カテゴリ: 東北

福島から講演会情報です。当会の祖・草野心平がメインですが、おそらく光太郎にも触れていただけるであろうと思われますので……。

文芸講演会「詩人・草野心平─いかに心平が心平になったか」

期 日 : 2025年3月8日(土)
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

講 師 : 澤正宏氏(福島大学名誉教授)、和合亮一氏(詩人)

草野心平と同郷の福島県で詩を教える澤氏と、詩を書く和合氏の師弟コンビが、草野心平の詩について語ります。

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講師お二人のうち、澤氏は智恵子の故郷・二本松市の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会さんにいろいろご協力下さり、同会主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさいました。他にもNHKカルチャーさんでの講座、様々な御著書御編著等で心平や光太郎について取り上げて下さっています。

和合氏はつい先日も御著書を紹介させていただきました。福島大学さんのご出身ということで、その頃に澤氏の薫陶を受けられたのでしょう。

講演テーマが「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」。光太郎をして「詩人とは特権ではない。不可避である。詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。」と評せしめた心平ですので、光太郎との交流が生じなかったとしても不可逆的に詩人となっていたと思われますが、光太郎と親しく交わったことでより一層、花開いたのではないかと思われます。そういったお話になることを期待いたしております。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

その後の都合を見てゐましたが、どうもまだ下山出来さうもありません。やりかけの仕事がまだ片付きません。今年は山も異常に温く、畑の青菜が育ちお雑煮に使へさうです。阿部さんにもらつたお餅もあり、元日には先生御一家をしのんで杯をあげませう。

昭和26年(1951)12月28日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎69歳

正月をわが宅で過ごされませんか、という総合花巻病院長・佐藤隆房の誘いに対する断りの返答です。

結局、こうして昭和26年(1951)が暮れて行きました。

昨年7月に亡くなった作曲家・湯浅譲二氏の「お別れの会」が一昨日、サントリーホールさんで開催されました。

地方紙『福島民報』さん。

福島県郡山市出身の作曲家、湯浅譲二さんの功績しのぶ 「あれが阿多多羅山」など流れる 東京都内でお別れの会

 昨年7月、94歳で死去した福島県郡山市出身の作曲家で文化功労者の湯浅譲二さんのお別れの会は18日、東京都港区のサントリーホールで開かれた。
 音楽関係者ら約200人が参列した。お別れの言葉で、品川萬里郡山市長は「古里を思い、活動を続けていた。湯浅さんの功績と作品は多くの人に受け継がれる」と述べた。作曲家の池辺晋一郎さん、チェリストの堤剛さん、音楽学者の船山隆さん、作曲家の細川俊夫さん、作曲家の伊藤弘之さん、作曲家の藤枝守さん、作曲家のロジャー・レイノルズさんも湯浅さんとの思い出を振り返った。
 箏演奏家の吉村七重さん、ピアニストの高橋アキさんが追悼の演奏をささげた。遺族を代表して湯浅さんの長女玲奈さんが「作曲家冥利(みょうり)に尽きる人生だった」とあいさつした。湯浅さんが作曲した「あれが阿多多羅山」などが流れる中、参列者が献花した。
 湯浅さんは旧制安積中(現安積高)卒。慶応大医学部を中退し、詩人の滝口修造さんが主宰した前衛芸術家グループ「実験工房」で活動した。幅広い作品を手がけ、優れた邦人作曲家のオーケストラ作品を顕彰する尾高賞を5回受けるなど、数々の栄誉を手にした。国際現代音楽協会名誉会員、郡山市名誉市民。
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同じく『福島民友』さん。

郡山出身の作曲家・湯浅譲二さんの功績しのぶ 都内でお別れの会

 郡山市出身の作曲家で、昨年7月に94歳で死去した湯浅譲二さんのお別れの会が18日、東京都港区のサントリーホールで開かれた。音楽関係者ら約190人が参列し、日本の現代音楽の発展に貢献した功績をしのんだ。
 発起人で作曲家の池辺晋一郎さんや郡山市の品川萬里市長らがあいさつした。品川市長は「湯浅先生は常にふるさとを気にかけてくださった。市民を代表し、先生の作品や思いを末永く継承していくことをお誓いいたします」と湯浅さんの在りし日を振り返り、冥福を祈った。湯浅さんの作曲した「あれが阿多多羅(あだたら)山」が流れる中、参列者は遺影が飾られた祭壇に献花した。
 湯浅さんは国内外で活躍し、オーケストラや室内楽、合唱、電子音楽などを幅広く作曲。テープやコンピューターなど最新技術を駆使するとともに、グラフを用いた独自の作曲法を生んだ。1997年に紫綬褒章、99年に恩賜賞・日本芸術院賞、2007年に旭日小綬章、14年に文化功労者。17年に郡山市名誉市民に選ばれた。
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「お別れの会」で流された「あれが阿多多羅山」は、サブタイトルが「バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の二人』による」。「智恵子抄」所収の「樹下の二人」(大正12年=1923)をテキストに使った独唱歌曲です。昨年11月に開催された湯浅氏の故郷・福島県郡山市の市制施行100周年記念式典音楽祭でもオーケストラ伴奏で演奏されました。

他にも湯浅氏には光太郎智恵子がらみの作品。作曲のみならず氏が作詞の補作も手がけられ、平成25年(2013)に制定された「二本松市民の歌」では3番までの各番歌詞の末尾が「ほんとの空が ここにある」。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からのインスパイアですね。この曲はご当地体操「ほんとの空体操」の伴奏曲でもあります。

また、智恵子にも触れられた映画「原始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯」(平成13年=2001)の音楽も、湯浅氏が担当されていました。
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当方、DVDを所持しております。
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ちなみに氏が亡くなったのは昨年7月ですが、直後に「お別れの会」が計画され始めたようで、発起人には、こちらも昨年亡くなった谷川俊太郎氏のお名前も。お二人のコラボによる楽曲も多く、岩手県や福島県の学校さんの校歌も多数。いろいろと人の縁の不思議さに感じ入っております。

氏の作品(特に「あれが阿多多羅山」、「二本松市民の歌」など)が今後とも愛され続けていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

小生この頃荒くなつてゐます、小生の内の猛獣性の活躍してゐる證拠です、人間拒否を超えて、

昭和26年(1951)12月11日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

青年期の終わり頃から壮年期にかけ、自らの内部に巣喰う荒ぶる魂を「猛獣」に仮託した連作詩「猛獣篇」が書かれましたが、数え70歳を目前にしたこの時期、再び「猛獣」の胎動を体内に感じています。翌年には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作の話が舞い込み、再び粘土を手にするわけですが、そうした予感があったのかも知れません。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんから販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分、メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから画像が届きました。
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今月のメニューは「ぶりの照り焼き」「肉じゃが」「ハムサンド」「ちらし寿司」「キャベツとベーコンのサラダ」「煮豆」「りんごゼリーと干し柿」。まだまだ寒い日が続きますが、彩り的に春を感じさせるようなビジュアルですね。

毎回、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、実際に光太郎が作ったり、人から貰ったりした料理、それらに使われていた食材などを参考に組み立てられています。

メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさん、今日は花巻市内で光太郎がらみの出前講座講師だそうです。また、おそらく来月から、市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんでランチをふるまうこうたろうカフェも再開されるようです。

今後ともますますのご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

珍らしいクルミを久しぶりに見てうれしくなりました、ロンドンに居た人は皆知つてゐるでせうが、クリスマス前夜に、ミツスルツウ(やどり木)の枝の下で、此のクルミをクラツカアで割つてたべる家族的たのしさは格別のものです、むろんデコレーシヨン ケーキにも此のクルミを入れます、今年の廿四日夜は山でもたのしいです、


昭和26年(1951)12月11日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

光太郎、実際にもらったクルミを使ったケーキを自作しました。生地やクリームなどもなんとかしたのでしょう。しかし、食べかけのケーキを山小屋内に置いていたところ、寝ている間にキツネかタヌキか野犬かに食べられてしまったそうです(笑)。

テレビの地方局で流されたローカルニュースを2件。

まずはNHK広島局さん。呉市立美術館さんで昨年12月から開催されている「コレクション展III いのちを彫る 時を刻む 呉美の彫刻コレクション」に関して。

呉市立美術館で彫刻作品展 高村光太郎の「手」も

 近代から現代にかけて日本や西洋で作られた彫刻作品を集めた展示会が、呉市の美術館で開かれています。
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 呉市立美術館で開かれている展示会には、大正時代から現代にかけて日本やフランスなどで作られたあわせて50点の彫刻作品が展示されています。
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 このうち、大正から昭和にかけて活躍した詩人で彫刻家の高村光太郎の代表作の一つ「手」は、自らの手をモデルにしていて骨の形や皮膚のたるみまで写実的に表されているのが特徴だということです。
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 また、呉市出身の彫刻家、上田直次の「愛に生きる」という作品は、やぎの親子をモチーフにしたもので、大きなくすのきをノミで大胆に削って作っています。
 呉市立美術館の学芸員、渡辺千尋さんは「今回の展示は彫刻作品なので、絵画とは違って360度、いろいろな角度から展示を楽しめます。ぜひ会場に来ていただき、さまざまな視点から作品を観察して、それぞれのおもしろさを見つけてもらいたいです」と話していました。
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 この展示会は、2月11日まで開かれています。
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もう1件、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ライトアップも為されている「十和田湖冬物語2025」について、RAB青森放送さん、2月1日(土)の放映。残念ながら「乙女の像」には触れられませんでしたが。

「もう忘れられないです」十和田湖冬物語が開幕 冬空を彩る大輪の花火 雪の滑り台やスノーモービルで引く雪上バナナボート かまくらバーも人気

 冬の十和田湖を楽しむことができる「十和田湖冬物語」がきのう開幕しました。
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 十和田湖冬物語は十和田湖畔休屋地区できのう開幕しました。
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 会場にはスノーパークが設けられ、雪の滑り台やスノーモービルで引く雪上バナナボートを楽しむことができます。

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 また青森と秋田の食を楽しめる雪あかり横丁や、氷のグラスでカクテルなどが飲めるかまくらバーも人気です。
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 訪れた人たちのお目当ては午後8時からの冬花火。
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 音楽に合わせて200発の花火が打ち上がります。
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★訪れた人
「カラフルでドカンとなってクライマックスのときにしゅっていろいろなったのがおもしろかったです」
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「東京ではこんな風になかなか見られないのでしかも雪と一緒に見ることがないのでうれしかったです 
もう忘れられないです」
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 十和田湖冬物語は今月24日まで、火曜日と水曜日を除く毎日開かれます。
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それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「トリモンA」三箱サントニン錠一箱、石鹸などいただき、感謝しました、早速服用いたしました。神経痛はどうしても退治してしまはねばなりません。今後の彫刻製作の邪魔になりますから。


昭和26年(1951)8月9日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

翌年秋は再上京し、「乙女の像」制作を始めますが、この時点ではまったく具体的な計画は立っていません。それでも何らかの彫刻制作を再開する構想はずっと持ち続けていました。

「トリモンA」はホルモン剤、「サントニン」は虫下しの薬。「虫下し」と言っても、若い人達には通じないでしょうね(笑)。
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昨日お伝えしました通り、一昨日、昨日と、光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

そもそもは、作曲家・朝岡真木子氏が光太郎詩をテキストに作曲された独唱歌曲集「組曲 智恵子抄」を歌われ、CDも出された清水邦子さんから、この夏に蒔田尚昊氏作曲の独唱歌曲集「智恵子抄」を抜粋で歌われるという黒川京子さんのお二人で「1月31日(金)・2月1日(土)と花巻で高村光太郎記念館さんや宮沢賢治記念館さんなどを見て歩きたいのですが、二人とも花巻に行ったことがありません。交通機関など現地でどうすればよいでしょうか。また、宿泊場所のおすすめなどありますでしょうか」的な問い合わせがあり、「それなら自分も同行してご案内いたしましょう」という流れ。ちょうど、昨年12月から1月26日(日)まで高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展示「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」でお貸ししていた出品物を返却してもらうする都合もありましたので。

しかし「何でこの時期なんですか? 寒いですよ」と訊いたところ「やはりこの厳しい寒さの時こそ、光太郎の花巻(旧太田村)での苦労を体感出来ると思ったので」とのこと。素晴らしいお考えですね。この時期の高村山荘(記念館に隣接し、光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋)を訪れもせずして「光太郎の山小屋暮らしは、世間に対して戦争犯罪を反省していますよ、と言うポーズに過ぎなかった」などとのたまういわゆる文芸評論家のエラいセンセイ方に爪の垢でも煎じて飲ませたいものです(笑)。

さて、1泊2日の行程を画像と共に振り返ります。特に黒川さんは宮沢賢治詩文をテキストとした歌曲にも取り組みたいということで、賢治関連のスポットも行程に入れることに致しました。

東北新幹線車中からの智恵子のソウルマウンテン・安達太良山。そして粉雪の舞う新花巻駅。
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レンタカーを借り受け、市街へ。

賢治御用達、それから光太郎もたびたび訪れて舌鼓を打ったやぶ屋さんで昼食。
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当方、天ぷらそばとサイダーの「賢治セット」をいただきました。

在来線東北本線花巻駅前に出て、林風舎さんへ。残念ながら賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏は愛知経由で九州に行かれているそうでご不在でした。
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続いて、昨年オープンした豊沢町のカフェ羅須さんへ。写真を取り忘れました(笑)。

オーナーで「宮沢賢治・花巻市民の会」の泉沢善雄氏、それからお世話になっておりますやつかの森LLCの皆さん、花巻南高さん家庭クラブの先生、さらに今年6月に当方に講演を依頼して下さった花巻ボランティア連絡協議会の方もいらっしゃり、事務的な打ち合わせ。この手の打ち合わせが出来る拠点が街なかに出来たので、便利になりました。

さて、旧太田村の高村光太郎記念館さん。花巻市街の積雪はそれほどでもありませんでしたが、徐々に標高も上がり、さらにこちらに着く頃には軽く吹雪いてきました。
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隣接する(と言っても数百㍍)高村山荘。途中の除雪が為されていたので行けました。雪を搔いていない場所は数十㌢積もっています。
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この日、最後の訪問地は少し戻って道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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宿泊先は賢治、光太郎ゆかりの大沢温泉さん。いつもは自炊部さんに泊めていただいていますが、今回は通常の温泉ホテル・山水閣さん。令和4年(2022)以来でした。自炊部さんでは、夕食は外で済ませるか館内の食堂で一品料理を頼むか、朝食はこれも館内の売店で前夜にパンなどを買っておいて食べるという感じですが、こちらでは夕食は豪華めのコース、朝食は和洋バイキング。たまにはいいものです。
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翌朝、9時に宿を出て、再び花巻市街へ。午後に花巻を後にするまでの間、日は照りながらぱらぱらと雪が舞い続けていました。

