カテゴリ: 文学

このブログ、昨日の朝、閲覧数ががっつり跳ね上がりました。

この記事を書いている段階では、前日のアクセス解析がまだ集計中なので確認できませんが、どうやら2ヶ月ほど前に書いた「『少年少女に希望を届ける詩集』。 」という記事にアクセスが集中したのだと思われます。この記事は、コールサック社さんから刊行された同名の詩集(光太郎を含む近現代物故詩人の詩、各界に呼び掛けて募られた書き下ろしの詩などが掲載されています)の紹介でした。

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NHKさんの朝のニュース番組「おはよう日本」中の、関東甲信越向けのコーナーで、この詩集が取り上げられたため、ご覧になった方々がネットで検索し、当方のブログにたどりつかれたのだと考えたわけです。

当方もオンエアを拝見しました。

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編集に当たられた詩人の曽我貢誠氏は、4月の連翹忌や8月の女川光太郎祭にご参加下さっています。

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この後、曽我氏が中学校教諭だった頃、不登校だったという元生徒さんがご出演。その方の詩もこの詩集に掲載されています。自らの不登校体験を踏まえ、飾らない言葉で悩める少年少女に語りかける、素晴らしい詩でした。

さらにこの詩集を使っての学校現場での取り組みなども紹介されました。

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先日、曽我氏から、新聞各紙記事のコピーが届きました。

『朝日新聞』さん。

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『河北新報』さん。

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『北海道新聞』さんには2本の記事が。

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昨今、悲惨な事件が相次いで報道されています。この国の民度――若い世代に限ったことではなく、社会全体の――がどんどん低下しているように感じるのは、当方だけでしょうか。またいわゆる引きこもりなどの問題も。

嘘くさい政治屋どもの唱える中身のないお題目などより、この詩集に収められた珠玉の言葉に触れることで、社会全体に希望が溢れてほしいものです。

この詩集には光太郎の「道程」と「冬が来た」が収められています。どちらも大正3年(1914)、つまり100年以上前に書かれたものですが、今も色あせず現代人にも通じる内容です。光太郎の言葉が今を生きる人々の希望に繋がるとすれば、泉下の光太郎もきっと喜ぶことでしょう。


『少年少女に希望を届ける詩集』、版元のコールサック社さんのサイトから購入可能です。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

わが為事いのちかたむけて成るきはを智恵子は知りき知りていたみき

昭和13年(1938)頃 光太郎56歳頃

今日はこの短歌を含む『智恵子抄』所収の「うた六首」に、作曲家野村朗氏が曲を付けた「連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六首」より」を聴きに、第20回TIAA全日本作曲家コンクール入賞者披露演奏会行って参ります。

日曜、月曜の新聞2紙に、光太郎と交流のあった人々が大きく取り上げられています。それぞれ光太郎、光雲にからめてご紹介下さっています。

まずは『読売新聞』さんの日曜版。巻頭2ページにわたる「名言巡礼」という連載があります。全国の美しい風景とともに、毎回一人の人物の残した言葉にスポットを当てる企画です。かつて光太郎や、光太郎と交流の深かった尾崎喜八も取り上げられました。

今回は、岡山県赤磐市で、永瀬清子。やはり光太郎と交流のあった女流詩人です。 

永遠に満たされぬ渇き 永瀬清子「あけがたにくる人よ」(1987年)

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その時あなたが来てくれればよかったのに
その時あなたは来てくれなかった(「あけがたにくる人よ」より)

 あけがたにくる人よ
 ててっぽっぽうの声のする方から
 私の所へしずかにしずかにくる人よ

 詩人・永瀬清子の代表作「あけがたにくる人よ」は、そう始まる。山鳩(やまばと)がくぐもった声で鳴く薄明の時間に、かつて約束の場所に来なかった恋の相手が現れるという。

 その時あなたが来てくれればよかったのに
 その時あなたは来てくれなかった

 どんなに待ったことか。何もかも遅すぎ、自分は老いてしまった。苦い恋の記憶と喪失感が心にしみる。
 詩人の井坂洋子さん(66)は、「永瀬さんは私に欠けているものを全部持っている」と言う。1987年は俵万智さんの歌集「サラダ記念日」が刊行された年。井坂さんや伊藤比呂美さんら女性詩人の若い感性にも注目が集まっていた。清子は地方の片隅にいて、女としての苦闘と実感を詩に紡いだ。81歳だった。

 清子は現在の岡山県赤磐(あかいわ)市に生まれ、明治から平成までの長い波乱の時代を、妻として母として生き抜いた。東京で詩作が評価され、三好達治や高村光太郎らと交流もあったが、戦後は故郷で農業をしながら詩を書き続ける。平和を訴える社会活動に参加し、瀬戸内の島にあるハンセン病療養所で詩の指導もした。
 少女の頃から、家や社会に縛られているのを感じていた。詩を書くのは「本当の自分を誰かに知ってもらいたいからだ」と言っていた。「詩は宇宙への恋である」とも。欠乏感が原動力だった。「老いもその一つ」と井坂さんは考える。晩年、「やり尽くした気がしない」と本人も語っている。だから、老いをうたった詩も湿っぽくない。年を重ねるにつれ、清子の詩に励まされるという。「今こそ読んでほしい詩人です」
 欠乏と望みは裏腹だろう。詩「古い狐(きつね)のうた」には「あの時の祈り あの時ののぞみ/私のすべての値打(ねうち)の中味なのかもしれないのです」と記す。永遠に満たされぬ少女の渇きのまま、清子は89歳の誕生日のあけがた、静かに息を引き取る。(文・松本由佳 写真・林陽一)

上記は1ページ目。2頁めは画像でご覧下さい。クリックで拡大します。

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先日ご紹介した、赤磐市くまやまふれあいセンターで開催中の「宮沢賢治のほとりで-永瀬清子が貰った「雨ニモマケズ」」展にからめ、宮沢賢治との関係が紹介されています。永瀬自身は生前の賢治との面識はなかったはずですが、賢治顕彰に骨を折った光太郎、草野心平らの影響もあって、賢治の魂に感化されたようです。

このブログで何度かご紹介した、昭和9年(1934)、賢治追悼会の席上で「雨ニモマケズ」が書かれた手帳が見つかったエピソード(その場に永瀬や光太郎、心平もいました)が取り上げられています。

また、永瀬の故郷・岡山県赤磐市の紹介。当方も一度足を運びましたが、実にいいところです。ある意味「日本の原風景」のような。

永瀬清子、もっともっと世に知られていい詩人だと思います。


もう1件、月曜日の『日本経済新聞』さんに取り上げられた彫刻家・細谷而楽についてご紹介しようと思っておりましたが、長くなりますのでまた明日。このブログ、あまり執筆に時間がかかると、アップロードの際にエラーが出ます。


【折々の歌と句・光太郎】

ひとむきにむしやぶりつきて為事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子

大正13年(1924) 光太郎42歳

10/5は智恵子の命日「レモンの日」です。それが近づいてきましたので、しばらく智恵子を謳った短歌をご紹介していきます。

昭和16年(1941)刊行の詩集『智恵子抄』には、巻末近くに「うた六首」として、この歌を含む六首の短歌が掲載されています。この歌はその冒頭に置かれています。

大正13年(1924)、光太郎は彫刻に、文筆に、脂の乗っていた時期です。「為事(しごと)」は、そうした芸術精進を指すとするのが一般的な解釈ですが、全く違った解釈で、性行為を謳っているという読み方もあります。そう考えると非常に生々しいのですが、『智恵子抄』にはずばり「淫心」という詩もあり、あながち的外れともいえないような気もします。

9/21、岩手花巻での、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」にてスピーチを仰せつかり、語った内容を記します。題して「宮沢賢治と高村光太郎」。

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光太郎は、昭和20年(1945)から27年(1952)にかけ、足かけ8年を花巻町及び郊外太田村で暮らしました。その間、毎年のように賢治祭に参加、やはり講話を行いました。その機縁は、宮澤賢治の存在を抜きには語れません。

007太平洋戦争末期の昭和20年(1945)4月、空襲により、東京駒込林町の光太郎アトリエは全焼しました。そこで、光太郎に花巻への疎開を勧めたのは、賢治の父・政次郎、総合花巻病院長・佐藤隆房医師たちでした。その背景には、生前の賢治が光太郎を崇敬していたこと、賢治没後の献身的な光太郎の賢治紹介の活動があります。

賢治の生前唯一の詩集『春と修羅』が刊行されたのは、大正13年(1924)のことでした。翌年、草野心平に勧められてこの詩集を初めて読んだ光太郎は、その特異な詩的世界を高く評価しました。 心平の回想には、高村家での次のような一コマが描かれています。

 ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。
                                                                                (「光太郎と賢治」 昭和31年=1956)

やがて心平は雑誌『銅鑼』を創刊、光太郎、賢治ともに同人となり、作品が誌上を飾ります。

しかし、光太郎と賢治が直接出会ったのは、おそらく一度だけ。大正15年(1926)の12月、賢治が、上京した折のことでした。二人の天才の運命的な出会いを、後に光太郎はこのように回想しています。
 
宮澤さんは、写真で見る通りのあの外套を着てゐられたから、冬だつたでせう。夕方暗くなる頃突然訪ねて来られました。僕は何か手をはなせぬ仕事をしかけてゐたし、時刻が悪いものだから、明日の午後明るい中に来ていただくやうにお話したら、次にまた来るとそのまま帰つて行かれました。
 (略)
あの時、玄関口で一寸お会ひしただけで、あと会へないでしまひました。また来られるといふので、心待ちに待つてゐたのですが……。口数のすくない方でしたが、意外な感がしたほど背が高く、がつしりしてゐて、とても元気でした。
談話筆記「宮澤さんの印象」 昭和21年=1946)
 
その後、二人の天才は二度と出会うことなく、賢治は昭和8年(1933)に早逝してしまいます。光太郎や心平ら、心ある人々には激賞されていた賢治でしたが、広く世に知られるには到りませんでした。

その死を悼んで、その年、光太郎はこう書きました。

内にコスモスを持つものは世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する。内にコスモスを
持たない者はどんな文化の中心に居ても常に一地方的の存在として存在する。岩手県花巻の詩人宮澤賢
治は稀にみる此のコスモスの所持者であつた。彼の謂ふところのイーハトヴは即ち彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般のことであった。   (「コスモスの所持者宮沢賢治」 昭和8年=1933)

006転機が訪れたのは、その翌年。心平が音頭を取り、光太郎も参加して、2月に東京新宿で開かれた賢治の追悼会の席上、有名な「雨ニモマケズ」が記された手帳が見つかったのです。遺された原稿の束や手帳を実際に見て心を動かされた光太郎、心平らの奔走で、『宮澤賢治全集』の刊行が始まり、徐々に賢治の世界が世に広く認められて行きます。

次第に賢治の声価が高まるとともに、地元花巻でも賢治の業績を顕彰する気運が高まります。賢治の主治医でもあった総合花巻病院長・佐藤隆房らが中心となって花巻に作られた賢治の会が発案し、花巻に賢治詩碑を建立する計画が持ち上がりました。詩碑を建てる場所は、賢治祭会場の町内桜町、賢治が開いた羅須地人協会の跡地。刻む詩は「雨ニモマケズ」と決まりました。ただ、この詩はあまりに長いため、後半部分のみを碑文とすることにし、その文字の揮毫は賢治を広く世に紹介する労を執った光太郎に依頼されました。

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除幕は昭和11年(1936)11月。碑の下のコンクリートの基礎には、賢治の遺骨、法華経の経文、『宮澤賢治全集』、詩碑建立の由来書を収めた鉛の箱が安置されたとのことです。2年後に歿する智恵子が南品川ゼームス坂病院に入院中ということもあり、光太郎は建碑式には参加できず、実際に初めてこの碑を眼にしたのは、疎開した昭和20年(1945)のことでした。

詩碑には、誰がどこで間違えたのか、除幕の段階で「雨ニモマケズ」の詩句に、計4カ所、脱漏や誤りがありました。昭和21年(1946)11月、その訂正を行うこととなり、太田村から出て来た光太郎が、足場に登って詩碑そのものに挿入・訂正箇所を筆で書き込み、初めに詩碑を刻んだ石工の今藤清六がその場で鏨で刻み、碑陰には「昭和廿一年十一月三日追刻」の文字が追加されました。光太郎は「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったと伝えられています。

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生前は無名の地方詩人に過ぎなかった賢治を世に知らしめた恩義に報いるため、政次郎らは光太郎を花巻に招いたのです。

続いて光太郎賢治、お互いが与え、そして受けた影響。

大正3年(1914)、光太郎の第一詩集『道程』が出版されました。これにより、日本の詩は島崎藤村などのそれまでの主流であった硬苦しい文語定型詩から、口語自由詩の時代へと遷って行きます。そうした意味では、賢治を含め、光太郎の後に続く詩人で光太郎の影響を受けていない者は皆無と言っていいでしょう。

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また、賢治は精神性の部分でも、光太郎の歩んだ道を継承したとも言えるのではないでしょうか。彫刻家であった光太郎はミケランジェロ、ロダンと続く西洋近代芸術、賢治は法華経の教えと、そのバックボーンは異なるものの、ともに「道」を追求する「求道者」としての自己を詩に表しました。

草野心平の回想には、以下のように記されています。

文学や芸術の世界では、賢治は光太郎に一番関心をもつてゐたといふことにもなりさうである。事実、私がもらつた賢治の或る手紙にはそれを裏付けるやうな文面があつた。
 (略)
いま手元にないので残念だが、暗記してゐる点をあげれば、「高村光太郎氏にはまことに知遇を得たし、以て芸術に関する百千の疑問を解し得ば(この後の方はウロ憶
えだが『師礼を以て』自分の先生になつてもらひたいといふ意を文語調で書いてあつた。)」

一方の光太郎も、賢治の世界を激賞し、様々な部分で影響を受けています。昭和13年(1938)、最愛の妻・智恵子を失った光太郎は、翌年、その臨終に題を採った絶唱「レモン哀歌」を執筆しました。ここに賢治が妹・トシの最期を謳った挽歌「永訣の朝」の影響が見てとれるという指摘がされています。

さらに、太田村での七年間の山小屋生活。元々光太郎には、若い頃から辺境の地で農耕牧畜にいそしみながら、芸術を産み出すという願望がありました。無計画さゆえにたちまち頓挫しましたが、海外留学から帰国した直後の明治末には実際に北海道に渡ったこともありました。

また、光太郎の周辺人物の中には、そういう生活を送っていた人々も、すくなからず存在しました。北海道弟子屈の詩人・更級源蔵、山形の詩人・真壁仁、千葉三里塚に移った作家の水野葉舟、宮崎に「新しい村」を開いた武者小路実篤、そして花巻の賢治その人も。光太郎の山居七年は、「雨ニモマケズ」の一節、「野原ノ松ノ林ノ蔭ノ/小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ」の実践だったのです。

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戦後の昭和21年(1946)には、光太郎と賢治の実弟・清六、二人の編集で、日本読書利用購買組合(のち、日本読書組合)から、全十一冊の予定(六冊で中断)で新たな全集が刊行されました。この版では、各冊とも光太郎による装幀、題字、そして「おぼえ書き」が収められました。

さらに光太郎没後の昭和31年(1956)からは、筑摩書房版の全集が、心平を中心として刊行され、やはり光太郎が装幀と題字を担当しました。巻数の漢数字は六までを書いたところで光太郎は歿し、以降は心平が光太郎の筆跡を真似て補いました。下記画像は光太郎による装幀案です。

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また、光太郎はその最晩年まで、折に触れ、文章で、頼まれて書く書で、賢治の世界をを紹介する労を厭いませんでした。その功績もあり、賢治の世界は広く世に受容され、その名は不動のものとなりました。

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心平ともども、遠く大正年間にそうなることを予測していた光太郎の眼力、そうなるべく献身的かつ精力的に発揮したプロデュースの力にも、敬服せざるを得ないでしょう。

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こうしたさまざまな縁で結ばれた光太郎と賢治。二人の業績が正しく後世へと受け継がれてゆくことを願ってやみません。


【折々の歌と句・光太郎】

秋晴れて林檎一万枝にあり       昭和21年(1946) 光太郎64歳

林檎栽培が今でも盛んな花巻での作です。

一昨日、岩手花巻市街ぶらぶら散歩の後、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」に出席して参りました。

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午後3時過ぎ、花巻駅前から路線バスに乗り込み、会場の賢治詩碑前へ。

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ここは賢治が創設した羅須地人協会跡地で、有名な「下ノ畑ニ居リマス」の舞台です。地人協会の建物自体は移築されてしまいましたが、「下ノ畑」は健在。ただ、来月から区画整理が行われ、景観が変わるだろうとのことでした。

