カテゴリ: 彫刻/絵画/アート等

まだまだ情報収集力が足りないようで、事前に気づかなかった展覧会がさらにありまして、昨日は実地に拝見して参りました。
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ちなみに建物の設計は前川國男だそうで。
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展覧会詳細。

特別展 大名と菩提所

期 日 : 2025年10月11日(土)~11月24日(月・振休)
会 場 : 埼玉県立歴史と民俗の博物館 さいたま市大宮区高鼻町4-219
時 間 : 9:00 ~16:30
休 館 : 月曜日(ただし11/24は開館)
料 金 : 一般600円 高校生・学生300円

 埼玉県立歴史と民俗の博物館では令和7年10月11日(土)から、特別展「大名と菩提所」を開催します。
 江戸時代の埼玉県域には忍・岩槻・川越に城郭が存在し、いずれも江戸近郊の要所の守りを固めるため、城主には幕府の要職に就いた譜代大名らが任ぜられました。
 これらの大名たちは、参勤交代や転封(てんぽう)を繰り返すなかで江戸と国許(くにもと)の両方に菩提寺を持ったり、転封に伴い菩提所を変えたり、一貫した墓域を形成したりと、菩提所や墓の在り方は「家」ごとに異なりました。
 そもそも菩提所とは、菩提を弔(とむら)う場所のこと、すなわち先祖の供養(くよう)を行う場のことを指します。江戸時代の大名たちにとって先祖を供養し、子として親の葬儀を執行することは、正当な後継者としての立場を表明する重要な場でもありました。
 本展では260余年の泰平の世を支えた大名が眠る菩提所に注目します。
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江戸時代、主に現在の埼玉県内に領地を与えられていた大名家の「菩提所」にスポットを当てた展覧会です。当時の文書や図絵、刀剣やら甲冑やらのゆかりの品々、古写真などなど。

で、光太郎の父・光雲作の木彫が一体出ていると数日前に知り、馳せ参じた次第です。
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現在の行田市にあたる忍(おし)城、や川越城の城主で、老中も務めた「知恵伊豆」こと松平伊豆守信綱の坐像です。伊豆守というと、島原の乱で幕府軍の総大将としてキリシタン虐殺を行った人物ということもあり、あまり良いイメージはないのですが……。
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像高1尺はないかという小さな像で、厨子に収められていました。似たような感じとしては、今年特別開帳が行われている鎌倉覚園寺さんの後醍醐天皇像。時期的にも同じ頃(明治中期)と思われます。ただ、あちらは白木でしたが、こちらは彩色が施されています。驚いたのは、厨子の上部に設(しつら)えられた帳(とばり)。これも木彫でした。

外側は黒漆塗り、内側に金箔を貼った厨子も見事な造作でした。蝶番(ちょうつがい)も精緻な彫金が施されています。ただし、この手の仕事は分業制が通常で、厨子は厨子、彫金は彫金で、それぞれ専門の職人の手になるものでしょう。そのあたり、光雲の『光雲懐古談』(昭和4年=1929)に記述があります。

所蔵は新座市の金鳳山平林寺さん。こちらにこの像が納められていることは以前から存じ上げていましたが、寺院の場合、こういった像が平時に公開されているとは限らず、無駄足になってはと思い、これまで足を運んだことがありませんでした。その意味でもこの機会に、と思った次第です。
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これ以外に「おっ」と思ったのが、芝増上寺の「台徳院殿霊廟」関連。広大な面積を持った徳川二代将軍・秀忠の墓所ですが、現物は太平洋戦争の空襲で焼失してしまいました。しかし、それ以前の明治43年(1910)、イギリスで開催された日英博覧会にその10分の1スケールの精巧模型が作られて出品されました。手がけたのは東京美術学校、監督が光雲でした。

模型は当時の英国王・ジョージ5世に献上されましたが、平成25年(2013)に日本に里帰り。現在は平成27年(2015)にオープンした増上寺さんの宝物展示室に展示されています。

そのオリジナルの霊廟も描かれた屏風絵。
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霊廟自体の絵図面。
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こちらに関する出品物もあるとは思っていなかったので、望外の喜びでした。

帰りがけ、図録(1,300円也)を購入。
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おまけ。駐車場にいたにゃんこ(笑)。
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光雲木彫を間近で見られる機会はそう多くありません。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「自然」をして唯一の神たらしめよ。


光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

ロダンは無神論者というわけでもありませんでしたが、キリスト教の教義に縛られる「××を表す時にはこうするのが決まりだ」的な暗黙のルール等はほとんど無視していました。

まだまだ情報収集力が足りないようで、事前に気づきませんでした。昨日開幕の展覧会です。

特別展 プラカードのために

期 日 : 2025年11月1日(土)~2026年2月15日(日)
会 場 : 国立国際美術館 大阪市北区中之島4-2-55
時 間 : 10:00 ~17:00 金曜は20:00まで
休 館 : 月曜日(ただし11月3日、11月24日、1月12日は開館)
      11月4日、11月25日、1月13日、年末年始(12月28日~1月5日)
料 金 : 一般 1,500円(1,300円) 大学生 900円(800円)
      ()内20名以上の団体料金および夜間割引料金(対象時間:金曜の17:00~20:00)

 美術家・田部光子(1933-2024)は1961年に記した短い文章において「大衆のエネルギーを受け止められるだけのプラカードを作」り、その「たった一枚のプラカードの誕生によって」社会を変える可能性を語っています。過酷な現実や社会に対する抵抗の意思や行為、そのなかに田部が見出した希望は、同年発表された作品《プラカード》に結実しました。 「プラカードの為に」と題されたこの文章は、作品が生まれるまでの思考の過程を語ったものであると同時に、社会の動きを意識し活動するひとりの美術家の宣言としても読むことができます。「たった一枚のプラカード」とは、行き場のない声をすくいあげ、解放の出発点となるような、生きた表現の象徴でもあるのです。
 田部の言葉と作品を出発点とする本展覧会は、それぞれの生活に根ざしながら生きることと尊厳について考察してきた、田部を含む7名の作品で構成します。各作家は、これまで社会に覆い隠されてきた経験や心情に目を凝らし、あるいは自ら実践することで、既存の制度や構造に問いを投げかけます。彼女・彼らの作品を通じて、私たちを取り巻く社会や歴史を見つめ直し、抵抗の方法を探りながら、表現することの意味に立ち返ります。

出品予定作家
 田部光子、牛島智子、志賀理江子、金川晋吾、谷澤紗和子、飯山由貴、笹岡由梨子

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関連イベント

 2025年12月6日(土)   キュレーター・トーク
 2025年12月21日(日) 対談 志賀理江子×斉藤綾子
 2026年1月17日(土)   対談 金川晋吾×笠原美智子
 2026年2月1日(日)  牛島智子ワークショップ
 2026年2月15日(日)   鼎談 飯山由貴×FUNI×宮崎理

出展作家のお一人、谷澤紗和子氏は、令和4年(2022)に上野の森美術館さんで開催された若手現代アーティストの登竜門的な「VOCA展」において、智恵子紙絵オマージュの「はいけい ちえこ さま」で佳作を受賞され、以後、そのシリーズをさまざまなところで発表なさったりしています。

VOCA展2022 現代美術の展望─新しい平面の作家たち─/「Emotionally Sweet Mood - 情緒本位な甘い気分 - 」。
都内レポートその2「VOCA展2022 現代美術の展望―新しい平面の作家たち―」。
谷澤紗和子個展「お喋りの効能」。

今回は、「はいけいちえこさま」シリーズの全点が展示とのこと。さらに新作《目の前に開ける明るい新しい道》では、智恵子、18世紀イギリスのメアリー・ディレイニー、中国の切り絵作家・庫淑蘭(クー・シューラン)、アプリケ作家・宮脇綾子という4名の女性作家との対話を試みたそうです。
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他の出展作家の方々も、それぞれにひとくせもふたくせも、といった展示のようです。

会期が意外と長いので、あちこち飛び回らねばならない怒濤の時期が終わったあたりで拝見に伺おうかと考えております。皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

君達に先だつ大家達を心を傾けて愛されよ。


光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

大正6年(1917)にロダンが歿し、翌年、フランスで刊行された雑誌に載った「LES ARTS FRANÇAIS」ロダン追悼号に載ったものが原典です。

10月28日(火)、愛車を駆って北関東三県を巡りましたレポートの続きです。

栃木市立文学館さんの「『歴程』と逸見猶吉、岡安恒武」展、群馬県立土屋文明記念文学館さんの第127回企画展「愛の手紙-友人・師弟篇-」を制覇し、最終目的地は埼玉県東松山市の総合会館さん。こちらでは光太郎に私淑していた彫刻家・高田博厚の作品を集めた「彫刻家 高田博厚展2025―Vitrail(ヴィトロー)―「窓」から見る高田博厚」を拝見しました。
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同市の元教育長で、光太郎と交流のあった故・田口弘氏が光太郎繋がりで高田とも意気投合、同市での高田の個展や、東武東上線高坂駅前の高田作品を集めた彫刻プロムナード設置などに尽力され、その関係で高田遺族から鎌倉にあったアトリエ閉鎖の際に高田作品や遺品がごっそり寄贈され、それらを毎年、少しずつ展示する催しです。

今年の目玉は、ジョルジュ・ルオーの息女であるイザベル・ルオー作のステンドグラス。鎌倉の高田アトリエに設置されていたものです。
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裏にLEDライトが仕込んであり、良い感じに光が洩れていました。
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そのルオー父娘を高田が作った肖像彫刻。
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父ルオーが元々ステンドグラス職人だったというのは存じませんでした。そういわれてみると、あの太い輪郭線で描いた宗教画には、ステンドグラスの影響がありありと見えます。

いただいてきた無料の簡易図録。
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拝観後、会場を出て、前橋ICから乗って東松山ICで下りた関越道には戻らず一般道を南下。隣接する川島町の川島ICから圏央道に入り、一気に自宅兼事務所最寄りの神崎ICまで。我ながらがっつり走ったな、という感じでした(走ったのは愛車ですが(笑))。
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さて、帰宅したところ、東松山市役所の方からLINEにメッセージ。この日、同市を訪れたこととは関係なく、まったくの偶然ですが「今夜のテレビ東京『開運! なんでも鑑定団』で高田博厚の彫刻が出るそうです」とのことでした。何とタイムリーな。

拝見しましたところ、鑑定依頼品は「ロマン・ロラン像」。さっき見てきたばかりの高田博厚展に並んでいたものと同じものでしたので、さらにびっくり。
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「高田は精神を……」云々は、ロランが語った言葉だそうで。

高田の紹介Vの部分では、光太郎についてもかなり触れて下さいました。
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光太郎没後、記憶と写真を基に高田が作った光太郎像も。同一のものは東松山市の東武東上線高坂駅前彫刻プロムナードにも据えられています。
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で、「ロマン・ロラン像」。鑑定金額は思ったより伸びませんでした。「ニセモノではないが、数多く鋳造されたうちの一つ」という扱いで。たしかにブロンズ彫刻は同一の型から鋳造されたものでも、いつ、どんなコンセプトで、誰が鋳造したか、といった要素でかなり価値の幅が出ます。それにしてもちょっと辛い鑑定のような気もしましたが。

TVerさんなどで配信が見られます。ぜひご覧下さい。東松山市の高田展も11月13日(木)までの開催でして、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

お前の葉は皆平たい。さうでなく、お前の方へ葉の先が向く様におし。奥行きで作るのだ。平(ひら)で無くだ。いつでもさういふ様に仕事をおし。さうすれば表面が一つの塊まりの端と見える様になる。それでなくては彫刻はうまく行かない。

光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

まだ一人前の彫刻家となる前の若き日のロダンが、修業先の石膏細工の先輩職人から言われた言葉です。無名のこの職人の教えが、ロダンの眼を開かせました。

彼等が手がけていたのは主に建造物の外壁の装飾でしたが、そこに葉っぱをあしらう際、葉っぱと言われて誰もが思い浮かべるこういうアングルでは立体感が出ない、というのです。
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こうではなく、先端を手前に配せ、と先輩職人。
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なるほど。

ちなみにこの葉は、光太郎智恵子ゆかりの花、グロキシニアです。5月くらいに咲き始め、以来、半年近くしぶとく花をつけ続けています(笑)。
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今週末から11月ですね。毎年そうなのですが「芸術の秋」ということで、関連するイベントが集中しています。「怒濤の11月」という感じです(笑)。既にこのブログで取り上げ開催中である諸館の企画展示や各種イベントも継続、さらにこれからご紹介すべき事項も20件を下りません。そこで関連するようなものは一括して扱わせていただきます。

今日のキーワードは「ライトアップ」。3件ご紹介します。

まず、光太郎の親友・碌山荻原守衛の個人美術館にして、光太郎ブロンズ彫刻も多数展示して下さっている信州安曇野碌山美術館さん。

碌山美術館 秋の紅葉ライトアップ

期 日 : 2025年11月1日(土) 雨天中止
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1
時 間 : 17:00~19:00
料 金 : 無料

展示室は碌山館のみご覧いただけます。
暖かい服装でお出かけください。昨年は雨で中止でしたので晴れるといいな~
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通常の閉館後、無料開放だそうで。ただし複数ある展示棟のうちの本館にあたる碌山館のみライトアップ及び内部の観覧が可となります。

昨年は降雨のため中止となってしまったので、今年こそは、ですね。フライヤー画像は一昨年のものと思われます。建築家・今井兼次の設計になる教会風のロマネスク様式が実にいい感じですね。

開催順に、続いては福島二本松の智恵子生家。10月5日(日)、智恵子忌日の「レモンの日」に続いて2回目の開催です。

蘇る智恵子season3~生家のライトアップ~

期 日 : 2025年11月16日(日)
会 場 : 智恵子生家 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 17:00~20:00
料 金 : 無料
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こちらも通常の閉館後、無料開放となりますが、ライトアップ自体は館外から観る形になる感じです。開催中の「高村智恵子レモン祭」最終日を飾るイベント、といった位置づけのようです。

最後は京都から。

浄土宗総本山知恩院 秋のライトアップ

期 日 : 2025年11月19日(水)~12月7日(日)
会 場 : 浄土宗総本山知恩院 京都市東山区林下町400
時 間 : 17:30~21:30
料 金 : 大人800円 小中学生400円
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知恩院さんでは毎年、春と秋にライトアップが為され、光太郎の父・光雲が主任となって作られた露座のブロンズ聖観音菩薩像も照らし出されています。
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こちらは期間が長く、関連行事等も充実しています。当方、ライトアップの時期には行ったことがありませんが、令和4年(2022)に妻がお友達と行きまして、画像を京都から送ってもらいました。自分でも行きたいのですが、先述の通り「怒濤の11月」で、あちこち飛びまわらなければなりませんで、なかなか京都までは足が向きません。

皆様はそれぞれぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

それ故此の正確な返相に忠実なら、モデルの実相は、皮相の再現でなくて、内面から発して来る様に見える。全体の確実、面の正確、芸術品の生命は其処から出て来ます。


光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「辺相」は、ほぼ「輪郭線」と同じ意味で、光太郎の造語と言われています。

一昨年出た四六判単行本が文庫化されました。

創元推理文庫 三人書房

発行日 : 2025年10月24日
著者等 : 柳川一
版 元 : 東京創元社
定 価 : 780円+税

大正8年(1919年)東京・本郷区駒込団子坂。平井太郎は、通と敏男の二人の弟とともに《三人書房》という古書店を開いた。店には同年に亡くなった女優・松井須磨子の遺書らしい手紙をはじめ、奇妙な謎が次々と持ち込まれ──。同時代を生きた、宮沢賢治や宮武外骨、高村光太郎たちとの交流と不可解な事件の顛末を、若き日の平井太郎=江戸川乱歩を通して描く、滋味深い連作推理。著者あとがき=柳川一/解説=辻真先

目次
 「三人書房」 「北の詩人からの手紙」 「謎の娘師(むすめし)」 「秘仏堂幻影」
 「光太郎の〈首〉」
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五話の連作で、それぞれ江戸川乱歩がらみのミステリーです。表題作、そして表紙に描かれている「三人書房」は、史実で乱歩が弟たちと共に経営していた古書肆です。

最終話「光太郎の〈首〉」が、題名通り、光太郎彫刻に関わる事件を描いています。架空の事件ですが、さもありなんという感じです。

他の登場人物等は、宮沢賢治、横山大観、宮武外骨など。さらに物故者として松井須磨子や葛飾北斎、その娘お栄(応為)、岡倉天心、そして智恵子らにも触れられます。

単行本でお買い求め頂いていない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

先づ第一に、芸術は唯自然の綿密な研究です。此が無くてはわらわれは救はれない。芸術家たり得ない。


光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

光太郎の親友だった碌山荻原守衛は、パリからの帰国に際し、ロダンに別れの挨拶し、「帰国後は師と仰ぐべきものがないが、誰を師と仰ぐべきか」と尋ねると、ロダンから「自然、自然こそ最大の師ではないか」と諭されたそうです。

今年度の文化勲章/文化功労者の発表がありました。

時事通信さん。

王貞治さんら8人文化勲章 功労者に野沢雅子さんら、声優初

 政府は17日、2025年度の文化勲章を、元プロ野球選手・監督で現ソフトバンク球団会長の王貞治氏(85)、ノーベル化学賞受賞が決まった京都大特別教授の北川進氏(74)ら8人に贈ると決めた。
 文化功労者にはアニメ「ドラゴンボール」シリーズの孫悟空役などで知られる声優の野沢雅子=本名塚田雅子=氏(88)、漫画家の竹宮恵子氏(75)、建築家の坂茂氏(68)ら計21人を選んだ。声優の文化功労者は初で、女性の功労者は過去最多だった昨年度と同じ6人。文化勲章を受ける北川氏は同時に功労者にも選ばれた。
 文化勲章の親授式は11月3日に皇居で、文化功労者の顕彰式は同4日に東京都内のホテルで行われる。
 文化勲章を受けるのは他に、歌舞伎俳優の片岡仁左衛門=本名片岡孝夫(81)▽心臓血管外科学の川島康生(95)▽民俗学の小松和彦(78)▽ファッションデザイナーのコシノジュンコ=本名鈴木順子(86)▽美術評論の辻惟雄(93)▽有機合成化学の山本尚(82)の各氏。
 他の功労者は、美術家のイケムラレイコ=本名池村玲子(74)▽陶芸家の伊勢崎淳=本名伊勢崎惇(89)▽落語家の柳家さん喬=本名稲葉稔(77)▽小説家・評論家の水村美苗=本名岩井美苗(74)▽柔道の上村春樹(74)▽泌尿器科学の垣添忠生(84)▽文化人類学の小長谷有紀(67)▽高分子化学の沢本光男(73)▽日本料理家の高橋英一(86)▽舞踊家の田中泯=本名田中捷史(80)▽新内節三味線の新内仲三郎=本名角田富章(85)▽演劇の野田秀樹(69)▽レスリングの福田富昭(83)▽半導体デバイス工学の三浦道子(76)▽感染症学の満屋裕明(75)▽文化人類学の山下晋司(76)▽政治学の渡辺浩(79)の各氏。
 ノーベル賞受賞が決まった人は、文化勲章・功労者に選ばれるのが慣例。今年、生理学・医学賞に選ばれた大阪大特任教授の坂口志文氏(74)は2017年に功労者となり、19年に文化勲章を受章している。

