カテゴリ: 文学

閲覧数が10,000件を超えました。ありがとうございます。芸能人のツイッターとかは1日でそのくらい行くのでしょうが、こちらは開設304日にして10,000件。まぁ、細々と地味にやっていきます。
 
さて、近々放映されるテレビ番組の情報です。 

にほんごであそぼ

NHKEテレ(旧教育テレビ) 2013年3月8日(金) 7時30分~7時40分 再放送17時15分~17時25分 
 
日本語の豊かな表現に慣れ親しんで楽しく遊びながら『日本語感覚』を身につけることにより、コミュニケーション能力や自己表現する感性を育てることをねらいとしています。
番組内容
日本語の豊かな表現に慣れ親しんで、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることをねらいとしている。今回は、智恵子は東京に空が無いといふ。「あどけない話」高村光太郎、文楽/雨が、あがつて、風が吹く。…「春宵感懐」中原中也、絵あわせかるた/光る地面に 竹が生え「竹」萩原朔太郎、投稿ごもじ/ありが はるきくん・おおの こうたろうくん、うた/「じゅうにかげつ」「早春賦」。

出演者 小錦八十吉,鶴澤清介,おおたか静流 ほか
 
おそらく平成17年(2005)に放映されたものの使い回しだと思われます。この回の内容はDVD化されて販売されています。

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この番組、昨秋には「道程」を扱った放映がありました。小さい頃からすぐれた日本の文学に触れることは大事だと思います。
 
その他、やはり3.11が近いせいでしょうか、このところ「東北」が扱われるケースが多いですね。
 
以下、「花巻」や「十和田」をキーワードにして検索の網にかかっています(光太郎が扱われるかどうかはわかりませんが)。 

発見!体感!匠(たくみ)の輝き 北上川紀行 きらり!東北の秋

NHKBSプレミアム 2013年3月9日(土) 11時00分~12時00分 
 
東北一の大河・北上川の知られざる魅力を俳優の内田朝陽が探る。川が育んだ魅惑の工芸品が次々登場。中尊寺金色堂、輝きの秘密。宮沢賢治が愛した温泉、絶景と料理に感動。

番組内容
岩手県と宮城県を貫く東北一の大河・北上川の知られざる魅力を探る。源流は意外な場所に。釣り人あこがれの美しき盛岡さおの軽さの秘密。華麗で頑丈な岩谷堂タンスに職人が仕掛けた驚きのカラクリ。世界遺産・中尊寺金色堂には驚くべき、世界とのつながりが。秀衡塗の新たな挑戦。日本の川なのにイギリス海岸? 宮沢賢治が愛した花巻の風景や温泉。美味・天然うなぎ。俳優・内田朝陽さん、絶景と川の恵みの「詰め合わせ」に感動。

出演者 内田朝陽 

東北トラベラー! #4

CS旅チャンネル 2013年3月10日(日) 8時30分~9時00分 
 
「青森県」紀行 東北観光情報 東日本大震災復興 八戸市 海の幸 蕪嶋神社 三沢市 温泉宿 美肌の湯 郷土料理 十和田市 芸術の街 柳澤ふじこ 津島綾乃

番組内容
東北の観光情報番組。復興を遂げようとしている東北の様々な観光地を、旅好きな女性二人が訪れます。元気にがんばっている観光地の人々、しっかりと復興を遂げ観光客を待ちわびる施設などの様子を、現地の人々のメッセージを交えて紹介していきます。 第4話「青森県」 青森県の主要観光地から観光情報をリポートします。冷たい北国の海ならでは、八戸の海の幸に舌鼓!古くから美人の湯として親しまれている温泉宿では、身も心もゆったり癒されます。旅のクライマックスは、アートによる町づくりが行われている十和田市へ。青森の元気をお伝えします!

リポーター:柳澤ふじこ(青森県出身)、津島綾乃(青森県出身)

 
【今日は何の日・光太郎】3月4日

大正8年(1919)の今日、智恵子の母校・日本女子大学校の創設者、成瀬仁蔵が歿しました。
 
光太郎は亡くなる直前に成瀬の胸像制作の依頼を受け、成瀬を見舞っています。この像はこだわりをもって作り、完成までに実に14年かかりました。

光太郎と交流のあった岡山の詩人、永瀬清子に関する紀行の2回目です。
 
清子の生家を後にし、イベント「朗読会 永瀬清子の詩の世界~想像の詩人~」が行われる赤磐市くまやまふれあいセンターに着きました。
 
敷地内にはやはり清子の詩碑がありました。
 
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また、清子の詩に出てくる花々を集めた「詩006の庭」という花壇もありました。季節が季節ですので、ほとんど花は咲いていませんでしたが、唯一、紅梅だけが花を咲かせていました。
 
そういえば、昨日書き忘れましたが、この日、2月17日の清子の命日は「紅梅忌」と名付けられているそうです。
 
さて、会場内に入り、いよいよイベントの開幕です。
 
司会は山陽放送パーソナリティーの遠藤寛子さん。まずは地元の方々による清子作品の朗読、合唱でした。ステージ上の幔幕も、清子の詩にちなむ、地元の方々作成の「諸国の天女」。
 
続いて第10回永瀬清子賞表彰式。これは県内の小中学生が対象で、小学校低学年の部、同高学年の部、中学校の部に分かれ、今年は応募総数476点。そのうちの入賞者の表彰と、自作の詩の朗読がありました。
 
こういう地域密着の企画を織り込むというのも、大事なことだと思いました。連翹忌ではなかなかこのあたりが難しいところです。
 
休憩を挟んで、H氏賞を受賞されたことのある詩人の山本純子氏による講演。講演というより、朗読講座といった内容でした。
 
テキストには清子の詩、自作の詩、それから谷川俊太郎や草野心平などの詩が使われました。光太郎の詩が使われなかったのがちょっと残念でした。
  
イベントの始まる前と終わった後、いつもいろいろとご案内やら資料やらを送って下さる清子のご息女・井上奈緒様や、永瀬清子の里づくり推進委員会の白根直子様とお目にかかれたのも幸いでした。
 
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また、白根様の労作、『詩人 永010瀬清子の生涯』も手に入り、早速、帰りの新幹線車中で拝読しました。こちらには、昭和9年(1934)の第1回宮沢賢治友の会の写真も掲載されており、光太郎も映っています。
 
というわけで、なかなか有意義な岡山行きでした。
 
街をあげて、まあはっきり言えばあまり有名ではない詩人の顕彰活動をしっかりと地域密着で行っているという点に頭が下がりました。
 
ただ、一昨日のブログに書いたとおり、1泊2日の1日目が空振りだったのが痛かったのですが、今年中にまた別件で岡山に行く機会がありますので、その時にはついでにそちらに寄り、また収穫を得たいと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】2月19日

昭和38年(1963)の今日、講談社から『日本文学全集40 高村光太郎・宮澤賢治集』が刊行されました。

さて、岡山永瀬清子紀行です。
 
永瀬清子は明治39年(1906)2月17日、岡山県赤磐郡豊田村松木(現赤磐市)に生まれました。亡くなったのは平成7年(1995)2月17日。なんと、誕生日と命日が一緒という偶然です。というわけで、昨日の2月17日にイベント「朗読会 永瀬清子の詩の世界~想像の詩人~」があったわけです。
 
光太郎とは、一昨日の【今日は何の日・光太郎】に書きましたが、昭和9年(1935)、新宿で宮沢賢治を追悼する「第一回宮沢賢治友の会」が開かれ、そこで知り合いました。その席上、遺品の手帳から「雨ニモマケズ」が見つかりました。その後、昭和15年に刊行された第二詩集『諸国の天女』の序文を光太郎が書いています。
 
詩集『諸国の天女』より、表題作です。007
 
  諸国の天女
 
諸国の天女は漁夫や猟人を夫として
いつも忘れ得ず想つてゐる、
底なき天を翔けた日を。
 
人の世のたつきのあはれないとなみ
やすむひまなきあした夕べに
わが忘れぬ喜びを人は知らない。
井の水を汲めばその中に
天の光がしたたつてゐる
花咲けば花の中に
かの日の天の着物がそよぐ。
雨と風とがささやくあこがれ
我が子に唄へばそらんじて
何を意味するとか思ふのだらう。
 
せめてぬるめる春の波間に
或る日はかづきつ嘆かへば
涙はからき潮にまじり
空ははるかに金のひかり
あゝ遠い山々を過ぎゆく雲に
わが分身の乗りゆく姿
さあれかの水蒸気みどりの方へ
いつの日か去る日もあらば
いかに嘆かんわが人々は
 
きづなは地にあこがれは空に
うつくしい樹木に満ちた岸辺や谷間で
いつか年月のまにまに
冬過ぎ春来て諸国の天女も老いる。
 
その後も光太郎との交流は続き、戦後、清子が中野のアトリエを訪れたりもしました。清子の随筆集『かく逢った』(昭和56年=1981 編集工房ノア)の巻頭にはその時の様子が書かれています。
 
さて、昨日、岡山市内のホテルをチェックアウト、せっかく来たのだからと、日本三名園の一つ後楽園と、岡山城を歩きました。 

 
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当方、岡山は山陽自動車道を車で通過したことはありましたが、ちゃんと行ったのは初めてです。
 
その後、岡山駅から山陽本線に乗り、永瀬清子の里、赤磐方面に向かいました。
 
下りるべき駅は熊山駅ですが、そこは通り過ぎ、次の和気駅で下車。せっかく来たのですから、温泉に行かない手はありません。鵜飼谷温泉という温泉があり、入ってきました。よく行く花巻の大沢温泉と同じ、アルカリ性の泉質で、肌がすべすべになりました。
 
寄り道はこの辺にして、いざ永瀬清子の里へ。
 
熊山駅に戻り、改札を出ると大きな案内板。なんと、永瀬清子の詩碑や生家があるではありませんか!
詩碑は会場へ行く途中、生家は会場の近くです。それは存じませんでした。
 
駅近くの吉井川にかかる橋を渡ると、詩碑がありました。昭和23年(1948)作の「熊山橋を渡る」と言う詩の一節が刻まれています。 
 
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さらに歩くこと20分。松木の集落に入り、案内板にしたがって生家を目指すと、生家の直ぐ手前に和気清麻呂の墓がありました。隣の「和気駅」の「和気」は「和気氏」の「和気」だったのですね。
 
