カテゴリ: 文学

新刊情報です。 

妖怪と小説家

2015年12月15日 野梨原花南著 KADOKAWA(富士見L文庫) 定価560円+税

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帯文より
 ここは東京・吉祥寺。小説家の太宰先生と、その担当編集である水羊の行く手には、なぜか怪異がつきまとう。
 原稿から逃げたり、中原先生や谷崎先生と揉めたり、自分の命を削って原稿を書いたり。
 そんな日々の中で、当たり前のように怪異が起きて、当たり前のように太宰先生と水羊は巻き込まれるけれど―やっぱり良い小説を書くために、懸命で。
「僕、太宰先生といるときだけですしこういうの!」
 東京の町で繰り広げられる、文豪たちの不思議な日々の物語。


昨今、実在の文学者を主人公にしたり、モデルにしたりという小説、漫画が静かなブームです。このブログでも、光太郎智恵子が登場する清家雪子さんの漫画『月に吠えらんねえ』を何度かご紹介しました。

こちらの『妖怪と小説家』、いわゆるライトノベルです。

舞台は現代の東京。小説家の「太宰先生」と担当編集者の「水羊」が、時に異界から現れた物の怪(もののけ)と遭遇したり、異界や幻想の世界に迷い込んだりしながら、不思議な体験をする、といったストーリーです。

けんかっ早いイラストレーターの「中原先生」、食道楽の「谷崎先生」、皆から尊敬を集める「宮澤先生」などにまじって、カフェギャラリーの女主人にして、自らも絵を描く「長沼さん」が主要登場人物となっています。「長沼さん」は、天才だけれど経済観念のない彫刻家の「高村さん」と離婚して店を開いた、という設定です。

「高村さん」は本編には登場せず、「太宰先生」と「水羊」の迷い込んだ幻想の世界に登場、また、「長沼さん」と「宮澤先生」の会話に語られるのみです。

「長沼さん」に向けて「宮澤先生」曰く、

「反省頻(しき)りの様子ですが、絆(ほだ)されてはいけませんよ。彼はわたしたちにとってはいい男ですが、あなたにとってはいけないひとだ。」

笑えます。

ところで、この小説では、智恵子を含め、太宰、中也、賢治など、比較的早逝した人々を登場人物のモデルとしながら、誰一人死にません。そのあたりに作者・野梨原氏の強い意図が感じられます。

「長沼さん」と「宮澤先生」の間に、こんな会話もありました。

「先生、それでトシ子さんはお元気です?」
「はい。すっかりよくなりまして」
「それはようございました。ほっとしましたわ。」
「……そのことについて、名前は伏せますが酷いことを言われて傷つきました」
(略)
「あの、何を言われたのですか……。おいやなら答えなくても」
「トシが死ねばさぞ美しい詩ができたでしょうね、と」

念のため解説しますが、現実の賢治には、詩「無声慟哭」に謳われた、妹のトシ(大正11年=1922、数え25歳で病没)がいました。

続く「宮澤先生」と「中原先生」の会話。

「作家をなんだと思っているのでしょう。人間だと、全く思っていないのか、それともその人にとっては他の人間はそのようなものなのでしょうか。愛するものが死ねば傑作がかけるのならば、世の中にはもっと傑作が満ちあふれているでしょう」
(略)
「作家が死ねば話題になって本が売れるから死ねばいいと、世の中に思われているのは知っています」
「それについてはどう思われますか」
「お前が死ねと思って聞いてます」
「おや、過激だ」

結局最後はハッピーエンド。この小説自体、早世していった智恵子達に対するオマージュなのだと言って良いでしょう。


こうした入り口からでも、光太郎智恵子の世界に興味を持って下さる若い世代が増えれば、と思いました。


【折々の歌と句・光太郎】

冬の夜はきりこがらすにきらきらと白きしじまのひかるなりけり
大正15年(1926) 光太郎44歳

このブログを書いている今、南関東には珍しく粉雪が舞っています。夜ではありませんが。

一昨日、アメリカ文学者・文芸評論家の佐伯彰一氏のご逝去が報じられました。新聞各紙には昨日掲載されています。 

文芸評論家の佐伯彰一さん死去 「三島由紀夫全集」編集

 米文学者で、比較文学や伝記研究の手法を用いた評論で知られる000文芸評論家の佐伯彰一(さえき・しょういち)さんが1日、肺炎のため亡くなった。93歳だった。葬儀は近親者で営まれた。
 富山県出身。東京大や中央大で教壇に立ち、アーネスト・ヘミングウェーやフラナリー・オコナーの翻訳を手がけた。80年に日本翻訳文化賞を受賞。同年「物語芸術論」で読売文学賞、86年、「自伝の世紀」で芸術選奨文部大臣賞を受けた。「三島由紀夫全集」の編集を担当し、三島由紀夫文学館や世田谷文学館の館長も務めた。
(『朝日新聞』 2016/01/05)
  

<訃報>佐伯彰一さん93歳=米文学者、文芸評論家

 国際的な視野をもつ批評で活躍した文芸評論家で米文学者、東京大名誉教授の佐伯彰一(さえき・しょういち)さんが1日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。93歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男で東京工業大教授(米文学・米文化史)の泰樹(やすき)さん。
  1922年生まれ、富山県育ち。43年東京大英文科卒。米ミシガン大などで日本文学を講じた。ヘミングウェーやフォークナーらの研究・翻訳のほか、戦前、戦中に知識人の転向や挫折を見せつけられたのを原点に50年代から文芸評論に取り組んだ。68年から東京大、83年から中央大の教授を歴任した。
  三島由紀夫研究の第一人者としても知られ、新潮社刊行の全集(35巻・補巻1、76年完結)の編集を担当。95年に東京・世田谷文学館、99年には山梨県・三島由紀夫文学館のいずれも初代館長を務めた。谷崎潤一郎らが自己の資質を見いだす過程を追った「物語芸術論」で80年読売文学賞。他の著書に「日本人の自伝」(74年)、「評伝三島由紀夫」(78年)、「自伝の世紀」(85年)など多数。保守系の論客としても知られた。
  評論家の業績で82年日本芸術院賞。88年日本芸術院会員。99年に正論大賞(特別賞)。
(『毎日新聞』2016/01/05)


当方、佐伯氏のご著書を一冊持っております。

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昭和59年(1984)、文藝春秋社さんから刊行された『日米関係の中の文学』。当時の日米貿易摩擦を背景にしています。初出は同社刊行の雑誌『文學界』への連載でした。

全13章のうちの第8章にあたる「ジャップの「憤り」」で、光太郎のアメリカ留学をメインに扱っています。改めて読み返してみました。

光太郎は明治39年(1906)、数え24歳で欧米留学に出ます。2月末、最初の目的地であるニューヨークに到着。翌年6月にホワイトスターラインの豪華客船・オーシャニックでロンドンに向けて船出するまでをアメリカで過ごしました。私費留学のため、自分で金を稼がねばならず、彫刻家ガットソン・ボーグラムの通勤助手として働いたりもしました。後にボーグラムは現代でもアメリカの観光案内などによく写真が使われる、マウント・ラッシュモアの巨大彫刻を手がける彫刻家です。しかし、ボーグラムの元で働いたのは4ヶ月ほど。あとはどのようにして収入を得ていたのか、よくわかりません。日本から持っていった2,000円を小出しにして使っていたのでしょうか。倹約のため、窓のない屋根裏部屋に下宿をしたりもしました。

10月から翌年5月までは、ボーグラムが講師を務めていたアート・スチューデント・リーグの夜学に通い、特待生の資格を得、その賞金をボーグラムの好意によって現金で受けとり、イギリスへと旅立ちます。ほぼ時を同じくして、父・光雲の奔走で農商務省の海外実業練習生に任ぜられ、月々の手当が支給されるようにもなりました。

さて、佐伯氏の論考。滞米中の体験を基にした詩「象の銀行」(大正15年=1926)、「白熊」(同14年=1925)を中心に、光太郎の内面を分析しようとする試みです。どちらの詩も、滞米時から20年ほど経ってからの作品であること、これらを含む連作詩「猛獣篇」の問題、この後展開されて行く翼賛詩の濫発、そして戦後の花巻郊外太田村での隠遁生活などに触れられます。さらには比較文学論的に、やはり滞米経験のある永井荷風や有島武郎、岡倉天心などとのからみ、当時のアメリカの世相などにも論が及びます。それぞれ周辺人物の遺した手記などにも材を取り、非常に示唆に富んだ論考でした。もちろん、滞米時の光太郎のエピソードもふんだんに紹介されています。柔道技で米国人学生をたたきのめしたことなど。


ちなみに氏は、戦時中に光太郎の講演を生で聴かれたこともあるそうです。

経歴でわかるとおり、氏は右寄りの立ち位置にい000らした方です。しかし、氏は光太郎の翼賛詩を良しとしません。そのあたりは現今のレイシストどもとの大きな相違ですね。

また、氏は90年代に日本図書センターさんから刊行されていた「作家の自伝」シリーズ第一期の監修にも携わっていらっしゃいました。この中には『高村光太郎 暗愚小伝/青春の日/山の人々』もラインナップに入っています。年譜及び解説は、当会顧問・北川太一先生でした。

謹んでご冥福をお祈りいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

摘みてこし川上とほくみかへりてふたり指さす春の山うすき
                                        明治34年(1901) 光太郎19歳

河原か堤防か、川上から川下へ、おそらく七草摘みでしょう。ふと振り返ると、その先に見える山は、まだ春は名のみのたたずまい……。いいですね。

当方、野草にはあまり詳しくありませんが、こちらは春の七草の一つ、ゴギョウだと思います。自宅兼事務所の庭のプランターに勝手に生えています。

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また、犬の散歩コースでは、三が日には記録的な暖かさで、これも七草の一つ、ホトケノザが既に花をつけていました。

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雪国の皆様には申し訳ないような気持ちです。

東京調布市の武者小路実篤記念館さんから、図録を戴いてしまいました。現在開催中の特別展「我が家の実篤作品展」のものです。 

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調布市制施行60周年・武者小路実篤記念館開館30周年・武者小路実篤生誕130周年記念特別展 「我が家の実篤作品展」第2部

会 期 : 2015年12月12日 ~ 2016年1月24日 
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1-8-30
時 間 : 午前9時から午後5時 
休館日 : 月曜日(祝日のときはその翌日) 年末年始(12月29日から1月3日)
料 金 : 大人 200円   小・中学生 100円

武者小路実篤の絵や書は、独特の暖かい作風と味わい深い言葉で、広く親しまれています。
実は、武者小路実篤の作品は、その多くが美術館などではなく、個人のお手元で大切にされてきました。
実篤は昭和4 年以来毎年のように個展を開き、また、自らが主宰創刊した雑誌『心』では、実篤を含む同人の書画の即売会で発行資金を捻出していたため、こうした機会に作品を求めた方も多くいらっしゃいます。
転居の多かった実篤は、絵に本格的に取り組んだ昭和初期以降でも、小岩・落合・成城・吉祥寺・三鷹牟礼と、あちこち移り住みましたが、その時々に近隣で親しくなった方や世話になったお店に作品を差し上げています。また学校などにたのまれると気軽に筆を執りました。
講演などで各地へ旅することも多く、旅先で請われて原稿や書画をかくことも珍しくありませんでした。また、実篤は筆まめで、手紙も多く書いています。
調布市仙川に移り住んでからは、地元の自治会やお店に作品を差し上げたほか、調布市の福祉祭の景品として毎年色紙を提供していたといい、調布市民にはくじ引きであたってお持ちの方がいらっしゃるとお聞きしています。
こうして個人のお手元に届いた作品には、所蔵者の想い出があり、またそれぞれの家族と共に歴史を刻み、様々な逸話を持っています。
本年、武者小路実篤生誕130 年、調布市武者小路実篤記念館開館30 周年を迎えるのを機会に、これまでわからなかった個人でご所蔵の作品について、情報を収集することといたしました。
武者小路実篤の自筆作品・資料をお持ちの方は、ぜひ情報をお寄せください。
また、この調査の結果を踏まえ、地元調布市近隣でご所蔵の作品を中心に、許可をいただいた作品について、12 月12 日から開催予定の特別展「我が家の実篤作品展」第二部で展示することを企画しています。
普段ご家庭で秘蔵され、所蔵者以外は見ることの出来ない作品を、作品に秘められたエピソードとともに、ご覧いただきたいと存じます。


同じ白樺派ということで、武者と親交のあった光太郎も、武者の作品を手元に置いていました。

今回、そのものは展示されませんが、写真での展示があるようです。いただいた図録に掲載されています。

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また、図録には光太郎も写った集合写真が2葉。

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このあたりは「芸術家たちが愛した実篤作品」というコーナーで、各地の文学館や美術館、著作権継承者の皆さんなどの協力により集められた中のものです。ちなみに「芸術家たち」、例えば志賀直哉、柳宗悦、岸田劉生、芥川龍之介、林芙美子、六代目市川歌右衛門、棟方志功などなど。

もちろん写真より実篤作品が中心です。上記図録表紙は新宿区立林芙美子記念館内部に復元された林芙美子邸の客間だそうです。かけられている武者の絵はレプリカで、本物が今回借りられて展示されているようです。

その他、一般の方から提供を受けた実篤の書画もずらり。


こうした企画の開催、なかなか大変だとは思いますが、美術館、文学館の企画展の新しい形として、一石を投じたような気がします。

光太郎の書なども、各地の文学館、美術館に納まっているはずですし、そしてやはり個人のお宅にはまだまだ未知のものも眠っていそうです。「我が家の光太郎作品展」もありかな、と夢想します。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月20日

昭和11年(1936)の今日、初めて結核による喀血の症状を起こしました。

2年後に亡くなる智恵子と、おそらく同根の結核。この後、約20年間の付き合いとなります。

テレビ放映を拝見しました。

まずは昨日、テレビ東京系で放映された「美の巨人たち 藤田嗣治 寝台の裸婦キキ」。先月、小栗康平監督の映画「FOUJITA」が封切られるなど、再び脚光を浴びている藤田嗣治が取り上げられました。

以前にも書きましたが、藤田は東京美術学校西洋画科で、光太郎と同級生でした。映画「FOUJITA」にも、光太郎の詩「雨にうたるるカテドラル」が使われています。

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映画で藤田を演じたオダギリジョーさんがビデオ出演。

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上の画像は、パリのカフェで青木崇高さん扮する日本からやってきた画学生が、光太郎の「雨にうたるるカテドラル」を朗読し、それを聴くシーン。

この詩にもそうした要素があるのですが、当時の美術家たちは、どのように日本(東洋)と西洋を融合して行くのかが問われていました。

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光太郎は塑像彫刻に木彫の技法を、木彫に塑像彫刻のエスキスを取り入れました。藤田の出した答えは、浮世絵の技法を油彩画に取り込むこと。番組では、藤田の最大の特徴、「乳白色」を例に、そのあたりを解説していました。

BSジャパンさんで2016年1月13日(水)、23時00分~23時30分に再放送があります。地上波テレビ東京系が受信できない地域の方々、こちらでご覧下さい。


もう一つ、3日の木曜日に放映された「にほんごであそぼ」。

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光太郎詩「冬が来た」」(大正2年=1913)が取り上げられました。

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子供たちによる朗読。

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うなりやベベン(浪曲師・国本武春)さんによる歌「冬が来た」は、以前に放映されたものの使い回しでした。

こちらも再放送があります。12月17日(木)  6時45分~6時55分  17時10分~17時20分、ともにNHKEテレさんです。

あわせてご覧下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月6日

昭和27年(1952)の今日、銀座の新富寿しで夕食を摂りました。

十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)制作のため再上京して二ヶ月弱。花巻郊外太田村の山小屋で生活していた7年間では、寿司など思いもよらなかったことでしょう。ちなみに『週刊朝日』のおごりだったとのこと。

新富寿しさんは、大正期創業。池波正太郎も愛した店だそうです。

昨日夕刻以降、スポーツ新聞各紙のサイトに「高村光太郎」の文字が多発しました(笑)。

闘病中の西城秀樹「リハビリにいい」初朗読劇に挑戦

 脳梗塞と闘病中の西城秀樹(60)が3日、初めて朗読劇に挑戦した。
 「リーディング名作劇場 キミに贈る物語」(東京・渋谷のシアターコクーン、6日まで)の出演者の1人として、デビュー曲の「恋する季節」など交えながら高村光太郎の「道程」を朗読した。「最初に読んだとき、あっ僕の今にぴったりだなと思って選びました。感じるものがありますよね」。2011年に脳梗塞が再発し、懸命のリハビリを続けているが、右半身と言語に障害が残る。
  「公園を歩く練習をしていますが、寒くなると(体調は)あまりよくない」という。朗読はリハビリにいいと今回の挑戦となった。
  今年1年を振り返って「早い感じがするね。いいこともあり悪いこともありだけど、思い出に残るといえば女房に良くしてもらったこと」と話す西城の出演は4日まで。
(日刊スポーツ 12月3日(木)17時13分配信)
 

西城秀樹 リハビリしながら舞台に!「今は良くない」

 歌手・西城秀樹(60)が3日、都内で朗読舞台「キミに贈る物語~観て聴いて、心に感じるお話集~」(3~6日・Bunkamuraシアターコクーン)の公開リハーサルを行った。
 公演は浅野温子(54)が童謡を、市原悦子(79)が歌を交えた昔話を朗読したり、バラエティーに富んだステージを展開。
 その中で西城は「不死鳥~ヤングマンよ永遠に~」と題した歌唱ステージを披露する。
 ヒット曲「ブルースカイブルー」などを熱唱した西城。合間には高村光太郎の詩「道程」を朗読した。高村の詩について「今のぼくにぴったりの詩で感じるものがあった」と笑顔を見せる。
 2度の脳梗塞から復帰し、現在もリハビリをしながらステージに立ち続ける。師走の寒さもあり「今は良くない」と体調について語るも「リハビリとして公園を歩く練習をしています」と語った。
 今年1年を「早い」と振り返ると「いいことも悪いこともある1年。思い出に残ることといえば、女房に良くしてもらったことかな」と伝えた。
(東京スポーツ 2015年12月3日 17時31分)
 

