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先月末から今月にかけての、光太郎智恵子光雲にちらっと触れて下さっている新聞記事等、2回に分けてご紹介します。

まず11月28日(水)、『毎日新聞』さん北海道版。 

国際高校生選抜書展 札幌北高が3年連続V 道地区大会、67校から1280点 /北海道

 「書の甲子園」の愛称で知ら001れる第27回国際高校生選抜書展(毎日新聞社、毎日書道会主催)の審査結果が27日、発表された。北海道地区は67校から1280点の出品があり、団体部門は札幌北高が3年連続4回目の地区優勝に輝いた。個人部門は札幌北高3年、阿部穂乃加さんと旭川商高3年、小清水琢人さんの2人が大賞を受賞したのをはじめ優秀賞6人、秀作賞10人の計18人が入賞し、162人が入選を果たした。
(略)
◆大賞
◇「詩の力強さ表現」 札幌北高3年・阿部穂乃加さん
 高村光太郎の詩から「歩いても歩いても惜しげもない大地 ふとっぱらの大地」との一節を作品に仕上げた。濃墨をたっぷりと2 本の筆に含ませ、紙面からはみ出すほどの勢いで一気に書き上げ。 「線の強弱のバランスや空間の取り方が難しかった。詩の意味を考えて、力強さを表現しようと心がけた」と振り返る。出来栄えには、自分なりに手応えはあったが「大賞をいただけるとは予想していなかった」。 本格的に書道を始めたのは、高校で書道部に入部してから。選抜書展では1、2年時に連続で入選し、昨年夏には長野県松本市で開催された全国高校総合文化祭に道代表として作品が展示された。 大学入試が間近に迫っており、 受験勉強の日々が続く。将来、医療関係の仕事を目指しており、「進学後も書道は続けていきたい」と抱負を語った。


札幌北高校さんのサイト中の書道部さんのページに作品の写真が出ていました。同じ作品が今夏に松本市で開催された第42回全国高等学校総合文化祭(信州総文祭2018)でも出品されたようです。力強い作品ですね。

取り上げて下さった「歩いても歩いても惜しげもない大地 ふとっぱらの大地」は、大正5年(1916)の詩「歩いても」の一節です。


続いて11月26日(月)、『読売新聞』さんの投稿俳句欄。

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「智恵子像ゆるき着物に秋の風」。なるほど、いい句ですね。おそらく智恵子生家の縁側で、明治末に撮られたと推定される右の写真からのインスパイアのようです。


さらに12月1日(土)の『日本経済新聞』さん読書面。「リーダーの本棚」というコーナーで、お茶の水女子大学学長の室伏きみ子氏。昭和42年(1967)、童心社さんから刊行されたアンソロジー『<詩集>こころのうた』を、真っ先にご紹介下さっています。

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 小さい頃か002ら読書に親しんだ。
 父親が元文学青年で、仕事のかたわら詩も書く人でした。 家には本があふれていました。
 美しい絵は、本を読む楽しみの一つです。幼稚園児のころから好きだったのが、初山滋さんです。詩集『こころのうた』は、初山さんが装画を担当しました。高村光太郎、三好達治、立原道造、 八木重吉さんら、自分が大好きな詩人の詩が収められています。

同書には『智恵子抄』中の三篇、「人に」(大正元年=1912)、「レモン哀歌」(昭和14年=1939)、「案内」(昭和24年=1949)が掲載されています。


最後に『朝日新聞』さんの千葉版。12月5日(水)に掲載されました。

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光太郎の父・光雲と、高弟の米原雲海による信濃善光寺の仁王さまのおみ足です。なるほど面白い写真ですね。

ちなみに記事を読む前に、写真だけ見て「おっ、善光寺の仁王さまだ」とわかった自分を自分で褒めたくなりました(笑)。


この項、明日も続けます。


【折々のことば・光太郎】

今の公衆と芸術批評家との間に、何の差別を見出さんか。芸術と言ふものに対しては、全く同類の盲目なるは無残な事に候。BOURGEOIS+0+0=CRITIQUE+0+0に候。

散文「琅玕洞より」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

当時の新聞に載った美術批評の頓珍漢さを嘆き、一般人の芸術理解のレベルが低いことをも嘆く文章の一節です。「BOURGEOIS」はブルジョア、中産階級の市民、「CRITIQUE」は批評家、共に仏語です。それぞれ鑑賞眼ゼロだと、厳しく切り捨てています。

昨日、上野の東京都美術館さんに行って参りました。

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「ムンク展」が開催中ですが、お目当ては「第40回東京書作展」。

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『東京新聞』さん主催の公募展です。

第3位に当たる東京都知事賞を、存じ上げない方ですが、中原麗祥さんという方が光太郎詩「冬」(昭和14年=1939)を書かれてご受賞。

11月14日(水)の『東京新聞』さんから。 

東京書作展-第40回結果- 東京都知事賞 光太郎の世界観を表現 中原麗祥さん

 このたびは、栄誉ある賞を賜り至福の極みと共に、身の引き締まる思いでいっぱいでございます。この場を借りて、諸先生方、書友、家族に感謝申し上げます。
 ここ数年、淡墨の奥深い美の魅力に惹きつけられ、日々模索し作品づくりに努めてまいりました。今回の作品は、高村光太郎の世界観を、淡墨と紙質、筆でいかに響き合い、調和のある表現ができるかに力を注いできました。今後、この受賞に驕ることなく日々学ぶ姿勢を持ち続け、精進していく所存でございます。
 ◇六十三歳。養護教諭。過去、部門特別賞一回、特選一回、優秀賞一回、奨励賞三回、入選十回。
 <評>「冬の詩人」と言われる高村光太郎の「冬」を題材とした作品。詩意を汲み取りそれに合った表現を追求した事であろう。丁寧に言葉を紡ぐかの様な書きぶりである。兎髭筆(としひつ)を使用と聞くが、この筆触が独特な線を生み、芯の強さを感じさせる。その細くも強靱な線と随所に置かれた墨の滲みとが共鳴し合い、視覚的効果を上げ、革新的な世界観を創り上げた。
 歴史の浅い漢字かなまじり文の書において、その魅力を十分にアピールし得る作品である。 (今出搖泉)


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新年が冬来るのはいい。
時間の切りかへは縦に空間を裂き
切面(せつめん)は硬金属のやうにぴかぴか冷い。
精神にたまる襤褸(らんる)をもう一度かき集め、
一切をアルカリ性の昨日に投げこむ。
わたしは又無一物の目あたらしさと
すべての初一歩(しよいつぽ)の放つ芳(かん)ばしさとに囲まれ、
雪と霙と氷と霜と、
かかる極寒の一族に滅菌され、
ねがはくは新しい世代といふに値する
清楚な風を天から吸はう。
最も低きに居て高きを見よう。
最も貧しきに居て足らざるなきを得よう。
ああしんしんと寒い空に新年は来るといふ。


漢字仮名交じりの書でありながら、仮名の部分も非常に硬質な感じのする書です。光太郎が詩句で表現した「冬の硬質感」といったものも表現されているのではないでしょうか。

「兎髭筆」は読んで字の如し。毛筆としてはかなり古い時代から使用されていたものとのこと。


それから、今年の連翹忌に初めてご参加下さった方ですが、今夏に開催された「第38回日本教育書道藝術院同人書作展」で、「智恵子抄」などの光太郎詩6篇を書かれ、最優秀にあたる「会長賞」を受賞なさった菊地雪渓氏。今回も光太郎詩で臨まれ、「特選」を受賞されました。

今回扱われたのは、「東北の秋」(昭和25年=1950)。花巻郊外太田村に蟄居中の作品です。


  東北の秋002

 芭蕉もここまでは来なかつた
 南部、津軽のうす暗い北限地帯の
 大草原と鉱山(かなやま)つづきが
 今では陸羽何々号の稲穂にかはり、
 紅玉、国光のリンゴ畑にひらかれて、
 明るい幾万町歩が見わたすかぎり、
 わけても今年は豊年満作。
 三陸沖から日本海まで
 ずつとつづいた秋空が
 いかにも緯度の高いやうに
 少々硬質の透明な純コバルト性に晴れる。
 東北の秋は晴れるとなると
 ほんとに晴れてまぎれがない。
 金(きん)の牛(べこ)こが坑(あな)の中から
 地鳴りをさせて鳴くやうな
 秋のひびきが天地にみちる。


やはりさすが、という感じでした。


他にも、光太郎詩を取り上げて下さった方が複数いらっしゃいました。

畠山雪楊さんという方で、「あどけない話」(昭和3年=1928)。桜色の紙が使われています。

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田平湖春さんという方が、「鉄を愛す」(大正12年=1923)。あまり有名な詩ではありませんが、よくぞ取り上げて下さいました。

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その他、北原白秋や中原中也など、光太郎と交流のあった詩人の作も。特に中也の詩を扱った作が意外と多かったなと感じました。当会の祖・草野心平による「蛙語」の詩もぜひ取り上げていただきたいのですが、「ぎゃわろッ ぎゃわろろろろりッ」や「ケルルン クック」には書家の方々も触手を伸ばさないのでしょうか(笑)、あまりみかけません。


「第40回東京書作展」、12月2日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

それぞれの作に如何にも年齢そのものの匂がただよつてゐる事に興味がある。

散文「三上慶子著「照らす太陽」序」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

三上慶子氏は作家・能楽評論家。まだご存命のようです。光太郎と交流があった父君でやはり作家の三上秀吉が、愛嬢の8歳から14歳までの詩文・素描を一冊にまとめ、光太郎に序文を依頼しました。おそらく光太郎が序跋文を書いてあげた最年少の相手でしょう。

「第40回東京書作展」を拝見し、「これは人生の年輪を重ねた人だろう」、「この作は若い人っぽい」などと勝手なことを考えながら拝見しました。どの程度当たっているか、何とも言えませんが(笑)。

10月8日(月・祝)、宿泊した福島二本松を後に、愛車を北に向け、東北道、山形道と乗り継いで、山形県天童市に参りました。

目指すは出羽桜美術館さん。こちらで「開館30周年記念所蔵秀作展 第二部「日本画と文士の書」」が開催中です。当方、見逃しましたが、10月7日(日)、NHKさんの「日曜美術館」とセットの「アートシーン」で取り上げられました。

蔵王の山懐を抜け、2時間程で到着しました。

美術館母体の酒造メーカー、出羽桜酒造さん。

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その一角に美術館さん。瓦葺きの大きな屋敷と蔵を改装して美術館したそうで、実に趣のある佇まいです。

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元々、亡くなった先代の社長さんが集めた、李朝陶磁や、「瞽女・明治吉原細見記」シリーズで有名な画家・斎藤真一の絵を中心にして設立されたそうです。それ以外にも書画の類もたくさん収蔵されており、今回はその展示です。

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まず順路通りに行くと「画」の方から。チラシにも使われている宮本武蔵の「葡萄栗鼠図」(山形県指定有形文化財)が目玉でしたが、その他に竹久夢二の作品も複数展示されていて、「おっ」と思いました。

そして「書」。失礼ながら、実際に眼にするまで高をくくっていましたが、ビッグネームの優品揃いで、目を剥きました。すなわち、夏目漱石、正岡子規、芥川龍之介、會津八一、土井晩翠、斎藤茂吉、与謝野夫妻、尾崎紅葉、島崎藤村、幸田露伴、川端康成、吉井勇、北原白秋、高浜虚子、島木赤彦、堀口大学……。

そして光太郎。特に「撮影禁止」という表示がなかったので、撮らせていただきました。

「智恵子抄」に収められた詩「郊外の人に」(大正元年=1912)冒頭のワンフレーズで、「わがこころは今 大風の如く君に向へり」。智恵子と二人で過ごした千葉犬吠埼から帰り、自分のパートナーとなるべきはこの女性しかいない、と思い定めての「宣言」です。

筆跡的には戦後、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に逼塞していた時期のものと思われますが、「智恵子抄」の詩句を大きく書いたものは他に類例が確認できて居らず、貴重なものです。

書籍の見返しや扉に書いたものは以前から知られていました。それらを元に複製の色紙が作られたりもしています。また、昨年、川端康成のコレクションの中から扇面に揮毫したものも見つかっています。しかし、こちらは半切の紙で、大作といっていいでしょう。

おそらく戦後、あの太田村の山小屋で、何を思ってこの書の筆をふるったのか、興味深いところです。


「開館30周年記念所蔵秀作展 第二部「日本画と文士の書」」、10月21日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

近代日本に天成の詩人があるか、近代日本に純粋と称し得る詩人があるか、近代日本に性情そのものに根ざす詩人らしい尖鋭の詩人があるかと人にきかれたら、即座に萩原朔太郎があると答へよう。

散文「希代の純粋詩人――萩原朔太郎追悼――」より
 
昭和17年(1942) 光太郎60歳

「尖鋭」の語が無ければ、当方は勿論「高村光太郎」と答えます。「尖鋭」さでは、やはり朔太郎ですね。

秋田県から企画展情報です。  

特別展示「明治150年秋田を訪れた文人たち」

期 日  : 平成30年10月2日(火)~12月27日(木)
場 所  : 
あきた文学資料館 秋田市中通6丁目6-10
時 間  : 午前10時~午後4時
料 金  : 無料
休館日  : 毎週月曜日

秋田には多くの文人が訪れました。たとえば明治27年、小説『蒲団』の田山花袋は、仙岩峠で足をくじき、地元民に助けられました。大正5年、旅と酒を愛する歌人若山牧水が千秋公園で歌を詠み、料亭で秋田の酒を堪能しました。昭和2年、泉鏡花が日本新八景に選ばれた十和田湖へ旅行し、湖を胡桃の実の割目に青い露を湛えたようだと書きました。昭和20年、武者小路実篤が戦火を避けて家族とともに稲住温泉に疎開し、ここで8月15日を迎えました。昭和26年には坂口安吾が、昔好きだった婦人が生まれた秋田を訪れ、「秋田犬訪問記」を書きました。
なぜ彼らは秋田を訪れたのでしょうか。展示では、秋田ゆかりの人物との交流の様子や秋田を描いた作品を紹介します。

共催展示
本展示を共催する小坂町、五城目町、横手市が所蔵する貴重な資料を、月替わりで展示します。

10月2日(火)~11月4日(日)小坂町立総合博物館郷土館収蔵
稀覯本を出版したことで知られる小坂町出身の澤田伊四郎に届いた高村光太郎からの書簡をすべて展示します。

11月6日(火)~12月2日(日)五城目町教育委員会所蔵
才を惜しまれながら若くして亡くなった矢田津世子に宛てた坂口安吾の書簡をすべて展示します。

12月4日(火)~12月27日(木)
横手市雄物川郷土資料館収蔵
昭和20年、横手市出身の画商旭谷正治郎を頼り稲住温泉に疎開した武者小路実篤。旭谷に宛てた実篤の書簡を展示します。

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関連文学講座

11月4日(日)午後1時30分~
文学講座 龍星閣に集う文化人と秋田 小坂町立総合博物館郷土館学芸員安田隼人氏

12月2日(日)午後1時30分~
文学講座 坂口安吾─矢田津世子との出会いから「秋田犬訪問記」まで
     秋田大学准教授山﨑義光氏


というわけで、詩集『智恵子抄』版元の龍星閣主人・澤田伊四郎にあてた大量の書簡類が展示されます。昨年、澤田の故郷である小坂町の総合博物館郷土館さんに寄贈されたもので、今年3月から5月にかけ『高村光太郎全集』未収録の分34通が「平成29年度新収蔵資料展」ということで同館に展示されまして、当方、2月GWに現地に伺い拝見して参りました。「高村光太郎からの書簡をすべて展示します。」とあるので、残り30数通も併せて展示されるのではないでしょうか。

11月4日(日)には、同館学芸員の安田氏による講座も予定されています。ちなみに同館では常設展示で光太郎の署名本を並べ始めています。

また、12月に展示予定の横手市雄物川郷土資料館収蔵の武者小路実篤書簡。横手市出身の画商旭谷正治郎に宛てたものだそうですが、同館にはやはり旭谷に宛てた光太郎書簡も寄贈されており、平成27年(2015)には企画展「横手ゆかりの文人展〜あの人はこんな字を書いていました」で展示され、拝見して参りました


ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

なほ賢治さんの作品の真価は今後ますますひろく人々の間に知られてゆき、後々には、あまねく世界中の人達にまで愛読せられるやうになることを信じて居るといふことを申添へて置きたいと存じます。
ラジオ放送「宮沢賢治十六回忌に因みて」より
 昭和23年(1948) 光太郎66歳

