カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

テレビ番組の放映情報を2件。

まずは光太郎の父・光雲が主任となって、東京美術学校総出で作られた上野の西郷隆盛像がらみ。

ワルイコあつまれ(113)

地上波NHK総合 2025年1月21日(火) 23:00〜23:30

▽「慎吾ママの部屋」西郷隆盛(塚地)が登場。明治維新や日本の近代化に貢献したカリスマ・西郷が「やっちまった」エピソードの数々を披露。あの銅像の真実も明らかに。
▽「カレーなる賭け」大好物の“米”への愛が強すぎて、みずから地元の農家に弟子入りしたという小学6年生が登場。自身で育てた白米を持参しての挑戦に、ディーラー吾郎(稲垣)は絶妙のかけひきで対峙するが、その結果は…!
▽「株式会社ジンタイ」胆のう君(草彅)がなぜか苦手にしている舌主任の話題に。「口がうまくて調子がいいイメージ」と持論を語るが、脾ぞう君(稲垣)が別の一面を語りはじめると…?

【出演】稲垣吾郎,草彅剛,香取慎吾,塚地武雅,【声】平野正人,【語り】是永千恵
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西郷像に関しては、軽く触れられる程度だと思われますが。それにしても、塚地武雅さん、伝え聞く西郷の風貌に似ているといえば似ているかも知れませんね(笑)。

もう1件。光太郎智恵子に触れられるかどうか……。

秘湯ロマン

地上波テレビ朝日 1月18日(土)  03:00〜03:30 

日本全国の秘湯と呼ばれる温泉の魅力を紹介します。今回の秘湯は栃木県、塩原温泉郷「柏屋旅館」、「静観荘 古山」、「やまなみ荘」、那須湯本温泉「雲海閣」。

出演者 【旅人】佐藤あかり 【ナレーション】丸山未沙希
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塩原温泉郷の柏屋旅館さん。心の病が昂進した智恵子をなんとかしようと、昭和8年(1933)に一ヶ月ほど東北から北関東の温泉巡りをした際、最後に光太郎智恵子が逗留した宿です。

同じ番組で令和2年(2020)にも柏屋さんが取り上げられ、その際には光太郎智恵子にも触れて下さいました。今回も期待したいところです。
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柏屋さん、意外とその点を売りになさっているようで、ちょくちょく各種メディアにその件が。

テレビ番組ですと、令和3年(2021)、当方も制作に協力させていただいた日テレさんの5分間番組「心に刻む風景」でも「最後の旅 泣きやまぬ童女(どうじょ)のやうに慟哭(どうこく)する」というサブタイトルで取り上げられました。
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近年の書籍では令和元年(2019)、『“裸”になって本音を見せた 文豪が泊まった温泉宿50』
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週刊朝日』さん連載の単行本化でした。

さて、「ワルイコあつまれ」「秘湯ロマン」、それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」については御返事が少々厄介です。もともと澤田さんが発行してゐたもので、言はば澤田さんによつて地上にひろめられたやうなものですから、白玉書房は一時刊行したものの、龍星閣く復起したとすれば、龍星閣に返して上げたら如何ですか。さうすればおだやかだと思いますが如何でせう。
昭和26年(1951)4月24日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎69歳

詩集『智恵子抄』は、澤田伊四郎の龍星閣から昭和16年(1941)に初版が刊行されました。その後、太平洋戦争の激化に伴い、龍星閣は一時休業。戦後になって鎌田の白玉書房から復刊されました。その際、光太郎は鎌田から、龍星閣に版権をゆずられたという説明を受けていたようですが、どうもそのあたりの真相が闇の中なのですが、澤田としてはゆずった覚えはない、龍星閣を再興するので版権を返して欲しい、という申し出があったようです。

結局、白玉書房版は絶版となり、龍星閣から戦後版が刊行されることとなります。赤い布表紙の有名な版です。

若干先の話ですが(このところネタ不足なもので(笑))、青森県からイベント情報です。

十和田湖冬物語2025 冬、十和田湖びより

期 日 : 2025年1月31日(金)~2月24日(月・振休)
会 場 : 十和田湖畔休屋 多目的広場 青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
休 業 : 火曜・水曜 

八甲田山の麓、標高約400メートルに位置する十和田湖は平安の頃から信仰の対象として、脈々とその歴史を紡ぎながら観光地としてもたくさんの人々に親しまれるようになりました。その神秘的な情景は、訪れた人を感動へと導いてくれます。

深い深い雪に包まれる冬も同様。峠を越える、容易い道ではないからこそたどり着いた先の感動もひとしおです。

真っ白な衣を纏った十和田湖を舞台に冬を思い切り楽しんでもらおうと開催してきた十和田湖冬物語は今年で27回目を迎えます。

「冬、十和田湖びより」

皆さまと一緒に、そんな思いを共有するためさまざまなコンテンツを用意して会場でお待ちしております。冬の十和田湖で会いましょう!
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FIREWORKS -冬花火-
 真冬の澄み切った夜空を彩る冬花火。音楽との競演もお見逃しなく! 全日20:00〜
 メッセージ花火受付中! 大切なあの人へ。感謝の気持ちを花火に込めてみませんか?
 8800円/発〜
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FOOD MARKET-雪灯り横丁-
 ローカルの食材を使った美味しいグルメを楽しもう!
 平日16:00〜20:30 休日11:00〜21:00
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TRADITIONAL ARTS-冬の国境まつり-
 北東北の祭りや、地元有志によるパフォーマンスは必見! 週末限定!
  青森 ねぶた囃子「ラッセラー♪」みんなで歌おう! 踊ろう!
  ・2月8日(土)16:00〜、19:00〜 ・2月9日(日)16:00〜
  秋田 なまはげ太鼓 なまはげの太鼓パフォーマンスは圧巻!
  ・2月15日(土)16:00〜、19:00〜 ・2月16日(日)16:00〜
  岩手 花巻鹿踊り 平安と悪霊退散を願って、高く舞い上がる鹿たち!
  ・2月23日(日)16:00〜、19:00〜 ・2月24日(月・振休)16:00〜
  協力:新渡戸友好都市交流委員会
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SNOW PARK-雪遊び-
 会場には大きな雪の滑り台が誕生! あなたは何して遊ぶ?
 平日16:00〜19:30 休日11:00〜19:30
 ・すべり台(そり、チューブ) ・バナナボート
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昨年から、永らく行われてきた湖畔休屋地区での屋台村を中心としたスタイルで復活しました。そのスタイルだった時代に2度、イルミネーション系のイベントとなっていた時期に1度お邪魔しましたが、とにかく寒い!(笑)。その寒さを逆手にとって楽しんでしまおうというイベントです。

問い合わせたところ、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されるとのこと。辿りつくまでがなかなか大変ですが、実に幻想的です。画像は過去のものです。
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手前の雪灯籠にあかりが灯されます。

予約が必要なようですが、JRさんのバス「おいらせ号」が八戸駅から、十和田観光電鉄さんのバスが十和田市中心街から出ます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】002

「天上の炎」の小生の印税は五分でいいです。この本は余り売れないでせう。今日ヹルハアランを読む人は少いでせうから。


昭和26年(1951)4月24日 鎌田敬止宛書簡より
 光太郎69歳

『天上の炎』は、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの詩集。光太郎訳で大正14年(1925)にハードカバーが刊行されましたが、鎌田の白玉書房からペーパーバックで復刊されました。

今日ヹルハアランを読む人は少いでせう」の言葉通り、さらにましてや現代では忘れられかけた詩人となった感があります。

昨日は、今年初めての上京でした。

まずは初詣を兼ねて、足立区の西新井大師五智山遍照院總持寺さんへ。押すな押すなというほどではありませんでしたが、善男善女(当方を除く)でかなりの人出でした。
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まずは当然ですが本堂に参拝。
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大枚5円(笑)を賽銭箱に投入、合掌し、今年一年、平穏無事でありますように、的な祈願を。

なぜわざわざ足立区に、というと、本堂から見えるこちらの三匝堂(さんそうどう)拝見が主目的です。
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このところ、光太郎の父・光雲や、その師・東雲の彫刻を各地で拝見しておりまして、その流れです。こちらにも光雲によるとされる木彫の扁額が掲げられているという情報を以前から得ており、いい機会だと思って参上しました。
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一見、三重の塔のようにも見えますが、三層の楼閣で、いわゆる「栄螺(さざえ)堂」の一種です。天保5年(1834)に建てられ、明治17年(1884)に改修。光太郎が生まれた翌年ですね。

階段は外部にしつらえてあります。元は堂内にも階段があったそうですが、改修の際に取り払われたとのこと。
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栄螺堂でも、有名な会津飯盛山のそれは二重螺旋階段になっていますが、あれはかえって特殊なものです。

内部は拝観出来ません。しかし、当方が見たかったのは軒下に掲げられた扁額。
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中央に刻まれた数字の「3」のような文字は梵字ですね。

そして周囲を取り囲む龍。
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足立区さんのサイトによれば、これが光雲の手によるものだと伝わっている、とのこと。伝わっている、ということは確定ではないのでしょうが、この精緻な彫りは確かに光雲を彷彿とさせられます。ただ、明治17年(1884)の改修の際のものであるとすれば、光雲は独立はしていたものの、まだ一流の職人と認められていなかった時期ですので、疑義が生じます。光雲が斯界でブイブイ言わせるようになるのは、明治20年(1887)に皇居の造営に関わり、さらに同22年(1889)に東京美術学校に奉職してから。しかし、いきなり皇居の内部装飾に抜擢されたとも考えにくく、西新井大師さんのこうした仕事などでその技倆を認められたからなのかな、とも考えられます。

参拝後、世田谷の下北沢へ。当方、公共交通機関で上京する際には東京駅に降り立つのがほとんどで、東京駅を起点に考えると西新井と下北沢では真逆ですが、西新井に近い北千住から小田急線直通の地下鉄千代田線に乗れば意外と便はよく、そうしました。

目指すは本多劇場さん。お世話になっている渡辺えりさんの古稀記念公演が行われています。
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本多劇場さんは、令和元年(2019)にやはり渡辺さん作の「私の恋人」を拝見に伺って以来でした。

今回の古稀公演は「鯨よ!私の手に乗れ」と「りぼん」の2本立て。
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昨日は「鯨……」でした。「りぼん」の方で、光太郎詩「道程」に触れる箇所があるというお話でしたが、招待枠で「りぼん」を観に行ける日がなく、「鯨……」を拝見。「鯨……」でも光太郎に触れる部分があるかなと思っていたのですが、残念ながらそれはありませんでした。

「鯨……」は、昨秋亡くなったお母さまの介護体験等も反映されながら、笑いあり涙あり、なかなかに壮大な物語でした。えりさんは古稀ですが、共演されていた木野花さんは喜寿というのには驚きましたし、共演と言えば、黒島結菜さんは小顔だな、とつくづく思いました(えりさんが顔が大きいとは言いませんが(笑))。ベテランの三田和代さん、広岡由里子さん、宇梶剛士さん、ラサール石井さんらの芸達者ぶり、若い役者さんたちも、劇中で楽器の生演奏やらダンスやらで芝居を盛り上げています。

下記は公式パンフ中の「りぼん」の部分から。
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「道程」がプロパガンダに利用された一面、確かにあるでしょう。詩集『道程』の初版は大正3年(1914)ですが、日中戦争中の昭和15年(1940)には山雅房から「改訂版」が出、同17年(1942)にはそれを対象に光太郎が第一回帝国芸術院賞を受賞しています。「改訂版」は豪華本的な「150部限定版」、普通の装丁の「書店版」、そして簡易な造本の「普及版」の三種が発行され、「普及版」は昭和18年(1943)の9刷まで確認出来ています。
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左から「150部限定版」、「書店版」、「普及版」です。

ちなみに当方手持ちの「普及版」はサイン入りです。
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小池吉昌はマイナーな詩人でした。

プロパガンダ、というと、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」もそういう使われ方をしました。本当に不幸な時代だったと言わざるを得ませんね。

ところで光太郎、「道程」が戦意高揚に使われることに違和感を感じる部分もあったようで、大戦末期の昭和20年(1945)になって、さらに青磁社から『道程再訂版』を出しました。こちらは戦時に関する詩を全く含まず、生涯の詩作から作品を選び、改訂を加えています。消極的な抵抗のようにも思えます。

その年4月10日、下町方面の空襲がひどいと言うことで、えりさんのお父さま・渡辺正治氏が勤務していた中島飛行機(現・スバル)の武蔵野工場から自転車で本郷区駒込林町に光太郎の安否を確認に来ました。その際に「わざわざありがとう」と、光太郎が正治氏に贈ったのがこの「再訂版」です。しかし、3日後の空襲で光太郎アトリエ兼住居は灰燼に帰してしまいます。
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えりさん、そういう部分でも「道程」への思い入れがあるのでしょう。

古稀記念公演、夜の部はまだ空席があるようです。それから西新井大師さん。それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小屋に手入をはじめる事になり、ごたごたとしてゐます、

昭和26年(1951)4月15日 出雲正明宛書簡より 光太郎69歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に、増築工事が始まりました。明確な印税制を採らなかった『智恵子抄』版元の龍星閣の肝煎りです。

一昨日は千葉市に行っておりました。目的地は中央区亥鼻の千葉大学医学部さん。
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こちらに昨秋、光太郎の父・光雲が手がけた同大医学部前身の県立千葉医学校の校長などを務めた長尾精一の銅像が再建され、それを拝見に伺いました。

入口に面した通りからも望見出来る位置にあり、すぐにわかりました。台座はずっと残っていたそうですが、このあたり、以前は何度か通ったことがあっても台座があったことにはまったく気づきませんでしたが。
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説明板にあるように、戦時中の金属供出でいったんは失われたものの光雲原型の塑像(石膏?)が残っていたということで、それを使って復活。

台座は明治44年(1911)のものですが、おそらく金属供出で像が一度失われた後、原型が残っていたことも分かっていなかった時期に、元の像を偲ぶよすがとしてレリーフが新たに作られて嵌め込まれたようです。
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側面には「昭和卅二年十一月」と書かれた石のプレートも嵌め込まれていましたので、おそらくその時でしょう。

同じような例として、光太郎が原型を作った青沼彦治像があります。こちらは大正14年(1925)に宮城県荒尾村(現・大崎市)設置、昭和19年(1944)に金属供出、昭和41年(1966)に新たにレリーフが嵌め込まれました。
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申し訳ありませんが、長尾像にしても青沼像にしても、後からのレリーフはどうしても見劣りがしてしまいますね。

青沼像は現在も台座と後からのレリーフのみ。その点、原型から復刻された長尾像は幸運な例です。光雲原型のものとしては、四国の広瀬宰平像もそうした例ですし、谷中霊園の小川源兵衛像もそうかもしれません。

光太郎原型で、金属供出に遭った像は三体。青沼像、岐阜の浅見与一右衛門像、そして千葉県松戸市の千葉大園芸学部さんにある赤星朝暉像。これらは原型も残って居らず、青沼像は上記の通りですし、浅見像と赤星像は別の作者による像で再建されました。赤星像に関しては、関係者が光太郎に「原型が残っていないなら供出はしない」と言ったところ、光太郎が「原型は私が保管している」というわけで供出。ところがその原型は昭和20年(1945)の空襲で、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居もろとも灰燼に帰してしまったという経緯が伝わっています。

まったく戦争というものは、人々の命のみならず、こうした文化的遺産をも破壊し尽くす蛮行・愚行と言わざるを得ませんね。

さて、再建された長尾像、千葉市方面にご用の際はぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

山も雪が大分とけて早春の気が立ちこめてきましたので神経痛の方も幾分よくなりかけました。慢性になるといけないので、やはり注射で一度よく治してしまはうと思つてゐます。不日東京の友人がテブロンと注射器一式を持参の予定です。この部落には医者も保健婦さんも居ません。


昭和26年(1951)3月31日 野末亀治宛書簡より 光太郎69歳

「テブロン」は自律神経遮断剤。宿痾の結核性肋間神経痛の鎮痛効果を狙ってのことでしょう。光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村山口地区、村の中心部まで行けば医院はあったのかもしれませんが、山口地区には現在も医院も診療所もありません。

一昨日、光太郎の父・光雲がらみをご紹介しましたので、今日はさらにその師・髙村東雲関連です。

やはり年またぎ案件なのですが、昨年12月10日、千葉県野田市に行って参りました。目的地は琴平神社さん。こちらの本殿の胴羽目彫刻が、東雲の手になるものだという情報を得まして、拝見に伺った次第です。

