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新刊情報です。

文字に美はありや。

2018年1月12日  伊集院静著  文藝春秋  定価1,600円+税

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文字に美しい、美しくないということが本当にあるのだろうか、というきわめて個人的な疑問から歴代の名筆、名蹟をたどっていくものである。(本文より)
歴史上の偉大な人物たちは、どのような文字を書いてきたのか。
1700年間ずっと手本であり続けている”書聖”の王羲之、三筆に数えられる空海から、天下人の織田信長、豊臣秀吉や徳川家康、坂本龍馬や西郷隆盛など明治維新の立役者たち、夏目漱石や谷崎潤一郎、井伏鱒二や太宰治といった文豪、そして古今亭志ん生や立川談志、ビートたけしら芸人まで。彼らの作品(写真を百点以上掲載)と生涯を独自の視点で読み解いていく。2000年にわたる書と人類の歴史を旅して、見えてきたものとは――。この一冊を読めば、文字のすべてがわかります。
「大人の流儀」シリーズでもおなじみの著者が、書について初めて本格的に描いたエッセイ。

目次
 なぜ文字が誕生したか/龍馬、恋のきっかけ/蘭亭序という名筆、妖怪?/桜、酒、春の宴/
 友情が育んだ名蹟/始皇帝VS毛沢東/木簡からゴッホの郵便夫へ/
 紀元前一四〇年、紙の発明/書に四つの宝あり/猛女と詩人の恋/弘法にも筆のあやまり/
 美は万人が共有するものか/二人の大王が嫉んだもの/我一人行かん、と僧は言った/
 素朴な線が、日本らしさへ/信長のモダニズム・天下取りにとって書とは?/
 数奇な運命をたどった女性の手紙/秘伝の書、後継の書/
”風流”とは何ぞや/
 芭蕉と蕪村、漂泊者のまなざし/ユーモアと葛藤/戯作者の字は強靭?

 水戸黄門と印籠と赤穂浪士の陣太鼓/平登路はペトロ、如庵はジョアン/
 丁稚も、手代も筆を使えた/
モズとフクロウ/親思うこころ/一番人気の疾馬の書/
 騎士をめざした兵たち/
幕末から明治へ、キラ星の書/苦悩と、苦労の果てに/
 一升、二升で酔ってどうする/
禅と哲学の「無」の世界/生涯”花”を愛でた二人の作家/
 山椒魚と、月見草の文字/
書は、画家の苦難に寄り添えるのか/書は万人のものである/
 困まった人たちの、困まった書/
文字の中の哀しみ


月刊誌『文藝春秋』さんの平成26年(2014)1月号から昨年の4月号まで連載されていた、「文字に美はありや」の単行本化です。

平成26年(2014)10月号の「第十話 猛女と詩人の恋」で光太郎に触れて下さいまして、同じ題で収録されています。ちなみに「詩人」は光太郎ですが、「猛女」は智恵子ではなく、同じ回で光太郎と共に取り上げた光明皇后です。

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雑誌初出時の図版はカラーでしたが、単行本化されたものはモノクロ写真となっており、その点は残念ですが、オールカラーにすると定価を跳ね上げざるを得ないので、いたしかたないでしょう。

光太郎の書は、画像にもある木彫「白文鳥」(昭和6年=1931)を収めるための袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌、詩「道程」(大正3年=1914)の鉛筆書きと見られる草稿が取り上げられています。また、光太郎の書論「書について」(昭和14年=1939)も紹介されています。

通常、雑誌連載を単行本化する際には、加筆がなされるものですが、光太郎の章では逆に連載時の最後の一文がカットされています。曰く「智恵子への恋慕と彼の書についてはいずれ詳しく紹介したい。」おそらく伊集院氏、連載中にはもう一度光太郎智恵子に触れるお考えもお持ちだったようですが、それが実現しなかったためでしょう。どこか他のところででも、がっつり光太郎智恵子の書について語っていただきたいものです。

他に、光太郎智恵子と交流のあった人物――夏目漱石、中村不折、熊谷守一、谷崎潤一郎ら――、光太郎が書論で紹介した人物――王羲之、空海、良寛ら――についても触れられており、興味深く拝読しました。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

書などといふものは、実に真実の人間そのもののあらはれなのだから、ことさらに妍を競ふべきものでなく、目立つたお化粧をすべきものでもない。その時のありのままでいいのである。その時の当人の器量だけの書は巧拙にかかはらず必ず書ける。その代り、いくら骨折つても自分以上の書はかけない。カナクギ流でも立派な書があるし、達筆でも卑しい書がある。卑しい根性の出てゐる書がいちばんいやだ。

散文「書についての漫談」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

光太郎最晩年、最後の書論の一節です。彫刻に関しては、壮年期を除いて個展開催に興味を示さなかった光太郎ですが、最晩年には書の個展を本気で考えていました。それだけ自信もあったのでしょう。

秋田から企画展情報です。 

平成29年度新収蔵資料展

期 日 : 2018年3月11日(日)~5月20日(日)
会 場 : 小坂町立総合博物館郷土館  秋田県鹿角郡小坂町小坂字中前田48-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

 今年度も町内外を問わず、多くの資料を寄贈いただきました。誠にありがとうございました。
新収蔵資料展と題して企画展を開催し、寄贈資料を町民の皆様にご覧いただきたいと思います。
 特に今回、小坂大地出身の編集者 澤田伊四郎さんが創業した株式会社龍星閣からの寄贈資料が最も多く、注目の寄贈資料となっています。
 寄贈資料には、高村光太郎(彫刻家・詩人)、棟方志功(版画家)、武塙祐吉(元秋田市長・随筆家)をはじめ、小坂町出身の福田豊四郎(日本画家)・小泉隆二(版画家)からの書簡や書籍やメモ類があります。書簡だけでも約3,000点近くあり、書籍・メモ類を合わせると5,000点を超えます。
 現在整理が進んだ中でも高村光太郎の書簡に多くの未刊行書簡があることがわかりました。整理と分析が進めば、日本文学界にとって大発見があるかもしれません。今後の進展を楽しみにしてください。
 また、今年度、教育委員会が購入した福田豊四郎の資料を展示します。こちらも連載小説等の挿絵の原画や実際に使用ていた画材を含めると約2,000点を超えます。こちらも福田豊四郎研究に大きく貢献できそうな資料群となっています。
 見応えのある展示になると思います。ぜひご来館ください。

関連行事 担当学芸員による展示解説
 第1回目 3月17日(土) 13:00~ 第2回目 4月21日(土) 13:00~ 
 第3回目 5月19日(土) 13:00~


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一昨日、『朝日新聞』さんの夕刊で報道されました。 

智恵子抄の続編「ものにならない」 高村光太郎の未公表書簡公開へ

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)の全集に収録されていない未公表書簡34通が、11日から秋田県小坂町の博物館で無料公開される。代表作の詩集「智恵子抄」を出版した龍星閣(東京都千代田区)の編集者に宛てたもので、智恵子抄の続編について「ものにならないと思います」と記したはがきが含まれている。
 34通は1942年から55年に書かれたもので、はがき32通、封書2通。いずれも小坂町出身で龍星閣の元社長の澤田伊四郎氏宛て。昨年5月、澤田氏が残した書簡や書籍が遺族から町に寄贈され、その中に高村からの書簡が全集収録分も含め約70通あった。
 高村は41年に、愛妻を題材にした「智恵子抄」を出版。戦後、続編の「智恵子抄その後」も出版された。書簡を読んだ高村の研究者小山弘明さん(53)=千葉県香取市=は「(高村の書簡が)一挙に70通も出てくるのは珍しく、『智恵子抄その後』の出版に乗り気でなかったことが裏付けられた。澤田氏の物資援助へのお礼など、高村の律義な性格や、作家と編集者との濃密な人間関係も伝わってくる」と話す。
 これらを一般公開する「新収蔵資料展」は、小坂町立総合博物館郷土館で3月11日から5月20日まで。問い合わせは郷土館(0186・29・4726)。(加賀谷直人)

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先月には共同通信さんの配信による記事が『日本経済新聞』さんや、全国の地方紙に出ました。

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朝日さんは独自に取材、当方にも電話取材がありました。その結果、より詳しく報じられています。

当方、やはり先月、現地に参りまして現物を手にとって、『高村光太郎全集』未収録分については筆写して参りましたが、光太郎の息づかいが聞こえてくるようなものでした。

それから、そちらは拝見してこなかったのですが、チラシ裏面には『智恵子抄』をはじめとする龍星閣の刊行物もいろいろ。どうもその中に、光太郎の識語署名入りがあるようです。チラシの表面に2箇所、光太郎の筆跡があしらわれています。

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左の方は、『智恵子抄』所収の詩「晩餐」(大正3年=1914)の一節「われらのすべてにあふれこぼるるものあれ われらつねにみちよ」。光太郎、この一節を好んでけっこう揮毫に使っています。

当方、来月にはまた現地に参り、拝見して参ります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私は今、東北辺陬の地の山林にあり、文字通りの茅屋に住んでゐて、文献の渉猟すべきもの一冊も座右になく、ついて校覧すべき一葉の写真すらない。それゆゑ、今ここで古彫刻について語らうとしても、年代の考證、造像の由来等に関しては危くて一語も述べがたい。ただ語り得るところは、脳裏にあるその映像への所感のみであり、それに連関する雑然たる想念ぐらゐのものである。
散文「新薬師寺迷企羅像」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

と言いつつ、光太郎、この後「脳裏にある映像」だけで、新薬師寺さんに今も遺る国宝の塑像「迷企羅大将像」(薬師如来の眷属・十二神将の一人)について、原稿用紙5枚ほどの稿を書いています。

瞬間記憶能力(カメラアイ)という、見たものを画像として記憶し、瞬時に引き出せる能力を持つ人間がいるそうです。光太郎、そこまでは行かなくとも、それに近い能力を持っていたのではないかと思われます。

ぽつりぽつりと、新聞各紙で光太郎の名が。それぞれそれ一つをネタにブログ記事にするのはきついなと思っていましたら、たまってしまいました。

まずは先月28日の『神戸新聞』さん。 

「今度は支える立場に」 大学へ進む高3生の目標

 瑛太の部屋の扉には、英語の詩が貼ってある。詩人・高村光太郎の代表作の英訳で、職員が手書きして贈ったエールだ。
 〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉
 高校3年。大学進学を目指して1年の時に部活をあきらめ、学費を稼ぐためにアルバイトに励んだ。最初はすし店。「常連さんなど幅広い年代の人と出会い、いろんな考えに触れられた」。学びは多かった。
 一方、仕事を終えて帰宅すると午前0時を過ぎることも。通学には1時間20分かかるため、午前6時50分に尼学を出る生活。すし店は半年で辞め、その後はプール監視員や飲食店員として働いた。
 その中で勉強時間を確保してきた。
 職員も応援した。瑛太が勉強の息抜きにバドミントンをしようとすると、横に忍び寄ってつぶやいた。「本当にそれでいいんかなー」
 瑛太が笑う。「1回打った瞬間に横にいて、ちょっとくらい息抜きさせてよって。いつもプレッシャーの目があり、勉強するようあおってくれた」
 道は拓けた。昨秋、学費を一部免除してくれる山口県の大学に合格。神戸の財団から返済不要の奨学金を受けることも決まり、新生活に期待を膨らませる。
 将来について尋ねると、真っすぐな目で語った。「経験した自分だからこそ、力になれることがある。児童養護施設で働きたい」。いったんは施設に勤めてから、数学の教師を目指すという。
 尼学に来てから、精神的にまいった時期がある。外に出られなくなり、バイトに行けなかった。高校へは職員に送迎してもらい、何とか通った。「しんどい時に寄り添ってくれた。今度は支える立場になりたい」(敬称略、子どもは仮名)
(記事・岡西篤志、土井秀人、小谷千穂、写真・三津山朋彦)


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執筆から100年以上経った「道程」ですが、こうして現代の若者へのエールとしても現役で機能しているのですね。

ちなみに英訳は「No path lies before me. As I press on. Behind me a path appears.」だそうです。


続いて、今月2日の『毎日新聞』さん北海道版から。 

書学習の集大成 道教育大旭川校書道研、きょうから /北海道

 卒業式を前にした道教育大旭川校書道研究室の「第64回卒業書作展」が2日、旭川市民文化会館で始まる。あふれる躍動感、ストレートな表現、切れ味ある線質、温かみのある筆力といった個性あふれる書学習の集大成が会場を飾る。  
 出展者は、長田さくらさん、小野寺彩夏さん、平木まゆさん、柿崎和泉さんの4人。それぞれが平安時代の藤原行成から唐代の顔真卿の書まで多彩な臨書の卒業論文作品2点と、卒業書作展作品の詩文書2点、漢字創作1点を出品した。
 書作展用の作品では、高村光太郎の詩の一節を題材にした長田さんの作品(縦2・4メートル、横3・6メートル)など、研究室の持ち味でもある大作の詩文書がそろった。指導教官の矢野鴻洞教授も賛助出品している。
 7日までの午前10時~午後6時(7日は同4時まで)。入場無料。【横田信行】

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やはり光太郎詩、若い人たちの心の琴線にも触れるのでしょうか。ただ、画像にうつっているのは宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」の一節ですが(笑)。


それから、『朝日新聞』さん。先月27日の夕刊です。 

(アートリップ)御堂筋彫刻ストリート(大阪市) 名品の数々、歩く目線で 朝倉響子、ジョルジョ・デ・キリコほか作 大阪市

 会社員が足早に行き交う平日の御堂筋。視線を感じた先に、すました表情の女性像がこちらを見ていた。プレートには「朝倉響子 ジル」の銘。通りにはほかにもロダン、ジョルジョ・デ・キリコ、高村光太郎らの趣の異なる彫刻合わせて29体が並ぶ。
 これらは、1991年に始まった大阪市と建設省(当時)による、文化的な街づくりを目指した事業「御堂筋彫刻ストリート」の一環。沿道の老舗企業から募った寄付で設置された。
 彫刻の全体テーマは「人間讃歌(さんか)」。一流作家による、人体をモチーフにした作品に限定し、景観を統一するため、高さは台座を含めて2メートル以内に制限した。結果、巨匠たちの裸婦像や着衣像、抽象表現作品が、歩く人々の目線で見られるように並んだ。
 しかし、試練の時代もあった。バブルがはじけ、企業の再編などで周辺ビルには空室が増加。土日になると人通りが少なくなり、放置自転車で彫刻も埋もれた。「存在が忘れられ、誰も評価しなかった」と話すのは、2000年以降の設置審査委員長を務めた、関西学院大名誉教授の加藤晃規さん(71)。
 市が自転車の即時撤去を開始すると、再び名品が姿を現した。現在、周辺にはホテルなどが入る高層ビルが建設中だ。加藤さんは「作品は潤いのある街並みの一つ。にぎわいが戻れば」と目を細めた。(吉田愛)


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記事にあるとおり、バブル期に作られた大阪御堂筋の彫刻群について。光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)のための中型試作」が「みちのく」という題で設置されています。

これからも愛され続けて欲しいものです。


さらに昨日の『読売新聞』さん。別刷り日曜版の連載「名言巡礼」で、光太郎と交流のあった北海道弟子屈出身の詩人・更科源蔵がメインで扱われています。

更科源蔵「原野というものは、なんの変化もない…」 過酷な自然 生活の原体験

 原野というものは、なんの変化もない至極しごく平凡な風景である(更科さらしな源蔵げんぞう「熊牛くまうし原野げんや」(1965年))
 北海道東部の弟子屈(てしかが)町。厳冬期の熊牛原野に立った。白い雪原には、キタキツネの足跡が点々と続く。
 出身の詩人、更科源蔵は「原野の詩人」と称される。「熊牛原野」は原野での生活をつづった自伝。「原野というものは、なんの変化もない至極く平凡な風景である」は冒頭の一節だ。「私はそんな原野の片隅で生うまれ、そこで育った」と受ける。
 同町で農地の開拓が始まったのは明治中期。新潟から熊牛原野に入植した更科の父は、開拓の草分けでもある。「クマウシ」はアイヌ語で「魚を干す棚が多いところ」のこと。豊漁の地を意味するが、本土から渡ってきた和人はいかにも野蛮な漢字を当てた。その地で、更科は1904年に生まれた。開拓者たちは原野の一角を耕し、牛や馬を放牧した。
 更科は原野を遊び場とし、花や昆虫が友だった。原野の自然は過酷で、猛吹雪により死にかけたこともある。30代半ばで町を離れるまで一時、牧畜農家として苦闘した。「君は牛の使用人ではないか」。都会から訪れた友人にはこう揶揄(やゆ)された。
 〈白く凍いてつく丘に遠い太陽を迎へる厳然たる樹氷であらうとも/森は今断じて遠大な夏を夢見ぬ〉
代表作「凍原(とうげん)の歌」の一節だ。「厳しい原野での生活を原体験に、北海道の大自然とそこに生きる人々の生活を肉声でうたい、中央の詩誌に認められた」と、詩人で更科にちなんだ「更科源蔵文学賞」選考委員長の原子(はらこ)修さん(85)は解説する。
 人々の中には原野で隣人だったアイヌ民族も含まれる。「教科書で教える大和朝廷のエゾ征伐は、和人の勝者の歴史なのでは」。アイヌの子どもらを教えていた代用教員時代、そんな疑問を口にしたところ、思想不穏当として解雇された。権威にも権力にもこびなかった。
 町在住の高田中みつるさん(82)は更科に手を引かれてアイヌの集落を訪れ、ヒグマの魂を神の国に返す「熊送り」を見た。「『更科おじさん』と子どもらに慕われていましたよ」
 「至極く平凡な風景」とは、故郷を卑下しているわけではない。更科にとり、原野は自分という存在の慈しむべき原点なのだから。 (文・阿部文彦 写真・岩佐譲)

