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昨日は福島・川内村に行って参りました。詩人の草野心平を偲ぶ集い「第3回天山・心平の会かえる忌」に参加のためです。昨年に引き続き二度目の参加でした。
 
会場は川内村中心部にある小松屋旅館さん。座敷の囲炉裏を囲んでの集いとなりました。
 
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午後3時に開会。川内村遠藤村長や013かわうち草野心平記念館長・晒名氏のご挨拶の後、心平も好きだった濁酒で乾杯。さらに心平生前の肉声の録音で、光太郎の「鉄を愛す」「樹下の二人」、心平の「ごびらっふの独白」などを聴きました。
 
その後、当方の講演。題は「高村光太郎と草野心平の交流」。光太郎は明治16年(1883)、心平は同36年(1903)の生まれで、ちょうど20歳離れていますが、大正の末頃知り合ってすぐに意気投合、お互いを大いに認め合い、お互いのためにいろいろな仕事をしました。光太郎は心平の詩集や編著(『宮沢賢治全集』など)の序文や装幀をし、心平の編集していた『銅鑼』、『歴程』、『東亜解放』などに寄稿、心平は光太郎についての評論や詩、随想を書きました。また、光太郎は心平の経営する居酒屋に足しげく通い、心平は晩年の光太郎の身の回りの世話をしたりと、実生活の部分でもいろいろと助け合っています。
 
そうした二人の交流を、年譜にまとめて発表させていただきました。
 
特筆すべきは光太郎歿後。心平は昭和32年(1957)の第一回連翹忌で発起人を務めました。そういう意味では当方の大先輩です。
 
その他にも自身の晩年(昭和63年=1988没)まで、ことあるごとに光太郎についての仕事をしています。
 
自身で光太郎の詩集や光太郎に関する書籍を編んで刊行したのをはじめ、いろろな雑誌で光太郎特集を組めば寄稿し、光太郎の石碑ができれば碑文や碑陰記を書き、講演やテレビ番組で光太郎を語り続けました。
 
また、同じ福島県人という事で、心平は智恵子に関する顕彰活動も行いました。
 
「去る者は日々に疎し」と申します。しかし、心平の中では、その歿後も光太郎・智恵子が生き続けていたのでしょう。といっても、なかなかできる事ではありません。
 
今日、まがりなりにも光太郎・智恵子の名がメジャーなものとして伝えられ続けている陰には、心平のこのような努力があったわけで、光太郎顕彰の大先輩として尊敬します。
 
心平は昭和43年の「大いなる手」という文章で次のように書いています。
 
 光太郎は巨人という言葉が実にピッタリの人であった。(略)
 巨人と言われるのにふさわしい人物は世の中に相当いるにはちがいないが、私がじかに接し得た巨人は高村光太郎ひとりだった。

 
対する光太郎も、心平という稀代の詩人の本質を鋭く見抜き、心平の詩集『第百階級』の序(昭和3年=1928)で、次のように評しています。
 
 詩人とは特権ではない。不可避である。
 詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。云々ならざるところに、既に、気笛は鳴つてゐるのである。(略)
 詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。

 
今回、心平と光太郎の交流について調べてみて、人と人とのつながり―言い換えれば「絆」―の美しさ、強さ、重要性を改めて感じました。
 
さて、右上の画像は当方講演のレジュメです。光太郎・心平それぞれの、それぞれに対して行ったりしたことについてまとめた年譜が中心です。残部が少しあります。ご希望の方には送料のみでお分けします。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。ただし、モノクロ印刷です。
 
ところで川内村。
 
昨日はカーナビが常磐自動車道の常磐富岡ICで下りろ、と指示してきました。広野IC~常磐富岡ICは震災から2年半経った今も通行止めが続いています。しかたなく広野で下りて、一般道に入りました。福島第二原発のある富岡町を通り、本当にもう少し行けば立ち入り禁止区域、というところまで行って、川内村に入りました。
 
通行可能区間でも、除染のための重機や除染によって出た落ち葉などの廃棄物を詰めてあると思われる巨大なビニール袋などが目につきました。シャッターを下ろした店舗も多数。また、山間部の道路では、未だに崩落し、片側対面通行になっている箇所も複数ありました。かえる忌会場でも地元の方々から、帰還の状況などまだまだであることを伺いました。
 
そんな中、懇親会の席上では、逆に東京から川内村に移り住んだ若者が紹介されたりという明るい話題もありました。しかし、もちろん喜ばしいことですが、一人の若者が移り住んだというだけで大喜びという状況、おかしいとは思いませんか? 美しい紅葉を目にし、新そばや巨大なイワナの塩焼きに舌鼓を打ち「こんなにいい所なのに……」と、思いは複雑でした。
 
当方、来年は川内村で行われる市民講座的なもので、複数回講師を依頼されました。微力ながら少しでも復興支援となればと、お引き受けしました。
 
まだまだ復興途上です。最近は一頃はやった「絆」という合い言葉もあまり聞かれなくなってきました。しかし、「絆」の一語、風化させるにはまだ早いと思います。皆さんもできる範囲での支援をよろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月27日

昭和27年(1952)の今日、紀尾井町福田屋で、詩人の竹内てるよ、栄養学者の川島四郎との座談「高村光太郎先生に簡素生活と栄養の体験を聞く」を行いました。

昨日、山梨県に行って参りました。
 
山梨県立文学館さんで開催中の「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」観覧のためです。
 
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同館は平成19年(2007)には企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催、今度は光太郎と関連の深い晶子の企画展ということで、馳せ参じました。
 
昼食時間帯に現地に着き、文学館の目の前にある「小作」さんに入りました。当方、山梨に行くことも多く、そのたびにここで山梨の郷土料理・ほうとうを食べています。
 
偶然にも文治堂書店さんの勝畑耕一氏が友人の方とお二人で食事に見えられ、驚きました。勝畑氏、今春、『二本松と智恵子』というジュブナイルを上梓されています。やはり晶子展を観にいらしたとのこと。
 
他にも文治堂さんでは光太郎に関わる書籍を何点か刊行して下さっており、ありがたい限りです。
 
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さて、いざ会場へ。
 
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晶子の生まれ育った大阪堺の菓子商・駿河屋関連に始まり、女学校時代、『明星』時代、『みだれ髪』前後、渡欧、古典研究、そして晩年と、ドラマチックな晶子の生涯が俯瞰できる数々の資料が並んでいました。
 
短歌以外にもその才能を遺憾なく発揮した詩(日露戦争に出征した実弟に対して語りかける「君死にたまふこと勿かれ」など)、小説、童話、評論などの活動もテーマ別に紹介されていました。
 
やはり実物を見ることで、晶子なら晶子の「息吹」のようなものを感じます。画像で見るのとは違いますね。
 
そして「晶子と「明星」の人々」ということで、光太郎、石川啄木、北原白秋、木下杢太郎に関する展示も。
 
光太郎関連は初めて光太郎の短歌が載った明治33年(1900)の『明星』(先日の【今日は何の日・光太郎】でご紹介しました。)、光太郎の書いた晶子の戯画が載った明治43年(1910)の『スバル』(巳年ということで、当方、今年の年賀状に使いました。晶子が口から蛇を吹いています。)、光太郎が装幀した鉄幹の歌集『相聞』(明治43年=1910)などが展示されていました。
 
光太郎のコーナー以外にも、光太郎に関わる資料が点々とあり、光太郎と与謝野夫妻の縁の深さを改めて実感しました。晶子の歌集『流星の道』(大正13年=1924)には「高村光太郎様に捧ぐ」の献辞がありますし、遺作となった歌集『白桜集』(昭和17年=1942)の序は光太郎が執筆しています(雑誌『冬柏』に載ったものの転載ですが)。それから光太郎が扉の題字、挿画、装幀を手がけた晶子歌集『青海波』(明45=1912)も展示されていました。
 
また、晶子の短歌も載った合同作品集『白すみれ』(明治39年=1906)も展示されていましたが、この装幀も光太郎だという情報があり、こちらは調査中です。確定すれば光太郎が手がけた最初の装幀ということになるのですが、はっきりしません。この件については稿を改めて書きます。
 
さらに、晶子は智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』創刊号の巻頭を飾った詩「そぞろごと」を執筆しており、こちらも展示されていました(復刻版でしたが)。この詩は「山の動く日来る」で始まるもので、『青鞜』主宰の平塚らいてうはこの詩にいたく感動したそうです。ただ、のちにらいてうと晶子はいわゆる「母性保護論争」で論敵同士となりますが。
 
展示をざっと見終わった後、担当学芸員の保坂雅子様による講座「与謝野晶子の姿 山梨での足跡を訪ねて」を拝聴しました。晶子は10回ほど山梨県を訪れており、その経緯や作品の紹介でした。光太郎とも親交のあった山梨出身の詩人、中込純次が絡んでおり、興味深いものでした。
 
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講座修了後は保坂様によるギャラリートークもあり、もう一度展示室へ。先ほどはざっと見たたででしたので、今度は詳しい解説付きで観られ、ラッキーでした。
 
展示の後半は講座にもあった晶子と山梨関連の資料の数々でしたが、「百首屏風」などの自筆の書、写真など、関係者の方々がよくぞ散逸させずに遺しておいてくれた、という感じでした。
 
そして保坂様は今回の企画展全体を担当され(当然、図録の編集もでしょうし)、昨日は講座にギャラリートークと、八面六臂の大活躍です。ご苦労様です。
 
というわけで、なかなか立派な企画展です。会期は11/24まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月25日

大正3年(1914)の今日、第一詩集『道程』が刊行されました。
 
『明星』時代には秀抜な「歌人」であった光太郎ですが、海外留学を経て、明治42年(1909)頃から「詩人」へと変貌します。後に「短歌では到底表現し尽くせない内容をもてあまし、初めて自分でも本気で詩を書く衝動に駆られた。」(「詩の勉強」昭和14年=1939)と語っています。
 
社会的には大逆事件や日韓併合、光太郎の身辺でも盟友・荻原守衛の死やパンの会の狂騒といった出来事があり、光太郎自身、自己の目指す新しい彫刻と、光雲を頂点とする旧態依然たる日本彫刻界の隔たりに悩み、吉原の娼妓や浅草の女給との恋愛、画廊琅玕洞の経営とその失敗、北海道移住の夢とその挫折など、まさに混沌とした時代でした。
 
そして智恵子との出会いをきっかけに転機が訪れ、とにかく自分の道を自分で切り開くベクトルが定まります。
 
おそらくは2ヶ月後の智恵子との結婚披露を控え、それまでの自己の「道程」を振り返り、一つのしめくくりとして、この『道程』刊行が思い立たれたのでしょう。
 
回想に依れば、光雲から200円を貰って、刊行部数200部ほどの自費出版。まだ口語自由詩が一般的でなかったこの時代を突き抜けた詩集は、一部の人々からは強い関心を持って受け止められましたが、ビジネスライクの部分では散々でした。後に残本を奥付だけ換えて改装し、何度か再生品を刊行しています。国会図書館の近代デジタルデータに登録されているのはこれです。のちに近代文学史上の金字塔となるとは、誰も思っていなかったことでしょう。 
 
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画像は当方所蔵の初版『013道程』です。残念ながら刊行時に着いていたカバーは欠落しています。
 
ちなみに大正3年(1914)は99年前。つまり、来年は『道程』刊行100周年ということになります。
 
表題作「道程」もこの年の発表ですし(雑誌発表形は102行にも及ぶ大作でしたが、詩集収録の段階でバッサリ9行に削られました。)、来年は「「道程」100周年」というコンセプトで企画展なり出版関連なりで取り上げていただきたいものです。当方所蔵のものは喜んでお貸しします。
 
詩集『道程』はその後、昭和に入り、「改訂版」(昭和15年=1940)、「改訂普及版」(同16年=1941)、「再訂版」(同20年=1945)、「復元版」(同22年=1947)、「復元版文庫版」(同26年=1951)、「復刻版」(同43年=1968)、「復元版文庫版リバイバルコレクション版」(平成元年=1984)などが刊行されています。このあたりの変遷を追うだけでも面白いと思います。
 