場所は野田を代表する企業・キッコーマンさんの中央研究所の敷地内。
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通常はこのゲートが閉ざされていて、入れません。毎月10日のみ参拝出来るということで、実はそれを知らずに昨夏にも一度行ったのですが、その日は10日ではありませんでしたので、空しく帰って参りました。そこでリベンジ、というわけです。

ちなみにこの周辺、戦時中の空襲の被害はなかったようで、古い建築が点在しています。
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さて、琴平神社さん。
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こぢんまりとした境内ですが、杜は意外と鬱蒼としています。12月も中旬になろうかというのにまだ紅葉が見事でした。
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めざす本殿。明治5年(1872)に建てられたそうです。
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拝礼後、周りをぐるりと反時計回りに一周し、彫刻をつぶさに拝見。
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恐ろしいほどに緻密です。
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雲などは様式化された感じですが、葉の表現などは、初期のロダンが装飾彫刻の職人だった時代に師匠から叩き込まれた、葉の先端を手前に持ってきて奥行きや立体感を醸し出す技法に通じるような気がします。
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鳥にしてもかなり写実性を意識しているようにも見うけられました。こういう点が弟子の光雲にも受け継がれていったのかな、などとも。

ただ、場所によって微妙に異なるタッチもあるように感じ、もしかすると工房作で、光雲を含む弟子達の手も入っているのかな、などとも思いました。あまり大きな建物ではありませんが、何せぐるりと一周でかなりの点数になりますし、光雲が師の元を離れ、独立したのは明治8年(1875)のことでしたし。

本殿の前に佇む額堂。
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中に入って仰天しました。こんな額があったので。
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この面については全く存じませんでした。左の方は烏天狗。本殿の唐破風下、兎の毛通し(うのけどおし)の部分にも天狗が配されていましたし、少し離れた神楽殿にも天狗の彫刻、それから天狗の団扇を象(かたど)ったオブジェも境内にあり、どうもこの地には天狗伝説があったようです。すると右も牙が見えますし、やはり天狗系なのでしょう。
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「茂木佐平治」はキッコーマンさんで代々受け継がれる名で、おそらくその前身だった野田醤油時代のさらに前と推定されます。

迷惑かな、と思いつつ、敷地内の茂木家を訪(おとな)い、面について訊いてみました。すぐ近くに茂木本家美術館さんがあり、光雲の木彫なども展示されているので、そちらにでも収蔵されているのかな、と思ったもので。ところが、家宝として保管していて、公開は行っていないとのことでした。いつかはこの目で見てみたいものです。

野田市内でもう一箇所、廻りました。埼玉との県境に近い、中野台地区の大師山報恩寺さん。
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こちらの本堂におわす御本尊の弘法大師像、さらにもう一体の大師像も、東雲の作だそうです。東雲と野田、つながりが深いと言わざるを得ませんね。
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「高村光雲の義父」というのは誤りで、光雲は徴兵逃れのために東雲の姉の養子になったので、正しくは義理の叔父です。

こちらにも昨夏お邪魔しましたが、本堂の改修工事中で、内部の拝観が出来ませんでした。その際、12月には工事が終わると聞いたので、行ってみた次第です。ところが、工事は終わったものの、内部の漆喰が乾いていないということで、またもや拝観出来ませんでした。その時点で月末には元通りになるというお話でした。また近いうちにお邪魔しようと思っております。

さて、もうすぐ10日、琴平神社さんの門が開きます。報恩寺さんの大師像も拝観可能かと存じます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

誕生日のお祝を心にかけて送つて下さつて忝く存じました。今朝はあのおいしいコーヒーをいれ、トーストにあの珍らしいチーズのスプレツドを塗つてひどくハイカラなブレツクフアストをいただきました。そして今いいかをりの紫烟をマドロスパイプで一ぷくやつたところです。

昭和26年(1951)3月13日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

結核性の肋間神経痛で苦しんでいたわりに、刻み煙草をパイプでくゆらせ……自殺行為ですが……。

3件ご紹介します。

まずは光太郎に関わるかどうか、微妙なところですが……。

日曜美術館 人生で美しいとは何か 彫刻家・舟越保武と子どもたち

NHK Eテレ 2025年1月12日(日) 9:00~9:45 再放送 1月19日(日)  20:00~20:45

戦後日本を代表する彫刻家・舟越保武(1912−2002)。カトリックの信仰を主題にした精緻で存在感あふれる作品は見るものに「美しさとは何か?」を問いかける。保武の7人の子どもたちは、その多くが芸術関係の道を選んだ。長女は児童図書出版の世界で活躍。次男と三男は父と同じ彫刻家に。そして末娘は紆余曲折を経てアーティストへ。子どもたちの人生と言葉を通して、舟越保武が体現した「美しさ」を考察する。

【出演】舟越保武 舟越桂 末盛千枝子 【語り】守本奈美

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光太郎と交流があり、そのDNAを受け継いだと言える彫刻家の一人、舟越保武。同じ彫刻の道に進み、昨年亡くなった次男の桂氏、そのお姉様で、光太郎が名付け親となった編集者の末盛千枝子氏がビデオ出演。ちらっとでも光太郎に触れていただきたいところですが、どうなりますやら……。

続いて、やはり微妙なところでもう1件。明日の放映です。

又吉・せきしろのなにもしない散歩 #144

BSよしもと 2025年1月8日(水) 19:00~19:30 再放送 1月10日(金) 16:00〜16:30

ピースの又吉直樹と作家のせきしろの二人が、五七五の定型にとらわれず自由な表現をする【自由律俳句】を生み出していく。東北各地を歩きながら様々な人やモノと出会う中で、二人のここでしか見られない独特のかけ合いや、新たな俳句を生み出す姿は必見です。

今回は青森県十和田市をブラリ旅。果たしてどんな自由律俳句が生まれるのか!?
新渡戸記念館、食事処とちの茶屋 ほか
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この番組、訪れる場所は東北限定でして、昨年には花巻高村光太郎記念館さん及び高村山荘、福島二本松の智恵子記念館さんと智恵子生家、さらに当会の祖・草野心平の別荘「天山文庫」(福島県川内村)が取り上げられました。

今回は十和田湖。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」近くの砂浜で撮られたカットも公開されており、そのまま「乙女の像」まで行かれたのか、行かれなかったのか、というところです。
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ぜひともお二人に「乙女の像」ポーズをとってもらいたいものですが(笑)。

最後は2時間ドラマの再放送。

<BSフジサスペンス傑作選>浅見光彦シリーズ22首の女殺人事件

BSフジ 2025年1月10日(金) 12:00〜14:00

福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は? 宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは? 浅見光彦が事件の真相にせまる!!

<出演者>
中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作
榎木孝明 野際陽子 ほか
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推理作家の故・内田康夫氏が昭和61年(1986)に発表された「「首の女(ひと)」殺人事件」を原作に、ほぼ忠実に映像化した2時間ドラマです。初回放映は平成18年(2006)、光太郎彫刻の贋作を巡る殺人事件が描かれ、二本松の智恵子生家、花巻の旧高村記念館等でのロケが敢行されました。その後、繰り返し再放送が為されています。
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それぞれぜひ御覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

貴下からいただいた即席餅といふものを今日作つてみましたら、大変おもしろく、煮小豆に入れたり、黄粉にくるんだりして賞味しました。今日は小生の誕生日でした。

昭和26年(1951)3月13日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

元日に数え69歳となった光太郎、この日で満68歳になりました。

前年の誕生日はたまたま講演旅行中で、岩手県立美術工芸学校長・森口多里の家で饗応にあずかりましたが、この年は一人寂しく誕生日を餅で祝いました。

昨日同様、昨年暮れに発行された雑誌のご紹介です。

小さな蕾 2025 2月号

発行日 : 2024年12月26日発売
版 元 : 創樹社美術出版
定 価 : 838円(税込)

【巻頭特集】●鍋島 上野コレクション
【第2特集】●高村光雲 木彫阿弥陀如来像 ◆加瀬 礼二
【展示紹介】
・仏教美学 柳宗悦が見届けたもの ◆日本民藝館企画展より
・古筆切-わかちあう名筆の美- ◆根津美術館企画展より
・仏・菩薩の誓願と供養者の願い ◆龍谷大学 龍谷ミュージアム特別展より
・千変万化-革新期の古伊万里- ◆戸栗美術館企画展より
・運慶 女人の作善と鎌倉幕府 ◆神奈川県立金沢文庫特別展より
【連載】
・明治の陶磁シリーズ73 世界が見惚れた京都のやきもの~明治の神業
 京都市京セラ美術館特別展より ◆後藤 結美子(京都市京セラ美術館)
・仏教美術の脇役たち172 流転 第二十四話 ◆松田 光
・逸品珍品を語る48 明治版タブレット 石盤と石筆 ◆北川 和夫
・骨董拾遺選10 貧数寄コレクターの呟き 2024年を振り返って思うこと
-中国・遼三彩の陶枕- ◆伊藤 マサヒコ
・江戸絵皿の絵解き13 北斎漫画を謎解く 江戸絵皿事典 ◆河村 通夫
・政治と書40 宮島詠士 清朝継承者の工と文 ◆松宮 貴之
・近世長崎の発掘陶磁6 ◆扇浦 正義
・絵のある待合室135 馬3題 ◆平園 賢一
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004古美術・骨董愛好家対象の雑誌『小さな蕾』さん最新号。古美術蒐集家・加瀬礼二氏という方による「高村光雲 木彫阿弥陀如来像」という記事が載っています。

紹介されている阿弥陀如来像、年銘が入っておらずいつのものか不明ですが、実にいいお姿をされています。正面から撮られた右画像以外にも別角度からのショット、光雲の銘や台座部分の拡大写真なども掲載されていました。

銘を見ると、工房作ではなく光雲が一人で手がけたものと推定されます。その銘も加瀬氏曰く「文字の確かさ、まるで毛筆で記名したように刻る」。的確な評です。光雲レベルになると、彫刻刀も筆と同様に意のままになるのでしょう。

光雲には阿弥陀如来像の作例は多くなく、当方、広島の耕三寺博物館さん所蔵のものを見たことがあるだけです。その意味でも興味深く拝読いたしました。

昨日ご紹介した芸術新聞社さんの『墨』が複数回光太郎書を取り上げて下さったのと同様、こちらの『小さな蕾』はたびたび光雲作品を紹介して下さっています。ありがたし。
 『小さな蕾』2021年9月号。
 『小さな蕾』2024年2月号。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

春になつたら山へカマを築いて食パンを一週間分づつ焼きたいと思つてゐます。

昭和26年(1951)3月1日 神保光太郎宛書簡より 光太郎69歳

結局、実現には到りませんでしたが、こんなことも考えていました。当時の岩手では光太郎の口に合うパンがなかなか入手出来なかったためでした。

このブログサイトでご紹介すべき昨年いろいろあった事柄のうち、主なものは昨年のうちに何とかご紹介し終えましたが、中には越年となり申し訳なく思うものも。

そのうち『東京新聞』さんで12月27日(土)に掲載された記事。

TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機 俳優・渡辺えりさんら尽力 保存活動

 2024年も残りわずか。TOKYO発では今年も街のトレンドや知られざる地域の歴史、ヒューマンストーリーなど、多彩な話題を取り上げてきた。今日は「その後」を――。
 中野区に残る、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)ゆかりのアトリエの所有者が亡くなり、存続の危機にあると1月12日に紹介した。
 アトリエは洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てた。光太郎は晩年の52~56年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作した。
 記事の掲載後、若手建築家をはじめ、さまざまな立場の人から保存・活用法の提案が寄せられたという。有志らは4月、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、署名活動を始めた。
 会の代表に就いたのは、俳優で劇作家の渡辺えりさん。えりさんの父は生前光太郎と交流があり、えりさん自身も光太郎の半生をもとに戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 11月、会は区内でアトリエを紹介する展示を行い、講演会を開催。えりさんは「光太郎の肌合いが残る場所が中野区にあるのはすごいこと。何とかいい形で保存できないか」と語り、「生きるための糧の一つとして文化芸術がある」と理解を求めた。
 今後、会は区への働きかけや新たな講演会の企画など、地道に活動を続ける。署名への協力などは会の名前で検索。
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昨年1月12日の記事はこちら

中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」サイトはこちら。当方も幹事を務めさせていただいております。こちらからインターネット署名も可能ですので、よろしくお願い申し上げます。

アトリエを紹介する展示」は11月10日(土)~19日(月)の日程で行いました。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 本日開幕です、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会。
 閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
 「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」関連行事講演会動画。

新たな講演会」は、2月15日(土)の予定です。詳細が決まりましたらまたお知らせいたしますが、とりあえず中西利雄に特化した内容となるとのこと。

また、クラウドファンディングを立ち上げ、ご支援を募ることも視野に入れております。そうなりました場合には、ぜひともよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生旧臘来肋間神経痛といふ厄介なものにひつかかり、一ヶ月近く小屋を留守にいたし、病院長さん邸や温泉などに滞在、最近、雪中を橇で帰つてまゐりましたがまだ病気は残つてゐます、字を書くと病気にひびくのでテガミや原稿がかけずにゐます、


昭和26年(1951)2月26日 西出大三宛書簡より 光太郎69歳

肋間神経痛」は結核性のもの。結核も抗生物質の普及により、戦前ほどは怖れられる病ではなくなりましたが、さりとてもはや完治は不能でした。約5年後には光太郎の命を奪います。

病院長さん」は、宮沢賢治の主治医でもあった佐藤隆房、「温泉」は大沢温泉さん。1月23日から2月2日まで、かなり長く滞在しました。

2ヶ月経ってしまいましたが、新刊です。著者はお世話になっている藤井明氏。小平市平櫛田中彫刻美術館さんの学芸員です。

明治・大正・昭和 メダル全史

発行日 : 2024年10月25日
著 者 : 藤井明
版 元 : 国書刊行会
定 価 : 12,000円+税

はじめての日本メダル大図鑑!
手のひらに載せれば心地よい金属の重みと質感を湛える、美しき世界――
明治初めに誕生し、大正に一大ブームを迎えるメダル。
オリンピック、高校野球、箱根駅伝、内国博覧会、皇室のご即位・ご成婚、従軍記章、創立記念、あるいはグリコのおまけ……
多種多様のメダルが製造され、なかには畑正吉、日名子実三、朝倉文夫、あるいは岡本太郎など美術家が関わりユニークで芸術性の高いものもある。
賞牌、勲章、記章、コインの類義語としてこれまであいまいにされてきた存在を、約280点のメダルと豊富な資料により、日本の近代化とともに歩んだ歴史と美術的価値を与えて詳らかにする、初のメダル集成。
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目次
 [プロローグ]メダルとは何か
 ようこそメダルの世界へ/メダルの名称
 i章 メダル事始
  1. 日本メダル前史
  2. メダルのはじまり
  3. 徽章業の誕生と発展
  §コラム1 西洋のメダル
 ii章 活用されゆくメダル
  1. 博覧会のメダル——文明開化のかがやき
  2. 皇室の祝賀
  3. 学校のメダル——「皆さん勉強なさい メダルを上げます」
  4 .会社・店舗のメダル
  5. 啓発のメダル
  §コラム2 初期デザインと様式
 iii章 メダルブームの到来
  1. 航空のメダル——大空に賭けた夢のかけら
  2. スポーツのメダル——ああ栄冠は君に輝く
  3. 活気づく徽章業
  4 .コレクターの出現
  5. 子どもたちの憧れ
  6. メダル事件簿
  §コラム3 オリンピックのメダル
 iv章 彫刻家とメダル
  1. メダルと彫刻
  2. 岩村透と畑正吉
  3. 日名子実三と構造社
  4. その他の作家たち
  5. 肖像メダル
  §コラム4 ノーベル賞のメダル
 v章 戦争とメダル
  1. 戦時下のメダル
  2.「桃太郎さがし」とメダル
  3. 戦時下の徽章業
  4. 今日のメダル
  §コラム5 メダルコレクターの素顔
 [エピローグ]ふたたびメダルとは何か
 注/主要参考文献/掲載図版一覧

表紙画像と目次、さらには紹介文でおおよそお判りかと存じますが、とにかく「メダル」です。250ページ超、ほぼオールカラーで、これでもかこれでもか、と、各種のメダルの図版が次々に。それぞれに解説も。紹介文に依ればその数約280点。さらに表裏双方の画像が掲載されていたり、メダルそのもの以外の関連する画像も豊富に収録されたりしています。