NHK盛岡放送局から、アナウンサーが代読しました。

賢治歿後にその作品群のすばらしさに気づき、『宮沢賢治全集』出版に骨を折った光太郎。その際に数ある出版社がなかなか承諾してくれなかったことなども語られています。

実際、今日では「雨ニモマケズ」などが国際的にも高く評価されるようになっており、そうなることを予言していた光太郎の炯眼には驚くばかりです。

昨日は、都内に出ておりました。メインは筑波大学さんの東京キャンパス文京校舎で開催されたシンポジウム「近代東アジアの書壇」。

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複数の方々のご発表がありましたが、盛岡大学の矢野千載教授が「高村光太郎と近代書道史 ―父子関係と明治時代の書の一側面―」というご発表をされるというので、拝聴して参りました。

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全体のテーマが「近代東アジアの書壇」ということで、他の発表者の方々を含め、中国、朝鮮、そして日本の近代書道史について、様々な切り口からのお話。門外漢の当方としては、知らないことばかりで勉強になりました。

それぞれのご講演、ご発表の終了後は、質疑応答を兼ねての討議。

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最後に司会の筑波大学さんの菅野智明教授がうまくまとめて下さいました。

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古来、東アジアでは「書画」という熟語が定着するなど、「書」と「画」は切り離せないものであったところに、近代になってのウエスタン・インパクト――西洋から「美術」という概念がもたらされた――の結果、ある意味、「書」は「美術」と乖離していったという指摘には、なるほど、と思わされました。美術家でありながら書もよくした光太郎は、その意味では異端だったわけで――矢野氏は、似たような例として、智恵子の師でもあった洋画家の中村不折をあげられていますが――しかし、異端でありながら、逆に「王道」だったのかとも思いました。

会場には、九段下の書道用品店・玉川堂さんもいらしていました。当方、3年前にお店にお邪魔し、光太郎筆の短冊と、智恵子の妹・セキに宛てた光太郎書簡を拝見させていただきました。思いがけず久闊を叙することができました。

ちなみに参加者は50名超。若い方も多く(ご発表なさった皆さんに関係する学生さんが多かったように思われますが)、頼もしく感じました。

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終了後、矢野氏とお話しさせていただき、さらに氏が平成23年(2011)と同26年(2014)、『日本文学会誌』に発表された論文の抜き刷りも頂いてしまいました。

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ともに花巻に建つ、光太郎が碑文を揮毫した宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑の碑銘書(先月までいわき市立草野心平記念文学館さんの企画展「宮沢賢治展 ―賢治の宇宙 心平の天―」に出品されていました)に関しての内容です。まだ熟読しておりませんが、この後、じっくり読みたいと思っております。

ところで、シンポジウムは午後からでした。午前中は、というと、駒場の日本近代文学館さんに行っておりました。

1ヶ月程前でしたでしょうか、とある古書店さんの目録が自宅兼事務所に届き、そちらに載っていた雑誌の表紙画像(題字)に、光太郎の筆跡を発見。誌名は『詩層』、昭和15年(1940)の創刊号でした。筑摩書房さんの『高村光太郎全集』別巻に、当会顧問・北川太一先生による詳細な「造形作品目録(装幀・題字)」が載っており、光太郎が装幀をしたり、題字等を揮毫したりしたもののリストがおよそ100点、リストアップされています。『詩層』の項には「昭和18年 未見」と記されており、以前からいずれ見つけようと思っていました。日本近代文学館さんに『詩層』という雑誌が所蔵されていることは存じておりましたが、昭和15年(1940)のものなので、題名が同じだけの別物だろうと思っていたのです。ところが、古書店目録の画像を見ると、どう見ても光太郎の筆跡。そこで現物を確かめに行った次第です。

すると、ビンゴでした。目録では画像が小さすぎてわからなかった右下に「題字 高村光太郎氏」の文字。

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光太郎、戦後の花巻郊外旧太田村での書は、ある意味「突き抜けた」もの(石川九楊氏曰く、紙に彫りつけた彫刻のような字)になりますが、それ以前の正統な筆法です。しかし、しっかり光太郎の字の特徴が現れている、いい字ですね。

手前味噌になりますが、小さい画像から気が付いた自分を自分で褒めたくなりました(笑)。


その他、光太郎と書については、まだまだいろいろ考えるべき点が多く残されています。今後も多くの方々に取り上げていただきたいものですし、当方も新発見等に努めます。


【折々のことば・光太郎】

日本語の美しさを生かすことにつとめませう。英語やドイツ語ほどアクセントは強くありませんが、それだけに、最善の場合にはそれらの言語よりも高雅の趣を持つてゐます。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和16年(1940) 光太郎59歳

そして、文字として書くことで、「書」という芸術にもなる日本語。光太郎にとって、書は、詩を通して追究してきた言語の美と、彫刻によって現出させてきた造形美との融合を図る、究極の芸術だったのかも知れません。生前には実現しなかったものの、最晩年、彫刻の個展には興味を示さなかった光太郎が、書のそれには非常に乗り気でした。

昨日に引き続き、書道ネタで。

山形県から企画展情報です。 

開館30周年記念所蔵秀作展 第二部「日本画と文士の書」

期 日 : 2018年9月7日(金)~10月21日(日)
会 場 : 出羽桜美術館 山形県天童市一日町1-4-1
時 間 : 9:30~17:00
料 金 : 一般500円、高大生300円、小中生200円
休 館 : 月曜日[祝祭日の場合は翌日]

 毎回好評を博している日本画展を今年も開催します。今回目玉となるのは、7年ぶりの公開となる宮本武蔵の山形県指定有形文化財「葡萄栗鼠図」です。
 宮本武蔵は二刀流の剣豪、兵法家としてよく知られていますが、余技として書画もたしなみ、達磨図や野鳥の姿を描いた水墨画が多く残されています。その中でも出羽桜美術館が所蔵する「葡萄栗鼠図」は来歴が明らかであることや、伝世する作品の中では、武蔵が動物を主題とした唯一の作品ということもあり大変貴重です。
 この作品は水墨画で、縦長の画面右側高い位置に果実を実らせた葡萄の木と、その木の枝にとまる栗鼠の姿が描かれています。画面の下部のたっぷりとした余白や垂れ下がる葡萄の蔓で高さを演出したり、栗鼠の尾などに見られるような迷いのない素早い筆致で躍動感を表現したりするなど、随所にさりげない研鑽の跡がみられる素晴らしい作品です。
 その他にも天童市指定有形文化財に指定されている歌川広重の作品や竹久夢二、小松均、今野忠一ら山形県出身画家の作品、高村光太郎、夏目漱石、会津八一、斎藤茂吉ら文人の書も一堂に展示します。

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出羽桜美術館さん、母体は日本酒000メーカー・出羽桜酒造さんです。開館30周年だそうで、地方でのメセナ(企業の社会貢献)の例としては、早い時期からのものだったように思われます。

今回の目玉はチラシにも掲載されている宮本武蔵の絵だそうですが、光太郎を含む文人の書も併せて展示とのこと。

以前に他の方のブログで、こちらに光太郎の書が所蔵されているという情報は得ておりました。しかし、常設展示というわけではなさそうなので、これまで足を運んだことはありませんでした。それが今回展示されるということですので、拝見に伺おうと思っております。

半切の用紙に書かれたもので、「わがこころは今大風の如く君に向へり 光」と読み、大正元年(1912)に書かれた詩「郊外の人に」の書き出しのフレーズです。「君」は無論、智恵子。二人で過ごした千葉犬吠埼から帰り、己のパートナーとなるべきはこの人しかいない、と思い定めての「宣言」です。後に詩集『智恵子抄』にも収められました。

寡聞にして他に類例を存じませんが、画像で見る限り、光太郎の筆跡で間違いはなく、おそらく戦後の花巻郊外太田村での蟄居生活中の作と思われます。

10月になるかと存じますが、行って参りましたらレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

たとひどのやうな上層機構の発展があるとしても、詩の根本が人間の真情に基づいてゐなかつたら全て空の空なるものであらう。人間性の真情のみが共感を喚び起す。それは底につらなる深い地下泉であつて、中途のさまざまなさし水のやうなものではない。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「わがこころは今大風の如く君に向へり」といった詩句は、まさに「人間性の真情」の発露ですね。

書道関係のシンポジウムです。 

シンポジウム「近代東アジアの書壇」

期   日 : 2018年9月8日(土)
会   場 : 筑波大学東京キャンパス文京校舎122講義室 東京都文京区大塚3-29-1
時   間 : 13時~16時30分
料   金 : 無料
主   催 : 近代東アジア書壇研究プロジェクト

第1部 基調講演 13:05~14:05  朝鮮における書画の位相と近代画壇  喜多恵美子氏(大谷大学教授)

第2部 登壇者発表 14:15~15:30
 書画協会の結成とその活動について  
   金貴粉(大阪経済法科大学研究員)
  清末民初の上海における書画団体の動向 ―豫園書画善会を中心に―
   髙橋佑太(二松学舎大学専任講師)
  日本の中国書画碑帖コレクション形成の要因について ―「収蔵集団」を起点として―
   下田章平(相模女子大学専任講師)
  高村光太郎と近代書道史 ―父子関係と明治時代の書の一側面―
   矢野千載(盛岡大学教授)

  昭和初期の書道団体 ―正筆会を例に―
   髙橋利郎(大東文化大学教授)

第3部 討議 15:40~16:30
 司会 菅野智明(筑波大学教授)


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矢野氏はご自身も書家であらせられ、いつも達筆のお手紙を頂戴し、悪筆でならす当方としては恐縮しております。

平成27年(2015)にも、同じ筑波大学さんの文京校舎で開催されたシンポジウム「書の資料学 ~故宮から」で、「高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」という発表をなさいました。

その際には別件の用事があって欠礼いたしましたが、今回は拝聴に伺う予定です。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

詩が言葉にたよる芸術である以上、語感については十分な心づかひが必要である。語感は半分は生まれつきだが、又半分は修練と感得によつて其の美に到り得る。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

「修練と感得」に努めようと思います。

まずいただきもの。

詩人で朗読等の活動もなさっている宮尾壽里子様から、文芸同人誌『青い花』の第90号をいただきました。これまでも宮尾様や他の同人の方が、光太郎に関わる寄稿をなさっていて、その場合にはこちらのブログでご紹介させていただいております。


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今回も宮尾様の玉稿で、書評です(全6ページ)。取り上げられているのは2冊。まず、西浦基氏の『高村光太郎小考集』、それから中村稔氏の『高村光太郎論』。いずれも好意的にご紹介なさっています。

また、合間に歌人の松平盟子氏と当方のコラボで行った公開講座「愛の詩集<智恵子抄>を読む」の評も入れて下さっています。ありがたや。

ご入用の方、仲介いたしますので、こちらまでご連絡ください。 


もう1冊、定期購読しております日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。

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花巻高村光太郎記念館さんのご協力で、昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

今号は、昭和35年(1960)、智恵子の故郷・福島二本松の二本松城跡に建てられた光太郎詩碑の拓本から。詩「あどけない話」(昭和3年=1928)の有名なフレーズ「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」です。

碑は当会の祖・草野心平らが中心となって建てられました。光太郎の筆跡を、光太郎や智恵子とも面識のあった二本松の彫刻家・斎藤芳也が木彫に写し、それを原型にしてブロンズに鋳造したパネルがはめ込まれています。この碑も建立から60年近く経つかと思うと、感慨深いものがあります。

『月刊絵手紙』、版元のサイトから購入可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

すべて透徹したものには一つの美が生ずる。

散文「雑誌『新女苑』応募詩選評」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

「透徹」。いい言葉ですね。

まずは『毎日新聞』さん千葉版の記事から。

成田・二人でひとつの展覧会 /千葉

 17~22日、上町500、なごみの米屋總本店2階、成田生涯学習市民ギャラリー。
 成田市の絵手紙講師、大泉さと子さんと、同市で一閑張りのバッグなどを制作する佐藤信子さんによる2人展。
 大泉さんは宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」をダルマの絵とともに書いた作品や、三里塚記念公園にある高村光太郎の文学碑「春駒」の拓本、墨で書いた自身の「春駒」のほか、丸い形のはがきなど遊び心あふれる約100点を並べる。大泉さんは「絵手紙は相手を思って描き、心を伝えることができる」と話す。
 佐藤さんは福島第1原発事故によって、福島県南相馬市小高区から成田市に移り住んで6年になる。事故前は籠やざるに和紙を張り、その上から柿渋を何度も塗り重ねて作る一閑張りと絵手紙制作を南相馬で教えていた。今回はバッグや籠、ざるなど新作約100点を展示する。
 2012年に佐藤さんの個展で知り合い、交流が続いている2人は「絵手紙と一閑張りのコラボレーションは初の試み。ぬくもりを感じる展覧会にしたい。多くの人に見てほしい」と来場を呼びかけている。
 ギャラリー(0476・22・2266)は10~16時(最終日15時まで)。【渡辺洋子】

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というわけで、隣町ですので早速行って参りました。

会場は成田駅から成田山新勝寺へと向かう参道沿いです。車では時々通る道ですが、久しぶりに歩きました。

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なかなかレトロで良い感じの通りです。外国の方もちらほら。

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こちらが米屋さん。地域では羊羹があまりにも有名ですが、全国区なのでしょうか。こちらの2階が生涯学習市民ギャラリーとなっています。これは存じませんでした。最近流行のメセナ(企業の社会貢献)でしょう。

開場前に着いてしまい、店裏の喫煙コーナーで一服。こちらのレトロな洋館は「成田羊羹資料館」。やはり米屋さんの施設です。洒落が効いています(笑)。

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10時になりましたので、いざ、会場へ。

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成田の三里塚ご在住の大泉さと子さんという方が、地元の三里塚記念公園に建つ詩碑に刻まれている光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)を書いた作品などが展示されています。

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温かみのある作品ですね。

三里塚記念公園は、元々、宮内庁の御料牧場があったところでした。その近くに移り住んだ親友の作家・水野葉舟を訪ね、光太郎も何度か足を運んでいます。最近はやんごとなき方々用の防空壕も公開されています。

詩碑の拓本も展示されていました。

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大泉さん、絵手紙講師ということで、昨年の6月号から「高村光太郎のことば」を連載して下さっている『月刊絵手紙』さん主宰の小池邦夫氏の弟子筋に当たられるそうです。小池氏からの絵手紙も展示されていました。

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となると、『月刊絵手紙』さんで紹介があるかも知れないなと思いました。今月号がそろそろ届く頃です。

それから、光太郎と縁の深い宮澤賢治の「雨ニモマケズ」。良い感じです。

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「二人でひとつの展覧会」ということで、もうお一方は佐藤信子さん。「一閑張(いっかんばり)」の作品を展示されていました。竹や木で作った骨組みに和紙を貼り、柿渋で固めるという伝統工芸です。

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こちらも味のあるものでした。

上記『毎日新聞』さんの記事によれば、佐藤さんは震災後、福島県南相馬市小高区から移り住まれたとのこと。こちらにも光太郎詩「開拓十周年」(昭和30年=1955)が刻まれた碑があり、不思議な縁を感じました。


会期は22日(土)まで。成田山新勝寺に参拝がてら、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

予期して居る通りに書かれたものは、僕等に取つては充(つま)らない。僕等の考へて居るのは、自然が自分の胸を打つて来た時に直ちにパレツトなり泥なりを取つて、其の刹那の感興を製作の上に映す。其の結果が何うなるか、それは分らない。

談話筆記「純一な芸術が欲しい」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

造形芸術にしても、文学にしてもそうだと言います。あらかじめ綿密な計算を施した上での制作、それはそれでいいのでしょうが、やはり興の赴くまま、持てる力を展開させていくという制作手法を光太郎は良しとしていたようです。確かに小説などで、いかにも、という伏線の張り方を眼にすると、興ざめの感がぬぐえないことがよくありますね。

毎年この時期に行われる、古書業界最大の市(いち)、七夕古書大入札会。先週、出品目録が届きました。ネット上でも見られるようになっています。

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毎年光太郎に関する出品物が何かしらあり、中には筑摩書房さんの『高村光太郎全集』未収録の資料等が出る年もあって、目が離せません。

今年の目録で、光太郎がらみは以下の通り。

まず出版物としてベルギーの詩人エミール・ヴェルハーレンの訳書『天上の炎』(大正14年=1925)。

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書籍自体はそれほどの稀覯本というわけではありませんが、見返しに光太郎の署名が入っています。函も欠損していません。


肉筆類が5点。出品番号順に最初が「高村光太郎草稿」。昨年も同じものが出ましたが、大正15年(1926)の第二期『明星』に発表された「滑稽詩」です。

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草稿がもう1点。「高村光太郎草稿 無題」となっていますが、昭和16年(1941)の『ヴァレリイ全集』内容見本のための短文です。

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続いて、大量の資料が一括で、「高村光太郎署名本・書簡・葉書他」。北海道の詩人、更科源蔵に宛てた封書が9通、葉書57枚、写真が3葉、戦時中から歿後すぐの著書10冊です。

