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先月末、花巻市の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」について、『読売新聞』さんが岩手版で大きく紹介して下さいました。

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手前味噌で恐縮ですが、当方のコメント及び写真が掲載されています。取材日は昨年12月14日。1ヶ月以上経っての掲載で、掲載紙を送って下さった担当記者さんは恐縮されていましたが、かえってこの時期の掲載もありがたいものです。この手の企画展は、開幕当初に熱心な方々がすぐ観にいらっしゃり、会期半ばには客足が落ち込みますが、こうしてメディアで大きく取り上げられると、また復調するものですので。

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会期は今月26日(月)まで。無休です。ただし、積雪は今がピークかと思われます。しかし、記念館さんに隣接する、光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)での過酷な越冬の状況を、身を以て感得できまるという意味では、この時期がおすすめです。ちなみに1月半ばでこんな状況です。

この時期のこの地を知らずして、光太郎の山小屋生活を「しょせんはポーズに過ぎなかった」的な批評をなさっているエラい先生方などに、特にお奨めしたいですね(笑)。


【折々のことば・光太郎】

私はリユクサンブウル美術館にあるロダンの「ジヤン ポオル ロオランス」の首と、「ダルウ」の首とを朝から中食の頃まで見てゐた事が幾度もある。そして思ひきつて帰つて来ると、自分のアトリエに入るや否や又見たくなつて、慌てて美術館へ引きかへした事もある。

散文「肖像雑談」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

明治41年(1908)から翌年にかけてのパリ時代の思い出です。

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左が、「ジャン・ポール・ローランス」、右が「ダルー」です。

強引なまとめですが、「高村光太郎 書の世界」で、当方、同じような感想を持ちました。ただ、カンパーニュプルミエル街の光太郎アトリエからリュクサンブール美術館は徒歩15分ほど。当方自宅兼事務所から花巻ではそうもいきません(笑)。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。

昨年2月に亡くなった、同市の元教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった故・田口弘氏が、一昨年、光太郎から贈られた書や書籍など、一括して同市に寄贈なさり、市立図書館さん内に、その展示スペース「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、昨日はそのオープンセレモニー等が行われました。

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そのオープンセレモニーのあとの記念講演講師の依頼があり、馳せ参じた次第です。

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午後1時半から、資料コーナーに椅子を並べた会場で、オープンセレモニー。

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設置の経緯の説明や、森田市長さんはじめ来賓の方々のご挨拶等に続き、テープカット。田口氏のご息女もハサミを持たれました。


コーナーの概要をお知らせします。

まず目を引くのが、田口氏が光太郎から贈られた書。

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凸版印刷さんにお願いし、作っていただいた複製だそうですが、この手の技術の進歩には目を見張るものがあります。精巧に出来ており、ぱっと見には本物と区別が付きません。

左の大きな書は、新訳聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。昭和24年(1949)に書かれたもので、筑摩書房『高村光太郎全集』第17巻のグラビアにも使われています。光太郎が聖書の文句を揮毫したものは珍しいのですが、故・田口氏が敬虔なクリスチャンだったことに由来します。

右の方は色紙「世界はうつくし」、「うつくしきもの満つ」など。はじめ、故・田口氏が昭和19年(1944)、南方に出征する際、光太郎に書を書いてもらったそうですが、氏を乗せた輸送艦が撃沈され、氏は九死に一生を得たものの、書は海の藻屑と消えたそうです。そこで戦後、復員された氏が花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を訪ね、再び同じ言葉を揮毫してもらったというものです。

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光太郎からの書簡類。こちらも基本、カラーコピーですが、小包の包装、鉄道荷札などは現物でした。

それから、光太郎の署名入りの中央公論社版『高村光太郎選集』全6巻。昭和26年(1951)から28年(1953)にかけ、当会の祖、草野心平が中心となって編まれたものですが、故・田口氏が新聞雑誌等から切り抜いたスクラップブックが大いに役立ったそうです。

その他、氏がこつこつ集められた光太郎の著作や、光太郎智恵子に関する書籍類も大量に寄贈されたそうで、それらは定期的に入れ替えながら展示されるとのこと。

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同館2階にこのコーナーが設けられ、無料で拝観できます。ぜひ足をお運びください。

オープンセレモニーの終了後、3階視聴覚ホールを会場に、当方の記念講演。「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」と題させていただきました。

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前半は、総合的な芸術家として、つまづきをくりかえしながらも大きな足跡を残した光太郎の生涯を紹介させていただきました。途中から、故・田口氏とのかかわり、そして光太郎の「詩魂」を受け継ぎ、光太郎とはまた異なる分野で活躍された田口氏の業績を追いました。

講演に先立ち、地元の朗読サークルの方が、光太郎と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読されることになり、何かふさわしい詩はないかというので、以下の詩を指定させていただきました。

光太郎詩は「少年に与ふ」。昭和12年(1937)、雑誌『無風帯』に発表され、同18年(1943)、詩集『をぢさんの詩』に収められました。

   少年に与ふ015

 この小父さんはぶきようで
 少年の声いろがまづいから、
 うまい文句やかはゆい唄で
 みんなをうれしがらせるわけにゆかない。
 そこでお説教を一つやると為よう。
 みんな集つてほん気できけよ。
 まづ第一に毎朝起きたら
 あの高い天を見たまへ。
 お天気なら太陽、雨なら雲のゐる処だ。
 あそこがみんなの命のもとだ。
 いつでもみんなを見てゐてくれるお先祖様だ。
 あの天のやうに行動する、
 それがそもそも第一課だ。
 えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。
 持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。
 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。
 それが自然と此の世の役に立つ。
 窓の前のバラの新芽を吹いてる風が、
 ほら、小父さんの言ふ通りだといつてゐる。


おそらく、少年(青年)時代の田口氏もこの詩を読んだと思われます。そして、戦後に復員されてからの氏のご活躍は、まさに詩の後半の「えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。/持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」を地でゆくようなものだったと思い、この詩を指定した次第です。

追記:昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さんに、光太郎の筆跡を写した「正直親切」碑が建立された際のパンフレット(おそらく田口氏も制作に関わられたはず)にこの詩が印刷されていました。「やはり」という感じでした。

田口氏の詩は、「けさ八十歳」。光太郎から受け継いだ「詩魂」を、どのように生かしていったかと、そういう詩です。94歳で亡くなった氏が80歳になられた時の作品ですが、氏の半生が履歴書のように一望できます。

     けさ八十歳004

 八十歳のけさは春の彼岸の入り 雲なく風なし
 白木蓮の円錐の樹形の花群れは
 純白の光のいのちを一身に聚め
 吹上の溢れるほどの豊満な花輪の賜りもの
 それに応えるおまえの八十までは何だったのか
 何でおまえは生きてきたのか
 この日頃思案してもの怖じもなく答えれば
 ハイ 感動を求めて生きて来ました と
 その折々の天の配剤をいただいて
 幼くして母、姉と一時に死別 父、兄妹と離ればなれ
 中学時代かけがいのない師 柳田知常先生に私淑
 駒込林町の高村光太郎さんの美に導かれ
 アララギの五味保義先生の姿勢を敬慕し
 戦いの末期 ルソン島沖を泳いで助かる014
 その折失った高村さんの餞別の書「美しきもの満つ」は
 岩手の山小屋で再び書いて頂いて 今在る
 復員した青年教師は〈創造美育〉の運動に熱中したり
 五年間 日教組のオルグでストライキに人の重さを知る
 また全国教育研究集会の「美術」の司会を担当
 推されて埼玉教職員組合の委員長をしたり
 自分の能力の適正を危ぶむ労働金庫の専務まで
 そんな有為転変もいま思いかえせば
 みんなみんな神さまの深いお図らいだったのか
 この一人の運命の曲がり角はそうとしか考えられない
 きわどくしかも無理のない選択だったのか
 〝風はおのが好むところに吹く〟ように
 終わりの十六年 幸せにふるさとの教育長に迎えられ
 今までのキャリアを集注して教育と文化運動にかかわる
 たまたまその間 日本スリーデーマーチの実行委員長
 以来朝の〈歩け〉は二十三年累計四万キロで地球一周にも
 ウォークマンで十年モーツアルトに離れがたく
 兄に眼を開かれた絵は
 ルオーの「キリスト」に辿り着く
 旬日 フィンの息子からスタミッツのセロのCD届く
 もうすぐ高村さんの連翹忌がやってくる

氏は同市を会場に開催されている「日本スリーデーマーチ」の実行委員長も永らく務められましたが、そこにも光太郎の影響があったそうです。

「文化運動」という部分では、やはり光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚と親交を結ばれ、光太郎胸像を含む高田の彫刻32点を配した同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。亡くなった後も、氏のご遺徳による業績が続いているわけです。


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平成27年(2015)、氏のご自宅にお邪魔する機会がありました。その際に氏がおっしゃったお言葉が、忘れられません。「大事なのは、光太郎なら光太郎から学んだことを、あなたの人生にどう生かすか、ということです」。まさしく氏は、光太郎から受け継いだ魂を、さまざまな分野に生かされたわけで、昨日の講演でも、そのようなお話をさせていただきました。不覚にも、講演をしながら、その時の光景がよみがえり、うるっと来てしまいました。


同市では、高田博厚の関係等で、今後も色々と動きがありそうです。また情報がありましたらお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は極度に触覚の世界である。此れを浅くしては指頭の感覚、此れを深くしては心の触覚、此世を触覚的に感受し精神を触覚的にはたらかす者、それが彫刻家である。

散文「七つの芸術」中の「二 彫刻について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

故・田口氏にしても、「心の触覚」を鋭敏に働かせて、さまざまな業績を残されたのでしょう。「心の触覚」、言い換えれば「詩魂」となるでしょう。

昨日の『静岡新聞』さんの一面コラムから。 

2018年1月9日【大自在】

▼水彩紙を貼った大小のパネルに墨と白いアクリル絵の具で描かれたさまざまな造形。広い・狭い、長い・短いで構成された直線や帯と、そこに白くかすれた不規則な模様。竹林やのれんのようでもあり、生物のゲノム(全遺伝情報)を示すマップにも見える
 ▼目を凝らすと、線と点の規則性があることに気付く。隠れていたのはモールス符号。例えば縦横3メートルの大作は高村光太郎の智恵子抄の一節で、手元のコード表を頼りに作品を読みながら鑑賞することができる不思議な“書”だった
 ▼「トン・ツーが言語体系となった世界で、どんな言葉の〝かたち〟があり得るのか」。島田市博物館で開催中の企画展。墨象作家宮村弦[みやむらげん]さん(37)=同市=は、デジタル通信の発達ですっかり廃れたモールス符号を文字として捉え直した
 ▼会場にはモールス符号の仮想世界をイメージしてゲスト作家が制作した音楽も静かに流れる。未知の芸術の息遣いに包まれながら、既成書道の枠を超えた造形として発展する墨象の奔放さに驚き魅了された
 ▼大学院で書道を修め、文字をベースにしつつアート活動を続ける宮村さん。最近、書が人間の生活から離れていくように感じられてならないという。「毛筆でも鉛筆でもいい。書く文化が土台になくては考える力も弱まってしまう」
 ▼冬休みが終われば学校では書き初め大会。お手本を横に筆運びを練習したり、新年の決意を力強く文字にしたり…。清書するときの緊張感は誰にも覚えがあろう。そんな小学生時代の思い出は宮村さん自身の原点でもあるそうだ。


こんな展覧会をやっていたのか、と、調べてみました。すると、以下の通り。もはや会期末でした。 

第71回企画展「宮村弦 -モールス・コード- 新しい言葉の{カタチ}」

期 日  : 2017年12月9日(土)~2018年1月14日(日)
会 場  : 島田市博物館 静岡県島田市河原1-5-50 
時 間  : 午前9時~午後5時
料 金  : 一般 300円  20名以上 240円  中学生以下 無料
休館日  : 月曜日

「平成27年度島田市文化芸術奨励賞」を受賞した宮村弦は、書をベースに文字や言語を「意味を宿した象徴(シンボル)」へ昇華させることを目指した作品を多く生み出しています。今回の企画展では、宮村弦の感性で、モールス・コード(モールス符号)を視覚化した作品を一堂に展示します。また、ゲストアーティストに音楽家・斉藤尋己(ひろき)氏を迎え、モールス・コードの作品世界を音として表現した合作も展示します。

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面白いことを考えるものだと思いました。

こちらが「智恵子抄」。

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智恵子歿後に書かれた「亡き人に」(昭1d53e98e和14年=1939)の最終行「あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」だそうです。

さらに調べたところ、同じ作品は、ちょうど一年前の今頃、東京都美術館さんで開催されていた「TOKYO 書 2017 公募団体の今」展にも出品されていたとのこと。存じませんでした。

当方の情報収集力もまだまだです(汗)。


お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

“文句ぬきの造型表現”慾望の強さが私を造形美術に駆りたてる。

散文「作家言」全文  昭和5年(1930) 光太郎48歳

雑誌『美術新論』に載った肖像写真のグラビアに添えられた一言。

宮村氏なども、こういう気持ちで作品制作に当たられているのではないでしょうか。

定期購読しております日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』1月号が届きました。今年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。

今号は、花巻高村光太郎記念館さんで所蔵している書、「詩とは不可避なり」の揮毫が紹介されています。戦後の花巻在住時に書かれたものです。

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今号はこれ以外に、上記「詩とは不可避なり」の書も展示されている、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」の紹介も載せていただいています。

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定価822円で、一般書展での取り扱いはなく、オンライン購入のみですが、ぜひどうぞ。


花巻関連でもう1冊、注文しておいた書籍が届きました。

温泉天国 ごきげん文藝

2017年12月30日 杉田淳子、武藤正人編 河出書房新社 定価1,600円+税

おとなの愉しみを伝えるエッセイアンソロジー「ごきげん文藝」。第一弾は、日本中に点在する「温泉」をテーマにしたエッセイ32篇を収録。ぽちゃんと浸かれば、そこはまさに天国です。

目次
 湯のつかり方(池内紀) カムイワッカ湯の滝(嵐山光三郎) ぬる川の宿(吉川英治)
 湯船のなかの布袋さん(四谷シモン) 花巻温泉(高村光太郎) 記憶(角田光代)
 川の温泉(柳美里) 美しき旅について(室生犀星) 草津温泉(横尾忠則)
 伊香保のろ天風呂(山下清)
 上諏訪・飯田(川本三郎) 村の温泉(平林たい子)
 渋温泉の秋(小川未明) 増富温泉場(井伏鱒二)
 美少女(太宰治) 
 浅草観音温泉(武田百合子) 温泉雑記(抄)(岡本綺堂) 硫黄泉(斎藤茂太)
 丹沢の鉱泉(つげ義春) 熱海秘湯群漫遊記(種村季弘) 湯ヶ島温泉(川端康成)
 温浴(坂口安吾) 温泉(北杜夫) 母と(松本英子) 
 濃き闇の空間に湧く「再生の湯」(荒俣宏) 春の温泉(岡本かの子)
 ふるさと城崎温泉(植村直己) 奥津温泉雪見酒(田村隆一) 
 別府の地獄めぐり(田辺聖子)
 温泉だらけ(村上春樹) 温泉で泳いだ話(池波正太郎)
 女の温泉(田山花袋)

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光太郎の「花巻温泉」が収録されています。これは、昭和31年(1956)、『旅行の手帖』第26号に掲載された談話筆記です。花巻温泉さん以外に、志戸平温泉さん、大沢温泉さん、鉛温泉さん、台温泉さん、そして現在は無くなった西鉛温泉が紹介されています。

非常にユーモラスな部分もあり、そうと知らずに読めば、また行くつもりなんだろうと言う気がする文章ですが、これが語られたのは、その死の一ヶ月半前。既に自らの命の火が消えかかっている自覚が十分にあった時でした。もはやそれらの温泉に浸かることは叶わないと知りつつ、かつて病んだ身体を癒してくれたそれぞれの温泉や、そこで出会った人々に対する哀惜の言葉が、胸を打ちます。

その他の人々の作品も興味深く拝読。面白いのは、現代の作家さんたちも、光太郎ら近代の人々も、裸になって湯に浸かってしまえば変わらない、という部分です。ある意味、日本人の魂ですね(笑)。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

立体感とは、存在感の中核、空間の一点に確かに構造(コンストラクト)せられたものの感、量の確認、つかみ得る感、消し難く、滅ぼし難い深厚の感、魂の宿るに足りる殿堂の感、自体具足の小宇宙感。彫刻に関する私の諸考察はすべてこの立体感を中心とした放射線状に在ります。

