カテゴリ: 文学

3/8、9東北紀行レポートの3回目です。
 
3/9(日)、仙台から東北新幹線に乗り、北上で在来の東北本線に乗り換えました。この日最初の目的地は、岩手県紫波郡紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」さんです。
 
最寄り駅は「日詰」。花巻と盛岡の中間ぐらいでしょうか。
 
ホームに降り立ち、乗っていた列車が発車して行ってしまうと、実に意外な音、というか声が聞こえてきました。何と、白鳥の声です。
 
ホームから見える田んぼに、ざっと百羽以上の白鳥の群れ。
 
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湖などでなく、こういう形で白鳥を見たのは初めてで、感動しました。
 
駅前には宮澤賢治の短歌が記された碑がありました。
 

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曰く、
 
 さくらばな 日詰の駅のさくらばな かぜに高鳴り こゝろみだれぬ
 
大正6年(1917)、盛岡高等農林学校在学中の作品だそうです。
 
ところで野村胡堂・あらえびす記念館さんケータイの地図アプリで見てみると、日詰駅から約3.5㎞。路線バスは見あたらず、タクシーもいません。仕方なく、歩くことにしました。まぁ、毎日犬の散歩で5~6㎞歩くことはざらですので、さほど苦にはなりません。ただ、一泊分の大荷物を担いでなのが大変でした。

野村胡堂は光太郎より一つ年長。ここ、紫波町の出身で、「銭形平次」シリーズの著者として有名です。また「あらえびす」の筆名で音楽評論家としても活躍しました。
 
そして胡堂の妻・ハナが、日本女子大学校で智恵子の二学年下にいて、テニス仲間。福島油井村の智恵子の実家に泊まったこともあるそうです。そんな縁で、明治43年(1910)に行われた、胡堂とハナの結婚披露では、智恵子が介添えを務めています。
 
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野村胡堂・ハナ夫妻
 
というわけで、光太郎智恵子関連の収蔵品があるかも知れないと思い、行ってみることにしました。
 
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途中の北上川に掛かる橋の欄干です。さすが「銭形平次」の里。ところで平次の恋女房・お静には、愛妻・ハナのイメージが投影されているそうです。当方、テレビ時代劇の「銭形平次」-最初の大川橋蔵さん主演の-での香山美子さんのイメージが鮮烈に残っています。「お前さん、いっといで」と切り火を切って送り出すような。
 
記念館の少し手前に、野村胡堂の生家も残っていました。

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立派な日本家屋ですが、驚いたことに、まだ「野村さん」がお住まいです。帰ってから調べてみたところ、住まわれているのは胡堂の弟のご子孫だそうです。
 
さて、記念館につきました。

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入口では胡堂の胸像が出迎えてくれます。
 
 
さらに館内に入ると、北大路欣也さん主演のシリーズで実際に使われた平次の衣装が出迎えてくれます。が、ここからは撮影禁止。そこでパンフレットの画像を載せさせていただきます。
 
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展示スペース、それほど広いわけではありませんが、導線がしっかりしているうえに壁の使い方が特徴的で、面白いと思いました。当方、花巻の光太郎記念館改修などに関わっているので、そういうところに目が行ってしまいます。
 
胡堂本人の資料ももちろん、島崎藤村の書や手紙などが多く展示されていました。他に江戸川乱歩やサトウハチローなどからの書簡も。
 
残念ながら光太郎智恵子に直接関わる展示物はなかったのですが、胡堂の生涯を紹介するビデオでは、先述の結婚披露宴介添えの話で、智恵子に触れていました。
 
それから音楽評論家「あらえびす」としてのレコードコレクションもものすごいのですが、こちらはリスト作成中とのこと。もしかすると光太郎作詞の戦時歌謡などの類も含まれているかも知れません。今後に期待します。
 
さて、意外とじっくり観たので、時間がおしてしまいました。次なる目的地、盛岡てがみ館に午後2時には入らないといけませんし、その前に昼食も取りたいところです。また日詰駅まで大荷物を抱えて3.5㎞、さらに在来の各停で盛岡、そして盛岡駅からてがみ館までも約2㎞……というのも大変だと思い、奮発してタクシーを使うことにしました。
 
盛岡編はまた後日。
 
今日はまた都内に出かけて参ります。用件は二つ。まずは福岡を拠点に活動されている女優の玄海椿さんの舞台を三鷹まで見に行きます。玄海さんの舞台は一昨年、「智恵子抄」が演目だった時に福岡まで観に行きました。今回は東京公演で、「黒田官兵衛」だそうです。
 
それから表参道のギャラリー山陽堂さんにて、「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」とトークイベント
 
明日のこのブログは東北レポートを一旦休止してそちらをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月14日

平成5年(1993)の今日、宮城県唐桑町(現・気仙沼市)御崎の海岸公園に、光太郎歌碑が除幕されました。
 
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女川同様、昭和6年(1931)の「三陸廻り」で光太郎が訪れた記念です。
 
刻まれているのは短歌。
 
黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり

新刊です。

覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻

 2014年1月30日 ブックワークス響発行   中島悠子編   定価 1,400円+税

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詩人・八木重吉の妻であり、のちに歌人・吉野秀雄と再婚した、「登美子」という一人の女性の人生を辿る本。高村光太郎に才能を見いだされながらも、数え年30という若さで世を去った八木重吉。會津八一の門人として生涯を歌に捧げた吉野秀雄。この二人の芸術家に愛された女はどのような人であっただろう、と興味を抱いた装幀家・編集者の中島悠子さんが、彼らの遺した作品や書簡を手がかりに研究を重ねてまとめられました。そこで明らかになったのは、あらゆる人生の不幸にもかかわらず、よく歌いよく働いた、たくましい女性の姿でした。余分な虚飾を排し、現存するテキストにのみ忠実でありながら、苦しい時代を生き抜いた登美子の実像をありありと浮かび上がらせる構成は、見事というほかありません。彼女への敬愛の念にあふれた美しい一冊、ぜひお手に取って清らかな生のあり方に触れてください。(恵文社一乗寺店さんサイトより)
 
吉野登美子。上記解説文にある通り、初め、詩人・八木重吉と結婚しました。しかし八木は昭和2年(1927)、数え29歳の若さで病没。のち、戦後になってから同様に妻を亡くした歌人・吉野秀雄と再婚します。
 
登美子の偉いところは、戦時中も亡夫・八木の遺稿をバスケットに詰めて持ち歩き、守り通したこと。さらに、ただ守っただけでなく、詩集として刊行したこと。頓挫した計画を含め、光太郎も尽力しています。
 
八木の没後間もない昭和3年(1928)には、雑誌『野菊』に「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」を発表して絶賛し、同11年(1936)には、雑誌『詩人時代』に「八木重吉の詩について」を発表しました。これは同17年(1942)に山雅房から刊行された『八木重吉詩集』の序文にも転用されていますし、この刊行自体、光太郎の口利きが大きかったようです。翌年には新たな八木の詩集のために改めて序文と題字を執筆しました。ただし、こちらは戦争の激化などのため、お蔵入りとなってしまいました。
 
戦争が終わり、吉野と再婚してからも、登美子は八木の詩集刊行に力を注ぎます。そして吉野もそれに協力。これはなかなかできることではないと思います。
 
さて、横浜にある神奈川近代文学館に、吉野夫妻の遺品数千点が寄贈されています。その中に光太郎からの書簡が16通、昭和18年(1943)刊行予定が幻に終わった八木の詩集のために光太郎が書いた題字が2種類(「麗日」「花がふつてくると思ふ」)含まれています。この題字については従来知られていなかったものでしたし、書簡の中にも『高村光太郎全集』に漏れていたものがあり、10年近く前に調査に行きました。
 
そんなわけで、『覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻』刊行の情報を得て、すぐに購入いたしました。先程届いたばかりで、まだ斜め読みしただけですが、しっかり光太郎にも言及されており、熟読するのが楽しみです。
 
皆様もぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月1日

昭和60年(1985)の今日、芸術新聞社発行の書道雑誌『墨』第53号が発行されました。
 
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「高村光太郎 書とその造型」という70ページ超の特集が組まれました。豪華な執筆陣で、内容的に非常に充実していますし、写真図版も非常に多く、お薦めの一冊です。時折古書市場で見かけます。

北海道からのイベント情報です

労文協リレー講座 第6回「高村光太郎における戦中と戦後―『智恵子抄』から『暗愚小伝』まで」

期 日 : 2014/3/19 
会 場 : 北海道自治労会館(札幌市北区北6西7) 
時 間 : 午後6時 
料 金 : 当日受講500円
主 催 : 北海道労働文化協会 
講 師 : 田村一郎氏(元鳴門教育大教授)

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先日ご紹介した福井県鯖江市での「夢みらい館・さばえフェスタ ~女と男 つなげよう ひろげよう 新たな明日へ~」もそうですが、光太郎と直接関わりの薄い土地でもこうした講座が開かれています。ありがたいかぎりです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月24日

昭和16年(1941)の今日、光太郎が序文を書いた藤井照子詩集『石花采(てんぐさ)』が刊行されました。
 
「藤井照子」というと、後に十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)が作られた際のモデルが「藤井照子」ですが、同姓同名の全くの別人です。
 
こちらの藤井照子は昭和14年(1939)から同16年(1941)まで光太郎が選者を務めていた、雑誌『新女苑』の応募詩欄の常連投稿者でした。
 
ところが筑摩書房『高村光太郎全集』(増補版)別巻の人名索引では二人の藤井照子が混同されています。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月5日

大正14年(1925)の今日、『東京朝日新聞』に詩「氷上戯技」が掲載されました。
 
まもなくソチオリンピックが開幕します。日本選手の皆さんの活躍に期待したいものです。

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さて、先週土曜日の『長野日報』さんの一面コラム、「八面観」です。
 
 1998年の長野冬季五輪の会場にもなった長野市エムウェーブできょうから、全国中学校スケート大会のスピードスケート競技が始まる。ソチ五輪開幕が間近に迫り、冬季競技への関心は高い。五輪選手に負けない滑りを期待したい
 
▼全中スケート大会は2008年から長野市を会場に開いている。34回を数える今大会には県内42校から108人が出場する。世界のトップ選手が争った五輪施設を舞台に4日まで、将来の日本のスケート界を背負って立つ全国各地の中学生選手が熱戦を繰り広げる
 
▼先月の県大会では、女子の500メートルで平澤春佳さん、1000メートルで松本芽依さん(ともに伊那東部)が優勝した。昨季全中で短距離2冠に輝いた同じ宮田クラブの先輩山田梨央さん(伊那西高、諏訪西中出)に続く優勝を目指すという全国大会での滑りが楽しみだ
 
▼五輪期間の7~9日には茅野市運動公園国際スケートセンターでスピードスケートの全日本ジュニア選手権がある。国際舞台への登竜門となる大会。応援に来る子どもたちもレベルの高いレースを見て刺激を受けることだろう
 
▼〈たたけばきいんと音のするあのガラス張りの空気を破って、隼よりもほそく研いだこの身を投げて、飛ばう、すべらう、足をあげてきりきりと舞はう…〉。高村光太郎の詩「氷上戯技」の一節だ。オリンピックイヤーの今季は、冬季競技の観戦に一段と熱が入りそうだ。

引用されている「氷上戯技」、全文は以下の通りです。
 
   氷上戯技
 
 さあ行かう、あの七里四方の氷の上へ。
          ヽ ヽ ヽ
 たたけばきいんと音のする
 あのガラス張の空気を破つて、
 隼よりもほそく研いだ此の身を投げて、
 飛ばう、
 すべらう、
 足をあげてきりきりと舞はう。
 此の世でおれに許された、たつた一つの快速力に、
  かのこ
 鹿子まだらの朝日をつかまう、
 東方の碧洛を平手でうたう。
 真一文字に風に乗つて、
 もつと、もつと、もつと、もつと、
 突きめくつて
 見えなくならう。
 見えないところでゆつくりと
 氷上に大きな字を書かう。
 
89年前の今日、『東京朝日新聞』に掲載された時点では、最終行の句点が読点で、さらにもう一行ありました。
                               ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ 
 誰にもよめる、誰にもよめないへへののもへじを。
 
その後、削除されています。
 
いったいに光太郎は一度発表した詩でも、自分の詩集に再録する際などにかなり手を加えることがあり、それだけ詩語にこだわりを持っていたことがよくわかります。
 
また、光太郎の詩は、多少の誇張や脚色はあるのでしょうが、基本的に実体験に基づいたものがほとんどです。
 
戦時中も、他の詩人はまるで見てきたように戦闘や軍隊生活を題材にした「軍歌」を書きましたが、光太郎にはそういった作品はほとんどなく、銃後の国民の立場で詩を書いていました。
 
となると、この「氷上戯技」も実体験なのでしょうか。おそらくその通りだと思います。「氷上戯技」の翌年、大正15年(1926)に雑誌『詩神』に掲載された談話筆記、『〔生活を語る〕』(原題「高村光太郎氏の生活」)には、以下の記述があります。
 
△運動は見るのが好きだが自分ではしない。やるのは氷滑りぐらゐ。
 
また、『高村光太郎全集』別巻所収の年譜では、明治41年(1908)の項に次の記述があります。
 
この頃光太郎はフランス語の勉強を急ぎ、マンドリンやピアノを習い、時にスケートに興じ、ビールの味を覚えたりする。
 
「この頃」は、留学でのロンドン滞在中を指します。残念ながら光太郎自身の書いたものに、ロンドンでスケートに興じていたという記述が見あたらないようなのですが、年譜を書かれた北川太一先生、おそらく光太郎から直接そういう話をお聞きになっていたのではないかと推定されます。
 
「フリー百科事典ウィキペディア」によれば、日本でスケートが広く行われるようになったのは、大正になってから。明治末には仙台あたりで、旧制第二高等学校(現・東北大学)の生徒がドイツ人教師にフィギュアスケートを教わったという話ですが、広まったのはもう少し後のようです。
 
そう考えると、光太郎が明治末にスケートに興じていたというのは、日本人の中ではかなり早いほうだと考えられます。
 
さらに言うなら、「氷上戯技」中の「足をあげてきりきりと舞はう。」「見えないところでゆつくりと/氷上に大きな字を書かう。」あたりは、スピードスケートよりフィギュアスケート系のように思われます。明治末にはフィギュアスケートは「描形氷滑」と訳されていたそうです。
 
さすがにトリプルアクセルとか四回転サルコーなどは出来なかったのでしょうが(笑)、光太郎の新進性には舌を巻きます。今ひとつ、イメージが結びつきにくいのですが……。
 
ちなみに「氷上戯技」、4年前のバンクーバー五輪の際には、『朝日新聞』さんの「天声人語」で引用されていました。
 
 どこの湖の冬だろう、彫刻家で詩人の高村光太郎に「氷上戯技」という短い詩がある。〈さあ行こう、あの七里四方の氷の上へ/たたけばきいんと音のする/あのガラス張りの空気を破って/隼よりもほそく研いだこの身を投げて/飛ぼう/すべろう〉

 昔の少年たちの歓声が聞こえるようだ。時代は違うが、この2人も冬には、氷雪と戯れる子ども時代を過ごしたのかと想像した。スピードスケート500メートルで銀メダルを手にした長島圭一郎選手と、銅の加藤条治選手である。
(以下略)
 
もうすぐソチ五輪。フィギュアもスピードも、日本選手の健闘を期待します!

