光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のたつ十和田湖。光と影の明暗が分かれる報道が為されています。「光」の部分は、一昨日お伝えした「第60回記念十和田湖湖水まつり報道」。多くの方で賑わって……というわけで。
「影」の方、ここ数日で、さまざまなメディアが一斉に報じました。一部、ご紹介します。
地元紙『東奥日報』さん。
全国ニュースでも。FNNさん系のテレビニュース。
問題の廃船が放置されているのは、「乙女の像」のたつ休屋地区と、奥入瀬渓流への入口に当たる子(ね)の口地区の中間に位置する宇樽部地区。解散したという組合が運行していた遊覧船は休屋-子の口間を航行する途中で宇樽部の桟橋にも立ち寄っていたと記憶しています。
宇樽部にはキャンプ場があり、また、民家も建ち並んでいます。かつては旅館等もあり、昭和27年(1952)、「乙女の像」設営の下見のため十和田を訪れた光太郎は宇樽部の東湖館という宿に泊まり、智恵子の顔を持つ像を作ろう、と決意しました。その東湖館の建物は平成29年(2017)まで残っていましたが、残念なことに解体。逆に撤去されるべき廃船が繋留されたままだそうで……。
廃船の剥がれかけた塗装に「乙女の像」の文字が読み取れるのが悲しい感じです。
ずどんとテンションが下がりましたので、上げます。『朝日新聞』さん、6月14日(土)の東北版。
【評】 十和田湖の「乙女の像」を詠む。古語の使用が、歌にふさわしいたおやかな風情を増している。
読者短歌の投稿欄から。
像の建立に一役買った佐藤春夫が詠ったごとく「あわれ いみじき 湖畔の乙女 ふたりむかいて 何をか語る」という感じですね。
【折々のことば・光太郎】
あの魴鮄が現存してゐる事を確認したのは愉快でした、製作年代の分つたのもありがたく、これで他の木彫の年代もおよそ類推することが出来ます、
木彫「魴鮄」は大正13年(1924)の作。永らく行方不明でしたが、詩人の宮崎と親しかった材木商・浅野直也がこの年、当時の価格13万円で入手しました。
浅野はやがて中野の貸しアトリエに居住していた光太郎に現物を見せに行き、宮崎は詩「蘭と魴鮄」を書きました。
蘭と魴鮄
花を開き初めた春蘭が
「他の木彫の年代もおよそ類推」とありますが、昭和20年(1945)の空襲で記録類が焼けてしまったためもあるでしょうが、光太郎、意外と自作の制作年代をちゃんと記憶していませんでした。
「影」の方、ここ数日で、さまざまなメディアが一斉に報じました。一部、ご紹介します。
地元紙『東奥日報』さん。
十和田湖の宇樽部桟橋(青森県十和田市)に不法係留されている放置遊覧船が横倒しになっている問題で、船を所有する十和田湖遊覧船企業組合(同市、解散)の清算人に対し、県が撤去勧告を出していたことが16日、県への取材で分かった。県がこの清算人に対し、撤去勧告を出したのは初めて。県はこれまで、前段階の撤去指導を26回にわたり行ってきたが、具体的な対応がなかった。
同桟橋には4隻の遊覧船が不法係留されており、うち1隻が横倒しになっている。勧告は5月30日付で、全4隻を対象に行った。
県によると、清算人は同組合の関係者で、連絡は取れている。これまで何度も現地に赴き、放置遊覧船の状況は確認しているものの、撤去に向けた動きを見せていないという。
撤去勧告は強制力がない行政指導。一段階上の撤去命令は強制力が生じる行政処分で、県港湾空港課の担当者は「まずは相手の対応を見極めたい」と話した。
RAB青森放送さんのローカルニュース。十和田湖で不法係留されている4隻の遊覧船です。県が所有者の清算人に5月30日付で撤去勧告を出しました。
4隻は2015年から不法係留され、県はこれまで26回にわたり「撤去指導」を行ってきました。県は勧告で速やかな撤去を求めていますが、撤去勧告に強制力はありません。
観光関係者は景観や環境面でも悪影響を与えかねないとして、早期撤去を求めています。
★十和田奥入瀬観光機構 安藤巖乙事務局次長
「十和田湖の美しい景観を守るために、放置遊覧船だったりとか休屋地区の廃屋もそうですけど、使わなくなったものはしっかりきれいになっていくといいなと思っています」
★県港湾空港課 橋本公学課長
「所有者側に対してはこれまで撤去指導を行ってきたところですが、現状対応が取られていないということを踏まえて、一歩踏み込んだ撤去勧告を発出した」
県によりますと、いまのところ組合から勧告の求めに応じる連絡はないということです。
全国ニュースでも。FNNさん系のテレビニュース。
青森県と秋田県にまたがる十和田湖で“廃船群”が問題となっており、なかには横倒しになったままの船もある。青森県は何度も組合関係者に撤去を求めてきたというが、解決のめどは立っていない。
横倒しになった船が放置も… 東北地方を代表する観光名所の一角に広がる、まるで船の墓場のような光景。