さて、生家。
 
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「大永瀬」といわれた素封家の一族で006、かつては立派な家だったことが窺えます。しかし現在は痛みが激しく、「永瀬清子生家保存会」という団体が募金をつのり、維持、修理を行っているそうです。
 
清子はここで生まれ、父親の仕事の都合で幼い頃ここを離れますが、戦争の関係で昭和20年(1945)にここに戻り、同40年までここにいたそうです。以前に赤磐市の永瀬清子の里づくり推進委員会様から、『全集』未収録の光太郎から清子宛書簡4通の情報をいただき、「光太郎遺珠」に掲載しましたが、その4通はここに届いたものです。そう思うと感慨深いものがありました。
 
庭には復元された井戸もありました。
 
水屋の壁には復元に芳志を寄せた方のお名前が。その中には詩人の新川和江氏、日高てる氏のお名前も。
 
清子は女流詩人の草分け的存在でもあり、後の女性詩人たちからも敬愛されていたのがよくわかります。
 
そろそろ「朗読会 永瀬清子の詩の世界~想像の詩人~」の時間なので、会場のくまやまふれあいセンターを目指しました。
 
田圃の畦道をショートカットで歩きます。よくみるとそこここに野ウサギの糞。すごいところです。だいたいコンビニの一軒もありません。それこそSLが黒煙を吐いて走っていても何の違和感もないでしょう。
 
さて、会場に到着。続きは明日書きます。

 
【今日は何の日・光太郎】2月18日

嘉永5年(1852)の今日(旧暦ですが)、浅草で光太郎の父、高村光雲が誕生しました。

黒船来航の前年です。

昨日、高崎市の群馬県立土屋文明記念文学館で「伊藤信吉没後10年記念展~風の詩人に会いに来ませんか~」を観て参りました。
 
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伊藤信吉(明39=1906~平14=2002)は、前橋市の出身の詩人。詩人としても有名ですが、実際に交流のあった他の詩人たちの研究、評論の分野でも有名です。
 
企画展では伊藤自身の詩業についての展示もありましたが、他の詩人たちとのつながりを強調した展示もありました。そのコーナーは詩人ごとに分類されています。すなわち島崎藤村、光太郎、萩原朔太郎、室生犀星、草野心平、中野重治。
 
光太郎のコーナーでは、伊藤の書いた光太郎に関する草稿、光太郎から伊藤宛の書簡、光太郎の著書、光太郎に関する伊藤の著書など20点近くが並んでいました。
 
「ほう」と思ったのは、伊藤の書いた句幅2点。
 
  歎けとて秋海鳴りの九十九里   智恵子の昔をしのびて
 
  木枯らしや太田村の小屋を如何に吹く  花巻、光太郎山荘
 
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九十九里や花巻の山小屋を訪れるにしても、光太郎と直接関わりのあった氏にしてみれば、特別な感懐があったのでしょう。
 
展覧会は3/17(日)まで。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】2月15日

昭和28年(1953)の今日、ヴェルハーレン著・光太郎訳の詩集『天上の炎』が創元文庫のラインナップに加えられました。

2/6に放映されたNHK総合のテレビ番組「探検バクモン「男と女 愛の戦略」」で扱われた、大正2年(1913)の1月28日に智恵子に宛てて書かれた手紙。
 
これを大きく取り上げている書籍とCDがありますので、今日はそれを紹介します

キッス キッス キッス

 渡辺淳一著  平成14年10月10日 小学館発行 定価1500円+税
 
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「失楽園」などで有名な作家、渡辺淳一氏の著書です。もともとは雑誌連載だったものに加筆修正を加えて単行本化されました。366頁ある大著です。表題は島村抱月から松井須磨子への手紙の一節です。
 
光太郎から智恵子への例の手紙の他、主に近代の文学者の「恋文」19通を取り上げています。改めて目次を見てみましたら、光太郎を含め、柳原白蓮、芥川龍之介、谷崎潤一郎と、「探検バクモン」で取り上げられる「恋文」と4通がかぶっています。「探検バクモン」のスタッフさんは、もしかしたらこの本から想を得たのかも知れません。
 
他に光太郎、智恵子と縁の深かった平塚らいてう、与謝野晶子、佐藤春夫、変わったところでは山本五十六、お滝(シーボルトの妻)、そして渡辺淳一さん自らの手紙も紹介されています

【芸術…夢紀行】シリーズ① 高村光太郎 智恵子抄アルバム

 北川太一先生監修  平成7年3月16日 芳賀書店発行 定価3,260円
 
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問題の手紙が画像入りで紹介されています。この書籍、画像の豊富さでは他の追随を許しません。ビジュアル的に光太郎・智恵子の生涯をたどりたい方にはお薦めです

作家が綴る心の手紙 愛を想う 死を想う

 平成21年10月15日 アスク発行 定価28,980円(税込)
 
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朗読CD12枚組と解説書から成るセットです。近現代の文学者66名、210通余の手紙が収められています。光太郎に関しては第7巻「詩人たちの筆に込めた想い」で、例の手紙をはじめ、九十九里で療養中の智恵子に送った手紙、智恵子死後に難波田龍起、水野葉舟、更科源蔵に宛てた智恵子に関する手紙が収められています。第7巻の朗読者は元男闘呼組の高橋和也さん。他の巻では杉本哲太さん、平岳大さん、余貴美子さんが朗読を務めていらっしゃいます。
 
他の収録作家のうち、森鷗外、与謝野夫妻、北原白秋、宮澤賢治、八木重吉、田村俊子、村山槐多、中原中也といったところが光太郎智恵子と縁の深かった人々です。
 
【今日は何の日・光太郎】2月8日

昭和23年(1948)の今日、太田村山口の山小屋で、配給の砂糖を受け取り、久しぶりに砂糖入りの紅茶を飲みました。

海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
 
明治39年(1906)、海外留学のため横浜から出航したカナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアン船上で詠んだ短歌のうち、最も有名な作であり、光太郎自身も気に入っていたものです。
 
昨年のブログにも書きましたが、宮城県の女川では、昭和6年(1931)光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基8面の石碑が建てられました。
 
8面のうち2面は、この短歌を刻んだものでした。この短歌と女川には直接の関わりはありませんが、やはり雄大な海を目にしての感懐ということで、採用されたのだと思います。
 
しかし、これも以前のブログに書きましたが、東日本大震災のため、光太郎筆跡を利用したメインの碑は倒壊、活字体でこの短歌のみ刻んだ碑は津波に流され行方不明です。
 
さて、かつて連翹忌に001ご参加いただいていたあるご婦人からいただいた今年の年賀状に、その方がお持ちの光太郎直筆の短冊を当方に下さる旨、書かれていました。ご自分がお持ちになっているより、当方のような顕彰活動を行っている者が持っていた方がよかろう、とのことでした。
 
その方のお父様が、光雲の弟子だった彫刻家で、そうした関係からお父様が光太郎からもらったとのこと。
 
失礼ながら、本当にそんな貴重なものをいただけるのかと半信半疑でいたところ、程なく届きました。右の画像のものです。
 
書かれているのは問題の短歌です。光太郎、この短歌が気に入っていたため、のちのちまで繰り返し短冊や色紙などに揮毫していまして、そうしたもののうちの一点です。
 
「海にして」ではなく「うみをみて」となっています。実はこの短歌、雑誌『明星』に発表された明治40年(1907)の段階では「海を観て」となっており、それが後に明治43年(1910)に雑誌『創作』に転載された際に「海にして」と改められました。ということは、それまでの間に書かれたかなり古いものかも知れません。
 
ただ、光雲の弟子だった元の持ち主は、明治44年(1911)の生まれ。昭和4年(1929)に刊行された『光雲懐古談』には、まだ入門したばかりと紹介されています。
 
したがって、以下のケースが考えられます。
 ・昭和に入ってから明治に書かれた短冊を贈られた
 ・昭和に入ってから書かれたものだが、なぜか古い形で書かれた
 
いずれにしても貴重なものであることに変わりなく、まったくありがたい限りです。
 
下さった方は状態があまり良くないことを恐縮していらっしゃいましたが、ことによると100年前のものですから、経年劣化はある意味当然です。
 
さて、こういう貴重なものを死蔵するにはしのびないので、今年の連翹忌では会場に展示し、ご来場の皆様のお目にかけます。また、美術館、文学館等での関連する企画展で、もし希望があれば貸し出したいと思っております。お声がけください。
 
 
【今日は何の日・光太郎】2月5日

昭和28年(1953)の今日、光太郎書簡集『みちのくの手紙』が中央公論社から刊行されました。

昨日のブログ、【今日は何の日・光太郎】で、明治39年(1906)、カナダ太平洋汽船の貨客船、アセニアンで海外留学に旅立ったこと、そして節分にちなむアセニアン船上で詠んだ短歌を紹介しました。
 
他にもアセニアン船上での短歌がいくつかありますので御紹介します。すべて『高村光太郎全集』第11巻所収です。
 
 いと安く生ひ立ち稚児(ちご)のこころもて今日あり国を出づと言ひける
 
 母見れば笑みてぞおはす旅ゆくを祝(ほ)ぐと衆(ひと)あり吉(よ)きにかあるべき
 
 おほきなる力とあつきなぐさめと我に来(く)たかき空を見る時
 
 地を去りて七日(なぬか)十二支六宮(ろくきう)のあひだにものの威を思ひ居り
 
 大海(おほうみ)の圓(まろ)きがなかに船ありて夜を見昼を見こころ怖れぬ
 
 西を見てひがしに及ぶ水の団(わ)とほかに真青(まさを)の大空と有り
 
 悪風は人あるゆゑに大法(たいはふ)をいしくも枉げずわが船に吹く
 
 大海(おほうみ)のふかきに墜ちしからす貝真珠となりぬ祝(ほ)ぎぬべきかな
 
 山国に生ひて山見ず波まくら二旬かつ経ぬ山見てけるよ
 
これらは翌明治40年(1907)の雑誌『明星』に掲載された他、大正4年(1915)の2月5日(明日ですね)に刊行された『傑作歌選別輯高村光太郎与謝野晶子』にも採られています。この書籍は詩集『道程』版元の抒情詩社から出たもので、刊行には光太郎の意志はあまり介在しておらず、版元が光太郎のために刊行してあげたという面が強いそうです。また、光太郎単独の歌集ではあまり売れそうにないので、晶子をセットにしたとのこと。何だか抱き合わせ販売のようですね。
 
