カテゴリ: 文学

目黒区駒場にある日本近代文学館でのイベント情報です。 

「秋の特別展 新収蔵資料展」


期 日 : 2013年9月28日(土)~11月23日(土)
会 場 : 日本近代文学館  東京都目黒区駒場4-3-55
時 間 : 午前9:30~午後4:30(入館は4:00まで)
休 館 : 日・月曜日、第4木曜日(10月24日)
料 金 : 一般 200円 (20名以上の団体 100円、維持会・友の会会員 無料)
監 修 : 池内輝雄
 
日本近代文学館の収蔵資料は、そのほとんどが文学者またはそのご遺族、出版社・新聞社、研究団体など多くの方々からのご寄贈によるもので、その貴重な資料を展示・公開する新収蔵資料展を定期的に開催しています。
 
本展覧会では、2010年以降に新しく収蔵した資料のなかから、特色のある品々をご紹介いたします。
この3年間で新たに加わった「内村鑑三研究所文庫」「紅野敏郎文庫」「齋藤磯雄文庫」の資料をはじめ、本年春に寄贈を受け話題となった太宰治の学生時代のノート・教科書類や、夏目漱石が門下生の鈴木三重吉に「吾輩は猫である」のモデルとなった猫の死を通知した「猫の死亡通知」など、貴重な資料を多数展示いたします。
 
鈴木三重吉宛夏目漱石「猫の死亡通知」(明治41年9月14日)
鈴木三重吉宛夏目漱石(明治41年9月14日)
「猫の死亡通知」
また、三島由紀夫が自死する直前の1970年11月に池袋の東武百貨店で開催された「三島由紀夫展」のために揮毫した屏風は、同展以来の公開となります。
 
主な出品資料
太宰治の学生時代のノートや教科書、およびそれらを保管していた信玄袋
鈴木三重吉宛夏目漱石「猫の死亡通知」
村上浪六・信彦資料より 浪六画「赤裸ニ窺天下」
中野重治原稿「『平和革命』と文化ということ」
中村真一郎日記
内村鑑三研究所文庫の蔵書
齋藤磯雄文庫より 齋藤著「ピモダン館」原稿
紅野敏郎文庫より 谷崎潤一郎「近松秋江『黒髪』序文」原稿
登張竹風・正実資料より 竹風宛泉鏡花書簡
田村松魚資料より 松魚宛高村光太郎書簡
北村孟徳資料より 孟徳宛内田百閒書簡
楠山正雄資料より 『新訳イソップ物語』初版本
香西昇旧蔵直木三十五資料より 直木「大阪落城」原稿
寺崎浩資料より 「ゴルキー通りの女」原稿
芥川賞・直木賞コレクション新規収蔵原稿
 
同時開催 川端康成記念室 「モダニズムと浅草」

田村松魚(しょうぎょ)は幸田露伴門下の作家。昭和4年(1929)に刊行された光雲の『光雲懐古談』主要部分の聞き書きをするなどしています。妻も作家の田村俊子、智恵子の数少ない親友の一人でした。
 
光太郎・智恵子夫妻もかなり独特の夫婦でしたが、輪をかけてドラマチックだったのが松魚・俊子夫妻(後に離婚)でした。
 
高村夫婦との交流を含め、詳細は以下の書籍等でわかります。
 
 

 ところで問題の書簡は、平成17年にその存在が報じられました。その数なんと55通。翌年には笠間書院さんから『高村光太郎進出書簡 大正期 田村松魚宛』田村松魚研究会間宮厚司編が刊行され、その全貌が明らかにされました。
 
『高村光太郎全集』補遺作品集として当方が手がけている「光太郎遺珠」には、最初に発表された6通のみ掲載させていただきました。残りは数が多すぎるので、いまだ収録していません。いずれ、第3次の『高村光太郎全集』が出るとしたら、組み込ませていただきたいと考えています。
 
この55通はその後、同22年に日本近代文学館さんに寄贈されています。今回の展示ではその中から出品されるのでしょう。何通ならぶのかは不明です。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月23日

大正10年(1921)の今日、光太郎が設計した府下高井戸村の可愛御堂が落成、献堂式に出席しました。
 
可愛御堂は光太郎とのちのちまで交友のあった青森県五戸出身の思想家・江渡狄嶺(えとてきれい)が開いた百姓愛道場内に建てられました。建立の趣旨は、その趣意書によれば、子を失った親たちのために一つの庵を建て、天上の子供らの霊が睦み遊んでいるように、地上の親兄弟姉妹もここで一つになって睦み合うようにとのことでした。元々はやはり愛児を失った江渡がその遺骨を寺に預けるに忍びず、百姓愛道場内に祀っていたことに始まるそうです。
 
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光太郎、駒込林町のアトリエも自分で設計しましたが、建築設計にもその才を発揮していました。舌を巻くマルチさの一端が見て取れます。

8月19日のこのブログで、秋田から新たに光太郎の直筆詩稿が見つかったニュースをご紹介しました。
その後、過日、続報が出ましたのでご紹介します。  

「一億の号泣」の直筆詩稿を寄託 由利本荘市教委へ

 高村光太郎が終戦の翌日に書いた詩「一億の号泣」の直筆詩稿を所有する由利本荘市矢島町の佐藤和子さん(70)と親類が10日、「多くの市民や光太郎ファンに見てもらいたい」と市教育委員会に詩稿を寄託した=写真。市教委は今後、詩稿の複製を公開する考え。

 詩稿は、光太郎が戦時中に疎開した岩手県花巻市で親交を深めた故佐藤昌(あきら)さんに渡したもの。矢島町立農業補習学校農業専修科(現矢島高)の初代校長を務めた昌さんは、終戦後、文通相手だった教え子の佐藤勘左エ門さん=矢島町、1988年に78歳で死去=に詩稿を譲り渡した。

 詩稿は一時紛失したが、2年半前に矢島町内で見つかり、勘左エ門さんの次男の妻である和子さんが所有、勘左エ門さんの五男重さん(64)と弟の東海林良介さん(86)が保管していた。
(『秋田魁新報』 2013/09/11)
 
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「一億の号泣」は光太郎の詩としては有名な方ですし、太平洋戦争の終戦という、光太郎にとっても日本にとっても一大転機となったできごとを題材にしているということで、重要な作品です。
 
したがって、売りに出せばかなりの値段がつくものなのですが、持ち主の方は市に寄贈されたとのこと。すばらしい。
 
今後は死蔵されることなく、活用されてほしいものです。
 
東北にはこういうケースで寄贈され、常時見ることのできる光太郎資料が意外と多くあります。
 
盛岡市の盛岡てがみ館さん。やはり光太郎の詩稿「岩手山の肩」が常に展示されていますし、他にも光太郎書簡を多数所蔵しています。来春の企画展では光太郎書簡も展示されるようです。
 
東北新幹線のいわて沼宮内駅内にある郷土資料館には、光太郎直筆の村立図書館・村立公民館の看板が展示されているとのこと。当方はこれは見たことがないのですが、いずれあちらに行く時に足をのばしてみようと思っています。
 
11/12追記 現在はいわて沼宮内駅内の郷土資料館は閉鎖、この看板は元々あった岩手町川口公民館に戻っているとのことです。
 
もちろん、花巻の高村光太郎記念館や二本松の智恵子記念館。
 
ただ、気をつけなければいけないのは、「光太郎直筆の○○」と大々的に宣伝していながら、どうも怪しいものもあることです。営利目的や功名心でやっているわけではなく、「善意」で公開しているのでしょうが、それだけに困ったことでもあります……。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月22日

昭和60年(1985)の今日、NHKFMで、原嘉壽子作曲・まえだ純台本による「歌劇 智恵子抄 高村光太郎による 四幕」がオンエアされました。
 
昭和62年(1987)には楽譜(ヴォーカル・スコア)が全音楽譜出版社さんから刊行されています。

新刊です。

東京叙情詩集 I LOVE TOKYO

日本文学館刊行 津守秀祐輝著 文庫判 価格 630 円(税込)

佃島、表参道、聖橋。世界に類を見ない巨大都市にぎっしりと詰まった地名を追っていると、この町がのっぺりした首都機能の所在地ではなく、人々の生活の集合体であることが実感できる。都会人の控えめな郷土愛が光る叙景詩集。(同社サイトより)
 
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「安達太良山の青い空――長沼智恵子に捧ぐ」という詩が載っている他、光太郎と関連のあった土地――千駄木、上野など――、関わった人物――森鷗外、黒田清輝、八木重吉、草野心平など――をモチーフにした作品もあります。
 
版元は日本文学館さん。自費出版系の出版社です。名前が似ていますが、駒場の日本近代文学館とは関係ありません。
 
自費出版系というと、ひところ「S舎」という出版社があり、盛んに書籍を刊行し、日本一の出版点数などと豪語していましたが、販売には全く力を入れず、とにかく出版することで著者から金をふんだくるという商法を展開していました。それが問題となり、訴訟も起こされ、結局つぶれました。他にも同じような出版社がたくさんあり、刊行されるものは玉石混淆――ほとんど「石」――の状態でしたが、最近はどうなのでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月6日

昭和26年(1951)の今日、『岩手日報』のために「岩盤に深く立て」という詩を書きました。
 
2日後のサンフランシスコ講和条約調印を題材にした作品です。この時期はメディアも混乱しており、旧仮名遣いと新仮名遣いが混ざっています。
 
  岩盤に深く立て
 
四ツ葉胡瓜の細長いのをとりながら1011
ずゐぶん細長い年月だつたとおもう。
何から何までお情けで生きてきて
物の考へ方さへていねいに教えこまれた。
もういい頃と見こみがついて
一本立ちにさせるという。
仲間入りをさせるという。
その日が来た。
ヤマト民族よ目をさませ。
口の中からその飴ちよこを取つてすてろ。
オツチヨコチヨイといわれるお前の
その間に合わせを断絶しろ。
その小ずるさを放逐しろ。
世界の大馬鹿者となつて
六等国から静かにやれ。
更生非なり。
まつたく初めて生れるのだ。
ヤマト民族よ深く立て。
地殻の岩盤を自分の足でふんで立て。
 
写真は花巻郊外太田村山口の山小屋前にあった畑で撮影されたもの。胡瓜ではなくキャベツですが(笑)。

京都からイベント情報です。  

京のみちと街道を知る―道文化を考えるシンポジウム

趣旨
毎日歩いている道路が、どんな道であり路であったのか、知れば知るほど深いお話があります。
人と人をつなぐ大切な道について、まず知ることあら始め、その意義を尊び、建設・維持・管理という不断の努力が支えていること、知らない道を行く旅の意味、また人生の道についての思いを語り、「道文化」の醸成をはかりたいと思います。  

日時など
主催:NPOうるわしのまち・みちづくり 
協賛:社団法人 近畿建設協会  協力:日本国際詩人協会
日 時:平成25年9月27日(金)13:30~16:00(予定)
場 所:ANAクラウンプラザホテル
(旧京都全日空ホテル京都市営地下鉄東西線二条城前下車)
参加費:無料  先着100名で受付終了

プログラム
「わたしの道:高村光太郎の『道程』をめぐって」講師 尾崎まこと氏(詩人)
「京みちと欧米のみち」  講師 宗田好史氏(京都府立大学教授)
「街道の文化・みちの文化」講師  藤本貴也氏 (全国街道交流会議 代表理事)
 
光太郎には「求道者」のイメージがつきまといます。「道」は、時に「道」を踏み外すこともあった光太郎を読み解く一つのキーワードと言えるでしょう。
 
詩では「道程」をはじめ、「さびしきみち」「老耼、道を行く」「詩の道」「最低にして最高の道」「根元の道」「永遠の大道」「われらの道」など、「道」を謳った作品が多く存在します。
 
