カテゴリ: 文学

昨日のブログで、吉本隆明氏の著書『超恋愛論』を紹介しました。
 
その中の「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」という定義。やはり光太郎智恵子を想起せずにはいられません。
 
そこで思い出したのが、先月、生活圏の古書店で購入した以下の書籍です。
 
『大正の女性群像』昭和57年(1982)12月1日 坪田五雄編 暁教育図書
 
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内容的には主に二本立てです。「人物探訪」の項で、大正期に名を馳せた各界の女性を扱い、「女性史発掘」の項で女性一般についての説明。どちらも豊富な図版、写真が添えられ、ビジュアル的にも豪華な本です。
 
「人物探訪」の項で扱われているのは、もちろん智恵子、そして平塚らいてう、伊藤野枝、松井須磨子、柳原白蓮、田村俊子、相馬黒光、九条武子、岡本かの子などなど。
 
それぞれに名を成した女性たちですが、程度の差こそあれ、それぞれの人生が激しい恋愛に彩られています。
 
ここにはやはり「大正」という時代の雰囲気がからんでいるのでしょう。ある意味閉塞的だった「明治」が終わって迎えた「大正」。「昭和」に入って泥沼の戦争の時代になるまで、束の間、新しい風が吹いた時代だと思います。
 
その「大正」に、光彩を放った女性たち。強引な考えかも知れませんが、彼女たちも一人では埋もれてしまっていたのではないでしょうか。吉本氏曰くの「男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」である激しい恋愛を経て、それぞれの輝きにたどり着いているような気がします。
 
その結果が決して幸福とはいえない人生につながってしまった女性もいるかも知れませんが……。
 
さて、今は「平成」。百年後の人々は、「平成」という時代をどう位置付けるのでしょうか……。

新刊を紹介します。 

吉本隆明著 2012/10/15 大和書房(だいわ文庫) 定価600円+税
 
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今年亡くなった評論家・吉本隆明氏の著書。2004年に同社からハードカバーで刊行されたものの文庫化です。
 
「男女が共に自己実現しようとして女性の側が狂気に陥った光太郎・智恵子の結婚生活」という項があり、光太郎・智恵子にふれています。
 
他にも夏目漱石、森鷗外、島尾敏雄、中原中也、小林秀雄らに言及し、「恋愛論」が展開されます。
 
いつも思うのですが、氏の論は決して突飛な論旨ではなく、ごく当たり前といえば当たり前のことを述べています。しかし、誰しもがそういうことを感じていながらうまく言葉で言い表せないでいたことを明快に言ってのけるところに氏のすごみを感じます。
 
例えば、恋愛に関しても「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」と定義しています。
 
そして一つ何かを論じると、その裏の裏まで掘り下げ、読む者を納得させずにおかないという特徴もあります。論とか文章といったもの、こうあるべきだといういいお手本になります。是非お買い求めを。

今日は、11/20のブログで御紹介しました第57回高村光太郎研究会でした。
 
会場は湯島のアカデミア湯島。午後2時からということで、午前中は湯島にほど近い上野の国立西洋美術館に寄りました。11/14のブログで御紹介しました「ロダン ブールデル 手の痕跡」展を見るためです。こちらについてはまた後ほど詳しくレポートします。
 
そちらを見終わって、昼食をとりつつ歩いて湯島まで。東京も秋の風情がなかなかよい感じでした。
 
さて、研究会。この世界の第一人者、北川太一先生をはじめ、大阪から『雨男高村光太郎』の著者・西浦氏、花巻から花巻高村記念会の高橋氏、福島から元草野心平記念館の小野氏、地元東京で『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』の著者・坂本女史など、見知った顔が集まりました。ありがたいことです。
 
まずは前座で当方の発表「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。つつがなく終わりました。発表内容についてはまた日を改めてこのブログでレポートします。
 
続いて國學院大學名誉教授の傳馬義澄氏によるご講演「高村光太郎『智恵子抄』再読」。

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昭和25年に刊行された光太郎の詩文集『智恵子抄その後』のあとがきに「「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。」と光太郎は書きました。それをふまえ、単純に「純愛の相聞歌」的な捉え方をすることへの警鐘、『智恵子抄』収録の詩篇から読み取れる二人の生活の様子、そして今後の若い世代へどう広めていくのかといった部分にまでお話がおよび、ご講演のあとの参加者でのフリートークでもその辺りの話題で盛り上がりました。

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その後、懇親会ということで、会場を移しました。そこでも高橋氏や坂本女史から新しい計画等のお話を伺い、そちらも非常に楽しみです。
 
今後、随時、「ロダン ブールデル 手の痕跡」展、当方の発表内容についてのレポート、そして新しい計画についての情報等アップしていきますのでお楽しみに。

新刊を紹介します。

2012/7/27 小野智美編 羽鳥書店 定価900円+税
 
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津波が町を襲ったあの日から――2011年5月と11月に、宮城県女川第一中学校で俳句の授業が行われた。家族、自宅、地域の仲間、故郷の景色を失った生徒たちが、自分を見つめ、指折り詠んだ五七五。記者として編者は、友や教師や周囲を思いやり支えあう彼らの姿、心の軌跡を丹念にたどる。(裏表紙より)
 
宮城県の女川町。このブログでもたびたび紹介しています。昭和6年(1931)に光太郎がここを訪れたことが縁で、平成3年(1991)に詩碑が建てられ、以来、「女川光太郎祭」が開かれている町です。そして昨年の大震災では津波による大きな被害……。
 
その女川に暮らす中学生達の句集です。軽い気持ちで読めるものではありません。実はamazonなどでこの本が出ているのはだいぶ前から知っていたのですが、軽い気持ちでは読めないなと思い、手が出ませんでした。しかし、先日、八重洲ブックセンターに立ち寄ったら平積みで置いてあり、思い切って購入しました。
 
 逢いたくて でも会えなくて 逢いたくて 
 
母親を亡くした生徒の作品です。「季語が入っていない」などというさかしらな批評をする人がいたら、人間じゃありませんね。
 
言葉にしても、音楽にしても、絵画や彫刻のような造型にしても、やはりそれを作った時の心境とは無縁でいられないのだと思います。そう考えると、「レモン哀歌」などの智恵子の死を謳った光太郎の詩篇も重みが違って感じられます。
 
それは表現する側だけでなく、受け取る側にも言えることだと、この本を読んで改めて気付かされました。「付記」という部分に、指導に当たった佐藤敏郎教諭が、今年の3月、3年生の最後の国語の授業で「レモン哀歌」を扱った話が書かれています。生徒は全員、身近な人の訃報に接しています。そういう体験を踏まえて読む「レモン哀歌」、そういう経験のない人間が読むのとはまた違うわけです。そしてそれを教える側の佐藤教諭も。
 
「この1年、みんなは死を考えたことが多かったと思う。今までおれは、死はどん底のような気がしていたんだ。暗闇に落ちていくような。だから怖いんだ。でも、ちがうかもしれない。たぶんね、ずっと登っているんだよ」
 そう言いながら、山の頂へ一直線に白墨を引いた。
「死っていうのは上。一番上なんだ。だから天に昇るんだ」
 そう言った瞬間だった。「おーっ」。教室に感嘆の声がわきあがった。
 なおも続ける。「智恵子は人生をふりかえって、ひとつの大きな仕事をやりとげた。最愛のだんな様への生涯の愛を一瞬に傾けたんだ。そういう登り切った達成感、満足感がある。だから『山巓でしたやうな』だ」。
 
この解釈には異論があるという人もいるかも知れません。しかし、あの過酷な体験を経て語られるこの言葉には、やはりさかしらな批評の立ち入る隙はありませんね。
 
この本、本当に軽い気持ちで読めるものではありません。しかし、多くの人に読んでほしいと思います。

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今日も携帯からの投稿です。

現在地は福島県川内村。高村光太郎と親交のあつかった詩人、草野心平ゆかりの地です。こちらの旅館、小松屋さんを会場に、第2回天山心平の会「かえる忌」が行われました。

草野さんの命日は12日ですが土曜日にあわせての開催のようです。天山心平の会代表で小松屋さんのご主人、井出氏、かわうち草野心平記念館長・晒名氏、川内村長の遠藤氏他のお話、福島県議団と一緒にチェルノブイリ視察に行かれた地方紙河北新報記者の中島氏のレポート、そしてモンデンモモさんのミニコンサートなどがありました。

ところでなぜ「かえる忌」なのかといいますと、いくつか理由があります。草野心平が蛙をモチーフにした詩をたくさん書いたこと。川内村は、モリアオガエルの生息地であること。ここまでは事前にわかっていましたが、他にもありました。

