カテゴリ: 東北以外

まだまだ情報収集力が足りないようで、事前に気づかなかった展覧会がさらにありまして、昨日は実地に拝見して参りました。
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ちなみに建物の設計は前川國男だそうで。
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展覧会詳細。

特別展 大名と菩提所

期 日 : 2025年10月11日(土)~11月24日(月・振休)
会 場 : 埼玉県立歴史と民俗の博物館 さいたま市大宮区高鼻町4-219
時 間 : 9:00 ~16:30
休 館 : 月曜日(ただし11/24は開館)
料 金 : 一般600円 高校生・学生300円

 埼玉県立歴史と民俗の博物館では令和7年10月11日(土)から、特別展「大名と菩提所」を開催します。
 江戸時代の埼玉県域には忍・岩槻・川越に城郭が存在し、いずれも江戸近郊の要所の守りを固めるため、城主には幕府の要職に就いた譜代大名らが任ぜられました。
 これらの大名たちは、参勤交代や転封(てんぽう)を繰り返すなかで江戸と国許(くにもと)の両方に菩提寺を持ったり、転封に伴い菩提所を変えたり、一貫した墓域を形成したりと、菩提所や墓の在り方は「家」ごとに異なりました。
 そもそも菩提所とは、菩提を弔(とむら)う場所のこと、すなわち先祖の供養(くよう)を行う場のことを指します。江戸時代の大名たちにとって先祖を供養し、子として親の葬儀を執行することは、正当な後継者としての立場を表明する重要な場でもありました。
 本展では260余年の泰平の世を支えた大名が眠る菩提所に注目します。
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江戸時代、主に現在の埼玉県内に領地を与えられていた大名家の「菩提所」にスポットを当てた展覧会です。当時の文書や図絵、刀剣やら甲冑やらのゆかりの品々、古写真などなど。

で、光太郎の父・光雲作の木彫が一体出ていると数日前に知り、馳せ参じた次第です。
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現在の行田市にあたる忍(おし)城、や川越城の城主で、老中も務めた「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱の坐像です。伊豆守というと、島原の乱で幕府軍の総大将としてキリシタン虐殺を行った人物ということもあり、あまり良いイメージはないのですが……。
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像高1尺はないかという小さな像で、厨子に収められていました。似たような感じとしては、今年特別開帳が行われている鎌倉覚園寺さんの後醍醐天皇像。時期的にも同じ頃(明治中期)と思われます。ただ、あちらは白木でしたが、こちらは彩色が施されています。驚いたのは、厨子の上部に設(しつら)えられた帳(とばり)。これも木彫でした。

外側は黒漆塗り、内側に金箔を貼った厨子も見事な造作でした。蝶番(ちょうつがい)も精緻な彫金が施されています。ただし、この手の仕事は分業制が通常で、厨子は厨子、彫金は彫金で、それぞれ専門の職人の手になるものでしょう。そのあたり、光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)に記述があります。

所蔵は新座市の金鳳山平林寺さん。こちらにこの像が納められていることは以前から存じ上げていましたが、寺院の場合、こういった像が平時に公開されているとは限らず、無駄足になってはと思い、これまで足を運んだことがありませんでした。その意味でもこの機会に、と思った次第です。
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これ以外に「おっ」と思ったのが、芝増上寺の「台徳院殿霊廟」関連。広大な面積を持った徳川二代将軍・秀忠の墓所ですが、現物は太平洋戦争の空襲で焼失してしまいました。しかし、それ以前の明治43年(1910)、イギリスで開催された日英博覧会にその10分の1スケールの精巧模型が作られて出品されました。手がけたのは東京美術学校、監督が光雲でした。

模型は当時の英国王・ジョージ5世に献上されましたが、平成25年(2013)に日本に里帰り。現在は平成27年(2015)にオープンした増上寺さんの宝物展示室に展示されています。

そのオリジナルの霊廟も描かれた屏風絵。
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霊廟自体の絵図面。
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こちらに関する出品物もあるとは思っていなかったので、望外の喜びでした。

帰りがけ、図録(1,300円也)を購入。
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おまけ。駐車場にいたにゃんこ(笑)。
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光雲木彫を間近で見られる機会はそう多くありません。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「自然」をして唯一の神たらしめよ。


光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

ロダンは無神論者というわけでもありませんでしたが、キリスト教の教義に縛られる「××を表す時にはこうするのが決まりだ」的な暗黙のルール等はほとんど無視していました。

まだまだ情報収集力が足りないようで、事前に気づきませんでした。昨日開幕の展覧会です。

特別展 プラカードのために

期 日 : 2025年11月1日(土)~2026年2月15日(日)
会 場 : 国立国際美術館 大阪市北区中之島4-2-55
時 間 : 10:00 ~17:00 金曜は20:00まで
休 館 : 月曜日(ただし11月3日、11月24日、1月12日は開館)
      11月4日、11月25日、1月13日、年末年始(12月28日~1月5日)
料 金 : 一般 1,500円(1,300円) 大学生 900円(800円)
      ()内20名以上の団体料金および夜間割引料金(対象時間:金曜の17:00~20:00)

 美術家・田部光子(1933-2024)は1961年に記した短い文章において「大衆のエネルギーを受け止められるだけのプラカードを作」り、その「たった一枚のプラカードの誕生によって」社会を変える可能性を語っています。過酷な現実や社会に対する抵抗の意思や行為、そのなかに田部が見出した希望は、同年発表された作品《プラカード》に結実しました。 「プラカードの為に」と題されたこの文章は、作品が生まれるまでの思考の過程を語ったものであると同時に、社会の動きを意識し活動するひとりの美術家の宣言としても読むことができます。「たった一枚のプラカード」とは、行き場のない声をすくいあげ、解放の出発点となるような、生きた表現の象徴でもあるのです。
 田部の言葉と作品を出発点とする本展覧会は、それぞれの生活に根ざしながら生きることと尊厳について考察してきた、田部を含む7名の作品で構成します。各作家は、これまで社会に覆い隠されてきた経験や心情に目を凝らし、あるいは自ら実践することで、既存の制度や構造に問いを投げかけます。彼女・彼らの作品を通じて、私たちを取り巻く社会や歴史を見つめ直し、抵抗の方法を探りながら、表現することの意味に立ち返ります。

出品予定作家
 田部光子、牛島智子、志賀理江子、金川晋吾、谷澤紗和子、飯山由貴、笹岡由梨子

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関連イベント

 2025年12月6日(土)   キュレーター・トーク
 2025年12月21日(日) 対談 志賀理江子×斉藤綾子
 2026年1月17日(土)   対談 金川晋吾×笠原美智子
 2026年2月1日(日)  牛島智子ワークショップ
 2026年2月15日(日)   鼎談 飯山由貴×FUNI×宮崎理

出展作家のお一人、谷澤紗和子氏は、令和4年(2022)に上野の森美術館さんで開催された若手現代アーティストの登竜門的な「VOCA展」において、智恵子紙絵オマージュの「はいけい ちえこ さま」で佳作を受賞され、以後、そのシリーズをさまざまなところで発表なさったりしています。

VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─/「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 - 」。
都内レポートその2「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」。
谷澤紗和子個展「お喋りの効能」。

今回は、「はいけいちえこさま」シリーズの全点が展示とのこと。さらに新作《目の前に開ける明るい新しい道》では、智恵子、18世紀イギリスのメアリー・ディレイニー、中国の切り絵作家・庫淑蘭(クー・シューラン)、アプリケ作家・宮脇綾子という4名の女性作家との対話を試みたそうです。
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他の出展作家の方々も、それぞれにひとくせもふたくせも、といった展示のようです。

会期が意外と長いので、あちこち飛び回らねばならない怒濤の時期が終わったあたりで拝見に伺おうかと考えております。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

君達に先だつ大家達を心を傾けて愛されよ。


光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

大正6年(1917)にロダンが歿し、翌年、フランスで刊行された雑誌に載った「LES ARTS FRANÇAIS」ロダン追悼号に載ったものが原典です。

10月28日(火)、愛車を駆って北関東三県を巡りましたレポートの続きです。

栃木市立文学館さんの「『歴程』と逸見猶吉、岡安恒武」展、群馬県立土屋文明記念文学館さんの第127回企画展「愛の手紙-友人・師弟篇-」を制覇し、最終目的地は埼玉県東松山市の総合会館さん。こちらでは光太郎に私淑していた彫刻家・高田博厚の作品を集めた「彫刻家 高田博厚展2025―Vitrail(ヴィトロー)―「窓」から見る高田博厚」を拝見しました。
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同市の元教育長で、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が光太郎繋がりで高田とも意気投合、同市での高田の個展や、東武東上線高坂駅前の高田作品を集めた彫刻プロムナード設置などに尽力され、その関係で高田遺族から鎌倉にあったアトリエ閉鎖の際に高田作品や遺品がごっそり寄贈され、それらを毎年、少しずつ展示する催しです。

今年の目玉は、ジョルジュ・ルオーの息女であるイザベル・ルオー作のステンドグラス。鎌倉の高田アトリエに設置されていたものです。
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裏にLEDライトが仕込んであり、良い感じに光が洩れていました。
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そのルオー父娘を高田が作った肖像彫刻。
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父ルオーが元々ステンドグラス職人だったというのは存じませんでした。そういわれてみると、あの太い輪郭線で描いた宗教画には、ステンドグラスの影響がありありと見えます。

いただいてきた無料の簡易図録。
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拝観後、会場を出て、前橋ICから乗って東松山ICで下りた関越道には戻らず一般道を南下。隣接する川島町の川島ICから圏央道に入り、一気に自宅兼事務所最寄りの神崎ICまで。我ながらがっつり走ったな、という感じでした(走ったのは愛車ですが(笑))。
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さて、帰宅したところ、東松山市役所の方からLINEにメッセージ。この日、同市を訪れたこととは関係なく、まったくの偶然ですが「今夜のテレビ東京『開運! なんでも鑑定団』で高田博厚の彫刻が出るそうです」とのことでした。何とタイムリーな。

拝見しましたところ、鑑定依頼品は「ロマン・ロラン像」。さっき見てきたばかりの高田博厚展に並んでいたものと同じものでしたので、さらにびっくり。
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「高田は精神を……」云々は、ロランが語った言葉だそうで。

高田の紹介Vの部分では、光太郎についてもかなり触れて下さいました。
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光太郎没後、記憶と写真を基に高田が作った光太郎像も。同一のものは東松山市の東武東上線高坂駅前彫刻プロムナードにも据えられています。
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で、「ロマン・ロラン像」。鑑定金額は思ったより伸びませんでした。「ニセモノではないが、数多く鋳造されたうちの一つ」という扱いで。たしかにブロンズ彫刻は同一の型から鋳造されたものでも、いつ、どんなコンセプトで、誰が鋳造したか、といった要素でかなり価値の幅が出ます。それにしてもちょっと辛い鑑定のような気もしましたが。

TVerさんなどで配信が見られます。ぜひご覧下さい。東松山市の高田展も11月13日(木)までの開催でして、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お前の葉は皆平たい。さうでなく、お前の方へ葉の先が向く様におし。奥行きで作るのだ。平(ひら)で無くだ。いつでもさういふ様に仕事をおし。さうすれば表面が一つの塊まりの端と見える様になる。それでなくては彫刻はうまく行かない。

光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

まだ一人前の彫刻家となる前の若き日のロダンが、修業先の石膏細工の先輩職人から言われた言葉です。無名のこの職人の教えが、ロダンの眼を開かせました。

彼等が手がけていたのは主に建造物の外壁の装飾でしたが、そこに葉っぱをあしらう際、葉っぱと言われて誰もが思い浮かべるこういうアングルでは立体感が出ない、というのです。
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こうではなく、先端を手前に配せ、と先輩職人。
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なるほど。

ちなみにこの葉は、光太郎智恵子ゆかりの花、グロキシニアです。5月くらいに咲き始め、以来、半年近くしぶとく花をつけ続けています(笑)。
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昨日は高速道路5本を乗り継ぎ、北関東三県を廻っていました。レポートいたします。

まずは千葉県北総地域の自宅兼事務所を出、茨城県の鉾田ICから東関東自動車道に。茨城町JCTで北関東自動車道、栃木都賀JCTで東北自動車道に入り、栃木ICで下道に下りまして、栃木市立文学館さんへ。こちらで「『歴程』と逸見猶吉、岡安恒武」展を拝見しました。
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こちらは初めての訪問でしたが、館の建物は旧栃木町の役場庁舎を保存活用しているもので、古建築好きにはたまりませんでした。大正10年(1921)竣工だとのことですが、なんと平成26年(2014)まで現役の町役場・市役所庁舎として使われていたそうで。取り壊しを惜しんで移築、文学館として再利用というわけで、素晴らしいと思いました。

『歴程』は当会の祖・草野心平主宰でしたが、初代の編輯兼発行人は逸見猶吉。岡安恒武も後に同人に加わりました。共に栃木出身の二人にスポットを当てるということで、地方文学館ならではの取り組みですね。『歴程』には光太郎もたびたび寄稿していますし、逸見・岡安、ともに光太郎と交流がありましたので、足を運んだ次第です。
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逸見と岡安の稿の載った『歴程』などが中心の展示でした。その中には光太郎の素描を表紙に使った号も(そうである旨のキャプションが為されて居らず残念でしたが)。それから、光太郎も寄稿した歴程同人によるアンソロジー『歴程詩集 紀元貳千六百年版』(昭和16年=1941)、光太郎が序文を書いた石川善助詩集『亜寒帯』なども並んでいました。

二人に充てた書簡類の展示があって、そこに光太郎からのものなど含まれていないかと淡い期待をしていたのですが、やはりそれはありませんでした。帰りけに訊いてみたところ、所蔵もされていないとのことでした。

再び栃木ICから東北道、岩舟JCTで北関東道、高崎JCTで関越道に入り北上、前橋ICで下りて、次なる目的地・群馬県立土屋文明記念館さんへ。第127回企画展「愛の手紙-友人・師弟篇-」が開催中で、セコい話ですが、昨日は群馬県民の日で入場無料ということで、昨日を狙いました(笑)。
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こちらでは光太郎の名も前面に押し出して下さっています。
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他にもメジャーどころの文豪たち。
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光太郎の書簡は2通、ともに親友だった水野葉舟に宛てたものでした。同館所蔵のものが出ているかと思っていたのですが、駒場の日本近代文学館さんからの貸与でした。他の作家のそれを含め、今回の展示品は7割方が日本近代文学館さんの所蔵品、残りの2割が土屋文明記念文学館さん、1割がこおりやま文学の森資料館さんといった感じでした。

で、葉舟に宛てた2通の書簡。ともに昭和9年(1934)のもので、『高村光太郎全集』では連続して掲載されています。1通めが5月9日、2通めは5月16日。智恵子の心の病が昂進し、千葉の九十九里浜に移り住んでいた智恵子の母・センと妹夫婦のところに智恵子を預けた直後のものです。翌年には智恵子は南品川ゼームス坂病院に入院します。
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『智恵子抄』の裏面史、といったキャプションとなっていましたが、そのとおりですね。ちなみに現在、花巻の高村光太郎記念館さんで展示されている中原綾子宛の書簡群もそうした一面を持っています。

他の書簡群も興味深く拝見いたしました。やはり書簡という私的なものなので、文学史上の裏面史といった部分が色濃く出ていますし、「この人はこういう字を書くんだ」的な意味でも面白く感じました。

図録は発行されていませんでしたが、それに代わる感じで、日本近代文学館さん編の『愛の手紙 友人・師弟篇』という書籍が販売されていて、購入してきました。平成15年(2003)刊行のデッドストックですが、存じませんでした。今回展示されている書簡で日本近代文学館さんからの貸与品のうち、その殆どが掲載されているようです。
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それから、テレビモニターを使った動画の上映が2箇所で為されていました。展示室では芥川龍之介(約2分)。智恵子や南品川ゼームス坂病院などにも触れられた平成25年(2013)刊行の『脳病院をめぐる人びと  帝都・東京の精神病理を探索する』で紹介されていたものですし、一昨年には「NHKスペシャル 映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編」の中で放映されました。
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撮影は昭和2年(1927)、芥川の死の年です。

それからロビーでは、他の文豪達が写し出される約15分の動画。
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改造社が大正15年(1926)から刊行を始めた「日本文学全集」(いわゆる「円本」)のプロモーションのために制作したものだそうで、徳富蘇峰、菊地寛、さらに光太郎と縁の深かった佐藤春夫や武者小路実篤などが登場していました。佐藤に関しては光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の動画で老境に入った頃の動く姿を見たことがありますが、こちらはまだ30代で「若っ」という感じでした。

