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今週火曜の青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム「天鐘」。光太郎智恵子に触れて下さいました。 

天鐘(8月2日)

 1970年代の東京で学生時代を過ごした。高度経済成長の恩恵と引き替えにスモッグが空一面を覆い、目に染みた。高村光太郎の『智恵子抄』同様「東京には空がない」と思った▼あの頃、東京は日本の縮図であり、地方はその大都会に憧れ、模倣した。東京は日本を代表する夢のモデル都市であった。都政の変遷をたどれば戦後わが国の政治や経済、社会がまるで手に取るように分かる▼初代都知事の安井誠一郎氏は戦後の復興、2代東龍太郎氏は東京五輪に向け、首都高などインフラ整備に尽力。3代美濃部亮吉氏は成長の裏に隠された公害問題と闘った▼4代鈴木俊一氏は財政再建、5代青島幸男氏は都市博の中止、6代石原慎太郎氏はディーゼル車の規制、7代猪瀬直樹氏は東京五輪招致を果たしたが、政治とカネで沈没。8代舛添要一氏は承知の通りである▼復興から成長、産業発展と公害、財政逼迫に再建と一定の因果で動いてきた。続く初の女性都知事、小池百合子氏は「見たこともない都政」を宣言。崖から飛び降りた度胸の持ち主が何を見せるのか、期待したい▼往時は東京が始めると地方がすぐ真似た。そんな一例に「歩行者天国」がある。46年前の今日、銀座や新宿などで始まった。当時の美濃部知事が「東京に青空を」とスモッグの元凶である車を締め出した。9代小池氏が期待を乞う都政とは―地方も大いに注目である。


当方も記者の方と同じく1970年代、東京に住んでおりました。といっても幼稚園・小学校低学年の頃で、まだ「高村光太郎」の名は知りませんでした。確かに当時は「光化学スモッグ注意報」あるいは「警報」が頻繁に出、そういう時は決まって深呼吸すると気管が痛いと感じたものです。

その反面、当時住んでいたのは都下多摩地区で、まだ宅地化はそれほど進んでおらず、田んぼにはドジョウやタニシやザリガニ、森にはミヤマクワガタという状況で、今考えるとアンバランスでした。PCのストリートビューで住んでいたあたりを見ても、もはや別の町のようになってしまっています。

ただ、「スモッグ」という単語がもはや死語となりつつあるのは、いいことだと思います。

光太郎は東京生まれの東京育ち。元々先祖は鳥取藩士だったそうですが、曾祖父で幕末文久年間に亡くなった富五郎は八丁堀の鰻屋、祖父の兼吉は浅草の露天商、そして父・光雲は仏師と、絵に描いたような庶民階級、いわゆる「江戸っ子」でした。

昭和20年の空襲で駒込林町のアトリエを焼かれるまで、海外留学の期間を除いて、光太郎は東京以外に居住したことはありませんでした。それが疎開のため移った岩手で足かけ8年を過ごすうち、清冽な自然の中での生活にすっかりはまり、戦後のある種むちゃくちゃな復興をする東京を毛嫌いするようになりました。

下記は、昭和27年(1952)の『週刊朝日』に載った、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、8年ぶりに上京した光太郎へのインタビュー「おろかなる都 光太郎東京を叱る」です。

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同じ昭和27年(1952)には、こんな詩も作っています。

   報告   
004
 あなたのきらひな東京へ
 山からこんど来てみると
 生れ故郷の東京が
 文化のがらくたに埋もれて
 足のふみ場もないやうです。
 ひと皮かぶせたアスフアルトに
 無用のタキシが充満して
 人は南にゆかうとすると
 結局北にゆかされます。
 空には爆音、
 地にはラウドスピーカー。
 鼓膜を鋼で張りつめて
 意志のない不生産的生きものが
 他国のチリンチリン的敗物を
 がつがつ食べて得意です。
 あなたのきらひな東京が
 わたくしもきらひになりました。
 仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう、
 あの清潔なモラルの天地で
 も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。


画像は岩手から上京した際に上野駅で撮られたショットです。「長靴で出て来るか」という感じですね(笑)。東京もなめられたものです。

しかし、光太郎、再びの東京暮らしをけっこう満喫していました。草野心平ら、ある種の「悪友」たちと飲み歩いたり食べ歩いたり、ストリップを観に行ったり……。東京に対する悪口雑言も、東京を愛するが故の箴言警句だったのかもしれません。

乙女の像完成後に、宣言通り一時的に岩手に帰りましたが、身体は結核でぼろぼろになっていたため、結局、設備の整った東京で療養せざるを得ず、亡くなったのも東京でした。

さて、「天鐘」にあるとおり、新都知事の誕生です。光太郎がもし現在の東京を見たら、「○○なる都」、どんな形容動詞を使うのでしょうか。


【折々の歌と句・光太郎】

じつとしてこれやこの木の朽つるまで木ぼりの蝉はあり経らんとすらん

大正13年(1924) 光太郎42歳

滋賀県彦根市からイベント情報です。 

彦根市立図書館創設100周年記念事業 プレミアム講演会 「彦根で育った詩人 高祖 保~その生涯と作品~」

日  時 : 2016年8月7日(日)13:00~
場  所 : 彦根市立図書館  滋賀県彦根市尾末町8番1号
講  師 : 外村彰氏 ( 国立呉工業高等専門学校 教授)
料  金 : 無料
定  員 : 50名(申込先着順)  ※申込受付 7/8(火)~
問い合わせ: 彦根市立図書館  TEL.0749-22-0649

高祖保は明治43年に生まれた詩人で、彦根尋常高等中学校(現彦根東高校)で学び、高村光太郎や堀口大学 など著名な詩人と交流し、『椎の木』『雪』『文藝汎論』などに特集を数多く投稿しています。戦時中34歳の若さで永眠されました。
高祖は8歳から旧制彦根中学(現・彦根東高校)を経て大学に進学するまで、母の郷里・彦根で過ごしました。
本講演では、高祖保の文学・人物について語っていただきます。


高祖保(こうそ・たもつ)は岡山県出身の詩人。『希臘十字』(昭和8年=1933)、『雪』(昭和17年=1942)などの詩集がある他、光太郎も寄稿した雑誌『門』を主宰しました。

昭和18年(1943)には、光太郎の年少者向け詩集『をぢさんの詩』の編集を行いました。平成25年(2013)の明治古典会七夕古書入札市で、光太郎から高祖に贈られた識語署名入りの『をぢさんの詩』他がひょっこりと出て来、今年の同会でも出品されています。

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今回の講演会場である彦根市立図書館さんにも、光太郎から高祖に宛てた書簡が1通所蔵されており、5年ほど前に拝見に伺いました。昭和19年(1944)に刊行された高祖生前最後の詩集『夜のひきあけ』に関する内容でした。高祖はこの年、ビルマへと召集され、翌年同地で戦病死しています。

また、高祖の出身地、岡山にも光太郎から高祖宛の書簡が遺っているようですが、そちらを収蔵している施設が今一つよくわかりません。


こういったマイナーな文学者を取り上げての講演会。こういう取り組みこそ大切だと思います。頭が下がります。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

飛びたつとき吾が手を掻きてゆきし蝉の足の力の忘られなくに
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日に引き続き、新刊情報です。 
2016/08/02   曽我貢誠・佐相憲一・鈴木比佐雄 編 コールサック社 定価1,500円+税

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詩人、作家、教育関係者などによる200人詩集。いまを生きる多感な少年少女へ、そっとエールをおくりたい。「教えるとは希望をともに語る語ること」(ルイ・アラゴン)。誰でもいつかは少年少女、そんな視点で心のうたをお届けします。学校で、塾で、電車の中で、家庭で読んでいただきたい1冊です。

目次
 はじめに 未来を切り開くために 曽我貢誠
 第一章 学ぶ
 第二章 歩む
 第三章 立つ
 第四章 こころ
 第五章 いのち
 第六章 希望
 第七章 家族の中で
 第八章 自然の中で
 第九章 世界の中で
 第十章 未来
 解説 『少年少女に希望を届ける詩集』 人間そのものを思うこと 佐相憲一 
 解説 少年少女のしなやかな心が語り合える詩集になることを願って
  『少年少女に希望を届ける詩集』に寄せて 鈴木比佐雄
 おわりに 曽我貢誠

編者お三方のうち、曽我貢誠氏は詩人で、連翹忌の御常連です。鈴木比佐雄氏は同社の社長さん。今年の連翹忌にご参加下さいました。佐相憲一は詩人、評論家、編集者。

広く募集した書き下ろしの稿と、光太郎などの物故詩人の作品が入り交じる構成になっています。詩が根幹ですが、エッセイ的な散文も多く収録されています。

ご存命の有名どころでは、谷川俊太郎氏、覚和歌子氏、あさのあつこ氏、落合恵子氏、新川和江氏、水谷修氏、尾木直樹氏、浅田次郎氏、小山内美江子氏、明石康氏など。

物故詩人としては、山村暮鳥、武者小路実篤、宮沢賢治、金子みすゞ、吉野弘、島崎藤村、河井酔茗、高田敏子、宗左近、坂村真民などにまじって光太郎も。光太郎の作品は、『道程』と『冬が来た』が掲載されています。

また、今年の連翹忌で、募集のチラシが配られたため、御常連の皆さんで、それに応じられた方々がいらっしゃいます。作曲家・野村朗氏、詩人・野澤一のご子息の野澤俊之氏。当方は、忙しさに取り紛れて欠礼いたしました。

上記2枚目の画像(裏表紙)で、寄稿者全員のお名前が確認できます。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

いつしんになきどよもせば袋もて採る気になれず蝉の腹を見る

大正13年(1924) 光太郎42歳

新刊、といっても4月の刊行なので3ヶ月ほど経ってしまっていますが、最近まで気付きませんでした。 
2016/04/15  藤田尚志・宮野真生子 編 ナカニシヤ出版 定価2,200円+税

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「愛」の一語が秘めた深遠な思想史の扉を開く。よりアクチュアルに,より哲学的に,何より身近なテーマを問うシリーズ、第1巻。

目次
Ⅰ 西洋から考える「愛」
  第1章 古代ギリシア・ローマの哲学における愛と結婚 (近藤智彦)
     ――プラトンからムソニウス・ルフスへ――
 第2章 聖書と中世ヨーロッパにおける愛 (小笠原史樹)
 第3章 近代プロテスタンティズムの「正しい結婚」論? (佐藤啓介)
     ――聖と俗、愛と情欲のあいだで――
 第4章 恋愛の常識と非常識 (福島知己)
     ――シャルル・フーリエの場合――
Ⅱ 日本から考える「愛」
  第5章 古代日本における愛と結婚 (藤村安芸子)
      ――異類婚姻譚を手がかりとして――
 コラム 近世日本における恋愛と結婚 (栗原剛)
      ――『曾根崎心中』を手がかりに――
 第6章 近代日本における「愛」の受容 (宮野真生子)


編者のお二方は、それぞれフランス近現代思想、日本哲学史を専攻され、九州の大学で教鞭を執られている研究者です。

最初にこの書籍の情報を目にしたとき、「哲学」の文字から、小難しい理屈の羅列かと思いましたが、さにあらず。前半は西洋、後半は日本に於いて、「愛」がどのように捉えられてきたのか、その思想史的な考察……というと堅苦しいのですが、様々な実例を引きながら(近年の映画『エターナル・サンシャイン』や『崖の上のポニョ』まで含め)、いわば帰納的に「愛」の在り方が、かなりわかりやすく説かれています。

特に日本編は興味深く拝読しました。『古事記』や『源氏物語』、『曽根崎心中』、夏目漱石の『行人』、そして『智恵子抄』。

キリスト教の「love」の概念や、中国に於けるどちらかというと道徳的な「愛」の影響を受けつつ、対象と一つになることを理想とする恋愛の形の出現、そして一つにならねばならない、というある種の強迫観念がもたらした光太郎智恵子の悲劇、といった流れで、「なるほど」と首肯させられました。

本書でも、光太郎智恵子の悲劇の考察だけを取り出すのであれば、ほぼこれまでにも様々な論者が述べてきたことの焼き直しのような感がありますが、いわば「近代恋愛史」的なマクロ視点の中にそれを置くことで、また違った見方で見えてきます。ある意味、光太郎智恵子の悲劇は、「近代恋愛史」という壮大なパズルの無くてはならないピースのように、起こるべくして起こった、というような……。

版元のナカニシヤ出版さん。京都の書肆です。こうした真面目な、しかしはっきりいうと商業的にはどうなのかな、という出版に真摯に取り組まれる姿勢には敬意を表します。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

鳴きをはるとすぐに飛び立ちみんみんは夕日のたまにぶつかりにけり

大正13年(1924) 光太郎42歳

先週、岩手盛岡に2泊3日で行っておりましたが、その間に当ブログの閲覧数がまた跳ね上がりました。帰ってきてからアクセス状況の解析ページを調べてみると、『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』を刊行された末盛千枝子さん関連で、当ブログにたどり着かれた方がたくさんいらっしゃいました。

5月にも同じことがあり、その際には『日本経済新聞』さんと『朝日新聞』さんに書評が載った直後でした。そこで、また何かのメディアで取り上げられたのだろうと思い、そちらも調べてみました。

すると、まず7/12(13日未明)、NHKさんの「ラジオ深夜便」に末盛さんがご出演、「困難が私を導く」と題されてお話をされていました。

末盛千枝子さん「困難が私を導く」<7月12日(火)深夜放送>

末盛千枝子さんは、1986年に国際的な児童図書の展示会「ボローニャ国際児童図書展」でグランプリを受賞、その後、皇后・美智子さまの講演録やターシャ・テューダーの絵本を手がけるなど編集者として活躍してきました。しかしその陰では、夫の急死や経営していた出版社の閉鎖、移住した岩手で起きた東日本大震災など、さまざまな困難を乗り越えてきました。この「困難」こそ、自分の人生を導いてきた原動力だという末盛さんに、2回にわたってお話を伺いました。その1回目です。

こちらは2回に分けてのオンエアだそうで、2回目も近々放送されるでしょう。番組情報に気をつけていたいと思います。


それから、『週刊文春』さんでも取り上げられていました。

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文春さんというと、スキャンダルというイメージになりつつありますが、もちろんそういうわけではなく「新 家の履歴書」という連載で4ページにわたって末盛さんの紹介でした。

『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』についても触れられており、さらにその中で語られている光太郎との縁についても記述がありました。

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さかのぼって、7/10には、『産経新聞』さんにも書評が出ています 

【聞きたい。】末盛千枝子さん『「私」を受け容れて生きる-父と母の娘-』 世の中の良い所を見続ける

005「私にとってはそんなに大変なことではなかった。読んだ方の反応に、逆にびっくりしています」と末盛千枝子さん。皇后さまの講演録『橋をかける』や、皇后さまが英訳されたまど・みちおさんの詩集『どうぶつたち』などを手掛けた絵本出版社「すえもりブックス」の元代表だ。自伝的エッセーである本書では『橋をかける』にまつわるエピソードや、詩人の高村光太郎との交流、家族の思い出が語られる。
 大学卒業後、絵本出版社に勤めたがキャリア志向はなく結婚退社。しかし、夫は8歳と6歳の息子を残して急死。生来の難病を抱える長男はスポーツでのケガで下半身不随に。脳出血で倒れた再婚相手の看護、出版社の経営難など、“激動と波乱の人生”だが、語り口は非常に静かだ。表題にある「受け容(い)れて」生きることの尊さが胸にしみる。
 「自分の大変さではなく、世の中の良い所を見続けることがとても大事」と話す。例えば、天気の良い秋の日、長男がいるリハビリ専門病院では、生涯忘れられない風景を見たという。「息子の入院仲間で金色の髪をしたお兄さんがね、光り輝くようなイチョウの木の下で、2、3歳の子供と奥さんと一緒にお弁当を広げていた。病院でのピクニックは、本当に美しくまるで聖家族のよう。大変な最中でも、こういうことに出合う幸せがある」
 会社をたたみ平成22年、長男らとともに父の故郷の岩手県に居を移した。翌年の東日本大震災後、被災した子供たちに絵を届ける活動を開始。懸命に本を求める保育園児の姿に感動した。「ある子は、流されてしまった自分の大好きな絵本を見つけ『あった!』と、その本を抱きしめた。本好きの仲間と出会うのが何よりうれしい」。そしてこう言葉を接いだ。「困難があったからこそ今がある。いろんなことをこれで良かったと思える」。ほほ笑む末盛さんがとてもまぶしかった。(新潮社・1600円+税) 村島有紀

