カテゴリ: 東北

智恵子のソウルマウンテン・安達太良山の山開きが行われます。

第71回安達太良山山開き この景色は登った人だけのご褒美だ。

期 日 : 2025年5月18日(日)

奥岳登山口(あだたら高原スキー場)でのイベント
 ①安全祈願祭【午前8時~】
  1年間の安達太良山登山の無事を参加者で祈願します。
  (荒天時はランデブー内で実施します)
 ②あだたらマルシェ【午前9時~】
  山に登らない方も楽しめる屋台などがいっぱい!

山頂でのイベント
 ➀ペナント配布【午前9時30分~】
  先着3,000枚を配布します。(無くなり次第、終了となります)
 ②ほんとの空大声コンテスト【午前11時~】
  山頂で募集します。テーマに沿った内容で大声を出してもらいます。
  男性部門の大賞、女性部門の大賞を決定します。(定員20名)
  大賞には豪華景品をご用意しております。また、参加された方へも参加賞がございます。
【協賛団体】
  一般社団法人岳温泉観光協会、福島民報社、福島民友新聞社、にほんまつDMO、
  二本松市観光連盟

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毎年ではありませんが、サブタイトルというか、キャッチコピーというかに光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」、そこから派生した「ほんとうの空」の語を冠して下さることが多数。最近ですと故・湯浅譲二氏作曲の二本松市民の歌の一節「ほんとの空がここにある。」が使われたのが平成28年(2016)、平成29年(2017)、令和4年(2022)、令和5年(2023)。平成30年(2018)は「花がさき 鳥がなき 風かおる ほんとうの空。」。令和元年(2019)で「ほんとの空の下 心の晴れ渡る、感動深呼吸。」、そして昨年には「絵になる、詩になる、ほんとの空。」。

ところが今年は「この景色は登った人だけのご褒美だ。」と、「ほんとの空」の語が使われませんでした。まぁ、令和2年(2022)が「安達太良山で二本松ブルーとめぐり逢う。」でしたので、前例がありますし、先述の通り翌年には「ほんとの空」が復活しましたが。

その代わり、というわけでもないのでしょうが、山頂でのイベントで新たな試み。昨年まで行われていた「ミズあだたらコンテスト」が無くなり、代わって「ほんとの空大声コンテスト」が初めて開かれます。それを報じた『福島民報』さん記事。

5月18日の安達太良山開き初のコンテスト 「ほんとの空」に大声を響かせて

008 5月18日に行われる安達太良山開きは、恒例のミズあだたらコンテストをやめて、代わりに「ほんとの空大声コンテスト」を初めて実施する。関係機関・団体でつくる安達太良連盟が10日に二本松市役所で総会を開いて決めた。
 関係者から「男女とも参加できる行事を」との声があり、新たに企画した。20人の参加を募り、午前11時から山頂で実施する。連盟会長の三保恵一二本松市長、安達太良山観光大使でタレントのなすびさんらが審査して入賞者に賞品を贈る。午前9時30分から先着3千人にペナントを配る。二本松市の奥岳登山口で午前8時から安全祈願祭を行い、「あだたらマルシェ」も開催する。荒天時は中止や変更となる。
 総会では登山道の整備、くろがね小屋建て替えの情報発信などの要望も出された。新たに8月11日の「山の日」関連事業を検討することとした。

山開き全体に関して、二本松市の『広報にほんまつ』さん。
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三保恵一市長の連載コラムでは、光太郎、「智恵子抄」に触れて下さいました。
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臨時シャトルバスの情報。
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ぜひ足をお運び下さい。

ついでというと何ですが、安達太良山を含む二本松市内でもロケが敢行され、光太郎智恵子や「智恵子抄」が取り上げられる2時間ドラマの再放送情報です。

おかしな刑事8 居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査!東京タワーは見ていた!消えた少女の秘密・血痕が描く謎のルート!

地上波テレビ朝日 2025年5月12日(月) 13:55〜15:50

ある日、東京タワー近くの公園を訪れた鴨志田は、30年前に同所で起きた幼女誘拐事件の被害者の父と再会する。その事件の主犯は交通事故死、懸命な捜査の甲斐なく共犯者の行方もわからないままだった。その夜、会社社長の冬木が刺され、重体となる事件が発生。冬木のもとには「東京タワーは知っている」という脅迫状が届いていた。そんな中、ホームレスの男・駒田が刺殺体で発見された。鴨志田は“駒田"という名字が気にかかり…

◇出演者 伊東四朗、羽田美智子、石井正則、小倉久寛、辺見えみり、山口美也子、
     木場勝己、小沢象、丸山厚人、菅原大吉 ほか
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ご覧になったことのない方(ある方も(笑))、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

セカイノビ ヤマイニナヤムコレヲイヤスモノイデ ヨ


昭和28年(1953)3月13日 岩手県立美術工芸学校宛電報より 光太郎71歳

花巻郊外旧太田村蟄居中、何度も訪れて講演などを行った県立美術工芸学校の卒業式に送った祝電です。
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「世界の美、病に悩むこれを癒す者出でよ」となりますが、「病に悩むこれ」は若干、意味不明。もしかすると「病に悩む我(われ)」なのでは……などとも思っています。

『毎日新聞』さん系列のスポーツ紙『スポーツニッポン』さんで、5月3日(土)、智恵子にからめ、その故郷である福島県二本松市を大きく取り上げて下さいました。

こだわり旬の旅 福島・二本松

二本松城でしのぶ戊辰戦争の悲劇 少年隊士の思いに涙…本丸跡からは絶景が
 JR東日本のデスティネーションキャンペーン開催中の福島県は二本松市に出かけた。IT系ニュースサイトで、穴場の観光地として上位にランクされたからだ。霞ヶ城公園にある二本松城(霞ヶ城)跡や詩集「智恵子抄」で知られる智恵子の生家、岳温泉など観光スポットが点在するが、中でも同城にまつわる、会津・鶴ヶ城の白虎隊より若い二本松少年隊の悲劇に心奪われた。
 春の桜と秋の菊人形で知られる霞ヶ城公園。桜の季節が終わり静けさが戻ったが、胸はすぐに熱くなった。二本松城の美しい三の丸石垣と白土塀をバックに建つ「二本松少年隊群像」。1868年の戊辰戦争で薩摩・長州などの西軍から城を守るため、若い命を散らした二本松少年隊の奮戦姿と我が子の出陣服を仕立てる母の姿をかたどったブロンズ像で、名誉市民の彫刻家・橋本堅太郎氏が制作したもの。脇の掲示板や音声ガイドで、その悲劇が伝わってきた。
 それによると、少年隊は12~17歳の62人。緊迫した状況下で自ら出陣を嘆願し、熱意で藩主を説得して出陣。同年7月29日、城内への要衝・大壇口(城から南へ約2キロ)では隊長木村銃太郎が率いる25人が果敢に戦ったが、正午頃、二本松城は炎上し落城。少年隊の戦死者は他の戦地と合わせ14人を数えたという。
 17歳以下といえば、あの白虎隊の隊士より年齢が下。敗戦必至の中で、奥羽越列藩同盟の信義のために貫いた二本松藩の壮絶な戦いに追随、維新の夜明けを見ずに幼い命を散らした彼らの気持ちを思いやると、群像を見ているだけで涙を禁じ得なかった。
 少年隊が命がけで守ろうとした城は、室町時代の1414年、畠山満泰が築城し、1643年から丹羽氏が居城にした平山城。現在は日本百名城の一つで国指定史跡に指定されており、群像を過ぎてくぐった「箕輪門」は初代藩主・光重が最初に建造した櫓門(やぐらもん)。主柱のカシの巨木は箕輪村・山王寺山の神木を用いたことから、その名が付いたという。
 城内には落城の際に割腹した藩士・丹羽和左衛門らの自尽の碑や唯一の江戸期の建造物の茶亭「洗心亭」、門の土台となる石垣と門柱の礎石が残る「搦手門跡」など、見どころは多いが、圧巻は箕輪門から徒歩約15分の「本丸跡」(標高345メートル)。総工費5億3000万円、2年かけて復元されたもので、周囲を高石垣で固められ、枡形門や天守台がある。天守閣はなかったというが、眺望は最高。北側の眼下には福島市の町並みが広がり、西側には安達太良山がそびえる。まさに360度の大パノラマだ。
 その光景に何とか心は晴れたが、最後は少年隊にお参りをしようと墓のある大隣寺へ。丹羽家代々の菩提寺で、14人の供養塔が建立されている。隣接して会津藩の墓も建てられており、白虎隊への思いも含めてそっと手を合わせた。
 ▽行かれる方へ 東北本線二本松駅から徒歩約25分。車は東北道二本松ICから約5分。霞ヶ城公園から大隣寺へは車で約5分。問い合わせは二本松観光連盟=(電)0243(55)5122、大隣寺=(電)同(22)1063。 
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高村智恵子の生家は明治の面影そのまま…安達太良山の上には「ほんとの空」
 詩人・高村光太郎が妻・智恵子への想いを記した「智恵子抄」。その“純愛”に触れるべく、智恵子の杜公園にある「智恵子の生家・智恵子記念館」(入館料410円)を訪ねた。生家は造り酒屋で、明治初期に建てられた建物には、屋号「米屋」、酒銘「花霞」の看板が掲げられ、新酒の醸造を伝える杉玉が下がる。当時の面影をそのままに残しているようで、2階にある智恵子の部屋からは今にも智恵子が降りてきそうな気配だ。
 裏庭には当時の酒蔵をイメージした記念館があり、晩年、病に侵された智恵子の美しい紙絵や、当時の女性としては珍しい油絵の作品などを展示。見学し終わって外に出ると、後方には智恵子が愛してやまなかった「阿多多羅(安達太良)山」の上に青空が広がる。それはまさに抜けるようで、「ほんとの空」(智恵子抄から)を見た思いだった。東北本線安達駅から徒歩約20分。(電)0243(22)6151。
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生家の裏には記念館。こちらは白亜の近代的な建物だ
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智恵子の画像を入れたまちガイドマップ。見どころは多い

他に鬼婆伝説の残る安達ヶ原の黒塚や観世寺さん、安達太良山中腹の岳温泉さんが取り上げられていましたが、長くなりますし、智恵子の名は出て来ないので割愛します。

記事では「JR東日本のデスティネーションキャンペーン開催中」とありますが、正確には「デスティネーションキャンペーン」は来年4月から、現在は「プレデスティネーションキャンペーン」中です。その一環として県全域で「花の王国ふくしまフラワースタンプラリー2025」、二本松限定で「二本松ミュージアムツアー2025~スタンプラリーでめぐる歴史と芸術のまち~」などが行われています。

また、二本松が「IT系ニュースサイトで、穴場の観光地として上位にランク」だそうで。「穴場の」ではなく「定番の」とか「王道の」とかになってほしい気もしますが、昨今のいわゆるオーバーツーリズム問題を考えると、たいした混雑もなくゆったりのんびりと見て歩ける状況の方が望ましいと思います。閑古鳥が啼いている状態では困りものですが……。

GWも終わってしまいましたが、それだけに交通系の混雑も一段落。智恵子生家/智恵子記念館さんでの「高村智恵子生誕祭」は5月25日(日)までです。その他の光太郎智恵子聖地と共に、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

亡妻の実家も酒造りだつたので以前は時々酒粕をもらひました、大好物、うまい甘酒が出来ます、

昭和28年(1953)2月22日 石井荘男宛書簡より 光太郎71歳

石井荘男は埼玉在住だった画家。光太郎も足を運んだ帝国劇場での舞踊公演「藤間節子リサイタル」を観に行き、その会場で光太郎と知遇を得、お近づきのしるしに、的にのちほど酒粕を贈ったようです。

智恵子の故郷・福島二本松の高村智恵子生家/智恵子記念館さんで開催中の「高村智恵子生誕祭」につき、地元紙2紙が報道して下さっています。特に生誕祭の一環として、当会主催で行ったコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」を前面に押し出して下さり、ありがたく存じます。

まず『福島民報』さん、先月末には記事を出して下さいました。

詩集「智恵子抄」で知られる高村智恵子の生誕祭 5月11日まで紙絵の実物展示 福島県二本松市の智恵子記念館 智恵子抄の収録作、音楽に乗せて披露

 詩集「智恵子抄」で知られる福島県二本松市出身の洋画家・高村智恵子(1886~1938年)の生誕祭は4月24日、同市油井の智恵子の生家・智恵子記念館で始まった。5月20日の誕生日に合わせ、智恵子が制作した紙絵の実物展示や居室の特別公開などのイベントを繰り広げている。
 紙絵は「花パターン」や「菊」など10点を11日まで公開する。上川崎和紙の紙絵制作体験を17、18、24、25の各日に催す。生家の2階にある智恵子の居室は3~6、10、11、17、18、20、24、25の各日に公開する。
 入館料は高校生以上410円、小中学生210円。問い合わせは智恵子記念館へ。
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紙絵の実物を展示している記念館

 高村光太郎連翹忌運営委員会は4月27日、二本松市の智恵子の生家で、智恵子抄の収録作を音楽に乗せて披露する朗読公演を開いた。
 高村智恵子生誕祭の一環。ボイスパフォーマーの荒井真澄さんが朗読を担当し、智恵子抄の「樹下の二人」「あどけない話」「レモン哀歌」などを情感たっぷりに披露。箏曲演奏家の元井美智子さん、テルミン奏者の大西ようこさんが美しい音色を添えた。
 聴衆は高村光太郎が紡いだ言葉の数々と、音楽の共演を満喫していた。
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聴衆を作品の世界に引き込んだ朗読公演

続いて『福島民友』さん。昨日の掲載でした。

演奏に乗せ智恵子抄朗読 二本松の記念館で生誕祭

 二本松市の智恵子の生家・智恵子記念館は25日まで、同市出身の美術家高村智恵子の20日の誕生日にちなんだ恒例イベント「生誕祭」を開催している。4月27日は市と高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会との共催で初の特別企画「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」が開かれた。
 特別企画は午前と午後の2回行われた。箏曲奏者元井美智子さんとテルミン奏者大西ようこさん、朗読家荒井真澄さんが箏曲とテルミンの演奏に乗せて詩集「智恵子抄」を朗読した。
 期間中は、岩手県の花巻南高の家庭クラブの生徒が復元した「智恵子のエプロン」の復刻展示や「智恵子を偲ぶ折り鶴展~作成編」を開催している。折り鶴展は智恵子が晩年作成した折り鶴を来館者が作成すると、オリジナル紙絵ペーパークリップを贈呈する。作成した折り鶴は秋のレモン祭に展示する。
 このほか紙絵の実物展示や生家では25日までの土、日曜日、祝日と20日に、普段公開していない智恵子の居室を特別公開する。17、18、24、25日には同市の伝統工芸「上川崎和紙」を使い、しおりなどを作る制作体験も行われる。
 開館時間は午前9時~午後4時半(最終入館は同4時)。水曜日休館。入館料は高校生以上410円、小・中学生210円。問い合わせは同館(電話0243・22・6151)へ。

『民友』さんでは、花巻南高さんによる「智恵子のエプロン」復刻展示にも触れて下さいました。『民報』さんの記者氏にもエプロンの件を推したのですが、「また改めて」みたいなご返答でした。口約束に終わらないことを期待します。殺伐としたニュースの多い中、こうした件を報道することで、人々の癒しにつなげてほしいものです。

生誕祭は5月25日(日)まで、ぜひ足をお運び下さい。

また、末筆ながらコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」にご出演下さったお三方に改めて御礼申し上げ、さらなるご活躍を祈念いたします(といいつつ、また当会主催ということで、7月に光太郎第二の故郷・花巻での公演を行うことになり――詳細は後日――、荒井さん、元井さんがご出演なさいますが)。

【折々のことば・光太郎】003

彫刻の方は今週あの粘土を石膏にとります。


昭和28年(1953)2月16日
真壁仁宛書簡より 光太郎71歳

「あの粘土」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作。実物およそ2分の1で、小型試作、実物と比較し、その顔が最も智恵子の顔に近いと評されています。

この中型試作は、生誕祭会場の智恵子記念館さんにも展示されている他、花巻高村光太郎記念館さん、現在特別展示 智恵子の紙絵」開催中の信州安曇野碌山美術館さん、それから野外展示で大阪御堂筋で常設展示されている他、千葉県立美術館さんにも同型のものの所蔵があり、時折展示して下さっています。

石膏取りの職人は牛越誠夫。光太郎もその作品を所有していた伝説の道具鍛冶・千代鶴是秀の娘婿でした。

最近流行りのカプセルトイ(いわゆる「ガチャガチャ」で出てくるカプセル入りの商品)です。

カエルの森工房 無事カエルストラップ ~アースカラー~

発売日 : 2025年4月下旬
発売元 : 株式会社キタンクラブ
定 価 : 400円

「カエル=帰る」から、無事に家に帰るという想いを込めたマスコットが、カラーリング新たに登場です!大好評の第1弾に続き、ラインナップは日本の美しい大自然をイメージしたアースカラーでまとめた全4種。作家自らが足を運んだ場所がモチーフになっています。大きなリュックを背負って、登山靴を履いたカエルたちは、元となる作品の雰囲気そのままに細部まで再現しました。