散文「彫塑総論」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

この時期、ブロンズの塑像でも、木彫でも、新境地に至る実作をものにしていた光太郎。その裏側には確固とした理論がありました。

昨日から1泊2日で、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

昨朝、10時台のやまびこ号に乗り、一路、花巻へ。郡山近辺で雪がかなり積もっており、これは雪中行軍となりそうだと思っていたところ、局地的なものだったようで、その後は仙台を過ぎ、一関あたりまで雪はほとんど見られませんでした。しかし安心していたのもつかの間、水沢、北上と進むにつれ、再び銀世界に。1時30分過ぎに着いた新花巻駅前は、こんな感じでした。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんを目指し、レンタカーを駆りました。雪道の運転は久しぶりでしたが、つつがなく到着。除雪車も出ており、ありがたかったです。

花巻市街より標高も高く、山ふところ的な場所ですので、こんな感じ。しかしこれでもピーク時に比べれば、てんでまだまだの積雪でした。

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記念館さんでは、先週の土曜から、花巻市内の文化施設5館の共同開催、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環として、「高村光太郎 書の世界」展が始まっています。

地元報道機関に案内を出し、内覧会的に、館のスタッフ氏と当方による展示品等の解説などを行いました。花巻ケーブルテレビさん、『読売新聞』さんがいらしていました。ケーブルテレビさんは当方の解説を撮影。緊張しました(笑)。他社は既に取材を終えていたりということでした。NHKさんは、この日に行われた5館を廻るバスツアーに同行、午前中に取材されたとのこと。今朝のローカルニュースで流れましたが、明日、ご紹介します。

常設展示以外に、今回、特に展示されているのは11点。珠玉の書ばかりです。ほとんどが、光太郎がこの地にいた戦後のものです。

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左は「美ならざるなし」。二重否定は強い肯定(笑)。右は、花巻のリンゴ農家、故・阿部博氏に贈ったもので、阿部氏を歌った即興詩「酔中吟」が書かれています。

 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光 紅玉 ヂリシヤス

「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。七・七調四句の俗謡体、おそらく即興で作ったものです。

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地元の太田中学校(現・西南中学校)に贈った書。「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」。

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左は詩「偶作十五篇」(昭和2年=1927)中の「急にしんとして山の匂いのして来る人がある」。揮毫は昭和20年(1945)だそうです。右は「詩とは不可避なり」。昭和3年(1928)に刊行された草野心平の詩集『第百階級』の序文に書いた「詩人とは特権ではない。不可避である。」あたりが下敷きになっています。

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「こころはいつもあたらしく」。昭和25年(1950)、盛岡少年刑務所に贈った書の下書き的なものと推定されます。完成形は「いつも」ではなく「いつでも」となり、現在も同所の所長室に掲げられています。太田中学校と同じく、やはり青少年向けということで、句がかぶっています。

「日月清明」「皆共成仏道」「不垢不浄」、それから左下の「顕真実」。このあたりは光太郎が習慣としていた新年の書き初めです。山小屋周辺の住民に贈られました。すべて出典は仏典で、信心深かったこの辺りの住民への心遣い、また、自身も仏の教えへの関心が高まっていたことの表れかも知れません。

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右上は、花巻市桜町に建つ、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑の拓本です。光太郎の揮毫により昭和11年(1936)に建立されましたが、誤字脱字の追刻が昭和21年(1946)に行われ、それ以前の拓本です。当時としては珍しく、写真製版で縮小されています。

これ以外にも、常設展示で書が飾られており、そちらも含めると、かなりの点数になります。中にはおそらく初公開と思われるものもあります。


ところで、記念館さん入り口ではサンタクロース姿の光太郎がお出迎え(笑)。

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クリスマスが近いというだけでなく、昭和24年(1949)、山小屋近くの山口小学校の学芸会で光太郎がサンタに扮した故事にちなみます。

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記念館さんを後に、山小屋まで歩きました。

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冬期間は、外からしか見られませんし、バリアフリーの工事が入っています。まだまだこれから積雪が増え、雪で埋まります。まったくこんなところでよくぞ7年間も……と、改めて思いました。厳冬期のこの小屋を見ずして、光太郎を語るなかれと思います。

この後、再びレンタカーを駆って、光太郎もたびたび泊まった大沢温泉さんへ。

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以下、また明日。


【折々のことば・光太郎】

芸術は人間を慰めるものでなくて、人間を強めるものである。面白がらせるものでなくて、考へさせるものである。人間をひき上げるもの、進ませるもの、がつしりさせるもの、日常の苦しみを撫するに姑息を以てするのでなくて、其苦しみに堪へる根帯の力を与へるものである。

散文「芸術雑話」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

光太郎にとって「書」も、こうした芸術の一環だったと思われます。

今日明日と、1泊で花巻に行って参ります。

花巻市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館さん、萬鉄五郎記念美術館さん、花巻市総合文化財センターさん、花巻市博物館さん、そして高村光太郎記念館さんの5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試みが始まっています。題して「ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」。

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高村光太郎記念館さんは、今年度からの参加で、書を軸にした企画展示が為されています。

高村光太郎 書の世界

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年2月26日(月)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
休館日 : 12月28日(木)~1月3日(水)
料 金 : 一 般 550円/高校生・学生 400円/小・中学生 300円
        ※団体入場(20名以上)は上記から一人あたり100円割引

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。戦火の東京から花巻へ疎開し、その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を続け、彫刻制作を一切封印しました。
 山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、花巻に大小さまざまな『書』を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では彫刻・文芸と並び、光太郎・第三の芸術とも言われる『書』を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。

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会期的には既に始まっているのですが、報道陣向けの内覧が、本日14時からだそうで、当方、その頃参上します。それに合わせて日程を組んでいただいたようで、恐縮です。


他館で光太郎に関わるのが、花巻市博物館さん。こちらは明日、拝見に行くつもりでおります。

及川全三と岩手のホームスパン

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年1月28日(日)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松26-8-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
休館日 : 12月28日(木)~1月1日(月)
料 金 : 小・中学生:150円(100円)  高校・学生:250円(200円)
      一般:350円(300円)  ( )内は20名以上の団体料金

大正期から農家の副業として作られていた羊毛織の「ホームスパン」に植物染の技術を導入し、美術的な価値を与え、工芸品としての地位を確立させた及川全三(おいかわぜんぞう)【花巻市東和町出身】。
全三のホームスパン工芸への取り組みと民藝運動を提唱した柳宗悦 (やなぎむねよし)との交流についても所蔵資料とともに展示紹介します。

展示構成
1.及川全三のこと
 高等小学校から岩手のホームスパン業界を育てるまでの全三の生涯を紹介します。
2.及川全三とホームスパン
 全三とホームスパン工芸への取り組みについて紹介します。また、羊毛織のホームスパンを知るために、ホームスパンの概要や岩手とホームスパンとの関わり、製作工程なども併せて紹介します。
3.柳宗悦との交流
 民藝運動を提唱した柳宗悦との交流について、柳宗悦の人物像を踏まえて紹介します。
4.全三の弟子と岩手のホームスパン工房
 全三の内弟子である、福田ハレや鈴木光子の紹介とともに、全三の弟子たちによって設立・技術指導されたホームスパン工房を紹介します。

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及川の名は、光太郎日記に頻出します。羊毛で作るホームスパンの風合いを好んだ光太郎が、及川や、その弟子の福田ハレなどに自分用のものを依頼しています。高村光太郎記念館さんに展示されている光太郎の服もホームスパン。太田村の振興のため、及川の手を借りて光太郎も村でのホームスパン制作を推奨、山小屋近くに住んでいた戸来幸子という女性が織ったものを、盛岡で仕立ててもらったそうです。

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また、日記には、光太郎が東京から疎開した際に持ってきた荷物の中に、イギリスの染織家、エセル・メレ(1872~1952)の織ったホームスパンの大きな布(膝掛け、または毛布的な)が入っていて、及川に何度もそれを見せたことが記されています。

その現物と思われる布も、高村光太郎記念館さんに所蔵されています(展示はされていません)。で、花巻市博物館さんで「及川全三展」ということで、貸し出されるのかなと思っていましたが、それは実現しませんでした。

いずれそのあたり、大きな動きがあるのではないかと思っております。またその折には詳しくご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

自然は常に子を見守る親の心を持つてゐる。自然が進む生命は即ち私達の進む生命である。私達の苦しみ、悩み、喜び、悲しむ道程は即ち自然の苦しみ、悩み、喜び、悲しむ道程である。自然は賢明であるが、自然は常に命がけである。自然は人間を育てるために無数の人間を作る。無数の時代を作る。そして機会を待つ。

散文「印象主義の思想と芸術」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

この前年に書かれた詩「道程」とリンクしています。特に詩集『道程』掲載形の9行ショートバージョンではなく、雑誌『美の廃墟』に初出時の102行ロングバージョン

「印象主義の思想と芸術」は、天弦堂書房から書き下ろしで刊行された、光太郎最初の評論です。250ページほどあり、おそらく前年、オリジナル「道程」と並行して書き始められていたのではないかと推定できます。


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こちらは、「パラ」ということで、日中韓の障がい者の方々による書の作品展がメインでしたが、特別展示と言うことで、光太郎を含む各界著名人の書も展示されていました。

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展示されていた光太郎の書は、当方、初めて見るものでした。一見して昭和10年代のものだな、とわかりましたが、帰ってから調べたところ、昭和17年(1942)の詩「みなもとに帰るもの」の一節でした。

   みなもとに帰るもの002

 万古をつらぬいて大御神(おほみかみ)はおはす。
 いのちのみなもとを知るもの力あり、
 微少なほ且つ大業を果す。
 おのが身に思ひわずらふもの、
 ひとへに暗くして大義に通ぜず。
 ただみなもとにかへるを知るもの、
 日月皎然、
 生と死とを問ふことなく、
 一切をあげて大御心にこたへまつる。
 冬と春と夏と秋とすでに去り、
 十二月八日再びきたる。
 軍神は死せず、
 いのちかがやきてわれらを導く。
 義勇公に奉ずるの時今日(こんにち)にあり。
 われらあらゆる道に立つもの、
 悉くいのちのみなもとにかへらんかな。
 みなもとに帰するものは力あるかな。

初出は昭和17年(1942)11月の『東京日日新聞』。「軍神につづけ」の総題で13人の詩篇が連載されたその第一回です。同紙ではこの詩としての題名は付けられて居らず、後に大政翼賛会文化部発行のアンソロジー『軍神につづけ』(昭和18年=1943)に収められた際、「みなもとに帰するもの」の題が付され、さらに同年の光太郎詩集『をぢさんの詩』で「みなもとに帰るもの」と改題されました。

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出品されていた書は色紙で、この詩の2行目から引用された「みなもとをしるもの力あり」。詩では「知る」と漢字ですが、書では「しる」と仮名表記になっていました。「光」一字のサインも入っていました。

この時期、特に学徒動員で出征する学生が、入営前に光太郎の元を訪れ、色紙や光太郎詩集の見返し、さらに日章旗などに揮毫してもらうということが多くありました。新聞雑誌や各種アンソロジー、そして光太郎自身の詩集などに矢継ぎ早に発表されたこの手の翼賛詩を読み、またはラジオで朗読された放送(この詩も昭和17年=1942の12月5日に俳優・岩田直二の朗読がオンエアされています)を聴いた若者達が、自らを奮い立たせるため、光太郎の書を求めたのです。

当方、実際のそういう体験談を複数の方々からお伺いしました。今春亡くなった埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏、光太郎と深い交流のあった、ともに画家の深沢省三・紅子夫妻の子息・竜一氏、東洋大学の学生だった藤尾正人氏。また、軍隊ではなく中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場に勤労動員されていた、女優・渡辺えりさんの父君・正治氏にも。

おそらく、出品されていた書も同じような経緯で書かれたものではないかと推定されます。当方がお話を伺った皆さんは、それぞれ九死に一生を得て戦後まで生き延びられましたが、この書をもらった人は、どういう運命をたどったのか、興味深いところです。

結局、戦場や動員先の工場などで露と消えた命も多数あり、光太郎はある意味、自らがそれらの若者を死に追いやったことを深く反省、戦後は花巻郊外太田村の山小屋で、自虐ともいえる過酷な蟄居生活を7年間続け、天職と考えていた彫刻も自らへの罰として封印し、贖罪に徹しました。

今回の展覧会は、中韓の皆さんの作品も多く展示されていました。日本にこういう詩人がいたということが、広く知られて欲しいものだと思いました。


豊島区役所さんをあとに、続いて、荻窪駅近くの荻窪小劇場さんに向かいました。こちらでは、Dangerous Boxさんという演劇ユニットによる「門ノ月~Aida~/智恵子抄」という公演を拝見。

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この手の公演(特に複数回上演される場合)で、満席になって入れないということはありえなかったので、今回もなめてかかっていましたが、案に相違し、ようやくキャンセル待ちで入れていただきました。小劇場ですのでキャパが少なかったというのもありますが、どうも、根強いコアなファンの方々が存在するようです。

一言でいうと、若い皆さんのパワーに圧倒されました(笑)。

「智恵子抄」系は、年配の方が演じるケースが多く、また、若い皆さんの劇団でも、脚本はベテランの方だったりし、どちらかというと「穏健な」舞台になる印象があります。また、やはりどうしても、一般の方々向けに光太郎智恵子の生涯的な部分を「説明」せざるを得ないかな、という気がします。たとえば昨年、十和田市で上演された地元劇団エムズ・パーティーさんによる「十和田湖乙女の像のものがたり」朗読劇は、当方が書いたジュブナイルを元にして下さいましたが、大半は「説明」でした。それはそれで小学生にでも理解してもらえることを目指した親切心なわけで、場合によっては必要です。

しかし、「理解されないのが怖い」という理由で、過度に「説明」をする必要はないのだな、と感じました。今回の舞台では、極力「説明」を避け、とにかく取り上げる「智恵子抄」の詩篇と、演者のパフォーマンスで勝負、という感じでした。あれを観て光太郎智恵子の生の軌跡が詳しく分かるかというと、そうではありません。しかし、わからないなりに感じるものは多々あったと思います。「Don't think! Feel!」ですね(古っ)。

説明抜きで感じさせるには、パワーが必要です。バックの音楽には神井大治さんという方のエレキ三味線が入り、かなりの大音量。それに負けずにノーマイクでやらねばなりませんから、光太郎役の役者さん、「絶叫」に近い朗読でした。20分ほどの上演時間でしたが、あれをあれ以上続けたら死ぬな、と思いました(笑)。

それから袴姿の智恵子役の女性、白い装束のダンサーの女性。現身(うつしみ)の智恵子と、さまざまなものから解放されたがる智恵子の内面のように見え、影と形の如く向かい合う光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のようだと感じました。

シュールといえばかなりシュール。これは若い皆さんでないと演じきれない演出だな、と思いました。

しかし、ある意味突き放して「感じ」させるだけでなく、理解を助けるための工夫もちゃんとされていました。朗読された光太郎詩篇のうち、現代では意味が通じにくい詩句は、わかりやすいように改変していたのです。「レモン哀歌」では「山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸」の「山巓」を「山のてっぺん」的に、「梅酒」の「厨に見つけたこの梅酒」の「厨(くりや)」を「台所」というふうに。著作権の中の同一性保持権(著作物及び その題号につき著作者の意に反して変更、切除その他の改変を禁止することができる権利)という観点から見ればNGですが、この場合には有りでしょう。

もう一つの演目、「門ノ月」の方は、自らも命を絶った殺人犯のいまわの際の夢幻、的な内容で、部分的には「智恵子抄」にもリンクしていました。こちらも熱のこもった舞台で、根強いコアなファンの方々が存在する理由がよくわかりました。

いつも書いていますが、書にしても舞台にしても、こういう活動を通し、光太郎智恵子の世界に興味を持って下さる人の輪が広がっていくことを祈念してやみません。


【折々のことば・光太郎】

一切が商品、一切が金、 あぶくのやうにゼニをつかんで 米粒ひとつも生産しない。 頭ばかりのゴーストが すばやく、ずるく、小またをすくひ、 口腹ばかりの怪物が 巷をうめてかけずりまはる。 ト、ウ、キ、ヤ、ウはどこにもない。

詩「東京悲歌」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

花巻郊外太田村から7年ぶりに帰ってきた東京。戦後の混乱期の残滓はまだあちこちに残っていたと思われます。そろそろ高度経済成長が始まる時期ですが、その分、環境問題などに対する配慮も無かった時代ですし、おそらく今の東京より醜い都市だったのではないでしょうか。

土曜日、久しぶりに都内でかなり長い距離を歩きました。道々、現代の東京であれば、かえって光太郎の眼には好ましく写る部分もあるのでは、とも思いました。

情報を得るのが遅れ、始まってしまっている展覧会を2つ。いずれも都内で開催中です。 

となりの髙村さん展第2弾「写真で見る昭和の千駄木界隈」髙村規写真展

期 日 : 2017年11月1日(水)~5日(日) 11月8日(水)~29日(水)の水・土
会 場 : 東京都指定名勝 旧安田楠雄邸庭園 東京都文京区千駄木5-20-18
時 間 : 10:30~16:00
料 金 : 一般700円、中高生400円、小学生以下無料(保護者同伴必須)

