15年経ちました。
15年前のあの日、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で光太郎顕彰団体「女川光太郎の会」を主宰なさっていた貝(佐々木)廣氏は、同町を襲った津波に呑まれ、還らぬ人となられました。
15年前、震災から数日間、自分は避難所となっていた当時の勤務先のPCで女川町の情報収集。現地の避難所に入ったという方々の手書き名簿PDFに貝氏の名を見つけ、一度は胸をなで下ろしたのですが、氏はいったん受付を済ませてから、まだ助けられる人がいるかもしれないと再び町中心部に向かい、そこで津波に……。後でわかったことでしたが……。
震災後、その女川町で、その年に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちの発案で、「いのちの石碑」が建てられ続けました。町内21箇所のそれぞれ津波到達地点より高い場所を選び、避難の際の目印になるようにとのことでした。貝氏が中心となって、平成3年(1991)かつての女川港海岸公園に据えられた光太郎文学碑に倣い、建設資金はすべて募金でまかなうというプロジェクトでした。
震災から10年後の令和3年(2021)、最後の第21号碑が竣工。そこから数えてももう5年経つかという感じです。
その「いのちの石碑」について、『毎日新聞』さんの一面コラム。3月8日(日)の掲載でした。
建立当時の「女川いのちの石碑」のひとつ。女川中学校の卒業生が碑文について説明した=宮城県女川町出島で2015年10月31日
建立の中心メンバーだった皆さんは、災害伝承のために現在も活躍中です。3月8日(日)には、北海道旭川市で開催された災害時の地域のつながりを考えるセミナーで、渡辺滉大(あきと)さん、鈴木智博さんのお二人が講師を務められたそうです。
鈴木さんは中学生時代、「女川光太郎祭」に複数回参加され、光太郎詩文の朗読もなさって下さいました。
3月7日(土)には、伊藤唯さん、それから彼らの先生だった阿部一彦さんらが、碑の清掃活動。そしてOX仙台放送さんのインタビューに。
「いのちの石碑」、何と、今月行われた長野県の公立高校入試の問題でも取り上げられました。
社会の地理的分野の問題ですが、こうしてみると、東日本大震災も「歴史」の一部となりつつあるかと思いました。しかし、それは風化させていいということではありませんし、福島では未だに原発事故の被害が継続中なわけで……。
3.11、今日という日が、いろいろと考えさせられる一日であってほしいものです。
昭和16年(1941)にオリジナル『智恵子抄』を上梓した龍星閣では、第83刷を「五十年記念愛蔵版」として、バックラム(麻布をの生地目を浮き出して膠で固め着色したもの)装、特別な函入りで刊行しました。この他に後ほど御紹介しますが、「特装版」も出しています。
附録として澤田城子著『智惠子抄の五十年』が函に入れられていました。
15年前のあの日、光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で光太郎顕彰団体「女川光太郎の会」を主宰なさっていた貝(佐々木)廣氏は、同町を襲った津波に呑まれ、還らぬ人となられました。
15年前、震災から数日間、自分は避難所となっていた当時の勤務先のPCで女川町の情報収集。現地の避難所に入ったという方々の手書き名簿PDFに貝氏の名を見つけ、一度は胸をなで下ろしたのですが、氏はいったん受付を済ませてから、まだ助けられる人がいるかもしれないと再び町中心部に向かい、そこで津波に……。後でわかったことでしたが……。
震災後、その女川町で、その年に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちの発案で、「いのちの石碑」が建てられ続けました。町内21箇所のそれぞれ津波到達地点より高い場所を選び、避難の際の目印になるようにとのことでした。貝氏が中心となって、平成3年(1991)かつての女川港海岸公園に据えられた光太郎文学碑に倣い、建設資金はすべて募金でまかなうというプロジェクトでした。
震災から10年後の令和3年(2021)、最後の第21号碑が竣工。そこから数えてももう5年経つかという感じです。
その「いのちの石碑」について、『毎日新聞』さんの一面コラム。3月8日(日)の掲載でした。
余録 宮城県女川町には…
宮城県女川町には、津波発生時の避難の目安とするため「女川いのちの石碑」が沿岸部の21カ所に建立されている。2011年の東日本大震災。同町の津波による死者・行方不明者は827人に及んだ。当時小学6年生だった地元の子どもたちが、中学入学後「1000年後まで津波から命を守りたい」と考えた▲地元と連携して寄付を募り、津波の到達点を参考に建て続け、21年に完了した。国土地理院によると、東日本大震災の教訓を伝える自然災害伝承碑は、全国で130カ所が地図に載る▲あれほど苛烈だった津波被害も発災から約15年を経て、知らない世代の人が増えてくる。宮城県石巻市在住の藤間千尋さん(47)は、公益社団法人「3・11メモリアルネットワーク」(同市)のスタッフとして伝承活動に取り組む。「『津波を知らない子どもたち』を嘆くよりも、伝わる言葉を持っていない大人側の課題だと考えるべきです」と指摘する▲藤間さんは横浜市出身。震災後に石巻でボランティア活動を行い、移り住んだ。震災遺構などで見学者に説明する際は、自身は被災者でないことを事前に伝える。「伝承する役割を体験者だけに背負わせず、分かち合えれば」と語る▲語り部の活動、伝承碑、震災遺構の保存。共通の目的は未来の犠牲者を一人でも減らすことにある▲藤間さんが所属する同団体は、被災者でなくても関心を持つ大学生らが、震災遺構などでガイド役となる取り組みを始めた。多様な伝承のあり方を考えたい。建立当時の「女川いのちの石碑」のひとつ。女川中学校の卒業生が碑文について説明した=宮城県女川町出島で2015年10月31日