ラインナップは「 草紅葉 、カルデラ 、ほんとの空 、チズゴケ 」の全4種。
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ご覧の通りのリアルなカエルがリュックを背負い、登山靴を履いて凛々しく立っています(笑)。ラインナップ4種のうち、「ほんとの空」君は光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)へのオマージュ。
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他に「カルデラ」君も安達太良山の爆裂火口・沼の平からのインスパイアですね。「草紅葉」君は光太郎智恵子も訪れた磐梯山、「チズゴケ」君は不明ですが、やはり福島の山々にちなむのでしょうか。

早速ゲットしました。と言っても、ガチャガチャで、ではなく通販で。ある意味、インチキですが(笑)。
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どこが「ほんとの空」だ? というと(笑)、背負っているザックの色のようです。

せっかく写実的なカエル君なので、自宅兼事務所から徒歩5分ほどの田んぼで(笑)。
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リアルのカエルが背景で「ぎゃわろっぎゃわろっ」(笑)。

昔はガチャガチャといえば100円と相場が決まっていましたが、現代は200~300円程度が主流だそうですし、中には1,000円などというものもあるとのこと。400円は決して特別ではないのですね。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

仕事は毎日戦ひのやうなものでございます。

昭和28年(1953)2月13日 佐藤隆房宛書翰より 光太郎71歳

「仕事」は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作。自らの命の尽きる日が送遠くないことを自覚し、こう思っていたのでしょう。

4月26日(土)~4月28日(月)、2泊3日で智恵子の故郷・福島二本松に行っておりまして、昨日はメインの目的だった高村智恵子生家/智恵子記念館さんで開催中の「高村智恵子生誕祭」の一環として、当会主催で行ったコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」についてレポートいたしました。

今日はその前後や合間にいろいろ巡った当地の光太郎智恵子関連スポット等のレポートを。二本松での光太郎智恵子「聖地巡礼」を考えられている方、ご参考になさって下さい。

4月26日(土)、JR東北本線二本松駅からスタートです。二本松にかつてあった智恵子顕彰団体・レモン会に所属されていた方、朗読家の荒井真澄さん、テルミン奏者の大西ようこさんご夫妻とここで待ち合わせ。
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昭和51年(1976)に駅前に設置された光太郎詩碑。「あどけない話」(昭和3年=1928)の一節が刻まれています。
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光太郎の父・光雲の孫弟子に当たる故・橋本堅太郎氏作の智恵子像「ほんとの空」。
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車輌二台に分乗して、安達太良山奥岳登山口へ。
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ロープウェイ乗り場に。
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揺られること10分ほど。8合目まで行けてしまいます。
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山頂駅周辺はまだ雪で覆われていました。
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10分ほど歩くと、薬師岳パノラマパーク。「パノラマ」と冠されている通り、絶景ポイントです。
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再びロープウェイで下り、登山口で昼食。当方は山菜そばと、大西さんの買ったチュロスをひとかけら分けていただきました。左は「奥岳」の「岳」、右はひらがなの「あ」。「あだたら」の「あ」でもあり、「ADATARA」で母音が全て「あ」ということにちなみます。
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ここから智恵子生家に移動、翌日のコンサートの会場設営等を行いました。
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めどがついたところで、同じ敷地内の智恵子記念館さんへ。
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花巻南高校さんの家庭クラブ/文芸部さんのご努力で復刻された智恵子のエプロン

やはり「高村智恵子生誕祭」の一環として行われている、「智恵子を偲ぶ折り鶴展~作製編~」にチャレンジ。
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おそらく今秋、やはりこちらで1ヶ月ほど開催されるであろう「高村智恵子レモン祭」の折に、こうして作られた折り鶴が展示されるはずです。

智恵子生家/智恵子記念館さんを後に、智恵子の実家・長沼家の墓所のある満福寺さんへ。
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智恵子が奉納した花立てには智恵子の名が刻まれています。
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続いて、阿武隈川が峡谷となっている「稚児舞台」へ。ここは直接は光太郎智恵子に関わりませんが、昔から名所とされている場所で、おそらく智恵子は足を運んだことがあると思われます。前九年の役にまつわる悲しい伝説の残る地です。
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ここを後にしてから知ったのですが、マムシがうようよいるところだそうで(笑)。

この日最後に、鬼婆伝説の残る観世寺さんと、黒塚。ただし観世寺さんは拝観時間を過ぎてしまっていました。
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ここは光太郎智恵子もやってきた場所です。戦後の昭和26年(1951)に光太郎が書いたエッセイ「『樹下の二人』」(同名の詩の解説)に、「近くの安達が原の鬼の棲家といふ巨石の遺物などを見てまはつた」とあります。

2泊お世話になったルートイン二本松さんへ。こちらのロビーにも、ちらっと智恵子の紹介などが。ありがたし。
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翌朝、ホテルの駐車場から見えた安達太良山。
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この日は先述のコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」でした。
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智恵子生家/高村智恵子記念館さん近くのスペース。昨年除幕された光太郎と智恵子の言葉を印刷した大きなボード。題字揮毫は書家の菊地雪渓氏。

コンサート午前の部を聴いて下さった、花巻南高校文芸部/家庭クラブの生徒さん、先生方。

エプロンの前で。
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智恵子生家内で。
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このあとご一行は、智恵子生家/智恵子記念館裏手の智恵子の杜公園を歩いて散策されたそうです。さらに地元の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~の方にお願いして車を出していただき、智恵子の母校・油井小学校さんや安達駅前の智恵子像などに案内してもらいまして、安達駅から花巻に帰られました。

コンサートの合間に、通常非公開の生家二階も。
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油井小学校さんと、安達駅の智恵子像、コンサートが終演し、片付けも終えたところで、我々も。
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こちらの智恵子像「今 ここから」も、二本松駅前の「ほんとの空」と同じ、故・橋本堅太郎氏の手になるもので、氏の遺作となってしまいました。

二本松駅前まで戻って早めの夕食を摂り、ここで荒井さんは仙台へ、箏曲の元井さんは都内へと、それぞれお帰り。大西夫妻と当方はルートインさんでもう一泊。

最終日、4月28日(月)。午後に発たれるという大西夫妻と共に、愛車で二本松市内聖地巡礼をさらに。

まずは道の駅安達智恵子の里さんへ。ここは全国的にも珍しく、上り線と下り線とに分かれ、それぞれがかなりの敷地を擁する大きな施設です。

下り線側から攻めました(攻めてどうする(笑))。
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上り線への連絡道路。ここからの安達太良山がまた実にいい感じでした。
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上り線側。
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智恵子にちなむご当地ソングの歌詞が三曲分。上段に故・二代目コロムビア・ローズさんの「智恵子抄」(昭和39年=1964)。二本松にほど近い小野町ご出身の故・丘灯至夫氏の作詞です。下段の二曲は吾妻栄二郎氏の「折鶴の舞」「智恵子のふるさと音頭」(平成7年=1995)。
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施設内へ。
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これも上川崎和紙でしょうか。
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旧安達町から、二本松市街へ。電線を地中化してある竹田地区。ハナミズキが満開でした。
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二本松霞ヶ城。
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この少年隊像も橋本堅太郎氏作。
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桜はほぼ終わり。代わって藤が咲き始めていました。
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元は智恵子生家にあった藤です。
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ここで車に戻り、一気に天守台まで。歩いても行けますが、高齢者にはきつい行程です(笑)。
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この辺随一の初日の出スポットで、360°の眺望が素晴らしいところです。

天守台から下っていくと、少年隊の顕彰碑。彼らにこそ「義烈」の語がよく似合います。
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レリーフは橋本堅太郎氏のお父さま・橋本高昇の作。高昇が二本松出身ということで、堅太郎氏の作が市内あちこちにあるわけです。

そのちょっと下に、光太郎詩碑。
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千葉ではとっくに散った連翹もまだ健在。
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光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝・髙村豊周作のブロンズパネルが三面。
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右上の碑陰記的なパネルは当会の祖・草野心平の文字。他は光太郎の直筆を使っています。

大西夫妻にはこの下の道端で待っていてもらい、当方はとって返して愛車に乗り込み、お二人を拾いました。その後、東北道に入って南下。大西さんはウルトラ系ともご縁が深いので、安達太良SAで昼食。
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円谷英二監督が、同じ福島の須賀川ご出身ということで、安達太良SAには等身大(巨大化前の(笑))フィギュアが設置されています。

さらに南下して郡山駅で、神奈川の逗子に帰られるお二人をお見送りし、当方は千葉に戻りました。

というわけで、当会主催のコンサート以外にも充実の3日間でした。「聖地巡礼」もほぼコンプリート。智恵子生家/高村智恵子記念館さん裏手の稲荷神社にある智恵子揮毫の「熊野大神」碑、さらにその上の鞍石山の光太郎「樹下の二人」碑には行けませんでしたが。

今回の旅でゲットした関連グッズ。
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中央の一筆箋と左上のマスキングテープは智恵子記念館さんでの新商品。左下のペーパークリップは「智恵子を偲ぶ折り鶴展~作製編~」で鶴を作るともらえます。ここにも智恵子紙絵があしらわれています。右の一筆箋は道の駅で購入。以前に大山忠作美術館さんで入手しましたが、保存用は別として使い切ってしまいましたので。
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最初にも書きましたが、二本松での光太郎智恵子「聖地巡礼」を考えられている方、ご参考になさって下さい。

以上、二本松レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

小生仕事は順調に進んでゐますが肋間神経痛の方は相変らずで、彫刻で腕力をつかふので時々は相当にひどい時があります、まあ病気をだましだまし仕事をしてゐるといふ状態です。


昭和28年(1958)2月3日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎71歳

澤田はオリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)版元の龍星閣主。「仕事」「彫刻」は、智恵子の顔を持つ、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)」制作です。

昨日から智恵子の故郷、福島二本松に来ております。
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同市の智恵子生家/智恵子記念館で24日の木曜日から約1ヶ月、さまざまなコンテンツが用意されています「高村智恵子生誕祭」の一環として、当会主催のイベントを2つ入れていただきました。
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まず通期で大正期の智恵子デザイン/制作になり、実際に着用もしていたエプロンの復元展示。岩手県立花巻南高校家庭クラブの生徒さんが作ったものです。
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今日は家庭クラブと文芸部の生徒さん、先生もお見えになるそうです。

それから今日、智恵子生家の座敷で、ヴォイスパフォーマー荒井真澄さん、テルミン奏者大西ようこさん、奏曲奏者元井美智子さんによるコンサート「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」。その会場設営を少しやって参りました。
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その前後には出演者の一部とご家族、当方で、地元の方のご案内により市内関係スポットなどを逍遥。
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ルートインさんに宿泊しました。

というわけでこれからコンサート本番。詳細は帰りましてからお伝えします。

4月2日(水)、当会主催の第69回連翹忌の集いにご出席下さった『毎日新聞』さんの記者氏による大きな記事が、4月23日(水)、『毎日新聞』さんの関東版に載りました。

旅するみつける 高村光太郎の理想郷 岩手と東京、最後の道程 「戦争責任」 「小屋」暮らし、文化向上へ交流 アトリエ取り壊しの危機

 アジア太平洋戦争が終結した80年前、みちのくの山野にわが身を「島流し」にした文化人がいた。日本の近現代を代表する彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)である。妻・智恵子への愛を支えとしつつ、戦争責任を背負った光太郎の最後の道程を岩手、東京とたどった。【高橋昌紀】

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㊧高村光太郎の命日で、遺影と献杯酒とレンギョウの花=東京都千代田区で

 ちえこ、ちえこ――。近くの裏山から、光太郎は妻をしばしば呼んだという。「高村山荘」は岩手県花巻市の郊外にある。「大仰な名称がついていますが、本人は『小屋』と呼んでいました」。一般財団法人「花巻高村光太郎記念会」の高橋卓也さん(48)がほほ笑む。
 3月に訪れた光太郎の旧居は、質素を超えて粗末に見えた。山中にあった林業用の作業小屋を転用し、終戦直後の1945年11月に建てられた。土壁に囲まれた板間と土間は計15畳ほどしかなく、杉皮ぶきの屋根が載る。冬には雪が吹き込み、夜具に積もったこともあったそうだ。
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「高村山荘」の板間。当初は電気も通っていなかった。通常は外側からの拝観になる=岩手県花巻市で

  東京都文京区にあった自宅兼アトリエが同年4月、米軍機の空襲で焼損し、光太郎に疎開先を提供したのが旧知の宮沢賢治の弟らだった。しかし、8月には花巻市内の宮沢家も被災し、次に選んだのが内陸部の太田村(現・花巻市)だった。 光太郎は戦時中、戦意高揚の詩を書いた。それを胸に特攻出撃した若者らがいたという。高橋さんが解説する。「戦争に協力したことへの反省があった。彫刻も封印した」。光太郎はここでの生活を「自己流謫(るたく)」と表現したそうだ。
 かといって、世捨て人となったわけではない。戦後の日本に必要なのは文化の向上、と見定めていた。村民はもちろん、東北の芸術家らとの交流エピソードには事欠かない。一般公開されている山荘にはには子供たちと並んだサンタクロース姿の写真もあり、ほほ笑ましい。
 ――智恵子は死んでよみがへり、わたくしの肉に宿つてここに生き、かくの如き山川草木にまみれてよろこぶ(「メトロポオル」1949年10月、一部抜粋)
 智恵子も共にいた。 
「ここを地上のメトロポオルとひとり思ふ」(同)とたたえた理想郷だったが、光太郎は離れることになる。1952年10月、青森県から「乙女の像」の制作依頼を受け、一時的な帰京を決める。
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㊧覆屋に守られた「高村山荘」。周囲の農地で、 拡大. 覆屋に守られた「高村山荘」。周囲の農地で、光太郎は「自耕自炊」の日々を送った=岩手県花巻市で
㊨高村光太郎が最後の日々を過ごしたアトリエ。当時のままの大きな窓と斜め屋根が特徴的だ=東京都中野区で


 花巻市から約500キロ。東京都中野区のアトリエを訪れた。「ここに置かれていたベッドの上で、伯祖父( おおおじ )は亡くなったそうです」。光太郎の弟の孫娘、桜井美佐さん(61)が特別に案内してくれた。所有者は別なので内観は変わったが、木造一部2階建ての外観はほぼ当時のままだ。「いつ来ても、感無量になります」。桜井さんがしみじみと語る。
 光太郎はアトリエで花巻の「小屋」をしばしば気にしていたという。やがて智恵子をモデルにした塑像を完成させたが、体調は悪化するばかりだった。帰郷はかなわず、1956年4月2日、肺結核のために死去、73歳だった。
 空が無い、ほんとの空が見たい――。そんな智恵子のつぶやきが枕元で聞こえただろうか。アトリエからの帰路、知らず知らずのうち、ビルの合間の空を見上げていた。 
アトリエ取り壊しの危機
 高村光太郎の死後も、旧太田村の住民らは「小屋」=「高村山荘」を守ってきた。風雪害などを防ぐため、1957年に木造の覆屋を建て、さらに77年には鉄骨造の上屋で覆った。光太郎がいかに尊敬され、愛されていたかが分かる。隣接の記念館では詩、彫刻、書、遺品などを展示し、地元の小学校に贈られた「正直親切」と書かれた扁額(へんがく)は光太郎の人柄をしのばせる。
  遺作となった「乙女の像」は青森・十和田湖畔に建つ。塑像が制作された東京都中野区のアトリエは洋画家、中西利雄(00~48年)が建てたが、老朽化が著しい。取り壊しの危機にあり、有志が集まって2023年に「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(渡辺えり代表)が発足した。
 光太郎は詩集「道程」「智恵子抄」などで知られるが、アジア太平洋戦争中は戦意高揚のための詩も書いた。劇作家で俳優の渡辺代表は光太郎の半生を舞台劇にしたこともあり、「保存する会」の意義を語る。「光太郎は自らに罰を与えました。反省と悔悟のうえで、『平和と自由の祈り』を『乙女の像』に込めました。その思いを伝えるためにも、アトリエを残したい」
 メモ 「高村山荘」(岩手」(岩手県花巻市太田3の91の3)は、東北新幹線新花巻駅から車で約25分。記念館も近くにある。詳しくは記念館0198・28・3012。東京都中野区のアトリエは「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」が署名・寄付などを募集している。同会事務局090・4422・1534(曽我貢誠さん)。

昭和20年(1945)秋からまる7年間を過ごした、花巻郊外旧太田村の山小屋「高村山荘」は、地域住民や宮沢家、佐藤隆房らの尽力で残されました。「お世話になった光太郎先生の小屋を残さなければ申しわけが立たない」という強い意志を花巻の人々が共有して下さった結果です。お世話になったのは光太郎の方でしたが……。

中野のアトリエもそうであってほしいところなのですが、現状、実に厳しい段階です。中野区としては一銭も出さないと明言されています。その後の管理運営活用の問題もありますし。ことはそう単純ではありません。