このうち、文化勲章を受章される片岡仁左衛門氏は、本名の「片岡孝夫」で活動されていた昭和48年(1973)、NHKさんの「銀河テレビ小説 生きて愛して」(全30回)で、主役の光太郎役を演じられました。
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第1回放映冒頭部分は、花巻郊外旧太田村という設定でした。上画像は蟄居生活を送っていた山小屋(高村山荘)で、当会の祖・草野心平(前田吟さん)に、沈痛な面持ちで戦時中の翼賛活動を悔いる話をしているという場面。一転して朗らかな笑顔の下画像は、山小屋近くの分教場で、子供たちを相手にしているシーン。当然と言えば当然ですが、この二つの表情のギャップだけでも演技の幅がしのばれますね。

ちなみに「銀河テレビ小説 生きて愛して」、ヒロインの智恵子役は大空真弓さん、他に荻原守衛役は寺田農さん、まだ新人だった水沢アキさんが、智恵子の妹・セキの役でした。さらにいうなら、仁左衛門さんのお嬢さん・片岡京子さんは平成12年(2000)、津村節子氏原作の舞台「智恵子飛ぶ」で、智恵子役を演じられました。元々、某大物女優が智恵子役だったところ、その女優が身内の薬物事件逮捕で急遽降板し、セキ役だった京子さんが智恵子役に抜擢という事情がありましたが、それでも父子で時を経て光太郎智恵子役を演じたという稀有な例でした。

仁左衛門さんインタビュー等。やはり時事通信さんから(以下同じ)。

「子孫への置き土産に」 文化勲章の片岡仁左衛門さん

012 「自分が好きでしていることで、こんなに大きな評価を頂けて幸せ。子孫への置き土産になる」。
 文化勲章に選ばれた歌舞伎俳優の片岡仁左衛門さん(81)は、柔和な笑みを浮かべて喜びを語った。
 1998年、大病を克服し十五代目仁左衛門を襲名。「神さまが命を下さった責任感」を胸に、芸の伝承に尽くしてきた。「お客さまに受け入れられている空気が伝わってきたときはうれしい」と芝居の醍醐味(だいごみ)を口にする。
 「菅原伝授手習鑑」の菅丞相をはじめ多くの当たり役を持つが、「役を掘り下げるといまだに発見がある」と強調。「文化勲章の質を落とさないよう、なお一層精進する」と力強く語った。 
片岡 仁左衛門氏(かたおか・にざえもん、本名片岡孝夫=かたおか・たかお)歌舞伎俳優。人気と実力を兼ね備えた俳優として長年優れた成果を挙げ、関係団体でも要職を歴任するなど歌舞伎界の振興に貢献。06年紫綬褒章、15年人間国宝。大阪府出身。81歳。


文化勲章と同時に発表された文化功労者には、今年2月に発表された日本芸術院の新会員に続き、脚本家の野田秀樹氏と建築家の坂茂氏も選出されました。

野田氏は登場人物が智恵子のみの一人芝居で、最近も全国各地で様々な劇団や個人の方によって上演され続けている「売り言葉」を書かれました。初演は平成14年(2002)、大竹しのぶさんが智恵子でした。

「芝居が好き」の一心で 文化功労者の野田秀樹さん

014 「『芝居が好き』という一心で作品を作ってきた」。劇作家の野田秀樹さん(69)は、文化功労者の決定を受けてコメントを出し、演劇人としての半世紀を振り返った。
 東京大在学中の1976年に劇団「夢の遊眠社」を結成し、80年代の小劇場ブームをけん引。奇想天外な物語と躍動感あふれる舞台で観客を魅了した。解散後は、海外の演劇人との共作や歌舞伎など他ジャンルの創作にも精力的に取り組む。
 独特な言葉遊びが野田戯曲の妙味。「『文化功労者=ぶんかこうろうしや』が、頑迷な『文化殺し屋=ぶんかころしや』にならないよう」精進するとユーモラスにつづった。
 野田 秀樹氏(のだ・ひでき)劇作家・演出家・俳優。ジャンルを超えた多彩な創作を展開し、劇作、演出、演技全てで傑出した才能を発揮。演劇における国際交流の業績でも高い評価を得た。11年紫綬褒章。長崎県出身。69歳。

坂氏は、光太郎ゆかりの地にして、毎年「女川光太郎祭」を開催して下さっている宮城県女川町のJR石巻線女川駅駅舎を東日本大震災後の平成27年(2015)に設計されました。

「住環境の改善が責任」 文化功労者の坂茂さん

015 「住環境で困っている人がいたら、それを改善するのは当たり前の責任」。文化功労者に選ばれた建築家の坂茂さん(68)は、世界の著名建築を手掛ける一方、仮設住宅の建設など被災地支援をライフワークとしてきたことで知られる。
避難所の間仕切りを、安価で丈夫な「紙管」で開発するなどの活動を続けてきた。阪神大震災の避難所で「被災者が雑魚寝する悲惨な状況を見た」のがきっかけだった。
 来年度中の設置が見込まれる「防災庁」の行方が気がかりという。「僕ほど世界の被災地を見てきた建築家はいないと思う。絶対に必要な省庁で、お手伝いして何とか良いシステムをつくりたい」と強調した。
 坂 茂氏(ばん・しげる)建築家。リサイクルや焼却が可能な紙製パイプ「紙管」を活用するなど、特徴的な建築で国際的に注目を集めた。災害時には建築の知見を生かした支援活動も展開し、世界から称賛を受けている。14年プリツカー賞、17年紫綬褒章。東京都出身。68歳。


他の受賞者の皆さんを含め、関係の方々の今後のますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

――自分が何かをやる事さへ確かなら、少し位待つたつて何でも無い。たつたひとつの彫像でも押し出せる。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

意外と下積み時代の長かったロダンならではの言です。光太郎もそうでしたし。

今回受賞が決まった方々の中にも、世に認められるまでけっこうかかったという方もいらっしゃるような気がします。

テレビ番組の放映情報を2件。

まず、明日です。

わたしの芸術劇場 「千葉県立美術館(千葉県千葉市)」

BS11(イレブン) 2025年10月18日(土) 10時35分~11時00分

「美術館」を堅苦しい場所だと思っている方々へ送る。舞台を鑑賞しているような気持ちにしてくれ、番組を見た後は、美術館に足を運び、芸術に浸りたくなること間違いなし。

今回の舞台は、千葉県立美術館。印象派から近代まで、女性像を描くことに情熱を注いださまざまな芸術家の作品を紹介。女性の肌の表現を探求したルノワールのさりげない高度なテクニックとこだわり。彼の影響を受けた多くのフランスの芸術家。そしてその風は日本にも。油絵の枠を超えて様々な作品に大きな影響を与えた。女性の表現を追求し続けた芸術家たちに、大きな拍手を。

出演:片桐仁

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元々はTOKYO MXテレビさんで放映されていたもので、今回のものは初回放映が令和4年(2022)2月12日でした。TOKYO MXテレビさん、自宅兼事務所のある千葉も田舎の方になると受信できず、当方も未見です。

メインで取り上げられるのはルノワールの絵画のようですが、光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)も紹介されるようです。
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千葉と光太郎智恵子の縁は浅くないということもあるのでしょう、同館では光太郎ブロンズをいずれも新しい鋳造ながら8点収蔵してくださっています。

同番組、7月に放映のあった中村屋サロン美術館さんの回では、光太郎の油彩「自画像」(大正2年=1913)を取り上げて下さいました。
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もう1件、明後日です。

遠くへ行きたい【ますだおかだ増田が福島へ】名湯に絶品ソースかつ丼!

地上波日本テレビ  10月19日(日) 06:30〜07:00

ますだおかだ増田が福島の名湯と名物を巡る!
まずは安達太良山で高村光太郎の『智恵子抄』に登場する「ほんとの空」と、秘湯の源泉の場所を教えてもらう。麓にある共同浴場「岳温泉」にお邪魔して湯につかってホッと一息。福島名産「桃狩り体験」でジューシーな桃にかぶりつく。そしていよいよ標高1500メートルにある秘境の源泉と対面することに! 安達太良山の自然が育む湯と名物を巡る福島旅のはじまりです!

旅のはじまりは福島県二本松市にある安達太良山から。増田は今回の旅の目的を秘湯と「ほんとの空」だと話す。高村光太郎の『智恵子抄』に登場する「ほんとの空」が安達太良山にある、という。ロープウェイを降りると「安達太良・吾妻自然センター」の一瀬圭介さんが迎えてくれる。ほんとの空と秘湯の源泉もあると聞き、増田は一瀬さんといざ山道へ! 「この上の空がほんとの空です」との標識を見つけるが、残念ながら空には雲がかかっている。しかし、しばらくすると雲が晴れてきて――?!

安達太良山の麓にある「岳温泉」を散策する増田は、甘い匂いに誘われて「くろがね焼 玉川屋」へ。3代目・渡辺茂雄さんが目の前で焼いてくれる「くろがね焼」は玉子焼きのようないい香りがする! カステラ生地にこしあんが入ったシンプルな美味しさで岳温泉の名物だそう。

増田は渡辺さんがおすすめしてくれた共同浴場「岳の湯」へと向かう。湯の熱さが特徴だという。入浴料は大人400円、そのほかリーズナブルな値段で日帰り体験や素泊まりも可能だ。さっそく湯に入ろうとする増田、しかし本当に熱い! 先客の安齋善成さんが水道を少しひねって温度を調整してくれる。美肌の湯と有名なお湯の温度はなんと51度! さらに安齋さんが「湯守さんがいなくては湯を楽しめない」と教えてくれる。湯上がりに安齋さんの母・サチ子さんと対面した増田は、つやつやのお肌にびっくり!

次に増田は昼に行列のできていたソースカツ丼の店「成駒」を訪ねる。3代目・佐藤朋圭さんに「ソースカツ丼 ヒレ」をオーダーした増田は、出てきたカツ丼の分厚さとボリュームにびっくり! 成駒は昭和23年創業で、初代で祖父の伊助さんが終戦後の世でお腹いっぱい食べてほしい、との思いで始めたそう。その思いをつなげる朋圭さんの味と心意気に増田はうなる!

そしていよいよ標高1500メートルにある安達太良山の源泉を目指す! 増田は湯守の武田喜代治さんと遠藤憲雄さん、矢吹梓さんとともに山道を行く。途中までは車だが、かなりの悪路だ。それでも今日の安達太良山の空は青く、増田は「これがほんとの空?!」と感激する。源泉が通るパイプをさかのぼっていき、源泉のひとつに到着。透明なお湯が沸いている。ここから8キロ、約40分かけて麓の温泉へ流れていく。パイプの内側にはたくさんの湯花がついており、やわらかいうちに「湯花流し」という掃除を週に1度しなければならない。増田は湯守さんたちの労力を尊びながら、湯花流しをお手伝いする。

作業の終わりに増田は湯守さんおすすめの「ホテル光雲閣 山の湯 露天風呂」へ。湯花を流したあとの湯は乳白色になり「ミルキーデイ」と呼ばれている。増田は湯守さんたちに感謝しながらゆっくりと風呂につかる。

福島市には果樹園が多く、国道13号線は別名「ピーチライン」と呼ばれているそう。増田は「まるせい果樹園」を訪ね、全身ピーチ色の代表取締役・佐藤清一さんに迎えられる。桃には多くの品種があり、まるせい果樹園でも20~25種類ほどの品種を作っている。増田は佐藤さんと果樹園へ行き、佐藤さんが一番好きだという「川中島白桃」の収穫を体験! ジューシーな桃にかぶりついて大満足! 増田は佐藤さんに東日本大震災後の影響などについて聞きながら、温泉や桃、そして数々の名産を育む福島の自然と空を堪能した旅を振り返る。

出演者 ますだおかだ増田
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智恵子のソウルマウンテン・安達太良山とその周辺です。旧安達町の智恵子生家/智恵子記念館までは行程に入っていないようで残念ですが、ロープウェイ山頂駅近くの「この上の空がほんとの空です」木柱が取り上げられます。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

――歩行は景色の真相を見つけ出すのに一番いい方法です。自分の好きな程歩けて、自分の好きな時に立ち停れて、そして何もかも見てたのしめます。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

テレビで散歩番組などが隆盛なのも、こういうところからなのかも知れませんね。

昨日に引き続き、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエ解体に伴う新聞報道を。

『東京新聞』さん。

高村光太郎やイサム・ノグチも活動した「中西アトリエ」、存続目指し解体 「後世に伝えたい」思い新たに

 「水彩画の巨匠」と呼ばれた洋画家、中西利雄(1900〜48年)が東京都中野区に建てたアトリエが老朽化などで解体されることとなり、1日から工事が始まった。保存の動きもあり移築先などは未定だが、建築部材を残し再建に希望をつなぐ。
◆洋画家・中西利雄のアトリエとして山口文象が設計
 工事は柱や梁(はり)、窓枠などの建具を再利用できるように残す「部材保存解体」で実施。1日は建具や照明、水道の設備などを取り外す作業が行われた。
 アトリエは1948年、建築家の山口文象(1902〜78年)の設計で建てられ、戦後間もない時期のモダニズム建築の先駆けとされる。中西は完成した年に死去し、貸しアトリエとなった。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)が『乙女の像』を制作し、彫刻家のイサム・ノグチ(1904〜88年)も滞在した。
 管理は長年、中西の長男・利一郎さんが担ってきた。2023年に亡くなった後、妻の文江さん(74)が相続。壁がはがれ落ちるなど危険になったため、解体が決まった。
◆移築先は未定だけれど、調査・記録し建築部材を保存
 1日に始まった解体工事には、文江さんや、保存に動いた団体職員らが立ち会った。作業は重要建築の解体実績がある風基建設(新宿区)が、10月末までの予定で行う。
 解体が迫った9月下旬には、有志の建築士5人がアトリエで壁や天井の構造、建築部材の長さなどを細かく調査、記録し、解体と再建への準備を整えた。
 参加した建築士の伊郷吉信さん(72)は「後世の人に、このアトリエを設計した建築家や、ここで制作した芸術家のことを知ってもらいたい。そういう思いで総力を結集した」と語った。
 アトリエは老朽化が進むとともに存続が危ぶまれた。2024年には、保存を望む建築家や文化人らが「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(俳優・劇作家の渡辺えり代表)を発足し、現地保存の道を模索したが、今年8月に断念した。
◆設計に関わった98歳建築家も参加、感慨深げに
 その後、価値ある住宅建築の継承に取り組む一般社団法人「住宅遺産トラスト」(世田谷区)が建物の所有者の仲介などを引き受け、移築保存への希望がつながった。
 文江さんは「これだけの人が協力してくれるとは思わなかった。アトリエに対して熱い思いを持っていた利一郎もうれしいと思う」と喜ぶ。
 アトリエを設計した山口文象の弟子だった建築家、小町和義さん(98)=東京都八王子市=は10代から山口の事務所で働き、実際に設計図を引いた人物だ。
 取材に「モノが少なくて建てるのも大変な時代で、苦労しながら節(ふし)のある板とか柱を集めた。簡素だけど、丈夫な材料でできた、しっかりしたアトリエ」と胸を張り、保存の動きに「よかった」とうれしそうにつぶやいた。
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保存のために建築部材を整理しながら解体が始まったアトリエ=1日、東京都中野区で
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解体に備えた調査で建物の構造や部材を記録する建築士ら=9月24日、東京都中野区で
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中西利雄が建て、高村光太郎らが滞在したアトリエ=1日、東京都中野区で

続いて『秋田魁新報』さん。

高村光太郎ゆかりの都内アトリエ、解体へ 十和田湖畔の「乙女の像」制作

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年を過ごし、十和田湖畔にある「乙女の像」塑像も制作した東京・中野のアトリエが解体されることになった。保存活動に取り組んできた秋田市河辺出身の曽我貢誠さん(72)=日本詩人クラブ理事、都内住=は「現地からアトリエは姿を消すが、移築も視野に検討を進めている」とし、部材を保管しながら建物の再建を目指すという。
 アトリエは1948年建設で、斜めの屋根と北側に向いた大きな窓が特徴。施主は洋画家中西利雄(1900~48年)、設計を建築家山口文象(1902~78年)が手がけた。中西は完成を見ずに亡くなったため、彫刻家イサム・ノグチ(1904~88年)や高村らに貸し出された。高村は亡くなるまでの3年半を過ごした。
 中西の長男利一郎さんが長年、アトリエを管理してきたが2023年に他界。老朽化もあり解体の話が浮上する中、利一郎さんと交流のあった曽我さんが昨春、有志と会を立ち上げて署名集めや行政への要望など保存活動を行ってきた。
 曽我さんは「多くの支援を受けながら現地保存の道を模索したが、さまざまな条件もあり断念せざるを得なかった」と話す。現地では今月1日から、柱や梁(はり)、窓枠などの建具を再利用できるように残す「部材保存解体」の作業が始まっている。
 9月26、27日には解体前のアトリエ見学会が行われ、集まった人たちがその姿を目に焼き付け、思い出などを語り合っていた。
 保存活動に携わった神奈川大建築学部の内田青藏特任教授(72)=大館市出身=はアトリエについて、戦後間もない時期のモダニズム建築の特徴がみられる貴重な建物と評価。「再建の可能性が残されたのは意義深い。部材の傷みもみられるが、よりよい形で再現されてほしい」と期待した。
秋田魁新報4
秋田魁新報5
今後の移築先の確保、さらに場合によっては活用法を考えるなど、まだまだ課題は山積しています。

よいお知恵や提案をお持ちの方、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」曽我氏までご連絡下さい。save.atelier.n@gmail.com

【折々のことば・光太郎】

――芸術とは自然が人間に映つたものです。肝腎な事は鏡をみがく事です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

なるほど、曇った鏡では正しい姿を映せませんね。

保存運動を継続しております東京中野区の中西利雄アトリエ。昭和27年(1952)から光太郎が居住し、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などを制作し、昭和31年(1956)4月2日、その終焉の地となった建物です。設計はモダニズム建築家の山口文象があたりました。

解体が決定し、先月末には関係者対象の内覧が行われました。すでに解体工事が始まっていますが、消滅は回避、解体した部材は保管され、移築先を探すという状況になりました。

その件や今後の見通しについて新聞各紙で報じて下さっています。掲載順に2日に分けてご紹介いたします。まず、「乙女の像」地元の青森県の地方紙2紙。

『東奥日報』さん。

「乙女の像」高村光太郎晩年の拠点 東京・中野 保存目指す有志 見学会

 詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が晩年、「乙女の像」の塑像を制作した東京・中野のアトリエを巡り、移築を視野に入れた検討が進んでいる。10月にも移築に向けた解体作業が始まり、建物の部材は一時保管されるという。26日、保存を目指してきた有志による見学会が行われ、集まった人たちがその姿を目に焼き付けた。
 アトリエは洋画家中西利雄(1900~48年)が建築、48年に完成した。高村は52年秋から亡くなるまでの3年半を過ごし、十和田湖畔(十和田市)にある「乙女の像」の塑像制作に情熱を注いだ。
 移築に向けた動きには、歴史的、文化的に貴重な住宅建築の継承に取り組む「住宅遺産トラスト」が(東京)が関わり、まずは解体に着手する方向となった。完成から80年近くが経過したアトリエは老朽化が進み、現地での保存が困難な状況になっていたという。
 アトリエは中西の長男・利一郎さん(故人)が大切に管理してきた。高村とも親交があったといい、利一郎さんの妻・文江さん(74)は「中西利雄や高村を好きな方たちがここでたくさんの思い出をつくった。夫の思いが生かされる方向になれば一区切りがつきます」と述べた。
 保存に向けては、都内の有志らが会を立ち上げ、署名集めや行政への要望などを行ってきた経緯がある。
 同日、現地を訪れた建築士の十川百合子さん(71)は「アトリエは戦後の建材が不足する中で建てられたが、工夫が凝らされている。さまざまな文化人が集った歴史があり、後世に伝えるためにも、より良い形で再現されてほしい」と期待した。