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東京文化財ウイーク2017参加企画

写真家・高村規(ただし)。1933‐2014 父は人間国宝の彫金家・豊周(とよちか)、 伯父は彫刻家で詩人・光太郎、 伯母は画家で紙絵作家・智恵子、そして祖父の木彫家仏師・光雲(こううん)・・・本郷区駒込林町155番地(現・文京区千駄木5丁目)、 明治25年(1892)にはじまる芸術家の系譜。

芸術家の仕事を後世に伝えた写真家が写し撮った町がわたしたちに語りかける。 高村規の原点、懐かしい駒込林町、そして千駄木と名を変えた町の風景。ぜひご覧ください。


会場の旧安田楠雄邸は、光太郎の実家にして、現在も光太郎の実弟・豊周が継いだ髙村家の「となり」です。普段から水、土に一般公開はされていますが、時折、このような形で企画展示が為されます。「となりの髙村さん」展の第1弾が開催されたのが平成21年(2009)。やはりその頃ご存命だった光太郎の令甥で写真家髙村規氏の写真などが展示されたそうです(当方、そちらには行けませんでした)。

ちなみに光雲、豊周、規氏、そして現在の規氏ご長男達氏と続く家系は、戸籍上は通常の「高」だそうですが、昔から慣例的に「髙」の字を使用されています。戸籍の届けを光雲の弟子の誰かにやってもらったところ、「髙」ではなく「高」で登録してしまったとのこと。長男でありながら家督相続を放棄し、分家扱いとなった光太郎は、戸籍が「高」なのだから、と、「高」で通しました。

今回も、規氏の作品が展示されています。昔の千駄木界隈や、光雲、豊周、光太郎、智恵子らの作品を撮影したもの等だそうです。チラシに使われているのは、昔の団子坂です。

11/1から始まっていて、5日までの期間は髙村家の見学もあったそうです。不覚にも情報を得られませんでした。すみません。


もう1件。 こちらは一昨日からです。 

2017アジア・パラアート-書-TOKYO国際交流展

期     日 : 2017年11月8日(水)~11月12日(日)
会     場 : 豊島区役所本庁舎1階としまセンタースクエア 東京都豊島区南池袋2-45-1
時     間 : 午前10時~午後6時
料     金 : 無料

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概要をわかりやすくすために、後援に入っている『毎日新聞』さんの東京版記事から。 

アジア・パラアート展  始まる 5カ国100人の力作展示 揮毫に会場沸く 南池袋 /東京

 「アジア・パラアート~書~TOKYO国際交流展」(日本チャリティ協会主催)が8日、豊島区南池袋の区役所1階「としまセンタースクエア」で始まった。日本、中国、韓国などアジア各地で活躍する障害者の書作品を通して交流を図ろうという企画。会場には5カ国100人の感動的な力作が展示されている。 
 8日は日本、中国、韓国の書家による開幕を記念した揮毫(きごう)会が開かれ、訪れた多くの人たちから大きな声援が送られた。日本からはダウン症の金澤翔子さんが参加。大きな筆を勢いよく動かし「共に生きる」を書き上げた。
 四肢体幹機能障害の鈴木達也さんは、自ら考案したヘッドキャップに筆を取り付け、首の力で草書体の「命」を書いた。事故で両腕を失った中国の書家、趙靖さんは、筆を口にくわえて「友誼常青」を書き、ソウル五輪のオープニングで見事なパフォーマンスを見せた韓国の義手の書家、チャン・ウ・ソクさんは、「サイクリング」を巧みな筆致で表現し、会場は盛大な拍手でわいた。
 特別展示では、吉田茂、山本五十六、高村光太郎、水上勉、ペギー葉山の各氏はじめ、安倍晋三首相ら各界著名人の作品45点も飾られている。
 12日まで。入場無料。問い合わせは同協会(03・3341・0803)。【鈴木義典】
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というわけで、基本、「パラ」ですので、パラリンピック的に、障がい者の皆さんの作品展ですが、特別展示ということで、近現代の著名人の書も展示されているそうです。そのトップに光太郎の名。ありがたや。他にも光太郎と関係があった小川芋銭、平塚らいてうなどの書も展示されています。


明日、元々上京する予定でしたので、今回ご紹介した2件も拝見し、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

おれは気圏の底を歩いて 言葉のばた屋をやらかさう。 そこら中のがらくたに 無機究極の極をさがさう。

詩「ばた屋」より 昭和27年(1952) 光太郎70歳

「ばた屋」は、現代ではいわゆる放送禁止用語のコードに抵触するでしょう。古紙や布、金属片などを回収して換金する職業です。それも路上から拾い集めて、というのが主流でした。おそらくこの当時の東京にも多かったのではないかと思われます。

戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解き、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻郊外太田村から7年ぶりに再上京する直前の作です。「ばた屋」の闊歩する東京で、自らは「言葉のばた屋」として、日常生活の中から言葉を拾い集め、詩作をしようということでしょう。

たまたまネットで見つけました。

伊藤康子書展

期    日 : 2017年10月24日(火)~29日(日)
会    場 : 晩翠画廊 仙台市青葉区国分町1丁目8-14 仙台第2協立ビル1F
時    間 : 10:00-19:00(最終日は17:00まで)

作品は約30点。 小品から大作、掛け軸、パネルを各種展示します。 そのほか、花巻臺焼で染め付けた磁器や、 2018年カレンダー、ポストカードが並びます。

古山拓画伯との合作による大作、 「高村光太郎詩 岩手の肩」は圧巻です。 どうぞご高覧くださいますよう、ご案内申し上げます。

なにぶんご多忙の事とは思いますが、 画廊でお会いできますことを楽しみにしております。 秋の紅葉狩りのおついでに、お運びくださいませ。

※作家は毎日午後より在廊の予定です。

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書家の伊藤康子さん。盛岡ご在住で、光太郎と縁の深かった宮沢賢治系のお仕事もなさっています(そのため、かすかにお名前を記憶しておりました)。それから画家の古山拓氏。こちらも岩手のご出身で、やはり賢治系の作品もおありのようです。お二人のコラボで光太郎詩「岩手山の肩」(昭和22年=1947)に取り組まれたとのこと。ありがたや。

ちなみに「岩手山の肩」の直筆原稿は、盛岡てがみ館さんで常設展示されており、この夏も拝見して参りました。岩手県民のソウルマウンテン、岩手山を謳ったものです。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

智恵さん気に入りましたか、好きですか。 うしろの山つづきが毒が森。 そこにはカモシカも来るし熊も出ます。 智恵さん斯ういふところ好きでせう。
連作詩「智恵子抄その後」中の「案内」より
 
昭和24年(1949) 光太郎67歳

亡き智恵子に、蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋付近を「案内」するという詩です。齢(よわい)67になって、この詩を書ける光太郎を、当方は尊敬します。

智恵子の死までを謳った昭和16年(1941)刊行の龍星閣版『智恵子抄』の内容に、戦後の詩篇などを加えて草野心平が編んだ新潮文庫版の『智恵子抄』(昭和31年=1956)で見ると、この詩がドラマのクライマックスのような位置づけになります。

岩手レポートの4回目となります。

7/30(日)、盛岡市の岩手県立美術館さんで開催中の、「巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展」を拝観いたしました。

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同名の企画展は、かなり以前から全国各地を巡回していますが、今年初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、のち全国的にニュースとなった、新発見の川端康成旧蔵の書画などが、今回初めて展示されています。


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光太郎の書も1点。詩「樹下の二人」(大正12年=1923)中のリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」を扇面に揮毫したものです。現物を見てもいつ頃の揮毫なのか、何とも言えないところですが、筆跡的には間違いのない物でした。ネット上で小さな画像は事前に見ていましたが、現物を見ると、それまで意識しなかった余白の使い方などの絶妙さに改めて気づかされました。

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公式図録は過去の全国巡回の際のものと同003一のようで、新発見のものは掲載されていませんでした。残念に思っていたところ、目玉となるようなものについては、ブロマイド的に写真用紙にプリントした物が販売されており、そちらを購入いたしました。A4判で、800円だったと思います。

その他、光太郎と関わりのあった人物の作品などが数多く展示されており、興味深く拝見いたしました。彫刻のロダンや高田博厚、絵画では梅原龍三郎、岸田劉生、木村荘八、安井曾太郎。書で夏目漱石、与謝野晶子、室生犀星、北原白秋など。右はロダンのブロンズ「女の手」。ポストカードが売られていたので購入しました。

光太郎に関わらないものも逸品ぞろいで(国宝も含まれていました)、川端・東山の審美眼に感心させられました。また、下世話な話ですが、その財力にも(笑)。

下記は出品目録です。クリックで拡大します。ここにはブラウザの「戻る」ボタンで戻って下さい。

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こちらは8月20日までの開催です。ぜひ足をお運びください。


それから、常設展示も拝見。岩手県立ということで、岩手出身の美術家の作が中心でした。特に興味を引かれたのが、それぞれ多数の作品が展示されている萬鉄五郎、松本竣介、そして舟越保武。やはりそれぞれ光太郎と関わりがありました。萬は大正元年(1912)から翌年にかけてのヒユウザン会(のちフユウザン会)で光太郎と一緒でしたし、松本は昭和10年代に主宰していた雑誌『雑記帳』に光太郎の寄稿を仰いでいます。そして舟越はこのブログでも何度かご紹介しましたが、光太郎がさまざまな援助を行った岩手県立美術工芸学校で教鞭を執り、それ以前には、お嬢様の千枝子さんの名付け親になってもらっています。

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こちらは舟越の代表作にして、第5回高村光太郎賞受賞作の「長崎26殉教者記念像」のうちの4体。

舟越の彫刻は、館の入り口に野外展示されてもいました。


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というわけで、なかなか充実の展示でした。

当初予定ではここだけ観て帰るつもりでしたが、せっかく盛岡まで来たし、しばらく盛岡に来る予定もないので、市街に車を向けました(県立美術館さんは若干郊外です)。少しだけ光太郎に関わる常設展示が為されているところもついでに観ておこうと思った次第です。

明日は岩手レポートの最終回で、そのあたりをお伝えします。


【折々のことば・光太郎】

私は青年が好きだ。 私の好きな青年は真正面から人を見て まともにこの世の真理をまもる。 私の好きな青年はみづみづしい愛情で ひとりでに人生をたのしくさせる。

詩「私は青年が好きだ」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

しかし、数年後にはその大好きな青年たちを死地に追い込む詩文を乱発します。それだけに、戦後になっての悔恨は深いものがあったのでしょう。7年間に及ぶ、花巻郊外太田村での蟄居生活に結びつくのです。

1泊2日の行程を終え、昨日、岩手から千葉の自宅兼事務所に帰って参りました。5回ほどにわけてレポートいたします。

7/29(土)、最初に向かったのは、花巻市博物館さん。企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」拝見のためでした。

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左はチラシ、右は図録の表紙です。

多田等観は、明治23年(1890)、秋田県生まれの僧侶にしてチベット仏教学者です。京都の西本願寺に入山、その流れで明治45年(1912)から大正12年(1923)まで、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世からの信頼も篤かったそうです。その後は千葉の姉ヶ崎(現市原市)に居を構え、東京帝国大学、東北帝国大学などで教鞭も執っています。

昭和20年(1945)、戦火が烈しくなったため、チベットから持ち帰った経典等を、実弟・鎌倉義蔵が住職を務めていた花巻町の光徳寺の檀家に分散疎開させました。戦後は花巻郊外旧湯口村の円万寺観音堂の堂守を務め、その間に、隣村の旧太田村に疎開していた光太郎と知り合い、交流を深めています。

ところで、以前、このブログで等観について、「花巻(湯口村)に疎開していた」的なことを書きましたが、誤りでした。従来刊行されていた文献にそう書かれているものが多く、それを鵜呑みにしていました。正確には妻子を千葉に残しての単身赴任、といった感じだったようです。その期間が長かったのと、チベット将来の品々を疎開させたことから、地元でも「等観さんは花巻(湯口村)に疎開していた」と思いこんでいた人が多かったのこと。

さて、展示。ほとんどが、そのチベット将来の品々でした。最後に「等観と花巻」というコーナーが設けられ、光太郎から贈られたものが展示されていました。

まずは、昭和22年(1947)9月5日、光太郎が円万寺の等観の住まいを初めて訪れた際に揮毫した団扇。

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以前から写真では見ていましたが、実物は初めて拝見しました。それから、単なる渋団扇だろうと勝手に思い込んでいたところ、さにあらず。貼ってあるのはやはりチベットから持ち帰った紙だということでした。光太郎に続いて、元旧制花巻中学校長の佐藤昌も揮毫しています。佐藤は昭和20年(1945)8月10日、花巻空襲でそれまで滞在していた宮沢賢治の実家を焼け出された光太郎を、無事だった自宅に一時住まわせてくれていました。

それから、画像はありませんが、同じ時に光太郎が等観に贈った、草野心平編、鎌倉書房版の『高村光太郎詩集』。残念ながらその部分は見えませんでしたが、等観当ての識語署名が入っているとのことでした。

そしてもう一点、昭和24年(1949)1月5日に等観に宛てて書いた葉書。

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曰く、

拝啓、先日はお使ひにて八日にお招き下され、忝く、当日参上するのをたのしみに致し居りましたが、昨夜以来降雪となり、その降雪量次第で出かけにくくなるやも知れず、事によると不参になるとも考へられますので念の為め右一寸申上げます。なるべくなら出かけたいとは存じますが。

この前後の光太郎日記から。

十時頃観音山より例の老翁使に来り、八日に来訪され一泊されたしと多田等観さんの伝言を伝へらる。多分ゆけるならんと返事す。茶を入れる。(1月3日)

昨夜来雪。終日ふりつづき、一尺ほどつもる。(略)多田等観氏にハガキをかき、降雪量多ければ八日に不参するかもしれぬ旨述べる(1月5日)

観音山行を中止する。雪中歩行が一寸あぶなく感ぜられる。(1月8日)

午前多田等観氏来訪。近く東京にゆくにつき来訪の由。ゆけなかつた事を述べる。観音山の話、法隆寺の話、西蔵の話などいろいろ、(略)ひる餅をやき、磯焼にして御馳走する。午后一時半辞去。清酒一升もらふ。昨日一緒にのむつもりなりし由。(1月9日)

今回、葉書が展示されているという情報は事前に得ておりましたが、細かな日付などは不明でした。日記と照らし合わせると、おそらくこの時のものだろうと思っていましたところ、その通りでした。パズルのピースがかちっと嵌る感じで、こういうところが面白いところです。


その後、等観が単身赴任していた郊外旧湯口村の円万寺さんに。以前もここを訪れたことはありましたが、このブログではそのあたり、省略していました。

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以前に訪れた時は路線バスを使い、麓から徒歩で登りました。かなりの坂で、きつかったのを記憶しています。光太郎も「山の坂登り相当なり。汗になる。」と日記に書いていました。今回はレンタカーを借りていたため、すいすいと。光太郎先生、すみません(笑)。

それだけに、ここからの眺望はすばらしいものがあります。「イグネ」または「エグネ」と呼ばれる屋敷森がいい感じです。

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等観が起居していた草庵「一燈庵」。

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光太郎の山小屋(高村山荘)に勝るとも劣らない粗末さです(笑)。扁額はレプリカのようで、本物は企画展に展示されていました。

その材となった「姥杉」。「尚観音堂傍に祖母杉と(ウバスギ)と称する杉の巨木の焼けのこりの横枝ばかりの木あり。この枝のミにても驚くばかりの大きさなり。枯れたる幹の方の太さ想像さる。直径三間余ならん。」と、光太郎日記にも記されています。

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こんな看板もありました。さすがに自然が豊かです。

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これだけはいただけませんが(笑)。

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遠き日、二人の巨魁の築いた友情に思いを馳せつつ、下山しました。

続きは明日。


【折々のことば・光太郎】

最も低きに居て高きを見よう。 最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。

詩「冬」より 昭和14年(1939) 光太郎57

同様の表現が、このあと頻出します。しかし、この境地に本当に達するのは、やはり戦後、花巻郊外旧太田村に隠遁してからのことになります。

新刊情報です。

一昨年、NHK Eテレさんでオンエアされた「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」にて講師を務められ、光太郎の書もご紹介下さった、書家の石川九楊氏の著作集全12巻が、ミネルヴァ書房さんから刊行中です。

石川氏、光太郎の独特な書を高く評価して下さっていて、さまざまな著作で光太郎書を取り上げられています。昨年刊行された『石川九楊著作集Ⅵ 書とはどういう芸術か 書論』、『石川九楊著作集Ⅰ 見失った手 状況論』でも、光太郎に触れる部分がありました。

さて、同じ著作集の第九巻、『石川九楊著作集Ⅸ 書の宇宙 書史論』。 版元のサイトでは3月刊行となっていましたが、amazonさんなどでは今月刊行の扱いになっています。やはり光太郎に触れる部分が含まれています。定価は9,000円+税だそうです。

