カテゴリ: 東北以外

最低でも春と秋、半年に一度はこのネタが使えるので助かっています(笑)。

知恩院春のライトアップ2025(夜間特別拝観)

期 間 : 2025年3月26日(水)~4月6日(日)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑 国宝三門周辺 女坂 国宝御影堂 阿弥陀堂(外観のみ)
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)

京友禅の祖・宮崎友禅翁ゆかりの庭園「友禅苑」や、日本最大級の木造二重門である「三門」、「男坂」など境内各所をライトアップいたします。ぜひこの機会に、知恩院へお参りください。

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みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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御影堂(国宝)
寛永16(1639)年、徳川家光公によって再建されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし
 テーマ『心に芽(め)ばえを~くらしの中に生きる仏教~』
 開始時間:18:00~/18:45~/19:30~/20:15~
 (各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)

月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内! 1時間30分たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:木・土・日
 開始時間:18:00~
 所要時間:約1時間30分
 定員:各回30名様まで
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。
 料金は拝観受付にて現金でお支払いください。

おてつぎフェス2025 有志メンバーによる京都市ジュニアオーケストラ 室内楽コンサート
 3月26日(水) 18時30分~ / 19時50分~ (各40分) 浄土宗総本山 知恩院 集会堂
京都市東山区に位置する歴史深い知恩院にて、京都ジュニアオーケストラの有志メンバーが、春のライトアップにあわせて室内楽によるコンサートを開催します。
弦楽四重奏、ヴァイオリン四重奏、木管五重奏、弦楽合奏のさまざまな編成によるフレッシュなアンサンブルにぜひご期待ください!
会場は畳となります(椅子の持込は可能です。他のお客様の妨げにならないようにご配慮をお願いします)。満員の場合は、ご入場をお断りする場合があります。鑑賞無料 別途ライトアップ拝観料が必要 大人800円。当日は高校生以下無料
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ライトアップ同時開催企画展示
 『夢中 伝承の川―春―』 3月28日(金) ~ 3月30日(日)
  場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・「華麓庵」
  林 侑子(陶芸家)、REKAO(千代紙)
  京焼・清水焼、友禅和紙
  ともに長く受け継がれてきた京都の伝統工芸、
  やきものと和紙が作り出す今の工芸の"二祖対面"。
  孔雀や川をモチーフに表現した作品を展示します。

 『千代紙の色と模様』 4月4日(金) ~ 4月6日(日)
  場所 友禅苑 茶室「華麓庵」
  REKAO(千代紙)
  桜柄の千代紙をあしらった金屏風を展示いたします。
  金屏風は前のものを輝かせるという存在でもあり、
  御来苑される方々を輝かせたいという
  願いを込めて制作いたしました。

 『鬼より強い守り神』
  場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・「華麓庵」
  吉田瑞希(陶芸家)
  魔除け・勉学の神様「鍾馗(しょうき)」をテーマにした展示。
  京都の町家で見かける屋根瓦の鍾馗とは異なる表現で、
  京都の民間信仰を新たな視点から紹介します。
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光太郎の父・光雲の聖観音像(上記マップの右下です)、正確には東京美術学校として依頼され、光雲が主任となって制作されました。明治25年(1892)のことでした。原型は美校の後身・東京藝術大学さんに残されています。
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ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

毎日いそがしくやつて居ます、今年は来月十和田湖に遊びにまゐる予定です、

昭和27年(1952)5月23日 永瀬清子宛書簡より 光太郎70歳

十和田湖にまゐる」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため。ただ、まだ青森県からの依頼を受けるかどうか確定していませんので、事情を知らない相手には詳細は伏せていました。

都内から映画の上映情報です。

没後10年 原節子をめぐる16人の映画監督

期 日 : 2025年3月8日(土)~4月4日(金)
会 場 : 神保町シアター 東京都千代田区神田神保町1-23
料 金 : 一般 ¥1,400 シニア ¥1,200 学生 ¥1,000 U29ペア割引 ¥2,200
      毎週水曜ファン感謝デー どなた様も1,100円均一
      毎月1日映画サービスデー どなた様も1,100円均一
      夕暮れ割 平日3回目の上映 1,100円均一
      誕生日割 誕生日当日 1,100円均一(ご本人のみ、要身分証提示)

今年は伝説の女優・原節子の没後10年にあたります。 これまで神保町シアターでは2度にわたり原節子特集を行ってきましたが、今回は、すべて監督の違う16本の出演作をプログラムしました。
小津安二郎監督作品のミューズとして今もなお世界中で愛され続ける不世出の女優が、監督の違う16本の映画で、それぞれどんな貌をみせているのか。絶世の美女でありながら、文芸ものの難役から洒脱なコメディまで幅広い役に挑んだ女優人生を、新たな趣向で振り返ります。
錚々たる監督陣による、めくるめく原節子の世界――ぜひスクリーンでご堪能ください。
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「没後10年 原節子をめぐる16人の映画監督」としては3月8日(土)から始まっており、4期に分けての上映で、3月22日(土)~3月28日(金)の第3タームに熊谷久虎監督の東宝映画「智恵子抄」(昭和32年=1957)が含まれています。もちろん智恵子役が原節子さんです。最上部メインのフライヤーで右下。
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二本松の実家に光太郎ともども訪れたというシーンから。全体像がこちら。
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原さん扮する智恵子の左に光太郎役の山村聰さん(山村さんは戦時中にラジオ放送で光太郎の翼賛詩の朗読をなさったこともあります)、さらに左は智恵子の両親で柳永二郎さんと三好栄子さん。柳さんは有楽座、三好さんは島村抱月・松井須磨子の芸術座ご出身。共に光太郎智恵子が観劇に訪れていた記録があります。もはや歴史上の人物、という感じでクラクラします(笑)。

ちなみにこのシーンで原さんが手にされているのは、光太郎木彫「蟬」。美術さんが作った小道具ではなく、実物かもしれません。「座談会 三人の智恵子」(昭和32年=1957 6月1日『婦人公論』第42巻第6号)から、原さんの発言。

映画ではクローズ・アップのときは本物を使うんですが、ふだんはやはり偽物でやってます。セミは富山県の人がもっていらっしゃってそれをわざわざご本人が夜行列車でもってきてくれました。そして、「智恵子さんが最後までもっていらしたセミですから、あんたもうまくやんなさい」と云われて困っちゃった。

このシーンが「クローズ・アップのとき」かどうか判断に迷うところですが。

「智恵子抄」、原さんの出演作品の中では、評価の高いものではありません。まぁ、そちらは原さんの他の出演作品と比較しての相対評価で、この映画だけの絶対評価として考えると、そう悪い出来ではないと思います。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今日の佳き日を卜して御依頼の標榜二枚を書きましたのでいつでもお手渡し出来ます

昭和27年(1952)4月29日 帷子敏雄宛書簡より 光太郎70歳

御依頼の標榜二枚」は、岩手県北部の川口村(現・岩手町)の公民館と図書館の看板です。共に現存しますが、風雨にさらされて墨が流れ落ち、文字は殆ど判別出来ません。

今日の佳き日」は天皇誕生日ですね。

今日の記事、ブログカテゴリーを「スポーツ/レジャー」に設定しました。「レジャー」というには少し抵抗がありますが……。いわゆる「掃苔(そうたい)」、最近は「墓マイラー」という語が浸透しつつあります。

偉人たちの物語に触れる 都内有数の霊園巡り

期 日 : 2025年3月22日(土)
会 場 : 谷中霊園   東京都台東区谷中7丁目
      染井霊園   東京都豊島区駒込5丁目(慈眼寺を含む)
      雑司ヶ谷霊園 東京都豊島区南池袋4丁目
      青山霊園   東京都港区南青山2丁目
時 間 : 9:00~18:00
料 金 : 大人(中学生以上)18,800円 小人(小学生以上)18,300円
      ※未就学児はお受けできません

・偉人の存在が身近になる…「名前だけ知っている」という偉人が、実際にお墓に手を合わせて墓前で生涯に想いを馳せると、本当にその人に会ったような感覚に。とても感動的な体験です。
・確実にお墓にたどり着ける…広大な墓地では一人の墓を探すだけで2時間かかることもザラ。最短ルートで巡礼。
・バスならではの機動力…都心の移動は小回りのきくバスが便利。貸切バスなので待ち時間もなし。車内ではここでしか聴けない楽しい墓巡礼トークもあり。

歴史上の偉人に時空を超えて感謝の言葉を直接伝えられる、それが墓巡礼の魅力です。穏やかな春の気候のなか、都内有数の4つの霊園 で近代日本を形成した偉人の墓所を訪ねてみませんか。
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案内人のご紹介 カジポン・マルコ・残月 墓マイラー歴38年
文芸とは全く無縁な日々を送っていたが、青春時代の様々な苦悩がきっかけで絵画、クラシック、文学に没頭。ベートーヴェンやゴッホという偉人たちと“酒が飲みたい!”という熱い思いが頂点に達した時から、貯金を全て墓巡礼に注ぎ込み、あちらとこちらの世界を右往左往している。
現在は墓マイラーとして世界墓マイラー同盟を立ち上げ、同志たちと日本・世界の墓を巡り、テレビ出演や本の出版も手掛けている。
座右の銘:「人は国や文化が違っても、相違点より共通点の方が“はるかに”多い」

来たる3月22日(土)春のお彼岸に、歴史ある都心の霊園(雑司ヶ谷、谷中、染井、青山)に眠る偉人を、貸切りバスで巡礼する旅を初めて近畿日本ツーリストさんと企画しました。いつもは世界墓マイラー同盟の主催でひとつの霊園を巡っていますが、今回はバスの機動力を生かして、4つの霊園で近代史に名を残した偉人のお墓を訪れ、墓前で故人の生涯や功績、人物の魅力について熱く語ります。
巡礼予定は以下の通りです。

〔谷中霊園〕 徳川慶喜 渋沢栄一 横山大観 長谷川一夫 森繁久弥など
〔染井霊園〕 高村光太郎 岡倉天心 二葉亭四迷 実相寺昭雄
       芥川龍之介(慈眼寺) 谷崎潤一郎(慈眼寺)など
〔雑司ヶ谷霊園〕 夏目漱石 小泉八雲 中浜ジョン万次郎 永井荷風 竹久夢二など
〔青山霊園〕 大久保利通 志賀直哉 北里柴三郎 歴代市川團十郎 ハチ公など

当日は9時に谷中霊園集合、18時ごろに東京駅解散です(昼食付き)。現地の解説は無線イヤホンで行うため声がよく聞こえます。気になる旅行代金ですが、昨今の物価・人件費高騰を受け、バスのチャーター費、昼食代、人数分の無料イヤホン、駐車場代、添乗員費用などを含め、お一人様あたり「18,800円」になります。

普段の墓マイラー同盟イベントは2千円で行っているので高く見えますが、これはけっしてボッタクリではなく、バスの運転手さん不足もあってどうしてもこの値段になってしまうとのことです。最少催行人数が25名で、これより少ないと企画は流れるという価格です。私自身、この値段設定で何人集まるのか不安がありますが、とにもかくにもまずは募集してみなければ何も始まりません。募集期間は1月10日(金)12:00 ~ 2月21日(金)12:00になります。

時空を超えて偉人本人と出会うような胸熱のお墓参り、その素晴らしさを伝えるべく当日は全力で解説します!バスの中でも墓マイラートーク全開で、国内外のいろんな墓参エピソードを紹介します。ご興味のある方、一緒に巡礼しませんか。

染井霊園さんで光太郎の名を真っ先に上げて下さいました。ありがたし。

正確には光太郎のみの墓ではなく、髙村家としての累代の墓。光太郎の母・わか(通称・とよ)が大正14年(1925)に大腸カタルで亡くなったのを機に浅草の寺院から移されました。幕末に亡くなった光太郎の曽祖父母に始まり、光太郎祖父母、光太郎の父・光雲と母・わか、独身のまま歿した光太郎のきょうだい、光太郎智恵子夫妻、そして長男光太郎に代わって髙村家を継いだ豊周(三男)の家系へと続き、平成26年(2014)に逝去された規氏までが眠っています。

近ツリさんが入ってのバスツアーということですし、その道のプロの方がガイドして下さるということで、個人で廻られるよりはるかに楽ですね。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

茴香の種子、その他豆類の種子忝くいただきました、今年は急にあたたかくなつたので少々まごついて居りますがこれらの種子を育てるのがたのしみです。
昭和27年(1952)4月10日 福田ハレ子宛書簡より 光太郎70歳

「茴香」は「ういきょう」、ハーブですね。

福田ハレはホームスパン作家。及川全三の弟子にあたり、光太郎一張羅の猟人服は、福田が織った生地を使って作られています。智恵子遺品の、イギリスの染織工芸家エセル・メレ作のホームスパン毛布に関し、貴重な回想も残しています。

一昨日、糟糠の妻とともに茨城は筑波山に行っておりました。と言っても、登山はせず、中腹の筑波山神社さんへの参拝と、近くの筑波山梅林さんでの観梅でした。

まずは筑波山神社さん。何だかんだで5回目くらいの参拝でしたが、以前には得ていなかった情報がありまして……。

昭和4年(1929)、水戸運輸事務所刊行の『名所案内』という書籍。この中に光太郎の父・光雲の名が。曰く「拝殿正面の扁額「筑波神社」は故小松宮彰仁親王の御揮毫、其の彫刻は高村光雲の作である」。
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寺社の扁額を光雲が手がけた例は、足立区の西新井大師五智山遍照院總持寺さんにもあり、今年1月に拝見に伺いました。筑波にもあるのか、という感じでした。

寺院の山門にあたる随神門。
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寺院の山門ですと左右には主に阿吽の金剛力士(仁王尊)が配されていますが、神社ですのでご祭神を守る別の神さまの像が一般的です。こちらでは日本武尊(やまとたけるのみこと)、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)。ご祭神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)/伊弉冉尊(いざなみのみこと)のご子孫で、共に武神ですね。像は木像ではなく鋳銅のように見えました。
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そして拝殿。
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ところが扁額が見あたりません。「うーん」でした。

考えられる可能性としては、暴風雨等で損壊し撤去されたか、保存のため拝殿内部に掲げられているか、あるいは上記『名所案内』の記述がガセだったか、そんなところでしょうか。

先ほどの随神門の方には扁額が掛かっています。ただ、新しい感じです。
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事情をご存じの方、ご教示いただけると幸いです。

拝殿の向かって右には、摂社的な日枝神社さん、春日神社さん、厳島神社さん。こちらは素朴な木彫がプリミティブでいい感じでした。
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かたわらには紅梅も美しく。

再び随神門をくぐって石段を下りると、こんな碑が。往路では脇道から入ったので気づきませんでした。
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日清・日露戦争時の海軍士官、のちに中将まで上り詰め、他に学習院御用掛や宮中顧問官なども務めた小笠原長生の揮毫です。小笠原と言えば光雲と親しい間柄で、東郷平八郎と光雲を仲介したりもし、光雲についての回想も数多く残している人物ですので「ありゃま」という感じでした。
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左から、文京区大圓寺の服部太元和尚、光雲、東郷、そして小笠原です。

この後、神社から2キロほど離れた筑波山梅林へ。
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少し観梅には時期的に遅いかな、と思ったのですが、そうでもありませんでした。散ってしまった木もあったものの、まだまだ満開の木の方が圧倒的に多い感じです。駐車料金が500円かかるだけで、入園自体は無料です。

