カテゴリ: 文学

光太郎詩を取り上げて下さる朗読イベント、まず来週開催のものを。

朗読のつどい「高村光太郎『智恵子抄』」

期 日 : 2025年5月30日(金)
会 場 : 志津公民館 千葉県佐倉市上志津1672-7
時 間 : 14:00~15:00
料 金 : 無料
出 演 : 朗読サロンこおろぎの輪

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画像は佐倉市さんの広報誌「こうほう佐倉」から。

「こおろぎの輪」さん、市のボランティアセンターさんに登録されている団体で、公民館等での朗読会等、積極的になさっているようです。
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メンバーがかぶっているのでしょうか、「姉妹団体」として、広報誌の音訳録音などをなさっている「こおろぎの会」さんという団体も存在します。
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頭が下がりますね。

で、今回、「智恵子抄」から朗読をなさって下さるそうで、1時間みっしり光太郎。時間が取れれば行って来ようと思っております。お近くの方、ぜひどうぞ。

ついでというと何ですが、当会がらみの朗読イベントも今後、開催されます。

まず7月6日(日)、光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場となった東京都中野区のアトリエ保存の関係で、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」主催の朗読イベント。会場は中野区産業文化振興センターです。司会を当方が担当します。

詳細が未定でして、また追ってご案内いたしますが、今のところ、女優の一色采子さん、今年の連翹忌の集いで朗読を披露していただいたフリーアナウンサーの早見英里子さんと朗読家の出口佳代さんのコンビには朗読を、フルート奏者の吉川久子さんにはお仲間の方の朗読に乗せて演奏をお願いしてあります。また、詩人で朗読にも取り組まれている方々もそれとは別に。

それからやはり7月、仙台と花巻で。仮のフライヤーを載せておきます。
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昨年もお二人で仙台/花巻公演をやられた、朗読家の荒井真澄さんと箏曲奏者の元井美智子さんのコラボ。計4公演で、花巻のみ会場借り受けの都合で当会主催ということになっています(仙台は「後援」)。花巻高村光太郎記念館さんでも1公演やります。

ここに電子楽器・テルミンの大西ようこさんが加わって、先月、二本松の智恵子生家で「音楽と朗読『智恵子抄』愛はここから生まれた」公演を行いました。

こちらもまた近くなりましたら詳細を出しますので、よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

右の七尺像二体の鋳造を貴下にお願いたしました事を心強く存じ居ります。八月末か九月始めまでに御完成願ひたきことはかねて申上げました通りであります故何卒よろしくお取計ひ願上げます。

昭和28年(1953)6月18日 伊藤忠雄宛書簡より 光太郎71歳

七尺像二体」は、生涯最後の大作にして智恵子の顔を持つ「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」。前年10月に7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋を出、中野の貸しアトリエに入り、11月から制作開始。小型試作、中型試作、原寸大の手の試作と次々完成させ、本体の七尺像は3月5日から作業にかかり、6月1日には終わりました。光太郎にしては驚異的なスピードで、その裏には自らの死がそう遠くないという覚悟があったと思われます。

昭和20年(1945)5月15日、前月の城北空襲で本郷区駒込林町のアトリエ兼住居を焼け出された光太郎は、宮沢賢治の実家や賢治の主治医であった佐藤隆房医師等の勧めで、岩手花巻に疎開のため、上野駅を発ちました(到着は翌日)。この日を記念して、光太郎三回忌に当たる昭和33年(1958)から、光太郎が7年間の蟄居生活を送った郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内で、光太郎を偲ぶ「高村祭」が開催されるようになりました。

当初は光太郎と直接交流のあった人々による回顧談的な講演、地元の山口小学校の児童による光太郎から贈られた楽器を使用しての音楽演奏などが行われていました。徐々に生前の光太郎を知る人が減り、講演は大学教授や渡辺えりさん、当方など、直接的には光太郎を知らない人が担当することが多くなりましたが、それでもとびとびながら、光太郎と面識のあった方々がお話しされることもありました。末盛千枝子氏、藤原冨男氏、旧太田村の皆さんなど。また、楽器は新しいものになってしまいましたし、山口小学校も統合されてしまいましたが、統合先の太田小学校の児童の皆さんをはじめ、中高生、看護専門学校生の生徒さんたちも、音楽演奏や朗読、郷土芸能などで出演されていました。

その高村祭、令和元年(2019)の第62回をもって終了となってしまいました。翌年からはコロナ禍もありましたし、それが沈静化しても、以前の形での開催はもはや難しい、との判断だったようです。

しかし、地元では復活を望む声が強く、実際、当方がパネラーなどを務めた別のイベントで質疑応答の時間にそういう要望が出されたこともあったりしました。

そこで昨年から、「高村祭」とは銘打たないものの、やはり5月15日に「花巻 光太郎を知る会」さんという有志の市民団体の主催で、山荘敷地内の光太郎詩碑前で光太郎詩の朗読を行うというイベントが行われています。今年も開催したそうです。

ちなみに同会代表の阿部彌之氏の父君は、宮沢賢治の教え子にして、花巻に林檎栽培を広め、光太郎とも深く交流のあった故・阿部博氏です。
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「高村祭」時代には花巻市さんの共催だったので、小中校生・看護専門学校生などが大挙して参加、そうすると保護者の皆さんも我が子の晴れ舞台を見ようと集まり、大勢の方々で賑わいました。それが無い分、こぢんまりとした集いですが、「高村祭」の精神を受け継ぐという意味では、有意義なものだと思います。たまたま訪れていた観光客のご夫婦なども見守られていたそうです。

泉下の光太郎も照れくさそうにしつつも喜んでいたのではないでしょうか。ちなみにこの詩碑の地下には、当会顧問であらせられた北川太一先生が保管なさっていた、光太郎が歿した時に剃った髭(ひげ)が、第一回高村祭に合わせて行われた詩碑の建立の際、分骨のように遺髯として埋納されています。

ただ、精神を受け継ぐというだけでなく、やはり「高村祭」の名称の復活が望まれるところですが……。

【折々のことば・光太郎】

早速木炭十俵安着、感謝します、ちかく為替をお送りしますが、とりあへず到着のおしらせまで、

昭和28年(1953)5月12日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎71歳

昨日も書きましたが、駿河は光太郎に山小屋の土地を提供してくれた村の長老でした。
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元々太田村は炭焼きが主産業の一つで、良質な炭が生産されていました。村にいた頃、当たり前のように使っていた炭が、上京して改めていいものだったと再確認し、取り寄せたわけです。

一昨日、神奈川県伊勢原市の雨降山大山寺さんで特別御開帳が為されている、光太郎の父・光雲の手になる秘仏・三面大黒天立像を拝観後、帰途に立ち寄りました。
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調布市制施行70周年・実篤記念館開館40周年・武者小路実篤生誕140年記念春の特別展「実篤の肖像」

期 日 : 2025年4月26日(土)~6月8日(日)
会 場 : 調布市武者小路実篤記念館 東京都調布市若葉町1丁目8-30
時 間 : 9:00~17:00
休 館 : 月曜日
料 金 : 大人200円 小・中学生100円

 武者小路実篤は、今年2025年5月12日に生誕140年を迎えます。東京で生まれ育った実篤は、学生時代を過ごした学習院で多くの友人と出会い、24歳で雑誌『白樺』を創刊して歩み出した文学の道、33歳の時に始めた新しき村の活動、40歳を前に本格的に取り組み始めた書画の制作など、多岐にわたる活動の中で多くの人と交流を重ねました。
 岸田劉生や堅山南風ら日本近代美術を代表する画家が実篤をモデルに絵画を描き、文壇では白樺同人をはじめ、佐藤春夫や久米正雄らが実篤の人柄や文学作品ににじみでる人間性に言及しています。
 本展覧会では同時代の文学者が著した印象や人物像、芸術家が絵画や彫刻で表現した肖像、田沼武能や林忠彦、坂本万七、吉田純ら写真家が撮影したポートレイト、妻や娘から見た父・実篤の姿など、さまざまな「実篤の肖像」をとおして「武者小路実篤」という人物を今一度とらえ直す機会とします。
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絵画も嗜んだ実篤自身の自画像や、交流のあった画家・彫刻家や写真家の手になる実篤像、それから文章で描かれた実篤像(原稿や書籍類、さらに揮毫された書)などの展示です。

それらをただ並べるのではなく、光太郎を含む様々な人物の実篤評を一言ずつ小さなパネルで添えています。それがフライヤーの表に印刷されているこの部分。光太郎の一言も。
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曰く「前額と後頭と眼とはすばらしい」。出典は「人の首」というエッセイで、初出は昭和2年(1927)1月の雑誌『不同調』です。全体としては、彫刻家として「人の首」に異様なまでの興味関心を持たざるを得ない、的な内容で、彫刻家・光太郎の内面がよく表されているため、光太郎の没後に刊行された選集的な書籍の多くに再録されています。

いきなりその書き出しが「私は電車に乗ると異状な興奮を感ずる。人の首がずらりと前に並んでゐるからである」。思わず「獄門晒し首かよ」と突っ込みたくなりますが、それが光太郎の狙いかもしれません。ぐいぐい引きこまれます(笑)。
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少し後の方では「人間の首ほど微妙なものはない。よく見てゐるとまるで深淵にのぞんでゐる様な気がする。其人をまる出しにしてゐるとも思はれるし、又秘密のかたまりの様にも見える。さうして結局其人の極印だなと思はせられる」。確かにサムネイル的な小さい肖像写真でも、その人の人となりがだだ漏れになっているなと感じるものがありますね。

その後は首、というか顔や頭、うなじなどの各パーツがこうで……というやはり彫刻家のミクロ的視点で見た話、さらに人の顔の持つ先天的な美と後天的な美、といった話など。そして終盤近くで、さまざまな味のある顔立ちの人々を列挙。その中で、「武者小路氏の前額と後頭と眼とはすばらしい」。

他に好意的に上げられている人物は、海外だとドストエフスキー、ロマン・ロラン、ポー、ヴェルレーヌ、レーニンら。国内では武者以外に千家元麿、室生犀星、野口米次郎、佐藤春夫、市川團十郎、高橋是清、濱口雄幸など。かなり主観的な見方で、決めつけが激しいと思えるところもありますが。

前額と後頭と眼とはすばらしい」が印字されたプレートは、光太郎とも親しかったバーナード・リーチのエッチングによる実篤像に添えられていました。
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直接光太郎に関わる展示はこちらと、『白樺』10周年の記念で撮られた集合写真くらいでしたが、フライヤーに光太郎の名があり、さらに招待券も頂いてしまっていたので、足を運んだ次第です。その上、参上したところ、図録も頂戴してしまいました。恐縮です。

武者小路氏の前額と後頭と眼とはすばらしい」と書いた光太郎、武者を彫刻のモデルに、とひそかに狙っていました。武者と同じ白樺派の中心にいた志賀直哉も。

 私はかねてから、武者小路さんの顔はブロンズで、志賀さんは木彫で、それぞれ彫塑してみたいと秘かに思つていたものである。しかし、いざモデルとなつていただいても、武者小路さんはじつとはぜず絶えず動いておられるだろうし、志賀さんはあのピリピリした神経が顔の皮膚の外に出ていてお願いするのがなんだか悪い気がし、未だに望みを達することが出来ないでいるのである。
(「志賀さんの顔」 『文芸』第12巻第17号 昭和30年=1955 12月

光太郎は、同じ『文芸』の少し前の号(第12巻第12号 昭和30年=1955 8月)には、「埴輪の美と武者小路氏」という談話筆記もよせ、武者の人間性を賞讃しています。また、『不同調』の第2巻第4号(大正15年4月)にはずばり「武者小路実篤氏」という短評も。

 日本に珍らしい根本的なものを持つてゐる武者小路実篤氏の人と芸術とは、詩に於ける千家元麿氏と同様、全然他の人とは違ふと思ひます。時代が過ぎて見れば殆ど問題にならない程、此は明瞭になると思ひます。
 さう言つても、他の人の「存在の理由」を否定するわけでは決してありません。人には各々天性がありますから。


人としての武者を尊敬していたというのがよく分かりますね。ちなみに光太郎の方が2歳年上なのですが、そんなことは関係なかったのでしょう。

美術を愛した武者の方でも、自らが立ち上げた「大調和展」に光太郎の出品を仰ぎ、『白樺』や『大調和』、『心』などで光太郎の寄稿を取り付けています。そして昭和31年(1956)に光太郎が歿すると、その葬儀委員長の大役も果たしてくれました。
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左で立っているのが当会の祖・草野心平。その右、マイクスタンドで一部隠れていますが、武者が座っています。その右隣は尾崎喜八ですね。

さて、「実篤の肖像」展、6月8日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】a4ba5f65

選集六冊小包でいただきました、先日送つた金も返送され、甚だ恐縮な事です、


昭和28年(1953)4月10日 
岩淵徹太郎宛書簡より 光太郎71歳

岩淵徹太郎は中央公論社の編集者。「選集六冊」は同社より昭和26年(1951)から刊行が続き、この年1月に完結した『高村光太郎選集』全6巻。おそらく6冊セットを誰かに贈るため、光太郎自身が注文したのだと思われます。しかし岩渕の方では「お代は結構です」ということだったのでしょう。

ちなみにこのハガキ、当方手持ちのものです。光太郎書簡は手許に数十通ありますが、中野のアトリエからの発信はこれだけです。

それぞれ少し前のものですが、3件。

まずは『北海道新聞』さんから読者投稿俳句。

 <新・北のうた暦>4月4日007

 光太郎忌山ありて川ひかるなり 上田小八重

 高村光太郎の忌日は4月2日なのだが、この時季のみずみずしさを詠んだ掲句に、作者のみならず読者も浄化されそうだ。作品「樹下の二人」の詩句「あれが阿多(あた)多羅(たら)山、/あの光るのが阿武(あぶ)隈(くま)川。//ここはあなたの生(うま)れたふるさと、」を想起(そうき)させる。春の訪れの遅い北国だが「ひかる川と山」は素朴で新鮮で美しいことばである。 久保田哲子


光太郎忌日は「連翹忌」で、おそらく通常の「歳時記」にも登録されていると思われます。しかし「連翹忌」の呼称がどれだけ一般に浸透しているかというと、太宰治の「桜桃忌」、芥川龍之介の「河童忌」ほどではありませんので、おそらく投句された方、「連翹忌」の呼称は知りつつもあえて「光太郎忌」となさったのではないかと思われます。そういう小細工なしに「連翹忌」で誰しもに通じるようであって欲しいものですが……。

同じく読者投稿句、『読売新聞』さんから。

読売俳壇 矢島渚男選008

 光太郎智恵子の浜や目刺干す 君津市 榎本静江

【評】『智恵子抄』の舞台は九十九里浜。しかし晩年の彼女は精神を病み、看病に疲れ喪心の彼は戦争賛美へと走り晩年の反省が用意される。大学時代の夏休みに彼が過酷な生活を送った山小屋に行った。死後一年ほどの囲炉裏の周りには彼の息遣いが漂っているようだった。


昭和9年(1934)に智恵子が療養生活を送り、週に一度は光太郎が見舞いに訪れていた九十九里浜は太平洋に面した「外房」。句の作者の君津市は東京湾添いのいわゆる「内房」ですが、房総半島を一またぎすれば九十九里です。「目刺」が春の季語で単独で盛り込まれる場合もありますが、この句のように「目刺干す」で使われることも多いようです。実際、智恵子が療養していたあたりを歩くと、家々の軒先で魚の干物を作っている光景によく出会います。

選者の矢島氏、句には詠まれていないその後の光太郎についても言及。ありがたし。

取り上げるべき事項が山積しておりまして、もう1件、同じ新聞つながりで、仙台に本社を置く『河北新報』さんの一面コラムもご紹介してしまいます。

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彫刻家で詩人の高村光太郎は、岩手県花巻市出身の作家宮沢賢治の作品を高く評価し、世に紹介した功績でも知られる。そんな光太郎が賢治を評した言葉がある。「内にコスモスを持つ者は、世界のいずこの辺遠にいても、常に一地方的の存在から脱する」▼「宮沢賢治追悼」に寄せた文章の一節。この言葉を展示するのは、花巻市の花巻南温泉郷近くにある高村光太郎記念館だ。光太郎は戦争末期、宮沢家を頼って花巻に疎開し、人里離れた山荘に7年間暮らした。山荘は保存され、その傍らに記念館は立つ▼賢治は花巻を拠点に多くの詩や童話を創作し、「イーハトーブ」の世界観を築き上げた。光太郎は感銘を受け、南フランスの田舎で絵筆を取りながら、世界の新しい芸術に指針を与えたセザンヌのようだと記している▼反対に、内にコスモスを持たない者は、どんな文化の中心にいても一地方的存在であると論じる。今で言えば、東京に住むか地方に住むかは関係なく、心の持ち方、考え方で、その人の世界は決まるということか▼近代芸術の巨人の言葉は、東北に暮らすとりわけ若い世代へのエールになるだろう。大型連休も後半に入る。予定が決まっていないなら、訪れてみてはいかが。光太郎を癒やした花巻の自然や温泉も待っている。(2025・5・2)

『読売』さんの矢島氏の評にも現れた、光太郎が戦後の7年間を過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)と、隣接する高村光太郎記念館。GW中の記事ですので、この連休に訪ねてみては?的な内容ですが、1年中いつ行ってもいいところです。ぜひ足をお運びください。
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ちなみに光太郎の賢治評「内にコスモス」云々(「でんでん」ではありません(笑))が記念館に展示されている、ということですが、その一節を選んで展示解説パネルを作ったのは当方です(笑)。

【折々のことば・光太郎】

思ひがけなく小生の誕生日のためにとて勢のいいロブスター三尾お届け下され感謝しました、大変愉快でした、


昭和28年(1953)3月13日 北川太一宛書簡より 光太郎71歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、前年秋に花巻郊外旧太田村から再上京した光太郎の元を、体当たり的に突撃訪問して知遇を得た当会顧問であらせられた故・北川太一先生。この日の光太郎誕生日にプレゼントを進呈。しかし、なぜにロブスターだったのでしょうか(笑)? ご存命のうちに訊いておけばよかったと後悔しております。

文芸評論家の桶谷秀昭氏ご逝去が報じられました。

共同通信さん配信記事。

桶谷秀昭氏が死去 文芸評論家000

 桶谷 秀昭氏(おけたに・ひであき=文芸評論家)3月27日、心不全のため死去、93歳。葬儀は近親者で行った。喪主は長男、省吾さん。
 専門は近代日本文学・思想。1992年に「昭和精神史」で毎日出版文化賞。99年紫綬褒章、2005年瑞宝中綬章。著書に「保田与重郎」「伊藤整」など。

氏は昭和47年(1972)、青土社さん発行の雑誌『ユリイカ』第4巻第8号の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」に「「自然」理念の変遷について――高村光太郎ノート」という論考をご発表。当方、卒論執筆の際には大いに参考にさせていただきました。
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同じ文章は昭和54年(1979)、河出書房新社さんから出された『文芸読本 高村光太郎』にも転載されています。
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非常に力の入った論考で『ユリイカ』、『文芸読本 高村光太郎』ともに10ページにわたっています。光太郎に対する確かなリスペクトに立脚してさまざまな作品にあたり、しかし批判すべき点には容赦なく大なたを振るう、教科書通りの文芸評論です。