地元住民は「10年もこうほっぽり投げられるんじゃ、置かれた方はたまったもんじゃないですよ」と話す。
廃船群が問題となっているのは、青森県と秋田県にまたがる十和田湖。十和田湖は世界でも珍しい「二重カルデラ湖」で、周辺の木々とともに織り成す自然の造形美は東北きっての観光ポイントとして知られている。
約10年間、不法係留状態の船 そうした十和田湖の観光に欠かせないのが遊覧船なのだが、青森県側のある桟橋に行ってみると、放置された船があった。船体に書かれた文字が一部読み取れないほどはがれた塗装。船の至る所が汚れとサビにまみれ、長年人の手が入っていない様子がうかがえる。
付近の住民:
もう何十年もこのままですから、みっともないですよ。(観光の)お客さんにも申し訳ないなと思って。
この桟橋に係留されている5隻のうち4隻が、約10年もの間、不法係留状態。この4隻はかつて地元の企業組合が遊覧船として使用していたが、その組合はすでに解散済みだという。
地元住民は、「どうにもならない。完全に撤去するしかないでしょ」と話していた。
青森県はこれまで、組合の関係者に何度も撤去を求めてきた。
これまで26回ほど指導をしております。先方からは前向きな回答をいただけなかったと。
「朝起きたらひっくり返ってた」
すると2025年、ある異変が起こったという。
すると2025年、ある異変が起こったという。
FNNのカメラが25年前に撮影していた「第3十和田丸」の塗装作業。この時、船体は光り輝いていた。そして、その「第3十和田丸」の現在はというと、横転してロープでつながれ、シートがかぶせられている。横転直後に撮影された「第3十和田丸」の写真。2025年2月ごろ、大雪の重みに耐えかね、船体が傾いていったのだという。
付近の住民:
「この船危ないね」って言ってたらもう本当に斜めになってて、朝起きたら本当にひっくり返ってたんですよね。
景観の悪化どころか、周辺の安全にまで大きな影響を及ぼし始めた十和田湖の廃船群。この事態を受け、県は5月末、これまでの指導よりも一段階踏み込んだ“撤去勧告”を関係者に行ったという。ただ、勧告には強制力はない。
青森県 港湾空港課・橋本公学課長:
まだ今のところ、先方からの回答はございません。速やかに対応していただきたい、これに尽きるかと。
(「イット!」6月18日放送より)
問題の廃船が放置されているのは、「乙女の像」のたつ休屋地区と、奥入瀬渓流への入口に当たる子(ね)の口地区の中間に位置する宇樽部地区。解散したという組合が運行していた遊覧船は休屋-子の口間を航行する途中で宇樽部の桟橋にも立ち寄っていたと記憶しています。
宇樽部にはキャンプ場があり、また、民家も建ち並んでいます。かつては旅館等もあり、昭和27年(1952)、「乙女の像」設営の下見のため十和田を訪れた光太郎は宇樽部の東湖館という宿に泊まり、智恵子の顔を持つ像を作ろう、と決意しました。その東湖館の建物は平成29年(2017)まで残っていましたが、残念なことに解体。逆に撤去されるべき廃船が繋留されたままだそうで……。
廃船の剥がれかけた塗装に「乙女の像」の文字が読み取れるのが悲しい感じです。
ずどんとテンションが下がりましたので、上げます。『朝日新聞』さん、6月14日(土)の東北版。
湖(うみ)ひかりふたりの智恵子影為合(しあ)ふ「乙女の像」に姿を化(は)けて (仙台市)大橋勝
【評】 十和田湖の「乙女の像」を詠む。古語の使用が、歌にふさわしいたおやかな風情を増している。
読者短歌の投稿欄から。
像の建立に一役買った佐藤春夫が詠ったごとく「あわれ いみじき 湖畔の乙女 ふたりむかいて 何をか語る」という感じですね。
【折々のことば・光太郎】
あの魴鮄が現存してゐる事を確認したのは愉快でした、製作年代の分つたのもありがたく、これで他の木彫の年代もおよそ類推することが出来ます、
昭和29年(1954)3月10日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎72歳
木彫「魴鮄」は大正13年(1924)の作。永らく行方不明でしたが、詩人の宮崎と親しかった材木商・浅野直也がこの年、当時の価格13万円で入手しました。
浅野はやがて中野の貸しアトリエに居住していた光太郎に現物を見せに行き、宮崎は詩「蘭と魴鮄」を書きました。

蘭と魴鮄
花を開き初めた春蘭が
葉を垂れてゐる鉢の傍へ
高村光太郎作魴鮄を置いて眺める
これはいゝ
思はず自分はさう云ひながらも
この心に叶つた快さを
どう説明していゝかは知らない
魴鮄はその面魂(つらだましひ)を
それに打ち込んだ作者をさながらに現して
むき出しにしてゐる
ぎりぎりの簡潔さ しかも余すところなく
きつぱりとそのかたちに切られて
そして今こゝに
蘭の薫を身に染ませて
「他の木彫の年代もおよそ類推」とありますが、昭和20年(1945)の空襲で記録類が焼けてしまったためもあるでしょうが、光太郎、意外と自作の制作年代をちゃんと記憶していませんでした。