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同じく『デーリー東北』さん。

高村光太郎アトリエ解体へ 「乙女の像」制作 都内 老朽化、部材や資料は保管 文化的価値継承へ移築模索も

 彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)が十和田湖畔にある「乙女の像」を制作した東京・中野のアトリエが、部材などを保管した上で10月に解体されることになった。有志が建物の保存に向けて尽力してきたが、老朽化が進行して困難に。一方、解体後の移築を模索する動きもあり、関係者は文化的価値の継承を願っている。
 アトリエは、洋画家の中西利雄(1900~48年)が使用する予定で建てられたが、亡くなった直後に完成。貸し出されていたところ、岩手県花巻市で過ごしていた高村が青森県から乙女の像の制作を依頼されたのをきっかけに52年に移り、亡くなるまでの間、制作の拠点とした。高村の前には世界的な彫刻家のイサム・ノグチも使用している。
 高村の死後は、中西の長男の利一郎さんが守り継いできた。ただ、2年前に死去してからは管理が難しくなり、利一郎さんの妻・文江さん(74)は「耐震性などを考えると危険な建物でもあった」と語る。
 有志でつくる「アトリエを保存する会」が行政に協力を要請したり、建物内で文化的な交流活動を行ったりしてきたが、現在地に残すことはかなわなかった。
 だが急転直下、歴史的価値のある住宅建築の継承に取り組む「住宅遺産トラスト」(東京都)が所有者と相談し、都内の建設会社が解体された柱などの部材や建物内にあった資料を一時保管することになった。場所や時期は未定だが、移築に向けた動きもあり、保存する会の曽我貢誠さん(同)は「完全になくなるわけではないということで、ほっとしている」と胸をなで下ろす。
 同会には保存を望む5千通以上の署名が寄せられている。曽我さんは移築の実現に期待を寄せ、「若者が想像力を育むような場所になれば」と願う。
 文江さんも「必要な物は保管してもらえる。主人の思いに応えられる道が見えて良かった」と話した。
 解体工事が行われるのを前に、26日は関係者がアトリエを訪れ、往時に思いをはせた。高村の研究を続けてきた小山弘明さん(千葉県)は「移築などで活用される方向でお願いしたい。(貴重な建築物を)継承していく一つのモデルケースになれば」と語った。

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いろいろセンシティブな問題があり、詳細は書けませんが、現状、こういうことになっています、ということで。

以前も書きましたが、移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。できれば近くであるに越したことはないのですが、離れた場所でも仕方がないでしょう。保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com
よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

――彩色と彫刻と何の関係もありません。光と陰とがあれば彫刻家は沢山です。若し其の構造的表現が正しければ。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

一般にブロンズの塑像や、大理石彫刻などには彩色を施しません。木彫の場合には大理石とは異なり彩色されることがあって、光太郎も行っていますが、それとて最小限です。彩色されていなくても、色彩を感じさせる彫刻でなければ……ということでしょう。

今日、10月10日は光太郎の父・光雲の忌日です。昭和9年(1934)、数え83歳で、息子の光太郎より10年近く長命だったことになります。最期は胃ガンでした。

その光雲の名が、先週の『山陽新聞』さんに。ただし、弟子の平櫛田中を紹介する中でのものでしたが。

環太平洋大 2年連続特別賞 全国大学ダンスフェス 平櫛田中テーマ 鏡獅子の躍動感表現

 大学創作ダンスの国内最高峰の大会、「全日本大学ダンスフェスティバル」(8月・神戸市)で、環太平洋大(岡山市東区瀬戸町観音寺)ダンス部が2年連続の特別賞に輝いた。井原市出身で日本近代彫刻の巨匠・平櫛田中の傑作「鏡獅子」から着想を得て、田中の生きざまや鏡獅子の迫力をダンスで表現し、高い評価を受けた。
 タイトル「燃ゆる鏡獅子―平櫛田中、木彫に捧ぐ血潮」(5分40秒)は、歌舞伎の六代目尾上菊五郎をモデルに田中が22年の歳月をかけ86歳で鏡獅子を完成させた道のりを描いている。
 1~4年の部員30人は昨秋以降、平櫛田中美術館(井原市)を何度も訪れ、鏡獅子に見入った。「今にも動き出しそうな躍動感や圧巻の存在感…。学生たちが深い感銘を受け、田中さんをテーマに創作を思い立った」と小澤尚子監督。関連資料を読み込み、大学に歌舞伎役者を招いて動きを教わりながら振り付けやストーリーを仕上げたという。
 はかま姿の田中ときらびやかな鏡獅子を中心に、血潮のごとく真っ赤な衣装の部員たちが躍動する。歌舞伎の見えを切るポーズや部員を担ぎ上げるリフト技、鏡獅子の豪快な毛振りを随所に取り入れ、終盤にはアクロバティックな空中交差を披露。全国優勝経験のある強豪・井原高新体操部出身の波多地陸人さん(19)、福田悠斗さん(18)の両1年生は「井原の偉人に関する作品で技を出せたのは光栄」と口をそろえる。
 フェスティバルには24校が出場。特別賞は最優秀など四つの賞に次ぐ位置づけで、環太平洋大を含む4校が受賞した。主将の4年荻野清純さん(22)は「田中さんの名言「わしがやらねばたれがやる」の思いで一人一人が練習した結果、美術館をはじめ多くの方々の協力のおかげで受賞できた」と感謝している。

ズーム 平櫛田中 近代彫刻の第一人者・高村光雲に師事し、伝統的な木彫に西洋の写実性を加える技術を磨いた。1962年に文化勲章を受章。最晩年まで創作を続け、107歳で亡くなるまで現役を全うした。「鏡獅子」は36年に着手し、戦争の激化などによる一時中断を経て58年に完成。高さ2㍍超の威容や木肌の質感で田中芸術の集大成とされる。国立劇場(東京)の建て替えに伴い平櫛田中美術館に「里帰り」している。

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地元の偉人、歌舞伎の演目(映画「国宝」がロングラン中ですし)と、着眼点が素晴らしいですね。演舞そのものも高評価を得たのでしょうが。ちなみに公式サイトによれば、「クロスカルチャーへの新しい挑戦」という枠組みでの特別賞受賞だとのこと。

先の話ですが、今回の受賞を受けて、井原市の平櫛田中美術館さんで開催中の企画展「彩色の世界―色から読み解く鏡獅子―」の関連イベントとして、同市での公演が開催されるそうです。
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光太郎智恵子をモチーフとした舞踊も、これまでにぽつりぽつりと公演がありましたが、ごく最近は聞きません。また演じられてほしいものです。ちなみにこのブログの「舞踊」カテゴリ、最新の記事は昨年の4月、上野桜木町の旧平櫛田中邸で行われた「旧平櫛田中邸 de タコダンス」でした。たまたま田中旧邸での公演で、内容的には関連がありませんでしたが。

田中ついでにもう1件。ダンスの話題は田中の故郷・岡山井原でしたが、こちらは田中が版円の晩年の10年を過ごした東京都小平市から。

平櫛田中応援プロジェクト~平櫛田中旧宅を後世に残すために~第3弾

 平櫛田中彫刻美術館は作品展示をする展示館と、平櫛田中が実際に暮した旧宅(記念館)の二館併設の美術館です。昭和43年(1968)に竣工した記念館は、老朽化が著しく、令和元年より実施した耐震診断で基準を大きく下回る結果となりました。それを受けて令和5年度には耐震補強・改修工事の設計を行ない、翌6年度より工事を実施しています。令和7年度には工事を完了し、再び一般公開できるようつとめてまいります。近代彫刻の巨匠が暮した記念館を後世へ保存し再び活用するため、皆様のご協力をお願いいたします。

寄附について
募集期間:令和7年10月1日(水曜)~12月29日(月曜)

目標金額:200万円 一口1円より寄附いただけます。ただし、インターネットサイト「ふるさとチョイス」で寄附される場合は、最低金額は2,000円になります。なお、税額控除は2,000円以上から発生します。

寄附金募集の目的:平櫛田中の旧宅(記念館)の耐震補強・改修工事を実施するとともに芸術文化振興の活性化を図る

(注)寄附金が目標額に達しなかった場合、いただいた寄附金は工事をするために必要な費用の一部に充てさせていただきます。

寄附の手続き方法
[1]インターネットでの寄附
 ふるさと納税サイト「ふるさとチョイス」のページ(準備中)より寄附いただけます。上記の期間中にご覧ください。

[2]納付書での寄附
 小平市寄附申請書(平櫛田中記念館用第3弾)(PDF 197.1KB)に必要事項をご記入いただき、小平市役所財政課にご提出ください。後日、納付書をお送りしますので、金融機関または郵便局にてお支払いください。

[3]現金書留による寄附
 小平市寄附申請書(平櫛田中記念館用第3弾)(PDF 197.1KB)に必要事項をご記入いただき、現金書留に同封し小平市役所財政課に郵送ください。

[4]現金持参による寄附
 平櫛田中彫刻美術館または小平市役所財政課にお越しいただき、小平市寄附申請書(平櫛田中記念館用第3弾)に必要事項をご記入のうえ、現金にてお支払いください。美術館に来館された方にはその場で預り証と返礼品(対象者のみ)をお渡しいたします。

PDFデータはこちら小平市寄附申請書(平櫛田中記念館用第3弾(PDF 197.1KB))、小平市寄附申請書記入例(PDF 224.1KB)
Excelデータはこちら小平市寄附申請書(平櫛田中記念館用第3弾(Excel 33.1KB)
 送付先 〒187-8701 東京都小平市小川町2-1333 小平市役所 企画政策部 財政課 財政担当
(注)申請書を郵送いただく場合、郵送料はご負担いただきます。
問合せ先 小平市役所 企画政策部 財政課 財政担当 042-346-9504
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返礼品について
 寄附金額にあわせて返礼品をお渡しします。金額ごとの返礼品は以下の通りです。
  1万円以上 図録等(美術館が発行する作品集や、過去の特別展の図録等)
  5千円以上 エコバッグ・封筒・一筆箋・クリアファイル大のセット
  2千円以上 絵はがきセット・クリアファイル大のセットまたは手ぬぐい
  (注1)小平市在住の方には返礼品をお渡しできません。

  (注2)美術館へお越しの方は、その場でお渡しします。
     それ以外でご寄附いただいた方には、後日郵送いたします。

返礼品の内容
 返礼品の対象となる図録等は、記念館記録集(2025年刊行予定)、「彫刻コトハジメ」(2018年)、「ロダンと近代日本彫刻」(2016年)、「ジャパニーズ・ヴィーナス彫刻家・藤井浩祐の世界」(2014年)、「仏像インスピレーションー仏像に魅せられた彫刻家たちー」(2008年)、「石井鶴三展」(1999年)です。
「ジャパニーズ・ヴィーナス彫刻家・藤井浩祐の世界」と「石井鶴三展」は、いずれも「平櫛田中作品集」とセットになります。絵はがき、クリアファイル、一筆箋、手ぬぐいの柄は選べません。
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昨年、第2弾が行われ、当会として微力ながら協力させていただきました。こちらでも光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動を行っておりますので、他人事ではないなという感じで。今回も現金書留にて送る予定です。

皆様もぜひご協力ください。

【折々のことば・光太郎】

――要するに、美は到る処にあります。美がわれわれの眼に背くのでは無くて、われわれの眼が美を認めそくなふのです。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「そくなふ」は「そこなう」の古語です。

光太郎彫刻の出品がある展覧会、2件ご紹介します。

まず広島県から。既に始まっています。

東京藝術大学大学美術館名品展 美の殿堂への招待

期 日 : 2025年10月4日(土)~12月7日(日)
会 場 : ふくやま美術館 広島県福山市西町二丁目4番3号
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 月曜日 10月13日(月・祝) 11月3日(月・祝) 11月24日(月・振休)は開館、翌日休館
料 金 : 一般1,800円 (1,440円) 高校生以下無料  ​
       ( )内は前売りまたは有料20名以上の団体料金

 東京藝術大学は、その前身である東京美術学校(1887年設置)の時代から美術教育のための優れた美術品の収集に力を注いできました。現在、収蔵品の数は、古美術から現代美術までおよそ30,000件を数えます。1999年には、そのコレクションを学外の人々にも紹介するため東京藝術大学大学美術館が開館し、現在に至るまで数多くの展覧会が開催され、収集活動が続けられています。
 本展は、大学が所蔵する膨大なコレクションの中から近代の美術作品に焦点を絞り、「1.近代美術の幕開け」、「2.ロマン主義のなかで」、「3.自画像-画家たちの青春」、「4.モダニスムを超えて」の4つの章で構成し、大学と関わりの深い美術家たちを中心に、すぐれた作品を余すことなく紹介します。
 出品作品は、高橋由一《鮭》、狩野芳崖《悲母観音》(前期展示)などをはじめ、日本画、洋画、彫刻、工芸などの各分野からあわせて120点を紹介します。ふだんあまり目にすることが出来ない、貴重な作品の数々を一堂に観覧することで、大学美術館におけるコレクションの魅力をより身近に感じていただけることを願って開催します。
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関連行事
(1)記念講演会1「藝大コレクションの起源と現在、そして瀬戸内」
 日  時:10月4日(土)14:00~15:30
 講  師:村上 敬(東京藝術大学大学美術館 准教授)
 会  場:ふくやま美術館1階ホール
 定  員:100名 ※当日先着順、聴講無料
(2)記念講演会2「東京藝術大学所蔵の工芸」
 日  時:11月15日(土)14:00~15:30
 講  師:黒川 廣子 (東京藝術大学大学美術館 館長)
 会  場:ふくやま美術館2階多目的室
 定  員:80名 ※当日先着順、聴講無料
(3)ギャラリートーク ※各日ともに特別展観覧券が必要
 日  時:10月4日(土) 10:00~11:00 
 講  師:村上 敬 (東京藝術大学大学美術館 准教授)
 会  場:ふくやま美術館1階企画展示室、2階常設展示室第1室

 日  時:11月15日(土)10:00~11:00 
 講  師:黒川 廣子 (東京藝術大学大学美術館 館長)
 会  場:ふくやま美術館1階企画展示室、2階常設展示室第1室

 日  時:11月22日(土) 14:00~15:00
 講  師:当館学芸員
 会  場:ふくやま美術館1階企画展示室、2階常設展示室第1室
(4)ワークショップ 「身近なもので絵具を作ろう!」
 身近な土や貝を使って自分だけの絵具を作るワークショップを実施します。
 展示している作品にも様々な色が使われています。
 そんな色たちとより深く関わってみましょう。
 日 時:11月16日(日)  (1)10:00~12:00 (2)13:30~15:30
 会 場:ふくやま美術館1階 ロビー
 講 師:当館職員
 対 象:どなたでも(こどもの場合は保護者同伴)
 参加費:1人500円 ※予約不要
(5)第64回ミュージアムコンサート「美の殿堂、その先へ―音で聴く東京藝大展」
 日 時:10月25日(土)開場18:00 開演19:00
 ※開演前に「東京藝術大学大学美術館名品展 美の殿堂への招待」をご鑑賞いただけます。
 出 演:切田光星(バリトン)、小林広歩(ピアノ)
 会 場:ふくやま美術館1階ロビー
 入場料:一般 1,500円、高校生以下無料(整理券有)、未就学児入場不可
 定 員:150名(先着順)

ネット上に出品目録が出ています。
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光太郎彫刻はブロンズで「獅子吼」(明治35年=1902)。東京美術学校の卒業制作です。経巻を擲って腕まくりをし、憤然として立つ日蓮をモチーフとしています。
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それから光太郎実弟にして鋳金分野で人間国宝となった豊周の「提梁花瓶」(昭和21年=1946)。
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令和元年(2019)、東京都庭園美術館さんで開催された「アジアのイメージ―日本美術の「東洋憧憬」」の際に拝見して参りました。

さらに、出品目録に名は記されていませんが。光太郎・豊周兄弟の父・光雲の木彫も。作品名は「綵観」。明治38年(1905)の作で、18人の作家による合作のため、出品目録では全員の名を割愛したようです。
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11月3日(月・祝)までの前期で、光雲木彫部分(上の画像で言うと右から二枚目)を含む表面が展示されます。

こちらは平成29年(2017)年、東京藝術大学大学美術館さんで開催の「東京藝術大学創立130周年記念特別展「皇室の彩(いろどり) 百年前の文化プロジェクト」」で拝見して参りました。

他にも荻原守衛、横山大観、藤田嗣治など、ビッグネームがずらりです。また、それほど有名ではありませんが、白瀧幾之助、南薫造など、光太郎と交流の深かった面々の作も。

紹介すべき事項の山積が続いており、同様に光太郎彫刻の出る展覧会をもう一件。今度は北海道です。

札幌芸術の森開園40周年記念 彫刻三昧 札幌芸術の森美術館の名品50選

期 日 : 2025年10月11日(土)~2026年1月4日(日)
会 場 : 本郷新記念札幌彫刻美術館 札幌市中央区宮の森4条12丁目
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日(月曜祝日の場合開館し火曜日休館)、年末年始(12/29~1/3)
料 金 : 一般600円(500円)、65歳以上500円(400円)、高校・大学生400円(300円)
      中学生以下無料 ( )内は10名以上の団体料金

 国内外の近現代彫刻史を彩る作家の作品をたっぷりと楽しむことができる展覧会です。
 彫刻に生命の息吹を吹き込み〝近代彫刻の父〟と言われるロダン。その影響を受けながらも独自の造形を開花させたブールデル、デスピオ、マイヨール…。また、ドガやルノワールなどの画家も絵画の作風そのままに彫刻を手がけています。さらに、キュビスムの彫刻への応用や、再現を離れた純粋な抽象化へ挑戦、戦後イタリアでの新たな具象の試みなど、次々と立体造形の可能性を広げる斬新な表現が生み出されていきました。
 日本においても、海外の動きを受容しながら、伝統的な美意識とも照らしつつ、切磋琢磨するなかで、多彩で豊かな展開がみられます。そこには、戦後、街なかや公園などへの彫刻設置が全国的に盛んになるという追い風もありました。
 1986年に開園した札幌芸術の森は、来年40周年を迎えますが、そのメイン施設である野外美術館には、二度の拡張を経て、日本彫刻が最も勢いがあったと言われる’80~’90年代を代表する彫刻家の作品が多数設置されています。札幌芸術の森美術館では、その多種多様な表現につながる近代以降の流れをたどれることを目指して開館準備段階から収集を続け、国内有数の彫刻コレクションを形づくってきました。
 本展は、その中から厳選した50点を展示するものです。魅力溢れる彫刻の数々をお楽しみください。
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こちらでの光太郎作品は「薄命児」(明治38年=1905)。浅草花やしきで興行を打っていたサーカス団の幼い兄妹がモデルです。ただ、現存するのは兄の方の頭部のみですが。
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先程の「獅子吼」にしてもそうですが、留学に出る前、光太郎はこうしたストーリー性のある彫刻を喜んで作っていました。日本の彫刻界全体がそんな感じでしたし。しかし、後にそれは邪道だと気づき、物語を排した純粋な造型を目指すようになっていきます。

