カテゴリ: 文学

5月29日、大阪府堺市の覚応寺にて執り行われた第32回白桜忌。当日は報道関係者がいらしていたので、ニュース等になっていないかと検索したところ、翌日朝のNHKさんのローカルニュースで報道されたらしいことがわかりました。  

与謝野晶子 命日に法要

明治から昭和にかけて活躍した歌人・与謝野晶子の命日のきのう、出身地の堺市にある寺で法要が営まれました。
与謝野晶子は明治11年に現在の堺市堺区の菓子店を営む家に生まれ、当時の代表的な歌人として歌集「みだれ髪」など数々の作品を残しました。
ことしは没後72年にあたり、命日のきのう、晶子ゆかりの寺として知られる堺区の覚応寺で法要が営まれました。
晶子のファンなどおよそ80人が参列し、晶子に思いを寄せて詠んだ短歌や俳句を披露しました。
ことしは晶子が日露戦争に従軍する弟を思って作ったとされる詩「君死にたまふことなかれ」が詠まれて110年の節目で、地元のコーラス隊がこの詩を合唱しました。
このあと晶子の研究を続けている元大学教授の女性が講演し、「この寺には晶子が書いた手紙が残されており、晶子が若いころから情熱的な恋愛をしていたことがうかがえる」などと人物像について語りました。
法要の実行委員会の代表の阿部恵子さんは「晶子は堺が生んだ財産です。2度と現れないようなスケールの大きな自立した女性でした。
晶子のすばらしさを伝えていきたいです」と話していました。
 
 
暗いニュース、腹立たしい報道が多い中、花巻の高村祭などもそうですが、こうした文化活動、地域の地道な取り組みなどにももっともっと光を当てていただきたいものですね。
 
ちなみに本日発行の花巻市の広報紙『広報はなまき』に、高村祭の模様が報じられています。  

光太郎への思い いつまでも

本市ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎を顕彰する「第57回高村祭」が5月15日、太田の高村山荘詩碑前で開かれました。
光太郎の遺影に献花と献茶が行われた後、参加者全員で詩碑に刻まれた「雪白く積めり」を朗読。続いて地元小中学生や高校生などが楽器演奏や合唱、詩の朗読を披露し、訪れた市民など約700人とともに光太郎の生涯に思いをはせました。
特別講演では、光太郎を名付け親に持つ編集者の末盛千枝子さんが、光太郎との縁、命名のエピソードなどを語りました。
 
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【今日は何の日・光太郎 補遺】 6月1日
 
明治45年(1912)の今日、雑誌『青鞜』に、智恵子の散文、「マグダに就て」が掲載されました。
 
『青鞜』において、智恵子が描いた2種類の表紙絵が繰り返し使われましたが、意外なことに文章はこの1篇のみです。
 
「マグダ」とは、ズーダーマン作・島村抱月訳の戯曲「故郷」の主人公。文芸協会の第三回公演として、松井須磨子により演じられました。

5月29日、午後1時半。与謝野晶子ゆかりの堺市覚応寺にて、晶子命日の集い・第32回白桜忌が開催されました。
 
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昨年も書きましたが、やはり寺院での開催と言うことで、本格的な読経があったりと、仏教色の強い催しですが、地元の方々による献歌などやコーラスなどもあり、堺の人々が晶子顕彰に力を入れている様子に感心させられました。われらが光太郎に関しては、東京出身とはいえ、東京都民に「おらが光太郎」という意識はほとんどないと思います。
 
後半は与謝野夫妻の研究者・逸見久美先生のご講演、「想い出すままに……与謝野晶子・寛の研究より」でした。失礼ながら、先生は大正時代のお生まれですが、まだまだエネルギッシュにご活躍なさっています。勉誠出版さんで編刊されている『鉄幹晶子全集』は、本文篇は完結したものの、まだ続くそうです。
 
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しかし、その先生がお若い頃には、与謝野晶子を研究対象にするなど、いかがなものかという空気があったそうです。まるで安藤緑山の牙彫などの明治工芸のようだな、と感じました。さらにそれより昔、それこそ『みだれ髪』のころには破廉恥極まりないといった評もされていたわけで、そう考えると、時代と共に評価が変わって行くのだなと実感させられました。光太郎智恵子の世界は、この後、どのように評価されて行くのでしょうか。
 
やはり周辺人物との関わりの中での光太郎像といった点にも、もっと目を向けなければ、と思うので、与謝野夫妻にももう少し目を向けようと思いました。
 
終了後、楽屋(?)で逸見先生にご挨拶、先月の連翹忌にご参加下さった御礼を申し上げ、来年もご参加下さるお約束を取り付けました。その後、高村光太郎研究会の西浦基氏にまた車を出していただき、南海線の堺東駅まで送っていただいて、帰路につきました。非常に有意義な大阪行きでした。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月31日
 
昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋の畑にキュウリの種を蒔きました。

北海道文学の研究者、盛厚三氏から北方文学研究会発行の同人誌『北方人』第19号を戴きました。ありがたいことです。
 
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光太郎は、その度に頓挫しましたが、何度か北海道移住を企てており、北海道在住だった詩人等との交流もいろいろとありました。今号に掲載されている盛氏の「評論/釧路湿原文学史(2)」にも、そうした詩人のうち、更級源蔵、猪狩満直といったあたりが紹介されており、興味深く拝読しました。
 
また、以前のブログでご著書『序文検索―古書目録にみた序文家たち』をご紹介させていただいた、かわじもとたか氏も「書誌/個人名のついた雑誌―日本人編(3)」を寄稿されています。
 
当方、やはり北海道出身(と思われる)詩人・編集者の八森虎太郎にあてた光太郎書簡(ハガキ)を2通持っています。一通は昭和24年(1949)9月のもので、以前のブログでご紹介しました。
 
もう一通がこちら。昭和23年(1948)5月のものです。
 
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「落下傘」をいただき、又池田克己氏詩集をもいただき、何とも恐縮に存じました、 大変立派に出来てゐるので気持ちよく思ひました、 池田さんからは「法隆寺土塀」をもいただき、 この処詩の大饗宴です。
厚く御礼申上げます。
 
『落下傘』は金子光晴の詩集です。『池田克己詩集』『法隆寺土塀』とも、札幌にあった日本未来派発行所から上梓されたもの。こちらは雑誌『日本未来派』を発行しており、光太郎も寄稿しています。昭和23年(1948)7月刊行の第13号。「十年前のあなたは 十年後のあなたは」というアンケートへの回答です。
 
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ただし光太郎が答えているのは「十年前のあなたは」の項のみ。この時点では、健康に不安を抱え、十年後にはもうこの世にいないだろう、などと考えていたのでしょうか。実際、8年後に亡くなっています。
 
昭和23年(1948)の十年前は同13年(1938)、智恵子がこの年10月に亡くなりました。 
 
ちなみに上記ハガキに出てきた三冊、すべてこの号の裏表紙に広告が出ています。
 
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更級源蔵や猪狩満直、そしてこの『日本未来派』の面々、さらにマイナーな北海道詩人(島田正など)との交流、内地出身ながら北海道と縁のあった詩人(猪狩もそうですが、他に宮崎丈二など)との交流もあり、そのあたり、もっと掘り下げなければ、と思っているところです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月28日000

平成19年(2007)の今日、NHK教育テレビ(現・Eテレ)の「知るを楽しむこの人この世界 ほとけさまが教えてくれた 仏像の技と心」第8回「「西郷さん」で会いましょう~童子のこころで」で、光雲作西郷隆盛像が取り上げられました。
 
ナビゲーターは彫刻家の藪内佐斗司氏。飛鳥時代の広隆寺弥勒菩薩像、天平期の興福寺阿修羅像、さらに定朝、運慶、快慶と、仏像彫刻の流れを追う番組でした。

その最終回で光雲作西郷像。渋谷のハチ公同様、ランドマークとして待ち合わせの場所に使われたことから、「「西郷さん」で会いましょう」というサブタイトルになっています。
 
日本放送出版協会からテキストも発行されました。

連翹忌ご常連で、元・日本女子医大図書館にお勤めだった細井昌文氏から、今月、新潟で発行された冊子を戴きました。
 
題は『洗心』第24号。発行元は糸魚川市歴史民俗資料館《相馬御風記念館》内の「御風会」さん。詩人の相馬御風の顕彰団体のようです。
 
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細井氏ご執筆の000「御風と高村光太郎」が2ページにわたり掲載されています。
 
相馬御風は光太郎と同じ明治16年(1883)、糸魚川の生まれ。明治末に与謝野鉄幹・晶子の新詩社に加わり、そこで光太郎と知り合っています。
 
明治36年(1903)、同37年(1904)の光太郎日記には御風の名が記されている他、戦時中に御風に宛てた書簡2通、さらに御風に触れた随筆「彫刻その他(二)」(昭和19年=1943)が『高村光太郎全集』に収録されています。
 
また、御風の長女で、智恵子と同じ日本女子大学校卒の文子も本郷の東京帝大史料編纂所に勤務し、光太郎の元を訪れたりしています。『高村光太郎全集』には文子宛の書簡(御風追悼の内容・昭和25年=1950)も掲載されています。
 
細井氏の論考では、御風と光太郎のつながりを解くいくつかのキーワードが挙げられています。
 
その一つ、「口語自由詩」。
 
光太郎が本格的に詩作を始めるのは、海外留学から帰朝後の明治43年(1910)のことです。初めのうちは文語詩が多いのですが、徐々に口語自由詩に移行、大正に入るころにはほぼ文語詩は見られなくなります。
 
一方の御風は光太郎留学中の明治41年(1908)にはすでに口語自由詩を発表しています。他にも口語自由詩に先鞭を付けたのは川路柳虹、三木露風、人見東明など。帰朝語の光太郎はそうした先例に触発されて口語自由詩に傾いていったのだと思われます。
 
また、戦時の体制協力という点もキーワードの一つです。光太郎は文学者の統制団体、日本文学報国会の詩部会長を務め、御風も会員に名を連ねています。光太郎には膨大な数の戦争詩があり、御風もその売上金を海軍省に献金するために発行された『辻詩集』(昭和18年=1943)に作品を寄せるなどしています。もっとも、こうした活動は当時の殆ど全ての文学者に当てはまることですが……。
 
細井氏は、おそらくこの頃に一時途絶えていた光太郎と御風の交流が復活したのではないかと論じられています。また、戦後の光太郎の花巻郊外太田村での隠棲にも触れ、「新しき村」の武者小路実篤や、三里塚に隠棲していた水野葉舟などとともに、既に大正期に糸魚川に帰住していた御風の影響も見て取れるとしています。首肯できる御意見です。
 
ところで、惜しむらくは、おそらくそれなりに数があったであろう御風からのものを含め、戦時中までの光太郎宛の書簡がほとんど残っていないこと。それらは多くの彫刻原型などとともに、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰していまいました。戦後のものはほとんど未整理のまま某所に保管されているのですが、それらの整理も今後の重要な課題です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月22日

昭和35年(1960)の今日、福島二本松の霞ヶ城跡に、光太郎詩碑が建立除幕されました。
 
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霞ヶ城敷地内に、元々あった「牛石」という石に3枚のブロンズパネルを埋め込んだ碑です。
 
表面には光太郎詩「樹下の二人」の一節「あれが阿多多羅山 あのひかるのが阿武隈川」が、裏面には光太郎詩「あどけない話」の一節「阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」が、さらに草野心平による碑陰記がそれぞれ刻まれています。
 
光太郎の筆跡は、智恵子と交流のあった二本松出身の彫刻家、斎藤芳也が木彫で原型を作りました。
 
「あれが阿多多羅山……」の部分の拓本、当方書斎にインテリアとして掲げてあります。
 
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来月開催される音楽イベントを二つご紹介します。 

第九回 邦楽器とともに 新しい日本歌曲の夕べ ~再演作品を揃えて

日時 2014年6月2日(月) 18:30~
料金 3,500円
曲目 出演 
 「冬の雅歌」〜句集「途上」より〜  高原桐[詩] 松村百合[曲]
     伊藤香代子[ソプラノ] 松尾慧[篠笛] 三森未來子[チェロ] 大上茜[琵琶]
 「七夜月」「花のみちゆき」-「恋ひ歌」三章より-  伊豆裕子[詩] 小山順子[曲]
    山本有希子[ソプラノ] 福永千恵子[十七絃] 野澤徹也[三絃]
 「天女」  太田眞紗子[詩] 小室美穂[曲]
    林廣子[ソプラノ] 松尾慧[篠笛]
 「宵待人」 木下宣子[詩] 池上眞吾[曲]
    武田正雄[テノール] 池上眞吾[筝] 平野裕子[十七絃] 田嶋謙一[尺八]
 「荒涼たる帰宅」 高村光太郎[詩] 田丸彩和子[曲]
    福嶋勲[バリトン] 設楽瞬山[篠笛・尺八] 岩佐鶴丈[薩摩琵琶]
 「アダジオ」 齋藤磯雄[詩](フランソワ・コペ原詩)千秋次郎[曲]
    関根恵理子[ソプラノ] 重成礼子、木村麻耶[筝]
 「しだれ桜ー紫の上ー」 藤井慶子[詩] 高橋久美子[曲]
    百合道子[メゾソプラノ] 松尾慧[篠笛] 久保田晶子[琵琶]
 「鑿(のみ)と桜」 山根研一[詩] 中島はる[曲] 
  
