カテゴリ: 文学

頼まれましたので、出演して参ります。

☆ポエトリーユニオン☆@浅草

期 日 : 2024年10月12日(土)
会 場 : 浅草の和モダン レンタルギャラリーブレーメンハウス 東京都台東区浅草1-37-7
時 間 : 14:00~
料 金 : 1,000円

浅草寺の近くのギャラリーで味わい深いオープンマイクをやります。

当イベントはオープンマイクです。1人の持ち時間8分。好きな絵について語った後、詩を1篇(時間内なら2篇OK)朗読して下さい。

会場1階は萩原哲夫氏の展覧会となっています。ご都合の良い方は早めにお越しいただき、鑑賞していただければ幸いです。

飲み物はペットボトル持参でゴミはお持ち帰りいただけますよう、お願い申し上げます。

『私達の日々は風景の連続ともいえるでしょう。
 美しい瞬間を画家が描いた風景の前に、人は立ちどまります。
 詩人の語る詩情にも絵はあります。
 朗読する詩人達の肉声を通してそれぞれの風景を想像して
 分かち合う午後のひと時をご一緒しましょう。』

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仕掛け人は連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの詩人・服部剛氏。この手のイベントをよく主催されているようです。

氏から「光太郎について語ってくれ」と言われ、お受けすることに致しました。他は現役の詩人の皆さんがマイクを握られるのでは、と思われます。

聴くだけでも可でしょうし、ぜひ語りたいという方もまだ受付中と思われます。上記フライヤー画像ご参照の上、お申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩を六篇自分勝手に選択して書きぬき、別封で送ります。多分明日二ツ堰の局までゆけるでせう。今日は暴風雨ですが。「続智恵子抄」ではあまり月並みと思ひ、「智恵子抄その後」としましたがおかしいでせうか。

昭和24年(1949)10月30日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎67歳

粕谷は編集者。連作詩「智恵子抄その後」6篇――「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」――は、翌年1月の『新女苑』に発表されました。

時折、光太郎に関連する企画展示をなさって下さっている文京区の森鷗外記念館さんで、またしてもです。

特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」

期 日 : 2024年10月12日(土)~2025年1月13日(月・祝)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10:00〜18:00
休 館 : 11月26日(火) 12月23日(月)・24日(火) 12月29日(日)~2025年1月3日(金)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円)  中学生以下無料

 文京区立森鴎外記念館では2024年10月12日(土)から2025年1月13日(月・祝)まで、特別展「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」を開催いたします。
 当館では2023(令和5)年、江戸千家家元・川上宗雪氏より、明治20年代から昭和50年代に交わされたはがきコレクション111枚を一括でご寄贈いただきました。
 差出人は森鴎外を始め、夏目漱石、与謝野晶子、石川啄木、芥川龍之介、宮沢賢治ら文学者。竹久夢二、藤田嗣治、竹内栖鳳、恩地孝四郎ら美術家。他にも幸徳秋水、田中正造、山川菊栄、南方熊楠、柳宗悦など、各分野において近現代史に名を遺す著名人ばかりです。
 内容は、季節の挨拶、礼状、お祝い、事務連絡など暮らしや仕事のやり取りもあれば、私信ならではの本音や心安さが見られるものもあります。手書きでしたためられたはがきには、書き手の個性や受取人との関係性、当時の社会の雰囲気に思いを巡らせる魅力が詰まっています。
 本展では、はがき一枚一枚の魅力や、それらが伝える人物交流、文化的・社会的背景を紹介します。各人の全集に未収録のものや、文京区ゆかりの文化人のもの等、明治から昭和に至る通信環境の変化とあわせて、111枚のはがきの世界をお楽しみください。

■はがきの差出人(五十音順)
文学者
芥川龍之介、石川啄木、伊藤左千夫、井伏鱒二、伊良子清白、氏家信、円地文子、岡本かの子、尾山篤二郎、山本露葉、北原白秋、木下利玄、古泉千樫、齋藤茂吉、島木赤彦、杉田久女、高村光太郎、立原道造、谷崎潤一郎、田山花袋、坪内逍遙、土岐善麿、内藤鳴雪、永井荷風、長塚節、中西悟堂、夏目漱石、萩原朔太郎、馬場弧蝶、二葉亭四迷、堀辰雄、正岡子規、三木露風、宮沢賢治、三好達治、武者小路実篤、室生犀星、森鴎外、吉井勇、若山牧水、柳原白蓮、与謝野晶子、吉川英次 ほか

美術家、工芸家
會津八一、梅原龍三郎、小川芋銭、織田一磨、恩地孝四郎、香月泰男、川端龍子、小出楢重、近藤浩一路、坂本繁二郎、芹沢銈介、竹内栖鳳、竹久夢二、寺崎廣業、堂本印象、富岡鉄斎、橋本関雪、平福百穂、藤田嗣治、前田青邨、松林桂月、松本竣介 ほか

ジャーナリストほか
大川周明、緒方竹虎、木下尚江、幸徳秋水、高田早苗、田中正造、山川菊栄、山川均

哲学者、評論家、芸能ほか
阿部次郎、安倍能成、仮名垣魯文、三遊亭円朝、寺田寅彦、新村出、西田幾多郎、野上豊一郎、久松潜一、藤原銀次郎、正木直彦、南方熊楠、柳宗悦、和辻哲郎
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関連事業

○展示監修者、調査研究協力者による講演会
 ・講演会「111枚のはがきが織りなすタペストリー」
   講師:須田 喜代次 氏(大妻女子大学名誉教授・森鷗外記念会会長)
   日時:2024年11月10日(日)14時~15時30分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ・講演会「はがきの世界1」
   前半「芥川龍之介のはがきをめぐる三題噺
-〈六朝書体〉・海軍機関学校・小説「河童」」
    講師:伊藤 一郎 氏(東海大学名誉教授)
   後半「夏目漱石のはがきから-漱石の文人趣味」
    講師:松村 茂樹 氏(大妻女子大学教授)
   日時:2024年11月24日(日)14時~16時15分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ・講演会「はがきの世界2」
   前半「宮沢賢治「臨終の詩」の謎-松本竣介はどこでこの詩に出会ったのか?」
    講師:杉浦 静 氏(大妻女子大学名誉教授)
   後半「翻字作業の裏側で-文字に向きあうということ」
    講師:出口 智之 氏(東京大学准教授)
   日時:2024年12月14日(土)14時~16時15分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ※講演会はいずれも定員50名

はじめ、鷗外宛のはがきの集成かと思ったのですが、さにあらず。個人のコレクターの方からの寄贈で、とにかく近代著名人の葉書をコレクションするという集め方だったようで、差出人はもちろん、宛先もバラバラのようです。

我らが光太郎の葉書も含まれています。比較的長命だった上に、特に戦後はやたらと筆まめだった光太郎ですので、そう珍しいものではありませんが、『高村光太郎全集』未収録のものであれば嬉しいなと思っております。そうであれば、たった一通でも、通説を覆すようなことが書かれていたり、これまで知られていなかった事実が書かれていたりということがよくありますので。

8月に行って参りました兵庫県たつの市の 霞城館・矢野勘治記念館さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」に出た光太郎葉書もそんな例で、この発見により、大正年間に埼玉の秩父山麓を周遊していたという知られていなかった事実が判明したりしました。

ところで、光太郎と異なり早世したため、残っている書簡の少ない石川啄木や宮沢賢治のそれも出品され、かえってそちらで「ほおー」と思いました。啄木からは大恩人の金田一京助宛、賢治は高橋秀松という人物に送ったものだそうです。高橋は盛岡高等農林学校の寄宿舎で賢治と同室、戦後、郷里の宮城県名取町(のちに名取市)の町長/市長を務めた人物でした。

他にも文学、美術、さらにその他の分野でも光太郎と縁のあった人物がずらり。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

しかしお彼岸の頃から健康恢復、只今ではもうすつかり元気になりました、夏に弱いことまつたく白熊のやうです。その代りこれから冬にかけては得意の季節です。
昭和24年(1949)10月26日 東正巳宛所感より 光太郎67歳

少し前のこの項でご紹介した、この年の夏、おそらく熱中症で4回ぶっ倒れたという話からの繋がりです。自らを白熊に例えるあたり、笑えます(笑)。

毎年恒例、北鎌倉での展示情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11

期 日 : 2024年10月8日(火)~11月26日(火)の火・金・土・日曜日
      追記:当初予定から変更で11月19日(火)までとなりました。
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 11月9日(土) 15:00~
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光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫御夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんでの展示。すぐ近くに住んでいて、光太郎と深い交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏のご協力もあり、光太郎と尾崎の交流(尾崎の妻は光太郎の親友・水野葉舟の娘の實子でした)を辿る展示が為されます。光太郎と尾崎それぞれの肉筆や写真、年によっては光太郎が尾崎の結婚祝いに贈ったブロンズの「聖母子像」(ミケランジェロ模刻)も。

一昨年からは関連行事として光太郎と尾崎の詩をとりあげる朗読会も催されています。当方、今年は「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品物をお貸しし、その搬入と会場設営の日に当たってしまいましたので欠礼いたしますが、展示の方は会期中に拝見に伺うつもりで居ります。

皆様も是非どうぞ。朗読者も募集中だそうです。奮ってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

何を表現しても芸術そのものは健康であるべきです。

昭和24年(1949)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

光太郎、造型にしても文筆にしても、病的な表現は嫌いました。若い頃には彫刻で「妖気」のようなものを表そうとしたこともありましたが、のちにそういうやり口は誤りだったと否定しました。

「山の詩人」といわれた尾崎にもそういう精神は通底していて、それだけに二人が結びついたのだと思われます。

智恵子の故郷、福島の地方紙『福島民友』さんから。

「智恵子に親しみを」 高村夫妻結婚110周年、顕彰会が学校に絵本寄贈へ

 「智恵子抄」で知られる福島県二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家光太郎を顕彰する同市の「智恵子のまち夢くらぶー高村智恵子顕彰会」は12月、高村夫妻の結婚110周年などを記念し、智恵子の生涯を描いた絵本を智恵子の母校油井小をはじめ同市の全23小中学校と4地区の図書館、図書室に寄贈する。代表の熊谷健一さんは「絵本が二本松の次世代を担う子どもたちに美と愛を貫いた智恵子への親しみと理解を深めるきっかけにしたい」と期待を寄せている。
 贈呈は結婚110周年のほか、「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」でおなじみの光太郎の詩集「道程」出版110周年、同くらぶ発会20周年の節目を祝って実施する。
 贈呈する絵本は、同くらぶと親交のある作家で画家、智恵子研究者坂本富江さん(東京都)が制作した紙芝居「夢を描くひとー高村智恵子」を今回の贈呈に合わせ、坂本さんが一部手直しして絵本化したもの。
 同団体は2005年に設立、智恵子講座などを通じて智恵子と光太郎の世界を研究している。贈呈式は12月15日に二本松市で開かれる「発会20年を祝うつどい」の席上、実施する。
 同団体は本年、各種記念事業として今月16日、安達太良山の“ほんとの空の下”で智恵子抄朗読大会の開催などを予定している。
 熊谷さんは「絵本を通して波瀾(はらん)万丈の生涯を生き抜いた高村夫妻の遺徳を後世に伝承するとともに、子どもたちに今後、さらに濃密、充実した人生を歩んでもらえる生きた教材として活用してほしい」と贈呈を心待ちにしている。
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絵本作者の坂本富江さん、太平洋美術会さんに所属され、絵を描かれている方です。同会に入会なさった動機の一つが智恵子もこちらに通っていたことだという筋金入りの智恵子ファンで、都内智恵子生家で個展を開かれたり、平成24年(2012)には『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』、同27年(2015)には同書の増補改訂版を刊行なさったりしました。それを元に、智恵子母校の二本松市立油井小学校さんや光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さんなどで紙芝居の御披露もなさっています。

今回の絵本、当方、校正を担当いたしました。刊行は未だ少し先のようですが、世に出ましたらまた詳しくご紹介いたします。

その前に、記事にある「智恵子のまち夢くらぶー高村智恵子顕彰会」さんのイベント「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」が10月14日(月・祝)に行われ、その中でまた坂本さんの紙芝居実演がプログラムに入っています。

これも近くなりましたら詳しく取り上げますのでよろしくお願い申し上げます。。

【折々のことば・光太郎】

今スルガさんに頼んで便所を新築してもらふ事にしてゐます。スルガさんが一切引きうけてくれました。


昭和24年(1949) 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)脇に建っている便所のことと思われます。「スルガさん」は土地を提供してくれていた駿河重次郎です。
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左側が「小」。右側が「大」で、その壁に明かり採りのため「光」一字を刳り抜きました。
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光太郎が7年間の蟄居生活を送った旧太田村の山小屋に隣接する花巻高村光太郎記念館さん関連で2件。

まず、『広報はなまき』9月15日号から。同誌、1月を除き1日、15日と月2回の発行ですが、毎月15日分にはほぼ毎号「花巻歴史探訪郷土ゆかりの文化財編」という記事が最終ページに載ります。主に市そのものや市内の博物館、記念館等の所蔵品を紹介するもので、今回もそうですが、光太郎関連も時々取り上げられます。

今号は先頃市に寄贈のあった中原綾子関連史料の中から「「みちのく便り」直筆原稿」。中原が主宰していた雑誌『スバル』に寄稿したもので、旧太田村時代の昭和25年(1950)から昭和26年(1951)にかけて不定期に4回掲載されました。そのうちの3回目の原稿が紹介されています。
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記事にあるとおり昭和25年(1950)に盛岡市の川徳画廊で開催された智恵子の紙絵展を見ての感想がメインです。一部分を抜き出しましょう。

 久しぶりに智恵子の作を見てやはり感動した。その上かうやつて一度にたくさん並べて見たのは初めてなので、膝の上で一枚づつ見るのとは違つた、その全体から来る美の話しかけに目をみはつた。一人の作が三十枚程あれば一つの雰囲気が生れる。人はその雰囲気の中で、丁度森の中をゆくやうな一種の匂はしさを感ずる。
 見渡したところ智恵子の作は造型的に立派であり、芸術的に健康であつた。知性の細かい思慮がよくゆきわたり、感覚の真新しい初発性のよろこびが溢れてゐた。そして心のかくれた襞からしのび出る抒情のあたたかさと微笑と、造型のきびしい構成上の必然の裁断とが一音に流れて融和してゐた。

ここまで的確に智恵子の紙絵を表せるのは、やはりそれが自分に向けて作られた光太郎しか居ないのでは、と思われます。

現存する智恵子の紙絵はすべて、心を病んで品川のゼームス坂病院に入院してから作られたものです。健康だった頃、駒込林町のアトリエで、尾崎喜八の幼い娘にシンメトリー式の切り絵を作ってやったという尾崎の証言がありますが、その現存は確認できていません。

のちの心理学者的な人々の考察では、この紙絵が当時の智恵子にとって、人間世界と交信する唯一のツールだったとのこと。その通りでしょう。智恵子没後10年余り経ち、改めてずらっと並んだそれを見た光太郎。その胸中はいかばかりだったのか……。

この「みちのく便り」の原稿はじめ、中原綾子関連の寄贈品、おそらく来年には花巻高村光太郎記念館さんで展示されると思われます。今から楽しみです。

同館関連でもう1点。盛岡で開催されるイベントに同館として参加、だそうです。

同人誌展示即売会 岩漫63

期 日 : 2024年9月22日(日)
会 場 : 岩手県産業会館(サンビル)7階大ホール 岩手県盛岡市大通1丁目2番1号
時 間 : 11:00~15:00
料 金 : 無料

岩漫(がんまん)とは
◆岩漫は、同人誌を中⼼とした創作物を通じて自己表現する場であり、会場に集まった仲間達との交流の場でもあります。
◆岩漫は、様々な世代の参加者が相互交流を図り、同人誌分化が継承され発展していくことを目標とします。
◆岩漫は、岩漫実行委員会が運営しています。岩漫実行委員会は、参加者の有志から構成されています。
◆岩漫は、参加者全員でつくりあげます。運営の手の足りないところへのご協力をお願いします。
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こういう系のイベントですが、記念館の指定管理者である花巻高村光太郎記念会さんも参戦なさるそうです。一昨年行われたゲームとのタイアップ企画「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」が好評だったことからの決断のようです。

当日は光太郎に関するミニ展示、詩集や回想録、オリジナルのミュージアムグッズの販売などを行うとのこと。光太郎ファンの新たな拡大に繋がるならいいことですね。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】IMG_0004

過日那須にて建碑式遊ばされし趣おかげにて小生もかかる名所に筆のあとを残すことを愉快に存じます。


昭和24年(1949)8月4日(日) 
佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が旧太田村に移る直前の約1ヶ月、自宅離れに住まわせてくれたりと、様々な形で光太郎に援助を惜しまなかった総合花巻病院長・佐藤隆房。那須出身の亡父・房之助の短歌を刻んだ歌碑の建立を思い立ち、光太郎に揮毫を依頼、はれて那須町内の寺院に建立されました。

右は拓本。「かくばかりつゝじの花のさかゆるを知らぬもをしきみやこ人かな」と読みます。

しかし、この碑は同地に現存していません。無理解のため撤去されてしまいました。原本が佐藤家に残っているのが救いです。悪意があって撤去したわけではないのですが、それにしても……です。

テレビ放映情報です。

英雄たちの選択 我は女の味方ならず 〜情熱の歌人・与謝野晶子の“男女平等”〜

NHK BS1/NHK BS4K 2024年9月2日(月) 21:00~22:00

「みだれ髪」など情熱の歌人として知られる与謝野晶子は人気評論家だった。おりしも女性の権利拡張を目指す運動が盛んになる中、母性保護をめぐり平塚らいてうと大論争に。
 
与謝野晶子は言論弾圧が厳しい時代に、歯に衣着せぬ評論で人気を集め、あらゆるジャンルの評論を雑誌、新聞に載せた。中でも力を入れたのが「男女平等」。女性も仕事をすることで男性から経済的自立することが必要と主張。おりしも女性の権利拡張を「母親になれるのは女性だけ」という理由で推し進めようとしていた女性解放運動家の平塚らいてうと「母性は保護されるべきか」をめぐり激しく対立、大論争を繰り広げる。その結果は?

