カテゴリ: 文学

新刊です。 
2015/4/30  わたなべじゅんこ著 邑書林発行 定価2,000円+税  わたなべじゅんこ著

版元サイトより
 「出会うために歩くのか 歩くから出会うのか」  竹久夢二から寺山修司まで、みんなみんな俳人だった!
主に、俳句以外で名を成した方々の俳人としての姿を追いかける事で、 俳句って何なんだろう? という根本の問に迫ります。

 登場の人々は 竹久夢二  中村吉右衛門  永田青嵐  富田木歩  寺田寅彦  久米正雄
 内田百閒 野田別天楼  室生犀星  高村光太郎  津田青楓  矢野勘治  三木露風  
 瀧井孝作  寺山修司

 特に青嵐、木歩、寅彦あたりでは、関東大震災と俳句について語られていて、胸に迫るものがあります。 多くの方の手に届けたい一冊、宜しくお願いします。 装は、石原ユキオさんの描き下ろしです。

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著者のわたなべさんは俳人。関西の大学で非常勤講師をされるかたわら、『神戸新聞』さんの読者文芸欄で俳句の選者を務められているそうです。

余談になりますが、『神戸新聞』さんは一面コラム「正平調」でよく光太郎に言及して下さっています。

閑話休題。

本書で取り上げられている人々は、版元サイトにあるとおり、専門の俳人ではありません。しかし、それぞれに独自の境地を開いた人々。まずはそういった面々の俳句を論じて一冊にまとめていることに敬意を表します。

この手の伝統文化系は、それ専門の人物でないとなかなか取り上げない傾向を感じています。いい例が光太郎の短歌や俳句で、それなりに数も遺され、いい作品も多いと思うのですが、短歌雑誌、俳句雑誌での光太郎特集というのは見たことがありません。せいぜい短い論評がなされる程度です。以前にも書きましたが、いったいに短歌雑誌、俳句雑誌の類は派閥の匂いがぷんぷん漂っており、いけません。

そうした意味で、俳句専門の方が専業俳人以外の人々をまとめて論じていらっしゃる姿勢に好感を覚えました。

さて、光太郎の章。主に『高村光太郎全集』第19巻(補遺1)に掲載されている句を中心に、23ページにわたって展開されています。寺田寅彦とならび、もっとも多いページ数を費やして下さっていて、ありがたいかぎりです。他の人物で、9ページしかない章もあります。長さが第一ではありませんが。

長さだけでなく、その内容も秀逸。やはり専門の俳人の方が読むと違った視点になるのだな、と思いました。具体的には、光太郎の句の時期による変遷。

そもそも光太郎の文筆作品の中で、手製の回覧雑誌や、東京美術学校の校友会誌を除き、初めて公のメディアに掲載されたのが、俳句です。明治33年(1900)の『読売新聞』、角田竹冷選「俳句はがき便」に、以下の二句が載りました。

武者一騎大童なり野路の梅
自転車を下りて尿すや朧月

同じ年には『ホトトギス』にも句が掲載されています。ただ、その後、光太郎は与謝野夫妻の新詩社に身を投じ、俳句より短歌に傾倒するようになります。しかし、公にされない句作も続けていました。

わたなべさん、この時期の句は生硬なものとして、あまり評価していません。わたなべさんが転機とするのは、明治39年(1906)からの欧米留学。その終盤の同42年(1909)、旅行先のイタリアから画家の津田青楓にあてて書かれた書簡に、多数の俳句がしたためられています。

例えば、

寺に入れば石の寒さや春の雨
春雨やダンテが曾て住みし家
ドナテロの騎馬像青し春の風

こうした一連の句を、わたなべさんは高く評価しています。

曰く、

……どうしたことか。日本での初期作品よりずっとずっと俳句らしいではないか。頭の中でこねくり回していたのがウソのように、すっきりとした句風である。

それにしても、この句風の変化はいったいどうなのだろう。外国にいるから、一人旅であるから、だから自分の思いに素直になるのか。奇を衒うのをやめるのか。いや、初めて見るものが多くて、あっさりとした作風で仕上がってしまうのか。日本で作られたものと比べてこのイタリアでの句群はわかりやすい。情景も描ける。これは何だと考える必要を感じない。もともと美術家である光太郎の眼は見る力には恵まれていただろう。だから見たものを言語化するときに、どういうバイアスを掛けるのか、そこが言語作家としての腕ということになる。日本的なものに囲まれていたとき(つまり日本にいた頃)には悶々としていた言葉が、こうもオープンに、明るく、そして優しく(易しく)出てきたのは、日本文化という重しがとれたせいなのか。

慧眼ですね。やはり俳句専門の方が読むと、的確に表して下さいます。

ただ、一つ残念なのが、どうも勘違いをされたようで、『高村光太郎全集』第11巻を参照されていないこと。わたなべさんが参照された第19巻は補遺巻です。それでも現在確認できている光太郎の俳句の約半数は掲載されていますが、残り半数は第11巻におさめられています。

そこで、老婆心ながら、出版社気付で第11巻の当該部分、さらに第19巻刊行(平成8年=1996)以降に見つかった句が載ったものなどをコピーして送付しました。改めて光太郎の句について論じてくださる場合があるとしたら、参照していただきたいものです。

ともあれ、良い本です。ぜひお買い求めを。


竹久夢二へのオマージュとなっている装幀もなかなか素晴らしいと思います。手がけられた石橋ユキオ商店さんのブログがこちら


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月17日

昭和12年(1937)の今日、九十九里浜に暮らす智恵子の母・センに宛てて現金書留を送りました。

同封書簡の一節です。

昨今はうつとうしいお天気ですがお変りありませんか、小生はまだ何となく疲れがあつてとうとう今月は病院へ行かずにお会計を為替で送りました。チヱ子も時候のため興奮状態の様子で心配してゐます

翌年に歿する統合失調症の智恵子は南品川のゼームス坂病院に入院中。この年はじめには姪の春子が付き添い看護にあたるようになり、だいぶ落ち着いたそうです。ところが夏になると狂躁状態になるのが常で、この年のこの時期は前年から始めていた紙絵制作も途絶えていたそうです。

光太郎やセンが見舞いに行くと、さらに興奮状態が昂進、光太郎の足が遠のきました。世のジェンダー論者はこうした点から光太郎鬼畜説を唱えていますが、余人にはうかがい知れぬ深い苦悩があったのは間違いないと思います……。

新刊情報です。  
2015年3月20日 公益財団法人日本近代文学館発行 江種満子編 定価1,020円

エッセイ
   三浦雅士 世界遺産と文学館
  松浦寿輝   音楽を聴く作家たち
  荻野アンナ ケチの話
  藤沢周     基次郎という兄貴
  間宮幹彦   吉本さんが「あなた」と言うとき
  西川祐子   日本近代文学館で出会う偶然と必然
     
論考
 小林幸夫  <軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎
 有元伸子  岡田(永代)美知代研究の現況と可能性 ―〈家事労働〉表象を例に―
 山口徹     作家太宰治の揺籃期  ―中学・高校時代のノートに見る映画との関わり
 吉川豊子  文学館所蔵 佐佐木信綱宛大塚楠緒子書簡(補遺)―洋楽鑑賞と新体詩集『青葉集』をめぐって―
 江種満子 高群逸枝・村上信彦の戦後16年間の往復書簡をめぐって

資料紹介  
 加藤桂子・田村瑞穂・土井雅也・宮西郁実     村上信彦・高群逸枝往復書簡


上智大学教授の小林幸夫氏の論考「<軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎 」が17ページにわたって掲載されています。

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先月、発行元の日本近代文学館さんのサイトに情報が出、入手しなければ、と思っているうちに、小林氏からコピーが届きました。有り難いやら申し訳ないやらです。

氏の論考は、一昨年、同館で開催された講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」中の「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」を元にしたもので、鷗外と光太郎、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子をたどるものです。詳細は上記リンクをご参照下さい。

終末部分を引用させていただきます。

 川路柳虹との対談のなかで(光太郎は)次のように言っている。

 どうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありましたなあ。けれども先生の「即興詩人」など暗記したくらゐですし、先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました。何としても忘れることの出来ない大先輩ですよ。

 談話や書き物によっては同一の事柄に対しても、鷗外をいいと言ったり悪いと言ったり偏差はあるが、総体としての鷗外に対する光太郎の思いは、この言説が代表しているものに思われる。鷗外と光太郎との関係は、「「先生」といふ変な結ばり」を意識してしまふ光太郎に、まさにその「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避に胚胎した、というべきである。


「即興詩人」は、童話で有名なアンデルセンの小説で、鷗外の邦訳が明治35年(1902)に刊行されています。この中で、イタリアカプリ島の観光名所「青の洞窟」を「琅玕洞」と訳していますが、光太郎は欧米留学から帰朝後の明治43年(1910)、神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」の店名を、ここから採りました。こうした点からも「先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました」という光太郎の言が裏付けられます。

しかし、軍医総監、東京美術学校講師といった鷗外のオーソリティーへの反発も確かにあり、「「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避」というお説はその通りだと思います。

お申し込みは日本近代文学館さんへ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月20日

昭和17年(1942)の今日、詩集『大いなる日に』を刊行しました。

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オリジナルの詩集としては、前年刊行の『智恵子抄』に続く第3詩集ですが、内容は一転、ほぼ全篇が戦争協力詩です。収録詩篇は以下の通り。

秋風辞 夢に神農となる 老耼、道を行く 天日の下に黄をさらさう 若葉 地理の書 その時朝は来る 群長訓練 正直一途なお正月 初夏到来 事変二周年 君等に与ふ 銅像ミキイヰツツに寄す 紀元二千六百年にあたりて へんな貧 源始にあり ほくち文化 最低にして最高の道 無血開城 式典の日に 太子筆を執りたまふ われら持てり 強力の磊塊たれ 事変はもう四年を越す 百合がにほふ 新穀感謝の歌 必死の時 危急の日に 十二月八日 鮮明な冬 彼等を撃つ 新しき日に 沈思せよ蒋先生 ことほぎの詞 シンガポール陥落 夜を寝ざりし暁に書く 昭南島に題す

今月2日、第59回連翹忌の日に刊行された雑誌です。 

高村光太郎研究(36)

2015/04/02 高村光太郎研究会 税込1,000円

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当方も所属する「高村光太郎研究会」の機関誌的に年刊発行されています。

目次は以下の通り。

高村光太郎・最後の年 1月(2)   北川 太一
高村光太郎と雑誌『創作』 ―自選短歌作品を中心に 山田吉郎
詩人野澤一という人 ―そして高村光太郎との関係性― 坂本富江
光太郎遺珠⑩ 平成二十七年   小山 弘明
高村光太郎没後年譜 平成二十六年(二〇一四年)一月~十二月/未来事項  小山 弘明
高村光太郎文献目録         野末  明
研究会記録・寄贈資料紹介     野末  明

北川太一先生の「高村光太郎・最後の年 1月(2)」は、光太郎日記以外に、これまで公表されていない、主として金銭出納を記録した「おぼえ帖」、書簡等の授受を記した「通信事項」も使いながら、昭和31年(1956)の光太郎を追う連載です。ご自身の光太郎訪問記も記され、貴重な記録です。

山田氏の論考は、昨秋の第59回高村光太郎研究会でのご発表を元にしたものです。

坂本富江さんは、光太郎と交流のあった詩人・野澤一、そして野澤、坂本さんの故郷・山梨県と光太郎の関連について述べられています。坂本さんは太平洋美術会会員でもあり、自筆のスケッチも掲載されています。

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拙稿「光太郎遺珠⑩」、「高村光太郎歿後年譜」についてはこちら

頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでこちらまでご連絡ください。

ところで「連翹忌の日に刊行」といえば、連翹忌での配付資料等。当方刊行の冊子『光太郎資料』、各種チラシ・パンフレット類など、以前はクロネコヤマトの「メール便」で、ご欠席の方などにすぐ発送していました。ところが「メール便」が3月いっぱいで終了、新たに「DM便」に移行しました。その結果、利用者登録が必要となり、申請中です。いましばらくお待ち下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月9日

昭和21年(1946)の今日、詩人の寺田弘に葉書を書きました。

拝啓 御無沙汰しましたが、「虎座」や詩壇消息の雑誌など拝受して、貴下の撓まぬ御努力をありがたい事と存じました。
四月十三日がまた廻りくるにつれ、昨年のあの時の貴下の御厚情と一方ならぬ御助力とを思ひ出し、真に忝い事だと思つてゐます。其後お訪ね下さつた宮澤家も全焼し、今年は此の山の中の一軒家で記念の日を迎へます。幸に小生健康、貴下の御健勝、お仕事の進展を念じ上げます。

四月十三日」云々は、前年に駒込林町のアトリエが空襲で全焼し、すぐ近くに住んでいた寺田が駆けつけてくれたことを指します。

この折の寺田の回想が、平成24年(2012)に刊002行された『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載されています。元々は平成21年(2009)に同題のラジオ番組でオンエアされたものです。

 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って、これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやってたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうにそこに立ち止まったのが、印象的でしたね。

芥川龍之介の「地獄変」を思わせるエピソードですね。

昨日は、光太郎詩のモデルになった方に、お話を伺うため、東京練馬に行っておりました。

盛岡出身の彫刻家・深沢竜一氏。大正14年生まれのおん年90歳になられます。ご両親はともに画家の深沢省三・紅子夫妻。やはりともに光太郎と深く関わった方々です。

光太郎顕彰のお仲間である女優の渡辺えりさんにご連絡があり、渡辺さんがぜひお話を聴きたいということになって、当方にもお声がけ下さいました。そういうわけで昨日は渡辺えりさんご夫妻、それから渡辺さんの演劇塾の生徒さん10名ほどと、大人数でお邪魔しました。

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手前が深沢氏です。

お伺いした光太郎に関わる氏の体験を、時系列に沿ってご紹介します。

まずは昭和18年(1943)10月、いわゆる学徒出陣が始まりました。氏は当時、東京美術学校彫刻科に在籍されており、同じ彫刻科の先輩3人と、出陣前に駒込林町の光太郎アトリエを訪ねて話を聴こう、ということになったそうです。4人は彫刻家・舟越保武のアトリエに出入りしていた仲間だったとのこと。

そして訪問が実現、光太郎は10月18日に次の詩を書き、同月26日の『毎日新聞』に掲載されました。


   四人の学生007 (2)

けふ訪ねてきたのは四人の学生。
見しらぬ彫刻科の若い生徒。
非常措置の実施によつて学窓から
いち早く入営するといふ美の雛鳥。
彼等はいふ、
「さとりがひらけたやうに
はつきり心がきまりました。」
私はいふ、
「どんなときにも精神の均衡を失はず、007
打てば響いて
当面する二つなき道に身を挺するこそ
美を創る者の本領、
美と義とを心に鍛へる者の姿だ。」
四人の学生のうしろに
いま剣をとつて起つ無数の学徒がゐる。
君、召させたまふ時、
顧みなくて赴くは臣(おみ)の誇りである。
まことに千載にして一遇の世に生き
若き力として名乗り得る者は幸である。
四人の学生は多くを語らないが
眉宇すでに美しい。
「先生もどうかお元気で、」と
この見しらぬ美の雛鳥らは帰つていつた。
学徒出陣は日本深奥の決意を示す。
聖業成りたまふの気
氤氳として天に漲るを覚える。

さらに昭和19年(1944)に刊行された詩集『記録』に収められた際、つぎの前書きが付されました。

昭和十八年十月十八日作。此月一般学生徴兵猶予の停止及び理工科系学生の入営延期、理工科系統学校の整備拡充、法文科系統大学専門学校の統合整理等の「教育に関する戦時非常措置方策」が決定せられ、情報局から発表せられた。此発表は一時全国の学徒に異常な衝撃を与へたが、忽ち青年は一切の宿心を超えて凛然たる決意を示した。

光太郎は、六日後には「全学徒起つ」という詩も作りました。

この後、深沢氏は海軍に配属され、三重、横須賀、旅順と、点々と配属が変わり、終戦時には体当たり自爆兵器「海龍」の基地にいらしたそうですが、幸い、特攻での出撃には至らなかったということです。