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更科に宛てた書簡類は、『高村光太郎全集』に既に130通近く掲載されていますが、それに含まれるものなのか、あるいはそれと別のものなのか、よく調べてみないと何とも言えません。


書簡類の一括出品でもう1件。詩人で編集者の井上康文と、やはり詩人だった妻の淑子にあてた4通。

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こちらは完全に未知のものが含まれています。


最後に色紙。以前から都内の古書店さんが在庫としてお持ちだったものです。

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おそらく智恵子を詠んだと思われる短歌「北国の女人はまれにうつくしき歌をきかせぬものゝ蔭より」。昭和5年(1930)頃の筆跡と推定されます。


その他、昨年もそうでしたが、文学者からの書簡一括的な出品物に光太郎のものが含まれている場合があり、注意が必要です。


出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が、7月6日(金)午前10時〜午後6時、7月7日(土)午前10時〜午後4時に行われます。会場は神田神保町の東京古書会館さん。当方は初日に行って参ります。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

当事者にとつては自明の事柄のやうに思はれることでも、これを手にする第三者にとつてはそのいはれを知りたいと思ふのも自然である。

散文「「日伊文化研究」書評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

どこまでその背景などを説明するか、大事な問題ですね。

当方も時々頼まれる雑文や講演・講座、それからこのブログでもそうですが、悩むところです。

昨日は、六本木の国立新美術館さんに行っておりました。ご案内を頂いておりました第38回日本教育書道藝術院同人書作展拝見のためです。

こちらには「智恵子抄」の世界をモチーフにされ続けている坂本富江さんの絵が展示されていた太平洋美術会展などで何度か足を運びましたが、久しぶりでした。

関東甲信は昨日、梅雨明け。強い日差しでしたが、東京メトロ千代田線の乃木坂駅からほぼ直通で行けますので、助かります。

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受付にて図録を購入。

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展示室には力作がずらり。

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さすが都心。平日にもかかわらず、それなりに観覧の方がいらっしゃいます。

ご案内を下さった菊地雪渓氏。今年の連翹忌に初めてご参加下さいました。なんと、最優秀にあたる「会長賞」を受賞なさっていました。

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題材は「智恵子抄」などの光太郎詩6篇。半切8枚を使った堂々たる作品です。

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流れるようでいて、力強さも感じられる筆跡。余白の使い方にも妙味を感じます。光太郎詩にふさわしい書法、筆法といえましょう。どこか、光太郎自身の書にも通じるような。


他にも光太郎詩を取り上げて下さっている方が複数いらっしゃいました。

「山からの贈り物」(昭和24年=1949)。花巻郊外太田村での蟄居中の詩です。

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「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインが有名な「樹下の二人」(大正12年=1923)。やはり「智恵子抄」収録作品です。

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そして、会場では見落としてしまっていましたが、「晴天に酔ふ」(昭和12年=1937)。

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ありがたいかぎりです。

また、与謝野晶子や北原白秋など、光太郎と交流の深かった人々の詩歌文も数多く取り上げられていました。さらに現代詩や童謡、J-POPの歌詞などを書かれている方もいらっしゃり、「へえ」という感じでした。そういう意味でも拝見していて楽しい展覧会でした。無論、それぞれの出品者の方々の美しい文字あってこそですが。当方、書の公募展というのは初めて拝見しましたが、こういう楽しみ方もあるのだな、と思いました。


こうした公募展等、大小さまざま常に各地で開催されていると存じますが、日本語としての美しさを存分に湛える光太郎詩文、どんどん取り上げていただきたいものです。また、数は少ないのですが、智恵子の詩文にも面白いものがありますし。書家の方々、よろしくお願い申し上げます。

展覧会は7月8日(日)迄の開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

紐育には秋風は吹けども萩の葉の音もなく、透きとほりたる空の色のみ唯おなじながめに御座候。此地にありては何分にも余暇なく未だに何も御送り致さず候へども、此十一月中には何か御届け致さむ心組に候へば御諒承下されたく候。
散文「演劇学校」より 明治39年(1906) 光太郎24歳

留学先のニューヨークから、与謝野夫妻の『明星』に寄せた文章の末尾です。現在も続くライシーアム劇場附属の演劇学校などについての書簡体で書かれたレポートですが、遠い異境の地での青年期の気概や、「萩の葉」云々からはホームシック的な感傷も読み取れます。

今年の連翹忌に初参加いただいた、書家の菊地雪渓氏よりご案内を頂きました。 

第38回日本教育書道藝術院同人書作展

期 日 : 2018年6月27 (水)~7月8日(日)
時 間 : 10:00~18:00 初日は12:30開場
会 場 : 国立新美術館 2階展示室(2CD) 東京都港区六本木7-22-2
休 館 : 7月3日(火)
料 金 : 無料
主 催 : 日本教育書道藝術院
後 援 : 東京新聞

第38回日本教育書道藝術院同人書作展を6月27日より、港区六本木の国立新美術館にて開催致します。横幅寸法無制限、本展ならではの力作・大作が今年も展示されます。ぜひご来場ください。

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「智恵子抄」を題材とした菊地氏の書が並ぶそうです。

流派などによって定義が違うようですが、「近代詩文書」というカテゴリーがあります。近代詩人の詩の一節などを書にするというものです。光太郎文筆作品をモチーフにしていただくケースも多く、ありがたく存じます。

やはり平易な口語自由詩が中心でわかりやすく、それでいて日本語の美しさに敏感だった光太郎の詩、さらに内容的にもポジティブで健康的なものが多いからでしょうか、好んで取り上げられるようです。また、光太郎自身が味のある書をたくさん遺したことも無縁ではないかもしれません。

ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】000

フアンにはフアンの世界があつて、時によると正体と無関係の展開もしかねない。ひいきの引き倒しとよく言ふが、一度はそこまで行かないと透徹しないものだ。
散文「アンドレ ドラン」より
昭和2年(1927) 光太郎45歳

アトリヱ社から刊行された『ドラン画集』に寄せたやや長文の解説文の一節です。

アンドレ・ドランは光太郎より三歳年長の仏人画家。いわゆる野獣派(フォービズム)を展開し、欧米留学からの帰国後に光太郎がたくさん描いた油絵の数々に影響を与えています。

光太郎はドランと直接の面識はありませんでしたが、彼の絵のファンであると公言していました。

光太郎ファンとしては、上記光太郎のファン論にも、「そうそう」と首肯させられます。

一昨日、拝見して参りました。  

日本文学関係貴重書展示:近現代編

期 日 : 2018年5月30日(水)~6月12日(火)
会 場 : 大妻女子大学博物館 東京都千代田区三番町12(図書館棟B1F)
時 間 : 10:00〜16:00
料 金 : 無料
休館日 : 6/3(日)

 大妻女子大学では、2018年5月30日(水)~6月12日(火)にかけて、「大妻女子大学日本文学関係貴重書展示:近現代編」の特別展示を開催します。この展示は、昨年度に引き続き行うもので、本学日本文学科及び短期大学部国文科を中心として収集して本学図書館及び草稿テキスト研究所に所蔵されている貴重な資料を展示します。
 
 今回の目玉は、梶井基次郎[1901-1932]直筆の書簡に加えて、愛用の鞄やマフラーの展示です。また、その他、伊東静雄・井伏鱒二・金子光晴・坂口安吾・島崎藤村・高村光太郎・谷崎潤一郎・中原中也・萩原朔太郎・堀 辰雄・室生犀星・森 鴎外・森茉莉等13人の作家の直筆原稿も展示します。

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というわけで、行って参りました。

最寄り駅は半蔵門駅、あるいは市ヶ谷駅でしょうか。当方、江古田の日大芸術学部さんからのハシゴのため、乗り換えの都合で九段下駅から歩きました。

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本校舎から離れたところにある図書館棟、エレベータで地下1階に下りると、博物館さんです。

館長さん名義での挨拶文。

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会場入り口から。

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受付で、展示品に関するリーフレットを下さいました。A3判二つ折り、全7ページ。画像は入っていませんが、よくまとまっています。

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光太郎関連は、まず光太郎から詩人で編集者の池田克己にあてたはがき3通が展示されていました。

文面の側が見えるように展示されているものが一通。昭和25年(1950)10月21日付です。だいぶ以前にこのブログでご紹介しましたが、雑誌『サンデー毎日』に、光太郎の戦前の旧作「或る日」(昭和3年=1928)が転載された際、本来、秩父宮雍仁親王と勢津子妃のご成婚を祝す詩なのに、その意図が伝わらず(宮様の名前等伏されていたので致し方なかったのでしょうが)、田舎の花嫁が馬に乗って嫁入りする挿画が付されてしまったことに関してのものです。掲載誌『サンデー毎日』本体と、当該ページのカラーコピーも並んでいました。

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それから、表書きの面を上に、前年2月と3月のもの。

大妻女子大さんでは、こうした肉筆資料等の蒐集に力を入れているようで、池田宛の光太郎はがきはさらにもう1通、所蔵されています。4通セットで、10年ほど前でしょうか、都内の古書店さんが売りに出したものです。すべて『高村光太郎全集』未収録で、そうしたものは当方編集の「光太郎遺珠」(現在は高村光太郎研究会さんで年刊の『高村光太郎研究』に連載)でご紹介しているのですが、その際の目録に載った画像などから、3通の内容は割り出すことができ、掲載しています。

それから大妻女子大さんでは、平成18年(2006)の明治古典会七夕古書入札市に出た、光太郎から神保光太郎(同じ「光太郎」なのでややこしいのですが)に宛てた大量の書簡類も購入されています。そちらも大半は『全集』未収録と思われます。

池田宛の残り1通と、神保宛の大量のもの、いずれ調査させていただこうと思いつつ、まだ果たせていません。この手の『全集』未収録書簡類、あちこちに所蔵されており、「光太郎遺珠」のページ数が限られているため、少しずつ片付けている次第です。ちなみに来年4月刊行の『高村光太郎研究』に載る「光太郎遺珠」では、発見が大きく報じられた、オリジナル『智恵子抄』版元の龍星閣主・澤田伊四郎に宛てた書簡ごっそりを載せる予定でいます。


003さて、今回の展示の話に戻します。

光太郎本人のものではありませんが、関連する資料が他にも出ていて、実はこちらの方に驚きました。

まず、当会の祖・草野心平の構想ノート。2冊出ていて、うち1冊は「高村光太郎研究ノート」と題されていますが、詩「高村光太郎」(昭和28年=1953)に書かれた長詩・「高村光太郎」のための構想ノートです。

光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が除幕された直後の10月23日、光太郎も演壇に立った青森市野脇中学校で開催された文芸講演会の席上、心平がこの詩を朗読しました。活字としてはその月の雑誌『文芸』が初出です。

「生ける混沌(カオス)」とも言うべき心平らしく、書いた詩の上に、落書きとも見まごうような人物画。光太郎の顔なのか、何なのか、見ようによっては仏画のようにさえ見えます。それも、見開き2ページで5人も。

もう1冊、こちらは光太郎とは直接関わらないようですが、同じ年の詩稿ノートも出ていました。こちらは題して「雑雑」。すさまじいまでの推敲の痕跡が残っており、そのエネルギーに圧倒されました。

福島いわきの草野心平記念文学館さんにあるべき品のような気がしますが、意外と心平の肉筆物も市場に出回っていますので、大妻さんが入手されたのでしょう。


それから、昭和22年(1947)、天明社から刊行されたアンソロジー『近代抒情詩選 花さうび』関連資料。これは佐藤春夫の編集で、光太郎詩も「秋の祈」、「冬が来た」、「ぼろぼろな駝鳥」、「夜の二人」の4篇が収められています。

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リーフレットには掲載されている佐藤春夫の書簡004と草稿が、残念ながら展示されていませんでしたが、岡鹿之助による表紙の原画が出ていて、こんな物が残っているんだ、と驚きました。

右は当方所蔵の『花さうび』です。ちなみに「さうび」は現代仮名遣いでは「そうび」、漢字に直すと「薔薇」です。


その他、直接光太郎とは関わりませんが、光太郎と交流のあった文学者たち――与謝野夫妻、森鷗外、中原中也、伊藤静雄、萩原朔太郎、室生犀星ら――の草稿、書簡、著書などが並んでおり、興味深く拝見しました。

大妻さん、こうした資料の蒐集に力を入れるだけでなく、「死蔵」とならないよう、こうして展示もなさっているということで、すばらしいと思いました。

逸品ぞろいです。ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンは忠実な自然の研究者であつた。他の多くの天才よりも際立つて自然に近づいた。自覚して入つて行つた。そして、芸術の本道を大きくして、豊かに盛んな永遠の仕事を生み出した。

談話筆記「ロダンの生涯」より 大正7年(1918) 光太郎36歳

光太郎ファンとしては、「ロダンは」を「光太郎は」と読み替えたい一文です。

昨日に引き続き、日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』の2018年6月号から。「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載で、今号のサブタイトルは「光太郎が送った夏のたより」。全体の特集テーマが「さあ、暑中見舞いを送りましょう」ということで、光太郎に関しても、光太郎がさまざまな人物に送った夏の手紙が紹介されています。

昨日はグラビア的に画像入りで紹介されている佐藤隆房医師宛の昭和27年(1952)のはがきを取り上げましたが、続く見開き2ページで、大正期から戦後までの7通が引用されています。

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まず、大正12年(1923)8月15日、四国在住の龍田秀吉という人物仁送ったはがき。

遠い町からのお便りは此処のアトリエに海の風のやうなものをもつて来ました。私は家の中で海水着を着て裸体生活をしてゐます。今年の夏は割に弱らない方ですがそれでも頭が半分になつたやうです。ご健康をいのりながら。

海水着」は現代の海パンのようなものなのでしょうか? 想像すると笑えます。


続いて、同15年(1926)7月20日、親友だった作家の水野葉舟に宛てて。

昨夜は一足ちがひにお素麺がお宅から届いた。それで僕だけ喰べた。おつゆが大層うまかつた。昨日天ぷら揚物を此頃に喰べさせてもらひにゆく事を申出たが考へてみて取消す。この暑さに汗を流しながら天ぷらをくふのもやり切れない。むしろ僕は一人で生瓜をかぢる。〈(君が支度するといけないと思つて一筆)〉

相手が親友だけに、ある種ぶっきらぼうな文面ですが、それだけによそ行きでない親愛の情が表れています。


昭和に入って、昭和2年(1927)7月19日、宛先はアナキズム系詩人の小森盛です。

上州白根の方を少し歩いて草津其他の湯に浴して来ました。お葉書をありがたう。この暑い中の働きを想像します。私は夏に極めて弱い白熊のやうな質ですが、今年は山歩きのおかげで夏にまけずに働けさうです。先月末少しからだを痛めた為、又八月号の「大調和」には原稿を休みました。今東京はしう雨気味で涼風が吹きさわぎます。

この年、記述されているとおり、群馬の草津温泉や、長野の別所温泉、さらに智恵子を伴って箱根にも行きました。ずばり「大涌谷」、「草津」という題名の詩も書いています。


再び水野葉舟宛。同14年(1939)7月10日。

おたよりと桃一箱昨日頂戴、まことに忝く存じました、今年はお盆にも別に何もいたしませんが、智恵子が好きだつた桃を見て感慨に堪へません、早速智恵子に供へました、まだ小生智恵子が死に去つたといふやうな気がしません、この桃も一緒にたべるやうな気がします、

前年10月に智恵子が歿し、新盆の夏です。


さらに同16年(1941)7月20日、詩人の宮崎稔に宛てたはがき。

昨日は山百合の花たくさんお届け下され御厚志まことにありがたく存じました、早速父と智恵子との写真に供へましたが殆と部屋一ぱいにひろがり、実に壮観をきはめ、家の中に芳香みなぎり、山野の気満ちて、近頃これほど爽快に思つた事はありません、智恵子は殊に百合花が好きなので大喜びでせう。厚く御礼申上げます。尚近く詩集「智恵子抄」を龍星閣から出版しますがお送りします故註文なさらぬやうに願ひます。

ユリの花、亡き智恵子が「好きだったので」ではなく、「好きなので」と現在形になっています。無意識にそうしたのでしょうが、気になる一言です。「殆と」は、通常、「ほとんど」と発音し、「ど」と送りがなを付けるべきですが、光太郎、この葉書以外にもほぼ全ての文筆作品で、「殆と」と書いています。旧仮名遣いで濁点をつけない場合の延長なのか(「手紙」を「テカミ」と書く場合がありました)、北関東から東北にかけての方言で「ほどんと」と発音する(おそらく智恵子はそうだったでしょう)のが伝染したのか、何とも言えません。