まずは宮沢家菩提寺の身照寺さん。
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近くのぎんどろ公園。賢治が勤務していた花巻農学校の跡地です。
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花巻駅近くの西公園。この2階で光太郎が講演をした旧花巻町役場、光太郎が乗った今は廃線となった花巻電鉄の車輌。
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中心街まで戻り、マルカンさん裏手の松庵寺さん。光太郎詩歌碑が3基。
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豊沢町の宮沢家。
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この奥の方にあった離れに、光太郎が昭和20年(1945)5月から8月まで厄介になっていました。しかし8月10日の花巻空襲で全焼。現在の建物は戦後のものです。

桜町の宮沢家別荘があった場所に建てられた「雨ニモマケズ」碑。数ある賢治碑のうち、第1号。碑文は光太郎の揮毫です。前日に訪れた林風舎さんには拓本が掲げられています。
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そこから見える「下の畑」。かつて賢治が耕作していた場所。
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近くの桜地人館さんは冬期休館中。
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駐車スペース脇には江戸時代の同心屋敷。

賢治命名のイギリス海岸。「海岸」といいつつ北上川の河畔なのですが。
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こちら、当方は約40年ぶりに訪れました。

そして最後のチェックポイント・宮沢賢治記念館さん。駐車場内の山猫軒さんで昼食を摂ってから拝観しました。
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昨夏から開催されている企画展示「刊行100周年 二冊の初版本」が、この日から展示替えと云うことで、当方は昨年12月に続いての観覧です。
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童話「注文の多い料理店」の直筆草稿断片が出ており、興味深く拝見。
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これで全行程を終了し、レンタカーを返却して新幹線で帰りました。1泊2日ではこんなもんでしょう。夕方までねばったり、1泊増やしたりすれば、羅須地人協会やマルカン大食堂さん、茶寮かだんさん、昭和の学校さんなど、もう少し廻れましたが。まぁ、お連れしたお二人にもとりあえずご満足いただけたようで、幸いでした。

御依頼があれば、この手の花巻ツアー、あるいは智恵子の故郷・二本松ツアーなど、運転手兼コンダクターを務めさせていただきます。もっとも、いつでも可というわけでもありませんが(笑)。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

今月下半期は小生不在がちになりますし、八月に入ると暑くなり、夏に弱い小生は来訪者に接するのが苦痛になります。もすこし好適な季節の時が御来訪にはいいかと思はれますので此事一寸申し上げます。


昭和26年(1951)7月13日 宮静枝宛書簡より 光太郎69歳

宮は岩手出身の女流詩人。光太郎とは戦前から交流があり、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は全編光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、光太郎の進言通り秋になってから光太郎の山小屋を訪問した際の写真が14葉も載っています。また、盛岡市立図書館さんには、写真そのものも寄贈されています。
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光太郎第二の故郷・岩手花巻に昨日から来ております。ほぼ一ヶ月ぶりです。

今回は、オペラ歌手の清水邦子様と同じく黒川京子様とをお連れしての珍道中となっております(笑)。
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帰りましたら詳しくレポートいたします。


まずは地方紙『岩手日日』さんの記事から。

青春の感性光る 高文連花巻支部合同展 

 県高校文化連盟花巻支部の合同作品展は25、26の両日、花巻市大通りの市定住交流センターなはんプラザで開かれている。花巻、遠野両市の高校生による絵画や書、写真などが展示され、みずみずしい感性や独創的な表現が来場者の関心を引いている。
 文化活動の発表により、創造活動の向上と相互の交流を図ることを目的に毎年開催されており、28回目の今回は花巻北、花巻南、花巻東、花巻農、遠野、遠野緑峰各高校の1~3年生が約140点を出品した。
 美術の部は、高校生らしい繊細な心模様や友人などを題材にした絵画などがずらり。部活動や放課後など充実した高校生活の一瞬を豊かなアイデアで切り取った写真、力強さや流麗さを感じさせる書などもあり、訪れた人が多彩な作品に興味深く見入っていた。
 花巻南高家庭部は、文芸部の活動とタイアップし、詩人で彫刻家の高村光太郎の妻智恵子がデザインしたエプロンを復刻させて展示。初日は花巻北高茶道部によるお茶会も開かれた。
 横坂貴同支部長は「日ごろの活動で磨き上げた成果を思う存分発揮するため、準備を進めてきた。文化活動に情熱を注ぐ仲間同士の交流を通し、実り多い発表の場となることを期待する」としている。

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記事にあるとおり花巻南高の家庭クラブさん、昨年6月に開催された「五感で楽しむ光太郎ライフ」というイベントでお披露目いただいた「智恵子のエプロン」について(エプロンそのものも)、さらに10月の「土澤アートクラフトフェア」で、「智恵子抄」由来のレモンのパウンドケーキをふるまった件について、展示発表くださいました。
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主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんから画像を頂きました。南高さん、今年というか、来年度というかも、やつかの森LLCさんと合同でなにがしかの活動を展開して下さるとのこと。有り難いお話です。

ちなみに智恵子のエプロン。智恵子本人が身に纏っている画像を発見しました。以前から知られている画像で、このブログでも何度か使ったものですが、モノクロ画像ではわかりにくかったのが、最近流行りの古写真をAIでカラー化するアプリを使って遊んでいたところ、気づいた次第です。
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胸の部分の特徴的な三角形のフォルム、まちがいありますまい。生地も柿渋で染めた酒袋の色です。

今後、智恵子の故郷・福島県二本松で、このエプロンに関わる活動等につなげて行ければ、などと考えております。

花巻南高家庭クラブさん、文芸部さん、さらなるご活躍を期待しておりますし、他校にも光太郎智恵子顕彰の機運が波及していってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

紙絵の画集を企画してゐる本屋が二、三ある事を知りましたが、これには小生同意しかねます。てんらん会と画集とは全く別事です。今の粗雑な感覚の連中に紙絵をいぢくり廻され、つたない印刷技術で印刷されるよりも、自然褪色の方がよいと考へてゐます、粗雑な連中は粗雑な事を自覚してゐないので尚あぶないです。

昭和26年(1951)6月24日 真壁仁宛書簡より 光太郎69歳

銀座資生堂画廊に於いて都内で初めての智恵子紙絵展が開かれると、画集として出版したいという申し出が複数舞い込みました。しかしカラー印刷の技術がまだまだということもあり、全て拒絶。結局紙絵の画集の出版は光太郎生前には行われませんでした。

キーワード「智恵子抄」でヒットしました。

二本松市の「観光力」を上げる!地域おこし協力隊員を募集します!

 二本松市では、地域外からの人材を積極的に誘致し、定住、定着を図るとともに、人材の能力を発揮できる場の提供に努め、地域力の維持及び魅力ある地域づくりを推進するため、地域おこし協力隊員を募集します。
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地域で目指すところ
 昭和30年から続く二本松市の一大イベント「二本松の菊人形」や令和4年4月にオープンした「にほんまつ城報館」を中心とした観光コンテンツへの誘客

こんなことを協力隊に求めています!
 今回募集する地域おこし協力隊のメインとなる業務は、「菊のまちとしてのブランド力強化」です。
魅力ある商品の開発や販路拡大、再ブランディング、景観整備、観光に関する企画・マーケティングなど、PDCAを自分で回せる積極性がある人を求めています。

活動場所について
 二本松市内(二本松市役所観光課内)での活動となります。

私たちがサポートします!
 市役所の観光課職員が担当者として関わります。着任時の不安や任期中に必要なことなどサポートします。このほか、隊員にむけた研修や交流会が開催されておりますので、積極的に参加し、他の地域の協力隊と知り合いになってぜひ活動の幅を広げてください。

卒隊後に向けた支援について
 3年間は地域おこし協力隊、以降は希望する仕事ができるように、サポートします。まずは一緒に卒隊後のイメージを具体的にしていくことからはじめましょう。協力隊2年目から任期終了1年目までに起業したい場合は、起業に要する費用1,000,000円の補助があります。任期終了後の定住のために空き家を改修する場合は、改修に要する費用500,000円の補助があります。

二本松市ってこんなところ
 二本松市は福島県の県北地域に位置し、高村光太郎の詩集「智恵子抄」で詠われた安達太良山を西に仰ぎ、中央部を阿武隈川が南北に流れ、東の日山・羽山が連なる阿武隈高地まで東西約35キロメートルに及ぶ市域を有しています。うち、市の東部に位置する東和地域は、阿武隈川東岸の標高約180mから羽山の891mまでの起伏の多い丘陵地で、山間を縫う川筋に小区画の耕地と集落が点在しており、そこで豊かな自然に包まれた里山の生活が営まれています。

 お知らせ
 希望があれば、電話やオンラインで説明を行います。

募集情報
 制度名 地域おこし協力隊
 業務概要
 (1)観光イベント企画運営
  「二本松の菊人形」会場内外で行うイベントや令和4年4月にオープンした
 「にほんまつ城報館」で行うイベントの企画~運営を主体的に担う。
 (2)菊のまち二本松ブランド力強化
  菊人形で使用する菊の栽培補助や菊関連商品開発のサポート等、
菊のまち二本松としてのブランド力強化を行う。
 (3)SNS等を活用した地域の魅力発信
  イベントを始めとした観光客の誘客につながるような地域の魅力について、
SNS等を活用した情報発信を行う。
 (4)その他、市が必要と認める活動

 募集対象 次の要件をすべて満たす方
 (1)学歴 高等学校卒業以上
 (2)任用の日において18歳以上の方
 (3)居住地要件 応募日において、三大都市圏をはじめとする都市地域等に在住し、
任用後、二本松市に住民票を異動し生活拠点を移すことができる方。
 (4)普通自動車免許を有している方。
 (5)基本的なパソコン操作(ワード、エクセル、パワーポイント等)が出来る方。
 (6)地域になじみ、地域の人々と共に汗を流しながら活動に取り組める方で、
任用期間満了後においても本市に定住する意欲のある方。
 (7)心身ともに健康で誠実に職務を行うことができる方。
 (8)地方公務員法第16条に規定する一般職員の欠格条項に該当しない方。
 募集人数 1名
 勤務地 二本松市内(二本松市役所観光課内)
 勤務時間
 1週間あたり31時間(パートタイム勤務)
 通常の勤務時間は午前8時30分から午後5時15分となります。
 (1日の勤務時間7時間45分、原則週4日勤務)
 雇用形態 地方公務員法第22条の2第1項第1号に規定する二本松市会計年度任用職員
 雇用期間
 (1)令和7年4月1日以降の委嘱の日から令和8年3月31日まで。
 (ただし、3年を限度に委嘱することができます。)
 (2)協力隊員として、ふさわしくないと二本松市が判断した場合は、
雇用期間中であってもその職を解くことができるものとします。
 給与・賃金等
 【月例給】180,320円
 ※上記から、社会保険料等の本人負担分を控除します。
 【通勤手当】通勤距離が片道2km以上の場合、通勤手当を支給します。(上限あり)
 【期末・勤勉手当】あり
 待遇・福利厚生
 (1)健康保険、厚生年金、雇用保険に加入。
 (2)二本松市内のアパート等に入居していただきます。
  (家賃は本人負担無し。ただし光熱水費は本人負担となります。)
 申込受付期間 随時
 審査方法
 【選考方法】
 ①書類選考
 提出書類により都度書類選考を行います。結果は応募した方全員に連絡します。
 ②面接
 書類選考の合格者に対し、都度面接による選考を実施します。
 面接の日時・場所・方法については、文書により通知します。
 また、面接の結果(合否)についても文書により通知します。
 ③その他
 採用が決定した場合は、募集を終了します。


お問い合わせ先
 〒964-8601 福島県二本松市金色403番地1 二本松市産業部観光課
 電話:0243-55-5095 FAX:0243-22-8533
 e-mail:kankorisshi#city.nihonmatsu.lg.jp(#を@に変換)

「地域おこし協力隊」。平成21年(2009)から総務省の肝煎りで始まった制度で、隊員に定住してもらって地域協力活動に従事、地域力の向上を図るというものです。当方、光太郎ゆかりの花巻市十和田市の隊員の方々にはいろいろとお世話になりました。

二本松市のかつての協力隊の方は、特産の上川崎和紙日本酒などに関わるイベント等でご活躍。また二本松市に隣接する大玉村さんでも「智恵子抄」ゆかりのワインにからめ、協力隊の方も参加なさったトークセッションなどもありました。

「智恵子抄」ゆかりの街としての二本松をその方面からももっと盛り上げていただける方のご応募を期待いたします。「我こそは」と思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生新らしく原稿を書く気が更に起こらずに居ます。出版に対してなんだかうるさくなりました。小生のものについて、新しい企画はもうあれ以上しないで下さい。008
昭和26年(1951)4月25日
澤田伊四郎宛書簡より 光太郎69歳

澤田は昭和16年(1941)のオリジナル『智恵子抄』版元の龍星閣主。太平洋戦争の激化に伴い、龍星閣は休業。澤田から版権を譲ってもらったと称した白玉書房が戦後に『智恵子抄』を復刊しましたが、いろいろ行き違いがあって、光太郎にも面倒がおよびました。そのあたりが「うるさくなりました」。

「あれ以上しないで下さい」という「新しい企画」は、再興した龍星閣から上梓された光太郎の随筆集『独居自炊』。過去の随筆集などからの再編で、光太郎自身あまり気乗りのしないものでした。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」、メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから今年初めての分の画像が届きました。
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献立は「ポークビーンズ」「鱒の塩焼き」「根菜のきんぴら」「切干大根と干柿の酢の物」「塩麹入り卵焼き」「蕎麦粉クレープ」「古代米ご飯」「煮りんごの甘酒ゼリー」「漬物」。

光太郎の日記などから、光太郎が作ったメニューや使った食材を参考に、現代風のアレンジが施されています。

「古代米」は古代から栽培されてきた稲の品種の特徴を継承しているといわれるもので、光太郎が暮らした旧太田村の隠れた特産品のようです。妻がこの手のものが好きで、当方、道の駅はなまき西南さんなどでよく買って帰ります。白米に混ぜて炊きますが、もち米だけあってボリューミー、腹持ちもいいようです。
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販売元は旧太田村のプロ農夢花巻さん。調べたところ、オンラインショップもありました。ぜひお試し下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日来訪の土門拳氏に委托された滋養食品落手、ありがたく存じました、めづらしいブーダンなどをこの山の中で賞味出来るのを不思議なくらゐに思ひます、幾年ぶりのことか分りません。

昭和26年(1951)5月29日 高見順宛書簡より 光太郎69歳

ブーダン」は豚の血と脂によるフランスのソーセージの一種。この年5月21日の日記には次の記述があります。「ひる頃 土門拳来訪、助手二人同道、(略)写真撮影。三時頃辞去。元気なり。高見順に托された肉類を持参。茶ももらふ。 夕食炒飯みかん。高見氏よりのブーダンでつくる。

高見順は詩人。前年には光太郎題字揮毫による詩集『樹木派』を上梓したり、昭和30年(1955)に光太郎と行った対談「わが生涯」が雑誌『文芸』に掲載されたりしました。タレントの高見恭子さんはご息女です。