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この地に昭和11年(1936)、賢治三回忌を期して、「雨ニモマケズ」後半部分が刻まれた、初の賢治詩碑が建てられました。全集編集などで賢治紹介の労を執り、賢治自身も崇敬していた光太郎に碑文揮毫の依頼があり、光太郎が筆を振るいました。

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台座の地下には賢治の遺骨も分骨されているとのこと。そこで、9月21日の賢治命日に合わせ、毎年、この碑の前で賢治祭が開催されているというわけです。当方、初参加でした。

午後4時から献花。参加者一人一人に花が渡され、それぞれが碑前に手向けるという方式でした。

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同時に伊豆大島からお見えの椿弦楽四重奏団さんの追悼演奏。その間にも三々五々、参加者が増え続け、最終的には300名くらいだったそうです。

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その後、黙祷、賢治作詞の「精神歌」。雰囲気が盛り上がってきたところで、開会。

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例年5月15日の花巻高村祭、それから昨年は日比谷松本楼さんでの連翹忌にもご参加下さった、上田東一花巻市長。御父君は光太郎と親交がありました。
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南城小学校4年生の皆さんによるかわいらしい歌。

その後、スピーチ。当方も光太郎と賢治の関わりについて述べさせていただきました。要旨はまたのちほどご紹介します。

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そして後半。この頃になるとすっかり日が落ち、昼間は暑かったのが、涼しい、というより寒いくらいになってきました。篝火が焚かれたのが有り難いところでした。

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後半はアトラクション中心でしたが、若い皆さんが大活躍。賢治の精神が次世代へと受け継がれて行くであろうと、感心しました。

最後は会場全体で、「星めぐりの歌」と「精神歌」を歌いました。「星めぐりの歌」は賢治の作詞作曲。花巻と同じ岩手を舞台にし、当会の会友・渡辺えりさんもご出演なさっていたNHKさんの「あまちゃん」でも使われていた曲です。

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ここでいったん閉会。第二部的に、「座談会」に移行しました。同じ会場ですが、今度は車座になって、一般の参加者の皆さんが、それぞれの賢治への熱い思いなどを語られる、というコンセプトでした。

ギターご持参で、「雨ニモマケズ」にオリジナルの曲を付けた歌を披露なさった方もいらっしゃいました。
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午後8時半、すべて終了しました。

翌日の地方紙2紙に載った記事です。

『岩手日日』さん。

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『岩手日報』さん。

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それぞれクリックで拡大します。

同じようなことを色々な場面でお話ししたり書いたりしていますし、当会顧問北川太一先生の受け売りなのですが、どんなに素晴らしい芸術家であっても、後の世代の人間がその価値を正しく理解し、さらに次の世代へとその人の功績を受け継ぐ努力をしなければ、やがて歴史の波に埋もれてしまいます。そうならないためのこうした取り組み、いつまでも続いて欲しいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

すとすとと蕎麦うつ音や枕もと     明治34年(1901) 光太郎19歳

秋といえば新蕎麦。当方、父方は信州の出ですので、蕎麦やら林檎やらの信州名産には目がありません。同じ信州名産でもイナゴや蜂の子はちょっと食べられませんが(笑)。

一昨日の賢治祭終了後、主催の方に車で送っていただき、花巻駅前まで戻りました。座談会の際におにぎり(宮沢家からの差し入れ)や南部煎餅などをいただきましたが、夕食とするには足りず、かつて光太郎も蕎麦を食べた駅前の伊藤屋さんで天ぷら蕎麦をいただきました。

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昨日から今日にかけ008「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」出席のため、岩手花巻に行っておりました。2回に分けてレポートいたします。

賢治祭が夕方4時からということなので、少しゆっくりめに千葉の自宅兼事務所を出ました。10時36分東京発の東北新幹線やまびこ号に乗って、午後2時過ぎに花巻に着く予定でした。ところが、東京駅までの高速バスが予定よりだいぶ早く着き、9時40分発の同じくやまびこ号に間に合ってしまいました。自由席ですので手続きも必要なく、そのまま乗車。最近は急ぐ場合を除いて、全席指定のはやぶさ号などは利用しません。こういう場合にいちいち窓口に行かなくて済むので楽ですね。

そういうわけで、やはり1時間早く午後1時過ぎには花巻に着きました。そこで、天気もいいし、ぶらぶら散歩。市役所近くの鳥谷崎(とやがさき)神社を目指しました。何度か足を運んだことはありますが、ここ数年、行っていないので、ひさしぶりに、と思いました。


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市役所近くの花城小学校跡。賢治の母校だそうです。普段、花巻に行っても賢治関連は撮影したりしませんでしたが、今回は賢治祭に参加ということで、やはり気になりました。

この一角は元の花巻城跡地にも当たります。当時の城門も健在。


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鳥谷崎神社は、城跡のはずれに鎮座ましましています。戦国時代にはすでにここにあったという古社です。

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秋らしく、萩の花が咲いていました。

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そうかと思えば、日陰にはまだ紫陽花も。驚きました。

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社殿がこちら。

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こうした場合の常ですが、この地の鎮護と道中安全を祈願して参りました。

この神社は、光太郎、賢治双方に関わります。

まず、光太郎。

昭和20年(1945)4月、空襲で東京駒込林町のアトリエが全焼。一時は近所にあった実妹の婚家に身を寄せますが、そこも被災者で手狭となり、宮沢家の招きで、5月には光太郎が来花(そのために東京を発った5月15日を記念して、毎年、花巻高村祭が開催されています)、宮沢家に厄介になります。

その宮沢家も8月10日の花巻空襲で全焼。光太郎は元旧制花巻中学校長、佐藤昌(さかり)宅に一時的に避難しました。佐藤宅は鳥谷崎神社近くで、終戦の玉音放送は、ここ、鳥谷崎神社の社務所で聴きました。その際に作られた詩が、「一億の号泣」で、17日に『朝日新聞』と『岩手日報』に掲載されました。

   一億の号泣

綸言一たび出でて一億号泣す
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎(とやがさき)神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れ来(きた)る
玉音(ぎよくいん)の低きとどろきに五体をうたる
五体わななきてとどめあへず010
玉音ひびき終りて又音なし
この時無声の号泣国土に起り
普天の一億ひとしく
宸極に向つてひれ伏せるを知る
微臣恐惶ほとんど失語す
ただ眼(まなこ)を凝らしてこの事実に直接し
荀も寸豪も曖昧模糊をゆるさざらん
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのずから強からんとす
真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん


画像は鳥谷崎神社の古絵葉書です。

戦時中、大量の翼賛詩を書き殴っていた光太郎、この時点でもまだ「鋼鉄の武器を失へる時/精神の武器おのずから強からんとす」と、その延長線上の詩を書いています。そのため、後にはこの詩は光太郎の内部では戦時中の翼賛詩同様、封印した詩でした。

光太郎没後の昭和35年(1960)、当時の花巻観光協会がこの詩の光太郎自筆揮毫を石に刻み、ここ、鳥谷崎神社に建立しました。いろいろ行き違いがあったようで、存命だった光太郎の実弟・豊周、当会の祖・草野心平、当会顧問・北川太一先生ら、当時の高村記念会が抗議、いったんはこの碑は撤去されました。

ところがいつのまにか再度建立され、現在に至っています。そのため、説明板も付されていません。

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いわば光太郎の負の遺産です。こうした作品は隠蔽してはいけないと思いますが、たしかに碑に刻んでまで残すものではないような気もします。しかし、負の遺産は負の遺産として、継承すべきでしょう。

続いて賢治。

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こちらは平成4年(1992)に建立された歌碑。賢治の絶筆といわれる短歌で、鳥谷崎神社例大祭(花巻祭り)を謳っています。

高台にあるこの鳥谷崎神社からの眺めを、賢治が愛したという話も聞いたことがあります。

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光太郎賢治に思いを馳せつつ、ふたたび歩いて花巻駅方面へ戻りました。

続いて訪れたのは、駅近くの林風舎さん。賢治の実弟、清六の令孫・和樹氏がオーナーの、賢治グッズのお店です。こちらも数年ぶりにお邪魔しました。

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1階から2階への階段に、昭和11年(1936)、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の拓本が掲げられています。

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すでに誤字脱字の追刻がされているので、戦後の採拓です。

さらに駅前の観光案内所さんに寄りました。こちらでは、花巻市さんで発行している無料のタウン誌『花日和』の秋号をゲット。表紙が郊外旧太田村の光太郎が暮らした山小屋・高村山荘です。

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それから光太郎がたびたび泊まった鉛温泉藤三旅館さんの紹介記事も。

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今回の宿は、駅前のかほる旅館さんという商人宿でした。そちらに荷物を預け、いざ、賢治祭。そちらはまた明日、ご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

光太郎山にすまひてはるかなるフオンテンブロオの森しのびゐる

昭和24年(1949) 光太郎67歳

「フオンテンブロオ」はパリ郊外。現代では「フォンテーヌブロー」と表記します。かつての仏王朝の狩猟地で、広大な森林が保全されており、花巻郊外太田村の自然から、若き日に訪れた彼の地を連想したということですね。

新刊、というか旧刊の復刻です。
2016年8月10日  講談社(講談社文芸文庫)  室生犀星著 定価1,400円+税

「各詩人の人がらから潜って往って、詩を解くより外に私に方針はなかった。私はそのようにして書き、これに間違いないことを知った」。藤村、光太郎、暮鳥、白秋、朔太郎から釈迢空、千家元麿、百田宗治、堀辰雄、津村信夫、立原道造まで。親交のあった十一名の詩人の生身の姿と、その言葉に託した詩魂を優しく照射し、いまなお深く胸を打つ、毎日出版文化賞受賞の名作。

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元々は、光太郎と交流のあった室生犀星が、昭和33年(1958)、雑誌『婦人公論』に連載したものを、同誌版元の中央公論社で単行本化しました。その後、文庫本として復刻されましたが、そちらも版を絶っていたので、今回の復刻は非常に意義のあるものです。

伝記、というより随想に近いもので、ある意味、犀星の重要な仕事の一つとして、近年も市民講座朗読会などで取り上げられています。

光太郎の回は、光太郎を尊敬しつつも、シニカルな見方をし、しかしやっぱり敬愛せざるをえない、といった複雑な心境が見て取れ、興味深い内容です。

ところで、18日の日曜日、『毎日新聞』さんに、詩人の荒川洋治さんによる書評が載りました。

今週の本棚 荒川洋治・評『我が愛する詩人の伝記』=室生犀星・著

遠近の人々をめぐる心の回想
 野趣にあふれ、鋭い省察が随所にみられる。時代が変わっても読む人の胸に強くひびく名著だ。
 「ふるさとは遠きにありて思ふもの」の詩句で知られる室生犀星(一八八九−一九六二)は日本の近代詩を切りひらいた。小説でも幾多の名作を書いた。犀星には、六九歳のときの回想『我が愛する詩人の伝記』(中央公論社・一九五八)がある。新装普及版(同・一九六〇)、新潮文庫(一九六六)、中公文庫(一九七四)につづき、このほど講談社文芸文庫に。解説は、鹿島茂。
 対象は、親交のあった明治・大正・昭和期の詩人。生年順では島崎藤村、高村光太郎、山村暮鳥、北原白秋、萩原朔太郎、釈〓空(折口信夫)、千家元麿(以上、犀星より年上)、百田宗治、堀辰雄、津村信夫、立原道造(以上、年下)の一一人の故人。人名が、そのまま表題となる。
 「北原白秋」。若き犀星は、白秋の詩誌を注文し田舎の郵便局から為替で送金。「たったこれだけのことでも、月給八円もらっている男にとっては大したふんぱつであり、そのために詩というものに莫大(ばくだい)なつながりが感じられた」。白秋の雑誌に投稿。「ふるさとは遠きにありて」の詩稿も含まれていた。それらは「一章の削減もなく全稿が掲載され、私はめまいと躍動」を感じた。後年白秋は語った。犀星の字は拙い。なぜ載せたか。「字は字になっていないが詩は詩になっていた」と。犀星は書く。「彼は妙な愛情で私の字の拙いことを心から罵(ののし)ってくれた」。
 「高村光太郎」。さほど年長でもないのに、いちはやく登場した光太郎の存在に、犀星はざわつく。「誰でも文学をまなぶほどの人間は、何時も先(さ)きに出た奴(やつ)の印刷に脅かされる。いちど詩とか小説で名前が印刷されるということは傍若無人な暴力となって、まだ印刷されたことのない不倖(ふこう)な人間を怯(おび)えさせ、おこりを病むようにがたがた震えを起させるものである」。当時、詩が活字になって印刷されるのは、無名詩人には夢のようなこと。印刷ということばは、まばゆさの象徴である。
 高村光太郎の妻、智恵子の印象はよくなかった。訪ねると、光太郎は留守だった。智恵子はのぞき窓のカーテン越しに、冷たくあしらう。愛する夫には忠実な智恵子。でも「私それ自身は彼女に一疋(いっぴき)の昆虫にも値しなかった。吹けば飛ぶような青書生の訪問者なぞもんだいではないのだ」。このあと、こう書く。「それでいいのだ、女の人が生き抜くときには選ばれた一人の男が名の神であって、あとは塵(ちり)あくたの類であっていいのである」。
 先に世に出たものの「印刷」におびえると書く。「塵あくたの類」であって当然と書く。よく見ると、いずれも凡庸な見解だが、正直にまっすぐに書くので、強く迫る。心の回想はつづく。
 次は「堀辰雄」と「立原道造」。
 堀辰雄のお母さんは、「堀がいまに本を書く人になることを考えて、或(あ)る製本屋に近づきがあったので態々(わざわざ)菓子折を提げ、うちの子の本が出るようになったら、どうかよい本に製(つく)ってやって下さいと、挨拶(あいさつ)にゆかれたそうである」。その母親は、堀辰雄が世に出る前に亡くなる。息子の本を一冊も見ることなく亡くなる。印刷、製本。それが文学なのだ。印刷、製本の夢をみる。それは犀星の夢でもあった。夢がかなえられても、まだ夢であった。それが詩人の生涯なのだろう。
 立原道造は、軽井沢の犀星の家にやってくると、木の椅子に腰を下ろして、いつも眠っている。「僕の詩でも、ラジオで放送してくれることがあるでしょうかしら、してくれると嬉(うれ)しいんだがナ」という青年だ。「誰でも持つ初期の心配をたくさんに持っていた」。犀星は、二四歳で亡くなった立原道造の詩が、そのあと多くの人に愛され、何度も全集が出た点を記す。印刷、製本の次は、ラジオ。読んでいくと、文学そのものの自伝を開く心地になる。
 最後の章は「島崎藤村」。気むずかしい大家藤村に、犀星は近づけない。会っても話ができない、遠い人だ。それで人から聞いた話にする。
 藤村が軽井沢の旅館に泊まったとき、世話をしてきた婦人から、色紙をたのまれる。「藤村は機嫌好(よ)く一字ずつ、念を入れて書いていた」と犀星は記す。「信州の片田舎の旅館の朝の間にも、対手に島崎藤村という者をしたたか認めさせたかったのだ」「わが島崎藤村は生きた一人の女性から充分にみとめられ、あがめられて余韻なきものであった」。この場面。詩人というものを伝える視点としては通俗的かもしれない。だが誰にも見えないものをとらえて書き切る。みごとなものだ。
 はっきりとはわからないけれど、何もかもが凄(すご)い、ということがわかった。ガラス一枚向こうには俗臭が漂う。だがそんなところでも詩人たちはすなおに懸命に過ごした。生きるしるしを残したのだと思う。本書に現れるのは詩を書く人たちだけではない。苦しむことを知りながら、すなおに生きようとする人たちの姿である。
 

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり

昭和22年(1947) 光太郎65歳

「松庵寺」は花巻市街にある古刹です。昭和20年(1945)から足かけ8年の花巻町、及び郊外太田村在住時代、光太郎はこの寺で、毎年のように父・光雲、妻・智恵子の法要を行ってもらっていました。昭和22年(1947)には、母・わかの二十三回忌法要も兼ねました。その際の作です。

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昭和48年(1973)には、この歌の光太郎自筆揮毫を刻んだ碑が、松庵寺に建てられています。

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今日、9/21は花巻の産んだ天才詩人・宮沢賢治の命日「賢治忌」です。午後4時半から、花巻市桜町の、光太郎が揮毫した賢治詩碑前広場にて、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」が開催されます。プログラム中に当方の講話も盛り込まれており、これから花巻に向かいます。

朗読系のイベントを二つご紹介します。いずれも「智恵子抄」を取り上げて下さいます。

まずは福島市から。 

アナウンサーたちが言葉で綴る物語の世界 第20回定期朗読ステージ 季節はめぐり…そして今~朗読集団「原 國雄とその仲間たち」~

期  日 : 2016年9月11日(日)
会  場 : 福島市子どもの夢を育む施設 こむこむ館  福島県福島市早稲町1番1号
時  間 : 午後1時30分から午後3時30分まで
料  金 : 無料
出  演 : 朗読集団「原 國雄とその仲間たち」 他

智恵子抄・藤沢周平作品などの朗読や、朗読ワンポイント講座を開催します。
元FTVアナウンサーによる美しい語りをお楽しみください!