終戦後、モンゴルから引き揚げてきたご両親と合流、郷里岩手に帰られ、雫石で開墾、牧畜を始めたそうです。昭和39年(1964)までこちらにお住まいだったとのこと。そして花巻郊外太田村での山小屋生活をしていた光太郎と再会されたのが昭和22年(1947)。その後、10回ほど光太郎の山小屋を訪れ、自作の彫刻などを見せ、教えを請うたそうです。光太郎には彫刻と絵画の違いなどを教え込まれたとのこと。絵画は平面をいかに立体的に見せるかに腐心するもの、彫刻は逆に丸いものを丸く作っては駄目で、実物にある奥行きを押しつぶす必要があるといった話でした。

ご両親は盛岡に開校した岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)の教授となり、たびたび光太郎を招いて講演をしてもらっていました。昭和25年(1950)1月、やはり美術工芸学校に来校した流れで、光太郎を雫石の自宅に招き、もてなしたそうです。光太郎、牛乳をたくさん飲めたのをことのほか喜びました。

此間中は盛岡で随分しやべらされました。その代わり御馳走にもなり、お酒もいただき、西山村の深沢さんの小屋では二日間に好きな牛乳を一升ものみました。
(佐藤隆房宛書簡より)

この辺りの経緯は、『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962)、『啄木 賢治 光太郎 -201人の証言-』(同51年=1976)といった書籍に断片的に掲載されていますが、実際にお話を聴くのとではやはりニュアンスも違います。

その時に光太郎が書いた書が、深沢家に残っています。

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宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節です。画像等を含め、初めて実物を見ました。

賢治といえば、深沢氏、幼い頃に生前の宮澤賢治にもお会いになったそうです。賢治の年譜と照合してみると、どうやら昭和6年(1931)、賢治の歿する2年前です。当時吉祥寺にお住まいだった父君を訪ねてきたそうです。父君は童話雑誌『赤い鳥』に関係されており、さらにお隣には、童話集『注文の多い料理店』の装丁と挿絵を手がけた菊池武雄が住んでいたそうで、その関係だろうとのことでした。

当方、なんだかんだで生前の光太郎を知る方は30名ほど存じていますが、生前の賢治を知る方にお会いしたのは初めてです。

貴重な機会を設けて下さった深沢様、渡辺えりさんには深く感謝申し上げます。

渡辺さん、来週の第59回連翹忌にご参加くださり、深沢様についてのお話をご披露下さるとのことです。


【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月27日

昭和39年(1964)の今日、光太郎の実弟・豊周が、鋳金の分野で重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定されました。

昨日の『日本経済新聞』さんの文化面掲載の記事に、光太郎の名がちらっと出ました。

北海道文教大学教授にして、昨年まで北海道文学館理事長を務められた神谷忠孝氏によるもので、「北海道文学ここにあり」と題するものです。サブタイトルが「小林多喜二や石川啄木ら、ゆかりある作家・作品を紹介」となっています。

北海道出身の作家の作品、もしくは北海道に題を採った文学作品を「北海道文学」と定義し、北海道文学館での企画展、昨年増補版が刊行された『北海道文学大事典』の編集などを通し、その豊かさが語られています。

また、北海道は文芸同人誌の刊行が盛んであることにも言及されています。「雪深く極寒の北国は人を屋内にとじ込める。ドストエフスキーやトルストイを生んだロシアと同じく、北海道の気候は物語を紡ぐ想像力を養うのかもしれない。」とのこと。なるほど、太宰治や寺山修司を生んだ青森、石川啄木や宮澤賢治を生んだ岩手も同じかもしれません。

さて、神谷氏の挙げる「北海道文学」に関わる人名は、以下の通り。

国木田独歩、有島武郎、小林多喜二、寺山修司、知里幸恵、池沢夏樹、吉増剛造、円城塔、渡辺一史、山田航、石川啄木、寒川光太郎、そして高村光太郎。

北海道に理想郷を見てやってきた作家は多い。(略)詩人の高村光太郎、函館などで新聞記者として暮らした石川啄木も有名だ。

光太郎が北海道に渡ったのは、欧米留学から帰って2年経った、明治44年(1911)。経営していた日本初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)を畳み、札幌郊外の月寒で酪農のかたわら、芸術作品の創作を夢見てのことでした。しかし具体的な考えはなく、行き当たりばったりの計画だったため、たちまち頓挫し、引き返していますが。くわしくはこちら

その体験を元に作ったのが、詩「声」です。

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止せ、止せ
みじんこ生活の都会が何だ
ピアノの鍵盤に腰かけた様な騒音と
固まりついたパレツト面の様な混濁と
その中で泥水を飲みながら
朝と晩に追はれて
高ぶつた神経に顫へながらも
レツテルを貼つた武具に身を固めて
道を行くその態(ざま)は何だ
平原に来い
牛が居る
馬が居る
貴様一人や二人の生活には有り余る命の糧(かて)が地面から湧いて出る
透きとほつた空気の味を食べてみろ
そして静かに人間の生活といふものを考へろ001
すべてを棄てて兎に角石狩の平原に来い

そんな隠退主義に耳をかすな
牛が居て、馬が居たら、どうするのだ
用心しろ
絵に画いた牛や馬は綺麗だが
生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ
命の糧は地面からばかり出るのぢやない
都会の路傍に堆(うづたか)く積んであるのを見ろ
そして人間の生活といふものを考へる前に
まづぢと翫味(ぐわんみ)しようと試みろ

自然に向へ
人間を思ふよりも生きたものを先に思へ
自己の大国に主たれ
悪に背(そむ)け

汝を生んだのは都会だ
都会が離れられると思ふか
人間は人間の為したことを尊重しろ
自然よりも人工に意味ある事を知れ
悪に面せよ

PARADIS ARTIFICIEL!

馬鹿
自ら害(そこな)ふものよ

馬鹿
自ら卑しむるものよ


画像は昔の絵葉書、農商務省月寒種羊場。光太郎が訪れた明治末よりは新しいものですが。


その後も光太郎は、北海道在住の詩人、更級源蔵と親しくなり、たびたび北海道移住の夢を語ります。戦後の花巻郊外太田村での独居生活も、この夢に通じるところがあるのでしょう。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月25日

大正14年(1925)の今日、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記ではヴエルハアランまたはヹルハアラン)の詩集 『天上の炎』を翻訳、新しき村出版部から刊行しました。

画像は扉です。当方、カバーなししか持っていないもので。

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少し前にご紹介しました書籍が刊行され、届きましたのでレポートします。 

少女は本を読んで大人になる

2015/3/12 クラブヒルサイド+スティルウォーター編 現代企画室発行 定価1500円+税

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序文から
 人は本を読んで未知の世界を知る。
 新しい経験への扉を開く、かつて読んだ本、
 読みそこなってしまった本、いつかは読みたい本。
 少女が大人になる過程で読んでほしい十冊の古典的名作を、
 さまざまに人生を切りひらいてきた
 十人の女性たちと共に読んだ読書会の記録。

目次
 アンネ・フランク著 『アンネの日記』を読む 小林エリカ(マンガ家・作家)
 L・M・モンゴメリ著 『赤毛のアン』を読む 森本千絵(コミュニケーションディレクター)
 フランソワーズ・サガン著 『悲しみよ こんにちは』を読む 阿川佐和子(作家、エッセイスト)
 エミリー・ブロンテ著 『嵐が丘』を読む 鴻巣友季子(翻訳家)
 尾崎翠著 『第七官界彷徨』を読む 角田光代(小説家)
 林芙美子著 『放浪記』を読む 湯山玲子(著述家・ディレクター)
 高村光太郎著 『智恵子抄』を読む 末盛千枝子(編集者)
 エーヴ・キュリー著 『キュリー夫人伝』を読む 中村桂子(生命誌研究者)
 石牟礼道子著 『苦海浄土』を読む 竹下景子(俳優)
 伊丹十三著 『女たちよ』を読む 平松洋子(エッセイスト)
 読書会とサンドウィッチ


東京・代官山クラブヒルサイドにて、一昨年の5月からおよそ1年、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたものです。

編集者で絵本作家の末盛千枝子さんによる「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」は、2013年12月に開催され、当方も拝聴しました。

彫刻家の舟越保武の長女として生まれ、光太郎に「千枝子」という名を付けて貰い、それに対する複雑な思い、それをようやく素直に受け入れられるようになったこと、光太郎智恵子の愛の形などなどで、26ページです。光太郎詩「レモン哀歌」からインスピレーションを得て作られたレモンの皮入りサンドウィッチのレシピ付きです。

amazonなどで購入可能です。ぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月24日000

昭和22年(1947)の今日、総合花巻病院長佐藤隆房に宛てた葉書に、俳句をしたためました。

坐りだこ囲炉裏に痛し稗の飯

硬い床であぐらをかき続けると、くるぶしなどに出来るのが「すわりだこ」です。

詩や短歌に比べると、あまり数は多くありませんが、光太郎は折にふれ、俳句も詠みました。確認できているものは、生涯でおよそ150句ほどです。

先々週の『東京新聞』さんに、以下の記事、というか連載コラムが掲載されました。時折このブログにご登場願っている坂本富江様から、切り抜きを戴きました。『東京新聞』さんも、毎日、サイトで新着記事をチェックしているのですが、このコラムはweb上にアップされていないようで、存じませんでした。 

手紙 書き方味わい方  卒業祝い 背中をポンと押す 中川越

 「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」(『道程』より)
 春、卒業、入学、入社を迎える人たちに、これほどふさわしい応援の言葉はないだろう。勇気と誇りを持って、美しい未来を切り拓いてほしいものである。
 この有名な詩句を書いたのは、いうまでもなく詩人、彫刻家として名高い、高村光太郎である。
 では、彼は実際に、卒業を迎えた若者に、どのようなエールを送っていたのか。調べてみたところ、次の手紙が見つかった。
 光太郎四十三歳のとき、二十四歳の東京美術学校彫刻科を卒業する学生に宛てた手紙だ。二人は、やはり彫刻家として活躍した双方の父親を介して、親交があった。
 「山本稚彦君 啓、まず卒業を御祝いします」
 いきなり冒頭から祝意を伝え、光太郎らしい清冽(せいれつ)な率直さを示している。
 その後、卒業制作展で山本稚彦の作品を見たこと、そして、「愉快」だったという感想を述べ、次の励ましの言葉をさしはさんだ。
 「何しろ一切これからの事です。これから大変面白いと思います」
 さらに手紙の締めくくりの部分では、このように輝かしい未来を予見した。
 「私はあなたの多幸な前途が約束されている事を信じます」
 もちろん、無責任な観測は相手のためにならない。将来の成功を信じるためには、それなりの根拠が必要だ。しかし、少しでもその可能性があるなら、それを信じて、まだ道の引かれていない世界にこわごわと踏み出そうとしている人たちの背中を、明るくポンと押してあげることが大切だ。
 困難を先取りして、健闘を促すより、きっと効果的に違いない。
 光太郎のこの卒業祝いの手紙のお陰(かげ)だけではないだろうが、山本稚彦青年は、その後、日展の常連となり、日展の特選を三回連続で受賞するなどしてから、日展の審査員、評議員などを務め、日本美術界の重鎮として活躍した。

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筆者の中川越(なかがわ・えつ)氏は「生活手紙文化研究家」だそうです。

取り上げられている手紙は、大正15年(1926)3月26日付で、文中にある通り、のちに彫刻家として有名になる山本稚彦(わかひこ)に宛てた長文のものです。稚彦の父は山本瑞雲。光雲の高弟の一人です。

あらためて手紙の全文を読み返してみましたが、なるほど、若き彫刻家の卵に対する的確なエールに溢れています。中川氏、おそらく紙幅の都合で割愛されたのでしょうが、「美術学校に入学したといふ事は美術に向つて決定的の運命を持つに至つたといふ事にはなりません。学校を如何に卒業したかといふ事がはじめてその方向を決定せしめるやうに思ひます。」という一節には、首肯せざるをえませんでした。

卒業シーズンです。ネット上のいろいろな方のブログや、学校さんのサイト等で、校長先生などが光太郎の作品を引いて、卒業式の式辞をなさったという記述を多く見かけます。ありがたいかぎりです。

人生への応援歌となるような光太郎の作品。それを「青臭い」と言ってしまえば、それまでかも知れません。しかし、それはそれである意味、王道なのだと思います。

光太郎は、敬愛するロマン・ロランをこう評しました。

あまり明白すぎて人にまぶしがられてゐる太陽、あまり確かすぎて人に古臭がられてゐる大空、それを彼は敢然として書く。真理に対する良心の火を彼ほど命にかけて護持する者は偉大である。
(『ロマン・ロラン六十回の誕辰に』 大正15年=1926)

そっくりそのまま、光太郎自身にもあてはまりますね。

私事になりますが、娘が大学を卒業して、家に戻って参りました。話を聞く限りでは、それなりに充実した学生生活だったようで、一安心しております。さすがに実の娘に面と向かって光太郎の言葉を引いてのエールなど、照れくさくて言えませんが、当方の背中を見せることで、娘の背中を押してやりたいと思います。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月20日無題

昭和19年(1944)の今日、龍星閣から詩集『記録』を刊行しました。

序文から。

 「記録」といふ題名は澤田氏(注・龍星閣社主)が撰び、私が同意したものである。むろん全記録の意味ではない。いはば大東亜戦争の進展に即して起つた一箇の人間の抑へがたい感動の記録といふ方がいいかもしれない。もつと内面に属する詩であるため、この集に収録せられないばかりか、まだ一度も発表せられてゐない詩がたくさんある。さういふ生活内面に関する詩は現下の発表機関の絶えて要求しないところであるから、それも当然である。物資労力共に不足の時無理な事は決して為たくない。この詩集とても果して必ず出版せられるかどうかは測りがたい。それほど戦はいま烈しいのである。二年前の大詔奉戴の日を思ひ、今このやうに詩集など編んでゐられることのありがたさを身にしみて感ずる。戦局甚だ重大、あの時の決意を更に強く更に新たにしてただ前進するのみである。

「もつと内面に属する詩であるため、この集に収録せられないばかりか、まだ一度も発表せられてゐない詩」は、翌年の空襲で全て灰になってしまいました。そちらの方を読んでみたかったと思っています。

地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

教え子と音楽CD制作 元英語教諭平賀さん 「深い愛情」印象的に(3/17)

 花巻市上町の元英語教諭平賀六郎さん(83)は、教え子と音楽CD「DEEP LOVE」を共同制作した。歌曲集「英語で歌う日本の歌」と、心に残る詩を読み上げた「日本語・英語朗読」の2枚組み。101歳を迎えた義母幸子さんの長寿祝い、亡き妻郁子さんの十三回忌追善供養とも銘打ち、師弟愛や家族愛、夫婦愛などさまざまな「深い愛情」が印象的な作品になっている。
 平賀さんは、花巻北や盛岡一など県内高校の英語教師として、1992年まで勤務。学校を訪れる外国人客に日本文化を伝えようと、在職中から歌詞の英訳に取り組んできた。難しいとされる宮沢賢治の「精神歌」など多くの作品の翻訳に取り組み、原詩とは一味違った魅力を引き出してきた。私家版訳詩集「日本の名曲 英訳」シリーズも作っている。
 今作は英詩に加え、花巻北高時代の平賀さんに指導を受けた花巻出身で元高校長熊谷司郎さん(69)=神奈川県海老名市=が編曲協力し、メロディーにバーチャル(仮想)歌手の声を重ねている。平賀さんが翻訳時に単語選択を工夫したこともあり、機械音声とは思えないほど滑らかな節回しが実現している。
 朗読編には、平賀さんが思い入れを持つサミュエル・ウルマンの「青春とは」、高村光太郎の「松庵寺」など4詩を収録。英詩は日本語に、日本語詩は英語に訳され、熊谷さんによる音楽を背景に、雰囲気よく仕上がっている。
 「熊谷さんも私も楽しんで作っているから、健康にもいい。打ち込めるものがあるのは幸せ。命ある限り続けたい」と笑顔を見せる平賀さん。今回の歌曲集は英訳CD4作目になるが「第4集にして、やっとこつが分かってきた。好きなことを続けるのは、人生のエネルギーになる。これからもどんどん制作したい」と創作意欲を語っている。

