カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

一昨日、愛車を駆って福島県の浜通り地区(太平洋沿岸)を廻っておりました。レポートいたします。

まず向かったのが、宮城と県境を接する相馬市。最初に相馬市図書館さんで今月1日に始まった「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」というミニ展示を拝見しました。
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全国の図書館さんでよくある、テーマを定めて蔵書等を一ヶ所にまとめ説明パネルを掲げるタイプのミニ展示。
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パネルがなかなか秀逸でした。
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テーマが「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」ということで、他にもいるのでしょうが、原釜海岸をたびたび訪れた智恵子、その夫・光太郎、同じく原釜に足跡を残している竹久夢二、そして相馬出身の彫刻家・佐藤玄々が中心でした。

智恵子関連では、やはり原釜滞在の件。
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智恵子が2度訪れた、という解説になっていますが、時期が特定出来ているのが2度であって、それ以外に少女時代にも訪れているかもしれません。というか、その可能性が高いと思われます。ちなみに相馬市の北隣・新地町にも立ち寄ったという証言も残っています。

確認出来ている2回の滞在では、ともに金波館(現存せず)という宿に宿泊していました。
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下画像は手元にある原釜の古絵葉書。金波館も写っていると思われます。
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それから、竹久夢二も原釜を訪れています。
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光太郎智恵子と夢二には軽く関わりがありました。そんなこんなで相関図。
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光太郎智恵子関連の図書類。
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日本の文学者36人の肖像(上)』、『マンガ名詩・短歌・俳句物語 2 名詩 下』など、新しめのものも。

展示図書の目録。
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そして相馬出身にして光太郎の父・光雲孫弟子の佐藤玄々(朝山)関連。
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これには驚きました。「兎」。解説の通り、光太郎にも全く同一の図題の「兎」手板浮彫が現存します。数え14歳、東京美術学校の予備門的な共立美術学館に在学中の作品です。
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光太郎の「兎」、講演や市民講座などで光太郎の生い立ちを語る際、「十代前半の少年の作とはとても思えません」と言いつつ紹介すると、会場の反応が「おおお!」となるものです。その際に「もっとも、オリジナルの作ではなく、手本があってそれを写したものと思われますが」と付け加えますが、やはりそうだったか、という感じでした。こうした手本で光雲一門が彫刻のイロハを学んだということなのでしょう。

同様に、やはり光太郎作の「猪」の手板浮彫(左下)も、全く同じ図題のもので別人(右下・作者不明)の作が美校の後身である東京藝術大学さんに残されています。
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「朝山」時代の「兎」など、玄々の作品が同じ相馬市の歴史資料収蔵館に多数展示されているということで、そちらへ。
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残念ながら撮影禁止でしたし、収蔵されている全てではありませんでしたが、玄々の作がずらり。
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最も見たかった「兎」も、裏面の「鶏」の方を面にしてあったので見られず、残念でした。

しかし、昭和15年(1940)、コンペにより皇居ちかくに建てられ、光太郎も好意的に評したた和気清麻呂像エスキスや、日本橋三越さんのシンボル「天女( まごころ)像」に関する展示など、興味深く拝見しました。また、光雲一門を離れ(和気清麻呂像コンペをめぐるゴタゴタがありまして)「玄々」となってから、木彫でもヘンリ・ムーアを思わせるような抽象っぽい作も作るようになり、そのあたりも。

その後、愛車を南に向け、この日のメインの目的だったいわき市の草野心平記念文学館さんへ。澤正宏氏と和合亮一氏による文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」を拝聴しましたが、そちらについては明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

貴下がロンドンから持ち帰られたヘラ其他の彫刻道具の御恵贈にあひ、まことにありがたく感謝の念に満たされました。丁度今年あたりから少しづつ製作を始めたいと考へてゐた矢先なのですがお察しの通り道具一切を揃へるのに苦心してゐました。


昭和27年(1952)4月10日 白瀧幾之助宛書簡より 光太郎70歳

白瀧は画家。美校出身で光太郎の先輩に当たりますが、遠く明治末には留学仲間でした。

前月21日、佐藤春夫からの丁重な書簡を携え、建築家の谷口吉郎、当会の祖・草野心平弟子筋の藤島宇内が山小屋を訪れて、青森県からの彫刻製作の依頼を伝え、4月2日には青森県の幹部も同じ件で光太郎の元を訪れました。いよいよ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作プロジェクトが動き出しました。

注文しておいた書籍が届きました。

井上涼の美術でござる 二の巻

発行日 : 2025年3月5日
著者等 : 井上涼
版 元 : 毎日新聞出版
定 価 : 2,500円+税

NHK Eテレ「びじゅチューン!」で大人気・井上涼はじめての美術まんが、第二巻!!

土偶アイドルをプロデュース/ナゾ遊園地「ムンク園」で大絶叫/年越しフェスに全国の「麗子」さん集結/《鳥獣戯画》の動物たちと大運動会などなど、井上涼ワールド、全開!!

毎日小学生新聞で2016年~連載中。待望の書籍化! 忍者Bと忍者Cが有名な芸術家たちに絵の描き方を習ったり、モデルになったり、一緒に遊んだりしながら、美術作品を紹介するよ。

オールカラー、美術作品画像100点超掲載! もっと美術が身近になる、てんやわんやの27話収録。
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もくじ
 はじめに
 Ⅰ 僕の後ろに道はできる!
  岡本太郎の巻 高村光太郎の巻 年忘れ!麗子フェスの巻 黒田清輝の巻 青木繁の巻
  吉田博の巻 高橋由一の巻 【井上涼のもう一枚】岸田劉生《麗子像》
 Ⅱ 古(いにしえ)からのメッセージ♥
  古代エジプトの巻 キトラ古墳の巻 兵馬俑の巻 土偶の巻
  【忍者B・Cの美術で七変化】
 Ⅲ 極楽浄土で遊びましょ
  奈良薬師寺の巻 空也上人の巻 鳥獣戯画の巻 雪舟の巻 刀剣の巻 
  【井上涼のもう一枚】雪舟《四季山水図》
 Ⅳ マネできない世界観!
  フェルメールの巻 ルーベンスの巻 レンブラントの巻 マネの巻 ルソーの巻
  カラバッジョの巻 ミュシャの巻 ムンクの巻 カンディンスキーの巻
  モンドリアンの巻 モディリアーニの巻
 おわりに
 作者の言葉


『毎日小学生新聞』さんに平成28年(2016)から連載されている井上涼氏による漫画の単行本化です。見開き2ページで一人の美術家や美術作品を取り上げ、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」にも通じるシュールな井上涼ワールドが展開されています。

我らが光太郎は平成31年(2019)に取り上げられ、この巻に収録されました。その頃から単行本化を期待していたのですが、ようやく実現しました。

ちなみに「一の巻」も同時発売。こちらの目次は以下の通りです。

 Ⅰ 絵画にインタビューの術!
  ルノワールの巻 モネの巻 ドガの巻 画家ボウリング大会の巻
  ゴッホとゴーギャンの巻
 スーラの巻 メアリー・カサットの巻 
  【井上涼のもう一枚】スーラ《サーカス》《サン・ドニの牧草》
 Ⅱ 巨匠集まれ~
  レオナルド・ダ・ヴィンチの巻 ミケランジェロの巻 松方幸次郎の巻 トーハクの巻
  まきまき四大絵巻の巻 狩野永徳の巻 【井上涼のもう一枚】長谷川等伯《松に秋草図》
 Ⅲ お江戸でお絵かき修行
  歌川国芳の巻 葛飾北斎の巻 東洲斎写楽の巻 歌川広重の巻 円山応挙の巻
  尾形光琳の巻 野々村仁清の巻 尾形乾山の巻 伊藤若冲の巻 【芸術家の言葉】
 Ⅳ モデルになってくれ!
  マリー・アントワネットの巻 ロダンの巻 ポンポンの巻 ジャコメッティの巻
  ガウディの巻

『毎日小学生新聞』さんでは、光太郎の父・光雲も一昨年に取り上げられました。今後、「三の巻」「四の巻」と続刊される中で収録されてほしいものです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

今年は厳冬がつづましたので先年いただいた台湾のキヨウとかいふ獣の毛皮をチヤンチヤンコの下に着るやうにしましたら大変凌ぎ易く感じました。


昭和27年(1952)3月12日 野末亀治宛書簡より 光太郎70歳

キヨウ」はキョンですね。

当方自宅兼事務所のある千葉県では、レジャー施設から逃げ出したキョンが野生化して大繁殖し、農作物への被害などで困っています。千葉でも南部の安房地域が中心ですが、徐々に生息域が北上中とのこと。やがて北部の自宅兼事務所近辺にも出没するかも知れません。彼等に罪はないのですが……。

明治から大正期、『読売新聞』の「文芸欄」に載っていた、文化人等の動向を短く紹介する「よみうり抄」というコーナーがありました。

その大正期の「よみうり抄」を全てピックアップした書籍の刊行が全5巻の予定で開始され、まず第1巻が出ています。

それに関連した『読売新聞』さん2月25日(火)の記事。

まるでSNS 大正の「よみうり抄」 文芸欄の片隅で文化人の動勢やお知らせ細かく 「芥川」誕生の瞬間など

 読売新聞文化欄に掲載された雑報欄「よみうり抄」が、「読売新聞 よみうり抄」大正篇第一巻として文化資源社から刊行された。今後、全5巻の刊行が予定されている。よみうり抄研究会代表の杉浦静・大妻女子大学名誉教授が、その意義と文学研究にもたらす可能性を寄稿した。

 日本近代文学において、読売新聞は大きな役割を果たした。明治以降の文芸欄は、上司小剣や正宗白鳥ら多くの作家が健筆を振るった。明治から大正までの近代文芸関係作品、記事の全細目をまとめた『読売新聞文芸欄細目』も、近代文学研究の泰斗だった紅野敏郎氏によりまとめられている。
 その文芸欄の片隅に置かれたのが、「よみうり抄」だ。近代文学の研究で引用されることなどから、私は存在を知った。文学者や画家、文化人の動向や出版情報、展覧会情報などが雑報の形で、短いながらも詳しく記され、時には一般記事より興味深いものがある。2001年に研究会を作り、仲間の研究者や学生たちと少しずつ読んできた。
 よみうり抄は、記者が直接取材したものや、届いた手紙などから書かれた。作家の年譜に掲載されていない内容もあり、生き生きした情報にあふれている。
 たとえば、よみうり抄は作家の芥川龍之介の誕生の瞬間から、文壇で認められていく姿を収めている。
 「▲柳川隆之介氏 は今後本名芥川龍之介を用ふる由(よし)尚(な)ほ小説『鼻』を『新思潮』に寄せたりと」
 これは当時、東京帝大の学生だった芥川龍之介が、「柳川隆之介」から改名したことを伝える1916年1月22日のよみうり抄の記述だ。同じ日のこの欄は、すでに劇作家として評価を得ていた久米正雄らと、同人誌「新思潮」を再興することも伝えた。改名で心機一転を図り、新思潮に臨む芥川たちの姿がうかがえる。
 この記事にある「鼻」が夏目漱石に激賞され、芥川は文壇に出ることになる。
 すぐ後の2月29日付には、「▲芥川龍之介氏 は平安朝時代より材料をとれる小説『ポー』を『新思潮』三月号に寄稿せり」と続報がある。漱石の賛辞を受けて書こうとしたのだろうか。だが現実にはこの作品は書かれず、「ポー」は題名だけが残る幻の作品となる。
 この後も、よみうり抄は芥川が海軍機関学校教官となったことや、流行性感冒にかかったこと、結婚や新居への移転など細々と情報を伝えた。これらの情報は、新聞読者の小説家に対する親近感を高めた。新聞社の側も、読者の関心が深い文化関係者の動向を伝えることが、政治や事件・事故のニュースと合わせて読者獲得につながったのだろう。
 よみうり抄は、画家たちの動勢も多く報じている。「写生旅行中」とか、「写生中」とかいった情報に加え、展覧会情報も多い。そこには日時や会場と、読者が出かけられるように住所も付されている。1917年10月25日には、彫刻家の高村光太郎がニューヨークでの個人展覧会を開くため、「彫刻を頒(わか)つ会」を起こすといった記事が掲載されている。まるで、現代のクラウドファンディングのようだ。
 文化人の細かな動勢やお知らせといった情報を掲載したよみうり抄は、現在のSNSを思わせる。大正期の新聞は、マスメディアでありながら、同時に現在よりもパーソナルなメディアの要素が強かったのかもしれない。
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で、刊行が始まった『よみうり抄』。

読売新聞 よみうり抄 大正篇 第1巻001

発行日 : 2025年2月15日
著者等 : よみうり抄研究会編
版 元 : 文化資源社
定 価 : 16,000円+税

「よみうり抄」とは読売新聞が、明治31年10月6日から毎日掲載をはじめた、芸術家(作家・画家・演劇家)や学者などあらゆる文化人の短信・消息・ゴシツプを取り上げた小欄の名称。本書は大正期の「よみうり抄」をすべて翻刻した第1巻目。
現在では、この小欄の集積が、今となっては客観的な記録・情報となり、文化人がいつどこに出かけ、誰に会い、何をしたかという膨大な情報群となっているが、従来、この欄を通覧することが難しかったものを、全5冊に翻刻。
明かな誤植を訂正した他、印刷・マイクロ化・デジタル化の都合で不読となった文字を可能な限り補記し「よみうり抄」の全文を活字化。

目次 明治45年1月から、大正3年12月まで(担当:宗像和重)

解説 大正期・読売新聞「よみうり抄」にみる文藝彙報欄(滝上裕子)

版元から一言
よみうり抄の具体的な記事は、Xに「#今日のよみうり抄」としてほぼ毎日ポストしていますので、それを見ていただくと有り難く存じます。一つ一つの記事は、何の変哲も無い新聞の短信で、基本「誰が何をした」ですが、読む人によっては、ピンッ、と来て、情報が無限に繫がり沼る情報の集積です。

著者プロフィール
 よみうり抄研究会  (ヨミウリショウケンキュウカイ)  (編集)
 石川巧(いしかわ たくみ)立教大学教授
 杉浦静(すぎうら しずか)大妻女子大学名誉教授:代表
 須田喜代次(すだ きよじ)大妻女子大学名誉教授
 滝上裕子(たきがみ ゆうこ)明治大学他非常勤講師、立教大学日本学研究所研究員
 十重田裕一(とえだ ひろかず)早稲田大学教授
 前田恭二(まえだ きょうじ)武蔵野美術大学教授
 宗像和重(むなかた かずしげ)早稲田大学名誉教授
 山岸郁子(やまぎし いくこ)日本大学教授
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読む人によっては、ピンッ、と来て、情報が無限に繫がり沼る情報の集積」。まさにその通りだと思います。

光太郎智恵子の名も頻出します。昭和52年(1977)、松島光秋氏著・永田書房発行『高村智恵子―その若き日―』という書籍の巻末には、明治42年(1909)から大正3年(1914)までの「よみうり抄」から、光太郎智恵子の名が載った分、関係の深い人々に関する記述がピックアップされています。
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ところが、書籍のコンセプトが若き日の智恵子の実像をさぐることなので、光太郎智恵子が結婚披露を行った大正3年(1914)までで終わっています。

今回刊行された『読売新聞 よみうり抄 大正篇 第1巻』も大正3年(1914)まで。第2巻以降で大正4年(1915)からの「よみうり抄」、どんなだったか確かめたいところです。ただ、第1巻が定価16,000円+税、第2巻以降も同じようなものでしょう。それが全5巻となると、ちょっと個人で購入すべきものではないかな、という気がいたします。公共図書館さん、関連する美術館さん、文学館さん等で取り揃えていただけることを期待します。

【折々のことば・光太郎】

水野君の墓標の文字を書くといふ事承知いたしましたが、小生只今一寸健康を害してゐまして揮毫するといふ事が出来ないので少々遅れるでせう。このこと御諒承下さい。


昭和27年(1952)3月12日 行方沼東宛書簡より 光太郎70歳

第一期『明星』以来の親友だった水野葉舟が歿したのは昭和22年(1947)。その墓標の文字を書いてくれという依頼に対しての返答の一節です。葉舟の墓は多磨霊園にありますが、結局、光太郎の揮毫ではなかったようです。

本日、3月9日号が発売ですので先週号の扱いになってしまいますが、雑誌『サンデー毎日』さんの3月2日号。光太郎の父・光雲の名が。

『サンデー毎日』が見た昭和100年」という連載の第3回で、サブタイトルが「1928(昭和3)年 97年前、本誌が取材した「私の健康長寿法」 渋沢栄一、東郷平八郎、高村光雲、高橋是清、下田歌子…」。同誌の昭和3年(1928)2月5日号に載った「私の健康長寿法」という記事が元ネタです。

「シリーズには経済人や政治家、軍人など各界の約20人が登場する」というわけで、当時の各界著名人の体験談等から、光雲や渋沢栄一、東郷平八郎などの「健康法」を抜粋紹介しています。
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光雲に関しては「45~46歳で禁酒。パン食(1食にパン2切れと牛乳1合、有り合わせの惣菜少量)の実行。一度も人といさかいをしたことがない」。
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「あれっ? これ、読んだぞ、っていうか、「あれ」じゃん」。「あれ」というのは、当会で機関誌的に年二回発行している冊子『光太郎資料』の第58集(令和4年=2022)に載せた光雲談話「たゞ仕事に没頭」。

当該部分は以下の通り。

 暴飲暴食から反省
 若い頃は、盛んに暴飲、暴食をした。殊に蕎麦が最も好物ではあつたが、一体に好き嫌いのない方で何でも人に負けぬくらゐ食べた。ちよつとしても鰻丼(うなぎどんぶり)の二杯位、天麩羅蕎麦で三四杯、もりならば五六杯はケロリとやつてのけた。
 酒も随分飲んだ。いくら飲んでも平気なのだから始末が悪い。
 斯様に無茶な暴飲暴食をやつてきた私が、しかし何等の障害も受けず、極めて健康にやつてこられたことは、全く親が無病に私を生んで呉れたからだ……と、有難く思はずにはゐられなかつた。が若い頃は兎も角として、だんだん年をとつてくるのに、さうべらぼうな大食や深酒などしてゐたんでは……と、だんだんそんな考へもおきてきた。と、ちようど友人に医者があつて、彼も特に酒は節(せつ)しろといつて呉れた。こゝで遂に、私は決心をした。しかし私の性分として、節酒なんてことは出来さうもない。否(いな)、盃を手にしたらもう駄目にきまつてゐる
――これはどうしても絶対の禁酒でなければならない。そこで私は完全に禁酒を断行した。四十五六の時である。以来、ずつとこの禁を破らずにゐる。

