カテゴリ: 東北以外

2月も下旬となりましたので、そろそろ3月のイベントも少しずつご紹介していきます。

本日は、新潟県から講演会情報。

講演会「八一と高村光太郎」

期 日 : 2025年3月2日(日)
会 場 : 新潟日報メディアシップ2F 日報ホール 新潟市中央区万代3丁目1-1
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 500円(入館料込み)

 會津八一記念館では、開催中の企画展「八一を知る 八一がわかるー独往の書の秘密ー」の関連イベントとして、文芸講演会と篆刻体験講座を開催いたします。
 3月2日の講演会は、岐阜女子大学教授の住川英明先生から、自詠の歌を書で表現した八一のかな書を中心に、八一と同時代の彫刻家・詩人の高村光太郎の書を比較しながら、文学者の書の魅力に迫ります。
 3月8日の篆刻講座は、新潟県内の高校の書道担当教諭を講師に、参加者から自分の名前の1文字を実際に石に彫ってもらう体験講座です。
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講師の住川教授、ご自身も書家であらせられ、光太郎の書にも深い関心をお持ちで、光太郎の大幅をお持ちです。連翹忌の集いにも複数回ご参加下さいましたし、令和3年(2021)に当会として協力させていただいた富山県水墨美術館さんでの「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の図録に「光太郎書とその変遷」という玉稿を賜りました。その際には鳥取大学さんにお務めでしたが、今回は肩書きが「岐阜女子大学教授」。転勤なさっていたとは存じませんでした。

新潟市會津八一記念館さんで開催中の企画展「八一を知る・八一がわかる 独往の書の秘密」の関連行事という位置づけです。企画展自体は昨年12月から始まっています。
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006光太郎と2歳年長の八一、深い結びつきはなかったようですが、光太郎は八一から自著歌集『鹿鳴集』(昭和15年=1940)を贈られたりといった繋がりはありました。また、八一に師事した吉野秀雄と光太郎はけっこう深い交流がありました。

八一は短歌、光太郎は彫刻と、それぞれに本業を持ちながら「書」の世界にも爪痕を残した同時代の二人ということで、會津八一記念館さんでは平成19年(2007)に「會津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」と題した企画展も開催して下さいました。その際の関連行事の講演は、当会顧問であらせられた北川太一先生。新潟まで馳せ参じて聴講いたしました。もう20年近く経つか、という感じです。

さて、講演会「八一と高村光太郎」、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

リプトン茶などよく入手出来るものと驚きます。しかも青紙のリプトンは珍重です。パルモリーヴのシヤンプウなど思ひがけない限りでした。国旗まで在中、おかげで此の正月には原稿紙の国旗を出さずにすみます。

昭和26年(1951)12月19日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

お歳暮的にいろいろな品を送ってもらった礼状の一節です。リプトンは言わずと知れた紅茶のブランド。「青紙」は高いグレードの品だったのでしょうか。パーモリーブのシャンプーも現在でも売られています。ほぼ禿頭となっていた光太郎には必要なかったようにも思われますが(笑)。

「原稿紙の国旗」は前年に発表された詩「この年」に関わるでしょう。

   この年医は①
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。

原稿用紙の日の丸自体は、遡って昭和22年(1947)から使っていましたが、それではあんまりだということで、椛沢がちゃんとした布の旗を贈ったのでしょう。

当会として最大のイベント、高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、忌日である4月2日(水)、下記の通り実行いたします。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

                                     

日 時  令和7年4月2日(水) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線・京浜東北線 有楽町駅 日比谷口
     地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅 A14 出口
     地下鉄日比谷線・丸ノ内線 霞ヶ関駅 B2 / B1A / B3A 出口
松本楼地図
会 費  12,000円(含食事代金)

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(土)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替 郵便局備え付けの同封の払込取扱票にて郵便局よりお願いいたします。
       ATM、窓口にて取り扱い可能です。
       申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。

       ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

 ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(日)までにご連絡頂ければ、
 後日、返金いたします。

 参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
 事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

 複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
 参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

配布物について
 会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
 4月1日(火) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
 残部は欠席の方等にお送りいたします。
 公序良俗に反するものでなければ特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
 当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
 書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

 当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いをお願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。当方、午後3時頃には会場入りしております。

当日備考
    着座ビュッフェ形式にて執り行います。ドレスコードは特に設けておりません。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子にインスパイアされた美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

小屋のまはりはもう一尺ほどつもつた雪で美しい冬景色になり、毎朝小鳥が訪れて来ます。

昭和26年(1951)11月30日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で過ごす最後の冬が始まりました。

現代アートの個展、始まってしまっていますが、会期が長いのでご寛恕の程。
期 日 : 2025年2月1日(土)~3月29日(土)
会 場 : MAKI Gallery天王洲 東京都品川区東品川1-33-10 
時 間 : 11:30~19:00
休 館 : 日曜・月曜
料 金 : 無料

MAKI Galleryではこのたび、日本人アーティスト清川あさみによる個展「神話の糸」を天王洲ギャラリースペースにて開催いたします。本展は2024年夏に鹿児島県・霧島アートの森にて開催された清川の特別企画展「ミスティック・ウィーヴ:神話を縫う」を引き継ぎながら、過去から未来へと続く人類の物語を自然と都市、伝統とテクノロジーの交差点で紡ぎ直す試みとなります。

清川のアーティストとしての活動は、個人の内面や感情を描いた初期の作品から、社会全体や地球規模のテーマを扱う現在の作品へと大きな変化を遂げてきました。しかし、その根底にある「人間の本質に問いを投げかける」という姿勢は一貫しています。自然と都市、伝統とテクノロジー、個人と社会といったテーマに対して、これまでにない視点で考えるきっかけを生み出したいと強く願う清川。そんな作家が神話の世界に鑑賞者を誘い、新たな時代の価値観をともに探ろうとする本展を、どうぞ会場にてご高覧ください。
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平成29年(2017)に智恵子の故郷・福島二本松の智恵子の生家も会場となった現代アートの「重陽の芸術祭2017」で展示された、巨大な刺繍作品「女である故に」がこちらでも展示されています。
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平成29年(2017)、智恵子生家での展示風景はこちら。
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タイトルの「女である故に」は、大正5年(1916)5月、『婦人週報』に掲載された智恵子のアンケート回答が出典です。アンケートの質問は「女なる事を感謝する点」。

 私に恋愛生活(現在)のが始まつてから、始めてさういふ感じを意識しました。これは一つの覚醒です。其の他(た)にはまだ私には経験がありません。「女である故に」といふことは、私の魂には係りがありません。女なることを思ふよりは、生活の原動はもつと根源にあつて、女といふことを私は常に忘れてゐます。

光太郎との結婚披露が終わって1年半ほどの時期のものです。

この時期、智恵子が本当にそう考えていたのか、あるいは「こうあるべき」と自分に言い聞かせていたのか、後の大いなる悲劇に思いを馳せると、何とも難しいところです。

さて、「Mythic Threads:神話の糸」、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

宮崎さんの件については小生不賛成なのですが、まづ黙認することにして、中央公論社が出すならば当然「選集」出版済の後であるべきでせう。御考を願ひます。書名も「愛情の手紙」などは低能です。


昭和26年(1951)11月17日 松下英麿宛書簡より 光太郎69歳

松下は中央公論社の編集者。「宮崎さんの件」は、宮崎の編集による光太郎書簡集『みちのくの手紙』(昭和28年=1953)に関わります。

宮崎は昭和22年(1947)の光太郎歌集『白斧』にしてもそうですが、光太郎が拒否したにもかかわらず、光太郎文筆作品集の出版を強行することがありました。

宮崎は智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚し、光太郎とは姻戚ですし、経済的に豊かでないことをわかっている光太郎、あまり強いことは言えませんでした。
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昨日、都内で『東京新聞』さんの取材を受けました。光太郎終焉の地にして第一回連翹忌の会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ保存関係です。そちらが午後だったので、午前中は都内を通り越し、北鎌倉へ。光太郎実妹の令孫夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんで始まった「高村光太郎と尾崎喜八」展を拝見して参りました。

尾崎喜八は光太郎より9歳年少の詩人。光太郎と家族ぐるみの交流がありました。その喜八を偲ぶ「臘梅忌」が本日、喜八の墓のある明月院さん、それからその裏手の笛さんで関係者の方々がお集まりになってこぢんまりと執り行われるのですが、今日は他用のため参列できませんで、昨日のうちにご挨拶かたがた参上した次第です。

まずは明月院さんで墓参。
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中高生と思われるグループが多数。修学旅行か校外学習かというところでしょうが、春や秋でなくてもそうなんだ、という感じでした。

本堂裏手、尾崎家のそれを含む墓所は、通常、一般人の立ち入り不可ですが、喜八令孫の石黒敦彦氏の御名を出して参拝させていただきました。
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こういう場合の常ですが、光太郎の代参のつもりで手を合わせました。
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喜八、妻の實子(光太郎親友の水野葉舟の娘)、そして二人の息女にして、当方もお話を伺ったことのある榮子さん(駒込林町の光太郎アトリエで、智恵子にだっこしてもらったことがおありだそうでした)。

明月院さんを出て、さらに坂を上っていくと、笛さん。
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毎年秋にも光太郎と喜八に関わる展示をなさっているのですが、今回は近くにお住まいの石黒氏が、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が光太郎と喜八の関わりについて書かれた玉稿をまとめた書籍『高村光太郎と尾崎喜八』を刊行なさるということで、その記念のイレギュラー開催です。
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ゲラが展示されていて、拝見。
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完成が楽しみです。

他の展示。

まずは喜八夫妻の結婚祝いに光太郎が贈ったブロンズの「聖母子像」(大正13年=1924)。ミケランジェロの同名作品の模刻ですが、一点物です。
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おそらく出版された書籍類には載っていない古写真。

光太郎実妹・しづ(静子)の子息にして、笛の奥さま・加寿子さんのお父さまの結婚式。昭和18年(1943)だそうです。
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光太郎や、光太郎に代わって髙村家を嗣いだ実弟の豊周も。
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左下は少年時代の光太郎、すぐ下の道利・しづの双子、豊周。
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右上は晩年のしづ、それから幼少期の笛の奥さま。

その他、光太郎と喜八らの写った写真など。
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戦前の一時、尾崎夫妻は杉並に居住していましたが、そのすぐ近くに住んでいて、光太郎や夫妻と交流のあった江戸狄嶺関連も。
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光太郎が江渡のために設計し、江渡が拓いた農場に建てられた霊堂「可愛御堂」。
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なかなかに充実した展示でした。

当方がお邪魔した際にはご主人しかいらっしゃらず、美味なる珈琲をいただいて、「それでは」と、店を後にして北鎌倉駅をめざして坂を下りていると、奥さまが坂を上って来られました。そこでしばし立ち話。さらに奥さまと別れて1分後には、やはり坂を上られる石黒氏と遭遇。笑ってしまいました。4月の連翹忌にはまたお三方とお会い出来そうです。

さて、笛さんでの展示、3月4日(火)までの火・金・土・日曜(今日と2月22日(土)を除く)、11時~16時です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おてがみなつかしくよみました。その後の御消息が分つてよろこびました。小生にもいろいろの事がありましたが結局大変自分の気持にあつた生活の出来るやうになりました。ここで仕事したいと思つてゐます。東京ではとても出来ないやうないい毎日の生活を送ることが出来て感謝してゐます。


昭和26年(1951)9月7日 吉野登美子宛書簡より 光太郎69歳

吉野登美子は元・八木重吉夫人。八木重吉は光太郎より15歳年下の詩人。昭和2年(1927)に結核のため、早世しました。その遺稿を未亡人・登美子が戦時中も守り続け、昭和17年(1942)は光太郎や八木と親しかった草野心平らの尽力で『八木重吉詩集』が刊行されました。光太郎はその序文や題字を揮毫したりしました。

登美子は戦後、やはり光太郎と交流があって、妻に先立たれていた鎌倉在住の歌人の吉野秀雄と再婚。この書簡も鎌倉に送られました。

明日、明後日と大阪府吹田市で公演が行われる「吹田市民劇場 SHOW劇場 番外編vol.2 a次元のふたり」について、『毎日新聞』さんが予告を出しました。

光太郎と智恵子 悩み、寄り添う夫婦の物語 「a次元のふたり」

 詩人・彫刻家として知られる高村光太郎(1883~1956年)と、洋画家として活動した長沼智恵子(1886~1938年)。2人の出会いから夫婦としての日々までを描く舞台「a次元のふたり」が、8、9日、大阪府吹田市のメイシアター小ホールで上演される。
 関西の演劇人と同シアターが作る「SHOW劇場」シリーズの新作。高橋恵さんの作、上田一軒さんの演出で、光太郎を竹内宏樹さん、智恵子を佐々木ヤス子さんが演じる。芸術家としての理想と、意のままにならない身体や生活。その間で悩み、寄り添う夫婦の物語を2人芝居に仕立てた。
 「表現者としての野心と、思うようにいかない挫折感。若き日の2人には共感する部分が多い」。高橋さんはそう述べた上で「理想と現実のギャップを身体をキーワードとして描いた」と作劇の狙いを語る。
 上田さんは「光太郎も智恵子も、過剰とも言えるほどの理想を抱いていた。そんな2人の精神性も丁寧に浮かび上がらせたい。2人の葛藤や精神的なつながりが、言葉だけでなく身体的にも伝わる舞台になれば」と意気込む。
 8日午後3時と、9日午前11時・午後3時の3回公演。2000円。問い合わせは、メイシアター(06・6386・6333)
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予告記事が出るということは、それだけ注目されているようで嬉しく存じますし、記事を見て「行ってみよう」と思う読者の方もいらっしゃるでしょうから、しめしめです(笑)。

この手の演劇で、光太郎智恵子の世界を取り上げて下さる方がぽつぽついらっしゃるのは非常に有り難いことです。ところが、何年も前から「智恵子抄やります!」と大騒ぎしておいて、しかし一向に具体化せず、SNS等読むと頓珍漢な記述ばかり、さらに「私が」「私が」の連発で気味の悪い自撮り写真をずらり(しかし結局「私は誰々の弟子で」と七光り。自分が空っぽな人間の「あるある」ですね)、結局スタッフとぶつかって公演中止、そういう事態を恥じるでもなく中止した後もスタッフや他のキャストにぐだぐだ文句の連発を公開、そんな輩も居ます。

中止の前に「協力して下さい」と言うので「いいですよ」と返答したところ、中止したという連絡も無し。また「智恵子抄をやります」とか騒いでいますが、はたして上演までたどり着けるのかどうか……。最近では自分の過去の醜態は棚に上げて「役者とは」などと実にえらそーにのたまっていまして、ちゃんちゃらおかしいったらありません。こういう手合いには光太郎智恵子の世界に手を付けないで欲しいところです。たとえ上演となっても、このサイトでは紹介しませんのでよろしく。

閑話休題、「a次元のふたり」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

コタツは炭酸ガスの害が意外にひどいやうなので木炭でなく電気コンロを使ふことにきめました。

昭和26年(1951)9月5日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎69歳

澤田の龍星閣が費用を負担して出来た小屋の増築部分。床に掘り炬燵用の炉が切ってありましたが、炭では一酸化炭素中毒の危険性があるということで、電気コンロを使っていました。元の小屋は隙間だらけでその心配はありませんでしたが、新小屋は意外と密閉性が高かったようです。

翌月に小屋を訪ねた佐久間晟・すゑ子夫妻の証言によると、ニクロム線を使ったなつかしい(笑)下記のようなタイプのものだったそうです。
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テレビの地方局で流されたローカルニュースを2件。

まずはNHK広島局さん。呉市立美術館さんで昨年12月から開催されている「コレクション展III いのちを彫る 時を刻む 呉美の彫刻コレクション」に関して。

呉市立美術館で彫刻作品展 高村光太郎の「手」も

 近代から現代にかけて日本や西洋で作られた彫刻作品を集めた展示会が、呉市の美術館で開かれています。
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 呉市立美術館で開かれている展示会には、大正時代から現代にかけて日本やフランスなどで作られたあわせて50点の彫刻作品が展示されています。
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 このうち、大正から昭和にかけて活躍した詩人で彫刻家の高村光太郎の代表作の一つ「手」は、自らの手をモデルにしていて骨の形や皮膚のたるみまで写実的に表されているのが特徴だということです。
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 また、呉市出身の彫刻家、上田直次の「愛に生きる」という作品は、やぎの親子をモチーフにしたもので、大きなくすのきをノミで大胆に削って作っています。
 呉市立美術館の学芸員、渡辺千尋さんは「今回の展示は彫刻作品なので、絵画とは違って360度、いろいろな角度から展示を楽しめます。ぜひ会場に来ていただき、さまざまな視点から作品を観察して、それぞれのおもしろさを見つけてもらいたいです」と話していました。
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 この展示会は、2月11日まで開かれています。
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もう1件、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ライトアップも為されている「十和田湖冬物語2025」について、RAB青森放送さん、2月1日(土)の放映。残念ながら「乙女の像」には触れられませんでしたが。