原発事故で全村避難を余儀なくされ、しかし今年に入ってそれも解除、みんなで村に「帰る」という意味。

さらに川内村より原発に近く、帰るに帰れない区域の人々を受け入れ、村を「変える」というメッセージも込められているそうです。
「蛙」「帰る」「変える」。深いですね。

明日は移動日で東京に帰り、明後日は原宿アコスタディオさんでモンデンモモさんの「モモの智恵子抄2012」です。

最近、光太郎がらみのCDを何枚かまとめて購入しましたので紹介します。

劇団・演劇倶楽部『座』主宰の壤晴彦氏による朗読CDです。今年発売されました。

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朗読を味わうためのものではなく、自分で朗読に取り組もうという人の教材用、といったコンセプトです。2枚組になっており、1枚目は壤氏の朗読がノンストップで入っています。詩が16篇、短歌が6首の結構長いものです。2枚目は壤氏の朗読がワンフレーズごとに間が空き、聞いている人が附録のテキストを見てリピートするという形になっています。こういうものもあるんだな、と思いました。
 
壤氏、バリトンのとてもよい声です。また、教材用ということで、きちんとした朗読です。別に揚げ足を取ってやろうと思いながら聞いたわけではないのですが、おかしな読み方になっているところは一箇所もなく、感心しました。
 
世の中には粗製濫造のそしりをまぬがれないような朗読CDもあり、腹が立ちます。ある会社が数年前に出した朗読CDでは、上高地の徳本峠(とくごうとうげ)を平気で「とくもととうげ」と読んでいます。きちんとした人が監修していればこんなミスは防げるはずなのですが、手間や経費を惜しんでいるのでしょうか。この辺は少し前のブログに書いた書籍の誤植の件でも同じことが言えます。ドラマ仕立ての内容の、クライマックスのシーンで「高太郎!」……ぶちこわしですね。
 
そういう監修の仕事を回せ、と言いたいわけではありませんが、ミスのチェック程度でしたらノーギャラで引き受けます。お声がけ下さい。
 
さて、「反復朗読CD 高村光太郎 智恵子抄」、演劇倶楽部『座』様のサイトから購入可能です。価格は4,800円。CDではなく音声データのダウンロード、テキストもPDFファイルでのダウンロードが可能ということです。もちろん有料ですが。

ラジオ局・文化放送JOQRの過去の放送をCD化したものです。3枚組で、1,2枚目は昭和39年から平成14年までの故・森繁久彌氏の出演した放送、3枚目が昭和50年に放送された「青春劇場 日本抒情名詩集」。この3枚目に奈良岡朋子さんの朗読で光太郎の詩「樹下の二人」「あどけない話」「同棲同類」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」「荒涼たる帰宅」が収められています。こちらもいい感じの朗読です。
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一昨年の発売で、価格は5,000円です。

それぞれ、ぜひお買い求め下さい。

今朝の朝日新聞で、女川・光太郎の会に関する記事が大きく載りました。
 
同紙では毎週月曜日に「防災・復興」というコーナーが連載されていますが、その中で今日は「光太郎の詩は女川の宝」という見出しで、女川・光太郎の会会長、須田勘太郎さんが紹介されています。
 
震災で大きな被害を受けた光太郎詩碑建立の経緯や、建立に貢献した故・貝(佐々木)廣さん、そして女川の現状、今年の女川光太郎祭に関しても触れられています。須田さんの写真には、背景に貝さんの遺影も。
 
こうした地方の地道な活動にスポットを当てていただけるのは嬉しい限りです。
 
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一昨日のブログで御紹介しました11/17(土)、福島川内村でのイベントです。
 
川内村では光太郎を敬愛してやまなかった詩人・草野心平を名誉村民に認定しています。心平についてはいずれまた詳しく書きたいと思っています。
 
心平は蛙をモチーフにした詩をたくさん残しました。その名もずばり「蛙」という題名の詩集まであります。下の画像は函で、文字は光太郎の筆跡です。

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川内村は原発事故で一躍有名になってしまった村ですが(先頃、天皇皇后両陛下が訪問されました)、もともとモリアオガエルの生息地ということで、「蛙の詩人」心平とゆかりができ、蔵書3000冊を村に寄贈、「天山文庫」として親しまれています。
 
さて、11/17(土)は、午後2:30から、村内の小松屋旅館さんで、心平を偲ぶ「かえる忌」が開かれます。心平の命日は11/12ですが、土曜日にあわせて行うようです。当方、初めての参加で、勝手がわかりませんが、おそらく紅葉も美しく色づいていることと思い、楽しみにしています。そのイベントの中で、モンデンモモさんのライブも入るとのこと。光太郎、心平、そして宮澤賢治の詩に曲をつけて歌います。会費2,500円だそうです。
 
こういうイベントへの参加も被災地復興のための一つの方策だと思います。お時間のある方、ぜひお越しを。

別件です。テレビ放送の情報を1件。

2012年11月7日(水) 20時00分~20時54分 テレビ東京系
 
野村真美と小林綾子が秋の青森を巡ります!紅葉の名所、奥入瀬渓流、十和田湖や今注目の「もみじ山」へ!さらに「酸ヶ湯温泉」ランプの宿「青荷温泉」など名湯も堪能!

番組内容

秋の青森の紅葉スポットめぐり!錦色に染まる奥入瀬渓流は「雲井の滝」など水の流れと紅葉の彩りが鮮やか。遊覧船で楽しむ「十和田湖」も見ごたえ十分。夜は川のせせらぎが心地よい温泉宿に宿泊。夕食は地元のリンゴをふんだんに生かしたリンゴ会席を堪能。2日目はオトクで新鮮な海鮮丼が人気の市場や千人風呂で有名な「酸ヶ湯温泉」、今注目の名所「中野もみじ山」、秘湯「青荷温泉」のランプの宿などを満喫。秋のオススメ旅!

出演者
 旅人 野村真美、小林綾子  ナレーション 大和田伸也

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ぜひご覧下さい。

秋も深まってまいりました。早いもので、今日から11月ですね。
 
今月行われる、または開催中のイベント等の情報を手短に。

企画展「詩人たちの絵画」

和歌山県田辺市立美術館 11/4(日)まで
 
昨日9/27のブログをご参照下さい。

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天山草野心平の会 かえる忌

福島川内村 小松屋旅館 11/17(土)14:30~
 

モモの智恵子抄2012

原宿アコスタディオ 11/19(月) 19:00~
 
「宇宙人」シャンソン歌手モンデンモモさんのライヴです。

智恵子講座’12 第6回 「山居追慕期を中心にして」 

二本松市民交流センター 11/18(日) 10:00~
 
講師 渡辺元蔵氏(二本松にて詩誌『現代詩研究』主宰) 連絡先 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷さん tel/fax0243(23)6743 参加費1,000円
 

第57回高村光太郎研究会

文京区アカデミー湯島 11/24(土) 14:00~
 
「光太郎と船、そして海 新発見随筆「海の思出」をめぐって」 当方の発表です。
「『智恵子抄』再読」  伝馬義澄氏 
 
研究会に入会なさらなくても参加可能です。 島根県立石見美術館 11/26(月)まで
 
 
以前のブログで御紹介したものもあります。逆に今後また詳しく御紹介しようと思っているものもあります。とりあえず速報、ということで。

昨日、群馬県立土000屋文明記念文学館の企画展「忘れた秋-おもいでは永遠に 岸田衿子展」を見て参りました。
 
岸田さんといえば、詩誌「櫂」の主要メンバーの一人でした。「櫂」は昭和28年(1953)の創刊。岸田さん以外の主要メンバーに、茨木のり子、川崎洋、谷川俊太郎、大岡信、吉野弘などがいました。そうそうたるメンバーですね。岸田衿子展では当然、この人々との交流なども扱われていました。それから、「櫂」同人ではなかったようですが、岸田さんとつながりのあった詩人ということで、石垣りん、田村隆一、工藤直子などに関する資料も。
 
岸田さんにしてもそうですが、このそうそうたるメンバー、大半は亡くなってしまいました(谷川俊太郎さんなどはまだお元気で、11月3日の文化の日には岸田衿子展の関連行事でご講演をなさるそうですが)。
 
「この世代の詩人の皆さんがみんな亡くなってしまったら、どうなるんだろう」と、展示を見ながら思いました。当方は若い頃、この世代の人々が次々新作を発表するのを見て、尊敬のまなざしで見ていたものですから、そう思うわけです。
 
みなさん、大正後半から昭和一桁の生まれです。口語自由詩を確立した光太郎や萩原朔太郎、そして同世代の北原白秋らとは半世紀ほどの差異ですね。その中間ぐらいの世代が明治末に近い頃の生まれの草野心平、宮澤賢治、中原中也といったあたりでしょうか。
 
光太郎世代の詩は、『中央公論』『文藝春秋』『週刊朝日』など一般向けの総合雑誌にも掲載されました。心平世代、岸田さん世代もそうでしょう。しかし、現代、一般向け雑誌で詩人の詩作品を目にする機会はほとんど無いように思います。
 
何も「昔の一般向け雑誌は、詩を載せるほど高尚だった」とか「現代の詩人はだめだ」とかいうつもりはありません。それは世の中における「詩人の立ち位置」の問題だと思います。
 
昔は詩人と社会との距離がかなり近いところにあったように思います。だから、詩の世界で名をなした人は一般にも知られていました。まあ、戦時中にはそれが悪い方に利用されてしまった部分もありますが。ところが現代はどうもそうではないような気がします。
 
