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今月初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、今週になって全国的にニュースとなった、光太郎の揮毫を含む川端康成旧蔵の書画発見につき、『岩手日報』さんが報じました。

川端康成邸から書、書簡 岩手で今夏に初公開へ

007【東京支社】ノーベル賞作家の川端康成(1899~1972年)が暮らした神奈川県鎌倉市の邸宅から、第2次世界大戦末期に花巻市に疎開した彫刻家で詩人の高村光太郎や、新感覚派の盟友だった作家横光利一、林芙美子の書など76点が見つかった。同世代の作家や文豪の書などが多数見つかったのは初めてで、文学者同士の交流の様子がうかがえる新資料。7、8月に盛岡市本宮の県立美術館で開催する企画展で、その多くを国内初公開する。
 川端の作品資料や愛蔵品の保存などに取り組む川端康成記念会(川端香男里理事長)が24日、東京都目黒区の日本近代文学館で記者会見して発表した。
 川端邸敷地内の書庫の整理中に見つけ、川端理事長らが12月6~8日に調査し確認した。書が52点で、書簡や絵画もあった。藩制時代の画家池大雅や、明治―大正期に活躍した文豪夏目漱石の書など、古書店などで入手したらしいものも含まれていた。
【写真=智恵子抄の一節を扇に記した高村光太郎の書(川端康成記念会提供)】


光太郎第二の故郷とも言える岩手ですので、光太郎の名を前面に押し出して下さいました。

ところで、筑摩書房『高村光太郎全集』には、川端の名は見えず、光太郎と川端に直接のつながりはなかったようです。川端は明治32年(1899)生まれで、光太郎の16歳下になり、光太郎はその世代の小説家とは、あまり付き合いがありませんでした。詩人であればその世代に知友が多かったし、小説家でも光太郎と同世代だった白樺派の面々とは親しかったのですが。

今回含まれていた光太郎の書は、おそらく、記事の最後にある「古書店などで入手したらしいもの」に含まれるのではないかと思われます。

さて、今夏、岩手県立美術館で、今回見つかったものの中から展示がされるとのこと。やはり光太郎第二の故郷とも言える岩手ですので、光太郎の書は是非とも展示していただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

詩「冬が来た」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

「冬の詩人」の面目躍如、ありあまるエネルギーが炸裂しています(笑)。

以前にも書きましたが、当方はまるで逆、「僕は冬の餌食だ」状態です(笑)。比較的温暖な房総半島に住んでいて、こんなことを言っていると、泉下の光太郎に怒られそうです(笑)。

先々週のこのブログで、『伊豆新聞』さんの記事からご紹介した、川端康成邸での光太郎のそれを含む大量の書画発見のニュ-スが、全国報道されました。

『朝日新聞』さん、『神奈川新聞』さんでは、光太郎書の画像を掲載して下さいました。

まず朝日さん。

川端康成宅 書画続々

007 ノーベル賞作家の川端康成(1899~1972)の自宅で、夏目漱石や北原白秋、林芙美子や横光利一、田山花袋ら著名作家の手による直筆の書や書簡などが大量に見つかった。美術品の収集家としても知られる川端だが、作家の書が見つかるのは珍しい。
 書や書簡、絵画など70点以上で、神奈川県鎌倉市の川端邸に眠る遺品を整理していた川端康成記念会(川端香男里理事長)が昨年末、発見した。
 書は52点。漱石の五言絶句や田山花袋の七絶詩、北原白秋の自作歌など、川端より前世代の文豪のほか、生前交流のあった同世代作家の書もあった。
 川端らとともに「新感覚派」と呼ばれ、盟友でもあった横光利一による書は3点で、代表的な句「蟻(あり)臺上(だいじょう)に餓(う)えて月高し」をしたためた1点も。書を収めた箱には、利一の没後、夫人から譲り受けた経緯が記されていた。林芙美子が鎌倉の川端を訪ねた際に川端が依頼したという書には「硯(すずり)冷えて銭もなき冬の日暮(ひぐれ)かな」とあった。
 その他、芥川龍之介が室生犀星に宛てたものなど、書簡は4点。島木健作が川端の妻に宛てて、訪問の際の非礼をわびた手紙は額装された状態で見つかった。
 記念会理事の水原園博さんは「川端は、書には人格や魂がこもると考え、尋常ではない興味を持っていた。同世代の作家との幅広い交流、年上の作家への尊敬の念も読み取れる」と話している。見つかったものの一部は今夏、岩手県立美術館で公開される予定。(板垣麻衣子)


続いて『神奈川新聞』さん。

川端康成が見た「文学史」 旧宅から文豪の書76点見つかる

  後半生を鎌倉で過ごしたノーベル文学賞作家、川端康成(1899~1972年)が収集した 文豪の書など76点が、鎌倉市の旧宅で見つかった。コレクションに名を連ねるのは夏目 漱石や芥川龍之介、島崎藤村ら名だたる文士たち。同時代の作家に寄せる親しみや敬意を示すとともに、川端の目を通した「日本近代文学史」にもなっている。
 川端に関する資料保存や研究を手がける川端康成記念会(川端香男里理事長、同市長谷)が24日に発表した。旧宅の敷地に立つ資料庫「川端康成記念館」(非公開)で昨年11月末に偶然見つかり、同会が12月上旬に概要を調査。掛け軸や額など書は52点に上り、書簡や絵画などもあった。直接書いてもらったり、古物商から購入したりと、入手経路はさまざまという。
 漱石の書は、1914年に友人の森円月に贈った五言絶句の漢詩で、軸装され木箱に入っていた。芥川が室生犀星に宛てた書簡は、東京・田端にあった文士村の会合「道閑会」に誘う内容。自身を「澄江堂」、犀星を「魚眠洞御主人」と記すなど、親しさがうかがえる。これらの多くは存在が知られ、未発表書簡には当たらないが、実物の存在が改めて確認された形だ。
同会の水原園博理事は「同時代の作家への親しみに加え、書に対する尋常でない重いも読み取れる」と指摘。川端は書に人格を見いだし、収集にのめり込んだという。「なぜ膨大な書を集めたかを研究し、川端の創作をより立体的に捉えたい」と話していた。
 同会は16年前から川端に関する資料を調査、公開している。今回発見された書の一部は、今夏に盛岡市の岩手県立美術館で公開される計画がある。

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昨夜には、TBSさん系のニュースでも報じられ、同じ書が写りました。

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TBSさんと提携関係にある『毎日新聞』さんでも記事になりましたが、こちらでは光太郎の書は使われなかったようです。


さて、問題の書。画像で見る限りは光太郎の筆跡で間違いないようです。書かれているのは『智恵子抄』所収の「樹下の二人」でリフレインされる「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」。同じ詩句は当会顧問の北川太一先生が揮毫して貰い、智恵子の故郷、福島二本松の霞ヶ城に建立さられた詩碑に刻まれたものが、色紙等にプリントされて出回っています。そこからコピーした悪質な偽物、ということも考えましたが、それとは筆跡が異なりました。おそらくいけないものではないようです。

見つかった書画の一部は今年の夏、盛岡で公開されるとのこと。盛岡は光太郎ゆかりの地でもあり、ぜひとも光太郎書もそこに含めていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

「無窮」の力をたたへろ 「無窮」の生命をたたへろ 私は山だ 私は空だ

詩「山」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

この年の夏、智恵子と共に婚前旅行で1ヶ月ほど滞在した、信州上高地での体験をモチーフにしています。その辺りの経緯、尺の関係でカットされなければ、今夜、NHK BSプレミアムさんで放映の「にっぽんトレッキング100 絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」で扱われるはずです。

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画像は一昨年、山岳雑誌『岳人』さんに書かせていただきました記事から。

静岡の地方紙『伊豆新聞』さんに載った記事です。長いので換骨奪胎します。

川端康成邸から書画など70件発見 牧水ら伊豆ゆかり多数

 ノーベル文学賞を受賞した文豪・川端康成(1899~1972年)の神奈川県鎌倉市の自宅から6日までに、明治、大正、昭和初期に活躍した作家らを中心に総数約70件の書画などが見つかった。歌人・若山牧水が伊豆・湯ケ島で詠んだ有名な「山桜の歌」、昨年没後100年、今年生誕150年を迎える夏目漱石の五言絶句の漢詩のほか、島崎藤村、高浜虚子、尾崎紅葉、斎藤茂吉、横光利一、島木健作らそうそうたる顔ぶれ。小説「伊豆の踊子」の名場面の絵画などもあり、伊豆と関係の深い人々の作品が目立つ。ノーベル賞の賞金で現地スウェーデンで衝動買いしたという椅子4脚も含まれる。(森野宏尚記者)

 川端の死後、川端文学の継承を目的に発足した財団法人・川端康成記念会(川端香男里理事長、初代理事長は井上靖)の関係者が書斎や書庫を整理していて発見した。
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特集=川端康成が収集 島崎藤村や尾崎紅葉の書
 ■盟友、横光に思い馳せる
 若山牧水、夏目漱石のほか見つかったのは島崎藤村の書、若菜集の宮城野より抜粋▽高浜虚子の虚子像、虚子句▽横光利一の書「蟻 臺の上に 月高し」など▽尾崎紅葉の書▽徳田秋声の書「古き伝統と新しき生命」▽斎藤茂吉の書「蓮花寺小吟三首」▽田山花袋の七言絶句▽高村光太郎の書(扇面)智恵子抄より▽林芙美子の書▽岡本かの子の書▽武者小路実篤の書「伊香保風景」▽久米正雄の書「初芝居」▽吉野秀雄の書「伊豆大仁望嶽詩」▽富岡鉄斎の書簡▽室生犀星の書簡など。多くは鎌倉の古書店で購入したようだ。
 また醍醐寺の如意輪観音(鎌倉時代)▽藤原定家の懐絵▽大燈国師(南北時代の禅僧)自筆録抄▽寂室元光の一行書▽雪村周継(室町時代の画僧)の風濤図、池大雅の書なども含まれる。
 林芙美子の書には「硯[すずり]冷えて 銭もなき 冬の日暮れかな」と書かれ、水原園博さんは「貧乏時代の彼女そのもので、放浪記で一躍有名になったものの作家仲間からは疎んぜられていた芙美子に、同情を寄せる川端の視線を彷彿とさせる」、新感覚派の旗手で川端とは真の盟友として心通わせた横光利一の「蟻 臺(台)上に 月高し」について、水原さんは「横光は急死し、川端の喪失感はいかばかりだったか。蟻 臺上に…の一文にどう思いを馳せたか」としみじみ語った。

 ■川端邸 一般公開も視野 審美眼、育てた美術品
 川端康成は生前、国宝2点や日本画家・安田靫彦[ゆきひこ]、東山魁夷など多くの美術品を収集していた。無名の若い画家にも着目し、作品を進んで購入した。草間弥生などはその代表格だ。

 川端記念会は川端没後30年の2002(平成14)年から、所蔵品を「川端コレクション展」として全国28美術館で開催してきた。4月から川端が好んだ洋画家・古賀春江の生誕地、福岡県の久留米市美術館(旧石橋美術館)での開催も決まっている。
 川端香男里・川端記念会理事長は「(これまで何度も発見があるので)また出てきたかという思いだが、新発見の品々の何点かは久留米でも披露されるだろう。今後は川端の愛した美術品などに触れる機会を増やすため、川端邸の一般公開も考えていきたい」と展望を語った。
 川端康成学会・常任理事の平山三男さん(69)は「川端の美意識、審美眼は多くの美術品などを通して養われ、作品にも投影されている」とし、今回、先輩、同世代作家の書画が多く出てきたことについては「美を追い求めた川端の憧れや親しみ、その人を深く知りたいなどの思いがあるのではないか」と分析した。


というわけで、川端康成の旧宅から名だたる文豪たちの書画などが大量に見つかり、光太郎の書も含まれていたとするものです。

ネットに載った記事では、残念ながら「光太郎の書」の画像は含まれていませんでした。したがって、真贋のほどは何ともいえませんが、生前、多くの美術品などを購入していたという川端ですので、まず間違いはないのでは、と思います。

いずれ目にできる機会が来ることを期待しております。


【折々のことば・光太郎】

いやなんです あなたのいつてしまふのが―― 

001詩「人に」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

雑誌『劇と詩』に初出の段階では、「N――女史に」という題名でした。「N」は長沼智恵子の「N」です。詩の冒頭及び途中、末尾と3回リフレインされています。

大正3年(1914)には詩集『道程』に収められ、「――に」と題名が変わり、内容も大幅に改訂されています。そして昭和16年(1941)、詩集『智恵子抄』では、さらに「人に」と改題されて、その巻頭を飾りました。

改訂が行われても、このリフレインは変更されていません。それだけ光太郎にとって思い入れのある詩句だったのではないでしょうか。

おそらくこの詩を読んだ智恵子も決心し、晴れて光太郎と結ばれることとなります。

書家、石川九楊氏。昨年、NHK Eテレさんでオンエアされた趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」 にて講師を務められ、光太郎の書もご紹介下さいました。

その石川氏の全集ともいうべき『石川九楊著作集』全12巻がミネルヴァ書房さんから刊行中です。そして次回配本が第6巻で、『書とはどういう芸術か 書論』。やはり光太郎にも触れて下さっています。

石川九楊著作集Ⅵ 書とはどういう芸術か 書論

2016年12月25日 ミネルヴァ書房 本体9,000円+税

序 書とはどういう芸術か——筆蝕の美学
はじめに
序 章 書はどのようなものと考えられて来たか
第一章 書は筆蝕の芸術である——書の美はどのような構造で成立するか
第二章 書は筆・墨・紙の芸術である——書の美の価値はなぜ生じるのか
第三章 書は言葉の芸術である——書は何を表現するのか
第四章 書は現在の芸術でありうるだろうか——書の再生について

書——筆蝕の宇宙を読み解く
第一講 書の表現の根柢をなすもの——筆蝕についてⅠ
第二講 反転しあう陰陽の美学——筆蝕についてⅡimg_0_m
第三講 垂線の美学——書と宗教
第四講 整斉、参差、斉参——旋律の誕生
第五講 書のなかの物語——旋律の展開
第六講 折法の変遷と解体——リズムについて
第七講 表現行為としての書——書と織物
第八講 書のダイナミックス——筆勢について
第九講 結字と結構——書と建築
第十講 ムーブメントとモーション——書と舞踊
第十一講 甲骨文、金文、雑体書——書とデザイン
第十二講 余白について——書と環境

九楊先生の文字学入門
はじめに
第一講 表 現
第二講 動 詞——筆蝕すること
第三講 場
第四講 主 語
第五講 述 語
第六講 単 位——筆画
第七講 変 化
第八講 接 続——連綿論
第九講 音 韻——筆蝕の態様
第十講 形 容
第十一講 接 辞
第十二講 構 文
講義レジュメ

凡 例
解 題
解 説 弁証法の美学——書の表現をささえるもの(高階秀爾)

007このシリーズは、単行本化されたものをまとめたもののようで、この巻は736ページもあり、3冊のご著書がまとめられています。すなわち表題作の『書とはどういう芸術か 筆触の美学』(平成6年=1994 中公新書)、『書―筆蝕の宇宙を読み解く』(平成17年=2005 中央公論新社)、『九楊先生の文字学入門』(平成26年=2014 左右社)。

当方、全て読んだわけではないのですが、このうちの表題作『書とはどういう芸術か 筆触の美学』は、かつて店頭で見つけ、光太郎に言及されていたので購入しました。

曰く、「彫刻家・高村光太郎などの場合には、ペンもまた鑿であり、端正な瞠目するような詩稿を残している。」「高村光太郎の書は、単なる文士が毛筆で書いた水準をはるかに超えた、もはや見事な彫刻である。」などなど。


調べてみましたところ、7月には同じシリーズの第1巻『見失った手 状況論』が刊行されており、そちらには平成5年(1993)新潮社刊の、『書と文字は面白い』が収録されており、やはり光太郎に触れられています。こちらは当方、文庫版(平成8年=1996)で読みました。

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こちらは2ページにわたり「高村光太郎」という項があって、このように述べられています。

高村光太郎の書は、近代・現代の作家、詩人、歌人などの書の中で異彩を放っている。表現上、いわゆる作家、芸術家の書の範疇(はんちゅう)には属さず、また、いわゆる書家の「現代書」とも異なっている。
(略)
「精神」や「意思」だけが直裁に化成しているような姿は、他に類例なく孤絶している。

けだし、そのとおりですね。ただ、強いて類例を挙げるとすれば、その精神性などの部分で色濃く影響を受けた、草野心平の書が、光太郎のそれに近いかもしれません。


『石川九楊著作集』、おそらく他の巻を含め、他の部分でも、光太郎に言及されている箇所がまだあると思われます。とりあえず、はっきり光太郎に言及されているとわかっているもののみご紹介しました。また情報が入りましたらご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

百燭に雉子の脂のぢぢと鳴る     昭和20年(1945) 光太郎63歳

花巻郊外太田村の山小屋で迎える最初の冬に詠まれた句です。最初の数年間は、電気もない生活で、夜はランプや蝋燭で過ごしていました。

一昨日と昨日、ATV青森テレビさんの年末特別番組「乙女の像への追憶――十和田湖国立公園80周年記念」の撮影で、都内の光太郎ゆかりの地を歩き、光太郎本人を知る方々へのインタビューに同行しました。

そのさらに前日は、茨城取手に行っておりました。

先月開催された第61回高村光太郎研究会において、主宰の野末明氏が、光太郎の姻戚の詩人にして、取手出身の宮崎稔について発表をされました。それを聴いて、宮崎に関する情報を提供する約束をしたのですが、あやふやな点があって、確かめに行った次第です。

まずは宮崎家の墓地。十数年前に行ったことがあり、だいたいの位置は記憶していたのですが、正確に地図で表せ、と言われると自信がありませんでした。

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取手駅の西南方向、利根川の河岸段丘の上です。画像で言うと左手が国道6号、手前は6号線に上っていく立体交差の側道です。