しかし、そもそも「メダル」っていったい何だ? ということになります。そのあたり、「プロローグ」で述べられていますが、「勲章」や「賞牌」といった、似たものとの線引きが曖昧ですね。さらに「貨幣」も絡んできたり……。そこで、勝手な想像ですが、約280点の紹介を通し、いわば帰納法的に「こういうものだ」とするという意図もあるのかな、と思いました。

さて、我らが光太郎の制作したメダルも4点、紹介されています。
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掲載順に並べましたが、左上が岩波書店の岩波茂雄に依頼されて造った同社の社章「種蒔く人」(昭和8年=1933頃)。右上は「園田孝吉像」(大正4年=1915)。左下に「嘉納治五郎像」(昭和9年=1934))、右下で「大町桂月像」(昭和28年=1953)。

「種蒔く人」は、岩波書店の岩波茂雄に依頼されて造った同社の社章。ただし不採用となりました。岩波が嫌っていた軍国主義っぽいと言う理由でした。しかし、「ボツになった」という事実も忘れられつつあるようで、現在の岩波書店さんでは社章は光太郎に作って貰った的な受け止め方でいます。そのあたり、くわしくはこちら

「園田孝吉像」。園田は十五銀行の頭取。同時に大きな胸像も制作されました。光太郎がアメリカ留学中に知り合った同行行員の熊井運祐、佐藤五百巌の斡旋で作られました。胸像の方は、信州安曇野の碌山美術館さんで展示されることがあります。

「嘉納治五郎像」は、「メダル」と言っていいのかどうか、当方としては疑問が残ります。縦長の長辺が20センチ超で、一般的な「メダル」よりかなり大きいので。ちなみに存命人物の肖像をやや苦手としていた、光太郎の父・光雲の代作です。画像はおそらく髙村家に遺された原型を元に、新たにブロンズで鋳造したもの。当方、制作当時のものを入手しましたが、ブロンズではなく石膏着色と思われます。ブロンズと比べ、恐ろしく軽いので。抜きが甘く、あまりいい出来ではありません。
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同様の光雲の代作として、「徳富蘇峰胸像」(昭和7年=1932)があります。こちらも入手しまして、先月、中野区のなかのZEROさんで開催された「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品いたしました。
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こちらはきちんとブロンズで、重量があります。頒布は翌昭和8年(1933)、その際の趣意書もついていました。光太郎が代作したものなのに、光雲が如何に素晴らしいかといった記述に溢れ、こうしたインチキがまかり通っていたのですね(現代でも似たようなケースがありそうですが)。サイズ的には「嘉納治五郎像」とほぼ同じ。これも「メダル」と言っていいのかどうか……と感じます。

閑話休題。最後は「大町桂月像」。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に配付されたもので、光太郎生涯最後の完成作です。上の画像は原型。鋳造されたメダルは十和田湖畔の観光交流センターぷらっとさんに展示されています。
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『明治・大正・昭和 メダル全史』。他に、名のある彫刻家、工芸家、画家等が原型を制作したメダルも多数。畑正吉、日名子実三、齋藤素巌、陽咸二、藤井浩祐、朝倉文夫、荻原守衛、戸張孤雁、藤井達吉、岡田三郎助、北村西望、小杉未醒(放菴)、香取正彦、武石弘三郎などなど。

しかし、それらより圧倒的に多いのは、名も無き職人さん達の作。かえってそちらの作品群の方が、当時の世相や世の中の需要などを如実に反映しているようにも見えました。

なかなか高価なものですが、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

三十日から三日まで山形へゆき、酒の御馳走になつてきました、蔵王山麓が美しくみえました、 ここではもう冬です、


昭和25年(1950)11月8日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

山形では県総合美術展覧会の批評、講演会を二回行いました。このうち、山形市教育会館で開催された方を、渡辺えりさんの御両親が聴かれたそうです。

テレビ放映情報を2件。

まずは10月に亡くなった美術史家・高階秀爾氏の追悼番組です。

日曜美術館 名画は語る 美術史家・高階秀爾のメッセージ

地上波NHK Eテレ 2024年12月22日(日) 午前9:00〜午前9:45

西洋美術史入門のバイブルとして、半世紀を超えて読み継がれる名著『名画を見る眼』。その著者である美術史家の高階秀爾さんが、今年10月、92歳で亡くなった。日曜美術館では、今年6月、高階さん自身が、著書の世界を語る番組を放送。その番組を中心に、1970年代から、日曜美術館で、さまざまな画家や名画について語った貴重な映像を発掘。美術の楽しみ方から、美術史家の使命まで、高階さんが語ったメッセージを届ける。

【出演】美術史家…高階秀爾,辻惟雄 大原美術館館長…三浦篤 アーティスト…布施琳太郎
【語り】守本奈実

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光太郎がらみの話にはならないような気もしますが、一応ご紹介しておきます。

もう1件、こちらは光太郎に触れられます。初回放映が今年8月27日(火)だった回の再放送、および系列のBSテレ東さんでは初放映です。

開運!なんでも鑑定団 中島健人の秘蔵宝&金色江戸小判全11種

地上波テレビ東京 2024年12月22日(日) 12:54〜14:00
BSテレ東 2024年12月26日(木) 19:54~20:54

■エッ…魯山人!?伝説<美食陶芸家>作に<中島健人>も仰天
■アノ<人気飲料>の超貴重お宝に…ド級鑑定額
■輝く金色秘宝…<江戸小判>全11種一挙鑑定で超絶値■

最強アイドル・中島健人が鑑定団に登場!“親族一同期待している”お宝とは?驚きの鑑定結果に思わず絶叫!?「自慢のお宝で鑑定団に出たい!」毎晩神棚に祈り続けた祖父の願いを叶えるべく、孫娘が立ち上がった!お宝は美食家にして陶芸家の北大路魯山人の焼物。今田、ケンティーも絶句する衝撃の鑑定結果とは…?

【MC】今田耕司、福澤朗、菅井友香   【ゲスト】中島健人
【出張鑑定】第15回 強気のお宝鑑定大会 リポーター 岡田圭右 コメンテーター 北斗晶
【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな
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スタジオでの鑑定依頼2件中の一つ、「アノ<人気飲料>の超貴重お宝に…ド級鑑定額」の項で、1920年代、1940年代のコカ・コーラの販売機が出品。
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コカ・コーラといえば光太郎(笑)。(大正元年=1912)、まず雑誌『白樺』に発表され、大正3年(1914)には詩集『道程』に収められた詩「狂者の詩」に「コカコオラ」の語が3回出てきます。これが今のところ、日本の文学作品におけるコカ・コーラ初登場とされています。このあたり、下記をご参照下さい。

「昭和32年 コーラ本格上陸 みんな作って、みんないい」/「「乙女の像」制作 朗読劇で 劇団「エムズ・パーティ」16、17日十和田で上演」。
テレビ放映情報-詩句の読み方。
都内レポートその2 「ココだけ!コカ・コーラ社 60年の歴史展」。
岩手日報「風土計」。

そこで、番組内で光太郎に触れて下さいました。
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さらに当時の広告。
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本放送視聴後、国会図書館さんのデジタルデータで調べてみましたところ、こんな広告も。
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シロップを薄めて飲む形もあったようです。

で、依頼品。本国アメリカで使われていたもののようで、番組説明欄の「ド級鑑定額」の後は羊頭狗肉ではありませんでした。やはりコーラ関連、好きな方は好きなんでしょうね。
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ちなみにそちらとは別に、番組冒頭近くでゲストの山崎健人さん。MCの今田耕司さんと誕生日が一緒ということでお二人で盛り上がっていました。
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「ありゃま!」でした。3月13日、光太郎の誕生日でもあります(笑)。吉永小百合さんが一緒だというのは存じていましたが、このお二人もそうだったのか、という感じでした。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】
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昨日おてがみいただき、今日「典型」五冊おうけとりしました、いろいろ御面倒をかけたおかげでともかく出来ましてありがたく存じました、厚く御礼申上げます、お世話になつた社中の諸賢にも小生の謝意をおつたへ下さい、


昭和25年(1950)10月28日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

若い頃からの選詩集的なものを除き、光太郎生涯最後の詩集となった『典型』が上梓されました。

以前にも書きましたが、奥付では刊行日が10月25日。遠く大正3年(1914)に出した第一詩集『道程』も10月25日。偶然なのか、狙ったのか、何とも不明ですが。

雑誌『中央公論』さんの最新号である2025年1月号
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テレビの歴史番組等でもよく尊顔を拝見する東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏による連載「皇室のお宝拝見」で、光太郎の父・光雲作の木彫「矮鶏置物」(明治22年=1889)が取り上げられています。巻頭のグラビアページで作品のカラー写真と解説のさわり、後の方のページで解説の続き。
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主に昭和4年(1929)に刊行された光雲談話筆記『光雲懐古談』を参照されたようで、制作背景等を簡潔にご紹介下さいました。

『光雲懐古談』の当該部分は下記の通り。「青空文庫」さんで公開されています。

鶏の製作を引き受けたはなし 矮鶏のモデルを探したはなし 矮鶏の製作に取り掛かったこと 矮鶏の作が計らず展覧会に出品されたいきさつ 聖上行幸当日のはなし 叡覧後の矮鶏のはなし

作品は宮内庁三の丸尚蔵館さんに収蔵されています。同館、リニューアルオープンして約1年。当方、まだその後足を運んでおりません。以前の手狭だった頃はぶらっと行ってすぐ入れたのですが、再開後は基本的に予約制となり、ネット上でのその予約が以外と面倒くさいシステムです。昨今問題のオーバーツーリズムの回避などのためには致し方ないのかも知れませんが、何だかなぁ、という感じです。もう少し改善してほしいような……。

さて、このブログで紹介すべき事項、意外と溜まっておりまして、光雲がらみということでもう1件。

『日本経済新聞』さんの関連会社・日経アートさんの販売サイトが検索に引っかかりまして、来年の干支・巳にちなむ縁起物です。

銀製品 髙村光雲 吉祥 巳006

彫刻家・髙村光雲原型作の純銀レリーフです。写実に優れ、「野猪」や「老猿」など動物の作品が有名ですが、彫刻家としては仏師から作歴を重ねています。本作は頭に巳(へび)を乗せた姿で表される十二神将の因陀羅(いんだら)をモチーフとしており、精悍な顔つきや逆立つ髪の表現から仏師としての高い技術を感じることができます。

額(軸)寸法:30.0×30.0cm
レリーフ寸:径9.5cm
素材 純銀(レリーフ)・アルミ(額)
価格:165,000円(消費税10%込)
タトウ箱付

これまで気づきませんでしたが、日経アートさんでは昨年(卯年)、今年(辰年)のレリーフも扱われていました。
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制作元は富山県高岡市の竹中銅器さん。高岡と言えば鋳造の街ですね。竹中さんのサイトでも巳年バージョン、直販が為されていました。
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で、やはり以前から、十二支分全てを扱われていたようで、存じませんでした。それぞれ見事ですね。
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来年の巳年バージョン、特に年男・年女の皆さん、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今年は父の十七回忌、智恵子の十三回忌にあたるので十日に此処の昌歓寺といふ大きな寺で法要を営む事にし、昨日寺へ行つてたのんで来ました。


昭和25年(1950)10月1日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎68歳

例年、花巻町中心街の松庵寺さんで行っていた法要、この年に限り、旧太田村の昌歓寺さんで営みました。宗派が違うということでしたが、あまり気にしなかったようです。

平成31年(2019)に起きた大火災からの修復工事が終わり、12月8日(日)に一般公開が再開されたパリ・ノートルダム大聖堂と、大正10年(1921)に留学中の体験をベースに書かれた光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」に関わる件で、2つ。

まずは『産経新聞』さん、12月11日(水)掲載のコラム。

<産経抄>「連帯」もたらす福音となるか、再建かなったノートルダム大聖堂

002高村光太郎といえば、亡き妻をしのぶ純愛の詩集『智恵子抄』が思い浮かぶ。智恵子と出会ったのは明治44(1911)年の暮れだった。光太郎はしかし、その2年前まで滞在していたパリで、ある〝女性〟に心を奪われていた。▼ご執心だったようで、その人のもとへ日参したと打ち明けてもいる。<外套(がいとう)の襟を立てて横しぶきのこの雨にぬれながら、あなたを見上げてゐるのはわたくしです。毎日一度はきつとここへ来るわたくしです。あの日本人です>と詩の一節にある。▼その女性はいまも、「私たちの貴婦人」の名で人々に愛されている。ノートルダム大聖堂である。光太郎がありせば、思いを寄せた人の悲運と恋敵の多さに色を失ったかもしれない。5年前の火事で尖塔(せんとう)などが焼けた後、悲嘆は世界に広がり1300億円を超す寄付が集まった。▼再建を記念して開かれた先日の式典では、各国首脳やトランプ米次期大統領らが列席した。ポピュリズムの台頭で政治的な窮地に立つフランスのマクロン大統領は、大聖堂を「連帯」の象徴として位置づけようとした節がある。現実はどうだろう。▼光太郎が滞在した頃のパリは、あらゆる人種や思想、芸術文化に寛容な街だった。いまのフランスは移民の増加で社会がひずみ、少数与党の内閣が総辞職するなど政治も混乱する。心のよりどころとされる大聖堂の再建を横目に、人々を分かつ亀裂の修復は簡単ではないようだ。▼大聖堂前の広場には、距離の起点となる道路元標が置かれている。いわばフランスの中心点である。大聖堂は再び、迷走する社会の結び目となるだろうか。今年は、わが国をはじめ世界各地でも政治が揺れた。できれば、再建の福音にあやかりたいものである。

せっかくの復旧が政治的な駆け引きの道具にされることの無いようにしてほしいものですが……。

続いて白水社さんから出ている雑誌『ふらんす』今月号。「世界遺産、ノートルダム大聖堂」という特集が組まれ、建築史がご専門の三宅理一・東京理科大学客員教授と仏文学者の鹿島茂氏の玉稿、日本科学未来館さんで開催中の「特別展 パリ・ノートルダム大聖堂展 タブレットを手に巡る時空の旅」のレポートが載っています。
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そのうち、鹿島氏の「ノートルダム大聖堂と原始の森」が、「雨にうたるるカテドラル」考察を含みます。氏が注目されたのは、「あの日本人です。」のリフレイン。「日本人」の語がなければパリジャンが書いた詩といっても通る「普遍性」があるとし、「あの日本人です」と繰り返すことで「特殊性」も併せ持つ詩だ、というご指摘。さらに今回焼け落ちた木造部分から「原始の森」へと発想を飛ばし、「森」といえば日本人、的な。

三宅氏の「よみがえるノートルダム大聖堂」も、建築大好き人間としては実に興味深い内容でした。元々がどういう建築だったのか、火災の状況や修復の過程など、わかりやすくまとめられていました。

ところで雑誌『ふらんす』さん。かつては光太郎も寄稿したことのある雑誌で、その意味でも驚きました。失礼ながらまだ健在だったんだ、と。『中央公論』さん、『文藝春秋』さん、『婦人之友』さんなど、そうした例は他にもありますが、それらと異なり、不躾とは存じますがメジャーな雑誌ではありませんので。

光太郎の寄稿は昭和16年(1941)6月の第17巻第6号。「日夏耿之介著 英吉利浪曼象徴詩風を読んで」という短文でした。それに先立つ同12年8月の第13巻第8号広告欄に出たアーサー・シモンズ著、宍戸儀一訳「象徴主義の文学」広告にも光太郎の短評が出ていますが、こちらは寄稿という訳ではない感じです。

で、今月号が第99巻第12号。末永く続いて欲しいものです。末永く、といえば、ノートルダム大聖堂自体も、もちろんです。

【折々のことば・光太郎】

もう山も秋、明月にはひとりで酒をくみ、雉子の飛ぶ羽音をききながら心ゆくまで観月しました、数里に及ぶススキの原はまるで海です、


昭和25年(1950)9月30日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺の森、光太郎はパリ郊外のフォンテーヌブローの森になぞらえることもありました。

明日開幕です。

コレクション展III いのちを彫る 時を刻む 呉美の彫刻コレクション

期 日 : 2024年12月14日(土)~2025年2月11日(火・祝)
会 場 : 呉市立美術館 広島県呉市幸町入船山公園内
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 火曜日 12月29日(日)~2025年1月3日(金)
料 金 : 一般 300円、高校生 180円、中学生・小学生 120円