更科源蔵
1904~85年。東京の麻布獣医畜産学校(現麻布大)中退。上京時、詩人・尾崎喜八に師事。 「智恵子抄」で知られる高村光太郎の影響も受ける。詩集に「種薯」「無明」など。散文も、「熊牛原野」(大和書房「ふるさと文学さんぽ 北海道」に一部収録)のほか、「アイヌと日本人」、自伝的小説「原野シリーズ」など多数。40年、弟子屈町での生活を諦め、札幌市に転居。北海道立図書館嘱託などを経て、道立文学館理事長。「更科源蔵文学賞」は同町の後援で有志が創設。現在は休止中。

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2ページ分あり、上記は1ページ目です。

光太郎、文中にある更科の詩集『凍原の歌』(昭和18年=1943)の題字を揮毫してやったり、更科が発行に関わった雑誌『大熊座』、『犀』などに寄稿したりしています。また、自然志向の強かった光太郎、実現しませんでしたが、更科を頼って北海道移住を夢見た時期もありました。

また、更科をモデル、というか、更科の語った北海道開拓の様子をモチーフにした「彼は語る」(昭和3年=1928)という詩も書いています。

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    彼は語る

 彼は語る
 北見の熊は荒いのですなあ
 釧路の熊は何もせんのですなあ
 かまはんけれや何もせんのですなあ
 放牧の馬などを殺すのは
 大てい北見から来た熊ですなあ

 彼は語る
 地震で東京から逃げて来た人達に
 何も出来ない高原をあてがつた者があるのですなあ
 ジヤガイモを十貫目まいたら
 十貫目だけ取れたさうですなあ
 草を刈るとあとが生えないといふ
 薪にする木の一本もない土地で
 幾家族も凍え死んださうですなあ
 いい加減に開墾させて置いて
 文句をつけて取り上げるさうですなあ

 彼は語る
 実地にはたらくのは、拓殖移住手引の
 地図で見るより骨なのですなあ
 彼等にひつかかるとやられるのですなあ


この『読売新聞』さんの「名言巡礼」。かつて光太郎や、光太郎と交流の深かった尾崎喜八永瀬清子も取り上げられました。こうした詩人などをもっともっと取り上げていただきたいものです。


当方、読売さんは購読しておりませんので、日曜版にこれが載ったという情報を得、コンビニで買ってきたのですが、本紙にも光太郎の名があり、驚きました。

一面コラムの「編集手帳」です。

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光太郎、昭和2年(1927)には、ずばり「草津」という詩を書いています。引用されているのが全文の、たった四行の短い詩ですが。

光太郎、たびたび草津温泉にも足を運んでいました。ご当地ソングならぬご当地詩、ということで、草津では囲山公園にこの詩を刻んだ碑が建っています。平成2年(1990)の建立で、光太郎自筆の原稿から写した金属パネルを自然石にはめ込んでいます。推敲の跡がそのまま残っており、言葉に鋭敏だった光太郎の詩作態度がよくわかります。パネル制作は光太郎の実弟・豊周の弟子だった故・西大由氏でした。

また、草津温泉のシンボル、湯畑の周囲を囲む石柵には、「草津に歩みし百人」ということで、錚々たるメンバーの名が。もちろん光太郎も入っています。

当方ももう十数年行っていないので、久しぶりに草津へ行ってみたくなりました。


さて、これだけ短期間に、ちょこちょことではありますが光太郎の名が新聞各紙に出るということは、まだまだ光太郎もメジャーな存在でいられているということなのかな、と思いました。ありがたいことですが、光太郎の名が忘れ去れれないよう、今後も努力せねばとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

普通に、彫刻は動かないものと思はれてゐる。実は動くのである。彫刻の持つ魅力の幾分かは此の動きから来てゐる。もとより物体としての彫刻そのものが動くわけはない。ところが彫刻に面する時、観る者の方が動くから彫刻が動くのである。一つの彫刻の前に立つと先づその彫刻の輪郭が眼にうつる。観る者が一歩動くとその輪郭が忽ち動揺する。彫刻の輪郭はまるで生きてゐるやうに転変する。思ひがけなく急に隠れる突起もあり、又陰の方から静かにあらはれてくる穹窿もある。その輪郭線の微妙な移りかはりに不可言の調和と自然な波瀾とを見てとつて観る者は我知らず彫刻のまはりを一周する。彫刻の四面性とは斯の如きものである。

散文「能の彫刻美」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

この一節を読んでから、彫刻鑑賞の方法が変わりました。皆さんもぜひお試しあれ。

昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されている『月刊絵手紙』の3月号が届きました。

やはり3.11が近いというこで、特集は「それぞれの「雨ニモマケズ」」。東日本大震災後、改めて見直されるようになった、賢治歿後、光太郎がその「発見」の現場にも立ち会い、賢治の故郷・花巻に建った詩碑の揮毫を請け負った「雨ニモマケズ」が取り上げられています。

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棟方志功の版画など、後世の人々のオマージュ作品。

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連載「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」も、それとリンクして賢治がらみです。

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画像は、光太郎自身の揮毫になる短歌「みちのくの 花巻町に 人ありて 賢治をうみき われをまねきゝ」。それから、昭和24年(1949)9月21日の『花巻新報』に掲載された「宮沢賢治十七回忌」という文章の抜粋。

オンラインで入手可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

思考の外なるもの、思ひがけず新鮮なるものは常に自然の中にのみある。

散文「能面の彫刻美」より  昭和13年(1938) 光太郎56歳

日本古来の能面を彫刻家の視点で分析した文章から。実際の人間の深い写生から、人間そのものの象徴にまで昇華している能面を賛美し、舌を巻いています。自身の彫刻にも、こうした部分を取り入れていっているのではないでしょうか。

ともに岩手花巻に関わる光太郎作品が載った雑誌系、2冊ご紹介します。 

花巻市情報誌『花日和』平成29年冬号

2017/12  花巻市発行  無料

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花巻市内の花巻市観光協会、花巻観光案内所などで無料配布されている、年4回発行の市の情報誌です。無料と侮るなかれ、A4変形版30ページオールカラーの、毎号なかなか凝った作りです。

巻頭近くに「ふるさとの詩(うた)」というコーナーがあり、今号は光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)が掲載されています。

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バックの写真は、光太郎も何度か宿泊した、鉛温泉藤三旅館さん。いい感じですね。

『花日和』、首都圏でも入手可能です。東銀座にある岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」さんなどに置いてあるはずです。

ところで、「ふるさとの詩(うた)」というコーナー、平成25年(2013)の同誌発刊以来、宮沢賢治の作品が毎号掲載されていましたが、今号は光太郎。このまま当分、光太郎作品が載り続けるのでしょうか。そうだとすると、かなりありがたいのですが。


もう一冊。

『家庭画報』2018年3月号

2018年2月1日  世界文化社発行  定価1,400円

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こちらも巻頭近くに、「残したいことば、未来につなぐことば――心を伝える絵手紙」というコーナーがあり、今号は、花巻郊外旧太田村から送られた光太郎の書簡(ハガキ)が紹介されています。

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昭和22年(1947)、4月6日付で、宛先は東京在住の姪・高村珊子さんです。4月の段階でまだ春が来ていない、ようやく雪の下からフキノトウが、というあたり、春の訪れの遅さに驚きますが、北東北ではそんなものなのでしょう。当方自宅兼事務所のある千葉県では、ぼやぼやしているともうそろそろフキノトウが出始めます。

解説は、日本絵手紙協会名誉会長の、小池邦夫氏。同会発行の『月刊絵手紙』でも、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

こちらは一般書店店頭で販売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然の風景は透明だが、詩人の描く風景はまつたく主観の雄弁な告白者だ。

散文「彫刻その他」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

先月、市立図書館さんに「田口弘文庫高村光太郎資料コーナー」をオープンさせた埼玉県東松山市さんの広報紙『広報ひがしまつやま』の今月号に、その件が報じられました。

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オープン記念に開催された当方の講演についてもご記述下さっています。

このコーナーは、戦時中から光太郎と交流があった、同市の元教育長・故田口弘氏から同市が寄贈を受けた光太郎関連の資料を展示するものです。当方のオープン記念講演の中では、氏と光太郎の関わりについて話させていただきました。その中で、昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さんに、光太郎の筆跡を写した「正直親切」碑(光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんにも同じ文字を刻んだ碑があります)が、氏のお骨折りで建立されたことにも触れました。

そうしましたところ、講演会終了後、市役所の方が、当時の資料が見つかったというので、送って下さいました。B4判二つ折りのリーフレットです。

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当時教育長だった田口氏の「この石碑ができるまで」、当時の校長先生による「記念碑の除幕にあたって」、そしてこの文字を提供して下さった、当時の花巻高村記念会の浅沼政規事務局長が書かれた「高村光太郎書「正直親切」の由来について」が掲載されています。浅沼政規氏は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)にほど近い、山口小学校の初代校長先生でした。もともと「正直親切」の文字は、昭和23年(1948)に、同校が太田小学校山口分教場から山口小学校に昇格した際に、光太郎が校訓として贈ったものです。氏は平成9年(1997)に亡くなりましたが、ご子息の隆氏はご健在。山口小学校に通っていた頃、光太郎の山小屋に郵便物を届けに行ったりなさっていて、今も光太郎の語り部としてご活躍中です。

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ところで、驚いたのは、このリーフレットに光太郎詩「少年に与ふ」(昭和12年=1937)が印刷されていたこと。先日の講演会の冒頭に、地元の朗読グループの方が、光太郎詩と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読なさることとなり、何かふさわしい詩は、と照会されたので、この詩を推薦しました。光太郎詩の中ではそれほど有名な作品ではありませんが、「持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」という一節が、まさに田口氏の生き様に通じると思ったからです。そうしましたところ、昭和58年(1983)作成のリーフレットで、やはり田口氏がこの詩を選んでいたということで、驚いた次第です。

また、田口氏は、光太郎つながりで、彫刻家の高田博厚とも親交を深め、同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。その件でも同市役所の方から照会がありました。高田の居住していた鎌倉のアトリエのリビングに、光太郎の絵らしきものが掛かっていたが、これは何なのか、と。

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大分色が褪せていますが、これは昭和22年(1947)11月30日発行の雑誌『至上律』に口絵として載ったもので、当時光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村の水彩スケッチです。この切り抜きを高田が壁に掛けていたと知り、胸を打たれました。

さて、同市立図書館さんの「田口弘文庫高村光太郎資料コーナー」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

何だかあたり前に出来てゐると思へれば最上なのである。それが美である。

散文「蝉の美と造型」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

光太郎が好んで木彫のモチーフとした蝉に関する散文です。本来薄い翅(はね)をかえって厚く仕上げるところが腕の見せどころ、としています。そうすることで、彫刻的な美しさがより顕著になるそうです。しかし、翅が薄いとか厚いとか、そんなことは気にならずに、すっと目に入ってくるもの、「何だかあたり前に出来てゐる」べきともしています。

このことは彫刻に限らず、詩にしても、絵画にしても、書にしても、光太郎芸術の根柢に流れる考え方で、実際にそれが実現されているといえるでしょう。

昨日のこのブログでは、光太郎自身の書を集めた企画展について触れましたが、光太郎の詩文は、現代の書家の方々もいろいろと取り上げて下さっています。ただ、なかなかネット上に情報がなかったりで、あまり紹介できていません。会期が終わってから、会場風景的に「今回の出品作、高村光太郎の詩の一節です」といったブログ的なものは多いのですが……。

そんな中で、岡山市で開催中の催し。

中村文美作品展〜琥珀の文箱に文字を集めて

期 日  : 2018年1月31日(水) ~ 2月11日(日)
会 場  : CAFE×ATELIER Z 岡山県岡山市南区浜野2-1-35
時 間  : AM11:00〜PM7:00 最終日PM6:00まで
休廊日  : 2/5(月)・6(火)

本と文字。一度は目にしたあの物語を「書」で。
映像や絵画を超えるほどのイマジネーション。
文字とはこんなにも、物語の世界を豊かに表現できるのか…。
”読む”文字から”見て感じる”文字へ。
新しい愉しみ方を体感してください。

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上記画像(ダイレクトメールだそうで)にも使われていますが、光太郎の「冬が来た」(大正2年=1913)が取り上げられています。他に宮沢賢治、ヴェルレーヌなどの詩文も。

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中村文美さんは、広島県福山市ご在住の書家。調べてみましたところ、一昨年の『朝日新聞』さん広島版の記事がヒットしました。

ひとin【福山】 中村文美さん 書家 ◇「書とアート 感性重ねて」

 直径約2・5メートルの円の周囲に002倉敷帆布を巻き、中央上部に船で使う八点鐘がつるされている。「八」の右を大きく波打つように伸ばした「八点鐘」の文字を揮毫しただけでなく、海風と太陽、波がモチーフのデザインにも関わった。
 「海へ続く道の始まり。今年はアートにふれる瀬戸内国際芸術祭もあるので、わくわくした気持ちを込めました」
 書道は小学1年生で始めた。大学時代から取り組むかな書を中心に、伝統的な書の分野で活躍してきた。同じ音(おん)を表すのでも多種の文字のある変体仮名や、重ねたり、くねらせたりもする行の書き方など、表現方法は奥深い。
 大阪市内で20~24日に開かれた第70回日本書芸院展で若手作家10人の1人に選ばれ、「平家物語」をテーマにしたかな書など3作品を出品した。生まれ育った福山市沼隈町の谷には平家の伝説が残る。「古里に縁深い平家物語は私にとって大きなテーマ」。そして平家の谷から瀬戸内海に流れる水にも創作意欲をそそられ、「水」という文字を取り込んだ絵のような前衛的な作品を発表している。
 昨年6月、創作仲間の染色家とパリで2人展を開いた。かな書と「水」の文字を象形化したデザインの扇子、日本画とかな書のびょうぶなど約50作品を展示した。訪れたフランス人から「日本の伝統の匂いがする」と声をかけられ、驚いた。
 書の伝統を尊敬している。「それが私のベース。書とアートを分けるのではなく、伝統の上に自分の感性を重ねています」

 岡山大学大学院修了。福山市沼隈町にアトリエ「すゞり」を構え、「玉葉書道会」主宰。2013年にふくやま美術館で個展「水の音(ね)」を開催、「鞆の浦deアート」展にも毎回出品している。

(2016年04月26日)


こういう方に取り上げていただけると、実にありがたいところです。情報を得るのが遅れ、昨日、中村さんご本人によるギャラリートークだったそうで、申し訳なく存じます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】003

彫刻家の作る真の肖像彫刻の微妙さは、造型と自然との最も幸福な結合であり、造型の中に自然そのものがあり、自然と見えるものが即ち造型の美である融合の妙趣を持つのである。

散文「素材と造型」より
 
昭和15年(1940) 光太郎58歳

河出書房から刊行された『芸術論 第二巻 芸術方法論』の為に書き下ろされた評論で、掲載誌では58ページある長い文章です。

古今の芸術家について解説した文章では、同じ程度やさらに長いものもありますが、方法論としての評論では、最長のものの一つで、造型作家としての光太郎の骨格がいかにしっかりしたものであったかが如実に表されています。

筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第5巻に収録されています。ぜひ全文をお読み下さい。

先月末、花巻市の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」について、『読売新聞』さんが岩手版で大きく紹介して下さいました。

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手前味噌で恐縮ですが、当方のコメント及び写真が掲載されています。取材日は昨年12月14日。1ヶ月以上経っての掲載で、掲載紙を送って下さった担当記者さんは恐縮されていましたが、かえってこの時期の掲載もありがたいものです。この手の企画展は、開幕当初に熱心な方々がすぐ観にいらっしゃり、会期半ばには客足が落ち込みますが、こうしてメディアで大きく取り上げられると、また復調するものですので。

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会期は今月26日(月)まで。無休です。ただし、積雪は今がピークかと思われます。しかし、記念館さんに隣接する、光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)での過酷な越冬の状況を、身を以て感得できまるという意味では、この時期がおすすめです。ちなみに1月半ばでこんな状況です。

この時期のこの地を知らずして、光太郎の山小屋生活を「しょせんはポーズに過ぎなかった」的な批評をなさっているエラい先生方などに、特にお奨めしたいですね(笑)。


【折々のことば・光太郎】

私はリユクサンブウル美術館にあるロダンの「ジヤン ポオル ロオランス」の首と、「ダルウ」の首とを朝から中食の頃まで見てゐた事が幾度もある。そして思ひきつて帰つて来ると、自分のアトリエに入るや否や又見たくなつて、慌てて美術館へ引きかへした事もある。

散文「肖像雑談」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

明治41年(1908)から翌年にかけてのパリ時代の思い出です。

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左が、「ジャン・ポール・ローランス」、右が「ダルー」です。

強引なまとめですが、「高村光太郎 書の世界」で、当方、同じような感想を持ちました。ただ、カンパーニュプルミエル街の光太郎アトリエからリュクサンブール美術館は徒歩15分ほど。当方自宅兼事務所から花巻ではそうもいきません(笑)。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。

