カテゴリ: 智恵子

現代アートの展覧会を2件。

まず、上野から。既に先週から始まっています。

VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─

期 日 : 2022年3月11日(金)~3月30日(水)
会 場 : 上野の森美術館 東京都台東区上野公園1-2
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般800円/大学生500円/高校生以下無料

VOCA展では全国の美術館学芸員、研究者などに40才以下の若手作家の推薦を依頼し、その作家が平面作品の新作を出品するという方式により、全国各地から未知の優れた才能を紹介していきます。

2021.12.20 VOCA展2022選考会が行われ、出品作家33人(組)による作品の中から各受賞者が決定しました。

VOCA賞 川内理香子さん  VOCA奨励賞 鎌田友介さん 近藤亜樹さん
VOCA佳作賞 谷澤紗和子さん、堀江栞さん  大原美術館賞 小森紀綱さん
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受賞作のうち、谷澤紗和子さんという方の作品が、智恵子紙作品(紙絵、雑誌『青鞜』表紙絵)からのインスパイアとなっています。題して「はいけい ちえこ さま」。

谷澤さんのツイートから。

VOCA展2022にて、VOCA佳作賞をいただきました。
出品作の「はいけい ちえこ さま」は、高村智恵子さんへのオマージュ作品として制作しました。
この数年の、私の推し活の成果を作品に込めました。作品プランを実現することが出来て、感無量です。ぜひたくさんの方に観て頂きたいです。
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谷澤さんの作品と、元ネタとなった智恵子作品を並べると、こんな感じですね。

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最後の蟹が「NO」の文字になっているあたり、一筋縄のオマージュではないな、という感じます。

ちなみに昨年の「VOCA展」では、光太郎の父・光雲の木彫「老猿」もモチーフにした作品が出ていました。光雲、光太郎、智恵子、意外と現代作家の皆さんの創作意欲も刺激しているようで。

谷澤さん、同じく智恵子作品オマージュを含む個展も開催されます。

Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 -

期 日 : 2022年3月19日(土)~4月9日(土)
会 場 : studio J 大阪市西区北堀江3-12-3
時 間 : 12:00~18:00
休 館 : 月曜、火曜、日曜、祝日休館
料 金 : 無料

studio Jに於ける3月からの展覧会としまして、谷澤紗和子個展「Emotionally Sweet Mood-情緒本位な甘い気分-」を開催致します。タイトルは、詩人の高村光太郎によるエッセイ「智恵子の半生」の中で、高村智恵子の油彩画について語った部分からの抜粋です。
 
谷澤は「妄想力の拡張」をテーマに、生と死、愛、痛み、などの広大な妄想/想像力が解放されることを目指し、そのための装置として作品を創っており、VOCA展2022では佳作賞に選出されました。

今回の個展では、画家/紙絵作家の高村智恵子へのオマージュに加え、女性像をテーマにした新作の切り紙作品を発表します。時節柄、何かと不安定ではありますが皆様のお越しをお待ちしております。
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360429フライヤーに使われている作品は、現存が確認出来ている智恵子油絵3点のうちの一つ、二本松市智恵子記念館さん蔵の「ヒヤシンス」をモチーフにしたものですね。

当方、上野の「VOCA展」の方は、今週、拝見に伺おうと思っています。まだまだ新規感染者数は激減とまでは行きませんが、コロナ禍もピークは過ぎたようで、そろそろ感染の総本山たる都内にも出ても大丈夫かな、と思っております(昨秋以来、都内はほぼ通過するだけにしておりました)。その他、国会図書館さんなどにも行く用事がありますので。

感染対策には十分お気をつけつつ、皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

休屋より車にて青森道を走り、酸か湯につく、 入浴、植物園見物、 菊池氏東京にかへる、松下氏もかへる、酸か湯の大湯めづらし。


昭和27年(1952)6月19日の日記より 光太郎70歳

智恵子の顔を持つ、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための下見中です。十和田湖をあとに、青森市へ向かう途中、酸ヶ湯温泉に一泊しました。

「菊池氏」は彫刻家の菊池一雄。健康に不安を抱えていた光太郎が、像の制作不能となった場合のピンチヒッターとして指名していました。「松下氏」は中央公論社の編集者・松下英麿です。

智恵子の故郷・福島二本松の智恵子顕彰団体智恵子のまち夢くらぶさんから、冊子が届きました。題して『「智恵子抄」出版80周年記念文集』。
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A4判66ページ、カラー写真もふんだんに使われています。

例年、B4判カラーコピーの手作りの活動報告的なものが届いていたのですが、今年はきちんと印刷屋さんに頼んで作ったものでした。

二本松市長・三保恵一氏、同教育長・丹野学氏、智恵子の里レモン会長・渡辺秀雄氏の「祝辞」、会員諸氏や関係の方々の寄稿、同会が主催して行った「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」報告など。

驚いたのは、平成4年(1992)に、智恵子生家/智恵子記念館が、旧安達町により修復公開される以前、智恵子生家を所有していた二階堂家に残されていた「芳名帳」に関する報告。二階堂家では、修復公開以前から私的に見学に訪れた人々を受け入れており、芳名帳に名前を書いて貰っていたとのことでした。昭和42年(1967)から平成2年(1990)までの間に、800名超の名が記されているということで、そのごく一部が抜粋されています。

生前の光太郎と交流のあった人々では、当会顧問であらせられた、故・北川太一先生、光太郎が蟄居生活を送っていた当時の花巻郊外旧太田村の高橋雅郎村長(
お嬢さんの故・愛子さんは光太郎の語り部として永らく活動された方です)、智恵子の里レモン会創設者・伊藤昭氏、舞踊「智恵子抄」の公演を行った黛(藤間)節子……。それから、光太郎とは直接会っていないようですが、昭和51年(1976)に北條秀司脚本「智恵子抄」公演で智恵子役を演じられた有馬稲子さんなどの名も。当方が見れば、「ああ、この人も」というのがもっとありそうな気がします。

北川先生は、昭和61年(1986)5月20日、智恵子生誕百周年の日に訪れられていました。
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冊子以外に、A3判二つ折りのパンフレット的なものが2種。ともに二本松の智恵子ゆかりの地の紹介で、一つは平成28年(2016)に作成された「智恵子のまちガイドマップ」でしたが、もう一つの「二本松市にある智恵子ゆかりのモニュメント~ガイドナビ +(プラス)」という方は、新しく作られたもののようです。1月に亡くなった橋本堅太郎氏の遺作である智恵子像「今ここから」が紹介されています。
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ご入用の方、「智恵子のまち夢くらぶ」さんまでご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

デパート、明治屋、小田島薬局により理髪、やぶにてビール食事、タキシにてかへる、タキシ750円、

昭和26年(1951)7月25日の日記より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋から、花巻町中心街に出た時の記述です。

デパート」は当時あった寿デパート、「明治屋」はおそらく現在も花巻で総菜販売店として、営業を続けています。「小田島薬局」も健在。「やぶ」は宮沢賢治の御用達でもあった「やぶ屋」さんです。

KIMG553011月29日(月)、上野の東京都美術館さんで、第43回東京書作展を拝観後、銀座の東劇ビルさんに。

こちらで行われていた、「朗読劇 智恵子抄」(銀座公演・12月4日(土)、二本松公演・12月12日(日))の稽古を拝見して参りました。

光太郎役に横内正さん、智恵子役は一色采子さん。日本女子大学校での智恵子の先輩だった(脚本では同級生)柳八重に山吹恭子さん。その夫で光太郎の留学中間だった柳敬助と、当会の祖・草野心平の二役を喜多村次郎さんがそれぞれ演じられます。

公演は様々なものを観てきましたが、稽古というものは、当方、初めて拝見しました。もう本番が近いので、だいぶ出来上がっている感じでしたが、演出家の方が、「ここはもっとこう」「この時の姿勢はこんな感じで」と、いろいろ指示を出すのを聞きつつ、「なるほど」と思いました。
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それにしても、役者の皆さんのお声の良さ(特に横内さん)、立ち居振る舞いの美しさ(「朗読劇」ということで、最小限の動きだけなのですが)には、ほれぼれしました。

原作は、光太郎と交流のあった北條秀司作の脚本です。北條は光太郎の生前から執筆に着手し、昭和28年(1953)に上演にこぎ着ける希望でした。その際の智恵子役は、初代水谷八重子さん。

そこで、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」原型が完成した直後の同年8月、心平に連れられた水谷さんが、中野の貸しアトリエを訪問しています。

水谷さんの回顧談。

一等最初は、草野(心平)さんに連れて行っていただいて、『智恵子抄』をやりたいとお話ししたのですが、「前にもそんな話があったとき、それは詩を踊るだけだからかまわないといったけれども、どうも芝居で現実に出てくるのは……」とおっしゃりながらもいろいろと智恵子さんのお話をして下さったんです。先生が女人像を作っていらっしゃるときでした。お話を伺っているうちに、先生の思っていらっしゃる智恵子さんを現実に私たちがこわすことは大変すまないような気がして、「それじゃあきらめます」といって、引き下がったんですが、帰りの車の中で、草野さんに一ペンやろうと思ったことをほんとうにやりたいなら、何故もっとたのまないのかって叱られちゃって。それからまた一年ほど経って伺ったんです。そのときには、「あなたは顔やなんかが智恵子に似てるから智恵子をやっていただくのはかまわないが、ただ自分の出てくるのがいやだから、出来た脚本(ほん)を見てからにしよう」とおっしゃったんです。そのうち北条先生が脚色することになり、でもその時には高村先生は、もう脚本(ほん)を見ないでもいいとおっしゃっていました。
(「座談会 三人の智恵子」 昭和32年(1937)6月1日『婦人公論』第四十二巻第六号)

結局、光太郎生前にはこの公演は実現せず、初演は光太郎が歿した半年後、昭和31年(1957)11月のことでした。

KIMG5537北條の脚本は、それに先立って、『婦人公論』の6月号に発表されています。帰ってから、改めてそれと、後に『北條秀司戯曲選集』に収められたものとを読み返してみました。以前に読んだものでしたが、細かなところは忘れており、「あのシーン、ここに書いてある通りだったんだ」という感じでした。というのは、結構、史実とは異なる部分があったからです。まあ、それでも光太郎智恵子の鮮烈な生の軌跡は存分に表現されていますし、あくまで二次創作、ということで、それもありかな、と思います。

ただ、詩の朗読の中で、「あれっ?」と思うところがあり、台本を確認させていただくと、完全に誤植でしたので、そこは稽古中に訂正してもらいました。それ以前に、一色さんから「この漢字はどう読む?」という質問を受け、お答えしたりもしましたので、少しはお役に立ったかな、という感じです。

稽古終了後、近くのルノアールで一色さんとお茶。感想等求められましたので、述べておきました。また、差し入れに、花巻で販売されている「智恵子のレモンキャンディ」を持って行ったところ、大好評で、あと5缶欲しい、と言われ、早速手配しました。

ちなみにYouTube上に、二本松公演のプロモーション動画がアップされています。


銀座、二本松、お近くの方に、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

承諾無きうちに講演などと発表すること岩手の習慣らし、かかる時余は出席せず。

昭和26年(1951)7月7日の日記より 光太郎69歳

光太郎本人の承諾を得ぬまま、講演会の講師として名前を出されることが、複数回ありました。この時も、新聞にそう載っている、と、村人に教えられて知ったようです。今ではとても考えられない話ですね。

雑誌の新刊です。

& Premium no.97 January 2022 PEACEFUL MOMENTS 静かに過ごす時間が、必要です

2021年11月19日 マガジンハウス社 定価800円+税

マガジンハウス刊行のクオリティライフ誌『アンドプレミアム』。“ベターライフ”をテーマに、日々の暮らしを豊かにするファッション&カルチャー情報をに、日々の暮らしを豊かにするファッション&カルチャー情報を発信しています。
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目次

PEACEFUL MOMENTS 静かに過ごす時間が、必要です。

My Peaceful Time 
私の、静かな時間の過ごし方。
加山幹子 宮田・ヴィクトリア・紗枝 関田四季 大塚寧々 花楓 溝口実穂 高橋周也
村田明子 山根佐枝 白石 聖 山口恵史 イェンス・イェンセン

Peaceful Home 
静かな暮らし。
高木由利子 山下りか 濱田敦司 藤井繭子

Celebrities in Peace あの人が愛した、静かな時間。
篠田桃紅 いわさきちひろ パブロ・ピカソ 熊谷守一 鴨居羊子 アニエス・ヴァルダ
高村智恵子

Soothing Stories 心を鎮める読書案内。 高山なおみ

Sounds of the Nature 自然の音を聴く。泊昭雄 大森克己 在本彌生 野川かさね 藤田一浩

Soothing Tunes 週末を静かに過ごすための音楽。

regulars
&days よい一日を、このアイテムと
&style 「The Sound of Silence」
&selection THINGS for BETTER LIFE 〈セリーヌ〉ほか
&TRIED IT オモムロニ。さんが使ってわかったこれ、ここがいいよね。〈アクア/ニトムズ〉
nanuk & premium 「多様性のこと」
&Paris パリに住む人の住まいと暮らし 「古いものと民芸に囲まれた暮らし」ほか
&Taipei 片倉真理の台北漫遊指南 「象山」ほか
&Kyoto 大和まこの京都さんぽ部 「静かに過ごす時間」ほか
&COOKING 渡辺有子の料理教室ノート 「ピーラー」
&NEKO だって、ねこだもん。「お手する、おちょこ」
&CAR LIFE 私とクルマ。「高橋ヨーコ×フォード・ブロンコ」
&Beauty キレイの理屈 〈キユーピー/エルメス〉
&food Pレミアム通信 「東京の西、静かな蕎麦屋へ」ほか
&BOOKS 18 MILES OF BOOKS 果てしのない本の話 「日記をつける」
&Lifelong Items これから20年、使いたい日用品。「端正なソーイングボックス」
&NAOKO 大草直子の好きな時間、好きなもの。「〈キャラメライフ〉の『SALT』」

特集が、「PEACEFUL MOMENTS 静かに過ごす時間が、必要です。」ということで、各界で活躍中の方々や、歴史上の人物の「静かに過ごす時間」の紹介、「静かに過ごす時間」のための読書案内、音楽紹介などで構成されています。

Celebrities in Peace あの人が愛した、静かな時間。」の項で、智恵子。また、同じ項で、今年3月に亡くなった篠田桃紅さん、富山県水墨美術館さんで、明日までが会期の「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」で取り上げられている熊谷守一も

智恵子に関しては、「紙絵がもたらした、平静の日々。」というサブタイトルになっています。主に、心を病んで、昭和10年(1935)からの南品川ゼームス坂病院での入院生活中、「紙絵」の制作に取り組んだこと、それが狂躁状態を抑え、「静かな時間」をもたらしたことについて触れられています。

智恵子といえば、11月21日(日)、ゼームス坂病院に入院する前に療養していた九十九里に行って参りました。智恵子が療養していたのは現在の九十九里町ですが、隣接する大網白里町に、当時の智恵子を知る方(昭和3年=1928のお生まれ)がご存命で、お話を聞くためです。その方の智恵子に関する回顧談は、以前に刊行された複数の書籍に掲載されているのですが、失礼ながらまだご存命とは存じませんでした。

その方は、智恵子が療養していた田村別荘(智恵子の妹・セツの一家の住まいで、母・センも同居)のすぐ近くにお住まいだったそうで、ご自宅にいる時も、智恵子の「キー、キー」という叫び声が聞こえたとのことでした。

また、見舞いに来ていた光太郎の姿も見かけたそうです。着流しの着物に黒い足袋が印象的だったとのことでした。光太郎が乗合馬車に乗ってやって来たところも御覧になったというお話でした。光太郎の随筆「九十九里浜の初夏」(昭和16年=1941)によれば、「私は汽車で両国から大網駅までゆく。ここからバスで今泉といふ海岸の部落迄まつ平らな水田の中を二里あまり走る。(略)今泉の四辻の茶店に一休みして、又別な片貝行のバスに乗る。そこからは一里も行かないうちに真亀川を渡つて真亀の部落につくのである。」とありますが、乗合馬車もまだ現役だったようです。

九十九里にいた頃は、「静かな時間」といえなかった智恵子。ゼームス坂病院で紙絵を作るようになって、「静かな時間」を再び取り戻したんだなぁ、と、思いました。

『& Premium』、本日ご紹介した最新号以外にも、今年5月に刊行された増刊号的な『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』で、『智恵子抄』や『智恵子の紙絵』(社会思想社・昭和41年=1966)が取り上げられていて、まだオンラインで入手可能です。併せてお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

新小屋はあまりしけすぎるので又フトンを運びかへす。旧小屋にねることにする。

昭和26年(1951)6月10日の日記より 光太郎69歳

6月3日に完成した山小屋の増築部分(新小屋)。隙間風などが入らないよう、きちんとした造作になっっていた分、湿気もこもってしまったようで……。結局、一晩寝ただけで、また元のあばら屋に布団を戻したそうです。おそらく、冬期にはまた新小屋で就寝したようですが。

