カテゴリ: 日記

一昨日、昨日と、みちのくひとり旅でした。レポートいたします。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻。
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東北新幹線で新花巻駅に降り立ち、いつもそうしていますが、レンタカーを借り受けました。

まずは道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんへ。
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リンゴを箱買いし、自宅兼事務所に宅配便で発送。この季節のルーティンです(笑)。

続いて、光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)/高村光太郎記念館さんへ。そこに到るまでも既にそうでしたが、紅葉が実にいい感じでした。
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ここでも問題となっている熊の対策。
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山荘脇には電気柵が設置されていました。とうとうここまでやる必要が出てきたか、という感じでした。

隣接する高村光太郎記念館さん。
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富山県ご在住で、連翹忌の集いにもご参加下さったり、地元で光太郎智恵子に関する講座をなさったり、ご自宅を開放なさって花巻のやつかの森LLCさん考案の「光太郎レシピ」を元に調理された「光太郎ランチ」を予約の方に振る舞われたり、地元都内で一人芝居「智恵子抄」の公演をなさったりと、精力的に活動されている茶山千恵子さんとばったり出会いました。
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SNSで、二本松・花巻に行かれるというお話は存じておりましたが、細かな行程は訊いておりませんでしたので、ここで出会うかと驚きました。

記念館で現在開催されている企画展「昔なつかし花巻駅」。土屋直久氏・石井彰英氏による精巧なジオラマがメインです。
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7月に伺った時には機器の故障で見られなかった、昭和11(1936)年に撮影された岩手軽便鉄道の記録フィルムも拝見。
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こちらは今月いっぱいです。

同時開催で、特別展「中原綾子への手紙」。与謝野晶子門下の歌人・中原綾子に宛てた書簡、中原主宰の雑誌への寄稿の原稿などが、中原ご遺族からごっそり寄贈され、4期に分けて来年2月末まで展示しています。現在は第3期です。光太郎が序文や題字を書いた中原の歌集・詩集・主宰の雑誌、中原が光太郎を詠んだ短歌が載った歌集、光太郎から中原に贈られた書など、当方手持ちのものも展示されています。
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事務室で、新たに寄贈された光太郎の写った写真を拝見。
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一緒に写っているのは光太郎が名付け親となった児童劇団「花巻賢治子供の会」の皆さんと思われます。メンバーにはご存命の方もいらっしゃり、昨年、公開対談をさせていただきました。

高村山荘・高村光太郎記念館さんを後に、一旦、宿泊先の鉛温泉藤三旅館さんにチェックイン。過去3回、光太郎が泊まった31号室をはじめ、いずれも本館の方に泊めていただいたのですが、今回は自炊部。
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深さ約1.3㍍、立って入る白猿の湯が有名ですが、内部は撮影禁止なので、廊下に掲げてあったタペストリー。光太郎も堪能した湯です。

その後、再びレンタカーで市街に出て、来月から高村光太郎記念館さんで開催予定の企画展「光太郎と賢治―宮沢賢治全集ができるまで―」及び来春2月21日(金)に開催予定の、賢治実弟・宮沢清六令孫の和樹氏、賢治の親友だった藤原嘉藤治の顕彰に当たられている瀬川正子氏と当方によるトークイベントに向けて、両氏、市役所の方々、企画されたやつかの森LLCの皆さんなどと打ち合わせ。

フライヤーの原案が出来ていました。まだ原案ですので小さく載せておきます。
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賢治の全集は、「全集」と銘打たなかった戦後の日本読書購買組合版『宮沢賢治文庫』(昭和21年=1946~同24年=1949)を含め、4種類の刊行に光太郎が関与しました。最初の文圃堂版(昭和9年=1934~同10年=1935)、それを引き継いだ十字屋書店版(昭和14年=1939~同19年=1944)、先述の『宮沢賢治文庫』、そして光太郎最晩年の筑摩書房版(昭和31年=1956~)。さらにそれぞれに関わった清六や藤原、さらに当会の祖・草野心平他の人々にもスポットを当てます。

和樹氏が打ち合わせに持参された文圃堂版。題字揮毫は光太郎。
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あまりに状態が良く、瞠目しました。経年劣化の進んだものでも現在の市場価格が20万円以上です。

打ち合わせ後に会食、それも終わり、宿に戻りました。その時点でとっぷり日も暮れていましたので、駐車場から玄関までは熊に遭遇しないかとヒヤヒヤものでした。翌朝、昨日書いたように露天風呂で熊騒ぎ。まったく困ったものです。

チェックアウト後、レンタカーを新花巻駅で返し、新幹線はやぶさとやまびこを乗り継いで福島駅へ。そこで改めてレンタカーを借り、南下。さすがに花巻からレンタカーを運転し続けるパワーはありませんで(笑)。

福島での最初の目的地は、智恵子の故郷・二本松市の道の駅安達智恵子の里さん。智恵子のソウルマウンテン・安達太良山が遠望出来る場所です。
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こちらでは新商品のパッケージに智恵子をあしらったドリップコーヒーなどをゲット。これを買いに寄ったようなものです。他に二本松のリンゴも買いましたが(笑)。
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続いて、智恵子生家/智恵子記念館さん。
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先月から開催されている「高村智恵子レモン祭」期間中です(11月16日(日)まで)。平日でしたので、生家二階の智恵子の居室に上がることはできませんでしたし、居るかなと思っていたゆるキャラ「ちえこちゃん」もお休みでした。

見たかったのはこちら。
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4月から5月にかけて開催された「高村智恵子生誕祭」で、来場の人々が折った折り鶴です。
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心を病んで入院した南品川ゼームス坂病院で、智恵子は紙絵の制作を始めますが、その前段階として、まずは折り鶴を盛んに作りました。

光太郎のエッセイ「智恵子の切抜絵」(昭和14年=1939)から。

精神病者に簡単な手工をすすめるのはいいときいてゐたので、智恵子が病院に入院して、半年もたち、昂奮がやや鎮静した頃、私は智恵子の平常好きだつた千代紙を持つていつた。智恵子は大へんよろこんで其で千羽鶴を折つた。訪問するたびに部屋の天井から下つてゐる鶴の折紙がふえて美しかつた。

生誕祭の際には、当会プロデュースで「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」「智恵子のエプロン 復刻展示」を盛り込んでいただきまして、コンサートにご出演のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さん、テルミン奏者大西ようこさんご夫妻、エプロンを制作して下さった花巻南高校家庭クラブの生徒さんたちも折り鶴にチャレンジなさいました。もちろん当方も。
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その鶴がどこかにはあるのでしょう。
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その後またレンタカーで南下、郡山駅で返却し、新幹線で帰りました。というわけで、なかなか強行軍のみちのく一人旅でした。

花巻、二本松、みなさまもぜひどうぞ。ただし、熊には十分お気をつけ下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家諸君。君達の内に奥行(深み)の感を強めよ。精神はなかなか此の観念と親しみにくい。表面だけしか明らかには心に描かれない。形を奥行で想像する事はむづかしい。それにも拘らず此が君達の務めです。


光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

「奥行」は「立体感」であると同時に、形而上的な「精神性」といった意味も含むと思われます。花巻高村光太郎記念館さんで光太郎ブロンズを見、そんなことも考えました。









今年4回目、来月もまた来るのですが、光太郎第二の故郷・花巻に来ております。
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今回の宿泊は、いつもの花巻南温泉峡・大沢温泉さんではなく、さらに奥まった鉛温泉さん。こちらも光太郎がたびたび泊まった宿です。
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先程、川岸の露天風呂に行ったら、先に入浴されていた方々が「熊が出た!」と騒がれていました。対岸に親子連れの熊がいたそうです。当方が行ったらもう立ち去った後でしたが。

今回は来春行われる市主催のイベントの打ち合わせで参りました。のちほど詳しくご紹介いたしますが、「光太郎と賢治―宮沢賢治全集ができるまで―」という企画展示が来月から始まり、その関連行事として来春2月21日(金)に、賢治実弟・宮沢清六令孫の和樹氏、賢治の親友だった藤原嘉藤治の顕彰に当たられている瀬川正子氏と当方によるトークイベントが予定されています。昨夜はその方々や市の皆さんなどとの打ち合わせでした。

その前に、花巻高村光太郎記念館さん、隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)に。
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記念館では現在は企画展「昔なつかし花巻駅」と特別展示「中原綾子への手紙」(第三期)が同時進行で開催されています。

先週、地元のIBC岩手放送さんのローカルニュースで「中原綾子への手紙」が紹介されました。ついでというと何ですが、このタイミングでないと紹介できませんので引用しておきます。他に取り上げる事項が山積しておりますので。

親しい友人に宛てた手紙から高村光太郎の素顔や苦悩を感じられる企画展「中原綾子への手紙」 岩手・花巻市

 詩人で、彫刻家としても活躍した高村光太郎が、友人で歌人の中原綾子に送った手紙を集めた企画展が、花巻市で開かれています。
 この企画展は中原綾子の親族から花巻市に寄贈された、高村光太郎が中原綾子に送った手紙60点を4期に分けて行われているもので、今回がその3期にあたります。
今回の展示では高村光太郎の直筆の葉書、封書や関連資料合わせて30点あまりが公開されています。
中原綾子に宛てた直筆での手紙が公開されるのは今回が初めてです。
 高村光太郎が書いた葉書は下書きをせず、一気に書き進めているため、最初は行間が広めに設けられているのに、後半になると行間が狭まり、左下の隅のほうまで文字が細かく書き込まれています。
このことにより、光太郎と綾子が気の置けない友人であり、光太郎には綾子に伝えたいことがあふれていたことが想像できます。
 また一方で封書には「ちえ子の狂気は日増しにわろく」や「此を書いているうちにもちえ子は治療の床の中で出たらめの嚀語を絶叫してゐる始末でございます」などと、精神分裂病(現在は統合失調症)を患っていた智恵子の病状を伝えています。光太郎は「智恵子抄」を発表するまで、親類にしか智恵子の病気のことを伝えていなかったといわれていることから、綾子のことを信頼し、話を聞いて欲しかったのではないか、ということが感じられます。
 花巻高村光太郎記念会事務局の高橋卓也さんは「智恵子抄に至るまでの道のりを示す貴重な資料です」と話していました。
 この企画展は年内いっぱい第3期の展示が続けられます。
そして、展示内容を入れ替えて1月から第4期の展示となり、2月28日まで行われる予定です。
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今回はあまり長居ができませんで、この後、智恵子の故郷・福島二本松に立ち寄って帰ります。そちらではまだ「高村智恵子レモン祭」が開催中でして。

それに関しては、帰りましてからレポートいたします。

8月9日(土)、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町での第34回女川光太郎祭に参加して参りました。レポートいたします。

まず午前10時、平成3年(1991)に当時の海岸公園に建てられた光太郎文学碑への献花。当方、センターを務めさせていただき、光太郎に、それから碑の建立やその後の女川光太郎再開催に尽力され、平成23年(2011)の東日本大震災の津波で亡くなった貝(佐々木)廣氏に、そして碑文の一部を揮毫され、かつては毎年光太郎祭で講演をなさっていた当会元顧問・北川太一先生にという思いで、万感の思いを込めて献花いたしました。
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午後からの式典会場・まちなか交流館さんに移動、セッティング。
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会場内には、かつての光太郎祭パンフレットや写真など。
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無理だと思われつつも開催された、震災の年の光太郎祭の様子も。
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北川先生は御健康上の理由でこの頃には欠席なさっていましたが、翌年からまた車椅子でのご参加。その頃から考えると、女川の町の復興もかなり進んだことに感慨深い思いでした。
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今年2月、県から授与された「住みよいみやぎづくり功績賞」の賞状。
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さて、午後1時、開幕。
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まずは黙祷。
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この後、オープニングアクト的に当方の講演。今年は光太郎の彫刻について、ひとくさり語らせていただきました。カーヴィングとかモデリングとか、制作手法についてがメインでした。

その後、いよいよ本番となり、主催者・女川光太郎の会の須田勘太郎会長のご挨拶。
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須田善明女川町長のご祝辞。
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午前中の文学碑への献花の模様を撮影した動画をプロジェクタで投影し、その後、メインアクトの町内外の皆さんによる光太郎詩文朗読。
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海外の方も。
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例年通り、ギタリスト・宮川菊佳氏が伴奏。

朗読して下さった皆さん。
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「献奏」ということで、宮川氏。
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初期のころから毎年いらして歌われていたオペラ歌手・本宮寛子氏は、今年、膝の手術をなさった直後ということで残念ながらご欠席。代わりに、というか、本宮氏の伴奏をなさる予定だった石巻ご在住の田代雅美さんによるピアノ演奏。
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女川光太郎の会事務局で、貝(佐々木)廣の奥様・英子さんによる締めのご挨拶。
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終了後、近くの町中華さんでの打ち上げ。
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生前の貝(佐々木)廣氏と懇意にされていた方が、氏から送られてきた絵手紙などをごっそりお持ち下さり、当方も氏とのさまざまな思い出を胸に拝見し、胸が熱くなりました。