 肥満退治にパン食を
 また、六十の峠を越してから、私は無闇と肥満してきた。勿論、労働をする訳ではない私のことだから全くの脂肪(あぶら)太りといふべきで、只もうブヨブヨと重たくなるばかり、身体(からだ)を屈することはもとより、歩くにもだんだん困難を感じるやうになつて、ほとほとわが身の肥満が荷厄介になつてきた。こりや何とかせずばなるまい! と思はれてきた。
 で、いろいろと薬も飲んでみた、が何の效果もない。さて胃を損じたのか? 或は癌でも出来たのぢやあるまいか? と思はれるやうになつた。時々はシクシクと痛みさへするのである。考へざるを得ない。
 何か一ツ自分で適当な方法を講じねばならない、と決心した。
 ふと気になり出したのは米食である――年をとつてから三度々々の米の飯はむしろ過ぎやしないか? といふことだつた。思ひ立つと矢も楯もたまらぬ性分の私は、かうして米飯をぷツつり止(や)めて、パン食とした。それも一日に僅(わずか)半斤――半斤のパンのあたまをはねて六ツに截(き)りその恰度切餅大のものを一食にたつた二きれと牛乳を一合、それに何でも有合せの惣菜少量――といふのを、常食とすることにきめた。
 この食事は最初頗る物足らなく、また変梃(へんてこ)であるに違ひなかつたが、私は忍び忍んで一年余りを続けてやめなかつた で、その結果は? といへば、果して良好だつた。――体量は一躍二貫三四百も減つて了ひ、身体(からだ)の調子は極めて楽になつてきた。どうも脂肪のため圧迫され勝ちに思はれて不快だつた心臓の調子も、めつきりよくなつてきた。
 私は大いに喜んだ。全く少量なパン食の結果に外ならなかつたのだ。それから以来、私はずつとパン食を続けて今日におよんでゐる。
 最初十八貫もあつた私の体重は(身長は小粒の方だから)その後ずつと減つて、今では先づ十五貫位である。かうして気分はいつも晴々(はればれ)とするやうになつた。物事をおつくうに思ふやうになこともすつかりなくなつてしまつた。今では却つて人手などをわづらわすことは面倒になつてきた。外をあるくにしてもつツつツと平気で歩いてのける。元気は正に百倍するといつた良結果を来(きた)したのである。

 精神に無理をせぬこと
 が、長命の秘訣は決して食物のみにあるものぢやない、と私は思ふ。勿論、人の性質は百人百様であるからさう一概にもいへまいが、つまらぬことに屈託しないといふのが何としても一ばん肝要な点だらうと思ふ。全て物事は自然に、無理をせずに、うちわうちわにと心がけ、いつも心を安く持ちつゞけることが、必要だらうと考へる。 いつてみれば、経済のことにしても、矢鱈もがき廻つて沢山もうけ、そしてまた矢鱈とつかふ――そんなことも結局はつまらぬ事ではあるまいか? それよりも、足るだけあれば……それでもういゝではないか! 何も無理に、もがきあせる要はあるまい。何事にも足ることを知る生活、無理をせぬ生活、それが一ばん健康には好もしいと思つてゐる。
 私は至つて呑気な性分である。物にかまはぬ性質である。だから、人に対する義理などは当然忘れないやうにするが、よくあるやうに人の言動などに一々気を懸けるやうなことは一切したことがない。要するにつまらないことだ。で、勢ひ、私は生れてこの方、いまだ一ぺんとして人といさかひをしたやうなことはない、たゞ、こつちがこらへてさへゐれば、何事もなだらかに流れ去つて了ふのだ。つまり激情を発せぬやうにすることが又大きな長寿法の一つであると考へる。

引用元は『サンデー毎日』ではなく、昭和3年(1928)11月8日、文海書院発行、田中正雄著『回春長寿 生の喜び』です。同書は長寿を実現するための健康法等の紹介が中心ですが、巻末附録「不老長寿実験談」に、この時点で古稀を過ぎていた各界著名人の体験談等が掲載されています。光雲(数え77歳)以外には、東郷平八郎(同81歳)、渋沢栄一(同89歳)、高橋是清(同75歳)、下田歌子(同75歳)ら13名でした。
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この部分は同年の『サンデー毎日』に載ったものの再録だったのでしょう。

それにしても、光雲といえばコッテコテの江戸っ子ですので、「パン食」というのには意表を突かれました。また、江戸っ子ときたら喧嘩っ早いものですが「いまだ一ぺんとして人といさかひをしたやうなことはない」。これも実に意外でした。当方、江戸っ子ではありませんが喧嘩っ早いので(笑)。

で、光雲、亡くなったのは昭和9年(1934)、数え83歳の時でした。結局は胃ガンでしたが、現代の平均寿命を上回っていますし、当時としては確かに「長寿」の部類に入りました。数え74で歿した息子の光太郎、この点でも父を超えられなかったことになりますね。

長生きすればいいというものでもありません(政界などには「老害」をまき散らすばかりの迷惑な輩の何と多いことか)が、渋沢翁曰く「責任のある職務に従事して、そのために否応なしに肉体を動かさねばならぬ様に、自ら仕向けねばならぬ」「この体の続く限りは活動を継続する覚悟である」。なるほど、ですね。

【折々のことば・光太郎】

おハガキにある小生の古稀といふやうな事は一切おやめ下さい。還暦の古稀の喜の字のといふうるさい風習は小生好みません。 七十歳を古稀とは今日滑稽です。

昭和27年(1952)1月24日 宮崎稔宛書簡より 光太郎70歳

「古稀」の語の由来は唐代の杜甫の詩にある「人生七十、古来稀なり」。たしかに戦後のこの時期ともなるとあてはまりませんね。

昨日は東京都中野区で、講演会「中西利雄 人と作品」を拝聴致しました。中西利雄は明治33年(1900)生まれの水彩画家。昭和23年(1948)、自身のため、建築家の山口文象に設計を依頼し、中野に建てたアトリエの竣工間際に急逝しました。せっかく建てられたアトリエは、遺族の手によって貸しアトリエとして運用され、昭和27年(1952)10月から光太郎もここを借り、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をここで制作、昭和31年(1956)にここで歿しました。翌年の第一回連翹忌もここで執り行われました。

そのアトリエの元々の施主だった、中西利雄をメインに据えた講演会でした。会場は中野区産業振興センターさん。
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講師は茨城県近代美術館首席学芸員・山口和子氏。
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定員60名ということで聴講者を募ったのですが、飛び込みで来られた方も多く、また、我々スタッフは別枠でしたので、キャパ100ほどの会場がほぼ満席でした。
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昨年11月に近くのなかのZEROさんで開催した「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」の関連行事として行った講演会のうち、近代建築史家・内田青蔵氏と建築家の伊郷吉信氏による「水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」の際にもそうでしたが、当方、中西や我が国水彩画の歴史についてはそれほど詳しくなく、「なるほど、そうだったのか」の連続でした。

まず、中西以前。短命に終わった明治期の工部美術学校、その後の東京美術学校などでの水彩画の取り組み。
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元々の出発点が、油彩を描くための下書き的に水彩、さらに東京美術学校ではその過程もすっ飛ばして木炭デッサンからいきなり油彩という手順が主流となり、水彩画があまり定着しなかったそうで、きちんとした作品としての水彩画を描く画家が少なかったというようなお話。

その流れもあって、現代でも水彩は油彩より一段下に見られ続けているわけですが、考えてみれば素材や手法によって作品の価値が判断されるというのもおかしな話ではありますね。油彩だろうが水彩だろうが、いいものはいいわけですし、油彩だからというだけでありがたがるというのも変な話です。

そうした中で、水彩でもいいものが描けると頑張ったのが、中西ら。
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特に中西は不透明水彩(グヮッシュ)を活用するなどし、「水彩画の革新者」と称されるようになったそうで。その中西のパリ留学中の話、公設展への反撥から新制作派を旗揚げしたいきさつなども、非常に興味深い内容でした。
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そして、今日最初に書いた、中西歿後に光太郎がアトリエを借りた件についても。

当方も幹事となり、アトリエの保存運動を展開しておりますが、元々の施主・中西についてももっともっとその功績が世に知られてほしいものだと、今さらながらに感じさせられました。

皆様方に置かれましても、改めましてご協力いただけますようお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

今年の初雪がやつて来て二尺近くつもりました。まだ降つてゐます。雪の中から白菜やキヤベツを掘り出して囲ふやら穴蔵の始末で大忙がしです。


昭和26年(1951)11月26日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。この年は雪の降り始めが早く、11月中に既に大雪。ただ、12月に入ると逆にあまり降雪は多くなかったようです。

1年後の冬は東京中野で迎えることになるとは、この時点の光太郎には思いもよらなかったでしょう。

現代アートの個展、始まってしまっていますが、会期が長いのでご寛恕の程。
期 日 : 2025年2月1日(土)~3月29日(土)
会 場 : MAKI Gallery天王洲 東京都品川区東品川1-33-10 
時 間 : 11:30~19:00
休 館 : 日曜・月曜
料 金 : 無料

MAKI Galleryではこのたび、日本人アーティスト清川あさみによる個展「神話の糸」を天王洲ギャラリースペースにて開催いたします。本展は2024年夏に鹿児島県・霧島アートの森にて開催された清川の特別企画展「ミスティック・ウィーヴ:神話を縫う」を引き継ぎながら、過去から未来へと続く人類の物語を自然と都市、伝統とテクノロジーの交差点で紡ぎ直す試みとなります。

清川のアーティストとしての活動は、個人の内面や感情を描いた初期の作品から、社会全体や地球規模のテーマを扱う現在の作品へと大きな変化を遂げてきました。しかし、その根底にある「人間の本質に問いを投げかける」という姿勢は一貫しています。自然と都市、伝統とテクノロジー、個人と社会といったテーマに対して、これまでにない視点で考えるきっかけを生み出したいと強く願う清川。そんな作家が神話の世界に鑑賞者を誘い、新たな時代の価値観をともに探ろうとする本展を、どうぞ会場にてご高覧ください。
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平成29年(2017)に智恵子の故郷・福島二本松の智恵子の生家も会場となった現代アートの「重陽の芸術祭2017」で展示された、巨大な刺繍作品「女である故に」がこちらでも展示されています。
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平成29年(2017)、智恵子生家での展示風景はこちら。
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タイトルの「女である故に」は、大正5年(1916)5月、『婦人週報』に掲載された智恵子のアンケート回答が出典です。アンケートの質問は「女なる事を感謝する点」。

 私に恋愛生活(現在)のが始まつてから、始めてさういふ感じを意識しました。これは一つの覚醒です。其の他(た)にはまだ私には経験がありません。「女である故に」といふことは、私の魂には係りがありません。女なることを思ふよりは、生活の原動はもつと根源にあつて、女といふことを私は常に忘れてゐます。

光太郎との結婚披露が終わって1年半ほどの時期のものです。

この時期、智恵子が本当にそう考えていたのか、あるいは「こうあるべき」と自分に言い聞かせていたのか、後の大いなる悲劇に思いを馳せると、何とも難しいところです。

さて、「Mythic Threads:神話の糸」、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

宮崎さんの件については小生不賛成なのですが、まづ黙認することにして、中央公論社が出すならば当然「選集」出版済の後であるべきでせう。御考を願ひます。書名も「愛情の手紙」などは低能です。


昭和26年(1951)11月17日 松下英麿宛書簡より 光太郎69歳

松下は中央公論社の編集者。「宮崎さんの件」は、宮崎の編集による光太郎書簡集『みちのくの手紙』(昭和28年=1953)に関わります。

宮崎は昭和22年(1947)の光太郎歌集『白斧』にしてもそうですが、光太郎が拒否したにもかかわらず、光太郎文筆作品集の出版を強行することがありました。

宮崎は智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚し、光太郎とは姻戚ですし、経済的に豊かでないことをわかっている光太郎、あまり強いことは言えませんでした。
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今日のお題は「地方紙及び自治体等広報誌より」とさせていただきました。

まずは地方紙、といっても『東京新聞』さんですが、東京も一地方ですね。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄についての講演会予告記事です。

水彩画の革新者・中西利雄の生涯や芸術を深掘り 中野で15日に講演会

 東京都中野区ゆかりの水彩画家で「水彩画の革新者」と呼ばれた中西利雄(1900~48)の生涯や芸術を掘り下げる講演会「中西利雄 人と作品」が15日、中野区産業振興センター3階(中野2)で開かれる。「中野たてもの応援団」主催。
 中西利雄は現在の中央区生まれ。27年東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科卒業。関東大震災後、中野区内に居を構えた。近代的水彩画法を編み出したことで昭和の水彩画史に足跡を残した。
 現在も区内に残るアトリエは、後に詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年滞在し、制作の場として利用した。建築家ら有志が、アトリエの保存に向けて「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存活動を続けている。
 講師は中西利雄研究の第一人者で、茨城県近代美術館の山口和子主席学芸員。
 午後2~4時、定員60人。参加無料。事前申し込みは同応援団の十川(そがわ)さん=メール=y-sogawa@tubu.jp、電090(8056)0327=へ。

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続いては、岐阜県白川町さんの広報誌『広報しらかわ』今月号に載った『町立図書館 楽集館だより』から。

館長だより▼2月に寄せて

 寒さ厳しい2月になりました。旧暦名では如月(きさらぎ)です。寒い時期、衣(ころも)を更(さら)に重ね着すると言う意味から「衣更着」(きさらぎ)と言うようになったという説があります。そこで厳しい寒さで連想されるのが高村光太郎の詩『冬が来た』です。「きっぱりと冬が来た」で始まる光太郎の詩は鋭利な刃物を連想させるような、透き通る簡潔な表現で、冬をよく表しています。彫刻家でもある光太郎は余分なものを削ぎ落とす作業を通して「冬よ僕に来い」と冬と対峙している鋭い姿勢を見せています。読み手の襟を正すような冬を代表する詩です。
 また冬は空気が澄んで星が綺麗に見える季節です。寒さで丸まった背中を伸ばして空を見上げてみましょう。凍てついた空に無窮の宇宙を感じることと思います。そこでお薦めするのが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』です。(星まつりの夜のお話なので季節は違いますが)列車に乗りながらの星めぐりは空想を駆り立てることと思います。『銀河鉄道999』や『千と千尋の神隠し』は『銀河鉄道の夜』の影響を受けた作品です。それだけ魅力ある作品と言えるでしょう。
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「冬が来た」というより、もういいから行ってくれ! という時期ですが(笑)。

光太郎と縁の深い宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも言及。たしかにこの時期、星がきれいですね。当方、毎朝「朝メシよこせ~」と言う愛猫に夜明け前に起こされ、ベランダからまだ明けやらぬ星空を眺めますが、千葉の田舎ですので光害もほとんどなく、よく晴れた日にはゆっくりと空を横切る人工衛星も見えるくらいです。

もう1件、長崎県雲仙市さんの広報誌『広報うんぜん』、やはり今月号です。

ぽつり(広報担当の独り言)

 年男の誓いを書いたのが2年前。あっという間に50になる年を迎えてしまった。こんな勢いで年を取るとは。中学時代に習った高村光太郎の「道程」が、最近やけに脳裏をかすめる。
 「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」。常に開拓者であれと、エールのような言葉と受け取っていた。自分の後ろにはどんな道が出来ているんだろう。怖くて振り返ることができない。20代、30代のころに見ていた50代の先輩は、もっと凜として堂々として、「ザ・大人」という雰囲気の人ばかりで、ずっと背中を追いかけていた。今、自分がそんな大人になれているだろうか。私の背中は、後輩の目にどう映っているだろうか。
 恐る恐る20代の同僚にぼやいてみた。返ってきたのは「それに気付くだけでも成長しているってことじゃないですかね」ですって。参った。慰めにも似た悟りの言葉。俺より大人じゃん。そうだ、振り返るにはまだ早い。「やたらと計算するのは棺桶に近くなってからでも、十分出来るぜLIFE IS ON MY BEAT」。高村光太郎からの氷室京介コンボ。中学時代から変わらぬ脳みそと心意気だけで全力疾走することを、1カ月遅れの年初の誓いとします。(亮)
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広報担当氏、「道程」から氷室京介さんの「ON MY BEAT」を連想なさっていますが、世代の違いでしょうか、当方は中島みゆきさんの「断崖-親愛なる者へ-」を連想します。「走り続けていなけりゃ倒れちまう/自転車みたいなこの命転がして/息はきれぎれそれでも走れ/走りやめたらガラクタと呼ぶだけだ、この世では」(笑)。

岐阜県白川町さんにしても、長崎県雲仙市さんにしても、光太郎とは関わりのない街です。それでもこうして取り上げていただき、ありがたいかぎりです。他の自治体の方々もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

上の原の写真は皆焼かれてしまつたのでせう。あの湯の小屋の入浴中の写真などおもしろかつたですが。 九年もたつたとは小生にも感じられません。


昭和26年(1951)10月31日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

戦時中の昭和17年(1942)10月、詩人の西山、同じく風間光作と3人で群馬県の宝川温泉から湯の小屋温泉を訪れた思い出に関わります。光太郎、宝川温泉の方は昭和4年(1929)に続き、2度目の訪問でした。

下記は宝川温泉でのショット。一緒に写っているのは宿の主人・鈴木重郎。西山か風間のどちらかがシャッターを切りました。光太郎の手元にも同じ写真があったはずですが、戦災で焼けてしまいました。光太郎の入浴中の写真、ぜひ見てみたかったと思いました(笑)。
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下記は湯の小屋温泉の古絵葉書。
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光太郎が訪れた当時、鄙びた温泉地でしたが、バブル期にはリゾートホテル、ペンション等も建ち、今も宿の軒数は多く存在します。ただ、バブル崩壊後に廃業した所も多いそうです。逆に、廃校となった分校の木造校舎を使った宿も新たにオープンしたりしています。由緒がありそうなのは「照葉荘」という宿。重厚な木造和風建築で、おそらくここに光太郎が逗留したのではないかと思われますが、詳細は不明です。泉質は単純泉、高温の湯で知られ、一帯は奥州藤原氏ゆかりの落人部落との伝説があります。

風間の回想に依れば、光太郎が語った話として、最初に光太郎が訪れた昭和4年(1929)、宝川から湯の小屋までの山道を、熊と遭遇した際のために日本刀を腰に差して歩いたとのこと。さすがに東京から刀を持って汽車に乗って行ったとも思えず、宝川で借りたのではないでしょうか。古武士のような風貌の光太郎、帯刀姿もさまになっていたのではないかと思われます(笑)。






