関連する件で、展示の情報を。

主に現地の皆さんに、こういう建造物があって存続の危機なんだということを広く知っていただく目的で、昨年、なかのZEROさんで「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」を開催しました。その際の展示資料のうち、解説パネル類を転用した展示を行っています。一昨日、会場設営をして参りました。

『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会

期 日 : 2025年4月24日(木)~5月23日(金)
会 場 : 中野区桃園区民活動センター2階ロビー 東京都中野区中央4丁目57-1
時 間 : 9:00~22:00
休 館 : 5月19日(月)
料 金 : 無料

昨年11月、中野ZERO美術ギャラリーにて「中野たてもの応援団」と協力し「中野を描いた画家たちのアトリエ展」を開催しました。今回はその時の一部ですが、地域の皆様に中西利雄先生やアトリエのことをもっと知っていただきたいと、ミニ展示会を開催することにしました。日本の優れた美術家、彫刻家、建築家、詩人などが関わったアトリエについてご紹介します。 

主催:中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会  協力:中野たてもの応援団 
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花巻の「高村山荘/高村光太郎記念館」、中野の「『中西利雄・高村光太郎アトリエ』ミニ展示会」、それからアトリエ自体も外観は見学可です。桃園区民活動センターから南西方向に徒歩10分ほど、桃園川緑道添いにあります。モダニズム建築家・山口文象設計によるかなり特徴的な建物なので、行けばすぐ分かります。
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表は行き止まりの路地ですが、そちらからも見られます。
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それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

今度の仕事のすむまではお医者さんにみてもらはない覚悟で他の医者からの申出も辞退してゐます、(そのわけはお分りでせう)、何卒あしからず、


昭和28年(1953)1月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に励みつつも、宿痾の肺結核を心配した姻族の宮崎が「いい医者を紹介する」的な手紙を寄越したようですが、それに対する返答です。2日後には「普通なら仕事など出来ないからだで今仕事をしてゐるのです。医者に診せたら仕事をやめろといはれるにきまつてゐます」とまで書いています。

それほどの覚悟と決意で「乙女の像」を作った中西アトリエ、取り壊しという事態は本当に勘弁してほしいものです。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、市立図書館さんの移転計画が持ち上がっています。

現在地は光太郎と関わりの深かった宮沢賢治が勤務していた市内若葉町の花巻農学校跡地・ぎんどろ公園に隣接する場所で、同じ敷地内には市の文化会館なども建っています。当方、光太郎が花巻郊外旧太田村在住時の地方紙記事などの調査のため、何度か利用させていただきました。

移転先候補地は、当初6案、それが絞り込まれて2案あったそうです。

まず、市役所に近い旧総合花巻病院跡地(花城町)。同院は賢治の主治医でもあり、光太郎の花巻疎開やその後の7年半にわたる花巻及び旧太田村での生活に物心共に多大な援助をしてくれた佐藤隆房が院長を務めていました。病院は令和元年(2019)に市内御田屋町に移転し、その跡地が候補地の一つでした。

それからJR東北本線花巻駅前という案も。

2つの案を巡っては、どちらも一長一短があり、市内でも意見が分かれていたようで、地元の方のSNS等を見ると、なかなか紛糾していたようです。

市では市民の意見等を聞く機会を設けたりし、さまざまな検討を行った結果、花巻駅前の方で、ということになったそうです。このほど、市のホームページに「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」がアップされました。
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現在、タケダスポーツさんのある場所のようです。

部外者としては、場所の決定に関しては何も言うことはありません。

で、「新花巻図書館整備基本計画(案)説明資料」。どのように新図書館を運営していくか、そういったコンセプトが述べられており、そちらではなるほどね、と思わせられました。やはり宮沢賢治のお膝元、という部分が前面に押し出されています。

まず「基本方針」。

 本市は、宮沢賢治や萬鉄五郎をはじめとした多くの先人を輩出しています。江戸時代の先人を顕彰した「鶴陰碑(かくいんひ)」に記された人々は、自らの研鑽に精進し学術文化はもとより地域や産業の振興と発展、そして後継者の育成に努力を重ねてきました。花巻には歴史的に学びの風土があり、この精神は私たちも次の世代に受け継いでいかなければなりません。
 新しい花巻図書館の整備にあたっては、市民一人ひとりの生活や活動を支援することを基本的に考えながら、先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館を目指して、次の3つを基本方針とします。

郷土の歴史と独自性を大切にし、豊かな市民文化を創造する図書館
 花巻市は輝かしい功績を遺した数多くの先人を輩出しています。この先人達を顕彰し次の時代を担う子どもたちにその精神を継承し、郷土を愛する心を育むことができるよう、郷土資料や先人の資料の充実を図ります。
すべての市民が親しみやすく使いやすい図書館
 幼児、子ども、高齢者、障がい者、すべての市民が気軽に利用できるように、親しみやすく使いやすい施設とします。自然や周辺に調和した明るくゆったりしたスペースとし、読書はもちろんのこと、くつろぎの場でもあり、交流の場ともなる施設とします。
暮らしや仕事、地域の課題解決に役立つ知の情報拠点としての図書館
 これからの図書館は市民の読書や生涯学習を支援するだけでなく、情報を得る場、生活、仕事、教育、産業など各分野の課題解決を図る図書館であることが求められているため、広い分野にわたる資料やレファレンス(検索・相談)機能の充実を図ります。

輩出された「輝かしい功績を遺した数多くの先人」には、花巻出身ではないもの、光太郎も含めて下さっているようです。「蔵書・資料の収集について」という項の中に「宮沢賢治、高村光太郎、萬鉄五郎、新渡戸稲造などの資料を積極的に収集・保存。可能な限り開架閲覧スペースに配架」という一節があります。まぁ、現在の図書館さんでも、光太郎や賢治に関する資料類はかなり所蔵されていて一室が設けられている感じで、それを引き継ぐという部分もあるのでしょうが。

やはり賢治は別格で、「宮沢賢治に関する資料については、市民から、宮沢賢治の出身地にふさわしい図書館としてほしいなどの意見が多いことから、今後出版される図書資料はもちろん、未所蔵で購入可能な資料は古本も含め積極的に収集し、地域(郷土)資料スペースにおいて配架する予定ですが、宮沢賢治専用のスペースを設けることも検討します。また、イーハトーブ館と役割分担をし、現在イーハトーブ館が保有している専門的な研究資料や絶版等入手困難な資料等は、引き続きイーハトーブ館で保有することとし、図書館で閲覧または貸出できるようシステムの構築を検討します。」だそうです。光太郎もそれに準ずる扱いくらいにはしていただきたいところです。

また、「花巻駅前も賢治作品「シグナルとシグナレス」の舞台であり、「銀河鉄道の夜」のモチーフとなった岩手軽便鉄道や花巻電鉄の駅があった場所で賢治ゆかりの地」といった記述も。多少の無理くり感は否めないなと感じつつも「なるほどね」と思いました。

もう一つの候補地だった病院跡地の方は「宮沢賢治ゆかりの地に相応しい図書館以外の公共事業に活用することも考えられる」だそうです。
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とにもかくにも「基本方針」どおり、「先人が育んできた「学びの精神」を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館」実現に向けて頑張っていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

丸ビルの展らん会も御覧下されし由、古いものばかりで殆ど現代的意味はない事でした、

昭和27年(1952)11月26日 吉野秀雄・登美子宛書簡より 光太郎70歳

「丸ビルの展らん会」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため花巻郊外旧太田村から上京したことを記念し、中央公論社の肝煎りで開催された「高村光太郎小品展」。
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意外や意外、光太郎生前唯一の個展でしたが、当の光太郎自身はあまり興味がなかったようです。彫刻の制作年代の説明も無茶苦茶です。「手」は大正7年(1918)、「裸婦坐像」は大正6年(1917)です。

光太郎第二の故郷、岩手花巻から特別展示の情報です。

高村光太郎記念館特別展「中原綾子への手紙」

期 日 : 2025年4月26日(土)~2026年2月28日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 12月28日(日)~2026年1月3日(土)
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 中原綾子は与謝野晶子門下の歌人で、文芸誌『明星』に作品を発表しており、同誌に作品を寄せていた光太郎と交流がありました。交流は光太郎が花巻へ疎開してからも続き、昭和26年9月に山荘を訪れて光太郎を見舞うなど生涯にわたって交流を持つ間柄であったと考えられます。この展示では、智恵子抄など作品に通じる光太郎の心境を、中原に宛てた手紙からたどります。
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高村光太郎は、昭和20年5月に花巻の宮沢家に疎開。このハガキは同年6月に疎開先の宮沢家から綾子宛に発出したもの。
※旧姓は曾我綾子、結婚によって中原姓や小野姓を名乗る時期があります。

中原綾子は明治31年(1898)の生まれ。光太郎より15歳下です。与謝野晶子の高弟の一人で、大正10年(1921)に復刊された第二期『明星』誌上に光太郎共々作品を発表し、その頃から光太郎の知遇を得ていたようです。前年の大正9年(1920)、与謝野家での歌会に招かれた作家の江口渙が残した回想に、光太郎、中原、生田長江、そして芥川龍之介も参加していたことが記されています。

昨年、中原遺族より、光太郎が中原に宛てた書簡など60点余りが花巻市に寄贈されました。中には『高村光太郎全集』に洩れていたものも含まれます。書かれた期間も長期にわたり、昭和4年(1929)から同26年(1951)までと、20年以上に及びます。そこで、今回の展示では来年2月までを4期に分け、入れ替えながら展示するとのことです。

書簡類の大部分は中原が主宰していた雑誌『いづかし』『スバル』などへの寄稿をめぐる事務的な内容ですが、それ以外に「智恵子抄など作品に通じる光太郎の心境」。心を病んだ智恵子の病状を細かく伝える長い書簡が多数含まれており、今のところ他の人物にはこうした内容の書簡を送ったことが確認出来て居らず、その意味でも貴重です。以前にも書きましたが、中原は光太郎没後すぐ、『婦人公論』に「狂える智恵子とともに」の題で智恵子がらみの書簡を発表しました。これを読んだ人々は皆瞠目しました。

書簡以外に、『スバル』などに載った作品の草稿類も。内容的には新出のものではありませんが、ペン字の書としての魅力にも溢れています。また、多くは高村光太郎記念館のある旧太田村の山小屋で書かれたもの。これらが言わば「里帰り」したという意味での価値も大きいと思います。

いずれ展示資料全て翻刻もし、図録的な書籍にすると言う計画もあるようです。また、当方手持ちの中原がらみの史料類も併せて展示していただくつもりでおります。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜はまるで夢中で数時間を楽しく過ごしました、久しぶりでしたが以前と何の変りもなくお話をきき杯をあげたのは愉快でした、山にゐてはやはり出来ない事でした、

昭和27年(1952)11月7日 宮崎丈二宛書簡より光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、前月に再上京した後、戦前からの友人知己が中野のアトリエにやってきたり、一緒に呑みに出たりということも重なりました。

11月6日には旧知の詩人・宮崎丈二と西倉保太郎、さらにその時が初対面だったようですが、二人の友人の木材商・浅野直也を交え、四人で新橋に繰り出しました。

花巻郊外旧太田村に居た頃は、当会の祖・草野心平や中原綾子なども訪ねてきましたが、そうした機会も限られていましたし、ましてや夜の町を呑み歩くということはほとんど出来ませんでした。盛岡に出た際に行きつけにしていたバーがあったり、心平のリクエストで花巻からタクシーを飛ばしてその店まで行ったり、ということもありましたが……。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんの取り組みです。

まずは道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。実際に光太郎が調理した献立や使った食材を参考に、メニュー考案にあたられているのがやつかの森LLCさんです。
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今月分のメニューは「ホッケの塩焼き」「豚肉のすき焼き風煮」「切り干し大根の煮物」「じゃがいもとコーンのバター炒め」「蕗味噌」「卵焼き」「おにぎり」「筍ご飯」「よもぎ入り白玉団子」。

白玉にヨモギを入れたのは「なるほど」という感じでした。また、「ホッケの塩焼き」。光太郎は肉が大好物でしたが、昭和27年(1952)に生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京して入った中野のアトリエで、大家の中西夫人に頼んだ買い物メモなどにもホッケやブリなどの切り身を依頼する内容が残っています。

同じくやつかの森さんが、こちらは調理まで担当されている花巻市東和地区の
ワンデイシェフの大食堂」さんでの月に一度の「こうたろうカフェ」。連翹忌の集いを開催する間際でバタバタしており紹介出来ませんでしたが、今年初の出店だったという先月分は3月25日(火)だったそうです。

右下画像、智恵子の故郷・二本松市の智恵子の生家/智恵子記念館さんで開催される高村智恵子生誕祭 の一環としての、共に当会プロデュースによる、コンサート「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」(4月27日(日))、花卷南高校家庭クラブさんのお手を煩わせた「智恵子のエプロン」復刻展示のフライヤーを貼って下さっていて恐縮いたしました。
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こちらのメニューは「鶏むねローストのなぞソース」「たまご巾着」「バッケ風味のピザ」「春ワカメの3色和え」「イカ風味大根」「生麩のすまし汁」「きざみのせご飯」「お新香」「干柿のミルフィーユ」「コーヒー」。これで1,000円は首都圏だと考えられない価格ですね。ちなみに道の駅の「光太郎ランチ」も800円だか900円だかのお手頃価格です。

「なぞソース」はタマネギ、ニンジンがベースとなっているとのこと。「バッケ」はふきのとう。すまし汁に使われているお椀はメンバーの方のお宅に代々伝えられている塗り物だそうで、なるほど、こういうところにも工夫がされているのかと感心いたしました。

今月分は30日(水)に出店だそうです。既に30人ほどの予約が入っているとのこと。しかし、このブログが若干ネタ切れ気味でして(笑)、また日を改めましてご紹介いたします。
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【折々のことば・光太郎】

東京の空気は悪いですが、健康はまづ大丈夫らしく、このアトリエで自炊を始めました、

昭和27年(1952)10月29日 
宮沢清六宛書簡より 光太郎70歳

再上京後、外食や寿司の出前を取ることも増えましたが、基本的には自炊でした。

7年間暮らした花巻郊外旧太田村とは異なり、少し歩けば桃園町の商店街で、一通りの買い物は出来ました。そこで
七輪なども入手していました。

足腰が弱り、外出がほぼ不可能になっても先述の通り、大家の中西夫人や家政婦さんに頼んで食材を買ってきてもらい、調理は自分でという生活が最晩年まで続きます。

智恵子の故郷・福島県二本松市で、観光客誘致促進のための取り組みがいろいろと始まっています。そこであちこちで光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語が。

まず、県全体の「ふくしまプレデスティネーションキャンペーン」を受けて、智恵子のソウルマウンテン・安達太良山周辺で「ほんとの空ツーリズム!」。地方紙『福島民報』さん、3月26日(水)の記事。

「ほんとの空ツーリズム!」始動 福島県二本松市の安達太良山周辺情報を発信・提供

 福島県二本松市の安達太良山周辺の観光の魅力を一体的に発信、提供する「ほんとの空ツーリズム!」の取り組みが始動した。関係団体による第1回推進会議が25日、二本松市の市民交流センターで開かれた。同日、情報サイト「Adventara(アドベンタラ)」を開設するとともに、新年度には登山や温泉、地域の文化を楽しむ旅行・体験企画を国内外に向けて提案する計画だ。
 4月に始まる「ふくしまプレデスティネーションキャンペーン(DC)」を視野に、関係機関・団体・事業者が協力して安達太良山にスポットを当て、県内の観光誘客推進を図る。ガイドの案内による登山をベースに、歴史や湯守文化の発信、登山道の保全活動などを交え、城下町の菓子店や酒蔵巡り、猪苗代湖観光などと組み合わせた旅行や体験を企画し、情報サイトで提案していく。建て替え工事に入る安達太良山の山小屋「くろがね小屋」を名物カレーの出張販売を通して発信する。
 推進会議は県観光物産交流協会の守岡文浩理事長を座長に、藤城良教県観光交流局長、二瓶盛一猪苗代町長、河原隆二本松市観光課長、環境省、山岳、観光、旅館、交通などの関係者約30人が参加し、意見を交わした。

情報サイト「Adventara(アドベンタラ)」はこちら
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続いて二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』の今月号。

4月号は毎年そうですが、市内の桜の名所を「安達太良のほんとの空に桜舞う」のフレーズで紹介しています。令和元年(2019)に同市で開催された「2019全国さくらシンポジウム」のキャッチフレーズでしたが、使い続けられています。
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それから、これも毎年期間限定で特別運行されている市内循環バス「二本松春さがし号」についても。こちらは智恵子生家/智恵子記念館も廻ります。
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福島交通さんのサイトから。

二本松の名所旧跡を巡る「二本松春さがし号」を運行いたします。

二本松駅前より、詩人で彫刻家である高村光太郎の妻智恵子が育んだ住まい、少年隊も眠る丹羽家の菩提寺「大隣寺」などを巡る、二本松市内を循環する “二本松春さがし号”臨時バスを運行しますので、是非ご利用ください。
【注意事項】
     ・道路交通状況等により遅れが発生します。列車への乗り継ぎには十分余裕を
      お取りください。
     ・混雑時のマスク着用、ご乗車前の手指消毒にご協力ください。
  ご理解ご協力を重ねてお願い申し上げますとともに、皆様のご乗車をお待ちいたしております。

