カテゴリ: 智恵子

『毎日新聞』さん系列のスポーツ紙『スポーツニッポン』さんで、5月3日(土)、智恵子にからめ、その故郷である福島県二本松市を大きく取り上げて下さいました。

こだわり旬の旅 福島・二本松

二本松城でしのぶ戊辰戦争の悲劇 少年隊士の思いに涙…本丸跡からは絶景が
 JR東日本のデスティネーションキャンペーン開催中の福島県は二本松市に出かけた。IT系ニュースサイトで、穴場の観光地として上位にランクされたからだ。霞ヶ城公園にある二本松城(霞ヶ城)跡や詩集「智恵子抄」で知られる智恵子の生家、岳温泉など観光スポットが点在するが、中でも同城にまつわる、会津・鶴ヶ城の白虎隊より若い二本松少年隊の悲劇に心奪われた。
 春の桜と秋の菊人形で知られる霞ヶ城公園。桜の季節が終わり静けさが戻ったが、胸はすぐに熱くなった。二本松城の美しい三の丸石垣と白土塀をバックに建つ「二本松少年隊群像」。1868年の戊辰戦争で薩摩・長州などの西軍から城を守るため、若い命を散らした二本松少年隊の奮戦姿と我が子の出陣服を仕立てる母の姿をかたどったブロンズ像で、名誉市民の彫刻家・橋本堅太郎氏が制作したもの。脇の掲示板や音声ガイドで、その悲劇が伝わってきた。
 それによると、少年隊は12~17歳の62人。緊迫した状況下で自ら出陣を嘆願し、熱意で藩主を説得して出陣。同年7月29日、城内への要衝・大壇口(城から南へ約2キロ)では隊長木村銃太郎が率いる25人が果敢に戦ったが、正午頃、二本松城は炎上し落城。少年隊の戦死者は他の戦地と合わせ14人を数えたという。
 17歳以下といえば、あの白虎隊の隊士より年齢が下。敗戦必至の中で、奥羽越列藩同盟の信義のために貫いた二本松藩の壮絶な戦いに追随、維新の夜明けを見ずに幼い命を散らした彼らの気持ちを思いやると、群像を見ているだけで涙を禁じ得なかった。
 少年隊が命がけで守ろうとした城は、室町時代の1414年、畠山満泰が築城し、1643年から丹羽氏が居城にした平山城。現在は日本百名城の一つで国指定史跡に指定されており、群像を過ぎてくぐった「箕輪門」は初代藩主・光重が最初に建造した櫓門(やぐらもん)。主柱のカシの巨木は箕輪村・山王寺山の神木を用いたことから、その名が付いたという。
 城内には落城の際に割腹した藩士・丹羽和左衛門らの自尽の碑や唯一の江戸期の建造物の茶亭「洗心亭」、門の土台となる石垣と門柱の礎石が残る「搦手門跡」など、見どころは多いが、圧巻は箕輪門から徒歩約15分の「本丸跡」(標高345メートル)。総工費5億3000万円、2年かけて復元されたもので、周囲を高石垣で固められ、枡形門や天守台がある。天守閣はなかったというが、眺望は最高。北側の眼下には福島市の町並みが広がり、西側には安達太良山がそびえる。まさに360度の大パノラマだ。
 その光景に何とか心は晴れたが、最後は少年隊にお参りをしようと墓のある大隣寺へ。丹羽家代々の菩提寺で、14人の供養塔が建立されている。隣接して会津藩の墓も建てられており、白虎隊への思いも含めてそっと手を合わせた。
 ▽行かれる方へ 東北本線二本松駅から徒歩約25分。車は東北道二本松ICから約5分。霞ヶ城公園から大隣寺へは車で約5分。問い合わせは二本松観光連盟=(電)0243(55)5122、大隣寺=(電)同(22)1063。 
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高村智恵子の生家は明治の面影そのまま…安達太良山の上には「ほんとの空」
 詩人・高村光太郎が妻・智恵子への想いを記した「智恵子抄」。その“純愛”に触れるべく、智恵子の杜公園にある「智恵子の生家・智恵子記念館」(入館料410円)を訪ねた。生家は造り酒屋で、明治初期に建てられた建物には、屋号「米屋」、酒銘「花霞」の看板が掲げられ、新酒の醸造を伝える杉玉が下がる。当時の面影をそのままに残しているようで、2階にある智恵子の部屋からは今にも智恵子が降りてきそうな気配だ。
 裏庭には当時の酒蔵をイメージした記念館があり、晩年、病に侵された智恵子の美しい紙絵や、当時の女性としては珍しい油絵の作品などを展示。見学し終わって外に出ると、後方には智恵子が愛してやまなかった「阿多多羅(安達太良)山」の上に青空が広がる。それはまさに抜けるようで、「ほんとの空」(智恵子抄から)を見た思いだった。東北本線安達駅から徒歩約20分。(電)0243(22)6151。
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生家の裏には記念館。こちらは白亜の近代的な建物だ
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智恵子の画像を入れたまちガイドマップ。見どころは多い

他に鬼婆伝説の残る安達ヶ原の黒塚や観世寺さん、安達太良山中腹の岳温泉さんが取り上げられていましたが、長くなりますし、智恵子の名は出て来ないので割愛します。

記事では「JR東日本のデスティネーションキャンペーン開催中」とありますが、正確には「デスティネーションキャンペーン」は来年4月から、現在は「プレデスティネーションキャンペーン」中です。その一環として県全域で「花の王国ふくしまフラワースタンプラリー2025」、二本松限定で「二本松ミュージアムツアー2025~スタンプラリーでめぐる歴史と芸術のまち~」などが行われています。

また、二本松が「IT系ニュースサイトで、穴場の観光地として上位にランク」だそうで。「穴場の」ではなく「定番の」とか「王道の」とかになってほしい気もしますが、昨今のいわゆるオーバーツーリズム問題を考えると、たいした混雑もなくゆったりのんびりと見て歩ける状況の方が望ましいと思います。閑古鳥が啼いている状態では困りものですが……。

GWも終わってしまいましたが、それだけに交通系の混雑も一段落。智恵子生家/智恵子記念館さんでの「高村智恵子生誕祭」は5月25日(日)までです。その他の光太郎智恵子聖地と共に、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

亡妻の実家も酒造りだつたので以前は時々酒粕をもらひました、大好物、うまい甘酒が出来ます、

昭和28年(1953)2月22日 石井荘男宛書簡より 光太郎71歳

石井荘男は埼玉在住だった画家。光太郎も足を運んだ帝国劇場での舞踊公演「藤間節子リサイタル」を観に行き、その会場で光太郎と知遇を得、お近づきのしるしに、的にのちほど酒粕を贈ったようです。

智恵子の故郷・福島二本松の高村智恵子生家/智恵子記念館さんで開催中の「高村智恵子生誕祭」につき、地元紙2紙が報道して下さっています。特に生誕祭の一環として、当会主催で行ったコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」を前面に押し出して下さり、ありがたく存じます。

まず『福島民報』さん、先月末には記事を出して下さいました。

詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子の生誕祭 5月11日まで紙絵の実物展示 福島県二本松市の智恵子記念館 智恵子抄の収録作、音楽に乗せて披露

 詩集「智恵子抄」で知られる福島県二本松市出身の洋画家・高村智恵子(1886~1938年)の生誕祭は4月24日、同市油井の智恵子の生家・智恵子記念館で始まった。5月20日の誕生日に合わせ、智恵子が制作した紙絵の実物展示や居室の特別公開などのイベントを繰り広げている。
 紙絵は「花パターン」や「菊」など10点を11日まで公開する。上川崎和紙の紙絵制作体験を17、18、24、25の各日に催す。生家の2階にある智恵子の居室は3~6、10、11、17、18、20、24、25の各日に公開する。
 入館料は高校生以上410円、小中学生210円。問い合わせは智恵子記念館へ。
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紙絵の実物を展示している記念館

 高村光太郎連翹忌運営委員会は4月27日、二本松市の智恵子の生家で、智恵子抄の収録作を音楽に乗せて披露する朗読公演を開いた。
 高村智恵子生誕祭の一環。ボイスパフォーマーの荒井真澄さんが朗読を担当し、智恵子抄の「樹下の二人」「あどけない話」「レモン哀歌」などを情感たっぷりに披露。箏曲演奏家の元井美智子さん、テルミン奏者の大西ようこさんが美しい音色を添えた。
 聴衆は高村光太郎が紡いだ言葉の数々と、音楽の共演を満喫していた。
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聴衆を作品の世界に引き込んだ朗読公演

続いて『福島民友』さん。昨日の掲載でした。

演奏に乗せ智恵子抄朗読 二本松の記念館で生誕祭

 二本松市の智恵子の生家・智恵子記念館は25日まで、同市出身の美術家高村智恵子の20日の誕生日にちなんだ恒例イベント「生誕祭」を開催している。4月27日は市と高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会との共催で初の特別企画「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」が開かれた。
 特別企画は午前と午後の2回行われた。箏曲奏者元井美智子さんとテルミン奏者大西ようこさん、朗読家荒井真澄さんが箏曲とテルミンの演奏に乗せて詩集「智恵子抄」を朗読した。
 期間中は、岩手県の花巻南高の家庭クラブの生徒が復元した「智恵子のエプロン」の復刻展示や「智恵子を偲ぶ折り鶴展~作成編」を開催している。折り鶴展は智恵子が晩年作成した折り鶴を来館者が作成すると、オリジナル紙絵ペーパークリップを贈呈する。作成した折り鶴は秋のレモン祭に展示する。
 このほか紙絵の実物展示や生家では25日までの土、日曜日、祝日と20日に、普段公開していない智恵子の居室を特別公開する。17、18、24、25日には同市の伝統工芸「上川崎和紙」を使い、しおりなどを作る制作体験も行われる。
 開館時間は午前9時~午後4時半(最終入館は同4時)。水曜日休館。入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。

『民友』さんでは、花巻南高さんによる「智恵子のエプロン」復刻展示にも触れて下さいました。『民報』さんの記者氏にもエプロンの件を推したのですが、「また改めて」みたいなご返答でした。口約束に終わらないことを期待します。殺伐としたニュースの多い中、こうした件を報道することで、人々の癒しにつなげてほしいものです。

生誕祭は5月25日(日)まで、ぜひ足をお運び下さい。

また、末筆ながらコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」にご出演下さったお三方に改めて御礼申し上げ、さらなるご活躍を祈念いたします(といいつつ、また当会主催ということで、7月に光太郎第二の故郷・花巻での公演を行うことになり――詳細は後日――、荒井さん、元井さんがご出演なさいますが)。

【折々のことば・光太郎】003

彫刻の方は今週あの粘土を石膏にとります。


昭和28年(1953)2月16日
真壁仁宛書簡より 光太郎71歳

「あの粘土」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作。実物およそ2分の1で、小型試作、実物と比較し、その顔が最も智恵子の顔に近いと評されています。

この中型試作は、生誕祭会場の智恵子記念館さんにも展示されている他、花巻高村光太郎記念館さん、現在特別展示 智恵子の紙絵」開催中の信州安曇野碌山美術館さん、それから野外展示で大阪御堂筋で常設展示されている他、千葉県立美術館さんにも同型のものの所蔵があり、時折展示して下さっています。

石膏取りの職人は牛越誠夫。光太郎もその作品を所有していた伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀の娘婿でした。

4月26日(土)~4月28日(月)、2泊3日で智恵子の故郷・福島二本松に行っておりまして、昨日はメインの目的だった高村智恵子生家/智恵子記念館さんで開催中の「高村智恵子生誕祭」の一環として、当会主催で行ったコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」についてレポートいたしました。

今日はその前後や合間にいろいろ巡った当地の光太郎智恵子関連スポット等のレポートを。二本松での光太郎智恵子「聖地巡礼」を考えられている方、ご参考になさって下さい。

4月26日(土)、JR東北本線二本松駅からスタートです。二本松にかつてあった智恵子顕彰団体・レモン会に所属されていた方、朗読家の荒井真澄さん、テルミン奏者の大西ようこさんご夫妻とここで待ち合わせ。
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昭和51年(1976)に駅前に設置された光太郎詩碑。「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節が刻まれています。
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光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる故・橋本堅太郎氏作の智恵子像「ほんとの空」。
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車輌二台に分乗して、安達太良山奥岳登山口へ。
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ロープウェイ乗り場に。
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揺られること10分ほど。8合目まで行けてしまいます。
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山頂駅周辺はまだ雪で覆われていました。
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10分ほど歩くと、薬師岳パノラマパーク。「パノラマ」と冠されている通り、絶景ポイントです。
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再びロープウェイで下り、登山口で昼食。当方は山菜そばと、大西さんの買ったチュロスをひとかけら分けていただきました。左は「奥岳」の「岳」、右はひらがなの「あ」。「あだたら」の「あ」でもあり、「ADATARA」で母音が全て「あ」ということにちなみます。
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ここから智恵子生家に移動、翌日のコンサートの会場設営等を行いました。
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めどがついたところで、同じ敷地内の智恵子記念館さんへ。
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花巻南高校さんの家庭クラブ/文芸部さんのご努力で復刻された智恵子のエプロン

やはり「高村智恵子生誕祭」の一環として行われている、「智恵子を偲ぶ折り鶴展~作製編~」にチャレンジ。
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おそらく今秋、やはりこちらで1ヶ月ほど開催されるであろう「高村智恵子レモン祭」の折に、こうして作られた折り鶴が展示されるはずです。

智恵子生家/智恵子記念館さんを後に、智恵子の実家・長沼家の墓所のある満福寺さんへ。
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智恵子が奉納した花立てには智恵子の名が刻まれています。
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続いて、阿武隈川が峡谷となっている「稚児舞台」へ。ここは直接は光太郎智恵子に関わりませんが、昔から名所とされている場所で、おそらく智恵子は足を運んだことがあると思われます。前九年の役にまつわる悲しい伝説の残る地です。
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ここを後にしてから知ったのですが、マムシがうようよいるところだそうで(笑)。

この日最後に、鬼婆伝説の残る観世寺さんと、黒塚。ただし観世寺さんは拝観時間を過ぎてしまっていました。
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ここは光太郎智恵子もやってきた場所です。戦後の昭和26年(1951)に光太郎が書いたエッセイ「『樹下の二人』」(同名の詩の解説)に、「近くの安達が原の鬼の棲家といふ巨石の遺物などを見てまはつた」とあります。

2泊お世話になったルートイン二本松さんへ。こちらのロビーにも、ちらっと智恵子の紹介などが。ありがたし。
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翌朝、ホテルの駐車場から見えた安達太良山。
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この日は先述のコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」でした。
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智恵子生家/高村智恵子記念館さん近くのスペース。昨年除幕された光太郎と智恵子の言葉を印刷した大きなボード。題字揮毫は書家の菊地雪渓氏。

コンサート午前の部を聴いて下さった、花巻南高校文芸部/家庭クラブの生徒さん、先生方。

エプロンの前で。
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智恵子生家内で。
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このあとご一行は、智恵子生家/智恵子記念館裏手の智恵子の杜公園を歩いて散策されたそうです。さらに地元の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~の方にお願いして車を出していただき、智恵子の母校・油井小学校さんや安達駅前の智恵子像などに案内してもらいまして、安達駅から花巻に帰られました。

コンサートの合間に、通常非公開の生家二階も。
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油井小学校さんと、安達駅の智恵子像、コンサートが終演し、片付けも終えたところで、我々も。
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こちらの智恵子像「今 ここから」も、二本松駅前の「ほんとの空」と同じ、故・橋本堅太郎氏の手になるもので、氏の遺作となってしまいました。

二本松駅前まで戻って早めの夕食を摂り、ここで荒井さんは仙台へ、箏曲の元井さんは都内へと、それぞれお帰り。大西夫妻と当方はルートインさんでもう一泊。

最終日、4月28日(月)。午後に発たれるという大西夫妻と共に、愛車で二本松市内聖地巡礼をさらに。

まずは道の駅安達智恵子の里さんへ。ここは全国的にも珍しく、上り線と下り線とに分かれ、それぞれがかなりの敷地を擁する大きな施設です。

下り線側から攻めました(攻めてどうする(笑))。
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上り線への連絡道路。ここからの安達太良山がまた実にいい感じでした。
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上り線側。
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智恵子にちなむご当地ソングの歌詞が三曲分。上段に故・二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(昭和39年=1964)。二本松にほど近い小野町ご出身の故・丘灯至夫氏の作詞です。下段の二曲は吾妻栄二郎氏の「折鶴の舞」「智恵子のふるさと音頭」(平成7年=1995)。
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施設内へ。
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これも上川崎和紙でしょうか。
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旧安達町から、二本松市街へ。電線を地中化してある竹田地区。ハナミズキが満開でした。
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二本松霞ヶ城。
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この少年隊像も橋本堅太郎氏作。
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桜はほぼ終わり。代わって藤が咲き始めていました。
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元は智恵子生家にあった藤です。
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ここで車に戻り、一気に天守台まで。歩いても行けますが、高齢者にはきつい行程です(笑)。
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この辺随一の初日の出スポットで、360°の眺望が素晴らしいところです。

天守台から下っていくと、少年隊の顕彰碑。彼らにこそ「義烈」の語がよく似合います。
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レリーフは橋本堅太郎氏のお父さま・橋本高昇の作。高昇が二本松出身ということで、堅太郎氏の作が市内あちこちにあるわけです。