このところ紹介すべき事項が多く、2週間ほど前に入手していた新刊をようやくご紹介できます。

意味がわかるとおもしろい! 世界のスゴイ彫刻

発行日 : 2025年2月11日
著者等 : 佐藤晃子(著)/伊野孝行(絵)
版 元 : 学研
定 価 : 2,500円+税

■えっ、これも彫刻!? 彫刻ってこんなにおもしろいんだ!
彫刻は石や木を彫り刻んだり、粘土をこねて肉づけしたり、金属を型に流したりしてつくるものです。絵画に比べると親しみづらい印象がありますが、スフィンクスもハチ公像も、土偶も埴輪も仏像も、実はすべて彫刻。彫刻には、みなさんが見たことのある作品がたくさんあるのです。本書では、そんな有名な作品からあまり知られていない作品まで、約70点のスゴイ彫刻を大きなビジュアルで楽しく解説しています。彫刻がぐっと身近になる1冊です。

■本書の特色
・特大サイズの高画質な図版を掲載!
さまざまなお寺や美術館などの協力を得て、特大サイズの高画質な図版を掲載。印刷の質にもこだわっています。実物さながらの迫力を味わうことや、作品の細部まで観察することができます。
・楽しい文とイラストで作品のみかたを解説!
わかりやすい文章で、制作背景や制作意図、技法などを解説。彫刻作品の楽しみ方がわかります。また、作者やモデルのイラストを、セリフとともに掲載。作品がより身近に感じられます。
・コラムや資料も充実!
西洋・日本の彫刻の歴史がわかる年表、本書に登場する作品を見られるお寺や美術館ガイド、日本全国の駅前の像の特集、交わるはずのなかった彫刻家どうしの対談を妄想でつづったコラムなどもついています。
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目次
 はじめに
 本書の見かた
 第1章 謎がいっぱいの彫刻
  おーい何考えているの 考える人 作った人 ロダン
  8000体⁉お墓のガードマン 兵馬俑 頼んだ人 始皇帝
  有名だけどそもそも何? 遮光器土偶 モデル 縄文時代の女性
  3つの顔と6本の腕⁉ 興福寺阿修羅像 頼んだ人 光明皇后
  岩山に彫りました! 雲崗石窟の大仏 頼んだ人 曇曜
  ヘビこわーい! ラオコーン 作った人 3人のギリシャ人彫刻家
  口からなんか出てる⁉ 六波羅蜜寺空也上人像 モデル 空也
  この左手まねできる? 手 作った人 高村光太郎
  人? ライオン? ギザの大スフィンクス 頼んだ人 カフラー王
  正体は天の神?海の神? アルテミシオンのゼウス モデル ゼウス? ポセイドン?
  デッカイ仏さま、なぜ横になってるの? ワット・ポーの涅槃像 頼んだ人 ラーマ3世
  うえーーーん 法隆寺五重塔塔本塑像 モデル 羅漢
  スゴイならなんでもアリ⁉ サビニの女の略奪 作った人 ジャンボローニャ
  究極の鳥⁉ 空間の鳥 作った人 ブランクーシ
  謎の石像900体! モアイ 作った人 ラパ・ヌイ島の人々
  オオカミが育てているのは? カピトリーノの牝狼
 モデル ロムルス、レムス、オオカミ
  考えすぎでアフロ⁉ 五劫思惟阿弥陀如来坐像 作った人 ????
  このポーズ踊ってるの? 埴輪 踊る人々 モデル 馬の手綱を引く男性?
  嫌すぎて木になる⁉ アポロンとダフネ 作った人 ベルニーニ
  手も道具も多くない? 観心寺如意輪観音菩薩坐像 頼んだ人 橘嘉智子
  浮いてる⁉ 折れそう⁉ 人とペガサス 作った人 ミレス
  このポーズってみかけだおし⁉ 円盤投げ モデル 円盤投げの選手
  ほぼ本物⁉ 生人形 相撲生人形 安本亀八
  イタリアのラブラブ彫刻 アモルとプシュケ 作った人 カノーヴァ
  このおじさん、偉い人なんです 書記坐像 モデル 古代エジプトの書記官
  ほっそーーい! 大きな女性立像Ⅱ 作った人 ジャコメッティ
  なんか狙ってる? 弓を引くヘラクレス 作った人 ブールデル
  恐怖!死体の彫刻⁉ ヴァランティーヌ・バルビアーニの墓碑 作った人 ピロン
  なぜ怖いお顔? 神護寺薬師如来立像 作った人 ????
  トイレにあるやつだよね? 泉 作った人 デュシャン
  妄想対談 ロダン×ミケランジェロ
 第2章 人の想いがつまった彫刻
  超大きい仏で超願いたい! 東大寺盧遮那仏坐像 頼んだ人 聖武天皇
  67歳でつるつる動物大ヒット シロクマ 作った人 ポンポン
  かっこいいから大人っぽくしました ダヴィデ像 作った人 ミケランジェロ
  …でも美少年もリアルっぽい⁉ ダヴィデ像 作った人 ドナテッロ
  にゃ~♡ たま(好日) 作った人 朝倉文夫
  皇帝のスゴさをアピール! プリマ・ポルタのアウグストゥス
 モデル オクタウィアヌス
  みんなのお寺復活!記念 東大寺南大門金剛力士像 作った人 運慶・快慶
  遊べる彫刻⁉ オクテトラ 作った人 イサム・ノグチ
  サルに何かあった? 老猿 作った人 高村光雲
  あの人と同じ大きさの仏像 法隆寺釈迦三尊像 作った人 鞍作止利
  元祖「はずかしい…」のポーズ カピトリーノのヴィーナス モデル ヴィーナス
  極楽願いすぎて1000体作りました
 蓮華王院本堂(三十三間堂)千手観音菩薩立像 頼んだ人 後白河法皇
  観音さまを守る最強コンビ 蓮華王院本堂(三十三間堂)風神像・雷神像
 作られた時期 鎌倉時代
  日本の裸婦彫刻の先駆け ゆあみ 作った人 新海竹太郎
  皇后の病気が治ることを願って… 薬師寺薬師三尊像 頼んだ人 天武天皇
  ほのぼの彫刻の裏側で起こった悲劇 雲の羊飼い 作った人 アルプ
  あこがれの師の姿残したい! 唐招提寺鑑真和上像 モデル 鑑真
  石です。 ヴェールに覆われたキリスト 作った人 サンマルティーノ
  ㊙でも、わかりやすく! 東寺講堂立体曼荼羅 頼んだ人 空海
  イケメンの神さまガチョウゾウに乗る⁉
 東寺講堂梵天像・帝釈天像 作られた時期 839平安時代
  風景まで作品! 大きなふたつのかたち 作った人 ムーア
  偏見に悩んだ女性彫刻家の作品 ワルツ 作った人 クローデル
  自分の像でみんなを笑わせたい! 木喰自身像 作った人 木喰
  着物まで彫刻です 鏡獅子 作った人 平櫛田中
  地上にあらわる!極楽浄土 平等院阿弥陀如来坐像 作った人 定朝
  モビールは動く彫刻 ニースの劇場 作った人 カルダー
  好きな人に似てしまった… 女 作った人 荻原守衛
  ガシャン!ガシャン! 空間における連続性の唯一の形態 作った人 ボッチョーニ
  金色の仏さまむかえにきて 中尊寺金色堂中央壇諸像 作った人 藤原清衡
  歴史とか神話のキャラをドラマチックにつくるの流行ってたけど、シンプルもよくね?
 地中海 作った人 マイヨール
  粗くてもたくさんつくりたい! 如来立像 作った人 円空
  これぞ女性パワー ミス・ブラック・パワー 作った人 ニキ・ド・サン・ファル
  妄想対談 定朝×運慶
 第3章 激動の歴史を歩んだ彫刻
  エジプトの惑わす美女像 王妃ネフェルティティ胸像 モデルネフェルティティ
  復元したら女神だった⁉ サモトラケのニケ モデル ニケ
  4つ目の顔は行方不明 太陽の塔 作った人 岡本太郎
  世界最古の美術品の起源は? ヴィレンドルフの女性像 作った人 旧石器時代の人々
  なぜ頭だけ? 仏頭 作った人 ????
  超レアで奪い合い⁉ ミロのヴィーナス モデル ヴィーナス
  塔のように大きな彫刻 自由の女神像 作った人 バルトルディ
  みんなが知ってる駅前銅像 忠犬ハチ公像 作った人 安藤士
  ハチ公だけじゃない! 駅前の像
  妄想対談 高村光雲×ポンポン
 巻末特集
  彫って刻むだけじゃない! 彫刻のつくりかた
  10cmから100mまで 彫刻の高さ比べ
  彫刻にも流行がある! この彫刻はいつつくられたの? 西洋編・日本編
  本書に登場する作品を見られるお寺・美術館
  参考文献

A4変形の大判、オールカラー180ページほどの厚冊です。さらに言うならカバーにはエンボス加工が施されています。豪華な造本です。

目次でお判りでしょうが、古今東西の彫刻作品にまつわるさまざまを簡潔かつ押さえるところはきちんと押さえて紹介。各作品、見開き2ページです。「小倉百人一首」のように、一人一作品。しかし、「小倉百人一首」とは異なり、詠み人知らず――この場合「彫り人知らず」でしょうか(笑)の作も多数。

光太郎のブロンズ代表作の一つ、「手」
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プレスリリースに「高村光雲」「老猿」の語がありました(そのため購入しました)が、光太郎の名が無かったので、「あれっ、『手』もあるじゃん」でした。

その「老猿」。
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さらに光雲は「妄想対談」という項で、ロダンの弟子筋のポンポンと対談。ポンポンも動物彫刻で名を馳せましたし、光雲と同世代です。ちなみに光雲、息子の光太郎にクサされているのをボヤいています(笑)。
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他に、ロダンの「考える人」、荻原守衛で「女」、平櫛田中は「鏡獅子」と、光雲光太郎父子と関わった人々の作品も。

版元の学研さんでは小学校4年生くらいからを対象として設定しています。そのため総ルビです。しかし大人の鑑賞にもたえられるものとして、「70歳以上」まで対象としています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

観音像出来、星川氏大よろこびの様子、まことに結構なことだつたと存じます。小生も和紙をもらひました。あの方は娘さんを失つて観音像を造顕する気になつたといふ気の毒な方ゆゑ、其後小生色紙に観音礼讃の詩を書いて寄進して差上げました。

昭和26年(1951)10月5日 高村東雲宛書簡より 光太郎69歳

高村東雲は、三代東雲、本名・東吉郎。光雲の師・初代東雲の孫にあたり、はじめ晴雲と号しましたが、のち、東雲を襲名しました。

光雲の談話筆記『光雲懐古談』(昭和4年=1929)から。

 今一人、私の弟子には違ひないが、家筋からいへば私の師匠筋の人――私の師匠東雲師の孫に当たる高村東吉郎君(晴雲と号す)があります。(「その後の弟子のこと」)

 二代目東雲の栄吉氏の子息は、祖父東雲師の技倆をそのまま受け継いだやうに中々望みある人物であります。此は私の弟子にして、丹精致しまして、目下独立して高村晴雲と号して居ります。三代目東雲となるべき人であります。只、惜しいことには、健康すぐれず、今は湘南の地に転地保養をして居りますが、健康恢復すれば、必ず祖父の名を辱めぬ人となることゝ私は望を嘱して居ります。(「東雲師の家の跡のことなど」)

「晴雲」時代の昭和26年(1951)まで北海道に居ましたが、帰京。その帰途、太田村の光太郎の山小屋に立ち寄り、観音像を贈っています。

同じ年9月23日の光太郎日記に「星川憲一氏の為に第四種にて揮毫を包装」の記述があり、「色紙に観音礼讃の詩を書いて寄進して差上げました。」と照応します。「観音礼讃の詩」は、今様体で書かれた「観自在こそ」(昭和21年=1946頃)でしょう。複数の揮毫例が知られています。星川憲一は星川製紙工場を経営していた人物です。おそらくはじめに観音像の制作を光太郎に頼み、光太郎が東雲にその依頼を廻したと思われます。

当方も幹事を務めさせていただいている「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」が協力して行う講演会です。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄について。当然、光太郎やアトリエの保存運動にも関わる内容となるでしょう。主催は中野たてもの応援団さんです。

講演会「中西利雄 人と作品」

期 日 : 2025年2月15日(土)
会 場 : 中野区産業振興センター 東京都中野区中野 2-13-14
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 無料
講 師 : 茨城県近代美術館首席学芸員 山口和子氏

昨年11月10日から11月18日まで開催された「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」展示会&講演会には多くの皆様にご参加いただきました。その後、中西アトリエの施主であった画家中西利雄についてもっと知りたいというリクエストにより、講演会を開催することになりました。皆さまのご参加をお待ちしております。

桃園川緑道沿いに片流れ屋根の簡素なアトリエが残されています。これは第二次大戦中の建物疎開でアトリエを壊された中西利雄が、その再建のため着工させたものです。しかし中西は病のためアトリエの完成直前に死去。後に高村光太郎が制作の場としました。関東大震災後当地に住み、水彩画の革新者といわれた中西利雄についてご紹介いただきます。
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アトリエの保存運動に関しては、以下をご覧下さい。

 「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野」。
 都内レポート 東京書作展選抜作家展2024/中野アトリエ保存委員会。
 「光太郎のアトリエ残す 所有者死去 関係者が知恵」。
 『中野・中西家と光太郎』。
 中野アトリエ保存運動関連、署名をお願いいたします。
 文治堂書店『とんぼ』第十八号 その2 中西利雄アトリエ保存。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 意見交換会。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会ホームページ開設。
 中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 署名用紙。
 「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。
 『東京新聞』TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機。

皆様のご参加、心よりお待ち申し上げております。

【折々のことば・光太郎】

道程初版の「志」「し」の仮名遣ひは内藤鋠策君の趣味によるもので、行の頭に来るものはすべて「志」を使ひ、下に来るものは「し」を使つたのです。下らぬ好みですから、どちらでもいいです。


昭和26年(1951)8月20日 草野心平宛書簡より 光太郎69歳

中央公論社版『高村光太郎選集』の編集に当たっていた、当会の祖・心平からのレファレンス依頼への返答です。

明治・大正の頃は、活字の場合でも変体仮名的に使う場合がありました。「し」を「志」、「こ」を「古」などで。光太郎自身も書き癖で「み」を片仮名の「ミ」とすることが多くありました。書の場合には「お」が「於」、「ひ」に「比」をあてる場合なども。

初版『道程』(大正3年=1914)での「志」、該当箇所はこんな感じです。
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3件ご紹介します。

まず、2月2日(日)『朝日新聞』さん一面コラム。

天声人語

たった一人。白く息を吐きながら、ギュッギュッと新雪を踏みしめていく。教科書で出会った高村光太郎の「道程」は、読みかえすたびにそんな光景を思い起こさせる▼〈僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ/僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ〉。自分の力で人生を切り開く。詩人が決意を文字にしたのは、ある年の2月のこと。詩の舞台は冬というわが想像も、そう間違っていないのかもしれない▼さて、そんな雪景色に今朝は一変しているだろうか。都心を含めた関東甲信では雪が積もるかもしれないと、気象庁が警戒を呼びかけている。交通機関の乱れのおそれもある。気が気でないのは受験生たちだろう▼首都圏では中学受験の熱が高く、いまがピークだ。きのうの早朝は電車の中で、親子連れを何組も見かけた。やや緊張した面持ちの子。マフラーを巻き直してやったりと、何くれとなく世話をやく親。どちらも大変だ。私立大でも入試が始まっている▼週明け以降には、強い寒波がやってくる。暖かい格好で備え、受験会場までの道程では、凍った路面で転んだりせぬようにくれぐれもご注意を▼冒頭の詩は、初出時には100行を超える長い作品だった。そこに、若者へのこんなエールがある。〈歩け、歩け/どんなものが出て来ても乗り越して歩け/この光り輝やく風景の中に踏み込んでゆけ〉。あすは立春。厳しい月日を越えた者に、きっと花は咲く。

引用されている光太郎詩代表作の一つ「道程」は、111年前の大正3年(1914)3月、雑誌『美の廃墟』に発表されました。その時点では102行の長大なものでした。それが同年10月、詩集『道程』に収められた際にバッサリとカットされ、現在流布している9行の形に。光太郎自身がお蔵入りにした初出形の方もなかなかに味わい深いものです。花巻高村光太郎記念館さんには映像と朗読で光太郎詩を紹介するブースがあり、そちらでベテラン声優の堀内賢雄さんによる朗読が聴けますが、「道程」初出形もラインナップに入っています。102行だけあって約7分にもわたります。

それにしても、謳われてから111年経っても我々の心の琴線にしっかり触れる点、やはり素晴らしいと思います。

続いて同日『産経新聞』さん。

印象派の「後」か「後期」か 日本語メモ

  令和5~6年に開かれた「モネ 連作の情景」展は、東京と大阪で計91万人を動員しました。モネやルノワールら印象派の人気は、彼らに続くゴッホやゴーギャンといった「後期印象派」とともに根強いようです。
 昨年、美術史家の高階秀爾さんが他界されました。高松宮殿下記念世界文化賞で選考委員長(絵画・彫刻部門)も務めた同氏は、「『後期印象派』は誤訳」という文章を残しています(朝日新聞夕刊、平成15年6月4日)。いわく「後期印象派」のもととなった英語「ポスト・インプレッショニズム」の「ポスト」は「以後」という意味だから、「後期印象派」は誤訳である。つまり「後期印象派」では「印象派の後期(後半)の画家」になってしまうのであり、正しくは「印象派の後の画家」である、というわけです。
 高階さんは、民芸研究家の柳宗悦が「後印象派」を雑誌『白樺』(明治45年1月号)で紹介したことに言及。「後印象派」は原語に忠実であるが、すわりが悪く、いつの間にか「後期印象派」という訳語が定着してしまったと書きます。ならば「後期印象派」の初出はいつでしょうか?
 調べてみると『後期印象派』(木村荘八、高村光太郎、岸田劉生・共著)という書籍が大正2年8月に発行されています。また、同5年9月には『立体派と後期印象派』が作家の久米正雄の翻訳で出ていました。久米はその序文で、木村荘八らの訳文を大いに参考にした旨を記しています。
 柳宗悦がせっかく「後印象派」と正しく訳したのに、いつの間にか定着してしまった「後期印象派」。「後」と「後期」、1文字で意味がまったく異なってしまう翻訳の怖さといったところでしょうか。ちなみに近年では「後期印象派」ではなく「ポスト印象派」と呼称するようです。