同全集では第37篇の『現代日本詩集 現代日本漢詩集』、第38篇の『現代短歌集 現代俳句集』に光太郎の作品も多数掲載されていますが、残念ながらプロモーション動画への光太郎出演はなかったようです。

さて、同館を後に、再び前橋ICから関越道に乗り、埼玉県の東松山ICまで。最後の目的地、同市の総合会館さんへ。こちらでは例年の催しとして、光太郎に私淑していた彫刻家・高田博厚の作品を集めた「彫刻家 高田博厚展2025―Vitrail(ヴィトロー)―「窓」から見る高田博厚」が開かれています。

一気にそこまで書いてしまおうかとも考えましたが、長くなりましたし続きも長くなりますので、明日に廻します。

【折々のことば・光太郎】

細部は全体と一致する様に肉づけせられねばならない。面を重んずる事は肉づけの正確を余儀なくさせる。一つのものは他のものから出てゐる。前者は後者を生む。


光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

一つの彫刻作品でもそうですが、栃木と群馬で様々な文学者達の相関についての展示を見て、人間関係などにも言えることのような気がしました。個々の作家を単体で見るのでなく、幅広い人間関係の中で位置づけることの大切さ、とでもいいましょうか。

再来月になりますが、明星研究会さんでの研究発表を依頼されまして、主に明治末から大正前半の光太郎の立ち位置について、考えているところです。

群馬県から企画展情報です。

第127回企画展「愛の手紙-友人・師弟篇-」

期 日 : 2025年10月25日(土)~2026年1月18日(日)
会 場 : 群馬県立土屋文明記念文学館 群馬県高崎市保渡田町2000
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 火曜日 10月28日(群馬県民の日)は開館(10月29日(水)休館)
料 金 : 一般500(400)円、大高生250(200)円 ( )内は20名以上の団体割引料金
      中学生以下、障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料
      10月28日(火・群馬県民の日)は無料


 手紙は、もともと公表を前提としておらず、特定の個人に宛てて書かれたものです。そのため、文学者の素顔や本音に接することができる資料といえます。本展では、日本近代文学館所蔵の資料を中心に、近代文学者の書簡をエピソードとともに紹介します。
 夏目漱石や川端康成ら文学者たちが友人や師弟に贈った言葉に触れることで、彼らの人柄や生活、作品背景等を感じてください。また、こおりやま文学の森資料館所蔵の、久米正雄が撮影した芥川龍之介の動画を常時放映します。こちらもぜひご覧ください。

出展作家
 二葉亭四迷 夏目漱石  高浜虚子  与謝野晶子  斎藤茂吉  高村光太郎
 柳原白蓮  谷崎潤一郎 萩原朔太郎 大手拓次   菊地寛   芥川龍之介
 横光利一  川端康成  三好達治  土屋文明

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関連行事

 記念講演会 「文豪たちの友情往来:手紙で辿る心の絆」
  11月1日(土) 14:00~15:30   講師:石井千湖 氏(書評家・ライター)
  【先着】 150名(4名様まで申込可) 要事前申込・要企画展観覧券
  近代文学者の友情や交流をテーマにお話しいただきます。

 ワークショップ
  Ⅰ「文学館でタイムカプセル」  11月23日(日・祝) 14:00~15:00
   【先着】 30名(4名様まで申込可) 要事前申込・無料
   ※小学2年生以下は要保護者同伴
   ふみの日に合わせて、手紙の書き方を学び、3年後の自分や大切な人宛てに
    手紙を書くイベントです。
   書いていただいたお手紙は当館で大切に保管し、3年後に投函させていただきます。
   講師:当館職員
  Ⅱ「草木染和紙でオリジナルカードをつくろう」
   12月7日(日) ①13:00~14:30 ②15:00~16:00
   【抽選】 各回15名(4名様まで申込可) 要事前申込・要企画展観覧券
   ※申込締切11月25日(火)必着 ※小学2年生以下は要保護者同伴
   草木染の和紙に模様をつけて、オリジナルカードを作ります。
   講師:山崎梢 氏(草木屋 草木染伝習所)
  Ⅲ「高校生によるお茶席教室」  1月12日(月・祝) 14:00~15:30
   【抽選】 20名(4名様まで申込可)要事前申込・無料
   ※申込締切12月25日(木)必着 ※小学2年生以下は要保護者同伴
   高校生と一緒に、参加者ご自身がお茶を点てる体験型イベントです。
   協力:群馬県立渋川女子高等学校茶道部

各文豪の直筆文字の美しさ(美しくない文豪もいるかも知れませんが(笑))も味わっていただきたいと思い「書作品」カテゴリに入れました。やはり活字で見るのと直筆の文字で見るのとでは大違いでしょう。漱石に関しては愛用の万年筆が出ますし、また、芥川の書簡は河童のイラスト入りだったりします。

芥川と言えば、「こおりやま文学の森資料館所蔵の、久米正雄が撮影した芥川龍之介の動画を常時放映」とのこと。少し前にニュースになりましたね。

『福島民友』さん記事。

文豪の交流、貴重な映像 久米正雄撮影フィルム修復完了、郡山市活用検討へ

 福島県郡山市と横浜市立大が2020年から進めてきた、同市ゆかりの作家久米正雄撮影の映像フィルムの修復作業が完了した。映像には「蒲団」などの作品で知られる作家田山花袋ら当時の文豪たちの様子が映っており、専門家は「大正期の作家らのプライベート空間を写した貴重な映像」としている。
 修復したのは久米が大正末期~昭和初期に撮影し、「こおりやま文学の森資料館」に所蔵していたフィルム12本で、うち8本で映像が確認された。
 中でも1924年4月に多摩川周辺で撮影されたフィルムには、初めて映像が確認された田山や、宇野浩二、里見弴(とん)、岡本一平(岡本太郎の父)ら10人以上の作家が和やかに交流する様子が映されている。また、詳細は不明だが芥川龍之介と菊池寛が座敷で過ごす映像も記録されていた。
 11日、郡山市役所で成果報告会が行われ、市の担当者や専門家らがフィルムの概要を説明した。横浜市立大の庄司達也教授は「写真では確認できていた作家たちが映像として姿を現した。われわれが知らなかった文壇のつながりが分かる」と映像の意義を語った。
 小沢純慶応志木高教諭は「びっくりするぐらい、いろいろな派閥の作家らが仲良く談笑している」と指摘。日大経済学部の山岸郁子教授も「文学史からだけでは読み取ることのできない作家たちの私的な空間、『作家らしさ』を映像に残そうという久米の態度がうかがえる」と述べた。
 市は映像の公開や活用法について検討する方針。
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追記 残念ながら記事にある動画は上映されていませんでした。

出典作家には光太郎の名も。おそらく同館所蔵のものでしょうが、同館では群馬出身で同館初代館長だった伊藤信吉宛の書簡など、結構な量の光太郎書簡を所蔵なさっています。出品目録がネット上に出ていないので詳細は不明ですが。

お隣栃木県の栃木市立文学館さんでは、「『歴程』と逸見猶吉、岡安恒武」が開催中でして、自宅兼事務所のある千葉からは同じ方角ですので、併せて行ってみようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

私は博覧会の頃仕事してゐる日本の芸術家達を見てゐた事があります。折々、客が彼等を急がせて本当に出来切らないものを持つてゆかうとして、其の代価の金を出しては仕事してゐる者を誘惑するのです。けれども彼等は断りました。金は失つても、彼等が見て、出来きらないものを自分の手から離す事は許しませんでした。此が本当の芸術的精神です。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

昔の日本人にはこういう美徳が美徳ともいえないほど当たり前だったわけで……。

昨日は神奈川県逗子市にて開催中の「逗子アートフェスティバル」の一環としてのコンサート「余白露光2~テルミンと箏~」を拝聴して参りました。
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会場は逗子文化プラザホールさん。
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着いた時にはリハーサル中。
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地元逗子市のテルミン奏者・大西ようこさんと、都内ご在住の箏曲奏者・元井美智子さんによるコラボです。
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当会主催の光太郎を偲ぶ連翹忌の集いで知り合われたお二人、これまでもコラボでの公演を複数回なさっています。

さらに仙台にお住まいのヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんの朗読が加わったトリオでも、福島二本松の智恵子生家で今年やられていますし、大西/荒井ペア、元井/荒井組でもそれぞれ複数回。

その荒井さんと元井さん。リハ後のショット。
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さらに荒井さんは昨日、ホワイエに設けられた大西さん所蔵の品々による「智恵子抄」コーナーの解説もご担当。
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連翹忌の集いで出会った皆さんがこうして活動の幅を拡げ、光太郎智恵子の世界を広めて下さっているのは主催者冥利に尽きるというものです。

お二人の後に吊り下げられているのは、切り絵作者・杵淵三朗氏の「境界剪画」。大西さんが運営されている同市のテルミンミュージアムでもかつて拝見しましたが、超絶技巧ですね。

杵淵氏。
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昨日のプログラムには、元井さん作曲の「智恵子抄」が組み入れられ、元井さんが箏を弾きつつ光太郎詩の朗読、そこに大西さんのテルミンがのっかる感じで。

杵淵氏の「境界剪画」をスクリーン代わりに、逗子の海などさまざまな映像が投影されました。下記画像は当日配布プログラムを兼ねたアンケートの一部。
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「智恵子抄」の際には、安達太良山や智恵子生家などの二本松の風景、それから智恵子が千鳥と化した九十九里浜、さらに智恵子紙絵。不覚にもうるっと来そうになりました(笑)。
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「智恵子愛」あふれるステージでした。

他の曲目は、箏曲定番の「春の海」、元井さんのオリジナル曲、テルミンとハープの合奏のために作曲されたものをハープの代わりに箏で、光太郎と同時代人で光太郎の好んだドビュッシー、それから今回が初演の藤枝守氏作曲《植物文様~夢みる茶(Tea Dreaming)》など。

 「葉や茎に電極をつけ、そこから得られる電位変化のデータをもとに音楽的に読み換えるという手法により生み出された音楽」「今回は、お茶の葉の電位変化を元に作られた曲」とのこと。

あっという間の2時間でした。終演後に帰られるお客様の表情も、実に満足げでした。

今後のご関係の皆様のさらなるご活躍を祈念いたします。

追記

昨日折り込まれていた、近々開催され、大西さん、元井さんの出演なさる演奏会のフライヤー等、載せ忘れていました。すみません。
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【折々のことば・光太郎】

――芸術家とは見る人の事です。眼の開た人の事です。其心に、物の内面の本質が、いづれにしても、存在事実として考へられる人の事です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

昨日お会いした皆さんもそうなんだろうな、と、つくづく思いました。音楽は「見る」わけではありませんが。

昨日に引き続き、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエ解体に伴う新聞報道を。

『東京新聞』さん。

高村光太郎やイサム・ノグチも活動した「中西アトリエ」、存続目指し解体 「後世に伝えたい」思い新たに

 「水彩画の巨匠」と呼ばれた洋画家、中西利雄(1900〜48年)が東京都中野区に建てたアトリエが老朽化などで解体されることとなり、1日から工事が始まった。保存の動きもあり移築先などは未定だが、建築部材を残し再建に希望をつなぐ。
◆洋画家・中西利雄のアトリエとして山口文象が設計
 工事は柱や梁(はり)、窓枠などの建具を再利用できるように残す「部材保存解体」で実施。1日は建具や照明、水道の設備などを取り外す作業が行われた。
 アトリエは1948年、建築家の山口文象(1902〜78年)の設計で建てられ、戦後間もない時期のモダニズム建築の先駆けとされる。中西は完成した年に死去し、貸しアトリエとなった。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)が『乙女の像』を制作し、彫刻家のイサム・ノグチ(1904〜88年)も滞在した。
 管理は長年、中西の長男・利一郎さんが担ってきた。2023年に亡くなった後、妻の文江さん(74)が相続。壁がはがれ落ちるなど危険になったため、解体が決まった。
◆移築先は未定だけれど、調査・記録し建築部材を保存
 1日に始まった解体工事には、文江さんや、保存に動いた団体職員らが立ち会った。作業は重要建築の解体実績がある風基建設(新宿区)が、10月末までの予定で行う。
 解体が迫った9月下旬には、有志の建築士5人がアトリエで壁や天井の構造、建築部材の長さなどを細かく調査、記録し、解体と再建への準備を整えた。
 参加した建築士の伊郷吉信さん(72)は「後世の人に、このアトリエを設計した建築家や、ここで制作した芸術家のことを知ってもらいたい。そういう思いで総力を結集した」と語った。
 アトリエは老朽化が進むとともに存続が危ぶまれた。2024年には、保存を望む建築家や文化人らが「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(俳優・劇作家の渡辺えり代表)を発足し、現地保存の道を模索したが、今年8月に断念した。
◆設計に関わった98歳建築家も参加、感慨深げに
 その後、価値ある住宅建築の継承に取り組む一般社団法人「住宅遺産トラスト」(世田谷区)が建物の所有者の仲介などを引き受け、移築保存への希望がつながった。
 文江さんは「これだけの人が協力してくれるとは思わなかった。アトリエに対して熱い思いを持っていた利一郎もうれしいと思う」と喜ぶ。
 アトリエを設計した山口文象の弟子だった建築家、小町和義さん(98)=東京都八王子市=は10代から山口の事務所で働き、実際に設計図を引いた人物だ。
 取材に「モノが少なくて建てるのも大変な時代で、苦労しながら節(ふし)のある板とか柱を集めた。簡素だけど、丈夫な材料でできた、しっかりしたアトリエ」と胸を張り、保存の動きに「よかった」とうれしそうにつぶやいた。
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保存のために建築部材を整理しながら解体が始まったアトリエ=1日、東京都中野区で
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解体に備えた調査で建物の構造や部材を記録する建築士ら=9月24日、東京都中野区で
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中西利雄が建て、高村光太郎らが滞在したアトリエ=1日、東京都中野区で

続いて『秋田魁新報』さん。

高村光太郎ゆかりの都内アトリエ、解体へ 十和田湖畔の「乙女の像」制作

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔にある「乙女の像」塑像も制作した東京・中野のアトリエが解体されることになった。保存活動に取り組んできた秋田市河辺出身の曽我貢誠さん(72)=日本詩人クラブ理事、都内住=は「現地からアトリエは姿を消すが、移築も視野に検討を進めている」とし、部材を保管しながら建物の再建を目指すという。
 アトリエは1948年建設で、斜めの屋根と北側に向いた大きな窓が特徴。施主は洋画家中西利雄(1900~48年)、設計を建築家山口文象(1902~78年)が手がけた。中西は完成を見ずに亡くなったため、彫刻家イサム・ノグチ(1904~88年)や高村らに貸し出された。高村は亡くなるまでの3年半を過ごした。
 中西の長男利一郎さんが長年、アトリエを管理してきたが2023年に他界。老朽化もあり解体の話が浮上する中、利一郎さんと交流のあった曽我さんが昨春、有志と会を立ち上げて署名集めや行政への要望など保存活動を行ってきた。
 曽我さんは「多くの支援を受けながら現地保存の道を模索したが、さまざまな条件もあり断念せざるを得なかった」と話す。現地では今月1日から、柱や梁(はり)、窓枠などの建具を再利用できるように残す「部材保存解体」の作業が始まっている。
 9月26、27日には解体前のアトリエ見学会が行われ、集まった人たちがその姿を目に焼き付け、思い出などを語り合っていた。
 保存活動に携わった神奈川大建築学部の内田青藏特任教授(72)=大館市出身=はアトリエについて、戦後間もない時期のモダニズム建築の特徴がみられる貴重な建物と評価。「再建の可能性が残されたのは意義深い。部材の傷みもみられるが、よりよい形で再現されてほしい」と期待した。
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今後の移築先の確保、さらに場合によっては活用法を考えるなど、まだまだ課題は山積しています。

よいお知恵や提案をお持ちの方、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」曽我氏までご連絡下さい。save.atelier.n@gmail.com

【折々のことば・光太郎】

――芸術とは自然が人間に映つたものです。肝腎な事は鏡をみがく事です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

なるほど、曇った鏡では正しい姿を映せませんね。

保存運動を継続しております東京中野区の中西利雄アトリエ。昭和27年(1952)から光太郎が居住し、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などを制作し、昭和31年(1956)4月2日、その終焉の地となった建物です。設計はモダニズム建築家の山口文象があたりました。

解体が決定し、先月末には関係者対象の内覧が行われました。すでに解体工事が始まっていますが、消滅は回避、解体した部材は保管され、移築先を探すという状況になりました。