はっきり言えば、現代の詩人たちがどういう詩を書いているのか、もっと厳しく言えば、現代、どういう詩人がいるのか、そういったこともあまり知られていないような気がします。それは詩人の皆さんだけの責任ではないのでしょうし、世の中の好みや各種メディアの多様化などとも無関係ではないのでしょう。
 
これから先、「詩」というものが世の中でどのように受け入れられていくのか、そういったことを考えさせられた展覧会でした。

今日は高崎市にある群馬県立土屋文明記念文学館に行って参りました。

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同館では現在、企画展「忘れた秋-おもいでは永遠(とわ)に 岸田衿子展」が開催中です。

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岸田衿子さん。昭和4年(1929)の生まれ。昨年、亡くなりました。一般にはあまりなじみのないお名前かも知れませんが、詩人です。女優の岸田今日子さんのお姉さん、といった方がわかりやすいかもしれませんね(今日子さんも平成18年に亡くなりました)。しかし、意外といえば意外なところで我々の身近な所にその足跡が残っています。一例を挙げれば、アニメ「フランダースの犬」「アルプスの少女ハイジ」などの主題歌は岸田さんの作詞です。
 
光太郎とは直接の関わりはないと思います。ただ、岸田さんのお父さんが、劇作家の岸田国士(明23=1890~昭29=1954)。戦前から戦時中、大政翼賛会の文化部長を務めていました。この岸田国士の勧めで、光太郎は中央協力会議議員、そして大政翼賛会文化部詩部会長を引き受けます。
 
戦後の光太郎の連作詩、「暗愚小伝」中の「協力会議」に、次の一節があります。
 
 協力会議といふものができて001
 民意を上通するといふ
 かねて尊敬してゐた人が来て
 或夜国情の非をつぶさに語り、
 私に委員になれといふ。
 だしぬけを驚いてゐる世代でない。
 民意が上通できるなら、
 上通したいことは山ほどある。
 結局私は委員になつた。
 
この「かねて尊敬してゐた人」が岸田国士です。
 
そういうわけで、もしかしたら衿子さん、今日子さんの姉妹も光太郎に会っているかも知れませんが、そういう記録は確認できていません。
 
さて、なぜその岸田衿子さんの展覧会に行ったかというと、今回の企画のチーフの学芸員が連翹忌に御参加いただいている佐藤浩美さん(光太郎に関する御著書もあります)だからという単純な理由でした(招待券もいただきましたし)。それから同館に最近、こちらで把握していない書簡が収蔵されたので、それを見に行くついでもありました。
 
しかし、やはり「いいな」と思いました。展示自体が凝った展示だったこともありましたし、岸田さんの世界も「いいな」でした。
 
今年に入ってからも、4月の「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」、9月には「東と西の出会い 生誕125年 バーナード・リーチ展」と、光太郎と直接関わるわけでもない展覧会に足を運びました。他にもブログには書きませんでしたが、「古代アンデス展」やら、ぶらりと根津の竹久夢二美術館に立ち寄ったりもしています。やはり、こういう経験で世界が拡がる気がしますね。
 
ところで、今回思つたのは、「詩人」の位置づけです。その辺についてはまた明日。

先日、地域の新刊書店によった際、偶然見かけてこんな本を買いました。ムック(雑誌と書籍の中間という位置づけ)です。 

2012/10/23  Town Mook        定価: 750円(税込)

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上の表紙画像にもある東京駅の赤煉瓦駅舎、先頃改修が終わり、ほぼ100周年(開業記念式典は大正3年=1914の12月18日。その4日後に上野精養軒で光太郎智恵子の結婚披露宴が行われています)ということで、テレビなどでよく紹介されています。さらに今年は元号に換算してみると、1912年が大正元年ですから、大正101年にあたります。そんなわけで、大正時代、ちょっとしたブームですね。
 
光太郎、智恵子も生きた大正時代。やはり時代の流れの中での位置づけというのも重要なことだと思います。そう思い、価格も手ごろだったので購入しました。実は通販サイトで似たような本を少し前に見つけていたのですが、価格が高めで二の足を踏みました。こちらは750円でお買い得だったな、という感じです。
 
光太郎に関しては、白樺派を扱った項に名前が出てきますし、集合写真に写っています。智恵子に関しては表紙のデザインをした『青鞜』が紹介されています。ただし智恵子の名が出てこないのが残念ですが。
 
その他、やはり同時代ということで、二人と関わった人々がたくさん紹介されています。また、当時の町並みの写真や絵図、現在も残る当時の建築物の写真など、興味深い内容でした。
 
「ほう」と思ったのは、大正12年(1923)の関東大震災の「東京市火災延焼状況」という古地図。隅田川両岸は壊滅的な状況で、西岸は下谷あたりまで燃えていますが、光太郎のアトリエのあった駒込林町は無事だったというのが視覚的によくわかりました。ちなみに震災当日、智恵子は二本松に帰省中。光太郎は被災者のためにアトリエを解放したという話も伝わっています。
 
さて、これから百年ほど経って、平成はどのように評価、紹介されるのでしょうか。

インターネット通販サイトの「amazon」さん。光太郎関連で新刊書籍がないかどうか、ときおりチェックしています。
 
昨日見て驚いたのは、電子書籍として光太郎作品がずらっと並んでいることです。
 
ラインナップは以下の通り。
 
ヒウザン会とパンの会/詩について語らず —編集子への手紙—/珈琲店より/自分と詩との関係/能の彫刻美/九代目団十郎の首/(私はさきごろ)/智恵子の半生/人の首/回想録/顔/ミケランジェロの彫刻写真に題す/智恵子の紙絵/緑色の太陽/啄木と賢治/小刀の味/木彫ウソを作った時/蝉の美と造型/山の雪/装幀について/美の日本的源泉 /山の秋/黄山谷について/自作肖像漫談 /山の春/開墾/書について/美術学校時代/智恵子抄/気仙沼/触覚の世界
 
これは来月からamazonさんで販売される電子書籍端末「Kindle Paperwhite」のためのものです。
 
ちなみに楽天さんで販売されている電子000書籍端末「コボタッチ」でも同じラインナップが出てきます。
 
また、どちらにも光雲の懐古談が入っています。どうも大本(おおもと)は以前からある電子図書館、青空文庫さんのようです。
 
結局、そういうラインナップしか用意できないのであれば、わざわざ端末を買う理由はあまりないように思われますが、今後、どうなっていくのか注目してみたいものです。
 
今朝の朝日新聞さんにも記事が載っていましたが、こうした電子書籍、いろいろと話題になっています。アメリカでは「kindle」が2007年に発売され、電子書籍普及の起爆剤となったといわれていて、それが日本にも上陸、大手通販サイトの「amazon」さんの顧客が取り込めそうだとか……。
 
日本ではまだまだ電子書籍は普及していないようです。朝日の記事にのった調査では「既に電子書籍を読んでいる」が5%、「近い将来読んでみたい」が30%、しかし、「読んでみたくない」が56%いるとのことです。
 
この「読んでみたくない」が、「電子」という言葉に拒絶反応を起こす人たちなのか、それとも電子媒体だろうが昔ながらの紙の印刷だろうが、読書ということをしない人たちなのか、よくわかりません。
 
まあ、どれだけ電子媒体が進んでも紙の本が無くなることはないでしょうし、その普及が読書離れに多少なりとも歯止めをかける結果になるのであれば、いいことだと思います。ただし、何でもかんでも電子でなければ時代遅れだ、という風潮にはなってほしくないものですね。逆に利便性を全く考慮せず、単に情趣の面から「本は紙でなきゃならん。電子ナントカなんて邪道じゃ!」という頭の固さでも困ると思います。

今日、10月21日は、昭和18年(1943)、神宮外苑で学徒出陣の壮行式があった日だそうです。昭和アーカイブス的な番組などで映像を御覧になった方もいらっしゃると思います。
 
そういうわけで、昨日の朝日新聞土曜版の連載「うたの旅人」では、信時潔(のぶとききよし)作曲の「海ゆかば」が扱われました。
 
ある程度の年代以上の方は「ああ、あの曲か」と思い当たられるでしょう。その壮行式の際にも、それからラジオの大本営発表-山本五十六連合艦隊司令長官の戦死(昭和18年)、アッツ島守備隊の全員玉砕(同)などの悲劇的な報道のバックには必ず使われたとのことです。
 
信時は童謡「一番星みつけた」などの作曲者でもありますが、戦時中は「海ゆかば」のような軍歌、戦時歌謡も作っていました。当方が刊行している冊子『光太郎資料』に「音楽・レコードと光太郎」という項があり、いずれそこで詳細を記しますが、その中には光太郎作詞のものもあります。
 
一つは昭和16年(1941)作、「新穀感謝の歌」。宮中で行われていた新嘗祭に関わるものです。
 
   新穀感謝の歌
 
 あらたふと
 あきのみのりの初穂をば
 すめらみことのみそなはし
 とほつみおやに神神に
 たてまつる日よいまは来ぬ
 (二番以降略)