他には光太郎の心の師・ロダンをはじめ、ブールデルやマイヨール、日本人ではやはり荻原守衛、さらに石井鶴三、高田博厚、佐藤忠良、舟越保武など、ある意味お約束の面々が並びます。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

――其頃の芸術家は「見る」眼を持つてゐたのです。しかるに今日の芸術家は盲目です。此所に一切の相違がある。ギリシヤの女達は美しかつた。しかし其の美は彼等を再現した彫刻家の頭の中に存してゐたのです。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

とにかく「見る」眼がないと、どうにもならないとのことで……。

京都の書画骨董店・新古美術わたなべさんから新しい目録が届きました。同店には、令和3年(2021)、富山県水墨美術館さんで開催され、当方もいろいろとお手伝いした「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際に随分とお世話になりました。
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光太郎の色紙揮毫が掲載されています。書かれている文言は「美ならざるなし」。「この世界には美しくないものは存在しない」「この世界の全てのものが美を包摂している」といった意味合いですね。美術評論家でもあった光太郎のポリシーを端的に表現しています。

昭和26、27年(1951、52)頃書かれた評論の題名にもなっています。その一節。

自然に醜はない。人間をも含めた自然の中に醜なるものは存在しない。悉く美である。醜は人工の中にある。
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光太郎が好んで揮毫した文言の一つで、複数の作例が確認出来ています。おそらくすべて、ほぼ同時期のものと思われます。

花巻高村光太郎記念館さん所蔵のもの。
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生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した後の昭和27年(1952)、雑誌の対談の会場となった料亭・紀尾井町の福田家に贈ったもの。
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ここの女将は、光太郎が花巻郊外旧太田村で蟄居生活を送っていた頃、まったく面識がないにもかかわらず「高村先生、大変でしょう」と、大量の食糧を送ってくれました。たまたま対談の会場がその女将の店とわかり、この書を書いて持参したわけです。

もう1点。これも最近売りに出たもので、都内の美術専門古書店・えびな書店さんが扱われています。
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以上四点、すべて色紙揮毫ですが、花巻高村光太郎記念館さんでは、色紙ではない幅のもの、さらにやはり色紙ですが、「義にして」とつけたものも所蔵しています。
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他の揮毫でも、平仮名の「し」をやたら長く書くのが光太郎書の一つの特徴。この「し」の書体が真贋を見極める一つのポイントです。もっとも、贋作作者もそれをわかっていて似せようとするのでしょうが。

そういう人をだまくらかそうとする人間の営みこそ「醜」ですね。

【折々のことば・光太郎】

ギリシヤの彫像には生命そのものが、脈うつ筋肉を活かし、暖めてゐるのに官学派芸術のだらしのない人形は死んで氷のやうです。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

アカデミズム彫刻は、「自然」を写そうとしても観察が不十分でそれが出来ておらず、「死んで氷のやう」な「人形」だと、辛辣です。

光太郎も留学からの帰朝後、日本のアカデミズム彫刻系には同様の評を下しています。

光太郎終焉の地にして記念すべき第一回連翹忌会場ともなった、中野区の中西利雄アトリエ。モダニズム建築家・山口文象の設計です。一昨年からその保存運動に取り組んでいます。

文治堂書店『とんぼ』第17号/「中西利雄アトリエを後世に残すために」企画書。
「高村光太郎ゆかりのアトリエ@中野」。
『中野・中西家と光太郎』。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 意見交換会。
中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会 署名用紙。
「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
閉幕まであと4日「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。
『東京新聞』TOKYO発2024年NEWSその後 1月12日掲載 高村光太郎ゆかりのアトリエ危機。
中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会レポート。

現地保存にむけ、多くの皆さんが署名して下さったり、展示やイベントなどの関連行事にもご協力いただいたりしましたが、様々な理由で移設の方向で梶を切ることとなりました。

その後、住宅遺産トラストさんのご協力をいただけることになり、いったん解体して部材を保管し、移する方向で動いております。

そこで、関係者のみが参加しての内覧会を解体前に行うこととなり、9月26日(金)、27日(土)の2日間、ともに午後、開催いたしました。54平米の小さな建物でキャパに制約があり、申しわけありませんがクローズドでの実施とし、このブログでは告知できませんでした。

撮影してきた画像を載せます。

まず正面方向からの外観。
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採光のため北側に大きく作られた窓。
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東側、そして南側の外観。
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窓枠は北側以外はサッシに換えられています。
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そして内部。
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二階、というか、ロフトのような空間があり、そこから俯瞰しました。右手が北側になります。右上のあたりで光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」が制作されました。
キャプション「中西アトリエにて 「乙女の像」制作風景」① キャプション「中西アトリエにて 「乙女の像」制作風景」②
ちなみに像を据えた回転台は、助手を務めた青森県出身の彫刻家・小坂圭二、さらに小坂の弟子にあたる北村洋文氏へと受け継がれ、北村氏から十和田湖観光交流センター・ぷらっとに寄贈されました。
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ロフト部分。ここに上がったのは初めてでした。
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下から見上げるとこんな感じ。
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施工主の中西利雄の意向で作られた空間で、ここに弦楽アンサンブルの演奏者に入ってもらい、階下のアトリエ部分でダンスパーティーなどとという構想があったそうです。実現はしませんでしたが。

玄関脇、奥の小部屋など。
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中西利雄蔵書類。
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中西利雄はこのアトリエの完成直前の昭和23年(1948)に亡くなり、戦後の混乱期ゆえ、光太郎のようにアトリエを戦災失ったりした芸術家の需要があるだろうと、中西夫人が貸しアトリエとして運用することにしました。光太郎の前には、イサム・ノグチがここを使い、昭和27年(1952)から昭和31年(1956)まで光太郎。その後、画家の陶山侃に貸し出されたとのこと。

光太郎が居た間、実弟で鋳金の人間国宝・髙村豊周、その子息で写真家となった髙村規氏、当会の祖・草野心平、当会顧問であらせられた北川太一先生などをはじめ交流のあった人々が連日、ここを訪れました。「乙女の像」依頼主の津島文治青森県知事、県と光太郎を仲介した佐藤春夫、「乙女の像」を含む一帯の公園を設計した建築家・谷口吉郎、光太郎の花巻疎開に尽力した宮沢清六や佐藤隆房医師、画家の難波田龍起、写真家・田沼武能、光太郎の古い親友で陶芸家のバーナード・リーチ、伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀、文学方面では亀井勝一郎や高見順、尾崎喜八、親友だった水野葉舟子息でのちに総務庁長官や建設大臣を歴任した水野清、芸能関係でも長岡輝子、初代水谷八重子、ラジオパーソナリティーの秋山ちえ子などなど。

そうした人々の息づかいも感じられる空間でした。

移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。できれば近くであるに越したことはないのですが、離れた場所でも仕方がないでしょう。

保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

人間が自分を育てるのです。神性あるものは自然です。神とはわれわれの事です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

わけのわからない新興宗教の教祖様のように「我こそは神」なり、というわけではなく、全ての人間は心の中に「神」のような部分、いわば「良心」を持っていて、その声に従うことが大切だ、ということでしょうか。ある種の性善説ですね。

昨日は埼玉県東松山市に行っておりました。クローズドの講座なのでこのブログにての告知は致しませんでしたが、同市の生涯学習的施設な「きらめき市民大学」さんで、「高村光太郎と東松山」と題しての約90分間の講義をさせていただきました。
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基本、シニアの方々が対象で、令和元年(2019)から年に一回、講師を務めております。生徒さんが毎年代わるので、ほぼ同じ内容で話を進めることができ、楽させていただいております(笑)。

ちなみに今年度の予定表。他自治体等で同様の事業を担当されている方など、ご参考までに。
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前半は光太郎という人物の人となり、その生涯をダイジェストで、後半が本題で、同市の元教育長にして戦時中から光太郎と交流がおありだった故・田口弘氏や、光太郎・田口氏と交流のあった彫刻家・高田博厚の関係から、同市に残る光太郎関連のモニュメントや寄贈資料について。

毎年千葉の自宅兼事務所から愛車を駆ってお邪魔していますが、途中、高速道路などで渋滞だの通行止めだのが発生するといけないので、早めに出ます。おおむね何事もなく早めに着け、時間が余りますので、昨日は東武東上線高坂駅前から延びる高田博厚作品をずらっと並べた彫刻プロムナードに立ち寄り、高田作の光太郎像にごあいさつ。光太郎と高田のみ魂に「今年もお二人についてくっちゃべらせていただきます」。
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その甲斐あってか(笑)、講義の方は無事終えることができました。

終了後、職員の方から高田、そして彫刻プロムナード関連のさまざまなイベントのフライヤーをいただきました。

まず市が主催のもの。

ひがしまつやまアートマルシェin高坂彫刻プロムナード

期 日 : 2025年9月28日(日)
会 場 : 中通公園 埼玉県東松山市本宿2-24
時 間 : 10:00~15:00
料 金 : 無料

 東松山市では、毎年高坂彫刻プロムナードでアートイベントを開催しています。
 今回は、昨年度までのアートフェスタから、よりプロムナードの彫刻作品と芸術にフォーカスしたイベントにリニューアル。 ポスターデザインは、東松山市應援團員の絵子猫さんにご協力いただきました。
 彫刻に触れて楽しむ講演・彫刻鑑賞会をはじめ、アートワークショップ、プロムナードクイズ、軽食販売のほか、市内の彫刻作品を巡る謎解きイベントもスタートします!
 ぜひ足をお運びください。
 (ステージイベント、歩行者天国はありません。)
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同市ご在住のイラストレーター・絵子猫さんを引っぱり出してのワークショップなど。

その関連行事的な位置づけのような講演会も。

聴いて、触れて、楽しめる 講演・彫刻鑑賞会 彫刻の “いのち” ―触覚に感応する芸術の秘密―

期 日 : 2025年9月28日(日)
会 場 : 講演会(集合) 高坂図書館(東松山市元宿2-6-1)
      彫刻鑑賞(解散) 高坂彫刻プロムナード(東武東上線高坂駅西口駅前通り)
時 間 : 講演会 午前10時30分から11時30分まで
      彫刻鑑賞 午前11時30分から正午まで(徒歩移動含む)
料 金 : 無料
講 師 : 立正大学仏教学部 秋田貴廣教授

 東松山市では、毎年高坂彫刻プロムナードでアートイベントを開催しています。
 今回は、昨年度までのアートフェスタから、よりプロムナードの彫刻作品と芸術にフォーカスしたイベント「アートマルシェ」にリニューアル。その関連企画として、「聴いて、触れて、楽しめる 講演・彫刻鑑賞会」を開催します。
 高坂図書館で彫刻に触れる魅力についての講演の後、高坂彫刻プロムナードに移動して、実際に彫刻作品を触って鑑賞していただきます。
 「触れる」ことで増す彫刻の魅力に迫ります!この機会にぜひご参加ください。
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さらに、「高田博厚と遊ぼう会」さんという地元の市民団体の主催で、同日。

高坂彫刻プロムナード活性化プロジェクト 『博厚(ひろあつ)フェス』

期 日 : 2025年9月28日(日)
会 場 : カトル・セゾン/ぼくのみそらーめん駐車場 埼玉県東松山市元宿2丁目21-9
時 間 : 10:00~15:00
料 金 : 無料

私達は高坂駅の西口にある高坂彫刻プロムナードを中心に活性化を推進しています。高坂地区や比企丘陵地元産の商品などのマルシェやワークショップを開催していきます。これから皆さまと楽しい高坂の街の活性化をご一緒しましょう。是非ご参加ください。

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最後に、こちらのみ少し先の話ですが、ついでに。

彫刻家 高田博厚展2025 ―Vitrail(ヴィトロー)―「窓」から見る高田博厚

期 日 : 2025年10月22日(水)~11月13日(木)
会 場 : 東松山市総合会館1階多目的室 埼玉県東松山市松葉町1-2-3
時 間 : 午前9時から午後5時まで
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

 東松山市では、日本を代表する彫刻家である高田博厚氏のアトリエに残されていた彫刻作品や絵画等を2017年にご遺族から寄贈を受けて以来、顕彰事業として展示会や講演会を毎年開催しています。
 ぜひこの機会に彫刻家 高田博厚の世界をご堪能ください。

見どころ:イザベル・ルオー作のステンドグラス初公開!
 高田は、画家でありステンドグラス作家のジョルジュ・ルオー(父)とイザベル・ルオー(娘)親子と親交があったことから、イザベル・ルオー作のステンドグラスを贈られました。高田はそれを晩年制作に打ち込んだ鎌倉市のアトリエに設置していましたが、アトリエが解体される際に、ご遺族から東松山市へステンドグラスを寄贈いただき、この度初公開する運びとなりました。
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関連行事として、コンサートやステンドグラス制作のワークショップが企画されています。

それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

強いものを到る処に置くので必要な休息がありません。此の誤は管弦楽が休み無しに「フォルチツシモ」をやる誤と同等です。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

めりはりをつけずにゴテゴテした同時代の建築についての発言の一節です。ちなみに「めりはり」は元々邦楽の用語で、「めり」は西洋音楽におけるピアノ、「はり」は同じくフォルテです。どんなに美しいメロディーでも最初から最後までフォルティッシモで演奏されてはたまりませんね(笑)。

この一節はノートルダム大聖堂で語られた言葉で、ここにはきちんとめりはりがある、という流れです。彫刻にもそれが必要、というのが裏側に暗示されているのでしょう。

先月のNHKEテレさんの「アートシーン」でも紹介された、新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展につき、『朝日新聞』さんが9月16日(火)付夕刊で、光太郎に触れつつ大きく取り上げました。

(美の履歴書:913)「生の記録3」 難波田龍起 燃える青、たちのぼるのは

 難波田(なんばた)作品に特徴的な垂直の線ももはや消え、青のモノクロームの濃淡だけがモヤモヤ漂う。細い筆で点を置いていくように丹念に描かれた筆跡は、密集し拡散する無数の粒子のようだ。「気の遠くなるような行為の集積に、人間の息づかいや念がこもっている」と、東京オペラシティアートギャラリーの福士理シニア・キュレーターは言う。
 この「粒子」感は、若き日の難波田龍起(たつおき)が薫陶を受けた高村光太郎に由来する。詩人で彫刻家の高村は、絵画は視覚だけでなく触覚との結びつきが肝要だと語った。それは画面を触って感じられる画材の質感とは異なり、あくまでイメージとしてたちののってくるマチエール(絵肌)だ。
 高村はもう一つ、芸術には「生命の戦慄」が必須だとも教えた。
命や人間性を重んじる思想と、キュビスム由来の幾何学的抽象の冷たさとの矛盾に悩んだ難波田。やがて、1950年代後半に日本に入ってきたアンフォルメルの「熱い抽象」とも呼ばれるエネルギーに活路を見いだす。
 難波田は、モネの晩年の傑作「睡蓮(すいれん)」をアンフォルメルの先例とみなしていた。88歳で訪れたパリ・オランジュリー美術館の「睡蓮の間」に触発され、帰国後すぐに描き始めたのが、画業最大にして全4点の「生の記録」だ。
 絵画の物質性に頼り切ることなく、自らの精神によって生命を表現する。その実践の集大成は、まさに難波田自身の「生の記録」でもあった。
 同時に、「龍起個人や人間の存在を越えて、宇宙や生命現象の始まり、劫初(ごうしょ)の光を感じる」と福士さん。
 「難波田ブルー」とも呼ばれる青が、銀河の奥で燃える炎のように見えてくる。

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美の履歴書 913
・名前 生の記録3
・生年 1994年
・体格 舘162.1㌢×横390.9㌢
・生みの親 難波田龍起(1905~97)
・親の経歴 
 北海道・旭川に生まれ、翌年東京へ転居。19歳の頃、隣家に住む高村光太郎を自作の詩を携えて訪ね、以後親交を持つ。高村の勧めで太平洋画会研究所に学ぶがなじめず退所する。初期はギリシャ彫刻や仏像などのモチーフを描いていたが、戦後に抽象へ移行。欧米のアンフォルメルや抽象表現主義の影響を受けつつ、独自の抽象表現を探求した。
・日本にいる兄弟姉妹 東京・世田谷美術館、東京国立近代美術館などに。
・見どころ004
 ❶3枚のパネルを連ねた巨大な画面を埋める緻密(ちみつ)な筆致が、88歳の覇気を物語る。
 ❷青の濃淡や明暗が白っぽい筋をつくる。隣に展示されている、黄色が基調の「生の記録4」と比べても、より繊細な表現だ。

▽「難波田龍起」展は、東京オペラシティアートギャラリーさで10月2日まで。祝日をのぞく月曜と9月16日休館。日本の抽象絵画のパイオニアとして知られるの生誕120年にあわせた、約四半世紀ぶりの回顧展。写真は「昇天」(1976年)。問い合わせはハローダイヤル(050・5541・8600)


ついでですので、光太郎が難波田について描いた文章もご紹介しておきます。

まず昭和17年(1942)、銀座の青樹社で開催された難波田の第一回個展の目録に載った文章。

   難波田龍起の作品について

 難波田龍起君の芸術の中核はその内面性にあるやうに思はれる。初期の頃一時ルドンに熱中してゐた事があつたが、あの魂の共感はいろいろの形で其後にもあらはれてゐる。種々の段階を通つて進んで来たが、ギリシヤの発見以来同君の芸術は急速に或る結成の方向を取つたやうに見える。それはやはり同君の内面的映像への求心性が然らしめたものと推察する。それ故同君の構想には人に知られぬ内面の必然性があつて、互に連絡し交叉しあつてゐる。此の点を見のがしては、今後に於ても同君の芸術の魅力は領解不十分となるであらう。画面上の技術にも珍しく緻密な用意がある。かういふ特質ある画家を十分に育て上げるやうな文化的環境が是非欲しい。同君の未来に私はわれわれ民族の内面形象を大に期待する。


続いて、昭和28年(1953)、やはり難波田の個展の際、会場に置かれた「感想帖」に鉛筆で書き込まれた言葉。

 昔ながらに色がいいと思つた。ギリシヤ時代のあの色がここにも生きてゐて愉快に思つた。Peintureではイロが第一の門だと今でもおもふ。

双方に出てくる「ギリシヤ」云々は、難波田が光太郎のアトリエでギリシャ彫刻の写真などを見せられてその精神性に惹かれ、モチーフとしていたことを指します。まだ抽象画に移行する前の話です。

それにしても、短文であっても本質をずばりと捉える光太郎の評には相変わらず舌を巻かされます。

東京オペラシティアートギャラリーさんでの「難波田龍起」展、10月2日(木)までの開催です。まだ足を運ばれていない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

世界は美しいもので満ちて居ます。それの見える人、眼でばかりで無く、叡智でそれの見える人が実に少ない!


