カテゴリ: 文学

新刊です。
2015/07/13 半藤一利著 ポプラ社 定価1,600円+税

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著者の半藤氏は、保守派の論客として知られていますが、靖国神社へのA級戦犯合祀には極めて批判的であったり、昭和天皇の戦争責任についても否定しなかったりなど、幼稚な右翼とは一線を画しています。今年は戦後70年ということで、書店の店頭に関連の特設コーナーなどが設けられていることが多いのですが、『日本のいちばん長い夏』など、氏の著書や編著なども平積みで並んでいます。

さらに氏の奥様は夏目漱石の孫にあたり、『漱石先生ぞな、もし』などの漱石関連の著書も多数あります。本書も七話に分かれているうちの「第三話 漱石『草枕』ことば散歩」がまるまる漱石がらみですし、他の章でも折に触れ、漱石の話が出てきます。

先週の『産経新聞』さんに書評が載りました。

【編集者のおすすめ】85歳の啖呵にしびれる 『老骨の悠々閑々』半藤一利著

 85歳にして、いまなお旺盛な執筆活動を続ける半藤一利氏。その創作の傍らには版画がありました。資料を読んだり原稿を書くことに疲れたりすると、版木に向かい、気持ちをリセットしていたそうです。打ち合わせでご自宅にお伺いしたときに、アトリエから持ってきてくださった秘蔵の版画の数々が実に素晴らしく、多くの方に見ていただきたいと思ったのでした。
 本書は「昭和」を描く作家として知られる氏が、博識と教養を駆使して近代文学、文化についてユーモラスに論じた書き下ろし原稿と単行本未収録の随筆、それに数々の版画が彩りを添えた永久保存版の一冊となりました。
 なんと言っても秀逸なのが、言葉遊び。夏目漱石や芥川龍之介、樋口一葉のあざやかな啖呵(たんか)をひきあいに出し、「語彙を豊かに、バシバシ重ねてやらないと」と喝采を浴びせ、昨今の紋切り型表現の多用や言葉狩りの風潮を風刺します。
 一方で、高村光太郎の詩「根付(ねつけ)の国」をひきつつ、今の日本人を“茶碗のかけら”のようだと評します。「何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本にある。歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけない」といいます。戦後70年、何かときな臭い情勢に、自らを老骨とうそぶく著者の軽やかな言葉が、時に重く響きます。(ポプラ社・1600円+税)
 ポプラ社一般書編集局 木村やえ


というわけで、先週も別件でご紹介した光太郎詩「根付の国」が取り上げられています。

  根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人


これとよく似ているのが、漱石や一葉、芥川が作品中に書いた啖呵や罵詈雑言だというのです。現代の社会通念上、不適切な表現も含みますが、原文を尊重し、そのままとします。

「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被(ねこつかぶ)りの、香具師(やし)の、モモンガーの、岡つ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云ふがいい」(『坊っちゃん』)

「仕かへしには何時でも来い、薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰抜けの活地(いくじ)なしめ、」(『たけくらべ』)

「意地わるの、根性まがりの、ひねツこびれの、吃(どんも)りの、歯つかけの、嫌な奴め」(同)

「この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥雑な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだろう。」(『河童』)

たしかに似ています。そして、こうした罵倒の仕方は、古典落語から学んだのではないかとのこと。

「揉みくちゃばばあ、ちり紙ばばあ、反故紙(ほごがみ)ばばあ、浅草紙ばばあ、落とし紙ばばあ、小半紙ばばあの端切らずばばあ、ってえんだ」(「山崎屋」)

光太郎も落語はよく聞いていたと推測できますし、『坊っちゃん』や『たけくらべ』も読んでいたと思われます。特に『坊っちゃん』の一節は、「ももんがあ」がかぶっています。ただ、明治期には「ももんがあ」を悪口に使う例はかなり一般的だったようではあります。

さて、半藤氏の筆は、「根付の国」から次のように展開します。

 この辛辣な批評、そのまま今の日本人に当てはまる。
 今年は戦後七十年、高村光太郎の詩に乗っかって、というわけではないが、猿の様な、狐の様な、自分の国の歴史を知らない日本人がまことに多くなった。大事なことは「過去」というものはそれで終わったものではなく、その過去は実は私たちが向き合っている現在、そして明日の問題であるということなのである。それなのに、何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本人にある。歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけないのである。

その通りですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月26日

昭和24年(1949)の今日、詩人・文芸評論家の野田宇太郎から野田の著書『パンの会』を贈られました。

郵便物の授受等を記録した「通信事項」というノートの記述です。

〔受〕市川二巳氏よりハカキ 菊池暁輝氏よりテカミ(写真同封朗読会) 麻野和子さんといふ人よりハカキ及遺稿集「柊」 野田宇太郎氏より「パンの会」小包

『パンの会』はこの年7月10日、六興出版社から刊行され、光太郎も参加した明治末年の芸術運動、「パンの会」についての詳細を記しています。光太郎はこの労作を高く評価し、対談などでこれに触れています。

2年後に増補版として『日本耽美派の誕生』と改題、刊行されています。

8月5日には野田への礼状を書きました。

新刊です。 
2015/07/30発行  森まゆみ著 晶文社発行 定価1,800円+税 

版元サイトより

地図を使って読み解く「谷根千」
本郷台地の加賀、水戸屋敷は東大へ。坂を下れば、根津の遊廓に。広大な上野・寛永寺は、明治になると上野公園へ。今も辿れる諏方明神の道、岩槻街道、中山道。かつて不忍通りには都電が走り、谷中銀座、安八百屋通りは人で賑わった。
 約25年間地域雑誌「谷根千」をつくってきた著者が、江戸から現代まで、谷根千が描かれた地図を追いながら、この地域の変遷を辿る。
また、上野の博覧会の思い出を語る人、関東大震災、戦災を語る人、たくさんの人が町に暮らしていた。その古老たちが描いた地図、聞き取り地図も多数収録。

【目次】002
1 地図でみる谷根千
   正保年間江戸絵図
    寛文五枚図
    江戸方角安見図鑑
    享保元年分道江戸大絵図  …etc.
2 谷根千手づくり地図
    森鴎外「雁」を歩く
    一葉の住んだ町完全踏査
    芸人と芸術家のまち
    駒込千駄木林町の地図   …etc.
3 家族の地図、なりわいの地図
    商店街の町並み
    大正時代の学校界隈
    母の出会った浅草の空襲   …etc.

地域雑誌『谷中根津千駄木』(以下、『谷根千』)を刊行されていた森まゆみさんの新著です。森さんのご著書は、以前、智恵子がらみで『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』を紹介させていただきました。

今回のものは、『谷根千』編集の際に利用されたさまざまな地図――古地図や絵図、地元の方に描いてもらったものなど――を読み解くことで、この地の成り立ちや、ここで生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトです。

最近、テレビでも「散歩」系の番組などが静かなブームです。その手の番組の元祖ともいえるテレビ東京さんの「出没!アド街ック天国」は根強い人気を誇っていますし、NHKさんの「ブラタモリ」は地誌学的に見ても優れた番組です。

そうした動きを背景にしての刊行でしょうが、これまた労作です。谷根千地域と縁の深い森鷗外、樋口一葉にはそれぞれ一章を割いていますし、千駄木林町にアトリエを構えた光太郎智恵子についても、「芸人と芸術家のまち」「駒込千駄木林町の地図」の章で言及されています。もちろん地図入りで。

そのあたりを読むと、意外な人物がすぐ近くに住んでいたことがわかったり、光太郎の作品に出て来る場所の位置がわかったり、近くに住んでいたことは知っていたものの正確な位置がわからなかった人物の家がわかったりと、実に有益でした。次に千駄木方面に行く際には、この書を片手に歩こうと思いました。


ところでこの書籍、特殊な造本になっています。

普通はカバーを外すと、背表紙がありますが、この書籍にはそれがないのです。

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そのため、広げた時に全体がフラットになります。

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通常の書籍だと、開いた際に「のど」の部分がくぼんでしまいます。その状態でコピー機やスキャナにかけると、中央は影ができたりピンぼけになったりします。

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しかし、この書籍はどのページを開いてもそうならないような造本になっているのです。これはすばらしい! と思いました。

公共図書館の場合、以前はカバー類を全て取り払って納架するところが多くありました。今でも地方の図書館では時々見かけます。その方法を採ると、この書籍は背表紙がないので困ります。老婆心ながら、そういうところはどうするのだろうと思いました。また、最近は、透明フィルムでカバーごと固定するケースも多くあります。これまた老婆心ながら、下手な固定の仕方をして、せっかくの造本法を台無しにしてほしくないものです。


さて、内容的にも、造本法も素晴らしい書籍です。ぜひ、お買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月21日

昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、北向きの壁を抜いて窓を作りました。

当日の日記です。

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切り抜き、小まいは残す。風のぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風もはいるやうになる。冬には外より丈夫に戸をたてるつもり。此窓なくては小屋の空気こもりて夏は不衛生と思ふ。
(略)
程なく床をとりてねる。十時頃。 北側の窓の為かすずしき風来るやうに感ぜらる。

こちらは『高村光太郎全集』第12巻掲載の、山小屋の図面です。これでいうと、「25」の窓がそれにあたります。

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追記 いったんこの記事を書いてアップロードした後、いろいろネットで検索していたところ、今夜のNHK総合さんの「歌謡コンサート」で光太郎智恵子に触れるという情報を得ましたので紹介します。 

NHK歌謡コンサート「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」

NHK総合 2015/07/21 20時00分~20時43分

テーマ「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」出演:五輪真弓、大竹しのぶ、クリス・ハート、柴田淳、新沼謙治、氷川きよし、増位山太志郎、森進一、八代亜紀.

番組内容
今回は、女優・大竹しのぶの手紙の朗読とともに名曲の数々を紹介。取り上げる手紙は川端康成、寺山修司、マリリン・モンローといった著名人から、戦争で亡くなった夫にあてたラブレターを毎日つづっている94歳の女性まで多岐にわたる。八代亜紀「愛の終着駅」、五輪真弓「恋人よ」、新沼謙治「嫁に来ないか」、氷川きよし「別れのブルース」、柴田淳「あなた」、クリス・ハート「やさしさに包まれたなら」ほか。

出演者 五輪真弓,大竹しのぶ,クリス・ハート,柴田淳,新沼謙治,氷川きよし,増位山太志郎,森進一,八代亜紀,
司会 高山哲哉,
演奏 三原綱木とザ・ニューブリード,東京放送管弦楽団


スタッフさんのブログに以下の記述がありました。

7月21日 手紙で綴る 愛の名曲集
いつもNHK歌謡コンサートをご覧頂き誠にありがとうございます。制作統括の茂山です。7月は文月、23日は ふみの日なので7月23日は「文月ふみの日」という記念日です。今週の歌謡コンサートはそれにちなんで、2月に放送し好評を得た「手紙で綴る愛の名曲集」の第2弾をお届けします。古今東西の有名・無名の恋文をご紹介しながら、愛の歌をお聴きいただきます。朗読は前回と同様、女優の大竹しのぶさんが担当、情感たっぷりに手紙を朗読してくれます。今回ご紹介する恋文は
川端康成から婚約者への手紙
寺山修司から恋人への手紙
マリリン・モンローからジョン・F・ケネディへの手紙
NHKのニュース番組でも取り上げられたことのある亡き夫に送った「70年目の手紙」
南極観測隊員の妻より夫へ送った電文
高村光太郎・智恵子夫妻の作品「恋文」より一部をご紹介
愛を込めた手紙から、愛の歌につながるのか、ご期待下さい。

昨日の『朝日新聞』さんの土曜版に光太郎の名が出ました。

歴史学者・酒井紀美氏の連載「酒井紀美の夢想の歴史学」で、昨日の回のサブタイトルは「漱石の夢十夜 近代日本の迷いを映す」。

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「夢十夜」は明治41年(1908)の作。漱石が、自分の見た十種類の夢の内容を綴るという形で進むオムニバス形式の小説です。特に有名なのが「第六夜」。鎌倉時代の仏師・運慶が、現代(明治)の東京で、仁王像を彫っている場面を見たという夢です。

当方、『朝日新聞』さんは購読しておりますが、紙面を見る前にネットのデジタル版で「高村光太郎」のキーワード検索を掛け、この記事に光太郎の名が出て来ることを知りました。

読み進めると、夢の中の運慶が仁王像を彫る場面が引用されていました。

運慶はまったく何もちゅうちょすることなく悠々と鑿(のみ)と槌(つち)をふるって、仁王の顔のあたりを彫り抜いていく。「能(よ)くああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻が出来るものだな」と感心して独りごとを言うと、隣にいた若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と評した。

ここまで読み、光太郎の木彫に話をつなげるのかな、と思いました。光太郎も昭和2年(1927)、雑誌『大調和』に発表した「偶作十五篇」という連作の中で、次のように謳っています。

木を彫ると心があたたかくなる。
自分が何かの形になるのを、
木は喜んでゐるやうだ。

ところが、さにあらずでした。酒井氏の稿は、阿部昭による岩波文庫版『夢十夜』の解説に言及され、そこに光太郎が出て来ます。

岩波文庫『夢十夜』の「解説」で阿部昭は、「旧時代の重荷を背負いつつも、新しい教養の先頭にいた知識人の一人として、西洋という異質の文化の吸収に追われざるを得なかった」漱石を、「内と外とから追われる人間」「ロンドンの街角で、ふと鏡に映った一寸法師、醜い黄色人種」ととらえた。そして、高村光太郎の詩の「魂をぬかれた様にぽかんとして 自分を知らない、こせこせした 命のやすい 見栄坊な 小さく固まつて、納まり返つた 猿の様な、狐(きつね)の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な」という、たたみかけるような表現を引用しながら、明治という時代の不安定な日本人の姿を浮かび上がらせた。

引用されているのは、明治44年(1911)に雑誌『スバル』に発表された「根付の国」です。

   根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

制作は明治43年12月です。前年には米英仏への3年余の留学から帰朝した光太郎。彼地では日本との文化的落差に打ちのめされ、帰ったら帰ったで、我が国の旧態依然の有様に絶望し、さらに手を携えて共に新しい彫刻を日本に根付かせようと考えていた、盟友・荻原守衛を失った時期でした。

漱石にしろ、光太郎にしろ、欧米留学を経験し、帰国後の日本に危機感を覚え、いわば目覚めてしまった者の悲劇を体現したといえるのではないでしょうか。その点は森鷗外にも通じるような気がします。

この点、光太郎と同時期か、やや遅れての留学生の、光太郎からパリのアトリエを引き継ぎ、ルノアールに師事し、ピカソやマチスと親交を深めた梅原龍三郎、「レオナール・フジタ」と称され、活動の場自体を西洋に置いてしまった藤田嗣治(美術学校西洋画科での光太郎の同級生)などとの相違は興味深いところです。ただし、梅原にしても藤田にしても、後にまた違った形での日本回帰がみられるのですが。

酒井氏の稿は、以下のように結ばれます。

夢は自分の外から神仏のメッセージとして届けられるのだとする古い見方や考え方を捨て去って、自分の心の奥深いところで過去の記憶が複雑にからまりあいながら夢が生まれてくるのだと確信できるようになるまで、近代日本の人々は、夜ごとに訪れる夢に対して、不安と混迷をかかえこみながら歩まねばならなかった。

現代のこの国に生きる我々も、近代の人々とは違った不安と混迷を抱えて生きています。また大きな曲がり角にさしかかった気配の昨今、未来に「夢」を持てる国であってほしいものですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月19日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の昌歓寺に「放光塔」の文字を書く約束をしました。

当日の日記です。

夕方神武男氏他一名来訪、白い酒一升もらひ、その場でのむ。浅沼宮蔵とかいふ人の葬式だつた由。昌歓寺に立つ放光塔といふ字をかく約束す、

昌歓寺は時折光太郎も足を運んでいた寺院で、前年には、毎年、花巻町の松庵寺で行っていた光雲・智恵子の法要を、その年だけ昌歓寺に頼んでいます。昨年、光太郎に関する文書が出て来て驚きました。神武男は当時の住職です。

この「放光塔」の文字がこの後どうなったか不明です。次に花巻に行く際には、そのあたりも調べてみようと思っております。

昨日の『朝日新聞』さんに、大きな広告が出ました。

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最近じわじわと話題になっている篠田桃紅さんの著書です。

篠田さんは大正2年(1913)のお生まれで、おん年102歳。墨を使った抽象芸術家として、いまだ現役という方です。アメリカを拠点に活動されていた時期もあったそうです。

こちらは新刊ではなく、昨年6月の刊行ですが、やはりじわじわと部数を伸ばし、広告にあるとおり13万部を突破したとのこと。

この中で、光太郎にちらりと触れていらっしゃいますが、それを知ったのは刊行後しばらく経ってからでしたし、あくまで「ちらり」ですので、購入せずにいました。

しかし、他の近著でも光太郎にちらりと触れて下さっていることもわかり、さらに朝日さんに大きな広告も出たので、近著共々購入して参りました。
篠田桃紅著 集英社(集英社新書) 2014年6月17日初版 新書版192ページ 定価700円+税

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篠田桃紅著 幻冬舎 2015年4月9日初版 B6変形版169ページ 定価1,000円+税

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『百歳の力』は新書の売り場に平積み、『一〇三歳になってわかったこと』は「話題の本」的な特設コーナーに置いてありました。ちなみに「一〇三歳」というのは数え年です。

それぞれ帯には「緊急大増刷!」(『百歳の力』)、「40万部突破 !!」(『一〇三歳になってわかったこと』)の文字が躍っており、ともに注目されているというのがわかります。実際、おのおのの奥付を見ると『百歳の力』は「二〇一四年六月二二日第一刷発行 二〇一五年六月二一日第六刷発行」、『一〇三歳になってわかったこと』は「2015年4月10日 第1刷発行  2015年6月26日 第11刷発行」となっています。あやかりたいものです(笑)。