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光太郎自身はアセニアン船上の歌以前の短歌には、与謝野鉄幹の添削が激しく入っており、純粋に自分の作ではない、という意識があったようです。
 
アセニアン船上の歌のうち、もっとも有名、かつ光太郎自身も自信作だった歌は、以下のものです。
 
海にして太古(たいこ)の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと
 
明日はこの歌に関していろいろと。
 
【今日は何の日・光太郎】2月4日

昭和61年(1986)の今日、銀座鳩居堂画廊において、光太郎の書作品を集めた展覧会「高村光太郎「墨の世界」展-没後三十年を記念して-」が開幕しました。

今日は節分です。ということは明日から暦の上では春、ということになりますね。実際、当方の住む千葉県北東部ではだいぶ暖かくなり、昨日は18℃にもなりました。日なたではオオイヌノフグリやホトケノザが咲いています。今朝は犬の散歩中、近くの道ばたに水仙が咲いているのも見つけました。
 
【今日は何の日・光太郎】2月3日

明治39年(1906)の今日、横浜からカナダ太平洋汽船のバンクーバー行き貨客船アセニアンに乗り、出港。4年にわたる海外留学に出発しました。
 
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この海外留学で、世界最先端の芸術に触れ、光太郎芸術のバックボーンが形成されてゆきます。彫刻はもちろん、帰国後、かなり熱を入れた絵画もそうです。そういった造形芸術だけでなく、ヴェルレーヌやマラルメ、ボードレールといったあたりから、詩の上でも大きく影響を受けました。
 
留学前の詩はまだまだ習作のようなもので、文学活動の中心は与謝野鉄幹、晶子の新詩社での短歌でした。
 
光太郎がアセニアンの船上で作ったという節分にまつわる短歌も伝わっています。
 
 あしきもの追儺(やら)ふとするや我船を父母います地より吹く風
 
もともと節分会は「追儺(ついな)」という宮中の儀式が元になっているということで、この字をあてています。「やらふ」と訓読みにしているのは節分会の別称「鬼やらひ」から。「鬼は外」とばかりに日本から追われるようだ、というところでしょうか。
 
他にもアセニアン船上での短歌はいくつかあり、翌明治40年(1097)の『明星』に掲載されました。
 
明日はそのあたりから。

新刊紹介です。といっても、1ヶ月ほど経ってしまっていますが。 

『梅酒』

幸田真希 マックガーデン 2012年12月30日 定価571円+税

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帯に書かれたコピーから。
 
元書店員激賞!! 「私はこんな漫画が売りたかった!!」

所在なく夜の町に佇む少女・ゆえに声をかけたのは、ごく平凡な公務員・古畑。
けれど古畑と過ごす穏やかな時間は、ゆえにとってかけがえのないものとなっていった。
「私、古畑さんと、どうなりたいんだろう…」――。
俊英の贈る珠玉の短編集。

『月刊コミックアヴァルス』という雑誌に掲載された短編集です。表題作「梅酒」が、『智恵子抄』に収められている「梅酒」をモチーフにしています。向田邦子さんの短編小説にでも出てきそうな話です。
 
「たった一つの詩が…別れの悲しみについて綴ったものが、ずっと後に新しい出会いを生むことがあるんだ。それってすごい。」というセリフがなかなかいいと思いました。
 
  梅酒001
 
 死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
 十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
 いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
 ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
 これをあがつてくださいと、
 おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
 おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
 もうぢき駄目になると思ふ悲に
 智恵子は身のまはりの始末をした。
 七年の狂気は死んで終つた。
 厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
 わたしはしづかにしづかに味はふ。
 狂瀾怒濤の世界の叫も
 この一瞬を犯しがたい。
 あはれな一個の生命を正視する時、
 世界はただこれを遠巻にする。
 夜風も絶えた。
 
【今日は何の日・光太郎】2月1日

明治21年(1888)の今日、智恵子のすぐ下の妹、セキが誕生しました。

【今日は何の日・光太郎】1月20日

昭和38年(1963)の今日、故・風間光作が主宰する「高村光太郎詩の会」が発足しました。
 
風間は光太郎と交流のあった詩人です。昭和18年(1943)に刊行された詩集『山峡詩篇』の題字を光太郎が書いたりしています。
 
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左から 椛沢佳乃子 風間光作 光太郎 藤島宇内
                  
 
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昭和38年1月20日午後2時、「高村光太郎詩の会」の発足式が、駒込染井霊園の高村家墓所前で行われました。参加者は16名。続いて2月には初の例会が行われ、北川太一先生や、岩本善治の研究で知られる磯崎嘉治氏なども参加しています。
 
同会はその後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏です。当方も加入しております。
 
光太郎・智恵子について研究したい、という方は是非ご参加ください。ご連絡いただければ仲介いたします。

高崎市にある群馬県立土屋文明記念文学館にて、本日より3/17(日)まで、「伊藤信吉没後10年記念展~風の詩人に会いに来ませんか~」が開催されます。
 
伊藤信吉(明39=1906~平14=2002)は、前橋市の出身。室生犀星や萩原朔太郎と縁の深かった詩人ですが、一時、群馬に住んでいた草野心平や光太郎とも交流があり、特に戦後は何度か光太郎詩集の編集に携わったり、光太郎没後は『高村光太郎全集』の編集にも関わったりしています。
 
晩年は同館の初代館長に就任。そんなわけで同館には光太郎がらみの資料も数多く収蔵されています。光太郎から伊藤宛の書簡も多数。今回の展示ではどういったものが並ぶかまだよくわかりませんが、折を見て行ってきて、レポートします。
 
YOMIURI ONLINEから。

詩人・伊藤信吉 没後10年展...高崎で19日から

 前橋市出身の詩人伊藤信吉(1906~2002年)の没後10年記念展が、19日から高崎市保渡田町の県立土屋文明記念文学館で始まる。伊藤が収集した方言や昔話など群馬に関わる資料を多く展示することで、伊藤の業績を親しみを持って地元の人たちに知ってもらうのが狙いだ。
 伊藤は、旧元総社村(現前橋市)生まれ。萩原朔太郎に師事し、詩作を始めた。県庁職員として5年間勤務したが、20歳代前半で退職。その後、プロレタリア文学運動に関わった。1931年、製本中に当局に押収されそうになった「中野重治詩集」を、1冊だけ座布団の下に隠し守ったという話が有名だ。
 文学評論も手がけ、朔太郎、室生犀星、高村光太郎などの全集編集にも携わった。89歳で県立土屋文明記念文学館の館長に就任し、「群馬文学全集」(全20巻)の編集・監修をするなど、晩年も精力的に活動した。
 展覧会には、伊藤がライフワークとして収集した群馬の方言や昔話、わらべ歌の資料が多く展示される。五十音順に清書した自作の方言台帳や、知人に方言の意味や使い方を問い合わせた手紙、裏紙に書かれたメモなどだ。
 唯一、校歌を作詞した地元の前橋市立元総社南小の校歌碑のために揮毫(きごう)した書や、児童らに宛てた手紙も初公開。朔太郎や犀星、草野心平らからの手紙も展示される。
 展覧会のポスターやチケットは、伊藤の著書を装丁するなど親交があった画家の司修さんがデザインした。
 同館学芸係の江夏(こうか)俊江さんは「伊藤の故郷への愛を感じ取ってもらえればいい。特に若い人に来てもらいたい」と話している。
 3月17日まで。一般400円、大学・高校生200円、中学生以下無料。
2013年1月15日 読売新聞)
 
同館ホームページから。

第79回企画展「伊藤信吉没後10年記念展~風の詩人に会いに来ませんか~」

会期 平成25年1月19日(土)~3月17日(日)
開館時間 9:30~17:00(観覧受付は16:30まで)
休館日 火曜日
観覧料 一般400円(320円) 大学・高校生200円(160円) 中学生以下無料
 ※( )内は、20名以上の団体割引料金
 ※障害者手帳等をお持ちの方とその介護者1名は無料

後援 朝日新聞前橋総局 毎日新聞社前橋支局 読売新聞前橋支局 上毛新聞社
   桐生タイムス社 NHK前橋放送局 群馬テレビ エフエム群馬 ラジオ高崎

 伊藤信吉(いとうしんきち、1906-2002)は、元総社村(現・前橋市)に生まれ、89歳で当館初代館長に就任しました。萩原朔太郎(1886-1942)や室生犀星(1889-1962)に師事。アナーキズム系の詩人とも交わり、プロレタリア文学運動に関与。その活動を離れてからは、『島崎藤村の文学』を皮切りに近代文学の評論で地歩を固め、多くの全集編さんにも携わり、現代の文学に大きな影響を与え続けています。
 当館では亡くなった翌年に追悼展を開き、その生涯と全業績を紹介いたしました。今回の没後10年記念展では、伊藤信吉の故郷への思いに光を当てます。伊藤は故郷を愛し、育った村で使われていた方言や昔話、わらべ歌の収集もしました。
 本展では自筆資料、書簡、写真、遺品、未公開資料を含め約200点を展示します。
 空っ風を愛した伊藤が巻き起こした文学の風を感じていただければと思います。

主な展示構成006
1. 上州は“風”の文学
2. 近代詩の目撃者 ~評論家 伊藤信吉~
3. 郷土を愛して ~詩人 伊藤信吉~

関連行事
※①~④申込方法(参加費無料)
 事前に電話もしくは受付カウンターにてお申し込みください。

 TEL.027-373-7721

①ワークショップ「風と遊ぼう」
講師 群馬県立歴史博物館職員
1月20日(日)
13:30~14:00(かざぐるま作り)
14:30~15:10(ミニ凧作り・変わり凧作り)
定員 各回親子30組(要申込/両回申込可)
対象 4歳(小学校3年生までは保護者同伴)~一般
・子どもを対象とした簡単な工作ですが、大人の方も参加できます。