そして戦後、同22年(1947)7月20日、花巻郊外太田村の山小屋から、截金師の西出大三へ。

おてがミ忝く拝見、尚小包にて雑誌「天来」其他書物も落手、御芳志ありがたく御礼申上げます。早速分教場の棚備供へつけます。山中も猛暑となり、作物急に成長しはじめました。今日は遠雷の音をきき、夕立に恵まれるかと期待して居ります。夏の日と夏の雨とは植物成長に無二の天恵、自然の摂理を感嘆します。今年のジヤガイモと南瓜の成績はどうなるかと思つてゐます。

最後に、当時、少女だった令姪の高村美津枝さん(ご存命)にあてた、同年8月28日付。

八月廿六日のおてがみ今日来ました。お庭の作物のことおもしろくよみました。それではこちらの畑につくつてゐるものを書きならべてみませう。大豆、人参、アヅキ、ジヤガイモ(紅丸とスノーフレイク)、ネギ、玉ネギ、南瓜(四種類)、西瓜(ヤマト)、ナス(三種類)、キヤベツ、メキヤベツ、トマト(赤と黄)、キウリ(節成、長)、唐ガラシ、ピーマン、小松菜、キサラギ菜、セリフオン、パーセリ、ニラ、ニンニク、トウモロコシ、白菜、チサ、砂糖大根、ゴマ、ヱン豆、インギン、蕪、十六ササギ、ハウレン草、大根、(ネリマ、ミノワセ、シヨウゴヰン、ハウレウ、青首)など、以上の様です。十一月に林檎の木を植ヱます。

「農」の人となっていることがよくわかります。「チサ」はレタス、「インギン」は「インゲン」の誤りかとも思いましたが、別の野菜のようです。当方、南瓜が4種類、ナスも3種類あるなどとは存じませんでした。


書き写してみて改めて思いました。当方、雑誌、書籍などの受贈の礼状として、絵葉書(絵手紙ではなく)等を使うことが多くありますが、ここまで味のある文章は添えていません。まして日々の事務的連絡等で多用するメールの類では、尚更です。が、少しは光太郎を見習って行こうと反省いたしました。


さて、『月刊絵手紙』さん、日本絵手紙協会さんサイトからの注文となります。1年間で8,700円(税・送料込)。お申し込みはこちらから。


【折々のことば・光太郎】

美こそ彼をささへてゐた唯一のものであり、彼にとつて一切は美の次元から照射されてはじめて腑甲斐あるものとなつた。

散文「(わたしはさきごろ)」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

おそらく発表されずお蔵入りとなったミケランジェロに関する断片的な散文の一節です。題名は付されておらず、『高村光太郎全集』では便宜的に書き出しの一句を題名としています。

晩年にさしかかり、自らの来し方も「美」に捧げた一生だったという感懐が見て取れます。

定期購読しています日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』。昨年6月号から始まった「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が、2年目に入りました。

今号は、全体の特集テーマが「さあ、暑中見舞いを送りましょう」ということで、光太郎に関しても、光太郎がさまざまな人物に送った夏の手紙が紹介されています。題して「光太郎が送った夏のたより」。

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全3ページで、1ページ目は、はがきの画像入り。宛先は戦時中、光太郎を花巻に招いた一人で、戦後すぐには光太郎を約1ヶ月、自宅離れに住まわせた佐藤隆房医師です。はがきの現物は花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されています。

足かけ8年にわたった花巻、そして郊外旧太田村での蟄居生活最後の年、昭和27年(1952)の7月19日付。いつ見ても光太郎の筆跡は味のあるすばらしい字です。流麗な美しい文字というわけではないのですが、この独特の味はなかなか出そうと思って出せるものではありません(そこで、今日の記事は「書道」カテゴリーで投稿します)。

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先日中は大変お世話さまになりました。久しぶりで、家庭の空気に触れることが出来て愉快でしたが夏の季節のため早く引き上げねばならなくなり残念に思ひました、
山居七年、山の人間になつてしまつた小生の生理には普通の市民生活が無理になつたものと見え、此の分では東京での生活がどうあらうかと気がかりでもあります、 ツヅク

2枚組の1枚目なので、「ツヅク」となっています。

久しぶりで、家庭の空気に触れることが出来」は、この月10日から12日にかけ、独居自炊の郊外太田村から花巻町に出て来て、佐藤邸に滞在したことを指します。前月には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため、青森十和田湖を訪れており、その報告を佐藤、そして宮澤賢治の父・政次郎にするためでした。

夏の季節のため早く引き上げねばならなくなり」云々。光太郎は「冬の詩人」と言われますが、まさしくそうで、夏の暑さは一番の大敵としていました。昭和24年(1949)の夏には、旧太田村の山小屋で、熱中症とみられる症状のため4回も臥床しています。

東京での生活」。この年10月に、太田村での山小屋生活をいったん切り上げ、東京に戻って「乙女の像」の制作にかかることを指しています。完成後は再び太田村で暮らすつもりでいましたが、健康状態がもはやそれを許さず、昭和28年(1953)初冬、十日あまり戻ったのみで、その後は東京を出ることがかないませんでした。


ところで、「ツヅク」のあとの2枚目は、かなりどきりとさせられる内容が含まれています。『月刊絵手紙』さんでは紹介されていませんが、『高村光太郎全集』第15巻から引用します。

ただ東京滞在が秋から冬にかけての季節なので、幾分凌げるかとも思ひかへしてゐます。まづ仕事に専念して一切を克服する外はないでせう。七年間見て来たところでは、花巻の人達の文化意識の低調さは驚くのみで、それは結局公共心の欠如によるものと考へられます。宮澤賢治の現象はその事に対する自然の反動のやうにも思はれます。賢治をいぢめたのは花巻です。

足かけ8年、花巻町と郊外旧太田村で厄介になった光太郎、その点では感謝しても感謝し尽くせないという思いは当然ありましたが、それでもその生活すべてが快いものではありませんでした。閉口させられる部分、腹立たしいことなども少なからずあり、そうした思いを、心許した佐藤には洩らしたのだと思われます。

やはり不世出の巨人を収めておくには充分な器ではなかったということでしょう。そして賢治にもそれは当てはまるというわけですね。生前の賢治の生き様は、故郷の人々に完全に理解、肯定されたわけではなかったという指摘、ある意味、その通りでしょう。「賢治をいぢめたのは花巻です。」重い一言です。


さて、『月刊絵手紙』さん。このはがき以外に7通の「光太郎が送った夏のたより」が紹介されています。そちらは現物が花巻高村光太郎記念館さんにあるわけではなさそうで、活字での紹介です。長くなりますので(ブログのネタに少し困り始めたという点もあり(笑))、明日、ご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

この女体のゆるやかな波状線や、鷹揚な単純化による肉感の醇熱を見よ。

散文「ミケランジエロの作品」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

平凡社刊『世界美術全集17 ルネサンス期Ⅱ』に寄せた図版解説18篇のうち、イタリアフィレンツェのメディチ家礼拝堂に収められた4体の装飾彫刻(「朝」、「昼」、「夕」、「夜」) 中の「朝」解説文から。

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同書から画像を採りました。「ゆるやかな波状線や、鷹揚な単純化による肉感の醇熱」。まさにその通りですね。

この文章の書かれた昭和25年(1950)の時点で、十和田湖の「乙女の像」の構想がどの程度光太郎の頭の中にあったのか、判然とはしませんが(「智恵子観音」を造るというアイディアはそれ以前からありました)、「ゆるやかな波状線や、鷹揚な単純化による肉感の醇熱」という意味では、明治42年(1909)、欧米留学の最後にその眼で観たこの像も参考にしているのではないかと思われます。

このところ、このブログでご紹介すべき事項が多く、後手後手に回っております。特に新刊書籍等の情報は後回しになりがちで、面目なく思う次第です。

そんなわけで、雑誌の新刊です。 

『短歌研究』 5月号

2018年4月21日 短歌研究社 定価1,000円+税

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短期リレー連載 明星研究会「口語自由詩と『明星』」 第1回 松平盟子 高村光太郎――独自に開いた口語自由詩のフィールド」という記事が掲載されています。昨秋、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さんで開催された、明星研究会さん主催の「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」での第二部シンポジウム「口語自由詩に直撃! 彼らは詩歌の激流にどう漕ぎ出したか」のうち、歌人・松平盟子氏による光太郎の部の筆録です。

先月号では、同じ明星研究会での、第一部の講演「再録 明星研究会講演 松平盟子『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩~」筆録が掲載されています。

今月号は、光太郎の、というより、光太郎と与謝野晶子のからみ、お互いの、特に晶子の自由詩作品に見られる光太郎詩の影響、といった内容で、非常に興味深いものです。

ぜひお買い求めを。


ちなみに松平氏、来週18日(金)、当方とのユニットで、朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾千葉教室さんでの講座「愛の詩集<智恵子抄>を読む」の講師を務められます。なかなか受講者が集まらないようで、まだ余裕があるそうです。リンクご参照の上、お申し込み下さい。

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公開講座といえば、こんな講座の情報を得ました。 
会  場 : 和の器 韋駄天地下ギャラリー 東京都台東区谷中5-2-24 03-3828-1939
時  間 : [篆刻]11:00-13:30 [書]15:00-17:30
料  金 : 6,000円(材料費込)
講  師 : 華雪(書家)


【篆刻講座|「わたし」の判子】
方寸の芸術とも称される篆刻。宋代以降、人々はここに”わたしの中の「わたし」”を求めるようになっていきました。自分自身に新たな名――雅号(ペンネーム)を与え、”わたしの中の「わたし」”の名前を石に刻む。空想した書斎の名を石に刻み、そこで過ごす”わたしの中の「わたし」”に思いを巡らし、詩を詠む。そうした”わたしの中の「わたし」”は、あるひとにとっては苛烈な現実を生きるための糧であったのかもしれません。
あるひとにとっては”わたしの中の「わたし」”のあり方を通じて自らをよりよく知ろうとする術であったのかもしれません。
今期の篆刻講座では、そうした自分の中の”わたしの中の「わたし」”をイメージし、名前の判子をつくります。太い線・細い線・かたい線・しなやかな線……篆刻特有の意匠を学ぶことを通じて、毎回異なる様々な「わたし」の判子をつくります。

【書の講座|ひとりの人の眼を通して見る書の見方】
東洋における文字の歴史は、およそ3300年前の古代中国で発生した甲骨文字に遡ります。文字は、長い時間の中で、ひとびとの間で使用され、徐々にその書き方は研ぎすまされ、一定の型を得てゆきました。そしてより速く便利に書くという自然の条件に従い、唐代初頭には篆書・隷書・楷書・行書・草書の書体が確立しました。書体が完成した唐代以降は、それら基本の型をよりうつくしく書くという希求がひとびとの中に芽生え、それが書という文字芸術を生み出していきます。ただ、うつくしさ、というのは時代によって移ろいます。今期は、書の歴史における古典と呼ばれる書と、それを後の時代に真似て、学んだひとの書とを比較し、ひとりの人が、どのように古典を見ていたのかを、うつくしさをどのように消化しようとしたのか、ふたつの書を摸写することを通して学びます。そこから、様々な時代、様々なひとにおける書の見方を知り、自らの書を見る眼を育みます。

篆刻と臨書の2本立てだそうです。書の講座は、全6回で今回が5回目。これまでに「石鼓文と呉昌碩」、「太宗皇帝と王羲之」、「八大山人と王羲之」、「光明皇后と王羲之」というお題でなされてきており、今回が「高村光太郎と黄庭堅」、次回は「白井晟一と顔真卿」だそうです。

黄庭堅は、中国北宋の進士。山谷と号して草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。光太郎は庭堅の書を好み、最晩年には中野のアトリエの壁にその書、「伏波神祠詩巻」の複製を貼り付け、毎日眺めていました。昭和30年(1955)には、平凡社刊『書道全集 第七巻 中国・隋、唐Ⅰ』の月報に「黄山谷について」を発表、その魅力を語っています。



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画像はともに書帖を見る最晩年の光太郎です。

さて、講座の方は定員6名だそうで、もう埋まってしまっているかもしれませんが、ご興味のある方、リンクをご参照の上、お申し込み下さい。


【折々のことば・光太郎】

たとひ菊の花一輪の絵画でも人を廃頽への傾きから呼び返す力は持ち得る。人の心を貫く美はさういふ力を必ず持つ。美に溺れて滅びた輩はその美とするところを誤つた者に過ぎない。上昇の美こそ美の本来であつて下降の美は美の変種である。

散文「戦時下の芸術家」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

いわゆる頽廃芸術を好まなかった光太郎の真髄が、こうしたところにも表れています。ただ、それが一種の精神主義、根性論と結びつき、戦時にはプロパガンダに使われていってしまうのですが……。

昨日、当方も講師を務めさせていただく朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾千葉教室の講座「愛の詩集<智恵子抄>を読む」をご紹介させていただきましたが、同じ朝日カルチャーセンター 朝日JTB・交流文化塾の札幌教室さんでも、光太郎に関連する講座がありますのでご紹介します。 

書道史アラカルト ―書と書道

期  日 : 2018年5月19日(土)
        札幌市中央区北2条西1丁目 朝日ビル4階
時  間 : 10:00-11:30
講  師 : 北海道書道展会員 中野層翠
料  金 : 2,052円

「アララギ」創始者の歌人斎藤茂吉は書を002よく書いていました。また、詩人で彫刻家の高村光太郎には「書について」という文章があり、書に造詣が深かったことがわかります。二人をはじめとする近代の文人が、書にどう親しみ、書をどのように捉えていたのか、彼らの言葉を通して考察してみます。そして、それが現代の書の見方・あり方につながっていることを確認したいと思います。

講師紹介 中野層翠 (ナカノ ソウスイ)
夕張市出身。北海道学芸大学卒業。札幌開成高校校長など歴任。道展運営委員長等で活躍。当センター「総合書道」コースの創案者。札幌市民芸術賞受賞。


もう1件、よみうりカルチャー宇都宮さんでも、書道系で光太郎。こちらは実作です。 

近代詩文を書く

期  日 : 2018年4/19、5/17、6/21、7/19、0018/30、9/20 
       すべて第3木曜日 途中受講可 見学・体験可
会  場 : よみうりカルチャー宇都宮 
        宇都宮市宮園町4-1 東武宮園町ビル5F
時  間 : 14:00~16:00
講  師 : 書道・絵手紙恒水会主宰 千金楽 恒水
料  金 : 受講料14,256円 設備費926円

近代詩とは、明治時代に伝統の束縛から脱して、欧米の詩体にならい、新時代 の思想感情を自由に歌った詩とあります。高村光太郎、与謝野鉄幹・晶子・三好達治、金子みすずなどなど、心を動かされる心を動かされる詩文を、漢字仮名交じり書で楽しみます。基本の筆使いから文字表現、心構えへと学んでいきます。
筆、墨、紙の織り成す文字空間に癒されてください。

情報を得るのが遅くなりまして、すでに全6回中の1回が終わっています。面目ありません。


こうしたカルチャースクール系、調べてみるといろいろあるのですね。今後はこういった情報にも注意しようと思います。


【折々のことば・光太郎】

美術館は世上に勢力ある愚昧な誤謬を見破る烱々たる眼光を持たなければその甲斐がない。
散文「美術館の事その他」昭和16年(1941) 光太郎59歳

この年、当時の東京市は、「皇太子継宮明仁親王殿下御誕生記念日本近代美術館」事業を決定し、計画案を発表しました。明仁親王殿下は今上天皇。昭和8年(1933)のお生まれですが、なぜか8年経っての誕生記念事業でした。

具体的には「建設費約七百万円、敷地坪数四千坪乃至七千坪、建坪二千坪、延坪五千七百坪の建築を予定し、明治以降現代及将来に亘る美術及美術工芸品を蒐集陳列し、わが近代美術の精華を顕揚すると共に国民文化の向上に資し、日本美術の健全な進展に貢献せんとするものである」とのこと。ルーブル的な巨大美術館を建設する計画でした。しかし、太平洋戦争開戦によりこの計画は頓挫します。

この計画に意見を求められた光太郎が『朝日新聞』さんに発表した文章の一節です。「明治以降現代及将来に亘る美術及美術工芸品を蒐集陳列」、「わが近代美術の精華を顕揚」とあることに対し、その肩書や経歴に重きを置いて、展示物を決めるような愚を犯すなかれ、という話の流れです。

現代に於いても、美術館さんには「世上に勢力ある愚昧な誤謬を見破る烱々たる眼光」が要求されますね。

新刊情報です。

文字に美はありや。

2018年1月12日  伊集院静著  文藝春秋  定価1,600円+税

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文字に美しい、美しくないということが本当にあるのだろうか、というきわめて個人的な疑問から歴代の名筆、名蹟をたどっていくものである。(本文より)
歴史上の偉大な人物たちは、どのような文字を書いてきたのか。
1700年間ずっと手本であり続けている”書聖”の王羲之、三筆に数えられる空海から、天下人の織田信長、豊臣秀吉や徳川家康、坂本龍馬や西郷隆盛など明治維新の立役者たち、夏目漱石や谷崎潤一郎、井伏鱒二や太宰治といった文豪、そして古今亭志ん生や立川談志、ビートたけしら芸人まで。彼らの作品(写真を百点以上掲載)と生涯を独自の視点で読み解いていく。2000年にわたる書と人類の歴史を旅して、見えてきたものとは――。この一冊を読めば、文字のすべてがわかります。
「大人の流儀」シリーズでもおなじみの著者が、書について初めて本格的に描いたエッセイ。

目次
 なぜ文字が誕生したか/龍馬、恋のきっかけ/蘭亭序という名筆、妖怪?/桜、酒、春の宴/
 友情が育んだ名蹟/始皇帝VS毛沢東/木簡からゴッホの郵便夫へ/
 紀元前一四〇年、紙の発明/書に四つの宝あり/猛女と詩人の恋/弘法にも筆のあやまり/
 美は万人が共有するものか/二人の大王が嫉んだもの/我一人行かん、と僧は言った/
 素朴な線が、日本らしさへ/信長のモダニズム・天下取りにとって書とは?/
 数奇な運命をたどった女性の手紙/秘伝の書、後継の書/
”風流”とは何ぞや/
 芭蕉と蕪村、漂泊者のまなざし/ユーモアと葛藤/戯作者の字は強靭?