短歌でも昭和24年(1949)の作で、次のようなものがあります。
 
 吾山にながれてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり
 
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光太郎の生き様が端的に表されています。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月5日

昭和20年(1945)の今日、8月の花巻空襲の際、身を挺して怪我人の看護に当たった総合花巻病院の職員表彰式に出席、自作の詩「非常の時」を朗読しました。
 

  非常の時
 
 非常の時012
 人安きをすてて人を救ふは難いかな。
 非常の時 
 人危きを冒して人を護るは貴いかな。
 非常の時
 身の安きと危きと両つながら忘じて
 ただ為すべきを為すは美しいかな。
 非常の時
 人かくの如きを行ふに堪ふるは
 偏に非常ならざるもの内にありて
 人をしてかくの如きを行はしむるならざらんや。
 大なるかな、
 常時胸臆の裡にかくれたるもの。
 さかんなるかな、
 人心機微の間に潜みたるもの。
 其日爆撃と銃撃との数刻は
 忽ち血と肉と骨との巷を現じて013
 岩手花巻の町為めに傾く。
 病院の窓ことごとく破れ、
 銃丸飛んで病舎を貫く。
 この時従容として血と肉と骨とを運び
 この時自若として病める者を護るは
 神にあらざるわれらが隣人、
 場を守つて動ぜざる職員の諸士なり。
 神にあらずして神に近きは
 職責人をしておのれを忘れしむるなり。
 われこれをきいて襟を正し、
 人間時に清く、
 弱き者亦時に限りなく強きを思ひ、
 内にかくれたるものの高きを
 凝然としてただ仰ぎ見るなり。
 
花巻空襲や職員表彰式については、加藤昭雄著『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部 平成11年=1999)、同『絵本 花巻がもえた日』(ツーワンライフ 平成24年=2012)に詳しく記述があります。
 
この詩は毎年5月15日に開催される花巻光太郎祭で、ほぼ毎回、花巻高等看護学校の学生さんによって朗読され続けています。

東京日野市での市民講座的なものの案内をネットで見つけました。
 
主催は公益財団法人社会教育協会さんです。 

こんなに面白い 近代文学入門コース 宮沢賢治と昭和の作家たち

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2013年秋季 宮沢賢治と昭和の作家たち
2013年 9/26 10/10・24 11/14・28 12/12 (全6回)
第②・④木曜日 10:00~12:00
講 師 青木登(紀行作家)
場 所 公益財団法人社会教育協会ゆうりか 日野市多摩平1-2-26 シンデレラビル
参加費 10,710円 教材費1,200円別途
 
宮沢賢治 は明29年、岩手県花巻市に生まれ、岩手県に理想郷ドリームランド・イーハトヴを建設しようとた。しかし、冷害や旱魃に見まわれ、世界恐慌に直面して挫折し、傷つき倒れた。
しかし賢治が夢みた理想の世界は賢治が残した童話や詩によって、私たちの胸に生き、限りない感動を与える。
取り上げる童話は、「どんぐりと山猫」「注文の多い料理 料理店」「なめとこ山の熊」「雪渡り」「セロ弾きゴーシュ」「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」「おきなぐさ」「よだかの星」「二十六夜」「銀河鉄道の夜」。
詩集「春と修羅」から妹の死を悲しんで詠んだ「無声慟哭」三部作、「岩手山」「小岩井農場」「岩手軽便鉄道」「雨ニモマケズ」「もうはたらくな」「原体剣舞連」。
 
賢治の生前に賢治の作品を評価した著名人の高村光太郎。光太郎は昭和20年に賢治の弟宮沢清六の招きで花巻に疎開し、花巻郊外の山小屋で農耕自炊生活をした。高村光太郎から取り上げる作品は、「智恵子抄」「典型」「智恵子抄その後」。
 
申し込み等は以下のリンクを参照して下さい。

 
【今日は何の日・光太郎】 8月27日

明治42年(1909)の今日、上州磯部温泉、赤城山などへの旅から帰京しました。
 
この年7月には3年半にわたる欧米留学から帰国しています。赤城山は光太郎が自分の中の日本の原風景と位置づけていたようで、留学前から何度も訪れ、そして帰国早々また訪れています。
 
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昨日の新聞から。
 
まずは『日本経済新聞』さんです。
 
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1面のコラム、「春秋」欄。光太郎がメインではありませんが、光太郎ともつながりのあった詩人・八木重吉にからめ、光太郎の名が出ています。
 
千葉県北東部、今朝は快晴です。気温も涼しく、文中にあるとおり「秋」の様相です。
 
続いて『朝日新聞』さん。
 
読書面に8/1のこのブログでご紹介した森まゆみさんの『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』の評が載りました。
 
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いずれもネットで閲覧可能です。ただし会員登録が必要ですが。

 
【今日は何の日・光太郎】 8月26日

昭和11年(1936)の今日、亡母・わか(通称とよ)を追憶する随筆「揺籃の歌」を書きました。
 
この「揺籃の歌」、光太郎の随筆集『某月某日』に収められていますが、それ以前に雑誌等に発表されていると考えられます。しかし、初出掲載誌が不明です。情報をお持ちの方はご教示下さい。

秋田からニュースが入りました。地元紙『秋田魁新報』さんの報道で、8/15のブログでご紹介しました詩「一億の号泣」に関してです。
 
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少し前に花巻の記念会から情報は得ていましたが、いいタイミングで発表されたと思います。
 
まだまだ日本各地、特に光太郎が足かけ8年暮らした東北にはこういうものが眠っている可能性があります。「うちにもこういうものがある」という方、情報をお寄せいただければ幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月19日

明治32年(1899)の今日、光雲の養母・悦が亡くなりました。
 
悦は光雲の師匠、高村東雲の姉。光雲は徴兵忌避のため、子供のいなかった悦の養子となりました。明治初期は養子であっても長男は徴兵対象外でした。

【今日は何の日・光太郎】 8月15日

昭和20年(1945)の今日、花巻の鳥谷ヶ崎神社で終戦の玉音放送を聴きました。
 
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鳥谷ヶ崎神社 戦前絵葉書
 
8月10日の花巻空襲で、逗留していた宮澤家も焼け出された光太郎は、元花巻中学校長の佐藤昌宅に厄介になっていました。その佐藤宅からほど近い鳥谷ヶ崎神社で、敗戦の放送を聴いたのが68年前の今日でした。
 
そしてその時の感興を謳った詩が翌日作られ、翌々日の『朝日新聞』『岩手日報』に掲載されました。
 
  一億の号泣001
 
綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来る
玉音の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し
苛も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす
真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん
 
画像は鳥谷ヶ崎神社に、戦後立てられた「一億の号泣」詩碑です。

戦時中には誠意高揚のための詩を大量に書き殴っていた光太郎ですが、この「一億の号泣」も、まだその延長上にあります。
 
その後しばらく経ってから、「日を重ねるに従つて、/私の眼からは梁(うつばり)が取れ」(「終戦」・昭和22年=1947)、戦時中の自己を「乞はれるままに本を編んだり、/変な方角の詩を書いたり」(「おそろしい空虚」・同)と分析できるようになりました。
 
左に偏った人々はこれを「言い訳」と評します。逆に右に偏った人々は「変節」と捉えます。「不思議なほどの脱卻のあとに/ただ人たるの愛がある。」(「終戦」・「卻」は「却」の正字)という光太郎の言を、もう少し素直に受け止められないものでしょうか。
 
いずれにせよ、今日は終戦記念日。今日行われた全国戦没者追悼式での天皇陛下のお言葉「ここに歴史を顧み、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」を心に刻みつけたいものです。

今日から2泊3日で、宮城県の女川に行って参ります。このブログでたびたび紹介しています「女川光太郎祭」が、今年で22回目。明後日開催されます。
 
もともと昭和6年(1931)に『時事新報』の依頼で紀行文を書くため、光太郎が女川を含む三陸海岸一帯を1ヶ月ほど旅したことにちなむイベントでした。しかし、一昨年の東日本大震災による津波で大きな被害を受けた女川。光太郎祭の中心となって活動されていた貝(佐々木)廣氏が亡くなり、その追悼や町の復興のため、という側面も出てきたイベントです。
 
こちらのリンクをご覧下さい。NHKさんの「東日本大震災アーカイブス」の中のページです。

昨年3月に放送された、貝(佐々木)氏が光太郎顕彰に力を注いだことなどを語る、奥様・英子さんの証言、現在の光太郎文学碑の様子などが動画で見られます。平成3年(1991)の、女川港に建てられた光太郎文学碑除幕の時の貴重な動画も含まれています。

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現在の光太郎祭は、廣氏の意志を継いだ英子様主導となり、今年は英子様のお店・佐々木釣具店の入っている仮設商店街・きぼうの鐘商店街の集会所で開催されます。日時は8/9(金)、午後2時より。当方、単独で1本、北川太一先生とのコラボで1本、計2本の講演をこなします。
 
お時間のある方、ぜひお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月8日

昭和63年(1988)の今日、池袋西武アート・フォーラムで、「生誕100年記念 智恵子紙絵展」が開幕しました。
 
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新刊です。少し前に『朝日新聞』さんに載った書評を読んで購入しようと思い、取り寄せました。 
佐滝剛弘著 平成25年6月20日 勁草書房刊 定価2400円+税
 
明治41年。日本で最初に発刊された日本史の辞典には、実に1万を超える人々の予約が入っていた。文人、政治家、実業家、教育者、市井の人々……。彼らはなぜ初任給よりも高価な本を購入しようとしたのか? それらは今どこに、どのように眠っているのか? 老舗旅館の蔵で見つかった「予約者芳名録」が紡ぐ、知られざる本の熱い物語。(勁草書房さんサイトより)

 
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『国史大辞典』とは、明治41年(1909)に刊行された2冊組の辞書で、その名の通り歴史上の人物や項目が五十音順に配された、当時としては斬新かつ豪華なものでした。版元は現在も続く歴史関係出版社の吉川弘文館。戦後にはさらに全17巻で刊行されました。
 
発行前には各種新聞等に広告が大きく出、「予約購入」という手法がとられたとのこと。
 
著者の佐滝氏、群馬県のとある旅館に泊まった際に、この『国史大辞典』の「予約者芳名録」という冊子をみせてもらったそうです。後に分かるのですが、この「予約者芳名録」自体が非常に珍しいもので、ほとんど現存が確認できないとのことです。
 
「予約者芳名録」。刊行は本冊刊行の前年、明治40年(1908)です。そこには道府県別に10,000人ほどの名がずらりと並んでおり、さながら当時の文化人一覧のように、よく知られた名が綺羅星のごとく並んでいるそうです。
 
その中で、著者が最初に見つけた「有名人」は与謝野晶子。続いて2番目が光雲だったそうです。
 
この頃、光太郎は外遊中。光雲は東京美術学校に奉職していました。したがって、光太郎の需めではなく、光雲自身が購入したくて予約したのでしょう。しかし、光雲はもともと江戸の仏師出身で、活字には縁遠い生活を送っていたはずです。それがどうしてこんな大冊を購入したのか、ということになります。おそらく、全2冊のうちの別冊「挿絵及年表」の方が、有職故実的なものから地図、建築の図面など豊富に図版を収めているため、彫刻制作の参考にしようとしたのではないかと考えられます。
 
以下、『国史大辞典を予約した人々』は、「こんな人もいる」「こんな名前もあった」と、次々紹介していきます。個人だけでなく様々な団体、有名人ではなくその血縁者も含まれます。そして名前の羅列に終わらず、それぞれ簡単にですが紹介がなされ、当時の日本の文化的曼荼羅といった感があります。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎】 8月4日