もともと光太郎と宮崎の縁は、宮崎の父・仁十郎が、戦前に日本画家の小川芋銭の顕彰に光太郎を引き込んだあたりから始まっています。

その仁十郎の墓もこちらにあり、それとは別に宮崎の墓。墓石側面の墓誌には、宮崎と、夭折した男児の名が刻まれていました(その辺りの記憶もはっきりしていませんでした)。当然刻まれているはずの宮崎の妻・春子(智恵子の最期を看取った姪)の名がなぜか有りませんでした。

ちなみに宮崎には、夭折した男児を謳った「ゆうぐれ」という詩があります。

二つの墓に線香を手向け、ここはこれで終了。

来たついでと思い、取手駅の反対側にある長禅寺を参拝、というか、境内にある光太郎ゆかりの二つの碑を見てきました。

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門前には、取手ゆかりの文人的な説明板も立っていて、光太郎も紹介されています。

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意外にも、智恵子を『青鞜』メンバーに引き込んだ平塚らいてうの名が。昭和17年(1942)から同22年(1947)まで取手に住んでいたとのこと。時期的に疎開と思われますが、これは存じませんでした。


さて、山門はやはり河岸段丘の上にあり、長い石段。



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その石段の右側に、昭和23年(1948)、光太郎が題字を揮毫した「開闡(かいせん)郷土」碑が有るはずでしたが、見つかりません。いくつか碑がありましたが、ずべて他の碑でした。この碑は何度か見に来ているので、場所の記憶違いということはありえません。そういう例が他にあったので、撤去されてしまったのかも、と思っていたところ、見つかりました。何と、繁茂した篠竹の藪に埋まっている状態でした。



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画像中央、やや黒みがかって見える部分に碑があります。不本意ながら石段の手すりを乗り越えて、篠竹をかき分けてみると……



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光太郎の手になる「開闡郷土」の文字。「光太郎」の署名もくっきりと。

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以前から、何の説明板もなく、これが光太郎の筆跡を刻んだものだと知られていないのでは、という感じでしたが、もはや碑そのものが見えない状態になっているとは……。

もっとも、先述しましたが、無理解のため撤去されてしまった碑も、他県にはありましたが……。

長禅寺には、もう一つ、光太郎の筆跡が刻まれた碑があります。こちらは山門をくぐって、境内の左手。光太郎と宮崎家の結びつきの機縁となった、「小川芋銭先生景慕之碑」で、昭和14年(1939)の建立です。


そちらは無事だろうかと、少し急いで行ってみましたが、こちらは無事でした。

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こちらも題字のみ、光太郎の筆跡です。

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題字の下に小さく「高村光太郎書」の文字も。ただし、柔らかい大理石なので、風化が進んでいます。

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以上を見て回りましたが、取手にはもう一つ、光太郎の筆跡が刻まれたものがあるはずです。

それは、宮崎仁十郎の仲介で、元取手町長だった中村金左衛門から頼まれた墓標。中村の縁者(息子?)と思われる「故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓」という文字を、昭和23年(1948)に光太郎が揮毫しています。おそらく取手のどこかに立てられたと思われますが、それがどこなのかわかりません。

長禅寺にも見あたりませんでしたし、当会顧問・北川太一先生にもお伺いしましたが、不明でした。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

2021年2月6日追記。見つかりました。


【折々の歌と句・光太郎】

人間のハムと友らのよびならす女のあしはつるされにけり
大正15年(1926) 光太郎44歳

昨日に引き続き、駒込林町アトリエでの塑像彫刻制作に関する短歌です。

アトリエには、この短歌のとおり、女性の脚の習作がぶら下がっていたというエピソードが、複数の光太郎友人の回想に出て来ます。「人間のハム」とはよくいったものですね(笑)。

昨日は、ATV青森テレビさんの番組制作取材に同行、千駄木の光太郎アトリエ跡などをめぐり、そこからほど近い当会顧問・北川太一先生のお宅にもお伺いし、そちらで北川先生と当方のインタビューを撮影しました。

今日も同じ件で、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエに行って参ります。


この件についてはまた明日、2日分まとめてお伝えします。今日は最近入手した光太郎書簡について。

海外留学で光太郎がロンドンにいた頃、パリにいた画家の白瀧幾之助にあてた絵葉書で、『高村光太郎全集』には収録されていないものです。

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こちらは宛名面。消印が明治41年(1908)1月2日。パリのテアトル通り16番地、白瀧幾之助宛てです。

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文面の書かれた面。写真ではなく、石版画的な感じでしょうか。何せ100年以上前の絵葉書です。宛名面に印刷された文言によれば、イングランド南部ワイト島に位置するカウズという町の風景で、「Royal Yacht squadron」と記されています。「squadron」は「艦隊」。調べてみましたところ、1815年に設立され、まさにカウズの町に本部があったヨットクラブだそうです。「Royal」ですから、英王室との関連もあるのでしょう。

さて、文面は以下の通り。1月2日ということで、ある意味、年賀状的な内容でもありますが、大半は白瀧からの問い合わせに回答する事務的な内容ですね。

新年の御慶申納候
僕の処へも荻原君から手がみがあつた。
柳君の最近の手がみにある番地は矢張り618w.114□とある。
此でいいのだらう。
□光太郎

□の二文字分が読めません。ちょうどよいと思って、北川先生にもご覧頂いたのですが、やはり読めませんでした。もう少し推理してみます。

追記 「114」の後は「st」(ストリート)、「光太郎」の前は「二日」ではないかと、碌山美術館さんの学芸員氏からご指摘がありました。なるほど。それで正解ですね。

荻原君」は碌山荻原守衛、「柳君」は画家の柳敬助。白瀧を含め留学生仲間で、明治39年(1906)には光太郎、柳、白瀧は同時期にニューヨークに居住していましたし、荻原もパリからニューヨークを訪れ、光太郎らと会っています。

この葉書が書かれた明治41年(1908)には、光太郎はロンドン、白瀧はパリ、柳はニューヨーク、そして荻原は一足早くパリからイタリア、ギリシャ、エジプトを経て日本へ帰国する途中でした。「僕の処へも荻原君から手がみがあつた。」というのは、その船旅の途次からの手紙という意味でしょう。

白瀧幾之助は、光太郎より10歳年長。明治31年(1902)に東京美術学校を卒業し、洋画家として白馬会に所属していました。禿頭で大男、留学生仲間からは「入道」とあだ名されていましたが、非常に面倒見のいい人物で、光太郎もニューヨークやロンドンでさんざん世話になっています。また、両者晩年の戦後に、交流が復活しています。

100年以上前のロンドンからパリに送られた絵葉書が現存し、日本の当方の手元に届き、若き留学生たちの息吹が聞こえてきそうな内容……ある意味感無量です。


神田の古書店さんから入手しましたが、ほぼ同時期の白瀧宛書簡がごそっと売りに出ていました。光太郎からのものはこの1通だけでしたが、荻原のそれは3通含まれていました。早速、碌山美術館さんに連絡したところ、注文されたそうです。比較的長命だった光太郎の書簡はこれまでに3,400通余り見つかっていますが、夭折した荻原のそれは150通ほどしか知られておらず、新たに3通が加わったというのは大きいですね。これまでに見つかっていたものは、碌山美術館さんで昨年刊行の『荻原守衛書簡集』にまとめられています。

ちなみに光太郎の絵葉書は、70,000円でした。当分は節約に努めます(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

冬の空とほいかづちす黄に枯れて一馬(いちば)かげなき焼原(やけはら)の牧
明治39年(1906) 光太郎24歳

光太郎留学中の作です。ただし、最初の滞在国、アメリカで詠まれたものです。

先ほど、1泊2日の行程を終えて、福島相双地区より帰って参りました。充実の2日間でして、レポートは明日以降、ゆっくり書かせていただきます。

今日は新刊書籍の紹介を。

日本の書

2016年11月1日 手島𣳾六氏著 産経新聞出版 定価1,852円+税

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書には日本人の「心」と「技」が宿っている。

聖徳太子の書から、空海、西行、定家、 一休、白隠、良寛、吉田松陰、 西郷隆盛、高村光太郎、魯山人、川端康成……。

古今の能書42作品を、わが国を代表する現代書家が、 美しい図版とともに丁寧に紹介。A5判・上製・オールカラー!

【登場する人物】
 ■第一章 古代篇
 聖徳太子、光明皇后、最澄、空海、嵯峨天皇、橘逸勢、菅原道真、小野道風、藤原佐理、
 藤原行成、紀貫之、西行
 ■第二章 中世篇
 藤原定家、伏見天皇、親鸞、日蓮、道元、大燈国師、一休
 ■第三章 近世篇
 近衛信尹、本阿弥光悦、小堀遠州、荻生徂徠、白隠、池大雅、仙厓、良寛、吉田松陰
 ■第四章 近代篇
 三輪田米山、西郷南洲、中林梧竹、副島蒼海、日下部鳴鶴、比田井天来、尾上柴舟、
 豊道春海、會津八一、高村光太郎、北大路魯山人、小倉遊亀、川端康成、手島右卿

《古来、自然に富んだ清明な気候風土に住む日本人は緻密な観察と工夫によって独自の文化を作り上げてきた。つまり、季節感と心が一体となって独自の美しい書を醸成してきたのである。それ故、日本の書は「清明の中にある」と言っても過言ではあるまい。書の妙技、巧拙を含め「清明」にこそ日本の書の真髄が宿っていると言えよう。》(序文より)


平成24年(2012)から今年にかけ、『産経新聞』さんに連載されていた同名のコラムの単行本化です。

光太郎の項は、昨年10月3日に掲載されました。昭和に入ってからの光太郎の揮毫「うつくしきものみつ」についてです。

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昨年、NHKさんで放映された生涯教育番組「趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」の中で、書家の石川九楊氏がしみじみと述べられていましたが、光太郎の書は、鑿や彫刻刀でぐいぐい刻んで行くような書です。

やはりそうした解説になっています。

他にも古今の名書がオールカラーで紹介され、眺めていると不思議と心落ち着けられる書籍です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

浅草の千束町の銘酒屋の二階の窓の小春日のいろ

明治42年(1909) 光太郎27歳

今日は福島でも、日向にいると暑さを感じるくらいの小春日和でした。

画像はいわき市の草野心平生家前の、見事なケヤキの大木です。青空に黄葉のコントラストがきれいでした。

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うっかり紹介を忘れていました。岩手県盛岡市の盛岡てがみ館さんの企画展です。  

第51回企画展「文豪たちの原稿展」

期  日 : 2016年10月25日(火)~2017年2月13日(月)
会  場 : 盛岡てがみ館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階
料  金 : 一般:200円(団体160円) 高校生:100円(団体80円)
       ※団体は20名以上からとなります。
11/3は入館料無料、ポストカード進呈

「文豪」たちの名作は,年月を経た今もなお,読者に長く親しまれています。本展では,与謝野鉄幹・晶子夫妻,萩原朔太郎,高村光太郎といった日本の文壇で大きな功績を残した作家のほか,岩手を代表する作家である鈴木彦次郎,森荘己池の原稿を展示します。残された推敲の跡や筆跡など,彼らの直筆原稿から感じ得る「文豪」たちの創作に対する情熱や人柄を紹介します。

〈展示内容〉
○与謝野寛(鉄幹)原稿「啄木君の思出」
○与謝野晶子原稿「啄木の思ひ出」
○高村光太郎原稿「國民まさに餓ゑんとす」 ほか

関連行事

開催日・期間:11月23日(水・祝) 時間:14:00~ 場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:佐々木章行(当館学芸員) 料金:入館料が必要です。
当館学芸員が、第51回企画展「文豪たちの原稿展」で展示中の手紙について、解説を加え紹介します。
☆ポストカードプレゼント☆
当日来館したお客様にはポストカードをプレゼントします!

開催日・期間:2017年1月21日(土) 時間:14:00~15:00 場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:磯田望(当館館長) 料金:入館料が必要です。
当館館長が、第51回企画展「文豪たちの原稿展」で展示中の資料や人物について解説を加え、関連するエピソードを紹介します。


「国民まさに餓ゑんとす」は、敗戦間もない昭和21年(1946)2月、『新岩手日報』に掲載された詩です。

    国民まさに餓ゑんとす
 
  国民まさに餓ゑんとして005
  凶事国内に満つ。
  台閣焦慮に日を送れども

  ただ彌縫の外為すべきなし。
  斯の如きは杜撰ならんや。
  斯の如くして一国の名実あらんや。
  必ずしも食なきにあらず、
  食を作るもの台閣を信ぜざるなり。
  さきに台閣農人をたばかり
  為めに農人かへつて餓ゑたり。
  みづから耕すもの五穀を愛す。
  騙取せられて怒らざらんや。
  農人食を出さずして天下餓う。
  暴圧誅求の末ここに至り、
  天また国政の非に与せず、
  さかんに雨ふらして大地を洗ひ
  五穀痩せたり。
  無謀の軍をおこして
  清水の舞台より飛び下りしは誰ぞ。
  国民軍を信じて軍に殺さる。
  われらの不明われらに返るを奈何にせん。
  国民まさに餓ゑんとして
  凶事国内に満つ。
  国民起つて自らを救ふは今なり。
  国民の心凝つて一人となれる者出でよ。
  出でて万機を公論に決せよ。
  農人よろこんで食を供し、
  国民はじめて生色を得ん。
  凶事おのづから滅却せざらんや。
  民を苦しめしもの今漸く排せらる。
  真実の政を直ちに興して、
  一天の下、
  われら自ら助くるの民たらんかな。

敗戦後の深刻な食糧事情を題材としています。そしてそのような事態を引き起こした蒙昧な旧軍部の批判。

同館には、『新岩手日報』編集局長だった松本政治に宛て、この詩の原稿を送った際の添え状も所蔵されています。

松本政治様机下
拝啓、先日は此の深い雪の中を遠路御来訪下され且つ御礼の金品までいただいて恐縮に存じました。御依頼の詩篇ともかくも同封いたします。少し長くなりましたが已むを得ません。今日はよほど空気が冷えてゐると見えて萬年筆の工合が悪いやうです。雪はますます深くなります。郵便が遅れるので困ります。御令息にもよろしく。先日は大澤温泉に無事御宿泊ありしや否やとあとで心配いたしました。 とりあえず右まで。
    一月十日夜 高村光太郎

この日の日記には、以下の記述があります。

午后「国民まさに餓ゑんとす」といふ詩を書き終り清書、夜封入テガミを新岩手社の松本政治氏にかく。先日の依頼による。三十五行ばかりになりたり。

それに先立つ一月四日の日記には、

午后テカミ書きの時勝治さんの案内にて新岩手日報社の松本政治氏が長男の朗(アキラ)さんと一緒に来訪。一時間余コタツにて談話。三時過辞去さる。スルメ若干と金百円也とをいつぞやの寄稿のお礼なりとてくれる。詩の寄稿を約束。又細かい吹雪となる。その中を帰つてゆかれる。

 と記されています。

「いつぞやの寄稿」は、前年9月に同紙に掲載された詩「非常の時」を指すと思われます。


また、同館では、常設展示として光太郎詩「岩手山の肩」の原稿も展示していましたが、おそらくそのままだと思います。

同展について、『毎日新聞』さんの岩手版に記事が出ました。 

企画展 文豪たちの原稿資料33点を展示 盛岡てがみ館 /岩手

009 岩手にゆかりのある文豪たちの原稿を展示した企画展が、盛岡てがみ館(盛岡市中ノ橋通1)で開かれている。推敲(すいこう)の跡や筆跡から、作家たちの人柄や個性がうかがえそうだ。
 目を引くのが、与謝野鉄幹が石川啄木を回想した原稿用紙23枚。鉄幹主宰の雑誌「明星」に、啄木が投稿した頃から亡くなるまでの出来事がつづられている。
 啄木は歌集「一握の砂」で有名だが、原稿には「君の本領が是れに盡(つ)きたかの如く讀者(どくしゃ)達(たち)に看取(かんしゅ)されることは、私達の遺憾を禁じ得ない」などとあり、鉄幹が啄木の才能を終始高く評価していたことが分かる。
 一方、鉄幹の妻晶子は、子だくさんで家計を担った女性らしく、啄木の服装からその人となりを描写している。学芸員の佐々木章行さん(27)は「二人とも啄木を可愛がっていたが、夫婦で視点が変わるのも面白い」と魅力を話す。
 他には、萩原朔太郎や高村光太郎の原稿や写真など、関連資料33点が並ぶ。
 来年2月13日まで。入館料は一般200円、高校生100円。中学生以下と、盛岡市内の65歳以上は無料。休館は第2火曜日と年末年始。問い合わせは同館(電話019・604・3302)。【藤井朋子】
(2016年10月29日)


岩手つながりで、もう一件、花巻高村光太郎記念館さんで刊行された図録的な書籍『光太郎 1883-1956』について、『朝日新聞』さんの岩手版に報じられています。 

岩手)高村光太郎の足跡を図録に 花巻の記念館で販売

010 花巻市にゆかりの深い彫刻家で詩人の高村光太郎が亡くなってから今年で60年。「花巻高村光太郎記念会」(佐藤進会長)がこのほど、図録「光太郎 1883―1956」を刊行した。花巻市の高村光太郎記念館で販売している。
 1945年4月の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は、旧知の宮沢賢治の弟清六を頼って花巻の宮沢家に疎開したが、空襲で宮沢家も焼け、同年10月、太田村山口(現・花巻市太田)の山荘に移り、農耕自炊の暮らしを続けた。
 図録は縦横25センチの変形サイズのフルカラー52ページ。冬には零下20度にもなる地域の山荘で、詩作と農耕、自然回帰に没入した光太郎の暮らしと足跡を、当時の写真や花巻市周辺の四季の風景写真を織り交ぜて紹介。記念館に収蔵、展示されている木彫やブロンズ像なども掲載、光太郎と親交のあったゆかりの人たちの「思い出」も収録している。
 記念館は56年の光太郎の没後、ゆかりの人々が発足させた記念会が山荘の近くに設立し、運営してきた。昨年、市営施設として全面リニューアルし、記念会が市の委託で運営している。来館者から「図録がほしい」との要望があり、スタッフが昨年夏から約1年がかりで編集し、5千部限定で発刊した。1部2千円。問い合わせは記念館(0198・28・3012)へ。(溝口太郎)
(2016年10月29日)