002言葉に関するコラムのようです。キーワードは「後期」。「『後期印象派』(木村荘八、高村光太郎、岸田劉生・共著)という書籍」は、正しくは雑誌『現代の洋画』第17号で、サブタイトルが「後期印象派」。『現代の洋画』は、明治末から大正にかけ、青年画家たちの活動を裏方として支援、我が国洋画界の発展に寄与し、ゴッホらを支えたペール・タンギーになぞらえ、ペール北山と呼ばれていた北山清太郎が主宰していました。

確かに現代の感覚で「後期」というと、「前期」「後期」あるいは「前期」「中期」「後期」と分けたうちの一つ、「後期印象派」と言ったら「印象派」の一部という感じです。

しかし「ポスト」にあたるうまい日本語が存在せず、北山や編集に当たった光太郎らは仕方なく「後期」の語をあてたのではないでしょうか。あるいは明治末から大正の段階で、「後期」の語の用法が現代と全く同一だったとも言いきれないような気もします。いずれにせよ現代でもうまい訳語がないので「ポスト印象派」としているわけで……。

最後に『日本教育新聞』さん、昨日の掲載記事です。

サトー先生の「きょういく日めくり」~きょうも楽しく学校へ行くために~【第19回】「いつの間にか」が名人ワザ

003 導入(ツカミ)はおもしろいけど授業始まったら睡眠タイム……新米教員時代のボクに、ぜひ見せてやりたかったなあ、E先生の名人ワザを。
 「プロ野球で二刀流と言えばだれかな?」『大谷!』「そのとおり。大谷選手の出身地はどこ?」『北海道や』『福島?』『岩手』「正解!」。
 思ったことを自由に言える雰囲気が教室にあった。
 「岩手県の花巻東高出身。彼のおねえさんと野球部のコーチがその後結婚して」
 マニアックな芸能ネタは、やがてご当地岩手県花巻の、わんこそばや満州ニララーメン(通称「マニラ」)などの麺類紹介へ。「先生それ全部食べたんか?」と思わず生徒が聞くほどの、リアルな食レポ情報がぽんぽん飛び出すうち、
 「……でもな、岩手でラーメン食べたら、そのあとぜひ、「元祖二刀流」のすごい人の家に行っといで。その人の名は、ジャジャーン。高村光太郎!」
 「タカムラ?」といぶかる生徒たちをものともせず、当時、日本を代表する彫刻家かつ詩人の、「元祖二刀流」偉人・高村光太郎について一気に解説。
 「でも、もともと光太郎は岩手の人じゃない。東京のど真ん中に住んでたのが、敗戦後、屋根まで雪に埋まる山の中へ逃げるように移り住んだ。自分で「小屋」とさげすむ小さな家。あっ、その家の写真、資料プリントにあるから見てよ。二刀流成功者の家やのに、なんとちっぽけな。実はこの人、戦時中に「戦争バンザイ」という詩をいっぱい書いてしまって……」
 大谷選手の話が高村光太郎に移り、やがて資料集や教科書の年表を駆使した従軍作家や戦争文学の話へと展開―繰り広げられる本格的「授業」!
 いつの間にか引きずり込むのが名人ワザ。導入「方法」を参観に行ったボクが、完全に授業「内容」に引き込まれ、ひとつカシコくなりました。
佐藤功(さとう・いさお。大阪大学人間科学研究科元教授)

当方も講演や市民講座のツカミで、大谷選手の二刀流から光太郎の二刀流へと振ることをよくやっています(笑)。日本中の学校さんでこういう授業が展開されてほしいものです。ただ、「元祖二刀流」は光太郎ではなく宮本武蔵ですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】004

人の来ない夜に書き、別封で同送しました。天といふ字はむつかしく、二十枚書いた中の四枚だけ選びました。


昭和26年(1951)8月11日 
草野心平宛書簡より 光太郎69歳

当会の祖・草野心平の詩集『天』が翌月刊行されましたが、その題字です。光太郎はこれ以外にも心平詩集の題字を多く手掛けましたが、心平自身はこの「天」の字が、最も気に入っていたようです。

「彫刻」「詩」の二刀流として語られることの多い光太郎ですが、「書」を入れて「三刀流」としてもいいくらいです。

1月19日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版の連載「美の粋」で取り上げられました光太郎の親友であった碌山荻原守衛に関して、続編が1月26日(日)に出ました。前回もそうでしたが、見開き2ページの長い記事ですので、光太郎の名が出る部分のみ。

新宿に吹いたパリの風「中村屋サロン」群像(中) 命を凝縮した彫刻 受け継がれる思想 荻原守衛(碌山)「女」

002突然の「絶作」刻まれた理想
 主を失った部屋にその「女」(1910年)は一人残されていた。この像を制作した年の4月20日、荻原守衛(碌山)は新宿中村屋で血を吐いた。そして、その2日後、30歳で逝った。あまりに唐突な死だった。
 地面にひざまずき、手を後ろ手に組み、体をねじり上げるようにして上空を見る女性像。まるで捕虜になったかのようにも、見えない何かにとらわれているようにも見える。実際にやってみれば分かるが、かなり苦しい体勢だ。しかし、その表情には何かを悟ったかのような高貴さがある。
 モデルを務めたのは岡田みどりという女性だった。しかし、その顔は中村屋の経営者で、相馬愛蔵の妻、黒光によく似ている。黒光自身も残された像を見て、碌山が誰を思って制作したのか、悟らざるを得なかったようだ。「単なる土の作品ではなく、私自身だと直覚されるものがありました」(相馬黒光「黙移」)
 この作品に賭ける思いは強かった。友人の高村光太郎がアトリエを訪れた際に碌山は、完成間近の「女」を「やはり、どうにも気に入らない」と破壊しようとした。高村は慌てて、それを止めたという。また、別の友人、戸張孤雁は部屋の中で、薄着で震えている碌山の姿を目撃している。服は、制作中の「女」にかけてあった。
 確かに「女」は黒光への思いから生まれたものではあったのだろう。碌山美術館の武井敏学芸員は「『女』の姿は、士族の家に生まれながら貧しさにも苦しみ、夫、愛蔵の愛人問題など人生の苦難を乗り越えてきた黒光の姿に重なる」と話す。
 一方で、作品は一個人への恋慕の情にとどまらない精神性も感じさせる。黒光は進んで学び、芸術への理解もある教養の高い女性だった。「良妻賢母という旧習にとらわれることなく、自由な生き方を求めたこの時代の女性たちの姿が投影されている」(武井学芸員)ようにも見える。碌山が表現したかったのは黒光に代表される、この時代における総体としての「女」そのものだったのではないだろうか。
 碌山の愛は、届くことはなかった。黒光は苦しみながらも愛蔵を許し、その後も子供をもうけた。碌山の悩みは深かった。高村ら友人に送った手紙に胸の内を明かしている。「日暮れて谷間をさまよう旅人の如く。頭が病んでいる」「惨めだ。僕は失ってしまった。いやまだ失っていないが」。「文覚」(1908年)や「デスペア」(1909年)では、黒光への恋心から生まれた苦しみや絶望を作品に込めた。
 しかし、「女」の表情は負の感情を感じさせるどころか、どこか晴れやかですらある。そこには、碌山自身の心境の変化も表れているようにみえる。武井学芸員は「苦境を受け入れ、これからは高みを目指していこうという前向きな意志も感じさせる」と指摘する。だとすれば、次に碌山はどんな作品を生み出したのだろうか。残念ながら、それを確かめる術はない。
 碌山自身ももちろん、これが絶作になるとは知るよしもない。しかし、不思議なことに「女」を見るうちどこかでこれが最後の作品になることを知っていたのではないかと思えてくる。内面から輝くような生命の美を彫刻に求めた碌山の理想が全て刻み込まれた、まさに集大成の出来栄えだ。
 碌山の彫刻家としてのキャリアはパリ時代を含めても4年ほどにすぎない。帰国後に限ればたった2年だ。恐るべき才能であったといえる。そのあふれるほどの才能は黒光と再会することで、苦しみとともにではあったが発露を見た。「女」には碌山の命そのものが凝縮されている。
 「女」はその年の10月、碌山の兄から委託され、東京美術学校鋳金科に在学中の山本安曇が鋳造した。文展にも出品されたが、結局、3等に終わった。真の価値が認められるまでには、半世紀の時を要した。67年「女」の石こう型は、日本の近代彫刻で初めての重要文化財に指定された。
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前回メインで取り上げられた守衛の「坑夫」同様、「女」も光太郎が救ったという話。数年前に知ったのですが、光太郎、グッジョブでした。

引用部分最後に、山本安曇による「女」鋳造の件に触れられていますが、この際には光太郎実弟にしてのちに家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ豊周も参加しています。

右画像は豊周著『自画像』(昭和43年=1968 中央公論美術出版)から。

引用部分は見開き2ページの片側部分で、このあと引用しなかった後半部分が続きます。そちらでは守衛没後の柳敬助、戸張孤雁、中原悌二郎らに触れられています。

2週で「上・下」かな、と思ったのですが、3週で「上・中・下」のようです。すると2月2日(日)掲載分の「下」では、「上」「中」でほとんど触れられなかった中村彝あたりがメインになると思われます。

ちなみに新宿の中村サロン美術館さんでは、現在、「コレクション展示 中村屋サロン」が開催されています。「坑夫」「女」も出ていますし、わりとよく出品されるのでその都度ご紹介はしていませんが、光太郎の油彩画「自画像」(大正2年=1913)も出ています。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お説の通り、此の小屋の湿気が神経痛にも大いに関係ある事萬々承知の上、如何ともし難き事情の下に、この五年間水牢に起居するつもりで過ごして居た次第であります。しかしこんな事は何でもありません。


昭和26年(1951)7月14日 照井欣平太宛書簡より 光太郎69歳

「水牢」は江戸時代、主に年貢未納者を水浸しにした牢に閉じこめた刑罰、またはその牢です。

翌年、光太郎再帰京後に国安芳雄と行った対談「心境を語る」では、次の記述があります。

山だから湿気がひどくて、ふとんなんかべとべとになつてしまう。その中に寝ているのだから、まるで水にくるまつているようなものだ。これは悪いことをしたから水牢に入っているのだと思つて、そんなら我慢できると思つた。水牢よりはまだいいような気がした。想像では、解らないもの凄い生活だつた。自分が寝ていると息がふとんにかかつて氷になるんです。

布団が凍るというのは、一年で最も寒い今の時期あたりだったでしょうか。今日はその山小屋に行って参ります。

1月19日(日)、『日本経済新聞』さんの日曜版の連載「美の粋」で、光太郎の親友であった碌山荻原守衛が取り上げられました。見開き2ページの長い記事ですので、光太郎の名が出る部分のみ。

新宿に吹いたパリの風「中村屋サロン」群像(上) 未開地のパン屋に最先端の芸術006

ロダンに学ぶ碌山の凱旋
 低くのしかかるようなJR山手線の高架越しに見上げた西新宿の高層ビル群はひときわ高く見えた。1日の乗降客数が世界一を誇る新宿駅を抱える街は四六時中人であふれている。100年ほど前、ここが、まだみすぼらしい未開地であったときのことを想像するのは難しい。
 雑踏を縫うようにして歩くこと数分。新宿中村屋にたどり着いた。現在、菓子やインドカレーで知られるこの店は、芸術に命をかけた若者たちのたまり場でもあった。
 その物語は一人の青年がパリから戻ったところから始まる。名前を荻原守衛(碌山)という。
 「坑夫」(1907年)は日本近代彫刻の嚆矢(こうし)と称される作品だ。建物の装飾や愛玩物としての彫刻ではなく、彫刻のための彫刻を生涯追求した。元々は画家志望だったが、パリに留学中だった04年5月、オーギュスト・ロダンの「考える人」を見て衝撃を受け、彫刻家に転身。2度目のパリ滞在の際には、ロダンから直接指導を受けた。「坑夫」はその時代に制作された。
 碌山の故郷にある碌山美術館(長野県安曇野市)には「坑夫」をはじめとするブロンズ像が多く残されている。同館の武井敏学芸員は「彫刻の本当の美しさは見かけではなく、内側から発する生命力にあると考え、その表現を追求した」と話す。
 パリ時代に制作した作品のうち、現存するのは「坑夫」を含め3点にすぎないが、すでに並々ならぬ力量を持っていたことが分かる。「坑夫」では、頭と首、胸が自然に連携しており、塊のように感じられる。それが肉体労働に従事する男の生命力そのもののようにして迫ってくる。
 この作品を高く評価し、石こうにとって日本に持ち帰るよう勧めたのが、彫刻や絵画を手掛け、詩人としても知られる高村光太郎だった。碌山と高村は互いの留学中に知己を得、ともにロダンに心酔したという共通点もあり、交友を深めていった。
 「坑夫」が制作された07年、日本では第1回の文部省美術展覧会(文展)が開催された。日本画、西洋画、彫刻の3部門があったが、彫刻部門への応募は、わずか44点だった。08年に開かれた第2回文展に「坑夫」は出品されたがその荒々しいタッチのため「未完成」と見なされ落選している。日本では、近代彫刻というものがまだまだ根付いていなかった。そんな状況において、高村は碌山のよき理解者と007なる。
 3回目の文展で3等賞を受賞したのが、「北條虎吉像」(09年)だ。帽子商会組合の会長への寄贈を受け制作されたこの作品には、生命力の一層の深化が見られる。塊を捉える目は卓越し、繊細な表情も息づいている。高村は「この作には自然のMOUVEMENTがある。(中略)。此の作には人間が見えるのだ。従つて生(ラヴイ)がほのめいてゐるのだ」と激賞した。
 碌山は、フランスの美術学校、アカデミー・ジュリアンで彫刻を学んだだけでなく、学内のコンペではグランプリを獲得するほどの実力を持っていた。当時、最先端の芸術を学んだ将来を嘱望される彫刻家であり、日本にパリの風を運ぶ使者だった。

記事はこのあと倍以上の長さで続きます。内容的にはタイトルの通り、守衛と同郷の相馬愛蔵が経営していた新宿中村屋さんに守衛が世話になる件、相馬夫人・黒光とのからみ、そして彫刻作品「文覚」と「デスペア」。
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また、欄外に「KEYWORD」として「中村屋サロン」。

 明治から昭和初期にかけて、芸術に理解のあった中村屋の創業者・相馬愛蔵、黒光夫妻のもとに多くの芸術家が集い、生まれた。昭和40年代に、安曇野出身の作家、臼井吉見は相馬夫妻の中心とした小説「安曇野」の中で、その様子を「ヨーロッパのサロンのようだった」と表現したことから、のちに「中村屋サロン」と呼ばれるようになった。
 西洋で彫刻を学び、相馬夫妻と交流のあった荻原碌山が、帰国後、中村屋に出入りするようになると、その友人や教えを請う若者も出入りするようになった。日本近代彫刻を代表する高村光太郎、中原悌二郎、戸張孤雁のほか、画家の柳敬助、斎藤与里、中村彝など日本美術史に名を刻む数々の才能が生まれた。また、美術以外でも、インド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースをかくまうなど、多用なジャンルの交流の場となった。

守衛絶作の「女」には触れられていませんでした。タイトルに「(上)」とあるので、「(中)」ないし「(下)」が今後あって、その中で取り上げられるのでしょう。

ちなみに「KEYWORD」に記述のある臼井吉見の『安曇野』。大河ドラマ化要望運動も起こっており、永らく絶版となっていたものが限定復刊というニュースも飛び込んできています。お披露目会が3月だそうで、また近くなりましたらご紹介いたします。

4年後の2029年には、守衛生誕150周年を迎えます。顕彰運動がより一層盛り上がることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生肋骨のヒビはまだ癒着せぬようで物を持つたり、つよいセキをすると痛みますが、肋間神経痛の方はだんだん軽減してきました。


昭和26年(1951)6月7日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

日記によれば5月14日に屋外で転倒、左の肋骨を強打したとのこと。居住していた山口部落には医者も居らず、見かねた知り合いの『花巻新報』記者が5月26日に骨接ぎ医を社用車で連れてきて治療してもらったそうです。

昨日は同じ千葉県内の市川市に行っておりました。目的地は行徳ふれあい伝承館さん。自宅兼事務所から愛車で1時間弱でした。
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光太郎やその父・光雲らと直接の関わりはありませんが、同時代の彫刻、工芸の関わりで。

同館、神輿(みこし)の制作を行っていた旧浅子神輿店を史料館的に活用しているもので、建物自体が国登録有形文化財です。
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古建築好きとしては、まずこの佇まいでアガります(笑)。
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浅子神輿店、当主が代々「浅子周慶」を名乗り、元は慶派の流れをくむ仏師だったそうです。
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下記は国会図書館さんのデジタルデータから。
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そこで、仏像も展示されていました。
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仏師としての主な仕事。
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明治20年(1887)発行の「東都諸工名誉五副対」。いわば名人番付のような。仏師として浅子の名が記されています。十三代目のようです。
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その真上に光雲の名も。
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光雲の肩書きは「仏師」ではなく「木彫」となっています。「ナカヲカチ丁一」は、駒込林町に移る前の明治19年(1886)から同25年(1892)まで暮らしていた仲御徒町一丁目37番地です。

光雲が師・東雲の元から独立したのが明治7年(1874)。維新後、国家神道の普及のため「神仏分離令」が出され、いわゆる廃仏毀釈の嵐が吹き荒れます。その結果、光雲は仏師としての仕事は立ちゆかなくなり、酉の市で熊手を売ったり、洋傘の柄や陶器の木型などを彫ったりして糊口を凌ぎました。一時は木彫から離れ、鑞型鋳金を学んだりもしました。しかし、再び彫刻刀を握る決意を固め、明治19年(1886)には東京彫工会創立の発起人となり、同年には龍池会の第七回観古美術会に「蝦蟇仙人」を出品。師の代作ではなく、初めて光雲の名で出品しました。したがってこの頃は、仏像も作ってはいたものの、もはや仏師とは言えなくなっていたということでしょう。

十三代浅子周慶はというと、やはり仏師としては先がおぼつかない、と踏んだのでしょうか、神輿制作を手がけるようになります。
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仏像制作も続けつつも、神輿の方が大当たりというわけです。それまでの神輿の形態を革新する部分もあったようで。

浅子による主な神輿の一覧。
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館内には新旧の神輿そのものや、各部分のパーツなどの作例も展示されています。
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なるほど、仏師の流れを汲んでいるというのがよく分かります。眼福でした。

ちなみに作例は少ないものの、光雲も神輿の彫刻を手がけました。

横浜伊勢佐木町の日枝神社さんの「火伏神輿」(大正12年=1923)。
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旧駒込林町の満足稲荷神社さん神輿(昭和4年=1929)と、子供神輿(同?)。
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ただし、これらは光雲個人というより工房作のような気がします。