そのちょっと下に、光太郎詩碑。
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千葉ではとっくに散った連翹もまだ健在。
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光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝・髙村豊周作のブロンズパネルが三面。
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右上の碑陰記的なパネルは当会の祖・草野心平の文字。他は光太郎の直筆を使っています。

大西夫妻にはこの下の道端で待っていてもらい、当方はとって返して愛車に乗り込み、お二人を拾いました。その後、東北道に入って南下。大西さんはウルトラ系ともご縁が深いので、安達太良SAで昼食。
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円谷英二監督が、同じ福島の須賀川ご出身ということで、安達太良SAには等身大(巨大化前の(笑))フィギュアが設置されています。

さらに南下して郡山駅で、神奈川の逗子に帰られるお二人をお見送りし、当方は千葉に戻りました。

というわけで、当会主催のコンサート以外にも充実の3日間でした。「聖地巡礼」もほぼコンプリート。智恵子生家/高村智恵子記念館さん裏手の稲荷神社にある智恵子揮毫の「熊野大神」碑、さらにその上の鞍石山の光太郎「樹下の二人」碑には行けませんでしたが。

今回の旅でゲットした関連グッズ。
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中央の一筆箋と左上のマスキングテープは智恵子記念館さんでの新商品。左下のペーパークリップは「智恵子を偲ぶ折り鶴展~作製編~」で鶴を作るともらえます。ここにも智恵子紙絵があしらわれています。右の一筆箋は道の駅で購入。以前に大山忠作美術館さんで入手しましたが、保存用は別として使い切ってしまいましたので。
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最初にも書きましたが、二本松での光太郎智恵子「聖地巡礼」を考えられている方、ご参考になさって下さい。

以上、二本松レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生仕事は順調に進んでゐますが肋間神経痛の方は相変らずで、彫刻で腕力をつかふので時々は相当にひどい時があります、まあ病気をだましだまし仕事をしてゐるといふ状態です。


昭和28年(1958)2月3日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎71歳

澤田はオリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣主。「仕事」「彫刻」は、智恵子の顔を持つ、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)」制作です。

昨日は信州安曇野に行っておりました。

今、千葉の自宅兼事務所でこれを書いておりますが、昨日は当初の予定では帰ってくるつもりではなく、塩尻にある何度か泊まった健康ランドで仮眠し、帰り道、神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さんの秘仏三面大黒天立像(高村光雲作)特別御開帳を拝観し、都内で光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエを保存する会の会合に出席、というはずでした。一度千葉の田舎まで帰ってしまうとまた都内に出るのが面倒ですので。

ところが愛車にトラブルで、帰らざるを得ない状況に。車輌本体は全くノープロブレムですが、癇癪を起こしたのはカーナビ。安曇野に着いた頃から自車の位置と画面の表示にズレが生じ始め、帰る頃には無茶苦茶になりました。南下しているのにどんどん北上していると表示され、実際にいる場所とどんどん乖離。一晩経てば治るかなとも思ったのですが、もし治らなければ大山寺さんにたどり着けません。断念して昨夜のうちに帰りました。

結局帰る途中もずっとしっちゃかめっちゃかで、信州から山梨県、神奈川県と進んでいるのに最北で新潟の妙高市まで行ったと認識。その後も長野県内や群馬県嬬恋村あたりをぐるぐるうろうろしているということになっていました。一晩経って治ったかな、と思って先ほど見てみましたが、やはり長野県野沢温泉村にいることになっています(笑)。

閑話休題。安曇野には光太郎の親友だった碌山荻原守衛の忌日・第115回碌山忌、さらに「特別展示 智恵子紙絵」拝観のため、同市の碌山美術館さんに行きました。

アルプスの山々にはまだ残雪。いい感じでした。
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館に到着すると、ちょうど本館に当たる碌山館前でアルペンホルンの演奏が行われていました。碌山忌ということで、アトラクションの演奏です。いかにも高原という感じで、「いとつきづきし」(笑)。
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隣接する杜江館での「特別展示 智恵子紙絵」を拝見。
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本来撮影禁止ですが、許可を得て撮らせていただきました。
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髙村家から拝借の、紙絵の実物と、光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏撮影の複製と、同時に展示されていました。こういう展示の仕方もありか、と思いました。
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紙絵を収蔵していた箱も。文字は光太郎の揮毫です。
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さらに光太郎草稿。
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生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の小型試作。顔は智恵子のそれです。
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アルペンホルンの演奏も終わったので、碌山館に。「女」をはじめ守衛の作品が一堂に会しています。
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裏手には光太郎詩碑。
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第一展示棟では光太郎の作品も。
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その後、休憩所兼インフォメーションコーナー的なグズベリーハウスへ。こちらではやはりアトラクションとしてコンサートが。
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そちらも終わり、午後4時、守衛の墓参。歩いていける距離ではありませんので、守衛の兄の令孫・荻原義重氏などの車に分乗して現地へ。
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昨日の信州は強風、というか烈風でしたので、山火事も怖いということで、焼香は無し。お坊様の般若心経読経や荻原氏のお話など。
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いつも書いていますが、墓碑銘は守衛と交流のあった中村不折の揮毫です。中村は太平洋画会での智恵子の師でもありました。

再び館に戻り、懇親会。
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恒例の光太郎詩「荻原守衛」全員での朗読。先導役は臼井吉見文学館の平沢重人館長。昨年は当方でした。
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代表理事、高野博元館長のご挨拶。
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祝辞を述べられた、同館理事でのあらせられる安曇野市長・太田寛氏、荻原氏。
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その後はスピーチ等おりまぜつつ、和気あいあいと懇談/会食。

途中、トイレに行った際。とっぷり日が暮れ、煉瓦造りの碌山館が実に映える感じでした。
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7時45分にお開きとなり、8時には片付けも終わって館を後にしました。

この後、最初に書いた通りの事態となって、結局千葉の自宅兼事務所まで帰った次第です。雨降山大山寺さんの秘仏三面大黒天立像(高村光雲作)特別御開帳は日を改めてリベンジに参ります。

「特別展示 智恵子紙絵」は6月22日(日)まで。公式サイトに情報が出ました。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

仕事の方はやうやく二尺ばかりのエスキスを完成、今週中に石膏にとりますが、又すぐに三尺五寸の中型原型にとりかかるので今その支度に大童です。


昭和27年(1952)12月10日 宮崎稔宛書簡より 光太郎70歳

「二尺ばかりのエスキス」が、上記「特別展示 智恵子紙絵」会場に展示されている小型試作、「三尺五寸の中型原型」は第一展示棟に並んでいる中型試作です。

公式サイトに情報が出るのを待っていたのですが、まだ出ていません。しかし開幕が迫っていますので、見切り発車でご紹介してしまいます。

春季企画展 特別展示 智恵子紙絵 高村智恵子紙絵 高村光太郎詩稿

期 日 : 2025年4月19日(土)~6月22日(日)
会 場 : 碌山美術館杜江館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 9:00-17:10
休 館 : 4月21日(月) 5月以降無休
料 金 : 大人 900円 高校生 300円 小中生 150円 20名様以上団体料金

高村智恵子の紙絵は、会期中展示の入れ替えを行います。

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光太郎の親友だった彫刻家・碌山荻原守衛の個人美術館、碌山美術館さん。

髙村家所蔵の智恵子紙絵、光太郎詩稿のそれぞれ実物が展示されます(紙絵は複製も)。めったにない機会です。常設展示では光太郎ブロンズも出ています。

併せてご紹介しますが、守衛の忌日「碌山忌」も会期中に催されます。会場内グズベリーハウスで地元の方々を中心としたコンサート、夕方から守衛の墓参(館の方、サポートメンバーの方が車を出して下さいます)、その後再びグズベリーハウスで懇親会を兼ねた碌山を偲ぶ会。昨年の模様はこちら
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また、碌山忌の関連事業として記念講演会も企画されています。

碌山美術館第115回碌山忌記念講演会 姜尚中 アートが拓く地域力

期 日 : 2025年4月19日(土)
会 場 : 穂高会館 長野県安曇野市穂高5047
時 間 : 13:30~15:00
料 金 : 無料(要碌山美術館入場チケット)
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かつてNHKEテレさんの「日曜美術館」で司会を務められ、同館で老朽化した碌山館(本館)補修のためのクラウドファンディングを行った際には、真っ先にメッセージを送られた姜尚中氏が講師です。ただ、既に定員となってしまっているようです。しかしキャンセル等もあるかと思われますので一応。

当方、22日の碌山忌の日に伺います。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】fbf18a8c

花巻出発の際はあんな深夜にわざわざ停車場までお見送り下され、感謝いたしました、無事東京につきましたが、ひどく忙がしい事がつづき今日に至りました、


昭和27年(1952)10月29日 
駿河哲夫宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、花巻駅から夜行列車に乗ったのが10月11日。翌朝9時45分、上野駅に着き、大勢の出迎えを受けました。

早速、上野駅で生ビールを堪能、そしてこの日は駒込林町155番地の実家に泊まりました。

光太郎令甥の髙村規氏が、平成25年(2013)の碌山忌記念講演会「伯父 高村光太郎の思い出」で語った回想から。

 光太郎が東京へ帰って来た晩、家へ泊って久しぶりで兄弟とか伯父さん、僕の妹やなんかみんな集まって、茶の間で、自分が三十才で独立するまで住んでた家ですから、昔のまんま、仏壇でも何でも残ってるもんですから、久しぶりで物珍しげに部屋を見て回ってました。戦前からいたばあやがまだ元気でいたんですね。ばあやが挨拶に部屋へ出て来て。そしたら「おばさんまだ元気だったの、よかった。じゃあお小遣いをあげなきゃ」とか言いながら、昔とおんなじ気分で炬燵へ足を突っ込んで。その晩はかなり遅くまでしゃべってました。何を作るのか。僕は高校三年生でした。

微笑ましいエピソードです。


智恵子の故郷・福島県二本松市で、観光客誘致促進のための取り組みがいろいろと始まっています。そこであちこちで光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語が。

まず、県全体の「ふくしまプレデスティネーションキャンペーン」を受けて、智恵子のソウルマウンテン・安達太良山周辺で「ほんとの空ツーリズム!」。地方紙『福島民報』さん、3月26日(水)の記事。

「ほんとの空ツーリズム!」始動 福島県二本松市の安達太良山周辺情報を発信・提供

 福島県二本松市の安達太良山周辺の観光の魅力を一体的に発信、提供する「ほんとの空ツーリズム!」の取り組みが始動した。関係団体による第1回推進会議が25日、二本松市の市民交流センターで開かれた。同日、情報サイト「Adventara(アドベンタラ)」を開設するとともに、新年度には登山や温泉、地域の文化を楽しむ旅行・体験企画を国内外に向けて提案する計画だ。
 4月に始まる「ふくしまプレデスティネーションキャンペーン(DC)」を視野に、関係機関・団体・事業者が協力して安達太良山にスポットを当て、県内の観光誘客推進を図る。ガイドの案内による登山をベースに、歴史や湯守文化の発信、登山道の保全活動などを交え、城下町の菓子店や酒蔵巡り、猪苗代湖観光などと組み合わせた旅行や体験を企画し、情報サイトで提案していく。建て替え工事に入る安達太良山の山小屋「くろがね小屋」を名物カレーの出張販売を通して発信する。
 推進会議は県観光物産交流協会の守岡文浩理事長を座長に、藤城良教県観光交流局長、二瓶盛一猪苗代町長、河原隆二本松市観光課長、環境省、山岳、観光、旅館、交通などの関係者約30人が参加し、意見を交わした。

情報サイト「Adventara(アドベンタラ)」はこちら
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続いて二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』の今月号。

4月号は毎年そうですが、市内の桜の名所を「安達太良のほんとの空に桜舞う」のフレーズで紹介しています。令和元年(2019)に同市で開催された「2019全国さくらシンポジウム」のキャッチフレーズでしたが、使い続けられています。
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それから、これも毎年期間限定で特別運行されている市内循環バス「二本松春さがし号」についても。こちらは智恵子生家/智恵子記念館も廻ります。
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福島交通さんのサイトから。

二本松の名所旧跡を巡る「二本松春さがし号」を運行いたします。

二本松駅前より、詩人で彫刻家である高村光太郎の妻智恵子が育んだ住まい、少年隊も眠る丹羽家の菩提寺「大隣寺」などを巡る、二本松市内を循環する “二本松春さがし号”臨時バスを運行しますので、是非ご利用ください。
【注意事項】
     ・道路交通状況等により遅れが発生します。列車への乗り継ぎには十分余裕を
      お取りください。
     ・混雑時のマスク着用、ご乗車前の手指消毒にご協力ください。
  ご理解ご協力を重ねてお願い申し上げますとともに、皆様のご乗車をお待ちいたしております。

運 行日  : 2025年4月9日(水)~4月18日(金)毎日運行
「二本松春さがし号」ご案内(時刻表運行マップは添付ファイルをご確認ください。)
お問い合せ先 : 福島交通㈱二本松営業所 0243-23-0123

運行が始まったというニュース。地方紙『福島民友』さんから。

二本松で春をさがそう 名所旧跡を巡る臨時バス運行

 福島県二本松市中心部の名所旧跡を循環する恒例の臨時バス「二本松春さがし号」の運行が9日から始まった。18日までの毎日、JR二本松駅前を発着する計6便が運行している。
 国指定史跡「二本松城跡」がある霞ケ城公園や智恵子の生家、二本松少年隊の供養塔がある大隣寺などを巡るコースで、同駅前を除く9カ所で停車する。午前9時~午後3時台のおおよそ1時間おきに運行され、ゆったりと城跡や公園の散策などをしても次の便に乗車して移動できる。
入館料割引の施設も
 にほんまつ観光協会と福島交通二本松営業所が運行。運賃は中学生以上170~500円、小学生以下90~250円で乳幼児無料。乗り降り自由の1日フリー乗車券は中学生以上500円、小学生以下250円で、大山忠作美術館と智恵子記念館の入館料が割引となる。
 運行初日の9日に二本松駅前で出発式が行われ、安斎文彦会長、鈴木友和営業所長がテープカットした。
 問い合わせは同営業所(電話0243・23・0123)、同協会(電話0243・24・5085)へ。
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「運行開始」といえば、安達太良山のロープウェイ。こちらも『福島民友』さんから。

残雪輝く安達太良山 4月12日からロープウエー本格運行

 福島県の安達太良山の奥岳登山口(950メートル)~山頂駅(1350メートル)を結ぶあだたら山ロープウエイが5、6の両日、特別運行され、登山者や観光客が残雪輝く絶景を楽しんだ。本格運行は12日から。
   例年雪がない山頂駅近くの薬師岳パノラマパークは約60センチの積雪。山頂駅では長靴の無料貸し出しもあり、来場者は、雪上から白い山頂と「ほんとの空」とのコントラストに歓声を上げていた。
 料金は中学生以上が往復2000円、4歳~小学生1500円。山開きは5月18日の予定。問い合わせはあだたら高原リゾート(電話0243・24・2141)へ。
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安達太良山はまだ銀世界なのですね。

一昨日ご紹介した「高村智恵子生誕祭」もありますし、各種スタンプラリー等も開催中。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の命日に、御恵送の小包到着、早速霊前に供へる事が出来ました、深い感謝に満たされました、

昭和27年(1952)10月6日 倉田福子宛書簡より 光太郎70歳

智恵子命日は10月5日。「ご霊前に」ということで、京都在住の倉田から京都銘菓などが送られてきました。

例年ですとこの頃に花巻町中心街の松庵寺さんで法要を行って貰っていましたが、この年は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京する直前でバタバタしており、中止しました。

翌日には山小屋のあった旧太田村の農家で光太郎の壮行会が催されています。
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若干先の話ですが、当会プロデュースのイベントも含まれているもので、早めに告知させていただきます。

高村智恵子生誕祭

期 日 : 2025年4月24日(木)~5月25日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 水曜 ※祝日の場合は翌日
料 金 : 大人(高校生以上)410円(360円)
      子供(小・中学生)210円(150円) (  )内団体料金

高村智恵子の誕生日にあわせてさまざまなイベントを開催します。
智恵子の生家は、明治初期に建てられた造り酒屋で、屋号は『米屋』、銘柄は『花霞』と言いました。智恵子は明治19年5月20日にここで生まれ、育ちました。
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 智恵子の生家 二階特別公開
  公開日 4月26日(土) ~4月29日(火・祝) 
      5月3日(土・祝)~5月6日(火・祝) 10日(土)・11日(日)
      17日(土)・18日(日)・24日(土)・25日(日)
  通常公開していない「智恵子の居室」を特別に公開いたします。

 奇跡といわれる「紙絵」実物展示
  展示期間 4月24日(木)~5月11日(日)
  展示場所 智恵子記念館展示室
 
 上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験
  開催日 5月17日(土)・18日(日)・24日(土)・25日(日)
  開催場所 智恵子生家
  上川崎和紙を使用し、智恵子の紙絵をモチーフとしたグッズを作成できます。

 智恵子を偲ぶ折り鶴展~作製編~
  開催日 4月24日(木)~5月25日(日)
  開催場所 智恵子記念館
  智恵子も晩年作製した折り鶴を、オリジナルで作ってみませんか。
  作製いただいた折り鶴は、次回自主事業開催時に展示いたします。
  作製いただいた方へ、今季限定「紙絵ペーパークリップ」をプレゼントいたします。

 特別企画 音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた
  開催日 4月27日(日)
  開催場所 智恵子生家一階座敷
  筝曲及びテルミンの演奏に乗せた、詩集『智恵子抄』の朗読公演をお楽しみください。
  出演 荒井真澄(朗読) 大西ようこ(テルミン) 元井美智子(箏曲)