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続いて茨城から。 

 

おとばな結成3rd記念コンサート フルートとギターと語りのコンサート『おとばなノスタルジア館』

期  日 : 2016年9月16日(金)
会  場 : 茶房かやの木  茨城県守谷市高野1440
時  間 : 午前の回10:30~※満席   午後の回14:00~
料  金 : ¥3000(お茶お菓子付き)
出  演 : 音とお話のユニット『おとばな』
                            フルート 宇高杏那  クラシックギター 宇高靖人  語り 和久田み晴

3年前のこの日、3人が初めてまるごと一つのコンサートを作りました。あれから3年。「おとばな」が生まれた茶房かやの木で、3周年の記念コンサート! 不思議な蔵から、懐かしい音と声が溢れ出す…ドキドキ、わくわく、はらはら、しっとり、色とりどりの音と声を、皆様の耳と目でお楽しみください!

「ボッコちゃん」星新一/「Don't dream」岸本佐知子/「わが名はピーコ」犬丸りん/「レモン哀歌」高村光太郎/「モチモチの木」斉藤隆介

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余談ですが、メンバーのうち、クラシックギターの宇高靖人さんは、「いちむじん」というやはりクラシックギターのデュオのメンバーでもあり、当方、たまたまCDを持っています。「あれま」という感じでした。


「智恵子抄」に限らず、光太郎の作品(散文なども含めて)、意外と朗読に向いています。光太郎本人は「内在律」という語を使いましたが、別に七五調などになっていなくとも、自然な言葉そのものの中にあるリズム感が、無意識のうちに均衡を保って表されています。だから黙読していても読みやすく、声に出して読めば一層その点に気付かされます。

朗読系の活動をされている皆さん、どんどん光太郎作品を取り上げていただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

わが友はめでたき秋の季節をば持ちて来しかな佐渡の国より
大正9年(1920) 光太郎38歳

与謝野鉄幹の新詩社同人で、光太郎に木彫「蝉」や、油絵「渡辺湖畔の娘道子像」などの制作を依頼した、佐渡島在住だった渡辺湖畔に贈った短歌です。

この年、湖畔の歌集『若き日の祈祷』が、光太郎の装幀・装画で刊行されています。

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岩手花巻からイベント情報です。今年、生誕120年を迎えた宮沢賢治。その命日である9月21日(水)に行われるイベントです。 
期  日 : 2016年9月21日(水)
時  間 : 16時30 分~21時
会  場 : 「雨ニモマケズ」詩碑広場 岩手県花巻市桜町4  
         雨天時 花巻市立南城小学校 岩手県花巻市南城110番地1
内  容 : 
オープニングアクト
 献 花 (追悼演奏 椿弦楽四重奏団)    午後4時
 黙 祷
 「精神歌」斉唱  指揮/大畠 恵司 伴奏/佐藤司美子

 開 会             午後4時30分
1. 朗 読「雨ニモマケズ」        古川欣也
2. ご挨拶
   主催者の挨拶 (一財)宮沢賢治記念会 理事長 宮澤啓祐
   歓迎の挨拶        花巻市長   上田東一
 3. 賢治先生に捧げる歌 
   「ポラーノの広場の歌」     南城小学校4年生
 4. スピーチ
   ①「賢治生誕120年の意義」 宮沢賢治学会イーハトーブセンター代表理事 栗原敦
   ②「新装の賢治記念館」  宮沢賢治学会イーハトーブセンター前代表理事 杉浦静
   ③「宮沢賢治と高村光太郎」  高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
   ④「祖母が語った賢治さんの親友嘉藤治先生」   佐藤司美子
   ⑤「宮沢賢治さんと伊豆大島」  日原行隆
 5. 朗読と合唱
   ①朗読「春と修羅より」南城中学校3年生 髙橋詩織 袴田新七 大橋海月 小原凛花
   ②「花農校歌」「花農応援歌」   花巻農業高校
   ③「雨ニモマケズ」「牧歌」 桜町ママさんコーラス
 6. 神楽「八幡舞」         幸田神楽保存会
 7. 朗読
   ①童話「よだかの星」  花巻市民の会 長田豊
   ②詩「早池峰山巓」   花巻市民の会 髙橋則子
 8. 演 劇「双子の星」     花巻南高校演劇部
 9. みんなで歌いましょう
   「星めぐりの歌」「精神歌」 歌唱指導・指揮/大畠恵司 伴奏/佐藤司美子
 閉 会            午後7時30分

                 <座談会会場づくり>

  《賢治さんを偲ぶ座談会》  司会 参会者から
        テーマ≪私にとっての賢治さん≫ 20:30終了
    (プログラムは変更になる場合があります ご了承下さい)

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当方もお話をさせていただきます。内容が盛りだくさんなので、持ち時間は8分間と指定されていますが、光太郎と賢治、そして賢治没後の宮沢家との関わりなどを語ろうと思っています。かつて光太郎本人も参加し、賢治について語っているイベントでお話しさせていただけるので、感無量です。

お話の要旨は終了後に改めてこのブログに書かせていただきます。

ちなみに「パート2」ということですが、 「パート1」は9月16日(金)、花巻市文化会館大ホールにて、《音楽と演劇の夕べ》と題して開催されます。

さらに「パート3」として、宇宙飛行士・毛利衛氏による講演「宮沢賢治とともに見た宇宙」が、12月16日(金)、やはり花巻市文化会館大ホールで行われます。


それぞれぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

はだか身のやもりのからだ透きとほり窓のがらすに月かたぶきぬ

大正13年(1924) 光太郎42
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謳われているヤモリ。都道府県によっては絶滅危惧種に指定されているようですが、当方自宅兼事務所のある千葉県北東部では、存外よく見かけます。自宅兼事務所敷地にも生息しています。

一見、のろまのように見えますが、意外と動きが速く、庭で見つけてカメラを取りに行って戻ったら、もういなかったということもありました。

右の画像は、はめ殺しの窓越しに撮りました。

俳句の関連で4件ほど。

NHKEテレさんで日曜日の朝に放映している「NHK俳句」という番組。毎回お題を指定し、視聴者からの投句を募るというものです。

昨日のお題は「渡り鳥」。さまざまな投句があった中で、二席に輝いた作品は、智恵子の故郷、二本松と同じ福島県中通り地方にある西郷村の黒澤正行さんの句。光太郎詩「あどけない話」へのオマージュです。

見た目にはほんたうの空鳥渡る

どきっとさせられる句ですね。ぱっと見は本当の空、しかし、いまだ消えない放射線……。「見た目」だけでない、本当の「ほんたうの空」が戻る日は、いつになるのでしょうか……。

9/7、水曜日には再放送があります。ご覧下さい 

NHK俳句 題「渡り鳥」

NHKEテレ 2016年9月7日(水)  15時00分~15時25分

選者は正木ゆう子さん。ゲストは鳥類学者の樋口広芳さん。樋口さんは渡り鳥に送信機をつけ、人工衛星を使って渡りのルートを解明している。題は「渡り鳥」。今回は樋口さんにさまざまな鳥の渡りについてお話を伺う。

司会 岸本葉子(エッセイスト) 選者 正木ゆう子(俳人) ゲスト 樋口広芳(東京大学教授)

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同じく昨日、青森県の地方紙『陸奥新報』さんにも、「智恵子抄」からインスパイアされた句が載りました。「日々燦句」という、おそらく折々の句を紹介するコラムでしょう。

檸檬放る智恵子の空の只中に(聖雪)

解説が附いていました。

高村光太郎の「智恵子抄」は、汚れを知らぬ病妻へおおらかないとおしみを綴(つづ)った詩歌文集で知られる。智恵子は「東京には空がない」と阿多多羅山(あだたらやま)の空を恋い、〈檸檬(れもん)〉を口に含んで、トパアズいろの香気の中で他界したと言う。掲句は「智恵子抄」に取材して〈智恵子の空〉を愛のかたちに広げている。「新青森縣句集」から。


さらに先週の『朝日新聞』さん。005

「朝日俳壇」のページでしたが、句そのものではなく、俳人の恩田侑布子さんによる「俳句時評」というコラムに、光太郎の名が。

オウム真理教事件で死刑判決を受けた中川智正死刑囚が、独房で詠んだ句を引きつつ、光太郎に触れてくださっています。

曰く、「いったんこの世にあらわれた美は決してほろびないと高村光太郎も川端康成もいった。

71年前の原爆の閃光、22年前の狂信的な犯罪、そして5年前からの原発事故の放射線……。人間の罪業の深さ、しかし、人間にしかできない反省や贖罪……。

五七五というたった十七音から、いろいろと考えさせられるものです。


そして、光太郎の句。

【折々の歌と句・光太郎】

五十五年青いぶだうがまだあをい 

          昭和26年(1951) 光太郎69歳

光太郎晩年、五十五年ぶりに少年時代の木彫作品に再会した際の吟です。

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詩人・菊岡久利の回想から。

僕はそれを鎌倉の古物店で見つけたのだが、人々は、まだ塗らない鎌倉彫の生地のままの土瓶敷ぐらゐに思つたらしい。一五センチ四方、厚さ二センチの板にすぎないのだから無理もなく、ながくさらされてゐたものだ。
(略)
当時まだ岩手の山にゐた高村さんに届けると、『どうしてかゝるものを入手されたか、不思議に思ひます。確かにおぼえのあるもので、小生十三、四の頃の作』と書いて来、レリーフの裏に、
 五十五年
 青いぶだうが
 まだあをい
と詩を書いてよこしてくれたものだ。

右上の画像、左側に「明治廿九年八月七日 彫刻試験 高村光太郎」の署名。この年、下谷高等小学校を卒業した光太郎は、東京美術学校の予備校として同窓生たちが作った共立美術学館予備科に入学、中学の課程を学んでいます(翌年には東京美術学校に入学)。その頃の懐かしい作品がなぜか鎌倉からひょっこり現れ、入手した菊岡が光太郎に鑑定を依頼、まちがいなく自作だということで、新たに句を裏書きしてくれたというわけです。

筑摩書房『高村光太郎全集』にはなぜか脱漏している句です。

光太郎と交流のあった女流詩人・永瀬清子の故郷、岡山県赤磐市から市民講座の情報です。 

第14回おかやま県民文化祭参加事業 岡山県生涯学習大学連携公開講座「高村光太郎と智恵子の運命」 

日 時 : 2016年9月17日(土)
会 場 : 赤磐市立中央公民館視聴覚室 岡山県赤磐市下市337
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料
講 師 : 三浦敏明氏 (東洋大学名誉教授)
定 員 : 50名
申 込 : 赤磐市教育委員会熊山分室  TEL:086-995-1360

現代詩講座「詩のピクニック」の公開講座を開催します。高村光太郎と長沼智恵子の運命の出合い、その後二人が育んだ夢と愛の行方についてお話しいただきます。

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赤磐市では、過日お知らせした企画展示「宮沢賢治のほとりで-永瀬清子が貰った「雨ニモマケズ」」が今日から開催されています。合わせて足をお運び下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

どしどしと季節あらたまり風吹きてそこらいちめんに涼しきもの満つ

大正13年(1924) 光太郎42歳

日中はまだ暑さを感じますが、朝晩はかなり爽やかになって参りました。昨夜は窓をほぼ閉めて就寝するほどでした。このまま涼しくなってほしいものです。

先週の『読売新聞』さんに光太郎の名が。ただし記事ではなく写真のキャプションです。

記事は以下の通り 

犀星と朔太郎、詩誌発刊100年記念し資料公開

 室生犀星(1889~1962年)と親友の萩原朔太郎(1886~1942年)が青年期に手がけた詩の同人雑誌「感情」が発行されて今年で100年となるのを記念し、金沢市千日町の室生犀星記念館で関連資料が公開されている。

 朔太郎がデザインした表紙などが展示され、担当者は「若き詩人の息づかいと雑誌発行にかけた情熱を感じてほしい」と話している。

 「感情」は2人が当時の文壇や詩壇に挑戦する詩を発信しようと、1916年6月に創刊。19年11月までの3年半に32号が出版された。詩に特化した雑誌が当時は少なかったことや、その秀逸なデザインから人気を博し、毎号200~300部が刷られた。掲載された詩は、後に、朔太郎の「月に吠(ほ)える」や犀星の「愛の詩集」など代表的な詩集に収められた。

 表紙のデザインは朔太郎が考案し、原稿集めや編集、校正、印刷、販売は犀星が一手に引き受けた。資金繰りには苦労したとみられるが、犀星は「毎月詩を書いてそれがすぐ印刷になる幸福」と後に記している。

 犀星は、購読者に郵送する封筒に独自でデザインした版画を押しており、その封筒も 展示されている。犀星は朔太郎に宛てた手紙で「1日中、封筒ののり付け作業をして手の皮がむけた」などと記しており、作業は当時、犀星の生活の中心だったようだ。

 19年に犀星の小説「幼年時代」が中央公論に掲載されたことを機に、犀星は小説家 として本格的に歩み始め、終刊となった。同館の嶋田亜砂子学芸員は「若い頃の犀星 たちが詩にかけた情熱を感じてほしい」と話している。展示は11月6日まで。

 展示は11月6日まで。 開館時間は、午前9時半~午後5時(入館は午後4 時半まで)。入館料は一般300円、65歳以上200円、高校生以下無料。


写真とキャプションがこちら。

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報じられているのは、光太郎もたびたび寄稿した詩誌『感情』にスポットを当てた企画展です。詳細はこちら。 

企画展「『感情』時代-僕らが一番熱かった頃-」

期  日 : 2016年7月1日(土)~11月6日(日)
会  場 : 室生犀星記念館 石川県金沢市千日町3-22
時  間 : 午前9時30分~午後5時
料  金 : 一般 300円   団体(20名以上)250円  高校生以下 無料
         65歳以上・障がい者手帳をお持ちの方およびその介護人 200円(祝日無料)

室生犀星と萩原朔太郎、”二魂一体”と称された二人が自分達のアイデンティティを確立し、発信するべく創刊した詩誌「感情」は今から100年前、大正5年の6月に誕生しました。詩人として歩み始めた二人の若者が絶対的に大切にしてきたもの、そして当時の文壇・詩壇への反逆・挑戦の精神が、この「感情」という詩名にはこめられています。「感情」は大正8年11月まで3年半続き、32号を数えました。この間に多田不二、竹村俊郎、恩地孝四郎、山村暮鳥らの仲間を加え、それぞれが熱い思いをかかえ、ここをよりどころにして詩作を発展させ飛躍していきました。その大きな一歩として、朔太郎の『月に吠える』、犀星の『愛の詩集』など、かれらの第一詩集が感情詩社から出されています。本展示では、「感情」に集った若き詩人達の苦悩と情熱を感じていただければと思います。

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関連行事

金沢ナイトミュージアム「夜間延長開館」   
  開館時間を延長し、午後9時まで夜間開館いたします。
  日 時 9月17日(土) 10月22日(土)、23日(日)(入館は午後8時30分まで)
  入館料  一般300円、65歳以上200円、高校生以下無料
  問合せ  室生犀星記念館 076-245-1108

講演会「室生犀星と詩と世界」   
  現代詩作家 荒川洋治氏による講演会をおこないます。
  日 時 10月8日(土) 午後2時~午後4時
  場 所 金沢21世紀美術館内レクチャーホール 金沢市広坂1-2-1
  参加費 無料
  申 込  電話076-245-1108にて 先着順


詩誌『感情』。光太郎は確認できているだけで3回寄稿しています。

最初は大正5年(1916)10月発行の第1巻第4号。詩「我家」(のち「わが家」と解題)。続いて翌年1月の第2年第1号に詩を一挙6篇。「花のひらくやうに」「海はまろく」「歩いても」「湯ぶねに一ぱい」「晴れゆく空」「妹に」。さらに4月の第2年第4号には、散文、というより書簡からの抜粋で「萩原朔太郎詩集「月に吠える」について」。

特に「我家」は注目に値する作品です。大正3年(1914)に詩集『道程』を上梓、そこに書き下ろしで掲載した「秋の祈」以後、詩作から遠ざかっていた光太郎が、約2年ぶりに発表した詩だからです。