さて、行徳ふれあい伝承館さん周辺は、空襲の被害も無かったようで(あるいはあったとしても軽微だったのでしょう)、古建築がいい感じに点在しています。
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裏手の方は旧江戸川。対岸はもう東京都です。
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工芸好き、古建築マニアの方など、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】006

ニホンゴ ハヨサノアキコノネツプ ウニイキテウゴ キテトビ テチリニキ


昭和26年(1951)5月26日 
中原綾子宛電報より 光太郎69歳

与謝野晶子没後十周年記念講演会への祝辞的に電報で送られた短歌です。のち、この年7月の雑誌『スバル』に漢字仮名交じりで掲載されました。


日本語は与謝野晶子の熱風に生きて動きて飛びて散りにき

昨年、中原綾子令孫から花巻市に光太郎からの書簡その他がごっそり寄贈され、その中にこの電報も含まれているとのこと。近々現物を拝見出来そうです。

このところ、光太郎の父・光雲、その師・高村東雲の彫刻を見て歩く機会を多くとっています。一昨日は千葉県野田市へ。昨年12月にもお邪魔し、キッコーマンさん敷地内の琴平神社さんで、東雲の手になるという胴羽目彫刻などを拝見して参りました。同じ野田市内の大師山報恩寺さんにも東雲作の弘法大師像がおわすという情報を得ていましたので、その足で伺ったのですが、その際は本堂の改修工事の関係で拝観出来ず。そこでリベンジです。

報恩寺さん、埼玉県境に近い中野台地区に鎮座する古刹です。ただ、現在地に移ったのは維新後、本堂は昭和3年(1928)落慶だそうです。
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蠟梅が見事でした。春が近いのを実感しました。
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本堂の扁額。周囲の細工が精緻ですね。
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賽銭箱。銅板が貼り付けてあるようです。珍しいタイプではないかと。
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お約束の阿吽の獅子も実にいい感じ。
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いやが上にも期待が高まります。

さて、寺務所で訪いを入れ、本堂に入れていただきました。

御本尊の弘法大師像。こちらが東雲の作で、幕末の御像です。
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残念ながら須弥壇までの距離が遠く、間近で拝観することは叶いませんでしたし、黒いお姿で画像も鮮明に撮れませんでしたが、見事な造作であることは見て取れました。御目は玉眼のようです。

看経座(御本尊にお経をあげる場所)には、もう一尊、大師像。こちらも東雲作。前立本尊のような感じです。
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こちらは目の前で拝観出来ました。
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僧形ということで、同じく東雲作の鎌倉建長寺さんにおわす五百羅漢像を彷彿とさせられました。こちらは東雲がこの地にやってきて彫ったという寺伝があるそうです。

本堂の欄間は名工・石川信光の作。石川は柴又帝釈天さんの胴羽目なども手がけています。東京美術学校での光雲の同僚にして、牙彫も手がけた石川光明の同族です。
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一部、弟子の作も入っているとのことで、そちらはやはり少し簡易な感じです。
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本堂脇の玄関的なところには、何と木村武山の絵。
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外へ出て、境内を散策。

本堂外側の濡れ縁や漆喰の壁などを、昨年、補修したそうです。蔀戸などは元のままだとのこと。
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小さな祠というか、お堂というか、そちらの胴羽目も素晴らしゅうございました。
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もしかすると、やはり石川一派、東雲一門などの手かな、とも思いました。

梵鐘は光雲三男にして光太郎実弟・豊周と繋がりのあった香取正彦の作。香取は梵鐘の鋳造で人間国宝に認定されています。
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飛天があしらわれ、実にありがたみが増していますね。

手水舎の龍もただ者ではありませんでした。
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失礼ながら、有名な大寺院でなくとも、このように素晴らしいお宝が見られるのだと改めて感じました。維持管理等、なかなかに大変かとは存じますが。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

澤田さんの小屋は今半分ほど出来ました。これが出来ると小さな彫刻が作れるでせう。

昭和26年(1951)5月17日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

「澤田さんの小屋」は、澤田伊四郎の龍星閣が費用を負担して普請中の増築部分(左の白い壁部分)です。
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ただ、結局、この増築部分が竣工しても、ここできちんとした作品としての彫刻を作ることはありませんでした。

一昨日、昨日と行われた来年度入学生のための大学入試共通テスト。

社会の「旧日本史A」の問題に、光太郎の父・光雲が出題されました。「旧」とあるので、現役生対象ではなく、高校の教育課程が変わる以前の浪人生向けでしょうか。
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2問抱き合わせで、正解を組み合わせた選択肢を選ばせる問題です。正解は②。
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光雲の「老猿は」ともかく、佐野常民の「綿糸・綿織物」は迷いましたが、わざわざ「蚕業織場勧興ノ報告書」を挙げた上で「b 生糸・絹織物」ではストレートすぎて引っかけの匂いがぷんぷんしますし、佐野常民といえば赤十字、赤十字といえば医療行為、医療行為といえばガーゼ、ガーゼといえば「綿」、なるほど、「綿糸・綿織物」か、と思って正答を確認したところ、正解でした(笑)。「老猿」の光雲が簡単すぎるのでこちらでバランスを取ったかな、という気がします。

ちなみに光雲は中学校レベルでも学ぶ事項なので、かつての高校入試の社会にも出題されています。
 2017年群馬県公立高等学校入試。
 平成31年度 千葉県公立高等学校「後期選抜」。

国語でも。
 平成30年度埼玉県公立高等学校入学者選抜国語。

息子の光太郎の文章も、2021年度の大学入試共通テストに問題文の一部として使われました。
 2021年度大学入学共通テスト・倫理。

昨年は京都大学さんの二次試験でも。
 2024年度 京都大学二次試験 前期日程 国語(文系)。

まぁ、入試云々は置いておいても、光雲や光太郎の名、ある程度の業績は、日本人としてのマストの一般常識として定着していてほしいものですが。

【折々のことば・光太郎】

御両所様御光来などといふ事は中々思ひもよらぬところでありました、 かやうな悪路の事とてさぞお疲れ遊ばされしことと御案じ申上げました、 何のおもてなしも出来ず、まことに申しわけもございませんでしたが御元気の様子を拝見して小生まで爽快の思ひをいたしました、


昭和26年(1951)5月9日 宮沢政次郎宛書簡より光太郎69歳

政次郎は宮沢賢治の父。光太郎より9歳上の明治7年(1874)の生まれですから、数えで78歳でした。「御両所様」は政次郎、そして夫人のイチ。イチは明治10年(1877)出生で数え75歳。初めて夫妻で旧太田村の光太郎の山小屋を訪れました。賢治の主治医だった佐藤隆房が自家用車で送っていったのですが、当時は舗装もされていないガタガタ道で、なかなか大変だったでしょう。
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山小屋をバックに、左からイチ、政次郎、光太郎です。

テレビ番組の放映情報を2件。

まずは光太郎の父・光雲が主任となって、東京美術学校総出で作られた上野の西郷隆盛像がらみ。

ワルイコあつまれ(113)

地上波NHK総合 2025年1月21日(火) 23:00〜23:30

▽「慎吾ママの部屋」西郷隆盛(塚地)が登場。明治維新や日本の近代化に貢献したカリスマ・西郷が「やっちまった」エピソードの数々を披露。あの銅像の真実も明らかに。
▽「カレーなる賭け」大好物の“米”への愛が強すぎて、みずから地元の農家に弟子入りしたという小学6年生が登場。自身で育てた白米を持参しての挑戦に、ディーラー吾郎(稲垣)は絶妙のかけひきで対峙するが、その結果は…!
▽「株式会社ジンタイ」胆のう君(草彅)がなぜか苦手にしている舌主任の話題に。「口がうまくて調子がいいイメージ」と持論を語るが、脾ぞう君(稲垣)が別の一面を語りはじめると…?

【出演】稲垣吾郎,草彅剛,香取慎吾,塚地武雅,【声】平野正人,【語り】是永千恵
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西郷像に関しては、軽く触れられる程度だと思われますが。それにしても、塚地武雅さん、伝え聞く西郷の風貌に似ているといえば似ているかも知れませんね(笑)。

もう1件。光太郎智恵子に触れられるかどうか……。

秘湯ロマン

地上波テレビ朝日 1月18日(土)  03:00〜03:30 

日本全国の秘湯と呼ばれる温泉の魅力を紹介します。今回の秘湯は栃木県、塩原温泉郷「柏屋旅館」、「静観荘 古山」、「やまなみ荘」、那須湯本温泉「雲海閣」。

出演者 【旅人】佐藤あかり 【ナレーション】丸山未沙希
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塩原温泉郷の柏屋旅館さん。心の病が昂進した智恵子をなんとかしようと、昭和8年(1933)に一ヶ月ほど東北から北関東の温泉巡りをした際、最後に光太郎智恵子が逗留した宿です。

同じ番組で令和2年(2020)にも柏屋さんが取り上げられ、その際には光太郎智恵子にも触れて下さいました。今回も期待したいところです。
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柏屋さん、意外とその点を売りになさっているようで、ちょくちょく各種メディアにその件が。

テレビ番組ですと、令和3年(2021)、当方も制作に協力させていただいた日テレさんの5分間番組「心に刻む風景」でも「最後の旅 泣きやまぬ童女(どうじょ)のやうに慟哭(どうこく)する」というサブタイトルで取り上げられました。
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近年の書籍では令和元年(2019)、『“裸”になって本音を見せた 文豪が泊まった温泉宿50』
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週刊朝日』さん連載の単行本化でした。

さて、「ワルイコあつまれ」「秘湯ロマン」、それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」については御返事が少々厄介です。もともと澤田さんが発行してゐたもので、言はば澤田さんによつて地上にひろめられたやうなものですから、白玉書房は一時刊行したものの、龍星閣く復起したとすれば、龍星閣に返して上げたら如何ですか。さうすればおだやかだと思いますが如何でせう。
昭和26年(1951)4月24日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎69歳

詩集『智恵子抄』は、澤田伊四郎の龍星閣から昭和16年(1941)に初版が刊行されました。その後、太平洋戦争の激化に伴い、龍星閣は一時休業。戦後になって鎌田の白玉書房から復刊されました。その際、光太郎は鎌田から、龍星閣に版権をゆずられたという説明を受けていたようですが、どうもそのあたりの真相が闇の中なのですが、澤田としてはゆずった覚えはない、龍星閣を再興するので版権を返して欲しい、という申し出があったようです。

結局、白玉書房版は絶版となり、龍星閣から戦後版が刊行されることとなります。赤い布表紙の有名な版です。

若干先の話ですが(このところネタ不足なもので(笑))、青森県からイベント情報です。

十和田湖冬物語2025 冬、十和田湖びより

期 日 : 2025年1月31日(金)~2月24日(月・振休)
会 場 : 十和田湖畔休屋 多目的広場 青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
休 業 : 火曜・水曜 

八甲田山の麓、標高約400メートルに位置する十和田湖は平安の頃から信仰の対象として、脈々とその歴史を紡ぎながら観光地としてもたくさんの人々に親しまれるようになりました。その神秘的な情景は、訪れた人を感動へと導いてくれます。

深い深い雪に包まれる冬も同様。峠を越える、容易い道ではないからこそたどり着いた先の感動もひとしおです。

真っ白な衣を纏った十和田湖を舞台に冬を思い切り楽しんでもらおうと開催してきた十和田湖冬物語は今年で27回目を迎えます。

「冬、十和田湖びより」

皆さまと一緒に、そんな思いを共有するためさまざまなコンテンツを用意して会場でお待ちしております。冬の十和田湖で会いましょう!
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FIREWORKS -冬花火-
 真冬の澄み切った夜空を彩る冬花火。音楽との競演もお見逃しなく! 全日20:00〜
 メッセージ花火受付中! 大切なあの人へ。感謝の気持ちを花火に込めてみませんか?
 8800円/発〜
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FOOD MARKET-雪灯り横丁-
 ローカルの食材を使った美味しいグルメを楽しもう!
 平日16:00〜20:30 休日11:00〜21:00
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TRADITIONAL ARTS-冬の国境まつり-
 北東北の祭りや、地元有志によるパフォーマンスは必見! 週末限定!
  青森 ねぶた囃子「ラッセラー♪」みんなで歌おう! 踊ろう!
  ・2月8日(土)16:00〜、19:00〜 ・2月9日(日)16:00〜
  秋田 なまはげ太鼓 なまはげの太鼓パフォーマンスは圧巻!
  ・2月15日(土)16:00〜、19:00〜 ・2月16日(日)16:00〜
  岩手 花巻鹿踊り 平安と悪霊退散を願って、高く舞い上がる鹿たち!
  ・2月23日(日)16:00〜、19:00〜 ・2月24日(月・振休)16:00〜
  協力:新渡戸友好都市交流委員会
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SNOW PARK-雪遊び-
 会場には大きな雪の滑り台が誕生! あなたは何して遊ぶ?
 平日16:00〜19:30 休日11:00〜19:30
 ・すべり台(そり、チューブ) ・バナナボート
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昨年から、永らく行われてきた湖畔休屋地区での屋台村を中心としたスタイルで復活しました。そのスタイルだった時代に2度、イルミネーション系のイベントとなっていた時期に1度お邪魔しましたが、とにかく寒い!(笑)。その寒さを逆手にとって楽しんでしまおうというイベントです。

問い合わせたところ、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されるとのこと。辿りつくまでがなかなか大変ですが、実に幻想的です。画像は過去のものです。
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手前の雪灯籠にあかりが灯されます。

予約が必要なようですが、JRさんのバス「おいらせ号」が八戸駅から、十和田観光電鉄さんのバスが十和田市中心街から出ます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】002

「天上の炎」の小生の印税は五分でいいです。この本は余り売れないでせう。今日ヹルハアランを読む人は少いでせうから。


昭和26年(1951)4月24日 鎌田敬止宛書簡より
 光太郎69歳

『天上の炎』は、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの詩集。光太郎訳で大正14年(1925)にハードカバーが刊行されましたが、鎌田の白玉書房からペーパーバックで復刊されました。

今日ヹルハアランを読む人は少いでせう」の言葉通り、さらにましてや現代では忘れられかけた詩人となった感があります。

昨日は、今年初めての上京でした。

まずは初詣を兼ねて、足立区の西新井大師五智山遍照院總持寺さんへ。押すな押すなというほどではありませんでしたが、善男善女(当方を除く)でかなりの人出でした。
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まずは当然ですが本堂に参拝。
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大枚5円(笑)を賽銭箱に投入、合掌し、今年一年、平穏無事でありますように、的な祈願を。

なぜわざわざ足立区に、というと、本堂から見えるこちらの三匝堂(さんそうどう)拝見が主目的です。
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このところ、光太郎の父・光雲や、その師・東雲の彫刻を各地で拝見しておりまして、その流れです。こちらにも光雲によるとされる木彫の扁額が掲げられているという情報を以前から得ており、いい機会だと思って参上しました。
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一見、三重の塔のようにも見えますが、三層の楼閣で、いわゆる「栄螺(さざえ)堂」の一種です。天保5年(1834)に建てられ、明治17年(1884)に改修。光太郎が生まれた翌年ですね。

階段は外部にしつらえてあります。元は堂内にも階段があったそうですが、改修の際に取り払われたとのこと。
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栄螺堂でも、有名な会津飯盛山のそれは二重螺旋階段になっていますが、あれはかえって特殊なものです。

内部は拝観出来ません。しかし、当方が見たかったのは軒下に掲げられた扁額。
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中央に刻まれた数字の「3」のような文字は梵字ですね。

そして周囲を取り囲む龍。
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足立区さんのサイトによれば、これが光雲の手によるものだと伝わっている、とのこと。伝わっている、ということは確定ではないのでしょうが、この精緻な彫りは確かに光雲を彷彿とさせられます。ただ、明治17年(1884)の改修の際のものであるとすれば、光雲は独立はしていたものの、まだ一流の職人と認められていなかった時期ですので、疑義が生じます。光雲が斯界でブイブイ言わせるようになるのは、明治20年(1887)に皇居の造営に関わり、さらに同22年(1889)に東京美術学校に奉職してから。しかし、いきなり皇居の内部装飾に抜擢されたとも考えにくく、西新井大師さんのこうした仕事などでその技倆を認められたからなのかな、とも考えられます。

参拝後、世田谷の下北沢へ。当方、公共交通機関で上京する際には東京駅に降り立つのがほとんどで、東京駅を起点に考えると西新井と下北沢では真逆ですが、西新井に近い北千住から小田急線直通の地下鉄千代田線に乗れば意外と便はよく、そうしました。

目指すは本多劇場さん。お世話になっている渡辺えりさんの古稀記念公演が行われています。
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本多劇場さんは、令和元年(2019)にやはり渡辺さん作の「私の恋人」を拝見に伺って以来でした。

今回の古稀公演は「鯨よ!私の手に乗れ」と「りぼん」の2本立て。
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昨日は「鯨……」でした。「りぼん」の方で、光太郎詩「道程」に触れる箇所があるというお話でしたが、招待枠で「りぼん」を観に行ける日がなく、「鯨……」を拝見。「鯨……」でも光太郎に触れる部分があるかなと思っていたのですが、残念ながらそれはありませんでした。

「鯨……」は、昨秋亡くなったお母さまの介護体験等も反映されながら、笑いあり涙あり、なかなかに壮大な物語でした。えりさんは古稀ですが、共演されていた木野花さんは喜寿というのには驚きましたし、共演と言えば、黒島結菜さんは小顔だな、とつくづく思いました(えりさんが顔が大きいとは言いませんが(笑))。ベテランの三田和代さん、広岡由里子さん、宇梶剛士さん、ラサール石井さんらの芸達者ぶり、若い役者さんたちも、劇中で楽器の生演奏やらダンスやらで芝居を盛り上げています。

下記は公式パンフ中の「りぼん」の部分から。
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「道程」がプロパガンダに利用された一面、確かにあるでしょう。詩集『道程』の初版は大正3年(1914)ですが、日中戦争中の昭和15年(1940)には山雅房から「改訂版」が出、同17年(1942)にはそれを対象に光太郎が第一回帝国芸術院賞を受賞しています。「改訂版」は豪華本的な「150部限定版」、普通の装丁の「書店版」、そして簡易な造本の「普及版」の三種が発行され、「普及版」は昭和18年(1943)の9刷まで確認出来ています。
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左から「150部限定版」、「書店版」、「普及版」です。

ちなみに当方手持ちの「普及版」はサイン入りです。
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小池吉昌はマイナーな詩人でした。

プロパガンダ、というと、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」もそういう使われ方をしました。本当に不幸な時代だったと言わざるを得ませんね。