  森田澄夫[テノール] 砂崎知子[筝] 田辺頌山[尺八]
 
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同じ波の会さん主催で昨年も「荒涼たる帰宅」が演奏されたコンサートがありました。
 
 
もう一件、直接は光太郎と関わりませんが、連翹忌ご常連の作曲家・仙道作三氏によるものです。 

ひとりオペラ「与謝野晶子みだれ髪」(全2幕8場)

日時 2014年6月7日(土)昼:午後3時30分開演・夜:午後7時開演(各30分前開場)
主催 命と愛のメッセージ委員会 センドー・オペラ・ミュージカル・カンパニー
料金 前売4,000円、当日4,500円
出演 山口佳子(ソプラノ) 矢島祐果(朗読) 水村浩司(Vn) 白佐武史(Vc)
   菊地邦茂(Pf) 斉藤裕子(Perc)
作曲・演出・指揮 仙道作三
台本 持谷靖子

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作曲の仙道氏は、オペラ「智恵子抄」も作曲なさっています。この「与謝野晶子みだれ髪」は平成20年(2008)の初演だそうです。
 

与謝野晶子は光太郎と縁が深く、当方、このところ晶子に対する関心も高まってきており、聴きに行くことにしました。
 
それぞれ上記主催団体リンクから申し込めますので、001よろしくお願い申し上げます。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月21日
平成9年(1997)の今日、日本コロムビアからCD「ボニージャックスの日本の唱歌」がリリースされました。
 
光太郎作詞、飯田信夫作曲の戦時歌謡「歩くうた」が収録されています。
 

岩手の地方紙『岩手日日』さんの報道です。 

国語教育の向上へ〜高村光太郎詩集 県内学校施設に贈る (05/13)

 花巻高村光太郎記念会(佐藤進会長)は、高村光太郎(1883~1956年)の生誕130年を記念して刊行した「高村光太郎詩集」を花巻市内をはじめ、県内の学校施設に贈った。晩年を過ごした花巻市で12日に贈呈式が行われ、光太郎研究の第一人者北川太一氏(東京都)による解説付きの資料として国語教育の向上に役立つことを願った。
 
  同詩集は、「道程」「智恵子抄」「典型」など代表作91編を収めたB6判、320ページ(定価1400円)。一編ごとに北川氏が詩の制作背景や用語などの解説を添え、光太郎の詩を読み解く資料として好評を得ている。
 
  もともとは1969年に旺文社文庫として発刊され、92年に旧高村記念会(現記念会の前身)として再発行。今回、昨年の節目の年を記念して光太郎の誕生日(3月13日)に改定新版として3000部を作った。

同市役所に佐藤会長ら記念会関係者4人が訪れ、贈呈の趣旨説明後、佐藤会長が上田東一市長に詩集を手渡した。

 上田市長は「花巻の子供たちがこれを読んで心を豊かに、光太郎さんと花巻のつながりも学んでもらえればうれしい」と感謝し、佐藤会長が「よろしくお願いします」と思いを託した。

 詩集は「各学校の書架に納めてほしい」と市内の小中学校30校を含め県内の全小中学校、高校、大学の計625校に3月中に寄贈された。

 寄贈に当たっては、光太郎が花巻在住当時に取材を通じて交流のあった写真新聞記者阿部徹雄さんの子息の力(つとむ)さん(静岡県在住)から東日本大震災の復興支援への意味を込めて寄せられた寄付金も役立てられており今後、図書館施設などにも贈る予定。
 
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明日行われる「第57回高村祭」を主催されている一般財団法人花巻高村光太郎記念会さんが、同会刊行の『高村光太郎詩集』を岩手県内の学校に寄贈したという内容です。
 
この『高村光太郎詩集』、記事にあるとおり、元は昭和44年(1969)に旺文社文庫の一冊として刊行されたものの復刻です。100篇ほどの詩を収め、そのすべてに、北川太一先生による詳細な脚注がついています。
 
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さらに同じく北川先生による巻末の解説も非000常に充実しており、この手のものの中では白眉です。昔の文庫本はものすごく手間がかかっていたというのがよくわかります。
 
ちなみに表紙は、旺文社文庫では洋画家の故・深尾庄介氏のイラスト(これも豪華な起用です)。
 
一方の花巻版は、光太郎自身が大正9年(1920)に、与謝野晶子著『晶子短歌全集』第三巻の挿画として描いたペン画の「手と星空」を使っています。
 
自作のブロンズ彫刻で、光太郎の代表作の一つ「手」をモチーフにしています。
 
この他にも花巻の高村光太郎記念会さんでは、昭和37年(1962)に筑摩書房から無題1刊行された『高村光太郎山居七年』という書籍の復刻版も刊行しています。
 
こちらは故・佐藤隆房氏編。佐藤氏は初代の花巻高村光太郎記念会会長で、宮澤賢治の主治医でもありました。先の記事にもお名前が上がっている現会長・佐藤進氏はそのご子息です。この書籍は題名の通り、光太郎が花巻に住んでいた7年間の様々なエピソードを、地元の皆さんの証言等で構成したもので、非常に貴重な記録です。
 
こちらも何度か再版がかけられていますが、そろそろ在庫が払底してしまっているそうなので、近々再刊する予定とお聞きしています。あるいはもうされているでしょうか。
 
この手のご当地限定光太郎書籍、なかなか花巻でしか手に入りません。明日の高村祭を含め、ぜひとも花巻光太郎山荘付近へお越し下さいませ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月14日
 
昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村山口の山小屋戸外で誤って転倒、肋骨を傷めました。
 
転倒した際に石油ランプを破壊し、痛みが引くまで1週間かかるほど激しく転んだようです。太田村は無医村でしたので、病院にも行かずに耐えていましたが、日記には毎日のように肋骨の痛みを綴っています。見かねた村人が温泉での湯治を勧めました。高齢者の転倒事故、昔からあったのですね。

光太郎と深い関わりのあった与謝野晶子の忌日・白桜忌が開催されます。

第32回 白桜忌

晶子の命日(5月29日)をしのび、晶子ゆかりの寺・覚応寺において白桜忌が開催されます。
逸見久美氏による講演、堺市更生保護女性会コーラス部による合唱を予定しています。

【日 時】5月29日(木曜)午後1時30分から
【場 所】覚応寺(阪堺線「神明町」下車 東へ約100メートル 堺市堺区九間町東3-1-49)
【参加費】1,000円
【主 催】白桜忌実行委員会
【プログラム】
◇講演会「想い出すままに -与謝野晶子・寛の研究より-」
〈講師〉逸見 久美
◇合唱「君死にたまふことなかれ」他
〈出演〉堺市更生保護女性会コーラス部
【問合せ】白桜忌実行委員会 電話:072-258-0948
 
白桜忌には昨年、はじめて参加させていただきました。今年はどうしようかと思っていたところ、記念講演の講師が、今年の連翹忌にご参加下さった逸見久美先生とのことで、これは行くしかない、と思っております。
 
昨年は京都嵯峨野大覚寺新たに見つかった光雲の木彫を観るのを兼ねての強行日程でしたが、今年は他用がないので、堺で晶子生家跡などを見て回ろうと思います。
 
白桜忌、特に事前申し込み等は不要です。ぜひ足をお運びください。000
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月13日
 
平成18年(2006)の今日、仙台文学館で開催されていた「高村光太郎智恵子展―その芸術と愛の道程―」の関連イベントとして、北川太一先生の記念講演「高村光太郎のみちのく」が行われました。
 
おまけ
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先日のブログでご紹介した、岩手花巻で開催される「第57回高村祭」。いよいよ今週となりました。
 
昭和20年(1945)から同27年(1952)にかけ、光太郎が独居自炊の生活を送った花巻郊外・旧太田村山口の山小屋が「高村山荘」として今も保存されています。昨年、山荘近くの花巻市立民俗資料館だった建物を「高村光太郎記念館」にリニューアル、仮オープンしました。
 
「高村山荘」「高村光太郎記念館」とも、花巻の一般財団法人・花巻高村光太郎記念会さんで管理をなさっていて、「高村光太郎記念館・高村山荘」のタイトルでHPも開設されています。「高村祭」もこちらの主催です。
 
「高村光太郎記念館・高村山荘」のHPで、「高村祭」のチラシがPDFでアップされています。
 
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今回の「高村祭」で特別講演をなさる編集者・絵本作家の末盛千枝子さんの詳細なご紹介、交通案内も。
 
午前9時40分発で、JR東北本線花巻駅西口から無料のシャトルバスが出ます。それ以外に路線バスはありませんので御注意下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月11日

昭和21年(1946)の今日、連作詩「暗愚小伝」の制作を始めました。
 
この日の日記に以下の記述があります。
 
夜は読書せず。詩の事。「余の詩を読みて人死に赴けり」を書かんと思ふ。
 
のちに少し題名を変え、次の詩の断片が書かれました。
 
   わが詩をよみて人死に就けり
 
 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の大腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞が読んだ。
 人はそれをよんで死に立ち向かつた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜行艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。
 
しかし、結局この詩は未完のままお蔵入りに。代わって、20篇から成る連作詩「暗愚小伝」へと発展していきます。
 
「暗愚小伝」は翌年7月、臼井吉見が編集していた雑誌『展望』に発表されました。戦時中、国策協力の詩を乱発していた光太郎が、敗戦後、自分の詩が多くの前途有望な若者を死地に追いやった反省から、「自己流謫(るたく)」……自分で自分を流刑に処するという境地に至って書かれました。20篇の連作詩で、幼少期からその当時に至る自己の精神史を語っています。
 
光太郎の太田村での7年間の「自己流謫」に思いを馳せながら、今年も花巻光太郎祭に行って参ります。

和歌山県の田辺市立美術館さんから企画展のご案内を戴きました。

宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心

期 日 : 2014年4月19日(土)―6月22日(日)
会 場 : 
田辺市立美術館 和歌山県田辺市たきない町24-43
時 間 :  午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
料 金 : 600円(480円)( )内は20名様以上の団体 ※学生及び18歳未満の方は無料
休 館 : 毎週月曜日(ただし、5月5日は開館)・4月30日(水)・5月7日(水)
 
企画協力  NHKサービスセンター、アート・ベンチャー・オフィス ショウ
 
宮沢賢治の生涯は、1896(明治29)年から1933(昭和8)年までのわずか37年間の短いもので、そのほとんどを生まれ育った岩手県で過ごし、農業の指導を主とする「科学者(サイエンチスト)」として活動しました。
その一方で宗教や芸術についても深い思索を重ねていた宮沢賢治は、わきあがってくる自身の思想を詩や童話にして表現し、音楽や絵を描くことについても強い関心をもち続けました。
生前に発表された作品は限られたものでしたが、遺された原稿も理解者の尽力によって日の目を見、それらの作品は没後80年たった今も、私たちに感動をあたえ、人と自然との関係や、人の生き方について考えさせられるものとなっています。また宮沢賢治の作品に触発されて制作をおこなった後世の芸術家も少なくありません。
宮沢賢治の文学と、それにインスピレーションを受けて生まれた作品の世界とを、この展覧会によってご紹介したいと思います。
 
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昭和11年(1936)、光太郎が遺族の依頼で揮毫した「雨ニモマケズ」後半部分の書が展示されています。ここから筆跡を写し、花巻の羅須地人協会跡地に碑が建立されました。
 
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以前も書きましたが、後に昭和21年(1946)には、碑文に誤りがあるのを知った光太郎立ち会いの下、訂正されました。「野原ノ」のあとに「松ノ」が、「稲ノ束」の前に「ソノ」、「コワガラナクテモ」の前に「行ツテ」が抜けていた他、賢治が書いた仮名遣いとして「デクノバウ」は正しくは「デクノボー」です。これらは光太郎が碑面の行間に直接訂正を書き込み、石屋さんがその場で刻むという方法で訂正されました。
 
ところで「雨ニモマケズ」の一節で、一般に「ヒリノトキハナミダヲナガシ」とされている部分、元々賢治が手帳に書いた段階では「ヒリノトキハ」でした。
 
それが現在、一般には「ヒリ」と改変されています。光太郎による訂正の際にもここは直されませんでした。そのことの是非についてはここでは論じませんが、時折、「光太郎が勝手にその改変をした」という記述を見かけます。確かにこの書でも「ヒリ」になっています。これを根拠に、光太郎が「無神経な改竄の犯人」だと決めつけているのです。
 
しかし、光太郎の名誉のためにこれだけは書いておきますが、それは誤りです。光太郎は花巻の関係者から送られた原稿の通りに書いただけで、この改変には一切関わっていません。
 