建立の中心メンバーだった皆さんは、災害伝承のために現在も活躍中です。3月8日(日)には、北海道旭川市で開催された災害時の地域のつながりを考えるセミナーで、渡辺滉大(あきと)さん、鈴木智博さんのお二人が講師を務められたそうです。
鈴木さんは中学生時代、「女川光太郎祭」に複数回参加され、光太郎詩文の朗読もなさって下さいました。
3月7日(土)には、伊藤唯さん、それから彼らの先生だった阿部一彦さんらが、碑の清掃活動。そしてOX仙台放送さんのインタビューに。
東日本大震災の発生から15年 継続的に取材を続けてきた被災者に聞く「災害報道の在り方」〈宮城〉
東日本大震災の発生から15年を迎えます。仙台放送ではこの間、多くの方にお話を伺いました。継続的に取材をしてきた2人に、私たちの報道について振り返っていただきました。
女川町出身で現在は都内に住む伊藤唯さん、27歳。3月7日、古里に帰ってきた伊藤さんは、同級生や恩師とともに自らも制作にかかわった石碑の掃除を行いました。
震災で872人が死亡または行方不明となった女川町。町の人口の1割にあたる人が犠牲となりました。
悲劇を繰り返さないために…。立ち上がったのは伊藤さんをはじめ町内の中学生でした。震災発生から1カ月後に女川第一中学校に入学した生徒たちが考えた「いのちの石碑」。1000年後の命を守るを掲げ、町内21カ所の浜の津波到達地点より高い場所に、石碑を立てるというプロジェクトです。
資金の1000万円も生徒たちが募金で集めるなどし、全国から大きな注目を集めました。
高橋咲良アナウンサー「これまで経験したことのない数のカメラを向けられて、あの時はどういう気持ちでしたか?」
伊藤唯さん「戸惑いがあったし、子供ながらに、大勢の知らない大人たちが環境が変わった状況の中に入ってくるというのは、すごく恐怖」
自分の言葉がどういう伝わり方をするのか。伊藤さんは今も怖いと話しますが、それでも、大好きな町が一変したあの日の光景は、子供ながらに伝えなきゃいけないと感じたと言います。
高橋咲良アナウンサー「どんなことを伝えたいと思っていた?」
伊藤唯さん「震災直後は子供だったので、素直に自分が夢なんじゃないかと思った、あの日の出来事や光景をそのまま伝えられたらと思ったし、あの日初めて命と向き合ったというか。子供のころは命のこととか、あんまり考えないじゃないですか。だから命のことを考えるきっかけが震災だった」
伊藤さんが暮らしていた地区に建つ石碑。伊藤さんが中学生の時に考えた俳句が刻まれています。「愛すべき未来のために我が道を」
伊藤唯さん「今思い返してみると多分真っ暗闇の中でも、未来を見据えていたとすごく思う」
「いのちの石碑」、何と、今月行われた長野県の公立高校入試の問題でも取り上げられました。
社会の地理的分野の問題ですが、こうしてみると、東日本大震災も「歴史」の一部となりつつあるかと思いました。しかし、それは風化させていいということではありませんし、福島では未だに原発事故の被害が継続中なわけで……。
3.11、今日という日が、いろいろと考えさせられる一日であってほしいものです。
【高村光太郎書誌】
本人著作(全体)69 『智恵子抄』 五十年記念愛蔵版 上製版
平成3年(1991)11月20日 龍星閣 高村光太郎著
この時期、『智恵子抄』の各種の異版が5種類ほど相次いで刊行されました。どれも不幸な「智恵子抄裁判」のからみで、当時は複雑な思いでいましたが、光太郎作品の伝承という意味では意義のあることと感じていました。目次
人に 明治四十五年七月
或る夜のこころ 明治四十五年八月
おそれ 明治四十五年八月
或る宵 大正元年十月
郊外の人に 大正元年十一月
冬の朝のめざめ 大正元年十一月
深夜の雪 大正二年二月
人類の泉 大正二年三月
僕等 大正二年十二月
愛の嘆美 大正三年二月
晩餐 大正三年四月
樹下の二人 大正十二年三月十一日
狂奔する牛 大正十四年六月十七日
鯰 大正十五年二月五日
夜の二人 大正十五年三月十一日
あなたはだんだんきれいになる 昭和二年一月六日
あどけない話 昭和三年五月十日
同棲同類 昭和三年八月十六日
美の監禁に手渡す者 昭和六年三月十二日
人生遠視 昭和十年一月二十二日
風にのる智恵子 昭和十年四月二十五日
千鳥と遊ぶ智恵子 昭和十二年七月十一日
値ひがたき智恵子 昭和十二年七月十二日
山麓の二人 昭和十三年六月二十日
或る日の記 昭和十三年八月二十七日
レモン哀歌 昭和十四年二月二十三日
荒涼たる帰宅 昭和十六年六月十一日
亡き人に 昭和十四年七月十六日
梅酒 昭和十五年三月三十一日
うた六首
智恵子の半生 昭和十五年九月
九十九里浜の初夏 昭和十六年五月
智恵子の切抜絵 昭和十四年一月
編集者附記 澤田伊四郎昭和16年(1941)にオリジナル『智恵子抄』を上梓した龍星閣では、第83刷を「五十年記念愛蔵版」として、バックラム(麻布をの生地目を浮き出して膠で固め着色したもの)装、特別な函入りで刊行しました。この他に後ほど御紹介しますが、「特装版」も出しています。
附録として澤田城子著『智惠子抄の五十年』が函に入れられていました。






















「霧(高村智恵子)」は右画像のもの。品切れになっていなければ、ミュージアムグッズとしてA4クリアファイルやポストカードも販売されています。












































































































































































































































































