 特別企画 「智恵子のエプロン」復刻展示
  開催日 4月26日(土)~5月25日(日)
  開催場所 智恵子記念館ロビー
  大正時代の『婦人之友』で詳しく紹介された高村智恵子がデザインし着用していた
  エプロンを、岩手県立花巻南高等学校家庭クラブの生徒さんたちが復元して下さいました!
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通常非公開にしている生家二階部分の特別公開、紙絵実物作品の展示、紙絵制作体験ワークショップなどの例年行われているコンテンツに加え、当会主催の位置づけで2件、入れていただきました。

1日限りのミニコンサートで「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」。都内在住の箏曲奏者・元井美智子さんの箏、神奈川県民大西ようこさんの電子楽器テルミン演奏に乗せ、仙台市のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんの朗読で「智恵子抄」詩篇を。
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上の画像は4月2日(水)に行いました第69回連翹忌の集いでのもの。左から荒井さん、元井さん、大西さんです。

これまでもお三方中のお二人が組んで、という公演等が各地で複数回ありました。

大西さん×荒井さん
 花巻高村光太郎記念館ロビーコンサート。
 第22回レモン忌/智恵子生家。
 第61回連翹忌レポート。
 「朗読とテルミンで綴る 智恵子抄」。
 宮城レポートその2 松島~仙台。

荒井さん×元井さん
 荒井真澄さん、元井美智子さん コラボ公演3件 花巻・仙台。
 仙台レポートその1 「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」。
 荒井真澄さん、元井美智子さん コラボ公演3件 動画、報道。

元井さん×大西さん
 「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」レポート。
 朗読を伴う演奏会情報――余白露光 テルミンと民族楽器のライブ演奏/文星堂 秋の音楽会。
 
元井さん・大西さん組は光太郎に関わらない公演もつい先月になさっています。

それならいっそ三人でやってみませんか、と、水を向けたところ、皆さんに快諾いただきまして、今回の公演が実現することとなりました。ノーギャラなので申し訳ありませんが、智恵子生家で演奏や朗読ができるということで、いい機会だと捉えて下さいました。

大西さん曰く「連翹三人娘」(笑)。当方は「智恵子抄Perfume」「智恵子抄キャンディーズ」「智恵子抄かしまし娘」などと言っていたのですが(笑)。

もう1件、「「智恵子のエプロン」復刻展示」。こちらは光太郎第二の故郷・岩手花巻の岩手県立花巻南高校さんがご協力下さっています。

そもそもは一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と吉田幾世」が始まりでした。吉田幾世は戦後、盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校さん)を設立し、学校ぐるみで光太郎と交流のあった人物ですが、盛岡生活学校は雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部を母体としていました。同誌を主宰し、光太郎と交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が東京で始めた自由学園さんの精神を受け継ぐものです。

で、企画展の関連行事としての講座講師を頼まれ、『婦人之友』と光太郎の関わりを詳しく調べている中で、同誌の第18巻第7号(大正13年=1924 7月)に載った智恵子のエプロンを紹介する記事を見つけました。講座の中でこの件も紹介し、「どなたか復元して下さいませんかね」とつぶやいたところ、聴かれていた花巻南高文芸部顧問の菊池久恵先生が「それなら」と、家庭クラブさんに声を掛けて下さいました。

そして昨年、花巻で開催されたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」で完成したエプロンを初披露。岩手の地方紙では大きく取り上げられました。
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さらにやはり花巻での「岩手県高校文化連盟花巻支部第28回合同作品展」でも展示されましたし、文芸部さんの部誌『門』でも詳しく紹介されています。

そこで以前から「智恵子の故郷の二本松の皆さんにも見ていただきたいものですね」と話していたのですが、上記「連翹三人娘」の公演を当会でプロデュースすることになり、「ではドサクサに紛れて(笑)エプロンの展示もお願いしてみましょう」という流れでした。

こちらは後から突っ込んだもので、「高村智恵子生誕祭」の公式情報には出ていませんが、今後、福島の地方紙等に情報提供をし、取材していただこうと思っております。日程的には今後の相談ですが、同校の先生方、生徒さん数名が現地を訪れる方向でも話が進んでいますし。

というわけで、長々書きましたが、「高村智恵子生誕祭」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

もうこの山はすつかり秋で栗の実が小屋の屋根にぱらぱら落ちます、


昭和27年(1952)9月21日 上田静栄宛書簡より 光太郎70歳

上田は智恵子の親友・田村俊子の内弟子だった詩人。大正初め、光太郎智恵子の結婚披露直後に田村夫妻と共に駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れ、当時としては珍しかったレモネードを振る舞われたそうです。その頃から智恵子はレモンを愛していたようです。

一昨日、愛車を駆って福島県の浜通り地区(太平洋沿岸)を廻っておりました。レポートいたします。

まず向かったのが、宮城と県境を接する相馬市。最初に相馬市図書館さんで今月1日に始まった「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」というミニ展示を拝見しました。
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全国の図書館さんでよくある、テーマを定めて蔵書等を一ヶ所にまとめ説明パネルを掲げるタイプのミニ展示。
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パネルがなかなか秀逸でした。
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テーマが「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」ということで、他にもいるのでしょうが、原釜海岸をたびたび訪れた智恵子、その夫・光太郎、同じく原釜に足跡を残している竹久夢二、そして相馬出身の彫刻家・佐藤玄々が中心でした。

智恵子関連では、やはり原釜滞在の件。
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智恵子が2度訪れた、という解説になっていますが、時期が特定出来ているのが2度であって、それ以外に少女時代にも訪れているかもしれません。というか、その可能性が高いと思われます。ちなみに相馬市の北隣・新地町にも立ち寄ったという証言も残っています。

確認出来ている2回の滞在では、ともに金波館(現存せず)という宿に宿泊していました。
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下画像は手元にある原釜の古絵葉書。金波館も写っていると思われます。
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それから、竹久夢二も原釜を訪れています。
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光太郎智恵子と夢二には軽く関わりがありました。そんなこんなで相関図。
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光太郎智恵子関連の図書類。
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日本の文学者36人の肖像(上)』、『マンガ名詩・短歌・俳句物語 2 名詩 下』など、新しめのものも。

展示図書の目録。
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そして相馬出身にして光太郎の父・光雲孫弟子の佐藤玄々(朝山)関連。
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これには驚きました。「兎」。解説の通り、光太郎にも全く同一の図題の「兎」手板浮彫が現存します。数え14歳、東京美術学校の予備門的な共立美術学館に在学中の作品です。
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光太郎の「兎」、講演や市民講座などで光太郎の生い立ちを語る際、「十代前半の少年の作とはとても思えません」と言いつつ紹介すると、会場の反応が「おおお!」となるものです。その際に「もっとも、オリジナルの作ではなく、手本があってそれを写したものと思われますが」と付け加えますが、やはりそうだったか、という感じでした。こうした手本で光雲一門が彫刻のイロハを学んだということなのでしょう。

同様に、やはり光太郎作の「猪」の手板浮彫(左下)も、全く同じ図題のもので別人(右下・作者不明)の作が美校の後身である東京藝術大学さんに残されています。
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「朝山」時代の「兎」など、玄々の作品が同じ相馬市の歴史資料収蔵館に多数展示されているということで、そちらへ。
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残念ながら撮影禁止でしたし、収蔵されている全てではありませんでしたが、玄々の作がずらり。
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最も見たかった「兎」も、裏面の「鶏」の方を面にしてあったので見られず、残念でした。

しかし、昭和15年(1940)、コンペにより皇居ちかくに建てられ、光太郎も好意的に評したた和気清麻呂像エスキスや、日本橋三越さんのシンボル「天女( まごころ)像」に関する展示など、興味深く拝見しました。また、光雲一門を離れ(和気清麻呂像コンペをめぐるゴタゴタがありまして)「玄々」となってから、木彫でもヘンリ・ムーアを思わせるような抽象っぽい作も作るようになり、そのあたりも。

その後、愛車を南に向け、この日のメインの目的だったいわき市の草野心平記念文学館さんへ。澤正宏氏と和合亮一氏による文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」を拝聴しましたが、そちらについては明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

貴下がロンドンから持ち帰られたヘラ其他の彫刻道具の御恵贈にあひ、まことにありがたく感謝の念に満たされました。丁度今年あたりから少しづつ製作を始めたいと考へてゐた矢先なのですがお察しの通り道具一切を揃へるのに苦心してゐました。


昭和27年(1952)4月10日 白瀧幾之助宛書簡より 光太郎70歳

白瀧は画家。美校出身で光太郎の先輩に当たりますが、遠く明治末には留学仲間でした。

前月21日、佐藤春夫からの丁重な書簡を携え、建築家の谷口吉郎、当会の祖・草野心平弟子筋の藤島宇内が山小屋を訪れて、青森県からの彫刻製作の依頼を伝え、4月2日には青森県の幹部も同じ件で光太郎の元を訪れました。いよいよ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作プロジェクトが動き出しました。

昨日始まった企画展示です。

相馬市図書館・歴史資料収蔵館連携企画展 相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち

期 日 : 2025年3月1日(土)~5月30日(金)
会 場 : 相馬市図書館 福島県相馬市中村字塚ノ町 65−16
時 間 : 平日10時〜19時 土、日、祝日は10時〜17時
休 館 : 館内整理日(毎月の月末)
料 金 : 無料

高村智恵子・光太郎夫妻を中心に、相馬市に縁のある、または訪れたことのある芸術家の人物紹介図や関連書籍などを展示します。

特典 図書館で配布する企画展のパンフレットを歴史資料収蔵館に持参することで、次の特典が受けられます。
 ▽オリジナルグッズをプレゼント
 ▽歴史資料収蔵館の観覧料が無料(高校生以下の学生のみ)
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光太郎智恵子のイラストがなかなか秀逸ですね。しかし下のヒゲの人物がいったい誰なのかがわかりません。相馬市と言えば光太郎の父・光雲の孫弟子にして日本橋三越本店さんの巨大彫刻「天女( まごころ)像」などを手がけた佐藤朝山(玄々)の故郷で、「連携」として挙げられている歴史資料収蔵館さんには佐藤の作品が多数展示されていますが、顔立ちが違うような……。隣接する南相馬市は作家の埴谷雄高の出身地で、同じく島尾敏雄も両親が南相馬出身。ところが二人ともヒゲはありません。

追記・ヒゲの人物は竹久夢二でした。

今回のイベント、あまり大々的に宣伝されておらず、ネットで調べてもX(旧ツイッター)への投稿と相馬市さんの広報誌『広報そうま』2月15日号しか情報が見あたらず、詳細が不明です。

ところで「高村智恵子・光太郎夫妻を中心に」とありますが、光太郎は相馬を訪れたことは確認出来ていません。先に名の出ている智恵子の方は、明治40年(1907、日本女子大学校を卒業した年で数え22歳、父・今朝吉やきょうだいと共に)と大正6年(1917、光太郎と結婚披露を行った3年後)に原釜海岸の金波館という宿に滞在したことが確認出来ています。また細かな年月日は不明ですが、それ以前の少女時代にも家族と訪れていたようです。そこで今回、光太郎は刺身のツマでしょう(笑)。

智恵子は明治40年(1907)の滞在時には、同じ宿に泊まっていた旧制米沢中学生の鈴木謙二郎(後の山形県伊佐沢村村長、長井市教育委員)と親しくなり、帰京後も姉弟のように文通を続けました。

謙二郎の子息・鈴木重信氏の回想「智恵子の手紙」が、長井市地域文化振興会編刊『長井のひとびと 第3集』(昭和59年=1984)に掲載されています。
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謙二郎宛の智恵子書簡は『高村光太郎全集』別巻にすべて収録されていますが、この文章も貴重な回想です。

展示ではおそらくこの金波館滞在の件に触れられているのでしょう。

3月8日(土)、いわき市の草野心平記念文学館さんで、澤正宏氏と和合亮一氏による文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」を拝聴することになりましたので、そちらの前に足を運ぶつもりで居ります。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

まだ雪もさかんにふり、寒さも〇下八度、十度といふところですが、小生割に健康、肋間神経痛も殆ど苦にならない程度になりました。


昭和27年(1927)3月5日 松下英麿宛書簡より 光太郎70歳

3月頭にマイナス10℃。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、どんだけだよ、という感じです。

「智恵子抄」系の楽曲がプログラムに入った演奏会、2件ご紹介いたします。

開催日順に、まずは都内から。

SAWAMURA BAR.VOL23

期 日 : 2025年2月15日(土)
会 場 : 個人宅(澤村様) 練馬区光が丘7-6-7-304
時 間 : 15:00~
料 金 : 3,000円

出 演 : モンデンモモ(歌) 田嶌道生(ギター)

久しぶりに『智恵子』します。「案内」「十和田湖畔の裸像に与ふ」。懐かしい方にはなつかしいあの歌も『やっとあなたに逢えた』。やっと多くの人と逢えてます。なんか新しい展開。この時をまっていました。
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「智恵子抄」収録詩篇をはじめ、光太郎詩にオリジナルの曲を付けて歌われているシャンソン系歌手・モンデンモモさんのミニライブです。

モモさん、最近は島根の方を活動拠点になさることが多く、「智恵子抄」系はあまり歌われていませんでしたが、久しぶりに、だそうです。

会場は集合住宅・光が丘パークタウンの一室。当方、平成27年(2015)にやはりこちらで開催された第13回の際にお邪魔しました。狭い会場だけに一体感が生まれていました。

もう1件。

第45回二宮演奏家協会コンサート 日本の名曲 世界の名曲

期 日 : 2025年2月16日(日)
会 場 : 二宮町生涯学習センターラディアン 神奈川県中郡二宮町二宮1240-10
時 間 : 13:30~
料 金 : 2,500円
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曲目に「レモン哀歌」が入っています。あまり大々的にには宣伝なさっていないようで、フライヤーに書かれている以上の情報がほとんど得られていません。そこで、どなたの作曲のものなのか不明ですが……。

それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

創元社本の誤植はすばらしいやうです。「荒涼たる帰宅」の最終行が「外は夕月といふ月夜らしい」とあるのは名誤植といへるでせう。


昭和26年(1951)9月26日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

「創元社本」は、この月に刊行されたハードカバーの『高村光太郎詩集』。編集は当会の祖・草野心平でした。とにかく豪快だった心平、こういう部分では神経が行き届かない面が確かにありました。
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言わずもがなですが、正しくは「夕月」ではなく「名月」です。

誤植にはとにかく気をつけたいものです。

3件ご紹介します。

まずはNHK Eテレさんの長寿番組。

にほんごであそぼ「喜び」

地上波NHK Eテレ 2025年2月10日(月) 08:35~08:45
再放送   2月13日(木) 15:35~15:45  2月15日(土) 07:00~07:10

書道で学ぶにほんご(青柳美扇)・立体紙切り(辻笙)・ぐうたらちんたら/喜び、朗読(高杉真宙)/「智恵子抄 深夜の雪」高村光太郎、漢字アニメ/喜、偉人とダンス/喜びとは苦悩の大木に実る果実である(ヴィクトル・ユーゴー)、うた「ほのぼのよき」

【出演】南野巴那 高杉真宙 青柳美扇 辻笙 世田一恵 中村彩玖 川原瑛都 川田秋妃
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昨年の大河ドラマ「光る君へ」で、主人公・まひろ(紫式部/吉高由里子さん)の弟・藤原惟規を演じられた高杉真宙さんによる朗読で、「智恵子抄」の中から「深夜の雪」。

高杉さん、一昨年には同番組で「あどけない話」朗読もなさって下さいました。
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後は再放送系。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭 お名前ソング

BSテレ東 2025年2月10日(月) 17:56〜19:00

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

「東京アンナ」大津美子/「ダイナ」ディック・ミネ/「ダイアナ」鈴木ヤスシ
「硝子のジョニー」谷龍介/「傷だらけのローラ」高道(狩人)
「シェリー」九重佑三子、田辺靖雄/「ジョニィへの伝言」ペドロ&カプリシャス
「メリー・ジェーン」つのだ☆ひろ/「サチコ」ニック・ニューサ
「ひとみちゃん」神戸一郎/「そんな夕子にほれました」増位山太志郎
「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ/「お吉物語」天津羽衣
「おーい中村君」若原一郎/「ハチのムサシは死んだのさ」セルスターズ
「姿三四郎」姿憲子/「与三さん」照菊

<司会>合田道人
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「お名前ソング」ということで、タイトルに人名の入った懐かしの曲がずらり。過去の映像を使っての放映となります。

昭和39年(1964)リリース、その年の紅白歌合戦でも歌われた二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(丘灯至夫作詞・戸塚三博作曲)もラインナップに入っています。

もう1件。

おかしな刑事〜居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査

BS朝日 2025年2月11日(火) 19:00〜21:00 

「東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!」▽テレビ朝日系列で2011年に放送された第8シリーズ

ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田"という名字が気にかかり…。

出演者 伊東四朗 羽田美智子 石井正則 小倉久寛 辺見えみり 山口美也子 木場勝己 小沢象
    丸山厚人 菅原大吉 (他)
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初回放映は平成23年(2011)。その際のサブタイトルが「地上333メートルの殺意!! ホームレスが隠した事件の謎!? 安達太良山で待ち受ける真実!! 『智恵子抄』に秘められた想いとは…」。事件関係者の一人が、智恵子の故郷・二本松出身という設定で、安達太良山、岳温泉、智恵子生家などでのロケが敢行されました。
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それぞれ、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