こちらの揮毫は俳人・荻原井泉水。光太郎の一つ年下です。直接の交流はなかったようですが。
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晴れていれば都心のビル群やスカイツリーなど、さらに富士山まで拝めるのですが、生憎の曇り空でしたし、この後、雨となりました。
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梅以外に、水仙や椿なども。
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今週末、あるいは来週の春分の日くらいまでは見頃かと存じます。ぜひ足をお運び下さい。ただ、予想外に高低差がありましたので(妻のスマホアプリによればビル20階分くらい)、そのおつもりで(笑)。

【折々のことば・光太郎】

皆さんの熱意をも考へ、又仕事としての意味をも考へ、おうけして猛烈にやらうかといふ気になつてゐますが、ともかく谷口博士、佐藤氏、貴下等と一度十和田湖の自然を見てから決定したいと思ひます。


昭和27年(1952)4月12日 藤島宇内宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関して。光太郎、なかなか慎重でした。

3月13日、光太郎生誕142周年となりました。

それに合わせたわけでもないのでしょうが、兵庫県姫路市で明日から公演が始まる劇団プロデュース・Fさんの第76回アトリエ公演「売り言葉」。野田秀樹氏作の演劇で、智恵子を主人公とした一人芝居です。

『神戸新聞』さんに予告報道が出ています。

「智恵子抄」の背後描く 劇団プロデュース・Fの「売り言葉」 14~16日、姫路・本町で公演

 姫路市を拠点に活動する「劇団プロデュース・F」が14~16日、同市本町の劇団アトリエで公演を開く。高村光太郎の名作詩集「智恵子抄」の背後に潜むドラマを舞台化した「売り言葉」を上演する。
 「売り言葉」は人気劇作家・野田秀樹さんの作で、2002年に初演された。高村は詩の中で、純愛の対象として智恵子を描いているが、現実には高村から自由を束縛され、苦悩していた智恵子の姿を描く。舞台では、高村と智恵子の出会いと愛、心の溝の深まりなどをリズム良く、ユーモアも交えて演じる。同劇団が取り上げるのは、2回目。
 自分を見失い、本音を言えなくなった智恵子に代わり、高村の身勝手をとがめる「女中」が重要な役割を果たす。演出のひさたにとしかずさん(76)は「2人の愛の物語だけではなく、自然に振る舞えなくなった人間の葛藤、自由な発言を封じる圧力にも重点を置き、奥行きのある舞台にしたい」と抱負を語る。
 開演時間は、14日午後7時▽15日午前11時と午後3時▽16日午後2時。一般2千円、高校生以下千円。要予約。ひさたにさんTEL090・3656・7814
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先月、大阪で上演された、光太郎智恵子を登場人物とした2人芝居「吹田市民劇場 SHOW劇場 番外編vol.2 a次元のふたり」の際も『毎日新聞』さんが予告報道を出して下さり、おそらく観客動員に貢献されたことと思われます。今回もそうなることを期待します。

さて、「自分を見失い、本音を言えなくなった智恵子に代わり、高村の身勝手をとがめる「女中」が重要な役割を果たす。」だそうで、そのあたりが今回の演出の肝なのでしょう。平成14年(2002)の大竹しのぶさんによる初演では、大竹さんが主人公・智恵子、光太郎、そして狂言廻し的な「女中」と、三役を演じ分けられましたが、今回は「女中」は「女中」でお一人の方が演じられるようです。過去の他団体の公演でもそういうケースがありました。やはり「劇団」として演(や)られるとなると、一人芝居では……ということなのでしょうか。

この報道を読んで「面白そう、行ってみよう」という方が少しでも多くなることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

書を書く事は承諾します。あまり大げさな頒布会にしないやうに願ひますし、主催は貴下の名に願ひます。


昭和27年(1952)4月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎70歳

智恵子の姪にして、南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取った看護婦だった春子の夫・宮崎稔が光太郎の書の頒布会を企画しました。書に強い興味関心を持っていた光太郎も乗り気でしたが、結局、実現せずに終わったようです。

昨日は横浜に足を伸ばしておりました。

メインの目的は、旧知のフルート奏者・吉川久子さんのコンサート。
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先月初め、光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存の件で、『東京新聞』さんの取材を受けたのですが、その仲介をして下さったのが、吉川さん。その取材の際には吉川さんも同席され、その折に招待券を頂いてしまいまして、花束を抱えて馳せ参じた次第です。

会場は港の見える丘公園内のイギリス館さん。

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一昨年、箏曲奏者の元井美智子さんのコンサートもここで開かれ、それ以来でした。

吉川さん、以前には「智恵子抄」からのインスパイア的な曲も作られ、コンサートで披露なさいましたが、今回は特に光太郎には関わらないだろうと思っていて、事前にはご紹介しませんでした。しかし、さにあらず。
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波多圭代さんという方のピアノ伴奏に乗せてのフルート演奏の合間に、浅井理恵子さんというによる古今の文学作品等の朗読が入り、「冬景色」の前に光太郎詩「冬が来た」の朗読もなさって下さいました。
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終演後に吉川さんとお話しさせていただき、その中で「今度「冬が来た」という曲を作ります」とのこと。ありがたいお話です。

ちなみに今回のコンサートでは、光太郎とも縁の深い宮沢賢治の「春と修羅」インスパイアの曲、賢治の作詞作曲と言われ、東北新幹線新花巻駅の発車メロディーにもなっている「星めぐりの歌」も演奏なさいました。発車メロディーと言えば、JR横須賀線鎌倉駅の発車メロディーが吉川さんの演奏による「鎌倉」でしたが、現在でも使われているのでしょうか。最近、鎌倉駅には降り立っていないので解りません。
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多方面でご活躍中の吉川さんですが、今後のさらなるご飛躍を祈念いたします。

さて、そちらが午後からでしたので、午前中には同じ港の見える丘公園内の神奈川近代文学観さんにお邪魔しておりました。
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例によって閲覧室での文献調査です。あまりめぼしい成果はなありませんでした。『××』という書籍や雑誌に光太郎の書簡が掲載されているという情報を得て調べたところ、既知のものだったり……。

しかし一点だけ。昭和14年(1939)の雑誌『新風土』第2巻第11号に、当会の祖・草野心平による光太郎論が載っていたのですが、それに添えられた光太郎の写真(左下)。土門拳の撮影で、最初、他の書籍等にも掲載されている既知のもの(右下)かと思ったのですが、別のショットでした。
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既知のものではぼやけてしか写っていない右手に持った彫刻刀(鑿?)がはっきり写っています。また、手前にも。「ほおー」という感じでした。

彫っている木彫は、新潟の素封家にして美術愛好家・松木喜之七の注文による「鯉」。しかし、結局、光太郎自身が納得のいくものが出来ず、断念してしまいました。そうこしているうちに松木は太平洋戦争末期、もういい年だったにもかかわらず「根こそぎ動員」で徴兵され、戦死。戦後、その報に接した光太郎は非常に心を痛めました。

昨日のめぼしい収穫はこれだけでした。しかし、最近、同館に未知の光太郎書簡が複数寄贈されていて、そちらは「特別資料」という扱いになっています。そちらは事前に閲覧申請をして見せていただく形になっており、そのための申請書を貰ってきました。今月20日以降、改めて行って参ります。

なぜ20日以降かというと、20日に同館で以下の特別展が始まるためです。

特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」

期 日 : 2025年3月20日(木)~5月18日(日)
会 場 : 神奈川近代文学館 
時 間 : 午前9時30分~午後5時
休 館 : 月曜日(5月5日は開館)
料 金 : 一般700円(500円)、65歳以上/20歳未満及び学生350円(250円)、
      高校生100円(100円)、中学生以下は無料 ( )内は20名以上の団体料金

 卓越した知性を内包し、詩歌を読み、書き、その魅力を余すところなく発信した大岡信(おおおか・まこと 1931-2017)。批評『現代詩試論』でデビューしたのち、詩集『春 少女に』などで愛や生きる歓びをうたい、ライフワーク「折々のうた」では詩歌を人びとにとって身近なものとしてきました。その織り成す言葉は、人びとを魅了し続けています。
 当館では2020年以降、大岡家をはじめとする方々から大岡の遺した書、原稿、創作ノート、書簡などを受贈し、「大岡信文庫」として保存しています。本展ではこれらの資料を中心に〈おおらかな感性の詩人・大岡信〉の生涯を追いながら、広く人びとにひらかれた、豊かな言葉の世界を展開します。
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平成29年(2019)に亡くなった大岡信氏の回顧展的な。

光太郎がらみで、氏が『朝日新聞』さんに連載されていた「折々のうた」の原稿(光太郎短歌を取り上げて下さった第一回のもの)が展示されます。
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こちらを併せて拝見しようと思っておりますので。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おハガキと小包と一昨日到着、感謝。十三日の誕生日をおぼえてゐて下さるのは何だか恐縮の気がします。


昭和27年(1952)3月13日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎70歳

3月13日(来週ですね)は、光太郎の誕生日です。数え年の習慣では年明けと共に70の古稀となりましたが、満年齢では69歳ということになります。

ちなみに昭和24年(1949)には「年齢のとなえ方に関する法律」が制定され、公的な場面では数え年ではなく満年齢を使うようにとされました。

岡山県からイベント情報です。

岡山県詩人協会 第10回詩を楽しむ会ー智恵子抄ー

期 日 : 2025年3月16日(日)
会 場 : 岡山市オリエント美術館地下講堂 岡山市北区天神町9-31
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 500円

高村高太郎作智恵子抄及び安藤次男(郷土の詩人)の詩・散文の朗読、詩人の斉藤恵子さんの講演

申し込み不要

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岡山県詩人協会さんの主催。同会の初代会長は、光太郎と交流のあった現在の赤磐市出身の永瀬清子でした。

ちなみに「高村高太郎」ではなく「高村光太郎」なのですが、遠く大正時代から「あるある」ですので仕方ありますまい(笑)。
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ご興味お有りの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

例のテープ式録音などの不完全なものは殆ど聴くに堪へぬものになり勝ちで、しばしばラジオできかされて、ひんしゅくして居ます。設備と技術との未熟なものにひつかかる事を、おそれてゐます。


昭和27年(1952)3月5日 真壁仁宛書簡より 光太郎70歳

真壁は山形在住の詩人。NHKラジオで光太郎と真壁の対談を放送したいということで、それに対する返答の一節です。

光太郎としては乗り気ではありませんでしたが、結局、この月27日に花巻温泉松雲閣で録音が行われ、30日にオンエアされました。この対談はカセットテープやCDに収録されて市販もされていますし、NHKラジオ第2さんで平成28年(2016)に放送されたりもしています。

当初、収録に難色を示していた光太郎でしたが、始まると興が乗ってきたようで、当初予定になかった自作詩朗読も録音させました。いずれも「智恵子抄」所収の「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」でした。

自作詩朗読

先頃、日本芸術院新会員となられた野田秀樹氏作の演劇「売り言葉」。初演は平成14年(2002)、南青山スパイラルホールさんで智恵子役・大竹しのぶさんによる一人芝居でした。

光太郎智恵子の世界を劇化したものとしては、最も多く公演が続けられているでしょう。コロナ禍前の令和元年(2019)には、確認出来ている限り6組もの劇団/個人の方が全国で上演して下さいましたし、令和2年(2020)には3公演、コロナ禍を経て令和4年(2022)で2公演、一昨年と昨年も1公演ずつ確認出来ています。

で、今月は兵庫県で。

劇団プロデュース・F 第76回アトリエ公演「売り言葉」

期 日 : 2025年3月14日(金)~3月16日(日)
会 場 : 劇団プロデュース・Fアトリエ 兵庫県姫路市本町233岸田ビル3階
時 間 : 3/14 19:00 3/15 11:00/15:00 3/16 14:00
料 金 : 一般2,000円 高校生以下1,000円

人間が今まで書いてきた男と女の愛の物語はすべて嘘かもしれない あなたとの愛を選ぶ………… 選ぶの中にラブを見つけた 選ぶというラブの残酷 世界は目と鼻の先にしかない その世界は幸福な世界だ そこに貴方は住んでいる

今回もゲストお二人をお迎えしております。高村光太郎の詩「智恵子抄」 妻、智恵子との純愛とは。

出 演 : 駒崎有美 前田宣博 高見めぐみ 小林みね子 中島あると
演 出 : ひさたにとしかず
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キャストとして5名の方がクレジットされています。初演では大竹しのぶさんお一人の一人芝居でした。大竹さんが主人公・智恵子、光太郎、狂言廻し的な「女中」と三役を演じ分けられるという感じで。しかし、いろいろ大人の事情などでそれを破る公演も今までに為されていました。そのあたりは演出の範囲内でしょう。

光太郎ディスり度の最も高い脚本ですが、単に光太郎を悪者にして、才能を潰されたかわいそうな智恵子、というだけでなく、智恵子は智恵子で自分で自分の首を絞めている姿が描かれ、実に考えさせられます。

ご興味お有りの方、ぜひどうぞ。

ちなみに来月になりますと、茨城の劇団さんによる公演が土浦市であるとのこと。また近くなりましたら詳細をお伝えいたします。

【折々のことば・光太郎】
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ソツギ ヨウシキヲシユクス」ユカレズ テザ ンネン


昭和27年(1952)3月7日 
森口多里宛電報より 光太郎70歳

そろそろ卒業式シーズンですね。

森口は昭和23年(1948)に開校した岩手県立美術工芸学校長でした。同校教員には画家の深沢省三・紅子夫妻、彫刻家の舟越保武、堀江赳らがいました。光太郎は名誉教授就任を打診されましたが断り、その代わりことあるごとに同校を訪れ、生徒に講話をしたり、祝辞や祝電を寄せたりしました。

同校は、その後、盛岡短期大学美術工芸科を経て、岩手大学特設美術科に移行、現在に至ります。

永らく絶版となっていた臼井吉見の長編小説『安曇野』全五巻。新宿中村屋さんの創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻、光太郎の親友・荻原守衛らを軸に、信州安曇野ゆかりの人々の群像が明治30年代から戦後までを舞台に描かれています。守衛とのからみで光太郎も登場します。大河ドラマ化要望運動も起こっており、地元安曇野で復刊に向けてのクラウドファンディングなども為されていましたが、その甲斐あって限定復刊だそうです。

安曇野生まれの臼井は昭和15年(1940)、同郷の古田晁らと筑摩書房を設立、戦後の同21年(1946)、雑誌『展望』を創刊し、編集長に就きます。『展望』には光太郎作品がたびたび掲載されました。発刊の年に詩「雪白く積めり」、翌昭和22年(1947)には幼少期からの来し方を振り返り、戦時中の翼賛活動を自ら断罪した20篇からなる連作詩「暗愚小伝」など。