目次

序 書に通ず

第一部 書とはどういう芸術か
 第一章 書は筆蝕の芸術である003
 第二章 書は文学である
 第三章 書の美の三要素――筆蝕・構成・角度
 第四章 書と人間
第二部 早わかり中国書史
 第一章 古代宗教文字の誕生――甲骨文・金文
 第二章 文字と書の誕生――篆書・隷書
 第三章 書の美の確立――草書・行書・楷書
 第四章 書の成熟とアジア――宋・元・明の書
 第五章 世界史の中の中国書――清の書
第三部 早わかり日本書史
 第一章 日本の書への道程
 第二章 日本の書の成立
 第三章 新日本の書――漢字仮名交じり書の誕生
 第四章 鎖国の頹*廃と超克
第四部 書の現在と未来を考える
 第一章 西欧との出会い――近代の書
 第二章 文士の書と現代書
 第三章 戦後書の達成
 第四章 書の表現の可能性

[書の宇宙]
 第一章 「言葉」と「文字」のあいだ――天への問いかけ/甲骨文・金文
 第二章 「文字」は、なぜ石に刻されたか――人界へ降りた文字/石刻文
 第三章 「書」とは、どういうことなのか――書くことの獲得/簡牘
 第四章 石に溶けこんでゆく文字――風化の美学/古隷
 第五章 石に貼りつけられた文字――君臨する政治文字/漢隷
 第六章 「書聖」とは、何を意味するのか――書の古法(アルカイック)/王羲之
 第七章 書かれた形と、刻された形と――石に刻された文字/北朝石刻
 第八章 書の典型とは何か――屹立する帝国の書/初唐楷書
 第九章 「誤字」が、書の歴史を動かす――言葉と書の姿/草書
 第一〇章 書の、何を受けとめたのか――伝播から受容へ/三筆
 第一一章 書の、何が縮小されたのか――受容から変容へ/三蹟
 第一二章 和歌のたたずまい――洗練の小宇宙/平安古筆
 第一三章 書の文体(スタイル)の誕生――書と人と/顔真卿
 第一四章 書史の合流・結節点としての北宋三大家――文人の書/北宋三大家
 第一五章 中華の書は、周辺を吞みこんでゆく――復古という発見/元代諸家
 第一六章 書くことの露岩としての墨蹟――知識の書/鎌倉仏教者
 第一七章 書であることの、最後の楽園――文人という夢/明代諸家
 第一八章 紙は、石碑と化してゆく――それぞれの亡国/明末清初
 第一九章 万世一系の書道――変相(くずし)の様式/流儀書道
 第二〇章 いくつかの、近世を揺さぶる書――近代への序曲/儒者・僧侶・俳人
 第二一章 書法の解体、書の自立――さまざまな到達/清代諸家①
 第二二章 篆・隷という書の発明――古代への憧憬/清代諸家②
 第二三章 篆刻という名の書――一寸四方のひろがり/明清篆刻
 第二四章 新たな段階(ステージ)への扉――書の近代の可能性/明治前後

 [書の終焉――近代書史論]
 序
 書――終焉への風景
 Ⅰ
  明治初年の書体(スタイル)――西郷隆盛
  世界の構図――副島種臣
  写生された文字――中林梧竹
  異文化の匂いと字画の分節――日下部鳴鶴
 Ⅱ
  「龍眠帖」、明治四十一年――中村不折
  再構成された無機なる自然――河東碧梧桐
  最後の文人の肖像――夏目漱石
  ことばと造形(かたち)のからみあい――高村光太郎
  短歌の自註としての書――会津八一
 Ⅲ
  位相転換、その結節点――比田井天来
  主題への問い――上田桑鳩
  諧調(グラデーション)の美学――鈴木翠軒
  〈動跡〉と〈墨跡(すみあと)〉への解体――森田子龍
  文字の肖像写真(ポートレート)――井上有一
 Ⅳ
  日本的様式美の変容――小野鵞堂・尾上柴舟・安東聖空・日比野五鳳
  現代篆刻の表出――呉昌碩・斉白石・河井荃廬・中村蘭台二世

凡 例
解 題
解 説 実感的書論(奥本大三郎)


「書の終焉――近代書史論」中の、「ことばと造形(かたち)のからみあい――高村光太郎」は、完全に光太郎の項ですが、それ以外にも、「文士の書と現代書」などの部分で、光太郎に触れられているはずです。

最新刊は別巻Ⅱの『中國書史』。これが第11回配本で、最終巻の別巻Ⅲ『遠望の地平 未収録論考』が出れば完結です。このブログでご紹介した巻以外にも、光太郎に触れられている部分がありそうな気がしますので、完結後に大きな図書館で全巻を見渡してみようと思っております。


光太郎書といえば、花巻高村光太郎記念館さんの、今年度の企画展。秋には昨年に引き続き、智恵子紙絵。そして冬には光太郎書を扱うそうです。同館には光太郎書の所蔵が非常に多く、常設展示では展示しきれません。そこで、普段、展示に出していない書にも陽の目をあてようというコンセプトになるようです。

秋の智恵子紙絵ともども、詳細が決まりましたら、またお伝えします。


【折々のことば・光太郎】

私は原理ばかり語る。 私は根源ばかり歌ふ。 単純で子供でも話す言葉だ。 いや子供のみ話す言葉だ。

詩「発足点」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

空虚な美辞麗句の羅列や、もってまわったまだるっこしい物言いでなく、だから光太郎の詩はいいのだ、と、当方は思います。

来週末、花巻高村光太郎記念会さん主催の市民講座「夏休み親子体験講座 新しくなった智恵子展望台で星を見よう」のために花巻へ参ります。その際に同じ花巻の市立博物館さんで開催されている企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」も、光太郎がらみの資料(書作品や書簡)が展示されているため拝見する予定です。

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そういう話を花巻高村光太郎記念会さんにお伝えしたところ、回り回って、以前に市立博物館さんに勤務されていた方から、多田等観に触れた同館の刊行物をごっそり頂いてしまいました。恐縮です。

僧侶にして仏教学者、チベットに足を踏み入れ、光太郎同様、現花巻市の山あい(旧湯口村の円万寺観音堂)に疎開していた多田等観については、平成16年に同館が開館して以来、館の重要なテーマの一つとして、研究に取り組まれているとのこと。最初に担当されていた学芸員の方が平成23年(2011)に亡くなったあとは、専任を決めず館を上げて持ち回りで担当されてもいるそうです。

頂いた資料は、館の研究紀要、『花巻市博物館だより』、それから以前の企画展等の際に作成されたと思われる略年譜などのリーフレット。

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当方、光太郎と交流のあった頃の等観関係資料は以前にも読んでいましたが、等観という人物の全体像については寡聞の状態です。来週までにありがたく精読しようと思っております。

光太郎が初めて円万寺観音堂を訪れた際の日記から(それ以前に等観とは何度か会っています)。

翁に案内されて観音山の多田等観氏を訪問。山の坂登り相当なり。汗になる。山上は涼し。 等観氏新宅ヰロリ辺にて談話、中食、酒、御馳走になる。 観音堂にてチベツト将来の塑像千手観音を見る。彩色也。他に花巻人形の観音、馬頭観音、地蔵等あり。尚観音堂傍に祖母杉と(ウバスギ)と称する杉の巨木の焼けのこりの横枝ばかりの木あり。この枝のミにても驚くばかりの大きさなり。枯れたる幹の方の太さ想像さる。直径三間余ならん。 染瀧と称する霊泉にゆきてのむ。清冽。硅石の岩層中より流出す。 等観氏に「光太郎詩集」一部贈呈。 等観氏酒のむと程なく酔ふ。 午后三時半過辞去。 雨ふりくる。下まで等観氏送りくる。

これが昭和22年(1947)9月5日です。

同じ日の等観日記。

九時ころ六左エ門と高村光太郎氏 六左エ門孫男同行来訪。続いて佐藤元花中校長来る。堂宇から瀧へと順次案内する 馬頭観音の花巻人形かたを作ること、姥杉材を彫刻してくれること、姥杉を天然記念として保管名処たらしむるなど話ある 稗貫平野の展望には鑑賞の多くをめで庵に入りて台処 炉をことに気に入り終日そこに落付かれた。 六左 米三枡ツケモノ一重清酒四合ビン持参。鉄鉢米をたいて中食をとゞのふる。ドブ壱枡 ナス汁三ナベ作り勘のタクアン、と十年味噌がお煮となる。五時帰る 悠々無一物 満喫荒涼美を団扇に残こす。新刊高村光太郎詩集寄贈ある。

悠々無一物 満喫荒涼美を団扇に残こす」は、今回、博物館さんで展示されている団扇に、光太郎が「悠々無一物 満喫荒涼美」と揮毫したことを表します。光太郎の日記には記述がありません。この年発表された連作詩「暗愚小伝」中の「終戦」という詩に、「今悠々たる無一物に私は荒涼の美を満喫する」の一節があり、それを漢詩風にアレンジしたと推定されます。他にも東京神田で汁粉屋を営んでいた有賀剛という人物にも同じ短句の色紙揮毫を進呈したりもしています。

また、この際に光太郎が贈った、おそらく同年鎌倉書房刊、草野心平編の『高村光太郎詩集』と思われる書籍も展示されているそうです。謹呈の識語署名などが書かれていることが推理され、興味を引かれています。

企画展「没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~」は、8月20日(日)までの開催。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

すべて若くめづらしく 冒険の可能を約束し 知られざるものへの牽引 新しき経験への初一歩 既にあるものを超えて 未だあらざるものへの進展

詩「若葉」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

昨日ご紹介した『新女苑』が若い女性向け雑誌でしたが、この詩はずばり『青年』という雑誌に寄稿されました。上記の部分だけ読むと、未来ある若者達へのエールと読めます。

しかし、この部分の直前には「たちまち爆音をたてて森すれすれに/練習の偵察機が飛ぶ」という一節があり、2年後にいわゆる「予科練」に組み込まれる海軍の「偵察練習生」に向けたものであると知れます。

やがてこの若者達は続々と戦火に斃れ、光太郎はこの詩のようにそれを煽った自分を恥じ、戦後は花巻郊外旧太田村の山小屋で、蟄居生活を自ら選択するのです。

光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村在住時に、隣村でやはり疎開生活を送っていた僧侶にしてチベット仏教学者・多田等観。お互いの住まいを行き来するなど、光太郎とも浅からぬ交流がありました。

その多田等観に関する企画展が、花巻市博物館さんで開催中。光太郎がらみの出品物も展示されているとのことです。 

没後50年多田等観~チベットに捧げた人生と西域への夢~

期 日 : 2017年7月1日(土)~8月20日(日)
場 所 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松26-8-1
時 間 : 午前8時30分から午後4時30分まで 期間中無休
料 金 : 小・中学生150円(100円) 高校・学生250円(200円) 一般350円(300円)
         ( )内は20名以上の団体料金
休館日 : 無休

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展示構成 :
1.西域文化ー大谷探検隊と等観
 仏教伝播のルートの解明を目指して派遣された、学術調査隊「大谷探検隊」。中央アジアから文化財を蒐集し、日本に持ち帰った探検隊の功績を、実物資料やパネルで紹介します。
2.数奇な運命ーチベットへのみちのり
 大谷光瑞の命を受け、チベットへ入蔵するに至った等観。その経緯や、一緒に同行した人物も併せて紹介します。
3.等観が見たチベット
 チベット請来の仏教関係資料や、チベットでの僧侶の服装、日常道具、ダライ・ラマ13世との交流を紹介します。
4.釈迦牟尼世尊絵伝とチベット仏教美術
 ダライ・ラマ13世の遺言によって、多田等観のもとに送られてきた世界的にも類例の少ない貴重な資料や仏像、タンカ等を紹介し、日本仏教とチベット仏教との違いを紹介ます。
5.世界的なチベット学者
 チベット大蔵経の研究を行い、世界的なチベット学者として活躍し、日本学士院賞受賞、勲三等旭日中綬章の叙勲を受けた等観。経典や目録等を紹介します。
6.等観の交流
 多田等観が花巻の人々と交流するようになった経緯や、円万寺観音堂とのつながり等について紹介します。
 
おそらく「6.等観の交流」のコーナーに、光太郎が等観に贈ったうちわ、詩集、葉書の3点が展示されているとのことでした。

うちわは画像では見たことがありますが、現物は未見。「悠々無一物満喫荒涼美」と揮毫されています。

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詩集はおそらく昭和22年(1947)、鎌倉書房刊・草野心平編の『高村光太郎詩集』と思われますが、詳細は不明です。等観に宛てた葉書は『高村光太郎全集』等に収録されておらず、非常に興味を引かれております。

月末に昨日ご紹介した高村光太郎記念館夏休み親子体験講座「新しくなった智恵子展望台で星を見よう」のため、花巻に行きますので、その際に見てこようと思っております。

関連行事がいろいろとあります。

関連行事

・特別展示 宮沢賢治直筆原稿「雁の童子」展示
  平成29年8月1日(火曜日)から8月8日(火曜日)まで 
  上記期間以外の展示会期間中は複製品を展示しています。

・記念講演会
  日時:7月22日(土曜日)午後1時30分から午後3時まで
  演題:「大陸から花巻へ」多田等観をめぐる人々
  講師:高本康子氏(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター協同研究員)
  参加料:無料

・郷土芸能特別演舞
  日時:8月20日(日曜日)午後1時30分から午後3時まで
  出演:岩手県指定無形民俗文化財:円万寺神楽(湯口地区)
  演目:狂言「狐とり」、権現舞
  鑑賞料:無料

・館長講話
  日時:8月5日(土曜日)午後1時30分から午後3時まで
  演題:「西域・多田等観と宮沢賢治」
  講師:花巻市博物館長:高橋信雄
  参加料:無料

ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

身うちあたらしく力満つる時 かの大空をみれば 限りなく深きもの我を待つ
詩「わが大空」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

永らく発表誌不明でしたが、この年に帝国書院から発行された、師範学校・高等女学校・実業女学校用の音楽教科書『音楽 五』に合唱曲楽譜として掲載されているのを確認しました。作曲は松本民之助。坂本龍一氏の師に当たります。

光太郎の手元に残された詩稿には「音楽学校へ 唱歌歌詞として」のメモ書きがあります。最初から歌曲の歌詞として作曲を前提に作られた、初の作品です。

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岩手盛岡から企画展情報です。

巨匠が愛した美の世界 川端康成・東山魁夷コレクション展

期 日 : 2017年7月1日(土)~8月20日(日)
会 場 : 岩手県立美術館 岩手県盛岡市本宮字松幅12-3
時 間 : 9:30〜18:00(入館は17:30まで)
料 金 : [一般] 前売り1,000円(当日1,200円)、[高校生・学生]前売600円(当日700円)、
      [小学生・中学生]前売400円(当日500円) 20名以上の団体は、前売料金と同額
休館日 : 月曜日(7月17日、8月14日は開館)、7月18日

日本初のノーベル文学賞受賞者、川端康成は、池大雅「十便図」、与謝蕪村「十宜図」(いずれも国宝)から若いころの草間彌生作品など、独自の審美眼で幅広い時代の美術品を収集しました。
本展では、その中でも特に深い交流があった日本画家東山魁夷の収集品と合わせ約200点を紹介。昨年末に発見された新資料も全国初公開します。
また、川端文学の最高傑作のひとつ「伊豆の踊子」についてコーナーを特設。作品が生み出されるきっかけとなった、本県ゆかりの初恋相手との交流も紹介し、創作の源泉に迫ります。
 

関連行事

◾ 開催記念講演会「川端康成を語る」
  講師:川端香男里氏(公益財団法人川端康成記念会理事長)
  日時:2017年7月1日(土) 14:00-15:30
  場所:ホール
  *参加ご希望の方は当日直接ホールへお越し下さい。観覧券又は半券の提示が必要です。
◾ スペシャル・ギャラリートーク
  講師:水原園博氏(公益財団法人川端康成記念会東京事務所代表)
  日時:2017年7月29日(土) 14:00-15:00
  場所:企画展示室
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。
◾ アートシネマ・上映 『恋の花咲く 伊豆の踊子』 弁士伴奏付き無声映画上映
  日時:2017年7月16日(日) 14:00-15:50(開場13:30)
  弁士:澤登翠氏 ピアノ伴奏:柳下美恵氏
  場所:ホール
  *鑑賞ご希望の方は当日直接ホールへお越しください。
   観覧券又は半券の提示が必要です。
   なお参加多数の場合は入場を制限させていただく場合がございます。
◾ 学芸員講座「川端康成と浦上玉堂」
  講師:吉田尊子(当館学芸普及課長)
  日時:2017年8月5日(土) 14:00-15:00
  場所:ホール
  *参加ご希望の方は当日直接ホールへお越し下さい。参加無料です。
◾ 川端と東山のコレクション鑑賞ツアー
  日時:2017年8月14日(月) 11:00-12:00/15:00-16:00(各60分)
  場所:企画展示室
  定員:各回25名(先着順。各回30分前より受付開始)
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。
◾ ギャラリートーク
  日時: 7月7日(金)、8月4日(金)、8月18日(金)いずれも14:00-(30分程度)
  場所:企画展示室
  *本展観覧券をお持ちの上、直接企画展示室へお越しください。