【プロフィル】末盛千枝子
 すえもり・ちえこ 昭和16年、東京生まれ。父は彫刻家の舟越保武。慶応大卒。63年「すえもりブックス」を設立。「3・11絵本プロジェクトいわて」代表。


『毎日新聞』さんと『読売新聞』さんでも取り上げて下さいましたし、NHKさんの、中江有里のブックレビュー・6月の3冊」でも紹介されています。

まだ読まれていない方、ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

いさましき夏の遠海(とほうみ)雲きれぬををしく晴れよ今は汝(な)が世ぞ
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日は「海の日」だそうで。しかし関東はまだ梅雨明けせず、今一つ青い空、もくもく白くわきあがる入道雲、という感覚になりませんね……。

2泊3日の行程を終え、岩手から千葉に帰って参りましたので、レポートです。まずは一昨日、花巻の宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催中の「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」。午後2時過ぎ、東北新幹線新花巻駅に着き、コインロッカーに荷物を放り込み、歩くこと20分ほど。同じエリアの宮沢賢治記念館さん、花巻市立博物館さんともども、何度か訪れた場所でした。

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これには驚きました。

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さて、館内へ。展示スペースはあまり広くなく、こぢんまりした展示でしたが、内容の濃いものでした。

黄瀛は中国人の父と日本人の母を持ち、日本で青少年期を過ごした詩人です。光太郎の知遇を得、草野心平を光太郎に紹介する橋渡しを務めたり、ここ花巻で晩年の宮沢賢治に会ったりしたこともあります。戦中戦後は日中戦争や国共内戦、さらに文化大革命の嵐に翻弄され、長い獄中生活を送ったりもしましたが、晩年は名誉回復、日中の文学的交流の架け橋となりました。

黄瀛をメインにした企画展というのは、おそらくこれが初めてなのではないかと思われます。黄瀛の人となり、文学的功績などに関わる様々な展示がなされ、光太郎が序文を書いた黄瀛詩集『瑞枝』や、光太郎作の黄瀛像を表紙に使った雑誌『歴程』など、興味深く拝見しました。

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また、賢治と黄瀛の作品が、同じ雑誌に並んで掲載されているというケースが何度かあり、お互い影響しあっていたような点も見られ、ほう、と思いました。

何より、解説パネルが充実しており、感心いたしました。また、拝観後に購入した図録に、そのパネルの文章がそのまま使われていて、これは貴重な資料になります。モノクロ印刷と云うこともあって、たった300円。これは非常に得をした気分です。

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これを機に、もっともっと黄瀛について、世に知られるようになって行ってほしいものです。

上記画像の通り、10月15日(金)までと、長い開催期間になっています。ぜひ足をお運びください。


その後、また歩いて新花巻駅へ。ちょうど釜石線の快速はまゆり号盛岡行きがあり、新幹線を使うより安く済みました。盛岡についてはまた明日。


【折々の歌と句・光太郎】

おのづから雲こごりきて夏の夜(よ)の明神嶽の尾根をはなれず

                                                                                  
制作年不詳

やはり草枕の覊旅歌。「明神嶽」は信州上高地付近に聳える山ですので、智恵子と共に上高地を訪れた大正2年(1913)頃の作かも知れません。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌『トンボ』の第2号が届きました。


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PR誌、というよりは、同社と関連の深い皆さんによる同人誌的な感じなのかも知れません。

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M06uGl0g目次の最後、「詩歌三評 野沢一詩集 木葉童子詩経」で、光太郎に触れられています。
野沢一(はじめ)は、1904(明治37)年、山梨県出身の詩人。昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。光太郎からの返信はほとんどなく、ほぼ一方通行の書信です。ちなみに光太郎からの返信2通は、一昨日訪れた山梨県立文学館さんに所蔵されています。

昭和9年(1934)、野沢は丸太小屋生活の中での詩篇をまとめ、『木葉童子詩経』として自費出版、昭和51年(1976)と、平成17年(2005)に、文治堂書店さんから再刊されました。

今回、『トンボ』に載ったのは、この再刊本を元にした三氏の野沢評。目次には詳細が記されていませんが、酒井力氏の「『木葉童子詩経』をよむ」、曽我貢誠氏で「森と水と未来を見つめた詩人」、古屋久昭氏による「自然と対話し愛した詩人」。それぞれ、光太郎との沢の交流について触れて下さっています。

そのうちの曽我氏から、『トンボ』が送られてきました。多謝。
曽我氏と古屋氏、それから野沢の子息の野沢俊之氏は、連翹忌にご参加いただいております。

さらに、平成25年(2013)、坂脇秀司氏解説で刊行された『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』に関する記述も。坂脇氏も連翹忌にご参加いただいたことがありました。


こうした光太郎と縁のあった文学者と光太郎のつながりに関しても、まだまだいろいろ知られていない事実等がたくさんあることと思われます。それぞれの研究者の方々との連携を図りたいものです。

そうした光太郎と縁のあった文学者の一人、詩人の黄瀛をメインにした、宮沢賢治イーハトーブ館さんの「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を、今日、拝見します。

 今日から2泊3日で、花巻経由の盛岡行きです。今日は花巻に寄って黄瀛展を拝見し、盛岡に。明日は盛岡少年刑務所さんで行われる第39回高村光太郎祭に出席し、講演をして参ります。一般には非公開のイベントですので、ブログではご紹介しませんでしたが、帰ってきましたらレポートいたします。明後日はまた花巻で途中下車、花巻高村光太郎記念館さんに立ち寄ろうと考えております。


【折々の歌と句・光太郎】

きらきらと焼野に長き線路かな    明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学の末期、スイス経由イタリア旅行中の作です。季節的には3月中頃と考えられ、「焼野」は冬枯れた野原という意味なのでしょうが、ゆらゆらと陽炎の立つ焼け付くような野原、と捉えてもいいように思われます。

盛岡、花巻となると、自家用車での移動ではきついので、長い線路の旅になります。この句をしのびつつ、行って参ります。

昨日は、甲府市の山梨県立文学館さんに行っておりました。


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まずは同館にて先週末から開催中の「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」を拝見。

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大正のはじめ、賢治と盛岡高等農林学校時代の同級生で、文芸同人誌『アザリア』の仲間だった、山梨出身の保阪嘉内との交流に的を絞った展示でした。

比較的長命だった光太郎と異なり、戦前に数え38歳で歿した賢治ですので、遺っている書簡は多くありません。そうした中で、今回の展示では保阪に宛てた73通もの賢治書簡が展示されていました。俗な話になりますが、まず最初に、市場価格に換算したらどうなるのだろう、と思ってしまいました。一昨日、明治古典会さんの七夕古書第入札市一般下見展観を見ていたせいもあるでしょう。

しかし、賢治独特の丸っこい文字を読み進むにつれ、だんだん二人の交流の深さに引き込まれていきました。賢治と保阪は、賢治童話の代表作の一つ「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラに比定されています。

さらに、常設展的な展示も拝見。現在は賢治同様、光太郎と縁の深かった与謝野晶子をはじめ、山梨出身だったり、山梨との縁が深かったりした文学者に関しての展示でした。

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こちらも充実した展示で、興味深く拝見しました。

展示を見終わり、午後1時30分から、特設展の関連行事である講演会「宮沢賢治と保阪嘉内」。講師は渡辺えりさんです。


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えりさんは、平成24年(2012)に初演の舞台「天使猫」で、賢治を主人公とした幻想的な演劇を作られ、そこに保阪嘉内も登場。その戯曲の制作のため、保阪家の皆さんとのご交流がおありだということで、今回の講演が実現しました。

さらにいうなら、そもそもえりさんも、山梨県立文学館のスタッフの皆さんも、当会主催の連翹忌にご参加下さっており、そのご縁もあるかと存じます。また、先月、盛岡で行われた啄木祭での、えりさんのご講演は欠礼しましたので、これは行かねば、というところもありました。

当方、えりさんのご講演拝聴は三度目でしたが、いつもながらに巧みな話術にひきこまれました。お話は、賢治や嘉内の人となり、保阪家の方々との交流などはもちろん、生前の光太郎を知るお父様・渡辺正治氏との関わりから、光太郎にもかなりの時間を割いて下さいました。お父様は賢治の精神にも強く惹かれていたということもあり、光太郎からお父様への書簡(花巻高村光太郎記念館にご寄贈下さいました)には「宮沢賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでゆくやうに見えます」との一節があったりもします。

さらに、お父様が戦時中、武蔵野の中島飛行機の工場にお勤めだった頃、空襲で亡くなったご同僚のリーダーが山梨の方で、最近になってお父様とその墓参が実現したお話などもありました。

終演後のえりさん。サイン会の合間にお話をさせていただきました。

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さて、「特設展  宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」は来月末まで開催されています。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

飄々と富士の御霊(ミタマ)を訪ひ行けば白雲(ハクウン)満た我にしたがふ
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「満た」は「あまた」と読みます。この歌が詠まれたと推定される明治32年(1899)、光太郎は祖父の兼松とともに富士登山を果たしています。

昨日、帰りがけには雄大な姿が拝めました。

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当方、甲府に4年近く住んでいました(今回初めて知りましたが、保阪嘉内は高校の先輩でした)が、最近、甲府に行くたび、甲府から見える富士山はこんなにも大きかったっけ、という感覚です。

昨日の『朝日新聞』さんの「天声人語」で、当会の祖・草野心平が愛した福島川内村の天山祭が紹介されました。 

天声人語 詩の響きわたる村

「歴程」は創刊80年を超す詩誌である。年ごとの「藤村(とうそん)記念歴程賞」の受賞者には金子光晴や辻井喬といった名が並ぶ。昨年は詩人ではなく、阿武隈山地にある福島県川内村の村民一同に贈られた▼毎年7月、草野心平の詩を村人が朗読する「天山(てんざん)祭り」を半世紀にわたり開いた功績が評価された。出身地ではないが、心平は毎夏をこの村で過ごした。祭りは村人との酒宴から始まり、1988年に心平が亡くなった後も続いた▼「私ら詩を作るわけでもないが、栄えある賞をもらっていいんだろうか。でも村民一同にというのはうれしかったですね」。天山祭り実行委員長の石井芳信(よしのぶ)さん(71)は話す。昨年11月、東京での授賞式に村長ら6人と出席し、「ノーベル賞以上の喜びです」とあいさつした▼村は原発事故にほんろうされた。全村民が一時は避難を余儀なくされた。いまも除染作業の車が頻繁に通過する。震災の年は祭りの開催が危ぶまれたが、「大変な時こそ」と村外の人からも励まされ、簡略ながら開催にこぎつけた▼〈けつとばされろ冬/まぶしいな/青いな/ゲコゲコグルルル――/春君/ぼくだよ〉。詩が村に響く。獅子が舞い、酒や山菜を楽しむ▼被災前、村には小中学生が175人いた。戻ったのは50人に満たない。村の将来を思うと石井さんも不安は尽きない。それでも祭りは続けたい。今月9日で51回目となる。人々が集い、大人も子どももそれぞれ好きな詩を読み上げる。震災前と変わらない時が流れる。

昨年の藤村記念歴程賞についても記述があります。


たまたま先月中~下旬、全国各地の地方紙一面コラムに心平、そして川内村の名が立て続けに出ました。この際ですのでご紹介しておきます。

6月18日の『琉球新報』さん。福島第一原発の事故からの全村避難解除を受けての内容です。 

<金口木舌>さむいね、ああさむいね

さむいね/ああさむいね(中略)どこがこんなに切ないんだらうね/腹だらうかね/腹とったら死ぬだらうね/死にたかあないね(秋の夜の会話)。カエルの詩人と呼ばれる草野心平氏の詩集「第百階級」はこの詩で始まる
▼福島県いわき市出身、戦後間もなく双葉郡川内村平伏(へぶす)沼のモリアオガエル見学に招かれた縁で名誉村民となる。政府は14日、東京電力福島第1原発事故で川内村の「避難指示解除準備区域」指示を解き、同村の避難区域を解消した
▼12日には近隣の葛尾村全域避難指示が「帰還困難区域」を除き解除された。生活不安から多くが戻れない故郷で今週、政府の解除ラッシュが続く
▼1400人余が避難する葛尾村は放射線量が比較的高い「居住制限区域」(21世帯62人)の避難指示が解除された初事例だ。対象は418世帯1347人だが、昨夏に始まった準備宿泊登録は約1割。「自分の姿を見て1泊でもして」と期待する地区唯一の帰還者の声は重い
▼昨秋に全域避難指示が解かれた楢葉町の帰還世帯も最新で1割、帰還536人のうち40歳以下は29人だ。同町で原発対応拠点を担うJヴィレッジは東京五輪サッカー日本代表合宿地となる
▼平伏沼は今、モリアオガエル産卵の最盛期を迎える。悲しい歴史をたどる今の沖縄だからこそ、福島の山に海に、戻れない人と戻る人の痛みに思いを寄せ続けよう。



続いて『福島民友』さんで6月20日 

【編集日記】「かえる かわうち」

広葉樹の林の中を歩いて行くと、神秘的な沼が突然、姿を現す。川内村の平伏(へぶす)山(842メートル)山頂に位置する平伏沼だ。モリアオガエルが繁殖する国指定天然記念物で、「カエルの詩人」といわれた草野心平が愛した地としても知られる
 ▼モリアオガエルは産卵の仕方が特徴的だ。沼にせり出すように生えている木の枝や葉に白い泡状の卵を産み付ける。卵が孵化(ふか)すると沼に落ち、オタマジャクシが水中で暮らし始める
 ▼これから7月上旬にかけてが産卵のピークだが、沼の巡視員をする猪狩四朗さんによると、今年は卵の数が例年の半分ほどしかないという。「水不足でもあるが、原因は分からない」。村のシンボルであるカエルのことを思い、心配そうだ
 ▼壁をよじ登るカエルのイラストに、「かえる かわうち」とのキャッチコピーを添えた垂れ幕が2012年の春、村役場に掲げられた。原発事故で一時は全村避難を強いられた同村に役場機能が戻った時期のことだ。村は先週、全ての避難区域が解除された
 ▼現在までに帰ってきた住民は65%ほどという。復興への壁はまだ高いが、「これからカエルが戻り大合唱を聞かせてくれるはず」との猪狩さんの言葉に村の未来を重ねたい。

「かえる かわうち」のキャッチコピー。「かえる」には「蛙」、「帰る」、「変える」など、様々な意味を込めているそうです。下記は以前にいただいた缶バッヂ。

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せっかく「天声人語」にまで紹介された天山祭ですが、今年は明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観、さらにもう一つ別件で柔道の講道館に行かなければならず、欠礼いたします。関係者の皆さん、申し訳ありません。


【折々の歌と句・光太郎】

色みては盲目(めくら)音にはみみしひのふるさとびとの顔のさびしさ

明治42年(1909) 光太郎27歳

一昨日からご紹介しています、海外留学から帰国直後の作です。

一般庶民にまで芸術を愛する心がしみついていたパリと比較し、そうした部分での日本人の無理解を嘆いています。

光太郎詩の朗読による公演、イベント等の情報です。

まずは公演の方、福井県鯖江市で。 
期  日 : 2016年7月17日(日)
時  間 : 開場 13:30  開演 14:00
会  場 : 鯖江市文化の館鯖江市図書館2F 多目的ホール) 鯖江市水落町2丁目25番28号
料  金 : 500円
出  演 : 朗読・森本宏子 オカリナ・山本幸聖 ピアノ・森本菜桜子
                       