信州松本平地区をカバーする『市民タイムス』さんに先月出た記事。

臼井吉見著 長編大河小説『安曇野』文庫版 3月2日に復刊 お披露目・販売会も 長野県安曇野市

 長野県安曇野市は14日、太田寛市長肝いりで計画している絶版の長編大河小説『安曇野』(筑摩書房)の復刊が、3月2日に決まったと発表した。市内でお披露目・販売会も開く。安曇野の名を全国に広めた小説を通して、多くの先人を生んだ安曇野の風土を誇りとして再認識してもらう狙いがある。ただ、2000人を超える人物が登場する大作を読み通すのは難儀で、市民に身近に感じてもらう工夫が求められる。
 復刊数は文庫版第1~5部の1100セット(1セット税込み7040円)。お披露目・販売会は同日に堀金総合体育館で開き、文芸評論家・斎藤美奈子さんのトークなどを行う。復刊本は市内の小中学校や高校、図書館などにも置く。市の予算に加え、クラウドファンディング(CF)と企業・団体からの寄付で集まった299万6000円を費用に充てた。
 安曇野市堀金出身の作家・臼井吉見(1905~1987)の作で、昭和49(1974)年に完結した小説『安曇野』は、新宿中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻、近代彫刻の先駆者・荻原碌山など安曇野ゆかりの5人を中心として、明治から昭和にかけての激動の社会を描く。3回完読したという太田市長は14日の定例記者会見で、これだけ多くの先人を輩出した田園地域は全国的に少ないとし「先人が安曇野をベースに日本全国、世界に飛躍していった歴史(の物語)を、ぜひ若い人に読んでほしい」と話した。
 ただ、原稿用紙約5600枚分にもなる大作を読むには時間と労力がいる。太田市長は、読みやすくする改編が著作権上難しいとした上で「市の広報であらすじを紹介するなどの方法で、関心を抱いてもらう取り組みをやりたい」としている。
 市は『安曇野』を基にしたNHK大河ドラマ化も目指している。
 お披露目・販売会の参加希望者は2月4日までに、市ホームページから電子申請するか、ダウンロードした参加申込書を送付して申し込む。定員300人。
 問い合わせは市政策経営課(電話0263・71・2401)へ。
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003安曇野市さんのサイトに詳しい購入方法が書かれています。

3月2日(日)にはお披露目会もあるそうですが、早々に定員に達してしまったようです。地元の皆さんの関心の高さがうかがえます。「教育県」長野というのも背景にあるかも知れませんね。大河ドラマ化はなかなかハードルが高いと思われますが……。

今回の復刊は全五巻セットでの販売のみ。古書店のサイト等では分売も行われています。光太郎が登場するのは第二巻(第二部)。あるいは各地の公共図書館さんなどにも収蔵されているのではないでしょうか。

ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

年末年始の頃から一月一ぱいまるで筆をとらずに居りました。昨年同期に肋間神経痛を起したので今年は用心した次第でございます。


昭和27年(1952)2月1日 野末亀治宛書簡より 光太郎70歳

肋間神経痛は宿痾の肺結核によるもの。前年にはそれがひどく、農作業もほとんど放棄してしまいました。「一月一ぱいまるで筆をとらず」ということで、前月の書簡は3通しか確認出来ていませんし、毎年恒例だった書き初めも行わなかったようです。

養生に努めた結果、痛みはほぼ無くなりました。しかし結核自体が寛解するべくもなく、一時的なものだったようです。ただ、症状の改善は彫刻再開を決意する後押しにはなりました。

「春が来た」といいたいところですが、まだまだ今日明日あたりは寒波が居座るようで……。

先日、岐阜県白川町さんの広報誌『広報しらかわ』今月号に光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)が取り上げられていたのをご紹介しましたが、同様に北海道新篠津村さんの『広報新しのつ』さん今月号にも「冬が来た」が取り上げられていました。

UP DATE 地域おこし協力隊「冬が来た」

003 私の好きな高村光太郎さんの「冬が来た」という詩を紹介します。

  冬が来た
 
 きつぱりと冬が来た
 八つ手の白い花も消え
 公孫樹(いてふ)の木も箒になつた

 きりきりともみ込むやうな冬が来た
 人にいやがられる冬
 草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬
  が来た
 
 冬よ
 僕に来い、僕に来い
 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
 しみ透れ、つきぬけ
 火事を出せ、雪で埋めろ
 刃物のやうな冬が来た

 この詩は、冬の厳しさを人生の困難に例えているように感じられます。しかし、きっぱりとそれを潔く受け入れて迎えようとする強い意志が感じられるように思います。私達しんしのつの冬もまた、様々な厳しさがありますが、この激しい雪も、雪溶けの豊かな恵み深い水に繋がって行くことを思い起こし、毎日黙々と雪かきに向かいたいと思います。
 さて、今年も冬の最大イベント「しんしのつ天灯(ランタン)祭り」が2月22日(土)に開催されます。初めての試みとして『冬の花火』を打ち上げます。
 春は『桜』、秋は『紅葉』、冬は『雪』、そして夏が『花火』。四季を彩る風物詩の中で、唯一つ自然が織りなすものでないのが『花火』。人が作り演出しなければならないのが花火です。これを冬の風物詩『雪』の中で『天灯』とともに願いを込めて打ち上げます。
 しんしのつの冬は、毎日しんしんと雪が降り続きますが、村の人も村外の人も一緒にランタン祭りを楽しみましょう!

今月の担当:早瀬 慶四郎(農商工連携推進員)


新篠津村さんというのが北海道のどの辺なのか全く存じませんでしたが(すみません)、調べたところ、札幌の北東、岩見沢の西、日本海側ですので豪雪地帯なのでしょう。
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温暖な房総で「寒い、寒い」と言っているのが申し訳なく存じます。

「冬が来た」ついでにもう1件。

NHK Eテレさんで今月18日の未明に「NHK高校講座 言語文化 冬が来た(高村光太郎)」の放映がありました。てっきり再放送だと思っていたのですが、初回放映だったようで、放映後になってNHKさんのサイトで動画が公開されました。
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ナビゲーターはナレーター・声優の木本景子さん、解説で中央大学杉並高等学校さん教諭の齋藤祐氏、詩朗読がフリーアナウンサー・高山久美子さん。
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なかなかよくできた作りでした。
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特に「冬」と「僕」は一体化してしまっている、といったくだり。
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なるほど。

ぜひNHKさんのサイトからご覧下さい。

それにつけてもやはり「春が来た」と早く言いたいものです(笑)。

【折々のことば・光太郎】

東京も寒くなつたとききます。こちらも厳寒となりました。


昭和27年(1952)1月7日 草野心平宛書簡より 光太郎70歳

昭和27年(1952)の年が明け、光太郎、数え70歳となりました。以前から「70になったら本当の仕事を始める」と宣言していた通り、この年の秋には花巻郊外旧太田村での蟄居生活を切り上げ、上京。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作にかかります。その話が舞い込むのは春になってからで、この時点では未だ伝えられていませんでした。

2月も下旬となりましたので、そろそろ3月のイベントも少しずつご紹介していきます。

本日は、新潟県から講演会情報。

講演会「八一と高村光太郎」

期 日 : 2025年3月2日(日)
会 場 : 新潟日報メディアシップ2F 日報ホール 新潟市中央区万代3丁目1-1
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 500円(入館料込み)

 會津八一記念館では、開催中の企画展「八一を知る 八一がわかるー独往の書の秘密ー」の関連イベントとして、文芸講演会と篆刻体験講座を開催いたします。
 3月2日の講演会は、岐阜女子大学教授の住川英明先生から、自詠の歌を書で表現した八一のかな書を中心に、八一と同時代の彫刻家・詩人の高村光太郎の書を比較しながら、文学者の書の魅力に迫ります。
 3月8日の篆刻講座は、新潟県内の高校の書道担当教諭を講師に、参加者から自分の名前の1文字を実際に石に彫ってもらう体験講座です。
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講師の住川教授、ご自身も書家であらせられ、光太郎の書にも深い関心をお持ちで、光太郎の大幅をお持ちです。連翹忌の集いにも複数回ご参加下さいましたし、令和3年(2021)に当会として協力させていただいた富山県水墨美術館さんでの「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の図録に「光太郎書とその変遷」という玉稿を賜りました。その際には鳥取大学さんにお務めでしたが、今回は肩書きが「岐阜女子大学教授」。転勤なさっていたとは存じませんでした。

新潟市會津八一記念館さんで開催中の企画展「八一を知る・八一がわかる 独往の書の秘密」の関連行事という位置づけです。企画展自体は昨年12月から始まっています。
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006光太郎と2歳年長の八一、深い結びつきはなかったようですが、光太郎は八一から自著歌集『鹿鳴集』(昭和15年=1940)を贈られたりといった繋がりはありました。また、八一に師事した吉野秀雄と光太郎はけっこう深い交流がありました。

八一は短歌、光太郎は彫刻と、それぞれに本業を持ちながら「書」の世界にも爪痕を残した同時代の二人ということで、會津八一記念館さんでは平成19年(2007)に「會津八一と高村光太郎 ひびきあう詩(うた)の心」と題した企画展も開催して下さいました。その際の関連行事の講演は、当会顧問であらせられた北川太一先生。新潟まで馳せ参じて聴講いたしました。もう20年近く経つか、という感じです。

さて、講演会「八一と高村光太郎」、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

リプトン茶などよく入手出来るものと驚きます。しかも青紙のリプトンは珍重です。パルモリーヴのシヤンプウなど思ひがけない限りでした。国旗まで在中、おかげで此の正月には原稿紙の国旗を出さずにすみます。

昭和26年(1951)12月19日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

お歳暮的にいろいろな品を送ってもらった礼状の一節です。リプトンは言わずと知れた紅茶のブランド。「青紙」は高いグレードの品だったのでしょうか。パーモリーブのシャンプーも現在でも売られています。ほぼ禿頭となっていた光太郎には必要なかったようにも思われますが(笑)。

「原稿紙の国旗」は前年に発表された詩「この年」に関わるでしょう。

   この年医は①
 
 日の丸の旗を立てようと思ふ。
 わたくしの日の丸は原稿紙。
 原稿紙の裏表へポスタア・カラアで
 あかいまんまるを描くだけだ。
 それをのりで棒のさきにはり、
 入口のつもつた雪にさすだけだ。
 だがたつた一枚の日の丸で、
 パリにもロンドンにもワシントンにも
 モスクワにも北京にも来る新年と
 はつきり同じ新年がここに来る。
 人類がかかげる一つの意慾。
 何と烈しい人類の已みがたい意慾が
 ぎつしり此の新年につまつてゐるのだ。

原稿用紙の日の丸自体は、遡って昭和22年(1947)から使っていましたが、それではあんまりだということで、椛沢がちゃんとした布の旗を贈ったのでしょう。

当会として最大のイベント、高村光太郎を偲ぶ連翹忌を、忌日である4月2日(水)、下記の通り実行いたします。お誘い合わせの上、ご参加下さい。

                                     

日 時  令和7年4月2日(水) 午後5時30分~午後8時

会 場  日比谷松本楼 千代田区日比谷公園1-2 tel 03-3503-1451㈹
     JR 山手線・京浜東北線 有楽町駅 日比谷口
     地下鉄日比谷線・千代田線・三田線 日比谷駅 A14 出口
     地下鉄日比谷線・丸ノ内線 霞ヶ関駅 B2 / B1A / B3A 出口
松本楼地図
会 費  12,000円(含食事代金)

ご参加申し込みについて
  ご出席の方は、下記の方法にて3月22日(土)までにご送金下さい。
  会費ご送金を以て出席確認とさせていただきます。

  郵便振替 郵便局備え付けの同封の払込取扱票にて郵便局よりお願いいたします。
       ATM、窓口にて取り扱い可能です。
       申し訳ございませんが手数料はご負担下さい。

       ゆうちょ口座 00100-8-782139  加入者名 小山 弘明

 ご送金後、急なご都合等でご欠席の場合、3月30日(日)までにご連絡頂ければ、
 後日、返金いたします。

 参加料の当日お支払いも可能ですが、座席数確保、名簿作成のため、
 事前のお申し込み連絡をお願いいたします。

 複数名の方でご参加下さる場合、払込取扱票の通信欄等をご利用の上、
 参加なさる方全員分のご氏名をお知らせ下さい。

配布物について
 会場でパンフレット、チラシ等配付をご希望の方は、150部ほどご用意いただき、
 4月1日(火) 必着で下記までご送付下さい。当日、参加の皆様に配付いたし、
 残部は欠席の方等にお送りいたします。
 公序良俗に反するものでなければ特に光太郎智恵子に関わらないものでも結構です。
 当日ご持参いただく場合には午後4時頃までに会場受付にお持ち下さい。
 書籍、CD等の販売も可能です。

  〒100-0012 千代田区日比谷公園1-2 日比谷松本楼 連翹忌宛(必ず明記)

 当日、お時間に余裕がおありの方には、配付資料の袋詰めのお手伝いをお願いいたしたく存じます。早めに会場にお越しいただき、ご協力下さい。当方、午後3時頃には会場入りしております。

当日備考
    着座ビュッフェ形式にて執り行います。ドレスコードは特に設けておりません。

ご参加下さっているのは、光太郎血縁の方、生前の光太郎をご存じの方、生前の光太郎と交流のあった方のゆかりの方、全国の美術館・文学館関係の方、出版・教育関係の方、光太郎智恵子にインスパイアされた美術・文学などの実作者の方、音楽・芸能系等で光太郎智恵子を扱って下さっている方、各地で光太郎智恵子の顕彰活動に取り組まれている方、そして当方もそうですが、単なる光太郎ファン。基本的にはどなたにも門戸を開放しております。ご参加の皆様にスピーチを頂いたり、また、アトラクションも予定したりしております。

昨年の様子がこちら

参加資格はただ一つ「健全な心で光太郎・智恵子を敬愛している」ことのみです。

よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

小屋のまはりはもう一尺ほどつもつた雪で美しい冬景色になり、毎朝小鳥が訪れて来ます。

昭和26年(1951)11月30日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村で過ごす最後の冬が始まりました。

現代アートの個展、始まってしまっていますが、会期が長いのでご寛恕の程。
期 日 : 2025年2月1日(土)~3月29日(土)
会 場 : MAKI Gallery天王洲 東京都品川区東品川1-33-10 
時 間 : 11:30~19:00
休 館 : 日曜・月曜
料 金 : 無料

MAKI Galleryではこのたび、日本人アーティスト清川あさみによる個展「神話の糸」を天王洲ギャラリースペースにて開催いたします。本展は2024年夏に鹿児島県・霧島アートの森にて開催された清川の特別企画展「ミスティック・ウィーヴ:神話を縫う」を引き継ぎながら、過去から未来へと続く人類の物語を自然と都市、伝統とテクノロジーの交差点で紡ぎ直す試みとなります。

清川のアーティストとしての活動は、個人の内面や感情を描いた初期の作品から、社会全体や地球規模のテーマを扱う現在の作品へと大きな変化を遂げてきました。しかし、その根底にある「人間の本質に問いを投げかける」という姿勢は一貫しています。自然と都市、伝統とテクノロジー、個人と社会といったテーマに対して、これまでにない視点で考えるきっかけを生み出したいと強く願う清川。そんな作家が神話の世界に鑑賞者を誘い、新たな時代の価値観をともに探ろうとする本展を、どうぞ会場にてご高覧ください。
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平成29年(2017)に智恵子の故郷・福島二本松の智恵子の生家も会場となった現代アートの「重陽の芸術祭2017」で展示された、巨大な刺繍作品「女である故に」がこちらでも展示されています。
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平成29年(2017)、智恵子生家での展示風景はこちら。
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タイトルの「女である故に」は、大正5年(1916)5月、『婦人週報』に掲載された智恵子のアンケート回答が出典です。アンケートの質問は「女なる事を感謝する点」。

 私に恋愛生活(現在)のが始まつてから、始めてさういふ感じを意識しました。これは一つの覚醒です。其の他(た)にはまだ私には経験がありません。「女である故に」といふことは、私の魂には係りがありません。女なることを思ふよりは、生活の原動はもつと根源にあつて、女といふことを私は常に忘れてゐます。

