カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ十和田湖。光と影の明暗が分かれる報道が為されています。「光」の部分は、一昨日お伝えした「第60回記念十和田湖湖水まつり報道」。多くの方で賑わって……というわけで。

「影」の方、ここ数日で、さまざまなメディアが一斉に報じました。一部、ご紹介します。

地元紙『東奥日報』さん。

国立公園・十和田湖の放置遊覧船 青森県が撤去勧告 所有者側への指導26回、対応なく

 十和田湖の宇樽部桟橋(青森県十和田市)に不法係留されている放置遊覧船が横倒しになっている問題で、船を所有する十和田湖遊覧船企業組合(同市、解散)の清算人に対し、県が撤去勧告を出していたことが16日、県への取材で分かった。県がこの清算人に対し、撤去勧告を出したのは初めて。県はこれまで、前段階の撤去指導を26回にわたり行ってきたが、具体的な対応がなかった。
 同桟橋には4隻の遊覧船が不法係留されており、うち1隻が横倒しになっている。勧告は5月30日付で、全4隻を対象に行った。
 県によると、清算人は同組合の関係者で、連絡は取れている。これまで何度も現地に赴き、放置遊覧船の状況は確認しているものの、撤去に向けた動きを見せていないという。
 撤去勧告は強制力がない行政指導。一段階上の撤去命令は強制力が生じる行政処分で、県港湾空港課の担当者は「まずは相手の対応を見極めたい」と話した。
028
RAB青森放送さんのローカルニュース。

「使わなくなったものはきれいに…」十和田湖観光への悪影響を“懸念” 不法係留の放置遊覧船に「撤去勧告」も所有者側は対応とらず… 青森県十和田市

十和田湖で不法係留されている4隻の遊覧船です。県が所有者の清算人に5月30日付で撤去勧告を出しました。
020
十和田湖宇樽部地区の桟橋に不法係留されている4隻の遊覧船について、県は所有者で2016年に事業を停止した「十和田湖遊覧船企業組合」の清算人に対して、5月30日付で「撤去勧告」を初めて出しました。
021
4隻は2015年から不法係留され、県はこれまで26回にわたり「撤去指導」を行ってきました。県は勧告で速やかな撤去を求めていますが、撤去勧告に強制力はありません。
022
ことし2月には雪の重みで、4隻のうちの1隻「第3十和田丸」が横転し、今もロープで固定されシートが被せられています。
023
十和田湖では、きのうまで夏の観光シーズン幕開けとなる十和田湖湖水まつりが開かれ、多くの観光客が訪れていました。
024
観光関係者は景観や環境面でも悪影響を与えかねないとして、早期撤去を求めています。
027
★十和田奥入瀬観光機構 安藤巖乙事務局次長
「十和田湖の美しい景観を守るために、放置遊覧船だったりとか休屋地区の廃屋もそうですけど、使わなくなったものはしっかりきれいになっていくといいなと思っています」
025
★県港湾空港課 橋本公学課長
「所有者側に対してはこれまで撤去指導を行ってきたところですが、現状対応が取られていないということを踏まえて、一歩踏み込んだ撤去勧告を発出した」
026
県によりますと、いまのところ組合から勧告の求めに応じる連絡はないということです。

全国ニュースでも。FNNさん系のテレビニュース。

まるで“船の墓場”…横倒しになった船も放置に地元住民「もう何十年も…みっともない」県が撤去指導26回も解決めど立たず 青森・十和田湖

青森県と秋田県にまたがる十和田湖で“廃船群”が問題となっており、なかには横倒しになったままの船もある。青森県は何度も組合関係者に撤去を求めてきたというが、解決のめどは立っていない。
004
横倒しになった船が放置も… 東北地方を代表する観光名所の一角に広がる、まるで船の墓場のような光景。
006
船体はさびだらけで、クモの巣も張り放題。さらには横倒しになったままの船もあった。
007
地元住民は「10年もこうほっぽり投げられるんじゃ、置かれた方はたまったもんじゃないですよ」と話す。
008
廃船群が問題となっているのは、青森県と秋田県にまたがる十和田湖。十和田湖は世界でも珍しい「二重カルデラ湖」で、周辺の木々とともに織り成す自然の造形美は東北きっての観光ポイントとして知られている。
009
010
約10年間、不法係留状態の船 そうした十和田湖の観光に欠かせないのが遊覧船なのだが、青森県側のある桟橋に行ってみると、放置された船があった。船体に書かれた文字が一部読み取れないほどはがれた塗装。船の至る所が汚れとサビにまみれ、長年人の手が入っていない様子がうかがえる。

付近の住民:
もう何十年もこのままですから、みっともないですよ。(観光の)お客さんにも申し訳ないなと思って。
012
この桟橋に係留されている5隻のうち4隻が、約10年もの間、不法係留状態。この4隻はかつて地元の企業組合が遊覧船として使用していたが、その組合はすでに解散済みだという。
013
地元住民は、「どうにもならない。完全に撤去するしかないでしょ」と話していた。
014
青森県はこれまで、組合の関係者に何度も撤去を求めてきた。
015
青森県 港湾空港課・橋本公学課長:
これまで26回ほど指導をしております。先方からは前向きな回答をいただけなかったと。
016
「朝起きたらひっくり返ってた」
すると2025年、ある異変が起こったという。

FNNのカメラが25年前に撮影していた「第3十和田丸」の塗装作業。この時、船体は光り輝いていた。そして、その「第3十和田丸」の現在はというと、横転してロープでつながれ、シートがかぶせられている。横転直後に撮影された「第3十和田丸」の写真。2025年2月ごろ、大雪の重みに耐えかね、船体が傾いていったのだという。
017
付近の住民:
「この船危ないね」って言ってたらもう本当に斜めになってて、朝起きたら本当にひっくり返ってたんですよね。
018
景観の悪化どころか、周辺の安全にまで大きな影響を及ぼし始めた十和田湖の廃船群。この事態を受け、県は5月末、これまでの指導よりも一段階踏み込んだ“撤去勧告”を関係者に行ったという。ただ、勧告には強制力はない。
019
青森県 港湾空港課・橋本公学課長:
まだ今のところ、先方からの回答はございません。速やかに対応していただきたい、これに尽きるかと。
(「イット!」6月18日放送より)

問題の廃船が放置されているのは、「乙女の像」のたつ休屋地区と、奥入瀬渓流への入口に当たる子(ね)の口地区の中間に位置する宇樽部地区。解散したという組合が運行していた遊覧船は休屋-子の口間を航行する途中で宇樽部の桟橋にも立ち寄っていたと記憶しています。

宇樽部にはキャンプ場があり、また、民家も建ち並んでいます。かつては旅館等もあり、昭和27年(1952)、「乙女の像」設営の下見のため十和田を訪れた光太郎は宇樽部の東湖館という宿に泊まり、智恵子の顔を持つ像を作ろう、と決意しました。その東湖館の建物は平成29年(2017)まで残っていましたが、残念なことに解体。逆に撤去されるべき廃船が繋留されたままだそうで……。
011
廃船の剥がれかけた塗装に「乙女の像」の文字が読み取れるのが悲しい感じです。

ずどんとテンションが下がりましたので、上げます。『朝日新聞』さん、6月14日(土)の東北版。

みちのく歌壇 梶原さい子選

湖(うみ)ひかりふたりの智恵子影為合(しあ)ふ「乙女の像」に姿を化(は)けて (仙台市)大橋勝

【評】 十和田湖の「乙女の像」を詠む。古語の使用が、歌にふさわしいたおやかな風情を増している。


読者短歌の投稿欄から。
001
像の建立に一役買った佐藤春夫が詠ったごとく「あわれ いみじき 湖畔の乙女 ふたりむかいて 何をか語る」という感じですね。

【折々のことば・光太郎】

あの魴鮄が現存してゐる事を確認したのは愉快でした、製作年代の分つたのもありがたく、これで他の木彫の年代もおよそ類推することが出来ます、


昭和29年(1954)3月10日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎72歳

木彫「魴鮄」は大正13年(1924)の作。永らく行方不明でしたが、詩人の宮崎と親しかった材木商・浅野直也がこの年、当時の価格13万円で入手しました。

浅野はやがて中野の貸しアトリエに居住していた光太郎に現物を見せに行き、宮崎は詩「蘭と魴鮄」を書きました。029

   蘭と魴鮄

 花を開き初めた春蘭が
 葉を垂れてゐる鉢の傍へ
 高村光太郎作魴鮄を置いて眺める
 これはいゝ
 思はず自分はさう云ひながらも
 この心に叶つた快さを
 どう説明していゝかは知らない

 魴鮄はその面魂(つらだましひ)を
 それに打ち込んだ作者をさながらに現して
 むき出しにしてゐる
 ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
 きつぱりとそのかたちに切られて
 そして今こゝに
 蘭の薫を身に染ませて

「他の木彫の年代もおよそ類推」とありますが、昭和20年(1945)の空襲で記録類が焼けてしまったためもあるでしょうが、光太郎、意外と自作の制作年代をちゃんと記憶していませんでした。

6月14日(土)・15日(日)に開催され、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為された「第60回記念十和田湖湖水まつり」についての報道をご紹介します。ただし、「乙女の像」ライトアップには触れられていませんが……。

RAB青森放送さんのローカルニュース。

【幻想的】湖畔を彩る350個のランタンと打ち上げ花火…夏の観光幕開けを告げる「十和田湖湖水まつり」が開幕! 青森県十和田市

 夏の十和田湖観光の幕開けを告げる十和田湖湖水まつりが開幕し、訪れた人たちが幻想的な景色を楽しみました。
001
 今回で60回目となる十和田湖湖水まつりは14日開幕しました。
002
 十和田湖畔休屋地区の会場には屋台やキッチンカーが並び、よさこいなどのパフォーマンスで盛り上がりました。
003
004
 午後8時すぎには、願い事を書き込んだバルーンランタンが夜空に放たれました。
005
 小雨が降るあいにくの天気となりましたが、およそ350個のランタンが湖畔を彩り幻想的な景色が広がりました。
008
★千葉から
「とてもきれいでした 幻想的な景色でした 参加してよかったです」
006
最後は200発の花火が打ち上げられ訪れた人たちが楽しみました。まつりは15日まで開かれています。
007
鹿角きりたんぽFMさん。

「湖水まつり」人気定着で人出 十和田湖

 秋田と青森にまたがる十和田湖で「湖水まつり」が14日、2日間の日程で始まり、大勢の来場者でにぎわっています。
 湖水まつりは、観光客を呼び込もうと地元の関係者でつくる団体が開いていて、60回めのことしは去年に続き、観光シーズンの平準化などを目的に以前の日程から1か月前倒しされました。
 今や見ものとして定着したバルーンランタンの打ち上げでは、会場にアナウンスされたカウントダウンとともに、バルーンランタンを購入した人たちが一斉に浮かび上がらせました。
009
 雨の影響で長い間、楽しむことはできなかったものの、オレンジや青のLEDが光るバルーンランタンおよそ400個が夜空に浮かぶ光景はメルヘンチックで、訪れた人たちがうっとりと眺めたり、写真を撮ったりしていました。010
 フィナーレの打ち上げ花火は、あいにくの天候で、打ち上げ地点の近くではほとんど見えませんでしたが、離れた場所で見ている人たちが夏の雰囲気を味わいました。
 弘前市から訪れていた20代の男性は、「花火があまり見えなくて残念でしたが、ランタンが幻想的だった。いい思い出になったし、来年の楽しみもできた」と話していました。
 湖水まつりは5年前のバルーンランタンの導入以降、人気がさらに高まり、近年は大勢の人出でにぎわっています。
 この日もバルーンランタン400個が早々に完売し、名物の「乙女もち」などを販売する屋台やキッチンカーの前に行列ができるとともに、駐車場待ちの渋滞も長くつながりました。
 主催する祭りの連携会議では、「6月の開催でも大勢に来てもらえて、手ごたえをつかんでいる。十和田湖にいろいろな季節に人を呼び込んでいきたい」としています。

「乙女の像」には触れられていませんが、像にちなんでネーミングされたであろう「乙女もち」に言及されています。きりたんぽと同じ味噌ダレがまぶされていて、2人の女人が向かい合って立つ「乙女の像」をイメージ、2個の餅が串に刺さっています。ただ、お店によっては3個ですが(笑)。
014
地方紙で『デーリー東北』さん。

花火やランタン夜空彩る/十和田湖水まつり、15日まで016

 第60回十和田湖湖水まつりが14日、十和田湖畔休屋地区で開幕した。夜は雨が降る中、願い事が書き込まれたバルーンランタンと大輪の花火が打ち上げられ、湖面を彩った。15日まで。
 同まつり連携会議と十和田奥入瀬観光機構が主催。今回も混雑回避や観光時期の平準化を目的に、昨年に引き続いて約1カ月早く開催した。
 日中は郷土芸能などのパフォーマンス披露や、キッチンカーを楽しむ人でにぎわった。午後8時過ぎには、オレンジ色や青色のバルーンランタン約350個が湖岸から一斉に放たれたほか、最後は音楽に合わせて花火200発を打ち上げ。あいにくの雨だったが、夜空を幻想的に染め上げた。 東北町から訪れた会社員中塚巴泰さん(27)は「バルーンランタンがディズニー映画のようで、とてもきれだった」と語った。
015
同じく『東奥日報』さん。

湖水まつり開幕/十和田湖畔休屋

 青森県十和田市の十和田湖畔休屋で14日、「十和田湖湖水まつり」が2日間の日程で始まり、初夏の湖畔が市民や観光客らでにぎわいを見せている。
 初日は歌やダンス、よさこいなどストリートパフォーマンスが行われ、来場者らは肉料理やスイーツなどの屋台やキッチンカーに行列を作っていた。
 夜のイベントはあいにくの天気だったが、家族連れらはひもを使って、願い事を書いたバルーンランタンを飛ばした。
 この日は打ち上げ花火も行われたが、濃い霧と煙でほとんど見えなかった。青森市から家族で来ていた五十嵐敬子さん(68)は「悪天候で残念だったけど、ランタンを一度は飛ばすことができたので願いはかなうと思う」と話した。
 60回目を迎えた今年のまつりは、十和田湖の魅力を世に広めた文人・大町桂月の没後100年を記念して行っている。
011
こちらのみ、「乙女の像」で顕彰されている大町桂月没後100年記念に触れられていました。その活動に同紙も関係しているのかもしれません。

というわけで、「十和田湖湖水まつり」、末永く続いてほしいものですし、当方、一度行っただけなので(「冬物語」等では何度もお邪魔しましたが)、再訪しようかという気になりました。来年以降、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

鋳金代については、県の方へ、貴下のお話通りに二万円程度と話してあります、それも最後的におきめ下さい。又台座、荷造、運賃等は別ですから、その様に御請求を願ひます。出来上りましたら直接貴下から県庁にあててお送り下さい。 小生は青森に行つたら、その時見ます。


昭和29年(1954)2月18日 伊藤忠雄宛書簡より光太郎72歳

伊藤忠雄は「乙女の像」の鋳造を担当した鋳金家。

「乙女の像」本体は前年に除幕されましたが、それとは別に記念として像の小型試作を新たに二体鋳造し、県に贈ることになり、その相談です。この際の小型試作は現在も青森県で所有しています。

たまたまですが、一昨日、Yahooオークションでこれと同型の小型試作が出品されました。平成15年(2003)の新しい鋳造ですが。開始価格18万円。この価格で落とせれば実にお買い得ですが、おそらく競られて上がると思われます。
017

紹介すべき事項が山積しておりまして、雑誌や新聞に掲載された複数案件を。

まずは雑誌『月刊絵手紙』さん5月号。平成29年(2017)6月号から令和2年(2020)3月号まで「生(いのち)を削って生(いのち)を肥やす 高村光太郎のことば」という連載が為されていて、その頃は定期購読していたのですが、連載が終了してから疎遠になっていました。現在は手紙文化研究家・中川越氏の「手紙のヒント あの人に学ぶ親愛の伝え方」という連載が為されていて、近現代の芸術家の手紙等が紹介されています。その中で5月号は光太郎の水彩素描2点を元に「高村光太郎――山のスケッチに対抗して街のスケッチ」というタイトルで書かれています。
001
素描は昭和20年(1945)から7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村山口地区を描いたものと、居住していた山小屋周辺の草花を描いたスケッチ帖から。

山口地区を描いたものの原画は花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されており、時折、展示されています
48ddba32-s
草花の方はチゴユリ。こちらも同館で複製スケッチと描かれた植物の写真とを並べて展示されたりもしました。

中川氏、昨秋、中野区のなかのZEROさんで開催され、当方もスタッフとして毎日詰めていたた中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」にいらして下さり、いろいろお話をさせていただきました。今回以外にも同じ連載などで光太郎に触れて下さっているようで、バックナンバーを探してみます。

中野と言えば……ということで、『読売新聞』さんに6月12日(木)に載った記事。

高村光太郎が晩年を過ごしたアトリエをめぐる文人たちの作品朗読会…7月6日に中野区で開催

 詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年を過ごした東京都中野区のアトリエにゆかりのある文人たちの作品を紹介する「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」が7月6日(日)に中野区産業振興センター大会議室(中野区中野2-13−4)で開かれる。
 同区内の住宅街にある築80年近くの「中西アトリエ」は、水彩画の革命者と言われた洋画家の中西利雄(1900~48年)が終戦後間もなく建てたアトリエで、高村光太郎は56年4月に亡くなるまでの3年半をここで過ごし、青森県十和田湖畔に立つ代表作「乙女の像」の塑像を制作した。
 朗読会では、高村をはじめ、創作活動を通じて交流のあった佐藤春夫や草野心平、太宰治などの詩人、小説家6人の作品を、13人の発表者が紹介する。
 アトリエの保存活動を行っている有志の会の主催で入場は無料。定員は80人で、定員になり次第締め切る。申し込みと問い合わせは曽我貢誠さん(090・4422・1534)まで。メールは sogakousei@mva.biglobe.ne.jp
yomiuri
高村光太郎ゆかりのアトリエ(東京都中野区で)

当方も所属しています「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」主催で来月行われるイベントの予告記事です。
朗読会案内① 朗読会案内②
また追ってご案内いたしますが、女優の一色采子さん、今年の連翹忌の集いで朗読を披露していただいたフリーアナウンサーの早見英里子さんと朗読家の出口佳代さんのコンビには朗読を、フルート奏者の吉川久子さんにはお仲間の方の朗読に乗せて演奏をお願いしてあります。また、詩人で朗読にも取り組まれている方々もそれとは別に。司会は当方です。

ついでですので、もう1件。

直接的には光太郎に関わりませんが、光太郎が終生敬愛していたロダンがらみで、時事通信さん配信記事。

ロダンの「複製」の大理石像、実は本物 1.4億円で落札 フランス

【AFP=時事】フランス人彫刻家オーギュスト・ロダンの複製と思われていた大理石の像が本物と認定され、オークションで86万ユーロ(約1億4000万円)で落札された。主催者が9日、発表した。
 オークション主催者のエメリック・ルイラック氏によると、この像は「Le Desepsoir(絶望)」と題されたロダンの1892年の作品で、1906年のオークションで落札された後、所在が分からなくなっていた。
 ルイラック氏によると、週末に行われたオークションでのスタート価格は50万ユーロ(約8200万円)で、最終的には86万ユーロで落札された。
 像は高さ28.5センチで、女性が片足を両手で持って座っている。
 所有していた家族は長年、複製だと思い込み、ピアノの上の隅に置いていたという。
001
002
003
平成29年(2017)にも同じようなことが、ただしアメリカでありました。その際は大理石のナポレオン像で、今回のものより高額の「400万~1200万ドル」。おそらく大きさの違いもあるのではないかと思われます。