ついでに言うなら、後ほどこの項で紹介しますが、智恵子との結婚披露も同じ大正3年ですので、やはり来年は「光太郎智恵子結婚100周年」と言えます。企画展なり出版関連なりで取り上げていただきたいものです。

当方も会員に名を連ねております「高村光太郎研究会」という団体があります。
 
「研究」と名が付いておりますので、とりあえず光太郎やその周辺についての研究を志す人々の集まりです。といって、堅苦しいものではなく、参加資格も特にありません。特に職業として研究職についていないメンバーも多数在籍しています。高村光太郎記念会の北川太一先生に顧問をお願いしており、じかに北川先生の薫陶を受けることができるのが大きな魅力です。
 
年に1回、研究発表会を行っております。昨年は当方が発表を行いました。
 
今年の案内が参りましたので、ご紹介します。

第58回高村光太郎研究会 

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日 時 : 2013年11月23日(土) 14時
会 場 : アカデミー音羽 文京区大塚5-40-5
参加費 : 500円
発 表 : 
  「高村光太郎小考-直哉と光太郎-」 大島龍彦氏
  「光太郎と野澤一との関係性について/智恵子抄を訪ねる旅から学んだこと」坂本富江氏
 
会に入らず、当日の発表を聞くだけの参加も可能です。特に申し込みも必要ありません。
 
会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
興味のある方はぜひ11/23の研究発表会にお越し下さい。おそらく北川太一先生もお見えになると思われます。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月24日

大正2年(1913)の今日、『時事新報』に評論「文展の彫刻」の連載を始めました。
 
「文展」は「文部省美術展覧会」。彫刻部門は光雲を頂点とする当時の正統派の彫刻家達によるアカデミックな展覧会でした。
 
明治末に3年あまりの海外留学を経験し、本物の芸術に触れて帰ってきた光太郎にとって、そこに並ぶ彫刻はどれもこれも満足の行くものではなく、出品作一つ一つについてこれでもかこれでもかと容赦なく厳しい評を与えています。
 
盟友・荻原守衛の存命中は、彼の彫刻のみ絶賛していましたが、明治43年(1910)に守衛が歿した後は、褒めるべき彫刻が見つからないという状態だったようです。あくまで光太郎の感覚で、ということですが。
 
光太郎自身は決して文展に出品しませんでした。自信がなかったわけではなく、自身の進むべき道とは全く違う世界と捉えていたようです。

講談社さんから刊行されているコミック誌に『月刊アフタヌーン』という雑誌があります。
 
現在、11月号が発売中。この号からの新連載ということで、清家雪子さん作「月に吠えらんねえ」が巻頭カラーで掲載されています。
 
サブタイトルが「近代詩歌俳句幻想譚」。最初に前書き的に以下の文言が。
 
このお話の登場人物は000
近代詩歌俳句の
各作品から受けた印象を
キャラクター化したものです
各作家自身のエピソードも
含まれますが
それも印象を掬(すく)い取った
ものであって
実在の人物 団体等とは一切
関係ありません
 
過激な表現も多々含まれますが
作品世界に真摯に向き合った
結果であることを
ご理解くださいますよう
お願いするとともに
各作家の方々に
深く敬意を表します
 
「月に吠えらんねえ」という題名でおわかりでしょうが、主人公は萩原朔太郎です。
 
第一回のその他の登場人物は北原白秋、中原中也、三好達治、正岡子規、室生犀星、西脇順三郎、大手拓次、尾崎放哉、若山牧水、石川啄木、草野心平……。
 
この錚々たるメンバーが架空の都市「近代□(シカク=詩歌句)街」で織りなす幻想的な世界が描かれています。
 
一昔前に、近代文士をリアルに描いたコミックがいろいろありましたが(関川夏央/谷口ジロー『坊っちゃんの時代』シリーズ、古山寛/ほんまりう『事件簿』シリーズなど)、それらとは一線を画しています。
 
何しろ主人公の朔太郎は真性の屍体愛好者、中原中也は盗んだバイクで走り出し、草野心平にいたっては人間ではなく蛙です。
 
そして登場人物の台詞に光太郎智恵子の名が出、最後に光太郎詩「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)をバックに夜空に現れる全裸の巨大美女……。
 
前衛演劇を思わせる、シュールな世界です。しかし単なる悪ふざけでなく、「詩歌」と「小説」の間で揺れ動く犀星とか、引きこもりになった大手拓次とか、それぞれの登場人物についてさもありなんという設定がされています。
 
同誌は毎月25日発売だそうですので、もう次の号が出てしまいます。お早めに書店まで。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月20日

明治43年(1910)の今日、上野精養軒で開かれた、美術新報社主催の新帰朝洋画家の会合に出席しました。

過日、目黒区駒場の日本近代文学館さんに行って参りました。
 
現在、2階の展示室では秋の「特別展 新収蔵資料展」が開催されています(11/23まで)。
 
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並んでいるのは2010年以降に同館で新しく収蔵した資料の中から選りすぐりの特色のある品々。
 
以下、出品リストです。
 
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まさに宝の山、という感じでした。
 
夏目漱石の「猫の死亡通知」、太宰治の学生時代のノート、三島由紀夫自筆の屏風、江戸川乱歩の草稿、室生犀星の自筆訂正本……。第二展示室では同時開催で川端康成限定のコーナーもありました。近代文学マニアにはたまらないと思います。
 
光太郎に関しても、親交のあった作家・田村松魚に宛てた葉書が4通並んでいました。こういう機会にいつも思うのですが、たくさん並んでいる展示品の中から光太郎の筆跡を見つけると、ふと旧友と再会したような気分になります。
 
ある意味驚いたのは、吉本隆明や干刈あがたの草稿。たしかに故人ですが、過去の文豪たちと同じところに並ぶことで、もう「歴史」の一部になっているのか、という感覚でした。
 
2階の展示を見る前に、1階の閲覧室を利用させていただきました。実はこちらの方がメインの目的でした。
 
やはり新収資料(だと思います。以前にネットで蔵書検索をかけた時にはヒットしませんでしたので)の、大正時代の短歌同人誌『芸術と自由』が目当てでした。同誌の第1巻第8号(大正15年=1926)に、『高村光太郎全集』等に未収録の作品が載っているという情報だけは得ており、確かめようと思ったわけです。
 
すると、「口語歌をどう見るか(批判)」というアンケートでした。短い文章ですが、『高村光太郎全集』等に未収録ですので、貴重な発見です。来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
 
先の展示にしてもそうですが、同館の収蔵資料は、そのほとんどが文学者またはそのご遺族、出版社・新聞社、研究団体など多くの方々からの寄贈によるものだそうです。こうして公の目に触れる形で残されるというのはすばらしいことですね。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月18日

昭和26年(1951)の今日、光太郎危篤というデマが流れ、東京本社から電話を受けた読売新聞の支局の記者が、花巻郊外太田村山口の山小屋に確認に来ました。
 
笑えるような笑えないようなエピソードですね。光太郎、どんな顔をして記者に会ったのでしょうか。

やなせたかしさんが亡くなりました。010
 
やなせさんといえば「アンパンマン」。大学生と高校生の当方の子供二人も、「アンパンマン」で育ちました。上の子供(娘)は何だかんだと突っ込みを入れながら高校生になってもアニメの「アンパンマン」を観ていました。
 
やなせさん、「アンパンマン」だけでなく、詩人でもあり、編集者でもありました。
 
かつてサンリオさんから発行されていた『詩とメルヘン』という美しい雑誌がありました。その編集をなさっていたのがやなせさんでした。
 
『詩とメルヘン』では、平成7年(1995)の6月号で、「智恵子抄」の小特集を組んで下さいました。
 
そこに掲載されたやなせさんの「智恵子抄」評は実に的確なものでした。それだけでなく、その評自体が「美しい」評なのです。 
 
一部引用させていただきます。
 
 詩を書くことによって詩人と呼ばれている人は実は本当の詩人ではない。その人の生きる軌趾がそのまま詩になる人が詩人なのだ。
 その意味では高村光太郎は詩人の中の詩人といえる。そしてその中核になるものが「智恵子抄」だ。
 はじめての愛の詩「人に」は実に「智恵子抄」刊行の三十年前である。
 「智恵子抄」は構想されたのではなく、いつのまにか降る雪のようにつもった。
 あるいは光太郎の人生の足跡の上に自然に咲いた美しい花だ。
 詩とは元来そういうものである。
(略)
 そして、もし詩に関心のない人でも「智恵子抄」は読める。
 有名な「智恵子は東京に空が無いといふ」ではじまる「あどけない話」は小学生でも理解できる。甘い抒情性と通俗性さえもある詩だと思う。
 しかし、その現実は愛する妻が狂ってしまうという耐えがたい悲劇から生まれている。
 純粋に芸術の核心に迫るとすれば無駄なものをすべて剥ぎ落していかなくてはならない。
 光太郎と智恵子はその部分に到達してぼくらに宝石のような詩集を遺した。
 
いかがでしょうか。
 
同じ評の中で、「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」で始まる「智恵子抄」巻頭の「人に」について、「最近の現代詩の難解さにくらべれば明快すぎてむしろびっくりしてしまう」とあります。正鵠を射ています。
 
そして同じことはやなせさんの書かれた評にも言えると思います。そして同時に「明快」だけでなく「美しい」。一般向けの評とはかくあるべきではないでしょうか。
 
「視点」がどうの「人称」がどうのと末節にこだわって「木を見て森を見ず」に陥っているもの、「アンチテーゼ」だの「詩的ナントカ」だの、ムズカしい言葉の羅列でお茶を濁して結局何が言いたいのかさっぱり分からないもの、当方、そういう評に触れるたび、やなせさんの「明快」な、そして「美しい」評を思い出していました。
 
心よりご冥福をお祈りいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月16日

大正2年(1913)の今日、神田三崎町のヴヰナス倶楽部で生活社主催油絵展覧会が開かれ、彫刻1点、油絵21点、スケッチ3点を出品しました。
 
昨日のこの項で ふれたヒユウザン会(のちフユウザン会)は、同人の間の方向性の相違から長続きせず、光太郎は同人中の岸田劉生らと新に生活社を立ち上げます。
 
出品した油絵、スケッチはこの年の夏、智恵子と共に滞在した上高地での作品でした。

山梨県からイベント情報です。 

与謝野晶子展 われも黄金(こがね)の釘一つ打つ

与謝野晶子(18781942)は、歌人として知られていますが、短歌だけでなく詩・童話・小説・評論・古典研究など幅広い創作活動を行っています。山梨とのゆかりも深く、富士北麓、富士川町、上野原市などを訪れ、豊かな自然や風物を詠んだ歌を残しています。63歳の生涯を華麗に生きた晶子の人生と作品とともに、山梨での足跡を約150点の資料で紹介します。
(公式サイトより)
  
会 場:山梨県立文学館 甲府市貢川一丁目5-35
会 期:2013年9月28日(土)~11月24日(日)
観覧料:一般310円 大高生210円 小中生100円
 
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関連行事
◎講演会
 ○金井 景子(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
 「「自立」を問う人―与謝野晶子の評論を読む―」
 日 時:11月4日(月・振休) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
  
 ○三枝 昻之(当館館長)
 「星君なりき―晶子晩年の魅力」
 日 時:11月14日(木) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
 
 ○今野寿美(歌人)
 「あらためて読む『みだれ髪』」
 日 時:11月23日(土・祝日) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
 
◎講座
 ○保坂 雅子(学芸員)
 「与謝野晶子の姿 山梨での足跡を訪ねて」
 日 時:10月24日(木)午後2:00~3:10   場 所:山梨県立文学館 研修室
 