過日ご紹介した平野レミさんといい、渡辺えりさんといい、お父さまが光太郎と交流があったという芸能人の方、少なからずいらっしゃいますね。







若干先の話ですが(このところネタ不足なもので(笑))、青森県からイベント情報です。

十和田湖冬物語2025 冬、十和田湖びより

期 日 : 2025年1月31日(金)~2月24日(月・振休)
会 場 : 十和田湖畔休屋 多目的広場 青森県十和田市奥瀬十和田湖畔休屋
休 業 : 火曜・水曜 

八甲田山の麓、標高約400メートルに位置する十和田湖は平安の頃から信仰の対象として、脈々とその歴史を紡ぎながら観光地としてもたくさんの人々に親しまれるようになりました。その神秘的な情景は、訪れた人を感動へと導いてくれます。

深い深い雪に包まれる冬も同様。峠を越える、容易い道ではないからこそたどり着いた先の感動もひとしおです。

真っ白な衣を纏った十和田湖を舞台に冬を思い切り楽しんでもらおうと開催してきた十和田湖冬物語は今年で27回目を迎えます。

「冬、十和田湖びより」

皆さまと一緒に、そんな思いを共有するためさまざまなコンテンツを用意して会場でお待ちしております。冬の十和田湖で会いましょう!
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FIREWORKS -冬花火-
 真冬の澄み切った夜空を彩る冬花火。音楽との競演もお見逃しなく! 全日20:00〜
 メッセージ花火受付中! 大切なあの人へ。感謝の気持ちを花火に込めてみませんか?
 8800円/発〜
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FOOD MARKET-雪灯り横丁-
 ローカルの食材を使った美味しいグルメを楽しもう!
 平日16:00〜20:30 休日11:00〜21:00
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TRADITIONAL ARTS-冬の国境まつり-
 北東北の祭りや、地元有志によるパフォーマンスは必見! 週末限定!
  青森 ねぶた囃子「ラッセラー♪」みんなで歌おう! 踊ろう!
  ・2月8日(土)16:00〜、19:00〜 ・2月9日(日)16:00〜
  秋田 なまはげ太鼓 なまはげの太鼓パフォーマンスは圧巻!
  ・2月15日(土)16:00〜、19:00〜 ・2月16日(日)16:00〜
  岩手 花巻鹿踊り 平安と悪霊退散を願って、高く舞い上がる鹿たち!
  ・2月23日(日)16:00〜、19:00〜 ・2月24日(月・振休)16:00〜
  協力:新渡戸友好都市交流委員会
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SNOW PARK-雪遊び-
 会場には大きな雪の滑り台が誕生! あなたは何して遊ぶ?
 平日16:00〜19:30 休日11:00〜19:30
 ・すべり台(そり、チューブ) ・バナナボート
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昨年から、永らく行われてきた湖畔休屋地区での屋台村を中心としたスタイルで復活しました。そのスタイルだった時代に2度、イルミネーション系のイベントとなっていた時期に1度お邪魔しましたが、とにかく寒い!(笑)。その寒さを逆手にとって楽しんでしまおうというイベントです。

問い合わせたところ、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」のライトアップも為されるとのこと。辿りつくまでがなかなか大変ですが、実に幻想的です。画像は過去のものです。
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手前の雪灯籠にあかりが灯されます。

予約が必要なようですが、JRさんのバス「おいらせ号」が八戸駅から、十和田観光電鉄さんのバスが十和田市中心街から出ます。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】002

「天上の炎」の小生の印税は五分でいいです。この本は余り売れないでせう。今日ヹルハアランを読む人は少いでせうから。


昭和26年(1951)4月24日 鎌田敬止宛書簡より
 光太郎69歳

『天上の炎』は、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの詩集。光太郎訳で大正14年(1925)にハードカバーが刊行されましたが、鎌田の白玉書房からペーパーバックで復刊されました。

今日ヹルハアランを読む人は少いでせう」の言葉通り、さらにましてや現代では忘れられかけた詩人となった感があります。

先月、ちょぼちょぼといろいろなところに光太郎の名が出たのですが、速報の必要のないものは紹介しきれていませんでしたので、今日明日あたりで取り上げます。

今日は地方紙『岩手日日』さん、12月15日(日)の記事。

花巻の物知り度は ご当地検定に18人挑戦 歴史や文化、先人、方言も

 花巻観光協会のご当地検定「はなまき通検定」が14日、花巻市葛の市交流会館で行われた。市民らが花巻の歴史や文化、先人、観光など知る人ぞ知る花巻の難問に挑んだ。
 はなまき通検定は、花巻に関する知識の深さを認定する検定試験で、観光従事者だけでなく市民が観光客をもてなせるよう、花巻の知識習得を目的に実施。8回目となった今回は市内を中心に18人が挑戦した。
 受検者は、事前配布された検定の問題作成の基本となるテキストなどで学習。宮沢賢治や高村光太郎、新渡戸稲造らゆかりの先人に関わる設問をはじめ、市内にある高速道路のインターチェンジの数、わんこそば全日本大会の制限時間、国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文化遺産に登録された花巻の郷土芸能、方言「とのげる」の意味、メジャーリーガーの菊池雄星投手がプロデュースするトレーニング施設名など多岐にわたった。
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主催は花巻観光協会さん。4択問題が50問出され、1問2点の計算で80点以上が合格だそうです。事前に配付されるテキスト『はなまき通検定 往来物』は全75ページ。結構な分量ですね。
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今回で8回目ということですが、その都度改訂も入っているそうです。確かに記事には花巻東高出身の菊池雄星投手の件など、最近のネタも出題されたとあります。

我らが光太郎についても〈キラリと輝く先人達〉という章で「高村光太郎」の項を設けて下さっています。ありがたし。
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他にも大沢温泉さん、鳥谷崎神社さん、萬鉄五郎、多田等観、佐藤隆房、金田一国士などの項にも光太郎の名。よそ者でも地域に貢献すればこういう扱いになるのですね。

ちなみに令和2年(2020)に行われた第4回の際にも報道に光太郎の名があったので、このブログでご紹介していました。
「はなまき通検定」問題。

全国の自治体さん社会教育のご担当、観光協会さんなど、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

おてがみによると来月見舞に来訪との事ですが、これは取りやめにしてください。無駄な旅費をかけることになります。おめにかかるのはうれしい事ですが実際は病気にはよくありません。静かにしてゐるのが一番いいわけですから。見舞いといふものは精神的慰撫ですが、小生は精神的には堅固です。

昭和26年(1951)3月15日 宮崎稔宛書簡より 光太郎69歳

宮崎は光太郎姻族。結核性の肋間神経痛でペンを持つのも一苦労という光太郎を見舞おうとしましたが、光太郎の方で謝絶。「見舞いといふものは精神的慰撫ですが、小生は精神的には堅固です」。これは決して強がりではなかったように思われます。

まずは状況をわかりやすくするために、地方紙『福島民友』さん記事から。

高村智恵子の古里にふさわしいまちづくりを 福島県二本松市の「夢くらぶ」 発会20年を祝うつどい

 「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」の発会20年を祝うつどいは15日、福島県二本松市油井の智恵子の湯で開かれた。同市出身の洋画家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家高村光太郎の愛と芸術に生涯をささげた姿を語り継ぎ、智恵子の古里にふさわしいまちづくりを進めていくことを誓い合った。
 約30人が出席した。熊谷健一代表が「二人の生き方が今の私たちに感動を与える。日本や世界中の人に訪ねてもらえる地域づくりをしよう」とあいさつ。市内の小中学校などに贈る絵本「夢を描くひと―高村智恵子―」を三保恵一市長に手渡した。作者の坂本富江さんが思いを語った。
 三保市長、本多勝実市議会議長、加藤和信あだち観光協会長が祝辞を述べた。乾杯して歓談した。トランペッターのNobyさんが演奏を披露した。出席者がスピーチし、エピソードなどを語った。
 夢くらぶは2005(平成17)年1月に発足。「智恵子純愛通り」記念碑建立や高村智恵子生誕祭、智恵子講座、朗読会、「智恵子抄」総選挙など多彩な事業を催している。発会20年と光太郎・智恵子の結婚110年、光太郎の詩集「道程」出版110年の記念文集を発行した。
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というわけで、智恵子の故郷・福島二本松でさまざまな智恵子顕彰活動をなさっている智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんが20周年だそうで、おめでとうございます。

記事にある『記念文集』、絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』は下記画像。それぞれA4判横長です。
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『記念文集』目次はこちら。
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拙稿も載せていただいております。

絵本『夢を描くひと―高村智恵子―』は、10月14日(月)、智恵子生家とその周辺で行われた「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」において、著者で太平洋美術会さんご所属の坂本富江さんが行った紙芝居を元に書かれています。当方、校閲いたしまして、「監修」ということでクレジットされています。奥付画像を載せておきます。
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記事に有る通り市内の学校さんに贈られたということで、智恵子の母校・油井小学校さんのサイトに報告が。

智恵子の絵本 贈呈式

高村智恵子さんの顕彰をしている「智恵子のまち夢くらぶ」より、市内の小中学校に絵本を寄贈いただきました。絵本は「夢を描くひと-高村智恵子-」というタイトルで、智恵子さんの生涯や生き方をわかりやすく紹介している絵本です。先日、絵本を作った作家の坂本富江さんが油井小に来校し、絵本に対する思いなどをうかがいました。そして、6年生が直接坂本さんから市内の学校を代表して絵本を受け取りました。6年生は感謝の言葉と「智恵子抄」の朗読をして、坂本さんと夢くらぶの皆様に感謝の気持ちを伝えました。
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関係の皆様の今後とものご活躍、さらに若い方々への継承といったあたりを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

毎年方々から請はれるままに新年の詩をこれまでうんざりするほど書いて来ましたが、もう一切書かない事にきめましたから此事御了承願ひます、


昭和25年(1950)11月18日 三宅正太郎宛書簡より 光太郎68歳

三宅は『北海道新聞』『中日新聞』『西日本新聞』3社で組んだブロック紙三社連合に勤務していました。その各紙で翌年元日に掲載する詩を書いてくれと言う依頼に対しての返答です。

ただ、結局、ぶつぶつ言いながらも、三宅からの重ねての依頼に根負けし、次の詩を送りました。

    船沈まず005

 酔はないのは船長とわたくしだけだつた。
 キヤビンの羽目につるしたステツキが
 振子のやうに四十五度かしいだ。
 ボートはさらはれ、
 手すりはもがれた。
 船は真横からくる吹雪を避けて
 コースを棄ててただよつた。
 とんでもない方角に
 船首は向いて波におされた。
 一人も客の出て来ない食堂で7f456cef
 その時わたくしは雑煮を祝つた。
 枠のはまつた食卓で
 ころがる箸をやつと取つた。
 それでも船は沈まなかつた。
 囲炉裏の上で餅を焼いてるこの小屋が、
 日本島の土台ぐるみ、
 今にも四十五度に傾きさうな新年だが、
 あの船の沈まなかつた経験を
 わたくしはもう一度はつきり思ひ出す。

遠く明治39年(1906)、横浜港からカナダ太平洋汽船の貨客船アセニアン号でアメリカ大陸を目指した際の体験を元にしています。「雑煮を祝つた」は、2月3日に出航し、航海中に旧正月を迎えたためでしょうか。この季節の太平洋は大荒れで、船は大きく北のアリューシャン方面までを迂回し、3月7日にバンクーバーに到着しました。「四十五度かしいだ」などは実話だったとのことですし、その後、流木が窓を突き破って船内に入ってきたこともあったそうです。

ひるがえって昭和26年(1951)の新年は「今にも四十五度に傾きさうな新年」。令和7年(2025)の新年もそんな感じですね(笑)。

一昨日、中途半端なところで終わってしまった花巻レポートの続きです。

豊沢町のカフェ羅須さん。お世話になっている泉沢義雄氏と賢治研究のお仲間が新たに開店なさったお店ですが、花巻市さんの広報誌『広報はなまき』12月15日号に紹介されています。
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展示されていました地元の方の賢治オマージュの作品、画像がアップロードし切れていませんでしたので、追加です。
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店内には他にも常設的に賢治関連の展示も。
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それ以外にも、写真を取り忘れましたが、ジャズを中心に、クラシックや懐かしのJ-POP、果ては演歌にいたるアナログレコードがずらり。

そこそこ面積もあり、キャパ数十のちょっとしたコンサートなど音楽や朗読イベント等も可能なようです。光太郎関連でもやらせてくれそうです。
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今後のますますのご繁昌を祈念いたします。

さて、市街地を後に、旧太田村方面へレンタカーを走らせました。目指すは光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋・高村山荘と、隣接する高村光太郎記念館さん。一見平坦な道に見えて徐々に標高が上がっていき、少しずつ積雪も。

まずは手前の高村光太郎記念館さん。驚くほどの積雪ではありません。というか、逆にこの時期としては雪が少なくて、驚くほどです。以前はスタッフの方が小型の除雪車でメートル単位の雪を排除していました。
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こちらでは、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館、花巻市総合文化センターの4館が連携し、統一テーマ「イーハトーブの先人たち」による同一時期開催の企画展「ぐるっと花巻再発見」の一環として「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」が開催中。
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スペース中央に、どん!と蓄音機。
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パネルは、クラシック音楽に関わる光太郎詩や尾崎喜八、宮沢清六ら周辺人物の回想等。
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SPレコードが4枚。うち2枚は当方がお貸しした、太平洋戦争前の光太郎作詞のものです(楽譜も)。
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自宅兼事務所にはアナログレコードの音声データをPCに取り込めるレコードプレーヤー(SPの78回転にも対応しています)がありますので、こちらで作成したデータも一緒に提供しましたところ、QRコードで聴くことが出来るようにしてありました。
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この2枚以外にもSPレコードを数枚お貸ししたのですが、スペースや予算の関係でしょうか、そちらは展示されていませんでした。以前に使っていた展示ケースが不具合、その後新たに補充されていないそうで、それさえあればずらっと並べられるのに改善されていません。マストの備品なので何とかして下さいと前々から言っているのですが、何だかなぁ、という感じです。

他に、光太郎も聴いたであろう戦後くらいのクラシックの盤。こちらは地元の方のご提供。
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会場内ではこちらから採ったと思われる音楽をエンドレスで流しています。

隣接する(といっても数百㍍)高村山荘へ。市街地でも熊の出没情報が相次いでいますので、十分注意しつつ。この積雪の少なさで、まだ冬眠していないようです。
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ルーティンで、光太郎遺影にご挨拶。

その後、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんに立ち寄り、リンゴを一箱購入して自宅に発送。少し前にやつかの森LLCさんからいただいた一箱も食べきっていないのですが、あったらあったで困りませんので。

そして定宿の、光太郎や賢治も愛した大沢温泉さん。
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渓流側の部屋にしていただき、ラッキーでした。

当方、ここのところ毎年冬の初めには手指に内出血系のしもやけが出来て、痛くて堪らないのですが、大沢温泉さんに浸かると不思議と治ります。以前もそうでした。恐るべし、温泉パワー(笑)。

そして翌朝。この日は世田谷の千歳船橋で演劇公演「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花(ノウゼンカズラ)の家」拝見のため、8時台のはやぶさ号で帰りました。

