明日、10月5日は智恵子の命日。「レモンの日」と名付けられています。
「レモン」とは、智恵子の臨終を謳った光太郎詩「レモン哀歌」からの命名です。
レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズ色の香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう
昭和6年(1931)頃から統合失調症の症状が顕在化してきた智恵子は、九十九里浜での療養を経て、昭和10年(1935)から南品川のゼームス坂病院に入院しました。有名な紙絵はこのゼームス坂病院での制作です。
亡くなったのは昭和13年(1938)10月5日午後9時20分。直接の死因は粟粒性肺結核。数え年53の早すぎる死でした。
智恵子の生涯や、光太郎との愛の形については、いろいろな人がいろいろなアプローチで論じています。それは決して肯定的な論調ばかりではありません。たとえば「レモン哀歌」にしても実際に作ったのは2月。終わり2行の「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」というのはフィクションです。雑誌『新女苑』の4月号に載るということで、桜を持ち出してきているわけです。こういう点などをことさらにあげつらい、光太郎の愛は虚構だ、と決めつける論もあります。また、この臨終の場面が「お涙ちょうだいのクサい芝居みたいだ」とこき下ろされることもあります。
しかし、どうでしょう。二人の生涯を俯瞰した時、それを「虚構」「クサい芝居」で片付けていいものでしょうか。それではいけない、というのが正直な感想です。といって、逆に「たぐいまれなる崇高な純愛のドラマ」と、諸手を挙げて肯定するのもどうかと思います。
結論。公正な眼で、二人の残したいろいろな事物を視野に入れながら捉えることが重要。そのためにもまだまだ埋もれている光太郎智恵子の遺珠を探し続けていきたいと思っております。
昨日見せていただいた神奈川近代文学館所蔵の上田静栄あて書簡の中にも、智恵子三回忌にからんで「まる二年たつたといふのにまだ智恵子を身近にばかり感じてゐます」という一文がありました。シニカルな論者はこういうのも光太郎のポーズだと決めつけるのでしょうが……。