光太郎と同じく、ロダンを敬愛し、というか、弟子とも言える碌山荻原守衛にも「Le Desepsoir(デスペア)」と題する作品があります。光太郎は詩「荻原守衛」(昭和11年=1936)に登場させています。
004
当然、ロダンからのインスパイア、ロダンへのオマージュがあったのでしょう。

ロダン作品に戻りますが、長年、ピアノの上に置いてあった……驚きですね。当方自宅兼事務所を隅々まで探してもそんな凄いものは置きっぱにはなっていないでしょう(笑)。

最後にもう1件、荻原守衛関連です。信州安曇野の碌山美術館さんから、館報の第45号が届きました。ありがたし。
050 052
昨年の第114回碌山忌の際の関連行事「井上涼トークセッション 表現とアイデンティティ☆」の、「びじゅチューン」でおなじみ井上涼氏と同館学芸員・濱田卓史氏による対談が文字起こしされています。光太郎にも触れられていました。

他には以下の目次の通り。
051
同館サイトから全文が読めますが、紙媒体で手許に欲しいという方、同館までお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】049

創元社から「ヴエルハアラン詩集」を届けられました。思つたよりはきれいに出来ました。貴下のお骨折によるものとてありがたく存じました。これらの詩を夢中になつて訳してゐた青年の頃を思ひ出します。

昭和29年(1954)1月10日 
真壁仁宛書簡より 光太郎72歳

「ヴエルハアラン詩集」は、光太郎が青年時代に翻訳し、さまざまな雑誌に発表したり、単行書として刊行された『天上の炎』から抜粋したりで編まれました。奥付は前年12月25日の発行となっています。編集に当たったのが真壁で、真壁は「あとがき」も執筆しています。

最近の地方紙、全国紙から光太郎の名が載った一面コラム等を。

まず『静岡新聞』さん、6月8日(日)掲載分。

大自在(6月8日)杢太郎はどこから来たのか

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」。長い名前の絵画で知られるポール・ゴーギャン(1848~1903年)は昨日、6月7日にパリで生まれた。県立美術館で開催中のコレクション展に、別の作品が出ている▼178回目の誕生日、彼の「家畜番の少女」の前に立った。発色のいい黄、緑、青。光あふれる画面だが神秘的な雰囲気も漂う。都会の退廃を嫌ったゴーギャンはフランス北西部のブルターニュ地方をたびたび訪れ、牧歌的風景を描いた。「家畜番-」も成果の一つだ▼日本で早くから彼を取り上げた美術評論家の一人が、医師、詩人の顔も持つ伊東市出身の木下杢太郎(1885~1945年)である。明治時代末期、欧州帰りの詩人高村光太郎に教わったようだ。セザンヌ、ゴッホらとともに「新印象派」の画家として記述し、10年の詩「異国情調」には名前を引用した▼杢太郎は45年6月上旬、最後の随筆「すかんぽ」を執筆した。すかんぽとはタデ科の植物「スイバ」のこと。「郷里ではととぐさと呼んだ」そうだ▼この年の夏以降、都内で入退院を繰り返し、10月15日に亡くなった。絶筆は原稿用紙16枚足らず。野生のすかんぽを食べた幼少期の回想を起点に、半生を振り返っている▼ふと、思う。80年前のちょうど今頃、杢太郎の頭にはゴーギャンの長い作品名があったのではないか。随筆は自分がどこから来た、何者だったかを確認しているように読める。死期を悟った彼は、自分が「どこへ行くのか」もお見通しだったろう。

雑誌『スバル』や、その寄稿者も数多く参加した芸術運動「パンの会」で光太郎と親しかった木下杢太郎がメインです。日本で早い時期にゴーギャンに注目、それが光太郎の影響だったのだろう、と。あり得る話です、というか、それで正解でしょう。

光太郎のゴーギャン紹介は、木下が編集にあたっていた『スバル』に発表され、日本初の印象派宣言とも称される評論「緑色の太陽」(明治43年)に遡ります。いわゆる「地方色」論争の中で書かれたもので、その国や地域特有の色彩感覚があるのだから、それにのっとって絵を描くべしという石井柏亭らの説に光太郎は真っ向から反対、画家は自分のセンシビリティに従って描かなければいけないし、そうすることで自然と「地方色」が現れるもので、格別意識するものでもない、大事なのは個々の感性だ、というわけです。

 僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従って、芸術家の PERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考へたいのである。
(略)
 僕は生れて日本人である。魚(さかな)が水を出て生活の出来ない如く、自分では黙つて居ても、僕の居る所には日本人が居る事になるのである。と同時に、魚(さかな)が水に濡れてゐるのを意識してゐない如く、僕は日本人だといふ事を自分で意識してゐない時がある。時があるどころではない。意識しない時の方が多い位である。
(略)
 僕の製作時の心理状態は、従つて、一箇の人間があるのみである。日本などといふ考へは更に無い。自分の思ふまま見たまま、感じたままを構はずに行(や)るばかりである。後(のち)に見てその作品が所謂日本的であるかも知れない。ないかも知れない。あつても、なくても、僕といふ作家にとつては些少の差支もない事なのである。地方色の存在すら、この場合には零(ゼロ)になるのである。

その流れの中で、

 GAUGUINは TAHITIへまで行つて非仏蘭西的な色彩を残したが、彼の作は考へて見ると、TAHITI 式ではなくして矢張り巴里子式である。

なるほど、ですね。

紹介すべき事項が山積していますので、この辺で次に。一昨日の『毎日新聞』さん。

余録

半熟の生梅を灰汁(あく)で洗い、古酒、白砂糖と合わせてかめに入れる。年を経たものが最も良い。梅を取り、酒を取りしてどちらも用いる――。江戸時代の博物書「本朝食鑑」が記す梅酒のレシピである▲砂糖が貴重だった時代。庶民には高根の花だっただろう。江戸後期に商品作物としての梅の栽培が盛んになり、徐々に広まったという。今の主流である焼酎を使った梅酒は明治以降に誕生したらしい▲スーパーの青果売り場に青梅が山積みになっていた。氷砂糖と焼酎もそばに置いてある。梅の実が熟す入梅の時期。毎年、梅酒を造る家庭も多いのだろう。物価高騰の折、安価な「キズあり」も問題なく使えるというのはうれしい▲もっとも酒税法の壁はある。アルコール度数20%以上の酒を使って自家消費することが条件。63年前の法改正で、この条件付き容認が明確化されるまでは家庭での梅酒造りは「もぐり」扱いだったという▲「厨(くりや)(台所)に見つけたこの梅酒の芳(かお)りある甘さをわたしはしずかにしずかに味わう」。彫刻家で詩人の高村光太郎は「智恵子抄」の最後に記した。愛妻が残した手作りの味は特別だったのだろう▲本朝食鑑は「食を進め、毒を解す」と効能を記す。クエン酸を含み、疲労回復や血行促進の効果があるらしい。健康志向もあり、メーカー物の高級梅酒はインバウンド客に好評という。温暖化の影響でこのところ猛暑の年が続く。伝統の味を夏バテ予防にも生かしたい。<とろとろと梅酒の琥珀(こはく)澄み来(きた)る/石塚友二>
001 000
関東も梅雨入りが宣言されました。諸説ありますが、「梅の実が熟す頃の長雨の時期」という意味で「梅」の字が使われているというのが一般的ですね。そこでこの時期、今回も引用されている光太郎詩「梅酒」(昭和15年=1940)が時折取り上げられます。

一昨年にはやはり梅酒造りを報じたSBS静岡放送さんのローカルニュースでも。このブログでのその紹介の際、昭和27年(1952)3月、NHKのラジオ放送のため、花巻温泉松雲閣で詩人・真壁仁との対談が収録され、「梅酒」を含む自作詩朗読も録音された件にも触れましたが、その録音に立ち会ったNHKの熊谷幸博アナウンサーの回想を最近見つけました。

 対談の録音は翌朝行なった。この中で高村さんは芸術とエネルギーの話をし、これからの日本人の食物と体質、体力について論じられた。
 さらに私どもは詩の朗読の録音もお願いした。これも快く承諾されて、智恵子抄の中から“千鳥と遊ぶ智恵子”“梅酒”“風にのる智恵子”の三編を朗読された。梅酒のくだりではちょっと涙ぐんで朗読がとぎれた。この感動が伝わって私も涙ぐんだ。

(『日本放送史 下』昭和40年=1965 日本放送協会放送史編集室編 日本放送協会)

実際にNHKさんに残っている音源を聴くと、光太郎、「梅酒」の途中で洟をすすっています。この録音を元に「泣いている」と表現されることがあり、そうであれば非常にドラマチックですが、確証はなかったのでそう断じるのは危険、「風邪でもひいてたのかもしれない」と思っていたのですが、やはり光太郎、涙ぐんでいたとのこと。いい話ですね。

最後に『朝日新聞』さん。6月8日(日)の教育面で、2月2日(日)の一面コラム「天声人語」を問題文に使って漢字の問題。
002
最後に解答が上下反転で書いてありますが、問題文をよく読まない慌てんぼうさんには「こうしん」あたりはパッと「甲信」と出てきませんね(笑)。

さて、一面コラム以外にも光太郎がらみの記事が出ていますので、明日はそのあたりを。

【折々のことば・光太郎】

来年はもうあまり、のんだりたべたりに外出しない事にしました故失礼することもあると思ひますがあしからず、

昭和28年(1953)12月26日 風間光作宛書簡より 光太郎71歳

風間は詩人。前年に生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため中野の貸しアトリエに入って以来、光太郎を呑みに連れ出すことがままありました。しかし翌昭和29年(1954)になったら、外食は自粛、というより、宿痾の肺結核のため、それがもはや厳しいというわけです。

こうして昭和28年(1953)が暮れて行きました。

昨日お伝えした、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ、青森県十和田湖での「第60回記念十和田湖湖水まつり」とも関わる内容で、現地の地方紙『東奥日報』さんの一面コラム。5月30日(金)の掲載分です。

天地人

 十和田市の古木「法量のイチョウ」の枝が今冬の大雪で折れた。心配していたが、十和田古道フォーラム参加者ら約30人と訪れて見上げ、変わらぬ威容にほっとした。
 近くを通る国道102号はかつてなく、奥入瀬川が法量のイチョウ下の巨岩にぶつかって流れる石門状の地形だったという。参詣者は巨岩脇を登って越え、十和田湖に向かった。斉藤利男弘前学院大特任教授は「ここから先は神域」と説明、鈴木健郎専修大教授は「日本の宗教的に、巨岩は神が降りる場所。非常に重要だったことが分かる」と注目する。
 十和田開発の功労者として、1908年に本県に赴任した官選知事の武田千代三郎、文人・大町桂月、法奥沢村長で県議の小笠原耕一が挙げられる。十和田湖畔の「乙女の像」は3人の顕彰で建てられたという。
 武田は十和田湖と奥入瀬を一体ととらえており、自著で十和田湖を詳細に記述。貴重な財産だと説き、自身の着任前に行政が許した伐採等の影響で一部景観が「名勝變(へん)じて凡境と化した」と嘆き、自然破壊行為を厳に慎むよう苦言を呈した。
 斉藤特任教授はさらに、八甲田も含めた一帯が広大な霊場だったと推測する。一時どん底だった十和田湖観光は、歴史を生かした再起のエネルギーが起きている。悠久の歴史を知るにつれ、われわれにこの得難い財産を後世に残す責務があると身が引き締まる。

「乙女の像」の正式名称は「十和田国立公園功労者顕彰記念碑」。昭和25年(1950)に、時の青森県知事・津島文治(太宰治の実兄)の肝煎りで準備委員会が発足、同27年(1952)に正式に「十和田国立公園功労者顕彰会」となり、建設が具体化していきます。コンセプトは十和田湖周辺の国立公園指定15周年の記念と、その指定に功績のあった「十和田の三恩人」、大町桂月・武田千代三郎・小笠原耕一の顕彰でした。
KIMG2447 KIMG2448
004
明治の文豪・大町桂月は、それまで一般に知られていなかった十和田湖の景観美をさまざまな紀行文で広く世に紹介しました。
006
005
明治44年(1911)、それらを読んだ皇太子時代の大正天皇が十和田湖に興味を持ち、当時の青森県知事・武田千代三郎に、北海道巡啓のついでに十和田湖に行ってみたいのだが現地の様子はどんな感じか? と問うたのですが、武田は十和田湖に足を運んだことがなく、ろくに答えられませんでした。それを恥じた武田は、地元の法奥沢村長兼県会議員の小笠原耕一と共に道路整備、国立公園指定の請願等に腐心しました。

昨日お伝えした通り、「十和田湖湖水まつり」は今年が60回の節目の年で、さらに十和田湖の景観美を広く世に知らしめた大町桂月の没後100年記念も兼ねています。

桂月といえば、与謝野晶子が日露戦争に出征した弟・籌三郎の身を案じた「君死にたまふこと勿れ」(明治37年=1904)を痛烈に批判したことでも知られています。
008 007
この当時、光太郎は既に与謝野夫妻の『明星』に依り、新詩社社中の新鋭の一人と目されていました。したがって、桂月にしてみれば憎き晶子の弟分(笑)。その光太郎が時を経て、桂月顕彰の意味合いも含めて「乙女の像」を制作したわけで、そのあたりも念頭に、光太郎自身は次のように語っています。

僕は若い頃大町さんに怒鳴られたりなんかして、よく知つてゐるんだから、貴様こんなものを立てたといつて怒られるだらうといふ事が、頭に出て来て、それでどうも弱つたんです。
(座談「自然の中の芸術」 昭和29年=1954)

ここにはなぜ裸婦像なのか、という問題も含まれています。それについても同じ対談で、

初めは三人の首をといふ事がすぐ頭に出たんですけれども、これは何だか獄門みたいになりますから考へて、止しました。(略)とにかく僕に自由なものをやつていゝと言ふと、大町さんとの関係がなくなつてしまふんですよ。たゞ裸の像では大町さんは寧ろ嫌ひですよ。(略)だからあの時は姑息な事を考へてね、像に木の枝を持たせて、その木を桂の木にしようと思つた。月の桂で桂月を意味するし、そんな馬鹿な事も考へたけれども、段々やつてゐる内に、一切さういふ事を離れちまつて、自分が湖から受ける感じ――桂月さんが湖から受けてあれだけ感動したんだから、自分が湖から受ける感動をそのまま正直に出せば、結局同じなんじゃないか。(略)桂月が草鞋ばきで尻を端折つてあそこを歩いてゐたやうな時の姿をあそこへ置いたら、どんな滑稽か分からない。これはもう恐らくどんなによく拵へてもをかしい。

などと発言しています。

さて、桂月没後100年ということで、十和田や都内でそのあたりの記念行事等も予定されています。その中で、「乙女の像」、さらには像の作られた中野のアトリエの保存などについても、スポットが当たることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

昨夜草野心平さんにあつた処山口での撮影には立合ひたいといふ事でしたが、ブリツヂストンでその費用を果してだすものでせうか、一応貴下から先方の意向をきいてくれませんか、

昭和28年(1953)11月15日 難波田龍起宛書簡より 光太郎71歳

「山口」は前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区。この月25日に帰村し12月5日まで滞在しました。
001
「撮影」はブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」のためのもの。前半は中野の貸しアトリエでの「乙女の像」制作風景などを、後半を旧太田村で撮影しました。

8cebd1ae

光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ、青森県十和田湖からイベント情報です。

第60回記念十和田湖湖水まつり

期 日  : 2025年6月14日(土) 15日(日)
      荒天の場合
       ①6月14日(土)が中止の場合
→6月15日(日)、6月21日(土)開催
       ②6月15日(日)中止→6月14日(土)、6月21日(土)開催
       ③6月14日(土)、6月15日(日)中止→6月21日(土)、6月22日(日)開催
       ④6月14日(土)、6月21日(土)中止→6月15日(日)、6月22日(日)開催
       ⑤6月14日(土)、6月15日(日)、6月21日(土)中止→6月22日(日)のみ開催
       ⑥6月14日(土)、6月15日(日)、6月21日(土)、6月22日(日)中止→湖水まつり中止
会 場  : 十和田湖畔休屋桟橋前 青森県十和田市奥瀬字十和田湖畔休屋486 
問合せ  : 十和田湖観光交流センターぷらっと 0176-75-1531

 遡ること1908(明治41)年夏、高知県出身の文人・大町桂月が、十和田湖をはじめて訪れました。その時に桂月が感じた雄大さや自然の美しさを、雑誌に寄稿したことが、十和田湖を景勝地として世に広めるきっかけとなりました。その後、何度も十和田湖を訪れた桂月。病を悟りながらも最期の地に選んだのも十和田でした。1925(大正14)年6月10日、緑萌ゆる蔦温泉で、56歳の若さで亡くなりました。今年は、その没後100年にあたります。
 大町桂月が世に広めた十和田湖の変わらない美しさ。その美しさを、北東北の夏の観光シーズンの幕開けを飾る花火大会として続いてきた湖水まつりをきっかけに、多くの人に知ってほしい。そうした思いで、記念すべき年の第60回湖水まつりを開催します。
004
十和田の夏を盛り上げるコンテンツ満載!