大正3年(1914)の今日、銀座のカフェ・ライオンで第一回我等談話会が開催され、出席しました。
 
『我等』はこの年刊行された雑誌で、光太郎は詩「冬が来た」や「牛」など代表作のいくつかをここに発表しています。

新刊です。
 
智恵子が創刊号の表紙絵を描いた雑誌『青鞜』の、その誕生(明治44年=1911)から終焉(大正5年=1916)までを追った労作です。もちろん智恵子にも随所で触れています。 

『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること

森まゆみ著 平成25年6月27日 平凡社   定価1900円+税
 
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女性による女性のための雑誌『青鞜』の歩みを、平塚らいてうや伊藤野枝らの生き方とともに、また100年後に著者自身が営んだ地域雑誌『谷根千』を引合いにしながら丹念に追った意欲作。
(平凡社さんサイトから)
 
雑誌の立ち上げに高揚したのも束の間、集まらない原稿、五色の酒や吉原登楼の波紋、マスコミのバッシング……明治・大正を駆け抜けた平塚らいてう等同人たちの群像を、同じ千駄木で地域雑誌『谷根千』を運営した著者が描く。
(帯から)
 
類書は他にも刊行されていますが、それらと違うところは、上記紹介文にあるとおり、「編集者」としての視点で描かれていることです。
 
 
著者の森まゆみさんは、かつて地域雑誌『谷中根津千駄木』を刊行されていました。今日、一般的になった「谷根千」という呼称はここから生まれたものです。その際のご経験が、本書の記述に生かされているようです(実はまだ熟読していません。すみません)。
 
ちなみに『谷中根津千駄木』では、谷中に生まれ、千駄木で暮らした光太郎もたびたび取り上げて下さいました。
 

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 そういえば、雑誌『青鞜』が産声をあげたのも、千駄木です。社員の一人、物集和子の自宅が最初の事務所。ここは不忍通りから団子坂を上がりきった右側、森鷗外の観潮楼のはす向かいです。

ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】002 8月1日

昭和54年(1979)の今日、六耀社から『高村光太郎彫刻全作品』が刊行されました。
 
B4判350ページ、定価五万円の大著です。現存するものはもちろん、焼失したものや、着手したただけ、あるいは構想のみで未完に終わったものも含め、この時点で把握されていた光太郎の彫刻作品全てのデータベースです。
 
千葉市立美術館で現在開催中の「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の図録作成の際にも、大いに利用させていただきました。
 
現在でも時折古書店のサイト等で売りに出ています。

宮城県牡鹿郡女川町。一昨年の東日本大震災000で、甚大な被害を受けた町です。今でも時折、復興関連の報道などで取り上げられています。
 
ここ女川町で、震災前から毎年8月9日に、「女川光太郎祭」というイベントが開かれ続けています。昭和6年(1931)8月、『時事新報』の依頼で紀行文を書くことになった光太郎は、この地を含む三陸一帯を一ヶ月ほど旅して歩きました。それを記念して、光太郎の精神を受け継ぐといった意味合いです。
 
一昨年の震災の日、、中心になって活動されていた貝(佐々木)廣氏は、津波に呑まれて亡くなりました。町自体も、港に近い繁華街は壊滅、今もみなさん仮設住宅にお住まいです。しかし、途絶えることなく光太郎祭が続けられています。当方、昨年の第21回光太郎祭に参加いたしましたが、本当に頭の下がる思いです。
 
今年も8月9日、第22回女川光太郎祭が開催されます。
 
震災前は一貫して、光太郎文学碑の建つ海岸公園で行われていましたが、震災のあった一昨年は女川第一小学校、昨年は仮設住宅内の坂本龍一マルシェと、会場が移りました。今年は元の繁華街から西へ少し行った高台にあるきぼうの鐘商店街内に新しくできた集会所が会場になるそうです。
 
今年から、当方、講演の講師を頼まれました。おそらく永続的にやっていくことになると思います。
 
それ以外にも、恒例になっている、高村光太郎記念海会務局長・北川太一先生のご講演も予定されています。北川先生、ご高齢のため、いったんは退かれたのですが、やはり亡くなった貝氏の御魂に応えるためにも、とお考えなのでしょう。お体の許す限りは、女川に行かれるおつもりのようです。
 
詳細な日程はまだですが、午後2時から当方の講演「高村光太郎、その生の軌跡 -連作詩「暗愚小伝」をめぐって ①」、午後3時から北川先生によるご講演「(観自在こそ)―光太郎の底を貫く東方の信仰―」です。今月初めに千葉市美術館で開催された「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」関連行事での記念講演会同様、当方が助手(聞き手)を務めます。手前味噌ですが、意外と千葉での講演が好評だったので、同じ形でやります。
 
その他に(というと失礼ですが)、地元の皆様による光太郎詩の朗読、ご常連のギタリスト・宮川菊佳氏、オペラ歌手・本宮寛子さんによるアトラクションなども計画されています。
 
一年ぶりの女川。昨年は更地と化した元の繁華街に横たわるビルに驚きましたが、一年間でどれだけ復興が進んでいるのか、この目で見てきます。都合のつく方は、ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月27日

昭和30年(1955)の今日、夕食に銀座竹葉亭のウナギの蒲焼きを4串食べました。
 
この日の午後、北川太一先生が持参されたものです。この店も、先日ご紹介した中華料理「好々」同様、現存します。

季節外れのタイトルで申し訳ありません(笑)。
 
一昨日、福島市公会堂で開催された宇宙飛行士・山崎直子さんの講演会につき、オープニングに出演したシャンソン歌手モンデンモモさんがブログに書かれています。
 
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画像は「道程」を歌うモモさん。当方がモモさんのiPadで撮影しました。
 
ところで曲のタイトルを「道程」としましたが、正確には「道程~冬が来た」です。一種のメドレーで、最初にヘ長調(F)・♩=75・グランディオーソで「道程」。中間部でヘ短調(Fマイナー)に転調、♩=135と倍速に近いアップテンポで「冬が来た」が挿入され、ダルセーニョ。また「道程」に戻り、途中からCodaに入って終わり、という構成です。
 
要するに「道程」の途中に曲調を変えて「冬が来た」が挿入されているということです。
 
  冬が来た
 
きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた
 
きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬
草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
冬よ
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た
 
この「冬が来た」。「道程」とほぼ同じ時期の作品(「道程」(雑誌発表形)は大正3年=1914の2月、「冬が来た」は前年12月)です。
 
「道程」ほどではありませんが、光太郎作品の中では有名なものの一つですね。教科書等にも採用されていると思います。
 
そこで、NHKラジオ第2放送でオンエアされている「NHK高校講座 国語総合」で、この「冬が来た」が扱われます。講師は都立国分寺高等学校教諭・渡部真一氏、今週土曜日(7/27)午後8:10~8:30です。
 
ちなみに「理解度チェック」というページも発見しました。
 
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設問3つに回答し、「決定」を押すと正解と解説、正解者の割合などが表示されます。ぜひ挑戦してみて下さい。
 
しかし、自作の詩がこういう使われ方をしていると知ったら、空の上の光太郎は苦笑しそうな気がします(笑)。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月24日

昭和30年(1955)の今日、中野のアトリエに神田淡路町の中華料理店「好々(ハオハオ)」の料理人に来てもらい、出張料理を堪能しました。
 
ちなみにこの店は現存します。

昨日、朝一番で花巻に向かい、継続中だった調査を完了させ、大沢温泉さんに一泊、今朝、福島に向かいました。福島市公会堂で開催の、「宇宙飛行士山崎直子氏講演会 ~将来への夢と希望の実現に向けて~」のためです。
 
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000昨日のブログにも書きましたが、山崎さんがかつて光太郎の詩「道程」に支えられたという縁で、「道程」など光太郎の詩に曲を付けて歌われているシャンソン歌手(なぜか今日は『シンガーソングライター』と紹介されていました)のモンデンモモさんがオープニングセレモニーにご出演。共にオリジナル曲の「道程」と「花見山」を歌われました。
 
「花見山」は福島市にある公園の名前です。当方、実際に行ったことはありませんが旅番組で取り上げられているのを見たことがあります。約5ヘクタールの小高い山に、桜をはじめ様々な花が植えられていて、福島を代表する花の名所だそうです。驚くのは、そこが個人の土地であり、所有者の方が善意で一般に無料開放なさっているということ。すばらしいことですね。
 
で、モモさん、その花見山を訪れての感動を曲にしたというわけです。
 
その後、山崎さんのご講演。スクリーンに宇宙での貴重な画像を映しつつお話をなさり、非常にわかりやすい内容でした。地元の小中学生が学校単位で多数聴きに来ていたので、その子供たちにもわかりやすいように、というご配慮が随所に感じられました。おかげで理数系オンチの当方も興味深く聴くことが出来ました。
 
光太郎のお話も出ました。中学2,3年生の時の担任の先生が「道程」を黒板に書いて、熱く語られたこと。その時はあまり心に響くものはなかったそうですが、後に実際に宇宙に行かれるまでの苦しい訓練の時期(実に10年以上)などに、この詩が支えになったことなど。
 
山崎さん以外にも、この詩に多かれ少なかれ影響を受けたという人は多いのではないでしょうか。およそ100年前(正確には99年前。したがって来年は「道程」100周年です)に書かれた詩が、今も多くの人を支えているということに、あらためて光太郎のすごさを感じます。
 
終了後、緞帳をおろしたステージでの記念撮影。中央が山崎さん。後列にはモモさんとピアノの砂原さんもいらっしゃいます。

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その後、山崎さんと、連翹忌のことなどお話しさせていただきました。お渡しした名刺にこのブログのURLも書いてありますので、ご覧いただけるのではないかと期待しております。
 
ところで、今日は福島ではいろいろな動きがありました。やけに警察車両が目立つな、と思っていたら、天皇皇后両陛下が来県、飯舘村の居住制限区域を視察なさって、今夜は飯坂温泉に泊まられるそうです。それからいわき市ではプロ野球のオールスターゲーム第3戦が開催されています。
 
東北は、まだまだ復興途上です。ぜひこの夏休みには足を運んでいただき、復興支援をお願いしたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月22日

昭和27年(1952)の今日、山形・米沢に建てられた詩人・森英介の墓標の文字を揮毫しました。
 
森英介(大6=1917~昭26=1951)は米沢出身の詩人。生前に(正確にはぎりぎり間に合わずなくなりましたが)刊行された唯一の詩集『火の聖女』には、光太郎が序文を寄せています。この詩集は活字工として働いていた森が自ら紙型を組み、印刷まで完了しましたが、その刊行を見ることなく、森はその直後に胃穿孔で急逝してしまいました。
 
翌年に建てられることになった墓標の文字を依頼された光太郎は、哀惜の意を込めて正面に刻まれた「森英介之墓」、向かって左側面の「智応院正行日重居士」(戒名)を揮毫しました。
 
当方、10年ほど前に開通間もない山形新幹線に乗ってこの墓標を見に行きました。市内相生町の善立寺というお寺にひっそりと佇んでいました。今もそのまま残っているのではないかと思います。おそらく地元の方もほとんど光太郎の文字がここにあるというのはご存じないのではないでしょうか。

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福島の地方紙『福島民友』さんの記事です。  

“夢実現までの努力”語る 22日、山崎直子さん講演会

 福島ゾンタクラブ主催の「宇宙飛行士山崎直001子講演会」は22日午後1時30分から、福島市公会堂で開かれる。同市教委、福島民友新聞社などの後援。
 同クラブが毎年開催している学校支援事業の一環で、記念講演会は初めて。当日は山崎さんが「将来への夢と希望の実現に向けて」と題して講演。宇宙飛行士としての夢を実現するまでの努力などを紹介するほか、夢を持つこと、その夢を実現するまでの努力の大切さなどを訴える。
 定員は1千人。小中学生、高校生は無料だが、入場整理券が必要。大学生と一般は1000円。チケットは、中合、岡崎陶器店、あきたや楽器店で取り扱っている。問い合わせは白川明美実行委員長(電話024・542・4041)へ。
(2013年7月4日 福島民友おでかけニュース)
 