このような気のおけない集まりです。来年以降も末永く続くことを祈念いたしておりますし、これまで以上の多くの皆さんのご参加をお待ち申し上げております。

【折々のことば・光太郎】

もとより、自然は人の眼を避けない。人間は見さへすればよいのである。


光太郎訳「ロダン手記 ヹヌス――「ミロのヹヌスへ」――」より
大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「ヹヌス」はヴィーナス。かの「ミロのヴィーナス」を見てのロダンの感想から。いかに自然を自然に見ることが大切か、光太郎はロダンから学びました。

昨日8月9日は、昭和6年(1931)に新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くため、光太郎が東京を出発した日です。それを記念して、立ち寄り地の一つだった宮城県女川町では、地元有志の皆さんが平成初期から「女川光太郎祭」を開催して下さっています。

昨日は第34回。
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詳しくは帰りましてからレポート致します(まだ女川に居りまして)。

一応、画像を何枚か上げておきます。
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現在、女川町はわりと本格的に雨が降っています。運転に気をつけつつ、焦らずゆっくり千葉まで帰ろうと思っております。

昨夜から光太郎ゆかりの地、宮城県女川町に愛車を駆って来ております。
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午後10時頃到着。もう少し早く着く予定でしたが、夕食は石巻の寿司屋さんでいただくのがルーティンとなっており昨夜も立ち寄りましたところ、激混みで1時間以上待ちとなったため、到着が遅くなりました。
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今日は女川まちなか交流館さんで第34回女川光太郎祭です。

朝のうちに散歩。

宿泊させていただいているエル・ファロさん。東日本大震災後に程なく開業したトレーラーハウスのホテルです。
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女川駅。
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町役場前の震災慰霊碑。
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港まで出て、光太郎文学碑。
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この時点でまだ5時台でしたが、土曜日ということもあるのでしょう、既に親子連れの釣り客の皆さんで賑わっていました。
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光太郎祭、文学碑への献花が10時、式典(当方の講演、町内外の方々の光太郎詩文朗読、オペラ歌手・本宮寛子さんらのアトラクション献奏など)が午後1時です。

詳細は明日、レポート致します。

記憶が正しければ今年3度目の花巻。今回は一昨日から2泊3日の行程で、今日が最終日です。現在、光太郎がよく泊まった大沢温泉山水閣さんでこれを書いております。
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普段は自炊部さんですが、都内からいらした箏曲奏者の元井美智子さん、仙台ご在住のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんとご一緒させていただいており、ちと自炊部さんでは⋯⋯というわけで。

部屋は1階の渓流側。驚いたことに光太郎関連を含むいろいろと貴重な品々が展示されているコーナのすぐ近くです。
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というか、自分の部屋の外壁には、光太郎令甥の故・髙村規氏の書額が掲げられています。
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かつて光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地で毎年五月に行われていました「高村祭」にご出席なさった際に揮毫されたものと思われます。

今回は、昨日開催された(名目上、当方が主催者扱いですので「開催した」というべきですか)、先述のお二人による朗読と箏曲のコラボのコンサート花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏が二公演、そちらがメインでした。

一公演目が高村光太郎記念館さん。
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二公演目は市街地のカフェ羅須さん。
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それぞれつつがなく終え、三人で山水閣さんにお世話になっているわけです。

さらに花巻市博物館さんで「令和7年度テーマ展 戦後80年 戦争と花巻」、高村光太郎記念館さんでは「高村光太郎花巻疎開80年企画展示事業 昔なつかし花巻駅」と「智恵子のエプロン復刻展示」を拝見。今日もですが、他にもいろいろ回ります。
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今回は「詳しくは帰りましてから」の扱いにさせて頂きます(笑)。

一昨日から1泊2日で光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりまして、昨夜帰宅いたしました。レポートします。

メインの目的は、昨日行われた、さまざまな方面でご活躍中の花巻市の登録ボランティアの方々への講演でしたが、もう一つ、花巻高村光太郎記念館さんで4月26日(土)に始まった特別展「中原綾子への手紙」の拝観。
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中原は与謝野晶子の弟子の歌人、詩人。戦前から同門ともいうべき光太郎と交流があり、自身で雑誌『いづかし』『スバル』などを主宰して光太郎の寄稿をあおいだり、複数の自著歌集・詩集にも光太郎に序文を書いてもらったりしています。記念館さんのある花巻郊外旧太田村の山小屋にも訪れ、その際の様子や、昭和31年(1956)に光太郎が歿したことなどを大量の短歌に詠んだりもしています。
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昨年、ご遺族より中原から光太郎宛の書簡類、原稿類がごそっと寄贈され、そのうち書簡類のお披露目です。原稿等に関しては来年度以降とのこと。
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量が多いので、4期に分け、現在第1期です。
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それでもこうした場合に使う小部屋では狭すぎて、通常の第2展示室を縦断する形でパーテーションのボードを立て、その両面に。ちなみに小部屋の方ではブリヂストン美術館歳作制作の「美術映画 高村光太郎」をモニターで流し、第二展示室中央にあったジオラマを移動させています。
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ケースに入れての展示も。
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宛先苗字が「曽我」や「小野」となっているものもあるのは、中原が結婚・離婚を繰り返したためです。結局、ペンネーム的には「中原」姓を使い続けましたが。

書簡類だけでは地味ですし、一般の方には馴染みの薄い名前なので、ビジュアル的な部分と、こういう業績を残した人物なんだよ、という意味で、手許にあった(一部は新たに購入した)光太郎がらみの中原の著書や主宰雑誌など関連史料をお貸ししました。それらもケースで展示して下さっています。
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中原が光太郎に贈られ、光太郎没後に自著詩集『灰の詩』に口絵として写真版を掲載した色紙も。
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昨年、タイミング良く京都の思文閣さんで入札に出したものです。七五調四句の今様スタイルで「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。複数の揮毫が確認出来ています。

これを包んでいた畳紙(たとう)も額に入れてお貸ししました。題箋は中原の自筆なので。
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「高村光太郎先生色紙 昭和廿六年九月岩手県太田村山口にて染筆たまはりたるもの 綾子誌す」。一度、「山口村」と誤記して「太田村山口」と訂正されています。

寄贈された書簡の中には、他に類例のない、智恵子の心の病の病状を事細かに記したものも複数あります。それらは今回はあまり展示されず、2期以降となります。

また、今後、短期間で実にいろいろと他の企画が目白押しです。当会を含めたいろいろな組織等がそれぞれ別個に「あれもやりたい、これもやりたい」となってしまったようで。また近くなりましたらそれぞれご紹介いたします。

拝観後、隣接する山小屋(高村山荘)へ。ルーティンですがこちらにおわすであろう光太郎のご分霊にご挨拶。
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宿泊は定宿の大沢温泉さん。
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翌日が市街地で講演でしたが、9時過ぎに会場入りすればいいということなので、朝はゆっくり致しました。

以前は宿泊棟「菊水館」として使われ,、光太郎や当方も泊まった「ギャラリー茅」。スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫氏が大沢温泉さんのご常連ということで、ミニジブリ美術館的な感じで運用されています。
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現在は「トトロとジブリとカンヤダと」展が開催中(入館料600円)。
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ジブリ関係のお仕事も多数なさっているカメラマンのカンヤダ・プラテン氏の作品など。
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当方、ジブリファンというわけではありませんが、朝からほっこりさせていただきました(笑)。

講演会場へ。
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宮沢賢治が教鞭を執っていた花巻農学校跡地のぎんどろ公園、賢治の菩提寺・身照寺さん近くの花巻市総合福祉センターさん。

「光太郎はなぜ花巻に来たのか」という題で、90分ほど語らせていただきました。
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光太郎とはどういう人物だったのかのアウトライン、そして賢治本人や、賢治没後の宮沢家との関係、花卷市内に残る光太郎関連史跡などなど。

終了後、昼食をやつかの森LLCさんに御馳走になってしまい、恐縮。

さらに市街豊沢町のカフェ羅須さんへ。
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来月当会がらみで、こちらと、それから高村光太郎記念館さんとで、箏曲家の元井美智子さん、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんのコンサート(詳細はまたのちほど)を開催させていただくことになりまして、ご挨拶。
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こちらはギャラリーも併設されています。現在は市内の高校さんで教壇に立たれている髙橋圭子さんという方の作品が飾られています。
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ポストカードが販売中。高村山荘を描かれたものがあり、購入させていただきました。いい感じです。
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こちらには何度かお邪魔していたものの、その際に気づきませんでしたが、賢治の親友で、光太郎とも交流のあった藤原嘉藤治が写った写真も掲示されていました。
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今後、嘉藤治がらみでいろいろ調べたりしなければならないことがあるので、奇縁に驚きました。

そんなこんなで用件を済ませ、帰途に就きました。

途中にも書きましたが、花卷では今後もいろいろなイベントが企画されています。また後ほどご紹介いたしますのでよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生も肋間神経痛といふものがあつて、動きまはるのに不自由を感じてゐます、東京の街上へもあまり出ないでゐる始末なので、録音なども先方から来てもらつてやつてゐます、泊町まで果して行けるかどうか、まだ決定しかねてゐます、

昭和29年(1954)4月20日 舟川栄次郎宛書簡より 光太郎72歳

「結核」の語は使っていませんが、もはやかなりの重度でした。「泊町」は富山県。ぜひ一度おいであれ、というのですが、それが可能な状態ではありません。

結局、前年11月から12月にかけて旧太田村に帰村したのを最後に、一歩も東京を出ることはありませんでした。

ところが花卷の宮沢賢治記念館では、宮沢家で撮られた集合写真のキャプションに「昭和29年」。賢治関連の複数の文献にそう書かれていて、そのまま引き写されているのですが、大間違いです。昨日はその話もさせていただきました。
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昨日から智恵子の故郷、福島二本松に来ております。
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同市の智恵子生家/智恵子記念館で24日の木曜日から約1ヶ月、さまざまなコンテンツが用意されています「高村智恵子生誕祭」の一環として、当会主催のイベントを2つ入れていただきました。
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まず通期で大正期の智恵子デザイン/制作になり、実際に着用もしていたエプロンの復元展示。岩手県立花巻南高校家庭クラブの生徒さんが作ったものです。
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今日は家庭クラブと文芸部の生徒さん、先生もお見えになるそうです。

それから今日、智恵子生家の座敷で、ヴォイスパフォーマー荒井真澄さん、テルミン奏者大西ようこさん、奏曲奏者元井美智子さんによるコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」。その会場設営を少しやって参りました。
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その前後には出演者の一部とご家族、当方で、地元の方のご案内により市内関係スポットなどを逍遥。
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ルートインさんに宿泊しました。

というわけでこれからコンサート本番。詳細は帰りましてからお伝えします。

明日から3月ですね。ここ数日、関東では春の陽気となっています。自宅兼事務所のある千葉では一昨日、昨日と最高気温が15℃ほどでしたし、明日は20℃くらいになるそうです。

そんなこんなで、自宅兼事務所の裏山では梅がほぼ満開となっています。梅に付きもののウグイスの鳴き声もしきりに聞こえています。
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冬を愛し、「冬が来た」などの冬の詩をたくさん遺した光太郎ですが、春の詩も書いています。
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    梅花かをる

 梅花(ばいくわ)かをる。
 霜白き厳寒の天地を破りて
 梅花のかをりすでに春をめぐらす。
 日本の梅花いさぎよくして
 かの羅浮仙(らふせん)の妖気を帯びず、
 そのかをり直ちに剣(つるぎ)を感ぜしめ、
 清浄(しやうじやう)、人を奮起せしむ。
 されば若き武人の箙(えびら)に挿さんとするは
 一枝(いつし)の梅花に外ならず、
 花かんばしくして
 人また千載に遺芳をおくる。
 梅花のかをりふと路にただよふ時
 人たちまち精神の高きにつき
 心に汚(けが)れなからんことを期す。
 凜冽のあした梅花かをりて
 武人の道統さらに新しく、
 厳冬のうちに炸裂して
 天と地とに脈脈の生気を息吹くもの、
 梅花かをる、梅花かをる。
 いま皇国未曾有の戦機迫りて
 人ただ大義奉公の一念に燃ゆ。
 この年二月梅花また白玉(はくぎよく)を点綴して
 そのかをり人心を粛然たらしむ。
 ゆくりなく社頭の臥龍(ぐわりよう)を拜して
 梅花にかをる皇国古今の節義をおもふ。

