カテゴリ: 文学

年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』。最新号の第十九号が届きました。
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いつも書いていますが、同人にしてくれと頼んだ覚えは一切ありませんが、「連翹忌通信」という連載を持っています。評論ともエッセイともつかない駄文ですが(笑)。

前号に引き続き、キーワードは「佐佐野旅夫」。当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、明治45年(1912)の雑誌『スバル』に載った「佐佐野旅夫」署名の戯曲「地獄へ落つる人々」を、光太郎の変名によるものではないかと推理され、「参考作品」として『高村光太郎全集』の別巻に掲載された件について。

残念ながら北川先生の推理は外れで、「佐佐野旅夫」は佐々木好母という人物が使っていたペンネームだと判明した件を前号に書きましたが、佐々木は明治末から戦後にかけて(途中、疎遠になっていた時期もあったようですが)光太郎と交流があり、そんなわけで北川先生が光太郎作品と見まごうような戯曲を書いていたのだ、的なことを今号には書きました。さらに佐々木の経歴、光太郎やその親友・水野葉舟との交流などについても。

ちなみに戯曲「地獄へ落つる人々」、『スバル』本誌では「佐佐野旅夫」クレジットでしたが、他誌に載った広告では本名の「佐々木好母」で紹介されていました。
地獄へ落つる人々
詳しくは奥付画像を載せておきますので、御注文の上『とんぼ』をお読み下さい。
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拙稿の件を先にご紹介して申し訳なかったのですが、目次は以下の通り。
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編集に当たられている曽我貢誠氏が、当方も幹事に名を連ねています「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の世話役、版元の文治堂書店さんの社主・勝畑耕一氏も同会メンバーで、随所に保存運動の件も書かれています。

他に北川先生の御子息・光彦氏、朗読のイベントなどでお世話になっている服部剛氏などの玉稿も。

頒価は600円だそうです。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「典型」の表紙、見返し、扉、外函の装幀原図がやつと決定しましたので、宮崎さん宛送ります。書留にするには集配人をつかまへるのが一苦労です。


昭和25年(1950)8月23日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

若い頃からの選詩集的なものを除き、光太郎生涯最後の詩集となった『典型』。おそらく自分でも生涯最後の詩集とするつもりだったようで、装幀は気合いを入れて自分で行い、題字も自分で刻んだ木版でした。
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典型
扉の案のうち、左の二つはボツにしたもの、一番右を採用しました。いわずもがなですが文字も自筆です。

テレビ放映情報です。

開運!なんでも鑑定団【ロダンの弟子<壮絶女性彫刻家>作に超ド級値!】

地上波テレビ東京 2024年12月3日(火) 20:54〜21:54

■東郷青児ら<超有名画家>作&プロレス史に残る<伝説!猪木秘宝>に驚き値■江戸時代…<花鳥画>大作■金色に輝く…壮絶<ロダンの弟子>女性彫刻家作に超ド級鑑定額

出演者

【MC】今田耕司、福澤朗、菅井友香   【ゲスト】大家志津香
【出張鑑定】出張鑑定 IN 愛媛県西予市  【出張リポーター】石田靖
【出張アシスタント】吉川七瀬      【ナレーター】銀河万丈、冨永みーな

光太郎が終生敬愛したロダンの弟子にして、愛人でもあったカミーユ・クローデルの代表作の一つ「ワルツ」が出品されます。
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ブロンズの場合、同一の型から複数の作品が制作出来ますが、その型が正当なものか、誰がいつどんな経緯で鋳造したかなどで、大きく評価が異なります。今回のものは番組サブタイトルに「超ド級鑑定額」とあり、どういったものか、非常に気になりますね。

この番組、鑑定結果の発表の前、出品物にまつわる作者や背景等を紹介するVがなかなか凝った作りで、それだけでも見る価値があると思います。

もう1件。

又吉・せきしろのなにもしない散歩 #140

BSよしもと 2024年12月4日(水) 19:00~19:30 再放送 12月6日(金) 16:00~16:30

ピースの又吉直樹と作家のせきしろの二人が、五七五の定型にとらわれず自由な表現をする【自由律俳句】を生み出していく。 東北各地を歩きながら様々な人やモノと出会う中で、二人のここでしか見られない独特のかけ合いや、新たな俳句を生み出す姿は必見です。

今回は福島県川内村をブラリ旅。果たしてどんな自由律俳句が生まれるのか!? かわうち草野心平記念館、秋風舎 ほか。

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この番組、30分の枠内でおおむね2~3ヶ所紹介されるのですが、今回は福島県川内村の天山文庫、同じ敷地内のかわうち草野心平記念館(阿武隈民芸館)さん、それから古民家カフェ秋風舎さんを廻ります。