「もう忘れられないです」十和田湖冬物語が開幕 冬空を彩る大輪の花火 雪の滑り台やスノーモービルで引く雪上バナナボート かまくらバーも人気

 冬の十和田湖を楽しむことができる「十和田湖冬物語」がきのう開幕しました。
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 十和田湖冬物語は十和田湖畔休屋地区できのう開幕しました。
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 会場にはスノーパークが設けられ、雪の滑り台やスノーモービルで引く雪上バナナボートを楽しむことができます。

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 また青森と秋田の食を楽しめる雪あかり横丁や、氷のグラスでカクテルなどが飲めるかまくらバーも人気です。
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 訪れた人たちのお目当ては午後8時からの冬花火。
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 音楽に合わせて200発の花火が打ち上がります。
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★訪れた人
「カラフルでドカンとなってクライマックスのときにしゅっていろいろなったのがおもしろかったです」
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「東京ではこんな風になかなか見られないのでしかも雪と一緒に見ることがないのでうれしかったです 
もう忘れられないです」
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 十和田湖冬物語は今月24日まで、火曜日と水曜日を除く毎日開かれます。
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それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「トリモンA」三箱サントニン錠一箱、石鹸などいただき、感謝しました、早速服用いたしました。神経痛はどうしても退治してしまはねばなりません。今後の彫刻製作の邪魔になりますから。


昭和26年(1951)8月9日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

翌年秋は再上京し、「乙女の像」制作を始めますが、この時点ではまったく具体的な計画は立っていません。それでも何らかの彫刻制作を再開する構想はずっと持ち続けていました。

「トリモンA」はホルモン剤、「サントニン」は虫下しの薬。「虫下し」と言っても、若い人達には通じないでしょうね(笑)。
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「あじさい寺」として有名な北鎌倉明月院さん裏手(徒歩365歩)にあるカフェ兼ギャラリー笛さん。光太郎実妹・しづ(静子)令孫ご夫妻が営まれています。

毎年秋に、お近くにご在住の石黒敦彦氏(光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八令孫)と共に、両家に伝わる光太郎・喜八関連の品々を展示する「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情」を開催なさっています。昨年の様子はこちら

同様の展示を今年はこの時期にも開催。先週土曜から始まっているそうです。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 

期 日 : 2025年1月31日(金)~3月4日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

4月に発行される北川太一著「高村光太郎と尾崎喜八」を記念して100年のメモリアルを両家の孫の世代所有の資料で構成して展示
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石黒氏が編集なさり、当会顧問であらせられた北川太一先生が光太郎と喜八の関わりについて書かれた玉稿等を集めた『高村光太郎と尾崎喜八』という書籍が刊行されるとのことで、それを記念しての開催だそうです。「100年のメモリアル」というのは、北川先生がご存命であれば今年3月28日で満100歳になられるはずだったことに因みます。

展示風景、笛さんオーナー山端氏のフェイスブックからお借りしました。
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光太郎が尾崎夫妻の結婚祝いに贈ったブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)も展示されています。ミケランジェロの模刻で、他に鋳造されたことが確認出来ていない一点物です。ちなみに喜八の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の息女で、光太郎は我が子のようにかわいがっていました。

時間を見つけて行って参ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

赤城写生帖といふやうなもの、まるで忘れても居ましたし、思ひ出さうとしても思い出せません。しかし、小生のものらしく、それがどうして貴下のところにあるのか実に不思議に堪へません。卅七年といへば日露戦当時、小生が美術学校に居た頃と思ひますが、そんなものが出て来ると怖いやうな気がします。

昭和26年(1951)7月14日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

「赤城写生帖」は、明治37年(1904)、数え22歳で美校研究科在学中の光太郎が葉舟と共に滞在していた上州赤城山で描いたスケッチ帖です。原本は葉舟が保管、詩人の西山の手に渡りましたが、その後の行方が不明です。

光太郎没後の昭和31年(1956)、『智恵子抄』版元の龍星閣から猪谷六合雄解説で『赤城画帖』として刊行されました。猪谷は日本スキー界の草分けですが、光太郎等が宿泊した赤城の猪谷旅館の子息でした。
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1月19日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版の連載「美の粋」で取り上げられました光太郎の親友であった碌山荻原守衛に関して、続編が1月26日(日)に出ました。前回もそうでしたが、見開き2ページの長い記事ですので、光太郎の名が出る部分のみ。

新宿に吹いたパリの風「中村屋サロン」群像(中) 命を凝縮した彫刻 受け継がれる思想 荻原守衛(碌山)「女」

002突然の「絶作」刻まれた理想
 主を失った部屋にその「女」(1910年)は一人残されていた。この像を制作した年の4月20日、荻原守衛(碌山)は新宿中村屋で血を吐いた。そして、その2日後、30歳で逝った。あまりに唐突な死だった。
 地面にひざまずき、手を後ろ手に組み、体をねじり上げるようにして上空を見る女性像。まるで捕虜になったかのようにも、見えない何かにとらわれているようにも見える。実際にやってみれば分かるが、かなり苦しい体勢だ。しかし、その表情には何かを悟ったかのような高貴さがある。
 モデルを務めたのは岡田みどりという女性だった。しかし、その顔は中村屋の経営者で、相馬愛蔵の妻、黒光によく似ている。黒光自身も残された像を見て、碌山が誰を思って制作したのか、悟らざるを得なかったようだ。「単なる土の作品ではなく、私自身だと直覚されるものがありました」(相馬黒光「黙移」)
 この作品に賭ける思いは強かった。友人の高村光太郎がアトリエを訪れた際に碌山は、完成間近の「女」を「やはり、どうにも気に入らない」と破壊しようとした。高村は慌てて、それを止めたという。また、別の友人、戸張孤雁は部屋の中で、薄着で震えている碌山の姿を目撃している。服は、制作中の「女」にかけてあった。
 確かに「女」は黒光への思いから生まれたものではあったのだろう。碌山美術館の武井敏学芸員は「『女』の姿は、士族の家に生まれながら貧しさにも苦しみ、夫、愛蔵の愛人問題など人生の苦難を乗り越えてきた黒光の姿に重なる」と話す。
 一方で、作品は一個人への恋慕の情にとどまらない精神性も感じさせる。黒光は進んで学び、芸術への理解もある教養の高い女性だった。「良妻賢母という旧習にとらわれることなく、自由な生き方を求めたこの時代の女性たちの姿が投影されている」(武井学芸員)ようにも見える。碌山が表現したかったのは黒光に代表される、この時代における総体としての「女」そのものだったのではないだろうか。
 碌山の愛は、届くことはなかった。黒光は苦しみながらも愛蔵を許し、その後も子供をもうけた。碌山の悩みは深かった。高村ら友人に送った手紙に胸の内を明かしている。「日暮れて谷間をさまよう旅人の如く。頭が病んでいる」「惨めだ。僕は失ってしまった。いやまだ失っていないが」。「文覚」(1908年)や「デスペア」(1909年)では、黒光への恋心から生まれた苦しみや絶望を作品に込めた。
 しかし、「女」の表情は負の感情を感じさせるどころか、どこか晴れやかですらある。そこには、碌山自身の心境の変化も表れているようにみえる。武井学芸員は「苦境を受け入れ、これからは高みを目指していこうという前向きな意志も感じさせる」と指摘する。だとすれば、次に碌山はどんな作品を生み出したのだろうか。残念ながら、それを確かめる術はない。
 碌山自身ももちろん、これが絶作になるとは知るよしもない。しかし、不思議なことに「女」を見るうちどこかでこれが最後の作品になることを知っていたのではないかと思えてくる。内面から輝くような生命の美を彫刻に求めた碌山の理想が全て刻み込まれた、まさに集大成の出来栄えだ。
 碌山の彫刻家としてのキャリアはパリ時代を含めても4年ほどにすぎない。帰国後に限ればたった2年だ。恐るべき才能であったといえる。そのあふれるほどの才能は黒光と再会することで、苦しみとともにではあったが発露を見た。「女」には碌山の命そのものが凝縮されている。
 「女」はその年の10月、碌山の兄から委託され、東京美術学校鋳金科に在学中の山本安曇が鋳造した。文展にも出品されたが、結局、3等に終わった。真の価値が認められるまでには、半世紀の時を要した。67年「女」の石こう型は、日本の近代彫刻で初めての重要文化財に指定された。
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前回メインで取り上げられた守衛の「坑夫」同様、「女」も光太郎が救ったという話。数年前に知ったのですが、光太郎、グッジョブでした。

引用部分最後に、山本安曇による「女」鋳造の件に触れられていますが、この際には光太郎実弟にしてのちに家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ豊周も参加しています。

右画像は豊周著『自画像』(昭和43年=1968 中央公論美術出版)から。

引用部分は見開き2ページの片側部分で、このあと引用しなかった後半部分が続きます。そちらでは守衛没後の柳敬助、戸張孤雁、中原悌二郎らに触れられています。

2週で「上・下」かな、と思ったのですが、3週で「上・中・下」のようです。すると2月2日(日)掲載分の「下」では、「上」「中」でほとんど触れられなかった中村彝あたりがメインになると思われます。

ちなみに新宿の中村サロン美術館さんでは、現在、「コレクション展示 中村屋サロン」が開催されています。「坑夫」「女」も出ていますし、わりとよく出品されるのでその都度ご紹介はしていませんが、光太郎の油彩画「自画像」(大正2年=1913)も出ています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お説の通り、此の小屋の湿気が神経痛にも大いに関係ある事萬々承知の上、如何ともし難き事情の下に、この五年間水牢に起居するつもりで過ごして居た次第であります。しかしこんな事は何でもありません。


昭和26年(1951)7月14日 照井欣平太宛書簡より 光太郎69歳

「水牢」は江戸時代、主に年貢未納者を水浸しにした牢に閉じこめた刑罰、またはその牢です。

翌年、光太郎再帰京後に国安芳雄と行った対談「心境を語る」では、次の記述があります。

山だから湿気がひどくて、ふとんなんかべとべとになつてしまう。その中に寝ているのだから、まるで水にくるまつているようなものだ。これは悪いことをしたから水牢に入っているのだと思つて、そんなら我慢できると思つた。水牢よりはまだいいような気がした。想像では、解らないもの凄い生活だつた。自分が寝ていると息がふとんにかかつて氷になるんです。

布団が凍るというのは、一年で最も寒い今の時期あたりだったでしょうか。今日はその山小屋に行って参ります。

まず岡山県から演劇公演の情報です。

地方紙『山陽新聞』さん記事。

没後30年 永瀬清子の生涯たどる 2月9日 岡山・ハレノワで朗読劇

 現代詩の母と称される赤磐市出身の詩人永瀬清子(1906~95年)の没後30年に合わせ、朗読劇「永瀬清子物語VIII ラビリンスの旅人」が2月9日、岡山芸術創造劇場ハレノワ(岡山市北区表町)で上演される。 朗読グループ「白萩(はくしゅう)の会」が、永瀬の詩を交えながらその生涯をたどる。
  同会は永瀬と同郷で長年交流のあった竹入光子さん(78)=赤磐市=が約20年前に発足させ、12人が所属する。古里で農業をしながら詩を書き続けた永瀬の生きざまと作品の魅力を伝えようと、2011年に「永瀬清子物語I」を上演し、今回で8作目。 タイトルは<人の一生はラビリンス(迷路)の旅人のようなものだ>という永瀬の文章の一節から着想。結婚出産、高村光太郎らとの交流や宮沢賢治の詩との出合い、帰郷して農業を始めたことなど、メンバーが永瀬の詩を朗読しながら人生の転機となったさまざまな場面を演じる。
  「母として女性として人として、地に足を着けた力強い詩を書き続けた。岡山に素晴らしい詩人がいたことを多くの人に知ってほしい」と永瀬役の伊島久美さん(64)=岡山市北区。脚本と演出を務める竹入さんは「永瀬の詩には老若男女、誰の心にも響くものがある。物語を通してその詩が生まれた背景を表現したい」と話す。
 午前11時、午後3時開演。入場料2千円。岡山芸術創造劇場ボックスオフィス(086―201―2200)。
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公演の詳細。

朗読劇・永瀬清子物語Ⅷ「ラビリンスの旅人」

期 日 : 2025年2月9日(日)
会 場 : 岡山芸術創造劇場ハレノワ 岡山市北区表町3丁目11-50
時 間 : 午前の部 11:00開演/午後の部 15:00開演
料 金 : 全席自由 2,000円

“現代詩の母”郷土岡山の詩人・永瀬清子没後30周年記念公演

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女流詩人の草分けの一人にして、光太郎や当会の祖・草野心平らと交流を持った永瀬清子。光太郎、心平らと共に、かの宮沢賢治作『雨ニモマケズ』が「発見」されたという昭和9年(1934)に新宿モナミで開かれた賢治追悼の会にも居合わせ、詳細な回想を残しています。

その永瀬の忌日・紅梅忌が2月17日(月)でして、それに合わせての公演でしょう。イベントとしての紅梅忌は前日・2月16日(日)に赤磐市の永瀬の生家で執り行われます。
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ところで、演劇でもう1件。

2月11日(火・祝)に岩手県花巻市の花巻市文化会館で開催される「第67回元祖花巻わんこそば全日本大会」で、賢治や光太郎も登場する寸劇が行われるそうです。

フェイスブックでそうした書き込みを見つけ、問い合わせたところ「同じ会場内でホールは違いますがm(_ _)m13:40〜からゲリラ的に始まります」とのこと。ゲリラライブなのでネット上には公式な予告が出ていませんが、ご紹介しておきます。
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花巻といえば、また明日・明後日と花巻に行って参ります。例によって大沢温泉さんで雪見風呂としゃれこんで参ります。

【折々のことば・光太郎】

お問合の浮彫三尊仏は小生の作ではないやうに推定いたされます。小生これまで落款は縦に一行に入れてゐました。お示しのやうに枠内に二行に入れた事は記憶にございません。


昭和26年(1951)7月5日 神部健之助宛書簡より 光太郎69歳

光太郎生前から既に贋作が出廻っていたのですね。

大阪府から演劇の公演情報です。

吹田市民劇場 SHOW劇場 番外編vol.2 a次元のふたり

期 日 : 2025年2月8日(土)・2月9日(日)
会 場 : 吹田市民劇場 大阪府吹田市泉町2-29-1
時 間 : 2/8 15:00~ 2/9 11:00~/15:00~
料 金 : 全席自由 2,000円

作 : 高橋恵 演出 : 上田一軒 出演 : 佐々木ヤス子/竹内宏樹

芸術家としての葛藤と夫婦の愛の物語
高村光太郎は意のままにならない肺に振り回されていた。長沼智恵子は意のままにならない自らの右手に苛立っていた。ある日智恵子は「太陽が緑色でもかまわない」という評論を目にし、作者に会おうとする。乱れた呼吸に喘ぎながら光太郎はその日アトリエで智恵子と出会う。
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タイトル中の「a次元」は、光太郎詩「智恵子と遊ぶ」(昭和26年=1951)由来。

  智恵子と遊ぶ

 智恵子の所在はa次元。
 a次元こそ絶対現実。

 岩手の山に智恵子と遊ぶ007
 夢幻(ゆめまぼろし)の生の真実。

 フレンチ平原に茸は生えても
 智恵子の遊びに変りはない。

 二合の飯は今日のままごと。
 牛のしつぽに韮を刻む。

 強敵糠蚊(ぬかが)とたたかひながら
 三畝の畑にいのちを託す。

 あばら骨に錐は刺され
 肺気腫噴射のとめどない咳。

 造型は自然の中軸。
 この世存在のシネ クワ ノン。

 一切は智恵子a次元の逍遙遊。
 遊ぶ時人はわづかに卑しくなくなる。

a次元」は、我々の生きて存在する物理次元を超えた精神世界、抽象次元を表す用語です。カルト宗教の信徒のように、その存在を確信していたわけではないのでしょうが、光太郎にとって、感覚的には、亡き智恵子の存在するa次元と、自らの存在する花巻郊外旧太田村の山林の間の垣根は低かったようです。「シネ クワ ノン」はラテン語で「sine qua non」。「不可欠なもの」といった意味です。

肺気腫」云々は、戦前から煩っていた宿痾の肺結核に関わります。ただ、戦前からと言っても、初めて喀血が起こったのは、確認出来ている限り大正12年(1923)のことです。今回の舞台は、明治44年(1911)の光太郎智恵子の出会いから描かれ、その時点で既に「高村光太郎は意のままにならない肺に振り回されていた」ということになっています。このあたりは物語上の演出なのでしょう。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