さて、自宅兼事務所に帰って、双方を斜め読みしました。やはりどちらも光太郎にちらりと触れて下さっていました。

『百歳の力』は「はじめに」の中で。

 若いときには、いまのような仕事をしているとは一切予想はついていなかったし、予定もしなかった。予想も予定もない、いきあたりばったり。出たとこ勝負でずっとやってきました。高村光太郎の詩「道程」と同じです。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 ほんとにそう、いつも高村光太郎の詩を心に思い浮かべて生きてきた。私の前に道はない。誰かが歩いた道を私は歩いているんじゃない。先人のやってきたことをなぞっていない。でもいきるってそういうことです。
 前半は私にあてはまりますよ。でも、後半は私にあてはまるとは思わない。私の後ろに道などないですよ。なくてかまわないと思っているんです。道というほどのものができてなくても、作品というものが残っている。それはある程度残っている。どこかに、ある。
 人が敷いてくれた道をゆっくり歩いていけばいいというような一生は、私の性格には合わないんだからしようがない。私の前に道がないのは自分の性格ゆえの報い。そう思って受け入れてきました。

最後の段落は帯文にも印刷されていました。

この部分を読んで、智恵子が画家の津田青楓に語ったという次の言葉を思い起こしました。

世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。(津田青楓『漱石と十弟子』 昭和24年=1949)


『一〇三歳になってわかったこと』でも「道程」が引用されています。

 百歳を過ぎて、どのように歳をとったらいいのか、私にも初めてで、経験がありませんから戸惑います。
 九十代までは、あのかたはこういうことをされていたなどと、参考にすることができる先人がいました。しかし、百歳を過ぎると、前例は少なく、お手本もありません。全部、自分で創造して生きていかなければなりません。
(略)
 これまでも、時折、高村光太郎の詩「道程」を思い浮かべて生きてきましたが、まさしくその心境です。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 私の後ろに道ができるとは微塵も思っていませんが、老境に入って、道なき道を手探りで進んでいるという感じです。
 これまでも勝手気ままに自分一人の考えでやってきましたので、その道を延長しています。日々、やれることをやっているという具合です。

 日々、違う。
 生きていることに、
 同じことの繰り返しはない。

  老いてなお、
  道なき道を手探りで進む。

この部分からは、戦後、光太郎が花巻郊外太田村の山小屋で暮らしていた頃、地元の太田中学校に贈った次の言葉を想起しました。

心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する

無理矢理ですかね(笑)。


ところで、2冊を斜め読みした中で、篠田さんが女学校時代、短歌を中原綾子に師事していたという記述を見つけ、これは存じませんでしたので、驚きました。中原は光太郎と交流の深かった歌人です。

その他、光太郎と交流のあった面々の名前もあちこちに現れます。篠田さんご自身とも交流があったところでは、三好達治や草野心平など。その他、直接のお知り合いではないようですが、森鷗外や夏目漱石、与謝野晶子に太宰治、フランク・ロイド・ライトとか正岡子規などにも言及されています。

驚いたのは、女学校時代の先生が北村透谷未亡人だったとか、芥川龍之介をみかけたことがあるとか……もはや歴史の生き証人でもありますね。

これからゆっくり熟読いたしますが、斜め読みだけでも、素晴らしい年令の重ね方をされてきた方の珠玉の言葉が目にとまります。

皆様もぜひお読み下さい。

追記・篠田さん、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん他ご出演)の題字を揮毫なさっていました。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月16日

昭和19年(1944)の今日、『週刊朝日』に散文「全国民の気合-神性と全能力を発揮せよ-」が掲載されました。

とても読むに堪えない文章ですが、最終段落のみ引用します。

 今度の世界大戦は科学の戦ひだといはれる。科学進展のもとはやはり科学者の着実な自信にある。日本には日本独特の科学の考へ方が生まれるであらうし国民の神性はこの点にも必ず現れる。日本的構想による着眼から必ず彼らの夢にも思はぬ進歩発展が遂げられるに違ひない。科学、芸文、技術、其他々々。それらがすべて一緒一体となつて全国民の気力をますます充たしめ、全国民の純一な気合が期せずして最高の一点に集中する時、御稜威のもと、皇軍は必ず彼等に最後の止めをさすであらう。

今日、戦後の安全保障政策の一大転換となる安全保障関連法案が衆議院を通過するものと思われます。またこうした文章が各メディアを賑わす日が近いのかも知れません。

雑誌としては当方が唯一定期購読しているものに、月刊の『日本古書通信』があります。

今年の5月号から、廣畑研二氏による連載記事「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」が始まりました。そして昨日、連載の3回目が載った7月号が手元に届きました。

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『南方詩人』は昭和2年(1927)、鹿児島で創刊された雑誌で、同5年(1930)9月まで、全10輯が発行されていますが、今までその全貌が不明でした。国立国会図書館さんには収蔵されておらず、日本近代文学館さんでは昭和5年(1930)1月号のみ所蔵しています(それも欠ページがあるそうです)。この手の地方誌はおおむねそういうものです。

また、時折こういう例もあるのですが、地方誌でありながら、全国区のメジャーどころに寄稿を仰いでいます。廣畑氏の稿によれば、佐藤惣之助、萩原恭次郎、尾形亀之助、草野心平、尾崎喜八、竹内てるよ、木山捷平、黄瀛、小野十三郎、赤松月船、白鳥省吾らの名が執筆者として連なっています。その中に光太郎も。

以前から『南方詩人』に光太郎が寄稿していたことは判明していました。『高村光太郎全集』には、以下の作品が同誌を初出として掲載されています。

昭和4年10月1日号 散文「てるよさんの詩を読んで-詩集『叛く』について-」
昭和5年1月1日号 詩「孤独で何が珍しい」 散文「猪狩満直詩集「移住民」に就て」  散文「平正夫詩集『白壁』に就いて」  書簡二〇三
昭和5年9月10日号 散文「黃秀才の首」

ところが、いかんせん全貌が不明だった地方誌のため、他にも掲載されていたものが漏れていました。

廣畑氏は、沖縄県立図書館さん、いわき市立草野心平記念文学館さん、吉備路文学館さんの3ヶ所に『南方詩人』が収蔵されていることをつきとめ、それぞれの欠損を補って、全10輯の全貌を明らかにされたそうです。

昨日届いた『日本古書通信』7月号掲載の「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」第3回に記述がありますが、昭和4年(1929)3月10日発行の第6輯に、ロマン・ロランの戯曲「モンテスパン夫人」の序文が、光太郎の訳で掲載されています。この光太郎訳は今までに全く知られていなかったものでした。原典は大正12年(1923)にアメリカで出版された同書の米国版です。

廣畑氏から当会顧問の北川太一先生に、この件についてご連絡があり、さらに当方にもそれが廻ってきたのが4月。ただ、添えられていたコピーが不鮮明で読めない、何とかならないか、とのことでした。そこで、連翹忌でお世話になっているいわき市立草野心平記念文学館さんにお願いし、当該箇所のデータを画像ファイルで送っていただきました。北川先生は、翻訳原典である米国版を神保町の田村書店さんを通じて入手なさいました。

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比較的長文の翻訳で、こうしたものが今まで埋もれていたというのが、ある意味、意外でした。全文は来春刊行予定の『高村光太郎研究』に当方が持っている連載「光太郎遺珠」にて紹介します。

他にも廣畑氏の稿によって、『南方詩人』に光太郎作品の掲載状況がいろいろと明らかになっています。例えば大正11年(1922)の第二期『明星』に掲載されたヴェルハーレンの詩「未来」が転載されていたり、生前に活字になった記録が無かった木山捷平あての書簡2487が「詩集「野」読後感」として掲載されていたり、といったところです。

さらに草野心平の作品でも、心平の全集に未掲載のものが大量に含まれているとのこと。地方誌恐るべし、です。

廣畑氏の「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」。『日本古書通信』での連載はまだ続きます。もしかしたら書簡、雑纂等で『高村光太郎全集』未掲載のものがまだあるかも知れません。

光太郎の書き残したものの全貌を明らかにする道のりは、まだまだその途上です。ライフワークとして取り組み続けていきたいと思っております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月15日

昭和31年(1956)の今日、新潮文庫版『智恵子抄』が刊行されました。

光太郎が亡くなる直前に、草野心平に000編集を託したものです。今日、『智恵子抄』というと、この新潮文庫版を思い浮かべる方がほとんどでしょう。現在も版を重ねています。

オリジナルの龍星閣版『智恵子抄』は昭和16年(1941)の刊行で、時間の流れとしては智恵子の死後間もない頃の作品「梅酒」あたりまでが掲載されています。戦後の昭和25年(1950)には同じ龍星閣から詩文集『智恵子抄その後』が刊行され、新潮文庫版にはそのあたりの作品も収められました。

昭和42年(1967)に改訂版が出るまでの新潮文庫版には、オリジナルに収録されていた詩「或る日の記」が心平の意図で省かれていました。心平曰く、

従来の『智恵子抄』に載っていた「或る日の記」はそれは智恵子さんとの関連が詩の中心をなしていないので故意にはぶいた。

とのことでした。

この点は原著者の意向の無視ということで、のちにかなり批判されています。しかし、こういういわば「力業」が、ある意味「規格外」の詩人だった心平の本領であるとも言えます。他にも光太郎生前から、くり返しその作品集の編集に携わっていた心平ですが、誤植等をあまり気にしていません。光太郎はそういう心平を苦笑しながら見守っていた節があります。

標記の件、今週、各紙一斉に報道されました。代表して時事通信さんのものを引用させていただきます。

「玉音放送」原盤を初公開へ=来月1日、「聖断」の防空壕も―宮内庁

 宮内庁は9日、戦後70年に当たり、終戦の日の昭和天皇の「玉音放送」を録音したレコードの原盤(玉音盤)と音声を8月1日に初めて公開すると発表した。昭和天皇が終戦の「聖断」を下した「御前会議」が開かれた皇居の防空壕(ごう)についても、内部の写真と映像などを公開する。音声などはホームページに掲載する予定。
 玉音盤は、玉音放送前日の1945年8月14日夜、当時の宮内省庁舎内の一室で録音された。昭和天皇がマイクに向かって「終戦の詔書」を2回読み上げ、計2組の玉音盤が完成。このうち2回目に録音した方のレコードが翌15日正午にラジオで放送された。
 今回公開されるのは実際に放送された方のレコードで、時間は約4分30秒。宮内庁は原盤から音声を新たにデジタル録音したという。
 宮内庁関係者によると、天皇、皇后両陛下と皇太子さま、秋篠宮さまは6月下旬、皇居・御所で音声を聞かれたという。玉音盤は現在、皇室の私有物である「御物」として庁内で管理されている。
 宮内庁は、昭和天皇が終戦後の46年5月23日に録音し、翌日にラジオ放送された食糧問題の重要性に関するお言葉についても、原盤と音声を初めて公表する。玉音盤と一緒に保管されていたのが今回発見されたという。
 風岡典之長官は「歴史的な意義からも国民の関心からも戦後70年の機会に公表するにふさわしいと考え、両陛下のお許しを得て公表することにした。この機会に多くの方々にご覧いただきたい」と話している。


光太郎ファンなら、この記事を読んで、次の詩を思い浮かべるはずです。

  一億の号泣001

綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん


放送のあった昭和20年(1945)8月15日、光太郎は岩手花巻に疎開していました。はじめに厄介になっていた宮澤賢治の実家は、5日前の8月10日の花巻空襲で全焼。光太郎は被災を免れた元旧制花巻中学校長・佐藤昌宅に身を寄せていました。

このあたり、加藤昭雄著『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部 平成11年=1999)、同『絵本 花巻がもえた日』(ツーワンライフ 平成24年=2012)に詳しく記述があります。

イメージ 2  イメージ 1

そして15日の玉音放送は、花巻町の中心部にある鳥谷崎神社で聴きました。

こちらが鳥谷崎神社。戦前(おそらく)の絵葉書です。

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翌16日には上記「一億の号泣」を執筆、さらに翌日の17日にはこの詩は『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されました。

ここには「聖戦完遂」のスローガンを信じて疑わなかった光太郎の、その目標を失った虚脱感がよく表されています。しかし、虚脱だけでなく、「鋼鉄の武器を失へる時/ 精神の武器おのずから強からんとす」というある種の変わり身の早さもうかがえ、この時点ではまだまだ平和の到来を喜ぶ心情は読み取れません。ましてや自身が書き殴った大量の空虚な大政翼賛の詩を読んで、膨大な数の前途有為な若者が散華していったことになど、思い及んでいません。

二度にわたり、空襲で焼け出された光太郎にしてみれば、無理もないのかも知れません。一度目(昭和20年=1945の4月13日)には、智恵子と共に過ごした思い出深い東京本郷Ⅸ駒込林町(現・文京区千駄木)のアトリエを失い、二度目はつい5日前でした。

しかし、この年の秋に、花巻町郊外の太田村の山小屋で独居自炊の生活を始め、いやが上にも自らの来し方を
省察せざるをえない日々の中で、光太郎の内部世界に変化が生じました。

同じ玉音放送を題材にしたこちらの詩は、昭和22年(1947)の作。

終戦003
 
すつかりきれいにアトリエが焼けて、
私は奥州花巻に来た。
そこであのラヂオをきいた。
私は端坐してふるへてゐた。
日本はつひに赤裸となり、
人心は落ちて底をついた。
占領軍に飢餓を救はれ、
わずかに亡滅を免れてゐる。
その時天皇はみづから進んで、
われ現人神(あらひとがみ)にあらずと説かれた。
日を重ねるに従つて、
私の目からは梁(うつばり)が取れ、
いつのまにか六十年の重荷は消えた。
再びおぢいさんも父も母も
遠い涅槃の座にかへり、
私は大きく息をついた。
不思議なほどの脱卻のあとに
ただ人たるの愛がある。
雨過天青の青磁いろが
廓然とした心ににほひ、
いま悠々たる無一物に
私は荒涼の美を満喫する。


これは連作詩「暗愚小伝」中の一篇として書かれたものです。

光太郎は他の多くの文学者のように、無邪気に民主主義を謳歌するというわけではありませんでした。同じ「暗愚小伝」の終曲、「山林」という詩では、以下のように謳っています。
 
おのれの暗愚をいやほど見たので、
自分の業績のどんな評価をも快く容れ、
自分に鞭する千の避難も素直にきく。
それが社会の約束ならば
よし極刑とても甘受しよう。
 
他の多くの文学者たちは、というと、戦時中に書いた戦意昂揚の作品を「あれは軍の命令で仕方なく書いたものだ」と言い訳したり、その手の作品を書いたことをひた隠しにして「非戦の詩人」の称号を得たりしていました。それどころか、自らも戦争協力詩を書いていたにもかかわらず、やはりそれを隠して、公然と光太郎を非難した詩人もいます。

それに対し、光太郎は自らの過ちを潔く認め、さらに自らを罰することを実践する(花巻郊外太田村での過酷な独居生活、彫刻の封印は7年に及びました)、そういう点こそ、光太郎の素晴らしさだと考えられます。

いったいに光太郎の生涯は、順風満帆なものでは決してなく、いわばつまづきの連続でした。青年期にはロダンに学んだ新しい彫刻理念が受け入れられず、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界との対立を余儀なくされ、それも盟友・碌山荻原守衛の早逝により、孤軍奮闘。光雲の勧める銅像会社設立や美術学校教師の話も断り、智恵子と二人、社会との交わりを極力絶って「都会のまんなかに蟄居」(詩「美に生きる」昭和22年=1947)する清貧の生活。

そんな生活の中で、智恵子は心を病み、光太郎を残して先立ちます。その反省から、一転して社会と積極的に関わり始めたところが、社会の方が泥沼の戦時に突入。その旗振り役を務めざるを得ませんでした。

そして敗戦。公的に戦犯とされなくとも、先述の通り、過酷な環境に身を置いて、自らを罰する光太郎。

最晩年に、自らに課した彫刻封印の重罰を解き、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」をこの世に残すことが出来たのは、最後に訪れた幸福だったといえるかと思います。それすら残せず、寒村の山小屋で朽ち果てていたとしたら、虚しいだけの一生だったように思えます。

「玉音放送」の報道を知り、こんなことを考えました。乱筆御免。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月11日

昭和19年(1944)の今日、『日本読書新聞』にアンケート回答「読書会に薦める-中込友美著『勤労青年の教育』」が掲載されました。

 さき頃読んだものゝ中で、友人中込友美君の著書「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行 売価一圓四六銭)は適当な書物と考へます。すべて実際的に書いてあります。

『高村光太郎全集』第20巻に掲載されています。どうもどこかで誤植が生じたようで、書名やカギカッコ、カッコの位置がむちゃくちゃです。

誤 「勤労青年の教育」(的生活国民教育会出版部発行
正 「勤労青年の教養的生活」(国民教育会出版部発行

です。

こういうところにも、戦時の混乱が見て取れます。

昨日もちらっと触れた、横浜市の神奈川近代文学館さんでのイベントです。ただし、館の主催ではなく、会場を貸してのもののようです。  

「朗読の会」発表会「ありのままに」

開催日 : 2015年7月17日(金)
 間 : 13:30
 場 : 神奈川近代文学館 横浜市中区山手町110
出演者 :  「朗読の会」A・Bグループ18名
 金 : 無料
 目 : 高村光太郎「智恵子抄」、工藤直子「ねこはしる」
 『智恵子抄』 朗読 Aグループ
  高村光太郎「智恵子抄」より  佐藤春夫「小説智恵子抄」より
  草野心平「悲しみは光と化す」より  宮崎春子  「紙絵のおもいで」より
 『ねこはしる』 朗読 Bグループ
問い合わせ :  「朗読の会」八尾 045-774-6519