光太郎との結婚披露が終わって1年半ほどの時期のものです。

この時期、智恵子が本当にそう考えていたのか、あるいは「こうあるべき」と自分に言い聞かせていたのか、後の大いなる悲劇に思いを馳せると、何とも難しいところです。

さて、「Mythic Threads:神話の糸」、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

宮崎さんの件については小生不賛成なのですが、まづ黙認することにして、中央公論社が出すならば当然「選集」出版済の後であるべきでせう。御考を願ひます。書名も「愛情の手紙」などは低能です。


昭和26年(1951)11月17日 松下英麿宛書簡より 光太郎69歳

松下は中央公論社の編集者。「宮崎さんの件」は、宮崎の編集による光太郎書簡集『みちのくの手紙』(昭和28年=1953)に関わります。

宮崎は昭和22年(1947)の光太郎歌集『白斧』にしてもそうですが、光太郎が拒否したにもかかわらず、光太郎文筆作品集の出版を強行することがありました。

宮崎は智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚し、光太郎とは姻戚ですし、経済的に豊かでないことをわかっている光太郎、あまり強いことは言えませんでした。
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昨日、都内で『東京新聞』さんの取材を受けました。光太郎終焉の地にして第一回連翹忌の会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ保存関係です。そちらが午後だったので、午前中は都内を通り越し、北鎌倉へ。光太郎実妹の令孫夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんで始まった「高村光太郎と尾崎喜八」展を拝見して参りました。

尾崎喜八は光太郎より9歳年少の詩人。光太郎と家族ぐるみの交流がありました。その喜八を偲ぶ「臘梅忌」が本日、喜八の墓のある明月院さん、それからその裏手の笛さんで関係者の方々がお集まりになってこぢんまりと執り行われるのですが、今日は他用のため参列できませんで、昨日のうちにご挨拶かたがた参上した次第です。

まずは明月院さんで墓参。
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中高生と思われるグループが多数。修学旅行か校外学習かというところでしょうが、春や秋でなくてもそうなんだ、という感じでした。

本堂裏手、尾崎家のそれを含む墓所は、通常、一般人の立ち入り不可ですが、喜八令孫の石黒敦彦氏の御名を出して参拝させていただきました。
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こういう場合の常ですが、光太郎の代参のつもりで手を合わせました。
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喜八、妻の實子(光太郎親友の水野葉舟の娘)、そして二人の息女にして、当方もお話を伺ったことのある榮子さん(駒込林町の光太郎アトリエで、智恵子にだっこしてもらったことがおありだそうでした)。

明月院さんを出て、さらに坂を上っていくと、笛さん。
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毎年秋にも光太郎と喜八に関わる展示をなさっているのですが、今回は近くにお住まいの石黒氏が、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が光太郎と喜八の関わりについて書かれた玉稿をまとめた書籍『高村光太郎と尾崎喜八』を刊行なさるということで、その記念のイレギュラー開催です。
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ゲラが展示されていて、拝見。
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完成が楽しみです。

他の展示。

まずは喜八夫妻の結婚祝いに光太郎が贈ったブロンズの「聖母子像」(大正13年=1924)。ミケランジェロの同名作品の模刻ですが、一点物です。
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おそらく出版された書籍類には載っていない古写真。

光太郎実妹・しづ(静子)の子息にして、笛の奥さま・加寿子さんのお父さまの結婚式。昭和18年(1943)だそうです。
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光太郎や、光太郎に代わって髙村家を嗣いだ実弟の豊周も。
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左下は少年時代の光太郎、すぐ下の道利・しづの双子、豊周。
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右上は晩年のしづ、それから幼少期の笛の奥さま。

その他、光太郎と喜八らの写った写真など。
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戦前の一時、尾崎夫妻は杉並に居住していましたが、そのすぐ近くに住んでいて、光太郎や夫妻と交流のあった江戸狄嶺関連も。
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光太郎が江渡のために設計し、江渡が拓いた農場に建てられた霊堂「可愛御堂」。
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なかなかに充実した展示でした。

当方がお邪魔した際にはご主人しかいらっしゃらず、美味なる珈琲をいただいて、「それでは」と、店を後にして北鎌倉駅をめざして坂を下りていると、奥さまが坂を上って来られました。そこでしばし立ち話。さらに奥さまと別れて1分後には、やはり坂を上られる石黒氏と遭遇。笑ってしまいました。4月の連翹忌にはまたお三方とお会い出来そうです。

さて、笛さんでの展示、3月4日(火)までの火・金・土・日曜(今日と2月22日(土)を除く)、11時~16時です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

おてがみなつかしくよみました。その後の御消息が分つてよろこびました。小生にもいろいろの事がありましたが結局大変自分の気持にあつた生活の出来るやうになりました。ここで仕事したいと思つてゐます。東京ではとても出来ないやうないい毎日の生活を送ることが出来て感謝してゐます。


昭和26年(1951)9月7日 吉野登美子宛書簡より 光太郎69歳

吉野登美子は元・八木重吉夫人。八木重吉は光太郎より15歳年下の詩人。昭和2年(1927)に結核のため、早世しました。その遺稿を未亡人・登美子が戦時中も守り続け、昭和17年(1942)は光太郎や八木と親しかった草野心平らの尽力で『八木重吉詩集』が刊行されました。光太郎はその序文や題字を揮毫したりしました。

登美子は戦後、やはり光太郎と交流があって、妻に先立たれていた鎌倉在住の歌人の吉野秀雄と再婚。この書簡も鎌倉に送られました。

明日、明後日と大阪府吹田市で公演が行われる「吹田市民劇場 SHOW劇場 番外編vol.2 a次元のふたり」について、『毎日新聞』さんが予告を出しました。

光太郎と智恵子 悩み、寄り添う夫婦の物語 「a次元のふたり」

 詩人・彫刻家として知られる高村光太郎(1883~1956年)と、洋画家として活動した長沼智恵子(1886~1938年)。2人の出会いから夫婦としての日々までを描く舞台「a次元のふたり」が、8、9日、大阪府吹田市のメイシアター小ホールで上演される。
 関西の演劇人と同シアターが作る「SHOW劇場」シリーズの新作。高橋恵さんの作、上田一軒さんの演出で、光太郎を竹内宏樹さん、智恵子を佐々木ヤス子さんが演じる。芸術家としての理想と、意のままにならない身体や生活。その間で悩み、寄り添う夫婦の物語を2人芝居に仕立てた。
 「表現者としての野心と、思うようにいかない挫折感。若き日の2人には共感する部分が多い」。高橋さんはそう述べた上で「理想と現実のギャップを身体をキーワードとして描いた」と作劇の狙いを語る。
 上田さんは「光太郎も智恵子も、過剰とも言えるほどの理想を抱いていた。そんな2人の精神性も丁寧に浮かび上がらせたい。2人の葛藤や精神的なつながりが、言葉だけでなく身体的にも伝わる舞台になれば」と意気込む。
 8日午後3時と、9日午前11時・午後3時の3回公演。2000円。問い合わせは、メイシアター(06・6386・6333)
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予告記事が出るということは、それだけ注目されているようで嬉しく存じますし、記事を見て「行ってみよう」と思う読者の方もいらっしゃるでしょうから、しめしめです(笑)。

この手の演劇で、光太郎智恵子の世界を取り上げて下さる方がぽつぽついらっしゃるのは非常に有り難いことです。ところが、何年も前から「智恵子抄やります!」と大騒ぎしておいて、しかし一向に具体化せず、SNS等読むと頓珍漢な記述ばかり、さらに「私が」「私が」の連発で(しかし結局「私は誰々の弟子で」と七光り。自分が空っぽな人間のあるあるですね)、気味の悪い自撮り写真をずらり、結局スタッフとぶつかって公演中止、そういう事態を恥じるでもなく中止した後もスタッフや他のキャストにぐだぐだ文句の連発を公開、そんな輩も居ます。「協力して下さい」と言うので「いいですよ」と返答したところ、中止したという連絡も無し。またやる、とか騒いでいますが、はたして上演までたどり着けるのかどうか……。こういう手合いには光太郎智恵子の世界に手を付けないで欲しいところです。たとえ上演となっても、このサイトでは紹介しませんのでよろしく。

閑話休題、「a次元のふたり」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

コタツは炭酸ガスの害が意外にひどいやうなので木炭でなく電気コンロを使ふことにきめました。

昭和26年(1951)9月5日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎69歳

澤田の龍星閣が費用を負担して出来た小屋の増築部分。床に掘り炬燵用の炉が切ってありましたが、炭では一酸化炭素中毒の危険性があるということで、電気コンロを使っていました。元の小屋は隙間だらけでその心配はありませんでしたが、新小屋は意外と密閉性が高かったようです。

翌月に小屋を訪ねた佐久間晟・すゑ子夫妻の証言によると、ニクロム線を使ったなつかしい(笑)下記のようなタイプのものだったそうです。
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テレビの地方局で流されたローカルニュースを2件。

まずはNHK広島局さん。呉市立美術館さんで昨年12月から開催されている「コレクション展III いのちを彫る 時を刻む 呉美の彫刻コレクション」に関して。

呉市立美術館で彫刻作品展 高村光太郎の「手」も

 近代から現代にかけて日本や西洋で作られた彫刻作品を集めた展示会が、呉市の美術館で開かれています。
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 呉市立美術館で開かれている展示会には、大正時代から現代にかけて日本やフランスなどで作られたあわせて50点の彫刻作品が展示されています。
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 このうち、大正から昭和にかけて活躍した詩人で彫刻家の高村光太郎の代表作の一つ「手」は、自らの手をモデルにしていて骨の形や皮膚のたるみまで写実的に表されているのが特徴だということです。
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 また、呉市出身の彫刻家、上田直次の「愛に生きる」という作品は、やぎの親子をモチーフにしたもので、大きなくすのきをノミで大胆に削って作っています。
 呉市立美術館の学芸員、渡辺千尋さんは「今回の展示は彫刻作品なので、絵画とは違って360度、いろいろな角度から展示を楽しめます。ぜひ会場に来ていただき、さまざまな視点から作品を観察して、それぞれのおもしろさを見つけてもらいたいです」と話していました。
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 この展示会は、2月11日まで開かれています。
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もう1件、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ライトアップも為されている「十和田湖冬物語2025」について、RAB青森放送さん、2月1日(土)の放映。残念ながら「乙女の像」には触れられませんでしたが。

「もう忘れられないです」十和田湖冬物語が開幕 冬空を彩る大輪の花火 雪の滑り台やスノーモービルで引く雪上バナナボート かまくらバーも人気

 冬の十和田湖を楽しむことができる「十和田湖冬物語」がきのう開幕しました。
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 十和田湖冬物語は十和田湖畔休屋地区できのう開幕しました。
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 会場にはスノーパークが設けられ、雪の滑り台やスノーモービルで引く雪上バナナボートを楽しむことができます。

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 また青森と秋田の食を楽しめる雪あかり横丁や、氷のグラスでカクテルなどが飲めるかまくらバーも人気です。
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 訪れた人たちのお目当ては午後8時からの冬花火。
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 音楽に合わせて200発の花火が打ち上がります。
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★訪れた人
「カラフルでドカンとなってクライマックスのときにしゅっていろいろなったのがおもしろかったです」
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「東京ではこんな風になかなか見られないのでしかも雪と一緒に見ることがないのでうれしかったです 
もう忘れられないです」
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 十和田湖冬物語は今月24日まで、火曜日と水曜日を除く毎日開かれます。
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それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「トリモンA」三箱サントニン錠一箱、石鹸などいただき、感謝しました、早速服用いたしました。神経痛はどうしても退治してしまはねばなりません。今後の彫刻製作の邪魔になりますから。


昭和26年(1951)8月9日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

翌年秋は再上京し、「乙女の像」制作を始めますが、この時点ではまったく具体的な計画は立っていません。それでも何らかの彫刻制作を再開する構想はずっと持ち続けていました。

「トリモンA」はホルモン剤、「サントニン」は虫下しの薬。「虫下し」と言っても、若い人達には通じないでしょうね(笑)。
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「あじさい寺」として有名な北鎌倉明月院さん裏手(徒歩365歩)にあるカフェ兼ギャラリー笛さん。光太郎実妹・しづ(静子)令孫ご夫妻が営まれています。

毎年秋に、お近くにご在住の石黒敦彦氏(光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八令孫)と共に、両家に伝わる光太郎・喜八関連の品々を展示する「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情」を開催なさっています。昨年の様子はこちら

同様の展示を今年はこの時期にも開催。先週土曜から始まっているそうです。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その9

期 日 : 2025年1月31日(金)~3月4日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

4月に発行される北川太一著「高村光太郎と尾崎喜八」を記念して100年のメモリアルを両家の孫の世代所有の資料で構成して展示
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石黒氏が編集なさり、当会顧問であらせられた北川太一先生が光太郎と喜八の関わりについて書かれた玉稿等を集めた『高村光太郎と尾崎喜八』という書籍が刊行されるとのことで、それを記念しての開催だそうです。「100年のメモリアル」というのは、北川先生がご存命であれば今年3月28日で満100歳になられるはずだったことに因みます。

展示風景、笛さんオーナー山端氏のフェイスブックからお借りしました。
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光太郎が尾崎夫妻の結婚祝いに贈ったブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)も展示されています。ミケランジェロの模刻で、他に鋳造されたことが確認出来ていない一点物です。ちなみに喜八の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の息女で、光太郎は我が子のようにかわいがっていました。

時間を見つけて行って参ります。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

赤城写生帖といふやうなもの、まるで忘れても居ましたし、思ひ出さうとしても思い出せません。しかし、小生のものらしく、それがどうして貴下のところにあるのか実に不思議に堪へません。卅七年といへば日露戦当時、小生が美術学校に居た頃と思ひますが、そんなものが出て来ると怖いやうな気がします。

昭和26年(1951)7月14日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

「赤城写生帖」は、明治37年(1904)、数え22歳で美校研究科在学中の光太郎が葉舟と共に滞在していた上州赤城山で描いたスケッチ帖です。原本は葉舟が保管、詩人の西山の手に渡りましたが、その後の行方が不明です。

光太郎没後の昭和31年(1956)、『智恵子抄』版元の龍星閣から猪谷六合雄解説で『赤城画帖』として刊行されました。猪谷は日本スキー界の草分けですが、光太郎等が宿泊した赤城の猪谷旅館の子息でした。
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1月19日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版の連載「美の粋」で取り上げられました光太郎の親友であった碌山荻原守衛に関して、続編が1月26日(日)に出ました。前回もそうでしたが、見開き2ページの長い記事ですので、光太郎の名が出る部分のみ。