福島県いわき市の山中にある、いわき市立草野心平記念文学館さんで以下の企画展が行われています。
 
気がつくのが遅れ、紹介するのが遅くなってしまいました。申し訳ありません。

冬の企画展 「草野心平コレクション展」

2014年1月18日(土)〜3月23日(日)  9時~17時 休館日/月曜日

 詩人・草野心平(くさのしんぺい 1903〜1988)は、詩、随筆をはじめ、書、画など多彩な創作活動を展開しました。それに伴い、高村光太郎(詩人、彫刻家 1883〜1956)をはじめ、朝井閑右衛門(画家 1901〜1983)、川端康成(小説家 1899〜1972)、高村豊周(鋳金家 1890〜1972)、辻まこと(画家、随筆家 1914〜1975)、棟方志功(版画家 1903〜1975)など様々な分野の芸術家と交友を結んでいます。
 本展では、それぞれの交流がきっかけで生前の心平が収蔵した絵画、書などの芸術品を中心に、いわば詩人の個人的コレクションを紹介し、そのかかわりと魅力にふれます。

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上記チラシの中央に写っている彫刻は、光太郎作の「大倉喜八郎の首」。大倉財閥を興した大倉喜八郎で、光雲が木彫で肖像を作るための原型として作りました。ただ、チラシのキャプションでは「老人の首」となっています。
 
他にも心平の手許には光太郎の書なども多数あったはずで、それらの中から展示品が選択されているのでしょう。それから館の公式サイトによれば、豊周の名も。鋳金作品でしょう。
 
さらに同館では、昨日からスポット展示「草野天平」も行っています。
 
天平は心平の弟にして、やはり詩人。明治43年(1910)の生まれですが、昭和27年(1952)に数え43歳の若さで歿しています。歿後に弥生書房から刊行された『定本草野天平詩集』により、昭和34年(1959)の第2回高村光太郎賞を受賞しています。
 
こちらは3月30日(日)まで。
 
時間を見つけて行ってこようと思っています。皆様もぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】2月2日

大正7年(1918)の今日、雑誌『美術』に「ロダンの死を聞いて」が掲載されました。
 
ロダンはこの前年11月に歿しています。
 
光太郎曰く、
 
私は今迄に経験した事のない淋しい鋭い苦痛の感情をしみじみと感じた。動乱と清粛と入りまざつた心の幾日かを空しく過した。さうしてロダンが立派にやり遂げるだけの事をやり遂げて、其の私的存在をかき消してしまつた事を思ふと、不思議な伝説的の偉大を感じる。ロダンの生きてゐた時代に自分も生きてゐたといふ事がまるで歴史のやうに意味深く、又貴く感ぜられる。

昨日の『日本経済新聞』さんの一面コラムです。 

「春秋」 

 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた――。世に知られた高村光太郎の「レモン哀歌」である。死の床の智恵子がその柑橘(かんきつ)をがりりと噛(か)むと「トパアズいろの香気」がわき立ち、しばし意識がよみがえる。レモンの刺激によって智恵子は「もとの智恵子」に戻るのだ。
 
▼理化学研究所などのチームが、常識破りの手法で新たな万能細胞作製に成功した。マウスの細胞を弱酸性の溶液に浸すだけで、さまざまな臓器や組織の細胞に育つべく「初期化」されるという。やはり酸っぱい刺激は生命を突き動かす……とは小欄の勝手な連想だが、目からウロコのこの大発見は全世界を興奮させている。
 
▼開発をリードしたのは理研の小保方晴子さんだ。哺乳類では木の枝やトカゲの尻尾みたいに簡単な刺激で細胞が再生することはない、という生物学の常識に挑んで実験を続けた。笑われもしたが、いろいろ試すうちに弱酸性の液がその力をもつことを突きとめたという。30歳の女性研究者の、しなやかな発想の勝利である。
 
▼白衣にかえて祖母にもらった割烹(かっぽう)着をまとった姿は自然体で気負いなく、新世代の活躍に心洗われる思いだ。もっともこの万能細胞がヒトでも作製可能か、再生医療に役立つようになるか、今後の研究は多難だろう。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。光太郎の「道程」を胸の底に、惜しみないエールを送る。
 
先日、あらゆる細胞に変化する可能性を持つ「STAP細胞」という万能細胞を作り出すことに成功した研究チームのリーダー、小保方晴子さんに関しての内容ですね。

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過日ご紹介した『朝日新聞』さんの「野茂の前に道はなかった」という記事でも、野球殿堂入りを果たした野茂英雄さんの業績にからめ、光太郎の「道程」が使われていました。
 
小保方さんにしても、野茂さんににしても、こうした様々な分野でのパイオニア的な皆さんへのエールとして、「道程」をどんどん使っていただきたいものです。
 
このところ、「道程」がらみのネタの日には必ず書いていて、しつこいようですが、今年は詩「道程」執筆100周年、詩集『道程』刊行100周年です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月1日

昭和2年(1927)の今日、雑誌『婦人之友』に智恵子の散文「画室の冬――ある日の日記――」が掲載されました。
 
書簡を除き、公表された智恵子の文筆作品の中で、最後のものです。
 
一部、引用します。
 
 朝の香はペパミンの花さく野の味がする。清らかな白い息をつく大空、新らしいマント、家々、水晶の装身濡れ雫する樹木、誰れかを待つ敷物を取かへた道路、オランジユの太陽がいま、熱い凝視をつづけながら、煙る梢を離れるところ。
 何もかも生々として、何もかもすつきりとのびあがつて、きりきりと裸形を寒風にさらす、辛烈な健康、冬。

足立区西新井を拠点に活動されているシンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんから、自作のCDをいただきました。題して「詩と旋律の日本文学」。リリースされたのはごく最近、というわけではなさそうです。
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曲目は以下の通り。
 
1.「月夜の浜辺」中原中也
2.「サーカス」中原中也
3.「山麓の二人」高村光太郎
4.「黒手帳」宮沢賢治
5.心よ(インスト)
6.「八木重吉詩集」八木重吉


というわけで、光太郎の「山麓の二人」が入っています。
 
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北村さんとは昨年の10月、福島二本松で開かれた智恵子忌日の集い「レモン忌」で初めてお会いしました。その際には「レモン哀歌」と「あどけない話」をギター弾き語りで披露なさいました。
 
今回の「山麓の二人」、また、他の詩人の詩に曲をつけた作品も含め、軽妙かつ力強く、非常にいい感じです。
 
附属のブックレットに書かれた北村さんの言葉から抜粋させていただきます。
 
新しい世界は新しい媒体の中で成り立ち、006
古いモノは選別されてゆく。
 
誰がどんな想いで
過去を未来へ繋げてゆくのか?
 
私は私の出来うる形でそれを繋げてゆこうと
想っています。
 
そして百年後、
先人達の詩とメロディとが1セットで
まだこの地球上に残っていたとしたら、
 
このうえないほどしあわせなことだろうなぁ
 
百年前の言葉に旋律をつけるという行為は
自分の存在しない百年後を想う機会となりました。
 
当方もよく、100年後にも光太郎智恵子の名がメジャーであり続けてほしいと思います。そのためには後世の人間が次の世代へと引き継ぐ努力をしなければなりません。そしてそれは一人や二人の力でできることでもありません。どうぞお力添えを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月17日

昭和14年(1939)の今日、『読売報知新聞』および『朝日新聞』に、「文部科学省選定日本国民歌」のうちの、光太郎作詞・箕作秋吉作曲の「こどもの報告」が完成したという記事が載りました。
 
確認できている限り、光太郎が歌曲の歌詞として作った2作目です。1作目は昭和12年(1937)の「わが大空」。作曲は坂本龍一氏などの師にあたる松本民之助です。
 
「文部省選定日本国民歌」は、他の詩人(歌人)・作曲家による5曲とともに6曲でワンセットとなり、演奏会やラジオ放送で扱われ、さらにはレコード化もされました。しかし6曲ともあまり評判がよくなく、いつの間にか忘れ去られてしまいました。
 
そのあたりの経緯は当方が編集・刊行しています『光太郎資料』という冊子にて詳述しております。次号は4月2日、連翹忌に刊行予定で、現在、鋭意作成中です。ご連絡いただければ送料のみにておわけします。

昨日の『朝日新聞』さんの記事です。元メジャーリーガー・野茂英雄さんに関して。

野茂の前に道はなかった

 果たして彼は日本の野球殿堂に入れるだろうか。野茂英雄だ。
 
 先日、米国野球殿堂にノミネートされた。落選したが、日本人で初めての候補者。名前が挙がっただけでも大変な名誉だった。
 
 日本の野球殿堂入りは17日に発表される。15年以上の野球報道経験を持つ記者が候補の中から最大7人まで投票し、75%以上の票を獲得した者が殿堂入りとなる。
 
 プレーヤー表彰の対象者は現役引退後5年以上経過した人で、野茂は今年が資格を得た1年目となる。1年目で選ばれるのは日本では非常に難しく、過去、スタルヒンと王貞治しかいない。長嶋茂雄でさえ、1年目は落選している。
 
 日本で78勝、メジャーで123勝、日米通算201勝が野茂の成績だ。野球殿堂入り選考の定義は「日本野球の発展に大きな貢献をした人」。彼の功績は数字だけでははかれるものではないだろう。
 
 野茂の前に道はなかった。彼の後ろに道はできた。ドジャース元監督のトミー・ラソーダは黒人初の大リーガーに例えて「野茂は日本のジャッキー・ロビンソンだ」といった。彼が橋を架けなければ、イチローも松井秀喜も、そして楽天の田中将大も海を渡ることは、できなかったかもしれない。
 
 日米の架け橋となり、パイオニアとして道なき道を切り開いていった野茂はまさに「日本の野球に大きな貢献をした人」といえるだろう。
 
 資格獲得1年目で野球殿堂入りなるか。17日の発表を日本中の野球ファンが、注目している。

1990年代、独特の「トルネード投法」を無題1ひっさげ、本場メジャーリーガーをキリキリ舞いさせて、「ドクターK」の異名を取ったた勇姿は今も目に焼き付いています。しかも、現在のように日米間の移籍制度がきちんと確立されていなかった時代、いわば身一つで挑戦し、そして見事に成功したことは本当に素晴らしかったと思います。まさに「野茂の前に道はなかった。彼の後ろに道はできた」ですね。
 
ちなみに元ネタは、言わずと知れた光太郎詩「道程」の「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」ですが、「高村光太郎の詩にあるように」といった枕詞がないのは、それだけ「道程」もメジャーだということでしょうか。しつこいようですが、今年、平成26年(2014)は「道程」執筆および詩集『道程』刊行100周年です。
 
ぜひとも野茂さんには殿堂入りを果たして欲しいと思います。その上で改めて「野茂の前に道はなかった。彼の後ろに道はできた」という賛辞を送りたいものです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月15日

昭和41年(1966)の今日、新潮社から『高村光太郎全詩集』が刊行されました。
 
A5判上製1,022ページ、重量1.63㌔㌘(函を含む)。この時点で把握されていた光太郎詩729篇を全て収録した書籍です。これ以前に筑摩書房から刊行された『高村光太郎全集』の詩の巻(第1~3巻)が完全な編年体で、制作順の配列だったのに対し、こちらは光太郎生前に刊行された単行詩集を中核にした配列です。
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すなわち、
 1 「道程」以前
 2 詩集「道程」
 3 「道程」時代
 4 「道程」以後
 5 「猛獣篇」
 6 「猛獣篇時代」
 7 詩集「大いなる日に」
 8 詩集「記録」
 9 「記録」以後
 10 詩集「をぢさんの詩」
 11 「をぢさんの詩」以後
 12 詩集「智恵子抄」
 13 詩集「典型」
 14 「典型」時代
 15 「典型」以後
という構成です。
 
よく「無人島に一冊だけ本を持って行けるとしたら」という命題が出されますが、当方、「一冊だけ」と言われたらこれを選びます。

昨日は二十四節季の一つ、「小寒」でした。冬の寒さが一番厳しい時期となる節目ですが、生涯、冬を愛した光太郎にとっては、本領発揮の時候です。
 
さて、その小寒の日の『神奈川新聞』さんのコラムです。朝日新聞における「天声人語」のような位置づけでしょうか。

照明灯 

 冬型の気圧配置が平年よりも強まり、気象庁の予想では1月から3月は東日本の気温は平年より低くなるそうだ。太平洋側ではからりと晴れの日が多くなる見込みだという
 
 ▼「秩父、箱根、それよりもでかい富士の山を張り飛ばして来た冬/そして、関八州の野や山にひゆうひゆうと笛をならして騒ぎ廻る冬」。高村光太郎の詩の一節。冷厳なこの季節を愛した高村は冬の詩人とも呼ばれる。力強く人を鼓舞する詩句が好きで、青春時代、よく親しんだ
 