ところで光太郎、「道程」が戦意高揚に使われることに違和感を感じる部分もあったようで、大戦末期の昭和20年(1945)になって、さらに青磁社から『道程再訂版』を出しました。こちらは戦時に関する詩を全く含まず、生涯の詩作から作品を選び、改訂を加えています。消極的な抵抗のようにも思えます。

その年4月10日、下町方面の空襲がひどいと言うことで、えりさんのお父さま・渡辺正治氏が勤務していた中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場から自転車で本郷区駒込林町に光太郎の安否を確認に来ました。その際に「わざわざありがとう」と、光太郎が正治氏に贈ったのがこの「再訂版」です。しかし、3日後の空襲で光太郎アトリエ兼住居は灰燼に帰してしまいます。
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えりさん、そういう部分でも「道程」への思い入れがあるのでしょう。

古稀記念公演、夜の部はまだ空席があるようです。それから西新井大師さん。それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小屋に手入をはじめる事になり、ごたごたとしてゐます、

昭和26年(1951)4月15日 出雲正明宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に、増築工事が始まりました。明確な印税制を採らなかった『智恵子抄』版元の龍星閣の肝煎りです。

一昨日は千葉市に行っておりました。目的地は中央区亥鼻の千葉大学医学部さん。
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こちらに昨秋、光太郎の父・光雲が手がけた同大医学部前身の県立千葉医学校の校長などを務めた長尾精一の銅像が再建され、それを拝見に伺いました。

入口に面した通りからも望見出来る位置にあり、すぐにわかりました。台座はずっと残っていたそうですが、このあたり、以前は何度か通ったことがあっても台座があったことにはまったく気づきませんでしたが。
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説明板にあるように、戦時中の金属供出でいったんは失われたものの光雲原型の塑像(石膏?)が残っていたということで、それを使って復活。

台座は明治44年(1911)のものですが、おそらく金属供出で像が一度失われた後、原型が残っていたことも分かっていなかった時期に、元の像を偲ぶよすがとしてレリーフが新たに作られて嵌め込まれたようです。
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側面には「昭和卅二年十一月」と書かれた石のプレートも嵌め込まれていましたので、おそらくその時でしょう。

同じような例として、光太郎が原型を作った青沼彦治像があります。こちらは大正14年(1925)に宮城県荒尾村(現・大崎市)設置、昭和19年(1944)に金属供出、昭和41年(1966)に新たにレリーフが嵌め込まれました。
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申し訳ありませんが、長尾像にしても青沼像にしても、後からのレリーフはどうしても見劣りがしてしまいますね。

青沼像は現在も台座と後からのレリーフのみ。その点、原型から復刻された長尾像は幸運な例です。光雲原型のものとしては、四国の広瀬宰平像もそうした例ですし、谷中霊園の小川源兵衛像もそうかもしれません。

光太郎原型で、金属供出に遭った像は三体。青沼像、岐阜の浅見与一右衛門像、そして千葉県松戸市の千葉大園芸学部さんにある赤星朝暉像。これらは原型も残って居らず、青沼像は上記の通りですし、浅見像と赤星像は別の作者による像で再建されました。赤星像に関しては、関係者が光太郎に「原型が残っていないなら供出はしない」と言ったところ、光太郎が「原型は私が保管している」というわけで供出。ところがその原型は昭和20年(1945)の空襲で、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居もろとも灰燼に帰してしまったという経緯が伝わっています。

まったく戦争というものは、人々の命のみならず、こうした文化的遺産をも破壊し尽くす蛮行・愚行と言わざるを得ませんね。

さて、再建された長尾像、千葉市方面にご用の際はぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山も雪が大分とけて早春の気が立ちこめてきましたので神経痛の方も幾分よくなりかけました。慢性になるといけないので、やはり注射で一度よく治してしまはうと思つてゐます。不日東京の友人がテブロンと注射器一式を持参の予定です。この部落には医者も保健婦さんも居ません。


昭和26年(1951)3月31日 野末亀治宛書簡より 光太郎69歳

「テブロン」は自律神経遮断剤。宿痾の結核性肋間神経痛の鎮痛効果を狙ってのことでしょう。光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村山口地区、村の中心部まで行けば医院はあったのかもしれませんが、山口地区には現在も医院も診療所もありません。

一昨日、光太郎の父・光雲がらみをご紹介しましたので、今日はさらにその師・髙村東雲関連です。

やはり年またぎ案件なのですが、昨年12月10日、千葉県野田市に行って参りました。目的地は琴平神社さん。こちらの本殿の胴羽目彫刻が、東雲の手になるものだという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

場所は野田を代表する企業・キッコーマンさんの中央研究所の敷地内。
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通常はこのゲートが閉ざされていて、入れません。毎月10日のみ参拝出来るということで、実はそれを知らずに昨夏にも一度行ったのですが、その日は10日ではありませんでしたので、空しく帰って参りました。そこでリベンジ、というわけです。

ちなみにこの周辺、戦時中の空襲の被害はなかったようで、古い建築が点在しています。
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さて、琴平神社さん。
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こぢんまりとした境内ですが、杜は意外と鬱蒼としています。12月も中旬になろうかというのにまだ紅葉が見事でした。
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めざす本殿。明治5年(1872)に建てられたそうです。
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拝礼後、周りをぐるりと反時計回りに一周し、彫刻をつぶさに拝見。
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恐ろしいほどに緻密です。
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雲などは様式化された感じですが、葉の表現などは、初期のロダンが装飾彫刻の職人だった時代に師匠から叩き込まれた、葉の先端を手前に持ってきて奥行きや立体感を醸し出す技法に通じるような気がします。
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鳥にしてもかなり写実性を意識しているようにも見うけられました。こういう点が弟子の光雲にも受け継がれていったのかな、などとも。

ただ、場所によって微妙に異なるタッチもあるように感じ、もしかすると工房作で、光雲を含む弟子達の手も入っているのかな、などとも思いました。あまり大きな建物ではありませんが、何せぐるりと一周でかなりの点数になりますし、光雲が師の元を離れ、独立したのは明治8年(1875)のことでしたし。

本殿の前に佇む額堂。
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中に入って仰天しました。こんな額があったので。
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この面については全く存じませんでした。左の方は烏天狗。本殿の唐破風下、兎の毛通し(うのけどおし)の部分にも天狗が配されていましたし、少し離れた神楽殿にも天狗の彫刻、それから天狗の団扇を象(かたど)ったオブジェも境内にあり、どうもこの地には天狗伝説があったようです。すると右も牙が見えますし、やはり天狗系なのでしょう。
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「茂木佐平治」はキッコーマンさんで代々受け継がれる名で、おそらくその前身だった野田醤油時代のさらに前と推定されます。

迷惑かな、と思いつつ、敷地内の茂木家を訪(おとな)い、面について訊いてみました。すぐ近くに茂木本家美術館さんがあり、光雲の木彫なども展示されているので、そちらにでも収蔵されているのかな、と思ったもので。ところが、家宝として保管していて、公開は行っていないとのことでした。いつかはこの目で見てみたいものです。

野田市内でもう一箇所、廻りました。埼玉との県境に近い、中野台地区の大師山報恩寺さん。
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こちらの本堂におわす御本尊の弘法大師像、さらにもう一体の大師像も、東雲の作だそうです。東雲と野田、つながりが深いと言わざるを得ませんね。
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「高村光雲の義父」というのは誤りで、光雲は徴兵逃れのために東雲の姉の養子になったので、正しくは義理の叔父です。

こちらにも昨夏お邪魔しましたが、本堂の改修工事中で、内部の拝観が出来ませんでした。その際、12月には工事が終わると聞いたので、行ってみた次第です。ところが、工事は終わったものの、漆喰が乾いていないということで、またもや拝観出来ませんでした。その時点で月末には元通りになるというお話でした。また近いうちにお邪魔しようと思っております。

さて、もうすぐ10日、琴平神社さんの門が開きます。報恩寺さんの大師像も拝観可能かと存じます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

誕生日のお祝を心にかけて送つて下さつて忝く存じました。今朝はあのおいしいコーヒーをいれ、トーストにあの珍らしいチーズのスプレツドを塗つてひどくハイカラなブレツクフアストをいただきました。そして今いいかをりの紫烟をマドロスパイプで一ぷくやつたところです。

昭和26年(1951)3月13日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

結核性の肋間神経痛で苦しんでいたわりに、刻み煙草をパイプでくゆらせ……自殺行為ですが……。

3件ご紹介します。

まずは光太郎に関わるかどうか、微妙なところですが……。

日曜美術館 人生で美しいとは何か 彫刻家・舟越保武と子どもたち

NHK Eテレ 2025年1月12日(日) 9:00~9:45 再放送 1月19日(日)  20:00~20:45

戦後日本を代表する彫刻家・舟越保武(1912−2002)。カトリックの信仰を主題にした精緻で存在感あふれる作品は見るものに「美しさとは何か?」を問いかける。保武の7人の子どもたちは、その多くが芸術関係の道を選んだ。長女は児童図書出版の世界で活躍。次男と三男は父と同じ彫刻家に。そして末娘は紆余曲折を経てアーティストへ。子どもたちの人生と言葉を通して、舟越保武が体現した「美しさ」を考察する。

【出演】舟越保武 舟越桂 末盛千枝子 【語り】守本奈美

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光太郎と交流があり、そのDNAを受け継いだと言える彫刻家の一人、舟越保武。同じ彫刻の道に進み、昨年亡くなった次男の桂氏、そのお姉様で、光太郎が名付け親となった編集者の末盛千枝子氏がビデオ出演。ちらっとでも光太郎に触れていただきたいところですが、どうなりますやら……。

続いて、やはり微妙なところでもう1件。明日の放映です。

又吉・せきしろのなにもしない散歩 #144

BSよしもと 2025年1月8日(水) 19:00~19:30 再放送 1月10日(金) 16:00〜16:30

ピースの又吉直樹と作家のせきしろの二人が、五七五の定型にとらわれず自由な表現をする【自由律俳句】を生み出していく。東北各地を歩きながら様々な人やモノと出会う中で、二人のここでしか見られない独特のかけ合いや、新たな俳句を生み出す姿は必見です。

今回は青森県十和田市をブラリ旅。果たしてどんな自由律俳句が生まれるのか!?
新渡戸記念館、食事処とちの茶屋 ほか
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この番組、訪れる場所は東北限定でして、昨年には花巻高村光太郎記念館さん及び高村山荘、福島二本松の智恵子記念館さんと智恵子生家、さらに当会の祖・草野心平の別荘「天山文庫」(福島県川内村)が取り上げられました。

今回は十和田湖。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」近くの砂浜で撮られたカットも公開されており、そのまま「乙女の像」まで行かれたのか、行かれなかったのか、というところです。
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ぜひともお二人に「乙女の像」ポーズをとってもらいたいものですが(笑)。

最後は2時間ドラマの再放送。

<BSフジサスペンス傑作選>浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件

BSフジ 2025年1月10日(金) 12:00〜14:00

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は? 宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは? 浅見光彦が事件の真相にせまる!!

<出演者>
中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作
榎木孝明 野際陽子 ほか
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推理作家の故・内田康夫氏が昭和61年(1986)に発表された「「首の女(ひと)」殺人事件」を原作に、ほぼ忠実に映像化した2時間ドラマです。初回放映は平成18年(2006)、光太郎彫刻の贋作を巡る殺人事件が描かれ、二本松の智恵子生家、花巻の旧高村記念館等でのロケが敢行されました。その後、繰り返し再放送が為されています。
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それぞれぜひ御覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

貴下からいただいた即席餅といふものを今日作つてみましたら、大変おもしろく、煮小豆に入れたり、黄粉にくるんだりして賞味しました。今日は小生の誕生日でした。

昭和26年(1951)3月13日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

元日に数え69歳となった光太郎、この日で満68歳になりました。

前年の誕生日はたまたま講演旅行中で、岩手県立美術工芸学校長・森口多里の家で饗応にあずかりましたが、この年は一人寂しく誕生日を餅で祝いました。

昨日同様、昨年暮れに発行された雑誌のご紹介です。

小さな蕾 2025 2月号

発行日 : 2024年12月26日発売
版 元 : 創樹社美術出版
定 価 : 838円(税込)

【巻頭特集】●鍋島 上野コレクション
【第2特集】●高村光雲 木彫阿弥陀如来像 ◆加瀬 礼二
【展示紹介】
・仏教美学 柳宗悦が見届けたもの ◆日本民藝館企画展より
・古筆切-わかちあう名筆の美- ◆根津美術館企画展より
・仏・菩薩の誓願と供養者の願い ◆龍谷大学 龍谷ミュージアム特別展より
・千変万化-革新期の古伊万里- ◆戸栗美術館企画展より
・運慶 女人の作善と鎌倉幕府 ◆神奈川県立金沢文庫特別展より
【連載】
・明治の陶磁シリーズ73 世界が見惚れた京都のやきもの~明治の神業
 京都市京セラ美術館特別展より ◆後藤 結美子(京都市京セラ美術館)
・仏教美術の脇役たち172 流転 第二十四話 ◆松田 光
・逸品珍品を語る48 明治版タブレット 石盤と石筆 ◆北川 和夫
・骨董拾遺選10 貧数寄コレクターの呟き 2024年を振り返って思うこと
-中国・遼三彩の陶枕- ◆伊藤 マサヒコ
・江戸絵皿の絵解き13 北斎漫画を謎解く 江戸絵皿事典 ◆河村 通夫
・政治と書40 宮島詠士 清朝継承者の工と文 ◆松宮 貴之
・近世長崎の発掘陶磁6 ◆扇浦 正義
・絵のある待合室135 馬3題 ◆平園 賢一
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004古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん最新号。古美術蒐集家・加瀬礼二氏という方による「高村光雲 木彫阿弥陀如来像」という記事が載っています。

紹介されている阿弥陀如来像、年銘が入っておらずいつのものか不明ですが、実にいいお姿をされています。正面から撮られた右画像以外にも別角度からのショット、光雲の銘や台座部分の拡大写真なども掲載されていました。

銘を見ると、工房作ではなく光雲が一人で手がけたものと推定されます。その銘も加瀬氏曰く「文字の確かさ、まるで毛筆で記名したように刻る」。的確な評です。光雲レベルになると、彫刻刀も筆と同様に意のままになるのでしょう。

光雲には阿弥陀如来像の作例は多くなく、当方、広島の耕三寺博物館さん所蔵のものを見たことがあるだけです。その意味でも興味深く拝読いたしました。

昨日ご紹介した芸術新聞社さんの『墨』が複数回光太郎書を取り上げて下さったのと同様、こちらの『小さな蕾』はたびたび光雲作品を紹介して下さっています。ありがたし。
 『小さな蕾』2021年9月号。
 『小さな蕾』2024年2月号。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

春になつたら山へカマを築いて食パンを一週間分づつ焼きたいと思つてゐます。

昭和26年(1951)3月1日 神保光太郎宛書簡より 光太郎69歳

結局、実現には到りませんでしたが、こんなことも考えていました。当時の岩手では光太郎の口に合うパンがなかなか入手出来なかったためでした。

このブログサイトでご紹介すべき昨年いろいろあった事柄のうち、主なものは昨年のうちに何とかご紹介し終えましたが、中には越年となり申し訳なく思うものも。

そのうち『東京新聞』さんで12月27日(土)に掲載された記事。

TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機 俳優・渡辺えりさんら尽力 保存活動

 2024年も残りわずか。TOKYO発では今年も街のトレンドや知られざる地域の歴史、ヒューマンストーリーなど、多彩な話題を取り上げてきた。今日は「その後」を――。
 中野区に残る、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)ゆかりのアトリエの所有者が亡くなり、存続の危機にあると1月12日に紹介した。
 アトリエは洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てた。光太郎は晩年の52~56年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作した。
 記事の掲載後、若手建築家をはじめ、さまざまな立場の人から保存・活用法の提案が寄せられたという。有志らは4月、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、署名活動を始めた。
 会の代表に就いたのは、俳優で劇作家の渡辺えりさん。えりさんの父は生前光太郎と交流があり、えりさん自身も光太郎の半生をもとに戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 11月、会は区内でアトリエを紹介する展示を行い、講演会を開催。えりさんは「光太郎の肌合いが残る場所が中野区にあるのはすごいこと。何とかいい形で保存できないか」と語り、「生きるための糧の一つとして文化芸術がある」と理解を求めた。
 今後、会は区への働きかけや新たな講演会の企画など、地道に活動を続ける。署名への協力などは会の名前で検索。
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昨年1月12日の記事はこちら

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」サイトはこちら。当方も幹事を務めさせていただいております。こちらからインターネット署名も可能ですので、よろしくお願い申し上げます。

アトリエを紹介する展示」は11月10日(土)~19日(月)の日程で行いました。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。

新たな講演会」は、2月15日(土)の予定です。詳細が決まりましたらまたお知らせいたしますが、とりあえず中西利雄に特化した内容となるとのこと。

また、クラウドファンディングを立ち上げ、ご支援を募ることも視野に入れております。そうなりました場合には、ぜひともよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生旧臘来肋間神経痛といふ厄介なものにひつかかり、一ヶ月近く小屋を留守にいたし、病院長さん邸や温泉などに滞在、最近、雪中を橇で帰つてまゐりましたがまだ病気は残つてゐます、字を書くと病気にひびくのでテガミや原稿がかけずにゐます、


昭和26年(1951)2月26日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

肋間神経痛」は結核性のもの。結核も抗生物質の普及により、戦前ほどは怖れられる病ではなくなりましたが、さりとてもはや完治は不能でした。約5年後には光太郎の命を奪います。

病院長さん」は、宮沢賢治の主治医でもあった佐藤隆房、「温泉」は大沢温泉さん。1月23日から2月2日まで、かなり長く滞在しました。

2ヶ月経ってしまいましたが、新刊です。著者はお世話になっている藤井明氏。小平市平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員です。