その件や今後の見通しについて新聞各紙で報じて下さっています。掲載順に2日に分けてご紹介いたします。まず、「乙女の像」地元の青森県の地方紙2紙。

『東奥日報』さん。

「乙女の像」高村光太郎晩年の拠点 東京・中野 保存目指す有志 見学会

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年、「乙女の像」の塑像を制作した東京・中野のアトリエを巡り、移築を視野に入れた検討が進んでいる。10月にも移築に向けた解体作業が始まり、建物の部材は一時保管されるという。26日、保存を目指してきた有志による見学会が行われ、集まった人たちがその姿を目に焼き付けた。
 アトリエは洋画家中西利雄(1900~48年)が建築、48年に完成した。高村は52年秋から亡くなるまでの3年半を過ごし、十和田湖畔(十和田市)にある「乙女の像」の塑像制作に情熱を注いだ。
 移築に向けた動きには、歴史的、文化的に貴重な住宅建築の継承に取り組む「住宅遺産トラスト」が(東京)が関わり、まずは解体に着手する方向となった。完成から80年近くが経過したアトリエは老朽化が進み、現地での保存が困難な状況になっていたという。
 アトリエは中西の長男・利一郎さん(故人)が大切に管理してきた。高村とも親交があったといい、利一郎さんの妻・文江さん(74)は「中西利雄や高村を好きな方たちがここでたくさんの思い出をつくった。夫の思いが生かされる方向になれば一区切りがつきます」と述べた。
 保存に向けては、都内の有志らが会を立ち上げ、署名集めや行政への要望などを行ってきた経緯がある。
 同日、現地を訪れた建築士の十川百合子さん(71)は「アトリエは戦後の建材が不足する中で建てられたが、工夫が凝らされている。さまざまな文化人が集った歴史があり、後世に伝えるためにも、より良い形で再現されてほしい」と期待した。

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同じく『デーリー東北』さん。

高村光太郎アトリエ解体へ 「乙女の像」制作 都内 老朽化、部材や資料は保管 文化的価値継承へ移築模索も

 彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が十和田湖畔にある「乙女の像」を制作した東京・中野のアトリエが、部材などを保管した上で10月に解体されることになった。有志が建物の保存に向けて尽力してきたが、老朽化が進行して困難に。一方、解体後の移築を模索する動きもあり、関係者は文化的価値の継承を願っている。
 アトリエは、洋画家の中西利雄(1900~48年)が使用する予定で建てられたが、亡くなった直後に完成。貸し出されていたところ、岩手県花巻市で過ごしていた高村が青森県から乙女の像の制作を依頼されたのをきっかけに52年に移り、亡くなるまでの間、制作の拠点とした。高村の前には世界的な彫刻家のイサム・ノグチも使用している。
 高村の死後は、中西の長男の利一郎さんが守り継いできた。ただ、2年前に死去してからは管理が難しくなり、利一郎さんの妻・文江さん(74)は「耐震性などを考えると危険な建物でもあった」と語る。
 有志でつくる「アトリエを保存する会」が行政に協力を要請したり、建物内で文化的な交流活動を行ったりしてきたが、現在地に残すことはかなわなかった。
 だが急転直下、歴史的価値のある住宅建築の継承に取り組む「住宅遺産トラスト」(東京都)が所有者と相談し、都内の建設会社が解体された柱などの部材や建物内にあった資料を一時保管することになった。場所や時期は未定だが、移築に向けた動きもあり、保存する会の曽我貢誠さん(同)は「完全になくなるわけではないということで、ほっとしている」と胸をなで下ろす。
 同会には保存を望む5千通以上の署名が寄せられている。曽我さんは移築の実現に期待を寄せ、「若者が想像力を育むような場所になれば」と願う。
 文江さんも「必要な物は保管してもらえる。主人の思いに応えられる道が見えて良かった」と話した。
 解体工事が行われるのを前に、26日は関係者がアトリエを訪れ、往時に思いをはせた。高村の研究を続けてきた小山弘明さん(千葉県)は「移築などで活用される方向でお願いしたい。(貴重な建築物を)継承していく一つのモデルケースになれば」と語った。

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いろいろセンシティブな問題があり、詳細は書けませんが、現状、こういうことになっています、ということで。

以前も書きましたが、移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。できれば近くであるに越したことはないのですが、離れた場所でも仕方がないでしょう。保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com
よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

――彩色と彫刻と何の関係もありません。光と陰とがあれば彫刻家は沢山です。若し其の構造的表現が正しければ。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

一般にブロンズの塑像や、大理石彫刻などには彩色を施しません。木彫の場合には大理石とは異なり彩色されることがあって、光太郎も行っていますが、それとて最小限です。彩色されていなくても、色彩を感じさせる彫刻でなければ……ということでしょう。

光太郎も寄稿した戦前の地方詩誌の復刻です。

詩誌 門 【復刻版】

発行日 : 近日刊行(2025年10月)
著者等 : 【解題】外村彰(安田女子大学文学部教授)
版 元 : 三人社
定 価 : 30,000円+税

敗戦の年、ビルマの野戦病院に没した詩人・高祖保。18歳で編んだ稀覯誌『門』は高祖の作風模索の経緯を教えてくれるのと同時に、高村光太郎や三好達治をはじめとした既成詩人たちの寄稿も多く眼を惹く。シンプルな装幀かつ誌面構成で、純粋な詩世界を希求せんとする高祖の篤実な姿勢がよく伝わる。総じて同誌は、当時の地方同人詩誌の高い水準を保った達成例を示すものと云えるであろう。高祖が関わった詩誌三誌を附録につけて、若き詩魂の証をここに復刻する。

体裁/A5判、上製、布装 総約510頁
巻末・附録/解題・総目次・執筆者索引、文芸誌『湖光る』創刊号、詩誌『処女地』第6年第1輯、詩誌『声』第壱輯、第参輯、叢書4(『湖光る』『処女地』は表紙・目次・高祖関連の作品および奥付等を部分収録。『声』第2輯は未見)
原誌提供/彦根市立図書館

執筆者一覧
 相川俊孝 
明石染人 麻生恒太郎 安西冬衛 生田花世 井口廸夫 石川善助 石田象夫
 岡崎清一郎 尾形亀之助 喜志邦三 木俣修 黒部政二郎 高祖保 後藤八重子 近藤東
 佐後淳一郎 佐藤清 澤田勇二良 白鳥省吾 高村光太郎 竹内勝太郎 角田竹夫
 外山卯三郎 中西悟堂 南江二郎 野口米次郎 野長瀬正夫 野村吉哉 春山行夫
 平木二六 堀場正夫 峰専治 三好達治 村野四郎 百田宗治 森田恵之介 渡邊修三
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高祖保は岡山県出身の詩人。少年時代に滋賀県の彦根に引っ越し、旧制彦根中学時代から詩に親しんで、今回復刻される『門』なども彦根で刊行しました。昭和18年(1943)には光太郎の年少者向け翼賛詩集『をぢさんの詩』の編集実務を担当、光太郎にいたく感謝されました。このあたり、子息の宮部修氏が書かれた高祖の評伝『父、高祖保の声を探して』に記述があります。最期はビルマ(現・ミャンマー)で戦病死しています。

確認出来ている限り、『門』への光太郎寄稿は2回。創刊号(昭和3年=1928)に「その詩」という詩、終刊号(昭和5年=1930)には「詩そのもの」という散文を寄せています。その他、よくあるケースで、きちんとした作品ではなく、寄稿者から送られた書簡をそのまま巻末の編集後記的なページに転載する例があり、もしかすると光太郎のそれも有るかも知れませんが、未確認です。

『門』への寄稿者、上記にあるとおりですが、なかなかのメンバーの名が並んでいます。このうち、光太郎と交流のあった面々も10名以上です。

今回の版元の三人社さん、京都の書肆ですが、この手の戦前・戦後の地方詩誌などの復刻を多く手がけられていました。例えば上記内容見本画像の下の方にも記述がありますが、『椎の木』。こちらにも光太郎がたびたび寄稿しています。ただ、こちらの内容見本には光太郎の名が無く、復刻されているのを存じませんでした。

こういう地方の詩歌誌で、光太郎が寄稿したことがわかっていながら、国会図書館さん、日本近代文学館さん、その他各地の図書館さんや文学館さんなどに所蔵が確認出来ず、復刻も為されていないため『高村光太郎全集』にもれている作品がけっこうあります。中には題名や出版年月日まで分かっているのに見つからないものもあります。「よっしゃあ、見つけたぁ!」と思って閲覧させてもらったら、光太郎のページだけ切り取られていて見られなかったことも(笑)。

そういった知られざる作品を掘り起こすのがライフワークの一つとなっていますが、その意味では、今回のような復刻はありがたいことです。実際、それで探していたものを見つけたとか、不明だった詳しい初出誌情報等が判明したということも少なくありませんし。

なかなか商業的には成り立ちにくい企画とは存じますが、こういうことの灯を絶やさないでほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

レムブラントはルーヴルで模写をする事によつて会得されはしません。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

レンブラントに限らず、過去の巨匠の作品を模写(彫刻なら模刻)するだけでは、その精神を真に理解するのは不可能ということです。模写(模刻)によって分かることも少なからずありましょうが、それで制覇した気になっては駄目だよ、ということでしょう。

愛知県から演奏会情報です。

第4回 前川健生テノールコンサート~あいのうた~

期 日 : 2025年10月19日(日)
会 場 : 穂の国とよはし芸術劇場PLAT 愛知県豊橋市西小田原町123番地
時 間 : 15:00開演
料 金 : 一般 3,500円 高校生以下 2,000円

本演奏会では偉大なる芸術家高村光太郎作詞による妻・智恵子との苦難と愛を歌った『智. 恵子抄』をはじめとする素晴らしい作品の数々を演奏いたします。本年2025年は、わたく. し前川が東京二期会員として演奏活動を始めて10年目、また30代最後の年でもあります。 社会的にさまざまな出来事があったこの数年間を振り返り、また個人的な節目として、研鑽の結果を故郷・東三河の皆様に披露をしたく演奏会を準備いたしました。トークや解説. を交えながら、楽しくお聞きいただけるコンサートにいたします。是非お越し下さい。

出 演 : 前川健生[テノール]  赤松美紀[ピアノ]

予定曲 : 
 高村光太郎作詞作曲 歌曲集『智恵子抄』 
 マスカーニ作曲『カヴァレリア・ルスティカーナ』 母さん、あの酒は強いね
 トスティ作曲「理想の人」「君なんかもう」「かわいい口もと」 
 クルティス「忘れな草」 
 カルディッロ カタリ・カタリ ほか 
 (都合により変更となることがあります)
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故・別宮貞雄氏作曲の歌曲集「智恵子抄」が大きく前面に出されています。

最近では同じく二期会の紀野洋孝氏があちこちで歌われ、CD化されていますし、他の方もぽつぽつ取り上げて下さっています。紀野氏より前に故・永田峰雄氏によるCDもリリースされています。音楽之友社さんから楽譜も公刊されており、やはり楽譜と音源が公に出ていると演奏会でプログラムに入れやすいというところがあるのでしょう。もっとも、ろくでもない曲ではそうは成らないでしょうが。

今回、「「智恵子抄」より」とされていませんので、全曲演奏されるのでしょうか。全曲だと「Ⅰ 人に」「Ⅱ 深夜の雪」「Ⅲ 僕等」「Ⅳ 晩餐」「Ⅴ あどけない話」「Ⅵ 人生遠視」「Ⅶ 千鳥と遊ぶ智恵子」「Ⅷ 山麓の二人」「Ⅸ レモン哀歌」と9曲の構成です。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

増盛の度合は人によります。彫刻家一人一人の分別と気質とによる事です。それ故やり方の伝授といふものは無い。工場の秘訣といふものは無い。唯真実の法則があるばかりです。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 カミーユ モークレール筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

いわゆる「見て盗め」というのはこういう考え方に根ざしているのでしょうか。音楽でもそういうことがありそうです。この場合「見て」より「聴いて」の部分が多そうですが。

昨今流行りのAIを使って、いわゆる巨匠の作品を徹底的に分析し、その特徴を色濃く持つ新しいものを創造することも可能なのでしょうが、そんなことをやったとて滑稽なものしか出来ないような気もします。古い考え方でしょうか。

栃木県から企画展情報です。

『歴程』と逸見猶吉、岡安恒武

期 日 : 2025年10月11日(土)~2026年3月22日(日)
会 場 : 栃木市立文学館 栃木県栃木市入舟町7-31
時 間 : 9時30分〜17時00分
休 館 : 月曜日(月曜日が祝日の場合は開館し、火曜日休館)
      祝日の翌日(祝日の翌日が土曜・日曜・祝日の場合は開館)
      年末年始(12月29日〜1月3日)
料 金 : 一般 330円(260円) 中学生以下 無料
      ※( )内は、20名以上の団体割引料金

 現代詩の雑誌『歴程』は、昭和10年(1935)5月に本市ゆかりの詩人である逸見猶吉(へんみゆうきち 1907~1946)が初代編輯兼発行人となり、草野心平、中原中也ら8名によって創刊されました。現代詩を代表する詩人たちが集ったこの雑誌は、戦時中の中断を経て戦後に復刊、現在に続いています。
 本展では、昭和27年(1952)に同誌の同人となった本市出身の詩人・岡安恒武(おかやすつねたけ 1915~2000)とともに、二人の生涯と作品を収蔵品を中心に紹介します。

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関連行事
 1 文学散歩「逸見猶吉ゆかりの地めぐり」
  案内:渡瀬遊水池ガイドクラブ  日時:2026年2月14日(土) 13:30~15:30
  場所:渡瀬遊水池内(谷中村史跡保存ゾーンなど)  参加費:無料

 2 ワークショップ「ミニヨシ灯りづくり」
  講師:渡瀬ヨシ愛好会     日時:2025年12月7日(日) 10:30~12:00
  場所:文学館1階とちぎサロン   参加費:400円

 3 学芸員によるギャラリートーク
  日時:2025年10月25日(土)、12月14日(日)、2026年3月7日(土) 13:30~14:00
  参加費:無料


光太郎もたびたび寄稿したり、その絵が表紙などを飾ったりした詩誌『歴程』。てっきり最初の編輯兼発行人は当会の祖・草野心平だと思い込んでおり、逸見猶吉だったというのは存じませんでした。

ちなみに『歴程』への光太郎寄稿、その最後のものは「逸見猶吉の死」という文章でした。昭和23年(1948)のことでした。

 逸見猶吉の満州客死にはまつたくやりきれない感をうけた。その報をきく前に、何となく逸見猶吉があぶないといふ気がかりは強くしてゐたが、それは彼の烈しい気象を考へて満州の当時の事情と思ひ合せ、万一むちやな闘争でもやりはしないかと思つたからであつた。聞くところによると、さすがに大人のやうになつた彼は、終戦後おだやかに身を処して過激な行動などもなく、食品か何かを売つたりして生活してゐたさうであるが、あの「ウルトラマリン」を書いた此の詩人のさういふ姿を想像するのさへ痛々しい。かういふ苦労と無理と多分甚だしい栄養不足等から結核が急に悪化したに違ひなく、かつては強靱そのもののやうだつた彼もつひに満州に於ける日本瓦解と共に仆れた。
 逸見猶吉の詩の魅力はその稀有な高層気圏的気稟にある。その詩に於ける思想も生活も言葉もすべて此の稀元素のやうな気稟の噴煙を吐かしめる因数的存在としてのみ意味がある。彼の詩は字面のどこにもなくて、しかも字面に充実して人を捉へる。その由来を究尽してゆくと何もないところに出てしまふくせに、究尽の手の脈には感電のやうなシヨツクが止まない。詩の不可思議をまざまざと示す彼の詩は、殆ど類を絶して、彼以後に彼の如き声をきかない。彼のやうな詩人は多作であり得るわけがないから、恐らく遺した詩は極めて少いであらう。ウラニウムのやうに少くて、又そのやうに強力な放射能を持つてゐるのだ。今座右に一篇の詩もない。しかし曽てよんだ彼の詩のひびきはりんりんと耳朶をうつてやまない。思想も生活も言葉も此の無形の実在に圧倒され、慴伏せられて遂に思ひ出せない。その詩人が死んだら、もう二度とその類の詩をきき得ないといふ稀有な詩人が、こんどのどさくさの中の多くの死にまじつて死んだのである。


哀惜の念を滲ませつつ、実に的確な評をも与えています。

個人的にも、昭和4年(1929)には、光太郎と逸見、心平、それから高田博厚、岩瀬正雄、岡本潤、横地正次郎の総勢7名で群馬の赤城山に登り、泊まった宿で夜中に酒が無くなると、赤城神社に奉納されていた御神酒を拝借、などということをやっていたりした間柄でした。