調べてみたところ、「朗読の会」さんは、「かたりよみ研究所 創造の会」さんという団体の中のグループで、横浜で定期的に練習や発表などの活動をなさっているようです。講師は児玉朗氏、西本朝子氏ご夫妻で、木下順二作の舞台「夕鶴」で有名な山本安英の弟子筋に当たる方々だそうです。

演目のうち、佐藤春夫の「小説智恵子抄」は、光太郎が歿した昭和31年(1956)から翌年にかけ、光太郎と親交の深かった佐藤春夫が雑誌『新女苑』に連載したジュブナイルです。連載当時のタイトルは「愛の頌歌(ほめうた) 小説智恵子抄」。昭和32年(1957)に実業之日本社で単行本化、のち、角川文庫のラインナップに入りました。文庫版の解説は草野心平です。

その草野心平の「悲しみは光と化す」は、新潮文庫版『智恵子抄』(昭和31年=1956)の解説として書かれたものです。光太郎が昭和28年(1953)に書いた秩父宮雍仁親王追悼文の題名をそのまま転用しています。

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宮崎春子は旧姓長沼春子。智恵子の姪で、看護師の資格を持ち、南品川のゼームス坂病院でその最期を看取りました。ほとんど唯一、紙絵の制作過程を実見し、それを語ったのが「紙絵のおもいで」です。

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紙絵を見る春子(昭和30年=1955)


さて、多くの皆さんが光太郎作品、特に「智恵子抄」系の朗読に取り組んで下さっています。ありがとうございます。そうした動きが下火になることなく、さらにもっともっと広がってほしいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月10日

明治43年(1910)の今日、雑誌『方寸』第4巻第5号に、「死んだ荻原守衛君」が掲載されました。

光太郎の盟友、碌山荻原守衛の死はこの年4月20日でした。

僕は今、死んだ荻原守衛君の芸術のことを考へてゐる。しかし、どうしても一つの纏まつた、形を成した、過ぎ去つた作家として荻原君の事が頭に出て来ない。善い夢を見てゐる途中で眼がさめた、その先きが思はれてならないといふ感じである。

と始まり、終わり近くには、

それがふつと消えたのである。為方がないといふ言葉は実に惨酷な言葉である。

とあります。

この文章は同じ年9月の雑誌『日本美術』第139号、翌年に刊行された守衛の著作集『彫刻真髄』にも転載されました。

今日、7月9日は、光太郎と縁の深かった森鷗外の忌日、「鷗外忌」です。昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎 補遺】にてご紹介させていただきました。

その鷗外を顕彰する文京区立森鷗外記念館さんでの展示情報です。 
 期 : 2015年7月17日(金)~9月27日(日)
休館日
 : 7月28日(火)、8月25日(火)
 間 : 10時~18時(最終入館は17時30分)
 ※7月~9月の毎週金曜日は20時まで開館(最終入館は19時30分)
観覧料 : 一般300円 中学生以下無料、障がい者手帳ご提示の方と同伴者1名まで無料

公式サイトより

木下杢太郎(1885~1945、本名 太田正雄)は、医学博士として大学で教鞭をとるかたわら、文学、評論、美術など幅広い分野で活躍した文京区ゆかりの文化人です。加えて本年は、生誕130 年・没後70年という記念の年にもあたります。

杢太郎は、明治18年に現・静岡県伊東市に生まれ、13歳で上京、明治39年東京帝国大学医科大学に入学しました。在学中に与謝野寛の新詩社に入社し、詩や小説を次々に発表します。鷗外との最初の出会いは明治40年、英文学者・上田敏の留学壮行会の時でした。鷗外はその後、当時自宅で開催していた観潮楼歌会に杢太郎を招き、二人の交流がはじまりました。文学の道に進みたいと思いながら、家族のすすめにより医学を修めた杢太郎は、大学卒業にあたって、進路に悩みます。その時、助言を求めたのが鷗外でした。杢太郎はその後、満州赴任と、医学研究のための欧州留学で日本を離れ、フランス・リヨンで鷗外の訃報に触れることになりました。

二人が活動の場を同じくした機会は、多いとはいえません。しかし、鷗外をmaȋtre(巨匠)と呼んで慕っていた杢太郎は、没後の鴎外研究の中で、「鴎外は過去でなくて未来への出発点である」という結論にいたります。パート1では、二人の出会いや交流の他、杢太郎が鷗外について記した文章を通して、杢太郎がたどりついた鷗外像に迫ります。パート2では、杢太郎が創作を発表した明治40年代から、晩年までの多彩な活躍をご紹介します。

◆展示関連事業◆
○ギャラリートーク
展示室にて当館学芸員が展示解説を行います。
日時:7月29日、8月12日、26日、9月9日(いずれも水曜日)14時~
申込不要(展示観覧券が必要です)
所要時間は30分程度を予定しています。

講演会「鴎外を継ぐ者―木下杢太郎のパリ」
日 時 8月22日(土)14時~15時半
講 師 今橋映子(東京大学大学院教授)
料 金 無料
申込締切 2015年8月7日(金)必着

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杢太郎は、芸術運動「パンの会」、雑誌「スバル」などを通し、光太郎とも縁の深かった詩人です。「パンの会」の関連で、先頃、奥田万里氏著『大正文士のサロンを作った男 奥田駒蔵とメメイゾン鴻乃巣』を読みましたが、杢太郎が頻出し、最近また気になっています。

「最近また」、というのは、以前にも杢太郎がらみの調査をしたことがあったためです。

神奈川近代文学館さんには、特別資料として、光太郎の自筆書簡も30通あまり所蔵されていますが、そのうち6通は杢太郎宛。さらに4通は『高村光太郎全集』未収録のものでしたので、雑誌『高村光太郎研究』に当方が持っている連載「光太郎遺珠」にて紹介させていただきました。また、同館には智恵子と田村俊子による「『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会」(明治45年=1912)の案内状も所蔵されていますが、こちらも杢太郎あてのものです。これを見つけた時の興奮は今でも忘れられません。

杢太郎の故郷・静岡県伊東市には伊東市立杢太郎記念館さんがあり、一度足を運ぼうと思いながらなかなかはたせずにいます。暇を見つけて行ってみようと思っています。

関連行事としての講演会、講師の今橋映子氏は、昨秋開催された明星研究会さん主催のシンポジウム「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎」のパネリストもなさっていました。当方、同日に第59回高村光太郎研究会があったため、参加できませんでしたが、今度はお話を伺ってこようと思っています。

皆様もぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月9日

明治39年(1906)の今日、留学先のニューヨークから、転居の通知を送りました。

この年10月の雑誌『日本美術』第91号に掲載されました。おそらく宛先は版元・日本美術社の川崎安。

小生移転致し候。番地は
150 West 65th Street New York City

さらに、

小生唯今は下宿の最上級、すなはち四面壁にして天井に引き窓のある部屋に籠城

の記述もあります。

光太郎がニューヨークの土を踏んだのは、この年2月27日。はじめは素人下宿c/o Miss Casty,2008 5th Av.に入りましたが、彫刻家、ガットソン・ボーグラムの助手の職を得、週給6ドルを手に出来るようになって、引っ越しました。

晩年の回想「父との関係」(昭和29年=1954)には以下の記述があります。

西六十五丁目の家の屋根裏の窓の無い安い部屋に移転して自炊しながら毎日ボーグラム氏のスチユヂオに通ひ、猛烈に勉強した。

朝はトーストに紅茶、昼は十仙(テンセンツ)食堂で何か一皿、夜は近所のデリカテツセン店で豆やハムを少し買つて食べ、たまには近くの支那飯屋で安いチヤプスイやフーヨンタンを食べた。

また、やはり晩年に高見順と行った対談「わが生涯」(昭和30年=1950)では、このような発言もありました。

高村 それからこんどは屋根裏の窓のない部屋を借りてね。とても安いんですよ。その代りに、まわりに窓がないから、牢屋と同じなんだ。天井に穴があいてて、綱をひつぱると開くんですよ。
高見 天窓ですね。
高村 そこからあかりが来る。それでも水道とガスが附いてて、そこにいてボーグラム先生の所へかよつて、夜は学校へ行つたんです。一日一ドルで、どうやらこうやら、やつていられたですね。
高見 それがおいくつくらいの時でしたか。
高村 二十四か五ですね。
高見 偉いもんですね。

毎年ご紹介していますが、「連翹忌」の名付け親にして、光太郎を敬愛してやまなかった草野心平が愛した福島県双葉郡川内村で、「第50回天山祭り」が開催されます。 

第50回天山祭り

日 時 : 2015年7月11日(土) 午前11時30分~14時
場 所 : 天山文庫前庭 川内村大字上川内字早渡513(雨天時 川内村体育センター)
主 催 : 天山祭り実行委員会
参加費 : 1人 500円
問合せ : 教育課生涯学習係(0240-38-3806)

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(福島県広報誌『ゆめだより』より)


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昨年の様子はこちら


併せて、会場の天山文庫さんの入り口にある阿武隈民芸館さんでは、心平に関する企画展も同日始まります。
期 間 : 7月11日~8月23日
時 間 : 午前9時~午後4時
場 所 : 阿武隈民芸館
定休日 : 毎週月曜日(祝日は営業、翌日振休)
入館料
 : 300円

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(『広報かわうち』より)


東日本大震災被災地の現状を見る、という意味合いもあります。ぜひ足をお運び下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月5日

明治42年(1909)の今日、料亭・上野常盤華壇で光雲門下の彫刻家一同による高門同窓会主催の帰朝歓迎会で欧米留学の報告をしました。

詩人の豊岡史朗氏から文芸同人誌『虹』が届きました。毎号送って下さっていて、さらに創刊号~第3号第4号第5号と、毎号、氏による光太郎がらみの文章が掲載されており、ありがたく存じます。

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今号では「<高村光太郎論> 晩年」。昭和20年(1945)から7年間の、岩手花巻郊外太田村の山小屋での生活、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のために再上京して以後、歿するまでの中野のアトリエでの生活に関してです。

「晩年の光太郎の精神生活は、自身と一体化した智恵子夫人との対話の日々だった」「いのちと世界を賛美し、清と濁をあわせもつ矛盾にみちた人間存在を、最終的に肯定」等々、首肯させられるものでした。

この手の文芸同人誌、よくいただきます。

毎号のように光太郎がらみの文章などが載っているのは、福島の渡辺元蔵氏からは、『現代詩研究』。詩人の間島康子様からの『群系』。同じく宮尾壽里子様からで『青い花』。

送っていただければ、光太郎にからむものはこのブログにてご紹介しますし、毎年の連翹忌には「1年間でこんなものが刊行されました」ということで展示いたします。当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月4日

昭和24年(1949)の今日、詩「山の少女」を執筆しました。

原題は「鎌を持つ少女」。雑誌『少女の友』に発表され、のち、詩文集『智恵子抄その後』にも収められました。

  山の少女

山の少女はりすのやうに
夜明けといつしよにとび出して000
籠にいつばい栗をとる。
どこか知らない林の奥で
あけびをもぎつて甘露をすする。
やまなしの実をがりがりかじる。
山の少女は霧にかくれて
金茸銀茸むらさきしめぢ、
どうかすると馬喰茸(ばくらうだけ)まで見つけてくる。
さういふ少女も秋十月は野良に出て
紺のサルペに白手拭、
手に研ぎたての鎌を持つて
母(がが)ちやや兄(あんこ)にどなられながら
稗を刈つたり粟を刈る。
山の少女は山を恋ふ。
きらりと光る鎌を引いて
遠くにあをい早池峯山(はやちねさん)が
ときどきそつと見たくなる。

モデルは先頃このブログでご紹介した高橋愛子さんだという説があります。

地元の少年少女にとって、光太郎は、大人達が「とても偉い人だ」と言っているからそうなんだ、と思うだけで、単なる優しい物知りなお爺さんだったとのことです。

光太郎も地元の少年少女を愛してやみませんでした。

このブログにて毎年ご紹介しています明治古典会さん主催の七夕古書大入札会。古代から現代までの希少価値の高い古書籍(肉筆ものも含みます)ばかり数千点が出品され、一般人は明治古典会に所属する古書店に入札を委託するというシステムです。毎年、いろいろな分野のものすごいものが出品され、話題を呼んでいます。

その目録が届きました。

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出品目録は少し前に、ネット上にアップされましたが、全体をざっと見るには紙媒体の方がはるかに便利です。


直接、光太郎に関連する出品物は3点。

目玉は大正3年(1914)の詩集『道程』。何と、カバー付きです。

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詩集『道程』、元々大正3年(1914)の時点では、自費出版で200部しか作られず、しかも文語自由詩全盛の時代を突き抜けた口語自由詩が大半だったこともあり、売れ行きはさっぱりでした。真偽の程は不確かですが、光太郎が友人知己に贈ったものを除き、実際に売れたのは7冊だけだったという話もあります。残本はくり返し奥付を換えて販売されましたが、その売れ行きも芳しくなかったようです。

カバーが無くなってしまったものは、時折市場に出ます。当方も持っています。しかし、今回のものはカバーがちゃんと付いています。カバー付きが市場に出るのはおそらく戦後数回目。非常に珍しいものです。

7/3追記 下見展観を見に行かれた花巻高村光太郎記念会事務局の方から連絡を頂きました。カバーは復刻版のものだそうです。

まあ、珍しさということで言えば、昨年、秀明大学飛翔祭「宮沢賢治展 新発見自筆資料と「春と修羅」ブロンズ本」展に出品された、同大学長・川島幸希氏所蔵の特装本にはかないませんが、コンディションも良く、署名も入っており、逸品と言って差し支えありません。入札最低価格が60万円。おそらくここから跳ね上がるでしょう。

他に、光太郎自筆の小色紙。昭和2年(1927)作の短歌「やせこけしかの母の手をとりもちてこの世の底は見るべかりけり」が書かれています。大正14年(1925)に亡くなった母・わかを偲ぶものです。入札最低価格は40万円。

さらにエミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記では「ヹルハアラン」)の詩集『天上の炎』。光太郎の訳で、大正14年(1925)に刊行されたものです。見返しに「私は未来の熱望をもつ」というヴェルハーレンの言葉を光太郎が記しています。同じく20万円。

この2点は以前から東京の古書店が在庫として持っていたものです。

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それから、光太郎が題字を揮毫した中原中也詩集『山羊の歌』が3冊も出品されます。それぞれ函付きで20~30万円の入札最低価格が設定されています。


「一般下見展観」といって、出品物を実際に手に取れる機会があります。7月3日(金)午前10時〜午後6時、7月4日(土)午前10時〜午後4時の2日間。場所は東京神田の東京古書会館さんです。

美術館や文学館などの展覧会と違い、出品物を実際に手にとって観ることが出来るという、ある意味とんでもないことをやっています(撮影は不可)。全体の目玉として、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」草稿・賢治写真・名刺・書簡・『春と修羅』がセットで入札最低価格350万円、芥川龍之介の自筆ノートが同じく700万円、竹久夢二のスケッチ帖・自作スクラップブック他がやはりセットで500万円。こういったものも手に取れてしまうわけです。ある意味恐ろしいですね。

古書市をご存じない方にはカルチャーショックだと思います。話の種にも、ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月25日

平成16年(2004)の今日、山梨県立文学館で開催されていた企画展 「画文交響 ―明治末期から大正中期へ―」が閉幕しました。

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「パンの会」から「ヒュウザン会」「生活社」「草土社」、雑誌に即して言えば『明星』『早稲田文学』『方寸』『三田文学』『青鞜』『白樺』。文学と美術の接点を追った企画展でした。

となると光太郎は外せません。光太郎関連の資料も多数展示されました。

今日、6月23日は、「沖縄慰霊の日」です。

太平洋戦争末期であった昭和20年(1945)、3月から始まった住民を巻き込んでの沖縄戦で、組織的な戦闘が終結したのが6月23日。それが由来です。

この戦闘による犠牲者は日米英あわせて約20万人。他の局地戦と異なり、戦闘に巻き込まれたり、集団自決をしたりで、多数の民間人が犠牲になっています。

さて、昨日の沖縄の地方紙『沖縄タイムス』に掲載された一面コラムです。

大弦小弦

2015年6月22日

名護市の私設博物館「民俗資料博物館」が1945年の新聞、365日分を展示している。沖縄戦の記録として、館長の眞嘉比朝政さん(78)が8年かけて集めた
▼新聞は全て本土から。壕で発行された沖縄新報は5月25日で途絶え、戦火でほぼ失われたからだ。眞嘉比さんは「沖縄以外の新聞社の記事で沖縄戦が分かるのは皮肉」と言う
▼色あせた新聞を手に取ると、本土の視点が分かる。沖縄本島に米軍が上陸した直後の4月3日。朝日新聞は高村光太郎の詩「琉球決戦」を掲載した。「琉球やまことに日本の頸(けい)動脈」「琉球を守れ、琉球に於(おい)て勝て」と、抗戦を訴える
▼軍部は負け戦を重々承知だった。敗北が迫った6月15日、毎日新聞は鈴木貫太郎首相の会見を報じる。「私は沖縄を天王山としていない」「あまり沖縄のみを強調して国民の意志を弱めることは好まぬ」と手のひらを返した
▼組織的戦闘が終わった26日。北海道新聞の社説は「沖縄の戦いによって稼いだ『時』はわが本土の防衛態勢を強化せしめ」と、捨て石作戦の性格を露骨に書いた。結局、「本土決戦」はなかった
▼沖縄は昭和天皇の「メッセージ」で米国に差し出され、日本復帰後も基地を背負い続ける。原点である慰霊の日が巡ってくる。70年。かくも長く終わらない不正義を、誰が想像できただろうか。(阿部岳)