終戦の年(昭和20年=1945)2月、日本報道社発行の雑誌『征旗』に載った詩です。

執筆は草稿欄外に書かれたメモに依れば「一月十日夜」です。1月10日では東京で梅は咲いていなかったでしょう。しかし、雑誌が発行される頃には梅も咲き始めるだろうということで梅をモチーフにしています。

この手の虚構は光太郎お家芸の一つで、「智恵子抄」所収の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)でも同じことをやっています。

写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」の一節。執筆は2月23日で、どう考えても桜には早い時期です。しかし、発表されたのが雑誌『新女苑』の4月号で、まさに桜の時期です。まぁ、「この詩が読者の目に触れる頃には写真の前に挿した桜の花かげに、すずしく光るレモンを置こう」ということなのでしょう。

こうしたインチキは光太郎に限らず多くの文学者がやっていたでしょうし、現代でも行われているような気もしますが。テレビ番組などで暮れのうちに撮影しているのに、オンエアが年明けなので「あけましておめでとうございます!」とやっているのと同じですね。

さて、「梅花かをる」。文語の格調に逃げ、「武人の道統」「皇国未曾有の戦機」「大義奉公の一念」といった空虚な語を連ね、現代の感覚では「イタい」詩です。しかし、前年あたりまでの狂気を孕んだような「鬼畜米英覆滅すべし」といった調子ではなくなり、もはや諦念も漂っているように感じます。

前年まではこんな感じでした。
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   黒潮は何が好き006

 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。
 空母、戦艦、巡洋艦、
 駆艦、潜艇、輸送船、
 「世界最大最強」を
 頂戴したいと待つてゐる。
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 来い、空母、
 来れ、戦艦、
 「世界最大最強」の
 メリケン製の全艦隊。
 色は紺染め、
 白波たてて、
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。

はっきり言えば光太郎、狂ってましたね。

ところが現代に於いても、こういう作品こそ光太郎詩の真骨頂、これぞ皇国臣民の鑑、惰弱な現代人はここに学べ、と、涙を流してありがたがる輩が少なからずいるのも現状です。嘆かわしい。

いろいろなところで言及されていますが、今年は昭和100年、戦後80年。これを機に「あの時代」を正しく省察すべきと思われます。

【折々のことば・光太郎】

今雪の下でホウレン草が育つてゐることでせう。もうハンの木の花が出かかつてゐます。

昭和27年(1952)3月5日 内村皓一宛書簡より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。梅はまだだったようですが、小屋の周りに自生していた榛の木(やつか)の花がほころびつつあったようです。榛の木の花も杉や檜同様、花粉症のアレルゲンとなるそうですが……。

昨日お伝えしました通り、一昨日、昨日と、光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

そもそもは、作曲家・朝岡真木子氏が光太郎詩をテキストに作曲された独唱歌曲集「組曲 智恵子抄」を歌われ、CDも出された清水邦子さんから、この夏に蒔田尚昊氏作曲の独唱歌曲集「智恵子抄」を抜粋で歌われるという黒川京子さんのお二人で「1月31日(金)・2月1日(土)と花巻で高村光太郎記念館さんや宮沢賢治記念館さんなどを見て歩きたいのですが、二人とも花巻に行ったことがありません。交通機関など現地でどうすればよいでしょうか。また、宿泊場所のおすすめなどありますでしょうか」的な問い合わせがあり、「それなら自分も同行してご案内いたしましょう」という流れ。ちょうど、昨年12月から1月26日(日)まで高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展示「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」でお貸ししていた出品物を返却してもらうする都合もありましたので。

しかし「何でこの時期なんですか? 寒いですよ」と訊いたところ「やはりこの厳しい寒さの時こそ、光太郎の花巻(旧太田村)での苦労を体感出来ると思ったので」とのこと。素晴らしいお考えですね。この時期の高村山荘(記念館に隣接し、光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋)を訪れもせずして「光太郎の山小屋暮らしは、世間に対して戦争犯罪を反省していますよ、と言うポーズに過ぎなかった」などとのたまういわゆる文芸評論家のエラいセンセイ方に爪の垢でも煎じて飲ませたいものです(笑)。

さて、1泊2日の行程を画像と共に振り返ります。特に黒川さんは宮沢賢治詩文をテキストとした歌曲にも取り組みたいということで、賢治関連のスポットも行程に入れることに致しました。

東北新幹線車中からの智恵子のソウルマウンテン・安達太良山。そして粉雪の舞う新花巻駅。
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レンタカーを借り受け、市街へ。

賢治御用達、それから光太郎もたびたび訪れて舌鼓を打ったやぶ屋さんで昼食。
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当方、天ぷらそばとサイダーの「賢治セット」をいただきました。

在来線東北本線花巻駅前に出て、林風舎さんへ。残念ながら賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏は愛知経由で九州に行かれているそうでご不在でした。
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続いて、昨年オープンした豊沢町のカフェ羅須さんへ。写真を取り忘れました(笑)。

オーナーで「宮沢賢治・花巻市民の会」の泉沢善雄氏、それからお世話になっておりますやつかの森LLCの皆さん、花巻南高さん家庭クラブの先生、さらに今年6月に当方に講演を依頼して下さった花巻ボランティア連絡協議会の方もいらっしゃり、事務的な打ち合わせ。この手の打ち合わせが出来る拠点が街なかに出来たので、便利になりました。

さて、旧太田村の高村光太郎記念館さん。花巻市街の積雪はそれほどでもありませんでしたが、徐々に標高も上がり、さらにこちらに着く頃には軽く吹雪いてきました。
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隣接する(と言っても数百㍍)高村山荘。途中の除雪が為されていたので行けました。雪を搔いていない場所は数十㌢積もっています。
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この日、最後の訪問地は少し戻って道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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宿泊先は賢治、光太郎ゆかりの大沢温泉さん。いつもは自炊部さんに泊めていただいていますが、今回は通常の温泉ホテル・山水閣さん。令和4年(2022)以来でした。自炊部さんでは、夕食は外で済ませるか館内の食堂で一品料理を頼むか、朝食はこれも館内の売店で前夜にパンなどを買っておいて食べるという感じですが、こちらでは夕食は豪華めのコース、朝食は和洋バイキング。たまにはいいものです。
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翌朝、9時に宿を出て、再び花巻市街へ。午後に花巻を後にするまでの間、日は照りながらぱらぱらと雪が舞い続けていました。

まずは宮沢家菩提寺の身照寺さん。
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近くのぎんどろ公園。賢治が勤務していた花巻農学校の跡地です。
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花巻駅近くの西公園。この2階で光太郎が講演をした旧花巻町役場、光太郎が乗った今は廃線となった花巻電鉄の車輌。
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中心街まで戻り、マルカンさん裏手の松庵寺さん。光太郎詩歌碑が3基。
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豊沢町の宮沢家。
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この奥の方にあった離れに、光太郎が昭和20年(1945)5月から8月まで厄介になっていました。しかし8月10日の花巻空襲で全焼。現在の建物は戦後のものです。

桜町の宮沢家別荘があった場所に建てられた「雨ニモマケズ」碑。数ある賢治碑のうち、第1号。碑文は光太郎の揮毫です。前日に訪れた林風舎さんには拓本が掲げられています。
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そこから見える「下の畑」。かつて賢治が耕作していた場所。
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近くの桜地人館さんは冬期休館中。
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駐車スペース脇には江戸時代の同心屋敷。

賢治命名のイギリス海岸。「海岸」といいつつ北上川の河畔なのですが。
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こちら、当方は約40年ぶりに訪れました。

そして最後のチェックポイント・宮沢賢治記念館さん。駐車場内の山猫軒さんで昼食を摂ってから拝観しました。
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昨夏から開催されている企画展示「刊行100周年 二冊の初版本」が、この日から展示替えと云うことで、当方は昨年12月に続いての観覧です。
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童話「注文の多い料理店」の直筆草稿断片が出ており、興味深く拝見。
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これで全行程を終了し、レンタカーを返却して新幹線で帰りました。1泊2日ではこんなもんでしょう。夕方までねばったり、1泊増やしたりすれば、羅須地人協会やマルカン大食堂さん、茶寮かだんさん、昭和の学校さんなど、もう少し廻れましたが。まぁ、お連れしたお二人にもとりあえずご満足いただけたようで、幸いでした。

御依頼があれば、この手の花巻ツアー、あるいは智恵子の故郷・二本松ツアーなど、運転手兼コンダクターを務めさせていただきます。もっとも、いつでも可というわけでもありませんが(笑)。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

今月下半期は小生不在がちになりますし、八月に入ると暑くなり、夏に弱い小生は来訪者に接するのが苦痛になります。もすこし好適な季節の時が御来訪にはいいかと思はれますので此事一寸申し上げます。


昭和26年(1951)7月13日 宮静枝宛書簡より 光太郎69歳

宮は岩手出身の女流詩人。光太郎とは戦前から交流があり、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は全編光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、光太郎の進言通り秋になってから光太郎の山小屋を訪問した際の写真が14葉も載っています。また、盛岡市立図書館さんには、写真そのものも寄贈されています。
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光太郎第二の故郷・岩手花巻に昨日から来ております。ほぼ一ヶ月ぶりです。

今回は、オペラ歌手の清水邦子様と同じく黒川京子様とをお連れしての珍道中となっております(笑)。
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帰りましたら詳しくレポートいたします。


昨日、初日の出を見に行って参りました。以前は昭和9年(1934)に智恵子が半年あまり療養生活を送った豊海村(現・九十九里町)まで出向いておりましたが、ここ数年は自宅兼事務所隣町の旭市でご来光を拝んでおります。

午前6時半近くに到着。水平線上には雲がかかっていましたが(西高東低冬型の気圧配置なので毎年のことです)、まずまずの天気です。
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そこそこの人出。
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南の方に目を転じれば、智恵子が療養していた旧豊海村方面。
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千鳥(?)の足跡。
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日の出を待つ間、流木を集めて暖を採りました。焚き付けには昨年の正月飾り。このあたりもルーティンとなっています。見知らぬご家族が「あたらせてくれ」と寄ってきまして、「まぁどうぞ」(笑)。ただでは悪いと思ったか、やはり流木を拾ってきてくれました。こういうのもいいものです。
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午前6時45分過ぎ。雲の上端が金色に。水平線上には既に日が昇っているようで。
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そして……。
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毎年のことながら、やはり感動しますね(笑)。思わず目を閉じて手を合わせてしまいました。今年一年、世の中全体が穏やかな一年でありますように、そして光太郎を取り巻く諸般が盛り上がりますように、関係の皆様のご健勝・ご活躍を、などと祈願。

ほんとうにそういう一年であってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

おてがみと“クルミの木の下に”と感謝、大変きれいな本です、炉辺でよむのがたのしみなやうです。よんだら小学校に寄贈して皆にもよんでもらひませう。山では本が少いので本をもらふ事を皆大変よろこびます。ここの子供達は実にいい子ばかりです。自然にはぐくまれてゐる子達は仕合です。001


昭和26年(1951)1月4日
藤倉四郎宛書簡より 光太郎69歳

藤倉は童話作家。「銭形平次」の野村胡堂と親交があり、その評伝なども複数著しました。胡堂の妻・ハナは智恵子と親しく(共に日本女子大学校卒)、二人の結婚に際しては智恵子がハナの介添えを務めました。そのあたりにもふれた『カタクリの群れ咲く頃の―野村胡堂・あらえびす夫人ハナ』(平成11年=1999、青蛙房)を以前に読んだのですが、藤倉が光太郎と親交があったことに最近まで気づいていませんでした。

あけましておめでとうございます。本年もこのブログサイトをよろしくお願い申し上げます。
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画像は当会としてお送りした年賀状から。中央のヘビの絵は、大正2年(1913)、智恵子と共に一夏を過ごし婚約を果たした信州上高地より、画家の真山孝治に宛てた寄せ書きの葉書から。同じ宿に滞在してい た窪田空穂、谷喜三郎(江風)との寄せ書きで、真山も一時同宿していましたが、先に下山したようです。

令和7年(2025)、下一桁の「5」に注目して、光太郎らとのからみ。

150年前 明治8年(1875) 光太郎生誕前 光太郎の両親・光雲とわかが結婚しました。

130年前 明治28年(1895) 光太郎13歳 第四回内国勧業博覧会審査員だった光雲に連れられて、初めて京都に赴きました。

120年前 明治38年(1905) 光太郎23歳 東京美術学校彫刻科研究生だった5月、上野の竹の台五号館で開催された第一回彫塑同窓会展に塑像二点を出品しました。9月、西洋美術を勉強し直そうと、東京美術学校西洋画科に再入学。教授陣には黒田清輝、藤島武二、同級生に岡本一平、藤田嗣治らがいました。