出演者
【司会】磯田道史 浅田春奈
【出演】歌人…松村由利子 ジャーナリスト…浜田敬子
【語り】松重豊

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メインは光太郎の姉貴分・与謝野晶子。智恵子の先輩にして智恵子に『青鞜』の表紙絵を依頼した平塚らいてうとの「母性保護論争」が取り上げられます。さらに山川菊栄らも参戦し……。

NHKさんでは令和2年(2020)にオンエアされた「先人たちの底力 知恵泉「新しい女の生き方 明治・大正編 平塚らいてう」でも同じ問題を取り上げました。その際はサブタイトルの通りらいてう視点からの制作で、今回は晶子側からの反証的な。

ダメ夫(鉄幹ファンの皆さん、すみません(笑))の元、11人もの子を筆一本で育てた晶子と、年下の「若いツバメ」と最初は入籍しない事実婚で子育てしつつ女性の権利拡大を訴えたらいてう。およそ100年前の話ですが、現代でもあまり状況は変わっていないような……。

光太郎智恵子には直接関わりませんが、夫妻とそれぞれ交流の深かった二人のバトル、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生が東京へ出かけることは今のところ一寸むつかしいやうに考へられます。東京の街を歩ける服装すら今はありません。発表会の模様をあとできくのが楽しみに思へます。


昭和24年(1949)4月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

発表会」は舞踊家だった藤間のリサイタル。藤間が戦時中から構想を温めていた「智恵子抄」舞踊化が為されました。この手の「智恵子抄」二次創作の嚆矢でした。
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昨日は日帰りで兵庫県たつの市に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

そもそもは、同市の霞城館さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」に、光太郎から三木露風宛の書簡が出ているという情報を得たためで、そちらの拝見がメインでした。同市は露風の故郷です。

千葉の自宅兼事務所から同市までどう行くか。初め、自宅兼事務所から車で1時間弱の茨城空港から神戸に飛んで……と考えました。一昨年、神戸市に行った際にはそうしましたので。ところが、その折は早めに航空券を予約したので安かったのですが、今回、間際になって行くことを決めたため、それだと馬鹿高い料金。その上、神戸空港からたつの市までのアクセスも調べてみると意外と不便でした。乗りかえ、乗りかえで2時間弱。そこで千葉から鉄道で行くことにしました。

最寄り駅から4:50の始発に乗り、9:45に山陽新幹線の姫路駅に到着。同駅から見えた世界遺産姫路城。
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ここからJR姫新線に乗り、本竜野駅まで。露風の故郷とあって、いきなりホームに「赤とんぼ」像。「駅のホームに作るか、すごいな」でした。
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同様の像は駅前にもありましたし、ちょっと歩くと側溝の蓋が赤とんぼデザインになっている場所も。愛されていますね(笑)。
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炎天下を1㌔ほど歩き、霞城館・矢野勘治記念館さんに到着(途中、寄り道もしたのですが、そのあたりは明日)。
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拝観料200円(安!)を払って、早速、拝見。
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撮影禁止という表示が見あたりませんでしたので、撮らせていただきました。こんな感じで、各界から露風宛の絵葉書が並んでいます。

光太郎からのもの。『高村光太郎全集』には洩れているものです。
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歌人の西村陽吉との連名です。
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まずその点が意外でした。西村は光太郎も寄稿したり表紙画を描いたり装幀したりした雑誌『朱欒』や『創作』等の版元、東雲堂の養子に入った人物なので、光太郎と交流があったことは推測されますが、『高村光太郎全集』にはその名が出て来ません。一緒に旅をする程の仲だったのか、と、意外でした。

また、旅先が埼玉の山間部、飯能や名栗。日付が大正4年(1915)7月19日となっています。この時期に光太郎が埼玉に行っていたというのもこれまでの年譜に記されていませんし、光太郎、埼玉は普段通過するばかりで、目的地だったことは他に一度もありません(まぁ、別に埼玉を忌避していたわけでもなく、特に用事がなかったということなのでしょうが)。そこにきて埼玉の地名が出てきたので実に意外でした。

一瞬、大正でなく昭和4年(1929)かな、と思いました。この年にはお隣の群馬県の温泉地をほうぼう歩いていましたし。また、貼られている一銭五厘の切手は、大正4年(1915)でも昭和4年(1929)でも共通ですので(細かく見れば違うらしいのですが、ぱっと見の判断は当方には出来ません)。しかし、絵葉書の様式(差出面の通信欄の面積)を見れば大まかな時期が判別でき、昭和4年ではありえません。

光太郎からのものはこの一通のみでしたが、他の人物からのものがずらり。やはりメインは「赤とんぼ」などで黄金コンビを組んだ山田耕筰からの来翰でしたが。
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北原白秋やら坂本繁二郎やら、その他、窪田空穂、小山内薫、前田夕暮、石井漠、堀口大学などなど、かなり光太郎の人脈ともかぶっています。
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展示されているのがすべて大正期の絵葉書です。露風が送られてきた絵葉書だけを貼り付けたアルバムを作っていたためです。この頃はまだ絵葉書というのがある意味珍しかったというのもあったでしょうし、それらを集めておいて見返し、自分もその土地に行った気分を味わっていたのかも知れません。「なるほどね」という感じでした。

他の展示も見学。露風のコーナーではやはり「赤とんぼ」。
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光太郎装幀の露風詩集『廃園』重版もありました。
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さらに同じ敷地内には矢野勘治記念館さん。矢野は正岡子規に師事した人物で、本業は実業家でしたが、旧制一高の寮歌「嗚呼(ああ)玉杯に花うけて」を作詞したことで有名です。

周辺には露風の生家や、露風が買い物をしたであろう店などが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定された古い街並みが広がっています。そのあたりは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

いまパウロの事をまざまざとおもひ、考へてまことにつよい反省に心が裸にされたやうに感じて居ります。小生は美の使徒として生きてをりますがパウロに向ふと甚だまぶしくて殆ど直視できない程に感じます。


昭和24年(1949)3月6日 田口弘宛書簡より 光太郎67歳

故・田口弘氏は埼玉県東松山市の教育長を永らく務められました。戦時中から光太郎と交流があり、光太郎はこの時には敬虔なクリスチャンだった氏に、子息の誕生祝いとして聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」を揮毫して贈りました。その送り状の一節です。
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この書、当方は氏のご生前に埼玉のご自宅で拝見、令和3年(2021)に富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際には「ぜひともこれもラインナップに入れて下さい」とお願いして展示していただきました。現在、精密複製が埼玉県東松山市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」に展示されています。

光太郎自身は洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、自らを「美の使徒」と位置づけていたというのは興味深いところです。

会期あと僅かですが『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎書簡が出ています。

三木露風と交流のあった人々

期 日 : 2024年7月13日(土)~9月1日(日)
会 場 : 霞城館・矢野勘治記念館 兵庫県たつの市龍野町上霞城30-3
時 間 : 9時30分~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般:200円/小~大学生・65歳以上:100円

 本年は、三木露風が亡くなってから60年にあたります。これを記念して、霞城館では、企画展「三木露風と交流のあった人々」を開催します。
 本展では、当館が所蔵する露風宛ての葉書をおさめたアルバム(2冊)の中から、露風と交流の深かった人物の葉書を紹介します。皆様のご来館をお待ちしております。
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公式情報に光太郎の名がなかったので気づかないで居たのですが、兵庫の地方紙『赤穂民報』さんに紹介記事が出(赤穂出身の俳優・河原侃二からの葉書が出ているという内容がメイン)、その中で河原以外に「同館が所蔵する露風宛ての絵はがき約240通の中から一部を紹介。「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰、劇作家の小山内薫、詩人の高村光太郎、露風が作詞した赤穂小学校の校歌を作曲した近衛秀麿などが差し出したはがきが並ぶ」と記述がありました。

『高村光太郎全集』には、光太郎から露風宛書簡は一通のみ掲載されています。明治42年(1909)12月11日付けで内容は以下の通り。

拝啓
 いつぞやは珈琲店にて御目にかかり愉快に存じ候。其後御無沙汰いたし居り候処二三日前水野君より『廃園』相届き、見れば貴下の御贈り下されたるもの、誠になつかしくありがたく存じ上げ候。『廃園』の中の詩は、小生かの地に居りし間のもの多くみなはじめて味ふことに御座候。小生は常に貴下の詩を尊重する事深きものに候へば、この『廃園』一篇の小生に与へたる喜びは一方ならぬことに御座候。序に申上候へ共、正月の『スバル』の裏絵に貴下の『カリカチユウル』を北原君のと共に出し候へば、何とぞ悪しからず思召被下度幾重にも願上候。
 右とりあへず御礼まで、余は又御目にかゝり候時にゆづり申候。
   十二月十一日夜                          高村光太郎  
 三木露風様梧下


水野君」は親友の水野葉舟、「かの地に居りし間」は欧米留学中。

露風の詩集『廃園』は明治42年(1909)9月に刊行されました。翌年には重版が出、そちらは光太郎が装幀を担当しました。上記書簡もこの重版に掲載されたものです。
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『スバル』の裏絵」は右上画像。右が露風、左が白秋です。光太郎、同じシリーズでは与謝野晶子(左下)や森鷗外(右下)らをおちょくった絵も描いています。
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現代ですと炎上案件ですが(笑)。

今回展示されているのは露風宛の諸家の葉書。上記露風宛光太郎書簡、『高村光太郎全集』には封書とも葉書とも書かれていませんが葉書にしては長い内容です。おそらく上記書簡とは別物だろうと思い、 霞城館・矢野勘治記念館問い合わせたところ、ビンゴでした。大正4年(1915)7月の絵葉書だそうで、もろに『高村光太郎全集』に漏れているものです。

同館、光太郎に関わる展示も常設で為されているという情報を以前に得、一度行ってみたいと思っていましたし、この際ですので今週末に伺うことに致しました。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】005

新年に定本「蛙」が大地書房から届きました。いやみのない装幀に出来たと思ひました。此の詩集は今よんでもいいです。擬音なども此の位真正面からゆくと一つの独立価値を持つて来ます。此の詩集はたしかに日本語の範囲をひろめました。

昭和24年(1949)1月6日 
草野心平宛書簡より 光太郎67歳

心平詩集『定本 蛙』の装幀も『廃園』重版同様に光太郎です。装幀の仕事も明治末から最晩年に至るまで、断続的に行い続けました。

安達太良山を舞台とし、「智恵子抄」をモチーフの一つとして下さった章を含む、湊かなえ氏の小説『残照の頂 続・山女日記』の文庫版が出ました。

残照の頂 続・山女日記 

2024年8月8日 湊かなえ著 小林百合子解説 幻冬舎(幻冬舎文庫) 定価670円+税

亡き夫への後悔を抱く女性と、人生の選択に迷う会社員。失踪した仲間と、共に登る仲間への、特別な思いを胸に秘める音大生。娘の夢を応援できない母親と、母を説得したい山岳部の女子大生。……日々の思いを嚙み締めながら、一歩一歩山を登る女たち。山頂から見える景色は、苦くつらかった過去を肯定し、これから行くべき道を教えてくれる。


目次
 後立山連峰
  亡き夫に対して後悔を抱く女性と、人生の選択に迷いが生じる会社員。
 北アルプス表銀座
  失踪した仲間と、ともに登る仲間への、特別な思いを胸に秘める音大生。
 立山・剱岳
  娘の夢を応援できない母親と、母を説得したい山岳部の女子大生。
 武奈ヶ岳・安達太良山
  コロナ禍、三〇年ぶりの登山をかつての山仲間と報告し合う女性たち。
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新聞各紙に大きく広告も出ていました。サイン会の情報も載っています。
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元版は令和3年(2021)秋の刊行。ほぼ同時にNHK BSさんでドラマ化されました。工藤夕貴さん、小林綾子さんらのご出演。
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電子版も出ています。

ハードカバー版、お持ちでない方はぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

今年は変つた冬で此の山の中でもまだ根雪にならず、降つてもとけてしまひ、概して天気がよく、寒さも零下八度ぐらゐになる程度で例年のやうな零下二十度にはまだなりません。冬晴れの澄みきつた天空の美しさは言語の外です。毎朝大霜で霜柱の大きく長いのははじめて見ました。一面に花が咲いたやうできれいです。


昭和23年(1948)12月30日 西出大三宛書簡より 光太郎66歳

この年の冬は暖冬だったようですが、それにしても……ですね。

テレビ放映情報です。光太郎に触れられるかどうか微妙なところですが……。

偉人の年収 How much? 童話作家 宮沢賢治

地上波NHK Eテレ 2024年8月12日(月) 19:30~20:00
再放送 2024年8月15日(木) 15:05~15:35

教科書に載るような偉人たちはいくら稼いでいたの?お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる! 今回は童話作家 宮沢賢治の登場です!

『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『やまなし』などの作品を生みだした岩手県出身の童話作家 宮沢賢治。小学生の時に先生が読んでくれた童話に感動し、童話の世界へ引き込まれます。25歳で上京して本格的に童話を書き始めますが、重病の妹を看病するため帰郷。その後、農学校の教師となり、自ら畑を耕して地域の農業発展に尽くします。あの不朽の名作『雨ニモマケズ』はどのように生まれたのか?当時の年収とともに探ります。

【司会】谷原章介,山崎怜奈,【出演】今野浩喜
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今年1月には光太郎と交流の深かった与謝野晶子が取り上げられました。番組紹介欄にあるとおり「お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる」だそうで、やはり経済という部分は大事だなと思わされました。

再現Vの部分では、今野浩喜さんが毎回その偉人役でご登場、スタジオMCの谷原章介さんと山崎怜奈さんに突っ込まれまくっています(笑)。与謝野晶子の回では今野さんの晶子役、無理くり感満載でしたが、賢治はどうなるでしょうか。賢治と今野さん、ぱっと見よく似ているような気もするのですが(笑)。
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その「発見」の現場(昭和9年=1934の追悼会会場)に光太郎も居合わせ、のちに石碑に刻む揮毫を光太郎が行った「雨ニモマケズ」も大きく取り上げられます。
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花巻に建てられた光太郎揮毫の詩碑程度は映していただきたいものですが、どうなりますやら。

ともかくも、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

かかる時政治家などの不しだらな行動が報道されて憤りを感じます。まつたく一新してしまはなければ落ちつかない気がします。


昭和23年(1948)12月10日 西岡文子宛書簡より 光太郎66歳

政治家などの不しだらな行動」、GHQの目が光っていた当時は現代ほどではなかったと思うのですが……。それとも裏金作りだの脱税だのキックバックだの秘書給与不正受給だの公文書改竄だのカルト団体との癒着だの憲法違反だの猥雑パーティーだのコピペの式典挨拶だのパワハラだのは当時からまかり通っていたのでしょうか?

今月初めの『朝日新聞』さん岩手版から。光太郎と交流の深かった日中ハーフの詩人・黄瀛に関して。光太郎にも言及されています。

(賢治を語る)中国籍の詩友、数奇な人生 宮沢賢治学会前副代表理事・佐藤竜一さん/岩手県

 北東北の詩人・宮沢賢治の友人に、黄瀛(こうえい)(1906~2005)という詩人がいた。中国人を父に、日本人を母に持つ黄は、日本語で詩を書き、名声を得た後、国民党の将校として中国共産党の捕虜になったり、文化大革命で獄中生活を送ったりした。黄が歩んだ数奇な人生について、書籍「宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯」の著者で、宮沢賢治学会前副代表理事の佐藤竜一さん(66)に聞いた。
《黄の生い立ちは?》
 1906年、中国・重慶で生まれました。父は黄澤民(たくみん)、母は千葉出身の太田喜智(きち)。喜智は小学校を2回飛び級するほど優秀で、東京女子高等師範学校を卒業後、日清交換教員として重慶に赴任し、澤民と結婚します。
 澤民は黄が3歳の時に亡くなったため、喜智はしばらく中国を転々とした後、黄が8歳の時に千葉県に戻ります。
《詩作を始めたのは?》
 黄は中国籍のため地元の中学校に進学できず、東京の中学に通います。喜智も中国籍のため小学校教師の職を追われ、中国の天津に渡って石炭販売業を営みながら、日本の黄に送金します。
 23年、日本では大きな転機となる関東大震災が起きます。東京の中学の授業がストップしたため、黄は青島の日本中学に編入します。
 そこで高村光太郎の「道程」などを読み、詩作に励み始めます。25年には新潮社が発行する詩誌「日本詩人」の第1席に選ばれ、詩人としての名声を得ます。
 青島の日本中学を卒業後、帰国して文化学院に入学し、草野心平と交友を深めます。黄と心平は度々、光太郎のアトリエを訪れます。
《賢治との出会いは?》
 24年に賢治が詩集「春と修羅」を出版すると、心平は賢治の才能に驚き、心平が創刊し、黄も同人となっている詩誌「銅鑼(どら)」に参加しないかと誘います。賢治は快諾し、「銅鑼」に「永訣(えいけつ)の朝」を発表します。
 黄は文化学院を中退後、陸軍士官学校に入学。29年、卒業直前に行った北海道旅行の帰りに花巻に立ち寄ります。賢治は病床にありましたが、1時間ほど会話を交わしたようです。冗談好きの賢治は「お会いできて、コウエイ(光栄)です」と出迎えました。
《その後の黄の人生は?》
 黄は37年に日中戦争が起こると、日本との関係を絶ち、中国大陸で国民党の将校としての道を歩みます。しかし49年、国共内戦で中国共産党に捕らえられ、重労働を課せられて獄中へ。66年の文化大革命では日本との関係がただされ、再び獄中へと送られます。
 合計で20年もの獄中生活を体験した黄に光が当たったのは78年。重慶の四川外語学院で日本文学を教える職に就いてからです。教壇に立った黄が真っ先に取り上げたのが賢治でした。黄の教え子からはその後、中国で賢治作品を広める多くの研究者が生まれています。
 私は92年、重慶で黄に初めて面会しましたが、政治に触れる話を避けたいという気持が伝わってきました。「今も詩を書いていますか」と聞くと、「書いていません。自分の存在自体が詩でありたい」と答えました。
 黄は96年、賢治生誕100年を記念して67年ぶりに花巻を訪れ、「皆さんの力で賢治はいよいよ世界的になるところです」と語っています。