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「松庵寺」は昭和20年(1945)の作。おそらく戦後になって初めて智恵子が謳われた詩です。昭和22年(1947)に刊行された白玉書房版の『智恵子抄』に収められました。

  松庵寺
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奥州花巻といふひなびた町の
浄土宗の古刹松庵寺で
秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すつかり焼けた松庵寺は
物置小屋に須弥壇をつくつた
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚さまの衣のすそさへ濡れました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どほりに一枚起請文をよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなき信によつてわたくしのために
燃えてしまつたあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置御堂の仏の前で
又も食ひ入るやうに思ひしらべました


松庵寺さんは花巻の中心街、双葉町にある寺院です。

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岩手在住時代の光太郎が、ほぼ毎年、10月の光雲・智恵子の命日の法要を、ここで行ってもらっていました。

そこで、松庵寺さんには、昭和62年(1987)に、詩「松庵寺」を、光太郎と親交の深かった佐藤隆房の揮毫によって碑にしたものが建てられました。

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また、今回の記事で紹介されている平賀氏の英訳「松庵寺」を刻んだ詩碑も建っています。

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朗読はこちらのサイトで聴けます。009


ところで松庵寺さんでは、毎年4月2日の午後、花巻としての連翹忌が行われています。今年も市の『広報はなまき』に案内が出ました。

これも毎年ですが、午前中には光太郎が7年間暮らしていた旧太田村の山小屋(高村山荘)で「詩碑前祭」があります。

ともに花巻の㈶高村光太郎記念会さんの主催です。

当方、東京日比谷松本楼での連翹忌を取り仕切っている立場上、こちらには参加できませんが、お近くの方、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月19日

昭和25年(1950)の今日、花巻農学校跡地に建てられた宮澤賢治の「早春」詩碑除幕式に参加しました。

以前にも書きましたが、同じ年に花巻温泉に建てられた光太郎の「金田一国士頌」詩碑と同じ石材から切り出されたものらしいとのことです。

新刊です。以前にもご紹介しましたが、入手しましたので改めて。 

近代文学草稿・原稿研究事典

日本近代文学館編/編集委員:安藤宏・栗原敦・紅野謙介・十重田裕一・中島国彦・宗像和重
八木書店発行  定価12,000円+税   A5判・上製本・カバー装 383+20頁

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第一部が「総論」ということで、「初学者が原稿を前にしてどのように研究を始めるのか、またどのような点に注意して研究を進めるか、対象となる原稿はどこに行けば見ることができるのか、などについての解説編」(序文より)、第二部が「近代文学史上の主だった作家の原稿を使った研究の具体例」(同)となっています。

第二部で、光太郎も4ページにわたって紹介されています。執筆は群馬県立女子大学教授、杉本優氏。

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基本的に光太郎は、自分の手元に自作の詩を書いた原稿用紙を一括して保存していました。散文や短歌などについてはそういうことはして居らず、詩だけです。さらに、最初に雑誌等に発表した後、単行詩集などに再録する際に詩句の訂正を行うことがしばしばあり、その変遷がきちんと記録されています(全てではありませんが)。この一事をとっても、詩というものが、光太郎の内部で並々ならぬ位置を占めていたことが窺えます。ただし、発表された全ての詩の草稿が残っているかというと、そうでもありませんが。

まず大正5年(1916)作の「わが家」から昭和20年(1945)4月作の「琉球決戦」まで。「琉球決戦」を書き終えた後、駒込林町のアトリエが空襲で全焼しますが、その際には詩稿をまとめて防空壕に投げ入れ、焼失を免れました。アトリエ隣家の植木屋さんが見つけて戦後もそれを保管してくれており、昭和29年(1954)になって、再び光太郎の手元に戻りました。

続いて昭和20年(1945)5月の花巻疎開から歿するまでのもの。これはずっと光太郎の手元にありました。

この2種は、昭和42年(1967)に二玄社から『高村光太郎全詩稿』として一篇ごとに写真版と北川太一先生の詳細な解説を付け、上下二分冊で刊行されています。

それ以外に、出版社に送られた浄書稿も残っています。特に近年発見された詩集『道程』(大正3年=1914)所収の10篇38枚は、『道程』版元の編集者・内藤鋠策旧蔵とされています。

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また、昭和22年(1947)、雑誌『展望』に発表された20篇から成る連作詩「暗愚小伝」も、出版社に送った浄書稿が残っており、それについては平成18年(2006)、やはり二玄社から『詩稿「暗愚小伝」』ということで、全ページの写真版、北川太一先生の詳細な解説付きで刊行されています。

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『近代文学草稿・原稿研究事典』では、このあたりについての解説、原稿用紙の種類、初出形から最終形への変化などについて述べられています。

ただ、あくまで「事典」で、光太郎の項も4ページしかありませんので、概略に留まっています。杉本氏にはこれをさらに長く、一冊の研究書にでもしていただきたいものです。

それにしても、改めて光太郎の草稿が載った上記の書籍類を見てみますと、その時々の光太郎の息づかいまで聞こえてきそうな気がし、これは活字では感じられないものです。こういういわば原典にあたるのも、大切なことですね。

さて、『近代文学草稿・原稿研究事典』。定価12,000円+税と、少し高めですが、版元の八木書店さんに直接出向いて購入すると、1割引です。店舗は神田神保町古書街、三省堂ビルさんの近くです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月18日

昭和7年(1932)の今日、文京区向丘の曹洞宗金龍山大圓寺で、光雲を囲む座談会が行われました。

大圓寺は光雲に依頼してたくさんの仏像を作ってもらった寺院です。いずれ行ってみようと思っています。

出席者は光雲の他、光雲高弟の山本瑞雲、大圓寺の住職・服部太元、講釈師・大島伯鶴、天台宗の僧侶で書家の豊道慶中、陸軍中将・堀内文次郎、海軍中将・小笠原長生。

これを機に、小笠原と光雲は意気投合し、同じ海軍の東郷平八郎元帥を光雲に引き合わせたりします。

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こちらは同じ年の9月、東郷邸にて。左から服部太元、光雲、東郷平八郎、小笠原長生です。

新刊、というより復刊書籍の情報です。 

人権からみた文学の世界【大正篇】

2015/2/6 ゴマブックス   川端俊英著   定価1,200円+税

森鴎外「雁」、夏目漱石「こゝろ」、宮本百合子「貧しき人々の群」……。
大正期につむぎだされた名作のなかから人権に関わる問題に着目し、その時代の断面を検証。
現代を生きる私たちの自己点検にもつながる問いを投げかける良書。著者の慧眼が光る解説も味わい深い。無題

目次
まえがき――大正期と高村光太郎
第一章 森鴎外「雁」の世界
第二章 夏目漱石「こゝろ」の世界
第三章 宮本百合子「貧しき人々の群」の世界
第四章 吉田絃二郎「清作の妻」の世界
第五章 岩野泡鳴「部落の娘」の世界
第六章 永井荷風「花火」の世界
第七章 芥川龍之介「侏儒の言葉」の世界
第八章 秋田雨雀「骸骨の舞跳」の世界
あとがき
大正期略年表

というわけで、光太郎を含め、9人の文学者の作品から、大正時代の人権意識にスポットを当てた論考です。光太郎は「まえがき」で扱われていますが、他の作家と違い、ある特定の作品を取り上げての論ではなく、「道程」や「牛」、「ぼろぼろな駝鳥」といった複数の詩からのアプローチなので、そうなっているという感じです。そして光太郎論を枕に、「大正」という時代の光芒を追う展開です。

白樺派の人道主義、プロレタリヤ文学対ファシズム、ドメスティックな問題、同和問題などからの観点で、非常に読みごたえがあります。

もともとは平成10年(1998)に、部落問題研究所から刊行されたもので、版元をゴマブックスさんに移し、さらにオンデマンド(注文を受けてから印刷、製本するシステム)での復刊です。といっても、注文して翌日には届きます。ただ、造本としてはどうしてもペーパーバックになるようです。変にかさばらない、価格が安いという点では、ハードカバーより良いと思います。

ゴマブックスさん、前身のごま書房時代には新書版の「ごまブックス」が売りだったと記憶していますが、最近は電子書籍系に力を入れているようで、その延長でオンデマンドも手がけているように感じます。

今後、こういう形がどんどん広がっていきそうな気がします。特にこういう埋もれた名著的なものは、大手の出版社がどんどん版権を手に入れ、復刊させていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月12日008

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、編集者・野末亀治に宛てて葉書を書きました。

 小包を又々頂戴、オレンヂをたくさんありがたく存じました。その中にヅボンを発見、これ又大いに役立ちますので大喜びです。今冬は厳寒が続きましたので先年いただいた台湾のキヨウとかいふ獣の毛皮をチヤンチヤンコの下に着るやうにしましたら大変凌ぎ易く感じました。
 小生今冬は栄養状態去年よりもよろしく、雪を冒して温泉にも二三度まゐりました。
 御礼まで。

「台湾のキヨウとかいふ獣」は、おそらく鹿の一種の「キョン」です。光太郎は他にも村人に貰ったカモシカの毛皮などを愛用していました。

猟銃でも持たせれば、マタギのようですね(笑)。とても日本を代表する彫刻家・詩人には見えません(笑)。

昨年から連翹忌にご参加いただいている詩人の宮尾壽里子様から、文芸同人誌『青い花』第79号をいただきました。ありがたく拝受いたしました。

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今回で最終回だそうですが、宮尾様のエッセイ「断片的私見『智恵子抄』とその周辺(五)」が6ページ。『智恵子抄』からインスパイアされた小説、舞台芸術、映画・ドラマ、音楽などでの二次創作の紹介、光太郎智恵子略年譜に見る二人の生の軌跡、オリジナルの『智恵子抄』(昭和16年=1941)のあとに刊行されたさまざまな『智恵子抄』の紹介などの内容です。

他の記事や詩作品等も興味深く拝読しました。中でも柏木勇一氏の「第一次「青い花」創刊の頃の中原中也」は特に興味深いものがありました。現在の『青い花』は第四次ということですが、第一次は昭和9年(1934)の刊行で、今官一を編集発行人とし、太宰治、壇一雄、そして中原中也を含む十数名が参加していたそうです。

中也は同じ年に、光太郎に題字を書いて貰い、第一詩集『山羊の歌』を刊行しています。柏木氏の記事の中には、岩手県奥州市の人首文庫(ひとかべぶんこ)さんに所収されている中也がらみの資料についての紹介があり、「ほう」と思いました。やはり昭和9年(1934)、「胡桃の会」というサークルの会合で書かれた署名帖に、中也の名があったというのです。

人首文庫さんは、詩人の佐伯郁郎の生家に作られた史料館です。佐伯は内務省警保局図書課に勤務し、戦時中は情報局情報官として図書の検閲等に当たっていました。10年以上前になりますが、こちらに光太郎から佐伯宛の全集未収録の書簡が5通、さらに詩稿も収蔵されていることを知り、コピーを戴きました。『青い花』の記述がその人首文庫さん収蔵の資料の紹介だったので、「ほう」と思った次第です。

以下、憶測に過ぎませんが、オリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)刊行などの陰に、佐伯の尽力があったのではないかと、当方は考えています。

『智恵子抄』には詩や短歌の他に、書き下ろしではありませんが散文も三篇収められています。そのうち昭和15年(1940)の『婦人公論』に載った「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)には、以下の記述があります。

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。

大君=天皇と、一人の女性を同列に並べたこの表現、当時の社会状況を考えると、読みようによっては不敬のそしりを免れないものです。

当方には、この文言が検閲をすり抜け、雑誌や詩集に掲載された陰に、光太郎を敬愛していた佐伯の影がちらついて見えるのですが、どうでしょうか。

人首文庫さん、行こう行こうと思いつつ、まだ足を運んだことがありません。『青い花』での柏木氏も「岩手の山村にある「文庫」には、戦前の文学活動を物語る”宝物”がまだ眠っている気がする。」と記されています。改めて、折を見て行ってみようと思いました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月8日008

昭和2年(1927)の今日、光太郎が装幀、題字を担当したロマン・ロラン著、市谷佳義訳 『マハトマ・ガンヂ』 が刊行されました。

右は扉の画像です。

版元の叢文閣は、この前後、ロマン・ロランがらみの書籍をたくさん出版し、装幀や題字を光太郎に依頼しています。片山敏彦訳の戯曲『愛と死の戯れ』、『時は来たらん』、高田博厚訳『ベートォヹン』、『ヘンデル』、尾崎喜八訳の戯曲『花の復活祭』。

智恵子はまだそれなりに健康で、光太郎も円熟期、精力的に仕事をこなしていた時期です。

昨日は、東京町田市の八木重吉記念館さんに行って参りました。

この春、町田にある大学を卒業する娘が、本格的に茶道をやっておりまして、昨日は卒業記念の茶会がありました。「卒業生の親は来るものだ」というので、そちらは愚妻に参会してもらい、当方は同じ市内の八木重吉記念館さんに行っていた次第です。

八木重吉は明治31年(1898)、南多摩郡堺村(現・町田市相原町)に生まれました。その生家の築百年以上という土蔵が記念館になっています。

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八木は教員生活のかたわら、第一詩集『秋の瞳』を大正13年(1924)に刊行、佐藤惣之助主宰の『詩之家』同人となり、その関係で同誌に関係していた草野心平の知遇を得ました。第二詩集『貧しき信徒』は昭和3年(1928)刊行ですが、そちらの上梓を待たず、数え29歳で夭折しました。

生前に光太郎と八木が会ったことはないようですが、おそらく佐藤や心平経由で光太郎は八木の詩業にふれ、高い評価をしました。007

八木重吉氏の今は遺著になる詩集「貧しき信徒」を拝受。よみ返して今更この敬虔無垢な詩人を敬愛する情を強めました。かういふ詩人の早世を実に残念に思ひます。御近親の方々のお心も創造いたされます。
「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」 昭和3年(1928)8月『野菊』第六巻第八号

その後、未亡人登美子が八木の原稿を守り抜き、こちらは光太郎の協力も得、遺稿の刊行に力を注ぎました。戦後になって、登美子は歌人の吉野秀雄と再婚、夫婦で光太郎との交流が続きました。

さて、八木重吉記念館。

町田街道沿いの駐車スペースに車を駐め、ちょっとした坂を上がっていく形になりますが、まず坂の下に標柱がありました。署名を見なくとも、一見してそれと判る、草野心平の筆跡です。「詩人八木重吉生家 詩碑 墓地」とあります。

視線を上げると八木の詩008碑。代表作の一つ、「素朴な琴」が記されています。

    素朴な琴

 このあかるさのなかへ
 ひとつの素朴な琴をおけば
 秋の美しさに耐へかねて
 琴はしずかに鳴りいだすだらう


坂を上がると、先述の蔵が見えてきますが、その手前には八木の銅像も。

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八木の兄のお孫さんにあたられるご婦人が出てこられ、鍵を開けて下さり、館内へ。2階建ての土蔵の内部が改装され、八木の詩稿、著書、油絵、書簡、古写真、さらには八木の教員免許や辞令、没後の新聞記事などのコピーといったものまで、所狭しと展示されていました。

撮影禁止ということで、残念ながら画像がありませんが、光太郎の草稿「八木重吉詩集序」(昭和19年=1944)2枚のコピーもありました。ただ、原本は行方不明だそうです。

また、先述の心平による標柱の元となった書、心平の色紙もありました。

まさしく手作りの素朴な文学館、という感じで、これはこれでいいものだと思いました。

町田というと、大都市のイメージもありますが、ここは町田のはずれで、もう少し経って、陽春の頃になると、もっといい感じだろうなと思いました。昨日はかなり雨も強かったので、その点が残念でした。

さて、見学には電話での予約が必要です。詳しくは公式サイトをご参照下さい。


当方、今日、明日は仙台に行って参ります。昨日は娘の関係で町田でしたが、今度は息子の関係です。やはり大学の学生寮にいるのですが、そちらを出て一般のアパートに移るというので、引っ越し及び家具等の買い出しです。