見る人が多かつた由をきき、無意味でもなかつたかと思つてゐます。しかし東京の人にはあの本当の美が分かるとは思ひません。特殊芸術位に考へるだらうと推察します。都会生活をしてゐる者は結局遊びに終始する運命をもつてゐます。小生は彼等をあひてにしません。


昭和26年(1951)6月12日 真壁仁宛書簡より 光太郎69歳

銀座資生堂画廊において開催された、都内で初の智恵子紙絵展がらみです。

真壁は山形在住の詩人。東北人となって久しい光太郎、その意味でのシンパシーを感じていたようです。戦時中に光太郎が疎開させた智恵子紙絵千数百枚のうち、およそ3分の1を預かっていました。翌月発行された『美術手帖』通巻45号に、「切抜絵の美 高村智恵子夫人の遺作について」という一文を寄せています。
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昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年余り療養生活を送った千葉県旧豊海村(現・九十九里町)でのイベント情報です。

先着2025名様限定「ごはんにかける黒アヒージョ」「九十九里のだし」をプレゼント!「九十九里パスポート」スタンプラリー開催のお知らせ

開催期間 : 2025年1月17日(金)~2月28日(金)
商品交換 : 九十九里のだし(1月~2月) 黒アヒージョ 九十九里オリジナル(2月限定)
       数量限定のため、期間中であっても商品がなくなり次第終了となります。

 九十九里限定バージョンの町内特産のいわしを使った「ごはんにかける黒アヒージョ」と「九十九里のだし」を先着2025名様限定でプレゼントするスタンプラリー「九十九里パスポート」が開催されます。
 九十九里町を訪れてポイントを貯めるだけで、九十九里の魅力を詰め込んだ商品が手に入ります。
 ごはんにかける黒アヒージョは、千葉県産の鰹だしに、千葉県産のこだわり素材(鰹、白子玉ねぎ、落花生、マッシュルーム、山武の海の塩、燻製醤油)とニンニク、オリーブオイル、九十九里のいわしをプラスした、まさに千葉県素材オールスターで作った逸品です。ご飯だけではなく、パスタやバケットにもひったりです。
 だしは、九十九里特産のいわしと千葉県産かつおを使用し、塩には山武の海の塩を使い、卵かけご飯、鍋の締めの雑炊、そばつゆ、おでん、お雑煮などにも最高の美味しさを楽しめる逸品となっております。
 この機会にぜひ九十九里町へ足を運んでください!
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ポイントの貯め方
 まず、九十九里パスポート登録ページにアクセスして登録します。(登録無料)

 登録したら、九十九里パスポートマイページにログインした状態で、スタンプラリーの各スポットを訪れるか、町内の飲食店や施設に設置してある、QRコードを読み込みます。
  ・九十九里町の各スポットを訪れる:10ポイント獲得
  ・町内の店舗や施設を利用する:20ポイント獲得
 合計30ポイントで1セットと交換できます。
【ポイント獲得できる店舗・施設の一覧】 https://app.valmeets.com/store-list

スタンプラリーの参加方法
 各スポットのおおよそ300m以内に近づいたら、スタンプラリーアプリを起動し、「入手する」ボタンを押してください。注意:クリア済みのスポットは再度クリアすることはできません。

スタンプラリーのスポット一覧
 https://app.valmeets.com/stamp-rally/stamp-rally001
 ■伊能忠敬記念公園 千葉県山武郡九十九里町小関2689
 ■宮島池親水公園   千葉県山武郡九十九里町田中荒生414-1
 ■九十九里ふるさと自然公園センター(片貝海水浴場内)
 ■いわし資料館(海の駅九十九里内)
 ■智恵子抄詩碑(高村光太郎) サンライズ九十九里近く
 ■九十九里ビーチタワー(不動堂海水浴場内)
 ■九十九里町観光オブジェ(片貝海水浴場内)

九十九里パスポートの運営について
 九十九里パスポート運営委員会は、「九十九里パスポート」を通じて、地域の魅力を広く発信し、観光振興と地域活性化を目指すために結成された団体です。
 本委員会は、バルスタック株式会社(代表企業)、ちばぎん商店株式会社、近畿日本ツーリスト、および九十九里町による連携体で構成されています。

九十九里パスポート事業の詳細およびクラウドファンディングについて
 期間中に九十九里町に来られない方も、クラウドファンディングでご支援いただくことでご自宅で、「黒アヒージョ」「九十九里のだし」が楽しむことができます。ぜひご支援よろしくお願いします。
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※携帯で見る場合、「+もっと見る」ボタンを押してください

光太郎詩「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)詩碑もスポットとして登録されています。
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ぜひ足をお運びの上、賞品をゲットして下さい。抽選でなく先着順だそうですので。

【折々のことば・光太郎】

012智恵子遺作紙絵展会場の写真四葉、記事掲載の東京夕刊新聞二葉送り下され、忝く存じました。おかげで会場の模様等分かりました。今度の展覧会では小生まるで役に立たず、在京の諸賢の厄介になりました事まことにありがたく感謝して居ります。

昭和26年(1951)6月9日 河鍋東策宛書簡より
 光太郎69歳

東北では複数回行われていた智恵子の紙絵展、銀座の資生堂画廊にて都内で初の開催となりました。それまで「切抜絵」などと称されていた智恵子の作品を、光太郎の意志で「紙絵」と呼ぶことになった初めての機会でした。

1月19日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版の連載「美の粋」で、光太郎の親友であった碌山荻原守衛が取り上げられました。見開き2ページの長い記事ですので、光太郎の名が出る部分のみ。

新宿に吹いたパリの風「中村屋サロン」群像(上) 未開地のパン屋に最先端の芸術006

ロダンに学ぶ碌山の凱旋
 低くのしかかるようなJR山手線の高架越しに見上げた西新宿の高層ビル群はひときわ高く見えた。1日の乗降客数が世界一を誇る新宿駅を抱える街は四六時中人であふれている。100年ほど前、ここが、まだみすぼらしい未開地であったときのことを想像するのは難しい。
 雑踏を縫うようにして歩くこと数分。新宿中村屋にたどり着いた。現在、菓子やインドカレーで知られるこの店は、芸術に命をかけた若者たちのたまり場でもあった。
 その物語は一人の青年がパリから戻ったところから始まる。名前を荻原守衛(碌山)という。
 「坑夫」(1907年)は日本近代彫刻の嚆矢(こうし)と称される作品だ。建物の装飾や愛玩物としての彫刻ではなく、彫刻のための彫刻を生涯追求した。元々は画家志望だったが、パリに留学中だった04年5月、オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て衝撃を受け、彫刻家に転身。2度目のパリ滞在の際には、ロダンから直接指導を受けた。「坑夫」はその時代に制作された。
 碌山の故郷にある碌山美術館(長野県安曇野市)には「坑夫」をはじめとするブロンズ像が多く残されている。同館の武井敏学芸員は「彫刻の本当の美しさは見かけではなく、内側から発する生命力にあると考え、その表現を追求した」と話す。
 パリ時代に制作した作品のうち、現存するのは「坑夫」を含め3点にすぎないが、すでに並々ならぬ力量を持っていたことが分かる。「坑夫」では、頭と首、胸が自然に連携しており、塊のように感じられる。それが肉体労働に従事する男の生命力そのもののようにして迫ってくる。
 この作品を高く評価し、石こうにとって日本に持ち帰るよう勧めたのが、彫刻や絵画を手掛け、詩人としても知られる高村光太郎だった。碌山と高村は互いの留学中に知己を得、ともにロダンに心酔したという共通点もあり、交友を深めていった。
 「坑夫」が制作された07年、日本では第1回の文部省美術展覧会(文展)が開催された。日本画、西洋画、彫刻の3部門があったが、彫刻部門への応募は、わずか44点だった。08年に開かれた第2回文展に「坑夫」は出品されたがその荒々しいタッチのため「未完成」と見なされ落選している。日本では、近代彫刻というものがまだまだ根付いていなかった。そんな状況において、高村は碌山のよき理解者と007なる。
 3回目の文展で3等賞を受賞したのが、「北條虎吉像」(09年)だ。帽子商会組合の会長への寄贈を受け制作されたこの作品には、生命力の一層の深化が見られる。塊を捉える目は卓越し、繊細な表情も息づいている。高村は「この作には自然のMOUVEMENTがある。(中略)。此の作には人間が見えるのだ。従つて生(ラヴイ)がほのめいてゐるのだ」と激賞した。
 碌山は、フランスの美術学校、アカデミー・ジュリアンで彫刻を学んだだけでなく、学内のコンペではグランプリを獲得するほどの実力を持っていた。当時、最先端の芸術を学んだ将来を嘱望される彫刻家であり、日本にパリの風を運ぶ使者だった。

記事はこのあと倍以上の長さで続きます。内容的にはタイトルの通り、守衛と同郷の相馬愛蔵が経営していた新宿中村屋さんに守衛が世話になる件、相馬夫人・黒光とのからみ、そして彫刻作品「文覚」と「デスペア」。
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また、欄外に「KEYWORD」として「中村屋サロン」。

 明治から昭和初期にかけて、芸術に理解のあった中村屋の創業者・相馬愛蔵、黒光夫妻のもとに多くの芸術家が集い、生まれた。昭和40年代に、安曇野出身の作家、臼井吉見は相馬夫妻の中心とした小説「安曇野」の中で、その様子を「ヨーロッパのサロンのようだった」と表現したことから、のちに「中村屋サロン」と呼ばれるようになった。
 西洋で彫刻を学び、相馬夫妻と交流のあった荻原碌山が、帰国後、中村屋に出入りするようになると、その友人や教えを請う若者も出入りするようになった。日本近代彫刻を代表する高村光太郎、中原悌二郎、戸張孤雁のほか、画家の柳敬助、斎藤与里、中村彝など日本美術史に名を刻む数々の才能が生まれた。また、美術以外でも、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースをかくまうなど、多用なジャンルの交流の場となった。

守衛絶作の「女」には触れられていませんでした。タイトルに「(上)」とあるので、「(中)」ないし「(下)」が今後あって、その中で取り上げられるのでしょう。

ちなみに「KEYWORD」に記述のある臼井吉見の『安曇野』。大河ドラマ化要望運動も起こっており、永らく絶版となっていたものが限定復刊というニュースも飛び込んできています。お披露目会が3月だそうで、また近くなりましたらご紹介いたします。

4年後の2029年には、守衛生誕150周年を迎えます。顕彰運動がより一層盛り上がることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生肋骨のヒビはまだ癒着せぬようで物を持つたり、つよいセキをすると痛みますが、肋間神経痛の方はだんだん軽減してきました。


昭和26年(1951)6月7日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

日記によれば5月14日に屋外で転倒、左の肋骨を強打したとのこと。居住していた山口部落には医者も居らず、見かねた知り合いの『花巻新報』記者が5月26日に骨接ぎ医を社用車で連れてきて治療してもらったそうです。

昨日は同じ千葉県内の市川市に行っておりました。目的地は行徳ふれあい伝承館さん。自宅兼事務所から愛車で1時間弱でした。
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光太郎やその父・光雲らと直接の関わりはありませんが、同時代の彫刻、工芸の関わりで。

同館、神輿(みこし)の制作を行っていた旧浅子神輿店を史料館的に活用しているもので、建物自体が国登録有形文化財です。
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古建築好きとしては、まずこの佇まいでアガります(笑)。
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浅子神輿店、当主が代々「浅子周慶」を名乗り、元は慶派の流れをくむ仏師だったそうです。
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下記は国会図書館さんのデジタルデータから。
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そこで、仏像も展示されていました。
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仏師としての主な仕事。
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明治20年(1887)発行の「東都諸工名誉五副対」。いわば名人番付のような。仏師として浅子の名が記されています。十三代目のようです。
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その真上に光雲の名も。
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光雲の肩書きは「仏師」ではなく「木彫」となっています。「ナカヲカチ丁一」は、駒込林町に移る前の明治19年(1886)から同25年(1892)まで暮らしていた仲御徒町一丁目37番地です。

光雲が師・東雲の元から独立したのが明治7年(1874)。維新後、国家神道の普及のため「神仏分離令」が出され、いわゆる廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。その結果、光雲は仏師としての仕事は立ちゆかなくなり、酉の市で熊手を売ったり、洋傘の柄や陶器の木型などを彫ったりして糊口を凌ぎました。一時は木彫から離れ、鑞型鋳金を学んだりもしました。しかし、再び彫刻刀を握る決意を固め、明治19年(1886)には東京彫工会創立の発起人となり、同年には龍池会の第七回観古美術会に「蝦蟇仙人」を出品。師の代作ではなく、初めて光雲の名で出品しました。したがってこの頃は、仏像も作ってはいたものの、もはや仏師とは言えなくなっていたということでしょう。

十三代浅子周慶はというと、やはり仏師としては先がおぼつかない、と踏んだのでしょうか、神輿制作を手がけるようになります。
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仏像制作も続けつつも、神輿の方が大当たりというわけです。それまでの神輿の形態を革新する部分もあったようで。

浅子による主な神輿の一覧。
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館内には新旧の神輿そのものや、各部分のパーツなどの作例も展示されています。
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なるほど、仏師の流れを汲んでいるというのがよく分かります。眼福でした。

ちなみに作例は少ないものの、光雲も神輿の彫刻を手がけました。

横浜伊勢佐木町の日枝神社さんの「火伏神輿」(大正12年=1923)。
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旧駒込林町の満足稲荷神社さん神輿(昭和4年=1929)と、子供神輿(同?)。
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ただし、これらは光雲個人というより工房作のような気がします。

さて、行徳ふれあい伝承館さん周辺は、空襲の被害も無かったようで(あるいはあったとしても軽微だったのでしょう)、古建築がいい感じに点在しています。
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裏手の方は旧江戸川。対岸はもう東京都です。
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工芸好き、古建築マニアの方など、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】006

ニホンゴ ハヨサノアキコノネツプ ウニイキテウゴ キテトビ テチリニキ


昭和26年(1951)5月26日 
中原綾子宛電報より 光太郎69歳

与謝野晶子没後十周年記念講演会への祝辞的に電報で送られた短歌です。のち、この年7月の雑誌『スバル』に漢字仮名交じりで掲載されました。


日本語は与謝野晶子の熱風に生きて動きて飛びて散りにき

昨年、中原綾子令孫から花巻市に光太郎からの書簡その他がごっそり寄贈され、その中にこの電報も含まれているとのこと。近々現物を拝見出来そうです。

このところ、光太郎の父・光雲、その師・高村東雲の彫刻を見て歩く機会を多くとっています。一昨日は千葉県野田市へ。昨年12月にもお邪魔し、キッコーマンさん敷地内の琴平神社さんで、東雲の手になるという胴羽目彫刻などを拝見して参りました。同じ野田市内の大師山報恩寺さんにも東雲作の弘法大師像がおわすという情報を得ていましたので、その足で伺ったのですが、その際は本堂の改修工事の関係で拝観出来ず。そこでリベンジです。

報恩寺さん、埼玉県境に近い中野台地区に鎮座する古刹です。ただ、現在地に移ったのは維新後、本堂は昭和3年(1928)落慶だそうです。
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蠟梅が見事でした。春が近いのを実感しました。
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本堂の扁額。周囲の細工が精緻ですね。
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賽銭箱。銅板が貼り付けてあるようです。珍しいタイプではないかと。
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お約束の阿吽の獅子も実にいい感じ。
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いやが上にも期待が高まります。

さて、寺務所で訪いを入れ、本堂に入れていただきました。

御本尊の弘法大師像。こちらが東雲の作で、幕末の御像です。
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残念ながら須弥壇までの距離が遠く、間近で拝観することは叶いませんでしたし、黒いお姿で画像も鮮明に撮れませんでしたが、見事な造作であることは見て取れました。御目は玉眼のようです。

看経座(御本尊にお経をあげる場所)には、もう一尊、大師像。こちらも東雲作。前立本尊のような感じです。
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こちらは目の前で拝観出来ました。
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僧形ということで、同じく東雲作の鎌倉建長寺さんにおわす五百羅漢像を彷彿とさせられました。こちらは東雲がこの地にやってきて彫ったという寺伝があるそうです。

本堂の欄間は名工・石川信光の作。石川は柴又帝釈天さんの胴羽目なども手がけています。東京美術学校での光雲の同僚にして、牙彫も手がけた石川光明の同族です。
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一部、弟子の作も入っているとのことで、そちらはやはり少し簡易な感じです。
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本堂脇の玄関的なところには、何と木村武山の絵。
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外へ出て、境内を散策。

本堂外側の濡れ縁や漆喰の壁などを、昨年、補修したそうです。蔀戸などは元のままだとのこと。
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小さな祠というか、お堂というか、そちらの胴羽目も素晴らしゅうございました。
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もしかすると、やはり石川一派、東雲一門などの手かな、とも思いました。