 ▼冬の詩人が「ひとちぢみにちぢみあがらして」と難じる中年者となった今だが、澄んだ外気に身をさらせば、正月の酒席でほてった酔顔もいやおうなく寒風にはたかれ、がつんといさめられたような気分となる。何やら凜(りん)として、心地がいい
 
 ▼昨年、世界の平均気温は平年を0・2度上回り1891年の統計開始以来2番目の高温。史上最高だった1998年はエルニーニョ現象の影響が顕著だったが昨年は特殊事情がなく、「地球温暖化の傾向が明瞭に示された」と専門家は言う
 
 ▼「サッちゃん」の作詞で知られる阪田寛夫の詩。「こんなに さむい/おてんき つくって/かみさまって/やなひとね」。こわばる頬も緩む。温暖化の今、冬らしい冬がいい。小寒。寒の入りだ。

 
引用されている光太郎の詩は、大正2年(1913)に書かれた「冬の詩」。「冬だ、冬だ、何処もかも冬だ」で始まり、150行を超える長大な作品です。数年前に黒木メイサさん、松田龍平さんがご出演されたユニクロさんのCMで使われていたので、耳に残っている方も多いのではないでしょうか。


 
からっ風にさらされる関東平野の冬もきついのですが、北国はもっとすごいことになっているでしょう。皆様、どうぞご自愛のほどお祈り申し上げます。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月6日
昭和2年(1927)の今日、詩集『智恵子抄』に収録された「あなたはだんだんきれいになる」を執筆しました。
 
  あなたはだんだんきれいになる005
 
をんなが附属品をだんだん棄てると
どうしてこんなにきれいになるのか。
年で洗はれたあなたのからだは
無辺際を飛ぶ天の金属。
見えも外聞もてんで歯のたたない
中身ばかりの清冽な生きものが
生きて動いてさつさつと意慾する。
をんながをんなを取りもどすのは
かうした世紀の修業によるのか。
あなたが黙つて立つてゐると
まことに神の造りしものだ。
時時内心おどろくほど
あなたはだんだんきれいになる。  
 
智恵子歿後の昭和15年(1940)に光太郎が書いた散文「智恵子の半生」で、この詩について次のように語られています。
 
私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとズボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。「あなたはだんだんきれいになる」といふ詩の中で、
 
 をんなが附属品をだんだん棄てると
 どうしてこんなにきれいになるのか。
 年で洗はれたあなたのからだは
 無辺際を飛ぶ天の金属
 
と私が書いたのも其の頃である。
 
木々は葉を落とし、澄み切った空気に包まれる「冬」。木々と同じように、余計な装飾を落とし、凛とした雰囲気を身にまとう智恵子に、「冬」のイメージを重ねていたのかもしれません。

かつて光太郎が暮らした東京千駄木からのイベント情報です。

谷根千文芸オマージュ展 文学さんぽ

 
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谷根千ゆかりの文芸作品へのトリビュート美術展
カフェギャラリー幻のある谷中・根津・千駄木(略して谷根千)界隈は、夏目漱石・森鴎外・江戸川乱歩・川端康成など、多くの文人の旧居・旧跡がある「文豪に愛された町」です。
 
そこで、谷根千にゆかりある文人・文芸作品をモチーフとした美術展を行います。
 
2014年2月28日(金)~3月9日(日)
企 画 カフェギャラリー幻 東京都文京区千駄木 2-39-11
     笠原小百合(WEB文芸誌「窓辺」編集長)
休廊日 未定(期間中2日ほど)
時 間 15:00~22:00
人 数 7名前後(うち公募参加枠は4名ほど予定)
関連イベント
◆オープニングレセプション:2月28日(金)
◆谷根千文学さんぽツアー:3月2日(日)、8日(土)
 文人ゆかりの旧跡をめぐるお散歩ツアー。
◆クロージングパーティー:3月9日(日)
 
申込
 募集期間:2013年12月26日(木)~1月10日(日) /選考制
 ※選考は過去作をもとに行います。出展作品は会期までにご準備ください。
費用
 出展料:無料
 販売手数料:売上価格の40%※
 ※作品・グッズが売れた際のみ頂戴致します。
お申込方法
 当ページをお読みの上、下記内容をメールにてお送りください。
 Mail:
info@cafegallerymaboroshi.com
 •作家名: グループの場合は団体名および各作家名。
 •参考作品: 過去作品を拝見できるウェブサイトや、作品画像など。実際に出展する作品ではなく、作風が分かるもので構いません。創作にあたってのコンセプト・説明文などがあればお書き添えください。
 •作品形態: 出展作品の大きさ・形式(平面か立体かなど)のおおまかな予定をお教えください。特に立体やインスタレーションなどはスペースが限られるためご相談ください。後日の変更も可能な限り ご対応します。
 •モチーフとする文人と作品(第1希望)
 •モチーフとする文人と作品(第2希望)
 お申込みいただいた方全員にメールにて結果をご連絡させていただきます(2014年1月中旬予定)。
 諸注意
 ・複数名で1団体としてもご参加いただけます。
 ・他の展示・公募等に出品された作品も出展可。
 ・著作権存続作品の二次創作は不可(権利許諾を得たものは可)
 ・作品は販売を行います。非売品とする場合はご相談ください。
 ・作品制作・搬入出にかかる諸費用は作家様にてご負担お願い致します。
 ・選考は展示全体のバランスなども考慮して判断させていただきます。
 
谷根千ゆかりの文人(例)
 下記以外でも、谷根千地域にゆかりある小説家・詩人などの作品、谷根千を舞台とした作品であれば構いません。
 ・森鷗外:この地に居住。「雁」「青年」などの舞台にも。森鴎外記念館あり。
 ・夏目漱石:この地で「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」などを著す。「三四郎」の舞台にも。
 ・江戸川乱歩:団子坂上にて古本屋「三人書房」を営む。団子坂は「D坂の殺人事件」の舞
  台。
 ・高村光太郎:「智恵子抄」の智恵子とともにこの地に居住。
 ・川端康成:この地に居住。
 ・石川啄木:近隣の本郷に居住。鴎外宅の歌会に参加。
 ・北原白秋:この地に居住し、鴎外宅の歌会にも参加。
 ・幸田露伴:この地に居住。谷中霊園は「五重塔」のモデル。
 ・樋口一葉:近隣の本郷に居住。鴎外宅での批評会にて「たけくらべ」を激賞される。
 ・平塚らいてう:青鞜社を千駄木に構え、女流文芸誌『青鞜』を発刊。
 ・二葉亭四迷:近隣に居住し、界隈が「浮雲」の舞台となる。
 ・正岡子規:近隣に居住し、「自雷也もがまも枯れたり団子坂」と詠むなど。
 ・室生犀星:詩「坂」の舞台。
 ・竹久夢二:隣接する弥生に竹久夢二美術館あり。画家だが、詩人・童話作家としても知ら
  れる。
 ・ほか坪内逍遥、宮沢賢治、内田百閒などが近隣に居住。
 たくさんのご応募お待ちしています。
 ※出展作品のジャンルや数は問いません(絵画、写真、彫刻、工芸、服飾、文芸、映像、音楽、インスタレーションなど)。
 
要するに、光太郎や漱石、鷗外など、谷根千ゆかりの文学者たちへのオマージュとしての展示があり、一般公募もします、ということですね。
 
絵心のある皆さん、応募されてはいかがでしょうか。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月4日

明治45年(1912)の今日、新聞『二六新報』に談話筆記「詩壇の進歩」が掲載されました。
 
「僕は詩人ぢや無い。只自分の思つて居る事を詩や画に現はすに過ぎないんだ。」と、のっけから爆弾発言です。
 
最後は「今のやうな時には、僕はポエムといふ作品よりも、寧ろ周囲の空気とか、人間そのものとかを尚ぶ。作品は多く出ないでも、さういふ風に向つて行く処を大いに尚ぶ。僕は全然製作品だけを味うて居るのでは足りない。その人を味ふ為に作品を見るのだ。地面を歩く芸術、力強い芸術に近づくのが嬉しい。四十四年の詩壇を顧みると、此の傾向が明らかに見られるやうになつて来た。」と結びます。
 
浅薄な美辞麗句の羅列に過ぎなかった文語定型詩全盛の時代をぶち壊して行く気概が見て取れますね。2年後の詩集『道程』でそれが結実するわけです。
 
しつこいようですが、今年、平成26年は詩集『道程』刊行百周年です。

昨日も自宅でテレビ三昧でした。
 
16:00からBS朝日さん放映の「惜櫟荘ものがたり」。岩波書店創業者の岩波茂雄が、昭和16年、熱海に建てた別荘「惜櫟荘」の解体修復を追ったドキュメントでした。
 
番組公式サイトで光太郎もここを訪れ、滞在したことがある由、記述がありました。ところが『高村光太郎全集』や、その他当方所有の文献にはおそらく「惜櫟荘」に関する記述がありません。
 
しかし番組内で、しっかり「惜櫟荘」で撮られた光太郎の写真や、岩波書店本社に保管されているという「惜櫟荘」訪問者の芳名帳に残る光太郎の名が映されました。
 
気になったのでさらに調べたところ、「惜櫟荘」現在の所有者である時代作家・佐伯泰英氏のエッセイ集『惜櫟荘だより』(当然のように岩波書店刊行)が出版されており、早速注文しました。

 


 
19:00からはNHKBSプレミアムさん放映の「皇室の宝 第2夜 世界が認めたジャパン・パワー」。
 
現在、京都国立近代美術館にて開催中で、光雲の作品も複数出品されている「皇室の名品-近代日本美術の粋」展に関わる番組で、今回は彫金の海野勝珉、日本画の竹内栖鳳をメインに取り上げていました。番組終わり近くになって、光雲の 「猿置物」(大正12年=1923)が映りました。
 


 
このあとも、光太郎がらみの番組がいくつか放映されます。

にほんごであそぼ

NHKEテレ 2014/01/08(水)8:40~8:50、17:15~17:25
 
2歳から小学校低学年くらいの子どもと親を対象に制作。番組を通して、日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけてもらうことをねらいとしている。今回は、僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る「道程」高村光太郎、ひこうきさんようしゅんしゅん旬~冬~/ゆきおとこ、うた/スキー、道程。
出演者 小錦八十吉,神田山陽,おおたか静流 ほか
 
おそらく坂本龍一さん作曲の「道程」がオンエアされると思います。この番組では昨年末にも「道程」や「冬が来た」を扱って下さいましたが、おそらくまた新作だと思います。

<ドラマ名作選>『浅見光彦シリーズ22 首の女殺人事件』

BSフジ・181 2014/01/09(木)12:00~13:55
 
福島と島根で起こった二つの殺人事件。ルポライターの浅見光彦(中村俊介)と幼なじみの野沢光子(紫吹淳)は、事件の解決のため、高村光太郎の妻・智恵子が生まれた福島県岳温泉に向かう。光子とお見合いをした劇団作家・宮田治夫(冨家規政)の死の謎は?宮田が戯曲「首の女」に託したメッセージとは?浅見光彦が事件の真相にせまる!!
 
出演者 中村俊介 紫吹淳 姿晴香 菅原大吉 冨家規政 中谷彰宏 伊藤洋三郎 新藤栄作 榎木孝明 野際陽子ほか
 
もともとは平成18年2月24日に金曜プレステージの枠で放映された2時間ドラマの再放送です。BSフジさんで、たびたび再放送しています。今はもう使われていない、花巻の古い高村記念館でロケが行われました。

木曜8時のコンサート~名曲!にっぽんの歌~スペシャル

テレビ東京 2014/01/09(木)19:58~21:48 004
 
新春最初の放送は2時間スペシャル。「モクハチ歌う新年会」ではゲストが好きな歌を続々披露。名曲の数々をたっぷりとお楽しみください。
 
ゲスト 大月みやこ、梶光夫、金沢明子、小金沢昇司、伍代夏子、ささきいさお、城之内早苗、城みちる、千昌夫、高田美和、田川寿美、新沼謙治、二代目コロムビア・ローズ、氷川きよし、藤あや子、水森かおり、宮路オサム、森進一、吉幾三、ロス・インディオス(50音順)  司会 宮本隆治、松丸友紀(テレビ東京アナウンサー)
 
曲目 「きよしのソーラン節」氷川きよし 「北国の春」千昌夫 「伊勢めぐり」水森かおり 「襟裳岬」森進一 「大東京音頭」金沢明子 「女人高野」田川寿美 「津軽恋女」新沼謙治 「イルカにのった少年」城みちる 「鳴門海峡」伍代夏子 「なみだの操」宮路オサム <モクハチ新年会> 「ペッパー警部」「夜霧よ今夜も有難う」「曼珠沙華」「Dream」「別れても好きな人」「時の流れに身をまかせ」「嫁に来ないか」「わが愛を星に祈りて」「おひまなら来てね」「宇宙戦艦ヤマト」「夢の中へ」「智恵子抄」「リンゴの村から」 「ひとひらの雪」小金沢昇司 「乱れ花」大月みやこ 「満天の瞳」氷川きよし 「海峡しぐれ」藤あや子 「酒よ」吉幾三 「富士山」森進一
 
二代目コロムビア・ローズさん、アメリカ在住ですが、時折帰国して演歌番組等にご出演なさっています。曲目は「智恵子抄」。昭和39年(1964)、ちょうど50年前のヒット曲です。

10min.ボックス(現代文)「道程(高村光太郎)」

NHKEテレ 2014/01/10(金) 午前1:40~1:50

『道程』は、1914年、大正時代に書かれた詩です。それまでの詩とは違い、ふだん話している言葉、口語体で書かれていました。若者が持つ将来への不安と、前向きな決意が感じられることから、多くの人々に親しまれてきました。この詩の作者は高村光太郎。詩人として、また彫刻家として、明治末から昭和にかけて活躍しました。
 