西城秀樹、今年の良い思い出は「女房」

 歌手の西城秀樹(60)が3日、都内で「キミに贈る物語~観て聴いて・心に感じるお話集」(3日~6日、Bunkamuraシアターコクーン)公開リハーサルに登場し、今年の思い出を聞かれ「女房に良くしてもらったこと」と語り、同席した女優の市原悦子(79)、浅野温子(54)から拍手を浴びた。
 西城は今回の舞台では数々のヒット曲に乗せて、高村光太郎の有名な詩「道程」を朗読する。「最初に読んだ時、僕の今、という感じがした。感じるものがあった」と感銘を受けたことを告白。2度の脳梗塞を乗り越え、今回の舞台に立つ自分の姿と詩を重ねている様子だった。
 体調に関しては「あまりよくない。寒いから」と語り、万全ではないようだが、「リハビリで公園を歩いている」と体調の回復に努めていることを明かした。
(デイリースポーツ 2015年12月3日 17時01分


まだありましたが、ほぼ同一の内容なので割愛します。


「ほう、そんなイベントがあるのか」ということで、調べてみました。 
公演日程
 2015/12/3(木)19:00開演
 2015/12/4(金)19:00開演
 2015/12/5(土)15:00開演/19:00開演
 2015/12/6(日)15:00開演
会   場 : Bunkamuraシアターコクーン 東京都渋谷区道玄坂2丁目24-1
主   催 : リーディング名作劇場公演実行委員会
制作協力 : エイベックス・ライヴ・クリエイティヴ プロデュースNOTE
出   演 :
12/3(木)19:00開演 
 市原悦子 浅野温子 西城秀樹 佐藤正宏(WAHAHA本舗) 菜月チョビ(劇団鹿殺し) 増田有華
12/4(金)19:00開演
 市原悦子
浅野温子 西城秀樹 佐藤正宏(WAHAHA本舗) 竜小太郎・カムイ(大衆演劇)
 内田恭子
12/5(土)15:00開演
  市原悦子 浅野温子 中川晃教 佐藤正宏(WAHAHA本舗) 竜小太郎・カムイ(大衆演劇)
 ※ゲスト・加賀美幸子(元NHKアナウンサー)
12/5(土)19:00開演
  市原悦子 浅野温子 中川晃教 佐藤正宏(WAHAHA本舗) 菜月チョビ(劇団鹿殺し)
 ※ゲスト・加賀美幸子(元NHKアナウンサー)
12/6(日)15:00開演
  市原悦子 浅野温子 大空祐飛 佐藤正宏(WAHAHA本舗) 折井あゆみ 内田恭子
 ※ゲスト・加賀美幸子(元NHKアナウンサー)

市原悦子 歌語り「日本昔ばなし~年老いた女役者の歌~」
どこからか女役者が現れ、日本昔ばなしを語りはじめる......。素晴らしい日本語から生まれた心に響く詩の数々を朗読しながら、自らの人生をも歌いだす。語りあり、歌ありの一人芝居の幕が開く。

浅野温子 よみ語り「古事記神話ものがたり~義父が与えた試練~」ほか
神々はどうしてこの世に現れ、素敵な国を作られたのか。また恋はどうして生まれたのか。日本の原点ともいわれ、古くから伝わる「古事記」の物語を、素敵な音楽とともに読み語る。

西城秀樹 歌語り「不死鳥~ヤングマンよ永遠に~」
二度の病に遭われても、再び立ち上がった西城さん。ご自身の人生を心温まる歌声で響かせる。

大空祐飛 歌語り「歌こそわが愛~世界名作集より~」
宝塚のトップを務めた彼女が、世界の名作集から有名なお話を美しく語る。素敵な歌声に思わず耳を傾ける、愛のドラマ。

中川晃教 歌語り「百万本のバラ」
ロシアで生まれたこの曲は、加藤登紀子さんが自ら日本語に翻訳し、多くの人を魅了してきた。今回は、この歌ができるまでの心温まる物語を歌で語りながら、名曲が生まれきたドラマをご紹介する。

佐藤正宏(WAHAHA本舗) 紙芝居「黄金バット」
当時、こどもから大人までが酔いしれた紙芝居「黄金バット」。今回はこの作品がなぜ生まれたのか、そして多くの人たちをどのように救ったのか、ヒーロー伝説を各回ごとにご紹介する読み切り紙芝居。

竜小太郎&カムイ(大衆演劇)舞語り 「曽根崎心中」
近松門左衛門の名作浄瑠璃「曽根崎心中」。お初と徳兵衛が描き出す"死の恋路物語"を艶やかな姿で語り合う。歌で舞う初の舞語りに、今、若手大衆演劇で注目を浴びる二人が挑戦する。

菜月チョビ(劇団鹿殺し) 朗読「いのちのケイタイ~葉っぱのフレディーより~」
今や、誰にとっても無くてはならない時代になった携帯電話。そこから、生き別れた我が子に最後のメッセージを読み聞かせる、心温まるお話。

増田有華 朗読 「マッチ売りの少女」
今なお世界中のこどもたちに読み継がれている、アンデルセン童話「マッチ売りの少女」。冬空の中にたたずむ少女のせつない思いを、心を込めてお届けする。

折井あゆみ 朗読「北風と太陽」
寓話と呼ばれ、こども向けでありながら大人も考えさせられるイソップ物語。多くの人が、こどもの頃に耳にしたこのお話を、楽しくユーモラスに語る。

内田恭子 朗読「蜘蛛の糸」
日本の文豪・芥川龍之介が手掛けたはじめての児童文学作品。この名作から紡ぎ出された素敵な日本語を伝える。

ゲスト:加賀美幸子(元NHKアナウンサー) 朗読「楽しく・やさしく読む漢詩」
長年NHKでアナウンサーを務め、数多くの名作を語ってきた中から、日本語の原点ともいえる漢詩の魅力を、わかりやすく、楽しく披露する。解説を交えながら、古典文学の素晴らしさや真髄を語る。


2015年6月、好評を博したリーディングが装いも新たに帰ってきました。 よみ語りあり、歌語りあり、もちろん紙芝居もあり。
 日本語による心温まる沢山の「キミに贈る物語」再度、幕が開く!!
古くから日本は、物事を伝えるために日本語を巧みに使うとともに、よみ語り、歌語り等、様々な伝達方法をも生み出し、育てて来ました。
時代とともに作り上げ、鍛え抜かれ、そして滋養に満ちた日本語の言葉を綴った小説・詩から童話・昔話や、浄瑠璃や能・狂言、そして、芝居・落語・歌詞など数々の作品の中から選りすぐり、老若男女、様々な方々に堪能頂ける語り手とで織りなす公演を開催。
今回も語り手は俳優、歌手、そしてタレントの第一人者の方々にご出演頂き、朗読あり、歌あり、観て聴いて心で感じることのできるお時間をお届けします。

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なるほど、そういうことでしたか、という感じでした。公式サイトには「光太郎」とか「道程」とかの文字が入っていないので、網に引っかかりませんでした。

西城さんのご出演は、昨日と今日限りなのですね。続報的に「西城秀樹(60)が、高村光太郎の「道程」を力強く朗読した。」的な記事が出ることを期待します。

それにしても、西城さんももう還暦ですか……。渡辺えりさんが還暦だと言われても、全く違和感なく納得なのですが……(笑)。

リハビリ中だそうですが、光太郎の如く、不屈の精神で道を切り開いていっていただきたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月4日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、穴蔵に農作物を入れました。

当日の日記の一節です。

穴ぐら(室内)整備、大根、ジヤガ、白菜、キヤベツ、リンゴ等を入れる。

雪国では今も屋内の地下等に穴蔵を設け、野菜類を土に埋めて保存している家庭があるそうです。

昨日、作家の高田宏氏のご逝去が報じられました。 

作家の高田宏さん死去 「言葉の海へ」で大佛次郎賞

 言語学者として国語の統一に尽力000した大槻文彦の伝記「言葉の海へ」で、78年に大佛次郎賞、亀井勝一郎賞を受賞した作家の高田宏(たかだ・ひろし)さんが、11月24日に肺がんで亡くなっていたことがわかった。83歳だった。葬儀は近親者で営まれた。喪主は妻喜江子(きえこ)さん。

 エッセー「木に会う」で90年、読売文学賞を受賞。石川県九谷焼美術館の館長や平安女学院大学の学長、将棋ペンクラブの会長なども務めた。
(『朝日新聞』 12月2日)


当方、高田氏のご著書を一冊持っています。

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平成元年(1989)、文化出版局さんから刊行された『もう一度読む』。元々、同社で発行の雑誌『季刊 銀花』に連載されたものの単行本化で、古今東西の名著を「もう一度読む」ことにより、以前には見えてこなかったものが見えてくるという読書体験を綴ったエッセイ集です。

「『智恵子抄』偏読」という章があり、およそ15頁。氏の訃報を受けて、当方も「もう一度読」み返してみました。「偏読」といいつつ、それは韜晦というか、謙遜というか、リスペクトの念に溢れたいい文章でした。

花巻郊外旧太田村の、光太郎が戦後7年間を過ごした山小屋(高村山荘)の話から始まり、戦後の詩篇や日記が引用され、さらに話は戦時中の翼賛詩に及びます。

 昭和十五年に中央協力会議議員になり、昭和十七年には文学報国会詩部会会長に就任した高村光太郎は、第二次大戦のあと、多くの人から非難を受けた。今も光太郎を難ずる人はいる。だが、それらの人々のうち一人でも、あの小屋の老年の日々を送れるものだろうか。

 この詩(注・「琉球決戦」)を書いた詩人は、少なくとも卑劣漢ではない。一途であった。部下の若者に特攻出撃を命じて自分はひそかに安全地帯へ脱出した将軍とはちがう。権力欲や名誉欲や物欲のために戦争にかかわった者ともちがう。ただ一途であった。

さらに『智恵子抄』。氏は「あどけない話」「樹下の二人」などの詩篇もよしとしながら、特に散文「智恵子の半生」に注目しています。

 こういう散文は、高村光太郎ほどの人にしても、めったに書けるものではない。ほとんど偶然の産物と呼びたいようなものである。無技巧と言ってもいい。堂々と言ってもいい。臆面もなく、といっても言い。現実の智恵子がどうであったかは知らないが、光太郎の智恵子像がここに刻み出されている。純度の高い一人の女性が、おそろしいばかりに輝いている。

そして結末。

これだけみごとに「一人の女性の底ぬけの純愛」に執した男が、ただ時流に乗って戦争協力をしたなどとは私には信じられない。

 高村光太郎のあの山小屋の七年間という時間を、私は思わないわけにはいかない。その自己処罰を、また、それをも越える老年の生を、思わないわけにはいかない。


短く、それから残念なことに書き出しの部分で事実関係の勘違い(高村山荘の套屋に関し)があるのですが、それを差し引いても慧眼と言わざるを得ません。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 12月3日

平成9年(1997)の今日、ビクター伝統文化事業財団から、人間国宝の横笛奏者・寶山左衛門のCD「笛のこころ」がリリースされました。

「智恵子と空」という曲を含みます。しみじみといい曲です。

テレビ放映情報です。

にほんごであそぼ

NHK Eテレ 
本放送 2015年12月3日(木)   6時45分~6時55分  
再放送      〃       17時10分~17時20分
    2015年12月17日(木)  6時45分~6時55分  17時10分~17時20分

2歳から小学校低学年くらいの子どもと親にご覧いただきたい番組です。日本語の豊かな表現に慣れ親しみ、楽しく遊びながら“日本語感覚”を身につけることができます。今回は、きっぱりと冬が来た「冬が来た」高村光太郎、コニちゃんの相撲の決まり手/特殊技、文楽/白雪姫、ちょちょいのちょい暗記/7級「十二ヶ月」岐阜県 白川郷、うた/村の鍛冶屋、ベベンの冬が来た

出演者 豊竹咲甫大夫,鶴澤清介,三世 桐竹勘十郎,うなりやベベン,小錦八十吉,おおたか静流 ほか

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この番組では、年に数回、光太郎作品を取り上げて下さっています。この時期は毎年のように「冬が来た」(大正2年=1913)。以前の映像の使い回しかも知れません。


  冬が来た
 004
きつぱりと冬が来た
八つ手の白い花も消え
公孫樹(いてふ)の木も箒になつた
 
きりきりともみ込むやうな冬が来た
人にいやがられる冬

草木に背(そむ)かれ、虫類に逃げられる冬が来た
 
冬よ005
僕に来い、僕に来い
僕は冬の力、冬は僕の餌食だ
 
しみ透れ、つきぬけ
火事を出せ、雪で埋めろ
刃物のやうな冬が来た


南関東に住んでいますと、まだそれほど「冬」という感覚ではないのですが、もう明日から12月ですね。十和田や花巻、そして女川、二本松など東北各地ではもはや冬本番なのでしょうが。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月30日

平成11年(1999)の今日、二玄社から『高村光太郎 書の深淵』が刊行されました。

当会顧問、北川太一先生のご著書です。

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新刊紹介です。 

戯れ言の自由

2015年10月31日 思潮社刊 平田俊子著 毛利一枝装幀  定価 2,300円+税

帯文から

お湯はいつでも沸かしておこうよ、誰も帰ってこない日も――。不確かな日々が求める、こころを少し明るくするもの。日本語という小さな舟がひとの思いを運んでいく。鋭くもしなやかに、全身でともすことばの灯り、詩28篇。

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故・長田弘氏の後を承け、今年から『読売新聞』さんの「こどもの詩」を担当されている平田俊子氏の詩集です。書き下ろしを含め、平成16年(2004)から今年までの詩作品28編から成ります。

光太郎に触れて下さった詩篇が二つ。

「アストラル」。商品名なのか、メーカーの名前なのか、昭和29年(1954)、草野心平が光太郎のために骨折って入手した電気冷蔵庫です。

その電気冷蔵庫をめぐり、深い絆で結ばれた光太郎、心平、宮沢賢治、そして心平の弟で、早世した草野天平(歿後、『定本草野天平詩集』により、昭和34年(1959)の第2回高村光太郎賞を受賞)をからめ、詩人達の織りなす人間模様を謳った詩です。初出は平成24年(2012)の『現代詩手帖』さん。

昭和27年(1952)、天平危篤の報に、心平はアイスクリームを魔法瓶に詰め、天平の元に向かいました。

遡って大正11年(1922)、結核に冒された賢治の妹・トシは、兄に「あめゆじとてきてけんじや(雨雪=みぞれを取ってきてください)」と言いながら、歿しました。

さらに昭和13年(1938)、智恵子は光太郎の持参したサンキストのレモンをがりりと噛んで、それなりその機関を止めました。

そして昭和29年(1954)、心平は光太郎のためにアストラルの冷蔵庫を手に入れました。

詩「アストラル」はこう結ばれます。

光太郎はまもなく亡くなり000
アストラルは心平が譲り受けた

アストラルのその後は知らない
光太郎の死後 五十余年
心平の死後 二十余年
今もどこかで冷たいものを
いっそう冷たくしているだろうか
扉を開けると
アイスクリームとレモンと
あめゆじゆが
もの言いたげに並んでいるだろうか

右上は光太郎終焉の地・中野の中西家アトリエです。おそらく右端に写っている白い箱が問題の冷蔵庫でしょう。


『戯れ言の自由』には、もう一篇、「まだか」という詩で、光太郎に触れられています。

戦後の昭和22年(1947)、花巻郊外太田村の山小屋で書かれた連作詩『暗愚小伝』の構想段階で入っていた「わが詩をよみて人死に就けり」がモチーフに使われています。清家雪子さんの漫画『月に吠えらんねえ』第二巻でも、この断片がモチーフに用いられていました。

その他の詩篇も、ユーモアとヒューマニティーにあふれ、特に言葉に対するユニークな見方や表現は、やはり『読売新聞』さんの「子供の詩」担当だった故・川崎洋の詩を彷彿とさせられました。


もう一冊。先日、第60回高村光太郎研究会に参加した折、発表者の佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏からいただきました。 

佛教大学大学院紀要文学研究科篇 第43号 抜刷 高村光太郎の短歌と美術評論――留学直後の作品を中心に――

2,015年3月1日 佛教大学大学院文学研究科篇 田所弘基著 

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当方も、思うところあって、現在確認されている光太郎の短歌すべて(約800首)を細かく読み返しているところでして、この論文も興味深く拝読しました。

大学のエラいセンセイの論文には、枝葉末節にこだわるあまり「木を見て森を見ず」の状態に陥っているものや、いかにも紀要等にノルマとして書かなければならないから書いただけと思われる内容の薄っぺらなものや、動かしようのない史実を含めた根本的な所で大きな誤解をしているもの、牽強付会にすぎるもの、引用のみでありながらさも自分の考えのように装っているものなど、実りのあるものがあまり見受けられません。特に、文学系は、自分もそういう指導を受けてきましたが、「批判的に読む」という流れがあり、対象の人物を上から目線で捉え、けちょんけちょん(死語?)……「では、あなたの人間性はどうなの?」というものにも出くわします。

この論文はそういう所もなく、素直に書かれたいい論文です(という評をする当方も上から目線のようですが)。

入手には、こちらまでご連絡いただければ仲介いたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月23日

昭和16年(1941)の今日、『朝日新聞』に「新穀感謝の芸能祭」という記事が載りました。

曰く、

新嘗祭をまへに日本文化中央聯盟では二十二日午後一時から九段の軍人会館で新穀感謝祭奉献芸能の会を開いた
新穀感謝の厳かな祭式ののち小山松吉理事長の挨拶があり、儀式唱歌『新嘗祭』や『新穀感謝のうた』がバリトン伍長伊藤武雄氏、二葉あき子さんはじめコロムビア女声合唱団によつて唱はれたがさらに舞踊、箏曲、講演などで豊穣の譜を讃へ最後に農村女子青少年団用につくられた素人劇『いろはにほへと』映画『土に生きる』が上映され同四時半終つた