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

難波田は叡智で美を見られる少数派の一人だったのでしょう。

光太郎、のちに頼まれて色紙などに揮毫する際、「美しきもの満つ」とか「世界はうつくし」と書くことが多くありました。その元ネタがこの一節だったようです。
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神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さん。こちらでは、光太郎の父・光雲の手になる秘仏・三面大黒天立像の特別御開帳が今年3月から6月にかけて行われましたが、それが好評だったということで、第二弾だそうです。

大山寺開山一二七〇年記念 秘仏ご開帳《第二弾》

期 日 : 2025年9月28日(日)~12月8日(月)
会 場 : 雨降山大山寺 神奈川県伊勢原市大山724
時 間 : 08:45~17:00
料 金 : 500円

大山寺にて去る6月1日まで開催されていた特別開帳ですが、ご好評につき再度実施することとなりました。
以下の三体の秘仏大黒天がご開帳となります。この機会にぜひご覧ください。

 ・三面大黒天像(古伝様)初公開
 ・大黒天像(作:後藤斎宮)
 ・三面大黒天像(作:高村光雲)
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5月に春のご開帳拝観して参りました。その際は、愛染明王像と、光太郎の父・光雲作の三面大黒天像の特別公開でした。
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像そのものは撮影不可でしたが、おおむね右上画像の御朱印のようなお姿で、像高数十㌢ながらとてもお見事でした。

今回は更に他の三面大黒天像二尊も開帳され、三尊そろい踏みだそうです。後藤斎宮という彫り師は存じませんでしたが、現在も続く鎌倉彫の博古堂さん(鶴ヶ岡八幡さんの目の前)の初代だそうです。

11月頃になると紅葉が見頃で、それはそれでいいのでしょうが、かえって混雑も予想されます。早いうちに行ってしまうのも一つの手でしょう。

【折々のことば・光太郎】

……万物を凝視する事、及びそれに美を感じる事、其処に幸福がある。どうして其以上望めませう!


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

「ですよね!」という、翻訳者光太郎の声も聞こえてきそうです。

光太郎は職人気質の光雲とは違う方向に進み、光雲のやり方を否定する部分もありました。しかし、時には光雲の語る内容にロダンの言葉と共通する点を見つけて感心するなど、光雲に対する認識はかなり複雑でした。

千葉市の千葉県立美術館さんによる「移動美術館」。おおむね年に1回開催されているようですが、ほぼ毎回、光太郎のブロンズを展示して下さっています。光太郎と千葉は少なからず縁がある関係もあるのでしょう、同館、いずれも新しい鋳造ながら光太郎ブロンズを8点収蔵しており、その中からのセレクトです。

昨年、香取郡多古町での第48回展「田んぼの美」が開催され、光太郎作品は代表作の一つ「手」(大正7年=1918)が出ましたが、今回も「手」が並びます。

第49回千葉県移動美術館 成田と千葉県立美術館にまつわる5つの物語

期 日 : 2025年9月20日(土)~10月13日(月)
会 場 : 成田市文化芸術センター なごみの米屋スカイタウンギャラリー
      千葉県成田市花崎町 828-11
時 間 : 10:00~17:00
休 館 : 月曜日 ※10/13は開館
料 金 : 無料

千葉県移動美術館は、千葉県立美術館が所蔵する作品をより多くの県民の皆さまにご鑑賞いただくために、県内市町村と協力し文化施設等を会場として開催している展覧会です。成田市では、これまで過去4回開催しており、今回の第49回移動美術館は5回目の開催となります。本展では、三里塚を詩に歌った高村光太郎による彫刻作品《手》や、成田空港にちなみ、板倉鼎や鶴田吾郎をはじめ海外を旅した画家たちの風景画からみる「異国への旅」など、成田市と千葉県立美術館にまつわる5つのセクションで、それぞれのテーマに合わせたコレクションを約50点ご紹介いたします。また成田市ゆかりの作家、篠﨑輝夫を特集いたします。

美術館をとびだして、成田にやってきたコレクションたちに是非会いに来てください!
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関連事業 *いずれも事前申込不要。当日会場にお集まりください。

 千葉県立美術館館長による講演会「ケンビを知る、楽しむ」
  日 時 : 9月20日(土)14時〜15時30分
  会 場 : なごみの米屋スカイタウンホール
  講 師 : 貝塚健
 千葉県立美術館担当学芸員によるギャラリートーク
  日 時 : 10月5日(土)13時〜、15時〜 各回40分程度
  会 場 : なごみの米屋スカイタウンギャラリー

同じ会場で、令和2年(2020)の第44回展も開催され、その際は光太郎ブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)が展示されました。それ以来、5年ぶりですね。入場無料での開催というあたり、非常に良心的です。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

細部のない単純化は貧弱しか与へません。細部は、組織の中をめぐる血です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃
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光太郎の「手」も、甲の側の浮き出た骨や血管など、細部にこだわって作られています。

ただ、細部にばかり力点を置いて、全体のバランスなどが無茶苦茶になっては本末転倒。そういうことが起こりえないのがロダンや光太郎の作る彫刻のすばらしさの一つです。


竹橋の東京国立近代美術館さんで開催され,光太郎著書なども展示されている「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」について。

まずテレビ放映の情報です。

日曜美術館 戦後80年 戦争画と向きあう

NHK Eテレ 2025年9月21日(日) 9:00~9:45  再放送 9月28日(日)  20:00~20:45

戦時中、軍の依頼を受け、画家・藤田嗣治や宮本三郎らが描いた「戦争記録画」。当時、国民の戦意昂揚を図るため描かれたそれらの作品と、今どのように向きあえばいいのか?

戦後80年を機に、東京国立近代美術館では「戦争記録画」二十数点を中心とした展覧会「記録をひらく 記憶をつむぐ」が開催中だ。番組では、祖父・宮本三郎の戦争画について考え続けてきた孫の宮本陽一郎さんをゲストに迎え、展覧会企画者の同館・鈴木勝雄さんとともに、宮本や藤田嗣治らによる戦争記録画の代表作をたどり、今、私たちがそれらの作品を通じて、どのように戦争の記憶を受け継いでいくのか、対話を重ねていく。

【出演】坂本美雨 放送大学特任教授/筑波大学名誉教…宮本陽一郎 千葉工業大学教授…河田明久
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今年は戦後80年ということでテレビ番組でもそれ系のものが多く制作されましたし、これまで同番組とセットの「アートシーン」でも取り上げられていなかったので、まるまる1回費やすかなと思っていたら、ビンゴでした。

同展については、センシティブな内容のためもあり、フライヤーもポスターも図録も制作されていません。その点が却って話題を呼ぶという逆転現象が起きています。

新聞各紙でも取り上げています(どうもある御用新聞は無視しているようですが)。ただ、多くは通常の取り上げ方。そんな中で、『東京新聞』さんは、かなり突っ込んだ紹介をしています。

見開き2ページで少し長いのですが、全文を。

東近美 最大規模の展示でもPR及び腰 戦争画は「センセーショナル」? GHQ接収、なお「貸与」状態 揺れる歴史認識 反発避けた? 派手にあおると「文脈見失う恐れ」

 東京国立近代美術館(東京都千代田区)が、現在開催中の展覧会で宣伝をほぼしないという異例の対応を取っている。展示の中心となるのは、戦時中に旧日本軍の委嘱などにより描かれた「戦争画」。これまで公開の機会が限られ、まとまって展示される機会は貴重なはずだがなぜか。経緯を追った。

ちらしもポスターもなし 来館者「もったいない」
 8月末、「こちら特報部」は展示会場を訪れた。
 マレー半島の浜辺を這(は)って敵陣の鉄条網を突破しようとする日本兵らを描いた「コタ・バル」(中村研一、1942年)や、日本軍守備隊が全滅した戦いを死闘図として描いた「アッツ島玉砕」(藤田嗣治、1943年)。激しい戦闘や果敢な日本兵の姿を題材にした大型絵画の数々が目を引く。戦時中、戦意高揚や戦争の記録のためにつくられた戦争画だ。東近美が管理する153点の戦争画のうち、過去最大規模となる延べ24点が10月26日まで公開される。
   当時のポスターや出版物などをそろえ、メディア環境も再現する。戦後の美術作品や、市民が被爆体験を描いた絵画も並ぶ。東近美は戦後80年を節目に、「美術が戦争をどのように伝えてきたかを検証する」企画だと説明するが――。
 実は今回、東近美は展覧会のちらしやポスターを作っていない。開催を知る方法は、同美術館のウェブサイトやメディアの記事に限られる。図録も作成されていない。
 さらに不思議なのは展覧会のタイトル。「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」と、戦争との関連性がわからない。会場のあいさつ文では「戦争体験を持たない世代がどのように過去に向き合うことができるかが問われている」と掲げるが、なぜ目立たない形で開催するのか。
  東近美側に意図を尋ねると、繰り返したのは「センセーショナルな宣伝をしたくなかった」との言葉だった。広報担当者は「美術館は歴史認識を問う立場ではなく、展示で戦争を扱うときはより丁寧な説明が必要。展示の文脈の意図と異なる切り取られ方をし、言葉が独り歩きすることは避けないといけない」と話す。
 当初は企業などとの共催を検討したが、集客のため「キャッチーな宣伝文句」を使われる恐れがあるとし、館単独で開催する自主展を選択したと説明。予算が限られ、他館からの作品輸送費などを優先し、ちらしや図録制作を断念したという。
 だが、実際に会場に足を運ぶと、幅広い年齢層の美術ファンや外国人旅行客で混雑し、「通常の自主展より多い」(広報担当者)というほど盛況。来場者に感想を聞いた。
   新聞記事で展示を知った大田区のパート女性(64)は「タイトルを見て地味な内容かと思っていたら、貴重な作品ばかり。こんなに迫力と見応えがあるのに、宣伝されないのはもったいない」と残念がる。「当時の人が戦争画に引き込まれた気持ちは分かる気がする」
 三鷹市の西本企良(きよし)さん(74)は「戦前からベトナム戦争まで扱い、アジア諸国への加害にも踏み込み、解説を含めて期待以上に深い内容だった」と驚く。「当時の日本人が戦争賛美に熱狂したことを知り、反省することは大事。もっと多くの人に絵を見てもらえるようにした方がいい」と注文した。

未来の「表現」考える契機「試み今後も積み重ねて」
 日本の戦争画の歴史は複雑な経過をたどってきた。 日中戦争から太平洋戦争にかけて、軍の委嘱を受けるなどし、多くの画家が戦地へ渡った。作品を発表した各地の展覧会は盛況だったとされる。終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が戦利品として多くの戦争画を接収。1970年にようやく「無期限貸与」の形で返還され、東近美に管理が委ねられた。
 返還後は修復を経て、1977年に同美術館で企画展が計画されたが、直前に中止に。日本に侵略されたアジア諸国や、自作だと認めたがらなかった画家らへの配慮があったなどといわれる。その後、同美術館は数点程度の展示にとどめてきた。 今回まとめて展示されたことに、一括展示の必要性を訴えてきた美術批評家の椹木野衣(さわらぎ・のい)氏は「返還後、最大規模の展示という点で画期的で、大きな前進」と捉える。
 一方、戦争画は国威発揚のプロパガンダに利用された点だけではなく、美術史の観点で捉えることも重要と説く。「描いたのは当時の日本の画壇のホープたち。日本の油彩画の歴史は浅く、歴史画や戦争画が主流の西洋美術を乗り越える千載一遇のチャンスとし、自ら進んでいった側面がある」とし、展示では「そうした歴史的位置付けはなされていない」と付け加えた。
 ようやく大規模展示に踏み切りつつ、宣伝に及び腰な東近美の姿勢に対し、美術ジャーナリストの永田晶子氏は「鑑賞者の立場に立っていない。国民の美的感性の育成も国立美術館の使命の一つだが、見てもらう積極性に欠ける」と指摘する。慎重な姿勢の背景を「歴史認識の問題が考えられる」とみる。「侵略か自衛かなどと、歴史認識は揺れている。アジア諸国の受け止めへの不安もあり、ハレーションを避けたかったのでは」 もっとも、東近美がちらし作成などをしなかった事情に予算上の問題を挙げたように、国立美術館の財政状況が厳しいのは確かだ。収入の多くを占める国の運営費交付金は、年々減少傾向にある。永田氏は「そうとはいえ、展覧会の周知が必要と考えたならある程度の予算調整はできたのではないか」と疑問視する。
 先の椹木氏は「米国からの無期限貸与の状態のままになっていることに縛られているのでは。今後、日本の『所蔵』に戻せるよう、国や米国への働きかけが必要になる」と述べた。 
 一方、戦争画に詳しい愛知県美術館長の平瀬礼太氏は、「派手であおるような宣伝は避けた方がいい」と理解を示す。宣伝や告知自体は必要としつつ、「ストーリーを作りすぎると、見る側が作品の文脈を見失う恐れがある」と強調する。
 写真と違って戦争画は場面を「創造」し、画家の戦争への関わり方も一様ではない。そのため、宣伝も展示説明も工夫が不可欠だという。「戦争の時代の美術は一つの解釈で語れるものではない。展示するからには、丁寧に背景を説明し、冷静に見てもらう仕組みが求められる」
 展示を巡る課題は多いが、現代の人々にとって戦争画と向き合う意義は何か。 ◇「戦争画は表現の多面性を教えてくれる」
 平瀬氏は「戦時下に画家がどう活動し、見る側がどう受け止めたのかを知ることは重要。これからの社会を見据えて表現はどうあるべきか、見る側も作る側も考えるきっかけになる。今回の試みを一過性のものとせず、新たな要素を加えながら積み重ねていくことが大切だ」と話す。
 永田氏は「現代美術では過去の出来事を批評的に捉え、自らの表現を生み出す作家は珍しくない」とし、こう期待した。「美術は見る人が生きている時代や社会、個人の価値観、作品が制作された歴史的背景や状況を知っているかどうかで見方が変わる。戦争画はそうした表現の多面性を教えてくれる」

デスクメモ
 冒頭の「コタ・バル」を鑑賞した太田記者は、鉄条網の合間から鋭く視線を送る日本兵と目が合い引き込まれたという。文化の力がプロパガンダに利用される普遍的な危うさを戦争画から見つめてみたい。抑制的なPRのために貴重な展示に触れる機会を失ってしまうとすれば残念だ。
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識者の意見がメインですが、フライヤーや図録を作らず、宣伝も余りしていないことについての鋭い突っ込み。言いたいことはよくわかります。ただ、館側の「派手にあおると文脈見失う恐れ」という言い分も首肯できますし、キュレーター的な仕事も行っている身としては、「むべなるかな」とも「やんぬるかな」とも感じますが……。

それにしても、「自作だと認めたがらなかった画家」が居たというのは初耳でした。文学方面ではそれに近いケースは結構ありましたが、美術方面でも「ブルータス、お前もか」。それ、いったい誰だ? と、興味深いところです。

同展、10月26日(日)までの会期です。まだご覧になっていない方、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

立体的理法は物の主眼であつて外観ではありません。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

この一節のみ、全体に傍点が附されています。クラデルの原著がそうなのか、光太郎が訳した際にそうしたのか不明ですが。

NHKさんで初回放映が平成7年(1995)に為されたドキュメンタリー番組「老友へ~83歳 彫刻家ふたり~」が、先週、「時をかけるテレビ 今こそ見たい! この1本」の中で再放送されました。ともに光太郎と交流があり、そのDNAを色濃く受け継いだ、佐藤忠良舟越保武が出演していました。事前のネット上の番組案内に光太郎の名が出ていなかったので、気づきませんでしたが、見逃し配信サービス「NHKプラス」で拝見しました。
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「時をかける……」としては、ナビゲーターが池上彰さん、ゲストコメンテーターが武田鉄矢さん。
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「老友へ~83歳 彫刻家ふたり~」。平成7年(1995)の制作ということで、佐藤・舟越ともに存命でした。
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二人とも1912年に出生。ただし、改元の関係で、佐藤は明治45年、舟越は大正元年の生まれです。結婚前の光太郎と智恵子が日比谷松本楼で氷菓を食し、千葉銚子犬吠埼に絵を描きに行った光太郎を追って智恵子も来銚、愛を確かめ合った年です。ついでに言うなら、佐藤は宮城県黒川郡大和町、舟越は岩手県二戸郡一戸町、同じみちのくの生まれです。

そして共に昭和9年(1934)に東京美術学校彫刻科に入学、卒業後には新制作派協会彫刻部創立に参加。光太郎は同会の活動には好意的で、機関誌『新制作派』に寄稿もしています。
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さらに戦後には、佐藤が「群馬の人」で昭和35年(1960)、舟越は「長崎26殉教者記念像」で昭和37年(1962)に高村光太郎賞を受賞しました。
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光太郎を巡る二人の共通点は、まだあります。それぞれのお嬢さん。佐藤の息女・オリエさんは昭和45年(1970)にTBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました(光太郎は故・木村功さん)。忠良はその際のオリエさんをモデルに「智恵子抄のオリエ」という作品も残しています。舟越の息女・千枝子さんは光太郎に名前を付けてもらい、光太郎に会ってもいます。

二人はお互い、良き友、そしてライバルとして切磋琢磨しながら、日本の具象彫刻を牽引していきます。
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番組制作は平成7年(1995)でしたが、それに先立つ昭和62年(1987)、舟越が脳梗塞で倒れ、右半身が不自由になります。それでも舟越は不屈の精神で彫刻制作を続けました。

硬い石や木を削るカーヴィング、粘土を積み上げるモデリングはもはや不可能。ではどうするかというと、粘土の塊から左手一本でヘラを使って搔き落とすカーヴィングでの制作でした。
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作られているのはキリスト像。体力的に、長時間の作業は不可能。休み休み、しかし他者の手はほとんど借りずの作業です。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作時の光太郎もかくや、という気がしました。

一方の佐藤も、舟越に比べればまだ自由に歩き回ったりはできるものの、やはり83歳。若い時には考えられなかったような痛恨のミス。ちょうど取材中に制作していた作品が、夜のうちに回転台のサスペンダーから外れ、倒壊してしまうという不運に見舞われます。
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しかしその部分を番組でカットさせなかった佐藤、素晴らしいと思いました。

かくして平成7年(1995)に新制作派展に並んだ二人の作品(佐藤は立像の出品は断念)。
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改めて、その時点でのお互いへの思い。
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共通の同級生だった昆野恒の展覧会での一コマ。
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不覚にもうるっと来てしまいました。

佐藤にとっての舟越、舟越にとっての佐藤のような存在が、光太郎には居ませんでした。そうなるはずだった碌山荻原守衛は数え32歳で急逝。高田博厚とは14歳も差がありましたし、高田は昭和6年(1931)に渡仏、以後、光太郎が没するまで帰国しませんでした。その他の同世代の彫刻家は、光太郎の嫌ったアカデミズム系に行ってしまいました。妻・智恵子は厳しい言い方ですが、光太郎にとって「ライバル」となる技倆も、そして覚悟も足りなかったようです。

閑話休題、「時をかけるテレビ 今こそ見たい! この1本 老友へ~83歳 彫刻家ふたり~」、NHKプラスでは9月19日(金)まで視聴可能。その他、U-NEXTなどでも配信があるようです。ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

人間の体は歩く殿堂です。又、殿堂の様に、中心点を持つてゐます。其をめぐつていろいろの量が位置を占め又ひろがります。全く動く建築です。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

佐藤も舟越も、この文章の収められた訳書『ロダンの言葉』で彫刻家としての眼を開かせられました。

京都府の老舗書画骨董店・思文閣さん。年に数回、「大入札会」という形での販売もなさっています。昨年のこの時期には、歌人の中原綾子旧蔵の光太郎色紙が2点出て、そのうち、綾子詩集『灰の詩』に口絵として画像が出た七五調四句の今様形式の詩「観自在こそ……」を揮毫したものを落札させていただきました。そちらは現在、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の特別展「中原綾子への手紙」で展示中です。

