東松山市では、高田博厚のアトリエに残されていた彫刻作品や絵画等を2017年にご遺族から寄贈していただきました。以来、顕彰事業として展示会や講演会を毎年開催しています。今回は彫刻作品に加え、デッサンの一部を展示します。ぜひこの機会に彫刻家、高田博厚の世界をご堪能ください。
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関連行事 高田の音楽ノート

 戦前から戦後まで長くフランスで暮らした彫刻家高田博厚は音楽にも造詣が深いことで知られています。高田博厚の彫刻作品とともに、地域のゆかりの音楽家による弦楽四重奏による音楽を楽しむコンサートを実施します。

開催日時:11月9日(土曜日) 午後3時から午後4時15分まで
出演:榎本郁(ヴァイオリン)、松本聖菜(ヴァイオリン)、角田峻史(ヴィオラ)、
   石井沙和子(チェロ)
場所:総合会館4階 多目的ホール
定員:100名(申込順)
申込期間:10月4日(金曜日)から10月25日(金曜日)まで
申込方法:電話(21-1431)または以下の電子申請フォームにてお申し込みください。

高田博厚は、光太郎との交流から彫刻家を志した人物です。まだ海の物とも山の物とも判らない学生時代に高田の才能にいち早く気づき、戦前のフランス留学等の際援助を惜しまなかった光太郎の眼力には恐れ入ります。

お返しに、といっては何ですが、戦後、光太郎が歿してから帰国した高田は、10回限定で行われた「高村光太郎賞」の審査など、亡き光太郎の顕彰活動に様々な形で関わりました。

同市の元教育長、故・田口弘氏は、戦時中から光太郎と面識があり、南方から復員した戦後、花巻郊外旧太田村の光太郎を2度訪れ、その後も手紙のやりとり等を続けました。

高田と田口氏、光太郎を偲ぶ連翹忌の集いで知り合って意気投合。同市に於ける高田の個展の開催、さらに東武東上線高坂駅前から伸びる通りに高田の彫刻作品をずらっと配した高坂彫刻プロムナードの整備なども行われました。

そうした縁があって、高田の遺族から同市に高田の作品がごそっと寄贈され、それを一般公開するのが「彫刻家 高田博厚展」。平成30年(2018)からコロナ禍の年を除いて開催され続けています。

昨年一昨年は市民文化センターさんで開催。地元の高校生などによる光太郎、田口氏関連の展示も充実していました。今年はコロナ禍前の会場だった総合会館さんに戻っての開催。光太郎、田口氏にどの程度触れられるか、というところですが、一応拝見に伺います。

皆さまも是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生盛岡の少年刑務所で七百人の少年達に話をしました。


昭和25年(1950)2月8日 野末亀治宛書簡より 光太郎68歳

昨日のこの項でも触れましたが、1月13日から22日にかけ、盛岡、さらに郊外の西山村を歴訪し、盛岡では様々な会場で7回講演を行いました。そのうちの1ヶ所、盛岡少年刑務所さんではそれを記念して現在でも年に一度「高村光太郎祭」を開催して下さっています。当方も一度招かれ、受刑者さん達を前に講演をさせていただきました。

上記東松山市の高田博厚とのそれもそうですが、こうした奇縁というのは大切にしていきたいものですね。

一昨日、光太郎終焉の地・中野の「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」会合に出席するために上京しておりました。来月10日(日)開幕の「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」(無料)の最終確認など。あまり宣伝が為されていないようで、初日に開催予定の関連行事としての渡辺えりさんと当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」(無料)など、まだ予約定員に達していないとのこと。ぜひお申し込み下さい。

それはそうと、そちらの会合に行く前に、竹橋の東京国立近代美術館(MOMAT)さんに立ち寄りました。こちらでは企画展「ハニワと土偶の近代」が開催中。
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光太郎がらみの展示もあるという情報を得まして、参じました。

MOMATさん、攻めてるな、という感想でした。何が、というと、ある意味およそ美術館らしからぬ展示構成だったためです。しかし、非常に興味深く拝見しました。

「ハニワと土偶」と謳いつつ、埴輪や土偶そのものにスポットを当てるのではなく、近代美術史・社会史の中で埴輪や土偶がどのように受容されていったのか、その変遷史といった趣でした。そこで美術作品そのものよりも、史料類の展示が多く、その意味で「ある意味およそ美術館らしからぬ」と感じた次第です。

特に興味深かったのが、満州事変から太平洋戦争終戦に到る15年戦争時。
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「武人埴輪」=「大王を警護する武人を象(かたど)ったもの」。そこで、近代の「皇軍兵士」へと類推が働き、さまざまな美術作品や工芸品、書籍類の表紙その他に埴輪や古墳時代の武人の姿などが「国威発揚」「戦意高揚」といった使命を担わされ、多用されるようになっていったとのこと。
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下は光太郎とも交流のあった中村直人(なおんど)の「草薙剣」(昭和16年=1941)。
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こうした流れの中で、光太郎も埴輪について言及していました。昭和17年(1942)7月から12月にかけ、雑誌『婦人公論』に連載された「美の日本的源泉」(原題は「日本美の源泉」)中の「埴輪の美」という項です。
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 埴輪といふのは上代古墳の周辺に輪のやうに並べ立てた素焼の人物鳥獣其の他の造型物であつて、今日はかなり多数に遺品が発掘されてゐる。これはわれわれの持つ文化に直接つながる美の源泉の一つであつて、同じ出土品でも所謂縄文式の土偶や土面のやうな、異種を感じさせるものではない。縄文式のものの持つ形式的に繁縟な、暗い、陰鬱な表現とはまるで違つて、われわれの祖先が作つた埴輪の人物はすべて明るく、簡素質樸であり、直接自然から汲み取つた美への満足があり、いかにも清らかである。そこには野蛮蒙昧な民族によく見かける怪奇異様への崇拝がない。所謂グロテスクの不健康な惑溺がない。天真らんまんな、大づかみの美が、日常性の健康さを以て表現されてゐる。此の清らかさは上代の禊の行事と相通ずる日本美の源泉の一つのあらはれであつて、これがわれわれ民族の審美と倫理との上に他民族に見られない強力な枢軸を成して、綿々として古今の歴史と風俗とを貫いて生きてゐる。此の明るく清らかな美の感覚はやがて人類一般にもあまねく感得せられねばならないものであり、日本が未来に於て世界に与へ世界に加へ得る美の大源泉の一特質である。此の「鷹匠埴輪」の無邪気さと、やさしい強さと、清らかさとはよく此の特質を示してゐる。美の健康性がここに在る。

掲載誌の『婦人公論』が展示されていました。
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また、遡って昭和11年(1936)には、野間清六の著書『埴輪美』の序文も光太郎が書いています。

 日本に遺つてゐる造型芸術の中で、埴輪ほど今日のわれらにとつて親しさを感じさせるものはない。埴輪ほど表現に民族の直接性を持つてゐるものはない。それはまるで昨日作られたもののやうである。その面貌は大陸や南方で戦つてゐるわれらの兵士の面貌と少しも変つてゐない。その表情の明るさ、単純素朴さ、清らかさ。これらの美は大和民族を貫いて永久に其の健康性を保有せしめ、決して民族の廃頽を来さしめないところの重要因子である。世界の歴史に見る過剰文化による民族滅亡の悲劇が日本に起り得ないのは、国体の尊厳に基く事はもとよりであるが、又此の重要因子の作用するところも大きいのである。
 古代も今も同じ清浄の美を見よ。今後の世界の美の源泉の一つとして埴輪の持つ意味は深い。これを未来に生かし得る者は当面世界文化の廃頽爛熟を匡正し得るであらう。造型芸術の基本たるものが此此処にある。


そういうわけで、ここのパートのキャプションには光太郎が大きく紹介されていました。
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黒歴史ですね。引用のため入力していて痛ましい気持になりました。

ただし、光太郎、このように文筆では戦争推進に多大な役割を果たしましたが、造型の部分では戦意高揚のための作品(いわゆる「爆弾三勇士の像」のような)を作りませんでした。そこに光太郎の良心の残滓が認められますが、それでも「ペンは剣よりも強し」。「言葉」として印刷され、刊行され、全国や植民地にまであまねく届けられた光太郎の言葉を読んで奮い立ち、死地に赴いた数多くの前途有為な若者達がいたことは忘れてはいけません。「綸言汗の如し」です。

さて、戦後。
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墨塗りの教科書まで展示されていました。

埴輪を皇軍兵士に重ね合わせるという事態は無くなりましたが、光太郎が提唱した「清浄な美」としての埴輪の美しさは、形を変えて生かされ続けます。

やはり光太郎と交流のあった佐藤忠良や猪熊弦一郎の作品。
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光太郎の前に中西利雄アトリエを借りていたイサム・ノグチも。
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古墳時代の埴輪そのものの展示もありました。
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再び光太郎。盟友の武者小路実篤を評した最晩年の「埴輪の美と武者小路氏」(昭和30年=1955)関係。武者が「縄文土器を愛するあまり調布に移住した」というのは存じませんでした。たしかに武者の作品には古代に通じるプリミティブな部分が感じられますね。
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戦後、考古学の飛躍的進展により、また、皇国史観からの解放といった追い風もあって、縄文時代の研究が進みます。そんな中で埴輪より古い土偶にもスポットが当たるようになりました。

ただ、今回、土偶に関する展示は少なかった印象でした。右下は光太郎の同級生だった岡本一平の子息・岡本太郎。
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現代になっても、埴輪は日本人の心を掴み続け……というわけで、サブカルチャーにも着目。映画「大魔神」や、水木しげる氏、石ノ森章太郎氏、諸星大二郎氏らのコミックまで。このあたりも「攻めてる」感が半端ないと思いました。
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出口付近にはNHKさんの「おーい!はに丸」も。お約束と言えばお約束ですが(笑)。
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企画展示拝観後、常設展示的な「MOMATコレクション」展へ。光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)がよく出ているのですが、現在はお休み中でした。

「おっ!」と思ったのが、中西利雄。光太郎の終の棲家となったアトリエを建てた人物ですが、アトリエ竣工直前に急逝し、没後、遺族が貸しアトリエとして運用、イサム・ノグチや光太郎が借りたわけです。
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光太郎実弟にして人間国宝だった豊周の鋳金作品も3点出ていまして、久しぶりに豊周作品を目にしました。ただし、撮影禁止でしたのでキャプションのみ画像を載せます。

さて、「ハニワと土偶の近代」、12月22日(日)迄の開催です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

出かける日は風速十五―二十米突といふ吹雪を冒しての行進だつたのですが、二人迎へに来て荷を持つてくれたので助かりました。帰る日も若い人三人で小屋まで送つてきてくれました、盛岡から二ツ堰までは刑務所の自働車が運んでくれました、西山村では一理余の雪原を馬橇にのりました、


昭和25年(1950)2月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

1月13日から22日にかけ、盛岡、さらに郊外の西山村を歴訪しました。盛岡では県立美術工芸学校婦人之友生活学校少年刑務所などで7回講演。西山村では、深沢省三・紅子夫妻の子息にして戦時中に詩「四人の学生」のモデルとなった故・深沢竜一氏宅に滞在、好物の牛乳を一升も飲んだそうです(笑)。

一昨日、昨日と、10月13日(日)・14日(月)にお邪魔した智恵子の故郷・福島二本松のレポートを書きましたが、これから書く内容が10月12日(土)の件ですので、時系列的には古い話です。ネタに困る時期には1件ずつ細かくレポートいたしますが、紹介すべき事項が山積しつつあり、申し訳ありませんが、一気に。関係の方々、ご寛恕の程。

まず、千駄木の文京区立森鷗外記念館さんの特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」を拝観。
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茶道・江戸千家家元の川上宗雪氏がご自身のコレクションを同館に寄贈なさり、そのお披露目です。

明治20年代から昭和50年代までの、森鷗外を含む100名弱の著名人が書いたはがき111通。差出人も宛先も様々です。おそらく、古書市場に出たものが中心なのでしょう。
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我らが光太郎のはがきも一通。事前のプレスリリース等で、光太郎のそれについては詳しく紹介されて居らず、宛先、発信年月日等、実際に拝見するまで不明でした。

で、結局、滋賀県在住の野田守雄というアマチュア歌人に送った大正7年(1918)12月25日付の葉書で、『高村光太郎全集』既収のものでした。『全集』等未収録の新発見の可能性もあるなと思って見に行ったのですが、その意味では残念でした。しかしやはり直筆の実物を拝見できたので、それはそれで良かったと思いました。

ちなみに文面は以下の通り。

 あなたが待たれて居られるだらうとおもつていつも済まない気がして居りながら色々の都合で遅れてゐて心苦しくおもひますがどうか今少し待つて下さい 此間のお葉書で御希望が拝察出来ました故小さいけれども人物の全体の習作をお送りするにきめました
 仕事が重なつてゐる為め毎日追はれてゐます 鋳金が間に合はないで閉口です今日はクリスマスですね


これだけだといったい何のことかよくわかりませんが、野田は光太郎のファンで、光太郎が興した絵画の頒布会、彫刻の頒布会に申し込み、作品を購入していました。この葉書はブロンズ彫刻「裸婦坐像」購入に関わります。

野田宛書簡は散逸していて、抜けもあるかとは思われますが、この前後の書簡がかなり把握できており、作家から愛好者へと作品が渡る過程の記録として貴重です。平成25年(2013)に千葉市立美術館さんを皮切りに巡回した「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」の図録には、同館学芸員の藁科英也氏が「この一連の書簡、面白いですね」と、収録なさいました。

ちなみに展示されているはがきに先立つ12月11日には「こんな作品ですよ」ということで、光太郎による粗いスケッチが附されています。
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光太郎以外にも、上記出品目録の通り、ビッグネームがずらり。「この人はこんな字を書くんだ」「この二人がこうつながっていたのか」などと、興味深く拝見しました。ただ、111通の全てを細かくは見ていられない、という感じでして、2期ぐらいに分けての開催でも良かったんじゃないか、とも思いました。

図録(1,600円)と、無料配付の『記念館NEWS』をゲット。
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図録の方は後で細かく拝読いたします。多忙につき読めていません。

さて、千駄木を後に、続いて浅草へ。浅草寺さんにほど近いギャラリー兼イベントスペースのブレーメンハウスさんでのイベント「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」への参加が目的。