『新穀感謝のうた』は光太郎作詩、信時潔作曲の歌曲です。この年に製作されました。

あらたふと
あきのみのりの初穂をば003
すめらみことのみそなはし
とほつみおやに神神に
たてまつる日よいまは来ぬ

あらたふと
あきのみのりの田面(たのも)には
穂波たわわにしづもりて
神のたまひし稲種(たなしね)は
いま民の手に糧となる

あらたふと
あきのとりいれ倉にみち
君にささぐる國民(くにたみ)の
いきのいのちのはつらつと
いやきほひ立つ時は来ぬ

その後、題名が二転三転し、最終的には「新穀感謝の歌」で落ちつきました。

今日は勤労感謝の日ですが、この日はもともと、宮中で行われていた、五穀の収穫を神に感謝する新嘗祭(にいなめさい)を起源としています。

昨日は文京区大塚にて、「第60回高村光太郎研究会」に参加して参りました。

そちらが午後2時からということで、その前に国立国会図書館に寄りました。来月、智恵子の故郷・二本松で開催される「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の「智恵子講座’15」第3回で講師を仰せつかっており、その調査のためでした。

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国会議事堂周辺、色づいた公孫樹がいい感じでした。

智恵子の母校・日本女子大学校(現・日本女子大学)、その同窓会である桜楓会、同校卒の平塚らいてうらによる『青鞜』などにつき、目星をつけていた資料を漁って参りました。

そのうちの一つ、『青鞜』の明治45年(1912)2月発行、第2巻第2号。智恵子が表紙絵を描いています。

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こちらには、前月に大森の富士川という料亭で開催された青鞜社の新年会の様子がレポートされています。智恵子もこの会には参加しています。

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中央が智恵子、右から二人目が平塚らいてうです。

その記事自体は、昭和52年(1977)に文治堂書店さんから刊行された『高村光太郎資料』第六集に転載されており、以前に読んだことがありました。さらに、新年会当日の寄せ書きも掲載されていることを知り、こちらは不鮮明な画像でしか見たことがなかったので、改めて見てみました。

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この中に、智恵子の筆跡も含まれていると思われ、見つけようと思いました。『青鞜』の記事と照らし合わせると、中央に「強きものよ汝の名は女なり」と書いているのが武市綾。しかし、それ以外がわかりません。やはり記事と照らし合わせると、らいてうが「酒めし」と書いているはずなのですが、それもどこに書いてあるか不明ですし、それ以外の部分、やはりよくわかりませんでした。今後の課題とします。

それから、先だっていただいた智恵子の里レモン会さんの会報に、中村屋サロンを形作った若き芸術家の一人で、彫刻家の鶴田吾郎が語った同じく彫刻家の中原悌二郎に関する談話の中に、智恵子が登場するという記事が載っていました。出典が碌山美術館さん刊行の『中原悌二郎集』(昭和63年=1988)だそうで、その記事も調べて参りました。

中原は、明治三十九年の正月に友人と二人で北海道から上京して四谷の寺に住い金に困るものだから墓場の卒塔婆を抜いて来ては燃して自炊生活をしていました。(略)そして、中原と中村(彝)と私が太平洋(画会)へ移ったのですが、(略)当時居たのは、渡辺与平、それから水母(くらげ)と仇名された長沼智恵子、埴原桑代、坂本繁二郎などが居ました。

若き日の智恵子のあだ名が「クラゲ」。平塚らいてうは、智恵子を「骨なしの人形のようなおとなしい、しずかなひと」と評していたので、そのあたりからの連想なのかな、と思っていたのですが、先の『青鞜』の新年会の記事を改めて読み直してみると、そこにも「くらげ」が記されていました。

荒木氏のコートを襠のやうに引つかけた海月のやうな長沼氏の姿が目に浮んだ。

「海月」が「くらげ」、荒木氏は『青鞜』メンバー荒木郁、「襠」は「まち」と読みます。小柄な智恵子がコートを羽織る姿がクラゲのようだという連想ですね。

そういえば、太平洋画会研究所に通っていた頃も、

コバルト色の長いマントの衿を立てたなり羽被つて、白い顔をのぞかせ、顔の上には英国風に結つた前こごみの束髪が額七部をかくし、やつと目を見せていた。
(小島善太郎「智恵子二十七、八歳の像」昭和33年=1958 『高村光太郎全集月報11』)

という姿が記憶されています。おそらく、こうしたコートやマントといった套衣を羽織った姿が、「クラゲ」につながったのではないのでしょうか。


国会図書館ではその他、日本女子大学校関連についていろいろと調べました。

その後、護国寺駅近くのアカデミー音羽へ。第60回高村光太郎研究会に参加いたしました。

発表は佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏の「高村光太郎の戦争詩――『詩歌翼賛』を中心に――」 、『雨男高村光太郎』というご著書のある西浦基氏で「「画家アンリ・マティス」高村光太郎訳」

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お二人の熱のこもったご発表と、当会顧問・北川太一先生の的確なコメントとで、有意義なものとなりました。北川先生は、高村光太郎研究会の顧問もなさっています。

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北川先生には、先ほどの寄せ書きのコピーをお渡しし、解読を依頼して参りました。詳しく解りましたら、またレポートいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月22日

平成5年(1993)の今日、文学座の舞台「愛しすぎる人たちよ 智恵子と光太郎と」の名古屋公演が開催されました。

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作・鈴木正光氏、演出・加藤信吉氏、光太郎役が石田圭祐さん、智恵子役は平淑恵さんでした。

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渡辺えりさん率いる劇団3○○(さんじゅうまる)の舞台「月にぬれた手」で、光太郎役をなさった金内喜久夫さん、光太郎の母・わかなどの役だった神保共子さんもご出演なさっていました。

この月11日から20日までが東京公演、さらにこの後、尼崎、貝塚、赤穂、門真、豊中と巡回公演されました。

東京日比谷から学会情報です。 

第9回明星研究会<シンポジウム>秋の日のヴィオロンの~翻訳詩、あたらしき言葉の輝き

 近代の詩歌は、西洋詩の翻訳から多くの栄養を吸収してきました。わけても上田敏の翻訳詩集『海潮音』(1905年)と象徴主義の紹介は、詩人歌人に大きな影響を与えています。カール・ブッセ、マラルメ、ボードレール、ヴェルレーヌといった詩人の詩は、のちに多くの日本人の心にも植え付けられ、「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」の、ヴェルレーヌの詩「落葉(秋の日)」は殊に有名です。
 『海潮音』に先んじる森鴎外を中心とする『於母影』(1889年)、フランス新進詩人に挑んだ与謝野寛の『リラの花』(1914年)、そして寛主宰の雑誌「明星」から出発した北原白秋や木下杢太郎も、さまざまな形で影響を受けたのでした。その周辺にあった永井荷風、高村光太郎、堀口大学も忘れることはできません。
 翻訳詩に西欧の香りと美を見出し、想いを傾けた100年前の詩人たちについて、今あらためて考えてみたいと思います。
 多くのご参加を心待ちにしております。
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●日時● 2015年11月29(日)13時30分~16時40分 (13時 開場)
●場所● 日比谷コンベンションホール
    (千代田区日比谷公園1番4号【旧・都立日比谷図書館B1】
       (このサイトの下にある地図を参照してください)
●会費● 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)●定員● 200人
●内容●
Ⅰ 13:30  開会挨拶  西川 恵(毎日新聞社客員編集委員)
Ⅱ 13:30 ~14:20
    第1部 講演「ボードレールと日本の近代詩」 酒井 健(法政大学教授)
Ⅲ 14:20 ~14:40 休憩
Ⅳ 14:40 ~16:40
    第2部 ミニ講演&パネルディスカッション
    「翻訳詩、あたらしき言葉の輝き~鴎外・寛・白秋・杢太郎」
     坂井修一(歌人・「かりん」編集人)  渡 英子(歌人)
     丸井重孝(歌人・伊東市立木下杢太郎記念館) 酒井 健
     司会:松平盟子(歌人)
Ⅴ 16:40 閉会挨拶 平出 洸(平出修研究会主宰)
                      総合司会:古谷 円
●申し込み●「明星研究会」事務局あて。
 ネット上での受付は11月27日(金)まで(先着順)。
 宛先メールアドレスはapply@myojo-k.net です。
 申し込みの送信をされる際には、
  (イ)上記アドレスの(at)を半角の @ に変えてください。
  (ロ)メールの件名は、「明星研究会申し込み」とご記入いただき、
  (ハ)メールの本文に、お名前と連絡先住所、電話番号をご記入ください。
  (二)ご家族同伴の場合はご本人を含めた全体の人数も添えてください。
 なお、当日は空席次第で会場でも直接受け付けます。
●終了後懇親会●4,000円程度(場所は当日お知らせいたします)
<主催> 明星研究会 http://www.myojo-k.net/ <世話人> 平出 洸
<協力>
伊東市立木下杢太郎記念館・国際啄木学会・堺市:文化学院・与謝野晶子倶楽部


昨年の同会は「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・・光太郎」と題し、第二部が鼎談「パリの果実は甘かったか?~晶子・荷風・光太郎」ということで、光太郎が前面に押し出されていました。ただ、当方は同じ日に第59回高村光太郎研究会があり、参加できませんでした。

今年は光太郎の名はサブタイトルに入っていませんが、「永井荷風、高村光太郎、堀口大学も忘れることはできません。」とあるので、少しは触れていただけるのかな、と思っております。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月19日

平成2年(1990)の今日、岡山県の衛生会館三木記念ホールで、「野崎幹子ソプラノリサイタル」が開催されました。

別宮貞雄作曲「歌曲集「智恵子抄」より」から抜粋で、「人に」、「あどけない話」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「レモン哀歌」が演奏されました。

のち、ライブ録音のCDもリリースされました。

昨日は福島県いわき市にて、光太郎の深い信頼を得、その歿後は顕彰活動の先鞭をつけた当会の祖・草野心平を偲ぶ集い「没後28回忌 第22回「心平忌」心平を語る会」に参加して参りました。

会場はいわき市小川町上小川にある草野心平生家。昨年に続き、2度目の訪問となりました。

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まずはすぐ近くの常慶寺さんで心平及びゆかりの方々の墓参。こうした場合にはいつもそうですが、光太郎の代参のつもりで手を合わさせていただきました。

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この辺り一帯は古い建物が残り、いい感じです。

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生家に戻って、「心平粥」「心平餅」をいただき、その後、元筑摩書房編集部長で、『草野心平全集』『草野心平日記』担当編集者、かわうち草野心平記念館(福島県双葉郡川内村)初代館長を務められた晒名昇氏の卓話「晩年の草野心平」。

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平成12年(2000)にいわき市立草野心平記念文学館さんで開催された企画展「草野心平年次詩集―凹凸の道―」の関連行事として行われた講演の内容を元に語られました。

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その後は「第7回 草野心平ふるさとの詩 けるるん くっく 発表会 表彰式」。こちらは地元小川地区の小学校4年生と中学校2年生を対象にした詩のコンクールです。

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最優秀のお子さんは、受賞作の朗読も行いました。後ろで写真の心平も微笑んでいます。

当方、同じ心平を偲ぶ川内村での「かえる忌」には3回お邪魔しましたが、こちらでの集いは初参加でした。こちらも手作り感溢れる温かみのあるイベントでした。やはりそれぞれの地元の人々が、地域の偉人として、その業績を伝えていくことは非常に大切なことだと思います。

いわき市、川内村ともども、末永く続けていって欲しいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】11月9日

平成3年(1991)の今日、NHK総合で単発の2時間ドラマ「智恵子と光太郎 極北の愛」がオンエアされました。

脚本は寺内小春さん。智恵子に扮したのは佐久間良子さん。光太郎役が小林薫さん、光雲役で故・佐藤慶さん。駒込林町のアトリエの隣人夫婦に小林稔侍さんと高橋ひとみさん、田村俊子を小野みゆきさん。

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光太郎が晩年を過ごした花巻郊外の高村山荘のセットが見事な出来でした。

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晩年の光太郎のメイクも。

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文京区大塚にて、「第60回高村光太郎研究会」が開催されます。 

第60回高村光太郎研究会

日 時  2015年11月21日(土)
時 間  午後2時~5時 
場 所  アカデミー音羽 文京区大塚5-40-15 東京メトロ有楽町線護国寺駅から徒歩2分

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参加費  500円
 
<研究発表>
「高村光太郎の戦争詩――『詩歌翼賛』を中心に――」
  佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏
「「画家アンリ・マティス」高村光太郎訳」     西浦基氏

研究発表会後、懇親会あり

この会は昭和38年(1963)に、光太郎と親交のあった詩人の故・風間光作氏が始めた「高村光太郎詩の会」を前身とします。その後、明治大学や東邦大学などで講師を務められた故・請川利夫氏に運営が移り、「高村光太郎研究会」と改称、年に一度、研究発表会を行っています。現在の主宰は都立高校教諭の野末明氏。当方も会員に名を連ねさせていだたいています。
 
ほぼ毎年、この世界の第一人者、高村光太郎記念会事務局長・北川太一先生もご参加下さっていて、貴重なお話を聞ける良い機会です。しかし、そのわりに、参加者が少なく、淋しい限りです。

特に事前の参加申し込み等は必要ありません。直接会場にいらしていただければ結構です。ぜひ足をお運び下さい。
 
研究会に入会せず、発表のみ聴くことも可能です。会に入ると、年会費3,000円ですが、年刊機関誌『高村光太郎研究』が送付されますし、そちらへの寄稿が可能です。当方、こちらに『高村光太郎全集』補遺作品を紹介する「光太郎遺珠」という連載を持っております。その他、北川太一先生をはじめ、様々な方の論考等を目にする事ができます。
 
ご質問等あれば、はこちらまで。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月8日

昭和27年(1952)の今日、実弟で藤岡家に養子に行った孟彦の要請により、茨城県友部町の鯉淵学園で講演を行いました。

この時の筆録は翌年の『農業茨城』という雑誌に掲載されました。

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一昨日、今年度の文化勲章・文化功労者の発表が行われ、染織家の志村ふくみさんが文化勲章を受けることになりました。 

文化勲章:紬織り、現代的に表現…志村ふくみさん

2015年10月30日 『毎日新聞』

◇志村ふくみさん(91)=染織家
 「たいへん重く受け止めております」。穏やかな語り口に責任感をにじませる。
 母の手ほどきを受けてこの道に進んだのは60年前。ゲーテの「色彩論」に出合ってから哲学的な思索も深め、紬(つむぎ)織りの奥深さを現代的に表現してきた。貫いてきたのは「植物から命をいただき、色をいただく」という謙虚な姿勢だ。
 東日本大震災を経た今、その思いを次世代に伝えることに注力する。2年前に始めた芸術学校「アルスシムラ」では、自然に対する感性を養い、平和の大切さを強調する。手応えが大きいことは、多忙を極めるのに生き生きとした表情からうかがえる。「若い人から元気をいただいています。私にとっては機を織ることが休みなんです」【岸桂子】


志村さんには『白夜に紡ぐ』(平成21年=2009 人文書院)というご著書があり、その中で光太郎についてふれて下さっています。10ページあまりの「五月のウナ電」というタイトルのエッセイです。

「五月のウナ電」という奇妙なタイトルは、そのまま昭和7年(1932)の雑誌『スバル』第4巻第2号夏季号に発表された光太郎の詩のタイトルです。


   五月のウナ電

アアスキヨク」 ウナ」 マツ」
アオバ ソロツタカ」コンヤノウチニケヤキハヲダ セ」カシノキシンメノヨウイセヨ」シヒノキクリノキハナノシタクヨイカ」トチノキラフソクヲタテヨ」ミヅ キカササセ」ゼ ンマイウヅ ヲマケ」ウソヒメコトヒケ」ホホジ ロキヤウヨメ」オタマジ ヤクシハアシヲダ セ」オケラナマケルナ」ミツバ チレンゲ サウニユケ」ホクトウノカゼ アメニユダ ンスルナ」イソガ シクテユケヌ」バ ンブ ツイツセイニタテ」アヲキ トウメイタイヲイチメンニクバ レ」イソゲ イソゲ 」ニンゲ ンカイニカマフナ」ヘラクレスキヨクニテ」

当時の電報のスタイルで書かれた詩で、題名の「ウナ電」、冒頭の「ウナ」は速達電報のこと。同様に「マツ」は「別使配達」の意味だそうです。当時の技術では電文はすべてカタカナ。濁音の後には必ずスペースが入るので「ニンゲ ン」というふうになるわけです。

無理を承知で書き下してみます。


地球(アアス)局」ウナ」マツ」
青葉、揃つたか。 今夜のうちに欅(けやき)、葉を出せ。 樫の木、新芽の用意せよ。椎の木、栗の木、花の支度よいか。 栃の木、蝋燭を立てよ。 ミズキ、傘させ。 ゼンマイ、渦を巻け。 うそ姫、琴弾け。 頬白、経読め。 おたまじくしは足を出せ。 おけら、怠けるな。 蜜蜂、レンゲ草に行け。 北東の風、雨に油断するな。 忙しくてゆけぬ。 万物、一斉に立て。 アヲキ、透明体を一面に配れ。 急げ、急げ。人間界に構ふな。 ヘラクレス局にて

「ヘラクレス」はギリシャ神話のヘラクレス神というより、星座としてのヘラクレス座でしょう。宇宙の彼方から、地球の木々や鳥、虫たちに届けられた電報、というわけです。


自然界のさまざまな素材から「色」を紡ぎ出す志村さん。光太郎詩「五月のウナ電」に謳われた草木や小動物への語りかけにいたく共鳴したのでしょう。染織した布を使って、ブックデザイン――というより、美術工芸品としての書籍製作――も手がける志村さん、この詩に啓発され、シンジュサン工房の山室眞二氏と組んで、平成16年(2004)には、『配達された五月のウナ電』という書籍も作られています。『白夜に紡ぐ』所収の「五月のウナ電」には、そのあたりの経緯も記されています。