実はうっかりご紹介するのを失念しており、初日の9/28(土)には作家の林真理子さんの講演もあったそうです。終わってしまいました。
 
また、うっかりご紹介するのが遅くなり、11/14(木)以外の講演、講座は定員に達してしまったそうです。
 
当方はちゃっかり10/24の講座に申し込みました。すみません。担当なさる学芸員の保坂女史は連翹忌のご常連なので、どうせ行くならこの日と決めておりました。
 
先ほど、保坂女史と電話で話させていただき、展示内容についていろいろ教えて下さいました。予想していましたが、『明星』同人に関する展示もあり、光太郎に関する展示も少しあるとのことでした。
 
例を挙げますと、明治44年(1911)、雑誌『スバル』に掲載された詩「ビフテキの皿」の草稿、光太郎が扉や表紙の題字、挿画、装幀を手がけた晶子歌集『青海波』(明45=1912)・夫の鉄幹歌集『相聞』、光太郎が晶子を戯画化した「SALAMANDRA」が掲載された『スバル』(明43=1910)、など。他にも光太郎がらみの出品物があるかもしれません。観るのが楽しみです。
 
山梨県立文学館さんは、平成19年(2007)に企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催なさった他、各種の資料・情報等も快く提供して下さり、また、保坂女史や近藤信行前館長には毎年のように連翹忌に駆けつけて下さるなど、当方、大変お世話になっております。
 
企画展以外の常設展でも、山梨出身やゆかりの文学者――樋口一葉、太宰治、井伏鱒二、芥川龍之介、飯田蛇骨、村岡花子(来年のNHK連続テレビ小説「花子とアン」で吉高由里子さんが演じられます)など――についての展示も充実しています。
 
さらに言うなら、お隣はミレーの「種まく人」を所蔵していることで有名な山梨県立美術館。一帯は公園となっており、ロダンやブールデル、マイヨールの野外彫刻などもあります。まさに「芸術の秋」を堪能するにはもってこいです。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月5日

昭和13年(1938)の今日、南品川ゼームス坂病院にて智恵子が歿しました。享年、数えで53歳でした。
 
というわけで、智恵子のいまわの際を謳った光太郎詩「レモン哀歌」にちなみ、今日は「レモンの日」とされています。
 
さらにというわけで、当方、今日は染井霊園の高村家の墓所にお参りに行って参ります。その後、両国に移動、劇団空感エンジンさんの舞台「チエコ」を観てきます。

昨日に続き、今月行われる光太郎がらみのイベントのご紹介です。
 
まずはネット検索で見つけました朗読のイベントです。 

青山の昼下がりⅥ

期 日 : 2013年10月25日 (金)
会 場 : 東京都 アイビーホール青学会館4F「クリノン」
時 間 : 
14時00分開演(13時30分開場)
料 金 : 2500円 要予約
関連web: 後援 NPO日本朗読文化協会 
内容:朗読へのおさそい 「青山の昼下がりⅥ」
 
◆プログラム
「蜘蛛の糸」芥川龍之介作  見澤淑恵  ファゴット演奏 蛯澤亮 作曲 加藤史崇
「姫椿」  浅田次郎作  池田美智恵
「刺青」  谷崎潤一郎作 望月鏡子
「鼓くらべ」山本周五郎作 近藤とうこ
「智恵子抄より」 高村光太郎作   山川建夫
 
◆後援 NPO日本朗読文化協会
◆お問合せ・お申込み 望月様 03-5716-5767 080-1190-4868
 
元フジテレビアナウンサーの山川健夫氏による「智恵子抄より」がトリのようです。
 


 
続いて福島川内村から草野心平忌日「かえる忌」のご案内が届きましたのでご紹介します。 

第3回天山・心平の会「かえる忌」

  : 2013年10月26日(土) 午後3:00~6:00
  : 小松屋旅館 福島県双葉郡川内村大字上川内字町分211
  : 2,500円
 
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翌日には心平墓参も行われるそうです。
 
原発事故による全村避難が解除されましたが、まだまだ帰村者が少ない状況だそうです。復興支援のためにも足をお運び下さい。
 
ちなみに当方の講演も予定されております。心平と光太郎の関わりについて話すつもりでおります。
 
さて、今日は渋谷のNHK放送センターに行って参りました。10/6放送の「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」のスタジオ収録を観させていただきました。
 
明日、詳しくレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月2日

昭和63年(1988)の今日、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・宮崎春子が歿しました。
 
昭和10年(1935)、智恵子が南品川のゼームス坂病院に入院した後、看護婦の資格を持っていた春子に光太郎が請い、昭和12年(1937)から約2年、春子は智恵子の付き添い看護にあたりました。智恵子の紙絵制作の現場に立ち会った、ほとんど唯一の人物です。
 
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紙絵を見る春子(昭和30年=1955)

昨日のブログで秋に関する光太郎の詩をいくつか紹介しました。昨日紹介したのは大正末から昭和戦前の作で、素直に秋を謳ったもの(部分)でした。
 
「素直」でなく秋にからめた詩も存在します。どうも秋の到来を、それから起こるであろう泥沼の戦争の予感とオーバーラップさせているようです。

   北東の風、雨
 014
 軍艦をならべたやうな
 日本列島の地図の上に、
 見たまへ、陣風線の輪がくづれて、
 たうとう秋がやつて来たのだ。
 北東の風、雨の中を、
 大の字なりに濡れてゐるのは誰だ。
 愚劣な夏の生活を
 思ひ存分洗つてくれと、
 冷冷する砲身に跨つて天を見るのは誰だ。
 右舷左舷にどどんとうつ波は、
 そろそろ荒つぽく、たのもしく、
 どうせ一しけおいでなさいと、
 そんなにきれいな口笛を吹くのは誰だ。
 事件の予望に心はくゆる。
 ウエルカム、秋。

 
昭和2年(1927)の作。
 
その前年、中国では蒋介石の国民党政府による反帝国主義を掲げる「北伐宣言」が出され、昭和2年に入ると、
日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃(南京事件・漢口事件)などが起こり、それに対して日本は山東出兵を行っています。さらに翌年には関東軍による張作霖爆殺、国内では主義者弾圧のための特高警察の設置など、時代は確実にきな臭い方向に進んでいました。
 
事件の予望」には、そうした背景が見て取れます。そして、「どうせ一しけおいでなさい」「ウエルカム、秋。」には、それを必然と見る姿勢が読み取れるように思われます。
 

   秋風辞
     秋風起兮白雲飛 草木黄落兮雁南帰
                   -漢武帝-
 秋風起つて白雲は飛ぶが、
 今年南に急ぐのはわが同胞の隊伍である。015
 南に待つのは砲火である。
 街上百般の生活は凡て一つにあざなはれ、
 涙はむしろ胸を洗ひ
 昨日思索の亡羊を嘆いた者、
 日日欠食の悩みに蒼ざめた者、
 巷に浮浪の夢を餘儀なくした者、
 今はただ澎湃たる熱気の列と化した。
 草木黄ばみ落ちる時
 世の隅隅に吹きこむ夜風に変りはないが、
 今年この国を訪れる秋は
 祖先も曾て見たことのない厖大な秋だ。
 遠くかなた雁門関の古生層がはじけ飛ぶ。
 むかし雁門関は西に向つて閉ぢた。
 けふ雁門関は東に向つて砕ける。
 太原を超えて汾河渉るべし黄河望むべし。
 秋風は胡沙と海と島島とを一連に吹く。
 
昭和12年(1937)の作。この年には盧溝橋事件が起こり、日中間は全面戦争状態に突入しています。
 
実は昨日部分的に紹介した「日本の秋」にも、昨日紹介しなかった部分にこうした内容が含まれています。
 
 ああいよいよ秋の厄日がそこに居る。
 来なければならないものなら、
 どんなしけでもあれでも来るがいい。
 
どうやら光太郎、台風の嵐を戦争の嵐にたとえているようです。そして台風一過の状況を、昨日紹介した部分の
 
 昔からこの島の住民は知つてゐる、
 嵐のあとに天がもたらす
 あの玉のやうに美しい秋の日和を。
 
で、戦争に勝つこととして表現しているのです。
 
ところがそう簡単に事は運ばず、日中戦争は泥沼化、さらに太平洋戦争へと突入し、昭和20年(1945)には敗戦。
 
この間、光太郎は膨大な数の戦争詩を書き殴ります。それら(「北東の風、雨」「秋風辞」も含め)は詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)などに収められ、国民を鼓舞する役割を果たしました。
 
敗戦後はそうした自己を反省して、花巻郊外での山小屋生活に入るのです。
 
以上、ざっくりと光太郎の「秋」を見てきましたが、すっきりしませんので、「きな臭い」内容を含まない「素直な」秋の詩をもう一つ紹介して終わります。大正3年(1914)、おそらく詩集『道程』のために書き下ろされた詩です。
 
   秋の祈
 
 秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り016
 空は水色、鳥が飛び
 魂いななき
 清浄の水こころに流れ
 こころ眼をあけ
 童子となる

 多端粉雑の過去は眼の前に横はり
 血脈をわれに送る
 秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
 地中の営みをみづから祝福し
 わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
 奮然としていのる
 いのる言葉を知らず
 涙いでて
 光にうたれ
 木の葉の散りしくを見
 獣(けだもの)の嘻嘻として奔(はし)るを見
 飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
 かくの如き因果歴歴の律を見て
 こころは強い恩愛を感じ
 又止みがたい責(せめ)を思ひ
 堪へがたく
 よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く
 いのる言葉を知らず
 ただわれは空を仰いでいのる
 空は水色
 秋は喨喨と空に鳴る
 
【今日は何の日・光太郎】 9月28日

昭和26年(1951)の今日、光太郎が題字を揮毫した草野心平の詩集『天』が刊行されました。
 
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「素直な」心で、秋の「天」を眺めたいものです。

【今日は何の日・光太郎】 9月27日

大正15年(1926)の今日、詩「秋を待つ」を書きました。
 
   秋を待つ017
 
 もう一度水を浴びよう。
 都会に居れば香水くさくなるし、
 山にのぼれば霧くさくなるし、
 たんぼにゆけばこやしくさくなる。
 良心くさいのさへうれしくないのに、
 ああ己はそこら中がべとべとだ。
 太陽や神さまはいつでも軌道のそつちに居てくれ。
 あの西南の空の隅から
 秋がばさりとやがて来る日を
 胸のすくほど奇麗になつて待つ為にも、
 さあもう一度水をあびよう。
 さうしてすつかり拭いた自分の体から、
 円(まろ)い二の腕や乳の辺りからかすかに立つ
 あの何とも言へない香ばしい、甘(うま)さうな、
 生きものらしい自分自身の肌の匂をもう一度かがう。
 
9月末としては少し季節外れの内容にも思えます。大正15年も残暑が厳しかったのでしょうか。
 
ちなみに右は現在の千葉県北東部の空です。気持ちよく晴れています。ただし、まだ裏山ではツクツクホーシとミンミンゼミが鳴いています(笑)
 
以前にも書きましたが、光太郎は生来、夏の暑さを苦手としていました。逆に冬の寒さは大好きで、冬を謳った詩は数多くあります。また、暑さが去る秋の訪れを懇願したり、喜んだりといった内容の詩もいくつかあります。
 
   秋が来たんだ(部分)
 
 すずしい秋がやつて来たんだ
 星が一つ西の空に光り出して
 天が今宵こそ木犀色に匂ひ016
 往来にさらさら風が流れて
 誰でも両手をひろげて歩きたいほど身がひきしまる
 さういふ秋がやつて来たんだ
 ……
 すずしい秋がやつて来たんだ
 こんないい空気が落ちて来る秋の夕方がやつて来たんだ
 
 
   日本の秋(部分)
 
 昔からこの島の住民は知つてゐる、
 嵐のあとに天がもたらす
 あの玉のやうに美しい秋の日和を。
 風と雨とで一切を洗ひ出してしまつた朝、
 塩でもいいからきりりと口を浄め、
 水を一ぱいぐつとのんで、
 からりと日の照る往来にとび出すのはいい。
 あの日本の秋が又来たな、
 秋はいいなと思ふのはいい。
 