年代は自分でもややこしくて間違ひ勝ちです。日本式年号で数へると間違ひ易く、西暦一九〇七年二月日本出発、一九〇八年ロンドンへ渡り、一九〇九年パリに行き、一九一〇年七月に日本に帰つたのが本当のやうです。


昭和26年(1951)9月24日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

自分が何をしたのが何年だったかというのは、意外と覚えていないものですね。この書簡に書かれた年も1年ずつ間違っています(笑)。渡米は明治39年(1906)、ロンドンへは同40年(1907)に渡り、パリに移ったのは同41年(1908)で、帰国は同42年(1909)です。

ちなみに昨年、これより後に書かれたと思われる光太郎手書きの年譜画像を発見しました。そちらはほぼ正しく書かれていました。
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『日本近代文学図録』(昭和39年=1964 日本近代文学館編 毎日新聞社)に写真版が載っていました。光太郎筆跡であることは間違いありませんが、いつ、何の目的で書かれたものかは不明です。

まずは訃報を1件。共同通信さん配信記事から。

堀場清子さん死去 94歳 詩人、女性史研究家

 詩人で女性史研究家の堀場清子(ほりば・きよこ=本名鹿野清子=かの・きよこ)さんが10日、午前10時15分、老衰のため千葉県の高齢者施設で死去した。94歳。広島県出身。葬儀は行った。喪主は夫で歴史学者の鹿野政直(かの・まさなお)さん。
 共同通信記者を経て、詩作と評論の道へ。被爆体験に基づく「原爆詩」を詠んだほか、高群逸枝ら女性史家を研究した。戦後の連合国軍総司令部(GHQ)占領下での検閲の実態にも迫った。詩集「首里」で現代詩人賞。著書に「青鞜の時代」「禁じられた原爆体験」「堀場清子全詩集」など。
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記事にある『青鞜の時代』(昭和63年=1988 岩波書店)が手元にあります。智恵子がその創刊号の表紙絵を描いた雑誌『青鞜』の創刊から終焉、さらに後日談までを端的にまとめたものですが、『青鞜』そのものや主宰の平塚らいてうらの筆による事務日誌、同時代のさまざまな文献などを細かく検証、大いに参考になりました。
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残念ながら絶版となっているようですが、復刊を期待します。

もう1件、「訃」のからみで、地方紙『福島民報』さんから。1月25日(土)掲載の一面コラムです。

大空で(1月25日)

石垣りんの詩にある。〈お母さん、なぜ過ぎてゆかねばならないのですか、花は美しく、空はあんなに青い、このはるの 光あふれる中から―。〉▼19歳の予備校生はなぜ突然、将来を絶たれたのか。自宅から遠く離れた北のまちかどで。冬の日差しが緩んだ風をまとい、地上に届き始めたこの時。無念などという言葉では言い尽くせない。大学受験で郡山市を訪れた大阪府の横見咲空[さら]さんが、酒気帯び運転の犠牲になった。その命を返してあげる手だてはない▼「白が似合う女性だった」。事故現場に駆け付けた同級生が語っていた。笑顔を絶やさぬ、明るく素直な人柄だったとも。心の奥に純真を秘めていたのだろう。歯学部への進学を志していた。怖くないよ、お口を大きくあけてごらん―。治療を怖がる子どもを、にこやかになだめる。優しい未来の歯医者さんを奪った暴走が、ひたすら憎い▼詩は続く。〈お嬢さん お嬢さん 雲が流れてまいります どこへ流れてゆくのでしょう あれあれあんなに はるばると〉。咲空さん。せめて、さえぎるものは何もないほんとの空で、存分に夢を咲かせて。あなたを守れなかった悔しさを胸に、県民は願っているよ。<2025・1・25>

1月22日(水)に郡山市で起きた痛ましい死亡事故に関してです。ここで「智恵子抄」由来の「ほんとの空」の語を持ってくるか、という感じでしたが、じんとくるものがありました。お名前に「空」一字の入る亡くなられた方は、同市の奥羽大学さん歯学部を受験予定だったとのこと。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

紙絵の保管を願つてゐる院長さん、真壁さん、貴下には自然紙絵をもらつていただく結果になるでせう。これは当然でせう。

昭和26年(1951)6月30日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

千数百枚あった紙絵は、智恵子とも親しかった当会の祖・草野心平らに贈られた他、戦時中に約3分の1ずつ、花巻の佐藤隆房(院長さん)、山形の真壁仁、そして茨城の宮崎の元に分散疎開の措置を講じ、おかげで焼失を免れました。

銀座資生堂画廊に於いて都内で初めての智恵子紙絵展が開催されると、画集として出版したいという申し出が複数の出版社からありましたが、全て拒絶。宮崎には「宮崎さんから高村先生を説得して下さい」的な話があっても断るようにと釘を刺したようです。

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の劣悪な環境では、紙絵の保存も覚束ないということで、「貴下には自然紙絵をもらつていただく結果になるでせう」。宮崎の妻・春子は智恵子の姪にあたり、南品川ゼームス坂病院で智恵子の付添婦を務め、殆ど唯一紙絵の制作現場を直に見ていた人物だということもあるのでしょう。

ところが、光太郎は結局「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京し、その終焉の間際にほとんどの紙絵を手元に返却して貰うことになります。

まずは状況をわかりやすくするために、地方紙『福島民友』さん記事から。

高村智恵子の古里にふさわしいまちづくりを 福島県二本松市の「夢くらぶ」 発会20年を祝うつどい

 「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」の発会20年を祝うつどいは15日、福島県二本松市油井の智恵子の湯で開かれた。同市出身の洋画家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家高村光太郎の愛と芸術に生涯をささげた姿を語り継ぎ、智恵子の古里にふさわしいまちづくりを進めていくことを誓い合った。
 約30人が出席した。熊谷健一代表が「二人の生き方が今の私たちに感動を与える。日本や世界中の人に訪ねてもらえる地域づくりをしよう」とあいさつ。市内の小中学校などに贈る絵本「夢を描くひと―高村智恵子―」を三保恵一市長に手渡した。作者の坂本富江さんが思いを語った。
 三保市長、本多勝実市議会議長、加藤和信あだち観光協会長が祝辞を述べた。乾杯して歓談した。トランペッターのNobyさんが演奏を披露した。出席者がスピーチし、エピソードなどを語った。
 夢くらぶは2005(平成17)年1月に発足。「智恵子純愛通り」記念碑建立や高村智恵子生誕祭、智恵子講座、朗読会、「智恵子抄」総選挙など多彩な事業を催している。発会20年と光太郎・智恵子の結婚110年、光太郎の詩集「道程」出版110年の記念文集を発行した。
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というわけで、智恵子の故郷・福島二本松でさまざまな智恵子顕彰活動をなさっている智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんが20周年だそうで、おめでとうございます。

記事にある『記念文集』、絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』は下記画像。それぞれA4判横長です。
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『記念文集』目次はこちら。
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拙稿も載せていただいております。

絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』は、10月14日(月)、智恵子生家とその周辺で行われた「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」において、著者で太平洋美術会さんご所属の坂本富江さんが行った紙芝居を元に書かれています。当方、校閲いたしまして、「監修」ということでクレジットされています。奥付画像を載せておきます。
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記事に有る通り市内の学校さんに贈られたということで、智恵子の母校・油井小学校さんのサイトに報告が。

智恵子の絵本 贈呈式

高村智恵子さんの顕彰をしている「智恵子のまち夢くらぶ」より、市内の小中学校に絵本を寄贈いただきました。絵本は「夢を描くひと-高村智恵子-」というタイトルで、智恵子さんの生涯や生き方をわかりやすく紹介している絵本です。先日、絵本を作った作家の坂本富江さんが油井小に来校し、絵本に対する思いなどをうかがいました。そして、6年生が直接坂本さんから市内の学校を代表して絵本を受け取りました。6年生は感謝の言葉と「智恵子抄」の朗読をして、坂本さんと夢くらぶの皆様に感謝の気持ちを伝えました。
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関係の皆様の今後とものご活躍、さらに若い方々への継承といったあたりを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

毎年方々から請はれるままに新年の詩をこれまでうんざりするほど書いて来ましたが、もう一切書かない事にきめましたから此事御了承願ひます、


昭和25年(1950)11月18日 三宅正太郎宛書簡より 光太郎68歳

三宅は『北海道新聞』『中日新聞』『西日本新聞』3社で組んだブロック紙三社連合に勤務していました。その各紙で翌年元日に掲載する詩を書いてくれと言う依頼に対しての返答です。

ただ、結局、ぶつぶつ言いながらも、三宅からの重ねての依頼に根負けし、次の詩を送りました。

    船沈まず005

 酔はないのは船長とわたくしだけだつた。
 キヤビンの羽目につるしたステツキが
 振子のやうに四十五度かしいだ。
 ボートはさらはれ、
 手すりはもがれた。
 船は真横からくる吹雪を避けて
 コースを棄ててただよつた。
 とんでもない方角に
 船首は向いて波におされた。
 一人も客の出て来ない食堂で7f456cef
 その時わたくしは雑煮を祝つた。
 枠のはまつた食卓で
 ころがる箸をやつと取つた。
 それでも船は沈まなかつた。
 囲炉裏の上で餅を焼いてるこの小屋が、
 日本島の土台ぐるみ、
 今にも四十五度に傾きさうな新年だが、
 あの船の沈まなかつた経験を
 わたくしはもう一度はつきり思ひ出す。

遠く明治39年(1906)、横浜港からカナダ太平洋汽船の貨客船アセニアン号でアメリカ大陸を目指した際の体験を元にしています。「雑煮を祝つた」は、2月3日に出航し、航海中に旧正月を迎えたためでしょうか。この季節の太平洋は大荒れで、船は大きく北のアリューシャン方面までを迂回し、3月7日にバンクーバーに到着しました。「四十五度かしいだ」などは実話だったとのことですし、その後、流木が窓を突き破って船内に入ってきたこともあったそうです。

ひるがえって昭和26年(1951)の新年は「今にも四十五度に傾きさうな新年」。令和7年(2025)の新年もそんな感じですね(笑)。

都内レポートの第3弾です。

11月23日(土)、荒川区荒川ふるさと文化館さんで企画展示「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」、上野の東京都美術館さんで「第46回東京書作展」をそれぞれ拝観後、東京ドーム近くの文京シビックセンターさんに向かいました。こちらでは「第67回高村光太郎研究会」。
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年一回の開催で、今年のご発表はお二人。智恵子の故郷・福島二本松の「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの熊谷健一代表、智恵子に関するご著書等おありの大島裕子氏。
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熊谷氏の発表題は「智恵子と光太郎の人間学――美の求道者の生涯に思う――」。
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智恵子と光太郎がどのようにお互いに影響を与えつつ歩んでいったのかといったような点につき、智恵子の地元で顕彰活動に当たられているお立場から。

大島氏の方は、「智恵子について、今思うこと」。おおむね2本立てで、まずは氏が以前に明らかにされた智恵子の縁談について、さらに詳しく。

様々な研究書や、智恵子に関する二次創作等で、明治45年(1912)の時点で智恵子には郷里の医師・寺田三郎との縁談が持ち上がっていたものの、智恵子はそれを断って、詩「人に」(原題「N――女史に」)で「いやなんです あなたのいつてしまふのが――」「小鳥のやうに臆病で 大風のやうにわがままな あなたがお嫁にゆくなんて」と謳った光太郎の元に走った(光太郎が滞在していた犬吠埼まで追いかけていった)とされてきました。その話の大元は、昭和48年(1973)の第17回連翹忌の集いの席上、参加していた寺田の実弟・四郎が行ったスピーチでした。
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ところが、寺田三郎は既に明治41年(1908)に結婚、智恵子との縁談があったとされる同45年(1912)には2人の子まで為していました。智恵子との縁談が持ち上がったのはもっと前、同40年(1907)頃、昭和48年(1973)の時点で上記のスピーチをした四郎ももう高齢で、70年近く前の話でもあり、記憶違いがあったのだろうとのこと。
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それでは明治45年(1912)の智恵子の縁談というのは何だったのか、ということになります。大島氏は寺田三郎以外の誰かと縁談があったのでは、と推測されています。傍証はこの時期に書かれた智恵子の親友・田村俊子の小説類。
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「Yさん」というのが光太郎のことですね。

実際に誰かと縁談があった可能性が高いでしょう。それがいつ作られたか詳細は不明ですが、婚儀用の豪華な打掛も残っていますので、ほぼ話は纏まっていたのではと推測されます。

ただ、恋愛問題に対して煮え切らない態度を取っていた光太郎に対し、ありもしない縁談をでっち上げて、光太郎の気持ちを確かめようとしたという可能性も捨てきれません。今後、そのあたりが解明されていくことを期待します。

4377a952さらに大島氏、昭和4年(1929)の智恵子の実家・長沼酒店破産前後の福島の地方紙報道から、智恵子や親族の動向なども。なかなか興味深い内容でした。

研究発表会は年に一度。会報的な『高村光太郎研究』が年刊で4月の連翹忌に合わせて発行されています。だいたい前年の発表者が発表内容を元に論文的なものを寄稿する慣例です(全くそれを無視した意味不明のものが載っている場合もあって閉口しているのですが)。それ以外に当方は新発見の光太郎文筆作品を紹介する「光太郎遺珠」、それから1年間を振り返る「高村光太郎没後年譜」を任されています。研究会に入会し、会費3,000円を納めれば送られてくるシステムです。

そういうわけで研究誌としてのレベルはあまり高いものではありませんが、参加のハードルもそれほど高くない点はいいところでしょう。奥付画像を載せておきますので、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。主宰の野末氏、毎年の発表者の確保に苦労されているようですし。

【折々のことば・光太郎】

一、お茶 [六月廿五日発送]右受領候也 六月廿七日 純粋な川根のお茶はまことに美味、丁度もらつた八戸せんべいがあるので申分ありません

昭和25年(1950)6月27日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

澤田は『智恵子抄』版元の龍星閣主。光太郎、澤田からのさまざまな贈り物に対し、几帳面に受領証的な返信を続けました。「八戸せんべい」は南部煎餅ですね。

年に一度の研究発表会です。といっても、堅苦しいものでは全くありません。少人数で和気あいあいと、アットホームにやっています。

第67回高村光太郎研究会

期 日 : 2024年11月23日(土・祝)
会 場 : 文京シビックセンター 東京都文京区春日1-16-21
時 間 : 14:00~17:00
料 金 : 500円

発 表 : 「智恵子と光太郎の人間学――美の求道者の生涯に思う――」 熊谷健一氏
      「智恵子について、今思うこと」 大島裕子氏

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昨年の様子はこちら

今年は智恵子の故郷・福島二本松で活動されている「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの熊谷健一代表、智恵子に関するご著書等おありの大島裕子氏のご発表。智恵子に少しウェイトが傾くかな、という感じです。

案内文書には「懇親会を取りやめます」とありますが、有志で勝手に行います(笑)。

会に入会なさらずとも、聴講のみ可。聴いてみて、これなら活動に加われそうだという方は入会なさって下さい。決して怪しい団体ではありません(笑)。ホワイト案件です――とか書くと却って疑われますね(笑)。

【折々のことば・光太郎】

山ではまつたく今新緑の美しさ無類です、その上ツツジも満開、スミレ、イカリ草など色とりどりの花が地上に満ちて実に豪華な装ひです、 四十雀、うぐひす、クロツブミ、山鳩の声にめざめ、蛙の声にねむります。


昭和25年(1950)5月9日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎68歳

5月、岩手の山あいでも好季節を迎えました。これがもう少し暑くなると光太郎はほとんど活動停止になってしまうのですが(笑)。

今日も演奏会情報。若干先の話になりますが、一昨日、昨日も同様の情報でしたので、流れを考え、早めにご紹介します。

まず、智恵子のソウルマウンテン・安達太良山を望む福島県郡山市から。ただ、入場無料・整理券配付というシステムで、既に1ヶ月前に申し込みが終わっています。こういった場合、いつも書いていますが、それでもキャンセル等があるかもしれませんし、記録のためにもご紹介しておきます。

郡山市市制施行100周年記念式典音楽祭

期 日 : 2024年11月3日(日・祝)
会 場 : けんしん郡山文化センター 福島県郡山市堤下町1番2号
時 間 : 第一部(合唱)11:00~ 第二部(交響楽)15:30~
料 金 : 無料

市制施行100周年を記念した音楽祭を開催します。

(1)合唱コンサート(11時開演)
 ♪出演者♪
  指揮:佐藤守廣
  ソリスト:渡邊仁美(ソプラノ)、藤田彩歌(メゾソプラノ)、
       小原啓楼(テノール)、初鹿野 剛(バリトン)
  100周年メモリアルオーケストラ・合唱団
 ♪曲目♪
  「Believe」 作詞・作曲:杉本竜一
  「群青」 作曲:小田美樹 編曲:信長貴富
  カンタータ「土の歌」より「大地讃頌」 作詞:大木惇夫 作曲:佐藤眞 
  「キセキ」 作詞・作曲:GReeeeN
  市制施行100周年記念楽曲「ゼロ年目からのバインダー」 作詞・作曲:GRe4N BOYZ
  「安積野」 作詞:倉木文緒 作曲:須田くにお
  交響曲第9番「合唱付き」より第4楽章 作曲:ベートーヴェン 