先週、また目録が届きました。
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同入札会、光太郎の父・光雲の木彫が出ることがしばしばありまして、今回も。ただし、今回出ているのは工房作のようです。不動明王が制多迦(せいたか)童子と矜羯羅(こんがら)童子を脇侍に従えた三尊像です。
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像高20㌢程の小品で、共箱の箱書きに依れば昭和4年(1929)の作。金彩が施されていますが、截金(きりかね)ではなく金泥を塗布してあるようです。

今日から京都で下見会が開催されます。

令和7年9月 思文閣大入札会 下見会

期 日 : 2024年9月8日(月)~9月14日(日)
会 場 : ぎゃらりい思文閣 京都市東山区古門前通大和大路東入ル元町386
時 間 : 10:00~18:00 最終日は17:00まで
料 金 : 無料

 蒐集された美術品には、コレクターの眼差しと心が宿るもの。今回は、複数のコレクター様より、その人となりまでも感じさせるような作品の数々をお預かりいたしました。
 洗練された構図で気品に溢れる上村松園《都の春》を筆頭に、横山大観の若年期と円熟期の作品、そして迫力ある棟方志功の大首絵や中川一政の油彩の薔薇など、近代絵画の優品をそろえたコレクション。また、竹内栖鳳の壮年期の一作である《秋瓢双鶏》、冨田渓仙の見返り鹿図など、深いこだわりを感じさせる日本画をご出品賜り、その方には、お道具にも貴重な作品を多数出品いただいております。加えて、富岡鉄斎による歴史人物画、軽妙な水墨画のコレクションもお預かりしました。最後の文人画家とも称される鉄斎、その深い教養に裏付けられた多彩な画業をぜひご堪能ください。
 そのほか、近世絵画においては、謎多き鷹描きの絵師・藤原正吉の一幅といった珍品や、円山応挙、狩野探幽ら名高い絵師の佳品もございます。どうぞお見逃しのないようご覧くださいませ。

 お道具の冒頭では、近代日本美術史において、工芸の新地平を切り拓いた高村光雲と板谷波山の作品をご紹介いたします。高村光雲は近代木彫の第一人者であり、後進の育成にも力を入れたことで知られる彫刻家。《木彫 不動三尊》は彼が門下の職人と共に制作したとみられる作品です。東美校時代、光雲の指導を受けたという板谷波山は、陶芸に転向し、陶芸家として初めての文化勲章受章者となりました。今回出品された茶碗では、波山がこだわった端正な造形と釉薬の窯変をお愉しみください。
 花器には、有田焼をはじめ、日本有数の窯業地として名高い佐賀県ゆかりの人間国宝である13代今泉今右衛門、14代酒井田柿右衛門、中島宏、井上萬二の作品が並びました。
 また盃、菓子鉢、向付、塗盆など食器類にも多様な出品を賜りました。皆様の暮らしを彩る「うつわ」をぜひこの機会に見つけていただければ幸いです。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

私はいつでも自分の彫刻では非常に科学的です。しかし、科学に、「趣味」を加へなくてはいけません。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

ここでロダンが言う「趣味」とは、「感性」「造型的感覚」といった意味だと思われます。

光太郎は欧米留学からの帰朝後、父・光雲を頂点に戴く日本彫刻界とは距離を置くようになりました。旧態依然の徒弟制度や、水面下のどろどろなどが原因です。

昭和20年(1945)の談話筆記「回想録」から。

 父は、私にいろいろ直接に話をするやうなことはなく、お客のある時は私にお茶を持つて来させるのである。母も心得てゐて客のところへは必ず出されたものだ。私は其処に坐つて話をきいてゐた。父は客と雑談を交しながら、或は半ば私に聞かせる積りのやうな場合もあつたやうである。私はよく其処へ呼ばれて行つて、迷惑を感じて厭になつたこともあるし、聞きながら憤慨を禁じ得なかつたことも少くない。彫刻界や美術界の受賞の掛引きなど、なかなか弟子達の間にあつて、金賞、銀賞の振合がどうだとか、此度はこれで我慢しておけとか、そしてこの次には何を出さうが金賞になることが前から決つてゐるといふやうな、そんな話が交されたことも屡々(しばしば)である。

これは留学前の話ですが、帰ってきてからもこうした状況は一向に変わっていませんでした。

しかし、一方では光雲の語る言葉にロダンのそれと通じる内容を感じて感心したりもし、この時期の光雲に対する見方は、ある意味、滅茶苦茶でした。

一昨日、拝見して参りました。光太郎の薫陶を受けて芸術の道を志した難波田龍起作品の展示です。

生誕120年 難波田龍起展

期 日 : 2025年9月3日(水)~9月20日(土)
会 場 : ギャラリーときの忘れもの 文京区本駒込5-4-1
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 日・月・祝日休廊
料 金 : 無料

 難波田龍起(1905~1997)は戦前戦後の前衛美術運動の中で誠実に己の道を歩み、形象の詩人に相応しい澄んだ色彩、連続したモティーフと曲線による生命感あふれる独自の画風を築かれました。
 私たちが難波田先生に初めて銅版画制作を依頼したのは1977年、画家として同じ道を歩んでいたご子息二人を相次いで亡くされた2年後のことでした。
 ご傷心の中にもかかわらず温かく迎え入れてくださり、私たちが持ち込んだ銅版に夢中で取り組まれ、次々に名作を生みだされました。
 1995年にときの忘れものは南青山に開廊しましたが、第一回の展覧会は「白と黒の線刻 銅版画セレクション1」(出品作家:長谷川潔、難波田龍起、瑛九、駒井哲郎)でした。
 当時現存の作家で私たちの画廊で初めて展示してくださったのが難波田先生でした。
 同年刊行したときの忘れものの最初のエディションも『難波田龍起銅版画集 古代を想う』で、約20年の間に、版元として多くの版画誕生に立ち会うことができました。
 今回の生誕120年記念展では、ご遺族のご協力を得て、油彩、水彩、版画を17点出品いたします。
現在、東京オペラシティ アートギャラリーで難波田龍起先生の大規模な回顧展が開催されています(10/2まで)。合わせてご覧いただければ幸いです。
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画廊主の綿貫ご夫妻は、ほぼ毎年、当会主催の連翹の集いにご参加下さっていて、今回の展示もご案内を頂きましたし、1ヶ月前には新宿の東京オペラシティアートギャラリーさんでの「難波田龍起」展を拝見しましたので、併せて観ておこうと思い、お邪魔いたしました。
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ぜいたくなことに、直接難波田をご存じの綿貫氏によるギャラリートークを拝聴しながら拝観させていただきました。
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東京オペラシティアートギャラリーさんの方は大作が多く、圧倒される感じでしたが、こちらは愛らしい小品が中心で、また違った感じでした。綿貫氏曰く「小さな作品でも決して手を抜いていない」。なるほど。
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制作法も、油彩あり、エッチングあり、パステル+水彩ありと、バリエーションに富み、抽象が中心ですが、街の風景のようなかなり具象っぽいもの(それでもシュールな感じ)もありました。
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フライヤー的な案内ハガキに使われたこちらの作品、版画に手彩色だそうで、そういうやり方もしていたのか、という感じでした。

それから、やはり光太郎と交流の深かった舟越保武の石彫も。
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この日は光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存会の会合で、そちらに向かう途中に寄らせていただいたのですが、その中西アトリエで撮られた難波田と子息、光太郎の写真。
難波田
東京オペラシティアートギャラリーさんで展示されており、「どこかで見た記憶があるんだよな」と思っておりましたが、昭和62年(1987)に竹橋の東京国立近代美術館さんで開催された「今日の作家 難波田龍起展」の図録でした。ただ、キャプションが誤っており、正しくは昭和29年(1954)のようです。

その中西アトリエの方は、残念ながら現地での保存は断念、現在、移設先を探しているところです。54坪ほどのあまり大きくない建造物、手を挙げていただける自治体さん、法人さん、個人の方でも、ご連絡いただければ幸いです。

さて、ときの忘れものさんでの「難波田龍起展」、9月20日(土)まで。9月13日(土)には、写真にも写られている難波田子息の武男氏と、東京オペラシティアートギャラリーさんのキュレーター・福士理氏の対談形式のギャラリートークも予定されているとのことです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

石に一滴一滴と喰ひ込む水の遅(のろ)い静かな力を持たねばなりません。そして到着点を人間の耐忍力にとつて余り遠すぎると考へてはなりません。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

おそらく難波田もこの一節が載った光太郎訳『ロダンの言葉』を読んだのではないでしょうか。

ちなみにときの忘れものさんのサイト内に、光太郎との関わりを綴った難波田のエッセイがアップされています。お読み下さい。

光太郎詩をモチーフにした作品もおありだった版画家で、千葉県ご在住であらせられた土屋金司氏が、8月11日(月)に逝去されたそうです。

8月23日(土)に、調べもののため土屋氏の地元の千葉県旭市にある県立図書館の分館・東部図書館さんに行った帰り、街なかで氏の名が書かれた通夜/葬儀の案内の捨て看を運転する車中から見て、「あれっ!」。その時点では氏のお名前が「金司」だったか「金治」だったか「金二」だったか自信がありませんでしたし、「金司」としても同姓同名の別人の可能性もあるな、と思っておりました。

帰ってからネットで調べたところ、お知り合いの方のSNS投稿で、やはり版画家の土屋氏ご逝去と知り、残念に思いました。

土屋氏の光太郎モチーフ作品は、旭市の北・銚子市でかつて拝見しました。

まず、一昨年に廃業してしまった光太郎智恵子ゆかりの宿・ぎょうけい館さんのロビーに常設されていて、何度も拝見した作品。
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大正元年(1912)に光太郎智恵子がぎょうけい館さんの前身・暁鶏館に泊まって愛を誓った際、宿の下男をしていた知的障害のあった「長崎の太郎」こと阿部清助をモデルに書いた詩「犬吠の太郎」を版画にしたものです。

他にも太郎をモチーフとした作品がおありで、それらは平成30年(2018)に銚子の飯沼観音さんで開催された「仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展」で展示されました。
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また、その関連行事として「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り「犬吠の太郎」」も開催されました。
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その際には土屋氏もいらして、お話をさせていただきました。

地元地方紙『千葉日報』さんあたりに訃報が出なかったかと、先週、また東部図書館さんに行き、同紙のバックナンバーを調べましたが見つかりませんでした。同紙には、地方紙でよくある半ページくらい割いての「お悔やみ欄」的なコーナーがありませんで。

東部図書館さんに隣接する東総文化会館さんギャラリーでは、土屋氏と、書家の依知川伸一氏のコラボ作品展が開催中でして、そちらも拝見して参りました。
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当初、先月末までの予定だったのですが、氏のご逝去を受けての措置でしょう、今月末まで会期延長だそうです。お近くの方などぜひどうぞ。

改めまして、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

最微なる或は最大なる実在、例へば大洋、雲嶽、草木、昆虫の精霊を窺視し得たる日本の芸術は又吾が踏む道なり。

光太郎訳 ロダン「手紙」より 明治43年(1910)訳 光太郎28歳

雑誌『白樺』の「ロダン号」刊行に際し、ロダンから光太郎の朋友・有島生馬に送られた書簡の一節です。この当時の欧州の芸術家達の例にもれず、ロダンもジャポニスムの影響を受けていました。

「大洋、雲嶽、草木、昆虫の精霊を窺視し得たる日本の芸術」……土屋氏の版画にも通じるような気がしました。



毎週金曜日の19:30から、NHK総合さんは東北地方で「鈴木京香の東北オトナ旅」という番組を放映しています。女優の鈴木さん、宮城県のご出身だそうで。この枠は地方によって放映されている番組が違い、関東地方では「首都圏情報 ネタドリ!」が放映されています。

一昨日、7月29日(火)の「鈴木京香の東北オトナ旅」は「青森県十和田市編」でした。千葉の自宅兼事務所ではリアルタイム視聴が出来ませんでしたが、NHKさんの見逃し配信サイト「NHKプラス」さんで拝見しました。
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最初に鈴木さんが向かわれたのが十和田湖。
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しかも光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」でした。
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鈴木さん、幼い頃にも訪れられ、その思い出を辿るという側面も。
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像のポーズで写真撮影、「乙女の像あるあるですね」(笑)。

傍らに立つ光太郎詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」(昭和28年=1953)を刻んだ詩碑も取り上げられました。
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ナイスコメントです(笑)。

この後、鈴木さんは「乙女の像」の足をスマホで撮影。
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踵(かかと)が両足ともべたっと地面についていますね。この点に関し、光太郎曰く

あの像では後の足をスーツとひいているが、あの場合には踵が上るのが本当なんだけれども(立ち上がつて姿態を作り)こういうふうにわざと地につけている。彫刻ではそういう不自然をわざとやるんです。あれが踵が上つていたら、ごくつまらなくなる。そういうところに彫刻の造型の意味があります。(「高村氏制作の苦心語る ”見て貰えば判ります” 像の意味は言わぬが花」昭和28年=1953)

光太郎の心の師・ロダンも「説教する洗礼者ヨハネ」などで全く同じことをやっています。

さて、鈴木さん、何ゆえ足の写真なのかというと、一人旅の行った先々でご自分のお顔ならぬおみ足を自撮りなさることにはまられているそうで……。
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ぜひ1冊の本にして出版していただき、「乙女の像」の足も収めていただきたいものです(笑)。

十和田湖の後は、市街へ。十和田市現代美術館さんや、新しくオープンした新刊書店、そこで紹介されたスナックなどを巡られました。

先述のようにNHKプラスさんで9/12(金)午後7:56まで視聴可能です。

NHKプラスさんといえば、もう1件、光太郎がらみが配信中です。8月24日(日)放映の、「日曜美術館」とセットの「アートシーン」。茨城県の水戸芸術館さんで開催中の「日比野克彦 ひとり橋の上に立ってから、だれかと舟で繰り出すまで」がメインでしたが、愛知県小牧市のメナード美術館さんでの「なつやすみ所蔵企画 えともじ展 文字で読み解く美術の世界」も取り上げられ、同展出品中の光太郎木彫「鯰」(昭和6年=1931)が紹介されています。
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この回、本来は今夜再放送のはずでしたが、高校野球の関係で「日曜美術館」本体が1回休止となった影響でしょう、残念ながら再放送が為されません。NHKプラスさんでは今日の朝9:59まで。視聴可能な方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

不幸な事が起つた。僕は昨日女の胸像を仕上げたと思つたのです。其をめちやめちやにしてしまひました。もう一度やり返さなければなるまい。三週間の損!

光太郎訳 ロダン「手紙」より 明治43年(1910)頃訳 光太郎28歳頃

「芸術家あるある」です。作品をほぼ作り終えたところで改めて見返すと気に入らず、自分で壊してしまう……。光太郎もよくやりました。

ただし「乙女の像」に関しては、もはや自分の命の残り火が少ないとわかっていましたので、それをする時間が残されていませんでした。そのため、光太郎自身でも納得の行く作ではなかったようです。像にサインが刻まれていないのがその一つの傍証です。

『読売新聞』さん、8月18日(月)掲載の記事。

街の裸婦像は時代にそぐわない? 撤去の動き、各地で…小学生「見ていて恥ずかしくなる」

 公園や駅前、橋上にある裸婦像が、公共の場にふさわしくないとして、自治体が撤去する動きが相次いでいる。裸婦像は戦後に撤去された軍人像に代わり、「平和の象徴」として全国各地に建てられたが、「時代にそぐわない」「美術館に展示すべきだ」との指摘も出ている。(高松総局 黒川絵理)

小学生「見ていて恥ずかしくなる」
 高松市中心部にある市中央公園。約3・5ヘクタールの園内には、市出身の文豪・菊池寛や読売巨人軍の名監督・水原茂氏ら計31体の像などが設置されている。その中には、少女2人が向かい合って立つ裸像もある。
 市によると、1989年に地元のライオンズクラブから寄贈された。2023年以降、同園の再整備計画を検討してきた有識者らの会合で「時代にそぐわないモニュメントがある」と指摘され、校外学習で訪れた小学生からも「見ていて恥ずかしくなる」との意見が出た。
 市は「人々の価値観が変化しており、児童の裸像を公共空間で不特定多数が目にするのは望ましくない」と判断。8月下旬に始まる再整備工事で撤去する方針という。
 一方、少女の裸像の作者で、彫刻家の阿部誠一さん(94)(愛媛県今治市)は読売新聞の取材に「撤去は残念だ」と語った。作品名は「女の子・二人」で、1988年の瀬戸大橋開通を記念して制作した。阿部さんは「裸像はみずみずしい命そのもので、橋で成長する四国・本州地域の美しさを表現した。園内に残すべきだと思う」と話した。市から撤去についての連絡はないという。
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「公共空間にたくさん設置、日本だけ」
 全国の記念碑を研究する亜細亜大の高山陽子教授によると、戦前は軍人や偉人の像が公共空間に建てられたが、戦中の金属不足や戦後の連合国軍総司令部(GHQ)の方針で撤去された。代わりに登場したのが裸婦像だった。1951年に東京都千代田区に置かれた「平和の群像」が国内の公共空間で初めての裸婦像とされ、その後、平和や愛の象徴として各地に広まったという。
 高山教授は「公共空間に女性の裸像がたくさん置かれているのは日本だけ。欧州やアジアでは美術館の敷地内や庭園に限られる」と話す。
 女性の裸像の設置場所を巡っては、他の地域でも見直しが進んでいる。
 兵庫県宝塚市にある宝塚大橋には、手のひらの上で裸の女性が踊る像が設置されていた。橋の改修工事に伴い、2021年に撤去され、元の場所に戻すかどうかが議論になった。橋を管理する県は「見たくないとの意見が一定数ある」として設置しない方針を決定。土木事務所で保管している。
 静岡市では、中心部の駿府城公園周辺に女性や少女の裸像が7体設置され、静岡駅前広場にもフランスの画家・ルノワールの裸婦像2体がある。
 難波喬司市長は昨年12月の記者会見で「市内に裸婦像が多すぎる」と語った上で、「しっかり鑑賞できる美術館などに置くのが適切ではないか」と述べた。市は有識者らに意見を求めており、対応を検討している。
 神戸大の宮下規久朗教授(美術史)は「近年、児童の裸に対する社会の目が厳しくなっている一方で、設置から数十年 経た ち、風景に同化している裸像もある。市民から意見を募り、撤去の是非を慎重に判断すべきだ」と語る。
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記事本文には光太郎の名はありませんが、画像として光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。キャプションには「十和田湖畔に建つ乙女の像。高村光太郎の作品(青森県十和田市)」。文脈としては撤去すべきものの例ではなく、記事末尾にある神戸大の宮下規久朗教授曰くの「風景に同化している裸像」の例として挙げられているのだと思われます。舟越保武の「たつこ像」も。そうでないとしたら見識を疑います。

しかし、彫刻に限りませんが、たしかに公共空間に於けるアート作品にはいろいろと微妙な問題がありますね。「なぜそこにその作品があるのか」「そうした作品でなければならないのか」「そこにその作品があることでどんなメリットがあるのか」そして記事の指摘にあるように「デメリットはないのか」。

特にバブル期、そうした議論もされないまま、単に「有名な作家の作品だから」「地元の芸術家にお願いして」「何もないとさびしいから」「予算が組まれたので」的な安易な理由で設置された作品も多いと思われます。中には「ガラクタ」と思われても仕方のないものも少なからずあるような。そんな中で、裸婦像は裸婦像であるが故のセンシティブな問題を孕み、槍玉に挙げられやすいのでしょう。