 水戸黄門と印籠と赤穂浪士の陣太鼓/平登路はペトロ、如庵はジョアン/
 丁稚も、手代も筆を使えた/
モズとフクロウ/親思うこころ/一番人気の疾馬の書/
 騎士をめざした兵たち/
幕末から明治へ、キラ星の書/苦悩と、苦労の果てに/
 一升、二升で酔ってどうする/
禅と哲学の「無」の世界/生涯”花”を愛でた二人の作家/
 山椒魚と、月見草の文字/
書は、画家の苦難に寄り添えるのか/書は万人のものである/
 困まった人たちの、困まった書/
文字の中の哀しみ


月刊誌『文藝春秋』さんの平成26年(2014)1月号から昨年の4月号まで連載されていた、「文字に美はありや」の単行本化です。

平成26年(2014)10月号の「第十話 猛女と詩人の恋」で光太郎に触れて下さいまして、同じ題で収録されています。ちなみに「詩人」は光太郎ですが、「猛女」は智恵子ではなく、同じ回で光太郎と共に取り上げた光明皇后です。

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雑誌初出時の図版はカラーでしたが、単行本化されたものはモノクロ写真となっており、その点は残念ですが、オールカラーにすると定価を跳ね上げざるを得ないので、いたしかたないでしょう。

光太郎の書は、画像にもある木彫「白文鳥」(昭和6年=1931)を収めるための袱紗(ふくさ)にしたためられた短歌、詩「道程」(大正3年=1914)の鉛筆書きと見られる草稿が取り上げられています。また、光太郎の書論「書について」(昭和14年=1939)も紹介されています。

通常、雑誌連載を単行本化する際には、加筆がなされるものですが、光太郎の章では逆に連載時の最後の一文がカットされています。曰く「智恵子への恋慕と彼の書についてはいずれ詳しく紹介したい。」おそらく伊集院氏、連載中にはもう一度光太郎智恵子に触れるお考えもお持ちだったようですが、それが実現しなかったためでしょう。どこか他のところででも、がっつり光太郎智恵子の書について語っていただきたいものです。

他に、光太郎智恵子と交流のあった人物――夏目漱石、中村不折、熊谷守一、谷崎潤一郎ら――、光太郎が書論で紹介した人物――王羲之、空海、良寛ら――についても触れられており、興味深く拝読しました。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

書などといふものは、実に真実の人間そのもののあらはれなのだから、ことさらに妍を競ふべきものでなく、目立つたお化粧をすべきものでもない。その時のありのままでいいのである。その時の当人の器量だけの書は巧拙にかかはらず必ず書ける。その代り、いくら骨折つても自分以上の書はかけない。カナクギ流でも立派な書があるし、達筆でも卑しい書がある。卑しい根性の出てゐる書がいちばんいやだ。

散文「書についての漫談」より 昭和30年(1955) 光太郎73歳

光太郎最晩年、最後の書論の一節です。彫刻に関しては、壮年期を除いて個展開催に興味を示さなかった光太郎ですが、最晩年には書の個展を本気で考えていました。それだけ自信もあったのでしょう。

秋田から企画展情報です。 

平成29年度新収蔵資料展

期 日 : 2018年3月11日(日)~5月20日(日)
会 場 : 小坂町立総合博物館郷土館  秋田県鹿角郡小坂町小坂字中前田48-1
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 毎週月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 無料

 今年度も町内外を問わず、多くの資料を寄贈いただきました。誠にありがとうございました。
新収蔵資料展と題して企画展を開催し、寄贈資料を町民の皆様にご覧いただきたいと思います。
 特に今回、小坂大地出身の編集者 澤田伊四郎さんが創業した株式会社龍星閣からの寄贈資料が最も多く、注目の寄贈資料となっています。
 寄贈資料には、高村光太郎(彫刻家・詩人)、棟方志功(版画家)、武塙祐吉(元秋田市長・随筆家)をはじめ、小坂町出身の福田豊四郎(日本画家)・小泉隆二(版画家)からの書簡や書籍やメモ類があります。書簡だけでも約3,000点近くあり、書籍・メモ類を合わせると5,000点を超えます。
 現在整理が進んだ中でも高村光太郎の書簡に多くの未刊行書簡があることがわかりました。整理と分析が進めば、日本文学界にとって大発見があるかもしれません。今後の進展を楽しみにしてください。
 また、今年度、教育委員会が購入した福田豊四郎の資料を展示します。こちらも連載小説等の挿絵の原画や実際に使用ていた画材を含めると約2,000点を超えます。こちらも福田豊四郎研究に大きく貢献できそうな資料群となっています。
 見応えのある展示になると思います。ぜひご来館ください。

関連行事 担当学芸員による展示解説
 第1回目 3月17日(土) 13:00~ 第2回目 4月21日(土) 13:00~ 
 第3回目 5月19日(土) 13:00~


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一昨日、『朝日新聞』さんの夕刊で報道されました。 

智恵子抄の続編「ものにならない」 高村光太郎の未公表書簡公開へ

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956)の全集に収録されていない未公表書簡34通が、11日から秋田県小坂町の博物館で無料公開される。代表作の詩集「智恵子抄」を出版した龍星閣(東京都千代田区)の編集者に宛てたもので、智恵子抄の続編について「ものにならないと思います」と記したはがきが含まれている。
 34通は1942年から55年に書かれたもので、はがき32通、封書2通。いずれも小坂町出身で龍星閣の元社長の澤田伊四郎氏宛て。昨年5月、澤田氏が残した書簡や書籍が遺族から町に寄贈され、その中に高村からの書簡が全集収録分も含め約70通あった。
 高村は41年に、愛妻を題材にした「智恵子抄」を出版。戦後、続編の「智恵子抄その後」も出版された。書簡を読んだ高村の研究者小山弘明さん(53)=千葉県香取市=は「(高村の書簡が)一挙に70通も出てくるのは珍しく、『智恵子抄その後』の出版に乗り気でなかったことが裏付けられた。澤田氏の物資援助へのお礼など、高村の律義な性格や、作家と編集者との濃密な人間関係も伝わってくる」と話す。
 これらを一般公開する「新収蔵資料展」は、小坂町立総合博物館郷土館で3月11日から5月20日まで。問い合わせは郷土館(0186・29・4726)。(加賀谷直人)

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先月には共同通信さんの配信による記事が『日本経済新聞』さんや、全国の地方紙に出ました。

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朝日さんは独自に取材、当方にも電話取材がありました。その結果、より詳しく報じられています。

当方、やはり先月、現地に参りまして現物を手にとって、『高村光太郎全集』未収録分については筆写して参りましたが、光太郎の息づかいが聞こえてくるようなものでした。

それから、そちらは拝見してこなかったのですが、チラシ裏面には『智恵子抄』をはじめとする龍星閣の刊行物もいろいろ。どうもその中に、光太郎の識語署名入りがあるようです。チラシの表面に2箇所、光太郎の筆跡があしらわれています。

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左の方は、『智恵子抄』所収の詩「晩餐」(大正3年=1914)の一節「われらのすべてにあふれこぼるるものあれ われらつねにみちよ」。光太郎、この一節を好んでけっこう揮毫に使っています。

当方、来月にはまた現地に参り、拝見して参ります。皆様もぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

私は今、東北辺陬の地の山林にあり、文字通りの茅屋に住んでゐて、文献の渉猟すべきもの一冊も座右になく、ついて校覧すべき一葉の写真すらない。それゆゑ、今ここで古彫刻について語らうとしても、年代の考證、造像の由来等に関しては危くて一語も述べがたい。ただ語り得るところは、脳裏にあるその映像への所感のみであり、それに連関する雑然たる想念ぐらゐのものである。
散文「新薬師寺迷企羅像」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

と言いつつ、光太郎、この後「脳裏にある映像」だけで、新薬師寺さんに今も遺る国宝の塑像「迷企羅大将像」(薬師如来の眷属・十二神将の一人)について、原稿用紙5枚ほどの稿を書いています。

瞬間記憶能力(カメラアイ)という、見たものを画像として記憶し、瞬時に引き出せる能力を持つ人間がいるそうです。光太郎、そこまでは行かなくとも、それに近い能力を持っていたのではないかと思われます。

ぽつりぽつりと、新聞各紙で光太郎の名が。それぞれそれ一つをネタにブログ記事にするのはきついなと思っていましたら、たまってしまいました。

まずは先月28日の『神戸新聞』さん。 

「今度は支える立場に」 大学へ進む高3生の目標

 瑛太の部屋の扉には、英語の詩が貼ってある。詩人・高村光太郎の代表作の英訳で、職員が手書きして贈ったエールだ。
 〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る〉
 高校3年。大学進学を目指して1年の時に部活をあきらめ、学費を稼ぐためにアルバイトに励んだ。最初はすし店。「常連さんなど幅広い年代の人と出会い、いろんな考えに触れられた」。学びは多かった。
 一方、仕事を終えて帰宅すると午前0時を過ぎることも。通学には1時間20分かかるため、午前6時50分に尼学を出る生活。すし店は半年で辞め、その後はプール監視員や飲食店員として働いた。
 その中で勉強時間を確保してきた。
 職員も応援した。瑛太が勉強の息抜きにバドミントンをしようとすると、横に忍び寄ってつぶやいた。「本当にそれでいいんかなー」
 瑛太が笑う。「1回打った瞬間に横にいて、ちょっとくらい息抜きさせてよって。いつもプレッシャーの目があり、勉強するようあおってくれた」
 道は拓けた。昨秋、学費を一部免除してくれる山口県の大学に合格。神戸の財団から返済不要の奨学金を受けることも決まり、新生活に期待を膨らませる。
 将来について尋ねると、真っすぐな目で語った。「経験した自分だからこそ、力になれることがある。児童養護施設で働きたい」。いったんは施設に勤めてから、数学の教師を目指すという。
 尼学に来てから、精神的にまいった時期がある。外に出られなくなり、バイトに行けなかった。高校へは職員に送迎してもらい、何とか通った。「しんどい時に寄り添ってくれた。今度は支える立場になりたい」(敬称略、子どもは仮名)
(記事・岡西篤志、土井秀人、小谷千穂、写真・三津山朋彦)


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執筆から100年以上経った「道程」ですが、こうして現代の若者へのエールとしても現役で機能しているのですね。

ちなみに英訳は「No path lies before me. As I press on. Behind me a path appears.」だそうです。


続いて、今月2日の『毎日新聞』さん北海道版から。 

書学習の集大成 道教育大旭川校書道研、きょうから /北海道

 卒業式を前にした道教育大旭川校書道研究室の「第64回卒業書作展」が2日、旭川市民文化会館で始まる。あふれる躍動感、ストレートな表現、切れ味ある線質、温かみのある筆力といった個性あふれる書学習の集大成が会場を飾る。  
 出展者は、長田さくらさん、小野寺彩夏さん、平木まゆさん、柿崎和泉さんの4人。それぞれが平安時代の藤原行成から唐代の顔真卿の書まで多彩な臨書の卒業論文作品2点と、卒業書作展作品の詩文書2点、漢字創作1点を出品した。
 書作展用の作品では、高村光太郎の詩の一節を題材にした長田さんの作品(縦2・4メートル、横3・6メートル)など、研究室の持ち味でもある大作の詩文書がそろった。指導教官の矢野鴻洞教授も賛助出品している。
 7日までの午前10時~午後6時(7日は同4時まで)。入場無料。【横田信行】

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やはり光太郎詩、若い人たちの心の琴線にも触れるのでしょうか。ただ、画像にうつっているのは宮沢賢治の「生徒諸君に寄せる」の一節ですが(笑)。


それから、『朝日新聞』さん。先月27日の夕刊です。 

(アートリップ)御堂筋彫刻ストリート(大阪市) 名品の数々、歩く目線で 朝倉響子、ジョルジョ・デ・キリコほか作 大阪市

 会社員が足早に行き交う平日の御堂筋。視線を感じた先に、すました表情の女性像がこちらを見ていた。プレートには「朝倉響子 ジル」の銘。通りにはほかにもロダン、ジョルジョ・デ・キリコ、高村光太郎らの趣の異なる彫刻合わせて29体が並ぶ。
 これらは、1991年に始まった大阪市と建設省(当時)による、文化的な街づくりを目指した事業「御堂筋彫刻ストリート」の一環。沿道の老舗企業から募った寄付で設置された。
 彫刻の全体テーマは「人間讃歌(さんか)」。一流作家による、人体をモチーフにした作品に限定し、景観を統一するため、高さは台座を含めて2メートル以内に制限した。結果、巨匠たちの裸婦像や着衣像、抽象表現作品が、歩く人々の目線で見られるように並んだ。
 しかし、試練の時代もあった。バブルがはじけ、企業の再編などで周辺ビルには空室が増加。土日になると人通りが少なくなり、放置自転車で彫刻も埋もれた。「存在が忘れられ、誰も評価しなかった」と話すのは、2000年以降の設置審査委員長を務めた、関西学院大名誉教授の加藤晃規さん(71)。
 市が自転車の即時撤去を開始すると、再び名品が姿を現した。現在、周辺にはホテルなどが入る高層ビルが建設中だ。加藤さんは「作品は潤いのある街並みの一つ。にぎわいが戻れば」と目を細めた。(吉田愛)


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記事にあるとおり、バブル期に作られた大阪御堂筋の彫刻群について。光太郎の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)のための中型試作」が「みちのく」という題で設置されています。

これからも愛され続けて欲しいものです。


さらに昨日の『読売新聞』さん。別刷り日曜版の連載「名言巡礼」で、光太郎と交流のあった北海道弟子屈出身の詩人・更科源蔵がメインで扱われています。

更科源蔵「原野というものは、なんの変化もない…」 過酷な自然 生活の原体験

 原野というものは、なんの変化もない至極しごく平凡な風景である(更科さらしな源蔵げんぞう「熊牛くまうし原野げんや」(1965年))
 北海道東部の弟子屈(てしかが)町。厳冬期の熊牛原野に立った。白い雪原には、キタキツネの足跡が点々と続く。
 出身の詩人、更科源蔵は「原野の詩人」と称される。「熊牛原野」は原野での生活をつづった自伝。「原野というものは、なんの変化もない至極く平凡な風景である」は冒頭の一節だ。「私はそんな原野の片隅で生うまれ、そこで育った」と受ける。
 同町で農地の開拓が始まったのは明治中期。新潟から熊牛原野に入植した更科の父は、開拓の草分けでもある。「クマウシ」はアイヌ語で「魚を干す棚が多いところ」のこと。豊漁の地を意味するが、本土から渡ってきた和人はいかにも野蛮な漢字を当てた。その地で、更科は1904年に生まれた。開拓者たちは原野の一角を耕し、牛や馬を放牧した。
 更科は原野を遊び場とし、花や昆虫が友だった。原野の自然は過酷で、猛吹雪により死にかけたこともある。30代半ばで町を離れるまで一時、牧畜農家として苦闘した。「君は牛の使用人ではないか」。都会から訪れた友人にはこう揶揄(やゆ)された。
 〈白く凍いてつく丘に遠い太陽を迎へる厳然たる樹氷であらうとも/森は今断じて遠大な夏を夢見ぬ〉
代表作「凍原(とうげん)の歌」の一節だ。「厳しい原野での生活を原体験に、北海道の大自然とそこに生きる人々の生活を肉声でうたい、中央の詩誌に認められた」と、詩人で更科にちなんだ「更科源蔵文学賞」選考委員長の原子(はらこ)修さん(85)は解説する。
 人々の中には原野で隣人だったアイヌ民族も含まれる。「教科書で教える大和朝廷のエゾ征伐は、和人の勝者の歴史なのでは」。アイヌの子どもらを教えていた代用教員時代、そんな疑問を口にしたところ、思想不穏当として解雇された。権威にも権力にもこびなかった。
 町在住の高田中みつるさん(82)は更科に手を引かれてアイヌの集落を訪れ、ヒグマの魂を神の国に返す「熊送り」を見た。「『更科おじさん』と子どもらに慕われていましたよ」
 「至極く平凡な風景」とは、故郷を卑下しているわけではない。更科にとり、原野は自分という存在の慈しむべき原点なのだから。 (文・阿部文彦 写真・岩佐譲)