(2)オーケストラコンサート(15時30分開演)
 ♪出演者♪
  指揮:本名徹次 ソリスト:初鹿野 剛(バリトン) 100周年メモリアルオーケストラ
 ♪曲目♪
  交響曲第6番「田園」より第1楽章 作曲:ベートーヴェン 
  あれが阿多多羅山 バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の二人』による
   作詞:高村光太郎 作曲:湯浅譲二
  交響詩「ローマの松」より  作曲:レスピーギ
   「ボルゲーゼ荘の松」「カタコンバ付近の松」「ジャニコロの松」「アッピア街道の松」
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郡山ご出身で、今年8月に亡くなった作曲家・湯浅譲二氏の「あれが阿多多羅山 バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の二人』による」がプログラムに入っています。平成28年(2016)、市政90周年を祈念しての委嘱作品でした。

続いては合唱で、広島から。

広島中央合唱団 Autmun Concert~Can't wait for Christmas~

期 日 : 2024年11月4日(月・振休)
会 場 : 日本キリスト教団 広島流川教会  広島市中区上幟町8-30
時 間 : 14:00~15:00 
料 金 : 無料

指揮:寺沢希  ピアノ:梶矢民子  ソプラノソロ:昆野智佳子/山口水蛍

広島流川教会(中区上幟町)礼拝堂をお借りし、”Christmasを待ちきれない⭐広島中央合唱団“ から、ミニコンサートをお送りします。大好きな教会で、いつもと違うJazzy なCarol などをお楽しみいただきたいと思います。14時開演、入場無料です。ぜひお立ち寄り下さい。

演奏曲目

 Ⅰ.Jazz Missa Brevis Will Todd作曲
 Ⅱ.混声合唱曲 レモン哀歌 高村光太郎作詞 鈴木憲夫作曲
 Ⅲ.3つのジャズ・キャロル
    Away in a manger Once in royal David's city Silent night
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鈴木憲夫氏作曲の混声合唱曲「レモン哀歌」。組曲の一つというわけではなく、単体の作品です。女声版が最初に作曲され、平成23年(2011)にカワイ楽譜さんから出版されています。続いて独唱版と混声版が翌年に刊行されました。
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8分弱の長めの曲で、最初から最後まで奇を衒わずゆったりと清澄な響きで展開し、メロディーラインの美しい曲です。

ラストは独唱歌曲。都内での開催です。

サウンド・ランドスケープ Vol.4~現代音楽の今~

期 日 : 2024年11月5日(火)
会 場 : 豊洲シビックセンターホール 東京都江東区豊洲2-2-18
時 間 : 19:00~
料 金 : 全席自由 2,800円

プログラム(演奏順ではありません)
 城代悠子 渡り鳥 〜フルート・ピアノ〜 <初演>
  フルート:陣内幸恵 ピアノ:赤司美苗
 黒田昭 チェロとピアノのための作品より〜Vol.2 <初演>
  チェロ:中村浩太郎 ピアノ:樋口真千子
 DAKOKU ソプラノとピアノの為のヴォカリーズ ・舞魚 ・再会
  ソプラノ:MAKI ピアノ:DAKOKU 
 佐倉圭史 アマデウスは生きている—ピアノ連弾(1台4手)のための— <初演>
  ピアノ:首藤那咲 ピアノ:中矢美里
 服部和彦 
  たまゆり 〜ソプラノとピアノのために~ ソプラノ:笠井真由美 ピアノ:澤田尚美
  水の色彩~ピアノのために~ ピアノ:澤田尚美
 岩井奈美<メゾ・ソプラノ> 
  別宮貞雄:「智恵子抄」より 僕等 あどけない話 千鳥と遊ぶ智恵子 レモン哀歌
  なかにしあかね:ケヤキ 小鳥たち 沈丁花によせて 歌が生まれる
   ピアノ:尾崎克典
 古荘達郎<テノール>
  P.チマーラ:郷愁 Nostalgia  R.ザンドナイ:みみずく~六つのメロディーエより~
  中田喜直:木兎(みみずく)  團伊玖磨:旅上 はる
   ピアノ:高橋ドレミ
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昨日ご紹介した「関西歌曲研究会 日本歌曲の流れ 第101回演奏会 シリーズ 詩人 ~うたびと~vol.1 詩(うた)はどこから来た?」でも取り上げられる故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」から4曲。「僕等」「あどけない話」「千鳥と遊ぶ智恵子」そして「レモン哀歌」。

一昨日は朗読を伴う演奏会情報をお届けしましたが、こちらで把握しているもの、これで計7件ご紹介しました。まだあるかもしれません。曲名だけ告知されていて「作詞:高村光太郎」という記述がなかったりすると、なかなか気づけません。

内容等によりけりですが、お知らせいただければ、出来る限りご紹介いたしますので、よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

捺印の薄いのもありますが、それは〇下二十度の頃捺したもので、どうしても印肉がのらないでやむを得ませんでした。萬年筆は破裂しました。


昭和25年(1950)1月24日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋の厳寒期。水分は凍結すると膨張しますので、万年筆が破裂、朱肉も凍結して息でも吹きかけながら捺印したのでしょうか。昔の書籍の奥付に貼られていた検印紙に関わります。つくづく凄まじい生活でした。

岩波書店さんで出しているPR誌的な月刊の『図書』。今月号で光太郎智恵子が論じられています。
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「論じる」というよりはエッセイのような感じですが、映画監督の中村佑子氏による連載「女が狂うとき」の第4回で「冷たい乙女たち――高村智恵子に寄する」。

乙女」は「乙女の像」の「乙女」。青森県の十和田湖畔に立つ光太郎最後の大作「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦像」(昭和28年=1953)です。

光太郎、この像の身体部分は藤井照子というプールヴーモデル紹介所に所属していたプロのモデルを雇ってデッサンを重ねましたが、その顔はまぎれもなく、智恵子。ただし光太郎自身は公的には智恵子の顔だとは発言していません。それでも生前の智恵子を知る人々は一様にそう思いました。戦後のかなり早い段階から光太郎が「智恵子観音を作りたい」と言っていたのを知る人々も多かったようですし。
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冷たい」は中村氏が十和田湖畔を訪れたのが真冬で、「私はこの像を、ある人に寒いねと抱きしめられた肩越しに見た。こんな場所で裸をさらして、なんて寒そうなのか」というところから。また、象徴的な意味合いでも「冷たい」の語を選択し、冠したのだと思われます。すなわち、光太郎智恵子の関係性などなど。

吉本隆明が「高村の一人角力(ずもう)としかおもえないのである」(『高村光太郎』昭和32年=1957)と断じ、それを受けて黒澤亜里子氏がジェンダー的な視点を持ち込んで『女の首 逆光の「智恵子抄」』などで論じ、さらに多くの追随者で一時期賑わった、『智恵子抄』における生身の智恵子の不在、的なイメージです。

曰く

「自分の成長があなたのためにもなる……光太郎は智恵子と対等だと言いながら、庇護者のような気でいたのだろうか。家父長制が色濃く残る時代にあって、芸術家として歴然と地位も評価もあった光太郎が、智恵子の創作の力や情熱を吸い取っていったのではないのか。」

「東京に空がないのではなく、光太郎との生活に空がなかったのである。」

「理念と現実との深い落差に、幾重にも智恵子は追い詰められただろう。」


などなど。

先述の吉本隆明や黒澤亜里子氏やその他の人々によって同様の論は展開され続けてきたので、新しい知見というわけではありませんが、先行の論も今やほとんど絶版となっている今日、改めてこういうことを論じるのも、それはそれで意義のあることだと思われます。

ただし、光太郎はこういった批判を百も承知で居たのではないかというのが当方の見解です。ところが、それに気づいたのは智恵子の心の病が顕在化してから、さらには智恵子が歿してからではないか、とも思えますが。

それでもあえて『智恵子抄』出版に踏み切ったところに、『智恵子抄』の持つ重層性、多相性が見て取れます。

『智恵子抄』は、浅い読み方で読めば、「純愛の詩集」にしか過ぎません。そこで止まって肯定的に捉えれば「素晴らしい! 我が国相聞歌の金字塔だ」。否定的に読めば「高村の一人角力(ずもう)」。しかし、それに留まらず、もっともっと深い読み方が出来るはずです。

例えば「贖罪の詩集」。「済まなかった、智恵子よ」というわけで。戦後の連作詩「暗愚小伝」にも通じる、自らの「暗愚」の暴露と反省の表明とも読めます。

「訣別の詩集」とも読めましょう。昭和16年(1941)のオリジナル『智恵子抄』収録詩篇のうち、最後に書かれたのは、智恵子の葬儀を謳った「荒涼たる帰宅」。おそらく『智恵子抄』のための書き下ろしです。それ以前に智恵子没後のことを題材にした「梅酒」や「亡き人に」が作られていたにも関わらず、時間を逆行してあえて葬儀の日の模様を謳いあげました。

光太郎としては「一心同体」のつもりでいた智恵子が歿したことで、同時にそれまでの自分も一度死んだという気になったのではないでしょうか。しかし再生するのです、全く違う面貌で。

「荒涼たる帰宅」執筆後、すなわち『智恵子抄』刊行後、光太郎は詩の中で智恵子を扱うことを一時やめます。それから終戦までは、身辺雑記的なものを除き、殆ど戦意高揚のための翼賛詩一辺倒となります。ここには「芸術家あるある」で、俗世間とは極力交わらない生活が智恵子を追い詰めたという反省から、真逆の積極的に社会と関わろうという方向性への転換が見て取れます。そうしないと自分もおかしくなる、と考えたのかも知れません。

そこで、愛する者の死を謳うことで、同時にそれまでの自分への「訣別」を宣言するための『智恵子抄』。やはり戦後の「暗愚小伝」に通じますね。

それから「抄」一字に込められた思い。以前にも書きましたが、これは「全著作の中から智恵子に関するものの抄出」という表面的な意味以外に、「ここに表されている智恵子が智恵子の全てではないよ」という意味も込められているような気がします。「生身の智恵子はもっともっといろいろな悩みを抱え、必死に生きようとしていた素晴らしい女性だった。愚かだった自分は偏った見方で一部分しか見なかった。だから「抄」だ」と。

それでも光太郎は、「亡き人に」の中で「私はあなたの愛に値しないと思ふけれど/あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」と謳いました。「一切」には上記のもろもろが含まれるのではないでしょうか。何やかやと言っても、智恵子との日々はかげがえのないものでもあったわけで……。

そういう部分を考えると「鎮魂の詩集」という意味合いも感じられます。西洋音楽のレクイエムのような……。

というわけで、『智恵子抄』。決して単なる「純愛の詩集」ではありません。それに疑義を挟む批判的な読み方もけっこうですし、さらに突っ込んだ解釈が今後とも成され続けることを期待します。

ただし、史実と異なることを書かれるのは困ります。今回も、「智恵子が光太郎のブロンズ作品を袂に入れて散歩」「「乙女の像」は光太郎最後の彫刻」といった誤りが散見されて、残念でした。

そうした点は差っ引いても一読の価値がありますので、『図書』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

学芸会では小生サンタクロースのお爺さんに扮して舞台に出ました。部落の子供達はとても可愛いいです。


昭和24年(1949)12月6日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎67歳
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戦前には「芸術家あるある」で関係を極力絶とうとし、戦時中には戦意高揚の詩文で鼓舞し、と、いびつな形でしか社会との関わりを持ててこなかった光太郎、ようやく戦後になって自然な形での交わりが出来るようになったと言えましょう。

それにしても、この写真に写っていて、永らく光太郎の語り部を務められた高橋征一氏浅沼隆氏も今はもう虹の橋を渡られてしまったんだなぁ、と、改めて寂しい思いです。

今日、10月5日はレモンの日。昭和13年(1938)の今日、南品川ゼームス坂病院の15号室で、光太郎の持参したレモンをがりりと噛んで亡くなった智恵子に因みます。

さきにお伝えしたように、智恵子の故郷・福島二本松では「高村智恵子レモン祭」として、さまざまなコンテンツが展開中。そのうち、智恵子生家のライトアップについて『福島民友』さんが報じて下さいました。

2階に浮かぶ幻想的なシルエット 智恵子の生家をライトアップ、5日まで

 詩人・彫刻家高村光太郎の妻で、光太郎の詩集「智恵子抄」の「レモン哀歌」でも知られる二本松市出身の洋画家高村智恵子の命日を前に、同市の智恵子の生家・記念館は3日、ライトアップイベントを始めた。生家に智恵子と光太郎のシルエットが浮かび上がり、背景に月や「二本松の提灯(ちょうちん)祭り」などをイメージした幻想的な映像で彩った。
 「高村智恵子レモン祭」の一環として昨年に続き実施した。生家内や庭園は竹明かりや和紙ランプシェードで演出され、来場者が智恵子への思いをはせた。
 ライトアップは命日の5日までで、時間は午後5時〜同8時。ライトアップ時は生家を無料開放する。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。
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市のSNSから。
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いい感じですね。夜中に突如二階の障子に灯りがともり、浮かんだ智恵子のシルエットが動き出しそうな……(笑)。

ライトアップは今夜も行われ、いったん休止。その後、11月5日(火)~17日(日)の期間に再び点灯だそうです。

もう1件、光太郎第二の故郷・岩手花巻での「食」イベント。

【初開催】レモンの日イベント

期 日 : 2024年10月4日(金)・5日(土)
会 場 : 田舎labo 岩手県花巻市湯口字蟹沢13−1
時 間 : 11:00~16:00
料 金 : 無料

10月5日〈レモンの日〉にちなんで開催! いろんなジャンルの飲食店が、いちおしのレモンメニューを持って集まります。レモン尽くしの爽やかな2日間をぜひお楽しみください。

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地図を見ると光太郎が足繁く通った大沢温泉さんや鉛温泉さんを含む花巻南温泉峡の入口、当方もよく立ち寄るファミリーマートさんの隣の隣(笑)ですね。

情報に気づいたのが昨日で、申し訳ありませんでした。言い訳させていただけるなら公式サイトに光太郎智恵子の名が無かったもので……。他地域などでも光太郎智恵子をあまり意識せずに「レモンの日」ということでのイベントがあったりするのでしょうか。

とにもかくにも、お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子切抜絵展」少しも差支へないと考へます。未知の人々に見ていただくのも愉快です。

昭和24年(1949)11月14日 真壁仁宛書簡より 光太郎67歳

真壁は山形在住の詩人。戦争末期の昭和20年春、光太郎は南品川ゼームス坂病院で智恵子が作った紙絵千数百枚のうち約3分の1を真壁の元に疎開させました。他の3分の2も花巻の佐藤隆房宅、茨城の宮崎仁十郎宅に分散疎開。そのため、4月の空襲でアトリエ兼住居は灰燼に帰しましたが、智恵子紙絵は無事でした。

書簡は手元にある紙絵を山形の人々に見てもらいたいので、展覧会を開きたいという真壁の提案に対する返答です。これを受けて11月19日~28日、山形市美術ホールで「智恵子遺作切抜絵展覧会」が開催されました。これが初の智恵子紙絵展でした。

毎年恒例、昭和13年(1938)10月5日、南品川ゼームス坂病院でレモンをがりりと噛んで亡くなった智恵子を偲ぶイベントです。

高村智恵子 レモン祭

期 日 : 2024年10月3日(木)~11月17日(日)
会 場 : 智恵子の生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 水曜 ※祝日の場合は翌日
料 金 : 大人(高校生以上)410円(360円)
      子供(小・中学生)210円(150円) (  )内団体料金

蘇る智恵子season2~生家のライトアップ~
 智恵子の命日に生家がライトアップされます。ライトアップを堪能するとともに、智恵子への哀悼の意を表しませんか?
 ■実施期間
  1.10月3日(木)~5日(土) 午後5時~午後8時
  2.11月5日(火)~17日(日) 開館時間内(生家内)
   ※生家正面ライトアップは歩道よりご鑑賞ください。

智恵子の生家 2階公開
 ■公開日
  10月5日(土)~6日(月) 12日(土)~14日(月) 19日(土)~20日(日)
  26日(土)~27日(日) 11月2日(土)~4日(月)
 ※10月26日(土)は、午前に「紙絵コンクール」表彰式実施のため、公開を一時中止する場合がございますのでご了承ください。

奇跡といわれる智恵子の「紙絵」の実物展示
 ■展示期間 10月3日(木)~20日(日)
 ■場所 智恵子記念館内

生家の未だ見ぬ見処クイズ
 ■実施日 10月3日(木)~11月17日(日)
 生家に関するクイズに正解された方には、粗品を差し上げます。

「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演
 坂本富江氏(智恵子研究者・画家・作家)による読み聞かせ
 ■上演日時 10月14日(月・祝) 午前10時30分~正午
 ■場所 智恵子の生家内
 ■問い合わせ 熊谷 TEL:090-7075-6743
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期間中、さまざまなコンテンツが用意されています。10月14日(月)の「「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演」のみは、地元の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんの主催です。

さらにこの日は同会としての行事「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」も。

「智恵子純愛通り記念碑」は、智恵子生家/智恵子記念館駐車場に入る交差点の信号脇に佇む碑で、光太郎令甥の故・髙村規氏の揮毫によるものです。碑の前にちょっとしたスペースがあり、そこで野外集会的なことを行ったりもできるようになっています。

10時半からの「「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演」の前に、同会会員の方々や地元小中高生による光太郎詩朗読、智恵子と光太郎のことばを書いたボード設置等が行われ、紙芝居上演の後、ボード設置除幕式祝賀昼食会になだれ込むとのこと。

ちなみにボードは高村光太郎研究会会員でのあらせられる書家の菊地雪渓氏の揮毫だそうです。

ついでというと何ですが、同じ二本松でもう1件。

開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展

期 日 : 2024年10月1日(火)~11月17日(日)
会 場 : 大山忠作美術館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 800円(700円) 高校生以下 400円(300円) (  )内団体料金