昨年2月に亡くなった、同市の元教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった故・田口弘氏が、一昨年、光太郎から贈られた書や書籍など、一括して同市に寄贈なさり、市立図書館さん内に、その展示スペース「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、昨日はそのオープンセレモニー等が行われました。

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そのオープンセレモニーのあとの記念講演講師の依頼があり、馳せ参じた次第です。

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午後1時半から、資料コーナーに椅子を並べた会場で、オープンセレモニー。

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設置の経緯の説明や、森田市長さんはじめ来賓の方々のご挨拶等に続き、テープカット。田口氏のご息女もハサミを持たれました。


コーナーの概要をお知らせします。

まず目を引くのが、田口氏が光太郎から贈られた書。

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凸版印刷さんにお願いし、作っていただいた複製だそうですが、この手の技術の進歩には目を見張るものがあります。精巧に出来ており、ぱっと見には本物と区別が付きません。

左の大きな書は、新訳聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。昭和24年(1949)に書かれたもので、筑摩書房『高村光太郎全集』第17巻のグラビアにも使われています。光太郎が聖書の文句を揮毫したものは珍しいのですが、故・田口氏が敬虔なクリスチャンだったことに由来します。

右の方は色紙「世界はうつくし」、「うつくしきもの満つ」など。はじめ、故・田口氏が昭和19年(1944)、南方に出征する際、光太郎に書を書いてもらったそうですが、氏を乗せた輸送艦が撃沈され、氏は九死に一生を得たものの、書は海の藻屑と消えたそうです。そこで戦後、復員された氏が花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を訪ね、再び同じ言葉を揮毫してもらったというものです。

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光太郎からの書簡類。こちらも基本、カラーコピーですが、小包の包装、鉄道荷札などは現物でした。

それから、光太郎の署名入りの中央公論社版『高村光太郎選集』全6巻。昭和26年(1951)から28年(1953)にかけ、当会の祖、草野心平が中心となって編まれたものですが、故・田口氏が新聞雑誌等から切り抜いたスクラップブックが大いに役立ったそうです。

その他、氏がこつこつ集められた光太郎の著作や、光太郎智恵子に関する書籍類も大量に寄贈されたそうで、それらは定期的に入れ替えながら展示されるとのこと。

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同館2階にこのコーナーが設けられ、無料で拝観できます。ぜひ足をお運びください。

オープンセレモニーの終了後、3階視聴覚ホールを会場に、当方の記念講演。「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」と題させていただきました。

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前半は、総合的な芸術家として、つまづきをくりかえしながらも大きな足跡を残した光太郎の生涯を紹介させていただきました。途中から、故・田口氏とのかかわり、そして光太郎の「詩魂」を受け継ぎ、光太郎とはまた異なる分野で活躍された田口氏の業績を追いました。

講演に先立ち、地元の朗読サークルの方が、光太郎と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読されることになり、何かふさわしい詩はないかというので、以下の詩を指定させていただきました。

光太郎詩は「少年に与ふ」。昭和12年(1937)、雑誌『無風帯』に発表され、同18年(1943)、詩集『をぢさんの詩』に収められました。

   少年に与ふ015

 この小父さんはぶきようで
 少年の声いろがまづいから、
 うまい文句やかはゆい唄で
 みんなをうれしがらせるわけにゆかない。
 そこでお説教を一つやると為よう。
 みんな集つてほん気できけよ。
 まづ第一に毎朝起きたら
 あの高い天を見たまへ。
 お天気なら太陽、雨なら雲のゐる処だ。
 あそこがみんなの命のもとだ。
 いつでもみんなを見てゐてくれるお先祖様だ。
 あの天のやうに行動する、
 それがそもそも第一課だ。
 えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。
 持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。
 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。
 それが自然と此の世の役に立つ。
 窓の前のバラの新芽を吹いてる風が、
 ほら、小父さんの言ふ通りだといつてゐる。


おそらく、少年(青年)時代の田口氏もこの詩を読んだと思われます。そして、戦後に復員されてからの氏のご活躍は、まさに詩の後半の「えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。/持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」を地でゆくようなものだったと思い、この詩を指定した次第です。

追記:昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さんに、光太郎の筆跡を写した「正直親切」碑が建立された際のパンフレット(おそらく田口氏も制作に関わられたはず)にこの詩が印刷されていました。「やはり」という感じでした。

田口氏の詩は、「けさ八十歳」。光太郎から受け継いだ「詩魂」を、どのように生かしていったかと、そういう詩です。94歳で亡くなった氏が80歳になられた時の作品ですが、氏の半生が履歴書のように一望できます。

     けさ八十歳004

 八十歳のけさは春の彼岸の入り 雲なく風なし
 白木蓮の円錐の樹形の花群れは
 純白の光のいのちを一身に聚め
 吹上の溢れるほどの豊満な花輪の賜りもの
 それに応えるおまえの八十までは何だったのか
 何でおまえは生きてきたのか
 この日頃思案してもの怖じもなく答えれば
 ハイ 感動を求めて生きて来ました と
 その折々の天の配剤をいただいて
 幼くして母、姉と一時に死別 父、兄妹と離ればなれ
 中学時代かけがいのない師 柳田知常先生に私淑
 駒込林町の高村光太郎さんの美に導かれ
 アララギの五味保義先生の姿勢を敬慕し
 戦いの末期 ルソン島沖を泳いで助かる014
 その折失った高村さんの餞別の書「美しきもの満つ」は
 岩手の山小屋で再び書いて頂いて 今在る
 復員した青年教師は〈創造美育〉の運動に熱中したり
 五年間 日教組のオルグでストライキに人の重さを知る
 また全国教育研究集会の「美術」の司会を担当
 推されて埼玉教職員組合の委員長をしたり
 自分の能力の適正を危ぶむ労働金庫の専務まで
 そんな有為転変もいま思いかえせば
 みんなみんな神さまの深いお図らいだったのか
 この一人の運命の曲がり角はそうとしか考えられない
 きわどくしかも無理のない選択だったのか
 〝風はおのが好むところに吹く〟ように
 終わりの十六年 幸せにふるさとの教育長に迎えられ
 今までのキャリアを集注して教育と文化運動にかかわる
 たまたまその間 日本スリーデーマーチの実行委員長
 以来朝の〈歩け〉は二十三年累計四万キロで地球一周にも
 ウォークマンで十年モーツアルトに離れがたく
 兄に眼を開かれた絵は
 ルオーの「キリスト」に辿り着く
 旬日 フィンの息子からスタミッツのセロのCD届く
 もうすぐ高村さんの連翹忌がやってくる

氏は同市を会場に開催されている「日本スリーデーマーチ」の実行委員長も永らく務められましたが、そこにも光太郎の影響があったそうです。

「文化運動」という部分では、やはり光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚と親交を結ばれ、光太郎胸像を含む高田の彫刻32点を配した同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。亡くなった後も、氏のご遺徳による業績が続いているわけです。


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平成27年(2015)、氏のご自宅にお邪魔する機会がありました。その際に氏がおっしゃったお言葉が、忘れられません。「大事なのは、光太郎なら光太郎から学んだことを、あなたの人生にどう生かすか、ということです」。まさしく氏は、光太郎から受け継いだ魂を、さまざまな分野に生かされたわけで、昨日の講演でも、そのようなお話をさせていただきました。不覚にも、講演をしながら、その時の光景がよみがえり、うるっと来てしまいました。


同市では、高田博厚の関係等で、今後も色々と動きがありそうです。また情報がありましたらお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は極度に触覚の世界である。此れを浅くしては指頭の感覚、此れを深くしては心の触覚、此世を触覚的に感受し精神を触覚的にはたらかす者、それが彫刻家である。

散文「七つの芸術」中の「二 彫刻について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

故・田口氏にしても、「心の触覚」を鋭敏に働かせて、さまざまな業績を残されたのでしょう。「心の触覚」、言い換えれば「詩魂」となるでしょう。

昨日の『静岡新聞』さんの一面コラムから。 

2018年1月9日【大自在】

▼水彩紙を貼った大小のパネルに墨と白いアクリル絵の具で描かれたさまざまな造形。広い・狭い、長い・短いで構成された直線や帯と、そこに白くかすれた不規則な模様。竹林やのれんのようでもあり、生物のゲノム(全遺伝情報)を示すマップにも見える
 ▼目を凝らすと、線と点の規則性があることに気付く。隠れていたのはモールス符号。例えば縦横3メートルの大作は高村光太郎の智恵子抄の一節で、手元のコード表を頼りに作品を読みながら鑑賞することができる不思議な“書”だった
 ▼「トン・ツーが言語体系となった世界で、どんな言葉の〝かたち〟があり得るのか」。島田市博物館で開催中の企画展。墨象作家宮村弦[みやむらげん]さん(37)=同市=は、デジタル通信の発達ですっかり廃れたモールス符号を文字として捉え直した
 ▼会場にはモールス符号の仮想世界をイメージしてゲスト作家が制作した音楽も静かに流れる。未知の芸術の息遣いに包まれながら、既成書道の枠を超えた造形として発展する墨象の奔放さに驚き魅了された
 ▼大学院で書道を修め、文字をベースにしつつアート活動を続ける宮村さん。最近、書が人間の生活から離れていくように感じられてならないという。「毛筆でも鉛筆でもいい。書く文化が土台になくては考える力も弱まってしまう」
 ▼冬休みが終われば学校では書き初め大会。お手本を横に筆運びを練習したり、新年の決意を力強く文字にしたり…。清書するときの緊張感は誰にも覚えがあろう。そんな小学生時代の思い出は宮村さん自身の原点でもあるそうだ。


こんな展覧会をやっていたのか、と、調べてみました。すると、以下の通り。もはや会期末でした。 

第71回企画展「宮村弦 -モールス・コード- 新しい言葉の{カタチ}」

期 日  : 2017年12月9日(土)~2018年1月14日(日)
会 場  : 島田市博物館 静岡県島田市河原1-5-50 
時 間  : 午前9時~午後5時
料 金  : 一般 300円  20名以上 240円  中学生以下 無料
休館日  : 月曜日

「平成27年度島田市文化芸術奨励賞」を受賞した宮村弦は、書をベースに文字や言語を「意味を宿した象徴(シンボル)」へ昇華させることを目指した作品を多く生み出しています。今回の企画展では、宮村弦の感性で、モールス・コード(モールス符号)を視覚化した作品を一堂に展示します。また、ゲストアーティストに音楽家・斉藤尋己(ひろき)氏を迎え、モールス・コードの作品世界を音として表現した合作も展示します。

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面白いことを考えるものだと思いました。

こちらが「智恵子抄」。

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智恵子歿後に書かれた「亡き人に」(昭1d53e98e和14年=1939)の最終行「あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」だそうです。

さらに調べたところ、同じ作品は、ちょうど一年前の今頃、東京都美術館さんで開催されていた「TOKYO 書 2017 公募団体の今」展にも出品されていたとのこと。存じませんでした。

当方の情報収集力もまだまだです(汗)。


お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

“文句ぬきの造型表現”慾望の強さが私を造形美術に駆りたてる。

散文「作家言」全文  昭和5年(1930) 光太郎48歳

雑誌『美術新論』に載った肖像写真のグラビアに添えられた一言。

宮村氏なども、こういう気持ちで作品制作に当たられているのではないでしょうか。

定期購読しております日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』1月号が届きました。今年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。

今号は、花巻高村光太郎記念館さんで所蔵している書、「詩とは不可避なり」の揮毫が紹介されています。戦後の花巻在住時に書かれたものです。

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今号はこれ以外に、上記「詩とは不可避なり」の書も展示されている、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」の紹介も載せていただいています。

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定価822円で、一般書展での取り扱いはなく、オンライン購入のみですが、ぜひどうぞ。


花巻関連でもう1冊、注文しておいた書籍が届きました。

温泉天国 ごきげん文藝

2017年12月30日 杉田淳子、武藤正人編 河出書房新社 定価1,600円+税

おとなの愉しみを伝えるエッセイアンソロジー「ごきげん文藝」。第一弾は、日本中に点在する「温泉」をテーマにしたエッセイ32篇を収録。ぽちゃんと浸かれば、そこはまさに天国です。

目次
 湯のつかり方(池内紀) カムイワッカ湯の滝(嵐山光三郎) ぬる川の宿(吉川英治)
 湯船のなかの布袋さん(四谷シモン) 花巻温泉(高村光太郎) 記憶(角田光代)
 川の温泉(柳美里) 美しき旅について(室生犀星) 草津温泉(横尾忠則)
 伊香保のろ天風呂(山下清)
 上諏訪・飯田(川本三郎) 村の温泉(平林たい子)
 渋温泉の秋(小川未明) 増富温泉場(井伏鱒二)
 美少女(太宰治) 
 浅草観音温泉(武田百合子) 温泉雑記(抄)(岡本綺堂) 硫黄泉(斎藤茂太)
 丹沢の鉱泉(つげ義春) 熱海秘湯群漫遊記(種村季弘) 湯ヶ島温泉(川端康成)
 温浴(坂口安吾) 温泉(北杜夫) 母と(松本英子) 
 濃き闇の空間に湧く「再生の湯」(荒俣宏) 春の温泉(岡本かの子)
 ふるさと城崎温泉(植村直己) 奥津温泉雪見酒(田村隆一) 
 別府の地獄めぐり(田辺聖子)
 温泉だらけ(村上春樹) 温泉で泳いだ話(池波正太郎)
 女の温泉(田山花袋)

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光太郎の「花巻温泉」が収録されています。これは、昭和31年(1956)、『旅行の手帖』第26号に掲載された談話筆記です。花巻温泉さん以外に、志戸平温泉さん、大沢温泉さん、鉛温泉さん、台温泉さん、そして現在は無くなった西鉛温泉が紹介されています。

非常にユーモラスな部分もあり、そうと知らずに読めば、また行くつもりなんだろうと言う気がする文章ですが、これが語られたのは、その死の一ヶ月半前。既に自らの命の火が消えかかっている自覚が十分にあった時でした。もはやそれらの温泉に浸かることは叶わないと知りつつ、かつて病んだ身体を癒してくれたそれぞれの温泉や、そこで出会った人々に対する哀惜の言葉が、胸を打ちます。

その他の人々の作品も興味深く拝読。面白いのは、現代の作家さんたちも、光太郎ら近代の人々も、裸になって湯に浸かってしまえば変わらない、という部分です。ある意味、日本人の魂ですね(笑)。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

立体感とは、存在感の中核、空間の一点に確かに構造(コンストラクト)せられたものの感、量の確認、つかみ得る感、消し難く、滅ぼし難い深厚の感、魂の宿るに足りる殿堂の感、自体具足の小宇宙感。彫刻に関する私の諸考察はすべてこの立体感を中心とした放射線状に在ります。

散文「彫塑総論」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

この時期、ブロンズの塑像でも、木彫でも、新境地に至る実作をものにしていた光太郎。その裏側には確固とした理論がありました。

昨日から1泊2日で、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

昨朝、10時台のやまびこ号に乗り、一路、花巻へ。郡山近辺で雪がかなり積もっており、これは雪中行軍となりそうだと思っていたところ、局地的なものだったようで、その後は仙台を過ぎ、一関あたりまで雪はほとんど見られませんでした。しかし安心していたのもつかの間、水沢、北上と進むにつれ、再び銀世界に。1時30分過ぎに着いた新花巻駅前は、こんな感じでした。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんを目指し、レンタカーを駆りました。雪道の運転は久しぶりでしたが、つつがなく到着。除雪車も出ており、ありがたかったです。

花巻市街より標高も高く、山ふところ的な場所ですので、こんな感じ。しかしこれでもピーク時に比べれば、てんでまだまだの積雪でした。

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記念館さんでは、先週の土曜から、花巻市内の文化施設5館の共同開催、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環として、「高村光太郎 書の世界」展が始まっています。

地元報道機関に案内を出し、内覧会的に、館のスタッフ氏と当方による展示品等の解説などを行いました。花巻ケーブルテレビさん、『読売新聞』さんがいらしていました。ケーブルテレビさんは当方の解説を撮影。緊張しました(笑)。他社は既に取材を終えていたりということでした。NHKさんは、この日に行われた5館を廻るバスツアーに同行、午前中に取材されたとのこと。今朝のローカルニュースで流れましたが、明日、ご紹介します。

常設展示以外に、今回、特に展示されているのは11点。珠玉の書ばかりです。ほとんどが、光太郎がこの地にいた戦後のものです。

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左は「美ならざるなし」。二重否定は強い肯定(笑)。右は、花巻のリンゴ農家、故・阿部博氏に贈ったもので、阿部氏を歌った即興詩「酔中吟」が書かれています。

 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光 紅玉 ヂリシヤス

「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。七・七調四句の俗謡体、おそらく即興で作ったものです。

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地元の太田中学校(現・西南中学校)に贈った書。「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」。

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左は詩「偶作十五篇」(昭和2年=1927)中の「急にしんとして山の匂いのして来る人がある」。揮毫は昭和20年(1945)だそうです。右は「詩とは不可避なり」。昭和3年(1928)に刊行された草野心平の詩集『第百階級』の序文に書いた「詩人とは特権ではない。不可避である。」あたりが下敷きになっています。

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「こころはいつもあたらしく」。昭和25年(1950)、盛岡少年刑務所に贈った書の下書き的なものと推定されます。完成形は「いつも」ではなく「いつでも」となり、現在も同所の所長室に掲げられています。太田中学校と同じく、やはり青少年向けということで、句がかぶっています。