監修は当方の名前になっており、8月に手元に届きました。お世話になっている何人かの方々にお送りしましたが、好評です。

同館のみでの販売ですが、ぜひ足をお運び、ご購入下さい。同館では「高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」展、来月23日(水・祝)まで開催中です。


【折々の歌と句・光太郎】

リンゴばたけに雨ふりて 銀のみどりのけむる時 リンゴたわわに枝おもく 沈々として紅きかな                        昭和22年(1947) 光太郎65歳

以前にも一首ご紹介した、「七・五」を四回繰り返す「今様」という形式です。花巻の林檎を歌っています。

この歌をしたためた数種類の揮毫が知られています。

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上記『光太郎 1883-1956』に載っているもの。

昭和27年(1952)から同29年(1954)にかけて書かれ、美術史家の奥平英雄に贈られた書画帖「有機無機帖」から。

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こちらには、智恵子の紙絵を模して作られた光太郎の紙絵も添えられています。赤い部分はアメリカ煙草・ポール・モール(ペルメル)の空き箱です。

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昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。同市の市立図書館で開催中の「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」を拝見、さらに講演を拝聴して参りました。田口弘氏は同市の元教育長。戦時中から光太郎と親交のあった方です。

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開館と同時くらいに現地に到着、まずは展示を拝見しました。

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入ってすぐが光太郎肉筆資料のコーナー。書や書簡等がガラスケースに並べられています。以前に田口氏のお宅ですべて拝見しましたが、きれいに並べられていると、また違った見え方がします。

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書簡の大半は、戦後の花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)からのもの。山小屋暮らしの一端が垣間見え、興味深いものです。

例えば昭和25年(1950)2月の封書。欄外に「積雪の重みで電燈は断線、小さな物置小屋はつぶれました、」などとさりげなく書かれています。

一通のみ、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、再上京して居住した中野のアトリエからのハガキがあり、そちらでは乙女の像の制作にも触れられています。

仕事のことに没頭してゐるため、ついお便りを書くことさへのびのびとなつてゐました、仕事の方は着々進んで居ります、

周囲の壁には、花巻高村光太郎記念会さんご提供の写真画像(山小屋生活の様子、乙女の像など)が引き延ばされて貼られており、理解が助けられます。

会場奥は、光太郎に関わる元の田口氏蔵書。光太郎本人から送られたサイン入りのものから、平成に入ってからのものまで、さまざまです。光太郎から贈られたものについては、その小包の包み紙や鉄道荷札まで保存されており、一緒に展示されていました。

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また、昭和58年(1983)、田口氏のお骨折りで市内の新宿小学校に建立された光太郎書を刻んだ「正直親切」の碑の画像、その元となった光太郎の書(複製/花巻高村光太郎記念会提供)、さらに田口氏、光太郎本人と交流のあった彫刻家・高田博厚のコーナーも設けられていました。

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同館ではここまでがかりな企画展示は初めてとのことでしたが、なかなか充実した展示でした。


その後、展示会場と隣接する視聴覚ホールにて、田口氏のご講演。教育委員会の方もご登壇し、インタビュー形式でのお話でした。「矍鑠(かくしゃく)」という表現が適当かどうか分かりませんが、大正11年(1922)のお生まれで、おん年94歳の田口氏、ユーモアを交えながら、非常に貴重なお話をご披露されました。

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昭和24年(1949)8月、復員後、中学校教諭をなさっていた氏は、二度目の太田村ご訪問をなさいました。この年の大半の光太郎日記は現存が確認できないのが残念です。その際に氏と同道した当時の教え子お三方のうちのお一人、馬橋旭氏も会場にいらっしゃり、思い出をお話下さいました。

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午後は、同じ会場で昭和42年(1967)公開の中村登監督・岩下志麻さん、丹波哲郎さんコンビによる松竹映画「智恵子抄」の上映がありました。ただ、以前にも観たことがありましたし、他の用件もあったためそちらはパスしました。いずれまたゆっくり拝見したいとは思っております。


同展は28日(日)まで開催中。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん
制作年不詳

昨日に引き続き、昭和5年(1930)頃に制作された木彫「白文鳥」を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。こちらは、画像左の雌の方に添えられたものです。

雌雄を比べてみると、ぱっちりと眼を開けている雄に対し、雌の方はやや眼を細めています。

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過日ご紹介した岩手花巻宮沢賢治記念館さんの特別展「「雨ニモマケズ」展」について報道が為されています。ただ、ほとんどは「雨ニモマケズ」が記された手帳のみの紹介で、「雨ニモマケズ」詩碑のために書かれた光太郎の書については触れられていませんでした。

さすがに地元紙2紙ではそちらにも言及されています。

まず『岩手日日』さん。 

実物を初公開 きょうから記念館 賢治生誕120年で 「雨ニモマケズ」手帳 光太郎揮毫 詩碑の書

006 花巻市矢沢の宮沢賢治記念館(鎌田広子館長)は賢治生誕120年記念の特別展として、20日から「雨ニモマケズ」展を開催する。詩「雨ニモマケズ」が記された賢治の手帳と、賢治を高く評価していた詩人で彫刻家の高村光太郎の書を、ともに実物で公開することから広く注目を集めそうだ。
 一般公開に先立ち19日に内覧会を開き、概要を紹介した。目玉となるのは、賢治直筆とされる「雨ニモマケズ」の手帳。複製を常設展示していたが、賢治生誕120年の節目に合わせて実物を公開することにした。
 光太郎が揮毫(きごう)した「雨ニモマケズ」の後半部分の実物も展示。同市桜町の「賢治詩碑」建立の際の書で、後に判明した原文との相違点を碑に追刻補正する前の状態が確認できるという。
 「雨ニモマケズ」の手帳や光太郎の書の実物が同館で展示されるのは今回が初めて。賢治の弟の故・清六さんの孫で同館学芸員の宮澤明裕さんは「『雨ニモマケズ』は作品として推敲されたものではなく、それがかえって生のものとして人の心を打つのでは。この機会に足を運んでもらい、それぞれの応援や励ましとしてもらえれば」としている。
 特別展は28日まで。21日午後1時30分からは明裕さんの兄の和樹さんによるギャラリートークも予定している。
 開館時間は午前8時30分から午後7時30分まで。入館料は小・中学生150円、高校生・学生250円、一般350円。問い合わせは同館=0198(31)2319=へ。


続いて『岩手日報』さん。 

「雨ニモマケズ」手帳公開 花巻・宮沢賢治記念館

005 花巻市矢沢の宮沢賢治記念館(鎌田広子長)は、賢治生誕120周年を記念し、20日から特別展「雨ニモマケズ」展を開く。賢治が病床で「雨ニモマケズ」を記した手帳の現物などを公開する。
 賢治の手帳は縦13・1センチ、横7・5センチ、166ページの手の平サイズ。「雨ニモマケズ」の前文を記した51、52ページを開いて展示する。
 同市桜町の賢治詩碑に刻んだ高村光太郎の書の原文も公開し、有名俳優らの詩の朗読を上映する。
 同展は28日まで。期間中は無休。入館料は小中学生150円、高校生、学生250円、一般350円。午前8時半~午後7時半。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。


展示期間が短いのが残念ですが、ぜひ多くの方々にご覧いただきたいものです。


当方、本日は埼玉東松山市立図書館さんに行き、「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による」を拝見。さらに戦時中から光太郎とご交流のあった同市元教育長・田口弘氏ご講演を拝聴して参ります。


【折々の歌と句・光太郎】

小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは
制作年不詳

昭和5年(1930)頃に制作された木彫「白文鳥」の雄の方(画像右)を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。写真は故・髙村規氏によるものです。

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木彫「白文鳥」、現在、信州安曇野の碌山美術館さんで公開中です。

生誕120年を迎えた宮沢賢治。記念事業が色々と行われていますが、その一環として開催される、岩手花巻の宮沢賢治記念館さんでの特別展示です。 

「雨ニモマケズ」展

期  日 : 前期2016年8月20日(土)~28日(日)
       後期2016年8月30日(火)~9月13日(火)
会  場 : 宮沢賢治記念館 岩手県花巻市矢沢1地割1番地36
時  間 : 8:30~19:30
料  金 : 一般350円(300円)、高校生・学生250円(200円)
       小・中学生150円(100円)
        ※( )内は20人以上の団体割引料金

国内はもちろん、世界でも多様な広がりをみせている「雨ニモマケズ」。
当館では賢治生誕120年を機に「雨ニモマケズ」が書かれた賢治自筆の手帳と、高村光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の原文を展示いたします。いずれの資料も宮沢賢治記念館では初公開となります。どうぞこの機会をお見逃しなく!!
(後期は「雨ニモマケズ手帳」は複製、詩碑原文は拓本に展示替え)

関連行事 

ギャラリートーク
日  時 : 2016年8月21日(日)  13:30~
講  師 : 宮澤和樹氏(賢治実弟・故宮澤清六氏令孫)

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賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿で開かれた賢治追悼の会の席上、実弟の清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帳に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのは光太郎、宮沢清六、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

昭和11年(1936)になって、光太郎は宮澤家の依頼でこの詩の後半部分を揮毫、花巻の羅須地人協会跡にその書を刻んだ碑が建てられました。

その後、「雨ニモマケズ」は賢治代表作の一つとして広く人口に膾炙しています。

今回の展示では、光太郎も手に取った手帳の現物、そして光太郎が書いた碑文書の現物が展示されます。

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それぞれ宮沢賢治記念館さんでは初の展示だそうで、意外といえば意外です。

21日(日)のギャラリートークは宮澤和樹氏。御祖父・清六氏が光太郎と親しかったため、必ずといっていいほど、賢治や宮澤家と、光太郎の密接な交流についてお話下さいます。


今後、これ以外にも、賢治顕彰の様々な企画が目白押し。近くなりましたらご紹介しますが、また当方もお話をさせていただく機会があります。

とりあえず「「雨ニモマケズ」展」。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

夏の日は三里塚にて馬見るか昼寝しせすか山脇彦尊
大正13年(1924) 光太郎42歳

「三里塚」は、現在、新東京国際空港のある成田市です。かつては印旛郡遠山村でした。

「山脇彦尊」は、日本画家・山脇謙次郎。光太郎は山脇のため、前年12月、三里塚に開墾小屋を作り、その移住を助けています。のちに光太郎の親友・水野葉舟がその小屋を引き継ぎました。

かつて近くには宮内省の御料牧場があり、「馬」はそれに関わります。

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跡地は成田三里塚記念公園となり、光太郎に触れる展示も為されている御料牧場記念館、光太郎詩「春駒」碑などがあります。

信州安曇野から三陸女川への4泊5日の出張を終えて帰宅したところ、花巻高村光太郎記念館さんから宅配便が届いておりました。

同館にて刊行の展示品図録的な書籍『光太郎 Kotaro Takamura 1883-1956』。

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縦横25㌢の正方形という特殊な判型で、オールカラー48頁。充実した内容です。当方、一部を執筆し、「監修」ということにしていただいています。

抜粋で画像を提示します。ただ、校正途中に送られてきたPDFファイルから採りましたので、若干、完成品とは異なりますが、大筋はこの通りです。

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四季折々のイメージ画像をバックにした光太郎詩。4篇、8頁。

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ブロンズ彫刻、書作品、遺品などの同館展示物の画像。

展示品以外にも、光太郎芸術の紹介ということで、木彫の写真も。

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『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘』を刊行された末盛千枝子さんをはじめ、生前の光太郎を知る方々の談話。

さらには、光太郎、父・光雲、妻・智恵子の紹介、賢治や宮沢家との交流、花巻郊外太田村での生活、盛岡や花巻町などのゆかりの地の紹介などなど充実の内容。これで税込定価2,000円はお買い得です。

案内と、FAX注文書を載せておきます。プリントアウトしてご使用下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

とほどほしわれ必ずのせめてもの夏山夏野ただみどり濃き
明治34年(1901) 光太郎19歳

先頃、埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が、書簡や書など光太郎関連資料を寄贈された件がニュースになりました。地元テレビ局・テレ玉さんの報道がこちら。『東京新聞』さんと『毎日新聞』さん、そして『産経新聞』さんはこちら

少し遅れて先週、『朝日新聞』さんの埼玉版にも記事が載りました。

埼玉)高村光太郎の書簡、元東松山市教育長が寄付

005 元教師で、東松山市教育長を長く務めた田口弘さん(94)が先月、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883―1956)から届いたはがきや封書、色紙、直筆サイン入り全集など約100点を市へ寄贈した。書簡は主に戦中戦後、田口さんが高村に送った自作の詩や食料品に対するお礼状で、高村の誠実な人柄がうかがえる。
 田口さんは旧制松山中学に在学当時、国文学者だった恩師の影響で高村研究を始めた。師範学校専攻科で、新聞や雑誌に載った高村の記事や作品をノートに書き写すなどして卒業論文にまとめた。44年4月、その恩師に連れられて高村を訪ね、論文を見せたところ、「僕より僕のことを知っているね」と言われたという。
 「すでに『智恵子抄』などを発表した著名人だったのに、初対面の学生の論文を丹念に読んでくれた」と感激した田口さんは、ますますファンに。海軍軍属として南方戦線へ赴く直前に会うと、「世界はうつくし」など色紙2枚を書いてくれたという。田口さんはインドネシアで捕虜生活をおくりながら詩作に励み、「ジャワ抄」にまとめた。
006 復員後、岩手県の疎開先へ高村を訪ねた田口さんが、戦地で色紙を失ったことをわびると書き直してくれた。新制松山中学の教諭となった田口さんは、その後も妻が編んだ靴下や高村が好物の練乳など食料品を送り続け、生まれた長男には「光夫」と名付けた。
 練乳に対して高村は「かかる乳製品の貴重なものを老人がいただくのは世の嬰児達(えいじたち)に相済まぬ気がいたしましたが」「紅茶に入れたり、うすめて朝ののみものにしたり、パンをつくったりしてよろこんで居(お)ります」と封書をしたためた。
 田口さんが送った作品には「立派なものです。新鮮で、ほんとの感じに満ちてゐます」などと評し、「ジャワ抄」で田口さんが用いた「カンポン」(集落)という現地語を返礼のはがきの文面に使うなど気遣いも随所に見せている。
 田口さんは「高村は今も、私の生き方の教科書。若い時代の出会いが人生を決める。寄贈する書簡で、若い人が高村の崇高な人間性にふれてくれれば」と話す。市は書簡を市立図書館に所蔵し、8月10日から公開することにしている。(西堀岳路)

記事にある「ジャワ抄」は正しくは「ジャワ詩抄」。田口氏手製の詩集です。


記事にある市立図書館での公開及び田口氏の講演会について、市の広報誌『広報ひがしまつやま』の今月号に、案内が掲載されました。 

高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~

期 日 : 8月10日(水)~28日(日) 
会 場 : 東松山市立図書館3階展示室 東松山市本町2-11-20
時 間 : 午前9時30分~午後7時
休館日    : 第4月曜日

講演会
期  日 : 8月21日(日)午前11時~11時45分
会  場 : 市立図書館3階研修室
講  師 : 田口 弘 氏
定  員 : 50人(申込順)
申込み 8月5日(金)から直接又は電話で市立図書館へ。[TEL] 0493(22)0324

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『広報ひがしまつやま』、さらに田口氏と光太郎の関わりについての記事も掲載されています。

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当方も講演会にはお邪魔しようと考えております。

展示される資料も、光太郎自筆ハガキ以外にも、筑摩書房『高村光太郎全集』の口絵を飾った書や、それらが贈られた際の小包の包装紙、鉄道荷札などもあるはずで、光太郎の息吹がありありと感じられる逸品ぞろいです。ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

つつましく手にはふ小蝉ぢぢとなきたちまち飛びて青空に入る

大正13年(1924) 光太郎42歳

過日ご紹介した、埼玉県東松山市の元教育長で、生前の光太郎をご存じの田口弘氏から、市へ光太郎の肉筆資料等のご寄贈があった件、新聞三紙で紹介されているのがネットで確認できました。

まずは『東京新聞』さんの埼玉版。 

光太郎との絆、後世に 東松山の田口さんが書簡など市に寄贈

 「道程」「智恵子抄」などで知られる001詩人で彫刻家の高村光太郎(一八八三~一九五六年)の晩年に交流があった東松山市の元教育長田口弘さん(94)が二十四日、光太郎からの書簡や書など約百点を市に寄贈した。直筆の書簡十通はどれも、四十歳近く年下の田口さんに細かい気遣いを見せる誠実な人柄をしのばせる。田口さんは「高村さんに関心を持つ若い人の研究のために少しでも役立てたい。高村さんの高い精神にぜひ触れてほしい」と話している。

 田口さんは旧制松山中学(現松山高校)三年のとき、国語教師だった柳田知常氏(後に金城学院大学長・故人)の授業で光太郎の詩に触れた。以来、新聞・雑誌に掲載される光太郎の詩や随筆のスクラップを始め、入手できなかった「道程」を柳田氏から借りて全文をノートに書き写すなど、光太郎にのめり込んだ。

 田口さんは進学した大泉師範学校専攻科(現東京学芸大)で卒業論文「高村光太郎研究」をまとめ、一九四四年春、師事を続けていた柳田氏に連れられて東京・駒込のアトリエで初めて光太郎に会う。光太郎は卒論を一ページずつめくりながら「私のことを私よりも知っているね」と笑みを浮かべたという。初対面の学生にもていねいに接する光太郎に、田口さんは感銘を受けた。

 田口さんは占領地域で日本語を教える海軍教員として南方への赴任が決まった同年夏、光太郎のアトリエを訪ね「世界はうつくし」「うつくしきもの満つ」の書をもらったが、同年十二月、乗っていた輸送船がフィリピン沖で米軍に撃沈され、書は多くの仲間とともに沈んでしまった。今回、市に寄贈した同じ言葉の書は四七年、岩手県太田村(現花巻市)山口の山小屋に光太郎を訪ね、再び書いてもらったものだ。