まず、頂き物。詩人の間島康子氏から近著が届きました。

ハユラコ hajurako 間島康子随想集

2021年11月15日 間島康子著 樹海社 定価2,500円+税

しずかにゆったりと 紡ぎ出される言葉が 森をとおる風に運ばれるように 優しくひっそりと ひかえめに しかし 確乎とした意志をもって 読む人のこころに届けられる。
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目次
 つながる
  つながる 一瞬にして 春を歩く 冬の旅 ちいさな子のいる風景
 霧の中に
  霧の中に つゆ 蛙の子 六月の花 山羊のいる風景 少年の功徳
 部屋
  部屋 母の領域 秋から冬へ・メタセコイアの道を通って 冬から春へ・糸を引く
  その日まで 終わる家
 ハユラコ
  ハユラコ hajurako 行くところ 海辺の町 近景 微笑 細い家
 桜追想
  桜追想 ふるさとあれこれ みすゞの町 智恵子の空 国境の島にて
 あとがき
 初出一覧

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著者の間島氏、様々な詩誌、文芸誌の同人であらせられ、光太郎智恵子について書かれた玉稿の載った『群系』という文芸誌を以前にも下さいましたし、平成30年(2018)には、第63回高村光太郎研究会でご発表もされました。

詩誌『駅』に連載されたエッセイの単行本化ということです。表題作の「ハユラコ hajurako」は、フィンランド語で「物理的に適切な人と人との距離」の意だそうで、昨今の「ソーシャルディスタンス」の話かと思ったところ、その項はコロナ禍前の平成30年(2018)のご執筆で、コロナとは無関係でした。「あとがき」では、そのあたりにふれられていますが。

終末近くに「智恵子の空」という一篇。平成25年(2013)のご執筆で、この年、千葉市美術館で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎」展を御覧になったあと訪れた、智恵子の故郷・福島二本松のレポート的な内容です。

版元の樹海社さんという書肆、浜松在の自費出版系のようですが、ウェブサイトが見つかりません。奥付画像を載せておきますので、ご入用の方、そちらをご参考になさってください。

「智恵子」、「福島」ということで、もう1件。

二本松の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶさんが主催した「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」について、地元紙に続いて『読売新聞』さんも報じて下さいました。

智恵子抄総選挙 「レモン哀歌」1位に

 詩人で彫刻家の高村光太郎が妻・智恵子への思いをつづった詩集「智恵子抄」のうち、最も心に残った作品を決める「総選挙」の結果が発表され、「レモン哀歌」が1位に輝いた。
 二本松市の団体「智恵子のまち夢くらぶ」の主催で、「智恵子抄」出版から今年で80年となるのを記念して実施した。4月から10月まで、郵便はがきや市内に設けた投票箱と用紙での投票を呼びかけたところ、全国から584票が集まった。
 1位の「レモン哀歌」は140票を獲得。智恵子の最期を詠んだ作品で、光太郎は詩集に「私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに 此こ の世を去つた」と記している。
 応募者からは同作品について「2人がとても愛し合っていたことが伝わってきて感動した」「幼少期から祖母に聞かされ、今でも時々思い出すほど好き」などのコメントが寄せられた。
 2位は「あどけない話」、3位は「樹下の二人」だった。
 同団体代表の熊谷健一さん(71)は「若い人も含め、予想以上にたくさんの応募があって驚いた。光太郎と智恵子の純愛を知る人が少しずつ増えているように感じられてうれしい」と話している。
 総選挙の結果は、同団体が今月開催予定の第2回全国「智恵子抄」朗読大会で発表するはずだった。だが、新型コロナウイルスの影響で大会は中止に。その代わり、「智恵子抄」出版80周年記念文集を来月に発行し、その中に結果も収録することにしている。文集は二本松市内の小中高校、図書館に無償で寄贈する。
  順位 作品名     票数 
  1  レモン哀歌   140
  2  あどけない話  127
  3  樹下の二人   112
  4  人に      66 
  5  風にのる智恵子 18 

「智恵子抄」。末永く愛されてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

よさの晶子のうた一首つくる、廿九日の会に電報で送らんかと思ふ。


昭和26年(1951)5月25日の日記より 光太郎69歳

廿九日の会」は、与謝野晶子没後十周年記念講演会。電報で送られた短歌は、

ニホンゴ ハヨサノアキコノネツプ ウニイキテウゴ キテトビ テチリニキ

のち、この年7月の雑誌『スバル』に漢字仮名交じりで掲載されました。

日本語は与謝野晶子の熱風に生きて動きて飛びて散りにき

智恵子の故郷、福島二本松ご在住の詩人・木戸多美子氏から、文芸誌『ウルトラ』第17号をいただきました。
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発行人は、和合亮一氏だそうです。
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木戸氏の作品として、安達太良山を謳った詩「呪縛 そして解放」、さらに二本松で開催されている「智恵子講座」講師も務められた、澤正宏氏の詩などが載っています。ちなみに木戸氏も「智恵子講座」講師をなさっています。

後半、ふたたび木戸氏。「百千倍のアトムその充填――智恵子抄を離れて――」という文章も寄稿なさっていました。書き出しの部分を読んで、「どひゃー」。

木戸氏が、福島市の北、宮城県との県境に位置する伊達郡国見町にある「奥山邸」という、国の登録有形文化財に指定されているお屋敷に行かれた際のことでした。現在も奥山家の方が居住されていて、通常は非公開なのですが、木戸氏、屋内を見学なさり、その中で、智恵子が写っている写真を御覧になったとのこと。奥山家の先々代の奥様と智恵子が「同級生」だったというお話を聞かされたそうです。

写真の裏書きが「明治三十五年」。この年(1902年)、智恵子は福島高等女学校在学中でした。早速、手元にある同校の同窓会誌(大正8年=1919)を調べてみましたところ、智恵子の「同級生」には該当する人物が見あたりませんでしたが、一学年下に「奥山ミキ」の名が。旧姓・池田となっており、「奥山」は結婚後の苗字です。住所も「伊達郡藤田町」と記されており、藤田町は現在の国見町であることもわかりました。
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智恵子の高等女学校時代の写真は、二本松市教育委員会さん発行の『アルバム高村智恵子――その愛と美の軌跡――』に収められている7葉ほど(それも、おそらくその時期だろうというものを含め)。ただ、『ウルトラ』にはその写真は掲載されて居らず、こういう写真があったよ、という記述のみ。しかし、集合写真だそうですが、その説明を読むと、これまでの7葉には該当しない写真と思われ、だから「どひゃー」だったわけです。何とかして現物を見たいものだと思いましたし、もしそれ以外に智恵子からの書簡なども残っているとしたら、大ニュースになります(智恵子書簡は60通余りしか確認できていません)。

ちなみに同じ明治35年(1902)の智恵子は、こんな感じでした。
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最近、こういう新情報が続々寄せられてくるようになり、有り難い限りです。今朝も、別の方からメールで凄い情報をいただきました。生前の智恵子を御存じの方が、まだ千葉の九十九里でご存命で、少しお話を伺ってきた、というのです。こりゃ、当方もお話を伺いに行かねば、と画策しております。

木戸氏の文章に戻ります。奥山邸の話の後、智恵子が残した文筆作品、「無題録」(大正3年=1914)、「病間雑記」(大正12年=1923)、「画室の冬」(昭和2年=1927)等についての論考などが続き、全体で5頁。興味深く拝読いたしました。

ご入用の方、最上部画像に発行元「ウルトラの会」さんのアドレスが載っています。そちらまでご連絡を。

【折々のことば・光太郎】

朝校長さん来る、先日の香奠の返しらしく、ブドウ酒、カルピス等三本もらふ。

昭和26年(1951)5月3日の日記より 光太郎69歳

校長さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長・浅沼政規。光太郎の貴重な回想を数多く残しました。当時、児童だった子息の隆氏はご健在で、今も光太郎の語り部を務められています。

カルピスは大正8年(1919)には発売されていますので、光太郎が飲んでいてもおかしくはありませんが、どうも光太郎とカルピス、今一つイメージ的につながりません(笑)。

昨日、10月5日は智恵子の忌日「レモンの日」でした。Twitterなどでは、かなりの数「今日は高村光太郎智恵子由来のレモンの日」的な書き込みが為され、ありがたく存じました。嬉しさのあまり、目に付いたその手の投稿100件くらいに「いいね」しました(笑)。

昨日のブログを書きながら、テレビでNHKさんの「あさイチ」を拝見していました。光太郎智恵子に触れられるかどうか微妙だったので、事前にご紹介しませんでしたが、昨日の放送内容は「クイズとくもり レモン 甘酸っぱいその魅力」。「とくもり」は「特盛り」のようです。
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「今日は高村光太郎智恵子由来のレモンの日」的な枕がありませんでしたが、レモンをさまざまな料理で活用する方法、レモンの健康効果などについての話が盛りだくさん。
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そのまま終わるかと思いきや、番組再終盤、視聴者の皆様からのメール、FAXなどを紹介するコーナー。亡くなったお父さまとレモンの思い出ということで、岐阜県の女性から。
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これに対し、レモン色のお召し物のゲスト・増田明美さん。生放送の番組ですので、字幕はタイムラグがあり、合成しました。
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ありがとうございました!

そう振られた進行役の小林孝司アナ。こちらも的確な返し。
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ここで「チエコショー? 何ですか、それ?」と成らずに済んで良かったと思いました(笑)。当方、そう成らないために、いろいろと活動を続けておりますので。

話は変わり、昨日の『市民タイムス』さん。長野県松本平地区で発行されている地方紙です。そちらの一面コラム。こちらも光太郎智恵子、レモンに触れて下さいました。ありがたし。

2021.10.5みすず野

鉢植えのレモンを頂いた。育て方が分からない。困っているところへ過日、投稿欄に「秋は早めに屋内に」とあった。摘果の目安や施肥の時期など、気候によっても違うだろうから地元の情報はありがたい◇今年は高村光太郎の詩集『智恵子抄』が刊行されて80年。愛を高らかにうたい上げた絶唱は今も読む人の心に響き続ける。智恵子臨終の地となった東京・品川の病院跡には〈レモン哀歌〉の詩碑があるという。福島・二本松の安達太良山と阿武隈川を望む〈樹下の二人〉の地とともに、いつの日か訪ねたい◇結婚前の大正2(1913)年9月、上高地に滞在していた光太郎の元へ智恵子が〈画の道具を持つて〉やって来る。知らせを受け、徳本峠を越えて岩魚止まで迎えに行った。恋しい人に会えるうれしさはその経路を実際にたどると、ちょっと追体験できる。かなりの高低差と距離だ。きっと飛ぶ思いだった◇秋篠宮家の長女眞子さまの結婚相手を巡って世間がかまびすしい。レモン忌に思う。皇室のことだから国民の間にさまざまな意見や感情が湧くのは分かるけれど、もう少し温かい目で見守ってあげられなかっただろうか。

他にも同様の件があるかもしれませんが、また見つけたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐるうち藤原嘉藤治氏来訪、水沢よりのかへりみちの由、揮毫の事らし、 次いで久慈の学校長堀籠文之進氏来訪、校歌の事、これはお断り。 辞去後おき食事後水沢公民館の樋口正文氏来訪、十五日成人の日に講演にゆく事になる。

昭和26年(1951)1月10日の日記より 光太郎69歳

たまたまなのでしょうが、真冬の雪深い時期にしては珍しく、朝っぱらから千客万来(笑)。

藤原嘉藤治、堀籠文之進は、ともに亡き宮沢賢治の親友。示し合わせたわけではないのでしょうが、こういうこともあるのですね。校歌の作詞依頼には例によって塩対応でしたが(笑)。

樋口正文は、戦前に、尾崎一雄らと文芸同人誌『主潮』に参加、当時駒込林町に住んでいた光太郎にそれを送ったことはあったものの、直接会うのは初めてでした。ところが光太郎、樋口の名刺を見るなり「ああ、あなたですか」。これには樋口もひどく驚いたそうです。

10月5日(火)は、智恵子忌日。その臨終を謳った光太郎詩「レモン哀歌」にちなみ、「レモンの日」とされています。智恵子の故郷・福島二本松では、智恵子を偲ぶ「レモン忌」の集いが開催されていましたが、昨年に続き、今年も中止。来年以降はまた旧に復して欲しいものです。ちなみに10月5日その日を「レモン忌」と称する場合もあります。

そんなこんなで、9月26日(日)の『朝日新聞』さん、「朝日歌壇」欄。
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新潟の方の作品「肺を病み心を病みて忌日あり春の檸檬忌秋のレモン忌」。選者・永田和宏氏曰く「二つの忌、わかりますか。」

言わずもがなですが、「春の檸檬忌」は、梶井基次郎忌日です。梶井の代表作「檸檬」にちなみ、3月24日が「檸檬忌」と名付けられています。梶井は明治34年(1901)生まれ、歿したのは昭和7年(1932)、光太郎智恵子と同時代を生きていますが、『高村光太郎全集』にその名はなく、直接の交流はなかったものと思われます。

続いて、東京都江戸川区。区立図書館さんのYA(図書館用語で10代の青少年を指します)サービス担当者会さんが発行されている、ティーンズに向けた広報紙『Teens'Newsletter Patter Patter Paper』の第64号、9月15日(水)の発行でした。「たんじょうせきものがたり」という連載で、「レモン哀歌」を引いて下さっています。
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「トパアズいろの香気が立つ」。初めてこの詩を読んだ小学校5年生の時、この表現に接し、頭をガンと殴られたような感覚がしました。「すごい」と。

最後に智恵子の故郷・二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』10月号。

まず、恒例の智恵子生家二階部分の特別公開、智恵子紙絵の実物展示について。

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今日がスタートですね。以前はこの時期に現代アートの「福島ビエンナーレ」とのコラボで実施されていましたが、このところ、単独での実施のようです。

同じく『広報にほんまつ』、三保恵一市長のコーナー。
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「智恵子抄」、「ほんとの空」の語を配して下さいました。ありがとうございました。

こちらでも触れられているように、智恵子生家/記念館以外にも、「菊花展」(旧・二本松の菊人形)や、安達太良山の紅葉など、見どころが多い時期です。

コロナ感染には十分お気を付けつつ、ぜひ足をお運びください。

おまけ。

以前にご紹介した「レモン哀歌」トートバッグ、入手しました。
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もったいなくて使えませんが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

村長さん、浅沼校長さん同道にて夕方来訪、アトリエの記事につき釈明あり、改めて断る。
昭和26年(1951)1月3日の日記より 光太郎69歳

「アトリエの記事」は、地元紙に載ったもので、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の有志が、光太郎のためにアトリエを新築することが決まったと、既定の事実のように報じられ、寄付金集めまで始まってしまいました。

光太郎は「金の不自由な今日多くの人々に負担を背負わせることは忍びない、アトリエは小生自身でできるときに建てたい、それまではこのままにしておいて下さい」ということでこれを固辞しています。

開催期日が迫ってきたので、さて、紹介しよう、とすると、実は申込期限が過ぎていたということが往々にしてあります。これからは開催期日ではなく申込期日でメモしておこうと思いました。

で、今回もそのケースですが、とりあえず。まだキャパに余裕があるかもしれませんし……。

9月田端ひととき講座 平塚らいてう没後50年~青鞜から新婦人協会までの軌跡~

期 日 : 2021年9月19日(日)
会 場 : 田端文士村記念館ホール 東京都北区田端6-1-2
時 間 : 午後1時開演(0時30分開場)
料 金 : 無料(事前申し込み)

田端で新婦人協会を創設するなど、女性解放運動の先駆けとなった平塚らいてう。本年はらいてう没後50年の節目を迎えたことから、らいてうが田端で過ごした時代を中心に、戦前までの活動について、同館研究員が講義をおこなう。講座参加者たちは、女性の社会参加や社会的地位の向上を目指して尽力した、らいてうの軌跡を知ることができる。

明治時代、産業革命とともに女性の社会進出が進んだ一方、その地位は一向に低いままであった。平塚らいてうは女性解放運動が活発になり始めた明治末期に、女性による女性のための文芸雑誌『青鞜』を創刊し、女性が抑圧されて輝けない状況をなげき、「元始女性は太陽であった」と女性の本来あるべき姿を訴えた。

1918年(大正7年)、平塚らいてうは田端へ転入し、自宅を事務所として市川房枝らと新婦人協会を創設。彼女たちは田端を拠点に婦人運動に尽力し、女性の政治活動を禁じていた「治安警察法第5条」の一部改正を実現させ、女性の政治活動の自由を獲得するという偉業を成し遂げた。同協会は女性の政治的権利獲得に成功した戦前唯一の団体であり、その活動の拠点となった田端は、女性運動の聖地と言える。らいてうの田端時代は、朝も昼も夜もなく働き、家庭を顧みられない生活と自身で語るほど、人生で最も忙しい日々となった。