作曲・沢崎蒼太郎 画・西條由紀夫
申  込 : 090-5178-2221(森本)

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続いて、智恵子の故郷・二本松から一般参加のイベント情報です。 

高村智恵子生誕130年 高村光太郎没後60年記念事業 「智恵子抄」朗読会

期 日 : 2016年7月17日(日)
時 間 : 午前10時〜 (9時20分に奥岳登山口ロープウェイ乗り場前集合)
会 場 : 安達太良山薬師岳
参加費 : 4,000円(ロープウェイ代、入浴料、昼食代込み)
定 員 : 30名
申 込 : 智恵子のまち夢くらぶ(熊谷) ☎0243(23)6743

ほんとの空がある安達太良山薬師岳で、詩集『智恵子抄』の中から一人一作品を朗読します。
智恵子と光太郎の記念の年にふさわしい素敵な朗読会へぜひ参加してください。
終了後は温泉にゆったりと入浴し、その後みんなで昼食会を行います。

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さらにもう1件、朗読つながりで、彫刻家光太郎最後の大作・「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の建つ青森県十和田市からの情報もご紹介しておきます。

今年4月、当方執筆のジュブナイル「乙女の像のものがたり」を原作にした朗読劇を公演された劇団M’S PARTY(エムズパーティ)さんが、「平成28年度 元気な十和田市づくり市民活動支援事業 対象事業」の認定を受けました。その結果、助成金19万円が交付されるとのことです。

具体的には「50分でわかる乙女の像に込められた想い DVD及びホームページ制作事業」だそうで、さらに具体的には「十和田湖国立公園指定80周年を記念して、「乙女の像」ができるまでの物語を朗読劇にしてDVDを作成する。多方面で活用していただくことで十和田湖の奥深い魅力を広く発信する。」だそうです。

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こういう予算の使い方というのは、素晴らしいことだと思います。


公演にしても、一般参加型のイベントにしても、もっともっと広まってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

ふるさとのちまたに立ちて故郷の言の葉をきく聞けどあかぬかも

明治42年(1909)頃 光太郎27歳頃

昨日に引き続き、約3年半の海外留学を終えて帰国直後と思われる作です。

意外と留学先のニューヨーク、ロンドン、パリ、それぞれで留学生仲間などとの交流が多かった光太郎ですが、やはり巷間に立って聞こえてくる母語の響きは懐かしさを催すものだったのでしょう。

先週、娘が迷い猫を拾ってきました。

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猫を拾ってくる娘というと、小学生くらいの女の子をイメージする方が多いかと存じますが、うちの娘は今年24になります。もっとも、中身は小学生とあまり変わらなかったりしますが(笑)。その娘も、それから妻も外で仕事をしていますので、いきおい、昼間は当方が面倒をみるしかありません。まぁ、世話といっても時折餌と猫牛乳をやるくらいで、あとはほとんどほっぽっていますが(笑)。

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光太郎智恵子も駒込林町のアトリエで、猫を飼っていました。

大正15年(1926)、雑誌『詩神』に載った光太郎の談話筆記「生活を語る」に、次の一節があります。

 家畜は犬が大変好きですがよく留守にするので飼わないのです。猫は飼つてゐたことがある。これは自活をしてゐたのです。岡田三郎助さんから黒い猫を貰つてきたので、すばらしくいゝ猫だつたのです。

岡田三郎助は洋画家。光太郎智恵子夫妻と家族ぐるみでつきあいがありました。

また、昭和26年(1951)、『高村光太郎選集』第三巻の附録に載った森田たまの回想。大正5年(1916)頃の話です。

 早春の一日、偶然町角で出会つたいまの夫を、私はふと思ひついて高村家へ連れて行つたのである。高村さんも智恵子夫人も、突然の訪問者をいぶかりもせず、あたたかくもてなして下すつた。(略)つやつやとした黒猫がゐて、それが夫の膝にのつたのを、この猫は他人の膝にのつた事はないのだと、猫に好かれた事が夫の性質の善良さを表はすやうに云つて下すつたりした。

その大正5年(1916)には、光太郎、そのものずばり「猫」という詩も書いています。翌年の雑誌『詩歌』に発表しました。

     猫006

 そんなに鼠が喰べたいか
 黒い猫のせちよ
 どんな貴婦人でも持たない様な贅沢な毛皮を着て
 一晩中
 塵とほこりの屋根裏に
 じつと息をこらしてお前は居る
 生きたものをつかまへるのが
 そんなにもうれしいか
 そんなにも止みがたいか
 ああ、此は何だ
 此は何だ
 黒い猫のせちよ
 お前はそれで美しい
 かぎりなく美しい
 だが私の心にのこる恐ろしい此は何だ


動物をモチーフにしている点、自らの荒ぶる魂を投影している点など、数年後に始まる連作詩「猛獣篇」の序曲ともいえる作品です。

「セチ」というのが高村家の猫の名前でした。奇妙な名前ですが、その由来は智恵子が岡田三郎助の妻、八千代に送った書簡で明らかになりました。大正4年(1915)10月の消印です。

きのふ田村さんが あれをつれて来て下さいました007 (2)
ほんとにきれいなのでよろこんで居ります
厚く御礼申上ます おとなしいひとですね
お宅ぢや惜しかつたでせうつて話して居ります
セチつてつけてやりました あの眼が
そんな気がしたのです セチつて星はセチの
オミクロンていふんですつてね
此度田村さんへ御出の時 どうぞお寄りに
なつて あれの様子を見てやつて下さいまし
いけないとこがあるといけませんから
きのふは少しシヨゲてましたがけふは元気に なれて
しまひました 高村から御主人にくれぐれ
よろしくつて申上ました
どうぞ 御遊びにいらして下さいまし
                御礼まで  艸々
   廿六日夕
 岡田八千代様
                   高村智恵

「田村さん」は作家の田村俊子。智恵子、岡田八千代ともども、初期『青鞜』メンバーです。

「おとなしいひとですね」って、人じゃないぞ、と突っ込みたくなります(笑)。もっとも、光太郎と縁の深かった当会の祖・草野心平は、酒に酔うと、腹を空かせた野犬を前に「犬だってニンゲンだ!」と叫んだといいますので……。この人たちの感覚はやはり違うのかも知れません(笑)。

「セチ」は星座の鯨座のラテン名「Cetus」の所有格「Ceti」から採った名前だということがわかります。「オミクロン」は鯨座を構成する星の一つだそうです。猫の眼がこの星のようだということですが、「セトゥス」や「オミクロン」では呼びにくかったのでしょう。しかし、洒落た名前の付け方ですね。うちの猫は本名「ツナ缶」、通称「ツナ」になってしまいました(笑)。ちなみに雌です。「セチ」は雄雌どちらだったのでしょうか。

「ツナ」嬢、当方がパソコンに向かって椅子に座っていると、脚から膝、さらに肩までよじ登ってきます。迷い猫だったわりに人なつこいというか甘えん坊というか……。さすがにパソコンを打つ時は邪魔ですので、別室で遊ばせていますが、原稿のチェックなど、その別室でもできる仕事の時には、かまってやりながらやっています。

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それにしても、自宅兼事務所には元々柴犬系雑種犬も一頭いて、朝夕それぞれ1時間弱の散歩もしなければならず、すっかり「いきものがかり」です(笑)。まぁ、どちらも癒してくれるのでいいのですが……。

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【折々の歌と句・光太郎】

毒物を置きて鼠にあたへむとしつつきびしき寒夜を感ず
昭和22年(1947) 光太郎65歳

「寒夜」ということで季節外れですが、ご容赦を。

花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)での作です。光太郎、7年間の山小屋生活は、ずっと鼠との共同生活でした。毒を食べた鼠が井戸に落ちて死んでいたなどということもありました。そんなことから、山小屋生活の後半では、もはやあまり気にしなくもなったようです。もしかすると、黒猫の「セチ」を思い出していたかも知れません。

明治古典会さん主催の「七夕古書大入札会2016」。

毎年この時期に行われる、古書業界最大の市です。神田神保町の東京古書会館を会場に、出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が7月8日(金)午前10時〜午後6時、7月9日(土)午前10時〜午後4時に行われます。昨年は光太郎関連出品物が少なく、行きませんでしたが、今年は種類が多い上に、気になる出品物もあるので、行って来ようと思っています。

目録に載った今年の光太郎関係出品物は以下の通り。

高村光太郎歌幅一幅 15万円~

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戦後の花巻郊外太田村在住時の揮毫です。光太郎本人による箱書きも附いています。書としての出来は素晴らしいものです。が、最低落札価格15万円と、かなり安めです。どうも、状態があまり良くないようで、その値段なのだと思われます。


高村光太郎色紙一枚 10万円~

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こちらもあまり状態が良くないようで、安めです。紙自体もきちんとした色紙ではないようです。戦後すぐくらいの時期にはこうした用紙がよく使われていました。


高村光太郎書簡一通 30万円~

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留学仲間の画家、山下新太郎にあてたもの。平成24年(2012)にも出品されました。


高村光太郎草稿一冊 100万円~

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今回、最も驚いたものです。昭和19年(1944)、『智恵子抄』の版元、龍星閣から刊行された詩集『記録』の原稿で、おそらく龍星閣に送られたものではなかろうかと推定できます。画像は各詩篇に付された前書きです。枚数が書いてありませんが、もし全篇揃っていれば、すごいものです。


高村光太郎詩稿九枚 50万円~

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昭和19年(1944)、青磁社から刊行された『歴程詩集2604』のために送られた草稿と推定できます。昭和63年(1988)にも出品されました。ただし、その時は12枚。3枚減っています。


高村光太郎戦後 「独居生活」資料集 40万円~
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こちらも平成24年(2012)に出品されたものです。詩人志望の青年に、断念するよう忠告する内容の書簡が二通。画像下の部分は、詩集を出版したいので序文を書いてくれ、という求めに対し、断りの書簡と共に別便で送られてきた詩稿を返送した際の包装と鉄道荷札です。尾崎喜八、草野心平からの書簡も附いています。


高村光太郎草稿一帖 10万円~
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昭和18年(1943)に刊行された木村直祐、宮崎稔共編詩集「再起の旗」の序文です。以前から東京の古書店の在庫として販売されていました。


高村光太郎詩稿三枚 30万円~
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昭和25年(1950)の雑誌『展望』に載った2篇の詩「RILKE JAPONIKA ETC.」「赤トンボ」の原稿。これも出版社に送ったものでしょう。昭和62年(1987)にも出品されていました。


某月某日・をぢさんの詩二冊 二枚 20万円~
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昭和18年(1943)刊行の詩集『をぢさんの詩』及び、随筆集『某月某日』。前者の編集に当たった詩人の高祖保に贈ったもので、ハガキも附いています。平成25年(2013)にも出品されました。

文学館等ではガラスケース越しにしか見られないものですが、7/8、9の下見展観では、これらを全て手に取って見ることが出来ます。

その他、名だたる文豪のいろいろな品もてんこ盛り。ざっと目録を拝見したところ、夏目漱石や島崎藤村の草稿で、最低落札価格が数百万円から、というものが目につきました。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

紫の細緒目によき檜木笠今朝みる木曾の霧青いかな
明治34年(1901) 光太郎19歳

自宅兼事務所周辺、今は霧雨に包まれています。今日明日は雨の予報。関東は水不足。これで解消して欲しいものです。

昨日、自宅兼事務所に案内が届きました。当会の祖にして光太郎と深い縁で結ばれた、草野心平が愛したイベントです。心平没後は心平を偲ぶイベントとなりました。 

第51回天山祭

期  日 : 2016/07/09(土)
時  間 : 午前11時30分から14時まで001
場  所 : 天山文庫前庭 
       福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513 
        雨天時は川内村村民体育センター
  
     福島県双葉郡川内村大字上川内字小山平15

当日の送迎バス(要予約 6/30〆切)
 川内村行き 郡山駅西口発 午前9時15分
    東北新幹線やまびこ125号に接続 東京発7:32 郡山着8:55
 郡山駅行き 川内発 午後2時45分
 東北新幹線やまびこ216号に接続 郡山発16:39 東京着18:16

翌日の送りバス(要予約 6/30〆切)
 郡山駅行き 川内発 午前8時30分
 東北新幹線やまびこ132号に接続 郡山発10:27 東京着11:48

村内宿泊施設
 小松屋旅館       川内村上川内字町分211  0240-38-2033
 ビジネスホテルかわうち 川内村大字上川内字町分394       0240-38-3181                                            
 ビジネスホテルアゴラ  川内村大字上川内字瀬耳上265番地3 0240-23-6300
 いわなの郷コテージ   川内村大字上川内字炭焼場516 0240-38-3181 グループのみ

申し込み (送迎バスの利用がなければ不要)
 天山祭り実行委員会事務局 : 川内村教育委員会教育課生涯学習係 0240-38-3806


ネット上には今年の第51回の案内等はまだ出ていません。当方、昨年まで3年連続で行っておりました。平成25年(2013)、平成26年(2014)、平成27年(2015)、それぞれのレポートにリンクを貼っておきます。

川内村ではつい先週、東日本大震災に伴う福島第1原発事故により、村内で継続されていた避難指示が全て解除されました。  

川内村全域で避難解除=指示継続の2地区―福島

 東京電力福島第1原発事故により、福島県川内村の一部で継続されていた避難指示が14日に解除され、全域が避難対象から外れた。
  同村では2014年10月に避難指示解除準備区域の避難が解除されたが、居住制限区域だった2地区は解除準備区域に変更された上で、避難指示が続けられていた。
  今回解除対象の同村荻、貝ノ坂地区の人口は19世帯51人(今月1日時点)。村では、両地区内の除染終了を受け昨年11月から帰村に向けた準備宿泊を実施していたが、登録者は1世帯2人のみで、解除後すぐに村へ戻るのはごく一部にとどまるとみられる。
  政府や村は、住民から不安の声が上がっていた放射線への対策として、希望者に線量計を配布。線量の高い地点が見つかり次第、追加の除染を行う。
(時事通信 6月14日(火)0時25分配信)

しかし、避難指示解除即住民帰還とはならないようです。それも致し方ないとは思いますが、天山祭などを通じて村が盛り上がり、やがてはかつての活気を取り戻すことを祈念しております。


【折々の歌と句・光太郎】

赤蛙にげるな汝を取るといへど喰ふにはあらず皮むくにあらず

大正13年(1924) 光太郎42歳

草野心平といえば、蛙。梅雨時で蛙も活気づいています。川内村の平伏沼では、心平が愛し、村と心平の架け橋になったモリアオガエルの産卵が始まったそうです。

さて、大正13年(1924)の光太郎。木彫のモデルにでもするために、蛙を捕まえようとしていたのではないかと思われます。だから「喰ふにはあらず皮むくにあらず」。

しかし、戦後の花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)での暮らしでは、蛙を捕って食べていたそうです。

昭和27年(1952)に行われた、詩人の竹内てるよ、食料産業研究所長・川島四郎との座談会「簡素生活と健康」(『主婦之友』に掲載)の一節。

竹内 主食の量は違いましたか。
高村 主食はもともと少かつたんですが、食糧には困らなかつた。みんな持つて来てくれるんです。お米でも稗でも、漬物や南瓜なども……。蛋白質だけはなかつたな。
川島 田舎ではね……
高村 それで蛙をとつて食べたんです。赤蛙をね、まだ動いているのを皮をはいで……。近所にはいゝ奴がどつさりいたんです。蛇もいたが、これは歯が悪いので駄目でした。