更科源蔵
1904~85年。東京の麻布獣医畜産学校(現麻布大)中退。上京時、詩人・尾崎喜八に師事。 「智恵子抄」で知られる高村光太郎の影響も受ける。詩集に「種薯」「無明」など。散文も、「熊牛原野」(大和書房「ふるさと文学さんぽ 北海道」に一部収録)のほか、「アイヌと日本人」、自伝的小説「原野シリーズ」など多数。40年、弟子屈町での生活を諦め、札幌市に転居。北海道立図書館嘱託などを経て、道立文学館理事長。「更科源蔵文学賞」は同町の後援で有志が創設。現在は休止中。

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2ページ分あり、上記は1ページ目です。

光太郎、文中にある更科の詩集『凍原の歌』(昭和18年=1943)の題字を揮毫してやったり、更科が発行に関わった雑誌『大熊座』、『犀』などに寄稿したりしています。また、自然志向の強かった光太郎、実現しませんでしたが、更科を頼って北海道移住を夢見た時期もありました。

また、更科をモデル、というか、更科の語った北海道開拓の様子をモチーフにした「彼は語る」(昭和3年=1928)という詩も書いています。

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    彼は語る

 彼は語る
 北見の熊は荒いのですなあ
 釧路の熊は何もせんのですなあ
 かまはんけれや何もせんのですなあ
 放牧の馬などを殺すのは
 大てい北見から来た熊ですなあ

 彼は語る
 地震で東京から逃げて来た人達に
 何も出来ない高原をあてがつた者があるのですなあ
 ジヤガイモを十貫目まいたら
 十貫目だけ取れたさうですなあ
 草を刈るとあとが生えないといふ
 薪にする木の一本もない土地で
 幾家族も凍え死んださうですなあ
 いい加減に開墾させて置いて
 文句をつけて取り上げるさうですなあ

 彼は語る
 実地にはたらくのは、拓殖移住手引の
 地図で見るより骨なのですなあ
 彼等にひつかかるとやられるのですなあ


この『読売新聞』さんの「名言巡礼」。かつて光太郎や、光太郎と交流の深かった尾崎喜八永瀬清子も取り上げられました。こうした詩人などをもっともっと取り上げていただきたいものです。


当方、読売さんは購読しておりませんので、日曜版にこれが載ったという情報を得、コンビニで買ってきたのですが、本紙にも光太郎の名があり、驚きました。

一面コラムの「編集手帳」です。

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光太郎、昭和2年(1927)には、ずばり「草津」という詩を書いています。引用されているのが全文の、たった四行の短い詩ですが。

光太郎、たびたび草津温泉にも足を運んでいました。ご当地ソングならぬご当地詩、ということで、草津では囲山公園にこの詩を刻んだ碑が建っています。平成2年(1990)の建立で、光太郎自筆の原稿から写した金属パネルを自然石にはめ込んでいます。推敲の跡がそのまま残っており、言葉に鋭敏だった光太郎の詩作態度がよくわかります。パネル制作は光太郎の実弟・豊周の弟子だった故・西大由氏でした。

また、草津温泉のシンボル、湯畑の周囲を囲む石柵には、「草津に歩みし百人」ということで、錚々たるメンバーの名が。もちろん光太郎も入っています。

当方ももう十数年行っていないので、久しぶりに草津へ行ってみたくなりました。


さて、これだけ短期間に、ちょこちょことではありますが光太郎の名が新聞各紙に出るということは、まだまだ光太郎もメジャーな存在でいられているということなのかな、と思いました。ありがたいことですが、光太郎の名が忘れ去れれないよう、今後も努力せねばとも思いました。


【折々のことば・光太郎】

普通に、彫刻は動かないものと思はれてゐる。実は動くのである。彫刻の持つ魅力の幾分かは此の動きから来てゐる。もとより物体としての彫刻そのものが動くわけはない。ところが彫刻に面する時、観る者の方が動くから彫刻が動くのである。一つの彫刻の前に立つと先づその彫刻の輪郭が眼にうつる。観る者が一歩動くとその輪郭が忽ち動揺する。彫刻の輪郭はまるで生きてゐるやうに転変する。思ひがけなく急に隠れる突起もあり、又陰の方から静かにあらはれてくる穹窿もある。その輪郭線の微妙な移りかはりに不可言の調和と自然な波瀾とを見てとつて観る者は我知らず彫刻のまはりを一周する。彫刻の四面性とは斯の如きものである。

散文「能の彫刻美」より 昭和19年(1944) 光太郎62歳

この一節を読んでから、彫刻鑑賞の方法が変わりました。皆さんもぜひお試しあれ。

昨年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されている『月刊絵手紙』の3月号が届きました。

やはり3.11が近いというこで、特集は「それぞれの「雨ニモマケズ」」。東日本大震災後、改めて見直されるようになった、賢治歿後、光太郎がその「発見」の現場にも立ち会い、賢治の故郷・花巻に建った詩碑の揮毫を請け負った「雨ニモマケズ」が取り上げられています。

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棟方志功の版画など、後世の人々のオマージュ作品。

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連載「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」も、それとリンクして賢治がらみです。

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画像は、光太郎自身の揮毫になる短歌「みちのくの 花巻町に 人ありて 賢治をうみき われをまねきゝ」。それから、昭和24年(1949)9月21日の『花巻新報』に掲載された「宮沢賢治十七回忌」という文章の抜粋。

オンラインで入手可能です。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

思考の外なるもの、思ひがけず新鮮なるものは常に自然の中にのみある。

散文「能面の彫刻美」より  昭和13年(1938) 光太郎56歳

日本古来の能面を彫刻家の視点で分析した文章から。実際の人間の深い写生から、人間そのものの象徴にまで昇華している能面を賛美し、舌を巻いています。自身の彫刻にも、こうした部分を取り入れていっているのではないでしょうか。

ともに岩手花巻に関わる光太郎作品が載った雑誌系、2冊ご紹介します。 

花巻市情報誌『花日和』平成29年冬号

2017/12  花巻市発行  無料

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花巻市内の花巻市観光協会、花巻観光案内所などで無料配布されている、年4回発行の市の情報誌です。無料と侮るなかれ、A4変形版30ページオールカラーの、毎号なかなか凝った作りです。

巻頭近くに「ふるさとの詩(うた)」というコーナーがあり、今号は光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)が掲載されています。

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バックの写真は、光太郎も何度か宿泊した、鉛温泉藤三旅館さん。いい感じですね。

『花日和』、首都圏でも入手可能です。東銀座にある岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」さんなどに置いてあるはずです。

ところで、「ふるさとの詩(うた)」というコーナー、平成25年(2013)の同誌発刊以来、宮沢賢治の作品が毎号掲載されていましたが、今号は光太郎。このまま当分、光太郎作品が載り続けるのでしょうか。そうだとすると、かなりありがたいのですが。


もう一冊。

『家庭画報』2018年3月号

2018年2月1日  世界文化社発行  定価1,400円

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こちらも巻頭近くに、「残したいことば、未来につなぐことば――心を伝える絵手紙」というコーナーがあり、今号は、花巻郊外旧太田村から送られた光太郎の書簡(ハガキ)が紹介されています。

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昭和22年(1947)、4月6日付で、宛先は東京在住の姪・高村珊子さんです。4月の段階でまだ春が来ていない、ようやく雪の下からフキノトウが、というあたり、春の訪れの遅さに驚きますが、北東北ではそんなものなのでしょう。当方自宅兼事務所のある千葉県では、ぼやぼやしているともうそろそろフキノトウが出始めます。

解説は、日本絵手紙協会名誉会長の、小池邦夫氏。同会発行の『月刊絵手紙』でも、「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されています。

こちらは一般書店店頭で販売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然の風景は透明だが、詩人の描く風景はまつたく主観の雄弁な告白者だ。

散文「彫刻その他」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

先月、市立図書館さんに「田口弘文庫高村光太郎資料コーナー」をオープンさせた埼玉県東松山市さんの広報紙『広報ひがしまつやま』の今月号に、その件が報じられました。

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オープン記念に開催された当方の講演についてもご記述下さっています。

このコーナーは、戦時中から光太郎と交流があった、同市の元教育長・故田口弘氏から同市が寄贈を受けた光太郎関連の資料を展示するものです。当方のオープン記念講演の中では、氏と光太郎の関わりについて話させていただきました。その中で、昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さんに、光太郎の筆跡を写した「正直親切」碑(光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんにも同じ文字を刻んだ碑があります)が、氏のお骨折りで建立されたことにも触れました。

そうしましたところ、講演会終了後、市役所の方が、当時の資料が見つかったというので、送って下さいました。B4判二つ折りのリーフレットです。

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当時教育長だった田口氏の「この石碑ができるまで」、当時の校長先生による「記念碑の除幕にあたって」、そしてこの文字を提供して下さった、当時の花巻高村記念会の浅沼政規事務局長が書かれた「高村光太郎書「正直親切」の由来について」が掲載されています。浅沼政規氏は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)にほど近い、山口小学校の初代校長先生でした。もともと「正直親切」の文字は、昭和23年(1948)に、同校が太田小学校山口分教場から山口小学校に昇格した際に、光太郎が校訓として贈ったものです。氏は平成9年(1997)に亡くなりましたが、ご子息の隆氏はご健在。山口小学校に通っていた頃、光太郎の山小屋に郵便物を届けに行ったりなさっていて、今も光太郎の語り部としてご活躍中です。

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ところで、驚いたのは、このリーフレットに光太郎詩「少年に与ふ」(昭和12年=1937)が印刷されていたこと。先日の講演会の冒頭に、地元の朗読グループの方が、光太郎詩と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読なさることとなり、何かふさわしい詩は、と照会されたので、この詩を推薦しました。光太郎詩の中ではそれほど有名な作品ではありませんが、「持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」という一節が、まさに田口氏の生き様に通じると思ったからです。そうしましたところ、昭和58年(1983)作成のリーフレットで、やはり田口氏がこの詩を選んでいたということで、驚いた次第です。

また、田口氏は、光太郎つながりで、彫刻家の高田博厚とも親交を深め、同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。その件でも同市役所の方から照会がありました。高田の居住していた鎌倉のアトリエのリビングに、光太郎の絵らしきものが掛かっていたが、これは何なのか、と。

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大分色が褪せていますが、これは昭和22年(1947)11月30日発行の雑誌『至上律』に口絵として載ったもので、当時光太郎が蟄居していた花巻郊外旧太田村の水彩スケッチです。この切り抜きを高田が壁に掛けていたと知り、胸を打たれました。

さて、同市立図書館さんの「田口弘文庫高村光太郎資料コーナー」、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

何だかあたり前に出来てゐると思へれば最上なのである。それが美である。

散文「蝉の美と造型」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

光太郎が好んで木彫のモチーフとした蝉に関する散文です。本来薄い翅(はね)をかえって厚く仕上げるところが腕の見せどころ、としています。そうすることで、彫刻的な美しさがより顕著になるそうです。しかし、翅が薄いとか厚いとか、そんなことは気にならずに、すっと目に入ってくるもの、「何だかあたり前に出来てゐる」べきともしています。

このことは彫刻に限らず、詩にしても、絵画にしても、書にしても、光太郎芸術の根柢に流れる考え方で、実際にそれが実現されているといえるでしょう。

昨日のこのブログでは、光太郎自身の書を集めた企画展について触れましたが、光太郎の詩文は、現代の書家の方々もいろいろと取り上げて下さっています。ただ、なかなかネット上に情報がなかったりで、あまり紹介できていません。会期が終わってから、会場風景的に「今回の出品作、高村光太郎の詩の一節です」といったブログ的なものは多いのですが……。

そんな中で、岡山市で開催中の催し。

中村文美作品展〜琥珀の文箱に文字を集めて

期 日  : 2018年1月31日(水) ~ 2月11日(日)
会 場  : CAFE×ATELIER Z 岡山県岡山市南区浜野2-1-35
時 間  : AM11:00〜PM7:00 最終日PM6:00まで
休廊日  : 2/5(月)・6(火)

本と文字。一度は目にしたあの物語を「書」で。
映像や絵画を超えるほどのイマジネーション。
文字とはこんなにも、物語の世界を豊かに表現できるのか…。
”読む”文字から”見て感じる”文字へ。
新しい愉しみ方を体感してください。

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上記画像(ダイレクトメールだそうで)にも使われていますが、光太郎の「冬が来た」(大正2年=1913)が取り上げられています。他に宮沢賢治、ヴェルレーヌなどの詩文も。

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中村文美さんは、広島県福山市ご在住の書家。調べてみましたところ、一昨年の『朝日新聞』さん広島版の記事がヒットしました。

ひとin【福山】 中村文美さん 書家 ◇「書とアート 感性重ねて」

 直径約2・5メートルの円の周囲に002倉敷帆布を巻き、中央上部に船で使う八点鐘がつるされている。「八」の右を大きく波打つように伸ばした「八点鐘」の文字を揮毫しただけでなく、海風と太陽、波がモチーフのデザインにも関わった。
 「海へ続く道の始まり。今年はアートにふれる瀬戸内国際芸術祭もあるので、わくわくした気持ちを込めました」
 書道は小学1年生で始めた。大学時代から取り組むかな書を中心に、伝統的な書の分野で活躍してきた。同じ音(おん)を表すのでも多種の文字のある変体仮名や、重ねたり、くねらせたりもする行の書き方など、表現方法は奥深い。
 大阪市内で20~24日に開かれた第70回日本書芸院展で若手作家10人の1人に選ばれ、「平家物語」をテーマにしたかな書など3作品を出品した。生まれ育った福山市沼隈町の谷には平家の伝説が残る。「古里に縁深い平家物語は私にとって大きなテーマ」。そして平家の谷から瀬戸内海に流れる水にも創作意欲をそそられ、「水」という文字を取り込んだ絵のような前衛的な作品を発表している。
 昨年6月、創作仲間の染色家とパリで2人展を開いた。かな書と「水」の文字を象形化したデザインの扇子、日本画とかな書のびょうぶなど約50作品を展示した。訪れたフランス人から「日本の伝統の匂いがする」と声をかけられ、驚いた。
 書の伝統を尊敬している。「それが私のベース。書とアートを分けるのではなく、伝統の上に自分の感性を重ねています」

 岡山大学大学院修了。福山市沼隈町にアトリエ「すゞり」を構え、「玉葉書道会」主宰。2013年にふくやま美術館で個展「水の音(ね)」を開催、「鞆の浦deアート」展にも毎回出品している。

(2016年04月26日)


こういう方に取り上げていただけると、実にありがたいところです。情報を得るのが遅れ、昨日、中村さんご本人によるギャラリートークだったそうで、申し訳なく存じます。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】003

彫刻家の作る真の肖像彫刻の微妙さは、造型と自然との最も幸福な結合であり、造型の中に自然そのものがあり、自然と見えるものが即ち造型の美である融合の妙趣を持つのである。

散文「素材と造型」より
 
昭和15年(1940) 光太郎58歳

河出書房から刊行された『芸術論 第二巻 芸術方法論』の為に書き下ろされた評論で、掲載誌では58ページある長い文章です。

古今の芸術家について解説した文章では、同じ程度やさらに長いものもありますが、方法論としての評論では、最長のものの一つで、造型作家としての光太郎の骨格がいかにしっかりしたものであったかが如実に表されています。

筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第5巻に収録されています。ぜひ全文をお読み下さい。

先月末、花巻市の高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」について、『読売新聞』さんが岩手版で大きく紹介して下さいました。

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手前味噌で恐縮ですが、当方のコメント及び写真が掲載されています。取材日は昨年12月14日。1ヶ月以上経っての掲載で、掲載紙を送って下さった担当記者さんは恐縮されていましたが、かえってこの時期の掲載もありがたいものです。この手の企画展は、開幕当初に熱心な方々がすぐ観にいらっしゃり、会期半ばには客足が落ち込みますが、こうしてメディアで大きく取り上げられると、また復調するものですので。

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会期は今月26日(月)まで。無休です。ただし、積雪は今がピークかと思われます。しかし、記念館さんに隣接する、光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)での過酷な越冬の状況を、身を以て感得できまるという意味では、この時期がおすすめです。ちなみに1月半ばでこんな状況です。