もう一人、今回の企画展で取り上げられる岡安恒武。従来、光太郎との直接の交流は確認出来ていませんでしたが、つい最近、光太郎から岡安宛の書簡を発見したばかりなので、驚きました。

昭和21年(1946)に岡安が編集にあたり(発行人は岡安の兄・岡安大仁)、栃木で発行されていた雑誌(というより冊子)『地人』第3号に、「高村光太郎先生ヨリ」の題で全文が引用されています。
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「地人」毎号忝く、御礼申上げます。宮沢賢治精神に基く地人塾の存在は心強く、どこまでもやり通していただく事を切望いたします。ここでも佐藤勝治さんが「ポラーノの広場」をつよい信念を以てはじめられました。小生此地に来て親しく宮沢賢治さんの委細を見聞するに従ひ、ますますその人の大と深とが身にしみて感じられます。

『地人』は宮沢賢治の「羅須地人協会」から名を採り、賢治精神に基づいて賢治作品や評論等を掲載したもので、花巻で発行されていた同様の『ポラーノの広場』を引き合いに出しています。こちらの編集は光太郎に花巻郊外太田村移住を勧めた分教場教師・佐藤勝治で、光太郎も度々寄稿していました。

光太郎の遺した郵便物等の授受の記録「通信事項」昭和21年(1946)2月20日の受信記録には「「地人」二号 」、2月22日の発信記録には「岡安恒武氏へハカキ」の記述があり、この書簡を指していると考えて間違いなさそうです。

この『地人』、昭和24年(1949)まで発行が確認出来ています。逸見も光太郎や心平同様、賢治には並々ならぬ関心を寄せており、改めて賢治の影響力に感嘆します。
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こちらは昭和9年(1934)の「宮沢賢治一周年追悼会」なる会合の集合写真。逸見と心平が写っています。当然ここにいるべき光太郎の姿がありませんが、智恵子の心の病が昂進し、さらに父・光雲が危篤状態に近い頃でしたので、無理だったのでしょう。岡安はまだ二十歳そこそこで、こうした席にはまだ参加していない感じです。もしかすると、最後列の学生服二人のうちのどちらかが岡安だったりするかも知れませんが……。

その二人を取り上げた企画展ということでこれは行かざあなるまい、と思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

もちろん凡庸な人間が自然を模写しても決して芸術品にはなりません。それは彼が「見」ないで眺めるからです。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「見る」と「眺める」、英語の「watch」と「see」のような感じでしょうか。

本日開幕の「逗子アートフェスティバル」の一環としてのコンサートです。

余白露光2 ~テルミンと箏~

期 日 : 2025年10月18日(土)
会 場 : 逗子文化プラザホールなぎさホール 神奈川県逗子市逗子4-2-10
時 間 : 13:30~15:30(13:00開場) 
料 金 : 3,000円(中学生以下1,500円)

触れずに演奏する不思議楽器テルミン(世界最古の電子楽器)と箏の演奏会に、切り絵装飾と映像を重ねた幻想的な舞台。春の海、月の光、といった名曲に加え、テルミンと十七絃箏の為の新曲(藤枝守)初演予定。

旧逗子高等学校武道場で開催された『余白露光』(ZAF2024)の続編です。今年は切り絵も更に増えて23本。昨年『余白露光』ワークショップで、逗子の学校の生徒さんに作って頂いた切り絵もホール舞台装飾に参加します。

連作『植物文様』とは、葉や茎に電極をつけ、そこから得られる電位変化のデータをもとに音楽的に読み換えるという手法により生み出された音楽です。今回は、お茶の葉の電位変化を元に作られた曲です。

また、本演奏会では、通常の十三絃箏に加え、十七絃箏も演奏されます。十七絃箏とは、宮城道雄氏が作曲および合奏するにあたり低音域の必要性を求め作られました。当初はあくまで伴奏楽器でしたが、沢井忠夫氏により独奏楽器として確立されました。従来の箏とは異なる深く沁み渡る音が特徴です。

アーティスト紹介
 大西ようこ Yoko Onishi [テルミン]  元井美智子 Michiko Motoi [箏] 
 杵淵三朗 Saburo Kinebuchi[境界剪画・民族楽器] 

演奏予定曲目
 春の海(宮城道雄) 月の光(ドビュッシー) いにしえの光(竹味奈美) 秋に(橘川琢)
 《植物文様~夢みる茶(Tea Dreaming)》 (藤枝守) 『智恵子抄』より さくら(日本古謡)
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テルミン奏者の大西ようこさんが逗子にお住まいということで、お仲間を率いて地元での演奏。昨年に引き続いてです。同市の『広報ずし』(「押しずし」とか「ちらしずし」のようですね(笑))今月号。
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大西さんは、今回も出演される箏曲の元井さん、それから出演はなさいませんが聴きに来られるという朗読の荒井真澄さんとお三方で、二本松の高村智恵子生家/智恵子記念館さんで開催された高村智恵子生誕祭の一環として、4月に当会主催で智恵子生家の座敷を会場にして行ったコンサート音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれたにもご出演なさいました。
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元井さんは荒井さんと組んで、昨年から仙台、花巻で演奏。今年は花巻高村光太郎記念館さんでも
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さらにフライヤーにも写っている杵淵三朗氏の「境界剪画」がステージを飾るようです。また、同氏のご紹介に「民族楽器」とあり、演奏もされるのでしょうか。

プログラムにある『智恵子抄』よりは、おそらく元井さんのオリジナル曲。昨年、やはり大西さんとのコラボ「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」でも演奏されました。

また、会場入口には大西さん所蔵のものを中心とした「智恵子抄」コーナーも設けられるとのこと。そのパネル制作、ちょっとだけお手伝いいたしました。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

芸術は静観です。自然を洞察し、又自然の中の心霊を推測する喜悦です。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

今回演奏される藤枝守氏作曲の連作『植物文様』は、「葉や茎に電極をつけ、そこから得られる電位変化のデータをもとに音楽的に読み換えるという手法により生み出された音楽」だそうで、こういうのも自然の洞察、推測なのかもしれません。

もう12回目か、という感じです。北鎌倉明月院さん裏手(徒歩365歩)にあるカフェ兼ギャラリー笛さんでの光太郎と尾崎喜八にかかわる展示です。

笛さんのオーナー・山端氏の奥様が光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫で、さらにすぐ近くにお住まいの、白樺派の一員で光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏と共同で、両家に残る光太郎・尾崎の関連資料等が展示されます。一度に展示できる量ではないので、毎年少しずつ入れ替えながら開催されています。

さらに今年は、石黒氏の編集で当会顧問であらせられた北川太一先生の光太郎と尾崎の交流を追った玉稿の集成『高村光太郎と尾崎喜八』出版記念ということで、1月から3月にかけてもイレギュラーで展示が為され、6月には石黒氏、山端氏、そして『高村光太郎と尾崎喜八』の装幀を担当された版画家の
山室眞二氏によるトークイベントもありました。

そんなこんなで、毎年秋の展示はどうするのかな、と思っていたのですが、例年通り行うそうです。

回想「高村光太郎 尾崎喜八」詩と友情 その12

期 日 : 2025年10月10日(金)~11月18日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 詩の朗読会 11月15日(土) 15:00~
 高村光太郎と尾崎喜八の詩を朗読します。詩を朗読して下さる方を募集しています。

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今回の展示内容の詳細は不明ですが、過去には光太郎が尾崎夫妻の結婚祝いに贈ったブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)も展示されました。ミケランジェロ作品の模刻で、他に鋳造されたことが確認出来ていない実に貴重な一点物です。尾崎の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の息女で、光太郎は我が子のようにかわいがっていました。
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関連行事としての朗読会は、令和4年(2022)から始まりました。ほとんどが一般の方で、今年も朗読者募集中とのことです。当方も一度出演、といっても、自分で朗読はせず(笑)、昭和27年(1952)に録音された光太郎自身の朗読音源を聴いていただきました。

今年の第69回連翹忌の集い、さらに7月に開催された「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」で光太郎詩の朗読をお願いしたフリーアナウンサーの早見英里子さんと、朗読家出口佳代さんのコンビにお声がけしたところ、ぜひ参加したいとのことでした。お二人は光太郎智恵子ゆかりの地で朗読をなさり、自撮りでの動画をSNSにアップされることをなさっていて、今後も続けたいということでしたので、渡りに船だったようです。

ぜひ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

人間の叡智と誠実との最高の証跡である美しい作品は、人間につき、又世界について言ひ得る限りの事を言ひ尽してゐます。そして又其外に知る事の出来ないもののある事を会得させます。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

ロダンも非常にポジティブな人だったようです。そうした面は光太郎、そして尾崎にも受け継がれていきました。

光太郎終焉の地にして記念すべき第一回連翹忌会場ともなった、中野区の中西利雄アトリエ。モダニズム建築家・山口文象の設計です。一昨年からその保存運動に取り組んでいます。

文治堂書店『とんぼ』第17号/「中西利雄アトリエを後世に残すために」企画書。
「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野」。
『中野・中西家と光太郎』。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 意見交換会。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 署名用紙。
「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
『東京新聞』TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機。
中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会レポート。

現地保存にむけ、多くの皆さんが署名して下さったり、展示やイベントなどの関連行事にもご協力いただいたりしましたが、様々な理由で移設の方向で梶を切ることとなりました。

その後、住宅遺産トラストさんのご協力をいただけることになり、いったん解体して部材を保管し、移する方向で動いております。

そこで、関係者のみが参加しての内覧会を解体前に行うこととなり、9月26日(金)、27日(土)の2日間、ともに午後、開催いたしました。54平米の小さな建物でキャパに制約があり、申しわけありませんがクローズドでの実施とし、このブログでは告知できませんでした。

撮影してきた画像を載せます。

まず正面方向からの外観。
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採光のため北側に大きく作られた窓。
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東側、そして南側の外観。
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窓枠は北側以外はサッシに換えられています。
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そして内部。
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二階、というか、ロフトのような空間があり、そこから俯瞰しました。右手が北側になります。右上のあたりで光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が制作されました。
キャプション「中西アトリエにて 「乙女の像」制作風景」① キャプション「中西アトリエにて 「乙女の像」制作風景」②
ちなみに像を据えた回転台は、助手を務めた青森県出身の彫刻家・小坂圭二、さらに小坂の弟子にあたる北村洋文氏へと受け継がれ、北村氏から十和田湖観光交流センター・ぷらっとに寄贈されました。
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ロフト部分。ここに上がったのは初めてでした。
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下から見上げるとこんな感じ。
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施工主の中西利雄の意向で作られた空間で、ここに弦楽アンサンブルの演奏者に入ってもらい、階下のアトリエ部分でダンスパーティーなどとという構想があったそうです。実現はしませんでしたが。

玄関脇、奥の小部屋など。
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中西利雄蔵書類。
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中西利雄はこのアトリエの完成直前の昭和23年(1948)に亡くなり、戦後の混乱期ゆえ、光太郎のようにアトリエを戦災失ったりした芸術家の需要があるだろうと、中西夫人が貸しアトリエとして運用することにしました。光太郎の前には、イサム・ノグチがここを使い、昭和27年(1952)から昭和31年(1956)まで光太郎。その後、画家の陶山侃に貸し出されたとのこと。

光太郎が居た間、実弟で鋳金の人間国宝・髙村豊周、その子息で写真家となった髙村規氏、当会の祖・草野心平、当会顧問であらせられた北川太一先生などをはじめ交流のあった人々が連日、ここを訪れました。「乙女の像」依頼主の津島文治青森県知事、県と光太郎を仲介した佐藤春夫、「乙女の像」を含む一帯の公園を設計した建築家・谷口吉郎、光太郎の花巻疎開に尽力した宮沢清六や佐藤隆房医師、画家の難波田龍起、写真家・田沼武能、光太郎の古い親友で陶芸家のバーナード・リーチ、伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀、文学方面では亀井勝一郎や高見順、尾崎喜八、親友だった水野葉舟子息でのちに総務庁長官や建設大臣を歴任した水野清、芸能関係でも長岡輝子、初代水谷八重子、ラジオパーソナリティーの秋山ちえ子などなど。

そうした人々の息づかいも感じられる空間でした。

移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。できれば近くであるに越したことはないのですが、離れた場所でも仕方がないでしょう。

保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

人間が自分を育てるのです。神性あるものは自然です。神とはわれわれの事です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

わけのわからない新興宗教の教祖様のように「我こそは神」なり、というわけではなく、全ての人間は心の中に「神」のような部分、いわば「良心」を持っていて、その声に従うことが大切だ、ということでしょうか。ある種の性善説ですね。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。クローズドの講座なのでこのブログにての告知は致しませんでしたが、同市の生涯学習的施設な「きらめき市民大学」さんで、「高村光太郎と東松山」と題しての約90分間の講義をさせていただきました。
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基本、シニアの方々が対象で、令和元年(2019)から年に一回、講師を務めております。生徒さんが毎年代わるので、ほぼ同じ内容で話を進めることができ、楽させていただいております(笑)。

ちなみに今年度の予定表。他自治体等で同様の事業を担当されている方など、ご参考までに。
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前半は光太郎という人物の人となり、その生涯をダイジェストで、後半が本題で、同市の元教育長にして戦時中から光太郎と交流がおありだった故・田口弘氏や、光太郎・田口氏と交流のあった彫刻家・高田博厚の関係から、同市に残る光太郎関連のモニュメントや寄贈資料について。

毎年千葉の自宅兼事務所から愛車を駆ってお邪魔していますが、途中、高速道路などで渋滞だの通行止めだのが発生するといけないので、早めに出ます。おおむね何事もなく早めに着け、時間が余りますので、昨日は東武東上線高坂駅前から延びる高田博厚作品をずらっと並べた彫刻プロムナードに立ち寄り、高田作の光太郎像にごあいさつ。光太郎と高田のみ魂に「今年もお二人についてくっちゃべらせていただきます」。
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その甲斐あってか(笑)、講義の方は無事終えることができました。

終了後、職員の方から高田、そして彫刻プロムナード関連のさまざまなイベントのフライヤーをいただきました。

まず市が主催のもの。

ひがしまつやまアートマルシェin高坂彫刻プロムナード

期 日 : 2025年9月28日(日)
会 場 : 中通公園 埼玉県東松山市本宿2-24
時 間 : 10:00~15:00
料 金 : 無料

 東松山市では、毎年高坂彫刻プロムナードでアートイベントを開催しています。
 今回は、昨年度までのアートフェスタから、よりプロムナードの彫刻作品と芸術にフォーカスしたイベントにリニューアル。 ポスターデザインは、東松山市應援團員の絵子猫さんにご協力いただきました。
 彫刻に触れて楽しむ講演・彫刻鑑賞会をはじめ、アートワークショップ、プロムナードクイズ、軽食販売のほか、市内の彫刻作品を巡る謎解きイベントもスタートします!
 ぜひ足をお運びください。
 (ステージイベント、歩行者天国はありません。)
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同市ご在住のイラストレーター・絵子猫さんを引っぱり出してのワークショップなど。

その関連行事的な位置づけのような講演会も。

聴いて、触れて、楽しめる 講演・彫刻鑑賞会 彫刻の “いのち” ―触覚に感応する芸術の秘密―

期 日 : 2025年9月28日(日)
会 場 : 講演会(集合) 高坂図書館(東松山市元宿2-6-1)
      彫刻鑑賞(解散) 高坂彫刻プロムナード(東武東上線高坂駅西口駅前通り)
時 間 : 講演会 午前10時30分から11時30分まで
      彫刻鑑賞 午前11時30分から正午まで(徒歩移動含む)
料 金 : 無料
講 師 : 立正大学仏教学部 秋田貴廣教授

 東松山市では、毎年高坂彫刻プロムナードでアートイベントを開催しています。
 今回は、昨年度までのアートフェスタから、よりプロムナードの彫刻作品と芸術にフォーカスしたイベント「アートマルシェ」にリニューアル。その関連企画として、「聴いて、触れて、楽しめる 講演・彫刻鑑賞会」を開催します。
 高坂図書館で彫刻に触れる魅力についての講演の後、高坂彫刻プロムナードに移動して、実際に彫刻作品を触って鑑賞していただきます。
 「触れる」ことで増す彫刻の魅力に迫ります!この機会にぜひご参加ください。
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さらに、「高田博厚と遊ぼう会」さんという地元の市民団体の主催で、同日。