こちらも何度も放映されています。ネットで見ることもできてしまいます。

 
ぜひご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月3日

昭和21年(1946)の今日、雑誌『ポラーノの広場』臨時発行新年号に、「消息二」が掲載されました。
 
 何もかも生れてはじめての新年を迎へました。祖国の運命は開闢以来の難関にさしかかつてゐるし、私自身としては自分の故郷を離れて新年を祝つたのは、これまでにたつた一度銚子の海岸へ初日出を拝みに行つたことがあるだけで、毎年必ず自分の家の神だなの下で祖先を偲びながら、お雑煮をいただいたものでした。
 しかし私は今、希望に満ちてゐます。
 山に来てから健康は倍加するし、未来の仕事は大きいし、独居自炊孤坐黙念、胸のふくらむ思です。
 謹んで諸兄に年頭の賀をおくります。
 
 光太郎、花巻郊外太田村山口の山小屋に移って初めての新年でした。しかし、「私自身としては自分の故郷を離れて新年を祝つたのは、これまでにたつた一度銚子の海岸へ初日出を拝みに行つたことがあるだけ」は間違いで、明治末の欧米留学で日本を離れていたことを忘れていますね(笑)。

新刊です。 

森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生

野澤一著 坂脇秀治解説 彩流社刊 定価1,600円+税
 
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彩流社さんサイトから。
 
山梨県四尾連(しびれ)湖畔の小屋にひとり暮らし、詩と詩作に明け暮れた青年がいた……
《日本のソロー》野澤 一(はじめ)の『木葉童子詩経』から素朴で澄明な、心優しい詩をセレクション。

1904(明治37)年生まれの野澤一は、法政大学在学中にヘンリー・D・ソローに触発され、山深い湖畔での独居生活を実践。
野山をかけ、生き物を慈しみ、思索し、そして詩を詠んだ。高村光太郎への200 通に及ぶ手紙でも一部に知れられる稀有な詩人の、知られざるひととなりの詳しい解説をも付す。
 
野澤 一(ノザワ ハジメ)
1904(明治37)年生まれ。24 歳のとき、四尾連湖で生活するために法政大学を中途退学。5 年近くの独居生活を経て東京に戻り、湖畔在住中に書きためた詩約200 篇をまとめ『木葉童子詩経』と題し自費出版。1945(昭和20)年、終戦をみることなく41 歳の若さで病没。
 
坂脇 秀治(サカワキ シュウジ)
1955 年兵庫県生まれ。週刊誌記者、出版社勤務を経てフリーエディターに。

 
野澤の詩は、文治堂書店さんから平成17年(2005)に復刻された『木葉童子詩経』で読んだことがありましたが、今回のものには坂脇秀治氏による40ページ近い解説が載っているということで、購入しました。
 
野澤は山梨県出身の詩人で、法政大学中退後、数え26歳の昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。坂脇氏曰く「光太郎からの返信は数通あったようだが、ほぼ一方通行の文通だった。」とのこと。
 
光太郎はその野澤に関し「あの人の文章は癖のある文章ですが、とにかくちょっとほかの人には見られない稀らしい才能を持った人なんですね。」と語り、昭和15年(1940)に書いた「某月某日」というエッセイで、野澤を激賞しています。4月2日の連翹忌には、ご遺族の方にご出席いただいております。
 
その詩も独特のもので、戦前の作ながら、もはや「近代詩」の枠には収まりきれず「現代詩」の範疇に入るのでは、と思われます。そんな野澤が心の師と仰いだのが、アメリカの詩人、ヘンリー・D・ソロー。エコロジストとして名高い詩人です。そこで本書では副題に「日本のソロー」とあるわけです。
 
それから野澤は「現存している詩人でぼくが尊敬しているのは高村さん一人くらいです」と述べています。
 
そんな野澤の詩が32編、おそらく四尾連湖と思われるたくさんのモノクロ写真(これがまたいい感じです)とともに紹介されています。
 
ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月27日

昭和27年(1952)の今日、中野のアトリエの大掃除をしました。駆けつけた詩人の藤島宇内、十和田湖畔の裸婦像製作の助手・小坂圭二が手伝ってくれました。
 
年の瀬といえば大掃除ですね。しかし当方、まだ大掃除らしい大掃除をしていません。昨日も国会図書館さんに行っていましたし……(汗)。

素敵なクリスマスプレゼントをいただきました。
 
贈り主は、二本松在住の詩人で、昨年、「智恵子のまち夢くらぶ」さんの主催で開催された「智恵子講座'12」の講師を務められた木戸多美子さん。
 
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現代詩集や雑誌『現代詩手帖』の版元として名高い思潮社さんからの上梓で、『メイリオ』という詩集で、木戸さんの第一詩集だそうです。
 
帯文は以下の通り。
 
満身創痍の大地に一匹の黎明が立ち上がる  カタストロフ、砕けた言葉、解かれたいのち―― 星の光に深まる夜、地に根をおろし空の底へと両手をひろげる。
 
冒頭の「満身創痍の大地に……」は詩集に収録されている「希土黎己」という詩の一節です。
 
ちなみに上の画像では、帯文が見えるように帯を上にずらしています。
 
「満身創痍」とか「カタストロフ」でおわかりになると思いますが、東日本大震災をモチーフにしている部分があります。全編そうというわけではないようですが。
 
当方の勝手な印象ですが、「希土黎己」という詩からは、光太郎の「猛獣編」の詩群を彷彿とさせられました。また、当方、現代詩には詳しくありませんが、さまざまな実験的な試みがなされ、面白いと感じました。
 
光太郎や萩原朔太郎らによって口語自由詩が確立されておよそ百年(しつこいようですが来年は詩集『道程』刊行百周年です)。詩はまだまだ多くの可能性を秘めていると思います。
 
ぜひお買い求めを。

 
【今日は何の日・光太郎】 12月26日

昭和20年(1945)の今日、光太郎が出雲の神となって、智恵子の姪、春子と詩人宮崎稔が結婚しました。
 
春子は看護婦として、ゼームス坂病院に入院した智恵子に付き添い、その最期を看取りました。宮崎稔は、光太郎の花巻疎開の際に花巻まで同行したりと、戦前戦後を通じて光太郎のそば近くで何くれとなく働いた人物です。

新刊コミックスです。

くーねるまるた 第3集

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小学館『ビッグコミックスピリッツ』連載の漫画の単行本・第3集です。作者は高尾じんぐさん。
 
主人公は、日本の大学院修了後、そのまま日本に居着いてしまったポルトガル人女性といういっぷう変わった設定です。、同じアパートに住む女性達との「食生活」を軸に話が展開、毎回、お金を使わない安上がりな、しかししゃれた料理のレシピが掲載されています。
 
このほど刊行された第3巻の「第36話 青梅」で、『智恵子抄』に触れています。「梅」ということで「梅酒」です。
 
  梅酒006
 
死んだ智恵子が造つておいた瓶の梅酒は
十年の重みにどんより澱んで光を葆み、
いま琥珀の杯に凝つて玉のやうだ。
ひとりで早春の夜ふけの寒いとき、
これをあがつてくださいと、
おのれの死後に遺していつた人を思ふ。
おのれのあたまの壊れる不安に脅かされ、
もうぢき駄目になると思ふ悲に
智恵子は身のまはりの始末をした。
七年の狂気は死んで終つた。
厨に見つけたこの梅酒の芳りある甘さを
わたしはしづかにしづかに味はふ。
狂瀾怒濤の世界の叫も
この一瞬を犯しがたい。
あはれな一個の生命を正視する時、
世界はただこれを遠巻にする。
夜風も絶えた。
 
この回では梅酒以外に、「梅醤油」、「梅ドリンク」などが紹介され、さらにメインは梅酒の梅を具に使った「梅酒カレー」。レシピも載っています。
 
ところで、今年の初め頃、その名もズバリ『梅酒』という題名のコミックスを紹介しました。
 
こちらの作者は幸田真希さんという女性漫画家。
 
そして今回の高尾じんぐさん、ということで、女性は『智恵子抄』の「梅酒」が好きなんだな、と思ったところ、今日の記事を書くために調べていて、高尾さんは実は男性だと知りました。上記の絵柄で、料理漫画。登場人物のほとんどが女性。てっきり作者も女性だと思いこんでいました。
 
「そういうのが封建時代的性差別観念だ」と、ジェンダー論者のコワいお姉様方に糾弾されてしまいそうです(笑)。

【今日は何の日・光太郎】 12月20日

昭和9年(1934)の今日、九十九里で療養していた智恵子を再び駒込林町のアトリエに引き取りました。
 
福島の智恵子の実家・長沼家破産、一家離散後、九十九里に移っていた智恵子の妹・セツの婚家に、母・センともども身を寄せていた智恵子。この年5月からの九十九里生活の中で、「尾長や千鳥と相図」(詩「風にのる智恵子」)し、「人間商売さらりとやめて」(同「千鳥と遊ぶ智恵子」)、「限りない荒漠の美意識圏にさまよひ出」(同「値ひがたき智恵子」)てしまいました。いわば人格崩壊……。
 
九十九里の家には幼い子供もおり、ギブアップ。しかしアトリエに戻っても智恵子の病状は昂進するばかりで、翌昭和10年(1935)2月末には、南品川ゼームス坂病院に入院させることになります。
 
上記の梅酒は、おそらく九十九里に行く前に智恵子が作ったものでしょう。

先日、代官山のクラブヒルサイドサロンで行われた、編集者・絵本作家で、光太郎と交流のあった彫刻家・故舟越保武氏のお嬢さんでいらっしゃる末盛千枝子さんによる「読書会「少女は本を読んで大人になる」第6回高村光太郎『智恵子抄』」の模様が、主催のクラブヒルサイドさんのサイトにアップされましたので、ご紹介します。当方レポートと併せてご覧下さい。

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それから、一昨日ご紹介したけせんぬまさいがいエフエムさんの「水上洋甫のポエムディスカバリー」。3回に分けて光太郎を取り上げて下さり、そのうち2回分が動画サイト「youtube」にアップされましたのでご紹介しましたが、残る1回分も投稿されました。

2021/05/09 追記 その後、削除され、現在は見られません。
  
太平洋戦争から終焉までの光太郎生涯の解説と、詩「案内」の朗読で構成されています。
 
こちらもご覧下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月18日

昭和63年(1988)の今日、静岡県立美術館で開催されていた「近代日本彫刻の歩み展 西欧との出会い」が閉幕しました。
 
光太郎彫刻が4点出品されました。

昨夜は東京・代官山に行って参りました。
 
過日のブログでご紹介したクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」を拝聴して参りました。
 
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ゲストは編集者・絵本作家の末盛千枝子さん。光太郎と交流のあった彫刻家の故・舟越保武氏のお嬢さんで、「千枝子」さんというお名前は、光太郎が名付け親だそうです。
 
お話の中には光太郎智恵子、そして智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』をお書きになった津村節子さんと同じく作家の故・吉村昭さんご夫妻、そしてご自身のご両親、さらにご自身など、さまざまな「夫婦」のありようについてのお話もありました。
 
末盛さんはお子様がまだ幼い頃に最初のご主人を急に亡くされ、再婚されたご主人も今年亡くされたそうですが、そうした深い悲しみを伴うはずのご体験もそうと感じさせせずにお話下さいました。もはや人生を達観なさっているという感じでした。
 
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光太郎という偉大な芸術家に名前を付けても000らったことに対し、お若い頃(失礼)には反発を感じる部分もあったそうですが、今では光太郎の思いをしっかり受け止められているようで、光太郎智恵子の事績についても的確なお話をなさいました。
 
また、末盛さんは岩手県八幡平市にお住まいだそうです。元々お父様の故・舟越保武氏は一戸のご出身で、盛岡にお住まいだった時期もあるので、そういう関係でしょうか。末盛さんご自身、盛岡にお住まいの頃、お父様に連れられて光太郎にお会いになっているとのことです。
 
そこで、東日本大震災の復興支援ということで、「絵本プロジェクトいわて」という活動にも携わっていらっしゃいます。
 
これは「被災地の子どもたちへ絵本を届ける」というコンセプトで、少し前までは絵本の寄贈も受け付けていましたが、現在はそちらは締め切り、現在は絵本を子どもたちへ届けるとともに、 「えほんカーを被災地へ」プロジェクトなどを行っているそうです。
 
ところで、休憩時間に末盛さんにご挨拶いたしましたところ、会の終了間際にいきなり当方に振られ(よくあることなのでもう慣れっこですが)、ご参会の皆様の前で連翹忌の宣伝をさせていただきました。
 
とにかく光太郎智恵子を敬愛する人々のネットワークを広げていくことが大切だと考えておりますので、このブログをお読み下さっている方々も、ぜひ連翹忌にご参加下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月7日

明治20年(1887)の今日、皇居造営事務局の命を受け、光雲が皇居化粧の間鏡縁「葡萄に栗鼠」を制作しました。
 
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平成14年(2002)に茨城県近代美術館他で巡回開催された「高村光雲とその時代展」に出品され、当方、実物を見ましたが、舌を巻くような精緻な彫刻、まさに超絶技巧でした。

ブログ記事のカテゴリは東北岩手としていますが、東京日野でのイベント情報です。  ネット検索で見つけました。

賢治の教え子シリーズその7「クラムボン」 上映会

日 時 : 2013年12月13日(金) 10時~
会 場 : conomiya-cafe 東京都日野市 日野本町 4-22-7-2
問い合わせ:東京賢治シュタイナー学校(担当:竹内様)電話042-523-7112
 