四箇所の訂正も、光太郎には責任はありません。昭和31年(1956)、光太郎歿後すぐ刊行された佐藤勝治著「山荘の高村光太郎」から関連する部分を抜粋します。
 
 花巻にある宮澤賢治の雨ニモマケズの碑は本文の傍のところどころに、後からの書き入れがあって、ちょっと人にふしぎな感じをあたえます。石碑に後から書き入れ(彫り入れ)があるのはずいぶんめずらしいことでしょう。
 この詩を書いた高村先生が、思わず書き落しをやったために、後から書き込んだように見えます。
 それはこういう事情です。
 ある時私が先生に、桜(碑のある場所)の詩碑は、どうして詩の後半だけを、それも原文とは少し変えて彫り込んだのでしょうかとおききしました。
 先生は例のぎょっとした表情をなさいました。
「あれは違うんですか」
 全く意外だというように答えられました。
「僕は花巻の宮沢さんから送ってきた通りを書いたですよ。
 僕も詩の半分だけではおかしいと思って、その事は聞いてみたのですが、余り長いから前半を略したというので、そのまま書いたのです。
 (それ以外に)どこか違うんですか。」
 そこで私は、原文を口誦しながら、碑との違いを説明しました。先生は全く初耳だ、それはどうにかしなければならないと言われます。
「大体詩をなおすなどということはけしからぬ事です。何かのまちがいだろう」
 先生は憤然となさいました。
「花巻に行ってきいてみましょう」
 先生はこの事のためにわざわざ花巻へ出かけられたと思います。
 あの、省いた「松ノ」と「ソノ」という文字はあまりたびたび重なるので、宮沢清六氏の提案で、原文から取ることを関係者たちが決め、それを先生に送ったのだそうであります。
 先生は何も知らずに、送られてきた原稿を忠実に書かれたのであります。
 この事は余程先生は気になったものとみえて、間もなく、碑に書き入れをして来ましたよと言って、花巻から帰って来られたことがありました。
 だから桜の詩碑は、世界でもめずらしい書き入れがあるのであります。
 
というわけで、光太郎は「何も知らずに、送られてきた原稿を忠実に」書いたにすぎません。「大体詩をなおすなどということはけしからぬ事です」と言っている光太郎が、「ヒドリ」では意味がわからないから「ヒデリ」の間違いだろう、などと勝手に改竄することはありえません。くどいようですが、光太郎の名誉のために。
 
さて、この企画展、2年以上前から全国各地を巡回しています。当方、2年前に横浜のそごう美術館での開催時に観に行ってきました。
 
その時点では、その後の巡回は福島県のいわき市立美術館さんのみの予定でした。そこで、このブログにもそれ以上書かなかったのですが、おそらく好評だったため、巡回先が一気に増えました。途中で気づいたのですが、機を逸してしまい、紹介しませんでした。すみません。
 
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現在、日本橋の三井記念美術館さんにて開催中の「超絶技巧!明治工芸の粋―村田コレクション一挙公開―」も、当初予定にプラスして巡回先が増えています。こういうことも往々にしてあるのですね。
 
「宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」は、来月、田辺市立美術館さんでの巡回が終わると、次は鹿児島です。もしかするとさらに巡回先が増えるかも知れません。注意していたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月8日

昭和24年(1949)の今日、詩「女医になつた少女」を執筆しました。
 

   女医になつた少女
 
 おそろしい世情の四年をのりきつて
 少女はことし女子医専を卒業した。
 まだあどけない女医の雛(ひよこ)は背広を着て
 とほく岩手の山を訪ねてきた。001
 私の贈つたキユリイ夫人に読みふけつて
 知性の夢を青青と方眼紙に組みたてた
 けなげな少女は昔のままの顔をして
 やつぱり小さなシンデレラの靴をはいて
 山口山のゐろりに来て笑つた。
 私は人生の奥に居る。
 いつのまにか女医になつた少女の眼が
 烟るやうなその奥の老いたる人を検診する。
 少女はいふ、
 町のお医者もいいけれど
 人の世の不思議な理法がなほ知りたい、
 人の世の体温呼吸になほ触れたいと。
 狂瀾怒涛の世情の中で
 いま美しい女医になつた少女を見て
 私が触れたのはその真珠いろの体温呼吸だ。
 
この少女は細田明子さん。戦時中、光太郎が行きつけにしていた三河島のトンカツ屋・東方亭の娘さんです。
 
東方、昔の連翹忌で細田さんにお会いしたことがあります。今もお元気でしょうか。

先月の第58回連翹忌にご参加下さった、詩人の宮尾壽里子様から、詩誌『青い花』第75号~77号の3冊を戴きました。
 
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当方、寡聞にしてその存在を存じませんで000したが、埼玉で刊行されている同人誌、年三回の発行のようです。同人には見知ったお名前があり、「ほう」と思いました。
 
昭和48年(1973)、東宣出版から『智恵子と光太郎 高村光太郎試論』を上梓された平田好輝氏、それから以前にこのブログでご紹介した、東日本大震災復興支援の合唱曲「ほんとの空」(高山佳子氏作曲)の作詞をされた後藤基宗子氏。後藤氏のショートエッセイでは合唱曲「ほんとの空」に触れられていました。
 
宮尾氏は昨年7月に刊行された第75号から、「断片的私見『智恵子抄』とその周辺」というエッセイを連載なさっています。
 
先月、最新刊の第77号(2014/3)のみ送っていただいたのですが、そちらが連載の3回目だったので、第75号、76号も欲しいとお伝えしたところ、送って下さいました。ありがたいかぎりです。
 
題名の通り、昭和16年(1941)の初版『智恵子抄』刊行の経緯から、その後の諸々の版、智恵子の人となり、さらには紙絵や十和田湖畔の裸婦像にも触れられ、非常に読み応えがありました。
 
第77号にも「完」の文字が入っていないので、まだ連載が続くだろうと期待しています。
 
よく調べているな、と失礼ながら感心しましたが、それもそのはず、最近、大学院で修士論文を書かれている由。これまた失礼ながら、還暦を過ぎてからの取り組みだそうで、頭が下がります。ご健筆を祈念いたします。
 
やはり今年の連翹忌にご参加いただいた間島康子様から、評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」の載った文学同人誌「群系」を戴きましたが、こうした刊行物にはなかなか目が行き届きません。こういうものもあるよ、という情報があればお寄せいただけると幸いです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月7日004
 
昭和15年(1940)の今日、詩人・宮崎丈二を通じて中国の篆刻家・斉白石に「光」一字の石印の製作を依頼しました。
 
出来上がった印がこちら。光太郎は晩年まで自著奥付の検印などに愛用し続けました。

ニセモノ専門の悪質業者などは、この印まで偽造しようとしているようですが、なかなかうまくいかないようで(笑)。

作家の渡辺淳一さんの訃報が出ました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

作家の渡辺淳一さん死去=ベストセラー「失楽園」―80歳

 ベストセラー「失楽園」や「愛の流刑地」など恋愛小説の名手として知られた作家の渡辺淳一(わたなべ・じゅんいち)さんが4月30日午後11時42分、前立腺がんのため東京都内の自宅で亡くなったことが5日、分かった。80歳だった。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻敏子(としこ)さん。後日お別れの会を開く。
 北海道上砂川町出身。札幌医科大学卒業後、同大で整形外科の講師などを務める傍ら小説を執筆。1968年に同大で行われた心臓移植事件を題材にした「小説・心臓移植」(後に「白い宴(うたげ)」に改題)を書いたことをきっかけに同大を退職し、執筆活動に専念した。
 デビュー直後は主に医療をテーマにした作品を発表していたが、恋愛物や歴史物のジャンルにも進出。70年には、西南戦争で負傷した2人の軍人のその後を描いた「光と影」で直木賞を受賞した。97年に出版された「失楽園」は大胆な性愛描写が話題となり、250万部を超える大ベストセラーに。映画化やテレビドラマ化もされ、タイトルが流行語となるなど、社会現象を巻き起こした。このほかの代表作に「阿寒に果つ」「遠き落日」「女優」など。「鈍感力」のような軽妙なエッセーでも腕を振るった。
 2003年には紫綬褒章を受章。直木賞や吉川英治文学賞などの選考委員も務めた。
 出版社の担当編集者によると、渡辺さんは数年前から前立腺がんを患い、治療を続けていた。昨年末に体調を崩し、自宅で静養中だったという。
 
以前にも書きましたが、渡辺さんには光太郎智恵子にも触れたご著書があります。平成14年(2002)、小学館さん刊行の『キッスキッスキッス』。
 
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同社サイトから。
 
明治から大正・昭和へ、かつての文豪・才人たちが綴った十九通のラヴレター
太宰治、谷崎純一郎、平塚らいてう、高村光太郎等が綴った熱情あふれる十九通のラヴレターを素材に、恋愛小説の名手・渡辺淳一氏が読み解く。谷崎などの高名な文人以外にも、山本五十六のような軍人がきわめて素直に、ありのままの恋心を綴った手紙を、その時代背景とともに渡辺氏が考察を加えるもので、不倫関係であったり、戦時下での極限の恋であったりと赤裸々に思いの丈をぶつけたラヴレターは実に感動的である。明治・大正から昭和にかけての時代史としても貴重な資料であり、また、昨今見直されている日本語の魅力も再発見できよう。著者自らの若き日のラヴレターも収録!
 
光太郎のラヴレターというのは、大正2年(1913)の1月28日、結婚前に智恵子に宛てて書かれたものです。こちらに全文を載せてあります。
 
その手紙を巡って、渡辺さんは『キッスキッスキッス』中で、このように述べられています。
 
 まさしく智恵子の一生は、光太郎という偉大な芸術家に憧れ、愛され、自らも深く愛しながら、自分本来の才能を開花させることができず、むしろ萎れていく。その愛の喜びと自分の才能への絶望と、二つのジレンマの中で傷つき、精神まで傷め、狂い死にしたともいえる。
(略)
 いま二人のあいだに残された唯一通のラヴレターを見るとき、そこにすでに、光太郎の詩人としての才能と、そんな詩人と接して、先に埋もれていく智恵子の運命を予言しているかのようでもある。
 
「化身」「失楽園」「愛の流刑地」などで、男女の愛の形を追い求め続けた渡辺さんならではの恋愛観のつまった一冊です。
 
新刊書店で追悼フェアなどが催されると思います。もしこの『キッスキッスキッス』が並んでいたら、お買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月6日

明治38年(1905)の今日、彫刻調査のため奈良興福寺に向けて東京を発ちました。
 
中旬まで百花園に滞在しながら、興福寺の諸堂に通い、調査にあたりました。

GWということで、近場ではありますが、女房孝行に軽く出かけて参りました。行き先は銚子。当方は生活圏ですが、妻はめったに銚子まで足を伸ばしません。
 
まず市内中心部にある妙福寺さんというお寺に行きました。鎌倉時代開山の古刹。樹齢750年という藤の古木が有名で、ちょうど花の盛りです。龍が地に臥している姿に似ているという事で「臥龍の藤」と名付けられています。
 
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昨日と今日、「藤まつり」なるイベントも開催中でした。東日本大震災被災者慰霊も兼ねており、境内でコンサートがあったり、神輿が出たりというイベントです。コンサートはパスしましたが、神輿にはちょうど行き会いました。
 
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東日本大震災では、銚子でも津波に遭い、幸い、死者は出ませんでしたが、マリーナなどは甚大な被害を受けました。その後、観光客が激減、老舗のホテルが廃業に追い込まれたりしました。現在も家屋の修復等、まだまだです。
 
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妙福寺さん、本堂では僧侶の方々や一般の皆さんも混じって、読経祈願がなされていました。本当に少しでも早い復興を望みます。
 
続いて近くにある浄国寺さんというお寺に。こちらには光太郎と交流のあった銚子出身の詩人、宮崎丈二の墓があります。以前から一度お参りしたいと思っていましたが、なかなか果たせず、初めての墓参でした。光太郎の代参のつもりで手を合わせてきました。
 
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墓石に書かれているのは宮崎の自筆。「心月孤円」と読みます。道元禅師の言葉だそうです。
 
宮崎は明治30年(1897)、銚子の生まれ001。生家は材木商や茶の輸出も手がけていたそうです。「丈二」という名は、父・清兵衛が、尊敬する合衆国初代大統領、ジョージ・ワシントンからとったとのこと。大正時代に中央大学、専修大学などに通いましたがともに中退。岸田劉生らの草土社に参加し、まず画家として名をなしました。
 
大正9年(1920)、千家元麿らと詩誌「詩」を創刊し、さらに同じく詩誌「太陽花」「河」を創刊。このころから光太郎との交流が始まります。「太陽花」「河」ともに光太郎も寄稿者の一人でした。
 
晩年、昭和40年(1965)に銚子に帰り、同45年(1970)に歿するまで銚子に住み、絵を描き、詩を書いていました。
 
銚子でも宮崎の名は忘れられつつあるようです。少し前までは市内の青少年文化会館というホールのロビーに、郷土の偉人ということで、宮崎のコーナーもあって、光太郎からの書簡なども展示されていたのですが、先月、同館に行ったところ、別の展示に変わってしまっていました。残念です。
 