また、この詩が書かれた昭和7年(1932)の時点での光太郎智恵子(前年から智恵子の心の病が顕在化)、さらに二人を取り巻く社会状況(軍部の台頭)などについても。

志村さん曰く「この詩の背景にはこれほどの時代と人間の相克があり、高村光太郎という詩人の魂にふれてしびれるように感動した。」。

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『配達された五月のウナ電』は65部限定。山室氏と交流のあった、当会顧問・北川太一先生がお二人に「五月のウナ電」のレクチャーをなさったことから解説を執筆されています。当方、北川先生から、カラーコピーで複製されたものを戴きました(右上画像)。表紙に使われているのは、志村さんの手になる裂(はぎれ)です。先の「しびれるように感動した」云々は、ここに収められた北川先生の解説を読まれてのことです。


さて、志村さん。おん年91歳です。この受賞を機に、これからもまだまだお元気でご活躍戴きたいものです。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月1日

大正元年(1912)の今日、智恵子が扉絵を描いた雑誌『劇と詩』第26号が発行されました。

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光太郎の絵画「食卓の一部」も掲載され、数少ない光太郎智恵子両名の作品が同時に載ったケースです。

福島からイベント情報です。光太郎の深い信頼を得、その歿後は顕彰活動の先鞭をつけた当会の祖・草野心平を偲ぶ集いです。 

第5回天山・心平の会 かえる忌

日 時 : 2015年11月7日(土)
場 所 : 小松屋旅館蕎麦酒房天山 福島県双葉郡川内村大字上川内字町分211
会 費 : 2,500円
内 容 : 講話 伊武トーマ氏(『歴程』同人) 晒名昇氏(前かわうち草野心平記念館長)
備 考 : 翌11/8には草野心平墓参(いわき市上小川常慶寺)
      心平生家で開催される第22回「心平を語る会」(無想無限の会主催)に合流。
申 込 : 天山・心平の会代表 井出茂 0240-38-2033 〒979-1201 
        福島県双葉郡川内村大字上川内字町分211 

没後28回忌 第22回「心平忌」心平を語る会

日 時 : 平成27年11月8日(日)(受付は11時30分~12時 草野心平生家にて)
会 費 : 大人500円(当日受付にて)
会 場 : 草野心平生家・常慶寺(いわき市小川町上小川字植ノ内 周辺)
内 容 :
 受付後          常慶寺の心平墓前にて香華、心平ゆかりの故人への焼香
  11時30分~12時   心平粥、心平餅の会食(草野心平生家にて)  
  12時10分~12時50分 心平を語る会「晩年の草野心平」 卓話 晒名 昇 さん
   さらしなしょう 元筑摩書房編集部長 『草野心平全集』『草野心平日記』担当編集者
   かわうち草野心平記念館(福島県双葉郡川内村)初代館長(平成22~25年度)
  12時50分~13時    第7回 草野心平ふるさとの詩 けるるん くっく 発表会 表彰式
           〈小学生の部〉〈中学生の部〉・最優秀賞受賞者朗読発表
主 催 : 夢想無限の会
共 催 : いわき市立草野心平記念文学館
協 力 : いわき市立草野心平生家ボランティアの会
問 合 : いわき市立草野心平記念文学館 電話0246-83-0005

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「かえる忌」には3年前一昨年昨年と3回参加させていただきました。下記は昨年、BS朝日さんで放映された「にほん風景物語 福島 川内村・いわき小川郷 ~詩人・草野心平が詠んだ日本の原風景~」から。一昨年のかえる忌の様子です。当方も映っています。

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今年は光太郎関連以外の用事がはいってしまい、「かえる忌」はパスしますが、翌日の「心平忌」にはお邪魔しようと思っています。

東日本大震災から4年半が過ぎました。復興の様子も見004てきたいと思っています。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月29日

昭和62年(1987)の今日、小田急グランドギャラリーで開催されていた企画展「光太郎 智恵子の世界展」の関連行事として、当会顧問・北川太一先生の講演、俳優の井上晶宏氏による朗読が行われました。

この件を書くため、図録を引っ張り出してぱらぱらめくってみたところ、翌年に歿する最晩年の心平が書いた「光太郎智恵子に関する断章」という文章が巻頭に掲げられていました。蓋し、名文です。

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まずは新刊情報です。

月に吠えらんねえ(4)

清家雪子著 2015/10/23 講談社(アフタヌーンKC) 定価740円+税

作中にふんだんにちりばめられた近代詩そのもの凄さに酔い、架空の街で虚実の境を徘徊する、朔太郎、白秋(はくしゅう)、犀星(さいせい)らの作品からイメージされたキャラの圧倒的な存在感に酔い、膨大な資料を下敷きに緻密に物語を組み立てた作者の過剰な愛情に酔う。話題集中の近代詩歌俳句エンターテインメントをこの機会にぜひ!

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一昨年から、講談社さんの漫画雑誌『月刊アフタヌーン』で連載されている、主人公・朔(萩原朔太郎)をはじめ、架空の町「□(シカク 詩歌句)街」に住む、近代詩歌人たちをモデルにした強烈なキャラクター達の織りなす幻想的な物語です。連載開始時第1巻第2巻のレビューもこのブログにて既に書いています。今年4月刊行の第3巻は、光太郎智恵子に関わる部分がほとんどなかったので、割愛しました。

第4巻、表紙を飾るのはアッコさん(与謝野晶子)とチエコさん(高村智恵子)。帯にはコタローくん(光太郎)とチエコさん。

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これまでもコタローくんとチエコさんはたびたびセットで登場していましたが、第4巻所収の第17話「あどけない話」では、二人がメインのストーリーになっています。

重要な登場人物の一人、白さん(北原白秋)が、美術街にすむコタローくん(光太郎)のアトリエを訪れ、亡きチエコさん(智恵子)の幻影に遭遇する、という展開です。

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しばらくは幻影のチエコさん視点で話が進み、合間合間にコタローくんの述懐が入ります。

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壊れてゆくチエコさん、毀してしまったコタローくんの描写が見事です。

チエコさん亡きあとは、その姿をロボットで再現するコタローくん。

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このロボットは、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を表しているような気もします。

その他、第4巻ではさまざまな「愛」の形が取り上げられています。チエコさんともども表紙を飾るアッコさん(与謝野晶子)とヒロさん(与謝野鉄幹)、とみちゃん(山川登美子)の三角関係。そこに「小説家」(有島武郎)と「あの女」(波多野秋子)がからみ……。さらには朔(萩原朔太郎)と「エレナ」、早世した拓(大手拓次)の物語も。

それぞれ予備知識無しでも楽しめると思うのですが、それぞれの人物の背景を知っているにこした事はありません。

そういった意味で、画期的と思える企画展が、石川近代文学館さんで開催中です。

うたえ!□(シカク 詩歌句)街の仲間たち!

期  日 : 平成27年9月19日(土)~11月29日(日) 会期中無休
時  間 : 9:00~17:00  (入館は16:30まで)
場  所 : 石川近代文学館 金沢市広坂2-2-5  TEL(076)262-5464 
料  金 : 一般 360円(290円) 大学生 290円(230円) 高校生以下 無料
        ※( )内は20名以上の団体料金

漫画「月に吠えらんねえ」は、これまでの「漫画と文学」の関係性の概念を打ち破り、「作品の漫画化」でも、「作家の自伝」でもなく、「作品そのものに人格を与え、キャラクター化した登場人物」を設定し、ふんだんに近代詩ほか、短詩型の作品そのものを紙面に登場させています。
今回は、作者である漫画家・清家雪子氏、講談社アフタヌーン編集部にご協力をいただき作品の出力原画をご覧いただくほか、室生犀星、萩原朔太郎ら主要登場人物はじめ、昨年春の特別展示では展示しきれなかった折口信夫父子、中原中也など二巻以降のストーリーに重要な役割をはたす石川ゆかりの作家たちの文学資料も数多く展示いたします。

企画展示室1 『月に吠えらんねえ』と□街の仲間たち
『月に吠えらんねえ』出力原画と登場人物である萩原朔太郎、北原白秋、三好達治などの資料を展示

企画展示室2 『月に吠えらんねえ』と石川ゆかりの作家たち
『月に吠えらんねえ』出力原画と登場人物である石川ゆかりの室生犀星、折口信夫・春洋、中原中也などの資料を展示

企画展示室3 石川ゆかりの詩人たち
石川ゆかりの詩人や短詩型作家を紹介し、資料を展示

主な特別借用資料
 北原白秋自筆書簡(室生犀星あて)二通(清家雪子氏蔵)
 折口信夫歌軸 二幅(個人蔵)
 折口春洋歌軸 三幅(個人蔵)
 室生犀星自筆原稿「北原白秋」(『我が愛する詩人の傳記』)(室生犀星記念館蔵)
 三好達治遺愛の横笛(みくに龍翔館蔵)

エッセイ展示  「彼」とわたしの意外な関係
 折口信夫  横山方子氏(石川郷土史学会幹事)
 中原中也  薮田由梨氏(徳田秋聲記念館 学芸員)
 表棹影  松岡理恵氏(エフエム石川アナウンサー)

刊行物・記念グッズ
 ★『月に吠えらんねえ』コラボレーション作品集『□街集』  清家雪子先生描き下ろしカラー表紙  500部限定
 ★「月に吠えらんねえ」クリアファイル
 ★清家雪子先生描き下ろしイラスト&作家自筆文字缶バッチ

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「月に吠えらんねえ」の重要なキャラの一人、「犀」(室生犀星)が金沢出身、「チューヤくん」(中原中也)も金沢に居住経験あり、ということで実現したようです。

チラシにはコタローくんとチエコさん(ロボット)も描かれています。

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ぜひ足をお運びください。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月24日

昭和56年(1981)の今日、千葉成田郊外に、三里塚御料牧場記念館が開館しました。

成田空港開港前、皇室の御料牧場があり、その関係の展示がメインですが、当地に移り住んだ作家・水野葉舟や、その親友の光太郎に関する展示もなされています。

敷地内には光太郎の「春駒」詩碑や、やんごとなき方々のための戦時中の防空壕、貴賓館などもあります。

当会顧問・北川太一先生の新著が完成しました

いのちふしぎ ひと・ほん・ほか

2015/10/17 北川太一著 文治堂書店刊 定価1500円+税

光太郎への思慕と敬愛により知った伊藤信吉・草野心平。出版により知己を得た品川力・渡辺文治。仏教文化に志を共有した三宅太玄・加茂行昭。昭和十九年、出征前の師や学友への追悼文他、著者が選んだ五十編、初の随想集。


Ⅰ ひと000
 追悼 上州烈風の詩人 信吉さんのお手紙
 高村さんと草野さん
 光太郎と心平の往復書簡
 詩人の死 草野さんと秋山さん
 「注文の多い料理店」に寄せて
 『春と修羅』と『道程』に思う
 白秋と光太郎 その交遊の軌跡
 新井奥邃 未来を指針する世界性
 品川力さんのこと
 文治さんと清二さん
 『白雲』高橋一夫先生追悼
 覚え書 染谷誠一句集に寄せて
 照源寺の龍
 問疾 太玄和尚に寄せる
 三宅太玄老師に

Ⅱ ほん
 ウイリヤム・チンデル伝 伝記文学・私の一冊
 私の「ひろいよみ」
  ⑴ 世界図絵(J・A・コメニウス)
  ⑵ ラ・ロシュコー箴言集001
  ⑶ 運慶とバロックの巨匠たち(田中英道)
 ある本の歴史 ロダンから守衛へ
 おめでとう『彷書月刊』一〇〇号
 やさしい心 菅宮慶江『童心とともに』
 本の音 夜の露店の古本屋
 本のいのち
 さらば東京古書会館
 『古書通信』の六十年
 無知の罪を知った『展望』
 文学館に望むこと
 DVD版『美術新報』に驚く

Ⅲ ほか
 幻の書の風景
 高村光太郎の書
 旅へのおすすめ
 パリの連翹忌
 パリの十日間
 オペラ「源氏物語」によせて
 自戒として 高村さんのことば
 光太郎と山川丙三郎訳『神曲』
 うつくしきものみつ 加茂行昭さんに
 駿河町富士 わが風景と思い出
 回想の向丘高校
 長いバカンスが取れたら
 小川義夫『絆 きずな』跋
 勝畑耕一詩集『熱ある孤島』帯文
 喜びと願いと 女川・光太郎文学碑公園の完成に寄せて
 いのちを描く 長谷川建作品展にあたって
 智恵子の場合
 大空(そら)からの伝言(メッセージ) To memory of Noriko
 美はみつけた人のもの 北川太一さんからひとみちゃんへ

初出誌メモ
あとがき


B6版170ページの薄い小さなかわいらしい本ですが、その内容の濃いことといったらありません。当方、本文の校正をさせていただいたので、既に3回ほど読みましたが、思わず読みふけりながら赤ペンを握っていました。あとがき以外に書き下ろしのものはなく、大半は掲載誌に載ったものを既に読んでいたのですが、それでも読みふけってしまいました。

さて、昨日は東大正門前のフォーレスト本郷さんにて、北川先生のご結婚60周年のダイヤモンド婚及び本書の出版記念の祝賀会でした。

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企画なさったのは、北川先生が高校の教諭をなさっていた頃の教え子の皆さん。当方もお招きにあずかりました。

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宮城女川から、女川光太郎の会の佐々木英子さん、笠松弘二さんも駆け付けました。

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花束及び記念品の贈呈。

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当方、奥様のお隣に座らせていただき、60年前(昭和30年=1955)の思い出を伺いました。光太郎は最晩年で、光太郎の日記には、お二人が中野のアトリエへご結婚の報告にいらしたことも記されています。新婚旅行は二本松方面。かつて光太郎も泊まった穴原温泉などにも行かれたそうです。当時の新婚旅行といえば、箱根や熱海が一般的だったそうで、行く先々で「何でこんなところに?」と訊かれたそうです。

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こちらは智恵子の生家。北川夫妻と智恵子の恩師・服部マスの縁者の方。昭和30年代の智恵子生家の様子としても貴重な写真です。

いつまでも仲良くお元気でいらしていただきたいものです。

さて、『いのちふしぎ ひと・ほん・ほか』、版元の文治堂書店さんにご注文下さい。

TEL,FAX: 03-3399-6419 MAIL: bunchi@pop06.odn.ne.jp 〒167-0021 東京都杉並区井草2-24-15


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月18日

昭和27年(1952)の今日、星ヶ丘茶寮において、三好達治、草野心平との座談会を行いました。

この座談は12月の雑誌『新潮』に「詩の生命」の題で掲載されました。

昨日は神奈川県の鎌倉から茅ヶ崎、いわゆる湘南に行っておりました。

まずは北鎌倉のカフェ兼ギャラリーの笛ギャラリーさん。こちらは店主の奥様が、光太郎の妹のお孫さんにあたります。過日のこのブログにてご紹介しましたが、「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四」という展示が始まっています。

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昨年もお邪魔しましたが、不思議なお店です。不思議なお店ですが、鎌倉の雰囲気には非常にマッチしています。「笛」というだけあって、店内には様々な笛が。

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昨年は、お近くにお住まいの尾崎喜八のご息女・榮子様、伊藤海彦令夫人がたまたまいらしていたのですが、今年はいらっしゃいませんでした。

美味しい濃厚な珈琲をいただきながら、展示を拝見。

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左は尾崎夫妻と榮子様、そして光太郎。右は尾崎喜八です。喜八夫人の実子は、光太郎の親友・水野葉舟の長女でした。

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喜八や光太郎の書。光太郎の書はほとんど複製でしたが、1点、直筆のものがありました。

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寒山詩からの引用で「此珠無価数」と読みます。

他にも「書」とは言えませんが、光太郎と喜八の直筆がいろいろ。

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左は光太郎から甥に宛てた書簡。昭和20年(1945)4月の空襲で駒込林町のアトリエが全焼、焼け跡に残った香木の白檀がいい具合に炭になっていて、それを贈る際に添えたものです。

右は喜八が書いた町内の回覧文書。「明月会」というのは町内会で、喜八が役員をしていた際のもの。切れた街灯の修繕に関わるものです。当方も昨年度から町内会の役員をやっており、微笑ましく拝読しました。

その他、二人の著書や研究書の類も並んでいました。

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昨年並んでいた光太郎から尾崎夫妻の結婚祝いに贈られたミケランジェロ模刻のブロンズ「母子像」は、今年は並んでいませんでした。

来月10日まで(ただし月・水・木はお休み)展示が続きます。ぜひ足をお運びください。

その後、車で数分の東慶寺さんに行きました。駆け込み寺、縁切り寺として有名なところですね。といっても、別に誰かと縁を切りたいと考えて参拝したわけではありません(笑)。

こちらは智恵子の親友だった作家・田村俊子の関係です。

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石段を登って山門をくぐり、拝観料を納めるとすぐ左手に、俊子の文学碑が建っています。

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大正2年(1913)に書かれた俊子の短編小説、「女作者」の一節が刻まれています。

この女作者はいつも000
おしろいをつけてゐる
この女の書くものは
大がいおしろいの中から
うまれてくるのである
          
この「女作者」、智恵子も登場します。ただし「女友達」としか書かれていませんが、近々結婚すると言っていることなどから、智恵子がモデルと思われます(光太郎智恵子の結婚披露は翌年)。

ちなみに智恵子と思われる友達のセリフをいくつか引用しましょう。

「結婚したつて私は自分なんですもの。私は私なんですもの。恋と云つたつてそれは人の為にする恋ぢやないんですもの。自分の恋なんですもの。自分の恋なんですもの。」

「私は自分に生きるんだから。自分はやつぱり自分の芸術と云へるわ。自分の芸術に生きると云ふ事は、やつぱり自分に生きるつて事だわ。」

「私だつて随分考へたけれども、私はもう自分に生きるより他はないと思つてしまつたの。私は自分に生きるの。」

いかにも、ですね。

今回はさらに、俊子の墓参もしてきました。碑は10数年前に一度、見に行った事がありましたが、その時は寡聞にして俊子の墓がこちらにあるということを存じませんでした。

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智恵子と、2歳年長だった俊子とは『青鞜』つながりで知り合い、意気投合しました。俊子も智恵子と同じく日本女子大学校に通っていましたが、心臓病のため中退しており、在学中には接点はありませんでした。