最初に紹介されている佐藤氏御著書『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』についてはこちら

今回の記事では紙幅の都合上、細かなところは語られていませんが、紹介されているエピソードだけでも黄の「数奇な人生」ぶりが分かりますね。

光太郎は黄の才能を高く評価、大正14年(1925)のアンケート「十四年度作品批評」では、真っ先に「知人のせゐか黄瀛君にひどく嘱望してゐます」とし、さらに昭和9年(1934)に刊行された黄の詩集『瑞枝』には序文を寄せました。

また、黄をモデルに彫刻も制作。
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ただ、おそらく戦災で焼けてしまったと考えられ、現存が確認できていません。

この彫刻を作っていた大正14年(1925)、黄が中国で知り合った心平を光太郎に紹介しました。そして翌年には黄や光太郎と共に心平の『銅鑼』同人でもあった賢治が光太郎のアトリエを訪問します。二人の天才、生涯ただ一度の出会いでした。さらに記事に有る通り、昭和4年(1929)の黄と賢治の会談。

そう考えると黄はいろいろなところでのキーパーソンですね。昨日触れた画家の柳敬助同様、もっともっと知られていていい存在と思われます。

最後の黄の言葉「自分の存在自体が詩でありたい」は、賢治、心平、そして光太郎にも共通する考えだったようにも思えますね。

【折々のことば・光太郎】

御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中でよみました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持がよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感嘆には十二分に共鳴を感じます。まだきつと読みかへすでせう。これは記録としても貴重な文献です。


昭和23年(1948)12月10日 小倉豊文宛書簡より 光太郎66歳

『絶後の記録』は、賢治研究家としても有名な小倉が自身の広島での被爆体験を綴ったルポです。翌年には海外輸出版が刊行され、そちらには光太郎が序文を寄せました。現在も流通している中公文庫版にはこれが転用されています。原爆の惨状が一般にはあまり知られていなかったこの時期、光太郎は書かれている内容に瞠目したようです。

また、改めてこの愚かな戦争に加担していたことへの自己嫌悪をももたらしたのではないかとも考えられます。

昨日は広島、明後日は長崎の原爆の日、来週には終戦の日。いろいろ考えさせられます。

昭和6年(1931)8月から9月にかけ、光太郎が新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために三陸海岸一帯を船で訪れたことを記念して行われている「女川光太郎祭」。昨年、コロナ禍明けで4年ぶりに通常開催され、今年も行われます。

女川光太郎祭

期 日 : 2024年8月9日(金)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料

詳しい文書等来ていないのですが、ほぼほぼ例年通りという連絡が入っておりまして、概ね下記のような流れでしょう。多少の順番の変更等はあるかも知れません。

10:00~ 高村光太郎文学碑へ献花
14:00~ 式典等
 黙祷
 第33回記念講演 「智恵子、その生涯」 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 ご挨拶 女川光太郎の会
 献花の模様動画投影
 光太郎紀行文・詩の朗読 町内外の皆さん
 祝辞
 アトラクション演奏

18:00頃~
 懇親会

午前中には、平成23年(2011)の東日本大震災の際に津波で倒壊し、令和2年(2020)に復旧された光太郎文学碑(津波でなくなった貝(佐々木)廣氏が平成のはじめに建立に奔走)への献花。おそらく当方も関係者代表の一人としてでやらせていただきます。午後の式典の中でその模様の動画を投影するはずです。
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震災前は式典が碑の前で行われており碑に直接献花、震災後しばらくはかつての健在だった頃の碑の写真に会場内で献花していましたが、昨年から上記のような流れになりました。

式典では、亡き北川太一先生のあとを受けまして、当方、毎年記念講演をさせていただいております。昨年までは光太郎の生涯を時期に分けて紹介して参りました。智恵子の生き様についても聴いてみたいという要望が昨年寄せられ、今年は「智恵子、その生涯」と題してやらせていただきます。
無題
その後、町内外の方々による光太郎詩文の朗読。おそらくギタリスト・宮川菊佳氏の伴奏に乗せて行われます。

昨年の模様。
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さらに宮川氏、それからオペラ歌手の本宮寛子氏のアトラクション的演奏。本宮氏は平成3年(1991)、女川町で「オペラ智恵子抄」(山本鉱太郎氏脚本、仙道作三氏作曲)が上演された際に智恵子役を演じられ、それ以来女川町に通い続けていらっしゃいます。

終了後は会場近くの町中華さんで懇親会。年に一度お会いする方々が多く、当方としては今から楽しみです。

ご都合のつく方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生も仕事は七十歳からと信念致しまして、目下心身の涵養につとめて居ります。

昭和23年(1948)10月21日 宮崎仁十郎宛書簡より光太郎66歳

仕事」は彫刻。花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らしの中で、発表する作品としての彫刻制作は完全に封印したことが語られています。少し前までは今年こそ少しずつやります、的な感じだったのですが。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で行われた市長さんの定例記者会見の中で、下記の件が発表されました。

令和6年7月 定例記者会見 No6 高村光太郎 歌人中原綾子宛ての手紙等が寄贈されました

 高村光太郎が歌人中原綾子宛てに書いた、はがきや手紙など64点について、高村光太郎記念館に寄贈の申し込みがありました。

■寄贈資料と点数[]
 高村光太郎から中原綾子宛て
  はがき 41点
  封筒入り書簡 20点
  電報 1点
  封筒 1点
  その他封筒 1点
  合計 64点

寄贈者と寄贈の経緯
■寄贈者
 中原毬也(まりや)氏 米国カリフォルニア州在住
■寄贈の経緯
 中原毬也氏は歌人中原綾子の孫。毬也氏が保管している祖母(中原綾子)あて高村光太郎の書簡等について散逸しないように保存してほしいとの意向があることについて、毬也氏の親戚の方から市に連絡があったものです。
 毬也氏は、5月18日に高村光太郎記念館を訪問され、記念館と高村山荘をご覧いただいた際に当該資料をお持ちになり寄贈の申し出をいただきました。
■中原綾子について
 中原綾子(明治31(1898)年~昭和44(1969)年)は与謝野晶子(明治11(1878)年~昭和17(1942)年)門下の歌人で文芸誌『明星』の同人。高村光太郎(明治16(1883)年~昭和31(1956)年)も『明星』の主要な寄稿者であり、綾子氏と親交がありました。後に綾子氏が主宰した雑誌『スバル』などに光太郎は寄稿しており、今回寄贈された手紙にもその原稿が見られます。旧姓は曾我綾子であり、結婚により中原姓や小野姓を名乗る時期があります。

寄贈資料の特徴と今後の予定
 今回寄贈された資料には高村光太郎が疎開していた宮澤清六宅から出した手紙や、太田山口から郵送した原稿・手紙など、花巻市内に居住していた時に書いた手紙があります。既に『高村光太郎全集』において紹介されている資料がほとんどですが、光太郎の筆跡がわかる資料としてまとまったものであり、非常に貴重なものと考えています。今後専門家にも見ていただき、資料を整理した後、高村光太郎記念館で展示をしていきたいと考えています。

中原綾子はプレスリリースにある通り、与謝野晶子門下の歌人です。同門ともいうべき光太郎とは早くから交流があり、自らの歌集等の題字や序文などを書いてもらった他、主宰していた雑誌『いづかし』『スバル』等に繰り返し寄稿や装幀を仰ぎました。

昭和10年(1935)刊行の『悪魔の貞操』。表紙と扉に光太郎の書いた題字が使われています。
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光太郎は序詩も寄せました。
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   「悪魔の貞操」に題す

 心法の高圧を放電するもの、
 思ひもかけぬ交互無縁の片言隻語、
 言語道断の真空界にひらめくものは、
 千古測りがたい人間真理。
 すさまじいかな此書。


はじめに光太郎が送ったのはこの詩ではありませんで、以下の詩でした。
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   人生遠視

 足もとから鳥がたつ
 自分の妻が狂気する
 自分の着物がぼろになる
 照尺距離三千メートル
 ああこの鉄砲は長すぎる


のちに詩集『智恵子抄』に収められた「人生遠視」です。

さすがに中原もこれにはダメ出し。光太郎もなるほど、おっしゃる通り、ということで書き直しました。「人生遠視」は中原主宰の雑誌『いづかし』に掲載されました。

昭和10年(1935)というと、智恵子の心の病がもはや完全なものとなり、前年に預けていた九十九里浜の智恵子実母のもとから引き取って、南品川ゼームス坂病院に入院させた年です。光太郎もかなりテンパッていたようですね。

画像は光太郎が手元に残した控えの原稿ですが、今回、中原に送られた二篇の原稿も寄贈されています。

光太郎没後の昭和31年(1956)6月、『婦人公論』で光太郎追悼特集が組まれ、中原は光太郎から送られた書簡の一部を公表しました。題して「狂える智恵子とともに」。これを読んだ当時の人々は皆度肝を抜かれました。それまで、『智恵子抄』所収の詩文等では明らかにされていなかった智恵子の病状がこと細かに、さらに複数書簡で長きにわたって記されていたからです。結局、その後もここまで克明に智恵子の病状が書かれたものは見つかっておらず、以来、研究者たちなどは必ずと言っていいほど中原宛の書簡を引用しています。
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研究者以外にも、例えば野田秀樹氏は智恵子を主人公とした舞台「売り言葉」で。

遠隔の九十九里浜まで、かつては毎週一回出かけていた光太郎が、同じ東京の南品川の病院にいる智恵子を五ヶ月間も見舞っていなかったのであります。智恵子抄という類(たぐ)い希(まれ)なる純愛詩集が、最後、五ヶ月も妻を病院にほったらかしにしたオトコの手になるものだということをわすれないでいただきたい。東京市民よ! これは、智恵子抄への売り言葉なのであります。その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! しかも、光太郎に同情したその女流詩人から送られた見舞いの林檎(りんご)を智恵子は食べさせられたのであります。

林檎云々は野田氏の創作と思われますが。

で、これらの智恵子の病状を綴った書簡も今回寄贈されました。

というか、『高村光太郎全集』に収められた中原宛書簡49通、すべてが寄贈されていますし、それ以外にも6通。それとは別に雑誌『スバル』宛となっているものもありますし、草稿の類も複数。光太郎、中原の共通の師である与謝野夫妻に触れられたものも多く、まさに質、量共に一級品です。

ただ、一つ残念なのは、『悪魔の貞操』や『スバル』などの題字や装幀原画などが含まれていなかったこと。それがあれば超一級でしたが、印刷などの関係で中原の手許に残らなかったのでしょう。ちなみに光太郎没後の昭和34年(1959)に出た中原の歌集「灰の詩」には、口絵として複数の光太郎揮毫が使われていますが、それらも寄贈資料に含まれていませんでした。
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それでも一級の資料類です。いずれ花巻高村光太郎記念館さんで展示の運びとなるはずですが、早くても来年でしょう。

詳細が決まりましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

おたづねの智恵子の着物に対する嗜好などを申上げますと、智恵子は概して大柄の模様を好み、又それが似合ひました。縞でも太いものを用ゐました。智恵子は自分で着る物を織つてゐたので、縞などは自由に工夫してゐました。例へば袖口のところに青い大きな縞が一本出るやうに織つて着て歩いたりしてゐました。色は偏する事なく、いろんな色調を草木染で染めてゐました。赤は蘇黄(スワウ)を用ゐました。着物の裾は長めに着てゐました。帯はあまり広くないのをしめました。髪は単純に七三に分けて丸みをもたせてうしろでまるめてゐました。


昭和23年(1948)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

『智恵子抄』を舞踊化するための参考にとの問い合わせに対する返答の一節です。智恵子が亡くなってちょうど10年、さらにこうした服装をしていたのはもっと昔。それが昨日のことのように詳細に書かれていて、舌を巻かされます。

智恵子の故郷・福島県二本松市にほど近い郡山市からイベントの情報です。といっても、智恵子がらみではありませんで、当会の祖・草野心平関連です。

郡山市中央図書館映画会「草野心平 ほとばしる詩魂」

期 日 : 2024年7月27日(土)
会 場 : 郡山市中央図書館3階視聴覚ホール 福島県郡山市麓山一丁目5-25
時 間 : 午前10時~/午後2時~   (※上映時間の30分前開場および整理券配布)
料 金 : 無料(先着100名)

スケールの大きな生命への賛歌、孤独をみつめる勇気、また植物や動物さらには鉱物とも共に生きようとする独特の共生感。優しさ、激しさ、軽やかさ、深さ---様々な表情をみせる心平の作品を「みる」「きく」「感じる」ためのDVD。

自筆原稿、書、絵画、写真などの豊富な資料と、心平が生まれ育った小川町の美しい自然、晩年を過ごした川内村 天山文庫等の映像で構成。

「ごびらっふの独白」「青イ花」「誕生祭」(以上、草野心平朗読)

「猛烈な天」「えぼ」「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」
「蛙つりをする子供と蛙」「いいのか」「殺虐の恐怖のない平凡なひと時の千組の中の一組」
「秋の夜の会話」「蛙は地べたに生きる天国である」「上小川村」「デンシンバシラのうた」
「心平」「魚だつて人間なんだ」「牡丹園」「百姓といふ言葉」「わが抒情詩」
「おたまじゃくしたち四五匹」(以上、粟津則雄朗読)

「冬眠」「生殖Ⅰ」「月の出と蛙」「おれも眠らう」「Nocturne. Moon and Frogs.」
「天気」「遠景」

 ≪2006年/日本/52分≫
《朗読・出演・監修》粟津則雄 ​《協力》いわき市立草野心平記念文学館
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010「映画会」といっても、劇場公開された作品ではないようです。平成18年(2006)、QUESTさんという会社から発売されたDVDですね。心平自身の自作詩朗読も含まれ、さらに心平と親しかった故・粟津則雄氏による朗読、それからクレジットがないのですがプロの方の朗読も含まれているのでしょう。

こういうDVDがリリースされていたというのは存じませんでした。で、ジャケット画像を見て「ありゃま!」。光太郎による心平詩集『第百階級』(昭和3年=1928)序文の一節が取り上げられています。曰く「彼は蛙でもある。蛙は彼でもある。しかし又そのどちらでもない。」。

この序文、心平という詩人、その詩的世界(それはまた光太郎が追い求めた世界ともある部分で一致します)をこれほどまで的確に表した文章が他にあろうか、というものです。「詩人とは特権ではない。不可避である。詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。」「詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。」「トウル デスプリ」は仏語で「tour d'esprit」。「性格」「傾向」と言った意味です。

DVDの中で光太郎と心平の交流等、粟津氏が解説なさっているのではないかと思われます。それから、心平の生まれ育ったいわき市、過日、心平を祀る第59回天山祭りが開催された川内村などの映像。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

雑誌「心」の小生の詩をよんで下さつた趣感謝しました。貴下は分かつて下さるでせうが、随分ひんしゆくされさうな内容なのでした。その後電車沿線にある山間の温泉にまゐり、混浴の大きな浴槽にひたりながら野性を帯びた老若男女の逞しい裸体を見て大いに渇を医やしました。製作の出来ないのが残念です。

昭和23年(1948)7月11日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎66歳

「雑誌「心」の小生の詩」は「人体飢餓」です。
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    人体飢餓

  彫刻家山に飢ゑる。
  くらふもの山に余りあれど、
  山に人体の饗宴なく
  山に女体の美味が無い。
  精神の蛋自飢餓。
  造型の餓鬼。
  また雪だ。

  渇望は胸を衝く。
  氷を噛んで暗夜の空に訴へる。
  雪女出ろ。
  この彫刻家をとつて食へ。013
  とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
  その時彫刻家は雪でつくる。
  汝のしなやかな胴体を。
  その弾力ある二つの隆起と、
  その陰影ある陥没と、
  その背面の平滑地帯と膨満部とを。

  脊椎は進化する。
  頭蓋となり骨盤となる。
  左右の突起が手足となる。
  腱があやつり肉が動かし、
  皮膚は一切を内にかくして
     又一切をこまやかに曝露する。
  造形はこの肉団を生(なま)では食はない。
  ばらばらにしてもう一度014
  高度の人体に組み立てる。
  けれども彫刻家の食慾は
  まずその生(なま)をむさぼり食ふ。
  天文学的メカニスムの大計算は
  それから起る獰猛エネルジイの力動作用(トラヴアイユ)。
  知性はこの時ただ一連の精密コムパだ。

  雪女はつひに出ない。
  雪はふぶいて小屋をゆすり、
  雪片ほしいままに頬をうつ。
  彫刻家は炉辺に孤坐して大火(おおび)を焚き、
  わづかに人体飢餓の強迫を心に堪へる。
  強迫は天地にみちる。
  晴れた空に雲の伯爵夫人は白く横はり、
  ブナの木肌は逞しい太股(ジゴ)を露呈し、016
  岩石に性別あり、
  山山はすべて巨大なトルソオである。
  火龍(サラマンドラ)を火中に見たのはベンベヌウト。
  彫刻家は燃えさかる火炎に女体を見る。