高坂彫刻プロムナード活性化プロジェクト 『博厚(ひろあつ)フェス』

期 日 : 2025年9月28日(日)
会 場 : カトル・セゾン/ぼくのみそらーめん駐車場 埼玉県東松山市元宿2丁目21-9
時 間 : 10:00~15:00
料 金 : 無料

私達は高坂駅の西口にある高坂彫刻プロムナードを中心に活性化を推進しています。高坂地区や比企丘陵地元産の商品などのマルシェやワークショップを開催していきます。これから皆さまと楽しい高坂の街の活性化をご一緒しましょう。是非ご参加ください。

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最後に、こちらのみ少し先の話ですが、ついでに。

彫刻家 高田博厚展2025 ―Vitrail(ヴィトロー)―「窓」から見る高田博厚

期 日 : 2025年10月22日(水)~11月13日(木)
会 場 : 東松山市総合会館1階多目的室 埼玉県東松山市松葉町1-2-3
時 間 : 午前9時から午後5時まで
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

 東松山市では、日本を代表する彫刻家である高田博厚氏のアトリエに残されていた彫刻作品や絵画等を2017年にご遺族から寄贈を受けて以来、顕彰事業として展示会や講演会を毎年開催しています。
 ぜひこの機会に彫刻家 高田博厚の世界をご堪能ください。

見どころ:イザベル・ルオー作のステンドグラス初公開!
 高田は、画家でありステンドグラス作家のジョルジュ・ルオー(父)とイザベル・ルオー(娘)親子と親交があったことから、イザベル・ルオー作のステンドグラスを贈られました。高田はそれを晩年制作に打ち込んだ鎌倉市のアトリエに設置していましたが、アトリエが解体される際に、ご遺族から東松山市へステンドグラスを寄贈いただき、この度初公開する運びとなりました。
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関連行事として、コンサートやステンドグラス制作のワークショップが企画されています。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

強いものを到る処に置くので必要な休息がありません。此の誤は管弦楽が休み無しに「フォルチツシモ」をやる誤と同等です。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

めりはりをつけずにゴテゴテした同時代の建築についての発言の一節です。ちなみに「めりはり」は元々邦楽の用語で、「めり」は西洋音楽におけるピアノ、「はり」は同じくフォルテです。どんなに美しいメロディーでも最初から最後までフォルティッシモで演奏されてはたまりませんね(笑)。

この一節はノートルダム大聖堂で語られた言葉で、ここにはきちんとめりはりがある、という流れです。彫刻にもそれが必要、というのが裏側に暗示されているのでしょう。

先月のNHKEテレさんの「アートシーン」でも紹介された、新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展につき、『朝日新聞』さんが9月16日(火)付夕刊で、光太郎に触れつつ大きく取り上げました。

(美の履歴書:913)「生の記録3」 難波田龍起 燃える青、たちのぼるのは

 難波田(なんばた)作品に特徴的な垂直の線ももはや消え、青のモノクロームの濃淡だけがモヤモヤ漂う。細い筆で点を置いていくように丹念に描かれた筆跡は、密集し拡散する無数の粒子のようだ。「気の遠くなるような行為の集積に、人間の息づかいや念がこもっている」と、東京オペラシティアートギャラリーの福士理シニア・キュレーターは言う。
 この「粒子」感は、若き日の難波田龍起(たつおき)が薫陶を受けた高村光太郎に由来する。詩人で彫刻家の高村は、絵画は視覚だけでなく触覚との結びつきが肝要だと語った。それは画面を触って感じられる画材の質感とは異なり、あくまでイメージとしてたちののってくるマチエール(絵肌)だ。
 高村はもう一つ、芸術には「生命の戦慄」が必須だとも教えた。
命や人間性を重んじる思想と、キュビスム由来の幾何学的抽象の冷たさとの矛盾に悩んだ難波田。やがて、1950年代後半に日本に入ってきたアンフォルメルの「熱い抽象」とも呼ばれるエネルギーに活路を見いだす。
 難波田は、モネの晩年の傑作「睡蓮(すいれん)」をアンフォルメルの先例とみなしていた。88歳で訪れたパリ・オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に触発され、帰国後すぐに描き始めたのが、画業最大にして全4点の「生の記録」だ。
 絵画の物質性に頼り切ることなく、自らの精神によって生命を表現する。その実践の集大成は、まさに難波田自身の「生の記録」でもあった。
 同時に、「龍起個人や人間の存在を越えて、宇宙や生命現象の始まり、劫初(ごうしょ)の光を感じる」と福士さん。
 「難波田ブルー」とも呼ばれる青が、銀河の奥で燃える炎のように見えてくる。

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美の履歴書 913
・名前 生の記録3
・生年 1994年
・体格 舘162.1㌢×横390.9㌢
・生みの親 難波田龍起(1905~97)
・親の経歴 
 北海道・旭川に生まれ、翌年東京へ転居。19歳の頃、隣家に住む高村光太郎を自作の詩を携えて訪ね、以後親交を持つ。高村の勧めで太平洋画会研究所に学ぶがなじめず退所する。初期はギリシャ彫刻や仏像などのモチーフを描いていたが、戦後に抽象へ移行。欧米のアンフォルメルや抽象表現主義の影響を受けつつ、独自の抽象表現を探求した。
・日本にいる兄弟姉妹 東京・世田谷美術館、東京国立近代美術館などに。
・見どころ004
 ❶3枚のパネルを連ねた巨大な画面を埋める緻密(ちみつ)な筆致が、88歳の覇気を物語る。
 ❷青の濃淡や明暗が白っぽい筋をつくる。隣に展示されている、黄色が基調の「生の記録4」と比べても、より繊細な表現だ。

▽「難波田龍起」展は、東京オペラシティアートギャラリーさで10月2日まで。祝日をのぞく月曜と9月16日休館。日本の抽象絵画のパイオニアとして知られるの生誕120年にあわせた、約四半世紀ぶりの回顧展。写真は「昇天」(1976年)。問い合わせはハローダイヤル(050・5541・8600)


ついでですので、光太郎が難波田について描いた文章もご紹介しておきます。

まず昭和17年(1942)、銀座の青樹社で開催された難波田の第一回個展の目録に載った文章。

   難波田龍起の作品について

 難波田龍起君の芸術の中核はその内面性にあるやうに思はれる。初期の頃一時ルドンに熱中してゐた事があつたが、あの魂の共感はいろいろの形で其後にもあらはれてゐる。種々の段階を通つて進んで来たが、ギリシヤの発見以来同君の芸術は急速に或る結成の方向を取つたやうに見える。それはやはり同君の内面的映像への求心性が然らしめたものと推察する。それ故同君の構想には人に知られぬ内面の必然性があつて、互に連絡し交叉しあつてゐる。此の点を見のがしては、今後に於ても同君の芸術の魅力は領解不十分となるであらう。画面上の技術にも珍しく緻密な用意がある。かういふ特質ある画家を十分に育て上げるやうな文化的環境が是非欲しい。同君の未来に私はわれわれ民族の内面形象を大に期待する。


続いて、昭和28年(1953)、やはり難波田の個展の際、会場に置かれた「感想帖」に鉛筆で書き込まれた言葉。

 昔ながらに色がいいと思つた。ギリシヤ時代のあの色がここにも生きてゐて愉快に思つた。Peintureではイロが第一の門だと今でもおもふ。

双方に出てくる「ギリシヤ」云々は、難波田が光太郎のアトリエでギリシャ彫刻の写真などを見せられてその精神性に惹かれ、モチーフとしていたことを指します。まだ抽象画に移行する前の話です。

それにしても、短文であっても本質をずばりと捉える光太郎の評には相変わらず舌を巻かされます。

東京オペラシティアートギャラリーさんでの「難波田龍起」展、10月2日(木)までの開催です。まだ足を運ばれていない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

世界は美しいもので満ちて居ます。それの見える人、眼でばかりで無く、叡智でそれの見える人が実に少ない!


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

難波田は叡智で美を見られる少数派の一人だったのでしょう。

光太郎、のちに頼まれて色紙などに揮毫する際、「美しきもの満つ」とか「世界はうつくし」と書くことが多くありました。その元ネタがこの一節だったようです。
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神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さん。こちらでは、光太郎の父・光雲の手になる秘仏・三面大黒天立像の特別御開帳が今年3月から6月にかけて行われましたが、それが好評だったということで、第二弾だそうです。

大山寺開山一二七〇年記念 秘仏ご開帳《第二弾》

期 日 : 2025年9月28日(日)~12月8日(月)
会 場 : 雨降山大山寺 神奈川県伊勢原市大山724
時 間 : 08:45~17:00
料 金 : 500円

大山寺にて去る6月1日まで開催されていた特別開帳ですが、ご好評につき再度実施することとなりました。
以下の三体の秘仏大黒天がご開帳となります。この機会にぜひご覧ください。

 ・三面大黒天像(古伝様)初公開
 ・大黒天像(作:後藤斎宮)
 ・三面大黒天像(作:高村光雲)
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5月に春のご開帳拝観して参りました。その際は、愛染明王像と、光太郎の父・光雲作の三面大黒天像の特別公開でした。
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像そのものは撮影不可でしたが、おおむね右上画像の御朱印のようなお姿で、像高数十㌢ながらとてもお見事でした。

今回は更に他の三面大黒天像二尊も開帳され、三尊そろい踏みだそうです。後藤斎宮という彫り師は存じませんでしたが、現在も続く鎌倉彫の博古堂さん(鶴ヶ岡八幡さんの目の前)の初代だそうです。

11月頃になると紅葉が見頃で、それはそれでいいのでしょうが、かえって混雑も予想されます。早いうちに行ってしまうのも一つの手でしょう。

【折々のことば・光太郎】

……万物を凝視する事、及びそれに美を感じる事、其処に幸福がある。どうして其以上望めませう!


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

「ですよね!」という、翻訳者光太郎の声も聞こえてきそうです。

光太郎は職人気質の光雲とは違う方向に進み、光雲のやり方を否定する部分もありました。しかし、時には光雲の語る内容にロダンの言葉と共通する点を見つけて感心するなど、光雲に対する認識はかなり複雑でした。

千葉市の千葉県立美術館さんによる「移動美術館」。おおむね年に1回開催されているようですが、ほぼ毎回、光太郎のブロンズを展示して下さっています。光太郎と千葉は少なからず縁がある関係もあるのでしょう、同館、いずれも新しい鋳造ながら光太郎ブロンズを8点収蔵しており、その中からのセレクトです。

昨年、香取郡多古町での第48回展「田んぼの美」が開催され、光太郎作品は代表作の一つ「手」(大正7年=1918)が出ましたが、今回も「手」が並びます。

第49回千葉県移動美術館 成田と千葉県立美術館にまつわる5つの物語

期 日 : 2025年9月20日(土)~10月13日(月)
会 場 : 成田市文化芸術センター なごみの米屋スカイタウンギャラリー
      千葉県成田市花崎町 828-11
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日 ※10/13は開館
料 金 : 無料

千葉県移動美術館は、千葉県立美術館が所蔵する作品をより多くの県民の皆さまにご鑑賞いただくために、県内市町村と協力し文化施設等を会場として開催している展覧会です。成田市では、これまで過去4回開催しており、今回の第49回移動美術館は5回目の開催となります。本展では、三里塚を詩に歌った高村光太郎による彫刻作品《手》や、成田空港にちなみ、板倉鼎や鶴田吾郎をはじめ海外を旅した画家たちの風景画からみる「異国への旅」など、成田市と千葉県立美術館にまつわる5つのセクションで、それぞれのテーマに合わせたコレクションを約50点ご紹介いたします。また成田市ゆかりの作家、篠﨑輝夫を特集いたします。

美術館をとびだして、成田にやってきたコレクションたちに是非会いに来てください!
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関連事業 *いずれも事前申込不要。当日会場にお集まりください。

 千葉県立美術館館長による講演会「ケンビを知る、楽しむ」
  日 時 : 9月20日(土)14時〜15時30分
  会 場 : なごみの米屋スカイタウンホール
  講 師 : 貝塚健
 千葉県立美術館担当学芸員によるギャラリートーク
  日 時 : 10月5日(土)13時〜、15時〜 各回40分程度
  会 場 : なごみの米屋スカイタウンギャラリー

同じ会場で、令和2年(2020)の第44回展も開催され、その際は光太郎ブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が展示されました。それ以来、5年ぶりですね。入場無料での開催というあたり、非常に良心的です。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

細部のない単純化は貧弱しか与へません。細部は、組織の中をめぐる血です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃
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光太郎の「手」も、甲の側の浮き出た骨や血管など、細部にこだわって作られています。

ただ、細部にばかり力点を置いて、全体のバランスなどが無茶苦茶になっては本末転倒。そういうことが起こりえないのがロダンや光太郎の作る彫刻のすばらしさの一つです。


光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手・モンデンモモさん。島根県を拠点にミュージカル等に携わられることが多いのですが、ご自宅は都内で、今年は「智恵子抄」をメインにしたライブを4月5月と開催されまして、さらにまたやられるとのこと。

BOOK CAFÉ LIVE モモの智恵子抄

期 日 : 2025年9月20日(土)
会 場 : 蔵カフェ 東京都府中市宮西町4-2-1
時 間 : 15:00~
料 金 : 3,500円+カフェご注文

出 演 : モンデンモモ たしまみちを(ギター)

我地元。大国魂神社に抱かれる 蔵カフェにて シリーズが始めさせていただけることになりました。このカフェは長い文化の源です。

私の根幹であります 智恵子抄 常にお届けしてまいります 光太郎さんとの出逢いから レモンの香りに包まれる現世 そして魂になり 光太郎さんと遊び見守り智恵子さん 時代と共にその魂も遊びます 本当に素敵なカフェです あなたも蔵カフェで歴史を築かれませんか モンデンモモモモ ここで 集約して参ります お待ちしています
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ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

のろい、考へつつする仕事や、手業。此は神来よりは美しくない様に見えます。ぱつとしない。それにも拘らず、此が芸術の総根元なのです。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

「神来」は、神の啓示を受けたかのように、突然に達する境地。芸術とはそういうものではなく、地道な積み重ねが重要だと、ロダンも、それを訳した光太郎も考えていました。

昨今のちょっとした「文豪」ブームもあり、各地で「文学フリマ」系の催しが行われています。昨年は岩手盛岡で開催された「同人誌展示即売会 岩漫63」というイベントに花巻高村光太郎記念館さんが出店したりということもありました。

さて、今週末に大阪で開催される「文学フリマ大阪13」。1,233出店・1,422ブース だそうで、すごい数字ですね。

文学フリマ大阪13

期 日 : 2025年9月14日(日)
時 間 : 12:00〜17:00
料 金 : 無料

作り手が「自らが《文学》と信じるもの」を自らの手で販売する、文学作品展示即売会です。
入場無料・来場にあたっての事前予約は不要です。ぜひお越しください!
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X(旧ツィッター)投稿で把握したのですが、「装幀室白亜」さんという方が、光太郎詩「レモン哀歌」モチーフの商品を販売されるとのこと。ありがたし。
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上記主催者さんのリンクを見ますと、今後も各地で開催が続くようで。
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これまであまり注意を払っていなかったのですが、これからは少し気にしてみます。場合によっては当会として出店するのもありかな、などという気もしています。

というわけで、とりあえず「文学フリマ大阪13」。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

現状のままで、其の力が或は控目であつたり、或は奔放であつたりしても、原素は完全です。其を変へる事は、其を破壊することです。……修正! 修飾! かういふ偏見から「理想派」が出て来るのです。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

「写実」の重要性を述べた箇所から。造型だけでなく、文学や舞台芸術などにも通じることだと思います。また、「修正」を否定するという意味では歴史観などにも言えることではないでしょうか。「修正主義」が大流行で、しかしそれを巻き起こしている当人達は「修正」しているという意識が希薄で自らが「正論」だと主張しているのが問題点ですが……。

鹿児島から朗読会の情報です。

あなたに届ける朗読会vol.8

期 日 : 2025年9月15日(月・祝)
会 場 : 川内まごころ文学館 鹿児島県薩摩川内市中郷二丁目2-6
時 間 : 13:30~15:30
料 金 : 一般 1,000円・小中高校生 500円  要予約 090-4346-1066