110年前 大正4年(1915) 光太郎33歳 智恵子と結婚して2年目。『ロダンの言葉』翻訳を始めました。評論集『印象主義の思想と芸術』、与謝野晶子との共著『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』を刊行しました。

100年前 大正14年(1925) 光太郎43歳 ヴェルハーレン訳詩集『天上の炎』を刊行しました。当会顧問であらせられた故・北川太一先生がご生誕。ご存命なら今年で満100歳でした。

90年前 昭和10年(1935) 光太郎53歳 智恵子が南品川 ゼームス坂病院に入院しました。また、東京美術学校校庭に、光太郎原型の前年に歿した光雲のブロンズ胸像が建てられました(現存)。

80年前 昭和20年(1945) 光太郎63歳 空襲で駒込林町のアトリエが全焼、宮沢賢治実家の誘いで岩手花巻に疎開。終戦後には花巻郊外旧太田村の山小屋に移りました。

70年前 昭和30年(1955) 光太郎73歳 歿する前年で、中野の中西利雄アトリエで病臥生活。4月から7月には赤坂山王病院に入院もしました。 

ことに岩手移住80周年は特筆すべきかと存じます。そのあたりを冠して現地でいろいろ行われることを期待します。

昨年は元日にいきなり能登半島地震がありました。今年はおだやかな一年であってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

今日の元旦もまだ吹雪やまず、電車も多分不通と存ぜられ如何ともいたしかたなく閉ぢこもつて居ります。


昭和26年(1951)1月1日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎69歳

この項も元日に合わせ、昭和26年(1951)に突入します。

この年は宿痾の結核が昂進、肋間神経痛がひどく、雪が溶けても農作業はほとんど放棄してしまいました。ぼちぼち自らの生の終わりを意識するようになり、それが翌年の生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作開始に繋がっていきます。

まず、訃報から。時事通信さん配信記事。

冬木透さん死去、89歳 「ウルトラセブン」、作曲家

001 テレビの人気特撮番組「ウルトラセブン」などの音楽を手掛けた作曲家の冬木透(ふゆき・とおる、本名蒔田尚昊=まいた・しょうこう)さんが26日午後10時51分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため東京都内の病院で死去した。
 89歳だった。中国東北部(旧満州)出身。葬儀は近親者で営んだ。喪主は妻良子(りょうこ)さんと長女和可女(わかな)さん。
 エリザベト音楽短大、国立音楽大で作曲を学び、1956年、TBSの前身「ラジオ東京」に入社し、テレビドラマ「鞍馬天狗」で作曲家デビューした。61年に退社後は「ウルトラセブン」など円谷プロの特撮シリーズの音楽を担当。「セブン」の主題歌や、「帰ってきたウルトラマン」で「ワンダバ」という男性コーラスが印象的な防衛隊出撃時のテーマ曲など、シリーズを代表する楽曲を生み、「ウルトラ音楽の父」と呼ばれた。NHK連続テレビ小説「鳩子の海」の音楽も担当した。
 蒔田尚昊名義では多くの合唱曲や賛美歌を作り、桐朋学園大で後進の指導にも当たった。 

昨日まで、今年1年を振り返る内容でこのブログを書いておりましたが、昨夜になって訃報がネット上に。今年1年を振り返る中でも、生前の光太郎をご存じで、当方もさんざんお世話になった浅沼隆氏をはじめ、関係の方々の訃報を少なからずご紹介しましたが、またお一人、加わってしまわれかた……という感じです。

蒔田氏、昭和45年(1970)頃に「歌曲集 智恵子抄」を作曲なさいました。ラインナップは「I 樹下の二人」「II あどけない話」「 III 同棲同類」「IV 千鳥と遊ぶ智恵子」「V レモン哀歌」。このうち「あどけない話」は全音さんから昭和45年(1970)に刊行され、未だ入手可能な『日本歌曲集 3』に掲載されており、今年も複数の演奏会で取り上げられました。

YouTubeでは、昨年開催された「男声合唱のためのウルトラセブン」 楽譜出版記念コンサートでの、加耒徹氏による歌唱の動画がアップされています。


他に「レモン哀歌」「千鳥と遊ぶ智恵子」も。

そして、「冬木透」クレジットでのウルトラ系。なんとも荘厳なイントロの「ウルトラセブンの歌」、英語の歌詞が実にかっこよかった挿入歌「ULTRA SEVEN」、いやがうえにもやる気を喚起させられる「帰ってきたウルトラマン」の「ワンダバ」(正式には「MATのテーマ」)など、当方の世代としてはどストライクでした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、今年も大晦日。昨日までのこのブログで1年間を振り返ることを致しまして、当会として取り組んださまざまな事柄も載せました。

それ以外に、これも毎年ご紹介している活動のご報告。

まず、皆様方からいただいた郵便物に貼られていた切手。毎年の恒例ですが公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会さんにお送りしました。途上国の保健医療協力などのため役立てられます。
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同様に、ベルマーク。こちらはベルマーク教育助成財団さんに送付。「今月の寄贈者」としてご紹介いただいております。
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「高村幸太郎」となっているのはご愛敬(笑)。

それにしても、ベルマーク、年々対象商品が減り続けていて、以前ほど送れなくなってしまい、心苦しく思っております。ベルマークが付いているから石鹸は○○石鹸、コンビニおにぎりは××マートと決めていたのですが、そのあたりがマークを付けなくなってしまいました。しかたがないのかもしれませんが、せちがらい世の中ですね……。その意味では全商品にマークを付け続けている湖池屋さんは素晴らしいと思います。

それから、講演等でいただいたギャラの中から、クラウドファンディング。二本松の大山忠作美術館さんの開館15周年特別企画展「成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」に向けて、さらに東京都小平市の「平櫛田中応援プロジェクト~平櫛田中旧宅を後世に残すために~第2弾」へ。来年以降、光太郎の終焉の地にして第一回連翹忌会場となった中野の中西利雄アトリエ保存につき、クラウドファンディングを行うことになりそうなので、「情けは人のためならず」という下心もありますが(笑)。

というわけで、来年も変わらぬご厚誼の程、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小包の方を炉辺でひらきまして、お心のこもつた品々に感謝しました。抹茶は新年に口あけする事にいたしました。 生干も丸干も実に結構です、この甘味も湯をつぎながら子供の頃を思ひ出しました。皆様お揃で健康で新年を迎へられますやうに。


昭和25年(1950)12月29日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎68歳

お心のこもつた品々」はお歳暮的な意味合いでしょう。戦前から交流のあった美術史家・奥平英雄夫人のちゑ子から。「生干」「丸干」は「甘味」とあるので干し芋(乾燥芋)と思われます。サツマイモは光太郎の子供の頃からの好物の一つでした。

皆様方も「健康で新年を迎へられますやうに」。

昨日正午頃、光太郎第二の故郷、岩手花巻に参りまして、ほぼトンボ帰り。帰りの東北新幹線はやぶさ号車内で書いております。光太郎がらみ以外の雑事に追われておりまして、こんな日程になってしまいました。

昨日はまず東北新幹線新花巻駅でレンタカーを借りた後、宮沢賢治記念館さんと、宮沢賢治イーハトーブ館さんへ。ほぼ雪は無く、若干拍子抜けでした。今年2月もそんな感じでしたし、やはり地球温暖化の影響なのでしょうか?
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賢治記念館さん駐車場展望台からの早池峰山。山はともかく、下界には積雪が見えません。
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両館ともに、『春と修羅』『注文の多い料理店』の刊行100周年に関わる企画展が開催中。特にイーハトーブ館さんの方では展示解説パネルに光太郎の名も出して下さいました。
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賢治記念館さんでも常設のパネル、人物相関図に光太郎。
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こちらに伺うのは数年ぶりで(イーハトーブ館さんでは昨年、シンポジウムのパネラーをさせていただきましたが)、賢治のチェロ、妹・トシのヴァイオリンなど興味深く拝見しました。
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もちろん企画展も。
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2ヶ月ほど前にやはり花巻で出演させていただきました「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に関連する内容も含まれましたし、来年も花巻で光太郎と賢治、特に数回にわたり光太郎が関わった『宮沢賢治全集』に特化した講演をさせていただく予定ですので、その予習にもなりました。

この後、市街地へ。

目的地は、豊沢町のカフェ羅須さん。お世話になっている泉沢義雄氏と賢治研究のお仲間が新たに開店なさり、その開店祝いも兼ねて。
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思いがけず「光太郎を知る会」メンバーの方もスタッフとしていらっしゃり、美味しいコーヒーをいただきつつ、賢治・光太郎談義に花を咲かせました。

結構広い店内はギャラリーも兼ね、地元の方の賢治オマージュの作品が掲げられていました。
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賢治関連の展示も。

と、ここまで書いたところで、画像のアップロードが出来なくなりました。撮った画像をサイズ変更せず上げて来ましたので、スマホからの投稿だとパンクするようです😢

この後、旧太田村の光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんを廻り、定宿の大沢温泉♨️さんに泊めていただきましたが、そのあたり、明日以降に回します。

今日は真っ直ぐ千葉に帰らず、大宮で下車し、湘南新宿ラインに乗り換えて世田谷方面に向かいます。過日ご紹介した演劇公演「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花(ノウゼンカズラ)の家」を拝見に伺います。そのレポートも後ほど。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻に参りまして、現在、光太郎も愛した大沢温泉♨️さんにてこれを書いております。画像は昨夕の到着時ですが。
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昨日は東北本線花巻駅前のなはんプラザさんでされた「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演させていただきました。
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「花巻賢治子供の会」は、戦後の花巻で児童教育に携わっていた照井謹二郎.登久子夫妻が主宰していた児童劇団で、戦争で荒んだ子供たちに宮沢賢治の童話などを通じて豊かな情操を育てたいとするものでした。

そもそもはそれほど肩肘張ったものではなく、花巻郊外旧太田村の山小屋に隠棲していた光太郎の慰問から始まりましたが、光太郎らの援助や助言を糧に、地域に根付いて行きました。光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)までは、おおむね春(太田村)と秋(花巻中心街)で年2回公演し、記録に残る限り光太郎はそれらを7回観覧、毎回非常に楽しみにしていました。

光太郎が岩手を去り、さらに没してからも活動は続き、賢治作品に新たな形で息を吹き込むことに多大な貢献がありました。

−−というようなアウトライン的な内容を、まず当方が語らせていただきました。

続いて、当時実際に光太郎の前で劇を披露なさったお二人、熊谷光さん、高橋則子さんによる「雪渡り」朗読劇上演。
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さらに地元のラジオで光太郎作品等の朗読もなさっている高橋さんは、光太郎詩「山からの贈り物」(昭和24年=1949)もご披露くださいました。

休憩をはさみ、賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏。お母様の潤子さんが「花巻賢治子供の会」の役者さんでしたし、お祖母さまの愛子さんも照井夫妻と親しく、劇団創設に関わられました。
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こちらでも貴重なお話を伺えました。

最後に4人で登壇、さらにやはり「花巻賢治子供の会」のメンバーだった(在籍されていたのは光太郎没後)元アナウンサーの田中しのぶさんの司会で、フリートーク。熊谷さん、高橋さんに光太郎とのそれを含む当時の思い出を語って頂いたりしました。

あまり知られていないさまざまなエピソードなども紹介され、非常に良かったと思いました。

さらに会場には照井夫妻の子息にして、「花巻賢治子供の会」ではアコーディオンで劇伴音楽を担当されていた義彦氏もいらしていて(当初予定ではいらっしゃらないとのことだったのですが)、終演後にこれまた貴重なお話を伺うことができました。
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第二の故郷・花巻にはまだまだ生前の光太郎をご存知の方々がご健在。今後ともその方々の証言など掘り起こされて行って欲しいものです。

報道など為されましたらまた改めてご紹介いたします。

昨日から2泊3日の予定で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。今日がメインの目的で、東北本線花巻駅前のなはんプラザさんで開催される「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」で登壇、宮沢賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏、昭和20年代に児童劇団「花巻賢治子供の会」で光太郎に演劇を披露なさったお二人、計4名での公開対談です。

昨日、花巻入りし、あちこち廻りました。賢治にもからむ対談を控えていますので、賢治テイストにも触れておこうと、まずは新花巻駅で借りたレンタカーを東に向け、遠野市へ。賢治が「銀河鉄道の夜」の構想を得た場所の一つとされる「めがね橋」へ。橋上を走る釜石線に乗って通ったことはありましたが、下から見るのは初めてでした。
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すぐ目の前の道の駅みやもりさん。賢治関連のミニ展示などもなされていました。
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反転して西へ。いったん賢治から離れ、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。企画展「高村光太郎 書の世界」が始まっており、そちらの観覧。
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いい感じに紅葉も始まりました。
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相変わらず案内板や看板類には熊の爪とぎ痕が。くわばらくわばら(死語ですね(笑))。