『青鞜』といえば、平塚らいてう。

そして、鎌倉からほど近い茅ヶ崎に、らいてうの文学碑が建っています。茅ヶ崎はらいてうにとって、夫となった奥村博との出会いの地です。後に博が結核に罹患した際にも、茅ヶ崎で療養しています。そういった経緯で、茅ヶ崎にらいてうの碑が建てられました。当方、この碑は未見でした。

というわけで、鎌倉をあとに、国道134号線を西へと走りました。まだ先の話ですが、智恵子の故郷・二本松での「智恵子講座’15」で、「成瀬仁蔵と日本女子大学校」という講義をすることを仰せつかっておりまして、俊子についてもそうですが、そのためのネタ集めという背景があります。

目指す碑は、茅ヶ崎駅に近い高砂緑地というところにありました。

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智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号(明治44年=1911)に収められた、有名な一文「原始、女性は太陽であつた 真正の人であつた」が刻まれています。ちなみに同じ号には俊子の小説「生血」も掲載されました。

碑を前に、100年以上も前、女性の自立を求めて立ち上がった彼女らに思いを馳せました。

この碑のある高砂緑地は、元はセレブの別荘地だったところで、今も当時の建物の跡が残っています。

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また、光太郎がその詩的世界を激賞した夭折の詩人・八木重吉もこのあたりで結核の療養をしていたということで、八木の詩碑も立っていました。これは当方、存じませんでした。

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尾崎喜八、実子、水野葉舟、田村俊子、平塚らいてう、奥村博、八木重吉、そしてもちろん光太郎、智恵子……。いろいろな人々に思いを馳せる一日でした。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月17日

昭和51年(1976)の今日、花巻市太田の旧山口小学校向かいに「太田開拓三十周年記念」碑が除幕されました。

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光太郎詩「開拓に寄す」(昭和25年=1950)の一節が刻まれています。

10月17日は、昭和20年(1945)に、光太郎がこの地での生活を始めた日なので、この日を選んで除幕したものと思われます。

新刊情報です。 
2015/10/1  成田健著  無明舎出版  定価 1200円+税

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版元サイトより

智恵子の生涯を丹念に自らの足で訪ね、光太郎の『智恵子抄』の作品世界に奥深く分け入りながら、一人の女性の軌跡をたどる文学紀行。

家系  戸籍名はチヱ/今も残る生家
小学生 成績が優秀/思いやりの深い人/女学校への進学
師の勧め 万能の成績/孤独な性格/総代として答辞
交友 師の勧めで進学/平塚らいてう回想/絵画への志向
表紙絵  絵画研究所へ/「青鞜」の表紙描く/新しい女性の一人
出会い  荒れる光太郎/智恵子に会う/光太郎の目覚め
あふれる思い 犬吠岬に遊ぶ/山上で婚約/結婚へ
冬日のあたたかさ 至福の時/初冬の景を鮮明に/智恵子の杜公園
簡素な美 清貧の日日/衣裳が簡素に/衣裳の美を語る
故郷の空 たびたびの帰郷/あどけない話/やはり明るい詩/夫婦石に二つの詩
さだめ 智恵子発病/東北の温泉巡り/川上温泉へ
千鳥が友 転地療養へ/募る病勢/九十九里浜の詩碑
昇天 入院、紙絵制作/智恵子逝去/ゼームス坂詩碑
みちのく 光太郎、花巻へ/智恵子を案内
ひとすじの人 父と智恵子の法要/智恵子を偲ぶ/「松庵寺」詩碑
若き日 失意の光太郎/智恵子の信愛/あの頃/回想
観音像 智恵子を像に/記念像制作へ/記念像完成
あとがき


本書は昨年から今年にかけ、地000方紙『北鹿新聞』さんに連載されたものだそうです。

お書きになった成田氏は秋田大曲にお住まいで、同じ無明舎出版さんから『文人たちの十和田湖』(平成13年=2001)なども上梓されています。「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に触れて下さっていて、当方、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さん刊行の『十和田湖乙女の像のものがたり』執筆に際し、参考にさせていただきました。

無明舎さんも秋田。秋田をはじめ東北に関わるまじめな出版物が多く、こういう出版社さんにはエールを送りたくなります。


『「智恵子抄」をたどる』は、もとが新聞連載ということもあり、わかりやすく端的に、ケレン味なくまとめられています。「智恵子抄」関連の紀行の入門編としては格好の一冊です。

先日の第21回レモン忌の前々日くらいに手元に届き、二本松に持参して宣伝してきました。智恵子生家近くの戸田屋商店さんがレモン忌主催の智恵子の里レモン会さんのメンバーでして、ぜひ置いてあげて下さい、とお願いしたところ、一昨日、戸田屋さんにお伺いしたら、「取り寄せておくよ」とのことでした。

版元のサイトから注文可能ですので、ぜひお買い求め下さい。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月14日

昭和13年(1938)の今日、智恵子の母校・日本女子大学校桜楓会の機関誌『家庭週報』に、智恵子の訃報が掲載されました。

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京都から学会の情報です。 
期 日 : 2015年10月9日(金)受付11時30分より
場 所 : 京都外国語大学 国際交流会館会議室(9号館4階)京都市右京区西院笠目町6

 総合司会 村上裕美氏(関西外国語大学短期大学部)

研究発表第一部(12時00分~13時20分)
 司会 佐久間みかよ 氏(和洋女子大学)
 瀧口美佳氏(立正大学)「超絶主義者たちと北欧神話」
 貞廣真紀氏(明治学院大学)「ソローの味覚」

研究発表第二部(13時30分~14時50分)
 司会 高梨良夫 氏(長野県短期大学)
 松島欣哉氏(香川大学)
  「Orestes A. Brownsonのエマソン批評――“Literary Ethics”を中心に」
 藤田佳子氏(奈良女子大学)「<心>の探索――中・後期のエマソン」

日本ソロー学会創立50周年記念大会シンポジウム(15時~17時30分)
 司会 伊藤詔子氏(広島大学)
 テーマ:ソロー学会50周年記念シンポジアム――回顧と展望
 パネリスト:
 小野和人氏(九州大学):「学会50年(その概括ないし瞥見)」
 山本晶氏(慶応大学):
「ヘンリー・ソロー、宮澤賢治その他の〈孤独〉と〈食物〉――東洋思想、政治思想、食習慣との関連において考える」
 齊藤昇氏(立正大学):「ソロー・野澤一・高村光太郎」
 上岡克己氏(高知大学):「大学におけるソロー教育の意義」
 伊藤詔子氏(広島大学):「核時代の“Civil Disobedience”」

総会(17時35分~18時00分)

懇親会(18時00分~20時00分)
 司会 元山千歳氏(京都外国語大学)
 京都外国語大学ユニバーシティギャラリー 9号館6階(会費:6,000円)
  京都市右京区西院笠目町6


ソローはヘンリー・ディビッド・ソロー(1817~1862)。アメリカの詩人、作家です。マサチューセッツ州の湖畔に丸太小屋を構え、自然と親しむ自給自足の生活を送ったことで知られています。

そのソローの生き方に触発されて、山梨県の山中の四尾連(しびれ)湖畔の小屋に独居生活を送り、「日本のソロー」と称されたのが、明治37年(1904)年生まれの詩人・野澤一です。

野澤はさらに光太郎にも心酔、昭和14年(1939)頃から、亡くなる同20年(1945)までの間に、300通あまりの長文の書簡を送り続けました。光太郎からの返信は数回、しかし、そんなことはおかまいなしに、一方的に手紙を書き続けたといいます。光太郎は辟易しながらも、野澤の特異な才を評価しました。くわしくはこちら

のちに花巻郊外太田村の山小屋で独居生活を始めた光太郎、早くから辺境の地での自然に親しみながらの芸術制作という夢を持っていました。青年期には北海道移住を志し、実際に札幌郊外月寒まで行きましたし、その後も繰り返し、そうした希望を語っています。その陰には、活動する友人知己の存在もあったと思われます。北海道の更級源蔵、山形で真壁仁、千葉三里塚に水野葉舟、宮崎新しい村では武者小路実篤、そして花巻の宮澤賢治。そうした中に、野澤も加えていいのかも知れません。ただ、ソローに関しては、今のところ残された光太郎詩文にその名は見えません。

日本ソロー学会さんの全国大会、そうしたソローの精神の、日本での後継者としての野澤一、そして光太郎が語られるのだと思います。宮澤賢治に関する言及もあるようですね。
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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 10月2日

平成16年(2004)の今日、群馬県立土屋文明記念文学館で、第16回企画展「群馬の詩人-近現代詩の革新地から-」が開幕しました。

萩原朔太郎、大手拓次ら群馬出身、または出身でなくとも居住したことのある詩人50余名を取り上げるものでした。

その中には光太郎と交流のあった詩人も多く、特に清水房之丞、新島栄治に関しては、同館所蔵の光太郎から両名宛の書簡も展示されました。清水に関しては詩集『炎天下』に寄せた光太郎の序文の草稿も並びました。

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神奈川県鎌倉市からの情報です。 

10/4追記 日程が変更になりました。下記の通り訂正です。 

回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その四

会 期 : 2015年10月9日(金)~11月10日(火)
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215 0467-22-4484
時 間 : 10:00~16:00
休業日 : 毎週月・水・木

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「あじさい寺」として有名な明月院さんの近く000にあるカフェ兼ギャラリーの笛ギャラリーさんでの展示です。店主の奥様が、光太郎のすぐ下の妹・しづのお孫さんに当たられ、光太郎ゆかりの品々が伝わっているというお店です。毎年この時期にこの展示を開催されています。

尾崎喜八は明治25年(1892)生まれの詩人。光太郎より9歳年少です。大正13年(1924)、光太郎の親友・水野葉舟の娘・実子と結婚し、光太郎が介添えを務めました。さらに結婚祝いとしてミケランジェロの「母子像」約7分の1模刻のブロンズ像を贈っています。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

下記は昭和61年(1986)の写真週刊誌『FOCUS』のコピーで、当時、健在だった実子に関する記事です。

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現在も喜八・実子夫妻のお嬢さんである榮子さんが笛ギャラリーさんのお近くにお住まいで、光太郎つながりでよくいらっしゃるとのこと。そこで、尾崎家に伝わる品々も展示されるというわけです。

当方、昨年、お邪魔いたしました。その際のレポートがこちら。たまたま榮子さんと、さらにやはり光太郎と交流のあった詩人の伊藤海彦氏の奥様がいらしていて、いろいろとお話を伺うことができました。榮子さんは当方の知る限り、唯一、生前の智恵子をご存じの方です。

伊藤家のお宝、そして「母子像」も展示されており、興味深く拝見しました。

他にも『高村光太郎全集』に未収録の、しづ宛の書簡が3通も見つかり、のちに当方編集の「光太郎遺珠」に掲載させていただきました。

今年も同様の展示になるのでは、と思います。ぜひ足をお運び下さい。


10/16追記 今年は「母子像」は展示されていませんでした。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月28日

昭和15年(1940)の今日、光太郎が装幀、題字、装画を手がけた水野葉舟の歌集『滴瀝』が刊行されました。

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このコーナー、事前に書く内容をピックアップしてリストにしてあります。

上記笛ギャラリーさんの記事を書き終わってから、さて、「今日は何の日だっけ」と思ってリストを見てみると、たまたま葉舟関連だったので驚きました。

雑誌としては当方が唯一定期購読している月刊『日本古書通信』の今月号が届きました。

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先月号まで、廣畑研二氏による光太郎に関わる連載記事「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」が掲載されていましたが、今月号には過日このブログでご紹介した『多田不二来簡集』に関する記事が載っています。著者は同誌編集長の樽見博氏です。

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光太郎宛書簡に関する記述もありました。曰く、

 光太郎の大正六年四月十四日夕の葉書は、不二が川俣馨一主宰の俳句雑誌「常盤木」に書いた「詩壇偶評」と光太郎宛の「懇ろな御手紙」への礼状で光太郎全集に収録されているが、その「懇ろな御手紙」の下書きが多田家に残されており、今回その全文と写真が参考として収録されている。犀星への強い信頼感など「感情」同人への思いが語られた興味深い長文の手紙だ。「常盤木」への「詩壇偶評」は著作集には収められていないようだが、大正詩史にとって時期的にも重要な文献ではないだろうか。

手紙は往復が基本ですから、片方からのものばかり読んでも解らない部分があります。そういう意味では「往」と「復」の両方が読めるというのはありがたいですね。

それにしても、『多田不二来簡集』、樽見氏は次のように評されています。

「ここに集められた書簡の多くは未発表のものであり文学史的にも大きな意味を持つが、商業的には極めて出版の困難なものであるだけに、多田曄代さん(編者・多田不二息女)の功績は大きい。」「本書に収められた書簡から示唆される問題は多い筈である。」「意義深い刊行であると思う。」

商業的には極めて出版の困難」だけれど、「意義深い刊行」である書籍に対し、その意気や良しと、エールが送られています。そのとおりですね。

そしてそういう刊行物に対して紙面を割いてエールを送る『日本古書通信』さんの意気もまた良し、と思います。



【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月19日

昭和29年(1954)の今日、終焉の地・中野のアトリエを、作家の武田麟太郎未亡人と子息らが訪問しました。

当日の日記の一節です。

午后「好きな場所」の武田未亡人、子息さん、そこの女給さんと三人くる。梨をもらふ、ビールを出す、

「好きな場所」は昭和14年(1939)に書かれた武田の短編小説の題名です。同16年(1941)刊行の短編集「雪の話」に収められました。

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この中で武田は、「彫刻家としても知られてるある高名な詩人」として、光太郎に関する噂話を書いています。

場所は東京三河島のとんかつ屋「東方亭」。戦前から戦時中にかけ、さらには十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)制作のため再上京してからも、光太郎がひいきにしていた店です。店の長女、明子さんはのちに戦後の混乱期に苦学の末、医師となり、のちに光太郎は、彼女をモチーフにした詩「女医になつた少女」(昭和24年=1949)を作ったりしています。

どこまで真実かわかりませんが、ここで光太郎は正体を隠し、火葬場の職員と名乗っていたとのこと。さらに東方亭の近くにある別の飲み屋での話として、武田はこう書いています。

ここでも、隠亡爺さんの噂を聞いてゐる。そんな仇名で呼ばれてゐる客が、しよつちゆう来ると云ふので、人相を照し合してみると、まさしく我が老詩人なんだ。へえ、こんな汚いうちへも来るのかいと、大袈裟に首を振る私に、毎晩、おそくなつてから幽霊みたいに入つて来るわと返事するのは、横を向いて煙草をふかす色の黒い女だ。ねえ、あの人はねえ、自分の死んだお神さんも自分で焼いたんだつて、でも、自分を焼く時は、自分で取扱へないのが残念だつて云つてるわ、さう滑稽さうに笑つて、別の小さな出つ歯の女がつけ加へる。ふいに、私は涙を流してゐるんだ。詩人が若い頃、その詩に情熱を持つて幾度も読みあげた夫人が、永い病気の果てに、先日死んで行かれた。それを知つてた私は、突然のやうに、氏の気持の中へ飛び込めたと妄想したのにちがひない。

智恵子が亡くなったのは「好きな場所」の書かれた前年、昭和13年(1938)のことでした。

ところで武田は、「彫刻家としても知られてるある高名な詩人」「老詩人」とぼかして書いていますが、同書の挿絵はもろに光太郎の顔です(笑)。

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武田未亡人のとめは、光太郎再上京後、たびたび中野のアトリエを訪れています。光太郎日記には「「好きな場所」マダム」とも記されており、どうも「好きな場所」という名の酒場を経営していたのではないかと思われます。武田本人は戦後すぐ、粗悪な密造酒を飲んだため亡くなっています。

新刊情報です。
晶文社 2015年9月下旬発売予定 定価6300円+税001

人と社会の核心にある問題へ向けて、深く垂鉛をおろして考えつづけた思想家の全貌と軌跡。
第10巻には、『言語にとって美とはなにか』から分岐派生した二つの原理的な考察『心的現象論序説』『共同幻想論』と、春秋社版『高村光太郎選集』の解題として書き継がれた光太郎論を収録する。第7回配本。
月報は、芹沢俊介氏・ハルノ宵子氏が執筆!