若干早く着いてしまいまして、浅草寺さんを参拝しました。土曜ということもあって、人山の黒だかりでした。7割方は海外からのインバウンドと思われました。
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ご存じ雷門。このはす向かい当たりに、光太郎が1日に5回も通ったというカフェ「よか楼」があったのですが、今は跡形もありません。

雷門の後側には、光太郎の父・光雲弟子筋の一人・平櫛田中と、菅原安男による天龍像、金龍像。
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本堂右手前の手水舎には、光雲の沙竭羅竜王像。
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久しぶりに拝見しましたが、やっぱりいいな、と思いました。様式美の部分では光太郎もかないません。

さて、ブレーメンハウスさん。
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一階はギャラリーです。
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その名の通り「ブレーメンの音楽隊」をモチーフにしたステンドグラス。築60年ほどの建物だそうでしたが、ステンドグラスは古いものなのか、現代のものなのか判別がつきませんでした。
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二階は和室になっていて、イベントスペースに使っているそうです。こちらには懐かしい型板ガラス。こちらは60年ほど前のものでしょう。レトロ建築好きにはたまりません(笑)。
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左は紅葉、右は富士山。これで幼い頃暮らしていた官舎に使われていた銀河があったら涙が出るところでした(笑)。

「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」開幕。連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの詩人・服部剛氏の主催で、お仲間の方々がご参集。一人8分の持ち時間で、自作詩や好きな詩などを朗読したり解説したり。
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当方にも光太郎について語れ、という指示でして、語りました。彫刻を第一の仕事と考えていた光太郎が、なぜ詩を書き続けたのかというあたりをメインとしました。欧米留学前、当時の流行に乗って喜んで作っていたストーリー性あふれる彫刻の愚劣さにあとになって気づき、彫刻に物語や主義主張は不要、そういう心の内面は詩で表現しようと考えた、という感じで。ストーリー性あふれる彫刻の例としては、左下画像の「薄命児」(明治38年=1905)を紹介しました。浅草花やしきで興行を打っていたサーカス団の幼い兄妹がモデルです。
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従って光太郎にとっての詩は、自己内面のストレートな表出、球速100マイル・フォーシームのど直球、きらびやかな美辞麗句に彩られたものでは決してない、などとも。そんな姿勢が良く表された、来月開催される「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品予定で額装しておいた光太郎のはがき(右上)も持参、皆さんに見ていただきました。

正富汪洋主宰の新進詩人社のアンケート「詩界について」に回答するためのはがきで「詩を書かないでゐると死にたくなる人だけ詩を書くといいと思ひます。」と認(したた)められています。

それから、詩も一篇朗読せよとの指令でしたので、光太郎の目指した詩の姿、的な詩「その詩」(昭和3年=1928)を読みました。はがきにしても「その詩」にしても、ご参集の詩人の皆さんへのメッセージでもあるという仕掛け(というほでもありませんが(笑))でした。

まことに申し訳なかったのですが、こちらのイベントは途中で退席させていただきました。新宿で上演される「平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』」観覧のためです。上京するとできるだけ複数の用件をこなすのが常でして。

というわけで、新宿へ。
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野田秀樹氏の脚本で、平成14年(2002)、大竹しのぶさんの一人芝居として初演されたものです。今回は「虎に翼」にも出演されていた文学座ご所属の平体まひろさんによる一人芝居。
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当方、野田氏の脚本は読みましたが、演劇としては初見でした。大竹さんの初演をテレビ放映で拝見したことはあったのですが。

開演前の会場内。
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中央で平体さんが智恵子を演じられ、観客は両サイドに設けられた客席で観おろすという配置でした。ここで平体さん、90分超をお一人でまさに熱演。素晴らしい。

数ある「智恵子抄」二次創作の中で、光太郎ディスり度が最も高い作品です。吉本隆明曰く「高村の一人角力(ずもう)としかおもえない」、伊藤信吉曰く「強いられたものの堆積」という、光太郎からの一種のモラハラによって徐々に壊れていく智恵子の姿が痛ましいまでに表されました。野田氏の脚本ですでにそうなっているのですが、劇中、智恵子の故郷の福島弁が効果的に使われ、光太郎は「こうたろう」ではなく、「コウダロウ」。「芸術家としてあるべき姿はこうだろう?」と常に要求を突きつけていた光太郎の姿が暗示されています。

そして智恵子も「ちえこ」ではなく、やはりなまって「ツエエ子」。智恵子が自分自身、「強え子」でありつづけたいと思っていた反映にもなっています。今回、改めて感じたのは、光太郎のモラハラの強烈さよりも、「自縄自縛」に陥ってしまった智恵子へのやるせなさでした。元は光太郎の「芸術家としてあるべき姿はこうだろう?」でも、智恵子はそれに抗わず、「その通り」と思い込み、逃げることもせず、そうなれない自分をどんどん追い込んでいく……というわけで。

「いや、そこ、違うだろ、逃げろよ」と言いたくなる場面が多々。しかし、その「逃げる」が出来なかったのが智恵子の悲劇だったんだなぁと、改めて思いました。まるで現代のDV被害者などが、加害者からのマインドコントロールに支配されてしまうような……。

ただ、それだけでなく、光太郎と出会う前から、智恵子にはそういう「強え子」を目指して「自縄自縛」に陥る性向があったという描き方になっています。その通りなのでしょう。

光太郎自身、智恵子が病んでから自分の過ちに気づきます。散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)に曰く「私との此の生活では外に往く道はなかつた」。それを踏まえての『智恵子抄』出版です。決して亡き妻との思い出を語ったノーテンキな「純愛の詩集」ではないのです。そのあたり、少し前に書きましたのでご覧下さい。

そんなわけで、光太郎は昭和25年(1950)に上梓した『智恵子抄その後』の「あとがき」には「「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。」と書きました。本当に、「智恵子抄」の読みは一筋縄ではいきません。

そうした点を踏まえた上で、平体さんの再演なり、他の劇団や個人方による上演なりが続くことを祈念いたします。

以上、長くなりましたが都内レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

お抹茶と甘味とありがたく、これは元旦に若水を汲みましてまづ朝の一杯を心爽やかにいただき、それから村人からもらつた餅でお雑煮をいはひました。

昭和25年(1950)1月11日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎68歳

昭和25年(1950)となり、花巻郊外旧太田村の生活も数え6年目となりました。

昨日は上京しておりまして、千駄木浅草新宿と三ヶ所を廻っておりました。レポートしなくてはならないのですが、今日もこれから二本松でして、ゆっくり書いている暇がありません。後に回します。

そこで本日は、群馬の地方紙『上毛新聞』さんの一面コラム、10月9日(水)掲載分です。

三山春秋

▼彫刻家で詩人の高村光太郎は晩年、岩手・花巻に暮らした。空襲で東京のアトリエを焼け出され、宮沢賢治の実家を頼って疎開した。山小屋での1人暮らしはおよそ7年に及んだ▼畑に育つもの、山に生えるものを食べる自給自足の生活。キノコは図鑑と見比べ、「食」と書いてあるものは何でも食べてみた。小屋は栗林の真ん中にあり、採りきれないほどたくさん実がなった。栗飯を炊いたり、ゆでたり、いろりで焼き栗にしたりして毎日味わった▼時には村の人たちがかごを持って栗拾いにやって来た。山の奥へ奥へと入っていき、クマの気配に驚いて逃げ帰った人もいたという。クマもまた冬眠に備え、秋の味覚を満喫していたのである▼近年は山奥だけでなく、人里や、地域によっては市街地でも出くわすことがある。この秋も注意が必要だと県が呼びかけている。主食となるドングリや栗などの実りが悪いらしく、山に餌がなければ人里に出てくる危険が高まる▼廃棄の農作物を放置しない。果樹は早めに収穫し、収穫しない木は切る。隠れ場所となるやぶを刈り払うなど、人里に引き寄せないことが重要だという。対策を万全にして、すみ分けを目指したい▼暑さが去ってようやく秋の味覚の出番になったが、山中と同様にわが家の栗も今年は不作である。「9月末になるとほとんど栗責め」だったという光太郎がちょっとうらやましい。

秋の味覚のシーズンとなり、旬の話題ですね。

光太郎が戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までまる7年間、独居自炊の生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋、「栗林の真ん中」というわけではありませんが、確かに周囲には栗の木がたくさん自生しています。そこで、貴重な食料源の一つでした。

しかし、奥羽国境山脈の麓ゆえ、クマったことに(笑)クマの生息地でもあります。光太郎が居た頃はあまり人里に降りてくることも多くなかったのですが、現代は却って昔よりひどい状況になっています。先般、現地に行った際も、山小屋裏手の智恵子展望台方面への散策路は立ち入り禁止にしてありました。隣接する高村光太郎記念館さんの看板などは、クマの爪とぎ痕で傷だらけです。
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花巻市では、市街地でもクマの出没情報が多数出ています。当方も昨年だったと記憶していますが、夕方、市街地でレンタカー運転中、河原に黒い塊が見え、「ありゃクマなんじゃないか?」でした。

また、今年の4月でしたか、光太郎や宮沢賢治に愛された大沢温泉さんの駐車場にあるゴミ捨て場にクマが現れた映像がニュースで取り上げられていました。

ところでクマと言えば、X(旧ツイッター)上の書き込みなどに、「光太郎が素手でクマを倒したことがある」的な書き込みが散見されます。
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サンドー式体操(ボディビル)で肉体を鍛え、ニューヨークではレスリングだかボクシングだかの経験者だった同級生をねじ伏せた、身長180センチ超の光太郎でしたが、残念ながら「素手でクマを倒した」という事実は確認できていません。

上記画像最後の方が書いてらっしゃるように、ゲームか何かの二次創作でそういうエピソードがあったのかも知れませんが、真に受けないようにお願いいたします。

それにしても、クマにも罪はないわけで、「倒す」のではなく、何とか共存共栄を図りたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

詩集を編さんしてもいいとの事、感謝します、批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます。


昭和24年(1949)12月17日 伊藤信吉宛書簡より 光太郎67歳

「詩集」は翌年刊行され、現在でも版を重ねている新潮文庫版『高村光太郎詩集』。ただ、昭和43年(1968)に改版となり、それまでの版に含まれていない昭和25年(1950)以後の詩も収められました。

次のようなやりとりがあったようです。

新潮社「高村先生のお若い頃から近作までを集めた詩集を文庫で出したいのですが」
光太郎「そりゃかまいませんが、自分で編んでいる暇がありません」
新潮社「では、どなたか信頼の置ける方に編集と解説をお願いするというのはどうでしょう」
光太郎「草野心平君が適任でしょうが、彼は他社でやってますからね。他の心当たりに頼もうと思うのですが」
新潮社「なるほど、では、高村先生の方で内諾を取っていただけますか?」
光太郎「お願いしてみましょう」

そして伊藤に打診、すると伊藤からは、作品選択(戦時中の翼賛詩も含める)や解説で「批判的」な態度を取るやもしれませんがそれでもいいのなら、的な返答が来たようで、さらにそれへの返信です。

批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます」。まさしく『論語』の「六十而耳順(六十にして耳したがう)」ですね。

昨日、当会刊行の冊子『光太郎資料』62集についてご紹介しました。

毎号、同時代人の光太郎訪問記や回想のうち、広く紹介されていないものを掲載するコーナーを設けていますが、今号では「木像生」という人物の書いた「都会情景 カフエー譚」(大正3年=1914 1月1日発行『朝鮮公論』第2巻第1号)を取り上げました。

明治末から大正初めにかけての、東京市内のカフェ事情をまとめたもので、光太郎の名と共に、さまざまなカフェが紹介されています。それと合わせ、実際に光太郎の詩文にそれらのカフェがどう描かれているか、『光太郎資料』では解説欄に記しました。

一部、骨子をご紹介します。

まず、明治44年(1911)に京橋日吉町(現・銀座八丁目)に上野の精養軒が開店した「カフェー・プランタン」。この年に発表された光太郎の短章連作詩「泥七宝」(『全集』第一巻)にその名が現れます。

 八重次の首はへちまにて
    小雛の唄は風鈴にて
 さてもよ、がちやがちやの虫の籠は
 「プランタン」てね、轡蟲の竹の籠
 

他にも「泥七宝」中にはその名は現れないものの、プランタンで書かれたものがあると、後年の光太郎が回想しています。「八重次、小雛は新橋の芸妓」の一節と共に。

続いて「カフェー・ライオン」。プランタンと同じく精養軒の経営で、やはり明治44年(1911)、銀座尾張町に開店し、こちらも光太郎詩、ずばり「カフェライオンにて」(大正2年=1913)に謳われています。

「都会情景 カフエー譚」に曰く「カフエー、ライオンは尾張町の電車交差点にある。三階は二百名ばかり居るカフエークラブ会員の遊ぶ処で二階は食堂、階下が賑やかなバーだ。此処でビールが一杯売れるとライオンの形をしたものがヌツと現はれてウヲ――と自働車のラッパの様な声を出す。即ちライオンといふ店の名がある所以だらう」。

さらに、光太郎も中心人物の一人だった芸術運動「パンの会」御用達の「メイゾン鴻の巣(鴻乃巣)」。鎧橋の袂に開店し、その後移転を重ねましたが、発祥の地には中央区教委さんによる案内板が立っています。

そして、浅草雷門の「よか楼」。

欧米留学から帰朝した翌年、明治43年(1910)に入れあげていた「モナ・リザ」こと吉原河内楼の娼妓・若太夫にふられた後、光太郎は今度は「よか楼」の女給・お梅に首ったけになります。お梅目当てで、一日に5回も「よか楼」に足を運んだことも。お梅が他の客の元に行っていて自分の方に来ないと癇癪を起こして暴れたり……(笑)。ほとんどストーカーですね。

そのお梅、若太夫以上に光太郎詩文にたくさん登場します。

わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ/辛き酒を再びわれにすすむる/マドモワゼル・ウメの瞳の深さ
(「食後の酒」 明治44年=1911)

「霧島つつじの真赤なかげに/サツポロの泡をみつむる/マドモワゼルもねむたし」
(「なまけもの」 同)

「マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り/白いナプキンにボルドオはしみ/夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ」
(「ビフテキの皿」 同)

「さう、さう/流行(はやり)の小唄をうたひながら/夕方、雷門のレストオランで/怖い女将(おかみ)の眼をぬすんで/待つてゐる、マドモワゼルが/待つてゐる、私を――」
(「あをい雨」明治45年=1912)