 四五年から七年間、雪の吹き込む粗末な山小屋で独居生活をしていた光太郎。戦中に戦争協力詩を多く発表したことへの自省の念から、とされる。田口さんは勤めていた松山中学の教え子を連れて会いに行ったり、足が十三文(約三十一センチ)と大きく、既製品の靴下が買えない光太郎のために、妻の手編みの靴下を送るなどの交流を続けた。

 四八年に届いたはがきには「『ジャワ詩抄』は今も小生の机上にあります。山口部落(カンポン)にて」とあった。ジャワ詩抄は田口さんが復員前のインドネシアの収容所で書いた詩をまとめ、光太郎に送った詩集のタイトル。「カンポン」は詩集の中に出てくるインドネシア語の「村」の意で「あなたの詩集をちゃんと読んでいますよ」という温かい心遣いだった。

 旧制中学時代の田口さんのスクラップノート五冊は詩人の草野心平に貸し出され、草野が編集を担当して五一年から刊行された「高村光太郎選集」(全六冊)に役立てられた。光太郎は「あなたの切り抜きのおかげ」と、自ら包装した小包で配本のたびに送ってきたという。

 田口さんは「詩人、芸術家としての立派さだけでなく、人間として生きる(志の)高さ、誠実な生き方をした人だった」と振り返った。

 市は寄贈された書簡などを八月十~二十八日、市立図書館で一般公開する。森田光一市長は「素晴らしい市の宝として大切にしていきたい」と述べた。


続いて『毎日新聞』さん。こちらも埼玉版に記事が出ました。 

高村光太郎の書や交流書簡 元教育長の田口弘さん、東松山市に全資料 市立図書館収蔵、8月10日から一般公開 /埼玉

「誠実な生き方も次世代に伝えたい」 002
 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)と親交があった元東松山市教育長で同市在住の詩人・田口弘さん(94)が24日、高村の書や交流書簡などを同市に寄贈した。寄贈品は同市立図書館に収蔵され、8月10~28日に一般公開される。森田光一市長は「東松山出身の梶田隆章先生のノーベル物理学賞受賞に続き、市の宝がまた一つ増えた」と感謝した。

 1922(大正11)年生まれの田口さんは旧制松山中(現県立松山高)3年の時、国語教師だった恩師から高村のことを教わり、その作品と芸術への取り組み方に魅せられるようになった。高村が書いたり、紹介されたりした新聞や雑誌の記事をもらさずスクラップしたノートは5冊を数える。
 教師を養成する当時の東京府大泉師範学校に進学後も研究を続け、卒業前に論文「高村光太郎研究」にまとめると、恩師と東京・駒込のアトリエに高村を初めて訪ねた。38年に妻の智恵子さんを亡くし「智恵子抄」で多くの人々の心をとらえていた高村は39歳離れた学生の論文に目を通し、「私よりも私のことを知っている」とユーモアを交えて語った。田口さんは高村のこまやかな心遣いに感銘を受け、卒業後、日本軍占領地で住民に日本語を教える海軍軍属になることが決まって出発する前にもアトリエを訪ねた。
 高村は45年の東京空襲で焼け出され、宮沢賢治の弟・清六の招きで疎開した岩手・花巻の宮沢家でも花巻空襲で再び焼け出された。花巻郊外の粗末な小屋で7年間に及ぶ農耕自炊の生活を送った高村を、46年に復員して現在の東松山市立中の美術教師となった田口さんが訪ねたのは47年。49年には中学3年の教え子3人を連れて再訪した。
 52年に帰京するまで冬は雪が吹き込む小屋で農耕がてら詩を作っていた高村に、田口さんは誕生日の贈り物などとして妻手作りの毛糸の靴下や練乳などを送り続けた。
 今回寄贈したのは、その時の礼状を含めた高村直筆の封書2点やはがき8点、訪ねた際に書いてもらうなどした書幅4点に、関連書籍を加えた約100点。封書やはがきの字は能筆でも知られた高村らしく、丁寧でバランスも良い。
 田口さんは、49年に受け取った「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」という書を掛け軸にして特に大切にしてきた。高村は、同封した手紙に新約聖書の中で「感激」した言葉を書いたと記していた。
 田口さんは「私たちがもし、見たいと思っているものがあるなら、それはすぐに見えるものではないのだから、じっと我慢して生活する中で見つめ続けていれば体得できるという意味でしょう」と説明し、「私がキリスト教徒で、詩を書いていることをご存じだったので、『芸術を志す者は忍耐強く、自分の願っているものを終生求めなさい』という励ましを込めた言葉」と受け止めている。
 日教組中央執行委員や県教組委員長などを経て76年から同市教育長を16年間務めながら詩を書き続けてきた田口さんは「青春時代の出会いは大事。高村さんと実際に会って目を開かされた者として、詩人として立派というにとどまらない、その誠実な生き方も次世代に伝えたい。そのために役に立てば、という思いで全ての資料を寄贈しました」と話している。


最後に『産経新聞』さん。やはり埼玉版です。 

高村光太郎の書簡など寄贈 東松山の元教育長、市へ100点 埼玉

 東松山市の元教育長で詩人、田口弘さん(94)が、親交のあった彫刻家で詩人、高村光太郎(1883~1956年)の書簡や書幅など約100点を同市に寄贈した。田口さんは高村と3回面会し、書簡をやりとりするなど高村が亡くなる直前まで細やかな交流が続いた。市は書簡などを市立図書館で所蔵し、今夏一般公開するほか、高村の誕生月の3月に毎年公開する予定だ。
                   ◇
 田口さんは旧松山中在学中に恩師の柳田知常さんの指導で高村を研究。昭和19年、東京府大泉師範学校の卒業論文で高村論を書き上げ、柳田さんに連れられて東京・駒込のアトリエを訪問。初めて会った高村は論文を繰った後、「僕以上によく知っていますね」と笑顔を見せたという。
 その後、田口さんが海外教員として戦地に赴任する際に高村から書を贈られるなど交流は続いた。詩人、草野心平が編纂した「高村光太郎選集」(中央公論社、全6巻)では、田口さんが中学時代から切り抜いた新聞スクラップなどの高村研究ノートが資料として生かされた。
 書簡は昭和23年から高村が亡くなる3年前の同28年まで、直筆はがき8点、直筆封書2点の計10点。田口さんが書いた詩の感想や贈り物への謝礼、日々の暮らしなどが簡潔に綴られている。さらに、直筆の色紙や掛け軸など書幅4点、高村の署名入り同選集など貴重な書籍が寄贈された。
 田口さんは「高村さんは誠実な方でした。半歩でも一歩でも近寄りたいと願い、おぼつかないが生涯の弟子として生きてきた」と述懐。思い出の品の寄贈について「現物で高村さんが生きているんだと紹介できる。青春時代の文学青年は出会いが一番大事。出会いがないと目が開かれない」と話した。このほか、彫刻家、高田博厚(1900~1987年)の彫刻「萩原朔太郎青銅像」(昭和49年制作)1点も寄贈した。
 同図書館は8月10~28日、書簡などを一般公開する。同21日には田口さんの展示品解説を含めた講演会も開かれる。問い合わせは同図書館(電)0493・22・0324。

その他、東松山市さんの公式ツイッター、市長の森田光一氏のブログにも記述がアップされています。ご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

わが船の鳴く声きけばわがこころ神戸の水戸に血をしぼり泣く

明治42年(1909)頃 光太郎27歳頃

明治42年(1909)の今日、光太郎は約3年半の海外留学を終え、日本郵船の阿波丸に乗って、神戸港に到着しました。

欧米で世界最先端の芸術をまのあたりにし、日本美術界とのあまりの落差を感じて、これから始まる自らの苦闘を予感して作った歌です。

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明治古典会さん主催の「七夕古書大入札会2016」。

毎年この時期に行われる、古書業界最大の市です。神田神保町の東京古書会館を会場に、出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が7月8日(金)午前10時〜午後6時、7月9日(土)午前10時〜午後4時に行われます。昨年は光太郎関連出品物が少なく、行きませんでしたが、今年は種類が多い上に、気になる出品物もあるので、行って来ようと思っています。

目録に載った今年の光太郎関係出品物は以下の通り。

高村光太郎歌幅一幅 15万円~

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戦後の花巻郊外太田村在住時の揮毫です。光太郎本人による箱書きも附いています。書としての出来は素晴らしいものです。が、最低落札価格15万円と、かなり安めです。どうも、状態があまり良くないようで、その値段なのだと思われます。


高村光太郎色紙一枚 10万円~

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こちらもあまり状態が良くないようで、安めです。紙自体もきちんとした色紙ではないようです。戦後すぐくらいの時期にはこうした用紙がよく使われていました。


高村光太郎書簡一通 30万円~

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留学仲間の画家、山下新太郎にあてたもの。平成24年(2012)にも出品されました。


高村光太郎草稿一冊 100万円~

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今回、最も驚いたものです。昭和19年(1944)、『智恵子抄』の版元、龍星閣から刊行された詩集『記録』の原稿で、おそらく龍星閣に送られたものではなかろうかと推定できます。画像は各詩篇に付された前書きです。枚数が書いてありませんが、もし全篇揃っていれば、すごいものです。


高村光太郎詩稿九枚 50万円~

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昭和19年(1944)、青磁社から刊行された『歴程詩集2604』のために送られた草稿と推定できます。昭和63年(1988)にも出品されました。ただし、その時は12枚。3枚減っています。


高村光太郎戦後 「独居生活」資料集 40万円~
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こちらも平成24年(2012)に出品されたものです。詩人志望の青年に、断念するよう忠告する内容の書簡が二通。画像下の部分は、詩集を出版したいので序文を書いてくれ、という求めに対し、断りの書簡と共に別便で送られてきた詩稿を返送した際の包装と鉄道荷札です。尾崎喜八、草野心平からの書簡も附いています。


高村光太郎草稿一帖 10万円~
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昭和18年(1943)に刊行された木村直祐、宮崎稔共編詩集「再起の旗」の序文です。以前から東京の古書店の在庫として販売されていました。


高村光太郎詩稿三枚 30万円~
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昭和25年(1950)の雑誌『展望』に載った2篇の詩「RILKE JAPONIKA ETC.」「赤トンボ」の原稿。これも出版社に送ったものでしょう。昭和62年(1987)にも出品されていました。


某月某日・をぢさんの詩二冊 二枚 20万円~
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昭和18年(1943)刊行の詩集『をぢさんの詩』及び、随筆集『某月某日』。前者の編集に当たった詩人の高祖保に贈ったもので、ハガキも附いています。平成25年(2013)にも出品されました。

文学館等ではガラスケース越しにしか見られないものですが、7/8、9の下見展観では、これらを全て手に取って見ることが出来ます。

その他、名だたる文豪のいろいろな品もてんこ盛り。ざっと目録を拝見したところ、夏目漱石や島崎藤村の草稿で、最低落札価格が数百万円から、というものが目につきました。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

紫の細緒目によき檜木笠今朝みる木曾の霧青いかな
明治34年(1901) 光太郎19歳

自宅兼事務所周辺、今は霧雨に包まれています。今日明日は雨の予報。関東は水不足。これで解消して欲しいものです。

埼玉県のローカルテレビ局、テレ玉さんが昨日報じたニュースです。

高村光太郎と親交があった男性 直筆書簡などを寄贈

詩人、彫刻家として知られる高村光太郎と親交があった男性が高村光太郎から送られた書簡や書籍など100点あまりを東松山市に寄贈しました。東松山市役所を訪れたのは、市内在住で、市教育長を17年間務めた田口弘さん(94)です。田口さんは、旧制中学時代に高村光太郎の研究をはじめ、その時に使っていたノートが「高村光太郎選集」の編集に資料として使われたことから、20歳の頃に高村光太郎と出会い、高村から詩集を贈られるなど交流を続けました。「高村光太郎がライフワーク」と話す田口さんが集めた書籍およそ80冊や直筆の書簡、掛け軸など、およそ100点が寄贈されました。東松山市の森田光一市長は、「市の宝として、多くの人に見てもらえるようにします」と感謝の意を述べました。田口さんから寄贈された書籍などは、8月10日から28日まで市立図書館で一般公開されるということです。

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田口氏は記事にもあるとおり、東松山市の教育長を永らく務めた方です。その間、今も同市で開催されている日本スリーデーマーチの誘致、運営や、東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻通り」の整備などにも力を注がれました。「彫刻通り」は光太郎と縁の深かった故・高田博厚の作品――光太郎胸像を含む――を屋外設置したものです。また、やはり氏のお骨折りで、市立新宿小学校さんには、光太郎の筆跡を刻んだ「正直親切」の石碑が昭和58年(1983)に建立されています。

当方、昨年、東松山の田口氏のご自宅を訪問させていただきました。かつて光太郎命日の集い・連翹忌にご参加いただいていましたが、最近はご高齢のため遠出は不可能とのことで、ご欠席が続いており、10年ぶりくらいにお会いしました。その際のレポートがこちら。氏と光太郎の縁や、今回寄贈された品々の簡単な解説も載せてあります。

その折に、その品々の寄贈先についてのご相談も受けました。当会に寄贈、というお話もあったのですが、それよりも地元のお宝として、市に寄贈されるか、花巻の高村光太郎記念館さんなどの施設に寄贈されるかした方が良いでしょうというお話をして参りました。結局、市に寄贈なさったというわけです。

過日、東松山市立図書館さんから光太郎関連資料の寄贈を受けた旨、メールを戴きました。その中の書簡一通についてのご質問でしたが、個人情報保護の観点からでしょう、最初は田口氏の名は書かれていませんでした。しかし、「東松山」「光太郎」「寄贈」で、田口氏だとピンと来ました。はたしてその通りだと追伸のメール。ただ、失礼ながらお年がお年ですので、亡くなられ、ご遺族からの寄贈かとひやっとしましたが、それは違うとのことで安心しました。

テレ玉さんで、市立図書館さんでの公開については触れられていましたが、さらに会期中に田口氏ご本人の講演も企画されているとのことです。戦後の光太郎をご存じの方はまだ多くご存命ですが、花巻疎開前の駒込林町アトリエ時代をご存じの方はめっきり少なくなりました。非常に貴重な証言が聴けるはずです。

東松山での展覧会については、詳細が出ましたらまたご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

稲妻や旅の靴ぬぐ夕まぐれ        明治42年(1909) 光太郎27歳

そろそろ梅雨も終わりに近づいています。そうすると大気の状態が非常に不安定。九州などでは豪雨の被害も出ています。雷や突風、低い土地への浸水など、十分お気を付け下さい。

一昨日、福岡県の地方紙『西日本新聞』さんに載った記事です 

「道程」刻字で寄贈 書道家の宇野美江さん [福岡県]

011 中間市の書道家宇野美江さん(51)=雅号・星河=が10日、同市中尾の中間東小(495人)に、高村光太郎の詩「道程」を彫った刻字作品を贈った。同小6年の長男佑哉君(12)と森岡重義校長(60)が今春、「卒業」するのを記念した寄贈で、刻字は同小の児童用出入り口に飾られた。
 宇野さんは山口県出身。結婚を機に20年ほど前に同市に移り住んだ。市内外で個展を開き、自宅で書道教室を主宰しているほか、刻字に約6年前から取り組み、日本刻字展にもたびたび入賞した。2人の娘も同小を卒業しており、PTA役員をしていた関係で、森岡校長が同小の教頭だった約7年前から親交があった。森岡校長はこの春、定年退職する。
 寄贈した刻字(縦50センチ、横1メートル)は「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」という名言をカツラの板にのみなどで彫り、紫の下地に金箔(きんぱく)を張っている。4年前の制作で3カ月ほどかかったという。作品はコンクールで入選した。「子ども3人がお世話になったお礼に」と今月上旬、寄贈を申し出て了承を得た。
 この日、職員室で森岡校長に刻字を手渡した宇野さんは「自らの努力で道を切り開いてほしいという思いを伝えられるよう、いつか小学校に贈りたかった」と語った。森岡校長は「刻字を見た子どもたちが、自分が歩んできた足跡を心の中でじっくり振り返ることができる。最高の贈り物だ」と喜んだ。
=2016/02/11付 西日本新聞朝刊=

刻まれているのは、大正3年(1914)、雑誌『美の廃墟』に発表されたオリジナルの102行ある「道程」の一節です。のち、同じ年の10月に刊行された詩集『道程』では、9行に圧縮された、現在よく知られている形に改められました。

最近、オリジナルの「道程」が取り上げられる機会が増えてきました。

昨年4月にリニューアルオープンなった花巻高村光太郎記念館では、声優の堀内賢雄さんによるこの長いバージョンなどの朗読が聴けるコーナーを設けてあります。

また、同じく昨年、歌手の西城秀樹さんが、「世界・日本名作集よりリーディング名作劇場「キミに贈る物語」~観て聴いて・心に感じるお話集~」というイベントで朗読し、テレビでも紹介されました。

詩集『道程』に収められた9行の完成型はよく知られていますが、102行の原型はあまり知られて居らず、こういうバージョンがあったのか、これはこれですばらしい、と、新鮮な驚きから取り上げられる機会が多くなっているようです。

もちろん、9行の完成型もいろいろと取り上げて下さっているようです。どちらの形にしろ、どんどん取り上げていただきたいものです。特にこれから卒業シーズン、さらに4月からは新生活スタートのシーズンです。若い人々へのはなむけや、エールとして、日本中で「道程」が引用されてほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

けだものといふにはあらずしかねどもまるであたらしき別のいきもの
大正13年(1924) 光太郎42歳

「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と宣言した光太郎。自らの荒ぶる魂を「猛獣」に仮託し、道を切り開いていこうとしていました。








一昨日(12/12・土)、午前4時30分に自宅兼事務所を出、一路、秋田県横手市を目指しました。

横手駅に到着したのは午前11時28分。JR北上線で奥羽国境山脈を越えるあたりは一面の銀世界でしたが、山を下ると雪は消え、少し拍子抜けでした。

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上は駅前のショーウィンドウで見つけたLEDを使ったミニかまくら。実際の雪は日陰に残っている程度でした。