本年は、日本の女性運動の草分け的存在である平塚らいてうの没後50年の節目となる。本講座では、青鞜から新婦人協会時代までを中心とした軌跡を辿り、その活動を同館研究員が紹介する。参加者たちは、女性の社会参加や社会的地位の向上を目指して尽力したらいてうの若き日の活躍を知るとともに、その信条に思いを馳せることができる。

また、同館常設展示スペースでは「平塚らいてう没後50年特別展 ~らいてうの軌跡~」が開催中。らいてうが田端で過ごした時代を中心に、女性たちの力で創刊した文芸雑誌『青鞜』から、女性運動を展開した新婦人協会までの軌跡を辿り、らいてうの家庭生活を交えながら紹介している。9月19日(日曜日)まで。
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明治末、日本女子大学校における智恵子の1年先輩にしてテニス仲間でもあった平塚らいてう。卒業後、雑誌『青鞜』を立ち上げ、その創刊号の表紙絵を智恵子に依頼しました。

そのらいてうの軌跡を追う講座ということで、おそらく智恵子にも言及されるのではないかと存じます。

また、解説にあるように、ミニ展示では「平塚らいてう没後50年特別展~らいてうの軌跡~」、メイン展示が「心豊かな田端の芸術家たち」。

先述の通り、申込期限が過ぎてしまっていますが、ご希望の方、とりあえずフライヤー画像一番下の問い合わせ先までご連絡下さい。

【折々のことば・光太郎】

午后八森氏の義父君地主久太郎氏来訪。ヰスキー2本等もらふ。標札2枚を書き進ぜる。「道程」署名。


昭和23年(1948)11月4日の日記より 光太郎66歳

「八森氏」は八森虎太郎。北海道在住だった詩人・編集者です。その義父という「地主久太郎」なる人物については詳細不明ですが、翌日に書かれた八森宛の葉書には、八森から頼まれて、ウイスキー等を届けに来てくれたとのこと。八森が元々花巻出身なので、地主も花巻在住だったかもしれません。

「標札」は「表札」でしょうか。もしかすると、現在もどこかに現存しているか、あるいは現役で使われているかもしれませんね。「道程」はおそらく前年に札幌青磁社から刊行された復元版と思われます。

ハードカバーの文庫化です。

「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―

2021年8月1日 末盛千枝子著 新潮社(新潮文庫) 定価825円(税込)

それでも、人生は生きるに値する。彫刻家・舟越保武の長女に生まれ、高村光太郎に「千枝子」と名付けられる。大学を卒業後、絵本の編集者となり、皇后美智子様の講演録『橋をかける』を出版。だが、華々しい成功の陰には、幾多の悲しみがあった。夫の突然死、息子の難病と障害、そして移住した岩手での震災……。どんな困難に遭っても、運命から逃げずに歩み続ける、強くしなやかな自伝エッセイ。

目次000
 人生は生きるに値する――まえがきにかえて
 千枝子という名前
 卒業五十年
 父の葉書
 母、その師その友、そして家族
 IBBYと私
 私たちの幸せ――皇后美智子様のこと
 最初の夫、末盛憲彦のこと
 絵本のこと、ブックフェアのこと
 再婚しないはずだったのに
 逝きし君ら
 出会いの痕跡
 文庫版あとがき
 解説 山根基世

元版は、平成28年(2016)に同社からハードカバーで刊行されています。さらに遡れば、同社のPR誌『波』での連載(平成26年=2014)が最初でした。

著者の末盛さん、光太郎に私淑した彫刻家・舟越保武のご息女で、案内文にある通り、光太郎によって「千枝子」と名付けられました。舟越が命名を依頼したところ、光太郎は「女の子の名前は「ちえこ」しか思い浮かばないが、智恵子のように悲しい人生では困るから、字を替えましょう」と言ったとのことで。

その辺りの経緯や、名付け親である光太郎との盛岡での再会、平成27年(2015)に、盛岡の少年刑務所さんで開催された「高村光太郎祭」でご講演をなさった話などが、光太郎に関わる部分です。

それ以外に、絵本編集者としての日々、当時の皇后美智子さまとの交流、ご家族とのドラマ、そして東日本大震災についてなど、さまざまな方向に筆が進んでいます。

ハードカバー刊行直後、PR誌『波』に、中江有里さんによる書評が載りました。題して「朝ドラのヒロインのような人生」。それが共感を呼んだようで、過日の新聞広告でもそうしたキャッチコピーが使われていました。
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当方、中江さんより早く「NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました」とこのブログに書きました(笑)。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃学校にて児童給食の粉ミルクをとかした牛乳の御馳走になる。脱脂粉乳の由なるが、味よろし。


昭和23年(1948)7月2日の日記より 光太郎66歳

脱脂粉乳。GHQの支援により、日本の学校給食に供されるようになって、地方によっては1970年代前半まで出されていたそうですが、当方、その頃入学した都内の小学校では既に瓶の牛乳でしたので、飲んだことがありません。

現在製造されているものは品質も向上、味や匂い等向上しているそうですが、この時代のそれは、不味いものの代名詞とまで言われていたものだったそうです。しかし、光太郎は「味よろし」とのコメントを残しています。

智恵子の故郷・福島県二本松市の広報紙『広報にほんまつ』2021年7月号から。

まず三保恵一市長による連載「市民が主役。~市長からの手紙」。光太郎智恵子に触れて下さいました。
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「散歩やウォーキングに出かけてみませんか?」というサブタイトルで、「智恵子の杜公園は、智恵子と光太郎が歩いたという『愛の小径』があり……」。二本松市レベルになると、「彫刻家・詩人の高村光太郎(1883~1956)」ではなく「光太郎」、「光太郎の妻で二本松出身の智恵子」でもなく「智恵子」で通じてしまうのですね。

5月16日(日)、コロナ禍のため関係者限定で行われた、安達太良山の山開きの様子でも。
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曰く「これからの夏山シーズンには、安達太良山では、「ほんとの空」が登山客を出迎えます」。

「ほんとの空」といえば、下記の画像は、日本テレビさんで6月30日(水)に放映された「心に刻む風景 高村光太郎・智恵子 #1 福島・二本松」から。
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この番組については、またのちほど詳述します(ネタは小出しにせよ、というわけで(笑))。

ところで、同じ『広報にほんまつ』の先月号。6月17日(木)、NHK Eテレさんで放映された「ふるカフェ系 ハルさんの休日 福島・二本松〜城郭内の素敵な洋館カフェ!」で取り上げられた、古民家カフェ「8月カフェ」さんについての記述がありました。
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「手厚い補助金」とありますが……
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だ、そうで。

価値あるものを残す取り組み、大切ですね。

【折々のことば・光太郎】

食事支度中、湯本村元村長杉村松三郎氏、湯本小学校長金子昌一氏同道にて、ワタルさん案内にて来訪。校歌の事なり。断り、その理由をよく説明す。

昭和23年(1948)3月5日の日記より 光太郎66歳

校歌の作詞依頼は山のようにあったのですが、結局、生涯に一篇も作詞しませんでした。自由に作れないというのもあったでしょうし、戦時中の翼賛活動への悔恨から蟄居生活を送っている最中ということで、遠慮したというのもあったように思われます。

ただ、校歌ではない団体歌的なものは、2篇だけ作っています。

まず、昭和17年(1942)、岩波書店の「店歌」として、「われら文化を」。作曲は信時潔でした。もう1曲は、「初夢まりつきうた」(昭和25年=1950)。こちらは正式な団体歌というわけではありませんし、詳しい経緯が不詳なのですが、おそらく花巻商工会議所などからの依頼で作った、いわば「商店街の歌」的なものです。邦楽奏者・杵屋正邦により作曲されています。

それぞれ団体歌といっても、「
〽嗚呼、岩波~」とか「♪ はぁなまーきー、しょーこーかーい」といった歌詞にはなっていません。

またしてもネタ不足に成って参りまして、そういう時には「最近手に入れた古いもの」。新刊書籍等とは異なり、ここで紹介しても、同じものを皆様が入手できるとは限りませんが、苦肉の策ということでご寛恕を。

今日、明日と二回に分けてご紹介しますが、今日は智恵子関連の記事が載った古い女性雑誌を2点。

まずは昭和42年(1967)、千趣会さん発行の『COOK』という月刊誌の第10巻第2号。千趣会さんといえば、現在は大手通販会社ですが、この頃は雑誌の刊行も手がけていたのですね。

この号から「文学を味わう旅」という連載が始まり、その第一回が「「智恵子抄」愛の遺跡」。
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まずは巻頭のカラーグラビアで、福島と千葉の風景が、計7ページ。
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005中ほどに本文が10ページ。そこそこの分量です。

昭和42年(1967)というと、智恵子が数え53歳で歿して約30年。直接、生前の智恵子をご存じの方々がまだかなりご存命で、証言が掲載されています。現在では既にお亡くなりでしょうが。

そのうち、医師の古川盛雄さん。智恵子の弟・啓助の同級生でした。小学生だった明治末、啓助のところに遊びに行った際、たまたま帰省していた智恵子に絵の手ほどきを受けたという回想が載っています。

白いハンカチの上に白い卵を載せ、描け、というもので、小学生には難題だったそうです。ただ、昭和53年(1978)に刊行された、佐々木隆嘉著『ふるさとの智恵子』(桜楓社)では、このエピソードは記憶違いで、学校で教師から与えられた課題だったかも知れない、と、古川さんの証言が変化しています。

いわば「新証言」も。

赤い着物を着た女の人が通りかかったとき、智恵子さんはこう言った。「赤い着物の女の人がきたので、町がきれいになったでしょう。きれいだなと思ったら、赤い着物を着た人のいる町を描きなさい」。そしてその女の人が行ってしまうと、町が何か寂しくなっているのが、古川さんにもはっきり感じられた。

「新証言」は、他にも。明治末に智恵子生家の向かいに引っ越してきたという、佐藤りねさん。智恵子より1歳年上です。

智恵子さんはなァ、丈やからだのこっぽりした、色のそれは白い、かわいらしい子だったな。しゃり気のねえ人だったな。その時分は女の人は銀杏(いちょう)返しとか丸髷(まげ)とかを結ったもんだべ。でも智恵子さんは、今の人みたいに髪をぐるぐると巻きあげておりましたな。
(略)
引っ越したころは、智恵子さんは東京の美術学校さ、行っていると聞いておりましたな。しかし帰郷して家におります時は、毎朝のようにあの人は、そのお花畑で花を摘んでいなさった。赤や黄色や紫の花々にかこまれてなァ、智恵子さんがたたずんでおりますと、とても美しいお人に見えました。摘んだ花を大事そうに抱えてきなさったが、たもとからこぼれた手首が、それはもう、ほっそりとしていて、雪のように白いお手でしたな。


先述の『ふるさとの智恵子』にも、佐藤さんの回想が掲載されていますが、この内容はありませんでした。「東京の美術学校」は太平洋画会(現・太平洋美術研究所)のことでしょう。

もう1冊、時代は下って平成5年(1993)発行の『週刊女性』第37巻第14号。こちらには「生きた、愛した、時代をつくった 日本を創った女たち」という連載の51回目で、「詩人・彫刻家高村光太郎の妻 高村智恵子」が6ページ。
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こちらは、よくまとまっているなとは思うものの、特に目新しいことは書かれていません。ただ、問題はドーンと大きく掲載されている、智恵子の写真。これが大きく載っているがために購入しました。
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卍繋ぎの紋様の着物を着たこの写真、『アルバム高村智恵子―その愛と美の軌跡―』(平成2年=1990 二本松市教育委員会)などの、いわばオフィシャルな書籍には載っていません。当方の手元にある中では、暁教育図書さん発行の『日本発見人物シリーズ 大正の女性群像』(昭和57年=1982)に小さく載っているだけでした。そちらと比べると、『週刊女性』の方は、顔の陰などに修正が入っているようです。
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30代から40代位でしょうか。どちらにも詳細なキャプションが無く、いつ撮影されたものかわかりません。出どころも、です。

情報をお持ちの方は、御教示いただけると幸いです。

それにしても、昔の女性誌、こうした近代文学、芸術系に関する記事がよく載っていて、あなどれません。最近のものは……ですね。たまたま光太郎智恵子に関する記事が見当たらないのでそう感じているだけかも知れませんが。

【折々のことば・光太郎】

朝ワタルさん学校の子供三人にソリをひかせて、木炭五俵届けに来らる。いつぞや十二俵(二十俵のところ)だけ届いてゐるのでその残部の由、空俵持ちゆかる。あと三俵は田頭さんから来るとの事。


昭和23年(1948)2月2日の日記より 光太郎66歳

「木炭20俵」、想像が付きません(笑)。

新刊ムックです。

& Premium特別編集 あの人の読書案内。

2021年6月1日 株式会社マガジンハウス 定価1,500円+税

菊池亜希子、皆川 明、河瀬直美、高山なおみ、綿矢りさ……あの人がもう一度読みたい本。絵本が教えてくれたこと、ときめくマンガ。全439冊、総勢144人が薦める読書ガイド。


本誌の創刊号からこれまでの「読書」にまつわるコンテンツから、本好き144人のおすすめを1冊にまとめました。もう一度読みたい小説やエッセイ、ときめきたいときに読み返すマンガ、思い出の絵本など、素敵な人生の道しるべとなる本が詰まった1冊です。

本誌は『&Premium』2019年10月号「あの人が、もう一度読みたい本」を中心に、2015年2月号「センスのいい人は、何が違う?」、2017年1月号「贈り物と、絵本」、2018年10月号「素敵な人になるために、どう生きるか」、2018年12月号「エレガンス、ということ」、2020年2月号「心と体が、あったまること」に掲載した読書企画を再編集・増補改訂したものです。
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目次

HER/HIS FAVORITE BOOKS あの人の愛読書。
 フグ田サザエ、ガブリエル・シャネル、マリリン・モンロー、 デヴィッド・ボウイ、
 ウォルト・ディズニー、樹木希林

LIBRARY of SENSE センスを磨く読書案内。
 細川亜衣、土岐麻子、渡辺有子、熊谷隆志、松浦美穂、寺尾紗穂、原川慎一郎、
 石塚元太良ほか

TO BE ELEGANT 私に、エレガンスを教えてくれた本。
 江南亜美子、西田尚美、木村綾子、石村由紀子ほか

Long-Sellers 世代を超えて読み継がれる、20世紀の良書。
 『夜と霧』『悲しき熱帯』『センス・オブ・ワンダー』ほか

Books That Inspired Me 私が、もう一度読みたい本。
 高山なおみ、綿矢りさ、皆川明、菊池亜希子、河瀨直美ほか

Reviews 名著を読み解く、読書感想文。
 塩川いづみ、中村佳穂、大森克己、轟木節子、外山惠理、ユザーン

BOOKS for a BETTER LIFE 7歳から45歳、そして人生最期。そのときに読みたい本。
 中野京子、鴻巣友季子、甲斐みのり、いか文庫、森岡督行、最果タヒ、河野通和、
 江南亜美子

Talking About “The" Books 「大人になった今だからわかる本」座談会
 宇多丸、しまおまほ、古川耕

Treasured Magazines 捨てられない雑誌。
 青柳文子、山崎まどか、平野紗季子、森本千絵ほか

Illustrated Cookbooks キッチンで読み返したい、料理の図鑑。
 戸木田直美、鈴木めぐみ

My Inspiring MANGA ときめきたいときに、このマンガを読み返します。
 栗山千明、松田青子、岩井俊二、星谷菜々、光浦靖子、山本浩未、渡辺ペコ、福田里香、
 宇垣美里、片桐仁、武田砂鉄、角田光代、植本一子ほか

MY FAVORITES 29人の、私の思い出の絵本。
 山戸結希、井出恭子、岡尾美代子、川内倫子、柚木麻子、さかざきちはる、安藤美冬、
 石川直樹ほか

Picture Books ぬくもりを感じる、いい絵本。
 末盛千枝子

絵本が教えてくれる大切なこと。
 穂村弘、星野概念、ひうらさとる、美村里江ほか

同じマガジンハウスさん刊行の雑誌『&Premium』に掲載された記事等を再編したものだそうで、雑誌本体が「衣、食、住、カルチャー、それぞれに自分なりの選び方がある大人の女性たちの為の雑誌。クオリティライフ誌・素敵に暮らしている人・上質なものを足していく・大人の女性のため。」というコンセプトなので、執筆者も大半は女性、薦められている「全439冊」も女性向けのものが多い感があります。もっとも、昨今はジェンダー的な部分で「女性向け」「男性用」といった区分には神経質に成らざるを得ませんが(笑)。