「真面目、不真面目、馬鹿、利口/THANK YOU VERY MUCH, VERY VERY MUCH,/お花さん、お梅さん、河内楼の若太夫さん/己を知るのは己ぎりだ」
(「狂者の詩」 大正元年=1912)

雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。」
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

「都会情景 カフエー譚」では、お梅は以下のように紹介されています。

又下膨れの丸顔で銀杏返しに結つて居る梅子(二〇)は『元禄梅子』と定連から呼ばれて居るが、此の女は多少文字の素養もあつて永井荷風の小説や晶子の歌集を始め、新らしい作家の著作は片つ端からドンドン渉猟して、衣裳は僅か小さな葛籠(つづら)一つしか持たない代りに書物ならば大葛籠三杯も持つて居るといふ風変りな女だ。そんな所から正宗白鳥、高村光太郎、前田木城、海野美盛、其他の文士画家連には随分肝膽相照して居る人が多い。竹子が踊や長唄を相応にやれる程に多芸ではないが、ハーモニカだけは袖の中から放したことはなく、竹子の歌ふ仏蘭西の国歌に合わせて之を吹くのが唯一つの芸である。

文学好きだったということは、光太郎等の回想にも書かれていましたが、より詳しく描かれています。さらに年齢。「都会情景 カフエー譚」が書かれた大正3年(1914)の時点で二十歳となっています。ということは、光太郎に尻を追いかけ回されていた明治44年(1911)にはまだ17かそこら。ただ、この業界の常で、さばを読んでいた可能性も大いにありますが。

そしてこんな記述も。

ヨカローは実に此の官能世界の一歩を約して思ひ切り繁昌して居るので。これは例の美人の首を利用した新聞広告のきゝ目であること勿論であるが、実際にも此処の女中は粒選りの代物が多い。

注目すべきは「例の美人の首を利用した新聞広告」。「例の」ということは、かなり有名だったと思われます。

光太郎の「ヒウザン会とパンの会」にも、

「よか楼」の女給には、お梅さんはじめ、お竹さん、お松さんお福さんなんてのがゐて、新聞に写真入りで広告してゐた。

とあり、松崎天民ら他の同時代人の回想等にも「よか楼」の新聞広告の件が語られています。

この広告、何としても実地に見てみたいものだと思っておりました。そこでまず活用したのが国会図書館さんのデジタルデータ。すると、まず新聞ではありませんが、『東京大正博覧会要覧』(大正3年=1914)に広告そのもの(左下)を発見しました。
東京大正博覧会要覧 19130815都新聞 案内広告百年史 東京日日新聞2
それから、戦後の書籍で、明治大正の広告事情を紹介したものの中に、『都新聞』(大正2年=1913、中央)と『東京日日新聞』(大正3年=1914、右上)に載った広告。

なるほど、女給たちの写真入りです。しかし、大正2、3年では、光太郎が通っていた明治44年(1911)より少し後なので、もしかするとお梅はもう居ないかも知れません。そこで「明治44年当時の広告はないか」。思い出したのが、「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」。武蔵野美術大学さんの前田恭二教授によって継続中の連載で、『読売新聞』さんの明治期からの過去記事データベース「ヨミダス」が活用されています。「もしかすると「ヨミダス」、広告も検索対象にしているんじゃないか?」と思ったわけです。

隣町の県立図書館さんの分館にダッシュ(笑)。閲覧用PCで「ヨミダス」を立ち上げて頂き、キーワード「よか楼」でポン。すると、ビンゴでした! 何度も広告が出ており、同一の写真を使ったものが多かったのですが、写真の種類で言うと5種類、見つかりました。
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古い順に、明治44年(1911)7月4日(左上)、同9月7日(右上)、同10月31日(左下)、明治45年(1912)3月6日(下中央)、同7月12日(右下)です。
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さらに他紙のデータベースも当たりました。『毎日新聞』さんの「毎索」ではヒットせず。しかし、『朝日新聞』さんの「クロスサーチ」では、「ヨミダス」以上の大漁。

明らかに『読売新聞』さんのものと同一の写真を除くと、8件。
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2a19120515 2a19120713
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左上から順に、明治45年(1912)1月28日、同3月17日、同5月15日、同7月13日、同じ1912年で改元後の大正元年12月9日、大正3年(1914)3月7日、同10月20日、同11月3日です。

お梅はナンバー2くらいだったようですので、上記画像の中にお梅がいるとみて間違いないでしょう。どれがお梅だかは特定できませんが。

お梅にぞっこんだった明治44年(1911)の暮、光太郎の前に智恵子が現れます。それまで素人女性には興味を抱かなかった光太郎、すぐに智恵子に鞍替えというわけではありませんが、ずっと智恵子は気になる存在として光太郎内部に居続け、しかし、こんな自分と一緒になっても苦労するだけだとか、自分に智恵子と添い遂げる資格があるのだろうかなどと悩みます。そのあたりの逡巡が翌年の詩「涙」「おそれ」などに謳われました。そういいつつ、その前に「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」(「人に」 のちに『智恵子抄』巻頭を飾りました)などとも語りかけ、ズルい奴です(笑)。

まあ、結局は大正元年(1912)、銚子犬吠埼に智恵子が光太郎を追ってやってきたことで、光太郎も覚悟を固めたのだと思います。そしてお梅との関係も解消。この前後でしょう。

お梅さんが朋輩と私の家へ押しかけて来た時、智恵子の電報が机の上にあつたので怒つて帰つたのが最後だつた。その頃、私の前に智恵子が出現して、私は急に浄化されたのである。お梅さんはある大学生と一緒になり、二年ほどして盲腸で死んだ。谷中の一乗寺にその墓があるが、今でも時々思ひ出してお詣りしてゐる。(「ヒウザン会とパンの会」)

お梅も可哀想な女性だったと思います。

ところで、お梅の前に入れ込んでいた吉原河内楼の若太夫についても、後日譚等わかってきましたので、いずれご紹介いたします。

追記 光太郎実弟・豊周著『光太郎回想』(昭和37年=1962 有信堂)にお梅の写真が載っていました。
お梅
【折々のことば・光太郎】

又いただいたカフエはまことに珍しく、此の山の中がまるでフランスのやうに感ぜられ、ここの森のたたずまひさへフオンテンブロオの森の心地いたします。
昭和24年(1949)11月23日 立花貞志宛書簡より 光太郎67歳

こちらの「カフエ」はコーヒーの意味ですね。

立花貞志は戦前に岩手県芸術協会の立ち上げに関わり、宮沢賢治と面識もあった人物で、この頃盛岡のサン書房という出版社に勤務していました。

ところで、コーヒーと言えば、コーヒーをメインにしていた「カフェ・パウリスタ」。「都会情景 カフエー譚」にも紹介されていますし、江口渙などの回想に依れば智恵子や青鞜社のメンバー等が通っていたそうですが、光太郎詩文にはその名が出て来ません。同時代人の回想でも光太郎がパウリスタに通っていたという記述は見当たりません。

ところが、ネット上では「高村光太郎も通っていたパウリスタ」的な記述が溢れています。老婆心ながら「違うよ」と言わせていただきます。全く行ったことがないというわけでもないのでしょうが、上記のさまざまなカフェは酒がメインで、パウリスタは後の純喫茶に近い形。光太郎のニーズとは少し異なっていたようです。

頼まれましたので、出演して参ります。

☆ポエトリーユニオン☆@浅草

期 日 : 2024年10月12日(土)
会 場 : 浅草の和モダン レンタルギャラリーブレーメンハウス 東京都台東区浅草1-37-7
時 間 : 14:00~
料 金 : 1,000円

浅草寺の近くのギャラリーで味わい深いオープンマイクをやります。

当イベントはオープンマイクです。1人の持ち時間8分。好きな絵について語った後、詩を1篇(時間内なら2篇OK)朗読して下さい。

会場1階は萩原哲夫氏の展覧会となっています。ご都合の良い方は早めにお越しいただき、鑑賞していただければ幸いです。

飲み物はペットボトル持参でゴミはお持ち帰りいただけますよう、お願い申し上げます。

『私達の日々は風景の連続ともいえるでしょう。
 美しい瞬間を画家が描いた風景の前に、人は立ちどまります。
 詩人の語る詩情にも絵はあります。
 朗読する詩人達の肉声を通してそれぞれの風景を想像して
 分かち合う午後のひと時をご一緒しましょう。』

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仕掛け人は連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの詩人・服部剛氏。この手のイベントをよく主催されているようです。

氏から「光太郎について語ってくれ」と言われ、お受けすることに致しました。他は現役の詩人の皆さんがマイクを握られるのでは、と思われます。

聴くだけでも可でしょうし、ぜひ語りたいという方もまだ受付中と思われます。上記フライヤー画像ご参照の上、お申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩を六篇自分勝手に選択して書きぬき、別封で送ります。多分明日二ツ堰の局までゆけるでせう。今日は暴風雨ですが。「続智恵子抄」ではあまり月並みと思ひ、「智恵子抄その後」としましたがおかしいでせうか。

昭和24年(1949)10月30日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎67歳

粕谷は編集者。連作詩「智恵子抄その後」6篇――「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」――は、翌年1月の『新女苑』に発表されました。

時折、光太郎に関連する企画展示をなさって下さっている文京区の森鷗外記念館さんで、またしてもです。

特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」

期 日 : 2024年10月12日(土)~2025年1月13日(月・祝)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10:00〜18:00
休 館 : 11月26日(火) 12月23日(月)・24日(火) 12月29日(日)~2025年1月3日(金)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円)  中学生以下無料

 文京区立森鴎外記念館では2024年10月12日(土)から2025年1月13日(月・祝)まで、特別展「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」を開催いたします。
 当館では2023(令和5)年、江戸千家家元・川上宗雪氏より、明治20年代から昭和50年代に交わされたはがきコレクション111枚を一括でご寄贈いただきました。
 差出人は森鴎外を始め、夏目漱石、与謝野晶子、石川啄木、芥川龍之介、宮沢賢治ら文学者。竹久夢二、藤田嗣治、竹内栖鳳、恩地孝四郎ら美術家。他にも幸徳秋水、田中正造、山川菊栄、南方熊楠、柳宗悦など、各分野において近現代史に名を遺す著名人ばかりです。
 内容は、季節の挨拶、礼状、お祝い、事務連絡など暮らしや仕事のやり取りもあれば、私信ならではの本音や心安さが見られるものもあります。手書きでしたためられたはがきには、書き手の個性や受取人との関係性、当時の社会の雰囲気に思いを巡らせる魅力が詰まっています。
 本展では、はがき一枚一枚の魅力や、それらが伝える人物交流、文化的・社会的背景を紹介します。各人の全集に未収録のものや、文京区ゆかりの文化人のもの等、明治から昭和に至る通信環境の変化とあわせて、111枚のはがきの世界をお楽しみください。

■はがきの差出人(五十音順)
文学者
芥川龍之介、石川啄木、伊藤左千夫、井伏鱒二、伊良子清白、氏家信、円地文子、岡本かの子、尾山篤二郎、山本露葉、北原白秋、木下利玄、古泉千樫、齋藤茂吉、島木赤彦、杉田久女、高村光太郎、立原道造、谷崎潤一郎、田山花袋、坪内逍遙、土岐善麿、内藤鳴雪、永井荷風、長塚節、中西悟堂、夏目漱石、萩原朔太郎、馬場弧蝶、二葉亭四迷、堀辰雄、正岡子規、三木露風、宮沢賢治、三好達治、武者小路実篤、室生犀星、森鴎外、吉井勇、若山牧水、柳原白蓮、与謝野晶子、吉川英次 ほか

美術家、工芸家
會津八一、梅原龍三郎、小川芋銭、織田一磨、恩地孝四郎、香月泰男、川端龍子、小出楢重、近藤浩一路、坂本繁二郎、芹沢銈介、竹内栖鳳、竹久夢二、寺崎廣業、堂本印象、富岡鉄斎、橋本関雪、平福百穂、藤田嗣治、前田青邨、松林桂月、松本竣介 ほか

ジャーナリストほか
大川周明、緒方竹虎、木下尚江、幸徳秋水、高田早苗、田中正造、山川菊栄、山川均

哲学者、評論家、芸能ほか
阿部次郎、安倍能成、仮名垣魯文、三遊亭円朝、寺田寅彦、新村出、西田幾多郎、野上豊一郎、久松潜一、藤原銀次郎、正木直彦、南方熊楠、柳宗悦、和辻哲郎
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関連事業

○展示監修者、調査研究協力者による講演会
 ・講演会「111枚のはがきが織りなすタペストリー」
   講師:須田 喜代次 氏(大妻女子大学名誉教授・森鷗外記念会会長)
   日時:2024年11月10日(日)14時~15時30分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ・講演会「はがきの世界1」
   前半「芥川龍之介のはがきをめぐる三題噺
-〈六朝書体〉・海軍機関学校・小説「河童」」
    講師:伊藤 一郎 氏(東海大学名誉教授)
   後半「夏目漱石のはがきから-漱石の文人趣味」
    講師:松村 茂樹 氏(大妻女子大学教授)
   日時:2024年11月24日(日)14時~16時15分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ・講演会「はがきの世界2」
   前半「宮沢賢治「臨終の詩」の謎-松本竣介はどこでこの詩に出会ったのか?」
    講師:杉浦 静 氏(大妻女子大学名誉教授)
   後半「翻字作業の裏側で-文字に向きあうということ」
    講師:出口 智之 氏(東京大学准教授)
   日時:2024年12月14日(土)14時~16時15分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ※講演会はいずれも定員50名

はじめ、鷗外宛のはがきの集成かと思ったのですが、さにあらず。個人のコレクターの方からの寄贈で、とにかく近代著名人の葉書をコレクションするという集め方だったようで、差出人はもちろん、宛先もバラバラのようです。

我らが光太郎の葉書も含まれています。比較的長命だった上に、特に戦後はやたらと筆まめだった光太郎ですので、そう珍しいものではありませんが、『高村光太郎全集』未収録のものであれば嬉しいなと思っております。そうであれば、たった一通でも、通説を覆すようなことが書かれていたり、これまで知られていなかった事実が書かれていたりということがよくありますので。

8月に行って参りました兵庫県たつの市の 霞城館・矢野勘治記念館さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」に出た光太郎葉書もそんな例で、この発見により、大正年間に埼玉の秩父山麓を周遊していたという知られていなかった事実が判明したりしました。

