カテゴリ: 東北

『日本経済新聞』さん、「歌壇」欄。11月2日(土)の掲載分です。

連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの山梨県立文学館館長で歌人でもあらせられる三枝昂之氏と、同じく歌人の穂村弘氏が、読者の投稿歌から12首ずつ選ばれ、計24首が掲載されています。

三枝氏選の一首目が、福島県郡山市の方の作品。

 安達太良と阿武隈川は必須なり智恵子の故郷校歌も市歌も 郡山 星野剛

三枝氏の評。

 星野さんからは「あの光るのが阿武隈川」と高村光太郎『智恵子抄』の一節が浮かんでくる。やはり校歌には故郷の山と川。「必須なり」がそう教える。

「智恵子の故郷」を二本松市と限定解釈すると、まず「二本松市民の歌」(作詞:朝倉修氏/補作詞・作曲:湯浅譲二氏 平成25年=2013)。いきなり歌い出しが「安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに」、そして一~三番すべてで「ほんとの空が ここにある」と繰り返されます。

 一、安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに
   四季も華やぐ このまちに  希望奏でる 朝がある
   ああ 光あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
 二、青空に舞う 花ふぶき  やさしく歌う うぐいすよ
   生命輝く このまちに  幸せ運ぶ 風がある
   ああ 理想あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
 三、霞が城の しろあとに  揺れる提灯 囃子の音
   文化煌めく このまちに  明るい笑顔 夢がある
   ああ 浪漫あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある

校歌」も、例えば昨年、統合により新たに誕生した二本松実業高校さん(作詞:校歌制作委員会/作曲:大友良英氏)では、二番に「白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の 安達太良山の 季節(とき)の雲」、三番で「瞳に映る 煌(きら)めきは 阿武隈川の 悠久(とき)の色」。さらに一~三番すべてに「ほんとの空に」のリフレイン。

 空の青さに 陽(ひ)の光
 榎戸(えのきど)の丘 一瞬(とき)の風
 力漲(みなぎ)り 舞う砂けむり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 遥(はる)かな夢を ほんとの空に

 白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の
 安達太良山の 季節(とき)の雲
 掌(てのひら)見つめ 歯を食いしばり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 明日(あす)を探して ほんとの空に

 瞳に映る 煌(きら)めきは
 阿武隈川の 悠久(とき)の色
 その身に宿る 手業の実り
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 希望を胸に ほんとの空に

 睡蓮(すいれん)の花 微笑(ほほえ)ほほえんで
 霞(かすみ)が池に 青春(とき)の影
 まっすぐな道 どこまでも往(ゆ)き
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 生きた証(あかし)を ほんとの空に

他校の校歌も同様なのでしょう。

短歌投稿者の方は郡山市ご在住だそうです。福島県は東西方向に区切ると、西部の山岳地帯が「会津」、太平洋岸は「浜通り」、その中間が二本松を含む「中通り」。さらに「中通り」も南北方向で「県北」「県中」「県南」と区分されます。「智恵子の故郷」を中通りのさらに県中地域とすると、郡山も含まれます。
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郡山市は今年、市政施行100周年だそうで、その記念式典や記念音楽祭などが大々的に行われました。そのあたりを受けての詠なのではないかと思われます。ちなみに「郡山市民の歌」(作詞:内海久二氏/作曲:古関裕而氏 昭和29年=1954)には、二番の歌詞に「輝く安達太良ささやく瀬音」とああります。

 一、あけゆく安積野希望の汽笛 あの人この街みなぎる力
 ああふるいたつふるさとは あこがれのせる若駒か 進めよわれらの郡山
 
 二、輝く安達太良ささやく瀬音 あの鳥この花しあわせ歌う
 ああうるわしいふるさとは やさしい母のまなざしか 育てよわれらの郡山

 三、働くよろこび夕べのいのり あの星この窓楽しいまどい
 ああやすらかなふるさとは あふれる夢のゆりかごか 栄えよわれらの郡山

昨日は原発の問題にも触れましたが、安達太良山、阿武隈川に代表される日本の美しい山河を二度と放射線被曝させてはならないと、切に思います。こういうことが本当の愛国心なのではないのでしょうか、と、為政者に問いたいところです。
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【折々のことば・光太郎】

あれから何にも書けず、つひにたつた一枚書きました。別封で送りましたから、ともかくも読んでみてください。あの詩篇からうけた衝動は比類なく強いものです、
昭和25年(1950)4月12日 佐藤徹宛書簡より 光太郎68歳

佐藤は大正6年(1917)、山形米沢出身。筆名の「森英介」名義で唯一の詩集『火の聖女』を翌年に刊行、この書簡は光太郎に依頼したその序文に関わります。

 このやうな詩集を私は未だ曽て見たことがない。これほど魂のさしせまつた声を未だ曾てきいたことがない。こんなに苦しい悲しみの門をくぐらせられたこともないし、又こんなに強い祈と、やすらぎの中に引きこまれたこともない。
 何といつていいかわからない。殆といふ言葉がない。
 これはもう普通いふ詩といふものを突き破つてゐる。これらの詩は内面から破裂してゐる。一行一行が内からの迸るもので吹き上げられてゐる。これまでの日本語とはまるで違つた新らしい日本語が生まれてゐる。
 精神の突面だけがラインに刻まれてゐて、およそ平面をゆるさない。これらの詩の内面ふかく立ち入ることの出来るのは、同じやうな魂のきびしさと信とに死をのりこえたもののみの事である。
 私はおそろしい詩集を見た。


光太郎による他者の詩集等の序文は珍しくありませんが、ここまでの評を与えられたものは他に見あたりません。

ところが、活字工として働いていた佐藤自ら紙型を組み、印刷まで完了しましたが、その刊行を見ることなく、その直後に胃穿孔で急逝してしまいました。

光太郎は昭和27年(1952)に遺族の依頼でその墓碑銘を揮毫。おそらく現在も佐藤の故郷・米沢の善立寺さんというお寺にひっそりと佇んでいます。

2件ご紹介します。

まず、『北海道新聞』さん、10月31日(木)の一面コラム。

<卓上四季>女川原発の再稼働

詩人・彫刻家の高村光太郎は東北の三陸地方を旅行している。1936年のことだ。石巻を起点に、金華山、牡鹿(おしか)半島、女川(おながわ)を船でめぐった。切り立った断崖が続き、白い波がきらめく。リアス海岸がつくる風景は<鮮やかであり、またその故にとめどなく寂しい>▼この旅から90年近くたつ。陸路であれば、つづら折りの険しい道を抜けて、光太郎の描写さながらの景色を目にする。いや、彼の目に触れなかった巨大施設が牡鹿半島にある。東北電力の女川原発だ▼13年前の東日本大震災で絶体絶命の危機に追い込まれた。高さ13メートルの津波に襲われ、外部電源5回線のうち4回線を失う。2号機は浸水で非常用ディーゼル発電機2基が止まる。まかり間違えば、福島第1原発と同じ過酷事故が起きていた▼2号機が被災原発として初めて再稼働した。6千億円に迫る巨費を投じ、高さ29メートルの防潮堤を新設するなど安全対策を講じた。だが巨大地震と大津波に何度も見舞われてきた土地だ。心配は消えない▼なにより避難の問題が手付かずのままだ。半島は避難路が乏しい。自然災害と原発事故が同時発生したらどうするのか▼原発の30キロ圏内に暮らす人は18万8千人弱。陸路と海路がいずれも閉ざされ、どこにも逃げ道がなくなる―。想像したくないが、能登半島地震の惨状が教えていないか。
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まず断っておくと、「1936年」は誤りで、正しくは「1931年」です。1931年は昭和6年で、この「6」を混入させてしまったのではないでしょうか。

それはともかく、紀行文「三陸廻り」執筆のため訪れた宮城県女川町の女川原発。反対派の声も大きなものがあったのですが、とうとう再稼働してしまいました。そうかと思ったら、あっという間にトラブルで停止。「やめろ」という天の声ではないですかね。

ところで、先の衆議院選挙。原発はほとんど争点にもなりませんでしたが、現政権の裏金問題・旧統一教会問題だけでなく、原発回帰を強硬に押し進める点に対しても「No」を突きつけるつもりで投票した方も少なからず存在するのでは、と思います。少なくとも当方はそうです。

その衆議院選挙がらみで、11月3日(日)の『山口新聞』さん一面コラム。

四季風 冬の向き合い方

日増しに風が冷たく感じるようになってきた。冬の到来を告げる立冬も近く、やがて紅葉が終わると木枯らしの吹く時季を迎える▼「きっぱりと冬が来た」で始まる詩がある。彫刻家で詩人、高村光太郎の「冬が来た」で、教科書にも載っていたこともあり、ご存じの方もいるだろう▼前後を省略するが「人にいやがれる冬 草木に背かれ、虫類に逃げられる冬が来た 冬よ僕に来い、僕に来い 僕は冬の力 冬は僕の餌食だ」とある▼木枯らしが吹きイチョウも落葉し、誰もが嫌うような厳しい冬。それを自ら受け止め力に変えて成長していく精神が描かれていると解釈するが、どうも先の衆院選が浮かんでくる ▼「おごり」という党内論理に終始し国民の支持離れを招き、冬のような厳しい審判を受け過半数割れした与党。これから、その冬とどう向き合うかにある▼特別国会の首相指名選挙で、石破茂首相が再選出されたとしても厳しい国会運営は避けられない。石破首相は「選挙で示された民意を厳粛、謙虚に受け止め、丁寧にこれからの政権運営にあたっていく」とする、今後を見極めたい。詩の最後は「刃物のや(よ)うな冬が来た」とある。15年前の下野を忘れないためにも。
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ただ、まだ今後の政局がどうなっていくか、不透明ですね。注意して見ていきたいところです。

【折々のことば・光太郎】003

東京はもう春のやうですがこちらはまだ雪が残つてゐて山ハンノキの花がぶらさがつてゐる程度です。それでも例年より春が早く来さうです。


昭和25年(1950)3月29日 髙村規宛書簡より
 光太郎68歳

令甥の故・髙村規氏宛のイラスト入り葉書から。

「きつぱりと冬が来た」と、冬を礼讃した光太郎も、さすがにマイナス20℃にもなる岩手の冬はこたえたようで、春が待ち遠しい心境にもなったのでしょう。

こちらでご紹介したイベントについて終了後に為された報道を2件。

まず、もう半月ほど経ってしまいましたが、ご紹介するタイミングを失っておりました。福島二本松の「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」について、『福島民友』さん。

自作の紙芝居で智恵子生涯描く 研究者坂本さんが上演 二本松の生家

001 詩集「智恵子抄」でも知られる二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家光太郎を顕彰する同市の「智恵子のまち夢くらぶ―高村智恵子顕彰会」は14日、同市の智恵子の生家で紙芝居を上演した。作家で画家、智恵子研究者坂本富江さん(東京都)が紙芝居「夢を描くひと―高村智恵子」を披露した。
 高村夫妻の結婚110周年と同会発足20周年を記念して実施。「高村智恵子レモン祭」の一環として、智恵子の生家・記念館と共催で実施した。
 坂本さんは来場者を前に、智恵子の生涯を描いた自作の紙芝居を読み聞かせた。
 このほか同会は同日、第15回智恵子純愛通り記念碑建立祭と「智恵子と光太郎の詩と言葉」ボードの除幕式を智恵子生家近くの同碑前で行った。


続いて、10月27日(日)、岩手花巻で開催された「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」について、『岩手日日』さん。

光太郎と賢治の関係は 研究者と劇団員対談

 対談「光太郎と花巻賢治子供の会」(高村光太郎記念館主催、やつかのもりLLC企画)は10月27日、花巻市大通りの市定住交流センターなはんプラザで開かれた。高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた劇団「花巻賢治子供の会」について、研究者や当時の会員による講話や朗読などを通じて市民が光太郎の思いや賢治との関わりに理解を深めた。
 花巻賢治子供の会は1947年、賢治の教え子だった小学校教員照井謹二郎が賢治作品を後世に伝えるため、同じく教員で妻の登久子の脚本で子供たちと童話劇を始めたのが始まり。翌年春、花巻に疎開していた光太郎の慰問のため、賢治の弟清六の妻愛子に誘われて山荘に足を運び、野外劇を見せたところ、感銘を受けた光太郎が命名した。その後、春は山荘で野外劇、秋は光太郎を招いて舞台発表を行い、97年の東京公演まで50年余り、160数回の公演を続けた。
 対談では光太郎研究者で高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表が発足の経緯や当時の活動内容について解説。当初メンバーだった熊谷光さん(83)、高橋則子さん(80)が賢治童話「雪渡り」から「小狐の紺三郎」、光太郎の詩「山からの贈物」を朗読、賢治の弟清六の孫で林風舎の宮沢和樹代表が祖母や母から聞いた活動について語った。
 引き続き4人が「光太郎先生との想い出」をテーマに語り、48年6月の山荘での公演について熊谷さんは「光太郎先生はとても喜んでくれた。歩いて帰る途中、私たちが見えなくなるまで手を振ってくれた」などと振り返った。
 また童話劇を演じるのに脚本を手で書き写したり、花巻小学校の教室を借りて夜8時ころまで練習したり、子供たちが持参した自分の頭の大きさに合ったざるに紙を貼り重ねて動物の被り物を作ったりしたエピソードを紹介。「本当に何もない時代だったので、参加すること自体がとても楽しい時間だった」と語った。
 対談は約60人が聴講。泉沢善雄さん(70)=同市高木は「子供たちが実際にどのようにして演じていたかイメージが涌く話だった」と関心を寄せていた。

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正確には、「花巻賢治子供の会」発足時、照井夫妻はすでに教員を退職なさっていたはずなのですが……。

ついでというと何ですが、花巻から送っていただいた当日の画像。
参加者5 参加者6
さらに、『岩手日日』さんのインタビューを受けられていた泉沢善雄氏のSNSから。
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ちなみに泉沢氏の大伯父さまは光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の村議会議長を務められ、光太郎と一緒に写った写真も残っています。

さて、この手のイベント、今後も途切れることなく続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

桑木博士も津田博士も引き上げられたので、いよいよ小生一人居残りといふわけになりました、小生はやはり最後まで岩手県の御厄介にならうと考へて居りますが中ゝ彫刻製作の手順にならないので、これだけが問題です、


昭和25年(1950)4月11日 佐伯郁郎宛書簡より 光太郎68歳

結局、健康状態がそれを許しませんでしたが、光太郎、岩手に骨を埋めるつもりでした。

「津田博士」は戦中からこの年まで平泉に疎開していた津田左右吉ですが、「桑木博士」は誰を指すか特定できていません。お心当たりおありの方、ご教示いただける幸いです。

智恵子の故郷・福島二本松市の『広報にほんまつ』今月号。大山忠作美術館さんで開催中の「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」が大きく取り上げられています。

まず表紙。
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大山画伯のご息女にして、都内二本松で上演された「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を演じられた一色采子さん。ギャラリートーク風景ですね。

2ページ目、襖絵そのものの詳細な解説。
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3ページ目、今回の展示の舞台裏について。
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自称・無資格キュレーターの当方としては(笑)、興味深く拝読いたしました。

作品の一部をあしらった絵葉書を1年ぶりくらいに引っぱり出してみました。分割民営前の郵政省時代に発行された40円絵葉書10枚セット「みちのくの楓」です。昭和の終わりか平成の初め頃のものと思われます。
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画伯ご自身の書かれた解説によれば、福島市の高湯温泉の楓だそうですが、日光中禅寺湖半の紅葉の色も印象に残り、反映されているとのこと。

最後に(というかブックレット形式としては最初)には、『広報にほんまつ』でも題名が記されている「智恵子に扮する有馬稲子像」。昭和51年(1976)、「松竹女優名作シリーズ有馬稲子公演」中の北條秀司作の「智恵子抄」(一色さんの朗読劇もこちらが元です)で智恵子役だった有馬稲子さんを描いた大作です。
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襖絵展期間中は同じフロアの逆サイドの展示室にて公開中。撮影禁止だったので画像はありませんが、制作風景の写真も並べられています。