【目次】

心的現象論序説
  はしがき
  Ⅰ心的世界の叙述  Ⅱ心的世界をどうとらえるか
  Ⅲ心的世界の動態化  Ⅳ心的現象としての感情
  Ⅴ 心的現象としての発語および失語
  Ⅵ心的現象としての夢  Ⅶ心像論
  あとがき  全著作集のためのあとがき  角川文庫版のためのあとがき  索引
共同幻想論
  角川文庫版のための序  全著作集のための序  序
  禁制論 憑人論 巫覡論 巫女論 他界論 祭儀論 母制論 対幻想論 罪責論 規範論 起源論 後記
春秋社版『高村光太郎選集』解題
  一 端緒の問題
  二 〈自然〉の位置
  三 成熟について
  四 崩壊の様式について
  五 二代の回顧について
  六 高村光太郎と水野葉舟――その相互代位の関係
   七 彫刻のわからなさ
解題〈間宮幹彦〉

昨年から刊行が始まった晶文社版『吉本隆明全集』の第7回配本です。既刊の第5巻第7巻、第4巻でも光太郎に触れられていましたが、今回は昭和56年(1981)から翌年にかけて春秋社さんから刊行された『高村光太郎選集』の月報に載った文章が掲載されています。

また、分量は少ないのですが、6月に刊行された第9巻にも、「高村光太郎私誌」という文章が掲載されています。

 
書肆心水 2015年8月刊 定価2,700円+税001

近代主義/反近代主義の二者択一的思考停止をこえる創造的近代
右翼/左翼、保守/進歩の図式ではつかめない日本近代化問題の核心。模倣的近代でも反動的保守でもない創造的近代の思想が現在の闇を照らす。
西田幾多郎/三木清/岸田劉生/高村光太郎/野上豊一郎/山田孝雄/九鬼周造/田辺元
●書肆心水創業十年記念出版

西田幾多郎……新しいロジックを求めて/ヒューマニズムの行き詰まりから新しい人間へ/歴史的生命の世界
三木清……東亜協同体と近代的世界主義/東洋文化と西洋文化
岸田劉生……近代の誘惑を卒業した誇りと孤独/今日の悪趣味的時代に処する道/東洋の「卑近美」
高村光太郎……美と生命/日本美の源泉
野上豊一郎……能の物狂い/能の写実主義と様式化
山田孝雄……「は」と係助詞/西洋化日本における文法学の困難/日本の文字の歴史学/日本の敬語と文法
九鬼周造……偶然と運命/偶然と運命
田辺元……常識・科学・哲学――東洋思想と西洋思想との実践的媒介


こちらは光太郎自身の文筆作品を含むものです。

光太郎には「美と生命」という題名の作品は無いはずなのですが、同じ書肆心水さんが、平成22年(2010)に光太郎の評論を2冊にまとめ、『高村光太郎秀作批評文集 美と生命』として刊行していますので、そちらからさらにピックアップしての掲載ではないかと思われます。

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「日本美の源泉」は、昭和17年(1942)、『婦人公論』に6回にわたって連載されたもの。当時の同誌編集者・栗本和夫が和綴じに仕立てて保管していたその草稿が、昭和47年(1972)、中央公論社からそのまま覆刻、刊行されています。

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光太郎の前後に配されている岸田劉生、野上豊一郎は、ともに光太郎と交流の深かった人物。併せて読むのもいいでしょう。 

思潮社 2015年8月 定価1,300円+税003

私と史のはるかなる旅路

蒼空の一点を
凝っとみつめていると
蒼空は黒みを帯びてくる。
(「蒼空」)


「わたしはかつて北村透谷や近代文学のすぐれた研究者だ、と思っていた平岡さんの魅力の源泉が、ふるさと瀬戸内海の〈塩飽島〉から湧き出る、天然の詩にあることを発見したときの興奮を忘れない」(北川透)。文学史家でもある詩人の、歴史の無惨と交差する生の歩み。代表作『浜辺のうた』『蒼空』全篇、高村光太郎論など円熟の評論も収録。戦後70年、長き沈潜をへて湧き出た詩の水鏡。解説=佐藤泰正、山本哲也、井川博年、陶原葵

「光太郎論」とあって、具体的なところが不明なのですが、かつて至文堂さんから刊行されていた雑誌『国文学解釈と鑑賞』の第41巻第6号(昭和51年=1976)「―特集 高村光太郎その精神と核―」には「国家と天皇と父と」、第63巻第8号(平成10年=1998)「特集 高村光太郎の世界」には「作品の世界『智恵子抄』」という平岡氏の論考が掲載されており、その辺りなのではないかと考えられます。ちがっていたらすみません。

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少しずつであっても、光太郎に触れる刊行物がどんどん出るのは好ましいことです。明日もこの続きで行きます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月12日

昭和28年(1953)の今日、テレビ出演を断りました。

当日の日記の一節です。

ひる青江舜二郎氏くる、門口で、テレビに出てくれとのこと、断り、(略)後刻上山裕次といふテレビの人くる、十五日に松尾邦之助氏と対談してくれとの事、断る、

日本で地上波のテレビ放送が開始されたのが、この年2月です。早速の出演依頼が同じ日に2件あったようですが(もしかすると同一の依頼が人を換えて行われたのかも知れませんが)、いずれも断っています。もし断らずに出演し、さらにその映像が残っていたら、それはそれで貴重な資料となったと思うと、少し残念です。ちなみに光太郎、ラジオには録音で何度か出演していますし、その録音もある程度現存しています。

青江舜二郎は劇作家。松尾邦之助はフランス文学者で、光太郎詩の仏訳なども手がけています。上山裕次という人物については特定できませんでした。

台風から変わった低気圧の影響による豪雨のため、主に関東から東北にかけ、甚大な被害が出ています。鬼怒川堤防の決壊による濁流からは、あの東日本大震災による津波を想起された方も多いのではないでしょうか。被害が少しでも少なく済むことを願います。

当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市は、大きな被害のあった地域とそう遠くないので、ありがたいことに心配して電話等下さった方もいらっしゃいましたが、特に被害はありませんでした。

さて、堤防が決壊した鬼怒川沿いで、決壊現場の常総市より上流に位置し、やはり避難指示等が出された茨城県結城市からの光太郎がらみのニュースです。ソースは地元紙『茨城新聞』さんです。

結城市出身の詩人・多田不二 著名人と交流の書簡集

 結城市出身で詩人・文芸評論家の多田不二(189無題3-1968年)に宛て、詩人の室生犀星や萩原朔太郎など各界の著名人たちが送った書簡を収録した「多田不二来簡集」(紅書房社)が刊行された。収録書簡の多くが未発表。大正から昭和にかけての著名人たちの感情や熱意、不二との交流が記されており、関係者は「不二の研究が進む貴重な資料。著名人たちの新たな事実発見につながる可能性もある」と話している。
 不二は、朔太郎や犀星らとともに詩集「感情」の同人として詩や訳詩を発表。新神秘主義を提唱した詩誌「帆船」を主宰し、独自の詩の世界を構築した。NHKに入局後、玉音放送の録音に関わるなどして、生涯にわたり多くの文化人と交流を深めた。
 書簡は、不二のきょうだいの孫にあたる多田和代さん夫婦らが保管していた。
 来簡集では、このうち194人の593点を(1)学生(2)NHK勤務(3)社会文化活動-の三つの時代に分けて収録した。
 (1)の書簡からは、朔太郎や犀星、山村暮鳥、高村光太郎ら大正時代の詩壇を飾る詩人たちの息吹と人間性、生の交流の様子がうかがえる。(2)の書簡からはさまざまな分野の著名人の放送を依頼する心情などが、(3)からは戦後の文化人の熱気などがそれぞれ伝わってくる。
 各時代を通じて送られた犀星からの書簡は、収録49点のうち20点が初公開された。朔太郎の死を告げる1942年5月11日の犀星の電報「ハギ ワラケサシス」は、不二が後日、随筆で回顧した内容を裏付けるもの。今回の編集作業で現存が確認され、貴重な資料という。
 犀星からの17年1月9日消印のはがきには「山村(暮鳥)君が泊つてゐる。こまつた-」と書かれている。不二研究家で元城西国際大教授、星野晃一氏(79)は「暮鳥が編集したドストエフスキー書簡集を東京の出版社に売り込むための宿泊に、犀星が困惑していることがうかがえる」と指摘する。
 来簡集は不二の次女、曄代(てるよ)さんが「父への最後の親孝行がしたい」と星野氏に要請したことがきっかけで、編集作業がスタート。結城市の市民団体「結城古文書好楽会」のメンバーなどが協力して、約2年半をかけてまとめた。
 和代さんの夫で割烹(かっぽう)旅館社長、多田和夫(まさお)さん(84)は「結城にとってかつてない資料」と強調。「文化のまちの結城市民にとって、地元の歴史を知るきっかけになれば」と大きな期待を寄せた。
 多田不二来簡集はA5版、584ページ。4500円(税別)。(溝口正則)


結城市出身の詩人・文芸評論家、多田不二宛の書簡をまとめた書籍が刊行されたというわけです。

以下、版元の紅書房社さんのサイトから。

多田不二来簡集

編者名/星野晃一、多田曄代000
出版年/2015年8月
定価/4,860円(税込)
版型/A5
頁数/584
ISBN/978-4-89381-302-2

編者略歴
星野晃一(ほしの・こういち)
1936年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。城西国際大学教授を経て、現在、武蔵野大学客員教授。
 著書に『室生犀星-幽遠・哀惜の世界』『室生犀星-創作メモに見るその晩年』『犀星 句中游泳』 『室生犀星 何を盗み何をあがなはむ』、編著に『新生の詩』『室生犀星文学年譜』『室生犀星書目集成』『多田不二著作集』全二巻『室生犀星句集』など。
多田曄代(ただ・てるよ)
1932年、多田不二の次女として生まれる。長らくNHK松山放送局に勤務、現在松山市在住。

特徴と内容
長らく多田家に保管されていた書簡を一挙初公開!
大正期の詩界に異色の光芒を放つ詩人・多田不二のもとに寄せられた各界著名人194名からの書簡593通を一挙に公開。封書・はがき・郵便書簡・電報など、一部を除きほとんどが未公開。長らく多田家に保管されていたものが、このたび明らかに。


光太郎から多田宛の書簡も含まれているということですが、おそらくそれらは「一部を除きほとんどが未公開」と謳われているうちの一部の方、すなわち公開されているものと思われます。筑摩書房の高村光太郎全集第21巻に、多田宛の書簡が5通(すべて大正6年)掲載されており、それでしょう。

というのも、当方、『茨城新聞』さんの記事にも出て来る縁者で書簡を保管なさっていた多田和夫氏に、書簡を見せていただいたことがあるからです。十数年前になるかと思いますが、場所は記事にもある多田氏が経営されている「割烹のやど結城ガーデン」。こちらには「小さな文学館」というコーナーがあり、書簡以外にも多田の著書や関わった雑誌などが展示されています。下記はサイトから画像をお借りしました。光太郎からの書簡です。

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そちらを拝見し、さらに多田氏に光太郎からの来簡について伺ったところ、上記の画像のものを含む筑摩の全集のために提供したものですべてというお話でした。ただ、それが十数年前でしたので、もしかすると、その後、紛れ込んでいた未発表のものが見つかったかもしれません。

余談になりますが、免疫学者・文筆家で、養老孟司氏とも親しかったという東京大学名誉教授だった故・多田富雄氏(その頃はご存命)も縁者だと、その際にご教示いただいたことを覚えています。

何はともあれ、記事にあるとおり、室生犀星からの未発表書簡が大量に含まれているということで、そういった部分で詩史全体の研究に大きく貢献するものと思われます。

それにしても、結城ガーデンさんも今回氾濫した鬼怒川に近く、支流の田川という川がすぐ裏を流れている場所です。大きな被害を受けていないことを祈ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月11日

平成23年(2011)の今日、二本松市民交流センターで開催されていた「詩集『智恵子抄』発刊70周年記念~光太郎との相聞歌~智恵子紙絵展」が閉幕しました。

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智恵子紙絵の実物も19点、展示されました。

平成23年(2011)といえば、あの東日本大震災のあった年で、福島は原発事故による風評被害がひどかった時期でした。あれから4年。だいぶ復興も進みました。今回の豪雨被害の被災地も、1日も早く復興することを祈ります。

報道ではありませんが、新聞には欠かせないコラム。最近、光太郎が取り上げられたコラムをご紹介します。 

まずは『神戸新聞』さん。

正平調 2015/08/30

大事にする言葉を毛筆でしたためる。揮毫(きごう)は、筆遣いはもちろん、どんな言葉を選ぶかに人となりがうかがえ興味が尽きない◆とりわけ勝負に生きるプロ棋士の揮毫は味わい深い。将棋の内藤國雄さんは「伸び伸び しみじみ」だ。自在を旨とする内藤さんらしい。「遊藝」は囲碁の羽根直樹さん。勝敗にとらわれぬよう心をもみほぐす意味と察する◆将棋界の第一人者羽生善治さんは「玲瓏(れいろう)」を好む。いつだったか色紙に書いてもらったら、物静かな印象とまったく違う。激しい筆運びで、戦う人の素顔に触れた思いがした◆先日、本紙主催の王位戦で5連覇を遂げた。記事に「玲瓏」にまつわる話がある。透き通る美しさ。それを表す2文字に「まっさらな気持ちで」との思いを託しているのだという◆これでタイトルの通算獲得数が93期になった。歴代1位の自身の記録を自身で塗り替えていく。高村光太郎の詩「道程」は「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」で始まる。この「僕」を「羽生」と書き換えたくもなる。力は衰えない◆タイトルを総なめにした若い頃は「泰然自若」と書いた。平常心で、との戒めだ。まだ44歳。勝ち星を重ねるこの先、どんな言葉を胸に81マスと向き合うのだろう。揮毫の移り変わりだけで、棋士の人生が読み解けそうにも思う。


以前にもご紹介しましたが、『神戸新聞』さんの「正平調」では、たびたび光太郎を取り上げて下さっています。ありがたいかぎりです。


続いて『毎日新聞』さん。古今の俳句を一句ずつ紹介するコラム「季語刻々」が、社会面に掲載されていますが、先週から今週にかけ、4日連続で光太郎に触れて下さいました。著者は俳人の坪内稔典氏。ただ、紹介した俳句は光太郎以外の作品です。

季語刻々

焼茄子(やきなす)の皮のくろこげほどでなし 岡本高明(こうめい)  
何が「焼茄子の皮のくろこげほどでな」いのだろう。愛情か人生? 句集「ちちはは」から引いた。高村光太郎は敗戦後の数年を岩手・花巻の西郊で過ごした。小屋で独居生活をしたのだが、1946年9月4日の日記には、「茄子皆大きな実をつける」とある。夕食でさっそく焼き茄子にし、酢みそで食べた。その感想はただ一語、「美味」。(2015/09/04)

採る茄子(なす)の手籠にきゆァとなきにけり 飯田蛇笏
「きゆァ」と鳴くって、いいなあ。こんな茄子だと生でかじれそう。昨日、高村光太郎の日記を引いたが、1946年9月5日の朝食は冷や飯とみそ汁。みそ汁の具は「ジャガ、わかめ、茄子」など。彼は茄子を自家栽培していた。翌6日の記事には「畑の茄子五六個とる。相当になり居れり」とある。茄子を楽しむ日が続いている。(2015/09/05)

やわらかく包丁はじくトマトかな 乳原孝
とりたて? ぷりぷりのトマトが、「切らないでかぶりついてよ」と言っている感じ。作者は私の俳句仲間だ。1946年9月6日、岩手・花巻の郊外にいた高村光太郎は、野菜の栽培を楽しんでいた。この日は起きるとすぐにトマトの支柱を補強した。「トマト赤きもの二個とる。此頃(このごろ)はトマト殆と毎日とる」と日記に書いている。(2015/09/06)

二階より駆け来(こ)よ赤きトマトあり 角川源義
「晴、ひる間暑気つよく、朝夕涼し。明方は冷える。五時にてはまだうすぐらし。日の出六時半頃」。これは1946年9月7日の高村光太郎の日記。彼は岩手・花巻の郊外にいたが、この時期、夏と秋が入り交じっていることが日記からよく分かる。源義はKADOKAWAの創業者、俳人でもあった。この句、トマトが実にうまそう。(2015/09/07)

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すべて筑摩書房『高村光太郎全集』第12巻に収められている昭和21年(1946)の日記にからめています。花巻郊外太田村での山居生活は、昭和20年(1945)から7年間続き、穀類は配給に頼らざるを得なかったものの、野菜や芋類はほぼ自給できていました。

この頃の光太郎自身の俳句を一句。

新米のかをり鉋のよく研げて

昭和20年(1945)、太田村の山に入って間もなくの作です。鉋(かんな)は大工道具の鉋。山小屋生活を始めるに当たって、小屋の流しや棚、机などの調度品類を、光太郎は自作しており、それにかかわるのでしょう。新米は村人が持ってきてくれたとのこと。

下の写真、大工仕事をする光太郎(昭和20年=1945)と、トマトを作る光太郎(昭和25年頃=1950頃)です。

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農と俳句、ともに四季の移ろいとの対話、格闘から生まれるものです。そして、古来から自然の営為と不即不離の関係を続けてきた日本人の魂の原点に関わると思います。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 9月10日

大正2年(1913)の今日、『国民新聞』に「女絵師(五) 新しい女智恵子」掲載されました。

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いわゆるゴシップ記事で、智恵子を誹謗中傷するものでした。

その書き出しはこうです。

女の誇(プライド)に生き度いとか何んとか云つて威張つてる女、 節操の開放とか何とか云つて論じ立てる女、 之れが当世社会の耳目を集めて居る彼(か)の新らしい女である 長沼智恵子は矢張りさうした偉い考へをもつた青鞜社同人の一人である 女子大学を出てから太平洋画会の研究所に入つたのが四十二年で昨年辺迄同所に通つて居た、見た所沈着(おちつ)いた静かな物言ひをする女であるがイザとなれば大に論じて男だからとて容捨はしない、研究所の男子の群に交つて画を描いて居ても人見しりするやうな事は断じてなく話しかけられても気に喰はぬ男なら返辞は愚か見返りもしない 

ある意味、真実かも知れませんが……。

さらに結びの部分では、

近頃に至つては高村光太郎氏と大いに意気投合して二人は結婚するのではないかと迄流言(いは)れたが 智恵子は却々(なかなか)もつて結婚なぞする模様はない 矢つ張友人関係の気分を心ゆく許り味ははうとして居る 而(そ)して青鞜社講演会なぞにも鴛鴦の如(や)うに連れ立つて行けば旅行にも一緒に出蒐(でかけ)て居る 玆(ここ)暫くは公私内外一致の行動を取るのださうな

となっています。旅行云々は、ちょうどこの頃二人で訪れていた上高地への婚前旅行を指します。この5日前には、『東京日日新聞』に、「美くしい山上の恋」というゴシップ記事も載りました。

先週土曜日、九段下の玉川堂さん、新宿の中村屋サロン美術館さんと制覇し、最終目的地、文京区千駄木の区立森鷗外記念館さんに向かいました。

先月からコレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」が始まっており、さらにこの日は、関連行事として東京大学大学院教授の今橋映子氏による講演「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」があったためです。

ただ、最寄りの千駄木駅には早めに着いてしまいました。そこで、団子坂を上り、いったん鷗外記念館前を通り過ぎて、近くのコンビニに。ここは店頭に灰皿が置いてあり、煙草吸いには有り難い配慮です。ちなみに当方、都内のよく歩く範囲では、どこに喫煙所があるか、かなり頭に入っています。シルクロードを旅するキャラバンがオアシスの位置を頭に入れているのと同じです(笑)。

さらに少し行くと、道の右側に瀟洒なマンションが建っています。少し前まではNTTさんのビルだったところですが、こんな案内板が設置されています。

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「「青鞜社」発祥の地」。明治44年(1911)、平塚らいてうを中心に創刊された我が国初の女性だけによる雑誌『青鞜』創刊号―その表紙絵は智恵子の作品―が、ここで編集されました。元々は国文学者・物集高見の屋敷があったところで、物集の娘・和子が青鞜社員だったため、自宅の一室を編集室にしたというわけです。