明治・大正・昭和 メダル全史

発行日 : 2024年10月25日
著 者 : 藤井明
版 元 : 国書刊行会
定 価 : 12,000円+税

はじめての日本メダル大図鑑!
手のひらに載せれば心地よい金属の重みと質感を湛える、美しき世界――
明治初めに誕生し、大正に一大ブームを迎えるメダル。
オリンピック、高校野球、箱根駅伝、内国博覧会、皇室のご即位・ご成婚、従軍記章、創立記念、あるいはグリコのおまけ……
多種多様のメダルが製造され、なかには畑正吉、日名子実三、朝倉文夫、あるいは岡本太郎など美術家が関わりユニークで芸術性の高いものもある。
賞牌、勲章、記章、コインの類義語としてこれまであいまいにされてきた存在を、約280点のメダルと豊富な資料により、日本の近代化とともに歩んだ歴史と美術的価値を与えて詳らかにする、初のメダル集成。
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目次
 [プロローグ]メダルとは何か
 ようこそメダルの世界へ/メダルの名称
 i章 メダル事始
  1. 日本メダル前史
  2. メダルのはじまり
  3. 徽章業の誕生と発展
  §コラム1 西洋のメダル
 ii章 活用されゆくメダル
  1. 博覧会のメダル——文明開化のかがやき
  2. 皇室の祝賀
  3. 学校のメダル——「皆さん勉強なさい メダルを上げます」
  4 .会社・店舗のメダル
  5. 啓発のメダル
  §コラム2 初期デザインと様式
 iii章 メダルブームの到来
  1. 航空のメダル——大空に賭けた夢のかけら
  2. スポーツのメダル——ああ栄冠は君に輝く
  3. 活気づく徽章業
  4 .コレクターの出現
  5. 子どもたちの憧れ
  6. メダル事件簿
  §コラム3 オリンピックのメダル
 iv章 彫刻家とメダル
  1. メダルと彫刻
  2. 岩村透と畑正吉
  3. 日名子実三と構造社
  4. その他の作家たち
  5. 肖像メダル
  §コラム4 ノーベル賞のメダル
 v章 戦争とメダル
  1. 戦時下のメダル
  2.「桃太郎さがし」とメダル
  3. 戦時下の徽章業
  4. 今日のメダル
  §コラム5 メダルコレクターの素顔
 [エピローグ]ふたたびメダルとは何か
 注/主要参考文献/掲載図版一覧

表紙画像と目次、さらには紹介文でおおよそお判りかと存じますが、とにかく「メダル」です。250ページ超、ほぼオールカラーで、これでもかこれでもか、と、各種のメダルの図版が次々に。それぞれに解説も。紹介文に依ればその数約280点。さらに表裏双方の画像が掲載されていたり、メダルそのもの以外の関連する画像も豊富に収録されたりしています。

しかし、そもそも「メダル」っていったい何だ? ということになります。そのあたり、「プロローグ」で述べられていますが、「勲章」や「賞牌」といった、似たものとの線引きが曖昧ですね。さらに「貨幣」も絡んできたり……。そこで、勝手な想像ですが、約280点の紹介を通し、いわば帰納法的に「こういうものだ」とするという意図もあるのかな、と思いました。

さて、我らが光太郎の制作したメダルも4点、紹介されています。
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掲載順に並べましたが、左上が岩波書店の岩波茂雄に依頼されて造った同社の社章「種蒔く人」(昭和8年=1933頃)。右上は「園田孝吉像」(大正4年=1915)。左下に「嘉納治五郎像」(昭和9年=1934))、右下で「大町桂月像」(昭和28年=1953)。

「種蒔く人」は、岩波書店の岩波茂雄に依頼されて造った同社の社章。ただし不採用となりました。岩波が嫌っていた軍国主義っぽいと言う理由でした。しかし、「ボツになった」という事実も忘れられつつあるようで、現在の岩波書店さんでは社章は光太郎に作って貰った的な受け止め方でいます。そのあたり、くわしくはこちら

「園田孝吉像」。園田は十五銀行の頭取。同時に大きな胸像も制作されました。光太郎がアメリカ留学中に知り合った同行行員の熊井運祐、佐藤五百巌の斡旋で作られました。胸像の方は、信州安曇野の碌山美術館さんで展示されることがあります。

「嘉納治五郎像」は、「メダル」と言っていいのかどうか、当方としては疑問が残ります。縦長の長辺が20センチ超で、一般的な「メダル」よりかなり大きいので。ちなみに存命人物の肖像をやや苦手としていた、光太郎の父・光雲の代作です。画像はおそらく髙村家に遺された原型を元に、新たにブロンズで鋳造したもの。当方、制作当時のものを入手しましたが、ブロンズではなく石膏着色と思われます。ブロンズと比べ、恐ろしく軽いので。抜きが甘く、あまりいい出来ではありません。
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同様の光雲の代作として、「徳富蘇峰胸像」(昭和7年=1932)があります。こちらも入手しまして、先月、中野区のなかのZEROさんで開催された「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品いたしました。
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こちらはきちんとブロンズで、重量があります。頒布は翌昭和8年(1933)、その際の趣意書もついていました。光太郎が代作したものなのに、光雲が如何に素晴らしいかといった記述に溢れ、こうしたインチキがまかり通っていたのですね(現代でも似たようなケースがありそうですが)。サイズ的には「嘉納治五郎像」とほぼ同じ。これも「メダル」と言っていいのかどうか……と感じます。

閑話休題。最後は「大町桂月像」。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に配付されたもので、光太郎生涯最後の完成作です。上の画像は原型。鋳造されたメダルは十和田湖畔の観光交流センターぷらっとさんに展示されています。
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『明治・大正・昭和 メダル全史』。他に、名のある彫刻家、工芸家、画家等が原型を制作したメダルも多数。畑正吉、日名子実三、齋藤素巌、陽咸二、藤井浩祐、朝倉文夫、荻原守衛、戸張孤雁、藤井達吉、岡田三郎助、北村西望、小杉未醒(放菴)、香取正彦、武石弘三郎などなど。

しかし、それらより圧倒的に多いのは、名も無き職人さん達の作。かえってそちらの作品群の方が、当時の世相や世の中の需要などを如実に反映しているようにも見えました。

なかなか高価なものですが、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

三十日から三日まで山形へゆき、酒の御馳走になつてきました、蔵王山麓が美しくみえました、 ここではもう冬です、


昭和25年(1950)11月8日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

山形では県総合美術展覧会の批評、講演会を二回行いました。このうち、山形市教育会館で開催された方を、渡辺えりさんの御両親が聴かれたそうです。

テレビ放映情報を2件。

まずは10月に亡くなった美術史家・高階秀爾氏の追悼番組です。

日曜美術館 名画は語る 美術史家・高階秀爾のメッセージ

地上波NHK Eテレ 2024年12月22日(日) 午前9:00〜午前9:45

西洋美術史入門のバイブルとして、半世紀を超えて読み継がれる名著『名画を見る眼』。その著者である美術史家の高階秀爾さんが、今年10月、92歳で亡くなった。日曜美術館では、今年6月、高階さん自身が、著書の世界を語る番組を放送。その番組を中心に、1970年代から、日曜美術館で、さまざまな画家や名画について語った貴重な映像を発掘。美術の楽しみ方から、美術史家の使命まで、高階さんが語ったメッセージを届ける。

【出演】美術史家…高階秀爾,辻惟雄 大原美術館館長…三浦篤 アーティスト…布施琳太郎
【語り】守本奈実

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光太郎がらみの話にはならないような気もしますが、一応ご紹介しておきます。

もう1件、こちらは光太郎に触れられます。初回放映が今年8月27日(火)だった回の再放送、および系列のBSテレ東さんでは初放映です。

開運!なんでも鑑定団 中島健人の秘蔵宝&金色江戸小判全11種

地上波テレビ東京 2024年12月22日(日) 12:54〜14:00
BSテレ東 2024年12月26日(木) 19:54~20:54

■エッ…魯山人!?伝説<美食陶芸家>作に<中島健人>も仰天
■アノ<人気飲料>の超貴重お宝に…ド級鑑定額
■輝く金色秘宝…<江戸小判>全11種一挙鑑定で超絶値■

最強アイドル・中島健人が鑑定団に登場!“親族一同期待している”お宝とは?驚きの鑑定結果に思わず絶叫!?「自慢のお宝で鑑定団に出たい!」毎晩神棚に祈り続けた祖父の願いを叶えるべく、孫娘が立ち上がった!お宝は美食家にして陶芸家の北大路魯山人の焼物。今田、ケンティーも絶句する衝撃の鑑定結果とは…?

【MC】今田耕司、福澤朗、菅井友香   【ゲスト】中島健人
【出張鑑定】第15回 強気のお宝鑑定大会 リポーター 岡田圭右 コメンテーター 北斗晶
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな
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スタジオでの鑑定依頼2件中の一つ、「アノ<人気飲料>の超貴重お宝に…ド級鑑定額」の項で、1920年代、1940年代のコカ・コーラの販売機が出品。
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コカ・コーラといえば光太郎(笑)。(大正元年=1912)、まず雑誌『白樺』に発表され、大正3年(1914)には詩集『道程』に収められた詩「狂者の詩」に「コカコオラ」の語が3回出てきます。これが今のところ、日本の文学作品におけるコカ・コーラ初登場とされています。このあたり、下記をご参照下さい。

「昭和32年 コーラ本格上陸 みんな作って、みんないい」/「「乙女の像」制作 朗読劇で 劇団「エムズ・パーティ」16、17日十和田で上演」。
テレビ放映情報-詩句の読み方。
都内レポートその2 「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」。
岩手日報「風土計」。

そこで、番組内で光太郎に触れて下さいました。
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さらに当時の広告。
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本放送視聴後、国会図書館さんのデジタルデータで調べてみましたところ、こんな広告も。
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シロップを薄めて飲む形もあったようです。

で、依頼品。本国アメリカで使われていたもののようで、番組説明欄の「ド級鑑定額」の後は羊頭狗肉ではありませんでした。やはりコーラ関連、好きな方は好きなんでしょうね。
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ちなみにそちらとは別に、番組冒頭近くでゲストの山崎健人さん。MCの今田耕司さんと誕生日が一緒ということでお二人で盛り上がっていました。
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「ありゃま!」でした。3月13日、光太郎の誕生日でもあります(笑)。吉永小百合さんが一緒だというのは存じていましたが、このお二人もそうだったのか、という感じでした。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】
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昨日おてがみいただき、今日「典型」五冊おうけとりしました、いろいろ御面倒をかけたおかげでともかく出来ましてありがたく存じました、厚く御礼申上げます、お世話になつた社中の諸賢にも小生の謝意をおつたへ下さい、


昭和25年(1950)10月28日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

若い頃からの選詩集的なものを除き、光太郎生涯最後の詩集となった『典型』が上梓されました。

以前にも書きましたが、奥付では刊行日が10月25日。遠く大正3年(1914)に出した第一詩集『道程』も10月25日。偶然なのか、狙ったのか、何とも不明ですが。

雑誌『中央公論』さんの最新号である2025年1月号
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テレビの歴史番組等でもよく尊顔を拝見する東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏による連載「皇室のお宝拝見」で、光太郎の父・光雲作の木彫「矮鶏置物」(明治22年=1889)が取り上げられています。巻頭のグラビアページで作品のカラー写真と解説のさわり、後の方のページで解説の続き。
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主に昭和4年(1929)に刊行された光雲談話筆記『光雲懐古談』を参照されたようで、制作背景等を簡潔にご紹介下さいました。

『光雲懐古談』の当該部分は下記の通り。「青空文庫」さんで公開されています。

鶏の製作を引き受けたはなし 矮鶏のモデルを探したはなし 矮鶏の製作に取り掛かったこと 矮鶏の作が計らず展覧会に出品されたいきさつ 聖上行幸当日のはなし 叡覧後の矮鶏のはなし

作品は宮内庁三の丸尚蔵館さんに収蔵されています。同館、リニューアルオープンして約1年。当方、まだその後足を運んでおりません。以前の手狭だった頃はぶらっと行ってすぐ入れたのですが、再開後は基本的に予約制となり、ネット上でのその予約が以外と面倒くさいシステムです。昨今問題のオーバーツーリズムの回避などのためには致し方ないのかも知れませんが、何だかなぁ、という感じです。もう少し改善してほしいような……。

さて、このブログで紹介すべき事項、意外と溜まっておりまして、光雲がらみということでもう1件。

『日本経済新聞』さんの関連会社・日経アートさんの販売サイトが検索に引っかかりまして、来年の干支・巳にちなむ縁起物です。

銀製品 髙村光雲 吉祥 巳006

彫刻家・髙村光雲原型作の純銀レリーフです。写実に優れ、「野猪」や「老猿」など動物の作品が有名ですが、彫刻家としては仏師から作歴を重ねています。本作は頭に巳(へび)を乗せた姿で表される十二神将の因陀羅(いんだら)をモチーフとしており、精悍な顔つきや逆立つ髪の表現から仏師としての高い技術を感じることができます。

額(軸)寸法:30.0×30.0cm
レリーフ寸:径9.5cm
素材 純銀(レリーフ)・アルミ(額)
価格:165,000円(消費税10%込)
タトウ箱付

これまで気づきませんでしたが、日経アートさんでは昨年(卯年)、今年(辰年)のレリーフも扱われていました。
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制作元は富山県高岡市の竹中銅器さん。高岡と言えば鋳造の街ですね。竹中さんのサイトでも巳年バージョン、直販が為されていました。
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で、やはり以前から、十二支分全てを扱われていたようで、存じませんでした。それぞれ見事ですね。
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来年の巳年バージョン、特に年男・年女の皆さん、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今年は父の十七回忌、智恵子の十三回忌にあたるので十日に此処の昌歓寺といふ大きな寺で法要を営む事にし、昨日寺へ行つてたのんで来ました。


昭和25年(1950)10月1日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎68歳

例年、花巻町中心街の松庵寺さんで行っていた法要、この年に限り、旧太田村の昌歓寺さんで営みました。宗派が違うということでしたが、あまり気にしなかったようです。

平成31年(2019)に起きた大火災からの修復工事が終わり、12月8日(日)に一般公開が再開されたパリ・ノートルダム大聖堂と、大正10年(1921)に留学中の体験をベースに書かれた光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」に関わる件で、2つ。

まずは『産経新聞』さん、12月11日(水)掲載のコラム。

<産経抄>「連帯」もたらす福音となるか、再建かなったノートルダム大聖堂

002高村光太郎といえば、亡き妻をしのぶ純愛の詩集『智恵子抄』が思い浮かぶ。智恵子と出会ったのは明治44(1911)年の暮れだった。光太郎はしかし、その2年前まで滞在していたパリで、ある〝女性〟に心を奪われていた。▼ご執心だったようで、その人のもとへ日参したと打ち明けてもいる。<外套(がいとう)の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、あなたを見上げてゐるのはわたくしです。毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。あの日本人です>と詩の一節にある。▼その女性はいまも、「私たちの貴婦人」の名で人々に愛されている。ノートルダム大聖堂である。光太郎がありせば、思いを寄せた人の悲運と恋敵の多さに色を失ったかもしれない。5年前の火事で尖塔(せんとう)などが焼けた後、悲嘆は世界に広がり1300億円を超す寄付が集まった。▼再建を記念して開かれた先日の式典では、各国首脳やトランプ米次期大統領らが列席した。ポピュリズムの台頭で政治的な窮地に立つフランスのマクロン大統領は、大聖堂を「連帯」の象徴として位置づけようとした節がある。現実はどうだろう。▼光太郎が滞在した頃のパリは、あらゆる人種や思想、芸術文化に寛容な街だった。いまのフランスは移民の増加で社会がひずみ、少数与党の内閣が総辞職するなど政治も混乱する。心のよりどころとされる大聖堂の再建を横目に、人々を分かつ亀裂の修復は簡単ではないようだ。▼大聖堂前の広場には、距離の起点となる道路元標が置かれている。いわばフランスの中心点である。大聖堂は再び、迷走する社会の結び目となるだろうか。今年は、わが国をはじめ世界各地でも政治が揺れた。できれば、再建の福音にあやかりたいものである。

せっかくの復旧が政治的な駆け引きの道具にされることの無いようにしてほしいものですが……。

続いて白水社さんから出ている雑誌『ふらんす』今月号。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、建築史がご専門の三宅理一・東京理科大学客員教授と仏文学者の鹿島茂氏の玉稿、日本科学未来館さんで開催中の「特別展 パリ・ノートルダム大聖堂展 タブレットを手に巡る時空の旅」のレポートが載っています。
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そのうち、鹿島氏の「ノートルダム大聖堂と原始の森」が、「雨にうたるるカテドラル」考察を含みます。氏が注目されたのは、「あの日本人です。」のリフレイン。「日本人」の語がなければパリジャンが書いた詩といっても通る「普遍性」があるとし、「あの日本人です」と繰り返すことで「特殊性」も併せ持つ詩だ、というご指摘。さらに今回焼け落ちた木造部分から「原始の森」へと発想を飛ばし、「森」といえば日本人、的な。

三宅氏の「よみがえるノートルダム大聖堂」も、建築大好き人間としては実に興味深い内容でした。元々がどういう建築だったのか、火災の状況や修復の過程など、わかりやすくまとめられていました。

ところで雑誌『ふらんす』さん。かつては光太郎も寄稿したことのある雑誌で、その意味でも驚きました。失礼ながらまだ健在だったんだ、と。『中央公論』さん、『文藝春秋』さん、『婦人之友』さんなど、そうした例は他にもありますが、それらと異なり、不躾とは存じますがメジャーな雑誌ではありませんので。

光太郎の寄稿は昭和16年(1941)6月の第17巻第6号。「日夏耿之介著 英吉利浪曼象徴詩風を読んで」という短文でした。それに先立つ同12年8月の第13巻第8号広告欄に出たアーサー・シモンズ著、宍戸儀一訳「象徴主義の文学」広告にも光太郎の短評が出ていますが、こちらは寄稿という訳ではない感じです。

で、今月号が第99巻第12号。末永く続いて欲しいものです。末永く、といえば、ノートルダム大聖堂自体も、もちろんです。

【折々のことば・光太郎】

もう山も秋、明月にはひとりで酒をくみ、雉子の飛ぶ羽音をききながら心ゆくまで観月しました、数里に及ぶススキの原はまるで海です、


昭和25年(1950)9月30日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の森、光太郎はパリ郊外のフォンテーヌブローの森になぞらえることもありました。

明日開幕です。

コレクション展III いのちを彫る 時を刻む 呉美の彫刻コレクション

期 日 : 2024年12月14日(土)~2025年2月11日(火・祝)
会 場 : 呉市立美術館 広島県呉市幸町入船山公園内
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 火曜日 12月29日(日)~2025年1月3日(金)
料 金 : 一般 300円、高校生 180円、中学生・小学生 120円

日本では古来より仏像などを中心に立体作品が制作されてきました。西洋の制度や文化が流入した明治以降、美術教育にも外来の手法が取り入れられ、そのなかで「彫刻」という概念も誕生します。特にロダンの生命感溢れる人体表現は多くの日本人芸術家や文人たちを魅了し、高村光太郎ら「白樺」の面々を中心に明治から大正期の日本で積極的に紹介され、日本近代彫刻の形成に多大な影響を与えました。また日本の木彫の技術も、西洋の彫刻術を研究したうえで伝統を深化させた木彫家たちによって継承されてきました。戦後は使用される素材や圭太も多様となり、こんにちでは彫刻作品は美術館に限らず街の至るところに点在して、私たちの目を楽しませてくれます。