『広報にほんまつ』を読んで初めて知りましたが、市内の智恵子生家/智恵子記念館や菊人形展などの入場券を提示すると、入館料割引だそうです。

智恵子生家では二階部分の限定公開が今週末及び文化の日の振替休日である11月4日(月)まで。翌11月5日(火)~17日(日)の期間にはライトアップが為されます。襖絵展も11月17日(日)まで。

併せてご観覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

横手では名物のお酒をいろいろいただいたり、秋田美人といはれる此の雪国の娘さんや奥さま連に囲まれて本式の炉辺でお茶料理をいただいたりして愉快でした。

昭和25年(1950)3月15日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、3月10日から12日にかけ、講演のため秋田県の横手を訪れました。秋田美人に囲まれてウハウハだったようです(笑)。

10月27日(日)のこのブログで「拝観に行きました」的なことだけは書いておきました高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「高村光太郎 書の世界」。個々の出品作品等について解説させていただきます。
 
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左下は「美ならざるなし」(昭和25年頃=1950頃)。光太郎が好んで揮毫した文言の一つです。直訳すれば「美しくないものは無い」。右下は「乾坤美にみつ」。こちらの方が古く、昭和14年(1939)の揮毫だそうです。「乾坤」は「天地」と同義。「美ならざるなし」と同様に、「この世の全ては美に満ちているのだ」的な意味合いでしょう。
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光太郎、文章でも「どこにでも美は存在する」的なこと繰り返しを書いています。「路傍の瓦礫の中から黄金をひろひ出すといふよりも、むしろ瓦礫そのものが黄金の仮装であつた事を見破る者は詩人である。」(「生きた言葉」昭和4年=1929)。これは、ネット上などで光太郎の名言の一つとしてよく引用されています。が、孫引きの孫引き、伝言ゲームみたいになっており、「路傍」が「道端」になっていたり、「瓦礫」が「がれき」になっていたりと、無茶苦茶です。引用したいのならあくまで原文の通りでお願いします。

さらに「枯葉の集積にも、みな真の「美」を知る魂がはじめて知り得る美がある。」(「日本美創造の征戦 米英的美意識を拭ひ去れ」昭和18年=1943)。こちらは戦時中の文章で、この部分の直前に「整然たる軍隊の行進にも、鋼鉄の重工業にも、」とあり、きな臭い内容ですが。

同様の文言が書かれたものがもう二点。「義にして美ならざるなし」(昭和20年=1945)、「うつくしきもの満つ」(昭和15年頃=1940頃)。
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「うつくしきもの……」も光太郎が好んで書いた文言で、複数の揮毫例が確認できています。「満」を変体仮名的に片仮名の「ミ」としている例があり、山梨県富士川町に建てられた光太郎文学碑には「ミ」を採用した揮毫が彫りつけられています。
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何度も書きましたが、この「ミ」を漢字の「三」と誤読、「光太郎が讃えたこの地の三つの美しいもの――富士山、柚子、そして人々の心」などという噴飯ものの解説が為されたページもネット上に散見されます。

なぜ光太郎は「満つ」としない場合があったのか、色々考えてみました。一つはバランスの問題かな、と。どうも「満」だけ漢字だと、そこだけ画数が多くなり、美しくありません。今回出品されているものはそうなっていますが……。では、ひらがなで「みつ」とすれば誤読されることもありませんが、そうもしませんでした。これには「字母」の問題があるのでしょう。ひらがなの「み」は漢字の「美」を崩したもので、そう考えると「美しきもの美つ」となり、変じゃん、ということでひらがなの「み」は避けたのでしょう。

この「うつくしきもの満つ」は、画家・宅野田夫(でんぷ)の画に書かれた画讃です。宅野は明治28年(1895)、福岡県の生まれ。本郷洋画研究所に入り、岡田三郎助に師事したのち、田口米舫に日本画を学びました。さらに大正5年(1916)、中国に渡り、広東、上海、漢口、青島等に遊び、呉昌碩、王一亭に南画を学んでいます。帰国後、昭和10年(1935)には大日本新聞社を興し、右翼の巨魁・頭山満らと親交を持ちました。

光太郎とは早くから親交があり、大正期の渡航に際しては「につぽんはまことにまことに狭くるし田夫支那にゆけかの南支那に」の歌を贈られています。対を為す、宅野帰朝の大正10年(1921)に贈られた短歌「これやこの田夫もやまとこひしきか支那の酒をばすててかへれる」という短歌も最近発見しました。

さらに昭和18年(1943)、新宿三越で開催された宅野の個展に寄せられた「第二『所感』」という文章も最近発見しました。

 宅野田夫君の画は進んだ。進んだといふのは唯うまくなつたといふ事ではない。筆はむろんうまくもなつた。墨はむろん深くもなつた。しかし、もつと重要なことは、画心が澄み、画境が一層あたたかくなつた事である。実にあたたかい。世には、外、巧妙にして、内、冷淡疎懶な画が多い。同君の画の珍重すべきは、外、簡の如くにして、内、密であつて、しかも些少の窮屈もなく、おのづから流露して渋滞するところのないのは特筆に値する。晴朗洞豁、無類である。同君は更に織部の研究から画法に一新生面を開かうとしてゐる。駸駸として進んでやまない其の画境は、国事に尽心してとゞまるところを知らない其の至誠の念に淵源する。彼こそはわれらの謂ふ真の画人である。

おそらく今回出品されている光太郎画賛の入った画は、この時(あるいはその前後)の個展に出品されたものではないかというのが当方の推理です。

おっと、随分道草を食いました(笑)。続いての出品物。
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心はいつでもあたらしく 毎日何かしらを発見する」(昭和24年=1949)。山小屋のあった旧太田村の太田中学校に校訓的に贈った言葉です。

その前半部分を翌25年(1950)に、盛岡少年刑務所に贈りましたが、その習作と思われる書(左下)。太田中に贈った書で「いつでも」が「いつも」に変わっています。しかし結局、贈った書は「いつでも」でしたが。
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右上は昭和11年(1936)花巻市桜町に建てられた宮沢賢治「雨ニモマケズ」碑の拓本の縮小複製です。

仏典の言葉から2点。「顕真実」(昭和23年=1948)、「皆共成仏道」(同じ頃)。
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これらは習慣としていた新年の書き初めで書かれ、村人達に贈られたものです。

最後に「書についての漫談」原稿(昭和30年=1955)。
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「漫談」とある通り、評論と言うより随筆ですが、光太郎の書論が端的に表されていますし、ペン書きの文字も実に味があります。
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企画展としての出品物は以上です。こんな感じで並んでいます。
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他に、常設展示の方でも書がたくさん。
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光太郎自身、己を「書家」と意識したことはありませんでしたが、近代書道史上、他に類例がないとしながらも、石川九楊氏などはその書業を高く評価して下さっています。

書に興味のおありの方、ぜひとも足をお運び下さい。企画展会期は11月30日(土)までです。

【折々のことば・光太郎】

雪のため電燈は断線で修理の見込つかず、ランプでやつてゐます。

昭和25年(1950)2月11日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎68歳

旧太田村での光太郎の書、こうした厳しい環境の中で書かれました。

2泊3日の行程を終えて、昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻より帰って参りました。都度都度、レポートいたしましたが、書ききれなかった件等を。

10月27日(日)、「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演のため訪れた東北本線花巻駅前のなはんプラザさん。
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午後からの本番に向け、午前中に会場設営を行い、それが終わったところで館内をぶらぶら。すると、一階ロビーでこんな看板を見つけました。阿部正介氏という方の作品だそうで。
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「切り絵「昔の花巻展」」。3階の展示コーナーで開催中とのこと。光太郎が7年間の蟄居生活を送った山小屋・高村山荘もあるじゃん、というわけで、早速拝見に。
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ずらっと10点の色鮮やかな切り絵作品が並んでいました。

雪に覆われた高村山荘。
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よく見ると(よく見なくても(笑))、入口には光太郎の姿も。
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石ノ森章太郎先生の「サイボーグ009」に出てくる死の商人「ブラックゴースト」の首領・スカール(じつは自身もサイボーグで傀儡でしたが)か、と突っ込みたくなりましたが(笑)。
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キャプション。
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他にも光太郎ゆかりのスポットが。

光太郎も愛した大沢温泉さんにかつてあった建造物。
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当方手持ちの古絵葉書。
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今の山水閣さんの新しい建物がある一角だと思うのですが、これが残っていないのは残念です。

光太郎が訪れ、息女・聡子さんのピアノ演奏を聴かせてもらった旧菊池捍(まもる)邸
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光太郎にピアノ演奏を聴かせた聡子さんは、今回の対談のメインテーマ「花巻賢治子供の会」の児童劇で、劇中歌の作曲も担当していました。
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宮沢賢治がらみも。
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帰ってから調べましたところ、作者の阿部正介氏、元は市の職員であらせられたそうで、これまでも同じなはんプラザさんや市内の図書館、宮沢賢治イーハトーブセンターさんなどで作品展が繰り返し開催されていました。

花巻にはこの手の作品の題材となる建造物等がかなり現存していますし、観光推進のためにも、さらなるご活躍を期待したいところです。

ところで、このコーナーの裏側では、こんな催しも。いわずもがなですが、大谷翔平選手は花巻東高校さんのご出身ですので。
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この日は第2戦。
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意外と人がまばらでした。皆さん、ご自宅などでBSの放映をご覧になっていたのではないでしょうか。旅人の当方としてはありがたいところでした。

ちょうど9回表のヤンキースの反撃の場面で、大谷選手、山本投手を擁するドジャースは1点返され4-2、なおも2死満塁のピンチ。「うわぁ~」と思いながら観ました。しかし、最後の打者が中飛に倒れ、「よっしゃ~」。

大谷選手は走塁の際のアクシデントで負傷とのことでしたが、今日も先発出場だそうで、大事に至っていないことを祈念いたしております。

ちなみに花巻の街は、どこへいっても大谷一色。

新花巻駅(左下)。伊藤園さんの自販機(右下)。
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一泊させていただいたホテルグランシェールさんロビー。
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リンゴを買いに立ち寄った道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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肖像権の問題等もあるかもしれませんが、切り絵の阿部正介氏、大谷選手やその先輩・菊池雄星投手らの切り絵も手がけられてはいかが? などとも思いました(笑)。もっとも、すでにやられているかもしれませんが。

以上、花巻レポート補遺を終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生の足のサイズを御記憶ありて心にかけてこの短靴をお探し下さった御厚情に心をうたれました、使用中のもの既に破れはてて居りましたので此の春から早速役に立ち、まことにありがたく存じます、


昭和25年(1950)2月14日 田口弘宛書簡より 光太郎68歳

身長180センチ超と、当時としては大男だった光太郎、足のサイズも昭和5年(1930)のアンケート回答「自画像」には、「十三文半」と書いています。一文が約2.5㌢ですので、おおむね33.75㌢となります。実際にはもう少し小さかったようですが、それでも既製品ではなかなか合うものが見つけられず苦労のし通しでした。

のちに埼玉県東松山市教育長となられた故・田口弘氏。進駐軍の横流し品か何かで大きな靴を見つけ、光太郎に送って下さいました。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手花巻に参りまして、現在、光太郎も愛した大沢温泉♨️さんにてこれを書いております。画像は昨夕の到着時ですが。
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昨日は東北本線花巻駅前のなはんプラザさんでされた「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」に出演させていただきました。
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「花巻賢治子供の会」は、戦後の花巻で児童教育に携わっていた照井謹二郎.登久子夫妻が主宰していた児童劇団で、戦争で荒んだ子供たちに宮沢賢治の童話などを通じて豊かな情操を育てたいとするものでした。

そもそもはそれほど肩肘張ったものではなく、花巻郊外旧太田村の山小屋に隠棲していた光太郎の慰問から始まりましたが、光太郎らの援助や助言を糧に、地域に根付いて行きました。光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京した昭和27年(1952)までは、おおむね春(太田村)と秋(花巻中心街)で年2回公演し、記録に残る限り光太郎はそれらを7回観覧、毎回非常に楽しみにしていました。

光太郎が岩手を去り、さらに没してからも活動は続き、賢治作品に新たな形で息を吹き込むことに多大な貢献がありました。

−−というようなアウトライン的な内容を、まず当方が語らせていただきました。

続いて、当時実際に光太郎の前で劇を披露なさったお二人、熊谷光さん、高橋則子さんによる「雪渡り」朗読劇上演。
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さらに地元のラジオで光太郎作品等の朗読もなさっている高橋さんは、光太郎詩「山からの贈り物」(昭和24年=1949)もご披露くださいました。

休憩をはさみ、賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏。お母様の潤子さんが「花巻賢治子供の会」の役者さんでしたし、お祖母さまの愛子さんも照井夫妻と親しく、劇団創設に関わられました。
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こちらでも貴重なお話を伺えました。

最後に4人で登壇、さらにやはり「花巻賢治子供の会」のメンバーだった(在籍されていたのは光太郎没後)元アナウンサーの田中しのぶさんの司会で、フリートーク。熊谷さん、高橋さんに光太郎とのそれを含む当時の思い出を語って頂いたりしました。

あまり知られていないさまざまなエピソードなども紹介され、非常に良かったと思いました。

さらに会場には照井夫妻の子息にして、「花巻賢治子供の会」ではアコーディオンで劇伴音楽を担当されていた義彦氏もいらしていて(当初予定ではいらっしゃらないとのことだったのですが)、終演後にこれまた貴重なお話を伺うことができました。
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第二の故郷・花巻にはまだまだ生前の光太郎をご存知の方々がご健在。今後ともその方々の証言など掘り起こされて行って欲しいものです。

報道など為されましたらまた改めてご紹介いたします。

昨日から2泊3日の予定で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に来ております。今日がメインの目的で、東北本線花巻駅前のなはんプラザさんで開催される「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」で登壇、宮沢賢治実弟・清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏、昭和20年代に児童劇団「花巻賢治子供の会」で光太郎に演劇を披露なさったお二人、計4名での公開対談です。

昨日、花巻入りし、あちこち廻りました。賢治にもからむ対談を控えていますので、賢治テイストにも触れておこうと、まずは新花巻駅で借りたレンタカーを東に向け、遠野市へ。賢治が「銀河鉄道の夜」の構想を得た場所の一つとされる「めがね橋」へ。橋上を走る釜石線に乗って通ったことはありましたが、下から見るのは初めてでした。
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すぐ目の前の道の駅みやもりさん。賢治関連のミニ展示などもなされていました。
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反転して西へ。いったん賢治から離れ、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。企画展「高村光太郎 書の世界」が始まっており、そちらの観覧。
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いい感じに紅葉も始まりました。
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相変わらず案内板や看板類には熊の爪とぎ痕が。くわばらくわばら(死語ですね(笑))。

さて、書を拝見。
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各出品物の細かなご紹介は帰ってからまた改めて致します。今回、これまで展示したことがないものも出ています。特に「へー」と思ったのは、戦前の書で、一時期交流が深かった画家の宅野田夫(でんぷ)の画に光太郎が賛を書いたもの。戦後にはそういう例もありましたが、戦前にもこういうものがあったかという感じでした。
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隣接する高村山荘(光太郎が7年間暮らした山小屋)へ。
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毎度のことながら光太郎遺影に手を合わせて参りました。

小屋の周りには光太郎がこよなく愛した栗。
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レンタカーを花巻市街に向けました。

途中、古民家を保存、公開、活用している施設「新農村地域定住交流会館・むらの家」さんの前を通ったら、先月も並んでいた案山子(かかし)がパワーアップしていました。道の駅はなまき西南(愛称.賢治と光太郎の郷)さんに並んでいたものもこちらに集約されていました。
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光太郎案山子も。
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久々に桜町の賢治詩碑に詣でました。碑文の揮毫は光太郎、日本初の賢治詩碑です。
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記憶がはっきりしないのですが平成28年(2016)の賢治祭でこの碑の前に立って講話をさせていただいた時以来かな、という感じでした。