ところで、光太郎と異なり早世したため、残っている書簡の少ない石川啄木や宮沢賢治のそれも出品され、かえってそちらで「ほおー」と思いました。啄木からは大恩人の金田一京助宛、賢治は高橋秀松という人物に送ったものだそうです。高橋は盛岡高等農林学校の寄宿舎で賢治と同室、戦後、郷里の宮城県名取町(のちに名取市)の町長/市長を務めた人物でした。

他にも文学、美術、さらにその他の分野でも光太郎と縁のあった人物がずらり。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

しかしお彼岸の頃から健康恢復、只今ではもうすつかり元気になりました、夏に弱いことまつたく白熊のやうです。その代りこれから冬にかけては得意の季節です。
昭和24年(1949)10月26日 東正巳宛所感より 光太郎67歳

少し前のこの項でご紹介した、この年の夏、おそらく熱中症で4回ぶっ倒れたという話からの繋がりです。自らを白熊に例えるあたり、笑えます(笑)。

愛知からコンサート情報ですが、8月の段階でチケット完売とのこと。ただ、キャンセル等があるかも知れませんし、記録のためにもご紹介しておきます。

HITOMIホールプリズムステージ 朗読と音楽が紡ぐ愛、「智恵子抄~田園交響楽より~」

期 日 : 2024年10月9日(水)/10月10日(木)
時 間 : 15:00~ 
会 場 : HITOMIホール 名古屋市中区葵三丁目21番19号メニコンアネックス5F
料 金 : 一般 前売り3,000円/当日3,500円  大学生迄 前売り・当日ともに1,500円

「智恵子抄」は、詩人・高村光太郎によって書かれた詩集。妻・智恵子との出会いから死後までの約30年間に書かれた、彼女にまつわる作品集です。プリズムステージでは、智恵子が愛したと言われているベートーヴェンの「交響曲第6番『田園』」をモチーフにしたオリジナル音楽とともに構成します。
●作曲 宗川諭理夫
●朗読 たかべしげこ、大田翔
●演奏 ヴァイオリン 寺田史人 チェロ 佐藤光 ハープ 天野世理
光太郎の描いた精神世界、届かない智恵子への憧れと渇望、そして絶望。理性的な美しい言葉たち。挑戦のステージです。
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同じ会場で、似たタイトル(今回の「愛」が「純愛」でした)の公演が平成28年(2016)同29年(2017)同30年(2018)と3年連続で開催されました。基本的には再演なのでしょうが、演者の方々は過去のそれとは異なっています。

昨日ご紹介した野田秀樹氏作の演劇「売り言葉」にしてもそうですが、「智恵子抄」、様々な切り口からの二次創作が可能な素材です。今後ともこういったものが作り続けられ、上演され続けられて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

小鳥も多くなり、木ツツキが小屋の屋根をたたきます、木ツツキが来ると冬が近づきます。今はススキの穂がいちめんに銀いろで海のやうです。木々は既に紅葉をはじめ、山口山は上の方から赤くなつて来ました。今に路傍の草までまつかになることでせう。


昭和24年(1949)10月26日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の秋。約2ヶ月後に発表した連作詩「智恵子抄その後」の中では、「智恵さん斯ういふところ好きでせう。」と謳いました。

智恵子を主人公とする一人芝居です。

平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』

期 日 : 2024年10月10日(木)~10月14日(月)
会 場 : 雑遊 新宿区新宿3-8-8 新宿O・Tビル
時 間 : 10月10日(木)・10月11日(金) 19:00~
      10月12日(土)・10月13日(日) 14:00~/18:00~
      10月14日(月) 12:00~
料 金 : 10月10日(木)のみ3000円 他は一般 4000円 U25 3000円

〈出演〉 平体まひろ
〈スタッフ〉
演出:下平慶祐  舞台監督:齋藤美由紀  音響:丸田裕也  音響オペレーター:池田優美
照明:阪口美和  舞台美術:竹邊奈津子  当日制作:岡田珠美、渋谷真樹子
宣伝美術:平体まひろ  企画・制作:プテラノドン

 「平体まひろ 一人芝居『売り言葉』」が10月10日から14日まで東京・雑遊にて上演される。
 「売り言葉」は、野田秀樹が執筆した戯曲で、2002年に大竹しのぶの一人芝居として上演されたもの。彫刻家で詩人の高村光太郎の妻・智恵子の半生をモデルに描かれた作品だ。
 約1年弱舞台活動を休止していた平体まひろは本作に向けて「一年弱舞台活動をお休みしていました。ということを知っている方はそんなおらんだろとも思いつつ、自分にとっては覚悟を決めてのことだったので、活動再開にあたっても覚悟を決めて、ひとり芝居に挑戦することにしました。沢山の方々のお力をお借りしながら、自分に売り言葉をふっかけながら、皆様に楽しんでいただくべく励みます。ぜひお運びください!」とコメント。
 また演出を手がける下平慶祐は「高村智恵子が狂気に溺れていく戯曲、と聞くとおどろおどろしいと思うかもしれませんが、読んでみると全く違う印象を抱きました。私自身かなり『おどろ』いたのですが、この戯曲に描かれていたのは、普遍的な、とりわけ女性が、必死に人生と向き合っていく様子です。つまり、死を必することが狂っているということ?それなら自分の人生は? なんてことを考えながら、この作品を皆様に送ります」と意気込みを述べた。

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「売り言葉」、元々は大竹しのぶさんの一人芝居として野田秀樹氏が作られ、平成14年(2002)に南青山スパイラルホールさんを会場に初演されました。翌年、野田氏の『二十一世紀最初の戯曲集』(新潮社)に収められ、その後プロアマ問わずさまざまなところで上演されています。
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たまたま偶然でしょうが、令和元年(2019)には、当方の把握している限り6組もの異なる劇団/個人の方が上演、一昨年で2本、昨年も1本の公演がありました。

この手の脚本(ほん)の中で、光太郎ディスり度が最も高い(これでアンチ光太郎になってしまったという方もいらっしゃるようで)ものですが、それだけに生々しい人間ドラマという意味では秀逸です。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

真亀の老母逝去の由、気の毒な老年だつたと思ひますが、やむを得ません。


昭和24年(1949)10月27日 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

「真亀の老母」は智恵子の実母・セン。宮崎の妻・春子は、センの三女・ミツの子で、智恵子にとっては姪にあたり、当時の一等看護婦の資格を持っていて、南品川ゼームス坂病院に起居して智恵子の付き添いを務めました。春子が幼い頃にミツが夫のDVに耐えかねて実家に戻り、ほどなく早世したため、センは孫の春子を養女として戸籍に入れました。そこで戸籍上は光太郎のみならず宮崎の義母ということにもなり、「老母」としているわけです。
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智恵子もそうですが、センもかなり数奇な人生を送りました。家業の長沼酒造破産後は五女のセツの元に身を寄せ、千葉の九十九里浜真亀納屋で暮らし、ゼームス坂病院に入院する前、昭和9年(1934)には心を病んだ智恵子を半年余り受け入れていました。

毎年恒例、北鎌倉での展示情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11

期 日 : 2024年10月8日(火)~11月26日(火)の火・金・土・日曜日
      追記:当初予定から変更で11月19日(火)までとなりました。
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 11月9日(土) 15:00~
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光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫御夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんでの展示。すぐ近くに住んでいて、光太郎と深い交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏のご協力もあり、光太郎と尾崎の交流(尾崎の妻は光太郎の親友・水野葉舟の娘の實子でした)を辿る展示が為されます。光太郎と尾崎それぞれの肉筆や写真、年によっては光太郎が尾崎の結婚祝いに贈ったブロンズの「聖母子像」(ミケランジェロ模刻)も。

一昨年からは関連行事として光太郎と尾崎の詩をとりあげる朗読会も催されています。当方、今年は「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品物をお貸しし、その搬入と会場設営の日に当たってしまいましたので欠礼いたしますが、展示の方は会期中に拝見に伺うつもりで居ります。

皆様も是非どうぞ。朗読者も募集中だそうです。奮ってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

何を表現しても芸術そのものは健康であるべきです。

昭和24年(1949)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

光太郎、造型にしても文筆にしても、病的な表現は嫌いました。若い頃には彫刻で「妖気」のようなものを表そうとしたこともありましたが、のちにそういうやり口は誤りだったと否定しました。

「山の詩人」といわれた尾崎にもそういう精神は通底していて、それだけに二人が結びついたのだと思われます。

神戸から日本画の個展情報です。

山下和也個展「星尘詩(ほしくずのうた)」

期 日 : 2024年9月20日(金)~9月30日(月)
会 場 : Gallery301 神戸市中央区栄町通1丁目1‐9 東方ビル301 
時 間 : 12:00~18:00 最終日のみ17:00まで
休 館 : 9月25日(水) 9月26日(木)
料 金 : 無料

 人は宇宙(そら)をどのような思いで眺めてきたのだろうか?
 宇宙物理学など自然科学の1分野である天文学と考古学との境界領域にある古天文学。 前者は自然界の多様な現象を解明する研究、後者は人間の思想哲学を行為や記録(遺物)から読み解く研究である。 人間の知的好奇心や探求心によって、生まれてきた宇宙観や天文学は、民族や国家、時代の境界を越えて影響を与え、発展してきた。
 たとえば、古代ギリシャの数学者ピタゴラス(紀元前582-紀元前496)は天体の運行が常に音を発しており、宇宙全体が大きなハーモニーを奏でていると考えていた。「天球の音楽」として知られるその思想は、哲学者プラトン(紀元前427-紀元前347)をはじめ二千年後のドイツの天文学者ケプラー(1571-1630)にも影響を与えている。
 自然(宇宙)と人間と芸術。広大な宇宙においては星の屑にも満たない様な人類の歴史やもっと些細な営み。それらを引き合わせて少しずつ手や頭を動かして継ぎ、展覧会を編む。 事物を通じて個々に現れる目には見えないもの、耳には聞こえない音楽を仮にここで詩(うた)と呼び、そのポリフォニーを傾聴しながら私も宇宙(そら)を眺めてみようと思う。
 会期はちょうど仲秋の名月を経て新たな月へと向かう頃。是非会場へ観測にお越しください。
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公式の案内文等に光太郎智恵子の名がありませんが、X(旧ツイッター)上の、見に行かれた方のポストに、以下の記述がありました。

藤原定家の「明月記」を手掛かりに、古天文学をテーマにした展覧会。具体やボイス、高村光太郎と智恵子抄、隕石などを本歌取りや岡崎和郎を想起する見立て、日本画技法を用いて芸術学的宇宙図を形成。鑑賞より観測が相応しい。9/30まで

最初の画像、満月を描いているものでしょうが、よく見るとレモンの皮のようにも見えます。「レモン」とくれば「智恵子抄」中の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)。これが「智恵子抄」オマージュの作品なのでは? と思いました。違っていたらごめんなさいですが。

今年の中秋の名月は9月17日(火)でした。陰暦八月十五日の月、ということで、年によって前後します。以前にも書きましたが、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)の中秋の名月は、駒込林町のアトリエ兼住居で智恵子葬儀が行われた10月8日でした。おそらく詩集『智恵子抄』のために書き下ろされ、その日の模様を後に回想して謳った詩「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)の最終行は「外は名月といふ月夜らしい。」でした。何だか智恵子がなよたけのかぐや姫のように、月へ帰っていったようにも思えます。

閑話休題。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今夏は小生妙に夏まけがひどく七月から八月にかけて四度高熱を発し臥床、村の人に食事の世話などされました。

昭和24年(1949)9月2日 八森虎太郎宛書簡より 光太郎67歳

当方手持ちの書簡の一節です。おそらく熱中症でしょう。光太郎の山小屋は奥羽山脈の麓、光太郎自身が「水牢」と呼んだ非常に湿気の多いところで、そうなると気温がさほどでなくても熱中症の危険性が高まります。当方も一度、旧高村記念館内で作業中に眩暈(めまい)を起こしてぶっ倒れそうになりました。
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少し先の話なのですが、ガンガン宣伝してくれと云う話ですので……。

中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ

期 日 : 2024年11月10日(日)~11月18日(月)
会 場 : なかのZERO西館美術ギャラリー2F 東京都中野区中野2丁目9-7
時 間 : 10:00~18:00 最終日のみ16:00まで
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料

中野には創作活動の場であるアトリエが多くはありませんが残っています。残念ながら前回の展示会後に取り壊されてしまったものもあります。

桃園川緑道沿いに片流れ屋根の簡素なアトリエがありますが、ここで高村光太郎が「乙女の像」を制作しました。

アトリエという建築の魅力、活躍した人々をご紹介します。

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関連講演会
 各回定員60名 定員に達し次第締め切ります 無料
 
  ① 『連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る』
    11月10日(日) 14:30~16:30  会場:なかのZERO
     渡辺えり(劇作家・俳優・中西アトリエを保存する会代表)
     小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会代表)

  
  ② 『中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について』
    11月11日(月) 18:30~20:30 会場:なかのZERO
     内田青蔵(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)
     伊郷吉信(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)001


申込 : メール y-sogawa@tubu.jp

     申込フォーム 
     右記QRコード 

     電話 090-8056-0327(ソガワ)

というわけで、保存運動の起こっている光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた展覧会です。主催は中野たてもの応援団さん。

他に三岸好太郎・節子、棟方志功、彫刻家の木下繁、同じく長谷川昂、画家の萩原英雄らのアトリエ、土日画廊という歴史的建造物などについてのパネル展示が為されます。

中西利雄アトリエは、中西本人、それから中西没後に貸しアトリエとなってから借りたイサム・ノグチ、そして光太郎についてのパネル展示。さらに特に光太郎を大きく扱って下さるとのことで、当方手持ちの史料を大量にお貸しします。真作で彫刻(ブロンズレリーフ)や書簡、『道程』などの著書、複製ですが原稿、デッサン、色紙などなど。

また、関連行事としての講演会。初日の11月10日(日)に渡辺えりさんと当方で「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」と題したトークショー。当方が水を向け、渡辺さんにいろいろと語っていただき、専門的なところは捕捉、スクリーンにスライドショーを投影しつつ行います。