今年初め、今年初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、のち全国的にニュースとなった新発見の川端康成旧蔵の書画が展示されます。

光太郎の書も1点。『智恵子抄』所収の「樹下の二人」(大正12年=1923)中の有名なリフレイン「あれが阿多多羅山、あの光るのが阿武隈川」を扇面に揮毫したものが展示されます。

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画像で見る限りでは、間違いないもののようです。

当方、月末に花巻に行く予定があり、その際に足を伸ばそうと思っております。皆様もぜひどうぞ。

また、川端邸で発見の書画類、「全国に先駆けて」公開とありますので、今後、各地での巡回がありそうです。情報が入りましたら、またご紹介いたします。


【折々のことば・光太郎】

もう人間であることをやめた智恵子に 恐ろしくきれいな朝の天空は絶好の遊歩場 智恵子飛ぶ

詩「風にのる智恵子」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

前年、千葉九十九里浜に移っていた智恵子の母と妹一家のもとに、半年ほど智恵子を預けていた際の思い出を元に書かれた詩の一節です。この頃は、光太郎、両国から2時間ちょっとかけて、毎週のように智恵子を見舞っていました。

実際に足を運べばわかりますが、九十九里浜は果てしなく続くかと思われるような長い砂浜です。尾長や千鳥と一体化した智恵子にとって、絶好の遊歩場だったのですね。

ちなみにNHKさんに、戦後の光太郎の朗読音声が残っており、「遊歩場」は「ゆうほば」と読んでいます。「ゆうほじょう」と読んでも間違いではないのでしょうが。

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昨日は、都内3ヶ所を廻っておりました。神田の学士会館で開催された現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」が昨日18時からでしたので、それが始まる前に、同じ都内で懸案事項の調査を、と考えました。

まず向かったのが、杉並区立郷土博物館さん。

ちなみに京王線の永福町駅から歩きましたが、同駅コンコースに、光太郎を敬愛していた佐藤忠良のブロンズがあって、「おお」、と思いました。佐藤のアトリエが近くにあったということでした。

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遠目で一瞬目に入っただけで、佐藤の彫刻と分かります。これは同じく光太郎を敬愛していた舟越保武のそれにしてもそうです。個性の発露なのでしょう。

さて、郷土博物館さん。古民家の長屋門を正門に転用しています。


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こちらに最近、思想家の江渡狄嶺関連の資料がご遺族から寄贈され、その中に光太郎から江渡の子息に送られた書簡(『高村光太郎全集』等未収録)が含まれているという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

江渡は光太郎より3歳年長、青森五戸の出身で、トルストイやクロポトキンの思想に影響を受け、東京帝国大学を中退し、まず世田谷に「百姓愛道場」、続いて高円寺に「三蔦苑」という農場を開いて、「農」に軸足を置いた生活に入ります。そして品川平塚村や成田三里塚で同様の生活に入った水野葉舟の縁で、光太郎と知り合い、交流を深めました。

大正10年(1921)には、江渡の長男をはじめ、幼くして亡くなった子供達の納骨堂を兼ねた集会所「可愛御堂」が三蔦苑内に建てられましたが、その設計は光太郎が担当しました。

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大正9年(1920)の『東京朝日新聞』の記事です。

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こちらが可愛御堂。昭和34年(1959)まで現存していたそうです。

また、昭和20年(1945)4月13日の空襲で、駒込林町のアトリエを失った光太郎、しばらく近くにあった妹の婚家に身を寄せていましたが、5月3日に三蔦苑を訪れ、リヤカーを借りています。それを使って延々茨城取手まで荷物を運び、そこから花巻の宮沢賢治の実家に疎開しました。前年に江渡は亡くなっていましたが、江渡の妻・ミキが対応してくれたようで、光太郎は礼にと、空襲前に運び出していたブロンズの「老人の首」(大正14年=1925)を贈っています。これはミキが東京国立博物館に寄贈、現在も時折展示されているものです。

江渡夫妻に関し、光太郎は大正15年(1926)、雑誌『婦人の国』に発表した「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」というエッセイで、詳しく述べています。長くなるので全文は紹介しませんが、「しみじみと噛みしめるやうな古淡な味いを持つた人達」、「このお二人は、二人の見つめてゐるものが常に同じでそして変らない」、「まことに美しい、しつかりした結ばれです。ただ逢つてみるだけで自分を豊富にされるやうな気のする人たちです。」等々、手放しで賛美しています。

昨日、郷土博物館さんで拝見した書簡は、昭和20年(1945)1月3日付、江渡の次男・復にあてた封書で、前年暮れに江渡が急逝し、そのお悔やみを述べており、飾らない真摯な言葉で、心打たれます。「すぎなみ学倶楽部」さんという団体のサイトに、書面の画像が載っています。

他の光太郎書簡も同館に寄贈されているかと思いましたが、これ一通でした(江渡本人に送った書簡は既に『高村光太郎全集』に収録されています)。ただ、昨日は上記サイトに記述がなかった封筒も拝見させていただけました。光太郎の住所氏名電話番号が印刷されていました。よく見るとその脇に空押しで「三越」の二字。三越百貨店でのオーダーメイドのようです。三越さんではそんなこともやっていったのですね。

かつてあった江渡狄嶺研究会という組織、それからミキが書き残したものなどに、光太郎に関する記述がけっこうあるようで、光太郎と江渡夫妻に関しては、今後の研究課題としておきます。


三蔦苑跡も、館からさほど遠くはないようなのですが、昨日の東京は豪雨でして、そちらはまたのちの機会にと思い、次なる目的地、台東区立中央図書館さんを目指しました。

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まず、このブログで過日ご紹介した、企画展示「台東区博物館ことはじめ」を拝見。

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光太郎の父・光雲が深く関わった内国勧業博覧会に関し、明治初期の錦絵や、関連書籍をまとめて置いて下さってあり、興味深く拝見しました。

それから、同じフロアで吉原遊郭関連の資料もまとめられているという情報を得ていましたので、そちらを調べるのも目的でした。

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光太郎は欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)、吉原河内楼の娼妓・若太夫と懇ろになり、彼女を「モナ・リザ」と呼び、「失はれたるモナ・リザ」「地上のモナ・リザ」などの詩を書きました。それを読んだ作家の木村荘太(光太郎とともにヒユウザン会を立ち上げた画家・木村荘八の兄)が若太夫にちょっかいを出し、三角関係、決闘騒ぎなどとなります。結局、若太夫は木村を取りますが、年季が明けた後、郷里の名古屋に帰り、木村ともそれっきりでした。そのあたりは木村の自伝的小説『魔の宴』(昭和25年=1950)に詳しく書かれています。

この若太夫、そして河内楼について、調べました。特に、光太郎が「モナ・リザ」と呼んだ彼女の写真等を見つけたいと思っているのですが、なかなか見つかりません。

『新吉原細見』という、遊郭全体の在籍女性のリストが発行されており、そこに写真が載っている娼妓もいます。こちらは明治34年(1901)、光太郎が通う10年前のものです。

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巻頭のグラビア的なページに、何人かの写真がピックアップされて載っています。左は河内楼の「小町」。

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右は当方が以前から持っている明治24年(1891)発行の石版画で、やはり河内楼の「しら露」。上記細見にも「白露」の名がありますが、同一人物か、先代か、はっきりしません。

こんな感じで若太夫を探していますが、結局、明治43年(1910)前後の細見が所蔵されておらず、昨日も見つけられませんでした。一番近いものでも上記の同34年のものでした。

その代わりゲットできた、絵図の画像、地図、河内楼の写真など。

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下記はこれも当方が以前から持っている河内楼の古絵葉書。宛名面の様式から、明治40年(1907)~大正6年(1917)のものと判定できます。破風の形が上記写真とも一致しています。

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この若太夫、河内楼についても、継続的に調べていこうと思っております。


その後、神保町の学士会館で、公開講座「高村光太郎の短歌」を拝聴しましたが、そちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

耕す者の手を耕す者にかへせ。 太陽を売らんとする者よ滅べ。

詩「不許士商入山門」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

江渡や水野葉舟ら、「農」に軸足を置いた友人知己を限りなく敬愛していた光太郎。農民の手から鋤や鍬を取り上げ、代わりに銃器を持たせる徴兵制への抗議とも取れます。

ほどなく、智恵子の心の病の顕在化と、その死に伴い、その空虚感を埋めるがごとく、翼賛側に転向していくのですが……。

日本絵手紙協会さん発行の雑誌『月刊絵手紙』の今月号です。これまでもたびたび光太郎智恵子を取り上げてくださっていますが、今号も「すべては「詩魂」ありてこそ 高村光太郎の書」という題で、10ページの特集を組んでくださっています。

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文章は同会主宰の小池邦夫氏。郵研社さん刊行の『小池邦夫絵手紙講演集in忍野』からの転載です。「書とは人間最後の芸術――高村光太郎」と題し、光太郎の書を語られています。

花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、同館に所蔵・展示されている光太郎の書、スナップ写真、遺品等の画像がふんだんに使われています。

一般書店での販売は行っておらず、同会サイトからの注文となります。税込み822円+送料100円。お手頃価格です。

完売のものを除き、バックナンバーも入手可能です。光太郎智恵子に関する号は以下の通り。

No.81  2002年9月号   高村智恵子紙絵
No.103 2004年7月号  武者小路実篤/高村光太郎
No.118 2005年10月号 高村光太郎の絶筆
No.142 2007年10月号 高村光太郎の書
No.174 2010年6月号  李朝の木偶・明治の書・光太郎と智恵子・冬青・水上勉

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また、来月号から、「高村光太郎のことば」という連載が始まるそうで、早速年間購読の手続きをいたしました。ありがたいかぎりです。

皆様もぜひお買い求めください。


【折々のことば・光太郎】

つきあたると坂になるから、 あの上から又下町の灯を見て来ようとつい思ふ。 平和な間にこそ可憐な姿は見て置かうと。

詩「平和時代」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「坂」は、住居兼アトリエのあった本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の団子坂です。約18年後には戦火に包まれ、アトリエや、坂の上にあって光太郎もたびたび訪れた森鷗外の旧宅「観潮楼」なども灰燼に帰しました。そしてそこから見えた「下町」一帯も。

明日は憲法記念日。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」とする第9条があるにもかかわらず、緊張が高まっています。真逆のことを考えている国が近くにあったり、我が国でもこの理念をなし崩しにしようとする輩が跳梁跋扈していたり……。

「平和な間にこそ可憐な姿は見て置かう」と考えるような世の中はごめんですね。

昨日、花巻高村光太郎記念会さん事務局の方が当方自宅兼事務所にいらっしゃいました。直接の用件としては、花巻高村光太郎記念館さんで来月から開催される企画展の資料をお貸しするためでしたが。併せて現状での課題、来年度の展望等、いろいろお話を伺いました。

まず現状。入館者数等伸び悩んでいるそうです。平成27年(2015)5月に、リニューアルオープンした同館ですが、その年は入館者数等順調に伸びたそうですが、昨年から今年にかけてはジリ貧的に落ち込んでいるとのこと。

立地条件的に花巻市街からかなり離れていること、すぐ近くに他の観光施設等がないこと、他にもいろいろ要因はあるとは思いますが、残念です。昨年行われた国体も入館者数には結びつかなかったそうです。追い打ちをかけるように、一度復活した在来の花巻駅から高村山荘行きの路線バスも今年度で廃止(途中の県立清風支援学校までの通常便は維持)。ますます厳しくなりそうです。

ただ、追い風もありそうです。記念館のある太田地区に、「(仮称)西南道の駅」の計画が進んでいます。これから用地買収だそうで、オープンはまだ先ですが、道の駅内に光太郎に関するコーナーを設けたりといったタイアップが考えられているとのことで、実現すれば記念館への新たな導線となることが期待されます。

智恵子の生家・記念館がある福島二本松には道の駅が二つあり、道の駅「安達」智恵子の里さんでは、智恵子情報コーナーの設置など、道の駅ふくしま東和さんでは、光太郎智恵子にちなむ「あだたら恋カレー」の販売などを行っているほか、いろいろと生家・記念館との連携を図っているようです。いずれ花巻もそういう方向に行ってほしいものです。


それから、まだ公式発表がないので詳細が書けませんが、記念館としての来年度の計画。

まず、こちらは現在進行中ですが、光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)裏手の高台、通称「智恵子展望台」の整備。ここに住んでいた頃の光太郎が、ここから夜空に向かって「智恵子ーーー」と叫んでいたという証言が残っています。元々、簡素な東屋的なものはあったのですが、そちらが老朽化とのことで建て直し、さらに雑木を伐採したり刈ったりして、ビューポイントとしての整備を進めているそうです。当方、来月10日、盛岡に行く都合があり、その途中に立ち寄って、現状を見てきます。

それから企画展。日程はあくまで予定ですが、以下の通り。

4/14(金)~6/26(月)で、光太郎と花巻の温泉郷に関わる展示。大沢温泉さん、花巻温泉さんなど、花巻に点在する温泉をこよなく愛した光太郎。書き残された文章や、古写真類、それから温泉ではありませんが、山小屋で光太郎が使っていた浴槽が保存されており、その実物も展示されます。

9/15(金)~11/27(月)に、昨年も行った智恵子の紙絵の実物展示。関連行事的に映画「智恵子抄」などの上映も考えているそうですが、そのあたりは未定です。

12/8(金)~2018年2/26(月)には、市内の他の文化施設、花巻市博物館さんや新渡戸稲造記念館さんなどと共同で、統一テーマによる同一時期企画展開催。光太郎記念館さんでは、通常展示していない書の展示を考えているとのことです。

それぞれまた近くなって詳細が出ましたら、またお伝えいたします。


それにしても、入館者数等伸び悩み、非常に残念です。リニューアルに伴い、非常に充実した施設ですし、併設の光太郎が暮らした山小屋・高村山荘、そして整備中の智恵子展望台など、見どころの多い場所です。ぜひ足をお運びください。

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【折々のことば・光太郎】

ありがたう、フランス  わけのわかるこころといふものが  どんなに人類を明るくするか  朝のカフエ オオ レエをついでくれた  一人のマダムのものごしにさへ  ああ、君はそれを見せてくれた
詩「感謝」 大正15年(1926) 光太郎44歳

これで全文の短い詩です。社会矛盾にみちた日本での暮らしの中で、20年近く前の、芸術に関する考え方や人間としての生き方に目を開かせてくれたフランスでの日々に思いを馳せています。

ところで大正時代にカフェ・オ・レについて記した文学作品、というのも少ないような気がしますが、どうでしょうか。

今月初め、『伊豆新聞』さんで報じられ、今週になって全国的にニュースとなった、光太郎の揮毫を含む川端康成旧蔵の書画発見につき、『岩手日報』さんが報じました。

川端康成邸から書、書簡 岩手で今夏に初公開へ

007【東京支社】ノーベル賞作家の川端康成(1899~1972年)が暮らした神奈川県鎌倉市の邸宅から、第2次世界大戦末期に花巻市に疎開した彫刻家で詩人の高村光太郎や、新感覚派の盟友だった作家横光利一、林芙美子の書など76点が見つかった。同世代の作家や文豪の書などが多数見つかったのは初めてで、文学者同士の交流の様子がうかがえる新資料。7、8月に盛岡市本宮の県立美術館で開催する企画展で、その多くを国内初公開する。
 川端の作品資料や愛蔵品の保存などに取り組む川端康成記念会(川端香男里理事長)が24日、東京都目黒区の日本近代文学館で記者会見して発表した。
 川端邸敷地内の書庫の整理中に見つけ、川端理事長らが12月6~8日に調査し確認した。書が52点で、書簡や絵画もあった。藩制時代の画家池大雅や、明治―大正期に活躍した文豪夏目漱石の書など、古書店などで入手したらしいものも含まれていた。
【写真=智恵子抄の一節を扇に記した高村光太郎の書(川端康成記念会提供)】


光太郎第二の故郷とも言える岩手ですので、光太郎の名を前面に押し出して下さいました。

ところで、筑摩書房『高村光太郎全集』には、川端の名は見えず、光太郎と川端に直接のつながりはなかったようです。川端は明治32年(1899)生まれで、光太郎の16歳下になり、光太郎はその世代の小説家とは、あまり付き合いがありませんでした。詩人であればその世代に知友が多かったし、小説家でも光太郎と同世代だった白樺派の面々とは親しかったのですが。

今回含まれていた光太郎の書は、おそらく、記事の最後にある「古書店などで入手したらしいもの」に含まれるのではないかと思われます。

さて、今夏、岩手県立美術館で、今回見つかったものの中から展示がされるとのこと。やはり光太郎第二の故郷とも言える岩手ですので、光太郎の書は是非とも展示していただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