そこから見える「下の畑」も遠望。
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定宿の大沢温泉さんは土曜日は一人だと予約を受け付けておらず、駅前のグランシェール花巻さんに宿泊(今夜は大沢温泉さんですが)。
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昨年、リニューアルがなされ、やはり賢治関連のミニ展示コーナーが設けられました。名付けて「宮沢賢治探索隊本部」だそうで(笑)。

パネル展示など意外と充実していますし、面積もそこそこ確保されています。宿泊客意外にも公開しているようです。
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夕食はすぐ近くのいとう屋さんで。光太郎が花巻市街で最も多く足を運んだ食堂です。
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そして夜が明け、今朝の日の出。
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これからなはんプラザさんで会場設営です。

取り急ぎ、ぃったん終わります。

たまたま偶然でしょうが、昨日、東北の地方紙二紙の一面コラムで光太郎が取り上げられました。

まずは『秋田魁新報』さん。

北斗星

2人の女性が向き合う姿で知られる十和田湖畔の「乙女の像」だが、作者の高村光太郎は当初1人だけの像を考えていたという。湖や森を思い浮かべながら構想を練るうち、同じ像を二つ並べるアイデアが浮かんだ。例のない像だったが、現地で見れば周囲と調和していると分かると語っている(「高村光太郎全集11」より)▼「地上に割れてくづれるまで/この原始林の圧力に堪へて/立つなら幾千年でも黙って立ってろ」。像に寄せた詩からは、この場所にふさわしいものを作ったという自負が伝わってくるようだ▼乙女の像が建立されて約70年、十和田湖周辺は変わり続けた。観光客が増え、ホテルや観光施設ができた。しかしバブル崩壊や東日本大震災で客足は減少。ここ十数年は、像がある休屋地区などでホテルや店舗の廃屋が目に付くようになっていた▼先日、久々に乙女の像を訪れると、対岸に新しい建物があるのが見えた。小坂町などが整備した道の駅だ。「十和田湖開発の父」とされる和井内貞行と妻カツが寄り添う銅像もあり、特産のヒメマスをPRしている▼国は十和田湖などの国立公園に、訪日外国人らを呼び込む事業に力を入れている。道の駅もその一環。廃屋も徐々に撤去されて、新たな宿泊施設の誘致に向けて地元で協議が始まった▼再び変わり始めた十和田湖。期待もあるが、オーバーツーリズムなどの不安もよぎる。観光地と国立公園。開発と保全。さて、どんな調和を目指すべきか。

十和田湖は秋田県と青森県にまたがり、光太郎最後の大作「乙女の像」は青森県側の十和田市休屋地区に存在します。
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指摘されている通り、周辺にはかつてホテルや土産物店、飲食店だった建物の廃屋が目立ちます。地元で自嘲的に「ゴーストタウン」と称されることも。残念です。

そんな中、これもコラム中にありますが、秋田県側の小坂町に新たに「道の駅「十和田湖」」がオープンしました。今月12日のことでした。

NHKさんのローカルニュース。

小坂町に道の駅「十和田湖」オープン 観光客でにぎわう

 12日、小坂町に道の駅「十和田湖」がオープンし、十和田湖観光に訪れた大勢の人たちでにぎわいました。
 道の駅「十和田湖」は、小坂町の新たな観光拠点として十和田湖の南側の湖畔に整備されました。
 建物は湖が見渡せる高台にあり、施設の中には、十和田湖の成り立ちや名産のヒメマスの養殖の歴史、それに小坂町の観光名所などがわかりやすく展示されています。
 また、ワインや蜂蜜といった町の特産品や隣接する鹿角市のりんごやぶどうを販売するコーナーも設けられています。
 オープン初日となった12日は好天にも恵まれたこともあり、周辺の道路が一時渋滞するほどで、訪れた大勢の人たちは展示コーナーを見学したり、施設から望む十和田湖の写真を撮ったりして楽しんでいました。
 岩手県の40代の男性は「きれいでとてもいい施設ですね。これから奥入瀬渓流など十和田観光を楽しみたいです」と話していました。
 道の駅は、去年10月にオープンする予定でしたが、特別名勝などに指定されている十和田湖での工事には文化庁の許可が必要で、その申請に向けた事務手続きが行われていなかったため、駐車場の工事が遅れ、オープンが延期されていました。
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観光の新たな拠点となることを期待いたします。

続いて『岩手日日』さん。

日日草

「沈深牛の如(ごと)し」。詩人で彫刻家の高村光太郎は詩「岩手の人」の中で、県人を寡黙で辛抱強く、思慮深い牛のようだと評した。牛は昔から岩手の人々にとって馬と同様に極めて身近な存在だった▼そんな牛と岩手との関わりに焦点を当て、県立図書館が春から夏にかけて開いた企画展。肉牛や乳製品のほか、農耕や運搬に使う役牛として人々の暮らしを支えた歴史、文化などを豊富な資料で紹介した▼江戸時代に沿岸部の産物を内陸に運んだルートを「塩の道」と呼び、重い荷を背に北上高地を越えるには馬より足腰の強い牛が適していたこと。途中、歌われたのが「南部牛追唄」で、隊列の先頭に立つ最強の雄牛を決めるため闘牛大会があったことなどを展示で知った▼開催中、牛を通年で山に放牧する山地酪農に挑み続ける田野畑村の酪農家を24年間追ったドキュメンタリー映画も上映。豊かな自然の中で厳しい現実に向き合いながら希望を持って暮らす大家族の日常が丹念に描かれていて引き込まれた▼日本短角種の産地、久慈市は闘牛の素牛を全国に供給する。東北で唯一の闘牛大会が年4回あり、今年最後の「もみじ場所」があす開かれる。普段は目にすることのない迫力ある闘牛を間近に見れば、牛へのイメージが変わるかもしれない。

008牛と岩手との関わりに焦点を当て、県立図書館が春から夏にかけて開いた企画展」は、「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」。タイトルからして光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)由来でした。

会期中の6月に花巻に行きましたので、その際に盛岡まで足を延ばせば良かったのですが、失念しておりました。直接、光太郎に関わる展示物は無く、解説パネルに「岩手の人」が紹介されていた程度のようでしたが、今になって後悔しております。

同様に直接、光太郎に関わる展示物は無く、解説パネルに光太郎の文章が引用されているという企画展示が都内で開催中という情報を得まして、明後日、また上京する用事がありますから廻ってきます。

【折々のことば・光太郎】

雪の上の足あとウサギ キツネ一列なり


昭和25年(1950)1月11日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳
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便箋(というかおそらく原稿用紙)の余白に描いたスケッチから。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺でのものですね。

松下は中央公論社の編集者。

同じ日に、美術史家の奥平英雄の妻・ちゑ子に贈った書簡にはさらに詳しいキャプション入りのスケッチが描かれていました。
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まずは状況をわかりやすくするために地方紙『岩手日日』さん報道から。

お気に入り求めどっと 東和・土澤アートクラフトフェア 商店街に活気 光太郎作品基にレモンケーキ 花巻南高家庭クラブ提供

 県内外のものづくり作家らが集う「土澤アートクラフトフェア2024秋」(実行委主催)は13日、花巻市東和町の土沢商店街、萬鉄五郎記念美術館前を会場に2日間の日程で始まった。好天の下にクラフトやグルメなど約380店が軒を連ね、大勢の来場者で初日から活況を呈した。
 歩行者天国となった会場には、木工品や革製品、似顔絵、手作り雑貨、楽器、衣類、陶芸、釣り具、ペット用品など多種多様のブースが並び、訪れた人が店主と会話を弾ませながらお気に入り商品を買い求めた。
 飲食の出店や食材・菓子などの販売ブースも並び、フードコートで昼食を取る家族連れの姿も。沿岸ならではの海の幸や地元特産品などが人気を集めていた。
 彫金の宝飾などを製造するアトリエKAZU(東京都)の高田和彦さん(77)は、オリジナルの指輪やネックレスのほか、さまざまな職業の商売道具をモチーフとする「IKIGAIシリーズ」のペンダントトップなどを販売。「何度も出店しているが、今年は天気が良く、特に人出が多いと感じる。みんなおしゃれをして集まっており、雰囲気が良いのものこイベントの魅力だ」と語った。
 10回以上訪れているという盛岡市の齊藤直美さん(55)は「県外の作家に出会えるチャンスは、岩手では貴重。例年通り、良いものがそろっている。帽子やアクセサリーが欲しくて見に来た。幅広い年齢の人たちが遊びに来ているのが素晴らしい」と話していた。
 県立花巻南高校家庭クラブは13日、花巻ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の「レモン哀歌」を基に製造した「レモンのパウンドケーキ」を土澤アートクラフトフェアで提供した。
 同クラブは、光太郎について調査・研究する団体と交流したり、顕彰イベントに参加したりして先人への学びを深めている。
 ケーキは、表面を覆うアイシングや生地にレモン汁を加えており、中までレモンの風味を感じられる。光太郎の顕彰活動に取り組む「やつかの森合同会社」(藤原正代表)が、同フェアに合わせて土沢商店街のワンデイシェフの大食堂で販売する「こたろう弁当」(1200円)を購入した人に100個限定でプレゼントした。
 レモンの果肉、皮を使うと食感や苦味が残るため、レモン汁だけで酸味や爽やかさを表現したといい、同日は東和町出身の1年生2人が接客。菅原美優さんは「光太郎さんのことはよく知らなかったが、勉強する中ですごい人が花巻にいたんだと感じた」、小原優羽奈さんは「自分たちの世代や、さらに下の小中学生にも光太郎さん、智恵子さんのことを知ってほしい。レモンケーキがそのきっかけになれば」と話していた。
 光太郎が秋の花巻でおいしさを再認識したというキノコやクリ、リンゴなどを使った同弁当は14日も数量限定で販売するが、パウンドケーキは提供されない。

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こちらが問題の(特に問題はありませんが(笑)))パウンドケーキ。
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ラッピングなど、高校生の手作りのレベルを超えていますね。もちろんお味もよろしかったようで。
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家庭クラブのお二人、今年6月に花巻で行われたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の際に発表のあった智恵子のエプロンの再現にも関わられました。こういう若い世代が関心を持って下さるのは実に有り難いところです。

やつかの森LLCさんが手がけた「こうたろう弁当」はこちら。やつかの森さんのメニュー構成は光太郎が実際に作った料理の現代風アレンジや、光太郎が使った食材の使用など、常に光太郎がらみです。
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2日間でそれぞれ異なるメニューで販売されたそうです。
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これも素晴らしいと思いました。

さらにやつかの森さんがメニュー考案に協力され、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のテナント「ミレットキッチンフラワー」さんで毎月15日に販売されている弁当「光太郎ランチ」の今月分。
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生野菜系が苦手な当方としては、今月のメニューはナイスだと感じました。これなら毎日食べてもいいかな、と(笑)。

何度も引用していますが、光太郎、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」で「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。この背後には、野菜類の自給自足、山林での食材採集に余念がなかった光太郎ならではの信念が込められています。

その信念を受け継ぎ、花巻南高校家庭クラブさん、やつかの森さんがさらなるご活躍をなさることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

ローマイヤアの店が又出来たと見えます、お贈りのハムはすばらしい事でせう。

昭和25年(1950)1月11日 中原綾子宛書簡より光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の光太郎、東京の友人知己達から食材を贈られることも多く、それでかなり助かっていました。特に好物なのに自給できない肉類などはことのほか有り難く感じていたようです。

「ローマイヤア」は現代でも続く「ローマイヤ」さんですね。光太郎、おそらく戦前に銀座のレストラン部門、あるいは商品を卸していた上野の精養軒さんあたりで舌鼓を打っていたのでは、と思われます。

昭和23年(1948)に結成され、光太郎が名付け親となった「花巻賢治子供の会」という児童劇団がありました。主に宮沢賢治の童話を劇化、第一回の公演は光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の山小屋前で行われ、その後しばらく、春には旧太田村、秋には花巻町中心街での公演というスパンで続きました。光太郎が花巻を離れた後も活動は続き、平成9年(1997)までに公演回数は160回を超えたそうです。

その「花巻賢治子供の会」で実際に光太郎の前で演技をなさった当時のお子さん、お母さまが「花巻賢治子供の会」のメンバーだった宮沢和樹氏(賢治実弟・清六令孫)、そして当方でのトークショーです。

令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談「光太郎と花巻賢治子供の会」

期 日 : 2024年10月27日(日)
会 場 : なはんプラザCOMZ ホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号 
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた花巻賢治子供の会の会員より当時の活動の思い出をうかがい、光太郎の想いや賢治とのかかわりを学びます。

講 師 : 宮沢和樹  株式会社林風舎代表取締役
      熊谷 光  花巻賢治子供の会元会員
      高橋則子  花巻賢治子供の会元会員
      小山弘明  高村光太郎連翹忌運営委員会代表
司 会 : 田中しのぶ 花巻賢治子供の会元会員
チラシ表
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「花巻賢治子供の会」。主宰していたのは、花巻農学校での賢治の教え子の故・照井謹二郎氏と奥様の登久子氏。お二人とも小学校教諭、退職後は花巻で幼稚園経営をなさっていました。戦前から近所の子供達を集め、賢治の詩や童話の読み聞かせ、朗読の指導などを行っていました。戦後になり、戦争は終わったにも関わらず、戦争ごっこを続けている子供達の姿に愕然とし「これではいけない」と活動を再開したとのこと。

その頃、賢治実弟・清六の妻、愛子に「一緒に光太郎先生の山小屋に行こう」と誘われた登久子氏(戦時中から光太郎と面識はありました)、「何の手土産も用意できないから……」といったんは断ったものの、子供達の演劇を披露して娯楽の少ない山村暮らしの光太郎を慰問しようと思い立ったとのこと。そして昭和22年(1947)の6月に、旧太田村の光太郎の山小屋前で第一回公演を打ちました。

以後、記録に残る限り、太田村と花巻町中心街で光太郎は7回公演を観ています。光太郎が観た演目で把握できている賢治作品は「雪渡り」「カイロ団長」「どんぐりと山猫」「雁の童子」「風の又三郎」「狼森と笊森、盗森」「かしわ林の夜」。他にオリジナルの劇もあったようです。元々若い頃から芝居好きだった光太郎でしたし、特に戦後、青少年の健全育成には協力を惜しまなかったところもあり、公演の観覧を楽しみにしていました。

子供達の素朴で、しかし生き生きと演じる姿に好感を感じていたらしく、公演回数を重ねだんだん手応えを感じてきた登久子氏が「東京に出て本格的に演出などを学びたい」ともらすと、「そんなことをして変な児童劇臭さがついたらどうするのか。今のままが一番良い」とたしなめたそうです。

賢治童話の劇化ということで、賢治実弟の清六・愛子夫妻もサポート。お二人の令嬢で今年亡くなられた潤子さんも団員の一人として舞台に立たれていました。そこで潤子さん令息の和樹氏にもお話を伺います。

そして、実際に光太郎の前で演じられたお二人。貴重なお話が聴けることと存じます。
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画像の左下に写っている熊谷光さんと高橋則子さんのお二人です。ちなみに光太郎が二列めの右から3番目にいますが、その左後ろが清六、最後列には潤子さんもいらっしゃるようです。昭和27年(1952)、光太郎最後の観覧の際の集合写真です。
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登久子氏は昭和25年(1950)に脚本集『どんぐりと山猫』を十字屋書店から出版。光太郎にも触れられていますし、光太郎はこれを贈られて絶賛しました。

また、照井夫妻の近所に住んでいた菊池捍(まもる)の息女で、光太郎にピアノ演奏を聴かせてあげた聡子氏も音楽方面でサポートしていたこともわかりました。

そんなこんなでの1時間半。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

東京の連中はどうしてゐるかと時々おもひます、みな生活が中々困難だらうと思ひます、勢ひいろんなアルバイトをやらねばならないでせう。此間ラジオの娯楽番組の中へ草野心平が出てきて、唄をうたつたので面白かつたのですが、これもアルバイトの一つでせう。