ワイルドですね(笑)。

山梨県から展覧会情報です。 

特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙

 期 : 2016年7月9日(土)-8月28日(日)
会 場 : 山梨県立文学館 展示室C 山梨県甲府市貢川1丁目5番35号
休館日 : 7月11日(月)、25日(月)、8月1日(月)、22日(月)
時 間 : 9:00-17:00(入室は16:30まで)
観覧料 : 本特設展は常設展チケットでご観覧いただけます。(団体20名以上)
         一般 320円(250円)  大学生 210円(170円)

65歳以上の方、障がい者及び介護者、並びに高校生以下の児童生徒の観覧料は無料です。
県内宿泊者は団体料金となります。

賢治自筆の手紙73通を公開  
詩、童話に独自の世界を切り開いた宮沢賢治。
山梨県出身の親友・保阪嘉内に宛てた73通の手紙から、二人の生涯と友情をたどります。

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関連行事

名作映画鑑賞会 アニメ銀河鉄道の夜

7月30日(土) 開場 午後1時  上映 午後1時30分~
会場 山梨県立文学館講堂   定員 500 名   無料   申込不要
1985年 日本ヘラルド 107分 原作 宮沢賢治  原案 ますむらひろし
監督 杉井ギサブロー  脚本 別役実  音楽 細野晴臣

渡辺えり講演会「宮沢賢治と保阪嘉内」

渡辺えりさん(劇作家・演出家・女優)が、賢治と嘉内の魅力を語ります。えりさんは、二〇一二年初演の「天使猫―宮沢賢治の生き方―」で賢治の生涯を描き、演出を手がけました。

7月10日(日) 午後1時30分~ (受付1時~)
会場 山梨県立文学館講堂   定員 500 名   無料   要申込
※ お電話かホームページ、または当館受付にてお申し込みください。

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というわけで、渡辺えりさんの講演があります。

紹介にもあるとおり、えりさん、平成24年(2012)に初演の舞台「天使猫」で、賢治を主人公とした幻想的な演劇を作られました。

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今回の企画展で取り上げられる保阪嘉内も、重要な役どころで登場していました。

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そういう関係もあり、講演の依頼に繋がったのでしょう。賢治と光太郎の交流についても、お話があればと期待しています。

つい先日行われた、盛岡での啄木祭でのご講演は聞き逃しましたので、今回は拝聴に伺います。花巻の高村光太郎記念館に、お父様宛の書簡と献呈署名本をご寄贈下さった御礼も改めて申し上げて参ります。

皆様も是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

野もきえぬ流もきえぬ森もきえぬ小雨みどりに我はたきえぬ

明治34年(1901) 光太郎19歳

「ぬ」は完了の助動詞。「た」と訳せばだいたい通じます。

沖縄地方は梅雨明けだそうですが、沖縄の梅雨が明けると、梅雨前線が北上、本州の雨が本格化します。今日は今のところ晴れ間です。この夏初めて蝉の声が聞こえています。

光太郎を敬愛していた彫刻家の故・舟越保武氏の長女にして、絵本作家・編集者の末盛千枝子さんによる自伝的エッセイ『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』。「千枝子」と言う名を光太郎に付けて貰った経緯や、それがその後の人生に及ぼした影響などにも触れられています。

だいぶ好評のようで、もともと連載されていた新潮社さんのPR誌『波』に載った中江有里さんによるそれを皮切りに、あちこちに書評が出ています。『日本経済新聞』さんと、『朝日新聞』さんに載ったものがこちら。『福島民報』さん他の地方紙に載った評はこちら

約一週間前に、『毎日新聞』さんにも載りました。 

『「私」を受け容(い)れて生きる 父と母の娘』 神様に「逃げなかった」と言いたい 末盛千枝子(すえもり・ちえこ)さん

 ターシャ・チューダーやM・B・ゴフスタインなどの000名作絵本の数々を世に送り出してきた編集者が自らの人生を振り返った。「ああいうことも、こういうこともあったなあ、と思い出しながら書くのは楽しい作業でした」と感慨深げに語る。
 1941年、彫刻家・舟越保武の長女として生まれた。「千枝子」という名は、父が面識のなかった高村光太郎を突然訪ね、つけてもらったという。後に、深いカトリック信仰に根ざした崇高な作品を残した父は、だじゃれや落語を愛する意外な一面も持っていた。「志ん生はテープで繰り返し聴いていました」
 家族の笑い声が聞こえてきそうな幼少時代だが、長女として我慢することもあったらしい。そんな時、絵本が近くにあった。
 「私にとって絵本は、希望を語るものであり、悲しむ子どものそばに寄り添ってくれるものだった」と記す。「自分がこれと思う本を一生の間に一冊でも」。大学を卒業すると、絵本の出版社「至光社」で働いた。
 主に海外版の編集に携わった後、NHKの音楽番組のディレクター、末盛憲彦と結婚。2人の息子を授かる。だが結婚から11年、夫が急死する。
 「たいまつを引き継ぎたい」。人々の心に光をともすのは音楽も絵本も同じ。「G・C・PRESS」で再び絵本の仕事をはじめ、『あさ One morning』で国際賞を受賞、やがて自ら「すえもりブックス」を創設する。皇后さまの『橋をかける 子供時代の読書の思い出』を出版し話題になった。
 青春時代に親しかった哲学者の古田暁(ぎょう)と再会、95年に2度目の結婚をする。このくだりは「書きにくかった」とはにかむ。2013年の古田の死去後、半世紀ほど前にバチカンで、若い2人がローマ法王に謁見している写真が見つかった。「知り合いの修道院の院長から『ジグソーパズルの最後のピースが出てきたのですよ』と言われ、気持ちが助かりました」
 顧みれば、波瀾(はらん)万丈な人生ではなかったか。「それは特にありません」と首を振り、「大変だと思ったことも、乗り越えた時の喜びがあると考えれば、それはそれで良いかな」と続ける。「たぶん、私は死ぬ時に言うと思います。『逃げませんでしたよ。これでいいですね、神様』と」<広瀬登>


それから『読売新聞』さん。ただし、こちらでは光太郎について触れられていません。 

『「私」を受け容れて生きる』 末盛千枝子さん

 写真撮影のため本にちなむものを頼むと、父が作001ったブロンズのレリーフを持ってきてくれた。自分の結婚式の引き出物だという。
 彫刻家、舟越保武さんの長女として生まれ、結婚や出産を挟んでタシャ・チューダーをはじめ絵本の出版を手掛け、「すえもりブックス」を設立。皇后さまの講演をまとめた本などを出版した。その著者が、人生を振り返った。
 「人生は、自分が思うようにはなりません。成るようになるものですね」。撮影の間、穏やかにほほ笑んだ。
 疎開先の自然豊かな岩手で育った少女時代。苦労する両親を見て芸術家だけとは結婚しないと思い、人生に臆病だった若い頃。30歳のとき出会い、仕事から帰ると子供のオムツにアイロンをかけるほど優しかった最初の夫は、自宅で突然に倒れて亡くなった。
 <パパは あをい そらの てんごくにいるのです(略)だから かそうばで やくのは ぬけがらだけです>
 幼い孫に、保武さんはこんな手紙を書いたという。
 「つらい出来事が起きた直後には、希望なんて見えません。でも、逃げずにいれば、それらと一緒に生きていけるように感じる。悲しみや苦しみに意味があると思えるようになる。悩むからこそ、人は色々なことを考え、深まってゆくのではないでしょうか」
 障害を抱えた長男、再婚した夫とともに、東京から岩手県八幡平市に引っ越し、東日本大震災を経験した。その後、2度目の夫も亡くしている。現在は被災地の子どもに絵本を届ける「3・11 絵本プロジェクトいわて」を発足させ、代表を務める。
 「津波で本を流された子どもが保育園に置いた段ボールの中から同じ本を見つけ、抱きしめた時の顔。本好きの同志として、忘れられませんでした」(新潮社、1600円)


先週水曜日には、NHKさんで午前中に放映されている「ひるまえほっと」という情報番組に、やはり中江有里さんがご出演、「中江有里のブックレビュー・6月の3冊」というコーナーで、この書籍を取り上げて下さいました。

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当方、たまたま運転中で、カーナビにはNHKさんが流れており、突然この書籍の紹介が始まったので驚きました。そういうわけで録画できなかったのが残念です。


さて、『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』。新潮社さんから好評発売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

かたつむり早く角出せと思へどもじつと静まり蘭の根にねむる
大正13年(1924) 光太郎42歳

梅雨時というと、カタツムリですね。

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似たようなナメクジは許せませんが、なぜかカタツムリは愛らしいイメージがあるというのが不思議なところです。

光太郎、カタツムリを木彫で作っています。ただし、それがメインではなく、蓮根に添えてアクセントにしたものです。画像は光太郎令甥にして写真家だった故・髙村規氏の撮影になるものです。

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昨日、光太郎や宮沢賢治と交流のあった詩人・黄瀛の評伝『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』をご紹介しました。

その関係で、黄瀛についてネットで調べていたところ、現在、黄瀛をメインに据えた企画展が開催されて居ることに気付きました。4月から始まっていましたが、気付きませんでした。

『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』著者の佐藤竜一氏が理事を務める「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」さんの主催です。 

宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展

会  期 : 2016/04/15~10/13
会  場 : 宮沢賢治イーハトーブ館 岩手県花巻市高松1-1-1
時  間 : 8:30から17:00
料  金 : 無料

中国人を父に、日本人を母に重慶に生まれた。
日本語で詩を書き、大正時代に詩壇の寵児として活躍、宮沢賢治とは草野心平が始めた雑誌『銅鑼』を介して知り合う。
中国での宮沢賢治研究のいしずえを築いた。

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関連行事

ギャラリートーク「黄瀛と宮沢賢治」

7月2日(土)13001630

 13:00~13:30 「黄瀛の生涯」佐藤竜一(宮沢賢治学会理事)
 13:30~14:00 「黄瀛研究の現状」守屋貴嗣(法政大学非常勤講師)
 14:00〜14:30 「黄瀛と宮沢賢治」岡村民夫(宮沢賢治学会副代表理事)
 14:30〜14:40  質疑応答
 14:50〜16:20 
 ビデオ鑑賞
         「詩人・黄瀛さんを知っていますか」(1991.11.16全国放映)
         「詩人・黄瀛からの伝言」(1994.7.2、全国放映)

黄瀛、なかなかスポットライトの当たることのない詩人ですが、これを機に、彼の数奇な人生と、その特異な詩的世界についての認識が広まってほしいものです。

展示や関連行事のトークでも、光太郎に触れられると思います。

来月、盛岡に行く予定がありますので、時間を見つけて寄ってみようと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

毒うつぎ花は美くし旅のひといづみくむ手に物を欲(ほ)りすな

明治38年(1905) 光太郎23歳

「毒うつぎ」は、その名の通り強烈な毒草です。

その花をモチーフとし、『伊勢物語』を下地にした架空の恋物語を連作短歌にしたうちの一首です。

新刊情報です。 

宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて

佐藤竜一著 2016/05/26 コールサック社 定価1500円+税

佐藤さんに対してきっと多くの詩人たちや光太郎・賢治・心平などの研究者たちは感謝と称賛の声を上げるだろう。なぜならこの労作から本格的な黄瀛研究が始まるからだ。そしてこれからも日中の架け橋であった黄瀛の存在を通して日本と中国の文化交流の本質的な在り方が問いかけられるに違いない。(鈴木比佐雄解説文より)

目次
 はじめに 
 第一章 軍服を着た詩人
  第一節 詩壇の寵児 
  第二節 軍人への道―何応欽と姻戚に 003
 第二章 日中戦争勃発と日本との訣別
  第一節 詩人たちとの交遊 
  第二節 魯迅との出会い、別れ 
  第三節 日本との別離 
 第三章 日本の敗戦と国共内戦
  第一節 漢奸狩りの犠牲に?
  第二節 草野心平との再会
  第三節  『改造評論』をめぐって 
  第四節 辻政信との出会い 
 第四章 半世紀ぶりの日本
  第一節 四川外語学院教授
  第二節 半世紀ぶりの日本 
 第五章 黄瀛と私
 資料編
  資料編(1) 黄瀛の詩 
  資料編(2) 黄瀛のエッセイ・評論 
 黄瀛略年譜 
 主要参考文献 
 【解説】鈴木比佐雄
 おわりに
 著者略歴


明治39年(1906)、中国重慶生まれ、中国人の父と、日本人の母を持ち、二つの国を行き来しながら活動した詩人・黄瀛(こうえい)の評伝です。


黄瀛は、朝日新聞に勤務していた中野秀人を介して光太郎と知り合い、さらに草野心平を光太郎に紹介する労も執っています。また、昭和4年(1929)には、宮沢賢治を花巻に訪ねてもいます。

光太郎は黄瀛の特異な才能を高く評価、その第二詩集『瑞枝』に序文を寄せたり、黄瀛をモデルに塑像を作ったりしました。

その後、黄瀛は中国国民党の将校となり、終戦後は共産党により投獄、昭和37年(1962)に出獄するも、文化大革命で日本との関係を糾弾され、4年後に再び獄中へ。再び自由の身となるのは、開放政策が始まった昭和53年(1978)のことでした。その後、平成17年(2005)に98歳で歿するまで、たびたび来日、心平と旧交を温めたりもしました。


著者の佐藤氏、平成6年(1994)に、日本地域社会研究所さんから、『黄瀛―その詩と数奇な生涯』という最初の評伝を上梓されましたが、その後判明した事実、新たに入手された資料などを盛り込み、ほぼ全面的に改稿したのが本書です。

黄瀛―その詩と数奇な生涯』も、だいぶ示唆に富むものでしたが、さらに充実の内容です。特に光太郎との関わりで、黄瀛自身の書いた光太郎回想なども収録されており、興味深く拝読しました。


ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

熊いちご奥上州の山岨(やまそば)にひとりたうべてわれ熊となる
大正13年(1924) 光太郎42歳

「熊いちご」は野いちごの一種。ヘビイチゴと似ていますが、もっと丈が高くなるそうです。「たうべて」は「食べて」。

自宅兼事務所の裏山を、愛犬と散歩中に見つけました。熊イチゴならぬ、ブルーベリーです。

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何とまあ、野菜の無人販売所のように、100円入れて勝手に摘んで下さい、とのこと。お互いの信用でこういうシステムが成り立つこの国のこういうところが、当方は大好きです。

先週土曜日、岩手盛岡で、「啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~」が開催され、連翹忌ご常連でもある女優の渡辺えりさんが、「わたしの啄木・賢治・光太郎」と題するご講演、対談をなさいました。
 

啄木の世界観ひもとく 盛岡、渡辺えりさんが講演

 盛岡出身の詩人石川啄木をしのぶ啄木祭(同実行委主催)は4日、盛岡市渋民の姫神ホールで開かれた。地元小中学生やコーラスグループの発表のほか、舞台で啄木の母カツを演じた劇作家で女優の渡辺えりさんが講演し、啄木の世界観をひもといた。
 渋民小児童のドラムマーチで開演し、同校鼓笛隊が啄木作詞の「ふるさとの山に向ひて」など3曲を披露。渋民中の生徒たちは啄木の詩を題材にした群読劇で「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る」とかみしめるよう朗読。啄木の心象を表現した。
 渡辺さんは「わたしの啄木・賢治・光太郎」と題し講演。啄木と賢治の共通点として友人たちが作品を広めたことを挙げ、「応援してくれる人たちがいなければ、私たちは詩を読むこともなかったのかも」と交友関係の広さを語った。
 渡辺さんと石川啄木記念館(同市渋民)の森義真(よしまさ)館長との対談では、自身が演じた母カツの人柄について「役作りをしながら、カツは本当に啄木のことを手放しで愛していたのだと感じた」と役者の目線で啄木像に触れた。
(『岩手日報』)
 