新宿に吹いたパリの風「中村屋サロン」群像(中) 命を凝縮した彫刻 受け継がれる思想 荻原守衛(碌山)「女」

002突然の「絶作」刻まれた理想
 主を失った部屋にその「女」(1910年)は一人残されていた。この像を制作した年の4月20日、荻原守衛(碌山)は新宿中村屋で血を吐いた。そして、その2日後、30歳で逝った。あまりに唐突な死だった。
 地面にひざまずき、手を後ろ手に組み、体をねじり上げるようにして上空を見る女性像。まるで捕虜になったかのようにも、見えない何かにとらわれているようにも見える。実際にやってみれば分かるが、かなり苦しい体勢だ。しかし、その表情には何かを悟ったかのような高貴さがある。
 モデルを務めたのは岡田みどりという女性だった。しかし、その顔は中村屋の経営者で、相馬愛蔵の妻、黒光によく似ている。黒光自身も残された像を見て、碌山が誰を思って制作したのか、悟らざるを得なかったようだ。「単なる土の作品ではなく、私自身だと直覚されるものがありました」(相馬黒光「黙移」)
 この作品に賭ける思いは強かった。友人の高村光太郎がアトリエを訪れた際に碌山は、完成間近の「女」を「やはり、どうにも気に入らない」と破壊しようとした。高村は慌てて、それを止めたという。また、別の友人、戸張孤雁は部屋の中で、薄着で震えている碌山の姿を目撃している。服は、制作中の「女」にかけてあった。
 確かに「女」は黒光への思いから生まれたものではあったのだろう。碌山美術館の武井敏学芸員は「『女』の姿は、士族の家に生まれながら貧しさにも苦しみ、夫、愛蔵の愛人問題など人生の苦難を乗り越えてきた黒光の姿に重なる」と話す。
 一方で、作品は一個人への恋慕の情にとどまらない精神性も感じさせる。黒光は進んで学び、芸術への理解もある教養の高い女性だった。「良妻賢母という旧習にとらわれることなく、自由な生き方を求めたこの時代の女性たちの姿が投影されている」(武井学芸員)ようにも見える。碌山が表現したかったのは黒光に代表される、この時代における総体としての「女」そのものだったのではないだろうか。
 碌山の愛は、届くことはなかった。黒光は苦しみながらも愛蔵を許し、その後も子供をもうけた。碌山の悩みは深かった。高村ら友人に送った手紙に胸の内を明かしている。「日暮れて谷間をさまよう旅人の如く。頭が病んでいる」「惨めだ。僕は失ってしまった。いやまだ失っていないが」。「文覚」(1908年)や「デスペア」(1909年)では、黒光への恋心から生まれた苦しみや絶望を作品に込めた。
 しかし、「女」の表情は負の感情を感じさせるどころか、どこか晴れやかですらある。そこには、碌山自身の心境の変化も表れているようにみえる。武井学芸員は「苦境を受け入れ、これからは高みを目指していこうという前向きな意志も感じさせる」と指摘する。だとすれば、次に碌山はどんな作品を生み出したのだろうか。残念ながら、それを確かめる術はない。
 碌山自身ももちろん、これが絶作になるとは知るよしもない。しかし、不思議なことに「女」を見るうちどこかでこれが最後の作品になることを知っていたのではないかと思えてくる。内面から輝くような生命の美を彫刻に求めた碌山の理想が全て刻み込まれた、まさに集大成の出来栄えだ。
 碌山の彫刻家としてのキャリアはパリ時代を含めても4年ほどにすぎない。帰国後に限ればたった2年だ。恐るべき才能であったといえる。そのあふれるほどの才能は黒光と再会することで、苦しみとともにではあったが発露を見た。「女」には碌山の命そのものが凝縮されている。
 「女」はその年の10月、碌山の兄から委託され、東京美術学校鋳金科に在学中の山本安曇が鋳造した。文展にも出品されたが、結局、3等に終わった。真の価値が認められるまでには、半世紀の時を要した。67年「女」の石こう型は、日本の近代彫刻で初めての重要文化財に指定された。
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前回メインで取り上げられた守衛の「坑夫」同様、「女」も光太郎が救ったという話。数年前に知ったのですが、光太郎、グッジョブでした。

引用部分最後に、山本安曇による「女」鋳造の件に触れられていますが、この際には光太郎実弟にしてのちに家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ豊周も参加しています。

右画像は豊周著『自画像』(昭和43年=1968 中央公論美術出版)から。

引用部分は見開き2ページの片側部分で、このあと引用しなかった後半部分が続きます。そちらでは守衛没後の柳敬助、戸張孤雁、中原悌二郎らに触れられています。

2週で「上・下」かな、と思ったのですが、3週で「上・中・下」のようです。すると2月2日(日)掲載分の「下」では、「上」「中」でほとんど触れられなかった中村彝あたりがメインになると思われます。

ちなみに新宿の中村サロン美術館さんでは、現在、「コレクション展示 中村屋サロン」が開催されています。「坑夫」「女」も出ていますし、わりとよく出品されるのでその都度ご紹介はしていませんが、光太郎の油彩画「自画像」(大正2年=1913)も出ています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お説の通り、此の小屋の湿気が神経痛にも大いに関係ある事萬々承知の上、如何ともし難き事情の下に、この五年間水牢に起居するつもりで過ごして居た次第であります。しかしこんな事は何でもありません。


昭和26年(1951)7月14日 照井欣平太宛書簡より 光太郎69歳

「水牢」は江戸時代、主に年貢未納者を水浸しにした牢に閉じこめた刑罰、またはその牢です。

翌年、光太郎再帰京後に国安芳雄と行った対談「心境を語る」では、次の記述があります。

山だから湿気がひどくて、ふとんなんかべとべとになつてしまう。その中に寝ているのだから、まるで水にくるまつているようなものだ。これは悪いことをしたから水牢に入っているのだと思つて、そんなら我慢できると思つた。水牢よりはまだいいような気がした。想像では、解らないもの凄い生活だつた。自分が寝ていると息がふとんにかかつて氷になるんです。

布団が凍るというのは、一年で最も寒い今の時期あたりだったでしょうか。今日はその山小屋に行って参ります。

まず岡山県から演劇公演の情報です。

地方紙『山陽新聞』さん記事。

没後30年 永瀬清子の生涯たどる 2月9日 岡山・ハレノワで朗読劇

 現代詩の母と称される赤磐市出身の詩人永瀬清子(1906~95年)の没後30年に合わせ、朗読劇「永瀬清子物語VIII ラビリンスの旅人」が2月9日、岡山芸術創造劇場ハレノワ(岡山市北区表町)で上演される。 朗読グループ「白萩(はくしゅう)の会」が、永瀬の詩を交えながらその生涯をたどる。
  同会は永瀬と同郷で長年交流のあった竹入光子さん(78)=赤磐市=が約20年前に発足させ、12人が所属する。古里で農業をしながら詩を書き続けた永瀬の生きざまと作品の魅力を伝えようと、2011年に「永瀬清子物語I」を上演し、今回で8作目。 タイトルは<人の一生はラビリンス(迷路)の旅人のようなものだ>という永瀬の文章の一節から着想。結婚出産、高村光太郎らとの交流や宮沢賢治の詩との出合い、帰郷して農業を始めたことなど、メンバーが永瀬の詩を朗読しながら人生の転機となったさまざまな場面を演じる。
  「母として女性として人として、地に足を着けた力強い詩を書き続けた。岡山に素晴らしい詩人がいたことを多くの人に知ってほしい」と永瀬役の伊島久美さん(64)=岡山市北区。脚本と演出を務める竹入さんは「永瀬の詩には老若男女、誰の心にも響くものがある。物語を通してその詩が生まれた背景を表現したい」と話す。
 午前11時、午後3時開演。入場料2千円。岡山芸術創造劇場ボックスオフィス(086―201―2200)。
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公演の詳細。

朗読劇・永瀬清子物語Ⅷ「ラビリンスの旅人」

期 日 : 2025年2月9日(日)
会 場 : 岡山芸術創造劇場ハレノワ 岡山市北区表町3丁目11-50
時 間 : 午前の部 11:00開演/午後の部 15:00開演
料 金 : 全席自由 2,000円

“現代詩の母”郷土岡山の詩人・永瀬清子没後30周年記念公演

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女流詩人の草分けの一人にして、光太郎や当会の祖・草野心平らと交流を持った永瀬清子。光太郎、心平らと共に、かの宮沢賢治作『雨ニモマケズ』が「発見」されたという昭和9年(1934)に新宿モナミで開かれた賢治追悼の会にも居合わせ、詳細な回想を残しています。

その永瀬の忌日・紅梅忌が2月17日(月)でして、それに合わせての公演でしょう。イベントとしての紅梅忌は前日・2月16日(日)に赤磐市の永瀬の生家で執り行われます。
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ところで、演劇でもう1件。

2月11日(火・祝)に岩手県花巻市の花巻市文化会館で開催される「第67回元祖花巻わんこそば全日本大会」で、賢治や光太郎も登場する寸劇が行われるそうです。

フェイスブックでそうした書き込みを見つけ、問い合わせたところ「同じ会場内でホールは違いますがm(_ _)m13:40〜からゲリラ的に始まります」とのこと。ゲリラライブなのでネット上には公式な予告が出ていませんが、ご紹介しておきます。
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花巻といえば、また明日・明後日と花巻に行って参ります。例によって大沢温泉さんで雪見風呂としゃれこんで参ります。

【折々のことば・光太郎】

お問合の浮彫三尊仏は小生の作ではないやうに推定いたされます。小生これまで落款は縦に一行に入れてゐました。お示しのやうに枠内に二行に入れた事は記憶にございません。


昭和26年(1951)7月5日 神部健之助宛書簡より 光太郎69歳

光太郎生前から既に贋作が出廻っていたのですね。

大阪府から演劇の公演情報です。

吹田市民劇場 SHOW劇場 番外編vol.2 a次元のふたり

期 日 : 2025年2月8日(土)・2月9日(日)
会 場 : 吹田市民劇場 大阪府吹田市泉町2-29-1
時 間 : 2/8 15:00~ 2/9 11:00~/15:00~
料 金 : 全席自由 2,000円

作 : 高橋恵 演出 : 上田一軒 出演 : 佐々木ヤス子/竹内宏樹

芸術家としての葛藤と夫婦の愛の物語
高村光太郎は意のままにならない肺に振り回されていた。長沼智恵子は意のままにならない自らの右手に苛立っていた。ある日智恵子は「太陽が緑色でもかまわない」という評論を目にし、作者に会おうとする。乱れた呼吸に喘ぎながら光太郎はその日アトリエで智恵子と出会う。
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タイトル中の「a次元」は、光太郎詩「智恵子と遊ぶ」(昭和26年=1951)由来。

  智恵子と遊ぶ

 智恵子の所在はa次元。
 a次元こそ絶対現実。

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 夢幻(ゆめまぼろし)の生の真実。

 フレンチ平原に茸は生えても
 智恵子の遊びに変りはない。

 二合の飯は今日のままごと。
 牛のしつぽに韮を刻む。

 強敵糠蚊(ぬかが)とたたかひながら
 三畝の畑にいのちを託す。

 あばら骨に錐は刺され
 肺気腫噴射のとめどない咳。

 造型は自然の中軸。
 この世存在のシネ クワ ノン。

 一切は智恵子a次元の逍遙遊。
 遊ぶ時人はわづかに卑しくなくなる。

a次元」は、我々の生きて存在する物理次元を超えた精神世界、抽象次元を表す用語です。カルト宗教の信徒のように、その存在を確信していたわけではないのでしょうが、光太郎にとって、感覚的には、亡き智恵子の存在するa次元と、自らの存在する花巻郊外旧太田村の山林の間の垣根は低かったようです。「シネ クワ ノン」はラテン語で「sine qua non」。「不可欠なもの」といった意味です。

肺気腫」云々は、戦前から煩っていた宿痾の肺結核に関わります。ただ、戦前からと言っても、初めて喀血が起こったのは、確認出来ている限り大正12年(1923)のことです。今回の舞台は、明治44年(1911)の光太郎智恵子の出会いから描かれ、その時点で既に「高村光太郎は意のままにならない肺に振り回されていた」ということになっています。このあたりは物語上の演出なのでしょう。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

見る人が多かつた由をきき、無意味でもなかつたかと思つてゐます。しかし東京の人にはあの本当の美が分かるとは思ひません。特殊芸術位に考へるだらうと推察します。都会生活をしてゐる者は結局遊びに終始する運命をもつてゐます。小生は彼等をあひてにしません。


昭和26年(1951)6月12日 真壁仁宛書簡より 光太郎69歳

銀座資生堂画廊において開催された、都内で初の智恵子紙絵展がらみです。

真壁は山形在住の詩人。東北人となって久しい光太郎、その意味でのシンパシーを感じていたようです。戦時中に光太郎が疎開させた智恵子紙絵千数百枚のうち、およそ3分の1を預かっていました。翌月発行された『美術手帖』通巻45号に、「切抜絵の美 高村智恵子夫人の遺作について」という一文を寄せています。
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昭和9年(1934)、心を病んだ智恵子が半年余り療養生活を送った千葉県旧豊海村(現・九十九里町)でのイベント情報です。

先着2025名様限定「ごはんにかける黒アヒージョ」「九十九里のだし」をプレゼント!「九十九里パスポート」スタンプラリー開催のお知らせ

開催期間 : 2025年1月17日(金)~2月28日(金)
商品交換 : 九十九里のだし(1月~2月) 黒アヒージョ 九十九里オリジナル(2月限定)
       数量限定のため、期間中であっても商品がなくなり次第終了となります。

 九十九里限定バージョンの町内特産のいわしを使った「ごはんにかける黒アヒージョ」と「九十九里のだし」を先着2025名様限定でプレゼントするスタンプラリー「九十九里パスポート」が開催されます。
 九十九里町を訪れてポイントを貯めるだけで、九十九里の魅力を詰め込んだ商品が手に入ります。
 ごはんにかける黒アヒージョは、千葉県産の鰹だしに、千葉県産のこだわり素材(鰹、白子玉ねぎ、落花生、マッシュルーム、山武の海の塩、燻製醤油)とニンニク、オリーブオイル、九十九里のいわしをプラスした、まさに千葉県素材オールスターで作った逸品です。ご飯だけではなく、パスタやバケットにもひったりです。
 だしは、九十九里特産のいわしと千葉県産かつおを使用し、塩には山武の海の塩を使い、卵かけご飯、鍋の締めの雑炊、そばつゆ、おでん、お雑煮などにも最高の美味しさを楽しめる逸品となっております。
 この機会にぜひ九十九里町へ足を運んでください!
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ポイントの貯め方
 まず、九十九里パスポート登録ページにアクセスして登録します。(登録無料)

 登録したら、九十九里パスポートマイページにログインした状態で、スタンプラリーの各スポットを訪れるか、町内の飲食店や施設に設置してある、QRコードを読み込みます。
  ・九十九里町の各スポットを訪れる:10ポイント獲得
  ・町内の店舗や施設を利用する:20ポイント獲得
 合計30ポイントで1セットと交換できます。
【ポイント獲得できる店舗・施設の一覧】 https://app.valmeets.com/store-list

スタンプラリーの参加方法
 各スポットのおおよそ300m以内に近づいたら、スタンプラリーアプリを起動し、「入手する」ボタンを押してください。注意:クリア済みのスポットは再度クリアすることはできません。

スタンプラリーのスポット一覧
 https://app.valmeets.com/stamp-rally/stamp-rally001
 ■伊能忠敬記念公園 千葉県山武郡九十九里町小関2689
 ■宮島池親水公園   千葉県山武郡九十九里町田中荒生414-1
 ■九十九里ふるさと自然公園センター(片貝海水浴場内)
 ■いわし資料館(海の駅九十九里内)
 ■智恵子抄詩碑(高村光太郎) サンライズ九十九里近く
 ■九十九里ビーチタワー(不動堂海水浴場内)
 ■九十九里町観光オブジェ(片貝海水浴場内)

九十九里パスポートの運営について
 九十九里パスポート運営委員会は、「九十九里パスポート」を通じて、地域の魅力を広く発信し、観光振興と地域活性化を目指すために結成された団体です。
 本委員会は、バルスタック株式会社(代表企業)、ちばぎん商店株式会社、近畿日本ツーリスト、および九十九里町による連携体で構成されています。

九十九里パスポート事業の詳細およびクラウドファンディングについて
 期間中に九十九里町に来られない方も、クラウドファンディングでご支援いただくことでご自宅で、「黒アヒージョ」「九十九里のだし」が楽しむことができます。ぜひご支援よろしくお願いします。
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※携帯で見る場合、「+もっと見る」ボタンを押してください

