良い年願い「丑」揮毫 札南高生、28日からオンライン配信
光太郎、自らを牛にたとえた例は他にもあり、戦後の昭和24年(1949)には、「おれはのろまな牛(べこ)こだが じりじりまつすぐにやるばかりだ。」という一節を含む「鈍牛の言葉」を書いていますし、同じ年には「岩手の人」という詩で「岩手の人沈深牛の如し。」としています。自らもそうありたいという願いが裏側にあるようにも読めます。光太郎自身は未(ひつじ)年の生まれですが(笑)。
昨日、高村光太郎研究会発行の年刊誌『高村光太郎研究(41)』についてご紹介しました。
今日は同誌の連載として持たせていただいている「光太郎遺珠」について。こちらは当方のライフワークでして、平成10年(1998)に完結した筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に漏れている光太郎文筆作品等の紹介です。
面白いものが多数見つかりました。
まず、評論「教育圏外から観た現時の小学校」。大正5年(1916)、『初等教育雑誌 小学校』に掲載された長いもので、手本を丸写しにさせる図画教育のありかたを徹底批判したり、子供特有の物体の捉え方(キュビスム的な)を尊重すべしといった論が展開されたりしています。面白いのは、駒込林町の光太郎住居兼アトリエの石段をめぐるエピソード。近所の子供達の格好の遊び場となっていたそうで、さすがに泥がおちて困るので「遊んだら掃除してくれ」的な張り紙と箒を用意したところ、こまっしゃくれたガキが「これは、ここで遊ぶなという意味なんだ」と、曲解したそうです。このようなひねくれた裏読みをする子供を育てる学校教育はけしからん、だそうで(笑)。
こちらは国会図書館さんのデジタルデータに新たにアップされたもので、同データの日進月歩ぶりもありがたいかぎりです。
それから、昭和20年(1945)の終戦直後、盛岡で開催された「物を聴く会」の談話筆記。これまで、そういう会があったことは知られていましたが、どんな話をしたのかは不明でした。それが地方紙『新岩手日報』に掲載されていたのを見つけました。終戦直後、花巻郊外太田村の山小屋に移る直前の光太郎の心境がよくわかります。
談話筆記としては、他に昭和28年(1953)、芸術院会員に推されたのを辞退した際のもの、同年、東京中野から一時的に花巻郊外旧太田村に帰ったときのものなど、それぞれ短いものですが、節目節目の重要な時期のものです。
また散文に戻りますが、戦時中のものも2篇。こちらはやはり「痛い」内容で……。
昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争開戦の日に予定されていた、大政翼賛会第二回中央協力会議での提案の骨子、「工場に“美”を吹込め」。こちらはまだ前向きな提言ではありますが、敗色濃厚となった昭和19年(1944)の「母」になると、いけません。「まことに母の尊さはかぎり知れない。母の愛こそ一切の子たるものの故巣(ふるす)である。」、と、まあ、このあたりは首肯できますが、「されば皇国の人の子は皇国の母のまことの愛によつて皇国の民たる道を無言の中にしつけられる。」となると、「何だかなぁ」という感じですね……。もっとも、翌年に書かれた「皇国日本の母」という既知の散文では「死ねと教へる皇国日本の母の愛の深淵は世界に無比な美の極である」とまで書いていて、それに較べれば、まだしもですが……。
2020/4/17 追記 誠に残念ながら、新型コロナの影響で、本展は中止となりました。
2021/3/26追記 本展は2021年10月8日(金)~11月28日(日)に、仕切り直して開催されることとなりました。
富山県から企画展情報です。チケット販売会社さん等のサイトには、既に今月初めくらいから記述がありましたし、ポスターやフライヤー(チラシ)は既にこちらに届いていたのですが、正式な館のHPに昨日アップされましたので、解禁かな、というわけで。新型コロナの関係で延期とか中止とか、そうならないかと思っていたところ、とりあえず予告が出まして、ほっとしています。
期 日 : 2020年5月22日(金)~7月12日(日)
会 場 : 富山県水墨美術館 富山市五福777番地
時 間 : 午前9時30分~午後6時00分
休 館 : 月曜日
料 金 : 前売り一般1,000円 当日一般1,200(1,000)円 大学生1,000(700)円 ( )内20人以上の団体