また来月も花巻行きの予定です。カフェ羅須さん、高村光太郎記念館さん、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

三日に胆沢郡水沢町といふ町の水沢公民館で智恵子の切抜絵の展覧会をやつたやうです。そこには智恵子の旧知の人が居ます。山形市、盛岡市、花巻町でもやりました。


昭和25年(1950)11月8日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

水沢町は現在の奥州市。こちらの公民館で1日限定で智恵子の紙絵の展示が行われました。作品は花巻の佐藤隆房宅に疎開させておいたものからチョイスし、「智恵子の旧知の人」日本画家の夏目利政が骨折って実現しました。夏目は明治42年(1909)から大正元年(1912)にかけ(まさしく光太郎と知り合って恋に落ちた頃です)、日本女子大学校を卒業した智恵子が下宿していた家の息子でした。水沢方面に疎開して、戦後もしばらくいたようです。

パンフレットには夏目による在りし日の智恵子を思い出して描かれた絵も載せられました。
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昨日正午頃、光太郎第二の故郷、岩手花巻に参りまして、ほぼトンボ帰り。帰りの東北新幹線はやぶさ号車内で書いております。光太郎がらみ以外の雑事に追われておりまして、こんな日程になってしまいました。

昨日はまず東北新幹線新花巻駅でレンタカーを借りた後、宮沢賢治記念館さんと、宮沢賢治イーハトーブ館さんへ。ほぼ雪は無く、若干拍子抜けでした。今年2月もそんな感じでしたし、やはり地球温暖化の影響なのでしょうか?
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賢治記念館さん駐車場展望台からの早池峰山。山はともかく、下界には積雪が見えません。
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両館ともに、『春と修羅』『注文の多い料理店』の刊行100周年に関わる企画展が開催中。特にイーハトーブ館さんの方では展示解説パネルに光太郎の名も出して下さいました。
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賢治記念館さんでも常設のパネル、人物相関図に光太郎。
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こちらに伺うのは数年ぶりで(イーハトーブ館さんでは昨年、シンポジウムのパネラーをさせていただきましたが)、賢治のチェロ、妹・トシのヴァイオリンなど興味深く拝見しました。
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もちろん企画展も。
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2ヶ月ほど前にやはり花巻で出演させていただきました「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に関連する内容も含まれましたし、来年も花巻で光太郎と賢治、特に数回にわたり光太郎が関わった『宮沢賢治全集』に特化した講演をさせていただく予定ですので、その予習にもなりました。

この後、市街地へ。

目的地は、豊沢町のカフェ羅須さん。お世話になっている泉沢義雄氏と賢治研究のお仲間が新たに開店なさり、その開店祝いも兼ねて。
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思いがけず「光太郎を知る会」メンバーの方もスタッフとしていらっしゃり、美味しいコーヒーをいただきつつ、賢治・光太郎談義に花を咲かせました。

結構広い店内はギャラリーも兼ね、地元の方の賢治オマージュの作品が掲げられていました。
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賢治関連の展示も。

と、ここまで書いたところで、画像のアップロードが出来なくなりました。撮った画像をサイズ変更せず上げて来ましたので、スマホからの投稿だとパンクするようです😢

この後、旧太田村の光太郎が7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さんを廻り、定宿の大沢温泉♨️さんに泊めていただきましたが、そのあたり、明日以降に回します。

今日は真っ直ぐ千葉に帰らず、大宮で下車し、湘南新宿ラインに乗り換えて世田谷方面に向かいます。過日ご紹介した演劇公演「燦燦たる午餐 第二回公演 凌霄花(ノウゼンカズラ)の家」を拝見に伺います。そのレポートも後ほど。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。地元で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが、光太郎の実際に作ったメニュー、使った食材などを参考にされてメニューを考案なさっています。

昨日販売された今月分がこちら。
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献立は「鶏の唐揚げ」「イカと大根の煮物」「野菜炒め」「塩麹入り卵焼き」「大学芋」「チーズ入り蒸しパン」「白六穀ごはん」「みかん」。

唐揚げはクリスマス感を醸し出していますし、みかんも旬ですね。光太郎の大好物の一つでした。

さて、メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんのお一人、新渕和子さんがこのたび快挙を成し遂げられました。

地方紙『岩手日日』さん。

新たに5人 「食の匠」認定

 県は、郷土食の優れた技術を持ち、伝承する人を認定する2024年度「食の匠(たくみ)」として、新たに花巻市の新渕和子さん(73)ら5人を認定した。
 盛岡市内で11日、認定書の交付式が行われ、佐藤法之県農林水産部長から一人一人に認定書が手渡された。
 代表して新渕さんは「先人から受け継がれてきた食文化や豊かな農林水産物を生かしたふるさとの味を大事に思っている。岩手の素晴らしい食を若い世代へ伝承するとともに、地域内外に向けて発信し、地域活性化に尽力したい」と意欲を示した。
 認定制度は1996年度に始まり、今回を含めこれまでの認定数は306人・団体となった。
 新規認定者と認定料理は次の通り。(敬称略)
 ▽簗場五月(雫石町)=かまやき▽佐々木チヨ子(葛巻町)=凍みじゃがいももち▽新渕和子(花巻市)=ばくろう(香茸)おこわ▽加藤敏子(一関市)=凍み餅▽竹野牧子(宮古市)=ごぼう巻

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IAT岩手朝日テレビさん。

岩手の食文化を受け継ぐ 食の匠 新たに5人が認定

 岩手の食文化を長年受け継いできた「食の匠」に新たに5人が認定され、認定証が贈られました。
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 県は地域の食文化を受け継ぎ、発信を続ける人たちを毎年、食の匠として認定しています。
 今年は5人が選ばれ、認定証が贈られました。
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 宮古市の竹野牧子さんが作る「ごぼう巻き」は、甘辛く味付けされたゴボウとニンジンをシソの葉で巻いた漬物です。
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 花巻市の新渕和子さんが作る貴重な「ばくろう茸」を使用して作った「ばくろうおこわ」は正月などに振舞われるごちそうです。
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 県が認定する食の匠は283の個人と23の団体になりました。
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 今後イベントなどで料理の実演や指導を行う予定です。
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新渕さんは昨年、今年と連翹忌の集いにもご参加下さいまして、当方もお世話になっている方です。生前の光太郎をご存じで永らく語り部を務められた故・高橋愛子さんのご親戚の由。「ばくろうおこわ」の原材料の一つ、香茸もご自分で採集なさり、以前、ごっそりいただいたこともありました。当方はおこわではなく白米に混ぜた炊き込みご飯にしてみましたが、その名の通り香ばしく、その上なかなかに美味で、妻にも好評でした。

今後ともご活躍を祈念いたします。また、「食の匠」制度は団体での認定もあるようなので、やつかの森LLCさんとしてもオーソライズされてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

昨日は花巻で豚肉を仕入れて来て、今日はスズメマヒコといふ茸と一緒に煮てくひました、この茸は楢の木に出る珍らしいもので中々美味です。丁度今は栗がさかんに屋根に落ち、たくさん拾ひます、栗飯も山の景物です、


昭和25年(1950)9月30日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村に自生する茸も、貴重な食材でした。ただ「スズメマヒコ」という茸はネットで調べても情報が出て来ません。方言でしょうか?

新聞各紙から2件。

まずは仙台に本社を置く『河北新報』さん、12月11日(水)の記事。

宮沢賢治「注文の多い料理店」誕生から100年 実は「注文の少ない」童話集だった 出版秘話をひもとく

 岩手県花巻市出身の作家、宮沢賢治(1896~1933年)の短編集「注文の多い料理店」が誕生から今月で100年を迎えた。ほぼ無名だった生前に出版した唯一の童話集。時代を超えて「世界の賢治」へと導いた始まりの一冊の出版秘話をひもといた。
■自筆原稿がないのは…
 「出版100年記念ウイーク」と銘打った公演が今月、盛岡市のもりおか啄木・賢治青春館で始まり、4日は「3・11絵本プロジェクト」が6作品を朗読やタペストリー劇で表現。メンバーの佐々木優子さん(64)は「賢治の広く深い知識が土台にあり、誰でも楽しめる童話ばかり。少しも古びていない」と強調した。
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 「注文の多い料理店」は1924年12月1日、賢治が28歳の時に刊行された。青年2人が山奥の奇妙な西洋料理店に迷い込む表題作や「どんぐりと山猫」「山男の四月」「鹿踊のはじまり」など9編を所収する。
 出版元は盛岡市材木町にある光原社。現在は民芸品などを販売し、同じく今月1日に100周年を迎えた。
 創業者の及川四郎氏(1896~1974年)は盛岡高等農林学校(現岩手大農学部)で賢治の1年後輩だった。卒業後、友人と興した「東北農業薬剤研究所」で農薬や農業関係書を販売。売り込み先の花巻農学校(現花巻農高)教師だった賢治から童話の出版話を受けたのがきっかけだった。
 「出版社らしい名前にしよう」。文芸書を手がけるに当たり「光原社」の屋号は賢治が提案した。及川氏の孫で6代目社長、川島富三雄さん(76)は「賢治が夢見ていたユートピア的な発想や思いを込めたのではないか」と想像する。
 川島さんが小学5年の時、出版時の逸話を知った。学校で「よだかの星」を習い、賢治がどんな字を書くのか見たくなった。祖父に頼むと「従業員が東京で原稿を印刷してもらい、盛岡へ戻る途中に上野駅で置引に遭った」と聞かされた。
 賢治の自筆原稿が数多く残っているにもかかわらず、出版元の光原社に「注文の多い料理店」の原稿が現存していない真相だった。
 曲折を経て、光源社は1000部を発刊。定価1円60銭で表紙絵や挿絵も充実し、当時としては豪華な作りだった。無名作家ながら高村光太郎や草野心平ら詩人から絶賛されたが、世間の反応は鈍かった。見かねた賢治が200冊購入するほどで、採算は取れなかった。
 「『注文の多い料理店』はまことに『注文の少ない童話集』でありました」。光原社は当時の様子をホームページで伝える。
 花巻市の宮沢賢治記念館では、1924年に賢治が唯一自費出版した詩集「春と修羅」と合わせ特別展「刊行100周年 二冊の初版本」を開催している。所収作品や書き損じ原稿など貴重な資料を紹介する。
 この2冊以降、賢治が37歳で早世するまで作品集を出版できなかった理由について、賢治の弟清六氏の孫で学芸員の宮沢明裕さん(46)は「体調の問題に加え、自信を持って出した2冊があまりに売れなかったことが大きい」と推測する。
 未発表の原稿は清六氏らが守り、世に広めた。記念館では直筆原稿など約3500枚を所蔵し、資料の修復を進める。宮沢さんは「出版できなくても作品の構想と執筆を生涯続けた賢治と、作品を後世に残すことに生涯を懸けた祖父の思いを大事にしている」と話す。
 出版時に売れなかった一冊は、関係者の尽力が結晶し、不朽の名作となった。川島さんも「祖父は賢治作品が世界中で読まれるよう願っていた」と思いをはせる。「一つの星を見るように、100年受け継いできた及川四郎の思いと賢治の夢。この先も変わることなく生き続けるでしょう」
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よく使われる表現ですが、賢治は時代を突き抜けて早すぎた、ということでしょう。我が国口語自由詩史上の金字塔である光太郎の詩集『道程』(大正3年=1914)にしても、刊行時にきちんと書店を通して売れたのは7冊だけだったらしいと、光太郎自身ものちに回想しています。賢治の『春と修羅』、『注文の多い料理店』ともに売れ残り残本の処理には困ったそうで。

当時からその才に目を付けていた光太郎や心平、炯眼と言わざるを得ません。

心平の回想「光太郎と賢治」(昭和31年=1956)から。おそらく大正末か昭和初めのことと思われます。

 ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。

光太郎が親友・水野葉舟へ送った書簡(大正15年=1926)から。

宮沢氏からの本先日女中さんに托しましたが、此前の「注文の多い料理店」は黄瀛君に返却しなければなりませんから、お手許へ出して置いて下さい。

「宮沢氏からの本」が『春と修羅』で、その前に『注文の多い料理店』を貸していたようです。ただし黄瀛(光太郎や心平の仲間うちで唯一、賢治本人と会ったことがある人物でした)から借りたものの又貸しだったようですが。

その光太郎にしても心平にしても、賢治の全貌を知るのは賢治が歿してからのことでした。未発表の原稿がたくさん遺されていたことは何となくわかっていたらしく、昭和8年(1933)に賢治が亡くなるや、光太郎は心平に金を握らせて、花巻の宮沢家に向かわせます。遺稿はどうなっているのか、それを確認して来てくれ、というわけで。光太郎自身は智恵子の心の病が昂進していた時期で、動けませんでした。

心平が宮沢家に着くと、賢治実弟の清六が賢治から託された遺稿をしっかり管理していることがわかり、一安心。そして膨大な原稿を見た心平が清六に、一度東京に持ってきてごらんなさい、的なアドバイスをしたのでしょう。翌昭和9年(1934)、新宿モナミで開催された賢治追悼会に清六が原稿の詰まったトランクを持参、光太郎や永瀬清子、新美南吉らはそれを見て仰天。さらにトランクのポケットから「雨ニモマケズ」の書かれた有名な手帳が見つかりました。

おそらく光太郎にしても心平にしても、もっと早くに賢治手を差しのべておくべきだったという悔恨が生じたのでしょう。罪滅ぼしというと何ですが、その後繰り返された『宮沢賢治全集』出版に二人が関わっていくことになるわけです。光太郎は装幀までも手がけました。

さらに光太郎は宮沢家の依頼で、昭和11年(1936)に花巻の桜町、羅須地人協会跡地に建てられた「雨ニモマケズ」碑の揮毫も行いました。そのあたりで光太郎に恩義を感じていた清六や父・政次郎が、昭和20年(1945)の空襲で駒込林町のアトリエ兼住居を失った光太郎を花巻に招く、というわけで、本当に人の縁(えにし)というのは不思議なものだな、と思います。

今週末、また花巻に行って参りますので、記事にある賢治記念館さんの特別展 「刊行100周年 二冊の初版本」も見てこようと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

果して選集など出す資格があるかどうか、これまで何ひとつまとまつた仕事もしてゐない者がただ原稿をかき集めて何冊かの出版にしたところで江湖の読者がそれを更に要求しなかつたら甚だ滑稽な仕儀と存じます。この点がまだ気がかりで躊躇せずにゐられない気持に左右されてゐます。世上多くの選集全集の中にはさういふものもあるやうな気がします、徒らに無用の残骸をさらすやうではどうかと思はずにはゐられません、


昭和25年(1950)9月29日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

結局、翌年から松下の勤務していた中央公論社から全六巻の『高村光太郎選集』が出されるのですが、賢治の全集や選集の出版には協力を惜しまなかった光太郎も、自身の選集出版には気乗りがしなかったようです。

毎年恒例ですが、今年度は本日開幕です。

花巻市共同企画展 ぐるっと花巻再発見!~イーハトーブの先人たち~

期 日 : 2024年12月7日(土)~2025年1月26日(金)