もう一曲は昭和17年(1942)作、「われら文化を」。これは岩波書店の歌として作曲されたものですが、世相を反映した歌詞になっています。
 
  われら文化を
 
 あめのした 宇(いへ)と為す
 かのいにしへの みことのり
 われら文化を つちかふともがら、
 はしきやし世に たけく生きむ。
 (二番以降略)
 
ちなみにこの曲は平成20年(2008)、財団法人日本伝統文化振興財団から発行されたCD6枚組「SP音源復刻盤 信時潔作品集成」に収録されています。「新穀感謝の歌」は収録されていません。どうも発表当時もレコードにならなかったようです。もし「新穀感謝の歌」のレコードについてご存知の方がいらっしゃいましたら御一報下さい。

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光太郎も信時も、そして個人ではなく企業としての岩波書店も、そしてその他ほとんど全ての人々が、否応なしに戦時体制の歯車として組み込まれていったのです。
 
と、書くと、「いやそうではない。光太郎は衷心から鬼畜米英の覆滅を願い、赤心から大君のためにその命を捧げ奉る覚悟であったのだ」という論者がいます。はたしてそうなのでしょうか……。

昨日と本日、生活圏内の公共図書館に行ってきました。
 
当方、国会図書館さんや日本近代文学館さんなどにもよく足を運びますが、手に入れたい資料・情報によって、生活圏内の公共図書館も利用します。
 
明治大正、昭和前半といった古い資料、新しいものでも一般には流通しないようなものであれば、国会図書館等に行き、比較的新しく、そう珍しいものでなければ生活圏内で済ますといったところです。
 
昨日今日は、部分的に光太郎智恵子にふれられている書籍を閲覧、コピーしてきました。事前にそういう書籍があるという情報を得ていたものとして、以下の通りです。
 
・『畸人巡礼怪人礼讃:忘れられた日本人2』ad9f933e-s
  佐野眞一著 毎日新聞社 平成22年……「甘粕夫人と高村智恵子」

・『漱石全集』第16巻 岩波書店 平成7年……「太平洋画会」

・『コミュニティ成田』第74号 成田市市長公室広報課 平成15年
  ……「ふるさと発掘 葉舟の残像」

・『美は脊椎にあり 画家・白石隆一の生涯』小池平和著 本の森
  平成9年……「戦後の模索と高村山荘訪問」

・『富士正晴作品集』第2巻 岩波書店
  昭和63年……「高村光太郎の思い出」

・『夢追い俳句紀行』 大高翔著 日本放送出版協会 平成16年
  ……「雲の峰智恵子の山河ありにけり 高村智恵子 福島・二本松」
 
これらは部分的に光太郎智恵子にふれられているということを知りつつ、購入していませんでした。ほんとは購入すればよいのでしょうが、無限に資産があるわけでもないもので……。そういった場合に、図書館の存在はありがたいわけです。必要部分だけコピーが可能ですので。しかし、それ以外の部分を無視してしまうというのも、著者の方々には申し訳ない気もしますが……。
 
また、一般の図書館の強みとしては、開架であること。国会図書館等はほとんどの蔵書が書庫にしまわれており、申請して出して貰う方式です。これだと目的の書籍がはっきりしている場合にはかまいませんが、そうでない場合に、なかなか掘り出し物に出会えません。
 
今回、開架の棚をながめながら、掘り出し物も見つけました。
 
・『森鷗外の手紙』 山崎国紀著 大修館書店 平成11年……「大正時代の手紙 27高村光太郎あて」
・『豪華客船の文化史』 野間恒著 NTT出版 平成5年……こちらは光太郎に関する記述はありませんが、光太郎が乗った船について詳しく記されています。
 
開架式だと、書籍を手に取ってぱらぱらめくり、中身が見られるというのが良い点です。
 
それにしても、昨日今日で別々の図書館に行きましたが、どちらも平日にもかかわらず結構にぎわっているのが嬉しいかぎりです。少し前、某出版社の新聞広告で「ヒトは、本を読まねばサルである。」というコピーを目にしました。障害を持つ方々に対する配慮が欠けているんじゃないかな、とも思いましたが、そうでない人々にとってはまったくその通りだと思います。「文化国家日本」であるべきですね。
 
さて、秋の夜長、取ってきたコピーで「読書」にいそしもうと思います。

連翹忌に御参加頂いている練馬在住の豊岡史朗氏から詩誌『虹』三冊頂きました。ありがたいことです。
 
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平成22年(2010)11月刊行の第1号、同23年(2011)8月刊行の第2号、そして今年8月刊行の第3号です。各号に〈高村光太郎論〉の総題のもとに氏の論考が掲載されています。「光太郎とヒューマニズム」(第1号)、「詩集『智恵子抄』」(第2号)、「戦争期-満州事変から敗戦まで」(第3号)。それぞれ25ページ前後の比較的長いもので、素晴らしいお仕事です。木戸多美子さんの時にも触れましたが、やはり詩を書かれる方の読み取りというのは、我々凡愚の見落としてしまうようなところまで感覚が行き届いています。お馴染みの光太郎作品でも、「このように読めるのか」と感心させられました。
 
「自分もこんなものを書いているぞ」という方、情報をお寄せ下さい。このサイト、光太郎智恵子を敬愛する全ての人々のネットワークターミナルとしたいと思っておりますので。
 

別件ですが、もう1件、テレビ放映の情報、やはり千駄木がらみです。 

日本ほのぼの散歩「東京・谷根千」

 BS11 2012年10月24日(水) 20時00分~20時54分
 
東京の中心地に近く“山の手"の一角でありながら、今なお下町としての風情を残す“谷根千"の愛称で親しまれている谷中・根津・千駄木。藤吉久美子がほのぼの散歩します。

『街並み』『風景』『食』を楽しみながら近所をちょっと散歩をしているような気分を味わいませんか? この番組では場所(四季)ごとに歴史に沿った史跡・名所巡や名宿や温泉などをご紹介します。

出演者  藤吉久美子

ぜひ御覧下さい。

最近入手した資料を紹介します。こういうものもあるんだ、という参考にして下さい。 

作家画家の温泉だより ポケット四季の温泉旅行

昭和31年(1956)9月15日 自由国民社発行
 
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光太郎没年の秋に刊行されたものです。おそらく、同じ年4月20日に同じ自由国民社から刊行された『旅行の手帳26 作家・画家の温泉だより/百人百湯』と同一の内容と思われます。
 
四十八人の文学者や芸術家が日本各地の温泉を紹介するもので、光太郎が「ここで浮かれ台で泊まる 花巻」で花巻周辺の温泉地を担当しています。『高村光太郎全集』によれば、歿する一月半前の2月25日に語った内容の談話筆記で、談話筆記としては最後のものです。
 
紹介されているのは志戸平温泉、大沢温泉、鉛温泉、西鉛温泉、花巻温泉、台温泉-まとめて花巻温泉郷。日記や書簡によれば、花巻で暮らした7年の間に、光太郎はたびたびこれらの温泉に逗留しました。老境に入り、結核も病んでいた光太郎にとって、これらの山の出湯(いでゆ)は何よりの妙薬だったのかも知れません。
 
さて、『作家画家の温泉だより ポケット四季の温泉旅行』。光太郎の花巻以外にも、中山義秀の裏磐梯、榊山潤で岳温泉、鹿島孝二が塩原、野田宇太郎による川原湯、市川為雄筆の草津、渋沢秀雄が小湧谷、中谷健一は水上など、光太郎智恵子も訪れた温泉レポートが満載です。
 
何だか温泉に行きたくなってきました(笑)。

明日、10月5日は智恵子の命日。「レモンの日」と名付けられています。
 
「レモン」とは、智恵子の臨終を謳った光太郎詩「レモン哀歌」からの命名です。
 
    レモン哀歌                                     
 002
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズ色の香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓(さんてん)でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう
 
昭和6年(1931)頃から統合失調症の症状が顕在化してきた智恵子は、九十九里浜での療養を経て、昭和10年(1935)から南品川のゼームス坂病院に入院しました。有名な紙絵はこのゼームス坂病院での制作です。
 
亡くなったのは昭和13年(1938)10月5日午後9時20分。直接の死因は粟粒性肺結核。数え年53の早すぎる死でした。
 
智恵子の生涯や、光太郎との愛の形については、いろいろな人がいろいろなアプローチで論じています。それは決して肯定的な論調ばかりではありません。たとえば「レモン哀歌」にしても実際に作ったのは2月。終わり2行の「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」というのはフィクションです。雑誌『新女苑』の4月号に載るということで、桜を持ち出してきているわけです。こういう点などをことさらにあげつらい、光太郎の愛は虚構だ、と決めつける論もあります。また、この臨終の場面が「お涙ちょうだいのクサい芝居みたいだ」とこき下ろされることもあります。
 
しかし、どうでしょう。二人の生涯を俯瞰した時、それを「虚構」「クサい芝居」で片付けていいものでしょうか。それではいけない、というのが正直な感想です。といって、逆に「たぐいまれなる崇高な純愛のドラマ」と、諸手を挙げて肯定するのもどうかと思います。
 