記事後半にある静岡市の例の中で「市は有識者らに意見を求めており」とありますが、「「有識者」ってどんな人?」「その人らに何の権限があるの?」「ほんとに万人が納得出来る見解が出せる?」という気がします。

この問題は難しいと思います。地方都市の駅前などによくある戦国武将などご当地偉人の像なども、「偉人の像だから」というだけで、像の出来不出来は問題にされず容認されていたり、意味不明の像も「有名な作者のものだからOK、これが理解出来ない人はアートを理解する心が足りないのだ」と丸め込まれたり……。逆に「乙女の像」や「たつこ像」まで「裸婦像」だからというだけの理由で眼の敵にされてはかないません。

結局は光太郎が明治期に文展などの評で主張していた、「その像に「生(ラ・ヴイ)」が見えるかどうか」という基準しかないのでは、とも思われます。一人一人がきちんとした鑑賞眼を持ち、いいものはいい、駄目なものは駄目、といえる素養を身につける必要があるでしょう。それとても人によって基準が異なることは仕方がありませんが……。

また、万人が認めるいいものであっても、設置場所が適当かどうかはまた別の問題です。例えば「考える人」が住宅街のど真ん中にズドンと設置されたとして、誰がそれをありがたがるか、というようなことです。

といって、公共空間にはベンチだの街路灯だのさえあればいいのか、という問題にもなりますし……。まぁ、少なくとも不快だと思う人が一定以上存在しそうなものは、避けて置いた方が無難だなとは思います。

なんだか堂々巡りでまとまりませんが、みなさんもそれぞれ考えてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

彫刻に独創はいらない。生命がいる。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

さらにロダンは「模写家たる事を恐れるな。」「此の模写は手に来る前に心を通る。知らぬ処にいつでも独創はあり余る。」「何を生命と呼ぶか。あらゆる意味から君を激動させるもの、君を突き貫くものの事です。」などとも語っていました。

8月16日(土)、御茶ノ水で「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」を拝聴する前、竹橋の東京国立近代美術館さんに立ち寄りました。こちらで先月から開催されている企画展「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」に光太郎がらみの出品物があると、SNSで知ったためです。
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同館公式サイトでは「戦争記録画を含む当館のコレクションを中心に他機関からの借用を加えた計280点の作品・資料で構成される本展覧会」と謳われています。
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お盆中でもなかなかの入りでした。
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基本的には絵画がメイン。
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「アッツ島玉砕」など、以前にも特集展示的な感じで複数並べられた、東京美術学校西洋画科での光太郎の同級生だった藤田嗣治作品がやはり目をひきました。
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他に梅原龍三郎、猪熊弦一郎など光太郎と交流のあった面々の作品も。
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かの丸木位里・俊夫妻の「原爆の図」も。
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それらをただ並べてあるだけでなく、いろいろと工夫も。たとえば従軍画家として作曲家の古関裕而と共にミャンマー入りした向井潤吉の場合、戦争画と有名な戦後の民家シリーズの作品とを並べ、一つの文脈で捉えるなど。
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こんな作品も。一見、単なる婦人像に見えますが、よく見ると縫っているのは千人針です。
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その他、プロパガンダ系のポスターなど。
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「現在でも自民党本部に貼ってあるんじゃないの?」というようなものも。ここまでは上の方に画像を貼っておいた出品目録に掲載されているものです。

これら以外に、展示ケースをふんだんに使い、出版物等の展示も充実。昨年、同館で開催された「ハニワと土偶の近代」展と似たような感じだなと思いました。美術館としてこういう展示の方法は、なかなか勇気の要ることだと思います。
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この流れの中に、光太郎の翼賛詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)が展示されていました。
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過日もご紹介した「十二月八日」のページを開いての展示でした。
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同じ並びには日本放送協会(現・NHK)編の『愛国詩集』、大政翼賛会編の『翼賛詩歌』第一輯。共に光太郎の翼賛詩が収められたアンソロジーです。前者には「彼等を撃つ」(昭和17年=1942)「シンガポール陥落」(同)後者には「必死の時」(昭和16年=1941)が掲載されています。
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戦後の出版物も。やはり「ハニワと土偶の近代」展同様、サブカルチャー的なものも積極的に。

水木しげるの『総員玉砕せよ!!』。
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中沢啓治「はだしのゲン」。単行本ではなく、初出掲載誌の『週刊少年ジャンプ』、『市民』が展示され、より生々しい感じです。
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圧倒される展示でした。

続いて階上の常設展示的な「所蔵作品展 MOMATコレクション」。光太郎のブロンズ「手」などがよく出ているのですが、現在は光太郎作品はお休み中でした。

光太郎の親友・碌山荻原守衛の「女」は出ていました。
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その他、いろいろ名品が並ぶ中、階下の「記録をひらく 記憶をつむぐ」とリンクさせる意図もあるのでしょうか、やはり戦争画的なものも多かったように感じました。
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光太郎智恵子と交流のあった津田青楓の「叛逆者」。これなども「記録をひらく 記憶をつむぐ」と併せて見ることで、違った見え方になるような気がしました。
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館を出て、「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」までまだ余裕がありましたので、近くの戦争遺跡を見に。元々、時間があればそうするつもりでした。北の丸公園に、皇居防衛のために設置された「九八式高射関砲」の台座が遺されています。下記画像は国民公園協会さんのサイトから。
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スマホの地図アプリと連動した「道案内」的なサイトが用意されていまして、その通りに歩きました。都心のさらにど真ん中とは思えないような緑陰で、実にいい感じでした。
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しかし、そのサイトが超頓珍漢でして、全然何もない場所に案内されてしまいました。近くをさんざん探しましたが、ありません。慌てて他のサイトに当たってみると、正しくは全く離れた場所だということがわかりました。この手の道案内アプリ、時々こういうことがあるんですが、なぜなのでしょう?

結局断念し、御茶ノ水に向かいました。残念でした。

代わりというと何ですが、さらに前日に足を運んだ戦争遺跡の画像を。場所は当会事務所兼自宅のある千葉県香取市に隣接する旭市です。同市には千葉県立図書館の分館があり、そちらで調べもののついでに立ち寄りました。
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戦時中に香取海軍航空隊の基地があった場所で、空襲などの際に敵機から自機を隠すための掩体壕(えんたいごう)です。
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鎌数伊勢大神宮さんという神社の近く。同社の第二駐車場から徒歩数分です。先月、花巻で見た戦争遺跡同様、粛然とした気持にさせられました。

この手の掩体壕はさらに南の匝瑳市や、北に位置する茨城県鹿嶋市にも現存しています。鹿嶋市のものは以前に行きましたが、特攻兵器・桜花を収納するためのもので、桜花のレプリカも展示されていました。

終戦から80年。こういうものがまた必要になる時代に二度としてはならない、と、改めて思います。

【折々のことば・光太郎】

彫刻に於ける、あらゆる側面からの描形(デツサン)。此が魂を石に下降させ得る呪(まじなひ)である。


光太郎訳ロダン「断片」から 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

不謹慎のような気がしないでもありませんが、上記掩体壕のコンクリートの造型を見て、彫刻的な美しさを感じてしまいました。

智恵子の故郷、福島県二本松市が主催です。

第30回智恵子のふるさと小学生紙絵コンクールの作品を募集します

 高村智恵子のふるさとである二本松市では、「智恵子のふるさと小学生紙絵コンクール」を実施し、福島県内および岩手県花巻市の小学生による紙絵作品を募集します。
 子どもたちの美意識と創造性・独創性の一層の育成を図るとともに、二本松市が生んだ芸術家「高村智恵子」をさらに顕彰していただき、あわせて地域の文化振興に寄与することを目的とします。
 今年度、本コンクールは開催第30回目の節目を迎えることから、特別賞「特別智恵子大賞」を設けます。

募集対象 福島県内および岩手県花巻市の各小学校に在学中の児童 
     ※義務教育学校を含みます。
募集部門 小学1年生の部から6年生の部まで6部門
応募規定 応募点数 ひとり1点とします。
作品規格 「画用紙」四ツ切サイズ(380ミリメートル×540ミリメートル)。
     ※規格外の作品は、審査の対象となりません。
表現・作成方法 テーマは自由です。
紙(材質・種類・色などは自由)を切り取り(ハサミ・カッター・ちぎり取るなど何でも自由)、ノリで上記の画用紙等に貼り付けてください。貼り付けてからの絵の具などでの着色も構いません。縦横は自由とします。
(注)次の作品は受け付けられませんので、お送りにならないようお願いいたします。
 ・作品規格に合わない作品
 ・輸送途中に形態が変わったり、紙が剥がれてしまう作品
応募期間 令和7年8月22日から9月5日まで※必着
応募方法
・「応募票」をダウンロードし、必要事項を記入の上、作品裏面の左下に貼付してください。また、作品を所属する学校単位でまとめ、「応募一覧表」をダウンロードし、必要事項を記入の上、ともに下記の送付先に送付してください。
・原則、学校単位での募集としますが、学校にて取りまとめができず個人での応募となる場合は、「応募票」をダウンロードし、必要事項を記入の上、作品裏面の左下に貼付後、下記の送付先に送付してください。応募者の氏名等の間違いがないようご確認ください。詳細は、下部のチラシをご覧ください。

送付先 〒964-8601二本松市金色403-1 二本松市教育委員会文化課 小学生紙絵コンクール係

その他
応募作品は、 他のコンクール等に出品していない作品、かつ著作権、商標権、肖像権等第三者の権利を侵害しないものに限ります。
入賞作品も含めて、応募いただいた作品は返却いたします。
入賞作品の使用権は 、主催者に帰属します。
入賞作品は、展覧会・報道・ 広報 ・ 市ウェブサイト等にて作品、氏名 、学校名、学年を公表させていただきます 。
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たまたま展示が為されている時期に二本松に行く機会があった場合に、入賞作品群を拝見したことが何度かありました。
 第23回(平成30年=2018)  第24回(令和元年=2019)  第27回(令和4年=2022)

ちぎり絵がほとんどでしたが、時折、智恵子同様、ハサミで紙を切っての切り絵的な手法での作品も入賞しています。

006ちなみに「紙絵」という呼称は光太郎の提唱によって定着しました。昭和26年(1951)6月4日~10日、銀座の資生堂ギャラリーで開催された「高村智恵子紙絵展覧会」の際からで、それまでは「切抜絵」などと称していました。詩集『智恵子抄』(昭和16年=1941)に収められた散文(昭和14年=1939)のタイトルも「智恵子の切抜絵」でした。

「高村智恵子紙絵展覧会」の簡易図録に収められた美術評論家・土方定一の後書き的な文章。

 この展覧会を催すことになつたとき、これらの作品を切抜き絵とするかどうか話しあつた。折よく中央公論社の松下さんが高村さんのところに行かれるときであつたので聞いてもらつたところ、紙絵というジャンルが油絵というようにあつていいだろう、ということであつた。それで紙絵展とした。

なるほど。

さて、紙絵コンクール。これが児童の皆さんに光太郎智恵子へ興味を持つ一つのきっかけとなってもあらえれば、と存じます。また、応募対象が限定されていますが、たくさんのふるっての応募を期待したいところです。今回は30回記念で「特別智恵子大賞」が授与されるそうですし。

【折々のことば・光太郎】

人間の天才力は穹窿の創造に勝ち誇つてゐる。何処から此の穹窿は来たのだらう。虹から、多分。

光太郎訳ロダン「本寺別記」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「穹窿」は「きゅうりゅう」と読み、本来は大空の意ですが、ここでは本寺(ノートルダム大聖堂)内部のヴォールト(アーチを平行に押し出したかまぼこ型の形状を特徴とする天井様式)を指します。

本当に美しい造型を見た時の舌を巻くような感覚、また、それを感受出来る感性を持つことの大切さ、そういったことを教えてくれる一節ですね。

光太郎の父・光雲の木彫の特別公開が為されています。

『上越タウンジャーナル』さん記事から。

高村光雲の「木造毘沙門天像」6年ぶり一般公開 春日山城跡ものがたり館で9月15日まで

 新潟県上越市の春日山城跡本丸跡北側に建つ「毘沙門堂」の本尊で、明治期を代表する仏師で近代木彫界の巨匠、高村光雲(1852〜1934)が制作した「木造毘沙門天像」が同市大豆の「春日山城跡ものがたり館」で一般公開されている。2025年9月15日まで。8月23、24日に開催される「第100回謙信公祭」に合わせた展示で、公開は2019年以来6年ぶり2度目となる。入館無料。
 郷土の戦国武将、上杉謙信は仏教を守護する四天王の一つ、毘沙門天を敬い、自らを毘沙門天の化身と信じ、軍旗には「毘」の一字を用いていた。出陣前に毘沙門天を安置した毘沙門堂に籠もり、戦勝祈願を行ったと伝えられる。
 上杉謙信が信仰した銅造の毘沙門天像は、上杉家の移封に伴い会津を経て米沢に移り、米沢城本丸の御堂に安置されていたが、1849年(嘉永2年)の火災で損傷。その後、1928年(昭和3年)に高村光雲が修復した。その際、像のかけらを体内に収めた木造の分身像を制作し、1930年(同5年)に完成。当時の春日村に寄贈された。翌年、寄贈を受けた旧春日村が毘沙門堂を建立し、木造毘沙門像を安置。現在、春日地区町内会長連絡協議会が所有し、毘沙門天奉賛会が管理している。関係者によると、毘沙門堂に安置されているのはレプリカだという。
 今回公開された木造毘沙門天像は高さ41cm。左手にやりを持ち、よろいで身を固め、怒りの表情をたたえる。訪れた人たちは貴重な像の姿をガラス越しにじっくりと眺めていた。大豆町内会長で、毘沙門天奉賛会の新保稔会長(71)は、「謙信公が拝んで出陣したといわれる像の凛々しい姿をご覧いただければ」と話している。会場には木造毘沙門天像のほか、謙信公祭の歴史などを紹介するパネルも掲示している。
 午前9時から午後4時30分まで。8月23日は午後8時30分まで観覧可能。
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6年ぶりの公開だそうですが、6年前が初公開で、上越市の埋蔵文化財センターさんでの公開でした。

今回は春日山城史跡広場内の春日山城跡ものがたり館さん。8月23日(土)・24日(日)に開催される「第100回謙信公祭」に合わせての企画だそうです。

工房作を含め、光雲の木彫は日本各地で未だに崇敬の対象となっているものが多く、常時見られるものもあれば、今回のように特別展示、期間限定ご開帳といった措置になる場合もあります。今年も神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺で「秘仏三面大黒天立像」、同じ神奈川の鎌倉覚園寺さんでは「後醍醐院法躰御木像」の特別ご開帳が為されました(後者はまだ開催中です)。

このように、決して「死蔵」とならないようにしていただくのはありがたいことです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

其の美を会得する為めに、構図の主題を知る必要はない。此処では律度が君臨する。此が其の主権である。此が其の玉座である。


光太郎訳ロダン「ランスの本寺」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「ランスの本寺」はノートルダム大聖堂のことです。光太郎と同じく、心の師・ロダンもこよなくこの建築を愛しました。

ここでいう「主題」は造形作品のモチーフやモデル。「何を作ったか」は最重要の命題ではなく、その作品の美を構成する一つの要素に過ぎず、それよりも「律度」。「いかに作られているか」の方に重きを置くべしということです。

昨日は上京しておりました。

メインの目的は上野の東京文化会館さんでの「第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~」の拝聴でしたが、その前に新宿まで足を伸ばし、東京オペラシティアートギャラリーさんで開催中の「難波田龍起」展を拝見。

洋画家・難波田龍起(明38=1905~平9=1997)は旧本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)にあった光太郎アトリエ兼住居のすぐ裏手に住み、光太郎の影響で芸術の道に入った人物です。はじめ詩作を志し、大正末には光太郎に詩稿を見てもらうなどしたものの、どうもそちらはものにならなかったようで(後々まで続けますが)、後に画家として立つことになります。智恵子も通っていた太平洋画会に一時加入しました。画の分野では川島理一郎、松本竣介、詩の方面では宮崎丈二など、その交友圏は光太郎とかなりの部分で重なっていました。光太郎との交流は光太郎最晩年まで続き、中野のアトリエを足繁く訪れた他、昭和28年(1953)に光太郎が花巻郊外旧太田村に一時帰村した際には同行しています。

そこで、「難波田龍起」展、「光太郎と交流の深かった画家」という点が前面に押し出されています。ただ、光太郎自身の作品等は展示されないということで、このブログでもご紹介せずにいました。
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出品リストが以下の通り。
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会場内。撮影可でした。
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初期の頃はそれほど特徴がない感じに見えましたが、戦後になって抽象の度合いが色濃くなると、豊かな個性の発露が感じられました。
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サイケなガシャガシャしたイメージではなく、静謐さも湛えているように見えるのは、色調が抑えられているせいかと思いました。

展示の終わり近くにスナップ写真などがケース内に並んでおり、光太郎も。見たことがあるような無いような写真でした。
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キャプションには「1953年」とありますが、光太郎日記を参照してみますと、どうも昭和29年(1954)1月5日のようです。

一月五日 火
晴温 終日在宅、難波田龍起氏子供さん3人同道来訪、リンゴ進呈、

一月十四日 木
晴、くもり、 ひる頃難波田さんくる、先日子供さんのとつた写真数枚もらふ、よくとれてゐる、

展覧会詳細は以下の通り。

難波田龍起

期 日 : 2025年7月11日(金)~10月2日(木)
会 場 : 東京オペラシティアートギャラリー 新宿区西新宿3-20-2
時 間 : 11:00~19:00
休 館 : 月曜日 (8月11日、9月15日は開館)
      月曜祝休日の翌火曜日(8月12日、9月16日) 8月3日[日](全館休館日)
料 金 : 一般1,600円[1,400円]/大・高生1,000円[800円] 中学生以下無料

 難波田龍起(1905-1997)は、戦前から画業を始め、戦後はわが国における抽象絵画のパイオニアとして大きな足跡を残しました。大正末期に詩と哲学に関心をもつ青年として高村光太郎と出会い、その薫陶を受けるなかで画家を志した難波田は、身近な風景やいにしえの時代への憧れを描くことで画業を開始します。戦後になると抽象へと大きく制作を進め、海外から流入する最新の動向を咀嚼しながらも情報に流されず、また特定の運動に属することもなく、独自の道を歩みました。その作品は、わが国における抽象絵画のひとつの到達点として高く評価されています。
 東京オペラシティアートギャラリー収蔵品の寄贈者である寺田小太郎氏が本格的な蒐集活動にのりだし、さらにコレクションを導くコンセプトのひとつである「東洋的抽象」を立てたのも、孤高の画家難波田龍起の作品との出会いがきっかけでした。難波田が東京オペラシティアートギャラリーの所蔵する寺田コレクションの中心作家となっていることは言うまでもありません。
 本展は難波田龍起の生誕120年を機に、当館収蔵品はもとより、国内の美術館の所蔵品、また個人蔵の作品などもまじえ、難波田の画業の全貌を四半世紀ぶりに紹介し、今日的な視点から検証するものです。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変突然ですが 御預り願つておりました智恵子の紙絵を御送附いただきたく思います 手許で見たくなりましたので…永い間、御預りいただいてゐましたこと深謝にたへません。鉄道便箱づめにして御送り下さい。同封の送料で何卒よろしくお願いします。

昭和31年3月27日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎74歳

亡くなる6日前のもので、現存が確認できている光太郎最後の書簡です。『高村光太郎全集』には脱漏していましたが、現物が花巻高村光太郎記念館さんに収蔵されており、展示されたことも。

この時点では長い文面を自ら書き記す力はほとんど残っていなかったようで、借りていた貸しアトリエの大家である中西富江に代筆して貰っています。ただし、翌日には喀血・血痰が一旦治まり、散文「焼失作品おぼえ書」の最後の一枚を自ら書き、周囲を驚かせました。

生涯最後の書簡が最愛の妻・智恵子や第二の故郷・花巻(佐藤は光太郎を花巻に招いた一人)であることに、何やら象徴的なものを感じます。

保存運動を展開している、光太郎終焉の地、中野区の中西利雄アトリエ関連です。

協同組合伝統技法研究会さんという建築関係の組織があり、そちらの会報『伝統技法』の第52号が6月に発行されています。同会サイトには先月末に情報がアップされました。

会報52号 発行しました

会報52号を発行しました!