  戦争はこの彫刻家から一切を奪つた。
  作業の場と造型の財と、
  一切の機構は灰となつた。
  身を以て護つた一連の鑿を今も守つて
  岩手の山に自分で自分を置いてゐる
  この彫刻家の運命が
  何の運命につながるかを人は知らない。
  この彫刻家の手から時間が逃がす
  その負数(モワン)の意味を世界は知らない。
  彫刻家はひとり静かに眼をこらして017
  今がチンクチエントでない歴史の当然を
  心すなほに認識する。
  現代の肖像をまだニツポンは持ち得ない。
  岩手の山の貧しいかぎり、
  この現実はやむを得ない。
  あの珍しく彫刻的なコマンダンの首も
  つひに無縁に終るだらう。
  同時代のすぐれたいくつかの魂も
  造型的には無に帰して消えるだらう。
  彫刻家山に人体に飢ゑて
  精神この夜も夢幻(ゆめまぼろし)にさすらひ、
  果てはかへつて雪と歴史の厚みの中の
  かういふ埋没のこころよさにむしろ酔ふ。

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花巻郊外旧太田村で暮らし始めて2年半が過ぎました。当初は若い頃から憧れていた辺境での自由な生活の実現、山の中に文化集落を作るといった無邪気な夢想もあったのですが、続々届く友人知己等の戦死の報や、中央で巻き起こった戦犯糾弾の声などから、徐々に自らの戦争責任を省察せざるを得なくなります。

光太郎は戦犯として訴追されることは免れたものの、それで「助かった」ではなく、自らに罰を与える方向に梶を切ります。すなわち「自己流謫(るたく)」。「流謫」は「流罪」に同じです。

といって、幾ら不便とはいえ、ただ山中に暮らしているだけでは罰を与えることには成りません。そこで、考え得る限りの最大の罰として、「私は何を措いても彫刻家である」と自負していたその彫刻を封印することにしました。

ところが、それはあまりにも過酷な罰。吹雪の夜に見る夢や、凝視する囲炉裏の火に、彫刻すべき人体が幻のように見え、しかし、それを形にすることは叶いません。混浴の温泉(ちなみに書簡に書かれているのは鉛温泉の白猿の湯です)に浸かっていても考えるのは人体彫刻……。

戦争はこの彫刻家から一切を奪つた。」と、恨み言の一つも言いたくなるでしょう。しかし、それを書簡では「随分ひんしゆくされさうな内容」としています。

こうした生活が昭和27年(1952)、青森県から「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作依頼が来るまで続きます。

昨日は福島県川内村に赴き、当会の祖・草野心平を祀る第59回天山祭りに列席して参りました。

その模様の前に、一昨日。酒をこよなく愛した心平大明神に奉納するための一升瓶を買いに、自宅兼事務所から車で7~8分ほどの造り酒屋さんへ。
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かの勝海舟も逗留したことがあるという馬場本店酒造さん。創業は天保年間、奥に見える煉瓦造りの煙突は明治33年(1900)の建造だそうで。
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テレビの旅番組やドラマ/映画のロケなどにもよく使われています。「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」代表をお願いした渡辺えりさん主演の2時間ドラマ「100の資格を持つ女 風薫る水郷・佐原の醤油蔵に呪いの連続殺人!!」(平成22年=2010)では、警視庁職員(刑事ではありません)のえりさんが、こちらに従業員として潜入捜査(笑)。
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ただしPXL_20240712_012829217、造り酒屋ではなく醤油蔵という設定でしたが。

一升瓶の箱詰めや包装をしていただいている間に、カウンターにあった芸能人の皆さんなどのサイン色紙をチェック。えりさんのものもありました。

千葉県香取市佐原地区、馬場酒造さんをはじめ、創業百何年という商家も多く、江戸時代から昭和戦前の建物が現役で活用されており、関東地方で初の伝統的建物群保存地区に認定されました。

ちなみに明日、7月15日(月)から7月19日(金)まで全5回、地上波テレビ朝日さん系の「じゅん散歩」で高田純次さんがレポートなさいます。ぜひご覧の上、足をお運び下さい。


さて、昨日の川内村。早速、持参した酒を奉納。
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このあとも数本の一升瓶が捧げられ、泉下の心平はウハウハだったことでしょう(笑)。

会場は村民の皆さんが心平のために別荘として建ててあげた天山文庫。光太郎実弟の豊周も建設委員として名を連ねました。
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昨年は雨のため村営体育館での開催でしたが、今年は天候の心配もなく、本来の会場での開催となりました。木漏れ日が実に爽やかでした。
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早めに着いたので、ひさしぶりに天山文庫内を見学。まずは一階の座敷。何気に心平本人や棟方志功、川端康成らの書などが掲げられています。
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心平寄贈の蔵書を収めた書庫。
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心平が題字を揮毫した書籍や、光太郎関連の心平編著も。
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二階の座敷。おそらく寝室として使われていたのでしょう。
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窓の下には「十三夜の池」。

午前10時、祭りの開幕。
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あいさつ、祝辞、献花と続き、川内村の小中学生の皆さん、かつて心平が主宰していた『歴程』同人の方々による詩の朗読、郷土芸能の披露などが行われました。
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「川内甚句」では、参列者の皆さんを巻き込んで、十三夜の池の周りを踊りながらぐるぐる。顔がわかってしまうような画像はアップしないで下さい的なお願いがありましたので、遠景を。

こうした和気あいあいの雰囲気にも、泉下の心平が眼を細めているような気がしました。

終了後、遠藤村長をはじめとする村の方々、天山祭り等で顔なじみになった県外の心平ファンの皆さん、そして『歴程』同人さんたちに、中西利雄・高村光太郎アトリエ保存のための署名をお願いし、30人分ほどいただけました。ありがたし。

この天山祭り、末永く続くことを心より祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

皆さんの帰つてゆくのが名残惜しいやうでした。又その節はお心をこめた御馳走のかずかずを頂戴してありがたうございました。前の晩おそくまでかかつて作られたといふおいしい今川焼きも幾年ぶりかで味はふ事とて無類でした。まつたく無邪気な純粋なかういふ時間はありがたいと思ひます。現世では数へるほどしか数の少い幸福です。かういふ幸福をつくり出すお仕事は何といふいいものでせう。大きくいへばかういふ善意そのものこそ人類を救ふのでせう。


昭和23年(1948)6月8日 照井謹二郎・登久子宛書簡より 光太郎66歳

光太郎の隠棲していた旧太田村で、照井夫妻が主宰していた児童演劇「宮沢賢治子供の会」の出張公演が為されたことに対する礼状の一節です。

まつたく無邪気な純粋なかういふ時間はありがたい」「大きくいへばかういふ善意そのものこそ人類を救ふ」。昨日の天山祭りに列席し、当方も似たような感想を持ちました。

昨日、福島県小野町さんで今年3月に刊行された『マンガふるさとの偉人 今も愛される名作を生んだ作詩家 丘灯至夫』についてご紹介しました。

「マンガふるさとの偉人」シリーズはB&G財団さんの助成により進められていて、7月1日(月)、他の自治体さん等で今年刊行された分、全40作品のネット上での無料公開が始まったのですが、昨年までに刊行された作品についても、今年4月から無料公開が為されていました。トータル百数十作品ほどになっているようです。
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そこで、昨年、岡山県赤磐市教育委員会さんが刊行なさった、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子の『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』も無料公開されています。数ヶ所に光太郎が登場します。
また、同じく岡山県の井原市さんでは、同市出身の彫刻家にして光太郎の父・光雲門下の平櫛田中。題して「107歳の生涯を木彫に捧げた彫刻家 平櫛田中」。
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田中の終焉の地、東京都小平市さんでは、B&G財団さんの助成による「マンガふるさとの偉人」シリーズではなく、独自に『田中彫刻記』という同様の漫画を刊行なさいました。ご執筆は市職員の方だそうで。それが評判ということで、田中の出身地・井原市さんでも……ということでしょうか。

その他、光太郎とも親しかった北原白秋(熊本県南関町)、光雲を東京美術学校に招聘した岡倉天心(茨城県北茨城市)などもありますが、残念ながら光太郎や光雲は登場していないようでした。

B&G財団さんのサイトを見ると、このシリーズ、教育現場等での活用もかなり為されているようです。
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学校さんだけでなく、社会教育的な分野でも。
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全国の自治体さん、ご参考までに。

しかし「では、わが街でも××××のマンガを」となった場合、いろいろ難しい点もあるかと存じます。第一に人選。郷土の偉人としてその街で既に確たる地位が出来上がっている人物について、改めて取り上げても仕方がないでしょう。例えば花巻で宮沢賢治を、などというのは今更感がぬぐえません。実際、花巻市さんでは北海道大学総長などを務めた佐藤昌介が選ばれています。

それから、基本的に一人の人物が対象ですので(例外的に兄弟や夫妻で、という作品もありますが)、「何で××××が選ばれて、○○○○は採用されないんだ」というような、「あちら立てればこちらが立たず」というようなトラブルも無いとは言い切れません。

また、出身地と拠点にした場所や終焉の地が異なるという人物も多いので、どの自治体がその人物を取り上げるか(基本的に一人一作品でしょうから)といった部分も難しいでしょう。北原白秋など、てっきり福岡県柳川市さんだろうと思っていたら、さにあらず。出身地の熊本県南関町さんでした。平櫛田中の場合は前述の通り、後半生の拠点にし、終焉の地ともなった東京都小平市さんで既に独自で漫画を作成していたので、B&Gさんの助成による方は出身地の岡山県井原市で、と、すんなり行ったようですが。

そうしたもろもろがクリア出来るのであれば、実に効果的な取り組みだと思います。繰り返しますが、全国の自治体さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

此頃の酒はあぶなくて、「明星」の歌人として知られてゐた平野万里といふ人は先般急死しましたが、此頃になつて死んだのはヤミ酒のメチール中毒だといふ事の報告をうけ驚きました。メチールなどで死んだと思ふと気の毒でもありながら又一方何だかイヤシイやうな気がして尊敬出来なくなつて困ります。

昭和23年(1948)4月2日 宮崎春子宛書簡より 光太郎66歳

ヤミ酒のメチール」はいわゆる「バクダン」。メチルアルコールを使った粗悪な密造酒です。人間、死に様も大事ですね。

B&G財団さんが助成を行い、全国で刊行され続けている「マンガふるさとの偉人」シリーズ。昨年、岡山県赤磐市教育委員会さんで、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子の『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』を刊行なさいました。

数ヶ所で光太郎が登場していました。
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今年、同じシリーズで、福島県小野町さんが、『今も愛される名作を生んだ作詩家 丘灯至夫』を刊行。丘灯至夫は作詞家。舟木一夫さんが歌った遠藤実作曲「高校三年生」、古関裕而作曲の「長崎の鐘」や「高原列車は行く」、さらにはアニソンで「ハクション大魔王」、「みなしごハッチ」などの作詞も手がけるなど、幅広く活躍しました。

そして昭和39年(1964)には、二代目コロムビア・ローズさんの歌唱になる「智恵子抄」がリリースされ、それなりにヒットしました。

智恵子の故郷・二本松にもほど近い小野町さんでの刊行なので、「智恵子抄」がらみのエピソードも紹介されているだろう、あわよくば現物をゲット出来ないものかと、今年5月、二本松に行った際に、小野町のふるさと文化の館内に併設された丘灯至夫記念館さんに立ち寄りました。予想通り「智恵子抄」が世に出る経緯が描かれていたものの、残念ながら販売はなされていませんで、コピーも不可ということでしたが、8月頃にはネット上で無料公開されるという情報を得ました。

しかし8月にではなく、前倒しで7月1日(月)から無料公開が開始されました。
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「智恵子抄」に関してはこんな感じ。最初からすんなりとはいかなかったそうです。
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当会の祖・草野心平が登場。当時、心平は高村光太郎記念会のメンバーでしたので、丘は心平を通して作品化の許可を取ろうとしたわけです。すると心平、「先ずこの酒を飲め」(笑)。無茶苦茶ですね。

過日も書きましたが、この頃、高村光太郎記念会としては、花巻の「一億の号泣」詩碑の問題「智恵子抄裁判」のゴタゴタなどで、神経を尖らせていましたので、むべなるかなですが。

それから、「高校三年生」や「智恵子抄」のヒットを受けての小野町凱旋公演。

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その他、丘の一生、興味深く拝読しました。当初、詩人を目指していた頃の西条八十や、のちに作詞家となってからの古関裕而や舟木一夫さんらとの出会い、数々のヒット曲制作の裏側など。

メインタイトルが「小さな巨人」となっていますが、大正6年(1917)、未熟児として生まれ、生涯病弱で、身体も小さかった(身長150㌢チほど、体重約33㌔、足のサイズは22㌢~23㌢)ことが由来です。そのため、日中戦争の始まった頃には一度は兵役免除になりましたが、太平洋戦争が激化した昭和18年(1943)には応召されました。そして虚弱な丘を何くれとなくかばってくれたりした戦友は戦死……。そうした経験が「長崎の鐘」などにも繋がっていくと思われます。

それからサブタイトルは「今も愛される名作を生んだ作詩家」。「作詞家」ではなく「作詩家」です。そこにはじめ西条八十に師事した丘のこだわりがあったのでしょう。

ちなみに来週、BSテレ東さんで「智恵子抄」が流れます。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2024年7月10日(水) 17:56〜19:00 放送時間 64分

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

 「大江戸出世小唄」合田道人/「東京音頭」香西かおり/「東京ラプソディ」大川栄策
「九段の母」塩まさる/「東京ブルース」淡谷のり子/「夢淡き東京」ボニージャックス
「東京の屋根の下」貴津章/「東京ブギウギ」森サカエ/「君の名は」青山和子
「東京ティティナ」生田恵子/「東京だより」三船浩/
「東京のバスガール」初代コロムビアローズ/「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ
「東京ドドンパ娘」渡辺マリ/「東京五輪音頭」福田こうへい/「あゝ上野駅」松原健之
「新宿そだち」津山洋子、高樹一郎

<司会>合田道人
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過去映像によるものですね。「智恵子抄」、どういう歌だかよくご存じないという方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

雪の下から葱が出てきて立ち上がりました。タンカルのおかげで農家であきらめてゐるハウレン草がもう食べられるほど育つてゐます。


昭和23年(1948)4月2日 宮沢清六宛書簡より 光太郎66歳

「タンカル」は、かつて宮沢賢治が推奨していた肥料・炭酸カルシウムですね。

当会の祖・草野心平が生前に愛し、心平没後は心平を祀る意味合いも込められるようになったイベントです。

第59回天山祭り

期 日 : 2024年7月13日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
       雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前10時~11時35分
料 金 : 500円

「天山祭り」は、名誉村民となった詩人・草野心平が自身の3000冊もの蔵書を寄贈したことで、村の人たちによって贈られた「天山文庫」の落成を記念して始まりました。心平自身、この祭りが好きで、食べて飲んで、語り合い、住民や親交のあった人たちとの交流を時を忘れるほど楽しんだそうです。 現在もゆかりのあった人々が、心平の詩の朗読や、三匹獅子舞などの郷土芸能などを楽しみながら、心平を偲ぶ祭りとして毎年7月第2土曜に開催されています。

お問い合わせ先 川内村教育委員会 電話:0240-38-3806
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心平は隣接するいわき市の出身ですが、川内村の名誉村民に認定していただいております。そもそもは昭和24年(1949)、蛙をこよなく愛した心平の「モリアオガエルを見たい」という発言に、村の長福寺の矢内俊晃住職が、モリアオガエルの棲む平伏沼(へぶすぬま)が村にあるので来てほしいと手紙を出して招いたことに始まります。心平の川内村訪問は4年後の昭和28年(1953)が最初でした。

村ではその後も訪れ続ける心平のために、昭和41年(1966)、別荘を建てて下さいました。それが天山祭り会場ともなっている天山文庫です。設立準備委員には、光太郎実弟で心平と昵懇の間柄だった豊周も名を連ねました。

その落成記念を兼ねて始まったのが天山祭り。以後、心平は出来る限り参加を続け、村人達と楽しいひとときを過ごしました。
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そして心平没後は、心平を祀る意味合いも付与して続き、さらに東日本大震災による福島第一原発の事故で余儀なくされた全村避難の解除後は、震災からの復興を確認するという目的も加わっています。

昨年の第58回は、光太郎生誕140周年ということもあり、当方に講演の依頼があって、べしゃくって参りました。主に最近見付けた心平と光太郎のエピソードの紹介でした。心平には『わが光太郎』(昭和44年=1969)という著書があり、光太郎と過ごした日々が色々と語られていますが、それも「余すところ無く」というわけではなく、調べれば調べるほど同書には割愛されている「こんなこともあったのか」の連続でして。

今年はいち聴衆として参加します。みなさまもぜひどうぞ。

ところで心平ついでにもう1件。いわき市の草野心平記念文学館さんから、先月末まで開催されていた企画展示「草野心平の旅 所々方々」の図録が送られてきました。多謝。心平がその生涯に、どんなところにどういう目的で旅をしたのか、という視点からの企画展で、留学や戦争の関係で長期滞在した中国をはじめとする海外、そして北は北海道から南は沖縄までの国内ほぼ全域(なぜか四国へは行く機会がなかったようですが)。

「あまり光太郎とは関わらない展示だろう」と思って、足を運びませんでしたが、十和田湖だけは光太郎とのからみが少し紹介されていました。
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昭和28年(1953)に除幕された光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の関係で、心平はその建設在京委員の一人でしたし、昭和27年(1952)の光太郎の十和田湖下見旅行や翌年の除幕式に同行しています。そして中野の貸しアトリエで像の制作に当たっていた光太郎を物心両面から支援もしました。

下記は図録には載っていませんが、除幕式前後の十和田湖でのカット。心平の左後に像のモデルを務めた藤井照子が写っています。
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図録はオールカラーですが、全8ページの簡易的なもの。ご入用の方、同館までお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】

庭でもうぐいすが啼いてゐるとの事ですが、こちらの山の中ではまだ雪が消えず、少しづつ降つてゐます。鳥はセキレイ、キツツキ、ヤマバトなどが今はないてゐます。

昭和23年(1948) 高村珊子宛書簡より 光太郎66歳

故・珊子さんは昨日ご紹介した書簡の高村美津枝さんと姉妹。同じ日に姉妹それぞれに別々に葉書を出しました。文面で姉妹からの来翰に対する返信とわかりますが、それぞれに別々に返信するあたり、愛を感じますね(笑)。