デザイナーの皆川明氏が、光太郎の『智恵子抄』(龍星閣新版・昭和26年=1951)、光太郎実弟・豊周の編集による智恵子の紙絵作品集『智恵子の紙絵』(社会思想社・昭和41年=1966)を取り上げて下さっています。
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皆川氏、平成25年(2013)に都内乃木坂のTOTOギャラリー・間(ま)さん他で開催された、建築家の中村好文氏による、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を含むさまざまな「小屋」を取り上げた「中村好文展 小屋においでよ!」展に関わっていらっしゃいました。

関連行事として中村氏と皆川氏の対談「小屋から学ぶこと」が、巡回展の金沢21世紀美術館さんで行われましたし、展覧会とリンクして出版された『小屋から家へ』(TOTO出版)の中にもお二人の対談が収録され、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋も紹介されています。

中村 岩手県の花巻に、高村光太郎がひとり暮らしをしていた小屋が残っていて、それこそ粗末な小屋なんですけど、「人の暮らしの気配のようなもの」がひしひしと感じられます。必要最低限のものしかない暮らしぶりがとてもいさぎよく感じられ、「これでいいじゃないか、これで十分じゃないか」と納得してしまうのです。小屋の定義のひとつに、「すまいの原型が見えること」という項目を加えてもいいかもしれません。
皆川 その感じ、よくわかります。小屋の空間の中には最低限の必要なものだけが納まっているということで、余計にそういう気分になれそうな気がしますね。

『智恵子の紙絵』は、この手の書籍としては昭和32年(1957)に筑摩書房さんから出た『智恵子紙絵』(こちらも豊周の編集)に次ぐ初期のものです。

豊周による解説文から。

 智恵子という人が、このような工芸的なものについてどのくらい才能を持っているか、僕は全然知らなかった。兄にとっては、自分の最愛の人であり奥さんでもある人のものだから、惚れ込むのはあたりまえだが、僕には、はたして兄が評価するほど高く評価できるかどうか、絶対的な評価として、いったい兄がいうほど正当なものかどうかということに、一抹の不安があったのだ。(略)ところが、実物を見てこの不安は全く消え去った。日本にいままで例のないユニークさに、まず心を打たれた。(略)そこにあるものは非常にすぐれた工芸家の作品といっても、ちっともさしつかえないものだった。(略)実を言うと初めは、兄が少し手を入れているのではないかとさえ思った。(略)高村光太郎の最愛の妻であったというひとつの仮定を除いて、裸で放り出して見ても、絶対的価値は決して下がらないと思う。

ちなみに今日、5月20日は智恵子の誕生日です。

『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』に戻りますが、末盛千枝子さん、森本千絵さん、栗山千明さんなど、このブログで取り上げさせていただいてきた方々もご執筆。

さらに、宮沢賢治や武者小路実篤など、光太郎と関わった人々の作品も。
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また、絵本や漫画の項も充実しています。美術書、写真集の類も。

ただ、近代のものよりは、現代の書籍の紹介がメインです。そうした意味で、光太郎智恵子らに関わらない書籍はあまり読まない当方としては、インチキですけれど、それぞれの書評を読んで、それらを読んだ気にさせてくれるのでありがたく存じました(笑)。

それにしても、紙の書籍の衰退が叫ばれて久しく、電子書籍的なものの台頭にもめざましいものがありますが、まだまだ紙の書籍も健在、それが無くなることはないのだろうな、と思わせられました。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

晴、フトン干、 文部省へ芸術院会員断りのハカキを書く。


昭和22年(1947)10月20日の日記より 光太郎65歳

この後、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後の昭和28年(1953)にも、芸術院会員への推薦を断っています。











昨日の『福島民友』さんから。

残雪踏みしめ頂へ、安達太良山で山開き 山頂でのイベントは中止

 二本松市などにまたがる安達太良山(1700メートル)は16日、山開きが行われた。県内外から詰め掛けた登山客が山頂を目指し、夏山シーズンの到来を告げる日本百名山の登山を楽しんだ。
 新型コロナウイルスの感染防止のため、昨年に続き山頂での行事は全て中止に。安全祈願祭は、山頂の代わりに奥岳登山口で行った。
 低気圧の影響であいにくの曇り空となり、詩集「智恵子抄」につづられた「ほんとの空」も顔をのぞかせなかったが、登山客は残雪を踏みしめるなどして山頂に到達。仲間と共に弁当を広げるなど思い思いに過ごし、山開きを満喫した。
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昨年に引き続き、コロナ感染対策として、山頂イベントが中止ということでしたので、スルーしようと思っていたのですが、「智恵子抄」、「ほんとの空」の語を使われてしまっては、紹介しないわけにはいきません(笑)。

続いて『福島民報』さん。それらの語は出てきませんが。

安達太良で山開き 新型コロナ受けイベントは中止

 日本百名山の一つ、安達太良山は十六日、山開きした。登山者が互いに間隔を空けながら山歩きを楽しんだ。
 新型コロナウイルス感染拡大防止のため昨年に続いて規模を縮小し、ミズあだたらコンテストなど山頂での行事を中止した。二本松市などでつくる安達太良連盟による安全祈願祭があだたら高原スキー場ランデブーで行われた。
 七カ所の登山口のうち、メインの奥岳登山口からはマスク姿の登山者がロープウエーや徒歩で山頂を目指した。ショウジョウバカマの桃色のかれんな花やハクサンシャクナゲのつぼみを眺め、残雪を踏みしめながら一歩一歩登った。
 標高約千七百メートルの山頂付近は霧が流れ、雄大な景観は望めなかったが、登山者は歩く喜びを満喫した。福島市の会社員紺野徹也さん(58)は家族三人で登頂し「昨年も登ったが今年は雪解けが早い。山は風が通り、ソーシャルディスタンスも取れるのでいい」と話していた。
 山開きの記念ペナントは密を避けるため、前日から配布した。
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山頂でのイベントは中止となったものの、入山規制がかかっているわけではないので、登られた方は多かったようですね。

「屋外だから」と油断せず、楽しんでいただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】003

午前買物、モノゲンを見つけ買ふ、高価なれど(百匁一五〇円)品質よささう。悠文堂にて新約聖書を求める。


昭和22年(1947)10月14日の日記より
 光太郎65歳

「モノゲン、懐かしい!」と思ったら、ところがどっこい(死語ですね(笑))、いまだブランド名は存続していました。ただし、現行のものは液体洗剤のようですが。画像を見て「懐かしい!」と言えるのは、一定以上の年代の方でしょう。ただ、昭和20年代にこのヒツジのイラストがあったかどうかまでは調べていませんが。

悠文堂」は書店でしょうか。調べたのですが、わかりませんでした。

先月24日の『読売新聞』さん。おそらく東北各県版での連載と思われます。

とうほく名作散歩 詩集智恵子抄 福島県二本松市 愛する妻思う青い空

 福島県二本松市は、詩人で彫刻家だった高村光太郎の妻・智恵子(1886~1938年)が生まれた土地だ。
 生家に近い鞍石山の周辺は「智恵子の杜公園」として整備され、光太郎の詩碑が建つ。4月上旬に訪れると桜がちょうど満開で、残雪を抱く安達太良山(標高1700㍍)が西の方角に見えた。頭上は雲一つない青空が広がっている。
 〈智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ。(中略)阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。〉(あどけない話)
 高校の教科書にも掲載されている詩集「智恵子抄」に収められた作品の有名な一節。東京で妻が思いをはせた遠い古里の空を、光太郎はそう詠んだ。
 17歳で上京した智恵子は日本女子大学校(現在の日本女子大)に入学し、卒業後、洋画家の道に進む。知り合いの紹介がきっかけで光太郎と出会い、28歳で結婚した。
 ところが、東京の生活は順風満帆とはいかなかった。都会暮らしになかなか慣れず、展覧会に出した自身の絵画が落選したこともあって、気分はふさぎがちだった。年に数か月は二本松の実家で過ごし、たまに光太郎も一緒に滞在した。
 「智恵子の苦悩をよく理解した上で、光太郎はあえて直接書かずに『あどけない』と表現した。そのことが詩に深みを与えている気がする」。地元の市民団体「智恵子のまち夢くらぶ」の代表、熊谷健一さん(70)はそう語る。
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 造り酒屋だった生家は現在、1階が一般公開されている。台所や居間のほか、少女時代に使用していた琴や、光太郎の影響でベートーベンの交響曲第6番「田園」を好んで聞いたという蓄音機を展示。戦前の瀟洒(しょうしゃ)な暮らしぶりがうかがえる。
 生家の隣には酒蔵をイメージした智恵子記念館がある。ここで目を引くのは、色紙を切ってつくる「紙絵」の作品群だ。心の病を患い、52歳で亡くなる智恵子が晩年に病室で創作にのめり込んだ。
 「千数百枚に及ぶ此等の切抜絵はすべて智恵子の詩であり、抒情であり、機智であり、生活記録であり、此世への愛の表明である。此を私に見せる時の智恵子の恥かしさうなうれしさうな顔が忘れられない」と光太郎は随筆で書いている。
 智恵子の解説本の編さんに関わった二本松市教育委員会の元職員、根本豊徳さん(69)は「残された紙絵はどれも素晴らしく、やはり天性の才能があったことを思わせる。光太郎は詩で、智恵子は紙絵で、それぞれ夫婦愛を表現したのでしょう」と指摘する。
 作品に登場する智恵子は優しくて、はかない印象だった。だが、生まれ育った二本松を歩いてみると、自然豊かな土地で芸術家としての感性を磨き、生きることに最後まで無器用だった一人の女性の姿が浮かび上がってきた。
無題
心に残る詩「総選挙」
 「智恵子抄」は太平洋戦争が始まった1941年に出版された。明治から昭和にかけて高村光太郎が妻への思いを詠んだ詩29編のほか、短歌などが収められた。光太郎の研究で知られる文芸評論家・北川太一は「若者の心をとらえ、さまざまな形で絶えることなく読みつがれ、人々の心に浸みとおっていった」とつづっている。繰り返し映画やテレビドラマにもなった。
 二本松市ではさまざまな顕彰活動が展開されている。
 「智恵子のまち夢くらぶ」は、生家沿いの県道の名称を全国から募集し、「智恵子純愛通り」と命名。出版から80年となる今年は光太郎の詩から最も心に残った作品を決める「総選挙」を10月まで実施している。
 生家のそばにある「戸田屋商店」は30年前にスーパーを改装し、高村夫妻の著書や土産品を置くようになった。店主の服部弘子さん(75)は「せっかく二本松に来てくれた人に、少しでも智恵子さんのことを覚えて帰ってもらいたい」と話す。店内には客が持ち寄った智恵子の写真や新聞記事の切り抜きなどが並ぶ。
 市教委は「智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」を毎年開催している。福島県内と、光太郎ゆかりの地・岩手県花巻市の小学生が参加できる。

メモ
 智恵子の生家と智恵子記念館は、JR東北線安達駅から徒歩で20分。東北自動車道・二本松インターチェンジからは車で10分。
 生家では、智恵子の誕生日の5月20日に合わせ、「高村智恵子生誕祭」を毎年開催する。今年は4月24日からで、2階居室を特別に公開するほか、智恵子の紙絵をモチーフにした切り絵体験もできる。両施設の入館料は共通で、小・中学生210円、高校生以上410円。開館時間は午前9時~午後4時半。毎週水曜と年末年始は休館。
 智恵子の杜公園の入り口までは生家から歩いて5分ほど。2人が散歩した山道を30分ほど登ったところに、光太郎の詩碑「樹下の二人」がある。詩の描写そのままに、安達太良山や阿武隈川が眼下に望める。
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昨日ご紹介した「詩集典型 岩手県花巻市 光太郎牛の如き魂刻む」と同じ、「とうほく名作散歩」という連載の一環です。同じ作家が続けて取り上げられるのは珍しいような気がします。もっとも、今回は光太郎より智恵子がメインですが。

「「智恵子抄」総選挙」に関してはこちら戸田屋さん小学生紙絵コンクール生家2階居室の特別公開紙絵の制作体験についても、それぞれリンクをご参照下さい。

【折々のことば・光太郎】20a98038

姉咲子の命日、 今日も雨やまず、ふつたりやんだり。


昭和22年(1947)9月9日の日記より
 光太郎65歳

光太郎の長姉・(さく/咲子)が亡くなったのは明治25年(1892)、咲は数え16歳、光太郎はその時同じく10歳でした。55年も前のことを、日記に記しているのですね。もっとも、母・わかの命日が翌日なので、セットで記憶していたのでしょう。わかが亡くなったのは大正14年(1925)でした。

狩野派の日本画を学び、将来を嘱望されていた咲。幼い光太郎にとっては自慢の姉でした。

牽強付会のそしりを受けそうですが、同じく絵画の道を志していた智恵子に、光太郎は咲の俤を見たのかもしれません。

昨日、『広報にほんまつ』5月号を取り上げた中で触れた件などにつき、地方紙2紙でも記述がありましたので、ご紹介します。

まず、『福島民友』さん、昨日の一面コラム。

【4月28日付編集日記】智恵子抄

二本松市の小高い里山にある智恵子の杜公園を訪れ、高村光太郎と智恵子が肩を並べて散策したという山道をたどった。見晴らしが良い場所もあり、野鳥のさえずりが響く。2人は当時、どのような時間を過ごしたのかと、思いをめぐらせた▼光太郎が亡き妻への思いを込めて出版した「智恵子抄」にある詩「樹下の二人」は100年ほど前、現在の公園がある場所から眺めた安達太良山や阿武隈川の風景が題材とされる。真筆を刻んだ詩碑は、公園のシンボルとして全国のファンが訪れる▼光太郎と智恵子の顕彰活動を進める同市の市民団体が今月から、「あなたが選ぶ『智恵子抄』総選挙」と題し、好きな詩への投票を募っている。智恵子抄の出版80周年を記念し、「智恵子抄その後」も含め、作品の魅力と2人の生涯に理解を深めてもらう▼二つの詩集から候補作とした36編には教科書をはじめ、さまざまな機会に読んだ記憶がある作品が目に付く。初めて詩集を手にした10代のころ、純愛を貫いた2人に憧れたことが懐かしく思い出される▼公園内には石碑や彫刻作品も並ぶ。2人が思い出を刻んだ地に足を運び、今も輝きを放つ詩集の世界に浸り、心に響いた作品を選ぶのもいい。

同じ『民友』さんで、遡って一昨日の記事。

智恵子創作の紙絵展示 記念館で生誕祭、5月30日まで

 二本松市の智恵子の生家・智恵子記念館は、同市出身の洋画家高村智恵子が生まれた5月20日にちなみ、今年も生誕祭を繰り広げる。トップを切り24日、同記念館で、智恵子が病床で創作した紙絵の実物展示を始めた。展示は5月25日まで。
 智恵子はゼームズ坂病院に入院した2年間、千数百点の紙絵を制作した。同館は高村家から譲り受けた24点を収蔵する。
 ただ紙質が悪く、照明などで劣化しやすいために通常は複製を展示。このため年2回、収蔵品から10点を選び、実物を公開している。今回は「青い魚と花」や「菊」「小鉢」などを展示した。
 開館時間は午前9時~午後4時30分(最終入館は同4時)。水曜日休館。入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。
居室を特別公開 
 智恵子の生家では、普段公開していない智恵子の居室の特別公開と、同市の伝統工芸品「上川崎和紙」を使った紙絵の制作体験を実施する。
 居室の公開は29日に始まり、5月30日まで大型連休中と土、日曜日など実施。紙絵体験は5月15~30日の土、日曜日に行い、智恵子の作品を題材にカードやしおりを作る。参加費は入館料に含まれる。開館時間は午前9時~午後4時。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。
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別件で、同じ二本松市の大山忠作美術館さん関係。

大山忠作美術館、5月1日から特別企画 絵はがきプレゼントなど

 文化勲章受章者で、二本松市出身の日本画家大山忠作の誕生日5月5日にちなみ、大山忠作美術館は5月1~5日、二本松市の同館でゴールデンウイークイベントを展開する。
 期間中、来館者に「智恵子に扮する有馬稲子像」や「遅日」「古壁群相」など大山作品をプリントした絵はがきをプレゼントする。また5日には、未就学児と団体以外の来館者に「鯉魚絵付飾大皿『游』」の絵柄をデザインしたマグネットを数量限定で贈る。問い合わせは同館(電話0243・24・1217)へ。
カーネーション販売会
 併せて同館を運営するNPOまちづくり二本松は1日午前10時から、二本松市市民交流センターで、安達東高生が栽培したカーネーションの販売会を開く。限定100鉢でなくなり次第終了する。問い合わせは同センター(電話0243・24・1215)へ。
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故・大山忠作画伯は、女優の一色采子さんのお父さま。同郷の智恵子をモチーフにした絵を複数描かれています。そのうち、記事にある「智恵子に扮する有馬稲子像」は、昭和51年(1976)、新橋演舞場で開催された「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」の中で、北條秀司作「智恵子抄」の智恵子を演じた有馬稲子さんをモデルにして描かれたもの。同館の目玉作品の一つでもあります。