「日月清明」「皆共成仏道」「不垢不浄」、それから左下の「顕真実」。このあたりは光太郎が習慣としていた新年の書き初めです。山小屋周辺の住民に贈られました。すべて出典は仏典で、信心深かったこの辺りの住民への心遣い、また、自身も仏の教えへの関心が高まっていたことの表れかも知れません。

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右上は、花巻市桜町に建つ、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑の拓本です。光太郎の揮毫により昭和11年(1936)に建立されましたが、誤字脱字の追刻が昭和21年(1946)に行われ、それ以前の拓本です。当時としては珍しく、写真製版で縮小されています。

これ以外にも、常設展示で書が飾られており、そちらも含めると、かなりの点数になります。中にはおそらく初公開と思われるものもあります。


ところで、記念館さん入り口ではサンタクロース姿の光太郎がお出迎え(笑)。

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クリスマスが近いというだけでなく、昭和24年(1949)、山小屋近くの山口小学校の学芸会で光太郎がサンタに扮した故事にちなみます。

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記念館さんを後に、山小屋まで歩きました。

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冬期間は、外からしか見られませんし、バリアフリーの工事が入っています。まだまだこれから積雪が増え、雪で埋まります。まったくこんなところでよくぞ7年間も……と、改めて思いました。厳冬期のこの小屋を見ずして、光太郎を語るなかれと思います。

この後、再びレンタカーを駆って、光太郎もたびたび泊まった大沢温泉さんへ。

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以下、また明日。


【折々のことば・光太郎】

芸術は人間を慰めるものでなくて、人間を強めるものである。面白がらせるものでなくて、考へさせるものである。人間をひき上げるもの、進ませるもの、がつしりさせるもの、日常の苦しみを撫するに姑息を以てするのでなくて、其苦しみに堪へる根帯の力を与へるものである。

散文「芸術雑話」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

光太郎にとって「書」も、こうした芸術の一環だったと思われます。

今日明日と、1泊で花巻に行って参ります。

花巻市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館さん、萬鉄五郎記念美術館さん、花巻市総合文化財センターさん、花巻市博物館さん、そして高村光太郎記念館さんの5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試みが始まっています。題して「ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」。

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高村光太郎記念館さんは、今年度からの参加で、書を軸にした企画展示が為されています。

高村光太郎 書の世界

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年2月26日(月)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
休館日 : 12月28日(木)~1月3日(水)
料 金 : 一 般 550円/高校生・学生 400円/小・中学生 300円
        ※団体入場(20名以上)は上記から一人あたり100円割引

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。戦火の東京から花巻へ疎開し、その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を続け、彫刻制作を一切封印しました。
 山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、花巻に大小さまざまな『書』を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では彫刻・文芸と並び、光太郎・第三の芸術とも言われる『書』を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。

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会期的には既に始まっているのですが、報道陣向けの内覧が、本日14時からだそうで、当方、その頃参上します。それに合わせて日程を組んでいただいたようで、恐縮です。


他館で光太郎に関わるのが、花巻市博物館さん。こちらは明日、拝見に行くつもりでおります。

及川全三と岩手のホームスパン

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年1月28日(日)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松26-8-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
休館日 : 12月28日(木)~1月1日(月)
料 金 : 小・中学生:150円(100円)  高校・学生:250円(200円)
      一般:350円(300円)  ( )内は20名以上の団体料金

大正期から農家の副業として作られていた羊毛織の「ホームスパン」に植物染の技術を導入し、美術的な価値を与え、工芸品としての地位を確立させた及川全三(おいかわぜんぞう)【花巻市東和町出身】。
全三のホームスパン工芸への取り組みと民藝運動を提唱した柳宗悦 (やなぎむねよし)との交流についても所蔵資料とともに展示紹介します。

展示構成
1.及川全三のこと
 高等小学校から岩手のホームスパン業界を育てるまでの全三の生涯を紹介します。
2.及川全三とホームスパン
 全三とホームスパン工芸への取り組みについて紹介します。また、羊毛織のホームスパンを知るために、ホームスパンの概要や岩手とホームスパンとの関わり、製作工程なども併せて紹介します。
3.柳宗悦との交流
 民藝運動を提唱した柳宗悦との交流について、柳宗悦の人物像を踏まえて紹介します。
4.全三の弟子と岩手のホームスパン工房
 全三の内弟子である、福田ハレや鈴木光子の紹介とともに、全三の弟子たちによって設立・技術指導されたホームスパン工房を紹介します。

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及川の名は、光太郎日記に頻出します。羊毛で作るホームスパンの風合いを好んだ光太郎が、及川や、その弟子の福田ハレなどに自分用のものを依頼しています。高村光太郎記念館さんに展示されている光太郎の服もホームスパン。太田村の振興のため、及川の手を借りて光太郎も村でのホームスパン制作を推奨、山小屋近くに住んでいた戸来幸子という女性が織ったものを、盛岡で仕立ててもらったそうです。

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また、日記には、光太郎が東京から疎開した際に持ってきた荷物の中に、イギリスの染織家、エセル・メレ(1872~1952)の織ったホームスパンの大きな布(膝掛け、または毛布的な)が入っていて、及川に何度もそれを見せたことが記されています。

その現物と思われる布も、高村光太郎記念館さんに所蔵されています(展示はされていません)。で、花巻市博物館さんで「及川全三展」ということで、貸し出されるのかなと思っていましたが、それは実現しませんでした。

いずれそのあたり、大きな動きがあるのではないかと思っております。またその折には詳しくご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

自然は常に子を見守る親の心を持つてゐる。自然が進む生命は即ち私達の進む生命である。私達の苦しみ、悩み、喜び、悲しむ道程は即ち自然の苦しみ、悩み、喜び、悲しむ道程である。自然は賢明であるが、自然は常に命がけである。自然は人間を育てるために無数の人間を作る。無数の時代を作る。そして機会を待つ。

散文「印象主義の思想と芸術」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

この前年に書かれた詩「道程」とリンクしています。特に詩集『道程』掲載形の9行ショートバージョンではなく、雑誌『美の廃墟』に初出時の102行ロングバージョン

「印象主義の思想と芸術」は、天弦堂書房から書き下ろしで刊行された、光太郎最初の評論です。250ページほどあり、おそらく前年、オリジナル「道程」と並行して書き始められていたのではないかと推定できます。


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こちらは、「パラ」ということで、日中韓の障がい者の方々による書の作品展がメインでしたが、特別展示と言うことで、光太郎を含む各界著名人の書も展示されていました。

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展示されていた光太郎の書は、当方、初めて見るものでした。一見して昭和10年代のものだな、とわかりましたが、帰ってから調べたところ、昭和17年(1942)の詩「みなもとに帰るもの」の一節でした。

   みなもとに帰るもの002

 万古をつらぬいて大御神(おほみかみ)はおはす。
 いのちのみなもとを知るもの力あり、
 微少なほ且つ大業を果す。
 おのが身に思ひわずらふもの、
 ひとへに暗くして大義に通ぜず。
 ただみなもとにかへるを知るもの、
 日月皎然、
 生と死とを問ふことなく、
 一切をあげて大御心にこたへまつる。
 冬と春と夏と秋とすでに去り、
 十二月八日再びきたる。
 軍神は死せず、
 いのちかがやきてわれらを導く。
 義勇公に奉ずるの時今日(こんにち)にあり。
 われらあらゆる道に立つもの、
 悉くいのちのみなもとにかへらんかな。
 みなもとに帰するものは力あるかな。

初出は昭和17年(1942)11月の『東京日日新聞』。「軍神につづけ」の総題で13人の詩篇が連載されたその第一回です。同紙ではこの詩としての題名は付けられて居らず、後に大政翼賛会文化部発行のアンソロジー『軍神につづけ』(昭和18年=1943)に収められた際、「みなもとに帰するもの」の題が付され、さらに同年の光太郎詩集『をぢさんの詩』で「みなもとに帰るもの」と改題されました。

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出品されていた書は色紙で、この詩の2行目から引用された「みなもとをしるもの力あり」。詩では「知る」と漢字ですが、書では「しる」と仮名表記になっていました。「光」一字のサインも入っていました。

この時期、特に学徒動員で出征する学生が、入営前に光太郎の元を訪れ、色紙や光太郎詩集の見返し、さらに日章旗などに揮毫してもらうということが多くありました。新聞雑誌や各種アンソロジー、そして光太郎自身の詩集などに矢継ぎ早に発表されたこの手の翼賛詩を読み、またはラジオで朗読された放送(この詩も昭和17年=1942の12月5日に俳優・岩田直二の朗読がオンエアされています)を聴いた若者達が、自らを奮い立たせるため、光太郎の書を求めたのです。

当方、実際のそういう体験談を複数の方々からお伺いしました。今春亡くなった埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏、光太郎と深い交流のあった、ともに画家の深沢省三・紅子夫妻の子息・竜一氏、東洋大学の学生だった藤尾正人氏。また、軍隊ではなく中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場に勤労動員されていた、女優・渡辺えりさんの父君・正治氏にも。

おそらく、出品されていた書も同じような経緯で書かれたものではないかと推定されます。当方がお話を伺った皆さんは、それぞれ九死に一生を得て戦後まで生き延びられましたが、この書をもらった人は、どういう運命をたどったのか、興味深いところです。

結局、戦場や動員先の工場などで露と消えた命も多数あり、光太郎はある意味、自らがそれらの若者を死に追いやったことを深く反省、戦後は花巻郊外太田村の山小屋で、自虐ともいえる過酷な蟄居生活を7年間続け、天職と考えていた彫刻も自らへの罰として封印し、贖罪に徹しました。

今回の展覧会は、中韓の皆さんの作品も多く展示されていました。日本にこういう詩人がいたということが、広く知られて欲しいものだと思いました。


豊島区役所さんをあとに、続いて、荻窪駅近くの荻窪小劇場さんに向かいました。こちらでは、Dangerous Boxさんという演劇ユニットによる「門ノ月~Aida~/智恵子抄」という公演を拝見。

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この手の公演(特に複数回上演される場合)で、満席になって入れないということはありえなかったので、今回もなめてかかっていましたが、案に相違し、ようやくキャンセル待ちで入れていただきました。小劇場ですのでキャパが少なかったというのもありますが、どうも、根強いコアなファンの方々が存在するようです。

一言でいうと、若い皆さんのパワーに圧倒されました(笑)。

「智恵子抄」系は、年配の方が演じるケースが多く、また、若い皆さんの劇団でも、脚本はベテランの方だったりし、どちらかというと「穏健な」舞台になる印象があります。また、やはりどうしても、一般の方々向けに光太郎智恵子の生涯的な部分を「説明」せざるを得ないかな、という気がします。たとえば昨年、十和田市で上演された地元劇団エムズ・パーティーさんによる「十和田湖乙女の像のものがたり」朗読劇は、当方が書いたジュブナイルを元にして下さいましたが、大半は「説明」でした。それはそれで小学生にでも理解してもらえることを目指した親切心なわけで、場合によっては必要です。

しかし、「理解されないのが怖い」という理由で、過度に「説明」をする必要はないのだな、と感じました。今回の舞台では、極力「説明」を避け、とにかく取り上げる「智恵子抄」の詩篇と、演者のパフォーマンスで勝負、という感じでした。あれを観て光太郎智恵子の生の軌跡が詳しく分かるかというと、そうではありません。しかし、わからないなりに感じるものは多々あったと思います。「Don't think! Feel!」ですね(古っ)。

説明抜きで感じさせるには、パワーが必要です。バックの音楽には神井大治さんという方のエレキ三味線が入り、かなりの大音量。それに負けずにノーマイクでやらねばなりませんから、光太郎役の役者さん、「絶叫」に近い朗読でした。20分ほどの上演時間でしたが、あれをあれ以上続けたら死ぬな、と思いました(笑)。

それから袴姿の智恵子役の女性、白い装束のダンサーの女性。現身(うつしみ)の智恵子と、さまざまなものから解放されたがる智恵子の内面のように見え、影と形の如く向かい合う光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のようだと感じました。

シュールといえばかなりシュール。これは若い皆さんでないと演じきれない演出だな、と思いました。

しかし、ある意味突き放して「感じ」させるだけでなく、理解を助けるための工夫もちゃんとされていました。朗読された光太郎詩篇のうち、現代では意味が通じにくい詩句は、わかりやすいように改変していたのです。「レモン哀歌」では「山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸」の「山巓」を「山のてっぺん」的に、「梅酒」の「厨に見つけたこの梅酒」の「厨(くりや)」を「台所」というふうに。著作権の中の同一性保持権(著作物及び その題号につき著作者の意に反して変更、切除その他の改変を禁止することができる権利)という観点から見ればNGですが、この場合には有りでしょう。

もう一つの演目、「門ノ月」の方は、自らも命を絶った殺人犯のいまわの際の夢幻、的な内容で、部分的には「智恵子抄」にもリンクしていました。こちらも熱のこもった舞台で、根強いコアなファンの方々が存在する理由がよくわかりました。

いつも書いていますが、書にしても舞台にしても、こういう活動を通し、光太郎智恵子の世界に興味を持って下さる人の輪が広がっていくことを祈念してやみません。


【折々のことば・光太郎】

一切が商品、一切が金、 あぶくのやうにゼニをつかんで 米粒ひとつも生産しない。 頭ばかりのゴーストが すばやく、ずるく、小またをすくひ、 口腹ばかりの怪物が 巷をうめてかけずりまはる。 ト、ウ、キ、ヤ、ウはどこにもない。

詩「東京悲歌」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

花巻郊外太田村から7年ぶりに帰ってきた東京。戦後の混乱期の残滓はまだあちこちに残っていたと思われます。そろそろ高度経済成長が始まる時期ですが、その分、環境問題などに対する配慮も無かった時代ですし、おそらく今の東京より醜い都市だったのではないでしょうか。

土曜日、久しぶりに都内でかなり長い距離を歩きました。道々、現代の東京であれば、かえって光太郎の眼には好ましく写る部分もあるのでは、とも思いました。

情報を得るのが遅れ、始まってしまっている展覧会を2つ。いずれも都内で開催中です。 

となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展

期 日 : 2017年11月1日(水)~5日(日) 11月8日(水)~29日(水)の水・土
会 場 : 東京都指定名勝 旧安田楠雄邸庭園 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00
料 金 : 一般700円、中高生400円、小学生以下無料(保護者同伴必須)

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東京文化財ウイーク2017参加企画

写真家・高村規(ただし)。1933‐2014 父は人間国宝の彫金家・豊周(とよちか)、 伯父は彫刻家で詩人・光太郎、 伯母は画家で紙絵作家・智恵子、そして祖父の木彫家仏師・光雲(こううん)・・・本郷区駒込林町155番地(現・文京区千駄木5丁目)、 明治25年(1892)にはじまる芸術家の系譜。

芸術家の仕事を後世に伝えた写真家が写し撮った町がわたしたちに語りかける。 高村規の原点、懐かしい駒込林町、そして千駄木と名を変えた町の風景。ぜひご覧ください。


会場の旧安田楠雄邸は、光太郎の実家にして、現在も光太郎の実弟・豊周が継いだ髙村家の「となり」です。普段から水、土に一般公開はされていますが、時折、このような形で企画展示が為されます。「となりの髙村さん」展の第1弾が開催されたのが平成21年(2009)。やはりその頃ご存命だった光太郎の令甥で写真家髙村規氏の写真などが展示されたそうです(当方、そちらには行けませんでした)。

ちなみに光雲、豊周、規氏、そして現在の規氏ご長男達氏と続く家系は、戸籍上は通常の「高」だそうですが、昔から慣例的に「髙」の字を使用されています。戸籍の届けを光雲の弟子の誰かにやってもらったところ、「髙」ではなく「高」で登録してしまったとのこと。長男でありながら家督相続を放棄し、分家扱いとなった光太郎は、戸籍が「高」なのだから、と、「高」で通しました。

今回も、規氏の作品が展示されています。昔の千駄木界隈や、光雲、豊周、光太郎、智恵子らの作品を撮影したもの等だそうです。チラシに使われているのは、昔の団子坂です。

11/1から始まっていて、5日までの期間は髙村家の見学もあったそうです。不覚にも情報を得られませんでした。すみません。


もう1件。 こちらは一昨日からです。 

2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展

期     日 : 2017年11月8日(水)~11月12日(日)
会     場 : 豊島区役所本庁舎1階としまセンタースクエア 東京都豊島区南池袋2-45-1
時     間 : 午前10時~午後6時
料     金 : 無料

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概要をわかりやすくすために、後援に入っている『毎日新聞』さんの東京版記事から。 