さて、浄国寺さんを後にして、ぶらぶら歩きました。ヤマサ醤油の工場裏手の銚子電鉄仲ノ町駅付近では、ちょうど銚子電鉄に行き会いました。
 
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かつて京王線で走っていた2000系という緑色の車両。当方、子供の頃に東京多摩地域に住んでいた時期があり、よくこのタイプの緑の車両に乗りました。
 
意外と乗客も多く、妙福寺さんの藤まつりもだいぶにぎわっていましたし、行き帰りの国道356号もけっこう混雑していました。観光客の皆さんの客足も戻りつつあるようで、何よりです。
 
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「藤まつり」は終わりましたが、まだまだ妙福寺さんの藤は花盛りです。しばらくは夜間のライトアップもあるそうです。ぜひ足をお運びください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 5月4日

昭和12年(1937)の今日、詩人の中原綾子に宛てて手紙を書きました。
 
かつて中原に対しては、ゼームス坂病院入院前の智恵子の病状を細かく記した書簡を送っています。77年前の今日の手紙は、中原が小野俊一(かのオノ・ヨーコの伯父)と再婚したことに対するお祝いのメッセージでした。

注文していた雑誌が届きました。『新潮45』3月号。
 
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一昨日のブログでふれたノンフィクション作家の大野芳氏の「《歴史発掘》ヨーロッパを席巻した幻の女優「マダム花子」」が掲載されています。
 
全14ページで、ロダンや光太郎と縁のあった日本人女優・花子の伝記です。短いながら、最近の調査でわかったことなども盛り込まれています。
 
3月号ですので、もう店頭には並んでいませんが、新潮社さんのサイト、Amazon、雑誌のオンライン書店・Fujisan.comなどで入手可能です。
 
『東京新聞』さんの連載と併せ、単行本化を希望します。
 
単行本といえば、昨秋、講談社さんのコミック誌『月刊アフタヌーン』で連載が始まった清家雪子さんの漫画「月に吠えらんねえ」の単行本第1巻が発売され、こちらも入手しました。
 
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講談社さんサイトより。
 
実在した詩人の自伝ではなく、萩原朔太郎や北原白秋らの作品から受けた印象から作者像をイメージした、全く新しい、いわば真の二次創作ともいえる手法で創作された、詩人と近代日本の物語。
⟨(シカク:詩歌句)街。そこは近代日本ぽくも幻想の、詩人たちが住まう架空の街。
そこには萩原朔太郎、北原白秋、三好達治、室生犀星、与謝野晶子、斎藤茂吉、若山牧水、高浜虚子、石川啄木、立原道造、中原中也、高村光太郎、正岡子規らの作品からイメージされたキャラクターたちが、創作者としての欲望と人間としての幸せに人生を引き裂かれながら、絶望と歓喜に身を震わせ、賞賛され、阻害され、罪を犯し、詩作にまい進する。

『秒速5センチメートル』『まじめな時間』で高い評価を得た清家雪子の、これまでのイメージを一新し、一線を踏み越えた、狂気と知性と業の物語!
 
シュールです。萩原朔太郎をモデルとした主人公・「朔くん」を中心に話が進みますが、朔太郎の詩そのままに(それ以上に)幻想的な世界です。光太郎と智恵子をモデルにした「コタローくん」「チエコさん」も登場します。
 
こちらは新刊書店に並んでいます。ぜひお買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月29日

平成10年(1998)の今日、ジャパンイメージコミュニケーションズからVHSビデオ「日本詩人アルバム 詩季彩人⑩ 高村光太郎・竹久夢二」が発売されました。
 
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いわゆるヒーリング系のもので、非常に健康的です(笑)。
 
ジャケット解説文から。
 
 日本が生んだ言葉の精鋭達、詩人。その世界の一端に静かに触れてみる。
 美しい日本の風景にのせておくる一編の詩は、あなたに忘れていた何かを思い出させてくれるでしょう。人間故の苦しみ、喜び、悲しみ、憤り、歓喜、悲哀、そして慈しみと癒し。「詩季彩人」は、喧噪を離れ、静かに詩人達の言葉のリズムに心をゆだねる時間を提供します。
 
やはりAmazonさんなどで入手可能です。もっとも、みなさんそろそろVHSビデオのプレーヤーもほとんど使わなくなっているのではないかとは思いますが……。

新刊です。といっても、2ヶ月程経っていますが……。 

詩的思考のめざめ

2014年2月20日 阿部公彦著 東京大学出版会刊行 定価2,500円+税
 
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内容紹介
名前をつける,数え上げる,恥じる,などの切り口から日常に詩のタネを探してみよう.萩原朔太郎,伊藤比呂美,谷川俊太郎といった教科書の詩人のここを読んでみよう.詩的な声に耳を澄ませば,私たちと世界の関係がちがったふうに見えてくる.言葉の感性を磨くレッスン.

主要目次
はじめに――詩の「香り」にだまされないために
I 日常に詩は“起きている”――生活篇
第1章 名前をつける――阿久悠「ペッパー警部」,金子光晴「おっとせい」,川崎洋「海」,梶井基次郎「檸檬」ほか
第2章 声が聞こえてくる――宮沢賢治「なめとこ山の熊」,大江健三郎『洪水はわが魂に及び』,宗左近「来歴」
第3章 言葉をならべる――新川和江「土へのオード」,西脇順三郎『失われた時』,石垣りん「くらし」
第4章 黙る――高村光太郎「牛」
第5章 恥じる――荒川洋治『詩とことば』,山之口貘「牛とまじない」,高橋睦郎「この家は」
II 書かれた詩はどのようにふるまうか――実践編
第6章 品詞が動く――萩原朔太郎「地面の底の病気の顔」
第7章 身だしなみが変わる――伊藤比呂美「きっと便器なんだろう」
第8章 私がいない――西脇順三郎「眼」
第9章 型から始まる――田原「夢の中の木」ほか
第10章 世界に尋ねる――谷川俊太郎「おならうた」「心のスケッチA」「夕焼け」ほか
読書案内
おわりに――詩の出口を見つける
 
著者の阿部氏は東大文学部准教授。「東大」というブランドをありがたがるわけではありませんが、なかなかおもしろい論考集です。
 
上記目次で目立つようにしましたが、光太郎詩「牛」が扱われています。章の題が「黙る」。これはどういうことでしょうか。実際に引用してみます。
 
人は大きい声を出すことで、強く言おうとする。しかし、より強い言葉を追求していくと、むしろ大きい声を出さない、いや、そもそも声を出しすらしない方がいい場合もある。「牛」という作品はその境地を目指したものと思えます。牛が体現しているような黙ることの強さを、詩の中に何とか表そうとしている。
 
「牛」という詩は、大正2年(1913)の作。光太郎の詩の中では有名な部類に入りますので、、ご存知の方も多いのではないでしょうか。全部で115行もある長大な詩です。で、115行、「牛はのろのろと歩く」に始まり、最終行の「牛は平凡な大地を歩く」まで、とにかく農耕用の牛の描写に徹しています。
 
   

牛はのろのろと歩く
牛は野でも山でも道でも川でも
自分の行きたいところへは
まつすぐに行く000
牛はただでは飛ばない、ただでは躍らない
がちり、がちりと
牛は砂を掘り土をはねとばし
やつぱり牛はのろのろと歩く
牛は急ぐ事をしない
牛は力一ぱいに地面を頼つて行く
自分を載せている自然の力を信じきつて行く
ひと足、ひと足、牛は自分の力を味はつて行く
ふみ出す足は必然だ
うはの空の事ではない
是(ぜ)でも非(ひ)でも
出さないではゐられない足を出す
牛だ
出したが最後
牛は後(あと)へはかへらない
足が地面へめり込んでもかへらない
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛はがむしやらではない
けれどもかなりがむしやらだ
邪魔なものは二本の角にひつかける
牛は非道をしない
牛はただ為(し)たい事をする
自然に為たくなる事をする
牛は判断をしない005
けれども牛は正直だ
牛は為たくなつて為た事に後悔をしない
牛の為た事は牛の自信を強くする
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く

何処までも歩く
自然を信じ切つて

自然に身を任して
がちり、がちりと自然につつ込み喰ひ込んで
遅れても、先になつても
自分の道を自分で行く
雲にものらない
雨をも呼ばない
水の上をも泳がない
堅い大地に蹄をつけて
牛は平凡な大地を行く
やくざな架空の地面にだまされない
ひとをうらやましいとも思はない
牛は自分の孤独をちやんと知つてゐる
牛は食べたものを又食べながら
ぢつと寂しさをふんごたへ003
さらに深く、さらに大きい孤独の中にはいつて行く
牛はもうと啼いて
その時自然によびかける
自然はやつぱりもうとこたへる
牛はそれにあやされる
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は馬鹿に大まかで、かなり無器用だ
思ひ立つてもやるまでが大変だ
やりはじめてもきびきびとは行かない
けれども牛は馬鹿に敏感だ
三里さきのけだものの声をききわける
最善最美を直覚する
未来を明らかに予感する
見よ
牛の眼は叡智にかがやく
その眼は自然の形と魂とを一緒に見ぬく
形のおもちやを喜ばない
魂の影に魅せられない
うるほひのあるやさしい牛の眼
まつ毛の長い黒眼がちの牛の眼
永遠を日常によび生かす牛の眼
牛の眼は聖者の目だ
牛は自然をその通りにぢつと見る
見つめる
きよろきよろときよろつかない
眼に角(かど)も立てない
牛が自然を見る事は牛が自分を見る事だ
外を見ると一緒に内が見え
内を見ると一緒に外が見える
これは牛にとつての努力ぢやない
牛にとつての当然だ
そしてやつぱり牛はのろのろと歩く
牛は随分強情だ
けれどもむやみとは争はない
争はなければならない時しか争はない
ふだんはすべてをただ聞いている
そして自分の仕事をしてゐる
生命(いのち)をくだいて力を出す
牛の力は強い
しかし牛の力は潜力だ
弾機(ばね)ではない
ねぢだ
坂に車を引き上げるねぢの力だ
牛が邪魔者をつつかけてはねとばす時は
きれ離れのいい手際(てぎは)だが
牛の力はねばりつこい
邪悪な闘牛者(トレアドル)の卑劣な刃(やいば)にかかる時でも

十本二十本の鎗を総身に立てられて
よろけながらもつつかける
つつかける

牛の力はかうも悲壮だ
牛の力はかうも偉大だ
それでもやつぱり牛はのろのろと歩く
何処までも歩く
歩きながら草を食ふ
大地から生えてゐる草を食ふ
そして大きな体を肥(こや)す
利口でやさしい眼と
なつこい舌と
かたい爪と
厳粛な二本の角と
愛情に満ちた啼声と
すばらしい筋肉と
正直な涎(よだれ)を持つた大きな牛
牛はのろのろと歩く
牛は大地をふみしめて歩く
牛は平凡な大地を歩く
 
※2ヶ所でてくる啼き声の「もう」は傍点がついていますが、うまく書き表せません。
 
いわば、声高な作者の主義主張は語られていません。しかし、それがかえって効果をもたらしています。愚鈍にゆっくりと歩み続ける牛の姿に、光太郎の姿がオーバーラップします。当方、阿部氏はそうした点を「より強い言葉を追求していくと、むしろ大きい声を出さない、いや、そもそも声を出しすらしない方がいい場合もある」と解釈しているのだと読み取りました。
 
是非お買い求めを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月26日

昭和22年(1947)の今日、花巻郊外太田村の山小屋周辺で、野草をスケッチしました。
 
太田村時代、スケッチはこの日に限らずよくやっていたのですが、とりあえず「今日」のできごとということで……。
 
こうしたスケッチは後に昭和41年(1966)、中央公論美術出版から『山のスケッチ』として刊行されました。
 
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テレビ放映情報です。

にほんごであそぼ

NHKEテレ 2014年4月28日(月)  6時35分~6時45分 
      再放送 2014年4月28日(月)  17時15分~17時25分 
 
コミュニケーション能力や自己表現する感性を育てる番組。今回は、痩蛙まけるな一茶是に有(小林一茶)、「ドンタッポ」、 「道程」、 うた/マーチング・マーチ、やまなし。
 
2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけけることができます。今回は、痩蛙まけるな一茶是に有(小林一茶)、歌舞伎/「ドンタッポ」、はい!ここで名文/僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる「道程」高村光太郎、うた/マーチング・マーチ、やまなし。
 
中村勘九郎,中村いてう,中村仲助,小錦八十吉,おおたか静流 ほか
 
この番組オリジナルの坂本龍一さん作曲「道程」が使われると思います。しつこいようですが今年、平成26年(2014)年は「道程」100周年。100年経っても色あせず、幼い世代にも語りかけているのですね。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月22日

大正10年(1921)の今日、叢文閣からエリザベット・ゴッホ著、光太郎訳『回想のゴツホ』が刊行されました。
 
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エリザベット・ゴッホは画家のフィンセント・ファン・ゴッホの妹です。内容的には題名の通り、ゴッホの評伝が根幹です。
 