016引用されている「琉球決戦」、手許の資料によれば『朝日新聞』への発表は4月2日。『沖縄タイムス』さんでは3日となっていますが、東京版でない版で、1日遅れの掲載という可能性が考えられます。

全文はこうです。

   琉球決戦

 神聖オモロ草子の国琉球、
 つひに大東亜最大の決戦場となる。
 敵は獅子の一撃を期して総力を集め、
 この珠玉の島うるはしの山原谷茶(さんばるたんちや)、
 万座毛(まんざまう)の緑野(りよくや)、梯伍(でいご)の花の紅(くれなゐ)に、
 あらゆる暴力を傾け注がんずる。017
 琉球やまことに日本の頸動脈、
 万事ここにかかり万端ここに経絡す。
 琉球を守れ、琉球に於て勝て。
 全日本の全日本人よ、
 琉球のために全力をあげよ。
 敵すでに犠牲を惜しまず、
 これ吾が神機の到来なり。
 全日本の全日本人よ、
 起つて琉球に血液を送れ。
 ああ恩納(おんな)ナビの末裔熱血の同胞等よ、
 蒲葵(くば)の葉かげに身を伏して
 弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、
 猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。


戦後の今だから言えるのかも知れませんが、何をか言わんや、の感がぬぐえません。「全日本の全日本人よ、琉球のために全力をあげよ。」「全日本の全日本人よ、起つて琉球に血液を送れ。」。そんな余裕がどこにあったというのでしょうか。

戦艦「大和」による沖縄特攻が行われたのはこの詩が発表された5日後の4月7日。なるほど、「起つて琉球に血液を送れ」の実行かも知れません。しかし、米軍に制空権を奪われ、航空機部隊の援護もない中での鈍重な艦艇の出撃など、失敗に終わるのは目に見えています。それでも実行したのは「玉砕」の二文字の持つ魔力、とでもいいましょうか、「生きて虜囚の辱を受けず」の精神でしょうか。上層部はそれでいいのかも知れませんが、巻き添えにされる下々の兵卒はたまったものではありません。

そして沖縄でも多数の民間人犠牲者。どこが「吾が神機の到来なり」だったのでしょうか。


こうした愚にもつかない空虚な戦争協力詩を乱発し、多くの前途有為な若者に「命を捧げよ」と鼓舞し続けたことを恥じ、かつ反省し、戦後の光太郎は岩手の不自由な山中に「自己流謫(じこるたく)」の毎日を送る決断をしました。「流謫」は「流刑」に同じ。公的に戦犯として処されることのなかった光太郎は、自分で自分を罰することにしたわけです。

しかし、沖縄戦の実態などは、GHQによる報道管制などの影響もあり、戦後になっても一般国民には余り知らされませんでした。昭和25年(1950)には有名な石野径一郎の小説『ひめゆりの塔』が刊行されましたが、光太郎、これを読んだ形跡がありません。もし読んでいたら、自作の「琉球決戦」と併せ、どのような感想を持ったか、興味深いところです。


ところで、今日行われる沖縄全戦没者追悼式に、集団的自衛権とやらの濫用を目論み、普天間基地移設問題では知事を門前払いにしたあの人も出席するのですね。「弾雨を凌ぎ兵火を抑へ、/猛然出でて賊敵を誅戮し尽せよ。」という国にするのが目標としか思えないのですが。
006

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月23日

昭和48年(1973)の今日、岩波書店から三田博雄著 『山の思想史』 が刊行されました。

当方も寄稿させていただいた山岳雑誌『岳人』さんに連載されたものに加筆修正し、「岩波新書」の一冊として刊行。北村透谷、志賀重昂、木暮理太郎ら、山を愛した近代知識人を取り上げています。

光太郎の項では、青年期に訪れた赤城山と上高地、智恵子の故郷・福島の安達太良山、そして戦後の花巻郊外の太田村での山居について紹介しています。

昨日、池袋の東京芸術劇場に「東京精神科病院協会 心のアート展 創る・観る・感じる パッション――受苦・情念との稀有な出逢い」を観に行った足で、同じ池袋の大型書店「リブロ池袋本店」さんに行きました。

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同店は7月20日(月)をもって閉店だそうで、前身の西武ブックセンターが昭和50年(1975)に開店して以来の40年の歴史に幕が閉じられます。以前は西武百貨店池袋店の中にあり、その一角に「ぽえむ・ぱろうる」という詩の本のコーナーがあって、学生時代には時折足を運んでいました。「ああ、そういうコーナー、あったなあ」とご記憶の方も多いのではないでしょうか。

当方、光太郎関連では、思潮社さんから昭和55年(1980)に刊行された『現代詩文庫 1018 高村光太郎』をここで購入した記憶があります。他に当時興味を持っていた故・吉野弘氏、故・川崎洋氏、谷川俊太郎氏の詩集なども。

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「ぽえむ・ぱろうる」は、西武ブックセンターからリブロさんへの移行に伴い、平成18年(2006)にいったんなくなりました。それがこのたび、リブロさんの閉店を受け、ひと月限りの復活となっています。

少し前に自宅兼事務所に届いた練馬の古書店『石神井書林』さんの目録にその旨の記述があって知りました。同店は詩関係の古書が専門です。

調べてみると、今月9日の『朝日新聞』さんの読書面にも記事が載ったらしいのですが、見落としていました。

 閉店が決まった東京・池袋のリブロ本店2階に、詩の本の専門店「ぽえむ・ぱろうる」が9年ぶりに復活しました。7月20日までの期間限定。サイン入り詩集やリトルプレスが平台に置かれ、壁棚には1968年以降の『現代詩手帖(てちょう)』(思潮社)のバックナンバーがずらり。大岡信さんや谷川俊太郎さんらの直筆原稿も展示されています。
 静かな熱気に包まれるなか、谷川さんが43歳の頃に刊行された『定義』(同)が目に留まりました。帯には「詩の曖昧(あいまい)さを突破(つきやぶ)った実験詩集」の一節。詩とは何かを問い続けた詩人は40年後、初の書き下ろし詩集を発表しました。次の面で書評を掲載しています。

商品のラインナップは昔のまま、とは行きませんが、記事にあるとおり、思潮社さんの『現代詩手帖』のバックナンバーがずらりと並んでいたり、懐かしさで胸がいっぱいになりました。

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また、石神井書林さんの商品(古書)も並んでいました。光太郎と仲の良かった木下杢太郎の詩集など、食指が動いたのですが、財布の中身が心許なく、断念。

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さらに帰ってから調べてみると、来週には谷川俊太郎氏のサイン会もあるとのこと。谷川氏、先週はNHKさんの「あさイチ」にもご出演されるなど、御年83歳にしてまだまだお元気ですね。


詩を愛するみなさん、ぜひ足をお運びください。007


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月21日

平成7年(1995)の今日、J-POPバンド・ヤプーズのCDアルバム「HYS」がリリースされました。

ヴォーカルは女優としても活躍されていた戸川純さん。

光太郎の詩「山麓の二人」からのインスパイアで「あたしもうぢき駄目になる」という曲が収められています。智恵子視点の歌詞です。

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新刊です。 
2015/4/30  わたなべじゅんこ著 邑書林発行 定価2,000円+税  わたなべじゅんこ著

版元サイトより
 「出会うために歩くのか 歩くから出会うのか」  竹久夢二から寺山修司まで、みんなみんな俳人だった!
主に、俳句以外で名を成した方々の俳人としての姿を追いかける事で、 俳句って何なんだろう? という根本の問に迫ります。

 登場の人々は 竹久夢二  中村吉右衛門  永田青嵐  富田木歩  寺田寅彦  久米正雄
 内田百閒 野田別天楼  室生犀星  高村光太郎  津田青楓  矢野勘治  三木露風  
 瀧井孝作  寺山修司

 特に青嵐、木歩、寅彦あたりでは、関東大震災と俳句について語られていて、胸に迫るものがあります。 多くの方の手に届けたい一冊、宜しくお願いします。 装は、石原ユキオさんの描き下ろしです。

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著者のわたなべさんは俳人。関西の大学で非常勤講師をされるかたわら、『神戸新聞』さんの読者文芸欄で俳句の選者を務められているそうです。

余談になりますが、『神戸新聞』さんは一面コラム「正平調」でよく光太郎に言及して下さっています。

閑話休題。

本書で取り上げられている人々は、版元サイトにあるとおり、専門の俳人ではありません。しかし、それぞれに独自の境地を開いた人々。まずはそういった面々の俳句を論じて一冊にまとめていることに敬意を表します。

この手の伝統文化系は、それ専門の人物でないとなかなか取り上げない傾向を感じています。いい例が光太郎の短歌や俳句で、それなりに数も遺され、いい作品も多いと思うのですが、短歌雑誌、俳句雑誌での光太郎特集というのは見たことがありません。せいぜい短い論評がなされる程度です。以前にも書きましたが、いったいに短歌雑誌、俳句雑誌の類は派閥の匂いがぷんぷん漂っており、いけません。

そうした意味で、俳句専門の方が専業俳人以外の人々をまとめて論じていらっしゃる姿勢に好感を覚えました。

さて、光太郎の章。主に『高村光太郎全集』第19巻(補遺1)に掲載されている句を中心に、23ページにわたって展開されています。寺田寅彦とならび、もっとも多いページ数を費やして下さっていて、ありがたいかぎりです。他の人物で、9ページしかない章もあります。長さが第一ではありませんが。

長さだけでなく、その内容も秀逸。やはり専門の俳人の方が読むと違った視点になるのだな、と思いました。具体的には、光太郎の句の時期による変遷。

そもそも光太郎の文筆作品の中で、手製の回覧雑誌や、東京美術学校の校友会誌を除き、初めて公のメディアに掲載されたのが、俳句です。明治33年(1900)の『読売新聞』、角田竹冷選「俳句はがき便」に、以下の二句が載りました。

武者一騎大童なり野路の梅
自転車を下りて尿すや朧月

同じ年には『ホトトギス』にも句が掲載されています。ただ、その後、光太郎は与謝野夫妻の新詩社に身を投じ、俳句より短歌に傾倒するようになります。しかし、公にされない句作も続けていました。

わたなべさん、この時期の句は生硬なものとして、あまり評価していません。わたなべさんが転機とするのは、明治39年(1906)からの欧米留学。その終盤の同42年(1909)、旅行先のイタリアから画家の津田青楓にあてて書かれた書簡に、多数の俳句がしたためられています。

例えば、

寺に入れば石の寒さや春の雨
春雨やダンテが曾て住みし家
ドナテロの騎馬像青し春の風

こうした一連の句を、わたなべさんは高く評価しています。

曰く、

……どうしたことか。日本での初期作品よりずっとずっと俳句らしいではないか。頭の中でこねくり回していたのがウソのように、すっきりとした句風である。

それにしても、この句風の変化はいったいどうなのだろう。外国にいるから、一人旅であるから、だから自分の思いに素直になるのか。奇を衒うのをやめるのか。いや、初めて見るものが多くて、あっさりとした作風で仕上がってしまうのか。日本で作られたものと比べてこのイタリアでの句群はわかりやすい。情景も描ける。これは何だと考える必要を感じない。もともと美術家である光太郎の眼は見る力には恵まれていただろう。だから見たものを言語化するときに、どういうバイアスを掛けるのか、そこが言語作家としての腕ということになる。日本的なものに囲まれていたとき(つまり日本にいた頃)には悶々としていた言葉が、こうもオープンに、明るく、そして優しく(易しく)出てきたのは、日本文化という重しがとれたせいなのか。

慧眼ですね。やはり俳句専門の方が読むと、的確に表して下さいます。

ただ、一つ残念なのが、どうも勘違いをされたようで、『高村光太郎全集』第11巻を参照されていないこと。わたなべさんが参照された第19巻は補遺巻です。それでも現在確認できている光太郎の俳句の約半数は掲載されていますが、残り半数は第11巻におさめられています。

そこで、老婆心ながら、出版社気付で第11巻の当該部分、さらに第19巻刊行(平成8年=1996)以降に見つかった句が載ったものなどをコピーして送付しました。改めて光太郎の句について論じてくださる場合があるとしたら、参照していただきたいものです。

ともあれ、良い本です。ぜひお買い求めを。


竹久夢二へのオマージュとなっている装幀もなかなか素晴らしいと思います。手がけられた石橋ユキオ商店さんのブログがこちら


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月17日

昭和12年(1937)の今日、九十九里浜に暮らす智恵子の母・センに宛てて現金書留を送りました。

同封書簡の一節です。

昨今はうつとうしいお天気ですがお変りありませんか、小生はまだ何となく疲れがあつてとうとう今月は病院へ行かずにお会計を為替で送りました。チヱ子も時候のため興奮状態の様子で心配してゐます

翌年に歿する統合失調症の智恵子は南品川のゼームス坂病院に入院中。この年はじめには姪の春子が付き添い看護にあたるようになり、だいぶ落ち着いたそうです。ところが夏になると狂躁状態になるのが常で、この年のこの時期は前年から始めていた紙絵制作も途絶えていたそうです。

光太郎やセンが見舞いに行くと、さらに興奮状態が昂進、光太郎の足が遠のきました。世のジェンダー論者はこうした点から光太郎鬼畜説を唱えていますが、余人にはうかがい知れぬ深い苦悩があったのは間違いないと思います……。

新刊情報です。  
2015年3月20日 公益財団法人日本近代文学館発行 江種満子編 定価1,020円

エッセイ
   三浦雅士 世界遺産と文学館
  松浦寿輝   音楽を聴く作家たち
  荻野アンナ ケチの話
  藤沢周     基次郎という兄貴
  間宮幹彦   吉本さんが「あなた」と言うとき
  西川祐子   日本近代文学館で出会う偶然と必然
     
論考
 小林幸夫  <軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎
 有元伸子  岡田(永代)美知代研究の現況と可能性 ―〈家事労働〉表象を例に―
 山口徹     作家太宰治の揺籃期  ―中学・高校時代のノートに見る映画との関わり
 吉川豊子  文学館所蔵 佐佐木信綱宛大塚楠緒子書簡(補遺)―洋楽鑑賞と新体詩集『青葉集』をめぐって―
 江種満子 高群逸枝・村上信彦の戦後16年間の往復書簡をめぐって

資料紹介  
 加藤桂子・田村瑞穂・土井雅也・宮西郁実     村上信彦・高群逸枝往復書簡


上智大学教授の小林幸夫氏の論考「<軍服着せれば鷗外だ>事件 ―森鷗外「観潮楼閑話」と高村光太郎 」が17ページにわたって掲載されています。

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先月、発行元の日本近代文学館さんのサイトに情報が出、入手しなければ、と思っているうちに、小林氏からコピーが届きました。有り難いやら申し訳ないやらです。

氏の論考は、一昨年、同館で開催された講座、「資料は語る 資料で読む「東京文学誌」」中の「青春の諸相―根津・下谷 森鷗外と高村光太郎」を元にしたもので、鷗外と光太郎、それぞれの書いた文章などから二人の交流の様子をたどるものです。詳細は上記リンクをご参照下さい。

終末部分を引用させていただきます。

 川路柳虹との対談のなかで(光太郎は)次のように言っている。

 どうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありましたなあ。けれども先生の「即興詩人」など暗記したくらゐですし、先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました。何としても忘れることの出来ない大先輩ですよ。

 談話や書き物によっては同一の事柄に対しても、鷗外をいいと言ったり悪いと言ったり偏差はあるが、総体としての鷗外に対する光太郎の思いは、この言説が代表しているものに思われる。鷗外と光太郎との関係は、「「先生」といふ変な結ばり」を意識してしまふ光太郎に、まさにその「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避に胚胎した、というべきである。


「即興詩人」は、童話で有名なアンデルセンの小説で、鷗外の邦訳が明治35年(1902)に刊行されています。この中で、イタリアカプリ島の観光名所「青の洞窟」を「琅玕洞」と訳していますが、光太郎は欧米留学から帰朝後の明治43年(1910)、神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」の店名を、ここから採りました。こうした点からも「先生のお仕事や人格は絶対に尊敬してゐました」という光太郎の言が裏付けられます。

しかし、軍医総監、東京美術学校講師といった鷗外のオーソリティーへの反発も確かにあり、「「変な結ばり」を結わせてしまうかたちで現れてしまった先生鷗外、という出会いの不可避」というお説はその通りだと思います。

お申し込みは日本近代文学館さんへ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月20日

昭和17年(1942)の今日、詩集『大いなる日に』を刊行しました。

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オリジナルの詩集としては、前年刊行の『智恵子抄』に続く第3詩集ですが、内容は一転、ほぼ全篇が戦争協力詩です。収録詩篇は以下の通り。

秋風辞 夢に神農となる 老耼、道を行く 天日の下に黄をさらさう 若葉 地理の書 その時朝は来る 群長訓練 正直一途なお正月 初夏到来 事変二周年 君等に与ふ 銅像ミキイヰツツに寄す 紀元二千六百年にあたりて へんな貧 源始にあり ほくち文化 最低にして最高の道 無血開城 式典の日に 太子筆を執りたまふ われら持てり 強力の磊塊たれ 事変はもう四年を越す 百合がにほふ 新穀感謝の歌 必死の時 危急の日に 十二月八日 鮮明な冬 彼等を撃つ 新しき日に 沈思せよ蒋先生 ことほぎの詞 シンガポール陥落 夜を寝ざりし暁に書く 昭南島に題す

今月2日、第59回連翹忌の日に刊行された雑誌です。 

高村光太郎研究(36)

2015/04/02 高村光太郎研究会 税込1,000円

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当方も所属する「高村光太郎研究会」の機関誌的に年刊発行されています。