アジア・パラアート展  始まる 5カ国100人の力作展示 揮毫に会場沸く 南池袋 /東京

 「アジア・パラアート~書~TOKYO国際交流展」(日本チャリティ協会主催)が8日、豊島区南池袋の区役所1階「としまセンタースクエア」で始まった。日本、中国、韓国などアジア各地で活躍する障害者の書作品を通して交流を図ろうという企画。会場には5カ国100人の感動的な力作が展示されている。 
 8日は日本、中国、韓国の書家による開幕を記念した揮毫(きごう)会が開かれ、訪れた多くの人たちから大きな声援が送られた。日本からはダウン症の金澤翔子さんが参加。大きな筆を勢いよく動かし「共に生きる」を書き上げた。
 四肢体幹機能障害の鈴木達也さんは、自ら考案したヘッドキャップに筆を取り付け、首の力で草書体の「命」を書いた。事故で両腕を失った中国の書家、趙靖さんは、筆を口にくわえて「友誼常青」を書き、ソウル五輪のオープニングで見事なパフォーマンスを見せた韓国の義手の書家、チャン・ウ・ソクさんは、「サイクリング」を巧みな筆致で表現し、会場は盛大な拍手でわいた。
 特別展示では、吉田茂、山本五十六、高村光太郎、水上勉、ペギー葉山の各氏はじめ、安倍晋三首相ら各界著名人の作品45点も飾られている。
 12日まで。入場無料。問い合わせは同協会(03・3341・0803)。【鈴木義典】
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というわけで、基本、「パラ」ですので、パラリンピック的に、障がい者の皆さんの作品展ですが、特別展示ということで、近現代の著名人の書も展示されているそうです。そのトップに光太郎の名。ありがたや。他にも光太郎と関係があった小川芋銭、平塚らいてうなどの書も展示されています。


明日、元々上京する予定でしたので、今回ご紹介した2件も拝見し、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

おれは気圏の底を歩いて 言葉のばた屋をやらかさう。 そこら中のがらくたに 無機究極の極をさがさう。

詩「ばた屋」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「ばた屋」は、現代ではいわゆる放送禁止用語のコードに抵触するでしょう。古紙や布、金属片などを回収して換金する職業です。それも路上から拾い集めて、というのが主流でした。おそらくこの当時の東京にも多かったのではないかと思われます。

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京する直前の作です。「ばた屋」の闊歩する東京で、自らは「言葉のばた屋」として、日常生活の中から言葉を拾い集め、詩作をしようということでしょう。

たまたまネットで見つけました。

伊藤康子書展

期    日 : 2017年10月24日(火)~29日(日)
会    場 : 晩翠画廊 仙台市青葉区国分町1丁目8-14 仙台第2協立ビル1F
時    間 : 10:00-19:00(最終日は17:00まで)

作品は約30点。 小品から大作、掛け軸、パネルを各種展示します。 そのほか、花巻臺焼で染め付けた磁器や、 2018年カレンダー、ポストカードが並びます。

古山拓画伯との合作による大作、 「高村光太郎詩 岩手の肩」は圧巻です。 どうぞご高覧くださいますよう、ご案内申し上げます。

なにぶんご多忙の事とは思いますが、 画廊でお会いできますことを楽しみにしております。 秋の紅葉狩りのおついでに、お運びくださいませ。

※作家は毎日午後より在廊の予定です。

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書家の伊藤康子さん。盛岡ご在住で、光太郎と縁の深かった宮沢賢治系のお仕事もなさっています(そのため、かすかにお名前を記憶しておりました)。それから画家の古山拓氏。こちらも岩手のご出身で、やはり賢治系の作品もおありのようです。お二人のコラボで光太郎詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)に取り組まれたとのこと。ありがたや。

ちなみに「岩手山の肩」の直筆原稿は、盛岡てがみ館さんで常設展示されており、この夏も拝見して参りました。岩手県民のソウルマウンテン、岩手山を謳ったものです。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

智恵さん気に入りましたか、好きですか。 うしろの山つづきが毒が森。 そこにはカモシカも来るし熊も出ます。 智恵さん斯ういふところ好きでせう。
連作詩「智恵子抄その後」中の「案内」より
 
昭和24年(1949) 光太郎67歳

亡き智恵子に、蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋付近を「案内」するという詩です。齢(よわい)67になって、この詩を書ける光太郎を、当方は尊敬します。

智恵子の死までを謳った昭和16年(1941)刊行の龍星閣版『智恵子抄』の内容に、戦後の詩篇などを加えて草野心平が編んだ新潮文庫版の『智恵子抄』(昭和31年=1956)で見ると、この詩がドラマのクライマックスのような位置づけになります。

岩手レポートの4回目となります。

7/30(日)、盛岡市の岩手県立美術館さんで開催中の、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」を拝観いたしました。

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同名の企画展は、かなり以前から全国各地を巡回していますが、今年初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、のち全国的にニュースとなった、新発見の川端康成旧蔵の書画などが、今回初めて展示されています。


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光太郎の書も1点。詩「樹下の二人」(大正12年=1923)中のリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」を扇面に揮毫したものです。現物を見てもいつ頃の揮毫なのか、何とも言えないところですが、筆跡的には間違いのない物でした。ネット上で小さな画像は事前に見ていましたが、現物を見ると、それまで意識しなかった余白の使い方などの絶妙さに改めて気づかされました。

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公式図録は過去の全国巡回の際のものと同003一のようで、新発見のものは掲載されていませんでした。残念に思っていたところ、目玉となるようなものについては、ブロマイド的に写真用紙にプリントした物が販売されており、そちらを購入いたしました。A4判で、800円だったと思います。

その他、光太郎と関わりのあった人物の作品などが数多く展示されており、興味深く拝見いたしました。彫刻のロダンや高田博厚、絵画では梅原龍三郎、岸田劉生、木村荘八、安井曾太郎。書で夏目漱石、与謝野晶子、室生犀星、北原白秋など。右はロダンのブロンズ「女の手」。ポストカードが売られていたので購入しました。

光太郎に関わらないものも逸品ぞろいで(国宝も含まれていました)、川端・東山の審美眼に感心させられました。また、下世話な話ですが、その財力にも(笑)。

下記は出品目録です。クリックで拡大します。ここにはブラウザの「戻る」ボタンで戻って下さい。

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こちらは8月20日までの開催です。ぜひ足をお運びください。


それから、常設展示も拝見。岩手県立ということで、岩手出身の美術家の作が中心でした。特に興味を引かれたのが、それぞれ多数の作品が展示されている萬鉄五郎、松本竣介、そして舟越保武。やはりそれぞれ光太郎と関わりがありました。萬は大正元年(1912)から翌年にかけてのヒユウザン会(のちフユウザン会)で光太郎と一緒でしたし、松本は昭和10年代に主宰していた雑誌『雑記帳』に光太郎の寄稿を仰いでいます。そして舟越はこのブログでも何度かご紹介しましたが、光太郎がさまざまな援助を行った岩手県立美術工芸学校で教鞭を執り、それ以前には、お嬢様の千枝子さんの名付け親になってもらっています。

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こちらは舟越の代表作にして、第5回高村光太郎賞受賞作の「長崎26殉教者記念像」のうちの4体。

舟越の彫刻は、館の入り口に野外展示されてもいました。


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というわけで、なかなか充実の展示でした。

当初予定ではここだけ観て帰るつもりでしたが、せっかく盛岡まで来たし、しばらく盛岡に来る予定もないので、市街に車を向けました(県立美術館さんは若干郊外です)。少しだけ光太郎に関わる常設展示が為されているところもついでに観ておこうと思った次第です。

明日は岩手レポートの最終回で、そのあたりをお伝えします。


【折々のことば・光太郎】

私は青年が好きだ。 私の好きな青年は真正面から人を見て まともにこの世の真理をまもる。 私の好きな青年はみづみづしい愛情で ひとりでに人生をたのしくさせる。

詩「私は青年が好きだ」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

しかし、数年後にはその大好きな青年たちを死地に追い込む詩文を乱発します。それだけに、戦後になっての悔恨は深いものがあったのでしょう。7年間に及ぶ、花巻郊外太田村での蟄居生活に結びつくのです。

1泊2日の行程を終え、昨日、岩手から千葉の自宅兼事務所に帰って参りました。5回ほどにわけてレポートいたします。

7/29(土)、最初に向かったのは、花巻市博物館さん。企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」拝見のためでした。

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左はチラシ、右は図録の表紙です。

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、その間に、隣村の旧太田村に疎開していた光太郎と知り合い、交流を深めています。

ところで、以前、このブログで等観について、「花巻(湯口村)に疎開していた」的なことを書きましたが、誤りでした。従来刊行されていた文献にそう書かれているものが多く、それを鵜呑みにしていました。正確には妻子を千葉に残しての単身赴任、といった感じだったようです。その期間が長かったのと、チベット将来の品々を疎開させたことから、地元でも「等観さんは花巻(湯口村)に疎開していた」と思いこんでいた人が多かったのこと。

さて、展示。ほとんどが、そのチベット将来の品々でした。最後に「等観と花巻」というコーナーが設けられ、光太郎から贈られたものが展示されていました。

まずは、昭和22年(1947)9月5日、光太郎が円万寺の等観の住まいを初めて訪れた際に揮毫した団扇。

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以前から写真では見ていましたが、実物は初めて拝見しました。それから、単なる渋団扇だろうと勝手に思い込んでいたところ、さにあらず。貼ってあるのはやはりチベットから持ち帰った紙だということでした。光太郎に続いて、元旧制花巻中学校長の佐藤昌も揮毫しています。佐藤は昭和20年(1945)8月10日、花巻空襲でそれまで滞在していた宮沢賢治の実家を焼け出された光太郎を、無事だった自宅に一時住まわせてくれていました。

それから、画像はありませんが、同じ時に光太郎が等観に贈った、草野心平編、鎌倉書房版の『高村光太郎詩集』。残念ながらその部分は見えませんでしたが、等観当ての識語署名が入っているとのことでした。

そしてもう一点、昭和24年(1949)1月5日に等観に宛てて書いた葉書。

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曰く、

拝啓、先日はお使ひにて八日にお招き下され、忝く、当日参上するのをたのしみに致し居りましたが、昨夜以来降雪となり、その降雪量次第で出かけにくくなるやも知れず、事によると不参になるとも考へられますので念の為め右一寸申上げます。なるべくなら出かけたいとは存じますが。

この前後の光太郎日記から。

十時頃観音山より例の老翁使に来り、八日に来訪され一泊されたしと多田等観さんの伝言を伝へらる。多分ゆけるならんと返事す。茶を入れる。(1月3日)

昨夜来雪。終日ふりつづき、一尺ほどつもる。(略)多田等観氏にハガキをかき、降雪量多ければ八日に不参するかもしれぬ旨述べる(1月5日)

観音山行を中止する。雪中歩行が一寸あぶなく感ぜられる。(1月8日)

午前多田等観氏来訪。近く東京にゆくにつき来訪の由。ゆけなかつた事を述べる。観音山の話、法隆寺の話、西蔵の話などいろいろ、(略)ひる餅をやき、磯焼にして御馳走する。午后一時半辞去。清酒一升もらふ。昨日一緒にのむつもりなりし由。(1月9日)

今回、葉書が展示されているという情報は事前に得ておりましたが、細かな日付などは不明でした。日記と照らし合わせると、おそらくこの時のものだろうと思っていましたところ、その通りでした。パズルのピースがかちっと嵌る感じで、こういうところが面白いところです。


その後、等観が単身赴任していた郊外旧湯口村の円万寺さんに。以前もここを訪れたことはありましたが、このブログではそのあたり、省略していました。

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以前に訪れた時は路線バスを使い、麓から徒歩で登りました。かなりの坂で、きつかったのを記憶しています。光太郎も「山の坂登り相当なり。汗になる。」と日記に書いていました。今回はレンタカーを借りていたため、すいすいと。光太郎先生、すみません(笑)。

それだけに、ここからの眺望はすばらしいものがあります。「イグネ」または「エグネ」と呼ばれる屋敷森がいい感じです。

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等観が起居していた草庵「一燈庵」。

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光太郎の山小屋(高村山荘)に勝るとも劣らない粗末さです(笑)。扁額はレプリカのようで、本物は企画展に展示されていました。

その材となった「姥杉」。「尚観音堂傍に祖母杉と(ウバスギ)と称する杉の巨木の焼けのこりの横枝ばかりの木あり。この枝のミにても驚くばかりの大きさなり。枯れたる幹の方の太さ想像さる。直径三間余ならん。」と、光太郎日記にも記されています。

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こんな看板もありました。さすがに自然が豊かです。

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これだけはいただけませんが(笑)。

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遠き日、二人の巨魁の築いた友情に思いを馳せつつ、下山しました。

続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

最も低きに居て高きを見よう。 最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。

詩「冬」より 昭和14年(1939) 光太郎57

同様の表現が、このあと頻出します。しかし、この境地に本当に達するのは、やはり戦後、花巻郊外旧太田村に隠遁してからのことになります。

新刊情報です。

一昨年、NHK Eテレさんでオンエアされた「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」にて講師を務められ、光太郎の書もご紹介下さった、書家の石川九楊氏の著作集全12巻が、ミネルヴァ書房さんから刊行中です。

石川氏、光太郎の独特な書を高く評価して下さっていて、さまざまな著作で光太郎書を取り上げられています。昨年刊行された『石川九楊著作集Ⅵ 書とはどういう芸術か 書論』、『石川九楊著作集Ⅰ 見失った手 状況論』でも、光太郎に触れる部分がありました。

さて、同じ著作集の第九巻、『石川九楊著作集Ⅸ 書の宇宙 書史論』。 版元のサイトでは3月刊行となっていましたが、amazonさんなどでは今月刊行の扱いになっています。やはり光太郎に触れる部分が含まれています。定価は9,000円+税だそうです。

目次

序 書に通ず

第一部 書とはどういう芸術か
 第一章 書は筆蝕の芸術である003
 第二章 書は文学である
 第三章 書の美の三要素――筆蝕・構成・角度
 第四章 書と人間
第二部 早わかり中国書史
 第一章 古代宗教文字の誕生――甲骨文・金文
 第二章 文字と書の誕生――篆書・隷書
 第三章 書の美の確立――草書・行書・楷書
 第四章 書の成熟とアジア――宋・元・明の書
 第五章 世界史の中の中国書――清の書
第三部 早わかり日本書史
 第一章 日本の書への道程
 第二章 日本の書の成立
 第三章 新日本の書――漢字仮名交じり書の誕生
 第四章 鎖国の頹*廃と超克
第四部 書の現在と未来を考える
 第一章 西欧との出会い――近代の書
 第二章 文士の書と現代書
 第三章 戦後書の達成
 第四章 書の表現の可能性

[書の宇宙]
 第一章 「言葉」と「文字」のあいだ――天への問いかけ/甲骨文・金文
 第二章 「文字」は、なぜ石に刻されたか――人界へ降りた文字/石刻文
 第三章 「書」とは、どういうことなのか――書くことの獲得/簡牘
 第四章 石に溶けこんでゆく文字――風化の美学/古隷
 第五章 石に貼りつけられた文字――君臨する政治文字/漢隷
 第六章 「書聖」とは、何を意味するのか――書の古法(アルカイック)/王羲之
 第七章 書かれた形と、刻された形と――石に刻された文字/北朝石刻
 第八章 書の典型とは何か――屹立する帝国の書/初唐楷書
 第九章 「誤字」が、書の歴史を動かす――言葉と書の姿/草書
 第一〇章 書の、何を受けとめたのか――伝播から受容へ/三筆
 第一一章 書の、何が縮小されたのか――受容から変容へ/三蹟
 第一二章 和歌のたたずまい――洗練の小宇宙/平安古筆
 第一三章 書の文体(スタイル)の誕生――書と人と/顔真卿
 第一四章 書史の合流・結節点としての北宋三大家――文人の書/北宋三大家
 第一五章 中華の書は、周辺を吞みこんでゆく――復古という発見/元代諸家
 第一六章 書くことの露岩としての墨蹟――知識の書/鎌倉仏教者
 第一七章 書であることの、最後の楽園――文人という夢/明代諸家
 第一八章 紙は、石碑と化してゆく――それぞれの亡国/明末清初
 第一九章 万世一系の書道――変相(くずし)の様式/流儀書道
 第二〇章 いくつかの、近世を揺さぶる書――近代への序曲/儒者・僧侶・俳人
 第二一章 書法の解体、書の自立――さまざまな到達/清代諸家①
 第二二章 篆・隷という書の発明――古代への憧憬/清代諸家②
 第二三章 篆刻という名の書――一寸四方のひろがり/明清篆刻
 第二四章 新たな段階(ステージ)への扉――書の近代の可能性/明治前後

 [書の終焉――近代書史論]
 序
 書――終焉への風景
 Ⅰ
  明治初年の書体(スタイル)――西郷隆盛
  世界の構図――副島種臣
  写生された文字――中林梧竹
  異文化の匂いと字画の分節――日下部鳴鶴
 Ⅱ
  「龍眠帖」、明治四十一年――中村不折
  再構成された無機なる自然――河東碧梧桐
  最後の文人の肖像――夏目漱石
  ことばと造形(かたち)のからみあい――高村光太郎
  短歌の自註としての書――会津八一
 Ⅲ
  位相転換、その結節点――比田井天来
  主題への問い――上田桑鳩
  諧調(グラデーション)の美学――鈴木翠軒
  〈動跡〉と〈墨跡(すみあと)〉への解体――森田子龍
  文字の肖像写真(ポートレート)――井上有一
 Ⅳ
  日本的様式美の変容――小野鵞堂・尾上柴舟・安東聖空・日比野五鳳
  現代篆刻の表出――呉昌碩・斉白石・河井荃廬・中村蘭台二世

凡 例
解 題
解 説 実感的書論(奥本大三郎)


「書の終焉――近代書史論」中の、「ことばと造形(かたち)のからみあい――高村光太郎」は、完全に光太郎の項ですが、それ以外にも、「文士の書と現代書」などの部分で、光太郎に触れられているはずです。