続いて、『福島民報』さん。以前にご紹介した「アマビエマスク」シリーズの新作だそうで。

新型アマビエマスク発売 富樫縫製と民報印刷 福島県内4市で

 ウイルス飛沫(ひまつ)などの微粒子を医療用マスク並みに防御できるフィルターを内蔵し感染予防機能を強化した地域限定デザインマスクの販売がいわき、福島、二本松、会津若松の四市で始まった。
 いわき市のいわき・ら・ら・ミュウでは、フラダンスを踊るアマビエ「フラビエ」、サーフ板を持つアマビエ「サーフビエ」の二種類を販売。福島市のラヴィバレ一番丁では、クロマグロを担ぐアマビエの「アドリアちゃん」を扱っている。二本松市の道の駅安達上下線では五月二十日に生誕百三十五年を迎える「智恵子抄」で知られる市内出身の洋画家・高村智恵子をモチーフにした「檸檬(れも)ビエhyper」、会津若松市のトラッドハウス「フキヤ」では、オリジナルデザインの赤べこの「ナノクラスブロッカー」を売っている。福島市の県観光物産館では、新型アマビエマスク「ナノビエブロック」のアマビエデザインとべこビエデザインの販売を開始した。
 富樫縫製(二本松市)と民報印刷(福島市)がフィルターの世界的な専門メーカー・ヤマシンフィルタ(横浜市)と連携し開発した。フィルターは一般財団法人カケンテストセンターによる微粒子捕集効率(PFE)試験で、0・1マイクロメートルの微粒子を99%カットした。一枚千百円(税込み)。
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「Hyper」ではないプロトタイプの「檸檬ビエマスク」は、既に昨秋、販売が開始されていたようです。「Hyper」はその名の通り、ウイルス等のシャットアウト機能が更にパワーアップしたものだそうで。デザイン的にはプロトタイプと同一のようです。
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泉下の智恵子は苦笑しているような気がしますが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

花巻より青年二人(東京と黒沢尻の人)来る。宮沢清六さんより委托のトマト一個、金瓜一個、胡瓜、せんべい等もらふ。二時過ぎまで談話。辞去、宮沢賢治研究者。

昭和22年(1947)8月19日の日記より 光太郎65歳

「青年二人」、氏名は書かれていませんが、「東京」の方は、のち、国語学者となった宮地裕(みやじゆたか)氏です。氏のエッセイが、以前、光村図書出版さん刊行の中学校用の国語の教科書に掲載されていて、この際のエピソードが記されていました。平成9年(1997)~同13年(2001)に「言葉はどこからどこへ」と題し3年生用、ほぼ同一の内容で「胸の底の人と言葉たち」の題で同18年(2006)~同23年(2011)の1年生用

それによれば、まず花巻町の宮沢家を訪れた宮地氏たち、郊外太田村の光太郎の山小屋にも足を運ぼうとしたところ、未知の人物が訪ねていっても光太郎に追い返されることがよくある、とわかっていた清六が野菜類などを持たせ、それを届けるという名目を与えてくれたとのこと。泣かせるエピソードですね。

ところで、この項を書くために調べていたところ、宮地氏、今年2月に逝去されていました。存じませんでした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

智恵子の故郷、福島県二本松市の広報紙『広報にほんまつ』の5月号、智恵子の名が18回も出てきました(笑)。

まずは1月に亡くなった同市名誉市民にして、光太郎の父・光雲の孫弟子にあたられた彫刻家・橋本堅太郎氏の遺作となった智恵子像「今ここから」除幕について。智恵子の名がまず2回。
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次に、同市で智恵子顕彰にあたられている「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の「智恵子抄総選挙」の件で、7回。
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続いては、「高村智恵子生誕祭」。特に式典等があるわけではないのですが、智恵子生家で紙絵の制作体験と、裏手の記念館で通常は複製が展示されている紙絵の真作の展示と、これをもって「生誕祭」と称しています。このところ、それぞれ年中行事となっています。なぜか生家2階部分の限定公開は別枠です。
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005ここで「智恵子」が8回。ここまでで累計17回。最終18回目は、裏表紙のカレンダー欄に1回。これで18回です。

それから、ついでというと何ですが、「阿多多羅山の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ。」(「あどけない話」昭和3年=1928)と謳われた、日本百名山の一座・安達太良山の山開きの件も紹介されていました。

ただ、以前は必ずといっていいほど「ほんとの空」の語を配して下さっていたのですが、このところお見限りのようで(笑)。
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また、昨年に続き、コロナ禍のため山頂イベントは中止だそうです。残念ですが致し方ありませんね。

公式フライヤーはこちら。こちらも「ほんとの空」の語はなし。
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おそらく画像は一昨年のものと思われます。この中に当方もいるかも知れません(笑)。またこの頃のように、山頂での山開きがにぎわってほしいという願いが込められているのでしょう。まさしく当方もそうであってほしいと祈るばかりです。

【折々のことば・光太郎】

十一時頃分教場行、郵便物。 ひるかへると、あとからワタルさんに案内されて水沢の大川英八といふ(画家か)人子息と共に来訪、濁酒一升もらふ。フナ雀やき少〻、いろいろ話。

昭和22年(1947)8月11日の日記より 光太郎65歳

「ワタルさん」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山小屋近くの住民、「大川英八」は画家で、橋本八百二の師にあたる人物。萬鉄五郎とも交流があったそうです。

「雀やき」の語で、「えっ?」と思いました。当方自宅兼事務所のある千葉県香取市佐原地区の名産品だからです。ちなみに友人(地元の名士ですが)がこの手の店を経営していたりします。「雀やき」と言っても、雀を焼くわけではなく(京都伏見では本当に雀を焼いた料理があるそうですが)、川魚です。名の由来は諸説あるようですが、電線に並んでとまっている雀の姿に似ているためとか、江戸時代のお殿様が雀と勘違いしたからとか、いろいろ言われています。
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一度、青森の方にお送りしたことがあります。半分は「えっ、雀?」という反応を期待してのことでしたが、まんまとその通りのリアクションで、してやったり、でした(笑)。

それにしても光太郎の日記に出てくるということは、昔は意外と一般的だったのかな、と思いました。また、日記のこの部分をして、「光太郎は山小屋生活で雀まで食べていた」と勘違いしないで下さい(笑)。

智恵子の故郷、福島二本松関連で2件。

まずは例年、春と秋に行われている、智恵子生家の2階特別公開について。二本松市さんの広報紙『広報にほんまつ』から。

智恵子の生家2階特別公開000

期 日 : 2021年4月29日(木)~5月30日(日)
     の土日・祝日
会 場 : 智恵子の生家
福島県二本松市油井漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
料 金 : 大人(高校生以上) 410円(360円)
      子ども(小・中学生) 210円(150円)
      ( )内団体料金 含智恵子記念館観覧料

智恵子を育んだ「生家」の2階を、特別公開します。智恵子が暮らした旧長沼家の雰囲気をご堪能ください。

建物内では係員の指示に従って下さい。

来館の際にはマスクの着用と検温の実施にご協力下さい。

平成27年(2015)から始まったこの企画、当方も何度かお邪魔しました。その年によって、「高村智恵子生誕祭」の一環として行ったり、そうでなかったりといろいろですが、昨年と今年はコロナ禍の影響もあって、生誕祭とは切り離しての実施のようです。

平成27年(2015)秋のレポートですが、こちら

コロナ感染にはお気を付けつつぜひ足をお運び下さい。

それから、やはり二本松がらみということで、昨夜、NHK Eテレさんで放映された「にっぽんの芸能 人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」を拝見しました。
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今年3月に国立能楽堂で行われた公演の録画です。

舞方は3人。
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シテ、ワキ、ツレ、そしてシテが「実は○○だった」と、伝統的な能の形式に則っていますが、面を付けない「素踊り」。
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久しぶりにこの手の番組を拝見し、新鮮でした。

遡りますが、本編の前に、イラストを使ってのあらすじ紹介。ここで物語の舞台としての二本松の紹介があればなおよかったのですが、残念ながらそれはありませんでした。
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結局、鬼女は、山伏の法力で折伏させられます。

意外に思ったのは、鬼女がなぜ鬼女になってしまったのかの説明が無かったこと。

二本松に伝わる伝説では、鬼女の名は「岩手」。元は京の都で公家に仕えていた女房だったのですが、その家の姫が重い病となり、それを治す薬は人間の胎児の生き肝と知り、それを求めて各地を転々。やがてカモとなる若い妊婦に出会って殺し、胎児の生き肝を手に入れたものの、殺した妊婦は自分の娘だった、というわけで、岩手は錯乱して鬼女に成り果て、殺戮を繰り返していたというのです。

当方、寡聞にして存じませんが、能の「黒塚」でもこの辺りの経緯は語られていないのでしょうか。

さて、「にっぽんの芸能「人、鬼と成る〜舞踊“安達ケ原”〜」」、4月26日(月)、やはりNHK Eテレさんで再放送があります。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

畑手入。草とりは暑熱と坊主蚊とに恐れて中〻出来ず。


昭和22年(1947)7月21日の日記より 光太郎65歳

草取りは本当に大変ですね。自宅兼事務所の庭も、芝生が芝生ではなく、雑草の方が多い状態で、このところ、夕方や曇りの日を狙って、電気式の草刈用バリカンで刈っていますが、中々進みません。意外と腕力を使いますし、かがんでの作業が腰に来ます。

都内から演劇公演の情報です。

ひなた村劇団第40回公演「青鞜の女たち」

期 日 : 2021年4月24日(土)
      東京都町田市本町田2863
時 間 : Aキャスト13:00~ Bキャスト16:00~
料 金 : 無料(要予約)

明治44年、日本初の女性の手による女性の為の雑誌「青鞜」が発刊された。「元始女性は太陽であった」
中心となった人物が、フェミニスト、平塚雷鳥。そして、彼女の思想に賛同した、神近市子、長沼智恵子、伊藤野枝、物集和子らとともに活動を開始する。
そこに、目をつけたのが、評論家の生田長江。彼の紹介で、歌人の与謝野晶子、女優 松井須磨子、作家 田村俊子などを巻き込み、雑誌「青鞜」は華々しく創刊するが…。
明治の後半、欧米ではフェミニズムが叫ばれていた時代、日本では、女性には良妻賢母の道しかなかった。
そんな時代に彼女たちは、何を感じ、何を考え立ち上がったのか。
社会の風に逆らいながらも強く光り輝く女性たちの物語。

《ご予約方法》
コロナ感染拡大防止の為、席数を制限しております。
観覧ご希望の方は、お手数ですが次のいずれかの方法で事前予約をお願い致します。
①ひなた村劇団員・舞台出演者に直接予約
②メールで予約 info.hinatamuragekidan@gmail.com
③電話で予約 050-5896-1376
尚、コロナ感染症の状況によってはチラシ記載事項に変更がある場合がございます。
ホームページ、ツイッターなどでご確認ください。
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というわけで、智恵子も登場。『青鞜』メンバーを描く舞台等の場合、その最初期だけ関わった智恵子はあまり登場しないのですが、今回はしっかりキャストに入っています。ありがたし。

この公演、元々は昨年5月に予定されていたのですが、新型コロナのため延期となり、1年越しで実現することになりました。ただ、客席数を減らす対応をなさるそうで、先日、予約の電話を入れた際には既にキャンセル待ち、ということでした。

とりあえずこういう公演があるんだよ、という情報としてご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

「展望」へ十五日まで詩稿を送る旨ハカキ速達 分教場にゆきしが配達夫既に来てしまひたり。ハカキをあづける。


昭和22年6月1日の日記より 光太郎65歳

何気に書かれていますが、「詩稿」は、自らの生涯を振り返り、戦争責任を省察した連作詩「暗愚小伝」です。

智恵子の故郷・福島県二本松市の広報紙『広報にほんまつ』今月号に、『智恵子抄』所収の「あどけない話」(昭和3年=1928)に由来する「ほんとの空」の語が、ドーンと。
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同市はここのところ、「桜の街」としてもPRに力を入れており、一昨年には「2019全国さくらシンポジウム」の会場となりました。「ほんとの空にさくら舞う」は、その際のテーマでしたが、その後もこうして使用され続けています。昨年の『広報にほんまつ』4月号にも同趣旨のページがありました。

ただ「桜がきれいだよ」だけより、美しい青空を背景に、と売りにできるのは、二本松市の強みというか、ある意味、ずるいというか(笑)。

で、市内の桜の名所がいくつか紹介されています。ところが、市内に桜の名所、名木が多すぎて、昨年とはまた違ったラインナップになっています。昨年は智恵子生家/智恵子記念館裏手の智恵子の杜公園が取り上げられましたが、今年は智恵子と直接関わる場所は紹介されていないようです。もっとも、古木であれば、生前の智恵子が見た可能性は否定できませんが。

広報紙には掲載がありませんでしたが、同市の公式フェイスブックでは、智恵子の杜公園の桜も紹介されていました。
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それから、智恵子の母校・油井小学校の桜も。
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少し前にも書きましたが、同市在住の友人によれば、今年はかなり早く咲き始めているとのことで、いかに東北とはいえ、ぼやぼやしていると散ってしまいそうですね。

ライトアップやら、いろいろと関連イベントがあるようですので、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

朝夕美しく巧妙な囀りをする小鳥あり、ツグミか。 油蛇を見る。


昭和22年(1947)5月13日の日記より 光太郎65歳

翌年、光太郎は「クロツグミ」という詩を作りました。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に生息していたのですね。クロツグミは夏に日本にやってくる渡り鳥。その声を光太郎は「こつちおいで、こつちおいでこつちおいで。/こひしいよう、こひしいよう、」と表しました。ある意味、光太郎自身の心の声のようでもあります。

「油蛇」は、どうもジムグリの方言のようです。全長1㍍ほどにもなる蛇です。

光太郎智恵子が登場しているとは存じませんで、新刊、といっても5ヶ月近く経ってしまいましたが……。

風よ あらしよ

2020年9月25日 村山由佳著 集英社 定価2,000円+税

【祝!本の雑誌が選ぶ2020年度ベスト10第1位】

どんな恋愛小説もかなわない不滅の同志愛の物語。いま、蘇る伊藤野枝と大杉栄。震えがとまらない。
姜尚中さん(東京大学名誉教授)

ページが熱を帯びている。火照った肌の匂いがする。二十八年の生涯を疾走した伊藤野枝の、圧倒的な存在感。百年前の女たちの息遣いを、耳元に感じた。
小島慶子さん(エッセイスト)

時を超えて、伊藤野枝たちの情熱が昨日今日のことのように胸に迫り、これはむしろ未来の女たちに必要な物語だと思った。
島本理生さん(作家)

明治・大正を駆け抜けた、アナキストで婦人解放運動家の伊藤野枝。生涯で三人の男と〈結婚〉、七人の子を産み、関東大震災後に憲兵隊の甘粕正彦らの手により虐殺される――。その短くも熱情にあふれた人生が、野枝自身、そして二番目の夫でダダイストの辻潤、三番目の夫でかけがえのない同志・大杉栄、野枝を『青鞜』に招き入れた平塚らいてう、四角関係の果てに大杉を刺した神近市子らの眼差しを通して、鮮やかによみがえる。著者渾身の大作。

[主な登場人物]
伊藤野枝…婦人解放運動家。二十八年の生涯で三度〈結婚〉、七人の子を産む。
辻 潤…翻訳家。教師として野枝と出会い、恋愛関係に。
大杉 栄…アナキスト。妻と恋人がいながら野枝に強く惹かれていく。
平塚らいてう…野枝の手紙に心を動かされ『青鞜』に引き入れる。
神近市子…新聞記者。四角関係の果てに日蔭茶屋で大杉を刺す。
後藤新平…政治家。内務大臣、東京市長などを歴任。
甘粕正彦…憲兵大尉。関東大震災後、大杉・野枝らを捕縛。

【著者略歴】
村山由佳(むらやま・ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学文学部卒。会社勤務などを経て作家デビュー。1993年『天使の卵――エンジェルス・エッグ』で小説すばる新人賞、2003年『星々の舟』で直木賞、2009年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞を受賞。
007
【目次】
 序  章 天地無情
 第  一  章 野心
 第  二  章 突破口
 第  三  章 初恋
 第  四  章 見えない檻
 第  五  章 出奔
 第  六  章 窮鳥
 第  七  章 山、動く
 第  八  章 動揺
 第  九  章 眼の男
 第  十  章 義憤
 第十一章 裏切り
 第十二章 女ふたり
 第十三章 子棄て
 第十四章 日蔭の茶屋にて
 第十五章 自由あれ
 第十六章 果たし状
 第十七章 革命の歌
 第十八章 婦人の反抗
 第十九章 行方不明
 第二十章 愛国
 終  章 終わらない夏
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『青鞜』社員でもあった、伊藤野枝の評伝小説です。序章は大正12年(1923)9月、関東大震災の場面。その後、第一章からは明治28年(1895)の野枝の誕生以後をほぼ時系列を追って展開します。