渡辺えりさん 啄木祭で講演

 生誕130周年を迎えた歌人石川啄木の業績をたたえる啄木001祭が4日、盛岡市の渋民文化会館であった。
 劇作家、演出家、女優として活躍する山形市出身の渡辺えりさんが「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演。以前、井上ひさしの戯曲「泣き虫なまいき石川啄木」の上演で啄木の母カツを演じた際、背負われた時のことや啄木の歌などを引き合いに出し、観客の笑いを誘っていた。
 渡辺さんは「今は啄木も想像しないような世の中になってきたのではないか」と言い、「文化人を残すためにも平和教育を受けた私たちが戦争を食い止めなければいけない」と力を込めた。
 市立渋民小学校の鼓笛隊による演奏や、渋民中学校の生徒が演じる啄木の詩を題材にした群読劇なども披露された。(金本有加)
(『朝日新聞』)

 

啄木憎めない人柄…生誕130年で渡辺えりさん

 生誕130年を迎えた盛岡市出身002の歌人・石川啄木をしのぶ「啄木祭~母を背負ひて~」が4日、同市の姫神ホールで開かれた。女優の渡辺えりさん=写真=が「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演し、約520人が耳を傾けた。
 渡辺さんは生前はほぼ無名だった啄木について「金田一京助など死後、作品を世に出してくれる友人に恵まれた」と、同じ県出身の宮沢賢治との共通点を指摘。啄木が多くの友人から借金をするなど奔放な生活を送っていたことについては「悪人なら友人がいないはず。憎めない人柄だったに違いない」と推し量った。
 また、井上ひさしの戯曲「泣き虫なまいき石川啄木」で母カツを演じたことに触れ、「啄木を目に入れても痛くないというほど大事にしていた。心から啄木を応援していたと思う」と役作りを振り返った。
(『読売新聞』)


記事にはありませんが、えりさんのお父様、渡辺正治氏無題2が光太郎と戦中戦後に面識がおありで、さらに宮沢賢治ファンだったということもあり、劇作家でもあるえりさんは、光太郎を主人公とした月にぬれた手、賢治が主人公の「天使猫」という舞台をそれぞれ公演なさいました。

そして今回のご講演、最近、お父様のお加減がよろしくないとのことで、涙ぐまれながら、お父様に関するお話をご披露なさったとのことを、参会された方からメールで教えていただきました。

えりさんからも翌日、「無事に好評のうちに終わりました」とメールを頂きました。


その後、えりさんから花巻の高村光太郎記念館へ、資料の贈呈が行われました。

お父様が戦時中に光太郎から贈られた、サイン入りの『道程 再訂版』(昭和20年=1945)、戦後に光太郎から届いたハガキをご寄贈下さいました。

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先月でしたか、お電話を頂いた際、これらの寄贈先を探しているというお話で、都内の文学館などもご紹介しましたが、ハガキの方は賢治にも触れている内容ですし、発送元が花巻郊外旧太田村ですので、結局、花巻にご寄贈下さいました。えりさんは、平成25年(2013)、お父様も平成12年(2000)に、花巻高村祭でご講演なさっているというご縁もあります。いずれ花巻の記念館で展示されると思います。

同館では、この夏、企画展「智恵子の紙絵」を開催しますし、現在、館としてのあらたな出版物2種類、当方が校正中です。

それぞれまた詳細は後ほどお知らせいたします。


【折々の歌と句・光太郎】

山形によき酒ありてわれをよぶのまざらめやも酔はざらめやも

昭和24年(1949) 光太郎67歳

以前も同一題の短歌をご紹介しましたが、山形出身の渡辺えりさん父子にちなんで。

昨日の『福井新聞』さんの一面コラムから。 

越山若水

一昨夜、昨夜と雲にいらだった人が多いかもしれない。火星が地球に最接近する「スーパーマーズ」である。南南東の夜空に赤く輝く星をご覧になれただろうか▼火星は約2年2カ月ごとに地球と接近を繰り返す。その距離は毎回違う。今回最も近づいた5月31日は7528万キロと、ほぼ10年ぶりに「中接近」したという▼「スーパー」だが「中」くらい、では拍子抜けの気がしないでもない。ただ、見た目で一番小さかった1月に比べいまの火星は3倍も大きい。観察には好機である▼高村光太郎も最接近を見たのかもしれない。「要するにどうすればいいか、という問は、/折角(せっかく)たどつた思索の道を初にかへす」と始まる「火星が出てゐる。」という詩がある▼まずい読み手ながら、例えばこんな一節にひかれる。「お前の心を更にゆすぶり返す為(ため)には…あの大きな、まつかな星を見るがいい」。孤高の星を仰ぐ求道者が浮かんで美しい▼地球から月までは約38万キロ。火星はその数百倍も遠く、ロケットで往復するだけで3年かかる。巨額の費用も必要だ。それでも、世界各国が有人探査計画を進めている▼なぜかといえば将来、人類が移住できそうな星だとみられているから。この計画にロマンを感じるかどうか。青く美しい地球を壊した末に「地球が出ている」とうたうのか、と人類の所業に心痛む人も多いだろう。


というわけで、現在、通常時に比べて地球と火星の距離がかなり近い状態だそうです。

そちらを報じた『中日新聞』さんの記事。 

火星が明るい! 5月31日 火星最接近!

火星接近!
午後11時ごろ南東の空を眺めると、赤い光を強烈にはなっている星が目に入る。火星だ。近くの土星やさそり座のアンタレスがかすんでしまうほど。アンタレスは火星の敵という意味だが、アンタレスよりも3等級も明るい-2等星で輝いている。
それもそのはず5月31日は2年2か月ぶりの火星最接近なのだ。しかも今年は準大接近、前回の2014年4月よりも一回り大きな火星が見えるということで大いに期待が高まる。

火星の動き
火星は地球のすぐ外側を公転周期687日で回っているため、地球から星空の中で輝く火星を見ていると、その動きはとても目まぐるしく、ほぼ2年で天球を1周してしまう。
 今年1月におとめ座の足元にいた火星は、東へ東へと順行し、2月にはてんびん座を通過し3月にさそり座、4月にへびつかい座に入ったかと思ったら17日には動きが止まり、逆行モードに転じUターンしててんびん座まで戻ってしまう。
そして6月30日に再び止まって順行に転じて、そのまま東へ足早移動し8月にはアンタレスに接近する。
火星は、地球に追いつかれ並び追い越されてゆくことになる。この間火星はダイナミックに変化をする。地球との距離は、1月には2億3100万kmもあったが、最接近の5月31日には7530万kmまで縮まり、12月には2億2900万kmまで離れてしまう。
 明るさは、1月はおとめ座のスピカと変わらない1.1等から、5月には木星の明るさに迫る-2等に達し、12月には0.8等南のうお座のフォーマルハウトよりやや明るい0.8等まで落ちてしまう。
 気になる大きさ視直径は、1月の6秒角から最接近時の18秒角、そして年末の6秒角へと、猫の目のように目まぐるしく変化する。だからこそ、火星接近は、一大天文現象になるのだ。

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文章ではわかりにくいのですが、図を見れば一目瞭然ですね。

昨夜は関東は快晴で、南の空に火星がくっきり見えました。あやしいほどの光でした。というか、先月中旬くらいら、赤い大きな星が網戸越しにも見えていたので、気になっていました。その後、「火星再接近」というニュースを見て、ああ、あれが火星だったか、と思った次第です。

光太郎ファンは、「火星」というと、次の詩を思い浮かべます。大正15年(1926)、12月5日作。翌昭和2年1月1日の雑誌『生活者』第2巻第1号に掲載されたものです。


    火星が出てゐる005

 火星が出てゐる。
 
 要するにどうすればいいか、といふ問は、
 折角たどつた思索の道を初にかへす。
 要するにどうでもいいのか。
 否、否、無限大に否。
 待つがいい、さうして第一の力を以て、
 そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
 予約された結果を思ふのは卑しい。
 正しい原因にのみ生きる事、
 それのみが浄い。
 お前の心を更にゆすぶり返す為には、
 もう一度頭を高く上げて、
 この寝静まつた暗い駒込台の真上に光る
 あの大きな、まつかな星をみるがいい。
 
 火星が出てゐる。
 
 木枯が皀角子(さいかち)の実をからからと鳴らす。
 犬がさかつて狂奔する。
 落葉をふんで
 藪を出れば
 崖。
 
 火星が出てゐる。001
 
 おれは知らない、
 人間が何をせねばならないかを。

 おれは知らない、
 人間が何を得ようとすべきかを。
 おれは思ふ、
 人間が天然の一片であり得ることを。
 おれは感ずる、
 人間が無に等しい故に大である事を。
 ああ、おれは身ぶるひする、
 無に等しい事のたのもしさよ。
 無をさへ滅した
 必然の瀰漫よ。
 
 火星が出てゐる。
 
 天がうしろに廻転する。
 無数の遠い世界が登つて来る。
 おれはもう昔の詩人のやうに、
 天使のまたたきをその中に見ない。
 おれはただ聞く、
 深いエエテルの波のやうなものを。
 さうしてただ、
 世界が止め度なく美しい。
 見知らぬものだらけな不気味な美が
 ひしひしとおれに迫る。
 
 火星が出てゐる。


「火星再接近」のニュースを見て、この詩を引用した報道やコラムが、全国どこかの新聞に載るだろうと予想していましたら、まさしくその通り、『福井新聞』さんがやってくださいました。ありがとうございます。「まずい読み手ながら」と謙遜されていますが、どうしてどうして、「孤高の星を仰ぐ求道者が浮かんで美しい」という解釈はその通りです。

しかし、同じく求道的な内容であっても、大正3年(1914)の、あまりにも有名な「道程」で謳い上げられた「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」という高らかな調子はありません。この時期の光太郎の、さまざまな面での葛藤や焦燥が込められているからです。

父・光雲を頂点とする旧態依然たる日本彫刻界と訣別し、独自の道を歩き始め、それなりに認められるようにはなっていた光太郎ですが、まだまだ「大家」の域までの評価は得ていません。

かえって、詩の部分での評価が高まり、光太郎の元には、草野心平、尾崎喜八、黄瀛、佐藤春夫、真壁仁、更科源蔵、宮沢賢治、岡本潤、中原中也、高橋元吉、尾形亀之助ら、若い詩人たちが集ってきます。佐藤春夫曰く「多くの若者を愛し、また多くの若者から慕はれた」、「あの人に近づいたあらゆる人が不思議と、みんな自分が一番気に入られてゐたやうな感銘を持つて帰る」(『小説高村光太郎像』昭和32年=1957)ということでした。

こうした若い詩人たちとの交流が、光太郎をしてアナーキズムやプロレタリア文学に近い位置に導きました。もちろん、それは光太郎一流の旧弊な日本を否定する精神あってのことでした。「彼は語る」「上州湯桧曽風景」「機械、否、然り」「似顔」といったこの時期の詩には、人間を人間として扱わない強欲な資本家に対する怒りなどが表出されています。そうした怒りをさまざまな「猛獣」の視点で描いた連作、「猛獣篇」が手がけられるのもこの時期です。

しかし、そうした怒りも、畢竟するに一芸術家としての狭い視野からのものに過ぎず、そこには確固たる社会認識に基づく方法論も、社会変革を志す姿勢にも欠けていました。

光太郎曰く、

その方(注・プロレタリア文学)にとび込めば相当猛烈にやる方だからつかまってしまう。しかし自分には彫刻という天職がある。なにしろ彫刻が作りたい。その彫刻がつかまれば出来なくなってしまう。彫刻と天秤にかけたわけだ。(略)プロレタリア文学の良い部分には勿論ひかれたが、心から入ってはゆけなかった。
(「高村光太郎聞き書き」 昭和30年=1955)

というわけでした。


「火星が出てゐる」の、「要するにどうすればいいか」という自問は、このあたりに関わってきます。

ついでに言うなら、パートナー智恵子も目指していた油絵画家への道をほぼ断念、不安定な状態になっていきます。そして慢性的な生活不如意。二人の生活もさまざまな軋みを見せ始めます。そして智恵子の方は、自身の健康問題、相次ぐ近親者の死、実家の破産、光太郎と違って狭い交友範囲だったこと、更年期障害、子供もいないことなどなど、様々な要因がからみあって、光太郎曰く「精一ぱいに巻切つたゼムマイがぷすんと弾けてしまつた」状態―心の病―になってゆくのです。


さて、火星。

当分は夜間、南の空によく見えるはずです。ひときわ赤く大きく輝いているので、すぐにわかります。それを見ながら、光太郎智恵子に思いを馳せていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

まこもぐささびしう風に香をよせて夕の舟の人泣かしむる
明治35年(1902) 光太郎20歳

一昨日からご紹介している利根川の旅の中での一首です。

昨日、生活圏の新刊書店にて、光太郎に少しだけ触れている書籍を2冊、買って参りました。

まずは雑誌『サライ』の6月号。

『サライ』6月号「生誕120年記念 今こそ、宮沢賢治」

2016/05/10 小学館 定価700円

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今年の8月に生誕120年を迎える宮沢賢治(1896~1933)。生まれ育った岩手県花巻市を中心に様々な記念行事が予定されていますが、いま、賢治の生き方や作品が再び注目されています。また、東日本大震災の被災地でも賢治は読まれているそうです。

『サライ』6月号の特集は「今こそ、宮沢賢治」と題して、作家の池澤夏樹さん、映画作家の大林宣彦さん、漫画家の松本零士さんをはじめ、賢治作品に影響を受けたという著名な方々に、賢治との出会いと作品の解釈、それぞれの賢治像を語っていただきながら、「いま、なぜ宮沢賢治か」をひもといていきます。

社会学者の見田宗介さんは賢治が今なお多くの人々に読まれている理由として、作品に共通する「人間は生きて在るだけでいい」という考えに共感し救われているからと語ります。また、それは経済的な豊かさを追い求めてきた人々が、従前とは異なる幸福感を考え始めているからだとも述べています。

賢治が生きた時代、日本は戦争への道を進み、故郷・岩手は自然災害にたびたび見舞われました。29歳で農学校の教職を辞し、花巻に「羅須地人協会」を設立。自らも一農民として後半生を農業の発展に寄与する道を賢治は選びます。農民に肥料の相談や指導を無料で行ないながら、自らの考えも説いたのです。

<世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない>
賢治の弟・清六の孫にあたる宮澤和樹さんは、「賢治さんは、自らが率先して実践することで、各人が他人のことを考えて行動し、歩みを進めれば、夢の国『イーハトーブ』は実現できると考えていたのではないでしょうか」と賢治の心の内を代弁します。

本特集では、今も賢治作品に刺激を受け続けているという作家の夢枕獏さんが、岩手県内に賢治ゆかりの地を訪ね歩いています。賢治の世界を肌で感じた夢枕獏さんは、こう言いました。
「災害やテロなど、世の中が混沌としている今だからこそ、賢治の言葉が私たちの心に刺さります」
人は繋がりで生きています。そして、私たちはひとりではありません。誰もの心に賢治の言葉があれば、本当の幸せの花が咲くのです。宮沢賢治が私たちに残してくれたいくつものメッセージにもう一度耳を傾けてみてはいかがでしょうか。


実際に会ったことは一度だけながら、お互いにその詩的世界を認め合い、足かけ8年にわたる光太郎の花巻近辺での生活を実現させた宮沢賢治の特集です。

「イーハトーブ対談 賢治が本当に伝えたかったこと」というコーナーで、作家の夢枕獏氏と、賢治の弟である清六の令孫・宮澤和樹氏の対談で、賢治を見いだし、世に広めるのに一役買った光太郎に言及されています。和樹氏、ことあるごとに光太郎の功績を語って下さり、有り難く思っております。

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また、やはり夢枕さんによる「宮沢賢治の「心」と「風景」を歩く」という紀行文では、旧太田村の山小屋(高村山荘)が紹介されています。

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ちなみに夢枕さんといえば、「智恵子抄」を愛読する、心優しい巨漢の豪傑を主人公とした『怪男児』というエンタメ小説を、かつて執筆なさっています。

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その他、賢治・光太郎ともに愛した大沢温泉さんや、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑など、光太郎がらみの場所も紹介されています。


もう1冊。

月に吠えらんねえ(5)

清家雪子著 2016/5/23 講談社(アフタヌーンKC) 定価740円+税

萩原朔太郎作品のイメージから生まれた「朔くん」、北原白秋作品から生まれた「白さん」、室生犀星作品から生まれた犀。戦中詩を強要され苦しむ朔、□(シカク)街と朔の関係を追求する白、戦場の悲劇を目撃し続ける犀、3人の詩人たちは近代日本の闇に直面する。膨大な資料を下敷きにした、話題集中の近代詩歌俳句エンターテインメント、あいかわらず独走中!