山崎直子さんといえば、2010年、スペースシャトル・ディスカバリーに搭乗、向井千秋さんに続き、日本人2人目の女性宇宙飛行士として脚光を浴びました。その頃、山崎さんを支えた座右の銘の一つが、光太郎の詩「道程」の一節「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」だったことが報じられたのを記憶されている方も多いことでしょう。
 
才色兼備の女性に愛され、あの世の光太郎も光栄と感じているのではないでしょうか。
 
さて、もうお一方、光太郎をこよなく愛する才色兼備の女性。このブログにたびたび登場していただいている、シャンソン歌手のモンデンモモさん。「道程」などの光太郎の詩にご自分で曲を付け、歌われています。「モンデン」は本名で、漢字で「門田」、れっきとした日本人なのですが、よく「何人ですか?」と聴かれ、そういう場合、「宇宙人です」と答えています。山崎さんとは違った意味で凄い女性です。
 
明日の福島での講演会では、その宇宙飛行士と宇宙人のコラボが実現します。どのタイミングになるのかよくわからないのですが、同じ福島公会堂のステージでモモさんが自作の「道程」を歌われるとのこと。
 
モモさんに聞いた話では、山崎さんのお知り合いの方が、山崎さんと「道程」の関連から、「こんなものがありますよ」と、モモさんのCD(ちなみにその制作には当方も関わっています)を差し上げたとのことで、その縁で今回のコラボが実現しました。
 
当方、モモさんのお供で福島に行って参ります。あわよくば来年以降の連翹忌に、山崎さんに入らしていただこうという目論見ももちろんあります。
 
さて、花巻での調査がまだ途中です。そこで、方角が「同じなので、今日は朝一で花巻に行き、調査。例によって大沢温泉さんに一泊、明日の朝、福島に向かいます。講演会の様子は帰ってきてからレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月21日

明治16年(1883)の今日、光太郎のすぐ上の姉・うめが幼くして歿しました。
 
この年3月に生まれた光太郎はまだ赤ん坊です。したがって、光太郎にはうめに関する直接の記憶はありませんでした。うめは享年数えで5歳。利発な子供だったということです。

朝と夕方、愛犬(柴犬系雑種・9歳)の散歩をしています。やけに暑い日は涼を求め、雨の日は多少なりとも雨を避けるため、裏山を歩くことがあります。戦国時代には山城があったという小山で、舗装されていない山道があり、ちょっとした森林浴気分が味わえます。
 
裏山の一角にヤマユリが群生している場所が二カ所ほどあり、このところ満開です。香りも強烈です。
 
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さて、例によって……
 
【今日は何の日・光太郎】 7月19日

昭和16年(1941)の今日、詩「百合がにほふ」を書きました。
 
   百合がにほふ
   
どうでもよい事と
どうでもよくない事とある。002
あらぬ事にうろたへたり、
さし置きがたい事にうかつであつたり、
さういふ不明はよさう。
千載の見とほしによる事と
今が今のつとめとがある。
それとこれとのけぢめもつかず、
結局議論に終るのはよさう。
庭前の百合の花がにほつてくる。
私はその小さい芽からの成長を知つてゐる。
いかに営営たる毎日であつたかを知つてゐる。003
私は最低に生きよう。
そして最高をこひねがはう。
最高とはこの天然の格律に循つて、
千載の悠久の意味と、
今日の非常の意味とに目ざめた上、
われら民族のどうでもよくない一大事に
数ならぬ醜(しこ)のこの身をささげる事だ。
 
この年12月には太平洋戦争が勃発します。すでに中国との戦争は泥沼化しつつある時期。そういう時期であることをうかがわせる内容ですね。
 
さて、この詩は翌年4月に刊行された詩集『大いなる日に』に収録されており、また、草稿も残されているのでこういう詩だというのはわかっています。しかし初出掲載誌が不詳です。残された草稿の欄外には<「皇楯」へ>というメモが書かれています。『皇楯(みたて)』は軍人会館図書部刊行の雑誌。国会図書館には所蔵がなく、日本近代文学館や石川武美記念図書館(旧:お茶の水図書館)などに少部数の所蔵があり、調べてみましたがこの詩が載った号はありませんでした。おそらく昭和16年(1941)夏に刊行された号に載ったと思われます。
 
というわけで、この「百合がにほふ」の載った『皇楯』の情報を求めています。ご存じの方はご教示下さい。

追記 昭和16年(1941)9月1日発行の『皇楯』第2巻第9号に掲載を確認し、現物を入手しました。

一昨日、福島県川内村の草野心平を偲ぶイベント「天山祭り」に行って参りました。今日も川内村ネタで行きます。
 
もともと草野心平と川内村の縁は、蛙。蛙をモチーフにした詩をたくさん書いた心平が、樹上に産卵するというモリアオガエルに興味を持ち、その生息地である川内村を訪れたことに始まります。
 
先日の天山祭りでは、心平の肉声の録音による詩の朗読が流されました。宮沢賢治の「永訣の朝」「雨ニモマケズ」、光太郎の「鉄を愛す」「樹下の二人」、そして心平自身の詩「ごびらっふの独白」。「蛙語」で書かれています。
 
  ごびらっふの独白 001

 

るてえる びる もれとりり がいく。

ぐう であとびん むはありんく るてえる。

けえる さみんだ げらげれんで。

くろおむ てやあら ろん るるむ かみ う りりうむ。

なみかんた りんり。

なみかんたい りんり もろうふ ける げんげ しらすてえる。

けるぱ うりりる うりりる びる るてえる。

きり ろうふ ぷりりん びる けんせりあ。

じゅろうで いろあ ぼらあむ でる あんぶりりよ。 002

ぷう せりを てる。

ぼろびいろ てる。

ぐう しありる う ぐらびら とれも でる ぐりせりあ ろとうる

ける ありたぶりあ。

ぷう かんせりて る りりかんだ う きんきたんげ。

ぐうら しありるだ けんた るてえる とれかんだ。

いい げるせいた。

でるけ ぷりむ かににん りんり。

おりぢぐらん う ぐうて たんたけえる。

びる さりを とうかんてりを。

いい びりやん げるせえた。

ばらあら ばらあ。
 
この詩は昭和23年(1948)に刊行された心平の詩集『定本蛙』に収められていますが、その扉は光太郎の揮毫です。
 
まず光太郎には書けない詩ですね。光太郎は自分にはない心平のこの種の才能を高く評価していました。
 
この詩には「日本語訳」もついています。003
 
幸福といふものはたわいなくつていいものだ。
おれはいま土のなかの靄のやうな幸福につつまれてゐる。
地上の夏の大歓喜の。
夜ひる眠らない馬力のはてに暗闇のなかの世界がくる。
みんな孤独で。
みんなの孤独が通じあふたしかな存在をほのぼの意識し。 
うつらうつらの日をすごすことは幸福である。
この設計は神に通ずるわれわれの。
侏羅紀の先祖がやつてくれた。
考へることをしないこと。
率直なこと。
夢をみること。
地上の動物の中でもつとも永い歴史をわれわれがもつてゐるといふことは 平凡であるが偉大である。
とおれは思ふ。
悲劇とか痛憤とかそんな道程のことではない。
われわれはただたわいない幸福をこそうれしいとする。
ああ虹が。
おれの孤独に虹がみえる。
おれの単簡な脳の組織は。
言わば即ち天である。
美しい虹だ。
ばらあら ばらあ。
 
さて、一昨日。天山祭りとその後の懇親会の間が一時間以上空いていましたので、村有数のモリアオガエル繁殖地である平伏沼(へぶすぬま)に行ってみました。
 
蕭々と降る雨の中、村の中心部から7~8㎞はあったでしょうか、延々と続く山道を「ほんとにこの道でいいのかな」と思いつつ運転しました。これ以上車で行けない、というところに駐車し、熊でも出そうな森の中をさらに200㍍ほど歩きました。
 
やがて眼前に沼が。意外だったのは、沼といいつつ水が無いことです。
 
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木の下に発泡スチロールの容器が100個ほども置いてあるでしょうか。中を見ると……。
 
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これがモリアオガエルのオタマジャクシなんですね。心平の魂を受け継ぎ(笑)、元気に育ってほしいものです。
 
親ガエルは盛んに鳴いていましたが、その姿は見えませんでした。また、特徴的な樹上の卵胞も、それらしきものは見えましたが、よくわかりませんでした。雨も降っていましたし、もう日暮れが近づいていましたので。
 
モリアオガエルの繁殖地として国の天然記念物に指定されているのは、ここと、岩手県にもう一カ所だけだそうです。原発事故に右往左往する我々人間を見て、蛙たちは、そしてあの世の心平や光太郎は、どう思っているのでしょうか……。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月15日

昭和7年(1932)の今日、智恵子が大量の睡眠薬を服用しての自殺未遂がありました。
 

昨日は、第48回天山祭りにお招きいた002だき、福島川内村に行って参りました。川内には昨秋の心平忌日「かえる忌」でお邪魔しましたが、天山祭りへの参加は今回が初めてでした。
 
原発事故による全村避難は昨年解除され、帰村宣言が出されましたが、まだ帰れない村民の皆さんも多く、また、村へ向かう道路もまだ復旧工事中の箇所もありました。ただ、復興への歩みはゆっくりながらも進んでいるようです。
 
天山祭りとは、川内村名誉村民にして、隣接するいわき市出身の詩人・草野心平の遺徳を偲ぶ集いです。元々は心平が蔵書3,000冊を寄贈して出来た「天山文庫」、その落成記念に始まったもののようですが、生前の心平自身がこの祭りに参加、お酒やイワナ、山菜などに舌鼓を打ったとのこと。
 
心平没後はその遺徳を偲ぶ集いとなりましたが、堅苦しいものではなく、心平自身が参加していた当時と同じように、郷土芸能などの披露が続けられています。
 
昨日は福島浜通りは終日雨のため、本来の会場である天山文庫前でなく、少し離れた「いわなの郷体験交流館」という施設で行われました。参加者100名以上だったと思います。
 
話は変わりますが、光太郎は稀代の雨男。生前から何かあるときは必ず雨(冬場は雪)でした。亡くなった4月2日も、4月にも関わらず季節外れの大雪を降らせました。今もその神通力は健在。4月2日の連翹忌は雨が多いことで有名です(もちろん今年も)。
 
というわけで、昨日は当方が光太郎を連れて行ってしまったための雨かな、などと思っております。すみませんでした(笑)。
 
さて、昨日の式次第は以下の通りでした。
 
開祭の言葉(川内村教育長 秋本正氏)003
実行委員長挨拶(石井芳信氏)
村長挨拶(遠藤雄幸氏)
かわうち草野心平記念館館長挨拶(晒名昇氏)
来賓紹介
郷土芸能披露(高田島神楽舞)
献花
草野心平肉声CDによる朗読
詩の朗読(いわき市立草野心平記念文学館長 粟津則雄氏/『歴程』同人 松尾真由美氏)
鏡開き・献杯
懇親会
アトラクション
おひらき
 
その後、村内の小松屋旅館様で懇親会。心平のご遺族を含む30名ほどが集まり、それぞれに心平への思いなどを語りました。当方、生前の光太郎がお世話になった御礼等申し述べました。
 