野枝はとにかく向学心に燃え、貧しい家庭に生まれながらも周囲を強引に説得し、上野高等女学校に進学、卒業時に無理矢理意に沿わない結婚を強いられるも婚家を飛び出し、女学校の教師だった辻潤と結ばれ、『青鞜』に参加。発起人の平塚らいてうが編集から離れると、それを引き継ぎます。するとアナキスト・大杉栄と知り合い、たちまちその魅力に惹かれ、辻と別れて大杉の元へ。しかし大杉は「自由恋愛」を標榜し、野枝以外にも二人の女性との関係を続けます。そのうちの一人、神近市子に大杉が刺され(いわゆる「日蔭茶屋事件」)、一命を取り留めた大杉とともに無政府主義運動にのめり込む野枝。やがて関東大震災、そして、そのどさくさで大杉もろとも憲兵隊に拘引され……。

何というか、「火の玉」のような女性です。永遠の厨二病的な傾向や、自分もそうされてきたにも関わらず、我が子に対するネグレクト(結局、そういう部分は連鎖するのでしょうか)、そして辻や大杉らとの四角関係、五角関係など、決して手放しでほめられる生き方をしていなかった部分も多いのですが、確かにその生の軌跡には鮮やかな、そして烈しい光芒……。

野枝が『青鞜』に加わったのは、智恵子が『青鞜』から離れたあとで、おそらく直接の面識はないものと思われます。そこで、この小説が出ていたのは存じておりましたが、智恵子は登場しないだろうと思い、購入せずにいました。ところが、そうでないと知り、慌てて購入して読んだ次第です。

第七章 山、動く」で明治44年(1911)の『青鞜』発刊前後も描かれており、数え26歳の智恵子。
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「明」は「はる」と読み、らいてうの本名です。「智恵」が智恵子。智恵子の戸籍名はカタカナで「チヱ」ですが、この頃、多くの女性が勝手に漢字を当てたり、「子」をつけたりした名を自称しています。与謝野晶子も本名は「しよう」。旧仮名遣いですので拗音でも「よ」は大きな「よ」、したがって読み方は「しょう」。そこで「晶」の字をあて、「子」をつけて「晶子」、さらに訓読みにして「あきこ」です。

閑話休題。感心したのは、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏により明らかにされた、智恵子の手になる『青鞜』表紙絵が、ウィーン分離派の作家、ヨーゼフ・エンゲルハルトの寄木細工を模写したものであること、そうした転用が普通であったことがしっかり記されている点。こうした最近の研究成果を取り入れていらっしゃる村山さん、さすがです。どうも「老大家」と称される人々の御著書には、そうした姿勢が欠けています。

第十九章 行方不明」には、光太郎も登場していました。
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当会の祖・草野心平や、親交の深かった彫刻家・高田博厚などの影響もあったのではないでしょうか、光太郎、大正後半から昭和初めにかけては、プロレタリア文学者と言えるような立ち位置にいました。大杉の義弟・近藤憲二の主宰する『労働運動』編集部に、ブロンズの代表作「手」を寄贈しようとしたエピソード。大正10年(1921)の、知る人ぞ知る話です。

光太郎が歿した直後(昭和31年=1956)、近藤は『クロハタ』に「高村光太郎氏のこと」と題する追悼的な一文を寄せ、この時の模様を語っています。当会発行の冊子『光太郎資料43』に載せましたが、全文は以下の通り。
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000村山さん、この文章にも目を通されているようです。光太郎の言った「ぼく、高村光太郎」などの言葉がそのまま引用されていますので(あるいは近藤が他でも同じエピソードを書いているのかも知れませんが)。

おそらく、野枝はじめ他の人物についても、多くの資料を読み込まれて書かれた小説なのでしょう。そういう部分では、非常に好感が持てますね。ただし、本文650ページ超、重量約620㌘。手に持って読むと、軽く筋トレにもなります(笑)。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

西公園駅から二ツ関まで無理な位こんだ電車に乗る。


昭和21年(1946)9月9日の日記より
 光太郎64歳

電車」は花巻電鉄。「二ツ関」は「二ツ堰」の誤記です。「馬面電車」と呼ばれた狭軌の車輌、普通に乗っていても向かいの座席に坐っている人と膝が当たるという状態ですので、座れずに立って乗る人が多数いたらひどい混雑だったでしょう。下の画像、中央で立っているのが光太郎、昭和28年(1953)のものです。
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智恵子の故郷、福島県二本松で智恵子の顕彰活動をなさっている智恵子のまち夢くらぶさんの会報的な『智恵子講座2020文集』が届きました。

基本、11月に行われた「智恵子講座2020」(当初、今月20日にも予定されていましたが、そちらは中止になったようです)に参加した方々の感想集的なものですが、それ以外の会の活動報告的な内容、それらが取り上げられた地方紙のコピーなども載っています。
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寄せられた原稿をそのままコピーして綴ったものですので、手書きの原稿も多数。

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この手作り感があたたかみを感じさせます。

当方も講師として参加させていただきましたので、何か書くようにというお達しがあり、講座終了後に宿泊した岳温泉の「あだたらの宿扇や」さんに関して。
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扇やさんでは、新たに入手された光太郎書と智恵子の紙絵の実物が飾られており、さらに展示はされていないものの、光太郎の生写真なども所蔵されています。

実際に見てみるまでは不確かな情報でしたので、講座の中ではその件には触れませんでした。そこで、この場を借りて紹介し、二本松の皆さんにぜひご覧頂きたいと思った次第です。

来年は『智恵子抄』初版の発刊(昭和16年=1941)から80周年の記念の年(ということはイコール太平洋戦争開戦80周年でもありますね。幼稚なネトウヨが大喜びしそうで今から憂鬱です(笑))なので、夢くらぶさんとしても、さまざまなイベントを考えられているようです。その計画案も載っていました。
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『智恵子抄』、それから『智恵子抄その後』(昭和25年=1950)等所収の詩の人気投票的な「「智恵子抄」総選挙」、「「智恵子抄」安達太良キャンプ」(この中でまた講座の講師をやれといわれております)、そして第2回「「智恵子抄」朗読全国大会」(第1回の模様はこちら)などなど。

それぞれまた詳細が出ましたらご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

夜度々おきる、 暁天に廿八九日の細き弦月を見る。甚だ凄し。


昭和20年(1945)11月2日の日記から 光太郎63歳
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田舎では今でもそうですが、月明かりのない夜は本当に真っ暗です。ましてや終戦直後の花巻郊外旧太田村、夜の闇はまさに「漆黒」だったことでしょう。

すると、いきおい、光太郎の目は夜空に向けられたのだと思われます。日記には天体に関する記述が頻出しています。東京住まいの長かった光太郎には、光害のほとんどない場所で見る月や星の美しさは、実に新鮮だったのでしょう。

12月7日(月)、『朝日新聞』さんの夕刊に掲載された記事をご紹介します。執筆された記者さんからちらっと電話取材を受けまして、掲載紙を送って下さいました。自宅兼事務所でも同紙を購読しているのですが、夕刊は契約していませんので、ありがたく存じました

品川区の大井町を紹介する、まるまる1ページとった大きな記事です。大井町といえばゼームス坂病院。智恵子終焉の地で、跡地には光太郎詩「レモン哀歌」(昭和14年=1939)を刻んだ碑が建っています。
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(まちの記憶)大井町 東京都品川区 物語生む、にぎわいの交差点

 交差点の歩道橋を、日傘を差した若い女が軽やかに渡っていく。らせん階段を下り、目の前のさびれた古道具屋の中へ。女はガラス製の舶来骨董(こっとう)「なみだ壺(つぼ)」を手に取り、自分の目元に近づけ、店主の中年男にほほ笑む――。
 1983年公開の映画「時代屋の女房」は、早世した夏目雅子の美しさと演技力が際立つ作品だ。原作者で、82年の直木賞に輝いた村松友視さん(80)は当時42歳。小説の舞台に、出版社員だった30歳前後の時に暮らした東京都品川区の大井町を選んだ。
 「隣の駅の大森がしゃれた屋敷街なら、大井町はパチンコ屋とか映画館とかが軒を連ねて雑然としていた。僕のアパートも、洋館風なのに壁一面が鏡張りの和室があって魑魅魍魎(ちみもうりょう)の棲家(すみか)の気配(笑)。物語の一つでも書かなきゃと思わせる街でした」
     *
 時代屋は、大井町駅から徒歩数分の「三ツ又」交差点に実在した古道具屋で、村松さんも通勤の際はその前を行き来していた。映画製作ではロケ現場になったが、しばらくして取り壊され、現在の駐車場になって久しい。
 一方、道を隔てた向かいにあり、映画にも映り込む「三ツ又地蔵尊」はいまも健在だ。小さな三角地帯には病魔や難産の「身代わり地蔵」がまつられ、通りすがりに拝む人々は多い。品川区立品川歴史館の学芸員、冨川武史さんは「三ツ又は、740年近い歴史を持つ池上本門寺の参拝客が行き交った『池上通り』など、さまざまな方面への交差点。地域の信仰の中心になっていたはず」と語る。
     *
 三ツ又から沿岸部へ向かって国道15号を越え、京浜急行線を過ぎると旧東海道にぶつかる。一番宿としてにぎわった品川宿から川崎へ向かう途中、現在の南大井にあるのが「鈴ケ森刑場跡」だ。1651(慶安4)年から約220年間に、膨大な罪人が処刑された。みせしめに残忍な刑が執行された一方、悲恋のヒロイン八百屋お七を題材とした歌舞伎など、芸術作品を生み出した場でもあった。
 村松さんも、刑場近くの土地に生きる人々の心情に迫る小説を書いた。1981年の直木賞候補作「泪(なみだ)橋」。刑場まで数百メートルの、立会川にかかる「浜川橋」の別名で、罪人はこの橋で、見送りに来た家族との今生の別れに涙した。
 小説は橋の近くで長年暮らす老人2人が、偽名の男女をかくまう物語。村松さんも大井町にいたころ、過激派の学生を1週間ほど泊めたことがある。追われる身となった人々に、理由も聞かず手を差し伸べる老人たちの「不思議なやさしさ」が描かれる。
     *
 ■刑場跡地、無縁仏が夢枕に
 江戸時代の死刑囚がはりつけや火あぶりなどに処せられた鈴ケ森刑場。その跡地は旧東海道と第一京浜が交わる三角地「大経寺」の境内にあり、史跡巡りの人気スポットだ。ただし敷地は大正期以降の国道建設で縮小、無縁仏が眠る一帯ならではの逸話が残る。
 1954年夏、第一京浜の拡幅工事の際、たくさんの人骨が出土した。作業員が形をとどめる二つの頭蓋骨(ずがいこつ)=写真=をその場に放っておくと、住職の妻の夢枕に2人の男が立ち、「暑いので水をかけて」と頼んできた。妻が応じた3日後、2人は再び夢にあらわれ、2羽の鳳凰(ほうおう)と化して天高く舞い上がったという。その後、頭蓋骨は手厚く回向され、一連の物語が広く伝えられたと当時の新聞は報じる。「そのころに、大きな供養が催されたと聞く。立ち寄られる際は、ぜひ手を合わせてお参りを」と現住職の狩野豊明さん(39)。
 ◆品川区立品川歴史館(03・3777・4060)には水琴窟がある。JR大森駅徒歩10分、大井町駅からバス「鹿島神社前」下車1分。開館状況はホームページで。
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 創作意欲をかき立てる街の力は、病んだ心にも作用したのだろうか。
 詩人で彫刻家だった高村光太郎の妻、智恵子は1935(昭和10)年2月に大井町駅北東のゼームス坂病院へ入院した。38年10月、肺結核により52歳で亡くなるまで、色紙を切り貼りする「紙絵」作りに没頭し、千点以上を残した。食事に出たアジの干物や病室に届いた果物などをモチーフにはさみで直接切り出し、完成すると見舞いにくる光太郎だけに見せた。
 智恵子は若き日、油絵に打ち込んだが、現存するのは3点。生家の破産などを経て自殺を図った40代半ば以降、統合失調症を悪化させていく。出身地の福島県二本松市で活動する市民団体「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷健一代表(70)は「病気で普通に暮らせなくなっても創作技術や美意識は衰えず、素晴らしい紙絵として実を結んだ。真の芸術家と仰ぐ光太郎に高く評価され、人生最大の喜びを感じていたはず」と語る。
 故郷から遠く離れた大井町で智恵子が逝った縁を後世に伝える碑が95年、地元住民で作る「品川郷土の会」の尽力で病院跡地に完成した。黒い御影石には光太郎が妻の臨終をうたった「レモン哀歌」が刻まれ、今も足元に黄色いレモンが供えられている。
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■昭和の姿、ジオラマで再現
 幼いころに綱渡りの曲芸を見た駅前広場、親に「行くな」と固く禁じられた闇市の跡、初めてドライカレーを食べた喫茶店――。
 品川区二葉1丁目に住む元学習塾経営者の石井彰英さん(65)が、生まれ育った大井町駅付近の昭和30~50年代をジオラマで再現したのは3年前のことだ=写真は夜の大井町駅前。それまでも神奈川の江ノ島電鉄沿線や北鎌倉駅周辺などを、趣味で製作してきた。大井町の再現に挑んだのは「今は治安が良くなり、便利で暮らしやすくなったが、あのころの猥雑(わいざつ)さが失われて面白みがなくなった」と思うからだ。そこで古い町並みの写真を集め、90代の人から直接話を聴き、参考にした。「懐かしんでもらうのと同時に、ジオラマの中に溶け込んで一緒に遊んでほしい」と臨場感あふれる動画を編集し、同世代の音楽仲間の協力を仰いでオリジナルの曲もつけた。ホームページ「大井町の語り部」の中で公開している(http://oikataribe.jpn.org/diorama別ウインドウで開きます)。
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一昨年、花卷高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と花巻電鉄」の際に、光太郎が暮らした頃の花巻とその周辺のジオラマを作成された石井彰英氏についても書かれています。元々、花巻ジオラマをお願いしたのは、先に作成された大井町のジオラマでゼームス坂病院を取り上げて下さったいたためです。

どんどん変貌していく「まち」。しかし、そこに刻みつけられた「記憶」、しっかり残していくことは大切なことだと思います。そのために、こうした記事や、石井氏のジオラマなど、好個の取り組みかと存じます。

明日は花巻に関し、同様の内容で。

【折々のことば・光太郎】

宮沢邸焼けあとの壕より余のもの大半出る。リユツクもある。馬車にて桜の農家に持ちゆけり、蔵の火きえる。


昭和20年(1945)8月12日の日記より 光太郎63歳

花巻空襲から2日後です。「蔵」は疎開していた宮沢家の蔵です。「余のもの大半」の中には、先頃、花巻高村光太郎記念館さんで展示されたホームスパンの毛布なども含まれていました。在りし日の智恵子にせがまれて購入したもので、不思議な縁を感じます。

11月16日(月)、岳温泉さんをあとに、愛車を国道4号に進入。目指すは道の駅「安達」智恵子の里さん。今回の宿泊が、いろいろ物議を醸しているGoToトラベルの対象で、地域共通クーポンなるものを渡されまして、その消費のためです。

ちなみにGoToトラベル、別に最初から利用しようと思っていたわけではなく、ネットで宿泊の予約をしたら勝手に付いていた、という感じです。当方のような個人事業主的な人々は、こうした地方出張の際にもGoToトラベルを利用しているでしょうし、どうも政府の言う「観光に貢献」、コロナ感染拡大を恨めしく思う人々の「このご時世に呑気に観光かい」的な論調、どちらも的外れのように感じています。

閑話休題、道の駅に到着。
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玉嶋屋さんの羊羹、浪江焼きそばなどを買い込み、さらにこんなものも。
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7月のブログでご紹介した「アマビエ夏マスク」。まだ完売していませんでした。「智恵子抄」からヒントを得た「レモン色」(笑)。マスクで腰の負担が軽減されるのか? と疑問に思いましたが、特殊な水着の素材をマスクに転用したそうで、そのためこんなパッケージになっているようです。

しかし、こういうものの常で、もったいなくて使えません(笑)。だったら保存用と使う分と二つ買え、と突っ込まれそうですが、特殊素材の品で、一つ1,000円以上ですので……。

奥の智恵子コーナー、健在でした。
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その後、智恵子生家・智恵子記念館へ。岳温泉さんから下山する途中は霙(みぞれ)まじりでしたが、このころには快晴。「ほんとの空」となっていました。
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まずは生家を拝見。
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約一年ぶりですが、何回目かはもう忘れました(笑)。50回は来ていないとは思いますが、20回やそこらではきかないような気がします。