せっかくですので、町田の八木重吉記念館さんもそうでしたが、こういう機会でもないとなかなか足の向かない施設に立ち寄ろうと考えています。詳細は帰ってから。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月2日

昭和21年(1946)の今日、雑誌『北方風物』表紙のための素描「早春の木の芽」をペン書きで清書しました。

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この絵は4月10日発行の『北方風物』第1巻第4号の表紙を飾りました。前月におそらく鉛筆でスケッチしたものをペン書きにしています。そこで日付は二月十五日となっています。

当日の日記から。

午后、木の枝の写生ペン画。「北方風物」へやるもの、葉書よりやや小にかく。

22日、日曜日の『読売新聞』さん翌23日月曜日の『日本経済新聞』さんに、光太郎の名が出ました。といっても、それぞれちらりとで、光太郎がメインではありませんが。

まず『読売新聞』さんでは、日曜版の「名言巡礼」という連載で、光太郎と深い縁のあった詩人、尾崎喜八がメインに取り上げられた中で、喜八の紹介文の中に光太郎の名が。

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曰く、

尾崎喜八 1892~1974年。東京生まれ、京華商業学校卒。会社員、銀行員を経て、高村光太郎の影響のもと、20代から主に雑誌「白樺」で文学活動を開始した。1922年、初の詩集「空と樹木」を発表。ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケなど欧州の作家の詩文の翻訳も手がけた。46年、長野県富士見村(現富士見町)に移住し、52年、東京に戻った。58年以降、それまでの作品を集大成した「尾崎喜八詩文集」(全10巻)を刊行した。富士見時代の作品を収めた詩集「花咲ける孤独」(55年)は、代表作とされる。

タイトルにある「名言」は以下の通り。

静かに賢く老いるということは満ちてくつろいだ願わしい境地だ(『春愁』より)

元になったのは、昭和30年代前半に書かれた「春愁(ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)」という詩の冒頭部分です。

   春愁 
    (ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)000
 静かに賢く老いるということは
 満ちてくつろいだ願わしい境地だ、
 今日しも春がはじまったという
 木々の芽立ちと若草の岡のなぞえに
 赤々と光りたゆたう夕日のように。
 だが自分にもあった青春の
 燃える愛や衝動や仕事への奮闘、
 その得意と蹉跌の年々に
 この賢さ、この澄み晴れた成熟の
 ついに間に合わなかったことが悔やまれる。
 ふたたび春のはじまる時、
 もう梅の田舎の夕日の色や
 暫しを照らす谷間の宵の明星に
 遠く来た人生とおのが青春を惜しむということ、
 これをしもまた一つの春愁というべきであろうか。


記事は喜八が戦後の7年間を過ごした(光太郎同様、戦争協力への反省です)長野県の富士見町を中心に書かれています。画像は八木です。

お嬢さんの榮子さん、お孫さんの石黒敦彦さんの談話なども。榮子さんは幼い頃、駒込林町の光太郎アトリエで智恵子にだっこして貰った記憶があるという方です。

当方、昨秋、鎌倉の光太郎縁戚の方が経営されている笛ギャラリーさんで、お二人にお会いしましたので、「ほう」と思いました。

ちなみにこの連載「名言巡礼」では、昨秋、光太郎をメインに扱って下さいました。

続いて、月曜日の『日本経済新聞』さん。

こちらはやはり光太郎と縁のあった画家、村山槐多を取り上げた記事です。

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光太郎の詩「村山槐多」(昭和10年=1935)からの引用があります。

   村山槐多

槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。001
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。


画家だった村山ですが、詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。それが「くしやくしやの紙」で、歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版されています。光太郎は推薦文も寄せています。

記事にメインで紹介されている絵は、「尿(いばり)する裸僧」と題されたもので、村山の代表作の一つ。長野県上田市の信濃デッサン館に収蔵されています。


また、3年前には和歌山県田辺市立美術館で開催された「詩人たちの絵画」展に出品され、その時にも観て参りました。


先日も書きましたが、こうした新聞記事、公共図書館等で閲覧が可能です。ご利用下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月25日

昭和23年(1948)の今日、十字屋書店から歌集『白斧』が刊行されました。

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左は特製限定本(850部)、右は通常版です。明治期から戦後の光太郎短歌268首を収めています。編者は光太郎と交流があり、この時点では縁戚だった宮崎稔です。光太郎が取り持って、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚していました。

奥付では前年11月刊行となっていますが、光太郎はこの歌集の刊行に同意せず、刊行がずれこみました。明治期の作品は鉄幹の添削ががっつり入っているので、自作と言い難いという光太郎の認識がそこにあります。

そこで、編者宮崎による「覚え書」を新たに印刷して巻末に貼り付け、漸く刊行にこぎ着けました。

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近刊情報です。

東京代官山のクラブヒルサイドさんからメールでお知らせ戴きました。

一昨年にクラブヒルサイドさんで行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」を書籍化されるそうです。

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以下、添付のPDFファイルから。 

読書会から生まれた本『少女は本を読んで大人になる』が発売されます。

~魅力的な10人の女性たちと共に読む、少女が大人になる過程で読んでほしい10冊の古典的名作~
東京・代官山クラブヒルサイドにて、2013年の5月からおよそ1年続いた読書会「少女は本を読んで大人になる」は少女が大人になる過程で読んでほしい世界・日本の古典的名作を、多彩なゲストと共に読んでいくというもの。この読書会を1冊の本にまとめました。

ご自身の人生とも重ね合わせながら読み進めていく名作は、作品の魅力にぐっと迫りながら、ゲストの人柄も楽しめる内容になっています。また、読書会に合わせてオリジナルで作った作品にちなんだサンドウィッチレシピも収録。豪華な一冊になりました。

 
本編は、各ゲストが1冊の本を読み解いていくという形で構成されています。

 少女の頃繰り返し読んでいた作品。思い出の作品。人生に影響を与えてくれた大切な作品など。どんな風にその物語を解釈して、読み進めていったのか、ゲストによってその捉え方はさまざまに異なることがわかってきます。発見がちりばめられている本編をお楽しみください。

ゲストと共に読んだ名作10点004
平松洋子・『女たちよ!』(伊丹十三)
阿川佐和子・『悲しみよこんにちは』(フランソワーズ・サガン)
角田光代・『第七官界彷徨』(尾崎翠)
鴻巣友季子・『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ)
末盛千枝子・『智恵子抄』(高村光太郎)
中村桂子・『キュリー夫人伝』(エーヴ・キュリー)
小林エリカ・『アンネの日記』(アンネ・フランク)
竹下景子・『苦海浄土』(石牟礼道子)
湯山玲子・森本千絵・『赤毛のアン』(L.M.モンゴメリ)『放浪記』(林芙美子)

サンドウィッチレシピを紹介
読書会では、毎回作品とゲストにちなんだオリジナルサンドウィッチを作りました。作品とゲストの印象から、発想したサンドウィッチです。
すべてのサンドウィッチのレシピが、収録されています。サンドウィッチを片手に読書なんて、いかがでしょう。

読書会が本になりました
全10回開催された読書会は毎回2時間、参加者のみなさんもゲストが選ぶ本を片手に、共に読み進めていきました。
会の流れはゲストによってさまざまで、朗読するときもあれば、グループディスカッションをして話し合うときもあり。その空気感が丸ごと収録され、書き起こされた一冊です。

森本千絵さんによる表紙絵
ゲストの一人である、コミュニケーションディレクターの森本千絵さんによる作品を、表紙の絵に使わせていただきました。この作品は「赤毛のアン」をイメージして描かれたもので、一人の少女が明日に向かって歩みはじめるような印象が、本書のテーマに重なります。


書名:少女は本を読んで大人になる価格:1,500円(税別)
編集者:クラブヒルサイド・スティルウォーター
ブックデザイン:大西隆介(direcIonQ)
サンドウィッチイラスト:山口潤(direcIonQ)
発行日:2015年3月12日(木)
販売場所:全国書店にて
出版元:現代企画室

クラブヒルサイド 
〒150-0033 東京都渋谷区猿楽町30--‐2 ヒルサイドテラスアネックスB棟2F クラブヒルサイドサロン内
担当:菊池・西村  
info@clubhillside.jp phone:03-5489-1267


光太郎と交流のあった彫刻家の故・舟越保武氏のお嬢さんで、「千枝子」さんというお名前は、光太郎が名付け親だという編集者・絵本作家の末盛千枝子さんによる「智恵子抄」がラインナップに入っています。

末盛さん、その後、新潮社さんで発行している『波』というPR誌に、光太郎も絡むエッセイ「父と母の娘」を連載中ですし、昨年は5月15日の花巻高村祭でご講演くださいました(ちなみに今年は当方が講演をいたします)。

購入ご希望の方は、上記までお問い合わせ下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月16日

昭和22年(1947)の今日、花巻町の、宮澤賢治の姻戚・関登久也邸で開かれた歌会に出席しました。

関は尾山篤二郎に師事した歌人。この時期の光太郎には、花巻郊外太田村での生活に題を採った短歌の秀作がけっこうあり、こうした機会に詠まれたものと推定されます。

ちなみにこの歌会は午前中。午後には賢治の弟・宮澤清六とともに映画を観に行きました。その件は昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎 補遺】に書きました。

過日ご紹介しました登山系雑誌の『岳人(がくじん)』さんの最新号、2015年3月号が、昨日、発売になりました。

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表紙は畦地梅太郎の版画。いいですね。

特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」が、30ページほどで組まれています。

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そのうち、8ページが「高村光太郎と智恵子の上高地」。光太郎詩文と拙稿です。

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上高地は、大正2年(1913)の夏、光太郎智恵子が一ヶ月ほどを共に過ごし、ここで結婚の約束を結んだ場所です。その辺りの経緯と、のちに智恵子が心を病んでしまってから、光太郎がその当時を回想して書いた詩文などに触れてみました。

編集部からは、引用部分を除き2,000字程度という指定で、先日の「歴史秘話ヒストリア」ではありませんが、短い尺の中に収めるのに苦労しました(笑)。もっと書きたいことがたくさんあったのですが、その中の一部は他の方の記事に書かれていましたので、安心しました。

他に尾崎喜八や竹内てるよ、草野心平に北原白秋といった、光太郎と縁の深かった詩人も取り上げられ、また、現代の山岳詩人・正津勉氏の玉稿もあり、非常に読みごたえのある特集です。

大規模書店なら店頭に並んでいますし、アウトドア用品メーカーのモンベルさんのショップにも並びます。また、版元やAmazonなどのネット通販でも入手可能です。定価は680円+税。ぜひお買い求め下さい!


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月15日

昭和54年(1979)の今日、書道雑誌『墨美』288号で、光太郎の特集「高村光太郎遺愛 黄山谷 子瞻帖(しせんじょう)」が組まれました。

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黄山谷は、中国北宋の進士、黄庭堅(こうていけん)の号。草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。
 
光太郎は山谷の書を好み、最晩年には中野のアトリエの壁に黄山谷の書、「伏波神祠詩巻」の複製を貼り付け、毎日眺めていました。

「子瞻帖」は、黄山谷が師である蘇東坡の略歴を詩文にしたものです。光雲がその拓本を入手、光太郎がそれに惚れ込み、大切にしていたという品です。光太郎から書家の西山秋崖の手に渡りました。そうした経緯にも触れられています。

昨夜オンエアされた、NHKさんの教養番組「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」を拝見しました。

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当方、制作のお手伝いをさせていただきましたので、御覧になった方々の感想が気になるところです。いかがだったでしょうか。

一昨年放映された、同じNHKさんの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」の際にもお手伝いをさせていただき、その時は渋谷の放送センターで司会の井浦新さん、伊東敏恵アナ、ゲストの作家・平野啓一郎氏によるスタジオ収録に立ち会い、VTRの部分もその時に拝見しました。

しかし、今回は事前に観ておらず、放映を心待ちにしておりました。実際に観てみて「こういう風に仕上がったのか」と、感慨ひとしおでした。

コンセプトとしては『智恵子抄』」の成立過程から智恵子と光太郎の生き様を探る、といったものでした。ある意味手前味噌になりますが、いい出来だったと思います。45分という短い尺で、光太郎智恵子の生の軌跡をあますところなく伝えるのは物理的に不可能ですが、ダイジェストとしては、あれでほぼ十分と思いました。

「日本人の純愛の代名詞とまで言われる『智恵子抄』」という紹介が為されていましたが、「そりゃ持ち上げすぎだろ」と思いました(笑)。

他にも細かな表現等で、「正確に言うとそうではない」「そう言い切るのは危険」「それは以前の定説」という箇所がありましたが、それはしかたがないでしょう。

「日曜美術館」の時にエゴサーチしてみましたところ、そういうところで揚げ足を取って、鬼の首でも取ったかのようにブログやツイッターの記事を書いている人物がいましたが、心の狭い人だなあと思います。その程度ならともかく、揚げ足を取るのでなく、足すら揚げていないのに「お前、今、足揚げたろ」と突っ込んでくる不届き者もいます。番組の中で一言もそういうことを言っていない、全くそういう内容になっていないことを「こういう内容だった、ひどすぎる」などと勝手に決めつけてブログで全世界に発信しています。その人物、とにかく上から目線で、自分以外の全ての人間はバカだと思っているようです(笑)。それが教育関係者だというのですから呆れます。よっぽど抗議しようかと思いましたが、そういう輩には何を言っても無駄と思うので、放置していますが。

閑話休題。昨夜の「歴史秘話ヒストリア」は、「episode1 智恵子と光太郎 運命の出会い」「episode2 智恵子と光太郎 理想と挫折」「episode3 智恵子と光太郎 愛が生んだ奇跡」そして「智恵子亡きあと 光太郎を支え続けたのは」の4部構成でした。鈴木一真さんと前田亜希さんのお二人による再現ドラマを軸に、要所要所でいろいろな方のコメントや関連画像、動画が入る構成です。

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お二人の演技もなかなかよかったと思います。いつもながらに渡邊あゆみさんの語りも。

過日ご紹介し濵口奈菜さんという方は、二人を取り持った柳八重の役でした。

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小説『智恵子飛ぶ』を書かれた作家の津村節子さん、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生、花巻郊外太田村時代の光太郎を知る高橋愛子さんなどのコメント、いちいちうなずけました。

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最後は花巻、そして十和田湖。

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なかなか感動的でした。

しかし、先程も書きましたが、45分という枠はあっという間ですね。その中で二人の生の試みをダイジェスト的に足早に紹介しなければならない、これは大変なご苦労があったと思われます。

ロケも、昨日の放映になかった場所でもいろいろ行われていますが、割愛せざるを得なかったのでしょう。智恵子が療養していた九十九里浜、京都の国立国会図書館関西館(智恵子が口絵を描いた雑誌『少女世界』)などの部分は使われていませんでした。また、実際にロケは行われませんでしたが、ディレクター氏は宮城女川や福島裏磐梯にもロケハンに行かれたそうです。

そういうご苦労がしのばれるので、何も知らない部外者が勝手に「ひどすぎる」とか書いているのを見ると、本当に腹が立ちます。今回はそういう事がないようにと願っています。

さて、地域によって違うかも知れませんが、再放送がありますので、見逃した方はご覧下さい。

NHK総合 2015年2月17日(火) 24:40~25:25 です。正確に言うと18日(水)未明の午前0:40~ですが、テレビ番組表の表記は翌日未明の分は前日の続きとして表記されます。録画予約等される場合、御注意下さい。

(2/17 22:07追記)先程ディレクター氏から連絡がありました。東北地方の地震報道の影響で、10分遅れのスタートだそうです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月12日

昭和28年(1953)の今日、詩人の宮崎丈二と、新宿中村屋レストランで夕食にカレーを食べました。

中村屋さんは親友だった荻原守衛の関連で、縁の深い場所でした。昨秋、中村屋サロン美術館が開館し、光太郎の油絵「自画像」も展示されています。昨夜の「歴史秘話ヒストリア」でも映りました。