 大山忠作美術館は、二本松市出身で現代日本画壇の重鎮として活躍した日本画家・大山忠作の作品を中心に収蔵・展示するとともに、大山の65年にわたる画業を永く顕彰する目的で、 2009年10月1日に開館いたしました。
 このたび、開館15周年を記念し、大本山成田山新勝寺特別協力のもと、大山が約二年の歳月をかけ完成させた、成田山新勝寺光輪閣「日輪の間」「月輪の間」襖絵《日月春秋》全二十八面を一堂に展示いたします。
 二本松の染物業を営む家に生まれた大山。描きたいものを描くという姿勢で、人物、花鳥、風景と題材は多岐にわたります。郷土をこよなく愛し、その想いを色濃く感じる作品も多く描いています。光輪閣の客殿に描かれた襖絵《日月春秋》は、日輪・月輪・瀧桜(春)・楓(秋)が構成され、春と秋の面では、ふるさと福島県の自然美が舞台となり、絢爛豪華でありながらも荘厳さに包まれた雄大な景観が描かれています。制作にあたり大山は、「大きな試練の場であり、精進の場でもありました」と述べています。画家としての一心な軌跡が凝縮された大山忠作の大作、襖絵《日月春秋》。今秋、ついに大山忠作美術館にやってきます!
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故・大山画伯、同郷の智恵子をモチーフとした絵画も複数描かれていますし、令和3年(2021)同4年(2022)、北條秀司作の「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を務められた一色采子さんのお父さまでもあらせられました。
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同展運営資金の一部を調達する目的でのクラウドファンディング(おかげさまで目標額を達成しました)をご紹介する際にも書きましたが、画伯の代表作の一つである成田山新勝寺光輪閣さんの襖絵全28面が初めて外に出ます。今年4月、将棋の名人戦七番勝負の第二局会場となった光輪閣さんで、藤井聡太七冠と豊島将之九段の死闘を見守った襖絵です。
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併せて足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

亡父や智恵子が十月のいい季節に死んでゐてくれたものと思ひました。


昭和24年(1949)10月11日 佐藤雪江宛書簡より 光太郎67歳

この年はちょうど智恵子の命日の10月5日に、花巻町中心部の古刹・松庵寺で智恵子と父・光雲の法要を営みました。何くれとなく光太郎の面倒を見ていた総合花巻病院長・佐藤隆房は病院の仕事が忙しかったのでしょう、欠席でした。代わりに妻の雪江が参列しました。

十月のいい季節に死んでゐてくれた」は、直後であれば何て言いぐさだ、という感じですが、10年以上も経過すると、暑くもなく寒くもなく、参列する人々にその部分で苦労をかけないという意味で、妥当な発言でしょう。

智恵子の故郷、福島の地方紙『福島民友』さんから。

「智恵子に親しみを」 高村夫妻結婚110周年、顕彰会が学校に絵本寄贈へ

 「智恵子抄」で知られる福島県二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家光太郎を顕彰する同市の「智恵子のまち夢くらぶー高村智恵子顕彰会」は12月、高村夫妻の結婚110周年などを記念し、智恵子の生涯を描いた絵本を智恵子の母校油井小をはじめ同市の全23小中学校と4地区の図書館、図書室に寄贈する。代表の熊谷健一さんは「絵本が二本松の次世代を担う子どもたちに美と愛を貫いた智恵子への親しみと理解を深めるきっかけにしたい」と期待を寄せている。
 贈呈は結婚110周年のほか、「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」でおなじみの光太郎の詩集「道程」出版110周年、同くらぶ発会20周年の節目を祝って実施する。
 贈呈する絵本は、同くらぶと親交のある作家で画家、智恵子研究者坂本富江さん(東京都)が制作した紙芝居「夢を描くひとー高村智恵子」を今回の贈呈に合わせ、坂本さんが一部手直しして絵本化したもの。
 同団体は2005年に設立、智恵子講座などを通じて智恵子と光太郎の世界を研究している。贈呈式は12月15日に二本松市で開かれる「発会20年を祝うつどい」の席上、実施する。
 同団体は本年、各種記念事業として今月16日、安達太良山の“ほんとの空の下”で智恵子抄朗読大会の開催などを予定している。
 熊谷さんは「絵本を通して波瀾(はらん)万丈の生涯を生き抜いた高村夫妻の遺徳を後世に伝承するとともに、子どもたちに今後、さらに濃密、充実した人生を歩んでもらえる生きた教材として活用してほしい」と贈呈を心待ちにしている。
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絵本作者の坂本富江さん、太平洋美術会さんに所属され、絵を描かれている方です。同会に入会なさった動機の一つが智恵子もこちらに通っていたことだという筋金入りの智恵子ファンで、都内智恵子生家で個展を開かれたり、平成24年(2012)には『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』、同27年(2015)には同書の増補改訂版を刊行なさったりしました。それを元に、智恵子母校の二本松市立油井小学校さんや光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さんなどで紙芝居の御披露もなさっています。

今回の絵本、当方、校正を担当いたしました。刊行は未だ少し先のようですが、世に出ましたらまた詳しくご紹介いたします。

その前に、記事にある「智恵子のまち夢くらぶー高村智恵子顕彰会」さんのイベント「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」が10月14日(月・祝)に行われ、その中でまた坂本さんの紙芝居実演がプログラムに入っています。

これも近くなりましたら詳しく取り上げますのでよろしくお願い申し上げます。。

【折々のことば・光太郎】

今スルガさんに頼んで便所を新築してもらふ事にしてゐます。スルガさんが一切引きうけてくれました。


昭和24年(1949) 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)脇に建っている便所のことと思われます。「スルガさん」は土地を提供してくれていた駿河重次郎です。
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左側が「小」。右側が「大」で、その壁に明かり採りのため「光」一字を刳り抜きました。
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先例があるのかもしれませんが、面白いことを考えるものだな、と感心しました。県としての取り組みです。

東京にある福島ゆかりをめぐるスタンプラリー “ディスカバーふくしま in TOKYO”

期 日 : 2024年9月6日(金)~12月1日(日)
会 場 : 東京都内11ヶ所のラリースポット
 (1)野口英世像(上野)  (2)ウルトラマンシンボル像(祖師ヶ谷) 
 (3)巨大赤べこ(常盤橋) (4)瓜生岩子像(浅草) (5)松平定信墓(清澄白河)
 (6)三春桜(赤坂) (7)オリンピックマラソン折返点記念碑(調布)、
 (8)紺碧の空歌碑(早稲田) (9)レモン哀歌の碑(品川) (10)東京都庁(新宿) 
 (11)日本橋ふくしま館MIDETTE
料 金 : 無料

参加方法:
 スマートフォンの専用アプリをダウンロードの上、対象のラリースポットを訪問すると、GPS機能によりアプリ内でスタンプが取得できます。
 取得したスタンプ数に応じて、ふくしまの魅力ある賞品が当たります。

■賞品:参加賞、4スポット賞(250名)、7スポット賞(100名)、コンプリート賞(5名)
 ※参加賞はもれなくプレゼント、他は抽選制です。コンプリート賞はスタンプラリー限定のオリジナル赤べこ、他賞品の詳細は特設サイトをご覧ください。
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福島を代表するアイテムの「赤べこ」や「三春の滝桜」、そして都内に於ける県の拠点の一つにしてアンテナショップの「日本橋ふくしま館MIDETTE」さん、それ以外は福島出身者ゆかりのモニュメントなどですね。「ウルトラマン」が円谷英二の須賀川市、同じ須賀川から「マラソン」で円谷幸吉、「紺碧の空」は古関裕而で福島市と、ぱっと分かる方はかなりの福島通(つう)でしょうが(笑)。

ありがたいことに、二本松出身の智恵子関連で「レモン哀歌詩碑」も入れて下さいました。
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ところで、「あれ、ちょっと偏ってるな」という気もしました。福島県は最も内陸の「会津」、太平洋沿岸の「浜通り」、両者に挟まれた「中通り」の三地域に分けられますが、全地域に関わる「MIDETTE」さんを除くと、「浜通り」関連が皆無です。「浜通り」といえば、フラガールや相馬野馬追が有名ですし、さらには出身者として当会の祖・草野心平(笑)。まぁ、都内にはそれらに直接関わるモニュメントなどがないということなのでしょうか。

ちなみに賞品は以下の通り。
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奮ってご応募下さい。

それから、他の道府県、もしかすると市町村単位でも似たようなことが可能かも知れません。郷土愛を育むにはいい取り組みですので、各地の自治体の皆様、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

山ではまだ花がさきません。山々にも雪が残って居り、風は中々寒いことです。それでもゼンマイ、コゴミの類は出て来ました。ヘビも出て来ました。木が多く伐られたので小鳥が少くなつたやうです。カツコウもホトトギスもまだ来ません。ウグヒスもまだ来ません。山鳩の声は時々ききますが。


昭和24年(1949)5月5日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

」は桜です。「山々にも雪」は蟄居していた山小屋周辺というわけではなく、そこから見えるもっと高いところという意味でしょう。五月にウグイスがまだ鳴いていないというのは意外でした。

今日、8月20日は昭和16年(1941)に『智恵子抄』初版の発行された日です。というわけで(というわけでもないのですが(笑))智恵子に絡むイベント2件、ご紹介します。

まずは智恵子の故郷・福島二本松での紙絵制作ワークショップ。

親子で楽しめるワークショップ「Satoyamaのはなしとものづくり」 第2回 智恵子の紙絵「紙絵のラブレター」

期 日 : 2024年8月24日(土)
会 場 : 二本松市市民交流センター2F 創作スタジオ 福島県二本松市本町二丁目3-1
時 間 : 9:30-11:00
料 金 : 子ども一人500円

 ⼆本松出⾝の⾼村智恵⼦さんは、詩⼈で彫刻家の夫・⾼村光太郎の『智恵⼦抄』の詩を通して、全国に広く知られている存在です。⽂献や資料を拝⾒すると、光太郎さんと智恵⼦さんの 2 ⼈は芸術家として互いに切磋琢磨し、刺激し合い、そして⽀え合っていた深い愛情が伺えます。
 ⼆本松の和紙や、千代紙、もみ和紙、包装紙、折り紙の模様や⾊を切って貼って、ラブレターをつくってみましょう。⾔葉を綴らないラブレターです。
 ⼤好きな感情をさまざまな紙の素材や⾊にのせて、切って貼って、制作します。親⼦や友達同⼠で参加して、お互いに制作して交換するのも素敵ですね。

【講 師】 よしもとみか(移動絵本図書館 みず文庫)
【対 象】 県北地方在住の小学生
      (福島市、伊達市、二本松市、本宮市、桑折町、国見町、川俣町、大玉村)
【参加人数】各回親子10組 ※先着順
【お問い合わせ】Hi there合同会社 TEL:090-4368-5410(平日9:00-17:00)
                 MAIL:contact@hithere.studio
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ただし、すでに定員に達してしまったそうで……。それでもキャンセル等が有るかも知れませんし、「こういうイベントもあるんだよ」ということで。

もう1件、千葉から展示の情報です。概要をわかりやすくするために、『毎日新聞』さん千葉版記事から。

時代を映す表紙絵 明治初期~昭和30年代 「夢みる女性誌展」 市川市文学ミュージアム

001 明治初期から昭和30年代までに発刊された女性向け雑誌を集めた企画展「夢みる女性誌展」が市川市文学ミュージアム(同市鬼高1)で開かれている。竹久夢二や中原淳一などが描いたレトロでかれんな表紙絵を通じて、当時の女性たちの生き方を紹介している。9月16日まで。入場無料。
 同展は、群馬県立土屋文明記念文学館の協力を得て、明治、大正、昭和、そして同市ゆかりの脚本家、水木洋子に関する展示の四つのコーナーがあり、女性雑誌91点や付録17点などを出展している。
 明治のコーナーでは、1884年に日本初の女性雑誌とされる「女学新誌」第1号(復刻)や、平塚らいてうが編集長を務めた文芸誌「青鞜」第1巻第1号(同)などが展示されている。
  同ミュージアムによると、明治の女性誌は、良妻賢母となるための知識を与える教育や啓発を目的とした「女学」雑誌が中心という。大正になると、大正デモクラシーの影響で、読者の投稿欄が登場するとともに、商業化が進み、華やかな表紙や付録なども登場する。
 昭和に入ると、第二次世界大戦中の戦争一色に染まった誌面もあるものの、女性誌の役割は学びから娯楽に変わり、戦後は新しい時代を迎えた華やかな雑誌が主流となった。
 担当学芸員の西村悠々大さんは「女性誌は時代によって役割を変えていった。表紙を通じて、それを感じてほしい」と話す。


展示詳細は以下の通り。

夢みる女性誌展

期 日 : 2024年7月13日(土)~9月16日(月・祝)
会 場 : 市川市文学ミュージアム 千葉県市川市鬼高1丁目1番4号
時 間 : 平日 10:00~19:30 土日祝 10:00~18:00
休 館 : 月曜日 月曜が祝日の場合は、翌火曜日休館
料 金 : 無料

 明治から昭和30年代までの時代を取り上げ、その間に発刊された女性向け雑誌を展示します。『女子文壇』や『青踏』から『主婦之友』『婦人倶楽部』『少女界』『それいゆ』などの雑誌と、それを彩った竹久夢二や中原淳一などが描いたレトロで可憐な表紙絵を中心に、当時の女性の生き方を紹介します。
 また、昭和20年から30年代にかけて活躍した脚本家・水木洋子のラジオドラマにもなった『あなたと共に』の初出雑誌やこだわりの洋服や帽子も展示します。展示物を通じて、当時の女性たちの時代とその変遷を感じていただければ幸いです。
 ※会期中一部展示替えを行います。
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智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)も展示されています。ただし複製ですが。それでも複製だけにきれいなのでしょう。
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『毎日』さん記事に有る通り、群馬県立土屋文明記念文学館さんの協力です。同館では平成22年(2010)に同名の企画展示を行い、かなり入場者を集めたようで、そのノウハウを生かすということでしょう。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

法隆寺の火事にはまつたく驚きかなしみました。大切なものを大切に扱はない結果でせうが、これも人心荒廃の一現象です。


昭和24年(1949)2月16日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

「法隆寺の火事」は前月末。漏電によるものだったそうで、国宝に指定されていた白鳳時代の金堂壁画の大部分が焼失してしまいました。













 


智恵子の故郷・福島二本松の安達太良山で先週土曜日に開幕した「あだたらイルミネーション」について、地元紙『福島民友』さんが報じています。

母音があ段だらけの安達太良山 「あ」のオブジェお目見え、映え写真で話題 二本松市・あだたら高原リゾート

 福島県二本松市のあだたら高原リゾートで27日に始まったあだたらイルミネーション。ロープウエー山頂駅周辺の展望広場には「安達太良山」の「あ」にフォーカスした不思議モニュメント「【あ】のオブジェ」がお目見えした。母音があ段だらけの安達太良山で、阿武隈の山並みや安達太良の空をバックに「何これ?」と思わせるインスタ映え写真が撮影できると話題になっている。
 このほか、ロープウエー山頂駅内には「ADATARA LOVE&FLOWER」がテーマの花を題材とした「ビッグフラワーイルミネーション」が初披露された。
 点灯は午後7時~同9時。9月23日まで(8月26日以降は金ー日曜日と祝日のみ)。入場料は中学生以上700円、4歳~小学生500円。ロープウエー乗車券とセット料金もある。問い合わせはあだたら高原リゾート(電話0243・24・2141)へ。
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「【あ】のオブジェ」、「あだたら」の「あ」かと思っていたのですが、それも含め、「あだたらやま(ADATARAYAMA)」の母音全てが「あ(A)」だというところからの発想だそうで。

「ADATARAYAMA」を多項式のように表すと「A+DA+TA+RA+YA+MA」。これを因数分解すると、共通因数の「A」を括りだして「A(1+D+T+R+Y+M)」もしくは共通因数「A」は後ろに置いて「(1+D+T+R+Y+M)A」とした方がわかりやすいでしょうか。ちなみに多項式の展開や因数分解は中学校3年生の学習内容です。

閑話休題。「【あ】のオブジェ」、過日ご紹介したのは昼間の画像でした。
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今回のものは夜間のようですね。イルミネーションの点灯とともにライトアップされているのでしょう。たしかに「映え」ますね。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

予定通り十三日朝花巻を出かけて山に帰つて来ました。花巻は連日好晴で温かでしたが、山は夜など相当に冷えます。しかし山の空気は清澄で、花巻に比べると驚くほど爽快です。


昭和23年(1948)10月14日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

花巻町で智恵子と父・光雲の法要を済ませ、郊外旧太田村の山小屋に帰りました。花巻町の中心街からは20㌔ほどで、「山」と云っても急峻な山間部ではありませんが、20㌔の間、だらだらだらと長い坂をずっと上っていく感じで、気がつくと標高も高くなっていて、中心街とは明らかに気候が異なります。

この時期、標高1,700㍍の安達太良山も登山口まで登ればすでに高原の清涼さが味わえるのではないでしょうか。

昨日、プレスリリースが出ました。

60万球が光り輝く福島の夏の風物詩「あだたらイルミネーション」7/27(土)開幕 インパクト抜群な「あ」のフォトスポットが新登場!カラフルなインスタ映えメニューも多数!