天山文庫はモリアオガエルが縁で、当会の祖・草野心平を名誉村民にしてくださった同村における心平の別荘です。光太郎実弟の髙村豊周も建設委員に名を連ね、村の皆さんが一木一草を持ちより、昭和41年(1966)に竣工しました。

その手前にあるかわうち草野心平記念館(阿武隈民芸館)さん。心平に関する展示が充実し、光太郎に関しても随所で触れられています。心平が経営していたバー「学校」が再現されたりもしています。

そして天山文庫の管理人を務められていた志賀風夏さんが開かれた古民家カフェ秋風舎。こちらでも心平の息吹に接することが出来ます。

志賀さん、昨日の『朝日新聞』さんで大きく取り上げられました。東日本大震災後に始まり、その後に発生した災害を含め、全国の「被災地」で暮らす人々にスポットを当てる「てんでんこ」という連載です。
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先週は川内村特集で、11月26日(火)には心平を祀る天山祭り実行委員長の井出茂氏も。
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ところで同番組、訪れるのは東北限定でして、今年2月の第99回で、花巻の光太郎が戦後7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館さん、先月の第137回は智恵子の故郷・福島二本松の観世寺さんと智恵子生家/智恵子記念館さんでのロケでした。

二本松でのお二人の吟の一部。022

又吉さん。
 自力ではなく風に流されていく蜻蛉(とんぼ)
 鬼婆の話を聞く残暑
 不安も混乱も紙絵の川に流す
 和紙に福島の風を込める
 手漉きの和紙のごとく繊細に触れる


せきしろさん。021

 鬼婆も過ごしただろう穏やかな午後
 鬼婆カレーを食べる晩夏
 儚さが充満している額たち
 本当の空を見上げてみる
 レモンの色を探している自分がいる


次回は心平がらみの句を期待しています。

同一映像の使い回しと思われますが、もう1件。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2024年12月6日(金) 17:56〜19:00

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

「二人の星をさがそうよ」田辺靖雄     「ウェディング・ドレス」九重佑三子
「ごめんねチコちゃん」三田明       「智恵子抄」二代目コロムビアローズ
「東京の灯よいつまでも」新川二朗     「桑港のチャイナ街」渡辺はま子
「長崎の鐘」藤山一郎           「別れのブルース」淡谷のり子
「イヨマンテの夜」伊藤久男        「温泉芸者」五月みどり
「お座敷小唄」松平直樹          「浮世街道」畠山みどり
「幸せなら手をたたこう」ボニージャックス 「ラ・ノビア」ペギー葉山
「恋をするなら」橋幸夫          「愛と死をみつめて」青山和子

<司会>合田道人

それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

今後大いに書くつもりでゐます、行けるところまで行きたい、出来る限り踏み込みたいと考へてゐます、


昭和25年(1950)8月3日 伊藤信吉宛書簡より 光太郎68歳

光太郎、老いてなお盛んですね。

『朝日新聞』さんでは一面トップでした。谷川俊太郎氏の訃報。
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共同通信さん配信記事から。

詩人の谷川俊太郎さん死去 「二十億光年の孤独」

013 親しみやすい言葉による詩や翻訳、エッセーで知られ、戦後日本を代表する詩人として海外でも評価された谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが13日午後、老衰のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。喪主は長男賢作(けんさく)さん。
 父は哲学者谷川徹三。10代で詩作を始め、1952年、20歳の時に第1詩集「二十億光年の孤独」でみずみずしい言語感覚を持つ戦後詩の新人として注目された。
 詩人の川崎洋さんと茨木のり子さんが創刊した詩誌「櫂」に参加。現代詩に限らず、絵本、翻訳、エッセー、童謡の歌詞、ドラマの脚本など半世紀以上にわたって活躍した。「朝のリレー」など国語教科書に採用された詩も多く、幅広い年代の人々に愛読された。
 他の詩集に「六十二のソネット」「ことばあそびうた」「定義」。歌詞に「鉄腕アトム」や「月火水木金土日の歌」など。
 翻訳作品は「マザー・グースのうた」の他、スヌーピーとチャーリー・ブラウンが人気の漫画「ピーナッツ」シリーズや絵本「スイミー」など。

光太郎から谷川氏宛の書簡が1通、確認出来ています。
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“62のソネツト”感謝、小生、まじめな人の詩に接するのは いつでも大きなよろこびであり、又それによつて勇気づけられます、 今少しからだを痛めてゐるので猶更よむのにいいです。