梵鐘は光雲三男にして光太郎実弟・豊周と繋がりのあった香取正彦の作。香取は梵鐘の鋳造で人間国宝に認定されています。
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飛天があしらわれ、実にありがたみが増していますね。

手水舎の龍もただ者ではありませんでした。
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失礼ながら、有名な大寺院でなくとも、このように素晴らしいお宝が見られるのだと改めて感じました。維持管理等、なかなかに大変かとは存じますが。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

澤田さんの小屋は今半分ほど出来ました。これが出来ると小さな彫刻が作れるでせう。

昭和26年(1951)5月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

「澤田さんの小屋」は、澤田伊四郎の龍星閣が費用を負担して普請中の増築部分(左の白い壁部分)です。
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ただ、結局、この増築部分が竣工しても、ここできちんとした作品としての彫刻を作ることはありませんでした。

都内から朗読会の情報です。

チャリティー朗読会 和・輪・話

期 日 : 2025年1月27日(月)
会 場 : 紀尾井小ホール 東京都千代田区紀尾井町6番5号
時 間 : 13時30分
料 金 : 全席自由 2,500円

会場にお越しいただいた皆様からの募金は、『令和6年能登半島地震災害義援金』として、日本赤十字社東京都支部を通して現地へお送りいたします。皆様のご賛同を心よりお待ち申し上げます。

演目
 佐藤春夫 作 『小説智恵子抄』より 中島悦代
 平岩弓枝 作 『女の休暇』 佐々木冨紀
 北村薫 作 「語り女たち」より『梅の木』 船山則子
 角田光代 作 『口紅のとき』 和田幾子
 海野弘 作 『枕売り』 森実あき子
 芥川龍之介 作 『羅生門』 田島みどり
 西澤實 版 『芝浜』 斉藤由織
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演目のうち、「小説智恵子抄」は、光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、光太郎と親交の深かった佐藤春夫が雑誌『新女苑』に連載したジュブナイルです。連載当時のタイトルは「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」。昭和32年(1957)に実業之日本社さんで単行本化、のち、角川文庫のラインナップに入り、現在も版を重ねています。また、丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演の松竹映画「智恵子抄」原作と位置づけられました。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

どうして斯かるものを入手されたか、不思議に思ひます。確におぼえのあるもので、小生十三、四才の頃の作。日清戦争の直後にあたります。まことになつかしく、あの頃のいろいろの事を思ひ出しました。


昭和26年(1951)4月14日 菊岡久利宛書簡より 光太郎69歳

斯かるもの」は光太郎作の手板浮彫。明治29年(1896)、光太郎数え14歳、東京美術学校の予備校的な共立美術学館在学中の作品です。
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光太郎随筆「わたしの青銅時代」(昭和29年=1954)には次の記述があります。

 この間、菊岡久利君が鎌倉の古道具屋で見つけたといつて、板に彫つた彫刻をもつて来た。それには十四歳と記されていた。菊岡君が見つけてくれた時は、わたしはちょうど岩手の山にいた時だつたが、それを送つて来て、本当か嘘かと問い合せてきた。見ると、確に彫つた覚えがある。五十五年ぐらい前のもので、青い葡萄が刻まれていた。

菊岡が昭和28年(1953)に雑誌『芸術新潮』によせた「ぴいぷる」という文章には、次の一節。

 僕はそれを鎌倉の古道具屋で見つけたのだ。人々はまだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思ったらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。(略)当時まだ岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来て、 五十五年 青いぶだうが まだあをい と詩を書いてよこしてくれたものだ。

光太郎実家の髙村家にはこの類の手板が、光雲による手本用のものから、弟子たちの成績品まで数多く残されていましたが、戦後、土蔵を整理した際、誤って流出したものと思われます。他にも紅葉と宝珠を彫った光太郎の手板も鎌倉で平櫛田中が発見し、現在は東京藝術大学に収められています。

後から書き込んだ「五十五年 青いぶだうが まだあをい」は、字余りになるものの、季語もあり、俳句と言っていいのではと思われます。

一昨日は千葉市に行っておりました。目的地は中央区亥鼻の千葉大学医学部さん。
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こちらに昨秋、光太郎の父・光雲が手がけた同大医学部前身の県立千葉医学校の校長などを務めた長尾精一の銅像が再建され、それを拝見に伺いました。

入口に面した通りからも望見出来る位置にあり、すぐにわかりました。台座はずっと残っていたそうですが、このあたり、以前は何度か通ったことがあっても台座があったことにはまったく気づきませんでしたが。
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説明板にあるように、戦時中の金属供出でいったんは失われたものの光雲原型の塑像(石膏?)が残っていたということで、それを使って復活。

台座は明治44年(1911)のものですが、おそらく金属供出で像が一度失われた後、原型が残っていたことも分かっていなかった時期に、元の像を偲ぶよすがとしてレリーフが新たに作られて嵌め込まれたようです。
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側面には「昭和卅二年十一月」と書かれた石のプレートも嵌め込まれていましたので、おそらくその時でしょう。

同じような例として、光太郎が原型を作った青沼彦治像があります。こちらは大正14年(1925)に宮城県荒尾村(現・大崎市)設置、昭和19年(1944)に金属供出、昭和41年(1966)に新たにレリーフが嵌め込まれました。
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申し訳ありませんが、長尾像にしても青沼像にしても、後からのレリーフはどうしても見劣りがしてしまいますね。

青沼像は現在も台座と後からのレリーフのみ。その点、原型から復刻された長尾像は幸運な例です。光雲原型のものとしては、四国の広瀬宰平像もそうした例ですし、谷中霊園の小川源兵衛像もそうかもしれません。

光太郎原型で、金属供出に遭った像は三体。青沼像、岐阜の浅見与一右衛門像、そして千葉県松戸市の千葉大園芸学部さんにある赤星朝暉像。これらは原型も残って居らず、青沼像は上記の通りですし、浅見像と赤星像は別の作者による像で再建されました。赤星像に関しては、関係者が光太郎に「原型が残っていないなら供出はしない」と言ったところ、光太郎が「原型は私が保管している」というわけで供出。ところがその原型は昭和20年(1945)の空襲で、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居もろとも灰燼に帰してしまったという経緯が伝わっています。

まったく戦争というものは、人々の命のみならず、こうした文化的遺産をも破壊し尽くす蛮行・愚行と言わざるを得ませんね。

さて、再建された長尾像、千葉市方面にご用の際はぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山も雪が大分とけて早春の気が立ちこめてきましたので神経痛の方も幾分よくなりかけました。慢性になるといけないので、やはり注射で一度よく治してしまはうと思つてゐます。不日東京の友人がテブロンと注射器一式を持参の予定です。この部落には医者も保健婦さんも居ません。


昭和26年(1951)3月31日 野末亀治宛書簡より 光太郎69歳

「テブロン」は自律神経遮断剤。宿痾の結核性肋間神経痛の鎮痛効果を狙ってのことでしょう。光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村山口地区、村の中心部まで行けば医院はあったのかもしれませんが、山口地区には現在も医院も診療所もありません。

やはり年またぎの案件です。昨年12月30日(火)の『読売新聞』さんから。

[時代の証言者]キッチンから幸せ 平野レミ<23>神さまは靴のかかとに

  父は、私たちが結婚した時に「はいよ」と色紙を渡してくれました。そこには筆で父の詩が書いてありました。
   「風つよければ 神さまは 靴のかかとに  棲す み給う」
 父に「どんな意味?」と尋ねたけれど、「いいんだ、詩というものは自由に解釈をすればいいんだ」と、何も教えてくれませんでした。
 結婚してからも、私はしょっちゅう千葉の松戸の実家に帰ったり、父や母に我が家に来てもらったりして、子育てを助けてもらいました。
 父は息子たちをかわいがり、少し実家に帰らないと「寂しくて死んじゃうよ」と電話してくる。松戸の家は高台にあり、遠くからでも、家の前でステテコをはいて仁王立ちになって私たち家族を待つ父の姿が見えました。おんぶひもで長男の唱を背負ってあやす写真も残っています。
 父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。終戦日には「今後一体どうしたらいいかわからぬ」、私が結婚した72年の暮れには、私が幸せそうなので「今年はとにかくよかった よかった」と書いています。
 86年11月の朝に「今日は何かが起こるかもしれぬ」と筆で書き、その日に心筋 梗塞こうそく で入院します。いつもと違う何かを感じたのかもしれません。父は集中治療室から帰ってきても「詩を書くぞ」と、意識がはっきりしていたけれど、急変します。父の日記の最後は私が病室で「お父さん大好き、死んじゃだめ」と書きました。入院して1週間ほど、11月11日に86歳で亡くなりました。
 《平野威馬雄は、大杉栄や菊池寛、高村光太郎ら多くの作家・詩人たちと親交を結んだ。「フランス象徴詩の研究」といった学術書、戦中に薬に溺れた自伝「アウトロウ半歴史」、超常現象に関する「お化け博物館」「UFO入門」など多彩な本を残す》
 病室の父が「死んだら横浜の外人墓地がいいね」と言ったことがあります。「どうして?」と聞くと、「日本の墓は暗くて幽霊が出そうでおっかないや」。純日本風の暮らしが好きで、お化けの研究もしていたほどなのに。
 父は生まれが横浜で、祖父の兄で鉱山技師だったオアーガスタス・ブイの墓が外人墓地にあり、みんなで墓参りにも行ったことがあります。父の遺言と思い、横浜外人墓地に父の墓を作ることにしました。
 父が亡くなって、父にもらった色紙を読み返しました。私につらいことが強風のように襲いかかっても、神様がかかとを支えているから大丈夫。風に負けずに前に進め、いつも支えているというエール。父は神様と書きましたが、私にとって、かかとにいてくれたのは父でした。そんな感謝の思いを込め、父の墓に色紙の文字を彫りました。いまその墓には母も夫の和田(誠)さんも眠っています。
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料理研究家の平野レミさんによる連載。昨年11月から始まり、まだ続いているようです。この日はお父さまで詩人・仏文学者の平野威馬雄氏に関する内容。編集さんによる注で、威馬雄氏が光太郎と関わりがあったことに触れられました。
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記事にある威馬雄氏の自伝『アウトロウ半歴史』(昭和53年=1978 株式会社 話の特集)、だいぶ前に拝読しましたが、「高村光太郎の抒情詩的エピソード」という項を含み、興味深いものでした。
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威馬雄氏は、当会の祖・草野心平や尾崎喜八ほどには光太郎との縁は深くなかったのですが、わずかな僅かな関わり合いだったからこそ見せた一面があったように思われます。

時は太平洋戦争開戦前年の昭和15年(1940)、日中戦争は既に泥沼化していた時期ですし、日独伊三国同盟が締結される年です。防共協定は既に結ばれていました。

所は三河島のトンカツ屋「アメリカ屋」(のち「東方亭」)。光太郎戦前からの行きつけの店で、店主の細田藤明とは個人的にも懇意にしていました。細田の長女・明子は苦学の末、戦後に医師となり、光太郎は彼女をモデルに詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりもしています。

威馬雄氏も「アメリカ屋」常連の一人で、ここで光太郎と知り合い、駒込林町のアトリエ兼住居にも招かれたり、光太郎も威馬雄氏の家を訪ねたりしたとのこと。その中で、ドイツ軍によるパリ占拠に憤っていた光太郎の姿が描かれています。

「平野さん、この新聞見てごらんなさい。どうお考えになりますか?」と、ある夜、レインコートのポケットからしわくちゃになった新聞をとり出して、テーブルの上にひろげた高村さんの手は心もち顫えていた。
 それは、西部戦線ドイツ軍陣地で、タス特派員が発したリポートで、ドイツ軍の機動力は驚異的で、ヒトラーの軍はパリへ、ロンドンへと破竹の勢いで突進している……という意味の記事だった。
「とにかくナチは野蛮ですからね。私はとても心配なのです……パリが心配なのです……もし独軍にやられたら、ロダンもセザンヌも、ミレーも、いやルーブル美術館そのものが灰になってしまうのではなかろうか。あの美しいシャンゼリゼの並木、凱旋門……何もかもが、こうして眼をつぶっていると……みえてくるのです。ノートルダムの怪獣が苦悶の叫びをあげている……その声がきこえるようです……セイヌ河の波上……あの碧く澄んだ照り返しすら、血の色に染まってしまうのではないかとおもうと……」老詩人の眼はうるんでいた。
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 それから数日後の夕方……高村さんはアメリカ屋でぼくを待っていた。その表情からはいつものにこやかな人なつこい微笑が消えて、妙にこわばった顔つきだった。
「大変なことになりました。ご存じでしょうが、とうとう……やっぱりわれわれの古里は野獣の手に落ちてしまったんです……」老詩人の眼は涙で一杯だった。
「これ見てください……もうお読みになったでしょうが……」と、又しても、しわくちゃな新聞を卓上に拡げた。
「仏国遂に独へ降伏――ペタン首相は十七日(昭和十五年六月十七日)ドイツに対し遂に降伏を申し出ると共に、フランス全軍に対し既に戦闘行為を停止すべき命令を発したる旨正式に発表した……」
 六月四日から本格的なフランス総攻撃を始めたドイツ軍は、十四日にはパリに入城したのだ。
「今ごろ、勝ち誇ったドイツ兵は、なだれを打ってパリに侵入しているでしょう。どんなに多くの芸術家たちの命が消されていることでしょう」高村さんはとても今日は一人でいるに耐えられない、と言った。そして、一緒にぜひうちに来てくれという。孤独な老詩人は、魂のよりどころともいうべき芸術の都パリを失った悲しみに、がまんできなかったのだろう。

光太郎、オフィシャルな場面では日本の同盟国・ドイツを非難する発言はしませんでした。さりとて擁護する発言もしていませんし、『高村光太郎全集』にはヒトラーの名は一回も出て来ず、注意深く言及を避けていたようにも思われます。仏文学者だった威馬雄氏が日米ハーフの、当時としては社会的弱者だったこともあり、本音の部分を吐露したというところでしょうか。

ところで、レミさんによれば「父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。」とのこと。昨年末に再放送された、レミさんの生涯を追ったNHKさんの「だから、私は平野レミ」(初回放映は昨年2月)でも、威馬雄氏の日記が取り上げられていました。おそらく光太郎の名もところどころに記されているのでしょう。ぜひ読みたいものだと思いました。なかなか難しいのかも知れませんが、公刊されることを望みます。

自伝『アウトロウ半歴史』には、光太郎以外にも多くの人物との交流の様子が描かれています。もちろん威馬雄氏のドラマチックな来し方も。
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古書市場等で入手可。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

お手伝の人を考へて下さつた事忝い事ですが、やはり一人で静養してゐた方が結局いいやうです。お手伝がゐると却つて身心を使ふやうになりますから。

昭和26年(1951)3月21日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

結核が昂進し、苦しんでいる光太郎に対し、心平が家政婦さんを雇ったら? 必要なら手配します的な申し出をしたようですが、断りました。1年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京し、さらに3年経った昭和30年(1955)になって、初めて自分では食事の支度などどうすることも出来なくなり、家政婦を雇います。

一昨日、光太郎の父・光雲がらみをご紹介しましたので、今日はさらにその師・髙村東雲関連です。

やはり年またぎ案件なのですが、昨年12月10日、千葉県野田市に行って参りました。目的地は琴平神社さん。こちらの本殿の胴羽目彫刻が、東雲の手になるものだという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

場所は野田を代表する企業・キッコーマンさんの中央研究所の敷地内。
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通常はこのゲートが閉ざされていて、入れません。毎月10日のみ参拝出来るということで、実はそれを知らずに昨夏にも一度行ったのですが、その日は10日ではありませんでしたので、空しく帰って参りました。そこでリベンジ、というわけです。

ちなみにこの周辺、戦時中の空襲の被害はなかったようで、古い建築が点在しています。
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さて、琴平神社さん。
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こぢんまりとした境内ですが、杜は意外と鬱蒼としています。12月も中旬になろうかというのにまだ紅葉が見事でした。
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めざす本殿。明治5年(1872)に建てられたそうです。
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拝礼後、周りをぐるりと反時計回りに一周し、彫刻をつぶさに拝見。
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恐ろしいほどに緻密です。
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雲などは様式化された感じですが、葉の表現などは、初期のロダンが装飾彫刻の職人だった時代に師匠から叩き込まれた、葉の先端を手前に持ってきて奥行きや立体感を醸し出す技法に通じるような気がします。
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鳥にしてもかなり写実性を意識しているようにも見うけられました。こういう点が弟子の光雲にも受け継がれていったのかな、などとも。

ただ、場所によって微妙に異なるタッチもあるように感じ、もしかすると工房作で、光雲を含む弟子達の手も入っているのかな、などとも思いました。あまり大きな建物ではありませんが、何せぐるりと一周でかなりの点数になりますし、光雲が師の元を離れ、独立したのは明治8年(1875)のことでしたし。