   わが家

 わが家(や)の屋根は高くそらを切り007
 その下に窓が七つ
 小さな出窓は朝日をうけて
 まつ赤にひかつて夏の霧を浴びてゐる
 見あげても高い欅の木のてつぺんから
 一羽の雀が囀りだす
 出窓の下に
 だんだんが三つ
 だんだんから往来いちめん
 露にぬれた桜の葉が
 ひかつて静かにちらばつてゐる
 桜の樹々は腕をのばして
 くらい緑にねむりさめず
 空はしとしとと青みがかつて
 あかるさたとへやうもなく
 夏の朝のひかりは
 音も無く
 ひそやかに道をてらしてゐる
 土をふんで道に立てば
 道は霧にまぎれて
 曲がつてゆく


高らかな調子で謳われているのは、駒込林町のアトリエ。ここに智恵子の名はありませんが、2人の愛の巣を謳ったという意味では、『智恵子抄』スピンオフ的な内容です。

しかし、のちに智恵子が心の病を発症してから、光太郎は同じ自宅を自虐的に「ばけもの屋敷」と表すことになります。

   ばけもの屋敷

 主人の好きな蜘蛛の巣で荘厳(しやうごん)された四角の家には、
 伝統と叛逆と知識の慾と鉄火の情とに荘厳された主人が住む。
 主人は生れるとすぐ忠孝の道で叩き上げられた。
 主人は長じてあらゆるこの世の矛盾を見た。
 主人の内部は手もつけられない浮世草子の累積に充ちた。
 主人はもう自分の眼で見たものだけを真とした。
 主人は権威と俗情とを無視した。
 主人は執拗な生活の復讐に抗した。
 主人は黙つてやる事に慣れた。
 主人はただ触目の美に生きた。
 主人は何でも来いの図太い放下(ほうげ)遊神の一手で通した。
 主人は正直で可憐な妻を気違にした。
 
 夏草しげる垣根の下を掃いてゐる主人を見ると、
 近所の子供が寄つてくる。
 「小父さんとこはばけもの屋敷だね。」
 「ほんとにさうだよ。」

こちらは昭和10年(1935)、智恵子が南品川のゼームス坂病院に入院した年の作です。


話がそれました。企画展「『感情』時代-僕らが一番熱かった頃-」、ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

久しぶりに来しわが友のふところにさやさやと鳴る新しき風
大正13年(1924) 光太郎42歳

今日から9月。心なしか吹く風も秋涼の気配をはらんでいるように感じます。

こちらも少し前、今年5月刊行の書籍です。光太郎、父・光雲の、いわばホームグラウンドであった浅草に関するものです。 
2016年5月27日 勉誠出版 定価2,800円+税
金井景子・楜沢健・能地克宜・津久井隆・上田学・広岡祐 著

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数々の低迷と隆盛を経た浅草はどのように描かれてきたのか。
浅草を舞台とした小説や映画、演芸、浅草にゆかりのある人物を中心に、明治から現代までの浅草、あるいは東京の文化が形成される軌跡を辿る。
昔のものが消えても、苦境を乗り越え、新たなものが参入し、それが人を呼び寄せていく。
様々な文芸作品と100枚を超える写真から、〈かつての浅草〉と〈現在の浅草〉を結びつける!


目次
 はじめに

 巻頭インタビュー
 作家戌井昭人氏に聞く 浅草という体験
 「十和田」の冨永照子さんに聞く 「浅草」をつなぐおかみさんの声

 浅草文芸選
 外国人の見た幕末・明治の浅草
 ロバート・フォーチュン『幕末江戸探訪記 江戸と北京』ピエール・ロチ『秋の日本』
 明治四十一年の江戸情調  木下杢太郎『淺草觀世音』『淺草公園』
 隠蔽する十二階/暴露する瓢簞池  室生犀星「幻影の都市」
 九月、浅草の公園で  江馬修「奇蹟」
 凌雲閣から見えない浅草  江戸川乱歩「押絵と旅する男」
 「感情の乞食」が浅草で拾ったものは何か  川端康成『浅草紅団』
 現在を語ることの難しさ  堀辰雄「水族館」
 あの機械は、機械の悲しさにたとえ宮様のお通りでも、十銭入れなきゃ廻らないんだ
   貴司山治「地下鉄」
 靴と転業をめぐる「マジな芝居」は書かれたか  高見順『東橋新誌』
 ぼっちゃん、おじょうちゃんへの浅草教育  幸田文「このよがくもん」
 行き場のないフラヌールの邂逅  水木洋子・今井正『にっぽんのお婆あちゃん』
 浅草の美、その映像的表現  加藤泰・鈴木則文『緋牡丹博徒 お竜参上』
 ハダカと浅草の遠近法  井上ひさし「入歯の谷に灯ともす頃」
 浅草の「見世物」から浅草という「見世物」へ  寺山修司「浅草放浪記」
 墨堤からながめる浅草  沢村貞子『私の浅草』
 吾妻橋コレクション  半村良『小説 浅草案内』
 芸人によって重ねられた都市の年輪  ビートたけし『浅草キッド』
 焼跡と復興と、戦災孤児のゆくえ  木内昇『笑い三年、泣き三月。』

 コラム
 奥山の伝統をつないだ風狂の人
 浅草一丁目一番地の愉楽―神谷のバアと朔太郎と
 劇場・陋巷・探偵趣味
 震災と浅草―復興と明治の終焉
 パロディと幻想―エンコの六・江戸川乱歩・浅草紅団
 演歌の〈誕生〉―神長瞭月と浅草の映画館街
 吾妻橋西詰のモダニズム―永井荷風『断腸亭日乗』の浅草風景
 モダン浅草の残像をたどる
 浅草にマリアがいた―北原怜子と「蟻の街」
 浅草みやげ
 路上の叡智―添田啞蟬坊・知道『浅草底流記』
 映画のなかの〈写された/作られた〉浅草
 地上げと原っぱ―八〇年代浅草の、とある風景
 〈見世物〉としての演芸―小沢昭一の叙述から
 浅草への陸路―雷門から入る啄木/雷門から入らない犀星
 浅草の銭湯・温泉
 浅草の祭り

 浅草散歩
 ①浅草をちょっと知っているつもりの先生と初めて浅草を訪れる学生の半日
 ②歌舞伎女子、新春の浅草にお芝居と歴史を訪ねる
 ③落語家・金原亭馬治さんと歩く浅草

 浅草の石碑を歩く
 浅草寺新奥山―記念碑・句碑でたどる浅草
 明治二五年の正岡子規を想う
 川柳発祥の地碑―川柳こそ浅草の文学
 鳥獣供養碑―震災の傷跡
 驚きの発見

 人名・書名・作品名索引


光雲・光太郎父子をはじめ、石川啄木、北原白秋、木下杢太郎、夏目漱石、萩原朔太郎、室生犀星、森鷗外、与謝野晶子ら、関連人物が続々登場、いにしえの少し怪しい浅草が生き生きと描き出されています。

光雲に関しては、『光雲懐古談』(昭和4年=1929)、光太郎に関しては詩「米久の晩餐」が取り上げられています。ただ、残念なことに、光雲と光太郎を混同している記述もあり、目を疑いました。個人の方のブログなどでは時々あるのですが、公刊された書籍ではめったになく、なんだかなあ、という感じでした。

何はともあれ、この書を片手に浅草の街歩きというのもいいかと存じます。ぜひお買い求めを。


【折々の歌と句・光太郎】

茄子胡瓜きりぎりすほど食慾にけだし喰へどもわが痩せにけり

大正13年(1924) 光太郎42歳

身長180センチ以上あった光太郎ですが、横幅は確かにあまりなかったようです。差別的な意図はありませんが、やはり「あんこ型」の愛の詩人、というのは想像しにくいところがあります(笑)。

ところで当方、暑いのでアイスやらアイスコーヒーやらで、少々夏太り気味です(汗)。暑かったり、ひっきりなしに台風が来たりで、愛犬との散歩も春秋より距離が短めですし……。

一昨日の『日本経済新聞』さんの夕刊で、当会の祖・草野心平が大きく取り上げられました。 

文学周遊 「草野心平詩集」 福島・いわき市・川内村

 「ぎやわろっぎやわろっぎやわろろろろりっ……」
 7月9日。福島県川内村の体育館に、詩誌「歴程」関係者と村民らの朗読の声が響いた。第51回の「天山(てんざん)祭り」だ。「蛙(かえる)の詩人」と呼ばれた同県いわき市小川町出身の草野心平は1960年、北隣の名誉村民となる。新聞で「モリアオガエルの生息地」を問うた心平の文を読んだ長福寺の住職が平伏(へぶす)沼へ来るよう手紙を書き、53年に初訪問。以来、毎年のように村民と交流を重ねて始まった。
 祭りは例年、心平のために造った茅葺(かやぶ)き屋根の「天山文庫」で開かれるが、この日は雨で体育館が会場に。イワナの塩焼きや山菜を肴(さかな)に、心平の詩や村の伝統芸能を、村人・同人らと楽しんだ。
 一時は原発事故で全村避難となった村では、震災の年も祭りを敢行。震災後、愛唱された宮沢賢治の詩・作品を世に広めたのも心平だ。心平らが創刊した歴程の存在は大きいが、「藤村(とうそん)記念歴程賞」の昨年の受賞者は「川内村村民」だった。生徒数が激減した川内小6年生5人の朗読が胸を打つ。「虫がないてるね/ああ虫がないてるね/もうすぐ土の中だね/土の中はいやだね……」(詩集「第百階級」の「秋の夜の会話」)
 なぜ蛙なのか。幼時から癇(かん)の強かった心平は鉛筆や人に噛みついた。磐城中では放校寸前となって中退。東京にもなじめず「どっか海の外へでも行ってみたいという願望が私のなかにめざめてきた」(「わが青春の記」)という。
 中国の嶺南大学へ入学。寄宿舎で亡兄・民平が詩・短歌を書いたノートを読み、詩作に没入する。「私は広州での学生時代から蛙に関する詩を書きだしたが、その蛙は校庭の沼地にいた牛蛙たちではなく、上小川の稲田で鳴いていた蛙たちだった」(「望郷」)
 孫文やタゴール、高村光太郎ら、国内外で広い人脈を持つ。詩境も「富士山」「天」など宇宙的な「天の詩人」でもあった。一方、生活は困窮を極め、貸本屋、焼鳥屋など波乱の人生を送る。いわき市名誉市民になったのは84年。小川町山腹に98年、市立草野心平記念文学館(粟津則雄館長)が誕生した。
 磐越東線・小川郷駅近くに心平の生家、墓がある。田では稲穂がそよぎ、蛙が跳ね回り、シマヘビも泳ぐ。蛙はじっとこちらを観察していた。
(編集委員 嶋沢裕志)

 くさの・しんぺい(1903~88) 福島県いわき市生まれ。19年磐城中学(現磐城高校)を4年で中退し上京。慶応義塾普通部に編入学するが、半年で中退。英語・中国語を学び、21年中国・広州へ渡り、嶺南大学(現中山大学)に入学。
 25年排日運動の激化で卒業前に帰国。27年「第百階級」を同人誌に発表。郷里で農業、前橋で新聞社校正係、東京で焼鳥屋、新聞記者など職業を転々とし、35年に高橋新吉、中原中也ら8人で詩誌「歴程」(宮沢賢治も物故同人に)発刊。中国で現地召集され、戦後は故郷で貸本屋「天山」、東京で居酒屋「火の車」などを営業。50年一連の「蛙の詩」で第1回読売文学賞受賞。87年文化勲章を受章。
(作品の引用は岩波文庫)

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先月、川内村で行われた第51回天山祭の様子から始まり、川内村として藤村記念歴程賞を受賞した件、心平の人となり、光太郎との関わり、いわき市の草野心平記念文学館、生家などの紹介となっています。

先の話になりますが、11月13日(日)、いわき市の心平生家で没後29回忌「心平忌」・第23回「心平を語る会」が計画されており、当方が記念講演をすることになっています。題して「草野心平と高村光太郎 魂の交流」。また近くなりましたら詳細をご紹介いたします。


【折々の歌と句・光太郎】

繭は蛾に卵は鳥に芽は花に人は生まれて罪の館(やかた)に
明治43年(1910) 光太郎28歳

岡山県赤磐市から企画展情報です。 

宮沢賢治のほとりで-永瀬清子が貰った「雨ニモマケズ」

期  日 : 2016年9月2日(金)~2016年11月27日(日) 月曜休館
時  間 : 09:00~17:00
会  場 : 永瀬清子展示室 赤磐市くまやまふれあいセンター2階
         岡山県赤磐市松木621-1
料  金 : 無料
問合せ先 : 086-995-1360 (赤磐市教育委員会 熊山分室)

賢治が遺した「雨ニモマケズ」は、「夢の構図」なのだ
2016(平成28)年は、宮沢賢治生誕120年、永瀬清子生誕110年の年です。永瀬清子は、1932 (昭和7)年に宮沢賢治の詩集『春と修羅』を手にして以来、終生宮沢賢治を慕い、人と作品とともに歩み続けました。とりわけ、詩「雨ニモマケズ」は縁が深く、永瀬清子の詩と人生に大きな影響を与えています。
この展示では、永瀬清子が宮沢賢治の詩集『春と修羅』に出会い、宮沢賢治追悼会で「雨ニモマケズ手帳」発見の現場に立ち会ったときのことを紹介します。

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関連行事
 岡山県生涯学習大学連携講座
 講演会 宮沢賢治と永瀬清子 -妹トシと「雨ニモマケズ」をめぐって
 講師:山根知子先生(ノートルダム清心女子大学教授)
 日時:平成28年9月4日(日)  午後2時~3時30分
 場所:赤磐市くまやまふれあいセンター 第1会議室
 参加費:無料(要事前電話申込)
 申込開始日:平成28年8月2日(火) ※申し込みは下記まで
 定員:20人(先着順)


永瀬清子は明治39年(1906)、岡山県赤磐郡豊田村松木(現赤磐市)の生まれ。光太郎と交流があり、昭和15年(1940)に刊行された第二詩集『諸国の天女』の序文を光太郎が書いている他、光太郎最晩年に、その終焉の地中野のアトリエを訪れたりもしています。

赤磐市では永瀬の顕彰活動を継続的にいろいろ行っており、当方も一度お邪魔しました。生家が保存されている他、公民館的な赤磐市くまやまふれあいセンターさんには「永瀬清子展示室」が設けられ、常設展示の他、このような企画展示も行われています。

今回は宮沢賢治生誕120年にからめた展示。永瀬と「雨ニモマケズ」については、以前にも書きましたが、改めてご紹介します。

賢治歿後の昭和9年(1934)、新宿モナミで開かれた賢治追悼の会の席上、実弟の清六が持参した賢治のトランクから出て来た手帖に書かれていた「雨ニモマケズ」が「発見」されました。その場にいたのが光太郎、宮沢清六、草野心平、永瀬清子、巽聖歌、深沢省三、吉田孤羊らでした。

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前列左から四人目が光太郎、その隣が清六、一人置いて永瀬。後列左から五人目が草野心平、一人置いて深沢省三、右端の二人が新美南吉と巽聖歌です。

永瀬の回想から。

昭和九年の二月になってふと宮澤賢治氏の追悼会をひらくので新宿の映画館の地下にある「モナミ」へ来るようにお通知が来た。
(略)
その会には弟の宮沢清六さんが来ていらした。はるばる岩手県の花巻から賢治さんの原稿のつまった大きなトランクをさげて上京されたのだ。多分あとで考えると宮沢賢治選集のはじめての出版のためであったものと思う。
 そのトランクからは数々の原稿がとりだされた。すべてきれいに清書され、その量の多いことと、内容の豊富なこと、幻想のきらびやかさと現実との交響、充分には読み切れないまま、すでにそれらは座にいる人々を圧倒しおどろかせた。
 原稿がとりだされたのはまだみんなが正式にテーブルの席につくより前だったような感じ。みな自由に立ったりかがみこんだりしてそのトランクをかこんでいた。
 そしてやがてふと誰かによってトランクのポケットから小さい黒い手帳がとりだされ、やはり立ったり座ったりして手から手へまわしてその手帳をみたのだった。
 高村さんは「ホホウ」と云っておどろかれた。その云い方で高村さんとしてはこの時が手帳との最初の対面だったことはたしかと思う。心平さんの表情も、私には最初のおどろきと云った風にとれ、非常に興奮してながめていらしたように私にはみえた。
 「雨ニモマケズ風ニモマケズ――」とやや太めな鉛筆で何頁かにわたって書き流してある。
 『春と修羅』はすでによんでいても、どうした人柄の方かすこしも聞いたことがなかったので、この時私には宮沢さんの本当の芯棒がまっすぐにみえた感じがした。或はその芯棒が私を打ったのかもしれない。でも私だけでなく一座の人々はそれぞれに何かこのめっそうもないようなものを感じとった風だった。
 この時の世の中で、この時の詩壇で、一般には考えられないようなことがそこには書いてあったのだ。それはその時までに詩のことばとして考えられていたもの以上だったから、或は粗雑で詩ではないと人はみるかもしれぬ。でもそこにはきらびやかな感覚の底にあった宮沢さん自身が、地上に露呈した鉱脈のように見えていた。又それがほかの清書された原稿ではなく、小さい小さい手帖だったから、自分自身のために書かれた一番小さい手帖だったから、いっそうその感が強かったのだ。
(『かく逢った』 昭和56年=1981 編集工房ノア)