それぞれその通りですね。
 
ただし、光太郎は昭和戦前には「秋」を「大和魂」と結びつけ、日中戦争から太平洋戦争に向かってゆく-というかゆかざるをえない-この国の姿を描いてもいます。明日はそのあたりを書いてみます。
 
「秋」といえば、宮城女川光太郎の会・佐々木英子様が秋の味覚の王様・女川特産のサンマを送って下さいまして、早速いただきました。脂がしっかりのっていて、美味。何より目を見張る大きさです。ありがたいことです。
 
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ところで、パソコンのインターネットのブラウザで、YAHOO!JAPANのページを見ますと、一番下に「復興支援 東日本大震災」というリンクがあります。
 
その中にある「復興デパート」というリンクでは、東北の特産品などがネット販売されています。現在のイチオシはやはり三陸のサンマ。ぜひお買い求め下さい。

 
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「復興支援」といえば、プロ野球パ・リーグでは東北楽天ゴールデンイーグルスがリーグ優勝を決めましたが、東北を元気づけるという意味でも、非常に喜ばしいことですね。CS、そして日本シリーズとさらに頑張ってほしいものです。

昨日、光太郎の肉声が収められたカセットテープ『NHKカセットブック 肉声できく昭和の証言 作家編6』を紹介しましたが、同様に光太郎の肉声を収めた音声ソフトが数種類発行されていますので、ご紹介します。
 
ぜひお買い求めの上、聴いてみて下さい。 絶版のものが多いのですが、中古市場で出ることがあります。

NHKカセット 文学の心 文豪は語る1012

昭和27年(1952)3月、NHKラジオ番組「朝の訪問」のために詩人の真壁仁と行った対談(『高村光太郎全集』第11巻)が収録されています。また、光太郎本人による自作の詩「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」の朗読も収められています。同じ年3月にオンエアされました。昭和50年(1975)、NHKサービスセンターの発行です。現在は絶版です。
 
「千鳥……」には、「ちい、ちい、ちい、ちい、ちい」という千鳥の鳴き声の擬音が出てきます。後世の人達の朗読では、ここを付けられている読点の通りゆっくり刻みながら「ちい、ちい、ちい」と読むのが普通です。ところがその部分、光太郎は非常に早口で読んでいます。光太郎の朗読を文字で表せば「ちいちいちいちいちい」。確かにそう読んだ方が千鳥感がよく出ます。
 
朗読は朗読する人それぞれの解釈でやってよいのだとは思いま011すが、作った本人はそのように読んでいる、ということもお忘れなく、と言いたいところです。特に朗読で光太郎作品を取り上げられる方にはぜひ聴いていただきたいものです。
 
ちなみに「千鳥……」と「梅酒」の朗読は、平成14年(2002)山川出版社発行の中学校教材用CD中学校 音の国語にも収められています。こちらは現在でも新品が入手可能です。ただしCD3枚組+解説書つきで18,000円+税。ちょっと高いのが難点です。

 
また、『文学の心 文豪は語る1』の内容に、昨日ご紹介した草野心平との対談「芸術よもやま話」も収録した『昭和の巨星 肉声の記録 文学者編 室生犀星高村光太郎』もNHKサービスセンターから発行されています。カセットテープ版とCD版があり、基本、全12巻のセット販売でした。現在は絶版ですが、こちらも時折、中古市場で見かけます。

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新潮カセットブック 高村光太郎詩集

平成2年(1991)発行のカセットテープです。基本は石坂浩二さんの朗読ですが、B面の終わりに約7分間、昭和28年(1953)に、美術史家の奥平英雄と行った対談「芸術と生活」(『高村光太郎全集』第11巻)の一部が収録されています。対談「芸術と生活」は、翌年、文化放送でオンエアされました。
 
同じ対談「芸術と生活」のテープは、奥平の著書『晩年の高村光太郎』特装本(昭和51年=1976 瑠璃書房)に付録として添えられています。こちらはノーカットです。
 
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どちらも絶版です。
 
以上、市販された光太郎肉声を含むものはこんな所だと思います。「もっとこんなものもある」という情報をお持ちの方はご教示下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月26日

明治24年(1891)の今日、光雲が戸籍上の本名を「光雲」に変更しました。
 
元の光雲の本名は「光蔵(みつぞう)」、通称「幸吉」でした。

目黒区駒場にある日本近代文学館でのイベント情報です。 

「秋の特別展 新収蔵資料展」


期 日 : 2013年9月28日(土)~11月23日(土)
会 場 : 日本近代文学館  東京都目黒区駒場4-3-55
時 間 : 午前9:30~午後4:30(入館は4:00まで)
休 館 : 日・月曜日、第4木曜日(10月24日)
料 金 : 一般 200円 (20名以上の団体 100円、維持会・友の会会員 無料)
監 修 : 池内輝雄
 
日本近代文学館の収蔵資料は、そのほとんどが文学者またはそのご遺族、出版社・新聞社、研究団体など多くの方々からのご寄贈によるもので、その貴重な資料を展示・公開する新収蔵資料展を定期的に開催しています。
 
本展覧会では、2010年以降に新しく収蔵した資料のなかから、特色のある品々をご紹介いたします。
この3年間で新たに加わった「内村鑑三研究所文庫」「紅野敏郎文庫」「齋藤磯雄文庫」の資料をはじめ、本年春に寄贈を受け話題となった太宰治の学生時代のノート・教科書類や、夏目漱石が門下生の鈴木三重吉に「吾輩は猫である」のモデルとなった猫の死を通知した「猫の死亡通知」など、貴重な資料を多数展示いたします。
 
鈴木三重吉宛夏目漱石「猫の死亡通知」(明治41年9月14日)
鈴木三重吉宛夏目漱石(明治41年9月14日)
「猫の死亡通知」
また、三島由紀夫が自死する直前の1970年11月に池袋の東武百貨店で開催された「三島由紀夫展」のために揮毫した屏風は、同展以来の公開となります。
 
主な出品資料
太宰治の学生時代のノートや教科書、およびそれらを保管していた信玄袋
鈴木三重吉宛夏目漱石「猫の死亡通知」
村上浪六・信彦資料より 浪六画「赤裸ニ窺天下」
中野重治原稿「『平和革命』と文化ということ」
中村真一郎日記
内村鑑三研究所文庫の蔵書
齋藤磯雄文庫より 齋藤著「ピモダン館」原稿
紅野敏郎文庫より 谷崎潤一郎「近松秋江『黒髪』序文」原稿
登張竹風・正実資料より 竹風宛泉鏡花書簡
田村松魚資料より 松魚宛高村光太郎書簡
北村孟徳資料より 孟徳宛内田百閒書簡
楠山正雄資料より 『新訳イソップ物語』初版本
香西昇旧蔵直木三十五資料より 直木「大阪落城」原稿
寺崎浩資料より 「ゴルキー通りの女」原稿
芥川賞・直木賞コレクション新規収蔵原稿
 
同時開催 川端康成記念室 「モダニズムと浅草」

田村松魚(しょうぎょ)は幸田露伴門下の作家。昭和4年(1929)に刊行された光雲の『光雲懐古談』主要部分の聞き書きをするなどしています。妻も作家の田村俊子、智恵子の数少ない親友の一人でした。
 
光太郎・智恵子夫妻もかなり独特の夫婦でしたが、輪をかけてドラマチックだったのが松魚・俊子夫妻(後に離婚)でした。
 
高村夫婦との交流を含め、詳細は以下の書籍等でわかります。
 
 

 ところで問題の書簡は、平成17年にその存在が報じられました。その数なんと55通。翌年には笠間書院さんから『高村光太郎進出書簡 大正期 田村松魚宛』田村松魚研究会間宮厚司編が刊行され、その全貌が明らかにされました。
 
『高村光太郎全集』補遺作品集として当方が手がけている「光太郎遺珠」には、最初に発表された6通のみ掲載させていただきました。残りは数が多すぎるので、いまだ収録していません。いずれ、第3次の『高村光太郎全集』が出るとしたら、組み込ませていただきたいと考えています。
 
この55通はその後、同22年に日本近代文学館さんに寄贈されています。今回の展示ではその中から出品されるのでしょう。何通ならぶのかは不明です。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月23日

大正10年(1921)の今日、光太郎が設計した府下高井戸村の可愛御堂が落成、献堂式に出席しました。
 
可愛御堂は光太郎とのちのちまで交友のあった青森県五戸出身の思想家・江渡狄嶺(えとてきれい)が開いた百姓愛道場内に建てられました。建立の趣旨は、その趣意書によれば、子を失った親たちのために一つの庵を建て、天上の子供らの霊が睦み遊んでいるように、地上の親兄弟姉妹もここで一つになって睦み合うようにとのことでした。元々はやはり愛児を失った江渡がその遺骨を寺に預けるに忍びず、百姓愛道場内に祀っていたことに始まるそうです。
 
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光太郎、駒込林町のアトリエも自分で設計しましたが、建築設計にもその才を発揮していました。舌を巻くマルチさの一端が見て取れます。

8月19日のこのブログで、秋田から新たに光太郎の直筆詩稿が見つかったニュースをご紹介しました。
その後、過日、続報が出ましたのでご紹介します。  

「一億の号泣」の直筆詩稿を寄託 由利本荘市教委へ

 高村光太郎が終戦の翌日に書いた詩「一億の号泣」の直筆詩稿を所有する由利本荘市矢島町の佐藤和子さん(70)と親類が10日、「多くの市民や光太郎ファンに見てもらいたい」と市教育委員会に詩稿を寄託した=写真。市教委は今後、詩稿の複製を公開する考え。

 詩稿は、光太郎が戦時中に疎開した岩手県花巻市で親交を深めた故佐藤昌(あきら)さんに渡したもの。矢島町立農業補習学校農業専修科(現矢島高)の初代校長を務めた昌さんは、終戦後、文通相手だった教え子の佐藤勘左エ門さん=矢島町、1988年に78歳で死去=に詩稿を譲り渡した。

 詩稿は一時紛失したが、2年半前に矢島町内で見つかり、勘左エ門さんの次男の妻である和子さんが所有、勘左エ門さんの五男重さん(64)と弟の東海林良介さん(86)が保管していた。
(『秋田魁新報』 2013/09/11)
 
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「一億の号泣」は光太郎の詩としては有名な方ですし、太平洋戦争の終戦という、光太郎にとっても日本にとっても一大転機となったできごとを題材にしているということで、重要な作品です。
 
したがって、売りに出せばかなりの値段がつくものなのですが、持ち主の方は市に寄贈されたとのこと。すばらしい。
 
今後は死蔵されることなく、活用されてほしいものです。
 
東北にはこういうケースで寄贈され、常時見ることのできる光太郎資料が意外と多くあります。
 
盛岡市の盛岡てがみ館さん。やはり光太郎の詩稿「岩手山の肩」が常に展示されていますし、他にも光太郎書簡を多数所蔵しています。来春の企画展では光太郎書簡も展示されるようです。
 
東北新幹線のいわて沼宮内駅内にある郷土資料館には、光太郎直筆の村立図書館・村立公民館の看板が展示されているとのこと。当方はこれは見たことがないのですが、いずれあちらに行く時に足をのばしてみようと思っています。
 
11/12追記 現在はいわて沼宮内駅内の郷土資料館は閉鎖、この看板は元々あった岩手町川口公民館に戻っているとのことです。
 
もちろん、花巻の高村光太郎記念館や二本松の智恵子記念館。
 
ただ、気をつけなければいけないのは、「光太郎直筆の○○」と大々的に宣伝していながら、どうも怪しいものもあることです。営利目的や功名心でやっているわけではなく、「善意」で公開しているのでしょうが、それだけに困ったことでもあります……。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月22日