昭和25年(1950)1月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎68歳

当会の祖・心平。「何やってんだ」という感じですが(笑)。

昨日、智恵子の故郷・福島二本松で開催されたイベント「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」についてレポートいたします。

「智恵子純愛通り記念碑」というのは、智恵子生家前の約2キロに「智恵子純愛通り」と愛称を付け、智恵子没後70年の顕彰事業として平成20年(2008)に建立されたものです。揮毫は光太郎の令甥、故・髙村規氏でした。 この碑の前にベンチ等設置されていてちょっとしたスペースになっており、そこが最初の会場でした。
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今年、新たに碑のかたわらに光太郎と智恵子の言葉を印刷した大きなボードが設置され、その除幕式を兼ねての実施。ボードの題字揮毫は書家の菊地雪渓氏でした。
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上記は式典後の画像ですが、ここから時系列に沿ってご紹介します。
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除幕に続き、主催者挨拶。三保恵一二本松市長他の祝辞。
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智恵子母校・油井小学校の児童さんなどによる碑への献花。
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油井小学校児童さん、安達中学校生徒さん、さらにやはり智恵子母校・福島高等女学校の後身である橘高等学校生徒さんによる光太郎詩朗読。
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一般の方々も。

光太郎智恵子に関わる文章等も書かれている吹木文音氏。
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主催団体「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの会員の方。
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全員で「ふるさと」を唄ったり、記念撮影をしたりで、ここでのプログラムは終了。

続いて智恵子生家に移動。
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こちらの座敷で、紙芝居「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演。作者で、智恵子が学んだ太平洋画会の後身・太平洋美術会ご所属の坂本富江氏によるものでした。坂本氏、書籍『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』を刊行なさったり、光太郎智恵子それぞれの母校、荒川区立第一日暮里小学校さん、油井小学校さんに招かれたりと、多方面でご活躍中です。
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智恵子の生涯を追うのがメインですが、没後のことも。そこで、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を制作し、終焉の地となった中野の貸しアトリエなども。
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この紙芝居を元にした絵本が制作中で、今年中には刊行されるようです。

その後、近くの地区集会所的な建物に移動して、昼食。
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献花や朗読をして下さった児童生徒さん達にもあらためてスピーチをしてもらったりと、盛りだくさんでした。

ちなみにこちらの壁には、裏山にある光太郎詩「樹下の二人」碑の拓本が掲げられていました。
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昼食後、再び智恵子生家に戻り、吹木氏をご案内。「高村智恵子 レモン祭」期間ということで11月4日(月)までの土日・祝日には通常非公開の生家二階部分の公開が行われています。
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一階もドサクサに紛れて(笑)。
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毎年、春には「高村智恵子 生誕祭」、秋には「高村智恵子 レモン祭」としていろいろなコンテンツが用意されますが、マンネリとならないよう、さらに進化し続けていって欲しいものです。

以上、二本松レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

一昨夜足をすべらして前額に擦過傷をうけ、一太刀うけた形でございます。カサブタが多分その頃までにはとれないだらうとも考へますのでどうかと存じます。

昭和24年(1949)12月27日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

正月となるし、町へ出て来ないかという誘いに対する返答です。結局、例年通り花巻郊外旧太田村の山小屋で越年しました。

昨日から一泊二日で智恵子の故郷、福島二本松に来ております。

今日行われる、地元の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催のイベント出席のためですが、他にも廻りたいところが色々あって、前乗りいたしました。

色々のその1、大山忠作美術館さんでの「開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」。智恵子と同郷で、智恵子をモチーフとした作品も複数描かれている日本画家の故・大山忠作画伯が、成田山新勝寺さんに依頼された襖絵をメインとしたものです。
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襖絵は撮影可でした。ありがたし。
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新勝寺さんは当方自宅兼事務所の隣町にあるのですが、初めて拝見しました。大迫力と美しさに圧倒されました。

ロビーには画伯の本作制作風景のパネル展示なども。
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画伯のご息女で女優の一色采子さんは昨日はいらっしゃらず残念でしたが。

普段、常設で展示されている作品群は、他の展示スペースに。こちらには智恵子モチーフの作品も(撮影不可)。
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拝観後、すぐ目の前の二本松駅へ。光太郎の父.光雲の孫弟子、故・橋本堅太郎氏制作の智恵子像にご挨拶。
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その後、安達太良山に向かいました。
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山頂までは登りませんでしたが、ロープウェイで薬師岳パノラマパークへ。
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天気が良かったのが幸いでした。

下山し、道の駅「安達」智恵子の里さんへ。
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宿泊は郡山。

このあとまた二本松に戻り、イベントに参加してまいります。

昨日は上京しておりまして、千駄木浅草新宿と三ヶ所を廻っておりました。レポートしなくてはならないのですが、今日もこれから二本松でして、ゆっくり書いている暇がありません。後に回します。

そこで本日は、群馬の地方紙『上毛新聞』さんの一面コラム、10月9日(水)掲載分です。

三山春秋

▼彫刻家で詩人の高村光太郎は晩年、岩手・花巻に暮らした。空襲で東京のアトリエを焼け出され、宮沢賢治の実家を頼って疎開した。山小屋での1人暮らしはおよそ7年に及んだ▼畑に育つもの、山に生えるものを食べる自給自足の生活。キノコは図鑑と見比べ、「食」と書いてあるものは何でも食べてみた。小屋は栗林の真ん中にあり、採りきれないほどたくさん実がなった。栗飯を炊いたり、ゆでたり、いろりで焼き栗にしたりして毎日味わった▼時には村の人たちがかごを持って栗拾いにやって来た。山の奥へ奥へと入っていき、クマの気配に驚いて逃げ帰った人もいたという。クマもまた冬眠に備え、秋の味覚を満喫していたのである▼近年は山奥だけでなく、人里や、地域によっては市街地でも出くわすことがある。この秋も注意が必要だと県が呼びかけている。主食となるドングリや栗などの実りが悪いらしく、山に餌がなければ人里に出てくる危険が高まる▼廃棄の農作物を放置しない。果樹は早めに収穫し、収穫しない木は切る。隠れ場所となるやぶを刈り払うなど、人里に引き寄せないことが重要だという。対策を万全にして、すみ分けを目指したい▼暑さが去ってようやく秋の味覚の出番になったが、山中と同様にわが家の栗も今年は不作である。「9月末になるとほとんど栗責め」だったという光太郎がちょっとうらやましい。

秋の味覚のシーズンとなり、旬の話題ですね。

光太郎が戦後の昭和20年(1945)から同27年(1952)までまる7年間、独居自炊の生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋、「栗林の真ん中」というわけではありませんが、確かに周囲には栗の木がたくさん自生しています。そこで、貴重な食料源の一つでした。

しかし、奥羽国境山脈の麓ゆえ、クマったことに(笑)クマの生息地でもあります。光太郎が居た頃はあまり人里に降りてくることも多くなかったのですが、現代は却って昔よりひどい状況になっています。先般、現地に行った際も、山小屋裏手の智恵子展望台方面への散策路は立ち入り禁止にしてありました。隣接する高村光太郎記念館さんの看板などは、クマの爪とぎ痕で傷だらけです。
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花巻市では、市街地でもクマの出没情報が多数出ています。当方も昨年だったと記憶していますが、夕方、市街地でレンタカー運転中、河原に黒い塊が見え、「ありゃクマなんじゃないか?」でした。

また、今年の4月でしたか、光太郎や宮沢賢治に愛された大沢温泉さんの駐車場にあるゴミ捨て場にクマが現れた映像がニュースで取り上げられていました。

ところでクマと言えば、X(旧ツイッター)上の書き込みなどに、「光太郎が素手でクマを倒したことがある」的な書き込みが散見されます。
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サンドー式体操(ボディビル)で肉体を鍛え、ニューヨークではレスリングだかボクシングだかの経験者だった同級生をねじ伏せた、身長180センチ超の光太郎でしたが、残念ながら「素手でクマを倒した」という事実は確認できていません。

上記画像最後の方が書いてらっしゃるように、ゲームか何かの二次創作でそういうエピソードがあったのかも知れませんが、真に受けないようにお願いいたします。

それにしても、クマにも罪はないわけで、「倒す」のではなく、何とか共存共栄を図りたいものですね。

【折々のことば・光太郎】

詩集を編さんしてもいいとの事、感謝します、批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます。


昭和24年(1949)12月17日 伊藤信吉宛書簡より 光太郎67歳

「詩集」は翌年刊行され、現在でも版を重ねている新潮文庫版『高村光太郎詩集』。ただ、昭和43年(1968)に改版となり、それまでの版に含まれていない昭和25年(1950)以後の詩も収められました。

次のようなやりとりがあったようです。

新潮社「高村先生のお若い頃から近作までを集めた詩集を文庫で出したいのですが」
光太郎「そりゃかまいませんが、自分で編んでいる暇がありません」
新潮社「では、どなたか信頼の置ける方に編集と解説をお願いするというのはどうでしょう」
光太郎「草野心平君が適任でしょうが、彼は他社でやってますからね。他の心当たりに頼もうと思うのですが」
新潮社「なるほど、では、高村先生の方で内諾を取っていただけますか?」
光太郎「お願いしてみましょう」

そして伊藤に打診、すると伊藤からは、作品選択(戦時中の翼賛詩も含める)や解説で「批判的」な態度を取るやもしれませんがそれでもいいのなら、的な返答が来たようで、さらにそれへの返信です。

批判的であることも小生の望むところです、出来るだけ本当の批判をうけたいのです、それは自己検討の為にも役立ちます」。まさしく『論語』の「六十而耳順(六十にして耳したがう)」ですね。

昨日に続き、智恵子の故郷・福島二本松ネタで。告知ではなく、レポート系ですが。

二本松市内の岩代公民館さんで発行している『岩代公民館だより』から。

9月13日(金) 新殿セミナー オンラインでつなぐ 全国ご当地体操教室

9月の新殿セミナーとして、「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」を開催。オンラインで全国の公民館とつながって、各地のご当地体操で体を動かしました。岡山県玉野市中央公民館から「タマニサイズ」、福岡県福岡市別府公民館からは「黒田節体操」、千葉県流山市東部公民館から「ゆめみるチーバくん体操」、岡山県矢掛町小田公民館からは「矢掛町オリジナル体操」を紹介いただき、新鮮な気持ちで音楽に合わせて頭も身体も動かして楽しみました。二本松市の体操としては、「ほんとの空体操」を紹介しました。全国各地のお祭りやゆるキャラ、地域の特徴などもご紹介いただき、旅行気分で楽しみました。講座の最後にはみんなで「チーバくんのポーズ」で締めました。岡山県在住の福島県出身の方とオンラインでお話する機会もあり、全国とのつながりを感じました。
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「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」。その名の通りのイベントで、全国の6県の公民館をオンラインでつなぎ、参加者が一緒に健康体操をするというものだそうです。定期的なのか不定期なのか、ともかく初の試みではないということですが。

当方自宅兼事務所のある千葉県からは県北西部の流山市東部公民館さんが参戦(って、別に戦っていませんが(笑))。

流山市さんのサイトから。

東部公民館「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」

 令和6年9月13日(金曜日)、東部公民館で全国の公民館をオンラインでつなぎ、参加者が一緒に健康体操をする「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」が開催されました。6月に続き、2回目の開催です。東部公民館からは総勢31人の方が参加し、ファシリテーターの水代登紀子さん(当公民館講座「いきいきスクエアステップ」講師)と一緒に、千葉県のマスコットキャラクター・チーバくんのテーマソング&ダンス「ゆめみるチーバくん」を披露しました。
 今回オンラインで繋がった公民館は、富山県高岡市福岡公民館、福井県永平寺町上志比公民館、福島県二本松市岩代公民館、福岡県福岡市別府公民館、岡山県玉野市中央公民館、同県小田郡矢掛町小田公民館と千葉県流山市東部公民館の全国6県7館です。
 最初に、参加者の皆さんが交代で、各地域の今日のお天気や、地域のお祭り、ゆるキャラを紹介しました。その後実施した健康体操は、「タマニサイズ」(岡山県玉野市)や「矢掛町オリジナル体操」(岡山県矢掛町)、「智恵子抄」の詩に由来する「ほんとの空体操」(福島県二本松市)など、ご当地色豊かな内容でした。また、「黒田節体操」(福岡県福岡市)では、事前に別府公民館から届けられた扇子を使って、会場の全員で黒田節の曲に合わせて体操をしました。
 東部公民館は、千葉県の成田市と茂原市の夏祭りを紹介したあと、ご当地ダンスとして「ゆめみるチーバくん」を全国各地の会場の皆さんと練習し、皆で踊りました。会場は大変盛り上がり、最後の記念撮影では、千葉県の形を表現したチーバくんポーズを参加者全員で決めました。終わってからのおしゃべりタイムでは、他会場から「昔、流山に兄が住んでいました。なつかしいです」という声もありました。
 参加者からは「楽しく体を動かせてよかった」「全国各地の特色ある体操を知れて新鮮だった」「次回も参加したい」「故郷が福岡なので懐かしい気持ちになった」などの声があり、オンラインで全国と繋がる新たな形の交流に大きな反響がありました。オンラインご当地体操は、12月13日(金曜日)、令和7年3月14日(金曜日)にも開催予定です。お時間ある方は、ぜひ一緒に楽しみましょう。

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「智恵子抄」の詩に由来する「ほんとの空体操」」の一節があったので、こちらの情報が先にヒットしました。

「ほんとの空体操」は、二本松市さんで平成27年(2015)に作られたもので、その2年前に故・湯浅譲二氏作曲で制定された「二本松市民の歌」に合わせて振り付けられました。元々のコンセプトが「介護予防のための健康体操」ということでしたが、かつては市役所職員の皆さんが朝礼で毎朝演舞していたとのこと。かつて、というか、今でもやられているのでしょうか? また、コロナ禍で「ステイホーム」と騒がれていた時期には、各家庭での実施を市で広く呼びかけてもいました。
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ところで我が千葉県からは「ゆめみるチーバくん」。パパイヤ鈴木さんの振り付けで作られたものですが、なかなかハード。高齢者の皆さん、これをやって大丈夫? という感じなのですが(笑)。
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千葉県には別に「なのはな体操」というのがあるのですが、どうもオワコン化しつつあるようで(笑)……。

「ほんとの空体操」は滅びずに愛され続けてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

いろいろ妨げられる事が多く、先日も北陸の方から山師坊主がおしかけてきて下らぬことに小生を参加させようとして追つぱらふのに骨でした。


昭和24年(1949)12月15日 西出大三宛書簡より 光太郎67歳

詳細はわかりませんが、こういうことが常態化していたようで……。

JR東日本さん主催のイベントです。

駅からハイキング&ウオーキング 秋のにほんまつ奥州街道 新旧のスイーツ店が点在する城下町を散策

期  日 : 2024年10月1日(火)~12月25日(水)
会  場 : 東北本線二本松駅~同安達駅 約6.0km
受付場所 : 二本松駅構内観光案内所
受付時間 : 9:30~11:30
ゴール時間 : 安全にご参加いただくため16:30までにゴールしてください。
料  金 : 無料

二本松~安達駅間、スイーツ求める美味しい旅
 JR東日本の「駅からハイキング&ウオーキング」イベントで、和洋菓子店をめぐりながら二本松~安達駅間を歩く「秋のにほんまつ奥州街道 新旧のスイーツ店が点在する城下町を散策」が10月スタートします。春プランに続く第2弾で、12月25日まで。
 両駅では高村智恵子をイメージした彫刻家・橋本堅太郎氏(二本松市名誉市民)の作品「ほんとの空」(二本松駅前)、「今ここから」(安達駅前)が出迎えます。コースは大山忠作美術館、亀谷坂、芭蕉と露伴の句碑、竹田坂、智恵子の生家などをめぐる約6㎞。途中、老舗菓子店など16店あり、自分へのご褒美やお土産に多彩なスイーツを味わったり、買い物が楽しめます。
 10月1日~11月17日に大山忠作襖絵展(美術館)、10月3日~11月17日には高村智恵子レモン祭(生家など)、10月10日~11月20日には二本松の菊人形(霞ヶ城公園)が開かれます。
 参加は自由(予約不要)ですが、JR東日本のアプリが必要。二本松駅観光案内所でコースマップ、スイーツガイドを配布します。受け付けは午前9時30分~同11時30分。問い合わせは、にほんまつDMO(電話0243-24-7702)へ。
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「駅からハイキング」は、JR東日本さんのキャンペーン的なイベントです。実に様々なコースが設定されています。一部を除き参加予約は不要で、専用のスマートフォンアプリ「駅からハイキング」をダウンロードして、「コースに参加する」ボタンを押し、参加するコースを選択後、コースマップを元にハイキングスタート! 同一日の受付時間内にスタートし、ゴール時間内までにゴールするというものです。参加回数に応じてプレゼント抽選に参加できるとのことです。