翌11月11日(月)には建築専門のお二人から建築としての中西アトリエのお話。個人的にはこれが実に楽しみです。

展覧会、講演会とも無料。ぜひ足をお運び下さい。これで中西アトリエ保存運動に大きく弾みを付けたいと存じますので。

【折々のことば・光太郎】

都会の人は殊に時々登山するといいと思ひます。登山の清らかなたのしみは比較するものもないやうです。


昭和24年(1949)8月24日 髙村規宛書簡より光太郎67歳

令甥・規氏の埼玉の低山に登ったという書簡への返信の一節です。若き日の光太郎はクラシックルートを歩いて信州上高地まで上ったり、上州赤城山にも再三登ったりしました。上州といえば山間部をほぼくまなくトレッキングし、法師、草津、湯檜曾、川古、磯部、伊香保、四万、水上、宝川などの温泉を踏破しています。

昨日は上京しておりました。メインの目的は光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関連して。また詳しくご紹介いたしますが、中野たてもの応援団さんの企画に乗っかる形で、11月に中野ZEROさんにおいて企画展示を行います。その展示用備品の確認でした。

そちらの終了後、原宿へ。エンパシーギャラリーさんで開催中の彫刻家・瀬戸優氏の個展「ime Traveler」を拝見して参りました。
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今回並んでいるのほとんどの作が動物をモチーフとした具象彫刻で、目玉の一つが光太郎の父・光雲の「老猿」(明治25年)オマージュのもの。
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マルチアーティスト・井上涼氏曰くの「黙すれど語る背中」もしっかり再現。
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事前に画像を拝見して、粘土なんだろうな、と思っていましたが、焼成して着色したテラコッタとのこと。画廊オーナーの方がギャラリートーク的にいろいろとご説明下さいました。その中で「へー」と思ったのが、目の処理。

仏像の玉眼のように、裏側からガラスを嵌め込み、着色。そして瞳がどの角度から見てもこちらを向くようにしてあるというのです。秘密の技法があるようで、これには驚きました。
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他の作。
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テーマの一つが「オマージュ」だそうで(猿もそうでしたが)、他にも過去のいろいろな系統からのオマージュが。上画像の犬は古代エジプトのアヌビス神像ですし、同じエジプトのカノプス壺(ミイラ制作の際に取り出した臓物を入れる容器)も。
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西アジアから広まった祭器・リュトン。
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一見、木彫に見えますが(それを狙っているようです)これもテラコッタ。

さらに東洋の十二支。
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今年の干支、辰(ちなみに当方、年男です(笑))。

他にもライオンやら狼やら。
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硬く焼き締められたテラコッタでありながら、もふもふ感が感じられるのが不思議です。そして躍動感というか、ムーヴマンというか、まぁ、光太郎曰くの「生(ラ・ヴィ)」ですね。アカデミックなにおいのしないワイルドさが好ましいところです。

下世話な話になりますが、かなり売約済となっていました。
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「老猿」も。シールで隠れて価格が見えなかったので訊いたところ、99万円だったそうですが。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

会期は明後日まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

お便りと「パンの会」といただき、ありがたく存じました。此の本は大変立派でパンの会にふさはしいと思ひました、かういふ混雑した時代の事を後で書き分けるのは随分苦労なことと推察します。

昭和24年(1949)8月5日 野田宇太郎宛書簡より 光太郎67歳

「パンの会」は明治末に起こった芸術運動。光太郎の欧米留学中に木下杢太郎、北原白秋、吉井勇らが始め、帰国した光太郎もたちまちその喧噪に巻き込まれます。連翹忌会場の日比谷松本楼さんでも大会が行われたことがありました。

評論家・野田宇太郎は文学散歩的な視点をメインに明治大正の文学史を俯瞰した書物を多く著しましたが、『パンの会』もその一つ。旧悪とまでは行きませんが、若気の至りの数々を記録に残された光太郎、苦笑しながらも懐かしんでいたのではないかと思われます。

ほぼほぼクローズドのイベントでしたので、このサイトでは事前にご紹介しませんでしたが、昨日、神奈川県逗子市のテルミンミュージアムさんにおいて開催された「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」にお邪魔しておりました。レポートいたします。
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同ミュージアム、電子楽器のテルミン奏者・大西ようこさんが運営なさっています。ミュージアムと云っても、大西さんがお持ちのアパートの一室を改装して作られたスペースです。
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内部はライブということで昨日は客席が用意されていましたが、通常は集められた古今東西のテルミン27台だかがずらりと展示されているのでしょう。それらは壁際などに寄せられていました。
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一部、修理中だそうで。
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奥の壁にはこちらを訪れられた様々な方々のサイン。
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さまぁ~ずさんとテレビ東京の田中瞳アナ。今年7月6日(土)にオンエアのあった「モヤモヤさまぁ~ず2 【逗子・葉山】一心同体!季節外れの90分弱SP」の際のものです。
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NHKさんで不定期に放映されている「フェス・アローン レギュラー番組への道」のディレクター氏。昨年2月でしたが、こちらでのロケと、大西さんはスタジオでハライチのお二人(澤部佑さん、岩井勇気さん)とご共演。
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そして箏曲奏者の元井美智子さん。

元井さん、この日の「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」で大西さんとご共演。
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元井さん、昨年、横浜のイギリス館さんで開催された「元井美智子自作自演コンサート2023」で、箏を弾かれながら「智恵子抄」中の詩を朗読なさいまして、それがご縁で今年の連翹忌の集いにご参加下さいました。そこで連翹忌ご常連の大西さんに捕まり(笑)、今回のコラボライブ。

7月には同様に連翹忌ご常連で朗読の荒井真澄さんとのコラボを花巻仙台でなさっています。以前にも書きましたが、連翹忌は光太郎を偲ぶのが趣旨ですが、こうして人の輪を繋いで行くのも大きな目的の一つでして、その意味では主催者として喜ばしい限りです。
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元井さん、御著書「八橋の虹」のプロモも。江戸時代の八橋検校を主人公とした小説仕立てですが、史料が少ないため評伝には出来ない部分を想像で補われて書かれたものです。以前に頂き、芸道の徒弟制度的な部分では、高橋鳳雲、高村東雲、そして光太郎の父・光雲へと続く木彫界の一派とも通じる部分があるな、と思って拝読しました。Amazonさん等でも扱われています。ぜひお買い求めを。
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この日は横浜で元井さんが演(や)られた「智恵子抄」をダイジェストで、「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」の語りに箏とテルミンの演奏を乗せて。

他に箏曲定番の「春の海」や、光太郎も好きだったドビュッシー、元井さんオリジナルの曲、大西さんが以前にチェロやハープとの合奏のために作曲家の方(お二人、昨日もいらしていました)に書いていただいたものをアレンジした曲など。和と洋、ある意味最先端の電子と古き良き伝統との融合、なかなか不思議な世界観でしたが、心地よいものでした。

大西さん、実に様々な方との二人三脚をこれまでもやられていて(実際に足を縛って走られているわけではありませんが(笑))、中には「ウルトラマン」のスーツアクター(中の人)や「ウルトラセブン」のアマギ隊員役だった古谷敏さんに「智恵子抄」系朗読をお願いして、という企画もありました。

切り絵作家の方の作品に描かれた古谷さんのサイン。
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ウルトラファンには垂涎の的でしょうね。といってもここで涎を垂らされても困るでしょうが(笑)。

来月、逗子で開催される大西さんが一枚噛んだイベントのフライヤー。上記の切り絵の方との連携だそうで。
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今後とも、お二人のご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

「道程」初版は「詩集」といふよりも「詩篇雑綴」といふやうなもので、その頃までの自分の詩をただ制作年代順に並列したものに過ぎません。その頃小生は詩集などといふものをれいれいしく出版する気はありませんでした。


昭和24年(1949)6月26日 檜村淑子/藤田澄枝/肥後道子宛書簡より 光太郎67歳

宛先の3人は、当時女学生の光太郎ファンでした。面識もなかった光太郎に手紙を送り、いろいろ質問をし返事を頂いたとのこと。お三方のうち、肥後さんはかつて連翹忌にもご参加下さり、この書簡の背景などについて語っていただきました。

都内で彫刻家の方の個展です。

瀬戸優個展「Time Traveler」

期 日 : 2024年9月7日(土)~9月23日(月・祝)
会 場 : エンパシーギャラリー 渋谷区神宮前3丁目21-21 ARISTO原宿2階
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 会期中無休
料 金 : 無料 

生命の息吹を宿す動物彫刻で知られる瀬戸優が、本展で新たな挑戦に挑みます。

テーマは「Time Traveler」。さまざまな時代に生きた動物たちを彫刻として再現し、時を越えて伝わるその存在感を感じていただける作品が並びます。

本展は、瀬戸優にとって今年最大規模の展覧会となり、34点の作品が出品されます。

ぜひ、この特別な機会にご来場ください。

今回の展示は、瀬戸優にとって初めての「オマージュ」に焦点を当てた試みです。耐久性の高い彫刻作品は、長い年月を経てもなお、私たちに語りかけてきます。古代エジプトの「アヌビス神像」(紀元前1500年)から、19世紀の「老猿」(1893年)まで、幅広い時代と地域の動物彫刻にインスパイアされた作品が展示されます。

前回の個展「星を数える」に続き、今回は「時間」に秘められたロマンを感じ取っていただければ幸いです。
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瀬戸氏ご本人が Instagramのテキストアプリ「Threads」上に作品画像を公開されており、光太郎の父・光雲の「老猿」オマージュの作もアップされています。
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「Threads」テキストによれば、光雲の「老猿」制作の背景もきちっと押さえた上で作られているそうです。「老猿」制作中に、光雲の数え十六歳だった長女の咲(さく)が肺炎で亡くなっています。咲は狩野派の絵師に学び、将来を嘱望される腕前でした。後の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)にそのあたりが語られています。
 総領の娘を亡くした頃のはなし
 栃の木で老猿を彫ったはなし

また、光太郎の回想「姉のことなど」(昭和16年=1941)にも。光太郎は数え十歳でした。

 明治二十五年には姉さんも十六歳になつた。絵画の技倆は驚異的に上達して来た。いよいよこれからといふ其年の九月九日に此の姉さんが死んだ。
(略)
 黙りかへつた家内中の人に囲まれて姉さんはいつものやうに臥てゐた。苦しさうであつたやうな気がしない。母が私の手を持ち添へて、枕元にある茶碗の水を細長い小さな紙に浸まして姉さんの少しあいてゐる口を塗らした事をおぼえてゐる。みんなが泣いてゐたやうだつたが私は泣いたやうに思はない。その時祖父さんがいきなり叱るやうな声で「親不孝め」と言つたので驚いた事が頭に残つてゐる。
(略)
 八月末からは臥たきりであつたやうだ。或る夕方祖父が井戸端でつるべの水を頻に浴びてゐるのを見たので暑いからだと思つてゐたが、後年それは水垢離をとつてゐたのだときかされた。これもあとで聞くと、姉さんは裏隣にあつた総持寺といふ寺の不動尊にひそかに願をかけて、父の無事息災を祈り、父の災難の身代にさせてくれと願つてゐたのださうである。その年が丁度父の厄年にあたり、しかも美術学校で父が高いところから落ちた事があつたりした。其上、父はシカゴ大博覧会へ出品する大きな木彫の猿を作りかけて、これが中々はかどらないやうな状態の時であつた。


このあたりを受けて、瀬戸氏曰く「光雲の無念さははかり知れず、何も手につかないほど落胆したが、制作を通じて気力を取り戻していったという。このエピソードを知り、老猿の迫力の秘密がわかった気がした。我々作家にとって、作品制作だけが精神を安定させ、自身を幸福に導いてくれる」。

なるほど。

他にも動物系の具象作品が多いようですが、不思議な迫力に満ちた作品群です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

油画の方でも梅原安井程度でゆきどまりではなりません。もつと大きくひらけて油画の大道に出ねばならぬと考へます。あれだけではひどく小さいです。

昭和24年(1949)6月21日 椛沢ふみ子宛書簡より光太郎67歳

自らは蟄居生活を送りながらも、美術界に対する期待は大きかったのですね。

9月11日(水)、上野の東京藝術大学大学美術館さんで拝観した企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」レポート2回目です。

まず前室に展示されていた光太郎や光太郎の父・光雲らの作を堪能した後、いよいよメインの台湾人彫刻家・黄土水の作品が並ぶ奥の展示室へ。

中央にドーンと目玉作「甘露水」。
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大理石の白い石肌が何とも云えず艶やかです。ロダンの「接吻」を想起しました。大正11年(1922)に発表された作とのことですが、明治31年(1898)に大理石像が発表された(ブロンズはもっと前)「接吻」について黄が情報を得ていたかどうか、何とも云えませんが。

ただ、大理石であっても荒々しさの残るロダンとは異なり、とにかく優美な作です。そういう意味ではロダン以前のアカデミックなベルニーニあたりの影響の方が強いのかな、という感じでした。

像の足もとに配された貝など、いかにもバロック的です。
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それにしても、大理石という素材の特性をうまく生かしていると思わせる作品でした。

この時代、既に他の日本人彫刻家も大理石像を手がけており、手元にある「聖徳太子奉讃展」(大正15年=1926)、「明治大正名作展」(昭和2年=1927)の図録などを見ると、複数の作家が大理石像を出品しています。しかし、あくまで写真を見てだけの感想ですが、「甘露水」には及ばないという感じです。中には「これを大理石で作る必要性があるの?」とか「明治の牙彫と変わらないじゃん」とかいう雰囲気のものも。作家名を挙げることは控えますが。ところでどちらにも黄の作品は出ていませんでした。

ちなみに光太郎も大正6年(1917)に大理石彫刻を手がけましたが、残念ながら作品の現存が確認できていません。

閑話休題、他の黄作品。
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ブロンズ系。つまり削って作るカービングではなく、粘土を積み重ねる塑像が原型でしょう。

ここから下は木彫です。
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カービングもモデリングも高いレベルで器用にこなしていたんだな、と思いました。それだけに「聖徳太子奉讃展」(大正15年=1926)、「明治大正名作展」(昭和2年=1927)などに出品していないのが不思議でした。帝展等には入選歴があるのですが。
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帰りがけ、受付で簡易図録(500円)をゲット。
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全24ページの薄いもので光太郎・光雲らの出展作は網羅されていませんが、メインの黄作品は全て掲載されています。

館を出ると、コロナ禍の頃は学外の人間は立ち入り禁止だったエリアにも入れるようになっているのに気づきました。となると、ご挨拶せねば。

光太郎作の「光雲一周忌記念胸像」。
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光太郎以外によるこの手の大学功労者の像が複数並んでいますが、これが出色の出来、と思うのは贔屓しすぎでしょうか(笑)。