それだけ来ていながら、これまで気がついていなかったことがありました。なんと、展示されている箪笥に木彫の蝉があしらわれているというのです。前日、当方が講師を務めさせていただいた智恵子講座2020をご聴講くださった、都内からお越しのかたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)からお聞きしました。木彫の蝉といえば、光太郎の代表作の一つ。ただ、「光太郎のものではなさそうでした」というお話でした。それでも自分の眼で確認しないと気が済みません。二本松にも光太郎の木彫の蝉がたしかにあったという、かなり信頼出来る情報を以前に得ていましたし。

たまたま市役所の方がいらっしゃり、当方の身分を明かして座敷に上がらせていただきました。本来、この日は月曜日だったので、特別公開の日ではなかったのですが、他にお客さんもいませんでしたし(のちに当方と入れ違いに大型バスのご一行が見えましたが)、ラッキーでした。
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しかし、やはり光太郎の蝉とはだいぶ趣が異なっていました。残念。ただ、こうした意匠はあまり一般的ではないような気もします。それにしても、これまで数十回来ていながらまったく気付かなかったというのも汗顔の至りです。

その後、裏手の智恵子記念館へ。
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こちらでは、智恵子の紙絵の、複製でない実物10点が公開中です。泊めていただいた「あだたらの宿扇や」さんとこちらと、2日続けて別々の場所で紙絵の真作を拝見するとは、なんとも贅沢でした(笑)。

また、「第24回智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」の入賞作品も展示されていました。
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こうした活動が、子供たちが光太郎智恵子の世界に興味を持つきっかけになればと願ってやみません。

生家、記念館を後に、すぐそばの戸田屋商店さんへ。
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こちらの女将さんは、彼の地で、レモン忌をはじめとする智恵子の顕彰活動をなさっている「智恵子の里レモン会」のメンバーです。

以前と比べ、だいぶ店内がスッキリしていました。逆に、書籍のコーナーなどは充実。
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すると、売り物ではなく、展示しているものの中に、古い新聞の切り抜きの束が。

「これ、何ですか?」と言いつつ、手にとって見せていただくと、連載小説ではなく、連載評伝といった塩梅の、「真説 智恵子と光太郎」。
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100回分近くあったでしょうか。書かれたのは安斎宗司という方で、女将さんのお話では、二本松の人で、もう亡くなっているとのこと。帰ってから調べましたら、郷土史家的な方で、戊辰戦争などについてのご著書も出版されていました。

ざっと読ませていただきましたが、智恵子の生涯や、没後の地元での顕彰活動などについて書かれていました。単行本化などが為されず、当方、全く存じませんでした。おそらく福島の地方紙か、全国紙の福島版かに連載されたようです。

いつのもの、というのが女将さんもよく憶えていないそうでしたが、各回の裏面を見ますと、「南海の江夏」とか、「映画『日本の首領(ドン)』」などといった記述があり、これも帰ってから調べてみましたところ、該当するのは昭和52年(1977)でした。

中には、当方も見た記憶がないような写真も。
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もしかすると、エピソード的にも未知の内容が含まれているかも知れませんし、ぜひ単行本化してほしいものですが、難しいでしょうか。

その後、二本松産のリンゴを購入。道の駅には青森産のものしか置いておらず、これもラッキーでした。
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そして、帰途につきました。実り多い1泊2日でした。

以上、二本松レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

荷葉氏とはもと何等のよしみもなく一面識もなき我ながら芸術の為めとあらばさほどの欠礼はゆるさるべしと思へば一の紹介も有たずして甚だ唐突の書状は差し出したるなり。

明治36年(1903)3月30日の日記より 光太郎21歳

「荷葉氏」は山岸荷葉(かよう)。光太郎より7歳年長の小説家です。演劇評もしていたため、歌舞伎界に顔が利くというので、昨日ご紹介した尾上菊五郎像を作るため、写真を借りる伝手(つて)にしようとしたわけです。

何等のよしみもなく一面識もなき我ながら芸術の為めとあらばさほどの欠礼はゆるさるべし」当方も「あるある」です。これも昨日の記事に書いたように、「光太郎の写真もあるはずですので探して下さい」的な(笑)。

昨日から1泊2日で、智恵子の故郷・福島は二本松に行っておりまして、さきほど千葉の事務所兼自宅に帰投いたしました。実りの多い2日間でした。3回に分けてレポートいたします。

メインの目的は、二本松市で行われた「智恵子講座2020」。第2回の講師を拝命したもので。今年は新型コロナのためにこの手の仕事が中止や延期のオンパレードで、9月の花巻に続き、これでようやく2回目でした。

いつもですと、二本松は日帰りということが多いのですが、今回は現地調査を兼ねまして、1泊。本当は前日から宿泊したかったのですが、土曜日ということもあったのでしょうか、目的の宿がとれませんで、講座修了後に宿泊することとし、夜明け前に千葉を出ました。

この日は快晴でした。途中の安達太良SAからみた安達太良山。「ほんとの空」をバックに、さらに紅葉も彩りを添え、実に綺麗でした。
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午前9時過ぎ、講座会場の福島県男女共生センターに到着。
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二本松霞ヶ城のすぐそばで、窓からお城と安達太良山がよく見えます。SAでは気付きませんでしたが、安達太良山頂はすでに冠雪していました。
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地元の方々を中心に、20名弱の方が聴講して下さいました。内容的には光太郎の歩みを2時間程でご紹介。
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終了後、主催の「智恵子のまち夢くらぶ」の熊谷代表ご夫妻、それから、ご聴講下さった、都内からお越しの「かたりと」のお二人(津軽三味線の小池純一郎氏、奥様で朗読家の北原久仁香さん)と、霞ヶ城へ。
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例年ですと菊人形の時期ですが、今年はやはりコロナ禍のため、規模を縮小して入場無料の「菊花展」という形で行われていました。
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紅葉も実にいい感じ。
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元は智恵子生家にあったという藤による藤棚。久しぶりに拝見しました。
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智恵子抄詩碑。こちらも数年ぶりに拝見。
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ここまでは、以前にも何度か登ってきたことがあったのですが、今回初めて、さらに先の天守台まで足を伸ばしました。
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地元では初日の出を拝むスポットとしても人気だそうで、なるほど、眺望が素晴らしい場所です。
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見上げれば、「ほんとの空」。
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この後、宿泊する安達太良山中腹の岳温泉さんに。以下、明日。

【折々のことば・光太郎】

疑問、疑問、是れ人世の声なるか。人生れて心あり、疑無きを得ざるなり。已に疑つて此を解かんとす。疑は疑を呼び、惑はまた更に惑を生む。あゝ人生の疑問いつの世か果して之を解き尽すべき。

明治36年(1903)3月21日の日記より 光太郎21歳

このコーナー、当分の間、日記から言葉を拾います。

現存が確認出来ている光太郎日記の最古のもの。「彫塑雑記」と題され、最初のうちは単なる日記の枠を超えた、随想的な記述が目立ちます。「疑問、疑問、是れ人世の声なるか。」まさに「若きウェルテル」ならぬ「若き光太郎」の魂の叫びです。

新刊です

分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生

2020年10月20日 田路貴浩編 京都大学学術出版会 定価4,400円+税

内容紹介
我々は起つ。/過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために——東京帝国大学工学部建築学科を卒業した石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、山田守、矢田茂の6人は、「分離派建築会」を結成、様式に目をむけてきた建築界に抗って、彼らは建築における「芸術」を目指した。自由な芸術を求めた彼らがふたたび様式に美を見出すまでの過程を、32の論考であらゆる角度から描き出す。

目次
はじめに [田路貴浩]
I Secessionから分離派建築会へ
 分離派の誕生——ミュンヘン、ベルリンそしてウィーン[池田祐子]
 オットー・ヴァーグナーの時代の建築芸術——被覆とラウム、そして、生活へ[河田智成]
 分離派と日本 分光と鏡像——雑誌『青鞜』創刊号表紙絵をきっかけに[水沢 勉]
 はじめに
 1 『青鞜』創刊号表紙絵の基本データ
 2 イメージ・ソース
 3 もう一つの「湖水の女」の表紙絵
 おわりに
 青島とドイツ表現主義[長谷川 章]
II 結成、または建築「創作」の誕生
 分離派建築会と建築「創作」の誕生[田路貴浩]
 一九一〇年前後の美術における「創作」意識[南明日香]
 分離派建築会の「建築・芸術の思想」とその思想史的背景
——和辻哲郎との照応関係から[飯嶋裕治]
 分離派への道程——世代間の制作理念からの再考─足立裕司
III 〈構造〉対〈意匠〉?
 日本における初期鉄筋コンクリート建築の諸問題[堀 勇良]
 分離派登場の背景としての東京帝国大学[加藤耕一]
 東京帝国大学における建築教育の再読——学生時代における建築受容の様相[角田真弓]
 「構造」と「意匠」および建築家の職能の分離[宮谷慶一]
IV 大衆消費社会のなかでの「創作」
 ゼツェッシオン(分離派)の導入[河東義之]
 博覧会における建築様式——分離派建築会の前後[天内大樹]
 「文化住宅」にみる住宅デザインの多様性の意味[内田青蔵]
 大大阪モダニズムと分離派——街に浸透する美意識[橋爪節也]
V 建築における「田園的なもの」
 「田園」をめぐる思想の見取り図─杉山真魚
 瀧澤眞弓と中世主義——《日本農民美術研究所》の設計を通して─菊地 潤
 堀口捨己の田園へのまなざし─田路貴浩
 堀口捨己と民藝——常滑陶芸研究所と民藝館を糸口に─鞍田 崇
VI 彫刻へのまなざし
 大正〜昭和前期の彫刻家にとっての建築[田中修二]
 「リズム」から構想された建築造形[天内大樹]
 山田守の創作法——東京中央電信局および聖橋の放物線の出現とその意味[大宮司勝弘]
 石本喜久治の渡欧と創作——あるいは二〇世紀芸術と建築の接近[菊地 潤]
VII 「構成」への転回
 創作活動の展開[蔵田周忠]
 分離派建築会から型而工房へ[岡山理香]
 創造・構成・実践——山口文象と創宇社建築会の意識について[佐藤美弥]
 「新しき社会技術」の獲得へ向けて
——山口文象の渡独とその背景をめぐって[田所辰之助]
 表現から構成へ——川喜田煉七郎におけるリアリティの行方[梅宮弘光]
VIII 散開、そして「様式」再考
 古典建築の探究から様式の超克へ——森田慶一のウィトルウィウス論をとおして[市川秀和]
 オットー・ワグナー十年祭と岸田日出刀の様式再考
——「歴史的構造派」という視座をめぐって [勝原基貴]
 堀口捨己による様式への問いと茶室への遡行 [近藤康子]
 自由無礙なる様式の発見——板垣鷹穂・堀口捨己・西川一草亭 [本橋 仁]
おわりに
 分離派建築会以後——「創作主体」の行方[田所辰之助]
あとがき
索引
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「分離派」は、19世紀末、ミュンヘン、ウィーン、ベルリンをそれぞれ拠点として起こった芸術運動です。フランスのアール・ヌーボーやアンデパンダンの影響を受け、保守的なミュンヘン芸術家組合からの「分離」を図った芸術家たちがまずミュンヘンでその動きを興し、それがウィーン、ベルリンに波及しました。最も有名なのがウィーン分離派。かのグスタフ・クリムトや、エゴン・シーレがその中心でした。

分野としては、絵画、工芸、建築などと多岐に亘ります。ジャポニスムの影響も夙に指摘されていますが、逆に日本に与えた影響はあまり大きくなかったというのが定説のようです。

ただ、建築の方面では、大正9年(1920)、東京帝国大学(現・東京大学)工学部建築学科卒の建築家たちが、ウィーン分離派の動向に感銘を受けて建築の芸術性を標榜し、「分離派建築会」を結成しました。メンバーは堀口以外に石本喜久治、瀧澤眞弓、森田慶一、山田守、矢田茂ら。

本書はその「分離派建築会」についてのもので、現在、パナソニック汐留美術館さんで開催中の「分離派建築会100年展建築は芸術か?」とリンクしている部分もあるのかな、という感じです。

その分離派建築会の話に入る前段で、神奈川県立近代美術館長・水沢勉氏がウィーン分離派と日本との数少ない関連の例として、智恵子による雑誌『青鞜』表紙絵について玉稿を寄せられています。題して「分離派と日本 分光と鏡像——雑誌『青鞜』創刊号表紙絵をきっかけに」。氏と連絡を取ったところ、贈って下さいまして、恐縮の至りです。

平成29年(2017)に水沢氏、智恵子による女神像的な『青鞜』創刊号の表紙絵(中央下画像)、ウィーン分離派のヨーゼフ・エンゲルハルトという画家の寄木細工作品(左下画像)を模写したものであることを突き止められました。詳しくはこちら
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その件を中心に、さらに同じ『青鞜』で同一の図題ながら、若干の変更が見られるバージョン(右上画像・『青鞜』第2巻第8号 大正元年=1912)についても言及されています。

また、エンゲルハルトの寄木細工は、元々、セントルイス万博(明治37年=1904)に出品されたものですが、昭和18年(1943)に書かれたエンゲルハルトの回想文には、「いまニューヨークのある邸宅に飾られています」とのこと。未だ現存しているとすれば、是非見てみたいものです。

010その他、相模女子大学教授・南明日香氏の「一九一〇年前後の美術における「創作」意識」では、日本に於ける文芸・美術雑誌が分離派建築会に与えた影響といった観点から『早稲田文学』、『方寸』、『白樺』などに注目、それらに寄稿していた光太郎に触れられています。

これも寡聞にして存じませんで、汗顔の至りでしたが、『早稲田文学』の明治43年(1910)8月号に、神田淡路町に光太郎が開いた画廊・琅玕洞の内部を描いた正宗得三郎の挿画が載っていた由。また、左上の人物は光太郎と思われます。

ちなみに南氏、従来不明だった光太郎のさまざまな翻訳の原典を、多数突き止められている方です。

さて、『分離派建築会 日本のモダニズム建築誕生』。なかなか高価な書籍ですが、ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

私の行く道は寂しいけれども、清らかで、恍惚と栄光とに満ちてゐます。


散文「手紙」より 大正8年(1919) 光太郎37歳

今年発見した、ブロンズ彫刻「手」についての新発見の文章から。

大正8年(1919)といえば、智恵子もまだ健康を害しておらず、光太郎自身、彫刻家として脂ののった時期。そこで「恍惚と栄光とに満ちてゐます」。ただ、智恵子と二人、俗世間とは極力交渉を断とうとしていた時期でもあり、「寂しいけれども」なのでしょう。

大正元年(1912)の『第一回ヒユウザン会展覧会目録』に発表された詩「さびしきみち」を彷彿とさせられます。

  さびしきみち

かぎりなくさびしけれども
われは
すぎこしみちをすてて011
まことにこよなきちからのみちをすてて
いまだしらざるつちをふみ
かなしくもすすむなり

―― そはわがこころのおきてにして
またわがこころのよろこびのいづみなれば

わがめにみゆるものみなくしくして
わがてにふるるものみなたへがたくいたし
されどきのふはあぢきなくもすがたをかくし
かつてありしわれはいつしかにきえさりたり
くしくしてあやしけれど
またいたくしてなやましけれども
わがこころにうつるもの
いまはこのほかになければ
これこそはわがあたらしきちからならめ
かぎりなくさびしけれども
われはただひたすらにこれをおもふ

―― そはわがこころのさけびにして
またわがこころのなぐさめのいづみなれば

みしらぬわれのかなしく
あたらしきみちはしろみわたれり
さびしきはひとのよのことにして
かなしきはたましひのふるさと
こころよわがこころよ
ものおぢするわがこころよ
おのれのすがたこそずいゐちなれ
さびしさにわうごんのひびきをきき
かなしさにあまきもつやくのにほひをあぢはへかし

―― そはわがこころのちちははにして
またわがこころのちからのいづみなれば

全編かな書き。これは一字一句を自らの内部に刻みつけるように書いたから、とする説が有力です。

智恵子の故郷、福島二本松から市民講座の情報です

智恵子講座2020

期 日 : 2020年11月3日(火・祝) 11月15日(日) 11月23日(月・祝) 12月20日(日)
会 場 : 福島県男女共生センター 福島県二本松市郭内一丁目196-1
時 間 : 11/3のみ14:00~ 他は10:00~
料 金 : 通しで4,000円 各回1,000円
主 催 : 智恵子のまち夢くらぶ
申 込 : 熊谷 090-7075-6743