運 行日  : 2025年4月9日(水)~4月18日(金)毎日運行
「二本松春さがし号」ご案内(時刻表運行マップは添付ファイルをご確認ください。)
お問い合せ先 : 福島交通㈱二本松営業所 0243-23-0123

運行が始まったというニュース。地方紙『福島民友』さんから。

二本松で春をさがそう 名所旧跡を巡る臨時バス運行

 福島県二本松市中心部の名所旧跡を循環する恒例の臨時バス「二本松春さがし号」の運行が9日から始まった。18日までの毎日、JR二本松駅前を発着する計6便が運行している。
 国指定史跡「二本松城跡」がある霞ケ城公園や智恵子の生家、二本松少年隊の供養塔がある大隣寺などを巡るコースで、同駅前を除く9カ所で停車する。午前9時~午後3時台のおおよそ1時間おきに運行され、ゆったりと城跡や公園の散策などをしても次の便に乗車して移動できる。
入館料割引の施設も
 にほんまつ観光協会と福島交通二本松営業所が運行。運賃は中学生以上170~500円、小学生以下90~250円で乳幼児無料。乗り降り自由の1日フリー乗車券は中学生以上500円、小学生以下250円で、大山忠作美術館と智恵子記念館の入館料が割引となる。
 運行初日の9日に二本松駅前で出発式が行われ、安斎文彦会長、鈴木友和営業所長がテープカットした。
 問い合わせは同営業所(電話0243・23・0123)、同協会(電話0243・24・5085)へ。
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「運行開始」といえば、安達太良山のロープウェイ。こちらも『福島民友』さんから。

残雪輝く安達太良山 4月12日からロープウエー本格運行

 福島県の安達太良山の奥岳登山口(950メートル)~山頂駅(1350メートル)を結ぶあだたら山ロープウエイが5、6の両日、特別運行され、登山者や観光客が残雪輝く絶景を楽しんだ。本格運行は12日から。
   例年雪がない山頂駅近くの薬師岳パノラマパークは約60センチの積雪。山頂駅では長靴の無料貸し出しもあり、来場者は、雪上から白い山頂と「ほんとの空」とのコントラストに歓声を上げていた。
 料金は中学生以上が往復2000円、4歳~小学生1500円。山開きは5月18日の予定。問い合わせはあだたら高原リゾート(電話0243・24・2141)へ。
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安達太良山はまだ銀世界なのですね。

一昨日ご紹介した「高村智恵子生誕祭」もありますし、各種スタンプラリー等も開催中。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の命日に、御恵送の小包到着、早速霊前に供へる事が出来ました、深い感謝に満たされました、

昭和27年(1952)10月6日 倉田福子宛書簡より 光太郎70歳

智恵子命日は10月5日。「ご霊前に」ということで、京都在住の倉田から京都銘菓などが送られてきました。

例年ですとこの頃に花巻町中心街の松庵寺さんで法要を行って貰っていましたが、この年は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京する直前でバタバタしており、中止しました。

翌日には山小屋のあった旧太田村の農家で光太郎の壮行会が催されています。
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若干先の話ですが、当会プロデュースのイベントも含まれているもので、早めに告知させていただきます。

高村智恵子生誕祭

期 日 : 2025年4月24日(木)~5月25日(日)
会 場 : 智恵子生家/智恵子記念館 福島県二本松市油井字漆原町36
時 間 : 9:00~16:00
休 館 : 水曜 ※祝日の場合は翌日
料 金 : 大人(高校生以上)410円(360円)
      子供(小・中学生)210円(150円) (  )内団体料金

高村智恵子の誕生日にあわせてさまざまなイベントを開催します。
智恵子の生家は、明治初期に建てられた造り酒屋で、屋号は『米屋』、銘柄は『花霞』と言いました。智恵子は明治19年5月20日にここで生まれ、育ちました。
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 智恵子の生家 二階特別公開
  公開日 4月26日(土) ~4月29日(火・祝) 
      5月3日(土・祝)~5月6日(火・祝) 10日(土)・11日(日)
      17日(土)・18日(日)・24日(土)・25日(日)
  通常公開していない「智恵子の居室」を特別に公開いたします。

 奇跡といわれる「紙絵」実物展示
  展示期間 4月24日(木)~5月11日(日)
  展示場所 智恵子記念館展示室
 
 上川崎和紙で作る「智恵子の紙絵」体験
  開催日 5月17日(土)・18日(日)・24日(土)・25日(日)
  開催場所 智恵子生家
  上川崎和紙を使用し、智恵子の紙絵をモチーフとしたグッズを作成できます。

 智恵子を偲ぶ折り鶴展~作製編~
  開催日 4月24日(木)~5月25日(日)
  開催場所 智恵子記念館
  智恵子も晩年作製した折り鶴を、オリジナルで作ってみませんか。
  作製いただいた折り鶴は、次回自主事業開催時に展示いたします。
  作製いただいた方へ、今季限定「紙絵ペーパークリップ」をプレゼントいたします。

 特別企画 音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた
  開催日 4月27日(日)
  開催場所 智恵子生家一階座敷
  筝曲及びテルミンの演奏に乗せた、詩集『智恵子抄』の朗読公演をお楽しみください。
  出演 荒井真澄(朗読) 大西ようこ(テルミン) 元井美智子(箏曲)

 特別企画 「智恵子のエプロン」復刻展示
  開催日 4月26日(土)~5月25日(日)
  開催場所 智恵子記念館ロビー
  大正時代の『婦人之友』で詳しく紹介された高村智恵子がデザインし着用していた
  エプロンを、岩手県立花巻南高等学校家庭クラブの生徒さんたちが復元して下さいました!
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通常非公開にしている生家二階部分の特別公開、紙絵実物作品の展示、紙絵制作体験ワークショップなどの例年行われているコンテンツに加え、当会主催の位置づけで2件、入れていただきました。

1日限りのミニコンサートで「音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた」。都内在住の箏曲奏者・元井美智子さんの箏、神奈川県民大西ようこさんの電子楽器テルミン演奏に乗せ、仙台市のヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんの朗読で「智恵子抄」詩篇を。
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上の画像は4月2日(水)に行いました第69回連翹忌の集いでのもの。左から荒井さん、元井さん、大西さんです。

これまでもお三方中のお二人が組んで、という公演等が各地で複数回ありました。

大西さん×荒井さん
 花巻高村光太郎記念館ロビーコンサート。
 第22回レモン忌/智恵子生家。
 第61回連翹忌レポート。
 「朗読とテルミンで綴る 智恵子抄」。
 宮城レポートその2 松島~仙台。

荒井さん×元井さん
 荒井真澄さん、元井美智子さん コラボ公演3件 花巻・仙台。
 仙台レポートその1 「夏の朝、音を描くコンサート 箏の調べと智恵子抄」。
 荒井真澄さん、元井美智子さん コラボ公演3件 動画、報道。

元井さん×大西さん
 「テルミンミュージアム4周年記念~人数限定のスペシャルなライブ~」レポート。
 朗読を伴う演奏会情報――余白露光 テルミンと民族楽器のライブ演奏/文星堂 秋の音楽会。
 
元井さん・大西さん組は光太郎に関わらない公演もつい先月になさっています。

それならいっそ三人でやってみませんか、と、水を向けたところ、皆さんに快諾いただきまして、今回の公演が実現することとなりました。ノーギャラなので申し訳ありませんが、智恵子生家で演奏や朗読ができるということで、いい機会だと捉えて下さいました。

大西さん曰く「連翹三人娘」(笑)。当方は「智恵子抄Perfume」「智恵子抄キャンディーズ」「智恵子抄かしまし娘」などと言っていたのですが(笑)。

もう1件、「「智恵子のエプロン」復刻展示」。こちらは光太郎第二の故郷・岩手花巻の岩手県立花巻南高校さんがご協力下さっています。

そもそもは一昨年、花巻高村光太郎記念館さんで開催された企画展「光太郎と吉田幾世」が始まりでした。吉田幾世は戦後、盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校さん)を設立し、学校ぐるみで光太郎と交流のあった人物ですが、盛岡生活学校は雑誌『婦人之友』の友の会盛岡支部を母体としていました。同誌を主宰し、光太郎と交流のあった羽仁吉一・もと子夫妻が東京で始めた自由学園さんの精神を受け継ぐものです。

で、企画展の関連行事としての講座講師を頼まれ、『婦人之友』と光太郎の関わりを詳しく調べている中で、同誌の第18巻第7号(大正13年=1924 7月)に載った智恵子のエプロンを紹介する記事を見つけました。講座の中でこの件も紹介し、「どなたか復元して下さいませんかね」とつぶやいたところ、聴かれていた花巻南高文芸部顧問の菊池久恵先生が「それなら」と、家庭クラブさんに声を掛けて下さいました。

そして昨年、花巻で開催されたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」で完成したエプロンを初披露。岩手の地方紙では大きく取り上げられました。
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さらにやはり花巻での「岩手県高校文化連盟花巻支部第28回合同作品展」でも展示されましたし、文芸部さんの部誌『門』でも詳しく紹介されています。

そこで以前から「智恵子の故郷の二本松の皆さんにも見ていただきたいものですね」と話していたのですが、上記「連翹三人娘」の公演を当会でプロデュースすることになり、「ではドサクサに紛れて(笑)エプロンの展示もお願いしてみましょう」という流れでした。

こちらは後から突っ込んだもので、「高村智恵子生誕祭」の公式情報には出ていませんが、今後、福島の地方紙等に情報提供をし、取材していただこうと思っております。日程的には今後の相談ですが、同校の先生方、生徒さん数名が現地を訪れる方向でも話が進んでいますし。

というわけで、長々書きましたが、「高村智恵子生誕祭」、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

もうこの山はすつかり秋で栗の実が小屋の屋根にぱらぱら落ちます、


昭和27年(1952)9月21日 上田静栄宛書簡より 光太郎70歳

上田は智恵子の親友・田村俊子の内弟子だった詩人。大正初め、光太郎智恵子の結婚披露直後に田村夫妻と共に駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れ、当時としては珍しかったレモネードを振る舞われたそうです。その頃から智恵子はレモンを愛していたようです。

そろそろ各地の学校さんで入学式ですね。昨日から今日明日あたりがピークでしょうか。

各地の大学さんで売店や食堂などを展開している大学生活協同組合さんで、「2025新学期テーマフェア「47都道府県を舞台にした小説フェア」」が始まっています。

2025新学期テーマフェア「47都道府県を舞台にした小説フェア」

この春、日本全国の「ものがたり」を旅しませんか? 地元から離れて新たな道を進むあたなも、地元の魅力を再発見したいあなたも。まだ見ぬ日本を「本」の世界で巡ってみませんか?

旅行や研究のフィールドワークの参考になるかも⁉ 47都道府県全てが舞台となった作品が勢ぞろいです♪ 知っている場所が舞台となった物語を深読みしたり、気になる都道府県を選んで旅気分に浸ったり、まだ見ぬ日本を本の世界で巡ってみませんか? 
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なるほどね、という感じです。010

で、福島県は我らが光太郎の『智恵子抄』。ありがたし!安達太良山や阿武隈川が謳われていることからの選定ですね。

この企画、対象書籍はすべて文庫本で、文庫版の『智恵子抄』というと、当会の祖・草野心平が編んで解説「悲しみは光と化す」も書いた新潮文庫版(初版 昭和31年=1956)が最もメジャーですが(現在140刷くらい)、そちらではなく角川春樹事務所さんのハルキ文庫版『智恵子抄』(初版 平成23年=2011 解説・蜂飼耳氏)です。新潮文庫版が戦後の『智恵子抄その後』などからも詩篇を取っているのに対し、ハルキ文庫版は戦前のオリジナル龍星閣版(昭和16年=1941)を底本にしたもので、戦後の作品は入っていません。そこでページ数も少なく、税込294円と格安です(平成23年(2011)の刊行当時は「280円文庫」と銘打っていましたが)。

文庫版では、他に角川文庫版『校本 智恵子抄』も版を重ねています。こちらは中村稔氏の編集・解説で、龍星閣版を元に、戦後の作品などを「『智恵子抄』補遺」として付加しています。

異論もありましょうが、メジャー度で言うと新潮文庫版>角川文庫版>ハルキ文庫版だと思われます。そのハルキ文庫版をラインナップに入れているのはいわゆる「大人の事情」でしょうか(笑)。
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ちなみに現在も書店に並んでいるものとして他には集英社文庫『レモン哀歌 高村光太郎詩集』。故・粟津則雄氏の解説で「智恵子抄」系は3分の1ほどです。それから絶版となってしまいましたが、社会思想社現代教養文庫にかつて『紙絵と詩 智恵子抄』がありました。題名の通り紙絵写真をふんだんに使い、編集は伊藤信吉、故・髙村規氏、故・北川太一先生と、凄いメンバーでした。

それから、今回のフェアで光太郎第二の故郷・岩手代表は門井慶喜氏の直木賞受賞作『銀河鉄道の父』。平成29年(2017)にハードカバーで講談社さんから刊行され、令和2年(2020)に文庫化されました。

昭和20年(1945)に駒込林町のアトリエ兼住居を空襲で焼け出された光太郎を花巻に招いてくれた宮沢政次郎(賢治の父)を主人公に、光太郎と交流の深かった宮沢家の人々が総出演。映画版では光太郎に触れられませんでしたが、原作では光太郎の名が出て来ます。

大学生の皆さん、ぜひ生協でお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

おてがみにつづいて「劉生絵日記」到着、すばらしい本になつて喜びました、こんな本の出版は龍星閣以外ではとても出来ないでせうし、企で及びつかないでせう、


昭和27年(1952)9月21日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎70歳

澤田はオリジナル『智恵子抄』版元の龍星閣社主。『劉生絵日記』は光太郎と親しかった岸田劉生の絵日記。全三巻で龍星閣が刊行しました。光太郎の名も記されています。澤田は造本の達人と言われ、光太郎もその点は認めていたようです。

まず過日ご紹介した「花の王国ふくしまフラワースタンプラリー2025」について、FCT福島中央テレビさんのローカルニュース。

2か所以上巡って抽選に応募「花の王国ふくしまフラワースタンプラリー」開幕

 福島の大型観光キャンペーンを盛上げようと、福島県内の花の名所をめぐるスタンプラリーが始まりました。
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 「花の王国ふくしまフラワースタンプラリー」の開幕式は、3月20日いわき市フラワーセンターで行われました。
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 これはJR東日本と福島県内の自治体による大型観光企画「ふくしまデスティネーションキャンペーン」の一年前イベントとして開かれます。
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 福島県内の花の名所207ヵ所に設置されたスタンプを6月30日までに2つ以上集めると、福島の特産品や宿泊券などが当たる抽選に応募できます。
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■福島県観光交流局 藤城 良教局長
「県民の方にもそして国内外のみなさまもおもてなしして福島が誇る花を楽しんで観光巡りをしていただきたいなと思います」
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4月からの福島プレDC期間中は、県内各地でさまざまなイベントが行われます。
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正式には来年開催される「ふくしまデスティネーションキャンペーン」のプレイベントという位置づけだそうで、こちらは県内全域を対象とした企画です。

それ以外にも各市町村等がさまざまな独自のコンテンツを用意、その数何と289だそうです。基本的に来週4月1日(火)からスタートします。
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智恵子の故郷・二本松市でも4件のイベント。「絶景・絶品『肉フェス』in HIYAMA」(日山キャンプ場)、「高原ワインの風と音楽の調和 山餐(さんさん)サウンズ」(ふくしま農家夢ワイン)、「高原の新緑の風で味わう あなたのそばフェス」(道の駅さくらの郷)、そして……

二本松ミュージアムツアー2025~スタンプラリーでめぐる歴史と芸術のまち~

期 日 : 2025年4月1日(火)~6月30日(月)
会 場 : 二本松歴史館/二本松市郭内三丁目303-5 にほんまつ城報館1階
      智恵子記念館/二本松市油井字漆原町36
      大山忠作美術館/二本松市本町2-3-1 二本松市民交流センター3階
時 間 : 二本松歴史館/午前9時~午後5時
      智恵子記念館/午前9時~午後4時30分
      大山忠作美術館/午前9時30分~午後5時
休 館 : 二本松歴史館/月曜日(祝日に当たるときは、以後の休日でない日)
      智恵子記念館/水曜日(祝日の場合は翌日)
      大山忠作美術館/月曜日(祝日の場合は翌日)
料 金 : 二本松歴史館/一般 200円 高校生以下 100円
      智恵子記念館/高校生以上 410円 中学生以下 210円
      大山忠作美術館/一般 410円 中学生以下 210円

二本松歴史館・智恵子記念館・大山忠作美術館の3館をめぐるスタンプラリーを開催します。スタンプラリー達成者には、3館コラボグッズを差し上げます。
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「フラワースタンプラリー」とはまた別のスタンプラリーだそうで。