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川内村では天山祭り以外にも、秋には心平の忌日の集いとして「かえる忌」が行われています。今年は10/26(土)の開催だそうです(当方、講演を依頼されました)。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月14日

昭和29年(1954)の今日、中野のアトリエに電気冷蔵庫が届きました。
 
これも心平の配慮です。心平が筑摩書房にかけあって、未払いの印税をもぎとって来て(笑)購入しました。以下、心平著『わが光太郎』より。
 
話のついでに牛乳がかわりやすくて弱るということを言われたので、冷蔵庫を買われるんですね、とすすめると、毎日アトリエのなかに氷を入れにはいられるのはたまらない、とのことなので、
「じゃ電気冷蔵庫ですね。」
「電気の方はたかいだろうな。」
「筑摩の印税、あれを前借りすればいいじゃないですか。」
「前借はぼくはきらいだ。」
「前借っていったって、もう本(注・『現代日本文学全集第二十四巻 高村光太郎・萩原朔太郎・宮沢賢治集』)は出たんでしょう。」
「出るには出たけど。」
「とも角ぼくにまかして下さい。」
「そうねエ。」
 その「そうねエ。」は一オクターヴ低く、不満げな不承不承の返事だった。
 翌る日私はイギリス製のアストラルを品定めして筑摩のオヤジ(注・古田晁)にあいにいった。オヤジはすぐ出してくれた。
 
白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」といわれるようになるのはもう少し後の話です。

昭和12年(1937)に作られた光太郎の詩に「わが大空」というものがあります。
 
  わが大空002
 
こころかろやかに みづみづしく
あかつきの小鳥のやうに
胸はばたき
身うちあたらしく力満つる時
かの大空をみれば
限りなく深きもの高きもの我を待つ
ああ大空 わが大空
 
こころなやましく いらだたしく
逃げまどふ狐のやうに
胸さわだち
身の置くところも無きおもひの時
かの大空をみれば
美しくひろきものつよきもの我を待つ
ああ大空 わが大空

昭和18年(1943)に刊行された光太郎の詩集『をぢさんの詩』に収録されていますし、光太郎が手元に残した草稿も現存するので、詩の内容はわかっていました。
 
草稿の欄外には「音楽学校へ 唱歌歌詞として」という書き込みがあり、東京音楽学校(現・東京芸大)に歌詞として提供したと読み取れます。しかし、長らく初出発表誌が不明で、結局は作曲されないままお蔵入りになったのかと思われていました。
 
ところが、一昨年、国立国会図書館の近代デジタルデータで公開された当時の音楽教科書(師範学校、高等女学校、実業女学校用)の中に、この「わが大空」の楽譜が掲載されていました。
 
しかし、現代では忘れ去られてしまった曲なわけです。
 
作曲は故・松本民之助。坂本龍一氏の師にあたり、子息の松本日之春氏も作曲家として活躍中です。当方、たまたま日之春氏のインストゥルメンタルのCDアルバムを持っています。エスニックサウンド的な不思議な曲が並んでいます。そして弟子が坂本龍一氏。するとやはり師匠も一筋縄ではいきません(笑)。
 
この「わが大空」も、これが本当に1930年代の作曲か、というような曲調です。他にも光太郎作詞の歌曲は複数あるのですが、大半は軍歌調の平易なメロディーです。ところがこの「わが大空」は現代音楽のはしり、といった感じです。
 
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4分の3拍子、♩=108という速めの指定で、一、二番とも変イ長調(A♭)で始まり、中間部でロ長調(B)に転調、再び変イ長調に戻って終わる構成になっています。
 
だいたい、変イ長調(A♭)というとフラット4つで演奏しにくいので、もう半音下げてト長調(G)にした方がずっと簡単です。転調してロ長調(B)に変わりますが、今度はシャープが5つ。これも半音下げれば変ロ長調(B♭)となりフラット2つで済みます。そうしないところに何らかのこだわりがあるのでしょうが、こだわる理由がよくわかりません。
 
まあ、歌う方は固定ドでなく移動ドで捉えるのがほとんどですので、キーが何であろうがそれほど影響はないのかもしれませんが、それにしてもダブルシャープも多用しており、楽譜が煩瑣です。
 
それ以外にも一、二番で旋律、リズムに違いもありますし、二部合唱で作られていて、二つのパートでかなりポリフォニック(リズムや歌詞の配置に違いがあること)になっていますし、和音の構成も一筋縄ではいかず、さらに各パートとも音域が広い作りになっています。
 
ピアノ伴奏は前奏と間奏の部分しか掲載されていませんが、それだけでも凝った作りになっているのがわかります。全体としてはどれほど凝った伴奏になっているのだろう、などと思ってしまいます。
 
というわけで、歌曲としてのクオリティーは非常に高いのですが、はっきりいうと、当時の師範学校、高等女学校、実業女学校の生徒が、この曲をしっかり合唱できたわけがありません。それほど難易度の高い曲です。そうした点が、この曲が忘れ去られてしまった原因の一つだろうと思われます。
 
昨日も書きましたが、楽譜は当方刊行の冊子『光太郎資料』の今秋発行号に掲載します。ご入用の方はご連絡下さい。
 
それから、この「わが大空」、レコード化された記録が見あたりません。もしその辺りの情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご教示いただけると幸いです。
 

【今日は何の日・光太郎】 7月11日001

昭和2年(1927)の今日、白根・草津・信州別所などを回った9日間の旅から帰りました。
 
以前のこのブログにも書きましたが、信州別所は当方父祖の地です。ここは「信州の鎌倉」ともいわれ、鎌倉時代の堂宇や仏像などが数多く残っています。特に珍しいのが安楽寺というお寺にある八角三重塔(国宝)。現存する近世以前の木造の塔で八角形になっているのはこれが唯一の例だそうです。
 
一見、四重に見えますが、一番下の屋根は裳階(もこし)という庇(ひさし)で、内部構造は三重です。
 
さて、光太郎、この旅の途上で購入したこの塔の絵葉書を、詩人の宮崎丈二に送っています。
 
御はがき忝く拝見、此間中からかけ違つてばかり居ておめにかかれずに居ます。
初夏の暑さで頭を悪くしたのと山恋しさに堪へないのとで三日から白根山方面の山を歩き、二三の温泉へも入浴して昨日かへりました。おかげで心身一新した感があり、此夏十分に働けさうです。いづれ又。
高村光太郎
 
父祖の地なので、子供の頃から何度も行った場所ですが、ここを光太郎も訪れたんだなと思うと感慨深いものがあります。

一昨日、神田の古書会館に行ったついでに、千駄木の森鷗外記念館にも足を伸ばしました。
 
現在、同館では企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」を開催中です。その中の「ミニ企画」として「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」というコーナーが設けられています。
 
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鷗外はあくまで小説家ですが、若い頃にはドイツ留学中に触れたゲーテなどの詩を翻訳したり、千駄木団子坂上の自宅・観潮楼(光太郎アトリエは目と鼻の先です)で歌会を催したりするなど、詩歌にも親しんでいました。観潮楼歌会には、伊藤左千夫や石川啄木、そして光太郎も参加しています。
 
鷗外の作もなかなかのもので、朴訥な中にも厳めしさが漂う、まさに鷗外その人のような歌風です。そういった関連の展示物が並ぶ中に、ミニ企画・「駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」。以下、リーフレットから引用させていただきます(図録は刊行されていませんでした)。
 
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特に目新しいものは並んでいませんでしたが、光太郎から鷗外宛の葉書は肉筆ものですのでかなり貴重です。「おやっ」と思ったのは鉄幹与謝野寛から鷗外宛の書簡。明治42年に留学から戻った光太郎の帰朝歓迎会の案内で、与謝野寛が呼びかけたというのは存じませんでした。この会には招きに応じ、鷗外も参加しています。
 
ちなみに下の画像は展示されたものと同じ雑誌『スバル』明治42年10月号の裏表紙。たまたま当方の手元にも一冊在ります。光太郎の描いた戯画で、「観潮楼安置大威徳明王」と題されていますが、鷗外を茶化したものです。大威徳明王は不動明王と同じく五大明王の一人で、仏法を守護する闘神。たしかに鷗外のイメージにぴったりといえばそうですが、光太郎、大先輩をこんなふうにいじるとは、とんでもありませんね……(笑)。
 
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企画展「鷗外と詩歌 時々のおもい」(含「高村光太郎生誕130年記念 駒込千駄木林町の詩人高村光太郎と鷗外」)は9月8日まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
さて、今日はいよいよ千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として講演「ひとすじの道―光太郎研究を回顧して―」です。当方はあくまでサブで、メインは北川太一先生ですので気楽ですが、頑張ります!
 
【今日は何の日・光太郎】 7月7日

明治37年(1904)の今日、この年2回目の赤城山登山ををしました。後に与謝野寛、伊上凡骨ら新詩社同人も赤城を訪れ、合流しています。

昨日、神田の東京古書会館で開催中の明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観に行って参りました。
 
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古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。
 
昨日と今日が一般下見展観。実際に出品物を手に取ってみることができるのです。出品物の内容は目録に写真入りで掲載されているのですが、やはり手に取れるというところが魅力なので、行ってきました。
 
実は初めてでした。昨年は何だか忙しかったようで行きませんでしたし、その前までは平日に行くということは不可能でした。
 
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入り口のクロークでカバンを預け(出品物の盗難防止のため)、エレベータで文学関連の並んでいる4階へ。会場内は撮影禁止ですのでお見せできませんが、目録に載っている出品物が所狭しと並んでいました。
 
光太郎関連は、詩集『道程』初版や、草稿、識語署名入り献呈本、書簡などでした。そういったものは当方も持っているのですが、それでもやはり数十年前に光太郎が実際に手にしたものだと思うと、感慨ひとしおでした。また、毛筆の文字などは、写真ではよくわからない筆勢などが感じられ、やはり本物は違う、と思いました。
 
ちなみに文学関係の全ての出品物のうち、入札開始価格が最も高いのは石川啄木の書簡三通となぜか旧制盛岡中学の入学席次表のセット。600万円です。次いで中原中也から小林秀雄宛の書簡1通・400万円、夏目漱石の草稿11枚・280万円、正岡子規の書簡・250万円と続きます。ただし、入札開始価格なので、実際にはどうなるかわかりません。
 
また、今年は入札開始価格を設定せず、「ナリユキ」と記されているものがかなりありました。光太郎の署名本もそうなっています。これらは価値の判断が難しい、ということなのかなと思われます。
 
光太郎関連以外で個人的に最も興味深かったのは、価格としてはそれほどではないもの(といっても25万円)ですが、木村荘太の書簡でした。
 
木村荘太は光太郎と親しかった画家の木村荘八の兄で、明治末には智恵子と知り合う前の光太郎と、吉原の娼妓・若太夫を巡って恋敵となりました。その後、平塚らいてうから『青鞜』の編集を引き継いだ伊藤野枝(辻潤の妻、しかしアナーキスト・大杉栄と不倫恋愛中)に横恋慕(複雑な人間関係です)、そのあたりを戦後になって『魔の宴』という自伝小説に書いています。
 
木村の書簡は2通セットで、1通が伊藤野枝宛(恋文)、もう一通は大杉栄宛でした。「なんでこんなものが残っているんだ?」という感覚でした。ご存知の方はご存知の通り、大杉と野枝は大正12年(1923)、関東大震災のドサクサで、憲兵大尉・甘粕正彦に殺害されています。
 