一部抜粋します。

 高村光太郎は自分の本職は彫刻家で、詩を書くのは、彫刻から文学性という不純物を排除するための作業だといった。だが、高村光太郎は彼が書く詩からさえ、不純な――と呼ぼうと呼ぶまいと――文学性を排除したようにみえる。


 のちに高村光太郎は、智恵子が自分をあてどないデカダンスの泥沼から救ったというふうな回想を、詩や散文に書いているが、彼を浄化したのは、智恵子ではない、彼が徹底的な献身の理想としてみずから抱いた「自然」による自己浄化にほかならない。彼の「自然」への献身の捲き添えをくった智恵子こそ、いい面の皮だったかもしれぬが、実状はそうではなくて、この女のもっている或る異常性こそが、そういう捲き添えをくらうに打ってつけであった、そういう意味では光太郎は選択をあやまらなかったので、智恵子が自分を浄化したと信じていい根拠はたしかにあったのだといわねばならない。

 荷風が戦争に一貫して非協力であったのは、社会との倫理的な関係を結ぶ意志を徹底的に放棄していたからである。戦争であれ平常時であれ、社会の外側に孤立してひややかに眺めていたからである。荷風は世に働きかけなかったかわりに、世から動かされることもなかった。
 光太郎の純粋な倫理は荷風の対極にあるようにみえる。しかしよくみると、その倫理性は、世にもぐりこむのではなく、倫理的意志は不動のまま世を超越した。戦争が破局的様相を呈するにつれ、彼の超越的な倫理が、戦争の異常と一体化を強めていったのはそのためである。彼が戦争に近づいたのではなく、戦争が彼の方へやってきたのである。


全てに諸手を挙げて賛同できるわけではありませんが、なかなかに鋭い考察でした。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】006

「みちのくの手紙」は中央公論社からもらひました、文句なし。

昭和28年(1953)2月17日
宮崎稔宛書簡より 光太郎71歳

『みちのくの手紙』は姻戚であった宮崎の編集になる光太郎書簡集。昭和20年(1940)から同24年(1949)に至る、花巻郊外旧太田村から発信された、宮崎、宮崎の父・仁十郎、宮崎の妻・春子(智恵子の姪)にあてた光太郎書簡をまとめたものです。

「文句なし」といいつつ、光太郎はこの書籍の出版に同意はしていませんでした。歌集『白斧』(昭和22年=1947)にしてもそうですが、宮崎は強引に光太郎の書籍を刊行することがあり、光太郎の悩みの種の一つでした。

『毎日新聞』さんの石川版に、光太郎と交流のあった詩人/作家・室生犀星令孫にして犀星記念館名誉館長・室生洲々子氏の連載「犀川のほとりで」が連載されています。

若干前の掲載ですが、4月20日(日)分に光太郎の名。刺身のツマのような扱いですが(笑)。

犀川のほとりで 遺伝子=室生洲々子

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 こどもが生れた/わたしによく似ている/どこかが似ている/こえまで似ている/おこると歯がゆそうに顔を振る/そこがよく似ている/あまり似ているので/長く見詰めていられない/ときどき見に行って/また机のところへかえってくる私は/なにか心で/たえず驚きをしている
『星より来れる者』より

 初出は未詳だが、昭和11年に発行された書籍に収録されているので、長男豹太郎が生まれた時の作品だろう。やっと憧れた家庭を持ち、初めての子供が生まれた時の喜びと驚きを率直に書いている。豹太郎さんは私の伯父であるが、1歳で夭折(ようせつ)している。この深い悲しみを祖父母はどのように癒(いや)したかはわからない。豹太郎さんのことは、母もあまり話さなかった。
 中学3年生の時、教科書に祖父の詩「寂しき春」が収められていた。続いて、高村光太郎の「道程」。「僕の前に道はない/僕の後ろに道はできる」と始まるその詩を読んだ時、なんと印象的な一節だろうと魅了された。そして、先生は私に祖父の詩の代表作である「ふるさとは…」で始まる小景異情その二を暗誦(あんしょう)させた。私はあがってしまい最後まで暗誦できず、とても恥ずかしい思いをした。教科書には、晩年の祖父の顔写真が掲載されていて、友達から「似ている」と冷やかされ、当時の私は乙女心が傷ついた。
 馬込の家の縁側で祖父が寛(くつろ)いでいる写真がある。着物の裾が捲(まく)れ、膝から下が写っている。見覚えのある脛(すね)だと思ったら、自分の脛とそっくりだった。祖父の記憶がない私にも、祖父の遺伝子は流れているのだと、実感した瞬間だった。 最近は、小指の先ほどでも、祖父の文才が遺伝していればと思う事が多いが、残念なことに文才は露ほどもなく、神経質で心配性なところだけは受け継いだようだ。
 先日、天気のよい昼下がり、雑貨屋さんを覗(のぞ)くと、幾何学模様の織物を見つけた。アフリカ民族の織った「クバ布」だという。気に入って購入した。和室の壁に掛けてみた。その横に、昔、飼っていた猫がピアノの鍵盤に乗っているモノクロの写真を掛けた。このクバ布、民芸っぽい雰囲気を醸し出すのか、和室にもモノクロ写真とも相性がよく、とても満足した。 我が家には、古い布や端切れが沢山(たくさん)あった。子どものころは、ぼろ布としか思っていなかったが、それは祖父が集めたものだった。そして、その布を骨董(こっとう)品の下や机に敷いていたようだ。今風に言うならば、インテリアコーディネートだろうか。 我が家の部屋はすべて祖父好みに整えられていた。
 私の布好き。これも祖父からの遺伝かもしれない。奇妙なところも似るものだ。

犀星と光太郎というと、犀星が光太郎没後の昭和33年(1958)、『婦人公論』に連載した「我が愛する詩人の伝記」中の「高村光太郎」の項が有名です。若い頃、駒込林町の光太郎アトリエ兼住居を訪れ、智恵子に追い返された話や、次々に詩が雑誌に掲載される光太郎への嫉妬など、かなりアイロニカルな内容です。

しかし、以前にも書きましたが、同じく犀星が改造社から昭和4年(1929)に刊行した随想集『天馬の脚』では「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ。世上に騒がれてゐるやうな人物が何だ。吃吃としてアトリエの中にこもり、青年の峠を通り抜けてゐる彼は全く羨ましいくらゐの出来であつた。」と、光太郎を賞讃していました。両書の間の約30年で、光太郎に対する見方が変わったように思われます。

『天馬の脚』の方は、盟友・萩原朔太郎と共に光太郎アトリエ兼住居を訪れた際の体験が元になっています。朔太郎がこの時のことを書いたものがないかと探していたのですが、見つけました。昭和3年(1928)4月の雑誌『新潮』第25年第4号に載った「歳末に近き或る冬の日の日記」というエッセイです。

まず、前年とおぼしき時、福士幸次郎と共に光太郎アトリエ兼住居を訪れた話。そしてその約3年前、犀星と二人で複数回訪問したことも回想されています。

 僕が前に高村氏を訪うたのは、三年以前、田端に居た時であつたが、何時来ても氏のアトリエは同じであり、思ひ出が非常に深い。僕がまだ無名作家で、室生と二人で東京にごろごろしてゐた頃、図々しくもよくこのアトリエを訪ねたものだ。その頃先輩の高村氏は、僕等に親切にしてくれたので、一層思ひ出が深いのである。

ちなみに犀星は光太郎の6歳下、朔太郎は同じく3歳下(智恵子と同年)です。

犀星と光太郎が一緒に写っている写真も見つけました。
現代詩鑑賞講座 第12巻
キャプションの通り、大正7年(1918)の撮影。光太郎の向かって右下に犀星が居ます。上記の福士幸次郎も。朔太郎がここにいないのが残念ですが。

さて、令孫・洲々子氏のエッセイ。「自分は斯様な人を尊敬せずに居られない性分だ」としたお祖父様同様、光太郎の「道程」(大正3年=1914)書き出しを「なんと印象的な一節だろうと魅了された」として下さいました。ありがたいことです。そして「小指の先ほどでも、祖父の文才が遺伝していればと思う事が多いが、残念なことに文才は露ほどもなく、神経質で心配性なところだけは受け継いだようだ。」とされていますが、なかなかどうして味のある文章ですね。

今後ますますのご健筆を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

今年花巻の方は雪も寒さも殊の外はげしいやうで、山口の小屋もさぞ雪に埋もれてゐる事でせう、東京はひどくあたたかく、まるで冬が無いやうで仕事にはらくですが薄気味わるい次第です、


昭和28年(1953)2月13日 照井秀子宛書簡より 光太郎71歳

マイナス20℃にもなる花巻郊外旧太田村の冬と比べれば、東京の冬など何ほどのこともなかったのでしょうが……。

横浜の神奈川近代文学館さんで先月から開催されている特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」の公式図録です。

大岡信 言葉を生きる、言葉を生かす

発行日 : 2025年3月20日
著者等 : 県立神奈川近代文学館/公益財団法人神奈川文学振興会編
版 元 : 港の人
定 価 : 2,420円(税込)

特別展「大岡信 言葉を生きる、言葉を生かす」県立神奈川近代文学館[2025年3月20日―5月18日]公式図録。「折々のうた」をはじめ、詩歌の魅力を伝えた大岡信。おおらかな感性の詩人・大岡信の生涯をおいながら、詩人が紡いだ豊かな言葉の世界に迫る。大岡家ほかから文学館に寄贈された、大岡が遺した書、詩稿ノート、創作メモなど貴重な資料を多数収録。

装丁 須山悠里
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目次
 巻頭詩 神話は今日の中にしかない 大岡 信
 寄稿 日本詩歌の豊穣――『折々のうた』の射程 三浦雅士
 序章 舞い、あらわす
 第一章 生まれ、生きる
  軍国の田におんまれなすつた
  「鬼の詞」(ことば)/わがうた ここにはじまる――
 第二章 出で、立つ
  感受性の祝祭――批評家から詩人へ
  クローズアップ 詩友・谷川俊太郎
  大岡かね子=深瀬サキとともに
  クローズアップ 「春のために」
 第三章 和し、合す
  戯曲、シナリオ
  連句の可能性
  「櫂」連詩、国際連詩へ
  故郷・静岡での継続的連詩の試み
  SPOT 大岡信ってどんなひと
 第四章 うつし、つなぐ
  古典探究
  アンソロジー「折々のうた」
  詩歌の面白さ
 終章 伝え、結ぶ
 詩篇・評論
  初秋午前五時白い器の前にたたずみ谷川俊太郎を思つてうたふ述懐の唄  大岡 信
  微醺をおびて  谷川俊太郎
  大岡信 架橋する精神  宇佐美圭司
 寄稿 大岡信の背中、そしてこれから
  『あなたに語る日本文学史』を読む  五味文彦
  連詩の楽しみ、苦しみ  高橋順子
  大岡信の外国での活動――六〇、七〇年代、そして私の回想  越智淳子
  大岡信と「しずおか連詩」  野村喜和夫
  共鳴が始まる  蜂飼耳
  「折々のうた」に思うこと  永田 紅
  断片と波動 大岡信の歌仙  長谷川 櫂
 大岡信略年譜
 主な出品資料
 執筆者一覧
 出品・協力者一覧

最近流行りの公式図録でありながら一般書店等にも流通させているタイプです。

『毎日新聞』さんに書評が出ました。

渡邊十絲子・評 『大岡信 言葉を生きる、言葉を生かす』=県立神奈川近代文学館、公益財団法人神奈川文学振興会編(港の人・2420円) 鋭敏な感覚と熟成した「出会い」

 もっとも多くの日本人に知られた大岡信の仕事は、朝日新聞連載のコラム「折々のうた」であろう。毎日、詩歌ひとつを紹介するというのは、口で言うほどかんたんなことではない。
 まず、膨大な詩歌作品をあらかじめ知っている必要がある。新しい出会いはもちろんあるにしても、詩歌との出会いは瞬間になされるものではなく、時間をかけて熟成されてはじめて「出会った」といえる状態になることが多いからだ。また、引用は二行、解説は一八〇字という制約のなかで詩歌の魅力を伝えるのは至難のわざである。しかし大岡は、途中休載期間をはさみながら、足かけ二九年にわたりこの難業をなしとげた。
 この本は、県立神奈川近代文学館の特別展「大岡信展」(五月一八日まで)の公式図録として編まれたものだ(独立した書籍として一般書店で入手できる)。巻頭に置かれた三浦雅士氏の寄稿「日本詩歌の豊穣(ほうじょう)――『折々のうた』の射程」を読んで大岡の仕事を改めて振り返り、その大きさを実感した。大岡の詩も『折々のうた』も批評も書もひとつの地平のうちに描き出したこの寄稿に心を揺さぶられたので、今回ぜひともこの本を紹介したいと思った。
  のちに岩波新書としてまとめられた『折々のうた』巻頭第一首は、志貴皇子(しきのみこ)「石(いわ)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも」。出発にふさわしい清新な歌だ。しかしじつは、新聞連載の第一回は高村光太郎の「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」という歌だった。厳しい冬のさなか、当時は「男子一生の大事業」に近かった洋行に際し、船中で作られた歌だという。それがコラム連載初回の一月二五日という季節とも、詩歌の大海原に漕(こ)ぎ出す大岡の武者震いとも、ぴたりと合っていた。しかしあえて「さ蕨の萌え出づる春」にとりかえたのは、詞華集は春夏秋冬の順序で進むものという約束事が尊重されたのと、<少なくとも日本語においては、季節がなかば身体の事柄としてあること>(三浦氏)のためである。それが誰であれ、出発する身体は春を生きているのだ。日本人の身体に深くしみこんだ「季節を生きる、季節として生きる」作法を、大岡は個人の事情に優先させたのである。 
 身体感覚の共有と同期。その鋭い感覚が、たとえば「ぬばたまの」という意味のわからない枕詞(まくらことば)をとらえにかかり、『ぬばたまの夜、天の掃除機せまつてくる』(大岡の詩集タイトル)に結実させる。説明的な言語のレベルでは意味がわからないと言うしかなくても、身体感覚が「ぬ」という暗く不穏な音と「夜」の体感とをとりもつことによって、大岡はこの単語を自分の手から読者へと手渡せる。わからない言葉を、わからないままに使えるのである。巻頭寄稿は、このあたりの機微を明らかにした評論である。 わたしは詩を、言語では説明できないものに言語をもって接近する試みだと思っている。とりわけ日本の現代詩はその方向に先鋭化してきた。そのなかで大岡が武器とした鋭敏な身体感覚は、非言語と無名性に支えられたものである。自分という閉じた存在をひらいて、大いなる存在に溶け込んでいく勇気。それは自分を信じる心と表裏一体のものなのだと思う。

「第四章 うつし、つなぐ」中の「アンソロジー「折々のうた」」の部分に着目されています。昭和54年(1979)1月に『朝日新聞』さんで始まった連載は、書評にある通り、光太郎短歌「海にして……」が記念すべき第一回でした。

展示でも図録でもその第一回については大きく取り上げられています。大岡氏の生原稿、当該短歌を光太郎が揮毫した色紙など。
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当方、展示は3月26日(水)に拝見に伺いました。その際、既に受付等で販売されていたのかどうか、気づきませんでした。図録と言ってもよくあるA4サイズ等の大判ではなく、先述の通り一般書店等にも流通させているタイプでA5判です。うっかり見逃していたかも知れません。『毎日新聞』さんに書評が出て、「えっ? 出てたのか」と、慌てて取り寄せた次第です。

展示は5月18日(日)まで。ぜひ足をお運びの上、図録もお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生もまづ健康よろしく、仕事の方も順調に運びまして、もう小型の石膏型を二本作りました。次に中型のを作るところ。暮も正月もない次第です。


昭和27年(1952)12月19日 宮沢清六宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の試作制作にかかり切りで、この年は暮れて行きました。以前から常々「70になったら本当の仕事をする」とうそぶいていた通りになった感じです。

光太郎第二の故郷、岩手花巻から特別展示の情報です。

高村光太郎記念館特別展「中原綾子への手紙」

期 日 : 2025年4月26日(土)~2026年2月28日(土)
会 場 : 花巻高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 12月28日(日)~2026年1月3日(土)
料 金 : 一般 350円 高校生・学生250円 小中学生150円
      高村山荘は別途料金

 中原綾子は与謝野晶子門下の歌人で、文芸誌『明星』に作品を発表しており、同誌に作品を寄せていた光太郎と交流がありました。交流は光太郎が花巻へ疎開してからも続き、昭和26年9月に山荘を訪れて光太郎を見舞うなど生涯にわたって交流を持つ間柄であったと考えられます。この展示では、智恵子抄など作品に通じる光太郎の心境を、中原に宛てた手紙からたどります。
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高村光太郎は、昭和20年5月に花巻の宮沢家に疎開。このハガキは同年6月に疎開先の宮沢家から綾子宛に発出したもの。
※旧姓は曾我綾子、結婚によって中原姓や小野姓を名乗る時期があります。

中原綾子は明治31年(1898)の生まれ。光太郎より15歳下です。与謝野晶子の高弟の一人で、大正10年(1921)に復刊された第二期『明星』誌上に光太郎共々作品を発表し、その頃から光太郎の知遇を得ていたようです。前年の大正9年(1920)、与謝野家での歌会に招かれた作家の江口渙が残した回想に、光太郎、中原、生田長江、そして芥川龍之介も参加していたことが記されています。

昨年、中原遺族より、光太郎が中原に宛てた書簡など60点余りが花巻市に寄贈されました。中には『高村光太郎全集』に洩れていたものも含まれます。書かれた期間も長期にわたり、昭和4年(1929)から同26年(1951)までと、20年以上に及びます。そこで、今回の展示では来年2月までを4期に分け、入れ替えながら展示するとのことです。

書簡類の大部分は中原が主宰していた雑誌『いづかし』『スバル』などへの寄稿をめぐる事務的な内容ですが、それ以外に「智恵子抄など作品に通じる光太郎の心境」。心を病んだ智恵子の病状を細かく伝える長い書簡が多数含まれており、今のところ他の人物にはこうした内容の書簡を送ったことが確認出来て居らず、その意味でも貴重です。以前にも書きましたが、中原は光太郎没後すぐ、『婦人公論』に「狂える智恵子とともに」の題で智恵子がらみの書簡を発表しました。これを読んだ人々は皆瞠目しました。

書簡以外に、『スバル』などに載った作品の草稿類も。内容的には新出のものではありませんが、ペン字の書としての魅力にも溢れています。また、多くは高村光太郎記念館のある旧太田村の山小屋で書かれたもの。これらが言わば「里帰り」したという意味での価値も大きいと思います。