本殿の前に佇む額堂。
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中に入って仰天しました。こんな額があったので。
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この面については全く存じませんでした。左の方は烏天狗。本殿の唐破風下、兎の毛通し(うのけどおし)の部分にも天狗が配されていましたし、少し離れた神楽殿にも天狗の彫刻、それから天狗の団扇を象(かたど)ったオブジェも境内にあり、どうもこの地には天狗伝説があったようです。すると右も牙が見えますし、やはり天狗系なのでしょう。
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「茂木佐平治」はキッコーマンさんで代々受け継がれる名で、おそらくその前身だった野田醤油時代のさらに前と推定されます。

迷惑かな、と思いつつ、敷地内の茂木家を訪(おとな)い、面について訊いてみました。すぐ近くに茂木本家美術館さんがあり、光雲の木彫なども展示されているので、そちらにでも収蔵されているのかな、と思ったもので。ところが、家宝として保管していて、公開は行っていないとのことでした。いつかはこの目で見てみたいものです。

野田市内でもう一箇所、廻りました。埼玉との県境に近い、中野台地区の大師山報恩寺さん。
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こちらの本堂におわす御本尊の弘法大師像、さらにもう一体の大師像も、東雲の作だそうです。東雲と野田、つながりが深いと言わざるを得ませんね。
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「高村光雲の義父」というのは誤りで、光雲は徴兵逃れのために東雲の姉の養子になったので、正しくは義理の叔父です。

こちらにも昨夏お邪魔しましたが、本堂の改修工事中で、内部の拝観が出来ませんでした。その際、12月には工事が終わると聞いたので、行ってみた次第です。ところが、工事は終わったものの、漆喰が乾いていないということで、またもや拝観出来ませんでした。その時点で月末には元通りになるというお話でした。また近いうちにお邪魔しようと思っております。

さて、もうすぐ10日、琴平神社さんの門が開きます。報恩寺さんの大師像も拝観可能かと存じます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

誕生日のお祝を心にかけて送つて下さつて忝く存じました。今朝はあのおいしいコーヒーをいれ、トーストにあの珍らしいチーズのスプレツドを塗つてひどくハイカラなブレツクフアストをいただきました。そして今いいかをりの紫烟をマドロスパイプで一ぷくやつたところです。

昭和26年(1951)3月13日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

結核性の肋間神経痛で苦しんでいたわりに、刻み煙草をパイプでくゆらせ……自殺行為ですが……。

このブログサイトでご紹介すべき昨年いろいろあった事柄のうち、主なものは昨年のうちに何とかご紹介し終えましたが、中には越年となり申し訳なく思うものも。

そのうち『東京新聞』さんで12月27日(土)に掲載された記事。

TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機 俳優・渡辺えりさんら尽力 保存活動

 2024年も残りわずか。TOKYO発では今年も街のトレンドや知られざる地域の歴史、ヒューマンストーリーなど、多彩な話題を取り上げてきた。今日は「その後」を――。
 中野区に残る、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)ゆかりのアトリエの所有者が亡くなり、存続の危機にあると1月12日に紹介した。
 アトリエは洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てた。光太郎は晩年の52~56年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作した。
 記事の掲載後、若手建築家をはじめ、さまざまな立場の人から保存・活用法の提案が寄せられたという。有志らは4月、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、署名活動を始めた。
 会の代表に就いたのは、俳優で劇作家の渡辺えりさん。えりさんの父は生前光太郎と交流があり、えりさん自身も光太郎の半生をもとに戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 11月、会は区内でアトリエを紹介する展示を行い、講演会を開催。えりさんは「光太郎の肌合いが残る場所が中野区にあるのはすごいこと。何とかいい形で保存できないか」と語り、「生きるための糧の一つとして文化芸術がある」と理解を求めた。
 今後、会は区への働きかけや新たな講演会の企画など、地道に活動を続ける。署名への協力などは会の名前で検索。
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昨年1月12日の記事はこちら

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」サイトはこちら。当方も幹事を務めさせていただいております。こちらからインターネット署名も可能ですので、よろしくお願い申し上げます。

アトリエを紹介する展示」は11月10日(土)~19日(月)の日程で行いました。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。

新たな講演会」は、2月15日(土)の予定です。詳細が決まりましたらまたお知らせいたしますが、とりあえず中西利雄に特化した内容となるとのこと。

また、クラウドファンディングを立ち上げ、ご支援を募ることも視野に入れております。そうなりました場合には、ぜひともよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生旧臘来肋間神経痛といふ厄介なものにひつかかり、一ヶ月近く小屋を留守にいたし、病院長さん邸や温泉などに滞在、最近、雪中を橇で帰つてまゐりましたがまだ病気は残つてゐます、字を書くと病気にひびくのでテガミや原稿がかけずにゐます、


昭和26年(1951)2月26日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

肋間神経痛」は結核性のもの。結核も抗生物質の普及により、戦前ほどは怖れられる病ではなくなりましたが、さりとてもはや完治は不能でした。約5年後には光太郎の命を奪います。

病院長さん」は、宮沢賢治の主治医でもあった佐藤隆房、「温泉」は大沢温泉さん。1月23日から2月2日まで、かなり長く滞在しました。

活動を継続中の中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会会長にして、劇作家・女優の渡辺えりさん。この5日にはめでたく古稀を迎えられるそうで、それを記念した公演です。

渡辺えり古稀記念2作連続公演『鯨よ!私の手に乗れ』『りぼん』

東京公演
 期 日 : 2025年1月8日(水)~1月19日(日)
 会 場 : 本多劇場 東京都世田谷区北沢2-10-15
 時 間 : 
  『鯨よ!私の手に乗れ』 
   1月8日(水) ・11日(土)~14日(火)・16日(木) 18:00~
   1月9日(木) ・13日(月)・15日(水)・17日(金) 13:00~
  『りぼん』
   1月11日(土)・12日(日)・14日(火)・16日(木)・19日(日) 13:00~
   1月15日(水)・17日(金) 18:00~
   1月18日(土) 13:00~/18:00~(連続公演)
 休 演 : 1月10日(金)
 料 金 : 平日 一般10,000円 学生 4,000円  土日祝 一般11,000円 学生 5,000円

山形公演(『りぼん』のみ)
 期 日 : 2025年1月22日(水)
 会 場 : 山形市民会館 山形市香澄町2-9-45
 時 間 : 18:00~
 料 金 : 平日 一般10,000円 学生 4,000円

『鯨よ!私の手に乗れ』
架空の地方都市の町、山崎県山崎市にある介護施設に神林絵夢がやってくる。ここは母・生子が入所しているのだ。久しぶりに見舞いにきた神林絵夢。母・生子は認知症で、絵夢の弟・公男やその妻・美代子が世話をしているものの、二人が誰かはわからない。絵夢が60歳になるまで演劇を続けてきたのは母のおかげ。晩年ぐらいは自分のために自由に生きてほしいという思いとは裏腹に、時間や規則に縛られて暮らす母の様子を見て絵夢はショックを受け介護士たちに不満をぶちまける。介護施設には元美術教師だった藍原佐和子、看護婦のように振る舞う涼子ら入所者、ヘルパーとして働く水島貴子と生子と同世代の人々がいる。彼女たちは次々に語り出す。彼女らは40年前に解散した劇団のメンバーで、主宰が行方不明になったため上演できなかった作品をいつかやりたいと約束をしていた。生子もその劇団のメンバーだった。ところが彼らの持っている台本は、認知症の患者が認知症の老人を演じるというもの。悲しい結末を知った介護士が途中から破り捨ててしまっていた。その状況に絵夢は台本を書くと言い出す――。2017年に上演された本作品。『演劇』を通して人生を見つめる。人生の中に「演劇」がある力強さを今一度、現代に問いかける。
キャスト
 木野花 三田和代 黒島結菜 広岡由里子 土屋良太 宇梶剛士 ラサール石井 渡辺えり 他

『りぼん』
現代の横浜。「すみれ」、「百合子」、「桜子」3人は関東大震災後に建てられ、最近取り壊された「同潤会アパート」の同じ住人であった。彼女らが住むアパートには、シベリアで抑留されていた夫を持つという「春子」、影を背負う謎の老女「馬場」ら、過去に心の傷を負った女性たちが支え合いながら暮らしていた。そしてそれぞれに「水色のりぼん」の記憶を持っていた。一方、欲情すると水色のりぼんを吐くという奇病を持つ青年「潤一」は、母の遺骨を探す旅の途中、横浜で“浜野リボン”と出会う。リボンは、赤子であった自分の胸に水色のりぼんを縫い付け、墓場に捨てた母の消息を求め、娼婦であった母を知る人物の目に留まるようにと、自らを娼婦の姿に変え、横浜を徘徊している青年と出会った。母から体に水色のりぼんを十字架のように背負わされる2人は、その謎を解くために鍵となる「同潤会アパート」へと向かう。まるで水色のりぼんが彼らを引き寄せるように……。同潤会アパートで潤ーたちと春子らアパートの住人達は初めて出会い、皆の生い立ちと記憶の謎が明らかになってゆく。住人の一人「春子」は愛娘を夫に殺されたという過去を持っていた。戦後娼婦として働かされたという春子の境遇に逆上した夫が春子と娘とを見間違え、首をりぼんで絞めてしまった。そして、実は愛娘の死体のお腹から産まれたのが潤ーであった。2003年に上演、2007年に再演された本作品。未だ混沌と尽きない悩みの最中にある現代日本で蘇る。バンドネオン・ピアノ・ギターの生演奏と共にお送りする音楽劇。
キャスト
 室井滋 シルビア・グラブ 大和田美帆 広岡由里子 土屋良太 宇梶剛士 ラサール石井 渡辺えり 他

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昨年12月25日の『山形新聞』さんに、こちらに関連する渡辺さんのご寄稿。

渡辺えりのちょっとブレーク(235)心のもやもやも込めて

006 古希特別記念連続公演の稽古中です。
 一作品に43人が出演する超大作の連続公演で、前代未聞、前人未到の企画に挑戦することになりました。
 「鯨よ!私の手に乗れ」は、母が介護施設にお世話になるようになってからの実話を基にした作品。11月に母が亡くなったので、母親役の三田和代さんの場面になると泣けてきます。幼い頃からの思い出がよみがえり、たまらなくなりますが、それだからこそ母のためにも成功させたいと頑張っています。
 「りぼん」は山形第六中学校の生徒が東京と横浜に修学旅行に来るストーリー。そこで日本の隠された歴史を発見して驚愕(きょうがく)します。私が実際に昭和40年代に六中の修学旅行で初めて横浜の氷川丸に宿泊した思い出を基に創作しました。2作とも、母親たちが女性として苦労してきた今日までの思いを青いりぼんの思い出とともに表現します。
 2作とも山形弁が多く使われていますが、殺陣指導をお願いした山形市出身の大道寺俊典先生が「みんなもっと山形弁を勉強してほしい」とため息つくほど山形弁は難しいらしいです。大枠の演出が済んだ後に、細かい方言指導もやるつもりで張り切っています。
 歌と踊りも素晴らしい方々が多く出演しているので、新年1月22日の山形公演を楽しみにお待ちください。
 ただ、昔と違って徹夜もできなくなり、朝から晩までの稽古は途中で頭がぼうっとしてしまうこともあります。人間年を取ってみないと、この状況は想像できませんね。両親にもっともっと優しく親切にするんだったと、近頃切に思います。年寄りに親切にしてきた人はきっと、自分が年を取った時に周りに優しくしてもらうでしょうね。介護施設にいた両親が介護士の方たちに「ありがとう。ありがとう」といつも声をかけて、頭を下げていたことを思い出します。山形人はみんな昔からテレパシーで会話する人間が多いため、心で思っていても、なかなか口に出してお礼を言うのが苦手な方が多いように思います。私もそうでしたが、両親を思い出して、口に出すように心がけています。
 今回の「りぼん」は関東大震災や第2次世界大戦、シベリア抑留、接収されていた横浜のことなど日本の過去の歴史がいろいろ出てきますが、オーディションで出演する若者たちとの世代のギャップを感じています。東京オリンピックの思い出を語る場面では「アベベってなんですか?」と聞かれ、高村光太郎の詩「道程」も誰も知らないと分かり、それらを説明するだけでも時間がかかります。今回の2本立てを1カ月半で稽古するのは、至難の業だと分かったのでした。そしてそんなことを愚痴る両親も今は亡く、この心のもやもやも含めて舞台の作品に込めていきたいと思います。
 山形公演を手伝ってくれる友人たち、親戚の皆さん、そしていつも応援して下る皆さま、本当にありがとうございます。山形六中からお借りした制服とショルダーバッグも本当にありがたいです。太った人用の制服が足りず、私の分は生地を足して直しています。終了後はクリーニングに出して速やかにお返しする予定です。私の分はまたほどいてからお返しするので時間がかかると思います。
 さまざまなことがあった一年でしたね。暗いニュースもたくさんありましたが、来年が皆さまにとって良い年になりますように心から願っています。みんなで支え合って諦めずに平和な世の中をつくっていきましょうね。昨年は本当にお世話になりました。喪中なので新年のごあいさつは控えさせていただきますが、皆さま良いお年をお迎えください。
(俳優・劇作家、山形市出身)

劇中で光太郎にも触れられるそうで、さらに特に『鯨よ……』の方は、生前の光太郎をご存じで、昨秋亡くなったお母さまの介護体験等も反映されているそうで。ちなみに亡くなられた11月10日には、えりさん、当方と中野でトークショーでした。

そんなこんなもありますし、御招待いただいているので、拝見に伺います。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生ここへ来てからもう満五年二ヶ月になりますが世情ますます紛糾、いつ彫刻が思ふやうに出来るか、まだ見当がつきません。出来ることを出来る時にしてゐる自然の生活を営むばかりです。


昭和26年(1951)1月12日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳


花巻郊外旧太田村での蟄居生活。新しい年が明けて一つの節目と感じてはいたようですが、まだ自らそれを切り上げる気にはなっていませんでした。

この年の秋に山小屋を訪れた詩人の宮静枝によれば、「いま私に彫刻をさせないことは日本の損失だと思います」とまで語ったとのこと。そう考えるなら帰京すれば、と思うのですが、公的に訴追されなかったとしても、自らの戦争犯罪を他が許さないうちは自らも許すことが出来ない、というわけでしょう。

宮曰く、

光太郎は余りにも明治でありすぎたと思うのである。国からの招請を心ひそかに待ち続け、自らの生命を無為に山野に燃焼し尽くした光太郎も、日本の大きい犠牲者であり、まさに悲しみの典型だったのである。(『詩集 山荘 光太郎残影』あとがき「悲しみの典型」平成4年=1992)

昨日、初日の出を見に行って参りました。以前は昭和9年(1934)に智恵子が半年あまり療養生活を送った豊海村(現・九十九里町)まで出向いておりましたが、ここ数年は自宅兼事務所隣町の旭市でご来光を拝んでおります。

午前6時半近くに到着。水平線上には雲がかかっていましたが(西高東低冬型の気圧配置なので毎年のことです)、まずまずの天気です。
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そこそこの人出。
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南の方に目を転じれば、智恵子が療養していた旧豊海村方面。
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千鳥(?)の足跡。
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日の出を待つ間、流木を集めて暖を採りました。焚き付けには昨年の正月飾り。このあたりもルーティンとなっています。見知らぬご家族が「あたらせてくれ」と寄ってきまして、「まぁどうぞ」(笑)。ただでは悪いと思ったか、やはり流木を拾ってきてくれました。こういうのもいいものです。
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午前6時45分過ぎ。雲の上端が金色に。水平線上には既に日が昇っているようで。
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そして……。
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毎年のことながら、やはり感動しますね(笑)。思わず目を閉じて手を合わせてしまいました。今年一年、世の中全体が穏やかな一年でありますように、そして光太郎を取り巻く諸般が盛り上がりますように、関係の皆様のご健勝・ご活躍を、などと祈願。

ほんとうにそういう一年であってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

おてがみと“クルミの木の下に”と感謝、大変きれいな本です、炉辺でよむのがたのしみなやうです。よんだら小学校に寄贈して皆にもよんでもらひませう。山では本が少いので本をもらふ事を皆大変よろこびます。ここの子供達は実にいい子ばかりです。自然にはぐくまれてゐる子達は仕合です。001


昭和26年(1951)1月4日
藤倉四郎宛書簡より 光太郎69歳

藤倉は童話作家。「銭形平次」の野村胡堂と親交があり、その評伝なども複数著しました。胡堂の妻・ハナは智恵子と親しく(共に日本女子大学校卒)、二人の結婚に際しては智恵子がハナの介添えを務めました。そのあたりにもふれた『カタクリの群れ咲く頃の―野村胡堂・あらえびす夫人ハナ』(平成11年=1999、青蛙房)を以前に読んだのですが、藤倉が光太郎と親交があったことに最近まで気づいていませんでした。