日本では古来より仏像などを中心に立体作品が制作されてきました。西洋の制度や文化が流入した明治以降、美術教育にも外来の手法が取り入れられ、そのなかで「彫刻」という概念も誕生します。特にロダンの生命感溢れる人体表現は多くの日本人芸術家や文人たちを魅了し、高村光太郎ら「白樺」の面々を中心に明治から大正期の日本で積極的に紹介され、日本近代彫刻の形成に多大な影響を与えました。また日本の木彫の技術も、西洋の彫刻術を研究したうえで伝統を深化させた木彫家たちによって継承されてきました。戦後は使用される素材や圭太も多様となり、こんにちでは彫刻作品は美術館に限らず街の至るところに点在して、私たちの目を楽しませてくれます。

本展では当館の収蔵作品より近現代の彫刻作品約50点を紹介します。ロダンやブールデルの彫刻を熱心に学んだ高村光太郎、佐藤忠良、舟越保武らをはじめ、平櫛田中の木彫作品、堀内正和や清水九兵衛らによる抽象表現、そして上田直次や水船六洲といった呉ゆかりの彫刻家の作品を通じて、彫刻の多様な表現をお楽しみください。
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関連行事

 鋳造体験ワークショップ「低融点合金を使ってペーパーウェイトを作ろう」
  日 時:2025年2月9日(日) 13:00~15:00
  会 場:地下講座室
  定 員:10名(小学生以上、小学生は要保護者同伴)
  参加費:1,000円(含入館料)
  申 込:12月4日(水)~1月31日(金)に電話もしくはweb専用フォームから

 館長講座 「近代彫刻と現代彫刻について」
  日 時:2025年1月19日(日)、1月26日(日)
  時 間:13:30~15:00
  講 師:横山勝彦館長
  定 員:30名(予約不要・先着順)

 学芸員によるギャラリートーク
  日 時:12月14日(土)、1月11日(土)、2月8日(土)  11:00~(約30分)


同館、近現代の彫刻作品の収集・展示に力を入れられていて、そのコレクション展です。総数約50点を出すというので、かなり見応えがありそうです。

フライヤー表面、メインで光太郎のブロンズ「手」(大正7年=1918)。ありがたし。他にも光太郎作品は「裸婦坐像」(大正6年=1917)が収蔵されており、出展があるかもしれませんが、出品目録がネット上に出ていません。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

岩手人には素質がある。必ずいまに続々いい画家や彫刻家が出ると確信してゐる。のぼせないでしっかりやることだ。

昭和25年(1950)9月30日 金野照夫宛書簡より 光太郎68歳

金野はこの時岩手県立美術工芸学校在学中。おそらく新制作派展入賞の知らせに対する祝辞的な書簡と思われます。

戦争協力への悔悟から、自らに対する罰として花巻郊外旧太田村に隠棲し、彫刻の実作からは離れていた光太郎ですが、岩手の若い芸術家たちへの期待は大きいものがありました。

一昨日届きまして、半分ほど読んだところです。

ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く

発行日 : 2024年12月10日
著 者 : 辻田真佐憲
版 元 : 中央公論新社
定 価 : 2,400円+税

何がわれわれを煽情するのか? 北海道から沖縄までの日本各地、さらにアメリカ、インド、ドイツ、フィリピンなど各国に足を運び、徹底取材。歴史や文化が武器となり、記念碑や博物館が戦場となる――SNS時代の「新しい愛国」の正体に気鋭が迫る!
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目次
はじめに
【第一部】個人崇拝の最前線 偉大さを演出する
 第一章 トランプの本拠地に潜入する 米国/トランプタワー
 第二章 親日台湾の新たな「聖地」 台湾/紅毛港保安堂、桃園神社
 第三章 安倍晋三は神となった 長野県/安倍神像神社
 第四章 世界一の巨像を求めて インド/統一の像
 第五章 忘れられた連合艦隊司令長官 佐賀県/陶山神社、奥村五百子女史像
 第六章 「大逆」の汚名は消えない 山口県/向山文庫、伊藤公記念公園
【第二部】「われわれ」の系譜学 祖国を再発見する
 第七章 わが故郷の靖国神社 大阪府/伴林氏神社、教育塔
 第八章 消費される軍神たち 長崎県/橘神社、大分県/広瀬神社
 第九章 自衛隊資料館の苦悩 福岡県/久留米駐屯地広報資料館、山川招魂社
 第十章 「日の丸校長」の神武天皇像 高知県/旧繁藤小学校、横山隆一記念まんが館
 第十一章 旧皇居に泊まりに行く 奈良県/HOTEL賀名生旧皇居、吉水神社
 第十二章 「ナチス聖杯城」の真実 ドイツ/ヴェーヴェルスブルク城、ヘルマン記念碑
 第十三章 感動を呼び起こす星条旗 米国/マクヘンリー砦、星条旗の家
【第三部】燃え上がる国境地帯 敵を名指しする
 第十四章 祖国は敵を求めた ドイツ/ニーダーヴァルト記念碑
 第十五章 「保守の島」の運転手たち 沖縄県/尖閣神社、戦争マラリア慰霊碑
 第十六章 観光資源としての北方領土 北海道/根室市役所、納沙布岬
 第十七章 「歴史戦」の最前線へ 東京都/産業遺産情報センター、長崎県/軍艦島
 第十八章 差別的煽情の果てに 京都府/靖国寺、ウトロ平和記念館
 第十九章 竹島より熱心な「島内紛争」 島根県/隠岐諸島
 第二十章 エンタメ化する国境 インド/アタリ・ワガ国境、中国/丹東
【第四部】記念碑という戦場 永遠を希求する
 第二十一章 もうひとつの「八紘一宇の塔」 兵庫県/みどりの塔
 第二十二章 東の靖国、西の護国塔 静岡県/可睡齋
 第二十三章 よみがえった「一億の号泣」碑
 岩手県/鳥谷崎神社、福島県、高村智恵子記念館
 第二十四章 隠された郷土の偉人たち 秋田県/秋田県民歌碑、佐藤信淵顕彰碑
 第二十五章 コンクリートの軍人群像 愛知県/中之院、熊野宮新雅王御塋墓
 第二十六章 ムッソリーニの生家を訪ねて イタリア/プレダッピオ
 第二十七章 記念碑は呼吸している ベトナム/マケイン撃墜記念碑、大飢饉追悼碑
 第二十八章 けっして忘れたわけではない 
フィリピン/メモラーレ・マニラ1945、バンバン第二次大戦博物館
【第五部】熱狂と利害の狭間 自発的に国を愛する
 第二十九章 戦時下の温泉報国をたどる 
和歌山県/湯の峰温泉、奈良県/湯泉地温泉、入之波温泉
 第三十章  発泡スチロール製の神武天皇像 岡山県/高島行宮遺阯碑、神武天皇像
 第三十一章 軍隊を求める地方の声 新潟県/白壁兵舎広報史料館、高田駐屯地郷土記念館
 第三十二章 コスプレ乃木大将の軍事博物館 栃木県/戦争博物館、大丸温泉旅館
 第三十三章 「救国おかきや」の本物志向 兵庫県/皇三重塔、中嶋神社
 第三十四章 右翼民族派を駆り立てる歌 岐阜県/「青年日本の歌」史料館
 第三十五章 郷土史家と「萌えミリ」の威力 
熊本県/高木惣吉記念館、軽巡洋艦球磨記念館
総論
あとがき
地図
参考文献 

日本全国、そして海外のいわば「キナ臭い」場所を訪れてのレポートです。目次を見れば自ずと著者の辻田氏のスタンスは見えてくるでしょう。

さらに「まえがき」から。

 愛国的な物語や神話のたぐいは「つくられた伝統」だと批判され、ファクトにもとづかない俗説としてすぐに切って捨てられやすい。だが、歴史や社会はしばしばその俗説とされるものに動かされてきた。
 たとえば、神武天皇が唱えたとされる八紘一宇(はっこういちう)という理念は、歴史の専門家からは取るに足りないものと笑われるのかもしれない。だが、この理念ほど日本社会に影響を与えたものも少ないのであって、それにくらべれば最新の学説なるもののほうがかえって蜉蝣(かげろう)の命に過ぎない。
 そのため本書では、国威発揚にまつわるものごとを頭ごなしに否定しない。ただし、それを手放しで礼讃することもしない。言い換えれば、「二流」「三流」と見下される史跡にも真剣に向き合い、それを軽視することなく、と同時にそれに飲み込まれることなく、内部に取り込んでいく。こうした取り組みこそが、戦後八〇年と昭和一〇〇年の節目を迎えようとする今日、きわめて重要だと考えるからである。


また、ある章の末尾には、

 わたしはかつて『「戦前」の正体』という本のなかで、戦前の日本を六五点と評価したことがある。過去を採点するなどという傲慢な行為をあえてしたのは、ここで述べたような戦前と戦後の適切な接続を試みたかったからにほかならない。
 戦前の評価となると、ひとつの過ちも認めず一〇〇点満点をつけて恥じない右派と、完全に暗黒時代だと断じて〇点をつけて憚らない左派にわかれやすい。だが、欧米列強の侵略に対抗して、あの短期間で近代国家を築き上げた功績をまったく否定することはできない。かといって、その過程で問題行為がまったくなかったというのも無理があろう。そこで、反省すべきは反省し、継承すべきは継承するという是々非々の立場を取るべきということで、六五点という数字をつけたのである。

とあります。辻田氏のバランス感覚がよく表されています。六十五点には異論もありましょうが。

さて、われらが光太郎。「第二十三章 よみがえった「一億の号泣」碑」で、花巻市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社さんにある「一億の号泣」詩碑がメインで扱われています。「一億の号泣」は鳥谷崎神社で終戦の玉音放送を聴いた体験を描いた詩です。

この章、昨年発行された『文學界』2023年11月号に掲載の連載「煽情の考古学」の第二十二回「花巻に高村光太郎の戦争詩碑を訪ねる」に加筆したものでした。本書全体としては「煽情の考古学」プラス他誌に載った玉稿も取り入れられています。

目次にはありませんが、花巻郊外旧太田村の高村山荘(光太郎が七年間過ごした山小屋)、隣接する高村光太郎記念館さんもレポートされています。

そして、福島二本松の智恵子生家/智恵子記念館さん。直接的には戦争に関わる展示はありませんが、智恵子が遺した紙絵の中に、光太郎の父・光雲が原型を手がけた皇居前広場の楠木正成像をモチーフとした作品があり、「まるでその後の光太郎の歩む道を暗示しているかのようだった」。
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なるほど。

その光雲については、一つ前の章「第二十二章 東の靖国、西の護国塔 静岡県/可睡齋」で触れられています。日清戦争がらみで建てられた「活人剣の碑」についてです。

同碑に関してはこちら。
 光雲関連報道。
 光雲関連追補。
 「<活人剣の碑>来月完成 李鴻章と軍医、交友の証し 袋井」。
 活人剣の碑 紙芝居に 地元有志ら、小中学校へ贈呈 袋井 /静岡
 静岡袋井「YUKIKO展(可睡齋の「活人剣物語」と地域の昔話他)」。

それにしても、目次の通り北は北海道から南は沖縄まで、さらに海外と、こんなにたくさん廻ったのかと、脱帽です。まさに労作。それから、ルポに登場する人々。箱物であればその館長さんやらキュレーターさんやら、神社であれば宮司さん、タクシー運転手の方(地元民代表的な)等々。ほんとに世の中にはいろんな人がいるもんだと時に呆(あき)れたりもしました。

ところで今日は太平洋戦争開戦の日。辻田氏曰くの戦前と戦後の連続性、非連続性といった点、まだまだ検証が必要な事柄だと思いますし、今後もそれが変容していくまさにリアルな流れの中に我々が置かれているわけで、他人事ではありませんね。

というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

抽象美もさる事ながら、人間の具象に対する慾求本能は時代の如何に拘らず強大なものと存ぜられます、


昭和25年(1950)9月2日 西出大三宛書簡より 光太郎68歳

あくまで具象彫刻にこだわった光太郎ならではの言です。

だからといって、『ルポ 国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』でいくつも取り上げられている銅像など全てがいいものとは思えませんが。

明日、明後日と2日間限りの展示です。

カナビフォトフェス

期 日 : 2024年12月7日(土)・12月8日(日)
会 場 : 金沢美術工芸大学4号館アートコモンズA 石川県金沢市小立野2-40-1
時 間 : 12/7 10:00~17:00 12/8 10:00~14:00
料 金 : 無料

金沢でなかなか実機を触る機会が無い、というお悩みをここで解決しようと、各企業様のご協力を得て開催する撮影機材展示会です。カメラはもちろん、照明や周辺機器も取り揃え、プロのテクニックや著作権を学ぶ講座も同時開催します。
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光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝だった豊周(会場の金沢美術工芸大学さん名誉教授)の令孫にして写真家の髙村達氏が、「髙村光雲、高村光太郎、彫刻の写真をフレスコジクレーA0にプリント作品も展示致します」とのことです。

「ジクレー」はファイン紙、A0は紙の大きさの規格で841mm×1189mm。一般的なA4サイズの実に16枚分ですね。
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同様のパネルは東京藝術大学大学美術館さんでの「髙村光雲・光太郎・豊周の制作資料」展、長野県立美術館さんで開催された「善光寺御開帳記念 善光寺さんと高村光雲 未来へつなぐ東京藝術大学の調査研究から」、そして光太郎実家にして現在も達氏がお住まいの旧本郷区駒込林町155番地に隣接する旧安田楠雄邸庭園さんにおける「となりの髙村さん展 第3弾 髙村光雲の仕事場」などでも展示されました。小さい画像ではわかりにくい細部まで確認できるのは素晴らしいと思いました。

また、達氏、8日にはセミナー講師も務められるとのこと。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

琅玕洞の広告を発見されたやうですが、この高村道利といふのは小生の次の弟で、例のドイツへ行つた言語学研究をしてゐた死んだ弟です。この弟の生活保障といふことも琅玕洞経営の半分の動機だつたのです。


昭和25年(1950)8月30日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

「琅玕洞(ろうかんどう)」は、明治43年(1910)、神田淡路町に光太郎が開いた日本初といわれる本格的な画廊。「広告」は当時の雑誌『方寸』などに載りました。
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道利は光太郎の3歳下。東京外国語学校を卒業後、当時の徴兵制の関係もあり、おそらく1年志願兵で横須賀の要塞砲兵第二聯隊に入り、除隊後、琅玕洞の名目上の店主となりました。ただしあまり熱心に仕事はしませんでした。それもあって琅玕洞は1年でつぶれます。その後道利は、子供の頃から艦艇オタクでしたし、横須賀での軍隊生活が面白かったのでしょうか、職業軍人になることを考えましたが、父・光雲に反対されます。さらにドイツ語の個人教授をしていた近所に住む歌手・関鑑子と結婚したいと申し出ますが、これも光雲が却下。すると、半ば自暴自棄となり、ふいっと渡欧してしまいました。しばらくは手紙が届いていたそうですが、やがて音信不通に。

長男光太郎が家督相続を放棄、次男道利は行方不明、そこで三男豊周が髙村家を嗣ぎました。髙村家は戸籍上は「高村」ですが、慣習として「髙」の字を使い、しかし光太郎は「俺は分家だから」と、戸籍通りに「高」の字を使い続けました。

道利は、光雲没後の昭和10年(1935)になって、フランスの日本大使館から、慈善病院のようなところに入院しているが、日本に送還するので引き取って欲しい、と髙村家に連絡があり、光太郎が神戸まで迎えに行ったそうです。帰国後は実家に住み、豊周から頼まれた翻訳などをしていたのですが、昭和20年(1945)、自宅敷地内に作った防空壕に誤って転落、それが元で亡くなりました。

さて、当会の祖・心平。この頃、中央公論社版『高村光太郎選集』全六巻の編集を始めたようで、その中で明治期の琅玕洞広告を目にしたようです。ことによると『選集』編集に際して元埼玉県東松山市教育長・田口弘氏が心平に貸した光太郎関連スクラップに入っていたのかも知れません。

過日、光太郎の父・光雲作の木彫が出ている栃木の那須野が原博物館さんの「開館20周年記念特別展 松方正義と那須野が原」をご紹介しましたが、同様に光雲の木彫が出ている企画展示がもう1件開催中でした。

東北大学総合知デジタルアーカイブ公開記念展示「チベット仏教の精華」

期 日 : 2024年11月18日(月)~12月13日(金)
会 場 : 東北大学附属図書館 宮城県仙台市青葉区川内27-1
時 間 : 10:00~16:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