一昨日の『産経新聞』さんに、以下の記事が載りました。 

【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】吉本隆明 政治に流されない感受性

■東日本国際大教授・先崎彰容

 昭和43年のことである。

 一冊の書物が世間を震撼(しんかん)させた。

 吉本隆明『共同幻想論』である。国家の成りたちの起源を『古事記』と『遠野物語』を徹底的に読むことで明らかにしたこの書は、熱狂的な歓迎を受けた。たしかに難解である、でも読まざるをえない、理解できなくても読んだと言わざるをえない、そんな雰囲気が学生を中心に漂っていたのだった。

 だが忘れてはいけない、吉本隆明はそれ以前、まずは「詩人」として文壇に現れたことを。高村光太郎について、言語にとって美とは何かについて考えると同時に、共同体とは何か、私たちにとって国家とは何かが問われた。こうして『共同幻想論』は世にでたのである。

 これらの問題意識は、一点から始まっている。それは戦争の「あの瞬間」からである。戦争体験、これが吉本を詩人にし、かつまた国家を問い続けることを強いたのである。

 たとえば戦争中、少年吉本は、自分の全てを動員して今回の戦争とは何かを考えつづけていた。結論は出た、今回の戦争は正しいものであり、自分はそのために死ぬべきであると思った。

 だが敗戦のあの日以来、世間はガラリと変わってしまう。戦争は誤りであり悪であり間違っていたというのだ。だとすれば、あの時自分の全てを賭けて出した結論は不正解だったことになる。どれだけ真剣に真面目に出した結論であっても、人間は間違う可能性があるのだ。

 8月15日を境に、世間の価値観は百八十度転換した。にもかかわらず、人びとは何事もなかったかのように生きているではないか。戦後に配給された価値観になんら疑いをもたず飛びつき生きている。この事実を吉本は理解できなかった。昨日まで骨の髄まで正しいと思っていたことが崩壊する。なのに、人はなぜ傷つかないのか、つまずかないのか。

 激しい人間不信が、吉本を襲ってきた。社会全体は嘘で塗り固められている。しかも自分もまた、いくら真剣に考えてもその嘘にだまされてしまう。私たちはなんとつまらない存在なのだ-だから吉本は、人間を生への根源的違和感を抱えたもの、こう定義した。もっと分かりやすく言おう、つまずいて生きている不器用な人間にとって、人生は、吐き気を感じるような面倒くさい営みなのだ。

 だから吉本は詩を書いた。言葉を紡ぐことで、どうにかして世間に流されないようにしたかった。戦後民主主義はもちろん、政治的な自由を絶叫するスターリン的マルクス主義も、私は絶対に信じない。なぜなら彼らは、繊細な個人の心を全て政治運動にささげよ、こう言ってくるからだ。

 なぜ彼らはそんなに政治が好きなのか。スローガンに流されるのか。言葉が政治に敗れていることに気づかないのか。

 ある日、吹く風に顔を上げ春の到来を知り、生きようと思う。そんな感受性を棄(す)ててまで、政治活動にささげる自由を私は信じない-「元個人(げんこじん)とは私なりの言い方なんですが、個人の生き方の本質、本性という意味。社会的にどうかとか政治的な立場など一切関係ない。生まれや育ちの全部から得た自分の総合的な考え方を、自分にとって本当だとする以外にない」(『「反原発」異論』)。

 この感受性に注目すべきだ。

 小林秀雄と江藤淳さらには福田恆存(つねあり)、そう、わが国で批評家になるための必要条件は、この繊細で弾力ある感性の系譜にあった。政治的な左右は、批評家にとって重要ではない。批評家になったつもりで一家をなせば、そこにまた他者との比較、批判、排除がおきている。党派をなして、人を罵(ののし)る。これはもう立派な政治ではないか。

 感性とは不断の自己点検、自分が政治的になることへの警戒である。晩年まで主張した吉本の反原発批判も、こうした感性から読まれるべきなのである。


 次回「高坂正堯(まさたか)」は3月5日に掲載します。


 ■知るための3冊

 ▼『共同幻想論』(角川ソフィア文庫) 刊行当時、熱狂的な支持をもって迎えられたこの書は、一方で難解であることでも知られる。吉本が「詩人」として出発したことを念頭に序文を精読すれば、この書の問題意識が見えてくるはずだ。
 ▼『吉本隆明初期詩集』(講談社文芸文庫) 吉本が詩人として出発したことは、くれぐれも忘れてはならない。「エリアンの手記と詩」「固有時との対話」「転位のための十篇」など初期吉本を語るうえで欠かせない詩を全て収める。
 ▼『「反原発」異論』(論創社) 東日本大震災以前から、吉本は一貫して反核運動に批判的な立場をとり物議をかもした。本書は震災直後からのインタビュー記事などを含む、最晩年の遺著的著作。


【プロフィル】吉本隆明
 よしもと・たかあき 大正13(1924)年、東京生まれ。東京工業大卒業。工場勤務のかたわら私家版の詩集などを発表し、昭和30年代に本格的に評論活動を開始。既成左翼を批判しつつ、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』など独自の思索を発表、全共闘世代から熱烈な支持を得る。バブル期には大衆消費社会を肯定して注目された。平成24年、死去。


【プロフィル】先崎彰容
 せんざき・あきなか 昭和50年、東京都生まれ。東大文学部卒業、東北大大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。専門は近代日本思想史。著書に『ナショナリズムの復権』など。


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吉本氏が亡くなってもうすぐ3年。新たに全集の刊行も始まり、このところ、「結局、吉本とは何だったのか」という検証が活発になってきました。NHKさんの教養番組「日本人は何をめざしてきたのか。 知の巨人たち」で取り上げられたりもしています。

その思想的源流の一つとなった、戦時中の光太郎についての検証。吉本を考える際に併せて考えていただきたい問題だと思いますし、吉本が出し切れなかった答えは、後の我々に託されたのだと考えたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月7日004

大正15年(1926)の今日、詩「象の銀行」を執筆しました。

   象の銀行

セントラル・パアクの動物園のとぼけた象は、
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツバンク)にちやりんと入れる。

時時赤い眼を動かしては鼻をつき出し、
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。
象がさういふ、
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。

印度産のとぼけた象、
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。

夕日を浴びてセントラル・パアクを歩いて来ると、
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。


明治39年(1906)から翌年にかけての、ニューヨーク留学中の記憶を元にした詩です。のちのロンドンやパリではそういうこともなかったようですが、最初に滞在したニューヨークでは、かなりあからさまな人種差別にあった光太郎、同じアジア産の動物園の象に、自らの姿を仮託しています。

以前にも書きましたが、この「象の銀行」、光太郎の詩の中では比較的有名な一篇であるにもかかわらず、初出誌が不明です。昭和4年(1929)に改造社から刊行された、いわゆる「円本」の「現代日本文学全集」第37篇『現代日本詩集/現代日本漢詩集』に収められていますが、それ以前にどこかの雑誌などに発表されているはずです。しかし、どこに発表されたのかが判っていません。

情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

新刊、といっても昨年12月の刊行です。
株式会社金曜日刊 発売日 2014/12/11 著者:  辺見庸・佐高信  定価:  1500円+税

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版元サイトより

「人間はここまでおとしめられ、見棄てられ、軽蔑すべき存在でなければならないのか」――辺見庸

侵略という歴史の無化。軍事国家の爆走と迫りくる戦争。人間が侮辱される社会・・・。二人の思索者が日本ファシズムの精神を遡り、未来の破局を透視。誰かが今、しきりに世界を根こそぎ壊している。日本では平和憲法を破棄しようとする者が大手を振っている。
喉元に匕首を突きつけて私たちは互いに問うた。なぜなのだ?あなたならどうする?呻きにも似た、さしあたりの答えが本書である。

目次
第1章 戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ
コンピュータ化と人間身体/資本と安倍ファシズム/もはや「どつきあい」は避けられない/スムーズに消してゆく装置/サブスタンスはあったのか/死ぬ気でやるのか

第2章 「心」と言い出す知識人とファシズムの到来
ジャーナリストのパッション/ジャーナリストとは、ゆすり、たかり、強盗/「心」と「美しい国」と同じ/どちらにも展望はない/ファシズムの情動的基盤

第3章 「根生い」のファシストに、個として闘えるか?
知性の劣化/訴えられる覚悟/共産党も巻き込んだ「祖国防衛論争」/なかったふりをするな/「禁中」と天皇利用主義者/決断を迫られる時がくる

 
第4章 日本浪曼派の復活とファシズムの源流
老いと夜/日本浪漫派の血脈/慰安婦問題を身体的なこととしてとらえる/日本思想史の中の免罪の歴史/実時間の表現

第5章 ジャーナリズムと恥
クーデター、三島由紀夫と安倍晋三/偽なるものの力能/書くことと自己嫌悪/特定秘密保護法とジャーナリズムの恥

第6章 とるに足らない者の反逆
魯迅のアナキズム/中国という圧倒的事実/とるに足らないものからの発想/絶望の深みから

第7章 歴史の転覆を前にして徹底的な抵抗ができるか?
これから何が起きないかはわかる/歴史の転覆/否定的思惟がなくなった/徹底的な抵抗の弾け方/権力こそが非合法

第8章 絶望という抵抗
真実の不確定性、記憶のうごめき/自己申告する歴史と、見られた歴史/年寄りが鉄パイプを持って突撃する/身体を担保した抵抗

ジャーナリスト・辺見庸氏と、評論家・佐高信氏の対談集です。元々は雑誌『週刊金曜日』の連載でしたが、さらにそれをふくらませたものです。ともに左派の論客として知られるお二人だけに、今をときめく人々をバッサバッサと斬りまくっています。

斬られている主な人々は以下の通り。敬称は略します。

まず、安倍晋三、麻生太郎、百田尚樹、籾井勝人、曾野綾子、田母神俊雄、長谷川三千子、小松一郎といった右寄り(極右?)の人々。それでいて、元産経新聞社長の住田良能などには高い評価。そうかと思えば、御厨貴、池上彰、姜尚中、古舘伊知郎、五木寛之、吉本隆明、大江健三郎といった人々もバッサバッサ。そういう意味ではバランスは取れています。

その対象は歴史的な人々にも及び、保田與重郎、石原莞爾、三島由紀夫、渡辺一夫、唐牛健太郎、斎藤茂吉らもメッタ斬りです。

光太郎も俎上に登っていますが、好意的に扱われています。

佐高 藤沢周平を思い出しました。一見すると穏やかな人ですが、珍しく講演で、同郷の歌人である斎藤茂吉を痛罵しているんです。その際、斎藤茂吉に高村光太郎を対置している。高村光太郎は戦中に戦争協力詩を書いたことを自己否定し、戦後しばらく花巻に隠棲する。それにくらべて斎藤茂吉は何の反省もしていない、と。(略)自己批判というものがなかった戦後日本の風景の中では、高村光太郎の自己否定には胸を打つものがありますよね。
辺見 そうですね。吉本(隆明)さんも高村光太郎の自己否定から出発しているところがあると思います。光太郎の反省の深さはおっしゃるとおり、「個」として過ちを引きうけている点でこの国では例外的ではないでしょうか。

ただし、おさえるところはきちんとおさえています。

辺見 でもぼくは、高村が自己否定に至るまでに相当の戦争協力詩を書いていることを決して見逃したくないんです。高村にかぎらず、たいていの詩人や作家がそうなんですが、戦争詩となると呆れるほど下手になるのですよ。なぜか。一つは、結局プロパガンダにすぎないからです。もう一つは、個人として十五年戦争の根っこと未来を見通す知性がなかったからです。それは日本の誰一人としてなかったと思う。これは無惨なことですよ。

逆に光太郎の戦争詩だけをことさらに取り上げて、「これぞ大和魂」などともちあげる愚昧なヘイトスピーカー、ヘイト出版社がありますが、そういう輩にこそ、この書を読んでほしいですね。

しかし、惜しむらくは出版のスピードが、世の中のスピードに追いつかないという点。昨年暮れの大義なき抜き打ち解散総選挙や、昨今のイスラム国の問題などはこの出版に間に合っていません。そういう意味でも続編を期待します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月6日

大正5年(1916)の今日、雑誌『美術週報』に、智恵子のエッセイ「女流作家の美術観」が掲載されました。

 批評は要らない、是非の批評はすべての004専門家にある、たゞ私には、なくて叶はぬものとしてある、この芸術を、考へるさへ、身にあまる幸福を感じられる。
 さまざまな時代に、まことの芸術家達が、それぞれ自身の生命を掘り下げて行つた。その作品は、いきていまも、私達の前に息づく、それ等のものは、魂をめざめさせる、恰も自然が私達をめぐむ恵のやうに、清らかに力強く、押迫つて透徹する、私はそれ等の彫刻を愛し、それ等の絵画を思慕してやまない。心の底からその作者を尊敬し、又は崇拝してゐる。
 ロダンはあらゆる時代の魂の積畳であつて、又海山の自然の反映であるとおもはれる。暁のやうなその作品は、暗い魂に、鋭い光りと優しい温味とを、ほのぼのと投げかける。ロダンをおもふことは私の、栄光である。セザンヌもまた、親しく自分のいまの生活に、糧となつて輝いてゐる、たくさんの星のなかで、この二人をかぞへて、今は、うらみとはしまい、その一つも、どれ程大きなことであらう。古くから、又それぞれの世に、光りは輝くのだ。私は愛念をもつて、それ等を仰ぎみて、よろこびにあふれる。
 そして近くこの日本の芸術にも、私はそれ等の美しい魂を見ることの出来る幸をものべておかう。

明らかに光太郎の影響が見とれる文章です。

毎週水曜日の夜に、NHK総合で放映されている「歴史秘話ヒストリア」。昨夜の放映終了後、公式サイトが更新され、来週の予定が出ました。以前にも書きましたが、いよいよ光太郎智恵子をメインに取り上げる「ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」が放映されます。 

歴史秘話ヒストリア第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」

NHK総合 2015年 2月11日(水)22:00~22:43   再放送 2月18日(水)0:40~1:25

彫刻家・高村光太郎と画家を目指す妻・智恵子。二人は貧しさにも負けず、芸術への夢を追い求めるが、その行く手には、あまりにも悲しく切ない運命が待っていた…。命をかけて貫き通した二人の愛が生み出した奇跡とは?詩集「智恵子抄」で知られる、日本史上類を見ない究極の愛の伝説をお届けする。

今からおよそ100年前の1914年(大正3年)12月、彫刻家、詩人の高村光太郎と、画家の卵である長沼智恵子が、実験的な同居生活をスタートさせた。婚姻届を出さず、夫婦別姓。家事を分担し、対等な人間同士として、それぞれの創作に打ち込んだ。絶えざる戦争のわずかな合間、自由な文化が花開いた大正という時代を追い風にした「愛の試み」だった。光太郎と智恵子は貧しさにも負けず、芸術への夢を追い求めるが、その行く手には、あまりにも悲しく切ない運命が待っていた。命を懸けて貫き通した二人の愛が生み出した奇跡とは何か。バレンタインデーを前に、詩集「智恵子抄」で知られる、日本史上類を見ない究極の愛の物語を紹介する。

出演 前田亜季 鈴木一真
キャスター 渡邊あゆみ


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昨夜の放送の最後に、次週予告が25秒間放映されました。公式サイトでも視聴可能です。

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それが始まった瞬間、テレビ画面を指さして叫んでしまいました。「俺のじゃん!」と。

何が、と言うと、これがです。

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昨夏、岩手花巻の㈶高村光太郎記念会様を通じ、当方に協力要請があり、ここに写っている『智恵子抄』の初版をお貸ししました。20数年前に神田の田村書店さんで購入したものです。それがいきなり写ったので、驚いた次第です。

ちなみに画面左の方、扉のページが開けてありますが、影になっている左下の部分に、元の所蔵者の方の小さな蔵書印が押してあります。それが何ともうまく隠してあり、妙に感心しました。

ところで、昨日発行のNHKさんの番組ガイド誌『NHKウイークリーステラ』にも、写真入りで紹介が載っています。一般の書店で販売されています。

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再放送が17日(火)となっていますが、正しくは日付が変わって18日(水)になった未明です。テレビ番組の時間設定は、25時とか26時とカウントし、翌日の未明までは前日からのつながりで表記する習慣になっています。

「再現ドラマなどを交え、2人の足跡をたどる。」とありますが、光太郎役は鈴木一真さん、智恵子役は前田亜季さんが演じられます。また、濵口奈菜さんという方も出演されるそうで、彼女のブログにその旨の記述があります。察するに、智恵子の姪で、看護師として智恵子を看取った長沼(のち宮崎)春子あたりの役ではないかと思われます。違ったらすみません。

以前、ディレクター氏から戴いたスケジュール表によれば、九十九里、犬吠埼、東京、二本松、花巻、そして十和田湖と、東日本縦断のロケが敢行されていますし、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生や、小説『智恵子飛ぶ』を書かれた作家の津村節子氏のインタビューも流れるはずです。

ご期待下さい!