いずれ展示資料全て翻刻もし、図録的な書籍にすると言う計画もあるようです。また、当方手持ちの中原がらみの史料類も併せて展示していただくつもりでおります。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨夜はまるで夢中で数時間を楽しく過ごしました、久しぶりでしたが以前と何の変りもなくお話をきき杯をあげたのは愉快でした、山にゐてはやはり出来ない事でした、

昭和27年(1952)11月7日 宮崎丈二宛書簡より光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、前月に再上京した後、戦前からの友人知己が中野のアトリエにやってきたり、一緒に呑みに出たりということも重なりました。

11月6日には旧知の詩人・宮崎丈二と西倉保太郎、さらにその時が初対面だったようですが、二人の友人の木材商・浅野直也を交え、四人で新橋に繰り出しました。

花巻郊外旧太田村に居た頃は、当会の祖・草野心平や中原綾子なども訪ねてきましたが、そうした機会も限られていましたし、ましてや夜の町を呑み歩くということはほとんど出来ませんでした。盛岡に出た際に行きつけにしていたバーがあったり、心平のリクエストで花巻からタクシーを飛ばしてその店まで行ったり、ということもありましたが……。

新宿中村屋さんの創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻、光太郎の親友・荻原守衛らを中心に、信州安曇野ゆかりの人々の群像が明治30年代から戦後までを舞台に描かれ、光太郎も登場する臼井吉見の長編小説『安曇野全五巻。永らく絶版となっていたのが、地元の大河ドラマ誘致運動などの関係もあり、先月、復刊されました。

その関係で、『産経新聞』さん。光太郎には触れられていませんが。

3千ページ2千人超登場 “大河”すぎて最後まで読めない小説「安曇野」復刊 その攻略法

 3月、文芸評論家で小説家の臼井吉見(1905−87年)の小説「安曇野(あづみの)」(ちくま文庫)が復刊した。安曇野の名を全国に広めるきっかけになった作品といわれ、臼井の代表作だ。一方で、知る人ぞ知る〝最後まで読めない〟小説でもある。どうすれば読破できるのか。長野県安曇野市にある臼井吉見文学館の平沢重人(しげと)館長(67)に攻略法を聞いた。
 小説「安曇野」は、安曇野出身で東京・新宿「中村屋」を創業した相馬愛蔵と妻の良(黒光)を軸に、明治30年代から昭和に至るまでの激動の日本を庶民目線で描いた長編大河小説。全5部作で、原稿用紙約5600枚、約10年をかけ昭和49年に完結した。
 長らく絶版になっていたが、完結50周年の昨年、安曇野市がふるさと納税を活用したクラウドファンディングで復刊費用の一部を募り、筑摩書房に働きかけ、平成の大合併で安曇野市が誕生して20年になる今年、復刊を果たした。
押し寄せる人と情報
 5巻で約3000ページになる文庫の第一部を手に取って読み始めてみる。
 《水車小屋のわきの榛(はんのき)林を終日さわがしていた風のほかに、もの音といえば、鶫撃(つぐみう)ちの猟銃が朝から一度だけ。にわかに暗くなってきた軒さきに、白いものがちらつき出した》
 明治31年12月の安曇野の風景から穏やかに始まる。しかし、読み進めるうちに、つまずくようになる。まず、個人名が次々出てくる。覚えておくべき人物か考える間もなく増えていく。背景説明や回想も多い。人物のセリフも多く、長い。読者の自分は、いつの時代の、どの場所で、誰の話を聞いているのか…。押し寄せる人と情報の“大河”に飲まれ、本を置いた。
 平沢館長に読み始めの感想を伝えると「1巻でやめたという方が大勢います。挫折するんです」と慰めてくれた。
 なぜ読みづらいのか。まずは、総勢2000人を超える登場人物の多さ。しかも実在する人ばかりで、著名人も多く、気をとられてしまう。そして対話の場面が多いこと。当の人物とは直接関係が無さそうな対話が難易度を上げる。
「不服は申さない」
 どう読んだらいいのか。「飛ばして読みます。それどころか、最初から読む必要はまったくありません」と平沢館長。第四部のあとがき「作者敬白」で、臼井がこう書いている。
 《第一部冒頭から読んでもらおうなどと虫のいいことは考えていない。それどころか、たまたま、頁(ページ)の開かれたところから読み出してもらってかまわない。第三部、第二部と逆に頁をくってもらっても不服は申さないつもり》
 平沢館長自身、初めて読んだときは、戦後の第五部、次に戦前の第四部、大正の第三部、明治の第一、第二部の順で読破したという。
 小説の主要人物は相馬夫妻と、安曇野で私塾を開いた井口喜源治、相馬夫妻の支援を受け近代彫刻の先駆者となった荻原守衛(碌山)、社会運動家の木下尚江の5人。気に入った人物にだけに着目して読んでみるのもいいという。実在の人物同士の対話であっても、史実としてはあり得ない場面もあり、小説として楽しむ余裕も必要だ。
令和の時代に
 復刊を機に、市の『広報あづみの』で、あらすじ、見どころを紹介する連載を3月号から始めた。各巻3回、計15回にわたって連載予定で、読む手助けにしてもらう考えだ。
 平沢館長は令和の時代に「安曇野」を読む意義を次のように語る。
 「臼井の好きな言葉に『邂逅(かいこう)』(出会い)があります。臼井は出会いと対話をとても大事にしていました。気の合う人だけでなく、苦手な人との対話も。対話を通じてお互いの立場を尊重しあいながら、団結し強くなっていくという考え。自分の考えに近い人たちだけになりがちな令和のSNSの時代だからこそ、大事なことだと思います」
 今回の復刊は5巻セットを1100セット。うち400セットは学校や図書館に寄贈し、販売分700セットのうち、筑摩書房販売分200セットは約1週間で完売、安曇野市販売分500セットも残り約100セットという。販売はセットのみで価格は7040円。問い合わせは安曇野市文書館(0263・71・5123)。広報あづみのは、市のホームページに掲載しており、いつでも読むことができる。(石毛紀行)
 ◇
臼井吉見(うすい・よしみ、1905−1987年) 現在の安曇野市出身。編集者、評論家、小説家。東京帝大を卒業後、旧制中学などの教員を経て、古田晃らと筑摩書房を創立。戦後、雑誌「展望」を創刊し編集長を務め、文芸評論家としても活躍。小説「安曇野」で谷崎潤一郎賞(1974年)を受賞。
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【小説「安曇野」の主要人物】
相馬愛蔵(そうま・あいぞう、1870〜1954年) 安曇野出身の社会事業家、実業家。養蚕家を経て、東京でパン屋「中村屋」を創業。文化・芸術活動も支援。
相馬良(黒光)(そうま・りょう こっこう、1876〜1955年) 仙台出身。愛蔵の妻。夫ともに「中村屋」を創業。芸術家や文化人が集う「中村屋サロン」の中心的人物。
井口喜源治(いぐち・きげんじ、1870〜1938年) 安曇野出身。愛蔵らの協力で私塾「研成義塾」を地元で創設、国内外で活躍する人材を育てた。
荻原守衛(碌山)(おぎわら・もりえ ろくざん、1879〜1910年) 安曇野出身。欧米で美術を学び、ロダンの「考える人」を見て彫刻家に。近代彫刻の先駆者。黒光に憧れる。
木下尚江(きのした・なおえ、1869〜1937年) 松本藩の下級武士の家の出身。社会運動家、作家、新聞記者。日露戦争前には非戦を訴えた。
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臼井吉見と小説「安曇野」について語る平沢重人館長=4月1日、長野県安曇野市の臼井吉見文学館

3,000ページ程度でしたらちょろいもんだと思うのですが(笑)。

ちなみに安曇野市さんのホームページには特設サイトも設けられており、そちらには人物相関図も。2,000人のほんの一部ですが。こちらには光太郎の名も。
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来週には第115回碌山忌、さらに「特別展示 智恵子紙絵」拝観のため、同市の碌山美術館さんに行って参ります。地元でどんな感じで盛り上がっているか、見て来たいと存じます。

みなさまもぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

それでは御指示通り、八日午前九時五〇分上野発の汽車で友部駅に下車いたし、ご案内をまつことにいたします、当日豪雨等のことあつても出かけます、

昭和27年(1952)10月30日 藤岡孟彦宛書簡より 光太郎70歳

孟彦は光太郎実弟。光雲四男でしたが藤岡家に養子に出ました。植物学を修め、戦前から兵庫県農業試験場に勤務、この時期には茨城県の鯉淵学園(現在の鯉淵学園農業栄養専門学校さん)に勤務していました。

その孟彦から鯉淵学園で講演をしてくれと頼まれ、11月8日に中野の中西アトリエから茨城へ。

孟彦の回想から。

 文化祭当日(11月8日)は幸い上天気であり、時刻通り宮崎稔氏付添で来園し、小出学園長、鞍田先生、石橋先生が、学園長室で迎えられた。老体のこと、どうかと聊か心配したが案外元気であって、一時間半程の話を無事終ったので安心した。大変な人気であった。(略)此日兄は古ぼけた国民服、登山帽にゴム長靴といういでたち、山小屋生活そのまゝの姿であつた。講演がすんで講堂を出て行く際、手を振りながらサヨナラと挨拶した面影は眼にしみついて離れない。その後も泊まりがけで再び来園して貰いたく、兄も学園のミリューが万更でも無く、その考はあった様だが彫刻の仕事が予定より永引いて、28年一杯かかり、29年には療養生活に入ったため、遂に実現を見ずに終ったのは返す返すも残念でならない。後に聞けば兄の講演を知らなかった、報道陣の人もあったそうであるが大げさな外面的の事の大嫌いな兄としては非公開の講演、単純素朴な学生との接触こそ、却って満足してくれたと思う。

「ミリュー」は仏語で「milieu」、「環境」の意です。

再上京後に都内から出たのは、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」除幕式の際と、その後の10日間ほどの花卷郊外旧太田村への一時帰村、そしてこの鯉淵学園での講演と、3回だけでした。

都内から製本関連のワークショップ情報です。

永岡綾『製本家とつくる紙文具』ワークショップ 第8期④本の改装シリーズ「ドイツ装」 at TEGAMISHA BOOKSTORE

期 日 : 2025年4月20日(日)
会 場 : TEGAMISHA BOOKSTORE 東京都調布市下石原2-6-14 ラ・メゾン2階
時 間 : 10:00~13:00
料 金 : 5,300円(税込)

2017年12月に調布(柴崎)の書店でスタートし、その後オンライン、吉祥寺、文箱(松本店)と場所を変えながら、現在は京王線・西調布駅から徒歩5分にある「TEGAMISHA BREWERY」の2F「TEGAMISHA BOOKSTORE」にて毎月開催している「製本家とつくる紙文具」。ノートやファイルづくり、書籍の改装など、現在までに合計約60回、のべ600名以上の方に参加いただいている人気のワークショップです。

製本技術を使った紙文具作りを教えてくれるのは、2017年に『週末でつくる紙文具』(グラフィック社)を、また2025年1月8日には同書に16ページ・5アイデアを追加した増補版『製本家とつくる紙文具』(グラフィック社)を出版された永岡綾さん。本業は編集者でありながらも、イギリスで製本技術を学ばれ製本家としても活動されています。

2025年1月からスタートした第8期では、『製本家とつくる紙文具』の中に新たに収録された新章「ペーパーバック(文庫本)の改装」より、5つの本の改装を1作品ずつ順に教えていただきます。

4月につくるのは「ドイツ装」 。「 ドイツ装」とは、表紙の「背」と「平(ヒラ)*表表紙と裏表紙の部分」に別の素材を使った「継ぎ表紙」のこと。今回のワークショップでは、背にはお好きな色のブッククロスを、平には手紙社のオリジナルペーパーからお好きな柄を選び、自分だけの組み合わせをお楽しみいただけます。

表紙に使う手紙社のオリジナルペーパーは、なんと350種!! ブッククロスのほか花布、栞ひも、見返しは複数色の中からお選びいただけますので、組み合わせを楽しみながら、あなた好みの一冊を完成させてください。コントラストをきかせた色選びをして、キリっと端正な佇まいにするのもおすすめです。

仕上がりは、しっかりとしたハードカバーにより、上製本の安定感がありつつも、どこか軽やか。表紙にはお好きな文字で箔押しを。本のタイトルを入れるもよし、所有者のお名前を入れるもよし、模様を加えるもよし。自分だけの愛おしい一冊となりそうです。
*箔押しに関しては、もしも時間内に終えられなかった場合は、材料をお渡ししご自宅にて行なっていただきます。その場合も手順をお伝えしますのでご安心ください。

また今回は参加費に文庫本代が含まれますので、受付時に以下よりお好きなものをお選びください(在庫がある分に関しては、当日の変更も可能です)。
*4/14以降にお申し込みの場合は、発注時期の関係上、ご希望に添えない場合がございますので予めご了承ください。
<文庫本ラインナップ>
 『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治) 『注文の多い料理店』(宮沢賢治)
 『檸檬』(梶井基次郎)    『グッド・バイ』(太宰治)
 『走れメロス』(太宰治)   『桜桃』(太宰治 )
 『蜘蛛の糸』(芥川龍之介)  『地獄変』(芥川 龍之介 )
 『風たちぬ』(堀辰雄)    『みだれ髪』(与謝野晶子)
 『悲しき玩具』(石川啄木)  『智恵子抄』(高村光太郎)
 『家霊』(岡本かの子)    『堕落論』(坂口安吾)
 『一房の葡萄』(有島武郎)  『李陵・山月記』(中島敦)
 *全てハルキ文庫/280円文庫からのご用意となります。

手紙社のオリジナルペーパーを使って、製本技術を学びながら紙文具作りを行う「製本家とつくる紙文具」ワークショップは、各回新たな製本の技を習得しながら、わかりやすく教えていただけるので、1回のみの参加も大歓迎です。

本の改装ができるようになると、本棚の蔵書をおそろいに仕立て直したり、自作の本を特装版に仕立てたり、大切な人へのギフト本を特別に装丁したりと、楽しみは膨らむばかり……! ぜひお気軽にご参加ください。
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きれいな紙を使って文庫本を手作業で改装、自分だけのオリジナル書籍を作るというわけですね。なかなかシャレオツです。

主催者側で素材となる文庫本ラインナップを提示していますが、光太郎の『智恵子抄』も選択肢に入れて下さいました。ありがたし。しかも公式サイトのサムネイル(というには大きいのですが)的画像が『智恵子抄』。
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ギフトにもいいかもしれません。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おかげさまで無事東京につきましたが、その日からジヤアナリズムに包囲されて、まるで暇なく過ごしてゐました、やうやくアトリエに落ちつきましたが、山口の生活をなつかしく思ひ出してゐます、 東京は予想通り乱雑で閉口です、

昭和27年(1952)10月29日 浅沼政規宛書簡より 光太郎70歳

浅沼政規は光太郎が7年間過ごした花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校校長です。昨年亡くなった浅沼隆氏の父君でした。

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京したのが10月12日。その日は駒込林町の実家に一泊し、翌日、結局終焉の地となる中野の中西利雄アトリエに入りました。

中野に向かう前、実家にほど近い、かつて智恵子と過ごし、昭和20年(1945)の空襲で灰燼に帰したアトリエ兼住居の後を訪れています。

昨日も引用させていただいた、光太郎令甥の髙村規氏が、平成25年(2013)の碌山忌記念講演会「伯父 高村光太郎の思い出」で語った回想から。

それで、光太郎を連れてここへ行ったんですね。そしたらやっぱり板囲いなんですよ。でも木の節目やなんか外れたところがぽつぽつ穴があいているもんですから、光太郎は自分が二十四年間も智恵子さんと一緒にいた場所だし、二人で一所懸命新しい芸術のために努力した場所ですからやっぱり懐かしさも一入なんでしょうね。隙間から中を丹念に一ヶ所一ヶ所見て歩いているんですよ。こっちは学校へも遅れそうになっちゃうけどそんなことはまあいいやと思って。鼻が潰れそうになるくらいむきになって中を覗いているんですね。ああ気の毒になと思って。まだその頃は国民服に長靴っていう服装だったんですよね。それに帽子かぶって。当時は昭和二十七年で、僕の顔見知りはいませんでした。近くにいた近所のおかみさんだったかな、だんだん不思議そうな顔し出したんです。「誰かが土地を覗いている」っていうふうに思ったんでしょうね。おかみさんが光太郎に何か言ったら光太郎が気の毒だなと思って。そこへ飛んで行ってその奥さん連中に「あの人はね、高村光太郎っていって僕の伯父さんで、昔ここにあったアトリエに住んでて、『智恵子抄』で有名な智恵子さんと一緒にここにいた人で、今東京へ帰ってきてね、懐かしくて一所懸命自分の住んでた所を丹念に見てるんだから好きなようにさせといて」と言いました。光太郎は亡くなった智恵子さんを抱いて上がったこの階段を上がったり下りたりしてましたよ、何べんも何べんも。

昭和27年(1952)の時点では、アトリエ跡地はまだ空き地でした。建物部分は焼けて跡形もありませんでしたが、玄関前にあった大谷石の石段は残っていたそうです。画像は戦前、尾崎喜八の一家と。
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そろそろ各地の学校さんで入学式ですね。昨日から今日明日あたりがピークでしょうか。

各地の大学さんで売店や食堂などを展開している大学生活協同組合さんで、「2025新学期テーマフェア「47都道府県を舞台にした小説フェア」」が始まっています。

2025新学期テーマフェア「47都道府県を舞台にした小説フェア」

この春、日本全国の「ものがたり」を旅しませんか? 地元から離れて新たな道を進むあたなも、地元の魅力を再発見したいあなたも。まだ見ぬ日本を「本」の世界で巡ってみませんか?