ちなみに当方自宅兼事務所は千葉の田舎で、このブログを書いているたった今も、裏山ではウグイス、ホトトギス、その他名も知らぬ鳥の声(夜はフクロウ系)。さらに4、5日前から蟬も鳴き始めています。

ムックの新刊です。

 BRUTUS特別編集 合本 本が人をつくる。

2024年6月13日 マガジンハウス刊 定価1,760円

どんな本を読んできたかを知ることは、その人の人生を知ること。恒例のブルータス「本」特集から、読書家たちが大切にしている100回読んだ本を紹介する特集「百読本」、本を愛する人たちが影響を受けた作品について語り合う特集「それでも本を読む理由。」、その2号分をまとめて1冊に。小説、絵本、ビジネス書、アートブック、ZINE……あらゆるジャンルの魅力をぎゅっと詰め込みました。「本」と「読書」の楽しみ方を考える、保存版です。

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百読本
 100回読んだ本はもうその人そのもの。なぜその本を何度も読み返すのか。それを考えることはその人を知ることと同じです。119人の本好きが語る、完全保存版の読書案内。

わたしの百読本。
 まずは、20人の読者家たちが何度も読んだ本の話から始まります。ジャンルも本との向き合い方も人それぞれ。特別な本だけが持つ引力について、彼らの言葉から探ります。
フワちゃん 皆川明 平野紗季子 熊木幸丸(Lucky Kilimanjaro) 乗代雄介 神田伯山 石沢麻依 按田優子 平野啓一郎 紺野真 小林エリカ 斉藤壮馬 佐藤健寿 白石正明 磯野真穂 佐藤亜沙美 岸本佐知子 前田司郎 渡邉康太郎 藤岡弘、

何度も読みたくなる絵本のひみつ。
 子供にとって、絵本は究極の百読本。なぜ繰り返し読みたくなるのか。ロングセラー本にヒントを探し、専門家と一緒に考えます。

それでも本を読む理由。
 今、本を読むことの意味とは。本を愛さずにはいられない、本好き、読書好きが語り合う、「本」と「読書」の魅力。
池松壮亮 藤井健太郎 TaiTan 幅允孝 Awich 吉岡秀典 川名潤 ロジャー・マクドナルド 中島佑介 前田晃伸 黒木晃 鳥羽和久 武田砂鉄 麻布競馬場 桜井莞子 森岡督行 黒島結菜 内山拓也 島口大樹 斎藤真理子 前田エマ 山本貴光 吉川浩満 山瀬まゆみ 紺野真 坂矢悠詞人 髙城晶平 蝶花楼桃花 井伊百合子 山本多津也 若木信吾 荒川晋作 川口瞬 菅原裕喜 前田和彦 二宮慶介 MCNAI MAGAZINE 友田とん 山本佳奈子 花田菜々子 熊谷充紘 三田修平 魚豊 児玉雨子 小泉義之 深津さくら 石黒浩 與那覇潤 ミヤギフトシ 秋草俊一郎 藤岡拓太郎 鈴木一人 室橋裕和 篠田真喜子 加藤幸治 キニマンス塚本ニキ

明日を生き抜くためのブックガイド70
 テクノロジーや社会、ビジネス、カルチャー、普遍的な概念まで、押さえておきたい14のテーマをリストアップし、それぞれに対して識者が選書しました。70冊の中から見つける、明日を生き抜くためのヒント。

「合本」と冠されており、これまでの雑誌『BRUTUS』に載った記事の再編です。「百読本」の項で、デザイナー・皆川明氏が『智恵子抄』を挙げて下さっています。この項は令和4年(2022)年1月1日・15日合併号に載ったものです。サイト上にダイジェスト版がアップされています。
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皆川氏、令和3年(2021)に同じマガジンハウスさんから発売されたムック『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』でも、『智恵子抄』をご紹介下さいました。ありがたし。

令和4年(2022)年1月1日・15日合併号をお読みになっていない方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐる小生の頭の上へ雪がつもりました。ひやひやしてむしろ爽快を感じました。

昭和23年(1948)1月13日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋は、元々は鉱山の飯場だった小屋をを移築した粗末なものでした。そのためあちこち隙間だらけで、吹雪の時などは雪が舞い込み、このような状態になりました。
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光太郎とも交流のあった詩人、永瀬清子。出身地の岡山県赤磐市では地道にさまざまな顕彰活動が続けられています。命日の2月17日には朗読会などを兼ねた「紅梅忌」の集いが開催される他、「永瀬清子展示室」が設けられ、さまざまな企画展示が為されていますし、研究紀要というか顕彰活動の記録というか、年刊で『永瀬清子の詩の世界』という冊子も発行されています。また、最近ではすごろく伝記マンガなども発行されました。

先週また、赤磐市教育委員会さんから冊子が届きました。題して『永瀬清子の光を受けて』。A4判50ページ程、3月31日(日)発行と奥付にありました。
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RSK山陽放送さん制作のラジオ番組「朝耳らじお5・5」「朝耳らじおGoGo」内のコーナー「永瀬清子の光を受けて」でオンエアされた内容を文字起こししたものを根幹に、永瀬の遺文なども収められています。

前者では、当会の祖・草野心平や宮沢賢治に触れられています。

後者のうち、昭和64年(1989)1月に雑誌『黄薔薇』に載った永瀬のエッセイ「(心辺と身辺)'88の秋」で、光太郎にも触れられていました。前年に亡くなった当会の祖・草野心平がらみの項の中でです。その年、福島県でのイベントに出席した永瀬が、そのついでに智恵子の故郷・二本松霞ヶ城の智恵子抄詩碑に詣でた話。同碑は昭和35年(1960)、正式な光太郎詩碑としては2番目に建立されたもので、設計や詩の選定など、心平が骨を折りました。
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画像は先月、「智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~」さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の際に撮影したもの。

ここで永瀬は光太郎や、生前に会うことの叶わなかった智恵子、そして病床に臥せっていた心平に思いを馳せました。当方もまた行く機会があれば、永瀬もここに来たんだなぁと思い巡らせることに致します(笑)。

永瀬と言えば、やはり先週、『朝日新聞』さんの一面コラム「天声人語」で取り上げられました。

 天声人語

私が生まれ育った家には、風呂がなかった。だから隣家で、もらい湯をした。前掛けをしたおばあさんが薪(まき)をくべ、パチパチと焚(た)きあげる湯だった。かまどの前にすわる彼女の姿と、しわだらけの小さな手を今でも覚えている▼遠い記憶が蘇(よみがえ)ったのは、岡山県赤磐市にある永瀬清子の生家を訪ねたからだ。詩人が暮らした農家は、田畑のなかで朽ちかけていたのを支援者等が改修し、一般公開されている。五右衛門風呂も再生され、体験入浴できる▼明治に生まれた永瀬は大阪や東京での生活を経て、終戦の直後、39歳で古里に戻った。〈二反の田と五寸のペンが私に残った〉と始まる詩はこう続く。〈詩を書いて得たお金で私は脱穀機や荷車を買った。/もうどちらがなくても成り立たないのだ〉▼農婦であり、母として田園に生きた詩人である。苗を植え、風呂を焚き、家事をこなしてから、深夜にちゃぶ台の茶碗(ちゃわん)をのけて、むさぼるように詩作に励んだそうだ▼「この家は風が気持ちいいんです」。生家保存会の横田都志子さん(58)は話した。詩人が感じた夜明け前の山の色、風の香り、揺れる葉の音。そんな自然に触れ、「彼女の詩がより分かった気がします」▼私も五右衛門風呂に入らせてもらった。熾火(おきび)がじわじわと湯を温め、心地よい。ふわり白煙が青い空に泳ぐ。〈一日、昔の風が吹いて来て私を騒がせた。/どこに今までさまよっていたのか/おそらく世界の涯までも流れていたのか〉。無性に故郷が懐かしくなった。

永瀬の生家は令和3年(2021)に改修を終え、一般公開が為されています。当方、平成25年(2013)に足を運びましたが、その頃は「天声人語」にあるように「田畑のなかで朽ちかけていた」状態でした。それが建物内にギャラリーとカフェを作るなどし、活用されています。建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動の参考にもなるかも知れませんので、折を見てまた行ってみたいと思っております。

皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おたよりで松木といふところをも想像してゐます。小倉豊文さんにもお会ひの由、よろしくお伝へ下さい。あなたの詩は雑誌でいつも気をつけて読んで居ります。去年竹内てるよさんがこの山の中へ来たのには驚きました。今此辺はかなり雪ふかくなつてゐます。

昭和23年(1948)1月14日 永瀬清子宛書簡より 光太郎66歳

その永瀬宛の書簡の一節です。永瀬宛の書簡は『高村光太郎全集』では昭和27年(1952)にしたためられた1通のみの収録でしたが、その後、ご遺族から情報提供があり、新たに4通が確認できています。

「松木」は永瀬が暮らしていた豊田村松木(現・赤磐市)。「小倉豊文さん」は『宮沢賢治の手帳研究』(昭和27年=1952)を著すなど賢治研究でも知られ、広島での被爆体験を綴った『絶後の記録』(昭和24年=1949)には光太郎が序文を寄せました。「竹内てるよさん」は詩人。確認できている限り、てるよの著書5冊の題字を光太郎が揮毫しています。ともに永瀬・光太郎共通の知り合いでした。

晩年の光太郎に親炙し、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著作をはじめ、光太郎関連の書籍を多数刊行なさっている文治堂書店さん。PR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』を年に2回発行しています。

その第十八号が届きました。
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手前味噌で恐縮ですが、連載を持たせていただいております。題して「連翹忌通信」。光太郎に関わるもろもろを徒然なるままに綴っております。そうそうネタもないので、大半はこのブログにも書いたことを再編することが多い感じです。

ただ、今号ではそうでなく、ほぼオリジナルの内容で書いてみました。キーワードは「佐佐野旅夫」。国立国会図書館さんのデジタルデータで閲覧できる資料が飛躍的に増えたことによって為された、ある意味、「残念な」発見です。

昭和59年(1984)4月3日、『読売新聞』さんの夕刊に「だれか佐佐野旅夫を知らないか」という記事が載りました。故・北川太一先生のご執筆です。要約しますと、その頃北川先生が入手された、雑誌『スバル』第四年第三号(明治45年=1912 3月)に、「地獄へ落つる人々」という戯曲が載っていました。作者は「佐佐野旅夫」。北川先生もご存じない名だったそうです。実際、グーグル等の検索では「佐佐野旅夫」の名は引っかかりませんし、『スバル』への寄稿はこの一篇のみで、同時代の他の主要な雑誌等にもその名が見えません。

「地獄へ落つる人々」、光太郎の親友で、明治43年(1910)に早世した彫刻家・荻原守衛を明らかにモデルにしたと思われる「山の井」という彫刻家や、守衛と親しかった画家・柳敬助を彷彿とさせる「海野」という画家などが登場します。ただし、「山の井」は既に亡くなっているという設定で、それでもその「亡霊」が登場したりします。そして「山の井」の遺作展会場や、「海野」のアトリエを訪れた人々が、「美」に取り憑かれ、次第に正気を失ったりしていく、という筋です。そこでタイトルが「地獄へ落つる人々」というわけです。

北川先生が入手された『スバル』の旧蔵者は、光太郎とも交流が深かった堀口大学。すると、「佐佐野旅夫」の名の脇に堀口によると思われる「高村」の書き込みがあったそうで、北川先生、「佐佐野旅夫」は光太郎の偽名なのでは? と推理されました。傍証が他にもいろいろありまして。

光太郎は既に明治38年(1905)の第一期『明星』巳歳第四号に、「青年画家」と題する戯曲を発表しています。こちらはきちんと光太郎の名で出ています。そして「地獄へ落つる人々」といくつかの共通点が。まず若い芸術家を主人公とし、その周辺人物との関わりを追っている点、すったもんだの末のカタストロフ的な結末などなど。さらに「地獄へ落つる人々」には、主人公のパリ体験が描かれ、北川先生曰く「画家の米欧体験や、幻想の中でのパリの娼婦が歌う小曲、天上する火炎に終わる幕切れなど、いずれも高村さんの介在を想像させる」。

 そこで北川先生、平成10年(1998)発行の『高村光太郎全集』別巻に、「参考作品」として「地獄へ落つる人々」を掲載なさいました。その「解題」に曰く「この題材で、この戯曲を、『スバル』寄稿者では他の誰が書き得ただろうか」。ほぼ「佐佐野旅夫」=「高村光太郎」と確信なさっていたという感じですね。
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「誰か佐佐野旅夫を知らないか」は、先述の通り『読売新聞』に掲載された後、平成3年(1991)に文治堂書店さんから刊行れた北川先生の著作集『高村光太郎ノート』に収められました。

それを読んだ当方、何とか「佐佐野旅夫」=「高村光太郎」を証明できないかと、新たな資料の発見に努めました。しかし、何らの情報も得られませんでした。

そこへ来て、先述の国会図書館さんのデジタルデータリニューアル。通常のネット検索ではヒットしない情報もかなり得られます。そこでキーワード「佐佐野旅夫」で検索してみると、意外にも多数ヒットしました。「佐佐野旅夫」は『少年世界』、『幼年世界』、『女子文壇』、『地球』という、それぞれ博文館刊行の雑誌に寄稿していたのです。いずれも「地獄へ落つる人々」と同じく明治から大正に改元された1912年のものでした。博文館刊行の雑誌はどれも稀覯の範疇に入り、なかなか北川先生に目には留まらなかったようです。
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北川先生の推理通り、「佐佐野旅夫」が光太郎の偽名だとすると、偽名でこんなに寄稿するものだろうかと疑問に思い、更に調べ続けたところ、決定的な資料を見つけました。 大正2年(1913)、「第一高等学校寄宿寮編纂」とクレジットのある『向陵誌』という書籍です。旧制の第一高等学校は東京帝国大学の予科で、『向陵誌』は、その自治寮と、同校の部活動の沿革が記された書籍でした。

そして文芸部の略史の中に「佐佐野旅夫」の名が。同部発行の文芸誌『文のその』(後に『文園』と改題)について述べられている箇所で「二百一号には佐々野旅夫氏(好母氏の匿名なり)の巧妙なる「蟇」の歌見るべく」とありました。「好母」は、すぐ前の部分に「佐々木好母」という名が挙げられており、その人物でしょう。これが「佐佐野旅夫」の正体と思ってまず間違いありますまい。

佐々木好母(このも)は、光太郎より五歳年少の明治21年(1888)生まれ。この時期の『スバル』に本名での寄稿も見られます。ただ、一高から帝大に進み、さらに医師となって文筆からは遠ざかったようです。そして佐々木について調べてみると、共に『スバル』寄稿者であったという以外にも、光太郎との繋がりが……。

と、まぁ、今回の『とんぼ』では概ねこの辺りまで書きました。次号に佐々木と光太郎の繋がり、さらに佐々木が「地獄へ落つる人々」を書くに至った経緯といった点を書いてみようと思っております。

さて、『とんぼ』、編集は光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動の中心人物、曽我貢誠氏です。そこで版元の文治堂書店さんも保存運動に一枚噛み、いろいろなさっています。そんなわけで今号では、保存運動に関する内容も。そのあたりを明日、ご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生も今年は洋服を都合しなければ、着衣がなくなるわけなので、今ホームスパンを織つてもらふことにしてゐます。原料が相当にかかるやうです。


昭和23年(1948)1月6日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

オーダーメイドの猟人服、花巻町郊土沢在住だったホームスパン作家・及川全三の知遇を得、及川の弟子筋に生地を、仕立ては盛岡在住の四戸慈文(画家・深沢紅子の父)に頼みました。

現在、花巻高村光太郎記念館さんで常設展示されています。
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ガタイのでかい光太郎ですし、ポケットをたくさんつけてほしいという要望で、その分、原料の羊毛が大量に必要になったようです。

東北レポート、最終回です。6月8日(土)、花巻に行く前に立ち寄った仙台をレポートいたします。

午前11時前、仙台駅に到着。
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駅前のデッキ、何やら人やまの黒だかり、しかもみんな空を見上げています。「何事?」と思ったところ、轟音と共に現れたのが……
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空自さんのブルーインパルスでした。この日は「東北絆まつり」だったそうで、その関係で飛んでいたようです。

その後、地下鉄南北線で台原駅まで。そこから台原森林公園を突っ切って、仙台文学館さんを目指しました。

公園入口にはブロンズ像。仙台と言えば佐藤忠良かな、と思ったのですが、佐藤と親しかった舟越保武の作品でした。そういえば田沢湖のたつこ像にも似ています。
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舟越にしても佐藤にしても、光太郎の影響で彫刻の道に進み、光太郎と直接の交流を持ち、さらに光太郎のDNAを受け継いだと言っていい存在です。

森林公園内はかなりの山道。都会の人はこういう道を「いいなあ」と感じるのでしょうが、千葉の自宅兼事務所周辺もこんな風景なので、当方にとっては今更感(笑)。
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文学館さんには裏口から入ることになりました。PXL_20240608_025256594

こちらでは、開館25周年記念特別展「詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」が開催中です。

石川は明治34年(1901)、仙台の生まれ。光太郎より18歳下の詩人です。昭和7年(1932)に不慮の事故により満31歳の若さで亡くなりました。生前に詩集が刊行されることはありませんでしたが、歿後の昭和11年(1936)に友人たちの手で、『亜寒帯』が刊行されました。序文は光太郎。石川は光太郎とも交流があり、その関係です。

『高村光太郎全集』では、その序文以外の箇所に石川の名が出て来ません。そこで、光太郎と石川の間にどんな交流があったのか、今一つ分からなかったのですが、今回の展示で出品された、石川から詩人の郡山弘史に宛てた書簡に、光太郎、石川、そしてやはり詩人の小森盛で酒を呑み、その帰途、泥酔して小森と共に谷中警察署に一晩拘留されたことなどが記されていました。昭和4年(1929)のことでした。