立川にある、幼稚園から高校までの東京賢治シュタイナー学校さんの主催だと思われます。
 
同校にて1990年代に作成されたDVD「宮沢賢治の教え子インタビュー映画」(全8巻+別巻2+総集編1)というものがあります。
 
そのうちの第7巻「クラムボン」(90分)の上映が、上記、日野のカフェで行われる、ということでしょう。
 
さて、その内容なのですが、同校のサイトから抜粋します。

その7「クラムボン」

1999年 90 分
北上川に浮かぶ小舟に乗った宮沢先生と教え子の照井謹二郎さん。その川面にリンゴを落として遊ぶ先生。水面に広がる輪が光を受けて輝く。「きれいだー」と感動し何度もくり返す先生。照井さんは、よく先生に連れられて、山や川に行き、そんな姿を見ていました。その後、幼稚園の園長となった照井さんは、約50年間賢治の童話劇を子どもたちと共に取り組んでいくことになりました。また、浅沼政規さんは詩人高村光太郎や宮沢先生との出会いを語り、「雨ニモマケズ」の詩中の「ヒドリ」をめぐって語ってくれます。
 
故・照井謹二郎氏、故・浅沼政規氏、ともに花巻の方ですが、光太郎とも交流のあった方々です。
 
照井氏は、登久子夫人と共に昭和21年(1946)に子供達による劇団「花巻賢治子供の会」を結成、賢治童話を上演し続けました。そもそもの始まりは、花巻郊外太田村山口の山小屋(高村山荘)に独居していた光太郎を慰安する目的だったようですが、光太郎に激賞され、本格的に公演を行うようになったそうです。
 
浅沼氏は山荘近くの太田小学校山口分教場(のち山口小学校に昇格・下記参照)の校長先生でした。その分教場を光太郎は「風の又三郎の舞台のよう」と言っていました。氏には『高村光太郎先生を偲ぶ』(平成7年=1995 ひまわり社)などの貴重な光太郎回想があります。
 
ご子息の隆氏は今も山荘近くにお住まいで、花巻の財団法人高村記念会理事として、毎年5月15日の高村祭開催に尽力されています。今年10月に放映されたNHKの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」中の花巻ロケにご出演、生前の光太郎について語って下さいました。
 
そのお二人の出演されたDVDということで、興味深いものがあります。ただ、当方、日程が合わず行けません。残念です。
 
【今日は何の日・光太郎】 12月3日

昭和23年(1958)の今日、花巻郊外太田村の山小屋近くの山口分教場が山口小学校に昇格、開校式が行われ、詩「お祝いのことば」を朗読しました。
 
  お祝いのことば
 
あのかはいらしい分教場が急に育つて
たうとう山口にも小学校ができました。007
教室二つの分教場が大講堂にかはり、
別に新しい教室が三つもでき上りました。
部落の人々と開拓の人々が力を合せて
こんなに早く学校を建てました。
みんなが時間と資材と労力と、
もつと大きい熱情といふものを持ち寄つて
この夢の実現を果しました。
陽春四月の雪解ごろから
夏のあつい日盛りや秋のとり入れの忙がしい中を
汗水流して材木運びや地均しをした人達の群がりが
今ブルーゲルの画のやうに眼に浮びます。
損得を超越して成就を期した棟梁の人、
骨身を惜しまず仕事にいそしんだ大工さん左官屋さん、
みんな物を作り上げるといふ第一等の喜びを知つてゐる人のやうです。
あの製板の器械のうなり、
あの夜おそくまで私の小屋に聞えてきた槌の音、
まるできのふのやうになつかしく耳に残つてゐます。
山口小学校は名実ともに立派にでき上がりました。
西山の太田村山関といふ小さな人間集団が
これで世間並の教育機関を持つのです。
小学校の教育は大学の教育よりも大切です。
本当の人間の根源をつくるからです。
部落の人も開拓の人もそれをよく知つてゐると思ひます。
異常な熱意がこの西山の一寒村にたぎつてゐます。
狐やまむしの跳梁する山関部落が
世界の山関部落とならないとはいへません。
私は大きな夢をたのしみます。
かはいい山口小学校の生徒さん達の上に
私の夢は大きくのびて遊びます。
あめでたうございます。
一歩前進、
いよいよ山口小学校ができました。
 
上の画像はありし日の旧山口小学校校舎です。残念ながら昭和45年に廃校となり、さらに歴史民俗資料館として活用されていた校舎も老朽化のために取り壊されてしまいました。
 
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この写真は、昭和24年(1949)の今日、開校から1008周年の学芸会の日の一コマです。サンタクロースに扮する光太郎。この写真を見ると涙が出そうになります。どういう思いでこの寒村に7年も一人で暮らしていたのか……。
 
ちなみに後ろに写っている「山口小学校」の看板は光太郎の揮毫、その右の窓から顔を出している少年が、浅沼政規氏ご子息・隆氏だそうです。

東京本郷の古書店、森井書店さんから在庫目録が届きました。
 
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4月末から5月頭に前号をご紹介しました。

前号に引き続き、新蒐品でみごとなものがたくさん掲載されています。
 
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高村光太郎詩稿額 250,000円
 
昭和14年に書かれた詩「へんな貧」の草稿2枚です。006
 
この男の貧はへんな貧だ。
有る時は第一等の料理をくらひ、
無い時は菜つ葉に芋粥。
取れる腕はありながらさつぱり取れず、
勉強すればするほど仕事はのび、
人はあきれて構ひつけない。
物を欲しいとも思はないが
物の方でも来るのをいやがる。
中ほどといふうまいたづきを
生まれつきの業がさせない。
妻なく子なきがらんどうの家に
つもるのは塵と埃と木片ばかり。
袖は破れ下駄は割れ、
ひとり水をのんで寒風に立つ。
それでも自分を貧とは思へず、
第一等と最下等とをちやんぽんに
念珠のやうに離さない。
何だかゆたかな有りがたいものが
そこら中に待つてゐるやうで
この世の深さと美しさとを007
身に余る思でむさぼり見る。
この世に幸も不幸もなく、
ただ前方へ進むのみだ。
天があり地面があり、
風があり水があり、
さうして太陽は毎朝出る。
この男のへんな貧を
この男も不思議におもふ。
 
前年に智恵子を亡くし、空虚な気持ちで日々を送っていた頃(右上写真がちょうどその頃)の作品です。一方で「勇ましい」戦争詩を書き、その一方でおのれを見つめる眼はかくもニヒリスティックです。
 
「高村光太郎短冊」 350,000円
 
制作年代不詳の短歌を短冊に認(したた)めたものです。短冊自体の揮毫の時期もよくわかりません。
 
山の鳥うそのきてなくむさしのゝあかるき春となりにけらしな
 
目録キャプションでは「うそきて」となっていますが「うそきて」です。うそはつきません。また「あうるよ」ではなく「あかるき」です。
 
おそらく大正14年(1925)、木彫「うそ鳥」の桐箱に書いた次の短歌の異稿といったところでしょうか。
 
山の鳥うその笛ふくむさし野のあかるき春となりにけらしな
 
『万葉集』に収められた志貴皇子の「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」を彷彿とさせます。
 
 
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「高村光太郎「某月某日」「をぢさんの詩」 葉書1枚共」 400,000円
 
今年の明治古典会七夕古書大入札会 に出たものです。森井さんが落札したのですね。当方、7月に現物を見て参りました

すべて詩人の高祖保にあてたもので008す。高祖は光太郎の詩集『をぢさんの詩』(昭和18年=1943)の編纂を行ってくれた詩人で、その件に関しての礼状、同時に献呈された随筆『某月某日』、そして献呈識語入りの『をぢさんの詩』。

献呈署名には「昭和十八年十一月 一十六歳 高村小父」と書かれています。数え六十一歳だった光太郎が洒落を効かせて「六十一」を「一十六」と倒置しています。
 
此の詩集の成る、まつたく
あなたのおかげでありました
印刷の字配り、行わけ、の比例
から校正装幀などの御面倒
まで見てくださつた事世にも
難有、茲に甚深の謝意を表します
   昭和十八年十一月
      一十六歳 高村小父
 高祖保雅友硯北
 
その他、新蒐品以外でも書簡など光太郎関係のものが在庫として載っていますし、もちろん他の文学者のものも満載の目録です。
 
また、文学というよりは山岳関連の在庫が実に充実しています。辻まこと、串田孫一、畦地梅太郎などなど。
 
森井書店さんサイトのこちらのサイトから目録が請求できます。 
 
【今日は何の日・光太郎】 11月30日

昭和36年(1961)の今日、平河町の砂防会館で開催された「花柳照奈 第五回創作舞踊リサイタル」で、清水脩作曲による「智恵子抄」が発表されました。
 
この時のプログラム等探しています。よろしくお願いいたします。

文学作品の朗読が静かなブームのようですね。あちこちの朗読イベントで光太郎作品が取り上げられています。
 
先日、このブログでご紹介した「声の会」さんのイベントが終了。同会のHPに詳しく様子がレポートされています。
 
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これからあるイベントが2件。 

”大人向け古典講座” 朗読 耳から味わう日本文学の傑作

予備校講師・カルチャースクール講師などを務められている「国語教師」吉田裕子さんの講座です。
 
以下、吉田さんのサイトから。
 
長年愛されてきた文学作品は、その内容だけでなく、言葉自体、強い魅力を持っています。声に出してこそ、その力が感じられることもあるでしょう。古典講座を数多く開催してきた講師が、「朗読」という形での作品表現に挑戦いたします。ぜひ作品との新鮮な出会いをお楽しみください。

・日時 2013年12月7日(土)10:30~12:00 
・会場 御殿山コミュニティセンター(吉祥寺駅徒歩6分)
・定員 15名
・参加費 500円

【朗読予定の作品】
 芥川龍之介「蜘蛛の糸」「蜜柑」  与謝野晶子『みだれ髪』ほか短歌 
 高村光太郎「智恵子抄」 三浦哲郎「とんかつ」 枕草子
方丈記 平家物語 おくの細道
 
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語りの会「いっきゅう組」 発表会2013 テーマ「愛とミステリー」

アニメ「攻殻機動隊」などでご活躍中の俳優・声優の塾一久氏による朗読イベントです。
 
・日時 2013年12月7日(土)14:00~ 
・会場 つくば西武ホール つくばエクスプレスつくば駅すぐ 西武デパート6F
・入場無料
 
1 智恵子抄より 詩16編 歌6首:高村光太郎
2 日本ミステリー「アパートの貴婦人」:赤川次郎
  海外ミステリー「ばっちゃまの話」:ルイーズ・マードリック
3 文藝百物語より 7編:森真沙子ほか
4 ゲストコーナー (お楽しみ^^)
5 塾一久による 短編ミステリーと落語「芝浜」
 
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この手のイベントを企画されている方、ご連絡いただければこのブログにてご紹介させていただきます(内容にもよりけりですが)。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月18日

大正6年(1917)の今日、光太郎が敬愛していた彫刻家、オーギュスト・ロダンが歿しました。

東京は代官山からイベント情報です。  

読書会「少女は本を読んで大人になる」 第6回 高村光太郎『智恵子抄』 

主 催  クラブヒルサイド
日 時  2013年12月6日(金) 19:00~21:00
会 場  クラブヒルサイドサロン 
       東京都渋谷区猿楽町30-2 ヒルサイドテラス アネックスB棟2F
参加費  一般3,500円 学生2,500円 ミニサンドウィッチ、紅茶付
ゲスト  末盛千枝子
 
同会サイトから
『智恵子抄』は、彫刻家・詩人である高村光太郎が、妻・智恵子との出会いからその死の時まで、30 年にわたって書いた詩や短歌をおさめた一冊です。光太郎にとって最愛かつ創作のミューズであった智恵子は、自身もまた芸術家であり、平塚らいてうらとも親交を深める「新しい女」でした。しかし、創作と家庭生活の間での葛藤、実家の破綻も原因し、やがて精神を病み、52 歳で亡くなります。  今回は、高村光太郎を名付け親にもち、美しい絵本の数々を世に送り出してこられた編集者・末盛千枝子さんをゲストにお迎えします。果たして「夫婦」として生きるとはどのようなことなのか――。光太郎と智恵子の有り様を通して、末盛さんと共に考えてみたいと思います。
取り上げる本:高村光太郎『智恵子抄』(新潮文庫他)

 
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ゲストの末盛千枝子さん。「高村光太郎を名付け親にもち」とありますが、光太郎と交流のあった彫刻家・舟越保武のお嬢さんです。舟越はかつて行われていた彫刻と詩二部門の「高村光太郎賞」に輝いたこともあります。
 
昭和51年(1976)に読売新聞社盛岡支局から刊行された『啄木 賢治 光太郎 ―201人の証言―』には、このように書かれています。
 
 光太郎と舟越の初対面は昭和十六年、舟越の長女が生まれた時だった。舟越は当時、光太郎が訳したロダンの言葉に心酔しており、長女の名付け親になってもらうべく、一面識もなかった光太郎を、駒込のアトリエに訪ねたのだという。舟越は練馬にアトリエを持っていた。
 花巻の光太郎は、ずいぶん多くの人たちから名付け親を依頼された。詩人はそのたび「女の子なら智恵子としかつけませんよ」と笑ったが、舟越に対しても同じ意味のことを言い、漢字だけ変えてチエコと名付けてくれた。
 
また、昭和58年(1983)講談社から出た舟越保武・佐藤忠良の『対談 彫刻家の眼』には以下の部分があります。
 
佐藤 二人共、高村さんとは娘で縁があるんだな。君が高村さんに“千枝子”と名付け親になってもらったり、うちのオリエが智恵子を演ったりして。
 
舟越 ああ、そういえばそうだねえ。
 
佐藤 君の場合は、自分の子供の名前を自分でつけないで、他人に付けて貰おうというんだから、それは高村さんへの最大の尊敬だよね。
 
舟越 確かに尊敬の的だった。これはこの間テレビでしゃべったことだけど、高村さんが盛岡へ講演に来られて、花巻へ帰る時に、うちの娘の千枝子がまだ高村さんに会っていなかったので、その時に何とはなしに、きょう合わせた方がいいな、という予感みたいなものが僕にあった。それで娘を連れて、高村さんを盛岡駅へ見送りに行った。「これが先生に名前をつけていただいた千枝子です」と紹介したら、高村さんの表情がいつもと変わったような気がした。娘のおかっぱ頭を撫でて、「おじさんを、覚えておいて下さいね」と言った。その時の様子をはっきり憶えている。
 それから間もなく高村さんは東京へ出て、そしてあの仕事を終えて死んでいるわけ。盛岡駅で感じたあの予感みたいなものね。この小さい娘は自分が死んだ後にもずっと生きてるだろう。ということで高村さんの訣別の言葉だったのだと思う。
 