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朝が早かったので早めに昼食を摂り、横手バスターミナルから路線バスの本荘線に乗り込みました。のどかな田園風景を揺られること30分あまり。

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途中、車窓から見た「なまはげ」。

降り立ったのは「新道角」というバス停。「新道」と言いながら、旧道の情緒が残っており、当方の大好きな雰囲気の道を歩くこと10数分、目指す雄物川郷土資料館さんに着きました。

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こちらでは第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編 ~あの人はこんな字を書いていました~」が開催中で、『高村光太郎全集』等に未収録の光太郎の書簡も展示されているとのこと。期待が高まります。

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入場料100円也を払って、さっそく展示室に入いると、正面に光太郎書簡がありました。いずれも横手出身の画商・旭谷正治郎に送った封書が1通、葉書が2通の計3点でした。

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昭和21年(1946)、光太郎が隠遁生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋に、旭谷から麹が届けられたことに対する礼状(葉書)、後日、麹の返礼に書を贈った際の添え状(封書)、そして時期は不明ですが、山小屋生活の報告的な葉書。どれも興味深く拝見しました。

さらにパネル展示で、横手での光太郎の写真も。おそらく旭谷の麹の入手元、近野麹屋でのカットでした。光太郎は昭和25年(1950)の3月10日から12日にかけ、講演のため横手を訪れています。その際に泊まったのが近野麹屋でした。店主・近野廣は趣味人としても名が通り、さらに高校のPTA役員をしていた関係で、講演の企画やら光太郎の接待やらに奔走したそうです。『高村光太郎全集』には、講演が終わって太田村に帰ってからの近野宛の光太郎書簡が掲載されています。さらに翌年、近野から麹と秋田銘菓の「もろこし」を小包で受け取った礼状も。

さて、「横手ゆかりの文人展」、光太郎以外にも様々な人物から旭谷宛の書簡などがずらりと並んでいて、壮観でした。光太郎と縁のあったところでは、白樺派での盟友・武者小路実篤。武者は書簡だけでなく絵も展示されていました。さらに石井柏亭、梅原龍三郎、安井曾太郎といった、光太郎と旧知の画家達。

そして東京美術学校西洋画科での光太郎の同級生、藤田嗣治。藤田には「秋田の行事」(昭和12年=1937)という大作があります。光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」も取り上げられる映画「FOUJITA」(小栗康平監督・オダギリジョー主演)が公開中ですが、この映画のロケが、横手でも行われたとのことで、映画のチラシも置いてあり、いただいてまいりました。

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先月、封切りの日に千葉市の京成ローザさんで拝見した際に、館ではもうチラシが残っていなかったので残念に思っていましたが、意外な所でゲットできました。

ちなみにチラシ裏面がこちら。一番上の、オダギリさんと妻・君代役の中谷美紀さんが能面を観ているシーンなどは、当方の住む千葉県香取市でロケが行われました。不思議な縁を感じました。

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ゆっくり拝観したかったのですが、バスの都合があり、急いで館を後にし、バス停まで走りました。あやうく横手駅前で食べた昼食のカツカレーをリバースしそうになりました(笑)。どうにかバスには間に合ったものの、真冬の東北にもかかわらず、汗だくになりました(笑)。

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横手駅から北上線が出るまでの待ち時間、駅からほど近い横手図書館で調べ物。上記の近野廣と光太郎の関わりなどを記した文献を見つけ、コピーして参りました。それによると近野家には光太郎の書がたくさん残されたとのことで、こちらも現存するものであれば見てみたいものです。大半は他の人にも同じ文句を書いて贈ったものですが、一点、他に類例の確認できていない言葉を書いた色紙があるようです。

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その後、北上線に乗り込み、北上駅から東北本線に乗り換えて花巻へ。以下は明日、レポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月14日

平成4年(1992)の今日、東北の地方紙『河北新報』に「光太郎日記のこと」というエッセイが掲載されました。

筆者は宮城県母子愛護病院長(当時)・熊谷一郎氏。『高村光太郎全集』に収められた昭和27年(1952)の日記に、ご自分が花巻郊外太田村の山小屋を訪れた際の記述を見つけた、という内容でした。

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実際にその日の日記を読むと、「学生」とは記されていますが、熊谷氏のお名前はありません。しかし、後になって当事者の証言でその正体(笑)が判明した稀有な例です。

秋田県から企画展情報です。

まずは概要を分かりやすくするため、地元紙『秋田魁新報』さんの記事から。 

文人の書簡ずらり、横手の逸話も

 大正から昭和にかけ活躍した文人の書簡を集めた「横手ゆかりの文人展」が、秋田県横手市の雄物川郷土資料館で開かれている。展示しているのは、昭和中期の東京で芸術家や作家との交遊があった同市出身の画商旭谷正治郎(1899〜1975年)宛ての手紙、はがきなど約80点。横手に関わる逸話や思い出の記述が多数見られる。市教育委員会の主催で23日まで。

 市教委は今年7月、旭谷の七男文和さん(70)=茨城県土浦市=から依頼されて手紙、はがきなど約3千点を保管。今回展示しているのはその一部で、彫刻家高村光太郎や作家武者小路実篤ら22人が旭谷に宛てたもの。

 旭谷の案内で横手を訪れた一人、版画家棟方志功のはがきは、勢いのある大きな字で「横手町は未知の所でミリョク大有りです」と記す。別のはがきでは「かやき、キリタンポの力でわめき抜くつもりです」と創作意欲を伝えている。

 高村は戦後間もなく横手を訪れ、地元の麹(こうじ)屋に立ち寄った。その後、横手から小包で麹が届けられたことを喜び、「早速甘酒を仕込みました」と、旭谷にはがきで報告している。

 武者小路は、戦時中に探していた疎開先について「秋田がいいと思う。意見を聞かせてほしい」との手紙を寄せた後、現在の湯沢市秋ノ宮の温泉に疎開した。


というわけで、秋田県横手市の雄物川郷土資料館さんでの企画展です。 

第3回特別展「横手ゆかりの文人展 大正・昭和初期編」 ~あの人はこんな字を書いていました~    

会  期 : 平成27年10月24日(土)~12月23日(水・祝) 
         前期10/24~ 後期11/28~ 展示替えあり        
会  場 : 雄物川郷土資料館 秋田県横手市雄物川町沼館字高畑366
開館時間 : 午前9:00~午後5:00(入館 4:30まで)
入  館  料  : 一般100円(80円) 高校大学生50円(40円) 中学生以下無料 
       ※()内は団体料金(15名以上)
休  館  日  : 月曜日(祝日と重なる場合はその翌日)及び祝日の翌日

 雄物川郷土資料館では、「横手ゆかりの文人展」と題し、大正から昭和初期にかけて活躍した作家、画家、文化人たちの直筆原稿、手紙や葉書などを展示いたします。

 東京で文化人と交流のあった横手市出身の画商 旭谷正治郎氏のコレクション約600件が市に寄託されたことで実現したもので、ほとんどが初公開の貴重なものばかりです。横手とゆかりのある文人たち約30名には、日本の近代を担った著名人が多くみられます。歴史の1ページを飾った先人の文字には、その人柄や息づかいまで感じることができます。

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公式サイトにあるように、旭谷正治郎は、横手出身の画商です。調べてみると、『高村光太郎全集』では、第十二巻、戦後の日記に名前が出ていました。

旭谷氏より麹たくさん送り来、 (昭和21年=1946 1月21日)

『秋田魁新報』さんの記事と一致します。

午前揮毫送附の為テガミ書き、 水原宏氏(雪白くつめり)、旭谷正治郎氏(うつくしきもの、最後にのこるもの美なり)、 (同2月7日)

ひる頃石井鶴三、笹村草人、有賀剛、千葉金右衛門、旭谷正治郎の五氏来訪。炉辺に招ず。昨夜花巻クルミ旅館泊の由。鶴三氏とは四五年ぶりの面会。他の人は皆初対面。助教授笹村氏専らしやべる。 横手町の画商旭谷正治郎氏が鶴三氏を案内して十和田湖に赴き、写生に数日間滞在。(略)談話、学校の話、彫刻の話、余が東京に帰らぬ旨の話、其他いろいろ。五時過辞去。部落のはづれの馬頭観音のところまで送りて別れる。 (昭和23年=1948 6月20日)

石井鶴三、笹村草家人は彫刻家、有賀剛は笹村の友人で神田小川町の汁粉屋主人、千葉金右衛門は秋田扇田町(現・比内町扇田)の酒造家です。

旭谷にあてた光太郎の書簡は確認できておらず、真筆であれば(まず間違いないと思いますが)、新発見です。
館の方に問い合わせ中ですが、場合によっては現物を見せてもらいに行ってこようと思っています。

こんな感じで、現在も後から後から光太郎の書簡が出て来ています。毎年4月2日の連翹忌の日に、高村光太郎研究会から発行される『高村光太郎研究』という雑誌で、当方、「光太郎遺珠」という連載を持っており、1年間で見つけた『高村光太郎全集』未収録の作品を紹介しています。毎年のように10通を超える書簡が見つかっていて、来春の「光太郎遺珠」にも、花巻の写真家・内村皓一氏にあてたものや、九段下の書道用品店・玉川堂さんから出て来た書簡など、既に15通を掲載予定です。

まだまだ光太郎書簡はいろいろなところに眠っているはずです。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月7日

昭和26年(1951)の今日、草野心平と共に花巻郊外台温泉松田屋旅館に宿泊しました。

松田屋さんは今も健在です。HPで見ると、建物はきれいになってしまっているようですが。いずれ泊まってみたいと思っています。

追記 松田屋さん、当時のままの建物でした。

テレビ放映情報です。 

趣味どきっ! 石川九楊の臨書入門 第8回▽最愛の妹への思い~宮沢賢治×トシ

本放送 NHKEテレ 2015年11月24日(火)21時30分~21時55分
再放送 NHK総合     2015年11月26日(木)10時15分~10時40分 
    NHKEテレ 2015年12月1日(火) 11時30分~11時55分

「銀河鉄道の夜」と宮沢賢治最愛の妹・トシの死とは、どんなの関わりがあるのか?「雨ニモマケズ」はいかに生まれたのか?故郷・花巻への旅、そして賢治の筆跡から探る。

岩手県花巻に生まれた宮沢賢治。農業高校に学びながら、鉱物や天体への知識も養い、独特の表現で多くの物語を創作した。そんな賢治の最大の理解者が妹のトシ。24歳の若さでこの世を去ったトシは賢治にとって、どんな存在だったのか。トシの筆跡にも触れ、強い絆で結ばれた兄と妹の関係をひもとく。また「雨ニモマケズ」は、賢治がどんな思いで書いたものなのか、精密に復元された手帳を見ながら、鉛筆を使って臨書に挑戦する。

出演 石川九楊 羽田美智子 牛崎敏哉(宮沢賢治記念館副館長)
        宮沢和樹(宮沢賢治の遺族・「林風舎」代表)

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過日、第5回として「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」が放映された番組の最終回です。取り上げられるのは宮澤賢治。花巻ということで、光太郎の回と同じ時期に収録が行われました。

毎回、女優の羽田美智子さんが、書家の石川九楊氏のご指導のもと、それぞれの人物の臨書に挑戦なさいますが、今回のお題は「雨ニモマケズ」。

この詩は賢治の代表作として認知されていますが、生前には発表されませんでした。元々は亡くなる2年前の昭和6年(1931)秋から翌年にかけ、主に病床で書き連ねた手帖に記されていたものです。

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賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿で開かれた賢治追悼の会の席上、実弟の清六が持参した賢治のトランクから出て来たこの手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのは光太郎、宮沢清六、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

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その場にいた詩人の永瀬清子の回想から。

昭和九年の二月になってふと宮澤賢治氏の追悼会をひらくので新宿の映画館の地下にある「モナミ」へ来るようにお通知が来た。
(略)
その会には弟の宮沢清六さんが来ていらした。はるばる岩手県の花巻から賢治さんの原稿のつまった大きなトランクをさげて上京されたのだ。多分あとで考えると宮沢賢治選集のはじめての出版のためであったものと思う。
 そのトランクからは数々の原稿がとりだされた。すべてきれいに清書され、その量の多いことと、内容の豊富なこと、幻想のきらびやかさと現実との交響、充分には読み切れないまま、すでにそれらは座にいる人々を圧倒しおどろかせた。
 原稿がとりだされたのはまだみんなが正式にテーブルの席につくより前だったような感じ。みな自由に立ったりかがみこんだりしてそのトランクをかこんでいた。
 そしてやがてふと誰かによってトランクのポケットから小さい黒い手帳がとりだされ、やはり立ったり座ったりして手から手へまわしてその手帳をみたのだった。
 高村さんは「ホホウ」と云っておどろかれた。その云い方で高村さんとしてはこの時が手帳との最初の対面だったことはたしかと思う。心平さんの表情も、私には最初のおどろきと云った風にとれ、非常に興奮してながめていらしたように私にはみえた。
 「雨ニモマケズ風ニモマケズ――」とやや太めな鉛筆で何頁かにわたって書き流してある。
 『春と修羅』はすでによんでいても、どうした人柄の方かすこしも聞いたことがなかったので、この時私には宮沢さんの本当の芯棒がまっすぐにみえた感じがした。或はその芯棒が私を打ったのかもしれない。でも私だけでなく一座の人々はそれぞれに何かこのめっそうもないようなものを感じとった風だった。
 この時の世の中で、この時の詩壇で、一般には考えられないようなことがそこには書いてあったのだ。それはその時までに詩のことばとして考えられていたもの以上だったから、或は粗雑で詩ではないと人はみるかもしれぬ。でもそこにはきらびやかな感覚の底にあった宮沢さん自身が、地上に露呈した鉱脈のように見えていた。又それがほかの清書された原稿ではなく、小さい小さい手帖だったから、自分自身のために書かれた一番小さい手帖だったから、いっそうその感が強かったのだ。
(『かく逢った』 昭和56年=1981 編集工房ノア)


その後、昭和11年(1936)になって、光太郎は宮澤家の依頼でこの詩の後半部分を揮毫、花巻の羅須地人協会跡にその書を刻んだ碑が建てられました。番組では、手帖発見の経緯はともかく、この碑くらいは紹介されるのではないかと思われます。ぜひ光太郎の筆跡であることも紹介していただきたいのですが、どうなりますか。市販されている番組のテキストには紹介がありますが、必ずしもテキストと番組の内容が一致はしていませんので……。

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さらに番組では、これまで毛筆での臨書に挑戦されていた羽田美智子さん、今回は硬筆(鉛筆)での臨書です。楽しみです。


書といえば、先日、京都の地方紙『丹波新聞』さんが、書についてのコラムの中で、光太郎の名を出して下さいました。 

人の縁結ぶ作品展

2015年11月15日
 「赤や黄に山々染める面白さ」。紅葉シーズンである。日に日に色づく周辺の景色を見るにつけ、秋の深まりを感じる。
  各地で作品展などが行われる中、丹波市氷上町犬岡地区の男性2人展(15日まで開催)はユニークな試み。地域に住む元会社の技術者と元教員という取り合わせも異色。写真と絵画のコラボで、地域の人たちにとっては、身近な人の作品だけに親しみがわき、刺激になったと思う。地域外からも訪れる人があり、交流の場になっている。
  どちらも定年後の趣味を生かしている点が共通する。所属するサークルなどに出品することはあるが、地元の公民館での作品展は初めて。各世帯に配りものをする地域の役員や成人の若者の笑顔をとらえた写真には、「地域ならではの作品だな」と感じた。写真を出品した人は大阪からのIターンで、新鮮な目で見た地域の風景や人が題材になった。スケッチ先で話をした老婆が作品に描かれた絵画は、会話の場面が浮かぶ。
  地域には様々な特技や趣味を持った人がいる。地域の隠れた人材を掘り起こす発表の場として、身近な場所で作品展が開けるのではないだろうか。背中を押す人も必要だ。歩いて見に行ける展覧会の輪が広がることを願う。
  詩人の高村光太郎に「甘酸是人生」という書がある。人生には、甘さと酸っぱさの両方がある。長年の仕事人生に裏打ちされた味のある作品を見ながら、そんな気持ちを抱いた。数日後、「感謝と笑顔があれば幸せは向こうからやってくる」という言葉に出合った。こういう気持ちも大切にしたい。「人と人結ぶ作品花開く」。(臼井 学)


「甘酸是人生」は、「趣味どきっ!」の光太郎の回で取り上げられた書です。おそらくこの記事を書かれた記者さん、番組をご覧くださったのでしょう。ありがたや。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月18日

昭和33年(1958)の今日、画家の木村荘八が歿しました。

木村は、光太郎と共に大正元年(1912)のヒユウザン会(のちフユウザン会)設立に関わるなど、光太郎と縁の深かった画家です。くわしくはこちら

岩手から企画展情報です。気付くのに遅れ、紹介が遅くなってしまいました。 

第48回企画展 「宮沢賢治を愛した人々」

場 所 : 盛岡てがみ館 盛岡市中ノ橋通一丁目1番10号 プラザおでって6階
期 日 : 2015年10月27日(火)~2016年2月15日(月)
時 間 : 9時から18時まで(最終入場17時30分まで)
休館日 : 毎月第2火曜日(祝日の場合は翌日) 年末年始(12月29日~1月3日)
入館料 : 個人一般200円、高校生100円   団体一般160円、高校生80円 (20人以上~)
中学生以下、65歳以上で盛岡市に住所を有する方、また障がい者手帳をお持ちの方と付き添いの介護者は無料。

数々の名作を残し、今もなお人々を魅了し続ける詩人・童話作家の宮沢賢治。しかし、生前に刊行されたのは心象スケッチ『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』の2冊のみで、無名に近い存在でした。そんな賢治の作品が没後、評価され、多くの人に知られるようになった背景には、賢治とその作品を愛した人々の努力がありました。本展では、賢治の作品を世に広めるべく尽力した人々について手紙を通して紹介します。