バルーンランタン
十和田湖の夜空に、願いを込めたランタンを一斉に浮かべましょう。湖面に映る無数の光が、幻想的な景色をつくり出します。バルーンランタンには、お好きな文字やイラストを描いて、世界に一つだけの灯りを届けることができます。
 6/14(土) バルーンランタン 1個あたり 6,600円
 6/15(日) バルーンランタン 1個あたり 6,200円
 50個限定!早期購入で400円引き!
007
メッセージ花火
大切な人へのメッセージを花火と共に贈りませんか?
ご指定のメッセージをアナウンスした後に、花火を打ち上げさせていただきます。
 1玉+メッセージ読み上げ 10,000円
 3玉+メッセージ読み上げ 28,000円
008
ナイトクルーズ
十和田湖ナイトクルーズは年に一度、湖水まつり限定! バルーンランタンと打ち上げ花火を湖上鑑賞してみませんか? 十和田のカルデラに包まれながらの特別な時間を約束します。
 時間:20:15〜
009
今年は屋台コーナーも登場!
時間 : 11:00〜22:00
 キッチンカーコーナー
  うれしいうれしい一品(みたらし団子、わらび餅)
  ほっとまん企画(おつまみセット、チーズセット、生ハム)
  たご助(煮干したご焼き、トルネードポテト)
  豚専門店 いろとん(豚つくね串、じろう串、ホルモン串)
  ナイトマーケット(大分中津からあげ、フライドポテト)
  OIRASETOWADA おまかせKitchen(バラ焼きうどん、わんぱくナポリタン、パフェ)
 露店コーナー
  湖白家(ポテト、チュロス、肉巻、シャーピン)
  和の店(からあげ、オム焼きそば、あげたこ)
  田村商会こなもんや(オムそば、豚まん、たこ焼)
  かばさわ商店(フライドポテト、かき氷)
  鎌田功誠(フルーツ飴、はしまき)
  Enjoyとわだこ(行者ニンニクぎょうざ、日本酒/新政10種・花邑)
  マルショウ(トルネードポテト、肉巻き棒、サツマイモチップス)
  宮本商店(たこ焼き、バナナチョコ)
  メディアサポートシステム(ジャンボ牛串、マシュマロスティック)
   ※()内は主なメニュー

パフォーマンス団体/個人を募集中!
十和田湖湖水まつりでは、音楽、ダンス、郷土芸能など、様々なジャンルからのパフォーマンスを募集しております。
 ◇会 場:桟橋前広場(十和田湖が背景になります)
 ◇特典:カメラマンによる出演写真をご提供
 ◇申込み〆切(第一次):5月16日(金)
  申込み〆切(第二次):5月30日(金)※応募枠に余裕がある場合のみ実施(先着順)
 ◇発表:主催者による簡易審査の結果次第随時

公式サイトに記述がありませんが、問い合わせたところ、夕方から「乙女の像」ライトアップも為されるそうです。下記は過去の画像ですが。
010
今年は湖水まつり自体が60回の節目、さらに十和田湖の景観美を広く世に知らしめた明治の文豪・大町桂月の没後100年だそうで(「乙女の像」は桂月ら「十和田の三恩人」顕彰というコンセプトも含めて作られました)、今回の案内文には桂月についても触れられています。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

十和田湖旅行のかへりに山口にゆくつもりでしたが、青森でいろいろの事をするので相当疲れると思ひ、今度は一旦東京に帰り、少々休んでから、十一月に又あらためて山口に行き大沢あたりで休養したいと思つてゐます、

昭和28年(1953)10月15日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

浅沼政規は、前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。「十和田湖旅行」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式出席のためでした。除幕式に直接関わる書簡が、今のところ発見出来ておりません。
003
012
001
002
遺言はオープンに

昨日は鎌倉に行っておりました。過日ご紹介した鎌倉覚園寺さんでの「後醍醐院法躰御木像 特別開帳」拝観のためです。ご朱印マニアの妻も連れて行きました。

webで予約をしましたが、受付が13:30~13:40の10分間。遅れてはいけませんし、妻は覚園寺さんをはじめ近くの二階堂地区、鶴ヶ岡八幡宮さんを除く雪ノ下地区などの寺社には参拝したことがないというので、そのあたりも廻ろうと早めに行きました。

こちらが覚園寺さん。当方も初めてでした。
PXL_20250601_035345247 PXL_20250601_035524184
PXL_20250601_035404966
特別開帳拝観の前に御朱印を頂き、撮影全面禁止・有料部分の拝観。
002
繁華街からは離れた場所で、静かな雰囲気の古刹。かつて本堂の役割だった的な茅葺きの大きな薬師堂が大迫力でした。こちらのご本尊で一丈(約1.8メートル)はあろうかという薬師如来様、左右の日光・月光菩薩さま、さらに宮毘羅大将以下の十二神将さま。実にエモいお姿でした。

さて、特別開帳拝観。こちらは現在の本堂にあたる愛染堂で。
PXL_20250601_040201410
ご本尊の愛染明王様が修復のためお留守になり、光背と蓮華座はそのまま残っている形で、ぽっかりと空いた空間が寂しい、というわけで、そこに秘仏的な扱いで伝えられてきた光太郎の父・光雲作の後醍醐天皇像を御厨子ごと据え、ご本尊のお留守を護っていただこう、というコンセプトだそうです。

後醍醐天皇像を愛染明王様の代わりに、というのにはちゃんと理由がありました。愛染明王像は基本的に右手に金剛杵、左手に金剛鈴を持ったお姿で表されます(六臂なので右手・左手というと正確には語弊がありますが)。そして後醍醐天皇が愛染明王様を篤く信仰されていたということで、絶対ではないのですが、絵画にしても彫刻にしても、後醍醐天皇像も右手に金剛杵、左手に金剛鈴を持ったお姿で表されることが多く、こちらの像もそうなっているのです。
007 005
006
まったく違う像を愛染明王様の光背と蓮華座に据えるのはお門違いですが、そういうことならそれもありだな、と判断されたとのこと。なるほど、と思いました。

で、光雲作の後醍醐天皇像。7寸ほどの小さなお像でしたが、実に精緻なものでした。他に光雲作の後醍醐天皇像は当方、寡聞にして存じません。しかし、やはり光雲作で多くの類例がある聖徳太子像大聖(孔子)像などと似た感じでした。
008
ただ、量産されたこれらとは異なり、衣の模様の部分には金箔による截金(きりかね)が施され、特注品だったと思われます。

意外だったのは、制作年。聖徳太子像、大聖(孔子)像などは大正から昭和にかけてのものが多いのですが、こちらの後醍醐天皇像は明治26年(1893)の作とのこと。ちなみにこの年は、シカゴ万博に出品された「老猿」(国指定重要文化財)が作られた年です。
12e080e8-s
それから、覚園寺さんのオーダーメイドではなく、昭和に入ってから、同寺が後醍醐天皇ゆかりのお寺でもあるということで、寄進を受けたというお話でした。像自体には光雲の銘は入って居らず(天皇像ということで遠慮した?)、光雲自筆の保証書的な書状が添えられ、コピーを拝見しましたが、斎戒沐浴の上、精魂込めて作りました、的な内容でした。今回の特別開帳のフライヤーにその書状から文字が採られていました。これには気づきませんでした。
fcf303e9 009

像本体は撮影禁止でしたが、特別開帳を申し込んだ参拝者には、画像が印刷されたポストカード大のカードがいただけます。そのまま画像を出さないでくれ、ということなので、モザイクを掛けました。
004 000
右上はご開帳期間だけの限定御朱印です。

というわけで、実に有意義な参拝でした。

ついでというと何ですが、他に巡った御朱印スポット。行程順に。

荏柄天神さん。
PXL_20250601_014619074
境内の「絵筆塚」。河童の漫画家・清水昆氏オマージュで、「フクちゃん」の横山隆一氏らの手で建立されました。ブロンズのプレートには「ドラえもん」の藤子・F・不二雄氏、「ゴルゴ13」のさいとうたかを氏、そして現在朝ドラで注目を集めているやなせたかし氏らのイラスト。
PXL_20250601_014731024 PXL_20250601_014739125
PXL_20250601_014925654 PXL_20250601_014747855
一旦、中心街に戻って鶴ヶ岡八幡宮さん。
PXL_20250601_021134140 PXL_20250601_021253047
段葛の通りで昼食を摂り、鳩サブレを買って(笑)、ふたたび東の方へ。

鎌倉宮さん。
PXL_20250601_033252257
覚園寺さんはこの奥です。

特別開帳は来年1月まで。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

青森へ行つた帰りに山へまゐるつもりでしたが、青森でいろいろな会に出るので疲れるでせうから、今度は帰途山へ寄らずに直ぐ東京にかへり、一旦休んでから又あらためて十一月に山へまゐることにいたしますので、その時お目にかかるのをたのしみに思ひます。


昭和28年(1953)10月11日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

駿河重次郎は、前年まで光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋の土地を提供してくれた、村の長老格の一人。「青森」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式で、10月21日でした。

最初はその帰途に太田村に寄るつもりでしたが、予定を変更、11月に太田村に帰ることにしました。
010

キャラクターデザインの公募です。

商工会キャラクター制作依頼

新しい「智恵子ちゃん」を一緒に作りませんか?/福島県・地元商工会より

■ 募集概要
地元商工会では、これまで活用できていなかった旧キャラクター「ちえこちゃん」をリニューアルし、地元を盛り上げるキャラクターとして生まれ変わらせたいと考えています!
すでに過去に制作された着ぐるみがあるため、髪型や服装の変更にはある程度対応できますが、原型にとらわれず大胆なリデザインでもOK!

■ 「ちえこちゃん」について
智恵子ちゃんは、福島県二本松市出身の詩人・高村智恵子さんをモチーフにしたキャラクターです。
001

■ リニューアルの方向性
 ・ファミリー層や若者向けに親しまれるデザイン
 ・インパクト・ユーモアのある雰囲気
 ・ギャル風、ゆるキャラ風など、個性的なアイデア大歓迎!
 ・旧デザインの要素を少し残していただけると嬉しいですが、大きく変更しても構いません!
■ 募集内容
 ・作成数:1点
 ・デザインサイズ:特に指定なし
 ・カラーイメージ:ピンク系(かわいく、若々しく、女性らしい印象)
 ・納品形式:JPG
 ・用途:チラシ、販売促進用のグッズなど
 ・商用利用:あり
 ・二次利用:未定・相談希望
■ 選考方法
 ・応募時にラフスケッチやイメージ画像(下書きでOK)を添えてご提案ください。
 ・商工会メンバーで検討し、正式にお願いする方を決定いたします。
■ 希望する対応
 ・急ぎのプロジェクトのため、スピード感を持ってご対応いただける方
 ・デザイン作成に不慣れな担当者が多いため、丁寧にコミュニケーションできる方

■仕事の概要
 固定報酬制 10,000円 〜 30,000円
 納品希望日 2025年06月02日
 応募期限  2025年06月02日

ちえこちゃん」は、智恵子の故郷・福島県二本松市のあだたら商工会さんで、平成30年(2018)に制定されたゆるキャラです。
002
X(旧ツィッター)に「ちえこちゃん@福島県二本松市」というアカウントが作られ、智恵子生家や智恵子記念館、都内の福島県アンテナショップなどに出没した様子が上げられていました。
003
ところが、その後、コロナ禍もあり、出番が激減。
004
005
そして要項にある通り「これまで活用できていなかった」という事態に。X(旧ツィッター)投稿も令和4年(2022)を最後に途切れてしまいました。

「もったいないな」と思っていたのですが、このたび元のキャラクターを生かしつつ、新たなデザインの公募を行い「地元を盛り上げるキャラクターとして生まれ変わらせたい」だそうで、喜ばしい限りです。

募集期間が短いのですが(5月27日(火)から始まり明後日〆切)、それでも既に20件近くの応募があったそうです。

「我こそは」と思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

賢治祭も大変さかんだつたと承り、よろこびました、いろんな人からその様子を書いてまゐりました、十月末には小生も十和田にまゐり、帰途花巻に寄るつもりでをります


昭和28年(1953)10月1日 宮沢清六宛書簡より光太郎71歳

「十和田にまゐり」は、智恵子の顔を持つ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の除幕式参加のためです。昭和20年(1945)に岩手に疎開後、「乙女の像」制作のため、前年に東京中野の貸しアトリエに入るまでは、ほぼ毎年参加していた「賢治祭」。現在も賢治命日の9月21日に行われています。

この年、参加出来なかった光太郎ですが、当会の祖・草野心平に托してメッセージを寄せ、当日は心平がそれを代読しました。これまで光太郎生前に活字になった記録が見あたらず、草稿からの収録で『高村光太郎全集』に「一言」の題で収められていましたが、地方紙『花巻新報』に載った会の開催を報じる記事中に全文の掲載を確認しました。

001

『日本経済新聞』さんに広告が出ました。
003
販売元のアートデイズさんで出しているカラーパンフレットがこちら。
001
光太郎の父・光雲の木彫を原型としてブロンズに写した工芸品ですね。新商品かと思いきや、そうでもなく、少し前から販売されているようです。だいぶ以前からというわけでもなさそうですが。

「白象半跏 普賢菩薩(髙村光雲作)」ーー理知の普賢、聖なる白象、 巨匠の妙技をここに

● 作品寸法:高さ21×幅25.5×奥行15センチ
● 材質:ブロンズ(本金粉手彩色仕上げ)
● 題字・落款入り高級桐箱
● 詳細解説書付
● 黒塗り台座
● 価格:220,000円(本体200,000円+税)
● 本品は受注生産ですのでお届けまでにお時間をいただく場合もあります。ご了承ください。

慈愛溢れる菩薩像と生気みなぎる白象。その静と動が織りなす造形の美を、光雲がもてる技の限りを尽くして彫り上げた傑作。まさに近代彫刻の祖・光雲の技を堪能できるブロンズ作品です。どうぞお手許でご堪能ください。

理知の普賢、聖なる白象、 巨匠の妙技をここに。聖獣の象徴といわれる白い象に乗った普賢菩薩。普賢の「普」は、「あまねく」という意味で、ありとあらゆる世にあらわれて、仏の慈悲と理知により、人々を救う賢者であることを意味しています。また、長寿、延命の大きな功徳により、古来より特に民衆の篤い信仰を集めてきました。

作品と桐箱、光雲の落款2つが揃い、光雲原型による真正の作品であることを証明。所定鑑定人である高村家の承認により、作品本体の背部には光雲の落款が写されています。さらに、桐箱の蓋裏には高村家の正式許可を受けた証として、光雲の落款が押印されています。これにより、本品が高村光雲の原型により制作された優れた仕上がりの真正オリジナル作品であることを証明しています。
002
光雲作の普賢菩薩像というのは、記憶にありませんでした。手許にある作品写真集や図録の類を見ても、見落としがなければ普賢菩薩像は掲載されていません。ただ、普賢菩薩の化身とされる「江口の遊君」像は京都の清水三年坂美術館さんに収蔵されており、現物を拝見いたしました。やはり白象に乗っています。
004
昨日も書きましたが、自身が篤く信仰していた観音像だけで生涯に百数十体彫ったという光雲ですので、その他の像を含めるといったいどのくらいその作があるのか、見当もつかない状態で、意外と一般的な普賢菩薩像があっても何ら不思議ではなく、むしろ無い方がおかしいくらいです。

「おやっ」と思ったのは、普賢菩薩さまの髪の毛の処理の仕方。光雲令孫の藤岡貞彦氏から花巻市に寄贈され、花巻高村光太郎記念館さんで2回展示が為された「鈿女命像」とよく似ています。
005
切れ長の目の表現も心なしか似ていますね。

さて、ご興味おありの方、または信心深く普賢菩薩さまを篤く信仰されている方(ちなみに十二支の辰年・巳年の方は普賢菩薩さまが守り本尊という俗信もあります)、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

模様がへなどしてゐたため、メダルの完成が遅れてゐましたが、お話の鋳金家に原型を見ていただいて予算を立てたいので、その鋳金家に小生アトリエまでおいで下さるやう貴下より御通知下さるやうお願ひいたします、


昭和28年(1953)8月31日 牛越誠夫宛書簡より 光太郎71歳

「メダル」は、10月に行われる生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際に関係者に記念品として贈られる「大町桂月メダル」。元々「乙女の像」は、十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念かつ、桂月ら「十和田の三恩人」を顕彰するというコンセプトでした。
006
小品ながら、完成作としては光太郎最後の彫刻作品となりました。

何度も書いていますが「乙女の像」を「光太郎最後の作品」とする記述が、出版されている様々な書籍、ネット上の書き込みなどに溢れかえっていますが、違いますのでよろしくお願いいたします。SNS等でも十和田湖を訪れ、「乙女の像」の写真等アップされている方が時々いらっしゃり、実にありがたいのですが、そこで「高村光太郎最後の作品」と書かれていると、「ちげーよ!」というわけで「いいね」もつけられません。

光太郎の父・光雲作の木彫の特別ご開帳です。

後醍醐院法躰御木像 特別開帳

期 日 : 2025年6月~2026年1月までの日曜日・月曜日
会 場 : 鎌倉覚園寺 神奈川県鎌倉市二階堂421
時 間 : 13:30~
料 金 : 高校生以上2,000円 未就学児を含む子供1,500円
申 込 : 完全予約制 覚園寺HPより

後醍醐天皇御像髙村光雲作特別開帳をいたします。愛染明王さま修繕に伴う初の試みです。

このたび覚園寺 愛染明王像の赤色剥落が目立ちはじめた為、修繕することにいたしました。今回の工期はおよそ一年です。万全なおもどりを、どうぞご期待下さい。愛染堂の中央尊がお留守になる事態の対処を覚園寺役員で話し合い、愛染明王様の留守を護り、皆さまに安心と生きる喜びを感じていただきたいと願い、これまで大切に祈り護持してきた秘仏を開帳することにいたしました。今回開帳いたします尊像は、小さな像ですが、愛染明王さまと同様に金剛杵と金剛鈴をもち、中世の仏教文化にも深く寄与された 後醍醐天皇 御像 髙村光雲 作です。後醍醐天皇は、覚園寺文書巻頭に記されているとおり、覚園寺を勅願所「金剛宝殿」と名付け庇護なさいました。本堂 薬師堂を再建された足利尊氏公とも縁の深い天皇です。時代を拓き悩み戦った人物ゆかりの地 覚園寺で秘仏として大切に護持してきた意義にどうか思いを馳せてご参拝ください。
002
003
観音像だけでも生涯に百数十体彫ったという光雲ですので、その他の像を含めるといったいどのくらいその作があるのか、見当もつきません。中には弟子がおおむね作り、仕上げを光雲が行って光雲の銘が入っているいわゆる工房作も多いのですが。

そこで、「ここにもあったのか」という例があとからあとから検索の網に引っかかります。過日、拝観してきた同じ神奈川県の大山寺さんの三面大黒天像などもそうでしたし、今回の覚園寺さんの後醍醐天皇像というのも、まったく存じませんでした。

さすがに秘仏(厳密には仏像ではありませんが)扱いで、フライヤーにはお厨子画像のみ。それがかえって「これはぜひ見てみたい」と思わせる効果絶大ですね。
001
早速、拝観申し込みを致しました。皆さまも是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

わざわざ御上京来訪されたののにお構ひも出来ず、却て御散財をかけてすみませんでした、 先生におめにかかると山口部落の全貌が眼に見えて来てなつかしい限りでした、いただいた桃をたべながら思にふけりました、 あの日が暑い日の終らしく翌日から急に涼しくなり、しのぎよくなりました、岩手から涼風が来たやうです、

昭和28年(1953)8月26日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

浅沼政規は、前年まで光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。出張か、あるいは夏休みということで上京し、光太郎に会いに来たようです。桃は浅沼が自宅で栽培していたものとのこと。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京しておよそ10ヶ月、そろそろ太田村が懐かしく感じられるようになったようです。

一昨日、六本木の国立新美術館さんでの第120回記念 2025年太平洋展拝観後、品川に足を向けました。次なる目的地は品川駅近くのキヤノン S タワー内にあるキヤノンオープンギャラリー。こちらで「東京写真月間2025 国内企画展 髙村 達 写真展 Re Flowers」が開催中です。
PXL_20250521_025431260 PXL_20250521_025615545
003 PXL_20250521_025648773
髙村達氏は、長男でありながら家督相続を放棄した光太郎に代わって髙村家を嗣いだ光雲三男にして鋳金分野の人間国宝・髙村豊周令孫の写真家です。お父さまの故・規氏も写真家でした。

ここで写真展詳細情報を。

東京写真月間2025 国内企画展 髙村 達 写真展「Re Flowers」

期 日 : 2025年5月20日(火)~6月23日(月)
会 場 : キャノンオープンギャラリー1 港区港南2-16-6 キヤノン S タワー2F
時 間 : 10時~17時30分
休 館 : 日曜日
料 金 : 無料

 本展は写真家 髙村達氏による写真展で21点の作品を展示します。東京写真月間実行委員会が主催する「東京写真月間2025」の国内企画展の一環で、「写真の力で伝えよう 未来に希望を」をキャッチフレーズにSDGsを意識した写真展のシリーズVol.4として開催します。
 なお、本年の国内企画展は「写真で伝えようSDGs」を継続テーマとして、日頃写真を通して様々なアプローチでSDGsを表現している7名の出展者が選出され、都内6会場で写真展を開催します。展示作品は日本写真協会会員を対象にした公募形式で作品を募集しました。いずれも多面的な視点で「SDGs」についての取り組みが表現された写真展です。
 本会場の作品はすべてキヤノンの大判プリンター「imagePROGRAF」を使用してプリントし、展示します。

作家メッセージ
 高精細な表現と長期保存のプリント作品を意識するようになり風景写真と同じくマクロ撮影に興味を持ち、自然の中の緻密な植物の模様や表情をスタジオで撮影した。植物のディテールが撮影できた時、植物に対する興味が深まり散歩をしながら落ち葉やお花など植物を拾いノートに挟んだ。背景も金属の板に模様を描いては削り外で雨や風にさらして錆を繰り返して作りライティングをして僅かな陰影を活かし撮影をしました。今回の「Re Flowers」押し花は自然の中のお裾分けの一部であり今後も撮り続けていきたいテーマです。
004
005
達氏が副会長を務められている日本写真家協会さんとしての「国内企画展 SDGsシリーズvol.4 写真の力で伝えよう SDGs」の一環という位置づけだそうです。