それ以前から、永瀬は賢治に関して言及していました。きっかけは光太郎と同じく、草野心平に『春と修羅』を紹介されたことだそうです。いち早く賢治の才能に気付いた心平の炯眼、さらに気付くだけでなく周囲に広めようとした行動力には驚かされます。


赤磐では、これ以外にも市民講座的に光太郎智恵子を取り上げて下さいます。また近くなりましたらご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

撲てば蚊の落ちぬちひさきなきがらや霊や命や我が世は難し

明治43年(1910) 光太郎28歳

とはいうものの、当方、蚊に刺されやすく、また、刺されると腫れ方がひどくなりす。毎日、蚊との格闘です。

岩手花巻宮沢賢治記念館さんで開催中の特別展「「雨ニモマケズ」展」地元紙2紙の報道をご紹介しましたが、その後、『朝日新聞』さんでも光太郎にからめて報道して下さっていますので、ご紹介します。 

岩手)「雨ニモマケズ」実物の手帳、展示始まる

005 宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が書かれた実物の手帳の展示が20日、花巻市の宮沢賢治記念館で始まった。生誕120年を記念した特別展。賢治が亡くなる2年前に書いたと推察され、同館は「賢治本人の理想や希望といったもの」と説明している。
 同市内での展示は、2007年に萬(よろず)鉄五郎記念美術館であった賢治展以来9年ぶり。手帳は1933年の死後に発見された遺品の一つで、「雨ニモマケズ」は51~60ページに記されている。賢治の弟の孫で同館の宮沢明裕学芸員によると、賢治は詩や童話などの作品は原稿用紙に記しており、雨ニモマケズは手帳に書かれていることから、作品を創作する意識とは一線を画し、「サウイフモノニワタシハナリタイ」で終わっており、「祈りや願いと捉えることができる」という。
 同館ではこのほか、高村光太郎が揮毫(きごう)し、同市桜町にある「雨ニモマケズ」詩碑の原文も初めて展示する。また、俳優の渡辺謙さんと詩人の故草野心平氏による「雨ニモマケズ」の朗読を映像とともに聞くことができる。
 特別展は28日まで。21日午後1時半からは手帳などを所有する林風舎代表で賢治の弟の孫の宮沢和樹氏によるギャラリートークもある。問い合わせは同館(0198・31・2319)へ。(石井力)


また、岩手めんこいテレビさんのニュースも、ネット上で見つけました。 

岩手)「雨ニモマケズ」実物の手帳、展示始まる

岩手・花巻市の宮沢賢治記念館で特別展が開かれていて、賢治が生前愛用していた実物の手帳などが公開されている。
宮沢賢治生誕120年の2016年、花巻市では、さまざまな記念イベントが行われている。
特別展では、賢治の代表作「雨ニモマケズ」を記した実物の手帳が、宮沢賢治記念館としては初公開されている。
記念館の学芸員は「強くなりたいと願い続けた賢治が手帳に記した『行つて』の文字には、強い意志を持って実践する賢治の行動力がみられる。こうした点にも注目してほしい」と話していた。
このほか、賢治の詩をつづった高村光太郎の書の原文も、公開されている。
この特別展示は、8月28日まで、花巻市の宮沢賢治記念館で開かれている。(8/21 18:26)

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8月19日には、NHK BSプレミアムさんで「プレミアムカフェ 宮沢賢治への旅」のオンエアがありました。平成8年(1996)に放映されたものの再放送でしたが、今回展示されている光太郎の揮毫を刻んだ花巻市豊沢町に立つ「雨ニモマケズ」碑もちらっと紹介されました。

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生誕120年の賢治ですが、8月27日が誕生日、9月21日が命日ということで、これから顕彰イベント等がもっと増えていきます。

明日もその辺りで情報をご紹介します。


【折々の歌と句・光太郎】

ああ我は火取り蟲かやふるさとの明るき町に夜ごと飛びゆく
明治42年(1909) 光太郎27歳

昨日は『朝日新聞』さんの「天声人語」を引きましたが、本日は最近、地方紙二紙に載ったコラム。いずれも光太郎に少しだけ言及して下さっています。 


まずは長野県松本平地区で発行されている『市民タイムス』さん。 

みすず野 8月11日

現在の松本市出身の歌人・窪田空穂が、山 岳紀行『日本アルプスへ』を残し、それが黎明期の北アルプスを知る貴重な資料の一つであることは、あまり知られていない。先日、松本市立博物館に山の図書 2000冊を提供した百瀬武さん(松本市)の1冊に、この本があった◆空穂は大正2(1913)年8月、37歳のとき初めて上高地に入り、一軒宿の清水屋 で高村光太郎らと過ごし、あのウェストン夫妻と偶然同宿した。夜、空穂たちは話が弾み、大声で笑い合っていると、「もしもし!」という、妙ななまりのある 声が廊下から響き、「妻が病気で寝ているので、静かにしてもらえないか」と外国人が言ってきた◆山岳通の友人の話から、外国人はウェストンだと知ったとい う。山行は『日本アルプスへ』『日本アルプス縦走期』にまとめられ、往時の登山が、林道や山小屋の整備が進んだ現代とは、比較にならない苦労を強いられた 様子がわかる◆国民の祝日「山の日」が施行されるまでには、長い歳月を要した。あらためて郷土の美しき山を眺め、登り、親しみ、その多大な恵みに感謝した い。先人たちの足跡に思いを至らせたい。

大正2年(1913)7月から10月にかけ000、光太郎は上高地の清水屋に滞在。9月には智恵子も来て、一緒に画を描いたそうです。光太郎の絵はこの年10月に神田三崎町のヴヰナス倶楽部で開かれた生活社主催の展覧会に出品されました。
 
二人で下山したのが10月8日。二人が結婚披露宴を行ったのは翌大正3年(1914)ですので、婚前旅行です。やるなぁ、という感じですね。光太郎と智恵子、上高地で結婚の約束を結んだとのことです。

ウェストンは、あとから合流した智恵子を見て光太郎に、「妹か、夫人か」と問い、光太郎が「友人だ」と答えると苦笑したといいます。

そのあたり、以前のこのブログで何度か書いております。ご覧下さい。



続いて仙台に本社を置く『河北新報』さん。  

河北春秋 8月14日


猛暑の夏。涼を求めて訪れるとしたら、木陰と渓流、そして神秘の湖が思い浮かぶ。明治の文人、大町桂月が「風光の衆美を一つに集めたる、天下有数の勝地也」(『奥羽一周記』)と絶賛した十和田湖と奥入瀬渓流は、リフレッシュには最適の地だ▼1936(昭和11)年に十和田八甲田地域として国立公園に指定され、今年は80周年。桂月が雑誌『太陽』に紀行文を発表するまでは、地元の人しか知らないような湖だったというが、開発が進み、一大観光地となった▼しかし、この10年ほどで様子は一変。湖畔には廃屋となったホテルや、閉鎖された土産物屋が立ち並ぶ。目の前の湖の美しさは変わらないが、劣化の目立つ建物は、零落感を漂わせながら景観を損なう▼それでも、シーズン中は早朝から湖畔を散策する人が絶えない。「乙女の像」背後の林に荘厳なたたずまいを見せる十和田神社は、近年パワースポットとして注目を集め、遠来の客を呼び寄せる。奥入瀬にはコケ好きな「苔(こけ)ガール」や、香港など海外からの観光客も足を運ぶ▼国が訪日客誘致のモデル事業を行う国立公園の一つに選ばれたのは、久しぶりの朗報だ。桂月が「山は富士、湖は十和田」ともたたえた景勝。豊かな自然に親しむエコリゾートを目指し、節目の再出発を。

最後の「訪日客誘致のモデル事業」云々、同じ『河北新報』さんの先月の記事から。 

ブランド観光地 十和田八幡平など8国立公園

 環境省は25日、国立公園への訪日客誘致のため、受け入れ態勢を重点整備し、ブランド観光地として世界にPRするモデル事業を、十和田八幡平(青森、岩手、秋田)や日光(福島、栃木、群馬)など8カ所で実施することを決めた。専門ガイドの育成や宿泊施設の機能を強化。大型商業施設を整備できるよう規制緩和も検討する。
 8カ所はこのほか、阿寒(北海道)、伊勢志摩(三重)、大山隠岐(鳥取、島根、岡山)、阿蘇くじゅう(熊本、大分)、霧島錦江湾(宮崎、鹿児島)、慶良間諸島(沖縄)。
 全国に32ある国立公園のうち、16カ所の地元道県から選定の要望が出ていた。世界遺産や温泉といった外国人を引きつける資源があることや、景観向上の取り組みなどを基準に8カ所を選んだ。
 熊本地震の被災地にある阿蘇くじゅうは、災害復興のモデルに位置付け、重点支援する。
 8カ所は日本の「ナショナルパーク」として、情報発信するため英語の統一ブランドも検討。地元自治体などは地域協議会を設置し、自然や伝統文化を生かしたツアーの開発に取り組む。モデル事業の成功例は、他の国立公園にも広げる。
 十和田八幡平は総面積8万5551ヘクタール。十和田湖や奥入瀬渓流などを抱える青森県の三村申吾知事は「宮城、北海道などとも広く連携し、外国人客をさらに取り込みたい」と歓迎。小山田久十和田市長は「東日本大震災で落ち込んだ観光客を取り戻し、十和田湖も活性化するだろう」と話した。
 国立公園のブランド化は、2020年時点で訪日客を年間4千万人とする政府の新たな観光戦略の一環。国立公園を訪れた外国人は15年に430万人だったが、1千万人に増やす目標だ。


外国の方の誘致も大切ですが、まずは国内の皆さん。上高地なども含め、この国の美しさを再発見していただきたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

ひつそりと翼をさめてゐる蝉のつばさ手ずれてやや光たり
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日の『朝日新聞』さんに載った一面コラム「天声人語」。  

天声人語

戦前の昭和恐慌のころを描いたのだろう。詩人の吉田嘉七(かしち)が「銀行は倒産し……」と書き出している作品がある。「月給が下がったと言う 物が売れないのだと言う……大人達(たち)の暗い表情が 暗い街に溢(あふ)れた」。局面を変えたのが、大陸での戦火だった▼1931年の満州事変である。「物がぼつぼつ上(あが)り出し 景気が良くなって来たらしい」。軍事費が増えたおかげだろうか。「戦争が始(はじま)って良かったね」という大人たちのつぶやきが、中学生である自分たちの耳にも入った。「やがて戦争で殺されるぼくらの」耳に▼古山高麗雄(こまお)の「日本好戦詩集」から孫引きさせてもらった。戦争は望まれずに始まったわけではないと、改めて気付く。倒産や失業にあえぐ世には、朗報でもあったと▼満州の戦火から日中戦争へ。さらに米英との戦争が始まると、別の熱狂があった。41年の真珠湾攻撃の日のことを、彫刻家で詩人の高村光太郎が感激して書いている。「世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである」(「十二月八日の記」)▼同じアジアの中国に刃を向けることの後ろめたさが、知識人にはあったとも言われる。世界を牛耳る米英に挑戦するという大義名分は彼らの心に響いたのか▼先の戦争がいかに悲惨だったかを語り継ぐ。それだけでなく戦争がうれしいものと受け止められたことも記憶したい。戦争は上から降ってくるのではなく、ときに私たちの足もとからわき出てくるものだから。


昭和13年(1938)、最愛の妻・智恵子は粟粒性肺結核により、千数百点の紙絵を遺し、この世を去りました。最後の7年間は心の病が顕在化してもいました。

智恵子の心の病を引き起こした大きな要因の一つが、世間との交わりを極力絶ち、芸術に精進しようとする自分たちの生活態度にあったのではないかと、光太郎は考えます。また、智恵子亡き後もそういう生活を続けることで、自分もおかしくなってしまうかもしれない、という危惧を抱いたかも知れません。結果、光太郎は智恵子が亡くなる少し前くらいから、積極的に世の中と関わろうという姿勢を明確にします。

奇しくもその世の中の流れもまた、大きな転換点を迎えていました。智恵子の心の病が顕在化した昭和6年(1931)満州事変勃発、智恵子が自殺未遂を図った同7年(1932)五・一五事件及び傀儡国家の満州国建国、同8年(1933)日本の国際連盟脱退及びドイツではヒトラー政権樹立、同11年(1936)二・二六事件、同12年(1937)日中戦争勃発、智恵子が亡くなった同13年(1938)国家総動員法施行、光太郎が智恵子の最期を謳った絶唱「レモン哀歌」が書かれた同14年(1939)第二次世界大戦開戦、同15年(1940)日独伊三国同盟締結、大政翼賛会結成、そして詩集『智恵子抄』が刊行された同16年(1941)太平洋戦争開戦……。

71年前の今日、終戦を迎えるまでに、光太郎は、『大いなる日に』(同17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)と、立て続けに三冊の翼賛詩集を上梓。そこに収められなかった詩篇を含め、実に200篇弱の翼賛詩を光太郎は執筆しました。それらは新聞、雑誌、各種のアンソロジー、そしてラジオの電波に乗って、国民の元に届けられました。

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終戦後、それらの翼賛詩に鼓舞された、多くの前途有為の若者が散っていったことを悔い、東京を焼け出され、岩手花巻に疎開していた光太郎は、さらに花巻の郊外・太田村の山小屋(高村山荘)に入り、7年間の蟄居生活を送ります。

当初は若い頃から抱いていた、自然に囲まれての生活の実現、さらに彼の地に日本最高の文化村を作る、といった無邪気な夢想とも云える考えがありましたが、厳しい自然、そして自らの戦争責任への省察が、山小屋生活の意味を変容させます。すなわち「自己流謫」。「流謫」=「流罪」です。

外界と隔てるものは粗壁と障子一枚、冬は万年筆のインクも凍り付き、寝ている布団にすき間か舞い込んだ雪がうっすらと積もる生活。前半の3年あまりは電気も通っていませんでした。

しかし、いくら山間僻地の村はずれとはいえ、まがりなりにも人が住んでいる村です。そこに住まっているだけでは「流罪」とはいえません。そこで、光太郎は考え得る限りの罰を自らに科します。すなわち、「私は何を措いても彫刻家である」と認識していた、その彫刻の封印です。

その封印を解いたのは、青森県から依頼された「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作にともなってのこと。おそらく智恵子と同根の結核に冒されていた光太郎は、もはや自らの死期が近いこともわかっていたのでしょう。

亡き智恵子への、世の中への、そして自らへの、それまでの様々な思いが全て結晶し、「乙女の像」は光太郎最後の大作として、十和田湖に立てられ、その2年半後に、光太郎もその生の歩みを終えるのです。

時代に翻弄された一人の芸術家の生の軌跡。この節目の日にもう一度、かみしめたいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

くにをおもひきはむる心おのづから世界国家といふにつながる

昭和24年(1949) 光太郎67歳

戦後の花巻郊外太田村での作です。罪深き自らの来し方と、そして未来まで、やはり罪深きこの国そのものと重ね合わせ、これぞまさしくグローバルな視点を得ていたことが見て取れます。

今週火曜の青森の地方紙『デーリー東北』さんの一面コラム「天鐘」。光太郎智恵子に触れて下さいました。 

天鐘(8月2日)

 1970年代の東京で学生時代を過ごした。高度経済成長の恩恵と引き替えにスモッグが空一面を覆い、目に染みた。高村光太郎の『智恵子抄』同様「東京には空がない」と思った▼あの頃、東京は日本の縮図であり、地方はその大都会に憧れ、模倣した。東京は日本を代表する夢のモデル都市であった。都政の変遷をたどれば戦後わが国の政治や経済、社会がまるで手に取るように分かる▼初代都知事の安井誠一郎氏は戦後の復興、2代東龍太郎氏は東京五輪に向け、首都高などインフラ整備に尽力。3代美濃部亮吉氏は成長の裏に隠された公害問題と闘った▼4代鈴木俊一氏は財政再建、5代青島幸男氏は都市博の中止、6代石原慎太郎氏はディーゼル車の規制、7代猪瀬直樹氏は東京五輪招致を果たしたが、政治とカネで沈没。8代舛添要一氏は承知の通りである▼復興から成長、産業発展と公害、財政逼迫に再建と一定の因果で動いてきた。続く初の女性都知事、小池百合子氏は「見たこともない都政」を宣言。崖から飛び降りた度胸の持ち主が何を見せるのか、期待したい▼往時は東京が始めると地方がすぐ真似た。そんな一例に「歩行者天国」がある。46年前の今日、銀座や新宿などで始まった。当時の美濃部知事が「東京に青空を」とスモッグの元凶である車を締め出した。9代小池氏が期待を乞う都政とは―地方も大いに注目である。