最新刊は別巻Ⅱの『中國書史』。これが第11回配本で、最終巻の別巻Ⅲ『遠望の地平 未収録論考』が出れば完結です。このブログでご紹介した巻以外にも、光太郎に触れられている部分がありそうな気がしますので、完結後に大きな図書館で全巻を見渡してみようと思っております。


光太郎書といえば、花巻高村光太郎記念館さんの、今年度の企画展。秋には昨年に引き続き、智恵子紙絵。そして冬には光太郎書を扱うそうです。同館には光太郎書の所蔵が非常に多く、常設展示では展示しきれません。そこで、普段、展示に出していない書にも陽の目をあてようというコンセプトになるようです。

秋の智恵子紙絵ともども、詳細が決まりましたら、またお伝えします。


【折々のことば・光太郎】

私は原理ばかり語る。 私は根源ばかり歌ふ。 単純で子供でも話す言葉だ。 いや子供のみ話す言葉だ。

詩「発足点」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

空虚な美辞麗句の羅列や、もってまわったまだるっこしい物言いでなく、だから光太郎の詩はいいのだ、と、当方は思います。

来週末、花巻高村光太郎記念会さん主催の市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」のために花巻へ参ります。その際に同じ花巻の市立博物館さんで開催されている企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」も、光太郎がらみの資料(書作品や書簡)が展示されているため拝見する予定です。

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そういう話を花巻高村光太郎記念会さんにお伝えしたところ、回り回って、以前に市立博物館さんに勤務されていた方から、多田等観に触れた同館の刊行物をごっそり頂いてしまいました。恐縮です。

僧侶にして仏教学者、チベットに足を踏み入れ、光太郎同様、現花巻市の山あい(旧湯口村の円万寺観音堂)に疎開していた多田等観については、平成16年に同館が開館して以来、館の重要なテーマの一つとして、研究に取り組まれているとのこと。最初に担当されていた学芸員の方が平成23年(2011)に亡くなったあとは、専任を決めず館を上げて持ち回りで担当されてもいるそうです。

頂いた資料は、館の研究紀要、『花巻市博物館だより』、それから以前の企画展等の際に作成されたと思われる略年譜などのリーフレット。

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当方、光太郎と交流のあった頃の等観関係資料は以前にも読んでいましたが、等観という人物の全体像については寡聞の状態です。来週までにありがたく精読しようと思っております。

光太郎が初めて円万寺観音堂を訪れた際の日記から(それ以前に等観とは何度か会っています)。

翁に案内されて観音山の多田等観氏を訪問。山の坂登り相当なり。汗になる。山上は涼し。 等観氏新宅ヰロリ辺にて談話、中食、酒、御馳走になる。 観音堂にてチベツト将来の塑像千手観音を見る。彩色也。他に花巻人形の観音、馬頭観音、地蔵等あり。尚観音堂傍に祖母杉と(ウバスギ)と称する杉の巨木の焼けのこりの横枝ばかりの木あり。この枝のミにても驚くばかりの大きさなり。枯れたる幹の方の太さ想像さる。直径三間余ならん。 染瀧と称する霊泉にゆきてのむ。清冽。硅石の岩層中より流出す。 等観氏に「光太郎詩集」一部贈呈。 等観氏酒のむと程なく酔ふ。 午后三時半過辞去。 雨ふりくる。下まで等観氏送りくる。

これが昭和22年(1947)9月5日です。

同じ日の等観日記。

九時ころ六左エ門と高村光太郎氏 六左エ門孫男同行来訪。続いて佐藤元花中校長来る。堂宇から瀧へと順次案内する 馬頭観音の花巻人形かたを作ること、姥杉材を彫刻してくれること、姥杉を天然記念として保管名処たらしむるなど話ある 稗貫平野の展望には鑑賞の多くをめで庵に入りて台処 炉をことに気に入り終日そこに落付かれた。 六左 米三枡ツケモノ一重清酒四合ビン持参。鉄鉢米をたいて中食をとゞのふる。ドブ壱枡 ナス汁三ナベ作り勘のタクアン、と十年味噌がお煮となる。五時帰る 悠々無一物 満喫荒涼美を団扇に残こす。新刊高村光太郎詩集寄贈ある。

悠々無一物 満喫荒涼美を団扇に残こす」は、今回、博物館さんで展示されている団扇に、光太郎が「悠々無一物 満喫荒涼美」と揮毫したことを表します。光太郎の日記には記述がありません。この年発表された連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」という詩に、「今悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の一節があり、それを漢詩風にアレンジしたと推定されます。他にも東京神田で汁粉屋を営んでいた有賀剛という人物にも同じ短句の色紙揮毫を進呈したりもしています。

また、この際に光太郎が贈った、おそらく同年鎌倉書房刊、草野心平編の『高村光太郎詩集』と思われる書籍も展示されているそうです。謹呈の識語署名などが書かれていることが推理され、興味を引かれています。

企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」は、8月20日(日)までの開催。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

すべて若くめづらしく 冒険の可能を約束し 知られざるものへの牽引 新しき経験への初一歩 既にあるものを超えて 未だあらざるものへの進展

詩「若葉」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

昨日ご紹介した『新女苑』が若い女性向け雑誌でしたが、この詩はずばり『青年』という雑誌に寄稿されました。上記の部分だけ読むと、未来ある若者達へのエールと読めます。

しかし、この部分の直前には「たちまち爆音をたてて森すれすれに/練習の偵察機が飛ぶ」という一節があり、2年後にいわゆる「予科練」に組み込まれる海軍の「偵察練習生」に向けたものであると知れます。

やがてこの若者達は続々と戦火に斃れ、光太郎はこの詩のようにそれを煽った自分を恥じ、戦後は花巻郊外旧太田村の山小屋で、蟄居生活を自ら選択するのです。

光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村在住時に、隣村でやはり疎開生活を送っていた僧侶にしてチベット仏教学者・多田等観。お互いの住まいを行き来するなど、光太郎とも浅からぬ交流がありました。

その多田等観に関する企画展が、花巻市博物館さんで開催中。光太郎がらみの出品物も展示されているとのことです。 

没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~

期 日 : 2017年7月1日(土)~8月20日(日)
場 所 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松26-8-1
時 間 : 午前8時30分から午後4時30分まで 期間中無休
料 金 : 小・中学生150円(100円) 高校・学生250円(200円) 一般350円(300円)
         ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 無休

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展示構成 :
1.西域文化ー大谷探検隊と等観
 仏教伝播のルートの解明を目指して派遣された、学術調査隊「大谷探検隊」。中央アジアから文化財を蒐集し、日本に持ち帰った探検隊の功績を、実物資料やパネルで紹介します。
2.数奇な運命ーチベットへのみちのり
 大谷光瑞の命を受け、チベットへ入蔵するに至った等観。その経緯や、一緒に同行した人物も併せて紹介します。
3.等観が見たチベット
 チベット請来の仏教関係資料や、チベットでの僧侶の服装、日常道具、ダライ・ラマ13世との交流を紹介します。
4.釈迦牟尼世尊絵伝とチベット仏教美術
 ダライ・ラマ13世の遺言によって、多田等観のもとに送られてきた世界的にも類例の少ない貴重な資料や仏像、タンカ等を紹介し、日本仏教とチベット仏教との違いを紹介ます。
5.世界的なチベット学者
 チベット大蔵経の研究を行い、世界的なチベット学者として活躍し、日本学士院賞受賞、勲三等旭日中綬章の叙勲を受けた等観。経典や目録等を紹介します。
6.等観の交流
 多田等観が花巻の人々と交流するようになった経緯や、円万寺観音堂とのつながり等について紹介します。
 
おそらく「6.等観の交流」のコーナーに、光太郎が等観に贈ったうちわ、詩集、葉書の3点が展示されているとのことでした。

うちわは画像では見たことがありますが、現物は未見。「悠々無一物満喫荒涼美」と揮毫されています。

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詩集はおそらく昭和22年(1947)、鎌倉書房刊・草野心平編の『高村光太郎詩集』と思われますが、詳細は不明です。等観に宛てた葉書は『高村光太郎全集』等に収録されておらず、非常に興味を引かれております。

月末に昨日ご紹介した高村光太郎記念館夏休み親子体験講座「新しくなった智恵子展望台で星を見よう」のため、花巻に行きますので、その際に見てこようと思っております。

関連行事がいろいろとあります。

関連行事

・特別展示 宮沢賢治直筆原稿「雁の童子」展示
  平成29年8月1日(火曜日)から8月8日(火曜日)まで 
  上記期間以外の展示会期間中は複製品を展示しています。

・記念講演会
  日時:7月22日(土曜日)午後1時30分から午後3時まで
  演題:「大陸から花巻へ」多田等観をめぐる人々
  講師:高本康子氏(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター協同研究員)
  参加料:無料

・郷土芸能特別演舞
  日時:8月20日(日曜日)午後1時30分から午後3時まで
  出演:岩手県指定無形民俗文化財:円万寺神楽(湯口地区)
  演目:狂言「狐とり」、権現舞
  鑑賞料:無料

・館長講話
  日時:8月5日(土曜日)午後1時30分から午後3時まで
  演題:「西域・多田等観と宮沢賢治」
  講師:花巻市博物館長:高橋信雄
  参加料:無料

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

身うちあたらしく力満つる時 かの大空をみれば 限りなく深きもの我を待つ
詩「わが大空」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

永らく発表誌不明でしたが、この年に帝国書院から発行された、師範学校・高等女学校・実業女学校用の音楽教科書『音楽 五』に合唱曲楽譜として掲載されているのを確認しました。作曲は松本民之助。坂本龍一氏の師に当たります。

光太郎の手元に残された詩稿には「音楽学校へ 唱歌歌詞として」のメモ書きがあります。最初から歌曲の歌詞として作曲を前提に作られた、初の作品です。

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岩手盛岡から企画展情報です。

巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展

期 日 : 2017年7月1日(土)~8月20日(日)
会 場 : 岩手県立美術館 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
時 間 : 9:30〜18:00(入館は17:30まで)
料 金 : [一般] 前売り1,000円(当日1,200円)、[高校生・学生]前売600円(当日700円)、
      [小学生・中学生]前売400円(当日500円) 20名以上の団体は、前売料金と同額
休館日 : 月曜日(7月17日、8月14日は開館)、7月18日

日本初のノーベル文学賞受賞者、川端康成は、池大雅「十便図」、与謝蕪村「十宜図」(いずれも国宝)から若いころの草間彌生作品など、独自の審美眼で幅広い時代の美術品を収集しました。
本展では、その中でも特に深い交流があった日本画家東山魁夷の収集品と合わせ約200点を紹介。昨年末に発見された新資料も全国初公開します。
また、川端文学の最高傑作のひとつ「伊豆の踊子」についてコーナーを特設。作品が生み出されるきっかけとなった、本県ゆかりの初恋相手との交流も紹介し、創作の源泉に迫ります。
 

関連行事

◾ 開催記念講演会「川端康成を語る」
  講師:川端香男里氏(公益財団法人川端康成記念会理事長)
  日時:2017年7月1日(土) 14:00-15:30
  場所:ホール
  *参加ご希望の方は当日直接ホールへお越し下さい。観覧券又は半券の提示が必要です。
◾ スペシャル・ギャラリートーク
  講師:水原園博氏(公益財団法人川端康成記念会東京事務所代表)
  日時:2017年7月29日(土) 14:00-15:00
  場所:企画展示室
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。
◾ アートシネマ・上映 『恋の花咲く 伊豆の踊子』 弁士伴奏付き無声映画上映
  日時:2017年7月16日(日) 14:00-15:50(開場13:30)
  弁士:澤登翠氏 ピアノ伴奏:柳下美恵氏
  場所:ホール
  *鑑賞ご希望の方は当日直接ホールへお越しください。
   観覧券又は半券の提示が必要です。
   なお参加多数の場合は入場を制限させていただく場合がございます。
◾ 学芸員講座「川端康成と浦上玉堂」
  講師:吉田尊子(当館学芸普及課長)
  日時:2017年8月5日(土) 14:00-15:00
  場所:ホール
  *参加ご希望の方は当日直接ホールへお越し下さい。参加無料です。
◾ 川端と東山のコレクション鑑賞ツアー
  日時:2017年8月14日(月) 11:00-12:00/15:00-16:00(各60分)
  場所:企画展示室
  定員:各回25名(先着順。各回30分前より受付開始)
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。
◾ ギャラリートーク
  日時: 7月7日(金)、8月4日(金)、8月18日(金)いずれも14:00-(30分程度)
  場所:企画展示室
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。


今年初め、今年初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、のち全国的にニュースとなった新発見の川端康成旧蔵の書画が展示されます。

光太郎の書も1点。『智恵子抄』所収の「樹下の二人」(大正12年=1923)中の有名なリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」を扇面に揮毫したものが展示されます。

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画像で見る限りでは、間違いないもののようです。

当方、月末に花巻に行く予定があり、その際に足を伸ばそうと思っております。皆様もぜひどうぞ。

また、川端邸で発見の書画類、「全国に先駆けて」公開とありますので、今後、各地での巡回がありそうです。情報が入りましたら、またご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

もう人間であることをやめた智恵子に 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場 智恵子飛ぶ

詩「風にのる智恵子」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

前年、千葉九十九里浜に移っていた智恵子の母と妹一家のもとに、半年ほど智恵子を預けていた際の思い出を元に書かれた詩の一節です。この頃は、光太郎、両国から2時間ちょっとかけて、毎週のように智恵子を見舞っていました。

実際に足を運べばわかりますが、九十九里浜は果てしなく続くかと思われるような長い砂浜です。尾長や千鳥と一体化した智恵子にとって、絶好の遊歩場だったのですね。

ちなみにNHKさんに、戦後の光太郎の朗読音声が残っており、「遊歩場」は「ゆうほば」と読んでいます。「ゆうほじょう」と読んでも間違いではないのでしょうが。

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昨日は、都内3ヶ所を廻っておりました。神田の学士会館で開催された現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」が昨日18時からでしたので、それが始まる前に、同じ都内で懸案事項の調査を、と考えました。

まず向かったのが、杉並区立郷土博物館さん。

ちなみに京王線の永福町駅から歩きましたが、同駅コンコースに、光太郎を敬愛していた佐藤忠良のブロンズがあって、「おお」、と思いました。佐藤のアトリエが近くにあったということでした。

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遠目で一瞬目に入っただけで、佐藤の彫刻と分かります。これは同じく光太郎を敬愛していた舟越保武のそれにしてもそうです。個性の発露なのでしょう。

さて、郷土博物館さん。古民家の長屋門を正門に転用しています。


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こちらに最近、思想家の江渡狄嶺関連の資料がご遺族から寄贈され、その中に光太郎から江渡の子息に送られた書簡(『高村光太郎全集』等未収録)が含まれているという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

江渡は光太郎より3歳年長、青森五戸の出身で、トルストイやクロポトキンの思想に影響を受け、東京帝国大学を中退し、まず世田谷に「百姓愛道場」、続いて高円寺に「三蔦苑」という農場を開いて、「農」に軸足を置いた生活に入ります。そして品川平塚村や成田三里塚で同様の生活に入った水野葉舟の縁で、光太郎と知り合い、交流を深めました。

大正10年(1921)には、江渡の長男をはじめ、幼くして亡くなった子供達の納骨堂を兼ねた集会所「可愛御堂」が三蔦苑内に建てられましたが、その設計は光太郎が担当しました。

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大正9年(1920)の『東京朝日新聞』の記事です。

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こちらが可愛御堂。昭和34年(1959)まで現存していたそうです。

また、昭和20年(1945)4月13日の空襲で、駒込林町のアトリエを失った光太郎、しばらく近くにあった妹の婚家に身を寄せていましたが、5月3日に三蔦苑を訪れ、リヤカーを借りています。それを使って延々茨城取手まで荷物を運び、そこから花巻の宮沢賢治の実家に疎開しました。前年に江渡は亡くなっていましたが、江渡の妻・ミキが対応してくれたようで、光太郎は礼にと、空襲前に運び出していたブロンズの「老人の首」(大正14年=1925)を贈っています。これはミキが東京国立博物館に寄贈、現在も時折展示されているものです。

江渡夫妻に関し、光太郎は大正15年(1926)、雑誌『婦人の国』に発表した「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」というエッセイで、詳しく述べています。長くなるので全文は紹介しませんが、「しみじみと噛みしめるやうな古淡な味いを持つた人達」、「このお二人は、二人の見つめてゐるものが常に同じでそして変らない」、「まことに美しい、しつかりした結ばれです。ただ逢つてみるだけで自分を豊富にされるやうな気のする人たちです。」等々、手放しで賛美しています。

昨日、郷土博物館さんで拝見した書簡は、昭和20年(1945)1月3日付、江渡の次男・復にあてた封書で、前年暮れに江渡が急逝し、そのお悔やみを述べており、飾らない真摯な言葉で、心打たれます。「すぎなみ学倶楽部」さんという団体のサイトに、書面の画像が載っています。

他の光太郎書簡も同館に寄贈されているかと思いましたが、これ一通でした(江渡本人に送った書簡は既に『高村光太郎全集』に収録されています)。ただ、昨日は上記サイトに記述がなかった封筒も拝見させていただけました。光太郎の住所氏名電話番号が印刷されていました。よく見るとその脇に空押しで「三越」の二字。三越百貨店でのオーダーメイドのようです。三越さんではそんなこともやっていったのですね。