この時期のこの地を知らずして、光太郎の山小屋生活を「しょせんはポーズに過ぎなかった」的な批評をなさっているエラい先生方などに、特にお奨めしたいですね(笑)。


【折々のことば・光太郎】

私はリユクサンブウル美術館にあるロダンの「ジヤン ポオル ロオランス」の首と、「ダルウ」の首とを朝から中食の頃まで見てゐた事が幾度もある。そして思ひきつて帰つて来ると、自分のアトリエに入るや否や又見たくなつて、慌てて美術館へ引きかへした事もある。

散文「肖像雑談」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

明治41年(1908)から翌年にかけてのパリ時代の思い出です。

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左が、「ジャン・ポール・ローランス」、右が「ダルー」です。

強引なまとめですが、「高村光太郎 書の世界」で、当方、同じような感想を持ちました。ただ、カンパーニュプルミエル街の光太郎アトリエからリュクサンブール美術館は徒歩15分ほど。当方自宅兼事務所から花巻ではそうもいきません(笑)。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。

昨年2月に亡くなった、同市の元教育長で、戦時中から光太郎と交流のあった故・田口弘氏が、一昨年、光太郎から贈られた書や書籍など、一括して同市に寄贈なさり、市立図書館さん内に、その展示スペース「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」が設置され、昨日はそのオープンセレモニー等が行われました。

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そのオープンセレモニーのあとの記念講演講師の依頼があり、馳せ参じた次第です。

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午後1時半から、資料コーナーに椅子を並べた会場で、オープンセレモニー。

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設置の経緯の説明や、森田市長さんはじめ来賓の方々のご挨拶等に続き、テープカット。田口氏のご息女もハサミを持たれました。


コーナーの概要をお知らせします。

まず目を引くのが、田口氏が光太郎から贈られた書。

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凸版印刷さんにお願いし、作っていただいた複製だそうですが、この手の技術の進歩には目を見張るものがあります。精巧に出来ており、ぱっと見には本物と区別が付きません。

左の大きな書は、新訳聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」。昭和24年(1949)に書かれたもので、筑摩書房『高村光太郎全集』第17巻のグラビアにも使われています。光太郎が聖書の文句を揮毫したものは珍しいのですが、故・田口氏が敬虔なクリスチャンだったことに由来します。

右の方は色紙「世界はうつくし」、「うつくしきもの満つ」など。はじめ、故・田口氏が昭和19年(1944)、南方に出征する際、光太郎に書を書いてもらったそうですが、氏を乗せた輸送艦が撃沈され、氏は九死に一生を得たものの、書は海の藻屑と消えたそうです。そこで戦後、復員された氏が花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)に蟄居していた光太郎を訪ね、再び同じ言葉を揮毫してもらったというものです。

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光太郎からの書簡類。こちらも基本、カラーコピーですが、小包の包装、鉄道荷札などは現物でした。

それから、光太郎の署名入りの中央公論社版『高村光太郎選集』全6巻。昭和26年(1951)から28年(1953)にかけ、当会の祖、草野心平が中心となって編まれたものですが、故・田口氏が新聞雑誌等から切り抜いたスクラップブックが大いに役立ったそうです。

その他、氏がこつこつ集められた光太郎の著作や、光太郎智恵子に関する書籍類も大量に寄贈されたそうで、それらは定期的に入れ替えながら展示されるとのこと。

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同館2階にこのコーナーが設けられ、無料で拝観できます。ぜひ足をお運びください。

オープンセレモニーの終了後、3階視聴覚ホールを会場に、当方の記念講演。「田口弘と高村光太郎 ~交差した二つの詩魂~」と題させていただきました。

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前半は、総合的な芸術家として、つまづきをくりかえしながらも大きな足跡を残した光太郎の生涯を紹介させていただきました。途中から、故・田口氏とのかかわり、そして光太郎の「詩魂」を受け継ぎ、光太郎とはまた異なる分野で活躍された田口氏の業績を追いました。

講演に先立ち、地元の朗読サークルの方が、光太郎と、詩人でもあった田口氏の詩を一篇ずつ朗読されることになり、何かふさわしい詩はないかというので、以下の詩を指定させていただきました。

光太郎詩は「少年に与ふ」。昭和12年(1937)、雑誌『無風帯』に発表され、同18年(1943)、詩集『をぢさんの詩』に収められました。

   少年に与ふ

 この小父さんはぶきようで
 少年の声いろがまづいから、
 うまい文句やかはゆい唄で
 みんなをうれしがらせるわけにゆかない。
 そこでお説教を一つやると為よう。
 みんな集つてほん気できけよ。
 まづ第一に毎朝起きたら
 あの高い天を見たまへ。
 お天気なら太陽、雨なら雲のゐる処だ。
 あそこがみんなの命のもとだ。
 いつでもみんなを見てゐてくれるお先祖様だ。
 あの天のやうに行動する、
 それがそもそも第一課だ。
 えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。
 持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。
 天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。
 それが自然と此の世の役に立つ。
 窓の前のバラの新芽を吹いてる風が、
 ほら、小父さんの言ふ通りだといつてゐる。



おそらく、少年(青年)時代の田口氏もこの詩を読んだと思われます。そして、戦後に復員されてからの氏のご活躍は、まさに詩の後半の「えらい人や 名高い人にならうとは決してするな。/持つて生まれたものを 深くさぐつて強く引き出す人になるんだ。/天からうけたものを天にむくいる人になるんだ。/それが自然と此の世の役に立つ。」を地でゆくようなものだったと思い、この詩を指定した次第です。

田口氏の詩は、「けさ八十歳」。光太郎から受け継いだ「詩魂」を、どのように生かしていったかと、そういう詩です。94歳で亡くなった氏が80歳になられた時の作品ですが、氏の半生が履歴書のように一望できます。

     けさ八十歳004

 八十歳のけさは春の彼岸の入り 雲なく風なし
 白木蓮の円錐の樹形の花群れは
 純白の光のいのちを一身に聚め
 吹上の溢れるほどの豊満な花輪の賜りもの
 それに応えるおまえの八十までは何だったのか
 何でおまえは生きてきたのか
 この日頃思案してもの怖じもなく答えれば
 ハイ 感動を求めて生きて来ました と
 その折々の天の配剤をいただいて
 幼くして母、姉と一時に死別 父、兄妹と離ればなれ
 中学時代かけがいのない師 柳田知常先生に私淑
 駒込林町の高村光太郎さんの美に導かれ
 アララギの五味保義先生の姿勢を敬慕し
001 戦いの末期 ルソン島沖を泳いで助かる
 その折失った高村さんの餞別の書「美しきもの満つ」は
 岩手の山小屋で再び書いて頂いて 今在る
 復員した青年教師は〈創造美育〉の運動に熱中したり
 五年間 日教組のオルグでストライキに人の重さを知る
 また全国教育研究集会の「美術」の司会を担当
 推されて埼玉教職員組合の委員長をしたり
 自分の能力の適正を危ぶむ労働金庫の専務まで
 そんな有為転変もいま思いかえせば
 みんなみんな神さまの深いお図らいだったのか
 この一人の運命の曲がり角はそうとしか考えられない
 きわどくしかも無理のない選択だったのか
 〝風はおのが好むところに吹く〟ように
 終わりの十六年 幸せにふるさとの教育長に迎えられ
 今までのキャリアを集注して教育と文化運動にかかわる
 たまたまその間 日本スリーデーマーチの実行委員長
 以来朝の〈歩け〉は二十三年累計四万キロで地球一周にも
 ウォークマンで十年モーツアルトに離れがたく
 兄に眼を開かれた絵は
 ルオーの「キリスト」に辿り着く
 旬日 フィンの息子からスタミッツのセロのCD届く
 もうすぐ高村さんの連翹忌がやってくる



氏は同市を会場に開催されている「日本スリーデーマーチ」の実行委員長も永らく務められましたが、そこにも光太郎の影響があったそうです。

「文化運動」という部分では、やはり光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚と親交を結ばれ、光太郎胸像を含む高田の彫刻32点を配した同市の東武東上線高坂駅前からのびる「彫刻プロムナード」整備にも骨折られました。その縁で、先月、高田の遺品、遺作が同市に寄贈されることとなりました。亡くなった後も、氏のご遺徳による業績が続いているわけです。


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平成27年(2015)、氏のご自宅にお邪魔する機会がありました。その際に氏がおっしゃったお言葉が、忘れられません。「大事なのは、光太郎なら光太郎から学んだことを、あなたの人生にどう生かすか、ということです」。まさしく氏は、光太郎から受け継いだ魂を、さまざまな分野に生かされたわけで、昨日の講演でも、そのようなお話をさせていただきました。不覚にも、講演をしながら、その時の光景がよみがえり、うるっと来てしまいました。


同市では、高田博厚の関係等で、今後も色々と動きがありそうです。また情報がありましたらお伝えいたします。


【折々のことば・光太郎】

彫刻は極度に触覚の世界である。此れを浅くしては指頭の感覚、此れを深くしては心の触覚、此世を触覚的に感受し精神を触覚的にはたらかす者、それが彫刻家である。

散文「七つの芸術」中の「二 彫刻について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

故・田口氏にしても、「心の触覚」を鋭敏に働かせて、さまざまな業績を残されたのでしょう。「心の触覚」、言い換えれば「詩魂」となるでしょう。

昨日の『静岡新聞』さんの一面コラムから。 

2018年1月9日【大自在】

▼水彩紙を貼った大小のパネルに墨と白いアクリル絵の具で描かれたさまざまな造形。広い・狭い、長い・短いで構成された直線や帯と、そこに白くかすれた不規則な模様。竹林やのれんのようでもあり、生物のゲノム(全遺伝情報)を示すマップにも見える
 ▼目を凝らすと、線と点の規則性があることに気付く。隠れていたのはモールス符号。例えば縦横3メートルの大作は高村光太郎の智恵子抄の一節で、手元のコード表を頼りに作品を読みながら鑑賞することができる不思議な“書”だった
 ▼「トン・ツーが言語体系となった世界で、どんな言葉の〝かたち〟があり得るのか」。島田市博物館で開催中の企画展。墨象作家宮村弦[みやむらげん]さん(37)=同市=は、デジタル通信の発達ですっかり廃れたモールス符号を文字として捉え直した
 ▼会場にはモールス符号の仮想世界をイメージしてゲスト作家が制作した音楽も静かに流れる。未知の芸術の息遣いに包まれながら、既成書道の枠を超えた造形として発展する墨象の奔放さに驚き魅了された
 ▼大学院で書道を修め、文字をベースにしつつアート活動を続ける宮村さん。最近、書が人間の生活から離れていくように感じられてならないという。「毛筆でも鉛筆でもいい。書く文化が土台になくては考える力も弱まってしまう」
 ▼冬休みが終われば学校では書き初め大会。お手本を横に筆運びを練習したり、新年の決意を力強く文字にしたり…。清書するときの緊張感は誰にも覚えがあろう。そんな小学生時代の思い出は宮村さん自身の原点でもあるそうだ。


こんな展覧会をやっていたのか、と、調べてみました。すると、以下の通り。もはや会期末でした。 

第71回企画展「宮村弦 -モールス・コード- 新しい言葉の{カタチ}」

期 日  : 2017年12月9日(土)~2018年1月14日(日)
会 場  : 島田市博物館 静岡県島田市河原1-5-50 
時 間  : 午前9時~午後5時
料 金  : 一般 300円  20名以上 240円  中学生以下 無料
休館日  : 月曜日

「平成27年度島田市文化芸術奨励賞」を受賞した宮村弦は、書をベースに文字や言語を「意味を宿した象徴(シンボル)」へ昇華させることを目指した作品を多く生み出しています。今回の企画展では、宮村弦の感性で、モールス・コード(モールス符号)を視覚化した作品を一堂に展示します。また、ゲストアーティストに音楽家・斉藤尋己(ひろき)氏を迎え、モールス・コードの作品世界を音として表現した合作も展示します。

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面白いことを考えるものだと思いました。

こちらが「智恵子抄」。

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智恵子歿後に書かれた「亡き人に」(昭1d53e98e和14年=1939)の最終行「あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」だそうです。

さらに調べたところ、同じ作品は、ちょうど一年前の今頃、東京都美術館さんで開催されていた「TOKYO 書 2017 公募団体の今」展にも出品されていたとのこと。存じませんでした。

当方の情報収集力もまだまだです(汗)。


お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

“文句ぬきの造型表現”慾望の強さが私を造形美術に駆りたてる。

散文「作家言」全文  昭和5年(1930) 光太郎48歳

雑誌『美術新論』に載った肖像写真のグラビアに添えられた一言。

宮村氏なども、こういう気持ちで作品制作に当たられているのではないでしょうか。

定期購読しております日本絵手紙協会さん発行の『月刊絵手紙』1月号が届きました。今年の6月号から「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という新連載(全1ページ)が始まりました。

今号は、花巻高村光太郎記念館さんで所蔵している書、「詩とは不可避なり」の揮毫が紹介されています。戦後の花巻在住時に書かれたものです。

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今号はこれ以外に、上記「詩とは不可避なり」の書も展示されている、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」の紹介も載せていただいています。

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定価822円で、一般書展での取り扱いはなく、オンライン購入のみですが、ぜひどうぞ。


花巻関連でもう1冊、注文しておいた書籍が届きました。

温泉天国 ごきげん文藝

2017年12月30日 杉田淳子、武藤正人編 河出書房新社 定価1,600円+税

おとなの愉しみを伝えるエッセイアンソロジー「ごきげん文藝」。第一弾は、日本中に点在する「温泉」をテーマにしたエッセイ32篇を収録。ぽちゃんと浸かれば、そこはまさに天国です。

目次
 湯のつかり方(池内紀) カムイワッカ湯の滝(嵐山光三郎) ぬる川の宿(吉川英治)
 湯船のなかの布袋さん(四谷シモン) 花巻温泉(高村光太郎) 記憶(角田光代)
 川の温泉(柳美里) 美しき旅について(室生犀星) 草津温泉(横尾忠則)
 伊香保のろ天風呂(山下清)
 上諏訪・飯田(川本三郎) 村の温泉(平林たい子)
 渋温泉の秋(小川未明) 増富温泉場(井伏鱒二)
 美少女(太宰治) 
 浅草観音温泉(武田百合子) 温泉雑記(抄)(岡本綺堂) 硫黄泉(斎藤茂太)
 丹沢の鉱泉(つげ義春) 熱海秘湯群漫遊記(種村季弘) 湯ヶ島温泉(川端康成)
 温浴(坂口安吾) 温泉(北杜夫) 母と(松本英子) 
 濃き闇の空間に湧く「再生の湯」(荒俣宏) 春の温泉(岡本かの子)
 ふるさと城崎温泉(植村直己) 奥津温泉雪見酒(田村隆一) 
 別府の地獄めぐり(田辺聖子)
 温泉だらけ(村上春樹) 温泉で泳いだ話(池波正太郎)
 女の温泉(田山花袋)

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光太郎の「花巻温泉」が収録されています。これは、昭和31年(1956)、『旅行の手帖』第26号に掲載された談話筆記です。花巻温泉さん以外に、志戸平温泉さん、大沢温泉さん、鉛温泉さん、台温泉さん、そして現在は無くなった西鉛温泉が紹介されています。

非常にユーモラスな部分もあり、そうと知らずに読めば、また行くつもりなんだろうと言う気がする文章ですが、これが語られたのは、その死の一ヶ月半前。既に自らの命の火が消えかかっている自覚が十分にあった時でした。もはやそれらの温泉に浸かることは叶わないと知りつつ、かつて病んだ身体を癒してくれたそれぞれの温泉や、そこで出会った人々に対する哀惜の言葉が、胸を打ちます。

その他の人々の作品も興味深く拝読。面白いのは、現代の作家さんたちも、光太郎ら近代の人々も、裸になって湯に浸かってしまえば変わらない、という部分です。ある意味、日本人の魂ですね(笑)。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

立体感とは、存在感の中核、空間の一点に確かに構造(コンストラクト)せられたものの感、量の確認、つかみ得る感、消し難く、滅ぼし難い深厚の感、魂の宿るに足りる殿堂の感、自体具足の小宇宙感。彫刻に関する私の諸考察はすべてこの立体感を中心とした放射線状に在ります。

散文「彫塑総論」より 大正14年(1925) 光太郎43歳

この時期、ブロンズの塑像でも、木彫でも、新境地に至る実作をものにしていた光太郎。その裏側には確固とした理論がありました。

昨日から1泊2日で、光太郎第二の故郷ともいうべき、岩手県花巻に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

昨朝、10時台のやまびこ号に乗り、一路、花巻へ。郡山近辺で雪がかなり積もっており、これは雪中行軍となりそうだと思っていたところ、局地的なものだったようで、その後は仙台を過ぎ、一関あたりまで雪はほとんど見られませんでした。しかし安心していたのもつかの間、水沢、北上と進むにつれ、再び銀世界に。1時30分過ぎに着いた新花巻駅前は、こんな感じでした。