光太郎の翻訳になるこの書籍、元々はカバーが附いた状態で発行されましたが、現在、なかなかカバー付きのものに出会えません。当方が持っているのも裸本です(上記画像)。
 
たまにカバー付きが古書市場に出ても、カバーが大きく破損しているものが多いのです。カバーはこんな感じの筈。色合いはよくわかりません。
 
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完品を安く手に入れたいものです。当方、古書の場合、状態にはそれほどこだわりませんが、光太郎本人の著作は、できるだけ光太郎が手に取った状態に近いものであるにこしたことはありません。

繰り返し書いていますが、今年、平成26年(2014)年は、「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年です。
 
100年前というと大正3年(1914)。
 
「道程」に関しては、2月9日に今知られている詩型の原型となる長大な詩を執筆、それが3月5日に雑誌『美の廃墟』に発表され、10月25日には詩集『道程』が出版されています。この時点でオリジナルの102行あった「道程」はわずか9行に圧縮されました。
 
光太郎智恵子の結婚披露は12月22日。上野精養軒で行われました。ただし、事実婚の状態はその前からだったようですし、披露後も入籍はせず、事実婚の状態が続きました。入籍は実に昭和8年(1933)8月23日。これは、統合失調症が昂進した智恵子の身分保障―光太郎にもしものことがあった時の財産分与―のためと言われています。
 
というわけで、今年は光太郎智恵子にとって重要な節目の出来事が2件、100周年です。そんなわけで、当方、「100周年」という語には敏感な今日この頃です。
 
それでは、それ以外に今年「100周年」を迎える(迎えた)出来事というと……。
 
夏目漱石「こころ」発表
昨日から『朝日新聞』さんで、漱石の「こころ」が復刻連載されています。昨日は大きく特集記事も組まれました。
 
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ちょうど100年前の昨日から、『朝日新聞』紙上に「こころ」の連載が始まったとのことです。
 
ちなみに光太郎は漱石にかみついたこともあります。
 
宝塚歌劇初演
やはり大正3年、阪急電鉄の小林一三の発案により、宝塚新温泉の余興として、少女たちによる歌劇の初演が行われたそうです。今月初めにはいろいろと記念イベントもあり、報道されていました。
 
昨年、福島二本松の大山忠作美術館で、日本画家、故・大山忠作の「智恵子に扮する有馬稲子像」に関し、トークショーをなさった有馬稲子さん。今年の連翹忌のご案内を差し上げたのですが、宝塚100周年のイベントご出席のため、連翹忌は無理、と、直接お電話を頂きました。有馬さんも元タカラジェンヌです。
 
ちなみに小林一三は、光太郎と縁の深い与謝野夫妻の援助者としても有名です。数年前、小林のコレクションの中から、光太郎が絵を描き、晶子が短歌を記した屏風絵2枚が出てきて、驚きました。
 
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東京駅開業
こちらも大正3年の竣工で、いろいろと記念事業が進行中です。話題性としては手強い相手です(笑)。
 
 
第一次世界大戦勃発
負の記憶として、これも外せない「100周年」です。
 
 
そう考えると、ほんとうにいろいろあった大正3年、1914年ですが、もっともっと、「道程」100周年、光太郎智恵子結婚披露100周年が話題になってほしいものです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月21日

平成12年(2000)の今日、「20世紀デザイン切手」シリーズ第9集が発行されました。
 
「20世紀デザイン切手」シリーズ、20世紀末の平成11年(1999)から翌年にかけ、全17集が発行されました。やはり20世紀のクロニクル的な記念切手です。
 
第9集は「「杉原千畝副領事がビザ発給」から」の副題で、昭和15年(1940)~同20年(1945)までの出来事を扱っています。
 
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光太郎も80円切手になりました。<高村光太郎が詩集「道程」で第1回芸術院賞>という題です。
 
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大正3年(1914)の初版刊行でなく、この時期の出来事として扱うか? と首をかしげましたが、まあよしとしましょう。光太郎肖像が使われている唯一の切手ですので。
 
切手になっていない台紙というか余白というか、シート右下には智恵子の紙絵があしらわれています。詩集『智恵子抄』の刊行が昭和16年(1941)だったためです。
 
ちなみに大正3年(1914)前後を扱った第3集はやはり東京駅開業や第一次世界大戦をモチーフにしています。

新潮社さんで発行している『波』というPR誌があります。
 
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現在発売中の4月号から、絵本作家・編集者の末盛千枝子さんの連載「父と母の娘」がスタートしています。
 
以前にも書きましたが、末盛さんは光太郎と交流のあった彫刻家、故・舟越保武氏のご息女です。「千枝子」というお名前は、光太郎が名付け親とのこと。今年の花巻光太郎祭(5/15(木))では末盛さんを講師に招き、記念講演をしていただくそうです。
 
「父と母の娘」、第1回はその光太郎による命名、そして偉大な芸術家に名前を付けてもらってのプレッシャーなどについてのお話が書かれています。そうしたお話は、昨年の12月に代官山のクラブヒルサイドさんで開催された「読書会 少女は本を読んで大人になる」でお聴きしましたが、非常に興味深い内容です。
 
『波』、他にも津村節子さんの連載「時のなごり」等も載っています。今月号は「震災から三年」。夫の故・吉村昭さんともども三陸の田野畑村と縁の深い津村さんですが、近著『三陸の海』に関わる内容となっています。
 
ぜひお買い求めを。
 
ところで末盛さんのお父様、故・舟越保武氏関連の展覧会が、今週末から東京オペラシティーアートギャラリーで開催されます。
 
同館サイトから。

[特別展示]舟越保武:長崎26殉教者 未発表デッサン

舟越保武(1912-2002)は、清新な造形のなかに深い精神性をたたえた数々の作品によって、日本の近代彫刻史に大きな足跡を残しました。作風の重大な転機は戦後まもなく、長男の急死を契機にカトリックの洗礼を受けたことでした。その8年後の1958(昭和33)年《長崎26殉教者記念像》の制作に着手、完成までに4年半を費やし、後年「作家生命を賭けるつもり」だったと述べる この作品によって、第5回高村光太郎賞を受賞。以後、島原の乱の舞台・原城跡で着想を得た《原の城》やハンセン病患者の救済に命を捧げた《ダミアン神父》をはじめ、キリスト教信仰やキリシタンの受難をテーマにした数々の名作を制作します。
 
そうした観点から、《長崎26殉教者記念像》は舟越芸術の原点と呼べる重要な作品といえるでしょう。
 
《長崎26殉教者記念像》のためのデッサンは98点を数えます。粘土でつくった聖フランシスコ吉(きち)像の顔に舟越は敬虔なクリスチャンだった父の面影を見たそうですが、《長崎26殉教者記念像》は舟越の父への贖罪と再生の記念碑というべき作品に違いありません。
 
主催:公益財団法人 東京オペラシティ文化財団
協賛:日本生命保険相互会社
 
会場:ギャラリー3&4(東京オペラシティ アートギャラリー 4F)
期間:2014.4.19[土]─ 6.29[日]
開館時間:11:00 ─ 19:00(金・土は11:00 ─ 20:00/いずれも最終入場は閉館30分前まで)

休館日:月曜日(ただし、4月28日、5月5日は開館)
特別展示入場料:200円
 
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「長崎26殉教者」 高村光太郎賞記念作品集『天極をさす』より
 
こちらもぜひ足をお運び下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月15日

明治44年(1911)の今日、神田淡路町に開いた画廊・琅玕洞(ろうかんどう)を、僅か1年で閉じました。
 
昨年の今日のブログでは、琅玕洞開店について書きました。日本初の画廊ともいわれ、光太郎も気合いを入れて開いたのですが、現実は厳しく、ちょうど1年で閉店です。
 
詳しくはこちら

都立高校教諭の野末明氏が主宰する「高村光太000郎研究会」という会があります。機関誌的に雑誌『高村光太郎研究』を発行しています。
 
過日、その35集が刊行されました。
 
目次は以下の通り。
 
高村光太郎・最後の年 1月(1) 北川 太一
高村光太郎考――直哉と光太郎 大島 龍彦
光太郎遺珠⑨ 平成二十六年  小山 弘明
高村光太郎没後年譜・未来事項 大島 裕子
高村光太郎文献目録      野末  明
研究会記録・寄贈資料紹介   野末  明
 
論考二本、読み応えがあります。
 
それから当方の連載「光太郎遺珠」。新しく見つけた『高村光太郎全集』未収録の文筆作品等を紹介しています。内容細目は、脱稿した際のブログに書きました。
 
頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでご連絡ください。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月10日
 
昭和20年(1945)の今日、駒込林町のアトリエを、渡辺正治氏が訪れました。
 
氏は女優・渡辺えりさんのお父さまで、今もご健在です。
 
戦時中に15歳で山形から上京、現・武蔵野市にあった中島飛行機の工場で働いていたそうです。
 
工場の先輩に、光太郎と手紙のやりとりをしていたという人がいて、都心方面の空襲のひどさから光太郎の身を案じ、光太郎の元に渡辺氏を遣わしたとのこと。
 
この際には光太郎もアトリエも無事で、氏は光太郎から署名入りの『道程 再訂版』をもらったそうです。
 
ところがその3日後の空襲でアトリエは炎上してしまいました。
 
戦後になっても氏と光太郎の交流は続き、そうした縁で渡辺えりさんも光太郎ファンに。画像は渡辺さん作の、光太郎を主人公とした舞台「月にぬれた手」のパンフレットです。

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4月2日は高村光太郎の命日でした。
 
東京日比谷松本楼様では、第58回連翹忌を開催し、多くの方にスピーチを頂きました。
 
その中のお一人、詩人の間島康子さんから、文芸誌『群系』の昨年12月に刊行された第32号をいただきました。
 
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間島様の評論「高村光太郎――「好い時代」の光太郎」11ページが掲載されています。
 
「好い時代」とは、佐藤春夫が『わが龍之介像』で使った言葉。大正時代(広い意味で明治末を含む)を指します。文芸界全体でも、光太郎自身も、たしかに大正時代は充実していた時期です。
 
その「好い時代」の光太郎を追った論考で、失礼ながら、非常に感心いたしました。
 
『群系』さんホームページはこちら間島様の論考もウェブ上で閲覧できます。ぜひお読み下さい。
 
それから、連翹忌にはご欠席でしたが、イラストレーターの河合美穂さんから、事前にご丁寧にご欠席のご連絡をいただきました。河合さんは今年1月に、個展「線とわたし」を開催され、光太郎の「梅酒」をモチーフにした作品も展示されました。
 
その「梅酒」をポストカードにしたものをいただいてしまいました。ありがたいかぎりです。
 
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あたたかい絵ですね。しかし、もったいなくて使えません(笑)。
  
連翹忌、そして光太郎智恵子を通じて人の輪が広がっています。素晴らしいことだと思っております。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 4月6日

昭和56年(1981)の今日、銀座和光ホールで開催されていた高村規写真展「高村光太郎彫刻の世界」が閉幕しました。

先日のこのブログで、作家・津村節子さんについて書きました。ご主人の故・吉村昭氏ともども、岩手の田野畑村とのご縁が深く、東日本大震災後には、村の復興のために骨を折られているとのこと。
 
当方も微力ながら、同じ三陸の女川の復興支援に少しだけ関わっておりますので、興味をひかれ、津村さんの近著を2冊購入しました。
 
まず1冊、昨年6月、集英社より刊行された『愛する伴侶(ひと)を失って 加賀乙彦と津村節子の対話』を読了しました。
 
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やはり作家の加賀乙彦氏との対談です。加賀氏は奥様に、津村さんはご主人にそれぞれ先立たれていて、それを軸にしたトークです。
 
泣けます。
 
加賀氏――
日曜日には女房と二人で聖イグナチオ教会に行っていました。(中略)春は堤に連翹と桜が満開でね。連翹の花というのは十字架の形ですから、十字架がたくさんあるような感じがして。二人でよく教会の帰りに四谷から市谷のあたりまで歩きました。
 
津村さん――
私は今でも、公園の中を歩いて「ああ、ここ、一緒に歩いたなあ」って、そういうことが始終あるんです。退院して再入院するまでの間、二人でよく、歩きました。公園のあたりで「このベンチに一緒に腰かけたな」とか……。
 
お二人のお話から、智恵子を失った後の光太郎を彷彿とさせられます。
 
ちなみに光太郎曰く、
 
智恵子が死んでしまつた当座の空虚感はそれ故殆ど無の世界に等しかつた。作りたいものは山ほどあつても作る気になれなかつた。見てくれる熱愛の眼が此世にもう絶えて無い事を知つてゐるからである。さういふ幾箇月の苦闘の後、或る偶然の事から満月の夜に、智恵子はその個的存在を失ふ事によつて却て私にとつては普遍的存在となつたのである事を痛感し、それ以来智恵子の息吹を常に身近かに感ずる事が出来、言はば彼女は私と偕にある者となり、私にとつての永遠なるものであるといふ実感の方が強くなつた。私はさうして平静と心の健康とを取り戻し、仕事の張合がもう一度出て来た。一日の仕事を終つて製作を眺める時「どうだらう」といつて後ろをふりむけば智恵子はきつと其処に居る。彼女は何処にでも居るのである。
「智恵子の半生」(昭和15年=1940)
 