ちなみに甘粕の妻・ミネは智恵子と同郷。それだけでなくミネの叔母・服部マスは智恵子の恩師です。甘粕自身も東京美術学校西洋画科で光太郎の同級生だった藤田嗣治と親しかったりと、なんとも複雑な人間模様というか人間曼荼羅というか……。ついでに言うなら木村荘太は『魔の宴』刊行直後に成田山公園で縊死。その前から成田郊外の遠山村に住んでいたのですが、なんと近くには光太郎の親友だった作家の水野葉舟も移り住んでいました。あちこちでつながります。
 
さて、明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観。会場内には明治大正昭和の名だたる文豪にまつわるお宝が所狭しと並んでいました。それらの文豪達の相関図的なものを描いてみると、とんでもないことになるのでは、などと思いました。改めて明治大正昭和という時代の凄さを感じました。
 
さて、明日は千葉市立美術館で企画展「生誕130年 彫刻家高村光太郎展」の関連行事として、講演です。遠方からお越し下さる方もいらっしゃり、ありがたい限りです。お気を付けてお越し下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月6日

昭和28年の今日、杉並の浴風園病院で診察を受け、正式に結核と診断されました。

岩手から入ったニュースです。 

詩人三田循司に光 詩歌文学館

 小説家の太宰治らと親交があった花巻市出身の詩人三田循司の書簡やノートなどの遺品が3日、親族から北上市本石町の日本現代詩歌文学館に寄贈された。同館は若くしての戦死が惜しまれた岩手の詩人の作品に光を当て、太宰をはじめとする文人との交友を物語る資料として保管し、研究に役立てる。

 三田は1917年生まれで、東京帝国大文学部に進学。友人の戸石泰一らと同人誌「芥」を創刊して詩を発表し、太宰を訪ねるようになる。太宰の紹介で評論家で詩作も著した山岸外史に師事。学徒動員で同大を繰り上げ卒業して出征し、1943年に戦死した。太宰には三田の記憶と死をつづった短編「散華」がある。

 寄贈したのは奥州市水沢区の佐々木比子さん(55)で、資料は段ボール箱2箱分のノートやはがきなど。佐々木さんの母で三田の妹綾子さん(85)が保管し、太宰生誕100年の2009年に同館で特別公開された物も含む。綾子さんが高齢になったことから、保存のために同館を頼った。

 三田は大卒後すぐに出征したために作品が少なく、ノートなどは貴重。三田の詩を評した太宰からのはがきには「文学でも人間でも『素朴な感動』を忘れてはいけません」という激励の言葉があり、太宰の側面の一つの前向きな人間性が感じられる。また「散華」の中でも触れられている三田の遺稿集出版の打ち合わせについて書かれたはがきもある。

 このほか三田の弟悊の遺品の一部も提供。花巻市とゆかりの深い詩人で彫刻家の高村光太郎や宮沢賢治の弟・清六さんからのはがきもあり、文人とのつながりの数々を示す。

 同館では09年の特別展示の際に一度資料の目録を作成しており、再度本格的に整理しての展示を計画している。佐々木さんは「孫子の代まで引き継げるかどうか分からない。文学館で保管していただければ」と依頼。同館の豊泉豪上席主任学芸員は「三田は『散華』の主人公とも言え、本名で登場している。調べていけばこれまで知られていなかった側面も発見されるだろう」と話し、寄贈に感謝していた。
 
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三田循司・悊(せい)兄弟の遺品で、太宰や光太郎などに関するものが、北上市の日本現代詩歌文学館に寄贈された、という内容です。
 
一連の資料は平成21年(2009)に見つかり、地元では大きく報道され、日本現代詩歌文学館や盛岡市の啄木賢治青春館で公開されました。
 
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上記画像はその時の『岩手日報』さんの記事です。当方のコメントも載っています。
 
というわけで、新発見ではないのですが、一括して寄贈されたというところにニュースバリューがあります。これは考えてみれば、大変なことです。売れば売ったでかなりの金額になるものですから。特に太宰の書簡ということになると、その市場価格は光太郎のそれの比ではありません。太宰は短命だったため、残っている絶対数が少ないので。こういったものがわけのわからない偏狭なコレクターの手に入り、死蔵されてしまうともうそれっきりです。そうではなく、日本国民共有の文化遺産、という考え方にたどり着いてほしいものです。
 
そういうことを考えると、「孫子の代まで引き継げるかどうか分からない。文学館で保管していただければ」というご遺族のコメントには本当に頭が下がります。
 
先週、花巻に行って、宮沢賢治の妹の婚家から出てきた光太郎書簡について調査して参りました。こちらも花巻の記念会に寄贈されたものです。これもすばらしいことです。
 
花巻の記念会では、こうした寄贈に頼るのではなく、かなり市場に出たものの購入も進めています。特に光太郎花巻時代の草稿など。ところが狙ったものが抽選やら先着順やらで手に入らないケースも多いとのこと。
 
あるべき場所にあるべきものがある、という状態が望ましいとつくづく思います。
 
【今日は何の日・光太郎】 7月5日

昭和15年(1940)の今日、河出書房から『芸術論第二巻 芸術方法論』が刊行されました。光太郎の評論「素材と造型」が収められています。
 
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光太郎関連でいろいろといただきものがありまして、ありがたい限りです。ご紹介させていただきます 。

文芸誌『虹』 第4号

連翹忌にもご参加下さっている詩人無題の豊岡史朗氏主宰の文芸雑誌です。
 
光太郎関連として豊岡氏の「高村光太郎論 詩集『典型』」、同じく「<ある日 ある時> 荻原守衛と安曇野」が掲載されています。
 
「高村光太郎論 詩集『典型』」は、主に連作詩「暗愚小伝」(昭和22年=1947)にスポットを当て、敗戦にともなう光太郎の自己省察-戦争責任に関し-を剔抉しています。
 
曰く「「戦争詩」を書いたことにうしろめたさを感じた詩人たちも数多くいたはずですが、過ちを軍部や時代状況のせいにせず、自らを反省し、誤謬の真の原因を究明しようと孤独な思索の日々を送る光太郎のすがたは、際立って鮮烈な印象をあたえます。」
 
そのとおりですね。
 
「<ある日 ある時> 荻原守衛と安曇野」は安曇野碌山美術館訪問記。光太郎にも触れています。
 
ご入用の方はコメント欄等からご連絡下さい。仲介いたします。

 
もう1件。

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国際交流基金さん刊行の雑誌です。
 
日本の書籍等を海外に紹介するもので、英文で書かれています。ロシア語版もあるようですが、当方、入手したのは英語版です。
 
2ページにわたり「Takamura Kōtarō and Iwate」という記事が載っています。執筆はエッセイスト・独文学者の池内紀(おさむ)氏。
 
詩「報告」などをひきつつ、光太郎の花巻郊外での山小屋暮らしを紹介しています。外国の皆さんの眼には、光太郎の生き様はどのように映るのか、興味深いところです。
 
 
【今日は何の日・光太郎】 7月2日003

明治35年(1902)の今日、東京美術学校彫刻科を卒業しました。
 
卒業制作は若き日の日蓮をモチーフにした塑像「獅子吼」。首席にはならず、第二席だったとのこと。
 
卒業はしたものの、9月からは研究科に残り(徴兵猶予の意味合いもあったようです)、さらに明治38年(1905)には西洋画科に再入学しています。

画像は光太郎令甥にして写真家・髙村規氏の撮影になるものです。

各地からいろいろご案内やら図書のご寄贈やらが続いております。ありがたいことです。順次ご紹介していきます。

まずは、福島・川内村からのご案内。高村光太郎と親交のあつかった詩人、草野心平を偲ぶイベント「天山祭り」です。 

天山祭り2013

川内村には、過去から現在まで、さまざまな催しがおこなわれています。2011年3月の原発事故以来、催しの開催には困難が多くはございますが、川内村を愛していただいてる皆さん、村のみんなとともに、再び楽しい時間を持てるよう、今後も適時、イベント開催をしていく予定です。ご期待ください。 

今年も、天山祭りの日取りが近づいてきました。草野心平先生を偲ぶ川内村ならではのお祭りです。
48回目の、天山祭りとなります。
 
 時 : 平成25年7月13日(土) 
      午後2時開祭(終了時間午後4時30分)
 所 : 天山文庫前庭(雨天の場合はいわなの郷「体験交流館」)
 催 : 天山祭り実行委員会000
 催 : 川内村観光協会
 援 : 福島民報社・福島民友新聞社
 賛 : 行政区長会・婦人会
参加費 : 一人 500円
 
祭り次第(案)
(1)開祭の言葉
(2)実行委員長挨拶
(3)村長挨拶
(4)かわうち草野心平記念館館長挨拶
(5)献花
(6)詩の朗読・心平さんCDによる朗読
(7)鏡開き・献杯
(8)懇親会
(9)アトラクション
   子どもじゃんがら念仏踊り
    (いわき市小川町)
(10)おひらき
 
 
昨年のポスターです。          
 
会場の天山文庫は、以下のようなところです。川内村HPより引用させていただきます。
 
人間の誇り得る所産「天山文庫」
「蛙の詩」で知られる詩人・故草野心平氏「モリアオガエルの生息地があれば教えて欲しい」と、ある新聞に投書したのが、昭和25年のこと。それに応えて、長福寺の先代住職、故矢内俊晃和尚が早速招聘の手紙を送りました。
そして昭和28年8月、先生は川内村を初めて訪れました。以来、先生と村民との親交は深まり、先生の蔵書3000冊を村に寄贈されたのを機に文庫建設の話がもちあがりました。
そして村民一木一草を持ち寄り村あげての労働奉仕によって建てられたのが、今の天山文庫です。
天山文庫の名は中央アジアを越えて、東洋と西洋を結ぶ「シルクロード」にそびえる天山山脈になぞらえ、みちのくと中央の交流、人と人との出会いを大切にしたいという熱意を込めて、先生が命名したものです。
昭和35年、川内村名誉村民に推載された心平先生。85年という生涯を全うした今、そしてこれからも、先生の遺業は村民の心から消えることなく、語り継がれていくことでしょう。
昭和41年7月16日の文庫落成を記念して、毎年行われる天山祭り。この日は、村内はもとより、県内外から心平先生を偲んで多くの人々が集まってきます。
心平先生の写真を囲みながら青竹を二つに割った器に、色とりどりの山菜料理、今朝つりあげたばかりのいわなの焼魚を肴に盃を傾けます。
村の伝統芸能である獅子舞、浦安の舞、神楽舞が披露され、笛や太鼓で川内甚句も飛び出します。
 
足を運ぶのも復興支援。当方も行って参ります。みなさんもぜひお越し下さい。
 
ぜひお越し下さい、といえば今日から千葉市美術館において「彫刻家高村光太郎展」です。こちらもぜひお越しください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月29日

昭和32年(1957)の今日、東宝映画『智恵子抄』が封切られました。熊谷久虎監督、主演は原節子さん、故・山村聰さんでした。

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【今日は何の日・光太郎】 6月26日
 
昭和52年(1977)の今日、成田市の三里塚記念公園に、光太郎の詩「春駒」を刻んだ碑が建立、除幕されました。
 
碑陰記は草野心平、碑面のブロンズパネルは西大由氏の制作です。
 
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  春駒
 
三里塚の春は大きいよ。
見果てのつかない御料牧場(ごれうまきば)にうつすり
もうあさ緑の絨毯を敷きつめてしまひ、
雨ならけむるし露ならひかるし、
明方かけて一面に立てこめる杉の匂に、
しつとり掃除の出来た天地ふたつの風景の中へ
春が置くのは生きてゐる本物の春駒だ。
すつかり裸の野のけものの清浄さは、野性さは、愛くるしさは、
ああ、鬣に毛臭い生き物の香を靡かせて、
ただ一心に草を喰ふ。
かすむ地平にきらきらするのは
尾を振りみだして又駆ける
あの栗毛の三歳だらう。
のびやかな、素直な、うひうひしい、
高らかにも荒つぽい。
三里塚の春は大きいよ。
 