昨日のこのブログでは、一昨日、昨日と滞在しておりました光太郎第二の故郷・岩手花巻のレポートを途中まで致しておりましたが、一旦中断し、その後向かいました世田谷での観劇レポートを。そちらの公演が今日までですので、これを見て行ってみようという方が一人でもいらっしゃれば、と思いまして。

燦燦たる午餐さんの第二回公演「凌霄花の家」。ハコは小田急線千歳船橋駅近くのAPOCシアターさん。キャパ20名ちょいくらいの小劇場でした。しかし天井は高く狭苦しい感じではなく、奈落(?)に降りる階段なども劇中で効果的に活用されていました。
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こちらは終演後。左端に階段。
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登場人物は三人(劇中劇的に、他の人物の役どころを演じる役回りも設定されていましたが)。それぞれ熱の籠もった演技でした。

まず令和の現代を生きる若い女性・遙佳(中嶋真由佳さん)。彼女がさまざまな鬱屈を抱え、鬱蒼とした森の中を歩いている中で、凌霄花(ノウゼンカズラ)に包まれたあばら屋を見つけ、屋内に。そこで見つけた古い絵や日記、手紙などに見入っていると、一人の男(石倉来輝さん)が現れ、「この家のゆかりの者」的な自己紹介。そしてかつてこの家であったことを語り出す、という流れです。この手法、能の定石ですね。実はその語っている人物の正体は……という所まで含めて。

男の語る昔語りは、この家(実はアトリエ)で100年ほど前にあった画家夫婦、孝治(石倉さん)と夕子(畑中咲菜さん)の話。この画家夫婦というのが、光太郎智恵子をモチーフとしています。ただ、孝治は彫刻家ではなく画家。彫刻家とするより画家の方が描きやすそうですし、一般の理解も得られるかなとは思いました。評論や翻訳なども書いているという設定は、光太郎そのままです。しかし、詩を書いているという設定にはなっていませんでした。後述しますが、史実の光太郎が書いていた詩も含め、孝治の絵がその役割を担っている感じの描き方でした。

光太郎の「緑色の太陽」を彷彿とさせる評論を読んだ、自身も絵を描いている夕子が孝治のアトリエを訪れ、意気投合、双方の両親の反対を押し切って、結婚。この辺りも光太郎智恵子の史実に近い設定です。また、あまり強調されませんでしたが、孝治の父は、光太郎の父・光雲同様、斯界の権威ということになっていました。

当初は売れない画家だった孝治は、特に夕子をモデルに描いた絵が徐々に世の中に認められていき、夕子も細々と雑誌の挿絵や絵葉書を描いて……という二人の生活。史実だと光太郎は智恵子をモデルとした彫刻も複数作り、発表もしましたが、その数は多くありませんでした。
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しかし、のちに『智恵子抄』に収められる詩群に智恵子を謳い、それによって智恵子のイメージが世に広まった部分はありました。そう考えると、劇中での孝治の智恵子を描いて好評を博した絵は、『智恵子抄』の詩群と置き換えられるように思いました。

細々と夕子に舞い込む仕事の依頼は、「絵にも描かれた孝治の妻」という形容詞がついてのものだったり、孝治の絵と違う服装でいると世間から違和感を感じられたり、と、このあたりはさもありなん、でした。ただし史実では、智恵子は主に母校の日本女子大学校の関係で挿絵や絵葉書などの依頼を受けていましたが、結婚後はそれもほぼ無くなっています。結婚後、智恵子が対外的に行っていたのは雑誌への文章等の寄稿。これも「新進芸術家・光太郎の妻」ということで依頼されていたのかも知れない、と、これは当方、そこまでは深く考えていませんでしたので、目から鱗でした。

『智恵子抄』オマージュは劇中に色々ちりばめられていて、例えば詩「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)関連のエピソード。

   あなたはだんだんきれいになる

 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。318486bb-s
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属。
 見えも外聞もてんで歯のたたない
 中身ばかりの清冽な生きものが
 生きて動いてさつさつと意慾する。
 をんながをんなを取りもどすのは
 かうした世紀の修業によるのか。
 あなたが黙つて立つてゐると
 まことに神の造りしものだ。
 時時内心おどろくほど
 あなたはだんだんきれいになる。

この詩に関しては、光太郎の散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)に、次のように語られています。

彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、

をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。

と私が書いたのも其の頃である。

このあたり、劇中ではかなり効果的に使われていました。孝治は夕子をモデルにした絵を「彼女の内面の美を引き出すんだ」と意気込み、実際、ある程度成功したり、古着屋のエピソードは「質屋」と置き換えられていましたが、夕子が対応して自分の着物を「もう着ない柄だから」と言って換金したり、と。「スエタアとヅボン」も。

しかし、そうやって「描かれた自分」と「実際の自分」とのギャップ、孝治や世間による自らの「聖女化」(それとて悪意は無いわけですし)、自身の絵は「孝治の妻が描いた絵」としてしか見られないことなどに耐えられなくなった夕子は壊れ始め……というあたりで終わります。それ以降を語るにはしのびない、あとは想像に任せる、という感じでしょうか。

というわけで、光太郎智恵子をモチーフとしながらも、一般的な話に落とし込み、よりリアリティが増しているように感じました。

会場では製本された台本(月森葵氏著)の販売も行われていまして、一部購入してきました。100ページ近くで1,000円也。お買い得です。公演は今日の昼の部まで。台本は主宰の「燦燦たる午餐」さんに申し込めば入手可能かも知れません。
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スタッフ・キャストなど関係の方々の今後のさらなるご活躍、さらに出来れば再演を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

検印紙は捺印しかけてありますが明三十日は小生山形市へ行かねばならなくなり、三日に帰つてきますから、帰つたらすぐ全部捺印して速達で送ります、

昭和25年(1950)10月29日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

「検印紙」は澤田の龍星閣から翌月刊行された詩文集『智恵子抄その後』のためのもの。この年1月に発表した同題の連作詩を根幹とします。

その「あとがき」の最後にはこうあります。

「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。「智恵子抄その後」の奥底に何があるか、書いてから一年ばかりにしかならないので、まだ自分にもよく分からない。おそらくこれを読む人々が卻てそれを鋭く見ぬいてくれることであらう。

智恵子が歿して既に12年、この年は13回忌でした。それだけ経っても智恵子の姿はありありと光太郎の中に残っていたわけで……。

平成31年(2019)に起きた大火災からの修復工事が終わり、12月8日(日)に一般公開が再開されたパリ・ノートルダム大聖堂と、大正10年(1921)に留学中の体験をベースに書かれた光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」に関わる件で、2つ。

まずは『産経新聞』さん、12月11日(水)掲載のコラム。

<産経抄>「連帯」もたらす福音となるか、再建かなったノートルダム大聖堂

002高村光太郎といえば、亡き妻をしのぶ純愛の詩集『智恵子抄』が思い浮かぶ。智恵子と出会ったのは明治44(1911)年の暮れだった。光太郎はしかし、その2年前まで滞在していたパリで、ある〝女性〟に心を奪われていた。▼ご執心だったようで、その人のもとへ日参したと打ち明けてもいる。<外套(がいとう)の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、あなたを見上げてゐるのはわたくしです。毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。あの日本人です>と詩の一節にある。▼その女性はいまも、「私たちの貴婦人」の名で人々に愛されている。ノートルダム大聖堂である。光太郎がありせば、思いを寄せた人の悲運と恋敵の多さに色を失ったかもしれない。5年前の火事で尖塔(せんとう)などが焼けた後、悲嘆は世界に広がり1300億円を超す寄付が集まった。▼再建を記念して開かれた先日の式典では、各国首脳やトランプ米次期大統領らが列席した。ポピュリズムの台頭で政治的な窮地に立つフランスのマクロン大統領は、大聖堂を「連帯」の象徴として位置づけようとした節がある。現実はどうだろう。▼光太郎が滞在した頃のパリは、あらゆる人種や思想、芸術文化に寛容な街だった。いまのフランスは移民の増加で社会がひずみ、少数与党の内閣が総辞職するなど政治も混乱する。心のよりどころとされる大聖堂の再建を横目に、人々を分かつ亀裂の修復は簡単ではないようだ。▼大聖堂前の広場には、距離の起点となる道路元標が置かれている。いわばフランスの中心点である。大聖堂は再び、迷走する社会の結び目となるだろうか。今年は、わが国をはじめ世界各地でも政治が揺れた。できれば、再建の福音にあやかりたいものである。

せっかくの復旧が政治的な駆け引きの道具にされることの無いようにしてほしいものですが……。

続いて白水社さんから出ている雑誌『ふらんす』今月号。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、建築史がご専門の三宅理一・東京理科大学客員教授と仏文学者の鹿島茂氏の玉稿、日本科学未来館さんで開催中の「特別展 パリ・ノートルダム大聖堂展 タブレットを手に巡る時空の旅」のレポートが載っています。
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そのうち、鹿島氏の「ノートルダム大聖堂と原始の森」が、「雨にうたるるカテドラル」考察を含みます。氏が注目されたのは、「あの日本人です。」のリフレイン。「日本人」の語がなければパリジャンが書いた詩といっても通る「普遍性」があるとし、「あの日本人です」と繰り返すことで「特殊性」も併せ持つ詩だ、というご指摘。さらに今回焼け落ちた木造部分から「原始の森」へと発想を飛ばし、「森」といえば日本人、的な。

三宅氏の「よみがえるノートルダム大聖堂」も、建築大好き人間としては実に興味深い内容でした。元々がどういう建築だったのか、火災の状況や修復の過程など、わかりやすくまとめられていました。

ところで雑誌『ふらんす』さん。かつては光太郎も寄稿したことのある雑誌で、その意味でも驚きました。失礼ながらまだ健在だったんだ、と。『中央公論』さん、『文藝春秋』さん、『婦人之友』さんなど、そうした例は他にもありますが、それらと異なり、不躾とは存じますがメジャーな雑誌ではありませんので。

光太郎の寄稿は昭和16年(1941)6月の第17巻第6号。「日夏耿之介著 英吉利浪曼象徴詩風を読んで」という短文でした。それに先立つ同12年8月の第13巻第8号広告欄に出たアーサー・シモンズ著、宍戸儀一訳「象徴主義の文学」広告にも光太郎の短評が出ていますが、こちらは寄稿という訳ではない感じです。

で、今月号が第99巻第12号。末永く続いて欲しいものです。末永く、といえば、ノートルダム大聖堂自体も、もちろんです。

【折々のことば・光太郎】

もう山も秋、明月にはひとりで酒をくみ、雉子の飛ぶ羽音をききながら心ゆくまで観月しました、数里に及ぶススキの原はまるで海です、


昭和25年(1950)9月30日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の森、光太郎はパリ郊外のフォンテーヌブローの森になぞらえることもありました。

都内から演劇公演の情報です。

凌霄花の家

期 日 : 2024年12月20日(金)~12月22日(日)
会 場 : APOCシアター 東京都世田谷区桜丘5-47-4
時 間 : 12/20(金) 19:00 12/21日(土) 13:00/18:00 12/22日(日) 13:00
料 金 : 一般/4500円 学割/2000円(要学生証)

鬱蒼とした森の中に佇む一棟の廃屋。床から壁から屋根まで季節外れの凌霄花(ノウゼンカズラ)に覆われ、古びた画材や生活の痕跡が置き去られている。偶然そこに足を踏み入れた少女が黴と埃にまみれた日記帳を開いたとき、どこからともなく一人の男が現れる。彼は少女に、この家にまつわる話を聞いてほしいと頼む。かつてこの家に確かに在った、或る愛についての物語を――

作:月森 葵(燦燦たる午餐)  演出:戸塚萌(燦燦たる午餐)
出演:石倉来輝、畑中咲菜、中嶋真由佳
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フライヤーには智恵子による『青鞜』創刊号の表紙絵(明治44年=1911)があしらわれています。内容的にも出演者の方のX(旧ツイッター)投稿などによれば「高村光太郎・智恵子夫妻をモチーフに書かれたオリジナル台本です。」「能「定家」と高村光太郎『智恵子抄』にインスピレーションを得た、愛と芸術についての物語。」だそうで、これは観に行かねば、と思い、12月21日(土)の昼の部を予約しました。

今年は光太郎智恵子がらみの演劇を3本観ました。

心を病んでからの智恵子を主人公とし、自分の中に「かつての光太郎」や光太郎自身の思う「あるべき自分」はもはやここには居ないという描き方だった「哄笑ー智恵子、ゼームス坂病院にてー」、「かくあらねば」という姿に囚われ、自縄自縛に自らを追い込み、光太郎のモラハラを剔抉し、智恵子が壊れていく様を追った「売り言葉」、病んでなお紙絵を通して光太郎への愛のメッセージを送り続けた智恵子、的な「智恵子抄」……。今回、どんな光太郎智恵子が表わされるのか、興味深いところです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

其後閲読してゐましたが、此書は大変親切によく出来てゐます、本文はもとより、挿画その他も甚だ趣味が健康です。明るさがあり、又謎のやうなものもあり、おもしろいです。実地に演出した経験が見事に生かされて、細かいところまで注意が行届いてゐます、読者は大いに喜ぶでせう、


昭和25年(1950)9月19日 花巻賢治子供の会・照井登久子宛書簡より
 光太郎68歳

宮沢賢治の教え子だった照井謹二郎と、妻・登久子が起ち上げた児童劇団「花巻賢治子供の会」。昭和22年(1947)、郊外旧太田村に隠棲していた光太郎の慰問のために始められましたが、その後、活動の場を広げていきました。毎年春から初夏には太田村で、秋には花巻町中心街で公演を行い、光太郎も確認出来ている限り7回、それらを観ています。光太郎、若い頃から演劇鑑賞は大好きでした。

昭和25年(1950)には登久子がそれまで上演してきた脚本をまとめ、『どんぐりと山猫』を上梓、光太郎にも贈りました。それに対する礼状の一節です。
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明日開幕です。

コレクション展III いのちを彫る 時を刻む 呉美の彫刻コレクション

期 日 : 2024年12月14日(土)~2025年2月11日(火・祝)
会 場 : 呉市立美術館 広島県呉市幸町入船山公園内
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 火曜日 12月29日(日)~2025年1月3日(金)
料 金 : 一般 300円、高校生 180円、中学生・小学生 120円

日本では古来より仏像などを中心に立体作品が制作されてきました。西洋の制度や文化が流入した明治以降、美術教育にも外来の手法が取り入れられ、そのなかで「彫刻」という概念も誕生します。特にロダンの生命感溢れる人体表現は多くの日本人芸術家や文人たちを魅了し、高村光太郎ら「白樺」の面々を中心に明治から大正期の日本で積極的に紹介され、日本近代彫刻の形成に多大な影響を与えました。また日本の木彫の技術も、西洋の彫刻術を研究したうえで伝統を深化させた木彫家たちによって継承されてきました。戦後は使用される素材や圭太も多様となり、こんにちでは彫刻作品は美術館に限らず街の至るところに点在して、私たちの目を楽しませてくれます。

本展では当館の収蔵作品より近現代の彫刻作品約50点を紹介します。ロダンやブールデルの彫刻を熱心に学んだ高村光太郎、佐藤忠良、舟越保武らをはじめ、平櫛田中の木彫作品、堀内正和や清水九兵衛らによる抽象表現、そして上田直次や水船六洲といった呉ゆかりの彫刻家の作品を通じて、彫刻の多様な表現をお楽しみください。
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関連行事

 鋳造体験ワークショップ「低融点合金を使ってペーパーウェイトを作ろう」
  日 時:2025年2月9日(日) 13:00~15:00
  会 場:地下講座室
  定 員:10名(小学生以上、小学生は要保護者同伴)
  参加費:1,000円(含入館料)
  申 込:12月4日(水)~1月31日(金)に電話もしくはweb専用フォームから

 館長講座 「近代彫刻と現代彫刻について」
  日 時:2025年1月19日(日)、1月26日(日)
  時 間:13:30~15:00
  講 師:横山勝彦館長
  定 員:30名(予約不要・先着順)

 学芸員によるギャラリートーク
  日 時:12月14日(土)、1月11日(土)、2月8日(土)  11:00~(約30分)


同館、近現代の彫刻作品の収集・展示に力を入れられていて、そのコレクション展です。総数約50点を出すというので、かなり見応えがありそうです。

フライヤー表面、メインで光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)。ありがたし。他にも光太郎作品は「裸婦坐像」(大正6年=1917)が収蔵されており、出展があるかもしれませんが、出品目録がネット上に出ていません。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