②シンポジウム
パネリスト 東谷 篤氏(城北中・高等学校教諭)
      岡田芳保氏(詩人・当館元館長)
      篠木れい子(当館館長)
コーディネーター 藤井 浩氏(上毛新聞社論説委員長)
演題「伊藤信吉 その素顔と魅力」
2月17日(日)14:00~15:30
定員 150名(要申込)
★オープニングに伊藤が唯一作詞した前橋市立元総社南小学校の校歌をビデオでご紹介。
 全校児童による合唱です。

③ワークショップ「ことばで遊ぼう」
講師 高橋静代氏(わらべ歌)
   小林知子氏(紙芝居)
2月24日(日)10:30~11:40
定員 80名(要申込)
対象 0歳~一般
・赤ちゃんから大人の方までを対象としたワークショップ。わらべ歌や上州弁の紙芝居をお楽しみください。

④記念講演
講師 澤 正浩氏(福島大学名誉教授)
演題 「伊藤信吉の晩年の仕事を中心に」
3月17日(日) 14:00~15:30
定員 150名(要申込)

⑤ギャラリートーク(申込不要/要観覧料)
企画展担当者による展示解説
1月19日(土)、2月9日(土)、3月9日(土)
各回13:30~14:00


【今日は何の日・光太郎】1月19日

昭和59年(1984)の今日、美術史家の今泉篤郎が歿しました。

今泉は晩年の光太郎と接し、その回想録を筆記したり、没後の「高村光太郎賞」の選定に功績があったりしました。
 
閲覧数8,000を超えました。ありがとうございます。

一昨日、新春恒例の「歌会始の儀」が皇居・宮殿「松の間」で開かれました。今年のお題は「立」。天皇、皇后両陛下や皇族方に加え、国内外から寄せられた1万8399首から選ばれた入選者10人、選者らの歌が披露されました。
 
入選者の中で、福島県郡山市の郵便事業社員・金沢憲仁さんの作品は、光太郎の『智恵子抄』に関係するものでした。
 
 安達太良の馬の背に立ちはつ秋の空の青さをふかく吸ひ込む
 
金沢さんのコメントです。
 
「(高村光太郎の)『智恵子抄』にうたわれたように、安達太良山の上には福島の本当の空がある。津波の影響や原発の問題がある中、福島のよさを知ってもらおうと歌を作りました」。
 
両陛下からは「ご苦労が多かったですね」とねぎらわれたそうです。
 
こういうところでも光太郎作品のオマージュがなされるのは嬉しいことですが、原発事故による「ほんとの空」の消失が題材であるわけで、手放しでは喜べません。複雑な気持です。
 
歌会始といえば、昭和39年(1964)、光太郎の実弟、豊周が「召人」として参加しています。「召人」は広く各分野で活躍し貢献している人々から選ばれ、今年は歌人の岡野弘彦氏でした。豊周は鋳金の分野で人間国宝でしたが、『露光集』(昭35=1960)、『歌ぶくろ』(同41=1966)、『おきなぐさ』(同44=1969)、『清虚集』(同48=1973)の四冊の歌集を上梓するなど、短歌の分野でも大きな足跡を残しています。血は争えませんね。
 
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 『露光集』 扉(左)      口絵(右)
 
 
短歌といえば、光太郎も明治末の『明星』時代から、晩年まで断続的に多くの短歌を作りました。いずれ、光太郎と短歌に関しても折を見てこのブログで書こうと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】1月18日

明治44年(1911)の今日、上野精養軒で開かれた雑誌『スバル』と『白樺』の関係者会合に出席しています。

「道程」三題、その3です。
 
本日深夜(正確には明日未明)、地上波NHKEテレ(旧教育テレビ)で、下記の放映があります。

10min.ボックス(現代文)「道程(高村光太郎)」 

2013年1月17日(木) 25時40分~25時50分=1月18日(金) 1時40分~1時50分
 
この回は、朗読にこだわる。同じ作品でも、解釈の違いが朗読にあらわれる。様々な人にこの詩を自由に解釈してもらい、その人なりの朗読を聞かせてもらう。
  • 出演者 加賀美幸子
「10min.ボックス」は、題名の通りの10分間番組で、中高生向けに作られたものです。「道程」に関しては平成19年頃に制作されたと記憶しています。これまでに何度もくり返し放映されており、当方、地デジ放送になる前に録画したものを持っています。
 
調べてみたところ、NHKさんのサイトでも観ることができることがわかりました。観ることができてしまいますので、ネタばらしをしてもいいでしょう。
 
番組ナビゲータは大ベテランの加賀美幸子アナ。ナレーションは肥土貴美男アナ。前半は光太郎の評伝で、幼少期から留学、智恵子との出会いを経て「道程」制作までが描かれます。
 
後半に入り、「それぞれの道程」と題し、「この春、北海道から上京したばかりの大学一年生」「就職活動中の大学四年生」「三十一歳 夫婦」の三組が、「道程」を朗読、それぞれの思いを語ります。
 
続いて「詩がたどった「道程」」ということで、大正3年(1914)3月、雑誌『美の廃墟』に初めて発表された時は102行にわたる大作であったこと、それが10月に詩集『道程』に収められる際にはバッサリとカットされ、9行の短い詩になったことが語られます。
 
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当方手持ちの『道程』初版 残念ながらカバー欠です
 
最後は40人の中学生(だと思います。学校名等明示されませんが)による群読でしめくくられます。
 
バックに流れるイメージ映像等も美しく、よく作られています。深夜ですが、ぜひ、録画して御覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】1月17日

昭和13年(1928)の今日、詩「手紙に添へて」を作りました。

「道程」三題、その2です。
 
昨日の【今日は何の日・光太郎】でふれましたが、昭和20年(1945)の昨日、詩集『道程』再訂版が刊行されました。
 
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文庫判の小さな詩集です。
 
オリジナルの詩集『道程』は、大正3年(1914)の刊行です(来年、2014年は詩集『道程』刊行100年、光太郎智恵子結婚100年ということになります。ちなみに今年、2013年は光太郎生誕130年です)。
 
その後、昭和15年(1940)には詩集『道程』改訂版が刊行されました。そして同20年の昨日、再訂版が刊行されたというわけです。
 
改訂版には、翌年刊行された詩集『智恵子抄』と重複する詩篇が多く、それらをすべて削除して再訂版が編まれています。そして削るだけでなく、昭和5年(1930)までの詩篇を収録しています。オリジナルの詩集『道程』と重なる詩篇は18篇。重ならないものが45篇。それでも『道程』の名を冠しています。これは『道程』と名付ければ売れる、というようなせこい考えではないでしょう。光太郎にとっては、自分の詩業をまとめたものは、自分の「道程」なんだという考えだと思います。
 
興味深いのは、昭和5年(1940)のものまでで止めていること。その後は戦争に関わる詩が多くなるのです。さらに戦時中には全篇戦争詩の『大いなる日に』、『記録』、そして年少者向けにこれも戦争詩を多く含む『をぢさんの詩』と三冊の戦意高揚の詩集を矢継ぎ早に出した光太郎ですが、この『道程』再訂版には戦争詩といえるものは含まれていません。光太郎の精神史を考える上で、非常に興味深い事項です。
 
さて、別件です。
 
昨年末に、岡山県赤磐市から御案内を戴きました。
 
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赤磐市出身の詩人・永瀬清子(明39=1906~平7)は、光太郎や草野心平と交流があり、その著書、詩集『諸国の天女』の序文を光太郎に依頼しています。そんなわけで光太郎と書簡のやりとりがあって、全集未収録の光太郎から永瀬宛の書簡4通に関して御遺族の方から情報提供を頂き、「光太郎遺珠」に掲載させて頂きました。
 
赤磐市では永瀬の顕彰活動をいろいろと行っており、その一環のイベントです。期日がまだ先なので、もう少し後に御紹介しようと思っておりましたが、申し込みの締め切りが今月21日月曜日の当日消印有効でした。そこで慌てて御紹介する次第です。
 
当方、参上致します。岡山には他にも調査すべきポイントがあるもので、併せて行って参ります。
 
【今日は何の日・光太郎】1月16日

昭和31年(1956)の今日、雑誌『地上』掲載の丸山義二との対談「春を告げるバツケ」を行っています。

昨日は、当方の住む千葉県北東部でも雪が積もりました。館山などの南房総ほどではありませんが、比較的温暖な地域で、東京や神奈川で雪になっても、この辺は雨、ということが多いのですが、昨日は積もりました。
 
雪がやんでから、犬の散歩に出かけました。「雪やこんこ」の歌の通り、「犬は喜び庭かけまわり」の状態でした。我が家の犬は先日9歳になりましたので、そろそろ老犬の仲間入りですが、大はしゃぎでした。一面真っ白になった近くにある会社の駐車場をぐるぐる歩き回っていました。
 
と、一昨日に『毎日新聞』さんに掲載された記事を思い起こしました。

山は博物館・味な道内ハイク:手稲山 日本初のスイス式山小屋 スキー客に愛され90年 /北海道

1月13日(日)11時19分配信002
 札幌市街地の西にある手稲山(1023メートル)。標高550メートル付近に丸太造りの山小屋「手稲パラダイスヒュッテ」が建っている。北海道大学が1926年に日本初のスイス式山小屋として建設した。今あるのは当時の設計図に基づいた94年の建て替えだが、当時の雰囲気をそのまま伝え、山スキーの拠点として愛され続けている。【去石信一】