令和3年から開講した、ことの葉日和朗読教室 薩摩川内朗読サロン。「いつか川内クラスだけの発表会をしよう」と約束して、ついに実現!何と!薩摩川内の朗読教室3クラスの受講生全員が出演します!
第一部の発表会は、芥川龍之介、与謝野晶子、島崎藤村、高村光太郎、宮沢賢治、金子みすゞ、八木重吉、新美南吉、太宰治…と、文学作品を個性豊かな生徒さんたちが朗読します。
第二部の朗読コンサートは、三年半ぶりに「雨月物語〜菊花の約〜」を、ゲスト濱田貴志&桐めぐみクラシックギターデュオとともに浜本麗歌の朗読でお届けします!
九月の話でもある江戸文学の名作「雨月物語〜菊花の約〜」。せつないクラシックギターの音色とともにお楽しみください。
司会&お手伝いは、鹿児島県立川内高校放送部のみなさん! 朗読を聴くひとときをぜひどうぞ!
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ことの葉日和 朗読教室」さんという団体の主催で、2部構成のうちの第1部での教室の生徒さんによる発表に光太郎作品が含まれているようです。ありがたし。
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ところで朗読と言えば、6月に早稲田奉仕園スコットホールさんで開催された「木村俊介Concert 『鵲(かささぎ)の橋の上で』in 東京 愛のかたち、様々に~日本と韓国の文学作品から~」にゲスト出演なさり、「智恵子抄」から朗読をされた壤晴彦氏が、先週、秋田での「日本と韓国 朗読コンサート ~日本と韓国の文学・物語を朗読と音楽とともに~」という公演で、やはり「智恵子抄」からの朗読をなさったそうです。早稲田で共演なさった和楽器奏者の木村俊介氏、伽耶琴(カヤグム)を奏でるパクスナ氏もご一緒でした。

事前の告知で「高村光太郎」「智恵子抄」といったワードが出ていなかったようで、気づきませんでした。記録のために書き記しておきます。

さて、会場の川内まごころ文学館さんの常設展示では、光太郎とも縁のあった有島武郎や実弟の里見弴などが扱われています。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

私の友達の、造船家が私に話したには、大甲鉄艦を建造するには、唯そのあらゆる部分を数字的に構造し組合せるだけでは駄目で、正しい度合に於て数字を乱し得る趣味の人によつて加減されなければ、船がそれ程よく走らず、器械がうまくゆかないといふ事です。してみれば決定された法規といふものは存在しない。「趣味」が至上の法規です。宇宙羅針盤です。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

昨日のこの項でご紹介した一節同様、ここでロダンが言う「趣味」とは、「感性」「造型的感覚」といった意味だと思われます。

機器の製作に於いてすら、図面通りにやれば良いというものではなく、いわんや彫刻に於いてをや、というわけでしょう。

京都府の老舗書画骨董店・思文閣さん。年に数回、「大入札会」という形での販売もなさっています。昨年のこの時期には、歌人の中原綾子旧蔵の光太郎色紙が2点出て、そのうち、綾子詩集『灰の詩』に口絵として画像が出た七五調四句の今様形式の詩「観自在こそ……」を揮毫したものを落札させていただきました。そちらは現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の特別展「中原綾子への手紙」で展示中です。

先週、また目録が届きました。
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同入札会、光太郎の父・光雲の木彫が出ることがしばしばありまして、今回も。ただし、今回出ているのは工房作のようです。不動明王が制多迦(せいたか)童子と矜羯羅(こんがら)童子を脇侍に従えた三尊像です。
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像高20㌢程の小品で、共箱の箱書きに依れば昭和4年(1929)の作。金彩が施されていますが、截金(きりかね)ではなく金泥を塗布してあるようです。

今日から京都で下見会が開催されます。

令和7年9月 思文閣大入札会 下見会

期 日 : 2024年9月8日(月)~9月14日(日)
会 場 : ぎゃらりい思文閣 京都市東山区古門前通大和大路東入ル元町386
時 間 : 10:00~18:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

 蒐集された美術品には、コレクターの眼差しと心が宿るもの。今回は、複数のコレクター様より、その人となりまでも感じさせるような作品の数々をお預かりいたしました。
 洗練された構図で気品に溢れる上村松園《都の春》を筆頭に、横山大観の若年期と円熟期の作品、そして迫力ある棟方志功の大首絵や中川一政の油彩の薔薇など、近代絵画の優品をそろえたコレクション。また、竹内栖鳳の壮年期の一作である《秋瓢双鶏》、冨田渓仙の見返り鹿図など、深いこだわりを感じさせる日本画をご出品賜り、その方には、お道具にも貴重な作品を多数出品いただいております。加えて、富岡鉄斎による歴史人物画、軽妙な水墨画のコレクションもお預かりしました。最後の文人画家とも称される鉄斎、その深い教養に裏付けられた多彩な画業をぜひご堪能ください。
 そのほか、近世絵画においては、謎多き鷹描きの絵師・藤原正吉の一幅といった珍品や、円山応挙、狩野探幽ら名高い絵師の佳品もございます。どうぞお見逃しのないようご覧くださいませ。

 お道具の冒頭では、近代日本美術史において、工芸の新地平を切り拓いた高村光雲と板谷波山の作品をご紹介いたします。高村光雲は近代木彫の第一人者であり、後進の育成にも力を入れたことで知られる彫刻家。《木彫 不動三尊》は彼が門下の職人と共に制作したとみられる作品です。東美校時代、光雲の指導を受けたという板谷波山は、陶芸に転向し、陶芸家として初めての文化勲章受章者となりました。今回出品された茶碗では、波山がこだわった端正な造形と釉薬の窯変をお愉しみください。
 花器には、有田焼をはじめ、日本有数の窯業地として名高い佐賀県ゆかりの人間国宝である13代今泉今右衛門、14代酒井田柿右衛門、中島宏、井上萬二の作品が並びました。
 また盃、菓子鉢、向付、塗盆など食器類にも多様な出品を賜りました。皆様の暮らしを彩る「うつわ」をぜひこの機会に見つけていただければ幸いです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

私はいつでも自分の彫刻では非常に科学的です。しかし、科学に、「趣味」を加へなくてはいけません。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

ここでロダンが言う「趣味」とは、「感性」「造型的感覚」といった意味だと思われます。

光太郎は欧米留学からの帰朝後、父・光雲を頂点に戴く日本彫刻界とは距離を置くようになりました。旧態依然の徒弟制度や、水面下のどろどろなどが原因です。

昭和20年(1945)の談話筆記「回想録」から。

 父は、私にいろいろ直接に話をするやうなことはなく、お客のある時は私にお茶を持つて来させるのである。母も心得てゐて客のところへは必ず出されたものだ。私は其処に坐つて話をきいてゐた。父は客と雑談を交しながら、或は半ば私に聞かせる積りのやうな場合もあつたやうである。私はよく其処へ呼ばれて行つて、迷惑を感じて厭になつたこともあるし、聞きながら憤慨を禁じ得なかつたことも少くない。彫刻界や美術界の受賞の掛引きなど、なかなか弟子達の間にあつて、金賞、銀賞の振合がどうだとか、此度はこれで我慢しておけとか、そしてこの次には何を出さうが金賞になることが前から決つてゐるといふやうな、そんな話が交されたことも屡々(しばしば)である。

これは留学前の話ですが、帰ってきてからもこうした状況は一向に変わっていませんでした。

しかし、一方では光雲の語る言葉にロダンのそれと通じる内容を感じて感心したりもし、この時期の光雲に対する見方は、ある意味、滅茶苦茶でした。

一昨日、拝見して参りました。光太郎の薫陶を受けて芸術の道を志した難波田龍起作品の展示です。

生誕120年 難波田龍起展

期 日 : 2025年9月3日(水)~9月20日(土)
会 場 : ギャラリーときの忘れもの 文京区本駒込5-4-1
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 日・月・祝日休廊
料 金 : 無料

 難波田龍起(1905~1997)は戦前戦後の前衛美術運動の中で誠実に己の道を歩み、形象の詩人に相応しい澄んだ色彩、連続したモティーフと曲線による生命感あふれる独自の画風を築かれました。
 私たちが難波田先生に初めて銅版画制作を依頼したのは1977年、画家として同じ道を歩んでいたご子息二人を相次いで亡くされた2年後のことでした。
 ご傷心の中にもかかわらず温かく迎え入れてくださり、私たちが持ち込んだ銅版に夢中で取り組まれ、次々に名作を生みだされました。
 1995年にときの忘れものは南青山に開廊しましたが、第一回の展覧会は「白と黒の線刻 銅版画セレクション1」(出品作家:長谷川潔、難波田龍起、瑛九、駒井哲郎)でした。
 当時現存の作家で私たちの画廊で初めて展示してくださったのが難波田先生でした。
 同年刊行したときの忘れものの最初のエディションも『難波田龍起銅版画集 古代を想う』で、約20年の間に、版元として多くの版画誕生に立ち会うことができました。
 今回の生誕120年記念展では、ご遺族のご協力を得て、油彩、水彩、版画を17点出品いたします。
現在、東京オペラシティ アートギャラリーで難波田龍起先生の大規模な回顧展が開催されています(10/2まで)。合わせてご覧いただければ幸いです。
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画廊主の綿貫ご夫妻は、ほぼ毎年、当会主催の連翹の集いにご参加下さっていて、今回の展示もご案内を頂きましたし、1ヶ月前には新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんでの「難波田龍起」展を拝見しましたので、併せて観ておこうと思い、お邪魔いたしました。
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ぜいたくなことに、直接難波田をご存じの綿貫氏によるギャラリートークを拝聴しながら拝観させていただきました。
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東京オペラシティアートギャラリーさんの方は大作が多く、圧倒される感じでしたが、こちらは愛らしい小品が中心で、また違った感じでした。綿貫氏曰く「小さな作品でも決して手を抜いていない」。なるほど。
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制作法も、油彩あり、エッチングあり、パステル+水彩ありと、バリエーションに富み、抽象が中心ですが、街の風景のようなかなり具象っぽいもの(それでもシュールな感じ)もありました。
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フライヤー的な案内ハガキに使われたこちらの作品、版画に手彩色だそうで、そういうやり方もしていたのか、という感じでした。

それから、やはり光太郎と交流の深かった舟越保武の石彫も。
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この日は光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存会の会合で、そちらに向かう途中に寄らせていただいたのですが、その中西アトリエで撮られた難波田と子息、光太郎の写真。
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東京オペラシティアートギャラリーさんで展示されており、「どこかで見た記憶があるんだよな」と思っておりましたが、昭和62年(1987)に竹橋の東京国立近代美術館さんで開催された「今日の作家 難波田龍起展」の図録でした。ただ、キャプションが誤っており、正しくは昭和29年(1954)のようです。

その中西アトリエの方は、残念ながら現地での保存は断念、現在、移設先を探しているところです。54坪ほどのあまり大きくない建造物、手を挙げていただける自治体さん、法人さん、個人の方でも、ご連絡いただければ幸いです。

さて、ときの忘れものさんでの「難波田龍起展」、9月20日(土)まで。9月13日(土)には、写真にも写られている難波田子息の武男氏と、東京オペラシティアートギャラリーさんのキュレーター・福士理氏の対談形式のギャラリートークも予定されているとのことです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

石に一滴一滴と喰ひ込む水の遅(のろ)い静かな力を持たねばなりません。そして到着点を人間の耐忍力にとつて余り遠すぎると考へてはなりません。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

おそらく難波田もこの一節が載った光太郎訳『ロダンの言葉』を読んだのではないでしょうか。

ちなみにときの忘れものさんのサイト内に、光太郎との関わりを綴った難波田のエッセイがアップされています。お読み下さい。

演劇公演の情報です。

チエコ

期 日 : 2025年9月11日(木)~9月15日(月・祝)
会 場 : 両国・エアースタジオ   墨田区両国2丁目18-7ハイツ両国駅前地下1階
時 間 : 9/11 19:00~ 9/12 15:30~ 19:00~ 9/13~15 12:00~ 15:30~ 19:00~ 9/14
料 金 : 来場チケット ¥4,000(全席自由/要予約) ★配信チケット¥3,000

詩人・高村光太郎とその妻智恵子の愛の物語。智恵子の死後、智恵子抄を作ろうと友人の草野心平と中原綾子を呼び智恵子の思い出を振り返る。

出 演 : A 小森毅典 武口菜々子 菖蒲万紀彦 千歳れな ルーシー大原くん  菜月あいり 愛美
      B 新城侑樹 山﨑皆 野田慧 野中梨緒那 風間悠介 中島彩果 阿部優華
      C 松山傑 米良美沙 福岡洸星 富山悠里 安藤良侑 富田凪 藤井円
脚本演出 : 野口麻衣子
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登場人物は7人。それを3組の役者さん達が演じられます。順に光太郎、智恵子、光太郎実弟の豊周、智恵子の姪・春子、当会の祖・草野心平、歌人・中原綾子、智恵子の親友・田村俊子。

「劇団空感エンジン」さんとしての公演を同じ会場で、平成25年(2013)平成30年(2018)と拝見しました。それ以前の平成22年(2010)頃、それからその後令和3年(2021)にも公演がありました。一部、役者さんがかぶっています。

この手の脚本の中では、わかりやすさの面ではピカイチのものの一つです。光太郎智恵子についての予備知識が少ない方がご覧になっても「?」という場面が少ないでしょう。それだけに再演が重ねられているのだと思われます。

また、登場人物それぞれがうまく生かされています。智恵子の心の病という重い現実に関し、それぞれに言い分があって、相互の行き違いや齟齬、時に痛烈な非難的な場面もありますが、結局、それは仕方のないことだった、誰が悪いわけでもない、というような。

それから、キャスト、スタッフの方の中には、公演に向けてと言うことで、光太郎智恵子聖地巡礼などをなさる方もいらしたようで、素晴らしいと思いました。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

何といふ誇張のない的確だ! 此は君の特質の一つです。真実である事、そして単にそれきりだ。

光太郎訳 ロダン「手紙」より 明治43年(1910)頃訳 光太郎28歳頃

人体彫刻に於ける筋肉の付け方など、まったくやっていなかったわけではありませんでしたが、ロダンはあらゆる面で、わざとらしい「誇張」を嫌っていました。

全日本合唱連盟さんの下部組織である東京都合唱連盟さん主催の「第80回東京都合唱コンクール」が来週開催されます。上位入賞団体は10月から11月にかけて行われる全国大会の出場権を獲得できる仕組みです。画像は昨年の第79回大会の模様。
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都合唱連盟さんのサイトで、都大会の出場団体、曲目まで公開されています。その中で、「大学ユースの部」に出場される早稲田大学コール・フリューゲルさんが、新実徳英氏作曲の「愛のうた -光太郎・智恵子-男声合唱とフルート、クラリネット、弦楽オーケストラのために」から「レモン哀歌」を演奏されるとのこと。本来、サブタイトルにあるとおりオケ伴として作曲されたものですが、公刊されている楽譜は四手連弾のピアノ譜が付されていて、その形で演奏されるのでしょう。

コール・フリューゲルさん、昨年度の「第77回全日本合唱コンクール全国大会」で金賞を獲得したそうで、そのため、今回の都大会では「シード」。出場はされるそうですが審査の対象外で、もう全国大会出場が決まっているとのこと。そういう規程になっているとは存じませんでした。

また、都大会の演奏も課題曲と自由曲それぞれ1曲ずつを演奏する他団体と異なり、課題曲1曲と、自由曲的に4曲の演奏となっています。そのうちの1曲が「レモン哀歌」、他に「早稲田大学校歌」(作詩:相馬御風 作曲:東儀鉄笛 編曲:山田耕筰)、「男声合唱と四手のピアノのための『一人は賑やか』より 一人は賑やか」(作詩:茨木のりこ 作曲:三善晃)、「『リーダーシャッツ21』男声合唱篇より さらに高いみち」(作詩:木島始 作曲:信長貴富)。シード権を得ると、もはやアトラクション的な扱いになるようです。

全国大会では地方予選を勝ち上がっていた団体と同様に、課題曲と自由曲それぞれ1曲ずつの演奏となるそうで、そちらの曲目はまだ不明です。ぜひ全国でも「レモン哀歌」を演奏していただきたいところですが。

都大会の詳細は以下の通り。

第80回東京都合唱コンクール

期 日 : 2025年9月6日(土) 小学生部門 大学職場一般部門 混声合唱の部/同声合唱の部
      9月7日(日) 大学職場一般部門 大学ユースの部/室内合唱の部
      9月21日(日) 中学生部門 高等学校部門
会 場 : 文京シビックホール 東京都文京区春日1-16-21
時 間 : 9/6  10:30~ 9/7 10:15~ 9/21 10:30~
料 金 : 一般 前売り1,500円/当日券2,000円 小学生 前売り800円/当日券1,000円
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コール・フリューゲルさん、1日目の9月6日(土)、予定では18:48~の演奏ということになっています。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

芸術に於て、人は何にも創造しない! 自分自身の気質に従つて自然を通訳する。それだけだ!