さて、レポートを。
PXL_20250521_032312867
入口から入ると、基本的に会場内は暗く、黒い壁をバックにして各作品にスポットが当てられているという構成。藤城清治氏の影絵のような。と言っても真っ暗というわけではありません。こういうやり方もありなんだな、と思いました。
PXL_20250521_025655368
PXL_20250521_025807887
来場の方に開設されている達氏。この後、当方も詳しく説明を拝聴しました。

基本、風雨に晒して錆びさせた鉄板をバックにし、散ったり朽ちかけたりした葉や花弁などを置いて撮影されているそうです。ものによって拡大率等が異なるようですが、マクロ撮影が中心ですね。そのデータをキャノンさんのプリンタを使って、漆喰をシート状に加工した特殊なインクジェット紙にプリントアウトする「フレスコジクレー」という技法です。それによって顔料が漆喰に浸透して耐久性が増し、褪色が防げるとのこと。中世ヨーロッパのフレスコ画に近いやり方ですね。
PXL_20250521_030735902 PXL_20250521_030807859
PXL_20250521_030749912.MP PXL_20250521_031035984
PXL_20250521_031047668 PXL_20250521_030818340
参観された方から「智恵子の紙絵に似ていますね」という声が寄せられたそうです。なるほど、と思いました。

和紙にプリントされた作品も。
PXL_20250521_030939098.MP PXL_20250521_030950779
実際に上記の方法で制作された作品そのものも1葉、いただいて参りました。ハガキ大の小さなものですが。
006
もはや一般的な「写真」という概念には収まらない感じですね。絵画や彫刻などの世界でも、新しい素材が開発されたり従来見られなかった手法が取り入れられたりと日進月歩ですが、写真の分野でもそうなのだと思いました。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間の絹地の小さい方に「わが山に」のうたを書きました、小包にするのが厄介なので中西さんの奥さまに托しました いつでもお渡し出来ます、


昭和28年(1953)7月29日 奥平英雄宛書簡より 光太郎71歳

奥平英雄は戦時中から交流のあった美術史家。この頃、東京国立博物館に勤務していました。

書もよくした光太郎、奥平には書画帖『有機無機帖』をはじめ、多くの書を進呈しています。「わが山に」は短歌。複数の揮毫例があり、「わが山に」ではなく「吾(われ)山に」となっているものが多く存在します。
9ccc0969
上記は奥平に贈られた物ではありません。「吾山に 流れてやまぬ 山みづの やみがたくして 道はゆくなり」と読みます。

また、「道はゆくなり」が「この道はゆく」、「あしき詩を書く」などとなっている異稿も存在します。

昨日は上京し、都内をふらふらしておりました。今日明日と、2日に分けてレポートいたします。

まず向かったのは六本木の国立新美術館さん。
PXL_20250521_014039090
PXL_20250521_014512942.MP
こちらでは、明治末から大正初めにかけて智恵子が所属していた太平洋画会の後身・太平洋美術会さんの「第120回記念 2025年太平洋展」が開催されています。
000
001
002
智恵子が加入していた太平洋画会は、前身の明治美術会が明治22年(1889)の創設で、明治35年(1902)に太平洋画会と改称、第1回展が開かれました。そして120年前の明治38年(1905)に谷中清水町から谷中真島町に移り、本格的に活動開始だそうです。その年からまだ日本女子大学校在学中だった智恵子が同会に通い始め、正式に加入したのは同校を卒業した明治40年(1907)と推定されています。いずれも日本女子大学校で美術を教えていた松井昇の手引きと思われます。
PXL_20250521_020415842
今回が第120回記念展ということで、そのあたりの歴史に関する展示が為されており、その拝見が大きな目的でした。
PXL_20250521_014707574
PXL_20250521_014729360 PXL_20250521_014800682
幟(のぼり)や看板なども。さらに光太郎と交流の深かった石井柏亭の名も。
PXL_20250521_015005604
ただ、谷中真島町も戦時中の空襲でやられ、現在の西日暮里に移転したためでしょう、戦前の資料などはあまり遺っていないようでした。以前に一度お邪魔して、智恵子の名の載った(「千恵子」と誤記されていましたが)名簿などを見せていただきましたが。

智恵子は明治45年(1912)の第10回展に「雪の日」「紙ひなと絵団扇」を出品。
b5d48ab6-s
ちなみに隣に名のある池田永治は、駒込林町の光太郎アトリエ兼住宅の近くに住み、昭和20年(1945)5月14日(光太郎が花巻に疎開のため出発する前日)、その時着ていたチョッキに光太郎の揮毫を貰った人物です。
a80672d7
智恵子や池田に直接関わる展示物は見あたりませんでしたが。

その後、通常の入選作等の拝見。

「先輩」智恵子の顕彰を様々な方面から行われている坂本富江氏。「会員秀作賞」だそうで、素晴らしい。
PXL_20250521_015058478
PXL_20250521_015235210 PXL_20250521_015243981
能登の桜だそうで、「ほおお」という感じでした。

それから、以前にお邪魔した際お世話になった、同会事務局のお仕事もなさり、同会のX(旧ツイッター)アカウントの「中の人」・松本昌和氏。こちらは「記念賞」とのこと。
PXL_20250521_015319249 PXL_20250521_015325864
西日暮里にある現在の同会研究所の向かいに鎮座まします諏方神社さんが描かれています。

たまたまでしょうが、彫刻の部では「道程」と題された作も。
PXL_20250521_015936783 PXL_20250521_015942728
その他、染織や版画の作品も。

東京展は5月26日(月)まで、その後、福岡、大阪、名古屋に巡回だそうです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日は老人医学の大家である尼子博士に身体検査をしてもらひ、肋間神経痛の治療にかかりました。二三日うちにレントゲン検査をしてもらふことになつてゐます。中々山口に帰れないので困ります。


昭和28年(1953)6月30日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

「山口」は前年まで蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村山口地区。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」完成後は帰るつもりで、ほとんどの家財道具や住民票は残したままでした。

尼子博士」は尼子富士郎。現在の浴風会病院さんの前身である浴風園の医長(のち、院長)でした。かつては駒込千駄木町に住み、その父・四郎は夏目漱石と交流があって、『吾輩は猫である』に「甘木先生」として登場します。富士郎も漱石に中学受験の際に英語の家庭教師をして貰いました。

結局、富士郎の診断は「重度の肺結核」。光太郎の余命、あと2年半余りです。

中野区の桃園区民活動センターで開催されている『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会について、『東京新聞』さんが報じて下さいました。

「水彩画の巨匠」中西利雄アトリエ残したい 中野で有志が企画展 23日まで ゆかりの芸術家や内外装 パネルで紹介

 「水彩画の巨匠」と呼ばれる洋画家の中西利雄(1900~48年)が中野区内に建てたアトリエを伝えるミニ展示会が、近くの桃園区民活動センター(中央4)で開かれている。存続の危機にあり、広く知ってもらおうと企画された。23日まで。
 中西が建てたアトリエでは、詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作。設計は建築家の山口文象で、世界的彫刻のイサム・ノグチが住んでいた時期もあり、芸術家らとのゆかりは深い。
 中西の息子が2023年に亡くなった後、保存活用の在り方が問われてきた。展示会は有志による「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(俳優・劇作家の渡辺えり代表)が主催し、アトリエの内外装やゆかりの人々などをパネル10点ほどで伝える。
 同会の曽我貢誠(こうせい)事務局長(72)は、中西やその家族は積極的に地域の人々と交流し、身近な存在だともした上で、「区民らにアトリエのことを知ってもらいたい」と呼びかけた。
 入場無料。期間中は19日休館。

002
アトリエの歴史や文化的価値を説明する曽我貢誠事務局長=中野区で

先週もこのブログで書きましたが
光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

主に区民の皆さんにそのあたりを周知したいということで、先月24日から、記事の通り桃園区民活動センターさんでミニ展示を行っています。
9538a41e-s

問題のアトリエ、しっかり活用計画を考えて土地ごと買い取って下さるという方(法人さんでも個人の方でも)が現れてくれれば最善です。また、買い取りではなく貸借で、ということも考えられます。活用計画は無理、という場合でも、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」として相談に乗りますし、同会が指定管理者的な立場となることもありでしょう。

現地保存ではなく、土地を提供するので移築して活用したい、というお申し出も次善の策として考えています。その場合、近くであるに越したことはありませんが、たとえ離れた場所であっても、アトリエが烏有に帰すよりはずっとましですし、実際、そうした例も少なからず存在します。

現地やミニ展示をご覧の上、手を挙げて下さる方に現れていただけることを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】002

山口の小屋は駿河重次郎翁に万事まかせて来ましたから多分時々見てくれてゐることと推察します、

昭和28年(1953)5月6日 
宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳

「乙女の像」制作のため、中西アトリエに入って半年余り。その前の7年間、蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋の土地を提供してくれたのが、太田村の長老格の一人・駿河重次郎でした。

上京する際も駿河に小屋の管理を委託、駿河は約束を違えず、湿気のこもる小屋の中に風を入れに行ったりということを怠りませんでした。

さらに昭和31年(1956)の光太郎没後には、宮沢家や佐藤隆房医師、他の村民たちとともに小屋の保存に尽力。そのおかげで小屋は高村山荘として現存しています。

以前にも書きましたが、中西アトリエもそうでなくてはいけないと思うのですが……。

光太郎の父・光雲の木彫が展示されています。

芸術家の目を通した生きものたち

期 日 : 2025年4月25日(金)~8月19日(火)
会 場 : 東石美術館 栃木県佐野市本町2892
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 毎週水曜・木曜 5月31日(土)……貸し切り
料 金 : 大人 1,000円(800円)ペア 1,800円  高・大学生 800円(600円)
      小・中学生 500円(400円)  ( )内団体料金

新緑のあふれる季節。東石美術館ではさまざまな動植物が生き生きと表現された美しい作品を展示いたします。芸術家たちが、何を感じ、どのような想いを込めてこの作品を生み出したのか。 それぞれの作品に込められた物語を想像しながら、生命の多様性とその美しさを感じてください。今回は日本(日本画、洋画、彫刻、彫金)、中国(陶磁器)・中近東(ペルシア陶器)など、各国で創られた多彩な銘品をお楽しみいただけます。
003
光雲の作品は「牧童」(大正9年=1920)。
004
同館の所蔵品で、これまでも繰り返し出品されてきたものです。旧・佐野東石美術館時代に一度拝見して参りましたが、まさに超絶技巧の優品でした。

「旧・佐野東石美術館時代」と書いたのは、昨年、リニューアルされて「東石美術館」と改称が為されたためです。美術館以外にレンタルスペース、広大な庭園などを兼ね備えた複合施設「東石スカイテラス」として整備されました。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

宮崎稔君の死はまことにやむを得なかつたやうに思へます、長い間の胃酸過多症のところへ無茶な酒びたりでしたから胃潰瘍は当然だつたでせう、宮崎君は一種の性格破綻者でしたが魂の純粋さだけは持つてゐたやうです、

昭和28年(1953)5月6日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎71歳

智恵子の姪にして、当時の一等看護婦の資格を持ち、南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取った長沼春子と結婚した宮崎稔が亡くなりました。茨城の素封家だった父・仁十郎ともども、光太郎とは戦前から交流がありました。詩も書いていましたが、その方面ではものにならなかったようです。

光太郎を支える部分も多々あったものの、逆に足を引っ張ることも多く、そのあたりを踏まえて当会顧問であらせられた北川太一先生は、『高村光太郎全集』別巻の光太郎年譜、この年の項に「何かと光太郎の身辺を案じ、一面では光太郎の心労の一因でもあった宮崎稔が胃潰瘍による吐血のすえ四十三歳で没した」と書きました。

昨日は神奈川県と都内をうろうろしておりました。

まずは神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さん。こちらでは、光太郎の父・光雲の手になる秘仏・三面大黒天立像の特別御開帳が行われています。
a1dde4ed-s
002
001
元々の予定では、4月22日(火)の信州安曇野碌山美術館さんでの「第115回碌山忌」に参列後、途中で仮眠し、翌日に中央道から圏央道、さらに東名、新東名と進んで大山寺さんに参拝するつもりでしたが、安曇野で愛車のナビが故障、その際には断念しまして、リベンジです。

昨日は公共交通機関を使って行って参りました。新宿から小田急線で伊勢原駅まで。そこから路線バスで大山ケーブル駅バス停。
PXL_20250513_033226775 PXL_20250513_023117153
あちこちにポスターが。いやが上にも期待が高まります。しかし、バス停からケーブルカーの駅までがけっこうきつい上りで約15分。
PXL_20250513_014253609
PXL_20250513_015540436 PXL_20250513_020130032.MP
平日にもかかわらず、ほぼ満員でした。ほとんどの方は終点まで行き、さらに大山自体に登るトレッキングが目的という感じでしたが。当方は途中の大山寺駅で下車。新緑の参道を歩きました。
PXL_20250513_020437250.MP
駅からは5分ほどで到着。
PXL_20250513_022225211
PXL_20250513_020726674.PORTRAIT PXL_20250513_020733582.PORTRAIT
右上画像に「五月十八日」とあるのは、その日に開山1270年の記念法会が行われるためです。

さっそく拝観料400円也をお納めして、内陣へ。問題の三面大黒天像、撮影禁止とのことで画像が出せませんが、700円也でいただいた御朱印に描かれていました。
003
持物(じぶつ)や衣の紋様など、細部はかなり実物と異なるのですが、まぁ、こんな感じです。

同じ光雲作の三面大黒天像は、信州善光寺さんの仁王門にも納められていまして、持物やポージング等は同じでした。ただ、いろいろ違いもあって興味深く拝見しました。

まず、サイズ。信州善光寺さんの方は七尺五寸とかなりの大きさですが、こちらはおそらくその3分の1と思われます。なぜに3分の1かというと、信州善光寺さんの方も雛形がそのサイズで、そこから星取り法で3倍に拡大、寄木造りで作られているためです。

それから信州善光寺さんの方は、本体、雛形とも彩色が施されていますが、こちらは白木造り。てっきりこちらも彩色仏と予想していましたが、これは外れました。

さらにお顔の感じもかなり異なっていました。信州善光寺さんの方は荒ぶる神である三面大黒天の属性が生かされ、強面(こわもて)の感じですが、こちらは全体にふっくらしたお顔立ちで、どちらかというと通常の大黒天像に近いと思いました。信州善光寺さんの方は、二尊の金剛力士と三宝荒神と共に門を守る役割ですから、邪悪な者を通さないようにということでいかついお顔をなさっているのでしょうし、こちらはそうした役割ではないので柔和なお顔なのかなと思いました。

ちなみに三面大黒天、両サイドのお顔は向かって左が毘沙門天、右が弁財天のお顔です。なぜそのようなお姿かというと、今回の特別御開帳に合わせてアップされた大山寺さんのフェイスブック記事に動画で紹介されていました。
004
いろいろ笑えますが、おおむねそういうことで(笑)。

参拝を終えて、帰途に。往路では背後でしたし、気が急いていたので気づきませんでしたが、ケーブルカーの大山寺駅附近から相模湾が遠望できました。
PXL_20250513_022648121
特別ご開帳は6月1日(日)まで。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

昨日九尺―四尺―六尺の台の模型を四分一に造つてもらつて雛形像をのせてみました。堂々たる台のブロツクに彫像の方が少々負けるやうな感じがします。最後の決定前に一度ごらんを願ひます。

昭和28年(1953)4月3日 谷口吉郎宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関わります。谷口は像を含む現地の設置場所一帯の公園を設計した建築家です。「九尺―四尺―六尺の台」は像の台座で、これも谷口が担当しました。このあたりのバランスも光太郎と谷口、知恵を出し合って考えていたようです。

ちなみに台座に使われてたのは岩手産の折壁石です。翌年の除幕の頃は正しく「岩手産」と報道されていましたが、のちに谷口が「福島産」とあちこちに書いてしまい、それが元で「福島産」と誤って紹介されるのが定着してしまいました。
d479d73c

埼玉県東松山市からの情報を2件。

まずは市民講座です。

文化芸術講座(高坂彫刻プロムナード)

期 日 : 2025年5月16日(金)
会 場 : 高坂丘陵市民活動センター 埼玉県東松山市松風台8-2
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料
対 象 : 市内在住・在勤・在学の人

高坂駅西口の「高坂彫刻プロムナード」を彩る様々な彫刻の作者である高田博厚氏と東松山市の関係についてご紹介します。なぜ、高田博厚の作品が東松山市に集まるのか? 彫刻家・高村光太郎とも関係がある? 
講師 生涯学習部長 柳沢知孝

003
東武東上線高坂駅前から伸びる「高坂彫刻プロムナード」の関係です。

「高坂彫刻プロムナード」は、光太郎と交流があり、光太郎が親友で早世した荻原守衛を除き、ほとんど唯一、高い評価を与えていた彫刻家・高田博厚の作品が約1㌔㍍にわたる道の両側に32体、野外展示されています。
006
光太郎を作った胸像も含まれます。
005
何度も書きましたが、同市の元教育長だった故・田口弘氏が戦時中から光太郎と交流があり、昭和40年(1965)の連翹忌の集いで高田と出会って意気投合、プロムナードの建設につながりました。他にも同市では高田の顕彰活動さまざまに取り組んでいます。そんなこんなのお話が為されるのでしょう。講師は同市職員の柳沢知孝氏。連翹忌の集いのご常連です。

ただ、対象が同市在住・在勤・在学の人に限られていて、少し残念です。改めてフルオープンで聴講を募る機会があるといいかと思われます。

ついでというと何ですが、同市にある原爆の図 丸木美術館さんでの企画展示もご紹介しておきます。

望月桂 自由を扶くひと

期 日 : 2025年4月5日(土)~7月6日(日)
会 場 : 原爆の図 丸木美術館 埼玉県東松山市下唐子1401
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日 
料 金 : 一般 900円、中学生・高校生・18歳未満 600円、小学生 400円、60歳以上 800円

 望月桂(1886-1975)は、日本でもっとも早いアンデパンダン展のひとつとされる黒耀会を結成した芸術家です。黒耀会は、社会の革命と芸術の革命は自由獲得を標榜する点において不可分であると主張した芸術団体です。美術に限らず、文学や音楽、演劇など、さまざまな領域の表現者や労働運動家が参加して1919年に結成されました。参加者の顔ぶれは、アナキズム運動の中心人物であった大杉栄や、社会主義運動の指導者となる堺利彦、民俗学者の橋浦泰雄、演歌師の添田唖蝉坊など、類例のない多彩さでした。表現はあくまで個人のもので他人の評価を前提としないという考えのもと、無審査で誰もが参加できる自由度の高さも重要な特徴でした。1922年頃に解散するまで4度の展覧会を開催し、プロレタリア美術運動の草分けとして評価されています。
 しかし望月の活動はそれだけではありません。黒耀会結成前には一膳飯屋を営み、社会運動家や労働者の集う場を形成していました。1920年代後半には犀川凡太郎の筆名で読売新聞に漫画を描き、その後に平凡社の百科事典の挿絵も手がけました。1938年から39年までは漫画雑誌『バクショー』を主宰し、漫画家の小野佐世男や、東京美術学校で望月の同級生だった藤田嗣治も参加しています。1945年に長野県東筑摩郡中川手村(現・安曇野市)に帰郷後は、地主の立場でありながら戦後の農地改革を先導し、農民運動に尽力しつつ、信州の自然を題材に数多くの風景画を残しました。
 本展は、こうした幅広い活動と、その活動に貫かれた自由と扶助の精神を紹介するものです。開催にあたっては、長年望月を研究してきた二松学舎大学准教授の足立元(美術史・社会史)の呼びかけにより、美術館学芸員や地元地域の関係者、美術・文学・社会運動などの研究者、アーキビスト、ジャーナリスト、編集者らによる「望月桂調査団」が組織され、ご遺族の厚意のもと、3年前から資料調査を進めてきました。特筆されるのは、かねてより望月を敬してやまない風間サチコ、卯城竜太、松田修といった現代アーティストも調査団に参加し、本展のタイトルやロゴマークの考案、展示監修、映像制作といった役割を担うことです。こうした職業的立場を超えた連携による展覧会の立ち上がり方も、黒耀会の精神を今日的な視点から読みなおすための重要な導線となるでしょう。
 望月の掲げる問題意識は、閉塞した日常を生きる私たちにも通じるものです。本展では、油彩画、水墨画をはじめ、デッサンや漫画、さまざまな関連資料など約120点を展示し、その足跡をたどります。
004