関連行事 

館長によるギャラリートーク 「宮沢賢治を愛した人々」

開催日・期間:11月28日(土)
時間:14:00~15:00
場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:盛岡てがみ館 館長 磯田望
料金:入館料が必要です。 

ふみの日ギャラリートーク 「宮沢賢治を愛した人々」

開催日・期間:2016年1月23日(土)
時間:14:00~15:00
場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:盛岡てがみ館 事業推進員 平政光
料金:入館料が必要です。


「宮沢賢治を愛した人々」の中には光太郎も含まれ、光太郎の書簡も5点、展示されています。

松本政治 宛  封 書   昭和21年(1946)1月10日
森口多里 宛  ハガキ  昭和23年(1948)10月20日
森口多里 宛  ハガキ  昭和24年(1949)3月30日
吉田孤羊 宛  ハガキ  昭和24年(1949)11月12日
吉田孤羊 宛  ハガキ  昭和24年(1949)11月21日


いずれも以前から同館に所蔵されていたもので、昨年開催された第43回企画展「高村光太郎と岩手の人」に出品されました。

また、他にも賢治自身の書簡なども展示されています。

IBC岩手放送さんのサイトから。

「宮沢賢治を愛した人々」展

詩人で童話作家の宮沢賢治と、交友の深かった人たちの手紙を集めた企画展が盛岡で開かれています。会場の盛岡てがみ館には、賢治の死後、作品の出版に力を尽くした人達の手紙を中心に、関連資料45点が展示されています。中でも、盛岡で青少年期を過ごした洋画家の高橋忠彌に宛てて賢治が書いた手紙は賢治が亡くなる3か月前のもので、原稿の依頼に対し「自信がない」と断わっている内容から賢治の苦悩や葛藤を読み取ることができます。賢治の弟の宮沢清六や詩人で彫刻家の高村光太郎の貴重な手紙もあり、賢治の魅力を再発見することができるこの企画展は、来年2月15日まで盛岡てがみ館で開かれています。
2015/11/12

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花巻の高村光太郎記念館などを除き、光太郎の自筆をじかに見られる機会はそう多くありません。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月14日

昭和28年(1953)の今日、日本芸術院第二部会員に選定された旨の新聞報道を読みました。

当日の日記の一節です。

夕刊新聞に芸術院会員決定といふ事出てゐる、第二部文学部、甚だ迷惑を感ず、

結局、辞退しました。これについては第一部(美術)での選定なら受けたのではないか、といわれています。光太郎には「私は何を措いても彫刻家である」との自負がありました。


書家・石川九楊氏と共に番組のナビゲータ役を務める女優の羽田美智子さんによる「レモン哀歌」の朗読から始まりました。

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JR在来の花巻駅に降り立った石川氏と羽田さん、路線バスに乗り込み、光太郎が戦後の昭和20年(1945)秋から7年間を過ごした旧太田村の高村山荘へ。花巻高村光太郎記念会の高橋氏がお出迎え。

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通常は立ち入れない、山荘内部に入り、ありし日の光太郎に想いを馳せられました。

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その後、隣接する花巻高村光太郎記念館に移動。太田村時代の書の数々を御覧になりました。

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ここで、羽田さんのナレーションによる、光太郎智恵子の生涯のレクチャー。毎年4月2日に、花巻連翹忌が行われる松庵寺さん(光太郎が毎年のように光雲・智恵子の法要を行い、詩碑も立っています)、二本松の智恵子生家、智恵子の書簡、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」なども次々紹介されました。カメラマン阿部徹雄撮影の写真や、当方の提供した古写真などが効果的に使われていました。

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その後、この番組の肝、羽田さんによる臨書。

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記念館に展示されている光太郎の書「甘酸是人生」の中から、「人生」の二文字に、羽田さんが挑戦しました。

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同じ番組で、与謝野晶子や太田垣蓮月の流れるような「女手」にはさほど苦労していなかった羽田さんでしたが、はじめは光太郎の独特の筆法に悪戦苦闘。しかし、石川氏の丁寧なご指導で、紙に筆で彫刻するような書き方を体感することができました。

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当方、かつて石川氏の著作などを拝読し、こうした筆遣いの特異性については頭では理解していたつもりでしたが、映像で臨書の場面を拝見し、実感がわきました。

見逃した方、再放送が2回あります。

NHK総合  2015年11月5日(木)   10時15分~10時40分
NHKEテレ 2015年11月10日(火)   11時30分~11時55分

さらに、今月末には最終回として「「雨ニモマケズ」 最愛の妹への思い 宮沢賢治×宮沢トシ」のオンエアがあります。こちらでも花巻つながりで光太郎に触れるかもしれません。ぜひご覧下さい。

本放送 NHKEテレ  2015年11月24日(火)   21時30分~21時55分
再放送 NHKEテレ 2015年12月1日(火)    11時30分~11時55分
(NHK総合での再放送は未定)

また、番組のテキストもぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月4日

明治44年(1911)の今日、鉄幹与謝野寛の渡欧送別会に出席しました。

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後列左から5人目が光太郎、前列左から6人目が鉄幹です。

その他、後列左から4人目は佐藤春夫、同じく8人目は北原白秋、その隣が木下杢太郎。前列左から3人目に永井荷風、その隣に森鷗外も写っています。

テレビ放映情報です。 

趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子

本放送 NHKEテレ 2015年11月3日(火)   21時30分~21時55分
再放送 NHK総合  2015年11月5日(木)   10時15分~10時40分
    NHKEテレ 2015年11月10日(火)   11時30分~11時55分

書から歴史上の人物像に迫る臨書入門。今回は詩集「智恵子抄」でも知られる彫刻家・高村光太郎。妻・智恵子の死、戦争とどう向き合ったのか?不思議な書が示すこととは?

明治から昭和にかけて彫刻、詩など数々の作品を発表した高村光太郎は、書でも唯一無二の存在。愛妻・智恵子の死、そして戦争賛美の詩を書いた自分を責め、終戦直後の7年間、岩手・花巻の山荘にこもり自己と向き合った光太郎。その時書いたのは、不思議な筆致の文字だった。この書が意味することとは何か?花巻の高村山荘を訪ね、直筆の書に出会い探る。また光太郎がリンゴ農家へ送った書「甘酸是人生」の「人生」を臨書する。

出演 石川九楊 羽田美智子

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今月から始まった「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」。書家の石川九楊氏と、女優の羽田美智子さんをナビゲーターに、歴史上の男女を1組ないし2組ずつ取り上げて、その書の魅力に迫る番組です。

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各回で、石川氏のご指導のもと、羽田さんがそれぞれの人物の書を臨書します。今回は、光太郎の書から「人生」の二文字。

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上記は現在、新刊書店で並んでいる同番組のテキストから。NHK出版さんのサイトからも購入できます。

テキスト、さらには番組内でも光太郎智恵子の人生について、レクチャーがあります。制作に協力させていただき、当方の提供した画像が画面を飾るはずです。お楽しみに。

この番組の第2回放送が「愛と情熱の歌人 夫のための百首 与謝野晶子×与謝野鉄幹」で、与謝野夫妻研究の第一人者・逸見久美様がご出演。逸見様も連翹忌のご常連のお一人で、当方を紹介していただきました。ありがたいかぎりです。

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鉄幹晶子の回は、駒場の日本近代文学館さんでロケが行われ、非常に丁寧な作りになっており、興味深く拝見しました。光太郎の回は、今年リニューアルオープンとなった花巻の高村光太郎記念館、隣接する光太郎が戦後の7年間を暮らした高村山荘での収録。臨書される「甘酸是人生」の書も、同館に収蔵されているものです。

ご期待下さい!


ついでにもう1件。   

歴史秘話ヒストリア第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」

NHK総合 2015年11月3日(火)  27時08分~27時51分 =4日(水)午前3時08分~3時51分

彫刻家・高村光太郎と画家を目指す妻・智恵子。二人は貧しさにも負けず、芸術への夢を追い求めるが、その行く手には、あまりにも悲しく切ない運命が待っていた…。命をかけて貫き通した二人の愛が生み出した奇跡とは?詩集「智恵子抄」で知られる、日本史上類を見ない究極の愛の伝説をお届けする。

今からおよそ100年前の1914年(大正3年)12月、彫刻家、詩人の高村光太郎と、画家の卵である長沼智恵子が、実験的な同居生活をスタートさせた。婚姻届を出さず、夫婦別姓。家事を分担し、対等な人間同士として、それぞれの創作に打ち込んだ。絶えざる戦争のわずかな合間、自由な文化が花開いた大正という時代を追い風にした「愛の試み」だった。光太郎と智恵子は貧しさにも負けず、芸術への夢を追い求めるが、その行く手には、あまりにも悲しく切ない運命が待っていた。命を懸けて貫き通した二人の愛が生み出した奇跡とは何か。バレンタインデーを前に、詩集「智恵子抄」で知られる、日本史上類を見ない究極の愛の物語を紹介する。

出演 前田亜季 鈴木一真
キャスター 渡邊あゆみ

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今年2月に放映されたものの再放送です。7月に放映された「第223回 漱石先生と妻と猫~“吾輩は猫である”誕生秘話~」と2本セットで放映するとのこと。2月の放送を見逃した方、ぜひどうぞ。ただし、深夜、というか未明です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月28日000

昭和27年(1952)の今日、終焉の地となった中野のアトリエで、雑誌『アトリヱ』のため、編集者の国安芳雄と対談を行いました。

対談は12月の同誌313号に掲載されました。次の前書きが付されていました。

 青森県の要請に依りその湖畔に等身の裸女を制作するため、七年ぶりで上京された高村光太郎氏を訪ねる。幸い旧知の本誌、国安(旧姓住友)との間に話題は間断なく流れ、七〇有余歳、尚青年の如き高村氏の情熱にききほれる。生涯をこめての、きびしい歩みの果に、この純白のアトリエに籠り、彫刻の意味を究明しようという翁の健康に幸あれと祈る。

光太郎は戦前の昭和3年(1928)には、当時住友姓だった国安の肖像彫刻を制作しました。「S君の像」、「住友君の首」といった題をつけられたこの彫刻、おそらく昭和20年(1945)の空襲で焼失、現存が確認できていません。

岩手花巻の光太郎が戦後7年間暮らした山小屋・高村山荘に隣接する高村光太郎記念館情報です。 

滝口企画展「高村光太郎山居七年」(後期)

開催期間 : 平成27年10月9日(金曜日)から平成28年2月22日(月曜日)まで
休  館  日
 : 12月28日(月曜日)から平成28年1月3日(日曜日)まで休館
開館時間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
入館料(高村光太郎記念館、高村山荘) :
 一般550円 高校生、学生400円 小・中学生300円
 団体入場(20名以上)は1人あたり100円割引

彫刻家・詩人として知られる高村光太郎。1945年(昭和20年)の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は宮澤賢治の弟・清六を頼りに花巻へ疎開してきました。
終戦後、太田村山口(現 花巻市太田山口)へ移住した光太郎は1952年(昭和27年)に「乙女の像」制作のため東京へ戻るまでの7年間を当地で生活しました。
本企画展は、これまで詳細が取りまとめられることがなかった七年間の記録を、当地に遺された様々な資料や年譜・エピソードと共に展示するものです。
光太郎を山口に迎えて70年にあたる本年、高村光太郎記念館は全面リニューアルオープンを迎えました。全てが新しくなった常設展示室、「月光殿」を改修した高村山荘とともに、光太郎の山居七年の軌跡をご覧ください。

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花巻高村光太郎記念館、4月にリニューアルオープンした後、5月から企画展示室で企画展「高村光太郎山居七年」(前期)が始まり、常設展示室に並べきれない資料――特に昭和20年(1945)~27年(1952)の、光太郎が地に住まっていた時期のもの――の数々を展示していました。

そちらは入れ替えをしながら展示というわけで、明後日から後期の展示となります。今回並ぶ主なものは、こういう予定です。ただ、少し前に受けた連絡に基づいていますので、多少の異同はあるかも知れません。

・ 光太郎直筆詩稿「蒋先生に慙謝す」(昭和23年=1948)000
  (10/9追記 状態が良くないため展示中止だそうです)
・ 「こころはいつでもあたらしく」書額 (複製)
・ 昭和20年(1945)書簡―山荘入りについて
   (パネル展示)
・ 山口小学校開校挨拶原稿 (同)
・ 「一億の号泣」原稿 (同)
・ 昭和23年8月6日書簡―「一億の号泣」の件 (同)
  (10/9追記 常設展示室で 2点まとめてだそうです)
・ 「花巻新報」題字揮毫 (同)

10/9追記 さらに前期展示から引き続いて以下が並ぶそうです。
・ 散文「雪解けず」原稿 (昭和21年=1946)
・ スケッチ「雪解けず」(同)
・ 雑誌『北方風物』 (同 「雪解けず」掲載)


他に、展示ではありませんが、前期展示に際して、昭和20年(1945)~27年(1952)の年譜を当方が作成したのですが、それを冊子にしたものを希望者に配布するそうです(右画像)。


また、記念館へのアクセスに関し、お知らせがあります。

かつてJR在来線の花巻駅から「高村山荘行き」として運行されていた岩手県交通さんの路線バスは、平成23年(2011)に廃線となってしまいましたが、今月から試験的に復活しています。下記は『広報はなまき』今月号から。

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高村山荘までは1日2往復ですが、約3.5キロ離れた清風支援学校さん発着の便がプラス2往復あります。

『広報はなまき』にあるとおり、利用状況で来年度の運行が決まるとのことで、たくさんの方のご利用が完全復活につながります。よろしくお願いいたします。タクシーだと数千円、こちらは1人580円。この差は大きいですね。


というわけで、花巻高村光太郎記念館、高村山荘、ぜひぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月8日

昭和21年(1946)の今日、版画家の山本鼎が歿しました。

山本は光太郎と同学年。愛知県岡崎の出身ですが、父の仕事の都合で幼少時に上京しました。木版の工房で徒弟修行を終えますが、自分の作品を作ることへの希望が高まり、東京美術学校西洋画科に学びます。同校彫刻科を終えて西洋画科に再入学した光太郎の1年先輩になります。

卒業後は創作版画で名をなし、石井柏亭らと美術雑誌『方寸』を創刊、欧米留学から帰った光太郎共々、パンの会の主要メンバーとしても活動します。また、光太郎が経営していた日本初の画廊、琅玕洞にも作品が並んだようです。

その後はフランス留学を経て、帰国後には信州上田に移り、自由画教育運動、農民実美術運動などにも取り組みました。

少しだけ当方の関わったテレビ番組とそれに伴う出版物についてご紹介します。

まず、出版物

NHKテレビテキスト 趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門

2015年9月25日 NHK出版 定価1,000円+税 講師:石川九楊

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NHK Eテレ(旧教育テレビ)さんで放映されている生涯学習系の番組「趣味どきっ!」の来月からのテキストです。番組内容に関しては、まだNHKさんのサイトにアップされていませんが、先行して発売されるテキストの販売情報があちこちのサイトに出ていますのでご紹介してしまいます。

「趣味どきっ!」はNHK Eテレさんで月曜から水曜の午後9:30~9:55のオンエア(昼間にはNHK総合さんも含め再放送・再々放送もなされています)で、曜日ごとに異なるテーマの講座(おおむね全9回)が放映されています。現在の内容は月曜が「チーム芹澤に学ぶゴルフ 90切りへの近道」(講師:芹澤信雄)、火曜に「一声入魂!アニメ声優塾」(塾長:中川翔子)、水曜で「ボールペンだけで描ける!簡単&かわいいイラスト」(講師:坂本奈緒/カモ 2014年6月~7月に「趣味Do楽」で放送した番組の再放送)となっています。

10月からのラインナップは、月曜に「スマホで簡単!動画のプレゼント」(田代光輝 講師)、火曜が「女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」、水曜の「ニコライ・バーグマンが贈る 北欧スタイル 花のある暮らし」となるそうです。

その火曜放送の「女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」で、光太郎智恵子が扱われます。全8回の放送で、1回ごとに異なる歴史上の男女ペア(夫婦だったり、師弟、兄妹だったりです)を取り上げ、書家の石川九楊氏の指導のもと、女優の羽田美智子さんがその人々の作品の臨書に挑戦、さらにはゆかりの地の探訪などもあるという構成だとのことです。ラインナップは以下の通り。

 10/6  聖武天皇×光明皇后
 10/13 与謝野晶子×与謝野鉄幹
 10/20 細川ガラシャ×細川忠興
 10/27 大田垣蓮月×富岡鉄斎
 11/3  高村光太郎×高村智恵子
 11/10 良寛×貞心尼
 11/17 岡本太郎×岡本かの子
 11/24 宮沢賢治×宮沢トシ

光太郎智恵子の回は、先日、光太郎が昭和20年(1945)~同27年(1952)までを過ごした花巻郊外の山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館でロケが行われました。同じ花巻ということで、宮澤賢治の回のロケも前後して行われたそうです。

また折を見てご紹介しますが、石川氏は複数のご著書の中で光太郎の書を繰り返し激賞なさっていますし、書道雑誌で、当会顧問・北川太一先生や故・吉本隆明氏らと光太郎書をメインにした対談をなさったりしています。今回も記念館所蔵の光太郎の書を食い入るように見つめ、予定時間を大幅にオーバーしたとのことでした。番組ではさらに智恵子の書も紹介されます。

羽田美智子さんの臨書は、記念館所蔵の光太郎書から。あまり詳しくご紹介するとネタバレになりますので、あとは観てのお楽しみです。

さて、冒頭にご紹介したテキスト、9/25発売ですが、すでにAmazonその他の通販サイトなどで予約販売受付が始まっています。「ゆかりの地を訪ねて」ということで、光太郎智恵子に関しては、花巻の高村山荘・高村光太郎記念館、さらに福島二本松の智恵子生家・智恵子記念館が紹介されています。校正、番組で紹介される内容の確認等で少しだけお手伝いさせていただきましたので、当方の名前も協力、ということで載せて下さっているそうです。ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月17日