目次は以下の通り。

高村光太郎・最後の年 1月(2)   北川 太一
高村光太郎と雑誌『創作』 ―自選短歌作品を中心に 山田吉郎
詩人野澤一という人 ―そして高村光太郎との関係性― 坂本富江
光太郎遺珠⑩ 平成二十七年   小山 弘明
高村光太郎没後年譜 平成二十六年(二〇一四年)一月~十二月/未来事項  小山 弘明
高村光太郎文献目録         野末  明
研究会記録・寄贈資料紹介     野末  明

北川太一先生の「高村光太郎・最後の年 1月(2)」は、光太郎日記以外に、これまで公表されていない、主として金銭出納を記録した「おぼえ帖」、書簡等の授受を記した「通信事項」も使いながら、昭和31年(1956)の光太郎を追う連載です。ご自身の光太郎訪問記も記され、貴重な記録です。

山田氏の論考は、昨秋の第59回高村光太郎研究会でのご発表を元にしたものです。

坂本富江さんは、光太郎と交流のあった詩人・野澤一、そして野澤、坂本さんの故郷・山梨県と光太郎の関連について述べられています。坂本さんは太平洋美術会会員でもあり、自筆のスケッチも掲載されています。

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拙稿「光太郎遺珠⑩」、「高村光太郎歿後年譜」についてはこちら

頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでこちらまでご連絡ください。

ところで「連翹忌の日に刊行」といえば、連翹忌での配付資料等。当方刊行の冊子『光太郎資料』、各種チラシ・パンフレット類など、以前はクロネコヤマトの「メール便」で、ご欠席の方などにすぐ発送していました。ところが「メール便」が3月いっぱいで終了、新たに「DM便」に移行しました。その結果、利用者登録が必要となり、申請中です。いましばらくお待ち下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 4月9日

昭和21年(1946)の今日、詩人の寺田弘に葉書を書きました。

拝啓 御無沙汰しましたが、「虎座」や詩壇消息の雑誌など拝受して、貴下の撓まぬ御努力をありがたい事と存じました。
四月十三日がまた廻りくるにつれ、昨年のあの時の貴下の御厚情と一方ならぬ御助力とを思ひ出し、真に忝い事だと思つてゐます。其後お訪ね下さつた宮澤家も全焼し、今年は此の山の中の一軒家で記念の日を迎へます。幸に小生健康、貴下の御健勝、お仕事の進展を念じ上げます。

四月十三日」云々は、前年に駒込林町のアトリエが空襲で全焼し、すぐ近くに住んでいた寺田が駆けつけてくれたことを指します。

この折の寺田の回想が、平成24年(2012)に刊002行された『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』に掲載されています。元々は平成21年(2009)に同題のラジオ番組でオンエアされたものです。

 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って、これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやってたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうにそこに立ち止まったのが、印象的でしたね。

芥川龍之介の「地獄変」を思わせるエピソードですね。

昨日は、光太郎詩のモデルになった方に、お話を伺うため、東京練馬に行っておりました。

盛岡出身の彫刻家・深沢竜一氏。大正14年生まれのおん年90歳になられます。ご両親はともに画家の深沢省三・紅子夫妻。やはりともに光太郎と深く関わった方々です。

光太郎顕彰のお仲間である女優の渡辺えりさんにご連絡があり、渡辺さんがぜひお話を聴きたいということになって、当方にもお声がけ下さいました。そういうわけで昨日は渡辺えりさんご夫妻、それから渡辺さんの演劇塾の生徒さん10名ほどと、大人数でお邪魔しました。

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手前が深沢氏です。

お伺いした光太郎に関わる氏の体験を、時系列に沿ってご紹介します。

まずは昭和18年(1943)10月、いわゆる学徒出陣が始まりました。氏は当時、東京美術学校彫刻科に在籍されており、同じ彫刻科の先輩3人と、出陣前に駒込林町の光太郎アトリエを訪ねて話を聴こう、ということになったそうです。4人は彫刻家・舟越保武のアトリエに出入りしていた仲間だったとのこと。

そして訪問が実現、光太郎は10月18日に次の詩を書き、同月26日の『毎日新聞』に掲載されました。


   四人の学生007 (2)

けふ訪ねてきたのは四人の学生。
見しらぬ彫刻科の若い生徒。
非常措置の実施によつて学窓から
いち早く入営するといふ美の雛鳥。
彼等はいふ、
「さとりがひらけたやうに
はつきり心がきまりました。」
私はいふ、
「どんなときにも精神の均衡を失はず、007
打てば響いて
当面する二つなき道に身を挺するこそ
美を創る者の本領、
美と義とを心に鍛へる者の姿だ。」
四人の学生のうしろに
いま剣をとつて起つ無数の学徒がゐる。
君、召させたまふ時、
顧みなくて赴くは臣(おみ)の誇りである。
まことに千載にして一遇の世に生き
若き力として名乗り得る者は幸である。
四人の学生は多くを語らないが
眉宇すでに美しい。
「先生もどうかお元気で、」と
この見しらぬ美の雛鳥らは帰つていつた。
学徒出陣は日本深奥の決意を示す。
聖業成りたまふの気
氤氳として天に漲るを覚える。

さらに昭和19年(1944)に刊行された詩集『記録』に収められた際、つぎの前書きが付されました。

昭和十八年十月十八日作。此月一般学生徴兵猶予の停止及び理工科系学生の入営延期、理工科系統学校の整備拡充、法文科系統大学専門学校の統合整理等の「教育に関する戦時非常措置方策」が決定せられ、情報局から発表せられた。此発表は一時全国の学徒に異常な衝撃を与へたが、忽ち青年は一切の宿心を超えて凛然たる決意を示した。

光太郎は、六日後には「全学徒起つ」という詩も作りました。

この後、深沢氏は海軍に配属され、三重、横須賀、旅順と、点々と配属が変わり、終戦時には体当たり自爆兵器「海龍」の基地にいらしたそうですが、幸い、特攻での出撃には至らなかったということです。

終戦後、モンゴルから引き揚げてきたご両親と合流、郷里岩手に帰られ、雫石で開墾、牧畜を始めたそうです。昭和39年(1964)までこちらにお住まいだったとのこと。そして花巻郊外太田村での山小屋生活をしていた光太郎と再会されたのが昭和22年(1947)。その後、10回ほど光太郎の山小屋を訪れ、自作の彫刻などを見せ、教えを請うたそうです。光太郎には彫刻と絵画の違いなどを教え込まれたとのこと。絵画は平面をいかに立体的に見せるかに腐心するもの、彫刻は逆に丸いものを丸く作っては駄目で、実物にある奥行きを押しつぶす必要があるといった話でした。

ご両親は盛岡に開校した岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)の教授となり、たびたび光太郎を招いて講演をしてもらっていました。昭和25年(1950)1月、やはり美術工芸学校に来校した流れで、光太郎を雫石の自宅に招き、もてなしたそうです。光太郎、牛乳をたくさん飲めたのをことのほか喜びました。

此間中は盛岡で随分しやべらされました。その代わり御馳走にもなり、お酒もいただき、西山村の深沢さんの小屋では二日間に好きな牛乳を一升ものみました。
(佐藤隆房宛書簡より)

この辺りの経緯は、『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962)、『啄木 賢治 光太郎 -201人の証言-』(同51年=1976)といった書籍に断片的に掲載されていますが、実際にお話を聴くのとではやはりニュアンスも違います。

その時に光太郎が書いた書が、深沢家に残っています。

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宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の一節です。画像等を含め、初めて実物を見ました。

賢治といえば、深沢氏、幼い頃に生前の宮澤賢治にもお会いになったそうです。賢治の年譜と照合してみると、どうやら昭和6年(1931)、賢治の歿する2年前です。当時吉祥寺にお住まいだった父君を訪ねてきたそうです。父君は童話雑誌『赤い鳥』に関係されており、さらにお隣には、童話集『注文の多い料理店』の装丁と挿絵を手がけた菊池武雄が住んでいたそうで、その関係だろうとのことでした。

当方、なんだかんだで生前の光太郎を知る方は30名ほど存じていますが、生前の賢治を知る方にお会いしたのは初めてです。

貴重な機会を設けて下さった深沢様、渡辺えりさんには深く感謝申し上げます。

渡辺さん、来週の第59回連翹忌にご参加くださり、深沢様についてのお話をご披露下さるとのことです。


【今日は何の日・光太郎 補遺】 3月27日

昭和39年(1964)の今日、光太郎の実弟・豊周が、鋳金の分野で重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定されました。

昨日の『日本経済新聞』さんの文化面掲載の記事に、光太郎の名がちらっと出ました。

北海道文教大学教授にして、昨年まで北海道文学館理事長を務められた神谷忠孝氏によるもので、「北海道文学ここにあり」と題するものです。サブタイトルが「小林多喜二や石川啄木ら、ゆかりある作家・作品を紹介」となっています。

北海道出身の作家の作品、もしくは北海道に題を採った文学作品を「北海道文学」と定義し、北海道文学館での企画展、昨年増補版が刊行された『北海道文学大事典』の編集などを通し、その豊かさが語られています。

また、北海道は文芸同人誌の刊行が盛んであることにも言及されています。「雪深く極寒の北国は人を屋内にとじ込める。ドストエフスキーやトルストイを生んだロシアと同じく、北海道の気候は物語を紡ぐ想像力を養うのかもしれない。」とのこと。なるほど、太宰治や寺山修司を生んだ青森、石川啄木や宮澤賢治を生んだ岩手も同じかもしれません。

さて、神谷氏の挙げる「北海道文学」に関わる人名は、以下の通り。

国木田独歩、有島武郎、小林多喜二、寺山修司、知里幸恵、池沢夏樹、吉増剛造、円城塔、渡辺一史、山田航、石川啄木、寒川光太郎、そして高村光太郎。

北海道に理想郷を見てやってきた作家は多い。(略)詩人の高村光太郎、函館などで新聞記者として暮らした石川啄木も有名だ。

光太郎が北海道に渡ったのは、欧米留学から帰って2年経った、明治44年(1911)。経営していた日本初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)を畳み、札幌郊外の月寒で酪農のかたわら、芸術作品の創作を夢見てのことでした。しかし具体的な考えはなく、行き当たりばったりの計画だったため、たちまち頓挫し、引き返していますが。くわしくはこちら

その体験を元に作ったのが、詩「声」です。

  000

止せ、止せ
みじんこ生活の都会が何だ
ピアノの鍵盤に腰かけた様な騒音と
固まりついたパレツト面の様な混濁と
その中で泥水を飲みながら
朝と晩に追はれて
高ぶつた神経に顫へながらも
レツテルを貼つた武具に身を固めて
道を行くその態(ざま)は何だ
平原に来い
牛が居る
馬が居る
貴様一人や二人の生活には有り余る命の糧(かて)が地面から湧いて出る
透きとほつた空気の味を食べてみろ
そして静かに人間の生活といふものを考へろ001
すべてを棄てて兎に角石狩の平原に来い

そんな隠退主義に耳をかすな
牛が居て、馬が居たら、どうするのだ
用心しろ
絵に画いた牛や馬は綺麗だが
生きた牛や馬は人間よりも不潔だぞ
命の糧は地面からばかり出るのぢやない
都会の路傍に堆(うづたか)く積んであるのを見ろ
そして人間の生活といふものを考へる前に
まづぢと翫味(ぐわんみ)しようと試みろ

自然に向へ
人間を思ふよりも生きたものを先に思へ
自己の大国に主たれ
悪に背(そむ)け

汝を生んだのは都会だ
都会が離れられると思ふか
人間は人間の為したことを尊重しろ
自然よりも人工に意味ある事を知れ
悪に面せよ

PARADIS ARTIFICIEL!

馬鹿
自ら害(そこな)ふものよ

馬鹿
自ら卑しむるものよ


画像は昔の絵葉書、農商務省月寒種羊場。光太郎が訪れた明治末よりは新しいものですが。


その後も光太郎は、北海道在住の詩人、更級源蔵と親しくなり、たびたび北海道移住の夢を語ります。戦後の花巻郊外太田村での独居生活も、この夢に通じるところがあるのでしょう。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月25日

大正14年(1925)の今日、ベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレン(光太郎の表記ではヴエルハアランまたはヹルハアラン)の詩集 『天上の炎』を翻訳、新しき村出版部から刊行しました。

画像は扉です。当方、カバーなししか持っていないもので。

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少し前にご紹介しました書籍が刊行され、届きましたのでレポートします。 

少女は本を読んで大人になる

2015/3/12 クラブヒルサイド+スティルウォーター編 現代企画室発行 定価1500円+税

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序文から
 人は本を読んで未知の世界を知る。
 新しい経験への扉を開く、かつて読んだ本、
 読みそこなってしまった本、いつかは読みたい本。
 少女が大人になる過程で読んでほしい十冊の古典的名作を、
 さまざまに人生を切りひらいてきた
 十人の女性たちと共に読んだ読書会の記録。

目次
 アンネ・フランク著 『アンネの日記』を読む 小林エリカ(マンガ家・作家)
 L・M・モンゴメリ著 『赤毛のアン』を読む 森本千絵(コミュニケーションディレクター)
 フランソワーズ・サガン著 『悲しみよ こんにちは』を読む 阿川佐和子(作家、エッセイスト)
 エミリー・ブロンテ著 『嵐が丘』を読む 鴻巣友季子(翻訳家)
 尾崎翠著 『第七官界彷徨』を読む 角田光代(小説家)
 林芙美子著 『放浪記』を読む 湯山玲子(著述家・ディレクター)
 高村光太郎著 『智恵子抄』を読む 末盛千枝子(編集者)
 エーヴ・キュリー著 『キュリー夫人伝』を読む 中村桂子(生命誌研究者)
 石牟礼道子著 『苦海浄土』を読む 竹下景子(俳優)
 伊丹十三著 『女たちよ』を読む 平松洋子(エッセイスト)
 読書会とサンドウィッチ


東京・代官山クラブヒルサイドにて、一昨年の5月からおよそ1年、全10回で行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」の筆記を元にしたものです。

編集者で絵本作家の末盛千枝子さんによる「高村光太郎著 『智恵子抄』を読む」は、2013年12月に開催され、当方も拝聴しました。

彫刻家の舟越保武の長女として生まれ、光太郎に「千枝子」という名を付けて貰い、それに対する複雑な思い、それをようやく素直に受け入れられるようになったこと、光太郎智恵子の愛の形などなどで、26ページです。光太郎詩「レモン哀歌」からインスピレーションを得て作られたレモンの皮入りサンドウィッチのレシピ付きです。

amazonなどで購入可能です。ぜひお買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月24日000

昭和22年(1947)の今日、総合花巻病院長佐藤隆房に宛てた葉書に、俳句をしたためました。

坐りだこ囲炉裏に痛し稗の飯

硬い床であぐらをかき続けると、くるぶしなどに出来るのが「すわりだこ」です。

詩や短歌に比べると、あまり数は多くありませんが、光太郎は折にふれ、俳句も詠みました。確認できているものは、生涯でおよそ150句ほどです。

先々週の『東京新聞』さんに、以下の記事、というか連載コラムが掲載されました。時折このブログにご登場願っている坂本富江様から、切り抜きを戴きました。『東京新聞』さんも、毎日、サイトで新着記事をチェックしているのですが、このコラムはweb上にアップされていないようで、存じませんでした。 

手紙 書き方味わい方  卒業祝い 背中をポンと押す 中川越

 「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」(『道程』より)
 春、卒業、入学、入社を迎える人たちに、これほどふさわしい応援の言葉はないだろう。勇気と誇りを持って、美しい未来を切り拓いてほしいものである。
 この有名な詩句を書いたのは、いうまでもなく詩人、彫刻家として名高い、高村光太郎である。
 では、彼は実際に、卒業を迎えた若者に、どのようなエールを送っていたのか。調べてみたところ、次の手紙が見つかった。
 光太郎四十三歳のとき、二十四歳の東京美術学校彫刻科を卒業する学生に宛てた手紙だ。二人は、やはり彫刻家として活躍した双方の父親を介して、親交があった。
 「山本稚彦君 啓、まず卒業を御祝いします」
 いきなり冒頭から祝意を伝え、光太郎らしい清冽(せいれつ)な率直さを示している。
 その後、卒業制作展で山本稚彦の作品を見たこと、そして、「愉快」だったという感想を述べ、次の励ましの言葉をさしはさんだ。
 「何しろ一切これからの事です。これから大変面白いと思います」
 さらに手紙の締めくくりの部分では、このように輝かしい未来を予見した。
 「私はあなたの多幸な前途が約束されている事を信じます」
 もちろん、無責任な観測は相手のためにならない。将来の成功を信じるためには、それなりの根拠が必要だ。しかし、少しでもその可能性があるなら、それを信じて、まだ道の引かれていない世界にこわごわと踏み出そうとしている人たちの背中を、明るくポンと押してあげることが大切だ。
 困難を先取りして、健闘を促すより、きっと効果的に違いない。
 光太郎のこの卒業祝いの手紙のお陰(かげ)だけではないだろうが、山本稚彦青年は、その後、日展の常連となり、日展の特選を三回連続で受賞するなどしてから、日展の審査員、評議員などを務め、日本美術界の重鎮として活躍した。

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筆者の中川越(なかがわ・えつ)氏は「生活手紙文化研究家」だそうです。

取り上げられている手紙は、大正15年(1926)3月26日付で、文中にある通り、のちに彫刻家として有名になる山本稚彦(わかひこ)に宛てた長文のものです。稚彦の父は山本瑞雲。光雲の高弟の一人です。