さて、書を拝見。
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各出品物の細かなご紹介は帰ってからまた改めて致します。今回、これまで展示したことがないものも出ています。特に「へー」と思ったのは、戦前の書で、一時期交流が深かった画家の宅野田夫(でんぷ)の画に光太郎が賛を書いたもの。戦後にはそういう例もありましたが、戦前にもこういうものがあったかという感じでした。
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隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)へ。
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毎度のことながら光太郎遺影に手を合わせて参りました。

小屋の周りには光太郎がこよなく愛した栗。
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レンタカーを花巻市街に向けました。

途中、古民家を保存、公開、活用している施設「新農村地域定住交流会館・むらの家」さんの前を通ったら、先月も並んでいた案山子(かかし)がパワーアップしていました。道の駅はなまき西南(愛称.賢治と光太郎の郷)さんに並んでいたものもこちらに集約されていました。
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光太郎案山子も。
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久々に桜町の賢治詩碑に詣でました。碑文の揮毫は光太郎、日本初の賢治詩碑です。
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記憶がはっきりしないのですが平成28年(2016)の賢治祭でこの碑の前に立って講話をさせていただいた時以来かな、という感じでした。

そこから見える「下の畑」も遠望。
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定宿の大沢温泉さんは土曜日は一人だと予約を受け付けておらず、駅前のグランシェール花巻さんに宿泊(今夜は大沢温泉さんですが)。
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昨年、リニューアルがなされ、やはり賢治関連のミニ展示コーナーが設けられました。名付けて「宮沢賢治探索隊本部」だそうで(笑)。

パネル展示など意外と充実していますし、面積もそこそこ確保されています。宿泊客意外にも公開しているようです。
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夕食はすぐ近くのいとう屋さんで。光太郎が花巻市街で最も多く足を運んだ食堂です。
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そして夜が明け、今朝の日の出。
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これからなはんプラザさんで会場設営です。

取り急ぎ、ぃったん終わります。

一昨日、昨日と、10月13日(日)・14日(月)にお邪魔した智恵子の故郷・福島二本松のレポートを書きましたが、これから書く内容が10月12日(土)の件ですので、時系列的には古い話です。ネタに困る時期には1件ずつ細かくレポートいたしますが、紹介すべき事項が山積しつつあり、申し訳ありませんが、一気に。関係の方々、ご寛恕の程。

まず、千駄木の文京区立森鷗外記念館さんの特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」を拝観。
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茶道・江戸千家家元の川上宗雪氏がご自身のコレクションを同館に寄贈なさり、そのお披露目です。

明治20年代から昭和50年代までの、森鷗外を含む100名弱の著名人が書いたはがき111通。差出人も宛先も様々です。おそらく、古書市場に出たものが中心なのでしょう。
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我らが光太郎のはがきも一通。事前のプレスリリース等で、光太郎のそれについては詳しく紹介されて居らず、宛先、発信年月日等、実際に拝見するまで不明でした。

で、結局、滋賀県在住の野田守雄というアマチュア歌人に送った大正7年(1918)12月25日付の葉書で、『高村光太郎全集』既収のものでした。『全集』等未収録の新発見の可能性もあるなと思って見に行ったのですが、その意味では残念でした。しかしやはり直筆の実物を拝見できたので、それはそれで良かったと思いました。

ちなみに文面は以下の通り。

 あなたが待たれて居られるだらうとおもつていつも済まない気がして居りながら色々の都合で遅れてゐて心苦しくおもひますがどうか今少し待つて下さい 此間のお葉書で御希望が拝察出来ました故小さいけれども人物の全体の習作をお送りするにきめました
 仕事が重なつてゐる為め毎日追はれてゐます 鋳金が間に合はないで閉口です今日はクリスマスですね


これだけだといったい何のことかよくわかりませんが、野田は光太郎のファンで、光太郎が興した絵画の頒布会、彫刻の頒布会に申し込み、作品を購入していました。この葉書はブロンズ彫刻「裸婦坐像」購入に関わります。

野田宛書簡は散逸していて、抜けもあるかとは思われますが、この前後の書簡がかなり把握できており、作家から愛好者へと作品が渡る過程の記録として貴重です。平成25年(2013)に千葉市立美術館さんを皮切りに巡回した「生誕130年 彫刻家・高村光太郎展」の図録には、同館学芸員の藁科英也氏が「この一連の書簡、面白いですね」と、収録なさいました。

ちなみに展示されているはがきに先立つ12月11日には「こんな作品ですよ」ということで、光太郎による粗いスケッチが附されています。
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光太郎以外にも、上記出品目録の通り、ビッグネームがずらり。「この人はこんな字を書くんだ」「この二人がこうつながっていたのか」などと、興味深く拝見しました。ただ、111通の全てを細かくは見ていられない、という感じでして、2期ぐらいに分けての開催でも良かったんじゃないか、とも思いました。

図録(1,600円)と、無料配付の『記念館NEWS』をゲット。
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図録の方は後で細かく拝読いたします。多忙につき読めていません。

さて、千駄木を後に、続いて浅草へ。浅草寺さんにほど近いギャラリー兼イベントスペースのブレーメンハウスさんでのイベント「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」への参加が目的。

若干早く着いてしまいまして、浅草寺さんを参拝しました。土曜ということもあって、人山の黒だかりでした。7割方は海外からのインバウンドと思われました。
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ご存じ雷門。このはす向かい当たりに、光太郎が1日に5回も通ったというカフェ「よか楼」があったのですが、今は跡形もありません。

雷門の後側には、光太郎の父・光雲弟子筋の一人・平櫛田中と、菅原安男による天龍像、金龍像。
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本堂右手前の手水舎には、光雲の沙竭羅竜王像。
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久しぶりに拝見しましたが、やっぱりいいな、と思いました。様式美の部分では光太郎もかないません。

さて、ブレーメンハウスさん。
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一階はギャラリーです。
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その名の通り「ブレーメンの音楽隊」をモチーフにしたステンドグラス。築60年ほどの建物だそうでしたが、ステンドグラスは古いものなのか、現代のものなのか判別がつきませんでした。
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二階は和室になっていて、イベントスペースに使っているそうです。こちらには懐かしい型板ガラス。こちらは60年ほど前のものでしょう。レトロ建築好きにはたまりません(笑)。
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左は紅葉、右は富士山。これで幼い頃暮らしていた官舎に使われていた銀河があったら涙が出るところでした(笑)。

「☆ポエトリーユニオン☆@浅草」開幕。連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの詩人・服部剛氏の主催で、お仲間の方々がご参集。一人8分の持ち時間で、自作詩や好きな詩などを朗読したり解説したり。
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当方にも光太郎について語れ、という指示でして、語りました。彫刻を第一の仕事と考えていた光太郎が、なぜ詩を書き続けたのかというあたりをメインとしました。欧米留学前、当時の流行に乗って喜んで作っていたストーリー性あふれる彫刻の愚劣さにあとになって気づき、彫刻に物語や主義主張は不要、そういう心の内面は詩で表現しようと考えた、という感じで。ストーリー性あふれる彫刻の例としては、左下画像の「薄命児」(明治38年=1905)を紹介しました。浅草花やしきで興行を打っていたサーカス団の幼い兄妹がモデルです。
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従って光太郎にとっての詩は、自己内面のストレートな表出、球速100マイル・フォーシームのど直球、きらびやかな美辞麗句に彩られたものでは決してない、などとも。そんな姿勢が良く表された、来月開催される「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品予定で額装しておいた光太郎のはがき(右上)も持参、皆さんに見ていただきました。

正富汪洋主宰の新進詩人社のアンケート「詩界について」に回答するためのはがきで「詩を書かないでゐると死にたくなる人だけ詩を書くといいと思ひます。」と認(したた)められています。

それから、詩も一篇朗読せよとの指令でしたので、光太郎の目指した詩の姿、的な詩「その詩」(昭和3年=1928)を読みました。はがきにしても「その詩」にしても、ご参集の詩人の皆さんへのメッセージでもあるという仕掛け(というほでもありませんが(笑))でした。

まことに申し訳なかったのですが、こちらのイベントは途中で退席させていただきました。新宿で上演される「平体まひろ ひとり芝居『売り言葉』」観覧のためです。上京するとできるだけ複数の用件をこなすのが常でして。

というわけで、新宿へ。
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野田秀樹氏の脚本で、平成14年(2002)、大竹しのぶさんの一人芝居として初演されたものです。今回は「虎に翼」にも出演されていた文学座ご所属の平体まひろさんによる一人芝居。
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当方、野田氏の脚本は読みましたが、演劇としては初見でした。大竹さんの初演をテレビ放映で拝見したことはあったのですが。

開演前の会場内。
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中央で平体さんが智恵子を演じられ、観客は両サイドに設けられた客席で観おろすという配置でした。ここで平体さん、90分超をお一人でまさに熱演。素晴らしい。

数ある「智恵子抄」二次創作の中で、光太郎ディスり度が最も高い作品です。吉本隆明曰く「高村の一人角力(ずもう)としかおもえない」、伊藤信吉曰く「強いられたものの堆積」という、光太郎からの一種のモラハラによって徐々に壊れていく智恵子の姿が痛ましいまでに表されました。野田氏の脚本ですでにそうなっているのですが、劇中、智恵子の故郷の福島弁が効果的に使われ、光太郎は「こうたろう」ではなく、「コウダロウ」。「芸術家としてあるべき姿はこうだろう?」と常に要求を突きつけていた光太郎の姿が暗示されています。

そして智恵子も「ちえこ」ではなく、やはりなまって「ツエエ子」。智恵子が自分自身、「強え子」でありつづけたいと思っていた反映にもなっています。今回、改めて感じたのは、光太郎のモラハラの強烈さよりも、「自縄自縛」に陥ってしまった智恵子へのやるせなさでした。元は光太郎の「芸術家としてあるべき姿はこうだろう?」でも、智恵子はそれに抗わず、「その通り」と思い込み、逃げることもせず、そうなれない自分をどんどん追い込んでいく……というわけで。

「いや、そこ、違うだろ、逃げろよ」と言いたくなる場面が多々。しかし、その「逃げる」が出来なかったのが智恵子の悲劇だったんだなぁと、改めて思いました。まるで現代のDV被害者などが、加害者からのマインドコントロールに支配されてしまうような……。

ただ、それだけでなく、光太郎と出会う前から、智恵子にはそういう「強え子」を目指して「自縄自縛」に陥る性向があったという描き方になっています。その通りなのでしょう。

光太郎自身、智恵子が病んでから自分の過ちに気づきます。散文「智恵子の半生」(昭和15年=1940)に曰く「私との此の生活では外に往く道はなかつた」。それを踏まえての『智恵子抄』出版です。決して亡き妻との思い出を語ったノーテンキな「純愛の詩集」ではないのです。そのあたり、少し前に書きましたのでご覧下さい。

そんなわけで、光太郎は昭和25年(1950)に上梓した『智恵子抄その後』の「あとがき」には「「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。」と書きました。本当に、「智恵子抄」の読みは一筋縄ではいきません。

そうした点を踏まえた上で、平体さんの再演なり、他の劇団や個人方による上演なりが続くことを祈念いたします。

以上、長くなりましたが都内レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

お抹茶と甘味とありがたく、これは元旦に若水を汲みましてまづ朝の一杯を心爽やかにいただき、それから村人からもらつた餅でお雑煮をいはひました。

昭和25年(1950)1月11日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎68歳

昭和25年(1950)となり、花巻郊外旧太田村の生活も数え6年目となりました。

昨日、智恵子の故郷・福島二本松で開催されたイベント「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」についてレポートいたします。

「智恵子純愛通り記念碑」というのは、智恵子生家前の約2キロに「智恵子純愛通り」と愛称を付け、智恵子没後70年の顕彰事業として平成20年(2008)に建立されたものです。揮毫は光太郎の令甥、故・髙村規氏でした。 この碑の前にベンチ等設置されていてちょっとしたスペースになっており、そこが最初の会場でした。
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今年、新たに碑のかたわらに光太郎と智恵子の言葉を印刷した大きなボードが設置され、その除幕式を兼ねての実施。ボードの題字揮毫は書家の菊地雪渓氏でした。
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上記は式典後の画像ですが、ここから時系列に沿ってご紹介します。
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除幕に続き、主催者挨拶。三保恵一二本松市長他の祝辞。
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智恵子母校・油井小学校の児童さんなどによる碑への献花。
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油井小学校児童さん、安達中学校生徒さん、さらにやはり智恵子母校・福島高等女学校の後身である橘高等学校生徒さんによる光太郎詩朗読。
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一般の方々も。