本展では当館の収蔵作品より近現代の彫刻作品約50点を紹介します。ロダンやブールデルの彫刻を熱心に学んだ高村光太郎、佐藤忠良、舟越保武らをはじめ、平櫛田中の木彫作品、堀内正和や清水九兵衛らによる抽象表現、そして上田直次や水船六洲といった呉ゆかりの彫刻家の作品を通じて、彫刻の多様な表現をお楽しみください。
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関連行事

 鋳造体験ワークショップ「低融点合金を使ってペーパーウェイトを作ろう」
  日 時:2025年2月9日(日) 13:00~15:00
  会 場:地下講座室
  定 員:10名(小学生以上、小学生は要保護者同伴)
  参加費:1,000円(含入館料)
  申 込:12月4日(水)~1月31日(金)に電話もしくはweb専用フォームから

 館長講座 「近代彫刻と現代彫刻について」
  日 時:2025年1月19日(日)、1月26日(日)
  時 間:13:30~15:00
  講 師:横山勝彦館長
  定 員:30名(予約不要・先着順)

 学芸員によるギャラリートーク
  日 時:12月14日(土)、1月11日(土)、2月8日(土)  11:00~(約30分)


同館、近現代の彫刻作品の収集・展示に力を入れられていて、そのコレクション展です。総数約50点を出すというので、かなり見応えがありそうです。

フライヤー表面、メインで光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)。ありがたし。他にも光太郎作品は「裸婦坐像」(大正6年=1917)が収蔵されており、出展があるかもしれませんが、出品目録がネット上に出ていません。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

岩手人には素質がある。必ずいまに続々いい画家や彫刻家が出ると確信してゐる。のぼせないでしっかりやることだ。

昭和25年(1950)9月30日 金野照夫宛書簡より 光太郎68歳

金野はこの時岩手県立美術工芸学校在学中。おそらく新制作派展入賞の知らせに対する祝辞的な書簡と思われます。

戦争協力への悔悟から、自らに対する罰として花巻郊外旧太田村に隠棲し、彫刻の実作からは離れていた光太郎ですが、岩手の若い芸術家たちへの期待は大きいものがありました。

一昨日届きまして、半分ほど読んだところです。

ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く

発行日 : 2024年12月10日
著 者 : 辻田真佐憲
版 元 : 中央公論新社
定 価 : 2,400円+税

何がわれわれを煽情するのか? 北海道から沖縄までの日本各地、さらにアメリカ、インド、ドイツ、フィリピンなど各国に足を運び、徹底取材。歴史や文化が武器となり、記念碑や博物館が戦場となる――SNS時代の「新しい愛国」の正体に気鋭が迫る!
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目次
はじめに
【第一部】個人崇拝の最前線 偉大さを演出する
 第一章 トランプの本拠地に潜入する 米国/トランプタワー
 第二章 親日台湾の新たな「聖地」 台湾/紅毛港保安堂、桃園神社
 第三章 安倍晋三は神となった 長野県/安倍神像神社
 第四章 世界一の巨像を求めて インド/統一の像
 第五章 忘れられた連合艦隊司令長官 佐賀県/陶山神社、奥村五百子女史像
 第六章 「大逆」の汚名は消えない 山口県/向山文庫、伊藤公記念公園
【第二部】「われわれ」の系譜学 祖国を再発見する
 第七章 わが故郷の靖国神社 大阪府/伴林氏神社、教育塔
 第八章 消費される軍神たち 長崎県/橘神社、大分県/広瀬神社
 第九章 自衛隊資料館の苦悩 福岡県/久留米駐屯地広報資料館、山川招魂社
 第十章 「日の丸校長」の神武天皇像 高知県/旧繁藤小学校、横山隆一記念まんが館
 第十一章 旧皇居に泊まりに行く 奈良県/HOTEL賀名生旧皇居、吉水神社
 第十二章 「ナチス聖杯城」の真実 ドイツ/ヴェーヴェルスブルク城、ヘルマン記念碑
 第十三章 感動を呼び起こす星条旗 米国/マクヘンリー砦、星条旗の家
【第三部】燃え上がる国境地帯 敵を名指しする
 第十四章 祖国は敵を求めた ドイツ/ニーダーヴァルト記念碑
 第十五章 「保守の島」の運転手たち 沖縄県/尖閣神社、戦争マラリア慰霊碑
 第十六章 観光資源としての北方領土 北海道/根室市役所、納沙布岬
 第十七章 「歴史戦」の最前線へ 東京都/産業遺産情報センター、長崎県/軍艦島
 第十八章 差別的煽情の果てに 京都府/靖国寺、ウトロ平和記念館
 第十九章 竹島より熱心な「島内紛争」 島根県/隠岐諸島
 第二十章 エンタメ化する国境 インド/アタリ・ワガ国境、中国/丹東
【第四部】記念碑という戦場 永遠を希求する
 第二十一章 もうひとつの「八紘一宇の塔」 兵庫県/みどりの塔
 第二十二章 東の靖国、西の護国塔 静岡県/可睡齋
 第二十三章 よみがえった「一億の号泣」碑
 岩手県/鳥谷崎神社、福島県、高村智恵子記念館
 第二十四章 隠された郷土の偉人たち 秋田県/秋田県民歌碑、佐藤信淵顕彰碑
 第二十五章 コンクリートの軍人群像 愛知県/中之院、熊野宮新雅王御塋墓
 第二十六章 ムッソリーニの生家を訪ねて イタリア/プレダッピオ
 第二十七章 記念碑は呼吸している ベトナム/マケイン撃墜記念碑、大飢饉追悼碑
 第二十八章 けっして忘れたわけではない 
フィリピン/メモラーレ・マニラ1945、バンバン第二次大戦博物館
【第五部】熱狂と利害の狭間 自発的に国を愛する
 第二十九章 戦時下の温泉報国をたどる 
和歌山県/湯の峰温泉、奈良県/湯泉地温泉、入之波温泉
 第三十章  発泡スチロール製の神武天皇像 岡山県/高島行宮遺阯碑、神武天皇像
 第三十一章 軍隊を求める地方の声 新潟県/白壁兵舎広報史料館、高田駐屯地郷土記念館
 第三十二章 コスプレ乃木大将の軍事博物館 栃木県/戦争博物館、大丸温泉旅館
 第三十三章 「救国おかきや」の本物志向 兵庫県/皇三重塔、中嶋神社
 第三十四章 右翼民族派を駆り立てる歌 岐阜県/「青年日本の歌」史料館
 第三十五章 郷土史家と「萌えミリ」の威力 
熊本県/高木惣吉記念館、軽巡洋艦球磨記念館
総論
あとがき
地図
参考文献 

日本全国、そして海外のいわば「キナ臭い」場所を訪れてのレポートです。目次を見れば自ずと著者の辻田氏のスタンスは見えてくるでしょう。

さらに「まえがき」から。

 愛国的な物語や神話のたぐいは「つくられた伝統」だと批判され、ファクトにもとづかない俗説としてすぐに切って捨てられやすい。だが、歴史や社会はしばしばその俗説とされるものに動かされてきた。
 たとえば、神武天皇が唱えたとされる八紘一宇(はっこういちう)という理念は、歴史の専門家からは取るに足りないものと笑われるのかもしれない。だが、この理念ほど日本社会に影響を与えたものも少ないのであって、それにくらべれば最新の学説なるもののほうがかえって蜉蝣(かげろう)の命に過ぎない。
 そのため本書では、国威発揚にまつわるものごとを頭ごなしに否定しない。ただし、それを手放しで礼讃することもしない。言い換えれば、「二流」「三流」と見下される史跡にも真剣に向き合い、それを軽視することなく、と同時にそれに飲み込まれることなく、内部に取り込んでいく。こうした取り組みこそが、戦後八〇年と昭和一〇〇年の節目を迎えようとする今日、きわめて重要だと考えるからである。


また、ある章の末尾には、

 わたしはかつて『「戦前」の正体』という本のなかで、戦前の日本を六五点と評価したことがある。過去を採点するなどという傲慢な行為をあえてしたのは、ここで述べたような戦前と戦後の適切な接続を試みたかったからにほかならない。
 戦前の評価となると、ひとつの過ちも認めず一〇〇点満点をつけて恥じない右派と、完全に暗黒時代だと断じて〇点をつけて憚らない左派にわかれやすい。だが、欧米列強の侵略に対抗して、あの短期間で近代国家を築き上げた功績をまったく否定することはできない。かといって、その過程で問題行為がまったくなかったというのも無理があろう。そこで、反省すべきは反省し、継承すべきは継承するという是々非々の立場を取るべきということで、六五点という数字をつけたのである。

とあります。辻田氏のバランス感覚がよく表されています。六十五点には異論もありましょうが。

さて、われらが光太郎。「第二十三章 よみがえった「一億の号泣」碑」で、花巻市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社さんにある「一億の号泣」詩碑がメインで扱われています。「一億の号泣」は鳥谷崎神社で終戦の玉音放送を聴いた体験を描いた詩です。

この章、昨年発行された『文學界』2023年11月号に掲載の連載「煽情の考古学」の第二十二回「花巻に高村光太郎の戦争詩碑を訪ねる」に加筆したものでした。本書全体としては「煽情の考古学」プラス他誌に載った玉稿も取り入れられています。

目次にはありませんが、花巻郊外旧太田村の高村山荘(光太郎が七年間過ごした山小屋)、隣接する高村光太郎記念館さんもレポートされています。

そして、福島二本松の智恵子生家/智恵子記念館さん。直接的には戦争に関わる展示はありませんが、智恵子が遺した紙絵の中に、光太郎の父・光雲が原型を手がけた皇居前広場の楠木正成像をモチーフとした作品があり、「まるでその後の光太郎の歩む道を暗示しているかのようだった」。
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なるほど。

その光雲については、一つ前の章「第二十二章 東の靖国、西の護国塔 静岡県/可睡齋」で触れられています。日清戦争がらみで建てられた「活人剣の碑」についてです。

同碑に関してはこちら。
 光雲関連報道。
 光雲関連追補。
 「<活人剣の碑>来月完成 李鴻章と軍医、交友の証し 袋井」。
 活人剣の碑 紙芝居に 地元有志ら、小中学校へ贈呈 袋井 /静岡
 静岡袋井「YUKIKO展(可睡齋の「活人剣物語」と地域の昔話他)」。

それにしても、目次の通り北は北海道から南は沖縄まで、さらに海外と、こんなにたくさん廻ったのかと、脱帽です。まさに労作。それから、ルポに登場する人々。箱物であればその館長さんやらキュレーターさんやら、神社であれば宮司さん、タクシー運転手の方(地元民代表的な)等々。ほんとに世の中にはいろんな人がいるもんだと時に呆(あき)れたりもしました。

ところで今日は太平洋戦争開戦の日。辻田氏曰くの戦前と戦後の連続性、非連続性といった点、まだまだ検証が必要な事柄だと思いますし、今後もそれが変容していくまさにリアルな流れの中に我々が置かれているわけで、他人事ではありませんね。

というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

抽象美もさる事ながら、人間の具象に対する慾求本能は時代の如何に拘らず強大なものと存ぜられます、


昭和25年(1950)9月2日 西出大三宛書簡より 光太郎68歳

あくまで具象彫刻にこだわった光太郎ならではの言です。

だからといって、『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』でいくつも取り上げられている銅像など全てがいいものとは思えませんが。

明日、明後日と2日間限りの展示です。

カナビフォトフェス

期 日 : 2024年12月7日(土)・12月8日(日)
会 場 : 金沢美術工芸大学4号館アートコモンズA 石川県金沢市小立野2-40-1
時 間 : 12/7 10:00~17:00 12/8 10:00~14:00
料 金 : 無料

金沢でなかなか実機を触る機会が無い、というお悩みをここで解決しようと、各企業様のご協力を得て開催する撮影機材展示会です。カメラはもちろん、照明や周辺機器も取り揃え、プロのテクニックや著作権を学ぶ講座も同時開催します。
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光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった豊周(会場の金沢美術工芸大学さん名誉教授)の令孫にして写真家の髙村達氏が、「髙村光雲、高村光太郎、彫刻の写真をフレスコジクレーA0にプリント作品も展示致します」とのことです。

「ジクレー」はファイン紙、A0は紙の大きさの規格で841mm×1189mm。一般的なA4サイズの実に16枚分ですね。
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同様のパネルは東京藝術大学大学美術館さんでの「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」、そして光太郎実家にして現在も達氏がお住まいの旧本郷区駒込林町155番地に隣接する旧安田楠雄邸庭園さんにおける「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」などでも展示されました。小さい画像ではわかりにくい細部まで確認できるのは素晴らしいと思いました。

また、達氏、8日にはセミナー講師も務められるとのこと。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

琅玕洞の広告を発見されたやうですが、この高村道利といふのは小生の次の弟で、例のドイツへ行つた言語学研究をしてゐた死んだ弟です。この弟の生活保障といふことも琅玕洞経営の半分の動機だつたのです。


昭和25年(1950)8月30日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

「琅玕洞(ろうかんどう)」は、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた日本初といわれる本格的な画廊。「広告」は当時の雑誌『方寸』などに載りました。
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道利は光太郎の3歳下。東京外国語学校を卒業後、当時の徴兵制の関係もあり、おそらく1年志願兵で横須賀の要塞砲兵第二聯隊に入り、除隊後、琅玕洞の名目上の店主となりました。ただしあまり熱心に仕事はしませんでした。それもあって琅玕洞は1年でつぶれます。その後道利は、子供の頃から艦艇オタクでしたし、横須賀での軍隊生活が面白かったのでしょうか、職業軍人になることを考えましたが、父・光雲に反対されます。さらにドイツ語の個人教授をしていた近所に住む歌手・関鑑子と結婚したいと申し出ますが、これも光雲が却下。すると、半ば自暴自棄となり、ふいっと渡欧してしまいました。しばらくは手紙が届いていたそうですが、やがて音信不通に。

長男光太郎が家督相続を放棄、次男道利は行方不明、そこで三男豊周が髙村家を嗣ぎました。髙村家は戸籍上は「高村」ですが、慣習として「髙」の字を使い、しかし光太郎は「俺は分家だから」と、戸籍通りに「高」の字を使い続けました。

道利は、光雲没後の昭和10年(1935)になって、フランスの日本大使館から、慈善病院のようなところに入院しているが、日本に送還するので引き取って欲しい、と髙村家に連絡があり、光太郎が神戸まで迎えに行ったそうです。帰国後は実家に住み、豊周から頼まれた翻訳などをしていたのですが、昭和20年(1945)、自宅敷地内に作った防空壕に誤って転落、それが元で亡くなりました。

さて、当会の祖・心平。この頃、中央公論社版『高村光太郎選集』全六巻の編集を始めたようで、その中で明治期の琅玕洞広告を目にしたようです。ことによると『選集』編集に際して元埼玉県東松山市教育長・田口弘氏が心平に貸した光太郎関連スクラップに入っていたのかも知れません。

過日、光太郎の父・光雲作の木彫が出ている栃木の那須野が原博物館さんの「開館20周年記念特別展 松方正義と那須野が原」をご紹介しましたが、同様に光雲の木彫が出ている企画展示がもう1件開催中でした。

東北大学総合知デジタルアーカイブ公開記念展示「チベット仏教の精華」

期 日 : 2024年11月18日(月)~12月13日(金)
会 場 : 東北大学附属図書館 宮城県仙台市青葉区川内27-1
時 間 : 10:00~16:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

東北大学では、附属図書館所蔵の貴重資料であるデルゲ版チベット大蔵経のデジタル画像化事業を継続して行なっております。今回は本学デジタルアーカイブToUDAの公開を記念し、このチベット大蔵経に加え、文学研究科所蔵の河口慧海がチベットから日本に持ち帰った仏教美術や工芸品などの名品を紹介する展覧会を開催いたします。
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公式サイトにそうした記述や出品目録がありませんで気がつきませんでしたが、X(旧ツイッター)の東北大学総合学術博物館さんの投稿で、光雲木彫が出ていることをつかみました。
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画像を拡大させていただきます。
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僧侶にしてチベット仏教学者だった河口慧海旧蔵、というか光雲に依頼して作ってもらった釈迦如来座像(大正11年=1922)。

慧海は、光雲・光太郎父子の住まいがあった本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)に近い本郷弥生町や根津などで暮らしていた時期があり、光雲は慧海の求めで仏像を複数彫り、光太郎は戦時中に慧海の坐像制作にかかりました。ただし光太郎作の坐像は完成したのかしなかったのか、いずれにしても戦災で焼失したと考えられています。

その慧海旧蔵の光雲作品、散逸してしまった感じなのでしょうか、あちこちで異なるものが収蔵/展示されています。

 京都/堺・新着情報(その2)。
 河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」。
 仙台市博物館 特集展示「福島美術館の優品」。
 都内レポート その3 東京国立博物館「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」。

今回展示されているものは、東北大学総合学術博物館さんで収蔵しているものだそうです。

他にも慧海がチベットから持ち帰った品々なども展示されていますし、さらにもう一人、慧海と同じくチベットに足を運んだ多田等観がらみの展示も為されている由。等観は戦後、光太郎が隠棲していた花巻郊外旧太田村の隣村・旧湯口村の円万寺観音堂で堂守を務めていた時期があり、光太郎の知遇を得てお互いに行き来していました。

khb東日本放送さんのローカルニュース。

チベット仏教の経典や美術品を紹介する展示会 東北大学附属図書館

チベット仏教の経典や美術品を紹介する展示会が、東北大学附属図書館で開催されています。
チベット仏教は、インド仏教の教えを直接受け継いでいます。
展示されているのは、その教えを求め約120年前にチベットに入国した河口慧海が持ち帰った資料など37点です。
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約300年前に刷られたデルゲ版チベット大蔵経は、日本人で最初に正式なチベット仏教僧となった多田等観がダライ・ラマ13世から贈られました。
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東北大学文学研究科杉本欣久教授「資料、お経を持って帰るのは多大な熱意があったはずです。是非ご覧いただきながら感じ取っていただければ」
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展示会は12月13日まで、仙台市青葉区の東北大学附属図書館で開催されています。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変な御苦労であつたことと身につまされて思ひます、しかしこれで「草の葉」も日本に初めて正しく伝へられるわけで貴下に対する感謝の念は絶大です。

昭和25年(1950)8月28日 長沼重隆宛書簡より 光太郎68歳

長沼は英文学者。アメリカのウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』翻訳を上下二巻で刊行しました。

ホイットマンの訳にはかつて光太郎も取り組み、大正10年(1921)には『自選日記』訳を刊行するなど、ホイットマンのファンでした。

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