結論。公正な眼で、二人の残したいろいろな事物を視野に入れながら捉えることが重要。そのためにもまだまだ埋もれている光太郎智恵子の遺珠を探し続けていきたいと思っております。
 
昨日見せていただいた神奈川近代文学館所蔵の上田静栄あて書簡の中にも、智恵子三回忌にからんで「まる二年たつたといふのにまだ智恵子を身近にばかり感じてゐます」という一文がありました。シニカルな論者はこういうのも光太郎のポーズだと決めつけるのでしょうが……。

今日は横浜の神奈川近代文学館さんに行って参りました。
 
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こちらも国会図書館さんや駒場の日本近代文学館さん同様、収蔵資料が閲覧でき、よく利用させてもらっています。特筆すべきは書簡や草稿などの肉筆ものが充実していること。それも、どんどん新しいものが増え続けていることです。こうしたものは寄贈による場合が多いようで、館から届くメールニュースに毎回のように「寄贈資料」としていろいろ紹介されています。
 
こうしたものを寄贈なさる方々、非常に素晴らしいと思います。売れば売ったでかなりの値がつくものもあり、結局、古書市場に出回っているものは売られたものです。それはそれで入手したいという需要に応える上で大切なのでしょうが、我々個人にとっては、なかなか手が出ません。はっきり言えば、わけのわからない人に買われてしまって、日の目を見ずに死蔵されてしまうということも少なからずあります。
 
その点、こういうちゃんとした公的機関に寄贈されていれば、我々も眼にすることができ、非常にありがたいわけです。
 
いつも一言多いのがこのブログですが、公的機関でも、収蔵資料の状況を外部に発信しなかったりと、死蔵に近い状態にしているところもあり、困ったものだと思うこともしばしばです。
 
さて、今日は詩人の上田静栄に宛てた書簡などを拝見してきました。最近同館に所蔵されたものです。上田には「海に投げた花」(昭和15年=1940)という詩集があり、序文を光太郎が書いています(その草稿も見せていただきました)。つい最近、このブログで誤植についていろいろ書きましたが、上田宛の書簡の中でも誤植の件が話題になっていました。また、智恵子に関する内容も含まれており、興味深いものでした。いずれ「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介するつもりです。

昨日のブログで引用した光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。続きを載せます。
 
 中には、夫婦の間で、いつもそんなに争ひや波瀾が起つてゐるやうでは何にも仕事ができなくて困るだらう、とお考へになる方があるかも知れません。しかし、与謝野先生御夫婦は、あの多勢のお子さんの上に、人一倍沢山の仕事を世に出してゐらつしやる。それでお子さんに対しての心遣ひなども実によく行き届いてゐて、あれでいけなければ子供の方がよくないのだと思ふくらゐです。或人はいひます。与謝野さんたちくらゐの体格と健康とを持つてゐれば、あの盛んな生活力も精神力も不思議ではないと。けれども私はそれを逆にほんたうに強い精神力が、あの若々しい健康を保つてゐるのだといひます。その證拠には、以前の晶子さんは随分弱々しい病身な人でしたから。大概の夫婦は五十の声を聞くとすつかり、もう年寄りぶつて、ほんとの茶のみ友達になつて納つてしまふのが普通です。さういふ東洋風な淡白さ、例へば大雅堂の夫婦のやうに、主人が旅から帰つて自分の奥さんをすつかり忘れてしまつて、改まつて挨拶したといふやうなのも勿論面白いと思ひますが、生涯を通じて夫婦の愛に対する情熱、その魂の情熱を失はないといふことは、何かといへば早くから老い込み勝ちな日本の人々に、殊に望みたいと思ひます。
 
逸見久美先生のご講演にもありましたが、とかく与謝野夫婦にはいろいろとゴシップ的な文章が残されています。しかし、近い立ち位置から見た光太郎のこの文章、夫妻の姿をよく捉えていると思います。

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さて、このところ与謝野夫妻がらみの光太郎新資料をいくつか見つけています(逸見先生の御著書に助けられました)。それらは「光太郎遺珠」(『高村光太郎全集』補遺作品集)で紹介し続けています。どんなものがあるかというと……
 
・光太郎画、晶子短歌揮毫の屏風絵2点(明治44年=1911)
・寛書簡に記された光太郎短歌3首(大正8年=1919)
・光太郎も連名の第二期『明星』発刊案内(大正10年=1921) 
・光太郎から晶子への書簡(大正13年=1924)
・光太郎、与謝野夫妻他連名の木版師伊上凡骨遺作展案内(昭和9年=1934)
 
などです。
 
また、つい最近になって、国立情報学研究所さんのデータベースで、明治39年(1906)に刊行された晶子作品を含む歌集の装幀が光太郎であると登録されていることを知りました。こちらで把握していないもので、鋭意調査中です。もし本当なら、光太郎が装幀を手がけたもののうち、最も古いものということになります。ただ、出版の経緯等、いろいろ問題のある書籍でして、調査が難航しそうです。
 
いずれまとまりましたらご報告いたします。

昨日のブログで御紹介した逸見久美氏の『新版評伝与謝野寛晶子』。本日の朝日新聞読書欄に紹介されました。
 
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ただ、昨日のお話の中でも、今日紹介されるということをおっしゃっていましたが、何やらあまり歓迎されていなかった御様子でした。読んでみて納得しました。もう少し違う切り口があるのでは、という評ですね。
 
多産だったというのは、知らなかった人にとっては驚きなのでしょうし、「評伝はこんな読み方もできる」というのは個人の勝手かも知れませんが。
 
この評を読んで思い出したのが光太郎の書いた散文「与謝野寛氏と江渡狄嶺氏の家庭」。大正15年(1926)の『婦人の国』という雑誌に載った文章で、『高村光太郎全集』の第20巻に載っています。
 
 結婚が恋愛の墓場であるとは一般によくいはれる言葉ですが、私は決してさうではないと思ひます。またさうであつてはならないと思ひます。少なくとも常に心に火を持つて生活してゐる人にとつて、結婚前の恋愛はお互に未知なものを探し求め相引く気持ちですし、結婚によつて一緒の生活をするやうになれば、更にまたその恋愛は充実し、ますます豊富になり完全になるべきです。
 芸術に対する考へ方などについてはいろいろ意見の相違もありますけれども、その意味に於てすぐ私の胸に浮んでくるのは、与謝野寛先生御夫婦です。先生たちの生活が恵まれたものであることは可なり有名な事実ですが、全く、もう結婚後三十年近くにもならうといふお二人の間(なか)が、未だ新婚当時と同じやうな恋人同士の生活なのです。
 喜びと悲しみ、意欲と望とが常に相剋(あひこく)してゐるこの世の生活では、永久に若々しい魂の情熱を失はない人々の道は、決して静かな滑らかな、平坦なものではありません。そこには常に波瀾があり、また凹凸があります。従つてお互の不断の精進と努力とが必要になつてきます。そしてそこには新鮮な生々した気分が醸し出され漲ります。与謝野夫妻がそれなのです。
  よい夫婦といつても、決して事なき平和といふのではなく、今でも時々争ひなどもされるらしい……といつてそんなお話をなさつたり、私たちの前で争つたりされるといふのではありませんが、折々争ひした後で口惜し紛れに詠んだやうな歌など見かけますから、歌に偽りがなければ事実でせう。その癖お二人ともお互いに相手を心から充分尊敬してゐられます。そしてその長い結婚生活の間中を、お二人はどんなにいゝ伴侶者として過ごされたことでせう。時々先生が対外的に何か失意なさつたやうな場合、晶子さんは一緒に沈んでしまはないで、その限りない熱情を籠めて慰め且つ励ますかと思ふと、また晶子さんがさういふ場合には先生が力づけるといふ具合にほんとによく助け合つてゐらした。
 
もうすこし続くのですが、長くなりますので、以下は明日。

今日は神田神保町・東京堂書店さん6階の東京堂ホールで開催された講演会「与謝野夫妻の評伝を書き終えて」を聴きに行ってきました。
 
講師は与謝野夫妻研究の第一人者、逸見久美氏。北川太一先生とも旧知の間柄で、講演会終了後ご挨拶に行ったら「北川先生にくれぐれもよろしく」とおっしゃっていました。
 
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今回の講演は、逸見氏のご著書『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念ということで、版元の八木書店さんの主催でした。
 
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労作です。それから同じ八木書店さんからは『与謝野寛晶子書簡集成』というご著書も出されています。
 
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どちらのご著書にも大変お世話になりました。というか、最近また光太郎と与謝野夫妻がらみの新資料が続々見つかってきましたので、現在進行形でお世話になっています。
 
光太郎の本格的な文学活動の出発点は与謝野夫妻の新詩社から。寛のプロデューサー的な才能はかなり高かったようで、今日のご講演でも、「現在、晶子の名が高く、寛がかすみがちだが、寛あっての晶子である」という趣旨のご発言がくり返されました。そういう意味では光太郎も寛のプロデュースにうまく乗った一人なのではなかろうかと思います。
 