あらためて手紙の全文を読み返してみましたが、なるほど、若き彫刻家の卵に対する的確なエールに溢れています。中川氏、おそらく紙幅の都合で割愛されたのでしょうが、「美術学校に入学したといふ事は美術に向つて決定的の運命を持つに至つたといふ事にはなりません。学校を如何に卒業したかといふ事がはじめてその方向を決定せしめるやうに思ひます。」という一節には、首肯せざるをえませんでした。

卒業シーズンです。ネット上のいろいろな方のブログや、学校さんのサイト等で、校長先生などが光太郎の作品を引いて、卒業式の式辞をなさったという記述を多く見かけます。ありがたいかぎりです。

人生への応援歌となるような光太郎の作品。それを「青臭い」と言ってしまえば、それまでかも知れません。しかし、それはそれである意味、王道なのだと思います。

光太郎は、敬愛するロマン・ロランをこう評しました。

あまり明白すぎて人にまぶしがられてゐる太陽、あまり確かすぎて人に古臭がられてゐる大空、それを彼は敢然として書く。真理に対する良心の火を彼ほど命にかけて護持する者は偉大である。
(『ロマン・ロラン六十回の誕辰に』 大正15年=1926)

そっくりそのまま、光太郎自身にもあてはまりますね。

私事になりますが、娘が大学を卒業して、家に戻って参りました。話を聞く限りでは、それなりに充実した学生生活だったようで、一安心しております。さすがに実の娘に面と向かって光太郎の言葉を引いてのエールなど、照れくさくて言えませんが、当方の背中を見せることで、娘の背中を押してやりたいと思います。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月20日無題

昭和19年(1944)の今日、龍星閣から詩集『記録』を刊行しました。

序文から。

 「記録」といふ題名は澤田氏(注・龍星閣社主)が撰び、私が同意したものである。むろん全記録の意味ではない。いはば大東亜戦争の進展に即して起つた一箇の人間の抑へがたい感動の記録といふ方がいいかもしれない。もつと内面に属する詩であるため、この集に収録せられないばかりか、まだ一度も発表せられてゐない詩がたくさんある。さういふ生活内面に関する詩は現下の発表機関の絶えて要求しないところであるから、それも当然である。物資労力共に不足の時無理な事は決して為たくない。この詩集とても果して必ず出版せられるかどうかは測りがたい。それほど戦はいま烈しいのである。二年前の大詔奉戴の日を思ひ、今このやうに詩集など編んでゐられることのありがたさを身にしみて感ずる。戦局甚だ重大、あの時の決意を更に強く更に新たにしてただ前進するのみである。

「もつと内面に属する詩であるため、この集に収録せられないばかりか、まだ一度も発表せられてゐない詩」は、翌年の空襲で全て灰になってしまいました。そちらの方を読んでみたかったと思っています。

地方紙『岩手日日』さんに、以下の記事が載りました。 

教え子と音楽CD制作 元英語教諭平賀さん 「深い愛情」印象的に(3/17)

 花巻市上町の元英語教諭平賀六郎さん(83)は、教え子と音楽CD「DEEP LOVE」を共同制作した。歌曲集「英語で歌う日本の歌」と、心に残る詩を読み上げた「日本語・英語朗読」の2枚組み。101歳を迎えた義母幸子さんの長寿祝い、亡き妻郁子さんの十三回忌追善供養とも銘打ち、師弟愛や家族愛、夫婦愛などさまざまな「深い愛情」が印象的な作品になっている。
 平賀さんは、花巻北や盛岡一など県内高校の英語教師として、1992年まで勤務。学校を訪れる外国人客に日本文化を伝えようと、在職中から歌詞の英訳に取り組んできた。難しいとされる宮沢賢治の「精神歌」など多くの作品の翻訳に取り組み、原詩とは一味違った魅力を引き出してきた。私家版訳詩集「日本の名曲 英訳」シリーズも作っている。
 今作は英詩に加え、花巻北高時代の平賀さんに指導を受けた花巻出身で元高校長熊谷司郎さん(69)=神奈川県海老名市=が編曲協力し、メロディーにバーチャル(仮想)歌手の声を重ねている。平賀さんが翻訳時に単語選択を工夫したこともあり、機械音声とは思えないほど滑らかな節回しが実現している。
 朗読編には、平賀さんが思い入れを持つサミュエル・ウルマンの「青春とは」、高村光太郎の「松庵寺」など4詩を収録。英詩は日本語に、日本語詩は英語に訳され、熊谷さんによる音楽を背景に、雰囲気よく仕上がっている。
 「熊谷さんも私も楽しんで作っているから、健康にもいい。打ち込めるものがあるのは幸せ。命ある限り続けたい」と笑顔を見せる平賀さん。今回の歌曲集は英訳CD4作目になるが「第4集にして、やっとこつが分かってきた。好きなことを続けるのは、人生のエネルギーになる。これからもどんどん制作したい」と創作意欲を語っている。

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「松庵寺」は昭和20年(1945)の作。おそらく戦後になって初めて智恵子が謳われた詩です。昭和22年(1947)に刊行された白玉書房版の『智恵子抄』に収められました。

  松庵寺
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奥州花巻といふひなびた町の
浄土宗の古刹松庵寺で
秋の村雨ふりしきるあなたの命日に
まことにささやかな法事をしました
花巻の町も戦火をうけて
すつかり焼けた松庵寺は
物置小屋に須弥壇をつくつた
二畳敷のお堂でした
雨がうしろの障子から吹きこみ
和尚さまの衣のすそさへ濡れました
和尚さまは静かな声でしみじみと
型どほりに一枚起請文をよみました
仏を信じて身をなげ出した昔の人の
おそろしい告白の真実が
今の世でも生きてわたくしをうちました
限りなき信によつてわたくしのために
燃えてしまつたあなたの一生の序列を
この松庵寺の物置御堂の仏の前で
又も食ひ入るやうに思ひしらべました


松庵寺さんは花巻の中心街、双葉町にある寺院です。

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岩手在住時代の光太郎が、ほぼ毎年、10月の光雲・智恵子の命日の法要を、ここで行ってもらっていました。

そこで、松庵寺さんには、昭和62年(1987)に、詩「松庵寺」を、光太郎と親交の深かった佐藤隆房の揮毫によって碑にしたものが建てられました。

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また、今回の記事で紹介されている平賀氏の英訳「松庵寺」を刻んだ詩碑も建っています。

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朗読はこちらのサイトで聴けます。009


ところで松庵寺さんでは、毎年4月2日の午後、花巻としての連翹忌が行われています。今年も市の『広報はなまき』に案内が出ました。

これも毎年ですが、午前中には光太郎が7年間暮らしていた旧太田村の山小屋(高村山荘)で「詩碑前祭」があります。

ともに花巻の㈶高村光太郎記念会さんの主催です。

当方、東京日比谷松本楼での連翹忌を取り仕切っている立場上、こちらには参加できませんが、お近くの方、ぜひどうぞ。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月19日

昭和25年(1950)の今日、花巻農学校跡地に建てられた宮澤賢治の「早春」詩碑除幕式に参加しました。

以前にも書きましたが、同じ年に花巻温泉に建てられた光太郎の「金田一国士頌」詩碑と同じ石材から切り出されたものらしいとのことです。

新刊です。以前にもご紹介しましたが、入手しましたので改めて。 

近代文学草稿・原稿研究事典

日本近代文学館編/編集委員:安藤宏・栗原敦・紅野謙介・十重田裕一・中島国彦・宗像和重
八木書店発行  定価12,000円+税   A5判・上製本・カバー装 383+20頁

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第一部が「総論」ということで、「初学者が原稿を前にしてどのように研究を始めるのか、またどのような点に注意して研究を進めるか、対象となる原稿はどこに行けば見ることができるのか、などについての解説編」(序文より)、第二部が「近代文学史上の主だった作家の原稿を使った研究の具体例」(同)となっています。

第二部で、光太郎も4ページにわたって紹介されています。執筆は群馬県立女子大学教授、杉本優氏。

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基本的に光太郎は、自分の手元に自作の詩を書いた原稿用紙を一括して保存していました。散文や短歌などについてはそういうことはして居らず、詩だけです。さらに、最初に雑誌等に発表した後、単行詩集などに再録する際に詩句の訂正を行うことがしばしばあり、その変遷がきちんと記録されています(全てではありませんが)。この一事をとっても、詩というものが、光太郎の内部で並々ならぬ位置を占めていたことが窺えます。ただし、発表された全ての詩の草稿が残っているかというと、そうでもありませんが。

まず大正5年(1916)作の「わが家」から昭和20年(1945)4月作の「琉球決戦」まで。「琉球決戦」を書き終えた後、駒込林町のアトリエが空襲で全焼しますが、その際には詩稿をまとめて防空壕に投げ入れ、焼失を免れました。アトリエ隣家の植木屋さんが見つけて戦後もそれを保管してくれており、昭和29年(1954)になって、再び光太郎の手元に戻りました。

続いて昭和20年(1945)5月の花巻疎開から歿するまでのもの。これはずっと光太郎の手元にありました。

この2種は、昭和42年(1967)に二玄社から『高村光太郎全詩稿』として一篇ごとに写真版と北川太一先生の詳細な解説を付け、上下二分冊で刊行されています。

それ以外に、出版社に送られた浄書稿も残っています。特に近年発見された詩集『道程』(大正3年=1914)所収の10篇38枚は、『道程』版元の編集者・内藤鋠策旧蔵とされています。

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また、昭和22年(1947)、雑誌『展望』に発表された20篇から成る連作詩「暗愚小伝」も、出版社に送った浄書稿が残っており、それについては平成18年(2006)、やはり二玄社から『詩稿「暗愚小伝」』ということで、全ページの写真版、北川太一先生の詳細な解説付きで刊行されています。

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『近代文学草稿・原稿研究事典』では、このあたりについての解説、原稿用紙の種類、初出形から最終形への変化などについて述べられています。

ただ、あくまで「事典」で、光太郎の項も4ページしかありませんので、概略に留まっています。杉本氏にはこれをさらに長く、一冊の研究書にでもしていただきたいものです。

それにしても、改めて光太郎の草稿が載った上記の書籍類を見てみますと、その時々の光太郎の息づかいまで聞こえてきそうな気がし、これは活字では感じられないものです。こういういわば原典にあたるのも、大切なことですね。

さて、『近代文学草稿・原稿研究事典』。定価12,000円+税と、少し高めですが、版元の八木書店さんに直接出向いて購入すると、1割引です。店舗は神田神保町古書街、三省堂ビルさんの近くです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月18日

昭和7年(1932)の今日、文京区向丘の曹洞宗金龍山大圓寺で、光雲を囲む座談会が行われました。

大圓寺は光雲に依頼してたくさんの仏像を作ってもらった寺院です。いずれ行ってみようと思っています。

出席者は光雲の他、光雲高弟の山本瑞雲、大圓寺の住職・服部太元、講釈師・大島伯鶴、天台宗の僧侶で書家の豊道慶中、陸軍中将・堀内文次郎、海軍中将・小笠原長生。

これを機に、小笠原と光雲は意気投合し、同じ海軍の東郷平八郎元帥を光雲に引き合わせたりします。

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こちらは同じ年の9月、東郷邸にて。左から服部太元、光雲、東郷平八郎、小笠原長生です。

新刊、というより復刊書籍の情報です。 

人権からみた文学の世界【大正篇】

2015/2/6 ゴマブックス   川端俊英著   定価1,200円+税

森鴎外「雁」、夏目漱石「こゝろ」、宮本百合子「貧しき人々の群」……。
大正期につむぎだされた名作のなかから人権に関わる問題に着目し、その時代の断面を検証。
現代を生きる私たちの自己点検にもつながる問いを投げかける良書。著者の慧眼が光る解説も味わい深い。無題

目次
まえがき――大正期と高村光太郎
第一章 森鴎外「雁」の世界
第二章 夏目漱石「こゝろ」の世界
第三章 宮本百合子「貧しき人々の群」の世界
第四章 吉田絃二郎「清作の妻」の世界
第五章 岩野泡鳴「部落の娘」の世界
第六章 永井荷風「花火」の世界
第七章 芥川龍之介「侏儒の言葉」の世界
第八章 秋田雨雀「骸骨の舞跳」の世界
あとがき
大正期略年表

というわけで、光太郎を含め、9人の文学者の作品から、大正時代の人権意識にスポットを当てた論考です。光太郎は「まえがき」で扱われていますが、他の作家と違い、ある特定の作品を取り上げての論ではなく、「道程」や「牛」、「ぼろぼろな駝鳥」といった複数の詩からのアプローチなので、そうなっているという感じです。そして光太郎論を枕に、「大正」という時代の光芒を追う展開です。

白樺派の人道主義、プロレタリヤ文学対ファシズム、ドメスティックな問題、同和問題などからの観点で、非常に読みごたえがあります。

もともとは平成10年(1998)に、部落問題研究所から刊行されたもので、版元をゴマブックスさんに移し、さらにオンデマンド(注文を受けてから印刷、製本するシステム)での復刊です。といっても、注文して翌日には届きます。ただ、造本としてはどうしてもペーパーバックになるようです。変にかさばらない、価格が安いという点では、ハードカバーより良いと思います。

ゴマブックスさん、前身のごま書房時代には新書版の「ごまブックス」が売りだったと記憶していますが、最近は電子書籍系に力を入れているようで、その延長でオンデマンドも手がけているように感じます。

今後、こういう形がどんどん広がっていきそうな気がします。特にこういう埋もれた名著的なものは、大手の出版社がどんどん版権を手に入れ、復刊させていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月12日008

昭和27年(1952)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、編集者・野末亀治に宛てて葉書を書きました。

 小包を又々頂戴、オレンヂをたくさんありがたく存じました。その中にヅボンを発見、これ又大いに役立ちますので大喜びです。今冬は厳寒が続きましたので先年いただいた台湾のキヨウとかいふ獣の毛皮をチヤンチヤンコの下に着るやうにしましたら大変凌ぎ易く感じました。
 小生今冬は栄養状態去年よりもよろしく、雪を冒して温泉にも二三度まゐりました。
 御礼まで。

「台湾のキヨウとかいふ獣」は、おそらく鹿の一種の「キョン」です。光太郎は他にも村人に貰ったカモシカの毛皮などを愛用していました。

猟銃でも持たせれば、マタギのようですね(笑)。とても日本を代表する彫刻家・詩人には見えません(笑)。

昨年から連翹忌にご参加いただいている詩人の宮尾壽里子様から、文芸同人誌『青い花』第79号をいただきました。ありがたく拝受いたしました。

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今回で最終回だそうですが、宮尾様のエッセイ「断片的私見『智恵子抄』とその周辺(五)」が6ページ。『智恵子抄』からインスパイアされた小説、舞台芸術、映画・ドラマ、音楽などでの二次創作の紹介、光太郎智恵子略年譜に見る二人の生の軌跡、オリジナルの『智恵子抄』(昭和16年=1941)のあとに刊行されたさまざまな『智恵子抄』の紹介などの内容です。

他の記事や詩作品等も興味深く拝読しました。中でも柏木勇一氏の「第一次「青い花」創刊の頃の中原中也」は特に興味深いものがありました。現在の『青い花』は第四次ということですが、第一次は昭和9年(1934)の刊行で、今官一を編集発行人とし、太宰治、壇一雄、そして中原中也を含む十数名が参加していたそうです。

中也は同じ年に、光太郎に題字を書いて貰い、第一詩集『山羊の歌』を刊行しています。柏木氏の記事の中には、岩手県奥州市の人首文庫(ひとかべぶんこ)さんに所収されている中也がらみの資料についての紹介があり、「ほう」と思いました。やはり昭和9年(1934)、「胡桃の会」というサークルの会合で書かれた署名帖に、中也の名があったというのです。

人首文庫さんは、詩人の佐伯郁郎の生家に作られた史料館です。佐伯は内務省警保局図書課に勤務し、戦時中は情報局情報官として図書の検閲等に当たっていました。10年以上前になりますが、こちらに光太郎から佐伯宛の全集未収録の書簡が5通、さらに詩稿も収蔵されていることを知り、コピーを戴きました。『青い花』の記述がその人首文庫さん収蔵の資料の紹介だったので、「ほう」と思った次第です。

以下、憶測に過ぎませんが、オリジナル『智恵子抄』(昭和16年=1941)刊行などの陰に、佐伯の尽力があったのではないかと、当方は考えています。

『智恵子抄』には詩や短歌の他に、書き下ろしではありませんが散文も三篇収められています。そのうち昭和15年(1940)の『婦人公論』に載った「智恵子の半生」(原題「彼女の半生-亡き妻の思ひ出」)には、以下の記述があります。

美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふやうなものだけでは決して生れない。さういふものは或は製作の主題となり、或はその動機となる事はあつても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。それは神の愛である事もあらう。大君の愛である事もあらう。又実に一人の女性の底ぬけの純愛である事があるのである。

大君=天皇と、一人の女性を同列に並べたこの表現、当時の社会状況を考えると、読みようによっては不敬のそしりを免れないものです。

当方には、この文言が検閲をすり抜け、雑誌や詩集に掲載された陰に、光太郎を敬愛していた佐伯の影がちらついて見えるのですが、どうでしょうか。

人首文庫さん、行こう行こうと思いつつ、まだ足を運んだことがありません。『青い花』での柏木氏も「岩手の山村にある「文庫」には、戦前の文学活動を物語る”宝物”がまだ眠っている気がする。」と記されています。改めて、折を見て行ってみようと思いました。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月8日008

昭和2年(1927)の今日、光太郎が装幀、題字を担当したロマン・ロラン著、市谷佳義訳 『マハトマ・ガンヂ』 が刊行されました。

右は扉の画像です。

版元の叢文閣は、この前後、ロマン・ロランがらみの書籍をたくさん出版し、装幀や題字を光太郎に依頼しています。片山敏彦訳の戯曲『愛と死の戯れ』、『時は来たらん』、高田博厚訳『ベートォヹン』、『ヘンデル』、尾崎喜八訳の戯曲『花の復活祭』。