東北大学では、附属図書館所蔵の貴重資料であるデルゲ版チベット大蔵経のデジタル画像化事業を継続して行なっております。今回は本学デジタルアーカイブToUDAの公開を記念し、このチベット大蔵経に加え、文学研究科所蔵の河口慧海がチベットから日本に持ち帰った仏教美術や工芸品などの名品を紹介する展覧会を開催いたします。
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公式サイトにそうした記述や出品目録がありませんで気がつきませんでしたが、X(旧ツイッター)の東北大学総合学術博物館さんの投稿で、光雲木彫が出ていることをつかみました。
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画像を拡大させていただきます。
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僧侶にしてチベット仏教学者だった河口慧海旧蔵、というか光雲に依頼して作ってもらった釈迦如来座像(大正11年=1922)。

慧海は、光雲・光太郎父子の住まいがあった本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)に近い本郷弥生町や根津などで暮らしていた時期があり、光雲は慧海の求めで仏像を複数彫り、光太郎は戦時中に慧海の坐像制作にかかりました。ただし光太郎作の坐像は完成したのかしなかったのか、いずれにしても戦災で焼失したと考えられています。

その慧海旧蔵の光雲作品、散逸してしまった感じなのでしょうか、あちこちで異なるものが収蔵/展示されています。

 京都/堺・新着情報(その2)。
 河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」。
 仙台市博物館 特集展示「福島美術館の優品」。
 都内レポート その3 東京国立博物館「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」。

今回展示されているものは、東北大学総合学術博物館さんで収蔵しているものだそうです。

他にも慧海がチベットから持ち帰った品々なども展示されていますし、さらにもう一人、慧海と同じくチベットに足を運んだ多田等観がらみの展示も為されている由。等観は戦後、光太郎が隠棲していた花巻郊外旧太田村の隣村・旧湯口村の円万寺観音堂で堂守を務めていた時期があり、光太郎の知遇を得てお互いに行き来していました。

khb東日本放送さんのローカルニュース。

チベット仏教の経典や美術品を紹介する展示会 東北大学附属図書館

チベット仏教の経典や美術品を紹介する展示会が、東北大学附属図書館で開催されています。
チベット仏教は、インド仏教の教えを直接受け継いでいます。
展示されているのは、その教えを求め約120年前にチベットに入国した河口慧海が持ち帰った資料など37点です。
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約300年前に刷られたデルゲ版チベット大蔵経は、日本人で最初に正式なチベット仏教僧となった多田等観がダライ・ラマ13世から贈られました。
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東北大学文学研究科杉本欣久教授「資料、お経を持って帰るのは多大な熱意があったはずです。是非ご覧いただきながら感じ取っていただければ」
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展示会は12月13日まで、仙台市青葉区の東北大学附属図書館で開催されています。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変な御苦労であつたことと身につまされて思ひます、しかしこれで「草の葉」も日本に初めて正しく伝へられるわけで貴下に対する感謝の念は絶大です。

昭和25年(1950)8月28日 長沼重隆宛書簡より 光太郎68歳

長沼は英文学者。アメリカのウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』翻訳を上下二巻で刊行しました。

ホイットマンの訳にはかつて光太郎も取り組み、大正10年(1921)には『自選日記』訳を刊行するなど、ホイットマンのファンでした。

先週の話になりますが、妻と二人で茨城県笠間市に行きました。

別に笠間でなくてもよかったのですが、妻のリクエストが以下の通りで、そうなると笠間かな、というわけで。
 ① 気合いの入ったモンブランが食べたい
 ② 美味しい新蕎麦が食べたい
 ③ 御朱印が欲しい
 ④ 紅葉も見たい

笠間は以前にも何度か足を運びました。昨年にはやはり妻と隣接する水戸市の偕楽園さんで梅を見た後、笠間に移動して、光雲・光太郎父子の作品も出ていた茨城県陶芸美術館さんでの「生誕150年記念 板谷波山の陶芸 帝室のマエストロによる至高のわざ」を拝観。それ以外にも笠間稲荷さん、常陸国出雲大社さんに御朱印をもらいに行ったりしたこともありました。また、自分一人では日動美術館さんにお邪魔したことも。千葉の自宅兼事務所から車で1時間程です。

さて、まずは旧岩間町の愛宕神社さんに。
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この日、午前中は霧が深く、その分神秘的といえば神秘的でしたが、晴れていたら見えたはずの関東平野の眺望が拝めず、そこは残念でした。

入母屋造の大きな拝殿と、奥には流造の本殿。拝殿の飾り彫刻も見事でした。左右に鶴でしょうか。
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その上、中央には龍。しかし濃霧でよく見えませんでした。
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拝殿に入れていただくと、この地に残る天狗伝説にちなみ、奉納された巨大な天狗面が多数。
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妻はこちらで御朱印を頂き、ミッション③はクリア。

さらに本殿奥の摂社と思われる飯綱神社さんには銅製の見事な六角殿が。
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ちょうど先日、荒川区で「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」展を観覧したばかりで、興味深く拝見しました。江戸期には既にここにあったそうですが。

下山して笠間駅近くへ。スマホの検索画面で探した蕎麦屋さんを見つけ、ミッション②もクリア。

続いてミッション④、紅葉を見に、ということで、日動美術館さんの分館と位置づけられている「春風萬里荘」さんへ。北大路魯山人が北鎌倉でアトリエとして使っていた農家建築です。昭和40年(1965)に笠間に移築されました。

ちなみにイサム・ノグチは魯山人に陶芸を学ぶため、元々この建物のあった北鎌倉に移り、それまで借りていた中西利雄アトリエの契約を解除しました。その後に光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、同アトリエに入ったといういわくもあります。
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魯山人と光太郎、明治16年(1883)の同年生まれです。しかも、誕生日が光太郎は3月13日、魯山人は3月23日と10日しか違いません。ところが、二人の間に直接的な交流は無かったようで、『高村光太郎全集』に魯山人の名は見あたりません。どこかで顔を合わせたりしたことはあるんじゃないかな、などとは思うのですが。

また、直接の縁はなくとも、中西利雄・高村光太郎アトリエの保存運動のからみもあり、この手の建築は見ておきたいと常々考えております。

そんなことを考えながら受付の券売機で入場券1,000円×2を購入し、少し歩いて建物へ。
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この段階ですでに紅葉が見事です。
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茅葺きの屋根が実にいい感じですし、破風まで茅葺きとは恐れ入りました。

入口に掲げられた扁額を見て、仰天。
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署名をたしかめるまでもなく、見た瞬間に、当会の祖・草野心平の字です。
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建物内には額に写す前の直筆も掲げられていました。
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そういえば、日動美術館さん本体にも心平の扁額があったっけと思い出しました。日動画廊の創業者、長谷川仁と交流があったのでしょう。

直筆の方にはキャプションも。
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ここで光太郎や宮澤賢治、萩原朔太郎の名を目にするとは思っていませんでした。

ちなみに玄関の扁額の上、破風の下には貂(てん)の木彫。最初、猫かと思ったのですが、しげしげ見ていたら係員の方が貂だと教えて下さいました。
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さて、改めて建物内。

魯山人が実用していたという衣桁。
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こちらもいい感じの木彫が施されています。

魯山人の陶芸作品。
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唐獅子の釘隠や杉戸などは当時のものなのでしょう。
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芹沢銈介の幅、中村不折の書などはあとから日動さんによって持ち込まれたものかな、と思いました。
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庭もいい感じでした。
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正面向かって右側の茶室は魯山人の設計だそうで。
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逆サイドには元々厩だったエリア。同じ屋根の下に厩があるのは東北の曲屋に似ています。
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素朴なステンドグラス。左は内側から、右は屋外から撮影しました。
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ここには日動さんによる様々な彫刻作品が展示されていて、それは存じませんでした。
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左上は朝倉文夫、右上で藤井浩佑、左下が澤田政廣、右下には北村四海。それぞれ光雲・光太郎父子と大なり小なりの縁はありました。
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さらに奥には魯山人作の、何と便器(笑)。
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ひととおり内部を拝見した後、外の庭園へ。
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少し離れた場所には長屋門もありました。
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そんなこんなでミッション④、紅葉もクリア。

最後にミッション①、「気合いの入ったモンブラン」。道の駅かさまさんでいただきました。ただし、ここはセコく、二人で一つ(笑)。
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素麺か冷や麦のように見えますが、特産の栗がふんだんに練り込まれています。美味でした。

茨城県、都道府県魅力度ランキングでは毎回のように最下位ですが、こういういいところもいろいろあります。ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

一、お茶  [七月廿五日発送] 一、クマゼミ[シヤンシヤン蟬] 一、香水線香 右受領候也 七月廿八日 クマゼミ無事到着、立派です、

昭和25年(1950)7月28日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

「クマゼミ」は木彫にしたいということで、関東には生息していませんので、静岡にいた澤田(『智恵子抄版元の龍星閣主』)に送ってくれるよう、戦時中から頼んでいました。

テレビ放映情報です。

開運!なんでも鑑定団【ロダンの弟子<壮絶女性彫刻家>作に超ド級値!】

地上波テレビ東京 2024年12月3日(火) 20:54〜21:54

■東郷青児ら<超有名画家>作&プロレス史に残る<伝説!猪木秘宝>に驚き値■江戸時代…<花鳥画>大作■金色に輝く…壮絶<ロダンの弟子>女性彫刻家作に超ド級鑑定額

出演者

【MC】今田耕司、福澤朗、菅井友香   【ゲスト】大家志津香
【出張鑑定】出張鑑定 IN 愛媛県西予市  【出張リポーター】石田靖
【出張アシスタント】吉川七瀬      【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

光太郎が終生敬愛したロダンの弟子にして、愛人でもあったカミーユ・クローデルの代表作の一つ「ワルツ」が出品されます。
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ブロンズの場合、同一の型から複数の作品が制作出来ますが、その型が正当なものか、誰がいつどんな経緯で鋳造したかなどで、大きく評価が異なります。今回のものは番組サブタイトルに「超ド級鑑定額」とあり、どういったものか、非常に気になりますね。

この番組、鑑定結果の発表の前、出品物にまつわる作者や背景等を紹介するVがなかなか凝った作りで、それだけでも見る価値があると思います。

もう1件。

又吉・せきしろのなにもしない散歩 #140

BSよしもと 2024年12月4日(水) 19:00~19:30 再放送 12月6日(金) 16:00~16:30

ピースの又吉直樹と作家のせきしろの二人が、五七五の定型にとらわれず自由な表現をする【自由律俳句】を生み出していく。 東北各地を歩きながら様々な人やモノと出会う中で、二人のここでしか見られない独特のかけ合いや、新たな俳句を生み出す姿は必見です。

今回は福島県川内村をブラリ旅。果たしてどんな自由律俳句が生まれるのか!? かわうち草野心平記念館、秋風舎 ほか。

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この番組、30分の枠内でおおむね2~3ヶ所紹介されるのですが、今回は福島県川内村の天山文庫、同じ敷地内のかわうち草野心平記念館(阿武隈民芸館)さん、それから古民家カフェ秋風舎さんを廻ります。

天山文庫はモリアオガエルが縁で、当会の祖・草野心平を名誉村民にしてくださった同村における心平の別荘です。光太郎実弟の髙村豊周も建設委員に名を連ね、村の皆さんが一木一草を持ちより、昭和41年(1966)に竣工しました。

その手前にあるかわうち草野心平記念館(阿武隈民芸館)さん。心平に関する展示が充実し、光太郎に関しても随所で触れられています。心平が経営していたバー「学校」が再現されたりもしています。

そして天山文庫の管理人を務められていた志賀風夏さんが開かれた古民家カフェ秋風舎。こちらでも心平の息吹に接することが出来ます。

志賀さん、昨日の『朝日新聞』さんで大きく取り上げられました。東日本大震災後に始まり、その後に発生した災害を含め、全国の「被災地」で暮らす人々にスポットを当てる「てんでんこ」という連載です。
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先週は川内村特集で、11月26日(火)には心平を祀る天山祭り実行委員長の井出茂氏も。
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ところで同番組、訪れるのは東北限定でして、今年2月の第99回で、花巻の光太郎が戦後7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さん、先月の第137回は智恵子の故郷・福島二本松の観世寺さんと智恵子生家/智恵子記念館さんでのロケでした。

二本松でのお二人の吟の一部。022

又吉さん。
 自力ではなく風に流されていく蜻蛉(とんぼ)
 鬼婆の話を聞く残暑
 不安も混乱も紙絵の川に流す
 和紙に福島の風を込める
 手漉きの和紙のごとく繊細に触れる


せきしろさん。021

 鬼婆も過ごしただろう穏やかな午後
 鬼婆カレーを食べる晩夏
 儚さが充満している額たち
 本当の空を見上げてみる
 レモンの色を探している自分がいる


次回は心平がらみの句を期待しています。

同一映像の使い回しと思われますが、もう1件。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2024年12月6日(金) 17:56〜19:00

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

「二人の星をさがそうよ」田辺靖雄     「ウェディング・ドレス」九重佑三子
「ごめんねチコちゃん」三田明       「智恵子抄」二代目コロムビアローズ
「東京の灯よいつまでも」新川二朗     「桑港のチャイナ街」渡辺はま子
「長崎の鐘」藤山一郎           「別れのブルース」淡谷のり子
「イヨマンテの夜」伊藤久男        「温泉芸者」五月みどり
「お座敷小唄」松平直樹          「浮世街道」畠山みどり
「幸せなら手をたたこう」ボニージャックス 「ラ・ノビア」ペギー葉山
「恋をするなら」橋幸夫          「愛と死をみつめて」青山和子

<司会>合田道人

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

今後大いに書くつもりでゐます、行けるところまで行きたい、出来る限り踏み込みたいと考へてゐます、


昭和25年(1950)8月3日 伊藤信吉宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、老いてなお盛んですね。

過日、「令和6年度荒川ふるさと文化館企画展 鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」のレポートの中でちらっとふれました、光太郎の父・光雲原型による長尾精一胸像再建につき、『朝日新聞』さんが千葉版で取り上げて下さいました。

「千葉医学」礎築く 81年ぶり胸像再建 大学の前身校 初代校長・長尾精一さん

 千葉大学医学部の前身校で初代校長を務めるなどした長尾精一さん(1851~1902)の胸像が、同大亥鼻キャンパス(千葉市中央区)の旧正門近くに81年ぶりに再建され、17日に除幕式が開かれた。
 長尾さんは現在の香川県出身で、東京大学医学部を卒業、1880(明治13)年に千葉の病院に着任し、千葉大医学部の前身となる県立千葉医学校の校長や、千葉医学専門学校と改称された同校の初代校長を歴任するなど、「千葉医学」の基礎を築いた。
 1911(同44)年に、近代彫刻の巨匠、高村光雲が手がけた胸像が大学構内に建立されたが、太平洋戦争中の43(昭和18)年に軍事資材として供出され、台座のみが残っていた。
 今年、千葉大医学部と病院の創立150周年を迎えるのに合わせ、医学部の卒業生でつくる「ゐのはな同窓会」が、千葉市立郷土博物館に保存されていた原型の塑像(そぞう)をもとに胸像を再建することになった。
 胸像はブロンズ製で台座を含めると高さ約4㍍。除幕式には同窓会員や大学関係者ら約50人が参列した。長尾さんの親族も出席し、ひ孫にあたる長尾誠之(まこと)さん(81)=東京都=が「このように立派に復元され、ありがたく感激している」と謝辞を述べた。
 ゐのはな同窓会の吉原俊雄会長(72)は「記念の年に復元できてよかった。千葉大医学部の基礎を築いた功績を多くの人に伝えたい」と話した。


そもそも当方、元の像がかつて存在したことも知りませんでした。そこで、この手の像の図鑑的な豪華本『偉人の俤(おもかげ)』(昭和3年=1928)という書籍にあたってみたところ、光雲の名は記されておらず、原型作者は「阿部胤斎」となっていました。
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「阿部」は「安部」の誤記で、「安部胤斎」は鋳金師。鋳造を手がけたという意味では作者の一人ですが、原型まで作っていたとは考えにくいところで、やはり光雲で間違いないのだろうと思われます。安部は光雲作品の鋳造を多く手がけていますし。おそらく千葉大学さんの方では詳細な記録が残っていて、光雲の名が記されていたのでしょう。
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それにしても、よくぞ塑像原型が現存していたものだと思いましたし、さらに費用もかかる再建までしてくださったものだと感心しました。