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萩原朔太郎をモデルとした「朔」を中心に、幻想の街・□(シカク)街に交錯するさまざまな文人たちを描くコミックの第5巻です。昨年刊行された第4巻では、アッコさん(与謝野晶子)とチエコさん(高村智恵子)が表紙を飾り、第17話「あどけない話」では、コタローくん(光太郎)とチエコさんがメインのストーリーになっていました。

5巻では、コタロー君とチエコさんは直接登場しませんでした。が、「朔」が幻想の中で、日本近代詩史を辿るという場面に、光太郎詩「牛」、そして「敵ゆるすべからず」が使われています。

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「社会が最上と認めるものが芸術の価値ならば 日本近代詩の頂点は あの無惨な 響きも実験精神も何もない 雰囲気に追い立てられ無理に生み出された出来損ないの 戦争の詩なんだよ」という「朔」のセリフ。なかなか鋭い考察です。


『サライ』、『月に吠えらんねえ』、ともに新刊書店で普通に販売中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

朝焼けやぬるき南のしめり風海より吹きて初夏は来ぬ
明治40年(1907) 光太郎25歳

昨日の関東では、真夏日を記録した所もありました。今日も暑くなりそうです。

オリジナルのステーショナリーグッズなどを製造・販売している「花籠や」さんという企業?があります。

そちらの商品の画像をインスタグラムで見つけ、「おお、これは!」と思い、サイトにたどり着き、商品をいろいろと取り寄せました。

すべて「文豪」というシリーズの商品です。サイトには「おやまあ、教科書で、便覧でみたことあるような顔、顔、顔…!お気に入りはだれですか?」という説明がありますが、個々の名は出ていません。ナントカ権の問題でしょうか。したがって、このブログでも伏せ字を使わせていただきます。


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縦11㌢、横9㌢の台紙。木版画風の絵で、左上が、太○治、2段目、左から、中○○也、○目○石、武者○路○篤、3~4段目に2段抜きで宮○賢○、3段目中央が与謝○○子、右には○川啄○、4段目中央に芥○龍之○、そして右下隅は我らが○村光○郎。


続いて「文豪バッヂ」。

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「新文豪しゐる」にあった宮○賢○の代わりに、正○○規が入っています(右下隅)。当方、苦労して伏せ字「○」を使いましたが、委託販売店?の中には全員の実名を晒している(笑)ところもあったりします(笑)。

こちらはバラ売りで、当方、我らが○村光○郎のみ購入しました。

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さらに「文豪ポストカード」。

これも我らが○村光○郎のみ購入しましたが、「新文豪しゐる」、「文豪バッヂ」の10名全員のバージョンがあります。

我らが○村光○郎バージョン、顔以外に光○郎の木彫、白○鳥もあしらわれています。5枚購入し、1枚は保存用。1枚は既に荒野愛子さんへの連絡に使いました。残り3枚もそのうちに、お仲間のどなたかの所に行くでしょう。届いた方、棄てずにとっておいて下さい(笑)。

「文豪」シリーズ、他にも一筆箋や便箋、ラッピング用の紙などのラインナップがありますが、そちらはどうも光○郎がカットされているようなので、購入しませんでした。

ところが、改めて今日また花籠やさんのサイトを見ると、光○郎もいるマスキングテープもあることに気付きました。これも買わねばなりません(笑)。

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「花籠や」さん、「文豪」シリーズ以外にも、いろいろとおしゃれで面白い商品を取りそろえていらっしゃいます。ネットでも購入可能ですし、店頭販売の取扱店も増加中。ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

疲れきつて二階の汝の部屋にゆけば童子のごとくものの食べたし

大正13年(1924) 光太郎42歳

「汝」は、おそらく昨日130回目の誕生日を迎えた智恵子でしょう。

今日は智恵子の故郷・二本松にぶらりと行って参ります。

このブログも5年目に入りまして、閲覧数が10万件突破しています。ありがとうございます。割り算をすると、一日平均70件弱の閲覧を頂いています。

が、時折、閲覧数が跳ね上がります。イベントのレポートなどを載せた際に、そのイベントの関係者の方などがよくご覧下さるようです。

岩手花巻に滞在中だった先日の日曜日も急に多数のご訪問。その時はなぜ?という感じでした。前日には花巻のレポートを載せていましたが、携帯からの短い投稿でしたので、閲覧数の跳ね上がるような内容ではありませんでした。

携帯からではどの記事にアクセスがあったのかなどの解析が出来ません(そろそろタブレットを買え、ということでしょうか)。帰って参りまして、解析のページを見ると、末盛千枝子さんに関わる記事に多数のアクセスがあることがわかりました。

そこで思い当たったのが、新聞の書評欄。各紙おおむね日曜日に掲載されますが、末盛さんの新刊『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』の書評が、どこかの新聞に載ったので(近々書評が出るだろうと思っていました)、さらに同書についてネットでサーチされた方が当方ブログにたどりつかれたのだろう、というわけです。

果たして、ありました。

まず『日本経済新聞』さん。光太郎智恵子の名も出して下さいました。 

あとがきのあと 「私」を受け容れて生きる 末盛千枝子氏 困難を克服しつつ歩む人生

 彫刻家、舟越保武の長女。やはり彫刻家となった舟越桂の姉にあたり、家族の死や事故、震災、皇后美智子さまとの交流など起伏に富んだ人生を歩んできた。絵本作りに尽力し、国際児童図書評議会(IBBY)の理事も務めた。そんな半生を本書で振り返った。
 幼いころは裕福とはいえず、我慢の多い生活で心の支えになったのが絵本。やがてこれを仕事とし、美智子皇后さまにIBBYの退会でビデオで講演していただく機会を得た。「皇后さまはとても優しく気品があり、りんとした方。長男が入院したとき、すぐにお見舞いの電話を下さったことは忘れられない」と話す。
 皇后さまの気遣いは、スポーツの事故で体が不自由になった長男のこと。その父である最初の夫も54歳で突然死した。「こうした出来事がなければ今の人生はなかった。それで幸せかといわれれば分からない。でも、私に与えられた運命を受け入れて生きてきた」
 本書には実際、悲しみよりも感謝や慈しみの言葉が多くつづられる。それは、幼い弟の死をきっかけとした「信仰」ゆえだという。カトリックの指導者だった再婚相手から「神様はあなたをひいきしている」と言われたことが忘れられない。「困難を、神様からの宿題として受け止めて一つ一つ克服する私を見て、ある種のうらやましさを感じたのだろうと思う」とほほえむ。
 名付け親は父が尊敬した高村光太郎。「智恵子抄」で知られる高村の妻の名の漢字を替えて「千枝子」だ。
 2010年には岩手県八幡平市に引っ越し、東日本大震災を経験。被災地に絵本を届ける事業に奔走し、13年に再婚相手を看取ったことを機に、心の整理の一環として本書を書きとめた。「つらいことはたくさんあったけれど、決して不幸ではなかった。人生は生きるに値すると伝えたい」

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同日、『朝日新聞』さんにも書評が載りました。ただし、こちらには光太郎智恵子の名はありません。 

(著者に会いたい) 「私」を受け容れて生きる 父と母の娘 末盛千枝子さん(75)苦しかったことも自分の一部

 40年近く絵本の編集に携わってきた。「心を打つ絵本には、どこかに悲しみのひとはけが塗られている。そして、きちんと希望がある」と言う。平坦(へいたん)ではない自身の道程を著した本書を読むと、人生にも重なる言葉に思えてくる。
 父は彫刻家の舟越保武氏。7人きょうだいの長女で、大学卒業後、出版社で働いた。独立後、皇后美智子さまの講演録や英訳詩集を手がけ、親交を深めてきた。「『でんでん虫のかなしみ』というお話があってね、と最初に伺った時はびっくりして」。だれもが悲しみを背負っていることを伝える新美南吉の物語で、子どもの頃に出会った本が、のちの美智子さまを支えてきたのだと心に染みた。
 自身も困難に直面してきた。42歳の時、8歳と6歳の息子を残して夫が急死した。15年前には長男が事故で脊髄(せきずい)を損傷し、胸から下が動かなくなった。経営難に陥った出版社をたたみ、東京から父の故郷・岩手に移り住んでまもなく東日本大震災に遭う。
 「幸せとは、自分の運命を受け容(い)れることから始まる」との思いが書名の由来。だが「そう思えない時もあったのでは?」と尋ねると、「時間はかかるけれど、あきらめずにいれば、いつしか困難を乗り越え、強くなっていることに気づく。苦しかったことも、今の自分の一部なんですよね」としみじみと語った。
 病院からの帰り道、盛岡で車いすの長男と映画や展覧会を楽しむ。「東京では出来なかったこと。何が幸いするかわからない。ここでたくさん友だちを得たことも不思議なご褒美」とほほ笑んだ。被災した子どもたちに絵本を届ける活動を、今も仲間と続けている。

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当方、末盛さんとは2回お目にかかりました。最初は代官山で開催されたクラブヒルサイドさん主催の読書会「少女は本を読んで大人になる」(この記録集『少女は本を読んで大人になる』も好評発売中です)、二度目は一昨年の花巻高村祭。こういうと失礼ですが、本当に素敵なお年の召し方をされている方です。当方も、それから作家の中江有理さんも、「朝ドラのヒロインのよう」と感じています。ぜひお読み下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ
大正12年(1923) 光太郎41歳

今日、平成28年(2016)5月20日は、明治19年(1886)、福島県安達郡油井村(現・二本松市油井)に生まれた智恵子の130回目の誕生日です。

この短歌は、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」に添えられたものです。

光太郎最晩年、昭和30年(1955)に、当会顧問の北川太一先生が採った聞き書きには、以下の一節があります。

「樹下の二人」の前にある歌は安達原公園で作ったんです。僕が遠くに居て智恵子が木の下に居た。人というのは万葉でも特別の人を指すんです。
 詩の方はお寺に行く道の山の上に見晴らしの良いところがあってね、その土堤の上に坐って二人で話した。もう明日僕が東京に帰るという時でね。それをあとから作ったんです。詩と歌は別々に出来てそれをあとで一緒にしたわけだ。

二本松では今日から高村智恵子生誕130年記念事業「智恵子生誕祭」が行われます。明日、ぶらりと行ってみようと思っています。

先週末、花巻でチラシを入手して参りました。

啄木生誕130年・盛岡市玉山村合併10周年 2016啄木祭 ~母を背負ひて~

日 時 : 平成28年6月4日(土) 13:30開演 (13:00開場)
場 所 : 姫神ホール(盛岡市渋民公民館)  盛岡市渋民字鶴塚55番地
講 演 : 「わたしと啄木・賢治・光太郎」渡辺えり氏(劇作家・演出家・女優)
対 談 : 「啄木の母」 渡辺えり氏×森義真氏(石川啄木記念館長)
料 金 : 前売1,000円 当日1,300円
定 員 : 550人
主 催 : 啄木祭実行委員会
共 催 : 盛岡市,盛岡市教育委員会,(公財)盛岡観光コンベンション協会,
      盛岡商工会議所,盛岡芸術協会,(公財)盛岡市文化振興事業団

本年は啄木生誕130年,盛岡市玉山村合併10周年の節目の年であり,郷土の歌人石川啄木を偲び,「2016啄木祭~母を背負ひて~」が開催されます。
今年は,女優でNHK連続テレビ小説「あまちゃん」にも出演していた渡辺えり氏を講師にお迎えして,「わたしと啄木・賢治・光太郎」と題して講演していただきます。
また,渋民小学校鼓笛隊や渋民中学校群読劇,女性コーラスグループのコールすずらんなど,啄木にちなんだ歌や劇が披露されます。
皆さまどうぞご来場ください。

問合せ先 : 石川啄木記念館 019-683-2315

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宮澤賢治と並び、岩手を代表する文学者である石川啄木。明治19年(1886)生まれの光太郎より3歳年少でしたので、智恵子と同じく今年が生誕130年になります。ただし、啄木は前年の出生であるという説もあるようです。明治45年(1912)、数え27歳で歿したその短い生涯の中に、光太郎との接点がありました。

明治35年(1902)、旧制盛岡中学を退学し、上京した啄木は、その2年前には東京美術学校在学中の光太郎も加わっていた、与謝野鉄幹の主宰する新詩社同人となりました。この年11月に東京牛込で開催された新詩社小集(同人の会合)で、二人は初めて出会ったと思われます。当時の啄木の作は、短歌より詩や小説が中心でした。

同38年(1905)4月には、新詩社演劇会が開催され、ドイツの劇作家コッツェブー作の喜劇「放心家(うつかりもの)」、光太郎作の戯曲「青年画家」が上演されました。「放心家」では、主役の軍人を光太郎が演じ、啄木も出演しています。

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啄木は光太郎のアトリエをしばしば訪れていましたが、光太郎は当時の啄木を高く評価していませんでした。「彼の詩は美辞麗句ばかりで青年客気の野心勃々というあくどさがあってどうも私は感心しなかった。」と、昭和23年(1948)の対談で語った他、同様の発言は多くあります。詩でも「いつのことだか忘れたが、/私と話すつもりで来た啄木も、/彫刻一途のお坊ちやんの世間見ずに/すつかりあきらめて帰つていつた。」(「彫刻一途」昭和22年=1947)と記しています。

その後、啄木は盛岡に移り、光太郎は足かけ4年にわたる欧米留学に出、一旦、二人の交流は途絶えます。両者が再会したのは、光太郎帰国後の明治42年(1909)。その前年には、啄木も再上京しています。新詩社の機関誌『明星』は廃刊となり、後継誌『スバル』が啄木を編集人として創刊されていました。留学先のパリからも寄稿をしていた光太郎は、帰国後、詩や評論をどしどし発表します。その関係で、二人はたびたび顔を合わせていたと推定されます。

この頃の啄木は、明治43年(1910)刊行の『一握の砂』に収められた短歌を量産していた時期で、のちに光太郎は「前は才気走つたオツチヨコチヨイみたいな人だった」としながらも、この時期の啄木は「病気になつてから、あの人はうんとあの人の本領になつた」(対談「わが生涯」昭和30年=1955)と語っています。

しかし、病魔に蝕まれた啄木は、明治45年(1912)に還らぬ人となってしまいました。その生がさらに長く続いたとしたら、光太郎との間係がどう発展していったのか、興味深いところです。


さて、講演と対談に、渡辺えりさんがご登場。

えりさんのお父様、渡辺正治氏が光太郎と面識があり、さらに宮沢賢治の精神に共鳴していたというご縁から、えりさんは光太郎を主人公とした「月に濡れた手」、賢治が主人公の「天使猫」という舞台をそれぞれ公演なさいました。そして、今回初めて知ったのですが、啄木に関しても「泣き虫なまいき石川啄木」という舞台では、啄木の母・カツの役をなさったこともあるそうです。

えりさんの講演は、平成25年(2013)の花巻高村祭その翌日の花巻市文化会館で拝聴しましたが、さすが大女優、時の経つのも忘れる素晴らしいお話でした。

ぜひ足をお運びください。

えりさんに関しては、もう一つネタがありますが、またのちほど。


【折々の歌と句・光太郎】

山形によき友ありてわれをよぶみちのはたてに火あるがごとし
昭和24年(1949) 光太郎67歳
山形ご出身の渡辺えりさんにちなんで。

この年11月、詩人の真壁仁らが中心となり、山形市美術ホールで「高村智恵子遺作切抜絵展覧会」が開催され、光太郎は翌年には県綜合美術展のため、山形を訪れています(えりさんのお父様はこの際の講演をお聴きになっています)。この歌はおそらくそれらに関わると推定されます。