幸い当方の伴侶は元気です。しかし、いずれこういう立場になるのだろうか、などと考えさせられました。または逆に当方が先に逝き、伴侶が残されることもあり得るな、とも。そうなった場合、「せいせいした」と言われるのではないかと、それが心配です(笑)。
 
もう一冊、やはり昨年の11月に講談社から刊行された『三陸の海』。こちらはまだ読んでいる最中です。
 
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夫妻共に縁の深い田野畑村が描かれています。田野畑は光太郎と縁の深かった宮澤賢治ゆかりの地でもあり、熟読前にざっと斜め読みしたところ、賢治についての記述もありました。
 
以下、講談社さんのサイトから。
 
震災を経て、再びかの地へ――
2011年3月11日。「私」が新婚時代に夫・吉村昭と行商の旅をした三陸海岸を、大津波が襲った。
三陸の中でも岩手県の田野畑村は夫婦にとって特別な場所。夫婦で同人雑誌に小説を書きながらの生活は厳しかったが、執筆に専念するため勤めを辞めた夫は、2泊3日かけて「陸の孤島」と呼ばれていた田野畑へ向かう。鵜の巣断崖の絶景に出会った夫は小説の着想を得て、昭和41年に太宰治賞を受賞、作家の道が開けた。取材以外の旅はしなかった夫は、家族を連れて唯一、田野畑だけには旅行するようになる。
もし夫が生きていたら、津波に襲われた愛する三陸の姿を見て、どんなに悲しんだだろう。三陸は故郷ではない。住んだこともない。でもあの日、津波が襲ったのは、「私」にとってかけがえのない場所だ――。
震災の翌年、夫の分まで津波の爪痕を目に焼き付け、大切な人々に会うため、息子と孫と共に田野畑を巡った妻の愛の軌跡。
 
ぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月28日

平成3年(1991)の今日、文治堂書店から北川太一著『高村光太郎ノート』が刊行されました。
 
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高村光太郎記念会事務局長にして、当会顧問もお願いしています北川太一先生の著作集です。書き下ろしではなく、あちこちに発表された文章の集成で、編集は北川先生が高校教諭だった頃の教え子の会「北斗会」の皆さんです。どこをとっても示唆に富む内容です。

昨日、長野県の碌山美術館さんの館報をご紹介しましたが、お隣山梨県立文学館さんからも最新の館報を頂きました。ありがとうございます。
 
昨秋開催された企画展「与謝野晶子展 われも黄金(こがね)の釘一つ打つ」の報告が掲載されています。
 
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4/2(水)の連翹忌には、同館の三枝昻之館長と、同展担当学芸員の保坂雅子さんがご参加の予定です。
 
それから4/12(土)から開催される企画展「村岡花子展 ことばの虹を架ける~山梨からアンの世界へ~」について詳しく紹介されています。
 
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NHKの朝ドラ、来週から「花子とアン」の放映が始まりますから、非常にタイムリーですね。
 
村岡花子は甲府出身。日本で初めて「赤毛のアン」を翻訳紹介しています。
 
年齢的には光太郎のちょうど10歳下です。残念ながら『高村光太郎全集』には村岡の名は出てきません。しかし、光太郎が詩部会長だった戦時中の日本文学報国会で、村岡も女流文学者委員会の委員を務めていますし、昭和17年(1942)11月に開催された大東亜文学者会議には、二人とも参加しています。おそらく面識はあったでしょう。また、詩人の永瀬清子、編集者の前田晁など共通の知人も多く、そういった部分での接点もありました。
 
NHKの朝ドラ「花子とアン」、戦時中の村岡をどのように描くか、非常に興味があります。別に戦争協力を糾弾するわけではありません。日本文学報国会にしても、加入していなかった文学者を捜す方が難しい状態で、当時としては、ある意味しかたのないことです。
 
先月亡くなった「ぞうさん」のまど・みちお氏にしても、戦時中には戦争協力の詩を書いています。まどさん自身、それを隠さず平成4年(1992)に刊行された『まど・みちお全詩集』にそれらを収録、さらに「あとがき」ではその点や、戦後には一転して反戦運動に関わるようになったことを、流される自分のなさけなさとして述懐しているそうです。
 
光太郎も戦後は花巻郊外太田村での隠遁生活を「自己流謫(=流刑)」と位置づけ、あえて不自由な生活を続けました。
 
そのあたり、村岡がどうだったかというのが興味深いところです。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月27日

昭和27年(1952)の今日、NHKラジオ放送「朝の訪問」のため、花巻温泉松雲閣で、詩人の真壁仁と対談しました。

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松雲閣 戦前絵葉書

一昨日になりますが、千葉県東端の銚子に行って参りました。といって、生活圏なので、時々行くのですが……。昨日のブログにもちらっと書いたとおり、当方、合唱をやっており、その関係です。
 
目的地は市内中心部、新生町にある公正市民館というところ。公民館的な施設です。銚子を代表する企業・ヤマサ醤油の10代目濱口儀兵衛が大正末に建て、戦後になってから市に寄贈されました。大正末の建築ということで、レトロな感じがたまりませんね。
 

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道路を挟んで目の前がヤマサ醤油の本社工場、そしてその東隣に、かつては国鉄貨物線の駅がありました。現在は「中央みどり公園」となっています。
 
こちらには、光太郎と縁の深い詩人・黄瀛(こうえい)の詩碑があります。
 
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黄瀛は明治明治39年(1906)、清朝末期の中国重慶で中国人の父と日本人の母の間に生まれました。幼くして父と死別、その後、母の実家のあった、銚子にほど近い八日市場(現・匝瑳市)に移り、尋常小学校を終えました。しかし日本国籍でなかったため、公立の上級学校には進学できず、東京の正則中学校、さらに中国青島の日本中学校に移ります。そして彼の地で、嶺南大学に留学中の草野心平と知り合い、心平が創刊した雑誌『銅鑼』に参加、さらに日本の詩誌への投稿などを盛んに行うようになりました。
 
大正14年(1925)には再び来日、やはり詩人の中野秀人を通じて光太郎と知り合います。光太郎は黄瀛を気に入り、彫刻のモデルに起用しました。右の画像です。ただし、この彫刻は現存しません。また、後に昭和9年(1934)に刊行された黄瀛の詩集『瑞枝』の序文を書いてやったりしています。さらに、与謝野夫妻も関係していた文化学院に黄瀛が入学する際、光太郎が保証人になっています。
 
遅れて帰国した心平を光太郎に引き合わせたのが黄瀛。さらに宮澤賢治を含めて交流が続きます。黄瀛は昭和4年(1929)、晩年の賢治を花巻に訪ねています。
 
その後、昭和12年(1937)には日中戦争が勃発、黄瀛は帰国します。南京に成立した汪兆銘の中華民国国民政府の宣伝部顧問として中国にいた草野心平と、終戦の年に再会。この時点で黄瀛は国民党の将校として、日本人の接収業務に当たっていました。李香蘭(山口淑子)の帰国も黄瀛の骨折りだったそうです。心平は、光太郎から貰った智恵子の紙絵などを没収されることを懼れ、黄瀛に託しました。
 
その後、昭和24年(1949)に中華人民共和国が成立すると、国民党将校だった黄瀛は投獄され、昭和37年(1962)まで監禁。この際に心平から託されたもろもろのものは行方不明になりました。さらに出獄後すぐ、文化大革命が起こり、再び入獄。解放されたのは実に昭和53年(1978)のことでした。昭和59年(1984)にはほぼ半世紀ぶりに来日、晩年の心平と再会を果たしました。
 
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銚子に詩碑が建てられたのは平成12年(2000)。碑文は「銚子ニテ」という詩の一節です。
 
  風ノ大キナウナリト
  利根川ノ川波
  潮クサイ君ト僕ノ目
  前ニ荒涼タル
  阪東太郎横タハル
       黄瀛
 
昭和4年(1929)の作で、銚子在住だった詩人の関谷祐規を訪ねて銚子を訪れた際に書かれた詩だそうです。
 
「阪東太郎」は正しくは「板東太郎」で、利根川の別名です。
 
下記は詩碑建立の際の新聞記事。
 
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記事にもあるとおり、除幕式の際には黄瀛本人がまた来日しました。
 
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ぜひお会いしたかったのですが、都合がつかず、果たせませんでした。残念です。
 
この後、平成17年(2005)に、中国重慶で白血病のため死去。享年98歳の大往生でした。
 
銚子には、大正元年(1912)に光太郎智恵子が逗留し、愛を確かめた宿「暁鶏館」(現・ぎょうけい館)もあり、黄瀛以外にも光太郎と縁の深い文人が訪れたり、出身だったりということもあります。また、折を見てそのあたりをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月25日
 
昭和30年(1955)の今日、岩波書店から岩波文庫の一冊として『高村光太郎詩集』が刊行されました。
 
光太郎自らが校訂した最後の選詩集です。編集は美術史家の奥平英雄でした。

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4月2日(水)、光太郎命日の集い・第58回連翹忌を開催いたします。
 
そろそろお申し込み〆切といたしますが、今のところ、昨年とほぼ同じ約70名ほどの方からお申し込みがありました。ありがたいことです。
 
ご案内を差し上げた方の中には、いろいろなご都合でご欠席という方もいらっしゃいますが、中にはご丁寧にお手紙やメールなどで、ご欠席のご連絡を下さる方もいらっしゃいます。
 
そんなお一人が、芥川賞作家の津村節子さん。000
 
平成9年(1997)に、智恵子を主人公とした小説『智恵子飛ぶ』を刊行なさり、翌年には芸術選奨文部大臣賞を受賞、片岡京子さん主演で舞台化もされました。そんなご縁で過去の連翹忌にもご参加いただいています。
 
今年も連翹忌のご案内をお送りしましたところ、過日、丁重なお葉書を頂きました。
 
曰く、
 
ご案内いただき有り難うございました。北川太一様によろしくお伝え下さいませ
「智恵子飛ぶ」は私の代表作の一つになり その節は大変お世話になり有り難うございました 花巻に講演に行ったことを思い出します
次々に仕事に追われ 現在三・一一の大津波の関係で三陸へ往復しております 吉村昭の文学碑のある田野畑村に津波資料館が出来るので田野畑通いです
 
解説いたしますと、津村さんのご主人は、やはり作家の故・吉村昭氏。平成18年(2006)にご逝去されています。氏には『三陸海岸大津波』というご著書があります。こちらは昭和45年(1970)に刊行されたもので、岩手県の田野畑村を襲った明治29年(1896)と昭和8年(1933)の大津波の証言・記録集です。
 
田野畑村では三年前の東日本大震災の折、やはり津波被害で約30名の尊い命が犠牲になっています。
 
『三陸海岸大津波』、氏の作品の中ではあまり有名なものではなかったそうですが、東日本大震災直後から注目が集まり、文春文庫に入っていたものが緊急増刷されました。
 
他にも氏には田野畑村を舞台とした作品がいくつかあり、そうした関係で同村には氏の文学碑、さらに津村さんの詩碑も建立され、村のHPにはご夫妻と村の関わりについての記述もあります。

さらには吉村さんの蔵書を元にした「吉村文庫」も同村に作られましたが、こちらは東日本大震災の津波で流されてしまいました。
 
さて、昨年発表された「東日本大震災田野畑村災害復興計画」によれば、来年開館予定で「津波資料館」を建設するそうです。
 
津村さんからのお手紙によれば、そちらへのご協力で、田野畑によく行かれていて、お忙しいとのこと。ちなみに津村さんは三鷹にお住まいです。
 
失礼とは存じますが、津村さん、昭和3年(1928)のお生まれで、おん年85歳。頭の下がる思いです。また、先述の吉村さんの『三陸海岸大津波』増刷分の印税、すっかり被災地に寄附されたそうです。かつて、光太郎が昭和26年(1951)に詩集『典型』で第2回読売文学賞を受賞した際、賞金を、当時住んでいた花巻郊外太田村にそっくり寄附したエピソードを彷彿とさせられました。
 
津村さんと田野畑村の活動、今後、001注意して行きたいと思います。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月23日

昭和17年(1942)の今日、群馬前橋の岩佐直次の遺族を訪問しました。
 
岩佐直次は海軍中佐。この前年の真珠湾攻撃で特殊潜行艇による作戦を敢行して戦死、いわゆる「九軍神」の一人として称えられました。
 
光太郎は前日から日本少国民文化協会主催の講演会のために前橋に入っていました。翌月の『読売新聞』に「天川原の朝」と題して、岩佐家訪問の様子を発表しています。
 
「天川原の朝」、『高村光太郎全集』の第20巻に収録されており、解題では、雑誌『画報躍進之日本』第7巻第6号(昭和17年=1942 5月31日)を初出としていますが、そちらは転載で、同年4月6日の『読売新聞』が初出でした。

埼玉県飯能市にある駿河台大学発の情報です。

オープンキャンパス模擬授業 詩という形のラブレター ―高村光太郎『智恵子抄』入門

期 日 : 2014年3月22日(土)
会 場 : 駿河台大学  埼玉県飯能市阿須698
時 間 : 13:00~ 事前申し込み不要

料 金 : 無料
  
講師 現代文化学部 長尾建准教授
 
 「いやなんです
 あなたのいつてしまふのが―」
 
 この場合「いつてしまふ」というのは、恋愛相手が誰かよその人間と結婚することを表しています。つまり、詩人は恋愛相手がよその人間と結婚することに、詩という形で全力で反対しているのです。
 
 これは一種のラブレターと言えるでしょう。この行間からは、よその人間ではない、私とあなたが結婚するべきだ、という思いがにじみ出ています。これを読んだ一女性は、何と幸福な思いを抱いたでしょう。
 
 ところが、このラブレターは雑誌に公開されたのです。高村は実直な青年であったので、または恥じらいの気持ちから、この詩を公開したのでしょう。そもそも、ラブレターというものは、非公開性と言うか相手以外見ることがない、そのような状況で書かれるものです。これを公開された智恵子はどのようにこれを受け取ったのでしょうか。
 
 一般にこの詩を読んだ女性は、この話はフィクションであり、作られたものと考えるでしょう。その上で、このような発言をする男性が私のまわりに現れたならな~と、あたかも自分自身にあてられたラブレターとして読むでしょう。まさにそれが『智恵子抄』が現代まで読み継がれる要因なのですが、一方で、「あなた」と呼ばれた智恵子はどのようにこの詩を受け止めたでしょうか?
 