案内板には光太郎智恵子の名も記され、それを読みつつ、思いを馳せました。

ちなみに光太郎智恵子が暮らしたアトリエ跡や、現在も高村家の方がが住む光雲の旧宅もほど近いのですが、そこまで足をのばす時間もなく、鷗外記念館に戻りました。こちらは元の鷗外邸「観潮楼」のあった場所に建てられています。

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講演会の前に、地下の展示室に。常設の鷗外の展示と、コレクション展「鷗外を継ぐ―木下杢太郎」をじっくり拝見しました。

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鷗外はもちろん、杢太郎も光太郎と縁の深い人物でした。光太郎の方が杢太郎より2歳年長です。

杢太郎は本名・太田正雄。静岡・伊藤の出身です。医学を志し、旧制一高から東京帝国大学に進みましたが、その間、文学に対する熱情も強く、明治40年(1907)頃から鷗外が観潮楼で開いた歌会に参加、明治42年(1909)からは雑誌『スバル』の編集にあたります。この年、欧米留学から帰国した光太郎も『スバル』の主要執筆者の一人となり、二人の交流が始まります。さらに、芸術運動「パンの会」。鎧橋のメイゾン鴻乃巣などで、文学、美術、演劇などに携わる若き芸術家達が酒を飲みながら怪気炎を上げたものですが、光太郎、杢太郎、ともに発起人に名を連ねています。

展示は『スバル』や杢太郎の著書、自筆資料などなど。下に出品目録を載せますが、途中で展示替えがあり、今週から一部変わっているはずです。

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その後、2階の講座室へ。こちらが講演会場です。

講師の今橋映子氏は、比較文化学がご専門。特に明治大正期の日仏両国の文化的なつながりを研究されています。『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房・平成5年=1993)というご著書があり、「第2部 憧憬のゆくえ―近代日本人作家のパリ体験」という項の第1章が「乖離の様相―高村光太郎」。また、昨秋には明星研究会さん主催のシンポジウム「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・光太郎」のパネリストもなさっていました。

現在、美術史家の岩村透についてのご研究を進められているそうで、数年後には新たなご著書として世に問われるそうです。岩村は、光太郎が在学中、東京美術学校で教鞭を執っており、光太郎に西洋留学を強く勧めた人物です。前任者が鷗外、さらに杢太郎ともつながりがあり、講演では鷗外と杢太郎の関連以外にも、岩村や光太郎にも触れられていて、興味深く拝聴しました。

それにしても、昨日書いた斎藤与里にしてもそうですが、杢太郎も、一般には忘れ去られかけつつある芸術家です。もっともっと光が当てられていいのでは、と思います。

同時に光太郎が「忘れ去られつつある芸術家」とならないよう、もっともっと頑張らねば、と感じました。

以上、3回にわたる都内レポートを終わります。今日は当方の住む千葉県内の、その南端に近い勝浦に行って参ります。勝浦市芸術文化交流センター・キュステさんで開催中の「第39回千葉県移動美術館「高村光太郎と房総の海」を観て参ります。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月26日

昭和23年(1948)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、どら焼きを食べました。

当日の日記の一節です。

曇、少々むしあつし。 朝、抹茶、濱田先生に昨日もら(っ)たドラ焼を甘味とす。

別に、どら焼きを食べるのは不思議でも何でもないのですが、問題はその量です。前日の日記の一節にはこうあります。

学校にて郵便物授受。 濱田先生と談話。同氏は哲学専攻の由。長坂町に滞在との事。(略)濱田氏よりドラ焼20数個もらふ。

まさか20数個全部を光太郎一人で食べたとも考えにくいのですが、「おすそ分けをした」的な記述が日記には見あたりません(笑)。

一昨日は、東京都内に出かけ、3件の用事を済ませて参りました。

最初の目的地は、九段下。創業文政年間(1818~1831)という老舗の書道用品店、玉川堂(ぎょくせんどう)さんでした。

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5月に千葉県流山市で開催された、書家・後閑寅雄(号・恵楓)氏の作品展で、参考出品として、光太郎を含む古今の名筆が並んでいました。その中で、光太郎の短歌が書かれた短冊があったのですが、驚いたことに、書かれていた短歌が、『高村光太郎全集』等に未収録のものでした。そこで、後閑氏に、短冊の所有者が玉川堂さんであることをご教示いただき、連絡を取って、拝見しに行って参りました。玉川堂さんでは、売り物としてではなく、名筆のコレクションの一つとして所蔵されているとのことでした。

お店に着き、二階の事務所に通され、早速、拝見しました。お忙しい中、社長さんが直々に対応して下さいました。

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金ぶちの鼻眼鏡をばさはやかに/かけていろいろ凉かぜ000の吹く」と読めます。画像ではわかりにくいのですが、最後に光太郎がよく使った「光」一時を丸で囲む署名も入っています。

黒地に文字は白、というより銀ですが、これは字の周りを墨で囲んで塗りつぶす「籠書き」という手法です。光太郎はこの手法を得意としており、書籍の装幀、題字などでも同じことをやっています。また、短冊でも籠書きのものが遺っています。

右の画像は明治44年(1911)頃に書かれたもので、やはり短歌が書かれています。こちらの短歌は滞米中の作品で、「天そそる家をつくるとをみなより/うまれし子等はけふも石きる」と読みます。

てっぺんには墨絵で石造りの建築が描かれています。玉川堂さんの短冊も、同じ位置に墨絵の風景画が入っており、ほとんど同じ時期のものと推定できます。


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光太郎の籠書きについては、実弟の豊周が書き残しています。

 兄がともかく兄らしい個性のある字を書きはじめたのはヨーロッパから帰ってからで、その頃から以後しばらくの兄の短冊には、よく籠書きというのが、字のへりをとって外側の部分を墨で塗りつぶし、中を、銀短冊なら銀に塗り残す変った書き方が現れて来る。(『光太郎回想』 昭和37年=1962)

また、作家・江口渙の回想にも。

 高村光太郎も……片手に短冊をもちながら、まるで彫刻の刀でも使うようなしかたで、はなはだ丹念に書いている。よく見ると書いているのは普通の字ではない。ちょうちん屋などがよくやるかき方の俗にかご字といわれるものである。まわりを線でほそくかいて中を白ぬきにするあの書体である。……かご字で一とおり歌を書き上げると、こんどは字の外がわを、一そう丹念に墨でぬりはじめた。……やがて出来上がったのを見ると、銀短冊はすっかり黒短冊にかわっていた。そして、はじめにかご字で書かれた歌だけが浮き上がるように銀色に光っていた。(「わが文学半生記」 昭和28年=1953)

まさにこれらの短冊そのままの描写です。ただ、江口の回想は大正中期、新詩社新年歌会での一コマですので、若干、時期がずれています。

ちなみに旧蔵者の方は、明治43年(1910)に光太郎が神田淡路町に開いた日本初の画廊「琅玕洞」で購入したとおっしゃっていたそうです。さもありなん、です。


それから、さらに驚いたことに、玉川堂さんではもう1点、光太郎作品をお持ちでした。そちらは短冊ではなく、長い書簡です。

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大正元年(1912)10月14日、智恵子の妹・長沼セキに宛てたものです。封筒もきちんと遺っていました。セキに宛てた光太郎からの書簡は7通が既に知られており、『高村光太郎全集』に収められていますが、こちらは未収録でした。玉川堂さんには『高村光太郎全集』は持って行きませんでしたが、セキ宛の書簡はだいたい頭に入っており、見た瞬間にこれは新発見だ、とわかりました。念のため自宅兼事務所に帰ってから調べてみると、その通りでした。

大正元年(1912)というと、智恵子とはまだ結婚前で、愛を確かめ合った犬吠埼の写生旅行から帰ったのが9月4日、この手紙が書かれた翌10月15日から、斎藤与里、岸田劉生等と興したヒユウザン会(のちフユウザン会)の第一回展が京橋の読売新聞社で開幕します。この手紙にも明日から同展が始まるため、準備に追われていることが記されています。

当会顧問の北川太一先生にもお骨折りいただいて解読中ですが、高村光太郎研究会から来春刊行予定の雑誌『高村光太郎研究』中の当方の連載「光太郎遺珠」にて詳細を発表します。


それにしても、短冊といい、書簡といい、関東大震災に太平洋戦争の空襲をくぐり抜け、よくぞ残ってくれたと、感慨深いものがありました。まだまだほうぼうにこうした貴重な資料が眠っていると思われます。それらを見つけ出し、光太郎の全貌を明らかにしていくのが使命と考えております。ご協力いただければ幸いです。

ご協力、といえば、玉川堂さん。貴重な資料を拝見させくださり、公表もOK、さらに展覧会等に貸し出すのもかまわないとおっしゃって下さっています。頭が下がります。

それにひきかえ当方は、手土産に当方の住まう千葉佐原銘菓の最中を持参したのですが、新発見の資料を前に頭に血が上り、お渡しするのを忘れて、いったん玉川堂さんを出てしまいました。九段下の駅まで行って、「しまったあああああ!」と気付き、玉川堂さんまで飛んで帰りました。お店に入ると社長さんが「あれっ」というお顔で「忘れ物ですか?」とおっしゃいます。そこで当方、「そうです、忘れ物です。こいつをお渡しするのを忘れてました」。店員さんにも笑われてしまいました(汗)。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月24日

昭和24年(1949)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、截金師の西出大三に葉書を書きました。

おてがみ忝くいただきました。貴下も文字を彫つて居られし由、潺湲楼は九月一ぱいかかるでせう。これはむしろ鑿で文字を書くといつたやうな彫り方です。原字には拘泥せずにやります。 今夏は夏まけの気味にて四度高熱を出しましたが、その都度二三日の休養で恢復しました。 旧盆過ぎて稲の穂も垂れはじめ、山にやうやく秋が近づいてきました、

「潺湲楼」は昭和20年(1945)、終戦後に光太郎が一時厄介になっていた花巻町の佐藤隆房医師宅の離れです。「潺湲」は水のせせらぎを表し、眼下に豊沢川の清流を望むことから、光太郎が命名しました。佐藤医師は「潺湲楼」の文字を彫った扁額を光太郎に依頼、この葉書はそれに関わります。

しかし、結局この扁額は完成せず、文字を下書きにした紙が貼られたまま、現在は花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。やっつけ仕事をせず、納得いくように出来なければやらない、という光太郎の性格が表れています。

4月2日の連翹忌にご参加いただいている詩人の宮尾壽里子様から、文芸同人誌第四次『青い花』の最新号をいただきました。ありがたや。

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宮尾様のエッセイ「「第59回 連翹忌」に参加して」が掲載されています。タイトルの通り、今年4月2日、東京日比谷公園の松本楼で開催しました第59回連翹忌のレポートです。

最晩年の光太郎が、終焉の地となった中野のアトリエで、所有者の中西利雄夫人・富江にアトリエの庭に咲く連翹の名を問うて、非常に気に入ったというエピソード、それを知った草野心平が、昭和32年(1957)の第一回連翹忌案内状に「この日を連翹忌となづけ、今後ひきつづいて高村さんの思ひ出を語りあひたいと存じます。」と記したことなど、丁寧にご紹介下さっています。

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ちなみにこちらが第一回連翹忌の芳名帳です。

その他、今年の連翹忌の様子ということで、スピーチを賜った皆さんについて、スピーチやお席でのお話などをご紹介下さっています。

当会顧問・北川太一先生、光太郎の親友・水野葉舟子息の清氏、中野アトリエの中西利一郎氏、お父様の日本画家・大山忠作氏が智恵子と同郷で智恵子をモチーフにした作品も多い女優の一色采子さん、やはりお父様が光太郎本人と交流がありご自身も光太郎が主人公の戯曲をお書きになった女優の渡辺えりさん、連作歌曲「智恵子抄」を作られた作曲家の野村朗氏など。

また、イベントや出版関係で、花巻高村光太郎記念館のリニューアル、十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会さんによる『十和田湖乙女の像のものがたり』、さらには当ブログについてもご紹介いただき、恐縮しております。

これをお読みになった方が、連翹忌に興味を示して下さって、ご参加いただけるようになればと願っております。折にふれ、このブログで書いていますが、連翹忌への参加資格はただ一点、「健全な精神で光太郎智恵子を敬愛すること」のみです(当ブログコメント欄までご連絡下さい。非表示も可能です)。次回は8ヶ月後、第60回の節目に当たります。よろしくお願いいたします。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 8月13日

大正5年(1916)の今日、雑誌『美術新報』第15巻第10号に、散文「寸言――シヤヷンヌについて――」を発表しました。

「シヤヷンヌ」は、ピエール・ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ。19世紀末に活躍したフランスの画家です。サロンに代表されるアカデミズムはもちろん、当時隆盛を極めた印象派とも一線を画した独自の画風で知られました。光太郎はその路線に共感を示しています。

新刊です。
2015/07/13 半藤一利著 ポプラ社 定価1,600円+税

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著者の半藤氏は、保守派の論客として知られていますが、靖国神社へのA級戦犯合祀には極めて批判的であったり、昭和天皇の戦争責任についても否定しなかったりなど、幼稚な右翼とは一線を画しています。今年は戦後70年ということで、書店の店頭に関連の特設コーナーなどが設けられていることが多いのですが、『日本のいちばん長い夏』など、氏の著書や編著なども平積みで並んでいます。

さらに氏の奥様は夏目漱石の孫にあたり、『漱石先生ぞな、もし』などの漱石関連の著書も多数あります。本書も七話に分かれているうちの「第三話 漱石『草枕』ことば散歩」がまるまる漱石がらみですし、他の章でも折に触れ、漱石の話が出てきます。

先週の『産経新聞』さんに書評が載りました。

【編集者のおすすめ】85歳の啖呵にしびれる 『老骨の悠々閑々』半藤一利著

 85歳にして、いまなお旺盛な執筆活動を続ける半藤一利氏。その創作の傍らには版画がありました。資料を読んだり原稿を書くことに疲れたりすると、版木に向かい、気持ちをリセットしていたそうです。打ち合わせでご自宅にお伺いしたときに、アトリエから持ってきてくださった秘蔵の版画の数々が実に素晴らしく、多くの方に見ていただきたいと思ったのでした。
 本書は「昭和」を描く作家として知られる氏が、博識と教養を駆使して近代文学、文化についてユーモラスに論じた書き下ろし原稿と単行本未収録の随筆、それに数々の版画が彩りを添えた永久保存版の一冊となりました。
 なんと言っても秀逸なのが、言葉遊び。夏目漱石や芥川龍之介、樋口一葉のあざやかな啖呵(たんか)をひきあいに出し、「語彙を豊かに、バシバシ重ねてやらないと」と喝采を浴びせ、昨今の紋切り型表現の多用や言葉狩りの風潮を風刺します。
 一方で、高村光太郎の詩「根付(ねつけ)の国」をひきつつ、今の日本人を“茶碗のかけら”のようだと評します。「何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本にある。歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけない」といいます。戦後70年、何かときな臭い情勢に、自らを老骨とうそぶく著者の軽やかな言葉が、時に重く響きます。(ポプラ社・1600円+税)
 ポプラ社一般書編集局 木村やえ


というわけで、先週も別件でご紹介した光太郎詩「根付の国」が取り上げられています。

  根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人


これとよく似ているのが、漱石や一葉、芥川が作品中に書いた啖呵や罵詈雑言だというのです。現代の社会通念上、不適切な表現も含みますが、原文を尊重し、そのままとします。

「ハイカラ野郎の、ペテン師の、イカサマ師の、猫被(ねこつかぶ)りの、香具師(やし)の、モモンガーの、岡つ引きの、わんわん鳴けば犬も同然な奴とでも云ふがいい」(『坊っちゃん』)

「仕かへしには何時でも来い、薄馬鹿野郎め、弱虫め、腰抜けの活地(いくじ)なしめ、」(『たけくらべ』)

「意地わるの、根性まがりの、ひねツこびれの、吃(どんも)りの、歯つかけの、嫌な奴め」(同)

「この悪党めが! 貴様も莫迦な、嫉妬深い、猥雑な、図々しい、うぬ惚れきつた、残酷な、虫の善い動物なんだろう。」(『河童』)

たしかに似ています。そして、こうした罵倒の仕方は、古典落語から学んだのではないかとのこと。

「揉みくちゃばばあ、ちり紙ばばあ、反故紙(ほごがみ)ばばあ、浅草紙ばばあ、落とし紙ばばあ、小半紙ばばあの端切らずばばあ、ってえんだ」(「山崎屋」)

光太郎も落語はよく聞いていたと推測できますし、『坊っちゃん』や『たけくらべ』も読んでいたと思われます。特に『坊っちゃん』の一節は、「ももんがあ」がかぶっています。ただ、明治期には「ももんがあ」を悪口に使う例はかなり一般的だったようではあります。

さて、半藤氏の筆は、「根付の国」から次のように展開します。

 この辛辣な批評、そのまま今の日本人に当てはまる。
 今年は戦後七十年、高村光太郎の詩に乗っかって、というわけではないが、猿の様な、狐の様な、自分の国の歴史を知らない日本人がまことに多くなった。大事なことは「過去」というものはそれで終わったものではなく、その過去は実は私たちが向き合っている現在、そして明日の問題であるということなのである。それなのに、何となく思考を停止し、単純で力強い答えにすがりつくという風潮が今の日本人にある。歴史としての戦争は遠くなったが、亡国に導いた戦争の悲惨さと非人間的残酷さ、もう二度としてはならないという思いと願いとは、決して消し去ってはいけないのである。

その通りですね。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月26日

昭和24年(1949)の今日、詩人・文芸評論家の野田宇太郎から野田の著書『パンの会』を贈られました。

郵便物の授受等を記録した「通信事項」というノートの記述です。

〔受〕市川二巳氏よりハカキ 菊池暁輝氏よりテカミ(写真同封朗読会) 麻野和子さんといふ人よりハカキ及遺稿集「柊」 野田宇太郎氏より「パンの会」小包

『パンの会』はこの年7月10日、六興出版社から刊行され、光太郎も参加した明治末年の芸術運動、「パンの会」についての詳細を記しています。光太郎はこの労作を高く評価し、対談などでこれに触れています。

2年後に増補版として『日本耽美派の誕生』と改題、刊行されています。

8月5日には野田への礼状を書きました。

新刊です。 
2015/07/30発行  森まゆみ著 晶文社発行 定価1,800円+税 

版元サイトより

地図を使って読み解く「谷根千」
本郷台地の加賀、水戸屋敷は東大へ。坂を下れば、根津の遊廓に。広大な上野・寛永寺は、明治になると上野公園へ。今も辿れる諏方明神の道、岩槻街道、中山道。かつて不忍通りには都電が走り、谷中銀座、安八百屋通りは人で賑わった。
 約25年間地域雑誌「谷根千」をつくってきた著者が、江戸から現代まで、谷根千が描かれた地図を追いながら、この地域の変遷を辿る。
また、上野の博覧会の思い出を語る人、関東大震災、戦災を語る人、たくさんの人が町に暮らしていた。その古老たちが描いた地図、聞き取り地図も多数収録。

【目次】002
1 地図でみる谷根千
   正保年間江戸絵図
    寛文五枚図
    江戸方角安見図鑑
    享保元年分道江戸大絵図  …etc.
2 谷根千手づくり地図
    森鴎外「雁」を歩く
    一葉の住んだ町完全踏査
    芸人と芸術家のまち
    駒込千駄木林町の地図   …etc.
3 家族の地図、なりわいの地図
    商店街の町並み
    大正時代の学校界隈
    母の出会った浅草の空襲   …etc.