冬よ 僕に来い、僕に来い 僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

詩「冬が来た」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

「冬の詩人」の面目躍如、ありあまるエネルギーが炸裂しています(笑)。

以前にも書きましたが、当方はまるで逆、「僕は冬の餌食だ」状態です(笑)。比較的温暖な房総半島に住んでいて、こんなことを言っていると、泉下の光太郎に怒られそうです(笑)。

先々週のこのブログで、『伊豆新聞』さんの記事からご紹介した、川端康成邸での光太郎のそれを含む大量の書画発見のニュ-スが、全国報道されました。

『朝日新聞』さん、『神奈川新聞』さんでは、光太郎書の画像を掲載して下さいました。

まず朝日さん。

川端康成宅 書画続々

007 ノーベル賞作家の川端康成(1899~1972)の自宅で、夏目漱石や北原白秋、林芙美子や横光利一、田山花袋ら著名作家の手による直筆の書や書簡などが大量に見つかった。美術品の収集家としても知られる川端だが、作家の書が見つかるのは珍しい。
 書や書簡、絵画など70点以上で、神奈川県鎌倉市の川端邸に眠る遺品を整理していた川端康成記念会(川端香男里理事長)が昨年末、発見した。
 書は52点。漱石の五言絶句や田山花袋の七絶詩、北原白秋の自作歌など、川端より前世代の文豪のほか、生前交流のあった同世代作家の書もあった。
 川端らとともに「新感覚派」と呼ばれ、盟友でもあった横光利一による書は3点で、代表的な句「蟻(あり)臺上(だいじょう)に餓(う)えて月高し」をしたためた1点も。書を収めた箱には、利一の没後、夫人から譲り受けた経緯が記されていた。林芙美子が鎌倉の川端を訪ねた際に川端が依頼したという書には「硯(すずり)冷えて銭もなき冬の日暮(ひぐれ)かな」とあった。
 その他、芥川龍之介が室生犀星に宛てたものなど、書簡は4点。島木健作が川端の妻に宛てて、訪問の際の非礼をわびた手紙は額装された状態で見つかった。
 記念会理事の水原園博さんは「川端は、書には人格や魂がこもると考え、尋常ではない興味を持っていた。同世代の作家との幅広い交流、年上の作家への尊敬の念も読み取れる」と話している。見つかったものの一部は今夏、岩手県立美術館で公開される予定。(板垣麻衣子)


続いて『神奈川新聞』さん。

川端康成が見た「文学史」 旧宅から文豪の書76点見つかる

  後半生を鎌倉で過ごしたノーベル文学賞作家、川端康成(1899~1972年)が収集した 文豪の書など76点が、鎌倉市の旧宅で見つかった。コレクションに名を連ねるのは夏目 漱石や芥川龍之介、島崎藤村ら名だたる文士たち。同時代の作家に寄せる親しみや敬意を示すとともに、川端の目を通した「日本近代文学史」にもなっている。
 川端に関する資料保存や研究を手がける川端康成記念会(川端香男里理事長、同市長谷)が24日に発表した。旧宅の敷地に立つ資料庫「川端康成記念館」(非公開)で昨年11月末に偶然見つかり、同会が12月上旬に概要を調査。掛け軸や額など書は52点に上り、書簡や絵画などもあった。直接書いてもらったり、古物商から購入したりと、入手経路はさまざまという。
 漱石の書は、1914年に友人の森円月に贈った五言絶句の漢詩で、軸装され木箱に入っていた。芥川が室生犀星に宛てた書簡は、東京・田端にあった文士村の会合「道閑会」に誘う内容。自身を「澄江堂」、犀星を「魚眠洞御主人」と記すなど、親しさがうかがえる。これらの多くは存在が知られ、未発表書簡には当たらないが、実物の存在が改めて確認された形だ。
同会の水原園博理事は「同時代の作家への親しみに加え、書に対する尋常でない重いも読み取れる」と指摘。川端は書に人格を見いだし、収集にのめり込んだという。「なぜ膨大な書を集めたかを研究し、川端の創作をより立体的に捉えたい」と話していた。
 同会は16年前から川端に関する資料を調査、公開している。今回発見された書の一部は、今夏に盛岡市の岩手県立美術館で公開される計画がある。

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昨夜には、TBSさん系のニュースでも報じられ、同じ書が写りました。

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TBSさんと提携関係にある『毎日新聞』さんでも記事になりましたが、こちらでは光太郎の書は使われなかったようです。


さて、問題の書。画像で見る限りは光太郎の筆跡で間違いないようです。書かれているのは『智恵子抄』所収の「樹下の二人」でリフレインされる「あれが阿多多羅山 あの光るのが阿武隈川」。同じ詩句は当会顧問の北川太一先生が揮毫して貰い、智恵子の故郷、福島二本松の霞ヶ城に建立さられた詩碑に刻まれたものが、色紙等にプリントされて出回っています。そこからコピーした悪質な偽物、ということも考えましたが、それとは筆跡が異なりました。おそらくいけないものではないようです。

見つかった書画の一部は今年の夏、盛岡で公開されるとのこと。盛岡は光太郎ゆかりの地でもあり、ぜひとも光太郎書もそこに含めていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

「無窮」の力をたたへろ 「無窮」の生命をたたへろ 私は山だ 私は空だ

詩「山」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

この年の夏、智恵子と共に婚前旅行で1ヶ月ほど滞在した、信州上高地での体験をモチーフにしています。その辺りの経緯、尺の関係でカットされなければ、今夜、NHK BSプレミアムさんで放映の「にっぽんトレッキング100 絶景満載!峡谷のクラシックルート~長野・上高地~」で扱われるはずです。

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画像は一昨年、山岳雑誌『岳人』さんに書かせていただきました記事から。

静岡の地方紙『伊豆新聞』さんに載った記事です。長いので換骨奪胎します。

川端康成邸から書画など70件発見 牧水ら伊豆ゆかり多数

 ノーベル文学賞を受賞した文豪・川端康成(1899~1972年)の神奈川県鎌倉市の自宅から6日までに、明治、大正、昭和初期に活躍した作家らを中心に総数約70件の書画などが見つかった。歌人・若山牧水が伊豆・湯ケ島で詠んだ有名な「山桜の歌」、昨年没後100年、今年生誕150年を迎える夏目漱石の五言絶句の漢詩のほか、島崎藤村、高浜虚子、尾崎紅葉、斎藤茂吉、横光利一、島木健作らそうそうたる顔ぶれ。小説「伊豆の踊子」の名場面の絵画などもあり、伊豆と関係の深い人々の作品が目立つ。ノーベル賞の賞金で現地スウェーデンで衝動買いしたという椅子4脚も含まれる。(森野宏尚記者)

 川端の死後、川端文学の継承を目的に発足した財団法人・川端康成記念会(川端香男里理事長、初代理事長は井上靖)の関係者が書斎や書庫を整理していて発見した。
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特集=川端康成が収集 島崎藤村や尾崎紅葉の書
 ■盟友、横光に思い馳せる
 若山牧水、夏目漱石のほか見つかったのは島崎藤村の書、若菜集の宮城野より抜粋▽高浜虚子の虚子像、虚子句▽横光利一の書「蟻 臺の上に 月高し」など▽尾崎紅葉の書▽徳田秋声の書「古き伝統と新しき生命」▽斎藤茂吉の書「蓮花寺小吟三首」▽田山花袋の七言絶句▽高村光太郎の書(扇面)智恵子抄より▽林芙美子の書▽岡本かの子の書▽武者小路実篤の書「伊香保風景」▽久米正雄の書「初芝居」▽吉野秀雄の書「伊豆大仁望嶽詩」▽富岡鉄斎の書簡▽室生犀星の書簡など。多くは鎌倉の古書店で購入したようだ。
 また醍醐寺の如意輪観音(鎌倉時代)▽藤原定家の懐絵▽大燈国師(南北時代の禅僧)自筆録抄▽寂室元光の一行書▽雪村周継(室町時代の画僧)の風濤図、池大雅の書なども含まれる。
 林芙美子の書には「硯[すずり]冷えて 銭もなき 冬の日暮れかな」と書かれ、水原園博さんは「貧乏時代の彼女そのもので、放浪記で一躍有名になったものの作家仲間からは疎んぜられていた芙美子に、同情を寄せる川端の視線を彷彿とさせる」、新感覚派の旗手で川端とは真の盟友として心通わせた横光利一の「蟻 臺(台)上に 月高し」について、水原さんは「横光は急死し、川端の喪失感はいかばかりだったか。蟻 臺上に…の一文にどう思いを馳せたか」としみじみ語った。

 ■川端邸 一般公開も視野 審美眼、育てた美術品
 川端康成は生前、国宝2点や日本画家・安田靫彦[ゆきひこ]、東山魁夷など多くの美術品を収集していた。無名の若い画家にも着目し、作品を進んで購入した。草間弥生などはその代表格だ。

 川端記念会は川端没後30年の2002(平成14)年から、所蔵品を「川端コレクション展」として全国28美術館で開催してきた。4月から川端が好んだ洋画家・古賀春江の生誕地、福岡県の久留米市美術館(旧石橋美術館)での開催も決まっている。
 川端香男里・川端記念会理事長は「(これまで何度も発見があるので)また出てきたかという思いだが、新発見の品々の何点かは久留米でも披露されるだろう。今後は川端の愛した美術品などに触れる機会を増やすため、川端邸の一般公開も考えていきたい」と展望を語った。
 川端康成学会・常任理事の平山三男さん(69)は「川端の美意識、審美眼は多くの美術品などを通して養われ、作品にも投影されている」とし、今回、先輩、同世代作家の書画が多く出てきたことについては「美を追い求めた川端の憧れや親しみ、その人を深く知りたいなどの思いがあるのではないか」と分析した。


というわけで、川端康成の旧宅から名だたる文豪たちの書画などが大量に見つかり、光太郎の書も含まれていたとするものです。

ネットに載った記事では、残念ながら「光太郎の書」の画像は含まれていませんでした。したがって、真贋のほどは何ともいえませんが、生前、多くの美術品などを購入していたという川端ですので、まず間違いはないのでは、と思います。

いずれ目にできる機会が来ることを期待しております。


【折々のことば・光太郎】

いやなんです あなたのいつてしまふのが―― 

001詩「人に」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

雑誌『劇と詩』に初出の段階では、「N――女史に」という題名でした。「N」は長沼智恵子の「N」です。詩の冒頭及び途中、末尾と3回リフレインされています。

大正3年(1914)には詩集『道程』に収められ、「――に」と題名が変わり、内容も大幅に改訂されています。そして昭和16年(1941)、詩集『智恵子抄』では、さらに「人に」と改題されて、その巻頭を飾りました。

改訂が行われても、このリフレインは変更されていません。それだけ光太郎にとって思い入れのある詩句だったのではないでしょうか。

おそらくこの詩を読んだ智恵子も決心し、晴れて光太郎と結ばれることとなります。

書家、石川九楊氏。昨年、NHK Eテレさんでオンエアされた趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」 にて講師を務められ、光太郎の書もご紹介下さいました。

その石川氏の全集ともいうべき『石川九楊著作集』全12巻がミネルヴァ書房さんから刊行中です。そして次回配本が第6巻で、『書とはどういう芸術か 書論』。やはり光太郎にも触れて下さっています。

石川九楊著作集Ⅵ 書とはどういう芸術か 書論

2016年12月25日 ミネルヴァ書房 本体9,000円+税

序 書とはどういう芸術か——筆蝕の美学
はじめに
序 章 書はどのようなものと考えられて来たか
第一章 書は筆蝕の芸術である——書の美はどのような構造で成立するか
第二章 書は筆・墨・紙の芸術である——書の美の価値はなぜ生じるのか
第三章 書は言葉の芸術である——書は何を表現するのか
第四章 書は現在の芸術でありうるだろうか——書の再生について

書——筆蝕の宇宙を読み解く
第一講 書の表現の根柢をなすもの——筆蝕についてⅠ
第二講 反転しあう陰陽の美学——筆蝕についてⅡimg_0_m
第三講 垂線の美学——書と宗教
第四講 整斉、参差、斉参——旋律の誕生
第五講 書のなかの物語——旋律の展開
第六講 折法の変遷と解体——リズムについて
第七講 表現行為としての書——書と織物
第八講 書のダイナミックス——筆勢について
第九講 結字と結構——書と建築
第十講 ムーブメントとモーション——書と舞踊
第十一講 甲骨文、金文、雑体書——書とデザイン
第十二講 余白について——書と環境

九楊先生の文字学入門
はじめに
第一講 表 現
第二講 動 詞——筆蝕すること
第三講 場
第四講 主 語
第五講 述 語
第六講 単 位——筆画
第七講 変 化
第八講 接 続——連綿論
第九講 音 韻——筆蝕の態様
第十講 形 容
第十一講 接 辞
第十二講 構 文
講義レジュメ

凡 例
解 題
解 説 弁証法の美学——書の表現をささえるもの(高階秀爾)

007このシリーズは、単行本化されたものをまとめたもののようで、この巻は736ページもあり、3冊のご著書がまとめられています。すなわち表題作の『書とはどういう芸術か 筆触の美学』(平成6年=1994 中公新書)、『書―筆蝕の宇宙を読み解く』(平成17年=2005 中央公論新社)、『九楊先生の文字学入門』(平成26年=2014 左右社)。

当方、全て読んだわけではないのですが、このうちの表題作『書とはどういう芸術か 筆触の美学』は、かつて店頭で見つけ、光太郎に言及されていたので購入しました。

曰く、「彫刻家・高村光太郎などの場合には、ペンもまた鑿であり、端正な瞠目するような詩稿を残している。」「高村光太郎の書は、単なる文士が毛筆で書いた水準をはるかに超えた、もはや見事な彫刻である。」などなど。


調べてみましたところ、7月には同じシリーズの第1巻『見失った手 状況論』が刊行されており、そちらには平成5年(1993)新潮社刊の、『書と文字は面白い』が収録されており、やはり光太郎に触れられています。こちらは当方、文庫版(平成8年=1996)で読みました。

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こちらは2ページにわたり「高村光太郎」という項があって、このように述べられています。

高村光太郎の書は、近代・現代の作家、詩人、歌人などの書の中で異彩を放っている。表現上、いわゆる作家、芸術家の書の範疇(はんちゅう)には属さず、また、いわゆる書家の「現代書」とも異なっている。
(略)
「精神」や「意思」だけが直裁に化成しているような姿は、他に類例なく孤絶している。

けだし、そのとおりですね。ただ、強いて類例を挙げるとすれば、その精神性などの部分で色濃く影響を受けた、草野心平の書が、光太郎のそれに近いかもしれません。


『石川九楊著作集』、おそらく他の巻を含め、他の部分でも、光太郎に言及されている箇所がまだあると思われます。とりあえず、はっきり光太郎に言及されているとわかっているもののみご紹介しました。また情報が入りましたらご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

百燭に雉子の脂のぢぢと鳴る     昭和20年(1945) 光太郎63歳

花巻郊外太田村の山小屋で迎える最初の冬に詠まれた句です。最初の数年間は、電気もない生活で、夜はランプや蝋燭で過ごしていました。

一昨日と昨日、ATV青森テレビさんの年末特別番組「乙女の像への追憶――十和田湖国立公園80周年記念」の撮影で、都内の光太郎ゆかりの地を歩き、光太郎本人を知る方々へのインタビューに同行しました。

そのさらに前日は、茨城取手に行っておりました。

先月開催された第61回高村光太郎研究会において、主宰の野末明氏が、光太郎の姻戚の詩人にして、取手出身の宮崎稔について発表をされました。それを聴いて、宮崎に関する情報を提供する約束をしたのですが、あやふやな点があって、確かめに行った次第です。

まずは宮崎家の墓地。十数年前に行ったことがあり、だいたいの位置は記憶していたのですが、正確に地図で表せ、と言われると自信がありませんでした。

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取手駅の西南方向、利根川の河岸段丘の上です。画像で言うと左手が国道6号、手前は6号線に上っていく立体交差の側道です。

もともと光太郎と宮崎の縁は、宮崎の父・仁十郎が、戦前に日本画家の小川芋銭の顕彰に光太郎を引き込んだあたりから始まっています。

その仁十郎の墓もこちらにあり、それとは別に宮崎の墓。墓石側面の墓誌には、宮崎と、夭折した男児の名が刻まれていました(その辺りの記憶もはっきりしていませんでした)。当然刻まれているはずの宮崎の妻・春子(智恵子の最期を看取った姪)の名がなぜか有りませんでした。

ちなみに宮崎には、夭折した男児を謳った「ゆうぐれ」という詩があります。

二つの墓に線香を手向け、ここはこれで終了。

来たついでと思い、取手駅の反対側にある長禅寺を参拝、というか、境内にある光太郎ゆかりの二つの碑を見てきました。

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門前には、取手ゆかりの文人的な説明板も立っていて、光太郎も紹介されています。