ところで、智恵子記念館といえば、智恵子の生家が併設されていて、こちらではさらにまた別に「高村智恵子生誕祭」が開催されます。4月24日(木)~5月25日(日)で、また近くなりましたら詳細をお伝えいたしますが、当会としても参加させていただくことになりました。
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まず期間中通期で「智恵子のエプロン 復刻展示」。光太郎第二の故郷・花巻の岩手県立花巻南高校家庭クラブの生徒さんが復元して下さった智恵子のエプロンを記念館さんで展示します。それから1日限りのミニコンサート的な。箏曲奏者・元井美智子さんの箏、大西ようこさんの電子楽器テルミンに乗せてヴォイスパフォーマー・荒井真澄さんの「智恵子抄」朗読で「音楽と朗読『智恵子抄』 愛はここから生まれた」。

「フラワースタンプラリー」、「二本松ミュージアムツアー」と期間がかぶっていますので、併せてどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

智恵子遺作紙絵展覧お催しの趣、右は真壁仁君の御同意あらば、小生も異存ございません。作品も真壁仁君保管のものの中より御選択下さるのが便宜かと存じます。
昭和27年(1952)7月5日 佐藤治助宛書簡より 光太郎70歳

この年8月8日~10日の3日間、山形鶴岡公民館で開催された智恵子紙絵展にかかわります。他に大山公民館でも展示があったそうですが、こちらは会期等不明です。

「真壁仁君」は、山形在住の詩人。戦時中、光太郎は手元にあった智恵子紙絵千数百点のうち約3分の1を真壁の元に疎開させ、そのまま真壁が保管していました。佐藤治助は真壁に師事、山形鶴岡で教職のかたわら文学活動に取り組んでいました。

上記「高村智恵子生誕祭」中、智恵子記念館では紙絵の実物展示も行われます。

昭和6年(1931)に光太郎が訪れ、紀行文「三陸廻り」で紹介した宮城県女川町で、永く光太郎顕彰活動を続けられているの女川光太郎の会さん。このたび県から表彰されたそうです。

地元紙『石巻かほく』さん記事。

住みよいみやぎづくり功績賞 「女川・光太郎の会」が受賞、地域活性と文化振興

 地域社会づくりに貢献した個人や団体を県が表彰する本年度の「住みよいみやぎづくり功績賞」に、女川町民有志で組織する「女川・光太郎の会」が選ばれた。町に紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の功績を伝え、地域の活性化や文化振興に貢献していることが評価された。
 女川・光太郎の会は、戦前に町を訪れた光太郎の功績を後世に伝えるため1992年に発足。同年夏、女川湾の近くに三つの文学碑を建立した。
 文学碑は東日本大震災の津波で流出するも、2020年に再建を果たした。紀行文や詩の朗読などを行う「光太郎祭」も、光太郎が三陸に向けて東京を出発した8月9日に合わせて毎年開催している。
 伝達式が17日、石巻市あゆみ野5丁目の県石巻合同庁舎であった。県東部地方振興事務所の石川佳洋所長が「会の活動は全国から女川を訪れるきっかけになっている。若い世代にも伝承の思いが伝わっているのがすばらしい」とたたえ、須田勘太郎会長(84)に表彰状を手渡した。
 須田会長は「光太郎祭は震災を乗り越えて今年で34回になるが、会員の高齢化が課題になっている。表彰は団体を知ってもらう機会になり、存続させていくための力になる」と話した。
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「住みよいみやぎづくり功労賞」は、昭和45年(1970)に開始された「感謝のことば」という県民の隠れた善行や小さな善意に対して知事が表彰するという事業を引き継いだ事業で、平成18年(2006)度から表彰対象に「安全・安心まちづくり」等を加え、通常の表彰ではなかなか推薦対象とならないようなより広い範囲の地域社会への貢献に対し、知事の感謝状を贈呈するというものだそうです。

女川光太郎の会さん、「文化芸術の振興に尽くした者――地域の伝統芸能等を伝承している町内会等,子どもを対象にした演劇,音楽等の活動で地域に貢献しているもの等」という項目での認定なのでしょう。

記事に誤りがありますが、女川町に光太郎文学碑が建立されたのは平成3年(1991)。女川在住で画家でもあった貝(佐々木)廣氏が中心となり「高村光太郎文学碑建立実行委員会」を立ち上げ、実現しました。光太郎は紀行文「三陸廻り」(昭和6年=1931)で自筆の挿画を添えて女川町を紹介しました。また、のちに昭和12年(1937)になってから、女川港で見た水揚げの記憶を元に詩「よしきり鮫」も執筆しています。それらを受けて「光太郎ほどの偉人がこの女川を様々な形で取り上げてくれたのに、そのことを語り継がないでどうする」ということだったそうです。
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碑は三基(数え方によっては四基)、同時に建てられました。中央にメインの碑。5面のプレートを持ち、光太郎短歌「海にして……」(明治42年=1909の作で、女川とは直接の関係はありませんが「海」つながりで)自筆揮毫を中心に、紀行文「三陸廻り」の一節(当会顧問であらせられた北川太一先生揮毫)が2面、それが『時事新報』に載った際の光太郎自筆挿画が2面。
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「海にして……」の揮毫が変体仮名等で読みづらいという配慮で、真下には活字に起こした小さな碑も。これを一つと数えるかどうかで、先述の三基か四基かが分かれます。
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挿画の方の上画像は除幕された頃、当方が撮影したものですが、当初はこのように金色のプレートでした。現在は後述する東日本大震災による被害、その後の風雪などでくすんだ色に変わってしまっていますが……。

左右には詩「よしきり鮫」と「霧の中の決意」(昭和6年=1931)、こちらは光太郎自筆原稿が拡大して刻まれました。下画像はやはり震災前に当方が撮ったものです。
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除幕された平成3年(1991)には、それを記念して仙道作三氏作曲、山本鉱太郎氏脚本によるオペラ「智恵子抄」公演も女川で行われました。
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当初の「高村光太郎文学碑建立実行委員会」が、翌平成4年(1992)から女川光太郎の会となり、第1回女川光太郎祭を開催。光太郎詩文の朗読や音楽演奏、北川太一氏を講師に招き、講演(現在は当方が引き継いでおります)など。

その後、女川光太郎祭は、コロナ禍での中止はあったものの、東日本大震災のあった平成23年(2011)にも開催され、続いています。大震災時には貝(佐々木)氏が津波に呑まれて亡くなり、文学碑も倒壊、「よしきり鮫」碑と短歌を活字で刻んだ碑は行方不明となりました。残った二基の碑は半分水没していましたが、会の皆さんの御尽力や町の協力もあり、令和2年(2020)に再建されました。
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上画像は震災翌年の平成24年(2012)、下画像は再建後です。
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震災、石碑、といえば、女川町では震災後、津波到達地点より高い場所に避難の際の目印として建てられた「いのちの石碑」全21基。建立費用はかつて光太郎文学碑でそうしたことに倣い、全額寄付で集められました。このプロジェクトを立ち上げた、震災直後に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちの企画書に明記されました。
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津波で還らぬ人となった貝(佐々木)氏の精神が受け継がれたわけで……。

そんなこんなで女川光太郎の会さんが、「住みよいみやぎづくり功績賞」受賞。喜ばしい限りです。

光太郎忌日の4月2日(水)には、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで光太郎を偲ぶ第69回連翹忌の集いを開催いたします。女川光太郎の会さんからは、亡くなった貝(佐々木)氏に代わって運営の中心となられている奥さまの英子さんと笠松弘二氏、「オペラ智恵子抄」の智恵子役で、毎年女川光太郎祭に参加され、アトラクション演奏もなさっている本宮寛子氏、さらに作曲された仙道氏も久しぶりにご参加下さいます。今回の受賞について、英子さんにスピーチしていただくつもりです。

女川での光太郎顕彰、今後のますますの発展を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

先日のオハガキで天平さん逝去の事を知り、いたましい事に思ひました、からださへよければまだうんとのびる人だつたと思ひます、


昭和27年(1952)5月23日 草野心平宛書簡より光太郎70歳

「天平さん」は当会の祖・草野心平の実弟にして、心平同様に詩の道へ進んだ草野天平。この年、数え43歳で病没しました。

下って光太郎も歿した後の昭和33年(1958)、『定本草野天平詩集』が刊行され、それに対し故人であるにもかかわらず第2回高村光太郎賞が授与されました。粋な計らいでした。

今回の女川光太郎の会さんの受賞も、亡き貝(佐々木氏)も共に表彰されたと考えたいところです。

グルメ系を3件、ご紹介します。

まず、智恵子の故郷・福島県二本松市から学校給食の話題。

3月4日(火)の給食が「油井小の「ほんとの空給食」」だったそうでした。おそらく、ですが二本松市内旧安達町区域の給食のメニューが同一で、時折、各学校さんからメニューの考案なりリクエストなりが上がってきて、そのうちの一つが「ほんとの空給食」なのだと思われます。以前にも油井小学校さん、同じく旧安達町の川崎小学校さんによる「ほんとの空給食」をご紹介しました。
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献立は「黒パン」、「コーンポタージュ」、「りっちゃんサラダ」、「ハンバーグ」、「牛乳」。「りっちゃんサラダ」って何だ? と思い、調べたところ、「小学1年生の国語で学習する「サラダでげんき」という教材文に出てくるサラダ」だとのこと。

「サラダでげんき」は、角野栄子さんのご執筆。病気のお母さんに元気を出してもらおうと、主人公の「りっちゃん」が動物たちの力を借りてサラダを作る、というお話だそうです。
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犬猫雀はともかく、シロクマやアフリカ象(笑)。夢のあるお話ですね。

ちなみに油井小学校さんのこの日の給食時、「お昼の放送ではいつものように、給食委員会が献立の紹介をして、放送委員会が楽しいクイズを出して終わりました。が、その後6年生が電波ジャック。「1年生から5年生のみなさん、6年生を送る会ありがとう。とっても楽しかった。5年生の鼓笛もすばらしかった。」と6年生を送る会への感謝と、新鼓笛隊へエールを送ってくれました。先生には断っていなかったそうですが、言わずにはいられない「思い」があったようでした。心を動かされた6年生の、心温まる放送に、全校生がほっこりしました。」だそうで。不覚にもうるっと来てしまいました(笑)。
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続いて、光太郎第二の故郷、岩手花巻から。

毎月ご紹介していますが、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント「ミレットキッチン花(フラワー)」さんで、毎月15日に限定販売されている豪華弁当・光太郎ランチ。メニュー考案にあたられているやつかの森LLCさんから今月分の画像をいただきました。
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こちらは光太郎が実際に作った料理や使った食材などを参考にしています。

今月分は「鮭の塩焼き」、「豚肉の味噌焼き」、「いかと大根の煮物」、「ほうれん草のおひたし」、「塩麹入り卵焼き」、「炒飯」、「黒千石ご飯」、「紫芋の甘煮」、「みかん」、「漬物」。彩り的にも素晴らしいと思いました。

やつかの森さん、花巻市東和地区の「ワンデイシェフの大食堂」さんでは、月に一度「こうたろうカフェ」として出店なさっています。厳冬期にはお休みされていますが、今月から復活。次回が3月25日(火)だそうで、メニューは「鶏むねのロースト~なぞソース~」、「たまご巾着」、「バッケ味噌のピザ」「イカ風味大根」、「春わかめの三色和え」、「お新香」、「きざみのせご飯」、「生麩のすまし汁」、「干柿のミルフィーユ」、「コーヒー」。「なぞソース」って何だ? ですが(笑)。

「バッケ」はふきのとう。ピザに使うか? という感じですが、意外と合うかもしれません。干柿を使ったミルフィーユというのも面白そうですね。

「ほんとの空給食」、「光太郎ランチ」、「こうたろうカフェ」、それぞれ末永く続いてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

小包二個到着、季節のさきがけ筍をいただき、又毛皮も拝受しました。筍は早速調理しましたが此辺にない孟宗竹なので珍らしく美味にいただきました。

昭和27年(1952)4月14日 野末亀治宛書簡より 光太郎70歳

花巻郊外旧太田村の山小屋、全国の支援者が土地のものを送ってくれるので、変化に富んだ食卓でした。野末は静岡浜松在住でした。

智恵子の故郷・福島県から豪華賞品がゲット出来るスタンプラリーのお知らせです。

花の王国ふくしまフラワースタンプラリー2025

期 間 : 2025.03.19(水)~2025.06.30(月)
開催地 : 福島県内207か所(各市町村1か所以上必ずスポットがあります)

福島県内の花の名所を巡って、スタンプを集めて商品を当てよう!

福島県内の花の名所207か所を巡って、スタンプを集めましょう。スマホを使ったGPSスタンプと専用のスタンプ台紙で参加できます! もちろん参加費用は無料!(通信費用はご利用者様負担となります) スタンプ2個から応募できるので、福島県に来たらぜひ参加してください!
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福島県内の花の名所を巡って、スタンプを集めて商品を当てよう! 参加方法は2コースから選べます!(2コース同時に参加可能・応募は各コースお一人様一回限り)
 ① スマホでスタンプを2個以上集めて応募
   エリア内何個でも集められます!
 ② スタンプ台紙にスタンプを2個以上集めて応募
   福島県内7エリアの各エリアにつき1個(全部で7スタンプ)

集めたスタンプの数が多いほど、抽選の当選対象商品が増えます!
 ① スマホで応募
  2個以上・・・D賞へ応募可能
  10個以上・・・C賞・D賞へ応募可能
  20個以上・・・B賞・C賞・D賞へ応募可能
  30個以上・・・A賞・B賞・C賞・D賞へ応募可能
  70個以上・・・スマホ限定プレミアム賞へ応募可能
 ② スタンプ台紙で応募
  2個(2エリア)以上・・・D賞へ応募可能
  3個(3エリア)以上・・・C賞・D賞へ応募可能
  5個(5エリア)以上・・・B賞・C賞・D賞へ応募可能
  7個(7エリア)以上・・・A賞・B賞・C賞・D賞へ応募可能
抽選で777名様に豪華賞品が当たる!
 スマホと台紙それぞれに違う賞品が用意されています
 福島宿泊券6万円分(スマホ限定プレミアム賞)や、福島県内温泉旅館宿泊券、各地域の特産品、お買物券、オリジナルグッズなど豪華賞品が当たるチャンス!
 この機会に福島県内を巡って、美しい花と景色を楽しみましょう。
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応募締め切りは2025年7月7日(月)まで! 郵送での応募は2025年7月7日(月)
 ※当日消印有効。切手を貼ってお送りください。

★応募箱への投函でも応募ができます。
 応募箱はスタンプ設置期間(3月19日~6月30日)と同様です。


【同時開催】ふくしま応援ポケモン ラッキー コラボ特別企画!
スタンプ台紙にはラッキースタンプ欄が! 県内4カ所ある全てのラッキー公園に行って、ラッキースタンプを4つ集めよう! 台紙に必要事項を記入して、郵送又は応募箱への投函で応募できます。
※詳細は公式サイトをご確認ください。https://www.tif.ne.jp/pokemon/

【同時開催】駅スタンプラリー、SA・PAスタンプラリー
スマホ限定で、駅やサービスエリアを巡って応募するスタンプラリーを開催!
★JR東日本賞
福島県内の対象JR駅10か所のうち、3駅以上のスタンプ獲得で応募!
JRE POINT5,000円相当が抽選で20名様に当たる!
★NEXCO東日本賞
福島県内の対象高速道路(SA・PA)7か所のうち、3か所以上のスタンプ獲得で応募!
E-NEXCOオリジナル商品5,000円相当が抽選で20名様に当たる!
※詳細はフラワースタンプラリー公式サイトをご確認ください。

先日、福島浜通りをうろついた際、常磐道四倉PAで台紙をゲットしました。

智恵子のソウルマウンテン・安達太良山もスタンプスポットに選定されており、紹介文には光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」の語。ありがたし。
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最近、「桜の町」としても売り出している二本松市さん、他にもスポットがたくさん。
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ぜひチャレンジしてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

その自然が彫刻のやうなものを果してうけ入れてくれるか 又あの費用で然るべき大きさのものが作れるものかどうか そんな事が一番の関心事になつて居ります

昭和27年(1952)4月23日 谷口吉郎宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作に関して。谷口は光太郎より先に青森県から「乙女の像」を含む一帯の公園設計を依頼されていた建築家でした。光太郎を青森県に推薦したり、その後、中野の貸しアトリエを手配したりにも一役買ったようです。

昨日で東日本大震災から14年でした。

14年前のあの日、津波に呑まれて還らぬ人となった、当時女川光太郎の会事務局長であらせられ、宮城県女川町の光太郎文学碑の建立(平成3年=1991)や、その後の女川光太郎祭の開催に尽力されていた貝(佐々木)廣氏を、千葉から偲ばせていただきました。
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画像は震災前の平成18年(2006)、貝(佐々木氏)が発表者のお一人だった、荒川区さん主催の「光太郎・智恵子フォーラム」の際のものです。司会は当方が務めさせていただきました。