地域雑誌『谷中根津千駄木』(以下、『谷根千』)を刊行されていた森まゆみさんの新著です。森さんのご著書は、以前、智恵子がらみで『『青鞜』の冒険 女が集まって雑誌をつくること』を紹介させていただきました。

今回のものは、『谷根千』編集の際に利用されたさまざまな地図――古地図や絵図、地元の方に描いてもらったものなど――を読み解くことで、この地の成り立ちや、ここで生きた人々の息遣いをたどるというコンセプトです。

最近、テレビでも「散歩」系の番組などが静かなブームです。その手の番組の元祖ともいえるテレビ東京さんの「出没!アド街ック天国」は根強い人気を誇っていますし、NHKさんの「ブラタモリ」は地誌学的に見ても優れた番組です。

そうした動きを背景にしての刊行でしょうが、これまた労作です。谷根千地域と縁の深い森鷗外、樋口一葉にはそれぞれ一章を割いていますし、千駄木林町にアトリエを構えた光太郎智恵子についても、「芸人と芸術家のまち」「駒込千駄木林町の地図」の章で言及されています。もちろん地図入りで。

そのあたりを読むと、意外な人物がすぐ近くに住んでいたことがわかったり、光太郎の作品に出て来る場所の位置がわかったり、近くに住んでいたことは知っていたものの正確な位置がわからなかった人物の家がわかったりと、実に有益でした。次に千駄木方面に行く際には、この書を片手に歩こうと思いました。


ところでこの書籍、特殊な造本になっています。

普通はカバーを外すと、背表紙がありますが、この書籍にはそれがないのです。

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そのため、広げた時に全体がフラットになります。

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通常の書籍だと、開いた際に「のど」の部分がくぼんでしまいます。その状態でコピー機やスキャナにかけると、中央は影ができたりピンぼけになったりします。

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しかし、この書籍はどのページを開いてもそうならないような造本になっているのです。これはすばらしい! と思いました。

公共図書館の場合、以前はカバー類を全て取り払って納架するところが多くありました。今でも地方の図書館では時々見かけます。その方法を採ると、この書籍は背表紙がないので困ります。老婆心ながら、そういうところはどうするのだろうと思いました。また、最近は、透明フィルムでカバーごと固定するケースも多くあります。これまた老婆心ながら、下手な固定の仕方をして、せっかくの造本法を台無しにしてほしくないものです。


さて、内容的にも、造本法も素晴らしい書籍です。ぜひ、お買い求めを。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月21日

昭和21年(1946)の今日、花巻郊外太田村の山小屋で、北向きの壁を抜いて窓を作りました。

当日の日記です。

午前小屋の北側の壁を幅二尺、たては横桟と横桟の間だけ切り抜き、小まいは残す。風のぬき窓なり。余程空気ぬけよくなり風もはいるやうになる。冬には外より丈夫に戸をたてるつもり。此窓なくては小屋の空気こもりて夏は不衛生と思ふ。
(略)
程なく床をとりてねる。十時頃。 北側の窓の為かすずしき風来るやうに感ぜらる。

こちらは『高村光太郎全集』第12巻掲載の、山小屋の図面です。これでいうと、「25」の窓がそれにあたります。

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追記 いったんこの記事を書いてアップロードした後、いろいろネットで検索していたところ、今夜のNHK総合さんの「歌謡コンサート」で光太郎智恵子に触れるという情報を得ましたので紹介します。 

NHK歌謡コンサート「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」

NHK総合 2015/07/21 20時00分~20時43分

テーマ「手紙で綴(つづ)る愛の名曲集」出演:五輪真弓、大竹しのぶ、クリス・ハート、柴田淳、新沼謙治、氷川きよし、増位山太志郎、森進一、八代亜紀.

番組内容
今回は、女優・大竹しのぶの手紙の朗読とともに名曲の数々を紹介。取り上げる手紙は川端康成、寺山修司、マリリン・モンローといった著名人から、戦争で亡くなった夫にあてたラブレターを毎日つづっている94歳の女性まで多岐にわたる。八代亜紀「愛の終着駅」、五輪真弓「恋人よ」、新沼謙治「嫁に来ないか」、氷川きよし「別れのブルース」、柴田淳「あなた」、クリス・ハート「やさしさに包まれたなら」ほか。

出演者 五輪真弓,大竹しのぶ,クリス・ハート,柴田淳,新沼謙治,氷川きよし,増位山太志郎,森進一,八代亜紀,
司会 高山哲哉,
演奏 三原綱木とザ・ニューブリード,東京放送管弦楽団


スタッフさんのブログに以下の記述がありました。

7月21日 手紙で綴る 愛の名曲集
いつもNHK歌謡コンサートをご覧頂き誠にありがとうございます。制作統括の茂山です。7月は文月、23日は ふみの日なので7月23日は「文月ふみの日」という記念日です。今週の歌謡コンサートはそれにちなんで、2月に放送し好評を得た「手紙で綴る愛の名曲集」の第2弾をお届けします。古今東西の有名・無名の恋文をご紹介しながら、愛の歌をお聴きいただきます。朗読は前回と同様、女優の大竹しのぶさんが担当、情感たっぷりに手紙を朗読してくれます。今回ご紹介する恋文は
川端康成から婚約者への手紙
寺山修司から恋人への手紙
マリリン・モンローからジョン・F・ケネディへの手紙
NHKのニュース番組でも取り上げられたことのある亡き夫に送った「70年目の手紙」
南極観測隊員の妻より夫へ送った電文
高村光太郎・智恵子夫妻の作品「恋文」より一部をご紹介
愛を込めた手紙から、愛の歌につながるのか、ご期待下さい。

昨日の『朝日新聞』さんの土曜版に光太郎の名が出ました。

歴史学者・酒井紀美氏の連載「酒井紀美の夢想の歴史学」で、昨日の回のサブタイトルは「漱石の夢十夜 近代日本の迷いを映す」。

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「夢十夜」は明治41年(1908)の作。漱石が、自分の見た十種類の夢の内容を綴るという形で進むオムニバス形式の小説です。特に有名なのが「第六夜」。鎌倉時代の仏師・運慶が、現代(明治)の東京で、仁王像を彫っている場面を見たという夢です。

当方、『朝日新聞』さんは購読しておりますが、紙面を見る前にネットのデジタル版で「高村光太郎」のキーワード検索を掛け、この記事に光太郎の名が出て来ることを知りました。

読み進めると、夢の中の運慶が仁王像を彫る場面が引用されていました。

運慶はまったく何もちゅうちょすることなく悠々と鑿(のみ)と槌(つち)をふるって、仁王の顔のあたりを彫り抜いていく。「能(よ)くああ無造作に鑿を使って、思うような眉や鼻が出来るものだな」と感心して独りごとを言うと、隣にいた若い男が「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋(うま)っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ」と評した。

ここまで読み、光太郎の木彫に話をつなげるのかな、と思いました。光太郎も昭和2年(1927)、雑誌『大調和』に発表した「偶作十五篇」という連作の中で、次のように謳っています。

木を彫ると心があたたかくなる。
自分が何かの形になるのを、
木は喜んでゐるやうだ。

ところが、さにあらずでした。酒井氏の稿は、阿部昭による岩波文庫版『夢十夜』の解説に言及され、そこに光太郎が出て来ます。

岩波文庫『夢十夜』の「解説」で阿部昭は、「旧時代の重荷を背負いつつも、新しい教養の先頭にいた知識人の一人として、西洋という異質の文化の吸収に追われざるを得なかった」漱石を、「内と外とから追われる人間」「ロンドンの街角で、ふと鏡に映った一寸法師、醜い黄色人種」ととらえた。そして、高村光太郎の詩の「魂をぬかれた様にぽかんとして 自分を知らない、こせこせした 命のやすい 見栄坊な 小さく固まつて、納まり返つた 猿の様な、狐(きつね)の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な」という、たたみかけるような表現を引用しながら、明治という時代の不安定な日本人の姿を浮かび上がらせた。

引用されているのは、明治44年(1911)に雑誌『スバル』に発表された「根付の国」です。

   根付の国

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

制作は明治43年12月です。前年には米英仏への3年余の留学から帰朝した光太郎。彼地では日本との文化的落差に打ちのめされ、帰ったら帰ったで、我が国の旧態依然の有様に絶望し、さらに手を携えて共に新しい彫刻を日本に根付かせようと考えていた、盟友・荻原守衛を失った時期でした。

漱石にしろ、光太郎にしろ、欧米留学を経験し、帰国後の日本に危機感を覚え、いわば目覚めてしまった者の悲劇を体現したといえるのではないでしょうか。その点は森鷗外にも通じるような気がします。

この点、光太郎と同時期か、やや遅れての留学生の、光太郎からパリのアトリエを引き継ぎ、ルノアールに師事し、ピカソやマチスと親交を深めた梅原龍三郎、「レオナール・フジタ」と称され、活動の場自体を西洋に置いてしまった藤田嗣治(美術学校西洋画科での光太郎の同級生)などとの相違は興味深いところです。ただし、梅原にしても藤田にしても、後にまた違った形での日本回帰がみられるのですが。

酒井氏の稿は、以下のように結ばれます。

夢は自分の外から神仏のメッセージとして届けられるのだとする古い見方や考え方を捨て去って、自分の心の奥深いところで過去の記憶が複雑にからまりあいながら夢が生まれてくるのだと確信できるようになるまで、近代日本の人々は、夜ごとに訪れる夢に対して、不安と混迷をかかえこみながら歩まねばならなかった。

現代のこの国に生きる我々も、近代の人々とは違った不安と混迷を抱えて生きています。また大きな曲がり角にさしかかった気配の昨今、未来に「夢」を持てる国であってほしいものですが……。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月19日

昭和26年(1951)の今日、花巻郊外太田村の昌歓寺に「放光塔」の文字を書く約束をしました。

当日の日記です。

夕方神武男氏他一名来訪、白い酒一升もらひ、その場でのむ。浅沼宮蔵とかいふ人の葬式だつた由。昌歓寺に立つ放光塔といふ字をかく約束す、

昌歓寺は時折光太郎も足を運んでいた寺院で、前年には、毎年、花巻町の松庵寺で行っていた光雲・智恵子の法要を、その年だけ昌歓寺に頼んでいます。昨年、光太郎に関する文書が出て来て驚きました。神武男は当時の住職です。

この「放光塔」の文字がこの後どうなったか不明です。次に花巻に行く際には、そのあたりも調べてみようと思っております。

昨日の『朝日新聞』さんに、大きな広告が出ました。

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最近じわじわと話題になっている篠田桃紅さんの著書です。

篠田さんは大正2年(1913)のお生まれで、おん年102歳。墨を使った抽象芸術家として、いまだ現役という方です。アメリカを拠点に活動されていた時期もあったそうです。

こちらは新刊ではなく、昨年6月の刊行ですが、やはりじわじわと部数を伸ばし、広告にあるとおり13万部を突破したとのこと。

この中で、光太郎にちらりと触れていらっしゃいますが、それを知ったのは刊行後しばらく経ってからでしたし、あくまで「ちらり」ですので、購入せずにいました。

しかし、他の近著でも光太郎にちらりと触れて下さっていることもわかり、さらに朝日さんに大きな広告も出たので、近著共々購入して参りました。
篠田桃紅著 集英社(集英社新書) 2014年6月17日初版 新書版192ページ 定価700円+税

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篠田桃紅著 幻冬舎 2015年4月9日初版 B6変形版169ページ 定価1,000円+税

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『百歳の力』は新書の売り場に平積み、『一〇三歳になってわかったこと』は「話題の本」的な特設コーナーに置いてありました。ちなみに「一〇三歳」というのは数え年です。

それぞれ帯には「緊急大増刷!」(『百歳の力』)、「40万部突破 !!」(『一〇三歳になってわかったこと』)の文字が躍っており、ともに注目されているというのがわかります。実際、おのおのの奥付を見ると『百歳の力』は「二〇一四年六月二二日第一刷発行 二〇一五年六月二一日第六刷発行」、『一〇三歳になってわかったこと』は「2015年4月10日 第1刷発行  2015年6月26日 第11刷発行」となっています。あやかりたいものです(笑)。

さて、自宅兼事務所に帰って、双方を斜め読みしました。やはりどちらも光太郎にちらりと触れて下さっていました。

『百歳の力』は「はじめに」の中で。

 若いときには、いまのような仕事をしているとは一切予想はついていなかったし、予定もしなかった。予想も予定もない、いきあたりばったり。出たとこ勝負でずっとやってきました。高村光太郎の詩「道程」と同じです。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 ほんとにそう、いつも高村光太郎の詩を心に思い浮かべて生きてきた。私の前に道はない。誰かが歩いた道を私は歩いているんじゃない。先人のやってきたことをなぞっていない。でもいきるってそういうことです。
 前半は私にあてはまりますよ。でも、後半は私にあてはまるとは思わない。私の後ろに道などないですよ。なくてかまわないと思っているんです。道というほどのものができてなくても、作品というものが残っている。それはある程度残っている。どこかに、ある。
 人が敷いてくれた道をゆっくり歩いていけばいいというような一生は、私の性格には合わないんだからしようがない。私の前に道がないのは自分の性格ゆえの報い。そう思って受け入れてきました。

最後の段落は帯文にも印刷されていました。

この部分を読んで、智恵子が画家の津田青楓に語ったという次の言葉を思い起こしました。

世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの。(津田青楓『漱石と十弟子』 昭和24年=1949)


『一〇三歳になってわかったこと』でも「道程」が引用されています。

 百歳を過ぎて、どのように歳をとったらいいのか、私にも初めてで、経験がありませんから戸惑います。
 九十代までは、あのかたはこういうことをされていたなどと、参考にすることができる先人がいました。しかし、百歳を過ぎると、前例は少なく、お手本もありません。全部、自分で創造して生きていかなければなりません。
(略)
 これまでも、時折、高村光太郎の詩「道程」を思い浮かべて生きてきましたが、まさしくその心境です。

 僕の前に道はない
 僕の後ろに道は出来る

 私の後ろに道ができるとは微塵も思っていませんが、老境に入って、道なき道を手探りで進んでいるという感じです。
 これまでも勝手気ままに自分一人の考えでやってきましたので、その道を延長しています。日々、やれることをやっているという具合です。

 日々、違う。
 生きていることに、
 同じことの繰り返しはない。

  老いてなお、
  道なき道を手探りで進む。

この部分からは、戦後、光太郎が花巻郊外太田村の山小屋で暮らしていた頃、地元の太田中学校に贈った次の言葉を想起しました。

心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する

無理矢理ですかね(笑)。


ところで、2冊を斜め読みした中で、篠田さんが女学校時代、短歌を中原綾子に師事していたという記述を見つけ、これは存じませんでしたので、驚きました。中原は光太郎と交流の深かった歌人です。

その他、光太郎と交流のあった面々の名前もあちこちに現れます。篠田さんご自身とも交流があったところでは、三好達治や草野心平など。その他、直接のお知り合いではないようですが、森鷗外や夏目漱石、与謝野晶子に太宰治、フランク・ロイド・ライトとか正岡子規などにも言及されています。

驚いたのは、女学校時代の先生が北村透谷未亡人だったとか、芥川龍之介をみかけたことがあるとか……もはや歴史の生き証人でもありますね。

これからゆっくり熟読いたしますが、斜め読みだけでも、素晴らしい年令の重ね方をされてきた方の珠玉の言葉が目にとまります。

皆様もぜひお読み下さい。

追記・篠田さん、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん他ご出演)の題字を揮毫なさっていました。

【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月16日

昭和19年(1944)の今日、『週刊朝日』に散文「全国民の気合-神性と全能力を発揮せよ-」が掲載されました。

とても読むに堪えない文章ですが、最終段落のみ引用します。

 今度の世界大戦は科学の戦ひだといはれる。科学進展のもとはやはり科学者の着実な自信にある。日本には日本独特の科学の考へ方が生まれるであらうし国民の神性はこの点にも必ず現れる。日本的構想による着眼から必ず彼らの夢にも思はぬ進歩発展が遂げられるに違ひない。科学、芸文、技術、其他々々。それらがすべて一緒一体となつて全国民の気力をますます充たしめ、全国民の純一な気合が期せずして最高の一点に集中する時、御稜威のもと、皇軍は必ず彼等に最後の止めをさすであらう。

今日、戦後の安全保障政策の一大転換となる安全保障関連法案が衆議院を通過するものと思われます。またこうした文章が各メディアを賑わす日が近いのかも知れません。

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