 ヒュッテは静かな林の中にある。扉を開けると風除室、その奥が居間だ。右側にテーブル、左側は流しや物置があり、中央のまきストーブが赤々と燃える。2階は広い板の間で30人が寝られる。
   ◇  ◇
 スキーは大正時代に人気になり、手稲山は北大生にとってスキー登山の格好の場所だった。軽川駅(現JR手稲駅)が利用されたが日帰りには遠く、林業用の粗末な小屋に宿泊。北大山スキー部OBの在田(ありた)一則・元北大教授(71)は「西洋のスキー教本や映画に登場する丸太造りの山小屋にみんなあこがれた」と話す。
 その中、北大スキー部創立15周年を記念して山小屋建設の話が持ち上がり、札幌で設計事務所を開いていたスイス人が協力。2階建てが完成した。雑誌「山と雪」3号(30年)によると、北大の学生と職員は1泊10銭、その他は15銭。週末の軽川駅はスキー客でにぎわったという。
 これを契機に北大や鉄道会社が札幌・定山渓を中心にした山々に10年で18棟の山小屋を建て、西洋で言われた「ヒュッテン・ケッテ」(山小屋の鎖)が実現。スキーで泊まり歩くのが冬の醍醐味(だいごみ)となった。札幌鉄道局や定山渓鉄道は盛んにツアーを組み、日本山岳会北海道支部の高澤光雄・元副支部長(80)は「切符を売るためだったが、戦争に備えて体を鍛えるため、国も奨励した」と指摘する。
   ◇  ◇
 現在、ヒュッテは北大山スキー部OBらが年間を通して週末だけ小屋番し、宿泊者を受け入れる。取材で訪ねた昨年末、67~71歳の3人がビールを飲みながら山談議し、現役北大生約10人も山小屋の夜を楽しんだ。その時訪れたOBの
倉持寿夫さん(71)は、新雪を歩く楽しさを高村光太郎の詩「道程」に例え、「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできるところ」と話した。
 北大生は無料。学外者も10~4月は610円、5~9月は490円で宿泊できる。在田さんは「どんどん泊まって山小屋生活の素晴らしさを楽しんでほしい」と願う。戦後建設も含め、定山渓付近に9棟が現存している。
 
北海道の山中と千葉の駐車場を一緒にしては怒られるかも知れませんが……。
 
本当に偶然ですが、元々、今日の【今日は何の日・光太郎】も「道程」ネタです。もともとそのつもりでいました。
 
【今日は何の日・光太郎】1月15日

昭和20年(1945)の今日、青磁社から詩集『道程』再訂版が刊行されました。
 
明日は「「道程」三題・その2」ということでこの『道程』再訂版について書きましょう。

光太郎、上高地から下山(大正2年=1913 10月)してすぐ(同12月)、次の詩を発表します。
 
   
 
 山の重さが私を攻め囲んだ
 私は大地のそそり立つ力をこころに握りしめて
 山に向かつた010
 山はみじろぎもしない
 山は四方から森厳な静寂をこんこんと噴き出した
 たまらない恐怖に
 私の魂は満ちた
 ととつ、とつ、ととつ、とつ、と
 底の方から脈うち始めた私の全意識は
 忽ちまつぱだかの山脈に押し返した
 「無窮」の力をたたへろ
 「無窮」の生命をたたへろ
 私は山だ
 私は空だ
 又あの狂つた種牛だ
 又あの流れる水だ
 私の心は山脈のあらゆる隅隅をひたして
 其処に満ちた
 みちはじけた
 山はからだをのして波うち
 際限のない虚空の中へはるかに
 又ほがらかに
 ひびき渡つた
 秋の日光は一ぱいにかがやき
 私は耳に天空のカの勝鬨をきいた
 山にあふれた血と肉のよろこび!
 底にほほゑむ自然の慈愛!
 私はすべてを抱いた
 涙がながれた
 (『高村光太郎全集』第2巻)
 
智恵子との婚約を果たし、高揚した気分が伝わってきます。
 
上高地の夢のような日々は、光太郎にとって智恵子とのかけがえのない思い出となったようです。昭和16年(1941)に刊行された詩集『智恵子抄』には、上高地がらみの詩が三篇採られています。
 
まずは智恵子との幸福な日々を思い返した一篇。大正14年(1925)の作です。
 
   狂奔する牛
 
 ああ、あなたがそんなにおびえるのは
 今のあれを見たのですね。
 まるで通り魔のやうに、
 この深山のまきの林をとどろかして、
 この深い寂寞の境にあんな雪崩をまき起して、
 今はもうどこかへ往つてしまつた011
 あの狂奔する牛の群を。
 今日はもう止しませう、
 画きかけてゐたあの穂高の三角の尾根に
 もうテル ヴエルトの雲が出ました。
 槍の氷を溶かして来る
 あのセルリヤンの梓川に
 もう山山がかぶさりました。
 谷の白楊が遠く風になびいてゐます。
 今日はもう画くのを止して
 この人跡たえた神苑をけがさぬほどに
 又好きな焚火をしませう。
 天然がきれいに掃き清めたこの苔の上に
 あなたもしづかにおすわりなさい。
 あなたがそんなにおびえるのは
 どつと逃げる牝牛の群を追ひかけて
 ものおそろしくも息せき切つた、
 血まみれの、若い、あの変貌した牡牛をみたからですね。
 けれどこの神神しい山上に見たあの露骨な獣性を
 いつかはあなたもあはれと思ふ時が来るでせう、
 もつと多くの事をこの身に知つて、
 いつかは静かな愛にほほゑみながら――
 (『高村光太郎全集』第2巻)

続いて、智恵子が歿する直前、昭和13年(1938)の10月に発表された一篇。

   或る日の記
 
 水墨の横ものを描きをへて
 その乾くのを待ちながら立つてみて居る
 上高地から見た前穂高の岩の幔幕
 墨のにじんだ明神岳岳のピラミツド012
 作品は時空を滅する
 私の顔に天上から霧がふきつけ
 私の精神に些かの條件反射のあともない
 乾いた唐紙はたちまち風にふかれて
 このお化屋敷の板の間に波をうつ
 私はそれを巻いて小包につくらうとする
 一切の苦難は心にめざめ
 一切の悲歎は身うちにかへる
 智恵子狂ひて既に六年
 生活の試練鬢髪為に白い
 私は手を休めて荷造りの新聞に見入る
 そこにあるのは写真であつた
 そそり立つ廬山に向つて無言に並ぶ野砲の列
 (『高村光太郎全集』第2巻)

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この前年には廬溝橋事件が起こり、日中戦争に突入しています。終末の三行はその辺りを指しています。

して、智恵子の臨終を謳った絶唱。

   レモン哀歌
 
 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた013
 かなしく白くあかるい死の床で
 わたしの手からとつた一つのレモンを
 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
 トパアズいろの香気が立つ
 その数滴の天のものなるレモンの汁は
 ぱつとあなたの意識を正常にした
 あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
 わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
 あなたの咽喉に嵐はあるが
 かういふ命の瀬戸ぎはに
 智恵子はもとの智恵子となり
 生涯の愛を一瞬にかたむけた
 それからひと時
 昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
 あなたの機関はそれなり止まつた
 写真の前に挿した桜の花かげに
 すずしく光るレモンを今日も置かう
 (『高村光太郎全集』第2巻)
 
この「山巓」は上高地を指す、というのがもっぱらの解釈です。泣けますね。
 
しかし、厳しい見方をすれば、ここで上高地を連想しているのはあくまで光太郎であって、いまわの際の、しかも既に夢幻界の住人だった智恵子がどうだったかはわかりません。
 
以上、長々と上高地がらみで書きましたが、とりあえず終わります。
 
【今日は何の日・光太郎】1月14日

昭和25年(1950)の今日、盛岡少年刑務所で講演しました。

これを記念して毎年7月に同刑務所で高村光太郎祭が開かれています。

平成25年、2013年となりました。新年明けましておめでとうございます。
 
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今年も当ブログをよろしくお願いいたします。
 
今年から、試みとして、「今日は何の日・光太郎」という項を設けることにしました。NHKラジオ第一で、朝、現在も放送されているのでしょうか。歴史上の「その日」にあった出来事をいくつか紹介するコーナーがあって、何度かカーラジオで聞きました。それをパクらせていただき、光太郎・智恵子・光雲に関し、「その日」にあった出来事を紹介していきたいと思います。
 
では早速。
 
【今日は何の日・光太郎】1月1日

昭和31年(1956)の今日、光太郎最後の詩三編が発表されました。『中部日本新聞』等に「開びゃく以来の新年」、NHKの放送で「お正月の不思議」、そして『読売新聞』に「生命の大河」
の三編です。
 
こんな調子でとりあえず、365日、続けてみたいと思います。ブログの内容はこれまで通り、新着情報の紹介など、行き当たりばったりに考え、必ずしも【今日は何の日・光太郎】と関係なく進めていきます。
 
ただ、折角ですので今日は最後の詩・三編の中から一つ紹介しましょう。
 
  開びゃく以来の新年010
 
一年の目方がひどく重く身にこたえ、
一年の味がひどく辛く舌にしみる。
原子力解放の魔術が
重いつづらをあけたように
人類を戸惑いさせてゆるさない。
世界平和の鳩がぽつぽつとなき、
人類破滅の鎌がざくざくひびく。
横目縦鼻の同じ人間さまが
まさかと思うが分らない。
度胸を定めてとそを祝おう。
重いか軽いか、ともかくも、
開びゃく以来の新年なんだ。
 
というわけで、今年もよろしくお願いいたします!