光太郎による『亜寒帯』の序には、石川が草野心平の経営していた焼鳥屋「いわき」に来ていた様子が記され、心平繋がりで光太郎と石川が出会ったのかな、と思っていたのですが、展示の説明パネルによれば、二人を結びつけたのは小森らしいとのこと。いずれにしても小森も心平人脈の一角にいた人物です。

図録、出品目録がこちら。
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図録の「善助の交友」、最初に光太郎の項。
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最後の部分、「光太郎から座敷童子の話を聞いた」とあり、これも存じませんでした。

国会図書館さんのデジタルデータで調べたところ、やはり石川歿後の昭和8年(1933)に刊行されたエッセイ集『鴉射亭随筆』巻頭の「寂莫紀」に、以下の記述がありました。

いつか高村氏のお話に、階下のアトリヱで、ひどく巫山戯る子供らしい物音を深夜きいたといふのを私はうかがつたことがある。

国会図書館さんのデジタルデータは細かく当たっているのですが、これは見落としていました。「高村光太郎氏」となっていれば気づいたのですが、「高村氏」としか書かれていないのが原因です。この箇所に「座敷童子」の語はありませんが、この前の部分で、宮沢賢治から聞いた座敷童子の話などが紹介されており、その流れです。

そして賢治。石川は生前の賢治と会ったことがある数少ない詩人の一人。そこで賢治関連の展示もありましたし、前述の小森盛、心平、さらに尾形亀之助、天江富弥など、やはり光太郎とも交流のあった面々に関しても。
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右上は図録とは別に無料配付されていた冊子。『亜寒帯』の復刻版を出されたあるきみ屋さんの制作です。マンガのページがあり、残念ながら光太郎は登場しませんが、賢治と石川の出会いは描かれています。

石川善助、もっともっと注目されていい詩人ですね。そういう意味では今回の展示が一つの契機となればと存じます。

常設展的な区画には、ぼのぼのも居ました(笑)。作者のいがらしみきお氏が仙台ご在住ですので。こちらは撮影可。
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ロビーでは、石川善助展を報じる新聞記事。
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さらにこんなものも。
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開館25周年ということで、これまでに開催された企画展示の図録等です。
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平成18年(2006)に開催された「高村光太郎・智恵子展 -その芸術と愛の過程-」のそれも。

当時のフライヤー等。
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当方、同館を訪れたのはこの時が初めてでした。もう20年近く経つのか、という感じです。

この際には光太郎令甥・髙村規氏、それから当会顧問であらせられた北川太一先生のご講演が関連行事として行われました。お二人とも既に虹の橋を渡られてしまいましたが……。

正午過ぎ、同館を後に、路線バスで仙台駅に。花巻に向かう東北新幹線下りホームに行くと、見慣れない紅白の車輌が停車していました。
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当方、鉄道マニアではないので詳しくありません。「何じゃ、こりゃ?」でした。見ると、車体側面に「East i」のロゴ。スマホで調べてみると、JR東日本さんの保守点検用の車輌でした。JR東海さんの「ドクターイエロー」のようなものなのでしょう。「ドクターイエロー」は11年前に名古屋で行き会いましたが、こちらは初めて見ました。ブルーインパルスといい、珍しいものに遭遇する日でした(笑)。

この後、やまびこ号に乗り込み、新花巻駅へ。昨日のブログ、そして一昨日のブログに続きます。

以上、東北レポートを終わります。

【折々のことば・光太郎】

今年は去年よりも寒気が弱いやうですが、早朝は零下十五、六度を上下してゐます。起きて囲炉裏に火を焚いて暖をとるのはたのしみです。まづ湯を沸してから一切の生活がはじまるわけです。雪かきはおもしろく、今に雪の彫刻をつくる気です。


昭和22年(1947)12月31日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

「雪の彫刻」に関しては、翌年、「人体飢餓」という詩に現れます。雪女の姿を雪で作るという夢想です。

 雪女出ろ。
 この彫刻家をとつて食へ。
 とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
 その時彫刻家は雪でつくる。
 汝のしなやかな胴体を。
 その弾力ある二つの隆起と、
 その陰影ある陥没と、
 その背面の平滑地帯と膨満部とを。

「人体飢餓」の題名は、「彫刻で人体を造ることに飢えている自分」、という意味です。

昨日は約1ヶ月ぶりに上京しておりました。

メインの目的は、文京区のトッパンホールさんで開催された、アマチュア合唱団・コール淡水東京さんの第11回的演奏会拝聴でしたが、都内に出る時は複数の用件をこなすのが常で、ついでというと何ですが、同じ文京区の区立森鷗外記念館さんの特別展「教壇に立った鷗外先生」を先に拝見いたしました。
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展示の構成等をわかりやすくするために、同展図録の目次。
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「第一章 教壇に立った鷗外」「第二章 教科書と鷗外」の二本柱でしたが、前者の方に重きが置かれていました。陸軍軍医学校、慶應義塾大学部、そして光太郎も生徒として聴講した東京美術学校で、実際に教壇に立った鷗外の足跡が追われています(鷗外は現・早稲田大学の東京専門学校でも講義を受け持つ予定でしたが、こちらは幻と終わったようです)。

「なるほどね、こういう内容の講義だったのか」というのがよくわかり、興味深く拝見いたしました。やはりビジュアル的に「もの」を見て感じるというのは大切なことだと改めて思いました。

サイト上の「出品目録」で、光太郎の随筆集『某月某日』が展示されてるという情報は得ていました。予想通り、そこに掲載されているエッセイ「美術学校時代」(初出は雑誌『知性』第5巻第9号 昭和17年=1942 9月1日)で、鷗外の講義についての回想が語られていて、その関係でした。
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他に、昭和14年(1939)の雑誌『詩生活』に載った川路柳虹との対談「鷗外先生の思出」からも一節が引用され、パネル展示となっていました。ちななみに川路は光太郎より5歳下の詩人でしたが、光太郎と同じく東京美術学校の出身です。光太郎が留学中の明治41年(1908)に日本画科に入学し、光太郎が詩集『道程』を上梓した大正3年(1914)に卒業しています。川路の居た時期には鷗外はもう美校から離れていました。

それから、やはり出品目録で情報を得ていましたが、光太郎の1年先輩(年齢は8歳上)に当たる本保義太郎のノートも展示されているということで、そちらも目に焼きつけておこうと思っておりました。
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本保は在学中に光太郎と交流がありましたし、その後も光太郎より少し早く欧米留学に出、光太郎と同じくアメリカの彫刻家ガッツオン・ボーグラムの助手を務めたという経歴の持ち主です。しかし、彫刻家として大成する前の明治40年(1907)、留学先のフランスで、光太郎の親友だった碌山荻原守衛に看取られて結核により客死しました。さぞ無念だったろうと思います。

ノートを手に取ってみることはできませんが、表紙の文字を見るだけでも、本保の息吹が感じられました。

第二章が「教科書と鷗外」。鷗外が編纂に携わった数々の教科書や、鷗外没後、現代に至るまでの鷗外作品が採用された教科書などの展示。

光太郎は教科書の編纂をしたことはありませんが、存命中からやはりその作品は数多くの教科書に採用されています。中には書き下ろしではないかと推定されるものも。ところが、一般の出版とは異なる点が多いので、なかなかそのあたりの全貌が掴めません。

すると、第二章の展示で「協力」に入っている団体として「国立教育政策研究所教育図書館」のクレジット。早速そのサイトを見てみたところ、いろいろ情報を得られそうだということに気づきました。こういう点も、実地に展示に足を運ばないと気がつきにくい事柄ですね。

ところで、何ともタイムリーなことに昨日の『産経新聞』さんに同展を紹介する記事が。

森鷗外の教師像に迫る 研究の「盲点」、記念館で特別展 学生の評判も紹介

 文豪、森鷗外(1862~1922年)には、教師の経歴もあった。何をどう教え、学生の評判は-に注目した特別展「教壇に立った鷗外先生」が、森鷗外記念館(東京都文京区)で開かれている。同展監修の山崎一穎・跡見学園女子大名誉教授は「研究者があまり手をつけていない『盲点』の分野。展示をヒントに新たな研究テーマ、そして新たな鷗外像が生まれてくるはず」と話している。
■文豪は負けず嫌い
 鷗外は明治14年、19歳で東京大医学部を卒業後、陸軍軍医となり、のちにトップの陸軍省医務局長に上り詰める。この間、ドイツ留学、日清・日露戦争戦地などへの赴任の間を縫って、文筆活動でも名をなした。
 さらに「人脈も広がり、その後の活動にとって大事な一時代」(展示担当の岩佐春奈さん)とされるのが教師としての経験。その足跡はある程度知られているが、特別展では学生たちの日記や回想、出版物などの資料から鷗外の教師ぶりにスポットを当てている。
 教師歴は15年に東亜医学校で「生理学」を教えたのが始まり。妹・喜美子の回想によると、「面白い先生の講義は人が多」く、「どうか負けないようになりたい」と講義の準備に励んでいた。教え子から親しまれていたことがうかがえる書簡も展示されている。
 21年からは陸軍軍医学校で「衛生学」を教え、校長も務めた。同校の学生は、「講義は決して下手ではなかった」が、「早口であった」と評している。
■冬は暖炉を囲んで
 軍医学校と並行して24年から東京美術学校(現東京芸術大美術学部)の嘱託教員で「美術解剖」、29年から「美学及美術史」、25年からは慶応義塾大学部文学科講師で「審美学」を講義し、32年まで続けた。
 慶応の最初の教え子による「中村丈太郎日記」は、展覧会初出展の資料。25年9月15日付では「今日ヨリ森林太郎氏来リテ審美学ヲ講ス」「今日ノ題ハ美ノ所在ナリ」と初講義に触れている。この「美ノ所在」は鷗外が同年10月に評論誌「しがらみ草紙」で発表した内容で、先駆けて学生に講義していたことになる。日記には時間割表もあり、講義は火・木曜午前9~10時の週2時間だった。
 慶応では、のちの毎日新聞社長、奥村信太郎の「初冬の薄ら寒い朝、わたくし達慶應文科三年の六人は、煖爐を前に、半円形を作って、森鷗外先生を中にさしはさみ、美学の講義を聴くのだった」などの回想を残している。
 東京美術学校関係では、美術解剖の講義を筋肉図とともに筆記した学生・藤巻直治ノートなどを展示。鷗外が自らの小説作品なども例に挙げ、わかりやすく講義した様子がうかがえる学生の美学筆記ノートも。
 同校で学んだ彫刻家・詩人の高村光太郎は「とても名講義でしたよ」と振り返るほか、学期末に「美学の一番の根源」を理解していない質問をした学生に「そんな無責任な聴き方があるかと怒鳴り…」と鷗外が憤慨した場面も記している。
■子供に手作り教材
 23年には鷗外が東京専門学校(現早稲田大)で講師になると新聞に載りながら、実現しなかった。のちに同校で黄禍論をテーマに講演は行ったが、講師就任が実現しなかった経緯は謎で、今後の研究課題にもなりそうだ。
 岩佐さんは「常に軍服姿で講義。正直、親しみやすい先生ではなかったと思いますが、少人数の学校で連帯感も生まれ、文学者として憧れを持って見つめられた。鷗外も若い人に新しいことを教える責務を感じていたのでは」と話した。
 同展では、鷗外がわが子にドイツ語などを教えるために手作りした教材や、文部省委員として編纂に携わった修身、唱歌の教科書なども展示されている。30日まで。
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過日ご紹介した『東京新聞』さんでも、教え子として光太郎の名を出して下さいました。展示を見て気づいたのですが、他にあまりビッグネームの教え子が居なかった的な感じでしたので、そういうことなのでしょう。

『産経』さんが引用なさっている「とても名講義でしたよ」は、川路との対談「鷗外先生の思出」から。ただ、このひと言はリップサービスのような気がします。本音としてはそれに続く部分の「しかしどうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありま
001したなあ」の方が重要だと思われます。対談「鷗外先生の思出」では、「軍服着せれば鷗外だ事件」の顛末も語られており、またぞろ舌禍を起こしてはいかん、と、「とても名講義でしたよ」(笑)。前後の文脈から浮いています。とってつけたように。

さて、同展、今月30日まで。ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに図録はこちら。880円でしたか。信州安曇野の碌山美術館さんで昨年開催された第113回碌山忌でも、関連行事としてのご講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」をなさった布施英利氏の玉稿なども掲載されています。

【折々のことば・光太郎】

古今のよい作品に守られながら勉強するのが一番です。限界はひろく、思念はふかく、実技に猛進してください。


昭和22年(1947)11月17日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

西出は後に截金の分野で人間国宝となる人物。やはり美校の彫刻科出身でした。

光太郎は鷗外と異なり、教職には就きませんでした。二度ほどそういう話があったのですが、いずれも断っています。最初は欧米留学からの帰朝後、父・光雲により美校教授の椅子が用意されていましたが、蹴飛ばします。二度目は戦後、新しく開校した岩手県立美術工芸学校の名誉教授に、という懇願が為されましたが、これも固辞。ただし、戦後は同校はじめ盛岡や花巻などで、学生たち向けの講演を行うことはしばしばでした。

それを言うなら、彫刻でも詩でも、いわゆる「弟子」はとりませんでした。まぁ、アドバイス的なことをしたことはあって、それが拡大解釈されて「高村光太郎に師事」と喧伝されている人物はけっこういるのですが。

上記の西出に対してのひと言も、先輩からの温かい助言といった感じですね。

新刊です。

おいしいアンソロジー 喫茶店  少しだけ、私だけの時間

2024年5月11日 阿川佐和子 他著 大和書房(だいわ文庫) 定価800円+税

「喫茶店」アンソロジー。お気に入りの喫茶店で時間をつぶす贅沢、喫茶店での私の決まり事、ふと思い出すあの店構え、メニューなど。
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目次
 コーヒーとの長いつきあい 阿刀田高
 贅沢な空気感の薬効 資生堂パーラー 村松友視
 淡い連帯 平松洋子
 国立 ロージナ茶房の日替りコーヒー 山口瞳
 喫茶店とカフェ 林望
 愛媛県松山 喫茶の町 ぬくもり紀行 小川糸
 喫茶店にて 萩原朔太郎
 変わり喫茶 中島らも
 初体験モーニング・サービス 片岡義男
 珈琲の美しき香り 森村誠一
 ニューヨーク・大雪とドーナツ 江國香織
 しぶさわ 常盤新平
 大みそかはブルーエイトへ シソンヌ じろう
 カフェ・プランタン 森茉莉
 気だるい朝の豪華モーニングセット 椎名誠
 富士に就いて 太宰治
 コーヒー色の回想 赤川次郎
 コーヒー 外山滋比古
 コーヒー屋で馬に出会った朝の話 長田弘
 しるこ 芥川龍之介
 コーヒー五千円 片山廣子
 一杯のコーヒーから 向田邦子
 喫茶店人生 小田島雄志
 喫茶店学 −キサテノロジー 井上ひさし
 可否茶館 内田百閒
 カフェー 勝本清一郎
 懐かしの喫茶店 東海林さだお
 芝公園から銀座へ 佐藤春夫
 東京らしい喫茶店 南千住『カフェ・バッハ』 木村衣有子
 〈コーヒー道〉のウラおもて 安岡章太郎
 喫茶店で本を読んでいるかい 植草甚一
 ミラーボールナポリタン 爪切男
 ウィンナーコーヒー 星野博美
 珈琲店より 高村光太郎
 ひとり旅の要領 阿川佐和子
 甘話休題(抄) 古川緑波
 あの日、喫茶店での出来事 麻布競馬場
 わが新宿青春譜 五木寛之
 カフェー 吉田健一
 コーヒーがゆっくりと近づいてくる 赤瀬川原平

古今のカフェ、喫茶店にまつわるエッセイ等を集めたアンソロジー。光太郎や内田百閒、萩原朔太郎あたりが最も古い部類でしょうか。ご存命の方々の作品も数多く。

光太郎作品は明治43年(1910)の雑誌『趣味』に発表された「珈琲店より」。前年まで留学のため滞在していたパリでの思い出が語られています。ただ、どこまでが事実なのかわかりません。午前0時近く、オペラを見終わった後、オペラ座近くのブールバールを歩いていて、たまたま見かけた3人組のパリジェンヌが入っていった珈琲店(「カフエ」とルビが振られていますが、)に自分も入って女達と陽気な時間を過ごし(珈琲店といいつつ酒がメインの店でした)、そのうちの一人を「お持ち帰り」……。翌朝、さんざんに人種的劣等感などに打ちのめされるという内容です。

この文章、令和3年(2021)に刊行された同じ趣旨のアンソロジー『近代文学叢書Ⅲ すぽっとらいと 珈琲』にも掲載されました。

それを言えば、昭和16年(1941)10月、光太郎の親友だった作家・水野葉舟は『青年・女子文章講義録 第6巻 名家の文章集』という書籍の「名家の書いた小品」というコーナーにこの文章を掲載しました。太平洋戦争開戦直前のこの時期、「これ、マズいでしょ」という感じなのですが(笑)。

閑話休題、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

なやみのあるのは人生の常でむしろその為に人間は進むのですから、なやむ時は正面からなやみ、そして勇気を以てそれをのり超える外はありません。いい加減にごまかしてなやみを回避してゐる人には進歩はありません。