大正10年(1921)の今日、麹町の与謝野家で、雑誌『明星』の復刊相談会に参加しました。

雑誌『明星』は、最初、明治33年(1900)~同41年(1908)まで、与謝野夫妻の新詩社から刊行されていました。安全保障関連法案がらみでまた脚光を浴びている与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」は、明治37年(1904)の同誌に発表されたものです。光太郎の本格的な文学活動もこの『明星』から始まりました。その後、『スバル』がその後継誌の役割を担いましたが、そちらも大正2年(1913)に廃刊となっていました。

そして『明星』復刊の機運が盛り上がり、光太郎、永井荷風、石井柏亭、平野万里らが参加、後には森鷗外も顧問格で編集会議に加わります。11月には復刊第1号が刊行、光太郎は長詩「雨にうたるるカテドラル」を寄稿しました。その後も光太郎は昭和2年(1927)の終刊まで、毎号のように詩、翻訳、短歌、随筆、さらには絵画も発表しています。

文学史的には、第一次『明星』より見るべき所は少ないといわれる第二次『明星』ですが、こと光太郎に関しては、人生の円熟期にさしかかり、智恵子も健康で、貧しいながらも平穏な生活を送っていた時期、珠玉の作品群の発表の場となりました。

一昨日は、東京都内に出かけ、3件の用事を済ませて参りました。

最初の目的地は、九段下。創業文政年間(1818~1831)という老舗の書道用品店、玉川堂(ぎょくせんどう)さんでした。

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5月に千葉県流山市で開催された、書家・後閑寅雄(号・恵楓)氏の作品展で、参考出品として、光太郎を含む古今の名筆が並んでいました。その中で、光太郎の短歌が書かれた短冊があったのですが、驚いたことに、書かれていた短歌が、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。そこで、後閑氏に、短冊の所有者が玉川堂さんであることをご教示いただき、連絡を取って、拝見しに行って参りました。玉川堂さんでは、売り物としてではなく、名筆のコレクションの一つとして所蔵されているとのことでした。

お店に着き、二階の事務所に通され、早速、拝見しました。お忙しい中、社長さんが直々に対応して下さいました。

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金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかに/かけていろいろ凉かぜ000の吹く」と読めます。画像ではわかりにくいのですが、最後に光太郎がよく使った「光」一時を丸で囲む署名も入っています。

黒地に文字は白、というより銀ですが、これは字の周りを墨で囲んで塗りつぶす「籠書き」という手法です。光太郎はこの手法を得意としており、書籍の装幀、題字などでも同じことをやっています。また、短冊でも籠書きのものが遺っています。

右の画像は明治44年(1911)頃に書かれたもので、やはり短歌が書かれています。こちらの短歌は滞米中の作品で、「天そそる家をつくるとをみなより/うまれし子等はけふも石きる」と読みます。

てっぺんには墨絵で石造りの建築が描かれています。玉川堂さんの短冊も、同じ位置に墨絵の風景画が入っており、ほとんど同じ時期のものと推定できます。


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光太郎の籠書きについては、実弟の豊周が書き残しています。

 兄がともかく兄らしい個性のある字を書きはじめたのはヨーロッパから帰ってからで、その頃から以後しばらくの兄の短冊には、よく籠書きというのが、字のへりをとって外側の部分を墨で塗りつぶし、中を、銀短冊なら銀に塗り残す変った書き方が現れて来る。(『光太郎回想』 昭和37年=1962)

また、作家・江口渙の回想にも。

 高村光太郎も……片手に短冊をもちながら、まるで彫刻の刀でも使うようなしかたで、はなはだ丹念に書いている。よく見ると書いているのは普通の字ではない。ちょうちん屋などがよくやるかき方の俗にかご字といわれるものである。まわりを線でほそくかいて中を白ぬきにするあの書体である。……かご字で一とおり歌を書き上げると、こんどは字の外がわを、一そう丹念に墨でぬりはじめた。……やがて出来上がったのを見ると、銀短冊はすっかり黒短冊にかわっていた。そして、はじめにかご字で書かれた歌だけが浮き上がるように銀色に光っていた。(「わが文学半生記」 昭和28年=1953)

まさにこれらの短冊そのままの描写です。ただ、江口の回想は大正中期、新詩社新年歌会での一コマですので、若干、時期がずれています。

ちなみに旧蔵者の方は、明治43年(1910)に光太郎が神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」で購入したとおっしゃっていたそうです。さもありなん、です。


それから、さらに驚いたことに、玉川堂さんではもう1点、光太郎作品をお持ちでした。そちらは短冊ではなく、長い書簡です。

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大正元年(1912)10月14日、智恵子の妹・長沼セキに宛てたものです。封筒もきちんと遺っていました。セキに宛てた光太郎からの書簡は7通が既に知られており、『高村光太郎全集』に収められていますが、こちらは未収録でした。玉川堂さんには『高村光太郎全集』は持って行きませんでしたが、セキ宛の書簡はだいたい頭に入っており、見た瞬間にこれは新発見だ、とわかりました。念のため自宅兼事務所に帰ってから調べてみると、その通りでした。

大正元年(1912)というと、智恵子とはまだ結婚前で、愛を確かめ合った犬吠埼の写生旅行から帰ったのが9月4日、この手紙が書かれた翌10月15日から、斎藤与里、岸田劉生等と興したヒユウザン会(のちフユウザン会)の第一回展が京橋の読売新聞社で開幕します。この手紙にも明日から同展が始まるため、準備に追われていることが記されています。

当会顧問の北川太一先生にもお骨折りいただいて解読中ですが、高村光太郎研究会から来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にて詳細を発表します。


それにしても、短冊といい、書簡といい、関東大震災に太平洋戦争の空襲をくぐり抜け、よくぞ残ってくれたと、感慨深いものがありました。まだまだほうぼうにこうした貴重な資料が眠っていると思われます。それらを見つけ出し、光太郎の全貌を明らかにしていくのが使命と考えております。ご協力いただければ幸いです。

ご協力、といえば、玉川堂さん。貴重な資料を拝見させくださり、公表もOK、さらに展覧会等に貸し出すのもかまわないとおっしゃって下さっています。頭が下がります。

それにひきかえ当方は、手土産に当方の住まう千葉佐原銘菓の最中を持参したのですが、新発見の資料を前に頭に血が上り、お渡しするのを忘れて、いったん玉川堂さんを出てしまいました。九段下の駅まで行って、「しまったあああああ!」と気付き、玉川堂さんまで飛んで帰りました。お店に入ると社長さんが「あれっ」というお顔で「忘れ物ですか?」とおっしゃいます。そこで当方、「そうです、忘れ物です。こいつをお渡しするのを忘れてました」。店員さんにも笑われてしまいました(汗)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月24日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、截金師の西出大三に葉書を書きました。

おてがみ忝くいただきました。貴下も文字を彫つて居られし由、潺湲楼は九月一ぱいかかるでせう。これはむしろ鑿で文字を書くといつたやうな彫り方です。原字には拘泥せずにやります。 今夏は夏まけの気味にて四度高熱を出しましたが、その都度二三日の休養で恢復しました。 旧盆過ぎて稲の穂も垂れはじめ、山にやうやく秋が近づいてきました、

「潺湲楼」は昭和20年(1945)、終戦後に光太郎が一時厄介になっていた花巻町の佐藤隆房医師宅の離れです。「潺湲」は水のせせらぎを表し、眼下に豊沢川の清流を望むことから、光太郎が命名しました。佐藤医師は「潺湲楼」の文字を彫った扁額を光太郎に依頼、この葉書はそれに関わります。

しかし、結局この扁額は完成せず、文字を下書きにした紙が貼られたまま、現在は花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。やっつけ仕事をせず、納得いくように出来なければやらない、という光太郎の性格が表れています。

東京から書道関連の学会情報です。 

国際シンポジウム「書の資料学 ~故宮から」

日 時 : 2015年9月12日(土)10:30~17:00
会 場 : 筑波大学東京キャンパス文京校舎134講義室(文京区大塚3-29-1)
主 催 : 「書の資料学」実行委員会
共 催 : 筑波大学
参加費 : 無料 どなたでもご参加いただけます。参加をご希望の方は、事前に住所・氏名・電話番号(またはEメールアドレス)をFAX 029-853-2715へご連絡ください。

プログラム
受付 10:00~ 
開会挨拶 10:30~10:35

第1部 研究発表 10:35~12:05
明末における書体論の諸相 尾川明穂(安田女子大学助教)
松花堂昭乗筆『詠歌大概』(国文学研究資料館蔵)所収秀歌撰について 山口恭子(都留文科大学非常勤講師)
清代書法指南書の受容と展開  髙橋佑太(相模女子大学非常勤講師)

第2部 基調講演 13:00~15:00
『石渠宝笈三編』に見る碑帖と碑学の関係についての初探 何炎泉(国立故宮博物院書画処副研究員兼科長)
書は人を以て伝う―趙孟頫書「絶交書」の考察 陳建志(国立故宮博物院書画処助理研究員)

第3部 討議 15:15~17:00
司会 菅野智明(筑波大学教授)
登壇者 何炎泉 陳建志 家入博徳 矢野千載
登壇者提言
日本書論にみる中国書論の受容 家入博徳(國學院大学兼任講師)
高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について 矢野千載(盛岡大学教授)
           
お問い合わせ:〒305-8574つくば市天王台1-1-1 筑波大学芸術系 菅野研究室 TEL/FAX:029-853-2715


日中両国の研究者による書に関する研究発表、討議です。上記のとおり、盛岡大学の矢野千載(やのせんざい)教授による討議の提言「「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」があります。

宮澤賢治の「雨ニモマケズ」詩碑は、岩手花巻の羅須知人協会跡地に昭和11年(1936)に建てられました。光太郎が遺族の依頼で、「雨ニモマケズ」の後半部分を揮毫したものが刻まれている碑です。

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この碑、それから作品としての「雨ニモマケズ」にはいろいろな問題があります。まず、賢治が手帳に記した段階で、「ヒドリノトキハ」と書いた部分が、現在では(というか、かなり早い時期から)「ヒデリノトキハ」となって流布している点、花巻の詩碑も、賢治の手帳通りではなく、後に光太郎が誤りに気付き、追刻がなされている点などです(それでもまだ手帳通りになっていません)。

「ヒドリ/ヒデリ」については、光太郎を改変の戦犯扱いする説がありますが、誤りです。

詩碑の追刻の件については、以前にこのブログで、昭和31年(1956)、光太郎歿後すぐ刊行された佐藤勝治著『山荘の高村光太郎』の記述を引用し、紹介しました。

また、昭和18年(1943)には、啄木研究家の川並秀雄に、次の書簡を送っています。

 拝復、おてがみありがたく拝読いたしました、これまで其について質問をうけた事がないので、宮澤賢治詩碑碑面の不審がそのままになつてゐました、貴下によつて事情が明瞭になる事をよろこびます、
 宮澤賢治さんのあの手帖は以前に草野心平君から示されて、その時「雨にもまけず」の鉛筆がきをよみ、感動いたしましたが、手帖はやがて国元へかへり、字句は忘れてゐました、
 その後国元の令弟宮澤清六さんから碑詩揮毫の事をたのまれ、同時に清六さんが写し取つた詩句の原稿をうけとりました、小生はその写しの詩句を躊躇なく、字配りもそのまま揮毫いたした次第であります、
 さて後に拓本を見ると、あの詩の印刷されたものにある、「松の」がぬけてゐたり、其他の相違を発見いたし、もう一度写しの原稿をみると、その原稿には小生のバウがボウであり、小生のサウがソウであつた事を又発見しました、
 つまり清六さんが書写の際書き違つた上に、小生が又自分の平常の書きくせで、知らずにかな遣いを書き違へてゐた事になります、甚だ疎漏であつた事を知りましたが、既に彫刻の出来てしまつたあとの事でありましたため、そのままにいたしました、
 碑面の不審は右のやうな当時の事情で起つた次第、よろしく御解明なし置き下さらば、由来がはつきりして今後の研究者の無駄な考慮や疑問がはぶかれる事となりませう、その点をよろこびます、
 貴下の細心な研究精神をまことにありがたき事と存じ、早速右御返事まで申上げました、
                                                                  艸々
  昭和十八年七月十四                    高村光太郎
 川並秀雄様 侍史

これを読むと、『山荘の高村光太郎』の記述ともまた異なり(『山荘の……』では、戦後になって初めて碑文が誤っていることに気付いたように書かれています)、さらに他の人物の回想ではまた違ったニュアンスのエピソードも紹介されていたりします。

今回の矢野氏の「提言」では、こういった話に触れられるのではないかと思われます。

興味のある方、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月21日

昭和20年(1945)の今日、花巻郊外太田村に初めて足を踏み入れました。

当日の日記から。

晴、暑  太田村山口行、 朝飯盒にて弁当炊き、八時四十分校長先生同道花巻駅より。信一郎、清一郎君落合ふ。二ツ関下車徒歩五十分。午後勝治君の案内にて地所検分、選定。部落会長宅に挨拶にゆく。小屋を勝治氏に一任。五時十二分二ツ関よりかへる。

8月10日の花巻空襲で、疎開していた宮澤家を焼け出された光太郎、旧制花巻中学校長・佐藤昌の家に厄介になっていました。終戦の2日前、山口分教場の教師だった佐藤勝治に勧められ、太田村移住を計画、この日の下見になったわけです。太田村に住み始めたのは10月17日のことでした。

昨日の『朝日新聞』さんに、大きな広告が出ました。

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最近じわじわと話題になっている篠田桃紅さんの著書です。

篠田さんは大正2年(1913)のお生まれで、おん年102歳。墨を使った抽象芸術家として、いまだ現役という方です。アメリカを拠点に活動されていた時期もあったそうです。

こちらは新刊ではなく、昨年6月の刊行ですが、やはりじわじわと部数を伸ばし、広告にあるとおり13万部を突破したとのこと。

この中で、光太郎にちらりと触れていらっしゃいますが、それを知ったのは刊行後しばらく経ってからでしたし、あくまで「ちらり」ですので、購入せずにいました。

しかし、他の近著でも光太郎にちらりと触れて下さっていることもわかり、さらに朝日さんに大きな広告も出たので、近著共々購入して参りました。
篠田桃紅著 集英社(集英社新書) 2014年6月17日初版 新書版192ページ 定価700円+税

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篠田桃紅著 幻冬舎 2015年4月9日初版 B6変形版169ページ 定価1,000円+税

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『百歳の力』は新書の売り場に平積み、『一〇三歳になってわかったこと』は「話題の本」的な特設コーナーに置いてありました。ちなみに「一〇三歳」というのは数え年です。

それぞれ帯には「緊急大増刷!」(『百歳の力』)、「40万部突破 !!」(『一〇三歳になってわかったこと』)の文字が躍っており、ともに注目されているというのがわかります。実際、おのおのの奥付を見ると『百歳の力』は「二〇一四年六月二二日第一刷発行 二〇一五年六月二一日第六刷発行」、『一〇三歳になってわかったこと』は「2015年4月10日 第1刷発行  2015年6月26日 第11刷発行」となっています。あやかりたいものです(笑)。

さて、自宅兼事務所に帰って、双方を斜め読みしました。やはりどちらも光太郎にちらりと触れて下さっていました。

『百歳の力』は「はじめに」の中で。

 若いときには、いまのような仕事をしているとは一切予想はついていなかったし、予定もしなかった。予想も予定もない、いきあたりばったり。出たとこ勝負でずっとやってきました。高村光太郎の詩「道程」と同じです。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 ほんとにそう、いつも高村光太郎の詩を心に思い浮かべて生きてきた。私の前に道はない。誰かが歩いた道を私は歩いているんじゃない。先人のやってきたことをなぞっていない。でもいきるってそういうことです。
 前半は私にあてはまりますよ。でも、後半は私にあてはまるとは思わない。私の後ろに道などないですよ。なくてかまわないと思っているんです。道というほどのものができてなくても、作品というものが残っている。それはある程度残っている。どこかに、ある。
 人が敷いてくれた道をゆっくり歩いていけばいいというような一生は、私の性格には合わないんだからしようがない。私の前に道がないのは自分の性格ゆえの報い。そう思って受け入れてきました。

最後の段落は帯文にも印刷されていました。

この部分を読んで、智恵子が画家の津田青楓に語ったという次の言葉を思い起こしました。

世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。(津田青楓『漱石と十弟子』 昭和24年=1949)


『一〇三歳になってわかったこと』でも「道程」が引用されています。

 百歳を過ぎて、どのように歳をとったらいいのか、私にも初めてで、経験がありませんから戸惑います。
 九十代までは、あのかたはこういうことをされていたなどと、参考にすることができる先人がいました。しかし、百歳を過ぎると、前例は少なく、お手本もありません。全部、自分で創造して生きていかなければなりません。
(略)
 これまでも、時折、高村光太郎の詩「道程」を思い浮かべて生きてきましたが、まさしくその心境です。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 私の後ろに道ができるとは微塵も思っていませんが、老境に入って、道なき道を手探りで進んでいるという感じです。
 これまでも勝手気ままに自分一人の考えでやってきましたので、その道を延長しています。日々、やれることをやっているという具合です。

 日々、違う。
 生きていることに、
 同じことの繰り返しはない。

  老いてなお、
  道なき道を手探りで進む。

この部分からは、戦後、光太郎が花巻郊外太田村の山小屋で暮らしていた頃、地元の太田中学校に贈った次の言葉を想起しました。

心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する

無理矢理ですかね(笑)。


ところで、2冊を斜め読みした中で、篠田さんが女学校時代、短歌を中原綾子に師事していたという記述を見つけ、これは存じませんでしたので、驚きました。中原は光太郎と交流の深かった歌人です。

その他、光太郎と交流のあった面々の名前もあちこちに現れます。篠田さんご自身とも交流があったところでは、三好達治や草野心平など。その他、直接のお知り合いではないようですが、森鷗外や夏目漱石、与謝野晶子に太宰治、フランク・ロイド・ライトとか正岡子規などにも言及されています。