というふうに、光太郎と縁の深い与謝野夫妻ですが、当方、与謝野夫妻についてどれだけ知っているかというと、その知識は貧弱です。そういうことではいかんな、と思い、今日のご講演を拝聴しに行きました。光太郎だけに詳しい専門馬鹿では駄目ですね(といって、光太郎についてすべてを知っているかと問われれば答は「否」ですが)。せめて光太郎と近しい間柄だった人々に関しては、ある程度押さえておく必要があります。だから昨日はリーチ展にも行きました。「木を見て森を見ず」にならぬよう、光太郎を取り巻いていた環境をしっかり把握したいと思っております。
 
さて、今日のご講演で特に面白く感じたのは、逸見氏が与謝野夫妻の書簡を求め、日本各地を歩かれたくだり。1回の調査で百通を超える書簡が見つかり、現地に数週間滞在して調査なさったとか、コピー機のない時代で、すべて筆写したとか、筆写にあたって寛の字は読みやすいが晶子の字は実に読みにくいとか、御労苦がしのばれました。当方も似たような経験をしておりますので、尚更です。しかし、光太郎に関しては既に北川太一先生がほとんどやりつくされていますので、当方はその落ち穂拾い。あらためて北川先生も昔はそういう御苦労をされたんだろうな、と感じました。
 
落ち穂もまだまだたくさん残っています。今日も午前中、駒場東大前の日本近代文学館さんに寄ってから講演に行きましたが、やはり落ち穂がありました。いずれ「光太郎遺珠」にて紹介します。
 
ついでに言うなら来週は横浜の神奈川近代文学館さんに落ち穂拾いに行って参ります。

誤植について延々と書いてきましたが、今回でひとまず終わります。
 
今日は光太郎自身の書いたものでの誤植から。
 
まずは明治43年(1910)の『婦人くらぶ』に発表された光太郎の散文。題名にご注目下さい。
 
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100年前にはまだ「スタイル」という外来語は一般的ではなかったのかも知れません。
 
数年前、神田のお茶の水図書館という女性史系の書籍、雑誌を主に収蔵している図書館で発見したのですが、見つけた時には笑いました。
 
笑って済まされなかった誤植が以下のもの。紙が貼り付けてあるのがおわかりでしょうか。
 
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こちらは昭和19年(1944)刊行の光太郎詩集『記録』初版から。
 
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『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、「天皇陛下」とすべきところが「天皇下陛」となっていたとのことです。
 
印刷、製本まで済んだところで、光太郎を敬愛していた他の詩人が誤植に気付いて版元の龍星閣や光太郎に連絡、そのため慌てて紙を貼り付けたそうです。これも『高村光太郎全集』第1巻の解題によれば、そのために発売が2ヶ月以上遅れたとのこと。
 
もし「天皇下陛」のまま流通してしまっていたら、不敬罪(当方のPC、まず『不経済』と出ました。こういうのが誤植の元ですね(笑))に問われてもおかしくない誤りです。
 
数日前にも書きましたが、一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。

いろいろと誤植にまつわる話を書いてきましたが、光太郎自身は自著の誤植にはどう対応してきたのでしょうか。
 
平成11年(1999)に日本図書センターから刊行された『詩集 智恵子抄』愛蔵版という書籍があります。『智恵子抄』は昭和16年(1941)に龍星閣から刊行され、紆余曲折を経て龍星閣から刊行が続いていたのですが、それが差し止められたため、オリジナルに近いものを刊行する目的で出されたものです。校訂には北川太一先生が当たられました。
 
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巻末近くに北川先生の「校訂覚え書」が収録されているのですが、そこを読むと初版以来のテキストの有為転変のさまがよくわかります。
 
初版発行時にあった明らかな誤植(というより脱字)は再版ですぐに訂正されています。その他、細かな句読点や仮名遣い、一字空きなどの点でも光太郎は納得いかなかったようで、昭和18年(1943)4月の第9刷では全面的に改版。しかし、それにより新たな誤植が発生してしまいました。その後、戦後の白玉書房版(昭和22年(1947))、龍星閣復元版(同26年(1951))と、少しずつ訂正が行われています。
 
そして日本図書センター版では北川先生がそれら各種の版を総合的に見て、元に戻すべきところは元に戻し、さらに光太郎の草稿にまで当たって数箇所の訂正が入っています。
 
ここまで神経を使い、一字をもおろそかにしない姿勢、見習いたいものです。
 
今と違い、昔は「文選工」と呼ばれる職人さんが、原稿を見ながら活字を拾って版を組んでいたので、ミスが生じてしまうのは仕方がなかったのでしょう。
 
もちろんミスをしないことも大切ですが、それより大切なのは、ミスが生じてしまった後の対応をきちんとやることでしょう。『智恵子抄』に関しても、「ま、いっか」ではなく、とことんこだわった光太郎や出版社の姿勢、見習いたいものです。
 
そういえば、光太郎がらみで「トンデモ誤植」があったのを思い出しました。明日はそちらを。

昨日まで、著者名の取り違えや誤植といった件について書きました。人間のやることですし、笑ってすまされるようなミスならいいのですが、中には笑ってすまされはしない、義憤を感じるものもあります。
 
下の画像は、10数年前に刊行された書籍の表紙です(部分的にモザイクをかけてあります)。

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お気づきでしょうか? 問題の箇所を拡大してみましょう。

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ついでに裏表紙からも。
 
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「高村光太郎」とすべきところが「室生犀星」。あまりに低レベルのミスで、話になりませんね。さすがに中身は「高村光太郎」となっていますが、表紙は書籍の顔。それがこういうことでいいのでしょうか?
 
この書籍は、小学校の教員向けに国語の授業の進め方の実践例を紹介するもので、この手の書籍の版元としては最大手の某出版社から出ています。「最大手」ですよ、「最大手」。個人経営の街の古書店が目録で著者名を取り違えるのとは影響力が違いますね
 
これはあんまりだ、と思い、この出版社に手紙を送ったのですが、なんのかんのと理由をつけて、訂正されていません。いまだにこの社のオンラインショップでも堂々と訂正されないまま販売されているようです。しかも、この点で突っ込まれるのを警戒しているのでしょうか、他の出版物は鮮明な画像で表紙を紹介しているのに、このシリーズのみぼやけた画像になっています。こういうのを「姑息」というのでしょう。
 
それにしても、中身の部分を書いた人、監修者として名前を挙げられているえらい先生は、何にも言わなかったのでしょうか? その辺からの抗議があったとしても無視なのでしょうか
 
この社には「出版社」または「出版者」としての良心、矜恃、心意気、誇り、気骨といったものが感じられません。まぁ、ないでしょうが、仮に執筆依頼が来たとしてもお断りします。「渇しても盗泉の水を飲まず」といったところですね。
 
ところで、光太郎自身も誤植には悩まされていました。そうした場合に光太郎が執った措置を次回は御紹介します。

先日、古書目録などの記載内容に誤りが多い、という内容を書きました。
 
神保光太郎と高村光太郎を取り違えていたり、高浜虚子や木々高太郎が序文を書いているのに光太郎が書いたことになっていたりとかです。こういう例は混乱が生じるので、はた迷惑なのですが、人間のやることですのである意味仕方がないでしょう。
 
そこまで大がかりなミスではありませんが、それ以上に目立つミスとして「誤植」「誤変換」があります。書籍やインターネットサイト、そういう文字を使ったメディア全般で見受けられます。
 
非常に多いのが「知恵子抄」「千恵子抄」。これが西の横綱とすれば、東の横綱が「高村高太郎」「高村幸太郎」でしょう。

その他、実際に眼にした誤植の数々です。
 
「高山光太郎」……ある雑誌の光太郎特集号の目次にドーンと大きく掲げられていました。さすがに発行前に気付いて、「こりゃまずい!」と思ったようですが、印刷の訂正はできなかったらしく、正誤表が挟まっていました。

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「山のスッケチ」……インターネットサイトで見かけました。正しくは「山のスケッチ」、光太郎没後に刊行された花巻の山小屋での素描集です。山小屋での光太郎は読売文学賞の賞金十万円をそっくり地元に寄付してしまうなど、ケチではなかったんですが……。

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ちなみに光太郎を敬愛していた宮沢賢治の「春と修羅」の扉でも、「心象スケツチ」とすべきところが「心象スツケチ」となっているのは、意外と有名な話です。 

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「天井の炎」……火事になりそうです。ある書籍の光太郎年譜的なページから。正しくは「天上の炎」。ヴェルハーレンの詩集で、光太郎が翻訳したものです。「天上の炎」は太陽を表します。

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かくいう自分もよくやらかします。論文の中で「軍歌」と書くはずのところを「軍靴」としてしまったことがありますし、著書では「与謝野鉄幹」とすべきところをすべて「与謝野鉄寛」としてしまったことがあります。

しかし、他の人が書いたものの中には「与謝野鉄管」もありました。水道工事でも始めるのでしょうか。
 
誤植も笑ってすまされるものならいいのですが、その一つの誤植で書籍や論文全体の信用度ががた落ちということもあり得ます。気をつけたいものです。
 
5月から始めたこのブログももうすぐ半年、今日で144回目です。おそらくどこかしらでやらかしていると思います。何か気付かれたらご指摘下さい。

昨日のブログに名前を挙げました「神保光太郎」。同じ「光太郎」ということで、「高村光太郎」と取り違えられる事がある詩人です。山形出身ですが、埼玉での生活が長かったそうです。
 