かつてあった江渡狄嶺研究会という組織、それからミキが書き残したものなどに、光太郎に関する記述がけっこうあるようで、光太郎と江渡夫妻に関しては、今後の研究課題としておきます。


三蔦苑跡も、館からさほど遠くはないようなのですが、昨日の東京は豪雨でして、そちらはまたのちの機会にと思い、次なる目的地、台東区立中央図書館さんを目指しました。

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まず、このブログで過日ご紹介した、企画展示「台東区博物館ことはじめ」を拝見。

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光太郎の父・光雲が深く関わった内国勧業博覧会に関し、明治初期の錦絵や、関連書籍をまとめて置いて下さってあり、興味深く拝見しました。

それから、同じフロアで吉原遊郭関連の資料もまとめられているという情報を得ていましたので、そちらを調べるのも目的でした。

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光太郎は欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)、吉原河内楼の娼妓・若太夫と懇ろになり、彼女を「モナ・リザ」と呼び、「失はれたるモナ・リザ」「地上のモナ・リザ」などの詩を書きました。それを読んだ作家の木村荘太(光太郎とともにヒユウザン会を立ち上げた画家・木村荘八の兄)が若太夫にちょっかいを出し、三角関係、決闘騒ぎなどとなります。結局、若太夫は木村を取りますが、年季が明けた後、郷里の名古屋に帰り、木村ともそれっきりでした。そのあたりは木村の自伝的小説『魔の宴』(昭和25年=1950)に詳しく書かれています。

この若太夫、そして河内楼について、調べました。特に、光太郎が「モナ・リザ」と呼んだ彼女の写真等を見つけたいと思っているのですが、なかなか見つかりません。

『新吉原細見』という、遊郭全体の在籍女性のリストが発行されており、そこに写真が載っている娼妓もいます。こちらは明治34年(1901)、光太郎が通う10年前のものです。

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巻頭のグラビア的なページに、何人かの写真がピックアップされて載っています。左は河内楼の「小町」。

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右は当方が以前から持っている明治24年(1891)発行の石版画で、やはり河内楼の「しら露」。上記細見にも「白露」の名がありますが、同一人物か、先代か、はっきりしません。

こんな感じで若太夫を探していますが、結局、明治43年(1910)前後の細見が所蔵されておらず、昨日も見つけられませんでした。一番近いものでも上記の同34年のものでした。

その代わりゲットできた、絵図の画像、地図、河内楼の写真など。

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下記はこれも当方が以前から持っている河内楼の古絵葉書。宛名面の様式から、明治40年(1907)~大正6年(1917)のものと判定できます。破風の形が上記写真とも一致しています。

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この若太夫、河内楼についても、継続的に調べていこうと思っております。


その後、神保町の学士会館で、公開講座「高村光太郎の短歌」を拝聴しましたが、そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

耕す者の手を耕す者にかへせ。 太陽を売らんとする者よ滅べ。

詩「不許士商入山門」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

江渡や水野葉舟ら、「農」に軸足を置いた友人知己を限りなく敬愛していた光太郎。農民の手から鋤や鍬を取り上げ、代わりに銃器を持たせる徴兵制への抗議とも取れます。

ほどなく、智恵子の心の病の顕在化と、その死に伴い、その空虚感を埋めるがごとく、翼賛側に転向していくのですが……。

日本絵手紙協会さん発行の雑誌『月刊絵手紙』の今月号です。これまでもたびたび光太郎智恵子を取り上げてくださっていますが、今号も「すべては「詩魂」ありてこそ 高村光太郎の書」という題で、10ページの特集を組んでくださっています。

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文章は同会主宰の小池邦夫氏。郵研社さん刊行の『小池邦夫絵手紙講演集in忍野』からの転載です。「書とは人間最後の芸術――高村光太郎」と題し、光太郎の書を語られています。

花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、同館に所蔵・展示されている光太郎の書、スナップ写真、遺品等の画像がふんだんに使われています。

一般書店での販売は行っておらず、同会サイトからの注文となります。税込み822円+送料100円。お手頃価格です。

完売のものを除き、バックナンバーも入手可能です。光太郎智恵子に関する号は以下の通り。

No.81  2002年9月号   高村智恵子紙絵
No.103 2004年7月号  武者小路実篤/高村光太郎
No.118 2005年10月号 高村光太郎の絶筆
No.142 2007年10月号 高村光太郎の書
No.174 2010年6月号  李朝の木偶・明治の書・光太郎と智恵子・冬青・水上勉

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また、来月号から、「高村光太郎のことば」という連載が始まるそうで、早速年間購読の手続きをいたしました。ありがたいかぎりです。

皆様もぜひお買い求めください。


【折々のことば・光太郎】

つきあたると坂になるから、 あの上から又下町の灯を見て来ようとつい思ふ。 平和な間にこそ可憐な姿は見て置かうと。

詩「平和時代」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「坂」は、住居兼アトリエのあった本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の団子坂です。約18年後には戦火に包まれ、アトリエや、坂の上にあって光太郎もたびたび訪れた森鷗外の旧宅「観潮楼」なども灰燼に帰しました。そしてそこから見えた「下町」一帯も。

明日は憲法記念日。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とする第9条があるにもかかわらず、緊張が高まっています。真逆のことを考えている国が近くにあったり、我が国でもこの理念をなし崩しにしようとする輩が跳梁跋扈していたり……。

「平和な間にこそ可憐な姿は見て置かう」と考えるような世の中はごめんですね。

昨日、花巻高村光太郎記念会さん事務局の方が当方自宅兼事務所にいらっしゃいました。直接の用件としては、花巻高村光太郎記念館さんで来月から開催される企画展の資料をお貸しするためでしたが。併せて現状での課題、来年度の展望等、いろいろお話を伺いました。

まず現状。入館者数等伸び悩んでいるそうです。平成27年(2015)5月に、リニューアルオープンした同館ですが、その年は入館者数等順調に伸びたそうですが、昨年から今年にかけてはジリ貧的に落ち込んでいるとのこと。

立地条件的に花巻市街からかなり離れていること、すぐ近くに他の観光施設等がないこと、他にもいろいろ要因はあるとは思いますが、残念です。昨年行われた国体も入館者数には結びつかなかったそうです。追い打ちをかけるように、一度復活した在来の花巻駅から高村山荘行きの路線バスも今年度で廃止(途中の県立清風支援学校までの通常便は維持)。ますます厳しくなりそうです。

ただ、追い風もありそうです。記念館のある太田地区に、「(仮称)西南道の駅」の計画が進んでいます。これから用地買収だそうで、オープンはまだ先ですが、道の駅内に光太郎に関するコーナーを設けたりといったタイアップが考えられているとのことで、実現すれば記念館への新たな導線となることが期待されます。

智恵子の生家・記念館がある福島二本松には道の駅が二つあり、道の駅「安達」智恵子の里さんでは、智恵子情報コーナーの設置など、道の駅ふくしま東和さんでは、光太郎智恵子にちなむ「あだたら恋カレー」の販売などを行っているほか、いろいろと生家・記念館との連携を図っているようです。いずれ花巻もそういう方向に行ってほしいものです。


それから、まだ公式発表がないので詳細が書けませんが、記念館としての来年度の計画。

まず、こちらは現在進行中ですが、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の高台、通称「智恵子展望台」の整備。ここに住んでいた頃の光太郎が、ここから夜空に向かって「智恵子ーーー」と叫んでいたという証言が残っています。元々、簡素な東屋的なものはあったのですが、そちらが老朽化とのことで建て直し、さらに雑木を伐採したり刈ったりして、ビューポイントとしての整備を進めているそうです。当方、来月10日、盛岡に行く都合があり、その途中に立ち寄って、現状を見てきます。

それから企画展。日程はあくまで予定ですが、以下の通り。

4/14(金)~6/26(月)で、光太郎と花巻の温泉郷に関わる展示。大沢温泉さん、花巻温泉さんなど、花巻に点在する温泉をこよなく愛した光太郎。書き残された文章や、古写真類、それから温泉ではありませんが、山小屋で光太郎が使っていた浴槽が保存されており、その実物も展示されます。

9/15(金)~11/27(月)に、昨年も行った智恵子の紙絵の実物展示。関連行事的に映画「智恵子抄」などの上映も考えているそうですが、そのあたりは未定です。

12/8(金)~2018年2/26(月)には、市内の他の文化施設、花巻市博物館さんや新渡戸稲造記念館さんなどと共同で、統一テーマによる同一時期企画展開催。光太郎記念館さんでは、通常展示していない書の展示を考えているとのことです。

それぞれまた近くなって詳細が出ましたら、またお伝えいたします。


それにしても、入館者数等伸び悩み、非常に残念です。リニューアルに伴い、非常に充実した施設ですし、併設の光太郎が暮らした山小屋・高村山荘、そして整備中の智恵子展望台など、見どころの多い場所です。ぜひ足をお運びください。

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【折々のことば・光太郎】

ありがたう、フランス  わけのわかるこころといふものが  どんなに人類を明るくするか  朝のカフエ オオ レエをついでくれた  一人のマダムのものごしにさへ  ああ、君はそれを見せてくれた
詩「感謝」 大正15年(1926) 光太郎44歳

これで全文の短い詩です。社会矛盾にみちた日本での暮らしの中で、20年近く前の、芸術に関する考え方や人間としての生き方に目を開かせてくれたフランスでの日々に思いを馳せています。

ところで大正時代にカフェ・オ・レについて記した文学作品、というのも少ないような気がしますが、どうでしょうか。

今月初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、今週になって全国的にニュースとなった、光太郎の揮毫を含む川端康成旧蔵の書画発見につき、『岩手日報』さんが報じました。

川端康成邸から書、書簡 岩手で今夏に初公開へ

007【東京支社】ノーベル賞作家の川端康成(1899~1972年)が暮らした神奈川県鎌倉市の邸宅から、第2次世界大戦末期に花巻市に疎開した彫刻家で詩人の高村光太郎や、新感覚派の盟友だった作家横光利一、林芙美子の書など76点が見つかった。同世代の作家や文豪の書などが多数見つかったのは初めてで、文学者同士の交流の様子がうかがえる新資料。7、8月に盛岡市本宮の県立美術館で開催する企画展で、その多くを国内初公開する。
 川端の作品資料や愛蔵品の保存などに取り組む川端康成記念会(川端香男里理事長)が24日、東京都目黒区の日本近代文学館で記者会見して発表した。
 川端邸敷地内の書庫の整理中に見つけ、川端理事長らが12月6~8日に調査し確認した。書が52点で、書簡や絵画もあった。藩制時代の画家池大雅や、明治―大正期に活躍した文豪夏目漱石の書など、古書店などで入手したらしいものも含まれていた。
【写真=智恵子抄の一節を扇に記した高村光太郎の書(川端康成記念会提供)】


光太郎第二の故郷とも言える岩手ですので、光太郎の名を前面に押し出して下さいました。

ところで、筑摩書房『高村光太郎全集』には、川端の名は見えず、光太郎と川端に直接のつながりはなかったようです。川端は明治32年(1899)生まれで、光太郎の16歳下になり、光太郎はその世代の小説家とは、あまり付き合いがありませんでした。詩人であればその世代に知友が多かったし、小説家でも光太郎と同世代だった白樺派の面々とは親しかったのですが。

今回含まれていた光太郎の書は、おそらく、記事の最後にある「古書店などで入手したらしいもの」に含まれるのではないかと思われます。

さて、今夏、岩手県立美術館で、今回見つかったものの中から展示がされるとのこと。やはり光太郎第二の故郷とも言える岩手ですので、光太郎の書は是非とも展示していただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

詩「冬が来た」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

「冬の詩人」の面目躍如、ありあまるエネルギーが炸裂しています(笑)。

以前にも書きましたが、当方はまるで逆、「僕は冬の餌食だ」状態です(笑)。比較的温暖な房総半島に住んでいて、こんなことを言っていると、泉下の光太郎に怒られそうです(笑)。

先々週のこのブログで、『伊豆新聞』さんの記事からご紹介した、川端康成邸での光太郎のそれを含む大量の書画発見のニュ-スが、全国報道されました。

『朝日新聞』さん、『神奈川新聞』さんでは、光太郎書の画像を掲載して下さいました。

まず朝日さん。

川端康成宅 書画続々

007 ノーベル賞作家の川端康成(1899~1972)の自宅で、夏目漱石や北原白秋、林芙美子や横光利一、田山花袋ら著名作家の手による直筆の書や書簡などが大量に見つかった。美術品の収集家としても知られる川端だが、作家の書が見つかるのは珍しい。
 書や書簡、絵画など70点以上で、神奈川県鎌倉市の川端邸に眠る遺品を整理していた川端康成記念会(川端香男里理事長)が昨年末、発見した。
 書は52点。漱石の五言絶句や田山花袋の七絶詩、北原白秋の自作歌など、川端より前世代の文豪のほか、生前交流のあった同世代作家の書もあった。
 川端らとともに「新感覚派」と呼ばれ、盟友でもあった横光利一による書は3点で、代表的な句「蟻(あり)臺上(だいじょう)に餓(う)えて月高し」をしたためた1点も。書を収めた箱には、利一の没後、夫人から譲り受けた経緯が記されていた。林芙美子が鎌倉の川端を訪ねた際に川端が依頼したという書には「硯(すずり)冷えて銭もなき冬の日暮(ひぐれ)かな」とあった。
 その他、芥川龍之介が室生犀星に宛てたものなど、書簡は4点。島木健作が川端の妻に宛てて、訪問の際の非礼をわびた手紙は額装された状態で見つかった。
 記念会理事の水原園博さんは「川端は、書には人格や魂がこもると考え、尋常ではない興味を持っていた。同世代の作家との幅広い交流、年上の作家への尊敬の念も読み取れる」と話している。見つかったものの一部は今夏、岩手県立美術館で公開される予定。(板垣麻衣子)


続いて『神奈川新聞』さん。

川端康成が見た「文学史」 旧宅から文豪の書76点見つかる

  後半生を鎌倉で過ごしたノーベル文学賞作家、川端康成(1899~1972年)が収集した 文豪の書など76点が、鎌倉市の旧宅で見つかった。コレクションに名を連ねるのは夏目 漱石や芥川龍之介、島崎藤村ら名だたる文士たち。同時代の作家に寄せる親しみや敬意を示すとともに、川端の目を通した「日本近代文学史」にもなっている。
 川端に関する資料保存や研究を手がける川端康成記念会(川端香男里理事長、同市長谷)が24日に発表した。旧宅の敷地に立つ資料庫「川端康成記念館」(非公開)で昨年11月末に偶然見つかり、同会が12月上旬に概要を調査。掛け軸や額など書は52点に上り、書簡や絵画などもあった。直接書いてもらったり、古物商から購入したりと、入手経路はさまざまという。
 漱石の書は、1914年に友人の森円月に贈った五言絶句の漢詩で、軸装され木箱に入っていた。芥川が室生犀星に宛てた書簡は、東京・田端にあった文士村の会合「道閑会」に誘う内容。自身を「澄江堂」、犀星を「魚眠洞御主人」と記すなど、親しさがうかがえる。これらの多くは存在が知られ、未発表書簡には当たらないが、実物の存在が改めて確認された形だ。
同会の水原園博理事は「同時代の作家への親しみに加え、書に対する尋常でない重いも読み取れる」と指摘。川端は書に人格を見いだし、収集にのめり込んだという。「なぜ膨大な書を集めたかを研究し、川端の創作をより立体的に捉えたい」と話していた。
 同会は16年前から川端に関する資料を調査、公開している。今回発見された書の一部は、今夏に盛岡市の岩手県立美術館で公開される計画がある。

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昨夜には、TBSさん系のニュースでも報じられ、同じ書が写りました。

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TBSさんと提携関係にある『毎日新聞』さんでも記事になりましたが、こちらでは光太郎の書は使われなかったようです。


さて、問題の書。画像で見る限りは光太郎の筆跡で間違いないようです。書かれているのは『智恵子抄』所収の「樹下の二人」でリフレインされる「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」。同じ詩句は当会顧問の北川太一先生が揮毫して貰い、智恵子の故郷、福島二本松の霞ヶ城に建立さられた詩碑に刻まれたものが、色紙等にプリントされて出回っています。そこからコピーした悪質な偽物、ということも考えましたが、それとは筆跡が異なりました。おそらくいけないものではないようです。

見つかった書画の一部は今年の夏、盛岡で公開されるとのこと。盛岡は光太郎ゆかりの地でもあり、ぜひとも光太郎書もそこに含めていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

「無窮」の力をたたへろ 「無窮」の生命をたたへろ 私は山だ 私は空だ

詩「山」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

この年の夏、智恵子と共に婚前旅行で1ヶ月ほど滞在した、信州上高地での体験をモチーフにしています。その辺りの経緯、尺の関係でカットされなければ、今夜、NHK BSプレミアムさんで放映の「にっぽんトレッキング100 絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」で扱われるはずです。

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画像は一昨年、山岳雑誌『岳人』さんに書かせていただきました記事から。

静岡の地方紙『伊豆新聞』さんに載った記事です。長いので換骨奪胎します。

川端康成邸から書画など70件発見 牧水ら伊豆ゆかり多数

 ノーベル文学賞を受賞した文豪・川端康成(1899~1972年)の神奈川県鎌倉市の自宅から6日までに、明治、大正、昭和初期に活躍した作家らを中心に総数約70件の書画などが見つかった。歌人・若山牧水が伊豆・湯ケ島で詠んだ有名な「山桜の歌」、昨年没後100年、今年生誕150年を迎える夏目漱石の五言絶句の漢詩のほか、島崎藤村、高浜虚子、尾崎紅葉、斎藤茂吉、横光利一、島木健作らそうそうたる顔ぶれ。小説「伊豆の踊子」の名場面の絵画などもあり、伊豆と関係の深い人々の作品が目立つ。ノーベル賞の賞金で現地スウェーデンで衝動買いしたという椅子4脚も含まれる。(森野宏尚記者)