光太郎詩「千鳥と遊ぶ智恵子」(昭和12年=1937)詩碑もスポットとして登録されています。
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ぜひ足をお運びの上、賞品をゲットして下さい。抽選でなく先着順だそうですので。

【折々のことば・光太郎】

012智恵子遺作紙絵展会場の写真四葉、記事掲載の東京夕刊新聞二葉送り下され、忝く存じました。おかげで会場の模様等分かりました。今度の展覧会では小生まるで役に立たず、在京の諸賢の厄介になりました事まことにありがたく感謝して居ります。

昭和26年(1951)6月9日 河鍋東策宛書簡より
 光太郎69歳

東北では複数回行われていた智恵子の紙絵展、銀座の資生堂画廊にて都内で初の開催となりました。それまで「切抜絵」などと称されていた智恵子の作品を、光太郎の意志で「紙絵」と呼ぶことになった初めての機会でした。

1月19日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版の連載「美の粋」で、光太郎の親友であった碌山荻原守衛が取り上げられました。見開き2ページの長い記事ですので、光太郎の名が出る部分のみ。

新宿に吹いたパリの風「中村屋サロン」群像(上) 未開地のパン屋に最先端の芸術006

ロダンに学ぶ碌山の凱旋
 低くのしかかるようなJR山手線の高架越しに見上げた西新宿の高層ビル群はひときわ高く見えた。1日の乗降客数が世界一を誇る新宿駅を抱える街は四六時中人であふれている。100年ほど前、ここが、まだみすぼらしい未開地であったときのことを想像するのは難しい。
 雑踏を縫うようにして歩くこと数分。新宿中村屋にたどり着いた。現在、菓子やインドカレーで知られるこの店は、芸術に命をかけた若者たちのたまり場でもあった。
 その物語は一人の青年がパリから戻ったところから始まる。名前を荻原守衛(碌山)という。
 「坑夫」(1907年)は日本近代彫刻の嚆矢(こうし)と称される作品だ。建物の装飾や愛玩物としての彫刻ではなく、彫刻のための彫刻を生涯追求した。元々は画家志望だったが、パリに留学中だった04年5月、オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て衝撃を受け、彫刻家に転身。2度目のパリ滞在の際には、ロダンから直接指導を受けた。「坑夫」はその時代に制作された。
 碌山の故郷にある碌山美術館(長野県安曇野市)には「坑夫」をはじめとするブロンズ像が多く残されている。同館の武井敏学芸員は「彫刻の本当の美しさは見かけではなく、内側から発する生命力にあると考え、その表現を追求した」と話す。
 パリ時代に制作した作品のうち、現存するのは「坑夫」を含め3点にすぎないが、すでに並々ならぬ力量を持っていたことが分かる。「坑夫」では、頭と首、胸が自然に連携しており、塊のように感じられる。それが肉体労働に従事する男の生命力そのもののようにして迫ってくる。
 この作品を高く評価し、石こうにとって日本に持ち帰るよう勧めたのが、彫刻や絵画を手掛け、詩人としても知られる高村光太郎だった。碌山と高村は互いの留学中に知己を得、ともにロダンに心酔したという共通点もあり、交友を深めていった。
 「坑夫」が制作された07年、日本では第1回の文部省美術展覧会(文展)が開催された。日本画、西洋画、彫刻の3部門があったが、彫刻部門への応募は、わずか44点だった。08年に開かれた第2回文展に「坑夫」は出品されたがその荒々しいタッチのため「未完成」と見なされ落選している。日本では、近代彫刻というものがまだまだ根付いていなかった。そんな状況において、高村は碌山のよき理解者と007なる。
 3回目の文展で3等賞を受賞したのが、「北條虎吉像」(09年)だ。帽子商会組合の会長への寄贈を受け制作されたこの作品には、生命力の一層の深化が見られる。塊を捉える目は卓越し、繊細な表情も息づいている。高村は「この作には自然のMOUVEMENTがある。(中略)。此の作には人間が見えるのだ。従つて生(ラヴイ)がほのめいてゐるのだ」と激賞した。
 碌山は、フランスの美術学校、アカデミー・ジュリアンで彫刻を学んだだけでなく、学内のコンペではグランプリを獲得するほどの実力を持っていた。当時、最先端の芸術を学んだ将来を嘱望される彫刻家であり、日本にパリの風を運ぶ使者だった。

記事はこのあと倍以上の長さで続きます。内容的にはタイトルの通り、守衛と同郷の相馬愛蔵が経営していた新宿中村屋さんに守衛が世話になる件、相馬夫人・黒光とのからみ、そして彫刻作品「文覚」と「デスペア」。
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また、欄外に「KEYWORD」として「中村屋サロン」。

 明治から昭和初期にかけて、芸術に理解のあった中村屋の創業者・相馬愛蔵、黒光夫妻のもとに多くの芸術家が集い、生まれた。昭和40年代に、安曇野出身の作家、臼井吉見は相馬夫妻の中心とした小説「安曇野」の中で、その様子を「ヨーロッパのサロンのようだった」と表現したことから、のちに「中村屋サロン」と呼ばれるようになった。
 西洋で彫刻を学び、相馬夫妻と交流のあった荻原碌山が、帰国後、中村屋に出入りするようになると、その友人や教えを請う若者も出入りするようになった。日本近代彫刻を代表する高村光太郎、中原悌二郎、戸張孤雁のほか、画家の柳敬助、斎藤与里、中村彝など日本美術史に名を刻む数々の才能が生まれた。また、美術以外でも、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースをかくまうなど、多用なジャンルの交流の場となった。

守衛絶作の「女」には触れられていませんでした。タイトルに「(上)」とあるので、「(中)」ないし「(下)」が今後あって、その中で取り上げられるのでしょう。

ちなみに「KEYWORD」に記述のある臼井吉見の『安曇野』。大河ドラマ化要望運動も起こっており、永らく絶版となっていたものが限定復刊というニュースも飛び込んできています。お披露目会が3月だそうで、また近くなりましたらご紹介いたします。

4年後の2029年には、守衛生誕150周年を迎えます。顕彰運動がより一層盛り上がることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生肋骨のヒビはまだ癒着せぬようで物を持つたり、つよいセキをすると痛みますが、肋間神経痛の方はだんだん軽減してきました。


昭和26年(1951)6月7日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

日記によれば5月14日に屋外で転倒、左の肋骨を強打したとのこと。居住していた山口部落には医者も居らず、見かねた知り合いの『花巻新報』記者が5月26日に骨接ぎ医を社用車で連れてきて治療してもらったそうです。

昨日は同じ千葉県内の市川市に行っておりました。目的地は行徳ふれあい伝承館さん。自宅兼事務所から愛車で1時間弱でした。
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光太郎やその父・光雲らと直接の関わりはありませんが、同時代の彫刻、工芸の関わりで。

同館、神輿(みこし)の制作を行っていた旧浅子神輿店を史料館的に活用しているもので、建物自体が国登録有形文化財です。
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古建築好きとしては、まずこの佇まいでアガります(笑)。
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浅子神輿店、当主が代々「浅子周慶」を名乗り、元は慶派の流れをくむ仏師だったそうです。
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下記は国会図書館さんのデジタルデータから。
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そこで、仏像も展示されていました。
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仏師としての主な仕事。
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明治20年(1887)発行の「東都諸工名誉五副対」。いわば名人番付のような。仏師として浅子の名が記されています。十三代目のようです。
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その真上に光雲の名も。
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光雲の肩書きは「仏師」ではなく「木彫」となっています。「ナカヲカチ丁一」は、駒込林町に移る前の明治19年(1886)から同25年(1892)まで暮らしていた仲御徒町一丁目37番地です。

光雲が師・東雲の元から独立したのが明治7年(1874)。維新後、国家神道の普及のため「神仏分離令」が出され、いわゆる廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。その結果、光雲は仏師としての仕事は立ちゆかなくなり、酉の市で熊手を売ったり、洋傘の柄や陶器の木型などを彫ったりして糊口を凌ぎました。一時は木彫から離れ、鑞型鋳金を学んだりもしました。しかし、再び彫刻刀を握る決意を固め、明治19年(1886)には東京彫工会創立の発起人となり、同年には龍池会の第七回観古美術会に「蝦蟇仙人」を出品。師の代作ではなく、初めて光雲の名で出品しました。したがってこの頃は、仏像も作ってはいたものの、もはや仏師とは言えなくなっていたということでしょう。

十三代浅子周慶はというと、やはり仏師としては先がおぼつかない、と踏んだのでしょうか、神輿制作を手がけるようになります。
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仏像制作も続けつつも、神輿の方が大当たりというわけです。それまでの神輿の形態を革新する部分もあったようで。

浅子による主な神輿の一覧。
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館内には新旧の神輿そのものや、各部分のパーツなどの作例も展示されています。
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なるほど、仏師の流れを汲んでいるというのがよく分かります。眼福でした。

ちなみに作例は少ないものの、光雲も神輿の彫刻を手がけました。

横浜伊勢佐木町の日枝神社さんの「火伏神輿」(大正12年=1923)。
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旧駒込林町の満足稲荷神社さん神輿(昭和4年=1929)と、子供神輿(同?)。
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ただし、これらは光雲個人というより工房作のような気がします。

さて、行徳ふれあい伝承館さん周辺は、空襲の被害も無かったようで(あるいはあったとしても軽微だったのでしょう)、古建築がいい感じに点在しています。
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裏手の方は旧江戸川。対岸はもう東京都です。
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工芸好き、古建築マニアの方など、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】006

ニホンゴ ハヨサノアキコノネツプ ウニイキテウゴ キテトビ テチリニキ


昭和26年(1951)5月26日 
中原綾子宛電報より 光太郎69歳

与謝野晶子没後十周年記念講演会への祝辞的に電報で送られた短歌です。のち、この年7月の雑誌『スバル』に漢字仮名交じりで掲載されました。


日本語は与謝野晶子の熱風に生きて動きて飛びて散りにき

昨年、中原綾子令孫から花巻市に光太郎からの書簡その他がごっそり寄贈され、その中にこの電報も含まれているとのこと。近々現物を拝見出来そうです。

このところ、光太郎の父・光雲、その師・高村東雲の彫刻を見て歩く機会を多くとっています。一昨日は千葉県野田市へ。昨年12月にもお邪魔し、キッコーマンさん敷地内の琴平神社さんで、東雲の手になるという胴羽目彫刻などを拝見して参りました。同じ野田市内の大師山報恩寺さんにも東雲作の弘法大師像がおわすという情報を得ていましたので、その足で伺ったのですが、その際は本堂の改修工事の関係で拝観出来ず。そこでリベンジです。

報恩寺さん、埼玉県境に近い中野台地区に鎮座する古刹です。ただ、現在地に移ったのは維新後、本堂は昭和3年(1928)落慶だそうです。
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蠟梅が見事でした。春が近いのを実感しました。
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本堂の扁額。周囲の細工が精緻ですね。
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賽銭箱。銅板が貼り付けてあるようです。珍しいタイプではないかと。
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お約束の阿吽の獅子も実にいい感じ。
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いやが上にも期待が高まります。

さて、寺務所で訪いを入れ、本堂に入れていただきました。

御本尊の弘法大師像。こちらが東雲の作で、幕末の御像です。
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残念ながら須弥壇までの距離が遠く、間近で拝観することは叶いませんでしたし、黒いお姿で画像も鮮明に撮れませんでしたが、見事な造作であることは見て取れました。御目は玉眼のようです。

看経座(御本尊にお経をあげる場所)には、もう一尊、大師像。こちらも東雲作。前立本尊のような感じです。
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こちらは目の前で拝観出来ました。
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僧形ということで、同じく東雲作の鎌倉建長寺さんにおわす五百羅漢像を彷彿とさせられました。こちらは東雲がこの地にやってきて彫ったという寺伝があるそうです。

本堂の欄間は名工・石川信光の作。石川は柴又帝釈天さんの胴羽目なども手がけています。東京美術学校での光雲の同僚にして、牙彫も手がけた石川光明の同族です。
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一部、弟子の作も入っているとのことで、そちらはやはり少し簡易な感じです。
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本堂脇の玄関的なところには、何と木村武山の絵。
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外へ出て、境内を散策。

本堂外側の濡れ縁や漆喰の壁などを、昨年、補修したそうです。蔀戸などは元のままだとのこと。
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小さな祠というか、お堂というか、そちらの胴羽目も素晴らしゅうございました。
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もしかすると、やはり石川一派、東雲一門などの手かな、とも思いました。

梵鐘は光雲三男にして光太郎実弟・豊周と繋がりのあった香取正彦の作。香取は梵鐘の鋳造で人間国宝に認定されています。
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飛天があしらわれ、実にありがたみが増していますね。

手水舎の龍もただ者ではありませんでした。
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失礼ながら、有名な大寺院でなくとも、このように素晴らしいお宝が見られるのだと改めて感じました。維持管理等、なかなかに大変かとは存じますが。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

澤田さんの小屋は今半分ほど出来ました。これが出来ると小さな彫刻が作れるでせう。

昭和26年(1951)5月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

「澤田さんの小屋」は、澤田伊四郎の龍星閣が費用を負担して普請中の増築部分(左の白い壁部分)です。
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ただ、結局、この増築部分が竣工しても、ここできちんとした作品としての彫刻を作ることはありませんでした。

都内から朗読会の情報です。

チャリティー朗読会 和・輪・話

期 日 : 2025年1月27日(月)
会 場 : 紀尾井小ホール 東京都千代田区紀尾井町6番5号
時 間 : 13時30分
料 金 : 全席自由 2,500円

会場にお越しいただいた皆様からの募金は、『令和6年能登半島地震災害義援金』として、日本赤十字社東京都支部を通して現地へお送りいたします。皆様のご賛同を心よりお待ち申し上げます。

演目
 佐藤春夫 作 『小説智恵子抄』より 中島悦代
 平岩弓枝 作 『女の休暇』 佐々木冨紀
 北村薫 作 「語り女たち」より『梅の木』 船山則子
 角田光代 作 『口紅のとき』 和田幾子
 海野弘 作 『枕売り』 森実あき子
 芥川龍之介 作 『羅生門』 田島みどり
 西澤實 版 『芝浜』 斉藤由織
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演目のうち、「小説智恵子抄」は、光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、光太郎と親交の深かった佐藤春夫が雑誌『新女苑』に連載したジュブナイルです。連載当時のタイトルは「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」。昭和32年(1957)に実業之日本社さんで単行本化、のち、角川文庫のラインナップに入り、現在も版を重ねています。また、丹波哲郎さん、岩下志麻さん主演の松竹映画「智恵子抄」原作と位置づけられました。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

どうして斯かるものを入手されたか、不思議に思ひます。確におぼえのあるもので、小生十三、四才の頃の作。日清戦争の直後にあたります。まことになつかしく、あの頃のいろいろの事を思ひ出しました。


昭和26年(1951)4月14日 菊岡久利宛書簡より 光太郎69歳

斯かるもの」は光太郎作の手板浮彫。明治29年(1896)、光太郎数え14歳、東京美術学校の予備校的な共立美術学館在学中の作品です。
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光太郎随筆「わたしの青銅時代」(昭和29年=1954)には次の記述があります。