さて、「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」展、10月20日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。併せてすぐ近くの東京国立博物館さんの常設展「近代の美術」も。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家聯盟の展覧会がありました由いい彫刻家がせめて四五人出てくれるやうにと祈つてゐます。貴下も御精励をねがひます。世界の彫刻を日本がひきうけねばなりません。

昭和24年(1949)6月17日 西出大三宛書簡より 光太郎67歳

戦争の傷跡からも立ち直りつつあり、光太郎の期待通りいい彫刻家が出て来ます。佐藤忠良、舟越保武、柳原義達、本郷新、木内克、菊池一雄などなど。ある意味、光太郎のDNAを継ぐ者たちです。

昭和5年(1930)に満35歳で亡くなった黄なども、戦後まで生きながらえていれば……と思われますが。

上野の東京藝術大学大学美術館さんで先週始まった企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」。昨日、拝見に行って参りました。
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展示会場は3階の2室を使い、奥がメインの展示・台湾から東京美術学校に留学していた黄土水の作品群。
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手前が前座的に黄が師事した光雲や同時代ということで光太郎などの作品群でした。まずはそちらから。

いきなり最初に光雲作品が出迎えてくれます。
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作品というより、学生たちに示すための教材ですね。ラベルにも「標本」とあります。文殊菩薩像を木寄せで作る際の、いわば3D設計図のような。

同様の用途でしょう、観音像の頭部のみ。
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「聖徳太子像」は「作品」として制作されたと思われますが、ことによるとこうしたものも学生たちに手本として示されたかもしれません。
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太子、イケメンです(笑)。

さらに光雲の作が続きます。
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「鷹」。羽根の先端や俵を縛る縄など、細部まで作り込まれています。
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「蘭陵王」。以前に見た時はアタッチメントの面を装着した状態でしたが、今回は外されていて、ラッキーでした。
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「狸」。擬人化された法師の姿です。ここまでの作は、全て一度は他の機会に見たことがあるものでしたが、これは初見。その意味では最も見たかった作品でした。類例は清水三年坂美術館さんやその出開帳などで見たことがありましたが、そちらは立ち姿でした。

この「狸」は、光太郎の「蓮根」と並べてありました。父子競演です。ところでSNS上で父子を混同している投稿をよく見かけます。「高村光雲のレンコン」などと……なげかわしいところです。
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「蓮根」、令和元年(2019)に藝大さんに寄贈されたものです。翌年の「藝大コレクション展2020 藝大年代記(クロニクル)」で展示されて以来かな、と思われます。コロナ禍もありましたし。
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光太郎作品はもう1点。卒業制作の日蓮像「獅子吼」が出ています。こちらはブロンズです。
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木を削って作るカービングと、粘土を積み上げて形にするモデリング、双方で一流の彫刻家というのも日本ではあまり多くないのでは、と、改めて思いました。光雲はカービングの人ですし、光太郎の親友だった荻原守衛にはカービングの作は無いと思われます。

その守衛の「女」。
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ブロンズは一つの型から鋳造したものが複数存在することが多いのですが、「女」も全国にどれだけあるのか当方も存じません。都内だけでも少なくとも5点は把握していますが。

こちらには「伊藤美術鋳造研究所鋳」の刻印。
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光太郎最後の大作「乙女の像」の鋳造を担当した伊藤忠雄の工房です。「おお!」と思いました。

カービングにもどると、光太郎の同級生だった水谷鉄也、光雲高弟の一人・平櫛田中など。

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冒頭の「文殊木寄」や「観音像頭部」のように、教材として使われたであろう手板がずらっと。この手のものが一時、大量に処分されてしまったという話を聞いたことがあるのですが、現存もしているのですね。いちいち作者の銘が入っていません。
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モデリングの方では、中原悌二郎、池田勇八、石井鶴三、朝倉文夫など。
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こちらはほとんど撮影禁止でしたが絵画も。津田青楓、和田英作らにまじって、彫刻科を卒(お)えてから光太郎が入学し直した西洋画科で教鞭を執っていた藤島武二など。
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そしていよいよ今回の目玉の黄土水ですが、長くなりましたので、また明日。

【折々のことば・光太郎】

田植の頃に花巻から賢治子供の会の皆さんがはるばる来てくださることもう三度目となりほんとに一年に一度めぐつてくるこよない幸福の日と思ひました 昨日は「雁の童子」だつたので一入感動いたしました 子供等は無邪気にやるのでせうが作の持つ美しさと深さとが自然と素直に表現せられて心にしみ入るやうでした。


昭和24年(1949)6月13日 照井謹二郎・登久子宛書簡より 光太郎67歳

児童劇団「花巻賢治子供の会」の太田村公演に対する礼状の一節。そもそもは光太郎に見てもらうために旧太田村で公演を打っていました。













上野の東京藝術大学大学美術館さんで先週始まった企画展「黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校」。戦前の台湾から藝大さんの前身・東京美術学校に留学し、光太郎の父・光雲に師事した黄土水(こうどすい)の作品を中心とした展示です。台湾の国宝に指定された大理石の「甘露水」ほか黄作品10点と、師・光雲、そして同時代ということで光太郎らの作品も出ています。

展示開始前日の9月5日(木)、『毎日新聞』さん夕刊で、1面トップと社会面トップで長大な関連記事が出ました。あまりに長いので全文はご紹介しませんが、非常に読み応えのあるいい記事でした。それによると、今回の目玉でフライヤーにも使われている「甘露水」は、黄が昭和5年(1930)に歿したあと台湾に運ばれましたが、その存在が忘れられていき、昭和33年(1958)には元の保管場所から移される中で行方不明となっていたそうです。それが令和3年(2021)に現存が確認され、国宝指定されました。

背景には15年戦争による日台の複雑な関係が。中国本土でもそういうことがありましたが、戦後、日本がらみのものはことごとく排斥の対象となり、そのため「甘露水」も移送途中で放棄に近い状態となるなどぞんざいな扱いを受け、このままでは処分されてしまうと危惧した芸術に理解のあった医師が秘匿していたというのです。また、汚損を修復した日本人技師の苦労話なども紹介されていました。

8月30日(金)のやはり『毎日新聞』さんには、そのあたりの細かな点は出ませんでしたが、ダイジェストというか、9月5日(木)に出る記事の予告編のような記事が。そちらは短いので引用させていただきます。

所在不明60年後、台湾彫刻の幻の傑作「発見」 東京芸大で展示へ

020 大正時代に東京美術学校(現・東京芸術大)に入学し、高村光雲に師事しつつ、自ら西洋彫刻も学んだ台湾人の天才彫刻家、黄土水(こうどすい)(1895〜1930年)。その「幻の傑作」とされた彫像「甘露水」(1919年)が新型コロナウイルス禍の2021年5月、台湾中部のプラスチック工場に置かれた木箱の中から姿を現した。
 戦後に行方不明になってから、実に60年以上の歳月が流れていた。その「発見」は台湾の美術関係者に衝撃を与えた。
 甘露水は1921年に日本の帝展に入選した作品。大理石の彫像で、裸身の女性が大きな貝がらを背に立つ姿から、「台湾のビーナス」とも称される。ただ、西洋のビーナスの姿とは異なる。西洋の方は恥ずかしそうに身をよじっているのに対し、黄の女性像は顔を上げ、堂々とした姿だ。
 黄の死後、日本から台湾に運ばれた甘露水は、台北市の台湾教育会館(現・二二八国家記念館)が所蔵していたが、戦後、この建物は台湾省臨時省議会に替わった。議会は58年に台中への移転が決まり、4月に建物内の文物が台中に運ばれた。ところが、その引っ越しの過程で甘露水は一時、台中駅に放置され、その後こつぜんと姿を消した。
 台湾美術史に重要な位置を占める甘露水を多くの美術関係者が捜し求めた。「発見」に尽力した台北教育大北師美術館創設者で総合プロデューサーの林曼麗(りんまんれい)氏は、曲折を経た約60年の間、甘露水が無事だったことは奇跡に近いと考えている。
 なぜ木箱の中にあったのか。入選から100年という節目の年に姿を現したのは単なる偶然なのか。その驚きの秘話には、台湾の激動の歴史も大きく絡んでいた。
 彫像は黄の母校、東京芸術大の大学美術館で9月6日から展示される。
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当方、本日これから拝観に行って参ります。当初あげられていなかった「出品目録」が公式サイトにアップされまして、光太郎作品は予想通り木彫の「蓮根」(昭和5年=1930頃)とブロンズの「獅子吼」(明治35年=1902)ですが、光雲の木彫が6点も出ています。これは貴重な機会です。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

例年の通りいろんなものを作つてゐますが夜の間に狐や兎が畑を掘り起こして肥料に入れたヌカや魚の骨などをたべてしまひ、苗を倒すので困つてゐます。

昭和29年(1954)6月10日 高村美津枝宛書簡より 光太郎67歳

令姪への微笑ましい書簡の中から。もっとも光太郎にとっては死活問題に近いのかも知れませんが(笑)。

京都府の書画骨董店・思文閣さん。代表取締役の田中大氏は、テレビ東京系「開運! なんでも鑑定団」鑑定士のお一人としてご活躍中です。

年に数回、「大入札会」と銘打ち、「下見会」として展示を行った上でのオークション形式での販売にも力を入れられています。昨年は光太郎の父・光雲の木彫「聖徳太子像」や光雲の書なども出品されました。
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当方、だいぶ以前にオークション形式でない出品物(楠公銅像の錦絵――一昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「第二弾・高村光太郎の父・光雲の鈿女命(うずめのみこと) 受け継がれた「形」」の際にお貸ししました。)を一度購入、それから同社刊行の書籍を3回程購入しました。平成8年(1996)に思文閣美術館さんで開催され、観に行けなかった智恵子抄展の図録、同じく平成23年(2011)に大阪の逸翁美術館さんでの「与謝野晶子と小林一三」展の図録。後者は平成30年(2018)に神奈川近代文学館さんで開催された特別展「生誕140年 与謝野晶子展 こよひ逢ふ人みなうつくしき」にも出品された光太郎と晶子のコラボによる屏風絵2種が載っており、亡き北川太一先生に頼まれて2冊買いました(どちらもまだ在庫があるかも知れません)。
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その程度の購入歴なのですが、思文閣さん、律儀に毎回目録を送って下さっています。オークション形式でない通常の販売品の目録も。恐縮です。

で、今月開催の大入札会の目録も。
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手元に届く前にネット上の情報で知り、仰天していたのですが、今回、光太郎の書が2点出ています。

2点とも色紙ですが、まず短歌「吾(われ)山に流れてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり」。
吾山に
もう一点は詩、というか七五調四句の今様スタイル。
観自在
「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。

どちらも「中原綾子旧蔵」のキャプション。中原綾子といえば、つい先だって、令孫から光太郎の中原宛書簡がごっそり花巻市に寄贈されました。その際に、「書は寄贈されませんでしたか」と問い合わせたところ、「それはなかった」とのことでした。なぜそんな質問をしたかというと、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)に、光太郎の書が2点、口絵として使われていたためです。

1点は「不可避」と書いたもの。
灰の詩 不可避
そしてもう1点が、今回、思文閣さんで出品している「観自在こそ」です。
灰の詩 観自在
これが出て来たので、仰天した次第です。

「不可避」は思文閣さんの出品に含まれず、逆に思文閣さんで出している「吾山に」の書は中原の著書に使われていません。

ちなみに「吾山に」「観自在こそ」「不可避」、それぞれ光太郎が戦後に好んで書き、複数の揮毫が知られています。その意味では新発見ではありませんが。

さて、冒頭近くに書いた通り、下見会が昨日から開催中です。

令和6年9月 思文閣大入札会 下見会

期 日 : 2024年9月9日(月)~9月15日(日)
会 場 : ぎゃらりい思文閣 京都市東山区古門前通大和大路東入ル元町386
時 間 : 10:00~18:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

光太郎以外も逸品ぞろいで、目録を見ただけでクラクラするレベルです。

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ぜひ足をお運び下さい。

それから、先回りしておきますが、光太郎書を落札された方、死蔵にならないよう、依頼があれば快く貸し出すといった対応をしていただければと存じます。

 【折々のことば・光太郎】

其後真剣に考へてみましたが、東京へ行つてアトリエを建てる金がまづありません。アトリエが無いとしたら、東京に居ても此処に居ても同じことです。 原稿でわづかに金をとるとしても彫刻ではとても取れないでせう。従来とても彫刻では殆ど金をとつてゐなかつた次第です。

昭和24年(1949)6月5日 草野心平宛書簡より 光太郎67歳

当会の祖・心平らは、花巻郊外旧太田村での光太郎のある意味凄惨な蟄居生活を見て、何よりその身体を心配し、再三、上京を促しました。

この頃には後に光太郎が借りる中野のアトリエ(現在、保存運動を行っております)が貸し出され始めたと思われますが、そういうシステムはおそらくそれまでに無く、心平も光太郎も気づかなかったのではないでしょうか。

千葉県立美術館さんでは「移動美術館」と称し、所蔵品の出開帳を毎年行っています。毎回異なるコンセプトでテーマを決めています(光太郎をメインテーマにして下さった回もありました)が、そのテーマに縛られない名品も別に展示し、その中にはほぼ毎回光太郎ブロンズも含まれます。

今回も。

多古町合併70周年記念 第48回千葉県移動美術館~田んぼの美~

期 日 : 2024年9月15日(日)~10月8日(火)
会 場 : 多古町コミュニティプラザ 千葉県香取郡多古町多古2855
時 間 : 9時~16時
休 館 : 月曜日 ※9月16日、23日は開館
料 金 : 無料

県立美術館では、より多くの方に作品鑑賞の機会を提供し、芸術に触れ親しんでいただくため、県内各地で収蔵作品を展示する「千葉県移動美術館」を昭和52年から開催しています。

48回目となる今回は、多古町合併70周年を記念し「多古町コミュニティプラザ」を会場として、「田んぼ」をテーマに開催します。地域の歴史と稲作が密接に結びついてきたこの地で、私たちの暮らしと田んぼ、そして美術の間にある深い関係性を探ります。

主な展示作品
・堀江正章《耕地整理図》1901-02年
・浅井忠《農家風俗画手塩皿》1902-07年
・津田信夫《鯰》1941-43年

ギャラリートーク
県立美術館の担当学芸員が作品の見どころなどを解説します。(事前申込不要)
 9月22日(日)11時~ 9月28日(土)13時30分~ 料金 無 料
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[]光太郎はフライヤーに名があるものの出品作品名が明記されておらず、問い合わせたところ、ブロンズの代表作「手」を出すとのことでした。

千葉県と光太郎の縁も意外と深い(銚子犬吠埼で智恵子と愛を誓ったり、九十九里浜で智恵子が療養していたり、成田三里塚の親友水野葉舟をたびたび訪ねたり)ということで、同館では光太郎ブロンズを8点(すべて没後鋳造ですが)収蔵してくださっていて、花巻高村光太郎記念館さん、信州安曇野碌山美術館さんにつぐコレクションです。同館コレクションとしても一つの目玉となっているため、そこからも選ぶというわけでしょう。

他に光太郎実弟にして、家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣ぎ、鋳金分野の人間国宝となった豊周の師・津田信夫の鋳金作品も。
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制作年が昭和16年(1941)~同18年(1943)ということで、大正期に作られた光太郎の木彫「鯰」からのインスパイアなのでしょうか?