ところで、原型も残っていなければ新たに作り直すしかないわけで、そういう例は数多くあります。例えば光太郎が原型を作ったもので、やはり千葉大学さんがらみの「赤星朝暉胸像」(昭和10年=1935)。千葉県立松戸高等園芸学校(現・千葉大学園芸学部)に据えられましたが、これも戦時供出で失われ、光太郎が保管していた原型も昭和20年(1945)の空襲で焼失。戦後、光太郎とも交流のあった彫刻家・武石弘三郎が作り、新潟に建てられた像の原型を使って再建されました。ところが、千葉大学さんのHPでは現在の像の説明として「彫刻家・高村光太郎(詩人としても有名)に製作を依頼。鋳造は東京美術学校教授だった弟の高村豊周が担当し、1936年に完成したのが、この胸像です」と誤記。こちらは大学にきちんと記録が残っていなかったのでしょうか。

同じく光太郎原型の「浅見与一右衛門銅像」(大正7年=1918、岐阜県恵那市)。こちらも供出、原型も喪失のパターンで、現代の作家さんが残された写真を元に再現しました。

逆に、今回同様、奇跡的に原型が残っていてそれを元に完全復元されたのは、光雲作の「広瀬宰平像」。長尾精一胸像ともども、稀有な例です。

同じ千葉県内ですので、キャンパス内に入れてもらえるのであれば、近々見に行こうと思っております。その際にはまたレポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

今日彫刻界がどのやうになつてゐるのか、一度見たい気もしますが、又行く気も出ません。木内さんといふ人の作はどんなのか、ノグチさんのモダニズムはどんなのか、一寸興味をひきます、


昭和25年(1950)7月17日 西出大三宛書簡より 光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の山小屋に隠棲して5年近く。中央の彫刻界とは疎遠になっていた光太郎。それでもこの頃ブイブイ言わせていた新進の木内克、イサム・ノグチらの動向は気になっていたようです。

11月23日(土)、都内3ヶ所を巡りましたが、まず最初に訪れたのが荒川区の荒川ふるさと文化館さん。こちらで「令和6年度荒川ふるさと文化館企画展「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」」が開催中です。

「銅像」「近代」とくれば、光太郎や光太郎の父・光雲、もしかすると光雲三男にして光太郎実弟の豊周にも関わるかと思っていたのですが、ネット上の情報ではそのあたりが不分明で、事前にはご紹介していませんでした。

そこで突撃取材。
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事前に得ていた情報では、荒川区日暮里周辺には鋳造工場が多く、近代の銅像にはこの地で鋳造されたものが少なからず存在し、それぞれの工場の職人にスポットを当てる展示とのこと。

銅像の場合、一般の認識はまず「誰の姿をかたどった像であるか」。「西郷隆盛の像」「楠木正成の像」というふうに。多くはそこで終わってしまいます。一定以上の興味を持つ人々は「原型の彫刻作者は誰か」まで考えます。まぁ、普通はせいぜいここまでですね。「鋳造を誰が手がけたか」まで気にする人はほとんどいません。そこまでの情報もあまり公表されておらず、当方にしたところで、銅像ではない彫刻作品であっても、光太郎や光雲が原型を作ったものの鋳造者がそれぞれ誰であるか、そのすべてを把握しているわけではありません。

ちなみに光太郎のブロンズは、光太郎生前であればその多くは実弟の豊周が手がけ、戦後は豊周弟子筋の齋藤明、西大由などの手になるものが目立つ感じです。光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」「楠木正成像」などは、岡崎雪声。彼等は他人の彫刻原型を鋳造することもしましたが、自分でもオリジナルの鋳金作品を制作発表し、その方面で名を成している人々です。

今回の展示はそういった面々ではなく、純粋な「職人」がメイン。「名も無き」というと失礼ですが、いわば「地上の星」のような存在です。

まず館内に入ると、受付より手前のロビーにパネル展示。日暮里に工房を構えた職人達の手がけた銅像の写真と、関わった職人達の名。
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全く不勉強だったと反省させられました。恥ずかしながらほとんど名を存じませんでした(一人二人、何となく記憶の底に引っかかる名はありました)。原型制作者の彫刻家はもちろん知っていましたが。

このコーナーを過ぎ、受付で観覧料100円(もっと取っていいよ、という感じですが(笑))を払い、展示室内へ。

彼等が関わった「銅像」に関してのパネル展示がメインでしたが、一部、銅像ではない小品で実際の鋳造作品も並んでいました。また、古書籍や文書等も。

ざっと見たところ、光太郎や豊周の名は見つかりませんでしたが、光雲の名はあちこちに。
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昭和3年(1928)に刊行され、全国の銅像について写真入りで紹介している『偉人の俤(おもかげ)』という書籍。「西郷隆盛像」「楠木正成像」、ともに鋳造者としては岡崎雪声の名が伝えられていますが、その助手として働いたのが日暮里に工房を構えていた平塚駒二郎という職人だったそうです。特に西郷像の方は校長の岡倉天心がバッシングされた美術学校騒動で岡崎が連袂辞職してからは、平塚が中心になって進められたとのこと。全く存じませんでした。
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秋田の千秋公園にかつてあった佐竹義堯像。こちらは安部胤斎という職人が鋳造したそうです。

購入した図録によると、安部は光雲作品の鋳造を他にも手がけています。そのため、安部の名だけは何となく記憶に残っていましたが、あれもこれも安部の鋳造だったか、という感じでした。
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左は福井にあった大和田荘七銅像。ちなみに大和田荘七は俳優の大和田伸也さん・貘さんご兄弟のご先祖様です。右上でトーハクさん所蔵の銅製聖徳太子像

右下の長尾精一像は、佐竹像、大和田像同様、戦時の金属供出で失われましたが、光雲による塑像原型が残っていたことがわかり、つい先日、千葉大学さん亥鼻キャンパス内に再建されました。画像はX(旧ツイッター)投稿から。
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キャンパス内に入れてもらえるのであれば見に行こうと考えていた矢先でしたので、実に驚きました。

下は安部に関する展示パネル、それから図録表紙。
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図録はほぼほぼオールカラー100ページ近くで、何と510円。情報量満載で実にお買い得です。

詳しく経緯が書かれている、仙台青葉城に立つ、かの伊達政宗像も日暮里の「伊藤美術研究所」で鋳造されたことなど、全く存じませんでした。

ただ、この方面、まだまだいろいろ解明が進んでいないようです。「伊藤美術研究所」にしても、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の鋳造を手がけた伊藤忠雄が関わっているはずなのですが、こちらでは伊藤和助という職人に関してがメイン。和助と忠雄の関係など、当方も存じません。和助が先代で、忠雄が二代目なのかな、などと推理しているのですが、そのあたりご存じの方、ご教示いただければ幸いです。

また、図録表紙にも使われ、昭和15年(1940)、皇居ちかくに建てられた和気清麻呂像。こちらの原型は光雲孫弟子の佐藤朝山(のち玄々・本名は清蔵)が作ったはずで、光太郎もこの像を好意的に評したりしていたのですが、今回の展示では佐藤の名が見あたりません。図録にはほんの少し記述がありましたが。
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今後、この方面の研究がもっと進むことを期待します。

さて、展示の概要を。

令和6年度荒川ふるさと文化館企画展「鋳造のまち日暮里—銅像の近代—」

期 日 : 2024年10月26日(土)~12月1日(日)
会 場 : 荒川ふるさと文化館 東京都荒川区南千住6-63-1
時 間 : 9時~17時
休 館 : 月曜
料 金 : 100円

本展では、昭和5年の日暮里町生産品展覧会に出品された獅子形の香炉「獅子(制作年不明)」や堀川次男氏制作の鋳造「堀川子之吉胸像(昭和32年制作)」のほか「伯爵大隈重信閣下御寿像(明治45年制作)」、「工学博士原龍太氏之像(大正3年制作)」、「和気清麻呂像完成記念写真(昭和15年)」の縦4メートルの巨大バナーなどが展示されています。また鋳造家の家に伝わった銅像完成時の貴重な古写真等も展示しています。現在の伝統工芸につながる日暮里にいた鋳造の職人の幅広い仕事ぶりがわかる企画展となっています。

また、「あらかわの伝統工芸—金工・諸工芸—」展(10月11日(金曜)~令和7年3月12日(木曜))とあらわ座市(伝統工芸品の展示・解説・販売)(11月2日(土曜)~4日(月曜・振休))も同時期に開催します(無料)。
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ちなみに別途料金無しで常設展示も拝観可。昔の下町の街並みが再現されており、いい感じです。
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お隣には由緒ありそうな千住天王素盞雄神社さん。
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色づいたイチョウが実に見事でした。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日ラジオで金閣寺全焼の報をききびつくりしました。あの建築は大していいものではありませんが。

昭和25年(1950)7月2日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

言われてみれば、この年だったのですね。

11月10日(日)~18日(月)の日程で開催しました「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。

中野たてもの応援団さん主催で、当方も幹事に名を連ねています中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会の協賛。保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた展示でした。

地味な展示であまり宣伝も行き届かず、大盛況とは行きませんでしたが、それでもそれなりに多くの方にお越し頂き、有り難く存じました。会期中に『東京新聞』さんに取り上げていただいたのも大きかったようです。

個人的にも必死に宣伝しましたところ、旧知の皆さん、SNSで繋がっている方々などの御来臨を賜り、恐縮至極でした。また、新たに人脈を広げることもでき、嬉しい限りです。

関連行事として2本の講演が行われ、その模様がYouTubeに上がっています。SNSにはアップしましたが、こちらのサイトには出していなかったので、貼り付けておきます。

まず
11月10日(日)、劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺……高村光太郎と中西利雄を語る」。



さらに、11月11日(月)、建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」。


アトリエ保存のための一石を投じたことになっていれば、と願っております。

また、来月には中野区役所新庁舎ロビーにおきまして、今回展示したもろもろのうち、解説パネルをセレクトしての展示が行われる方向です。また詳細が入りましたらご紹介致します。

【折々のことば・光太郎】

独学の人は自分免許が危険です、ひとりでいい気になってゐる事が怖いです、

昭和25年(1950)6月17日 多田政介宛書簡より 光太郎68歳

なるほど、肝に銘じます。

3件ご紹介します。

まず、過日ご紹介した浄土宗総本山知恩院秋のライトアップ2024について、11月16日(土)の『読売新聞』さん。

【京の浄土宗・秋】照り映える紅葉心休めて

 古都の山々がようやく、彩りをまとい始めた。
 浄土宗総本山・知恩院(京都市東山区)は、紅葉の名所としても知られる。14日から夜間拝観が始まり、三門や御影堂、大鐘楼などが約800基のライトで照らされる。
 見どころのひとつが、女坂近くの友禅苑。京友禅の祖、宮崎友禅の生誕300年を記念し、1954年に造園された1万2000平方メートルの庭園だ。
 入り口近くの 補陀落池(ふだらくいけ)の中央に高村光雲作の聖観音菩薩立像がたつ。周辺のイロハモミジは色づきが早く、燃えるような紅色が 水面みなも にも照り映える。あでやかさは息をのむほどだ。
 12月1日までの期間中、僧侶から話を聞いたり、念仏をとなえたりする体験などもある。深まりつつある秋に、心を休めるひとときが味わえる。
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画像の美しさが際立っていますね。

彫刻つながりでもう1件、同じく11月16日(土)の『朝日新聞』さん土曜版。イラストレーター・みうらじゅん氏の連載です。

マイ走馬灯 千本日活とヌー銅たち

 「これから京都に行く人にお勧めの場所はどこですか?」
 と今まで何度も聞かれ、その都度、グッとくる仏像のおられるお寺を紹介してきたが、「お寺以外で」と言われると大変困るのだ。
 京都で生まれ育ち、18歳の夏までいたことは確かだけど、僕はみんなが喜びそうな所をほとんど知らない。それでもしつこく聞かれた時は「あくまで僕にとっての思い出深い場所ですよ」と断りを入れてから答えるのが、西陣千本と呼ばれている地帯なのだが、そこにある『千本日活』という映画館にはよくお世話になった。まるで時が止まったようなそのノスタルジックな建物は今でも健在。一見の価値ありと思うのだが、また「それ以外で何か?」と、問われてしまうのがオチだ。
 その路地にひしめく銅像は、右から“サックスを吹くヌー銅”、“ブラウスだけ羽織ったヌー銅”、“十和田湖のツイン・ヌー銅”と、ヌー石“ダビデ像”。そして左右下は映画『少林寺木人拳』の木製のカラクリ人形。そして夕焼け空には、やっぱ『ウルトラセブン』のメトロン星人がよく似合う。

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ヌー銅」、笑えます。

最後は『陸奥新報』さん、11月18日(月)の掲載分。

一流書家の筆の使い方に高校生「すごい」

 日本書道文化協会による書家の高校派遣事業が16日、弘前高校で行われた。現代の言葉を漢字仮名交じりで書く「近代詩文書」の講習が行われ、同校書道部の部員19人が書家の金子大蔵さんら講師に手本を書いてもらい、添削やアドバイスを受けた。
 同事業は日本の書道のユネスコ無形文化遺産登録に向け、若手の育成を目的として同協会が行っている。同校では初めてで、県内で2校目となった。
 金子さんは同協会会員で、日展準役員、毎日展審査会員、創玄展一科審査会員を務めている。今年7月には最年少50歳で第75回毎日書道展文部科学大臣賞を受賞。祖父は「近代詩文書の父」と言われる鷗亭さん、父は毎日芸術賞を受賞した卓義さんと、親子3代にわたって書道に携わっている。
 同日は金子さんの席上揮毫(きごう)から始まった。「持って生まれたものを深くさぐって強く引き出す人」という高村光太郎の詩の一節で、同校の求める人物像でもある言葉をしたため、部員らは一流の書家の揮毫から学びを得ようと熱心に金子さんの手元を見たり、動画を撮ったりした。
 その後2、3年生は金子さん、1年生は助講師で同校OGの今和希子さんにそれぞれ手本を書いてもらって作品制作を行い、金子さんらは部員らが書いた作品の添削や講評を行った。
 部長の小山内実優さん(2年)は「筆の使い方やかすれの出し方がすごかった。言葉の意味に合わせて字の太さや大きさを自在に変えていて、いつもとは違う表現を見ることができた」と語った。
 金子さんは「高校生がどういう言葉を選んで、どう表現したいのか、言葉と対話して一人一人の感性を想像しながら手本を書いた。普段習っている先生とは違う表現に触れることで刺激になって、表現の幅が広がるといいと思う」と期待を寄せた。
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書家の金子大蔵氏、光太郎詩の一節を大書した書を多数展示した「第三回金子大蔵書展-近代詩文書の可能性を探る(高村光太郎の詩を書く)」をやられたこともおありの方です。記事にあるお祖父様の故・金子鷗亭氏も光太郎詩を好んで取り上げられました。

今回、大蔵氏が書かれたのは、「少年に与ふ」(昭和12年=1937)の一節。全文はこちら

今後とも、彫刻に詩に、光雲や光太郎の作品が愛され続けて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

小包拝受、何かしらと思ひましたら好物の食パンだつたので大いによろこびました。それも東京製の本格的な白パンなので早速晩餐に用ゐました、丁度小岩井のバタとオランダのチーズがありましたので、幾年かぶりで本当の洋食をいただきました、


昭和25年(1950)6月5日 小田島喜兵衛宛書簡より 光太郎68歳

「食」がらみの内容なので、昨日ご紹介すべきでした。

春と秋、年2回恒例のイベントの「秋」編です。一昨日には始まっていました。

浄土宗総本山知恩院秋のライトアップ2024

期 間 : 2024年11月14日(木)~12月1日(日)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑 国宝三門周辺 女坂 国宝御影堂 阿弥陀堂(外観のみ) 大鐘楼
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)
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みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
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御影堂(国宝)
寛永16(1639)年、徳川家光公によって再建されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
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大鐘楼(重要文化財)
大鐘は高さ3.3m、直径2.8m、重さ約70トン。寛永13(1636)年に鋳造され、日本三大梵鐘の1つとして広く知られています。僧侶17人がかりで撞く除夜の鐘は京都の冬の風物詩として有名です。
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関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし テーマ『縁に導かれて』
 開始時間:18:00~/18:45~/19:30~/20:15~
 (各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)

月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内!1時間30分たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:水・土・日・祝日
 開始時間:18:00~
 所要時間:約1時間30分
 定員:各回30名様まで
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。
 料金は拝観受付にて現金でお支払いください。

フォトコンテスト
 応募締切:12月4日 (期間中は何度でも投稿が可能です)
 12月中旬に入賞者を知恩院ホームページ、各SNSにて発表!