智恵子はまだそれなりに健康で、光太郎も円熟期、精力的に仕事をこなしていた時期です。

昨日は、東京町田市の八木重吉記念館さんに行って参りました。

この春、町田にある大学を卒業する娘が、本格的に茶道をやっておりまして、昨日は卒業記念の茶会がありました。「卒業生の親は来るものだ」というので、そちらは愚妻に参会してもらい、当方は同じ市内の八木重吉記念館さんに行っていた次第です。

八木重吉は明治31年(1898)、南多摩郡堺村(現・町田市相原町)に生まれました。その生家の築百年以上という土蔵が記念館になっています。

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八木は教員生活のかたわら、第一詩集『秋の瞳』を大正13年(1924)に刊行、佐藤惣之助主宰の『詩之家』同人となり、その関係で同誌に関係していた草野心平の知遇を得ました。第二詩集『貧しき信徒』は昭和3年(1928)刊行ですが、そちらの上梓を待たず、数え29歳で夭折しました。

生前に光太郎と八木が会ったことはないようですが、おそらく佐藤や心平経由で光太郎は八木の詩業にふれ、高い評価をしました。007

八木重吉氏の今は遺著になる詩集「貧しき信徒」を拝受。よみ返して今更この敬虔無垢な詩人を敬愛する情を強めました。かういふ詩人の早世を実に残念に思ひます。御近親の方々のお心も創造いたされます。
「八木重吉詩集『貧しき信徒』評」 昭和3年(1928)8月『野菊』第六巻第八号

その後、未亡人登美子が八木の原稿を守り抜き、こちらは光太郎の協力も得、遺稿の刊行に力を注ぎました。戦後になって、登美子は歌人の吉野秀雄と再婚、夫婦で光太郎との交流が続きました。

さて、八木重吉記念館。

町田街道沿いの駐車スペースに車を駐め、ちょっとした坂を上がっていく形になりますが、まず坂の下に標柱がありました。署名を見なくとも、一見してそれと判る、草野心平の筆跡です。「詩人八木重吉生家 詩碑 墓地」とあります。

視線を上げると八木の詩008碑。代表作の一つ、「素朴な琴」が記されています。

    素朴な琴

 このあかるさのなかへ
 ひとつの素朴な琴をおけば
 秋の美しさに耐へかねて
 琴はしずかに鳴りいだすだらう


坂を上がると、先述の蔵が見えてきますが、その手前には八木の銅像も。

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八木の兄のお孫さんにあたられるご婦人が出てこられ、鍵を開けて下さり、館内へ。2階建ての土蔵の内部が改装され、八木の詩稿、著書、油絵、書簡、古写真、さらには八木の教員免許や辞令、没後の新聞記事などのコピーといったものまで、所狭しと展示されていました。

撮影禁止ということで、残念ながら画像がありませんが、光太郎の草稿「八木重吉詩集序」(昭和19年=1944)2枚のコピーもありました。ただ、原本は行方不明だそうです。

また、先述の心平による標柱の元となった書、心平の色紙もありました。

まさしく手作りの素朴な文学館、という感じで、これはこれでいいものだと思いました。

町田というと、大都市のイメージもありますが、ここは町田のはずれで、もう少し経って、陽春の頃になると、もっといい感じだろうなと思いました。昨日はかなり雨も強かったので、その点が残念でした。

さて、見学には電話での予約が必要です。詳しくは公式サイトをご参照下さい。


当方、今日、明日は仙台に行って参ります。昨日は娘の関係で町田でしたが、今度は息子の関係です。やはり大学の学生寮にいるのですが、そちらを出て一般のアパートに移るというので、引っ越し及び家具等の買い出しです。

せっかくですので、町田の八木重吉記念館さんもそうでしたが、こういう機会でもないとなかなか足の向かない施設に立ち寄ろうと考えています。詳細は帰ってから。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 3月2日

昭和21年(1946)の今日、雑誌『北方風物』表紙のための素描「早春の木の芽」をペン書きで清書しました。

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この絵は4月10日発行の『北方風物』第1巻第4号の表紙を飾りました。前月におそらく鉛筆でスケッチしたものをペン書きにしています。そこで日付は二月十五日となっています。

当日の日記から。

午后、木の枝の写生ペン画。「北方風物」へやるもの、葉書よりやや小にかく。

22日、日曜日の『読売新聞』さん翌23日月曜日の『日本経済新聞』さんに、光太郎の名が出ました。といっても、それぞれちらりとで、光太郎がメインではありませんが。

まず『読売新聞』さんでは、日曜版の「名言巡礼」という連載で、光太郎と深い縁のあった詩人、尾崎喜八がメインに取り上げられた中で、喜八の紹介文の中に光太郎の名が。

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曰く、

尾崎喜八 1892~1974年。東京生まれ、京華商業学校卒。会社員、銀行員を経て、高村光太郎の影響のもと、20代から主に雑誌「白樺」で文学活動を開始した。1922年、初の詩集「空と樹木」を発表。ロマン・ロラン、ヘッセ、リルケなど欧州の作家の詩文の翻訳も手がけた。46年、長野県富士見村(現富士見町)に移住し、52年、東京に戻った。58年以降、それまでの作品を集大成した「尾崎喜八詩文集」(全10巻)を刊行した。富士見時代の作品を収めた詩集「花咲ける孤独」(55年)は、代表作とされる。

タイトルにある「名言」は以下の通り。

静かに賢く老いるということは満ちてくつろいだ願わしい境地だ(『春愁』より)

元になったのは、昭和30年代前半に書かれた「春愁(ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)」という詩の冒頭部分です。

   春愁 
    (ゆくりなく八木重吉の詩碑の立つ田舎を通って)000
 静かに賢く老いるということは
 満ちてくつろいだ願わしい境地だ、
 今日しも春がはじまったという
 木々の芽立ちと若草の岡のなぞえに
 赤々と光りたゆたう夕日のように。
 だが自分にもあった青春の
 燃える愛や衝動や仕事への奮闘、
 その得意と蹉跌の年々に
 この賢さ、この澄み晴れた成熟の
 ついに間に合わなかったことが悔やまれる。
 ふたたび春のはじまる時、
 もう梅の田舎の夕日の色や
 暫しを照らす谷間の宵の明星に
 遠く来た人生とおのが青春を惜しむということ、
 これをしもまた一つの春愁というべきであろうか。


記事は喜八が戦後の7年間を過ごした(光太郎同様、戦争協力への反省です)長野県の富士見町を中心に書かれています。画像は八木です。

お嬢さんの榮子さん、お孫さんの石黒敦彦さんの談話なども。榮子さんは幼い頃、駒込林町の光太郎アトリエで智恵子にだっこして貰った記憶があるという方です。

当方、昨秋、鎌倉の光太郎縁戚の方が経営されている笛ギャラリーさんで、お二人にお会いしましたので、「ほう」と思いました。

ちなみにこの連載「名言巡礼」では、昨秋、光太郎をメインに扱って下さいました。

続いて、月曜日の『日本経済新聞』さん。

こちらはやはり光太郎と縁のあった画家、村山槐多を取り上げた記事です。

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光太郎の詩「村山槐多」(昭和10年=1935)からの引用があります。

   村山槐多

槐多(くわいた)は下駄でがたがた上つて来た。001
又がたがた下駄をぬぐと、
今度はまつ赤な裸足(はだし)で上つて来た。
風袋(かざぶくろ)のやうな大きな懐からくしやくしやの紙を出した。
黒チョオクの「令嬢と乞食」。

いつでも一ぱい汗をかいてゐる肉塊槐多。
五臓六腑に脳細胞を遍在させた槐多。
強くて悲しい火だるま槐多。
無限に渇したインポテンツ。

「何処にも画かきが居ないぢやないですか、画かきが。」
「居るよ。」
「僕は眼がつぶれたら自殺します。」

眼がつぶれなかつた画かきの槐多よ。
自然と人間の饒多の中で野たれ死にした若者槐多よ、槐多よ。


画家だった村山ですが、詩も書き、光太郎に見て貰ったりもしていました。それが「くしやくしやの紙」で、歿した翌年、大正9年(1920)には、『槐多の歌へる』の題で詩集が出版されています。光太郎は推薦文も寄せています。

記事にメインで紹介されている絵は、「尿(いばり)する裸僧」と題されたもので、村山の代表作の一つ。長野県上田市の信濃デッサン館に収蔵されています。


また、3年前には和歌山県田辺市立美術館で開催された「詩人たちの絵画」展に出品され、その時にも観て参りました。


先日も書きましたが、こうした新聞記事、公共図書館等で閲覧が可能です。ご利用下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月25日

昭和23年(1948)の今日、十字屋書店から歌集『白斧』が刊行されました。

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左は特製限定本(850部)、右は通常版です。明治期から戦後の光太郎短歌268首を収めています。編者は光太郎と交流があり、この時点では縁戚だった宮崎稔です。光太郎が取り持って、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚していました。

奥付では前年11月刊行となっていますが、光太郎はこの歌集の刊行に同意せず、刊行がずれこみました。明治期の作品は鉄幹の添削ががっつり入っているので、自作と言い難いという光太郎の認識がそこにあります。

そこで、編者宮崎による「覚え書」を新たに印刷して巻末に貼り付け、漸く刊行にこぎ着けました。

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近刊情報です。

東京代官山のクラブヒルサイドさんからメールでお知らせ戴きました。

一昨年にクラブヒルサイドさんで行われた読書会「少女は本を読んで大人になる」を書籍化されるそうです。

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以下、添付のPDFファイルから。 

読書会から生まれた本『少女は本を読んで大人になる』が発売されます。

~魅力的な10人の女性たちと共に読む、少女が大人になる過程で読んでほしい10冊の古典的名作~
東京・代官山クラブヒルサイドにて、2013年の5月からおよそ1年続いた読書会「少女は本を読んで大人になる」は少女が大人になる過程で読んでほしい世界・日本の古典的名作を、多彩なゲストと共に読んでいくというもの。この読書会を1冊の本にまとめました。

ご自身の人生とも重ね合わせながら読み進めていく名作は、作品の魅力にぐっと迫りながら、ゲストの人柄も楽しめる内容になっています。また、読書会に合わせてオリジナルで作った作品にちなんだサンドウィッチレシピも収録。豪華な一冊になりました。

 
本編は、各ゲストが1冊の本を読み解いていくという形で構成されています。

 少女の頃繰り返し読んでいた作品。思い出の作品。人生に影響を与えてくれた大切な作品など。どんな風にその物語を解釈して、読み進めていったのか、ゲストによってその捉え方はさまざまに異なることがわかってきます。発見がちりばめられている本編をお楽しみください。

ゲストと共に読んだ名作10点004
平松洋子・『女たちよ!』(伊丹十三)
阿川佐和子・『悲しみよこんにちは』(フランソワーズ・サガン)
角田光代・『第七官界彷徨』(尾崎翠)
鴻巣友季子・『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ)
末盛千枝子・『智恵子抄』(高村光太郎)
中村桂子・『キュリー夫人伝』(エーヴ・キュリー)
小林エリカ・『アンネの日記』(アンネ・フランク)
竹下景子・『苦海浄土』(石牟礼道子)
湯山玲子・森本千絵・『赤毛のアン』(L.M.モンゴメリ)『放浪記』(林芙美子)

サンドウィッチレシピを紹介
読書会では、毎回作品とゲストにちなんだオリジナルサンドウィッチを作りました。作品とゲストの印象から、発想したサンドウィッチです。
すべてのサンドウィッチのレシピが、収録されています。サンドウィッチを片手に読書なんて、いかがでしょう。

読書会が本になりました
全10回開催された読書会は毎回2時間、参加者のみなさんもゲストが選ぶ本を片手に、共に読み進めていきました。
会の流れはゲストによってさまざまで、朗読するときもあれば、グループディスカッションをして話し合うときもあり。その空気感が丸ごと収録され、書き起こされた一冊です。

森本千絵さんによる表紙絵
ゲストの一人である、コミュニケーションディレクターの森本千絵さんによる作品を、表紙の絵に使わせていただきました。この作品は「赤毛のアン」をイメージして描かれたもので、一人の少女が明日に向かって歩みはじめるような印象が、本書のテーマに重なります。


書名:少女は本を読んで大人になる価格:1,500円(税別)
編集者:クラブヒルサイド・スティルウォーター
ブックデザイン:大西隆介(direcIonQ)
サンドウィッチイラスト:山口潤(direcIonQ)
発行日:2015年3月12日(木)
販売場所:全国書店にて
出版元:現代企画室

クラブヒルサイド 
〒150-0033 東京都渋谷区猿楽町30--‐2 ヒルサイドテラスアネックスB棟2F クラブヒルサイドサロン内
担当:菊池・西村  
info@clubhillside.jp phone:03-5489-1267


光太郎と交流のあった彫刻家の故・舟越保武氏のお嬢さんで、「千枝子」さんというお名前は、光太郎が名付け親だという編集者・絵本作家の末盛千枝子さんによる「智恵子抄」がラインナップに入っています。

末盛さん、その後、新潮社さんで発行している『波』というPR誌に、光太郎も絡むエッセイ「父と母の娘」を連載中ですし、昨年は5月15日の花巻高村祭でご講演くださいました(ちなみに今年は当方が講演をいたします)。

購入ご希望の方は、上記までお問い合わせ下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月16日

昭和22年(1947)の今日、花巻町の、宮澤賢治の姻戚・関登久也邸で開かれた歌会に出席しました。

関は尾山篤二郎に師事した歌人。この時期の光太郎には、花巻郊外太田村での生活に題を採った短歌の秀作がけっこうあり、こうした機会に詠まれたものと推定されます。

ちなみにこの歌会は午前中。午後には賢治の弟・宮澤清六とともに映画を観に行きました。その件は昨年の今日、このブログの【今日は何の日・光太郎 補遺】に書きました。

過日ご紹介しました登山系雑誌の『岳人(がくじん)』さんの最新号、2015年3月号が、昨日、発売になりました。

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表紙は畦地梅太郎の版画。いいですね。

特集記事として、「言葉の山旅 山と詩人 上高地編」が、30ページほどで組まれています。

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そのうち、8ページが「高村光太郎と智恵子の上高地」。光太郎詩文と拙稿です。

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上高地は、大正2年(1913)の夏、光太郎智恵子が一ヶ月ほどを共に過ごし、ここで結婚の約束を結んだ場所です。その辺りの経緯と、のちに智恵子が心を病んでしまってから、光太郎がその当時を回想して書いた詩文などに触れてみました。

編集部からは、引用部分を除き2,000字程度という指定で、先日の「歴史秘話ヒストリア」ではありませんが、短い尺の中に収めるのに苦労しました(笑)。もっと書きたいことがたくさんあったのですが、その中の一部は他の方の記事に書かれていましたので、安心しました。

他に尾崎喜八や竹内てるよ、草野心平に北原白秋といった、光太郎と縁の深かった詩人も取り上げられ、また、現代の山岳詩人・正津勉氏の玉稿もあり、非常に読みごたえのある特集です。

大規模書店なら店頭に並んでいますし、アウトドア用品メーカーのモンベルさんのショップにも並びます。また、版元やAmazonなどのネット通販でも入手可能です。定価は680円+税。ぜひお買い求め下さい!