富士急安達太良観光株式会社が展開する「あだたら高原リゾート」(福島県二本松市)では、2024年7月27日(土)~9月23日(月祝)の期間、「あだたらイルミネーション」を開催いたします。

今年で13年目を迎える本イベントは、冬はスキー場のゲレンデとして使われる広大な斜面に広がる名物「光の天の川」中心に、花や動物などをモチーフにしたイルミネーションで輝く、あだたら高原リゾートの夏の風物詩です。今年の見どころは、「夏の大三角形」や「北斗七星」といった夏の星座のイルミネーションを楽しめるほか、「ADATARA LOVE&FLOWER」をテーマに、花をモチーフとした東北初の「ビッグフラワーイルミネーション」や大きなハートのオブジェクトなど、夜の安達太良山を美しく彩るフォトジェニックなフォトスポットが多数登場します。

また、7月27日(土)より、「あだたらやま」の「あ」にフォーカスした新たな不思議モニュメント「【あ】のオブジェ」が、ロープウェイ山頂の展望広場に登場。よく見ると母音がア段だらけの「あだたらやま」で、阿武隈の山並みや安達太良の空をバックに、「何これ?」なインスタ映え写真を撮ることができます。加えて、ひらがなの「あ」がインパクト抜群な新メニュー「【あ】のチュロス」、「【あ】のソフトクリーム」、「【あ】のかき氷ソフト」も登場いたします。

夜だけではなく昼から来ても楽しめる「あだたら高原リゾート」はフードメニューも充実しています。ピリッと辛い「冷やし担々麺」やかき氷をたっぷりのせた「かき氷そば」、安達太良の夏の新定番、雪のようなふわふわ食感の冷たいスイーツ「あだたらスノーアイス」など、夏にぴったりのメニューが登場します。ぜひ、ご賞味ください。

この夏は、高村光太郎の智恵子抄で有名な「ほんとの空」、阿武隈の山々を見渡す絶景の大パノラマ、そして幻想的なイルミネーションを楽しみに、「あだたら高原リゾート」へぜひお越しください。

【「あだたらイルミネーション」概要】

開催期間     2024年7月27日(土)~9月23日(月祝)
  ※8月26日以降は、金・土・日・祝日のみの営業
営業時間     19:00~21:00  
  ※ロープウェイの上り最終20:30、下り最終20:50
料  金
 入場料 中学生以上700円、小学生以下500円
 入場料+ロープウェイ乗車料 中学生以上1,500円、小学生以下1,000円

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■【あ】のオブジェ
この夏、ロープウェイ山頂駅の旧スキーゲレンデの展望広場に「あだたらやま」の「【あ】のオブジェ」がフォトスポットとして新登場。様々なサイズの「あ」の文字が散りばめられた「【あ】の道」を抜けると、高さ約180cmのビッグモニュメント「【あ】のオブジェ」と、成長途中の生えかけの「【あ】のオブジェ」が、「【あ】の広場」に現れます。「あ」ぶくまの山々を背景に、豊かな成長を繰り返す「あ」だたらやまで、不思議な「あ」の映え写真を撮ることができます。イルミネーション期間にはライトアップされ、イルミネーションとともにお楽しみいただけます。あなたなりの「あ」の楽しみ方を見つけてみませんか?
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■【あ】の新メニューも登場!
「あ」のオブジェの登場とともに、「あ」をモチーフとした、「あ」のチュロス、「あ」のソフトクリーム、「あ」のかき氷ソフトが新発売!鮮やかな緑の木々や青い空にかざして写真を撮ると、インスタ映え間違いなしです。「あ」だたらやまで「あ」のフードをご賞味ください。
<新メニュー>
 「あ」のかき氷ソフト 600円 「あ」のソフトクリーム 500円 「あ」のチュロス 600円
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■夏のひんやりメニューを販売!
「富士急レストハウス」では、暑い夏にぴったりのメニューを販売いたします。夏のあだたらの定番スイーツとなった雪のようなふわふわ食感の「あだたらスノーアイス」や、イルミネーションと共にお楽しみいただける「光る氷ドリンク」、「光るかき氷」、ピリッと辛い「冷やし担々麺」、かき氷をたっぷりのせた「かき氷そば」もご賞味いただけます。
<フード・ドリンクメニュー> 
 光る氷ドリンク 600円 ブルースカイ(ブルーハワイ味)
 光るかき氷 600円 ブルースカイ(サイダー味)トワイライト(いちご味)
 あだたらスノーアイス 600円 (ストロベリー ・ ピーチ ・ チョコ)
 かき氷そば 800円  冷やし担々麺 900円
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【昼から来ても楽しめる魅力がいっぱい!】 
■ロープウェイからの絶景、薬師岳パノラマパークからの雄大な景色を一望
「日本百名山」の一つに数えられる安達太良山は、標高1,700mで夏でも涼しい環境で大自然を満喫できます。あだたら山ロープウェイに乗って約10分の空中散歩を楽しんだ後、山頂駅からは阿武隈山系や福島市街地を一望。さらに、散策道を10分程歩いたところにある「薬師岳パノラマパーク」では、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる、青く澄みきった空と絶景の大パノラマが楽しめるほか、山肌にはハートの形を発見することができ、見どころいっぱいです。
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■絶景露天風呂「あだたら山奥岳の湯」でリフレッシュ!
標高約950mに位置する「あだたら山奥岳の湯」は、遮るもののない眺望が自慢の露天風呂で、高村光太郎が『智恵子抄』の中で「ほんとの空」と謳ったことで知られる「ほんとの空」を全身で楽しんでいただくことができます。また、内湯は「源泉かけ流し」で、泉質は全国的にも珍しいph2.5の酸性泉で、筋肉痛や神経痛、疲労回復、また皮膚病への効能や美肌効果もあると言われております。

【施設概要】
 営業日  年中無休※メンテナンス休業あり
 営業時間  10:00~19:00(最終入館18:30)
 施設内容  収容可能人数80人(男女各40人)内湯(9㎡)、
      露天風呂(20㎡) ※男女別
 利用料金  大人700円/小人(4才~小学生)500円
 pH値  2.5(強酸性)
 泉質  単純酸性温泉
 適応症  神経痛・筋肉痛・関節痛・運動麻痺・慢性消化器病・冷え性
     疲労回復健康増進・慢性皮膚病
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「あだたら高原リゾート」営業概要
 営業時間 8:30~16:30※日によって異なり、定休日もあります(HPをご参照ください)
 お問い合わせ 
 福島県二本松市奥岳温泉  TEL:0243-24-2141
 アクセス 
 車 東京から東北自動車二本松IC(約150分)
   国道459号岳温泉経由・県道386号(約20分)
 鉄道 東京駅→郡山駅(東北新幹線約90分)
    郡山駅→二本松駅(東北本線約25分)
    二本松駅→岳温泉(福島交通バス約25分)
 岳温泉からタクシー約10分 

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

村長さんの娘さんから小包をうけとつてお礼を書いたハガキには甲州の山のクルミかと思つて申上げましたが、信州特産のクルミでは更に上等のわけであります。お心づくしが身にしみる思です。


昭和23年(1948)8月15日 石井鶴三宛書簡より 光太郎66歳

彫刻家・石井鶴三から信州産のクルミを貰った礼状から。かつて信州はクルミの名産地で、現代でも昔ほどではないものの産出が続いていると思います。上田市の当方亡父の実家にも大きな胡桃の木が一本、庭に生えていました。「かつては」というのは、戦前。戦時中になると、クルミの木材が小銃の銃床に最適だというので、乱伐が進んだためです。

一昨日の『福島民報』さん一面コラムです。

あぶくま抄 北帰行

残念なニュースが報じられて久しい。本県から首都圏などに出て行く若者が、入ってくる数を上回っている。いわゆる「転出超過」。女性は顕著で、全国上位のままだ。古里はそんなに魅力に乏しいのか▼首都圏在住の県内出身者(18~34歳)を対象に県が初めて実施した調査で、「福島県に戻る可能性がある」との回答が25%を占めた。4人に1人は多いか、少ないか。両論あろうが、都会へのあこがれと現実との落差に気付き、リセットを考える県人は確かにいるのだろう。高層ビルの乾いた林で思い探すは、懐かしい「ほんとの空」か▼若い世代よ、大いに語れ―。福島市は13日、初の「福島っ子ベース」を市内で開く。高校生から30歳未満が集う。進学、就職、結婚、子育てなどをテーマに、思いの丈を発する。寄せられた声は「市こども計画」に生かされる▼給食や医療費の無償化から、おむつの提供まで、自治体は懸命に「子育てファースト」施策を進める。最後のひと押しは、膝詰めで語り合える仲間がいるかどうかかもしれない。SNSファーストのお付き合いに疲れたならば、訛[なま]り懐かし古里へ。ほんとの空は翼を広げ、都会からの北帰行を誘っている。

コロナ禍の頃は東京一極集中が見直され、リモートワークであれば地方でも、と、地方へのUターンやIターンが話題となりましたが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」でしょうか、またしても「転出超過」、光太郎が(智恵子が)謳った「ほんとの空」のある福島も例外ではないようで……。
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 智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ。
 どんよりけむる地平のぼかしは
 うすもも色の朝のしめりだ。
 智恵子は遠くを見ながら言ふ、
 阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
 毎日出てゐる青い空が
 智恵子のほんとの空だといふ。
 あどけない空の話である。

詩の執筆は昭和3年(1928)5月11日、翌月、尾崎喜八らと一緒に出していた雑誌『東方』に発表されました。この年、智恵子は43歳(数え年です。以下同じ)。故郷の空に思いを馳せる、というと、やはりある程度の年齢になってからが多いのでしょうか。

明治40年(1910)に日本女子大学校を卒業した後、実家の反対を押し切って福島には帰らず、油絵画家として成功することを夢見ていた20代の頃は、「ほんとの空」を懐かしむ余裕もなく、がむしゃらに突っ走っていたのかも知れません。

大正3年(1914)、29歳で光太郎と結婚し(結婚披露は行ったものの入籍しない事実婚でした)、画家として行き詰まりを感じるようになると、「私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。彼女はよく東京には空が無いといつて歎いた。」(光太郎「智恵子の半生」昭和15年=1940)。

しかし、恐慌のあおりや、父の死後、あとを継いだ弟の不行跡で実家の造り酒屋・長沼酒店はどんどん傾き、「あどけない話」が書かれた前日には、不動産登記簿によると長沼家の家屋の一部が福島区裁判所の決定により仮差し押さえの処分を受けています。光太郎がこうした事情を知らなかったとは考えにくく、その苦悩を「あどけない話」で暗示しているのでしょう。ちなみに翌昭和4年(1929)には、長沼家の全ての家屋敷は人手に渡り、家族は離散、智恵子は帰るべき故郷と「ほんとの空」を失います。

それが決定打となって、心の病がどんどん昂進していったのでしょう。誰の目にも智恵子の異状が明らかになったのは光太郎の三陸旅行中の昭和6年(1931)、智恵子46歳の時からと言われますが、夫妻と親しかった深尾須磨子の回想などによれば、それ以前のかなり早い段階から、智恵子には異様な行動やつじつまの合わない発言が見られていたそうです。

現代の人々にも、「ほんとの空」が失われないうちに、それぞれの「ほんとの空」のある場所へと「帰行」するのも一つの選択肢だよ、と言いたいところですね。

ちなみに最近、自宅兼事務所近くでこんな看板を見付けました。
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月極駐車場の看板ですが(笑)。
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以前に同様の画像が旧ツイッターにたびたび投稿されていて、「智恵子さん、東京にも空がありますよ」みたいなツイート。それを見て、自分でもこの手の看板を見付けたいものだと思い、主に都内に出た時に注意していたのですが、自分のテリトリーで見付けてしまいました(笑)。

自分もUターン組でして、都内や東京近郊に住んでいた頃には、あまり「空」を意識していませんでしたが、田舎に引っ込み、ある程度年齢を重ね、さらに智恵子の「ほんとの空」への思いなどにも触れると、都会には無いきれいな空が拝める幸せを感じるようになりました。
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戦後になって、花巻郊外旧太田村に隠棲した光太郎も、同じようなことを感じていたような気がします。

ところで、今日は『福島民報』さんから引用させていただきましたが、やはり最近、ある全国紙の読書欄でも「福島」「智恵子抄」といった紹介が為されました。しかし、それを書いているのが、とにかく批判ありきの薄っぺらなセンセイですので、黙殺させていただきます。記事が載ったのに気づいてないの? と言われるのも癪なので弁明しますが、そのセンセイ、事実確認もろくすっぽせずにあっちにもこっちにも噛みついてばかりのどうしようもない方ですので(かえって辛口だからともてはやされているようです)、紹介する価値を見いだせません。内容的にも「内容が無いよう」でした(笑)。過去にはこのブログでも、そういう方だと知らなかった頃の新聞寄稿を一度だけ紹介してしまいましたが(笑)。

批判をするな、というのではありません。しかし批判のための批判としか読めないものは控えるべきではないでしょうか。

【折々のことば・光太郎】

まだ当分は山に引き籠つてゐて上京はせぬつもりで居ります。今日の不合理な旅をするのもイヤですし、東京の空気を考へると泥水の中へ行くやうな気がして気がすすみません。


昭和23年(1948)4月18日 西出大三宛書簡より 光太郎66歳

都民の皆さん、気を悪くなさらないで下さいね(笑)。

3件ご紹介します。

まず、智恵子の故郷・福島の地方紙『福島民報』さん、6月2日(日)の一面コラム。

あぶくま抄

「日本百名山」の出版に先立つ1960(昭和35)年の晩秋、著者の深田久弥さんは安達太良山に登る。万葉集や高村光太郎の詩にうたわれる文学性に憧れていた。岳温泉の食堂の2代目で安達高山岳部OBの佐藤龍一郎さんと、後に郡山市長を務める藤森英二さんの青年2人が案内した▼中腹のくろがね小屋で温泉に漬かって1泊すると、翌朝は雪。霧にも包まれた中、的確な先導で登頂を果たす。著書「わが愛する山々」につづられている。今、食堂を守る3代目が店先に立てた看板には、同伴した父の誇らしげな山男姿の写真がある▼父子の絆は二本松の酒蔵にも受け継がれている。蔵元の男性は安達太良山の古名にちなむ酒「甑峯[こしきみね]」を背負い、今年も山開きに参加した。亡くなった先代がぜひ、その名を冠した酒を造りたいと願っていた。先代は明治大山岳部で冒険家の植村直己さんの後輩だった。仕上がった酒の味わいは山好きの思いを映し、「晴れた空のよう」とも評される▼あれが阿多多羅山―と、光太郎は妻智恵子の郷里を慈しんだ。名峰がよこすやまびこは、たくさんの面影を乗せてくる。百名山の中でもひときわ輝く光を放って。安達太良山のほんとの空に。

かの『日本百名山』で安達太良山も選出し、今回の『福島民報』さん同様「樹下の二人」(大正12年=1923)や「あどけない話」(昭和3年=1928)を引用してくれた深田久弥。地元の人々との交流もひとかたならぬものがあったのですね。

続いては、『山陰中央新報』さん、6月1日(土)の掲載分。

きょうの歴史

▽「青鞜社」設立(1911年)

 女性運動家の平塚らいてうら女性5人が東京の駒込で発起人会を開き、文芸集団「青鞜社」を設立した。9月に日本初の女性文芸誌「青鞜」を創刊。

智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』。発刊は明治44年(1911)9月でしたが、発起人会は6月1日だったそうですが、あまりその日付は意識していませんでした。

ちなみに会場は「東京の駒込」とありますが、当時の本郷区駒込林町の物集和子邸。跡地(現在はマンション)には文京区教委による「青鞜社発祥の地」の案内板が建っています。和子の父は国文学者・物集高見でした。現在は駒込というより千駄木です。JRの駒込駅からはそこそこ離れています。山手線だと日暮里駅や西日暮里駅の方が近い感じです。かつての森鷗外邸・観潮楼(現・文京区立森鷗外記念館)はすぐ目の前、光太郎智恵子の愛の巣のアトリエ兼住居も、翌年、指呼の距離に竣工します。
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発起人は5人。らいてう、物集、木内錠子、保持研子、中野初子。おそらくこの席上では智恵子に表紙絵を依頼することは決まっていたのだと思われます。

最後に埼玉県東松山市の広報誌『広報ひがしまつやま』今月号、市民の皆さんの投稿文芸欄。
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短歌の部の二首目、「主夫として家事に勤しむ連翹忌歩行器の妻の後ろを歩む」。「連翹忌」の語を入れて下さいました。ありがたし。

同市は亡くなった元教育長の田口弘氏が光太郎と交流があり、さらにそこに氏と意気投合した高田博厚がからんで、光太郎関連のもろもろが同市に残されていますので、「連翹忌」の語も意外と自然に出てくるのではないかと思われます。それでも「「連翹忌」って何?」という方のために選者氏が「連翹忌は四月二日の高村光太郎の命日」と解説して下さいました。

よく書いていますが、「「連翹忌」って何?」程度ならともかく「高村光太郎って誰?」という世の中にならないよう、活動を続けていきたいものだとあらためて思っておりますので、ご協力よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

暗愚は暗愚なりに書きたいものを書く外ありません。


昭和22年(1947)11月23日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎65歳

この年発表した、自らの生涯を振り返り、戦争責任を省察する連作詩「暗愚小伝」が念頭に置かれています。何だかんだ言いながら結局筆を折ると言うことをしなかった光太郎、つくづくクリエイティブな人間だったんだな、と思います。

一昨日、昨日と、一泊二日で福島県に行っておりました。

メインの目的は、智恵子の故郷・二本松市で昨日開催されたイベント。地元で智恵子顕彰にあたられている智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」でした。
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昨年もほぼ同一のイベントが行われたのですが、市内、特に智恵子生誕の地の旧安達町エリアを中心に、智恵子ゆかりの場所を見て回るというイベントです。ちなみに今日・5月20日が智恵子の誕生日です。