以前に銚子電鉄さんとのコラボで行われた「駅からハイキング ~関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ~」をご紹介させていただきました。。

こちらのコースは、共に故・橋本堅太郎氏作の智恵子像である二本松駅前の「ほんとの空」から安達駅前の「今 ここから」までの約6㌔。途中に智恵子生家/智恵子記念館さんが佇み、智恵子づくしコースですね。

さらに玉羊羹の玉嶋屋さんなどの地元スイーツをからめて血糖値を上げながら(笑)。摂取カロリーと消費カロリー、どちらが上回るでしょうか(笑)。

ぜひご参加下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の重版書は以前の「造型美論」が厚すぎるので二冊に分けて「造型美論」と「印象主義」とにして筑摩書房が出したのです。


昭和24年(1949)12月6日 東正巳宛書簡より 光太郎67歳

書き下ろし評論『印象主義の思想と芸術』は、遠く大正4年(1915)に天弦堂から刊行。それを含む評論集『造型美論』が戦時中の昭和17年(1942)、筑摩書房から刊行されました。

そしてこの年、筑摩選書のラインナップとして二分冊で再版されました。
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昨日開幕の企画展示です。

令和6年度高村光太郎記念館企画展「高村光太郎 書の世界」

期 日 : 2024年10月5日(土)~11月30日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 会期中無休
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 宮沢家との縁で戦火の東京から花巻へ疎開した高村光太郎。その後太田村山口へ移住した光太郎は自らの戦争責任に対する悔恨の念がつのり、あえて不自由な生活を送り、彫刻制作を一切封印します。山居生活では文筆活動に取り組み、数々の詩を世に送り出す一方で、大小さまざまな「書」を遺しました。
 『乙女の像』制作のため帰京した後、晩年の病床でも数々の揮毫をした光太郎は、死の直前に自らの書の展覧会の開催を望んでいたことが日記に残されています。
 この企画展では光太郎による晩年に執筆された芸術評論『書についての漫談』を紹介しながら、彫刻・文芸と並び、光太郎第三の芸術とも言われる「書」を通じて太田村時代の造形作家としての足跡をたどります。

展示構成
 書額および書軸等 8点
 直筆原稿 7点
 拓本(縮小複製)      1点
 資料合計 16点(参考 常設展示の書は大小各種合わせて18点)

展示の見どころ
 出品する書額及び書軸はすべて実物で、光太郎の肉筆を間近でご覧いただけます。
『書額 乾坤美にみつ』『色紙幅 義にして美ならざるなし』『画賛幅 うつきしきもの満つ』の三作は旧展示施設の高村記念館を通じて、当地では初公開の作品です。
 また、最晩年に執筆された『書についての漫談』からは、光太郎幼少時代の書との出会いから、著名人の作風を例示しての批評など、光太郎の「書」についての考え方を窺い知ることができます。
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同館での同様の展示は、平成29年(2017)12月~翌年2月令和元年(2019)9月~11月に続き、これで3回目になります。所蔵している光太郎書の数が多く、常設展でもかなりの数を出していますが、それでも展示しきれないのでこうして普段は所蔵庫にしまわれているものを出しています。今回が初展示という作品も出ています。

それにしても、市から詳細情報が出たのが開会前日の午後。もう少し早く告知できませんかと常々申し上げているのですが、無視されている状態です。何だかなぁ、という感じですが……。

何はともあれ、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

小生自然の中に包まれてゐるやうな生活をしてゐますが、東洋の先輩賢哲の例にはならはぬ気で居ります。小生の彫刻製作をはばむものはもつと現世的な諸条件であり卻つて深刻な感があります。


昭和24年11月21日 森荘已池宛書簡より 光太郎67歳

東洋の先輩賢哲」は、俗世間との交わりを絶って山に隠遁していた中国の竹林の七賢、我が国の兼好法師あたりをイメージしているのでしょうか。彼等とは異なり、自らの戦争責任に対する処罰を自ら行っているという感覚が見て取れます。

今日、10月5日はレモンの日。昭和13年(1938)の今日、南品川ゼームス坂病院の15号室で、光太郎の持参したレモンをがりりと噛んで亡くなった智恵子に因みます。

さきにお伝えしたように、智恵子の故郷・福島二本松では「高村智恵子レモン祭」として、さまざまなコンテンツが展開中。そのうち、智恵子生家のライトアップについて『福島民友』さんが報じて下さいました。

2階に浮かぶ幻想的なシルエット 智恵子の生家をライトアップ、5日まで

 詩人・彫刻家高村光太郎の妻で、光太郎の詩集「智恵子抄」の「レモン哀歌」でも知られる二本松市出身の洋画家高村智恵子の命日を前に、同市の智恵子の生家・記念館は3日、ライトアップイベントを始めた。生家に智恵子と光太郎のシルエットが浮かび上がり、背景に月や「二本松の提灯(ちょうちん)祭り」などをイメージした幻想的な映像で彩った。
 「高村智恵子レモン祭」の一環として昨年に続き実施した。生家内や庭園は竹明かりや和紙ランプシェードで演出され、来場者が智恵子への思いをはせた。
 ライトアップは命日の5日までで、時間は午後5時〜同8時。ライトアップ時は生家を無料開放する。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。
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市のSNSから。
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いい感じですね。夜中に突如二階の障子に灯りがともり、浮かんだ智恵子のシルエットが動き出しそうな……(笑)。

ライトアップは今夜も行われ、いったん休止。その後、11月5日(火)~17日(日)の期間に再び点灯だそうです。

もう1件、光太郎第二の故郷・岩手花巻での「食」イベント。

【初開催】レモンの日イベント

期 日 : 2024年10月4日(金)・5日(土)
会 場 : 田舎labo 岩手県花巻市湯口字蟹沢13−1
時 間 : 11:00~16:00
料 金 : 無料

10月5日〈レモンの日〉にちなんで開催! いろんなジャンルの飲食店が、いちおしのレモンメニューを持って集まります。レモン尽くしの爽やかな2日間をぜひお楽しみください。

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地図を見ると光太郎が足繁く通った大沢温泉さんや鉛温泉さんを含む花巻南温泉峡の入口、当方もよく立ち寄るファミリーマートさんの隣の隣(笑)ですね。

情報に気づいたのが昨日で、申し訳ありませんでした。言い訳させていただけるなら公式サイトに光太郎智恵子の名が無かったもので……。他地域などでも光太郎智恵子をあまり意識せずに「レモンの日」ということでのイベントがあったりするのでしょうか。

とにもかくにも、お近くの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子切抜絵展」少しも差支へないと考へます。未知の人々に見ていただくのも愉快です。

昭和24年(1949)11月14日 真壁仁宛書簡より 光太郎67歳

真壁は山形在住の詩人。戦争末期の昭和20年春、光太郎は南品川ゼームス坂病院で智恵子が作った紙絵千数百枚のうち約3分の1を真壁の元に疎開させました。他の3分の2も花巻の佐藤隆房宅、茨城の宮崎仁十郎宅に分散疎開。そのため、4月の空襲でアトリエ兼住居は灰燼に帰しましたが、智恵子紙絵は無事でした。

書簡は手元にある紙絵を山形の人々に見てもらいたいので、展覧会を開きたいという真壁の提案に対する返答です。これを受けて11月19日~28日、山形市美術ホールで「智恵子遺作切抜絵展覧会」が開催されました。これが初の智恵子紙絵展でした。

毎年恒例、昭和13年(1938)10月5日、南品川ゼームス坂病院でレモンをがりりと噛んで亡くなった智恵子を偲ぶイベントです。

高村智恵子 レモン祭

期 日 : 2024年10月3日(木)~11月17日(日)
会 場 : 智恵子の生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 水曜 ※祝日の場合は翌日
料 金 : 大人(高校生以上)410円(360円)
      子供(小・中学生)210円(150円) (  )内団体料金

蘇る智恵子season2~生家のライトアップ~
 智恵子の命日に生家がライトアップされます。ライトアップを堪能するとともに、智恵子への哀悼の意を表しませんか?
 ■実施期間
  1.10月3日(木)~5日(土) 午後5時~午後8時
  2.11月5日(火)~17日(日) 開館時間内(生家内)
   ※生家正面ライトアップは歩道よりご鑑賞ください。

智恵子の生家 2階公開
 ■公開日
  10月5日(土)~6日(月) 12日(土)~14日(月) 19日(土)~20日(日)
  26日(土)~27日(日) 11月2日(土)~4日(月)
 ※10月26日(土)は、午前に「紙絵コンクール」表彰式実施のため、公開を一時中止する場合がございますのでご了承ください。

奇跡といわれる智恵子の「紙絵」の実物展示
 ■展示期間 10月3日(木)~20日(日)
 ■場所 智恵子記念館内

生家の未だ見ぬ見処クイズ
 ■実施日 10月3日(木)~11月17日(日)
 生家に関するクイズに正解された方には、粗品を差し上げます。

「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演
 坂本富江氏(智恵子研究者・画家・作家)による読み聞かせ
 ■上演日時 10月14日(月・祝) 午前10時30分~正午
 ■場所 智恵子の生家内
 ■問い合わせ 熊谷 TEL:090-7075-6743
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期間中、さまざまなコンテンツが用意されています。10月14日(月)の「「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演」のみは、地元の智恵子顕彰団体・智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さんの主催です。

さらにこの日は同会としての行事「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」も。

「智恵子純愛通り記念碑」は、智恵子生家/智恵子記念館駐車場に入る交差点の信号脇に佇む碑で、光太郎令甥の故・髙村規氏の揮毫によるものです。碑の前にちょっとしたスペースがあり、そこで野外集会的なことを行ったりもできるようになっています。

10時半からの「「夢を描くひと~高村智恵子」紙芝居上演」の前に、同会会員の方々や地元小中高生による光太郎詩朗読、智恵子と光太郎のことばを書いたボード設置等が行われ、紙芝居上演の後、ボード設置除幕式祝賀昼食会になだれ込むとのこと。

ちなみにボードは高村光太郎研究会会員でのあらせられる書家の菊池雪渓氏の揮毫だそうです。

ついでというと何ですが、同じ二本松でもう1件。

開館15周年記念特別企画展 成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展

期 日 : 2024年10月1日(火)~11月17日(日)
会 場 : 大山忠作美術館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:30~17:00
休 館 : 期間中無休
料 金 : 一般 800円(700円) 高校生以下 400円(300円) (  )内団体料金

 大山忠作美術館は、二本松市出身で現代日本画壇の重鎮として活躍した日本画家・大山忠作の作品を中心に収蔵・展示するとともに、大山の65年にわたる画業を永く顕彰する目的で、 2009年10月1日に開館いたしました。
 このたび、開館15周年を記念し、大本山成田山新勝寺特別協力のもと、大山が約二年の歳月をかけ完成させた、成田山新勝寺光輪閣「日輪の間」「月輪の間」襖絵《日月春秋》全二十八面を一堂に展示いたします。
 二本松の染物業を営む家に生まれた大山。描きたいものを描くという姿勢で、人物、花鳥、風景と題材は多岐にわたります。郷土をこよなく愛し、その想いを色濃く感じる作品も多く描いています。光輪閣の客殿に描かれた襖絵《日月春秋》は、日輪・月輪・瀧桜(春)・楓(秋)が構成され、春と秋の面では、ふるさと福島県の自然美が舞台となり、絢爛豪華でありながらも荘厳さに包まれた雄大な景観が描かれています。制作にあたり大山は、「大きな試練の場であり、精進の場でもありました」と述べています。画家としての一心な軌跡が凝縮された大山忠作の大作、襖絵《日月春秋》。今秋、ついに大山忠作美術館にやってきます!
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故・大山画伯、同郷の智恵子をモチーフとした絵画も複数描かれていますし、令和3年(2021)同4年(2022)、北條秀司作の「朗読劇 智恵子抄」で智恵子役を務められた一色采子さんのお父さまでもあらせられました。
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同展運営資金の一部を調達する目的でのクラウドファンディング(おかげさまで目標額を達成しました)をご紹介する際にも書きましたが、画伯の代表作の一つである成田山新勝寺光輪閣さんの襖絵全28面が初めて外に出ます。今年4月、将棋の名人戦七番勝負の第二局会場となった光輪閣さんで、藤井聡太七冠と豊島将之九段の死闘を見守った襖絵です。
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併せて足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

亡父や智恵子が十月のいい季節に死んでゐてくれたものと思ひました。


昭和24年(1949)10月11日 佐藤雪江宛書簡より 光太郎67歳

この年はちょうど智恵子の命日の10月5日に、花巻町中心部の古刹・松庵寺で智恵子と父・光雲の法要を営みました。何くれとなく光太郎の面倒を見ていた総合花巻病院長・佐藤隆房は病院の仕事が忙しかったのでしょう、欠席でした。代わりに妻の雪江が参列しました。

十月のいい季節に死んでゐてくれた」は、直後であれば何て言いぐさだ、という感じですが、10年以上も経過すると、暑くもなく寒くもなく、参列する人々にその部分で苦労をかけないという意味で、妥当な発言でしょう。

9月25日(水)、宿泊した花巻南温泉峡・大沢温泉さんを後に、レンタカーを駆って奥羽国境山脈を越え、秋田県に向かいました。目指すは仙北郡美郷町。なまはげやかまくらで有名な横手市の北に位置します。

花巻からは高速を乗り継いで概ね2時間程。こちらに「高村光雲作の銅像がある」という情報を得ておりまして、機会があれば、としばらく前から思っておりました。

像が作られた人物は坂本東嶽(文久元年=1861~大正6年=1917)。美郷の出身で本名は理一郎。秋田県議会、さらに衆議院と貴族院の議員を歴任した人物です。かの犬養毅とは慶應義塾の同窓で、莫逆の友だったとのこと。

昭和3年(1928)に刊行され、全国の銅像について写真入りで紹介している『偉人の俤(おもかげ)』という書籍があり、それによると像の原型作者が光雲となっています。
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ただ、それ以外のネット上の情報等はあいまいで、よくわかりませんでした。これはもう見に行った方が早い、と思った次第です。

現場は一丈木公園というところ。小高い丘の上に広がっていました。
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ここの一角に、目指す像。
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見た瞬間に「あまりよろしくないな」。像の出来不出来という部分ではなく、光雲のテイストが殆ど感じられない、という感覚の問題です。

その違和感、台座裏側の碑陰記的な銘板を読み、納得しました。この手の像の例外に洩れず、大正年間に作られたオリジナルは戦時中に金属供出され、現在のものは戦後にまったく別の人物によって作られたものだとのこと。ポージング等はオリジナルを元にしているようですが。
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さらにオリジナルも原型作者は光雲ではなく、佐藤泰山という人物。光雲は「製作監督」として名を連ねているだけでした。『偉人の俤』の記載が半分ガセだったわけで。ただ、「おっ」と思ったのは、光雲三男(光太郎実弟)の豊周も「製作監督」だったこと。鋳造に関しては豊周が多少なりとも関わったということでしょう。