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意外にも、智恵子を『青鞜』メンバーに引き込んだ平塚らいてうの名が。昭和17年(1942)から同22年(1947)まで取手に住んでいたとのこと。時期的に疎開と思われますが、これは存じませんでした。


さて、山門はやはり河岸段丘の上にあり、長い石段。



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その石段の右側に、昭和23年(1948)、光太郎が題字を揮毫した「開闡(かいせん)郷土」碑が有るはずでしたが、見つかりません。いくつか碑がありましたが、ずべて他の碑でした。この碑は何度か見に来ているので、場所の記憶違いということはありえません。そういう例が他にあったので、撤去されてしまったのかも、と思っていたところ、見つかりました。何と、繁茂した篠竹の藪に埋まっている状態でした。



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画像中央、やや黒みがかって見える部分に碑があります。不本意ながら石段の手すりを乗り越えて、篠竹をかき分けてみると……



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光太郎の手になる「開闡郷土」の文字。「光太郎」の署名もくっきりと。

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以前から、何の説明板もなく、これが光太郎の筆跡を刻んだものだと知られていないのでは、という感じでしたが、もはや碑そのものが見えない状態になっているとは……。

もっとも、先述しましたが、無理解のため撤去されてしまった碑も、他県にはありましたが……。

長禅寺には、もう一つ、光太郎の筆跡が刻まれた碑があります。こちらは山門をくぐって、境内の左手。光太郎と宮崎家の結びつきの機縁となった、「小川芋銭先生景慕之碑」で、昭和14年(1939)の建立です。


そちらは無事だろうかと、少し急いで行ってみましたが、こちらは無事でした。

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こちらも題字のみ、光太郎の筆跡です。

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題字の下に小さく「高村光太郎書」の文字も。ただし、柔らかい大理石なので、風化が進んでいます。

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以上を見て回りましたが、取手にはもう一つ、光太郎の筆跡が刻まれたものがあるはずです。

それは、宮崎仁十郎の仲介で、元取手町長だった中村金左衛門から頼まれた墓標。中村の縁者(息子?)と思われる「故陸軍中尉中村義一之墓 故海軍大尉中村恒二之墓」という文字を、昭和23年(1948)に光太郎が揮毫しています。おそらく取手のどこかに立てられたと思われますが、それがどこなのかわかりません。

長禅寺にも見あたりませんでしたし、当会顧問・北川太一先生にもお伺いしましたが、不明でした。情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

2021年2月6日追記。見つかりました。


【折々の歌と句・光太郎】

人間のハムと友らのよびならす女のあしはつるされにけり
大正15年(1926) 光太郎44歳

昨日に引き続き、駒込林町アトリエでの塑像彫刻制作に関する短歌です。

アトリエには、この短歌のとおり、女性の脚の習作がぶら下がっていたというエピソードが、複数の光太郎友人の回想に出て来ます。「人間のハム」とはよくいったものですね(笑)。

昨日は、ATV青森テレビさんの番組制作取材に同行、千駄木の光太郎アトリエ跡などをめぐり、そこからほど近い当会顧問・北川太一先生のお宅にもお伺いし、そちらで北川先生と当方のインタビューを撮影しました。

今日も同じ件で、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエに行って参ります。


この件についてはまた明日、2日分まとめてお伝えします。今日は最近入手した光太郎書簡について。

海外留学で光太郎がロンドンにいた頃、パリにいた画家の白瀧幾之助にあてた絵葉書で、『高村光太郎全集』には収録されていないものです。

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こちらは宛名面。消印が明治41年(1908)1月2日。パリのテアトル通り16番地、白瀧幾之助宛てです。

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文面の書かれた面。写真ではなく、石版画的な感じでしょうか。何せ100年以上前の絵葉書です。宛名面に印刷された文言によれば、イングランド南部ワイト島に位置するカウズという町の風景で、「Royal Yacht squadron」と記されています。「squadron」は「艦隊」。調べてみましたところ、1815年に設立され、まさにカウズの町に本部があったヨットクラブだそうです。「Royal」ですから、英王室との関連もあるのでしょう。

さて、文面は以下の通り。1月2日ということで、ある意味、年賀状的な内容でもありますが、大半は白瀧からの問い合わせに回答する事務的な内容ですね。

新年の御慶申納候
僕の処へも荻原君から手がみがあつた。
柳君の最近の手がみにある番地は矢張り618w.114□とある。
此でいいのだらう。
□光太郎

□の二文字分が読めません。ちょうどよいと思って、北川先生にもご覧頂いたのですが、やはり読めませんでした。もう少し推理してみます。

追記 「114」の後は「st」(ストリート)、「光太郎」の前は「二日」ではないかと、碌山美術館さんの学芸員氏からご指摘がありました。なるほど。それで正解ですね。

荻原君」は碌山荻原守衛、「柳君」は画家の柳敬助。白瀧を含め留学生仲間で、明治39年(1906)には光太郎、柳、白瀧は同時期にニューヨークに居住していましたし、荻原もパリからニューヨークを訪れ、光太郎らと会っています。

この葉書が書かれた明治41年(1908)には、光太郎はロンドン、白瀧はパリ、柳はニューヨーク、そして荻原は一足早くパリからイタリア、ギリシャ、エジプトを経て日本へ帰国する途中でした。「僕の処へも荻原君から手がみがあつた。」というのは、その船旅の途次からの手紙という意味でしょう。

白瀧幾之助は、光太郎より10歳年長。明治31年(1902)に東京美術学校を卒業し、洋画家として白馬会に所属していました。禿頭で大男、留学生仲間からは「入道」とあだ名されていましたが、非常に面倒見のいい人物で、光太郎もニューヨークやロンドンでさんざん世話になっています。また、両者晩年の戦後に、交流が復活しています。

100年以上前のロンドンからパリに送られた絵葉書が現存し、日本の当方の手元に届き、若き留学生たちの息吹が聞こえてきそうな内容……ある意味感無量です。


神田の古書店さんから入手しましたが、ほぼ同時期の白瀧宛書簡がごそっと売りに出ていました。光太郎からのものはこの1通だけでしたが、荻原のそれは3通含まれていました。早速、碌山美術館さんに連絡したところ、注文されたそうです。比較的長命だった光太郎の書簡はこれまでに3,400通余り見つかっていますが、夭折した荻原のそれは150通ほどしか知られておらず、新たに3通が加わったというのは大きいですね。これまでに見つかっていたものは、碌山美術館さんで昨年刊行の『荻原守衛書簡集』にまとめられています。

ちなみに光太郎の絵葉書は、70,000円でした。当分は節約に努めます(笑)。


【折々の歌と句・光太郎】

冬の空とほいかづちす黄に枯れて一馬(いちば)かげなき焼原(やけはら)の牧
明治39年(1906) 光太郎24歳

光太郎留学中の作です。ただし、最初の滞在国、アメリカで詠まれたものです。

先ほど、1泊2日の行程を終えて、福島相双地区より帰って参りました。充実の2日間でして、レポートは明日以降、ゆっくり書かせていただきます。

今日は新刊書籍の紹介を。

日本の書

2016年11月1日 手島𣳾六氏著 産経新聞出版 定価1,852円+税

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書には日本人の「心」と「技」が宿っている。

聖徳太子の書から、空海、西行、定家、 一休、白隠、良寛、吉田松陰、 西郷隆盛、高村光太郎、魯山人、川端康成……。

古今の能書42作品を、わが国を代表する現代書家が、 美しい図版とともに丁寧に紹介。A5判・上製・オールカラー!

【登場する人物】
 ■第一章 古代篇
 聖徳太子、光明皇后、最澄、空海、嵯峨天皇、橘逸勢、菅原道真、小野道風、藤原佐理、
 藤原行成、紀貫之、西行
 ■第二章 中世篇
 藤原定家、伏見天皇、親鸞、日蓮、道元、大燈国師、一休
 ■第三章 近世篇
 近衛信尹、本阿弥光悦、小堀遠州、荻生徂徠、白隠、池大雅、仙厓、良寛、吉田松陰
 ■第四章 近代篇
 三輪田米山、西郷南洲、中林梧竹、副島蒼海、日下部鳴鶴、比田井天来、尾上柴舟、
 豊道春海、會津八一、高村光太郎、北大路魯山人、小倉遊亀、川端康成、手島右卿

《古来、自然に富んだ清明な気候風土に住む日本人は緻密な観察と工夫によって独自の文化を作り上げてきた。つまり、季節感と心が一体となって独自の美しい書を醸成してきたのである。それ故、日本の書は「清明の中にある」と言っても過言ではあるまい。書の妙技、巧拙を含め「清明」にこそ日本の書の真髄が宿っていると言えよう。》(序文より)


平成24年(2012)から今年にかけ、『産経新聞』さんに連載されていた同名のコラムの単行本化です。

光太郎の項は、昨年10月3日に掲載されました。昭和に入ってからの光太郎の揮毫「うつくしきものみつ」についてです。

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昨年、NHKさんで放映された生涯教育番組「趣味どきっ! 女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」」の中で、書家の石川九楊氏がしみじみと述べられていましたが、光太郎の書は、鑿や彫刻刀でぐいぐい刻んで行くような書です。

やはりそうした解説になっています。

他にも古今の名書がオールカラーで紹介され、眺めていると不思議と心落ち着けられる書籍です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

浅草の千束町の銘酒屋の二階の窓の小春日のいろ

明治42年(1909) 光太郎27歳

今日は福島でも、日向にいると暑さを感じるくらいの小春日和でした。

画像はいわき市の草野心平生家前の、見事なケヤキの大木です。青空に黄葉のコントラストがきれいでした。

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うっかり紹介を忘れていました。岩手県盛岡市の盛岡てがみ館さんの企画展です。  

第51回企画展「文豪たちの原稿展」

期  日 : 2016年10月25日(火)~2017年2月13日(月)
会  場 : 盛岡てがみ館 岩手県盛岡市中ノ橋通1-1-10 プラザおでって6階
料  金 : 一般:200円(団体160円) 高校生:100円(団体80円)
       ※団体は20名以上からとなります。
11/3は入館料無料、ポストカード進呈

「文豪」たちの名作は,年月を経た今もなお,読者に長く親しまれています。本展では,与謝野鉄幹・晶子夫妻,萩原朔太郎,高村光太郎といった日本の文壇で大きな功績を残した作家のほか,岩手を代表する作家である鈴木彦次郎,森荘己池の原稿を展示します。残された推敲の跡や筆跡など,彼らの直筆原稿から感じ得る「文豪」たちの創作に対する情熱や人柄を紹介します。

〈展示内容〉
○与謝野寛(鉄幹)原稿「啄木君の思出」
○与謝野晶子原稿「啄木の思ひ出」
○高村光太郎原稿「國民まさに餓ゑんとす」 ほか

関連行事

開催日・期間:11月23日(水・祝) 時間:14:00~ 場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:佐々木章行(当館学芸員) 料金:入館料が必要です。
当館学芸員が、第51回企画展「文豪たちの原稿展」で展示中の手紙について、解説を加え紹介します。
☆ポストカードプレゼント☆
当日来館したお客様にはポストカードをプレゼントします!

開催日・期間:2017年1月21日(土) 時間:14:00~15:00 場所:盛岡てがみ館 展示室
講師:磯田望(当館館長) 料金:入館料が必要です。
当館館長が、第51回企画展「文豪たちの原稿展」で展示中の資料や人物について解説を加え、関連するエピソードを紹介します。


「国民まさに餓ゑんとす」は、敗戦間もない昭和21年(1946)2月、『新岩手日報』に掲載された詩です。

    国民まさに餓ゑんとす
 
  国民まさに餓ゑんとして005
  凶事国内に満つ。
  台閣焦慮に日を送れども

  ただ彌縫の外為すべきなし。
  斯の如きは杜撰ならんや。
  斯の如くして一国の名実あらんや。
  必ずしも食なきにあらず、
  食を作るもの台閣を信ぜざるなり。
  さきに台閣農人をたばかり
  為めに農人かへつて餓ゑたり。
  みづから耕すもの五穀を愛す。
  騙取せられて怒らざらんや。
  農人食を出さずして天下餓う。
  暴圧誅求の末ここに至り、
  天また国政の非に与せず、
  さかんに雨ふらして大地を洗ひ
  五穀痩せたり。
  無謀の軍をおこして
  清水の舞台より飛び下りしは誰ぞ。
  国民軍を信じて軍に殺さる。
  われらの不明われらに返るを奈何にせん。
  国民まさに餓ゑんとして
  凶事国内に満つ。
  国民起つて自らを救ふは今なり。
  国民の心凝つて一人となれる者出でよ。
  出でて万機を公論に決せよ。
  農人よろこんで食を供し、
  国民はじめて生色を得ん。
  凶事おのづから滅却せざらんや。
  民を苦しめしもの今漸く排せらる。
  真実の政を直ちに興して、
  一天の下、
  われら自ら助くるの民たらんかな。

敗戦後の深刻な食糧事情を題材としています。そしてそのような事態を引き起こした蒙昧な旧軍部の批判。

同館には、『新岩手日報』編集局長だった松本政治に宛て、この詩の原稿を送った際の添え状も所蔵されています。

松本政治様机下
拝啓、先日は此の深い雪の中を遠路御来訪下され且つ御礼の金品までいただいて恐縮に存じました。御依頼の詩篇ともかくも同封いたします。少し長くなりましたが已むを得ません。今日はよほど空気が冷えてゐると見えて萬年筆の工合が悪いやうです。雪はますます深くなります。郵便が遅れるので困ります。御令息にもよろしく。先日は大澤温泉に無事御宿泊ありしや否やとあとで心配いたしました。 とりあえず右まで。
    一月十日夜 高村光太郎

この日の日記には、以下の記述があります。

午后「国民まさに餓ゑんとす」といふ詩を書き終り清書、夜封入テガミを新岩手社の松本政治氏にかく。先日の依頼による。三十五行ばかりになりたり。

それに先立つ一月四日の日記には、

午后テカミ書きの時勝治さんの案内にて新岩手日報社の松本政治氏が長男の朗(アキラ)さんと一緒に来訪。一時間余コタツにて談話。三時過辞去さる。スルメ若干と金百円也とをいつぞやの寄稿のお礼なりとてくれる。詩の寄稿を約束。又細かい吹雪となる。その中を帰つてゆかれる。

 と記されています。

「いつぞやの寄稿」は、前年9月に同紙に掲載された詩「非常の時」を指すと思われます。


また、同館では、常設展示として光太郎詩「岩手山の肩」の原稿も展示していましたが、おそらくそのままだと思います。

同展について、『毎日新聞』さんの岩手版に記事が出ました。 

企画展 文豪たちの原稿資料33点を展示 盛岡てがみ館 /岩手

009 岩手にゆかりのある文豪たちの原稿を展示した企画展が、盛岡てがみ館(盛岡市中ノ橋通1)で開かれている。推敲(すいこう)の跡や筆跡から、作家たちの人柄や個性がうかがえそうだ。
 目を引くのが、与謝野鉄幹が石川啄木を回想した原稿用紙23枚。鉄幹主宰の雑誌「明星」に、啄木が投稿した頃から亡くなるまでの出来事がつづられている。
 啄木は歌集「一握の砂」で有名だが、原稿には「君の本領が是れに盡(つ)きたかの如く讀者(どくしゃ)達(たち)に看取(かんしゅ)されることは、私達の遺憾を禁じ得ない」などとあり、鉄幹が啄木の才能を終始高く評価していたことが分かる。
 一方、鉄幹の妻晶子は、子だくさんで家計を担った女性らしく、啄木の服装からその人となりを描写している。学芸員の佐々木章行さん(27)は「二人とも啄木を可愛がっていたが、夫婦で視点が変わるのも面白い」と魅力を話す。
 他には、萩原朔太郎や高村光太郎の原稿や写真など、関連資料33点が並ぶ。
 来年2月13日まで。入館料は一般200円、高校生100円。中学生以下と、盛岡市内の65歳以上は無料。休館は第2火曜日と年末年始。問い合わせは同館(電話019・604・3302)。【藤井朋子】
(2016年10月29日)


岩手つながりで、もう一件、花巻高村光太郎記念館さんで刊行された図録的な書籍『光太郎 1883-1956』について、『朝日新聞』さんの岩手版に報じられています。 

岩手)高村光太郎の足跡を図録に 花巻の記念館で販売

010 花巻市にゆかりの深い彫刻家で詩人の高村光太郎が亡くなってから今年で60年。「花巻高村光太郎記念会」(佐藤進会長)がこのほど、図録「光太郎 1883―1956」を刊行した。花巻市の高村光太郎記念館で販売している。
 1945年4月の空襲で東京のアトリエを失った光太郎は、旧知の宮沢賢治の弟清六を頼って花巻の宮沢家に疎開したが、空襲で宮沢家も焼け、同年10月、太田村山口(現・花巻市太田)の山荘に移り、農耕自炊の暮らしを続けた。
 図録は縦横25センチの変形サイズのフルカラー52ページ。冬には零下20度にもなる地域の山荘で、詩作と農耕、自然回帰に没入した光太郎の暮らしと足跡を、当時の写真や花巻市周辺の四季の風景写真を織り交ぜて紹介。記念館に収蔵、展示されている木彫やブロンズ像なども掲載、光太郎と親交のあったゆかりの人たちの「思い出」も収録している。
 記念館は56年の光太郎の没後、ゆかりの人々が発足させた記念会が山荘の近くに設立し、運営してきた。昨年、市営施設として全面リニューアルし、記念会が市の委託で運営している。来館者から「図録がほしい」との要望があり、スタッフが昨年夏から約1年がかりで編集し、5千部限定で発刊した。1部2千円。問い合わせは記念館(0198・28・3012)へ。(溝口太郎)
(2016年10月29日)