 川端の死後、川端文学の継承を目的に発足した財団法人・川端康成記念会(川端香男里理事長、初代理事長は井上靖)の関係者が書斎や書庫を整理していて発見した。
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特集=川端康成が収集 島崎藤村や尾崎紅葉の書
 ■盟友、横光に思い馳せる
 若山牧水、夏目漱石のほか見つかったのは島崎藤村の書、若菜集の宮城野より抜粋▽高浜虚子の虚子像、虚子句▽横光利一の書「蟻 臺の上に 月高し」など▽尾崎紅葉の書▽徳田秋声の書「古き伝統と新しき生命」▽斎藤茂吉の書「蓮花寺小吟三首」▽田山花袋の七言絶句▽高村光太郎の書(扇面)智恵子抄より▽林芙美子の書▽岡本かの子の書▽武者小路実篤の書「伊香保風景」▽久米正雄の書「初芝居」▽吉野秀雄の書「伊豆大仁望嶽詩」▽富岡鉄斎の書簡▽室生犀星の書簡など。多くは鎌倉の古書店で購入したようだ。
 また醍醐寺の如意輪観音(鎌倉時代)▽藤原定家の懐絵▽大燈国師(南北時代の禅僧)自筆録抄▽寂室元光の一行書▽雪村周継(室町時代の画僧)の風濤図、池大雅の書なども含まれる。
 林芙美子の書には「硯[すずり]冷えて 銭もなき 冬の日暮れかな」と書かれ、水原園博さんは「貧乏時代の彼女そのもので、放浪記で一躍有名になったものの作家仲間からは疎んぜられていた芙美子に、同情を寄せる川端の視線を彷彿とさせる」、新感覚派の旗手で川端とは真の盟友として心通わせた横光利一の「蟻 臺(台)上に 月高し」について、水原さんは「横光は急死し、川端の喪失感はいかばかりだったか。蟻 臺上に…の一文にどう思いを馳せたか」としみじみ語った。

 ■川端邸 一般公開も視野 審美眼、育てた美術品
 川端康成は生前、国宝2点や日本画家・安田靫彦[ゆきひこ]、東山魁夷など多くの美術品を収集していた。無名の若い画家にも着目し、作品を進んで購入した。草間弥生などはその代表格だ。

 川端記念会は川端没後30年の2002(平成14)年から、所蔵品を「川端コレクション展」として全国28美術館で開催してきた。4月から川端が好んだ洋画家・古賀春江の生誕地、福岡県の久留米市美術館(旧石橋美術館)での開催も決まっている。
 川端香男里・川端記念会理事長は「(これまで何度も発見があるので)また出てきたかという思いだが、新発見の品々の何点かは久留米でも披露されるだろう。今後は川端の愛した美術品などに触れる機会を増やすため、川端邸の一般公開も考えていきたい」と展望を語った。
 川端康成学会・常任理事の平山三男さん(69)は「川端の美意識、審美眼は多くの美術品などを通して養われ、作品にも投影されている」とし、今回、先輩、同世代作家の書画が多く出てきたことについては「美を追い求めた川端の憧れや親しみ、その人を深く知りたいなどの思いがあるのではないか」と分析した。


というわけで、川端康成の旧宅から名だたる文豪たちの書画などが大量に見つかり、光太郎の書も含まれていたとするものです。

ネットに載った記事では、残念ながら「光太郎の書」の画像は含まれていませんでした。したがって、真贋のほどは何ともいえませんが、生前、多くの美術品などを購入していたという川端ですので、まず間違いはないのでは、と思います。

いずれ目にできる機会が来ることを期待しております。


【折々のことば・光太郎】

いやなんです あなたのいつてしまふのが―― 

001詩「人に」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

雑誌『劇と詩』に初出の段階では、「N――女史に」という題名でした。「N」は長沼智恵子の「N」です。詩の冒頭及び途中、末尾と3回リフレインされています。

大正3年(1914)には詩集『道程』に収められ、「――に」と題名が変わり、内容も大幅に改訂されています。そして昭和16年(1941)、詩集『智恵子抄』では、さらに「人に」と改題されて、その巻頭を飾りました。

改訂が行われても、このリフレインは変更されていません。それだけ光太郎にとって思い入れのある詩句だったのではないでしょうか。

おそらくこの詩を読んだ智恵子も決心し、晴れて光太郎と結ばれることとなります。

書家、石川九楊氏。昨年、NHK Eテレさんでオンエアされた趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」 にて講師を務められ、光太郎の書もご紹介下さいました。

その石川氏の全集ともいうべき『石川九楊著作集』全12巻がミネルヴァ書房さんから刊行中です。そして次回配本が第6巻で、『書とはどういう芸術か 書論』。やはり光太郎にも触れて下さっています。

石川九楊著作集Ⅵ 書とはどういう芸術か 書論

2016年12月25日 ミネルヴァ書房 本体9,000円+税

序 書とはどういう芸術か——筆蝕の美学
はじめに
序 章 書はどのようなものと考えられて来たか
第一章 書は筆蝕の芸術である——書の美はどのような構造で成立するか
第二章 書は筆・墨・紙の芸術である——書の美の価値はなぜ生じるのか
第三章 書は言葉の芸術である——書は何を表現するのか
第四章 書は現在の芸術でありうるだろうか——書の再生について

書——筆蝕の宇宙を読み解く
第一講 書の表現の根柢をなすもの——筆蝕についてⅠ
第二講 反転しあう陰陽の美学——筆蝕についてⅡimg_0_m
第三講 垂線の美学——書と宗教
第四講 整斉、参差、斉参——旋律の誕生
第五講 書のなかの物語——旋律の展開
第六講 折法の変遷と解体——リズムについて
第七講 表現行為としての書——書と織物
第八講 書のダイナミックス——筆勢について
第九講 結字と結構——書と建築
第十講 ムーブメントとモーション——書と舞踊
第十一講 甲骨文、金文、雑体書——書とデザイン
第十二講 余白について——書と環境

九楊先生の文字学入門
はじめに
第一講 表 現
第二講 動 詞——筆蝕すること
第三講 場
第四講 主 語
第五講 述 語
第六講 単 位——筆画
第七講 変 化
第八講 接 続——連綿論
第九講 音 韻——筆蝕の態様
第十講 形 容
第十一講 接 辞
第十二講 構 文
講義レジュメ

凡 例
解 題
解 説 弁証法の美学——書の表現をささえるもの(高階秀爾)

007このシリーズは、単行本化されたものをまとめたもののようで、この巻は736ページもあり、3冊のご著書がまとめられています。すなわち表題作の『書とはどういう芸術か 筆触の美学』(平成6年=1994 中公新書)、『書―筆蝕の宇宙を読み解く』(平成17年=2005 中央公論新社)、『九楊先生の文字学入門』(平成26年=2014 左右社)。

当方、全て読んだわけではないのですが、このうちの表題作『書とはどういう芸術か 筆触の美学』は、かつて店頭で見つけ、光太郎に言及されていたので購入しました。

曰く、「彫刻家・高村光太郎などの場合には、ペンもまた鑿であり、端正な瞠目するような詩稿を残している。」「高村光太郎の書は、単なる文士が毛筆で書いた水準をはるかに超えた、もはや見事な彫刻である。」などなど。


調べてみましたところ、7月には同じシリーズの第1巻『見失った手 状況論』が刊行されており、そちらには平成5年(1993)新潮社刊の、『書と文字は面白い』が収録されており、やはり光太郎に触れられています。こちらは当方、文庫版(平成8年=1996)で読みました。

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こちらは2ページにわたり「高村光太郎」という項があって、このように述べられています。

高村光太郎の書は、近代・現代の作家、詩人、歌人などの書の中で異彩を放っている。表現上、いわゆる作家、芸術家の書の範疇(はんちゅう)には属さず、また、いわゆる書家の「現代書」とも異なっている。
(略)
「精神」や「意思」だけが直裁に化成しているような姿は、他に類例なく孤絶している。

けだし、そのとおりですね。ただ、強いて類例を挙げるとすれば、その精神性などの部分で色濃く影響を受けた、草野心平の書が、光太郎のそれに近いかもしれません。


『石川九楊著作集』、おそらく他の巻を含め、他の部分でも、光太郎に言及されている箇所がまだあると思われます。とりあえず、はっきり光太郎に言及されているとわかっているもののみご紹介しました。また情報が入りましたらご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

百燭に雉子の脂のぢぢと鳴る     昭和20年(1945) 光太郎63歳

花巻郊外太田村の山小屋で迎える最初の冬に詠まれた句です。最初の数年間は、電気もない生活で、夜はランプや蝋燭で過ごしていました。

一昨日と昨日、ATV青森テレビさんの年末特別番組「乙女の像への追憶――十和田湖国立公園80周年記念」の撮影で、都内の光太郎ゆかりの地を歩き、光太郎本人を知る方々へのインタビューに同行しました。

そのさらに前日は、茨城取手に行っておりました。

先月開催された第61回高村光太郎研究会において、主宰の野末明氏が、光太郎の姻戚の詩人にして、取手出身の宮崎稔について発表をされました。それを聴いて、宮崎に関する情報を提供する約束をしたのですが、あやふやな点があって、確かめに行った次第です。

まずは宮崎家の墓地。十数年前に行ったことがあり、だいたいの位置は記憶していたのですが、正確に地図で表せ、と言われると自信がありませんでした。

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取手駅の西南方向、利根川の河岸段丘の上です。画像で言うと左手が国道6号、手前は6号線に上っていく立体交差の側道です。

もともと光太郎と宮崎の縁は、宮崎の父・仁十郎が、戦前に日本画家の小川芋銭の顕彰に光太郎を引き込んだあたりから始まっています。

その仁十郎の墓もこちらにあり、それとは別に宮崎の墓。墓石側面の墓誌には、宮崎と、夭折した男児の名が刻まれていました(その辺りの記憶もはっきりしていませんでした)。当然刻まれているはずの宮崎の妻・春子(智恵子の最期を看取った姪)の名がなぜか有りませんでした。

ちなみに宮崎には、夭折した男児を謳った「ゆうぐれ」という詩があります。

二つの墓に線香を手向け、ここはこれで終了。

来たついでと思い、取手駅の反対側にある長禅寺を参拝、というか、境内にある光太郎ゆかりの二つの碑を見てきました。

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門前には、取手ゆかりの文人的な説明板も立っていて、光太郎も紹介されています。

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意外にも、智恵子を『青鞜』メンバーに引き込んだ平塚らいてうの名が。昭和17年(1942)から同22年(1947)まで取手に住んでいたとのこと。時期的に疎開と思われますが、これは存じませんでした。


さて、山門はやはり河岸段丘の上にあり、長い石段。



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その石段の右側に、昭和23年(1948)、光太郎が題字を揮毫した「開闡(かいせん)郷土」碑が有るはずでしたが、見つかりません。いくつか碑がありましたが、ずべて他の碑でした。この碑は何度か見に来ているので、場所の記憶違いということはありえません。そういう例が他にあったので、撤去されてしまったのかも、と思っていたところ、見つかりました。何と、繁茂した篠竹の藪に埋まっている状態でした。



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画像中央、やや黒みがかって見える部分に碑があります。不本意ながら石段の手すりを乗り越えて、篠竹をかき分けてみると……



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光太郎の手になる「開闡郷土」の文字。「光太郎」の署名もくっきりと。

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以前から、何の説明板もなく、これが光太郎の筆跡を刻んだものだと知られていないのでは、という感じでしたが、もはや碑そのものが見えない状態になっているとは……。

もっとも、先述しましたが、無理解のため撤去されてしまった碑も、他県にはありましたが……。

長禅寺には、もう一つ、光太郎の筆跡が刻まれた碑があります。こちらは山門をくぐって、境内の左手。光太郎と宮崎家の結びつきの機縁となった、「小川芋銭先生景慕之碑」で、昭和14年(1939)の建立です。


そちらは無事だろうかと、少し急いで行ってみましたが、こちらは無事でした。

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こちらも題字のみ、光太郎の筆跡です。

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題字の下に小さく「高村光太郎書」の文字も。ただし、柔らかい大理石なので、風化が進んでいます。

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以上を見て回りましたが、取手にはもう一つ、光太郎の筆跡が刻まれたものがあるはずです。

それは、宮崎仁十郎の仲介で、元取手町長だった中村金左衛門から頼まれた墓標。中村の縁者(息子?)と思われる「故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓」という文字を、昭和23年(1948)に光太郎が揮毫しています。おそらく取手のどこかに立てられたと思われますが、それがどこなのかわかりません。

長禅寺にも見あたりませんでしたし、当会顧問・北川太一先生にもお伺いしましたが、不明でした。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

2021年2月6日追記。見つかりました。


【折々の歌と句・光太郎】

人間のハムと友らのよびならす女のあしはつるされにけり
大正15年(1926) 光太郎44歳

昨日に引き続き、駒込林町アトリエでの塑像彫刻制作に関する短歌です。

アトリエには、この短歌のとおり、女性の脚の習作がぶら下がっていたというエピソードが、複数の光太郎友人の回想に出て来ます。「人間のハム」とはよくいったものですね(笑)。

昨日は、ATV青森テレビさんの番組制作取材に同行、千駄木の光太郎アトリエ跡などをめぐり、そこからほど近い当会顧問・北川太一先生のお宅にもお伺いし、そちらで北川先生と当方のインタビューを撮影しました。

今日も同じ件で、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエに行って参ります。


この件についてはまた明日、2日分まとめてお伝えします。今日は最近入手した光太郎書簡について。

海外留学で光太郎がロンドンにいた頃、パリにいた画家の白瀧幾之助にあてた絵葉書で、『高村光太郎全集』には収録されていないものです。

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こちらは宛名面。消印が明治41年(1908)1月2日。パリのテアトル通り16番地、白瀧幾之助宛てです。

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文面の書かれた面。写真ではなく、石版画的な感じでしょうか。何せ100年以上前の絵葉書です。宛名面に印刷された文言によれば、イングランド南部ワイト島に位置するカウズという町の風景で、「Royal Yacht squadron」と記されています。「squadron」は「艦隊」。調べてみましたところ、1815年に設立され、まさにカウズの町に本部があったヨットクラブだそうです。「Royal」ですから、英王室との関連もあるのでしょう。

さて、文面は以下の通り。1月2日ということで、ある意味、年賀状的な内容でもありますが、大半は白瀧からの問い合わせに回答する事務的な内容ですね。

新年の御慶申納候
僕の処へも荻原君から手がみがあつた。
柳君の最近の手がみにある番地は矢張り618w.114□とある。
此でいいのだらう。
□光太郎

□の二文字分が読めません。ちょうどよいと思って、北川先生にもご覧頂いたのですが、やはり読めませんでした。もう少し推理してみます。

追記 「114」の後は「st」(ストリート)、「光太郎」の前は「二日」ではないかと、碌山美術館さんの学芸員氏からご指摘がありました。なるほど。それで正解ですね。

荻原君」は碌山荻原守衛、「柳君」は画家の柳敬助。白瀧を含め留学生仲間で、明治39年(1906)には光太郎、柳、白瀧は同時期にニューヨークに居住していましたし、荻原もパリからニューヨークを訪れ、光太郎らと会っています。

この葉書が書かれた明治41年(1908)には、光太郎はロンドン、白瀧はパリ、柳はニューヨーク、そして荻原は一足早くパリからイタリア、ギリシャ、エジプトを経て日本へ帰国する途中でした。「僕の処へも荻原君から手がみがあつた。」というのは、その船旅の途次からの手紙という意味でしょう。

白瀧幾之助は、光太郎より10歳年長。明治31年(1902)に東京美術学校を卒業し、洋画家として白馬会に所属していました。禿頭で大男、留学生仲間からは「入道」とあだ名されていましたが、非常に面倒見のいい人物で、光太郎もニューヨークやロンドンでさんざん世話になっています。また、両者晩年の戦後に、交流が復活しています。

100年以上前のロンドンからパリに送られた絵葉書が現存し、日本の当方の手元に届き、若き留学生たちの息吹が聞こえてきそうな内容……ある意味感無量です。


神田の古書店さんから入手しましたが、ほぼ同時期の白瀧宛書簡がごそっと売りに出ていました。光太郎からのものはこの1通だけでしたが、荻原のそれは3通含まれていました。早速、碌山美術館さんに連絡したところ、注文されたそうです。比較的長命だった光太郎の書簡はこれまでに3,400通余り見つかっていますが、夭折した荻原のそれは150通ほどしか知られておらず、新たに3通が加わったというのは大きいですね。これまでに見つかっていたものは、碌山美術館さんで昨年刊行の『荻原守衛書簡集』にまとめられています。

ちなみに光太郎の絵葉書は、70,000円でした。当分は節約に努めます(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

冬の空とほいかづちす黄に枯れて一馬(いちば)かげなき焼原(やけはら)の牧
明治39年(1906) 光太郎24歳

光太郎留学中の作です。ただし、最初の滞在国、アメリカで詠まれたものです。

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