そういう意味では残念でしたが、長い間のモヤモヤがすっきりしたという部分では良かったと思いました。

像のある一丈木公園の近くに、その坂本東嶽の屋敷が保存公開されています。せっかくですのでそちらにも。
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もともと古建築好きの当方ですし、光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存に向けて一枚噛ませていただいておりますので、こちらは興味深く拝見いたしました。
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まず母屋。玄関の唐破風が実に豪勢です。
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内部。
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母屋の裏手に位置する内蔵(うちぐら)。
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件(くだん)の東嶽像とは別のミニチュアというか、邸宅用というか。服装が異なります。こちらはおそらく戦前のもののようでした。
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一丈木公園での像の除幕の様子。
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蔵の二階。
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梁(はり)が見事でした。
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内蔵と套屋の間の通路には、こんなものも。
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東北六県の貴族院議員の集合写真ですが、「ありゃま」と思ったのが青森の佐々木嘉太郎。その名は昭和27年(1952)に、十和田湖の国立公園指定15周年で当時の知事・津島文治(太宰治実兄)が光太郎に「乙女の像」制作を依頼する際に出て来ます。光太郎盟友の佐藤春夫、建築家の谷口吉郎らとともに、光太郎をモニュメント作者として推挙した一人です。ただし、時期的に合いません。たぶんこっち(写真)が先代で、「乙女の像」にからんだのは息子か何か、代々「嘉太郎」を襲名していたんだろう、と思ったのですが、帰ってから調べたところ、ビンゴでした。

来客用の離れ。
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庭園もいい感じでした。
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像に関しては残念でしたが、東嶽邸の素晴らしい空間に身を置けたのは実によかったと思いました。

この後、また花巻に戻り、レンタカーを返却、帰途に就きました。

以上、東北レポートを終わります。また来月も2度ほど東北行きの予定が入っているのですが(笑)。

【折々のことば・光太郎】

五日の法要に老人のご参集にあづかり又たのしい御饗応をうけまして真にありがたい事と存じました。おかげで「ハムレツト」も見る事が出来、又菊池さんのピアノもきけて愉快でした。


昭和24年(1949)10月11日 宮沢清六宛書簡より 光太郎67歳

「五日の法要」は、花巻町中心街の松庵寺さんで執り行った光雲/智恵子の法要。「老人」は清六、そして亡き賢治の父・政次郎/イチ夫妻。「ハムレツト」は映画でしょう。

「菊池さんのピアノ」云々(「でんでん」ではありません(笑))は、旧菊池家住宅西洋館でのことと思われます。ここで最初にピアノ演奏を聴いたのは、昭和21年(1946)と推定されますが、この時にも聴いていたのですね。

一昨日、9月24日(火)から1泊2日で東北に行っておりました。レポートいたします。

まずは光太郎第二の故郷・岩手花巻。また後ほどご紹介いたしますが、10月末に花巻で光太郎と宮沢賢治がらみのイベントが予定されていて、そのための打ち合わせでした。少しだけ予告しておきますと、光太郎と交流のあった照井謹二郎・登久子夫妻が主宰、光太郎もその公演を何度も見た児童劇団「花巻賢治子供の会」の関係です。光太郎が見た公演の際に出演していた方々、それから賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏、そして当方でいろいろ語らせていただきます。

打ち合わせの前に、東北新幹線新花巻駅からレンタカーで、旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。現在、特に企画展示は行っていないのですが、「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」のフライヤーを置いてもらうために立ち寄りました。
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秋の気配も漂い、赤とんぼが群れを成していました。
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隣接する高村山荘。光太郎が戦後の7年間の蟄居生活を送った山小屋が、二重の套屋(とうおく・カバーの建物)内に保存されています。
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ここに居るであろう光太郎の分霊にご挨拶。花巻を訪れる際のルーティンです。

続いて道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん方面へ。

途中、古民家を保存、公開、活用している施設「新農村地域定住交流会館・むらの家」さんの前を通ったところ、ユニークな案山子(かかし)がずらり。車を駐めて拝見しました。
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パリ五輪の出場選手や、今年発行された新札に肖像が使われている渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎等々。

そういえば太田地区の皆さん、以前も案山子制作やってたっけな、あの時は光太郎案山子もあったけど、今年はないの? と思ったら、ありました。案山子とはちょっと違うのかも知れませんが。さらに制作者は太田小学校の児童さんたちのようで。
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「高村山荘行きねこバス」だそうで、本当にあったらいいですね(笑)。

で、道の駅。
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何と、こちらにも案山子軍団(笑)。
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そしてやはり光太郎案山子(笑)。
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大沢温泉さんからの帰りの光太郎だそうで、首には本物の大沢温泉さんのタオル(笑)。笑わせていただきました。

道の駅で当方大好物の林檎を買い込み、街に戻って上記イベント打ち合わせ。その後、当方も大沢温泉さんに。
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この日はテレビのロケが入っていました。愛知テレビさんの番組で、レポーターはアーティスティックスイミング元日本代表の青木愛さんだそうでした。
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翌日は、以前から行こうと思っていた秋田県美郷町へ。そちらは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

去る二十日に花巻行。二泊してかへりました。廿一日には宮沢賢治十七回忌記念の賢治祭あり、小生も一席漫談をやりました。


昭和24年(1949)9月26日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

賢治の忌日・9月21日には現在も「賢治祭」が開催されています。今年も盛大に執り行われたとのことでした。

この年の花巻文化劇場に於ける光太郎の「漫談」。地方紙『花巻新報』にその筆記録が載り、『高村光太郎全集』では第20巻に後半部分が掲載されていますが、10年ほど前に前半部分を見付けました。少し読みにくいのですがコピペします。

白熊は雪がふれば元気になるが私も冬になると元気になる
賢治さんは雨ニモマケズだが僕は子供みたいにすぐ九十度位熱が出る、賢治さんの詩は誰でも知つているが、判る人はない、一歩一歩だんだんに深く進んでもらいたい、賢治は詩人である、詩はさけられないもので、誰れでも梅の花を見ていると体中が香がしてきて始めて見たような気がするが、人一倍謳うのが詩人である、この詩精神は誰でもありこれのない者は存在そのものがつまらない、この詩精神のない政治家は政治家でなくただの事務家でいやおうなしに肩に担いでやつているだけである、詩精神のある政治家は、あふれるような生き生きしたものを持つているし、この詩精神があれば一つの世界ができて美しくなる、義務でなく本当の仕事ができるし、これは金には替えられない、これをやれば一月に幾らになると考えれば精根がつきる、詩の精神は人を救うが、本当に人を救うものは宗教である
 ◇賢治は法華経に生きた
賢治は法華経の世界で、これを読んで皆んなが無上道に入るように云つた、徹頭徹尾法華経に生きた人間であつて、僕はそれまで信仰していない、宮澤さん自身から云えば唯法華経を信じて、仏の世界に入つてくれればよく、賢治さんに向つて詩人だといつても嬉しくない、ちつとも自分の思うことをいつてくれないと思う、賢治は一行書いても詩になる、僕等はその詩に魅せられる、賢治は宗教家で詩人、この二つをもつている、賢治には五感のよさがある、中学時代啄木に影響された、その後急に詩を書き始めた、春と修羅のころから急に……一字書いても詩になり魅力がある
 おおしくは月の夜を 雪の降るらし 黒雲 乱れたり
教わつてできたものではなく、こつちが圧倒される、賢治の詩を本当に読める人は偉いものだ

「おおしくは……」は賢治の「文語詩稿一百篇」中の一篇からの引用。正確には「鶯宿はこの月の夜を雪ふるらし、黒雲そこにてたゞ乱れたり」です。

光太郎の賢治評、なかなか的確ですね。

光太郎第二の故郷、岩手花巻に来ております。6月以来3ヶ月ぶりです。
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メインの目的は来月開催されるイベントの打ち合わせでした。そちらも昨日のうちに終わりまして、今日は少し足をのばし、秋田へ。

詳細は帰りましてから。

光太郎が7年間の蟄居生活を送った旧太田村の山小屋に隣接する花巻高村光太郎記念館さん関連で2件。

まず、『広報はなまき』9月15日号から。同誌、1月を除き1日、15日と月2回の発行ですが、毎月15日分にはほぼ毎号「花巻歴史探訪郷土ゆかりの文化財編」という記事が最終ページに載ります。主に市そのものや市内の博物館、記念館等の所蔵品を紹介するもので、今回もそうですが、光太郎関連も時々取り上げられます。

今号は先頃市に寄贈のあった中原綾子関連史料の中から「「みちのく便り」直筆原稿」。中原が主宰していた雑誌『スバル』に寄稿したもので、旧太田村時代の昭和25年(1950)から昭和26年(1951)にかけて不定期に4回掲載されました。そのうちの3回目の原稿が紹介されています。
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記事にあるとおり昭和25年(1950)に盛岡市の川徳画廊で開催された智恵子の紙絵展を見ての感想がメインです。一部分を抜き出しましょう。

 久しぶりに智恵子の作を見てやはり感動した。その上かうやつて一度にたくさん並べて見たのは初めてなので、膝の上で一枚づつ見るのとは違つた、その全体から来る美の話しかけに目をみはつた。一人の作が三十枚程あれば一つの雰囲気が生れる。人はその雰囲気の中で、丁度森の中をゆくやうな一種の匂はしさを感ずる。
 見渡したところ智恵子の作は造型的に立派であり、芸術的に健康であつた。知性の細かい思慮がよくゆきわたり、感覚の真新しい初発性のよろこびが溢れてゐた。そして心のかくれた襞からしのび出る抒情のあたたかさと微笑と、造型のきびしい構成上の必然の裁断とが一音に流れて融和してゐた。

ここまで的確に智恵子の紙絵を表せるのは、やはりそれが自分に向けて作られた光太郎しか居ないのでは、と思われます。

現存する智恵子の紙絵はすべて、心を病んで品川のゼームス坂病院に入院してから作られたものです。健康だった頃、駒込林町のアトリエで、尾崎喜八の幼い娘にシンメトリー式の切り絵を作ってやったという尾崎の証言がありますが、その現存は確認できていません。

のちの心理学者的な人々の考察では、この紙絵が当時の智恵子にとって、人間世界と交信する唯一のツールだったとのこと。その通りでしょう。智恵子没後10年余り経ち、改めてずらっと並んだそれを見た光太郎。その胸中はいかばかりだったのか……。

この「みちのく便り」の原稿はじめ、中原綾子関連の寄贈品、おそらく来年には花巻高村光太郎記念館さんで展示されると思われます。今から楽しみです。

同館関連でもう1点。盛岡で開催されるイベントに同館として参加、だそうです。

同人誌展示即売会 岩漫63

期 日 : 2024年9月22日(日)
会 場 : 岩手県産業会館(サンビル)7階大ホール 岩手県盛岡市大通1丁目2番1号
時 間 : 11:00~15:00
料 金 : 無料

岩漫(がんまん)とは
◆岩漫は、同人誌を中⼼とした創作物を通じて自己表現する場であり、会場に集まった仲間達との交流の場でもあります。
◆岩漫は、様々な世代の参加者が相互交流を図り、同人誌分化が継承され発展していくことを目標とします。
◆岩漫は、岩漫実行委員会が運営しています。岩漫実行委員会は、参加者の有志から構成されています。
◆岩漫は、参加者全員でつくりあげます。運営の手の足りないところへのご協力をお願いします。
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こういう系のイベントですが、記念館の指定管理者である花巻高村光太郎記念会さんも参戦なさるそうです。一昨年行われたゲームとのタイアップ企画「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」が好評だったことからの決断のようです。

当日は光太郎に関するミニ展示、詩集や回想録、オリジナルのミュージアムグッズの販売などを行うとのこと。光太郎ファンの新たな拡大に繋がるならいいことですね。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】IMG_0004

過日那須にて建碑式遊ばされし趣おかげにて小生もかかる名所に筆のあとを残すことを愉快に存じます。


昭和24年(1949)8月4日(日) 
佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が旧太田村に移る直前の約1ヶ月、自宅離れに住まわせてくれたりと、様々な形で光太郎に援助を惜しまなかった総合花巻病院長・佐藤隆房。那須出身の亡父・房之助の短歌を刻んだ歌碑の建立を思い立ち、光太郎に揮毫を依頼、はれて那須町内の寺院に建立されました。

右は拓本。「かくばかりつゝじの花のさかゆるを知らぬもをしきみやこ人かな」と読みます。

しかし、この碑は同地に現存していません。無理解のため撤去されてしまいました。原本が佐藤家に残っているのが救いです。悪意があって撤去したわけではないのですが、それにしても……です。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさん。最近のご活動を。

まず、市内のワンデイシェフの大食堂さんで、「こうたろうカフェ」として光太郎が実際に作ったメニューの再現や現代風アレンジによる昼食の提供。基本的に不定期ですが、直近で9月4日(水)に行われたとのこと。
9月ワンデイ
メニュー表 (3)
1725687629465 ふわとろ杏仁豆腐
枝豆。南蛮味噌のせご飯 白身魚のから揚げトロピカルソース
オカワカメと菊花、ゴーヤの佃煮、青トマトきゅうり
メニューは「白身魚のから揚げ トロピカルソース」「夕顔のトロトロ蟹あん」「ゴーヤの佃煮」「オカワカメと菊花の酢の物」「茄子と胡瓜の浅漬け」「バターナッツの満足スープ」「南蛮味噌ご飯」「ふわふわ杏仁豆腐」「コーヒー」だそうで。

レシピというか、食材を細かく教えていただきました。教えていただいても当方には作れませんが(笑)、以下を見て出来る方はご参考までに。

ゴーヤの佃煮 ゴーヤ、裂きイカ、醤油、三温糖、五倍酢、白ごま
バターナッツの満足スープ(カボチャのポタージュ) バターナッツカボチャ、玉ネギ、コンソメ、牛乳、生クリーム
南蛮味噌 ピーマンと麹、三温糖、青唐辛子
夕顔のトロトロ蟹あん 豪華カニ缶の餡をかける
トロピカルソース 夏野菜とパイン、桃
ふわふわ杏仁豆腐 マシュマロと牛乳で作る杏仁豆腐

続いて毎月15日、、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。こちらも光太郎がらみの献立で、やつかの森LLCさんがメニュー考案に当たられています。
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内容的には「栗ご飯」「サンドイッチ」「チキン南蛮」「かぼちゃの甘煮」「きのこ炒め」「きゅうりの酢の物」「卵焼き」「フルーツ」。

栗やらきのこやら、秋らしい食材ですね。当方、栗ご飯は大好物でして、画像を見てパブロフの犬状態でした(笑)。

やつかの森LLCさん、他にも花巻市内で光太郎に関する「出前講座」をなさっています。

9月6日(金)には「シニア大学講座」とのことで、花巻市生涯学園都市会館(まなび学園)さんで。寸劇を交え、休憩時間には得意の料理もふるまわれたとのこと。
シニア大学1 シニア大学3
シニア大学2 シニア大学5
シニア大学6 シニア大学7
9月11日(水)にも、同じ会場で今度はシニアの方々に招かれての講座をなさったそうです。

わかうさ7 わかくさ2
わかくさ1 わかくさ3
わかくさ5 わかくさ6
わかくさ8 わかくさ9
地元でこういう団体さんがいらしてくださると、ありがたいところです。お一人お二人で、となると無理なのでしょうが、グループでやられることでタイトな日程にもある程度対応できると思われますし。

花巻といえば宮沢賢治。当方、よく存じませんが賢治関連ではこういうグループなりがいろいろあるのでは、と思っております。しかし光太郎がらみではやつかの森LLCさんのみ。ありがたいかぎりです。

今後とも様々な場面でのご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

恐らく東京でも珍らしいであらうと思はれるカビヤのびん詰めまで在中、そぞろに戦前の頃を思ひ出しました。カビヤの珍味は小生好物中の好物にて、戦前智恵子の健康であつた頃稀に入手して一緒に酒の肴として賞味した記憶があり、なつかしい限りでした。


昭和24年(1949)7月14日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

「カビヤ」はキャビアのことですね。当時はとてつもない寒村だった花巻郊外旧太田村にいても、方々の支援者からいろいろな食料が送られてきて、なかなかに光太郎の食卓は充実していました。これも人徳ですね(笑)。