「書は最後の芸術である」――高村光太郎のこの言葉に引き寄せられるように、「画壇の三筆」と題して、熊谷守一(画家)、高村光太郎(詩人・彫刻家・画家)、中川一政(画家)の三人展を開催します。明治・大正・昭和へと連なる日本の近代美術の展開のなかで、ほぼ同時代を生きた三人の芸術家。その作品は、<西洋>化する日本の美術と<東洋>的な精神との折衝のなかから出現した、《模倣を嫌う》確固たる日本人の絵であり、彫刻であり、その書にはそれぞれの芸術感がよくあらわれています。本展では、書作品に、日本画、墨彩画、彫刻、陶芸を加えて、三人の芸術の足跡を辿ります。生涯にわたって美の理想を問い続けた三人の日本人芸術家が到達した、究極の表現世界をご鑑賞ください。
期 日 : 2020年2月12日(水)~2月18日(火)
会 場 : 小田急百貨店新宿店 本館10階 美術画廊・アートサロン
東京都新宿区西新宿1丁目1番3号
時 間 : 朝10時→夜8時 最終日は午後4時30分まで
料 金 : 無料
幕末・明治期にスポットを当て、墨蹟の中でも大変人気が高く入手困難な西郷隆盛をはじめ、いま話題の渋澤栄一や、激動の時代を駆け抜けた維新の志士たちの遺墨を一堂に展示販売いたします。
また、夏目漱石、樋口一葉など同時代の文士の書も併せて展覧いたします。
歴史上の偉人たちの人柄そのものといえる書の魅力を、より身近に感じていただける、またとない機会となります。
《出品予定作家》
西郷隆盛、徳川慶喜、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、福澤諭吉、伊藤博文、渋澤栄一、正岡子規、夏目漱石、樋口一葉、高村光太郎、与謝野晶子 他(順不同・敬称略)
問い合わせたところ、光太郎の作品は、明治39年(1906)、留学のため横浜港を出航したカナダ太平洋汽船の貨客船・アセニアンの船上で詠んだ短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」をしたためた色紙(?)とのことでした。当会の祖・草野心平の鑑がついているそうです。
短歌自体は明治39年(1906)の作で、翌年元日発行の雑誌『明星』未歳第1号に掲載されましたが、この短歌、のちのちまで求められて揮毫した例が多く、この情報だけだといつ頃書かれたものかは不明です。
昭和4年(1929)9月1日発行の雑誌『キング』(大日本雄弁会講談社)第5巻第9号には、「ある日の日記(抄)」という文章が載っており(『高村光太郎全集』には漏れていたものです)、この短歌に関し、次のように述べています。
某社の依頼により自作短歌の中より五十首を選む。二十年来詠みすてし短歌の数はかなりの量に上るべきなれど、その都度書きとめもせざれば多く忘れ果てたり。記憶に存するものの中(うち)稍収録に堪ふと認むるものをともかくも五十首だけ書きつく。
海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
といふ単純幼稚なる感慨歌は一九〇七年渡米の際、太平洋上の暴風雨中に作りし歌なれば完全に二十年前のものなり。此の歌、余の代表作の如く知人の間に目され、屢〻揮毫を乞はる。余も面倒臭ければ代表作のやうな顔をしていくらにても書き散らす。余の短冊を人持ち寄らば恐らくその大半は此の歌ならん。
「一九〇七」とあるのは光太郎の記憶違いです。「某社」は改造社。この月発行された『現代日本文学全集第三十八編 現代短歌集 現代俳句集』に関わります。同書には「海にして…」を筆頭に、明治末から大正13年(1924)までの短歌44首と、簡略な自伝が掲載されています。
やはりこうでなくては駄目ですね(笑)。ただし、朝の時点では雪というより霙(みぞれ)でした。
上の方に書き忘れましたが、花巻高村光太郎記念館さんでの「光太郎からの手紙」は、1月27日(月)までの開催です。ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
日本語の質を緻密にさせてゐる点でも大いに教はるところがあります。
「言葉」の使い方に、実に神経を配っていた光太郎。同じような人々にはこうして共感を示していました。
期 日 : 2019年12月7日(土)~2020年1月26日(日)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田第3地割85番地1
時 間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料 金 : 一般 350円(300円) 小中学生 150円(100円)
高等学校生徒及び学生 250円(200円) ( )は20名以上の団体
休館日 : 12月28日~1月3日
市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、花巻市総合文化財センター、花巻市博物館、高村光太郎記念館の5館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。