光太郎智恵子に関わる文章等も書かれている吹木文音氏。
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主催団体「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの会員の方。
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全員で「ふるさと」を唄ったり、記念撮影をしたりで、ここでのプログラムは終了。

続いて智恵子生家に移動。
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こちらの座敷で、紙芝居「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演。作者で、智恵子が学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会ご所属の坂本富江氏によるものでした。坂本氏、書籍『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行なさったり、光太郎智恵子それぞれの母校、荒川区立第一日暮里小学校さん、油井小学校さんに招かれたりと、多方面でご活躍中です。
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智恵子の生涯を追うのがメインですが、没後のことも。そこで、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、終焉の地となった中野の貸しアトリエなども。
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この紙芝居を元にした絵本が制作中で、今年中には刊行されるようです。

その後、近くの地区集会所的な建物に移動して、昼食。
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献花や朗読をして下さった児童生徒さん達にもあらためてスピーチをしてもらったりと、盛りだくさんでした。

ちなみにこちらの壁には、裏山にある光太郎詩「樹下の二人」碑の拓本が掲げられていました。
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昼食後、再び智恵子生家に戻り、吹木氏をご案内。「高村智恵子 レモン祭」期間ということで11月4日(月)までの土日・祝日には通常非公開の生家二階部分の公開が行われています。
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一階もドサクサに紛れて(笑)。
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毎年、春には「高村智恵子 生誕祭」、秋には「高村智恵子 レモン祭」としていろいろなコンテンツが用意されますが、マンネリとならないよう、さらに進化し続けていって欲しいものです。

以上、二本松レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

一昨夜足をすべらして前額に擦過傷をうけ、一太刀うけた形でございます。カサブタが多分その頃までにはとれないだらうとも考へますのでどうかと存じます。

昭和24年(1949)12月27日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

正月となるし、町へ出て来ないかという誘いに対する返答です。結局、例年通り花巻郊外旧太田村の山小屋で越年しました。

昨日から一泊二日で智恵子の故郷、福島二本松に来ております。

今日行われる、地元の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催のイベント出席のためですが、他にも廻りたいところが色々あって、前乗りいたしました。

色々のその1、大山忠作美術館さんでの「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」。智恵子と同郷で、智恵子をモチーフとした作品も複数描かれている日本画家の故・大山忠作画伯が、成田山新勝寺さんに依頼された襖絵をメインとしたものです。
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襖絵は撮影可でした。ありがたし。
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新勝寺さんは当方自宅兼事務所の隣町にあるのですが、初めて拝見しました。大迫力と美しさに圧倒されました。

ロビーには画伯の本作制作風景のパネル展示なども。
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画伯のご息女で女優の一色采子さんは昨日はいらっしゃらず残念でしたが。

普段、常設で展示されている作品群は、他の展示スペースに。こちらには智恵子モチーフの作品も(撮影不可)。
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拝観後、すぐ目の前の二本松駅へ。光太郎の父.光雲の孫弟子、故・橋本堅太郎氏制作の智恵子像にご挨拶。
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その後、安達太良山に向かいました。
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山頂までは登りませんでしたが、ロープウェイで薬師岳パノラマパークへ。
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天気が良かったのが幸いでした。

下山し、道の駅「安達」智恵子の里さんへ。
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宿泊は郡山。

このあとまた二本松に戻り、イベントに参加してまいります。

9月25日(水)、宿泊した花巻南温泉峡・大沢温泉さんを後に、レンタカーを駆って奥羽国境山脈を越え、秋田県に向かいました。目指すは仙北郡美郷町。なまはげやかまくらで有名な横手市の北に位置します。

花巻からは高速を乗り継いで概ね2時間程。こちらに「高村光雲作の銅像がある」という情報を得ておりまして、機会があれば、としばらく前から思っておりました。

像が作られた人物は坂本東嶽(文久元年=1861~大正6年=1917)。美郷の出身で本名は理一郎。秋田県議会、さらに衆議院と貴族院の議員を歴任した人物です。かの犬養毅とは慶應義塾の同窓で、莫逆の友だったとのこと。

昭和3年(1928)に刊行され、全国の銅像について写真入りで紹介している『偉人の俤(おもかげ)』という書籍があり、それによると像の原型作者が光雲となっています。
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ただ、それ以外のネット上の情報等はあいまいで、よくわかりませんでした。これはもう見に行った方が早い、と思った次第です。

現場は一丈木公園というところ。小高い丘の上に広がっていました。
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ここの一角に、目指す像。
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見た瞬間に「あまりよろしくないな」。像の出来不出来という部分ではなく、光雲のテイストが殆ど感じられない、という感覚の問題です。

その違和感、台座裏側の碑陰記的な銘板を読み、納得しました。この手の像の例外に洩れず、大正年間に作られたオリジナルは戦時中に金属供出され、現在のものは戦後にまったく別の人物によって作られたものだとのこと。ポージング等はオリジナルを元にしているようですが。
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さらにオリジナルも原型作者は光雲ではなく、佐藤泰山という人物。光雲は「製作監督」として名を連ねているだけでした。『偉人の俤』の記載が半分ガセだったわけで。ただ、「おっ」と思ったのは、光雲三男(光太郎実弟)の豊周も「製作監督」だったこと。鋳造に関しては豊周が多少なりとも関わったということでしょう。

そういう意味では残念でしたが、長い間のモヤモヤがすっきりしたという部分では良かったと思いました。

像のある一丈木公園の近くに、その坂本東嶽の屋敷が保存公開されています。せっかくですのでそちらにも。
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もともと古建築好きの当方ですし、光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存に向けて一枚噛ませていただいておりますので、こちらは興味深く拝見いたしました。
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まず母屋。玄関の唐破風が実に豪勢です。
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内部。
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母屋の裏手に位置する内蔵(うちぐら)。
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件(くだん)の東嶽像とは別のミニチュアというか、邸宅用というか。服装が異なります。こちらはおそらく戦前のもののようでした。
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一丈木公園での像の除幕の様子。
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蔵の二階。
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梁(はり)が見事でした。
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内蔵と套屋の間の通路には、こんなものも。
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東北六県の貴族院議員の集合写真ですが、「ありゃま」と思ったのが青森の佐々木嘉太郎。その名は昭和27年(1952)に、十和田湖の国立公園指定15周年で当時の知事・津島文治(太宰治実兄)が光太郎に「乙女の像」制作を依頼する際に出て来ます。光太郎盟友の佐藤春夫、建築家の谷口吉郎らとともに、光太郎をモニュメント作者として推挙した一人です。ただし、時期的に合いません。たぶんこっち(写真)が先代で、「乙女の像」にからんだのは息子か何か、代々「嘉太郎」を襲名していたんだろう、と思ったのですが、帰ってから調べたところ、ビンゴでした。

来客用の離れ。
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庭園もいい感じでした。
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像に関しては残念でしたが、東嶽邸の素晴らしい空間に身を置けたのは実によかったと思いました。

この後、また花巻に戻り、レンタカーを返却、帰途に就きました。

以上、東北レポートを終わります。また来月も2度ほど東北行きの予定が入っているのですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

五日の法要に老人のご参集にあづかり又たのしい御饗応をうけまして真にありがたい事と存じました。おかげで「ハムレツト」も見る事が出来、又菊池さんのピアノもきけて愉快でした。


昭和24年(1949)10月11日 宮沢清六宛書簡より 光太郎67歳

「五日の法要」は、花巻町中心街の松庵寺さんで執り行った光雲/智恵子の法要。「老人」は清六、そして亡き賢治の父・政次郎/イチ夫妻。「ハムレツト」は映画でしょう。

「菊池さんのピアノ」云々(「でんでん」ではありません(笑))は、旧菊池家住宅西洋館でのことと思われます。ここで最初にピアノ演奏を聴いたのは、昭和21年(1946)と推定されますが、この時にも聴いていたのですね。

一昨日、9月24日(火)から1泊2日で東北に行っておりました。レポートいたします。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻。また後ほどご紹介いたしますが、10月末に花巻で光太郎と宮沢賢治がらみのイベントが予定されていて、そのための打ち合わせでした。少しだけ予告しておきますと、光太郎と交流のあった照井謹二郎・登久子夫妻が主宰、光太郎もその公演を何度も見た児童劇団「花巻賢治子供の会」の関係です。光太郎が見た公演の際に出演していた方々、それから賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏、そして当方でいろいろ語らせていただきます。

打ち合わせの前に、東北新幹線新花巻駅からレンタカーで、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。現在、特に企画展示は行っていないのですが、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」のフライヤーを置いてもらうために立ち寄りました。
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秋の気配も漂い、赤とんぼが群れを成していました。
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隣接する高村山荘。光太郎が戦後の7年間の蟄居生活を送った山小屋が、二重の套屋(とうおく・カバーの建物)内に保存されています。
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ここに居るであろう光太郎の分霊にご挨拶。花巻を訪れる際のルーティンです。

続いて道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん方面へ。

途中、古民家を保存、公開、活用している施設「新農村地域定住交流会館・むらの家」さんの前を通ったところ、ユニークな案山子(かかし)がずらり。車を駐めて拝見しました。
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パリ五輪の出場選手や、今年発行された新札に肖像が使われている渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎等々。

そういえば太田地区の皆さん、以前も案山子制作やってたっけな、あの時は光太郎案山子もあったけど、今年はないの? と思ったら、ありました。案山子とはちょっと違うのかも知れませんが。さらに制作者は太田小学校の児童さんたちのようで。
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「高村山荘行きねこバス」だそうで、本当にあったらいいですね(笑)。

で、道の駅。
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何と、こちらにも案山子軍団(笑)。
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そしてやはり光太郎案山子(笑)。
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大沢温泉さんからの帰りの光太郎だそうで、首には本物の大沢温泉さんのタオル(笑)。笑わせていただきました。

道の駅で当方大好物の林檎を買い込み、街に戻って上記イベント打ち合わせ。その後、当方も大沢温泉さんに。
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この日はテレビのロケが入っていました。愛知テレビさんの番組で、レポーターはアーティスティックスイミング元日本代表の青木愛さんだそうでした。
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翌日は、以前から行こうと思っていた秋田県美郷町へ。そちらは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

去る二十日に花巻行。二泊してかへりました。廿一日には宮沢賢治十七回忌記念の賢治祭あり、小生も一席漫談をやりました。


昭和24年(1949)9月26日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

賢治の忌日・9月21日には現在も「賢治祭」が開催されています。今年も盛大に執り行われたとのことでした。

この年の花巻文化劇場に於ける光太郎の「漫談」。地方紙『花巻新報』にその筆記録が載り、『高村光太郎全集』では第20巻に後半部分が掲載されていますが、10年ほど前に前半部分を見付けました。少し読みにくいのですがコピペします。

白熊は雪がふれば元気になるが私も冬になると元気になる
賢治さんは雨ニモマケズだが僕は子供みたいにすぐ九十度位熱が出る、賢治さんの詩は誰でも知つているが、判る人はない、一歩一歩だんだんに深く進んでもらいたい、賢治は詩人である、詩はさけられないもので、誰れでも梅の花を見ていると体中が香がしてきて始めて見たような気がするが、人一倍謳うのが詩人である、この詩精神は誰でもありこれのない者は存在そのものがつまらない、この詩精神のない政治家は政治家でなくただの事務家でいやおうなしに肩に担いでやつているだけである、詩精神のある政治家は、あふれるような生き生きしたものを持つているし、この詩精神があれば一つの世界ができて美しくなる、義務でなく本当の仕事ができるし、これは金には替えられない、これをやれば一月に幾らになると考えれば精根がつきる、詩の精神は人を救うが、本当に人を救うものは宗教である
 ◇賢治は法華経に生きた
賢治は法華経の世界で、これを読んで皆んなが無上道に入るように云つた、徹頭徹尾法華経に生きた人間であつて、僕はそれまで信仰していない、宮澤さん自身から云えば唯法華経を信じて、仏の世界に入つてくれればよく、賢治さんに向つて詩人だといつても嬉しくない、ちつとも自分の思うことをいつてくれないと思う、賢治は一行書いても詩になる、僕等はその詩に魅せられる、賢治は宗教家で詩人、この二つをもつている、賢治には五感のよさがある、中学時代啄木に影響された、その後急に詩を書き始めた、春と修羅のころから急に……一字書いても詩になり魅力がある
 おおしくは月の夜を 雪の降るらし 黒雲 乱れたり
教わつてできたものではなく、こつちが圧倒される、賢治の詩を本当に読める人は偉いものだ

「おおしくは……」は賢治の「文語詩稿一百篇」中の一篇からの引用。正確には「鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし、黒雲そこにてたゞ乱れたり」です。