昭和22年(1947)11月15日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎65歳

さまざまなつまづきを経験し、悩みに悩んできた光太郎ならではの言です。それにしても、実にポジティブですね。

昨日同様、あまり関係ないかなと思って紹介しないでいたら、光太郎の名を出して報道されてしまった(笑)展示です。

状況をわかりやすくするためにまずNHK仙台局さんのローカルニュースから。

仙台出身の“知られざる詩人” 石川善助の企画展

 仙台出身の詩人で将来を期待されながら31歳の若さで亡くなった石川善助の生涯を紹介した企画展が仙台市の仙台文学館で開かれています。
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 石川善助は現在の仙台商業高校時代に詩作に目覚め、卒業後も働きながら創作を続けた詩人で、萩原朔太郎などから将来を期待されながら不慮の事故により、31歳の若さで亡くなりました。
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 仙台文学館では、地元出身の詩人を広く知ってもらおうと、石川が残した作品をはじめ創作ノートや手紙などの資料およそ130点を紹介した企画展を開催しています。
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 会場には石川の作品がタペストリーに印刷されて展示され、志半ばでこの世を去った詩人の足跡や人柄、生き方などをじっくり味わうことができます。
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 また、同時代を生きた詩人の高村光太郎や宮沢賢治などとも交流があり、このうち賢治の手紙には石川が亡くなったあとの追悼会に関することなどが記されています。
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 仙台文学館の赤間亜生副館長は「幼い頃に足が不自由となった石川が、その運命を受け入れながら創作した詩を展示しています。手紙などの資料とともにその生き方を感じて欲しい」と話していました。
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 この企画展「詩人・石川善助をたずねて」は仙台文学館で来月30日まで開かれています。

展示詳細はこちら。

開館25周年記念特別展「詩人・石川善助をたずねて~北方への道のり」

期 日 : 2024年4月27日(土)~6月30日(日)
会 場 : 仙台文学館 宮城県仙台市青葉区北根2-7-1
時 間 : 午前9時~午後5時
休 館 : 月曜日、第4木曜日
料 金 : 一般810円、高校生460円、小・中学生230円 ※各種割引あり

 1901(明治34)年に仙台の国分町に生まれた石川善助は、仙台商業学校在学中から詩作に目覚め、校友会誌などに詩を発表し始めます。卒業後、仕事の傍ら、友人と詩誌を刊行、『日本詩人』をはじめとする中央の詩誌に作品を発表するなどし、詩人として将来を嘱望されましたが、1932(昭和7)年、31歳で不慮の事故により命を落としました。
 宮城県出身の詩人として、尾形亀之助と並び称されてきた善助ですが、生前に一冊の詩集を出すこともかなわず、その死後に友人たちにより遺稿集として、詩集・随筆集・童謡集がそれぞれ一冊ずつ刊行されることになりました。しかしこれまでその創作活動の全容はあまり知られてきませんでした。
 今回、書籍・原稿・書簡・創作ノート・作品掲載詩誌など、現在残されている膨大な石川善助関係の資料の全貌を紹介するとともに、改めて日本近代詩史における善助の位置づけを明らかにし、その詩の魅力を探ります。また、善助は民俗学的視点での随筆や童話、方言を用いた作品も残しており、その多様な表現活動と、仙台のスズキヘキや天江富弥をはじめ、草野心平や宮沢賢治など、様々な人々との交友についても紹介します。
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光太郎と石川、当会の祖である草野心平を通して知り合ったようです。その死後に刊行された石川唯一の詩集『亜寒帯』の序文は光太郎が書きました。全文はこちら

ネット上には展示品の目録が出ていないのですが、おそらく『亜寒帯』の説明の中で、光太郎の序文についても触れられているのでしょう。序文の原稿そのものが残っていればぜひ見てみたいものですが、現存は確認できていません。

ただ、NHKさんの報道でも触れられているとおり、賢治の書簡が出ているとのことで、「ほう」という感じでした。石川は、賢治と親しく戦後には光太郎とも繋がる直木賞作家・森荘已池を通じて賢治と直接会っています。賢治が生前に会った詩人というと、光太郎、黄瀛など、数が限られており、その数少ない一人が石川でした。

また、館の案内文には天江冨弥の名も。天江は仙台出身の児童文学者ですが、やはり光太郎と軽く関わりがありました。

さて、関連行事。既に終わってしまったものもありますが、これからというもののみ。

1.連続講座「石川善助を知ろう」定員:各60名(先着)
 ③「石川善助と宮沢賢治をつなぐもの」
  日時:6月29日(土)13:30~15:00
  講師:宮川健郎(一般財団法人 大阪国際児童文学振興財団理事長)
  申込み受付開始:6月12日(水)10時~

2. トークイベント
 「詩人・石川善助との出会いと、100年前からのメッセージ」
  日時:6月1日(土)13:30~15:00
  出演:木村健司(石川善助研究者) 聞き手:赤間亜生(当館副館長)
  定員:60名(先着)
  申込み受付開始:5月15日(水)10時~

3.朗読と音楽の調べ「石川善助・その生と言葉の軌跡」
  日時:6月15日(土)13:30~14:30
  出演:芝原弘(黒色綺譚カナリア派/コマイぬ) 菊池佳南(青年団/うさぎストライプ)
  定員:50名(先着)
  申込み受付開始:5月15日(水)10時~

【申込方法】電話で仙台文学館まで(022-271-3020)

ところで、冒頭にNHK仙台放送局さんの報道をご紹介しましたが、同局制作で東北6県向けに放映されている「ウイークエンド東北」、明日のオンエアで光太郎が大きく取り上げられます。
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元々、光太郎終焉の地・東京都中野区の中西利雄アトリエ保存運動の関わりで、保存会の日本詩人クラブ理事・曽我貢誠氏がNHKさんに取材の依頼をされました。すると、その件と、プラス「光太郎智恵子顕彰で頑張る東北の人々」というコンセプトで制作が為されました。

中野アトリエ以外、東北では、GW中に光太郎第二の故郷とも言うべき岩手花巻開催された「土澤アートクラフトフェア2024春」などで、食を通して光太郎顕彰に取り組むやつかの森LLCさんの活動、智恵子の故郷・福島二本松で智恵子顕彰にあたられている智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会~さん主催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」の模様、それから光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立つ青森十和田湖から、ボランティアガイドの方のお話。

10分ほどの尺だそうですが、東北6県の皆さん、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

どんな消息よりもよく貴下の全存在を話してくれるのはやはり詩だとおもひました。ますますむきに前進せられん事をのぞみます。


昭和22年(1947)11月10日 田村昌由宛書簡より 光太郎65歳

田村は北海道出身の詩人。この当時は新潟に住んでいました。光太郎は戦時中の昭和17年(1942)には田村の詩集『蘭の国にて』の序文を書いた他、この後、昭和28年(1953)には同じく『下界』の題字揮毫も行いました。また、遡れば太平洋戦争開戦直前には田村の編輯した『日本青年詩集』にも序文を寄せましたが、こちらは出版事情の悪化でお蔵入りとなりました。

書簡は田村から自著詩集『風』を贈られた返礼の一節です。単に「ありがとうございます。」ではなく、実に気の利いた文言ですね。

光太郎にも軽く関わる企画展示です。あまり関わりはないのかなと思って紹介しないでいたところ、『東京新聞』さんで光太郎の名を出して記事が出てしまいまして(笑)。

まずはその記事。

「教育者」鷗外に光 千駄木の記念館で特別展 美術解剖学の資料など展示

 医学者で、西洋美術にも造詣があった文豪・森鷗外(1862~1922年)は美術解剖学などを学校で教えていたことがある。そんな、教育者としての側面に光を当てる特別展「教壇に立った鷗外先生」が鷗外の旧居跡に立つ東京都の文京区立森鷗外記念館(千駄木1)で開かれている。(押川恵理子)
 鷗外は1881(明治14)年の東大医学部卒業後、陸軍軍医となり、84年から88年まで衛生制度などを調べるためドイツに留学した。記念館司書の岩佐春奈さんは「留学先で美術や文学にアンテナを張り巡らせたことが帰国後の教育活動につながった」と話す。
 91年から東京美術学校(現東京芸大美術学部)で教壇に立ち、ドイツの学者の資料を参考に美術解剖学などを教えた。軍服姿の鷗外は学校で常に目立っていたという。
 当時の様子を伝える資料約100点を展示。鷗外から美学の講義を受けた彫刻家の高村光太郎が「尊敬してゐたが、先生はどこまでも威張つて居るやうに見えた」とつづった随筆もある。慶応大の美学講師や陸軍軍医学校の校長などを務めた経歴、修身や唱歌の国定教科書の編さんといった功績も紹介する。
  また、文京区と金沢市が友好交流都市協定を結ぶ縁から、会期中、記念館のロビーでは能登半島地震の被災地を支援する「いしかわ復興応援マルクト」を開催している。石川県の珠洲焼などを販売。
 6月30日まで。午前10時~午後6時。5月28日と6月24、25日は休館。
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展示詳細はこちら。

特別展「教壇に立った鴎外先生」

期 日 : 2024年4月13日(土)~6月30日(日)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10時~18時
休 館 : 6月24日(月)・25日(火)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円) 中学生以下無料

 文豪・森鴎外(1862―1922)は留学から帰国後、教壇に立ちました。1888(明治21)年、陸軍軍医学校の教官となり衛生学を教え、1893年から同校の校長となります。その間、東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)で1891年から美術解剖学を、1896年より美学と西洋美術史を講義します。1892年からは慶應義塾大学部で美学の嘱託講師も務めました。東京大学卒業の頃から文筆をはじめ、陸軍軍医としてドイツに留学し、欧州の文化に触れるなどの経験を重ねたからこそ、鴎外はこれらの科目を教えることが出来たのでしょう。講義は、1899(明治32)年に小倉への赴任により終了しますが、教員や学生との交流は続きました。
 他方、鴎外は1908(明治41)から1920(大正9)年に修身や唱歌の国定教科書編纂にもかかわっていました。また、鴎外の作品は生前から現在まで、国語や現代文の教科書に掲載されています。教科書で鴎外の小説を初めて読んだ方も多いことでしょう。
 本展では、教育にたずさわった鴎外の姿を、講義を受けた学生のノートや関連資料、教科書などをとおして展覧します。あなたと鴎外先生の接点が見つかるかもしれません。
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出品目録がサイトに出ていました。
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「光太郎」の文字が出てくるのは1ヶ所。昭和18年(1943)、『智恵子抄』版元の龍星閣から刊行された随筆集『某月某日』が展示されています。
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なぜこれが、というと、この中に収録されている「美術学校時代」というエッセイに、東京美術学校で受けた鷗外の講義の模様が記されているためでしょう。この文章、永らく初出が不明で、『高村光太郎全集』の解題でもそう書かれていますが、雑誌『知性』の第5巻第9号(昭和17年=1942 9月1日)に掲載を確認しました。

鷗外は明治24年(1891)から東京美術学校の教壇に立ち、「美術解剖」「美学」「泰西美術史」などの授業を受け持ちました。軍医総監でもあった関係で従軍による中断期間もありましたが、光太郎在学時にも教鞭をとっていました。

光太郎の美校入学は明治30年(1897)。鷗外の講義は「美学」を受講しています。「美術学校時代」から。

 鷗外先生といふ人は講義をする時でも何時でも、始終笑顔一つしないでむづかしい顔をしてゐたので、鷗外先生といふと無闇に威張つて怖い顔をしてゐる先生と思つてゐた。年中軍服でサーベルを着け凡そ二年間美学の講義をせられたが、学年の終りに生徒に向ひ、今日まで教へたことについて分らない所があつたら何んでもよいから質問をするやうにといふことであつた。
 みんなはそれぞれと質問をし、疑問の点を尋ねた。その時に生徒の一人が、先生仮象といふのは何ですかと言ひ出した。さうすると鷗外先生はひどく怒つてしまひ、仮象といふことが分らないやうでは一体今迄何をしてをつたのか、それが分らないやうではこの一年間の講義は何にも分つてゐないのだらう、と先生をすつかり怒らせてしまつた。その質問をした学生はもう落第かと思つて隅の方に小さくなつてゐる。学生も何んにも言はず黙りこくつてゐる。鷗外先生はプンプン怒り、そんな無責任な聴き方があるかと怒鳴りながら、それでお仕舞ひになつたことがある。尤も仮象といふことは今から考へれば美学の一番の根源である。それが分らないで講義を聴いてをつたのでは分らないで聴いてゐた方が悪いに違ひない。僕は鷗外先生を尊敬してゐたが、先生はどこまでも威張つて居るやうに見えた。神経の細やかな人で、戯談一つ云つてもそれを覚えてゐて決して忘れない。非常に好き嫌ひの強い人であつた。

『東京新聞』さんでこの一節の中から紹介していますので、パネル展示か何かになっているのではないでしょうか。

ちなみに地雷を踏んだ学生は、山本筍一。どのクラスにも一人はいる、空気が読めずに素っ頓狂な発言をして先生にこっぴどく怒られるような生徒でした。彫刻の実技も最初はまるで駄目で、同級生たちからは小馬鹿にされていました。ところが修学旅行で奈良に行き、古仏の数々を目の当たりにしてにわかに開眼、皆に「山本の奴は急にうまくなった」と、一目置かれるようになりました。しかし、卒業直後の明治37年(1904)、若くして亡くなりました。

こういう経緯があって、光太郎は後に「軍服着せれば鷗外だ事件」を起こします。

ところで、本展示の関連行事。講演会が2本用意されていました。そのうち、大塚美保氏(聖心女子大学教授)の「教壇に立つ+教科書をつくる森鴎外」は既に終わっていますが、もう1本、布施英利氏(東京藝術大学教授・美術解剖学)による「森鴎外と美術解剖学」が、6月9日(日)に行われます。布施氏、信州安曇野の碌山美術館さんで昨年開催された第113回碌山忌でも、関連行事としてのご講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」をなさいました。応募は締め切られていますが、キャンセル等有るかも知れませんので、一応。

展示の方は6月30日(日)までです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

岡本弥太といふよい詩人が高知に居られるといふ事は以前から注目してゐました。物故された事を知つた時に残念におもひました。詩碑が出来る由、皆さんの総意であるならば小生字を書く事はいなみません。むろん悪筆ですが。

昭和22年(1947)11月8日 川島隆宛書簡より 光太郎65歳

岡本弥太(明32=1899~昭17=1942)は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、生前唯一の詩集『瀧』(昭和7年=1932)を光太郎に贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。そうした縁から、高知に建てられた詩碑の揮毫を光太郎が依頼され、それに関する記述です。

碑は翌年、現在の香南市に建立、除幕されました。

詩人の若松英輔氏。光太郎についても関心がおありのようで、複数のご著作やZOOMによるオンライン講座等、ラジオ番組等で光太郎に触れて続けてくださっています。

常に氏の動向をチェックしているわけではないのですが、キーワード「高村光太郎」でネット検索をしていると氏がらみの情報がいろいろヒットするので、その都度こちらでご紹介しています。見落としもあるでしょうが。

生涯学習講座いろいろ。
『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる』。
若松英輔『詩と出会う 詩と生きる』。
若松ゼミ◆詩の教室 言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む。
若松英輔氏~AI。
若松英輔『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』。

すると、今月から音声配信サービス「voicy」というのを利用されて、「若松英輔の「読むと書く」ラジオ」という活動を始められていました。YouTubeのような動画配信ではなく、音声のみの配信。「へー、こんなのもあるんだ」と思いました。
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その第23回が「《対話》高村光太郎「気について」自分がどういうものを作り出しているか、自分の人生がどんなものに運ばれてきたのか」。昨日配信されたようです。早速拝聴してみました。
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「番組アシスタント」の大瀧純子さんという方とのトーク形式で、約10分。光太郎のエッセイ(というか評論というか……『高村光太郎全集』では「評論」の巻に収録されています)「気について」(昭和14年=1939)がメインに取りあげられています。

短い文章なので、全文を。

 人間の捉へがたい「気」を、言葉をかりて捉へようとするのが詩だ。気は形も意味もない微妙なもので、しかも人間世界の中核を成す。詩が言葉にのりうつつた「気」である以上、詩を言葉で書かれた意味にのみ求め、情調のみに求め、音調(ヴエルレエヌは音楽といふ)にのみ求めるのは不当である。詩は一切を包摂する。理性も知性も感性も、観念も記録も、一切は詩の中に没入する。即ちその一切を被はないやうな詩は小さいのである。気が一切を呑むのである。

発表されたのは昭和14年(1939)元日発行の雑誌『蛮』第3巻第1号新春号。執筆の年月日は不明ですが、おそらく前年12月あたりでしょう。すると、10月5日に智恵子を亡くした直後と言っていい時期です。

この頃から「」が光太郎の内部で一つのキーワードとなっていきます。002

右は2年後の昭和16年(1941)8月に刊行された散文集『美について』初版見返しに揮毫された短句。「詩とは気である 気の実である」。詳細は不明ですが、親しい人物に贈られたものと推定されます。

最愛の智恵子を亡くし、世の中は泥沼化した日中戦争の局面を打開しようと、さらに米英などに対して太平洋戦争を仕掛ける前夜です。

余談ですが奥付によれば『美について』は『智恵子抄』と全く同じ昭和16年(1941)8月20日刊行。実際に店頭に並んだのには多少のずれもあったでしょうが。

『智恵子抄』の詩篇で愛する者に別れを告げ、詩の中で智恵子が謳われることは無くなり(それが復活するのは戦後の昭和20年(1945)作の「松庵寺」です)、以後、ほぼ翼賛詩一辺倒となっていきます。

詩ではない散文の中にも「」。例えば昭和19年(1944)1月15日発行『海運報国』第4巻第1号に寄稿した「決戦時生活の基礎倫理」では、「まづ必勝の気を堅持する事が第一である。」「必勝の気とは確乎たる自信である。どんな謀略にもひつかからぬ卓然たる確信である。」類例は多いと思います。『道程』時代から光太郎は一種の精神主義を掲げていましたので、その延長という見方も出来ましょうが。

さて、若松氏、そうした光太郎の「」が、光太郎芸術全般にどのように表されているかといったお話。ぜひお聴き下さい。

【折々のことば・光太郎】

ところで、お願ですが、いつぞやのおテガミ中に札幌でホームスパンの洋服が出来るやうなお話でしたが、普通型背広服一着たのんでいただけないでせうか。小生東京以来のボロ服以外に一着も無く、来年位には此服も破れてしまふだらうと思ひますので出来ればお願ひ申したく存じます。