昭和60年(1985)の今日、NHKFMで、原嘉壽子作曲・まえだ純台本による「歌劇 智恵子抄 高村光太郎による 四幕」がオンエアされました。
 
昭和62年(1987)には楽譜(ヴォーカル・スコア)が全音楽譜出版社さんから刊行されています。

新刊です。

東京叙情詩集 I LOVE TOKYO

日本文学館刊行 津守秀祐輝著 文庫判 価格 630 円(税込)

佃島、表参道、聖橋。世界に類を見ない巨大都市にぎっしりと詰まった地名を追っていると、この町がのっぺりした首都機能の所在地ではなく、人々の生活の集合体であることが実感できる。都会人の控えめな郷土愛が光る叙景詩集。(同社サイトより)
 
012

 
「安達太良山の青い空――長沼智恵子に捧ぐ」という詩が載っている他、光太郎と関連のあった土地――千駄木、上野など――、関わった人物――森鷗外、黒田清輝、八木重吉、草野心平など――をモチーフにした作品もあります。
 
版元は日本文学館さん。自費出版系の出版社です。名前が似ていますが、駒場の日本近代文学館とは関係ありません。
 
自費出版系というと、ひところ「S舎」という出版社があり、盛んに書籍を刊行し、日本一の出版点数などと豪語していましたが、販売には全く力を入れず、とにかく出版することで著者から金をふんだくるという商法を展開していました。それが問題となり、訴訟も起こされ、結局つぶれました。他にも同じような出版社がたくさんあり、刊行されるものは玉石混淆――ほとんど「石」――の状態でしたが、最近はどうなのでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月6日

昭和26年(1951)の今日、『岩手日報』のために「岩盤に深く立て」という詩を書きました。
 
2日後のサンフランシスコ講和条約調印を題材にした作品です。この時期はメディアも混乱しており、旧仮名遣いと新仮名遣いが混ざっています。
 
  岩盤に深く立て
 
四ツ葉胡瓜の細長いのをとりながら1011
ずゐぶん細長い年月だつたとおもう。
何から何までお情けで生きてきて
物の考へ方さへていねいに教えこまれた。
もういい頃と見こみがついて
一本立ちにさせるという。
仲間入りをさせるという。
その日が来た。
ヤマト民族よ目をさませ。
口の中からその飴ちよこを取つてすてろ。
オツチヨコチヨイといわれるお前の
その間に合わせを断絶しろ。
その小ずるさを放逐しろ。
世界の大馬鹿者となつて
六等国から静かにやれ。
更生非なり。
まつたく初めて生れるのだ。
ヤマト民族よ深く立て。
地殻の岩盤を自分の足でふんで立て。
 
写真は花巻郊外太田村山口の山小屋前にあった畑で撮影されたもの。胡瓜ではなくキャベツですが(笑)。

京都からイベント情報です。  

京のみちと街道を知る―道文化を考えるシンポジウム

趣旨
毎日歩いている道路が、どんな道であり路であったのか、知れば知るほど深いお話があります。
人と人をつなぐ大切な道について、まず知ることあら始め、その意義を尊び、建設・維持・管理という不断の努力が支えていること、知らない道を行く旅の意味、また人生の道についての思いを語り、「道文化」の醸成をはかりたいと思います。  

日時など
主催:NPOうるわしのまち・みちづくり 
協賛:社団法人 近畿建設協会  協力:日本国際詩人協会
日 時:平成25年9月27日(金)13:30~16:00(予定)
場 所:ANAクラウンプラザホテル
(旧京都全日空ホテル京都市営地下鉄東西線二条城前下車)
参加費:無料  先着100名で受付終了

プログラム
「わたしの道:高村光太郎の『道程』をめぐって」講師 尾崎まこと氏(詩人)
「京みちと欧米のみち」  講師 宗田好史氏(京都府立大学教授)
「街道の文化・みちの文化」講師  藤本貴也氏 (全国街道交流会議 代表理事)
 
光太郎には「求道者」のイメージがつきまといます。「道」は、時に「道」を踏み外すこともあった光太郎を読み解く一つのキーワードと言えるでしょう。
 
詩では「道程」をはじめ、「さびしきみち」「老耼、道を行く」「詩の道」「最低にして最高の道」「根元の道」「永遠の大道」「われらの道」など、「道」を謳った作品が多く存在します。
 
短歌でも昭和24年(1949)の作で、次のようなものがあります。
 
 吾山にながれてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり
 
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光太郎の生き様が端的に表されています。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月5日

昭和20年(1945)の今日、8月の花巻空襲の際、身を挺して怪我人の看護に当たった総合花巻病院の職員表彰式に出席、自作の詩「非常の時」を朗読しました。
 

  非常の時
 
 非常の時012
 人安きをすてて人を救ふは難いかな。
 非常の時 
 人危きを冒して人を護るは貴いかな。
 非常の時
 身の安きと危きと両つながら忘じて
 ただ為すべきを為すは美しいかな。
 非常の時
 人かくの如きを行ふに堪ふるは
 偏に非常ならざるもの内にありて
 人をしてかくの如きを行はしむるならざらんや。
 大なるかな、
 常時胸臆の裡にかくれたるもの。
 さかんなるかな、
 人心機微の間に潜みたるもの。
 其日爆撃と銃撃との数刻は
 忽ち血と肉と骨との巷を現じて013
 岩手花巻の町為めに傾く。
 病院の窓ことごとく破れ、
 銃丸飛んで病舎を貫く。
 この時従容として血と肉と骨とを運び
 この時自若として病める者を護るは
 神にあらざるわれらが隣人、
 場を守つて動ぜざる職員の諸士なり。
 神にあらずして神に近きは
 職責人をしておのれを忘れしむるなり。
 われこれをきいて襟を正し、
 人間時に清く、
 弱き者亦時に限りなく強きを思ひ、
 内にかくれたるものの高きを
 凝然としてただ仰ぎ見るなり。
 
花巻空襲や職員表彰式については、加藤昭雄著『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部 平成11年=1999)、同『絵本 花巻がもえた日』(ツーワンライフ 平成24年=2012)に詳しく記述があります。
 
この詩は毎年5月15日に開催される花巻光太郎祭で、ほぼ毎回、花巻高等看護学校の学生さんによって朗読され続けています。

東京日野市での市民講座的なものの案内をネットで見つけました。
 
主催は公益財団法人社会教育協会さんです。 

こんなに面白い 近代文学入門コース 宮沢賢治と昭和の作家たち

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2013年秋季 宮沢賢治と昭和の作家たち
2013年 9/26 10/10・24 11/14・28 12/12 (全6回)
第②・④木曜日 10:00~12:00
講 師 青木登(紀行作家)
場 所 公益財団法人社会教育協会ゆうりか 日野市多摩平1-2-26 シンデレラビル
参加費 10,710円 教材費1,200円別途
 
宮沢賢治 は明29年、岩手県花巻市に生まれ、岩手県に理想郷ドリームランド・イーハトヴを建設しようとた。しかし、冷害や旱魃に見まわれ、世界恐慌に直面して挫折し、傷つき倒れた。
しかし賢治が夢みた理想の世界は賢治が残した童話や詩によって、私たちの胸に生き、限りない感動を与える。
取り上げる童話は、「どんぐりと山猫」「注文の多い料理 料理店」「なめとこ山の熊」「雪渡り」「セロ弾きゴーシュ」「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」「おきなぐさ」「よだかの星」「二十六夜」「銀河鉄道の夜」。
詩集「春と修羅」から妹の死を悲しんで詠んだ「無声慟哭」三部作、「岩手山」「小岩井農場」「岩手軽便鉄道」「雨ニモマケズ」「もうはたらくな」「原体剣舞連」。
 
賢治の生前に賢治の作品を評価した著名人の高村光太郎。光太郎は昭和20年に賢治の弟宮沢清六の招きで花巻に疎開し、花巻郊外の山小屋で農耕自炊生活をした。高村光太郎から取り上げる作品は、「智恵子抄」「典型」「智恵子抄その後」。
 
申し込み等は以下のリンクを参照して下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 8月27日

明治42年(1909)の今日、上州磯部温泉、赤城山などへの旅から帰京しました。
 
この年7月には3年半にわたる欧米留学から帰国しています。赤城山は光太郎が自分の中の日本の原風景と位置づけていたようで、留学前から何度も訪れ、そして帰国早々また訪れています。
 
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昨日の新聞から。
 
まずは『日本経済新聞』さんです。
 
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1面のコラム、「春秋」欄。光太郎がメインではありませんが、光太郎ともつながりのあった詩人・八木重吉にからめ、光太郎の名が出ています。
 
千葉県北東部、今朝は快晴です。気温も涼しく、文中にあるとおり「秋」の様相です。
 
続いて『朝日新聞』さん。
 
読書面に8/1のこのブログでご紹介した森まゆみさんの『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』の評が載りました。
 
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いずれもネットで閲覧可能です。ただし会員登録が必要ですが。

 
【今日は何の日・光太郎】 8月26日

昭和11年(1936)の今日、亡母・わか(通称とよ)を追憶する随筆「揺籃の歌」を書きました。
 
この「揺籃の歌」、光太郎の随筆集『某月某日』に収められていますが、それ以前に雑誌等に発表されていると考えられます。しかし、初出掲載誌が不明です。情報をお持ちの方はご教示下さい。

秋田からニュースが入りました。地元紙『秋田魁新報』さんの報道で、8/15のブログでご紹介しました詩「一億の号泣」に関してです。
 
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少し前に花巻の記念会から情報は得ていましたが、いいタイミングで発表されたと思います。
 
まだまだ日本各地、特に光太郎が足かけ8年暮らした東北にはこういうものが眠っている可能性があります。「うちにもこういうものがある」という方、情報をお寄せいただければ幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月19日

明治32年(1899)の今日、光雲の養母・悦が亡くなりました。
 
悦は光雲の師匠、高村東雲の姉。光雲は徴兵忌避のため、子供のいなかった悦の養子となりました。明治初期は養子であっても長男は徴兵対象外でした。

【今日は何の日・光太郎】 8月15日

昭和20年(1945)の今日、花巻の鳥谷ヶ崎神社で終戦の玉音放送を聴きました。
 
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鳥谷ヶ崎神社 戦前絵葉書
 
8月10日の花巻空襲で、逗留していた宮澤家も焼け出された光太郎は、元花巻中学校長の佐藤昌宅に厄介になっていました。その佐藤宅からほど近い鳥谷ヶ崎神社で、敗戦の放送を聴いたのが68年前の今日でした。
 
そしてその時の感興を謳った詩が翌日作られ、翌々日の『朝日新聞』『岩手日報』に掲載されました。
 
  一億の号泣001
 
綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来る
玉音の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し
苛も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす
真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
 
画像は鳥谷ヶ崎神社に、戦後立てられた「一億の号泣」詩碑です。

戦時中には誠意高揚のための詩を大量に書き殴っていた光太郎ですが、この「一億の号泣」も、まだその延長上にあります。
 
その後しばらく経ってから、「日を重ねるに従つて、/私の眼からは梁(うつばり)が取れ」(「終戦」・昭和22年=1947)、戦時中の自己を「乞はれるままに本を編んだり、/変な方角の詩を書いたり」(「おそろしい空虚」・同)と分析できるようになりました。
 
左に偏った人々はこれを「言い訳」と評します。逆に右に偏った人々は「変節」と捉えます。「不思議なほどの脱卻のあとに/ただ人たるの愛がある。」(「終戦」・「卻」は「却」の正字)という光太郎の言を、もう少し素直に受け止められないものでしょうか。
 
いずれにせよ、今日は終戦記念日。今日行われた全国戦没者追悼式での天皇陛下のお言葉「ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」を心に刻みつけたいものです。