それからメインテーマの「田んぼの美」。ちなみに会場の多古町はブランド米「多古米」の産地で、町のゆるキャラ「ふっくらたまこ」もお米由来です。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

去年十月に理髪したきりゆかないので髪はのび放題で俊寛さまのやうな事になりました。

昭和24年(1949)6月2日 宮崎稔宛書簡より光太郎67歳

俊寛さま」は平安時代末、鹿ヶ谷で平家政権転覆を目論む会合を開いたかどで薩摩の鬼界ヶ島に流された僧侶。のちに共に流された二人は恩赦で帰京しましたが、俊寛はその対象とならず、島に残されました。「平家物語」の有名な一場面ですし、歌舞伎の演目にもなっていますね。
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右上は翌年の写真ですが、なるほど、ボサボサの頭が俊寛感を醸し出しています(笑)。

光太郎、自らの山小屋生活を「自己流謫」と名づけました。「流謫」は「流罪」と同義。公的には戦犯として訴追されることはありませんでしたが、自らを罰したわけです。その意味では俊寛にシンパシーを感じるところもあったのでしょうか。

今年はじめから活動を始めました「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」。光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエの保存のための組織です。先頃、会としてのホームページも出来、去る9月4日(水)には5度目くらいの会合を開き、今後の活動等について確認いたしました。

再来週くらいには詳細情報を出せるかと存じますが、11月には中野区内でアトリエに関する企画展示を行うことに決定しました。関連行事として建築家の方による中西利雄アトリエの歴史的価値、設計者の山口文象について等のご講演、会の代表・渡辺えりさんと当方による光太郎や中西アトリエをとりまくもろもろについてのトークショーなどが予定されております。

ホームページ上では保存に賛同して下さる方に署名をお願いしており、電子署名、紙媒体による署名と双方を用意してあります。さらにカラー版のフライヤーを兼ねた署名用紙を作って下さった会員の方がいらっしゃいまして、下に載せておきます。
フライヤー
署名用紙カラー
事業所さんや店舗さん等の場合、可能であれば裏表で印刷していただいて、カウンターなどに置いていただき、いらした方に署名をお願いしていただけると助かります。

適当なところでFAXまたはスキャンデータでお送り下さるか、さらに用紙そのものを下記あて郵送して下さっても結構です。

 〒113-0031 文京区根津2-37-4-801 曽我貢誠

さらには保存運動につき、SNS他、さまざまな形で「こんな動きがあるよ」と拡散していただければ幸いです。各種マスメディアさん等の取材も大歓迎です。

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会
Home | save-atelier-n (jimdosite.com)

どうぞよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

六月十一日には先日お送りした原稿にある通り裏山の展望台に立つて南方はるかに東京の空を眺めませふ。あなたの舞踊にのり移つた智恵子の事を思ひませう。帝劇で若し眼のあたりあなたの舞踊を見たら小生の眼は涙でくもつてしまふでせう。

昭和24年(1949)5月23日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

六月十一日」は、舞踊家の藤間節子(のち黛節子と改名)が、帝国劇場で「智恵子抄」を含むリサイタルを行う日です。「原稿」はそのパンフレットに掲載されました。
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会期残りわずかですが……。

齊藤秀樹展 ― 一木(いちぼく)―

期 日 : 2024年8月28日(水)~9月9日(月)
会 場 : 新宿高島屋10階美術画廊 渋谷区千駄ヶ谷5丁目24番2号
時 間 : 午前10時30分~午後7時30分 最終日のみ午後4時閉場
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

齊藤秀樹氏は、1969年東京に生まれ、1993年大阪芸術大学芸術学部美術学科彫刻コース専攻科修了。自然をテーマに掲げ、猫やトカゲ、金魚や蝶など子供の頃に触れてきた身近な生き物や植物たちを実物大の木彫にて表現し、個展・グループ展、アートフェアなど精力的に発表を続けています。 その精巧な描写、実物大にこだわり制作されていくことで、今にもそこから動き出すかのような空間を放ち、情景さえも想起させてしまうリアルな表現は、動植物の息吹やぬくもりをも感じさせると同時に、木彫だからこそ得られる「木」そのもの香りやぬくもりをも感じることができます。 今展では、大人になり忘れてしまいがちな、人々の心の中にある自然との「思い出」や「記憶」をそれぞれに喚起する最新作の一木造りの木彫達を中心に、様々な自然に生きる生物たちを一堂に展観いたします。この機会にぜひご高覧ください。

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木彫作家の齊藤氏、動物をモチーフとした作品等も手がけられ、その方面での大先達である光太郎の父・光雲作品オマージュなども作られています。

今回展示されている「矮鶏(ちゃぼ)」。氏のX(旧ツィッター)投稿から画像をお借りしました。
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同じ作品は一昨年、西武池袋本店さんで開催された「齊藤秀樹 木彫展~人のそばにいる自然 自然の中にいる人~」でも展示されました。

宮内庁三の丸尚蔵館さん所蔵の光雲木彫「矮鶏」(明治22年=1889)の雄鶏の方をモデルとなさったものです。
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光雲の「矮鶏」、当初は一般人から注文を受けて制作されたものですが、半ば強引に日本美術協会展に出品させられ、それが観覧に来た明治天皇の眼に留まり、お買い上げとなった作です。その経緯や制作の苦心譚など、昭和4年(1929)の『光雲懐古談』に詳しく記されています。青空文庫さんで無料公開中です。


これ以外にも「鳥獣戯画」オマージュの作品、オリジナルの愛らしい柴犬や保護猫なども展示されています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

三好達治さんが来訪されたのには驚きました。どういふわけで来訪されたのかいまだに分かりません。訪問記でも書かれるのでせうか。


昭和24年(1949)5月5日 草野心平宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村にひょっこり三好がやってきたのは前月のことでした。この時の模様を三好は「高村光太郎先生訪問記」(『文芸往来』第三巻第七号)に詳しく書きました。ただ、初めからそのつもりだったわけでもないようで、こう書いています。

 妙なことをいふやうだが、もともと私は格別な用件をもつて、こんな山間に高村さんをお訪ねしたわけではなかつた。久しぶりで一寸お目にかかりたかつた、さうして暫く雑談でも承ればもう私の望みは足りるといふほどの気持であつた。

三好と光太郎、戦前から面識はあったのでしょうが、それほど親しかったわけではなさそうです。それでも三好にすれば、この時期に会っておきたいと思わせる何かが光太郎にあったのでしょう。

あくまで想像ですが、やはり戦争の問題が背後にあるのではないかと思われます。三好も光太郎同様、戦時中には多くの翼賛詩を書いていました。

若干先の話ですが、申込締め切りが近いもので……。

第2回 文(ふみ)の京(みやこ)ガイドツアー 「Bーぐる」がゆく本郷台地~須藤公園から六義園~

期 日 : 2024年9月28日(土)
会 場 : (集合)須藤公園―島薗邸―旧安田楠雄邸庭園―宮本百合子旧居跡―
      高村光太郎旧居跡―動坂遺跡―鷹匠屋敷跡―天祖神社―名主屋敷―富士神社―
      東洋文庫―六義園(解散) 全行程約2㎞
時 間 : 10:00~11:30
料 金 : 無料(六義園内庭園ガイドツアー 一般300円、各種割引等ありは自由参加)
〆 切 : 9月10日(火) 電子申請又は往復はがき
       〒112-0003 文京区春日1-16-21シビックセンター1階文京区観光インフォメーション

須藤公園を出発し、Bーぐるの路線に沿って、六義園まで区公認の観光ガイドが案内します。
※1グループ2人まで ※事前に申込フォームの「ご利用にあたってのお願い」を確認のこと
※天候等により中止の場合あり
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「「Bーぐる」って何だ?」と思って調べたところ、文京区内を循環するコミュニティバスだそうでした。「文京区(Bunkyouku)」を「ぐるぐる」で「Bーぐる」。なるほど。で、それに乗って巡るのかと思いきや、全行程徒歩だそうです。「B―ぐるの通るコースを歩く」というコンセプトだとのこと。

区公認のガイドの方が同行されて、各ポイントの説明をして下さるそうです。文京区さん、そういうシステムが整っているという時点で、素晴らしいと思います。他の市区町村さんも参考にしていただきたいところです。自分のエリア内にある文化財等に無関心な自治体の何と多いことか。

そういう意味では「自治体ガチャ」というワードが思い浮かびます。元々は国会でも取り上げられた、子育て支援等の自治体間格差を指す語ですが、文化行政などについても言えるような気がします。子育て支援等で困る場合には、隣の自治体に引っ越すとかもありでしょうが(実際、そんなこんなで人口減少に歯止めが掛からない自治体、そこからどんどん人が流入している自治体がそれぞれ自宅兼事務所近くにありまして)、建造物等の文化財はその場所から動かすことが難しいので(これも、とある件をイメージして書いています。勘の鋭い方はお判りですね(笑))。

閑話休題。今回のガイドツアー、千駄木五丁目の光太郎旧居跡も行程に含まれています。昭和20年(1945)4月の空襲で灰燼に帰したアトリエ兼住居があった場所。
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戦後しばらくは更地で、玄関にあった大谷石の石段の残骸などは残っていたそうですが、その後、月極駐車場となっていた期間が長く、さらに現在は宅地になってしまっています。当時を偲ぶよすがは文京区さんの建てた案内板のみとなってしまいました。
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ついでにいうと、この手の案内板も、文京区では充実しています。

すぐ近くにはやはり今回の行程に入っている宮本百合子旧居跡。
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それから、こちらは今回の行程には含まれていませんが、団子坂上の「青鞜社発祥の地」。
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団子坂自体も。
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「青鞜」のそれと団子坂のそれには光太郎や智恵子の名が記されています。

このあたりもやっぱり「自治体ガチャ」ですかね(笑)。

それから、光太郎や宮本百合子の旧居跡の前には旧安田楠雄邸庭園がコースに含まれています。こちらは光太郎アトリエと指呼の距離ながら空襲の被害を免れ、健在です。
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ちなみに現在放送中のNHKさんの朝ドラ「虎に翼」のロケにも使われているそうです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

頃日御尽力の県下国宝保存の運動は大に賛成でございます。一般の協力を望んで居ります。
昭和24年(1949)3月30日 森口多里宛書簡より 光太郎67歳

森口多里は美術評論家。昭和22年(1947)に開校した岩手県立工芸美術学校の初代校長を務めました。本来の業務以外にも文化財保護に尽力し、光太郎もそれに賛同していました。こういう人物がいないと文化財保存というのは弾みが付かないのでしょう。

東京藝術大学大学美術館での企画展です。

黄土水とその時代―台湾初の洋風彫刻家と20世紀初頭の東京美術学校

期 日 : 2024年9月6日(金)~10月20日(日)
会 場 : 東京藝術大学大学美術館 東京都台東区上野公園12-8
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(ただし9月16日(祝)、9月23日(振)、10月4日(振)は開館し翌日休館)
料 金 : 一般900円(800円)、高・大学生450円(350円)( )は前売り料金 

展覧会概要
 台湾出身者初の東京美術学校留学生として知られる彫刻家・黄土水(1895-1930)。東アジアの近代美術に独自の光彩を与える彫刻家として近年ますます評価を高めており、本国では2023年に代表作《甘露水》(1919)が国宝に指定されました。
 本展では、国立台湾美術館からこの《甘露水》を含む黄土水の作品10点(予定)と資料類を迎えて展示するとともに、藝大コレクションより彼が美校で学んでいた大正から昭和初期の時期を中心とした洋画や彫刻の作品48点(予定)をあわせて紹介します。
 日本の伝統的感性と近代美術との融合をめざした黄土水の師・高村光雲とその息子光太郎、《甘露水》にも通じる静かな情念をたたえた荻原守衛や北村西望の人物像、あるいは藤島武二、小絲源太郎らが手掛けた20世紀初頭の都市生活をモチーフとした絵画、台湾出身の東京美術学校卒業生の自画像作品など、バラエティに富んだ作品群を用意してお待ちしております。
 台湾随一の彫刻家・黄土水が母校に帰ってくる――その歴史的瞬間を自らの眼でお確かめください。

みどころ
1 台湾の国宝《甘露水》、日本初上陸!
 昨年国宝に指定されたばかりの黄土水の代表作《甘露水》。台湾本国では同年、国立台湾美術館にて本作を含む黄土水の大回顧展が開かれ大きな話題を集めました。早くも本年、彼の母校(東京美術学校)の後身である東京藝術大学に本作がお目見えします。彼の他の作品群とともに本作を観る絶好の機会となります。

2 黄土水の学んだ時代、日本の美術界は......?
 黄土水が東京美術学校に入学した1915年から東京で病にて夭折した1930年までの時代は日本の近代美術においても大きな激動期でした。本展ではこの時代に活躍した高村光雲、高村光太郎、平櫛田中、荻原守衛、朝倉文夫、建畠大夢といった彫刻家、あるいは藤島武二、和田英作、小絲源太郎、津田青楓、石井鶴三(彼は彫刻家でもあります)ら洋画家の作品を紹介します。台湾からやってきた青年黄土水が東京で何を学んだか。それを知ることで黄土水への理解がより深まることでしょう。

3 台湾出身の洋画家たち
 東京藝術大学大学美術館の顕著な特長として、卒業生たちの作品が遺されていることを挙げなければなりません。本展でもその利点を活かし、陳澄波や顔水龍、李梅樹といった近年評価を高めている台湾出身の近代洋画家たちの作品群約10点を紹介します。
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関連行事 シンポジウム「黄土水とその時代――日本と台湾の近代美術史をたどる」 
 期 日 : 2024年9月6日(金)
 会 場 : 東京藝術大学大学美術館地下2階 展示室2
 時 間 : 13:00~16:10
 料 金 : 無料