神保の方は明治38年(1905)生まれなので、明治16年(1883)生まれの光太郎より20歳ほど年下ですが、二人は交流がありました。『高村光太郎全集』をひもとくと、随所に名前が出てきます。そういう意味では9/4のブログに書いた「光太郎梁山泊」の一員ですね。
 
数年前、高村光太郎から神保光太郎あての(ややこしいですね)それまで知られていなかった葉書を入手しましたのでご紹介します。
 
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昭和17年(1942)12月のものです。
 
この間は無事な御様子を見て安心しました、今度は実に御苦労な事であつたとまつたく感謝します。大きな仕事をして来られたわけです。あなたの風貌に何となく幅が出来たことを感じました。風邪のやうでしたが、出来れば二三日でも入湯されればいいと思ひます。伊香保ならばよい家を御紹介しますが少々寒すぎるでせう。やはり伊豆がいいでせう。夫人にもよろしく。
「おいこら」で夫人を驚かせないやうに願ひます。いづれまた、
 
「実に御苦労な事」というのは、神保が約1年、報道班員として南方戦線に従軍したことを指します。
 
光太郎の筆跡、決して流麗な達筆というわけではありませんが、独特の味わいがあります。この筆跡を見るとほっとするような温かさというか……。
 
さて、情報提供のお願いです。平成18年(2006)の明治古典会七夕古書台入札会に、やはり高村光太郎から神保光太郎宛の書簡20通と原稿が出品されました。最低落札価格は30万円。とても手の出る代物ではなくあきらめましたが、ある意味、あきらめきれません。虫のいい話ですが、ともかく内容を知りたいと思っています。これの行方をご存じの方は、お知らせ願えれば幸いです。

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追記 大妻女子大学さんでこちらを購入されたこが判明しました。ありがとうございました。

昨日のブログで、かわじもとたか氏編「序文検001索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)を紹介しました。今日はその姉妹編、「装丁家で探す本―古書目録にみた装丁家たち 」を調べに行ってまいりました。残念ながらこちらは光太郎の件数が少なく、すべて既に把握しているものでした。
 
さて、並行して「序文検索―古書目録にみた序文家たち」に載っていた、こちらで把握していない光太郎序文の調査も始めました。そのうちの一冊が、国会図書館などの主要な図書館に蔵書がなく、そこで古書店のサイトで探してみたら、出品されていました。
 
以前でしたら喜び勇んですぐに購入しましたが、最近はそんな愚は犯しません。「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と条件をつけました。すると、返ってきた答が「序文は高村光太郎ではなく高浜虚子です」。「高」しか合っていませんが……(笑)。これも以前でしたらがっかりしていましたが、最近はもう慣れてきました。こういうケース、時々あるので、予想していました。予想していたので昨日のブログにも「(いろいろ落とし穴があるので空振りに終わることも少なくありません)」と書きました。
 
古書目録、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
もう10年以上前でしょうか、こんなことがありました。自宅に送られてきた古書目録に、ある詩華集(多くの詩人の合同詩集)が掲載されており、「高村光太郎」の名も。把握していないもので、価格も手ごろだったのでさっそく注文しました。数日後、届いた詞華集、いくらページをめくっても高村光太郎の作品は載っていません。代わりに載っていたのが同じく詩人の神保光太郎の作品。「光太郎」ちがいです。目録に「光太郎」しか書いてなければ100%こちらの早とちりですが、「高村光太郎」と書いてあっては古書店のミスですね。買わずに返品しました。
 
こんなこともありました。やはり目録に「詩集智恵子抄 高村光太郎 昭和19年 第15刷」とあったのです。龍星閣から刊行されたオリジナルの『智恵子抄』は第13刷までのはず。15刷があったとすれば、それはそれで大きな発見です。このときは「ほんとに15刷ですか?」と問い合わせてみたら、「すみません、13刷でした」とのこと。
 
こういう例はインターネットサイトにもいろいろあります。ある方のブログで、「××という本の序文を高村光太郎が書いている」という記述を見つけ、これも把握していないものだったので、当該書籍を古書サイトで出品している古書店さんに「この書籍に高村光太郎の序文が載っているという情報を得たのですが、そうであれば購入します」と送ったところ(今回と全く同じケースです)、「高村光太郎ではなく推理作家の木々高太郎です」……。「高浜虚子」よりは近いとは思いますが(笑)。
 
くりかえしますが、古書目録等、いいかげんに作っているわけではないのでしょうが、ミスが目立ちます。といっても、それは、人間のやることなので仕方がありません。要は書かれている内容を頭から信用しないことです。
 
このブログではそういうことのないように、細心の注意を払っていきたいと思っております。
 
かわじもとたか氏編「序文検索―古書目録にみた序文家たち」(杉並けやき出版発行)。まだ有望と思われる未確認情報が数件有りますので、そちらに期待します。

先週、成田市立図書館さんに行き、昔の銅像写真集『偉人の俤』を調べたことを書きました。
 
その際、ついでに開架の棚を見たところ、書誌情報関連の書籍や古い雑誌の復刻版などがそれなりに充実しているのがわかりました。しかし、その時には光太郎書誌に関するリストを持って行かなかったので、昨日、また行ってきました。
 
書誌情報関連の書籍というのは、簡単にいえば「何々という書籍/雑誌に誰々の書いた文章が掲載されている」という類のものです。
 
以前にも書きましたが、当方、まだ世に知られていない光太郎文筆作品の集成をライフワークとしています。そうして見つけたものは、「光太郎遺珠」の題名のもと、年一回公表しています。現在は高村光太郎研究会刊行の雑誌『高村光太郎研究』の中の連載とさせていただいております。
 
さて、昨日の調査、やはりそう簡単には未知のものは見つ000かりません。「ああ、これはリストに載っている」「この復刻版は時期がずれてて光太郎作品は載ってないな」という連続です。しかし、あきらめかけた頃、書架の片隅である書籍を見つけました。かわじもとたか氏編「序文検索―古書目録にみた序文家たち杉並けやき出版発行。題名を見ただけで「これは使える!」、ピンときました。
 
古書目録というのは、古書店が発行している在庫目録です。デパートなどで行われる古書市の出品目録として、何軒かの古書店が合同で発行する場合もあります。この手のもの、当方の自宅には月に10冊位が送られてきます。詳しい記述があるものは、書籍の題名や著者、刊行年、価格などの基本情報以外に、「誰が序文を書いている」とか「誰が装幀した」といったことまで書かれており、貴重なデータベースです。
 
たとえば最近届いた府中の古書かつらぎさんの目録。有島生馬の小説集ですが、島崎藤村が序文を書いているという情報が載せられています。

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この手の情報は非常にありがたいものです。実際、こういう記述が決めてで購入し、新たに発見した光太郎の文章なども少なくありません。
 
余談になりますが、売り上げが伸びなくて困っている、という古書店様。基本的なことしか書いていない目録では限界がありますよ。面倒でもこういう工夫が必要だと思います。
 
さて、「序文検索―古書目録にみた序文家たち」。こうした古書目録に載った「誰が何という本に序文を書いている」という情報の集成です。500ページ近い大著で、約1,600人・約12,000冊の書籍がリストアップされています。素晴らしい! 編集には気の遠くなるような労力が必要だったことでしょう。
 
光太郎に関しても、70冊以上の書籍が紹介されていました。大半はすでに知られているものでしたが、数冊、未知のものが含まれていました。今後、各地の図書館や古書店のサイトにあたり、どんなものか突き止めたいと思っています。確実に未知のものであれば「光太郎遺珠」に登録していきます(いろいろ落とし穴があるので空振りに終わることも少なくありません)。
 
ちなみに帰宅してから調べたところ、同じシリーズで「装丁家で探す本―古書目録にみた装丁家たち 」という書籍もあり、やはり成田市立図書館さんに所蔵されているとのこと。こちらも期待できます。
 
光太郎ほどの人物が書き残したものは、断簡零墨に至るまで、できうる限り収集し、次の世代へと引き継いでいきたいとというのが当方の基本スタンスです。今後も草の根を分けてでも探し出すつもりでおります。

先日、久しぶりに新刊書店に行きました。長距離の移動中、車内で読むための書籍を買うのが目的でした。
 
そういうための書籍としては、光太郎関連から離れた推理小説、時代小説、そして歴史小説を選びます。今回は歴史小説、北方謙三氏の『岳飛伝』第二巻を買いました。中国の通俗小説『水滸伝』を元にした北方氏の連作「大水滸伝シリーズ」の最新刊です。

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この連作は、90年代末に『小説すばる』で連載が始まった『水滸伝』全19巻、その続編の『楊令伝』全15巻、そしてその続編として『岳飛伝』が現在も連載中で、つい最近単行本の2巻目が発売されました。さらに言うなら、流行の言い方を使ってシーズンゼロ(メインの話の前史)的な『楊家将』全2巻、『血涙』全2巻もあり、膨大な量になっています。このシリーズが実に面白い。カビの生えた言い方ですが「血湧き肉躍る」という表現がぴったりします。
 