驚いたのは、女学校時代の先生が北村透谷未亡人だったとか、芥川龍之介をみかけたことがあるとか……もはや歴史の生き証人でもありますね。

これからゆっくり熟読いたしますが、斜め読みだけでも、素晴らしい年令の重ね方をされてきた方の珠玉の言葉が目にとまります。

皆様もぜひお読み下さい。

追記・篠田さん、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん他ご出演)の題字を揮毫なさっていました。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月16日

昭和19年(1944)の今日、『週刊朝日』に散文「全国民の気合-神性と全能力を発揮せよ-」が掲載されました。

とても読むに堪えない文章ですが、最終段落のみ引用します。

 今度の世界大戦は科学の戦ひだといはれる。科学進展のもとはやはり科学者の着実な自信にある。日本には日本独特の科学の考へ方が生まれるであらうし国民の神性はこの点にも必ず現れる。日本的構想による着眼から必ず彼らの夢にも思はぬ進歩発展が遂げられるに違ひない。科学、芸文、技術、其他々々。それらがすべて一緒一体となつて全国民の気力をますます充たしめ、全国民の純一な気合が期せずして最高の一点に集中する時、御稜威のもと、皇軍は必ず彼等に最後の止めをさすであらう。

今日、戦後の安全保障政策の一大転換となる安全保障関連法案が衆議院を通過するものと思われます。またこうした文章が各メディアを賑わす日が近いのかも知れません。

東北から帰ってきてからも、あちこち出かけています。

一昨日は、都下小平の武蔵野美術大学美術館さんに出かけて参りました。以前にご紹介した「近代日本彫刻展 −A Study of Modern Japanese Sculpture−」が始まりました。

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他にも企画展が開催されており、「近代日本彫刻展」は一室のみでの開催でした。

光太郎作品としては、木彫の「白文鳥」(昭和5年=1930頃)、ブロンズの「手」(大正7年=1918頃)が2種類、展示されています。


「白文鳥」は、一昨年に全国3館を巡回した「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展でお借りして以来、約1年半ぶりに観ました。

愛くるしい彫刻です。分類すれば写実彫刻なのですが、全体にざっくりした彫刻刀の痕を残しており、完璧な写実ではありません。また、光雲のように羽毛の一本一本を様式化して彫るということもやって居らず、ロダンに学んだ粘土での表現を木彫に反映させているのがよくわかります。

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しかし、写実以上に写実。生命力に溢れています。

今回は、この「白文鳥」を入れていた共箱も展示されていました。こちらは初めて観ました。

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さらに「手」が2点。上野の朝倉彫塑館さん(左)と、竹橋の東京国立近代美術館さん(右)所蔵のものです。以前にも書きましたが、この2点は確実に大正期の鋳造です。また、木製の台座も光太郎の制作。2つ並んでいるのを観るのは初めてで、今まで気づいていませんでしたが、台座の形がかなり異なっています。

竹橋のものは意外と台座の板の部分が薄タイプです(右の画像)。ところが朝倉彫塑館さん所蔵のものは、板の部分の厚さがこの2倍近くあります(左)。どちらも面の処理の仕方が、「白文鳥」とよく似ており、この台座の制作が後の木彫作品(「蟬」「蓮根」など)を多く作るようになった一つの契機というのがうなずけます。

ちなみに全国各地にある「手」の台座は、高村家所蔵のものを模しています。こちらも光太郎作の台座と推定され、刳型の付いた装飾的な台座です。

図録には、ブロンズをはずした台座のみの写真も載っています。ただし、図録の印刷が間に合わなかったそうで、受付で名簿に住所氏名等を書き、代金を支払って、後ほど郵送していただくシステムになっていました。

こちらは8月16日まで開催されています。ただし、東京国立近代美術館さんの「手」は6月20日までの展示だそうです。


もう1件、展覧会レポートを。というか、まだこのブログではご紹介していませんでしたので紹介も兼ねます

後閑寅雄喜寿チャリティ書画展

開催日 2015年5月27日(水) ~ 5月31日(日)
時 間 9時~21時(ただし小ギャラリーは16時30分まで。最終日は16時まで)
会 場 流山市生涯学習センター 
     千葉県流山市中110 つくばエクスプレス(TX)流山セントラルパーク駅3分
入場無料
 
 流山市にお住いの書道家。学校サポートボランティアによる毛筆授業の指導補助を長年続けられています。文字を読む、書くということから離れつつある中で学校教育における書道の指導の重要性が高まり、市民との協働による日本の伝統文化である毛筆授業を平成12年11月から続け、毎年約800人の児童を対象に通年で約100回の授業補助を行っています。平成26年度には流山市育成会議連絡協議会から青少年の育成功労者として表彰されました。

参考借用陳列敬仰作品(小ギャラリー)
西川春洞、西川寧、浅見筧洞、新井光風、田中東竹、牛窪梧十、青山杉雨、成瀬映山、梅原清山、有岡陖崖、金子鷗亭、金子卓義、佐藤氷峰、金子大蔵、張廉卿、宮島詠士、上條信山、田中節山、市澤静山、高塚竹堂、今関脩竹、清水透石、中山竹径、佐藤竹南、深井竹平、尾上紫舟、日比野五鳳、杉岡華邨、高木東扇、高木厚人、池田桂鳳、榎倉香邨、小林章夫、今井凌雪、村上三島、古谷蒼韻、斗盦、和中簡堂、鈴木槃山、渡辺大寛、内藤富卿、黒野陶山、松井如流、鈴木桐華、野口白汀、小木太法、宮沢賢治、高村光太郎、村上鬼城、中村不析、北村西望、殿村藍田、清水比庵、山本直良、与謝野晶子、山手樹一郎、吉田茂、片山哲、他

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流山在住の書家、後閑(ごかん)寅雄(号・恵楓)氏の作品展です。

参考出品ということで、古今の書もたくさん展示され、その中に光太郎の名があったので、観に行きました。


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後閑氏の作品は素晴らしいものでした。一時流行った、書なのか絵画なのか解らない、墨痕の形のおもしろさだけに頼った「読めない書」ではなく、また、これは現代でもよくあるのですが、書かれている言葉のみに頼り、造型性の薄い書(「誰々の詩句を書きました」というだけのもの)でもありませんでした。

そして参考借用陳列敬仰作品。光太郎の書も展示されているとはいえ、比較的新しく、類例の多い戦後の色紙か何かだろうと勝手に思いこんでいて、軽い気持ちで観に行ったのですが、実際に眼にし、仰天しました。

展示されていた光太郎作品は、短歌が書かれた短冊でした無題が、おそらく明治末のものです。

右の画像は、以前から知られている短冊ですが、よく似ています。こちらは明治44年(1911)頃のものです。「天そそる家をつくるとをみなよりうまれし子等は今日も石切る」と読みます。

白黒反転で、一見、版画のように見えますね。しかし、これは手書きです。といっても、黒地に白で書いているのではなく、字の周りを墨で囲んで塗りつぶしているのです。この手法を「籠書き」と言います。光太郎はこの手法を得意としており、書籍の装幀、題字などでも同じことをやっています。

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左は明治45年(1912)の雑誌「劇と詩」、右は同44年(1911)の同じく『創作』の、それぞれ表紙です。

今回展示されていた短冊も、この籠書きの手法。しかも、「天そそる……」の短冊同様、上部に墨絵が描かれており、ますます同じ時期のものと思われました。贋作特有の反吐が出そうないやらしさは感じられず、間違いないものだと思います。第一、こうした手法のものでは贋作の作りようがありません。

さらに驚くべきことに、書かれている短歌が、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。「金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかにかけていろいろ凉かぜのふく」と読めました。眼にした段階で「こんな短歌、記憶にないぞ」と思ったのですが、その場では資料がありません。急いで自宅兼事務所に帰り、調べてみると、はたして、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。こういうこともあるのですね。

こちらは東京の書道用品店さんの所有だそうで、近いうちに行って手にとって見せていただこうと考えております。

ところで、参考借用陳列敬仰作品、他にはどんな物が並んでいたかというと、他の光太郎のものは、複製が1点。関連する人物として、与謝野晶子の色紙、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の複製、それから昨年個展を拝見した金子大蔵氏の作品も並んでいました。氏は好んで光太郎の詩句を取り上げられていますが、やはり光太郎の詩「最低にして最高の道」の一節を書かれていました。

こちらの展覧会は31日(日)までです。会期が短いのが残念です。


武蔵野美術大学さんともども、ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月29日

昭和26年(1951)の今日、55年ぶりに手に取った少年時代の彫刻に墨書揮毫をしました。

彫刻は木彫レリーフの習作「青い葡萄」。明治29年(1896)、数え14歳の作品です。

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これを詩人の菊岡久利が入手、花巻郊外太田村の光太郎の元に送りました。以下、菊岡の回想。

 僕はそれを鎌倉の古物店で見つけたのだが、人々は、まだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思つたらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。(略)当時岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来て、レリーフの裏に、
 五十五年
 青いぶだうが
 まだあをい
と詩を書いてよこしてくれたものだ。

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こちらが裏面。後半の「明治廿九年八月七日 彫刻試験 高村光太郎」は明治29年(1896)の署名です。

5月16日土曜日、奥州市水沢図書館さんをあとに、同じ奥州市内の米里人首地区にレンタカーを走らせました。光太郎と親交のあった詩人の佐伯郁郎の生家、人首文庫さんが目的地です。

こちらには、佐伯郁郎の厖大な遺品が収蔵されており、その中に佐伯に宛てた光太郎の書簡が複数あって、10年ほど前に当主の佐伯研二氏にコピーを送っていただきました。それらの現物を見てみたい、というのと、もしかすると他にも光太郎関連資料があるのでは、という思いがありました。結果的にそれが当たりました。

さて、大船渡方面につながる盛街道を東へ、山あいののどかな風景の中を走ること30分あまり、目指す人首地区に着きました。

ここは宮澤賢治の作品に登場する種山ヶ原の麓に位置し、賢治もたびたび訪れたそうで、賢治ゆかりの場所の大きな案内図が道端に建っていました。

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目的地の人首文庫さんは地区のほぼ中心、人首城跡の入り口にありました。江戸時代には人首城主・沼辺家の家老職、廷内に学問所を併設していたというだけあって、豪壮な構えでした。

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しかし、当方が着いた時には、お留守でした。こちらの電話番号を把握して居らず、また、旅の途中ゆえ、何らかのトラブルで訪問できなくなる危険もなきにしもあらずでしたので、事前に来意は告げてありませんでした。ただ、門が開いているので、近くに出かけているだけだろうと思い、しばし門前で待たせていただきました。やがて佐伯研二氏ご夫妻がご帰宅。推測通り、お買い物に出かけていたとのこと。

門をくぐって敷地内に入ると、立派な庭園、いかにも格式のある母屋、そして蔵が何棟もあって驚きました。

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樹齢200年という桜の木もあり、花の時期にはものすごいことになるだろうな、と思いました。
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早速、資料を収蔵してある蔵を拝見しました。

一歩入って驚愕しました。天井まで届く複数の大きな書棚に溢れんばかりの書物、展示ケースや壁には書幅や色紙などの類、しかもそれが一室でなく、何部屋もあるようです。

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佐伯氏は、突然の来訪にもかかわらず、懇切ご丁寧にご説明下さり、恐縮でした。「こんなものもあります」と、次々にいろいろなものを出して見せて下さいました。

佐伯郁郎は戦前に内務省に入省、戦時中は情報局文芸課に勤務、検閲の任にあたっていたという特異な経歴があり、非常に文壇内で顔が広かったようです。有名どころからマイナー、マニアックな文学者まで、著書や書簡、肉筆原稿、書など、いったいどれだけあるんだ、という感じでした。

こちらは光太郎の書。

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先日、埼玉の田口弘氏のお宅で拝見したのと似た、若干粗悪な色紙に書かれています。おそらく物資の乏しかった戦後の物でしょう。

「針は北をさす」という句は、初めて目にしました。類似の例として「いくら廻されても針は天極をさす」という揮毫は何種類かあるのですが、「北をさす」という揮毫は類例が確認できていません。岩手という北の大地に流れてきての思いが込められているのかも知れません。

こちらは光太郎から佐伯郁郎宛の葉書。以前にコピーを送っていただいたものでした。

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これら以外にも、『全集』等未収録の光太郎からの葉書が2通、ありました。昭和6年(1931)の、佐伯の第一詩集『北の貌』、同10年(1935)の第二詩集『極圏』の、ともに受贈に対する礼状でした。それぞれ50名ほどでしょうか、他の文学者たちからの礼状とともに、一括してまとめられていました。

昨日ご紹介した、水沢図書館での智恵子資料などと合わせ、まだまだ岩手には未知のお宝が眠っていたということで、大興奮でした。

また、光太郎とも親交のあった文学者たち(特に詩人)の資料も数多くあり、興味深く拝見しました。以前に連翹忌にご参加くださっている詩人の宮尾壽里子様からいただいた文芸同人誌『青い花』第79号に掲載されていた柏木勇一氏の「第一次「青い花」創刊の頃の中原中也」という評論で紹介されていた萩原朔太郎と中原中也、そろっての署名など。

書簡類も、それぞれの文学者の全集に未収のものがほとんどのように思われます。近代詩人の研究をされている方、ぜひ一度、足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 5月23日

昭和23年(1948)の今日、詩人の大上敬義に詩集受贈の礼状を書きました。

北海道の更科源蔵氏から貴著詩集「愁ひの実」を回送され、又貴下のおてがみを昨日いただきました。御恵贈ありがたく存じます。今は畑のいちばん忙しい時なので、中々読んでゐられませんが、そのうち繙読するのをたのしみに存じます。

上記の佐伯郁郎との親交も、こうした詩集受贈から始まっています。

確認できている光太郎書簡の中には、この手のものがかなり多く存在します。光太郎は詩集などを贈られると、相手が無名の詩人であっても、貰って貰いっぱなしではなく、必ずと言っていいほど礼状を書いています。

この手のもの、やはりまだまだ眠っている物も多数存在するはずです。「うちのおじいさんはあまり有名ではなかったけど、詩人だった」などという方、捜してみて下さい。


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同館で所蔵している「特別資料」―近代作家の肉筆、稀覯本など―からセレクトした逸品が並んでいます。

二部構成で、第一部は「時代を代表する10名の文豪たち」。10名とは夏目漱石、高浜虚子、与謝野晶子、斎藤茂吉、光太郎、北原白秋、若山牧水、芥川龍之介、江戸川乱歩、太宰治です。それぞれについて、10点くらいずつの様々な資料が展示されていました。

第二部は「文壇で活躍したさまざまな文豪たち」。それぞれ先の10名よりは少ない点数ですが、やはり貴重な資料のオンパレードです。ラインナップは武者小路実篤、柳原白蓮、平塚らいてう、里見弴、室生犀星、西條八十、村岡花子、佐藤春夫、宮本百合子、井上靖でした。村岡花子と柳原白蓮が入っているのはNHKさんの朝ドラ効果ですね。

下記は図録に掲載された展示目録抄(あくまで抄録ですのでこれで全てではありません)。

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さて、光太郎に関しては、6点が出ていました。書簡が2通、同館初代館長の伊藤信吉宛と、武者小路実篤が創刊した雑誌『大調和』編集者の笹本寅にあてたもの。詩集『智恵子抄』の初版、『智恵子抄』巻末の短歌六首のうち三首のペン書き肉筆色紙、福島二本松霞ヶ城に立つ「智恵子抄」詩碑の拓本軸装、明治37年(1904)作の赤城山での短歌を揮毫した短冊です。

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それぞれ興味深く拝見しました。

同館の特別資料は約3万点だそうです。こうしたものがきちんと保管されているのはいいことですが、「死蔵」にならないよう、このように展示をするのは素晴らしいことだと思います。国会図書館さんや、駒場の日本近代文学館さん、いわき市立草野心平記念文学館さんなどでもこうした取り組みを行っています。そうした動きがもっと活発になってほしいものです。くれぐれも「死蔵」にならないように……。

さて、群馬県立土屋文明記念文学館さんの今回の企画展、来月22日(日)までです。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月22日

昭和20年(1945)の今日、詩「おほぞらのうた」を書きました。

   おほぞらのうた

おほぞらは よもをおほひて
かみつよの すがたのまにま000
けふのひも なほとこわかに
みづみづし いやうるはしし
あきつしま やまとのくにの
ひとみなの ふるさとぞこれ
おほぞらを みればかしこし
おほぞらを あふげばたふと
そのかみの みおやのみたま
くもがくり ふかくこもれり
おほぞらを うつろなりとは
なにしかも ひとのおもはむ
かぎりなき あめのみなかに
みなかぬし みかみぞいます
ものみなを しらすかみなり
ことわりを すぶるかみなり
ときのまも おきてはやまず
ただしきは つひにやすけく
あしけきは けがれはつべし
しきしまの やまとのくには
かんながら きよくさやけく001
まがごとを ゆるさぬくにぞ
よこしまは はらひぞやらへ
おほそらを わがふるさとと
あしたには ひいづるうみに
ゆふべには ひのいるやまに
もろびとぞ あふぎていのる
あめのした ひとつうからと
にぎたまの むつびあふよを
まのあたり うつつにはみむ
さばへなす しこのえみじの
さかしらを はらひつくさめ
またまなす わがおほぞらに
ちりひぢの けがれもおかじ
おほきみの みことかしこみ
あをぐもの むかぶすきはみ
あだなすは くゑはららかせ
あめのあらわし

太平洋戦争末期、もはや敗色は誰の目にも濃厚、という時期の作です。残された草稿に書かれたメモによれば雑誌『富士』のために書かれたものですが、出版事情もむちゃくちゃで、結局、この段階ではおそらく活字になりませんでした。

全篇仮名書き、長歌の形式。いったいいつの時代の作品だ、という感じですが、ここにある種の「狂気」を感じるのは当方だけでしょうか。

こういう詩のみをことさらに取り上げて、「大日本帝国臣民の鑑」と持ち上げるアナクロニストがいまだにいるのが不思議です。

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