昭和28年(1953)、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の制作のため中野に借りていた中西利雄アトリエから発信されたもので、氏の第二詩集『62のソネット』受贈礼状です。

この書簡、『高村光太郎全集』には洩れていたもので、『特装版現代史読本 谷川俊太郎のコスモロジー』(平成元年=1989 思潮社)中の「資料 2 献本のお礼状より2 『六十二のソネット』」に掲載されていました。
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その情報を得てこの書籍を入手、その後、この『62のソネット』が花巻に現存という情報もつかみました。

昭和46年(1971)に島根大学の広瀬朝光教授がまとめた、光太郎が蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)及び旧高村記念館所蔵の光太郎蔵書のリストに『62のソネット』が載っていました。谷川氏による「高村光太郎様 谷川俊太郎」の識語が書き込まれているとのことでした。さらに昭和27年(1952)の第一詩集『二十億光年の孤独』、同30年(1955)刊行の第三詩集『愛について』も同様に献呈署名が書かれたものがあったそうです。光太郎の遺品や蔵書類の多くは、光太郎没後に中野のアトリエから花巻に寄贈されました。その中にちゃんと残っていたのですね。

そこで、『62のソネット』以外の光太郎からの受贈礼状がお手許にないかどうか、谷川氏に問い合わせてみました。

すると、ほどなく氏から直筆のご返信。
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残念ながら他には無い、とのこと。しかし、一筆箋一枚の短いものですが、氏の直筆ということで「家宝」レベルです。

光太郎からの礼状は、平成28年(2016)に静岡三島の大岡信ことば館さんで開催された「谷川俊太郎展・本当の事を云おうか・」、同30年(2018)に東京オペラシティアートギャラリーさんでの「谷川俊太郎展 TANIKAWA Shuntaro」で展示され、それぞれ拝見して参りました。

この書簡を含め、『高村光太郎全集』には氏のお名前は出て来ませんが、お父さまの徹三氏と光太郎は宮澤賢治がらみで交流があり、徹三氏の名は2回出て来ます。

さて、各種メディアにいろいろ出た氏の訃報や追悼記事等の中で、『読売新聞』さんに出たものの中に、氏のお言葉で光太郎に触れたものが引用されていました。

「僕は今、死んでも宇宙のエネルギーと一体になれる」…谷川俊太郎さん92歳で死去

 戦後の日本の詩を牽引してきた谷川俊太郎(たにかわ・しゅんたろう)さんが92歳で死去し、国内外の多くの読者の間で悲しみが広がっている。「二十億光年の孤独」や「朝のリレー」など、70年以上にわたって親しみやすく柔らかな作品を発表してきた。
  新潮社などによると、谷川さんは13日午後10時5分、老衰のため東京都内の病院で死去した。葬儀は近親者で済ませた。
 谷川さんは東京生まれ。1952年、20歳の時、詩集「二十億光年の孤独」を出版した。「二十億光年の孤独に/僕は思わずくしゃみをした」などのフレーズに代表される詩は、終戦の傷痕が残る時代に、宇宙的な感覚と生きる喜びを表現した作品として高く評価された。
 大岡信、茨木のり子らと詩誌「櫂」に参加。戦争の時代を踏まえた硬質な作品が目立つ戦後詩壇の中で、みずみずしい感性を持つ新しい世代の詩人として注目された。
 作詞や翻訳など様々な分野でも活躍。アニメ「鉄腕アトム」の主題歌の作詞を手がけ、犬のスヌーピーが登場する米国の人気漫画「ピーナッツ」シリーズの翻訳を続けた。「朝のリレー」の詩は国語教科書やテレビCMに採用された。
 93年「世間知ラズ」で第1回萩原朔太郎賞、2010年「トロムソコラージュ」で第1回鮎川信夫賞を受賞。世界20か国語以上に詩などが翻訳された功績がたたえられ、19年に国際交流基金賞が贈られた。
 詩人のねじめ正一さん(76)は「詩のグラウンドを広く使えた人で、谷川さんに袋小路はなかった。(戦争体験者を中心とした)『荒地』派が身構えながら硬質な言葉を繰り出したのに対して、柔らかく分かりやすい言葉で難しいことを伝えることができた人だった」としのんだ。