望月桂は、東京美術学校(現・東京藝術大学)で光太郎と同級生でした。ただし、その期間は短かったのですが。というのは、光太郎は美校の彫刻科を明治35年(1902)に卒業→同研究科に残り→同38年(1905)9月に西洋画科に再入学→同39年(1906)2月に欧米留学に出発、という流れ。望月は西洋画科に光太郎と同じ明治38年(1905)入学。従って、光太郎と机を並べていた期間は半年足らずでした。ちなみに他の同級生には藤田嗣治、岡本一平らが居ましたし、教授陣には黒田清輝、藤島武二らでした。何とも錚々たるメンバーですね。

会場内にはそのクラスの卒業記念集合写真(明治43年=1910)なども出ているそうです。ただ、中退扱いの光太郎は当然写っていませんが。

卒業後、望月はプロレタリア芸術運動に傾倒することになり、光太郎智恵子と関わりのあった大杉栄・伊藤野枝夫妻らとも深く交流を持ちます。そこで望月が大杉を描いた絵なども展示されています。また、望月が原型制作に協力したと考えられる彫刻家・横江嘉純作の大杉像も。横江は高田博厚ほどではありませんが、光太郎が好意的に評した彫刻家です。

ちなみにこの企画展、共催に信州の安曇野市教育委員会さんが入っています。望月の出身地が東筑摩郡中川手村、現在の安曇野市に含まれる区域だからです。安曇野と言えば光太郎の親友・碌山荻原守衛。中川手村は守衛の出身地・東穂高村とは隣り合わせの場所。そうした部分も興味深いところです。

というわけで、ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

中西さんの画集の予約のお金をお送り下され、感謝しました、お金は中西夫人にお渡ししました、大変よい画集が出来さうです、


昭和28年(1953)3月10日 宮沢清六宛書簡より 光太郎71歳

「中西さん」は中西利雄。光太郎が借りていた中野の貸しアトリエを建てた水彩画家です。戦時中に建物強制疎開で取り壊されたアトリエを昭和23年(1948)に立て直したものの、その年に満48歳で急逝。以後、貸しアトリエとして夫人が運用していました。

中西の画集がこの年5月に刊行されることになり、その予約受付に光太郎も一役買ったようです。発行人は夫人の富江となっており、編集には光太郎とも交流があり、中西と同じ新制作協会を率いていた猪熊弦一郎らが編集に当たっていました。この頃になると終戦直後の極度の物資不足も解消されていたようで、原色版の図版を多く含む豪華な画集でした。定価が3,000円。大卒初任給6,000円くらいの時代です。それをポンと出す賢治実弟・宮沢清六もなかなかの傑物ですが(笑)。
010
009

光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、さらに光太郎終焉の地にして第1回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ。昨年「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存のための活動を続けていますが、もはや猶予がなく、危機的状況となっています。

そのあたり、十和田湖の西半分を有する秋田県の地方紙『秋田魁新報』さんが報じて下さいました。

高村光太郎が過ごしたアトリエ、解体の危機 十和田湖畔「乙女の像」制作

秋田魁新報1 「智恵子抄」などで知られる詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔にある「乙女の像」塑像も制作した東京・中野のアトリエが解体の危機にある。所有者が亡くなり、管理が難しいためで、保存活動に取り組む秋田市河辺出身の曽我貢誠(こうせい)さん(72)=日本詩人クラブ理事、都内住=は「芸術的にも建築的にも文化的にも貴重な施設。ぜひ古里からも関心を寄せてほしい」と話している。
 アトリエは1948年建設で、斜めの屋根と北側に向いた大きな窓が特徴。施主は洋画家中西利雄(1900~48年)で、設計を建築家山口文象(1902~78年)が手がけた。中西は完成を見ずに亡くなったため、彫刻家イサム・ノグチ(1904~88年)や高村に貸し出された。高村は亡くなるまでの3年半を過ごし、代表作となる乙女の像の塑像を制作した。
   一方、建物を管理していた中西の長男利一郎さんが2023年に他界。築70年超で老朽化もあり、解体の話が浮上した。
 立ち上がったのが利一郎さんと交流のあった曽我さん。昨年4月、有志と会を発足し、後世に残すための企画書を作成したり、中野区へ働きかけたりするなど保存活動を活発化させている。会の代表を務めるのは、劇作家で俳優の渡辺えりさん。高村の半生を基にした戯曲を書いた縁などから引き受けたという。
 曽我さんは秋田高から東京理科大へ進み、卒業後は都内で35年間、公立中学校教員を務めた。「戦意高揚の作品を書き、戦後に責任を感じていた高村が、彫刻制作に没頭したのがこのアトリエ。そうした背景、高村の思いを後世に伝えるためにも大切な歴史的遺産」と保存の意義を語る。
 会によると、3月末までに4355筆の署名を集めた。今後、クラウドファンディングも視野に、本県からの協力、支援も期待している。
 署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」から。 問い合わせは曽我さんTEL090・4422・1534

智恵子への愛、像に託す
 東京生まれの高村光太郎は1945年4月の空襲で自宅が被害に遭い、岩手県花巻市へ疎開。戦後、十和田湖畔に設置する記念碑の制作依頼を機に帰郷し、中野のアトリエで暮らした。
 制作に際し、十和田湖を下見して湖の美しさに感動し、2人の女性が向き合う像のイメージを膨らませたとされる。「二体の背の線を伸ばした三角形が『無限』を表す」などの意図があったという。
 余命が長くないことを意識してか、青森県野辺地町出身の彫刻家小坂圭二を助手に雇い、約8カ月で完成させた。生涯をささげた美、妻・智恵子への愛、平和への願いを像に託したとされる。
 制作中、像の顔は白布で覆われた。完成後に「智恵子夫人の顔」と言われるようになったが、高村は「智恵子だという人があってもいいし、そうでないという人があってもいい。見る人が決めればいい」と答えたという。
秋田魁新報3 秋田魁新報2
個人情報保護の観点などいろいろ制約があり、裏話的な部分は活字にできなかったのでしょうが、見出しの通り「解体の危機」に瀕してしまっています。区としては一銭も金は出さないという方向性です。さらに現地にマンション建設計画があり、もはや猶予がない状況です。

何とか現地での保存活用を最優先にしたいのですが、それも不可能なら移築するのが次善の策ということになります。しかし、移築先として適当な土地のめども立っていません。区として用地を提供してくれるということも無理そうです。となると、近くの企業さん、大学さん、或いは篤志の個人の方でももちろん結構なのですが、「土地を提供しましょう」と声を上げていただけるとありがたいところです。貸借でも構いません。最善なのはアトリエ部分の土地を買い取ってくれる法人さん/個人の方が現れてくれ、移築しないですむことですが。ただし、そうなると億単位の金額が必要でしょう。

我々としましては、アトリエの建物を活用して収益を上げられると見込んでいます。その辺りは建築専門の方々にお願いしたりして、決して夢想ではないさまざまな活用案を練ってあります。実際、同じ中野区内の三岸アトリエ、台東区の旧平櫛田中邸などは、レンタルスペースとして運営されています。音楽や各種パフォーマンスの公演、ギャラリー的な活用、映画などのロケやフォトスタジオ的な使い方もなされています。アトリエを建てた水彩画家・中西利雄や光太郎の記念館・資料館的な運用もありでしょうが、それだと収入は限られてしまうので、そうした機能も持たせつつ、レンタルスペースとして活用するのが最善かと思われます。いっそのこと、古民家カフェ的な態様にしてしまう方法もまったく排除はできません。

移築となると、できれば近い場所が望ましいところです。宮沢賢治の羅須地人協会の建物はそんな例で、元の場所から同じ花巻市内の花巻農業高校さんに移築されました(それとても批判があったやに聞きますが)。近い場所ではなく、遠くに移築された例としては、信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)など。これらはたとえ離れた場所でも、建物が残ったという意味では幸いなのでしょう。

変わった例では、建築家でもあった詩人・立原道造の別荘「ヒアシンスハウス」(さいたま市)。立原の生前にはそれが建てられずに終わり、没後に遺された図面を元に建てられました。同様に中西アトリエも図面を元にどこか別の場所に「復元」ということも考えられますが、そうなると価値はだだ下がりですね。まったく何も無くなるよりはましなのかもしれませんが。

最悪の場合、そうした措置がまったく出来ず、何処にも何も残らないというケース。それだけは何としても避けたいところです。

優先順位を付けてまとめます。

 ① 現地で保存して活用していく
 ② 近くに移築して活用していく
 ③ たとえ遠くでも、建物の保存ができるならということで移築して活用していく
 ④ 図面を元に他の場所に復元し活用していく


いずれの場合でも、かなりの金額がかかります。そのため、クラウドファンディングももちろん考えています。しかし、ゴールが定まらないとCFも立ち上げられません。集まった金額によって、上記①~④のどれに落ち着かせるかを決める、というのもありなのでしょうか?

単なる思いつきでなく、「こういう例を実際に手がけた」など、良いお知恵をお持ちの方、ご協力いただけると幸いです。

【折々のことば・光太郎】

只今は一尺五寸の雛形完了、三尺五寸の試作も完了、目下七尺の像にとりかかりつつあります、すべて順調に運んで居ります、


昭和28年(1953)3月5日 浅沼政規宛書簡より 光太郎71歳

中野の中西アトリエで制作していた「乙女の像」の進捗状況です。「七尺の像」が最終完成作です。

浅沼は、中西アトリエに移る前に光太郎が7年間の蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。光太郎没後には、浅沼や宮沢家、佐藤隆房医師、そして旧太田村の村民たちが「高村先生の山小屋を後世に遺さなければ申しわけが立たない」と、お金や労力を出し合い、「高村山荘」として保存、現在も遺っています。中西アトリエもそうでなければならないと考えます。

我々としても「すべて順調に運んで居ります」とご報告できる日が来ることを切に祈っております。

先月12日に開幕した和歌山県立近代美術館さんの「佐藤春夫の美術愛」展。佐藤が所蔵していた美術作品、61件148点の寄贈を受けて開催されています。

開幕前の準備段階で、そのうちの光太郎に関わる出品物について照会があり、分かる範囲でお答えいたしました。すると、その御礼というわけでしょう、同展図録及び招待券等が届きまして、恐縮している次第です。
001
図録は正確には「パンフレット」と銘打たれており、A5判並製の簡易的なものです。それでもオールカラー30ページ、解説も充実しており、いい出来です。

以前にも書きましたが、光太郎作品が2点。油彩の「佐藤春夫像」(大正3年=1914 以前からの寄託品)と、ブロンズの「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)です。光太郎と交流のあった石井柏亭や川西英の作品も含まれ、他に川上澄生、谷中安規、恩地孝四郎、ゴヤ、ビゴーなどのビッグネーム。そして佐藤自身が描いた日本画や油絵。興味深く拝読しました。

同展についてはNHKさん、『読売新聞』さんの報道をご紹介しましたが、『朝日新聞』さんでも光太郎に触れつつ記事にして下さいました。

佐藤春夫ゆかりの版画や絵画を展示 和歌山県立近代美術館

 明治から昭和にかけ、小説や詩などで大きな足跡を残した和歌山県新宮市出身の佐藤春夫(1892~1964)ゆかりの版画や絵画など美術作品を紹介する展覧会「佐藤春夫の美術愛」が、県立近代美術館(和歌山市)で開かれている。6月29日まで。
 主に文学の世界で活躍した春夫だが、「二十のころの希望は文学と美術との二つに分かれていた」と若き日のことを回想している。上京後には高村光太郎と親交を結び、自ら絵筆をとって二科展で連続入選を果たしたこともある。
 同館は昨年度に春夫の遺族から美術作品148点の寄贈を受けたことがきっかけで、初めて企画展を開催した。会場には、高村が描いた春夫の肖像画や、春夫自身が筆をとった油彩画「花」などを展示。春夫と親交が深かった版画家・谷中安規(たになかやすのり)の作品なども並ぶ。
 開館時間は午前9時半から午後5時(入場は4時半まで)。休館日は月曜日(5月5日は開館)と5月7日。観覧料は一般600円、大学生330円。高校生以下、65歳以上、障害のある人は無料。
006
佐藤春夫が描いた「花」、版画家・谷中安規の作品「文豪 佐藤春夫」、高村光太郎が描いた「佐藤春夫像」

同展、6月29日(日)までです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今日は日曜なので少しゆつくりいたしました、なるべく外出もせず、人にもあはぬやうにしてゐます、


昭和28年(1953)2月8日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎71歳

佐藤が青森県と光太郎を仲介し、実現を見ることとなった生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関わります。光太郎にとっては「月月火水木金金、土曜日曜あるものか」でしょうが、雇っていたモデルに対してはそうもいかないようで、この日は制作を休みました。その分、溜まっていた来翰への返信をたくさん書いています。

今月12日に開幕した和歌山県立近代美術館さんの「佐藤春夫の美術愛」展について、光太郎がらみで報道が為されていますのでご紹介いたします。

まずNHKさんのローカルニュース。

佐藤春夫が愛した美術作品を展示 和歌山県立近代美術館

000
近代文学を代表する和歌山県出身の作家、佐藤春夫が所蔵していた絵画などの美術作品を集めた展示会が和歌山市の県立近代美術館で開かれています。
001
新宮市出身の佐藤春夫は、小説「田園の憂鬱」などの作品で知られ、大正から昭和にかけての文壇を代表する小説家や詩人として活躍しました。
002
和歌山市の県立近代美術館では、今月(4月)から佐藤春夫が所蔵していたおよそ150点の美術作品が展示されています。

このうち、詩人で彫刻家の高村光太郎が描いた「佐藤春夫像」は、文学を志して上京したものの思うような作品が残せず、行き詰まった若き日の春夫が描かれています。
003
004
005
また、川上澄生の版画「絵ノ上ノ静物」は、佐藤春夫と編集者との間で交わされた手紙に出てくることが知られていましたが、展示会を前に春夫の孫から寄贈されたことで実際に所有していたことが確認されたということです。
006
企画した宮本久宣 主任学芸員は「佐藤春夫が所有していた美術作品を見ることのできる初めての機会です。文学に関心がある人だけではなく、多くの人に楽しんでもらいたいです」と話していました。
007
008
この展示会、「佐藤春夫の美術愛」は、6月29日まで和歌山県立近代美術館で開かれています。
009
続いて『読売新聞』さん。

佐藤春夫 愛した美術品

和歌山で企画展
 新宮市出身の作家で詩人の佐藤春夫(1892~1964年)が所蔵していた美術作品を紹介する企画展「佐藤春夫の美術愛」が、県立近代美術館(和歌山市)で開かれている。文学で大きな功績を残しながら、美術への関心を持ち続けた作家の一面がうかがえる。
010
作家仲間や自筆の絵、版画略法
 春夫の親族から昨年度に絵画などの寄贈を受けたことを記念して開催。生前交流を持った作家の版画や春夫自ら描いた油彩画など、41作家の150点をまとめて見てもらうことにした。
 春夫は医師の父・豊太郎らの影響で新しい文化芸術に触れ、文学を志して上京するが、思うような評価が得られずに行き詰まる。この頃、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)と出会い、絵画制作に目覚めたという。

20250422-OYTNI50142-1 011
 光太郎が描いた肖像画「佐藤春夫像」(1914年)には、そんな苦悩を抱く若き日の春夫が垣間見える。春夫はその数年後、小説「田園の 憂鬱ゆううつ 」を発表し、流行作家に仲間入りするが、その前に二科展で入選した経験もある。油彩画「花」を見ると、その確かな実力がわかる。
 作家としての地位を確立した後も、画家との交流は続いた。川上澄生(1895~1972年)は春夫がほれ込んだ版画家の一人で、作品を多く手元に集めていた。澄生は春夫の詩集「魔女」の挿画も担当し、ほうきにまたがり空を飛ぶ和装の女性をキャッチーに描いている。
 版画家の谷中安規(1897~1946年)との関係も特別だった。ロボットや妖怪が登場する幻想的な世界観を得意とし、春夫が熱心に支援。制作に打ち込む自身の脳内をイメージしたような「画想」(1932年頃)など、どこかユーモラスな作品が多い。
012 013
 春夫と安規は出版社を通じて知り合い、書籍の装画などを通じて関係を深めた。春夫が安規に絵を催促する手紙も展示。自らを「カンシャク先生」と名乗ったり、「シツカリ致セコノ野郎」とせかしたり、気心の知れた関係性が示唆される。
 同館の宮本久宣・主任学芸員は「貴重な版画が多く、日本の美術史を語る上で意義深い作品群だ」と評価。「絵を描いたり、画家と交流したりすることが、執筆活動にも良い影響を与えただろう。春夫が画家だったかもしれないと想像するのも面白いのでは」と語る。29日と5月6日の午後2~3時、学芸員による展示解説がある。会期は6月29日まで。問い合わせは同館(073・436・8690)。

どちらも光太郎の描いた佐藤の肖像画について紹介して下さいました。同館ではことあるごとに出品して下さっている作品ですが、今回も目玉の一つであることは確かです。

描かれたのは大正3年(1914)。光太郎が第一詩集『道程』を刊行し、長沼智恵子と結婚披露を行った年です。この頃の光太郎は彫刻よりも油絵の方に軸足を置いており、油絵の頒布会も行っていました。その広告が雑誌『現代の洋画』や『我等』に掲載され、佐藤は後者の編集に携わっていた萬造寺斉の勧めもあって、自らの肖像画を描いてもらったそうです。
001
佐藤はそれ以前から与謝野夫妻の新詩社で光太郎とは顔見知りでしたが、肖像画を描いて貰うために駒込林町の光太郎アトリエに通うようになり、9歳年上の光太郎と親しく交わるようになりました。そのあたり、光太郎没後に佐藤が書いた『小説高村光太郎像』に詳しく述べられています。

その佐藤が戦後になって、当時の青森県知事・津島文治(太宰治の実兄)から十和田湖周辺の国立公園指定15周年記念モニュメント制作の件を相談され、即座にその作者として光太郎を推挙し、「乙女の像」として結実したわけで、人の縁(えにし)というものの大切さに思いを馳せております。光太郎の名を挙げた人物は他にも複数存在しましたが、それらの人々を代表し、佐藤は「あの美しい十和田湖に貴下の作品以外のろくでもないものがたてられることはありえない」的な説得の手紙を光太郎に書き、光太郎も激しく心を動かされました。

閑話休題、「佐藤春夫の美術愛」展、6月29日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小型エスキスを終り、二体石膏型にとり、その組み合せをすませ、今度は建築家の谷口さんと台石の設計について協議をいたすまでになりました、次は中型の彫刻にかかる次第です。

昭和27年(1952)12月19日 奥平英雄宛書簡より 光太郎70歳

「小型エスキス」「中型の彫刻」は「乙女の像」のための試作。「組み合せ」は二体の位置関係。当初から全体の構図が三角形になるようにと考えていました。
裸婦像スケッチ

昨日の『日本経済新聞』さん日曜版に「The Art of Sharpening 一心に、研ぐ 海を渡る包丁研ぎ 刀が育んだ生活の技、仏シェフも魅了」という3ページにわたる記事が出ました。