ライトアップ同時開催企画展示
 『夢中 伝承の川』 11月22日(金) ~ 11月24日(日)
  場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・「華麓庵」
  林 侑子(陶芸家)、REKAO(千代紙)
  京焼・清水焼、友禅和紙 ともに長く受け継がれてきた京都の伝統工芸、
  やきものと和紙が作り出す今の工芸の"二祖対面"。
  孔雀や川をモチーフに表現した作品を展示します。
  REKAOの千代紙を使った御朱印帳を朱印所にて販売します。

 『吉田瑞希×中川彩河 二人展』 11月29日(金) ~ 12月1日(日)
  場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・「華麓庵」
  吉田瑞希(陶芸家)
  「鍾馗(しょうき)」という中国から日本に伝わってきた、
   屋根に佇む魔除けの神様を中心に展示します。
  中川彩河(書道家)
   例年好評の『新年をことほぐ干支色紙』など日常に楽しめる書作品を中心に展示。
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当会としては、光太郎の父・光雲が主任となって東京美術学校として請け負ったブロンズ露座の「聖観音像」のライトアップが推しです。一昨年には、たまたまこの時期にお友達と京都旅行に行った妻に写真を撮ってきて貰いました。

その他、関連行事等も充実。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家はどうしても光線に神経を左右せられがちです、ロダンの彫刻なども光線によつて見違へるやうに変ります。ロダンがバルザツク像は月光の下で見てくれなどとぜいたくな事をいつてゐるのもそのせゐでせう、


昭和25年(1950)6月1日 奥平英雄宛書簡より 光太郎68歳

人工的な光ではありますが、紅葉をバックに浮かび上がる観音像、幻想的なヴィジュアルでしょう。

保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」、折り返しを過ぎまして、今日を含めてあと4日となりました。

初日(11月10日(日))には関連行事としまして、
劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方によるトークショー

その翌日、11月11日(月)には、
建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が行われました。
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内田氏は主にアトリエ設計者である建築家・山口文象に関して。

伊郷氏は施主だった水彩画家・中西利雄と、完成したアトリエについて。
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山口と中西利雄に関しては、当方もあまり詳しくありませんので、実に参考になりました。

下記は展示されているパネルをプリントアウトしたもの。
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展示と言えば、アトリエに関しては詳細な図面等も展示してあります。
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模型も。
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渡辺えりさんとお父さまの光太郎や中西アトリエに関するコーナーも新設しました。
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昨日の『東京新聞』さん。

「存続危機のアトリエ知って」 中野で企画展 18日まで 高村光太郎も晩年滞在

 中野区内に点在するアトリエ建築を紹介する企画展「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」が、中野ZERO西館2階の美術ギャラリー(中野2)で開かれている。18日まで。
 中野には、戦前から若い芸術家らが豊かな風景を求めて移り住み、制作活動の場として多くのアトリエが建てられた。企画展は、アトリエの記録を残そうと、区内で歴史的建造物の保存や調査活動をする市民団体「中野たてもの応援団」が集めた資料など50点を展示する。2019年に続き2回目。
 区内に残る十数ヶ所のアトリエをパネル形式で紹介。中でも大正から昭和に活躍した洋画家で「水彩画の巨匠」と呼ばれた中西利雄(1900〜48年)のアトリエ(中野3)については、写真や図面、模型なども展示して詳しく解説している。
 中西のアトリエは、一方向に傾斜する片流れ屋根の木造一部2階建て。天井が高く、日光が安定して差し込むよう北側に大きな窓があるのが特徴だ。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)が晩年の3年半滞在し、代表作「乙女の像」の塑像を制作した。光太郎をしのぶことができる建築は都内では中西アトリエが唯一とされ、貴重な建築という。光太郎の手紙やデッサンなども並ぶ。
 同団事務局の十川(そがわ)百合子さんは「中西アトリエをはじめ多くのアトリエが所有者が亡くなるなどして存続の危機にある。今も街の中に残るアトリエをギャラリーなどとして活用できたら」と話している。
 入場無料。午前10時〜午後6時(最終日は午後4時まで)。会場では中西アトリエ保存を求める署名も受け付けている。

無題2無題
昨日、といえば、中野区長さんもいらっしゃいました。
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11月18日(月)まで。通常、18:00までですが、最終日は撤収作業のため公開は16:00で打ち切ります。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

イサム ノグチ氏来朝の由で愉快ですがやはり小生は東京へ行けさうもありません。同氏のオブジエは立派だと思ひます。


昭和25年(1950)5月29日 笹村草家人宛書簡より 光太郎68歳

彫刻家イサム・ノグチは、明治37年(1904)、詩人にして英文学者の野口米次郎と、アメリカ人作家レオニー・ギルモアとの間に、アメリカロサンゼルスで生まれました。父は光太郎とも交流があり、後年、ノグチ自身も光太郎の知遇を得ることとなりました。

3歳の時に来日し、幼少期を日本で過ごし、造型作家となることを夢見るようになって、14歳で再渡米、周囲の勧めもあり彫刻の道へと進みます。かつて光太郎が留学中にその助手を務めた彫刻家ガットソン・ボーグラムに弟子入りするも、そりが合わず訣別して独立。パリに留学してコンスタンティン・ブランクーシに師事。その後はニューヨークに拠点を置きつつ、日本を訪れて陶芸を学ぶなどしました。太平洋戦争開戦後は日系人ということで収容所生活も経験。スパイや二重スパイの嫌疑をかけられ、多大な苦労をしたとのこと。

戦後、昭和25年(1950)に再来日し、同36年(1961)まで日本に滞在。その間、李香蘭こと山口淑子と結婚、一時、中西アトリエを借りて彫刻制作を行いました。彫刻以外にもアメリカ時代からインテリアデザインに興味を持ち、日本で丹下健三、谷口吉郎らの建築家と親しく交わって、庭園設計なども行った他、採用されなかったものの広島の原爆慰霊碑の設計にも取り組みます。また、中西アトリエを出て鎌倉に移り、北大路魯山人に陶芸を学んだりもしています。

その後に光太郎が中西アトリエを借りたわけです。

昨日開幕した、保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱの関連行事として企画した、渡辺えりさんと当方によるトークショー的な講演会、「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」。つつがなく終わりました。
10日講演会
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高村光太郎とは何者だ? というような話から、実際に生前の光太郎と交流がおありだった戦時中や戦後の御両親のお話、お父さまが連翹忌や花巻の高村祭にご参加下さったお話、ご自身も小さい頃から光太郎詩を子守唄代わりに聞かされて育ったお話、舞台やテレビで光太郎を取り上げたお話、そして中西利雄アトリエを受け継がれた子息・利一郎氏とのご交流、さらにはその中西利雄アトリエを保存していこうじゃないかというようなお話などなど。

当方はPCでスライドショーの操作をしながらだったので座らせていただきましたが、えりさんはスクリーンの前にずっと立ちっぱなしで熱く語られた約2時間でした。

聴かれた方にはおおむね好評だったようで、胸をなで下ろしております。

ところで、ここで書くべきかどうか……とも思ったのですが、書きます。

えりさん、お母さまがご危篤ということで、故郷の山形に帰ってらしたのですが昨日はこのイベントのために上京。そしてイベント終了後の20時38分、そのお母さまが亡くなったそうです。
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そのお母さまのお話もしていただきました。戦後の昭和25年(1950)11月、若かりしお母さまは蓄膿症の手術を受け、山形の病院に入院されていたそうです。すると、御結婚前だったお父さまが病院の窓から現れ「高村光太郎先生の講演会が山形でこれから開かれるから、聴きに行こう」と、お母さまを病院から半分無理矢理連れ出したとのこと。その講演自体は音響が良くなく、あまり聴き取れなかったそうですが、お母さまもお父さまの影響で、光太郎ファンとなられ、のちに還暦の祝の引き出物には光太郎の詩集『智恵子抄』を皆さんに配られたなどというお話も。

お母さまの最期に立ち会わせて上げられなかったという意味で、えりさんには誠に申し訳ないのですが、それでも、こうして御両親のお話をなさったその日に亡くなられたお母さま、先に逝かれたお父さまともども、きっとえりさんに「よくやった」とおっしゃって下さっているのでは、と思います。

以下は昨日のスライドショーからの画像。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

尚、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」の関連行事としての講演会第二弾、建築家の内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」が、本日18:30~で、アトリエ展会場のなかのZEROさんにて行われます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生明日花巻に出で、明後日役場の二階で美術講話をいたす事になつて居ります、地方に居りますとかやうの事も已むを得ぬ場合が時々ございます、


昭和25年(1950)5月12日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、自分は戦争責任を恥じての蟄居中なので、あまり人前に出るのは気が進まないという感じでしたが、その人品骨柄を慕う人々から「ぜひご講演を」という依頼は引きも切りませんでした。

光太郎が講演を行った当時の花巻町役場の建物、移築されて現存しています。
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保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」、本日開幕です(11月18日(月)まで)。

昨日は会場のなかのZEROさん西館美術ギャラリーにて、展示物の搬入と会場設営を行いました。

作業風景。
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壁面にはパネル展示で、中西利雄ついて、建築としての中西利雄アトリエの解説、中西利雄の没後に貸しアトリエとなってから借りたイサム・ノグチ、光太郎について。
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それから、光太郎をメインに据えて下さると云うことで、中西家からお借りしたものプラス当方手持ちの品々を持ち込みました。
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展示ケースも4台ありましたので、そちらにも。
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彫刻家としての光太郎関連。
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詩人としての側面から。
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中西アトリエでの光太郎。
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他の美術家のアトリエについてもパネル展示で。
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今日は初日ですが、いきなり14:30からこの場で関連行事としてのトークショー「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」を行います。劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方による丁々発止(笑)。

さらに11月11日(月)、18:30~20:30には、建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」。

すべて入場無料です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生ますます山男となり、最低生活をよろこんで居ります、低きに居るものの幸を味つてゐます、


昭和25年(1950)4月27日 宅野田夫宛書簡より 光太郎68歳

言葉通り、上級国民としてではなく、最底辺に近い暮らしから世の中を見つめ続けていました。

2年半後に「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、中野の中西利雄アトリエに入りますが、この時点ではまだそうなることなど夢にも思っていなかったと考えられます。

テレビ放映情報です。

日曜美術館「まなざしのヒント 埴輪」

地上波NHK Eテレ 2024年11月10日(日) 9:00~9:45  
         再放送 11月17日(日) 20:00~20:45 
  
美術の楽しみ方を展覧会場で実践的に学ぶ「まなざしのヒント」。今回のテーマは「埴輪」。現在東京国立博物館で開催中の展覧会には、「挂甲の武人」や「踊る人々」など誰もが一度は見たことのある名品が勢ぞろい。美術の視点で見る埴輪の魅力とは?学芸員の解説を聞きながら井浦新さん、片桐仁さんと一緒にじっくりと鑑賞します。さらに東京国立近代美術館で開催中の展覧会から、埴輪と日本人の深いつながりも紹介します。

出演者
【司会】坂本美雨 守本奈実  【出演】井浦新 片桐仁
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上野の東京国立博物館さんで開催中の「挂甲の武人 国宝指定50周年記念 特別展「はにわ」」がメインのようですが、竹橋の東京国立近代美術館さんでの企画展「ハニワと土偶の近代」も取り上げられるようです。

トーハクさんの展示は国宝の「挂甲の武人」埴輪をはじめ、100体超の埴輪そのものがずらっと並んでいますが、MOMATさんの方は近現代に於ける社会史・美術史上での埴輪の受容のあり方をさぐるもの。コンセプトが異なります。

レポーター的に井浦新さんと片桐仁さん。井浦さんはかつて同番組の司会者でもあらせられ、当方も制作にご協力した平成25年(2013)の「智恵子に捧げた彫刻~詩人・高村光太郎の実像~」のスタジオ収録の際にお目にかかりました。もう10年以上経つかという感じですが。

片桐さんも多摩美術大学さんのご出身で、アートには多摩美術大学さんのご出身で、アートに関して一家言お持ちです。令和3年(2021)に地上波TBSさん系で放映された「マツコの知らない世界」では、大阪御堂筋の光太郎作品「みちのく」(十和田湖畔の裸婦群像のための中型試作)をご紹介下さいました。
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ついでですので「ハニワと土偶の近代」展に関し、『日本経済新聞』さんの記事。

「ハニワと土偶の近代」展 時代の願望を映す古代ブーム

 博物館や教科書で、誰もが見たことがあるだろう。日本の考古遺物のハニワと土偶。実はその造形美に光があてられるのは近代になってからのことだ。戦前・戦後の「古代ブーム」は何を映し出すのか。丹念に検証する展覧会が東京国立近代美術館で開催中だ。
 「ハニワと土偶の近代」展の企画者の1人、花井久穂・主任研究員は2019年に「土を掘り起こす」のテーマでコレクション展示を手掛けた。
 1950〜60年代の日本美術にハニワや土偶など考古遺物のモチーフが数多いことに着目。各地の発掘調査や戦後の復興の過程で数多く出土し、イサム・ノグチや岡本太郎らが再評価した背景を紹介した。戦後にフォーカスした前回展を、戦前、そして現代へと射程を広げたのが本展だ。
 一般の市民には長く忘れられていたハニワや土偶が、日本文化の象徴的存在となる。明治の近代化はそのきっかけの一つだった。
 天皇制の「万世一系」を重要視する明治政府が古墳の調査・発掘を推し進め、日清・日露戦争後の好況下、土地の開発も進み出土が相次ぐ。海外進出をもくろむ日本のイメージアップにも一役買った。10年にロンドンで開催された日英博覧会に関する資料が出品されている。考古遺物を紹介する日本のパビリオンの写真、そして博覧会を記念して発行されたグラフ誌。表紙には笑みを浮かべる巫女(みこ)のハニワと富士山が描かれている。
 12年に明治天皇が崩御すると、古墳にならった伏見桃山陵の築造が京都で始まる。千数百年途絶えていたハニワ作りも復活。彫刻家の吉田白嶺(はくれい)が陵に納める新作ハニワを手掛けた。京都の画家、都路(つじ)華香(かこう)も造営の進捗を伝える日々のニュースに触れていたろう。屛風画「埴輪」は古代の情景を題材にしつつ、現在進行形で起きていたブームの高揚感を伝える。
 戦前・戦中に、ハニワは仏教伝来以前の「純粋」な日本文化の造形ととらえられたという。「われわれの祖先が作った埴輪の人物はすべて明るく、簡素質樸(しつぼく)であり、直接自然から汲み取った美への満足であり、いかにも清らかである」(日本文学報国会の詩部会長を務めた高村光太郎)
 小学生向けの日本建国童話集、皇紀2600年を祝う記念塔の装飾、ハワイの真珠湾攻撃を描いた報国はがきの切手――。社会の隅々にそのイメージが浸透していたことがわかる。蕗谷(ふきや)虹児(こうじ)の「天兵神助」は、戦意高揚の目的で開催された航空美術展の出品作だ。古代の武具を身につけた武人が力尽きた航空兵をひざに抱く。古墳時代に墳墓を守る存在として作られたハニワが、「神国」日本の守護神としてよみがえった一例である。
 シンプルで素朴なハニワや土偶の美は、戦前から戦後を通して芸術家たちを魅了した。斎藤清、猪熊弦一郎、イサム・ノグチ、石元泰博らモダニズムを代表する版画家、画家、彫刻家、写真家の作品が多数、出品されており見どころの一つだ。
 50年代から60年代に制作されたものが多いのには、様々な理由がありそうだ。55年に東京国立博物館で開かれた「メキシコ美術展」は、自国の古代文明や歴史に着想した当時のメキシコの現代美術を紹介。その力強い表現は、古事記を題材にした芥川(間所)紗織ら多くの芸術家を鼓舞した。
 ピカソやマティスがアフリカ美術などを参照したことで、原始の美への注目も高まっていたろう。ハニワの「たくまざる表現」に「世界性」を見いだし、「近代の最高の美」ではないかと猪熊弦一郎は称賛した。
 最終章はサブカルチャーへの広がりにも着目する。66年、武神が登場する映画「大魔神」シリーズ公開。80年代にはNHKの幼児番組「おーい!はに丸」で武人や馬のハニワのキャラクターが人気を博す。SF・オカルトの流行にも押され、「ゆるかわ」なマスコットキャラクターを好む国民に広く受け入れられた。
 対外的な日本のイメージの発信、民族意識や愛国精神の強化、モダニズムとの融合。ハニワや土偶のリバイバルには、それぞれの時代の理想や願望が託された。では幾たび目かの「古代ブーム」ともいわれる今、素朴な造形は何を映し出すのだろう。鋭い問いかけをはらむ意欲的な企画展だ。12月22日まで。
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番組内で、15年戦争時に光太郎が書いた「その面貌は大陸や南方で戦つてゐるわれらの兵士の面貌と少しも変つてゐない。その表情の明るさ、単純素朴さ、清らかさ。これらの美は大和民族を貫いて永久に其の健康性を保有せしめ、決して民族の廃頽を来さしめないところの重要因子である。」といったあたりが紹介されるかどうかというところですが、ぜひご覧下さい。