先週の土曜日、横浜神奈川近代文学館に行って参りました。

閲覧室での調べ物が主目的でしたが、開催中の特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、招待券を戴いていたので拝見してきました。 

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」

「吾輩は猫である」「坊っちやん」「三四郎」「それから」「心」そして「明暗」…人間の心の孤独とあやうさを描いた夏目漱石の作品は、私たちの生き方へ多くの問題を投げかけ、その一方で、夢や謎、笑いに彩られたイメージの宝庫としても読者を魅了して来ました。
作家としての一歩を踏み出した1906年(明治39)、漱石は「余は吾文を以て百代の後に伝へんと欲するの野心家なり」と述べています。そしてこの言葉の通り、漱石が世を去ってから100年という長い歳月の中で、多くの人びとが作品を繰り返し読み、その魅力は、今日に至ってもなお語り尽くされることはありません。漱石文学は読者にとってまさに「飲んでも飲んでもまだある、一生枯れない泉」(奥泉光)なのです。
没後100年を記念して開催する本展は、こうした作品世界と、英文学者から作家に転身しわずか10数年の創作活動のなかで、数々の名作を書き上げた苦闘の生涯を紹介します。漱石と深いゆかりを持つ岩波書店、東北大学附属図書館の所蔵資料、そして、夏目家寄贈資料を中心とした当館所蔵の漱石コレクションをはじめ、数々の貴重資料により展覧。作品・人間へのアプローチを通し、漱石と現代の読者の新たな出会いの場の実現を目指します。
会 期  2016年(平成28年)3月26日(土)~5月22日(日)
休館日
  月曜日(5月2日は開館)
 間  午前9時30分~午後5時(入館は4時30分まで)
会 場  神奈川近代文学館第1・2・3展示室
観覧料  一般700円(500円) 65歳以上/20歳未満,学生300円(200円) 
     
( )内は20名以上の団体  高校生100円 中学生以下無料     
     東日本大震災の罹災証明書、被災証明書等の提示で無料
 催  県立神奈川近代文学館・公益財団法人神奈川文学振興会、朝日新聞社
特別協力 岩波書店
協力   東北大学附属図書館
後援   NHK横浜放送局、FMヨコハマ、神奈川新聞社、tvk(テレビ神奈川)
協賛   集英社 京浜急行電鉄 相模鉄道 東京急行電鉄
     神奈川近代文学館を支援(サポート)する会
広報協力 KAAT 神奈川芸術劇場
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漱石と光太郎には美術を通して接点がありました。大正元年(1912)、漱石の書いた美術評論を光太郎が批判したというものです。当時光太郎は数え30歳。留学から帰って、父・光雲を頂点とする旧態依然の日本彫刻界と縁を切り、ヒユウザン会に加盟、油絵の制作に力点を置いていた時期でした。

漱石はそうした美術界の新機軸に一定の理解を示していました。一つには漱石山房に出入りしていた画家の津田青楓の影響があったと思われます。津田は後に漱石の著書の装幀を多く手がけます。

光太郎の方は、漱石や森鷗外といった権威的な存在には噛みつかずにはいられない、という感じでした。津田とは欧米留学中に親しくつきあっていましたが、お互いの帰朝後は、漱石にかわいがられた津田と、権威的なものに反抗する光太郎とで、自然と疎遠になったようです。

ちなみに光太郎がまだ東京美術学校に在学中で、本郷Ⅸ駒込林町155番地の実家に住んでいた頃、漱石は明治36年(1903)から約3年間、本郷Ⅸ千駄木町57番地(いわゆる「猫の家」)に住んでおり、近所といえば近所でした。

さて、「100年目に出会う 夏目漱石」。当然ですが文学関連が中心の展示で、漱石の自筆資料等もふんだんに出品されており、息遣いが聞こえてくるようでした。

美術関連では、ヒユウザン会がらみの展示はありませんでしたが、漱石自身の絵画がまとめて展示されていました。ただ、津田青楓などは自身で絵の手ほどきをしながら、その方面での漱石の才能がないことを、敬愛を込めながらも揶揄しています。

 津田が自分の仕事の段落のついた或000る日行つてみると、先生は独りでかかれた二、三枚の油絵を出し、抛げるやうな口吻で「駄目だよ、油絵なんて七面倒臭いもの、俺は日本画の方が面白いよ。」さう云つて、半紙ぐらいの厚ぼつたい紙に塗りたくつた妙な画を出して見せられた。
 南画とも水彩画ともつかない画だ。柳の並木の下に白い鬚を生やした爺さんが、柳の幹にもたれて休息してゐる。そのまへに一匹の馬がある。先づ馬と仮説するだけなんだが、四ツ足動物で豚でもなければ山羊でもなく、先づ馬に近い――その馬が前脚を一つ折つて、これから草の上で休まうとするやうにも、又これから立ち上がらうとするやうにも見える。馬といひ、人といひ、まるで小学校の生徒の画のやうだ。柳は無風状態で重々しくたれ下つてゐる。全体が濁つた緑でぬりつぶされてゐる。柳の下にはフンドシを干したやうに、一条の川が流れてゐる。その川と柳の幹だけが白くひかつて、あとは濁つた緑。下手な子供くさい画と云つても片付けられる。又鈍重な中に、不可思議な空気が発散する詩人の夢の表現と、云つてもみられる。先生はリヤルよりもアイデアルを表現したのだ。「盾のまぼろし」「夢十夜」あんな作を絵筆で出さうとしてゐられる。
 漱石先生が「どうだ、見てくれ」と云つて出された二、三の日本画は、まことにへんちくりんなもので、津田は挨拶の代りに大きな口をあいて、
「ワハヽヽヽヽヽ」
 先づ笑つた。
(『漱石と十弟子』)


漱石といえば、文豪中の文豪ですが、こういう人間くさいエピソードには、親しみを感じます。並んでいた絵を見て、クスリとしてしまいました。

特別展「100年目に出会う 夏目漱石」、今月22日までです。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

人あり薫風に似て来り坐す      昭和20年(1945) 光太郎63歳

「薫風のよう」といわれる人間になりたいものです(笑)。

昨日の『長崎新聞』さんの一面コラムです。 

水や空 2016年5月1日 きょうから5月

きょうから5月。〈五月の日輪はゆたかにかがやき/五月の雨はみどりに降りそそいで/野に/まんまんたる気迫はこもる〉-高村光太郎の「五月の土壌」は、この季節が感じさせる大地の生命力を力強くうたいあげた一編だ▲ところで、この詩人は"土との格闘"をつづった「開墾」という題名の随筆も残している。自然の強さや厳しさを愛し称賛した作者には不似合いな弱気な姿勢が興味深い▲〈猫の額ほどの地面を掘り起こして去年はジヤガイモを植ゑた〉〈...自分の体力と時間とに相当したことだけを今後もやつてゆくつもり...〉〈...分相応よりも少し内輪なくらゐに始めるのがいいのだと信じている〉▲と、控えめに始めた農作業だったが、それでも手に血まめをこしらえてしまい、傷跡が化膿したのか、夜も眠れぬ痛みに襲われる。1カ月ほどの病院通いを余儀なくされ、戻ってみると、せっかくの畑は台無しに▲当世風のブログならば文末に(泣)とでも書き加えたくなりそうな顛末(てんまつ)だ。自虐めいたユーモラスな筆致が親近感を誘う▲ともあれ、桜の花に彩られて始まった新生活や新しい環境が一段落して、緊張感の反動が少し心配なこの時期に、新緑のみずみずしさと爽やかに吹く風が人々を癒やす。日本の「1年」は、つくづく絶妙にできている。(智)

引用されている「五月の土壌」は、大正3年(1914)5月の作。雑誌『詩歌』に発表され、この年に編まれた第一詩集『道程』にも収められました。


   五月の土壌

 五月の日輪はゆたかにかがやき
 五月の雨はみどりに降りそそいで000
 野に
 まんまんたる気魄はこもる

 肉体のやうな土壌は
 あたたかに、ふくよかに
 まろく、うづたかく、ひろびろと
 無限の重量を泡だたせて
 盛り上り、もり上り
 遠く地平に波をうねらす

 あらゆる種子をつつみはぐくみ
 蟲けらを呼びさまし
 悪きものよきものの差別をたち
 天然の律にしたがつて001

 地中の本能にいきづき
 生くるものの為には滋味と塒とを与へ
 朽ち去るものの為には再生の隠忍を教へ
 永劫に
 無窮の沈黙を守つて
 がつしりと横はり
 且つ堅実の微笑を見する土壌よ
 ああ、五月の土壌よ

 土壌は汚れたものを恐れず
 土壌はあらゆるものを浄め
 土壌は刹那の力をつくして進展する
 見よ
 八反の麦は白緑にそよぎ
 三反の大根は既に分列式の儀容をなし
 其処此処に萌え出る無数の微物は
 青空を見はる嬰児の眼をしてゐる
 ああ、そして
 一面に沸き立つ生物の匂よ
 入り乱れて響く呼吸の音よ
 無邪気な生育の争闘よ

 わが足に通(かよ)つて来る土壌の熱に
 我は烈しく人間の力を思ふ


画像は自宅兼事務所の裏山の竹林です。タケノコがすごいことになっています。「五月の土壌」のパワーですね(笑)。

さらにコラムにある「開墾」という散文は、昭和22年(1947)、岩手花巻郊外太田村の山小屋での作です。『北方風物』という雑誌のために書かれましたが、同誌が発表前に廃刊となり、いったんお蔵入りになりましたが、その後『智恵子抄その後』に収められ、『高村光太郎全集』で読むことが出来ます。

「風薫る」と称される五月。暑くもなく寒くもなく、緑の美しい季節です。「日本の「1年」は、つくづく絶妙にできている。」そのとおりですね。


【折々の歌と句・光太郎】

青葉若葉巴里の町の狭さかな    明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学中の作。パリにいても、遠い日本の「風薫る」風景も思い起こしていたのではないでしょうか。

注文しておいた新刊書籍が昨日届きました。昨日のうちに一気に読みました。 

映画「高村光太郎」を提案します 映像化のための謎解き評伝

2016/04/30 福井次郎著 言視舎 定価1,800円+税
 
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★今年は没後60年。人間・高村光太郎の数々のドラマを追うには、映画化が一番! 大正・昭和期の映画を徹底して研究してきた著者が、映像化のための企画書を内包した異色の評伝に挑む。
★なぜ智恵子は自殺しようとしたのか? なぜ「戦争協力詩」を書いたのか? 花巻への隠棲とは? 十和田湖「乙女の像」のモデルは? ……数多の謎を解き、光太郎研究に新視点をもたらす。
★『智恵子抄』の新しい読み方も提案。

★目次
 第一章 高村光太郎という迷宮
 第二章 ミステリー『智恵子抄」
 第三章 不可思議なる転向
 第四章 「乙女の像」の謎 ほか


著者の福井氏は、「映画評論家」という肩書きをお持ちの方です。そこで、光太郎の生涯を映画化できないか? という提言のために書かれた光太郎評伝です。このブログでも何度かご紹介した昨年公開の小栗康平監督映画「FOUJITA」にからめ、光太郎の生涯を追えば、もっと面白い作品が作れる、という提言。その通りだと思います。

著者のスタンスは、冒頭の「はじめに」に記されています。赤字の部分は、同書で太ゴシックで組まれている部分です。

本書は詩論や文芸評論の類いの本ではないことを断っておく。また光太郎の彫刻や油絵、書について論じた本でもない。本書の関心はあくまで人間「高村光太郎」にある。人間「高村光太郎」の映画化を提案することによって、彼の実像を明らかにすることを目的としている。

また、「光太郎が取った実際の行動から彼の人間像にアプローチするという方法を取っている」「光太郎が書いたものより周囲の証言に重点を置いている」とのことでした。

本文は4章に分かれ、光太郎の生涯を俯瞰。各章はいくつかの項から成り、それぞれの終末に「映画化のポイント」という稿が付されています。そちらは映画の企画書のような体裁。中々面白い手法だなと思いました。

全体に、光太郎に対する健全なリスペクトの念が感じられます。また、映画化という前提のもとにわかりやすく光太郎の生涯を俯瞰しようとする手法には、感心させられました。時に大きな矛盾を抱え、智恵子を犠牲にしたり、大政翼賛に与したりしながらも、「求道」の生涯を送った光太郎の姿が、鮮やかに描かれています。

エラいセンセイたちが研究機関の紀要等にノルマや〆切に追われて無理矢理書く「詩論」や「文芸評論」(とにかく対象を批判しなければ気が済まない)、在野の「自称研究者」が自己顕示のために書くわけのわからない独断のような「イタさ」は感じません。

資料も豊富に読み込まれています。驚いたのは、前半部分を当方が執筆した『十和田湖乙女の像のものがたり』をだいぶ参考になさって下さっていること。感謝です。

ただ、固有名詞の誤りが少なからずあったり、年号や事実関係にも勘違いが見受けられたりするのが残念ですが、それを差し引いても優れた書籍です。

ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

まよひゆく花野のおくぞきはみなきいづこを果と此身は捨てむ
明治35年(1902) 光太郎20歳

光太郎の生涯、ということに思いを馳せると、この短歌が思い浮かびます。

過日のこのブログでご紹介した、末盛千枝子000さん著『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』が一冊、版元の新潮社さんから送られてきました。

おそらく第60回連翹忌関連の資料を末盛さんにお送りしたので、そのご返礼として、末盛さんのご指示だろうと解釈、ありがたく頂戴いたしました。ただ、自分でも一冊購入していますので、いずれどなたかに差し上げようと思っています。

新潮社さんで作られた同書のチラシ、さらに同社のPR誌『波』(元々、『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』は同誌の連載でした)の今月号に載った、中江有里さんによる書評のコピーが同封されていました。

チラシの方は、書籍のチラシというのはこういう風に作ればいいのだな、と、参考になります。


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中江さんの書評は、以下の通り。

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朝ドラのヒロインのような人生 ――『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』  中江有里