市内の文化施設である、花巻新渡戸記念館、萬鉄五郎記念美術館、高村光太郎記念館、花巻市総合文化センターの4館が連携し、統一テーマにより同一時期に企画展を開催します。
 
■花巻新渡戸記念館 テーマ「島善鄰 没後60年」
 島善鄰は1889年、広島生まれ。善鄰8歳の時に父の故郷、花巻に帰ってきました。「リンゴの神様」「リンゴの恩人」と称されるリンゴ研究の第一人者、島善鄰について紹介します。

■萬鉄五郎記念美術館 テーマ「東和モンパルナスー岩手の小さな町に集った美術家たち―」
 萬鉄五郎の出身地である岩手県花巻市東和町には、1990年代から現在に至るまで多くの画家や彫刻家、陶芸家たちが移り住み活動の場とするなど、岩手の小さな町を拠点に多彩な表現活動を繰り広げてきました。
 本展では、パリのモンパルナスに集った画家たちにちなみ、「東和モンパルナス」と銘打って、この町に集った多様な美術家を紹介します。

■高村光太郎記念館 テーマ「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」
 昭和20年5月に花巻へ疎開し、同年秋に太田村へ移住した高村光太郎。留学中に欧米の音楽に触れた光太郎は帰国後もレコードやラジオを通じ、時にはオーケストラによる生演奏でクラシック音楽を楽しんでいました。太田村への移住後、ラジオを入手した光太郎は放送での演奏のほか、蓄音機でも音楽を楽しみました。
 この企画展では、音楽をテーマに光太郎が山の暮らしの中で執筆した詩など、光太郎にゆかりある楽曲や関連する資料を紹介します。

■花巻市総合文化財センター 「縄文ムラの人々」
 花巻市内から出土する埋蔵文化財の7割は縄文時代のものです。本企画展では、縄文の人々のムラ・信仰・生業など考古資料からひもといてみます。

《関連イベント》
★ぐるっとまわろう!スタンプラリーを実施します!
共同企画展の会期中、開催館4館のスタンプを集めた方に記念品を差し上げます。この機会にぜひ足を運んでみてください。
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年によって参加館数が異なったりするのですが、今年は4館。

そのうち花巻高村光太郎記念館さんでは、地元の音楽関係の方にご協力いただき、SPレコード等の展示を行うそうです。関連行事としてレコードコンサート的な催しも。
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当方も史料をお貸ししました。光太郎作詞の戦時歌謡のSPレコードを4枚、それから戦時歌謡ではなく歌曲「ぼろぼろな駝鳥」(弘田龍太郎作曲 昭和18年=1943)、戦後の光太郎詩朗読が吹き込まれたSPもそれぞれ1枚ずつ。さらにそれらの楽譜、歌詞カードなども。全て展示されるかどうか不明ですが。

戦時歌謡4枚のうち3枚は、飯田信夫作曲の「歩くうた」(昭和15年=1940)です。「隣組」も歌った徳山璉の歌唱でちょっとしたヒット曲となり、現在再放送中のNHKさんの朝ドラ「カムカムエヴリバディ」でも戦時中のシーンで使われました。徳山歌唱の盤が2種類、それから日本ビクター管絃楽団によるインストゥルメンタルバージョンです。もう1枚は文部省の日本国民歌全5曲の一つとして箕作秋吉が作曲し、関種子が歌った「こどもの報告」(昭和14年=1939)。まぁ、それぞれ光太郎の黒歴史ですね。

戦後の朗読は光太郎最晩年の昭和30年(1955)、家の光協会でリリースした「家の光つどいの歌」。B面に詩朗読で光太郎の「私は青年が好きだ」(昭和15年=1940)、光太郎とも交流のあった竹内てるよの「わたくし」が吹き込まれています。朗読者は不明です。
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通常の盤も存在しましたが、当方手持ちのものは絵が印刷されたピクチャーレコードです。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

明六日放送の由、丁度いまラジオ受信機がこはれてゐて残念です、ますます御元気であられる様にいのります。

昭和25年(1950)9月5日 新井克輔宛書簡より 光太郎68歳

故・新井克輔氏はハーモニカ奏者。かつて連翹忌の集いに20回近くご参加下さり、アトラクションとして見事な演奏を披露していただきました。

光太郎、ラジオの音楽番組をよく聴いた他、花巻町中心街に出た際は宮沢家に立ち寄って、賢治実弟の清六にさまざまなレコードを聴かせてもらってもいました。中には賢治の遺品などもあったのでしょうか? そんな中で詩「ブランデンブルグ」(昭和23年=1948)なども生まれました。

過日、光太郎の父・光雲作の木彫が出ている栃木の那須野が原博物館さんの「開館20周年記念特別展 松方正義と那須野が原」をご紹介しましたが、同様に光雲の木彫が出ている企画展示がもう1件開催中でした。

東北大学総合知デジタルアーカイブ公開記念展示「チベット仏教の精華」

期 日 : 2024年11月18日(月)~12月13日(金)
会 場 : 東北大学附属図書館 宮城県仙台市青葉区川内27-1
時 間 : 10:00~16:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 無料

東北大学では、附属図書館所蔵の貴重資料であるデルゲ版チベット大蔵経のデジタル画像化事業を継続して行なっております。今回は本学デジタルアーカイブToUDAの公開を記念し、このチベット大蔵経に加え、文学研究科所蔵の河口慧海がチベットから日本に持ち帰った仏教美術や工芸品などの名品を紹介する展覧会を開催いたします。
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公式サイトにそうした記述や出品目録がありませんで気がつきませんでしたが、X(旧ツイッター)の東北大学総合学術博物館さんの投稿で、光雲木彫が出ていることをつかみました。
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画像を拡大させていただきます。
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僧侶にしてチベット仏教学者だった河口慧海旧蔵、というか光雲に依頼して作ってもらった釈迦如来座像(大正11年=1922)。

慧海は、光雲・光太郎父子の住まいがあった本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)に近い本郷弥生町や根津などで暮らしていた時期があり、光雲は慧海の求めで仏像を複数彫り、光太郎は戦時中に慧海の坐像制作にかかりました。ただし光太郎作の坐像は完成したのかしなかったのか、いずれにしても戦災で焼失したと考えられています。

その慧海旧蔵の光雲作品、散逸してしまった感じなのでしょうか、あちこちで異なるものが収蔵/展示されています。

 京都/堺・新着情報(その2)。
 河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」。
 仙台市博物館 特集展示「福島美術館の優品」。
 都内レポート その3 東京国立博物館「日本初のチベット探検―僧河口慧海の見た世界―」。

今回展示されているものは、東北大学総合学術博物館さんで収蔵しているものだそうです。

他にも慧海がチベットから持ち帰った品々なども展示されていますし、さらにもう一人、慧海と同じくチベットに足を運んだ多田等観がらみの展示も為されている由。等観は戦後、光太郎が隠棲していた花巻郊外旧太田村の隣村・旧湯口村の円万寺観音堂で堂守を務めていた時期があり、光太郎の知遇を得てお互いに行き来していました。

khb東日本放送さんのローカルニュース。

チベット仏教の経典や美術品を紹介する展示会 東北大学附属図書館

チベット仏教の経典や美術品を紹介する展示会が、東北大学附属図書館で開催されています。
チベット仏教は、インド仏教の教えを直接受け継いでいます。
展示されているのは、その教えを求め約120年前にチベットに入国した河口慧海が持ち帰った資料など37点です。
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約300年前に刷られたデルゲ版チベット大蔵経は、日本人で最初に正式なチベット仏教僧となった多田等観がダライ・ラマ13世から贈られました。
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東北大学文学研究科杉本欣久教授「資料、お経を持って帰るのは多大な熱意があったはずです。是非ご覧いただきながら感じ取っていただければ」
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展示会は12月13日まで、仙台市青葉区の東北大学附属図書館で開催されています。

というわけで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

大変な御苦労であつたことと身につまされて思ひます、しかしこれで「草の葉」も日本に初めて正しく伝へられるわけで貴下に対する感謝の念は絶大です。

昭和25年(1950)8月28日 長沼重隆宛書簡より 光太郎68歳

長沼は英文学者。アメリカのウォルト・ホイットマンの詩集『草の葉』翻訳を上下二巻で刊行しました。

ホイットマンの訳にはかつて光太郎も取り組み、大正10年(1921)には『自選日記』訳を刊行するなど、ホイットマンのファンでした。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で、主に「食」を通して光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさん。様々な団体さん、個人の方が日替わりで厨房に立ち、料理を饗する市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんで不定期に「こうたろうカフェ」として参加なさっています。日記などから読み取れる、光太郎が実際に作ったメニュー、使用した食材などを参考になさっています。

今年最後の出店が11月27日(水)だったそうで、画像等お送りいただきましたのでご紹介します。
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メニューは以下の通り。
 ウェルカムドリンク ブルーベリースカッシュ ローストポーク ブルーベリーソース
 大根の海老あん 春菊と水菜の胡麻和え 里芋の胡桃かけ キクラゲの佃煮
 お新香 ミズの実ごはん ふわふわ天使のスープ 林檎パイカスタード コーヒー


メインのローストポークには付け合わせとして粉吹きいも、バターナッツかぼちゃ、人参、紅心大根、パプリカが添えられ、ご飯には光太郎が好んだ山菜ミズの実をトッピング。実が成るとか、ましてや食べられるというのは存じませんでした。

しかし、いつも思うのですが、これで1,000円というのは、都会ではあり得ない価格ですね。

お店としては営業が続きますが、最初に書いた通り、やつかの森LLCさんの今年最後のご出店だったそうです。次回は来年3月の予定だとのこと。活動拠点からお店までが意外と遠く、積雪のため食材の搬入等が困難になるためだそうです。

再開以後も変わらず繁昌することを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

御委托の抹茶と中村屋の「石ごろも」とありがたくおうけとりしました。石ごろもといふ日本菓子は小生子供の頃からの好物でした。これは江戸の名残です。

昭和25年(1950)8月3日 奥平英雄宛書簡より 光太郎68歳

「石ごろも」。固有名詞かと思ったらそうではなく、「大福」や「どら焼き」同様、普通名詞なのですね。小豆の漉し餡を固い砂糖の「衣」で包んだ和菓子。現在では無くなっているようですが、当時は中村屋さんでもラインナップに入っていたようです。

書簡からも光太郎の食生活が垣間見え、興味深いところです。

主に「食」を通じ、光太郎第二の故郷・岩手花巻で光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんの最近のご活動を。

まずは
毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで販売されている豪華弁当光太郎ランチの今月分。やつかの森LLCさんがメニュー考案に当たられ、光太郎が実際に作ったメニュー、使った食材などを参考にされています。
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今月の献立は「タラフライ」「牛すき煮」「里芋の胡麻味噌和え」「ほうれんそうと菊花のおひたし」「青海苔入り卵焼き」「小豆ご飯」「漬物」「さつまいも甘煮りんごキャラメルリゼ添え」だそうで。

いつもながらにボリューミーですし、サツマイモやら林檎やら、当方の好物も多く、これはぜひ食べたい感じでした。

続いて、
市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんでのこうたろうカフェこちらのお店は様々な団体さん、個人の方が日替わりで厨房に立ち、料理を饗するというシステムです。

やつかの森さん、来週11月27日(水)に出店なさり、メニューは以下の通りです。

・ウエルカムドリンク ~ブルーベリースカッシュ~
・ローストポーク ~ブルーベリーソース~
・大根の海老あん024023
・春菊と水菜の胡麻和え
・里芋の胡桃かけ
・キクラゲの佃煮
・お新香
・みずの実ごはん
・ふわふわ天使のスープ
・林檎パイカスタード
・コーヒー

ところで、上記情報と共に、光太郎が戦後七年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)周辺の最近の様子を画像でお送り下さいましたので、転載します。ようやく紅葉が見頃だそうで。
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最後の大きい画像は光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)をブロンズパネルに鋳造して嵌め込んだ詩碑です。

しかし、ようやく紅葉が見頃といいつつ、既に初雪も観測されているそうで、これも温暖化の影響でしょうか、秋が短い感じですね。

この季節も乙なものです。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

わざわざ写真を送つて下さつて感謝します。一九五〇年のいい記念になります、 並んでゐる女性のうつくしい笑ひを愉快に存じます、


昭和25年(1950)6月5日 斎藤充司宛書簡より 光太郎68歳

齋藤充司は大正11年(1923)、岩手生まれ。花巻の隣の黒沢尻在住で、兵役を経て昭和21年(1947)から同57年(1982)まで小学校教員を務め、教員仲間(写真の女性達も?)らとたびたび旧太田村の光太郎の山小屋を訪問しました。この年3月に黒沢尻で行われた光太郎の講演の筆記なども残しました。また、日本美術家連盟会員、岩手県芸術祭洋画部門理事長、新象作家協会会員、北上詩の会会員でもありました。

おそらくこの書簡にある「写真」と同一の写真が、智恵子の故郷・二本松岳温泉の「あだたらの宿扇や」さんに現存します。
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『日本経済新聞』さん、「歌壇」欄。11月2日(土)の掲載分です。

連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの山梨県立文学館館長で歌人でもあらせられる三枝昂之氏と、同じく歌人の穂村弘氏が、読者の投稿歌から12首ずつ選ばれ、計24首が掲載されています。

三枝氏選の一首目が、福島県郡山市の方の作品。

 安達太良と阿武隈川は必須なり智恵子の故郷校歌も市歌も 郡山 星野剛

三枝氏の評。

 星野さんからは「あの光るのが阿武隈川」と高村光太郎『智恵子抄』の一節が浮かんでくる。やはり校歌には故郷の山と川。「必須なり」がそう教える。

「智恵子の故郷」を二本松市と限定解釈すると、まず「二本松市民の歌」(作詞:朝倉修氏/補作詞・作曲:湯浅譲二氏 平成25年=2013)。いきなり歌い出しが「安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに」、そして一~三番すべてで「ほんとの空が ここにある」と繰り返されます。

 一、安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに
   四季も華やぐ このまちに  希望奏でる 朝がある
   ああ 光あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
 二、青空に舞う 花ふぶき  やさしく歌う うぐいすよ
   生命輝く このまちに  幸せ運ぶ 風がある
   ああ 理想あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
 三、霞が城の しろあとに  揺れる提灯 囃子の音
   文化煌めく このまちに  明るい笑顔 夢がある
   ああ 浪漫あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある

校歌」も、例えば昨年、統合により新たに誕生した二本松実業高校さん(作詞:校歌制作委員会/作曲:大友良英氏)では、二番に「白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の 安達太良山の 季節(とき)の雲」、三番で「瞳に映る 煌(きら)めきは 阿武隈川の 悠久(とき)の色」。さらに一~三番すべてに「ほんとの空に」のリフレイン。

 空の青さに 陽(ひ)の光
 榎戸(えのきど)の丘 一瞬(とき)の風
 力漲(みなぎ)り 舞う砂けむり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 遥(はる)かな夢を ほんとの空に

 白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の
 安達太良山の 季節(とき)の雲
 掌(てのひら)見つめ 歯を食いしばり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 明日(あす)を探して ほんとの空に