仙台市から演奏会情報です。

サロンコンサート《 いざなう月の琴》 vol.32 ~古典調律で楽しむ, 小さなお部屋コンサート『 ひとり シューマンと智恵子抄 』クララ・シューマンの生誕日に寄せて~

期 日 : 2024年9月13日(金)
会 場 : アクテデュース 宮城県仙台市大町1-1-15
時 間 : 19:00~
料 金 : 3,000円

出 演 : 齋藤卓子

クラシックピアノの名曲はもちろん、初めて触れるかもしれない耳馴染みない楽曲も、親しみ易く、お話を交えて御案内していきます。街中の隠れ家のような気が置けない温かな空間で、ゆったりと音楽に浸ってみませんか?興味をお寄せ頂けましたら是非お出掛け下さい。

開催の9月13日は、ドイツ・ロマン派の作曲家ロベルト・シューマン最愛の妻にしてピアニストのクララ・ヴィーク=シューマンの生誕日に当たります。それに因み、今回は高村光太郎の『智恵子抄』に寄せて選んだロベルト・シューマンの作品を、詩の朗読と共にお楽しみ頂きたいと思います。

この演目は2019年にも取り上げていますが、「文学と音楽の融合」という試みとしてだけでなく、様々な要素が思い掛けない照応を見せ、お客様方にもその化学反応を楽しんで頂けました。この度また向き合うことで私自身にも新たな発見があると胸を躍らせています。「どうして智恵子抄とシューマン???」なのかは演奏会でのお楽しみに。9月13日の晩、会場にてお待ちしております。

尚、御用意できるお席に限りがあるため御予約をお願い致します。恐れ入りますが、前もってお問合せ下さいませ。アクテデュース 022-265-5350
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ピアニスト齋藤卓子 (さいとうつなこ) さん、案内文にある通り、令和元年(2019)にも同じ会場で「高村光太郎『智恵子抄』と共に」としてサロンコンサートをなさいました。

また、平成24年(2012)にはやはり仙台市のその頃長町にあったびすた~りさんで「ピアノ演奏と朗読で綴る愛の世界 シューマンと智恵子抄 Part2.高村智恵子誕生の日に」。この際は朗読の荒井真澄さん、墨絵の一関恵美さんとのコラボでした。
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さらに平成25年(2013)の第57回連翹忌では、齋藤さんのピアノに乗せて一関さんのライブペインティングを御披露いただきました。
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今回はお一人でピアノと朗読をなさるのだと思われます。

サブタイトルに「古典調律で楽しむ」とあり、現代で一般的な平均律ではないセッティングだそうで。聴く人が聴けば明らかに違うのでしょうね。当方、聴き分ける自信は全くありませんが(笑)。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

龍星閣の活動をはじめられたる趣、大慶に存じます

昭和24年(1949)5月10日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎67歳

龍星閣」は昭和16年(1941)に初版が刊行された『智恵子抄』の版元。戦時中には他の光太郎著書も複数刊行しました。『智恵子抄』は戦時にも関わらず昭和19年(1944)の13刷まで版を重ねましたが、戦争の激化に伴い、龍星閣は休業。

この年、社主の澤田が出版業を再び始め、翌年には『智恵子抄その後』、さらに2年後には『智恵子抄』の復元版(共に赤いクロス装のもの)を刊行します。

光太郎第二の故郷・岩手花巻の花巻南高さん。光太郎と交流のあった宮沢賢治の妹にして、賢治の「永訣の朝」等に謳われたトシの母校であり、トシ自身も短期間教壇に立っていました。

そちらの文芸部さん発行の部誌『門』の第18号をいただきました。
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まず美しい表紙に驚きましたが、部員の生徒さんが和紙を染めた夾纈(きょうけち)染めだそうで。これは正倉院御物にも使われている技法です。美術部さんとコラボして染めにチャレンジされたとのことですが、よき伝統を受け継ぎ、新しいものをクリエイトしていくという姿勢には感心させられました。

昨年送っていただいた第17号でもかなりの分量で光太郎に触れていただきましたが、今号はさらにパワーアップし、2箇所に分けて「特集Ⅰ わたしたちの高村光太郎」と銘打ち、約30ページ(全体の3分の1ほど)費やして下さいました。ありがたし。
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1箇所目は座談「わたしの高村光太郎を語り合う」と題し、当地で光太郎顕彰活動に取り組まれているやつかの森LLCさんのお三方、それから戦後間もない昭和20年代から児童劇団「花巻宮沢賢治子供の会」で活動されていた熊谷光さんへの聞き書きです。

特に「食」に軸足を置いた活動をなさっているやつかの森LLCさん、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」や、市内東和地区の花巻ワンデイシェフの大食堂さんでの「こうたろうカフェ」などで、光太郎が実際に作ったメニューの再現や現代風アレンジなどをなさっています。そうした中で改めて見えてきた光太郎の姿などのお話は興味深く拝読させていただきました。

それから実際に生前の光太郎をご存じの熊谷さんのお話は、実に貴重な証言と存じます。「花巻宮沢賢治子供の会」は賢治の童話を劇化、花巻の中心街と、光太郎が蟄居していた旧太田村の山口分教場(のち山口小学校)で公演を行っていて、光太郎はそれを実に楽しみにしていました。熊谷さんの回想から。

私たちが行った時、先生はとても喜ばれて、帰りは山口小学校の道路の下の大きな道路まで出ていらして、私たちの姿が見えなくなるまで手を振ってくださいました。それが、すごく記憶に残っております。

子供たちが見えなくなるまで手を振り続けた光太郎を思い浮かべると、うるっときてしまいました。子供のいなかった当時60代後半の光太郎、「花巻宮沢賢治子供の会」の少年少女たちを本当の孫のように感じていたのかもしれません。
賢治子供の会
上の画像では、熊谷さん、最前列一番左だそうです。今年亡くなった、賢治実弟清六令嬢の宮沢潤子さんもメンバーでした。

そもそもなぜ「花巻宮沢賢治子供の会」ができたのかについても証言が。それによると賢治の教え子だった故・照井謹二郎氏が、戦後になっても戦争ごっこをして遊んでいる子供たちを見て、これではいかん、と思ったのがきっかけの一つだそうです。なるほど、と激しく納得しました。

ところでまだ詳細情報が出ていませんが、10月27日(日)、熊谷さん他「花巻宮沢賢治子供の会」に在籍されていた方、清六令孫の宮沢和樹氏、そして当方でまた花巻にてトークショーを行います。詳しく決まりましたらまたご紹介いたします。

特集のうちのパートⅡは、今年6月に花巻で行われたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」のレポートがメイン。この際は文芸部の生徒さんたちも登壇し、発表や朗読をなさいました。それから家庭クラブの生徒さんと共同で「智恵子のエプロン」の再現。

昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と吉田幾世」で、当方が大正期の『婦人之友』に載った智恵子デザイン・制作のエプロンについてご紹介したところ、それを復刻、披露して下さいました。
無題
実際に制作に当たった家庭クラブの生徒さんの文章も掲載されています。柿渋の酒袋(おそらく智恵子が実家の長沼酒造から持ってきたか取り寄せたか)が分厚くてミシン縫製に手こずったというお話や、酒袋の規格でほとんどそのまま裁断しなくて使えたというお話など、やってみないとわからないことも。素晴らしいと思いました。

その他、詳しくご紹介する余裕がありませんが、生徒さんたちの詩歌や小説、戯曲などにも感心させられましたし、活動を支える顧問の先生の御尽力なども垣間見えました。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

やさしいお手紙は山の中に一人で住む六十六歳三ヶ月の老人の心を静かに慰めてくれました。殊に新しい村の娘さんからなので尚よろこびました。


昭和24年(1949)6月3日 山本武子宛書簡より 光太郎67歳

新しい村」は正しくは「新しき村」で、『白樺』時代からの光太郎の盟友・武者小路実篤が開いた生活共同体。農耕や芸術制作を基本に据え、その意味では花巻郊外旧太田村の光太郎のライフスタイルとリンクする部分も。

現在も埼玉県毛呂山町で存続していますが、現状はかなり厳しいようです。

先例があるのかもしれませんが、面白いことを考えるものだな、と感心しました。県としての取り組みです。

東京にある福島ゆかりをめぐるスタンプラリー “ディスカバーふくしま in TOKYO”

期 日 : 2024年9月6日(金)~12月1日(日)
会 場 : 東京都内11ヶ所のラリースポット
 (1)野口英世像(上野)  (2)ウルトラマンシンボル像(祖師ヶ谷) 
 (3)巨大赤べこ(常盤橋) (4)瓜生岩子像(浅草) (5)松平定信墓(清澄白河)
 (6)三春桜(赤坂) (7)オリンピックマラソン折返点記念碑(調布)、
 (8)紺碧の空歌碑(早稲田) (9)レモン哀歌の碑(品川) (10)東京都庁(新宿) 
 (11)日本橋ふくしま館MIDETTE
料 金 : 無料

参加方法:
 スマートフォンの専用アプリをダウンロードの上、対象のラリースポットを訪問すると、GPS機能によりアプリ内でスタンプが取得できます。
 取得したスタンプ数に応じて、ふくしまの魅力ある賞品が当たります。

■賞品:参加賞、4スポット賞(250名)、7スポット賞(100名)、コンプリート賞(5名)
 ※参加賞はもれなくプレゼント、他は抽選制です。コンプリート賞はスタンプラリー限定のオリジナル赤べこ、他賞品の詳細は特設サイトをご覧ください。
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福島を代表するアイテムの「赤べこ」や「三春の滝桜」、そして都内に於ける県の拠点の一つにしてアンテナショップの「日本橋ふくしま館MIDETTE」さん、それ以外は福島出身者ゆかりのモニュメントなどですね。「ウルトラマン」が円谷英二の須賀川市、同じ須賀川から「マラソン」で円谷幸吉、「紺碧の空」は古関裕而で福島市と、ぱっと分かる方はかなりの福島通(つう)でしょうが(笑)。

ありがたいことに、二本松出身の智恵子関連で「レモン哀歌詩碑」も入れて下さいました。
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ところで、「あれ、ちょっと偏ってるな」という気もしました。福島県は最も内陸の「会津」、太平洋沿岸の「浜通り」、両者に挟まれた「中通り」の三地域に分けられますが、全地域に関わる「MIDETTE」さんを除くと、「浜通り」関連が皆無です。「浜通り」といえば、フラガールや相馬野馬追が有名ですし、さらには出身者として当会の祖・草野心平(笑)。まぁ、都内にはそれらに直接関わるモニュメントなどがないということなのでしょうか。

ちなみに賞品は以下の通り。
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奮ってご応募下さい。

それから、他の道府県、もしかすると市町村単位でも似たようなことが可能かも知れません。郷土愛を育むにはいい取り組みですので、各地の自治体の皆様、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

山ではまだ花がさきません。山々にも雪が残って居り、風は中々寒いことです。それでもゼンマイ、コゴミの類は出て来ました。ヘビも出て来ました。木が多く伐られたので小鳥が少くなつたやうです。カツコウもホトトギスもまだ来ません。ウグヒスもまだ来ません。山鳩の声は時々ききますが。


昭和24年(1949)5月5日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

」は桜です。「山々にも雪」は蟄居していた山小屋周辺というわけではなく、そこから見えるもっと高いところという意味でしょう。五月にウグイスがまだ鳴いていないというのは意外でした。

智恵子のソウルマウンテン、福島二本松の安達太良山腹で朗読会が開催されます。

安達太良山「智恵子抄」朗読会

期 日 : 2024年9月16日(月・祝)
会 場 : 薬師岳パノラマパーク 福島県二本松市永田長坂国有林
時 間 : 10:00~
料 金 : 5,000円(含ロープウェイ料金、昼食代)

ほんとの空がある安達太良山で「智恵子抄」の朗読をしてみませんか? 生涯の思い出に是非ご参加ください。

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智恵子の故郷・二本松で、智恵子顕彰事業をなさっている「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さんの主催です。

同会の発会20周年、さらに光太郎智恵子結婚110周年、光太郎の詩集『道程』刊行110周年記念だそうです。

朗読会会場は、安達太良山の奥岳登山口から出ているロープウェイで上がっていった山頂駅付近の薬師岳パノラマパーク。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来で「この上の空がほんとの空です」と刻まれた標柱が立っています。
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同会ではたびたびこの場所での朗読会を開催してきました。平成28年(2016)の際の新聞報道がこちら

朗読会自体は10:00~の予定ですが、8:15に智恵子生家/智恵子記念館の駐車場を出発、二本松駅と岳温泉を経由して奥岳登山口まで会員の方の車で。事前に申請しておいて適当なところで乗せていただくということのようです。

終了後また車に分乗して、二本松市に隣接する大玉村の森の民話茶屋さんに移動、そこで昼食兼交流会、すべて終わったところでまた適当なところまで送っていただけるそうです。

紅葉シーズンには未だ早いかと思われますが、当日は、少し前にご紹介した「あだたらイルミネーション」期間中です。今年初めてお目見えした「「あ」のオブジェ」などもご覧頂けるかと存じます。

申込先等、フライヤー画像をご参照の上ぜひご参加ください。

【折々のことば・光太郎】

昨日は小学校の運動会があり、小生も競争に出ましたがビリでした。


昭和24年(1949)5月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

この年か翌年(日記が失われており、特定できません)の運動会の様子が、元山口小学校校長の浅沼政規の回想に綴られています。

 午後の競争が開始。年長組の《びん釣り競争》となりました。この競技へ先生の参加をお願いすると、快く出場して下さいました。競技が始まりました。
 ひときわ会場が賑やかになり、拡声器の音も、先生への応援も大きくなりました。
 一等、二等とゴールしてきます。先生は少し手間取ったようでしたが、釣れたびんを手に、大股で走ってゴールインしました。一同からすごい拍手です。
 そして、先生もみんなと一緒に会長席に向かい、会長から商品を受け取られました。
 「しばらくぶりで走ってみましたが、にわかに走ったものですから、遅れてしまいました。でも、みんなと走れて愉快でしたよ。」と、おっしゃいました。
 この時の先生の姿に接した部落の人たちは、自分たちと親しく交わって下さろうとするお気持ちに、感謝の念を深くしました。
(浅沼政規『山口と高村光太郎先生』平成7年=1995 高村記念会)

微笑ましいエピソードですが、単にそれだけではありません。戦前には「芸術家あるある」で「俗世間とは交わらない」、戦時中には一転して民衆を戦争に駆り立て、と、いびつな形でしか世の中と関わってこなかった光太郎、この花巻郊外旧太田村に住み始め、ようやく理想的な社会との関係性が構築できたようです。

主催者側発表には情報が無く、見に行かれた方のSNS等から「そうだったんだ」ということに気づく場合が時々あり、今回もそうでした。

福島ビエンナーレ2024"風月の芸術祭 in 白河―起" 

期 日 : 2024年8月24日(土)~9月15日(日)
会 場 : 福島県白河市
       白河市立図書館 りぶらん
        開館時間 10:00~20:00(土曜・日曜は9:30~18:00 休館日 月曜日)
       白河文化交流館コミネス
        開館時間 9:00~22:00(月曜は20:00まで 休館日 火曜日)
       しらかわ観光ステーション
        開館時間9:00~18:00 期間中無休
       マイタウン白河「風月の芸術祭」総合案内所
        展示時間10:30~18:30(施設は 9:00~21:00 期間中無休)
       旧脇本陣柳屋旅館蔵座敷
        開館時間 10:00~16:00(休館日 月曜日・祝日の際は火曜日)
       コミュニティ・カフェ EMANON
        営業時間 平日 15:00~20:00 土日 13:00~19:00(水曜・木曜定休日)
       翠楽苑
        開館時間 10:00~17:00(期間中無休)
       龍興寺
        展示時間 9:00~16:00
       だるまランド
        営業時間10:00~17:00
       南湖公園 芝生広場 湖畔 千世の堤 谷津田川(土橋~新橋)
料 金 : 基本的に無料、施設により要入場料