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月5日

平成12年(2000)の今日、光村図書から中学校3年生用の国語の教科書『国語3』が発行されました。

平成9年(1997)から使用されていたものの改版で、平成12年度用です。国語学者・宮地裕氏の随筆「言葉はどこからどこへ」が掲載されました。これは、昭和22年(1947)の夏、学生だった宮地氏が、花巻郊外太田村の光太郎の山小屋を訪れた際の思い出を根幹としています。また、グラビアページには、関連してブロンズの「手」の写真も載りました。

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宮地氏の訪問は、「言葉はどこからどこへ」に、日付が明記されていませんが、8月19日でした。当日の光太郎日記は以下の通り。

花巻より青年二人(東京と黒沢尻の人)来る。宮澤清六さんより委托のトマト一個、金瓜一個、胡瓜、せんべい等もらふ。二時過ぎまで談話。辞去。宮澤賢治研究者。

宮地氏の名前は書かれていませんが、昭和22年の夏、さらに光太郎への手みやげ(紹介状代わりに宮澤清六が持たせてくれたそうです)の品目から、この日と断定できました。

「言葉はどこからどこへ」、平成14年(2002)から17年(2005)の教科書では掲載されませんでしたが、18年(2006)度版から「胸の底の人と言葉たち」と解題されて、1年生の教科書に復活し、23年(2011)まで載っていました。

東京は杉並区からの情報です。 

郷土史講座2月例会 「高村光太郎と智恵子 愛の詩を読みましょう」

【開  催  日】 2015年2月15日(日) 午後1時30分から午後3時30分
【開催場所】  阿佐谷地域区民センター 第4・5会議室  阿佐谷南1丁目47番17号
                            TEL 03-3314-7211(地域区民センター) 03-3314-7435(地域活動係) 
【講        師】 元都立武蔵・三鷹高校教諭 上島光正 
【対        象】 区内在住の方
【定        員】 80名(先着順)
【参  加  費】 500円
【申  込  み】 当日、直接会場へお越しください。
【問合せ先】  杉並郷土史会 会長 新村康敏 電話03-3397-0908 

杉並区といえば、「阿佐ヶ谷文士村」と言われ、太宰治をはじめ、数多の文人の足跡が残っています。光太郎は昭和27年(1952)から、亡くなる同31年(1956)まで、お隣中野区に住んでいました。その間、杉並区内で直接関わる場所は、浴風園という老人病院。こちらで正式に結核の診断を受けています。その他はちょっとすぐには思い当たりません。

さて、こういう形でも、光太郎智恵子をどんどん取り上げていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月2日

昭和28年(1953)の今日、中央公論社画廊で「高村智恵子紙絵展覧会」が始まりました。

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東京では、光太郎帰京前の昭和26年(1951)に開催されたのに続き、2度目でした。

1/28、今週水曜日の『朝日新聞』さんの千葉版に、以下の記事が載りました。 

千葉)福島の詩を希望の歌に 松戸の市民合唱団

 松戸市を拠点に活動する「東葛合唱団はるかぜ」が、6月の25周年記念コンサートで、東日本大震災と原発事故で大きな被害を受けた福島県の子どもらの詩に曲を付けた音楽構成作品「僕らの出番がきっとくる!」を歌う。1月から記念コンサートに向けた練習を始めた団員たちは、「子どもや大人の心が響き合うやさしい曲で、南相馬との架け橋になるコンサートにしたい」と意気込んでいる。

 「はるかぜ」は1989年に発足。2年に1回コンサートを開いており、12回目となる今回を25周年記念と位置づける。

 東日本大震災後、合唱団は2012年3月から南相馬市の仮設住宅を訪れ、歌による交流を続けている。訪問は10回を超え、交流が深まるにつれ心の中を打ち明けてくれる人も増えてきた。母を一人仮設住宅に残し南相馬を離れて申し訳ないとわびる、娘からの手紙を見せてくれたお年寄りもいる。「はるかぜ」団長の太田幸子さん(68)は「まだまだたいへんなのに、私たちが逆に、福島の人たちに生きる力強さを教えられることも多い」と話す。

 そんな団員たちが、14年4月に紹介されたのが、福島県の子どもたちが17字の詩に家族や地域で経験したさまざまなこと、その時の思いなどを表現した文集。同県教育委員会が02年度から取り組んでいる「十七字のふれあい事業」で、子どもが五・七・五で作った詩に、家族や地域の大人らが返歌したものが一つの作品になる。手にした南相馬など相双(そうそう)地域の10~13年度の文集には、亡くなった家族や友人、離れて暮らす古里への思い、悲しみの中で希望を見つけてなんとか前を向こうとする気持ちなどを表現した作品が詰まっていた。

 家の跡涙をふいて手をつなぐ(中学3年) 大津波心の痛みも連れていけ(祖父)
 ほうしゃのうひなん先から祖母思う(小学5年) 大震災離れてわかる家族愛(祖母)
 十年後僕らの出番がきっとくる(小学4年) その笑顔明るい未来の道開く(母)

 記念コンサートでは団員たちが選んだ18作品を取り上げる。詩には合唱団の指揮者で作曲家の安藤由布樹さん(53)=東京都=が曲を付けた。

 1月18日、明市民センターでの第1回練習には団員や、作品を歌うために集まった市民ら約80人が参加。練習中、安藤さんは、高村光太郎の詩集「智恵子抄」を例に挙げ、団員たちに「古里の福島を自慢した智恵子がもしかしたら立ち、美しいと感じていたかも知れない場所に、今は放射線量を知らせるメーターがある。その思いを込めて歌おう」と呼びかけた。

 記念コンサートは6月7日、森のホール21(松戸市千駄堀)。合唱の参加者も募集中。問い合わせは太田さん(047・384・4759)。(小渕明洋)

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もうあと1ヶ月ほどで、「あの日」から4年になります。しかし、進まぬ復興、反比例して風化する記憶、被災地とそれ以外の温度差、逆行する政策……。そうした中で、こういう取り組みには頭が下がります。

同じ1/28の『朝日新聞』さんの、全国版社会面には、やはり福島の被災者の方々が作った詩について、以下の記事が載りました。

吉永小百合さんが朗読 原発被災者らの詩をCDに

 原爆投下と終戦の年に生まれ、広島・長崎004の原爆詩の朗読を続けてきた俳優の吉永小百合さん(69)が福島第一原発事故の被災者らの詩を朗読し、CDに収録した。「第二楽章 福島への思い」と題し、東日本大震災から4年になる3月11日に発売される。吉永さんは「今も故郷に戻れない福島の方たちの思いを私たちみんなで受け止め、寄り添えれば」と願っている。

 吉永さんは1986年、戦争や原爆の過ちを二度と起こさないために原爆詩の朗読活動を始め、97年に「第二楽章」(広島編)、99年に「第二楽章 長崎から」のCDを出した。2006年には「第二楽章 沖縄から」も作製。「第二楽章」の名には「戦後50年を経た今は第一楽章ではなく第二楽章。声高ではなく、柔らかい口調で語り継いでいきたい」との思いがこもる。

 3・11以降は、福島での被災後にツイッターで発信し続けた和合亮一さんや福島県富岡町を追われた佐藤紫華子(しげこ)さんらの詩も朗読。広島と長崎、沖縄、そして福島で起きたことを「忘れない、風化させない、なかったことにしない」とする吉永さんは、福島の人々の詩を「CDに」との思いを募らせていた。

 吉永さんはCD収録前の昨年末、帰還困難区域がある福島県葛尾(かつらお)村を訪れた。今月、東京都内で取材に応じた吉永さんは「一回行ってみないと本当の悲しみが分からないんじゃないかと思って。想像以上のショックでした。もうすぐ4年なのに何も変わってない」と語り、心を痛めていた。

 さらに「今3・11の事故後に思うのは、これだけ小さな国で、地震がいっぱいある風土で、原発というのはやめてほしい、と私は思いますね。人間が安全に暮らしていくためには、もっともっと私たちが工夫しなければいけないと思うんです」と強調した。
     ◇
 「第二楽章 福島への思い」の詩は23編。和合さんの詩や和合さんが指導する「詩の寺子屋」の子どもたちの作品など約300の最終候補から吉永さんが選んだ。音楽は尺八演奏家の藤原道山(どうざん)さん(42)に依頼した。CDはJVCケンウッド・ビクターエンタテインメントから発売。挿絵はスタジオジブリ作品の美術監督を務めた男鹿和雄さん。

 3月10日には東京・千駄ケ谷の津田ホールで「吉永小百合朗読会」を開く。CDつき5千円。公演の問い合わせは日本伝統文化振興財団(03・3222・4155)、チケット予約は0570・08・0089へ。


もしかしたら光太郎がらみ、「智恵子抄」がらみの詩も含まれているかと期待しています。というのも、和合亮一氏が関係されているためです。氏はやはり光太郎ファン的なところがありますので、このブログにもたびたびご登場いただいています。


まあ、そうでなくとも素晴らしい取り組みです。吉永さん、ありがとうございます。

ちなみに3月10日の朗読会のチケットは既に完売しています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月31日

明治43年(1910)の今日、光雲が東京美術学校校長代理を命ぜられました。

正木直彦校長が英国出張ということで、その間の措置でした


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こちらに伺うのは、平成15年(2003)年に「高村光太郎・智恵子展」が開催されて以来ですので、12年ぶりでした。

一昨日は、当方の住む南関東でも朝方に少し雪が積もり、今日は雨です(都心では雪のようですが)。しかし昨日はよく晴れていたので、助かりました。

館内に入って、突きあたりの大きな窓にプリントされた心平の詩「猛烈な天」そのままの青空でした。

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     猛烈な天

 血染めの天の。
 はげしい放射にやられながら。
 飛び上がるやうに自分はここまで歩いてきました。
 帰るまへにもう一度この猛烈な天を見ておきます。

 仮令無頼であるにしても眼玉につながる三千年。
 その突端にこそ自分はたちます。
 半分なきながら立つてゐます。
 

 ぎらつき注ぐ。
 血染めの天。
 三千年の突端の。
 なんたるはげしいしづけさでせう。

さて、「平成26年度所蔵品展 草野心平と高村光太郎 往復書簡にみる交友」。

タイトルに「往復書簡」とあるように、メインは光太郎と心平の間に交わされた約40通の書簡でした。期間は昭和23年(1948)から同27年(1952)、光太郎が花巻郊外太田村の山小屋に隠棲していた時期のものです。

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展示された光太郎から心平宛の書簡は、全て筑摩書房『高村光太郎全集』第15巻に収録されているもの。心平から光太郎宛の書簡は二玄社から刊行され、のち講談社文芸文庫で再刊された心平の『わが光太郎』に収録されています。

したがって、初めて読むものではないのですが、やはり一通ごとの細かな内容までは暗記していませんでしたし、何よりバラバラに読むのではなく、往復書簡として交互に読むことで、一連のドラマのように感じました。また、やはり活字で読むよりも、自筆の筆跡として読む方がはるかに両者の体温、息づかいといったものが伝わってきます。もっとも、見慣れた光太郎の筆跡はともかく、心平の字は達筆すぎて中々読めませんでした。しかし、パネルに活字で翻刻してあり、助かりました。

ちょっと驚いたのは、心平から光太郎宛の書簡の多くに、光太郎の筆跡で年月日がメモしてあること。ある意味几帳面な光太郎の性格が見て取れます。

自らの戦争責任を恥じて岩手の山中に隠棲する光太郎に、心平は繰り返し帰京を促しています。しかし光太郎は、何やかやと理屈をつけ(時には屁理屈も)、かわしています。最終的には十和田湖畔の裸婦群像(通称「乙女の像」)制作のため、帰京することになるのですが、そこにいたるまでの光太郎の内面がよく読み取れます。読んでいて、涙が出そうになりました(笑)。

その他、両者がお互いのために手がけたりした書籍、雑誌の類、心平の自筆の日記、光太郎の彫刻も並んでいました。

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改めて二人のつながりの深さが実感できました。

その後、常設展を拝見。以前に訪れた時よりも凝った展示になっており、感心しました。

3月22日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月30日

昭和24年(1949)の今日、眞善美社から新日本文学会詩研究会編『近代詩人研究』が刊行されました。

岡本潤が概論を書き、光太郎、藤村、鉄幹、白秋、朔太郎、賢治、啄木ら10人の詩人について、秋山清、小野十三郎らが論じています。光太郎の項は、遠地輝武が執筆しました。

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まずは新刊紹介です。

YAMAKEI CREATIVE SELECTION Frontier Books 山小町 -恋-

やぎた 晴著   山と渓谷社刊   発売日:2014年12月19日   定価 1,900円+税

版元サイトより

雄大な山に抱かれて成長するひとりの女性の姿を描く山岳小説。

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京都在住の保母にして山ガール・佳子と、安曇野出身で現在は東京でサラリーマン生活を始めた春生。ともに思い立って単独行に入った北アルプスで出会い、恋に落ちるというストーリーです。

台風の接近に伴う暴風雨に見舞われ、ハラハラドキドキの展開になります。このあたり、「タイタニック」を髣髴とさせますが、貴族の娘とプータロー、大惨事といったケレン味はなく、あくまで現実にありそうな話です。

また、明記されてはいませんが、昭和40年代が舞台のようで、レトロ感もあふれています。「歌声喫茶」「ラッパズボン」「おさげ髪」etc。

上高地も舞台の一つとなります。そこで、大正2年(1913)、光太郎智恵子が婚前旅行で上高地に1ヶ月程をともにしたことに、少しだけ触れられています。

ところで驚いたのは、オンデマンド出版であること。デジタル版と紙媒体があり、紙媒体の方は注文を受けてから製本、発送するというシステムになっています。楽譜などは以前からそういう形態で販売されていますが、通常の書籍もこうなってきたか、という感じです。

ところで「上高地」ということでもう1件。005

『山小町―恋―』版元の山と渓谷社刊行の雑誌『山と渓谷』と並ぶ有名な山岳雑誌に『岳人』があります。来月発行の3月号で、「言葉の山旅 山を詠う―上高地・北アルプス編―」という特集が組まれます。

今月号に載った次号予告には、「山を想えば人恋し、人を想えば山を恋し」。山々は時代を問わず人の心をひきつけてやまない。山を詠い、人を詠い、自らの心を詠う。詩人たちが綴る言葉の世界に導かれ、山へ思いを馳せてみませんか。」とあります。

この中で、光太郎智恵子も扱われます。実は、岩手花巻の㈶ 高村光太郎記念会さんを通じ、当方に執筆依頼がありました。光太郎詩文と拙稿とで8ページ程になります。

光太郎智恵子以外には、若山牧水を取り上げるそうです。

発売は2月14日。大きな書店なら店頭に並びますし、アウトドア用品メーカーのモンベルのショップにも並びます。また、ネット通販でも入手可能。ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月29日

大正5年(1916)の今日、美術評論家の坂井犀水の慰労会に出席、彫刻「ラスキン胸像」を贈りました。

下記は当時の『読売新聞』です。

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「ラスキン胸像」は、ニューヨークで光太郎が師事したガットソン・ボーグラムの模刻です。

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まずはテレビ放映情報です。 

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2015年1月30日(金)  6時35分~6時45分  再放送 17時15分~17時25分
 
2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。今回は、ひこうきさんようしゅんしゅん旬~冬~/ゆきまつり、絵あわせかるた/きっぱりと冬が来た「冬が来た」高村光太郎、擬音アニメ/ちろんろん(粉雪)、うた/ペチカ、こころよ。
出演者 神田山陽,うなりやベベン,おおたか静流 ほか

1月16日に放映された内容と、全く同一のようです。光太郎の詩「冬が来た」が繰り返し扱われました。

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こういう番組を見て童心に返るのもいいものです。

ところで、ふと気になって、この番組の公式サイトを見てみたところ、新作のDVDが出ていました。光太郎がらみが2種類です。 

にほんごであそぼ ありがとう・童謡

販売価格 3,024円(税込) 004
 
人気幼児番組「にほんごであそぼ」最新の“うたのベスト”人気の番組オリジナル曲を集めた楽曲群と古くから歌い継がれてきた童謡をそれぞれ20曲収録した豪華版!