旅行や研究のフィールドワークの参考になるかも⁉ 47都道府県全てが舞台となった作品が勢ぞろいです♪ 知っている場所が舞台となった物語を深読みしたり、気になる都道府県を選んで旅気分に浸ったり、まだ見ぬ日本を本の世界で巡ってみませんか? 
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なるほどね、という感じです。010

で、福島県は我らが光太郎の『智恵子抄』。ありがたし!安達太良山や阿武隈川が謳われていることからの選定ですね。

この企画、対象書籍はすべて文庫本で、文庫版の『智恵子抄』というと、当会の祖・草野心平が編んで解説「悲しみは光と化す」も書いた新潮文庫版(初版 昭和31年=1956)が最もメジャーですが(現在140刷くらい)、そちらではなく角川春樹事務所さんのハルキ文庫版『智恵子抄』(初版 平成23年=2011 解説・蜂飼耳氏)です。新潮文庫版が戦後の『智恵子抄その後』などからも詩篇を取っているのに対し、ハルキ文庫版は戦前のオリジナル龍星閣版(昭和16年=1941)を底本にしたもので、戦後の作品は入っていません。そこでページ数も少なく、税込294円と格安です(平成23年(2011)の刊行当時は「280円文庫」と銘打っていましたが)。

文庫版では、他に角川文庫版『校本 智恵子抄』も版を重ねています。こちらは中村稔氏の編集・解説で、龍星閣版を元に、戦後の作品などを「『智恵子抄』補遺」として付加しています。

異論もありましょうが、メジャー度で言うと新潮文庫版>角川文庫版>ハルキ文庫版だと思われます。そのハルキ文庫版をラインナップに入れているのはいわゆる「大人の事情」でしょうか(笑)。
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ちなみに現在も書店に並んでいるものとして他には集英社文庫『レモン哀歌 高村光太郎詩集』。故・粟津則雄氏の解説で「智恵子抄」系は3分の1ほどです。それから絶版となってしまいましたが、社会思想社現代教養文庫にかつて『紙絵と詩 智恵子抄』がありました。題名の通り紙絵写真をふんだんに使い、編集は伊藤信吉、故・髙村規氏、故・北川太一先生と、凄いメンバーでした。

それから、今回のフェアで光太郎第二の故郷・岩手代表は門井慶喜氏の直木賞受賞作『銀河鉄道の父』。平成29年(2017)にハードカバーで講談社さんから刊行され、令和2年(2020)に文庫化されました。

昭和20年(1945)に駒込林町のアトリエ兼住居を空襲で焼け出された光太郎を花巻に招いてくれた宮沢政次郎(賢治の父)を主人公に、光太郎と交流の深かった宮沢家の人々が総出演。映画版では光太郎に触れられませんでしたが、原作では光太郎の名が出て来ます。

大学生の皆さん、ぜひ生協でお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

おてがみにつづいて「劉生絵日記」到着、すばらしい本になつて喜びました、こんな本の出版は龍星閣以外ではとても出来ないでせうし、企で及びつかないでせう、


昭和27年(1952)9月21日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎70歳

澤田はオリジナル『智恵子抄』版元の龍星閣社主。『劉生絵日記』は光太郎と親しかった岸田劉生の絵日記。全三巻で龍星閣が刊行しました。光太郎の名も記されています。澤田は造本の達人と言われ、光太郎もその点は認めていたようです。

第69回連翹忌の日に発行の扱いの雑誌等、2件ご紹介します。

で、まずは高村光太郎研究会刊『高村光太郎研究 46』。
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基本的に、前年秋に行われた学会としての「高村光太郎研究会」での発表者が、発表内容を元に原稿を書くというものです。そこで今号は昨年11月23日(日)に開催の第67回高村光太郎研究会で発表された大島裕子氏の「長沼智恵子、縁談話の真実」、熊谷健一氏の「智恵子と光太郎の人間学~美の求道者の生涯に思う~」など。

それから当方、連載を持たせていただいておりまして、一年間で発掘した『高村光太郎全集』等に漏れていた作品の集成「光太郎遺珠」と昨年一年間の関係の動向をまとめた「高村光太郎没後年譜」。

「光太郎遺珠」の方は、短歌一首、談話筆記を含む散文が4篇、アンケート回答で1篇、出版物広告に掲載された短評その他の雑纂4篇、それから今回は書簡が多く、これまで部分的に活字になっていたものの追補や原文が英文でその訳のみ見つけたものを含め、25通。
日本近代文学図録
画像は雑纂のうち、光太郎自筆の年譜です。明治39年(1906)から大正3年(1914)にいたる期間が書かれていますが、いつ、何のために書かれたものかが不明です。

「高村光太郎没後年譜」は、このブログ昨年12月末に載せた記事を根幹としています。
回顧2024年 1~3月。 回顧2024年 4~6月。 回顧2024年 7~9月。 回顧2024年10~12月。

上の方に奥付画像を貼っておきました。ご入用の方、そちらをご参照し注文なさって下さい。

もう1点、当会刊行の『光太郎資料63』。

故・北川太一先生が刊行されていたものを引き継がせていただいて、連翹忌の4月2日、智恵子忌日・レモンの日の10月5日と年2回出しています手作りの冊子です。002

  「光太郎遺珠」から 岩手にて その一
 光太郎回想・訪問記 『非常の時』より 佐藤隆房
 光雲談話筆記集成
  高村光雲先生実話の梗概 観音信仰の由来と聖観音彫刻の動機
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 三里塚御料牧場(千葉県)
 音楽・レコードに見る光太郎 佐藤春夫作詞「湖畔の乙女」
 高村光太郎初出索引 昭和8年~10年

個人的な推しは光太郎の父・光雲の「高村光雲先生実話の梗概 観音信仰の由来と聖観音彫刻の動機」。宮城県松島の瑞巌寺さんに納められている巨大な聖観音像の落成法要の際に配付された『松島聖観世音奉安趣意書』を入手しまして、そこに載っていたものです。同像がオーダーメイドではなかったことや、像高が一丈二尺(約3.64㍍)であること、制作の助手が高弟の山本瑞雲、その弟子の阿井瑞岑、塗漆(としつ)は福田作太郎、彩色は萩原兵助であったことなど、これまで未知の事柄でした。
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福田と萩原はやはり光雲高弟の関野聖雲が手がけた京都浄瑠璃寺の吉祥天女立像模刻に際しても腕を揮っています。

こちらはご入用の方、お申し付け下さい。

【折々のことば・光太郎】

この夏花巻を訪れ、宮沢さんの実家を見舞つたり、詩碑に詣つたりされたのは大変よかつたと思ひました、お心に多くの滋養を与へる事になるでせう、阿多多羅山や阿武隈川をも見られたとの事、なつかしく思ひます、


昭和27年(1952)9月2日 栗原克丸宛書簡より 光太郎70歳

栗原克丸は埼玉県比企郡福田村(現・滑川町)在住で、同郷の元東松山市教育長の故・田口弘氏と親しい間柄でした。光太郎の山小屋は訪れなかったようですが、宮沢家や光太郎が揮毫した賢治詩碑、智恵子の故郷・福島二本松などを周遊したようです。

過日の第69回連翹忌の折にゲットしました。

高村光太郎と尾崎喜八

発行日 : 2025年4月2日
著者等 : 北川太一 著  石黒敦彦 編  山室眞二 装丁
版 元 : 蒼史社
定 価 : 2,500円+税

北川太一氏が尾崎喜八研究会の「尾崎喜八研究」誌に書かれた尾崎喜八と高村光太郎についての文章を集めた第一部と、シンジュサン工房から刊行されたツマキ文庫の『配達された「五月のウナ電」』(二〇〇四年)全文、それを捕捉する尾崎喜八の高村光太郎と星見表についての短文「光太郎向学」を加えた第二部によって構成した。……「書物はそれ自身の運命を持つ」 この一冊が、北川さんの「高村光太郎ノート」シリーズ(蒼史社および文治堂書店)とともに、未来に向けて読み継がれていくことを願っている。
(「はじめに」より)

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目次
 はじめに
 第一部 高村光太郎と尾崎喜八005
  島津謙太郎のこと
  尾崎さんと高村さん―『聖母子像』をめぐって
   一 砂川の土蔵
   二 聖母子像
   三 三月二十日
   四 みいちゃん
   五 『私たちの本』
  愛と創作 その詩と真実
   Ⅰ 雑誌『エゴ』
   Ⅱ 「愛と創作」
   Ⅲ 「ジャン・クリストフ」
   Ⅳ 「出会い」の時
  ロランと光太郎をめぐる人々
   Ⅰ アトリエにて
   Ⅱ 音楽への誘い
   Ⅲ ロダンとベルリオーズ
   Ⅳ 誌への出発高田博厚
   Ⅴ 最初の詩集
   Ⅵ 結婚前後
   Ⅶ ロランと光太郎をめぐる人々
  各章の主要事項解説 石黒敦彦
 第二部 配達された「五月のウナ電」
  配達された「五月のウナ電」
  五月のウナ電 北川太一
  解説 北川太一
  制作覚書 山室眞二
  捕捉『光太郎向学』 尾崎喜八
  北川太一略歴


尾崎喜八は、当会の祖・草野心平と並んで、光太郎と最も深く交流のあった詩人と言えるでしょう。心平とはまた違う方向からのアプローチで光太郎と親しくなり、目次からも概観できますが「ロマン・ロラン」や「音楽」が二人を結びつけるキーワードでした。さらに尾崎の妻・實子(みいちゃん)は、光太郎の親友だった水野葉舟の息女で、幼い頃から光太郎にかわいがられていました。尾崎と實子の長女の故・栄子さんは智恵子に抱っこされたこともありますし、のちに智恵子が心を病んでから手がける「紙絵」を、まだ健康だった頃の智恵子に作ってもらってもいます。折り紙を折りたたんで切り込みを入れ、拡げて出来るシンメトリーのタイプです。そうした家族ぐるみの交流は、心平との間にはあまりありませんでした。
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左上画像は戦前の本郷区駒込林町光太郎アトリエ兼住居前。左から栄子さん、光太郎、尾崎、實子。右上画像は尾崎夫妻の結婚記念に光太郎から贈られたミケランジェロ模刻の「聖母子像」です。

永らく連翹忌の運営その他、光太郎顕彰活動に当たられた北川太一先生は尾崎一家とも親しく、尾崎の歿後に立ち上げられた「尾崎喜八研究会」にご協力。機関誌『尾崎喜八研究』などに玉稿を度々寄せられました。そのあたりが本書の「第一部」です。

「第二部」は、光太郎詩「五月のウナ電」(昭和7年=1932)がらみ。北川先生が解説を書かれ、染織家の志村ふくみ氏、版画や装丁を手がけられている山室眞二氏が組んで小さな本を作られ、それに関わります。

今年が北川先生生誕100年ということで、栄子さん令息の石黒敦彦氏が、それらを一冊にまとめて刊行されたというわけです。まだ斜め読みですが、久々に先生の文章をまとめて読める幸せに心躍らせております。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

薬サルフオルありがたくお受けとりしました。今までは売薬のモスキトンなど使つてゐましたが、この薬は上等のやうです。丁度今はツナギなどといふ兇猛なアブが出てゐるので大助かりです。

昭和27年(1952)8月18日 森荘已池宛書簡より 光太郎70歳

「サルフオル」は合成抗菌薬のサルファ剤。9月13日の日記に「左ももに田虫様のもの出来いたむ、サルフアをつける」の記述があります。「モスキトン」は虫除け、虫刺されの薬として販売されていた商標名です。
無題

奥付では今日発行ですが、既に店頭に並んでいるでしょう。日本女子大学校での智恵子の先輩にして、智恵子に『青鞜』創刊号の表紙絵を依頼した平塚らいてうの伝記漫画です。電子版も出ています。

小学館版 新学習まんが人物館 平塚らいてう

発行日 : 2025年3月30日
著者等 : 監修 差波亜紀子 まんが 上川敦子 シナリオ 江橋よしのり
版 元 : 小学館
定 価 : 1,100円+税

元始、女性は太陽であった!
累計300万部突破の「学習まんが人物館」シリーズが、新たなソフトカバーのシリーズとなりました。その第4弾として「平塚らいてう」が登場します。女性だけの手による雑誌『青鞜』を創刊。その創刊号で彼女は「元始、女性は太陽だった」とうたいあげます。創刊号の表紙は長沼智恵子(後の高村光太郎夫人)が担当。さらに歌人の与謝野晶子が原稿を寄せるなど、そうそうたるメンバーでの船出でした。また彼女は、婦人参政権の獲得を目指して「新婦人協会」を立ち上げるなど、女性の権利を求め続けます。一人の女性として、母として、人間として85年の生涯を駆け抜けた彼女の原点に迫ります。

2025年は国連が「国際女性デー」(3月8日)を制定してから50年の節目の年です。SDGs的な観点からもたいへんためになる1冊です。また、まんがを描いた上川敦子さんは、これまで「上川敦志」のペンネームで『ロボットボーイズ』『スティーブ・ジョブズ』『学習まんが 日本の歴史(15巻、16巻)』(すべて小学館)などの著作がありますが、今回は「平塚らいてう」を描くということで、あえてご自身の性である女性名での登場です。実際に1児の母である彼女の、魂のこもった作画にもご注目ください。
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目次
 平塚らいてう写真館 女性の権利を求め続けた不屈の運動家 平塚らいてう
 プロローグ
 第1章 良妻賢母なんて知らない
 第2章 わたくしはわたくし
 第3章 「新しい女」とよばれて
 第4章 母となる
 第5章 母性保護と婦人参政権
 エピローグ
 学習資料館
  解説 女性の生きづらさに抗議した運動家 差波亜紀子
  学習人物ガイド 平塚らいてうゆかりの人物 与謝野晶子 長沼智恵子 市川房枝 伊藤野枝
  年表 平塚らいてうの時代


小学館さんで刊行されていた「学習まんが人物館」シリーズ。当会顧問であらせられた故・北川太一先生の監修になる『高村光太郎・智恵子 変わらぬ愛をつらぬいたふたつの魂』(平成9年=1997)も含まれていました。関係するラインナップとして本書の帯に紹介されています。

そちらが全74巻でいったん完結し、新シリーズとして4冊が刊行され、そのうちの1冊です。旧シリーズがハードカバーだったのに対し、ソフトカバーに変更、判型も一回り小さくなりました。

監修及び解説は日本女子大学さんの差波亜紀子教授。女子教育史等がご専門で、やはりらいてうを扱ったNHK Eテレさんの「先人たちの底力 知恵泉 新しい女の生き方 明治・大正編 平塚らいてう」(令和2年=2020)などにもご出演されています。

で、智恵子。あまり登場シーンは多くありませんが、主要登場人物の一人と位置づけられています。
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初登場のシーン。明治37年(1904)頃、日本女子大学校のテニスコートです。
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同じシーンが、朝日新聞出版さん刊行の『週刊 マンガ日本史 平塚らいてう 飛び立て「新しい女たち」』(初版 平成22年=2010、改訂版 平成28年=2016)だと、智恵子は完全に悪役顔でしたが(笑)。
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そして『青鞜』。
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分量としては『青鞜』時代までが多く、その後の与謝野晶子らとの母性保護論争や婦人参政権獲得の運動、戦後の平和活動などはざっとという感じですが、全体になかなかの出来だと思いました。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

東京は空気がわるいだらうとおもふのでこれだけは少々心配です。山の空気があまりきれい過ぎますから。


昭和27年(1952)7月23日 安藤一郎宛書簡より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、上京する旨を伝えた後の一節です。足かけ8年の岩手での暮らしを経て、かつて「東京に空が無い」とつぶやいた智恵子の心境に共感できるようになっていたようにも思われます。

昨日は横浜に行っておりました。目的地は港の見える丘公園内の神奈川近代文学館さん。
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まずは閲覧室で、特別資料の閲覧。特別資料というのは書簡や書幅などの古書業界で云うところの「肉筆もの」、各種イベント等の案内状などの同じく「一枚物」などです。同館、通常の書籍類は行けば書庫から出して下さって閲覧出来ますが、特別資料はなんとか会員に登録の上で事前に申請し、閲覧室のさらに奥の特別室で拝見するシステムです。これまでも『高村光太郎全集』等未収録の光太郎の書簡などを2、3度拝見したことがありましたが、ここ数年でまたやはり未知の新たな資料が増え、そちらを閲覧させていただきました。

書簡が3通。詩人の中野重治に宛てたもの1通と、中央公論社社長だった嶋中雄作に宛てたものが2通。それから「一枚物」として、昭和20年(1945)に岩波書店の創業者・岩波茂雄が貴族院議員に当選(普通選挙ではなく議員による互選)しましたが、その際の推薦状。推薦者として名を連ねている24名の中に光太郎の名も記されています。また、意外なところでは新宿中村屋さんの創業者・相馬愛蔵の名も。岩波、相馬とも信州人ということもあったかもしれません。

そちらの閲覧を終え、一旦外へ出て別棟の展示室へ。
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こちらでは今月20日から特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」が始まっており、拝見しました。
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平成29年(2019)に亡くなった大岡信氏、詩人としてもご活躍でしたが、評論活動なども活発に行われ、特に『朝日新聞』さんに昭和54年(1979)から約30年連載されていたコラム「折々のうた」は大きな業績の一つとして語り継がれています。

フライヤー裏面にはその第一回の原稿の画像も。
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記念すべき第一回は光太郎短歌「海にして太古の民のおどろきをわれふたたびす大空のもと」(明治39年=1906)を取り上げて下さいました。

驚いたことに、この肉筆原稿と共に、光太郎自身がこの歌を揮毫した色紙も展示されていました。大岡氏の遺品なのかもしれません。

その他、昨年亡くなった谷川俊太郎氏をはじめ、さまざまな分野の人々との交友の様子を物語る品々、それから光太郎と同様に自ら書家を名乗ったわけではないものの、見事な書をたくさん遺されたその作品群など、興味深く拝見いたしました。

同館を出て、目の前の霧笛橋から撮ったベイブリッジ。手前は木蓮の一種でしょう。
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振り返ると当会シンボルの連翹も満開でした。

特別展「大岡信展 言葉を生きる、言葉を生かす」、5月18日(日)までの会期です。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

七年間見て来たところでは、花巻の人達の文化意慾の低調さは驚くのみで、それは結局公共心の欠如によるものと考へられます。宮沢賢治の現象はその事に対する自然の反動のやうに思はれます。賢治をいぢめたのは花巻です。


昭和27年(1952)7月19日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎70歳

佐藤隆房は賢治の主治医でもああり、光太郎の花巻疎開にも尽力、その後も物心ともに光太郎を援助し続けた人物でした。その佐藤に宛てたある意味手厳しい花巻評。7年を超えた花巻及び郊外旧太田村での暮らし、人的交流の部分では完全なパラダイスだったわけでもないことが見て取れます。

この後、10月には生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため上京しますが、完成後には再び太田村に戻るつもりで居ました。後足で砂を掛けて出ていくというわけでは決してなく、光太郎の岩手に対する思いはなかなか複雑なものがありました。