 瞳に映る 煌(きら)めきは
 阿武隈川の 悠久(とき)の色
 その身に宿る 手業の実り
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 希望を胸に ほんとの空に

 睡蓮(すいれん)の花 微笑(ほほえ)ほほえんで
 霞(かすみ)が池に 青春(とき)の影
 まっすぐな道 どこまでも往(ゆ)き
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 生きた証(あかし)を ほんとの空に

他校の校歌も同様なのでしょう。

短歌投稿者の方は郡山市ご在住だそうです。福島県は東西方向に区切ると、西部の山岳地帯が「会津」、太平洋岸は「浜通り」、その中間が二本松を含む「中通り」。さらに「中通り」も南北方向で「県北」「県中」「県南」と区分されます。「智恵子の故郷」を中通りのさらに県中地域とすると、郡山も含まれます。
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郡山市は今年、市政施行100周年だそうで、その記念式典や記念音楽祭などが大々的に行われました。そのあたりを受けての詠なのではないかと思われます。ちなみに「郡山市民の歌」(作詞:内海久二氏/作曲:古関裕而氏 昭和29年=1954)には、二番の歌詞に「輝く安達太良ささやく瀬音」とああります。

 一、あけゆく安積野希望の汽笛 あの人この街みなぎる力
 ああふるいたつふるさとは あこがれのせる若駒か 進めよわれらの郡山
 
 二、輝く安達太良ささやく瀬音 あの鳥この花しあわせ歌う
 ああうるわしいふるさとは やさしい母のまなざしか 育てよわれらの郡山

 三、働くよろこび夕べのいのり あの星この窓楽しいまどい
 ああやすらかなふるさとは あふれる夢のゆりかごか 栄えよわれらの郡山

昨日は原発の問題にも触れましたが、安達太良山、阿武隈川に代表される日本の美しい山河を二度と放射線被曝させてはならないと、切に思います。こういうことが本当の愛国心なのではないのでしょうか、と、為政者に問いたいところです。
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【折々のことば・光太郎】

あれから何にも書けず、つひにたつた一枚書きました。別封で送りましたから、ともかくも読んでみてください。あの詩篇からうけた衝動は比類なく強いものです、
昭和25年(1950)4月12日 佐藤徹宛書簡より 光太郎68歳

佐藤は大正6年(1917)、山形米沢出身。筆名の「森英介」名義で唯一の詩集『火の聖女』を翌年に刊行、この書簡は光太郎に依頼したその序文に関わります。

 このやうな詩集を私は未だ曽て見たことがない。これほど魂のさしせまつた声を未だ曾てきいたことがない。こんなに苦しい悲しみの門をくぐらせられたこともないし、又こんなに強い祈と、やすらぎの中に引きこまれたこともない。
 何といつていいかわからない。殆といふ言葉がない。
 これはもう普通いふ詩といふものを突き破つてゐる。これらの詩は内面から破裂してゐる。一行一行が内からの迸るもので吹き上げられてゐる。これまでの日本語とはまるで違つた新らしい日本語が生まれてゐる。
 精神の突面だけがラインに刻まれてゐて、およそ平面をゆるさない。これらの詩の内面ふかく立ち入ることの出来るのは、同じやうな魂のきびしさと信とに死をのりこえたもののみの事である。
 私はおそろしい詩集を見た。


光太郎による他者の詩集等の序文は珍しくありませんが、ここまでの評を与えられたものは他に見あたりません。

ところが、活字工として働いていた佐藤自ら紙型を組み、印刷まで完了しましたが、その刊行を見ることなく、その直後に胃穿孔で急逝してしまいました。

光太郎は昭和27年(1952)に遺族の依頼でその墓碑銘を揮毫。おそらく現在も佐藤の故郷・米沢の善立寺さんというお寺にひっそりと佇んでいます。

2件ご紹介します。

まず、『北海道新聞』さん、10月31日(木)の一面コラム。

<卓上四季>女川原発の再稼働

詩人・彫刻家の高村光太郎は東北の三陸地方を旅行している。1936年のことだ。石巻を起点に、金華山、牡鹿(おしか)半島、女川(おながわ)を船でめぐった。切り立った断崖が続き、白い波がきらめく。リアス海岸がつくる風景は<鮮やかであり、またその故にとめどなく寂しい>▼この旅から90年近くたつ。陸路であれば、つづら折りの険しい道を抜けて、光太郎の描写さながらの景色を目にする。いや、彼の目に触れなかった巨大施設が牡鹿半島にある。東北電力の女川原発だ▼13年前の東日本大震災で絶体絶命の危機に追い込まれた。高さ13メートルの津波に襲われ、外部電源5回線のうち4回線を失う。2号機は浸水で非常用ディーゼル発電機2基が止まる。まかり間違えば、福島第1原発と同じ過酷事故が起きていた▼2号機が被災原発として初めて再稼働した。6千億円に迫る巨費を投じ、高さ29メートルの防潮堤を新設するなど安全対策を講じた。だが巨大地震と大津波に何度も見舞われてきた土地だ。心配は消えない▼なにより避難の問題が手付かずのままだ。半島は避難路が乏しい。自然災害と原発事故が同時発生したらどうするのか▼原発の30キロ圏内に暮らす人は18万8千人弱。陸路と海路がいずれも閉ざされ、どこにも逃げ道がなくなる―。想像したくないが、能登半島地震の惨状が教えていないか。
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まず断っておくと、「1936年」は誤りで、正しくは「1931年」です。1931年は昭和6年で、この「6」を混入させてしまったのではないでしょうか。

それはともかく、紀行文「三陸廻り」執筆のため訪れた宮城県女川町の女川原発。反対派の声も大きなものがあったのですが、とうとう再稼働してしまいました。そうかと思ったら、あっという間にトラブルで停止。「やめろ」という天の声ではないですかね。

ところで、先の衆議院選挙。原発はほとんど争点にもなりませんでしたが、現政権の裏金問題・旧統一教会問題だけでなく、原発回帰を強硬に押し進める点に対しても「No」を突きつけるつもりで投票した方も少なからず存在するのでは、と思います。少なくとも当方はそうです。

その衆議院選挙がらみで、11月3日(日)の『山口新聞』さん一面コラム。

四季風 冬の向き合い方

日増しに風が冷たく感じるようになってきた。冬の到来を告げる立冬も近く、やがて紅葉が終わると木枯らしの吹く時季を迎える▼「きっぱりと冬が来た」で始まる詩がある。彫刻家で詩人、高村光太郎の「冬が来た」で、教科書にも載っていたこともあり、ご存じの方もいるだろう▼前後を省略するが「人にいやがれる冬 草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た 冬よ僕に来い、僕に来い 僕は冬の力 冬は僕の餌食だ」とある▼木枯らしが吹きイチョウも落葉し、誰もが嫌うような厳しい冬。それを自ら受け止め力に変えて成長していく精神が描かれていると解釈するが、どうも先の衆院選が浮かんでくる ▼「おごり」という党内論理に終始し国民の支持離れを招き、冬のような厳しい審判を受け過半数割れした与党。これから、その冬とどう向き合うかにある▼特別国会の首相指名選挙で、石破茂首相が再選出されたとしても厳しい国会運営は避けられない。石破首相は「選挙で示された民意を厳粛、謙虚に受け止め、丁寧にこれからの政権運営にあたっていく」とする、今後を見極めたい。詩の最後は「刃物のや(よ)うな冬が来た」とある。15年前の下野を忘れないためにも。
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ただ、まだ今後の政局がどうなっていくか、不透明ですね。注意して見ていきたいところです。

【折々のことば・光太郎】003

東京はもう春のやうですがこちらはまだ雪が残つてゐて山ハンノキの花がぶらさがつてゐる程度です。それでも例年より春が早く来さうです。


昭和25年(1950)3月29日 髙村規宛書簡より
 光太郎68歳

令甥の故・髙村規氏宛のイラスト入り葉書から。

「きつぱりと冬が来た」と、冬を礼讃した光太郎も、さすがにマイナス20℃にもなる岩手の冬はこたえたようで、春が待ち遠しい心境にもなったのでしょう。

こちらでご紹介したイベントについて終了後に為された報道を2件。

まず、もう半月ほど経ってしまいましたが、ご紹介するタイミングを失っておりました。福島二本松の「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」について、『福島民友』さん。

自作の紙芝居で智恵子生涯描く 研究者坂本さんが上演 二本松の生家

001 詩集「智恵子抄」でも知られる二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家光太郎を顕彰する同市の「智恵子のまち夢くらぶ―高村智恵子顕彰会」は14日、同市の智恵子の生家で紙芝居を上演した。作家で画家、智恵子研究者坂本富江さん(東京都)が紙芝居「夢を描くひと―高村智恵子」を披露した。
 高村夫妻の結婚110周年と同会発足20周年を記念して実施。「高村智恵子レモン祭」の一環として、智恵子の生家・記念館と共催で実施した。
 坂本さんは来場者を前に、智恵子の生涯を描いた自作の紙芝居を読み聞かせた。
 このほか同会は同日、第15回智恵子純愛通り記念碑建立祭と「智恵子と光太郎の詩と言葉」ボードの除幕式を智恵子生家近くの同碑前で行った。


続いて、10月27日(日)、岩手花巻で開催された「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」について、『岩手日日』さん。

光太郎と賢治の関係は 研究者と劇団員対談

 対談「光太郎と花巻賢治子供の会」(高村光太郎記念館主催、やつかのもりLLC企画)は10月27日、花巻市大通りの市定住交流センターなはんプラザで開かれた。高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた劇団「花巻賢治子供の会」について、研究者や当時の会員による講話や朗読などを通じて市民が光太郎の思いや賢治との関わりに理解を深めた。
 花巻賢治子供の会は1947年、賢治の教え子だった小学校教員照井謹二郎が賢治作品を後世に伝えるため、同じく教員で妻の登久子の脚本で子供たちと童話劇を始めたのが始まり。翌年春、花巻に疎開していた光太郎の慰問のため、賢治の弟清六の妻愛子に誘われて山荘に足を運び、野外劇を見せたところ、感銘を受けた光太郎が命名した。その後、春は山荘で野外劇、秋は光太郎を招いて舞台発表を行い、97年の東京公演まで50年余り、160数回の公演を続けた。
 対談では光太郎研究者で高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表が発足の経緯や当時の活動内容について解説。当初メンバーだった熊谷光さん(83)、高橋則子さん(80)が賢治童話「雪渡り」から「小狐の紺三郎」、光太郎の詩「山からの贈物」を朗読、賢治の弟清六の孫で林風舎の宮沢和樹代表が祖母や母から聞いた活動について語った。
 引き続き4人が「光太郎先生との想い出」をテーマに語り、48年6月の山荘での公演について熊谷さんは「光太郎先生はとても喜んでくれた。歩いて帰る途中、私たちが見えなくなるまで手を振ってくれた」などと振り返った。
 また童話劇を演じるのに脚本を手で書き写したり、花巻小学校の教室を借りて夜8時ころまで練習したり、子供たちが持参した自分の頭の大きさに合ったざるに紙を貼り重ねて動物の被り物を作ったりしたエピソードを紹介。「本当に何もない時代だったので、参加すること自体がとても楽しい時間だった」と語った。
 対談は約60人が聴講。泉沢善雄さん(70)=同市高木は「子供たちが実際にどのようにして演じていたかイメージが涌く話だった」と関心を寄せていた。

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正確には、「花巻賢治子供の会」発足時、照井夫妻はすでに教員を退職なさっていたはずなのですが……。

ついでというと何ですが、花巻から送っていただいた当日の画像。
参加者5 参加者6
さらに、『岩手日日』さんのインタビューを受けられていた泉沢善雄氏のSNSから。
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ちなみに泉沢氏の大伯父さまは光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の村議会議長を務められ、光太郎と一緒に写った写真も残っています。

さて、この手のイベント、今後も途切れることなく続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

桑木博士も津田博士も引き上げられたので、いよいよ小生一人居残りといふわけになりました、小生はやはり最後まで岩手県の御厄介にならうと考へて居りますが中ゝ彫刻製作の手順にならないので、これだけが問題です、


昭和25年(1950)4月11日 佐伯郁郎宛書簡より 光太郎68歳

結局、健康状態がそれを許しませんでしたが、光太郎、岩手に骨を埋めるつもりでした。

「津田博士」は戦中からこの年まで平泉に疎開していた津田左右吉ですが、「桑木博士」は誰を指すか特定できていません。お心当たりおありの方、ご教示いただける幸いです。

智恵子の故郷・福島二本松市の『広報にほんまつ』今月号。大山忠作美術館さんで開催中の「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」が大きく取り上げられています。

まず表紙。
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大山画伯のご息女にして、都内二本松で上演された「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を演じられた一色采子さん。ギャラリートーク風景ですね。

2ページ目、襖絵そのものの詳細な解説。
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3ページ目、今回の展示の舞台裏について。
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自称・無資格キュレーターの当方としては(笑)、興味深く拝読いたしました。

作品の一部をあしらった絵葉書を1年ぶりくらいに引っぱり出してみました。分割民営前の郵政省時代に発行された40円絵葉書10枚セット「みちのくの楓」です。昭和の終わりか平成の初め頃のものと思われます。
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画伯ご自身の書かれた解説によれば、福島市の高湯温泉の楓だそうですが、日光中禅寺湖半の紅葉の色も印象に残り、反映されているとのこと。

最後に(というかブックレット形式としては最初)には、『広報にほんまつ』でも題名が記されている「智恵子に扮する有馬稲子像」。昭和51年(1976)、「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」中の北條秀司作の「智恵子抄」(一色さんの朗読劇もこちらが元です)で智恵子役だった有馬稲子さんを描いた大作です。
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襖絵展期間中は同じフロアの逆サイドの展示室にて公開中。撮影禁止だったので画像はありませんが、制作風景の写真も並べられています。

『広報にほんまつ』を読んで初めて知りましたが、市内の智恵子生家/智恵子記念館や菊人形展などの入場券を提示すると、入館料割引だそうです。

智恵子生家では二階部分の限定公開が今週末及び文化の日の振替休日である11月4日(月)まで。翌11月5日(火)~17日(日)の期間にはライトアップが為されます。襖絵展も11月17日(日)まで。

併せてご観覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

横手では名物のお酒をいろいろいただいたり、秋田美人といはれる此の雪国の娘さんや奥さま連に囲まれて本式の炉辺でお茶料理をいただいたりして愉快でした。

昭和25年(1950)3月15日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、3月10日から12日にかけ、講演のため秋田県の横手を訪れました。秋田美人に囲まれてウハウハだったようです(笑)。

10月27日(日)のこのブログで「拝観に行きました」的なことだけは書いておきました高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」。個々の出品作品等について解説させていただきます。
 