手元に当地の「高村光太郎詩碑建立委員会」刊行の『春駒』という冊子があります。この碑の建立の経緯や、除幕式当日の模様などが記録されています。
 
収録されている当時の成田市長による建立趣意書から。建立の前年に書かれたものです。
 
 成田市三里塚一帯は、近代畜産発祥の地として古くから牧場が開かれ、その広大な原野に数々の名馬をうみ、緑濃い自然、春の桜花の見事さは年ごとに多くの人々をひきつけました。
 詩人・彫刻家高村光太郎もまたこの地を熱愛した一人です。ことに「生涯かけたたつた一人の親友」と呼んだ小説家水野葉舟がそのはなやかな文壇生活をすて、付近駒井野に移り住んで以来いくたびかこの地を訪れ大きな自然の風物にみずからの詩心を養いました。
 大正十三年四月に書かれた詩「春駒」には、晴朗な三里塚の風景とそこに躍動する若々しい春駒の姿がいま目の前に見るようにいきいきと歌われています。
 しかし、その三里塚は新東京国際空港建設に伴い相貌を一変、かつて若草をけたてて馬たちが疾駆した牧場は大滑走路に変わり、緑深かった平原に巨大な建造物が建ち並び、ほとんど昔日の面影をとどめません。しかも歴史の焦点はここに結ばれ、長い歳月の中で数多くの紛争がくりかえされ、人々は試練の場をくぐりぬけてまいりました。
 いまこそ人間精神のみずみずしい回復を心から祈らずにはいられません。そのことの一つのささやかな着手として、成田市、地元有志はもとより想いをおなじくする者あい集い、ありし日の三里塚の自然とその自然を深く愛した芸術家の心に応えるとともに消えゆく三里塚の面影を未来に残す証として「春駒」詩碑建立を企てました。
 碑はかつての自然を最もよくとどめる旧御料牧場本部前の景勝の地を選び、詩は作者の筆跡を展大して青銅に鋳造、巨石にはめこまれる予定です。
 おそらく碑前にたたずみ詩を読むものは、この国のかがやかなりし自然と心篤かりし人々への限りない回想にさそわれ、未来への明るく力強いはげましを受け取るにちがいありません。
 この企てに多くの方々の御賛同を得、是非とも実現いたしたく別記ごらんの上、貴台の御力添えをお願い申し上げる次第であります。
 
  昭和五十一年十二月
 
高村光太郎詩碑建立準備委員会代表 成田市長 長谷川録太郎
 
なかなかの名文なので、結局全文引用してしまいました(笑)。
 
続いて除幕式での、当会顧問北川太一先生のご挨拶から。
 
 葉舟を「たつた一人の生涯かけての友」と呼んだ光太郎も、しばしばこの地を訪れましたが、詩「春駒」は葉舟がここに移った直後、大正十三年四月十日に作られ、十三日の朝日新聞に発表されています。おそらく、ここで新生涯を始めることになった葉舟とともに、この春のおおらかにもすがすがしい牧野に立って、深い感動にうたれたのでしょう。震災後最初の光太郎の詩が、このようにして生まれたのでした。詩を読み、眼を閉じると、たてがみをなびかせて野を駆ける若駒のひづめの音や、汗ばんだ馬のいきづかいまできこえてくる様です。
 この詩を契機に光太郎には動物に材料を得た猛獣篇をはじめとする力強い詩の展開が始まり、一方葉舟はさまざまな経緯はありましたが、結局後半生をここにおくって、細やかで美しい自然や人間の記録を残すことになるのです。
 
半月ほど前のこのブログにも書きましたが、この周辺、いいところです。ぜひお越しください。
 
今日から2泊3日で花巻に行って参ります。

新刊です。正確に言うと、平成22年(2010)にハードカバーで刊行されたものの文庫化ですが。 

『文士の料理店(レストラン)』 

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2013年6月1日 嵐山光三郎著 新潮社(新潮文庫) 定価670円

「松栄亭」の洋風かきあげ(夏目漱石)、「銀座キャンドル」のチキンバスケット(川端康成)、「米久」の牛鍋(高村光太郎)、慶楽」のカキ油牛肉焼そば(吉行淳之介)、「武蔵」の武蔵二刀流(吉村昭)──和食・洋食・中華からお好み焼き・居酒屋まで。文と食の達人厳選、使える名店22。ミシュランの三つ星にも負けない、名物料理の数々をオールカラーで徹底ガイド。『文士の舌』改題。(裏表紙より)
 
長大な詩なので全文は引用しませんが、大正11年(1922)に発表された光太郎の詩で、「米久の晩餐」という作品があります。浅草で今も続く牛鍋屋・米久さんで、詩人・尾崎喜八と牛鍋を食べた時の光景を詩にしたものです。
 
この書籍によれば、米久さん、メニューは牛鍋のみ。畳敷きの大広間に一、二階合わせて三百席。食事時ともなればもうもうとわき上がる湯気の中、ものすごい喧噪だとのこと。

光太郎の「米久の晩餐」にも、自分たちだけでなく、周囲の客やアマゾン(女中さん)の様子、会話が生き生きと活写されています。光太郎曰く、「魂の銭湯」。
 
本書では、カラー画像もふんだんに使っており、非常に食欲をそそられます。

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レポする嵐山氏の筆も、光太郎に負けず劣らずあますところなくその魅力を紹介しており、思わず行きたくなってしまいます。
 
さらに森鷗外や夏目漱石など光太郎と縁のあった人物や、光太郎の項ではないものの、光太郎も足を運んだ銀座資生堂パーラーなども取り上げられています。
 
是非お買い求めを。
 
ちなみに嵐山氏には、同じく新潮文庫に『文人悪食』『文人暴食』というラインナップもあります。「文士の食卓それぞれに物語があり、それは作品そのものと深く結びついている」というコピーの『文人悪食』では、やはり光太郎が取り上げられています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月16日

大正15年(1926)の今日、父・光雲が東京美術学校名誉教授となりました。

光文社さん刊行の女性週刊誌『女性自身』。今週号に光太郎がらみのコラムが載りました。
 
書評欄的なページが1ページあり、上3分の2は新刊紹介、下3分の1が「私の読み方」というコラムになっています。このコラムで『智恵子抄』が取り上げられています。普段、手に取ることのない雑誌ですのでよくわかりませんが、おそらく、毎回違う人が、ご自分に影響を与えた書籍などを紹介されているのだと思います。
 
で、今週号は、藤沢久美さんによる「「愛される幸せ」を教えてくれた本 詩集『智恵子抄』高村光太郎」。
 
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取り上げられているのは、光太郎が亡くなった昭和31年(1956)刊行の新潮文庫版『智恵子抄』です。
 
コンパクトなスペースながら、効果的に引用もしつつ、『智恵子抄』の魅力を語られています。感心したのは、単なる書評に終わらず、ご自身の体験に照らされつつ、評を展開なさっている点。こうしたコラムではそれが大事なのではないでしょうか。
 
当方、藤沢久美さんという方を存じませんで、ネットで調べてみました。すると、Wikipediaには「実業家、経済評論 家、キャスター。法政大学大学院客員教授、シンクタンク・ソフィアバンク副代表、社会 起業家フォーラム副代表。」という肩書きが。バリバリのキャリアウーマンさんですね。
 
そういう方でも(というと失礼かもしれませんが)、優れた芸術を身近に置いてご自分の人生に生かされているというのはすばらしいことだと思います。「人生を豊かにする」――芸術の効用ですね。
 
これまた失礼な言い方かもしれませんが、女性誌もまだまだ捨てたもんじゃないな、と思いました。
 
ちなみに光太郎は生前、よく女性誌に執筆していました。『婦人公論』、『婦人之友』、『女性日本人』、『婦人画報』、『主婦の友』などなど。いずれ当方刊行の冊子『光太郎資料』で、そのあたりをまとめてみたいと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月14日

昭和20年(1945)の今日、疎開先の花巻で到着直後にかかった肺炎から恢復、明日床上げする旨の葉書を、親交のあった婦人に書きました。

成田市に「三里塚記念公園」という000場所があります。「三里塚」という地名で、一定以上の年代の人はピンと来るかと思いますが、空港の近くです。先日、隣町・成田市に買い物に行った際、市街地から少し足を伸ばして立ち寄ってきました。
 
このあたり一帯は江戸時代には幕府が直轄していた馬の放牧場でした。明治に入り、文明開化の流れの中で牧羊が始められ、光太郎が生まれた明治18年(1885)には宮内省直轄化、同21年(1888)には宮内省御料牧場となりました。
 
その後、空港建設のため昭和44年(1969)に閉鎖されるまで存続しました。
 
閉場後は敷地の一部が記念公園として整備され、皇室の方々がお泊まりになった貴賓館(写真上)、明治期に植えられた日本では珍しいマロニエ(栃)の並木(写真下)などが遺されています。当方が訪れたとき、ちょうどマロニエの白い花が咲いていました。秋には子供のこぶし大の実がなります。
 
大正13年(1924)、光太郎の親友・水野葉舟がこの付近に移り住み、光太郎も何度かこの辺りを訪れており、同じく大正13年には御料牧場の馬を謳った「春駒」という詩も作っています(またのちほど紹介します)。
 
公園内にはその春駒の自筆原稿をブロンズに拡大鋳造した詩碑、葉舟の短歌を刻んだ歌碑も立っています。葉舟の歌碑は、もともと最晩年の光太郎が揮毫を依頼され、一度は引き受けたのですが、健康状態がそれを許さず、代わりに窪田空穂が筆を執りました。
 
また、公園として整備された際に建てられた小さな記念館には、葉舟や光太郎にかかわるミニ展示もなされています。
 
もう一人、光太郎と縁の深い人物として、明治末に吉原河内楼の娼妓・若太夫を奪い合った恋敵・木村荘太(作家。画家・荘八の兄)も大正期にこの付近に移り住んでいました。記念館には荘太に関わる展示もあります。
 
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生活圏内なので、何度もここには行きましたが、今回、新たに一昨年から一般公開が始まった貴賓館裏手にある戦時中の防空壕を見せていただきました。以前はこんなものが遺っていたことすら知りませんでした。
 
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御料牧場ということで、やんごとなき方々のために作られたものです。したがって、一般の防空壕とは比較にならないほどのとんでもなく堅牢な造作になっており、コンクリートは厚さ70㌢、直撃弾を喰らった際の爆風逃がしなども整備されています。防空壕というより、シェルターです。ちなみに施工は今も続く大手建設会社・間組です。
 
しかし、戦時中にやんごとなき方々が御料牧場にいらしたというはっきりした記録もないそうですし、実際には成田には空襲はありませんでしたので、この壕は使用されずじまいでした。
 
防空壕といえば、光太郎のすぐ下の弟・道利は戦時中に誤って防空壕に転落した怪我が元で亡くなりましたし、光太郎自身も東京のアトリエを焼け出されて疎開した花巻の宮澤賢治生家でも空襲に遭い、宮澤家の皆さんの機転で、光雲の遺品や身の回りの品々、賢治の遺品なども防空壕に入れたおかげで無事だったという逸話があります。壕の中を歩きながらそんなことを思い出し、改めて光太郎の生きた激動の時代に思いをはせました。
 
というわけで三里塚記念公園。ぜひ一度、足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月9日

昭和42年(1967)の今日、丸の内ピカデリーで開かれていた松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻主演)の完成記念特別披露公開が最終日を迎えました。