今日はモンデンモモさんプロデュースのミュージカルを観に、杉並公会堂に行って参りました。演目はドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデの「モモ」。「時間」に追われる忙しい日々の中で、心の余裕を失ってしまった近代人を批判する内容です。
 
今年から光太郎顕彰活動に専念するようになり、「時間」に追い回されることはあまりなくなりましたが、かつて、毎日4時半に起床し、日の出前に出勤していた当時を思うと、あの頃はああだったんだなあ、とつくづく思いました。
 
杉並は午後からで、午前中は千駄木に寄り道しました。お目当ては、先月、リニューアルオープンした文京区立森鷗外記念館です。
 
東京メトロ千代田線の千駄木駅で降りると団子坂です。
 
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この坂を登り切って、右に曲がると光太郎のアトリエがありました。曲がらずに直進すると道の左側に森鷗外記念館です。ここはかつて鷗外の住んでいた「観潮楼」のあった場所。光太郎のアトリエとは指呼の距離です。光太郎アトリエ同様、昭和20年に空襲で焼失してしまいました。
 
戦後、焼け跡は児童公園となりましたが、昭和37年(1962)には区立本郷図書館、平成18年(2006)からは鷗外記念室となりました。そして今年、鷗外生誕150年を記念して建物を建て替え、先月、森鷗外記念館としてリニューアルオープンしたというわけです。
 
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地上二階、地下一階で、地下が展示スペースとなっており、鷗外の一生をコンパクトに紹介するようになっていました。タッチパネルを使ったモニターなど、「ほう」と思わせるものがあります。館内撮影禁止なので、画像をお見せできないのが残念です。
 
光太郎と鷗外、単にご近所というだけでなく、浅からぬ縁があります。光太郎在学中の東京美術学校(現・東京芸術大学)で鷗外が教鞭を執っていた時期もありますし、鷗外が顧問格だった雑誌『スバル』に光太郎はたびたび寄稿していました。その他にもいろいろと。
 
しかし、どうも光太郎の方で鷗外を敬遠していたらしいのです。忌み嫌っていたわけではないのですが、文字通り「敬して遠ざける」という感じでした。そのあたり、いずれまた書きます。
 
そのためか、期待していたほど光太郎に関わる資料の展示がありませんでした。だいたい、確認されている光太郎から鷗外宛の書簡も5通だけですし(うち4通は同館所蔵)、内容的にも観潮楼での歌会への誘いを断るものなどです(歌会に積極的だった石川啄木などは展示で大きく取り上げられていました)。
 
しかし、光太郎と鷗外、いろいろと面白いエピソードがありますので、先述の通り、いずれ書きますのでよろしく。

当方の住む千葉県は、比較的温暖な地です。そんなわけで、北国の人には怒られてしまうかもしれませんが、今朝の寒さは尋常ではありませんでした。清冽な空気はすがすがしいのですが……。
 
光太郎は生涯、冬を愛した詩人でした。題名だけとっても、それと判る詩がたくさんあります。
 
「冬の詩」(一昨年でしたか、黒木メイサさん、松田龍平さん出演のユニクロのCMに使われていましたね)、「冬が来る」、「冬の朝のめざめ」、「冬が来た」、「冬の子供」、「冬の送別」、「鮮明な冬」、「冬の言葉」、「冬」、「雪の午後」、「深夜の雪」、「師走十日」、「吹雪の夜の独白」、「雪白く積めり」、「氷上戯技」、「堅冰いたる」……。
 
光太郎はあちこちで「夏の暑さには弱く、冬になると生き返る」的な発言をしていますし、年譜を概観すると、実際に夏場には文筆作品の発表が少なく、秋から冬に多いという傾向があります。ちゃんと統計を取ったわけではなく、ざっと見てのことですが(研究テーマに困っている方、こんなのはいかがですか?)。
 
さて、「冬」の詩を一つ。昭和2年(1927)、光太郎数え45歳の作品です。
 
  冬の奴
 
 冬の奴がかあんと響く嚏をすると、
 思はず誰でもはつとして、
 海の潮まで一度に透きとほる。
 なるほど冬の奴はにべもない顔をして、
 がらん洞な空のまん中へぎりぎりと、002
 狐色のゼムマイをまき上げる。
 冬の奴はしろじろとした算術の究理で、
 魂の弱さを追求し、追及し、
 どうにもかうにもならなくさせる。
 何気なく朝の新聞を読んでゐても、
 凍る爪さきに感ずるものは
 冬の奴の決心だ。
 ゆうべまでの心の風景なんか、
 てんで、皺くちやな蜃気楼。
 ああ、冬の奴がおれを打つ、おれを打つ。
 おれの面皮をはぐ。
 おれの身を棄てさせる。
 おれを粉粉にして雪でうづめる。
 冬の奴は、それから立てといふ。
 
 おれは、ようしと思ふ。
 
さて、寒さにめげず、「ようし」と思って活動しましょうか!
 

昨日に引き続き、「旬」の光太郎詩を。
 
   クリスマスの夜
 
 わたしはマントにくるまつて002
 冬の夜の郊外の空気に身うちを洗ひ
 今日生まれたといふ人の事を心に描いて
 思はず胸を張つてみぶるひした
 
 ――彼の誕生を喜び感謝する者がここにも居る
 彼こそは根源の力、萬軍の後盾
 彼はきびしいが又やさしい
 しののめの様な女性のほのかな心が匂ひ
 およそ男らしい気稟がそびえる
 此世で一番大切なものを一番むきに求めた人
 人間の弱さを知りぬいてゐた人
 人間の強くなり得る道を知つてゐた人
 彼は自分のからだでその道を示した
 天の火、彼
 
 ――彼の言葉は痛いところに皆触れる
 けれども人に寛濶な自由と天真とを得させる
 おのれを損ねずに伸びさせる
 彼は今でもそこらに居るが
 いつでもまぶしい程初めてだ
 
 ――多くの誘惑にあひながら私も
 おのれの性来を洗つて来た
 今彼を思ふのは力である
 この土性骨を太らせよう
 飽くまで泥にまみれた道に立たう
 今でも此世には十字架が待つてゐる
 それを避けるものは死ぬ
 わたしも行かう
 彼の誕生を喜び感謝するものがここにも居る
 
 暗の夜路を出はづれると
 ぱつと明るい灯(ひ)がさしてもう停車場
 急に陽気な町のざわめきが四方に起り
 家へ帰つてねる事を考へてゐる無邪気な人達の中へ
 勢のいい電車がお伽話の国からいち早く割り込んで来た
 
大正10年(1921)の作。『高村光太郎全集』第1巻に収録されています。品川の蛇窪に住んでいた親友・水野葉舟の家で催されたクリスマスの帰途の心象です。光太郎がイエス・キリストをどう捉えていたかがよくわかりますね。
 
しかし、光太郎はキリスト教徒ではありませんでした。
 
 宗教のことになると僕は大きなことはいえないが、それでも学生時代、思案余つて植村正久先生の門を叩いたことがある。当時僕はどうしてもクリスチヤンになることが出来なかつた。即ちキリスト教に入れなかつた。友達はすらすらと入つて、心の安心を得て勉強しているのに、僕は生来下根の性なのか、いつまでたつても、入ることが出来ない。悶々としている。そこで僕は植村先生の家を訪ねた。
「先生、僕はどうしてもクリスチヤンになれないんですが、何かいゝ方法はないでしようか」(笑)
「君は今何をやつている?」「美術学校で美しいものを創ろうとしています」
「自然を見て美しいと思うか」「思います」
「じや、誰がいつたいその美しい自然をつくつたのか」
 僕はわからなくなつてしまい「自然が創つたんでしよう」といつたが、もう一度帰つてよく考えて来いといわれ、すごすごとひきかえしたことである。
 植村先生は造化――つまり神が造つたんだと気づかせたかつたのでしよう。しかし僕にはできなかつた。僕は長いことかゝつてそれを考えたけれども、どうしてもクリスチヤンになることは出来なかつた。キリスト自身のいうことは皆受けいれられないことはないが、伝説のところにくると、ひつかゝつて。どうしても入れない、今でもそうだ。
(「炉辺雑感」昭和28年=1953 「光太郎遺珠⑧」掲載予定)
 
植村正久は、プロテスタントの牧師。内村鑑三らとならび、明治大正を代表する伝道師の一人です。先述の水野葉舟は植村により洗礼を受けています。それが「友達はすらすらと入つて、心の安心を得て勉強している」です。しかし光太郎はどうしても入信できませんでした。
 
だからといって、光太郎は無神論者というわけでもなかったと思います。彼にとっての「神」は自らの内なる「美」。
 
……とにかく美の後に何かあるんだということは、植村先生にいわれたから、いつまでも考えていた。美は向こうにあるのではなく、自分にある。自分が美をもつている人はお堀の穢い水を見ても美と感じられる。
(同)
 
彫刻や絵画による造型の美、詩で追い求めた言葉の美、常に光太郎の指針はそこに「美」があるかないかでした。
 
宮城県歌人協会会長だった佐久間晟氏、すゑ子夫妻は戦後、光太郎の住む岩手花巻郊外の太田村山口の山小屋を訪れた際「美しくないことはしない方がいいですね」という光太郎の言に触れ、感動したそうです。当方、佐久間夫妻から直接うかがいました。
 
こういうところも光太郎の魅力の一つだと思っています。

このブログ、高村光太郎を中心に、その周辺に関し、色々と書いていますが、詩についてあまり書いていないような気がしています。そこで、今日明日あたりは時候にそった光太郎作の詩について書いてみましょう。
 
まず今日は天皇誕生日ということで、今上天皇の皇太子時代に関する詩を。

  皇太子さま
 
 ぼくらの皇太子さま。003
 あたしたちの皇太子さま。
 この前の馬上のお姿にくらべると
 なんといふ御成人ぶり。
 りつぱな皇太子さま。
 明かるい皇太子さま。
 おそれおほいけれど
 お友だちのやうな皇太子さま。
 皇太子さまも運動がお好き。
 ぼくらも好き。
 あたしたちも好き。
 皇太子さまのやうに健康で
 みんなと仲よく勉強して
 またこんどお写真を拝むまでに
 もつと大きくなりませう。
 皇太子さまが赤坂離宮に
 毎日たのしくおいであそばすと思ふと
 ぼくらもたのしい。
 あたしたちもうれしい。
 皇太子さまばんざい。

昭和21年(1946)1月8日作。同年2月3日発行『週刊少国民』第5巻第4,5合併号に発表された詩です。『高村光太郎全集』第三巻に収録されています。
 
発表誌が年少者向けの雑誌ですので、このような詩になっています。同日、同誌編輯部の和田豊彦に宛てた書簡(『全集』第14巻)には「皇太子さまの詩、同封しました。先だつてのおてがミにより、低学年生にもわかるやうにと書きました」とあります。
 
この詩が書かれた昭和21年(1946)といえば、太平洋戦争が終わった翌年。世の中の価値観が一変した時期です。もう少し後の5月には食糧メーデープラカード事件というのがあり、天皇を揶揄する「詔書 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ」というプラカードが問題になったりもしています。その時期にこういう詩を書いているところに興味深いものがあります。
 