光太郎が差し出した手紙を通じて太田村在住当時の様子、創作活動に関わる光太郎周辺の人々との関わり合いをたどります。
他館開催内容
花巻新渡戸記念館 テーマ「島善鄰~生誕130年~」
「リンゴの神様」と言われリンゴ研究の第一人者。後に、北海道大学長となった島善鄰について紹介します。
萬鉄五郎記念美術館 テーマ「阿部芳太郎展」
宮沢賢治の詩集『春と修羅』の外箱装丁に携わり、彼が推し進めた農民劇の背景画を担当した花巻の画家として知られています。賢治との交友はもとより萬鉄五郎と交流し、同地域の美術運動をけん引し続けました。今展は、阿部芳太郎の画業を紹介するとともに、賢治や萬との関わりにも光を当てていきます。
花巻市総合文化財センター テーマ「ぶどう作りにかけた人々 ―北上山地はボルドーに似たり―」
昭和22・23年に襲ったカスリン・アイオン台風被害は、現在のぶどう作りのきっかけとなりました。その取り組みに関わった人々やぶどう、ワイン作りの歩みについて紹介します。
花巻市博物館 テーマ「松川滋安と揆奮場」
文武の藩学「揆奮場」を設立するため奔走した、松川滋安。苦難を乗り越えたその生涯を明らかにします。
ぐるっと歩こう!スタンプラリー
共同企画展の会期中、開催館5館のうち3館のスタンプを集めた人に記念品を差し上げます。さらに、開催館5館全てと協賛館1館のスタンプを集めた人に、追加で記念品を差し上げますので、この機会に足を運んでみませんか。
ぐるっと花巻再発見ツアー
企画展開催館を一度にまわれるバスツアーを開催します。無料で参加できますので、ぜひお申し込みください。
1回目:2019年12月12日(木) 午前9時から午後3時10分
2回目:2020年1月9日(木) 午前9時から午後3時10分
花巻市内5つの文化施設で「ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~」という統一テーマの元に行われる共同企画展。高村光太郎記念館さんが参加するのは今年で3回目となります。一昨年が「高村光太郎 書の世界」、昨年は「光太郎の食卓」でした。
で、今年は「光太郎の手紙」。同館所蔵の光太郎書簡の展示になります。書簡類は、内容もさることながら、光太郎の味わい深い文字も魅力の一つです。リスト等まだ送られてきてませんので、具体的にどういう手紙が展示されるか不明ですが、わかり次第ご紹介します。ただ、先頃報じられた神奈川の女性から寄贈を受けたハガキは出ると思われます。
また、当方の把握している限り、総合文化財センターさんの展示で、光太郎がらみの展示品が出ます。
詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の、光太郎自筆草稿を印刷したものです。
同年、盛岡で開催された岩手県開拓5周年記念の開拓祭で配付されたもの。平成21年(2009)頃、テレビ東京系の「開運!なんでも鑑定団」に、これ(または昭和30年=1955作の「開拓十周年」を同じように印刷したものだったかもしれません)が出ました。鑑定依頼人(亡父の遺品、的な感じだったと思います)は直筆だと思っていたようですが、印刷ということで1万円くらいの鑑定結果だったと記憶しております。ただ、印刷ではありますが、現存数もそう多くなく、貴重なものではあります。当方、入手したいと思いつつ果たせていません。
ぜひ足をお運び下さい。
【折々のことば・光太郎】
一億の生活そのものが生きた詩である。
昨日は第64回高村光太郎研究会でした。
会場は江東区の東大島文化センターさん。生憎の雨でしたが、稀代の雨男だった光太郎の魂がやってきているのかな、という感じでした。まったくいつもいつも、不思議とと光太郎がらみのイベントは雨に見舞われます。
研究会は、会としてはHPなどもなく、こぢんまりと行っている催しで、少ない時は参加者が発表者を含めて5~6人だった年もありましたが、昨日は20名超のご参加。元々の会員の方が光太郎に興味があるという皆さんを誘ってお連れになったり、ご発表の方が発表するから、ということでお仲間にお声がけなさったりで、盛況となりました。
ご発表はお三方。
まず初めに、元いわき市立草野心平記念文学館学芸員の小野浩氏。現在は定年退職なさり、群馬県立女子大学さんで非常勤講師をなさっているそうです。
発表題は「心平から見た光太郎・賢治・黄瀛」。大正から昭和にかけ、戦争やら中国の文革やらの影響で、断続的になりつつも深い絆で結ばれていた光太郎、当会の祖・草野心平、それから心平を光太郎に紹介した黄瀛。そこに宮澤賢治がどう絡んだか、的な内容でした。