昨日のブログでご紹介しましたが、かの夏目漱石は美術に006も造詣の深い作家でした。
 
まとまった展覧会評としては唯一のものだそうですが、大正元年(1912)の『東京朝日新聞』に、12回にわたって「文展と芸術」という評論を書きました。「文展」とは「文部省美術展覧会」。いわゆるアカデミズム系の展覧会で、正統派の美術家はここでの入選を至上の目標にしていたと言えます。第一部・日本画、第二部・西洋画、第三部・彫刻の部立てで、上野公園竹之台陳列館で開催されていました。大正元年で6回めの開催でした。

さて、漱石の「文展と芸術」。その第一回の書き出しはこうです。
 
芸術は自己の表現に始つて、自己の表現に終るものである。
 
注・当時は送り仮名のルールがまだ確立されていませんので、「はじまって」は「始まつて」ではなく「始つて」、「おわる」も「終わる」でなく「終る」と表記されています。
 
この漱石の言に光太郎が噛みつきました。
 
『読売新聞』にやはり12回にわたって連載された光太郎の文展評「西洋画所見」の第8回で、光太郎はこう書きます。
 
この頃よく人から芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ陳腐な言をきく。此は夏目漱石氏が此の展覧会について近頃書かれた感想文に流行の 源(みなもと)を有してゐるのだといふ事である。
  (中略)
私の考へでは此一句はかなり不明瞭だとも思へるし、又曖昧だとも思へる。殊に芸術作家の側から言ふと不満でもある。
 
光太郎の論旨は、芸術作品に自己が投影されるのは当然のことであり、ことさら「自己を表現しよう」と思って制作を始めたことはなく、漱石の「自己の表現に始つて」という言には承服できないということです。
 
ただし、光太郎は「文展と芸術」を熟読していなかったようで、「西洋画所見」中には
 
私はつい其(注・「文展と芸術」)を読過する機会がなかつたので、此に加へた説明と條件とを全く知らないでゐる。
 
という一節もあります。
 
こうした光太郎の態度に漱石は不快感を隠しません。十一月十四日付の津田青楓宛て書簡から。
 
 高村君の批評の出てゐる読売新聞もありがたう 一寸あけて見たら芸術は自己の表現に始まつて自己の表現に終るといふ小生の言を曖昧だといつてゐます、夫から陳腐だと断言してゐます、其癖まだ読まないと明言してゐます。私は高村君の態度を軽薄でいやだと感じました夫(それ)であとを読む気になりません新聞は其儘たゝんで置きました。然し送つて下さつた事に対してはあつく御礼を申上ます
 
実は漱石の言は、芸術は何を表現するのか、芸術は誰のためにあるのかという問いに対する謂で、間接的に文展出品作の没個性や権威主義を批判するものであり、よく読めば光太郎は反論どころか共鳴するはずだという説が強いのです(竹長吉正『若き日の漱石』平成七年 右文書院 他)。
 
結局、漱石の方では黙殺という形を取り、論争には発展しませんでしたが、「文展と芸術」をよく読まず噛みついた光太郎に非があるのは明白です。
 
漱石は度量の広いところもありました。この年、時を同じくする十月十五日から十一月三日まで、読売新聞社三階で、光太郎、岸田劉生、木村荘八らによるヒユウザン会(のち「フユウザン会」と改称)第一回展覧会が開催され、反文展の会と話題を呼びました。光太郎は油絵「食卓の一部」「つつじ」「自画像」「少女」を出品。このうち「つつじ」は漱石と一緒に会場を訪れた寺田寅彦に買われたそうです。一緒にいた漱石は別に寺田を咎めたりはしていません。
 
ちなみに智恵子の出品も予告されたが実現しませんでした。
 
こうしたバトルについて、現在開催中の「夏目漱石の美術世界展」、それにリンクした雑誌『芸術新潮』の今月号、NHK制作の「日曜美術館」等で取り上げてくれれば、と残念です。
 
テレビで取り上げる、といえば、昨夜放映されたBS朝日の番組「にほん風景遺産「会津・二本松 二つの城物語」」で、光太郎の詩「あどけない話」「樹下の二人」が紹介されました。ありがたいことです。

 
【今日は何の日・光太郎】 6月5日

昭和8年(1933)の今日、岩波書店から「岩波講座 世界文学」第七回配本として、光太郎著『現代の彫刻』が刊行されました。
 
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当時の世界の彫刻界について、非常にわかりやすく書かれています。
 
当方、昔、神田の古書店で200円で購入しました。確かにペーパーバックの薄い書籍ですが、それにしても200円は光太郎に失礼だろう、と憤慨しつつ買いました。安く手に入ったのはいいのですが(笑)……。

こんな企画展が開催中です。 

夏目漱石の美術世界展

2013年5月14日(火)~7月7日  東京芸術大学 大学美術館
 
近代日本を代表する文豪、また国民作家として知られる夏目漱石(1867~1916)。この度の展覧会は、その漱石の美術世界に焦点をあてるものです。 漱石が日本美術やイギリス美術に造詣が深く、作品のなかにもしばしば言及されていることは多くの研究者が指摘するところですが、実際に関連する美術作品を展示して漱石がもっていたイメージを視覚的に読み解いていく機会はほとんどありませんでした。 この展覧会では、漱石の文学作品や美術批評に登場する画家、作品を可能なかぎり集めてみることを試みます。 私たちは、伊藤若冲、渡辺崋山、ターナー、ミレイ、青木繁、黒田清輝、横山大観といった古今東西の画家たちの作品を、漱石の眼を通して見直してみることになるでしょう。
 
また、漱石の美術世界は自身が好んで描いた南画山水にも表れています。 漢詩の優れた素養を背景に描かれた文字通りの文人画に、彼の理想の境地を探ります。 本展ではさらに、漱石の美術世界をその周辺へと広げ、親交のあった浅井忠、橋口五葉らの作品を紹介するとともに、彼らがかかわった漱石作品の装幀や挿絵なども紹介します。 当時流行したアール・ヌーヴォーが取り入れられたブックデザインは、デザイン史のうえでも見過ごせません。
 
漱石ファン待望の夢の展覧会が、今、現実のものとなります。
(チラシより)

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過日このブログでご紹介した雑誌『芸術新潮』の今月号が、この企画展とリンクしています。
 
「序章 「吾輩」が見た漱石と美術」「第1 章 漱石文学と西洋美術」「第2 章 漱石文学と古美術」「第3 章 文学作品と美術 『草枕』『三四郎』『それから』『門』」「第4章 漱石と同時代美術」「第5 章 親交「」の画家たち」「第6 章 漱石自筆の作品」「第7 章 装幀と挿画」という筋立てで、古今東西のさまざまな作品が並んでいます。
 
光太郎とも縁の深かった作家の作品も数多く出品されています。荻原守衛、岡本一平、南薫造、岸田劉生、斎藤与里、石井柏亭などなど。光太郎の作品が出ていないのは残念です。
 
漱石は自作の中にさまざまな美術作品をモチーフとして効果的に使っていること、また、津田青楓ら同時代の画家と親交があったこと、そして橋口五葉による自作の装丁が非常にすばらしいこと、さらに「文展と芸術」という有名な美術批評を書いていることなど、美術にも造詣が深いというのが定評です。
 
絵画などの漱石自身の作品も残っています。しかしこちらは漱石の孫である夏目房之介氏によれば「相当にレベルが低いといわざるをえない」。『芸術新潮』ではむちゃくちゃな遠近法や、むやみに色を塗って破綻している点などを酷評しています。しかし、そこには孫としての暖かな眼差しもまぶしてありますが。
 
一昨日、NHKEテレで放映された「日曜美術館」も、「絵で読み解く夏目漱石」と題してこの企画展にリンクした内容でした。ちなみに同番組とセットで放映される「アートシーン」では、先月のこのブログでご紹介しました中村好文氏の「小屋においでよ!」展が紹介されました。こちら、明日、行ってくるつもりです。
 
ところで評論「文展と芸術」について、光太郎が承服できかねる旨を発言し、漱石に噛みつきました。今回の企画展でも、『芸術新潮』でも、「日曜美術館」でもその点に触れられていないのが残念でした。明日はその辺りを書いてみようと思っています。
 
【今日は何の日・光太郎】 6月4日

昭和26年(1951)の今日、銀座資生堂ギャラリーで「高村智恵子紙絵展覧会」が開幕しました。

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東京での初の紙絵展で、この時から「切絵」「切紙絵」などと言われていた智恵子の作品が、光太郎の発案により「紙絵」の呼称で統一されることになりました。

京都・大阪レポートの2回目です。
 
午前中、京都大覚寺の「大覚寺の栄華 幕末・近代の門跡文化」展を観て、一路、大阪は堺に向かいました。京都から新大阪まで新幹線、その後、地下鉄と路面電車を乗り継ぎ、堺市の覚応寺さんというお寺に向かいました。こちらで昨日、与謝野晶子の命日・白桜忌が行われました。
 
 
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左の画像はパンダ顔の路面電車、阪堺電気軌道阪堺線。歴史は古く、明治末には走っていたとのことで、晶子も使ったのではないでしょうか。当方、天王寺から乗りましたが、どこまで乗っても200円。これにはちょっと驚きました。
 
会場の覚応寺さんに行くには神明町という駅で降りましたが、あと3駅行くと、晶子生家跡のある大小路駅でした。昨日は強行日程だったので行きませんでしたが、また日を改めて周辺を散策してみようと思っています。
 
右上の画像は白桜忌会場となった覚応寺さんと道をはさんだ向かいにある西本願寺堺別院さん。味のある建物だな、と思っていたら、案の定、明治の昔に堺県庁として使われていたとのこと。
 
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さて、覚応寺さん。明治期のここの住職が晶子と鉄幹を引き合わせたということで、ここで白桜忌が開かれているそうです。境内には有名な晶子短歌「その子はたち櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」を刻んだ碑がありました。
 
会場は本堂。大阪在住の高村光太郎研究会会員・西浦氏も到着。受付を済ませて入ると、正面に晶子遺影、サイドには与謝野夫妻直筆の短冊や晶子肖像画などが飾られていました。
 
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午後1時半の開会。お寺での開催ということで、覚応寺院主さんの読経や晶子実家鳳家の方による代表焼香があったりと、宗教色の強いものでした。ただ、それだけでなく、地元の方々による献茶、献歌、献句、そしてコーラスもありました。曲は晶子に関わるもの3曲。「茅渟の海」「ミュンヘンの宿」そして「君死にたまふことなかれ」。堺の人々が晶子顕彰に力を入れている様子に感心させられました。
 
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その後、国立台湾大学日本語文学系教授にして与謝野晶子倶楽部副会長の太田登氏による講演「晶子における現在的意味を考える-堺の晶子から世界の晶子へ-」と続きました。
 
現在の近隣諸国とのぎくしゃくした国際情勢をふまえ、主に大正期の著述から世界平和を訴えていた晶子の姿、その思想的水脈としてのトルストイとの関連などのお話でした。
 
下の画像は太田氏の新刊「与謝野晶子論考-寛の才気・晶子の天分-」。白桜忌に合わせて昨日の刊行で、版元の八木書店出版部さんが会場内で販売していましたので購入しました。与謝野夫妻と光太郎との関わりについてはまだまだ調べなければならないことがあるので、その手引きとしたいと思います。
 
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その後、西浦氏に車で南海電鉄の堺東駅まで送っていただき、帰途につきました。強行日程でしたが実りの多い京阪訪問でした。
 
しかし、来月にはもう一度京都に行く用事が出来てしまいました。詳細はまた後ほど。
 
【今日は何の日・光太郎】 5月30日

昭和21年の今日、農民芸術社から雑誌『農民芸術』が刊行されました。

光太郎は宮沢賢治に関する散文「第四次元の願望」を寄せています。

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