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「自分自身の気質に従つて自然を通訳」。優れた音楽も、そういうものなのかもしれません。

『読売新聞』さん、8月18日(月)掲載の記事。

街の裸婦像は時代にそぐわない? 撤去の動き、各地で…小学生「見ていて恥ずかしくなる」

 公園や駅前、橋上にある裸婦像が、公共の場にふさわしくないとして、自治体が撤去する動きが相次いでいる。裸婦像は戦後に撤去された軍人像に代わり、「平和の象徴」として全国各地に建てられたが、「時代にそぐわない」「美術館に展示すべきだ」との指摘も出ている。(高松総局 黒川絵理)

小学生「見ていて恥ずかしくなる」
 高松市中心部にある市中央公園。約3・5ヘクタールの園内には、市出身の文豪・菊池寛や読売巨人軍の名監督・水原茂氏ら計31体の像などが設置されている。その中には、少女2人が向かい合って立つ裸像もある。
 市によると、1989年に地元のライオンズクラブから寄贈された。2023年以降、同園の再整備計画を検討してきた有識者らの会合で「時代にそぐわないモニュメントがある」と指摘され、校外学習で訪れた小学生からも「見ていて恥ずかしくなる」との意見が出た。
 市は「人々の価値観が変化しており、児童の裸像を公共空間で不特定多数が目にするのは望ましくない」と判断。8月下旬に始まる再整備工事で撤去する方針という。
 一方、少女の裸像の作者で、彫刻家の阿部誠一さん(94)(愛媛県今治市)は読売新聞の取材に「撤去は残念だ」と語った。作品名は「女の子・二人」で、1988年の瀬戸大橋開通を記念して制作した。阿部さんは「裸像はみずみずしい命そのもので、橋で成長する四国・本州地域の美しさを表現した。園内に残すべきだと思う」と話した。市から撤去についての連絡はないという。
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「公共空間にたくさん設置、日本だけ」
 全国の記念碑を研究する亜細亜大の高山陽子教授によると、戦前は軍人や偉人の像が公共空間に建てられたが、戦中の金属不足や戦後の連合国軍総司令部(GHQ)の方針で撤去された。代わりに登場したのが裸婦像だった。1951年に東京都千代田区に置かれた「平和の群像」が国内の公共空間で初めての裸婦像とされ、その後、平和や愛の象徴として各地に広まったという。
 高山教授は「公共空間に女性の裸像がたくさん置かれているのは日本だけ。欧州やアジアでは美術館の敷地内や庭園に限られる」と話す。
 女性の裸像の設置場所を巡っては、他の地域でも見直しが進んでいる。
 兵庫県宝塚市にある宝塚大橋には、手のひらの上で裸の女性が踊る像が設置されていた。橋の改修工事に伴い、2021年に撤去され、元の場所に戻すかどうかが議論になった。橋を管理する県は「見たくないとの意見が一定数ある」として設置しない方針を決定。土木事務所で保管している。
 静岡市では、中心部の駿府城公園周辺に女性や少女の裸像が7体設置され、静岡駅前広場にもフランスの画家・ルノワールの裸婦像2体がある。
 難波喬司市長は昨年12月の記者会見で「市内に裸婦像が多すぎる」と語った上で、「しっかり鑑賞できる美術館などに置くのが適切ではないか」と述べた。市は有識者らに意見を求めており、対応を検討している。
 神戸大の宮下規久朗教授(美術史)は「近年、児童の裸に対する社会の目が厳しくなっている一方で、設置から数十年 経た ち、風景に同化している裸像もある。市民から意見を募り、撤去の是非を慎重に判断すべきだ」と語る。
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記事本文には光太郎の名はありませんが、画像として光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。キャプションには「十和田湖畔に建つ乙女の像。高村光太郎の作品(青森県十和田市)」。文脈としては撤去すべきものの例ではなく、記事末尾にある神戸大の宮下規久朗教授曰くの「風景に同化している裸像」の例として挙げられているのだと思われます。舟越保武の「たつこ像」も。そうでないとしたら見識を疑います。

しかし、彫刻に限りませんが、たしかに公共空間に於けるアート作品にはいろいろと微妙な問題がありますね。「なぜそこにその作品があるのか」「そうした作品でなければならないのか」「そこにその作品があることでどんなメリットがあるのか」そして記事の指摘にあるように「デメリットはないのか」。

特にバブル期、そうした議論もされないまま、単に「有名な作家の作品だから」「地元の芸術家にお願いして」「何もないとさびしいから」「予算が組まれたので」的な安易な理由で設置された作品も多いと思われます。中には「ガラクタ」と思われても仕方のないものも少なからずあるような。そんな中で、裸婦像は裸婦像であるが故のセンシティブな問題を孕み、槍玉に挙げられやすいのでしょう。

記事後半にある静岡市の例の中で「市は有識者らに意見を求めており」とありますが、「「有識者」ってどんな人?」「その人らに何の権限があるの?」「ほんとに万人が納得出来る見解が出せる?」という気がします。

この問題は難しいと思います。地方都市の駅前などによくある戦国武将などご当地偉人の像なども、「偉人の像だから」というだけで、像の出来不出来は問題にされず容認されていたり、意味不明の像も「有名な作者のものだからOK、これが理解出来ない人はアートを理解する心が足りないのだ」と丸め込まれたり……。逆に「乙女の像」や「たつこ像」まで「裸婦像」だからというだけの理由で眼の敵にされてはかないません。

結局は光太郎が明治期に文展などの評で主張していた、「その像に「生(ラ・ヴイ)」が見えるかどうか」という基準しかないのでは、とも思われます。一人一人がきちんとした鑑賞眼を持ち、いいものはいい、駄目なものは駄目、といえる素養を身につける必要があるでしょう。それとても人によって基準が異なることは仕方がありませんが……。

また、万人が認めるいいものであっても、設置場所が適当かどうかはまた別の問題です。例えば「考える人」が住宅街のど真ん中にズドンと設置されたとして、誰がそれをありがたがるか、というようなことです。

といって、公共空間にはベンチだの街路灯だのさえあればいいのか、という問題にもなりますし……。まぁ、少なくとも不快だと思う人が一定以上存在しそうなものは、避けて置いた方が無難だなとは思います。

なんだか堂々巡りでまとまりませんが、みなさんもそれぞれ考えてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫刻に独創はいらない。生命がいる。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

さらにロダンは「模写家たる事を恐れるな。」「此の模写は手に来る前に心を通る。知らぬ処にいつでも独創はあり余る。」「何を生命と呼ぶか。あらゆる意味から君を激動させるもの、君を突き貫くものの事です。」などとも語っていました。

光太郎が大正2年(1913)に智恵子と一夏を過ごした信州上高地。当時の登山道「クラシックルート」上にあり、光太郎智恵子も立ち寄り、詩集『智恵子抄』にも記述がある岩魚留(いわなどめ)小屋について、光太郎智恵子にからめ、『朝日新聞』さんと『毎日新聞』さんが相次いで記事にして下さいました。

先に『毎日新聞』さん。8月21日(木)、栃木版への掲載でした。メインで取り上げられているのは、昭和50年(1975)にあった不幸な出来事。こういうことがあったというのは存じませんでした。

山は博物館 島々谷で山小屋主人が水死 救助行為に災害給付金出ず

 長野県安曇村(現松本市)にある「島々(しましま)谷」の「南沢」で1975年夏、奥原信俊さん(当時50歳)が流され水死した。自分の山小屋「岩魚留(いわなどめ)小屋」の前で、増水した激流を無理に渡ろうとする男性登山者(同27歳)を見過ごせず、手助けしていた時だった。男性は「助けを求めていない」と責任を回避。県警は助けが要るほど危険は迫っていなかったと、遺族への災害給付金不支給を決定。理不尽だとの世論が高まった。
 不幸は北アルプスの上高地に至る道(約20キロ)で起きた。起点の島々集落から沢沿いに徒歩4時間かかる山小屋は、中間を少し過ぎた所にある。悲運の7月13日は大雨が降りやすい梅雨末期で、県によると上高地ではそれまで11日間で458ミリを記録。前日は期間中最大の182ミリも降った。当日も停滞前線のため雨量が増える予報が出ており、実際に午前中は雨が強かった。
  報道などによると、兵庫県明石市の男性は、槍ケ岳を目指していた。朝、登山口で警察官と区長に入山を止められたが強行。午後1時ごろ、右岸から山小屋がある左岸に渡る場所で立ち往生した。橋があるはずが、流失か水没して消えていた。
  奥原さんは、対岸で右往左往して渡れる場所を探す姿を見て、身ぶりで引き返すように促した。聞き入れないので、無事に渡らせるためロープを投げ、端を木に結ぶように指示。反対の端を持っていて流された。7人ほどいた山小屋の客から、警察に通報するよう言われた男性は戻り、途中でキャンプしていた大学山岳部員を介して駐在所に届け出た。
 大阪府寝屋川市でレストランの支配人をしていた次男の英考(ひでたか)さん(71)は、その日に知らせを受け、実家がある島々集落へ向かった。「おやじなら生きているのではないか」と信じていたが、翌日着き、1日たっても増水が収まらない沢を前に「駄目かも」とも思った。この日、捜索隊が山小屋から1・4キロ下流で遺体を発見。衣服がはがれ、体半分が埋まっていたが、英考さんが現場で対面した時は体が清められていた。
 「警察官の職務に協力援助した者の災害給付法」では、水難や山岳遭難で、警察官がその場にいれば当然する救助を義務がない人が行い、けがや死亡した場合、本人や遺族に給付金が出る。この75年、全国で死亡10人、傷病4人の適用例がある。ただ、相手に危険を避ける時間の余裕があれば該当しないとされる。県警は危険度合いや、男性が「渡れなければ引き返す気だった」と主張したことを踏まえ、早々に適用は無理と結論付けた。 地元紙によると、普段救助に当たる山小屋経営者らは「登山者が救助を求めなければ、危険な状態でも手出しする必要がないということか」と態度を硬化。残った休暇で「葬儀に顔を見せず、(穂高連峰へ)出かけた若者に非難が集中」と一般雑誌も取り上げた。当日の岩魚留小屋の客は全国紙に「逆に登山者が流されていたら、小屋の主人は強い非難を受けた」と投書した。
 県議会12月定例会の一般質問で、県警警務部長は、線路上の子供に「汽車がばく進」する状況を適用例に挙げ、「登山者の位置は安全な所、雨も小降り。危険が急迫し、命が危ない状況は認められなかった」と答弁。「お気の毒」と言いつつも「法を適用できないかという方向で検討したが給付は困難」と述べた。質問した県議は、救助隊員の士気低下を心配し再考を要請。警務部長は県内で過去28件の給付を明かし「本当に困難」と答えた。
 別の議員は「濁流を渡るべくしている登山者は、遭難一歩手前と判断し、手を差し伸べたことは当然」と、登山案内人の言葉を紹介。「本能や正義感のもと行動する前に(法が規定する)人命救助か検討し行動に移ることが要請された」と皮肉った。奥原さんの弟は「山男としてやるべきことをやった。だれを恨むものではないが、善意が踏みにじられたことは残念」と話していたという。
 妻ら遺族は12月、県と県警に、法適用が無理ならそれに準ずる措置を要請。知事は「何らかの方法で感謝を表したい」と述べた。
 男性への損害賠償請求訴訟や県警への行政不服審査など、遺族が法的対応を弁護士に依頼する中、男性とは「見舞金」300万円を受けることで合意した。それでも登山雑誌には「あやふやな行動が山小屋の主人を死なせた。登山者は『危険な状態ではなかった』といいはった。ならばなぜその意志を表さなかったのか」と投書が載った。「余計なおせっかいをして死んだといわれ」、妻は精神的に疲労しているとの記事もある。
 県警も76年3月末、「見舞金」300万円を支給。知事は県山岳遭難防止対策協会の会長名で感謝状も出した。「永年にわたり登山案内人として円満な人柄により親しまれ、遭難防止に尽力されました。功労をたたえ感謝の意を表します」とある。日付は8カ月前の遭難日だが、直接触れていない。妻は謝意を示したが、法が適用されず「満足していない。しかし、関係者の声援を受けここまでこぎつけたのはうれしい。主人は間違っていなかった」と語った。法的訴えは取りやめた。
 対応を母と兄に任せた英考さんは父の初七日から山小屋に入った。男性や県警に対し「夏山の時期で、空けておけないとの思いでいっぱい。どうこう考える余裕はなかった」と振り返る。今も「何を言ってもおやじは戻らない。相手の顔も見ていないし、恨む気持ちもない。葬式に出なかったからって、自分もその立場なら隠れていたい」と話す。体調不良などの事情で、山小屋は10年以上前から閉じている。

「山上の恋」の光太郎も往復
 大正以前、長野県松本市から旧安曇村の上高地に行く車道は無く、登山者は島々谷を歩いた。1913年8月から2カ月暮らした彫刻家で詩人の高村光太郎も往復した。
  滞在中、交際していた長沼智恵子が来ると知らせを受け、岩魚留小屋がある所へ迎えに行った。歌人の窪田空穂は「登って来る女性に目を見張った。若く美しい人で、呼吸静かに歩み寄って来る。視線は高村君に一直線に注がれていた」。 この様子を9月5日付東京日日新聞(現毎日新聞)は「美しい山上の戀(こい)」と冷やかした。「美人が登ってくる。今度は青年が下りてくる。視線が合ふと手を引き乍(なが)ら上つていつた。二人が相愛の仲は久しいもので『別居結婚』してゐる仲ぢやもの、智恵子が光太郎を訪ふたと知れた――と岡焼から便りがあつた」
 ちまたで興味本位のうわさ話になる一方、光太郎は智恵子を連れて穂高連峰や明神岳、焼岳、霞沢岳など周囲の山々を写生し、別世界の風光を堪能。2人はここで婚約した。
 島々谷の南を遠回りする梓川の各所に水力発電所を建てるため、今の国道158号と県道が通じ、上高地に車が入ったのは昭和初期だった。
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この事故で亡くなった奥原氏の子息が小屋を引き継いだものの、もうご高齢で体調不良、平成24年(2012)から休業中だそうです。それを引き継ごう、というお話で、『朝日新聞』さんの長野版、8月11日(月)の掲載でした。

(山岳ジャーナリスト近藤幸夫の新・山へ行こう)上高地へのルート /長野県■山小屋復活から未来つなぐ

 北アルプスの玄関口・上高地は、日本の近代登山発祥の地とされています。昭和初期に釜トンネルが開通して自動車で行けるようになるまでは、松本市の島々から徳本(とくごう)峠(2135メートル)を越える約20キロの山道が上高地へのメインルートでした。江戸時代以前から利用されてきたクラシックルートの復活と再生を目指すプロジェクトが現在、進行しています。
 プロジェクト代表を務めるのは昨春、島々に移住した塩湯涼(しおゆりょう)さん(30)。島々から沢沿いの登山道で、徳本峠の手前にある岩魚留(いわなどめ)小屋の営業再開などに取り組んでいます。
 松本市文化財課などによると、岩魚留小屋は1911(明治44)年、農商務省の官舎を転用し、民間会社が設立しました。木造平屋建てで約70平方メートル。現在のオーナー奥原英孝さん(71)が大けがをし、2012年から休業しています。
 クラシックルートは明治以降、著名な登山家や文化人らが通った道です。「日本近代登山の父」と称される英国人宣教師ウォルター・ウェストンや詩人高村光太郎、文豪芥川龍之介らが有名です。
 京都市出身の塩湯さんは、長崎大薬学部、同大大学院を卒業後、福岡市の製薬会社に就職しました。社会人になってから友人と登山を始め、大型連休中に北アルプスの槍ヶ岳の登った際、信州の山々に魅せられました。
 「製薬会社の仕事に不満はなかったけど、それ以上に山に関わる仕事をしたくなった」。入社1年半で退職。南アルプスの山小屋で働いたり、山仕事の会社で森林調査などを手伝ったりしました。
 こうした経験を重ね、山の関係者が集まれる場所を作りたいと考えました。SNSを通じて、島々で古い蔵を改修したカフェを営む山口浩喜(ひろき)さん(57)と知り合いになり、転機を迎えました。
 昨春、山口さんから島々の空き家を紹介され、山で働く人向けのシェアハウス「山小屋の小屋・下駄(げた)屋」を開設。自身も入居し、島々に移住しました。
 島々は、ウェストンの登山ガイドを務めた上條嘉門次の自宅があったほか、今も上高地周辺の山小屋経営者らが住んでいます。日本の近代登山の発展を見守ってきた集落なのです。
 山口さんも移住者です。島々の魅力をアピールし、クラシックルートの整備に尽力しています。奥原さんから岩魚留小屋の後継者探しを頼まれていました。「塩湯君は若いし、人柄もいい。山小屋勤務の経験もあり、みんなで支援すれば岩魚留小屋の復活は可能」
昨年11月、「岩魚留小屋再生プロジェクト」が発足しました。代表は塩湯さん、山口さんが統括に就任し、有志6人で組織を立ち上げました。
 今年9月に老朽化した岩魚留小屋の状況を調べ、改修費用の見積もりをします。クラウドファンディングで資金を募り、来年に改修工事をして27年の営業再開を目指しています。
 プロジェクトは、岩魚留小屋の営業再開だけではありません。クラシックルートは、森林鉄道の軌道跡や炭焼き窯、風穴を利用した建物跡などが残る歴史を伝える道なのです。こうした山岳遺産をめぐるツアーの実施も計画しています。
 塩湯さんは「岩魚留小屋の再生は過去と現在、そして未来をつなぐ試みです。歴史を守るだけでなく、新たな価値を創りたい」と話しています。

同様の件は『毎日新聞』さん長野版でも今年4月に報じられていました。

計画通り営業再開となりましたら、ぜひ一度行ってみようと思っております。みなさまもどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

しかし、理論家よ。昔の単純な友はそんなに仰山な事をしなかつた。そして直ちに、彼自身の内に、自然の内に、君達が図書館の中で探し廻ってゐる真理を見つけた!