メインタイトルの「一心に、研ぐ」は光太郎詩「刃物を研ぐ人」(昭和5年=1930)からのインスパイアで、詩の一部が記事の末尾に引用されています。
光太郎回想1
詩の全文はこうです。

   刃物を研ぐ人

 黙つて刃物を研いでゐる。
 もう日が傾くのにまだ研いでゐる。
 裏刃とおもてをぴったり押して
 研水(とみづ)をかへては又研いでゐる。
 何をいつたい作るつもりか、
 そんなことさへ知らないやうに、
 一瞬の気を眉間(みけん)にあつめて
 青葉のかげで刃物を研ぐ人。
 この人の袖は次第にやぶれ、
 この人の口ひげは白くなる。
 憤りか必至か無心か、
 この人はただ途方もなく
 無限級数を追つてゐるのか。

画像はかなり後、昭和24年(1949)頃、花巻郊外旧太田村の山小屋で撮られたもの。研いでいる場面ではなく、おそらく肥後守の小刀で鰹節を削っているところです。残念ながら光太郎が彫刻刀を研いでいるところを撮影した写真は確認できていません。

記事全体はこの「研ぐ」をテーマに、日本各地、さらには海外で活躍する人々を追っています。

まず、大阪府堺市の「山本刃剣」の「刃付け屋」と呼ばれる職人・山本真一郎氏。鍛冶職人が打ち上げた庖丁などを、砥石を使って研いで刃をつけたり、切れなくなった刃物を研いだりというプロです。
https3A2F2Fimgix-proxy.n8s.jp2FDSXZQO6208760001042025000000-1 000
https3A2F2Fimgix-proxy.n8s.jp2FDSXZQO6208758001042025000000-1
欧米ではこのように砥石を使って刃物をメンテナンスするという習慣がほとんど無く、ヤスリのような金属の棒で刃を削るだけだとのこと。これには驚きました。

続いてその砥石の採掘から加工までを手がける京都亀岡の「砥取屋」4代目・土橋要造氏。
001
安価な人造砥石に押されつつあったところ、ネットで販売を始めたら息を吹き返したとのこと。仕上げ用の砥石が採れるのは世界でここだけだそうです。もっとも、砥石を使う風習のない国々では採掘をしていないわけで、探せば鉱脈があるのかも知れませんが。

そして実際に刃物を使う、大阪の料理人・中村重男氏。ミシュランガイドの星を獲得した「ながほり」店主です。天然の砥石は人造ものと比較にならないと証言。さらによく研いだ庖丁で作る料理の魅力についても。
 
004https3A2F2Fimgix-proxy.n8s.jp2FDSXZQO6208752001042025000000-1
海外の方も。フランスの料理学校で日本式の「研ぎ」の魅力や奥深さを伝えているというマリナ・メニニさん。
003
こうした講習は日本でも。かっぱ橋道具街の「かまた刃研社」さん。若い料理人も通っているそうです。
https3A2F2Fimgix-proxy.n8s.jp2FDSXZQO6208770001042025000000-1
こうした人々を紹介した後、最後に光太郎詩「刃物を研ぐ人」でオチが付けられています。

 多くの人が研ぐ光景を見ているうち、一編の詩が頭に浮かんだ。高村光太郎の「刃物を研ぐ人」だ。
 「黙つて刃物を研いでゐる。/もう日が傾くのにまだ研いでゐる。」と始まり、一心に研ぎ続ける人物を活写する。「憤りか必至か無心か、/この人はただ途方もなく/無限級数を追つてゐるのか。」
 「心を研ぐ」という表現があるように、刃物を研ぐことは私たちの精神世界と深いつながりがあるのかもしれない。どんなに精巧で簡単な機器ができようとも、人はこれからも砥石の上で自分の手を動かし続けるのだろう。

そうであってほしいものです。

光太郎も砥石に対するこだわりは半端ではありませんでした。昭和20年(1945)の空襲で駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された際も、砥石を持ち出しています。

 いちばん手馴れて別れ難いノミや小刀の最小限度十五六本は別に毛布にくるみ、これも亡父譲りの砥石二丁と一緒に大きな敷布に厚く包んで、これを丈夫な真田紐で堅固にゆはへ、重さ二貫目弱であつたが、空襲警報の鳴るたびに肩にかけ、腰に飯盒をぶらさげて、防火用のバケツと鳶口とを手に持つて往来に飛び出したのであつた。昭和二十年四月十三日の大空襲で遂に駒込林町のアトリエが焼けた時、私はとりあへず近所の空地にかねて掘つてあつた待避壕の中へ避難したが、そこへ持ちこんだのは夜具蒲団の大きな包二つと、外には例の道具箱と、肩からかけた敷布にくるんだ小刀と砥石とだけであつた。
(「信親と鳴滝」 昭和25年=1950)

おなじ文章では、京都鳴滝産の砥石の魅力について語っています。

 小刀やノミがいくら良くても砥石が悪ければ切味が出ない。それで彫刻家は砥石を選ぶ。
 砥石の味は一般の人でもおよそ分るだらう。書家が硯を珍重するのと似てゐるし、誰でも硯で墨をすつた者ならその手応へを感じてゐるだらう。良い砥石で研げば刃物が細かにおりて、刃先が極めて鋭くなり、切味がよくなるのは当然だが、その上に早く研げる。石が緻密でありながら鋒(ほう)が立つてゐるのである。早く研げながら荒くならない。まるで刃物が石面にすひつくやうにやはらかでゐて、しかも鋼をどしどしおろす。これは硯でも同じであつて、硯では撥墨の色と光とに不可言の美が生じ、砥石では研いだ刃物がいきいきと生きて来て、しかも前述のやうな気品が出て来、切れてくる。
 古来、合砥(あはせと)は京都の鳴滝産が一ばんいいといはれてゐるし、まつたくそのやうである。合砥といふのは仕上砥(しあげど)のことで、これが切味の如何を決定するから、昔から砥石ではこれをいちばん大切にする。合砥は全国の所々から出るが、どうも鳴滝に及ぶものはない。それで鳴滝のを本山(ほんやま)といふ。鳴滝の山は既に掘りつくされて今はもう産出しない。丁度端渓の硯のやうに、ただ世人に所蔵される若干の石が転々として誰かの手に渡つて歩くに過ぎない。亡父遺愛の砥石は二面とも鳴滝で、一つは石質軟く、一つは稍硬い。両面それぞれの用を果す。石の四方を朱漆で塗つて、桐の箱に入れてある。
(略)
 私は今その一つを花巻町の花巻病院長佐藤隆房氏邸に預つていただいて居り、一つをこの山小屋の座右に置いて愛用してゐる。この砥石に触れる時、天下豊満、こんなあはれな山の掘立小屋が急に魔法のやうに輝き出すのだ。
 亡父の門下生であつた関野聖雲といふ木彫家が砥石のことにくはしく、自分でも良い石をかずかず持つてゐたやうであるが、先年死んだ。あとに残つた名石は今どうなつてゐることだらう。

この一節を改めて読んでみて、光太郎や光雲一派のメチエがこういうところにも裏打ちされていたんだなと再確認したような気がしました。逆にこういうバックボーンも身につけないまま、何でもかんでも「アート」とする風潮はどうなの? とも。余計なことかもしれませんが。

日本古来の「研ぎ」の技、今後とも途絶えることの無いように、と祈念せざるを得ません。

【折々のことば・光太郎】

毎日午前モデルが来て試作を小さくやつてゐます、モデルを久しぶりで見るのですばらしいです、  トンチ教室のやうなモダンアートになるのがいやなので、うんと太古にやります、


昭和27年(1952)11月30日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎70歳

いよいよ生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の試作制作にかかりました。刃物を使うカーヴィングではなく、粘土を積み上げるモデリングですが。雇ったモデルはプールヴーモデル紹介所に所属していたプロのモデル・藤井照子。当時19歳でした。
a08cd757 無題
a08cd757


光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、市立図書館さんの移転計画が持ち上がっています。

現在地は光太郎と関わりの深かった宮沢賢治が勤務していた市内若葉町の花巻農学校跡地・ぎんどろ公園に隣接する場所で、同じ敷地内には市の文化会館なども建っています。当方、光太郎が花巻郊外旧太田村在住時の地方紙記事などの調査のため、何度か利用させていただきました。

移転先候補地は、当初6案、それが絞り込まれて2案あったそうです。

まず、市役所に近い旧総合花巻病院跡地(花城町)。同院は賢治の主治医でもあり、光太郎の花巻疎開やその後の7年半にわたる花巻及び旧太田村での生活に物心共に多大な援助をしてくれた佐藤隆房が院長を務めていました。病院は令和元年(2019)に市内御田屋町に移転し、その跡地が候補地の一つでした。

それからJR東北本線花巻駅前という案も。

2つの案を巡っては、どちらも一長一短があり、市内でも意見が分かれていたようで、地元の方のSNS等を見ると、なかなか紛糾していたようです。

市では市民の意見等を聞く機会を設けたりし、さまざまな検討を行った結果、花巻駅前の方で、ということになったそうです。このほど、市のホームページに「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」がアップされました。
002
現在、タケダスポーツさんのある場所のようです。

部外者としては、場所の決定に関しては何も言うことはありません。

で、「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」。どのように新図書館を運営していくか、そういったコンセプトが述べられており、そちらではなるほどね、と思わせられました。やはり宮沢賢治のお膝元、という部分が前面に押し出されています。

まず「基本方針」。

 本市は、宮沢賢治や萬鉄五郎をはじめとした多くの先人を輩出しています。江戸時代の先人を顕彰した「鶴陰碑(かくいんひ)」に記された人々は、自らの研鑽に精進し学術文化はもとより地域や産業の振興と発展、そして後継者の育成に努力を重ねてきました。花巻には歴史的に学びの風土があり、この精神は私たちも次の世代に受け継いでいかなければなりません。
 新しい花巻図書館の整備にあたっては、市民一人ひとりの生活や活動を支援することを基本的に考えながら、先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館を目指して、次の3つを基本方針とします。

郷土の歴史と独自性を大切にし、豊かな市民文化を創造する図書館
 花巻市は輝かしい功績を遺した数多くの先人を輩出しています。この先人達を顕彰し次の時代を担う子どもたちにその精神を継承し、郷土を愛する心を育むことができるよう、郷土資料や先人の資料の充実を図ります。
すべての市民が親しみやすく使いやすい図書館
 幼児、子ども、高齢者、障がい者、すべての市民が気軽に利用できるように、親しみやすく使いやすい施設とします。自然や周辺に調和した明るくゆったりしたスペースとし、読書はもちろんのこと、くつろぎの場でもあり、交流の場ともなる施設とします。
暮らしや仕事、地域の課題解決に役立つ知の情報拠点としての図書館
 これからの図書館は市民の読書や生涯学習を支援するだけでなく、情報を得る場、生活、仕事、教育、産業など各分野の課題解決を図る図書館であることが求められているため、広い分野にわたる資料やレファレンス(検索・相談)機能の充実を図ります。

輩出された「輝かしい功績を遺した数多くの先人」には、花巻出身ではないもの、光太郎も含めて下さっているようです。「蔵書・資料の収集について」という項の中に「宮沢賢治、高村光太郎、萬鉄五郎、新渡戸稲造などの資料を積極的に収集・保存。可能な限り開架閲覧スペースに配架」という一節があります。まぁ、現在の図書館さんでも、光太郎や賢治に関する資料類はかなり所蔵されていて一室が設けられている感じで、それを引き継ぐという部分もあるのでしょうが。

やはり賢治は別格で、「宮沢賢治に関する資料については、市民から、宮沢賢治の出身地にふさわしい図書館としてほしいなどの意見が多いことから、今後出版される図書資料はもちろん、未所蔵で購入可能な資料は古本も含め積極的に収集し、地域(郷土)資料スペースにおいて配架する予定ですが、宮沢賢治専用のスペースを設けることも検討します。また、イーハトーブ館と役割分担をし、現在イーハトーブ館が保有している専門的な研究資料や絶版等入手困難な資料等は、引き続きイーハトーブ館で保有することとし、図書館で閲覧または貸出できるようシステムの構築を検討します。」だそうです。光太郎もそれに準ずる扱いくらいにはしていただきたいところです。

また、「花巻駅前も賢治作品「シグナルとシグナレス」の舞台であり、「銀河鉄道の夜」のモチーフとなった岩手軽便鉄道や花巻電鉄の駅があった場所で賢治ゆかりの地」といった記述も。多少の無理くり感は否めないなと感じつつも「なるほどね」と思いました。

もう一つの候補地だった病院跡地の方は「宮沢賢治ゆかりの地に相応しい図書館以外の公共事業に活用することも考えられる」だそうです。
001
とにもかくにも「基本方針」どおり、「先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館」実現に向けて頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

丸ビルの展らん会も御覧下されし由、古いものばかりで殆ど現代的意味はない事でした、

昭和27年(1952)11月26日 吉野秀雄・登美子宛書簡より 光太郎70歳

「丸ビルの展らん会」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から上京したことを記念し、中央公論社の肝煎りで開催された「高村光太郎小品展」。
003
意外や意外、光太郎生前唯一の個展でしたが、当の光太郎自身はあまり興味がなかったようです。彫刻の制作年代の説明も無茶苦茶です。「手」は大正7年(1918)、「裸婦坐像」は大正6年(1917)です。

都内から製本関連のワークショップ情報です。

永岡綾『製本家とつくる紙文具』ワークショップ 第8期④本の改装シリーズ「ドイツ装」 at TEGAMISHA BOOKSTORE

期 日 : 2025年4月20日(日)
会 場 : TEGAMISHA BOOKSTORE 東京都調布市下石原2-6-14 ラ・メゾン2階
時 間 : 10:00~13:00
料 金 : 5,300円(税込)

2017年12月に調布(柴崎)の書店でスタートし、その後オンライン、吉祥寺、文箱(松本店)と場所を変えながら、現在は京王線・西調布駅から徒歩5分にある「TEGAMISHA BREWERY」の2F「TEGAMISHA BOOKSTORE」にて毎月開催している「製本家とつくる紙文具」。ノートやファイルづくり、書籍の改装など、現在までに合計約60回、のべ600名以上の方に参加いただいている人気のワークショップです。

製本技術を使った紙文具作りを教えてくれるのは、2017年に『週末でつくる紙文具』(グラフィック社)を、また2025年1月8日には同書に16ページ・5アイデアを追加した増補版『製本家とつくる紙文具』(グラフィック社)を出版された永岡綾さん。本業は編集者でありながらも、イギリスで製本技術を学ばれ製本家としても活動されています。

2025年1月からスタートした第8期では、『製本家とつくる紙文具』の中に新たに収録された新章「ペーパーバック(文庫本)の改装」より、5つの本の改装を1作品ずつ順に教えていただきます。

4月につくるのは「ドイツ装」 。「 ドイツ装」とは、表紙の「背」と「平(ヒラ)*表表紙と裏表紙の部分」に別の素材を使った「継ぎ表紙」のこと。今回のワークショップでは、背にはお好きな色のブッククロスを、平には手紙社のオリジナルペーパーからお好きな柄を選び、自分だけの組み合わせをお楽しみいただけます。

表紙に使う手紙社のオリジナルペーパーは、なんと350種!! ブッククロスのほか花布、栞ひも、見返しは複数色の中からお選びいただけますので、組み合わせを楽しみながら、あなた好みの一冊を完成させてください。コントラストをきかせた色選びをして、キリっと端正な佇まいにするのもおすすめです。

仕上がりは、しっかりとしたハードカバーにより、上製本の安定感がありつつも、どこか軽やか。表紙にはお好きな文字で箔押しを。本のタイトルを入れるもよし、所有者のお名前を入れるもよし、模様を加えるもよし。自分だけの愛おしい一冊となりそうです。
*箔押しに関しては、もしも時間内に終えられなかった場合は、材料をお渡ししご自宅にて行なっていただきます。その場合も手順をお伝えしますのでご安心ください。

また今回は参加費に文庫本代が含まれますので、受付時に以下よりお好きなものをお選びください(在庫がある分に関しては、当日の変更も可能です)。
*4/14以降にお申し込みの場合は、発注時期の関係上、ご希望に添えない場合がございますので予めご了承ください。
<文庫本ラインナップ>
 『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治) 『注文の多い料理店』(宮沢賢治)
 『檸檬』(梶井基次郎)    『グッド・バイ』(太宰治)
 『走れメロス』(太宰治)   『桜桃』(太宰治 )
 『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)  『地獄変』(芥川 龍之介 )
 『風たちぬ』(堀辰雄)    『みだれ髪』(与謝野晶子)
 『悲しき玩具』(石川啄木)  『智恵子抄』(高村光太郎)
 『家霊』(岡本かの子)    『堕落論』(坂口安吾)
 『一房の葡萄』(有島武郎)  『李陵・山月記』(中島敦)
 *全てハルキ文庫/280円文庫からのご用意となります。

手紙社のオリジナルペーパーを使って、製本技術を学びながら紙文具作りを行う「製本家とつくる紙文具」ワークショップは、各回新たな製本の技を習得しながら、わかりやすく教えていただけるので、1回のみの参加も大歓迎です。

本の改装ができるようになると、本棚の蔵書をおそろいに仕立て直したり、自作の本を特装版に仕立てたり、大切な人へのギフト本を特別に装丁したりと、楽しみは膨らむばかり……! ぜひお気軽にご参加ください。
002
きれいな紙を使って文庫本を手作業で改装、自分だけのオリジナル書籍を作るというわけですね。なかなかシャレオツです。

主催者側で素材となる文庫本ラインナップを提示していますが、光太郎の『智恵子抄』も選択肢に入れて下さいました。ありがたし。しかも公式サイトのサムネイル(というには大きいのですが)的画像が『智恵子抄』。
001
ギフトにもいいかもしれません。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おかげさまで無事東京につきましたが、その日からジヤアナリズムに包囲されて、まるで暇なく過ごしてゐました、やうやくアトリエに落ちつきましたが、山口の生活をなつかしく思ひ出してゐます、 東京は予想通り乱雑で閉口です、

昭和27年(1952)10月29日 浅沼政規宛書簡より 光太郎70歳

浅沼政規は光太郎が7年間過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校校長です。昨年亡くなった浅沼隆氏の父君でした。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京したのが10月12日。その日は駒込林町の実家に一泊し、翌日、結局終焉の地となる中野の中西利雄アトリエに入りました。

中野に向かう前、実家にほど近い、かつて智恵子と過ごし、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰したアトリエ兼住居の後を訪れています。

昨日も引用させていただいた、光太郎令甥の髙村規氏が、平成25年(2013)の碌山忌記念講演会「伯父 高村光太郎の思い出」で語った回想から。

それで、光太郎を連れてここへ行ったんですね。そしたらやっぱり板囲いなんですよ。でも木の節目やなんか外れたところがぽつぽつ穴があいているもんですから、光太郎は自分が二十四年間も智恵子さんと一緒にいた場所だし、二人で一所懸命新しい芸術のために努力した場所ですからやっぱり懐かしさも一入なんでしょうね。隙間から中を丹念に一ヶ所一ヶ所見て歩いているんですよ。こっちは学校へも遅れそうになっちゃうけどそんなことはまあいいやと思って。鼻が潰れそうになるくらいむきになって中を覗いているんですね。ああ気の毒になと思って。まだその頃は国民服に長靴っていう服装だったんですよね。それに帽子かぶって。当時は昭和二十七年で、僕の顔見知りはいませんでした。近くにいた近所のおかみさんだったかな、だんだん不思議そうな顔し出したんです。「誰かが土地を覗いている」っていうふうに思ったんでしょうね。おかみさんが光太郎に何か言ったら光太郎が気の毒だなと思って。そこへ飛んで行ってその奥さん連中に「あの人はね、高村光太郎っていって僕の伯父さんで、昔ここにあったアトリエに住んでて、『智恵子抄』で有名な智恵子さんと一緒にここにいた人で、今東京へ帰ってきてね、懐かしくて一所懸命自分の住んでた所を丹念に見てるんだから好きなようにさせといて」と言いました。光太郎は亡くなった智恵子さんを抱いて上がったこの階段を上がったり下りたりしてましたよ、何べんも何べんも。

昭和27年(1952)の時点では、アトリエ跡地はまだ空き地でした。建物部分は焼けて跡形もありませんでしたが、玄関前にあった大谷石の石段は残っていたそうです。画像は戦前、尾崎喜八の一家と。
IMG_2399

BS11(イレブン)さん他で、4月7日(月)から放映が始まった深夜アニメ「ざつ旅-That's Journey-」。原作は石坂ケンタ氏による漫画で、KADOKAWAさんの月刊コミック誌『電撃マオウ』で平成31年(2019)に連載が始まり、コミックス(単行本)は既に12巻まで出ています。

新人賞は獲ったものの、まだ連載は持たせてもらっていない、プロの漫画家志望の女子大生・鈴ヶ森ちかが主人公で、作品のインスピレーションを受けるため、日本各地を旅するというストーリー。行き当たりばったりで雑な計画の旅が多く、そこで「ざつ旅」。

アニメの第2話の行き先が宮城県松島周辺です。

ざつ旅-That's Journey- 第2旅「伊達じゃない! きときとふたり旅」 

BS11 イレブン 2025年4月14日(月) 23:00〜23:30

漫画賞の新人賞を受賞した漫画家志望の女子大生・鈴ヶ森ちかは、ある日、編集部に新作のネームを3本持ち込んだものの全ボツを食らってしまう。心が折れそうになったとき、唐突に胸の中に溢れてくるものがあった。
「どこか、旅にでたい…」
面白半分でSNSにて旅先のアンケートを取ってみると、まさかの大きな反響があり、引くに引けない状態に…!