午前中には3月8日(土)に足を運んだ福島県いわき市の草野心平記念文学館さんでの文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」についてこのブログにレポートを書いていました。その講師のお一人、東日本大震災での原発被災についての旧ツイッター投稿で有名になられた和合亮一に関し、その日の『日本経済新聞』さんがコラムで取り上げていたのに気づきました。

春秋

「なんで東電の言葉を信じてたんだろうね」。そう語ったのはクリーニング店主の女性だ。「大きい会社なんだから、責任持ってやってくれっから」と考えていた、と。福島出身の詩人、和合亮一さんが原発事故の直後に書き留めた地元の声の一つだ(「詩の邂逅(かいこう)」)▼多くの住民の素朴で率直な思いだったろう。震災前、和合さんが教師として勤める高校の保護者会の場でも「絶対に大丈夫」との説明が繰り返されていたという。専門家が言うのなら。住民は、あるいは日本全体が、会社側の説明に乗っていた。それはしかし、未曽有の激震と大津波を前に、もろくも土台から崩れ落ちた▼危機は本当に予見できなかったのか。旧経営陣が強制起訴された裁判は、最高裁が無罪と判断した。想定された結末ではある。要因が複雑な巨大事故で、一度は不起訴とされた個人の刑事責任を立証するのは極めて難しいからだ。現行法にとどまらず、法人に高額な賠償金を科す「組織罰」などの新制度も考える時だろう▼何もなくても涙が出る、子供でなく自分の世代の災害でよかったと思いたい……。和合さんと話す被災者の声は悲痛だ。和合さんは事故当時の詩作で「絶対は無い」と繰り返した。安全神話が消えた今、あの惨禍の再発をどう防ぐか。処罰や賠償とは別に、避けては通れぬ将来への責任であろう。14年目の3.11が巡りくる。

3月8日(土)、福島浜通り地区をほぼ縦断しながら考えたのは、やはり原発の件でした。常磐自動車道には「これより帰還困難区域」の標識がまだ立っています。調べたところ、いまだに7つもの自治体(南相馬市、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村)に同区域が設定されているとのこと。当会の祖・草野心平がらみでたびたびお邪魔している川内村さんは入っていませんが、それでもまだまだという感じです。

一面コラム、心平、と言えば、3月5日(水)の『朝日新聞』さん。

天声人語

カエルの詩人と言われた草野心平に「冬眠」という作品がある。故郷の福島県いわき市にある記念文学館で、自筆原稿を見た。400字詰めの用紙の真ん中に、ぽつんと「●」があるだけ。土の中での孤独、静寂、暗闇。そんなものを凝縮させたのだろうか▼きょうは二十四節気のひとつ、啓蟄(けいちつ)である。長井冬の眠りから覚めた虫や小動物たちがもぞもぞとうごめき出す。先週末の思わぬ暖かさで、一足早く穴ぐらを出ていたのも、いたかもしれない▼それが一転。都心ではきのう、夕刻から冷たい雨が降り始めた。大雪になる恐れから、高速道路が通行止めになった。地表に這い出ようとしていたカエルたちも、こりゃいかんと慌てて引き返したに違いない▼春の神様はじつに思わせぶりで、いったん天気が回復しても、もう一度、真冬並みの寒さになる地域もあるようだ。一方で、ダウンコートにマフラー姿で出社したのに、帰りの電車では汗ばんだりする。そうやって一進一退を繰り返しながら、季節は巡ってゆくのだろう▼カエルの声を聞けば詩情を誘われ、「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」。そう言ったのは古今集である。でもビルの街では、春を迎えた彼らの喜びを耳にすることはかなわない。草野心平の「春のうた」で、その日を想像してみる▼〈ほっ まぶしいな。/ほっ うれしいな。/みずは つるつる。/かぜは そよそろ。/ケルルン クック。/ああいいにおいだ。〉もう、あとわずかだ。

「冬眠」は、「世界一短い詩」とも称されています。昭和3年(1928)、光太郎が序文を書いた心平詩集『第百階級』に収められました。
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冬眠から醒めたカエルたちが、充満した放射線に驚いて「こりゃいかんと慌てて引き返」す、そんな状況にしてはいけないと、改めて思うのですが……。

【折々のことば・光太郎】

今年は多分五月末か六月初旬頃十和田湖に行く事になりさうです。その頃が風景絶佳とききました。


昭和27年(1952)4月11日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎70歳

「十和田湖に行く」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための現地下見です。この際には心平も同行しました。

3月8日(土)、福島県相馬市図書館さんで今月1日に始まった「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」というミニ展示、歴史資料収蔵館で光太郎の父・光雲の孫弟子にあたる佐藤玄々(朝山)の彫刻を拝見後、愛車を南に向け、いわき市に向かいました。この日メインの目的であるいわき市立草野心平記念文学館さんでの文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」拝聴のためです。

途中で昼食を摂り、さらに若干早く着いてしまったので、館近くの小川諏訪神社さんに参拝。
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当会の祖・草野心平が生まれ育った旧小川村ということで、もしかすると少年時代の心平が訪れたんじゃないかな、などと思いながら参詣いたしました。もっとも、悪童だったであろう心平のことですので、屋根によじ登ったり床下に入り込んだりといった悪さをしていたかもしれません(笑)。

さて、館に到着。
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まずは光太郎をはじめ(言葉の綾ではなく、実際に導線上の「い」の一番に光太郎です)、様々な人物からの来翰などが並んでいる常設展を拝見しました。さらに「スポット展示」ということで、心平実弟にして光太郎と交流があり、歿後に第2回高村光太郎賞を受賞した草野天平に関わる展示も為されていました。以前の天平のスポット展示では、天平が受け取った高村光太郎賞の賞牌(光太郎が彫った木皿を光太郎実弟の豊周が鋳金したもの)が展示されましたが、残念ながら今回は無し。

講演会の受付を済ませ、ホールへ。午後2時、開会。
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講師は福島大学さん名誉教授の澤正宏氏、そして同大で氏の薫陶を受けられた詩人の和合亮一氏。講演というより、澤氏のご編著『草野心平研究資料集』第1回配本 全3巻(クロスカルチャー出版)を軸とした公開対談という趣でした。
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澤氏は智恵子の故郷・二本松市の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会さん主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさっていて、久しぶりにお目に掛かりました。和合氏とはさらに久しぶりで、このブログを始める前(さらに言うなら東日本大震災前)の平成20年(2008)と翌年の智恵子を偲ぶレモン忌の集いでお会いして以来でした。お二人のお話、随所で光太郎にも触れて下さり、ありがたく存じました。

それ以外に興味深かったのは戦時中の件。戦前にはアナキストとも言える立ち位置だった心平が、日中戦争時には中華民国政府(王精衛政権)の宣伝部顧問となり、光太郎も参加した大東亜文学者大会の実施に奔走したりしました。大政翼賛会中央協力会議の議員や日本文学報国会詩部会長を務めた光太郎と重なります。しかし心平、光太郎ほどには戦意高揚の翼賛詩的なものを書いていません。それを書けないほど忙しかったのではないかと当方は考えています。また、戦後、光太郎は自らの戦争責任を断罪する連作詩「暗愚小伝」を発表しましたが、心平はそうしたこともしませんでした。心平にしてみれば「言い訳はしたくない」という気持ちだったのではないでしょうか。

この時期、東京大空襲80年ということもあり、いろいろ考えさせられました。

ちなみに心平、敗戦時も中国にいて、国民政府軍に拘束され、収容所行き。その際に持っていた光太郎や宮沢賢治からの来翰、光太郎に貰った智恵子の紙絵四枚なども含め、財産は没収されました。紙絵に関しては後に「いまとなってはむしろ、私の家なんかにあるよりは中国のどこかの家に飾ってあってくれれば、とも思うのだが。」(「高村光太郎・智恵子」昭和39年=1964 『新潮』掲載)と、心平は書きました。

終演後、お二人とお話しさせていただきました。

澤氏からはお願い。『草野心平研究資料集』の今後の配本に、当方が平成28年(2016)、心平を偲ぶ「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」で「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題して語ったものの筆記(心平記念館さんの館報第19号に掲載)を転載したいとのこと。大したお話をしたわけでもないのにそんなのを載せて下さるとは、と、逆に恐縮してしまいました。

和合氏には、ドサクサに紛れて昨年刊行された御著書『エッセイ三昧』を持参し、サインしていただきました(笑)。
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お二人の今後のさらなるご活躍、同館のますますのご発展を祈念いたします。

以上、福島浜通りレポートを終了いたします。

【折々のことば・光太郎】

山では今バツケが出てきたところです。


昭和27年(1952)4月3日 森荘已池宛書簡より 光太郎70歳

「バツケ」は新仮名遣いでは「バッケ」。ふきのとうを表す方言です。蟄居生活を送っていた岩手花巻郊外旧太田村では4月頃芽を出すのですね。

当会事務所兼自宅の裏山ではもう盛んに出ています。
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かたわらにはオオイヌノフグリも咲いていました。
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こう書くとのどかな里山のようで、まぁ実際、昼間はそうなのですが、油断は禁物。下の画像は何かお判りでしょうか。
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おそらくイノシシの足跡です。

17歳で逝ってしまった愛犬が健在の頃、夕方、一緒に散歩していて3回ほど遭遇しました。春になり、きゃつらも活発になってきたようです。

昨日は福島県に行っておりました。本来、そちらのレポートを書くべきですが、先に同じ福島県でのイベントを2件ご紹介します。うち1件はもう明後日でして。

それぞれ光太郎智恵子には直接関わりませんが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」、そこから派生した「ほんとうの空」の語を冠して下さっています。

25年3・11ふくしま集会 ~原発事故は終わってない~

期 日 : 2025年3月11日(火)
会 場 : 郡山市労働福祉会館大ホール 福島県郡山市虎丸町7-7
時 間 : 集会 13:00~ デモ行進 15:45~
料 金 : 無料

ほんとの空の下で語られる本当の声を聴きに来てください。

311原発いらない福島実行委員会では、「原発事故は終わっていない」をスローガンに集会を開催します。今年の基調講演は、後藤政志さんです。「原発に頼ることの愚かさ」についてお話していただきます。集会の後にライブ(会場:Kouriyama#9 開演17:30)もあります。
ぜひ、お出かけください。

【基調講演】「原発に頼ることの愚かさ」
       講師 後藤政志さん(元東芝原発設計技術者・原子力市民委員会委員)
【パネルディスカッション】
      「福島第一原発事故について私たちが知るべきこと~現状と今後に備えて~」
       コーディネーター・片岡輝美さん 
       パネラー 後藤政志さん 千葉親子さん
【女川原発差止め訴訟からビデオメッセージ】
【福島の取り組みからの報告】

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昨年の石破政権発足後、原子力政策に関してそれまでの「可能なかぎり依存度を低減する」という文言が削られ、ちゃっかり「原子力の最大限利用」という真逆の文言が加えられました。原発の老朽化や廃棄物の処理、避難計画の不備等、問題点には蓋をして、です。期待されていた再生可能エネルギー関連でも不祥事等が連発。原発回帰を進めるためにわざわざそうした工作を行っているのではと勘ぐりたくなります。

もう1件。

第18回 声楽アンサンブルコンテスト全国大会- 感動の歌声 響け、ほんとうの空に。 -

期 日 : 2025年3月20日(木・祝)~3月23日(日)
      3月20日(木・祝) 中学校部門 
      3月21日(金) 高等学校部門
      3月22日(土) 小学生・ジュニア部門、一般部門
      3月23日(日) 各部門金賞受賞団体による本選、表彰式
会 場 : ふくしん夢の音楽堂(福島市音楽堂) 福島県福島市入江町1-1
時 間 : 各日、開場9:30 開演10:00
料 金 : 各部門予選  前売り 2,500円 当日 3,000円 
      本選     前売り 3,000円 当日 3,500円
      4日間通し券 前売りのみ 9,000円

 声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名までの少人数編成の合唱グループによるコンテストです。
 全国の合唱レベルの向上を図るとともに、歌うことの楽しさを福島から全国に発信することを目的として、2008年(平成20年)から開催、今大会で第17回目を迎えました。
 本大会の特色として、伴奏楽器及び伴奏の形態が自由で多様な合唱音楽を追求、部門、年代を越えて演奏し合います。また、海外の合唱グループも公募し、音楽を通じて交流を図ります。
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平成23年(2011)に予定されていた第4回大会が東日本大震災発生直後で中止となり、平成25年(2013)の第6回大会からサブタイトルに「ほんとうの空」の語を冠し続けて下さっています。

コロナ禍による中止もあり、一昨年から旧に復しましたが、その後、出演団体も増加しています。智恵子の母校・福島高等女学校の後身で、かつて鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための 組曲 智恵子抄」を持ち歌にしていらした福島県立橘高等学校合唱団さんが出場なさいます。

それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

花や虫や雪や雲や鳥や人の事が書いてあり、巻末の方には次々とフランスの芳りに満ちた文章があつたのでどんなに喜んだ事でせう。山中にゐて小生フランスに飢ゑてゐる次第です。


昭和27年(1952)4月10日 串田孫一宛書簡より 光太郎70歳

エッセイ集『孤独なる日の歌』を贈られ、その礼状の一節です。串田は当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人でした。

昨日始まった企画展示です。

相馬市図書館・歴史資料収蔵館連携企画展 相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち

期 日 : 2025年3月1日(土)~5月30日(金)
会 場 : 相馬市図書館 福島県相馬市中村字塚ノ町 65−16
時 間 : 平日10時〜19時 土、日、祝日は10時〜17時
休 館 : 館内整理日(毎月の月末)
料 金 : 無料

高村智恵子・光太郎夫妻を中心に、相馬市に縁のある、または訪れたことのある芸術家の人物紹介図や関連書籍などを展示します。

特典 図書館で配布する企画展のパンフレットを歴史資料収蔵館に持参することで、次の特典が受けられます。
 ▽オリジナルグッズをプレゼント
 ▽歴史資料収蔵館の観覧料が無料(高校生以下の学生のみ)
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光太郎智恵子のイラストがなかなか秀逸ですね。しかし下のヒゲの人物がいったい誰なのかがわかりません。相馬市と言えば光太郎の父・光雲の孫弟子にして日本橋三越本店さんの巨大彫刻「天女( まごころ)像」などを手がけた佐藤朝山(玄々)の故郷で、「連携」として挙げられている歴史資料収蔵館さんには佐藤の作品が多数展示されていますが、顔立ちが違うような……。隣接する南相馬市は作家の埴谷雄高の出身地で、同じく島尾敏雄も両親が南相馬出身。ところが二人ともヒゲはありません。

追記・ヒゲの人物は竹久夢二でした。

今回のイベント、あまり大々的に宣伝されておらず、ネットで調べてもX(旧ツイッター)への投稿と相馬市さんの広報誌『広報そうま』2月15日号しか情報が見あたらず、詳細が不明です。

ところで「高村智恵子・光太郎夫妻を中心に」とありますが、光太郎は相馬を訪れたことは確認出来ていません。先に名の出ている智恵子の方は、明治40年(1907、日本女子大学校を卒業した年で数え22歳、父・今朝吉やきょうだいと共に)と大正6年(1917、光太郎と結婚披露を行った3年後)に原釜海岸の金波館という宿に滞在したことが確認出来ています。また細かな年月日は不明ですが、それ以前の少女時代にも家族と訪れていたようです。そこで今回、光太郎は刺身のツマでしょう(笑)。

智恵子は明治40年(1907)の滞在時には、同じ宿に泊まっていた旧制米沢中学生の鈴木謙二郎(後の山形県伊佐沢村村長、長井市教育委員)と親しくなり、帰京後も姉弟のように文通を続けました。

謙二郎の子息・鈴木重信氏の回想「智恵子の手紙」が、長井市地域文化振興会編刊『長井のひとびと 第3集』(昭和59年=1984)に掲載されています。
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謙二郎宛の智恵子書簡は『高村光太郎全集』別巻にすべて収録されていますが、この文章も貴重な回想です。

展示ではおそらくこの金波館滞在の件に触れられているのでしょう。

3月8日(土)、いわき市の草野心平記念文学館さんで、澤正宏氏と和合亮一氏による文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」を拝聴することになりましたので、そちらの前に足を運ぶつもりで居ります。みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

まだ雪もさかんにふり、寒さも〇下八度、十度といふところですが、小生割に健康、肋間神経痛も殆ど苦にならない程度になりました。


昭和27年(1927)3月5日 松下英麿宛書簡より 光太郎70歳

3月頭にマイナス10℃。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、どんだけだよ、という感じです。

地方紙『福島民友』さんに「マイストーリー」という連載があります。「福島県で輝きを放つ人たち、ふくしまをもり立てようと頑張っている人たちの生き方を紹介していく連載」だそうで、一人の方に対するインタビュー記事が断続的に十数日間載せられています。

過去の記事を調べてみましたところ、親しくさせていただいている女優の一色采子さん、元エアレースパイロットの室屋義秀氏など、このブログでご紹介させていただいた方も取り上げられていました。