佐藤忠良も舟越同様、光太郎を敬愛していた彫刻家で、やはり「高村光太郎賞」受賞者です。そのお嬢さんは女優の佐藤オリエさん。昭和45年(1970)、TBS系テレビで放映された「花王愛の劇場 智恵子抄」で、智恵子役を演じられました。舟越保武が「テレビでしゃべった」というのはNHKの「新日曜美術館」でしょう。
 
「あの仕事」は十和田湖畔の裸婦像ですね。
 
末盛さん、その後、編集者・絵本作家としてご活躍。記録によれば初期の頃の連翹忌にご参加いただいています。
 
当方、早速申し込みをしました。どんなお話が聴けるのか、楽しみです。
 
【今日は何の日・光太郎】 11月9日

明治25年(1892)の今日、光雲が西郷隆盛像木型制作主任に任命されました。
 
今も上野のランドマークとして愛されている上野の「西郷さん」。竣工は同31年(1898)ですから、かなりの期間がかかっています。下は当時の手彩色絵葉書(カラー印刷でなく人の手で彩色されたもの)です。
 
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昨日は福島・川内村に行って参りました。詩人の草野心平を偲ぶ集い「第3回天山・心平の会かえる忌」に参加のためです。昨年に引き続き二度目の参加でした。
 
会場は川内村中心部にある小松屋旅館さん。座敷の囲炉裏を囲んでの集いとなりました。
 
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午後3時に開会。川内村遠藤村長や013かわうち草野心平記念館長・晒名氏のご挨拶の後、心平も好きだった濁酒で乾杯。さらに心平生前の肉声の録音で、光太郎の「鉄を愛す」「樹下の二人」、心平の「ごびらっふの独白」などを聴きました。
 
その後、当方の講演。題は「高村光太郎と草野心平の交流」。光太郎は明治16年(1883)、心平は同36年(1903)の生まれで、ちょうど20歳離れていますが、大正の末頃知り合ってすぐに意気投合、お互いを大いに認め合い、お互いのためにいろいろな仕事をしました。光太郎は心平の詩集や編著(『宮沢賢治全集』など)の序文や装幀をし、心平の編集していた『銅鑼』、『歴程』、『東亜解放』などに寄稿、心平は光太郎についての評論や詩、随想を書きました。また、光太郎は心平の経営する居酒屋に足しげく通い、心平は晩年の光太郎の身の回りの世話をしたりと、実生活の部分でもいろいろと助け合っています。
 
そうした二人の交流を、年譜にまとめて発表させていただきました。
 
特筆すべきは光太郎歿後。心平は昭和32年(1957)の第一回連翹忌で発起人を務めました。そういう意味では当方の大先輩です。
 
その他にも自身の晩年(昭和63年=1988没)まで、ことあるごとに光太郎についての仕事をしています。
 
自身で光太郎の詩集や光太郎に関する書籍を編んで刊行したのをはじめ、いろろな雑誌で光太郎特集を組めば寄稿し、光太郎の石碑ができれば碑文や碑陰記を書き、講演やテレビ番組で光太郎を語り続けました。
 
また、同じ福島県人という事で、心平は智恵子に関する顕彰活動も行いました。
 
「去る者は日々に疎し」と申します。しかし、心平の中では、その歿後も光太郎・智恵子が生き続けていたのでしょう。といっても、なかなかできる事ではありません。
 
今日、まがりなりにも光太郎・智恵子の名がメジャーなものとして伝えられ続けている陰には、心平のこのような努力があったわけで、光太郎顕彰の大先輩として尊敬します。
 
心平は昭和43年の「大いなる手」という文章で次のように書いています。
 
 光太郎は巨人という言葉が実にピッタリの人であった。(略)
 巨人と言われるのにふさわしい人物は世の中に相当いるにはちがいないが、私がじかに接し得た巨人は高村光太郎ひとりだった。

 
対する光太郎も、心平という稀代の詩人の本質を鋭く見抜き、心平の詩集『第百階級』の序(昭和3年=1928)で、次のように評しています。
 
 詩人とは特権ではない。不可避である。
 詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。云々ならざるところに、既に、気笛は鳴つてゐるのである。(略)
 詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。

 
今回、心平と光太郎の交流について調べてみて、人と人とのつながり―言い換えれば「絆」―の美しさ、強さ、重要性を改めて感じました。
 
さて、右上の画像は当方講演のレジュメです。光太郎・心平それぞれの、それぞれに対して行ったりしたことについてまとめた年譜が中心です。残部が少しあります。ご希望の方には送料のみでお分けします。このブログのコメント欄等からご連絡ください(コメント欄には非公開機能もついています)。ただし、モノクロ印刷です。
 
ところで川内村。
 
昨日はカーナビが常磐自動車道の常磐富岡ICで下りろ、と指示してきました。広野IC~常磐富岡ICは震災から2年半経った今も通行止めが続いています。しかたなく広野で下りて、一般道に入りました。福島第二原発のある富岡町を通り、本当にもう少し行けば立ち入り禁止区域、というところまで行って、川内村に入りました。
 
通行可能区間でも、除染のための重機や除染によって出た落ち葉などの廃棄物を詰めてあると思われる巨大なビニール袋などが目につきました。シャッターを下ろした店舗も多数。また、山間部の道路では、未だに崩落し、片側対面通行になっている箇所も複数ありました。かえる忌会場でも地元の方々から、帰還の状況などまだまだであることを伺いました。
 
そんな中、懇親会の席上では、逆に東京から川内村に移り住んだ若者が紹介されたりという明るい話題もありました。しかし、もちろん喜ばしいことですが、一人の若者が移り住んだというだけで大喜びという状況、おかしいとは思いませんか? 美しい紅葉を目にし、新そばや巨大なイワナの塩焼きに舌鼓を打ち「こんなにいい所なのに……」と、思いは複雑でした。
 
当方、来年は川内村で行われる市民講座的なもので、複数回講師を依頼されました。微力ながら少しでも復興支援となればと、お引き受けしました。
 
まだまだ復興途上です。最近は一頃はやった「絆」という合い言葉もあまり聞かれなくなってきました。しかし、「絆」の一語、風化させるにはまだ早いと思います。皆さんもできる範囲での支援をよろしくお願いいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月27日

昭和27年(1952)の今日、紀尾井町福田屋で、詩人の竹内てるよ、栄養学者の川島四郎との座談「高村光太郎先生に簡素生活と栄養の体験を聞く」を行いました。

昨日、山梨県に行って参りました。
 
山梨県立文学館さんで開催中の「与謝野晶子展 われも黄金の釘一つ打つ」観覧のためです。
 
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同館は平成19年(2007)には企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催、今度は光太郎と関連の深い晶子の企画展ということで、馳せ参じました。
 
昼食時間帯に現地に着き、文学館の目の前にある「小作」さんに入りました。当方、山梨に行くことも多く、そのたびにここで山梨の郷土料理・ほうとうを食べています。
 
偶然にも文治堂書店さんの勝畑耕一氏が友人の方とお二人で食事に見えられ、驚きました。勝畑氏、今春、『二本松と智恵子』というジュブナイルを上梓されています。やはり晶子展を観にいらしたとのこと。
 
他にも文治堂さんでは光太郎に関わる書籍を何点か刊行して下さっており、ありがたい限りです。
 
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さて、いざ会場へ。
 
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晶子の生まれ育った大阪堺の菓子商・駿河屋関連に始まり、女学校時代、『明星』時代、『みだれ髪』前後、渡欧、古典研究、そして晩年と、ドラマチックな晶子の生涯が俯瞰できる数々の資料が並んでいました。
 
短歌以外にもその才能を遺憾なく発揮した詩(日露戦争に出征した実弟に対して語りかける「君死にたまふこと勿かれ」など)、小説、童話、評論などの活動もテーマ別に紹介されていました。
 
やはり実物を見ることで、晶子なら晶子の「息吹」のようなものを感じます。画像で見るのとは違いますね。
 
そして「晶子と「明星」の人々」ということで、光太郎、石川啄木、北原白秋、木下杢太郎に関する展示も。
 
光太郎関連は初めて光太郎の短歌が載った明治33年(1900)の『明星』(先日の【今日は何の日・光太郎】でご紹介しました。)、光太郎の書いた晶子の戯画が載った明治43年(1910)の『スバル』(巳年ということで、当方、今年の年賀状に使いました。晶子が口から蛇を吹いています。)、光太郎が装幀した鉄幹の歌集『相聞』(明治43年=1910)などが展示されていました。
 
光太郎のコーナー以外にも、光太郎に関わる資料が点々とあり、光太郎と与謝野夫妻の縁の深さを改めて実感しました。晶子の歌集『流星の道』(大正13年=1924)には「高村光太郎様に捧ぐ」の献辞がありますし、遺作となった歌集『白桜集』(昭和17年=1942)の序は光太郎が執筆しています(雑誌『冬柏』に載ったものの転載ですが)。それから光太郎が扉の題字、挿画、装幀を手がけた晶子歌集『青海波』(明45=1912)も展示されていました。
 
また、晶子の短歌も載った合同作品集『白すみれ』(明治39年=1906)も展示されていましたが、この装幀も光太郎だという情報があり、こちらは調査中です。確定すれば光太郎が手がけた最初の装幀ということになるのですが、はっきりしません。この件については稿を改めて書きます。
 
さらに、晶子は智恵子が表紙絵を描いた『青鞜』創刊号の巻頭を飾った詩「そぞろごと」を執筆しており、こちらも展示されていました(復刻版でしたが)。この詩は「山の動く日来る」で始まるもので、『青鞜』主宰の平塚らいてうはこの詩にいたく感動したそうです。ただ、のちにらいてうと晶子はいわゆる「母性保護論争」で論敵同士となりますが。
 
展示をざっと見終わった後、担当学芸員の保坂雅子様による講座「与謝野晶子の姿 山梨での足跡を訪ねて」を拝聴しました。晶子は10回ほど山梨県を訪れており、その経緯や作品の紹介でした。光太郎とも親交のあった山梨出身の詩人、中込純次が絡んでおり、興味深いものでした。
 
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講座修了後は保坂様によるギャラリートークもあり、もう一度展示室へ。先ほどはざっと見たたででしたので、今度は詳しい解説付きで観られ、ラッキーでした。
 
展示の後半は講座にもあった晶子と山梨関連の資料の数々でしたが、「百首屏風」などの自筆の書、写真など、関係者の方々がよくぞ散逸させずに遺しておいてくれた、という感じでした。
 
そして保坂様は今回の企画展全体を担当され(当然、図録の編集もでしょうし)、昨日は講座にギャラリートークと、八面六臂の大活躍です。ご苦労様です。
 
というわけで、なかなか立派な企画展です。会期は11/24まで。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月25日

大正3年(1914)の今日、第一詩集『道程』が刊行されました。
 
『明星』時代には秀抜な「歌人」であった光太郎ですが、海外留学を経て、明治42年(1909)頃から「詩人」へと変貌します。後に「短歌では到底表現し尽くせない内容をもてあまし、初めて自分でも本気で詩を書く衝動に駆られた。」(「詩の勉強」昭和14年=1939)と語っています。
 
社会的には大逆事件や日韓併合、光太郎の身辺でも盟友・荻原守衛の死やパンの会の狂騒といった出来事があり、光太郎自身、自己の目指す新しい彫刻と、光雲を頂点とする旧態依然たる日本彫刻界の隔たりに悩み、吉原の娼妓や浅草の女給との恋愛、画廊琅玕洞の経営とその失敗、北海道移住の夢とその挫折など、まさに混沌とした時代でした。
 
そして智恵子との出会いをきっかけに転機が訪れ、とにかく自分の道を自分で切り開くベクトルが定まります。
 
おそらくは2ヶ月後の智恵子との結婚披露を控え、それまでの自己の「道程」を振り返り、一つのしめくくりとして、この『道程』刊行が思い立たれたのでしょう。
 
回想に依れば、光雲から200円を貰って、刊行部数200部ほどの自費出版。まだ口語自由詩が一般的でなかったこの時代を突き抜けた詩集は、一部の人々からは強い関心を持って受け止められましたが、ビジネスライクの部分では散々でした。後に残本を奥付だけ換えて改装し、何度か再生品を刊行しています。国会図書館の近代デジタルデータに登録されているのはこれです。のちに近代文学史上の金字塔となるとは、誰も思っていなかったことでしょう。 
 
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画像は当方所蔵の初版『013道程』です。残念ながら刊行時に着いていたカバーは欠落しています。
 
ちなみに大正3年(1914)は99年前。つまり、来年は『道程』刊行100周年ということになります。
 
表題作「道程」もこの年の発表ですし(雑誌発表形は102行にも及ぶ大作でしたが、詩集収録の段階でバッサリ9行に削られました。)、来年は「「道程」100周年」というコンセプトで企画展なり出版関連なりで取り上げていただきたいものです。当方所蔵のものは喜んでお貸しします。
 
詩集『道程』はその後、昭和に入り、「改訂版」(昭和15年=1940)、「改訂普及版」(同16年=1941)、「再訂版」(同20年=1945)、「復元版」(同22年=1947)、「復元版文庫版」(同26年=1951)、「復刻版」(同43年=1968)、「復元版文庫版リバイバルコレクション版」(平成元年=1984)などが刊行されています。このあたりの変遷を追うだけでも面白いと思います。
 
ついでに言うなら、後ほどこの項で紹介しますが、智恵子との結婚披露も同じ大正3年ですので、やはり来年は「光太郎智恵子結婚100周年」と言えます。企画展なり出版関連なりで取り上げていただきたいものです。