今回の目次は
●杉並に残る民家 高橋 政則
●婦人之友社社屋に学ぶ〜引き継がれた有機的建築 伊郷 吉信
●髙井鴻山記念館の張付壁 大平 茂男
●村野家住宅の茅葺き屋根の修理 大平 茂男
●飯田喜四郎先生が1月4日に亡くなられました 大平 茂男
●文化財建造物の保存修理に思うこと 大平 秀和
●中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ 十川

となっております。
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サイト上の情報ではなぜか執筆者名が苗字しか書かれていませんが、当方も所属する中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会の中心メンバーのお一人、十川百合子さんによる「中西利雄・高村光太郎アトリエを後世へ」という文章が6ページにわたって掲載されています。
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施主である水彩画家・中西利雄のプロフィール、当該アトリエについて、ここを借りた光太郎とのからみ、そしてこれまでの保存運動の報告等。

奥付画像を載せておきます。必要な方、ご参考までに。
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ところで、アトリエについて、非常に残念なご報告があります。

現所有者の意向で、10月から11月頃に解体されることが決定したそうです。

これまで、中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会としては、現地での保存をまず第一に考えて交渉等を重ねて参りましたが、力及ばずでした。

そこで今後はプランB・次善の策として、どこか適当な場所に移築、という方向で動かざるを得ません。その移転候補地等も全く白紙に近い状態です。モダニズム建築家・山口文象設計という建造物としての重要性だけでなく、光太郎終焉の地という付加価値があるため、できれば近くにと思いますが、それも不可能であれば離れた場所でも仕方がないでしょう。信州飯田市の柳田國男館さん、茨城県笠間市の春風萬里荘さん(北大路魯山人アトリエ)などがそうした例ですが、まったくゼロになってしまうよりどれだけましか、ということになります。

移築後の活用方法については追々考えていくとして、まずは場所。大学さん、美術館/文学館さんなど、或いは篤志の個人の方でも結構です。場所さえ提供していただければ、あとは何とかできそうな構想にはなっています。

保存会世話役の曽我貢誠氏メアドが以下の通り。save.atelier.n@gmail.com

よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生の容態はさつぱりよくなりませんが少しづつ原稿を書いて居ます原稿が書けなくなる日もあることでせう


昭和31年(1956)1月31日 宮崎春子宛書簡より 光太郎74歳

余命2ヶ月あまり、ほぼ病臥の生活となりましたが、調子のさほと悪くない時は原稿執筆も行っていました。詩では前年暮れには『読売新聞』に寄稿した「生命の大河」、同じく『中部日本新聞』などの三者連合に「開びゃく以来の新年」、NHKラジオに「お正月の不思議」。散文は雑誌『新潮』、『みづゑ』、『家の光』、『国立博物館ニュース』、『地上』、『旅行の手帖』などに。

キーワードは「上野公園」です。

まずは雑誌の新刊。

月刊アートコレクターズ No.197 8月号

発行日 : 2025年7月25日
版 元 : 生活の友社
定 価 : 952円+税

近年酷暑が続く夏に、肝を冷やす待望の企画を実施!恐怖と一口に言ってもその内実は様々です。そこで、今回は恐怖にまつわる様々な感情を切り分けながら、それらを表現としてどのように昇華させているのか、特にそのテクニックについてインタビューや寄稿、グラビアを通して探求します。表現を扱う美術雑誌ならではの切り口で、恐怖の見方を伝授します。
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目次
 【巻頭特集】徹底解剖 恐怖の裏側
  ◇エキスパートに学ぶ、恐怖の作法
   高橋洋 「リング」「霊的ボリシェヴィキ」/押切蓮介 「サユリ」「ミスミソウ」
   外山圭一郎 「サイレントヒル」「SIREN」/
   平山夢明 「ダイナー」「『超』怖い話シリーズ」
  ◇寄稿
   春日武彦 恐怖を分解する─なぜ人は恐怖に惹かれるのか
   廣田龍平 機械論的妖怪の潜勢的恐怖─俗信の怖さについて
   布施英利 ホラーとテラー……脳の中の恐怖
   佐々木敦 現代の「空気」を映し出すホラー/アート
  ◇対談
   田中俊行╳渡辺シヴヲ いと奥深し ! オカルトコレクションの世界

  霊能力者Miyoshiに聞く ! もっと知りたい幽霊Q&A
  中村麗子が選ぶ三つの感情で味わう本当に怖い絵
 ◇グラビア
  畏れの魔力 金子富之/山本じん/阪東佳代/池田一憲/平良志季/高資婷/岡本東子
   鶴川勝一/吉田然奈/柳生忠平
  非現実に花咲く恐怖の甘美 髙木智広/椎木かなえ/石黒光/髙橋美貴/
   Sui Yumeshima /亀井三千代/篠原愛/藤浪理恵子/冥麿/貳來/羅展鵬/飴屋晶貴
   立島夕子/生熊奈央/三塩佳晴/多賀新
  自分と世界の緊張感系 内田あぐり/深海武範/佐藤温/高見基秀/村上早/池田ひかる
   内田すずめ/大河原愛/市川友章/林銘君/日野之彦/海老原 靖/佐藤T 
   井上光太郎/髙木優希
  デフォルメする恐怖 丸尾末広/駕籠真太郎/中村宏/かつまたひでゆき/夜乃雛月
   BURUMORI /添田奈那
  恐怖は屹立する 牟田陽日/船橋つとむ/ウチダリナ/武本大志/マンタム/山本雄大
   川上勉/林美登利/水村芙季子
 【連載】
  鹿島茂 リュシアン・ヴォージェルの夢 編集者一族の出会い
  水沢勉 色と形は呼び交わす 佐藤直樹 はじまりも終わりもなくつながる
  古田亮 バック・トゥ・ザ日本美術 高村光雲「西郷隆盛像」+後藤貞行「ツン」
  森孝一 思考の径路 陶芸家・五代高橋楽斎の作品にみる在り方
  田辺一宇 古今亭まくら話 見えたんだから仕方ない……ってな噺
  飯島モトハ アート&スイーツ 徳光健治個展/ANDY COFFEE チョコドーナッツ

 Contemporary Art Now/展覧会ガイド 他

 表紙デザイン:河北秀也、栗林成光 高資婷「蜘蛛と蝶」2024年 絹本着色 6号F

東京藝術大学大学美術館さんの教授・古田亮氏の連載「バック・トゥ・ザ日本美術」で、上野公園に集中する美術館等の成り立ち、明治期に上野公園で盛んに行われた博覧会について、光太郎の父・光雲が主任となって制作された「西郷隆盛像」他の銅像などについて4ページ。
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現存する建造物などについては知ってるつもりで意外と知らなかったことが多く、「そうだったのか」の連続でした。

特集はこの季節らしく「徹底解剖 恐怖の裏側」。紹介されている数々のあやかしアート作品画像は夢に出てきそうです(笑)。添えられた文章には「読まなきゃよかった……」というようなおどろおどろのものも(笑)。当方、子供の頃からビビリのくせに怪談系は好きで、しかし読了後「読むんじゃなかった……」と後悔することばかりでした。この年になっても同じことの繰り返しです(笑)。その他、日本的な「恐怖」と、欧米式のそれとの相違の考察など、興味深いものでした。

続いてやはり上野公園。コンサートのご案内です。以前、ちらっとご紹介し、その後失念していました。

第18回二期会駅伝コンサート~喜怒哀楽~

期 日 : 2025年8月6日(水)
会 場 : 東京文化会館 小ホール 台東区上野公園5-45
時 間 : 15:00開場 15:30開演
料 金 : 一般4,000円 学生2,000円 全席自由 再入場可
無題
出演 二期会研究会10団体
<予定時刻/出演研究会>
 ■15:30~
  オペレッタ・ミュージカル研究会《ヨハン・シュトラウス2世の喜怒哀楽》
  ・ヨハン・シュトラウス2世 「春の声」 「ウィーンの森の物語」 「芸術家の生涯」 ほか
   赤澤 舞・小林晴美・推屋 瞳・中野礼美・松本順子・森山由美子・茂木真由美
   渡辺佳子・黒田晋也 [ピアノ] 山中聡子
  ロシア東欧オペラ研究会《喜怒哀楽にそって》
  ・グリンカ『ルスランとリュドミラ』より "なんと嬉しいことだ~我が勝利は近い"
  ・ボロディン『イーゴリ公』より "もう長い年月がたった"
  ・チャイコフスキー『イオランタ』より "誰を私のマチルダに比べよう"
   渡部智也・牧野舞子・古川精一 [ピアノ] 小笠原貞宗
  イタリアオペラ研究会《イタリア・オペラの喜怒哀楽》
  ・F.チレア『アドリアーナ・ルクヴルール』より
    第1幕 "私は創造の神の卑しい僕" "あなたの中に母の優しさと微笑みを"
    第2幕 "苦い喜び、甘い責め苦"  第4幕 "哀れな花よ"
   折田千絵・黒田千佐代・杉本美代子・石橋佳子・伊藤潤・浜田和彦
   [ピアノ] 篠宮久徳
 =休憩(10分)=
 ■16:40~
  フランス歌曲研究会《フランス~喜怒哀楽を歌う》
  ・フォーレ「賛歌」 ・デュパルク「ため息」 ・シャブリエ「幸福の島」
  ・ドビュッシー 歌曲集『忘れられし小唄』より "そはやるせなき"
  ・ドビュッシー「家なき子のクリスマス」 ・マスネ「夏の朝」
  ・ラヴェル歌曲集『5つのギリシャ民謡』より "何と楽しい!"
   森朱美・坂本貴輝・中村優子・浅木百合子・安岐美香 [ピアノ] 松場知子・森夏野
  ドイツ歌曲研究会《アルバン・ベルク生誕140周年に寄せて》
  ・A.ベルク「7つの初期の歌」
   1)夜 2)葦の歌 3)夜鳴きうぐいす 4)冠されし夢 5)部屋の中で 6)愛の頌歌 7)夏の日々
   近藤悦子・田口久仁子・刀根敬子・杉下友季子 [ピアノ] 赤塚太郎
  合同演奏『ナブッコ』行け、我が想いよ
 =休憩(10分)=
 ■17:40~
  英語の歌研究会《Girls Chattering!!》
  ・G.メノッティ『泥棒とオールドミス』より
   "こんにちは、ミス・ピンカートン" "私の恋人は船乗りに"
  ・L.バーンスタイン『キャンディード』より "ウィー・アー・ウーマン"
  ・A.サリヴァン『ミカド』より "私達は学校帰りの3人娘"
  ・S.ソンドハイム『リトル・ナイト・ミュージック』より "田舎の週末"ほか
   佐橋美起・大田中早苗・落合知美・川口美和・川畑順子・小針絢子・高居洋子
   長濵厚子・西野伸子・野澤知佳・伯田桂子・向井優希 [ピアノ] 原島慈子
  オペラワークショップ研究会《Gioia, rabbia, tristezza e piacere! 心の綾を声にこめて》
  ・G.ヴェルディ『リゴレット』より
   "ジョヴァンナ、私後悔しているの、お父様に言わなかったことを"
  ・G.ヴェルディ『アイーダ』より
   "まぁ!お父様!~もう一度見られるのだぞ、あの芳しき森"
  ・U.ジョルダーノ『アンドレア・シェニエ』より "貴女のそばでは、僕の悩める魂も"
   平野真理子・福岡万由里・藤野祐子 [助演] 谷川佳幸・大井哲也 [ピアノ] 服部尚子
  イタリア歌曲研究会《ヴォルフ=フェッラーリの喜怒哀楽》
  ・E.ヴォルフ=フェッラーリ 「若者よ、なんて素敵に歩くの!」 「道行く若者よ」
   「遠く離れて」 「若者たちよ、若く美しいうちに歌いなさい」 ほか
   石原友利子・大町加津子・里村照子・鈴木葉子・高木照子・竹之内淳子・永瀬祐紀乃
   村田由紀子・鴨川太郎 [ピアノ] 山岸茂人
 =休憩(10分)=
 ■18:50~
  ロシア歌曲研究会 《喜怒哀楽にそって》
  ・ロシア民謡「ああ、夜よ」 ・シーシキン「夜は輝く」
  ・ビラーシ「秋が来ると(キーウの鳥の歌)」
  ・チャイコフスキー「ただあこがれを知る人だけが」Op.6-6
  ・チャイコフスキー「フローレンスの歌」Op.38-6
   高柳佳代・福成紀美子・清水知加子 [ピアノ] 小笠原貞宗
  日本歌曲研究会《詩人の哀しみと懊悩》
  ・松下倫士「うつくしいもの」より  "心よ" "ふるさとの山"
  ・朝岡真木子「智惠子抄」より "千鳥と遊ぶ智惠子"
  ・髙田三郎「啄木短歌集」より "やわらかに"
  ・猪本隆「悲歌」 ・猪本隆「わかれ道」 ・朝岡真木子「日の光」より "日の光" 
   斉藤京子・清水邦子・白須ヒロミ・前澤悦子 [ピアノ] 松浦朋子
 合同演奏「第九」
 終演予定20:00

*演奏中の出入りは出来ません。休憩中にお願いします。
*時間は目安です。早めのご来場をお願いします。
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「駅伝コンサート」と銘打たれています。何が「駅伝」かというと、別に歌い手の皆さんが走りながら歌うわけではなく(笑)、15:30から20:00までの長丁場を歌い継ぐ、というわけで。今回で第18回ですから、恒例の伝統行事なのでしょう。存じませんでした。

最終走者(笑)、「日本歌曲研究会」さんの中で、朝岡真木子氏作曲の「組曲 智恵子抄」から「千鳥と遊ぶ智恵子」を清水邦子氏が歌われる予定です。

招待券を頂いており、このステージのみ聴きに行く予定です。さすがに最初から最後までとなると、おなかいっぱいになるでしょう(笑)。

皆さまも是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

年末年始のお小遣いの足しにもと思つて少々送ります、小生はやはりねたりおきたりしてゐます、


昭和30年(1955)12月22日 宮崎春子宛書簡より 光太郎73歳

南品川ゼームス坂病院で智恵子の最期を看取ってくれた、その姪の春子宛書簡から。幼児二人を抱えて未亡人となった春子には、気づかいを忘れませんでした。

こうして昭和30年(1955)が暮れて行きます。

長野県の松本平地区をカバーする『市民タイムス』さん、先週の記事から。

荻原碌山のブロンズ像「坑夫」 生徒が初の洗浄作業

 安曇野市穂高東中学校の生徒と隣接の碌山美術館の職員が23日、同校に設置されている、穂高出身の彫刻家、荻原碌山(本名・守衛、1879~1910)の代表作「坑夫」のブロンズ像を磨く作業をした。偉人の功績に思いをはせながら、長年風雨にさらされ付着した汚れを取り除いた。
 前身の穂高中学校が昭和29(1954)年に開校した際、旧南安曇教育会のはからいと遺族の理解で正面玄関の前庭に設けられて以降、親しまれてきた同校のシンボルだ。美術部員4人が、洗浄剤とブラシで汚れを落とし、蜜ろうワックスを塗布して布で磨き上げると、酸性雨による雨だれ模様が一掃され、輝きを取り戻した。
 「坑夫」は碌山が巨匠ロダンに師事し、パリの美術学校で学んでいた1907年の制作。イタリア人男性がモデルの力強い作風で、日本近代彫刻の礎を築いた傑作と称される。2年生の小林要太さんは「作業に関わり、碌山は地元の宝だとあらためて感じた」と話した。3年生の山田朱里部長は、総合的な学習の時間で碌山を学んだり、清掃の時間に同館の掃除を行ったりしてきた同館との交流を振り返り「素晴らしい芸術が日常にある恵まれた環境」と感謝した。
 碌山の十三回忌に合わせ遺族が前身校に寄贈した「小児の首」をシンボルとする穂高南小や、同館が開校記念として「坑夫」を贈った穂高西中から、メンテナンスの相談が寄せられていたことを受け、碌山ゆかりの作品を屋外に設置する穂高西小や穂高北小へも同館職員が出向き、作業を済ませた。
 いずれも初めての取り組みで、碌山美術館の武井敏学芸員は「先人や関係者たちの思いが宿るもの。芸術的価値を伝える作品性が保たれれば」と話している。
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記事では光太郎に触れられていませんが、守衛の「坑夫」(明治40年=1907)はパリ留学中の習作で、当時ロンドン留学中だった光太郎がパリの守衛の元を訪れ、これを見せられて感銘を受け、ぜひ日本に持ち帰るように勧めた作品です。そうした経緯もあって、昭和29年(1954)に当時の穂高中学校さんにこの像が設置された際、題字を光太郎が揮毫しました。上の画像に題字のパネルも写っています。
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酸性雨による金属劣化の問題はかなり前から指摘されています。主に工業地帯をかかえる大都市圏での話ですが、自然豊かな安曇野あたりでも無関係ではないのですね。

同館のX(旧ツイッター)投稿に、メンテナンスのビフォー(左)/アフター(右)それぞれの画像が出ています。
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全体に緑青に覆われていたような感じでしたが、ブロンズ本来の色合いに戻ったように見えますね。ワックスのおかげでしょうか、かなり光沢も出ているような。生徒さんたち、グッジョブです。

当方、SNSで神戸の「彫刻みがき隊あのね会」の方々と繋がっています。主に野外彫刻のメンテをボランティアで行われている方々で、「どこどこの彫刻をきれいにしました」的な投稿を見るたび、頭の下がる思いでいます。


自治体などの中には、こうした野外彫刻や石碑など、建てて建てっぱなし、あとは知ったこっちゃない、というスタンスが見られるところが珍しくありませんが、一方でこうした皆さんもいらっしゃるというのは素晴らしいことだと思います。そして今回の穂高東中さんの取り組みも。

また、一昨年には、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」も、除幕70周年を記念して、地元の皆さんを中心に、雨の中で大規模な清掃が行われました。

こうした活動がもっともっと広まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

又拓本をお預かりいたし忝く存じます、

昭和30年(1955)11月28日 硲真次郎宛書簡より 光太郎73歳

硲真次郎は詩や美術評論なども書いていた人物。光太郎とは戦前からの付き合いでした。「拓本」が何の拓本なのか、同時期の日記等を見ても詳細は書かれていません。もしかすると、上記の光太郎が揮毫した「坑夫」題字プレートの拓本か、とも思ったのですが、硲と安曇野との関係が確認できません。
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これよりも、晩年の光太郎が好んだ中国の書家の碑から採った拓本と考えた方がつじつまが合うような気もします。

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