明日から3月ですね。ここ数日、関東では春の陽気となっています。自宅兼事務所のある千葉では一昨日、昨日と最高気温が15℃ほどでしたし、明日は20℃くらいになるそうです。
そんなこんなで、自宅兼事務所の裏山では梅がほぼ満開となっています。梅に付きもののウグイスの鳴き声もしきりに聞こえています。
冬を愛し、「冬が来た」などの冬の詩をたくさん遺した光太郎ですが、春の詩も書いています。

終戦の年(昭和20年=1945)2月、日本報道社発行の雑誌『征旗』に載った詩です。
執筆は草稿欄外に書かれたメモに依れば「一月十日夜」です。1月10日では東京で梅は咲いていなかったでしょう。しかし、雑誌が発行される頃には梅も咲き始めるだろうということで梅をモチーフにしています。
この手の虚構は光太郎お家芸の一つで、「智恵子抄」所収の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)でも同じことをやっています。
「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」の一節。執筆は2月23日で、どう考えても桜には早い時期です。しかし、発表されたのが雑誌『新女苑』の4月号で、まさに桜の時期です。まぁ、「この詩が読者の目に触れる頃には写真の前に挿した桜の花かげに、すずしく光るレモンを置こう」ということなのでしょう。
こうしたインチキは光太郎に限らず多くの文学者がやっていたでしょうし、現代でも行われているような気もしますが。テレビ番組などで暮れのうちに撮影しているのに、オンエアが年明けなので「あけましておめでとうございます!」とやっているのと同じですね。
さて、「梅花かをる」。文語の格調に逃げ、「武人の道統」「皇国未曾有の戦機」「大義奉公の一念」といった空虚な語を連ね、現代の感覚では「イタい」詩です。しかし、前年あたりまでの狂気を孕んだような「鬼畜米英覆滅すべし」といった調子ではなくなり、もはや諦念も漂っているように感じます。
前年まではこんな感じでした。

はっきり言えば光太郎、狂ってましたね。
ところが現代に於いても、こういう作品こそ光太郎詩の真骨頂、これぞ皇国臣民の鑑、惰弱な現代人はここに学べ、と、涙を流してありがたがる輩が少なからずいるのも現状です。嘆かわしい。
いろいろなところで言及されていますが、今年は昭和100年、戦後80年。これを機に「あの時代」を正しく省察すべきと思われます。
【折々のことば・光太郎】
今雪の下でホウレン草が育つてゐることでせう。もうハンの木の花が出かかつてゐます。
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。梅はまだだったようですが、小屋の周りに自生していた榛の木(やつか)の花がほころびつつあったようです。榛の木の花も杉や檜同様、花粉症のアレルゲンとなるそうですが……。
そんなこんなで、自宅兼事務所の裏山では梅がほぼ満開となっています。梅に付きもののウグイスの鳴き声もしきりに聞こえています。
冬を愛し、「冬が来た」などの冬の詩をたくさん遺した光太郎ですが、春の詩も書いています。

梅花かをる
梅花(ばいくわ)かをる。
霜白き厳寒の天地を破りて
梅花のかをりすでに春をめぐらす。
日本の梅花いさぎよくして
かの羅浮仙(らふせん)の妖気を帯びず、
そのかをり直ちに剣(つるぎ)を感ぜしめ、
清浄(しやうじやう)、人を奮起せしむ。
されば若き武人の箙(えびら)に挿さんとするは
一枝(いつし)の梅花に外ならず、
花かんばしくして
人また千載に遺芳をおくる。
梅花のかをりふと路にただよふ時
人たちまち精神の高きにつき
心に汚(けが)れなからんことを期す。
凜冽のあした梅花かをりて
武人の道統さらに新しく、
厳冬のうちに炸裂して
天と地とに脈脈の生気を息吹くもの、
梅花かをる、梅花かをる。
いま皇国未曾有の戦機迫りて
人ただ大義奉公の一念に燃ゆ。
この年二月梅花また白玉(はくぎよく)を点綴して
そのかをり人心を粛然たらしむ。
ゆくりなく社頭の臥龍(ぐわりよう)を拜して
梅花にかをる皇国古今の節義をおもふ。
終戦の年(昭和20年=1945)2月、日本報道社発行の雑誌『征旗』に載った詩です。
執筆は草稿欄外に書かれたメモに依れば「一月十日夜」です。1月10日では東京で梅は咲いていなかったでしょう。しかし、雑誌が発行される頃には梅も咲き始めるだろうということで梅をモチーフにしています。
この手の虚構は光太郎お家芸の一つで、「智恵子抄」所収の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)でも同じことをやっています。
「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」の一節。執筆は2月23日で、どう考えても桜には早い時期です。しかし、発表されたのが雑誌『新女苑』の4月号で、まさに桜の時期です。まぁ、「この詩が読者の目に触れる頃には写真の前に挿した桜の花かげに、すずしく光るレモンを置こう」ということなのでしょう。
こうしたインチキは光太郎に限らず多くの文学者がやっていたでしょうし、現代でも行われているような気もしますが。テレビ番組などで暮れのうちに撮影しているのに、オンエアが年明けなので「あけましておめでとうございます!」とやっているのと同じですね。
さて、「梅花かをる」。文語の格調に逃げ、「武人の道統」「皇国未曾有の戦機」「大義奉公の一念」といった空虚な語を連ね、現代の感覚では「イタい」詩です。しかし、前年あたりまでの狂気を孕んだような「鬼畜米英覆滅すべし」といった調子ではなくなり、もはや諦念も漂っているように感じます。
前年まではこんな感じでした。

黒潮は何が好き。
黒潮はメリケン製の船が好き。
空母、戦艦、巡洋艦、
駆艦、潜艇、輸送船、
「世界最大最強」を
頂戴したいと待つてゐる。
みよ、
黒潮が待つてゐる。
来い、空母、
来れ、戦艦、
「世界最大最強」の
メリケン製の全艦隊。
色は紺染め、
白波たてて、
みよ、
黒潮が待つてゐる。
黒潮は何が好き。
黒潮はメリケン製の船が好き。
はっきり言えば光太郎、狂ってましたね。
ところが現代に於いても、こういう作品こそ光太郎詩の真骨頂、これぞ皇国臣民の鑑、惰弱な現代人はここに学べ、と、涙を流してありがたがる輩が少なからずいるのも現状です。嘆かわしい。
いろいろなところで言及されていますが、今年は昭和100年、戦後80年。これを機に「あの時代」を正しく省察すべきと思われます。
【折々のことば・光太郎】
今雪の下でホウレン草が育つてゐることでせう。もうハンの木の花が出かかつてゐます。
昭和27年(1952)3月5日 内村皓一宛書簡より 光太郎70歳
蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。梅はまだだったようですが、小屋の周りに自生していた榛の木(やつか)の花がほころびつつあったようです。榛の木の花も杉や檜同様、花粉症のアレルゲンとなるそうですが……。