テーマ 「高村光太郎の人生と芸術」
彫刻家であり詩人で智恵子の夫の高村光太郎。十和田湖畔の裸像や詩集「智恵子抄」「道程」は余りにも有名。智恵子と共に美と愛を貫いたその人生と芸術に迫ります。 参加者に「智恵子抄」をプレゼント。

講師
11/3   西浦基  (高村光太郎研究会)
11/15 小山弘明 (高村光太郎連翹忌運営委員会代表)
11/23 熊谷健一 (智恵子のまち夢くらぶ代表)
12/20 澤正宏  (福島大学名誉教授) 
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というわけで、当方も講師に名を連ねさせていただいております。当方はパワーポイントのスライドショーを使い、光太郎の生涯を総合的、俯瞰的に紹介する予定です。

コロナ禍でいろいろ中止になるイベントが多い中、貴重な機会です。1回のみの参加も可。ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

教わつてできたものではなく、こつちが圧倒される、賢治の詩を本当に読める人は偉いものだ

講演筆録「岩手は日本の背骨 後編 ノロイが堅実」より
昭和24年(1949) 光太郎67歳

9月28日の地方紙『花巻新報』第115号に掲載された文章から。9月21日、賢治祭に因んで花巻文化劇場で開催された講演の筆録です。2回に分けての掲載で、10月7日発行の第116号に掲載された後編のみ、『高村光太郎全集』第20巻に収められていますが、それに先立つ前編を数年前に発見しました。

ある種、難解なところもある宮沢賢治の詩。わかったつもりでいる人が多いけれど、上っ面だけの理解にとどまっているのではないか、という箴言ですね。

地方紙『福島民友』さんの記事から

高村智恵子の紙絵、実物10点展示 11月24日まで二本松の記念館

000 二本松市出身の洋画家高村智恵子が病床で制作した紙絵の実物展示は11月24日まで、同市智恵子記念館で開かれている。紙の色合いや質感といった本物だからこそ分かる作品の魅力を味わえる。
 智恵子は精神を病み、入院先のゼームズ坂病院での2年間の闘病生活で千数百点の紙絵を制作した。作品は智恵子の才能が開花したなどと高く評価された。同館では高村家から譲渡を受けて24点を収蔵している。
 紙絵の紙質が悪く、照明などで劣化しやすいため同館は通常、複製を展示する。このため本物に触れる機会を―と年2回、収蔵品の中から10点を選び、実物を展示。今回は「青い魚と花」や「菊」「小鉢」が展示され、来館者が「奇跡」ともいわれる智恵子の紙絵に触れている。
 開館時間は午前9時~午後4時30分(最終入館は同4時)。水曜休館。入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。

記念館に隣接する智恵子の生家では、智恵子の居室を含む2階部分の特別公開も実施中。『民友』さんでは過日、その件を報じて下さいましたが、今度は記念館での紙絵実物展示の件。一度に紹介してしまえばいいような気もしますが、もしかすると当ブログ同様、「ネタは小出しにする」ということなのかもしれません(笑)。
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以前にも同じようなことを繰り返し書いていますが、実物の紙絵は厚さ1㍉にも満たない中で、紙の重なりが微妙な立体感を生み出しています。これは精巧な複製であっても表現できないことで、やはり実物を見ていただきたく存じます。

実物展示は11月24日(火)まで(水曜休館)。併せて生家2階の公開にも足をお運び下さい。ただ、そちらは土日祝日のみですのでご注意下さい。


【折々のことば・光太郎】

自然に帰れ、芸術は絶対である、純一である。

散文「貧弱なる個性の発露」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

心を病み、夢幻界の住人となった智恵子の紙絵。究極の自然に帰った芸術と言えるような気がします。

先週の『福島民友』さんから。過日ご紹介した智恵子の生家2階部分の特別公開に関して報じて下さっています。

高村智恵子の居室特別公開 二本松の生家、当時の様子のままに

 二本松市出身の洋画家高村智恵子の生家を復元した智恵子の生家は10日、普段は見学できない智恵子の居室がある2階の特別公開を始めた。福島高等女学校を卒業するまで過ごした智恵子の少女期に思いをはせることができる。
 智恵子は、銘酒「花霞」を醸造した造り酒屋に生まれた。家族や使用人と共に暮らした家の2階のうち9畳と4畳半の2部屋を使っていて少女期はもちろん、夫で詩人、彫刻家の高村光太郎と結婚した後も帰省するとこの部屋で過ごしたといわれている。
 9畳の居室には、九谷焼で作られた電灯のローゼットが展示され、智恵子が中庭の花を眺めていたとされる連子窓も当時のまま。女学校で答辞を述べるなどした智恵子の暮らしぶりがしのばれる。
 特別公開は11月23日までの毎週末と祝日に行われている。時間は午前9時~午後4時。入館料は高校生以上410円、小中学生210円。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。
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九谷焼で作られた電灯のローゼット」は、天井に電灯を取り付ける器具。カバー部分が陶器製で、花柄があしらわれています。このブログ内で画像を探したのですが見つけられず(既に20,000枚を超えていますので(笑))、坂本富江さん著『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』から画像等拝借します。
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これを取り外しての展示なのかなどは不明なのですが……。

花巻高村光太郎記念館さんで、チラシをゲットして参りました。
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隣接する智恵子記念館での紙絵実物展示(通常時は複製のみ)についても案内が。

裏面は周辺地図等。
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毎年恒例とはなっていますが、やはり貴重な機会です。ぜひ足をお運びください。当方は来月、行って参ります。


【折々のことば・光太郎】

書を持っていると、そのことをいいことにしているような人には書きません。
談話筆記「高村光太郎先生説話 三四」より
昭和27年(1952) 光太郎70歳

浅沼政規著『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995)掲載の「高村光太郎先生説話」からの抜粋、今日で終わりです。

故・浅沼氏は光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)近くの山口分教場が小学校に昇格した際、校長として赴任してきました。当時同校の児童だった子息の隆氏は今も光太郎の語り部としてご活躍されています。浅沼校長は折に触れ、光太郎の語った言葉を筆録していました。

最後の「三四」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京する直前のものです。「記念に何か書いてくれ」という要望が多かったのですが、「自分の書を持っていることを自慢するような魂胆の人には書かないよ」と、ちょっとドキッとさせられる発言ですね。

先日もちらっと書きましたが、智恵子の故郷・福島県二本松でのイベントです 

当商工会議所では、あだたら商工会と合同で霞ヶ城公園菊花展の開催期間に合わせ、全市内を対象としたスタンプラリーを実施します。岳温泉宿泊券や家電製品、地場産品など豪華賞品が抽選で当たりますので、奮ってご応募下さい。新型コロナウイルス感染症拡大の影響に苦しんでいる地元のお店を利用して応援しよう!!

開催期間 令和2年10月1日 (木)~11月30日 (月)

応募方法
期間中、参加店で500円以上お買い物をして、応募はがきにスタンプ(参加店番号)を押してもらって下さい。参加店のスタンプが5つ集まったら、応募はがきに必要事項を明記のうえ、63円切手を貼ってご応募下さい。

注意事項010
スタンプの押印は1回のお買い物につき、応募はがき1枚に限定されます。
同一店舗のスタンプが2つ以上あった場合は、無効となります。
1人何通でも応募できます。
参加店はこのポスターが目印です!!

応募締め切り 令和2年12月2日(水) 当日消印有効

抽選日 令和2年12月下旬(予定) ※厳選に抽選します

当選発表 賞品の発送をもってかえさせて頂きます。

参加店等詳細については、下記をご覧下さい。

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地方紙『福島民友』さんに記事が出ていました 

【二本松】買い物してスタンプGET! 124店舗参加、抽選で賞品

001 二本松商工会議所とあだたら商工会は1日、二本松市の参加店でスタンプを集めると総額100万円の賞品が抽選で当たる「オールにほんまつスタンプラリー2020」を始めた。11月30日まで。
 新型コロナウイルス感染症の影響を受ける会員事業所を支援するため、あだたら商工会合併15周年記念と銘打ち実施、小売店や飲食店など124店舗が参加した。市、福島民友新聞社などの後援。
 スタンプは500円以上の買い上げで一つ押印し、利用者は5店舗分を集めると抽選に応募できる。賞品は岳温泉ペア宿泊券(2組)や加湿空気清浄機(1組)など。12月2日(当日消印有効)まで受け付けた後、同月下旬に抽選会を開く。
 スタート後初の週末となった3日、参加店は買い物客でにぎわった。
 時計や眼鏡、装飾品販売を手掛けるリュクレ石沢でも多くの買い物客が訪れ、支払いの際に店員らからスタンプを押してもらっていた。
 問い合わせは二本松商議所(電話0243・23・3211)か、あだたら商工会(電話0243・23・5854)へ。

智恵子生家/智恵子記念館に隣接する戸田屋商店さん、道の駅「安達」智恵子の里さんなども参加なさっています。
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その他、参加店一覧はこちら。クリックで拡大します。
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当方、来月には二本松に参りますので、スタンプを集めるつもりでおります。「コードレススティックサイクロン掃除機」に触手が非常に動いています(笑)。

皆様もふるってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

結局、平凡なことですが、「正直」というのを採りました。正直は一番根本になると思いますし、正直はそのときは損なようでも、永い間には得になるのです。それに「親切」を加えました。そういうわけで、あの書「正直親切」をあげた次第です。
談話筆記「高村光太郎先生説話 二九」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花卷郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校で開催された学芸会に呼ばれ、児童たちに語った言葉の一節です。校訓として贈った「正直親切」の語について、解説しました。
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この文字を刻んだ碑は、山口小学校跡、光太郎も通った東京の第一日暮里小学校さん、埼玉東松山の新宿小学校さんにそれぞれ建てられています。

コロナ禍のため、不要不急の外出はまだ避けていますし、公共交通機関を使っての遠出も少なくなりましたので、そのお供として持参する頭を使わなくて済む時代小説、推理小説等を購入しなくなり、新刊書店に行く機会がめっきり減りまして、出版事情に疎くなっている部分があります。

で、近々、花卷に参りますので、お供の書籍を探そうと久々に行った新刊書店で見つけた新刊……といっても発売から3ヵ月経っていました

愛の手紙の決めゼリフ 文豪はこうして心をつかんだ

2020年7月3日 中川越著 海竜社 定価1,400円+税
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夏目漱石、太宰治、宮沢賢治、与謝野晶子、ドストエフスキーなどの文豪や、ダーウィン、ゴーギャン、良寛、渥美清などの世界・日本の偉人たち。彼らは、親しい人に手紙でどんな言葉を書き送ったのでしょうか?
本書では、恋人、妻や夫、家族、弟子や師匠などに宛てた愛情あふれる手紙を紹介。「さすが!」と驚嘆する卓越した表現があるかと思うと、ときには率直で心を射貫く言葉があったり、やきもちや未練がバレバレの憎めないセリフがあったりと、引き込まれる文章が満載です。
本書で「相手の心をつかむ言葉」を学ぶもよし、文豪・偉人の意外な素顔を楽しむもよし、手紙を通じて彼らの人生を共有し、励まされるもよし! 楽しみ方はいろいろです。

目次
 はじめに
 第一章 恋愛の決めゼリフ
  パズルの最後のワン・ピースを手に入れた島崎藤村
  ピュアーにまっすぐプロポーズした芥川龍之介
  ラブレターの最高傑作を欄外に書いた太宰治
  いたずらなお願いで楽しく困らせた立原道造
  斬新な理由で恋文の筆を止めた内田百閒
  いつになく遠回しな言い方を避けた竹久夢二
  愛の楽章を文章で奏でたベートーヴェン
  箇条書きの質問形式で求愛した平塚らいてう
 第二章 夫婦愛の決めゼリフ
  二人称代名詞一語を名詩に変えた南極越冬隊員の妻
  身勝手な言い訳で呆れさせたゴーギャン
  惚れた弱みを隠すぞぶりでたっぷり甘えた国木田独歩
  遠隔愛撫の方法を知っていた徳富蘆花
  届きにくい反省を努めて届けたドストエフスキー
  空白の十年を美しく諦めた九条武子
  一日千秋の思いを笑話に託した和辻照(和辻哲郎夫人)
 第三章 友愛の決めゼリフ
  哀切な近況報告を美しく通知した梶井基次郎
  友情色に恋愛色が混ざる言葉を告白した武者小路実篤
  失礼なあいさつで親愛を深めた夏目漱石
  傷心への寄り添い方を知っていた宮沢賢治
  言葉の霊力を信じた「日本語の番人」新村出
  嫉妬と祝福を同時に感じ苦悶した若山牧水
  友と恋人を等価値と知らせた永井荷風
 第四章 家族愛の決めゼリフ
  〈母宛〉いちばん大事なことしか書かなかった渥美清
  〈子宛〉千尋の谷に突き落とす覚悟を報知した福沢諭吉
  〈子宛〉たどたどしく詩的に懇願した野口シカ(野口英世の母)
  〈父宛〉興奮を伝え元気を証明したダーウィン
  〈妻宛〉不機嫌を報告し溺愛をあらわにした森鷗外
  〈甥宛〉大愚をやさしく説き処世訓とした会津八一
  〈弟宛〉放蕩は死を招く凶器と警告した良寛
 第五章 師弟愛の決めゼリフ
  高らかに女々しく恋慕した萩原朔太郎
  貶めて紹介し優遇を求めた芥川龍之介
  ビスケット話で親愛をたっぷり送った夏目漱石
  太宰に厳しく弟子には優しかった志賀直哉
  けなされた人の心理に優しく寄り添った正岡子規
  詩作の秘密をていねいに詩的に説いたリルケ
  軽妙な俳味を披露し心中を食い止めた夏目漱石
 第六章 別離の決めゼリフ
  別れた妻の再婚と幸福を願った伝四郎
  別れたくて別れたくなかった北原白秋
  愉快な悪口で鬱憤を晴らした八重次(永井荷風の元妻)
  あっさりと謝り肩すかしを食らわせた与謝野晶子
  冷厳な決別の中に永遠の愛をひそませた高村光太郎
 人物一覧/引用・参考資料

著者の中川越氏、昨年刊行された『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』も書かれていて、装幀や構成がよく似ているので同じシリーズかと思っていましたが、『言い訳』は新潮社さん、こちらは海竜社さんと、版元が違っていました。

店頭で見つけた時、「あ、中川さんの新著か、光太郎に触れてくれているだろうな」と思いつつ、手に取りました。光太郎で「愛の手紙」となると、大正2年(1913)の、結婚前の智恵子に送った手紙か、昭和9年(1934)、九十九里浜で療養していた智恵子に送ったハガキが紹介されているだろうと予想していました。しかし、目次を見ても「第一章 恋愛の決めゼリフ」に光太郎の名が無く、「第二章 夫婦愛の決めゼリフ」にもありません。第三章以下は「友愛」「家族愛」「師弟愛」……あまり光太郎には関係がなさそうで、実際やはり光太郎の名は見えず。「あれっ、今回は光太郎はスルーか?」と思ったところ、最後の最後、大トリが光太郎でした。

002「冷厳な決別の中に永遠の愛をひそませた高村光太郎」。目次を見て、「おお、これを持ってくるか」という感じでした。

「手紙」ではなく、昭和29年1月に雑誌『婦人公論』に発表された詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」です。

  十和田湖畔の裸像に与ふ

 銅とスズとの合金が立つてゐる。
 どんな造型が行はれようと
 無機質の図形にはちがひがない。
 はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
 きたならしさはここにない。
 すさまじい十和田湖の円錐空間にはまりこんで
 天然四元の平手打をまともにうける
 銅とスズとの合金で出来た
 女の裸像が二人
 影と形のやうに立つてゐる。
 いさぎよい非情の金属が青くさびて
 地上に割れてくづれるまで
 この原始林の圧力に堪へて
 立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をモチーフにした詩で、像が亡き智恵子の顔を持つことから、亡き智恵子への「別離」の「手紙」とも読めますね。


003
光太郎と交流のあった詩人・伊藤信吉は、その著書『詩のふるさと』(昭和43年=1968 新潮社)の中で、「投げつけるようなこの言葉は哀惜の反語である。同時に生涯の愛の表現を完了したことの嘆息である。」としています。言い得て妙、ですね。

この詩を引用する前の部分で、智恵子との日々についても、『智恵子抄』所収の詩を引用しつつ、アウトラインが紹介されています。

『愛の手紙の決めゼリフ』、こうした書籍の通例ですが、光太郎智恵子と交流の深かった面々も多数登場します。平塚らいてう、武者小路実篤、宮沢賢治、森鷗外、与謝野晶子など。

ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

人をよく知り、世界をよく知ると、自分の国ばかりほめたりしません。心の広い立派な人になります。
談話筆記「高村光太郎先生説話 二七」より
昭和26年(1951) 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花卷郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校で行われた、稗貫郡PTA講演会で語った一節です。かつて自らもその愚に囚われていた自国第一主義、国粋主義への警句ですね。

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