 他の読者は知らない、まさに長沼智恵子にあてられたラブレター。二人だけに共有される私秘性、そこには強烈なロマンティシズムがあるのではないでしょうか。
 
 模擬授業では、照れずに愛について語りましょう。

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講師の長尾さんは高村光太郎研究会の会員。おもしろい模擬授業が受けられるのではないでしょうか。

 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月18日

大正6年(1917)の今日、福島磐城から、親友で作家の水野葉舟に宛てて絵葉書を書きました。
 
曰く、
 
 大理石購入の為めこんな所迄来ました。二三日で帰るでせう 帰つたら行きます 光 1917
 
大理石は石灰岩の一種。日本でも産出されています。絵葉書は「磐城炭鑛株式会社小野田坑」。一帯はかつて炭坑が数多く掘られ、石炭は「黒ダイヤ」と言われていました。
 
現在は採炭はほとんど行われておらず、温泉を活用し、炭坑跡に「フラガール」で有名な現在の「スパリゾートハワイアンズ」が作られています。東日本大震災直後のフラガールたちの活躍は記憶に新しいところですね。

3/8、9東北紀行レポートの3回目です。
 
3/9(日)、仙台から東北新幹線に乗り、北上で在来の東北本線に乗り換えました。この日最初の目的地は、岩手県紫波郡紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」さんです。
 
最寄り駅は「日詰」。花巻と盛岡の中間ぐらいでしょうか。
 
ホームに降り立ち、乗っていた列車が発車して行ってしまうと、実に意外な音、というか声が聞こえてきました。何と、白鳥の声です。
 
ホームから見える田んぼに、ざっと百羽以上の白鳥の群れ。
 
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湖などでなく、こういう形で白鳥を見たのは初めてで、感動しました。
 
駅前には宮澤賢治の短歌が記された碑がありました。
 

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曰く、
 
 さくらばな 日詰の駅のさくらばな かぜに高鳴り こゝろみだれぬ
 
大正6年(1917)、盛岡高等農林学校在学中の作品だそうです。
 
ところで野村胡堂・あらえびす記念館さんケータイの地図アプリで見てみると、日詰駅から約3.5㎞。路線バスは見あたらず、タクシーもいません。仕方なく、歩くことにしました。まぁ、毎日犬の散歩で5~6㎞歩くことはざらですので、さほど苦にはなりません。ただ、一泊分の大荷物を担いでなのが大変でした。

野村胡堂は光太郎より一つ年長。ここ、紫波町の出身で、「銭形平次」シリーズの著者として有名です。また「あらえびす」の筆名で音楽評論家としても活躍しました。
 
そして胡堂の妻・ハナが、日本女子大学校で智恵子の二学年下にいて、テニス仲間。福島油井村の智恵子の実家に泊まったこともあるそうです。そんな縁で、明治43年(1910)に行われた、胡堂とハナの結婚披露では、智恵子が介添えを務めています。
 
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野村胡堂・ハナ夫妻
 
というわけで、光太郎智恵子関連の収蔵品があるかも知れないと思い、行ってみることにしました。
 
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途中の北上川に掛かる橋の欄干です。さすが「銭形平次」の里。ところで平次の恋女房・お静には、愛妻・ハナのイメージが投影されているそうです。当方、テレビ時代劇の「銭形平次」-最初の大川橋蔵さん主演の-での香山美子さんのイメージが鮮烈に残っています。「お前さん、いっといで」と切り火を切って送り出すような。
 
記念館の少し手前に、野村胡堂の生家も残っていました。

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立派な日本家屋ですが、驚いたことに、まだ「野村さん」がお住まいです。帰ってから調べてみたところ、住まわれているのは胡堂の弟のご子孫だそうです。
 
さて、記念館につきました。

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入口では胡堂の胸像が出迎えてくれます。
 
 
さらに館内に入ると、北大路欣也さん主演のシリーズで実際に使われた平次の衣装が出迎えてくれます。が、ここからは撮影禁止。そこでパンフレットの画像を載せさせていただきます。
 
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展示スペース、それほど広いわけではありませんが、導線がしっかりしているうえに壁の使い方が特徴的で、面白いと思いました。当方、花巻の光太郎記念館改修などに関わっているので、そういうところに目が行ってしまいます。
 
胡堂本人の資料ももちろん、島崎藤村の書や手紙などが多く展示されていました。他に江戸川乱歩やサトウハチローなどからの書簡も。
 
残念ながら光太郎智恵子に直接関わる展示物はなかったのですが、胡堂の生涯を紹介するビデオでは、先述の結婚披露宴介添えの話で、智恵子に触れていました。
 
それから音楽評論家「あらえびす」としてのレコードコレクションもものすごいのですが、こちらはリスト作成中とのこと。もしかすると光太郎作詞の戦時歌謡などの類も含まれているかも知れません。今後に期待します。
 
さて、意外とじっくり観たので、時間がおしてしまいました。次なる目的地、盛岡てがみ館に午後2時には入らないといけませんし、その前に昼食も取りたいところです。また日詰駅まで大荷物を抱えて3.5㎞、さらに在来の各停で盛岡、そして盛岡駅からてがみ館までも約2㎞……というのも大変だと思い、奮発してタクシーを使うことにしました。
 
盛岡編はまた後日。
 
今日はまた都内に出かけて参ります。用件は二つ。まずは福岡を拠点に活動されている女優の玄海椿さんの舞台を三鷹まで見に行きます。玄海さんの舞台は一昨年、「智恵子抄」が演目だった時に福岡まで観に行きました。今回は東京公演で、「黒田官兵衛」だそうです。
 
それから表参道のギャラリー山陽堂さんにて、「女川だより――あの日からの「家族の肖像」展」とトークイベント
 
明日のこのブログは東北レポートを一旦休止してそちらをレポートします。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月14日

平成5年(1993)の今日、宮城県唐桑町(現・気仙沼市)御崎の海岸公園に、光太郎歌碑が除幕されました。
 
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女川同様、昭和6年(1931)の「三陸廻り」で光太郎が訪れた記念です。
 
刻まれているのは短歌。
 
黒潮は 親潮をうつ 親潮は さ霧をたてゝ 船にせまれり

新刊です。

覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻

 2014年1月30日 ブックワークス響発行   中島悠子編   定価 1,400円+税

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詩人・八木重吉の妻であり、のちに歌人・吉野秀雄と再婚した、「登美子」という一人の女性の人生を辿る本。高村光太郎に才能を見いだされながらも、数え年30という若さで世を去った八木重吉。會津八一の門人として生涯を歌に捧げた吉野秀雄。この二人の芸術家に愛された女はどのような人であっただろう、と興味を抱いた装幀家・編集者の中島悠子さんが、彼らの遺した作品や書簡を手がかりに研究を重ねてまとめられました。そこで明らかになったのは、あらゆる人生の不幸にもかかわらず、よく歌いよく働いた、たくましい女性の姿でした。余分な虚飾を排し、現存するテキストにのみ忠実でありながら、苦しい時代を生き抜いた登美子の実像をありありと浮かび上がらせる構成は、見事というほかありません。彼女への敬愛の念にあふれた美しい一冊、ぜひお手に取って清らかな生のあり方に触れてください。(恵文社一乗寺店さんサイトより)
 
吉野登美子。上記解説文にある通り、初め、詩人・八木重吉と結婚しました。しかし八木は昭和2年(1927)、数え29歳の若さで病没。のち、戦後になってから同様に妻を亡くした歌人・吉野秀雄と再婚します。
 
登美子の偉いところは、戦時中も亡夫・八木の遺稿をバスケットに詰めて持ち歩き、守り通したこと。さらに、ただ守っただけでなく、詩集として刊行したこと。頓挫した計画を含め、光太郎も尽力しています。
 
八木の没後間もない昭和3年(1928)には、雑誌『野菊』に「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」を発表して絶賛し、同11年(1936)には、雑誌『詩人時代』に「八木重吉の詩について」を発表しました。これは同17年(1942)に山雅房から刊行された『八木重吉詩集』の序文にも転用されていますし、この刊行自体、光太郎の口利きが大きかったようです。翌年には新たな八木の詩集のために改めて序文と題字を執筆しました。ただし、こちらは戦争の激化などのため、お蔵入りとなってしまいました。
 
戦争が終わり、吉野と再婚してからも、登美子は八木の詩集刊行に力を注ぎます。そして吉野もそれに協力。これはなかなかできることではないと思います。
 
さて、横浜にある神奈川近代文学館に、吉野夫妻の遺品数千点が寄贈されています。その中に光太郎からの書簡が16通、昭和18年(1943)刊行予定が幻に終わった八木の詩集のために光太郎が書いた題字が2種類(「麗日」「花がふつてくると思ふ」)含まれています。この題字については従来知られていなかったものでしたし、書簡の中にも『高村光太郎全集』に漏れていたものがあり、10年近く前に調査に行きました。
 
そんなわけで、『覚書 吉野登美子 詩人八木重吉の妻 歌人吉野秀雄の妻』刊行の情報を得て、すぐに購入いたしました。先程届いたばかりで、まだ斜め読みしただけですが、しっかり光太郎にも言及されており、熟読するのが楽しみです。
 
皆様もぜひお買い求め下さい。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月1日

昭和60年(1985)の今日、芸術新聞社発行の書道雑誌『墨』第53号が発行されました。
 
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「高村光太郎 書とその造型」という70ページ超の特集が組まれました。豪華な執筆陣で、内容的に非常に充実していますし、写真図版も非常に多く、お薦めの一冊です。時折古書市場で見かけます。

北海道からのイベント情報です

労文協リレー講座 第6回「高村光太郎における戦中と戦後―『智恵子抄』から『暗愚小伝』まで」

期 日 : 2014/3/19 
会 場 : 北海道自治労会館(札幌市北区北6西7) 
時 間 : 午後6時 
料 金 : 当日受講500円
主 催 : 北海道労働文化協会 
講 師 : 田村一郎氏(元鳴門教育大教授)

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先日ご紹介した福井県鯖江市での「夢みらい館・さばえフェスタ ~女と男 つなげよう ひろげよう 新たな明日へ~」もそうですが、光太郎と直接関わりの薄い土地でもこうした講座が開かれています。ありがたいかぎりです。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月24日

昭和16年(1941)の今日、光太郎が序文を書いた藤井照子詩集『石花采(てんぐさ)』が刊行されました。
 
「藤井照子」というと、後に十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)が作られた際のモデルが「藤井照子」ですが、同姓同名の全くの別人です。
 
こちらの藤井照子は昭和14年(1939)から同16年(1941)まで光太郎が選者を務めていた、雑誌『新女苑』の応募詩欄の常連投稿者でした。
 
ところが筑摩書房『高村光太郎全集』(増補版)別巻の人名索引では二人の藤井照子が混同されています。

【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月5日

大正14年(1925)の今日、『東京朝日新聞』に詩「氷上戯技」が掲載されました。
 
まもなくソチオリンピックが開幕します。日本選手の皆さんの活躍に期待したいものです。

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さて、先週土曜日の『長野日報』さんの一面コラム、「八面観」です。
 
 1998年の長野冬季五輪の会場にもなった長野市エムウェーブできょうから、全国中学校スケート大会のスピードスケート競技が始まる。ソチ五輪開幕が間近に迫り、冬季競技への関心は高い。五輪選手に負けない滑りを期待したい
 
▼全中スケート大会は2008年から長野市を会場に開いている。34回を数える今大会には県内42校から108人が出場する。世界のトップ選手が争った五輪施設を舞台に4日まで、将来の日本のスケート界を背負って立つ全国各地の中学生選手が熱戦を繰り広げる
 
▼先月の県大会では、女子の500メートルで平澤春佳さん、1000メートルで松本芽依さん(ともに伊那東部)が優勝した。昨季全中で短距離2冠に輝いた同じ宮田クラブの先輩山田梨央さん(伊那西高、諏訪西中出)に続く優勝を目指すという全国大会での滑りが楽しみだ
 