当方も記者の方と同じく1970年代、東京に住んでおりました。といっても幼稚園・小学校低学年の頃で、まだ「高村光太郎」の名は知りませんでした。確かに当時は「光化学スモッグ注意報」あるいは「警報」が頻繁に出、そういう時は決まって深呼吸すると気管が痛いと感じたものです。

その反面、当時住んでいたのは都下多摩地区で、まだ宅地化はそれほど進んでおらず、田んぼにはドジョウやタニシやザリガニ、森にはミヤマクワガタという状況で、今考えるとアンバランスでした。PCのストリートビューで住んでいたあたりを見ても、もはや別の町のようになってしまっています。

ただ、「スモッグ」という単語がもはや死語となりつつあるのは、いいことだと思います。

光太郎は東京生まれの東京育ち。元々先祖は鳥取藩士だったそうですが、曾祖父で幕末文久年間に亡くなった富五郎は八丁堀の鰻屋、祖父の兼吉は浅草の露天商、そして父・光雲は仏師と、絵に描いたような庶民階級、いわゆる「江戸っ子」でした。

昭和20年の空襲で駒込林町のアトリエを焼かれるまで、海外留学の期間を除いて、光太郎は東京以外に居住したことはありませんでした。それが疎開のため移った岩手で足かけ8年を過ごすうち、清冽な自然の中での生活にすっかりはまり、戦後のある種むちゃくちゃな復興をする東京を毛嫌いするようになりました。

下記は、昭和27年(1952)の『週刊朝日』に載った、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、8年ぶりに上京した光太郎へのインタビュー「おろかなる都 光太郎東京を叱る」です。

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同じ昭和27年(1952)には、こんな詩も作っています。

   報告   
004
 あなたのきらひな東京へ
 山からこんど来てみると
 生れ故郷の東京が
 文化のがらくたに埋もれて
 足のふみ場もないやうです。
 ひと皮かぶせたアスフアルトに
 無用のタキシが充満して
 人は南にゆかうとすると
 結局北にゆかされます。
 空には爆音、
 地にはラウドスピーカー。
 鼓膜を鋼で張りつめて
 意志のない不生産的生きものが
 他国のチリンチリン的敗物を
 がつがつ食べて得意です。
 あなたのきらひな東京が
 わたくしもきらひになりました。
 仕事が出来たらすぐ山へ帰りませう、
 あの清潔なモラルの天地で
 も一度新鮮無比なあなたに会ひませう。


画像は岩手から上京した際に上野駅で撮られたショットです。「長靴で出て来るか」という感じですね(笑)。東京もなめられたものです。

しかし、光太郎、再びの東京暮らしをけっこう満喫していました。草野心平ら、ある種の「悪友」たちと飲み歩いたり食べ歩いたり、ストリップを観に行ったり……。東京に対する悪口雑言も、東京を愛するが故の箴言警句だったのかもしれません。

乙女の像完成後に、宣言通り一時的に岩手に帰りましたが、身体は結核でぼろぼろになっていたため、結局、設備の整った東京で療養せざるを得ず、亡くなったのも東京でした。

さて、「天鐘」にあるとおり、新都知事の誕生です。光太郎がもし現在の東京を見たら、「○○なる都」、どんな形容動詞を使うのでしょうか。


【折々の歌と句・光太郎】

じつとしてこれやこの木の朽つるまで木ぼりの蝉はあり経らんとすらん

大正13年(1924) 光太郎42歳

滋賀県彦根市からイベント情報です。 

彦根市立図書館創設100周年記念事業 プレミアム講演会 「彦根で育った詩人 高祖 保~その生涯と作品~」

日  時 : 2016年8月7日(日)13:00~
場  所 : 彦根市立図書館  滋賀県彦根市尾末町8番1号
講  師 : 外村彰氏 ( 国立呉工業高等専門学校 教授)
料  金 : 無料
定  員 : 50名(申込先着順)  ※申込受付 7/8(火)~
問い合わせ: 彦根市立図書館  TEL.0749-22-0649

高祖保は明治43年に生まれた詩人で、彦根尋常高等中学校(現彦根東高校)で学び、高村光太郎や堀口大学 など著名な詩人と交流し、『椎の木』『雪』『文藝汎論』などに特集を数多く投稿しています。戦時中34歳の若さで永眠されました。
高祖は8歳から旧制彦根中学(現・彦根東高校)を経て大学に進学するまで、母の郷里・彦根で過ごしました。
本講演では、高祖保の文学・人物について語っていただきます。


高祖保(こうそ・たもつ)は岡山県出身の詩人。『希臘十字』(昭和8年=1933)、『雪』(昭和17年=1942)などの詩集がある他、光太郎も寄稿した雑誌『門』を主宰しました。

昭和18年(1943)には、光太郎の年少者向け詩集『をぢさんの詩』の編集を行いました。平成25年(2013)の明治古典会七夕古書入札市で、光太郎から高祖に贈られた識語署名入りの『をぢさんの詩』他がひょっこりと出て来、今年の同会でも出品されています。

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今回の講演会場である彦根市立図書館さんにも、光太郎から高祖に宛てた書簡が1通所蔵されており、5年ほど前に拝見に伺いました。昭和19年(1944)に刊行された高祖生前最後の詩集『夜のひきあけ』に関する内容でした。高祖はこの年、ビルマへと召集され、翌年同地で戦病死しています。

また、高祖の出身地、岡山にも光太郎から高祖宛の書簡が遺っているようですが、そちらを収蔵している施設が今一つよくわかりません。


こういったマイナーな文学者を取り上げての講演会。こういう取り組みこそ大切だと思います。頭が下がります。

お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

飛びたつとき吾が手を掻きてゆきし蝉の足の力の忘られなくに
大正13年(1924) 光太郎42歳

昨日に引き続き、新刊情報です。 
2016/08/02   曽我貢誠・佐相憲一・鈴木比佐雄 編 コールサック社 定価1,500円+税

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詩人、作家、教育関係者などによる200人詩集。いまを生きる多感な少年少女へ、そっとエールをおくりたい。「教えるとは希望をともに語る語ること」(ルイ・アラゴン)。誰でもいつかは少年少女、そんな視点で心のうたをお届けします。学校で、塾で、電車の中で、家庭で読んでいただきたい1冊です。

目次
 はじめに 未来を切り開くために 曽我貢誠
 第一章 学ぶ
 第二章 歩む
 第三章 立つ
 第四章 こころ
 第五章 いのち
 第六章 希望
 第七章 家族の中で
 第八章 自然の中で
 第九章 世界の中で
 第十章 未来
 解説 『少年少女に希望を届ける詩集』 人間そのものを思うこと 佐相憲一 
 解説 少年少女のしなやかな心が語り合える詩集になることを願って
  『少年少女に希望を届ける詩集』に寄せて 鈴木比佐雄
 おわりに 曽我貢誠

編者お三方のうち、曽我貢誠氏は詩人で、連翹忌の御常連です。鈴木比佐雄氏は同社の社長さん。今年の連翹忌にご参加下さいました。佐相憲一は詩人、評論家、編集者。

広く募集した書き下ろしの稿と、光太郎などの物故詩人の作品が入り交じる構成になっています。詩が根幹ですが、エッセイ的な散文も多く収録されています。

ご存命の有名どころでは、谷川俊太郎氏、覚和歌子氏、あさのあつこ氏、落合恵子氏、新川和江氏、水谷修氏、尾木直樹氏、浅田次郎氏、小山内美江子氏、明石康氏など。

物故詩人としては、山村暮鳥、武者小路実篤、宮沢賢治、金子みすゞ、吉野弘、島崎藤村、河井酔茗、高田敏子、宗左近、坂村真民などにまじって光太郎も。光太郎の作品は、『道程』と『冬が来た』が掲載されています。

また、今年の連翹忌で、募集のチラシが配られたため、御常連の皆さんで、それに応じられた方々がいらっしゃいます。作曲家・野村朗氏、詩人・野澤一のご子息の野澤俊之氏。当方は、忙しさに取り紛れて欠礼いたしました。

上記2枚目の画像(裏表紙)で、寄稿者全員のお名前が確認できます。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

いつしんになきどよもせば袋もて採る気になれず蝉の腹を見る

大正13年(1924) 光太郎42歳

新刊、といっても4月の刊行なので3ヶ月ほど経ってしまっていますが、最近まで気付きませんでした。 
2016/04/15  藤田尚志・宮野真生子 編 ナカニシヤ出版 定価2,200円+税

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「愛」の一語が秘めた深遠な思想史の扉を開く。よりアクチュアルに,より哲学的に,何より身近なテーマを問うシリーズ、第1巻。

目次
Ⅰ 西洋から考える「愛」
  第1章 古代ギリシア・ローマの哲学における愛と結婚 (近藤智彦)
     ――プラトンからムソニウス・ルフスへ――
 第2章 聖書と中世ヨーロッパにおける愛 (小笠原史樹)
 第3章 近代プロテスタンティズムの「正しい結婚」論? (佐藤啓介)
     ――聖と俗、愛と情欲のあいだで――
 第4章 恋愛の常識と非常識 (福島知己)
     ――シャルル・フーリエの場合――
Ⅱ 日本から考える「愛」
  第5章 古代日本における愛と結婚 (藤村安芸子)
      ――異類婚姻譚を手がかりとして――
 コラム 近世日本における恋愛と結婚 (栗原剛)
      ――『曾根崎心中』を手がかりに――
 第6章 近代日本における「愛」の受容 (宮野真生子)


編者のお二方は、それぞれフランス近現代思想、日本哲学史を専攻され、九州の大学で教鞭を執られている研究者です。

最初にこの書籍の情報を目にしたとき、「哲学」の文字から、小難しい理屈の羅列かと思いましたが、さにあらず。前半は西洋、後半は日本に於いて、「愛」がどのように捉えられてきたのか、その思想史的な考察……というと堅苦しいのですが、様々な実例を引きながら(近年の映画『エターナル・サンシャイン』や『崖の上のポニョ』まで含め)、いわば帰納的に「愛」の在り方が、かなりわかりやすく説かれています。

特に日本編は興味深く拝読しました。『古事記』や『源氏物語』、『曽根崎心中』、夏目漱石の『行人』、そして『智恵子抄』。

キリスト教の「love」の概念や、中国に於けるどちらかというと道徳的な「愛」の影響を受けつつ、対象と一つになることを理想とする恋愛の形の出現、そして一つにならねばならない、というある種の強迫観念がもたらした光太郎智恵子の悲劇、といった流れで、「なるほど」と首肯させられました。

本書でも、光太郎智恵子の悲劇の考察だけを取り出すのであれば、ほぼこれまでにも様々な論者が述べてきたことの焼き直しのような感がありますが、いわば「近代恋愛史」的なマクロ視点の中にそれを置くことで、また違った見方で見えてきます。ある意味、光太郎智恵子の悲劇は、「近代恋愛史」という壮大なパズルの無くてはならないピースのように、起こるべくして起こった、というような……。

版元のナカニシヤ出版さん。京都の書肆です。こうした真面目な、しかしはっきりいうと商業的にはどうなのかな、という出版に真摯に取り組まれる姿勢には敬意を表します。

ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

鳴きをはるとすぐに飛び立ちみんみんは夕日のたまにぶつかりにけり

大正13年(1924) 光太郎42歳

先週、岩手盛岡に2泊3日で行っておりましたが、その間に当ブログの閲覧数がまた跳ね上がりました。帰ってきてからアクセス状況の解析ページを調べてみると、『「私」を受け容れて生きる 父と母の娘』を刊行された末盛千枝子さん関連で、当ブログにたどり着かれた方がたくさんいらっしゃいました。

5月にも同じことがあり、その際には『日本経済新聞』さんと『朝日新聞』さんに書評が載った直後でした。そこで、また何かのメディアで取り上げられたのだろうと思い、そちらも調べてみました。

すると、まず7/12(13日未明)、NHKさんの「ラジオ深夜便」に末盛さんがご出演、「困難が私を導く」と題されてお話をされていました。

末盛千枝子さん「困難が私を導く」<7月12日(火)深夜放送>

末盛千枝子さんは、1986年に国際的な児童図書の展示会「ボローニャ国際児童図書展」でグランプリを受賞、その後、皇后・美智子さまの講演録やターシャ・テューダーの絵本を手がけるなど編集者として活躍してきました。しかしその陰では、夫の急死や経営していた出版社の閉鎖、移住した岩手で起きた東日本大震災など、さまざまな困難を乗り越えてきました。この「困難」こそ、自分の人生を導いてきた原動力だという末盛さんに、2回にわたってお話を伺いました。その1回目です。

こちらは2回に分けてのオンエアだそうで、2回目も近々放送されるでしょう。番組情報に気をつけていたいと思います。


それから、『週刊文春』さんでも取り上げられていました。

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文春さんというと、スキャンダルというイメージになりつつありますが、もちろんそういうわけではなく「新 家の履歴書」という連載で4ページにわたって末盛さんの紹介でした。

『「私」を受け容れて生きる―父と母の娘―』についても触れられており、さらにその中で語られている光太郎との縁についても記述がありました。

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さかのぼって、7/10には、『産経新聞』さんにも書評が出ています 

【聞きたい。】末盛千枝子さん『「私」を受け容れて生きる-父と母の娘-』 世の中の良い所を見続ける

005「私にとってはそんなに大変なことではなかった。読んだ方の反応に、逆にびっくりしています」と末盛千枝子さん。皇后さまの講演録『橋をかける』や、皇后さまが英訳されたまど・みちおさんの詩集『どうぶつたち』などを手掛けた絵本出版社「すえもりブックス」の元代表だ。自伝的エッセーである本書では『橋をかける』にまつわるエピソードや、詩人の高村光太郎との交流、家族の思い出が語られる。
 大学卒業後、絵本出版社に勤めたがキャリア志向はなく結婚退社。しかし、夫は8歳と6歳の息子を残して急死。生来の難病を抱える長男はスポーツでのケガで下半身不随に。脳出血で倒れた再婚相手の看護、出版社の経営難など、“激動と波乱の人生”だが、語り口は非常に静かだ。表題にある「受け容(い)れて」生きることの尊さが胸にしみる。
 「自分の大変さではなく、世の中の良い所を見続けることがとても大事」と話す。例えば、天気の良い秋の日、長男がいるリハビリ専門病院では、生涯忘れられない風景を見たという。「息子の入院仲間で金色の髪をしたお兄さんがね、光り輝くようなイチョウの木の下で、2、3歳の子供と奥さんと一緒にお弁当を広げていた。病院でのピクニックは、本当に美しくまるで聖家族のよう。大変な最中でも、こういうことに出合う幸せがある」
 会社をたたみ平成22年、長男らとともに父の故郷の岩手県に居を移した。翌年の東日本大震災後、被災した子供たちに絵を届ける活動を開始。懸命に本を求める保育園児の姿に感動した。「ある子は、流されてしまった自分の大好きな絵本を見つけ『あった!』と、その本を抱きしめた。本好きの仲間と出会うのが何よりうれしい」。そしてこう言葉を接いだ。「困難があったからこそ今がある。いろんなことをこれで良かったと思える」。ほほ笑む末盛さんがとてもまぶしかった。(新潮社・1600円+税) 村島有紀

【プロフィル】末盛千枝子
 すえもり・ちえこ 昭和16年、東京生まれ。父は彫刻家の舟越保武。慶応大卒。63年「すえもりブックス」を設立。「3・11絵本プロジェクトいわて」代表。


『毎日新聞』さんと『読売新聞』さんでも取り上げて下さいましたし、NHKさんの、中江有里のブックレビュー・6月の3冊」でも紹介されています。

まだ読まれていない方、ぜひお買い求め下さい。


【折々の歌と句・光太郎】

いさましき夏の遠海(とほうみ)雲きれぬををしく晴れよ今は汝(な)が世ぞ
明治34年(1901) 光太郎19歳

今日は「海の日」だそうで。しかし関東はまだ梅雨明けせず、今一つ青い空、もくもく白くわきあがる入道雲、という感覚になりませんね……。

2泊3日の行程を終え、岩手から千葉に帰って参りましたので、レポートです。まずは一昨日、花巻の宮沢賢治イーハトーブ館さんで開催中の「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」。午後2時過ぎ、東北新幹線新花巻駅に着き、コインロッカーに荷物を放り込み、歩くこと20分ほど。同じエリアの宮沢賢治記念館さん、花巻市立博物館さんともども、何度か訪れた場所でした。