昭和22年(1947)11月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳

結局この依頼は実現せず、昭和25年(1950)になって、親しく交流したホームスパン作家・及川全三の人脈でホームスパンの服をオーダーメイドしています。

3件ご紹介します。

まず天台宗さんとして発行されている『天台ジャーナル』さん。檀信徒さんなど向けの月刊機関紙的なもののようで、今月号です。連載コラムと思われるコーナーに光太郎の言葉をメインで紹介していただきました。

素晴らしき言葉たち

いくら非日本的でも、日本人が作れば
日本的でないわけには行かないのである。  高村光太郎

 詩人であり歌人であるとともに彫刻家、画家であった高村光太郎の言葉です。ですから、芸術分野を指す言葉でしょうが、他の分野にもいえることではないでしょうか。最近、特に話題となっている和食ブームについてもいえると思います。
 伝統的な和食でない中国由来の「ラーメン」やインドを発祥とする「カレー」などは、もとは非日本的な食べ物でしたが、今ではすっかり「和食」となっています。発祥の地である中国には日本のラーメン店が、同じくインドでも日本のカレー店が展開されているそうです。
 明治維新後、日本は先行する欧米の模倣でなんとか国を造りあげてきました。モノづくりでも「安かろう、悪かろう」といわれる時代を経て、「さすが日本製」といわれるほどになり、品質を誇れるまでになりました。
 その過程で、日本独自のアイデアが付け加えられてオリジナルよりも価値が高いものが創造されることになったようです。
 例えば温水洗浄便座なども元はアメリカで開発されたものですが、それを進化させたものだといいます。今では、日本中どこでもみられるようになりました。温水洗浄便座以外でも、モノづくりや食べ物の分野をはじめ、日本の創意工夫が活かされた例が多くなりました。
 このところ、経済状況が沈滞し国力の伸びがなくなって久しい日本ですが、この国の得意とする「日本的な」創意工夫をもって生き延びていくことが、これまで以上に求められていると思います。

いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」元ネタは欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)の『スバル』に発表した評論「緑色の太陽」です。

前年の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された画家・山脇信徳が描いた印象派風の絵画「停車場の朝」に対し、光太郎と親交の深かった石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」と、けちょんけちょんにけなしました。しかしフランスで印象派やフォービスムなどのポスト印象派に実際に触れてきた光太郎は、「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」とし、作品は作者それぞれの感性によって作られるべきもので、「緑色の太陽」があったっていいじゃないかと山脇を擁護しました。所謂「地方色論争」です。

そんな中で「いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」。さらにどんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。」。

ジャンルは違いますが、思い出すのは作曲家・三善晃のパリ音楽院時代のエピソード。コッテコテのフランス風の曲のつもりで作曲し、どうだ、とばかりに披露すると、「素晴らしい! 何て日本的な曲なんだ!」。そんなもんでしょう。『天台ジャーナル』さんでは、また違った方向に話が進んで行っていますが。

続いて『朝日新聞』さん栃木版、読者の投稿による短歌と俳句欄「歌壇・俳壇」。短歌の方で次の詠が入選していました。那須高原にお住まいの高久佳子さんという方の作。

『智恵子抄』初給料で買った本六十年経て回し読みする 

60年前というと、昭和39年(1964)。その頃流通していた『智恵子抄』といえば、草野心平編になる新潮文庫版もありましたが、わざわざ「初給料で」ということは、函入り布装の龍星閣版でしょう。
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昭和16年(1941)刊行のオリジナルは白い和紙の表紙で、太平洋戦争の激化に伴う龍星閣休業の昭和19年(1944)第13刷まで確認出来ています。戦後になって昭和25年(1950)に龍星閣が再開し、翌年に復元版としてこの赤い表紙のバージョンが出されました。それ以前に昭和22年(1947)に出た白玉書房版がありましたが、こちらは龍星閣の許諾をきちんと得ずに出されたということで、絶版になっていました。

その後、すったもんだがありましたが、この赤い表紙の復元版は版を重ね、現在でも細々と新刊として販売が続いているようです。

画像は昭和26年(1951)の復元版初版。後のものは函の題字も表紙の布と同じ朱色になり、函の色はもっと黄色っぽくなります。

もう1件、『朝日新聞』さんから。岩手版に不定期連載(?)されている「賢治を語る」、5月18日(土)分です。

(賢治を語る)名プロデューサー光太郎 花巻高村光太郎記念会・高橋卓也さん

 北東北の詩人・宮沢賢治。その存在を広く世界や後世に知らしめた人物がいる。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883〜1956)。「名プロデューサー」としての顔を持つ光太郎と、賢治の関係について、一般財団法人花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さん(47)に聞いた。
 《光太郎と賢治の出会いは?》
 賢治の生前唯一の詩集「春と修羅」が刊行されたのは1924年。日本を代表する彫刻家だった光太郎は翌年、草野心平に勧められてこの詩集を読み、詩的な世界に感銘を受けます。「注文の多い料理店」も借りて読み、親友の作家にまた貸しするほど入れ込みます。
 2人が出会ったのは1926年冬。花巻農学校を退職した賢治が、タイプライターやチェロを学ぶために上京した際、光太郎を訪ねます。突然の来訪だったため、仕事をしていた光太郎が「明日の午後明るいうちに来て下さい」と言うと、賢治は「また来ます」とそのまま帰っていったようです。賢治は再来せず、1933年に死去したため、2人が出会ったのはその一度きりでした。
 《死語、光太郎は賢治の全集を出します。》
 賢治が亡くなった翌年、東京・新宿で追悼会が開かれ、光太郎も出席します。その際、賢治の弟・清六が持参した、賢治の原稿が入ったトランクの中から、「雨ニモマケズ」が記された小さな黒い手帳が見つかります。
 残された原稿の束や手帳を見て心動かされた光太郎や心平の尽力で、賢治全集の刊行が決定し、光太郎はその全集の題字を書いています。
 《詩碑「雨ニモマケズ」の字も光太郎です》
 1936年秋、花巻に賢治の初めての詩碑「雨ニモマケズ」が建つことになり、光太郎に字が依頼されました。ただ、誰がどこで間違えたのか、詩碑には除幕の段階で計4ヶ所、漏れや誤りがありました。
 戦後の1946年、光太郎は訂正を行うため、自ら足場に登って詩碑に筆で挿入・訂正を行い、石工がその場で追刻をしました。光太郎は「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったそうです。
 《戦中、光太郎は花巻に疎開します。》
 1945年4月、空襲で東京のアトリエを焼失した光太郎は、花巻の宮沢家に誘われる形で、5月中旬、清六の家に身を寄せます。
 ところが、その花巻の家も8月10日の花巻空襲で焼けてしまいます。
 その際、空襲を経験した光太郎が、清六に「花巻でも空襲があるかもしれないので、防空壕(ごう)を作り、大切なものを避難させておいた方が良い」と助言していたため賢治の原稿は防空壕の中で、かろうじて焼失を免れました。まさに光太郎の助言のお陰です。
 《光太郎はその後も花巻で暮らし続けます。》
 約7年間、杉皮ぶきの屋根の3畳半の山小屋で独りで暮らし続けます。零下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔に雪がかかるような厳しい生活でした。
 亡き妻、智恵子の幻を追いながら、善と美に生き抜こうとした。高潔で理想主義的な生活から素晴らしい作品が生まれました。
 光太郎の芸術は、第一に彫塑(ちょうそ)、第二に文芸、第三に書と画、と言われますが、無名だった賢治の作品を守り、その存在を広く世の中に伝えた「名プロデューサー」としての仕事は、この国の文学に極めて大きな財産を残した、彼のもう一つの偉大な「芸術」だったと言えるかも知れません。


光太郎と賢治、花巻の縁が端的に記されています。こうした縁から、宮沢家では未だに光太郎の恩を忘れていないという感じで、実に有り難く、恐縮している次第です。

ちなみに記事には紹介がありませんでしたが、花巻高村光太郎記念館さんではテーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中ですし、常設展示では賢治と光太郎の縁的なところにも力を入れています。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

このたびはのびのびと潺湲楼に奄留、思ひがけなき揮毫も果し、デリシヤスの初収穫をも賞味し、お祝いの佳饌にも陪席、又久しぶりにて母にもあひ、まことにめぐまれた一週間でございました。

昭和22年(1947)10月16日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳

潺湲楼(せんかんろう)」は、佐藤邸離れ。旧太田村へ移住する直前の昭和20年(1945)9月から約1ヶ月、光太郎はここで起居し、その後も街に出て来るとここに宿泊しました。

デリシヤス」は林檎。「久しぶりにて母にあひ」は、大正14年(1925)に歿した母・わかに実際に会ったわけではなく(それではホラーです(笑))、双葉町の松庵寺さんでわかの二十三回忌法要を営んで、会ったような気になったということです。

その際に詠んだ短歌が「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」。おそらくデリシャス種の林檎を供えたのでしょう。この歌を刻んだ歌碑などが、松庵寺さんに残っています。

富山県から市民講座の案内です。

高村光太郎『智恵子抄』講座

期 日 : 2024年5月26日(日)、6月9日(日) 、7月28日(日) 、8月25日(日) 、9月22日(日) 
会 場 : 高岡市生涯学習センタースタジオ405A 富山県高岡市末広町1番7号
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 運営費1,800円 受講料1,000円 資料代500円(全5回分) 合計3,300円(初回納付)
講 師 : 茶山千恵子氏 

孤高の詩人・高村光太郎と智恵子の魂の軌跡ともいえる『智恵子抄』を深く読み理解し、語り合いましょう💕

5月26日(日) 随筆『智恵子の半生』朗読
6月9日(日) 『智恵子抄』より「人に」「涙」「おそれ」「或る宵」「郊外の人に」「人類の泉」
7月28日(日) 「僕等」「あなたはだんだんきれいになる」「金」「樹下の二人」「夜の二人」「あどけない話」
8月25日(日) 「山麓の二人」「風にのる智恵子」「人生遠視」「千鳥と遊ぶ智恵子」
9月22日(日) 「レモン哀歌」「荒涼たる帰宅」「亡き人に」「梅酒」「案内」「うた六首」
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講師の茶山さん、これまでも生涯学習組織・たかおか学遊塾さんで同様の講座講師を務められた他、同塾主催のイベント「たかおか学遊フェスタ」で光太郎詩朗読をなさったり、劇団「よろこび」として演劇でも「智恵子抄」を取り上げて下さったりしました。

ちなみに上記講座一覧の№13「いつも生き活き自分で出来るリンパマッサージ講座」講師も茶山氏です。

また、昨年、今年と連翹忌にご参加下さいましたし、ご自宅を開放されて予約制で振る舞う「光太郎ランチ」などの活動にも取り組まれています。さらに今年11月には「ひとり芝居 智恵子抄」を都内で公演なさるそうです。

申込締め切りが過ぎてしまっているのですが、まだ空きがあるかも知れません。ご興味おありの方、問い合わせてみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

水で畑が不成績ですが、トマトとキヤベツはすばらしくよく出来ました。トマトは毎日たべてもたべきれません。ゴールデン ポンテローザ種が美しく日に輝いてゐるのはいいです。キヤベツも中々上等です。今冬は此のキヤベツで「シユークルート」式漬ものをつくる気です。今大根が育つてゐます。


昭和22年(1947)10月3日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

この後、シュークルートは光太郎の得意料理の一つとなりました。

朗読公演の情報です。

まず、愛知県から。存じ上げない方々の公演ですが、ネットの情報検索で引っかかりました。

語り部リサイタルvol.5 「みーみーの世界〜私のまわりのものたちのこと」

期 日 : 2024年5月19日(日)
会 場 : 古民家カフェすず助 愛知県西尾市会生町18
時 間 : 開場 13:00 開演 13:30
料 金 : 1,500円
主 催 : 語り部ふみの会

徒然なるままに……現代の清少納言を気取って、語り部・三浦有美がお届けする「みーみーの世界」。どうぞお楽しみ下さい。

出 演 : 三浦有美(語り部)  田中ふみ枝(語り部・BGM演奏)

プログラム 
 【みーみーの本棚】
   智恵子抄より 高村光太郎  やまなし 宮沢賢治  蜘蛛の糸 芥川龍之介
 【みーみーのお客様】
   ゲストタイム・おしゃべりと語り
 【みーみーの日常】
   私のつぶやき 作・三浦有美

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「智恵子抄」を取りあげて下さるそうで、ありがとうございます。

残念ながらこの日は智恵子の故郷・福島二本松にて開催の「第17回高村智恵子生誕祭~智恵子を偲ぶ鎮魂の集い~」に参加予定ですので欠礼いたしますが、お近くの方(遠くの方も)ぜひ足をお運び下さい。

もう1件、まだ先の話でネット上に詳細が出ていないようですが、こちらは当方お世話になっている方々の公演でして、早めに告知いたします。
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箏曲演奏家の元井美智子さん、朗読の荒井真澄さんのコラボです。元井さんが今年の連翹忌に初めてご参加下さり、ご常連の荒井さんと意気投合、荒井さんの地元・仙台で開催の運びとなりました。かつて同様の件で、荒井さんとテルミン奏者の大西ようこさんとのコラボも仙台で開催されたことがありました。

連翹忌は光太郎を偲ぶ集いというのがメインですが、このように様々な方々のネットワーク作りに貢献するというのも一つの目的でして、こういうイベントが為されると、主催者として喜びに堪えません。

こちらに関しましてはまた近くなりましてネット上に情報が出ましたら詳細をお伝えします。

【折々のことば・光太郎】

「展望」は部数少いと見えて小生の家へも二部しか来ずお送りも出来ません。わざわざ探してよむほどのものでない事と存じます。

昭和22年(1947)9月(推定) 真壁仁宛書簡より 光太郎65歳

「展望」は、幼少期からの自らの来し方、さらに戦争責任などを綴った20篇から成る連作詩「暗愚小伝」が載った7月号です。

「これを書き上げないうちは他の詩は書けない」という気持で臨み(実際には書きましたが)、1年以上かけて完成させた「暗愚小伝」ですが、いざ活字になってみると自分の意を尽くしたものとも言い難く、「わざわざ探してよむほどのものでない」。

書いている時が花、物書きあるあるです。はしくれの当方もそう思います。

岩手盛岡からミニ展示の情報です。

企画展「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」

期 日 : 2024年5月18日(土)~7月21日(日)
会 場 : 岩手県立図書館 岩手県盛岡市盛岡駅西通1-7-1 アイーナ4F
時 間 : 9:00~20:00
休 館 : 5月25日(土)・31日(金)、6月28日(金)
料 金 : 無料

人間にとって身近な動物である牛。古くは塩や海産物を背負って歩いた南部牛、現代ではブランド牛や酪農の取り組みなど、岩手の文化や産業も 牛とともにあゆみを重ねてきました。岩手と牛の関わりについて、所蔵資料で紹介します。
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タイトルの「地を往(ゆ)きて走らず」が、光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)の一節です。
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    岩手の人

 岩手の人眼(まなこ)静かに、
 鼻梁秀で、
 おとがひ堅固に張りて、
 口方形なり。
 余もともと彫刻の技芸に游ぶ。
 たまたま岩手の地に来り住して、
 天の余に与ふるもの
 斯の如き重厚の造型なるを喜ぶ。
 岩手の人沈深牛の如し。
 両角の間に天球をいただいて立つ
 かの古代エジプトの石牛に似たり。
 地を往きて走らず、
 企てて草卒ならず、
 つひにその成すべきを成す。
 斧をふるつて巨木を削り、
 この山間にありて作らんかな、
 ニツポンの脊骨(せぼね)岩手の地に
 未見の運命を担ふ牛の如き魂の造型を。

翌昭和24年(1949)元日の『新岩手日報』に掲載されました。

光太郎は自身を牛にたとえることもあり、遠く大正初めの『道程』時代にずばり「」という長詩を書きましたし、「岩手の人」より後にも「鈍牛の言葉」(昭和24年=1949)という詩も書きました。「鈍牛」は自分自身です。そこで岩手の人々に感じるシンパシーを「牛」に託して語っているような気もします。

現代でも岩手の皆さん、「岩手の人」を光太郎からの贈り物と考えてらっしゃるようで、今回もそうですが、いろいろなところで使って下さっています。最近では令和3年(2021)に、この年が丑年だったため県として「いわてモー! モー! プロジェクト2021」を展開、「岩手の人」がキャンペーンソングならぬキャンペーンポエム的な使い方をされました。

また遡れば、花巻北高校さんの庭に建つ高田博厚作の光太郎胸像(昭和51年=1976設置)の台座にも「岩手の人」の一節が刻まれています。

ちなみに「「岩手の人」のモデルは、当時の国分謙吉知事だ」という説があります。国分知事の容貌や業績からの類推と思われますし、実際に光太郎と国分知事は花巻温泉で対談したり、同じ式典でそれぞれスピーチしたりといった交流がありました。しかし、それらは昭和25年(1950)以降のことで、「岩手の人」が書かれた時点で面識があったかどうか不明です。もっとも、面識はなくとも詩のモデルに、ということも無くはありませんが……。

さて、今回の展示、「所蔵資料で紹介」というだけで詳細はよく分かりませんが、光太郎に関わる展示も為されることと思われます。さすがにタイトルだけ借りて終わり、とはなりますまい。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

五、六日間雨ばかり降つてゐました。今朝雨やみ曇。畑に水流れ、往来に水あふれ、川音轟々とひびきます。


昭和22年(1947)9月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

いわゆるカスリーン台風です。関東地方での被害が大きく、荒川や利根川の堤防が決壊、都内でも葛飾区や江戸川区は全域が水没したそうで、全国で死者1,077人、行方不明者853人。岩手県内でも北上川が氾濫し、南部の一関をはじめ、109人の死亡が確認されました。光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村でも、橋が流されるなどの被害があったそうです。

岩手では翌年にもアイオン台風が大きな被害をもたらし、国分知事、復旧への陣頭指揮を執りました。

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