岩手人には素質がある。必ずいまに続々いい画家や彫刻家が出ると確信してゐる。のぼせないでしっかりやることだ。

昭和25年(1950)9月30日 金野照夫宛書簡より 光太郎68歳

金野はこの時岩手県立美術工芸学校在学中。おそらく新制作派展入賞の知らせに対する祝辞的な書簡と思われます。

戦争協力への悔悟から、自らに対する罰として花巻郊外旧太田村に隠棲し、彫刻の実作からは離れていた光太郎ですが、岩手の若い芸術家たちへの期待は大きいものがありました。

昨日は上京し、お茶の水のワイム貸会議室さんで開催された「第18回明星研究会シンポジウム 大逆事件に震撼した時代~平出修・啄木・晶子」を拝聴して参りました。
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コロナ禍となって以後はオンライン限定でした明星研究会さんのシンポジウム。久しぶりに対面方式も復活(web上でも)ということで、自宅兼事務所がZOOM対応になっていませんので、ここぞとばかりに参加いたしました。

今回メインで取り上げられたのは平出修。光太郎より5歳上の明治11年(1878)、新潟の生まれ。筆名は「露花」。光太郎と同じ頃、与謝野夫妻の新詩社に加わり、明治41年(1908)に『明星』が終刊となると、翌年発刊されたその系譜を継ぐ『スバル』の編集等にあたりました。

横浜の神奈川近代文学館さんには、木下杢太郎に宛てられた書簡がごっそり所蔵されており、その中に『スバル』としての明治44年(1911)の年賀状が含まれています。

恭賀新年 明治四拾四年一月元旦 昴発行所 高村光太郎 吉井勇 江南文三 平出修

本文は印刷で、文面はこれだけですが、なぜか光太郎のが筆頭で、発行名義人だった江南の名が三番目(前年までの江南の前の発行名義人は石川啄木でした)、最後に平出の名も。

明治44年(1911)といえば、幸徳秋水・管野スガ等の大逆事件。平出は弁護士でもあり、被告の弁護にあたりました。

平出の令孫・洸氏は、明星研究会さんの世話役も務められた方でしたが、今年亡くなったそうで、昨日はその追悼を兼ねてのシンポジウムでした。
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ご発表はお三方。

まず、中川滋氏。やはり平出令孫で、洸氏の従兄弟にあたられます。
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血縁の方ということで、平出の系譜、没後の顕彰活動などについてのお話でした。

お二人目が明治大学教授・池田功氏。
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大逆事件のアウトライン、啄木は社会主義的思想に興味を持っていましたし、平出との関係もあり、この事件には非常に関心が高かったこと、事件を描いた平出の小説三編についてなど。

最後に会の中心人物・松平盟子氏。
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管野スガが晶子の短歌を激賞していたこと、スガ自身も晶子ばりの短歌を詠んでいたこと、収監後に平出が『スバル』や晶子の歌集を差し入れたりしたこと等々。

ご発表と並行し、晶子の短歌や、瀬戸内寂聴の小説『遠い声 管野須賀子』の一節を、ゲストの津田真澄氏(劇団青年座)が朗読なさいました。
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それぞれのご発表、特に新事実の披露等を含むと言うわけでは無かったようですが、平出や晶子、啄木についてそれほど詳しいわけではない当方としては、「そうだったのか」の連続で、実に興味深いものでした。

ちなみに光太郎と平出。先述の年賀状以外の関わりとしては、明治38年(1905)に光太郎から平出に宛てた書簡が一通知られています。

しばらく御無沙汰いたし居り候処益々御清福の段奉賀候 このたび御転居の御由御祝申上候 談論の筆も此より愈々麹町式の権威に神田式の辛辣を加ふべき事と存上候 失礼ながらはがきにて御移転御祝まで。

この転居に伴い、平出は自宅に法律事務所を開いたそうです。

光太郎と平出が共に写った写真が二葉確認出来ています。
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明治37年(1904)、新詩社小集での集合写真です。後列ののっぽが光太郎、その右下が平出、その右隣には鉄幹がどんと構えています。

これより前、明治34年(1901)のショット。
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投稿雑誌『文庫』(内外出版協会)が百号発行を記念し、上野の韻松亭で投書家の集まり「春期松風会」を催した際の集合写真。総勢約80人、前から六列目の左端が光太郎です。ただ、平出は写っていることはわかっていますが、何処にいるのか当方には判りません。他にも窪田空穂や水野葉舟、横瀬夜雨、伊良子清白、河合酔茗などが写っているとのことです。

そして平出は大正3年(1914)、数え37歳で骨腫瘍のため早世。光太郎はその三日前に書いた詩「瀕死の人に与ふ」で平出を謳いました。この詩は雑誌『我等』に発表され、この年刊行された光太郎第一詩集『道程』にも収められました。

   瀕死の人に与ふ

 汝の病あつく
 汝はいま死に瀕んでゐる
 暗い、深い、無間の底から不可抗の手が
 すでに汝の手を握つた
 汝はいま何を考へ
 また何を望んでゐるか
 こんこんとして睡る者よ

 汝の縁者はみな涙にひたり
 汝の友はみな愁に凍えてゐる
 感動が人人の心に常習の魔術をかけた
 その中で
 汝は睡つてゐる
 しづかに、またやすらかに
 こんこんとして睡る者よ

 起きよ、めざめよ
 汝のその從順のこころを棄てよ
 汝のそのつつしみ深い忍默を破れよ
 死に背け
 死の面上に拳(こぶし)を与へよ
 死に降服する事なく
 ひたすらに生きよ
 死はただ空洞(うつろ)である
 死はただ敗残である
 死に落つるは人間の墮落である事を知れよ
 死ぬなかれ、死ぬなかれ
 こんこんとして睡る者よ

 汝は今まで生きながら死んでゐた
 汝の仕事は皆生(いのち)のない破片に過ぎなかつた
 汝の本能と良心とがめざめかけて來た時
 汝は死の力におさへられた
 そして脆くも死んでゆかうとする
 涙と哀悼とに囲まれ
 萬人の死を死なうとする
 起きよ、睡るものよ
 その甘美の情念を却けよ
 その卑屈な平安を軽んぜよ
 汝の生きる時また汝の一生に値ふ時が
 今こそ來たのである
 ひたすらに生きよ
 生きる事のまことを捉へよ
 汝の余命は短い
 疾く起きよ
 起きて此の広大無辺のいのちを得よ
 こんこんとして睡る者よ

 汝に濺ぎかけられる多くの涙を
 汝は明かに心読せよ
 人の感情の淫奔性を洞察せよ
 汝は正しく、たじろがず、乱れず
 汝の魂に人間の本体をめざましめ
 さらにその源泉たる自然を体感せよ
 現実の微妙に溶け込めよ
 謙讓を極めた今の汝の心をもつて
 いのちに入るはただ力の有無(ありなし)である
 起きよ、めざめよ
 死は醜し
 愚かなあきらめの小康に身をまかす事なかれ
 死に勝ち、死を滅ぼし
 あくまで汝のいのちに荘厳せられつつ
 肉体の敗闕と共に
 美しく、確然たる運命に帰れ
 起きよ、めざめよ
 こんこんとして睡る者よ

けっこうな長詩ですが、それだけに理不尽な死に対する怒りがよく表されています。

話があちこちに飛びますが、光太郎、大逆事件に関してはほとんど沈黙していました。僅かに事件をモチーフとした木下杢太郎の「和泉屋染物店」を面白いとした程度です。『高村光太郎全集』に、幸徳やスガの名は出て来ません。

しかし、『平民新聞』を購読し、後には幸徳の系譜に連なる大杉栄等のシンパに近い立場にもなった光太郎、何も感じていなかったわけがありません。

その答は最晩年、当会顧問であらせられた故・北川先生が残された「高村光太郎聞き書」に。

 洋行から帰ってきても、その問題にぶつかったな。はじめっから終りまで、それはあった。それで非常に困っちゃって、どうしても最後にはその壁にぶつかる。われわれは考えないでいるよりしょうがないと思った。
 その方にとび込めば相当猛烈にやる方だからつかまってしまう。しかし自分には彫刻という天職がある。なにしろ彫刻が作りたい。その彫刻がつかまれば出来なくなってしまう。彫刻と天秤にかけたわけだ。


狡いといえば狡い考え方ですが、ある意味、仕方がなかったかも知れません。

こういう社会と無縁に芸術精進、という生活が、後の智恵子の悲劇にも繋がったわけで、智恵子が病んでからはそれを是とせず180度方向転換。自ら積極的に世の中と関わろうとします。ところがその世の中の方が15年戦争でおかしな方向に進んでしまっていたわけで、それに加担した光太郎、最大の過ちでした。

閑話休題、幸徳やスガ、そして平出修。これからも語り継がれていって欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

今朝スバルの阿部三夫さんが友達と一緒に来訪。お名刺の紹介と委託のビール五本とを拝受しました。早速三人でビール三本をいただき、時ならぬ山の会飲をいたしました。阿部氏は自作詩朗読、尚浜離宮での写真も拝見しました。

昭和25年(1950)9月9日 中原綾子宛書簡より 光太郎68歳

「スバル」は戦後の第三次。与謝野夫妻の長男・光や吉井勇の勧奨で始められ、晶子の衣鉢を継いだ中原が主宰でした。光太郎はその題字を手がけた他、寄稿も多数行いました。

今年、花巻市に中原令孫から寄贈された大量の光太郎関連史料の中に、この書簡や「スバル」への寄稿原稿も含まれていました。

明日、明後日と2日間限りの展示です。

カナビフォトフェス

期 日 : 2024年12月7日(土)・12月8日(日)
会 場 : 金沢美術工芸大学4号館アートコモンズA 石川県金沢市小立野2-40-1
時 間 : 12/7 10:00~17:00 12/8 10:00~14:00
料 金 : 無料

金沢でなかなか実機を触る機会が無い、というお悩みをここで解決しようと、各企業様のご協力を得て開催する撮影機材展示会です。カメラはもちろん、照明や周辺機器も取り揃え、プロのテクニックや著作権を学ぶ講座も同時開催します。
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光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった豊周(会場の金沢美術工芸大学さん名誉教授)の令孫にして写真家の髙村達氏が、「髙村光雲、高村光太郎、彫刻の写真をフレスコジクレーA0にプリント作品も展示致します」とのことです。

「ジクレー」はファイン紙、A0は紙の大きさの規格で841mm×1189mm。一般的なA4サイズの実に16枚分ですね。
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同様のパネルは東京藝術大学大学美術館さんでの「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」、そして光太郎実家にして現在も達氏がお住まいの旧本郷区駒込林町155番地に隣接する旧安田楠雄邸庭園さんにおける「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」などでも展示されました。小さい画像ではわかりにくい細部まで確認できるのは素晴らしいと思いました。

また、達氏、8日にはセミナー講師も務められるとのこと。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

琅玕洞の広告を発見されたやうですが、この高村道利といふのは小生の次の弟で、例のドイツへ行つた言語学研究をしてゐた死んだ弟です。この弟の生活保障といふことも琅玕洞経営の半分の動機だつたのです。


昭和25年(1950)8月30日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

「琅玕洞(ろうかんどう)」は、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた日本初といわれる本格的な画廊。「広告」は当時の雑誌『方寸』などに載りました。
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道利は光太郎の3歳下。東京外国語学校を卒業後、当時の徴兵制の関係もあり、おそらく1年志願兵で横須賀の要塞砲兵第二聯隊に入り、除隊後、琅玕洞の名目上の店主となりました。ただしあまり熱心に仕事はしませんでした。それもあって琅玕洞は1年でつぶれます。その後道利は、子供の頃から艦艇オタクでしたし、横須賀での軍隊生活が面白かったのでしょうか、職業軍人になることを考えましたが、父・光雲に反対されます。さらにドイツ語の個人教授をしていた近所に住む歌手・関鑑子と結婚したいと申し出ますが、これも光雲が却下。すると、半ば自暴自棄となり、ふいっと渡欧してしまいました。しばらくは手紙が届いていたそうですが、やがて音信不通に。

長男光太郎が家督相続を放棄、次男道利は行方不明、そこで三男豊周が髙村家を嗣ぎました。髙村家は戸籍上は「高村」ですが、慣習として「髙」の字を使い、しかし光太郎は「俺は分家だから」と、戸籍通りに「高」の字を使い続けました。

道利は、光雲没後の昭和10年(1935)になって、フランスの日本大使館から、慈善病院のようなところに入院しているが、日本に送還するので引き取って欲しい、と髙村家に連絡があり、光太郎が神戸まで迎えに行ったそうです。帰国後は実家に住み、豊周から頼まれた翻訳などをしていたのですが、昭和20年(1945)、自宅敷地内に作った防空壕に誤って転落、それが元で亡くなりました。

さて、当会の祖・心平。この頃、中央公論社版『高村光太郎選集』全六巻の編集を始めたようで、その中で明治期の琅玕洞広告を目にしたようです。ことによると『選集』編集に際して元埼玉県東松山市教育長・田口弘氏が心平に貸した光太郎関連スクラップに入っていたのかも知れません。

先週の話になりますが、妻と二人で茨城県笠間市に行きました。

別に笠間でなくてもよかったのですが、妻のリクエストが以下の通りで、そうなると笠間かな、というわけで。
 ① 気合いの入ったモンブランが食べたい
 ② 美味しい新蕎麦が食べたい
 ③ 御朱印が欲しい
 ④ 紅葉も見たい

笠間は以前にも何度か足を運びました。昨年にはやはり妻と隣接する水戸市の偕楽園さんで梅を見た後、笠間に移動して、光雲・光太郎父子の作品も出ていた茨城県陶芸美術館さんでの「生誕150年記念 板谷波山の陶芸 帝室のマエストロによる至高のわざ」を拝観。それ以外にも笠間稲荷さん、常陸国出雲大社さんに御朱印をもらいに行ったりしたこともありました。また、自分一人では日動美術館さんにお邪魔したことも。千葉の自宅兼事務所から車で1時間程です。

さて、まずは旧岩間町の愛宕神社さんに。
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この日、午前中は霧が深く、その分神秘的といえば神秘的でしたが、晴れていたら見えたはずの関東平野の眺望が拝めず、そこは残念でした。

入母屋造の大きな拝殿と、奥には流造の本殿。拝殿の飾り彫刻も見事でした。左右に鶴でしょうか。
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その上、中央には龍。しかし濃霧でよく見えませんでした。
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拝殿に入れていただくと、この地に残る天狗伝説にちなみ、奉納された巨大な天狗面が多数。
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妻はこちらで御朱印を頂き、ミッション③はクリア。

さらに本殿奥の摂社と思われる飯綱神社さんには銅製の見事な六角殿が。
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ちょうど先日、荒川区で「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」展を観覧したばかりで、興味深く拝見しました。江戸期には既にここにあったそうですが。

下山して笠間駅近くへ。スマホの検索画面で探した蕎麦屋さんを見つけ、ミッション②もクリア。

続いてミッション④、紅葉を見に、ということで、日動美術館さんの分館と位置づけられている「春風萬里荘」さんへ。北大路魯山人が北鎌倉でアトリエとして使っていた農家建築です。昭和40年(1965)に笠間に移築されました。

ちなみにイサム・ノグチは魯山人に陶芸を学ぶため、元々この建物のあった北鎌倉に移り、それまで借りていた中西利雄アトリエの契約を解除しました。その後に光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、同アトリエに入ったといういわくもあります。
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魯山人と光太郎、明治16年(1883)の同年生まれです。しかも、誕生日が光太郎は3月13日、魯山人は3月23日と10日しか違いません。ところが、二人の間に直接的な交流は無かったようで、『高村光太郎全集』に魯山人の名は見あたりません。どこかで顔を合わせたりしたことはあるんじゃないかな、などとは思うのですが。

また、直接の縁はなくとも、中西利雄・高村光太郎アトリエの保存運動のからみもあり、この手の建築は見ておきたいと常々考えております。

そんなことを考えながら受付の券売機で入場券1,000円×2を購入し、少し歩いて建物へ。
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この段階ですでに紅葉が見事です。
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茅葺きの屋根が実にいい感じですし、破風まで茅葺きとは恐れ入りました。

入口に掲げられた扁額を見て、仰天。
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署名をたしかめるまでもなく、見た瞬間に、当会の祖・草野心平の字です。
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建物内には額に写す前の直筆も掲げられていました。
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そういえば、日動美術館さん本体にも心平の扁額があったっけと思い出しました。日動画廊の創業者、長谷川仁と交流があったのでしょう。

直筆の方にはキャプションも。
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ここで光太郎や宮澤賢治、萩原朔太郎の名を目にするとは思っていませんでした。

ちなみに玄関の扁額の上、破風の下には貂(てん)の木彫。最初、猫かと思ったのですが、しげしげ見ていたら係員の方が貂だと教えて下さいました。
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さて、改めて建物内。