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左下は「美ならざるなし」(昭和25年頃=1950頃)。光太郎が好んで揮毫した文言の一つです。直訳すれば「美しくないものは無い」。右下は「乾坤美にみつ」。こちらの方が古く、昭和14年(1939)の揮毫だそうです。「乾坤」は「天地」と同義。「美ならざるなし」と同様に、「この世の全ては美に満ちているのだ」的な意味合いでしょう。
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光太郎、文章でも「どこにでも美は存在する」的なこと繰り返しを書いています。「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」昭和4年=1929)。これは、ネット上などで光太郎の名言の一つとしてよく引用されています。が、孫引きの孫引き、伝言ゲームみたいになっており、「路傍」が「道端」になっていたり、「瓦礫」が「がれき」になっていたりと、無茶苦茶です。引用したいのならあくまで原文の通りでお願いします。

さらに「枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。」(「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」昭和18年=1943)。こちらは戦時中の文章で、この部分の直前に「整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、」とあり、きな臭い内容ですが。

同様の文言が書かれたものがもう二点。「義にして美ならざるなし」(昭和20年=1945)、「うつくしきもの満つ」(昭和15年頃=1940頃)。
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「うつくしきもの……」も光太郎が好んで書いた文言で、複数の揮毫例が確認できています。「満」を変体仮名的に片仮名の「ミ」としている例があり、山梨県富士川町に建てられた光太郎文学碑には「ミ」を採用した揮毫が彫りつけられています。
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何度も書きましたが、この「ミ」を漢字の「三」と誤読、「光太郎が讃えたこの地の三つの美しいもの――富士山、柚子、そして人々の心」などという噴飯ものの解説が為されたページもネット上に散見されます。

なぜ光太郎は「満つ」としない場合があったのか、色々考えてみました。一つはバランスの問題かな、と。どうも「満」だけ漢字だと、そこだけ画数が多くなり、美しくありません。今回出品されているものはそうなっていますが……。では、ひらがなで「みつ」とすれば誤読されることもありませんが、そうもしませんでした。これには「字母」の問題があるのでしょう。ひらがなの「み」は漢字の「美」を崩したもので、そう考えると「美しきもの美つ」となり、変じゃん、ということでひらがなの「み」は避けたのでしょう。

この「うつくしきもの満つ」は、画家・宅野田夫(でんぷ)の画に書かれた画讃です。宅野は明治28年(1895)、福岡県の生まれ。本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事したのち、田口米舫に日本画を学びました。さらに大正5年(1916)、中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、呉昌碩、王一亭に南画を学んでいます。帰国後、昭和10年(1935)には大日本新聞社を興し、右翼の巨魁・頭山満らと親交を持ちました。

光太郎とは早くから親交があり、大正期の渡航に際しては「につぽんはまことにまことに狭くるし田夫支那にゆけかの南支那に」の歌を贈られています。対を為す、宅野帰朝の大正10年(1921)に贈られた短歌「これやこの田夫もやまとこひしきか支那の酒をばすててかへれる」という短歌も最近発見しました。

さらに昭和18年(1943)、新宿三越で開催された宅野の個展に寄せられた「第二『所感』」という文章も最近発見しました。

 宅野田夫君の画は進んだ。進んだといふのは唯うまくなつたといふ事ではない。筆はむろんうまくもなつた。墨はむろん深くもなつた。しかし、もつと重要なことは、画心が澄み、画境が一層あたたかくなつた事である。実にあたたかい。世には、外、巧妙にして、内、冷淡疎懶な画が多い。同君の画の珍重すべきは、外、簡の如くにして、内、密であつて、しかも些少の窮屈もなく、おのづから流露して渋滞するところのないのは特筆に値する。晴朗洞豁、無類である。同君は更に織部の研究から画法に一新生面を開かうとしてゐる。駸駸として進んでやまない其の画境は、国事に尽心してとゞまるところを知らない其の至誠の念に淵源する。彼こそはわれらの謂ふ真の画人である。

おそらく今回出品されている光太郎画賛の入った画は、この時(あるいはその前後)の個展に出品されたものではないかというのが当方の推理です。

おっと、随分道草を食いました(笑)。続いての出品物。
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心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」(昭和24年=1949)。山小屋のあった旧太田村の太田中学校に校訓的に贈った言葉です。

その前半部分を翌25年(1950)に、盛岡少年刑務所に贈りましたが、その習作と思われる書(左下)。太田中に贈った書で「いつでも」が「いつも」に変わっています。しかし結局、贈った書は「いつでも」でしたが。
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右上は昭和11年(1936)花巻市桜町に建てられた宮沢賢治「雨ニモマケズ」碑の拓本の縮小複製です。

仏典の言葉から2点。「顕真実」(昭和23年=1948)、「皆共成仏道」(同じ頃)。
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これらは習慣としていた新年の書き初めで書かれ、村人達に贈られたものです。

最後に「書についての漫談」原稿(昭和30年=1955)。
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「漫談」とある通り、評論と言うより随筆ですが、光太郎の書論が端的に表されていますし、ペン書きの文字も実に味があります。
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企画展としての出品物は以上です。こんな感じで並んでいます。
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他に、常設展示の方でも書がたくさん。
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光太郎自身、己を「書家」と意識したことはありませんでしたが、近代書道史上、他に類例がないとしながらも、石川九楊氏などはその書業を高く評価して下さっています。

書に興味のおありの方、ぜひとも足をお運び下さい。企画展会期は11月30日(土)までです。

【折々のことば・光太郎】

雪のため電燈は断線で修理の見込つかず、ランプでやつてゐます。

昭和25年(1950)2月11日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎68歳

旧太田村での光太郎の書、こうした厳しい環境の中で書かれました。

2泊3日の行程を終えて、昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻より帰って参りました。都度都度、レポートいたしましたが、書ききれなかった件等を。

10月27日(日)、「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演のため訪れた東北本線花巻駅前のなはんプラザさん。
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午後からの本番に向け、午前中に会場設営を行い、それが終わったところで館内をぶらぶら。すると、一階ロビーでこんな看板を見つけました。阿部正介氏という方の作品だそうで。
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「切り絵「昔の花巻展」」。3階の展示コーナーで開催中とのこと。光太郎が7年間の蟄居生活を送った山小屋・高村山荘もあるじゃん、というわけで、早速拝見に。
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ずらっと10点の色鮮やかな切り絵作品が並んでいました。

雪に覆われた高村山荘。
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よく見ると(よく見なくても(笑))、入口には光太郎の姿も。
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石ノ森章太郎先生の「サイボーグ009」に出てくる死の商人「ブラックゴースト」の首領・スカール(じつは自身もサイボーグで傀儡でしたが)か、と突っ込みたくなりましたが(笑)。
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キャプション。
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他にも光太郎ゆかりのスポットが。

光太郎も愛した大沢温泉さんにかつてあった建造物。
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当方手持ちの古絵葉書。
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今の山水閣さんの新しい建物がある一角だと思うのですが、これが残っていないのは残念です。

光太郎が訪れ、息女・聡子さんのピアノ演奏を聴かせてもらった旧菊池捍(まもる)邸
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光太郎にピアノ演奏を聴かせた聡子さんは、今回の対談のメインテーマ「花巻賢治子供の会」の児童劇で、劇中歌の作曲も担当していました。
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宮沢賢治がらみも。
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帰ってから調べましたところ、作者の阿部正介氏、元は市の職員であらせられたそうで、これまでも同じなはんプラザさんや市内の図書館、宮沢賢治イーハトーブセンターさんなどで作品展が繰り返し開催されていました。

花巻にはこの手の作品の題材となる建造物等がかなり現存していますし、観光推進のためにも、さらなるご活躍を期待したいところです。

ところで、このコーナーの裏側では、こんな催しも。いわずもがなですが、大谷翔平選手は花巻東高校さんのご出身ですので。
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この日は第2戦。
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意外と人がまばらでした。皆さん、ご自宅などでBSの放映をご覧になっていたのではないでしょうか。旅人の当方としてはありがたいところでした。

ちょうど9回表のヤンキースの反撃の場面で、大谷選手、山本投手を擁するドジャースは1点返され4-2、なおも2死満塁のピンチ。「うわぁ~」と思いながら観ました。しかし、最後の打者が中飛に倒れ、「よっしゃ~」。

大谷選手は走塁の際のアクシデントで負傷とのことでしたが、今日も先発出場だそうで、大事に至っていないことを祈念いたしております。

ちなみに花巻の街は、どこへいっても大谷一色。

新花巻駅(左下)。伊藤園さんの自販機(右下)。
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一泊させていただいたホテルグランシェールさんロビー。
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リンゴを買いに立ち寄った道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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肖像権の問題等もあるかもしれませんが、切り絵の阿部正介氏、大谷選手やその先輩・菊池雄星投手らの切り絵も手がけられてはいかが? などとも思いました(笑)。もっとも、すでにやられているかもしれませんが。

以上、花巻レポート補遺を終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生の足のサイズを御記憶ありて心にかけてこの短靴をお探し下さった御厚情に心をうたれました、使用中のもの既に破れはてて居りましたので此の春から早速役に立ち、まことにありがたく存じます、


昭和25年(1950)2月14日 田口弘宛書簡より 光太郎68歳

身長180センチ超と、当時としては大男だった光太郎、足のサイズも昭和5年(1930)のアンケート回答「自画像」には、「十三文半」と書いています。一文が約2.5㌢ですので、おおむね33.75㌢となります。実際にはもう少し小さかったようですが、それでも既製品ではなかなか合うものが見つけられず苦労のし通しでした。

のちに埼玉県東松山市教育長となられた故・田口弘氏。進駐軍の横流し品か何かで大きな靴を見つけ、光太郎に送って下さいました。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻に参りまして、現在、光太郎も愛した大沢温泉♨️さんにてこれを書いております。画像は昨夕の到着時ですが。
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昨日は東北本線花巻駅前のなはんプラザさんでされた「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演させていただきました。
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「花巻賢治子供の会」は、戦後の花巻で児童教育に携わっていた照井謹二郎.登久子夫妻が主宰していた児童劇団で、戦争で荒んだ子供たちに宮沢賢治の童話などを通じて豊かな情操を育てたいとするものでした。

そもそもはそれほど肩肘張ったものではなく、花巻郊外旧太田村の山小屋に隠棲していた光太郎の慰問から始まりましたが、光太郎らの援助や助言を糧に、地域に根付いて行きました。光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)までは、おおむね春(太田村)と秋(花巻中心街)で年2回公演し、記録に残る限り光太郎はそれらを7回観覧、毎回非常に楽しみにしていました。

光太郎が岩手を去り、さらに没してからも活動は続き、賢治作品に新たな形で息を吹き込むことに多大な貢献がありました。

−−というようなアウトライン的な内容を、まず当方が語らせていただきました。

続いて、当時実際に光太郎の前で劇を披露なさったお二人、熊谷光さん、高橋則子さんによる「雪渡り」朗読劇上演。
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さらに地元のラジオで光太郎作品等の朗読もなさっている高橋さんは、光太郎詩「山からの贈り物」(昭和24年=1949)もご披露くださいました。

休憩をはさみ、賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏。お母様の潤子さんが「花巻賢治子供の会」の役者さんでしたし、お祖母さまの愛子さんも照井夫妻と親しく、劇団創設に関わられました。
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こちらでも貴重なお話を伺えました。

最後に4人で登壇、さらにやはり「花巻賢治子供の会」のメンバーだった(在籍されていたのは光太郎没後)元アナウンサーの田中しのぶさんの司会で、フリートーク。熊谷さん、高橋さんに光太郎とのそれを含む当時の思い出を語って頂いたりしました。

あまり知られていないさまざまなエピソードなども紹介され、非常に良かったと思いました。

さらに会場には照井夫妻の子息にして、「花巻賢治子供の会」ではアコーディオンで劇伴音楽を担当されていた義彦氏もいらしていて(当初予定ではいらっしゃらないとのことだったのですが)、終演後にこれまた貴重なお話を伺うことができました。
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第二の故郷・花巻にはまだまだ生前の光太郎をご存知の方々がご健在。今後ともその方々の証言など掘り起こされて行って欲しいものです。

報道など為されましたらまた改めてご紹介いたします。

昨日から2泊3日の予定で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。今日がメインの目的で、東北本線花巻駅前のなはんプラザさんで開催される「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」で登壇、宮沢賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏、昭和20年代に児童劇団「花巻賢治子供の会」で光太郎に演劇を披露なさったお二人、計4名での公開対談です。

昨日、花巻入りし、あちこち廻りました。賢治にもからむ対談を控えていますので、賢治テイストにも触れておこうと、まずは新花巻駅で借りたレンタカーを東に向け、遠野市へ。賢治が「銀河鉄道の夜」の構想を得た場所の一つとされる「めがね橋」へ。橋上を走る釜石線に乗って通ったことはありましたが、下から見るのは初めてでした。
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すぐ目の前の道の駅みやもりさん。賢治関連のミニ展示などもなされていました。
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反転して西へ。いったん賢治から離れ、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。企画展「高村光太郎 書の世界」が始まっており、そちらの観覧。
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いい感じに紅葉も始まりました。
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相変わらず案内板や看板類には熊の爪とぎ痕が。くわばらくわばら(死語ですね(笑))。

さて、書を拝見。
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各出品物の細かなご紹介は帰ってからまた改めて致します。今回、これまで展示したことがないものも出ています。特に「へー」と思ったのは、戦前の書で、一時期交流が深かった画家の宅野田夫(でんぷ)の画に光太郎が賛を書いたもの。戦後にはそういう例もありましたが、戦前にもこういうものがあったかという感じでした。
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隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)へ。
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毎度のことながら光太郎遺影に手を合わせて参りました。

小屋の周りには光太郎がこよなく愛した栗。
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レンタカーを花巻市街に向けました。

途中、古民家を保存、公開、活用している施設「新農村地域定住交流会館・むらの家」さんの前を通ったら、先月も並んでいた案山子(かかし)がパワーアップしていました。道の駅はなまき西南(愛称.賢治と光太郎の郷)さんに並んでいたものもこちらに集約されていました。
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光太郎案山子も。
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久々に桜町の賢治詩碑に詣でました。碑文の揮毫は光太郎、日本初の賢治詩碑です。
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記憶がはっきりしないのですが平成28年(2016)の賢治祭でこの碑の前に立って講話をさせていただいた時以来かな、という感じでした。

そこから見える「下の畑」も遠望。
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定宿の大沢温泉さんは土曜日は一人だと予約を受け付けておらず、駅前のグランシェール花巻さんに宿泊(今夜は大沢温泉さんですが)。
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昨年、リニューアルがなされ、やはり賢治関連のミニ展示コーナーが設けられました。名付けて「宮沢賢治探索隊本部」だそうで(笑)。

パネル展示など意外と充実していますし、面積もそこそこ確保されています。宿泊客意外にも公開しているようです。
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夕食はすぐ近くのいとう屋さんで。光太郎が花巻市街で最も多く足を運んだ食堂です。
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そして夜が明け、今朝の日の出。
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これからなはんプラザさんで会場設営です。