 【収録内容】
■オリジナル曲
ベベンのありがとう/とんでれみら/すずめのこ/ちゃわんむしのうた/雲/山のあなた/らららのら/ええじゃないか日本/いろは!/竹/ことわざしりとり/やまなし/ふるさとのうた/きりぎりすの山登り/道程/キックキックトントン/でんでらりゅうば/さよなら/小さき者へ/サーカス (全20曲)

■童謡
早春賦/朧月夜/あわて床屋/ずいずいずっころばし/茶摘み/毬と殿さま/マーチング・マーチ/夏は来ぬ/浜辺の歌/夕日/鉄道唱歌/どじょっこふなっこ/村祭/故郷/通りゃんせ/旅愁/冬景色/スキー/ペチカ ほか (全20曲)

【出演】
うなりやベベン、おおたかしずる、小錦八十吉、松元ヒロ、ラッキィ池田、藤原道山、立川志の輔、こどもたち ほか

【特典映像】
「珍・だくだく」(立川志の輔のオリジナル落語)

○2012~2014年 放送 収録時間本編80分+特典10分/16:9LB/ステレオ・ドルビー/カラー

「道程」は坂本龍一さんの作曲です。以前にご紹介した「にほんごであそぼ~元気コンサート in福島」というDVDにも収録されています。哀愁を帯びたジャジーなメロディーで、子供向けだからといっての妥協がありません。
販売価格 3,024円(税込) 

小錦八十吉、野村萬斎、おおたかしずる、うなりやベベンに加え、古典芸能の重鎮たちが勢ぞろい。豪華キャストでお届けします!好評の童謡や文楽もDVD初登場!

【収録曲】005
・なぞなぞなーに ~見えぬけれどもあるんだよ~
・うれしやかぶき ~知らざぁ言って・石川五右衛門~
・朧月夜
・おくのほそ道 ~春~
・うなりやベベンの平家物語
・茶摘み
・そうとうほんきの助数詞マンボ
・はやくち音頭
・まんじゅうこわい ~落語より~
・なぞなぞなーに ~牛が鳴きながら~
・ポッシャリ、ポッシャリ ~「十力の金剛石」~
・吾れ十有五にして…
・なぞなぞなーに ~うつくしや~
・じゅげむじゅげむ(アニメバージョン)
・おくのほそ道 ~夏~
・鉄道唱歌
・草にすわる
・蟻とイナゴの事
・なぞなぞなーに ~ひとつの愛~
・たのしやかぶき ~切られ与三・武蔵坊弁慶~
・ベベンの冬が来た
・夕日
・星めぐりの歌(コニちゃんバージョン)
・ベベンの草枕 

【出演】
小錦八十吉/神田山陽/市川亀治郎/豊竹咲甫大夫/鶴澤清介/桐竹勘十郎
野村萬斎/万作の会/うなりやベベン/おおたかしずる/こどもたち

【特典映像】
・文楽:春雨じゃ…/駆け込み訴え/世界は一つの…/小さき者へ
・萬斎:私と小鳥と鈴と/からだことば(目)/ややこしや ~堕落論~/合点か(はじめちょろちょろ)/かなしみはちからに
・元気コンサート!(未放送映像)


○2011年 放送 収録時間本編49分+特典25分

「ベベンの冬が来た」は、1/30の放映でも流れます。こちらは楽しいロック調です。

こういうものを介し、幼少時から日本の有名な文学作品等に親しむことも大切だと思います。特に子育て中の方、ぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月28日007

平成4年(1992)の今日、東京渋谷の津田ホールで「第7回森田澄夫テノールリサイタル」が開催されました。

第一ステージが、「――愛と狂気、そして戯れ――」と題され、中島はる作曲の歌曲「智恵子抄」(委託初演 「人に」「樹下の二人」「千鳥と遊ぶ智恵子」「レモン哀歌」)、別宮貞夫作曲の歌曲「智恵子抄」(抜粋―「人に」「あどけない話」「
人生遠視」「山麓の二人」「レモン哀歌」)が演奏されました。

プログラムには北川太一先生の玉稿「弾む期待――森田澄夫氏の『智恵子抄』に寄せて――」も掲載されました。

長野県の松本平地区で発行されている『市民タイムス』という地方紙があります。そちらの一面コラム「みすず野」で、昨日、光太郎に触れて下さいました。 

みすず野 1月23日(金)

雪はしんしんと降る、と言う。雨はさんさん、ざんざんであり、日はさんさんと照る、と言う。日本語の表現は多様で、美しく、趣深い。雪のしんしんは、漢字では「深深」、夜がしんしんと更ける、しんしんと冷えると同じで、ひっそり静まり返るさまを表す◆確かに、雪が降り積もる日は、昼間でも車のエンジン音など音が吸い込まれて、とても静かである。「雪白く積めり。/雪林間の路をうづめて平らかなり。/ふめば膝を没して更にふかく/その雪うすら日をあびて燐光を発す。(後略)」と詠ったのは、詩人で彫刻家の高村光太郎だ◆光太郎は、昭和20(1945)年4月の東京空襲で焼け出され、宮沢賢治との縁で岩手花巻に疎開、敗戦後は花巻郊外の山小屋に移り、独り農耕自炊の生活を7年間続けた。冬は深い雪に閉ざされ、つらく厳しいものだったが、自らに戦争責任の罪を科した。「雪白く積めり」の詩には、その覚悟が込められている◆中信地方も湿った雪が降り、交通機関は乱れ、多くの人が雪かきに追われた。山間部は大雪だろう。高齢者宅など心配になる。車の運転に焦りは禁物、余裕を持って出勤を。
 
 
引用されている詩「雪白く積めり」は昭和20年(1945)、花巻郊外太田村の山小屋に移って間もない頃に書かれたものです。この詩を刻んだ碑が、のちに山小屋近くに建てられ、毎年5月15日には、この碑の前の広場で光太郎を偲ぶ高村祭が行われています。
 
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こちらが、光太郎が暮らしていた当時の山小屋の写真。
 
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こちらは去年の今頃の山小屋の写真です。
 
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この冬は、東北でも信越方面でも積雪量が多く、雪崩などの被害もかなり報道されています。暦の上ではもうすぐ立春。気温はまだまだ低い状態ですが、昼間の陽射しには、確実に春の息吹が感じられます。雪国の皆さん、もう少しの辛抱です。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月24日

昭和28年(1953)の今日、終の棲家となった中野のアトリエに、十和田湖畔の裸婦群像制作のための機材、資材類が届きました。
 
当日の日記から。
 
大宮工作所より回転台、心棒届く、又板も届く、 小坂さんくる、とりつけ夕方になる、
 
「小坂さん」は小坂圭二。裸婦像制作の際に助手を務めた、新制作派所属の彫刻家です。下の画像、左の人物です。
 
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「回転台」は、上の画像で、像の足もとに写っています。もともと軍用で、高射砲の台座に使われていたものだということです。

今週火曜日の『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」が、光太郎に触れて下さいました。 

風時計 2015.1.13

戦後、岩手には1万戸もの開拓農家が入植した。開拓5周年の労苦をたたえ、1950年に高村光太郎が寄せた詩がある
▼<宮沢賢治のタンカルや源始そのものの石灰を唯ひとつの力として、何にもない終戦以来を戦つた人がここに居る>(開拓に寄す)。タンカルとは宮沢賢治が名付けた肥料用の炭酸石灰。晩年の賢治は土壌を改良するため、この普及に命を懸けた
▼志半ばで逝ったが、その尽力は戦後の開拓で花開いたと言える。光太郎が記すように、酸性の火山灰土壌と闘う人々はタンカルを力とした。岩手の開拓者たちは、まず土を変え、不毛の荒れ地を豊かな耕地に一変させた
▼国連の「国際土壌年」の今年、土が大きな国際テーマになる。世界にある農地の半分で土が劣化し、1年に砂漠化する面積は日本の国土の3割に及ぶ。食料供給の危機でありながら忘れられた資源にようやく光が当たる年だ
▼賢治は酸性土を「病土」とみて健康にしようとした。国際年の標語「健全な暮らしは健全な土地から」に通じる。厳しい現状でも、救いは日本の技術が途上国の土壌改良に役立っていることだろう
▼開拓10年に光太郎は再び寄せた。<見わたすかぎりはこの手がひらいた十年辛苦の耕地の海だ>。知と技で、病土を耕地の海にする。それに勝る国際貢献はなかろう。
 
 
引用されている詩は二つ。まず、昭和25年(1950)に盛岡市で行われた岩手県開拓五周年記念開拓祭に寄せた「開拓に寄す」。

   開拓に寄す000
 
岩手開拓五周年、
二万戸、二万町歩、
人間ひとりひとりが成しとげた
いにしへの国造りをここに見る。
 
エジプト時代と笑ふものよ、
火田の民とおとしめるものよ、
その笑ひの終らぬうち、
そのおとしめの果てぬうちに、
人は黙つてこの広大な土地をひらいた。
見渡す限りのツツジの株を掘り起こし、
掘つても掘つてもガチリと出る石ころに悩まされ、
藤や蕨のどこまでも這ふ細根(ほそね)に挑(いど)まれ、
スズラン地帯やイタドリ地帯の
酸性土壌に手をやいて
宮澤賢治のタンカルや
源始そのものの石灰を唯ひとつの力として、001
何にもない終戦以来を戦つた人がここに居る。
 
トラクターもブルドウザも、
そんな気のきいたものは他国の話、
神代にかへつた神々が鍬をふるつて
無から有(う)を生む奇蹟を行じ、
二万町歩の曠土(あかつち)が人の命の糧(かて)となる
麦や大豆や大根やキヤベツの畑となつた。
さういふ歴史がここにある。
 
五年の試煉に辛くも堪へて、
落ちる者は落ち、去る者は去り、
あとに残つて静かにつよい、
くろがね色の逞ましい魂の抱くものこそ
人のいふフランテイアの精神、
切りひらきの決意、
ぎりぎりの一念、
白刃上(はくじんじやう)を走るものだ。
開拓の精神を失ふ時、002
人類は腐り、
開拓の精神を持つ時、
人類は生きる。
精神の熱土に活を与へるもの、
開拓の外にない。
 

開拓の人は進取の人。
新知識に飢ゑて
実行に早い。
開拓の人は機会をのがさず、
運命をとらへ、
万般を探つて一事を決し、
今日(けふ)は昨日(きのふ)にあらずして
しかも十年を一日とする。
心ゆたかに、
平気の平左(へいざ)で
よもやと思ふ極限さへも突破する。
開拓は後(あと)の雁(がん)だが
いつのまにか先の雁になりさうだ。
 
開拓五周年、
二万戸、二万町歩、
岩手の原野山林が
今、第一義の境(さかひ)に変貌して
人を養ふもろもろの命の糧を生んでゐる。
 
 
この詩の一節を刻んだ碑が、花巻郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)近くに建っています。昭和51年(1976)建立の「太田開拓三十周年記念碑」です。
 
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もう一篇の「開拓十周年」は、昭和30年(1955)にやはり盛岡市の県教育会館で行われた岩手県開拓十周年記念大会に寄せたものです。
 
  開拓十周年
 
赤松のごぼう根がぐらぐらと003
まだ動きながらあちこち残つていても、
見わたすかぎりはこの手がひらいた
十年辛苦の耕地の海だ。
 
今はもう天地根元造りの小屋はない。
あそこにあるのはブロツク建築。
サイロは高く絵のようだし、
乳も出る、卵もとれる。
ひようきんものの山羊も鳴き、
馬こはもとよりわれらの仲間。
 
こまかい事を思いだすと
気の遠くなるような長い十年。
だがまた、こんなに早く十年が
とぶようにたつとも思わなかつた。
はじめてここの立木へ斧を入れた時の
あの悲壮な気持を昨日のように思いだす。
歓迎されたり、疎外されたり、
矛盾した取扱いになやみながら004
死ぬかと思い、自滅かと思い、
また立ちあがり、かじりついて、
借金を返したり、ふやしたり、
ともかくも、かくの通り今日も元気だ。
 
開拓の精神にとりつかれると
ただのもうけ仕事は出来なくなる。
何があつても前進。
一歩でも未墾の領地につきすすむ
精神と物質との冒険。
一生をかけ、二代、三代に望みをかけて
開拓の鬼となるのがわれらの運命。
食うものだけは自給したい。
個人でも、国家でも、
これなくして真の独立はない。
そういう天地の理に立つのがわれらだ。
開拓の危機はいくどでもくぐろう。
開拓は決して死なん。
 
開拓に花のさく時、
開拓に富の蓄積される時、
国の経済は奥ぶかくなる。
国の最低線にあえて立つわれら、
十周年という区切り目を痛感して
ただ思うのは前方だ。
足のふみしめるのは現在の地盤だ。
静かに、つよく、おめずおくせず、
この運命をおおらかに記念しよう。
 
 
どちらも晩年の作。智恵子の死や戦争や、さまざまなことを経てたどりついた境地が表されています。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月16日

昭和3年(1928)の今日、『東京日日新聞』に、散文「日本家庭大百科事彙」が掲載されました。
 
書肆・冨山房により前年から刊行が開始された「日本家庭大百科事彙」の書評です。同書は日本女子大学校での智恵子の先輩で、光太郎と智恵子の間を取り持った柳八重が家事家政方面の編集に当たり、自らも執筆しています。他に、光雲(木彫)、豊周(工芸美術、室内装飾)も執筆者に名を連ねました。
 
ところで日本女子大学校といえば、NHKさんの今年後期の連続テレビ小説(朝ドラ)が、同校の設立に奔走した女性実業家・広岡浅子が主人公の「あさが来た」となることが発表されました。
 
広岡は、光太郎がその胸像を作った同校初代校長成瀬仁蔵や、柳八重、さらに同じく智恵子の先輩・小橋三四子などとも深いつながりがありました。もしかすると智恵子や光太郎も登場するかも、と期待しています。

毎週水曜日の夜に、NHK総合で放映されている「歴史秘話ヒストリア」。昨夜の放映終了後、公式サイトが更新され、来月の予定が出ました。以前にもちらっと書きましたが、いよいよ光太郎智恵子をメインに取り上げる「ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」が放映されます。
 
元々、昨年11月にオンエアの予定でしたが、台風接近に伴う災害報道のため、予定がずれ、「愛の詩集」ということで、バレンタインデー近くに持ってくることにしたそうです。 

歴史秘話ヒストリア ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」

NHK総合 2015年 2月11日(水)22:00~22:43   再放送 2月18日(水)深夜
キャスター 渡邊あゆみ
 
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昨年の夏に、花巻の高村光太郎記念会様を通して、この番組を制作しているNHK大阪放送局から協力要請があり、ディレクター氏に千葉の当方自宅兼事務所にお越し頂き、光太郎智恵子ゆかりの犬吠埼、九十九里浜のロケハンに同行しました。また、取材先等をご紹介、光太郎の著書や関係する写真を提供しました。
 
公式サイトでは、今のところサブタイトルだけの予告ですが、ロケは他にも福島二本松や花巻、十和田湖等で行われ、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生や、小説『智恵子飛ぶ』を書かれた作家の津村節子氏などへのインタビューもあり、なかなかいい出来になっているはずです。
 
詳細が出ましたら、またご紹介します。
 
 
その他、いくつかテレビ放映の情報を。 

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 2015年1月16日(金)  6時35分~6時45分  再放送 17時15分~17時25分
 
2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。今回は、ひこうきさんようしゅんしゅん旬~冬~/ゆきまつり、絵あわせかるた/きっぱりと冬が来た「冬が来た」高村光太郎、擬音アニメ/ちろんろん(粉雪)、うた/ペチカ、こころよ。
出演者 神田山陽,うなりやベベン,おおたか静流 ほか 

聖火リレー戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 知の巨人たち 第5回

NHKEテレ2015年1月17日(土)午前0時00分~午前1時30分(金曜深夜)

戦後の言論界を走り続けた思想家・吉本隆明。個の自立を説き、大学紛争の時代、若者たちの支持を得た。独自の思想を上野千鶴子さん、高橋源一郎さん他の証言で見つめる。.
 