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月15日

昭和54年(1979)の今日、書道雑誌『墨美』288号で、光太郎の特集「高村光太郎遺愛 黄山谷 子瞻帖(しせんじょう)」が組まれました。

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黄山谷は、中国北宋の進士、黄庭堅(こうていけん)の号。草書をよくし、宋の四大家の一人に数えられています。
 
光太郎は山谷の書を好み、最晩年には中野のアトリエの壁に黄山谷の書、「伏波神祠詩巻」の複製を貼り付け、毎日眺めていました。

「子瞻帖」は、黄山谷が師である蘇東坡の略歴を詩文にしたものです。光雲がその拓本を入手、光太郎がそれに惚れ込み、大切にしていたという品です。光太郎から書家の西山秋崖の手に渡りました。そうした経緯にも触れられています。

昨夜オンエアされた、NHKさんの教養番組「歴史秘話ヒストリア 第207回 ふたりの時よ 永遠に 愛の詩集「智恵子抄」」を拝見しました。

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当方、制作のお手伝いをさせていただきましたので、御覧になった方々の感想が気になるところです。いかがだったでしょうか。

一昨年放映された、同じNHKさんの「日曜美術館 智恵子に捧げた彫刻 ~詩人・高村光太郎の実像」の際にもお手伝いをさせていただき、その時は渋谷の放送センターで司会の井浦新さん、伊東敏恵アナ、ゲストの作家・平野啓一郎氏によるスタジオ収録に立ち会い、VTRの部分もその時に拝見しました。

しかし、今回は事前に観ておらず、放映を心待ちにしておりました。実際に観てみて「こういう風に仕上がったのか」と、感慨ひとしおでした。

コンセプトとしては『智恵子抄』」の成立過程から智恵子と光太郎の生き様を探る、といったものでした。ある意味手前味噌になりますが、いい出来だったと思います。45分という短い尺で、光太郎智恵子の生の軌跡をあますところなく伝えるのは物理的に不可能ですが、ダイジェストとしては、あれでほぼ十分と思いました。

「日本人の純愛の代名詞とまで言われる『智恵子抄』」という紹介が為されていましたが、「そりゃ持ち上げすぎだろ」と思いました(笑)。

他にも細かな表現等で、「正確に言うとそうではない」「そう言い切るのは危険」「それは以前の定説」という箇所がありましたが、それはしかたがないでしょう。

「日曜美術館」の時にエゴサーチしてみましたところ、そういうところで揚げ足を取って、鬼の首でも取ったかのようにブログやツイッターの記事を書いている人物がいましたが、心の狭い人だなあと思います。その程度ならともかく、揚げ足を取るのでなく、足すら揚げていないのに「お前、今、足揚げたろ」と突っ込んでくる不届き者もいます。番組の中で一言もそういうことを言っていない、全くそういう内容になっていないことを「こういう内容だった、ひどすぎる」などと勝手に決めつけてブログで全世界に発信しています。その人物、とにかく上から目線で、自分以外の全ての人間はバカだと思っているようです(笑)。それが教育関係者だというのですから呆れます。よっぽど抗議しようかと思いましたが、そういう輩には何を言っても無駄と思うので、放置していますが。

閑話休題。昨夜の「歴史秘話ヒストリア」は、「episode1 智恵子と光太郎 運命の出会い」「episode2 智恵子と光太郎 理想と挫折」「episode3 智恵子と光太郎 愛が生んだ奇跡」そして「智恵子亡きあと 光太郎を支え続けたのは」の4部構成でした。鈴木一真さんと前田亜希さんのお二人による再現ドラマを軸に、要所要所でいろいろな方のコメントや関連画像、動画が入る構成です。

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お二人の演技もなかなかよかったと思います。いつもながらに渡邊あゆみさんの語りも。

過日ご紹介し濵口奈菜さんという方は、二人を取り持った柳八重の役でした。

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小説『智恵子飛ぶ』を書かれた作家の津村節子さん、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生、花巻郊外太田村時代の光太郎を知る高橋愛子さんなどのコメント、いちいちうなずけました。

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最後は花巻、そして十和田湖。

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なかなか感動的でした。

しかし、先程も書きましたが、45分という枠はあっという間ですね。その中で二人の生の試みをダイジェスト的に足早に紹介しなければならない、これは大変なご苦労があったと思われます。

ロケも、昨日の放映になかった場所でもいろいろ行われていますが、割愛せざるを得なかったのでしょう。智恵子が療養していた九十九里浜、京都の国立国会図書館関西館(智恵子が口絵を描いた雑誌『少女世界』)などの部分は使われていませんでした。また、実際にロケは行われませんでしたが、ディレクター氏は宮城女川や福島裏磐梯にもロケハンに行かれたそうです。

そういうご苦労がしのばれるので、何も知らない部外者が勝手に「ひどすぎる」とか書いているのを見ると、本当に腹が立ちます。今回はそういう事がないようにと願っています。

さて、地域によって違うかも知れませんが、再放送がありますので、見逃した方はご覧下さい。

NHK総合 2015年2月17日(火) 24:40~25:25 です。正確に言うと18日(水)未明の午前0:40~ですが、テレビ番組表の表記は翌日未明の分は前日の続きとして表記されます。録画予約等される場合、御注意下さい。

(2/17 22:07追記)先程ディレクター氏から連絡がありました。東北地方の地震報道の影響で、10分遅れのスタートだそうです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月12日

昭和28年(1953)の今日、詩人の宮崎丈二と、新宿中村屋レストランで夕食にカレーを食べました。

中村屋さんは親友だった荻原守衛の関連で、縁の深い場所でした。昨秋、中村屋サロン美術館が開館し、光太郎の油絵「自画像」も展示されています。昨夜の「歴史秘話ヒストリア」でも映りました。

一昨日の『産経新聞』さんに、以下の記事が載りました。 

【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】吉本隆明 政治に流されない感受性

■東日本国際大教授・先崎彰容

 昭和43年のことである。

 一冊の書物が世間を震撼(しんかん)させた。

 吉本隆明『共同幻想論』である。国家の成りたちの起源を『古事記』と『遠野物語』を徹底的に読むことで明らかにしたこの書は、熱狂的な歓迎を受けた。たしかに難解である、でも読まざるをえない、理解できなくても読んだと言わざるをえない、そんな雰囲気が学生を中心に漂っていたのだった。

 だが忘れてはいけない、吉本隆明はそれ以前、まずは「詩人」として文壇に現れたことを。高村光太郎について、言語にとって美とは何かについて考えると同時に、共同体とは何か、私たちにとって国家とは何かが問われた。こうして『共同幻想論』は世にでたのである。

 これらの問題意識は、一点から始まっている。それは戦争の「あの瞬間」からである。戦争体験、これが吉本を詩人にし、かつまた国家を問い続けることを強いたのである。

 たとえば戦争中、少年吉本は、自分の全てを動員して今回の戦争とは何かを考えつづけていた。結論は出た、今回の戦争は正しいものであり、自分はそのために死ぬべきであると思った。

 だが敗戦のあの日以来、世間はガラリと変わってしまう。戦争は誤りであり悪であり間違っていたというのだ。だとすれば、あの時自分の全てを賭けて出した結論は不正解だったことになる。どれだけ真剣に真面目に出した結論であっても、人間は間違う可能性があるのだ。

 8月15日を境に、世間の価値観は百八十度転換した。にもかかわらず、人びとは何事もなかったかのように生きているではないか。戦後に配給された価値観になんら疑いをもたず飛びつき生きている。この事実を吉本は理解できなかった。昨日まで骨の髄まで正しいと思っていたことが崩壊する。なのに、人はなぜ傷つかないのか、つまずかないのか。

 激しい人間不信が、吉本を襲ってきた。社会全体は嘘で塗り固められている。しかも自分もまた、いくら真剣に考えてもその嘘にだまされてしまう。私たちはなんとつまらない存在なのだ-だから吉本は、人間を生への根源的違和感を抱えたもの、こう定義した。もっと分かりやすく言おう、つまずいて生きている不器用な人間にとって、人生は、吐き気を感じるような面倒くさい営みなのだ。

 だから吉本は詩を書いた。言葉を紡ぐことで、どうにかして世間に流されないようにしたかった。戦後民主主義はもちろん、政治的な自由を絶叫するスターリン的マルクス主義も、私は絶対に信じない。なぜなら彼らは、繊細な個人の心を全て政治運動にささげよ、こう言ってくるからだ。

 なぜ彼らはそんなに政治が好きなのか。スローガンに流されるのか。言葉が政治に敗れていることに気づかないのか。

 ある日、吹く風に顔を上げ春の到来を知り、生きようと思う。そんな感受性を棄(す)ててまで、政治活動にささげる自由を私は信じない-「元個人(げんこじん)とは私なりの言い方なんですが、個人の生き方の本質、本性という意味。社会的にどうかとか政治的な立場など一切関係ない。生まれや育ちの全部から得た自分の総合的な考え方を、自分にとって本当だとする以外にない」(『「反原発」異論』)。

 この感受性に注目すべきだ。

 小林秀雄と江藤淳さらには福田恆存(つねあり)、そう、わが国で批評家になるための必要条件は、この繊細で弾力ある感性の系譜にあった。政治的な左右は、批評家にとって重要ではない。批評家になったつもりで一家をなせば、そこにまた他者との比較、批判、排除がおきている。党派をなして、人を罵(ののし)る。これはもう立派な政治ではないか。

 感性とは不断の自己点検、自分が政治的になることへの警戒である。晩年まで主張した吉本の反原発批判も、こうした感性から読まれるべきなのである。


 次回「高坂正堯(まさたか)」は3月5日に掲載します。


 ■知るための3冊

 ▼『共同幻想論』(角川ソフィア文庫) 刊行当時、熱狂的な支持をもって迎えられたこの書は、一方で難解であることでも知られる。吉本が「詩人」として出発したことを念頭に序文を精読すれば、この書の問題意識が見えてくるはずだ。
 ▼『吉本隆明初期詩集』(講談社文芸文庫) 吉本が詩人として出発したことは、くれぐれも忘れてはならない。「エリアンの手記と詩」「固有時との対話」「転位のための十篇」など初期吉本を語るうえで欠かせない詩を全て収める。
 ▼『「反原発」異論』(論創社) 東日本大震災以前から、吉本は一貫して反核運動に批判的な立場をとり物議をかもした。本書は震災直後からのインタビュー記事などを含む、最晩年の遺著的著作。


【プロフィル】吉本隆明
 よしもと・たかあき 大正13(1924)年、東京生まれ。東京工業大卒業。工場勤務のかたわら私家版の詩集などを発表し、昭和30年代に本格的に評論活動を開始。既成左翼を批判しつつ、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』など独自の思索を発表、全共闘世代から熱烈な支持を得る。バブル期には大衆消費社会を肯定して注目された。平成24年、死去。


【プロフィル】先崎彰容
 せんざき・あきなか 昭和50年、東京都生まれ。東大文学部卒業、東北大大学院文学研究科日本思想史専攻博士課程単位取得修了。専門は近代日本思想史。著書に『ナショナリズムの復権』など。


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吉本氏が亡くなってもうすぐ3年。新たに全集の刊行も始まり、このところ、「結局、吉本とは何だったのか」という検証が活発になってきました。NHKさんの教養番組「日本人は何をめざしてきたのか。 知の巨人たち」で取り上げられたりもしています。

その思想的源流の一つとなった、戦時中の光太郎についての検証。吉本を考える際に併せて考えていただきたい問題だと思いますし、吉本が出し切れなかった答えは、後の我々に託されたのだと考えたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月7日004

大正15年(1926)の今日、詩「象の銀行」を執筆しました。

   象の銀行

セントラル・パアクの動物園のとぼけた象は、
みんなの投げてやる銅貨(コツパア)や白銅(ニツケル)を、
並外れて大きな鼻づらでうまく拾つては、
上の方にある象の銀行(エレフアンツバンク)にちやりんと入れる。

時時赤い眼を動かしては鼻をつき出し、
「彼等」のいふこのジヤツプに白銅を呉れといふ。
象がさういふ、
さう言はれるのが嬉しくて白銅を又投げる。

印度産のとぼけた象、
日本産の寂しい青年。
群集なる「彼等」は見るがいい、
どうしてこんなに二人の仲が好過ぎるかを。

夕日を浴びてセントラル・パアクを歩いて来ると、
ナイル河から来たオベリスクが俺を見る。
ああ、憤る者が此処にもゐる。
天井裏の部屋に帰つて「彼等」のジヤツプは血に鞭うつのだ。


明治39年(1906)から翌年にかけての、ニューヨーク留学中の記憶を元にした詩です。のちのロンドンやパリではそういうこともなかったようですが、最初に滞在したニューヨークでは、かなりあからさまな人種差別にあった光太郎、同じアジア産の動物園の象に、自らの姿を仮託しています。

以前にも書きましたが、この「象の銀行」、光太郎の詩の中では比較的有名な一篇であるにもかかわらず、初出誌が不明です。昭和4年(1929)に改造社から刊行された、いわゆる「円本」の「現代日本文学全集」第37篇『現代日本詩集/現代日本漢詩集』に収められていますが、それ以前にどこかの雑誌などに発表されているはずです。しかし、どこに発表されたのかが判っていません。

情報をお持ちの方はこちらまでご教示いただければ幸いです。

新刊、といっても昨年12月の刊行です。
株式会社金曜日刊 発売日 2014/12/11 著者:  辺見庸・佐高信  定価:  1500円+税

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版元サイトより

「人間はここまでおとしめられ、見棄てられ、軽蔑すべき存在でなければならないのか」――辺見庸

侵略という歴史の無化。軍事国家の爆走と迫りくる戦争。人間が侮辱される社会・・・。二人の思索者が日本ファシズムの精神を遡り、未来の破局を透視。誰かが今、しきりに世界を根こそぎ壊している。日本では平和憲法を破棄しようとする者が大手を振っている。
喉元に匕首を突きつけて私たちは互いに問うた。なぜなのだ?あなたならどうする?呻きにも似た、さしあたりの答えが本書である。

目次
第1章 戦後民主主義の終焉、そして人間が侮辱される社会へ
コンピュータ化と人間身体/資本と安倍ファシズム/もはや「どつきあい」は避けられない/スムーズに消してゆく装置/サブスタンスはあったのか/死ぬ気でやるのか

第2章 「心」と言い出す知識人とファシズムの到来
ジャーナリストのパッション/ジャーナリストとは、ゆすり、たかり、強盗/「心」と「美しい国」と同じ/どちらにも展望はない/ファシズムの情動的基盤

第3章 「根生い」のファシストに、個として闘えるか?
知性の劣化/訴えられる覚悟/共産党も巻き込んだ「祖国防衛論争」/なかったふりをするな/「禁中」と天皇利用主義者/決断を迫られる時がくる

 
第4章 日本浪曼派の復活とファシズムの源流
老いと夜/日本浪漫派の血脈/慰安婦問題を身体的なこととしてとらえる/日本思想史の中の免罪の歴史/実時間の表現

第5章 ジャーナリズムと恥
クーデター、三島由紀夫と安倍晋三/偽なるものの力能/書くことと自己嫌悪/特定秘密保護法とジャーナリズムの恥

第6章 とるに足らない者の反逆
魯迅のアナキズム/中国という圧倒的事実/とるに足らないものからの発想/絶望の深みから

第7章 歴史の転覆を前にして徹底的な抵抗ができるか?
これから何が起きないかはわかる/歴史の転覆/否定的思惟がなくなった/徹底的な抵抗の弾け方/権力こそが非合法

第8章 絶望という抵抗
真実の不確定性、記憶のうごめき/自己申告する歴史と、見られた歴史/年寄りが鉄パイプを持って突撃する/身体を担保した抵抗

ジャーナリスト・辺見庸氏と、評論家・佐高信氏の対談集です。元々は雑誌『週刊金曜日』の連載でしたが、さらにそれをふくらませたものです。ともに左派の論客として知られるお二人だけに、今をときめく人々をバッサバッサと斬りまくっています。

斬られている主な人々は以下の通り。敬称は略します。

まず、安倍晋三、麻生太郎、百田尚樹、籾井勝人、曾野綾子、田母神俊雄、長谷川三千子、小松一郎といった右寄り(極右?)の人々。それでいて、元産経新聞社長の住田良能などには高い評価。そうかと思えば、御厨貴、池上彰、姜尚中、古舘伊知郎、五木寛之、吉本隆明、大江健三郎といった人々もバッサバッサ。そういう意味ではバランスは取れています。

その対象は歴史的な人々にも及び、保田與重郎、石原莞爾、三島由紀夫、渡辺一夫、唐牛健太郎、斎藤茂吉らもメッタ斬りです。

光太郎も俎上に登っていますが、好意的に扱われています。

佐高 藤沢周平を思い出しました。一見すると穏やかな人ですが、珍しく講演で、同郷の歌人である斎藤茂吉を痛罵しているんです。その際、斎藤茂吉に高村光太郎を対置している。高村光太郎は戦中に戦争協力詩を書いたことを自己否定し、戦後しばらく花巻に隠棲する。それにくらべて斎藤茂吉は何の反省もしていない、と。(略)自己批判というものがなかった戦後日本の風景の中では、高村光太郎の自己否定には胸を打つものがありますよね。
辺見 そうですね。吉本(隆明)さんも高村光太郎の自己否定から出発しているところがあると思います。光太郎の反省の深さはおっしゃるとおり、「個」として過ちを引きうけている点でこの国では例外的ではないでしょうか。

ただし、おさえるところはきちんとおさえています。

辺見 でもぼくは、高村が自己否定に至るまでに相当の戦争協力詩を書いていることを決して見逃したくないんです。高村にかぎらず、たいていの詩人や作家がそうなんですが、戦争詩となると呆れるほど下手になるのですよ。なぜか。一つは、結局プロパガンダにすぎないからです。もう一つは、個人として十五年戦争の根っこと未来を見通す知性がなかったからです。それは日本の誰一人としてなかったと思う。これは無惨なことですよ。

逆に光太郎の戦争詩だけをことさらに取り上げて、「これぞ大和魂」などともちあげる愚昧なヘイトスピーカー、ヘイト出版社がありますが、そういう輩にこそ、この書を読んでほしいですね。

しかし、惜しむらくは出版のスピードが、世の中のスピードに追いつかないという点。昨年暮れの大義なき抜き打ち解散総選挙や、昨今のイスラム国の問題などはこの出版に間に合っていません。そういう意味でも続編を期待します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 2月6日

大正5年(1916)の今日、雑誌『美術週報』に、智恵子のエッセイ「女流作家の美術観」が掲載されました。

 批評は要らない、是非の批評はすべての004専門家にある、たゞ私には、なくて叶はぬものとしてある、この芸術を、考へるさへ、身にあまる幸福を感じられる。
 さまざまな時代に、まことの芸術家達が、それぞれ自身の生命を掘り下げて行つた。その作品は、いきていまも、私達の前に息づく、それ等のものは、魂をめざめさせる、恰も自然が私達をめぐむ恵のやうに、清らかに力強く、押迫つて透徹する、私はそれ等の彫刻を愛し、それ等の絵画を思慕してやまない。心の底からその作者を尊敬し、又は崇拝してゐる。
 ロダンはあらゆる時代の魂の積畳であつて、又海山の自然の反映であるとおもはれる。暁のやうなその作品は、暗い魂に、鋭い光りと優しい温味とを、ほのぼのと投げかける。ロダンをおもふことは私の、栄光である。セザンヌもまた、親しく自分のいまの生活に、糧となつて輝いてゐる、たくさんの星のなかで、この二人をかぞへて、今は、うらみとはしまい、その一つも、どれ程大きなことであらう。古くから、又それぞれの世に、光りは輝くのだ。私は愛念をもつて、それ等を仰ぎみて、よろこびにあふれる。
 そして近くこの日本の芸術にも、私はそれ等の美しい魂を見ることの出来る幸をものべておかう。

明らかに光太郎の影響が見とれる文章です。

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