今年に入ってからは、テレビの通販CMでおなじみの夢グループ社長・石田重廣氏、そして落語家の桂幸丸師匠が取り上げられています。
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で、幸丸師匠。現在の須賀川市のご出身だそうで、桂米丸師匠に古典落語を学び、さらに福島ゆかりの新作も多数創作されています。そうした来し方や、最近のコロナ禍でのご経験など、全11回の連載でした。
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その第9回。

自分らしい道、見つけた 落語家・桂幸丸

 レギュラーのテレビ番組や営業が減り、追い詰められた私。「しっかりしなくちゃ」。心を入れ替えて独演会により力を入れ、「自分らしい落語」を追求しました。
 落語家30周年を迎えた2004年、「福島にまつわる落語を作ろう」と思い立ちました。考えたのは当時、新千円札の肖像に決まり盛り上がっていた野口英世博士の偉人伝。でも、なかなか面白おかしくできない。最初に東京の新宿末広亭で披露した時は、真剣に作り込み過ぎて、お客さんからは「(聞いていて)くたびれた」と酷評されました。
 30周年記念公演で披露しようと考えていたのに、さあどうしよう。公演は1週間後。お客さんに受けたところを赤ペンでマークして、受けなかったところはばっさり切って、つなぎ合わせてー。
 ごひいきのお客さんにアドバイスを求めると「落語はね、勉強会ではない。あくまで娯楽なんだ。一生懸命やらずに、漫画的に物事を捉えれば面白いんじゃない」との言葉。何とか改良版を作り上げて披露したら、良い反応があった。ほっとしました。
 その後も「幸丸流 近代偉人伝シリーズ」と銘打ち、福島ゆかりの高村智恵子や瓜生岩子、円谷幸吉、大河ドラマにも登場した新島八重らをモチーフに創作。大ヒットした映画「フラガール」に感動して「常磐ハワイアンセンター物語」も作りました。
 偉人伝は真剣にやろうとすると受けない。大事なのは「さあ聞いて、面白いよ。漫画のように気軽に楽しめるよ」と人を寄せるように演じること。作る際は偉人について本を読んだり、インターネットで調べたりして、自分なりにイメージをつかんで要所を押さえます。
 創作落語の口コミが広がり、テレビに出ていた時よりも仕事が増えました。「努力すれば報われる」と実感し、それまでの先輩や常連さんたちの言葉が身に染みました。「好きだったのは、落語じゃん」。原点に返ったことで、新しい話や自分らしさを生み出すことができたのです。
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平成19年(2007)初演の新作落語「幸丸流智恵子抄」、こうして生まれたのですね。当方、CDを所持しております。
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ある意味、悲劇的とも言える生涯を送った智恵子ですが、とにかく因習に抗して頑張った姿を軽妙な語り口で追いかけ、暗い話にはなっていません。

こういったことも一つの「地方創生」の姿だな、と改めて思わせられました。幸丸師匠、今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

先日は御丹精の靴下と写真とを忝なくいただきました。写真はやはり小生の苦手で、気味が悪いと思ひました。


昭和27年(1952)2月26日 宮静枝宛書簡より 光太郎70歳

宮静枝は岩手出身の詩人。光太郎とは戦前から交流があり、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は、昭和26年(1951)の光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、光太郎写真が14葉も載っています。これらが光太郎の元に送られ、その返礼です。
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なかなかいい表情をしていると思うのですが、光太郎は写真嫌いでした。

福島から講演会情報です。当会の祖・草野心平がメインですが、おそらく光太郎にも触れていただけるであろうと思われますので……。

文芸講演会「詩人・草野心平─いかに心平が心平になったか」

期 日 : 2025年3月8日(土)
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

講 師 : 澤正宏氏(福島大学名誉教授)、和合亮一氏(詩人)

草野心平と同郷の福島県で詩を教える澤氏と、詩を書く和合氏の師弟コンビが、草野心平の詩について語ります。

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講師お二人のうち、澤氏は智恵子の故郷・二本松市の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会さんにいろいろご協力下さり、同会主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさいました。他にもNHKカルチャーさんでの講座、様々な御著書御編著等で心平や光太郎について取り上げて下さっています。

和合氏はつい先日も御著書を紹介させていただきました。福島大学さんのご出身ということで、その頃に澤氏の薫陶を受けられたのでしょう。

講演テーマが「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」。光太郎をして「詩人とは特権ではない。不可避である。詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。」と評せしめた心平ですので、光太郎との交流が生じなかったとしても不可逆的に詩人となっていたと思われますが、光太郎と親しく交わったことでより一層、花開いたのではないかと思われます。そういったお話になることを期待いたしております。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

その後の都合を見てゐましたが、どうもまだ下山出来さうもありません。やりかけの仕事がまだ片付きません。今年は山も異常に温く、畑の青菜が育ちお雑煮に使へさうです。阿部さんにもらつたお餅もあり、元日には先生御一家をしのんで杯をあげませう。

昭和26年(1951)12月28日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎69歳

正月をわが宅で過ごされませんか、という総合花巻病院長・佐藤隆房の誘いに対する断りの返答です。

結局、こうして昭和26年(1951)が暮れて行きました。

昨年7月に亡くなった作曲家・湯浅譲二氏の「お別れの会」が一昨日、サントリーホールさんで開催されました。

地方紙『福島民報』さん。

福島県郡山市出身の作曲家、湯浅譲二さんの功績しのぶ 「あれが阿多多羅山」など流れる 東京都内でお別れの会

 昨年7月、94歳で死去した福島県郡山市出身の作曲家で文化功労者の湯浅譲二さんのお別れの会は18日、東京都港区のサントリーホールで開かれた。
 音楽関係者ら約200人が参列した。お別れの言葉で、品川萬里郡山市長は「古里を思い、活動を続けていた。湯浅さんの功績と作品は多くの人に受け継がれる」と述べた。作曲家の池辺晋一郎さん、チェリストの堤剛さん、音楽学者の船山隆さん、作曲家の細川俊夫さん、作曲家の伊藤弘之さん、作曲家の藤枝守さん、作曲家のロジャー・レイノルズさんも湯浅さんとの思い出を振り返った。
 箏演奏家の吉村七重さん、ピアニストの高橋アキさんが追悼の演奏をささげた。遺族を代表して湯浅さんの長女玲奈さんが「作曲家冥利(みょうり)に尽きる人生だった」とあいさつした。湯浅さんが作曲した「あれが阿多多羅山」などが流れる中、参列者が献花した。
 湯浅さんは旧制安積中(現安積高)卒。慶応大医学部を中退し、詩人の滝口修造さんが主宰した前衛芸術家グループ「実験工房」で活動した。幅広い作品を手がけ、優れた邦人作曲家のオーケストラ作品を顕彰する尾高賞を5回受けるなど、数々の栄誉を手にした。国際現代音楽協会名誉会員、郡山市名誉市民。
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同じく『福島民友』さん。

郡山出身の作曲家・湯浅譲二さんの功績しのぶ 都内でお別れの会

 郡山市出身の作曲家で、昨年7月に94歳で死去した湯浅譲二さんのお別れの会が18日、東京都港区のサントリーホールで開かれた。音楽関係者ら約190人が参列し、日本の現代音楽の発展に貢献した功績をしのんだ。
 発起人で作曲家の池辺晋一郎さんや郡山市の品川萬里市長らがあいさつした。品川市長は「湯浅先生は常にふるさとを気にかけてくださった。市民を代表し、先生の作品や思いを末永く継承していくことをお誓いいたします」と湯浅さんの在りし日を振り返り、冥福を祈った。湯浅さんの作曲した「あれが阿多多羅(あだたら)山」が流れる中、参列者は遺影が飾られた祭壇に献花した。
 湯浅さんは国内外で活躍し、オーケストラや室内楽、合唱、電子音楽などを幅広く作曲。テープやコンピューターなど最新技術を駆使するとともに、グラフを用いた独自の作曲法を生んだ。1997年に紫綬褒章、99年に恩賜賞・日本芸術院賞、2007年に旭日小綬章、14年に文化功労者。17年に郡山市名誉市民に選ばれた。
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「お別れの会」で流された「あれが阿多多羅山」は、サブタイトルが「バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の二人』による」。「智恵子抄」所収の「樹下の二人」(大正12年=1923)をテキストに使った独唱歌曲です。昨年11月に開催された湯浅氏の故郷・福島県郡山市の市制施行100周年記念式典音楽祭でもオーケストラ伴奏で演奏されました。

他にも湯浅氏には光太郎智恵子がらみの作品。作曲のみならず氏が作詞の補作も手がけられ、平成25年(2013)に制定された「二本松市民の歌」では3番までの各番歌詞の末尾が「ほんとの空が ここにある」。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)からのインスパイアですね。この曲はご当地体操「ほんとの空体操」の伴奏曲でもあります。

また、智恵子にも触れられた映画「原始、女性は太陽であった 平塚らいてうの生涯」(平成13年=2001)の音楽も、湯浅氏が担当されていました。
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当方、DVDを所持しております。
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ちなみに氏が亡くなったのは昨年7月ですが、直後に「お別れの会」が計画され始めたようで、発起人には、こちらも昨年亡くなった谷川俊太郎氏のお名前も。お二人のコラボによる楽曲も多く、岩手県や福島県の学校さんの校歌も多数。いろいろと人の縁の不思議さに感じ入っております。

氏の作品(特に「あれが阿多多羅山」、「二本松市民の歌」など)が今後とも愛され続けていってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

小生この頃荒くなつてゐます、小生の内の猛獣性の活躍してゐる證拠です、人間拒否を超えて、

昭和26年(1951)12月11日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

青年期の終わり頃から壮年期にかけ、自らの内部に巣喰う荒ぶる魂を「猛獣」に仮託した連作詩「猛獣篇」が書かれましたが、数え70歳を目前にしたこの時期、再び「猛獣」の胎動を体内に感じています。翌年には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作の話が舞い込み、再び粘土を手にするわけですが、そうした予感があったのかも知れません。

毎月15日、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんから販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分、メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから画像が届きました。
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今月のメニューは「ぶりの照り焼き」「肉じゃが」「ハムサンド」「ちらし寿司」「キャベツとベーコンのサラダ」「煮豆」「りんごゼリーと干し柿」。まだまだ寒い日が続きますが、彩り的に春を感じさせるようなビジュアルですね。

毎回、戦後7年間の花巻郊外旧太田村での蟄居生活中、実際に光太郎が作ったり、人から貰ったりした料理、それらに使われていた食材などを参考に組み立てられています。

メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさん、今日は花巻市内で光太郎がらみの出前講座講師だそうです。また、おそらく来月から、市内東和地区のワンデイシェフの大食堂さんでランチをふるまうこうたろうカフェも再開されるようです。

今後ともますますのご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

珍らしいクルミを久しぶりに見てうれしくなりました、ロンドンに居た人は皆知つてゐるでせうが、クリスマス前夜に、ミツスルツウ(やどり木)の枝の下で、此のクルミをクラツカアで割つてたべる家族的たのしさは格別のものです、むろんデコレーシヨン ケーキにも此のクルミを入れます、今年の廿四日夜は山でもたのしいです、


昭和26年(1951)12月11日 照井登久子宛書簡より 光太郎69歳

光太郎、実際にもらったクルミを使ったケーキを自作しました。生地やクリームなどもなんとかしたのでしょう。しかし、食べかけのケーキを山小屋内に置いていたところ、寝ている間にキツネかタヌキか野犬かに食べられてしまったそうです(笑)。

テレビの地方局で流されたローカルニュースを2件。

まずはNHK広島局さん。呉市立美術館さんで昨年12月から開催されている「コレクション展III いのちを彫る 時を刻む 呉美の彫刻コレクション」に関して。

呉市立美術館で彫刻作品展 高村光太郎の「手」も

 近代から現代にかけて日本や西洋で作られた彫刻作品を集めた展示会が、呉市の美術館で開かれています。
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 呉市立美術館で開かれている展示会には、大正時代から現代にかけて日本やフランスなどで作られたあわせて50点の彫刻作品が展示されています。
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 このうち、大正から昭和にかけて活躍した詩人で彫刻家の高村光太郎の代表作の一つ「手」は、自らの手をモデルにしていて骨の形や皮膚のたるみまで写実的に表されているのが特徴だということです。
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 また、呉市出身の彫刻家、上田直次の「愛に生きる」という作品は、やぎの親子をモチーフにしたもので、大きなくすのきをノミで大胆に削って作っています。
 呉市立美術館の学芸員、渡辺千尋さんは「今回の展示は彫刻作品なので、絵画とは違って360度、いろいろな角度から展示を楽しめます。ぜひ会場に来ていただき、さまざまな視点から作品を観察して、それぞれのおもしろさを見つけてもらいたいです」と話していました。
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 この展示会は、2月11日まで開かれています。
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もう1件、光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」ライトアップも為されている「十和田湖冬物語2025」について、RAB青森放送さん、2月1日(土)の放映。残念ながら「乙女の像」には触れられませんでしたが。

「もう忘れられないです」十和田湖冬物語が開幕 冬空を彩る大輪の花火 雪の滑り台やスノーモービルで引く雪上バナナボート かまくらバーも人気

 冬の十和田湖を楽しむことができる「十和田湖冬物語」がきのう開幕しました。
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 十和田湖冬物語は十和田湖畔休屋地区できのう開幕しました。
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 会場にはスノーパークが設けられ、雪の滑り台やスノーモービルで引く雪上バナナボートを楽しむことができます。

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 また青森と秋田の食を楽しめる雪あかり横丁や、氷のグラスでカクテルなどが飲めるかまくらバーも人気です。
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 訪れた人たちのお目当ては午後8時からの冬花火。
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 音楽に合わせて200発の花火が打ち上がります。
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★訪れた人
「カラフルでドカンとなってクライマックスのときにしゅっていろいろなったのがおもしろかったです」
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「東京ではこんな風になかなか見られないのでしかも雪と一緒に見ることがないのでうれしかったです 
もう忘れられないです」
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 十和田湖冬物語は今月24日まで、火曜日と水曜日を除く毎日開かれます。
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それぞれぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

「トリモンA」三箱サントニン錠一箱、石鹸などいただき、感謝しました、早速服用いたしました。神経痛はどうしても退治してしまはねばなりません。今後の彫刻製作の邪魔になりますから。


昭和26年(1951)8月9日 椛沢佳乃子宛書簡より 光太郎69歳

翌年秋は再上京し、「乙女の像」制作を始めますが、この時点ではまったく具体的な計画は立っていません。それでも何らかの彫刻制作を再開する構想はずっと持ち続けていました。

「トリモンA」はホルモン剤、「サントニン」は虫下しの薬。「虫下し」と言っても、若い人達には通じないでしょうね(笑)。
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昨日お伝えしました通り、一昨日、昨日と、光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

そもそもは、作曲家・朝岡真木子氏が光太郎詩をテキストに作曲された独唱歌曲集「組曲 智恵子抄」を歌われ、CDも出された清水邦子さんから、この夏に蒔田尚昊氏作曲の独唱歌曲集「智恵子抄」を抜粋で歌われるという黒川京子さんのお二人で「1月31日(金)・2月1日(土)と花巻で高村光太郎記念館さんや宮沢賢治記念館さんなどを見て歩きたいのですが、二人とも花巻に行ったことがありません。交通機関など現地でどうすればよいでしょうか。また、宿泊場所のおすすめなどありますでしょうか」的な問い合わせがあり、「それなら自分も同行してご案内いたしましょう」という流れ。ちょうど、昨年12月から1月26日(日)まで高村光太郎記念館さんで開催されていた企画展示「光太郎が聴いたクラシックと蓄音機」でお貸ししていた出品物を返却してもらうする都合もありましたので。

しかし「何でこの時期なんですか? 寒いですよ」と訊いたところ「やはりこの厳しい寒さの時こそ、光太郎の花巻(旧太田村)での苦労を体感出来ると思ったので」とのこと。素晴らしいお考えですね。この時期の高村山荘(記念館に隣接し、光太郎が戦後の7年間を暮らした山小屋)を訪れもせずして「光太郎の山小屋暮らしは、世間に対して戦争犯罪を反省していますよ、と言うポーズに過ぎなかった」などとのたまういわゆる文芸評論家のエラいセンセイ方に爪の垢でも煎じて飲ませたいものです(笑)。

さて、1泊2日の行程を画像と共に振り返ります。特に黒川さんは宮沢賢治詩文をテキストとした歌曲にも取り組みたいということで、賢治関連のスポットも行程に入れることに致しました。

東北新幹線車中からの智恵子のソウルマウンテン・安達太良山。そして粉雪の舞う新花巻駅。
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レンタカーを借り受け、市街へ。

賢治御用達、それから光太郎もたびたび訪れて舌鼓を打ったやぶ屋さんで昼食。
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当方、天ぷらそばとサイダーの「賢治セット」をいただきました。

在来線東北本線花巻駅前に出て、林風舎さんへ。残念ながら賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏は愛知経由で九州に行かれているそうでご不在でした。
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続いて、昨年オープンした豊沢町のカフェ羅須さんへ。写真を取り忘れました(笑)。