 黄土水という彫刻家を中心に、大正・昭和初期の日本と台湾の美術、そして東京美術学校の事歴に注目があつまるこの機会に、東京藝術大学大学美術館は、台湾の専門家と本学の教員によるシンポジウムを開催いたします。黄土水の近年の再評価がどのようになされたか、そしてそれが日・台近代美術史研究に与えたインパクトがどのようなものであったかをご紹介いただきながら、黄土水と東京美術学校の関係に注目してゆきます。

 講演1 薛燕玲(国立台湾美術館学芸員)
  「近代台湾初の彫刻家――黄土水芸術「ローカルカラー」の表現」
 講演2 岡田靖(東京藝術大学大学院美術研究科文化財保存学准教授)
  「古きモノからの学びとその保存修復、そして新たな彫刻表現へ」
 講演3 村上敬(東京藝術大学大学美術館准教授 *本展担当者)
  「解題『黄土水とその時代』」
 パネルディスカッション
  登壇者:薛燕玲、村上敬、岡田靖(モデレーター:熊澤弘)

というわけで、台湾出身で東京美術学校に留学していた彫刻家・黄土水(明治28年=1895~昭和5年=1930)をメインに据えた展示です。

黄が留学のため来日したのは大正3年(1914)、光太郎は既に母校を離れていましたが、父・光雲はまだ現役で後進の指導に当たっていました。そこで黄も当初はアカデミックな彫刻で官展系の入選を果たしていましたが、徐々に文学性を排した方向に進み、鳥獣魚介をモチーフとしたりしていく感じで、そこに光太郎や、さらに光太郎が心酔していたロダンの影響を指摘する説もあります。ただ、光太郎との直接の面識はなかったと思われ、『高村光太郎全集』にその名は現れません。

美校を卒(お)えた後の黄は、日台を行き来しながら活動し、昭和5年(1930)、池袋で亡くなっています。フライヤーに使われているのは代表作の一つ「甘露水」(大正10年=1921)。大理石です。

で、師・光雲や光太郎などの作品も展示されます。

プレスリリースによれば、光雲作品は木彫「聖徳太子像」。それから光太郎の親友・碌山荻原守衛のブロンズ「女」も。
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光太郎に関しては、プレスリリースに名はあるものの、出される作品名が明記されていません。そこで電話で問い合わせたのですが「出品目録が作られていなくて分かりません」とのこと。

同館所蔵の光太郎作品は以下の通りですが、おそらくブロンズの「獅子吼」、木彫の「紅葉と宝珠」、同じく「蓮根」あたりが出るのではないかと思われます。
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始まりましたら早い内に見に行きますので、またご紹介します。

皆様もぜひ足をお運びください。すぐ近くの東京国立博物館さんでは、常設展「総合文化展」で、光雲の「老猿」、光太郎の「鯰」と「魴鮄」も出ていますし、あわせてどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

池の端仲町にもう“酒悦”が復活したかとなつかしく存じました。味も殆ど以前と変りなく、東京の風趣を感じます。智恵子も好きだつたのでよくあの店へ買ひにいつた事を思ひ出します。


昭和24年(1949)4月21日 堀尾勉宛書簡より光太郎67歳

酒悦」は現在も続く佃煮や漬物のメーカーです。本店は上野の不忍池のほとりだったのですね。

まずは地方紙『室蘭民報』さん記事から。

近代詩文書、見事な筆遣い 故佐々木寒湖氏の書展

 だて歴史文化ミュージアムの企画展「佐々木寒湖の書展」が伊達市梅本町の同ミュージアムで行われている。市に寄贈があった近代詩文書15点の見事な筆遣いが来館者の目を引いている。9月23日まで。
 故佐々木寒湖(本名・清)氏は増毛町出身。1945年から56年まで伊達高校(現在の伊達開来高校)で教壇に立ち、市の書道文化の礎づくりに尽力した。
 今回の企画展は同氏の生誕110年に合わせて実施。初日には同ミュージアムの蝦名未来学芸員が来館者に作品の鑑賞ポイントを伝えるイベントを行った。力強い筆痕が特徴の「梅雨くらく」では「余白が少なく『怒涛(どとう)』という文字を中心に置くことで迫力を感じる」と説明した。このほか、詩人三好達治や木下杢太郎の詩を引用した作品もある。
 蝦名学芸員は「かな文字と漢字が交ざり、読みやすいのが近代詩文書。書道文化に触れて」と来館を呼びかけている。観覧無料。
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記事本文に光太郎の名がありませんが、画像の一番右の作品が光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)を書いたものです。
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展覧会詳細は以下の通り。

「佐々木寒湖の書」展

期 日 : 2024年8月10日(土)~9月23日(月・祝)
会 場 : だて歴史文化ミュージアム 北海道伊達市梅本町57番地1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 月曜が祝日の場合は、翌火曜日休館
料 金 : 無料

旧伊達高校(現伊達開来高校)で教鞭をとっていた故佐々木寒湖氏の作品を展示します。書道作品の観覧ポイントについても解説します。

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故・佐々木寒湖氏という方、記憶にある名だなと思って調べたところ、このブログで平成30年(2018)に伊達市内の別の施設で行われた同様の展覧会を紹介していました。

近代詩文の書で光太郎の詩の一節等が取り上げられる機会は少なくないのですが、書家の皆さん、書道団体の方々、お知らせいただければ出来る限り紹介いたしますのでよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

青根温泉へのお誘ひ忝く存じました。青根温泉へは小生も先年智恵子と一緒に一週間ばかり滞在したことがあります。あの正面の大きな宿でしたからたぶんその大佐藤といふ家だつたでせう。実にいい温泉だと思ひました。再遊もしたいけれどその頃にならないと都合が分りません。


昭和24年(1949)3月18日 徳江儀正宛書簡より 光太郎67歳

青根温泉は蔵王山腹の温泉地。昭和8年(1933)、心の病の昂進した智恵子の湯治のため、東北や北関東の温泉巡りをした際にここにも滞在しました。「大佐藤」は現在の湯元不忘閣さん。
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徳江は宮城在住だった人物で、光太郎に素晴らしい温泉があるので湯治に来ませんか、的な誘いをかけたのだと思われます。ただ、結局、青根再訪は実現しませんでした。

一昨日、兵庫県たつの市の霞城館・矢野勘治記念館企画展「三木露風と交流のあった人々」を拝見して参りましたが、その前後の様子を。

同館周辺が重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、古い街並みが広がっています。
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その中に三木露風の生家もありました。
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無料で内部が公開されていました。ありがたし。

造りとしては武家屋敷風。そこで邸内には甲冑やら槍やらも何気に飾られていました。
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露風肖像写真。
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露風肉筆。
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ちょっと前に話題となった、露風と宮沢賢治のつながりに関わる新聞記事。
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別棟の離れ。
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ただし、両親が離婚したため、露風がここで過ごしたのは幼少期のみだそうで。

その後に移ったという場所も意外と近くでした。
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しかし、建物は建て替わっているようで「跡」。それでも門などは昔の面影を残しているのではないかと思われました。

その他、露風がらみでは、露風も訪れたであろうという店舗。なんとこれで現役の新刊書店です。
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内部。
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その他にも、江戸から昭和戦前と思われる建造物がたくさんあり、古建築好きの当方としてはテンションアゲアゲでした。

霞城館さん近くの武家屋敷資料館さん。こちらも入場無料。
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天井が低い造作です。賊が襲ってきても刀が振りかぶれないようにしてあるわけで、防衛第一に考えられた造りです。

欄間の彫刻。素朴なものですが、かえって温かみを感じます。
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下は移転する前、山城だった頃の龍野城。

移転された龍野城。
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江戸初期には山麓に移されて平山城に。野面積みの石垣がいい感じでした。

上の画像の欄間は城下を流れる揖保川だそうで。

この地がかの高級そうめん「揖保乃糸」の発祥の地、商標名は揖保川から採ったとのことで、赤面ものですが、当方、存じませんでした。
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その他、街並みの風景。
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「なまこ壁」や「うだつ」。
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「うだつ」に煉瓦が使われているのは初めて見ました。

こんな感じで純和風でもないところがたまりません。お約束の洋館や擬洋館もあり、飽きが来ません。
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自宅兼事務所のある千葉県香取市佐原地区も同じく重要伝統的建造物群保存地区に指定されていますが、当地は商都ですのでまた雰囲気が異なり、興味深く拝見しました。

こんな街です。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生誕生日のお祝とて抹茶チヨコレートにんべんの鰹節やら珍らしいタバコ等いただいたので大によろこびました。今朝は早速お茶をたてました。池田園のお茶中々よく感謝しました。それからクールといふのをのんでみましたが、珍らしい涼しい味でうまいと思ひました。

昭和24年(1949)3月13日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

光太郎、誕生日を迎え、満66歳となりました(上記「光太郎67歳」は数え年です)。

その祝いを兼ねて贈られた品々、鰹節のにんべんさんやお茶の池田園さんは健在ですね。「クール」は「KOOL」、こちらも健在のアメリカのメンソール煙草です。そこで「涼しい味」。日本で正式に販売が始まったのは昭和35年(1960)頃ですが、進駐軍の関係で入手できたのでしょうか。

昨日は日帰りで兵庫県たつの市に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

そもそもは、同市の霞城館さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」に、光太郎から三木露風宛の書簡が出ているという情報を得たためで、そちらの拝見がメインでした。同市は露風の故郷です。

千葉の自宅兼事務所から同市までどう行くか。初め、自宅兼事務所から車で1時間弱の茨城空港から神戸に飛んで……と考えました。一昨年、神戸市に行った際にはそうしましたので。ところが、その折は早めに航空券を予約したので安かったのですが、今回、間際になって行くことを決めたため、それだと馬鹿高い料金。その上、神戸空港からたつの市までのアクセスも調べてみると意外と不便でした。乗りかえ、乗りかえで2時間弱。そこで千葉から鉄道で行くことにしました。

最寄り駅から4:50の始発に乗り、9:45に山陽新幹線の姫路駅に到着。同駅から見えた世界遺産姫路城。
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ここからJR姫新線に乗り、本竜野駅まで。露風の故郷とあって、いきなりホームに「赤とんぼ」像。「駅のホームに作るか、すごいな」でした。
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同様の像は駅前にもありましたし、ちょっと歩くと側溝の蓋が赤とんぼデザインになっている場所も。愛されていますね(笑)。
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炎天下を1㌔ほど歩き、霞城館・矢野勘治記念館さんに到着(途中、寄り道もしたのですが、そのあたりは明日)。
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拝観料200円(安!)を払って、早速、拝見。
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撮影禁止という表示が見あたりませんでしたので、撮らせていただきました。こんな感じで、各界から露風宛の絵葉書が並んでいます。

光太郎からのもの。『高村光太郎全集』には洩れているものです。
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歌人の西村陽吉との連名です。
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まずその点が意外でした。西村は光太郎も寄稿したり表紙画を描いたり装幀したりした雑誌『朱欒』や『創作』等の版元、東雲堂の養子に入った人物なので、光太郎と交流があったことは推測されますが、『高村光太郎全集』にはその名が出て来ません。一緒に旅をする程の仲だったのか、と、意外でした。

また、旅先が埼玉の山間部、飯能や名栗。日付が大正4年(1915)7月19日となっています。この時期に光太郎が埼玉に行っていたというのもこれまでの年譜に記されていませんし、光太郎、埼玉は普段通過するばかりで、目的地だったことは他に一度もありません(まぁ、別に埼玉を忌避していたわけでもなく、特に用事がなかったということなのでしょうが)。そこにきて埼玉の地名が出てきたので実に意外でした。

一瞬、大正でなく昭和4年(1929)かな、と思いました。この年にはお隣の群馬県の温泉地をほうぼう歩いていましたし。また、貼られている一銭五厘の切手は、大正4年(1915)でも昭和4年(1929)でも共通ですので(細かく見れば違うらしいのですが、ぱっと見の判断は当方には出来ません)。しかし、絵葉書の様式(差出面の通信欄の面積)を見れば大まかな時期が判別でき、昭和4年ではありえません。

光太郎からのものはこの一通のみでしたが、他の人物からのものがずらり。やはりメインは「赤とんぼ」などで黄金コンビを組んだ山田耕筰からの来翰でしたが。
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北原白秋やら坂本繁二郎やら、その他、窪田空穂、小山内薫、前田夕暮、石井漠、堀口大学などなど、かなり光太郎の人脈ともかぶっています。
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展示されているのがすべて大正期の絵葉書です。露風が送られてきた絵葉書だけを貼り付けたアルバムを作っていたためです。この頃はまだ絵葉書というのがある意味珍しかったというのもあったでしょうし、それらを集めておいて見返し、自分もその土地に行った気分を味わっていたのかも知れません。「なるほどね」という感じでした。

他の展示も見学。露風のコーナーではやはり「赤とんぼ」。
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光太郎装幀の露風詩集『廃園』重版もありました。
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さらに同じ敷地内には矢野勘治記念館さん。矢野は正岡子規に師事した人物で、本業は実業家でしたが、旧制一高の寮歌「嗚呼(ああ)玉杯に花うけて」を作詞したことで有名です。

周辺には露風の生家や、露風が買い物をしたであろう店などが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定された古い街並みが広がっています。そのあたりは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

いまパウロの事をまざまざとおもひ、考へてまことにつよい反省に心が裸にされたやうに感じて居ります。小生は美の使徒として生きてをりますがパウロに向ふと甚だまぶしくて殆ど直視できない程に感じます。


昭和24年(1949)3月6日 田口弘宛書簡より 光太郎67歳

故・田口弘氏は埼玉県東松山市の教育長を永らく務められました。戦時中から光太郎と交流があり、光太郎はこの時には敬虔なクリスチャンだった氏に、子息の誕生祝いとして聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」を揮毫して贈りました。その送り状の一節です。
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この書、当方は氏のご生前に埼玉のご自宅で拝見、令和3年(2021)に富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際には「ぜひともこれもラインナップに入れて下さい」とお願いして展示していただきました。現在、精密複製が埼玉県東松山市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」に展示されています。

光太郎自身は洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、自らを「美の使徒」と位置づけていたというのは興味深いところです。

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