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これには驚きました。

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さて、館内へ。展示スペースはあまり広くなく、こぢんまりした展示でしたが、内容の濃いものでした。

黄瀛は中国人の父と日本人の母を持ち、日本で青少年期を過ごした詩人です。光太郎の知遇を得、草野心平を光太郎に紹介する橋渡しを務めたり、ここ花巻で晩年の宮沢賢治に会ったりしたこともあります。戦中戦後は日中戦争や国共内戦、さらに文化大革命の嵐に翻弄され、長い獄中生活を送ったりもしましたが、晩年は名誉回復、日中の文学的交流の架け橋となりました。

黄瀛をメインにした企画展というのは、おそらくこれが初めてなのではないかと思われます。黄瀛の人となり、文学的功績などに関わる様々な展示がなされ、光太郎が序文を書いた黄瀛詩集『瑞枝』や、光太郎作の黄瀛像を表紙に使った雑誌『歴程』など、興味深く拝見しました。

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また、賢治と黄瀛の作品が、同じ雑誌に並んで掲載されているというケースが何度かあり、お互い影響しあっていたような点も見られ、ほう、と思いました。

何より、解説パネルが充実しており、感心いたしました。また、拝観後に購入した図録に、そのパネルの文章がそのまま使われていて、これは貴重な資料になります。モノクロ印刷と云うこともあって、たった300円。これは非常に得をした気分です。

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これを機に、もっともっと黄瀛について、世に知られるようになって行ってほしいものです。

上記画像の通り、10月15日(金)までと、長い開催期間になっています。ぜひ足をお運びください。


その後、また歩いて新花巻駅へ。ちょうど釜石線の快速はまゆり号盛岡行きがあり、新幹線を使うより安く済みました。盛岡についてはまた明日。


【折々の歌と句・光太郎】

おのづから雲こごりきて夏の夜(よ)の明神嶽の尾根をはなれず

                                                                                  
制作年不詳

やはり草枕の覊旅歌。「明神嶽」は信州上高地付近に聳える山ですので、智恵子と共に上高地を訪れた大正2年(1913)頃の作かも知れません。

当会顧問・北川太一先生のご著書をはじめ、光太郎関連の書籍を数多く上梓されている文治堂書店さんが刊行されているPR誌『トンボ』の第2号が届きました。


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PR誌、というよりは、同社と関連の深い皆さんによる同人誌的な感じなのかも知れません。

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M06uGl0g目次の最後、「詩歌三評 野沢一詩集 木葉童子詩経」で、光太郎に触れられています。
野沢一(はじめ)は、1904(明治37)年、山梨県出身の詩人。昭和4年(1929)から同8年(1933)まで、故郷山梨の四尾連湖畔に丸太小屋を建てて独居自炊、のち上京しています。昭和14年(1939)から翌年にかけ、面識もない光太郎に書簡を300通余り送りました。いずれも3,000字前後の長いもの。光太郎からの返信はほとんどなく、ほぼ一方通行の書信です。ちなみに光太郎からの返信2通は、一昨日訪れた山梨県立文学館さんに所蔵されています。

昭和9年(1934)、野沢は丸太小屋生活の中での詩篇をまとめ、『木葉童子詩経』として自費出版、昭和51年(1976)と、平成17年(2005)に、文治堂書店さんから再刊されました。

今回、『トンボ』に載ったのは、この再刊本を元にした三氏の野沢評。目次には詳細が記されていませんが、酒井力氏の「『木葉童子詩経』をよむ」、曽我貢誠氏で「森と水と未来を見つめた詩人」、古屋久昭氏による「自然と対話し愛した詩人」。それぞれ、光太郎との沢の交流について触れて下さっています。

そのうちの曽我氏から、『トンボ』が送られてきました。多謝。
曽我氏と古屋氏、それから野沢の子息の野沢俊之氏は、連翹忌にご参加いただいております。

さらに、平成25年(2013)、坂脇秀司氏解説で刊行された『森の詩人 日本のソロー・野澤一の詩と人生』に関する記述も。坂脇氏も連翹忌にご参加いただいたことがありました。


こうした光太郎と縁のあった文学者と光太郎のつながりに関しても、まだまだいろいろ知られていない事実等がたくさんあることと思われます。それぞれの研究者の方々との連携を図りたいものです。

そうした光太郎と縁のあった文学者の一人、詩人の黄瀛をメインにした、宮沢賢治イーハトーブ館さんの「宮沢賢治生誕120年記念事業 賢治研究の先駆者たち⑥ 黄瀛展」を、今日、拝見します。

 今日から2泊3日で、花巻経由の盛岡行きです。今日は花巻に寄って黄瀛展を拝見し、盛岡に。明日は盛岡少年刑務所さんで行われる第39回高村光太郎祭に出席し、講演をして参ります。一般には非公開のイベントですので、ブログではご紹介しませんでしたが、帰ってきましたらレポートいたします。明後日はまた花巻で途中下車、花巻高村光太郎記念館さんに立ち寄ろうと考えております。


【折々の歌と句・光太郎】

きらきらと焼野に長き線路かな    明治42年(1909) 光太郎27歳

欧米留学の末期、スイス経由イタリア旅行中の作です。季節的には3月中頃と考えられ、「焼野」は冬枯れた野原という意味なのでしょうが、ゆらゆらと陽炎の立つ焼け付くような野原、と捉えてもいいように思われます。

盛岡、花巻となると、自家用車での移動ではきついので、長い線路の旅になります。この句をしのびつつ、行って参ります。

昨日は、甲府市の山梨県立文学館さんに行っておりました。


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まずは同館にて先週末から開催中の「特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」を拝見。

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大正のはじめ、賢治と盛岡高等農林学校時代の同級生で、文芸同人誌『アザリア』の仲間だった、山梨出身の保阪嘉内との交流に的を絞った展示でした。

比較的長命だった光太郎と異なり、戦前に数え38歳で歿した賢治ですので、遺っている書簡は多くありません。そうした中で、今回の展示では保阪に宛てた73通もの賢治書簡が展示されていました。俗な話になりますが、まず最初に、市場価格に換算したらどうなるのだろう、と思ってしまいました。一昨日、明治古典会さんの七夕古書第入札市一般下見展観を見ていたせいもあるでしょう。

しかし、賢治独特の丸っこい文字を読み進むにつれ、だんだん二人の交流の深さに引き込まれていきました。賢治と保阪は、賢治童話の代表作の一つ「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカムパネルラに比定されています。

さらに、常設展的な展示も拝見。現在は賢治同様、光太郎と縁の深かった与謝野晶子をはじめ、山梨出身だったり、山梨との縁が深かったりした文学者に関しての展示でした。

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こちらも充実した展示で、興味深く拝見しました。

展示を見終わり、午後1時30分から、特設展の関連行事である講演会「宮沢賢治と保阪嘉内」。講師は渡辺えりさんです。


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えりさんは、平成24年(2012)に初演の舞台「天使猫」で、賢治を主人公とした幻想的な演劇を作られ、そこに保阪嘉内も登場。その戯曲の制作のため、保阪家の皆さんとのご交流がおありだということで、今回の講演が実現しました。

さらにいうなら、そもそもえりさんも、山梨県立文学館のスタッフの皆さんも、当会主催の連翹忌にご参加下さっており、そのご縁もあるかと存じます。また、先月、盛岡で行われた啄木祭での、えりさんのご講演は欠礼しましたので、これは行かねば、というところもありました。

当方、えりさんのご講演拝聴は三度目でしたが、いつもながらに巧みな話術にひきこまれました。お話は、賢治や嘉内の人となり、保阪家の方々との交流などはもちろん、生前の光太郎を知るお父様・渡辺正治氏との関わりから、光太郎にもかなりの時間を割いて下さいました。お父様は賢治の精神にも強く惹かれていたということもあり、光太郎からお父様への書簡(花巻高村光太郎記念館にご寄贈下さいました)には「宮沢賢治の魂にだんだん近くあなたが進んでゆくやうに見えます」との一節があったりもします。

さらに、お父様が戦時中、武蔵野の中島飛行機の工場にお勤めだった頃、空襲で亡くなったご同僚のリーダーが山梨の方で、最近になってお父様とその墓参が実現したお話などもありました。

終演後のえりさん。サイン会の合間にお話をさせていただきました。

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さて、「特設展  宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙」は来月末まで開催されています。ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

飄々と富士の御霊(ミタマ)を訪ひ行けば白雲(ハクウン)満た我にしたがふ
明治32年(1899)頃 光太郎17歳頃

「満た」は「あまた」と読みます。この歌が詠まれたと推定される明治32年(1899)、光太郎は祖父の兼松とともに富士登山を果たしています。

昨日、帰りがけには雄大な姿が拝めました。

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当方、甲府に4年近く住んでいました(今回初めて知りましたが、保阪嘉内は高校の先輩でした)が、最近、甲府に行くたび、甲府から見える富士山はこんなにも大きかったっけ、という感覚です。

昨日の『朝日新聞』さんの「天声人語」で、当会の祖・草野心平が愛した福島川内村の天山祭が紹介されました。 

天声人語 詩の響きわたる村

「歴程」は創刊80年を超す詩誌である。年ごとの「藤村(とうそん)記念歴程賞」の受賞者には金子光晴や辻井喬といった名が並ぶ。昨年は詩人ではなく、阿武隈山地にある福島県川内村の村民一同に贈られた▼毎年7月、草野心平の詩を村人が朗読する「天山(てんざん)祭り」を半世紀にわたり開いた功績が評価された。出身地ではないが、心平は毎夏をこの村で過ごした。祭りは村人との酒宴から始まり、1988年に心平が亡くなった後も続いた▼「私ら詩を作るわけでもないが、栄えある賞をもらっていいんだろうか。でも村民一同にというのはうれしかったですね」。天山祭り実行委員長の石井芳信(よしのぶ)さん(71)は話す。昨年11月、東京での授賞式に村長ら6人と出席し、「ノーベル賞以上の喜びです」とあいさつした▼村は原発事故にほんろうされた。全村民が一時は避難を余儀なくされた。いまも除染作業の車が頻繁に通過する。震災の年は祭りの開催が危ぶまれたが、「大変な時こそ」と村外の人からも励まされ、簡略ながら開催にこぎつけた▼〈けつとばされろ冬/まぶしいな/青いな/ゲコゲコグルルル――/春君/ぼくだよ〉。詩が村に響く。獅子が舞い、酒や山菜を楽しむ▼被災前、村には小中学生が175人いた。戻ったのは50人に満たない。村の将来を思うと石井さんも不安は尽きない。それでも祭りは続けたい。今月9日で51回目となる。人々が集い、大人も子どももそれぞれ好きな詩を読み上げる。震災前と変わらない時が流れる。

昨年の藤村記念歴程賞についても記述があります。


たまたま先月中~下旬、全国各地の地方紙一面コラムに心平、そして川内村の名が立て続けに出ました。この際ですのでご紹介しておきます。

6月18日の『琉球新報』さん。福島第一原発の事故からの全村避難解除を受けての内容です。 

<金口木舌>さむいね、ああさむいね

さむいね/ああさむいね(中略)どこがこんなに切ないんだらうね/腹だらうかね/腹とったら死ぬだらうね/死にたかあないね(秋の夜の会話)。カエルの詩人と呼ばれる草野心平氏の詩集「第百階級」はこの詩で始まる
▼福島県いわき市出身、戦後間もなく双葉郡川内村平伏(へぶす)沼のモリアオガエル見学に招かれた縁で名誉村民となる。政府は14日、東京電力福島第1原発事故で川内村の「避難指示解除準備区域」指示を解き、同村の避難区域を解消した
▼12日には近隣の葛尾村全域避難指示が「帰還困難区域」を除き解除された。生活不安から多くが戻れない故郷で今週、政府の解除ラッシュが続く
▼1400人余が避難する葛尾村は放射線量が比較的高い「居住制限区域」(21世帯62人)の避難指示が解除された初事例だ。対象は418世帯1347人だが、昨夏に始まった準備宿泊登録は約1割。「自分の姿を見て1泊でもして」と期待する地区唯一の帰還者の声は重い
▼昨秋に全域避難指示が解かれた楢葉町の帰還世帯も最新で1割、帰還536人のうち40歳以下は29人だ。同町で原発対応拠点を担うJヴィレッジは東京五輪サッカー日本代表合宿地となる
▼平伏沼は今、モリアオガエル産卵の最盛期を迎える。悲しい歴史をたどる今の沖縄だからこそ、福島の山に海に、戻れない人と戻る人の痛みに思いを寄せ続けよう。



続いて『福島民友』さんで6月20日 

【編集日記】「かえる かわうち」

広葉樹の林の中を歩いて行くと、神秘的な沼が突然、姿を現す。川内村の平伏(へぶす)山(842メートル)山頂に位置する平伏沼だ。モリアオガエルが繁殖する国指定天然記念物で、「カエルの詩人」といわれた草野心平が愛した地としても知られる
 ▼モリアオガエルは産卵の仕方が特徴的だ。沼にせり出すように生えている木の枝や葉に白い泡状の卵を産み付ける。卵が孵化(ふか)すると沼に落ち、オタマジャクシが水中で暮らし始める
 ▼これから7月上旬にかけてが産卵のピークだが、沼の巡視員をする猪狩四朗さんによると、今年は卵の数が例年の半分ほどしかないという。「水不足でもあるが、原因は分からない」。村のシンボルであるカエルのことを思い、心配そうだ
 ▼壁をよじ登るカエルのイラストに、「かえる かわうち」とのキャッチコピーを添えた垂れ幕が2012年の春、村役場に掲げられた。原発事故で一時は全村避難を強いられた同村に役場機能が戻った時期のことだ。村は先週、全ての避難区域が解除された
 ▼現在までに帰ってきた住民は65%ほどという。復興への壁はまだ高いが、「これからカエルが戻り大合唱を聞かせてくれるはず」との猪狩さんの言葉に村の未来を重ねたい。

「かえる かわうち」のキャッチコピー。「かえる」には「蛙」、「帰る」、「変える」など、様々な意味を込めているそうです。下記は以前にいただいた缶バッヂ。

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せっかく「天声人語」にまで紹介された天山祭ですが、今年は明治古典会七夕古書大入札会の一般下見展観、さらにもう一つ別件で柔道の講道館に行かなければならず、欠礼いたします。関係者の皆さん、申し訳ありません。


【折々の歌と句・光太郎】

色みては盲目(めくら)音にはみみしひのふるさとびとの顔のさびしさ

明治42年(1909) 光太郎27歳

一昨日からご紹介しています、海外留学から帰国直後の作です。

一般庶民にまで芸術を愛する心がしみついていたパリと比較し、そうした部分での日本人の無理解を嘆いています。

光太郎詩の朗読による公演、イベント等の情報です。

まずは公演の方、福井県鯖江市で。 
期  日 : 2016年7月17日(日)
時  間 : 開場 13:30  開演 14:00
会  場 : 鯖江市文化の館鯖江市図書館2F 多目的ホール) 鯖江市水落町2丁目25番28号
料  金 : 500円
出  演 : 朗読・森本宏子 オカリナ・山本幸聖 ピアノ・森本菜桜子
                       
作曲・沢崎蒼太郎 画・西條由紀夫
申  込 : 090-5178-2221(森本)

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続いて、智恵子の故郷・二本松から一般参加のイベント情報です。 

高村智恵子生誕130年 高村光太郎没後60年記念事業 「智恵子抄」朗読会

期 日 : 2016年7月17日(日)
時 間 : 午前10時〜 (9時20分に奥岳登山口ロープウェイ乗り場前集合)
会 場 : 安達太良山薬師岳
参加費 : 4,000円(ロープウェイ代、入浴料、昼食代込み)
定 員 : 30名
申 込 : 智恵子のまち夢くらぶ(熊谷) ☎0243(23)6743

ほんとの空がある安達太良山薬師岳で、詩集『智恵子抄』の中から一人一作品を朗読します。
智恵子と光太郎の記念の年にふさわしい素敵な朗読会へぜひ参加してください。
終了後は温泉にゆったりと入浴し、その後みんなで昼食会を行います。

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さらにもう1件、朗読つながりで、彫刻家光太郎最後の大作・「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の建つ青森県十和田市からの情報もご紹介しておきます。

今年4月、当方執筆のジュブナイル「乙女の像のものがたり」を原作にした朗読劇を公演された劇団M’S PARTY(エムズパーティ)さんが、「平成28年度 元気な十和田市づくり市民活動支援事業 対象事業」の認定を受けました。その結果、助成金19万円が交付されるとのことです。

具体的には「50分でわかる乙女の像に込められた想い DVD及びホームページ制作事業」だそうで、さらに具体的には「十和田湖国立公園指定80周年を記念して、「乙女の像」ができるまでの物語を朗読劇にしてDVDを作成する。多方面で活用していただくことで十和田湖の奥深い魅力を広く発信する。」だそうです。