▼五輪期間の7~9日には茅野市運動公園国際スケートセンターでスピードスケートの全日本ジュニア選手権がある。国際舞台への登竜門となる大会。応援に来る子どもたちもレベルの高いレースを見て刺激を受けることだろう
 
▼〈たたけばきいんと音のするあのガラス張りの空気を破って、隼よりもほそく研いだこの身を投げて、飛ばう、すべらう、足をあげてきりきりと舞はう…〉。高村光太郎の詩「氷上戯技」の一節だ。オリンピックイヤーの今季は、冬季競技の観戦に一段と熱が入りそうだ。

引用されている「氷上戯技」、全文は以下の通りです。
 
   氷上戯技
 
 さあ行かう、あの七里四方の氷の上へ。
          ヽ ヽ ヽ
 たたけばきいんと音のする
 あのガラス張の空気を破つて、
 隼よりもほそく研いだ此の身を投げて、
 飛ばう、
 すべらう、
 足をあげてきりきりと舞はう。
 此の世でおれに許された、たつた一つの快速力に、
  かのこ
 鹿子まだらの朝日をつかまう、
 東方の碧洛を平手でうたう。
 真一文字に風に乗つて、
 もつと、もつと、もつと、もつと、
 突きめくつて
 見えなくならう。
 見えないところでゆつくりと
 氷上に大きな字を書かう。
 
89年前の今日、『東京朝日新聞』に掲載された時点では、最終行の句点が読点で、さらにもう一行ありました。
                               ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ  ヽ 
 誰にもよめる、誰にもよめないへへののもへじを。
 
その後、削除されています。
 
いったいに光太郎は一度発表した詩でも、自分の詩集に再録する際などにかなり手を加えることがあり、それだけ詩語にこだわりを持っていたことがよくわかります。
 
また、光太郎の詩は、多少の誇張や脚色はあるのでしょうが、基本的に実体験に基づいたものがほとんどです。
 
戦時中も、他の詩人はまるで見てきたように戦闘や軍隊生活を題材にした「軍歌」を書きましたが、光太郎にはそういった作品はほとんどなく、銃後の国民の立場で詩を書いていました。
 
となると、この「氷上戯技」も実体験なのでしょうか。おそらくその通りだと思います。「氷上戯技」の翌年、大正15年(1926)に雑誌『詩神』に掲載された談話筆記、『〔生活を語る〕』(原題「高村光太郎氏の生活」)には、以下の記述があります。
 
△運動は見るのが好きだが自分ではしない。やるのは氷滑りぐらゐ。
 
また、『高村光太郎全集』別巻所収の年譜では、明治41年(1908)の項に次の記述があります。
 
この頃光太郎はフランス語の勉強を急ぎ、マンドリンやピアノを習い、時にスケートに興じ、ビールの味を覚えたりする。
 
「この頃」は、留学でのロンドン滞在中を指します。残念ながら光太郎自身の書いたものに、ロンドンでスケートに興じていたという記述が見あたらないようなのですが、年譜を書かれた北川太一先生、おそらく光太郎から直接そういう話をお聞きになっていたのではないかと推定されます。
 
「フリー百科事典ウィキペディア」によれば、日本でスケートが広く行われるようになったのは、大正になってから。明治末には仙台あたりで、旧制第二高等学校(現・東北大学)の生徒がドイツ人教師にフィギュアスケートを教わったという話ですが、広まったのはもう少し後のようです。
 
そう考えると、光太郎が明治末にスケートに興じていたというのは、日本人の中ではかなり早いほうだと考えられます。
 
さらに言うなら、「氷上戯技」中の「足をあげてきりきりと舞はう。」「見えないところでゆつくりと/氷上に大きな字を書かう。」あたりは、スピードスケートよりフィギュアスケート系のように思われます。明治末にはフィギュアスケートは「描形氷滑」と訳されていたそうです。
 
さすがにトリプルアクセルとか四回転サルコーなどは出来なかったのでしょうが(笑)、光太郎の新進性には舌を巻きます。今ひとつ、イメージが結びつきにくいのですが……。
 
ちなみに「氷上戯技」、4年前のバンクーバー五輪の際には、『朝日新聞』さんの「天声人語」で引用されていました。
 
 どこの湖の冬だろう、彫刻家で詩人の高村光太郎に「氷上戯技」という短い詩がある。〈さあ行こう、あの七里四方の氷の上へ/たたけばきいんと音のする/あのガラス張りの空気を破って/隼よりもほそく研いだこの身を投げて/飛ぼう/すべろう〉

 昔の少年たちの歓声が聞こえるようだ。時代は違うが、この2人も冬には、氷雪と戯れる子ども時代を過ごしたのかと想像した。スピードスケート500メートルで銀メダルを手にした長島圭一郎選手と、銅の加藤条治選手である。
(以下略)
 
もうすぐソチ五輪。フィギュアもスピードも、日本選手の健闘を期待します!

福島県いわき市の山中にある、いわき市立草野心平記念文学館さんで以下の企画展が行われています。
 
気がつくのが遅れ、紹介するのが遅くなってしまいました。申し訳ありません。

冬の企画展 「草野心平コレクション展」

2014年1月18日(土)〜3月23日(日)  9時~17時 休館日/月曜日

 詩人・草野心平(くさのしんぺい 1903〜1988)は、詩、随筆をはじめ、書、画など多彩な創作活動を展開しました。それに伴い、高村光太郎(詩人、彫刻家 1883〜1956)をはじめ、朝井閑右衛門(画家 1901〜1983)、川端康成(小説家 1899〜1972)、高村豊周(鋳金家 1890〜1972)、辻まこと(画家、随筆家 1914〜1975)、棟方志功(版画家 1903〜1975)など様々な分野の芸術家と交友を結んでいます。
 本展では、それぞれの交流がきっかけで生前の心平が収蔵した絵画、書などの芸術品を中心に、いわば詩人の個人的コレクションを紹介し、そのかかわりと魅力にふれます。

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上記チラシの中央に写っている彫刻は、光太郎作の「大倉喜八郎の首」。大倉財閥を興した大倉喜八郎で、光雲が木彫で肖像を作るための原型として作りました。ただ、チラシのキャプションでは「老人の首」となっています。
 
他にも心平の手許には光太郎の書なども多数あったはずで、それらの中から展示品が選択されているのでしょう。それから館の公式サイトによれば、豊周の名も。鋳金作品でしょう。
 
さらに同館では、昨日からスポット展示「草野天平」も行っています。
 
天平は心平の弟にして、やはり詩人。明治43年(1910)の生まれですが、昭和27年(1952)に数え43歳の若さで歿しています。歿後に弥生書房から刊行された『定本草野天平詩集』により、昭和34年(1959)の第2回高村光太郎賞を受賞しています。
 
こちらは3月30日(日)まで。
 
時間を見つけて行ってこようと思っています。皆様もぜひどうぞ。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】2月2日

大正7年(1918)の今日、雑誌『美術』に「ロダンの死を聞いて」が掲載されました。
 
ロダンはこの前年11月に歿しています。
 
光太郎曰く、
 
私は今迄に経験した事のない淋しい鋭い苦痛の感情をしみじみと感じた。動乱と清粛と入りまざつた心の幾日かを空しく過した。さうしてロダンが立派にやり遂げるだけの事をやり遂げて、其の私的存在をかき消してしまつた事を思ふと、不思議な伝説的の偉大を感じる。ロダンの生きてゐた時代に自分も生きてゐたといふ事がまるで歴史のやうに意味深く、又貴く感ぜられる。

昨日の『日本経済新聞』さんの一面コラムです。 

「春秋」 

 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた――。世に知られた高村光太郎の「レモン哀歌」である。死の床の智恵子がその柑橘(かんきつ)をがりりと噛(か)むと「トパアズいろの香気」がわき立ち、しばし意識がよみがえる。レモンの刺激によって智恵子は「もとの智恵子」に戻るのだ。
 
▼理化学研究所などのチームが、常識破りの手法で新たな万能細胞作製に成功した。マウスの細胞を弱酸性の溶液に浸すだけで、さまざまな臓器や組織の細胞に育つべく「初期化」されるという。やはり酸っぱい刺激は生命を突き動かす……とは小欄の勝手な連想だが、目からウロコのこの大発見は全世界を興奮させている。
 
▼開発をリードしたのは理研の小保方晴子さんだ。哺乳類では木の枝やトカゲの尻尾みたいに簡単な刺激で細胞が再生することはない、という生物学の常識に挑んで実験を続けた。笑われもしたが、いろいろ試すうちに弱酸性の液がその力をもつことを突きとめたという。30歳の女性研究者の、しなやかな発想の勝利である。
 
▼白衣にかえて祖母にもらった割烹(かっぽう)着をまとった姿は自然体で気負いなく、新世代の活躍に心洗われる思いだ。もっともこの万能細胞がヒトでも作製可能か、再生医療に役立つようになるか、今後の研究は多難だろう。「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」。光太郎の「道程」を胸の底に、惜しみないエールを送る。
 
先日、あらゆる細胞に変化する可能性を持つ「STAP細胞」という万能細胞を作り出すことに成功した研究チームのリーダー、小保方晴子さんに関しての内容ですね。

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過日ご紹介した『朝日新聞』さんの「野茂の前に道はなかった」という記事でも、野球殿堂入りを果たした野茂英雄さんの業績にからめ、光太郎の「道程」が使われていました。
 
小保方さんにしても、野茂さんににしても、こうした様々な分野でのパイオニア的な皆さんへのエールとして、「道程」をどんどん使っていただきたいものです。
 
このところ、「道程」がらみのネタの日には必ず書いていて、しつこいようですが、今年は詩「道程」執筆100周年、詩集『道程』刊行100周年です。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 2月1日

昭和2年(1927)の今日、雑誌『婦人之友』に智恵子の散文「画室の冬――ある日の日記――」が掲載されました。
 
書簡を除き、公表された智恵子の文筆作品の中で、最後のものです。
 
一部、引用します。
 
 朝の香はペパミンの花さく野の味がする。清らかな白い息をつく大空、新らしいマント、家々、水晶の装身濡れ雫する樹木、誰れかを待つ敷物を取かへた道路、オランジユの太陽がいま、熱い凝視をつづけながら、煙る梢を離れるところ。
 何もかも生々として、何もかもすつきりとのびあがつて、きりきりと裸形を寒風にさらす、辛烈な健康、冬。

足立区西新井を拠点に活動されているシンガーソングライター・北村隼兎(はやと)さんから、自作のCDをいただきました。題して「詩と旋律の日本文学」。リリースされたのはごく最近、というわけではなさそうです。
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曲目は以下の通り。
 
1.「月夜の浜辺」中原中也
2.「サーカス」中原中也
3.「山麓の二人」高村光太郎
4.「黒手帳」宮沢賢治
5.心よ(インスト)
6.「八木重吉詩集」八木重吉


というわけで、光太郎の「山麓の二人」が入っています。
 
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北村さんとは昨年の10月、福島二本松で開かれた智恵子忌日の集い「レモン忌」で初めてお会いしました。その際には「レモン哀歌」と「あどけない話」をギター弾き語りで披露なさいました。
 
今回の「山麓の二人」、また、他の詩人の詩に曲をつけた作品も含め、軽妙かつ力強く、非常にいい感じです。
 
附属のブックレットに書かれた北村さんの言葉から抜粋させていただきます。
 
新しい世界は新しい媒体の中で成り立ち、006
古いモノは選別されてゆく。
 
誰がどんな想いで
過去を未来へ繋げてゆくのか?
 
私は私の出来うる形でそれを繋げてゆこうと
想っています。
 
そして百年後、
先人達の詩とメロディとが1セットで
まだこの地球上に残っていたとしたら、
 
このうえないほどしあわせなことだろうなぁ
 
百年前の言葉に旋律をつけるという行為は
自分の存在しない百年後を想う機会となりました。
 
当方もよく、100年後にも光太郎智恵子の名がメジャーであり続けてほしいと思います。そのためには後世の人間が次の世代へと引き継ぐ努力をしなければなりません。そしてそれは一人や二人の力でできることでもありません。どうぞお力添えを。
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 1月17日

昭和14年(1939)の今日、『読売報知新聞』および『朝日新聞』に、「文部科学省選定日本国民歌」のうちの、光太郎作詞・箕作秋吉作曲の「こどもの報告」が完成したという記事が載りました。
 
確認できている限り、光太郎が歌曲の歌詞として作った2作目です。1作目は昭和12年(1937)の「わが大空」。作曲は坂本龍一氏などの師にあたる松本民之助です。
 
「文部省選定日本国民歌」は、他の詩人(歌人)・作曲家による5曲とともに6曲でワンセットとなり、演奏会やラジオ放送で扱われ、さらにはレコード化もされました。しかし6曲ともあまり評判がよくなく、いつの間にか忘れ去られてしまいました。
 
そのあたりの経緯は当方が編集・刊行しています『光太郎資料』という冊子にて詳述しております。次号は4月2日、連翹忌に刊行予定で、現在、鋭意作成中です。ご連絡いただければ送料のみにておわけします。

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