何も光太郎はがちがちの体制派、右翼というわけではありません。たしかに戦時中には大政翼賛会に関わり、国民を鼓舞する詩をたくさん書きましたが、戦後になってしっかりとそのあたりは自己省察をしています。しかし、だからといって、「朕はタラフク食ってるぞ」の方向には行かないのです。
 
この時期にあえて皇室への敬意を表出していることを、「蛮勇」と見るか「英断」と見るか、そこは読む人の解釈ですね。当方、左右両翼日和見主義ですので論評は差し控えます。
 
ただ、光太郎、この「皇太子さま」を書いた2日後には、暴走していった軍部や政府を厳しく糾弾する詩も書いています。
 
  国民まさに餓ゑんとす
 002
 国民まさに餓ゑんとして
 凶事国内に満つ。
 台閣焦慮に日を送れども
 ただ彌縫の外為すべきなし。
 斯の如きは杜撰ならんや。
 斯の如くして一国の名実あらんや。
 必ずしも食なきにあらず、
 食を作るもの台閣を信ぜざるなり。
 さきに台閣農人をたばかり
 為めに農人かへつて餓ゑたり。
 みづから耕すもの五穀を愛す。
 騙取せられて怒らざらんや。
 農人食を出さずして天下餓う。
 暴圧誅求の末ここに至り、
 天また国政の非に与せず、
 さかんに雨ふらして大地を洗ひ
 五穀痩せたり。
 無謀の軍をおこして
 清水の舞台より飛び下りしは誰ぞ。
 国民軍を信じて軍に殺さる。
 われらの不明われらに返るを奈何にせん。
 国民まさに餓ゑんとして
 凶事国内に満つ。
 国民起つて自らを救ふは今なり。
 国民の心凝つて一人となれる者出でよ。
 出でて万機を公論に決せよ。
 農人よろこんで食を供し、
 国民はじめて生色を得ん。
 凶事おのづから滅却せざらんや。
 民を苦しめしもの今漸く排せらる。
 真実の政を直ちに興して、
 一天の下、
 われら自ら助くるの民たらんかな。

やがて、こうした怒りは、そうした軍部や政府に荷担して戦争推進に一役も二役もかった自分に向けられて行きます。それが翌年発表された連作詩「暗愚小伝」です。
 
当方、こういうところに光太郎の人間的魅力を感じます。戦時中、戦争推進の詩を書きながら、戦後になると掌を返したように「あれは軍の命令で仕方なくやったことだ」と開き直ったり、何事もなかったかのように民主主義を謳歌する詩を書いたり、あまっさえ同じような詩を書きながら光太郎らを糾弾したりした詩人のいかに多かったことか。
 
光太郎は、公的には戦犯として罰せられなかった自分を、自分で罰しました。その結果が「自己流謫(るたく)」と名付けた不自由な山村での独居自炊。「流謫」=「流刑」です。
 
しかし、結局、「戦時中、戦争推進の詩を書きながら、戦後になると掌を返したように「あれは軍の命令で仕方なくやったことだ」と開き直ったり、何事もなかったかのように民主主義を謳歌する詩を書いたり、あまっさえ同じような詩を書きながら光太郎らを糾弾したりした詩人」は、今ではその名さえ忘れられつつあります。世の中、そういうものですね。
 
教訓。「人を呪わば穴二つ」。
 
何だか話が予想外の方向に進んでしまいました。乱筆御免。

昨日紹介した『大正の女性群像』、大判の本で、写真等も豊富に使われ、大正の女性文化を目で見て理解するには格好の資料です。
 
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智恵子はどんな服装、髪型をしていたのだろうかなどと思いを馳せると、楽しいものがあります。
 
それにしても、「大正」というと、昨日も書いた通り、「明治」の閉塞性に風穴があいた時代ということはいえると思います。そのためこうした庶民文化的な部分も一気に花開いたように感じます。
 
それはそれでその通りなのでしょうが、それだけではなかったのが「大正」です。『大正の女性群像』、こうした華やかな部分だけでなく、「負」の部分も忘れていません。すなわち、「女工哀史」に代表される低賃金労働や搾取、「からゆきさん」と言われた海外での売春婦、そして関東大震災……。
 
昨日も書きましたが、今は「平成」。百年後の人々は、「平成」という時代をどう位置付けるのでしょうか。原発事故やら政治的空白やら、「負」の部分が強調される時代であってはならないと思います。

昨日のブログで、吉本隆明氏の著書『超恋愛論』を紹介しました。
 
その中の「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」という定義。やはり光太郎智恵子を想起せずにはいられません。
 
そこで思い出したのが、先月、生活圏の古書店で購入した以下の書籍です。
 
『大正の女性群像』昭和57年(1982)12月1日 坪田五雄編 暁教育図書
 
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内容的には主に二本立てです。「人物探訪」の項で、大正期に名を馳せた各界の女性を扱い、「女性史発掘」の項で女性一般についての説明。どちらも豊富な図版、写真が添えられ、ビジュアル的にも豪華な本です。
 
「人物探訪」の項で扱われているのは、もちろん智恵子、そして平塚らいてう、伊藤野枝、松井須磨子、柳原白蓮、田村俊子、相馬黒光、九条武子、岡本かの子などなど。
 
それぞれに名を成した女性たちですが、程度の差こそあれ、それぞれの人生が激しい恋愛に彩られています。
 
ここにはやはり「大正」という時代の雰囲気がからんでいるのでしょう。ある意味閉塞的だった「明治」が終わって迎えた「大正」。「昭和」に入って泥沼の戦争の時代になるまで、束の間、新しい風が吹いた時代だと思います。
 
その「大正」に、光彩を放った女性たち。強引な考えかも知れませんが、彼女たちも一人では埋もれてしまっていたのではないでしょうか。吉本氏曰くの「男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」である激しい恋愛を経て、それぞれの輝きにたどり着いているような気がします。
 
その結果が決して幸福とはいえない人生につながってしまった女性もいるかも知れませんが……。
 
さて、今は「平成」。百年後の人々は、「平成」という時代をどう位置付けるのでしょうか……。

新刊を紹介します。 

吉本隆明著 2012/10/15 大和書房(だいわ文庫) 定価600円+税
 
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今年亡くなった評論家・吉本隆明氏の著書。2004年に同社からハードカバーで刊行されたものの文庫化です。
 
「男女が共に自己実現しようとして女性の側が狂気に陥った光太郎・智恵子の結婚生活」という項があり、光太郎・智恵子にふれています。
 
他にも夏目漱石、森鷗外、島尾敏雄、中原中也、小林秀雄らに言及し、「恋愛論」が展開されます。
 
いつも思うのですが、氏の論は決して突飛な論旨ではなく、ごく当たり前といえば当たり前のことを述べています。しかし、誰しもがそういうことを感じていながらうまく言葉で言い表せないでいたことを明快に言ってのけるところに氏のすごみを感じます。
 
例えば、恋愛に関しても「恋愛というのは、男と女がある距離の中に入ったときに起きる、細胞同士が呼び合うような本来的な出来事」と定義しています。
 
そして一つ何かを論じると、その裏の裏まで掘り下げ、読む者を納得させずにおかないという特徴もあります。論とか文章といったもの、こうあるべきだといういいお手本になります。是非お買い求めを。

今日は、11/20のブログで御紹介しました第57回高村光太郎研究会でした。
 
会場は湯島のアカデミア湯島。午後2時からということで、午前中は湯島にほど近い上野の国立西洋美術館に寄りました。11/14のブログで御紹介しました「ロダン ブールデル 手の痕跡」展を見るためです。こちらについてはまた後ほど詳しくレポートします。
 
そちらを見終わって、昼食をとりつつ歩いて湯島まで。東京も秋の風情がなかなかよい感じでした。
 
さて、研究会。この世界の第一人者、北川太一先生をはじめ、大阪から『雨男高村光太郎』の著者・西浦氏、花巻から花巻高村記念会の高橋氏、福島から元草野心平記念館の小野氏、地元東京で『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅』の著者・坂本女史など、見知った顔が集まりました。ありがたいことです。
 
まずは前座で当方の発表「光太郎と船、そして海-新発見随筆「海の思出」をめぐって-」。つつがなく終わりました。発表内容についてはまた日を改めてこのブログでレポートします。
 
続いて國學院大學名誉教授の傳馬義澄氏によるご講演「高村光太郎『智恵子抄』再読」。

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昭和25年に刊行された光太郎の詩文集『智恵子抄その後』のあとがきに「「智恵子抄」は徹頭徹尾くるしく悲しい詩集であつた。」と光太郎は書きました。それをふまえ、単純に「純愛の相聞歌」的な捉え方をすることへの警鐘、『智恵子抄』収録の詩篇から読み取れる二人の生活の様子、そして今後の若い世代へどう広めていくのかといった部分にまでお話がおよび、ご講演のあとの参加者でのフリートークでもその辺りの話題で盛り上がりました。

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その後、懇親会ということで、会場を移しました。そこでも高橋氏や坂本女史から新しい計画等のお話を伺い、そちらも非常に楽しみです。
 
今後、随時、「ロダン ブールデル 手の痕跡」展、当方の発表内容についてのレポート、そして新しい計画についての情報等アップしていきますのでお楽しみに。

新刊を紹介します。

2012/7/27 小野智美編 羽鳥書店 定価900円+税
 
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津波が町を襲ったあの日から――2011年5月と11月に、宮城県女川第一中学校で俳句の授業が行われた。家族、自宅、地域の仲間、故郷の景色を失った生徒たちが、自分を見つめ、指折り詠んだ五七五。記者として編者は、友や教師や周囲を思いやり支えあう彼らの姿、心の軌跡を丹念にたどる。(裏表紙より)
 
宮城県の女川町。このブログでもたびたび紹介しています。昭和6年(1931)に光太郎がここを訪れたことが縁で、平成3年(1991)に詩碑が建てられ、以来、「女川光太郎祭」が開かれている町です。そして昨年の大震災では津波による大きな被害……。
 
その女川に暮らす中学生達の句集です。軽い気持ちで読めるものではありません。実はamazonなどでこの本が出ているのはだいぶ前から知っていたのですが、軽い気持ちでは読めないなと思い、手が出ませんでした。しかし、先日、八重洲ブックセンターに立ち寄ったら平積みで置いてあり、思い切って購入しました。
 