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こういう予算の使い方というのは、素晴らしいことだと思います。


公演にしても、一般参加型のイベントにしても、もっともっと広まってほしいものです。


【折々の歌と句・光太郎】

ふるさとのちまたに立ちて故郷の言の葉をきく聞けどあかぬかも

明治42年(1909)頃 光太郎27歳頃

昨日に引き続き、約3年半の海外留学を終えて帰国直後と思われる作です。

意外と留学先のニューヨーク、ロンドン、パリ、それぞれで留学生仲間などとの交流が多かった光太郎ですが、やはり巷間に立って聞こえてくる母語の響きは懐かしさを催すものだったのでしょう。

先週、娘が迷い猫を拾ってきました。

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猫を拾ってくる娘というと、小学生くらいの女の子をイメージする方が多いかと存じますが、うちの娘は今年24になります。もっとも、中身は小学生とあまり変わらなかったりしますが(笑)。その娘も、それから妻も外で仕事をしていますので、いきおい、昼間は当方が面倒をみるしかありません。まぁ、世話といっても時折餌と猫牛乳をやるくらいで、あとはほとんどほっぽっていますが(笑)。

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光太郎智恵子も駒込林町のアトリエで、猫を飼っていました。

大正15年(1926)、雑誌『詩神』に載った光太郎の談話筆記「生活を語る」に、次の一節があります。

 家畜は犬が大変好きですがよく留守にするので飼わないのです。猫は飼つてゐたことがある。これは自活をしてゐたのです。岡田三郎助さんから黒い猫を貰つてきたので、すばらしくいゝ猫だつたのです。

岡田三郎助は洋画家。光太郎智恵子夫妻と家族ぐるみでつきあいがありました。

また、昭和26年(1951)、『高村光太郎選集』第三巻の附録に載った森田たまの回想。大正5年(1916)頃の話です。

 早春の一日、偶然町角で出会つたいまの夫を、私はふと思ひついて高村家へ連れて行つたのである。高村さんも智恵子夫人も、突然の訪問者をいぶかりもせず、あたたかくもてなして下すつた。(略)つやつやとした黒猫がゐて、それが夫の膝にのつたのを、この猫は他人の膝にのつた事はないのだと、猫に好かれた事が夫の性質の善良さを表はすやうに云つて下すつたりした。

その大正5年(1916)には、光太郎、そのものずばり「猫」という詩も書いています。翌年の雑誌『詩歌』に発表しました。

     猫006

 そんなに鼠が喰べたいか
 黒い猫のせちよ
 どんな貴婦人でも持たない様な贅沢な毛皮を着て
 一晩中
 塵とほこりの屋根裏に
 じつと息をこらしてお前は居る
 生きたものをつかまへるのが
 そんなにもうれしいか
 そんなにも止みがたいか
 ああ、此は何だ
 此は何だ
 黒い猫のせちよ
 お前はそれで美しい
 かぎりなく美しい
 だが私の心にのこる恐ろしい此は何だ


動物をモチーフにしている点、自らの荒ぶる魂を投影している点など、数年後に始まる連作詩「猛獣篇」の序曲ともいえる作品です。

「セチ」というのが高村家の猫の名前でした。奇妙な名前ですが、その由来は智恵子が岡田三郎助の妻、八千代に送った書簡で明らかになりました。大正4年(1915)10月の消印です。

きのふ田村さんが あれをつれて来て下さいました007 (2)
ほんとにきれいなのでよろこんで居ります
厚く御礼申上ます おとなしいひとですね
お宅ぢや惜しかつたでせうつて話して居ります
セチつてつけてやりました あの眼が
そんな気がしたのです セチつて星はセチの
オミクロンていふんですつてね
此度田村さんへ御出の時 どうぞお寄りに
なつて あれの様子を見てやつて下さいまし
いけないとこがあるといけませんから
きのふは少しシヨゲてましたがけふは元気に なれて
しまひました 高村から御主人にくれぐれ
よろしくつて申上ました
どうぞ 御遊びにいらして下さいまし
                御礼まで  艸々
   廿六日夕
 岡田八千代様
                   高村智恵

「田村さん」は作家の田村俊子。智恵子、岡田八千代ともども、初期『青鞜』メンバーです。

「おとなしいひとですね」って、人じゃないぞ、と突っ込みたくなります(笑)。もっとも、光太郎と縁の深かった当会の祖・草野心平は、酒に酔うと、腹を空かせた野犬を前に「犬だってニンゲンだ!」と叫んだといいますので……。この人たちの感覚はやはり違うのかも知れません(笑)。

「セチ」は星座の鯨座のラテン名「Cetus」の所有格「Ceti」から採った名前だということがわかります。「オミクロン」は鯨座を構成する星の一つだそうです。猫の眼がこの星のようだということですが、「セトゥス」や「オミクロン」では呼びにくかったのでしょう。しかし、洒落た名前の付け方ですね。うちの猫は本名「ツナ缶」、通称「ツナ」になってしまいました(笑)。ちなみに雌です。「セチ」は雄雌どちらだったのでしょうか。

「ツナ」嬢、当方がパソコンに向かって椅子に座っていると、脚から膝、さらに肩までよじ登ってきます。迷い猫だったわりに人なつこいというか甘えん坊というか……。さすがにパソコンを打つ時は邪魔ですので、別室で遊ばせていますが、原稿のチェックなど、その別室でもできる仕事の時には、かまってやりながらやっています。

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それにしても、自宅兼事務所には元々柴犬系雑種犬も一頭いて、朝夕それぞれ1時間弱の散歩もしなければならず、すっかり「いきものがかり」です(笑)。まぁ、どちらも癒してくれるのでいいのですが……。

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【折々の歌と句・光太郎】

毒物を置きて鼠にあたへむとしつつきびしき寒夜を感ず
昭和22年(1947) 光太郎65歳

「寒夜」ということで季節外れですが、ご容赦を。

花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)での作です。光太郎、7年間の山小屋生活は、ずっと鼠との共同生活でした。毒を食べた鼠が井戸に落ちて死んでいたなどということもありました。そんなことから、山小屋生活の後半では、もはやあまり気にしなくもなったようです。もしかすると、黒猫の「セチ」を思い出していたかも知れません。

明治古典会さん主催の「七夕古書大入札会2016」。

毎年この時期に行われる、古書業界最大の市です。神田神保町の東京古書会館を会場に、出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が7月8日(金)午前10時〜午後6時、7月9日(土)午前10時〜午後4時に行われます。昨年は光太郎関連出品物が少なく、行きませんでしたが、今年は種類が多い上に、気になる出品物もあるので、行って来ようと思っています。

目録に載った今年の光太郎関係出品物は以下の通り。

高村光太郎歌幅一幅 15万円~

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戦後の花巻郊外太田村在住時の揮毫です。光太郎本人による箱書きも附いています。書としての出来は素晴らしいものです。が、最低落札価格15万円と、かなり安めです。どうも、状態があまり良くないようで、その値段なのだと思われます。


高村光太郎色紙一枚 10万円~

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こちらもあまり状態が良くないようで、安めです。紙自体もきちんとした色紙ではないようです。戦後すぐくらいの時期にはこうした用紙がよく使われていました。


高村光太郎書簡一通 30万円~

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留学仲間の画家、山下新太郎にあてたもの。平成24年(2012)にも出品されました。


高村光太郎草稿一冊 100万円~

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今回、最も驚いたものです。昭和19年(1944)、『智恵子抄』の版元、龍星閣から刊行された詩集『記録』の原稿で、おそらく龍星閣に送られたものではなかろうかと推定できます。画像は各詩篇に付された前書きです。枚数が書いてありませんが、もし全篇揃っていれば、すごいものです。


高村光太郎詩稿九枚 50万円~

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昭和19年(1944)、青磁社から刊行された『歴程詩集2604』のために送られた草稿と推定できます。昭和63年(1988)にも出品されました。ただし、その時は12枚。3枚減っています。


高村光太郎戦後 「独居生活」資料集 40万円~
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こちらも平成24年(2012)に出品されたものです。詩人志望の青年に、断念するよう忠告する内容の書簡が二通。画像下の部分は、詩集を出版したいので序文を書いてくれ、という求めに対し、断りの書簡と共に別便で送られてきた詩稿を返送した際の包装と鉄道荷札です。尾崎喜八、草野心平からの書簡も附いています。


高村光太郎草稿一帖 10万円~
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昭和18年(1943)に刊行された木村直祐、宮崎稔共編詩集「再起の旗」の序文です。以前から東京の古書店の在庫として販売されていました。


高村光太郎詩稿三枚 30万円~
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昭和25年(1950)の雑誌『展望』に載った2篇の詩「RILKE JAPONIKA ETC.」「赤トンボ」の原稿。これも出版社に送ったものでしょう。昭和62年(1987)にも出品されていました。


某月某日・をぢさんの詩二冊 二枚 20万円~
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昭和18年(1943)刊行の詩集『をぢさんの詩』及び、随筆集『某月某日』。前者の編集に当たった詩人の高祖保に贈ったもので、ハガキも附いています。平成25年(2013)にも出品されました。

文学館等ではガラスケース越しにしか見られないものですが、7/8、9の下見展観では、これらを全て手に取って見ることが出来ます。

その他、名だたる文豪のいろいろな品もてんこ盛り。ざっと目録を拝見したところ、夏目漱石や島崎藤村の草稿で、最低落札価格が数百万円から、というものが目につきました。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

紫の細緒目によき檜木笠今朝みる木曾の霧青いかな
明治34年(1901) 光太郎19歳

自宅兼事務所周辺、今は霧雨に包まれています。今日明日は雨の予報。関東は水不足。これで解消して欲しいものです。

昨日、自宅兼事務所に案内が届きました。当会の祖にして光太郎と深い縁で結ばれた、草野心平が愛したイベントです。心平没後は心平を偲ぶイベントとなりました。 

第51回天山祭

期  日 : 2016/07/09(土)
時  間 : 午前11時30分から14時まで001
場  所 : 天山文庫前庭 
       福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513 
        雨天時は川内村村民体育センター
  
     福島県双葉郡川内村大字上川内字小山平15

当日の送迎バス(要予約 6/30〆切)
 川内村行き 郡山駅西口発 午前9時15分
    東北新幹線やまびこ125号に接続 東京発7:32 郡山着8:55
 郡山駅行き 川内発 午後2時45分
 東北新幹線やまびこ216号に接続 郡山発16:39 東京着18:16

翌日の送りバス(要予約 6/30〆切)
 郡山駅行き 川内発 午前8時30分
 東北新幹線やまびこ132号に接続 郡山発10:27 東京着11:48

村内宿泊施設
 小松屋旅館       川内村上川内字町分211  0240-38-2033
 ビジネスホテルかわうち 川内村大字上川内字町分394       0240-38-3181                                            
 ビジネスホテルアゴラ  川内村大字上川内字瀬耳上265番地3 0240-23-6300
 いわなの郷コテージ   川内村大字上川内字炭焼場516 0240-38-3181 グループのみ

申し込み (送迎バスの利用がなければ不要)
 天山祭り実行委員会事務局 : 川内村教育委員会教育課生涯学習係 0240-38-3806


ネット上には今年の第51回の案内等はまだ出ていません。当方、昨年まで3年連続で行っておりました。平成25年(2013)、平成26年(2014)、平成27年(2015)、それぞれのレポートにリンクを貼っておきます。

川内村ではつい先週、東日本大震災に伴う福島第1原発事故により、村内で継続されていた避難指示が全て解除されました。  

川内村全域で避難解除=指示継続の2地区―福島

 東京電力福島第1原発事故により、福島県川内村の一部で継続されていた避難指示が14日に解除され、全域が避難対象から外れた。
  同村では2014年10月に避難指示解除準備区域の避難が解除されたが、居住制限区域だった2地区は解除準備区域に変更された上で、避難指示が続けられていた。
  今回解除対象の同村荻、貝ノ坂地区の人口は19世帯51人(今月1日時点)。村では、両地区内の除染終了を受け昨年11月から帰村に向けた準備宿泊を実施していたが、登録者は1世帯2人のみで、解除後すぐに村へ戻るのはごく一部にとどまるとみられる。
  政府や村は、住民から不安の声が上がっていた放射線への対策として、希望者に線量計を配布。線量の高い地点が見つかり次第、追加の除染を行う。
(時事通信 6月14日(火)0時25分配信)

しかし、避難指示解除即住民帰還とはならないようです。それも致し方ないとは思いますが、天山祭などを通じて村が盛り上がり、やがてはかつての活気を取り戻すことを祈念しております。


【折々の歌と句・光太郎】

赤蛙にげるな汝を取るといへど喰ふにはあらず皮むくにあらず

大正13年(1924) 光太郎42歳

草野心平といえば、蛙。梅雨時で蛙も活気づいています。川内村の平伏沼では、心平が愛し、村と心平の架け橋になったモリアオガエルの産卵が始まったそうです。

さて、大正13年(1924)の光太郎。木彫のモデルにでもするために、蛙を捕まえようとしていたのではないかと思われます。だから「喰ふにはあらず皮むくにあらず」。

しかし、戦後の花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)での暮らしでは、蛙を捕って食べていたそうです。

昭和27年(1952)に行われた、詩人の竹内てるよ、食料産業研究所長・川島四郎との座談会「簡素生活と健康」(『主婦之友』に掲載)の一節。

竹内 主食の量は違いましたか。
高村 主食はもともと少かつたんですが、食糧には困らなかつた。みんな持つて来てくれるんです。お米でも稗でも、漬物や南瓜なども……。蛋白質だけはなかつたな。
川島 田舎ではね……
高村 それで蛙をとつて食べたんです。赤蛙をね、まだ動いているのを皮をはいで……。近所にはいゝ奴がどつさりいたんです。蛇もいたが、これは歯が悪いので駄目でした。

ワイルドですね(笑)。

山梨県から展覧会情報です。 

特設展 宮沢 賢治 保阪嘉内への手紙

 期 : 2016年7月9日(土)-8月28日(日)
会 場 : 山梨県立文学館 展示室C 山梨県甲府市貢川1丁目5番35号
休館日 : 7月11日(月)、25日(月)、8月1日(月)、22日(月)
時 間 : 9:00-17:00(入室は16:30まで)
観覧料 : 本特設展は常設展チケットでご観覧いただけます。(団体20名以上)
         一般 320円(250円)  大学生 210円(170円)

65歳以上の方、障がい者及び介護者、並びに高校生以下の児童生徒の観覧料は無料です。
県内宿泊者は団体料金となります。

賢治自筆の手紙73通を公開  
詩、童話に独自の世界を切り開いた宮沢賢治。
山梨県出身の親友・保阪嘉内に宛てた73通の手紙から、二人の生涯と友情をたどります。

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関連行事

名作映画鑑賞会 アニメ銀河鉄道の夜

7月30日(土) 開場 午後1時  上映 午後1時30分~
会場 山梨県立文学館講堂   定員 500 名   無料   申込不要
1985年 日本ヘラルド 107分 原作 宮沢賢治  原案 ますむらひろし
監督 杉井ギサブロー  脚本 別役実  音楽 細野晴臣

渡辺えり講演会「宮沢賢治と保阪嘉内」

渡辺えりさん(劇作家・演出家・女優)が、賢治と嘉内の魅力を語ります。えりさんは、二〇一二年初演の「天使猫―宮沢賢治の生き方―」で賢治の生涯を描き、演出を手がけました。

7月10日(日) 午後1時30分~ (受付1時~)
会場 山梨県立文学館講堂   定員 500 名   無料   要申込
※ お電話かホームページ、または当館受付にてお申し込みください。

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というわけで、渡辺えりさんの講演があります。

紹介にもあるとおり、えりさん、平成24年(2012)に初演の舞台「天使猫」で、賢治を主人公とした幻想的な演劇を作られました。

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今回の企画展で取り上げられる保阪嘉内も、重要な役どころで登場していました。

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そういう関係もあり、講演の依頼に繋がったのでしょう。賢治と光太郎の交流についても、お話があればと期待しています。

つい先日行われた、盛岡での啄木祭でのご講演は聞き逃しましたので、今回は拝聴に伺います。花巻の高村光太郎記念館に、お父様宛の書簡と献呈署名本をご寄贈下さった御礼も改めて申し上げて参ります。

皆様も是非どうぞ。


【折々の歌と句・光太郎】

野もきえぬ流もきえぬ森もきえぬ小雨みどりに我はたきえぬ

明治34年(1901) 光太郎19歳

「ぬ」は完了の助動詞。「た」と訳せばだいたい通じます。

沖縄地方は梅雨明けだそうですが、沖縄の梅雨が明けると、梅雨前線が北上、本州の雨が本格化します。今日は今のところ晴れ間です。この夏初めて蝉の声が聞こえています。

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