監修は当方の名前になっており、8月に手元に届きました。お世話になっている何人かの方々にお送りしましたが、好評です。

同館のみでの販売ですが、ぜひ足をお運び、ご購入下さい。同館では「高村光太郎没後六〇年・高村智恵子生誕一三〇年 企画展 智恵子の紙絵」展、来月23日(水・祝)まで開催中です。


【折々の歌と句・光太郎】

リンゴばたけに雨ふりて 銀のみどりのけむる時 リンゴたわわに枝おもく 沈々として紅きかな                        昭和22年(1947) 光太郎65歳

以前にも一首ご紹介した、「七・五」を四回繰り返す「今様」という形式です。花巻の林檎を歌っています。

この歌をしたためた数種類の揮毫が知られています。

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上記『光太郎 1883-1956』に載っているもの。

昭和27年(1952)から同29年(1954)にかけて書かれ、美術史家の奥平英雄に贈られた書画帖「有機無機帖」から。

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こちらには、智恵子の紙絵を模して作られた光太郎の紙絵も添えられています。赤い部分はアメリカ煙草・ポール・モール(ペルメル)の空き箱です。

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昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。同市の市立図書館で開催中の「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」を拝見、さらに講演を拝聴して参りました。田口弘氏は同市の元教育長。戦時中から光太郎と親交のあった方です。

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開館と同時くらいに現地に到着、まずは展示を拝見しました。

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入ってすぐが光太郎肉筆資料のコーナー。書や書簡等がガラスケースに並べられています。以前に田口氏のお宅ですべて拝見しましたが、きれいに並べられていると、また違った見え方がします。

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書簡の大半は、戦後の花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)からのもの。山小屋暮らしの一端が垣間見え、興味深いものです。

例えば昭和25年(1950)2月の封書。欄外に「積雪の重みで電燈は断線、小さな物置小屋はつぶれました、」などとさりげなく書かれています。

一通のみ、十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため、再上京して居住した中野のアトリエからのハガキがあり、そちらでは乙女の像の制作にも触れられています。

仕事のことに没頭してゐるため、ついお便りを書くことさへのびのびとなつてゐました、仕事の方は着々進んで居ります、

周囲の壁には、花巻高村光太郎記念会さんご提供の写真画像(山小屋生活の様子、乙女の像など)が引き延ばされて貼られており、理解が助けられます。

会場奥は、光太郎に関わる元の田口氏蔵書。光太郎本人から送られたサイン入りのものから、平成に入ってからのものまで、さまざまです。光太郎から贈られたものについては、その小包の包み紙や鉄道荷札まで保存されており、一緒に展示されていました。

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また、昭和58年(1983)、田口氏のお骨折りで市内の新宿小学校に建立された光太郎書を刻んだ「正直親切」の碑の画像、その元となった光太郎の書(複製/花巻高村光太郎記念会提供)、さらに田口氏、光太郎本人と交流のあった彫刻家・高田博厚のコーナーも設けられていました。

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同館ではここまでがかりな企画展示は初めてとのことでしたが、なかなか充実した展示でした。


その後、展示会場と隣接する視聴覚ホールにて、田口氏のご講演。教育委員会の方もご登壇し、インタビュー形式でのお話でした。「矍鑠(かくしゃく)」という表現が適当かどうか分かりませんが、大正11年(1922)のお生まれで、おん年94歳の田口氏、ユーモアを交えながら、非常に貴重なお話をご披露されました。

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昭和24年(1949)8月、復員後、中学校教諭をなさっていた氏は、二度目の太田村ご訪問をなさいました。この年の大半の光太郎日記は現存が確認できないのが残念です。その際に氏と同道した当時の教え子お三方のうちのお一人、馬橋旭氏も会場にいらっしゃり、思い出をお話下さいました。

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午後は、同じ会場で昭和42年(1967)公開の中村登監督・岩下志麻さん、丹波哲郎さんコンビによる松竹映画「智恵子抄」の上映がありました。ただ、以前にも観たことがありましたし、他の用件もあったためそちらはパスしました。いずれまたゆっくり拝見したいとは思っております。


同展は28日(日)まで開催中。ぜひ足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

小鳥らは何をたのみてかくばかりうらやすげにもねむるとすらん
制作年不詳

昨日に引き続き、昭和5年(1930)頃に制作された木彫「白文鳥」を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。こちらは、画像左の雌の方に添えられたものです。

雌雄を比べてみると、ぱっちりと眼を開けている雄に対し、雌の方はやや眼を細めています。

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過日ご紹介した岩手花巻宮沢賢治記念館さんの特別展「「雨ニモマケズ」展」について報道が為されています。ただ、ほとんどは「雨ニモマケズ」が記された手帳のみの紹介で、「雨ニモマケズ」詩碑のために書かれた光太郎の書については触れられていませんでした。

さすがに地元紙2紙ではそちらにも言及されています。

まず『岩手日日』さん。 

実物を初公開 きょうから記念館 賢治生誕120年で 「雨ニモマケズ」手帳 光太郎揮毫 詩碑の書

006 花巻市矢沢の宮沢賢治記念館(鎌田広子館長)は賢治生誕120年記念の特別展として、20日から「雨ニモマケズ」展を開催する。詩「雨ニモマケズ」が記された賢治の手帳と、賢治を高く評価していた詩人で彫刻家の高村光太郎の書を、ともに実物で公開することから広く注目を集めそうだ。
 一般公開に先立ち19日に内覧会を開き、概要を紹介した。目玉となるのは、賢治直筆とされる「雨ニモマケズ」の手帳。複製を常設展示していたが、賢治生誕120年の節目に合わせて実物を公開することにした。
 光太郎が揮毫(きごう)した「雨ニモマケズ」の後半部分の実物も展示。同市桜町の「賢治詩碑」建立の際の書で、後に判明した原文との相違点を碑に追刻補正する前の状態が確認できるという。
 「雨ニモマケズ」の手帳や光太郎の書の実物が同館で展示されるのは今回が初めて。賢治の弟の故・清六さんの孫で同館学芸員の宮澤明裕さんは「『雨ニモマケズ』は作品として推敲されたものではなく、それがかえって生のものとして人の心を打つのでは。この機会に足を運んでもらい、それぞれの応援や励ましとしてもらえれば」としている。
 特別展は28日まで。21日午後1時30分からは明裕さんの兄の和樹さんによるギャラリートークも予定している。
 開館時間は午前8時30分から午後7時30分まで。入館料は小・中学生150円、高校生・学生250円、一般350円。問い合わせは同館=0198(31)2319=へ。


続いて『岩手日報』さん。 

「雨ニモマケズ」手帳公開 花巻・宮沢賢治記念館

005 花巻市矢沢の宮沢賢治記念館(鎌田広子長)は、賢治生誕120周年を記念し、20日から特別展「雨ニモマケズ」展を開く。賢治が病床で「雨ニモマケズ」を記した手帳の現物などを公開する。
 賢治の手帳は縦13・1センチ、横7・5センチ、166ページの手の平サイズ。「雨ニモマケズ」の前文を記した51、52ページを開いて展示する。
 同市桜町の賢治詩碑に刻んだ高村光太郎の書の原文も公開し、有名俳優らの詩の朗読を上映する。
 同展は28日まで。期間中は無休。入館料は小中学生150円、高校生、学生250円、一般350円。午前8時半~午後7時半。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。


展示期間が短いのが残念ですが、ぜひ多くの方々にご覧いただきたいものです。


当方、本日は埼玉東松山市立図書館さんに行き、「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による」を拝見。さらに戦時中から光太郎とご交流のあった同市元教育長・田口弘氏ご講演を拝聴して参ります。


【折々の歌と句・光太郎】

小鳥らの白のジヤケツにあさひさしにはのテニスはいまやたけなは
制作年不詳

昭和5年(1930)頃に制作された木彫「白文鳥」の雄の方(画像右)を包む袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌です。写真は故・髙村規氏によるものです。

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木彫「白文鳥」、現在、信州安曇野の碌山美術館さんで公開中です。

生誕120年を迎えた宮沢賢治。記念事業が色々と行われていますが、その一環として開催される、岩手花巻の宮沢賢治記念館さんでの特別展示です。 

「雨ニモマケズ」展

期  日 : 前期2016年8月20日(土)~28日(日)
       後期2016年8月30日(火)~9月13日(火)
会  場 : 宮沢賢治記念館 岩手県花巻市矢沢1地割1番地36
時  間 : 8:30~19:30
料  金 : 一般350円(300円)、高校生・学生250円(200円)
       小・中学生150円(100円)
        ※( )内は20人以上の団体割引料金

国内はもちろん、世界でも多様な広がりをみせている「雨ニモマケズ」。
当館では賢治生誕120年を機に「雨ニモマケズ」が書かれた賢治自筆の手帳と、高村光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の原文を展示いたします。いずれの資料も宮沢賢治記念館では初公開となります。どうぞこの機会をお見逃しなく!!
(後期は「雨ニモマケズ手帳」は複製、詩碑原文は拓本に展示替え)

関連行事 

ギャラリートーク
日  時 : 2016年8月21日(日)  13:30~
講  師 : 宮澤和樹氏(賢治実弟・故宮澤清六氏令孫)

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賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿で開かれた賢治追悼の会の席上、実弟の清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帳に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのは光太郎、宮沢清六、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊、宮靜枝らでした。

昭和11年(1936)になって、光太郎は宮澤家の依頼でこの詩の後半部分を揮毫、花巻の羅須地人協会跡にその書を刻んだ碑が建てられました。

その後、「雨ニモマケズ」は賢治代表作の一つとして広く人口に膾炙しています。

今回の展示では、光太郎も手に取った手帳の現物、そして光太郎が書いた碑文書の現物が展示されます。

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それぞれ宮沢賢治記念館さんでは初の展示だそうで、意外といえば意外です。

21日(日)のギャラリートークは宮澤和樹氏。御祖父・清六氏が光太郎と親しかったため、必ずといっていいほど、賢治や宮澤家と、光太郎の密接な交流についてお話下さいます。


今後、これ以外にも、賢治顕彰の様々な企画が目白押し。近くなりましたらご紹介しますが、また当方もお話をさせていただく機会があります。

とりあえず「「雨ニモマケズ」展」。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

夏の日は三里塚にて馬見るか昼寝しせすか山脇彦尊
大正13年(1924) 光太郎42歳

「三里塚」は、現在、新東京国際空港のある成田市です。かつては印旛郡遠山村でした。

「山脇彦尊」は、日本画家・山脇謙次郎。光太郎は山脇のため、前年12月、三里塚に開墾小屋を作り、その移住を助けています。のちに光太郎の親友・水野葉舟がその小屋を引き継ぎました。

かつて近くには宮内省の御料牧場があり、「馬」はそれに関わります。

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跡地は成田三里塚記念公園となり、光太郎に触れる展示も為されている御料牧場記念館、光太郎詩「春駒」碑などがあります。

信州安曇野から三陸女川への4泊5日の出張を終えて帰宅したところ、花巻高村光太郎記念館さんから宅配便が届いておりました。

同館にて刊行の展示品図録的な書籍『光太郎 Kotaro Takamura 1883-1956』。

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縦横25㌢の正方形という特殊な判型で、オールカラー48頁。充実した内容です。当方、一部を執筆し、「監修」ということにしていただいています。

抜粋で画像を提示します。ただ、校正途中に送られてきたPDFファイルから採りましたので、若干、完成品とは異なりますが、大筋はこの通りです。

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四季折々のイメージ画像をバックにした光太郎詩。4篇、8頁。

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ブロンズ彫刻、書作品、遺品などの同館展示物の画像。

展示品以外にも、光太郎芸術の紹介ということで、木彫の写真も。

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『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘』を刊行された末盛千枝子さんをはじめ、生前の光太郎を知る方々の談話。

さらには、光太郎、父・光雲、妻・智恵子の紹介、賢治や宮沢家との交流、花巻郊外太田村での生活、盛岡や花巻町などのゆかりの地の紹介などなど充実の内容。これで税込定価2,000円はお買い得です。

案内と、FAX注文書を載せておきます。プリントアウトしてご使用下さい。

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【折々の歌と句・光太郎】

とほどほしわれ必ずのせめてもの夏山夏野ただみどり濃き
明治34年(1901) 光太郎19歳

先頃、埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏が、書簡や書など光太郎関連資料を寄贈された件がニュースになりました。地元テレビ局・テレ玉さんの報道がこちら。『東京新聞』さんと『毎日新聞』さん、そして『産経新聞』さんはこちら

少し遅れて先週、『朝日新聞』さんの埼玉版にも記事が載りました。

埼玉)高村光太郎の書簡、元東松山市教育長が寄付

005 元教師で、東松山市教育長を長く務めた田口弘さん(94)が先月、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883―1956)から届いたはがきや封書、色紙、直筆サイン入り全集など約100点を市へ寄贈した。書簡は主に戦中戦後、田口さんが高村に送った自作の詩や食料品に対するお礼状で、高村の誠実な人柄がうかがえる。
 田口さんは旧制松山中学に在学当時、国文学者だった恩師の影響で高村研究を始めた。師範学校専攻科で、新聞や雑誌に載った高村の記事や作品をノートに書き写すなどして卒業論文にまとめた。44年4月、その恩師に連れられて高村を訪ね、論文を見せたところ、「僕より僕のことを知っているね」と言われたという。
 「すでに『智恵子抄』などを発表した著名人だったのに、初対面の学生の論文を丹念に読んでくれた」と感激した田口さんは、ますますファンに。海軍軍属として南方戦線へ赴く直前に会うと、「世界はうつくし」など色紙2枚を書いてくれたという。田口さんはインドネシアで捕虜生活をおくりながら詩作に励み、「ジャワ抄」にまとめた。
006 復員後、岩手県の疎開先へ高村を訪ねた田口さんが、戦地で色紙を失ったことをわびると書き直してくれた。新制松山中学の教諭となった田口さんは、その後も妻が編んだ靴下や高村が好物の練乳など食料品を送り続け、生まれた長男には「光夫」と名付けた。
 練乳に対して高村は「かかる乳製品の貴重なものを老人がいただくのは世の嬰児達(えいじたち)に相済まぬ気がいたしましたが」「紅茶に入れたり、うすめて朝ののみものにしたり、パンをつくったりしてよろこんで居(お)ります」と封書をしたためた。
 田口さんが送った作品には「立派なものです。新鮮で、ほんとの感じに満ちてゐます」などと評し、「ジャワ抄」で田口さんが用いた「カンポン」(集落)という現地語を返礼のはがきの文面に使うなど気遣いも随所に見せている。
 田口さんは「高村は今も、私の生き方の教科書。若い時代の出会いが人生を決める。寄贈する書簡で、若い人が高村の崇高な人間性にふれてくれれば」と話す。市は書簡を市立図書館に所蔵し、8月10日から公開することにしている。(西堀岳路)

記事にある「ジャワ抄」は正しくは「ジャワ詩抄」。田口氏手製の詩集です。


記事にある市立図書館での公開及び田口氏の講演会について、市の広報誌『広報ひがしまつやま』の今月号に、案内が掲載されました。 

高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~

期 日 : 8月10日(水)~28日(日) 
会 場 : 東松山市立図書館3階展示室 東松山市本町2-11-20
時 間 : 午前9時30分~午後7時
休館日    : 第4月曜日

講演会
期  日 : 8月21日(日)午前11時~11時45分
会  場 : 市立図書館3階研修室
講  師 : 田口 弘 氏
定  員 : 50人(申込順)
申込み 8月5日(金)から直接又は電話で市立図書館へ。[TEL] 0493(22)0324

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『広報ひがしまつやま』、さらに田口氏と光太郎の関わりについての記事も掲載されています。

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当方も講演会にはお邪魔しようと考えております。

展示される資料も、光太郎自筆ハガキ以外にも、筑摩書房『高村光太郎全集』の口絵を飾った書や、それらが贈られた際の小包の包装紙、鉄道荷札などもあるはずで、光太郎の息吹がありありと感じられる逸品ぞろいです。ぜひご覧下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

つつましく手にはふ小蝉ぢぢとなきたちまち飛びて青空に入る

大正13年(1924) 光太郎42歳

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