 本企画は、白河市の歴史、文化を基盤として、現代アートの創作、鑑賞、体験等の活動を展開するものです。
 「風月の芸術祭」というタイトルは、江戸時代の白河藩主、松平定信公の雅号「風月」に由来します。自然を愛で、文化を享受する心を伝えています。「風月」をテーマに、松平定信と関連する白河小峰城や南湖公園、白河関跡、奥州街道にある城下町の歴史・文化資源を活用し、多種多様なアート(絵画、彫刻、現代美術、書、文学、舞踊、演劇、映像作品、アニメーション等)の展覧会、上映や公演、講演会、シンポジウム、ワークショップを開催します。
 国際的なアーティスト等を招待し、地域住民との協働によって、雰囲気のあるまちづくり、地域を巡回して楽しめるエリア形成に取り組む中で、白河市を広くパブリック・リレーションズ( Public Relations; PR )します。

参加アーティスト
 吾子可苗/ 荒井経/ アヤ・カザリス/ 飯野和好/ 井波純/ 伊藤公象/ 伊藤有壱/
 今井トゥーンズ/ 大竹京/ 岡村桂三郎/ 金子富之/ カネコマスヲ/ 北村はるか/
 木下史青/ 黒沼令/ 鴻崎正武/ 小澤基弘/ 小松美羽/ 五味太郎/ 斎藤岩男/
 ダルライザー/ 柴﨑恭秀/ 白鳥建二/ 鈴木美樹/ ボンド・亜貴/ 関本創/ 鳥山玲/
 野沢二郎/ 灰原千晶/ 林剛人丸/ 萩原朔美/ 福井利佐/ 船井美佐/ 三沢厚彦/
 宗像利浩/ 森合音/ リチャード・ボンド/ 山田慎一/ ヤノベケンジ/ 艾沢詳子/
 与那覇大智/ 若木 るみ/ 王尽遥/ 渡邊晃一/

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「福島ビエンナーレ」。ビエンナーレですから2年に1度の開催。県内各地の自治体さんを持ち回りでメイン会場とし、今回は白河市が会場です。今回、というか、前々回、前回も白河市での開催でした。

かつて平成28年(2016)平成30年(2018)には智恵子の故郷・二本松市が会場となり、智恵子生家でも展示が行われました。平成28年(2016)には墨絵や版画などを手がけられている小松美羽氏、平成30年(2018)が切り絵作家の福井利佐氏が、それぞれ智恵子生家でのインスタレーションをなさいました。間に挟まれた平成29年(2017)には、福島ビエンナーレではない「重陽の芸術祭」で、清川あさみ氏の刺繍作品の展示も行われました。

さて今回、翠楽苑さんというところで小松氏の作品の展示が行われており、「智恵子抄」インスパイアの作品も、という情報をSNS上で見付けました。使用許可を頂きましたので、見に行かれた方の撮影された画像を転載させていただきます。
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なるほど、平成28年(2016)の智恵子生家での展示と確かによく似ています。智恵子と共に、安達ヶ原の鬼婆からのインスパイアもあるようです。

ちなみに平成30年(2018)に智恵子生家で智恵子抄オマージュの作品をを出された福井氏もご参加。作品は「マイタウン白河 ギャラリー」というところで展示されています。だるまをモチーフとした切り絵で、今回は光太郎智恵子と関わらないようです。

小松氏、福井氏、その後の令和2年(2020)と令和4年(2022)のビエンナーレにもご参加なさっていました。もしかするとその際にも「智恵子抄」がらみの展示があったのかも知れませんが、不明です。

さて、今回、他に絵本界の大御所・五味太郎氏、光太郎と交流のあった萩原朔太郎令孫の萩原朔美氏(映像作家でもあらせられたそうで、存じませんでした)、かつての重陽の芸術祭でのメインオブジェを作られたヤノベケンジ氏などもご参加。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

何よりもあせる事はよくありません。静かに着実に進むべきです。

昭和24年(1949)4月2日 鈴木政夫宛書簡より 光太郎67歳

鈴木は愛知岡崎出身の彫刻家。主に石彫を手がけていました。花巻郊外旧太田村に蟄居していた光太郎の元に押しかけ弟子を志願、それに対する返答の一節です。

8月19日(月)の『毎日新聞』さんから。

「写真の鬼」の新たな顔発掘 土門拳記念館、展示の幅広げる 山形・酒田、若いファンを開拓

 昭和を代表する写真家で「写真の鬼」と呼ばれた土門拳(1909~90年)の記念館が、出身地の山形県酒田市にある。全作品を所蔵する聖地だが、ファンの高齢化が主な要因で来場者が減少。同館は新たなファン開拓のため「若い世代にアピールしたい」と、固定化した土門のイメージの刷新に乗り出した。
 土門は戦前、報道写真家として歩み始め、脳出血で倒れた60年ごろから寺社や仏像の撮影に注力した。リアリズムに徹した作品で国内外に知られ、詩人の高村光太郎からは「土門拳のレンズは人や物の底まであばく」と評された。写真集「ヒロシマ」「筑豊のこどもたち」「古寺巡礼」などが有名だ。
 酒田市の名誉市民第1号になった74年、同市に全作品を寄贈すると表明。記念館は日本初の写真専門美術館として83年に開館し、ピークの90年度には約8万2千人が訪れた。だが以降はほぼ右肩下がりで、2023年度は約2万2千人だった。
 そこで取りかかったのが「土門の新たな面に光を当てる」試みだ。これまで代表作中心に展示してきた中、今年4~7月に、演出的手法で有名な写真家・植田正治との2人展を開催。対照的に語られる2人に共通点も少なくないことを紹介した。
 2人展では、土門の作品約30点を初展示。13万5千点に及ぶ所蔵作はほとんどが写真集や雑誌に掲載されたことがないため、今後も展示の幅を広げていく。
 昨年6月には5代目館長に、同市出身の写真家・佐藤時啓さん(66)が就いた。今までは土門の弟子や親族などが務めてきたが、土門と会ったことがない初めての館長になった。業績顕彰のコンセプトは維持しつつ刷新も目指すため、来年4月から館の呼称を「土門拳写真美術館」に変える。「新たな解釈を発掘し、常に生きた展示をしたい」と強調した。
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山形県酒田市の土門拳記念館さんがらみ。写真家の土門拳、その人となりが紹介される際、今回の記事のように光太郎の評が引用されることがままあります。平成27年(2015)令和元年(2019)の『山形新聞』さんなど。

全文はこちら。

 土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのものの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。土門拳自身よくピントの事を口にするが、土門拳の写真をしてピントが合つているというならば、他の写真家の写真は大方ピントが合つていないとせねばならなくなる。そんな事があり得るだろうか。これはただピントの問題だけではなさそうだ。あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない。あの一枚の野口米次郎の大うつしの写真ほど詩人野口米次郎を結晶露呈せしめているものは此の世になかろう。ひそかに思うに、日本の古代彫刻のような無我の美を真に撮影し得るのは、こういう種類の人がついに到り尽した時にはじめて可能となるであろう。

昭和18年(1943)3月1日の雑誌『写真文化』第26巻第3号に載った「土門拳とそのレンズ」。戦後の昭和28年(1953)に刊行された土門の写真集『風貌』の内容見本に転載され、『高村光太郎全集』では初出をそちらとしていましたが、数年前に『写真文化』への掲載を確認しました。

『風貌』には木彫「鯉」を彫る光太郎の姿が収められました。
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他に土門を評した文章として、昭和27年(1952)4月1日の『岩手日報』に載った「藝術についての断想」の一節。

 写真と言うものは、あまり好きではない。いつか土門拳という人物写真の大家がやってきた。ボクを撮ろうとしたわけだ。自分は逃げまわって、とうとううつさせなかった。カメラを向けられたら最後と、ドンドン逃げた。結局後姿と林なんか撮られた。写真というものは何しろ大きなレンズを鼻の前に持ってくる。この人はたしか宇垣一成を撮ったのが最初だったが、これなどは鼻ばかり大きく撮れて毛穴が不気味に見える。そして耳なんか小さくなっているし、宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえるものだ。

土門の写真は評価していた光太郎ですが、自分が撮られるのは実に嫌がっていまして……(笑)。「いつか」というのは昭和26年(1951)5月21日。日記に記述がありました。

ひる頃土門拳来訪、助手二人同道、今夜横手市の平源にゆき、明日秋田市にゆく由。写真撮影。三時頃辞去。元気なり。

宇垣一成は戦前の外務大臣。昭和13年(1938)、宇垣を撮った写真がアメリカの『ライフ』に掲載され、土門の名を高からしめました。その宇垣の写真、宇垣の評伝の表紙に使われたりもしています。
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なるほど、光太郎の「あの一枚の宇垣一成の大うつしの写真に拮抗し得る宇垣一成論が世の中にあるとはおもえない」「宇垣らしい「ツラ」の皮の厚い写真だった。カメラという一ツ目小僧は実に正確に人間のいやなところばかりつかまえる」という発言も頷けます。自分がこんな写真を撮られるのは勘弁、ということでしょう。

土門は仏像の撮影でもその手腕を発揮しました。昭和27年(1952)には、土門が写真を撮り、光太郎、志賀直哉、高見順らが解説を書いた『日本の彫刻Ⅱ飛鳥時代』という大判の写真集が美術出版社から刊行されています。
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こちらに載る予定だった光太郎の「夢殿救世観音像」という文章でも、土門を賞賛しています。

 土門拳が法隆寺夢殿の救世観音をとると伝へられる。到頭やる気になつたのかと思つた。土門拳は確かに写真の意味を知つてゐる。めちやくちやな多くの写真家とは違ふと思つてゐるが、中々もの凄い野心家で、彼が此の観音像をいつからかひそかにねらつてゐたのを私は知つてゐる。
(略)
 写真レンズは、人間の眼の届かないところをも捉へる。平常は殆と見えない細部などを写真は立派に見せてくれる。それ故、専門の彫刻家などは、細部の写真によつてその彫刻の手法、刀法、メチエール、材質美のやうな隠れた特質を見る事が出来て喜ぶ。土門拳の薬師如来の細部写真の如きは実に凄まじいほどの効果をあげてゐて、その作家の呼吸の緩急をさへ感じさせる。人中、口角の鑿のあと。衣紋の溝のゑぐり。かういふものは、とても現物では見極め難いものである。
 その土門拳が夢殿の救世観音を撮影するときいて、大いに心を動かされた。彼の事だから、従来の文部省版の写真や、工藤式の無神経な低俗写真は作る筈がない。
(略)
 救世観音像も例によつて甚だしい不協和音の強引な和音で出来てゐる。顔面の不思議極まる化け物じみた物凄さ、からみ合つた手のふるへるやうな細かい神経、あれらをどう写すだらう。土門拳よ、栄養を忘れず、精力を蓄へ、万事最上の條件の下に仕事にかかれ。

ただ、大人の事情で撮影許可が下りず、この文章は未掲載となってしまいました。

他に土門は、「鯉」とともに現存が確認できていない光太郎の彫刻「黄瀛の首」を撮影しました。そちらは当会の祖・草野心平主宰の『歴程』の表紙を飾るなどしています。
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さて、土門拳記念館さん。記事に有る通り、苦戦中だそうで。地の利も余りよくありませんし、コロナ禍なども逆風となったのではないでしょうか。この手の文化施設共通の悩みのような気もします。
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新たなファン開拓のため「若い世代にアピールしたい」と、固定化した土門のイメージの刷新」だそとのことで、それが吉と出るか凶と出るか、ですね。時代の変遷に対応するのは大事ですが、さりとて迎合となるのは避けていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

昨日は小学校の卒業式で、可愛らしい生徒さん達のよろこぶさまを愉快に思ひました。小生も一席お祝をのべました。部落の青年団の団旗の図案をして上げたのが出来てきて青年達がその旗を持つて見せにきました。独創的なもので中々おもしろく出来ました。

昭和24年(1949)3月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

この旗は現存します。
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智恵子と同郷で、智恵子を描いた作品も複数遺された文化勲章受章の日本画家、故・大山忠作画伯。女優の一色采子さんのお父さまでもいらっしゃいます。
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JR東北本線二本松駅前に大山忠作美術館があり、そちらで今秋、同館開館15周年特別企画展「成田山新勝寺所蔵 大山忠作襖絵展」が開催されます。

これまで門外不出だった画伯の代表作の一つである成田山新勝寺光輪閣さんの襖絵全28面が初めて他で展示されるということで、注目を集めています。光輪閣さんでも時折公開が行われるのですが、それもいつもというわけでもなく、滅多に見られません。

ちなみに光輪閣さん、今年4月、将棋の名人戦七番勝負の第二局会場となり、藤井聡太七冠と豊島将之九段が激突しました。その際の報道の画像、背景に問題の襖絵が映っています。
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その襖絵展に向けてのクラウドファンディングが進行中です。

大山忠作美術館開館15周年記念特別企画展|襖絵展開催に向けて

【かかる費用の総額】 1,400万円
運搬委託費(展示・保険含む) 建具工事委託費(襖を展示する枠事) 広告宣伝費
人件費  警備費  印刷費 

【クラウドファンディングの使い道】
運搬委託費(展示・保険含む) 建具工事委託費(襖を展示する枠事) 広告宣伝費
人件費  警備費  印刷費 などかかる経費の一部に使わせていただきます。

【目標金額】 1,000,000円
 目標金額を達成した場合のみ、実行者は集まった支援金を受け取ることができます(All-or-Nothing方式)。支援募集は9月12日(木)午後11:00までです。

【リターン】
 大山忠作襖絵展を応援コース
  感謝のメール
   3,000円 5,000円 10,000円
  感謝のメール、ノベルティグッズ
   30,000円 50,000円
  感謝のメール、ノベルティグッズ、大山忠作美術館図録、大山忠作作品のリトグラフ
   100,000円 200,000円
 大山忠作襖絵展を行って応援コース
  感謝のメール、襖絵展の観覧券2枚
   5,000円 10,000円
  感謝のメール、襖絵展の観覧券2枚、ノベルティグッズ
   30,000円 50,000円
  感謝のメール、襖絵展の観覧券2枚、ノベルティグッズ、大山忠作美術館図録、
  大山忠作作品のリトグラフ
   100,000円 200,000円
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昨日の段階で目標金額100万円に対し、支援総額65万5千円。あと34万5千円不足です。上に赤字で書きましたが、目標金額を達成した場合のみ、実行者は集まった支援金を受け取ることができるというシステムだそうで、このままでは成立しません。

当会としても支援を行いましたが、皆様にも是非宜しくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「女性線」の詩は少々変なもので、フロイド学者の材料になりさうなものですが、事実見た夢の通りに書きました。


昭和24年(1949)3月6日 西田大三宛書簡より 光太郎67歳

「「女性線」の詩」は、「噴霧的な夢」。
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   噴霧的な夢

 あのしやれた登山電車で智恵子と二人、
 ヴエズヴイオの噴火口をのぞきにいつた。
 夢といふものは香料のやうに微粒的で
 智恵子は二十代の噴霧で濃厚に私を包んだ。
 ほそい竹筒のやうな望遠鏡の先からは
 ガスの火が噴射機(ジエツト・プレイン)
  のやうに吹き出てゐた。
 その望遠鏡で見ると富士山がみえた。
 お鉢の底に何か面白いことがあるやうで
 お鉢のまはりのスタンドに人が一ぱいゐた。
 智恵子は富士山麓の秋の七草の花束を
 ヴエズヴイオの噴火口にふかく投げた。
 智恵子はほのぼのと美しく清浄で
 しかもかぎりなき惑溺にみちてゐた。
 あの山の水のやうに透明な女体を燃やして
 私にもたれながら崩れる砂をふんで歩いた。
 そこら一面がポムペイヤンの香りにむせた。
 昨日までの私の全存在の異和感が消えて
 午前五時の秋爽やかな山の小屋で目がさめた。

まさにフロイト学派が泣いて喜びそうな夢判断が為されそうですね(笑)。

画像は昭和3年(1928)、箱根の大湧谷です。

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