 この間、菊岡久利君が鎌倉の古道具屋で見つけたといつて、板に彫つた彫刻をもつて来た。それには十四歳と記されていた。菊岡君が見つけてくれた時は、わたしはちょうど岩手の山にいた時だつたが、それを送つて来て、本当か嘘かと問い合せてきた。見ると、確に彫つた覚えがある。五十五年ぐらい前のもので、青い葡萄が刻まれていた。

菊岡が昭和28年(1953)に雑誌『芸術新潮』によせた「ぴいぷる」という文章には、次の一節。

 僕はそれを鎌倉の古道具屋で見つけたのだ。人々はまだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思ったらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。(略)当時まだ岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来て、 五十五年 青いぶだうが まだあをい と詩を書いてよこしてくれたものだ。

光太郎実家の髙村家にはこの類の手板が、光雲による手本用のものから、弟子たちの成績品まで数多く残されていましたが、戦後、土蔵を整理した際、誤って流出したものと思われます。他にも紅葉と宝珠を彫った光太郎の手板も鎌倉で平櫛田中が発見し、現在は東京藝術大学に収められています。

後から書き込んだ「五十五年 青いぶだうが まだあをい」は、字余りになるものの、季語もあり、俳句と言っていいのではと思われます。

一昨日は千葉市に行っておりました。目的地は中央区亥鼻の千葉大学医学部さん。
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こちらに昨秋、光太郎の父・光雲が手がけた同大医学部前身の県立千葉医学校の校長などを務めた長尾精一の銅像が再建され、それを拝見に伺いました。

入口に面した通りからも望見出来る位置にあり、すぐにわかりました。台座はずっと残っていたそうですが、このあたり、以前は何度か通ったことがあっても台座があったことにはまったく気づきませんでしたが。
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説明板にあるように、戦時中の金属供出でいったんは失われたものの光雲原型の塑像(石膏?)が残っていたということで、それを使って復活。

台座は明治44年(1911)のものですが、おそらく金属供出で像が一度失われた後、原型が残っていたことも分かっていなかった時期に、元の像を偲ぶよすがとしてレリーフが新たに作られて嵌め込まれたようです。
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側面には「昭和卅二年十一月」と書かれた石のプレートも嵌め込まれていましたので、おそらくその時でしょう。

同じような例として、光太郎が原型を作った青沼彦治像があります。こちらは大正14年(1925)に宮城県荒尾村(現・大崎市)設置、昭和19年(1944)に金属供出、昭和41年(1966)に新たにレリーフが嵌め込まれました。
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申し訳ありませんが、長尾像にしても青沼像にしても、後からのレリーフはどうしても見劣りがしてしまいますね。

青沼像は現在も台座と後からのレリーフのみ。その点、原型から復刻された長尾像は幸運な例です。光雲原型のものとしては、四国の広瀬宰平像もそうした例ですし、谷中霊園の小川源兵衛像もそうかもしれません。

光太郎原型で、金属供出に遭った像は三体。青沼像、岐阜の浅見与一右衛門像、そして千葉県松戸市の千葉大園芸学部さんにある赤星朝暉像。これらは原型も残って居らず、青沼像は上記の通りですし、浅見像と赤星像は別の作者による像で再建されました。赤星像に関しては、関係者が光太郎に「原型が残っていないなら供出はしない」と言ったところ、光太郎が「原型は私が保管している」というわけで供出。ところがその原型は昭和20年(1945)の空襲で、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居もろとも灰燼に帰してしまったという経緯が伝わっています。

まったく戦争というものは、人々の命のみならず、こうした文化的遺産をも破壊し尽くす蛮行・愚行と言わざるを得ませんね。

さて、再建された長尾像、千葉市方面にご用の際はぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山も雪が大分とけて早春の気が立ちこめてきましたので神経痛の方も幾分よくなりかけました。慢性になるといけないので、やはり注射で一度よく治してしまはうと思つてゐます。不日東京の友人がテブロンと注射器一式を持参の予定です。この部落には医者も保健婦さんも居ません。


昭和26年(1951)3月31日 野末亀治宛書簡より 光太郎69歳

「テブロン」は自律神経遮断剤。宿痾の結核性肋間神経痛の鎮痛効果を狙ってのことでしょう。光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村山口地区、村の中心部まで行けば医院はあったのかもしれませんが、山口地区には現在も医院も診療所もありません。

やはり年またぎの案件です。昨年12月30日(火)の『読売新聞』さんから。

[時代の証言者]キッチンから幸せ 平野レミ<23>神さまは靴のかかとに

  父は、私たちが結婚した時に「はいよ」と色紙を渡してくれました。そこには筆で父の詩が書いてありました。
   「風つよければ 神さまは 靴のかかとに  棲す み給う」
 父に「どんな意味?」と尋ねたけれど、「いいんだ、詩というものは自由に解釈をすればいいんだ」と、何も教えてくれませんでした。
 結婚してからも、私はしょっちゅう千葉の松戸の実家に帰ったり、父や母に我が家に来てもらったりして、子育てを助けてもらいました。
 父は息子たちをかわいがり、少し実家に帰らないと「寂しくて死んじゃうよ」と電話してくる。松戸の家は高台にあり、遠くからでも、家の前でステテコをはいて仁王立ちになって私たち家族を待つ父の姿が見えました。おんぶひもで長男の唱を背負ってあやす写真も残っています。
 父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。終戦日には「今後一体どうしたらいいかわからぬ」、私が結婚した72年の暮れには、私が幸せそうなので「今年はとにかくよかった よかった」と書いています。
 86年11月の朝に「今日は何かが起こるかもしれぬ」と筆で書き、その日に心筋 梗塞こうそく で入院します。いつもと違う何かを感じたのかもしれません。父は集中治療室から帰ってきても「詩を書くぞ」と、意識がはっきりしていたけれど、急変します。父の日記の最後は私が病室で「お父さん大好き、死んじゃだめ」と書きました。入院して1週間ほど、11月11日に86歳で亡くなりました。
 《平野威馬雄は、大杉栄や菊池寛、高村光太郎ら多くの作家・詩人たちと親交を結んだ。「フランス象徴詩の研究」といった学術書、戦中に薬に溺れた自伝「アウトロウ半歴史」、超常現象に関する「お化け博物館」「UFO入門」など多彩な本を残す》
 病室の父が「死んだら横浜の外人墓地がいいね」と言ったことがあります。「どうして?」と聞くと、「日本の墓は暗くて幽霊が出そうでおっかないや」。純日本風の暮らしが好きで、お化けの研究もしていたほどなのに。
 父は生まれが横浜で、祖父の兄で鉱山技師だったオアーガスタス・ブイの墓が外人墓地にあり、みんなで墓参りにも行ったことがあります。父の遺言と思い、横浜外人墓地に父の墓を作ることにしました。
 父が亡くなって、父にもらった色紙を読み返しました。私につらいことが強風のように襲いかかっても、神様がかかとを支えているから大丈夫。風に負けずに前に進め、いつも支えているというエール。父は神様と書きましたが、私にとって、かかとにいてくれたのは父でした。そんな感謝の思いを込め、父の墓に色紙の文字を彫りました。いまその墓には母も夫の和田(誠)さんも眠っています。
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料理研究家の平野レミさんによる連載。昨年11月から始まり、まだ続いているようです。この日はお父さまで詩人・仏文学者の平野威馬雄氏に関する内容。編集さんによる注で、威馬雄氏が光太郎と関わりがあったことに触れられました。
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記事にある威馬雄氏の自伝『アウトロウ半歴史』(昭和53年=1978 株式会社 話の特集)、だいぶ前に拝読しましたが、「高村光太郎の抒情詩的エピソード」という項を含み、興味深いものでした。
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威馬雄氏は、当会の祖・草野心平や尾崎喜八ほどには光太郎との縁は深くなかったのですが、わずかな僅かな関わり合いだったからこそ見せた一面があったように思われます。

時は太平洋戦争開戦前年の昭和15年(1940)、日中戦争は既に泥沼化していた時期ですし、日独伊三国同盟が締結される年です。防共協定は既に結ばれていました。

所は三河島のトンカツ屋「アメリカ屋」(のち「東方亭」)。光太郎戦前からの行きつけの店で、店主の細田藤明とは個人的にも懇意にしていました。細田の長女・明子は苦学の末、戦後に医師となり、光太郎は彼女をモデルに詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を書いたりもしています。

威馬雄氏も「アメリカ屋」常連の一人で、ここで光太郎と知り合い、駒込林町のアトリエ兼住居にも招かれたり、光太郎も威馬雄氏の家を訪ねたりしたとのこと。その中で、ドイツ軍によるパリ占拠に憤っていた光太郎の姿が描かれています。

「平野さん、この新聞見てごらんなさい。どうお考えになりますか?」と、ある夜、レインコートのポケットからしわくちゃになった新聞をとり出して、テーブルの上にひろげた高村さんの手は心もち顫えていた。
 それは、西部戦線ドイツ軍陣地で、タス特派員が発したリポートで、ドイツ軍の機動力は驚異的で、ヒトラーの軍はパリへ、ロンドンへと破竹の勢いで突進している……という意味の記事だった。
「とにかくナチは野蛮ですからね。私はとても心配なのです……パリが心配なのです……もし独軍にやられたら、ロダンもセザンヌも、ミレーも、いやルーブル美術館そのものが灰になってしまうのではなかろうか。あの美しいシャンゼリゼの並木、凱旋門……何もかもが、こうして眼をつぶっていると……みえてくるのです。ノートルダムの怪獣が苦悶の叫びをあげている……その声がきこえるようです……セイヌ河の波上……あの碧く澄んだ照り返しすら、血の色に染まってしまうのではないかとおもうと……」老詩人の眼はうるんでいた。
(略)
 それから数日後の夕方……高村さんはアメリカ屋でぼくを待っていた。その表情からはいつものにこやかな人なつこい微笑が消えて、妙にこわばった顔つきだった。
「大変なことになりました。ご存じでしょうが、とうとう……やっぱりわれわれの古里は野獣の手に落ちてしまったんです……」老詩人の眼は涙で一杯だった。
「これ見てください……もうお読みになったでしょうが……」と、又しても、しわくちゃな新聞を卓上に拡げた。
「仏国遂に独へ降伏――ペタン首相は十七日(昭和十五年六月十七日)ドイツに対し遂に降伏を申し出ると共に、フランス全軍に対し既に戦闘行為を停止すべき命令を発したる旨正式に発表した……」
 六月四日から本格的なフランス総攻撃を始めたドイツ軍は、十四日にはパリに入城したのだ。
「今ごろ、勝ち誇ったドイツ兵は、なだれを打ってパリに侵入しているでしょう。どんなに多くの芸術家たちの命が消されていることでしょう」高村さんはとても今日は一人でいるに耐えられない、と言った。そして、一緒にぜひうちに来てくれという。孤独な老詩人は、魂のよりどころともいうべき芸術の都パリを失った悲しみに、がまんできなかったのだろう。

光太郎、オフィシャルな場面では日本の同盟国・ドイツを非難する発言はしませんでした。さりとて擁護する発言もしていませんし、『高村光太郎全集』にはヒトラーの名は一回も出て来ず、注意深く言及を避けていたようにも思われます。仏文学者だった威馬雄氏が日米ハーフの、当時としては社会的弱者だったこともあり、本音の部分を吐露したというところでしょうか。

ところで、レミさんによれば「父は1935年(昭和10年)からずっと日記をつけていました。」とのこと。昨年末に再放送された、レミさんの生涯を追ったNHKさんの「だから、私は平野レミ」(初回放映は昨年2月)でも、威馬雄氏の日記が取り上げられていました。おそらく光太郎の名もところどころに記されているのでしょう。ぜひ読みたいものだと思いました。なかなか難しいのかも知れませんが、公刊されることを望みます。

自伝『アウトロウ半歴史』には、光太郎以外にも多くの人物との交流の様子が描かれています。もちろん威馬雄氏のドラマチックな来し方も。
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古書市場等で入手可。ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

お手伝の人を考へて下さつた事忝い事ですが、やはり一人で静養してゐた方が結局いいやうです。お手伝がゐると却つて身心を使ふやうになりますから。

昭和26年(1951)3月21日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

結核が昂進し、苦しんでいる光太郎に対し、心平が家政婦さんを雇ったら? 必要なら手配します的な申し出をしたようですが、断りました。1年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京し、さらに3年経った昭和30年(1955)になって、初めて自分では食事の支度などどうすることも出来なくなり、家政婦を雇います。

一昨日、光太郎の父・光雲がらみをご紹介しましたので、今日はさらにその師・髙村東雲関連です。

やはり年またぎ案件なのですが、昨年12月10日、千葉県野田市に行って参りました。目的地は琴平神社さん。こちらの本殿の胴羽目彫刻が、東雲の手になるものだという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

場所は野田を代表する企業・キッコーマンさんの中央研究所の敷地内。
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通常はこのゲートが閉ざされていて、入れません。毎月10日のみ参拝出来るということで、実はそれを知らずに昨夏にも一度行ったのですが、その日は10日ではありませんでしたので、空しく帰って参りました。そこでリベンジ、というわけです。

ちなみにこの周辺、戦時中の空襲の被害はなかったようで、古い建築が点在しています。
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さて、琴平神社さん。
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こぢんまりとした境内ですが、杜は意外と鬱蒼としています。12月も中旬になろうかというのにまだ紅葉が見事でした。
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めざす本殿。明治5年(1872)に建てられたそうです。
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拝礼後、周りをぐるりと反時計回りに一周し、彫刻をつぶさに拝見。
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恐ろしいほどに緻密です。
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雲などは様式化された感じですが、葉の表現などは、初期のロダンが装飾彫刻の職人だった時代に師匠から叩き込まれた、葉の先端を手前に持ってきて奥行きや立体感を醸し出す技法に通じるような気がします。
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鳥にしてもかなり写実性を意識しているようにも見うけられました。こういう点が弟子の光雲にも受け継がれていったのかな、などとも。

ただ、場所によって微妙に異なるタッチもあるように感じ、もしかすると工房作で、光雲を含む弟子達の手も入っているのかな、などとも思いました。あまり大きな建物ではありませんが、何せぐるりと一周でかなりの点数になりますし、光雲が師の元を離れ、独立したのは明治8年(1875)のことでしたし。

本殿の前に佇む額堂。
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中に入って仰天しました。こんな額があったので。
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この面については全く存じませんでした。左の方は烏天狗。本殿の唐破風下、兎の毛通し(うのけどおし)の部分にも天狗が配されていましたし、少し離れた神楽殿にも天狗の彫刻、それから天狗の団扇を象(かたど)ったオブジェも境内にあり、どうもこの地には天狗伝説があったようです。すると右も牙が見えますし、やはり天狗系なのでしょう。
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「茂木佐平治」はキッコーマンさんで代々受け継がれる名で、おそらくその前身だった野田醤油時代のさらに前と推定されます。

迷惑かな、と思いつつ、敷地内の茂木家を訪(おとな)い、面について訊いてみました。すぐ近くに茂木本家美術館さんがあり、光雲の木彫なども展示されているので、そちらにでも収蔵されているのかな、と思ったもので。ところが、家宝として保管していて、公開は行っていないとのことでした。いつかはこの目で見てみたいものです。

野田市内でもう一箇所、廻りました。埼玉との県境に近い、中野台地区の大師山報恩寺さん。
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こちらの本堂におわす御本尊の弘法大師像、さらにもう一体の大師像も、東雲の作だそうです。東雲と野田、つながりが深いと言わざるを得ませんね。
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「高村光雲の義父」というのは誤りで、光雲は徴兵逃れのために東雲の姉の養子になったので、正しくは義理の叔父です。