 以前テレビの取材で、末盛さんの弟さんで彫刻家の舟越桂さんにお会いしたことがあります。世田谷のアトリエにお邪魔してインタビューさせて頂いたのですが、その時はご家族のお話は伺わなかったので、皇后様のご講演録『橋をかける』を手がけられた名編集者である末盛さんが、このように波乱に満ちた人生を送られているとは、全く知りませんでした。四十二歳のとき最初の旦那さんを突然亡くされたこと、ご長男の難病と障害、再婚相手の方の介護と看取り、経営していた出版社「すえもりブックス」の閉鎖、そして岩手に移住した直後の東日本大震災……。お写真を拝見すると、とても品がありお優しそうでいらっしゃって、苦労や不幸をまったく感じさせない佇まいに驚くのですが、自伝的エッセイである本書を読み、その理由が分かったような気がします。
  末盛さんは、一九四一年に彫刻家・舟越保武さんの長女として生まれ、高村光太郎によって「千枝子」と名付けられました。「女の名前は智恵子しか思い浮かばないけれど、智恵子のような悲しい人生になってはいけないので字だけは変えましょうね」と高村さんは言われたそうです。その時点でもう、ある種の「運命」を感じてしまうのですが、彫刻だけで家族八人が食べていくことには、大変な困難が伴いました。そんな貧しさのなか、ひたむきに芸術と向き合うお父様と、お父様のことを尊敬し支え続けたお母様の生き様は、「本当に美しいものは何か」といったことや、生きる上での「覚悟」を末盛さんに教えたのだと思います。お金はなかったかもしれませんが、六人の子供たちはとても自由にそれぞれの生き方を選び取っていて――桂さんが苦労を承知の上で、お父様と同じ彫刻家という職業を選んでいるくらいですから。
  また、「信仰」も末盛さんの人生を語る上で欠かせないものです。末盛さんが小学校四年生のとき、八カ月で亡くなった弟さんの死をきっかけに、ご家族全員でカトリックの洗礼を受けました。外国人神父さまとの交流など、日本に暮らしながら「日本的でないもの」に幼い頃から触れてきたことで、この世界には様々な価値観が存在することを、自然と教えられたのでしょう。その中でも、大学時代にある神父さまから、「愛はすすめではなく、掟です」と言われたというエピソードは、その後の末盛さんの人生を示唆するようでもあり、かなり印象的でした。つまりは、最初の旦那さんの突然死といった、愛するがゆえに苦しみが与えられてしまう出来事があったとしても、愛を憎むことなく受け容れるのだということで、厳しい教えでありながら、「私にとってすべての始まりだった」と末盛さんは書かれています。
  空腹だからご飯が美味しく食べられるのと同じで、困難があるからこそ、幸せを感じることができる――末盛さんの人生を拝読して、何より強く感じたことです。そんな末盛さんを支えたものの一つに、忘れられない「ある光景」があったということに、私は非常に共感を覚えました。二十代半ば頃、末盛さんが初めてヨーロッパを旅され、スイスのアルプスに登られたときのこと。五十ドルもする登山鉄道に意を決して乗り込んだものの、すぐに土砂降りになってしまった。しかし頂上に近づくにつれて辺りは明るくなり、光り輝くアルプスの峰々を眺めることができた……そんな「奇跡」のような出来事なのですが、私自身も、旅行や撮影で、思いがけない瞬間に思いがけないほど美しい景色に出会ったことがあるので、その時の、言葉にできないほどの感動――天候といった自分ではどうにもできないことだからこそ強く心を打たれるし、まるでご褒美をもらったかのような、何かに守られているような確信めいた気持ちになるということが、本当によく分かります。それに、自分自身の存在を肯定されているようにさえ思えるのです。「信じること、希望し続けることという意味で、この光景は、私の人生の北極星のようなものになった」とあり、末盛さんの生き方の神髄を感じました。
  他にも、皇后様との友情や絵本編集者としての仕事など、常に前を向き生きるその姿には、読んでいる人の心を揺さぶり、励ます力があります。まるでNHKの朝ドラの主人公のように、この世界を肯定し続ける女性の「物語」に、今の時代だからこそ、一人でも多くの人に出会ってもらいたいです。

 

驚いたのは、「朝ドラのヒロインのような人生」という題名。先月、このブログで同書をご紹介した際に、末盛さんの来し方を、当方も「NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました」と書きました。同じことを考える人がいるんだと、苦笑しました。NHKさん、ぜひご検討下さい(笑)。

ブログをお読み下さった皆様、ぜひお買い求め下さい。

光太郎に関する部分も必読ですが、後半の、東日本大震災の被害(末盛さんは岩手県八幡平市ご在住)から立ち直るというくだりも感動的でした。ご自分も大変な思いをされているのに、被災した子供達を思いやり、「3.11絵本プロジェクトいわて」を立ち上げ、心のケアに奮闘されたお話など。

九州では大変なことになっています。九州の皆さんにも、落ちつかれたら是非お読みいただきたいと思います。生活再建のための一つの指針となるかと存じます。


【折々の歌と句・光太郎】

つま立つて乙女が行くや春の雨    明治42年(1909) 光太郎27歳

「つま立つて」、彫刻家ならではの観察眼のような気がします。

今月2日、日比谷松本楼さんで執り行った第60回連翹忌の集いに際し、ご参会いただいた文学館、美術館関係の皆さんから、近々開催となる企画展のチラシや招待券などが配布されました。

まずは福島県いわき市立草野心平記念文学館さん。 
期  日 : 2016年4月16日(土)〜6月19日(日) 月曜休館(5/2は臨時開館)
会  場 : いわき市立草野心平記念文学館
        福島県いわき市小川町高萩字下夕道1番地の39
時  間 : 9時から17時まで
料  金 : 一般 430円(340円) 高・高専・大生 320円(250円) 小・中生 160円(120円)
         ( )内は20名以上団体割引料金

 草野心平(1903〜1988)が詩を書き始めたのは、中国の嶺南大学に留学していた1922年頃。彼は第一の青春をそこで謳歌しました。帰国後は苦しい生活と繰り返す転職、泥酔の挙げ句の喧嘩や野宿など、型破りな第二の「青春無頼」のなかで詩作を続けます。
 本展では、心平が「青春無頼」の日々に手がけた詩や随筆などを展観。彼を取り巻く交友関係にもふれながら、等身大の詩人の魅力を紹介します。


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光太郎よりちょうど20歳年下の草野心平。大正14年(1925)、中国の詩人・黄瀛の仲介で、光太郎の知遇を得ました。それぞれ数えで光太郎42歳、心平22歳。

爾来、お互いの芸術的人格に魅せられ、歳の差を超えた交流が、光太郎最晩年まで続きます。というか、第1回連翹忌の発起人代表となった他、光太郎没後も心平は光太郎顕彰に取り組み続けました。

その心平の、まさに光太郎と出会った前後、青春時代にスポットを当てた企画展です。しかし、チラシのコピーには、「青春がどのへんから始ってどの辺で終ったのか、或いはまだ終らないのかも私には分らない」とあり、幅広い時期を扱うようにも思われます。


併設展示などがこちら。 

矢内靖史写真展「二十一世紀の蛙」

期日、時間等、上記に同じです。

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スポット展示 「猪狩満直」

会期 2016年4月2日(土)〜6月26日(日)
会場 文学館常設展示室前 / 観覧券が必要です。

猪狩満直は心平と同郷、いわき出身の詩人です。

早くから心平と交流がありましたが、大正14年、北海道釧路で開墾生活に入ります。その経験を謳った詩集『移住民』は各方面から絶賛され、光太郎も好意的な評を、雑誌『南方詩人』に寄せています。


ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

「ゴンドラ」に雨あたたかし水の色     明治42年(1909) 光太郎27歳

昨日に続き、イタリア・ベネチアでの吟です。

福岡県の地方紙『西日本新聞』さんの一面コラム「春秋」。昨日掲載分です。連翹忌に触れて下さいました。 

春秋 2016/03/29

 来月2日は高村光太郎の没後60年に当たる。教科書にも載る「道程」や「智恵子抄」で知られる詩人は、一方で戦争に協力する詩文も書いた
▼例えば、日米開戦を称揚し国民を鼓舞する詩。〈記憶せよ、十二月八日。/この日世界の歴史改まる。/アングロサクソンの主権、/この日東亜の陸と海とに否定さる。〉。西欧の芸術を学び、人の「生」を肯定、称賛した高村も、戦争へと突き進む時代の奔流にのみ込まれたか
▼戦後、多くの文学者や芸術家が、戦争に協力したことなど忘れたかのように活動を再開する中、高村は戦意高揚の旗を振ったことを深く恥じ悔いた。岩手県の山あいの粗末な小屋で7年間の謹慎生活を送り、自らの過ちと愚かさを省みる連作詩「暗愚小伝」を残した
▼安全保障関連法はきょう施行。集団的自衛権の行使を可能にするこの法律で、自衛隊の海外での活動が大幅に拡大される。日本の安全保障にとって新たな道程の始まりだ
▼過去の戦争への反省を踏まえ、歴代内閣は集団的自衛権の行使を禁じていた。それを選挙の争点とすることもなく、一内閣が独断で変更した。反対はなお根強く、憲法学者の「違憲」の指摘も相次ぐ
▼夏の参院選は衆院選と同時に、という動きが強まっている。ならば正面から争点に据え、あらためて国民の審判を仰ぐべきであろう。後に愚かだったと悔やまぬように。私たちの後ろに出来る道のために。


「我が意を得たり」という感じでした。

書かれているとおり、光太郎は戦争推進に協力する詩文を書きました。数え方にも左右されますが、その生涯に光太郎の遺した詩は700篇強。そのうち200編弱は戦争協力詩といえるものです。詩集としても、選詩集や元の詩集の改訂復刊的なものを除けば、生涯に上梓した詩集は6冊。『道程』(大正3年=1914)、『智恵子抄』(昭和16年=1941)、『大いなる日に』(同17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)、『典型』(同25年=1950)。

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この6冊のうち、『大いなる日に』、『をぢさんの詩』、『記録』の三冊、つまり半分は戦争協力詩が中心の詩集です。

中を見てみると、今の言葉で言えば「痛い」「やっちまった」作品のオンパレード。特に『をぢさんの詩』収録のものは、年少者向けのものですので、その「痛さ」はひどいものです。


  軍艦旗004

ぼく知つてるよ  軍艦旗
御光(ごくわう)のさしてる  日の丸だ
御光のかずが   十六本
ほんとにきれいな 軍艦旗

ぼく知つてるよ  軍艦旗
艦尾旗竿(きかん)に   ひらひらと
大きくつよく    たのもしく
ほんとにりんたる 軍艦旗

ぼく知つてるよ   軍艦旗
日の出日の入り  おごそかに
全員そろつて    揚げおろす
ほんとにたふとい 軍艦旗

ぼく知つてるよ  軍艦旗
いざ戦ひと     いふ時は
大檣上(たいしやうじやう)に    空たかく
さんぜんかがやく 戦闘旗


注目すべきはこの詩が書かれた日付です。草稿に書かれたメモによれば、昭和14年(1939)2月26日となっています。その3日前には、この前年秋の智恵子の臨終を謳った『智恵子抄』中の絶唱、「レモン哀歌」が書かれています。

その3日後には、こんな愚にもつかない翼賛詩を書いている光太郎。まさに智恵子を失ったことにより、精神のバランスをも失っています。

この駄作や、『西日本新聞』さんに引用されている「十二月八日」などの翼賛詩を、たしかに数は多いのですが、光太郎の真髄と捉え、涙を流してありがたがる輩がいまだに多いのには閉口させられます。昨日施行されたとんでもない法案を考え出した連中もそうなのでしょうが。

光太郎の真髄は、『西日本新聞』さんにあるとおり、「戦意高揚の旗を振ったことを深く恥じ悔いた。岩手県の山あいの粗末な小屋で7年間の謹慎生活を送り、自らの過ちと愚かさを省み」たことにあります。

光太郎歿して60年。今週土曜日は、節目の年の連翹忌です。案内状には、当会顧問北川太一先生の、次のようなお言葉を賜りました。「戦後高村さんが辿った歴史の歯車が逆転しそうなこんな時期こそ、親しくお目にかかり、お話をお聞きし、今やこれからの沢山の報告もお聞きいただきたく存じます。」まったくその通りです。「私たちの後ろに出来る道のために」。


【折々の歌と句・光太郎】

人かあらずただしたはしの春の水おりし胡蝶のけさねたましき
明治34年(1901) 光太郎19歳

昨日、自宅兼事務所の庭で、この春初めて蝶を見かけました。

当会顧問・北川太一先生の盟友だった、故・吉本隆明関連です。

まずは新刊情報から。
2016年3月19日 晶文社 定価6600円+税000

人と社会の核心にある問題へ向けて、深く垂鉛をおろして考えつづけた思想家の全貌と軌跡。

第12巻には、中世初期の特異な武家社会の頭領でありながら、和歌の作者でもあった源実朝の実像に迫る『源実朝』と、同時期の評論・エッセイ、および詩を収録。単行本未収録3篇を含む。第9回配本。

月報は、中村稔氏・ハルノ宵子氏が執筆!


一昨年から刊行が始まった晶文社版『吉本隆明全集』の第7回配本です。既刊の第5巻第7巻、第4巻第10巻、第9巻でも光太郎に触れられていましたが、今回の巻でも目次に「究極の願望[高村光太郎]」という項目がありますし、他にも光太郎に触れる文章が含まれているかも知れません。


吉本がらみでもう1件。

生前の吉本と親交があったコピーライターの糸井重里さんによる、「ほぼ日刊イトイ新聞」というサイトがあります。その中に「吉本隆明プロジェクト」というコーナーがあり、吉本が生前に行った講演の音声データが昨年から順次公開されはじめ、全183講演が出揃いました。

光太郎に関する講演も含まれています。

A006詩人としての高村光太郎と夏目漱石 (昭和42年=1967 東京大学三鷹寮)
A013高村光太郎について――鷗外をめぐる人々 (昭和43年=1968 文京区立鷗外記念本郷図書館)

タイトルで「光太郎」の文字が入っているのは上記2件ですが、他にもあるかも知れません。

2件とも、昭和48年(1973)、勁草書房刊行の『吉本隆明全著作集8 作家論Ⅱ』に文字化されて収録されていますが、文字で読むのと音声で聴くのとでは、また違った感じですね。

ぜひお聴き下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

朝曇り窓より見れば梨の花       明治42年(1909) 光太郎27歳

自宅兼事務所の周囲も、ソメイヨシノがちらほら咲き始めました。近くにはありませんが、梨の花もそろそろ咲き始めているような気がします。

新刊情報です。 

「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―

2016年3月25日 末盛千枝子著 新潮社 定価1600円+税 

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幸せとは、自分の運命を受け容れること――。

彫刻家・舟越保武の長女に生まれ、本当に美しいものとは何かを教えられた幼少期。皇后様のご講演録『橋をかける』を出版した絵本編集者時代。戦争や貧しさ、息子の難病に夫の突然死、会社の倒産。そして、故郷岩手での東日本大震災……何があっても、「私」という人生から逃げずに前を向く著者の、波乱に満ちた自伝的エッセイ。

末盛千枝子スエモリ・チエコ
1941年東京生まれ。父は彫刻家の舟越保武で、高村光太郎によって「千枝子」と名付けられる。慶應義塾大学卒業後、絵本の出版社である至光社で働く。1986年には絵本『あさ One morning』(G.C.PRESS刊行)でボローニャ国際児童図書展グランプリを受賞、ニューヨーク・タイムズ年間最優秀絵本にも選ばれた。1988年に株式会社すえもりブックスを立ち上げ、独立。まど・みちおの詩を皇后様が選・英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』や、皇后様のご講演をまとめた『橋をかける 子供時代の読書の思い出』など、話題作を次々に出版。2010年から岩手県八幡平市に移住し、その地で東日本大震災に遭う。現在は、被災した子どもたちに絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」の代表を務めている。


光太郎に私淑した彫刻家の故・舟越保武氏のご長女で、絵本作家・編集者としてご活躍なさっている末盛千枝子さんの新著です。一昨年から昨年にかけ、新潮社さんのPR誌『波』に連載されていたエッセイ「父と母の娘」に加筆、一冊にまとめたものです。

当方、末盛さんには2回、お目にかかりました。

最初は平成25年(2013)、東京代官山で行われたイベント「読書会 少女は本を読んで大人になる」。末盛さんが講師で、『智恵子抄』を取り上げて下さった時でした。こちらは竹下景子さんや阿川佐和子さんなどとのご共著で後に一冊の書籍にまとめられました。

その後、一昨年の5月15日、花巻高村祭でもご講演。それぞれで、名付け親である生前の光太郎との思い出を語られました。

今回の『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』にも、同様のお話。さらに昨年7月、盛岡少年刑務所さんでの「高村光太郎祭」――昭和25年(1950)に光太郎本人がこちらを訪れて講演をしたことにちなんで、続けられています――で講演をなさった時のことなども書かれていました。

手元には昨日届き、まだ拾い読み、斜め読みですが、熟読するのが楽しみです。しかし、拾い読み、斜め読みでも、末盛さんのある意味ドラマチックな生き方、そして何があっても「自分」を受け入れて生きるというスタンスがページからこぼれてきます。

話が飛躍しますが、NHKさんの朝ドラの主人公になってもおかしくないような感がしました。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

ながめては深き思ひに沈む身をはなちし野火はただもえて行く
明治34年(1901) 光太郎19歳

各地で野焼き、山焼きが行われています。いかにも春、ですね。

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