ところでテレビ番組ついでに、繰り返し放映されているものですが、以下もありますのでよろしく。

10min.ボックス現代文 道程(高村光太郎)

地上波NHK Eテレ 2024年11月13日(水) 06:00〜06:10

中学・高校で学ぶ文学作品の魅力を10分間でコンパクトに解説します。朗読は、元NHKアナウンサーの加賀美幸子さんです。20年近く前に制作されましたが、最新の映像技術により、高画質のハイビジョン映像でお楽しみいただけます。今回は、高村光太郎の詩人としての代表作「道程」。詩の完成までの経緯を紹介するとともに、様々な人に、この詩を自由に解釈してもらい、その人なりの朗読を聞かせてもらいます。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2024年11月8日(金)  17:56〜19:00

「もしもピアノが弾けたなら」西田敏行 「翼をください」紙ふうせん 「夜空」五木ひろし
「さざんかの宿」大川栄策 「ここに幸あり」大津美子 「逢いたくて逢いたくて」園まり
「演歌みち」松原のぶえ 「瀬戸の花嫁」小柳ルミ子
「リンゴの花が咲いていた」佐々木新一 
「津軽恋女」新沼謙治
「北上夜曲」松平直樹 多摩幸子 「荒城の月」ボニージャックス
「智恵子抄」二代目コロムビアローズ 「相馬盆唄」大塚文雄 「大利根月夜」三山ひろし
「潮来育ち」古都清乃 「ミッキーマウス・マーチ」音羽ゆりかご会 「さんぽ」井上あずみ
「INORI〜祈り〜」クミコ 「また逢いませう」畠山みどり
「夜明けのメロディー」ペギー葉山 
「下町の太陽」倍賞千恵子
「あの街に生まれて」西田敏行 「北国の春」出演者全員

【折々のことば・光太郎】

中央公論社か創元社から小生の戦後詩集を単行本として出版する気になりました。

昭和25年(1950)4月18日 宮崎稔宛書簡より 光太郎68歳

若い頃からの詩を集めた選集的なものを除くと光太郎生前最後の詩集となった『典型』を指します。
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昭和22年(1947)に雑誌『展望』に発表した連作詩「暗愚小伝」を含み、戦時中の愚昧だった自己に対する反省、皇国史観からの脱却、世界的視野の獲得といった再生の姿が見て取れます。

以前にも書いた気がするのですが、この『典型』、奥付の発行日が10月25日となっています。遡って大正3年(1914)の第一詩集『道程』も奥付の発行日が10月25日。狙ったのか、偶然なのか、判然としませんが。

昨日は愛車を駆って埼玉県東松山市に行っておりました。市役所さん向かいの総合会館さんで開催中の「彫刻家 高田博厚展2024」を拝観して参りました。高田博厚は光太郎と知遇を得たことから彫刻の道を志し、光太郎もその才能を高く買っていた彫刻家です。
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入口には過去のポスター一覧。
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昨年一昨年は市民文化センターさんでの開催でしたが、今年は第1回の平成30年(2018)からコロナ禍で中断となる前年の令和2年(2020)までの会場に戻りました。
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メインである高田の彫刻群(鎌倉にあった高田のアトリエ閉鎖に伴い、東松山市に寄贈されたもの)以外に、過去2年間は地元の高校生などによる展示品も多く出品され、スペースが多く取れる市民文化センターさんでの開催でしたが、今年はそれがなかったため、元の会場に戻ったようです。あるいは逆に元の会場に戻すために他の出品物を用意しなかったのかも知れませんが。

そんなわけで、今年はこぢんまりとした展示でした。

高田の彫刻群。
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すべてではありませんが、彫刻と、モデルの人物を描いたデッサンが組み合わされており、面白いと思いました。左下はコクトー、右下がロマン・ロラン。
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哲学者・アラン(左下)、マハトマ・ガンジー(右下)。
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鎌倉のアトリエの再現。
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パネルで高田と同市の関わりの紹介。光太郎にも触れられています。
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キーマンは同市の元教育長であらせられた故・田口弘氏。氏は高田との深い交流から、東武東上線高坂駅前の彫刻プロムナード整備などにも尽力されました。

光太郎胸像を含む、その彫刻プロムナードの解説タペストリーも展示。
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光太郎、高田、そして田口氏の関連年譜。
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おおもとは当方が作成したものです(笑)。
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カラーコピーの簡易図録(無料)をゲット。
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ところで昨日は、というか一昨日から今日までの3日間で、同市に於いて日本最大級のウォーキングイベントである日本スリーデーマーチが開催されています。昨日は中日(なかび)でした。そのため市内を歩いている参加者の皆さんが多く、市役所さんの駐車場が閉鎖、駐車に少し苦労しました。
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このスリーデーマーチを同市に誘致したのも田口氏。その裏にはやはり光太郎。右上画像は平成19年(2007)のものです。

ちなみに、そんなこんなのお話を、毎年、同市の生涯学習施設「きらめき市民大学」さんの講座で話させていただいております。今年も9月の末にべしゃくって参りました。この講座と高田博厚展とで、年に2回は同市にお邪魔しています。

スリーデーマーチの混雑と交通規制を避け、往路と違う道で帰ろうとしたら、期せずして市立図書館さんの前に出ました。「ついでだから見ていくか」と、地下駐車場へ。

何を、というと、こちらです。
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田口氏がいわゆる「終活」の一環として、平成28年(2016)に同市へ寄贈した光太郎関連の品々を展示する「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」です。氏の没後、平成30年(2018)にオープン、こけら落とし記念の講演もさせていただきました。
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光太郎からの書簡類(複製)。
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贈られた書(複製)。
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田口氏が集められた光太郎関連のスクラップや、氏が行ったご講演の原稿等。
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このあたりは固定の展示ですが、光太郎著書類は定期的に入れ替えているようです。
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左上は光太郎訳のロマン・ロランの戯曲『リリユリ』(大正13年=1924)。右上はやはりロマン・ロランで片山敏彦訳の『愛と死の戯れ』(同)。光太郎の題字揮毫・装幀です。
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ロダン系で、左から光太郎訳の『ロダンの言葉』(大正5年=1916)、同じく『続ロダンの言葉』(同9年=1920)、光太郎著の評伝『ロダン』(昭和2年=1927)。

ミニ展示ですが、なかなか見応えがあります。

「彫刻家 高田博厚展2024」は今月14日(木)まで。併せてこちらの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」、彫刻プロムナードと、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

十九日には賢治詩碑の除幕式ある由にて招待をうけましたので、是非参列いたしたいと存じますが、久しぶりにて先生はじめ皆様にもおめにかかりたく、十八日午後参邸一泊をお願ひ申上げます。

昭和25年(1950)3月15日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎68歳

「賢治詩碑」は、宮沢賢治が奉職していた花巻農学校跡地(現・ぎんどろ公園)に建てられた「早春」詩碑(左下)。
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やはりこの年、花巻温泉に建てられた光太郎詩「金田一国士頌」を刻んだ碑(右上)と、どうやら同じ石材から切り出された双子の碑です。林檎を包丁でスパッと半分に切った状態を思い浮かべていただけると話が早いのですが、なるほど、二つの碑を碑面で合わせればぴったりくっつきそうです。

智恵子の故郷・福島二本松市の『広報にほんまつ』今月号。大山忠作美術館さんで開催中の「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」が大きく取り上げられています。

まず表紙。
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大山画伯のご息女にして、都内二本松で上演された「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を演じられた一色采子さん。ギャラリートーク風景ですね。

2ページ目、襖絵そのものの詳細な解説。
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3ページ目、今回の展示の舞台裏について。
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自称・無資格キュレーターの当方としては(笑)、興味深く拝読いたしました。

作品の一部をあしらった絵葉書を1年ぶりくらいに引っぱり出してみました。分割民営前の郵政省時代に発行された40円絵葉書10枚セット「みちのくの楓」です。昭和の終わりか平成の初め頃のものと思われます。
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画伯ご自身の書かれた解説によれば、福島市の高湯温泉の楓だそうですが、日光中禅寺湖半の紅葉の色も印象に残り、反映されているとのこと。

最後に(というかブックレット形式としては最初)には、『広報にほんまつ』でも題名が記されている「智恵子に扮する有馬稲子像」。昭和51年(1976)、「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」中の北條秀司作の「智恵子抄」(一色さんの朗読劇もこちらが元です)で智恵子役だった有馬稲子さんを描いた大作です。
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襖絵展期間中は同じフロアの逆サイドの展示室にて公開中。撮影禁止だったので画像はありませんが、制作風景の写真も並べられています。

『広報にほんまつ』を読んで初めて知りましたが、市内の智恵子生家/智恵子記念館や菊人形展などの入場券を提示すると、入館料割引だそうです。

智恵子生家では二階部分の限定公開が今週末及び文化の日の振替休日である11月4日(月)まで。翌11月5日(火)~17日(日)の期間にはライトアップが為されます。襖絵展も11月17日(日)まで。

併せてご観覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

横手では名物のお酒をいろいろいただいたり、秋田美人といはれる此の雪国の娘さんや奥さま連に囲まれて本式の炉辺でお茶料理をいただいたりして愉快でした。

昭和25年(1950)3月15日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、3月10日から12日にかけ、講演のため秋田県の横手を訪れました。秋田美人に囲まれてウハウハだったようです(笑)。

以前から行われていたようなのですが、一昨年までは気づきませんでご紹介していませんでした。今年はこれで項目を立てます。

秋の紅葉ライトアップ&夜間無料開放

期 日 : 2024年11月2日(土)
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 17:00~19:00
料 金 : 無料

本年も一晩だけ、 碌山館をライトアップ✨✨🍁
雨天中止 無料開放
展示室は碌山館のみご覧いただけます。
暖かい服装でお出掛けください。
ぜひお楽しみください📷
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013通常、17時で閉館となる同館ですが、この日に限りそこから2時間延長でライトアップが行われるとのこと。

ライトアップされるのは本館的な碌山館のみ。その竣工(昭和33年=1958)を見ずに亡くなりましたが、この建設には光太郎も力を貸したということで、入口裏側に設置されたプレートには光太郎の名も刻まれています。

ライトアップ時間帯の入場も碌山館のみ。光太郎のブロンズが多数展示されている第1展示棟や他の棟には入れません。入場料がかかりますが閉館前の時間に入場いただければ、他の棟も観覧できますね。

ちなみに弟2展示棟まるまると、第1展示棟の一部では、現代彫刻家の森靖(おさむ)氏の木彫を展示する「森靖展 -Gigantization Manifesto-」が開催中(12/9まで)。
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不思議な魅力のある作品群ですね。

しかし、ライトアップは雨天の場合には中止とのこと。そこで気になる長野県の天気予報を調べてみましたところ……
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「ありゃりゃりゃりゃ」という感じですね。

「一夜限りの」ということでプレミア感を狙ってらっしゃるようですし、日を改めて、というわけにもいかないようで……。その時間帯だけでも奇跡的に雨が上がっていることを期待します。

それにつけても館の建造物自体のライトアップで集客できてしまうところがすごいと思います。うらやましがっている他館のキュレーターさんなども多いのではないでしょうか。岩手花巻高村山荘あたりでもライトアップされるとそれなりに美しいとは思いますが、いかんせん熊の出没多発地帯ですし……。

【折々のことば・光太郎】

小生のその後無事、寒いので元気です。


昭和25年(1950)3月3日 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

「寒いので元気」、一般的な感覚では矛盾していますが、夏の暑さにとことん弱かった光太郎にとっては、やせ我慢でも何でもなくそういうものでした。

2泊3日の行程を終えて、昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻より帰って参りました。都度都度、レポートいたしましたが、書ききれなかった件等を。

10月27日(日)、「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演のため訪れた東北本線花巻駅前のなはんプラザさん。
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午後からの本番に向け、午前中に会場設営を行い、それが終わったところで館内をぶらぶら。すると、一階ロビーでこんな看板を見つけました。阿部正介氏という方の作品だそうで。
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「切り絵「昔の花巻展」」。3階の展示コーナーで開催中とのこと。光太郎が7年間の蟄居生活を送った山小屋・高村山荘もあるじゃん、というわけで、早速拝見に。
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ずらっと10点の色鮮やかな切り絵作品が並んでいました。

雪に覆われた高村山荘。
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よく見ると(よく見なくても(笑))、入口には光太郎の姿も。
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石ノ森章太郎先生の「サイボーグ009」に出てくる死の商人「ブラックゴースト」の首領・スカール(じつは自身もサイボーグで傀儡でしたが)か、と突っ込みたくなりましたが(笑)。
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キャプション。
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他にも光太郎ゆかりのスポットが。

光太郎も愛した大沢温泉さんにかつてあった建造物。
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当方手持ちの古絵葉書。
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今の山水閣さんの新しい建物がある一角だと思うのですが、これが残っていないのは残念です。

光太郎が訪れ、息女・聡子さんのピアノ演奏を聴かせてもらった旧菊池捍(まもる)邸
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光太郎にピアノ演奏を聴かせた聡子さんは、今回の対談のメインテーマ「花巻賢治子供の会」の児童劇で、劇中歌の作曲も担当していました。
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宮沢賢治がらみも。
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帰ってから調べましたところ、作者の阿部正介氏、元は市の職員であらせられたそうで、これまでも同じなはんプラザさんや市内の図書館、宮沢賢治イーハトーブセンターさんなどで作品展が繰り返し開催されていました。

花巻にはこの手の作品の題材となる建造物等がかなり現存していますし、観光推進のためにも、さらなるご活躍を期待したいところです。

ところで、このコーナーの裏側では、こんな催しも。いわずもがなですが、大谷翔平選手は花巻東高校さんのご出身ですので。
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この日は第2戦。
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意外と人がまばらでした。皆さん、ご自宅などでBSの放映をご覧になっていたのではないでしょうか。旅人の当方としてはありがたいところでした。

ちょうど9回表のヤンキースの反撃の場面で、大谷選手、山本投手を擁するドジャースは1点返され4-2、なおも2死満塁のピンチ。「うわぁ~」と思いながら観ました。しかし、最後の打者が中飛に倒れ、「よっしゃ~」。

大谷選手は走塁の際のアクシデントで負傷とのことでしたが、今日も先発出場だそうで、大事に至っていないことを祈念いたしております。

ちなみに花巻の街は、どこへいっても大谷一色。

新花巻駅(左下)。伊藤園さんの自販機(右下)。
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一泊させていただいたホテルグランシェールさんロビー。
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リンゴを買いに立ち寄った道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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肖像権の問題等もあるかもしれませんが、切り絵の阿部正介氏、大谷選手やその先輩・菊池雄星投手らの切り絵も手がけられてはいかが? などとも思いました(笑)。もっとも、すでにやられているかもしれませんが。

以上、花巻レポート補遺を終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生の足のサイズを御記憶ありて心にかけてこの短靴をお探し下さった御厚情に心をうたれました、使用中のもの既に破れはてて居りましたので此の春から早速役に立ち、まことにありがたく存じます、


昭和25年(1950)2月14日 田口弘宛書簡より 光太郎68歳

身長180センチ超と、当時としては大男だった光太郎、足のサイズも昭和5年(1930)のアンケート回答「自画像」には、「十三文半」と書いています。一文が約2.5㌢ですので、おおむね33.75㌢となります。実際にはもう少し小さかったようですが、それでも既製品ではなかなか合うものが見つけられず苦労のし通しでした。

のちに埼玉県東松山市教育長となられた故・田口弘氏。進駐軍の横流し品か何かで大きな靴を見つけ、光太郎に送って下さいました。

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