今日から2泊3日で、宮城県の女川に行って参ります。このブログでたびたび紹介しています「女川光太郎祭」が、今年で22回目。明後日開催されます。
 
もともと昭和6年(1931)に『時事新報』の依頼で紀行文を書くため、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯を1ヶ月ほど旅したことにちなむイベントでした。しかし、一昨年の東日本大震災による津波で大きな被害を受けた女川。光太郎祭の中心となって活動されていた貝(佐々木)廣氏が亡くなり、その追悼や町の復興のため、という側面も出てきたイベントです。
 
こちらのリンクをご覧下さい。NHKさんの「東日本大震災アーカイブス」の中のページです。

昨年3月に放送された、貝(佐々木)氏が光太郎顕彰に力を注いだことなどを語る、奥様・英子さんの証言、現在の光太郎文学碑の様子などが動画で見られます。平成3年(1991)の、女川港に建てられた光太郎文学碑除幕の時の貴重な動画も含まれています。

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現在の光太郎祭は、廣氏の意志を継いだ英子様主導となり、今年は英子様のお店・佐々木釣具店の入っている仮設商店街・きぼうの鐘商店街の集会所で開催されます。日時は8/9(金)、午後2時より。当方、単独で1本、北川太一先生とのコラボで1本、計2本の講演をこなします。
 
お時間のある方、ぜひお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月8日

昭和63年(1988)の今日、池袋西武アート・フォーラムで、「生誕100年記念 智恵子紙絵展」が開幕しました。
 
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新刊です。少し前に『朝日新聞』さんに載った書評を読んで購入しようと思い、取り寄せました。 
佐滝剛弘著 平成25年6月20日 勁草書房刊 定価2400円+税
 
明治41年。日本で最初に発刊された日本史の辞典には、実に1万を超える人々の予約が入っていた。文人、政治家、実業家、教育者、市井の人々……。彼らはなぜ初任給よりも高価な本を購入しようとしたのか? それらは今どこに、どのように眠っているのか? 老舗旅館の蔵で見つかった「予約者芳名録」が紡ぐ、知られざる本の熱い物語。(勁草書房さんサイトより)

 
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『国史大辞典』とは、明治41年(1909)に刊行された2冊組の辞書で、その名の通り歴史上の人物や項目が五十音順に配された、当時としては斬新かつ豪華なものでした。版元は現在も続く歴史関係出版社の吉川弘文館。戦後にはさらに全17巻で刊行されました。
 
発行前には各種新聞等に広告が大きく出、「予約購入」という手法がとられたとのこと。
 
著者の佐滝氏、群馬県のとある旅館に泊まった際に、この『国史大辞典』の「予約者芳名録」という冊子をみせてもらったそうです。後に分かるのですが、この「予約者芳名録」自体が非常に珍しいもので、ほとんど現存が確認できないとのことです。
 
「予約者芳名録」。刊行は本冊刊行の前年、明治40年(1908)です。そこには道府県別に10,000人ほどの名がずらりと並んでおり、さながら当時の文化人一覧のように、よく知られた名が綺羅星のごとく並んでいるそうです。
 
その中で、著者が最初に見つけた「有名人」は与謝野晶子。続いて2番目が光雲だったそうです。
 
この頃、光太郎は外遊中。光雲は東京美術学校に奉職していました。したがって、光太郎の需めではなく、光雲自身が購入したくて予約したのでしょう。しかし、光雲はもともと江戸の仏師出身で、活字には縁遠い生活を送っていたはずです。それがどうしてこんな大冊を購入したのか、ということになります。おそらく、全2冊のうちの別冊「挿絵及年表」の方が、有職故実的なものから地図、建築の図面など豊富に図版を収めているため、彫刻制作の参考にしようとしたのではないかと考えられます。
 
以下、『国史大辞典を予約した人々』は、「こんな人もいる」「こんな名前もあった」と、次々紹介していきます。個人だけでなく様々な団体、有名人ではなくその血縁者も含まれます。そして名前の羅列に終わらず、それぞれ簡単にですが紹介がなされ、当時の日本の文化的曼荼羅といった感があります。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月4日

大正3年(1914)の今日、銀座のカフェ・ライオンで第一回我等談話会が開催され、出席しました。
 
『我等』はこの年刊行された雑誌で、光太郎は詩「冬が来た」や「牛」など代表作のいくつかをここに発表しています。

新刊です。
 
智恵子が創刊号の表紙絵を描いた雑誌『青鞜』の、その誕生(明治44年=1911)から終焉(大正5年=1916)までを追った労作です。もちろん智恵子にも随所で触れています。 

『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること

森まゆみ著 平成25年6月27日 平凡社   定価1900円+税
 
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女性による女性のための雑誌『青鞜』の歩みを、平塚らいてうや伊藤野枝らの生き方とともに、また100年後に著者自身が営んだ地域雑誌『谷根千』を引合いにしながら丹念に追った意欲作。
(平凡社さんサイトから)
 
雑誌の立ち上げに高揚したのも束の間、集まらない原稿、五色の酒や吉原登楼の波紋、マスコミのバッシング……明治・大正を駆け抜けた平塚らいてう等同人たちの群像を、同じ千駄木で地域雑誌『谷根千』を運営した著者が描く。
(帯から)
 
類書は他にも刊行されていますが、それらと違うところは、上記紹介文にあるとおり、「編集者」としての視点で描かれていることです。
 
 
著者の森まゆみさんは、かつて地域雑誌『谷中根津千駄木』を刊行されていました。今日、一般的になった「谷根千」という呼称はここから生まれたものです。その際のご経験が、本書の記述に生かされているようです(実はまだ熟読していません。すみません)。
 
ちなみに『谷中根津千駄木』では、谷中に生まれ、千駄木で暮らした光太郎もたびたび取り上げて下さいました。
 

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 そういえば、雑誌『青鞜』が産声をあげたのも、千駄木です。社員の一人、物集和子の自宅が最初の事務所。ここは不忍通りから団子坂を上がりきった右側、森鷗外の観潮楼のはす向かいです。

ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】002 8月1日

昭和54年(1979)の今日、六耀社から『高村光太郎彫刻全作品』が刊行されました。
 
B4判350ページ、定価五万円の大著です。現存するものはもちろん、焼失したものや、着手したただけ、あるいは構想のみで未完に終わったものも含め、この時点で把握されていた光太郎の彫刻作品全てのデータベースです。
 
千葉市立美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の図録作成の際にも、大いに利用させていただきました。
 
現在でも時折古書店のサイト等で売りに出ています。

宮城県牡鹿郡女川町。一昨年の東日本大震災000で、甚大な被害を受けた町です。今でも時折、復興関連の報道などで取り上げられています。
 
ここ女川町で、震災前から毎年8月9日に、「女川光太郎祭」というイベントが開かれ続けています。昭和6年(1931)8月、『時事新報』の依頼で紀行文を書くことになった光太郎は、この地を含む三陸一帯を一ヶ月ほど旅して歩きました。それを記念して、光太郎の精神を受け継ぐといった意味合いです。
 
一昨年の震災の日、、中心になって活動されていた貝(佐々木)廣氏は、津波に呑まれて亡くなりました。町自体も、港に近い繁華街は壊滅、今もみなさん仮設住宅にお住まいです。しかし、途絶えることなく光太郎祭が続けられています。当方、昨年の第21回光太郎祭に参加いたしましたが、本当に頭の下がる思いです。
 
今年も8月9日、第22回女川光太郎祭が開催されます。
 
震災前は一貫して、光太郎文学碑の建つ海岸公園で行われていましたが、震災のあった一昨年は女川第一小学校、昨年は仮設住宅内の坂本龍一マルシェと、会場が移りました。今年は元の繁華街から西へ少し行った高台にあるきぼうの鐘商店街内に新しくできた集会所が会場になるそうです。
 
今年から、当方、講演の講師を頼まれました。おそらく永続的にやっていくことになると思います。
 
それ以外にも、恒例になっている、高村光太郎記念海会務局長・北川太一先生のご講演も予定されています。北川先生、ご高齢のため、いったんは退かれたのですが、やはり亡くなった貝氏の御魂に応えるためにも、とお考えなのでしょう。お体の許す限りは、女川に行かれるおつもりのようです。
 
詳細な日程はまだですが、午後2時から当方の講演「高村光太郎、その生の軌跡 -連作詩「暗愚小伝」をめぐって ①」、午後3時から北川先生によるご講演「(観自在こそ)―光太郎の底を貫く東方の信仰―」です。今月初めに千葉市美術館で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」関連行事での記念講演会同様、当方が助手(聞き手)を務めます。手前味噌ですが、意外と千葉での講演が好評だったので、同じ形でやります。
 
その他に(というと失礼ですが)、地元の皆様による光太郎詩の朗読、ご常連のギタリスト・宮川菊佳氏、オペラ歌手・本宮寛子さんによるアトラクションなども計画されています。
 
一年ぶりの女川。昨年は更地と化した元の繁華街に横たわるビルに驚きましたが、一年間でどれだけ復興が進んでいるのか、この目で見てきます。都合のつく方は、ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月27日

昭和30年(1955)の今日、夕食に銀座竹葉亭のウナギの蒲焼きを4串食べました。
 
この日の午後、北川太一先生が持参されたものです。この店も、先日ご紹介した中華料理「好々」同様、現存します。

季節外れのタイトルで申し訳ありません(笑)。
 
一昨日、福島市公会堂で開催された宇宙飛行士・山崎直子さんの講演会につき、オープニングに出演したシャンソン歌手モンデンモモさんがブログに書かれています。
 
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画像は「道程」を歌うモモさん。当方がモモさんのiPadで撮影しました。
 
ところで曲のタイトルを「道程」としましたが、正確には「道程~冬が来た」です。一種のメドレーで、最初にヘ長調(F)・♩=75・グランディオーソで「道程」。中間部でヘ短調(Fマイナー)に転調、♩=135と倍速に近いアップテンポで「冬が来た」が挿入され、ダルセーニョ。また「道程」に戻り、途中からCodaに入って終わり、という構成です。
 
要するに「道程」の途中に曲調を変えて「冬が来た」が挿入されているということです。
 
  冬が来た
 
きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた
 
きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た
 
この「冬が来た」。「道程」とほぼ同じ時期の作品(「道程」(雑誌発表形)は大正3年=1914の2月、「冬が来た」は前年12月)です。
 
「道程」ほどではありませんが、光太郎作品の中では有名なものの一つですね。教科書等にも採用されていると思います。
 
そこで、NHKラジオ第2放送でオンエアされている「NHK高校講座 国語総合」で、この「冬が来た」が扱われます。講師は都立国分寺高等学校教諭・渡部真一氏、今週土曜日(7/27)午後8:10~8:30です。
 
ちなみに「理解度チェック」というページも発見しました。
 
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設問3つに回答し、「決定」を押すと正解と解説、正解者の割合などが表示されます。ぜひ挑戦してみて下さい。
 
しかし、自作の詩がこういう使われ方をしていると知ったら、空の上の光太郎は苦笑しそうな気がします(笑)。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月24日

昭和30年(1955)の今日、中野のアトリエに神田淡路町の中華料理店「好々(ハオハオ)」の料理人に来てもらい、出張料理を堪能しました。
 
ちなみにこの店は現存します。

昨日、朝一番で花巻に向かい、継続中だった調査を完了させ、大沢温泉さんに一泊、今朝、福島に向かいました。福島市公会堂で開催の、「宇宙飛行士山崎直子氏講演会 ~将来への夢と希望の実現に向けて~」のためです。
 
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000昨日のブログにも書きましたが、山崎さんがかつて光太郎の詩「道程」に支えられたという縁で、「道程」など光太郎の詩に曲を付けて歌われているシャンソン歌手(なぜか今日は『シンガーソングライター』と紹介されていました)のモンデンモモさんがオープニングセレモニーにご出演。共にオリジナル曲の「道程」と「花見山」を歌われました。
 
「花見山」は福島市にある公園の名前です。当方、実際に行ったことはありませんが旅番組で取り上げられているのを見たことがあります。約5ヘクタールの小高い山に、桜をはじめ様々な花が植えられていて、福島を代表する花の名所だそうです。驚くのは、そこが個人の土地であり、所有者の方が善意で一般に無料開放なさっているということ。すばらしいことですね。
 