当方も会員に名を連ねております「高村光太郎研究会」という団体があります。
 
「研究」と名が付いておりますので、とりあえず光太郎やその周辺についての研究を志す人々の集まりです。といって、堅苦しいものではなく、参加資格も特にありません。特に職業として研究職についていないメンバーも多数在籍しています。高村光太郎記念会の北川太一先生に顧問をお願いしており、じかに北川先生の薫陶を受けることができるのが大きな魅力です。
 
年に1回、研究発表会を行っております。昨年は当方が発表を行いました。
 
今年の案内が参りましたので、ご紹介します。

第58回高村光太郎研究会 

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日 時 : 2013年11月23日(土) 14時
会 場 : アカデミー音羽 文京区大塚5-40-5
参加費 : 500円
発 表 : 
  「高村光太郎小考-直哉と光太郎-」 大島龍彦氏
  「光太郎と野澤一との関係性について/智恵子抄を訪ねる旅から学んだこと」坂本富江氏
 
会に入らず、当日の発表を聞くだけの参加も可能です。特に申し込みも必要ありません。
 
会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
興味のある方はぜひ11/23の研究発表会にお越し下さい。おそらく北川太一先生もお見えになると思われます。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月24日

大正2年(1913)の今日、『時事新報』に評論「文展の彫刻」の連載を始めました。
 
「文展」は「文部省美術展覧会」。彫刻部門は光雲を頂点とする当時の正統派の彫刻家達によるアカデミックな展覧会でした。
 
明治末に3年あまりの海外留学を経験し、本物の芸術に触れて帰ってきた光太郎にとって、そこに並ぶ彫刻はどれもこれも満足の行くものではなく、出品作一つ一つについてこれでもかこれでもかと容赦なく厳しい評を与えています。
 
盟友・荻原守衛の存命中は、彼の彫刻のみ絶賛していましたが、明治43年(1910)に守衛が歿した後は、褒めるべき彫刻が見つからないという状態だったようです。あくまで光太郎の感覚で、ということですが。
 
光太郎自身は決して文展に出品しませんでした。自信がなかったわけではなく、自身の進むべき道とは全く違う世界と捉えていたようです。

講談社さんから刊行されているコミック誌に『月刊アフタヌーン』という雑誌があります。
 
現在、11月号が発売中。この号からの新連載ということで、清家雪子さん作「月に吠えらんねえ」が巻頭カラーで掲載されています。
 
サブタイトルが「近代詩歌俳句幻想譚」。最初に前書き的に以下の文言が。
 
このお話の登場人物は000
近代詩歌俳句の
各作品から受けた印象を
キャラクター化したものです
各作家自身のエピソードも
含まれますが
それも印象を掬(すく)い取った
ものであって
実在の人物 団体等とは一切
関係ありません
 
過激な表現も多々含まれますが
作品世界に真摯に向き合った
結果であることを
ご理解くださいますよう
お願いするとともに
各作家の方々に
深く敬意を表します
 
「月に吠えらんねえ」という題名でおわかりでしょうが、主人公は萩原朔太郎です。
 
第一回のその他の登場人物は北原白秋、中原中也、三好達治、正岡子規、室生犀星、西脇順三郎、大手拓次、尾崎放哉、若山牧水、石川啄木、草野心平……。
 
この錚々たるメンバーが架空の都市「近代□(シカク=詩歌句)街」で織りなす幻想的な世界が描かれています。
 
一昔前に、近代文士をリアルに描いたコミックがいろいろありましたが(関川夏央/谷口ジロー『坊っちゃんの時代』シリーズ、古山寛/ほんまりう『事件簿』シリーズなど)、それらとは一線を画しています。
 
何しろ主人公の朔太郎は真性の屍体愛好者、中原中也は盗んだバイクで走り出し、草野心平にいたっては人間ではなく蛙です。
 
そして登場人物の台詞に光太郎智恵子の名が出、最後に光太郎詩「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)をバックに夜空に現れる全裸の巨大美女……。
 
前衛演劇を思わせる、シュールな世界です。しかし単なる悪ふざけでなく、「詩歌」と「小説」の間で揺れ動く犀星とか、引きこもりになった大手拓次とか、それぞれの登場人物についてさもありなんという設定がされています。
 
同誌は毎月25日発売だそうですので、もう次の号が出てしまいます。お早めに書店まで。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月20日

明治43年(1910)の今日、上野精養軒で開かれた、美術新報社主催の新帰朝洋画家の会合に出席しました。

過日、目黒区駒場の日本近代文学館さんに行って参りました。
 
現在、2階の展示室では秋の「特別展 新収蔵資料展」が開催されています(11/23まで)。
 
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並んでいるのは2010年以降に同館で新しく収蔵した資料の中から選りすぐりの特色のある品々。
 
以下、出品リストです。
 
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まさに宝の山、という感じでした。
 
夏目漱石の「猫の死亡通知」、太宰治の学生時代のノート、三島由紀夫自筆の屏風、江戸川乱歩の草稿、室生犀星の自筆訂正本……。第二展示室では同時開催で川端康成限定のコーナーもありました。近代文学マニアにはたまらないと思います。
 
光太郎に関しても、親交のあった作家・田村松魚に宛てた葉書が4通並んでいました。こういう機会にいつも思うのですが、たくさん並んでいる展示品の中から光太郎の筆跡を見つけると、ふと旧友と再会したような気分になります。
 
ある意味驚いたのは、吉本隆明や干刈あがたの草稿。たしかに故人ですが、過去の文豪たちと同じところに並ぶことで、もう「歴史」の一部になっているのか、という感覚でした。
 
2階の展示を見る前に、1階の閲覧室を利用させていただきました。実はこちらの方がメインの目的でした。
 
やはり新収資料(だと思います。以前にネットで蔵書検索をかけた時にはヒットしませんでしたので)の、大正時代の短歌同人誌『芸術と自由』が目当てでした。同誌の第1巻第8号(大正15年=1926)に、『高村光太郎全集』等に未収録の作品が載っているという情報だけは得ており、確かめようと思ったわけです。
 
すると、「口語歌をどう見るか(批判)」というアンケートでした。短い文章ですが、『高村光太郎全集』等に未収録ですので、貴重な発見です。来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にてご紹介します。
 
先の展示にしてもそうですが、同館の収蔵資料は、そのほとんどが文学者またはそのご遺族、出版社・新聞社、研究団体など多くの方々からの寄贈によるものだそうです。こうして公の目に触れる形で残されるというのはすばらしいことですね。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月18日

昭和26年(1951)の今日、光太郎危篤というデマが流れ、東京本社から電話を受けた読売新聞の支局の記者が、花巻郊外太田村山口の山小屋に確認に来ました。
 
笑えるような笑えないようなエピソードですね。光太郎、どんな顔をして記者に会ったのでしょうか。

やなせたかしさんが亡くなりました。010
 
やなせさんといえば「アンパンマン」。大学生と高校生の当方の子供二人も、「アンパンマン」で育ちました。上の子供(娘)は何だかんだと突っ込みを入れながら高校生になってもアニメの「アンパンマン」を観ていました。
 
やなせさん、「アンパンマン」だけでなく、詩人でもあり、編集者でもありました。
 
かつてサンリオさんから発行されていた『詩とメルヘン』という美しい雑誌がありました。その編集をなさっていたのがやなせさんでした。
 
『詩とメルヘン』では、平成7年(1995)の6月号で、「智恵子抄」の小特集を組んで下さいました。
 
そこに掲載されたやなせさんの「智恵子抄」評は実に的確なものでした。それだけでなく、その評自体が「美しい」評なのです。 
 
一部引用させていただきます。
 
 詩を書くことによって詩人と呼ばれている人は実は本当の詩人ではない。その人の生きる軌趾がそのまま詩になる人が詩人なのだ。
 その意味では高村光太郎は詩人の中の詩人といえる。そしてその中核になるものが「智恵子抄」だ。
 はじめての愛の詩「人に」は実に「智恵子抄」刊行の三十年前である。
 「智恵子抄」は構想されたのではなく、いつのまにか降る雪のようにつもった。
 あるいは光太郎の人生の足跡の上に自然に咲いた美しい花だ。
 詩とは元来そういうものである。
(略)
 そして、もし詩に関心のない人でも「智恵子抄」は読める。
 有名な「智恵子は東京に空が無いといふ」ではじまる「あどけない話」は小学生でも理解できる。甘い抒情性と通俗性さえもある詩だと思う。
 しかし、その現実は愛する妻が狂ってしまうという耐えがたい悲劇から生まれている。
 純粋に芸術の核心に迫るとすれば無駄なものをすべて剥ぎ落していかなくてはならない。
 光太郎と智恵子はその部分に到達してぼくらに宝石のような詩集を遺した。
 
いかがでしょうか。
 
同じ評の中で、「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」で始まる「智恵子抄」巻頭の「人に」について、「最近の現代詩の難解さにくらべれば明快すぎてむしろびっくりしてしまう」とあります。正鵠を射ています。
 
そして同じことはやなせさんの書かれた評にも言えると思います。そして同時に「明快」だけでなく「美しい」。一般向けの評とはかくあるべきではないでしょうか。
 
「視点」がどうの「人称」がどうのと末節にこだわって「木を見て森を見ず」に陥っているもの、「アンチテーゼ」だの「詩的ナントカ」だの、ムズカしい言葉の羅列でお茶を濁して結局何が言いたいのかさっぱり分からないもの、当方、そういう評に触れるたび、やなせさんの「明快」な、そして「美しい」評を思い出していました。
 
心よりご冥福をお祈りいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月16日

大正2年(1913)の今日、神田三崎町のヴヰナス倶楽部で生活社主催油絵展覧会が開かれ、彫刻1点、油絵21点、スケッチ3点を出品しました。
 
昨日のこの項で ふれたヒユウザン会(のちフユウザン会)は、同人の間の方向性の相違から長続きせず、光太郎は同人中の岸田劉生らと新に生活社を立ち上げます。
 
出品した油絵、スケッチはこの年の夏、智恵子と共に滞在した上高地での作品でした。

山梨県からイベント情報です。 

与謝野晶子展 われも黄金(こがね)の釘一つ打つ

与謝野晶子(18781942)は、歌人として知られていますが、短歌だけでなく詩・童話・小説・評論・古典研究など幅広い創作活動を行っています。山梨とのゆかりも深く、富士北麓、富士川町、上野原市などを訪れ、豊かな自然や風物を詠んだ歌を残しています。63歳の生涯を華麗に生きた晶子の人生と作品とともに、山梨での足跡を約150点の資料で紹介します。
(公式サイトより)
  
会 場:山梨県立文学館 甲府市貢川一丁目5-35
会 期:2013年9月28日(土)~11月24日(日)
観覧料:一般310円 大高生210円 小中生100円
 
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関連行事
◎講演会
 ○金井 景子(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
 「「自立」を問う人―与謝野晶子の評論を読む―」
 日 時:11月4日(月・振休) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
  
 ○三枝 昻之(当館館長)
 「星君なりき―晶子晩年の魅力」
 日 時:11月14日(木) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
 
 ○今野寿美(歌人)
 「あらためて読む『みだれ髪』」
 日 時:11月23日(土・祝日) 午後1:30~3:00  場 所:山梨県立文学館 研修室
 
◎講座
 ○保坂 雅子(学芸員)
 「与謝野晶子の姿 山梨での足跡を訪ねて」
 日 時:10月24日(木)午後2:00~3:10   場 所:山梨県立文学館 研修室
 
実はうっかりご紹介するのを失念しており、初日の9/28(土)には作家の林真理子さんの講演もあったそうです。終わってしまいました。
 
また、うっかりご紹介するのが遅くなり、11/14(木)以外の講演、講座は定員に達してしまったそうです。
 
当方はちゃっかり10/24の講座に申し込みました。すみません。担当なさる学芸員の保坂女史は連翹忌のご常連なので、どうせ行くならこの日と決めておりました。
 
先ほど、保坂女史と電話で話させていただき、展示内容についていろいろ教えて下さいました。予想していましたが、『明星』同人に関する展示もあり、光太郎に関する展示も少しあるとのことでした。
 
例を挙げますと、明治44年(1911)、雑誌『スバル』に掲載された詩「ビフテキの皿」の草稿、光太郎が扉や表紙の題字、挿画、装幀を手がけた晶子歌集『青海波』(明45=1912)・夫の鉄幹歌集『相聞』、光太郎が晶子を戯画化した「SALAMANDRA」が掲載された『スバル』(明43=1910)、など。他にも光太郎がらみの出品物があるかもしれません。観るのが楽しみです。
 
山梨県立文学館さんは、平成19年(2007)に企画展「高村光太郎 いのちと愛の軌跡」を開催なさった他、各種の資料・情報等も快く提供して下さり、また、保坂女史や近藤信行前館長には毎年のように連翹忌に駆けつけて下さるなど、当方、大変お世話になっております。
 
企画展以外の常設展でも、山梨出身やゆかりの文学者――樋口一葉、太宰治、井伏鱒二、芥川龍之介、飯田蛇骨、村岡花子(来年のNHK連続テレビ小説「花子とアン」で吉高由里子さんが演じられます)など――についての展示も充実しています。
 
さらに言うなら、お隣はミレーの「種まく人」を所蔵していることで有名な山梨県立美術館。一帯は公園となっており、ロダンやブールデル、マイヨールの野外彫刻などもあります。まさに「芸術の秋」を堪能するにはもってこいです。ぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月5日

昭和13年(1938)の今日、南品川ゼームス坂病院にて智恵子が歿しました。享年、数えで53歳でした。
 
というわけで、智恵子のいまわの際を謳った光太郎詩「レモン哀歌」にちなみ、今日は「レモンの日」とされています。
 
さらにというわけで、当方、今日は染井霊園の高村家の墓所にお参りに行って参ります。その後、両国に移動、劇団空感エンジンさんの舞台「チエコ」を観てきます。

昨日に続き、今月行われる光太郎がらみのイベントのご紹介です。
 
まずはネット検索で見つけました朗読のイベントです。 

青山の昼下がりⅥ

期 日 : 2013年10月25日 (金)
会 場 : 東京都 アイビーホール青学会館4F「クリノン」
時 間 : 
14時00分開演(13時30分開場)
料 金 : 2500円 要予約
関連web: 後援 NPO日本朗読文化協会 
内容:朗読へのおさそい 「青山の昼下がりⅥ」
 