4人全員が、心平主宰の雑誌『銅鑼』同人でした。そのうち光太郎と黄瀛は、それぞれ一度ずつ、早世した賢治と会っています。光太郎は大正15年(1926)、駒込林町のアトリエ兼住居に賢治の訪問を受け、黄瀛は昭和4年(1929)、花巻の賢治の元を訪れています。それに対し、心平が直接賢治と会うことは、生涯、叶いませんでした。しかし、賢治に会った光太郎や黄瀛以上に、賢治の精神を深く理解し、共鳴し、たとえ顔を合わせることはなくとも、それぞれの魂で結ばれていたと言えるかも知れません。
小野氏のご発表は、特に心平が花巻の賢治訪問を思い立って赤羽駅のホームに立ちながら、結局、行き先を新潟に変更してしまった昭和2年(1927)1月の話が中心でした。当方、寡聞にしてその件は存じませんで、興味深く拝聴しました。
続いて、当会顧問・北川太一先生のご子息、北川光彦氏。父君の介添え的にずっと研究会にはご参加下さっていましたが、ご発表なさるのは初めてでした。題して「高村光太郎の哲学・思想・科学 高村光太郎が彫刻や詩の中に見つけた「命」とは――画竜点睛、造型に命が宿るとき――」。
光太郎の美術評論「緑色の太陽」(明治43年=1910)などに表された思想が、同時代の世界的な哲学の潮流――ウィトゲンシュタイン、ユクスキュル、西田幾多郎など――と比較しても非常な先進性を持っていたというお話など。
そして光太郎の「生命」に対する捉え方が、芸術的な要素のみにとどまらず、科学、哲学、宗教的見地といった様々な背景を包摂するものであるといった結論でした。そうした見方をしたことがなかったので、これも新鮮でした。光彦氏、ご本業は半導体などのご研究をなさる技術者でして、そうした観点から見ると、違った光太郎像が見えるものなのだなと感じました。
最後に、書家の菊地雪渓氏。光太郎の詩句を題材にした作品も多く書かれている方です。過日もご紹介いたしましたが、今年の「東京書作展」で大賞にあたる内閣総理大臣賞を受賞なさいました(そちらの作は光太郎ではなく白居易でしたが)。
何と実演を交え、光太郎の書がどのようなことを意識して書かれているかの分析。特に仮名の書が、それぞれの字母(「安」→「あ」、「以」→「い」、「宇」→「う」といった)の草書体をかなり残している、というお話。参加者一同、「ほーーーー」という感じでした。
また、光太郎が範とした、黄山谷(庭堅)についてのお話なども。山谷は、中国北宋の進士。草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。光太郎は山谷の書を好み、最晩年には、終焉の地となった中野の貸しアトリエの壁に山谷の書、「伏波神祠詩巻」の複製を貼り付け、毎日眺めていました。
今回のお三方のご発表、おそらく来春刊行される会の機関詩的な雑誌『高村光太郎研究』に、それを元にした論考等の形で掲載されると思われます。刊行されたらまたご紹介します。
終了後は、近くの居酒屋で懇親会。和気藹々と楽しいひとときでした。「高村光太郎研究会」、学会は学会なのですが、肩のこらない集いです。特に事前の参加申し込み等も必要なく、入会せず聴講のみも可。多くの皆様の来年以降のご参加をお待ちしております。
【折々のことば・光太郎】
之等の画幅を熟覧しながら、まことに画は人をあざむかないと思つた。
内部の照明に手を入れたそうで、確かに以前より見やすくなっていました。
お土産に当方大好物のリンゴをたくさんいただき、大感激のうちにこちらを後にし、最後の目的地へ。市街桜町の、故・佐藤進氏邸です。
先月11日に亡くなられた進氏、父君の佐藤隆房は賢治の主治医で、賢治の父・政次郎ともども、昭和20年(1945)4月の空襲でアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招き、その後も物心両面で光太郎を支えてくれた人物です。隆房は光太郎歿後に結成された花巻の財団法人高村記念会初代理事長となり、進氏ご自身も、光太郎と交流がおありで、父君が亡くなったあと、そのあとを継がれて永らく彼の地での光太郎顕彰に骨折って下さいました。
「成瀬先生」は、智恵子の母校・日本女子大学校創設者にして初代校長の成瀬仁蔵です。歿したのは大正8年(1919)。その直前に、女子大学校として、成瀬の胸像制作を光太郎に依頼、光太郎は病床の成瀬を見舞っています。ところが像はなかなか完成せず、結局、14年かかって、昭和8年(1933)にようやく完成しました。別に光太郎がサボっていたわけではなく、試行錯誤の繰り返しで、作っては毀し、毀しては作り、自身の芸術的良心を納得させる作ができるまでにそれだけかかったということです。
画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影です。