光太郎の賢治評、なかなか的確ですね。

光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。6月以来3ヶ月ぶりです。
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メインの目的は来月開催されるイベントの打ち合わせでした。そちらも昨日のうちに終わりまして、今日は少し足をのばし、秋田へ。

詳細は帰りましてから。

昨日、宮城県女川町において光太郎を偲ぶ第33回女川光太郎祭が執り行われました。

まずは午前10時、女川港の光太郎文学碑に献花。当方、おそれながらセンターを務めさせていただきました。
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午後、近くのまちなか交流館さんを会場に、式典等。
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まずは黙祷。

続けて当方の記念講演。
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今年は光太郎ではなく智恵子をメインに語らせていただきました。

関係の方々のごあいさつ、祝辞等。女川光太郎の会・須田勘太郎会長、女川町長・須田善明氏、そして髙村家当主・髙村達氏。
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午前中の献花の様子をプロジェクタで投影。
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町内外の皆さんによる光太郎詩文の朗読。
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今年で33回と言うことで、コロナ禍での中断もありましたが、それでもこうして朗読して下さった方はのべ300人を超えるだろうとのこと。まさに継続は力なりですね。

アトラクション的に音楽演奏。朗読の際にバックも務められたギタリスト・宮川菊佳氏のソロ。
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オペラ歌手・本宮寛子氏の歌唱。
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最後に運営の世話役・佐々木英子さんのごあいさつ。
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終了後、近くの中華料理店・金華楼さんにて懇親会(これがメインという説も(笑))。
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つつがなく終わり、安心しております。

また、来年以降も末永く続くことを願ってやみません。

本日開催される女川光太郎祭のため、昨夜から宮城県女川町に来ております。
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昭和6年(1931)の今日、新聞「時事新報」の依頼で紀行文「三陸廻り」執筆のため、光太郎は東京を発ちました。おそらく芝浦港から三陸汽船の船で、塩竈港へ。その後、約一ヶ月かけ、宮城と岩手の太平洋沿岸を主に船で廻りました。

平成のはじめ、それを記念して女川町の貝(佐々木)廣氏が中心となって、当時の女川海浜公園に光太郎文学碑が建立され、その後、毎年8月9日に女川光太郎祭が開催されるようになりました。
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平成23年(2011)、東日本大震災の津波で町中心部は壊滅、この碑は倒壊し、貝(佐々木)氏も帰らぬ人となってしまいました。
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光太郎祭の運営はその後、奥さまの英子さんが引き継ぎ、コロナ禍での中断を経て、昨年から旧に復して開催されています。

町内外の方々による光太郎詩文の朗読、アトラクションの音楽演奏、おまけで当方の記念講演など。

つつがなく終わることを祈念いたしております。

一昨日、昨日と、1泊2日で仙台に行って参りました。レポートいたします。

メインの目的が宮城野区鉄砲町のAntique & Cafe TiTiさんで開催された、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さん、箏曲奏者の元井美智子さんのお二人のコラボ公演「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」の拝聴でした。
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今年の連翹忌で知り合われて意気投合されたお二人が、花巻と仙台で計3公演を行われ、その最後です。

まず公演前夜、セッティングの際にお邪魔しました。
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外見からはそうとは分かりにくいのですが、築100年ほどの蔵を秋田の横手から移築したという店舗で、カフェ以外にアンティークショップも兼ねています。店内至るところに置かれている品々は売り物。いい感じですね。
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こちらは売り物ではなく(笑)、元井さんの箏。
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これを車に積まれて各地を転々となさっているわけで、いや、大変だな、と思いました。箏自体が大きいものですし、しっかりした板で作られている台の重いこと重いこと。終演後に元井さんの車まで運んだのですが、筋トレになりました(笑)。

さて、翌朝。平日午前中にもかかわらず、多くのお客様。
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キャパが20弱で、あっという間に予約でいっぱいになったということで、先週、追加公演を別の会場でなさったそうです。

前半は元井さんのソロ。定番の「春の海」、オリジナル曲、そして「花は咲く」。
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休憩時間。ご自分でも音楽活動をなさっているというお客様が多く、皆さん、興味津々で箏の周りに。元井さん、質問攻めにあっていました(笑)。
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後半は、荒井さんによる「智恵子抄」系詩篇の朗読。元井さんのアドリブ演奏にのせて。
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思い起こせば荒井さんの朗読は10年以上前から何度も聴いていますが、何度聴いてもいいものです。運命の人・智恵子と出会ってから晩年の花巻郊外旧太田村までの、光太郎の生涯に思いを馳せながら拝聴しました。
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元井さんの箏は、うるさすぎず、それでいて勘どころはしっかりと押さえ、お二人の息もぴったり。光太郎詩の世界観が存分に表され、これが相乗効果というものかと感じ入りました。

最後は1曲だけ、荒井さんの歌で宮沢賢治作詞作曲の「星めぐりの歌」。もちろん箏の伴奏で。これもナイスでした。

合間に当方のべしゃくりも少し。花巻の高村山荘/光太郎記念館さん、二本松の智恵子生家/智恵子記念館さんのパンフレットやフライヤーをお配りしましたので、ぜひ足を運んで下さい的な。それから例によって、光太郎終焉の地・中野アトリエの保存運動のための署名について。皆様、快くご協力下さいました。多謝。

荒井さん、元井さん、ともに今後もさまざまな公演を控えてらっしゃいます。光太郎智恵子系ではありませんが。
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お二方のさらなるご活躍を祈念いたします。無題

【折々のことば・光太郎】

今朝花巻新報の揮毫をいたしましたので、上出来とはゆきませんが同封いたします。

昭和23年(1948)8月25日 佐藤隆房宛書簡より
 光太郎66歳

『花巻新報』は、『岩手自由新聞』『岩手大衆新聞』『読む岩手』を統合して誕生した地方紙ですが、戦前にあった『花巻新報』の名を踏襲しました。復刊はこの年11月7日でした。

佐藤隆房は賢治の主治医でもあった総合花巻病院長でしたが、同紙の運営にも関わり、その題字の揮毫を光太郎に依頼しました。光太郎筆の題字、昭和35年(1960)の終刊号まで使われました。

昨日から一泊で仙台に来ております。

メインの目的が、朗読の荒井真澄さんと箏曲の元井美智子さんのコラボ「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」の拝聴です。

会場が宮城野区のAntique & Cafe TiTiさん。秋田の横手から移築した蔵だそうで、実にいい感じです。
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早めに会場入りしまして、配布物の丁合いなどを終えました。もうすぐ開場。ワクワクしております。

詳しくは帰りましてからレポート致します。

今日はこれから1泊2日の日程で宮城県仙台市に行って参ります。

メインの目的は明日、宮城野区鉄砲町のAntique & Cafe TiTiさんで開催される、ヴォイスパフォーマー・荒井真澄さん、箏曲奏者の元井美智子さんのお二人がコラボなさる公演「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」の拝聴。今年の連翹忌で知り合われ意気投合されたお二人が、花巻と仙台で計3公演を行われ、その最後です。
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下記は7月18日(木)、花巻の賢治の広場ハナマルカフェさんで開催された初日の公演の模様。当会同様、後援に入られているやつかの森LLCさんの方から画像が送られてきました。
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プログラム的には同じような感じかな、と思われます。箏の音色に乗せて、光太郎や宮沢賢治作品の朗読等。やつかの森LLCさんの方は絶賛なさっていました。

そちらが明日の午前10時半開場ということで、それに間に合わせるため今日から仙台入りします。今日は市内で美術館や古書店等をぶらぶら覗いてみようかな、というところです。

詳細は帰りましてから。

【折々のことば・光太郎】

婦人之友の写真をごらんになつた由のおたよりいただきました。親爺に似てゐるとは恐ろしい因縁だと思ひます。同雑誌にあるシユヷイツエルの写真を見ると自分などは生ぬるいと思ひました。

昭和23年(1948)8月13日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎66歳

婦人之友の写真」は、この年7月号の同誌に載った光太郎のエッセイ「一刻を争ふ(のち、「季節のきびしさ」と改題)」に添えられたものです。これを見た宮崎が「光雲さんに似てきましたね」的なことを書き送ったのでしょう。
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「シユヷイツエル」は、アフリカで献身的な医療奉仕活動を行っていたアルベルト・シュヴァイツァー。その近況が右上写真と共に同誌に載り、光太郎は自分ごときはまだまだだと感じたというわけですね。

昨日は、6月9日(日)に花巻市で開催されたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の模様をご紹介いたしました。

今日は遡って前日の6月8日(土)、花巻に到着してからのレポートを。

いつものように東北新幹線新花巻駅に降り立ち、予約して置いたレンタカーを受けとって、旧太田村の高村山荘/高村光太郎記念館さんを目指しました。今年2月以来です。

まずは手前の高村光太郎記念館さん。
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こちらではテーマ展「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中。
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光太郎が戦後の7年間を過ごしたこのあたり一帯で描かれた山野草などのスケッチ(複製)を中心にした展示です。
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スケッチと描かれた植物の写真とを並べて展示。このあたり一帯の環境破壊が進んでいないためにできることですね。もしかすると、中には描かれている植物がもはや見あたらない、というケースもあるのかも知れませんが。

昭和26年(1951)秋に撮られた写真も。
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それから光太郎の肉筆原稿。
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昭和25年(1950)刊行の詩文集『智恵子抄その後』が初出と推定される「七月一日」と題するエッセイ。つくづく味のある文字です。

昭和22年(1947)の雑誌『至上律』に口絵としてカラー印刷で掲載された「太田村山口部落 鉛筆淡彩素描」(複製)。当時の太田村山口地区は茅葺きの農家ばかりだったのですね。少し離れた所には開拓地が設けられ、引き揚げ者などが続々入植、そちらはまた違った感じだったのでしょうが。
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今日のブログ、一番下の【折々のことば・光太郎】を併せてご覧下さい。

この展示、これはこれで見応えはあるのですが、問題も。まず、昨年、ほぼ同じ内容のテーマ展示を行っているということ。どうしても二番煎じ感がぬぐえません。「またか」という感じなのでしょうか、地元メディア等にもあまり紹介されていません。積極的に宣伝もしていないのかもしれません。

それから、壁面を使ったパネルやスケッチ等の展示のみであるということ。平面的というか、平板というか、美術館等での絵画の展示はそうなりがちですが、展示ケース等を活用すればもっと立体的に変化をつけた展示が出来るはずなのですが……。聞くところによると、使用出来る展示ケースが無いとのこと。ちょっと有りえない事態なんじゃないかな、と思い、市の方には何とかしてくれと提言はしておきました。

まだ詳細は公表されていないので内容は明かせませんが、先月、新たな資料がごっそりと寄贈されました。質・量ともにとんでもない品々です。いずれそれらの展示も為されるはずですが、その際には二次元的な展示に終わることの無いようにしていただきたいものです。

こちらを拝見後、隣接する、といっても数百メートル離れていますが、光太郎の暮らした山小屋(高村山荘)へ。
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いつものことですが「また来ました」と遺影に合掌。

そろそろ閉館時間で、そうなると熊の出没も心配ですので、周辺散策はせずに引き上げました。
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小屋の南側、かつて光太郎が三畝の畑を営んでいた一角には、ハナショウブでしょうか。「では、また」と念じつつ。

レンタカーを東に向けました。いつもは北に向けて定宿の花巻南温泉峡の大沢温泉さんなのですが、今回は宿泊予約が取れず、やむなく花巻空港近くのルートインさんに。
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たまにはこういうのもありかな、という感じでした。

夕食は、翌日の「五感で楽しむ光太郎ライフ」打ち合わせを兼ね、共催に入られているやつかの森LLCの皆さんと、市内の和食店で。

その席上、というか会食開始前、「こんなものが出てきました」と、見せられたのがこちら。
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光太郎に山小屋の土地を提供した旧太田村の顔役の一人、駿河重次郎宛の葉書2通です。共に差し出し元は「乙女の像」制作のため借りた中野区の貸しアトリエ。保存運動が起きている場所です。

1通目は昭和28年(1953)10月11日。

青森へ行つたかへりに山へまゐるつもりでしたが、青森でいろいろな会に出るので疲れるでせうから、今度は帰途山へ寄らずに直ぐ東京にかへり、一旦休んでから又あらためて十一月に山へまゐることにいたしますので、その時お目にかかるのをたのしみに思ひます、

青森」云々は10月21日に行われた、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式参加を指します。「」は太田村山口地区。除幕式後、25日に帰京した光太郎は、11月25日から12月5日、太田村に帰りましたが、半分はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」のロケのためでした。映画には駿河夫妻も出演しています。
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太田村から帰京したあとで投函された2通目ではその映画についても言及。