当方、その他の歴史小説としては、新選組もの、武田家や真田家に関するものなどが好きで、よく読んでいます。共通点としては、「群像ドラマ」であるということ。これがどういうことかというと、一人のカリスマ的なヒーローを描いたものではないということです。もちろん、中心になる人物はいるのですが、その周囲に実に多彩な人々が集まって、すごい人物相関図が出来上がっているというパターンが好きなのです。
 
新選組で言えば、局長・近藤勇の元に、土方歳三、山南敬助、沖田総司、永倉新八、斎藤一、井上源三郎、藤堂平助、原田左之助、島田魁、山崎蒸……武田家で言えば、武田信玄の元に、山本勘助、真田幸隆、真田昌幸、馬場信春、板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌、武田信繁、高坂昌信、武田勝頼…… 。
 
そうした意味での圧巻は北方氏の描く『水滸伝』の連作です。腐りきった北宋を倒すため、城塞・梁山泊に集まった108人の英雄、豪傑が描かれます。武術に長けた者、用兵を得意とする者、知略で勝負する者、諜報活動に命をかける者、その他一芸に秀でた者……。武に長けた者たちも、槍、剣、弓、棒、戟、体術、斧など、それぞれ得意とする武器が異なったり、一芸に秀でた者たちは、物流、造船、鍛冶、土木工事、医術、建築、馬の飼育、はては書や印鑑製作、料理など、実に多彩な分野でそれぞれの得意技を生かして活躍したりています。まさに多士済々ですね。
 
さて、長々こんな話を書いてきましたが、その意図はもうお判りでしょうか。当方が言いたいのは、「すぐれた人間の元には、すぐれた人間が集まる」ということで、これは光太郎の世界にも当てはまります。
 
光太郎がリーダーとか統領という訳ではありませんでしたが、光太郎の周囲にも、きら星の如く実に様々な分野の人々が集まりました(光太郎自身がマルチな才能の持ち主だったこともあるのですが)。
 
彫刻の荻原守衛・高田博厚、詩人の草野心平・宮澤賢治、画家の岸田劉生・梅原龍三郎、小説家では森鷗外・武者小路実篤、歌人では与謝野夫妻・石川啄木、脚本家に小山内薫・岸田国士、編集者の松下英麿・前田晁、美術史家である今泉篤男・奥平英雄、女優の花子・水谷八重子。その他にも版画彫師の伊上凡骨、チベット仏教の河口慧海、歌舞伎役者の市川左団次、舞踊家の藤間節子、大倉財閥の大倉喜八郎、歌手の関種子、建築家の谷口吉郎、青森県知事津島文治(太宰治の実兄)、朗読の照井瓔三、日本女子大を創設した成瀬仁蔵、バーナード・リーチや詩人の黄瀛(こうえい)など、外国人も。そういう意味では智恵子もそうですし、北川太一先生もそうです。『高村光太郎全集』の「人名索引」を眺めれば、さながら梁山泊の面々のようです。
 
かえりみるに、現在、連翹忌に関わっていただいている皆さんも多士済々。北川太一先生の元にやはりきら星の如く、色々な分野の方々に集まっていただいております。実は、連翹忌の参加者名簿を繙く都合がありまして、見てみたところ、そのように感じました。ここもさながら梁山泊だな、と思ったわけです。
 
しかし、まだまだ世の中には独自に光太郎・智恵子・光雲を追究してらっしゃる方もいらっしゃるでしょうし、これからこの世界に入りたいという方もいらっしゃるでしょう。そういう方々のネットワーク作りに貢献できれば、と思っております。

昨日のブログで、バーナード・リーチと秩父宮妃勢津子殿下について書きました。
 
秩父宮家と光太郎の関連はもう一つ。昭和3年のご成婚を祝し、「或る日」という詩を発表しています(『全集』第2巻、初出不詳)。これに関して面白いエピソードがあるので、紹介します。 
 
   或る日(昭和三年九月二十八日)
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 今日はあの人の結婚する日だ。
 秋が天上の精気を街(ちまた)に送る。
 こんな日に少女が人に嫁ぐのはいい。
 
 山でも一緒に歩きたいほど
 あのいきいきした好い青年が
 こんな日に少女(をとめ)の肌を知るのはいい。
 
 むづかしい儀式と荘厳とが
 あの二人を日ねもす悩ますさうだが、
 何もかもどしどし通過して
 結局二人きりになればいいのだ。
 
 さうしてこの初秋のそよそよする夜に
 二人一しょにねればいいのだ。
 
第四連など、宮家のご成婚を謳うには、かなり直截な表現が含まれているのに驚かされます。
 
第三連の「むづかしい儀式と荘厳とが/あの二人を日ねもす悩ますさうだが、」が暗示になってはいるのですが、詩の中に宮家のことであるということは具体的には書かれていません。
 
「昭和三年九月二十八日」は、ご成婚の日付です。ただし、この部分は昭和28年に完結した中央公論社版『高村光太郎選集』に収められた時に附されました。
 
さて、昭和25年、詩人で編集者だった池田克己がどこかでこの詩を見つけ、雑誌『サンデー毎日』に再録したい旨、光太郎に申し入れます。それに対する返信が残っていますので紹介します。
 
おたより感謝、その後いかがかと案じて居りましたが御元気恢復の御様子で大安心です、御申越の「サンデー毎日」への転載といふことは一向差支ありませんが、「或日」といふ詩を小生思ひ出しません、どんな詩だつたのか、確に小生の詩なのか、不安な気もします。間違だつたら滑稽ですから一応おたしかめ下さい、
御健康をいのります、

(書簡3181 昭和25年7月26日 池田克己宛 『光太郎遺珠』①所収)
 
光太郎、自分の書いた詩を忘れています。まあ、20年以上経っていますし、題名があまり特徴的ではないので、ある意味、仕方がないかも知れません。
 
さて、三ヶ月程経ち、「或る日」が掲載された『サンデー毎日』が光太郎の手元に届きます。「中秋特別号」ということで、巻頭カラーページには光太郎、北原白秋、佐藤春夫、室生犀星、萩原朔太郎等の詩に、東郷青児、足立源一郎ら当代きっての画家による挿絵。豪華な造りです。光太郎のページは、宮本三郎という画家が担当しました。

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これを受け取っての池田への返信も残っています。
 
文字届きました由 安心しました。 サンデー毎日も掲載誌が届きました。
ところがあの詩は秩父宮の結婚の時にその事を書いたものなので、宮本さんの馬上花嫁ではひどく平凡になり、あの詩の味噌がなくなり、思はず吹き出しました。尤も秩父宮といふ事は書いてないので無理もないと思ひました。
(書簡3183 昭和25年10月21日 池田克己宛 『光太郎遺珠』①所収)
 
文学作品は、作者の手を一度離れたら、その解釈は受け取る側に委ねられるものとも言えますので、こうした勘違いも仕方がないでしょう。だいだい、はっきり宮家のことだと書かなかった光太郎が悪い(笑)。そこで、この後刊行が始まる『高村光太郎選集』で「昭和三年九月二十八日」とわざわざ書き込んだのでしょう。
 
この『サンデー毎日』が出た時、妃殿下はもちろん、宮様もまだご存命でした。もしこれを御覧になり、さらにご自分達を謳った詩だとご存知だったら、苦笑なさったことでしょう。そんな想像をすると、笑えます。
 
蛇足ですが、先程「文学作品は、作者の手を一度離れたら、その解釈は受け取る側に委ねられるものとも言えます」と書きました。しかし、時折、「文学博士」の肩書を持っているような偉いセンセイが、いくらなんでもそりゃないだろう、というような頓珍漢な解釈を書いている論文などを眼にします。そうなると「苦笑」どころではなく情けなくなりますし、その勘違いがまかり通ってしまうと、それは一種の犯罪に匹敵すると思います。
 
自分はそう言うものを書かないように、と自戒を込めて。
 
別件ですが、本日夜19:55~NHKEテレ(旧教育テレビ)でオンエアのRの法則という番組で、女川が扱われます。8/13のこのブログで紹介した仮説商店街「きぼうのかね」からの中継もあるようです。24時からは同じEテレで再放送もあります。 

Rの法則「いま伝えたい私たちの思い~宮城県女川町から~」

2012年8月28日(火) 18時55分~19時55分
2012年8月28日(火) 24時00分~25時00分(再)
 
宮城県女川町から「被災地に暮らす中高生の思いを伝える」をコンセプトに、震災後に“心に響いた歌&”私の一大ニュース”を紹介。出演:山口達也、Rake、平原綾香
番組内容
東日本大震災で大きな被害に遭った宮城県女川町から、1時間にわたって中継。「被災地に暮らす中高生の思いを伝える」をコンセプトに、地元の高校生が主体となり、“震災後、心に響いた歌”“震災後、私の一大ニュース”をリサーチして紹介。また、この春にオープンした、仮設商店街から、町の現状と魅力を発信してもらう。

ぜひご覧下さい。

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