昨日に引き続き、新刊紹介です。

荷風たちの東京大空襲 作家が目撃した昭和二十年三月十日

発行日 : 2025年3月10日
著者等 : 西川清史
版 元 : 講談社
定 価 : 1,900円+税

■八十年前のあの夜、東京で何が起こっていたのか? 圧巻のドキュメント
保阪正康氏推薦!「戦争を体験し、思索し、表現する文士たちの言葉は第一級の証言である」
■荷風が、谷崎が、向田邦子が目撃した「戦争」の姿が生々しく蘇る
■一夜にして十万五四〇〇人が失われた惨劇! 僕は巨大なB29が目を圧して迫まってくるのを見た。銀色の機体は、地上の火焔を受けて、酔っぱらいの巨人の顔のように、まっ赤に染まっていた。
──江戸川乱歩
■彼らの著述によって東京大空襲の惨劇を再構成するこの労作から、私たちは戦争の非人間性を改めて知らされることになる──保阪正康(歴史家)
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目次
 昭和20年、東京に住んでいた作家たち(地図)
 はじめに
 Ⅰ 焼尽
   永井荷風は電信柱の影に隠れて焼け落ちる偏奇館をいつまでも見つめていた。
   歴史探偵、半藤一利は十四歳だった。火に追われ逃げまどい、危うく川で溺れ死にそう
    になった。
   下町の中心部に住む中田耕治と関根弘は頭上から降り注ぐ焼夷弾から必死で逃げまどっ
    た。
   燃え盛る下町を遠望しながら、堀田義衛は「ひとりの親しい女」の身の上を案じてい
    た。
 Ⅱ 劫火
  「東京が燃えている」。震撼した作家たちはその衝撃をつぶさに日記に刻みつけていた。
  船橋に住む豊田正子は思わず見入った。血を浴びたように赤黒く染まった建物群を。
  B29は美しいと書いている作家が少なくない。機体は銀色の鮎の群れのように光り輝いて
   いた。
  向田邦子の父は悲壮な顔で言い出した。「みんなでうまいものを食べて死のうじゃない
   か」
 Ⅲ 空爆
  米軍の機密文書「作戦任務報告書」で明らかになった東京大空襲の一部始終。
  日本列島焼土化作戦を強力に指揮した男、C・E・ルメイ少将は「鉄のロバ」と呼ばれた。
 Ⅳ 地獄
  東京が焼け野原となったと知って谷崎潤一郎は矢も楯もたまらず東京に向かった。
  医学生、山田風太郎は何もない焼け野原を見て「こうまでしたか、奴ら!」と激昂した。
  鬼哭啾々、想像を絶する風景だったのだろう。多くの文士が本所、深川、浅草の地獄につ
   いて書く。
  B29が大挙して飛来した四月十三日の空襲で江戸川乱歩も澁澤龍彦も飯沢匡も炎に囲まれ
   た。
  隅田川にかかる言問橋や浅草寺には今も東京大空襲の傷痕がくっきりと残っている。
 Ⅴ 日記
  古川ロッパの日記から見えてくる空襲にあけくれるストレスフルな東京の日常。
  B29が飛来するとみんな慌てて飛び込んだ防空壕とはどのようなものだったのか。
  徳川夢声の戦中日記。内容は悲惨なのにそこはかとなく愉快なのはなぜなのだろうか。
 Ⅵ 鏖殺(おうさつ)
  五月二十五日の空襲は東京の息の根を止めた。有馬頼義は落下傘で舞い降りた米兵を捕縛
   した。
  三月十日、吾妻橋で焼け出された中田耕治は五月二十五日の空襲でも九死に一生を得た。
  小泉信三はメラメラと炎を上げる外套を着たまま燃え盛る自宅の中から現れ、昏倒した。
  収集した十数万冊の本は真っ白な灰となり大内兵衛は呆然として立ち尽くしていた。
  靖国神社に逃れるのを嫌った吉行淳之介は千鳥ヶ淵の小さな公園に逃げ込み眠ってしまっ
   た。
  「青山脳病院」が火柱をあげて燃え盛るのを見て、斎藤茂太と北杜夫は青山墓地に逃げ込
   んだ。
  宗左近は炎の海の中に倒れた母を見捨てて逃げた。生涯、その負い目から逃れることはで
   きなかった。
 Ⅶ 戦慄
  米軍の攻撃は焼夷弾だけではない。爆裂する通常爆弾に高村光太郎は戦慄した。
  尾崎一雄はグラマンから機銃掃射を浴びた。植木の幹に弾が当たると、ブスッという音が
   した。
  空襲で母と妹を失った高木敏子の目前で父は機銃掃射でこめかみを射貫かれて即死した。
  八月に入って世の中が騒然としてくる中、我が子を殺すことを考えた徳川夢声と海野十
   三。
 Ⅷ 終結
  偏奇館を失った永井荷風はその後も心の失調をともなうほどの危機に幾度も瀕していた。
  深川まで親しい女に別れを告げに行ったその日堀田義衛は思いがけない光景に身が凍っ
   た。
  B29の大編隊は宮城の上に至って方向を変えた。天皇は見上げもせず、静かに花に水を
   やり続けた。
 あとがき
 参考文献

目次だけでもショッキングな内容の連続です。

光太郎を中心に据えた項が、「Ⅶ 戦慄」中の「米軍の攻撃は焼夷弾だけではない。爆裂する通常爆弾に高村光太郎は戦慄した。」。

光太郎が、本郷区駒込林町(現・文京区千駄木)の智恵子と過ごした思い出深い自宅兼アトリエを焼かれたのは、4月13日の空襲でのことでした。最も有名な3月10日の空襲では無事だったのですが、その後も空襲は繰り返されたわけで。

著者の西川氏、二篇の光太郎作品を引いています。まず、さらに遡って昭和17年(1942)4月18日、東京が初めて空襲されたいわゆる「ドゥーリットル空襲」を題材にした詩「帝都初空襲」。それから、戦後の昭和30年(1955)に高見順と行った対談「わが生涯」。

妙な所が戦場になつちやつて、ぼくらの近所はひどかつたですよ。電信柱に足がぶら下つてたりね、往来に靴が落つこつてる、見ると中身があるんだ。気味が悪くつてね。ぼくもいつやられるか、と思つてね。

004この電信柱の足については、光太郎自身がお蔵入りにした詩「わが詩をよみて人死に就けり」(昭和22年=1947)でも語られています。

   わが詩をよみて人死に就けり

 爆弾は私の内の前後左右に落ちた。
 電線に女の太腿がぶらさがつた。
 死はいつでもそこにあつた。
 死の恐怖から私自身を救ふために
 「必死の時」を必死になつて私は書いた。
 その詩を戦地の同胞がよんだ。
 人はそれをよんで死に立ち向つた。
 その詩を毎日よみかへすと家郷へ書き送つた
 潜航艇の艇長はやがて艇と共に死んだ。

光太郎にとっては忘れられない記憶となったのでしょう。

ちなみに本書では引用されていませんでしたが、光太郎には「罹災の記」(昭和20年=1945)という文章があって、自宅兼アトリエの焼け落ちた際のことが細かく書かれています。その部分を書き出しましょう。

 私は四月十三日廿三時の空襲による火事で類焼した。敵機編隊来襲の終りに近く、三、四軒目の隣家両三軒に焼夷弾が十数発落下して火災発生、折からの東南風で火の粉をかぶつたが、それは私一人の火叩きで消せる程度のものであつた。そのうち火は隣組の家々を横へ燃えひろがり、私の家は火に取り残された形となつたので或は助かるかも知れないと思つたが、家伝ひに羽目から羽目へと移る火焔がだんだん猛烈となり、つひに裏隣りの家さへ危くなつた。その家の主人が「もう駄目です」といつて荷物を背負つて避難されてからは、まつたく私一人でバケツの水を自宅裏の羽目板にかけてゐたが、警防団員である妹の主人がかけつけて来て台所の内側からも防火に努めてくれた。此時私はバケツの水の威力を初めて知つた。火焔は猛烈でも火の根に水をかけるとバケツ一杯の水でも火力はちよつと衰へる。それを間断なく続ける事が出来れば火はきつと消えるのである。此時は既に数個の水槽の水も大鉢の水も尽き、一人で車井戸の水を汲み上げてそれをバケツにあけて火に向ふ外なかつたので、火の手は急にもり返して面もむけられないほど空気が熱くなつた。せめて五、六人の人がゐたらこの火は消せたのである。力尽きて避難に取りかかつた。かねて用意の蒲団袋や、米袋を近くの疎開道路の壕へ運んでもらひ、自分は御真影をも収蔵してある大切な道具箱二個と、彫刻用の貴重な砥石二面とをかつぎ出した。これさへ出せばほかの物はどうでもいいと思つてあせらなかつた。家は居抜きのまま敵の兵火に渡してやらうと肚をきめて悠々と行動した。父の作品二点ばかりと、友人に此日もらつたコーヒー罐一つとを風呂敷に包んで立退き、十四、五間ばかり離れた空地から焼け落ちるアトリエの美しい姿に見とれてゐた。爆弾の音もしてゐたが落ちるなら勝手に落ちろと思つて平気だつた。

持ち出せたものは蒲団袋、道具箱二個、砥石二つ、光雲の作品二点、少しばかりの食料。この蒲団袋の中に、大正末か昭和初め、智恵子にせがまれて買ったイギリスの染織工芸家、エセル・メレ作のホームスパン毛布が入っていたと考えられます。また、戦後になって、防空壕に戦前から光太郎が書きためていた詩稿の控えの束が残っていて、自宅兼アトリエの土地を貸していた大家さんから渡されました。詩稿の束を持ち出したことは、同様のもう少し短い回想「仕事はこれから」に書かれていました。

自宅兼アトリエの燃えるさまを「美しい」。これについては、直後に駆けつけてくれた詩人の寺田弘の回想にも書かれています。

 空襲で高村光太郎さんの家が焼けたときに、一番最初に駆け付けたのが私なんです。二階の方が燃えていて、誰もいないんです。その二階の燃えていた場所が智恵子さんの居間だったんですけど、そこから炎がどんどん燃えだして、それを高村光太郎さんは、畑の路地のところで、じっと見つめてたんですよね。
 そして、「自分の家が燃えるってのはきれいなもんだね、寺田くん」って、これには驚きましたね。その翌日、焼け跡の後片付けをやってたら、香の匂いがしたんですよ。高村さんが「ああ、智恵子の伽羅が燃えている」って、非常に懐かしそうにそこに立ち止まったのが、印象的でしたね。
(『爆笑問題の日曜サンデー 27人の証言』 平成24年=2012 TBSサービス)

極限状態に追い込まれると、こうなるのかもしれません。

焼け出された光太郎、1ヶ月ほど近くで焼失を免れた妹の婚家に身を寄せていましたが、宮沢賢治の実家からの誘いを受け、花巻に疎開することになります。その賢治の実家も8月10日の花巻空襲で全焼してしまうのですが。

さて、『荷風たちの東京大空襲 作家が目撃した昭和二十年三月十日』。この手の書籍の常で、まず光太郎中心の章や項を読んでから、他の部分を読みます。ところが書かれている内容が余りに悲惨で、なかなか読み進められません。しかし、こうした事柄から眼をそらしてはいけませんので、少しずつ読んでいこうと思っています。

ちなみに最上部に書影画像を載せましたが、帯を取るとその下に昭和20年(1945)頃の光太郎の顔。
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このイラストは微笑ましい感じですが、さらにカバーを取った表紙はこう。
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空襲の悲惨さが象徴されているようです。

皆様もぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

十和田湖、八甲田山一帯の景観はまつたく予想以上の美しさにて、御依頼のモニユマン製作についても、小生快く承諾の腹をきめることができました。 かくも美しき自然に対して自己の全力を傾け得る事の幸を一造形家として感ぜざるを得ず、この夏中に構想を練り、エスキスを試み、秋頃より諸般の便宜多き東京にて原型製作にとりかかり、明年完成の予定で居ります。


昭和27年(1952)6月28日 津島文治宛て書簡より 光太郎70歳

岩手に移って7年余り、敗戦当初は山間に文化集落を造るという無邪気な夢想、青年時代から憧れていた辺境の地での自由な生活といった意味合いが強かったのですが、徐々に自らの戦争責任を痛感せざるを得なくなり、自らを罰する「自己流謫(るたく)」へと変貌しました。「流謫」は「流罪」に同じです。そのため自らへの最大の罰として、彫刻製作も封印。しかし、余命あと僅かという自覚もあり、青森県からの依頼を好機と考え、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を決意します。

2ヶ月半経ってしまいましたが、新刊です。

都市空間を歩く 日本近代文学と東京

発行日 : 2025年1月8日
著者等 : 佐藤義雄・松下浩幸・長沼秀明[著]
版 元 : 翰林書房
定 価 : 2,800円+税

場所と言葉を往還しつつ、〈 地霊(ゲニウス・ロキ) 〉を復原する。文学鑑賞の醍醐味を再認識するための実践的な提案。
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目次
 はじめに 松下浩幸
 一  樋口一葉「日記」「別れ霜」 ― 東京図書館・お茶の水橋・万世橋 松下浩幸
 二  夏目漱石『それから』 ― 神楽坂・小石川・青山 松下浩幸
 三  森鷗外「百物語」 ― 向島 松下浩幸
 四  高村光太郎『智恵子抄』 ― 千駄木・日暮里 松下浩幸
 五  江戸川乱歩「目羅博士」 ― 上野・丸の内 松下浩幸
 六  長谷川時雨『旧聞日本橋』 ― 日本橋 長沼秀明
 七  徳冨蘆花『不如帰』 ― 赤坂氷川町 長沼秀明
 八  田山花袋『田舎教師』 ― 上野公園 長沼秀明
 九  久保田万太郎「春泥」 ― 日暮里 長沼秀明
 十  藤村「並木」と芥川「毛利先生」 ― 日比谷・大手町・神田 佐藤義雄
 十一 永井荷風「紅茶の後」 ― 銀座 佐藤義雄
 十二 三島由紀夫「詩を書く少年」 ― 目白・学習院 佐藤義雄
 講座一覧
 あとがき 佐藤義雄
 初出一覧

目次に「講座一覧」とあるように、元は明治大学さんの「リバティアカデミー」という市民講座中の一つで「都市空間を歩く」が開設され、その報告書的なブックレットからの修正加筆が中心のようです(一部は書き下ろし)。

著者のお三方とも明治大学さんで教壇に立たれている皆さん。お三方で100回余りの講座を受け持たれたそうで、鷗外や漱石、芥川などは繰り返し取り上げられていました。逆に宮沢賢治、萩原朔太郎など本書に収録されなかった作家も多数。で、お三方がご自分の担当講座から数篇ずつを選んで本書が構成されています。

光太郎智恵子に関しては松下浩幸氏によるもの。100回余の講座中、光太郎智恵子を中心に据えたのはこの一回のみだったようで、それを本書に収録してくださったのはありがたいところです。元は平成28年(2016)3月のブックレットに「〈狂気〉と〈純愛〉――高村光太郎『智恵子抄』と千駄木・日暮里」の題で収められていましたので、約10年前ですね。

従って、最新の情報が盛り込まれていません。既に取り壊されてしまった光太郎の実家(旧駒込林町155番地)が写真入りで紹介されていますし、明治45年(1912)に智恵子と福島の医師との間に縁談があったという件は、大島裕子氏の調査で否定されています(相手とされてきた医師は既に妻帯・子持ちだったと判明)が、反映されていません。

まぁ、そうした点はさておき、『智恵子抄』詩篇を読み解きつつ、「恋愛は何よりも近代的な人間であることの証であり、個人の意思を尊重する「ヒユウマニテイ」(人間性)としての行いを実践するという意味を持っていた」「近代的恋愛とは「人類」の普遍的な意志であり、個人が成長していくために必須の思想的実践であった」といった指摘には「なるほど」と思わされました。

まだ手元に届いたばかりで、光太郎智恵子の項と、光太郎といろいろ交流のあった長谷川時雨の項しか精読していませんが、全体に図版や地図も多く、これを片手に文学散歩としゃれ込むのにいいなと思いました。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生にとりて東京は好ましき土地ではございませんが、この製作完成までは特に滞在、仮アトリエに蟄居の覚悟を定めました。


昭和27年(1952)6月28日 津島文治宛書簡より 光太郎70歳

津島文治は太宰治の実兄にして当時の青森県知事。光太郎生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の仕掛人です。

大戦末期の昭和20年(1945)5月から足かけ8年に亘る岩手での暮らしで浄化された光太郎の眼には、伝え聞く戦後の雑駁とした東京の様子は忌避すべきものだったようですが、像の制作のためには仕方ありませんでした。「完成までは特に滞在」とあるように、再び花巻郊外旧太田村の山小屋に戻るつもりで、住民票やほとんどの家財道具は残したまま上京します。

昭和6年(1931)に光太郎が訪れ、紀行文「三陸廻り」で紹介した宮城県女川町で、永く光太郎顕彰活動を続けられているの女川光太郎の会さん。このたび県から表彰されたそうです。

地元紙『石巻かほく』さん記事。

住みよいみやぎづくり功績賞 「女川・光太郎の会」が受賞、地域活性と文化振興

 地域社会づくりに貢献した個人や団体を県が表彰する本年度の「住みよいみやぎづくり功績賞」に、女川町民有志で組織する「女川・光太郎の会」が選ばれた。町に紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の功績を伝え、地域の活性化や文化振興に貢献していることが評価された。
 女川・光太郎の会は、戦前に町を訪れた光太郎の功績を後世に伝えるため1992年に発足。同年夏、女川湾の近くに三つの文学碑を建立した。
 文学碑は東日本大震災の津波で流出するも、2020年に再建を果たした。紀行文や詩の朗読などを行う「光太郎祭」も、光太郎が三陸に向けて東京を出発した8月9日に合わせて毎年開催している。
 伝達式が17日、石巻市あゆみ野5丁目の県石巻合同庁舎であった。県東部地方振興事務所の石川佳洋所長が「会の活動は全国から女川を訪れるきっかけになっている。若い世代にも伝承の思いが伝わっているのがすばらしい」とたたえ、須田勘太郎会長(84)に表彰状を手渡した。
 須田会長は「光太郎祭は震災を乗り越えて今年で34回になるが、会員の高齢化が課題になっている。表彰は団体を知ってもらう機会になり、存続させていくための力になる」と話した。
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「住みよいみやぎづくり功労賞」は、昭和45年(1970)に開始された「感謝のことば」という県民の隠れた善行や小さな善意に対して知事が表彰するという事業を引き継いだ事業で、平成18年(2006)度から表彰対象に「安全・安心まちづくり」等を加え、通常の表彰ではなかなか推薦対象とならないようなより広い範囲の地域社会への貢献に対し、知事の感謝状を贈呈するというものだそうです。

女川光太郎の会さん、「文化芸術の振興に尽くした者――地域の伝統芸能等を伝承している町内会等,子どもを対象にした演劇,音楽等の活動で地域に貢献しているもの等」という項目での認定なのでしょう。

記事に誤りがありますが、女川町に光太郎文学碑が建立されたのは平成3年(1991)。女川在住で画家でもあった貝(佐々木)廣氏が中心となり「高村光太郎文学碑建立実行委員会」を立ち上げ、実現しました。光太郎は紀行文「三陸廻り」(昭和6年=1931)で自筆の挿画を添えて女川町を紹介しました。また、のちに昭和12年(1937)になってから、女川港で見た水揚げの記憶を元に詩「よしきり鮫」も執筆しています。それらを受けて「光太郎ほどの偉人がこの女川を様々な形で取り上げてくれたのに、そのことを語り継がないでどうする」ということだったそうです。
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碑は三基(数え方によっては四基)、同時に建てられました。中央にメインの碑。5面のプレートを持ち、光太郎短歌「海にして……」(明治42年=1909の作で、女川とは直接の関係はありませんが「海」つながりで)自筆揮毫を中心に、紀行文「三陸廻り」の一節(当会顧問であらせられた北川太一先生揮毫)が2面、それが『時事新報』に載った際の光太郎自筆挿画が2面。
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「海にして……」の揮毫が変体仮名等で読みづらいという配慮で、真下には活字に起こした小さな碑も。これを一つと数えるかどうかで、先述の三基か四基かが分かれます。
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挿画の方の上画像は除幕された頃、当方が撮影したものですが、当初はこのように金色のプレートでした。現在は後述する東日本大震災による被害、その後の風雪などでくすんだ色に変わってしまっていますが……。