こちらにも昨夏お邪魔しましたが、本堂の改修工事中で、内部の拝観が出来ませんでした。その際、12月には工事が終わると聞いたので、行ってみた次第です。ところが、工事は終わったものの、漆喰が乾いていないということで、またもや拝観出来ませんでした。その時点で月末には元通りになるというお話でした。また近いうちにお邪魔しようと思っております。

さて、もうすぐ10日、琴平神社さんの門が開きます。報恩寺さんの大師像も拝観可能かと存じます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

誕生日のお祝を心にかけて送つて下さつて忝く存じました。今朝はあのおいしいコーヒーをいれ、トーストにあの珍らしいチーズのスプレツドを塗つてひどくハイカラなブレツクフアストをいただきました。そして今いいかをりの紫烟をマドロスパイプで一ぷくやつたところです。

昭和26年(1951)3月13日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

結核性の肋間神経痛で苦しんでいたわりに、刻み煙草をパイプでくゆらせ……自殺行為ですが……。

このブログサイトでご紹介すべき昨年いろいろあった事柄のうち、主なものは昨年のうちに何とかご紹介し終えましたが、中には越年となり申し訳なく思うものも。

そのうち『東京新聞』さんで12月27日(土)に掲載された記事。

TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機 俳優・渡辺えりさんら尽力 保存活動

 2024年も残りわずか。TOKYO発では今年も街のトレンドや知られざる地域の歴史、ヒューマンストーリーなど、多彩な話題を取り上げてきた。今日は「その後」を――。
 中野区に残る、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)ゆかりのアトリエの所有者が亡くなり、存続の危機にあると1月12日に紹介した。
 アトリエは洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てた。光太郎は晩年の52~56年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作した。
 記事の掲載後、若手建築家をはじめ、さまざまな立場の人から保存・活用法の提案が寄せられたという。有志らは4月、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、署名活動を始めた。
 会の代表に就いたのは、俳優で劇作家の渡辺えりさん。えりさんの父は生前光太郎と交流があり、えりさん自身も光太郎の半生をもとに戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 11月、会は区内でアトリエを紹介する展示を行い、講演会を開催。えりさんは「光太郎の肌合いが残る場所が中野区にあるのはすごいこと。何とかいい形で保存できないか」と語り、「生きるための糧の一つとして文化芸術がある」と理解を求めた。
 今後、会は区への働きかけや新たな講演会の企画など、地道に活動を続ける。署名への協力などは会の名前で検索。
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昨年1月12日の記事はこちら

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」サイトはこちら。当方も幹事を務めさせていただいております。こちらからインターネット署名も可能ですので、よろしくお願い申し上げます。

アトリエを紹介する展示」は11月10日(土)~19日(月)の日程で行いました。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。

新たな講演会」は、2月15日(土)の予定です。詳細が決まりましたらまたお知らせいたしますが、とりあえず中西利雄に特化した内容となるとのこと。

また、クラウドファンディングを立ち上げ、ご支援を募ることも視野に入れております。そうなりました場合には、ぜひともよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生旧臘来肋間神経痛といふ厄介なものにひつかかり、一ヶ月近く小屋を留守にいたし、病院長さん邸や温泉などに滞在、最近、雪中を橇で帰つてまゐりましたがまだ病気は残つてゐます、字を書くと病気にひびくのでテガミや原稿がかけずにゐます、


昭和26年(1951)2月26日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

肋間神経痛」は結核性のもの。結核も抗生物質の普及により、戦前ほどは怖れられる病ではなくなりましたが、さりとてもはや完治は不能でした。約5年後には光太郎の命を奪います。

病院長さん」は、宮沢賢治の主治医でもあった佐藤隆房、「温泉」は大沢温泉さん。1月23日から2月2日まで、かなり長く滞在しました。

活動を継続中の中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会会長にして、劇作家・女優の渡辺えりさん。この5日にはめでたく古稀を迎えられるそうで、それを記念した公演です。

渡辺えり古稀記念2作連続公演『鯨よ!私の手に乗れ』『りぼん』

東京公演
 期 日 : 2025年1月8日(水)~1月19日(日)
 会 場 : 本多劇場 東京都世田谷区北沢2-10-15
 時 間 : 
  『鯨よ!私の手に乗れ』 
   1月8日(水) ・11日(土)~14日(火)・16日(木) 18:00~
   1月9日(木) ・13日(月)・15日(水)・17日(金) 13:00~
  『りぼん』
   1月11日(土)・12日(日)・14日(火)・16日(木)・19日(日) 13:00~
   1月15日(水)・17日(金) 18:00~
   1月18日(土) 13:00~/18:00~(連続公演)
 休 演 : 1月10日(金)
 料 金 : 平日 一般10,000円 学生 4,000円  土日祝 一般11,000円 学生 5,000円

山形公演(『りぼん』のみ)
 期 日 : 2025年1月22日(水)
 会 場 : 山形市民会館 山形市香澄町2-9-45
 時 間 : 18:00~
 料 金 : 平日 一般10,000円 学生 4,000円

『鯨よ!私の手に乗れ』
架空の地方都市の町、山崎県山崎市にある介護施設に神林絵夢がやってくる。ここは母・生子が入所しているのだ。久しぶりに見舞いにきた神林絵夢。母・生子は認知症で、絵夢の弟・公男やその妻・美代子が世話をしているものの、二人が誰かはわからない。絵夢が60歳になるまで演劇を続けてきたのは母のおかげ。晩年ぐらいは自分のために自由に生きてほしいという思いとは裏腹に、時間や規則に縛られて暮らす母の様子を見て絵夢はショックを受け介護士たちに不満をぶちまける。介護施設には元美術教師だった藍原佐和子、看護婦のように振る舞う涼子ら入所者、ヘルパーとして働く水島貴子と生子と同世代の人々がいる。彼女たちは次々に語り出す。彼女らは40年前に解散した劇団のメンバーで、主宰が行方不明になったため上演できなかった作品をいつかやりたいと約束をしていた。生子もその劇団のメンバーだった。ところが彼らの持っている台本は、認知症の患者が認知症の老人を演じるというもの。悲しい結末を知った介護士が途中から破り捨ててしまっていた。その状況に絵夢は台本を書くと言い出す――。2017年に上演された本作品。『演劇』を通して人生を見つめる。人生の中に「演劇」がある力強さを今一度、現代に問いかける。
キャスト
 木野花 三田和代 黒島結菜 広岡由里子 土屋良太 宇梶剛士 ラサール石井 渡辺えり 他

『りぼん』
現代の横浜。「すみれ」、「百合子」、「桜子」3人は関東大震災後に建てられ、最近取り壊された「同潤会アパート」の同じ住人であった。彼女らが住むアパートには、シベリアで抑留されていた夫を持つという「春子」、影を背負う謎の老女「馬場」ら、過去に心の傷を負った女性たちが支え合いながら暮らしていた。そしてそれぞれに「水色のりぼん」の記憶を持っていた。一方、欲情すると水色のりぼんを吐くという奇病を持つ青年「潤一」は、母の遺骨を探す旅の途中、横浜で“浜野リボン”と出会う。リボンは、赤子であった自分の胸に水色のりぼんを縫い付け、墓場に捨てた母の消息を求め、娼婦であった母を知る人物の目に留まるようにと、自らを娼婦の姿に変え、横浜を徘徊している青年と出会った。母から体に水色のりぼんを十字架のように背負わされる2人は、その謎を解くために鍵となる「同潤会アパート」へと向かう。まるで水色のりぼんが彼らを引き寄せるように……。同潤会アパートで潤ーたちと春子らアパートの住人達は初めて出会い、皆の生い立ちと記憶の謎が明らかになってゆく。住人の一人「春子」は愛娘を夫に殺されたという過去を持っていた。戦後娼婦として働かされたという春子の境遇に逆上した夫が春子と娘とを見間違え、首をりぼんで絞めてしまった。そして、実は愛娘の死体のお腹から産まれたのが潤ーであった。2003年に上演、2007年に再演された本作品。未だ混沌と尽きない悩みの最中にある現代日本で蘇る。バンドネオン・ピアノ・ギターの生演奏と共にお送りする音楽劇。
キャスト
 室井滋 シルビア・グラブ 大和田美帆 広岡由里子 土屋良太 宇梶剛士 ラサール石井 渡辺えり 他

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昨年12月25日の『山形新聞』さんに、こちらに関連する渡辺さんのご寄稿。

渡辺えりのちょっとブレーク(235)心のもやもやも込めて

006 古希特別記念連続公演の稽古中です。
 一作品に43人が出演する超大作の連続公演で、前代未聞、前人未到の企画に挑戦することになりました。
 「鯨よ!私の手に乗れ」は、母が介護施設にお世話になるようになってからの実話を基にした作品。11月に母が亡くなったので、母親役の三田和代さんの場面になると泣けてきます。幼い頃からの思い出がよみがえり、たまらなくなりますが、それだからこそ母のためにも成功させたいと頑張っています。
 「りぼん」は山形第六中学校の生徒が東京と横浜に修学旅行に来るストーリー。そこで日本の隠された歴史を発見して驚愕(きょうがく)します。私が実際に昭和40年代に六中の修学旅行で初めて横浜の氷川丸に宿泊した思い出を基に創作しました。2作とも、母親たちが女性として苦労してきた今日までの思いを青いりぼんの思い出とともに表現します。
 2作とも山形弁が多く使われていますが、殺陣指導をお願いした山形市出身の大道寺俊典先生が「みんなもっと山形弁を勉強してほしい」とため息つくほど山形弁は難しいらしいです。大枠の演出が済んだ後に、細かい方言指導もやるつもりで張り切っています。
 歌と踊りも素晴らしい方々が多く出演しているので、新年1月22日の山形公演を楽しみにお待ちください。
 ただ、昔と違って徹夜もできなくなり、朝から晩までの稽古は途中で頭がぼうっとしてしまうこともあります。人間年を取ってみないと、この状況は想像できませんね。両親にもっともっと優しく親切にするんだったと、近頃切に思います。年寄りに親切にしてきた人はきっと、自分が年を取った時に周りに優しくしてもらうでしょうね。介護施設にいた両親が介護士の方たちに「ありがとう。ありがとう」といつも声をかけて、頭を下げていたことを思い出します。山形人はみんな昔からテレパシーで会話する人間が多いため、心で思っていても、なかなか口に出してお礼を言うのが苦手な方が多いように思います。私もそうでしたが、両親を思い出して、口に出すように心がけています。
 今回の「りぼん」は関東大震災や第2次世界大戦、シベリア抑留、接収されていた横浜のことなど日本の過去の歴史がいろいろ出てきますが、オーディションで出演する若者たちとの世代のギャップを感じています。東京オリンピックの思い出を語る場面では「アベベってなんですか?」と聞かれ、高村光太郎の詩「道程」も誰も知らないと分かり、それらを説明するだけでも時間がかかります。今回の2本立てを1カ月半で稽古するのは、至難の業だと分かったのでした。そしてそんなことを愚痴る両親も今は亡く、この心のもやもやも含めて舞台の作品に込めていきたいと思います。
 山形公演を手伝ってくれる友人たち、親戚の皆さん、そしていつも応援して下る皆さま、本当にありがとうございます。山形六中からお借りした制服とショルダーバッグも本当にありがたいです。太った人用の制服が足りず、私の分は生地を足して直しています。終了後はクリーニングに出して速やかにお返しする予定です。私の分はまたほどいてからお返しするので時間がかかると思います。
 さまざまなことがあった一年でしたね。暗いニュースもたくさんありましたが、来年が皆さまにとって良い年になりますように心から願っています。みんなで支え合って諦めずに平和な世の中をつくっていきましょうね。昨年は本当にお世話になりました。喪中なので新年のごあいさつは控えさせていただきますが、皆さま良いお年をお迎えください。
(俳優・劇作家、山形市出身)

劇中で光太郎にも触れられるそうで、さらに特に『鯨よ……』の方は、生前の光太郎をご存じで、昨秋亡くなったお母さまの介護体験等も反映されているそうで。ちなみに亡くなられた11月10日には、えりさん、当方と中野でトークショーでした。

そんなこんなもありますし、御招待いただいているので、拝見に伺います。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生ここへ来てからもう満五年二ヶ月になりますが世情ますます紛糾、いつ彫刻が思ふやうに出来るか、まだ見当がつきません。出来ることを出来る時にしてゐる自然の生活を営むばかりです。


昭和26年(1951)1月12日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳


花巻郊外旧太田村での蟄居生活。新しい年が明けて一つの節目と感じてはいたようですが、まだ自らそれを切り上げる気にはなっていませんでした。

この年の秋に山小屋を訪れた詩人の宮静枝によれば、「いま私に彫刻をさせないことは日本の損失だと思います」とまで語ったとのこと。そう考えるなら帰京すれば、と思うのですが、公的に訴追されなかったとしても、自らの戦争犯罪を他が許さないうちは自らも許すことが出来ない、というわけでしょう。

宮曰く、

光太郎は余りにも明治でありすぎたと思うのである。国からの招請を心ひそかに待ち続け、自らの生命を無為に山野に燃焼し尽くした光太郎も、日本の大きい犠牲者であり、まさに悲しみの典型だったのである。(『詩集 山荘 光太郎残影』あとがき「悲しみの典型」平成4年=1992)

昨日、初日の出を見に行って参りました。以前は昭和9年(1934)に智恵子が半年あまり療養生活を送った豊海村(現・九十九里町)まで出向いておりましたが、ここ数年は自宅兼事務所隣町の旭市でご来光を拝んでおります。

午前6時半近くに到着。水平線上には雲がかかっていましたが(西高東低冬型の気圧配置なので毎年のことです)、まずまずの天気です。
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そこそこの人出。
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南の方に目を転じれば、智恵子が療養していた旧豊海村方面。
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千鳥(?)の足跡。
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日の出を待つ間、流木を集めて暖を採りました。焚き付けには昨年の正月飾り。このあたりもルーティンとなっています。見知らぬご家族が「あたらせてくれ」と寄ってきまして、「まぁどうぞ」(笑)。ただでは悪いと思ったか、やはり流木を拾ってきてくれました。こういうのもいいものです。
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午前6時45分過ぎ。雲の上端が金色に。水平線上には既に日が昇っているようで。
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そして……。
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毎年のことながら、やはり感動しますね(笑)。思わず目を閉じて手を合わせてしまいました。今年一年、世の中全体が穏やかな一年でありますように、そして光太郎を取り巻く諸般が盛り上がりますように、関係の皆様のご健勝・ご活躍を、などと祈願。

ほんとうにそういう一年であってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

おてがみと“クルミの木の下に”と感謝、大変きれいな本です、炉辺でよむのがたのしみなやうです。よんだら小学校に寄贈して皆にもよんでもらひませう。山では本が少いので本をもらふ事を皆大変よろこびます。ここの子供達は実にいい子ばかりです。自然にはぐくまれてゐる子達は仕合です。001


昭和26年(1951)1月4日
藤倉四郎宛書簡より 光太郎69歳

藤倉は童話作家。「銭形平次」の野村胡堂と親交があり、その評伝なども複数著しました。胡堂の妻・ハナは智恵子と親しく(共に日本女子大学校卒)、二人の結婚に際しては智恵子がハナの介添えを務めました。そのあたりにもふれた『カタクリの群れ咲く頃の―野村胡堂・あらえびす夫人ハナ』(平成11年=1999、青蛙房)を以前に読んだのですが、藤倉が光太郎と親交があったことに最近まで気づいていませんでした。

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