でも、旅にでたい気持ちは本物。覚悟を決めたちかは、アンケート頼りの行き当たりばったりな旅を始めることに。時に一人で、時に友人たちと−−。「ざつ」だからこそ思いがけない出会いが待っている、“ざつ旅"へ出発 !

またしてもネームがボツになったちかは、悪循環を断ち切るために再び旅に出ようとする。アンケートの結果、今回の旅先は宮城県の松島に決定! 松尾芭蕉も訪れた…。

出演 月城日花 鈴代紗弓 平塚紗依 佐藤聡美 日笠陽子 小林ゆう 窪田等
005
松島と言えば瑞巌寺さんですね。こちらの庫裡(くり)には光太郎の父・光雲の手になる巨大な聖観音像(通称「光雲観音」)が納められています。

原作の石坂氏の漫画では、主人公・ちかが瑞巌寺さんを訪れ、おそらく「光雲観音」も目にしたという感じになっていますが、権利関係への配慮でしょうか、像自体は描かれていませんでした。
002
003
ところがアニメでは、いろいろクリア出来たのでしょう、「光雲観音」が登場します。
001
過日もちらっと書きましたが、先日、昭和3年(1928)の「光雲観音」落成法要の際に配付された『松島聖観世音奉安趣意書』を入手しました。

それによれば、元々は注文主もなく観音信仰の篤かった光雲が畢生の作を作ろうと独自に作り始め、やがて噂を聞きつけた個人や法人から「ぜひ買いたい」との声が殺到。いろいろ審査した結果、当時あった宮城電気鉄道という会社が落札したという感じです。同社は現在のJR仙石線にあたる路線を保有し運行していまして、昭和2年(1927)には路線が松島公園駅(現在の松島海岸駅)へと延伸され、その記念と、無事故等の祈願のためという趣旨でした。当初は瑞巌寺さんではなく、松島公園駅近くのお堂に奉納されましたが、その後、太平洋戦争の影響で同社は消滅、像も瑞巌寺さんへ移されました。ただ、移転の時期は当方把握しておりません。

また、趣意書に像高は一丈二尺(約3.64㍍)であることも明記されていました。よくある規格の一丈六尺(約4.85㍍)かと思っていましたが、一回り小さいサイズでした。

さて、アニメ「ざつ旅-That's Journey-」、先週の「第1旅 はじめの1225段」を拝見しました。行き先は会津、「1225段」は羽黒山湯上神社さんの石段。その他、飯森山や栄螺堂、東山温泉などが舞台でしたが、それぞれの風景の絵がとにかく緻密で感心しました。日本のアニメーション技術の凄さを再確認した感じです。上の画像にある次回の「光雲観音」も精妙に描かれています。おそらく写真等をCG処理しているのだと思われますが。

漫画「ざつ旅-That's Journey-」。通読はしていませんが、以前から存じていました。コミックス第3巻(令和2年=2020)で、光太郎第二の故郷・岩手花巻が舞台となり、主人公・ちか他が当方も定宿としている大沢温泉自炊部さんに宿泊、という設定でしたので。
008 004
その頃には東北新幹線新花巻駅にポスターが貼ってありました。また、当の大沢温泉自炊部さんの無料休憩スペースに現物が置いてあり、拝読。残念ながら光太郎ゆかりの宿、という記述がありませんでしたが、花巻の旅全体としては宮沢賢治記念館さんやマルカン大食堂さんなどが舞台となっていて「ふむふむ」という感じでした。花巻の方にはおなじみの「満州にらラーメン」も登場します。

アニメの放映がいつまでで、コミックスの何巻までが扱われるのか等不明ですが、花巻編まで含めていただきたいものです。

ちなみにBSイレブンさん以外にも、地方の地上波局でも放映があります。
006
まずは第2旅・松島編、ご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

東京にゆくと随分もみくちやにされさうですが、なるべく逃げて仕事第一としますが、貴下とは以前から考へてゐたこととていづれゆつくりのみたいものです、

昭和27年(1952)10月6日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、再上京する直前の書簡です。一見のんきなことを書いていますが、自らの余命がそう永くないことを自覚していた光太郎、とにかく像の完成を第一に考えていました。そのため訪問客やいろいろな誘いはできるだけ断るつもりでした。

大正2年(1913)、光太郎が先行して滞在、あとから智恵子も後を追って現れ、結婚の約束を果たしたという信州上高地。歩いて登るしかなかった時代、光太郎智恵子も辿った「クラシックルート」にある「岩魚留小屋」に関して、『毎日新聞』さん長野版が、光太郎の名を引きつつ報じています。

歴史ある建物 CFで再生へ 「岩魚留小屋」後世に 松本・徳本峠ルートで有志ら /長野

 長野県松本市安曇の島々地区から徳本(とくごう)峠を経て、北アルプス上高地に至る登山道沿いにある休業中の山小屋「岩魚留(いわなどめ)小屋」の復活を目指すプロジェクトを、県内外の有志が始めた。小屋は明治時代に日本アルプスを世界に紹介した英国人宣教師、ウォルター・ウェストンも利用したという。現在は老朽化が進み、有志はクラウドファンディング(CF)で小屋の改修資金を募る予定。
 市教育委員会によると、徳本峠の東の標高1260メートルにある岩魚留小屋は1911(明治44)年に民間会社が開設し、木造平屋建て66平方メートル。現オーナーの奥原英考さん(71)の体調不良で2012年から休業している。老朽化のため、復活には修繕や電気などインフラ整備が必要になる。
  小屋の前を通る登山道は、1928(昭和3)年に梓川沿いの釜トンネルが開通して車が通るようになるまで、上高地に入る主要路だった。ウェストンや日本山岳会を創立した小島烏水(うすい)をはじめ、小説家の芥川龍之介や詩人の高村光太郎が歩いた近代登山の歴史を刻むクラシックルートで、登山口の島々から上高地の明神まで約20キロ。現在は土砂崩れのため通れなくなっている。
 有志らは昨年11月に「岩魚留小屋再生プロジェクト」を発足させた。代表の塩湯涼さん(29)=京都市出身=は南アルプスの山小屋で働き、島々に昨春移住。奥原さんが後継者を探していると知り、名乗りを上げた。メンバーには建築やデザインの担当者もいる。
 塩湯さんとプロジェクトリーダーの臼井幸代さん(39)は3月末、松本市の登山用品店で講演し、小屋の現状や今後の計画を説明した。塩湯さんは「歴史的価値を持つ小屋を後世に残すため、外観を保ったまま修復する。自然探検など、岩魚留小屋らしい新たな楽しみ方ができるようにしたい」と話した。臼井さんも改修資金の確保に協力を求めた。
 また、島々から徒歩4~5時間の地点にあるこの小屋は、登山者の宿泊・避難場所として安全面でも意義があるとした。今年は現地調査や廃棄物処理、トイレと水場の整備をする予定で、清掃や荷物運び、小屋見学の講習会も計画している。26年に小屋の修繕やインフラ工事に取りかかり、27年の営業再開を目指している。
001
画像左奥に映っているのは桂の木です。推定樹齢数百年で、光太郎智恵子も目にしました。のちに光太郎智恵子それぞれ、桂の木の印象を文章に残しています。

「徳本峠の山ふところを埋めてゐた桂の木の黄葉の立派さは忘れ難い。彼女もよくそれを思ひ出して語つた」(光太郎 「智恵子の半生」昭和15年=1940)

「絶ちがたく見える、わがこの親しき人、彼れは黄金に波うつ深山の桂の木」(智恵子 「病間雑記」大正11年=1912)

ここにも一度行ってみたいと思いつつ、果たせないでいます。なかなか半端な気持で行ける場所ではありませんので、しっかり計画を立てて向かわねばなりませんし。

保存の為のクラウドファンディングが立ち上がったら、微力ながら協力させていただくつもりでおります。皆様にも是非よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】002

このたびは友人藤島宇内君のお世話によりお宅のアトリエを拝借出来るやうになり、まことにありがたく、好都合にて、お宅様に対し厚く感謝いたして居ります。来る十月十三日頃参上の運びとなるかと存じますが、又いろいろ御厄介をかけるやうになりますこと恐縮の至ですが、何分お願申上げます。

昭和27年(1952)10月6日
 中西富江宛書簡より 光太郎70歳

光太郎終焉の地となった中西利雄アトリエの持ち主、利雄夫人の富江に宛てた書簡から。

こちらの保存運動も展開中です。よろしくお願い申し上げます。

詳細な情報が昨日になって出たのですが、すでに始まっています。

秘仏三面大黒天立像(高村光雲作)特別御開帳

期 日 : 2025年3月28日(金)~6月1日(日)
会 場 : 雨降山大山寺 神奈川県伊勢原市大山724
時 間 : 08:45~17:00
料 金 : 400円(中学生以下無料、団体割引あり)

大山寺は天平勝宝四年(755年)に東大寺別当 良弁僧正が開山して以来、1270年の節目を迎えました。つきましては、前回1260年記念に倣い、秘仏である高村光雲師作の三面大黒天立像の特別御開帳並びに、1270年記念法会として大般若転読会を執行します。ぜひこの機会にご参拝ください。

大般若転読会(1270年記念法会)
【期日】5月18日(日)【時間】11:55~ 【ご祈祷料】6,000円~
※法会時間中の本堂内のお参りは、ご祈祷のお申し込みをされた方に限ります。
001
大山寺さんは天平勝宝7年(755)開山の古刹。裏手にある大山阿夫利神社さんと共に「大山詣」が有名で、特に江戸の庶民などの間で人気だったようです。

こちらの秘仏・三面大黒天像が光太郎の父・光雲作で、秘仏の扱い。それが10年ぶりにご開帳だそうです。

通常の大黒天はお顔が一つですが、三面大黒天像は阿修羅像などのように三つのお顔。正面のお顔は大黒天、両脇の二つのお顔がそれぞれ毘沙門天、弁財天のお顔という、いかにもありがたみが増しそうなスタイルです。

光雲作の三面大黒天像は、信州善光寺さんの仁王門にも納められています。こちらは秘仏などではなくいつでも拝観可。仁王像も光雲と高弟の米原雲海の手になるものですし、三面大黒天とセットなのが三宝荒神像。それぞれひな形は善光寺史料館さんで展示されています。
001 724f350e-s
無題
善光寺さんの三面大黒天像は三面六臂。白木ではなく彩色も為されています。大山寺さんの像もおそらくそうだと思われます。

再来週にはご尊顔を拝しに参ります。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

今丁度上京直前といふ次第で、何かとせはしく、落ちつかないので揮毫も駄目ですが、ともかくも書きましたので同封します、いけなかつたら止して下さい、

昭和27年(1927)10月4日 田村昌由宛書簡より 光太郎70歳

翌年刊行された田村の詩集『下界』題字揮毫に関わります。
725
ここまでくると、何かこう、いろいろなものを突き抜けてしまっている感のある文字だと思います。

光太郎詩「火星が出てゐる」の一節をあしらったしおりを今月初めにご紹介しました。制作/販売はネット上でオンラインショップを展開なさっている小野屋善行商店さん。「文豪のしおり」「文豪スマホケース」「文豪アクリルキーホルダー」といった、昨今静かなブームの「文豪」ものをいろいろと扱われています。

過日入手したものは「少部数テスト販売」ということでしたが、同じ位置づけで光太郎作品の一節を使ってデザインされたしおりが3点出まして、ゲットしました。
001
それぞれ詩が使われており、左から「寸言」(昭和10年=1935)の全文、前回と同じで色違いの「火星が出てゐる」(大正15年=1926)の一節、そして連作詩「とげとげなエピグラム」(大正12年=1923)中の一篇。3枚横に並べましたが、こうすると用紙の地紋の模様が連続するようになっているとのこと。紙質や印刷の状態もなかなかのものです。

大正末から昭和10年(1935)までということで、光太郎詩は自己の荒ぶる魂を獣たちや妖怪どもに仮託した連作詩「猛獣篇」も書かれていました。まだ日中戦争も始まって居らず、愚にもつかない翼賛詩篇の乱発にはいたっていない時代です。ただ、「猛獣篇」のノリで殺戮兵器である戦車をモチーフにした「無限軌道」が既に昭和3年(1928)には書かれているのですが。

当会の祖・草野心平らとの交流から、アナキズムやプロレタリア文学に一定の理解を示し、心情的には彼らのシンパに近かった光太郎ですが、その手の運動に深入りすることはありませんでした。

その方にとび込めば相当猛烈にやる方だからつかまってしまう。しかし自分には彫刻という天職がある。なにしろ彫刻が作りたい。その彫刻がつかまれば出来なくなってしまう。彫刻と天秤にかけたわけだ。(「高村光太郎聞き書」昭和30年=1955)

そうした内面のジレンマがいろいろな部分で表れているこの時期の詩群も、なかなかに読み応えがあって好きです。

さて、光太郎しおり、先述の通り「少部数テスト販売」で、現在はラインナップに入っていませんが、また増刷されて広く売られることを期待いたします。

【折々のことば・光太郎】

おてがみ届き、今月末日頃フアミリ帯同で来訪の由、やはりたのしみになります、その頃は外出せずに小屋にゐませう。炎暑の候なので此処の徒歩はとても無理ですから、花巻からタキシを約束して、往復を車にしてはどうでせう。少しは取られるでせうが。

昭和27年(1952)7月23日 髙村豊周宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため秋に上京することとなり、そのための打ち合わせを兼ね、実弟の豊周夫妻、それから息女の珊子が花巻郊外旧太田村の山小屋を訪れることになりました。豊周一家が信州に疎開して行った昭和20年(1945)3月以来の兄弟対面ということになります。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため借り受け、光太郎が昭和27年(1952)秋から、一時的に花巻郊外旧太田村に帰村した昭和28年(1953)初冬と、赤坂山王病院に入院した昭和30年(1955)初夏を除き、最晩年の3年半を過ごし、昭和31年(1956)4月2日にここで亡くなった中野区の中西利雄アトリエ

昨年から当方も関わって展開されている保存のための運動につき、「乙女の像」地元の青森の地方紙二紙が報じて下さっています。

まず『デーリー東北』さん、今月初めの掲載でした。

「乙女の像」制作 高村光太郎のアトリエ(東京) 価値ある建築物残したい 所有者死去、進む老朽化 保存する会、支援呼びかけ

 彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔に立つ「乙女の像」を制作した東京・中野のアトリエ。長年管理してきた所有者が2年前に亡くなり、保存が難しくなっている。関係者は「価値ある建築物を残したい」と行政や民間の協力を募るものの、行政支援や資金調達のめどは立っていない。
 高村は戦時中、宮沢賢治のつてを便りに岩手花巻市に疎開。戦後も52年まで過ごし、青森県から乙女の像の制作を依頼されたのを契機に中野のアトリエに移った。高村の顕彰活動を続ける小山弘明さん(東京)は「花巻で作ろうとも考えたが、粘土が凍るなどするので新たに東京で制作場所を探した」とする。
 知り合いに紹介されたのが、洋画家の中西利雄(1900~48年)が建てたアトリエ。死後に完成し、賃貸に出されていた。高村の前に、彫刻家のイサム・ノグチも一時滞在していたという。北から南に傾斜した屋根で、北側に大きな窓を設けており、内外とも白く塗られているのが特徴だ。
 肺結核を患っていた高村は中野に引っ越す頃には病状が悪くなっており、小山さんは「制作にものすごく時間をかける高村が、乙女の像はわずか半年ほどで仕上げている。死が迫るのを意識しながら作ったのではないか」と解説する。野辺地町出身の彫刻家・小坂圭二もこのアトリエで助手を務めた。
 乙女の像の完成後は花巻に帰るつもりだったが、体調を考慮して中野のアトリエに残り、56年4月に亡くなるまで過ごした。その後は中西の長男の利一郎さんが長年にわたってアトリエを管理してきたものの、23年1月に死去。老朽化が進み、家族も管理が難しくなっている。
 このため、昨年2月に利一郎さんと親交があった曽我貢誠さん(東京)らを中心に、俳優の渡辺えりさんを代表として保存する会を設立。署名活動やイベント開催、行政への働きかけなどを行っている。
 曽我さんは「保存には多額の資金が要る。何とかこの場所に貴重なアトリエを残したい」と訴えるものの、現時点で中野区などから前向きな対応は引き出せていない。
 今後は「行政への要望と並行して周辺の大学や民間企業などに支援を呼びかけたい」と粘り強い活動を続ける考えだ。