で、モモさん、その花見山を訪れての感動を曲にしたというわけです。
 
その後、山崎さんのご講演。スクリーンに宇宙での貴重な画像を映しつつお話をなさり、非常にわかりやすい内容でした。地元の小中学生が学校単位で多数聴きに来ていたので、その子供たちにもわかりやすいように、というご配慮が随所に感じられました。おかげで理数系オンチの当方も興味深く聴くことが出来ました。
 
光太郎のお話も出ました。中学2,3年生の時の担任の先生が「道程」を黒板に書いて、熱く語られたこと。その時はあまり心に響くものはなかったそうですが、後に実際に宇宙に行かれるまでの苦しい訓練の時期(実に10年以上)などに、この詩が支えになったことなど。
 
山崎さん以外にも、この詩に多かれ少なかれ影響を受けたという人は多いのではないでしょうか。およそ100年前(正確には99年前。したがって来年は「道程」100周年です)に書かれた詩が、今も多くの人を支えているということに、あらためて光太郎のすごさを感じます。
 
終了後、緞帳をおろしたステージでの記念撮影。中央が山崎さん。後列にはモモさんとピアノの砂原さんもいらっしゃいます。

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その後、山崎さんと、連翹忌のことなどお話しさせていただきました。お渡しした名刺にこのブログのURLも書いてありますので、ご覧いただけるのではないかと期待しております。
 
ところで、今日は福島ではいろいろな動きがありました。やけに警察車両が目立つな、と思っていたら、天皇皇后両陛下が来県、飯舘村の居住制限区域を視察なさって、今夜は飯坂温泉に泊まられるそうです。それからいわき市ではプロ野球のオールスターゲーム第3戦が開催されています。
 
東北は、まだまだ復興途上です。ぜひこの夏休みには足を運んでいただき、復興支援をお願いしたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月22日

昭和27年(1952)の今日、山形・米沢に建てられた詩人・森英介の墓標の文字を揮毫しました。
 
森英介(大6=1917~昭26=1951)は米沢出身の詩人。生前に(正確にはぎりぎり間に合わずなくなりましたが)刊行された唯一の詩集『火の聖女』には、光太郎が序文を寄せています。この詩集は活字工として働いていた森が自ら紙型を組み、印刷まで完了しましたが、その刊行を見ることなく、森はその直後に胃穿孔で急逝してしまいました。
 
翌年に建てられることになった墓標の文字を依頼された光太郎は、哀惜の意を込めて正面に刻まれた「森英介之墓」、向かって左側面の「智応院正行日重居士」(戒名)を揮毫しました。
 
当方、10年ほど前に開通間もない山形新幹線に乗ってこの墓標を見に行きました。市内相生町の善立寺というお寺にひっそりと佇んでいました。今もそのまま残っているのではないかと思います。おそらく地元の方もほとんど光太郎の文字がここにあるというのはご存じないのではないでしょうか。

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福島の地方紙『福島民友』さんの記事です。  

“夢実現までの努力”語る 22日、山崎直子さん講演会

 福島ゾンタクラブ主催の「宇宙飛行士山崎直001子講演会」は22日午後1時30分から、福島市公会堂で開かれる。同市教委、福島民友新聞社などの後援。
 同クラブが毎年開催している学校支援事業の一環で、記念講演会は初めて。当日は山崎さんが「将来への夢と希望の実現に向けて」と題して講演。宇宙飛行士としての夢を実現するまでの努力などを紹介するほか、夢を持つこと、その夢を実現するまでの努力の大切さなどを訴える。
 定員は1千人。小中学生、高校生は無料だが、入場整理券が必要。大学生と一般は1000円。チケットは、中合、岡崎陶器店、あきたや楽器店で取り扱っている。問い合わせは白川明美実行委員長(電話024・542・4041)へ。
(2013年7月4日 福島民友おでかけニュース)
 
山崎直子さんといえば、2010年、スペースシャトル・ディスカバリーに搭乗、向井千秋さんに続き、日本人2人目の女性宇宙飛行士として脚光を浴びました。その頃、山崎さんを支えた座右の銘の一つが、光太郎の詩「道程」の一節「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」だったことが報じられたのを記憶されている方も多いことでしょう。
 
才色兼備の女性に愛され、あの世の光太郎も光栄と感じているのではないでしょうか。
 
さて、もうお一方、光太郎をこよなく愛する才色兼備の女性。このブログにたびたび登場していただいている、シャンソン歌手のモンデンモモさん。「道程」などの光太郎の詩にご自分で曲を付け、歌われています。「モンデン」は本名で、漢字で「門田」、れっきとした日本人なのですが、よく「何人ですか?」と聴かれ、そういう場合、「宇宙人です」と答えています。山崎さんとは違った意味で凄い女性です。
 
明日の福島での講演会では、その宇宙飛行士と宇宙人のコラボが実現します。どのタイミングになるのかよくわからないのですが、同じ福島公会堂のステージでモモさんが自作の「道程」を歌われるとのこと。
 
モモさんに聞いた話では、山崎さんのお知り合いの方が、山崎さんと「道程」の関連から、「こんなものがありますよ」と、モモさんのCD(ちなみにその制作には当方も関わっています)を差し上げたとのことで、その縁で今回のコラボが実現しました。
 
当方、モモさんのお供で福島に行って参ります。あわよくば来年以降の連翹忌に、山崎さんに入らしていただこうという目論見ももちろんあります。
 
さて、花巻での調査がまだ途中です。そこで、方角が「同じなので、今日は朝一で花巻に行き、調査。例によって大沢温泉さんに一泊、明日の朝、福島に向かいます。講演会の様子は帰ってきてからレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月21日

明治16年(1883)の今日、光太郎のすぐ上の姉・うめが幼くして歿しました。
 
この年3月に生まれた光太郎はまだ赤ん坊です。したがって、光太郎にはうめに関する直接の記憶はありませんでした。うめは享年数えで5歳。利発な子供だったということです。

朝と夕方、愛犬(柴犬系雑種・9歳)の散歩をしています。やけに暑い日は涼を求め、雨の日は多少なりとも雨を避けるため、裏山を歩くことがあります。戦国時代には山城があったという小山で、舗装されていない山道があり、ちょっとした森林浴気分が味わえます。
 
裏山の一角にヤマユリが群生している場所が二カ所ほどあり、このところ満開です。香りも強烈です。
 
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さて、例によって……
 
【今日は何の日・光太郎】 7月19日

昭和16年(1941)の今日、詩「百合がにほふ」を書きました。
 
   百合がにほふ
   
どうでもよい事と
どうでもよくない事とある。002
あらぬ事にうろたへたり、
さし置きがたい事にうかつであつたり、
さういふ不明はよさう。
千載の見とほしによる事と
今が今のつとめとがある。
それとこれとのけぢめもつかず、
結局議論に終るのはよさう。
庭前の百合の花がにほつてくる。
私はその小さい芽からの成長を知つてゐる。
いかに営営たる毎日であつたかを知つてゐる。003
私は最低に生きよう。
そして最高をこひねがはう。
最高とはこの天然の格律に循つて、
千載の悠久の意味と、
今日の非常の意味とに目ざめた上、
われら民族のどうでもよくない一大事に
数ならぬ醜(しこ)のこの身をささげる事だ。
 
この年12月には太平洋戦争が勃発します。すでに中国との戦争は泥沼化しつつある時期。そういう時期であることをうかがわせる内容ですね。
 
さて、この詩は翌年4月に刊行された詩集『大いなる日に』に収録されており、また、草稿も残されているのでこういう詩だというのはわかっています。しかし初出掲載誌が不詳です。残された草稿の欄外には<「皇楯」へ>というメモが書かれています。『皇楯(みたて)』は軍人会館図書部刊行の雑誌。国会図書館には所蔵がなく、日本近代文学館や石川武美記念図書館(旧:お茶の水図書館)などに少部数の所蔵があり、調べてみましたがこの詩が載った号はありませんでした。おそらく昭和16年(1941)夏に刊行された号に載ったと思われます。
 
というわけで、この「百合がにほふ」の載った『皇楯』の情報を求めています。ご存じの方はご教示下さい。

追記 昭和16年(1941)9月1日発行の『皇楯』第2巻第9号に掲載を確認し、現物を入手しました。

一昨日、福島県川内村の草野心平を偲ぶイベント「天山祭り」に行って参りました。今日も川内村ネタで行きます。
 
もともと草野心平と川内村の縁は、蛙。蛙をモチーフにした詩をたくさん書いた心平が、樹上に産卵するというモリアオガエルに興味を持ち、その生息地である川内村を訪れたことに始まります。
 
先日の天山祭りでは、心平の肉声の録音による詩の朗読が流されました。宮沢賢治の「永訣の朝」「雨ニモマケズ」、光太郎の「鉄を愛す」「樹下の二人」、そして心平自身の詩「ごびらっふの独白」。「蛙語」で書かれています。
 
  ごびらっふの独白 001

 

るてえる びる もれとりり がいく。

ぐう であとびん むはありんく るてえる。

けえる さみんだ げらげれんで。

くろおむ てやあら ろん るるむ かみ う りりうむ。

なみかんた りんり。

なみかんたい りんり もろうふ ける げんげ しらすてえる。

けるぱ うりりる うりりる びる るてえる。

きり ろうふ ぷりりん びる けんせりあ。

じゅろうで いろあ ぼらあむ でる あんぶりりよ。 002

ぷう せりを てる。

ぼろびいろ てる。

ぐう しありる う ぐらびら とれも でる ぐりせりあ ろとうる

ける ありたぶりあ。

ぷう かんせりて る りりかんだ う きんきたんげ。

ぐうら しありるだ けんた るてえる とれかんだ。

いい げるせいた。

でるけ ぷりむ かににん りんり。

おりぢぐらん う ぐうて たんたけえる。

びる さりを とうかんてりを。

いい びりやん げるせえた。

ばらあら ばらあ。
 
この詩は昭和23年(1948)に刊行された心平の詩集『定本蛙』に収められていますが、その扉は光太郎の揮毫です。
 
まず光太郎には書けない詩ですね。光太郎は自分にはない心平のこの種の才能を高く評価していました。
 
この詩には「日本語訳」もついています。003
 
幸福といふものはたわいなくつていいものだ。
おれはいま土のなかの靄のやうな幸福につつまれてゐる。
地上の夏の大歓喜の。
夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇のなかの世界がくる。
みんな孤独で。
みんなの孤独が通じあふたしかな存在をほのぼの意識し。 
うつらうつらの日をすごすことは幸福である。
この設計は神に通ずるわれわれの。
侏羅紀の先祖がやつてくれた。
考へることをしないこと。
率直なこと。
夢をみること。
地上の動物の中でもつとも永い歴史をわれわれがもつてゐるといふことは 平凡であるが偉大である。
とおれは思ふ。
悲劇とか痛憤とかそんな道程のことではない。
われわれはただたわいない幸福をこそうれしいとする。
ああ虹が。
おれの孤独に虹がみえる。
おれの単簡な脳の組織は。
言わば即ち天である。
美しい虹だ。
ばらあら ばらあ。

他にも「誕生祭」という詩では「ぎゃわろっぎゃわろっぎゃわろろろろりっ」、「春のうた」では「ケルルン クック」(笑)。
 
さて、一昨日。天山祭りとその後の懇親会の間が一時間以上空いていましたので、村有数のモリアオガエル繁殖地である平伏沼(へぶすぬま)に行ってみました。
 
蕭々と降る雨の中、村の中心部から7~8㎞はあったでしょうか、延々と続く山道を「ほんとにこの道でいいのかな」と思いつつ運転しました。これ以上車で行けない、というところに駐車し、熊でも出そうな森の中をさらに200㍍ほど歩きました。
 