左右には詩「よしきり鮫」と「霧の中の決意」(昭和6年=1931)、こちらは光太郎自筆原稿が拡大して刻まれました。下画像はやはり震災前に当方が撮ったものです。
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除幕された平成3年(1991)には、それを記念して仙道作三氏作曲、山本鉱太郎氏脚本によるオペラ「智恵子抄」公演も女川で行われました。
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当初の「高村光太郎文学碑建立実行委員会」が、翌平成4年(1992)から女川光太郎の会となり、第1回女川光太郎祭を開催。光太郎詩文の朗読や音楽演奏、北川太一氏を講師に招き、講演(現在は当方が引き継いでおります)など。

その後、女川光太郎祭は、コロナ禍での中止はあったものの、東日本大震災のあった平成23年(2011)にも開催され、続いています。大震災時には貝(佐々木)氏が津波に呑まれて亡くなり、文学碑も倒壊、「よしきり鮫」碑と短歌を活字で刻んだ碑は行方不明となりました。残った二基の碑は半分水没していましたが、会の皆さんの御尽力や町の協力もあり、令和2年(2020)に再建されました。
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上画像は震災翌年の平成24年(2012)、下画像は再建後です。
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震災、石碑、といえば、女川町では震災後、津波到達地点より高い場所に避難の際の目印として建てられた「いのちの石碑」全21基。建立費用はかつて光太郎文学碑でそうしたことに倣い、全額寄付で集められました。このプロジェクトを立ち上げた、震災直後に当時の女川第一中学校に入学した生徒さんたちの企画書に明記されました。
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津波で還らぬ人となった貝(佐々木)氏の精神が受け継がれたわけで……。

そんなこんなで女川光太郎の会さんが、「住みよいみやぎづくり功績賞」受賞。喜ばしい限りです。

光太郎忌日の4月2日(水)には、光太郎智恵子ゆかりの日比谷松本楼さんで光太郎を偲ぶ第69回連翹忌の集いを開催いたします。女川光太郎の会さんからは、亡くなった貝(佐々木)氏に代わって運営の中心となられている奥さまの英子さんと笠松弘二氏、「オペラ智恵子抄」の智恵子役で、毎年女川光太郎祭に参加され、アトラクション演奏もなさっている本宮寛子氏、さらに作曲された仙道氏も久しぶりにご参加下さいます。今回の受賞について、英子さんにスピーチしていただくつもりです。

女川での光太郎顕彰、今後のますますの発展を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

先日のオハガキで天平さん逝去の事を知り、いたましい事に思ひました、からださへよければまだうんとのびる人だつたと思ひます、


昭和27年(1952)5月23日 草野心平宛書簡より光太郎70歳

「天平さん」は当会の祖・草野心平の実弟にして、心平同様に詩の道へ進んだ草野天平。この年、数え43歳で病没しました。

下って光太郎も歿した後の昭和33年(1958)、『定本草野天平詩集』が刊行され、それに対し故人であるにもかかわらず第2回高村光太郎賞が授与されました。粋な計らいでした。

今回の女川光太郎の会さんの受賞も、亡き貝(佐々木氏)も共に表彰されたと考えたいところです。

昨日で東日本大震災から14年でした。

14年前のあの日、津波に呑まれて還らぬ人となった、当時女川光太郎の会事務局長であらせられ、宮城県女川町の光太郎文学碑の建立(平成3年=1991)や、その後の女川光太郎祭の開催に尽力されていた貝(佐々木)廣氏を、千葉から偲ばせていただきました。
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画像は震災前の平成18年(2006)、貝(佐々木氏)が発表者のお一人だった、荒川区さん主催の「光太郎・智恵子フォーラム」の際のものです。司会は当方が務めさせていただきました。

午前中には3月8日(土)に足を運んだ福島県いわき市の草野心平記念文学館さんでの文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」についてこのブログにレポートを書いていました。その講師のお一人、東日本大震災での原発被災についての旧ツイッター投稿で有名になられた和合亮一に関し、その日の『日本経済新聞』さんがコラムで取り上げていたのに気づきました。

春秋

「なんで東電の言葉を信じてたんだろうね」。そう語ったのはクリーニング店主の女性だ。「大きい会社なんだから、責任持ってやってくれっから」と考えていた、と。福島出身の詩人、和合亮一さんが原発事故の直後に書き留めた地元の声の一つだ(「詩の邂逅(かいこう)」)▼多くの住民の素朴で率直な思いだったろう。震災前、和合さんが教師として勤める高校の保護者会の場でも「絶対に大丈夫」との説明が繰り返されていたという。専門家が言うのなら。住民は、あるいは日本全体が、会社側の説明に乗っていた。それはしかし、未曽有の激震と大津波を前に、もろくも土台から崩れ落ちた▼危機は本当に予見できなかったのか。旧経営陣が強制起訴された裁判は、最高裁が無罪と判断した。想定された結末ではある。要因が複雑な巨大事故で、一度は不起訴とされた個人の刑事責任を立証するのは極めて難しいからだ。現行法にとどまらず、法人に高額な賠償金を科す「組織罰」などの新制度も考える時だろう▼何もなくても涙が出る、子供でなく自分の世代の災害でよかったと思いたい……。和合さんと話す被災者の声は悲痛だ。和合さんは事故当時の詩作で「絶対は無い」と繰り返した。安全神話が消えた今、あの惨禍の再発をどう防ぐか。処罰や賠償とは別に、避けては通れぬ将来への責任であろう。14年目の3.11が巡りくる。

3月8日(土)、福島浜通り地区をほぼ縦断しながら考えたのは、やはり原発の件でした。常磐自動車道には「これより帰還困難区域」の標識がまだ立っています。調べたところ、いまだに7つもの自治体(南相馬市、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村)に同区域が設定されているとのこと。当会の祖・草野心平がらみでたびたびお邪魔している川内村さんは入っていませんが、それでもまだまだという感じです。

一面コラム、心平、と言えば、3月5日(水)の『朝日新聞』さん。

天声人語

カエルの詩人と言われた草野心平に「冬眠」という作品がある。故郷の福島県いわき市にある記念文学館で、自筆原稿を見た。400字詰めの用紙の真ん中に、ぽつんと「●」があるだけ。土の中での孤独、静寂、暗闇。そんなものを凝縮させたのだろうか▼きょうは二十四節気のひとつ、啓蟄(けいちつ)である。長井冬の眠りから覚めた虫や小動物たちがもぞもぞとうごめき出す。先週末の思わぬ暖かさで、一足早く穴ぐらを出ていたのも、いたかもしれない▼それが一転。都心ではきのう、夕刻から冷たい雨が降り始めた。大雪になる恐れから、高速道路が通行止めになった。地表に這い出ようとしていたカエルたちも、こりゃいかんと慌てて引き返したに違いない▼春の神様はじつに思わせぶりで、いったん天気が回復しても、もう一度、真冬並みの寒さになる地域もあるようだ。一方で、ダウンコートにマフラー姿で出社したのに、帰りの電車では汗ばんだりする。そうやって一進一退を繰り返しながら、季節は巡ってゆくのだろう▼カエルの声を聞けば詩情を誘われ、「生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける」。そう言ったのは古今集である。でもビルの街では、春を迎えた彼らの喜びを耳にすることはかなわない。草野心平の「春のうた」で、その日を想像してみる▼〈ほっ まぶしいな。/ほっ うれしいな。/みずは つるつる。/かぜは そよそろ。/ケルルン クック。/ああいいにおいだ。〉もう、あとわずかだ。

「冬眠」は、「世界一短い詩」とも称されています。昭和3年(1928)、光太郎が序文を書いた心平詩集『第百階級』に収められました。
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冬眠から醒めたカエルたちが、充満した放射線に驚いて「こりゃいかんと慌てて引き返」す、そんな状況にしてはいけないと、改めて思うのですが……。

【折々のことば・光太郎】

今年は多分五月末か六月初旬頃十和田湖に行く事になりさうです。その頃が風景絶佳とききました。


昭和27年(1952)4月11日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎70歳

「十和田湖に行く」は、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のための現地下見です。この際には心平も同行しました。

3月8日(土)、福島県相馬市図書館さんで今月1日に始まった「相馬に縁(ゆかり)の芸術家たち」というミニ展示、歴史資料収蔵館で光太郎の父・光雲の孫弟子にあたる佐藤玄々(朝山)の彫刻を拝見後、愛車を南に向け、いわき市に向かいました。この日メインの目的であるいわき市立草野心平記念文学館さんでの文芸講演会「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」拝聴のためです。

途中で昼食を摂り、さらに若干早く着いてしまったので、館近くの小川諏訪神社さんに参拝。
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当会の祖・草野心平が生まれ育った旧小川村ということで、もしかすると少年時代の心平が訪れたんじゃないかな、などと思いながら参詣いたしました。もっとも、悪童だったであろう心平のことですので、屋根によじ登ったり床下に入り込んだりといった悪さをしていたかもしれません(笑)。

さて、館に到着。
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まずは光太郎をはじめ(言葉の綾ではなく、実際に導線上の「い」の一番に光太郎です)、様々な人物からの来翰などが並んでいる常設展を拝見しました。さらに「スポット展示」ということで、心平実弟にして光太郎と交流があり、歿後に第2回高村光太郎賞を受賞した草野天平に関わる展示も為されていました。以前の天平のスポット展示では、天平が受け取った高村光太郎賞の賞牌(光太郎が彫った木皿を光太郎実弟の豊周が鋳金したもの)が展示されましたが、残念ながら今回は無し。

講演会の受付を済ませ、ホールへ。午後2時、開会。
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講師は福島大学さん名誉教授の澤正宏氏、そして同大で氏の薫陶を受けられた詩人の和合亮一氏。講演というより、澤氏のご編著『草野心平研究資料集』第1回配本 全3巻(クロスカルチャー出版)を軸とした公開対談という趣でした。
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澤氏は智恵子の故郷・二本松市の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会さん主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさっていて、久しぶりにお目に掛かりました。和合氏とはさらに久しぶりで、このブログを始める前(さらに言うなら東日本大震災前)の平成20年(2008)と翌年の智恵子を偲ぶレモン忌の集いでお会いして以来でした。お二人のお話、随所で光太郎にも触れて下さり、ありがたく存じました。

それ以外に興味深かったのは戦時中の件。戦前にはアナキストとも言える立ち位置だった心平が、日中戦争時には中華民国政府(王精衛政権)の宣伝部顧問となり、光太郎も参加した大東亜文学者大会の実施に奔走したりしました。大政翼賛会中央協力会議の議員や日本文学報国会詩部会長を務めた光太郎と重なります。しかし心平、光太郎ほどには戦意高揚の翼賛詩的なものを書いていません。それを書けないほど忙しかったのではないかと当方は考えています。また、戦後、光太郎は自らの戦争責任を断罪する連作詩「暗愚小伝」を発表しましたが、心平はそうしたこともしませんでした。心平にしてみれば「言い訳はしたくない」という気持ちだったのではないでしょうか。

この時期、東京大空襲80年ということもあり、いろいろ考えさせられました。

ちなみに心平、敗戦時も中国にいて、国民政府軍に拘束され、収容所行き。その際に持っていた光太郎や宮沢賢治からの来翰、光太郎に貰った智恵子の紙絵四枚なども含め、財産は没収されました。紙絵に関しては後に「いまとなってはむしろ、私の家なんかにあるよりは中国のどこかの家に飾ってあってくれれば、とも思うのだが。」(「高村光太郎・智恵子」昭和39年=1964 『新潮』掲載)と、心平は書きました。

終演後、お二人とお話しさせていただきました。

澤氏からはお願い。『草野心平研究資料集』の今後の配本に、当方が平成28年(2016)、心平を偲ぶ「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」で「草野心平と高村光太郎 魂の交流」と題して語ったものの筆記(心平記念館さんの館報第19号に掲載)を転載したいとのこと。大したお話をしたわけでもないのにそんなのを載せて下さるとは、と、逆に恐縮してしまいました。

和合氏には、ドサクサに紛れて昨年刊行された御著書『エッセイ三昧』を持参し、サインしていただきました(笑)。
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お二人の今後のさらなるご活躍、同館のますますのご発展を祈念いたします。

以上、福島浜通りレポートを終了いたします。

【折々のことば・光太郎】

山では今バツケが出てきたところです。


昭和27年(1952)4月3日 森荘已池宛書簡より 光太郎70歳

「バツケ」は新仮名遣いでは「バッケ」。ふきのとうを表す方言です。蟄居生活を送っていた岩手花巻郊外旧太田村では4月頃芽を出すのですね。

当会事務所兼自宅の裏山ではもう盛んに出ています。
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かたわらにはオオイヌノフグリも咲いていました。
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こう書くとのどかな里山のようで、まぁ実際、昼間はそうなのですが、油断は禁物。下の画像は何かお判りでしょうか。
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おそらくイノシシの足跡です。

17歳で逝ってしまった愛犬が健在の頃、夕方、一緒に散歩していて3回ほど遭遇しました。春になり、きゃつらも活発になってきたようです。

昨日は福島県に行っておりました。本来、そちらのレポートを書くべきですが、先に同じ福島県でのイベントを2件ご紹介します。うち1件はもう明後日でして。

それぞれ光太郎智恵子には直接関わりませんが、光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)由来の「ほんとの空」、そこから派生した「ほんとうの空」の語を冠して下さっています。

25年3・11ふくしま集会 ~原発事故は終わってない~

期 日 : 2025年3月11日(火)
会 場 : 郡山市労働福祉会館大ホール 福島県郡山市虎丸町7-7
時 間 : 集会 13:00~ デモ行進 15:45~
料 金 : 無料

ほんとの空の下で語られる本当の声を聴きに来てください。

311原発いらない福島実行委員会では、「原発事故は終わっていない」をスローガンに集会を開催します。今年の基調講演は、後藤政志さんです。「原発に頼ることの愚かさ」についてお話していただきます。集会の後にライブ(会場:Kouriyama#9 開演17:30)もあります。
ぜひ、お出かけください。

【基調講演】「原発に頼ることの愚かさ」
       講師 後藤政志さん(元東芝原発設計技術者・原子力市民委員会委員)
【パネルディスカッション】
      「福島第一原発事故について私たちが知るべきこと~現状と今後に備えて~」
       コーディネーター・片岡輝美さん 
       パネラー 後藤政志さん 千葉親子さん
【女川原発差止め訴訟からビデオメッセージ】
【福島の取り組みからの報告】

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昨年の石破政権発足後、原子力政策に関してそれまでの「可能なかぎり依存度を低減する」という文言が削られ、ちゃっかり「原子力の最大限利用」という真逆の文言が加えられました。原発の老朽化や廃棄物の処理、避難計画の不備等、問題点には蓋をして、です。期待されていた再生可能エネルギー関連でも不祥事等が連発。原発回帰を進めるためにわざわざそうした工作を行っているのではと勘ぐりたくなります。

もう1件。

第18回 声楽アンサンブルコンテスト全国大会- 感動の歌声 響け、ほんとうの空に。 -

期 日 : 2025年3月20日(木・祝)~3月23日(日)
      3月20日(木・祝) 中学校部門 
      3月21日(金) 高等学校部門
      3月22日(土) 小学生・ジュニア部門、一般部門
      3月23日(日) 各部門金賞受賞団体による本選、表彰式
会 場 : ふくしん夢の音楽堂(福島市音楽堂) 福島県福島市入江町1-1
時 間 : 各日、開場9:30 開演10:00
料 金 : 各部門予選  前売り 2,500円 当日 3,000円 
      本選     前売り 3,000円 当日 3,500円
      4日間通し券 前売りのみ 9,000円

 声楽アンサンブルコンテスト全国大会は、音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」 に焦点をあてた、2名から16名までの少人数編成の合唱グループによるコンテストです。
 全国の合唱レベルの向上を図るとともに、歌うことの楽しさを福島から全国に発信することを目的として、2008年(平成20年)から開催、今大会で第17回目を迎えました。
 本大会の特色として、伴奏楽器及び伴奏の形態が自由で多様な合唱音楽を追求、部門、年代を越えて演奏し合います。また、海外の合唱グループも公募し、音楽を通じて交流を図ります。
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平成23年(2011)に予定されていた第4回大会が東日本大震災発生直後で中止となり、平成25年(2013)の第6回大会からサブタイトルに「ほんとうの空」の語を冠し続けて下さっています。

コロナ禍による中止もあり、一昨年から旧に復しましたが、その後、出演団体も増加しています。智恵子の母校・福島高等女学校の後身で、かつて鈴木輝昭氏作曲の「女声合唱とピアノのための 組曲 智恵子抄」を持ち歌にしていらした福島県立橘高等学校合唱団さんが出場なさいます。

それぞれご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

花や虫や雪や雲や鳥や人の事が書いてあり、巻末の方には次々とフランスの芳りに満ちた文章があつたのでどんなに喜んだ事でせう。山中にゐて小生フランスに飢ゑてゐる次第です。


昭和27年(1952)4月10日 串田孫一宛書簡より 光太郎70歳

エッセイ集『孤独なる日の歌』を贈られ、その礼状の一節です。串田は当会の祖・草野心平主宰の『歴程』同人でした。

最近流行りの個人開設型オンラインショップ。中小企業さん、個人商店さん、それから純粋に個人の方も出店なさっています。

そのうちのminneさんというサイトに登録されている小野屋善行商店さんというショップで、流行りの「文豪」ものグッズをいろいろと出品されていますが、光太郎もラインナップに入れて下さいました。

【少部数テスト販売】高村光太郎(文豪のしおり)

文豪のしおり、高村光太郎「火星が出てゐる」

しっとりした触感の特殊紙に、クリアインクで地紋が印刷されています。
厚みは0.38ミリ。しっかりとした質感があり、しおりとして使いやすいです。

※本商品はAdobe Illustratorで入稿データを作り、印刷屋さんに発注して印刷したものです。
(家庭用プリンターや、コンビニプリントは使用しておりません)

定価 350円(税込)
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同店では以前から「文豪のしおり」「文豪スマホケース」「文豪アクリルキーホルダー」の、それぞれをいろいろ取り揃えてらっしゃいますが、今月初めに「文豪のしおり」が「少部数テスト販売」ということで種類が増やされました。

「少部数テスト販売」のラインナップは以下の通り。
 夢野久作「瓶詰地獄」 菊池寛「恩讐の彼方に」 高村光太郎「火星が出てゐる」
 三好達治「雪」 泉鏡花「天守物語」 梶井基次郎「檸檬」 萩原朔太郎「天上の縊死」

以前から売られているのは以下の通り。
 中原中也「北の海」 太宰治「人間失格」 江戸川乱歩「黒蜥蜴」
 佐藤春夫「星のために」 宮沢賢治「星めぐりの歌」 芥川龍之介「羅生門」
 北原白秋「片恋」 織田作之助「勧善懲悪」 坂口安吾「風と光と二十の私と」
 中島敦「山月記」
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光太郎と梶井は売り切れてしまったようですが、売り切れるということは人気が高かったということなので、追加で制作していただけるのではないでしょうか。ちなみに光太郎の最後の一枚を注文したのが当方のようです(笑)。

印刷されているのは詩「火星が出てゐる」(大正15年=1926)の一節。「あなたの好きな高村光太郎の詩は?」といったアンケートでもやれば、第10位くらいに入るのではないかと思われます(笑)。かえってそのくらいの玄人好みの作品を扱って下さるのもありがたいところです。

ぜひ追加販売をお願いしたいところですし、そうなった際には皆様、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

遠路を恐縮でした。御一緒に温泉で二夜を過ごした事は愉快でした。小生の録音はやはり変な声でした。それに少々しやべり過ぎたやうです。


昭和27年(1952)4月3日 真壁仁宛書簡より 光太郎70歳

真壁は山形在住の詩人。前月27日に花巻温泉松雲閣真壁との対談が録音され、30日にNHKラジオでオンエアされた事に関わります。

録音された自分の声を聞くと違和感を感じますね。これは自分では声帯の振動が頭蓋骨を通じて直接的に伝えられる「骨導音」という音を聞き慣れているからで、現代では常識ですが、当時はそういう知識が広まって居らず、光太郎、ことあるごとにマイクなどのせいにして怒っていました。

注文しておいた書籍が届きました。

井上涼の美術でござる 二の巻

発行日 : 2025年3月5日
著者等 : 井上涼
版 元 : 毎日新聞出版
定 価 : 2,500円+税

NHK Eテレ「びじゅチューン!」で大人気・井上涼はじめての美術まんが、第二巻!!