お餅と白いんげんとたくさんいただきありがたく存じました。
これでお正月のお雑煮も出来ました。東京は此頃たいへんあたたかです。山口ではもう雪になつた事でせう。
此間の映画はまだ見ませんがよくとれて居るとききました。

同じ昭和28年(1953)12月25日付けです。

この頃、光太郎は宿痾の肺結核が悪化。そこで厳冬期には中野の貸しアトリエで、それ以外は太田村の山小屋で、と二重生活を目論んでいたようなのですが、もはや健康状態が山での暮らしに耐えられる状態ではなく、結局、太田村に帰ったのはこの時が最後となりました。

見せられた際には「新発見かも」と思ったのですが、帰りましてから調べたところ、2通とも既に『高村光太郎全集』に収録済みでした。貴重なものであることには変わりありませんが。

それから、ソースが不明なのですが、何かの雑誌の切り抜き。表は管理を任されていた光太郎の山小屋内で撮られた駿河の写真。
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光太郎もそうでしたが、古武士のような風格ですね。

裏は山小屋近くに昭和33年(1958)に除幕された光太郎詩「雪白く積めり」碑。山小屋近くの山口小学校の児童が碑を取り囲んでいます。おそらく竣工間もない頃と思われます。ことによると現在地に設置する前なんじゃないかとも思えます。
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すべて駿河の令孫のご所蔵。貴重なものを拝見できました。

この後、ホテルに帰り、翌朝は「五感で楽しむ光太郎ライフ」の前に、以外とホテルに近かったので、花巻農業高校さんへ。

宮沢賢治の羅須地人協会の建物が移築されています。
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この像、以前に見た時には作者名を見落としていたのですが、光太郎の父・光雲の孫弟子に当たり、智恵子の故郷・福島二本松に2体の智恵子像を作られた故・橋本堅太郎氏の作です。不思議な縁を感じました。
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そして在来線東北本線花巻駅前のなはんプラザさんへ。この後、昨日のブログに続きます。

明日はさらに遡って、花巻到着前に立ち寄った仙台をレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

おハガキ忝く拝見、「至上律」のは随分ひどい印刷でやれやれと思ひました。あの屋根の中に村長さんの家もあります。うしろの山の三ツ目の山には熊がゐます。

昭和22年(1947)12月31日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎65歳

上記の高村光太郎記念館テーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」で展示されているスケッチ「太田村山口部落 鉛筆淡彩素描」に関してです。この当時のカラー印刷のクオリティはまだまだでした。それもあって、光太郎は生前には智恵子の紙絵の画集としての出版は承諾しませんでした。

1泊2日の東北行を終え、昨夜、千葉の自宅兼事務所に帰りました。レポートいたします。時系列に逆行し、昨日行われ、メインの目的だった岩手花巻でのイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」参加の件から。

会場は在来線東北本線花巻駅前のなはんプラザさん。
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主催は花巻市の太田地区振興会さん。太田地区というのは光太郎が戦後の7年間を過ごした旧太田村です。

同じ太田地区振興会さん主催の光太郎関係イベントのうち、昨年2月に開催された、宮沢賢治実弟清六の令孫にして株式会社林風舎代表取締役・宮沢和樹氏と当方の公開対談「高村光太郎生誕140周年記念事業 対談講演会 なぜ光太郎は花巻に来たのか」もこちらの会場でした。
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満員御礼でした。ありがたし。見知った顔もたくさん。

今回は3組の方々のご発表がメイン。先に教育関係で、地元の学校さんによる光太郎顕彰の取り組み。その後で環境保護の観点から、特に光太郎が7年間暮らした旧太田村の自然について。当方はコメンテーター的な役割でした。
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まずは市立太田小学校校長の藤田聖子先生による「光太郎先生と太田小のまなび」。
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光太郎が7年間暮らした山小屋の近くにあり、児童や先生方と深く交流した山口小学校は、もともと光太郎移住時には太田小学校山口分教場。その後、周辺に開拓地が広がって児童数が増加したことから、昭和23年(1948)に山口小学校として独立しました。その際に光太郎は「正直親切」という校訓や詩「お祝いの言葉」、直筆の「山口小学校」という看板などを贈りました。また、同校の学芸会や運動会、卒業式などに招かれたり、PTAの会合等で講話を行ったりもしましたし、楽器や講堂の幔幕、幻灯機などの寄附も行いました。

光太郎歿後には山小屋敷地内で開催されるようになった「高村祭」で、児童たちが光太郎から贈られた楽器を使って演奏を披露したりもしていました。しかし同校は昭和45年(1970)に廃校となり、再び太田小学校さんに統合。以来、太田小学校さんでは山口小学校の精神を受け継いで、高村祭への参加なども続けてこられました。下は平成30年(2018)の第61回高村祭です。
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ところが高村祭はコロナ禍前の令和元年(2019)に行われた第62回以後、途絶しています。再開のめどは立っていません。いろいろ大人の事情もあるようで……。

しかし、太田小さんでは各学年とも教育活動の一環として、光太郎顕彰への取り組みは継続して行って下さっていました。1、2年生は生活科で、3~6年生は総合的な学習の時間での活動が中心だそうですが、それ以外にも様々な学校行事等で。山荘周辺の清掃等も行って下さっているそうで、頭が下がりました。
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上はかつて光太郎が山口小学校の学芸会に、サンタクロースのコスプレで乱入したエピソードの再現。サンタ役の児童さんは、下記の写真に写っている当時の児童のお孫さんだそうで、それを聞いて、うるっと来てしまいました(笑)。
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他にも「朗読朝会」という催しがあるそうで、児童の皆さんが光太郎詩を群読。その映像も流されました。群読はかつての高村祭で楽器演奏と共に行われていまして、その灯は途切れていないんだと、こちらでもうるっと来てしまいました。

続いて、花巻南高校さん。賢治の最愛の妹・トシの母校にして、トシ自身も教壇に立った花巻高等女学校の後身です。そちらの文芸部の生徒さんと、家庭クラブの生徒さんによるご発表。

文芸部さんは、これまでの活動のご報告や光太郎詩の朗読。
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家庭クラブさんは、何と、「智恵子のエプロン」を再現して下さいました。

そもそもは昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と吉田幾世」が始まりでした。吉田は盛岡友の会生活学校(現盛岡スコーレ高等学校さん)を創設した人物で、「友の会」は雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部。同校は同誌主宰の羽仁吉一・もと子夫妻が創設した自由学園の精神を受け継ぐ学校でした。

当方、同展の関連行事としての市民講座を仰せつかり、そこで、『婦人之友』と光太郎について改めて調査。その結果、同誌の第18巻第7号(大正13年=1924 7月)の記事を見つけました。たまたま駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れた同誌記者が、智恵子がまとっていたエプロンを「面白い」と、写真入りで紹介した記事です。

型紙まで載っていましたので、講座の際に紹介しつつ、「誰か作ってくれませんかね?」とつぶやいたところ(自分では絶対に作れませんので(笑))、講座を聴きにいらしていた文芸部さんから家庭クラブさんに話が伝わり、実際に作って下さったというわけです。素晴らしい。
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会場の皆さんも、「おお」という感じでした。

のちほど改めて撮らせていただきました。
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素材は酒袋(さかぶくろ)。日本酒を造る際に使われるもので、茶色いのは柿渋が塗られているためです。最近は帆布のように、これを使ったトートバッグなどもひそかに人気のようです。智恵子は実家が造り酒屋でしたから、酒袋をいち早く身の回りの素材に取り入れたというわけでしょう。また、『婦人之友』の記述通りに上部の縁取りには古代更紗。かなり忠実に再現して下さり、舌を巻きました。
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発表の中では、右上画像で智恵子が締めている帯も更紗っぽい、というお話でした。「へー」という感じでした。
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ぜひともこのエプロン、世に広めていただきたいものだと思います。

休憩を挟み、最後のご発表は岩手県環境アドバイザー・望月達也氏。題して「奇跡の里山・山口山」。
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「山口」は光太郎が暮らした山小屋のあるあたりの字(あざ)名で、光太郎詩などにも「山口山」の語は頻出します。当方、漠然と「山口地区の山」程度の意味だと思い込んでいたのですが、さにあらず。ちゃんと「山口山」という山があるそうで、これは存じませんでした。
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上記航空写真の左上部分一帯でしょうか。何の変哲もない里山だと思い込んでいましたが、望月氏曰く「日本中探してもこんな原生的な森は少ないと思う」。
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特に植物の種類がとんでもないそうで。
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単に種類だけでなく、巨木も数多く。
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さらには動物。
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クマタカの生息地だというのも存じませんでした。今度行く時には空にも注意してみます。それから、ここでは紹介されていませんが、リスやキツネ、タヌキもいます。ちなみに当方、上記航空写真の中央あたりの場所で、レンタカーを運転中、道端からシカが飛び出してきたことがあり、驚きました。高村祭からの帰りで、その年は光太郎詩碑前で花巻農高鹿踊り部さんの演舞があり、それに誘われてきたのかな? などと思ったことを覚えております。

休憩時間には望月氏撮影のビデオも上演されました。
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こうした自然が破壊され、旧太田村山口地区を訪れる人々が、「光太郎が書いた詩のとおりじゃないぞ」ということにならないようにと願わざるを得ませんでした。

3組の発表の後は、ランチタイム。
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ガレットとデリのお店TOM CREPERIE&DERIさんのお弁当。こちらは令和3年(2021)に、紫波町の店舗で「GOOD LIFE TABLE 高村光太郎をたべよう」というイベントを開催して下さったお店です。
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そば粉のパンケーキは光太郎もよく作って食べていた一品です。

今回、共催に入られていたやつかの森LLCさんによるメニュー等解説。
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美味しく頂きました。

最後の最後は、参加者の方による感想発表、当方のコメント。とにかくいつも言っていることですが、光太郎の生きざまや業績を正しく受けとめ、こういう人がいたんだ、と、次の世代へと橋渡しをしていって欲しいというお願いを致しました。そうした意味では、今回、学校さん2校の取り組みで、若い皆さんにもバトンが繋げられていることを知り、有り難かったのですが。

さらに、ついでというと何ですが、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存についてもお話をさせていただき、署名もお願いいたしました。多くの方がご協力くださり、有り難く存じました。

終了後、会場にいらしていた、生前の光太郎をご存じの方ともお話ができました。宮沢賢治記念館の初代館長も務められた故・照井謹二郎氏が昭和22年(1947)に立ち上げ、第一回公演は光太郎の山小屋前の野外で行い、以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続た児童劇団「賢治子供の会」の団員だった女性です。たぶん左下の画像にも写っていると思われます。「優しいおじいさんだった」などと貴重なお話を伺えました。
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会場片付け終了後、すぐ近くの林風舎さんへ。ちょうど宮沢和樹氏もいらっしゃいましたので、久闊を叙し、帰途に就きました。

というわけで、実に有意義なイベントでした。お骨折り下さった皆様方の、さらなるご活躍を祈念いたします。

明日以降、時系列を遡ってレポートを続けます。

追記:最近流行りのAIで白黒写真をカラー化できるアプリで遊んでいたところ、問題のエプロンと同型のものを智恵子が着用している写真を見つけました。というか、あちこちで使われている有名な写真ですが、そこにエプロンが映っていたのを見つけたというべきですか。カラー化して初めて気づきました。この写真、白黒で二本松市の智恵子生家や道の駅で顔はめパネルとして使われています。
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【折々のことば・光太郎】

点字抜粋詩集を作り終られた由、随分大変なお仕事であつた事と思ひます。小生もいろいろの仕事があるため、おたよりするのも遅れました。お約束の「花のひらくやうに」といふ詩をうつして同封しました。


昭和22年(1947)12月29日 照井登久子宛書簡より 光太郎65歳

照井登久子は、「賢治子供の会」主宰の謹二郎の妻。夫妻で「賢治子供の会」を運営していました。また、点字の普及活動等にも取り組んでおり、光太郎詩を点訳してほうぼうに寄贈したり、光太郎自身に贈ったりもしていました。それらの表紙を光太郎が揮毫することもありました。

この頃まで光太郎は点字についての知識がほとんど無かったようで、人一倍指先の感覚が鋭敏だった光太郎(ガラスの鏡板を撫でて凹凸を感知したといいます)、非常に興味をひかれたようです。

昨日から一泊二日で光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。
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今日は花巻駅前のなはんプラザさんで開催される「五感で楽しむ光太郎ライフ」にコメンテーター的な役割で出演させていただきます。

市内の学校さんの光太郎顕彰的な取り組み、自然保護団体さんの活動などが報告されます。その後、光太郎が食べたメニューに基づくランチ。

詳細は帰りましてからレポート致します。

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