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光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんを目指し、レンタカーを駆りました。雪道の運転は久しぶりでしたが、つつがなく到着。除雪車も出ており、ありがたかったです。

花巻市街より標高も高く、山ふところ的な場所ですので、こんな感じ。しかしこれでもピーク時に比べれば、てんでまだまだの積雪でした。

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記念館さんでは、先週の土曜から、花巻市内の文化施設5館の共同開催、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試み「花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」の一環として、「高村光太郎 書の世界」展が始まっています。

地元報道機関に案内を出し、内覧会的に、館のスタッフ氏と当方による展示品等の解説などを行いました。花巻ケーブルテレビさん、『読売新聞』さんがいらしていました。ケーブルテレビさんは当方の解説を撮影。緊張しました(笑)。他社は既に取材を終えていたりということでした。NHKさんは、この日に行われた5館を廻るバスツアーに同行、午前中に取材されたとのこと。今朝のローカルニュースで流れましたが、明日、ご紹介します。

常設展示以外に、今回、特に展示されているのは11点。珠玉の書ばかりです。ほとんどが、光太郎がこの地にいた戦後のものです。

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左は「美ならざるなし」。二重否定は強い肯定(笑)。右は、花巻のリンゴ農家、故・阿部博氏に贈ったもので、阿部氏を歌った即興詩「酔中吟」が書かれています。

 奥州花巻リンゴの名所 リンゴ数々品ある中に 阿部のたいしよが手しほにかけた 国光 紅玉 ヂリシヤス

「阿部のたいしよ」は「阿部の大将」。七・七調四句の俗謡体、おそらく即興で作ったものです。

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地元の太田中学校(現・西南中学校)に贈った書。「心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」。

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左は詩「偶作十五篇」(昭和2年=1927)中の「急にしんとして山の匂いのして来る人がある」。揮毫は昭和20年(1945)だそうです。右は「詩とは不可避なり」。昭和3年(1928)に刊行された草野心平の詩集『第百階級』の序文に書いた「詩人とは特権ではない。不可避である。」あたりが下敷きになっています。

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「こころはいつもあたらしく」。昭和25年(1950)、盛岡少年刑務所に贈った書の下書き的なものと推定されます。完成形は「いつも」ではなく「いつでも」となり、現在も同所の所長室に掲げられています。太田中学校と同じく、やはり青少年向けということで、句がかぶっています。

「日月清明」「皆共成仏道」「不垢不浄」、それから左下の「顕真実」。このあたりは光太郎が習慣としていた新年の書き初めです。山小屋周辺の住民に贈られました。すべて出典は仏典で、信心深かったこの辺りの住民への心遣い、また、自身も仏の教えへの関心が高まっていたことの表れかも知れません。

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右上は、花巻市桜町に建つ、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」碑の拓本です。光太郎の揮毫により昭和11年(1936)に建立されましたが、誤字脱字の追刻が昭和21年(1946)に行われ、それ以前の拓本です。当時としては珍しく、写真製版で縮小されています。

これ以外にも、常設展示で書が飾られており、そちらも含めると、かなりの点数になります。中にはおそらく初公開と思われるものもあります。


ところで、記念館さん入り口ではサンタクロース姿の光太郎がお出迎え(笑)。

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クリスマスが近いというだけでなく、昭和24年(1949)、山小屋近くの山口小学校の学芸会で光太郎がサンタに扮した故事にちなみます。

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記念館さんを後に、山小屋まで歩きました。

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冬期間は、外からしか見られませんし、バリアフリーの工事が入っています。まだまだこれから積雪が増え、雪で埋まります。まったくこんなところでよくぞ7年間も……と、改めて思いました。厳冬期のこの小屋を見ずして、光太郎を語るなかれと思います。

この後、再びレンタカーを駆って、光太郎もたびたび泊まった大沢温泉さんへ。

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以下、また明日。


【折々のことば・光太郎】

芸術は人間を慰めるものでなくて、人間を強めるものである。面白がらせるものでなくて、考へさせるものである。人間をひき上げるもの、進ませるもの、がつしりさせるもの、日常の苦しみを撫するに姑息を以てするのでなくて、其苦しみに堪へる根帯の力を与へるものである。

散文「芸術雑話」より 大正6年(1917) 光太郎35歳

光太郎にとって「書」も、こうした芸術の一環だったと思われます。

今日明日と、1泊で花巻に行って参ります。

花巻市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館さん、萬鉄五郎記念美術館さん、花巻市総合文化財センターさん、花巻市博物館さん、そして高村光太郎記念館さんの5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催する試みが始まっています。題して「ぐるっと花巻再発見! ~イーハトーブの先人たち~」。

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高村光太郎記念館さんは、今年度からの参加で、書を軸にした企画展示が為されています。

高村光太郎 書の世界

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年2月26日(月)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
休館日 : 12月28日(木)~1月3日(水)
料 金 : 一 般 550円/高校生・学生 400円/小・中学生 300円
        ※団体入場(20名以上)は上記から一人あたり100円割引

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。戦火の東京から花巻へ疎開し、その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を続け、彫刻制作を一切封印しました。
 山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、花巻に大小さまざまな『書』を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では彫刻・文芸と並び、光太郎・第三の芸術とも言われる『書』を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。

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会期的には既に始まっているのですが、報道陣向けの内覧が、本日14時からだそうで、当方、その頃参上します。それに合わせて日程を組んでいただいたようで、恐縮です。


他館で光太郎に関わるのが、花巻市博物館さん。こちらは明日、拝見に行くつもりでおります。

及川全三と岩手のホームスパン

期 日 : 2017年12月9日(土) ~2018年1月28日(日)
会 場 : 花巻市博物館 岩手県花巻市高松26-8-1
時 間 : 8:30 ~ 16:30 
休館日 : 12月28日(木)~1月1日(月)
料 金 : 小・中学生:150円(100円)  高校・学生:250円(200円)
      一般:350円(300円)  ( )内は20名以上の団体料金

大正期から農家の副業として作られていた羊毛織の「ホームスパン」に植物染の技術を導入し、美術的な価値を与え、工芸品としての地位を確立させた及川全三(おいかわぜんぞう)【花巻市東和町出身】。
全三のホームスパン工芸への取り組みと民藝運動を提唱した柳宗悦 (やなぎむねよし)との交流についても所蔵資料とともに展示紹介します。

展示構成
1.及川全三のこと
 高等小学校から岩手のホームスパン業界を育てるまでの全三の生涯を紹介します。
2.及川全三とホームスパン
 全三とホームスパン工芸への取り組みについて紹介します。また、羊毛織のホームスパンを知るために、ホームスパンの概要や岩手とホームスパンとの関わり、製作工程なども併せて紹介します。
3.柳宗悦との交流
 民藝運動を提唱した柳宗悦との交流について、柳宗悦の人物像を踏まえて紹介します。
4.全三の弟子と岩手のホームスパン工房
 全三の内弟子である、福田ハレや鈴木光子の紹介とともに、全三の弟子たちによって設立・技術指導されたホームスパン工房を紹介します。

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及川の名は、光太郎日記に頻出します。羊毛で作るホームスパンの風合いを好んだ光太郎が、及川や、その弟子の福田ハレなどに自分用のものを依頼しています。高村光太郎記念館さんに展示されている光太郎の服もホームスパン。太田村の振興のため、及川の手を借りて光太郎も村でのホームスパン制作を推奨、山小屋近くに住んでいた戸来幸子という女性が織ったものを、盛岡で仕立ててもらったそうです。

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また、日記には、光太郎が東京から疎開した際に持ってきた荷物の中に、イギリスの染織家、エセル・メレ(1872~1952)の織ったホームスパンの大きな布(膝掛け、または毛布的な)が入っていて、及川に何度もそれを見せたことが記されています。

その現物と思われる布も、高村光太郎記念館さんに所蔵されています(展示はされていません)。で、花巻市博物館さんで「及川全三展」ということで、貸し出されるのかなと思っていましたが、それは実現しませんでした。

いずれそのあたり、大きな動きがあるのではないかと思っております。またその折には詳しくご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

自然は常に子を見守る親の心を持つてゐる。自然が進む生命は即ち私達の進む生命である。私達の苦しみ、悩み、喜び、悲しむ道程は即ち自然の苦しみ、悩み、喜び、悲しむ道程である。自然は賢明であるが、自然は常に命がけである。自然は人間を育てるために無数の人間を作る。無数の時代を作る。そして機会を待つ。

散文「印象主義の思想と芸術」より 大正4年(1915) 光太郎33歳

この前年に書かれた詩「道程」とリンクしています。特に詩集『道程』掲載形の9行ショートバージョンではなく、雑誌『美の廃墟』に初出時の102行ロングバージョン

「印象主義の思想と芸術」は、天弦堂書房から書き下ろしで刊行された、光太郎最初の評論です。250ページほどあり、おそらく前年、オリジナル「道程」と並行して書き始められていたのではないかと推定できます。


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こちらは、「パラ」ということで、日中韓の障がい者の方々による書の作品展がメインでしたが、特別展示と言うことで、光太郎を含む各界著名人の書も展示されていました。

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展示されていた光太郎の書は、当方、初めて見るものでした。一見して昭和10年代のものだな、とわかりましたが、帰ってから調べたところ、昭和17年(1942)の詩「みなもとに帰るもの」の一節でした。

   みなもとに帰るもの002

 万古をつらぬいて大御神(おほみかみ)はおはす。
 いのちのみなもとを知るもの力あり、
 微少なほ且つ大業を果す。
 おのが身に思ひわずらふもの、
 ひとへに暗くして大義に通ぜず。
 ただみなもとにかへるを知るもの、
 日月皎然、
 生と死とを問ふことなく、
 一切をあげて大御心にこたへまつる。
 冬と春と夏と秋とすでに去り、
 十二月八日再びきたる。
 軍神は死せず、
 いのちかがやきてわれらを導く。
 義勇公に奉ずるの時今日(こんにち)にあり。
 われらあらゆる道に立つもの、
 悉くいのちのみなもとにかへらんかな。
 みなもとに帰するものは力あるかな。

初出は昭和17年(1942)11月の『東京日日新聞』。「軍神につづけ」の総題で13人の詩篇が連載されたその第一回です。同紙ではこの詩としての題名は付けられて居らず、後に大政翼賛会文化部発行のアンソロジー『軍神につづけ』(昭和18年=1943)に収められた際、「みなもとに帰するもの」の題が付され、さらに同年の光太郎詩集『をぢさんの詩』で「みなもとに帰るもの」と改題されました。

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出品されていた書は色紙で、この詩の2行目から引用された「みなもとをしるもの力あり」。詩では「知る」と漢字ですが、書では「しる」と仮名表記になっていました。「光」一字のサインも入っていました。

この時期、特に学徒動員で出征する学生が、入営前に光太郎の元を訪れ、色紙や光太郎詩集の見返し、さらに日章旗などに揮毫してもらうということが多くありました。新聞雑誌や各種アンソロジー、そして光太郎自身の詩集などに矢継ぎ早に発表されたこの手の翼賛詩を読み、またはラジオで朗読された放送(この詩も昭和17年=1942の12月5日に俳優・岩田直二の朗読がオンエアされています)を聴いた若者達が、自らを奮い立たせるため、光太郎の書を求めたのです。

当方、実際のそういう体験談を複数の方々からお伺いしました。今春亡くなった埼玉県東松山市の元教育長・田口弘氏、光太郎と深い交流のあった、ともに画家の深沢省三・紅子夫妻の子息・竜一氏、東洋大学の学生だった藤尾正人氏。また、軍隊ではなく中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場に勤労動員されていた、女優・渡辺えりさんの父君・正治氏にも。

おそらく、出品されていた書も同じような経緯で書かれたものではないかと推定されます。当方がお話を伺った皆さんは、それぞれ九死に一生を得て戦後まで生き延びられましたが、この書をもらった人は、どういう運命をたどったのか、興味深いところです。

結局、戦場や動員先の工場などで露と消えた命も多数あり、光太郎はある意味、自らがそれらの若者を死に追いやったことを深く反省、戦後は花巻郊外太田村の山小屋で、自虐ともいえる過酷な蟄居生活を7年間続け、天職と考えていた彫刻も自らへの罰として封印し、贖罪に徹しました。

今回の展覧会は、中韓の皆さんの作品も多く展示されていました。日本にこういう詩人がいたということが、広く知られて欲しいものだと思いました。


豊島区役所さんをあとに、続いて、荻窪駅近くの荻窪小劇場さんに向かいました。こちらでは、Dangerous Boxさんという演劇ユニットによる「門ノ月~Aida~/智恵子抄」という公演を拝見。

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この手の公演(特に複数回上演される場合)で、満席になって入れないということはありえなかったので、今回もなめてかかっていましたが、案に相違し、ようやくキャンセル待ちで入れていただきました。小劇場ですのでキャパが少なかったというのもありますが、どうも、根強いコアなファンの方々が存在するようです。

一言でいうと、若い皆さんのパワーに圧倒されました(笑)。

「智恵子抄」系は、年配の方が演じるケースが多く、また、若い皆さんの劇団でも、脚本はベテランの方だったりし、どちらかというと「穏健な」舞台になる印象があります。また、やはりどうしても、一般の方々向けに光太郎智恵子の生涯的な部分を「説明」せざるを得ないかな、という気がします。たとえば昨年、十和田市で上演された地元劇団エムズ・パーティーさんによる「十和田湖乙女の像のものがたり」朗読劇は、当方が書いたジュブナイルを元にして下さいましたが、大半は「説明」でした。それはそれで小学生にでも理解してもらえることを目指した親切心なわけで、場合によっては必要です。

しかし、「理解されないのが怖い」という理由で、過度に「説明」をする必要はないのだな、と感じました。今回の舞台では、極力「説明」を避け、とにかく取り上げる「智恵子抄」の詩篇と、演者のパフォーマンスで勝負、という感じでした。あれを観て光太郎智恵子の生の軌跡が詳しく分かるかというと、そうではありません。しかし、わからないなりに感じるものは多々あったと思います。「Don't think! Feel!」ですね(古っ)。

説明抜きで感じさせるには、パワーが必要です。バックの音楽には神井大治さんという方のエレキ三味線が入り、かなりの大音量。それに負けずにノーマイクでやらねばなりませんから、光太郎役の役者さん、「絶叫」に近い朗読でした。20分ほどの上演時間でしたが、あれをあれ以上続けたら死ぬな、と思いました(笑)。

それから袴姿の智恵子役の女性、白い装束のダンサーの女性。現身(うつしみ)の智恵子と、さまざまなものから解放されたがる智恵子の内面のように見え、影と形の如く向かい合う光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のようだと感じました。

シュールといえばかなりシュール。これは若い皆さんでないと演じきれない演出だな、と思いました。

しかし、ある意味突き放して「感じ」させるだけでなく、理解を助けるための工夫もちゃんとされていました。朗読された光太郎詩篇のうち、現代では意味が通じにくい詩句は、わかりやすいように改変していたのです。「レモン哀歌」では「山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸」の「山巓」を「山のてっぺん」的に、「梅酒」の「厨に見つけたこの梅酒」の「厨(くりや)」を「台所」というふうに。著作権の中の同一性保持権(著作物及び その題号につき著作者の意に反して変更、切除その他の改変を禁止することができる権利)という観点から見ればNGですが、この場合には有りでしょう。

もう一つの演目、「門ノ月」の方は、自らも命を絶った殺人犯のいまわの際の夢幻、的な内容で、部分的には「智恵子抄」にもリンクしていました。こちらも熱のこもった舞台で、根強いコアなファンの方々が存在する理由がよくわかりました。

いつも書いていますが、書にしても舞台にしても、こういう活動を通し、光太郎智恵子の世界に興味を持って下さる人の輪が広がっていくことを祈念してやみません。


【折々のことば・光太郎】

一切が商品、一切が金、 あぶくのやうにゼニをつかんで 米粒ひとつも生産しない。 頭ばかりのゴーストが すばやく、ずるく、小またをすくひ、 口腹ばかりの怪物が 巷をうめてかけずりまはる。 ト、ウ、キ、ヤ、ウはどこにもない。

詩「東京悲歌」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

花巻郊外太田村から7年ぶりに帰ってきた東京。戦後の混乱期の残滓はまだあちこちに残っていたと思われます。そろそろ高度経済成長が始まる時期ですが、その分、環境問題などに対する配慮も無かった時代ですし、おそらく今の東京より醜い都市だったのではないでしょうか。

土曜日、久しぶりに都内でかなり長い距離を歩きました。道々、現代の東京であれば、かえって光太郎の眼には好ましく写る部分もあるのでは、とも思いました。

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