土偶アイドルをプロデュース/ナゾ遊園地「ムンク園」で大絶叫/年越しフェスに全国の「麗子」さん集結/《鳥獣戯画》の動物たちと大運動会などなど、井上涼ワールド、全開!!

毎日小学生新聞で2016年~連載中。待望の書籍化! 忍者Bと忍者Cが有名な芸術家たちに絵の描き方を習ったり、モデルになったり、一緒に遊んだりしながら、美術作品を紹介するよ。

オールカラー、美術作品画像100点超掲載! もっと美術が身近になる、てんやわんやの27話収録。
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もくじ
 はじめに
 Ⅰ 僕の後ろに道はできる!
  岡本太郎の巻 高村光太郎の巻 年忘れ!麗子フェスの巻 黒田清輝の巻 青木繁の巻
  吉田博の巻 高橋由一の巻 【井上涼のもう一枚】岸田劉生《麗子像》
 Ⅱ 古(いにしえ)からのメッセージ♥
  古代エジプトの巻 キトラ古墳の巻 兵馬俑の巻 土偶の巻
  【忍者B・Cの美術で七変化】
 Ⅲ 極楽浄土で遊びましょ
  奈良薬師寺の巻 空也上人の巻 鳥獣戯画の巻 雪舟の巻 刀剣の巻 
  【井上涼のもう一枚】雪舟《四季山水図》
 Ⅳ マネできない世界観!
  フェルメールの巻 ルーベンスの巻 レンブラントの巻 マネの巻 ルソーの巻
  カラバッジョの巻 ミュシャの巻 ムンクの巻 カンディンスキーの巻
  モンドリアンの巻 モディリアーニの巻
 おわりに
 作者の言葉


『毎日小学生新聞』さんに平成28年(2016)から連載されている井上涼氏による漫画の単行本化です。見開き2ページで一人の美術家や美術作品を取り上げ、NHK Eテレさんで放映中の「びじゅチューン!」にも通じるシュールな井上涼ワールドが展開されています。

我らが光太郎は平成31年(2019)に取り上げられ、この巻に収録されました。その頃から単行本化を期待していたのですが、ようやく実現しました。

ちなみに「一の巻」も同時発売。こちらの目次は以下の通りです。

 Ⅰ 絵画にインタビューの術!
  ルノワールの巻 モネの巻 ドガの巻 画家ボウリング大会の巻
  ゴッホとゴーギャンの巻
 スーラの巻 メアリー・カサットの巻 
  【井上涼のもう一枚】スーラ《サーカス》《サン・ドニの牧草》
 Ⅱ 巨匠集まれ~
  レオナルド・ダ・ヴィンチの巻 ミケランジェロの巻 松方幸次郎の巻 トーハクの巻
  まきまき四大絵巻の巻 狩野永徳の巻 【井上涼のもう一枚】長谷川等伯《松に秋草図》
 Ⅲ お江戸でお絵かき修行
  歌川国芳の巻 葛飾北斎の巻 東洲斎写楽の巻 歌川広重の巻 円山応挙の巻
  尾形光琳の巻 野々村仁清の巻 尾形乾山の巻 伊藤若冲の巻 【芸術家の言葉】
 Ⅳ モデルになってくれ!
  マリー・アントワネットの巻 ロダンの巻 ポンポンの巻 ジャコメッティの巻
  ガウディの巻

『毎日小学生新聞』さんでは、光太郎の父・光雲も一昨年に取り上げられました。今後、「三の巻」「四の巻」と続刊される中で収録されてほしいものです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

今年は厳冬がつづましたので先年いただいた台湾のキヨウとかいふ獣の毛皮をチヤンチヤンコの下に着るやうにしましたら大変凌ぎ易く感じました。


昭和27年(1952)3月12日 野末亀治宛書簡より 光太郎70歳

キヨウ」はキョンですね。

当方自宅兼事務所のある千葉県では、レジャー施設から逃げ出したキョンが野生化して大繁殖し、農作物への被害などで困っています。千葉でも南部の安房地域が中心ですが、徐々に生息域が北上中とのこと。やがて北部の自宅兼事務所近辺にも出没するかも知れません。彼等に罪はないのですが……。

岡山県からイベント情報です。

岡山県詩人協会 第10回詩を楽しむ会ー智恵子抄ー

期 日 : 2025年3月16日(日)
会 場 : 岡山市オリエント美術館地下講堂 岡山市北区天神町9-31
時 間 : 14:00~16:00
料 金 : 500円

高村高太郎作智恵子抄及び安藤次男(郷土の詩人)の詩・散文の朗読、詩人の斉藤恵子さんの講演

申し込み不要

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岡山県詩人協会さんの主催。同会の初代会長は、光太郎と交流のあった現在の赤磐市出身の永瀬清子でした。

ちなみに「高村高太郎」ではなく「高村光太郎」なのですが、遠く大正時代から「あるある」ですので仕方ありますまい(笑)。
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ご興味お有りの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

例のテープ式録音などの不完全なものは殆ど聴くに堪へぬものになり勝ちで、しばしばラジオできかされて、ひんしゅくして居ます。設備と技術との未熟なものにひつかかる事を、おそれてゐます。


昭和27年(1952)3月5日 真壁仁宛書簡より 光太郎70歳

真壁は山形在住の詩人。NHKラジオで光太郎と真壁の対談を放送したいということで、それに対する返答の一節です。

光太郎としては乗り気ではありませんでしたが、結局、この月27日に花巻温泉松雲閣で録音が行われ、30日にオンエアされました。この対談はカセットテープやCDに収録されて市販もされていますし、NHKラジオ第2さんで平成28年(2016)に放送されたりもしています。

当初、収録に難色を示していた光太郎でしたが、始まると興が乗ってきたようで、当初予定になかった自作詩朗読も録音させました。いずれも「智恵子抄」所収の「風にのる智恵子」「千鳥と遊ぶ智恵子」「梅酒」でした。

自作詩朗読

明日から3月ですね。ここ数日、関東では春の陽気となっています。自宅兼事務所のある千葉では一昨日、昨日と最高気温が15℃ほどでしたし、明日は20℃くらいになるそうです。

そんなこんなで、自宅兼事務所の裏山では梅がほぼ満開となっています。梅に付きもののウグイスの鳴き声もしきりに聞こえています。
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冬を愛し、「冬が来た」などの冬の詩をたくさん遺した光太郎ですが、春の詩も書いています。
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    梅花かをる

 梅花(ばいくわ)かをる。
 霜白き厳寒の天地を破りて
 梅花のかをりすでに春をめぐらす。
 日本の梅花いさぎよくして
 かの羅浮仙(らふせん)の妖気を帯びず、
 そのかをり直ちに剣(つるぎ)を感ぜしめ、
 清浄(しやうじやう)、人を奮起せしむ。
 されば若き武人の箙(えびら)に挿さんとするは
 一枝(いつし)の梅花に外ならず、
 花かんばしくして
 人また千載に遺芳をおくる。
 梅花のかをりふと路にただよふ時
 人たちまち精神の高きにつき
 心に汚(けが)れなからんことを期す。
 凜冽のあした梅花かをりて
 武人の道統さらに新しく、
 厳冬のうちに炸裂して
 天と地とに脈脈の生気を息吹くもの、
 梅花かをる、梅花かをる。
 いま皇国未曾有の戦機迫りて
 人ただ大義奉公の一念に燃ゆ。
 この年二月梅花また白玉(はくぎよく)を点綴して
 そのかをり人心を粛然たらしむ。
 ゆくりなく社頭の臥龍(ぐわりよう)を拜して
 梅花にかをる皇国古今の節義をおもふ。

終戦の年(昭和20年=1945)2月、日本報道社発行の雑誌『征旗』に載った詩です。

執筆は草稿欄外に書かれたメモに依れば「一月十日夜」です。1月10日では東京で梅は咲いていなかったでしょう。しかし、雑誌が発行される頃には梅も咲き始めるだろうということで梅をモチーフにしています。

この手の虚構は光太郎お家芸の一つで、「智恵子抄」所収の絶唱「レモン哀歌」(昭和14年=1939)でも同じことをやっています。

写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」の一節。執筆は2月23日で、どう考えても桜には早い時期です。しかし、発表されたのが雑誌『新女苑』の4月号で、まさに桜の時期です。まぁ、「この詩が読者の目に触れる頃には写真の前に挿した桜の花かげに、すずしく光るレモンを置こう」ということなのでしょう。

こうしたインチキは光太郎に限らず多くの文学者がやっていたでしょうし、現代でも行われているような気もしますが。テレビ番組などで暮れのうちに撮影しているのに、オンエアが年明けなので「あけましておめでとうございます!」とやっているのと同じですね。

さて、「梅花かをる」。文語の格調に逃げ、「武人の道統」「皇国未曾有の戦機」「大義奉公の一念」といった空虚な語を連ね、現代の感覚では「イタい」詩です。しかし、前年あたりまでの狂気を孕んだような「鬼畜米英覆滅すべし」といった調子ではなくなり、もはや諦念も漂っているように感じます。

前年まではこんな感じでした。
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   黒潮は何が好き006

 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。
 空母、戦艦、巡洋艦、
 駆艦、潜艇、輸送船、
 「世界最大最強」を
 頂戴したいと待つてゐる。
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 来い、空母、
 来れ、戦艦、
 「世界最大最強」の
 メリケン製の全艦隊。
 色は紺染め、
 白波たてて、
 みよ、
 黒潮が待つてゐる。
 黒潮は何が好き。
 黒潮はメリケン製の船が好き。

はっきり言えば光太郎、狂ってましたね。

ところが現代に於いても、こういう作品こそ光太郎詩の真骨頂、これぞ皇国臣民の鑑、惰弱な現代人はここに学べ、と、涙を流してありがたがる輩が少なからずいるのも現状です。嘆かわしい。

いろいろなところで言及されていますが、今年は昭和100年、戦後80年。これを機に「あの時代」を正しく省察すべきと思われます。

【折々のことば・光太郎】

今雪の下でホウレン草が育つてゐることでせう。もうハンの木の花が出かかつてゐます。

昭和27年(1952)3月5日 内村皓一宛書簡より 光太郎70歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村。梅はまだだったようですが、小屋の周りに自生していた榛の木(やつか)の花がほころびつつあったようです。榛の木の花も杉や檜同様、花粉症のアレルゲンとなるそうですが……。

永らく絶版となっていた臼井吉見の長編小説『安曇野』全五巻。新宿中村屋さんの創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻、光太郎の親友・荻原守衛らを軸に、信州安曇野ゆかりの人々の群像が明治30年代から戦後までを舞台に描かれています。守衛とのからみで光太郎も登場します。大河ドラマ化要望運動も起こっており、地元安曇野で復刊に向けてのクラウドファンディングなども為されていましたが、その甲斐あって限定復刊だそうです。

安曇野生まれの臼井は昭和15年(1940)、同郷の古田晁らと筑摩書房を設立、戦後の同21年(1946)、雑誌『展望』を創刊し、編集長に就きます。『展望』には光太郎作品がたびたび掲載されました。発刊の年に詩「雪白く積めり」、翌昭和22年(1947)には幼少期からの来し方を振り返り、戦時中の翼賛活動を自ら断罪した20篇からなる連作詩「暗愚小伝」など。

信州松本平地区をカバーする『市民タイムス』さんに先月出た記事。

臼井吉見著 長編大河小説『安曇野』文庫版 3月2日に復刊 お披露目・販売会も 長野県安曇野市

 長野県安曇野市は14日、太田寛市長肝いりで計画している絶版の長編大河小説『安曇野』(筑摩書房)の復刊が、3月2日に決まったと発表した。市内でお披露目・販売会も開く。安曇野の名を全国に広めた小説を通して、多くの先人を生んだ安曇野の風土を誇りとして再認識してもらう狙いがある。ただ、2000人を超える人物が登場する大作を読み通すのは難儀で、市民に身近に感じてもらう工夫が求められる。
 復刊数は文庫版第1~5部の1100セット(1セット税込み7040円)。お披露目・販売会は同日に堀金総合体育館で開き、文芸評論家・斎藤美奈子さんのトークなどを行う。復刊本は市内の小中学校や高校、図書館などにも置く。市の予算に加え、クラウドファンディング(CF)と企業・団体からの寄付で集まった299万6000円を費用に充てた。
 安曇野市堀金出身の作家・臼井吉見(1905~1987)の作で、昭和49(1974)年に完結した小説『安曇野』は、新宿中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻、近代彫刻の先駆者・荻原碌山など安曇野ゆかりの5人を中心として、明治から昭和にかけての激動の社会を描く。3回完読したという太田市長は14日の定例記者会見で、これだけ多くの先人を輩出した田園地域は全国的に少ないとし「先人が安曇野をベースに日本全国、世界に飛躍していった歴史(の物語)を、ぜひ若い人に読んでほしい」と話した。
 ただ、原稿用紙約5600枚分にもなる大作を読むには時間と労力がいる。太田市長は、読みやすくする改編が著作権上難しいとした上で「市の広報であらすじを紹介するなどの方法で、関心を抱いてもらう取り組みをやりたい」としている。
 市は『安曇野』を基にしたNHK大河ドラマ化も目指している。
 お披露目・販売会の参加希望者は2月4日までに、市ホームページから電子申請するか、ダウンロードした参加申込書を送付して申し込む。定員300人。
 問い合わせは市政策経営課(電話0263・71・2401)へ。
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003安曇野市さんのサイトに詳しい購入方法が書かれています。

3月2日(日)にはお披露目会もあるそうですが、早々に定員に達してしまったようです。地元の皆さんの関心の高さがうかがえます。「教育県」長野というのも背景にあるかも知れませんね。大河ドラマ化はなかなかハードルが高いと思われますが……。

今回の復刊は全五巻セットでの販売のみ。古書店のサイト等では分売も行われています。光太郎が登場するのは第二巻(第二部)。あるいは各地の公共図書館さんなどにも収蔵されているのではないでしょうか。

ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

年末年始の頃から一月一ぱいまるで筆をとらずに居りました。昨年同期に肋間神経痛を起したので今年は用心した次第でございます。


昭和27年(1952)2月1日 野末亀治宛書簡より 光太郎70歳

肋間神経痛は宿痾の肺結核によるもの。前年にはそれがひどく、農作業もほとんど放棄してしまいました。「一月一ぱいまるで筆をとらず」ということで、前月の書簡は3通しか確認出来ていませんし、毎年恒例だった書き初めも行わなかったようです。

養生に努めた結果、痛みはほぼ無くなりました。しかし結核自体が寛解するべくもなく、一時的なものだったようです。ただ、症状の改善は彫刻再開を決意する後押しにはなりました。

福島から講演会情報です。当会の祖・草野心平がメインですが、おそらく光太郎にも触れていただけるであろうと思われますので……。

文芸講演会「詩人・草野心平─いかに心平が心平になったか」

期 日 : 2025年3月8日(土)
会 場 : いわき市立草野心平記念文学館 福島県いわき市小川町高萩字下タ道1-39
時 間 : 14:00~15:30
料 金 : 無料

講 師 : 澤正宏氏(福島大学名誉教授)、和合亮一氏(詩人)

草野心平と同郷の福島県で詩を教える澤氏と、詩を書く和合氏の師弟コンビが、草野心平の詩について語ります。

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講師お二人のうち、澤氏は智恵子の故郷・二本松市の智恵子のまち夢くらぶ~高村智恵子顕彰会さんにいろいろご協力下さり、同会主催の「智恵子講座」講師を複数回務められたり、同じく「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」審査委員長を務められたりなさいました。他にもNHKカルチャーさんでの講座、様々な御著書御編著等で心平や光太郎について取り上げて下さっています。

和合氏はつい先日も御著書を紹介させていただきました。福島大学さんのご出身ということで、その頃に澤氏の薫陶を受けられたのでしょう。

講演テーマが「詩人・草野心平-いかに心平が心平になったか」。光太郎をして「詩人とは特権ではない。不可避である。詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。」と評せしめた心平ですので、光太郎との交流が生じなかったとしても不可逆的に詩人となっていたと思われますが、光太郎と親しく交わったことでより一層、花開いたのではないかと思われます。そういったお話になることを期待いたしております。
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ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

その後の都合を見てゐましたが、どうもまだ下山出来さうもありません。やりかけの仕事がまだ片付きません。今年は山も異常に温く、畑の青菜が育ちお雑煮に使へさうです。阿部さんにもらつたお餅もあり、元日には先生御一家をしのんで杯をあげませう。

昭和26年(1951)12月28日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎69歳

正月をわが宅で過ごされませんか、という総合花巻病院長・佐藤隆房の誘いに対する断りの返答です。

結局、こうして昭和26年(1951)が暮れて行きました。

刊行から3ヶ月近く経ってしまい、新刊とは言い難いのですが……。

エッセイ三昧 

発行日 : 2024年11月25日
著者等 : 和合亮一
版 元 : 田畑書店
定 価 : 2,750円(税込)

東日本大震災直後の福島からTwitterで詩を発信し続け、その詩は世界各国で翻訳されて、フランスでは第一回ニュンク・レビュー・ポエトリー賞を受賞。世界が認める詩人・和合亮一はまた、福島の高校で教鞭をとる国語教師でもある。毎朝、通勤電車に揺られて学校に通う日々、巣立っていく息子への思い……ごく普通の生活から〝詩〟が生まれていく過程を、直截に、ユーモアを交えて綴った、ほぼ10年にわたるエッセイの集大成! 特に中原中也、三好達治、草野心平から谷川俊太郎など19人の詩人について、その詩の本質を平易に、また柔らかく語った「ルミナスラインをあなたへ」は圧巻。