やがて眼前に沼が。意外だったのは、沼といいつつ水が無いことです。
 
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木の下に発泡スチロールの容器が100個ほども置いてあるでしょうか。中を見ると……。
 
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これがモリアオガエルのオタマジャクシなんですね。心平の魂を受け継ぎ(笑)、元気に育ってほしいものです。
 
親ガエルは盛んに鳴いていましたが、その姿は見えませんでした。また、特徴的な樹上の卵胞も、それらしきものは見えましたが、よくわかりませんでした。雨も降っていましたし、もう日暮れが近づいていましたので。
 
モリアオガエルの繁殖地として国の天然記念物に指定されているのは、ここと、岩手県にもう一カ所だけだそうです。原発事故に右往左往する我々人間を見て、蛙たちは、そしてあの世の心平や光太郎は、どう思っているのでしょうか……。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月15日

昭和7年(1932)の今日、智恵子が大量の睡眠薬を服用しての自殺未遂がありました。
 

昨日は、第48回天山祭りにお招きいた002だき、福島川内村に行って参りました。川内には昨秋の心平忌日「かえる忌」でお邪魔しましたが、天山祭りへの参加は今回が初めてでした。
 
原発事故による全村避難は昨年解除され、帰村宣言が出されましたが、まだ帰れない村民の皆さんも多く、また、村へ向かう道路もまだ復旧工事中の箇所もありました。ただ、復興への歩みはゆっくりながらも進んでいるようです。
 
天山祭りとは、川内村名誉村民にして、隣接するいわき市出身の詩人・草野心平の遺徳を偲ぶ集いです。元々は心平が蔵書3,000冊を寄贈して出来た「天山文庫」、その落成記念に始まったもののようですが、生前の心平自身がこの祭りに参加、お酒やイワナ、山菜などに舌鼓を打ったとのこと。
 
心平没後はその遺徳を偲ぶ集いとなりましたが、堅苦しいものではなく、心平自身が参加していた当時と同じように、郷土芸能などの披露が続けられています。
 
昨日は福島浜通りは終日雨のため、本来の会場である天山文庫前でなく、少し離れた「いわなの郷体験交流館」という施設で行われました。参加者100名以上だったと思います。
 
話は変わりますが、光太郎は稀代の雨男。生前から何かあるときは必ず雨(冬場は雪)でした。亡くなった4月2日も、4月にも関わらず季節外れの大雪を降らせました。今もその神通力は健在。4月2日の連翹忌は雨が多いことで有名です(もちろん今年も)。
 
というわけで、昨日は当方が光太郎を連れて行ってしまったための雨かな、などと思っております。すみませんでした(笑)。
 
さて、昨日の式次第は以下の通りでした。
 
開祭の言葉(川内村教育長 秋本正氏)003
実行委員長挨拶(石井芳信氏)
村長挨拶(遠藤雄幸氏)
かわうち草野心平記念館館長挨拶(晒名昇氏)
来賓紹介
郷土芸能披露(高田島神楽舞)
献花
草野心平肉声CDによる朗読
詩の朗読(いわき市立草野心平記念文学館長 粟津則雄氏/『歴程』同人 松尾真由美氏)
鏡開き・献杯
懇親会
アトラクション
おひらき
 
その後、村内の小松屋旅館様で懇親会。心平のご遺族を含む30名ほどが集まり、それぞれに心平への思いなどを語りました。当方、生前の光太郎がお世話になった御礼等申し述べました。
 
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川内村では天山祭り以外にも、秋には心平の忌日の集いとして「かえる忌」が行われています。今年は10/26(土)の開催だそうです(当方、講演を依頼されました)。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月14日

昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに電気冷蔵庫が届きました。
 
これも心平の配慮です。心平が筑摩書房にかけあって、未払いの印税をもぎとって来て(笑)購入しました。以下、心平著『わが光太郎』より。
 
話のついでに牛乳がかわりやすくて弱るということを言われたので、冷蔵庫を買われるんですね、とすすめると、毎日アトリエのなかに氷を入れにはいられるのはたまらない、とのことなので、
「じゃ電気冷蔵庫ですね。」
「電気の方はたかいだろうな。」
「筑摩の印税、あれを前借りすればいいじゃないですか。」
「前借はぼくはきらいだ。」
「前借っていったって、もう本(注・『現代日本文学全集第二十四巻 高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集』)は出たんでしょう。」
「出るには出たけど。」
「とも角ぼくにまかして下さい。」
「そうねエ。」
 その「そうねエ。」は一オクターヴ低く、不満げな不承不承の返事だった。
 翌る日私はイギリス製のアストラルを品定めして筑摩のオヤジ(注・古田晁)にあいにいった。オヤジはすぐ出してくれた。
 
白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」といわれるようになるのはもう少し後の話です。

昭和12年(1937)に作られた光太郎の詩に「わが大空」というものがあります。
 
  わが大空002
 
こころかろやかに みづみづしく
あかつきの小鳥のやうに
胸はばたき
身うちあたらしく力満つる時
かの大空をみれば
限りなく深きもの高きもの我を待つ
ああ大空 わが大空
 
こころなやましく いらだたしく
逃げまどふ狐のやうに
胸さわだち
身の置くところも無きおもひの時
かの大空をみれば
美しくひろきものつよきもの我を待つ
ああ大空 わが大空

昭和18年(1943)に刊行された光太郎の詩集『をぢさんの詩』に収録されていますし、光太郎が手元に残した草稿も現存するので、詩の内容はわかっていました。
 
草稿の欄外には「音楽学校へ 唱歌歌詞として」という書き込みがあり、東京音楽学校(現・東京芸大)に歌詞として提供したと読み取れます。しかし、長らく初出発表誌が不明で、結局は作曲されないままお蔵入りになったのかと思われていました。
 
ところが、一昨年、国立国会図書館の近代デジタルデータで公開された当時の音楽教科書(師範学校、高等女学校、実業女学校用)の中に、この「わが大空」の楽譜が掲載されていました。
 
しかし、現代では忘れ去られてしまった曲なわけです。
 
作曲は故・松本民之助。坂本龍一氏の師にあたり、子息の松本日之春氏も作曲家として活躍中です。当方、たまたま日之春氏のインストゥルメンタルのCDアルバムを持っています。エスニックサウンド的な不思議な曲が並んでいます。そして弟子が坂本龍一氏。するとやはり師匠も一筋縄ではいきません(笑)。
 
この「わが大空」も、これが本当に1930年代の作曲か、というような曲調です。他にも光太郎作詞の歌曲は複数あるのですが、大半は軍歌調の平易なメロディーです。ところがこの「わが大空」は現代音楽のはしり、といった感じです。
 
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4分の3拍子、♩=108という速めの指定で、一、二番とも変イ長調(A♭)で始まり、中間部でロ長調(B)に転調、再び変イ長調に戻って終わる構成になっています。
 
だいたい、変イ長調(A♭)というとフラット4つで演奏しにくいので、もう半音下げてト長調(G)にした方がずっと簡単です。転調してロ長調(B)に変わりますが、今度はシャープが5つ。これも半音下げれば変ロ長調(B♭)となりフラット2つで済みます。そうしないところに何らかのこだわりがあるのでしょうが、こだわる理由がよくわかりません。
 
まあ、歌う方は固定ドでなく移動ドで捉えるのがほとんどですので、キーが何であろうがそれほど影響はないのかもしれませんが、それにしてもダブルシャープも多用しており、楽譜が煩瑣です。
 
それ以外にも一、二番で旋律、リズムに違いもありますし、二部合唱で作られていて、二つのパートでかなりポリフォニック(リズムや歌詞の配置に違いがあること)になっていますし、和音の構成も一筋縄ではいかず、さらに各パートとも音域が広い作りになっています。
 
ピアノ伴奏は前奏と間奏の部分しか掲載されていませんが、それだけでも凝った作りになっているのがわかります。全体としてはどれほど凝った伴奏になっているのだろう、などと思ってしまいます。
 
というわけで、歌曲としてのクオリティーは非常に高いのですが、はっきりいうと、当時の師範学校、高等女学校、実業女学校の生徒が、この曲をしっかり合唱できたわけがありません。それほど難易度の高い曲です。そうした点が、この曲が忘れ去られてしまった原因の一つだろうと思われます。
 
昨日も書きましたが、楽譜は当方刊行の冊子『光太郎資料』の今秋発行号に掲載します。ご入用の方はご連絡下さい。
 
それから、この「わが大空」、レコード化された記録が見あたりません。もしその辺りの情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご教示いただけると幸いです。
 

【今日は何の日・光太郎】 7月11日001

昭和2年(1927)の今日、白根・草津・信州別所などを回った9日間の旅から帰りました。
 
以前のこのブログにも書きましたが、信州別所は当方父祖の地です。ここは「信州の鎌倉」ともいわれ、鎌倉時代の堂宇や仏像などが数多く残っています。特に珍しいのが安楽寺というお寺にある八角三重塔(国宝)。現存する近世以前の木造の塔で八角形になっているのはこれが唯一の例だそうです。
 
一見、四重に見えますが、一番下の屋根は裳階(もこし)という庇(ひさし)で、内部構造は三重です。
 
さて、光太郎、この旅の途上で購入したこの塔の絵葉書を、詩人の宮崎丈二に送っています。
 
御はがき忝く拝見、此間中からかけ違つてばかり居ておめにかかれずに居ます。
初夏の暑さで頭を悪くしたのと山恋しさに堪へないのとで三日から白根山方面の山を歩き、二三の温泉へも入浴して昨日かへりました。おかげで心身一新した感があり、此夏十分に働けさうです。いづれ又。
高村光太郎
 
父祖の地なので、子供の頃から何度も行った場所ですが、ここを光太郎も訪れたんだなと思うと感慨深いものがあります。

一昨日、神田の古書会館に行ったついでに、千駄木の森鷗外記念館にも足を伸ばしました。
 
現在、同館では企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」を開催中です。その中の「ミニ企画」として「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」というコーナーが設けられています。
 
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鷗外はあくまで小説家ですが、若い頃にはドイツ留学中に触れたゲーテなどの詩を翻訳したり、千駄木団子坂上の自宅・観潮楼(光太郎アトリエは目と鼻の先です)で歌会を催したりするなど、詩歌にも親しんでいました。観潮楼歌会には、伊藤左千夫や石川啄木、そして光太郎も参加しています。
 
鷗外の作もなかなかのもので、朴訥な中にも厳めしさが漂う、まさに鷗外その人のような歌風です。そういった関連の展示物が並ぶ中に、ミニ企画・「駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」。以下、リーフレットから引用させていただきます(図録は刊行されていませんでした)。
 
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特に目新しいものは並んでいませんでしたが、光太郎から鷗外宛の葉書は肉筆ものですのでかなり貴重です。「おやっ」と思ったのは鉄幹与謝野寛から鷗外宛の書簡。明治42年に留学から戻った光太郎の帰朝歓迎会の案内で、与謝野寛が呼びかけたというのは存じませんでした。この会には招きに応じ、鷗外も参加しています。
 
ちなみに下の画像は展示されたものと同じ雑誌『スバル』明治42年10月号の裏表紙。たまたま当方の手元にも一冊在ります。光太郎の描いた戯画で、「観潮楼安置大威徳明王」と題されていますが、鷗外を茶化したものです。大威徳明王は不動明王と同じく五大明王の一人で、仏法を守護する闘神。たしかに鷗外のイメージにぴったりといえばそうですが、光太郎、大先輩をこんなふうにいじるとは、とんでもありませんね……(笑)。
 
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企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」(含「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」)は9月8日まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今日はいよいよ千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」です。当方はあくまでサブで、メインは北川太一先生ですので気楽ですが、頑張ります!
 
【今日は何の日・光太郎】 7月7日

明治37年(1904)の今日、この年2回目の赤城山登山ををしました。後に与謝野寛、伊上凡骨ら新詩社同人も赤城を訪れ、合流しています。

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