智恵子生家近くで開会式。
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6月1日(土)オンエア、東北6県向けの「ウイークエンド東北」という番組内で、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存の件、さらに光太郎智恵子顕彰にあたる東北の人々というコンセプトで10分程の放映が行われるそうで、そのロケも入りました。

ちなみに4月2日(火)、当会主催の連翹忌の後、ご案内をお送りしたもののご欠席だった方々などに当日の配布資料等を後日発送したのですが、その中に今回のイベントの案内も同封しましたところ、静岡で文芸同人誌『岩漿』を主宰なさり、光太郎智恵子にも触れた文章を書かれている小山修一氏御夫妻もいらして下さいました。ありがたし。

智恵子生家。
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午前中はよい天気で、「ほんとの空」という感じでした。
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二本松市さんとしては、先月末から「智恵子生誕祭」期間。5月26日(日)までです。土日には紙絵制作のワークショップや通常非公開の生家2階部分の特別公開が行われています。
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一階の座敷を横目に土間を通り抜け、二階へ。階段を上ってすぐ、かつての智恵子の部屋です。
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奥は弟妹の部屋的な。
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生家裏手の智恵子記念館。紙絵の実物展示が5月12日(日)までだったのが少し残念でしたが。
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左の窓に映っているのは、昨秋の「高村智恵子レモン祭」期間中に開催されたワークショップ「みんなで作るシンメトリー展」で来場者の方々が作られた作品だそうです。

その後、夢くらぶさん会員の方々の車輌に分乗、ゆかりの地を巡りました。智恵子母校の油井小学校さん、JR東北本線安達駅前の智恵子像「今 ここから」(故・橋本堅太郎氏遺作)、満福寺さんの智恵子実家・長沼家墓所、生家裏手の鞍石山の詩碑など。
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最後は二本松市街、霞ヶ城。
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敷地内に昭和35年(1960)に建てられた光太郎詩碑。
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遠景には、安達太良山。
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銅板のプレートは三面あり、正面と背後は光太郎自筆を写しています。
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碑陰記的なプレートは、当会の祖・草野心平筆。
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ついでにご紹介しますが、この碑の近くには戊辰戦争で名を馳せた二本松少年隊を顕彰する碑も。
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レリーフ原型は橋本堅太郎氏父君の橋本高昇です。高昇、堅太郎氏父子共々、光太郎の父・光雲の流れをくみます。高昇は二本松出身、堅太郎氏は東京出身でしたが、のちに二本松市名誉市民に認定されました。 

さて、光太郎詩碑前で、参加者による光太郎詩朗読。
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泉下の光太郎智恵子も眼を細めているような気がしました。

この後、この場で昼食のお弁当をいただき、解散。

地味な活動ですが、アップデートしつつ継続していっていただきたいものです。

智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんでは、この後もいろいろとイベント等企画されています。
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また近くなりましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

貴下の絶対否定のお言葉をよんでなるほどと思ひましたが、小生はやはり貴下に憫れまれながら死ぬまで詩を書くでせう。詩は、小生内部からの自己爆破に備へる為の安全弁の作用をするので已むを得ません

昭和22年(1947)9月29日 水沢澄夫宛書簡より 光太郎65歳

水沢は美術評論家。光太郎がこの年雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」20篇に対し、直接光太郎に書簡を送って「詩的情調に欠けている」的な批判をしたようで、それに対する返答の一部です。

安全弁」云々は、遠く明治期の留学帰朝後からの光太郎の持論でした。

明治19年(1886)5月20日、福島県安達郡油井村(現・二本松市)に生を受けた智恵子を偲ぶイベントです。

第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~

期 日 : 2024年5月19日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館とその周辺 福島県二本松市油井漆原町35
時 間 : 9:00~14:00
料 金 : 2,000円(お弁当付き)
主 催 : 智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~


高村智恵子ゆかりの地を説明付きで巡ります。霞ヶ城公園の「智恵子抄」詩碑前で参加者の詩朗読。
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昨年も参加させていただきました。要項に記載がありませんが、主催の「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」の方の車輌に分散しての移動です。行程はほぼ同一ですが、それぞれの場所で智恵子や光太郎の息吹が感じられますので、なかなかよい試みかと。

特に智恵子生家は現在、通常非公開の二階部分(智恵子居室や光太郎も泊まった部屋)の公開が為されています。智恵子の実家・長沼家は裕福な造り酒屋だったですので、しつらえのあちこちに工夫が垣間見えして、古建築好きの方にもおすすめです。
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ちなみに智恵子の父・今朝吉は、家業の造り酒屋以外にも、同じ福島の白河にあった白河醸造の監査役も務めていました。まぁ、名誉職のようなものかも知れませんが。
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その父・今朝吉が大正6年(1917)に歿し、弟・啓助があとを継ぐと家業はどんどん傾き、昭和に入ると恐慌のあおりで破産してしまいましたが。

昨年と異なるのは最後の「参加者による詩の朗読」の場所。昨年は生家/記念館裏手の鞍石山にある「樹下の二人」詩碑前でしたが、今年は二本松城(霞ヶ城)内の智恵子抄詩碑前で行うそうです。

昨日書いた安達太良山間の山開きが同日で、どちらに参加しようか迷ったのですが、こちらを選びました。

話せば長いことながら、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動の関係で、とりまとめ役の曽我貢誠氏がNHKさんに連絡をとったところ、仙台放送局のディレクター女史が4月2日(火)の連翹忌にご参加下さり、アトリエ保存の件、さらに光太郎智恵子顕彰にあたる東北の人々というコンセプトで6月1日(土)、東北6県向けの「ウイークエンド東北」という番組内で10分程の放映が行われることになりました。そのロケも入ると云うことで、こちらに参上しようと決めた次第です。

他に光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に料理を通して光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの取材も為されたとのこと。

この件はまたのちほど詳しくご紹介いたします。

さて、第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

待望のクマゼミ到着、感謝に堪へません。よく捉へられたものです。小生は先年つひに失敗、今まで熟覧出来なかつた蟬です。実に美しいので今夏中に彫刻したいと思つてゐます。


昭和22年(1947)8月6日 東正巳宛書簡より 光太郎65歳

東は三重県在住。光太郎の求めに応じ、東日本では珍しいクマゼミ標本を送りました。

さらに東からは彫刻用の椿の木材、ヤギという珊瑚の一種なども送られ、光太郎はこれらで蟬を彫ったようです。ただし、作品として発表することはせず、技倆を鈍らせないための鍛錬などのためという側面が強かったようです。

実際に蟬の彫刻の目撃談が複数あり、宮沢賢治実弟・清六の妻に木彫(?)の帯留めも贈りました。ただし現存が確認できていません。

この頃の短歌で「太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは」という歌もあり、揮毫した色紙等も複数残されています。
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智恵子の故郷、福島二本松でのイベントです。二本松市さんの主催で、期間中、さまざまなコンテンツが用意されています。

高村智恵子 生誕祭

期 日 : 2024年4月25日(木)~5月26日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 水曜 ※祝日の場合は翌日
料 金 : 大人(高校生以上)410円(360円)
      子供(小・中学生)210円(150円) (  )内団体料金

「智恵子の生家」は、明治初期に建てられた造り酒屋で、酒銘は「花霞」と言いました。智恵子は明治19年5月20日にここで生まれ、育ちました。

明治、大正、昭和と激動の時代を生きた智恵子の愛と美の軌跡をぜひご覧ください。

智恵子の生誕日5月20日(月)に来館された方には紙絵マグネットをプレゼントいたします。

 智恵子の生家 二階特別公開
  公開日 4月27日(土) ~4月29日(月) 
      5月3日(金)~5月6日(月) 11日(土)・12日(日)
      18日(土)~5月20日(月) 25日(土)・26日(日)
  通常公開していない「智恵子の居室」を特別に公開いたします。

 
奇跡といわれる「紙絵」実物展示
  展示期間 4月25日(木)~5月12日(日)
  展示場所 智恵子記念館展示室
 
 上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験
  開催日 5月18日(土)・19日(日)・25日(土)・26日(日)
  開催場所 智恵子生家
  上川崎和紙を使用し、智恵子の紙絵をモチーフとしたグッズを作成できます。

 みんなで作るシンメトリー展~展示編~
  開催日 4月25日(木)~5月26日(日)
  開催場所 智恵子記念館
  昨年開催の“レモン祭”で作製いただいた皆様のシンメトリー作品を展示いたします。
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これとは別に、地元の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんが、「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂のつどい~」を5月19日(日)に開催します。また、同日は安達太良山の山開きも行われる予定です。それらはまた近くなりましたら詳細をご紹介します。

【折々のことば・光太郎】

つい昨年まで水野君からいろいろの野菜の種子などをもらつてゐましたが、今年播種期になつて、もう水野君が居ないのだと強く悲しく思ひました。鶴首南瓜の種子も絶え、ブンズウ豆やセリフオンの種子だけはどうやら形見にのこりました。


昭和22年(1947)6月10日 押尾孝宛書簡より 光太郎65歳

「水野君」は水野葉舟。明治後期の第一期『明星』以来、光太郎の一番の親友でした。大正12年(1923)の関東大震災以後は東京を離れ、千葉の遠山村(現・成田市)で半農生活に入り、その意味では光太郎の大先輩でした。

雑誌の新刊です。

月刊 アートコレクターズ』№181 2024年4月号

2024年3月25日 生活の友社 定価952円+税

宇宙のような無限の広がりを持つ「色彩」。本特集では、「色彩」にこだわりを持った現代の実力派作家たちを紹介。さらに美術史における「色彩芸術」の変遷や、日本人ならではの色彩感覚についてなど、様々な観点から「色彩」を探究。あたりまえのように感受している「色彩」のパワーを改めて見直します。

表紙:入江明日香「雪月花之舞」2024年 ミクストメディア 85×65cm
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目次
 【巻頭特集】 色彩の宇宙 実力派カラリスト勢ぞろい


◇寄稿
 岡﨑乾二郎 目から転がり落ちる色
 谷川渥 絵画は色彩芸術か
 赤瀬達三 都市のなかの色彩 
 三木学 サイン色彩概念を疑う
◇アーティストインタビュー
 流麻二果 色に遺る生活の跡
 岡村智晴 ノイズの創造性
 氏家昂大 ―異物としての陶芸―
◇グラビア
 中村功/藤井孝次朗/横溝美由紀/前田信明/福本百恵/加来万周/曽谷朝絵/戸泉恵徳
 上野英里/Yeji Sei Lee/木村佳代子/少女(SONYO)/ATSUYA/今実佐子/石倉かよこ
 蓮水/間島秀徳/坂口寛敏/名古屋剛志/西岡悠妃/オーガ ベン/福井江太郎
 大久保智睦/中島麦/中津川博之/小泉遼/銀ソーダ/水津達大/岡田菜美/盧思/城愛音
 長谷川喜久/堀川理万子/天野雛子/やましたあつこ/松下徹/吉川民仁/平体文枝
 CAIQIN/那須佐和子/今津奈鶴子/西川茂/Pin-Ling Huang/小林正人/松浦延年
 近藤亜樹/片山雅史/木下めいこ/井崎聖子/野地美樹子/末松由華利/入江明日香
 南依岐/塚本智也/谷保玲奈/福室みずほ/春田紗良/坪田純哉/篠田教夫/浜田浄
 佐藤裕一郎/梶岡俊幸/藤森哲/田島惠美
【展覧会情報】 神戸アートマルシェ 他
【連載】 鹿島茂/水沢勉/森孝一/田辺一宇/飯島モトハ
 Contemporary Art Now/展覧会ガイド 他

この3月末で退任された、元神奈川県立近代美術館長であらせられた水沢勉氏の連載「色と形は呼び交わす」の第13回「盛田亜耶 被膜の虚実」で、智恵子紙絵が紹介されています。

メインは標題の通り、切り絵作家・盛田亜耶氏の作品紹介ですが、同じ切り絵ということで、智恵子の紙絵が話の枕になっています。ちなみに智恵子のそれは光太郎の意図で「紙絵」という呼称が定着していますが、ジャンル的には切り絵です。

水沢氏、昨秋、二本松市の智恵子生家/智恵子記念館で開催された「高村智恵子レモン祭」に足を運ばれ、智恵子紙絵の実物展示(平時は複製展示)をご覧になったそうで、その印象など。

曰く、

 智恵子の「紙絵」は、紙を折ることによるシンメトリーの効果や皺による無意識の偶然性などを冴え切った感覚で活かし、重なりあった複数の紙の繊細極まりない表情をハサミで震えるような切れ目を入れることによってみごとに際だたせるものであった。その抜きんでた才能を、印刷物や複製ではなく、原作をまのあたりにすることで確かめることができた。

そして先述の通り、盛田氏の切り絵の紹介。

ちなみに盛田氏、昨年全国巡回のあった「超絶技巧、未来へ 明治工芸とそのDNA」展に出品されていました。当方、日本橋の三井記念美術館さんで拝見しました。
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氏の作品、モノトーンが基調のようですが、色彩を効果的に使った作品も見られます。再び水沢氏曰く「一見薄っぺらともいえる紙による造形が特別な存在感を纏っていた」。

こうした点は智恵子紙絵にも共通していえることだと思われます。くりかえし書いていますが、智恵子紙絵は台紙に貼り付けることで生じる1㍉に満たない厚みが不思議な立体感を醸し出しています。これは複製や印刷物では味わえない感覚で、その意味ではぜひ実物をご覧になって納得していただきたいところです。

昨日も書きました通り、今月末から来月にかけ、やはり二本松市の智恵子記念館さんで恒例の実物展示が行われます。また近くなりましたら詳細をご紹介します。

さて、『月刊 アートコレクターズ』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

宮崎さんの赤ちゃんの名は宮崎さん自身で光太郎とつけたと言つて来られました。これには少々驚きました。あんまり近いところに光太郎さんが居る事になるので何だか変ですが、もう届けてしまつたことなので是非もありません。

昭和22年(1947)5月25日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎65歳

「宮崎さん」は宮崎稔。茨城在住の詩人で、戦前からその父・仁十郎ともども光太郎と交流がありました。戦後になって昭和20年(1945)、光太郎の仲介で、智恵子の姪にしてその最期を看取った看護師だった長沼春子と結婚。そして生まれた第一子を「光太郎」と名付けてしまったとのこと。夫婦とも光太郎を限りなく敬愛していたためなのでしょう。

智恵子の故郷・二本松系の情報を。

まず、二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』。同市では毎月末に来月号をサイト上にアップしていまして、4月号です。

ここ数年、「桜の街」を謳っている同市ですので、毎年4月号は市内の桜関係の情報が満載。表紙も二本松城(霞ヶ城)の桜です。
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令和元年(2019)に同市で開催された「2019全国さくらシンポジウム」のキャッチフレーズ「ほんとの空にさくら舞う」が使われ続けています。
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市内の銘木紹介。智恵子生家/智恵子記念館を含む智恵子の杜公園の桜が紹介された年もあったのですが、今年はありません。
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桜がらみのイベント情報。

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臨時バス情報。こちらは智恵子生家/智恵子記念館も行程に入っている「二本松春さがし号」にも触れられています。
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ただし、思いのほか開花が遅れたということで、3月29日(金)~4月7日(日)だった当初運行予定が変更となり、1週間先送りで4月5日(金)~4月14日(日)となったそうです。広報では訂正が間に合わなかったようです。
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過日ご紹介した周遊観光タクシーともどもご利用をご検討下さい。

二本松系でもう1件、テレビ番組の放映情報です。

秘湯ロマン

地上波テレビ朝日 2024年3月30日(土) 03:00~03:30

日本全国の秘湯と呼ばれる温泉の魅力を紹介します。今回の秘湯は福島県、岳温泉「奥岳の湯」「花かんざし」、宮城県、鬼首温泉「ホテルオニコウベ」、温湯温泉「佐藤旅館」。

【旅人】秦瑞穂 【ナレーション】丸山未沙希
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安達太良山の登山口にある奥岳の湯さん、中腹の花かんざしさん。

奥岳の湯さんはこの番組で平成30年(2018)にもが取り上げられ、光太郎智恵子の名を出して下さいましたが、使い回しの映像なのか、新作なのか、というところです。花かんざしさんは初の登場です。

ちなみに令和2年(2020)8月放映の那須塩原温泉・塩の湯柏屋旅館さんが取り上げられた回では、光太郎智恵子が泊まった宿というご紹介をして下さいました。
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今回、「ほんとの空」「智恵子抄」といったワードが出てくるかどうか微妙なところですが……。

というわけで、二本松、岳温泉、ぜひ足をお運びいただき、桜と温泉をご堪能ください。

【折々のことば・光太郎】013

写真たくさん届きました。みんなにあつたやうな気がしました。中々よくとれてるのもあります。笑つて居るのはみんないいです。ありがと。ツマゴといふのは雪の中を歩くワラグツです。小生のは特大です。


昭和22年(1947)3月3日
 髙村規宛書簡より 光太郎65歳

令甥の故・髙村規氏宛の絵手紙です。後に写真家となられた規氏、このころはまだ高校生でしたが、既に趣味的に写真撮影に取り組まれていました。おそらく御家族(父君は光太郎実弟・豊周)の写真を光太郎に送ったのでしょう。戦争末期、豊周一家は光太郎の花巻疎開より前に長野に疎開していたため、2年以上会っていませんでした。

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