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目次
 朝の文箱(南日本新聞連載)12篇
  手と手に/父心/床屋で祖父に励まされる/日曜日には襟を正して 他
 詩ノ交差点アリマス(河北新報連載)72篇
  詩を書いている和合です/講演しながら耳を澄ませ 他
 震災からの日々(各紙誌掲載)12篇
  骨が記憶する揺れ/十年目の春/あのときの子どもたち 他
 詩人のあぐら(平凡社「こころ」連載)8篇
  千の天使の三点シュート/五十二ニシテビラヲ配ル 他
 通勤の車窓から(各紙誌掲載)7篇
  竹、竹、竹が生え。/震災と賢治/月に叫んじゃえ 他
 ルミナスラインをあなたに(雑誌「一個人」連載)22篇
  長田弘/茨木のり子/いとう りおな/関根弘/菊田心/吉野弘/金子みすず/高橋順子
  高村光太郎/三好達治/室生犀星 1/室生犀星 2/草野心平 1/草野心平 2/大岡信
  大和田千聖/谷川俊太郎/中原中也 1/中原中也 2/田村隆一/野口武久/石垣りん


福島市ご在住の詩人・和合亮一氏が新聞・雑誌等に連載されたエッセイの集成です。先日上京した折、日本橋の丸善さんにフラッと立ち寄り、発見しました。

雑誌『一個人』に連載されていた「ルミナスラインをあなたに」中に光太郎の項がありました。ちなみに「ルミナスライン」とは、和合氏曰く「詩の中に、あなたにとって輝くようなフレーズが見つかるといい。それを「ルミナスライン」(光る詩の行)と呼んでいきたい」。そこで、古今の詩人(職業的詩人以外も含む)の作品を毎回一篇ずつ取り上げ、わかりやすく解説。光太郎詩は「冬が来た」(大正2年=1913)でした。他に当会の祖・草野心平の項でも光太郎に言及されています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

写真お送り下さつてありがたく御礼申上げます、一九五一年のよい記念になりますし新生活発足の日の貴下の撮影といふ事に愉快な意味を感じます、

昭和26年(1951)12月6日 佐久間晟宛書簡より 光太郎69歳

佐久間佐久間晟氏は宮城県歌人協会会長などを歴任された歌人。光太郎と交流のあった前田夕暮門下でした。奥さまでやはり歌人のすゑ子氏とこの年にご結婚、新婚旅行の中で花巻郊外旧太田村に逼塞していた光太郎の山小屋を訪ねられました。

平成17年(2005)、お二人が同人となられていた歌誌『地中海』に、光太郎訪問記等がすゑ子夫人のご執筆で掲載され、その後、当方、仙台でご夫妻と面会、詳しくお話を伺うことができまして、その際の聞き書きを『高村光太郎研究』第28号(平成19年=2007、高村光太郎研究会)に寄稿いたしました。

右のお二人が佐久間夫妻、左端は夫妻が泊まられた花巻温泉松雲閣の仲居さん・八重樫マサ。夫妻を山小屋に案内したそうです。

3番組ご紹介します。

まず再放送。

にほんごであそぼ「喜び」

地上波NHK Eテレ 2025年2月15日(土) 07:00~07:10

書道で学ぶにほんご(青柳美扇)・立体紙切り(辻笙)・ぐうたらちんたら/喜び、朗読(高杉真宙)/「智恵子抄 深夜の雪」高村光太郎、漢字アニメ/喜、偉人とダンス/喜びとは苦悩の大木に実る果実である(ヴィクトル・ユーゴー)、うた「ほのぼのよき」

【出演】南野巴那 高杉真宙 青柳美扇 辻笙 世田一恵 中村彩玖 川原瑛都 川田秋妃

2月10日(月)に初回放映があり、昨日も再放送がありましたが、また明朝にオンエアされます。

俳優・高杉真宙さんによる光太郎詩「深夜の雪」朗読が含まれます。
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NHKプラスさんで配信も為されていますが、ぜひご覧下さい。

同じくNHK Eテレさん。こちらも初回放映ではないと思うのですが……。

NHK高校講座 言語文化 冬が来た(高村光太郎)

地上波NHK Eテレ 2025年2月18日(火) 01:40〜02:00

この講座では、優れた日本の古典作品や、漢文・漢詩、明治時代以降に発表された文学的な文章を読み味わいます。また、それぞれの時代の人々の感じ方や考え方を紐解きます。

口語自由詩で描かれる風景を味わいます。今回、取り上げるのは高村光太郎作の口語自由詩「冬が来た」。まずは、リズムを確かめながら音読します。その後、作者は冬をどのようなものとして捉えているか、考えていきます。

【出演】高等学校教諭…齋藤祐,木本景子,【朗読】高山久美子
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こちらは公式サイトに動画が上がっていますが、このとおりの画面で放映されるのかどうか……。

ついでというと何ですが、もう1件。おそらく光太郎らにはからまないと思われますが、一応。

じゅん散歩

地上波テレビ朝日 2025年2月17日(月)~2月21日(金) 09:55〜10:25

「一歩歩けば、そこにひとつの出会いが生まれる…」
三代目散歩人・高田純次が“一歩一会(いっぽいちえ)"をテーマに自由気ままに街を歩きます!

2月17日(月) 三代目散歩人・高田純次が「根津」を散策▽人気の谷根千! 文豪に愛された街▽ボールペンだけで描く繊細アート▽ニラたっぷりの絶品中華そば

2月18日(火) 三代目散歩人・高田純次が「谷中」を散策▽外国人殺到! 名物商店街▽俊足でお馴染み…韋駄天をまつる寺▽空中庭園で人気の芋ブリュレ

2月19日(水) 三代目散歩人・高田純次が「千駄木」を散策▽人気の谷根千! 坂道と路地の街▽種類豊富! 家族で営む豆の専門店▽希少品も…舶来のボタンギャラリー

2月20日(木) 三代目散歩人・高田純次が「日暮里」を散策▽工房が並ぶ“モノづくり"の街▽職人技! ブリキ缶の塗装とは…▽全国土産品のアウトレット店

2月21日(金) 三代目散歩人・高田純次が「谷中」を散策▽人気の谷根千! リノベ施設巡り▽日本画に魅了された米国人芸術家▽街のシンボル“ヒマラヤ杉"とは…

【出演】高田純次
◆テーマ曲:斉藤和義
 『純風』 ◆エンディング曲:山下圭志 『一瞬の光』
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来週1週間が、光太郎のホームタウン・谷根千及び日暮里。「人気の谷根千! 文豪に愛された街」というワードもあり、気になるところです。

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

おハガキで御主人御逝去の事を知りました、おくやみ申上げます、戦争以来人の死ぬのを何とも思はなくなりましたが、旧知の方の他界はやはり感慨を起させられます、

昭和26年(1951)11月17日 山端静子宛書簡より 光太郎69歳

山端静子(しづ)は直ぐ下の実妹。夫の寅三逝去の報せに対する返信の一節です。「何とも思はなくなりました」は無関心という意味ではなく、死者10万人とも言われる東京大空襲、さらに終戦5日前にも花巻空襲を経験し、人は呆気なく逝くものだという無常観のようなものを刻みつけられたということでしょう。

今日のお題は「地方紙及び自治体等広報誌より」とさせていただきました。

まずは地方紙、といっても『東京新聞』さんですが、東京も一地方ですね。光太郎終焉の地・中野区の山口文象設計による貸しアトリエの元々の施工者だった新制作派の水彩画家・中西利雄についての講演会予告記事です。

水彩画の革新者・中西利雄の生涯や芸術を深掘り 中野で15日に講演会

 東京都中野区ゆかりの水彩画家で「水彩画の革新者」と呼ばれた中西利雄(1900~48)の生涯や芸術を掘り下げる講演会「中西利雄 人と作品」が15日、中野区産業振興センター3階(中野2)で開かれる。「中野たてもの応援団」主催。
 中西利雄は現在の中央区生まれ。27年東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科卒業。関東大震災後、中野区内に居を構えた。近代的水彩画法を編み出したことで昭和の水彩画史に足跡を残した。
 現在も区内に残るアトリエは、後に詩人で彫刻家の高村光太郎が晩年滞在し、制作の場として利用した。建築家ら有志が、アトリエの保存に向けて「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を立ち上げ、保存活動を続けている。
 講師は中西利雄研究の第一人者で、茨城県近代美術館の山口和子主席学芸員。
 午後2~4時、定員60人。参加無料。事前申し込みは同応援団の十川(そがわ)さん=メール=y-sogawa@tubu.jp、電090(8056)0327=へ。

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続いては、岐阜県白川町さんの広報誌『広報しらかわ』今月号に載った『町立図書館 楽集館だより』から。

館長だより▼2月に寄せて

 寒さ厳しい2月になりました。旧暦名では如月(きさらぎ)です。寒い時期、衣(ころも)を更(さら)に重ね着すると言う意味から「衣更着」(きさらぎ)と言うようになったという説があります。そこで厳しい寒さで連想されるのが高村光太郎の詩『冬が来た』です。「きっぱりと冬が来た」で始まる光太郎の詩は鋭利な刃物を連想させるような、透き通る簡潔な表現で、冬をよく表しています。彫刻家でもある光太郎は余分なものを削ぎ落とす作業を通して「冬よ僕に来い」と冬と対峙している鋭い姿勢を見せています。読み手の襟を正すような冬を代表する詩です。
 また冬は空気が澄んで星が綺麗に見える季節です。寒さで丸まった背中を伸ばして空を見上げてみましょう。凍てついた空に無窮の宇宙を感じることと思います。そこでお薦めするのが宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』です。(星まつりの夜のお話なので季節は違いますが)列車に乗りながらの星めぐりは空想を駆り立てることと思います。『銀河鉄道999』や『千と千尋の神隠し』は『銀河鉄道の夜』の影響を受けた作品です。それだけ魅力ある作品と言えるでしょう。
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「冬が来た」というより、もういいから行ってくれ! という時期ですが(笑)。

光太郎と縁の深い宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも言及。たしかにこの時期、星がきれいですね。当方、毎朝「朝メシよこせ~」と言う愛猫に夜明け前に起こされ、ベランダからまだ明けやらぬ星空を眺めますが、千葉の田舎ですので光害もほとんどなく、よく晴れた日にはゆっくりと空を横切る人工衛星も見えるくらいです。

もう1件、長崎県雲仙市さんの広報誌『広報うんぜん』、やはり今月号です。

ぽつり(広報担当の独り言)

 年男の誓いを書いたのが2年前。あっという間に50になる年を迎えてしまった。こんな勢いで年を取るとは。中学時代に習った高村光太郎の「道程」が、最近やけに脳裏をかすめる。
 「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」。常に開拓者であれと、エールのような言葉と受け取っていた。自分の後ろにはどんな道が出来ているんだろう。怖くて振り返ることができない。20代、30代のころに見ていた50代の先輩は、もっと凜として堂々として、「ザ・大人」という雰囲気の人ばかりで、ずっと背中を追いかけていた。今、自分がそんな大人になれているだろうか。私の背中は、後輩の目にどう映っているだろうか。
 恐る恐る20代の同僚にぼやいてみた。返ってきたのは「それに気付くだけでも成長しているってことじゃないですかね」ですって。参った。慰めにも似た悟りの言葉。俺より大人じゃん。そうだ、振り返るにはまだ早い。「やたらと計算するのは棺桶に近くなってからでも、十分出来るぜLIFE IS ON MY BEAT」。高村光太郎からの氷室京介コンボ。中学時代から変わらぬ脳みそと心意気だけで全力疾走することを、1カ月遅れの年初の誓いとします。(亮)
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広報担当氏、「道程」から氷室京介さんの「ON MY BEAT」を連想なさっていますが、世代の違いでしょうか、当方は中島みゆきさんの「断崖-親愛なる者へ-」を連想します。「走り続けていなけりゃ倒れちまう/自転車みたいなこの命転がして/息はきれぎれそれでも走れ/走りやめたらガラクタと呼ぶだけだ、この世では」(笑)。

岐阜県白川町さんにしても、長崎県雲仙市さんにしても、光太郎とは関わりのない街です。それでもこうして取り上げていただき、ありがたいかぎりです。他の自治体の方々もよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

上の原の写真は皆焼かれてしまつたのでせう。あの湯の小屋の入浴中の写真などおもしろかつたですが。 九年もたつたとは小生にも感じられません。


昭和26年(1951)10月31日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎69歳

戦時中の昭和17年(1942)10月、詩人の西山、同じく風間光作と3人で群馬県の宝川温泉から湯の小屋温泉を訪れた思い出に関わります。光太郎、宝川温泉の方は昭和4年(1929)に続き、2度目の訪問でした。

下記は宝川温泉でのショット。一緒に写っているのは宿の主人・鈴木重郎。西山か風間のどちらかがシャッターを切りました。光太郎の手元にも同じ写真があったはずですが、戦災で焼けてしまいました。光太郎の入浴中の写真、ぜひ見てみたかったと思いました(笑)。
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下記は湯の小屋温泉の古絵葉書。
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光太郎が訪れた当時、鄙びた温泉地でしたが、バブル期にはリゾートホテル、ペンション等も建ち、今も宿の軒数は多く存在します。ただ、バブル崩壊後に廃業した所も多いそうです。逆に、廃校となった分校の木造校舎を使った宿も新たにオープンしたりしています。由緒がありそうなのは「照葉荘」という宿。重厚な木造和風建築で、おそらくここに光太郎が逗留したのではないかと思われますが、詳細は不明です。泉質は単純泉、高温の湯で知られ、一帯は奥州藤原氏ゆかりの落人部落との伝説があります。

風間の回想に依れば、光太郎が語った話として、最初に光太郎が訪れた昭和4年(1929)、宝川から湯の小屋までの山道を、熊と遭遇した際のために日本刀を腰に差して歩いたとのこと。さすがに東京から刀を持って汽車に乗って行ったとも思えず、宝川で借りたのではないでしょうか。古武士のような風貌の光太郎、帯刀姿もさまになっていたのではないかと思われます(笑)。






















エッセイストにして、雑誌『暮しの手帖』元編集長であらせられ、これまでもあちこちで光太郎に触れて下さっている松浦弥太郎氏の新著です。

正直、親切、笑顔 僕が大切にしている125の言葉

発行日 : 2025年1月30日
著者等 : 松浦弥太郎
版 元 : 光文社
定 価 : 1,250円+税

「この本をあなたの大切な人に、プレゼントしてください」。エッセイスト松浦弥太郎さんが日々書きとめてきた、お守りのような言葉を一冊にまとめました。「弱いってことは強いってことなんだと思う。弱いとわかっている強さってある」「百冊の本を読むよりも、一冊の本を百回読みたい」など、苦しいときに、穏やかな呼吸を取り戻すために、紙の手触りを感じながらページを開いてほしい。紙の本を愛する人に贈る至福の一冊です。

目次
 はじめに
 正直
 親切
 笑顔

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直接光太郎と関わるわけではありませんが、タイトルが光太郎がらみです。「はじめに」から。

タイトルにした「正直、親切、笑顔」という言葉は、高村光太郎さんが花巻の小学校の生徒に贈った言葉からいただきました。この言葉は、僕の人生の出発点ともいえるものです。

正確にいうと「笑顔」は松浦氏が付け足されたもので、光太郎が贈った言葉は「正直親切」。昭和26年(1951)、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の太田小学校山口分教場が山口小学校に昇格した際、校訓として揮毫し、贈りました。

佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』より、同校初代校長・浅沼政規の証言から。

「子供たちの毎日の生活に大切な言葉を掲げ、朝夕それを仰いで、みながよい子になろうと励むようにしたいものだと考えますので、何か適当な言葉をお願いしたいと思って参りました。」
「それはいいことですね。みんなが合言葉のようにして心がけていくと自然よくなっていくでしょう。どんな言葉がよいかな。」
「太田の中学校で、先生に書いていただいたのを掲げてありますが、ああいうものでもいいのですが。」
(注・太田中学校校訓は「心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する」)
「そうですね。小学校だからむずかしい言葉では子供にはわからんでしょうからね。まあ考えておきましょう。」
 その後一ヶ月半ほどたち、いよいよ書いてみようということになったので浅沼校長さんは画仙紙を届けました。先生は
「『正直』と『親切』と二つ採ろうと思いますがどうでしょうか。どちらも子供の時からしつけていけばいいことですからね。」
「ありがとうございます。そうお願い致します。」
 何日かの後、先生がその書を学校に持参して下さいました。校長さんは厚く礼をのべ、花巻に出て、額に表具し、額を学校に掲げ生徒に合言葉となるよう指導しました。


そうして書かれたのが、下記の書。
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戦後ふうに左から右に書き、一年生の児童でも読めるようにと現代仮名遣いでルビも。旧仮名遣いでは「しやうぢきしんせつ」です。ただ、拗音を小さく書くというルールは未だ徹底されていなかった時期で、「しょう」ではなく「しよう」となっています。

そして光太郎、学芸会に招かれ、児童を前に語りました。再び『高村光太郎山居七年』から。

校訓のことですが、何か書こうと思っても何もない。太田中学校には書いてあげました。大きい人にはその意味もわかるのでよいですが、皆さんには何がいいかと考えました。結局平凡なことですが、『正直』というのを採りました。正直は人の行の根本になると思いますし、その時は損なようでも結局長い間では得になるものです。これに親切を加えました。そういうわけで、あの書をあげたのですが、学校の訓(おしえ)ともなり、又校章と相俟って将来よい校風が出来ますれば幸です。

残念ながら山口小学校は廃校となって元の太田小学校に統合、しかし跡地には光太郎に贈られた「正直親切」の語を刻んだモニュメントが建てられました。
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こうしたいきさつに感銘を受けた、光太郎と交流があり、埼玉県東松山市の教育長であらせられた故・田口弘氏は、昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さん校庭に同じ文字を使った碑を建立。さらに光太郎母校の荒川区第一日暮里小学校さんでも、昭和60年(1985)、創立百周年記念にこの言葉を刻んだ碑を建立しました。同校では学校便りのタイトルも「正直親切」です。
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さて、松浦氏の御著書。光太郎に触れられているのは「はじめに」だけなのですが、「正直」「親切」「笑顔」の三章に分け、「なるほど」と思わせられる言葉が並んでいます。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

詩集“琉球”ありがたくいただきました。大変美しい本が出来てうれしい事です。表紙の紅形を飽かずながめました。紙もきれい、印刷もきれい、詩もきれいです。かういふきれいさがだんだん世の中に少くなつてゆくやうな気がします。

昭和26年(1951)10月15日 矢野克子宛書簡より 光太郎69歳

矢野克子は明治38年(1905)、沖縄生まれの詩人です。詩集『琉球』はこの年刊行された詩集で、表紙には伝統の琉球紅型(びんがた)のデザインを使っていました。
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