オーナーで「宮沢賢治・花巻市民の会」の泉沢善雄氏、それからお世話になっておりますやつかの森LLCの皆さん、花巻南高さん家庭クラブの先生、さらに今年6月に当方に講演を依頼して下さった花巻ボランティア連絡協議会の方もいらっしゃり、事務的な打ち合わせ。この手の打ち合わせが出来る拠点が街なかに出来たので、便利になりました。

さて、旧太田村の高村光太郎記念館さん。花巻市街の積雪はそれほどでもありませんでしたが、徐々に標高も上がり、さらにこちらに着く頃には軽く吹雪いてきました。
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隣接する(と言っても数百㍍)高村山荘。途中の除雪が為されていたので行けました。雪を搔いていない場所は数十㌢積もっています。
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この日、最後の訪問地は少し戻って道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん。
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宿泊先は賢治、光太郎ゆかりの大沢温泉さん。いつもは自炊部さんに泊めていただいていますが、今回は通常の温泉ホテル・山水閣さん。令和4年(2022)以来でした。自炊部さんでは、夕食は外で済ませるか館内の食堂で一品料理を頼むか、朝食はこれも館内の売店で前夜にパンなどを買っておいて食べるという感じですが、こちらでは夕食は豪華めのコース、朝食は和洋バイキング。たまにはいいものです。
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翌朝、9時に宿を出て、再び花巻市街へ。午後に花巻を後にするまでの間、日は照りながらぱらぱらと雪が舞い続けていました。

まずは宮沢家菩提寺の身照寺さん。
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近くのぎんどろ公園。賢治が勤務していた花巻農学校の跡地です。
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花巻駅近くの西公園。この2階で光太郎が講演をした旧花巻町役場、光太郎が乗った今は廃線となった花巻電鉄の車輌。
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中心街まで戻り、マルカンさん裏手の松庵寺さん。光太郎詩歌碑が3基。
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豊沢町の宮沢家。
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この奥の方にあった離れに、光太郎が昭和20年(1945)5月から8月まで厄介になっていました。しかし8月10日の花巻空襲で全焼。現在の建物は戦後のものです。

桜町の宮沢家別荘があった場所に建てられた「雨ニモマケズ」碑。数ある賢治碑のうち、第1号。碑文は光太郎の揮毫です。前日に訪れた林風舎さんには拓本が掲げられています。
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そこから見える「下の畑」。かつて賢治が耕作していた場所。
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近くの桜地人館さんは冬期休館中。
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駐車スペース脇には江戸時代の同心屋敷。

賢治命名のイギリス海岸。「海岸」といいつつ北上川の河畔なのですが。
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こちら、当方は約40年ぶりに訪れました。

そして最後のチェックポイント・宮沢賢治記念館さん。駐車場内の山猫軒さんで昼食を摂ってから拝観しました。
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昨夏から開催されている企画展示「刊行100周年 二冊の初版本」が、この日から展示替えと云うことで、当方は昨年12月に続いての観覧です。
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童話「注文の多い料理店」の直筆草稿断片が出ており、興味深く拝見。
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これで全行程を終了し、レンタカーを返却して新幹線で帰りました。1泊2日ではこんなもんでしょう。夕方までねばったり、1泊増やしたりすれば、羅須地人協会やマルカン大食堂さん、茶寮かだんさん、昭和の学校さんなど、もう少し廻れましたが。まぁ、お連れしたお二人にもとりあえずご満足いただけたようで、幸いでした。

御依頼があれば、この手の花巻ツアー、あるいは智恵子の故郷・二本松ツアーなど、運転手兼コンダクターを務めさせていただきます。もっとも、いつでも可というわけでもありませんが(笑)。

以上、花巻レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

今月下半期は小生不在がちになりますし、八月に入ると暑くなり、夏に弱い小生は来訪者に接するのが苦痛になります。もすこし好適な季節の時が御来訪にはいいかと思はれますので此事一寸申し上げます。


昭和26年(1951)7月13日 宮静枝宛書簡より 光太郎69歳

宮は岩手出身の女流詩人。光太郎とは戦前から交流があり、平成4年(1992)、『詩集 山荘 光太郎残影』(熊谷印刷出版部)を刊行し、第33回土井晩翠賞に輝きました。この詩集は全編光太郎訪問を元にしたもので、巻頭のグラビアページには、光太郎の進言通り秋になってから光太郎の山小屋を訪問した際の写真が14葉も載っています。また、盛岡市立図書館さんには、写真そのものも寄贈されています。
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光太郎第二の故郷・岩手花巻に昨日から来ております。ほぼ一ヶ月ぶりです。

今回は、オペラ歌手の清水邦子様と同じく黒川京子様とをお連れしての珍道中となっております(笑)。
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帰りましたら詳しくレポートいたします。


まずは地方紙『岩手日日』さんの記事から。

青春の感性光る 高文連花巻支部合同展 

 県高校文化連盟花巻支部の合同作品展は25、26の両日、花巻市大通りの市定住交流センターなはんプラザで開かれている。花巻、遠野両市の高校生による絵画や書、写真などが展示され、みずみずしい感性や独創的な表現が来場者の関心を引いている。
 文化活動の発表により、創造活動の向上と相互の交流を図ることを目的に毎年開催されており、28回目の今回は花巻北、花巻南、花巻東、花巻農、遠野、遠野緑峰各高校の1~3年生が約140点を出品した。
 美術の部は、高校生らしい繊細な心模様や友人などを題材にした絵画などがずらり。部活動や放課後など充実した高校生活の一瞬を豊かなアイデアで切り取った写真、力強さや流麗さを感じさせる書などもあり、訪れた人が多彩な作品に興味深く見入っていた。
 花巻南高家庭部は、文芸部の活動とタイアップし、詩人で彫刻家の高村光太郎の妻智恵子がデザインしたエプロンを復刻させて展示。初日は花巻北高茶道部によるお茶会も開かれた。
 横坂貴同支部長は「日ごろの活動で磨き上げた成果を思う存分発揮するため、準備を進めてきた。文化活動に情熱を注ぐ仲間同士の交流を通し、実り多い発表の場となることを期待する」としている。

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記事にあるとおり花巻南高の家庭クラブさん、昨年6月に開催された「五感で楽しむ光太郎ライフ」というイベントでお披露目いただいた「智恵子のエプロン」について(エプロンそのものも)、さらに10月の「土澤アートクラフトフェア」で、「智恵子抄」由来のレモンのパウンドケーキをふるまった件について、展示発表くださいました。
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主に「食」を通じて光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんから画像を頂きました。南高さん、今年というか、来年度というかも、やつかの森LLCさんと合同でなにがしかの活動を展開して下さるとのこと。有り難いお話です。

ちなみに智恵子のエプロン。智恵子本人が身に纏っている画像を発見しました。以前から知られている画像で、このブログでも何度か使ったものですが、モノクロ画像ではわかりにくかったのが、最近流行りの古写真をAIでカラー化するアプリを使って遊んでいたところ、気づいた次第です。
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胸の部分の特徴的な三角形のフォルム、まちがいありますまい。生地も柿渋で染めた酒袋の色です。

今後、智恵子の故郷・福島県二本松で、このエプロンに関わる活動等につなげて行ければ、などと考えております。

花巻南高家庭クラブさん、文芸部さん、さらなるご活躍を期待しておりますし、他校にも光太郎智恵子顕彰の機運が波及していってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

紙絵の画集を企画してゐる本屋が二、三ある事を知りましたが、これには小生同意しかねます。てんらん会と画集とは全く別事です。今の粗雑な感覚の連中に紙絵をいぢくり廻され、つたない印刷技術で印刷されるよりも、自然褪色の方がよいと考へてゐます、粗雑な連中は粗雑な事を自覚してゐないので尚あぶないです。

昭和26年(1951)6月24日 真壁仁宛書簡より 光太郎69歳

銀座資生堂画廊に於いて都内で初めての智恵子紙絵展が開かれると、画集として出版したいという申し出が複数舞い込みました。しかしカラー印刷の技術がまだまだということもあり、全て拒絶。結局紙絵の画集の出版は光太郎生前には行われませんでした。

キーワード「智恵子抄」でヒットしました。

二本松市の「観光力」を上げる!地域おこし協力隊員を募集します!

 二本松市では、地域外からの人材を積極的に誘致し、定住、定着を図るとともに、人材の能力を発揮できる場の提供に努め、地域力の維持及び魅力ある地域づくりを推進するため、地域おこし協力隊員を募集します。
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地域で目指すところ
 昭和30年から続く二本松市の一大イベント「二本松の菊人形」や令和4年4月にオープンした「にほんまつ城報館」を中心とした観光コンテンツへの誘客

こんなことを協力隊に求めています!
 今回募集する地域おこし協力隊のメインとなる業務は、「菊のまちとしてのブランド力強化」です。
魅力ある商品の開発や販路拡大、再ブランディング、景観整備、観光に関する企画・マーケティングなど、PDCAを自分で回せる積極性がある人を求めています。

活動場所について
 二本松市内(二本松市役所観光課内)での活動となります。

私たちがサポートします!
 市役所の観光課職員が担当者として関わります。着任時の不安や任期中に必要なことなどサポートします。このほか、隊員にむけた研修や交流会が開催されておりますので、積極的に参加し、他の地域の協力隊と知り合いになってぜひ活動の幅を広げてください。

卒隊後に向けた支援について
 3年間は地域おこし協力隊、以降は希望する仕事ができるように、サポートします。まずは一緒に卒隊後のイメージを具体的にしていくことからはじめましょう。協力隊2年目から任期終了1年目までに起業したい場合は、起業に要する費用1,000,000円の補助があります。任期終了後の定住のために空き家を改修する場合は、改修に要する費用500,000円の補助があります。

二本松市ってこんなところ
 二本松市は福島県の県北地域に位置し、高村光太郎の詩集「智恵子抄」で詠われた安達太良山を西に仰ぎ、中央部を阿武隈川が南北に流れ、東の日山・羽山が連なる阿武隈高地まで東西約35キロメートルに及ぶ市域を有しています。うち、市の東部に位置する東和地域は、阿武隈川東岸の標高約180mから羽山の891mまでの起伏の多い丘陵地で、山間を縫う川筋に小区画の耕地と集落が点在しており、そこで豊かな自然に包まれた里山の生活が営まれています。

 お知らせ
 希望があれば、電話やオンラインで説明を行います。

募集情報
 制度名 地域おこし協力隊
 業務概要
 (1)観光イベント企画運営
  「二本松の菊人形」会場内外で行うイベントや令和4年4月にオープンした
 「にほんまつ城報館」で行うイベントの企画~運営を主体的に担う。
 (2)菊のまち二本松ブランド力強化
  菊人形で使用する菊の栽培補助や菊関連商品開発のサポート等、
菊のまち二本松としてのブランド力強化を行う。
 (3)SNS等を活用した地域の魅力発信
  イベントを始めとした観光客の誘客につながるような地域の魅力について、
SNS等を活用した情報発信を行う。
 (4)その他、市が必要と認める活動

 募集対象 次の要件をすべて満たす方
 (1)学歴 高等学校卒業以上
 (2)任用の日において18歳以上の方
 (3)居住地要件 応募日において、三大都市圏をはじめとする都市地域等に在住し、
任用後、二本松市に住民票を異動し生活拠点を移すことができる方。
 (4)普通自動車免許を有している方。
 (5)基本的なパソコン操作(ワード、エクセル、パワーポイント等)が出来る方。
 (6)地域になじみ、地域の人々と共に汗を流しながら活動に取り組める方で、
任用期間満了後においても本市に定住する意欲のある方。
 (7)心身ともに健康で誠実に職務を行うことができる方。
 (8)地方公務員法第16条に規定する一般職員の欠格条項に該当しない方。
 募集人数 1名
 勤務地 二本松市内(二本松市役所観光課内)
 勤務時間
 1週間あたり31時間(パートタイム勤務)
 通常の勤務時間は午前8時30分から午後5時15分となります。
 (1日の勤務時間7時間45分、原則週4日勤務)
 雇用形態 地方公務員法第22条の2第1項第1号に規定する二本松市会計年度任用職員
 雇用期間
 (1)令和7年4月1日以降の委嘱の日から令和8年3月31日まで。
 (ただし、3年を限度に委嘱することができます。)
 (2)協力隊員として、ふさわしくないと二本松市が判断した場合は、
雇用期間中であってもその職を解くことができるものとします。
 給与・賃金等
 【月例給】180,320円
 ※上記から、社会保険料等の本人負担分を控除します。
 【通勤手当】通勤距離が片道2km以上の場合、通勤手当を支給します。(上限あり)
 【期末・勤勉手当】あり
 待遇・福利厚生
 (1)健康保険、厚生年金、雇用保険に加入。
 (2)二本松市内のアパート等に入居していただきます。
  (家賃は本人負担無し。ただし光熱水費は本人負担となります。)
 申込受付期間 随時
 審査方法
 【選考方法】
 ①書類選考
 提出書類により都度書類選考を行います。結果は応募した方全員に連絡します。
 ②面接
 書類選考の合格者に対し、都度面接による選考を実施します。
 面接の日時・場所・方法については、文書により通知します。
 また、面接の結果(合否)についても文書により通知します。
 ③その他
 採用が決定した場合は、募集を終了します。


お問い合わせ先
 〒964-8601 福島県二本松市金色403番地1 二本松市産業部観光課
 電話:0243-55-5095 FAX:0243-22-8533
 e-mail:kankorisshi#city.nihonmatsu.lg.jp(#を@に変換)

「地域おこし協力隊」。平成21年(2009)から総務省の肝煎りで始まった制度で、隊員に定住してもらって地域協力活動に従事、地域力の向上を図るというものです。当方、光太郎ゆかりの花巻市十和田市の隊員の方々にはいろいろとお世話になりました。

二本松市のかつての協力隊の方は、特産の上川崎和紙日本酒などに関わるイベント等でご活躍。また二本松市に隣接する大玉村さんでも「智恵子抄」ゆかりのワインにからめ、協力隊の方も参加なさったトークセッションなどもありました。

「智恵子抄」ゆかりの街としての二本松をその方面からももっと盛り上げていただける方のご応募を期待いたします。「我こそは」と思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生新らしく原稿を書く気が更に起こらずに居ます。出版に対してなんだかうるさくなりました。小生のものについて、新しい企画はもうあれ以上しないで下さい。008
昭和26年(1951)4月25日
澤田伊四郎宛書簡より 光太郎69歳

澤田は昭和16年(1941)のオリジナル『智恵子抄』版元の龍星閣主。太平洋戦争の激化に伴い、龍星閣は休業。澤田から版権を譲ってもらったと称した白玉書房が戦後に『智恵子抄』を復刊しましたが、いろいろ行き違いがあって、光太郎にも面倒がおよびました。そのあたりが「うるさくなりました」。

「あれ以上しないで下さい」という「新しい企画」は、再興した龍星閣から上梓された光太郎の随筆集『独居自炊』。過去の随筆集などからの再編で、光太郎自身あまり気乗りのしないものでした。

道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のミレットキッチンフラワーさんで、毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」、メニュー考案等に当たられているやつかの森LLCさんから今年初めての分の画像が届きました。
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献立は「ポークビーンズ」「鱒の塩焼き」「根菜のきんぴら」「切干大根と干柿の酢の物」「塩麹入り卵焼き」「蕎麦粉クレープ」「古代米ご飯」「煮りんごの甘酒ゼリー」「漬物」。

光太郎の日記などから、光太郎が作ったメニューや使った食材を参考に、現代風のアレンジが施されています。

「古代米」は古代から栽培されてきた稲の品種の特徴を継承しているといわれるもので、光太郎が暮らした旧太田村の隠れた特産品のようです。妻がこの手のものが好きで、当方、道の駅はなまき西南さんなどでよく買って帰ります。白米に混ぜて炊きますが、もち米だけあってボリューミー、腹持ちもいいようです。
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販売元は旧太田村のプロ農夢花巻さん。調べたところ、オンラインショップもありました。ぜひお試し下さい。

【折々のことば・光太郎】

先日来訪の土門拳氏に委托された滋養食品落手、ありがたく存じました、めづらしいブーダンなどをこの山の中で賞味出来るのを不思議なくらゐに思ひます、幾年ぶりのことか分りません。

昭和26年(1951)5月29日 高見順宛書簡より 光太郎69歳

ブーダン」は豚の血と脂によるフランスのソーセージの一種。この年5月21日の日記には次の記述があります。「ひる頃 土門拳来訪、助手二人同道、(略)写真撮影。三時頃辞去。元気なり。高見順に托された肉類を持参。茶ももらふ。 夕食炒飯みかん。高見氏よりのブーダンでつくる。

高見順は詩人。前年には光太郎題字揮毫による詩集『樹木派』を上梓したり、昭和30年(1955)に光太郎と行った対談「わが生涯」が雑誌『文芸』に掲載されたりしました。タレントの高見恭子さんはご息女です。

過日ご紹介した平野レミさんといい、渡辺えりさんといい、お父さまが光太郎と交流があったという芸能人の方、少なからずいらっしゃいますね。







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