戦後の言論界を走り続けた思想家・吉本隆明。六〇年安保闘争では学生の先頭にたって国会に突入。68年の大学紛争時には、代表作『共同幻想論』を発表。個としての思考の自立を説き、若者の圧倒的な支持を得た。高度消費社会を前向きにとらえ、大衆の行動に意味を見出した吉本。常に常識を疑い、権威と闘ったその軌跡を社会学者・西部邁さん、上野千鶴子さん、橋爪大三郎さん、作家・高橋源一郎さんら幅広い証言で見つめていく。
 
出演者 語り 守本奈実   朗読 古舘寛治
 
1/10にあった本放送の再放送です。見逃した方はぜひご覧下さい。吉本の思想的源流の一つに、光太郎の戦争詩に関する考察があることが語られます。北川太一先生ご夫妻もご登場。
 
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美の巨人たち 森田藻己『竹の中の大工』

テレビ東京 2015年1月17日(土)  22時00分~22時30分
再放送 BSジャパン 2月18日(水)23時00分~23時30分
 
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毎回一つの作品にスポットを当て、そこに秘められたドラマや謎を探る美術エンターテインメント番組。今日の作品は、超絶技巧の根付、森田藻己(もりた・そうこ)作『竹の中の大工』。今ジャパニーズアートとして人気を博している、ひもの端に付ける留め具・根付。大正・昭和の藻己の活躍によって進化を遂げたといいます。手のひらに収まる大きさのこの根付は竹筒のような細工が施され、中をのぞくと大工さんの姿が…。ひとつの木片から彫り上げられたのですが一体どうやって彫ったのか?そこには伝説の根付師ならではのもくろみが。
 
ナレーター 小林薫
音楽 <オープニング・テーマ曲> 「The Beauty of The Earth」 作曲:陳光榮(チャン・クォン・ウィン) 唄:ジョエル・タン  <エンディング・テーマ曲> 「India Goose」 中島みゆき
 
 
森田藻己は光雲とも交流のあった根付師です。光雲がらみの話が出ればいいのですが……。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月15日

昭和26年(1951)の今日、岩手水沢町(現・奥州市)の文化ホールで、成人式の講演をしました。
 
「成人の日」は昭和23年(1948)に制定され、永らく1月15日でした。
 
昨今の幼稚な新成人の乱行を、泉下の光太郎はどう思うのでしょうか。

劇作家・平田オリザさん率いる劇団青年団さんの舞台「暗愚小伝」、東京公演が昨秋行われましたが、西日本に巡回です。兵庫県伊丹市と、香川県善通寺市で、ほぼ連続して行われます。 

青年団第73回公演 『暗愚小傳』伊丹・善通寺公演

伊丹公演 2015年1月16日(金)- 1月19日(月) 5ステージ
AI・HALL(伊丹市立演劇ホール) 兵庫県伊丹市伊丹2-4-1 

善通寺公演 2015年1月22日(木)- 1日24日(土) 3ステージ
四国学院大学ノトススタジオ 香川県善通寺市文京町3-2-1
 
作・演出:平田オリザ
高村光太郎と智恵子の生活を素材に、変わりえぬ日常を縦軸に、文学者の戦争協力の問題を横軸に、詩人の守ろうとしたものを独特の作劇で淡々と描く・・・。平田オリザ90年代初期の名作、10年ぶり、三回目の再演。

出演
山内健司 松田弘子 永井秀樹 川隅奈保子 能島瑞穂 堀 夏子 森内美由紀 木引優子 伊藤 毅 井上みなみ 折原アキラ 佐藤 滋
 
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一昨日の『毎日新聞』さんの大阪夕刊に伊丹公演の紹介記事が載りました。  

暗愚小傳:高村光太郎描く、平田オリザ初期作

毎日新聞 2015年01月08日 大阪夕刊
 劇作家の平田オリザが率いる劇団「青年団」が、平田の初期の代表作「暗愚小傳(あんぐしょうでん)」(平田演出)を16〜19日、兵庫県伊丹市のアイホールで上演する。
 10年ぶり3度目の再演。舞台は、詩人の高村光太郎(1883〜1956)と妻が暮らす自宅アトリエ。新婚時代、智恵子の発病、智恵子の死と戦争、戦後の隠遁(いんとん)−−の4場面を通して高村の等身大の生活を描く。平田は「高い知性を持つ詩人が、なぜ戦争詩を書いてしまったのか。20代の時からそれを考えていて書いた戯曲」と言う。5回公演。3000円、学生・65歳以上2000円、高校生以下1500円。同ホール(072・782・2000)。【畑律江】
 
 
西日本のみなさん、ぜひどうぞ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月10日
 
平成10年(1998)の今日、二玄社から『高村光太郎 美に生きる』が刊行されました。
 
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版元サイトから
 
光太郎の生涯を、形成、反逆、美に生きる、生命の大河の4章に分け、その彫刻、デッサン、書など主要な美術作品の写真と、詩文、評論などから選りすぐった文章で浮き彫りにする、画期的画文集。明治、大正、昭和の三代を生き抜いた、巨人の足跡。
 
現在でも新刊で入手できます。定価は2,800円+税です。
 
故・高村規氏撮影の写真をふんだんに使い、主に造形作家としての光太郎の生涯を俯瞰するものです。いつもながらに北川太一先生の解説「美を追う人」が見事です。
 
ちなみに当方、今日は東京本郷にて、北川太一先生を囲む新年会に行って参ります。

新刊です。  

空の走者たち

増山実著 2014/12/08 角川春樹事務所  定価 1600円+税
 
2020年4月18日――。通信社の若手記者・田嶋庸介は興奮していた。陸運から発表された東京オリンピック女子マラソン日本代表3名の中に、円谷ひとみの名があったからだ。田嶋が7年前にこの少女と出会ったのは、福島県須賀川市。そこは、1964年の東京オリンピックマラソンで銅メダルを獲得した円谷幸吉と、ウルトラマンの生みの親・円谷英二の故郷であった。当時の円谷ひとみは、陸上をやめ、自分のやりたいことが見えずに暗中模索中の高校2年生。なぜ彼女は、日本を代表するランナーへと成長できたのか。その陰には、東京オリンピックと「あどけない青空」によって結ばれた、不思議な出会いがあった……。須賀川、宝塚、東京、ハンガリー。どんなに雨が降り続こうとも、いつか必ず見えるはずの青空を思い、それぞれの空の下を懸命に駆け抜けた走者たちの物語。
 
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主な舞台は福島県須賀川市。光太郎の「智恵子抄」に収められた「あどけない話」が重要なモチーフになっています。
 
昭和39年(1964)の東京五輪・男子マラソン銅メダリスト円谷幸吉、「特撮の神様」・円谷英二。ともに須賀川の出身で、親戚だそうです。さらに『おくのほそ道』の旅で須賀川を訪れた松尾芭蕉や、東日本大震災で被災した架空の少女たちが織りなす物語。クライマックスは平成32年(2020)の2度目の東京五輪。平成25年(2013)、昭和40年(1965)、そして元禄2年(1689)。それぞれの須賀川をつなぐキーワードが「空」。さらにはマルセル・プルースト『失われた時を求めて』、坂本九、ゴジラ、ザ・ビートルズ、銭湯、大阪万博……。
 
スポ根的要素、SF的要素、昭和懐古的要素、震災復興支援的要素と、てんこ盛りの一冊です。
 
ぜひお買い求めを。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月8日

昭和28年(1953)の今日、終の棲家となった中野のアトリエで、煙突掃除をしました。
 
十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)を制作していた時期で、この日は午前中に手の試作を仕上げています。夕方から、詩人の藤島宇内に手伝ってもらって、煙突掃除。これはストーブからつながっていたものでした。
 
最近は、レンガ造りのイミテーションを除き、一般家庭で「煙突」という物体を見ることがほぼなくなりましたね。

近刊です。 

近代文学草稿・原稿研究事典

日本近代文学館編/編集委員:安藤宏・栗原敦・紅野謙介・十重田裕一・中島国彦・宗像和重
八木書店発行
予価(本体予価12,000円+税)
A5判・上製本・カバー装 420頁
 
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完成された作品では分からない、近代文学研究に不可欠な作品の生成過程を明らかに
 
<内容説明>
 第一部から第三部では、作家の原稿に接する楽しさ、原稿用紙・筆記用具の変遷、原稿から印刷出版に於ける様々な過程、代作・検閲などの実態、古書店による発掘・流通などについての論考を収める。
 第四部では、65人の作家の事例を具体的に取り上げた。原稿の残存状況、所蔵機関、使用原稿用紙の変遷などを記し、多数の原稿図版を掲出した。原稿用紙に加除訂正をはじめとする様々な情報から、活字化された本文では見えてこない創作時に於ける作家の状況を解読し、新たな作品研究の可能性を示した。
 また、文芸編集者や古典研究者など自筆物と関連の深い分野からのコラムを掲げるほか、原稿草稿の所蔵機関とその閲覧の手引きとなる資料を付録として付す。 
 
<目次>
第一部 草稿研究入門
原稿・草稿を読む楽しみ(中島国彦)、原稿用紙とはなにか(宗像和重)、筆記用具の痕跡(安藤宏)
 
第二部 草稿から出版へ
草稿から出版へ(十重田裕一)、組版印刷から見えるもの(栗原敦)、検閲と伏字(浅岡邦雄)
 
第三部 草稿をどう生かすか
自筆原稿からの本文作成の問題点(秋山豊)、代作・代筆問題(小林修)、草稿・原稿が持つ可能性(十川信介)、草稿・原稿は流通する(紅野謙介)
 
第四部 作家的事例
芥川龍之介(庄司達也)・有島武郎(内田真木)・石川啄木(太田登)・泉鏡花(吉田昌志)・伊藤整(飯島洋)・井上ひさし(今村忠純)・井伏鱒二(東郷克美)・宇野浩二(宗像和重)・宇野千代(尾形明子)・江戸川乱歩(浜田雄介)・遠藤周作(藤田尚子)・大岡昇平(花﨑育代)・岡本かの子(宮内淳子)・小川未明(小埜裕二)・尾崎紅葉(須田千里)・織田作之助(日高昭二)・梶井基次郎(河野龍也)・川端康成(片山倫太郎)・菊池寛(片山宏行)・北原白秋(中島国彦)・北村透谷(尾西康充)・久保田万太郎(石川巧)・久米正雄(山岸郁子)・幸田露伴(出口智之)・小林多喜二(島村輝)・小林秀雄(権田和士)・斎藤茂吉(品田悦一)・坂口安吾(大原祐治)・佐多稲子(長谷川啓)・里見弴(武藤康史)・島崎藤村(高橋昌子)・高見順(竹内栄美子)・高村光太郎(杉本優)・武田泰淳(井上隆史)・太宰治(安藤宏)・谷崎潤一郎(千葉俊二)・田村俊子(小平麻衣子)・田山花袋(小林修)・坪内逍遙(梅沢宣夫)・徳田秋聲(大木志門)・富永太郎(杉浦静)・永井荷風(真銅正宏)・中上健次(辻本雄一)・中里介山(紅野謙介)・中島敦(山下真史)・中野重治(林淑美)・中原中也(中原豊)・中村真一郎(池内輝雄)・夏目漱石(十川信介)・萩原朔太郎(阿毛久芳)・林芙美子(今川英子)・樋口一葉(戸松泉)・二葉亭四迷(高橋修)・堀辰雄(渡部麻実)・牧野信一(柳沢孝子)・正岡子規(金井景子)・正宗白鳥(中丸宣明)・三島由紀夫(佐藤秀明)・宮沢賢治(栗原敦)・向田邦子(嶋田直哉)・武者小路実篤(寺澤浩樹)・室生犀星(大橋毅彦)・森?外(須田喜代次)・山田美妙(山田俊二)・横光利一(十重田裕一)
 
コラム:文芸編集者の立場から(藤田三男)・記憶に残る原稿(東原武文)・近世文学研究と自筆資料(木越治)・外国文学の研究との違いについて(松澤和宏)・文学館活動における原稿に関する法律問題について(中村稔)
付  録: 主要原稿所蔵館一覧・ 複製原稿刊行リスト・ 全国文学館一覧・他
 
 
昨秋、版元の八木書店さんから内容見本が送られてきました。そちらには「2014年12月20日刊行予定」とありましたが、予定は未定にして決定にあらず、2月までずれこむようです。やはりこれだけの労作、かなり大変なのでしょう。
 
第四部の光太郎の項は、群馬県立女子大学教授、杉本優氏のご執筆です。氏は高村光太郎研究会員、連翹忌にも時折ご参加いただいております。
 
光太郎以外にも、光太郎智恵子と関わりの深い作家がラインナップに入っています。奮発して購入しようと思っております。
 
皆様もぜひどうぞ。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月6日

平成7年(1995)の今日、銀座和光六階ホールに於いて、高村規写真展「木彫・高村光雲―没後六十年記念―」が開幕しました。
 
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昨年亡くなった、光太郎の令甥、高村規氏の写真展です。全国に散在する光雲作品の写真撮影に3年余を費やされ、さらにこの後、平成11年(1999)に刊行された『木彫 高村光雲―高村規全撮影』(中教出版)に繋がるお仕事でした。
 
同展図録から、規氏のお言葉。
 
光雲の作品は動感のなかに艶を感じさせます。作品に対峙したとき自然に伝はる熱い思いが作品の息吹、詩魂と共に表現され、真髄に迫ることが出来たかどうか皆様の御批評を賜れば望外の喜びです。

福島から企画展の情報です。  

平成26年度所蔵品展 草野心平と高村光太郎 往復書簡にみる交友 

   いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1番地の39
   平成27年1月17日(土曜日)から3月22日(日曜日)まで(月曜休館)
   午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
   一般430円(340円)高校・高専・大学生320円(250円)
      小学生・中学生160円(120円) 
※( )内は20名以上の団体割引料金

 1948年から1952年にかけての草野心平と高村光太郎の往復書簡をとおして、それぞれの創作活動とそれにともなう葛藤や苦悩などを紹介します。あわせて、心平が光太郎について記した日記をはじめ、詩集等の書籍、そして光太郎の彫塑などにより二人の交流をたどります。展示点数50点。

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昭和初期から、光太郎が歿する同31年(1956)まで、固い絆で結ばれた二人の軌跡をたどる展覧会です。固い絆、ということをいえば、光太郎没後も心平はその顕彰活動に先鞭を付け、発展させ、自身が歿する昭和63年(1988)まで、それは途絶えませんでした。
 
会期も比較的長い展覧会です。ぜひ御都合をつけ、足をお運び下さい。
 
 
【今日は何の日・光太郎 拾遺】 1月5日

平成14年(2002)の今日、テレビ朝日系でスペシャル番組「文豪の愛した北の宿」が放映されました。
 
旅人はシンガーソングライター・みなみらんぼうさん。石坂洋次郎らの訪れた老舗旅館等をめぐる番組で、最後に光太郎智恵子が取り上げられました。
 
二本松(当時は安達町)の智恵子生家、記念館、裏手の「樹下の二人」詩碑のある鞍石山からのレポートの後、一昨年に火災により焼失してしまった福島市郊外の不動湯温泉を訪れたみなみさん。光太郎智恵子の泊まった部屋や、光太郎が書いた宿帳を見せてもらっていました。
 
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この部屋も宿帳も灰になってしまった今、動画として残っている貴重な記録です。

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