◆プログラム
「蜘蛛の糸」芥川龍之介作  見澤淑恵  ファゴット演奏 蛯澤亮 作曲 加藤史崇
「姫椿」  浅田次郎作  池田美智恵
「刺青」  谷崎潤一郎作 望月鏡子
「鼓くらべ」山本周五郎作 近藤とうこ
「智恵子抄より」 高村光太郎作   山川建夫
 
◆後援 NPO日本朗読文化協会
◆お問合せ・お申込み 望月様 03-5716-5767 080-1190-4868
 
元フジテレビアナウンサーの山川健夫氏による「智恵子抄より」がトリのようです。
 


 
続いて福島川内村から草野心平忌日「かえる忌」のご案内が届きましたのでご紹介します。 

第3回天山・心平の会「かえる忌」

  : 2013年10月26日(土) 午後3:00~6:00
  : 小松屋旅館 福島県双葉郡川内村大字上川内字町分211
  : 2,500円
 
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翌日には心平墓参も行われるそうです。
 
原発事故による全村避難が解除されましたが、まだまだ帰村者が少ない状況だそうです。復興支援のためにも足をお運び下さい。
 
ちなみに当方の講演も予定されております。心平と光太郎の関わりについて話すつもりでおります。
 
さて、今日は渋谷のNHK放送センターに行って参りました。10/6放送の「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」のスタジオ収録を観させていただきました。
 
明日、詳しくレポートいたします。
 
【今日は何の日・光太郎】 10月2日

昭和63年(1988)の今日、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・宮崎春子が歿しました。
 
昭和10年(1935)、智恵子が南品川のゼームス坂病院に入院した後、看護婦の資格を持っていた春子に光太郎が請い、昭和12年(1937)から約2年、春子は智恵子の付き添い看護にあたりました。智恵子の紙絵制作の現場に立ち会った、ほとんど唯一の人物です。
 
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紙絵を見る春子(昭和30年=1955)

昨日のブログで秋に関する光太郎の詩をいくつか紹介しました。昨日紹介したのは大正末から昭和戦前の作で、素直に秋を謳ったもの(部分)でした。
 
「素直」でなく秋にからめた詩も存在します。どうも秋の到来を、それから起こるであろう泥沼の戦争の予感とオーバーラップさせているようです。

   北東の風、雨
 014
 軍艦をならべたやうな
 日本列島の地図の上に、
 見たまへ、陣風線の輪がくづれて、
 たうとう秋がやつて来たのだ。
 北東の風、雨の中を、
 大の字なりに濡れてゐるのは誰だ。
 愚劣な夏の生活を
 思ひ存分洗つてくれと、
 冷冷する砲身に跨つて天を見るのは誰だ。
 右舷左舷にどどんとうつ波は、
 そろそろ荒つぽく、たのもしく、
 どうせ一しけおいでなさいと、
 そんなにきれいな口笛を吹くのは誰だ。
 事件の予望に心はくゆる。
 ウエルカム、秋。

 
昭和2年(1927)の作。
 
その前年、中国では蒋介石の国民党政府による反帝国主義を掲げる「北伐宣言」が出され、昭和2年に入ると、
日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃(南京事件・漢口事件)などが起こり、それに対して日本は山東出兵を行っています。さらに翌年には関東軍による張作霖爆殺、国内では主義者弾圧のための特高警察の設置など、時代は確実にきな臭い方向に進んでいました。
 
事件の予望」には、そうした背景が見て取れます。そして、「どうせ一しけおいでなさい」「ウエルカム、秋。」には、それを必然と見る姿勢が読み取れるように思われます。
 

   秋風辞
     秋風起兮白雲飛 草木黄落兮雁南帰
                   -漢武帝-
 秋風起つて白雲は飛ぶが、
 今年南に急ぐのはわが同胞の隊伍である。015
 南に待つのは砲火である。
 街上百般の生活は凡て一つにあざなはれ、
 涙はむしろ胸を洗ひ
 昨日思索の亡羊を嘆いた者、
 日日欠食の悩みに蒼ざめた者、
 巷に浮浪の夢を餘儀なくした者、
 今はただ澎湃たる熱気の列と化した。
 草木黄ばみ落ちる時
 世の隅隅に吹きこむ夜風に変りはないが、
 今年この国を訪れる秋は
 祖先も曾て見たことのない厖大な秋だ。
 遠くかなた雁門関の古生層がはじけ飛ぶ。
 むかし雁門関は西に向つて閉ぢた。
 けふ雁門関は東に向つて砕ける。
 太原を超えて汾河渉るべし黄河望むべし。
 秋風は胡沙と海と島島とを一連に吹く。
 
昭和12年(1937)の作。この年には盧溝橋事件が起こり、日中間は全面戦争状態に突入しています。
 
実は昨日部分的に紹介した「日本の秋」にも、昨日紹介しなかった部分にこうした内容が含まれています。
 
 ああいよいよ秋の厄日がそこに居る。
 来なければならないものなら、
 どんなしけでもあれでも来るがいい。
 
どうやら光太郎、台風の嵐を戦争の嵐にたとえているようです。そして台風一過の状況を、昨日紹介した部分の
 
 昔からこの島の住民は知つてゐる、
 嵐のあとに天がもたらす
 あの玉のやうに美しい秋の日和を。
 
で、戦争に勝つこととして表現しているのです。
 
ところがそう簡単に事は運ばず、日中戦争は泥沼化、さらに太平洋戦争へと突入し、昭和20年(1945)には敗戦。
 
この間、光太郎は膨大な数の戦争詩を書き殴ります。それら(「北東の風、雨」「秋風辞」も含め)は詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)などに収められ、国民を鼓舞する役割を果たしました。
 
敗戦後はそうした自己を反省して、花巻郊外での山小屋生活に入るのです。
 
以上、ざっくりと光太郎の「秋」を見てきましたが、すっきりしませんので、「きな臭い」内容を含まない「素直な」秋の詩をもう一つ紹介して終わります。大正3年(1914)、おそらく詩集『道程』のために書き下ろされた詩です。
 
   秋の祈
 
 秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り016
 空は水色、鳥が飛び
 魂いななき
 清浄の水こころに流れ
 こころ眼をあけ
 童子となる

 多端粉雑の過去は眼の前に横はり
 血脈をわれに送る
 秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
 地中の営みをみづから祝福し
 わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
 奮然としていのる
 いのる言葉を知らず
 涙いでて
 光にうたれ
 木の葉の散りしくを見
 獣(けだもの)の嘻嘻として奔(はし)るを見
 飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
 かくの如き因果歴歴の律を見て
 こころは強い恩愛を感じ
 又止みがたい責(せめ)を思ひ
 堪へがたく
 よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く
 いのる言葉を知らず
 ただわれは空を仰いでいのる
 空は水色
 秋は喨喨と空に鳴る
 
【今日は何の日・光太郎】 9月28日

昭和26年(1951)の今日、光太郎が題字を揮毫した草野心平の詩集『天』が刊行されました。
 
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「素直な」心で、秋の「天」を眺めたいものです。

【今日は何の日・光太郎】 9月27日

大正15年(1926)の今日、詩「秋を待つ」を書きました。
 
   秋を待つ017
 
 もう一度水を浴びよう。
 都会に居れば香水くさくなるし、
 山にのぼれば霧くさくなるし、
 たんぼにゆけばこやしくさくなる。
 良心くさいのさへうれしくないのに、
 ああ己はそこら中がべとべとだ。
 太陽や神さまはいつでも軌道のそつちに居てくれ。
 あの西南の空の隅から
 秋がばさりとやがて来る日を
 胸のすくほど奇麗になつて待つ為にも、
 さあもう一度水をあびよう。
 さうしてすつかり拭いた自分の体から、
 円(まろ)い二の腕や乳の辺りからかすかに立つ
 あの何とも言へない香ばしい、甘(うま)さうな、
 生きものらしい自分自身の肌の匂をもう一度かがう。
 
9月末としては少し季節外れの内容にも思えます。大正15年も残暑が厳しかったのでしょうか。
 
ちなみに右は現在の千葉県北東部の空です。気持ちよく晴れています。ただし、まだ裏山ではツクツクホーシとミンミンゼミが鳴いています(笑)
 
以前にも書きましたが、光太郎は生来、夏の暑さを苦手としていました。逆に冬の寒さは大好きで、冬を謳った詩は数多くあります。また、暑さが去る秋の訪れを懇願したり、喜んだりといった内容の詩もいくつかあります。
 
   秋が来たんだ(部分)
 
 すずしい秋がやつて来たんだ
 星が一つ西の空に光り出して
 天が今宵こそ木犀色に匂ひ016
 往来にさらさら風が流れて
 誰でも両手をひろげて歩きたいほど身がひきしまる
 さういふ秋がやつて来たんだ
 ……
 すずしい秋がやつて来たんだ
 こんないい空気が落ちて来る秋の夕方がやつて来たんだ
 
 
   日本の秋(部分)
 
 昔からこの島の住民は知つてゐる、
 嵐のあとに天がもたらす
 あの玉のやうに美しい秋の日和を。
 風と雨とで一切を洗ひ出してしまつた朝、
 塩でもいいからきりりと口を浄め、
 水を一ぱいぐつとのんで、
 からりと日の照る往来にとび出すのはいい。
 あの日本の秋が又来たな、
 秋はいいなと思ふのはいい。
 
それぞれその通りですね。
 
ただし、光太郎は昭和戦前には「秋」を「大和魂」と結びつけ、日中戦争から太平洋戦争に向かってゆく-というかゆかざるをえない-この国の姿を描いてもいます。明日はそのあたりを書いてみます。
 
「秋」といえば、宮城女川光太郎の会・佐々木英子様が秋の味覚の王様・女川特産のサンマを送って下さいまして、早速いただきました。脂がしっかりのっていて、美味。何より目を見張る大きさです。ありがたいことです。
 
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ところで、パソコンのインターネットのブラウザで、YAHOO!JAPANのページを見ますと、一番下に「復興支援 東日本大震災」というリンクがあります。
 
その中にある「復興デパート」というリンクでは、東北の特産品などがネット販売されています。現在のイチオシはやはり三陸のサンマ。ぜひお買い求め下さい。

 
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「復興支援」といえば、プロ野球パ・リーグでは東北楽天ゴールデンイーグルスがリーグ優勝を決めましたが、東北を元気づけるという意味でも、非常に喜ばしいことですね。CS、そして日本シリーズとさらに頑張ってほしいものです。

昨日、光太郎の肉声が収められたカセットテープ『NHKカセットブック 肉声できく昭和の証言 作家編6』を紹介しましたが、同様に光太郎の肉声を収めた音声ソフトが数種類発行されていますので、ご紹介します。
 
ぜひお買い求めの上、聴いてみて下さい。 絶版のものが多いのですが、中古市場で出ることがあります。

NHKカセット 文学の心 文豪は語る1012

昭和27年(1952)3月、NHKラジオ番組「朝の訪問」のために詩人の真壁仁と行った対談(『高村光太郎全集』第11巻)が収録されています。また、光太郎本人による自作の詩「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」の朗読も収められています。同じ年3月にオンエアされました。昭和50年(1975)、NHKサービスセンターの発行です。現在は絶版です。
 
「千鳥……」には、「ちい、ちい、ちい、ちい、ちい」という千鳥の鳴き声の擬音が出てきます。後世の人達の朗読では、ここを付けられている読点の通りゆっくり刻みながら「ちい、ちい、ちい」と読むのが普通です。ところがその部分、光太郎は非常に早口で読んでいます。光太郎の朗読を文字で表せば「ちいちいちいちいちい」。確かにそう読んだ方が千鳥感がよく出ます。
 
朗読は朗読する人それぞれの解釈でやってよいのだとは思いま011すが、作った本人はそのように読んでいる、ということもお忘れなく、と言いたいところです。特に朗読で光太郎作品を取り上げられる方にはぜひ聴いていただきたいものです。
 
ちなみに「千鳥……」と「梅酒」の朗読は、平成14年(2002)山川出版社発行の中学校教材用CD中学校 音の国語にも収められています。こちらは現在でも新品が入手可能です。ただしCD3枚組+解説書つきで18,000円+税。ちょっと高いのが難点です。

 
また、『文学の心 文豪は語る1』の内容に、昨日ご紹介した草野心平との対談「芸術よもやま話」も収録した『昭和の巨星 肉声の記録 文学者編 室生犀星高村光太郎』もNHKサービスセンターから発行されています。カセットテープ版とCD版があり、基本、全12巻のセット販売でした。現在は絶版ですが、こちらも時折、中古市場で見かけます。

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新潮カセットブック 高村光太郎詩集

平成2年(1991)発行のカセットテープです。基本は石坂浩二さんの朗読ですが、B面の終わりに約7分間、昭和28年(1953)に、美術史家の奥平英雄と行った対談「芸術と生活」(『高村光太郎全集』第11巻)の一部が収録されています。対談「芸術と生活」は、翌年、文化放送でオンエアされました。
 
同じ対談「芸術と生活」のテープは、奥平の著書『晩年の高村光太郎』特装本(昭和51年=1976 瑠璃書房)に付録として添えられています。こちらはノーカットです。
 
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どちらも絶版です。
 
以上、市販された光太郎肉声を含むものはこんな所だと思います。「もっとこんなものもある」という情報をお持ちの方はご教示下さい。
 
【今日は何の日・光太郎】 9月26日

明治24年(1891)の今日、光雲が戸籍上の本名を「光雲」に変更しました。
 
元の光雲の本名は「光蔵(みつぞう)」、通称「幸吉」でした。

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