取り急ぎ、ぃったん終わります。

たまたま偶然でしょうが、昨日、東北の地方紙二紙の一面コラムで光太郎が取り上げられました。

まずは『秋田魁新報』さん。

北斗星

2人の女性が向き合う姿で知られる十和田湖畔の「乙女の像」だが、作者の高村光太郎は当初1人だけの像を考えていたという。湖や森を思い浮かべながら構想を練るうち、同じ像を二つ並べるアイデアが浮かんだ。例のない像だったが、現地で見れば周囲と調和していると分かると語っている(「高村光太郎全集11」より)▼「地上に割れてくづれるまで/この原始林の圧力に堪へて/立つなら幾千年でも黙って立ってろ」。像に寄せた詩からは、この場所にふさわしいものを作ったという自負が伝わってくるようだ▼乙女の像が建立されて約70年、十和田湖周辺は変わり続けた。観光客が増え、ホテルや観光施設ができた。しかしバブル崩壊や東日本大震災で客足は減少。ここ十数年は、像がある休屋地区などでホテルや店舗の廃屋が目に付くようになっていた▼先日、久々に乙女の像を訪れると、対岸に新しい建物があるのが見えた。小坂町などが整備した道の駅だ。「十和田湖開発の父」とされる和井内貞行と妻カツが寄り添う銅像もあり、特産のヒメマスをPRしている▼国は十和田湖などの国立公園に、訪日外国人らを呼び込む事業に力を入れている。道の駅もその一環。廃屋も徐々に撤去されて、新たな宿泊施設の誘致に向けて地元で協議が始まった▼再び変わり始めた十和田湖。期待もあるが、オーバーツーリズムなどの不安もよぎる。観光地と国立公園。開発と保全。さて、どんな調和を目指すべきか。

十和田湖は秋田県と青森県にまたがり、光太郎最後の大作「乙女の像」は青森県側の十和田市休屋地区に存在します。
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指摘されている通り、周辺にはかつてホテルや土産物店、飲食店だった建物の廃屋が目立ちます。地元で自嘲的に「ゴーストタウン」と称されることも。残念です。

そんな中、これもコラム中にありますが、秋田県側の小坂町に新たに「道の駅「十和田湖」」がオープンしました。今月12日のことでした。

NHKさんのローカルニュース。

小坂町に道の駅「十和田湖」オープン 観光客でにぎわう

 12日、小坂町に道の駅「十和田湖」がオープンし、十和田湖観光に訪れた大勢の人たちでにぎわいました。
 道の駅「十和田湖」は、小坂町の新たな観光拠点として十和田湖の南側の湖畔に整備されました。
 建物は湖が見渡せる高台にあり、施設の中には、十和田湖の成り立ちや名産のヒメマスの養殖の歴史、それに小坂町の観光名所などがわかりやすく展示されています。
 また、ワインや蜂蜜といった町の特産品や隣接する鹿角市のりんごやぶどうを販売するコーナーも設けられています。
 オープン初日となった12日は好天にも恵まれたこともあり、周辺の道路が一時渋滞するほどで、訪れた大勢の人たちは展示コーナーを見学したり、施設から望む十和田湖の写真を撮ったりして楽しんでいました。
 岩手県の40代の男性は「きれいでとてもいい施設ですね。これから奥入瀬渓流など十和田観光を楽しみたいです」と話していました。
 道の駅は、去年10月にオープンする予定でしたが、特別名勝などに指定されている十和田湖での工事には文化庁の許可が必要で、その申請に向けた事務手続きが行われていなかったため、駐車場の工事が遅れ、オープンが延期されていました。
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観光の新たな拠点となることを期待いたします。

続いて『岩手日日』さん。

日日草

「沈深牛の如(ごと)し」。詩人で彫刻家の高村光太郎は詩「岩手の人」の中で、県人を寡黙で辛抱強く、思慮深い牛のようだと評した。牛は昔から岩手の人々にとって馬と同様に極めて身近な存在だった▼そんな牛と岩手との関わりに焦点を当て、県立図書館が春から夏にかけて開いた企画展。肉牛や乳製品のほか、農耕や運搬に使う役牛として人々の暮らしを支えた歴史、文化などを豊富な資料で紹介した▼江戸時代に沿岸部の産物を内陸に運んだルートを「塩の道」と呼び、重い荷を背に北上高地を越えるには馬より足腰の強い牛が適していたこと。途中、歌われたのが「南部牛追唄」で、隊列の先頭に立つ最強の雄牛を決めるため闘牛大会があったことなどを展示で知った▼開催中、牛を通年で山に放牧する山地酪農に挑み続ける田野畑村の酪農家を24年間追ったドキュメンタリー映画も上映。豊かな自然の中で厳しい現実に向き合いながら希望を持って暮らす大家族の日常が丹念に描かれていて引き込まれた▼日本短角種の産地、久慈市は闘牛の素牛を全国に供給する。東北で唯一の闘牛大会が年4回あり、今年最後の「もみじ場所」があす開かれる。普段は目にすることのない迫力ある闘牛を間近に見れば、牛へのイメージが変わるかもしれない。

008牛と岩手との関わりに焦点を当て、県立図書館が春から夏にかけて開いた企画展」は、「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」。タイトルからして光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)由来でした。

会期中の6月に花巻に行きましたので、その際に盛岡まで足を延ばせば良かったのですが、失念しておりました。直接、光太郎に関わる展示物は無く、解説パネルに「岩手の人」が紹介されていた程度のようでしたが、今になって後悔しております。

同様に直接、光太郎に関わる展示物は無く、解説パネルに光太郎の文章が引用されているという企画展示が都内で開催中という情報を得まして、明後日、また上京する用事がありますから廻ってきます。

【折々のことば・光太郎】

雪の上の足あとウサギ キツネ一列なり


昭和25年(1950)1月11日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳
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便箋(というかおそらく原稿用紙)の余白に描いたスケッチから。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺でのものですね。

松下は中央公論社の編集者。

同じ日に、美術史家の奥平英雄の妻・ちゑ子に贈った書簡にはさらに詳しいキャプション入りのスケッチが描かれていました。
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まずは状況をわかりやすくするために地方紙『岩手日日』さん報道から。

お気に入り求めどっと 東和・土澤アートクラフトフェア 商店街に活気 光太郎作品基にレモンケーキ 花巻南高家庭クラブ提供

 県内外のものづくり作家らが集う「土澤アートクラフトフェア2024秋」(実行委主催)は13日、花巻市東和町の土沢商店街、萬鉄五郎記念美術館前を会場に2日間の日程で始まった。好天の下にクラフトやグルメなど約380店が軒を連ね、大勢の来場者で初日から活況を呈した。
 歩行者天国となった会場には、木工品や革製品、似顔絵、手作り雑貨、楽器、衣類、陶芸、釣り具、ペット用品など多種多様のブースが並び、訪れた人が店主と会話を弾ませながらお気に入り商品を買い求めた。
 飲食の出店や食材・菓子などの販売ブースも並び、フードコートで昼食を取る家族連れの姿も。沿岸ならではの海の幸や地元特産品などが人気を集めていた。
 彫金の宝飾などを製造するアトリエKAZU(東京都)の高田和彦さん(77)は、オリジナルの指輪やネックレスのほか、さまざまな職業の商売道具をモチーフとする「IKIGAIシリーズ」のペンダントトップなどを販売。「何度も出店しているが、今年は天気が良く、特に人出が多いと感じる。みんなおしゃれをして集まっており、雰囲気が良いのものこイベントの魅力だ」と語った。
 10回以上訪れているという盛岡市の齊藤直美さん(55)は「県外の作家に出会えるチャンスは、岩手では貴重。例年通り、良いものがそろっている。帽子やアクセサリーが欲しくて見に来た。幅広い年齢の人たちが遊びに来ているのが素晴らしい」と話していた。
 県立花巻南高校家庭クラブは13日、花巻ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の「レモン哀歌」を基に製造した「レモンのパウンドケーキ」を土澤アートクラフトフェアで提供した。
 同クラブは、光太郎について調査・研究する団体と交流したり、顕彰イベントに参加したりして先人への学びを深めている。
 ケーキは、表面を覆うアイシングや生地にレモン汁を加えており、中までレモンの風味を感じられる。光太郎の顕彰活動に取り組む「やつかの森合同会社」(藤原正代表)が、同フェアに合わせて土沢商店街のワンデイシェフの大食堂で販売する「こたろう弁当」(1200円)を購入した人に100個限定でプレゼントした。
 レモンの果肉、皮を使うと食感や苦味が残るため、レモン汁だけで酸味や爽やかさを表現したといい、同日は東和町出身の1年生2人が接客。菅原美優さんは「光太郎さんのことはよく知らなかったが、勉強する中ですごい人が花巻にいたんだと感じた」、小原優羽奈さんは「自分たちの世代や、さらに下の小中学生にも光太郎さん、智恵子さんのことを知ってほしい。レモンケーキがそのきっかけになれば」と話していた。
 光太郎が秋の花巻でおいしさを再認識したというキノコやクリ、リンゴなどを使った同弁当は14日も数量限定で販売するが、パウンドケーキは提供されない。

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こちらが問題の(特に問題はありませんが(笑)))パウンドケーキ。
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ラッピングなど、高校生の手作りのレベルを超えていますね。もちろんお味もよろしかったようで。
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家庭クラブのお二人、今年6月に花巻で行われたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の際に発表のあった智恵子のエプロンの再現にも関わられました。こういう若い世代が関心を持って下さるのは実に有り難いところです。

やつかの森LLCさんが手がけた「こうたろう弁当」はこちら。やつかの森さんのメニュー構成は光太郎が実際に作った料理の現代風アレンジや、光太郎が使った食材の使用など、常に光太郎がらみです。
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2日間でそれぞれ異なるメニューで販売されたそうです。
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これも素晴らしいと思いました。

さらにやつかの森さんがメニュー考案に協力され、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のテナント「ミレットキッチンフラワー」さんで毎月15日に販売されている弁当「光太郎ランチ」の今月分。
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生野菜系が苦手な当方としては、今月のメニューはナイスだと感じました。これなら毎日食べてもいいかな、と(笑)。

何度も引用していますが、光太郎、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」で「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。この背後には、野菜類の自給自足、山林での食材採集に余念がなかった光太郎ならではの信念が込められています。

その信念を受け継ぎ、花巻南高校家庭クラブさん、やつかの森さんがさらなるご活躍をなさることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

ローマイヤアの店が又出来たと見えます、お贈りのハムはすばらしい事でせう。

昭和25年(1950)1月11日 中原綾子宛書簡より光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の光太郎、東京の友人知己達から食材を贈られることも多く、それでかなり助かっていました。特に好物なのに自給できない肉類などはことのほか有り難く感じていたようです。

「ローマイヤア」は現代でも続く「ローマイヤ」さんですね。光太郎、おそらく戦前に銀座のレストラン部門、あるいは商品を卸していた上野の精養軒さんあたりで舌鼓を打っていたのでは、と思われます。

昭和23年(1948)に結成され、光太郎が名付け親となった「花巻賢治子供の会」という児童劇団がありました。主に宮沢賢治の童話を劇化、第一回の公演は光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の山小屋前で行われ、その後しばらく、春には旧太田村、秋には花巻町中心街での公演というスパンで続きました。光太郎が花巻を離れた後も活動は続き、平成9年(1997)までに公演回数は160回を超えたそうです。

その「花巻賢治子供の会」で実際に光太郎の前で演技をなさった当時のお子さん、お母さまが「花巻賢治子供の会」のメンバーだった宮沢和樹氏(賢治実弟・清六令孫)、そして当方でのトークショーです。

令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談「光太郎と花巻賢治子供の会」

期 日 : 2024年10月27日(日)
会 場 : なはんプラザCOMZ ホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号 
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた花巻賢治子供の会の会員より当時の活動の思い出をうかがい、光太郎の想いや賢治とのかかわりを学びます。

講 師 : 宮沢和樹  株式会社林風舎代表取締役
      熊谷 光  花巻賢治子供の会元会員
      高橋則子  花巻賢治子供の会元会員
      小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表
司 会 : 田中しのぶ 花巻賢治子供の会元会員
チラシ表
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「花巻賢治子供の会」。主宰していたのは、花巻農学校での賢治の教え子の故・照井謹二郎氏と奥様の登久子氏。お二人とも小学校教諭、退職後は花巻で幼稚園経営をなさっていました。戦前から近所の子供達を集め、賢治の詩や童話の読み聞かせ、朗読の指導などを行っていました。戦後になり、戦争は終わったにも関わらず、戦争ごっこを続けている子供達の姿に愕然とし「これではいけない」と活動を再開したとのこと。

その頃、賢治実弟・清六の妻、愛子に「一緒に光太郎先生の山小屋に行こう」と誘われた登久子氏(戦時中から光太郎と面識はありました)、「何の手土産も用意できないから……」といったんは断ったものの、子供達の演劇を披露して娯楽の少ない山村暮らしの光太郎を慰問しようと思い立ったとのこと。そして昭和22年(1947)の6月に、旧太田村の光太郎の山小屋前で第一回公演を打ちました。

以後、記録に残る限り、太田村と花巻町中心街で光太郎は7回公演を観ています。光太郎が観た演目で把握できている賢治作品は「雪渡り」「カイロ団長」「どんぐりと山猫」「雁の童子」「風の又三郎」「狼森と笊森、盗森」「かしわ林の夜」。他にオリジナルの劇もあったようです。元々若い頃から芝居好きだった光太郎でしたし、特に戦後、青少年の健全育成には協力を惜しまなかったところもあり、公演の観覧を楽しみにしていました。

子供達の素朴で、しかし生き生きと演じる姿に好感を感じていたらしく、公演回数を重ねだんだん手応えを感じてきた登久子氏が「東京に出て本格的に演出などを学びたい」ともらすと、「そんなことをして変な児童劇臭さがついたらどうするのか。今のままが一番良い」とたしなめたそうです。

賢治童話の劇化ということで、賢治実弟の清六・愛子夫妻もサポート。お二人の令嬢で今年亡くなられた潤子さんも団員の一人として舞台に立たれていました。そこで潤子さん令息の和樹氏にもお話を伺います。

そして、実際に光太郎の前で演じられたお二人。貴重なお話が聴けることと存じます。
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画像の左下に写っている熊谷光さんと高橋則子さんのお二人です。ちなみに光太郎が二列めの右から3番目にいますが、その左後ろが清六、最後列には潤子さんもいらっしゃるようです。昭和27年(1952)、光太郎最後の観覧の際の集合写真です。
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登久子氏は昭和25年(1950)に脚本集『どんぐりと山猫』を十字屋書店から出版。光太郎にも触れられていますし、光太郎はこれを贈られて絶賛しました。

また、照井夫妻の近所に住んでいた菊池捍(まもる)の息女で、光太郎にピアノ演奏を聴かせてあげた聡子氏も音楽方面でサポートしていたこともわかりました。

そんなこんなでの1時間半。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

東京の連中はどうしてゐるかと時々おもひます、みな生活が中々困難だらうと思ひます、勢ひいろんなアルバイトをやらねばならないでせう。此間ラジオの娯楽番組の中へ草野心平が出てきて、唄をうたつたので面白かつたのですが、これもアルバイトの一つでせう。


昭和25年(1950)1月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎68歳

当会の祖・心平。「何やってんだ」という感じですが(笑)。

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