 逢いたくて でも会えなくて 逢いたくて 
 
母親を亡くした生徒の作品です。「季語が入っていない」などというさかしらな批評をする人がいたら、人間じゃありませんね。
 
言葉にしても、音楽にしても、絵画や彫刻のような造型にしても、やはりそれを作った時の心境とは無縁でいられないのだと思います。そう考えると、「レモン哀歌」などの智恵子の死を謳った光太郎の詩篇も重みが違って感じられます。
 
それは表現する側だけでなく、受け取る側にも言えることだと、この本を読んで改めて気付かされました。「付記」という部分に、指導に当たった佐藤敏郎教諭が、今年の3月、3年生の最後の国語の授業で「レモン哀歌」を扱った話が書かれています。生徒は全員、身近な人の訃報に接しています。そういう体験を踏まえて読む「レモン哀歌」、そういう経験のない人間が読むのとはまた違うわけです。そしてそれを教える側の佐藤教諭も。
 
「この1年、みんなは死を考えたことが多かったと思う。今までおれは、死はどん底のような気がしていたんだ。暗闇に落ちていくような。だから怖いんだ。でも、ちがうかもしれない。たぶんね、ずっと登っているんだよ」
 そう言いながら、山の頂へ一直線に白墨を引いた。
「死っていうのは上。一番上なんだ。だから天に昇るんだ」
 そう言った瞬間だった。「おーっ」。教室に感嘆の声がわきあがった。
 なおも続ける。「智恵子は人生をふりかえって、ひとつの大きな仕事をやりとげた。最愛のだんな様への生涯の愛を一瞬に傾けたんだ。そういう登り切った達成感、満足感がある。だから『山巓でしたやうな』だ」。
 
この解釈には異論があるという人もいるかも知れません。しかし、あの過酷な体験を経て語られるこの言葉には、やはりさかしらな批評の立ち入る隙はありませんね。
 
この本、本当に軽い気持ちで読めるものではありません。しかし、多くの人に読んでほしいと思います。

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今日も携帯からの投稿です。

現在地は福島県川内村。高村光太郎と親交のあつかった詩人、草野心平ゆかりの地です。こちらの旅館、小松屋さんを会場に、第2回天山心平の会「かえる忌」が行われました。

草野さんの命日は12日ですが土曜日にあわせての開催のようです。天山心平の会代表で小松屋さんのご主人、井出氏、かわうち草野心平記念館長・晒名氏、川内村長の遠藤氏他のお話、福島県議団と一緒にチェルノブイリ視察に行かれた地方紙河北新報記者の中島氏のレポート、そしてモンデンモモさんのミニコンサートなどがありました。

ところでなぜ「かえる忌」なのかといいますと、いくつか理由があります。草野心平が蛙をモチーフにした詩をたくさん書いたこと。川内村は、モリアオガエルの生息地であること。ここまでは事前にわかっていましたが、他にもありました。

原発事故で全村避難を余儀なくされ、しかし今年に入ってそれも解除、みんなで村に「帰る」という意味。

さらに川内村より原発に近く、帰るに帰れない区域の人々を受け入れ、村を「変える」というメッセージも込められているそうです。
「蛙」「帰る」「変える」。深いですね。

明日は移動日で東京に帰り、明後日は原宿アコスタディオさんでモンデンモモさんの「モモの智恵子抄2012」です。

最近、光太郎がらみのCDを何枚かまとめて購入しましたので紹介します。

劇団・演劇倶楽部『座』主宰の壤晴彦氏による朗読CDです。今年発売されました。

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朗読を味わうためのものではなく、自分で朗読に取り組もうという人の教材用、といったコンセプトです。2枚組になっており、1枚目は壤氏の朗読がノンストップで入っています。詩が16篇、短歌が6首の結構長いものです。2枚目は壤氏の朗読がワンフレーズごとに間が空き、聞いている人が附録のテキストを見てリピートするという形になっています。こういうものもあるんだな、と思いました。
 
壤氏、バリトンのとてもよい声です。また、教材用ということで、きちんとした朗読です。別に揚げ足を取ってやろうと思いながら聞いたわけではないのですが、おかしな読み方になっているところは一箇所もなく、感心しました。
 
世の中には粗製濫造のそしりをまぬがれないような朗読CDもあり、腹が立ちます。ある会社が数年前に出した朗読CDでは、上高地の徳本峠(とくごうとうげ)を平気で「とくもととうげ」と読んでいます。きちんとした人が監修していればこんなミスは防げるはずなのですが、手間や経費を惜しんでいるのでしょうか。この辺は少し前のブログに書いた書籍の誤植の件でも同じことが言えます。ドラマ仕立ての内容の、クライマックスのシーンで「高太郎!」……ぶちこわしですね。
 
そういう監修の仕事を回せ、と言いたいわけではありませんが、ミスのチェック程度でしたらノーギャラで引き受けます。お声がけ下さい。
 
さて、「反復朗読CD 高村光太郎 智恵子抄」、演劇倶楽部『座』様のサイトから購入可能です。価格は4,800円。CDではなく音声データのダウンロード、テキストもPDFファイルでのダウンロードが可能ということです。もちろん有料ですが。

ラジオ局・文化放送JOQRの過去の放送をCD化したものです。3枚組で、1,2枚目は昭和39年から平成14年までの故・森繁久彌氏の出演した放送、3枚目が昭和50年に放送された「青春劇場 日本抒情名詩集」。この3枚目に奈良岡朋子さんの朗読で光太郎の詩「樹下の二人」「あどけない話」「同棲同類」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」「荒涼たる帰宅」が収められています。こちらもいい感じの朗読です。
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一昨年の発売で、価格は5,000円です。

それぞれ、ぜひお買い求め下さい。

今朝の朝日新聞で、女川・光太郎の会に関する記事が大きく載りました。
 
同紙では毎週月曜日に「防災・復興」というコーナーが連載されていますが、その中で今日は「光太郎の詩は女川の宝」という見出しで、女川・光太郎の会会長、須田勘太郎さんが紹介されています。
 
震災で大きな被害を受けた光太郎詩碑建立の経緯や、建立に貢献した故・貝(佐々木)廣さん、そして女川の現状、今年の女川光太郎祭に関しても触れられています。須田さんの写真には、背景に貝さんの遺影も。
 
こうした地方の地道な活動にスポットを当てていただけるのは嬉しい限りです。
 
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一昨日のブログで御紹介しました11/17(土)、福島川内村でのイベントです。
 
川内村では光太郎を敬愛してやまなかった詩人・草野心平を名誉村民に認定しています。心平についてはいずれまた詳しく書きたいと思っています。
 
心平は蛙をモチーフにした詩をたくさん残しました。その名もずばり「蛙」という題名の詩集まであります。下の画像は函で、文字は光太郎の筆跡です。

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川内村は原発事故で一躍有名になってしまった村ですが(先頃、天皇皇后両陛下が訪問されました)、もともとモリアオガエルの生息地ということで、「蛙の詩人」心平とゆかりができ、蔵書3000冊を村に寄贈、「天山文庫」として親しまれています。
 
さて、11/17(土)は、午後2:30から、村内の小松屋旅館さんで、心平を偲ぶ「かえる忌」が開かれます。心平の命日は11/12ですが、土曜日にあわせて行うようです。当方、初めての参加で、勝手がわかりませんが、おそらく紅葉も美しく色づいていることと思い、楽しみにしています。そのイベントの中で、モンデンモモさんのライブも入るとのこと。光太郎、心平、そして宮澤賢治の詩に曲をつけて歌います。会費2,500円だそうです。
 
こういうイベントへの参加も被災地復興のための一つの方策だと思います。お時間のある方、ぜひお越しを。

別件です。テレビ放送の情報を1件。

2012年11月7日(水) 20時00分~20時54分 テレビ東京系
 
野村真美と小林綾子が秋の青森を巡ります!紅葉の名所、奥入瀬渓流、十和田湖や今注目の「もみじ山」へ!さらに「酸ヶ湯温泉」ランプの宿「青荷温泉」など名湯も堪能!

番組内容

秋の青森の紅葉スポットめぐり!錦色に染まる奥入瀬渓流は「雲井の滝」など水の流れと紅葉の彩りが鮮やか。遊覧船で楽しむ「十和田湖」も見ごたえ十分。夜は川のせせらぎが心地よい温泉宿に宿泊。夕食は地元のリンゴをふんだんに生かしたリンゴ会席を堪能。2日目はオトクで新鮮な海鮮丼が人気の市場や千人風呂で有名な「酸ヶ湯温泉」、今注目の名所「中野もみじ山」、秘湯「青荷温泉」のランプの宿などを満喫。秋のオススメ旅!

出演者
 旅人 野村真美、小林綾子  ナレーション 大和田伸也

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ぜひご覧下さい。

秋も深まってまいりました。早いもので、今日から11月ですね。
 
今月行われる、または開催中のイベント等の情報を手短に。

企画展「詩人たちの絵画」

和歌山県田辺市立美術館 11/4(日)まで
 
昨日9/27のブログをご参照下さい。

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天山草野心平の会 かえる忌

福島川内村 小松屋旅館 11/17(土)14:30~
 

モモの智恵子抄2012

原宿アコスタディオ 11/19(月) 19:00~
 
「宇宙人」シャンソン歌手モンデンモモさんのライヴです。

智恵子講座’12 第6回 「山居追慕期を中心にして」 

二本松市民交流センター 11/18(日) 10:00~
 
講師 渡辺元蔵氏(二本松にて詩誌『現代詩研究』主宰) 連絡先 智恵子のまち夢くらぶ 熊谷さん tel/fax0243(23)6743 参加費1,000円
 

第57回高村光太郎研究会

文京区アカデミー湯島 11/24(土) 14:00~
 
「光太郎と船、そして海 新発見随筆「海の思出」をめぐって」 当方の発表です。
「『智恵子抄』再読」  伝馬義澄氏 
 
研究会に入会なさらなくても参加可能です。 島根県立石見美術館 11/26(月)まで
 
 
以前のブログで御紹介したものもあります。逆に今後また詳しく御紹介しようと思っているものもあります。とりあえず速報、ということで。

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