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「自然を師とせよ」というのがロダンの根本です。それを光太郎も受け継いでいきました。

栃木県から演劇公演の情報です。

「智恵子抄」より

期 日 : 2025年8月30日(土)・8月31日(日)
会 場 : アトリエほんまる 栃木県宇都宮市本丸町1-39
時 間 : 両日とも 11:00- / 17:00
料 金 : 一般 1,500円 U22 1,000円 2回目以降のご観劇は500円引きになります。

劇団 言葉借り とは。できないことばっかりな主宰小鳥遊ばんりが言葉を借りて、力を借りて、演劇を作る集団。

第一回公演となる本公演は、高村光太郎の「智恵子抄」の言葉をお借りします。

ことば 高村光太郎  構成 小鳥遊ばんり  配役 女:井森春 男: 渡邊滉太
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二人芝居のようですが、配役は「光太郎」「智恵子」ではなく、「男」と「女」。先にクレジットされている「女」がメインなのでしょう。固有名詞が与えられていないことから、特定の人物の日常ではなく、「智恵子抄」をモチーフとした普遍的な女と男の物語とでもいったところでしょうか。

また、フライヤー裏面下部に、ちょっと気になる記述。「アイマスク着用のご提案」だそうで、「より言葉を純粋に楽しんでいただく鑑賞方法として、アイマスクを着用しての鑑賞をお勧めいたします」とのこと。「へぇー」という感じです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

現在を過去に結び合せる事は必要である。此事は活きてゐる者に智慧と幸福とを持ち来す。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

いわゆる「温故知新」ということにも繋がるでしょうか。芸術の制作にもあてはまるでしょうし、人の生きざまといった部分にも繋がるような気がします。光太郎智恵子のように、激動の時代に「生」の在り方を試行錯誤した人々のそれは、特に、です。結局智恵子は刀折れ矢尽き、光太郎は何度もつまづいては転び、そのたび立ち上がっては反省して方向転換し、しかし時には誤った道に踏み惑い……。そうした生きざまから我々も学ぶべきことが多々あるはずですね。

ひさびさにテレビ番組の放映情報です。

まず再放送ですが、新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展が取り上げられています。

日曜美術館 アートシーン「難波田龍起」展

NHK Eテレ 2025年8月24日(日) 20:45~21:00

「難波田龍起」(東京オペラシティアートギャラリー 7月11日〜10月2日)ほか展覧会情報


NHK Eテレさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」。初回放映が8月17日(日)の朝でした。
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本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住み、光太郎の影響で芸術家となった難波田ですので、番組内でも光太郎の名が連呼されました。ありがたし。
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光太郎がロダンから学んだ「生命」の芸術は、難波田ら後進の芸術家にも受け継がれていった、と。

番組をご覧の上、展覧会そのものにもぜひ足をお運び下さい。

もう1件、やはり再放送系ですが。

わたしの芸術劇場 #21「小平市平櫛田中彫刻美術館(東京都小平市)」

BS11(イレブン) 2025年8月23日(土) 10時35分~11時00分

「美術館」をちょっと堅苦しい場所だと思っている方々へ送る番組。

学芸員の方々が見せ方を工夫したり、今までにないテーマで企画展を開催したり、並々ならぬ苦労と最高のセンスで展示している。そんな美術館を「芸術を体験できる劇場」として捉え、舞台を鑑賞しているようなわくわくした気持ちにしてくれる番組。番組を見た後は、きっと美術館に足を運び、芸術に浸りたくなること間違いなし。

今回の舞台は、「小平市平櫛田中彫刻美術館」。明治生まれの木工彫刻を得意とした平櫛田中は、岡山県の田中家に生まれ10歳で平櫛家の養子となり、実家の田中と養家の平櫛、両方の姓を用いて「平櫛田中(ひらくし でんちゅう)」と名乗る。22年の歳月をかけて制作した国立劇場の《鏡獅子》で、田中の集大成を見ることができるが、107年の生涯で亡くなる直前まで作品を作り続けた。100 歳を超えてもなお創作意欲がつきなかった平櫛田中に、大きな拍手を!

出演:片桐仁

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光太郎の父・光雲の弟子にあたる平櫛田中の旧居跡に建てられた小平市平櫛田中彫刻美術館さんが舞台です。当方もいろいろお世話になっている学芸員の藤井明氏もご出演。

この番組、元々はTOKYO MXテレビさんで放映されていたもので、当該回は令和4年(2022)5月20日が初回放映でした。

ちなみにTOKYO MXさんで令和3年(2021)3月、BS11さんで先月放映された中村屋サロン美術館さんの回では、同館所蔵の光太郎の油彩自画像(大正2年=1913)も取り上げて下さいました。
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今回もちらっとでいいので田中の師・光雲の話になればと思っております。

もう1件。5分間番組で、微妙なところですが紹介しておきます。

国立公園の絶景 5分ミニ(2)

NHK BS 2025年8月27日 00:55〜01:00

国立公園の絶景5分ミニ(2)雲仙天草・大山隠岐・十和田八幡平


5分間で3箇所の国立公園が紹介されます。ちらっとでも光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が映るといいのですが……。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

諸君は、今日の人々が意味する「独創(オリジナル)」とは何をか知つてゐるか。其は「類から離れる事(デパレイエ)」である。

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「独創(オリジナル)」とそれまでの「類」との格闘、芸術家にとって永遠の課題の一つですね。

8月16日(土)、御茶ノ水で「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」を拝聴する前、竹橋の東京国立近代美術館さんに立ち寄りました。こちらで先月から開催されている企画展「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」に光太郎がらみの出品物があると、SNSで知ったためです。
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同館公式サイトでは「戦争記録画を含む当館のコレクションを中心に他機関からの借用を加えた計280点の作品・資料で構成される本展覧会」と謳われています。
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お盆中でもなかなかの入りでした。
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基本的には絵画がメイン。
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「アッツ島玉砕」など、以前にも特集展示的な感じで複数並べられた、東京美術学校西洋画科での光太郎の同級生だった藤田嗣治作品がやはり目をひきました。
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他に梅原龍三郎、猪熊弦一郎など光太郎と交流のあった面々の作品も。
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かの丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」も。
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それらをただ並べてあるだけでなく、いろいろと工夫も。たとえば従軍画家として作曲家の古関裕而と共にミャンマー入りした向井潤吉の場合、戦争画と有名な戦後の民家シリーズの作品とを並べ、一つの文脈で捉えるなど。
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こんな作品も。一見、単なる婦人像に見えますが、よく見ると縫っているのは千人針です。
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その他、プロパガンダ系のポスターなど。
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「現在でも自民党本部に貼ってあるんじゃないの?」というようなものも。ここまでは上の方に画像を貼っておいた出品目録に掲載されているものです。

これら以外に、展示ケースをふんだんに使い、出版物等の展示も充実。昨年、同館で開催された「ハニワと土偶の近代」展と似たような感じだなと思いました。美術館としてこういう展示の方法は、なかなか勇気の要ることだと思います。
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この流れの中に、光太郎の翼賛詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)が展示されていました。
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過日もご紹介した「十二月八日」のページを開いての展示でした。
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同じ並びには日本放送協会(現・NHK)編の『愛国詩集』、大政翼賛会編の『翼賛詩歌』第一輯。共に光太郎の翼賛詩が収められたアンソロジーです。前者には「彼等を撃つ」(昭和17年=1942)「シンガポール陥落」(同)後者には「必死の時」(昭和16年=1941)が掲載されています。
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戦後の出版物も。やはり「ハニワと土偶の近代」展同様、サブカルチャー的なものも積極的に。

水木しげるの『総員玉砕せよ!!』。
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中沢啓治「はだしのゲン」。単行本ではなく、初出掲載誌の『週刊少年ジャンプ』、『市民』が展示され、より生々しい感じです。
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圧倒される展示でした。

続いて階上の常設展示的な「所蔵作品展 MOMATコレクション」。光太郎のブロンズ「手」などがよく出ているのですが、現在は光太郎作品はお休み中でした。

光太郎の親友・碌山荻原守衛の「女」は出ていました。
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その他、いろいろ名品が並ぶ中、階下の「記録をひらく 記憶をつむぐ」とリンクさせる意図もあるのでしょうか、やはり戦争画的なものも多かったように感じました。
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光太郎智恵子と交流のあった津田青楓の「叛逆者」。これなども「記録をひらく 記憶をつむぐ」と併せて見ることで、違った見え方になるような気がしました。
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館を出て、「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」までまだ余裕がありましたので、近くの戦争遺跡を見に。元々、時間があればそうするつもりでした。北の丸公園に、皇居防衛のために設置された「九八式高射関砲」の台座が遺されています。下記画像は国民公園協会さんのサイトから。
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スマホの地図アプリと連動した「道案内」的なサイトが用意されていまして、その通りに歩きました。都心のさらにど真ん中とは思えないような緑陰で、実にいい感じでした。
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しかし、そのサイトが超頓珍漢でして、全然何もない場所に案内されてしまいました。近くをさんざん探しましたが、ありません。慌てて他のサイトに当たってみると、正しくは全く離れた場所だということがわかりました。この手の道案内アプリ、時々こういうことがあるんですが、なぜなのでしょう?

結局断念し、御茶ノ水に向かいました。残念でした。

代わりというと何ですが、さらに前日に足を運んだ戦争遺跡の画像を。場所は当会事務所兼自宅のある千葉県香取市に隣接する旭市です。同市には千葉県立図書館の分館があり、そちらで調べもののついでに立ち寄りました。
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戦時中に香取海軍航空隊の基地があった場所で、空襲などの際に敵機から自機を隠すための掩体壕(えんたいごう)です。
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鎌数伊勢大神宮さんという神社の近く。同社の第二駐車場から徒歩数分です。先月、花巻で見た戦争遺跡同様、粛然とした気持にさせられました。

この手の掩体壕はさらに南の匝瑳市や、北に位置する茨城県鹿嶋市にも現存しています。鹿嶋市のものは以前に行きましたが、特攻兵器・桜花を収納するためのもので、桜花のレプリカも展示されていました。

終戦から80年。こういうものがまた必要になる時代に二度としてはならない、と、改めて思います。

【折々のことば・光太郎】

彫刻に於ける、あらゆる側面からの描形(デツサン)。此が魂を石に下降させ得る呪(まじなひ)である。


光太郎訳ロダン「断片」から 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

不謹慎のような気がしないでもありませんが、上記掩体壕のコンクリートの造型を見て、彫刻的な美しさを感じてしまいました。

昨日は上京しておりました。メインの目的は、講談「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」の拝聴でした。

会場は御茶ノ水のスカイルーム太陽さん。すぐ近くにはニコライ堂さん。
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真打・一龍斎貞橘さんがメインで、午前中から3部に分けての公演。3部それぞれに「助演」ということで、田辺いちかさん、神田伊織さん、そして一龍斎貞奈さんと、二ツ目の方々がワキを固めました。さらに当方が拝聴した第3部では前座(来月二ツ目に昇進されるそうですが)の宝井小琴さん。
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第1部から通しで聴かれた方もいらしたそうですが、当方は第3部のみ拝聴。助演の一龍斎貞奈さんがオリジナルの新作「高村智恵子の恋」を演じられるということで。

初演は8月9日(土)、日本橋社会教育会館で開催された「一龍斎貞奈 入門10周年記念公演〜昭和100年特集〜」でしたが、その際は当方、宮城県女川町での第34回女川光太郎祭に参列しておりまして、聴けませんでした。で、「再演してくれないかな」と思っておりましたところ、さっそく再演。「これはありがたい」と、馳せ参じた次第です。

ちなみに帰ってから調べましたところ、貞奈さん、午前中にも向島の墨亭さんという寄席で「高村智恵子の恋」を演じられていたそうで、そのパワフルさには驚きました。
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もう一つ「ありゃま」がありまして、「夏の太陽講談会」の方、日比谷松本楼さんでの今年の第69回連翹忌の集い、それから先月、中野区の産業振興センターさんで開催した「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」で、「智恵子抄」からの朗読をしていただいたフリーアナウンサーの早見英里子さんもいらっしゃり、隣に座らせていただきました。

さて、開演。

まずは宝井小琴さんによる新作、江戸川乱歩の「黄金の塔」。お馴染み名探偵・明智小五郎や少年探偵団の小林少年と、怪人二十面相との知恵比べ。こういうものも講談のモチーフになるんだ、という感じでした。

続いて一龍斎貞橘さん。演目は「一心太助~楓の皿」。もはや若い皆さんには「ご存じ一心太助」とは言えないでしょうが、太助が魚屋となるまでの顛末。貞橘師匠はこの後の「高村智恵子の恋」の後の大トリで、正統派の「源平盛衰記」から採った「宇治川の先陣争い」も演じられました。意味がぱっと解りにくい古典の文章も、声に出して読むことで非常にリズミカルに聞こえ、細かな意味まで解らなくともそれでいいのだろう、という感じでした。

そして貞奈さんによる「高村智恵子の恋」。

元々、野田秀樹氏脚本・大竹しのぶさん主演の「売り言葉」をご覧になっての着想だそうで、「光太郎の妻」という刺身のツマ扱いではなく、自らの信念に従って自分の足で立とうとする女性であった智恵子を描こうという意図が充ち満ちていました。しかし、智恵子の前にさまざまな困難が立ちはだかってなかなか思うように行かず、それでもへこたれることなく……というわけで。

智恵子の評伝等の類にもあたられてかなり勉強されたようで、感心いたしました。冒頭近くに智恵子の福島高等女学校時代の同級生・大熊ヤスが登場したり(二人の福島弁での掛け合いがユーモラスでした(笑))、この手の二次創作ではほとんど扱われない宮崎与平・渡辺文子との三角関係(光太郎と知り合う前の)なども紹介されたりと。それらや、日本女子大学校での一年先輩・平塚らいてうとのテニス勝負の場面、光太郎と知り合ってからも、駒込林町のアトリエ竣工祝いにグロキシニアの鉢植えを持って行くシーンなどなど、高座卓から身を乗り出さんばかりの熱演。

余談ですが、当会事務所兼自宅のグロキシニア、まだ花を咲かせ続けています。
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そして、連翹忌会場ともさせていただいている日比谷松本楼さん、智恵子が光太郎を追って行った犬吠埼等々のエピソードへと進み、大正3年(1914)の二人の結婚まで。およそ40分程の構成でした。

終演後、早見さんともども、既にお着替えを終えられた貞奈さんと少しお話をさせていただきました。
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その後の光太郎智恵子の、俗世間とは極力交渉を絶って「都会のまんなかに蟄居した」というような生活、智恵子の心の病、そして死、さらに詩集『智恵子抄』といったあたりについては、続編として「高村智恵子の」ならぬ「高村智恵子の」として構想中だそうです。期待大ですね。
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関係の皆さんの、今後のますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

叡智は描形(デシネ)する。が肉づけするのは心だ。

光太郎訳ロダン「断片」から 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「描形」は構想、「肉づけ」が実際の制作という意味でしょうか。どんなに頭を使って構想を練ってもそれだけでは不十分だし、実作する過程でいろいろなものが付け足されたり、逆に不要なものが削り取られたり、そういうものだというロダンの信念でしょう。

造型芸術に限らず、文学や音楽、講談なども含めた舞台芸術等にも言えることだと思います。

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