魯山人が実用していたという衣桁。
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こちらもいい感じの木彫が施されています。

魯山人の陶芸作品。
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唐獅子の釘隠や杉戸などは当時のものなのでしょう。
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芹沢銈介の幅、中村不折の書などはあとから日動さんによって持ち込まれたものかな、と思いました。
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庭もいい感じでした。
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正面向かって右側の茶室は魯山人の設計だそうで。
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逆サイドには元々厩だったエリア。同じ屋根の下に厩があるのは東北の曲屋に似ています。
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素朴なステンドグラス。左は内側から、右は屋外から撮影しました。
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ここには日動さんによる様々な彫刻作品が展示されていて、それは存じませんでした。
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左上は朝倉文夫、右上で藤井浩佑、左下が澤田政廣、右下には北村四海。それぞれ光雲・光太郎父子と大なり小なりの縁はありました。
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さらに奥には魯山人作の、何と便器(笑)。
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ひととおり内部を拝見した後、外の庭園へ。
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少し離れた場所には長屋門もありました。
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そんなこんなでミッション④、紅葉もクリア。

最後にミッション①、「気合いの入ったモンブラン」。道の駅かさまさんでいただきました。ただし、ここはセコく、二人で一つ(笑)。
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素麺か冷や麦のように見えますが、特産の栗がふんだんに練り込まれています。美味でした。

茨城県、都道府県魅力度ランキングでは毎回のように最下位ですが、こういういいところもいろいろあります。ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

一、お茶  [七月廿五日発送] 一、クマゼミ[シヤンシヤン蟬] 一、香水線香 右受領候也 七月廿八日 クマゼミ無事到着、立派です、

昭和25年(1950)7月28日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

「クマゼミ」は木彫にしたいということで、関東には生息していませんので、静岡にいた澤田(『智恵子抄版元の龍星閣主』)に送ってくれるよう、戦時中から頼んでいました。

対面型及びオンラインでのシンポジウムです。主催は明星研究会さん。間際で申し訳ありませんが、締め切りが明日です。ただ、対面の方は2~3日前の段階で、まだまだ申し込みが少ないというお話でしたので、延長があるかも知れません。

第18回明星研究会シンポジウム 大逆事件に震撼した時代~平出修・啄木・晶子

期 日 : 2024年12月8日(日) 
会 場 : 対面型 ワイム貸会議室お茶の水 千代田区神田駿河台2-1-20 御茶ノ水安田ビル
      オンライン ZOOM対応
時 間 : 14時~16時30分
料 金 : 2,000円

1910年(明治43)、明治天皇への暗殺計画が準備されたかどで、首謀者に見做された思想家の幸徳秋水、その内縁の妻で新聞記者の管野スガ子らが逮捕されました。同時に、社会主義者、無政府主義者が全国で多数捕らえられます。翌年1月には十分な審理を受けることなく12名が絞首刑、12名が終身刑の判決を受けました。いわゆる大逆事件です。

強権的な思想弾圧事件は当時の人々を驚かせ、文学者にも大きな衝撃を与えました。その一人が石川啄木。啄木は「明星」同人の弁護士・平出修にひそかに陳弁書を閲覧させてもらいます。平出は大逆事件の弁護人でした。また獄中の管野スガ子は与謝野晶子の熱烈なファンで、平出はスガ子のために晶子の歌集を差し入れてもいます。スガ子は感謝の手紙を平出に送りました。あらためて思うのは、平出修はいわばこの事件における文学者側のキーマンでした。

平出修の子孫で、今年5月に逝去された平出洸さんを偲び、今回は開催いたします。対面とZoomとのハイブリッドで開催いたします。

●プログラム● 講演
「〈平出修研究会〉の沿革~平出洸氏を偲んで」 中川 滋(平出修子孫)
「大逆事件・啄木・平出修」 池田 功(国際啄木学会会長・明治大学教授)
「晶子とスガ子~修を介して交差した二人」松平盟子(歌人)朗読:津田真澄(劇団青年座)
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直接的には光太郎に関わりませんが、与謝野晶子、石川啄木、平出修、いずれも『明星』を通して光太郎と縁の深い人々でした。大逆事件の幸徳秋水や管野スガとは直接の交流はなかったようですが。

明星研究会さんのシンポ、コロナ禍となって以後はオンライン限定でしたが、久しぶりに対面方式も復活ということで、自宅兼事務所がZOOM対応になっていない当方としてはありがたく存じ、参加することに致しました。

対面、オンライン、御都合の良い方法で、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

御申越の「サンデー毎日」への転載といふことは一向差支ありませんが、「或日」といふ詩を小生思ひ出しません、どんな詩だつたのか、確に小生の詩なのか、不安な気もします、間違だつたら滑稽ですから一応おたしかめ下さい、

昭和25年(1950)7月26日 池田克己宛書簡より 光太郎68歳

「サンデー毎日」への転載」は、10月20日発行の増刊「中秋特別号」。巻頭カラーページには光太郎、北原白秋、佐藤春夫、室生犀星、萩原朔太郎等の旧作の詩に、東郷青児、足立源一郎ら当代きっての画家による挿絵がつけられた豪華な造りです。光太郎のページは、宮本三郎が担当しました。
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詩「或る日」は以下の通り。

    或る日

 今日はあの人の結婚する日だ。
 秋が天上の精気を街(ちまた)に送る。
 こんな日に少女が人に嫁ぐのはいい。
 
 山でも一緒に歩きたいほど
 あのいきいきした好い青年が
 こんな日に少女(をとめ)の肌を知るのはいい。
 
 むづかしい儀式と荘厳とが
 あの二人を日ねもす悩ますさうだが、
 何もかもどしどし通過して
 結局二人きりになればいいのだ。
 
 さうしてこの初秋のそよそよする夜に
 二人一しょにねればいいのだ。

20年以上前の昭和3年(1928)の作で、題名も特徴的なものではないためでしょうか、光太郎、自分でどんな詩だったのか忘れていました。で、気軽に「転載してもかまわないよ」と答えたところ、届いた掲載誌を見てびっくり。

この詩は秩父宮雍仁親王と、旧会津藩主松平容保の孫・勢津子妃殿下のご成婚に題を採った詩でした。それに田舎の花嫁の輿入れ姿を描いた挿絵が附され、苦笑したわけです。

過日、「令和6年度荒川ふるさと文化館企画展 鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」のレポートの中でちらっとふれました、光太郎の父・光雲原型による長尾精一胸像再建につき、『朝日新聞』さんが千葉版で取り上げて下さいました。

「千葉医学」礎築く 81年ぶり胸像再建 大学の前身校 初代校長・長尾精一さん

 千葉大学医学部の前身校で初代校長を務めるなどした長尾精一さん(1851~1902)の胸像が、同大亥鼻キャンパス(千葉市中央区)の旧正門近くに81年ぶりに再建され、17日に除幕式が開かれた。
 長尾さんは現在の香川県出身で、東京大学医学部を卒業、1880(明治13)年に千葉の病院に着任し、千葉大医学部の前身となる県立千葉医学校の校長や、千葉医学専門学校と改称された同校の初代校長を歴任するなど、「千葉医学」の基礎を築いた。
 1911(同44)年に、近代彫刻の巨匠、高村光雲が手がけた胸像が大学構内に建立されたが、太平洋戦争中の43(昭和18)年に軍事資材として供出され、台座のみが残っていた。
 今年、千葉大医学部と病院の創立150周年を迎えるのに合わせ、医学部の卒業生でつくる「ゐのはな同窓会」が、千葉市立郷土博物館に保存されていた原型の塑像(そぞう)をもとに胸像を再建することになった。
 胸像はブロンズ製で台座を含めると高さ約4㍍。除幕式には同窓会員や大学関係者ら約50人が参列した。長尾さんの親族も出席し、ひ孫にあたる長尾誠之(まこと)さん(81)=東京都=が「このように立派に復元され、ありがたく感激している」と謝辞を述べた。
 ゐのはな同窓会の吉原俊雄会長(72)は「記念の年に復元できてよかった。千葉大医学部の基礎を築いた功績を多くの人に伝えたい」と話した。


そもそも当方、元の像がかつて存在したことも知りませんでした。そこで、この手の像の図鑑的な豪華本『偉人の俤(おもかげ)』(昭和3年=1928)という書籍にあたってみたところ、光雲の名は記されておらず、原型作者は「阿部胤斎」となっていました。
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「阿部」は「安部」の誤記で、「安部胤斎」は鋳金師。鋳造を手がけたという意味では作者の一人ですが、原型まで作っていたとは考えにくいところで、やはり光雲で間違いないのだろうと思われます。安部は光雲作品の鋳造を多く手がけていますし。おそらく千葉大学さんの方では詳細な記録が残っていて、光雲の名が記されていたのでしょう。
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それにしても、よくぞ塑像原型が現存していたものだと思いましたし、さらに費用もかかる再建までしてくださったものだと感心しました。

ところで、原型も残っていなければ新たに作り直すしかないわけで、そういう例は数多くあります。例えば光太郎が原型を作ったもので、やはり千葉大学さんがらみの「赤星朝暉胸像」(昭和10年=1935)。千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられましたが、これも戦時供出で失われ、光太郎が保管していた原型も昭和20年(1945)の空襲で焼失。戦後、光太郎とも交流のあった彫刻家・武石弘三郎が作り、新潟に建てられた像の原型を使って再建されました。ところが、千葉大学さんのHPでは現在の像の説明として「彫刻家・高村光太郎(詩人としても有名)に製作を依頼。鋳造は東京美術学校教授だった弟の高村豊周が担当し、1936年に完成したのが、この胸像です」と誤記。こちらは大学にきちんと記録が残っていなかったのでしょうか。

同じく光太郎原型の「浅見与一右衛門銅像」(大正7年=1918、岐阜県恵那市)。こちらも供出、原型も喪失のパターンで、現代の作家さんが残された写真を元に再現しました。

逆に、今回同様、奇跡的に原型が残っていてそれを元に完全復元されたのは、光雲作の「広瀬宰平像」。長尾精一胸像ともども、稀有な例です。

同じ千葉県内ですので、キャンパス内に入れてもらえるのであれば、近々見に行こうと思っております。その際にはまたレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

今日彫刻界がどのやうになつてゐるのか、一度見たい気もしますが、又行く気も出ません。木内さんといふ人の作はどんなのか、ノグチさんのモダニズムはどんなのか、一寸興味をひきます、


昭和25年(1950)7月17日 西出大三宛書簡より 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に隠棲して5年近く。中央の彫刻界とは疎遠になっていた光太郎。それでもこの頃ブイブイ言わせていた新進の木内克、イサム・ノグチらの動向は気になっていたようです。

光太郎の父・光雲の木彫関連で2件。

まずは長野県。松本平地区を中心に発行されているタウン紙的な『MGプレス』さん記事。

えびす・大黒像の「里帰り祭」松本市の深志神社「商都松本」の伝統継承 商売繁盛願い込め60年近く続く行事

 松本市の深志神社と境内の恵比寿(えびす)神社で18~20日、商家の神とされる「えびす」の祭りが行われた。深志神社特有の祭りが、個人や企業などが所有するえびす、大黒像を年に1度神社へ持参し、商売繁盛の運気を高める「里帰り祭」。にぎわいを見せた「商都松本」の伝統を継承しようと60年近く続く行事だ。
 恵比寿神社(本町一丁目所有)では、江戸時代中期から祭りが行われたようだ。現在は19日に恵比寿神社、20日に深志神社でえびす祭を実施している。
 その前の18日に行う里帰り祭。深志神社の牟禮(むれ)仁宮司(76)によると、始まったのは1967(昭和42)年ころ。希望者に提供したえびすや大黒像を神社に「里帰り」させてもらい、「この1年の無事への感謝と、今後の繁栄を祈念する」趣旨だという。
 今年の祭りで里帰りした像は約70体。中には伊勢町生まれで幕末から明治の彫刻家・原田蒼渓(そうけい)(1835~1907年)、彫刻家・高村光雲(1852~1934年)の作品も持ち込まれた。
 同神社氏子総代会会長の春日孝介さん(75、深志1)が持参した像には、足裏に「立川内匠富昌」の文字が書かれている。江戸時代に諏訪立川流の建築彫刻の作風を確立した二代目立川和四郎富昌(わしろうとみまさ)(1782~1856年)の作品の可能性がある。春日さんは「普段は家の神棚に飾っている。家を代々守っていくことがないと、こうしたものは残っていかないので、大切にしていきたい」と話した。
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なるほど、ずらりと並んだ恵比寿/大黒天像、壮観ですね。記事にあるものが光雲の真作かどうかは不明ですが、贋作であってほしくないものです。

記事では詳細が判らないのですが、持ちよられたこれらの像、そのまま奉納されるわけではないのでしょうね、いくら何でも。

もう1件、既に始まっている企画展示の情報で、栃木県から。

開館20周年記念特別展 松方正義と那須野が原

期 日 : 2024年11月23日(土)~2025年1月19日(日)
会 場 : 那須野が原博物館 栃木県那須塩原市三島5-1
時 間 : 午前9時~午後5時まで
休 館 : 月曜日(休日の場合は開館)、年末年始(12月29日~1月3日)
料 金 : 一般 300円(250円)、高校生・大学生 200円(150円)
      小学生・中学生 100円(50円) ※( )内は20名以上の観覧料

明治時代に政治家・財政家として活躍した松方正義は、那須野が原の開拓に大きな影響を与えた人物でした。没後100年を迎える令和6年を機に、松方正義の一生を取り上げ、人物像に焦点を当てながら、政界における事績をたどります。また、正義と那須野が原の関係について注目し、正義が那須野が原開拓に及ぼした影響と展開された農場経営の実像を探ります。

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関連事業
 記念講演会①「那須野が原開墾と松方正義」
  日時 11月30日(土)午後2時~4時 講師松方峰雄氏(松方家当主)
  会場 那須野が原博物館 研修室定員50人(先着順) 費用無料
  申込み 電話でお申込みください(℡0287-36-0949)

 記念講演会②「松方正義の鹿児島県における評価~その生涯と功績~」
  日時 12月7日(土)午前10時~12時 講師原口泉氏(志學館大学教授)
  会場 那須野が原博物館 研修室定員50人(先着順) 費用無料
  申込み 電話でお申込みください(℡0287-36-0949)

 記念講演会③「松方正義・巌と千本松農場」
  日時 12月14日(土)午前10時~12時講師金井忠夫氏(那須野が原博物館特別研究員)
  会場 那須野が原博物館 研修室定員50人(先着順) 費用無料
  申込み 電話でお申込みください(℡0287-36-0949)

 別邸見学会
  日時 12月1日(日)①午前9時~12時、②午後1時~4時
  講師 松方峰雄氏(松方家当主) 三野進一氏(那須千本松牧場本部長)
     金井忠夫氏(那須野が原博物館特別研究員)
  会場 松方別邸定員各20人(先着順)
  内容 松方別邸の内部見学 費用 1,000円
  申込み 電話でお申込みください(℡0287-36-0949)

松方正義は明治の元勲。その子、松方三郎も国立西洋美術館さんの元となった「松方コレクション」で有名ですね。フライヤー裏面に画像が載っていますが、光雲が制作した松方の銅像原型(明治24年=1891)が出品されています。
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木彫原型は東京藝術大学大学美術館さんの所蔵で、借り受けての出品です。

銅像の写真は全国の銅像について写真入りで紹介している『偉人の俤(おもかげ)』という書籍から。同書刊行の昭和3年(1928)の時点では、この銅像、那須に立っていたことになっているのですが、現存しているのでしょうか? 
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「高村幸吉」は光雲の通称(本名は「光蔵(みつぞう)」でしたが、高村東雲に弟子入りの際、呼びにくい、と、「幸吉」に改めさせられました)、「岡崎庄次郎」は岡崎雪声の本名です。

ネットで調べても、松方の地元・鹿児島に立つ別の像の情報しか見つかりません。おそらく戦時中の金属供出にやられてしまったのかな、と思っておりますが、情報をお持ちの方はご教示いただけると幸いです。

また、原型の制作年は明治24年(1891)と記録されているのに対し、銅像は明治41年(1908)建立と、20年近くタイムラグがあります。このあたりも謎ですね。こうなると現地に足を運んでみなきゃ、というのが当方の悪癖なのですが(笑)。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

あなたは殊に父上を敬愛して居られましたから、今度どんなに力落としをされたかと思つて申し上げる言葉もありません。どうか勇気をふるひ起してください。 人の生死は人力の及ぶところではありません。小生も夙に覚悟をきめて居ります。たゞ命のある限り人生を信じてゆくに過ぎません。


昭和25年(1950)7月5日 相馬文子宛書簡より 光太郎68歳

相馬文子は、光太郎と同年だった歌人・相馬御風の息女。御風の逝去を知らせる書簡を光太郎に送り、その返信の一節です。

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