005
ほぼ同一の内容ですが、『東奥日報』さんも昨日報じて下さいました。

十和田湖畔「乙女の像」生んだアトリエが存続の危機 有志ら保存活動 彫刻家・高村光太郎が晩年過ごす

 詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年、十和田湖畔にある「乙女の像」の塑像を制作した東京・中野のアトリエが存続の危機にある。歴史的に価値の高いこの建物を残そうと、有志らが活動を本格化させた。青森県十和田市関係者からも署名が寄せられているといい、「支援の輪をさらに広げたい」と方策を模索している。
 高村は亡くなるまでの3年半をこのアトリエで暮らした。斜めの屋根と北側に向く大きな窓が印象的だ。内部には高村の写真や当時の椅子が残されていた。
 建物は、洋画家中西利雄(1900~48年)が建設した。設計は戦前戦後に活躍した建築家山口文象。中西はアトリエの完成を見ず亡くなったが、彫刻家イサム・ノグチや高村に貸し出された。建物を管理していた中西の長男・利一郎さんが2023年に他界。解体の話が出る中、有志らが保存活動を始めた。
 利一郎さんの知人で「保存する会」の曽我貢誠さん(72)=東京都=は、詩人の草野心平や佐藤春夫らも訪れた貴重な建物とし、「高村が戦争を賛美する作品を書いた過去の責任を感じながら、像の制作に没頭したという背景もあり、大切な歴史的遺産だ」と保存の意義を強調する。
 会は行政や民間に支援を求めながら、4千筆超の署名を集めてきた。クラウドファンディングも視野に入れており、縁のある青森県民の支援にも期待する。
 会には七戸町出身で都内に住む山田安秀さん(61)も参加している。「乙女の像は十和田湖の思い出の象徴だ。十和田湖は歴代の知事や市町村長の尽力、今年没後100年を迎える大町桂月ら県外出身の恩人のおかげで全国に知られた。脈々と続く歴史の流れにも思いをはせながら、保存の意義を考えたい」と語った。
 署名は「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」のサイト(https://save-atelier-n.jimdosite.com/)から。問い合わせは曽我さん(電話090-4422-1534)へ。
▽「美、愛、平和」 像に託す
 東京生まれの高村光太郎は、妻・智恵子を1938年に亡くした後、空襲に遭い岩手県花巻市に疎開。戦後、青森県から、十和田湖畔に設置する記念碑の制作を依頼されたのを機に、帰京を決意した。
 「高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会」代表の小山弘明さん(60)=千葉県=によると、東京・中野のアトリエは知人らが探し出した。余命がそう長くないと意識していた高村は、それまで使ったことのない助手を雇い、野辺地町出身の彫刻家小坂圭二(1918~92年)が制作を手伝った。
 高村は十和田湖を下見した際、当時の津島文治知事から「自由に創作を」とのお墨付きをもらい、制作に没頭。生涯をささげた「美」、智恵子への愛、平和への願いを像に託したとみられる。小山さんは「半年ほどの驚異的なスピードで作り上げた。自分が倒れた場合の代わりの制作者も指名していたほど」と、高村の当時の情熱を語る。
 完成した像は、十和田湖を世に出した文人大町桂月、知事の武田千代三郎、法奥沢村長の小笠原耕一をたたえ、湖畔に設置された。「乙女の像」として、今も地元の人や観光客に愛されている。
004
009
なかなか保存も単純な話ではありません。単に建物を補修して残すというだけならそうでもないのでしょうが、ただ残すだけでは意味がありません。積極的且つ永続的に「生かす」ことが肝要です。何もない建物だけを公開したところで仕方がありませんし、ちょっとした展示を行い「××記念館」としたところでそう多くの来場者が来るとも思えません。「××記念館」という形にしている古建築が全国にありますが、そういったところは行政が管理運営を行い、採算度外視に近い形もまぁ許されるという状況でしょうが、中野区はそういう方向での支援は行ってくれません。

となると、レンタルスペースなどとして運用し、収益を上げ、それで運用していくしかないのかな、と考えています。その母体をどうするか、どのように使ってもらうか、そうそう借り手が現れるか、最低限の人件費や維持管理費等をまかなえる収益が上げられるかなどなど課題は山積しています。マッチング等を使って希望者を募り、民間で買い取ってもらい、流行りの古民家カフェ的な運用というのもありかもしれませんが、無茶苦茶な使い方をされるのも困りますし。

単なる思いつきでなく、実現可能性を充分に伴う解決策のご提案、さらにはご支援のお申し出、お待ちしております。

【折々のことば・光太郎】

何も持たず、仕事用のヘラだけ持つてゆくつもりです。留守中は村の人に小屋の管理をたのみます、来年原型完成次第又山に帰つて来る筈です。

昭和27年(1952)7月23日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎70歳

さすがに「ヘラだけ」というわけにも行きませんでしたが、それでも中西アトリエにはせいぜい洋服等を送ったくらいで、ほとんどの家財道具や蔵書などは花巻郊外旧太田村の山小屋に残し、布団や調理器具など必要なものは都内で調達しました。住民票もそのままでした。

しかし、もはや山小屋暮らしに耐えられる健康状態ではなくなり、「乙女の像」完成後に一時的に帰村したものの、結局は中西アトリエに戻ることになり、終焉を迎えるわけです。

本日開幕です。

谷澤紗和子個展「お喋りの効能」

期 日 : 2025年3月29日(土)~4月13日(日)
会 場 : EUREKA 福岡市中央区大手門2-9-30 Pond Mum KⅣ 201
時 間 : 12:00~19:00
休 館 : 月曜、火曜
料 金 : 無料

このたびEUREKAでは、2025年3月29日(土)より、京都を拠点に活動する美術作家・谷澤紗和子さんの個展「お喋りの効能」を開催します。「妄想力の解放」や「女性像」をテーマにした作品を制作する谷澤紗和子。ジェンダーへの関心を元に、女性表現者に対する固定的な評価を問い直し、インスタレーション、作陶、切り紙、絵画など、いくつかの表現手法を横断、交差させながら作品制作を行っています。本展では、切り紙を用いた新作を発表いたします。福岡での初個展をぜひご覧ください。

<お喋りの効能>
 敬愛する高村智恵子と向かい合い、お喋りをする情景を切り紙絵で表現することを構想した。 着想のきっかけは、デイビット・ホックニーの作品《画家とモデル》1974。この作品では、作者自身がピカソと対峙し、画中に共に存在している。絵の中であれば、想いを寄せる人物と同じ空間を共有できるというアイデアに触発された。お喋りの舞台には、庫淑蘭(クー・シューラン)(1920-2007、中国)の描いた家を選び、机の上には過去に制作した智恵子さんへのオマージュ作品を置いた。壁には、メアリー・ディレイニー(1700-1788、イギリス)のヒヤシンスの切り絵を飾った。
 わたしにとってお喋りは、とても大切な知の交換会だ。智恵子さんとともに、メアリーさんやクーさんの手仕事の痕跡を辿りながら、言葉を交わすように紙の創作を進めることにする。 
谷澤紗和子
004
005
009智恵子の紙絵や智恵子が手がけた『青鞜』表紙絵をモチーフにした切り絵などで、広くジェンダー問題等に対する提言をなさっている谷澤紗和子氏の個展です。今回も智恵子紙絵オマージュの作品、智恵子の肖像写真をモチーフにした作品なども展示されます。

氏については以下をご参照下さい。

VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─/「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 - 」。
都内レポートその2「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」。
福岡の地元紙『西日本新聞』さんに予告記事が出ていました。

谷澤紗和子 お喋りの効能

 京都を拠点に活動する美術作家・谷澤紗和子さんの福岡では初の個展。谷澤さんが敬愛する、彫刻家・文筆家高村光太郎の妻で洋画家・紙絵作家の高村智恵子と向かい合い、おしゃべりをする情景を切り紙絵で表現した新作を発表する。初日の3月29日午後5~6時にギャラリートークもある。
 「妄想力の解放」や「女性像」をテーマにした作品を制作する谷澤さんは、ジェンダーへの関心を元に、女性表現者に対する固定的な評価を問い直し、インスタレーション、作陶、切り紙、絵画など、幾つかの表現手法を横断、交差させながら作品制作を行う。
 1982年大阪生まれ。2007年京都市立芸術大大学院美術研究科修士課程を修了。同大准教授。令和2年度京都市芸術新人賞受賞、VOCA展2022でVOCA佳作賞受賞。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の紙絵展を鶴岡で開かれるといふことで貴下に又御面倒をかける次第、恐縮に存じます。


昭和27年(1952)7月24日 真壁仁宛書簡より 光太郎70歳

真壁は山形在住の詩人。戦時中、光太郎は手元にあった智恵子紙絵千数百点のうち約3分の1を真壁の元に疎開させ、そのまま真壁が保管していました。この年8月8日~10日の3日間、山形の鶴岡公民館で(他に大山公民館でも展示があったそうですが、こちらは会期等不明)開催された智恵子紙絵展に真壁の手元にあった作品が展示されました。

山形では昭和24年(1949)にも山形市美術ホールで智恵子紙絵展があり、鶴岡や後に鶴岡に編入される大山町でもぜひ、という声があったようです。

光太郎、それから実弟の豊周の母校にして、光太郎の父・光雲と豊周が教壇に立った東京美術学校の歴史を中心に、江戸末期から終戦直後までの我が国の美術教育史、ひいては美術史全般が語られています。髙村親子三人についてもそれぞれ触れられています。

東京美術学校物語――国粋と国際のはざまに揺れて

発行日 : 2025年3月19日
著者等 : 新関公子
版 元 : 岩波書店(岩波新書)
定 価 : 960円+税

東京芸術大学の前身、東京美術学校の波乱の歴史をたどりながら、明治維新以後の日本美術の、西洋との出会いと葛藤を描く。

001
目次
まえがき――『東京美術学校物語』の基礎としての『東京芸術大学百年史』の存在について
 第一章 日本はいつ西洋と出会ったか――キーワードは遠近法
  享保の改革と漢訳洋書輸入解禁
  蘭書からの直接的西洋の影響
  西洋の遠近法と日本人の遠近法理解
  幕末明治の西洋体験――高橋由一の場合
 第二章 ジャポニスムの誕生――慶応三年パリ万国博覧会への参加
  江戸幕府パリ万国博覧会へ参加する
  フランス画壇の状況――印象派誕生前夜
  ジャポネズリとジャポニスム
 第三章 欧化を急げ――明治初期の国際主義的文化政策
  ウィーン万博参加と御雇外国人ワグネル
  万博と浮世絵
  唐突な工部美術学校の開校
  女子も学べた工部美術学校
  ラグーザと清原玉
 第四章 反動としての国粋主義の台頭
  龍池会の誕生
  フェノロサと岡倉との出会い
  『美術真説』を読んでみる
  フェノロサ、狩野芳崖を発見する
  パリで開かれた「日本美術縦覧会」の失敗
  フェノロサ、狩野派改良の絵画指導を始める
 第五章 美術学校設立の内定とフェノロサ、岡倉の欧米視察旅行
  文部省内におかれた「図画調査会」
  国立美術学校設立の内定
  フェノロサ、岡倉の帰朝報告
  原田直次郎のフェノロサ批判
 第六章 国粋的美術学校の理念の確立にむけて
  芳崖はフェノロサ、岡倉の手として選ばれた
  フェノロサの哲学的立場
  イデア論の延長――人間の誕生を描く《悲母観音》
  《悲母観音》の図像学の成立過程を考える
  国粋的美術学校の開校の背後で泣いた洋画家たち
――高橋由一・源吉親子と原田直次郎の場合
  五姓田一族と山本芳翠の場合
 第七章 開校された美術学校――フェノロサ、岡倉の教育プログラム
  お古の建物で始まった国粋美術学校
  フェノロサの授業の革新性とその受講生の作品
  公共モニュメントの受注制作
  シカゴ・コロンブス世界博覧会への協力
 第八章 図案科、西洋画科の開設と岡倉の失脚
  西洋画科の開設
  人事――紛争の火種
  選科という制度
  白馬会の創設
  岡倉失脚の経緯
  連袂辞職騒動
 第九章 一九〇〇年パリ万国博覧会への参加
  岡倉の去ったあとの美術学校
  パリ万博における美術学校関係者の出品と受賞
  浅井忠の驚愕と反省
  黒田の《智・感・情》
 第一〇章 正木直彦校長時代の三〇年と七ヶ月
  正木校長時代の日本画科
  正木校長時代の西洋画科
  文部省展覧会(文展)の創設と反文展の動き
  在野美術団体の誕生
  校友会活動
  正木時代のその他の出来事
  学生の思想取締りや退学処分
 第一一章 和田英作校長時代の四年間
  横山大観の怒り
  和田校長時代の改革と主な出来事
  矢代幸雄の美術学校への貢献
  和田校長が辞任に至る原因
  画家としての和田英作
 第一二章 戦時下の東京美術学校とその終焉
  戦時下の美術学校と眼のない自画像
  戦時下の画壇の状況
  戦時下の美術学校の教師――藤島武二の場合
  国粋主義者・横山大観
  大観の野望
  東京美術学校から東京藝術大学へ
 『東京美術学校物語』関連年表
 あとがき

一昨年から昨年にかけ、岩波書店さんのPR誌的な『図書』に連載されていたものに加筆・修正だとのことです。著者の新関氏は、昭和15年(1940)のお生まれだそうで、新制東京藝術大学さんをご卒業後、同大資料館(現・大学美術館)に勤務され、教授を経て現在名誉教授の由。

明治維新から太平洋戦争敗戦に至るこの国歴史全般が、まさにサブタイトルの通り「国粋と国際のはざまに揺れて」の年月だったわけで(現代も、ですが)、美術教育、そして美術界全体もその波から逃れられなかったことに思いを馳せながら拝読いたしました。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

数日前小包到着、実にいろいろいただき、驚くばかりです、数へる事も出来ないほどで皆お心のこもつた品々、ありがたく存じました、 アメリカの洗剤は早速使用、なるほど效能書にある通り純白に上るので喜びました、


昭和27年(1952)7月19日 倉田福子宛書簡より 光太郎70歳

敗戦から7年近く経ち、物資不足も漸く落ち着いてきたようですが、まだまだだったようですね。

和歌山県から企画展示情報です。

重要文化財指定記念特別展「大伽藍」

期 日 : 2025年4月3日(木)~6月29日(日)
会 場 : 高野山霊宝館 和歌山県伊都郡高野町高野山306
時 間 : 4月中 午前8時30分~午後5時 5月以降 午前8時30分~午後5時30分
休 館 : 5月19日(月)のみ展示替えのため
料 金 : 一般:1,300円 高校生・大学生:800円 小学生・中学生:600円

令和6年に高野山壇場伽藍(大伽藍)の諸堂が重要文化財に指定されました。壇場伽藍は、弘法大師空海(お大師さま)が開いた真言密教の世界を堂塔で表した、奥之院と並ぶ高野山の二大聖地です。壇場伽藍には多くの堂塔が建てられ、焼失と再建を繰り返し、現在の姿になりました。多くの僧侶や信仰する人々が、千二百年の時を繋げてきた壇場伽藍の歴史と宝物の数々をぜひご覧ください。

002
001
フライヤーに記述がありませんが、光太郎の父・光雲作の「仏頭」が出品されます。
003
高野山金剛峯寺さん金堂(総本堂)のご本尊にして秘仏の薬師如来(阿閦如来) 座像(昭和9年=1934)のための習作で、ほぼ原寸大の大きな作です。
004
ご本尊は金剛峯寺さん開創1,200年だった平成27年(2015)にご開帳されましたが、基本的に秘仏なので次はいつになるやらわかりません。習作の仏頭は霊宝館さんで時折展示されるものの、その機会も多くありません。こちらで把握している限りでは、前回は令和2年(2020)の「夏期企画展 如来 -NYORAI-」の際でした。

ご本尊の開眼は昭和9年(1934)。光雲が亡くなった年です。依頼があった時に光雲は「命が保(も)たないかも知れない」と一度は断りましたが、高野山の僧侶は「完成するまでお主が死なぬよう我々が加持祈祷を行う」(笑)。結局は弟子たちの手も借りつつ間に合わせたのだと思われます。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生も十月には東京へ行けさうで、来春の頃まで中野辺のアトリエで製作にかかれる模様です。

昭和27年(1952)7月12日 村田勝四郎宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に関わります。彫刻家の村田と他に二人に宛てたこの日の書簡で、中野の中西利雄アトリエを借りられる見通しとなったことが初めて具体的に語られました。

最低でも春と秋、半年に一度はこのネタが使えるので助かっています(笑)。

知恩院春のライトアップ2025(夜間特別拝観)

期 間 : 2025年3月26日(水)~4月6日(日)
時 間 : 17時45分~21時30分(21時受付終了)
場 所 : 浄土宗 総本山知恩院(京都市東山区林下町400 )
       友禅苑 国宝三門周辺 女坂 国宝御影堂 阿弥陀堂(外観のみ)
料 金 : 大人800円(高校生以上) 小人400円(小・中学生)

京友禅の祖・宮崎友禅翁ゆかりの庭園「友禅苑」や、日本最大級の木造二重門である「三門」、「男坂」など境内各所をライトアップいたします。ぜひこの機会に、知恩院へお参りください。

005
みどころ

友禅苑
友禅染の祖、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して造園された、 華やかな昭和の名庭です。池泉式庭園と枯山水で構成され、 補陀落池に立つ高村光雲作の聖観音菩薩立像が有名です。
008
御影堂(国宝)
寛永16(1639)年、徳川家光公によって再建されました。間口45m、奥行き35mの壮大な伽藍は、お念仏の根本道場として多くの参拝者を受け入れてきました。
009
関連行事
聞いてみよう!お坊さんのはなし
 テーマ『心に芽(め)ばえを~くらしの中に生きる仏教~』
 開始時間:18:00~/18:45~/19:30~/20:15~
 (各回お話15~20分、木魚念仏体験5~10分程度)

月かげプレミアムツアー
ライトアップ拝観エリアすべてを僧侶と一緒に巡る特別ツアーです。御影堂内陣や大方丈などの通常非公開部もご案内! 1時間30分たっぷりと知恩院の魅力をご体感いただけます。
 日程:木・土・日
 開始時間:18:00~
 所要時間:約1時間30分
 定員:各回30名様まで
 料金:お1人様3,000円(小・中学生1,500円)
 ライトアップ拝観料込み。
 料金は拝観受付にて現金でお支払いください。

おてつぎフェス2025 有志メンバーによる京都市ジュニアオーケストラ 室内楽コンサート
 3月26日(水) 18時30分~ / 19時50分~ (各40分) 浄土宗総本山 知恩院 集会堂
京都市東山区に位置する歴史深い知恩院にて、京都ジュニアオーケストラの有志メンバーが、春のライトアップにあわせて室内楽によるコンサートを開催します。
弦楽四重奏、ヴァイオリン四重奏、木管五重奏、弦楽合奏のさまざまな編成によるフレッシュなアンサンブルにぜひご期待ください!
会場は畳となります(椅子の持込は可能です。他のお客様の妨げにならないようにご配慮をお願いします)。満員の場合は、ご入場をお断りする場合があります。鑑賞無料 別途ライトアップ拝観料が必要 大人800円。当日は高校生以下無料
010
ライトアップ同時開催企画展示
 『夢中 伝承の川―春―』 3月28日(金) ~ 3月30日(日)
  場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・「華麓庵」
  林 侑子(陶芸家)、REKAO(千代紙)
  京焼・清水焼、友禅和紙
  ともに長く受け継がれてきた京都の伝統工芸、
  やきものと和紙が作り出す今の工芸の"二祖対面"。
  孔雀や川をモチーフに表現した作品を展示します。

 『千代紙の色と模様』 4月4日(金) ~ 4月6日(日)
  場所 友禅苑 茶室「華麓庵」
  REKAO(千代紙)
  桜柄の千代紙をあしらった金屏風を展示いたします。
  金屏風は前のものを輝かせるという存在でもあり、
  御来苑される方々を輝かせたいという
  願いを込めて制作いたしました。

 『鬼より強い守り神』
  場所 友禅苑 茶室「白寿庵」・「華麓庵」
  吉田瑞希(陶芸家)
  魔除け・勉学の神様「鍾馗(しょうき)」をテーマにした展示。
  京都の町家で見かける屋根瓦の鍾馗とは異なる表現で、
  京都の民間信仰を新たな視点から紹介します。
011
光太郎の父・光雲の聖観音像(上記マップの右下です)、正確には東京美術学校として依頼され、光雲が主任となって制作されました。明治25年(1892)のことでした。原型は美校の後身・東京藝術大学さんに残されています。
012
013
014
ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

毎日いそがしくやつて居ます、今年は来月十和田湖に遊びにまゐる予定です、

昭和27年(1952)5月23日 永瀬清子宛書簡より 光太郎70歳

十和田湖にまゐる」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の下見のため。ただ、まだ青森県からの依頼を受けるかどうか確定していませんので、事情を知らない相手には詳細は伏せていました。

↑このページのトップヘ