「詩を書くしか能がないんです」
 口にした言葉がそのまま、詩になる人だった。
 2019年11月に行われた国際交流基金賞の授賞式。車いすで記者会見の場に現れた谷川さんは、詩を70年書き続けた感想を聞かれ、「うんざりしてますけどね……。詩を書くしか能がないんです」と周囲を笑わせた。
 「僕は権威になるのが嫌。できれば道化役みたいになりたい」と穏やかに語り、「人間の成長を木の年輪にたとえると、中心に生まれた自分がいて、3歳、5歳と周りに年輪ができ、最後の年輪が今の自分。自分の中に常に幼児である自分もいる」。みずみずしい詩を生み続ける秘密を明かした。
  万有引力とは
  ひき合う孤独の力である
  宇宙はひずんでいる
  それ故みんなはもとめ合う
 「二十億光年の孤独」は1950年、18歳の若さで文芸誌に発表した。一人っ子で大切に育てられた幼年時代、軽井沢の別荘で見た満天の星などを想像させる。戦争の傷痕が残る時代、清新な詩は多くの人に受け入れられた。
 でも、谷川さんはどんな自分の言葉も勝手に心から離れ、詩になってしまう 哀かな しみを抱えた人のようにも見えた。
 <何ひとつ書く事はない(略)本当の事を 云い おうか/詩人のふりはしてるが/私は詩人ではない>。65年に発表した詩「鳥羽」の一節だ。詩人は言葉を超えた、本当の人の魂との触れ合いや 詩情ポエジー を求めてさまよった。家庭生活のうえでは3度の離婚を重ねた。「高村光太郎は智恵子を狂わせ、中原中也は女性トラブルを経験した。詩的な生き方を貫くと、世間とどうしてもぶつかってしまう」と言った。
 ひらがなの詩、定型詩、極端に短い詩。様々な技法を試した。本当の詩を探す旅を続け、90歳を超えておむつをつけるようになった自分もまた詩に詠んだ。
  これを身につけるのは
  九十年ぶりだから
  違和感があるかと思ったら
  かえってそこはかとない
  懐かしさが蘇ったのは意外だった (「これ」より)
 書いた詩は、発表しただけで2500編以上といわれる。「最近、宇宙は目に見えない、ビッグバンのエネルギーに満ちているように見えてきた。僕は今、死んでも宇宙のエネルギーと一体になれると思う」
 その詩は、日本語の夜空に永遠に瞬き続けるはずだ。

恋多き人だった氏の側面が見て取れますね。

他にも、光太郎と交流が深かった永瀬清子の顕彰にも関わられたり、当会の祖・草野心平の葬儀に際して弔辞として追悼詩を贈られたりと、いろいろご縁を感じる方でした。

ちなみに心平の追悼詩はこちら。

   ●(巨きなピリオド)003
 
 ミスタア・クサアノ
 本格的に
              ●
 始めたミスタア・クサアノ

 「文化なんてなくたっていいじゃないか」
 とあなたは言って

 富士山は今日も
 ギギギギギギギギ。
 ギッ。
 ただあるだけである。

 けれど蛙は鳴き続けています
 白いページの田んぼで
 おかげで意味ありげな奴らの
 うるさい喚き声を聞かずにすむ

 ありがとう心平さん
 笑顔ありがとう
 声ありがとう
 あなたという骨と肉ありがとう
 僕が女だったら
 きっと一度はひとつ寝床に入っていた
 無理矢理にでも

 かたむく天に。
 鉤の月。

 るるり。
 るるり。
   りりり。

 僕もいつか
 死んだら死んだで生きてゆきます。


        一九八八年十一月二十八日

最終連は、心平詩「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」中の「死んだら死んだで生きてゆくのだ」という一節へのオマージュです。その「いつか」がとうとう来てしまったんだなぁ、という感じです。

しかし、氏の肉体は「死んだ」としても、その精神や業績は、これからも多くの人々の中に「生きて」ゆくのだと思います。合掌。

【折々のことば・光太郎】

十二日に東京から早稲田大学の学生といはれる山本茂実氏外一名来訪、その時の話に、草野心平氏は受賞後急逝されたといはれたので、大いに驚き、どう思つていいのか迷つてゐたのでした。あまりハツキリ二人の人がいふので気味わろく思ひました、おハガキが届いて誤聞確認、大安心。


昭和25年(1950)6月17日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

早稲田大学の学生といはれる山本茂実氏」は、のちに「あゝ野麦峠」で有名になります。心平急逝と、とんでもないデマをもたらしたものですね。

まぁ、光太郎の死亡説もたびたび誤報として流れていたようですが。

テレビ放映情報です。

まず、光太郎には触れられないかも知れませんが……。

歴史探偵 宮沢賢治と銀河鉄道の夜

地上波NHK総合 2024年11月20日(水) 22:00〜22:45

宮崎駿監督や米津玄師など、現代のアーティストにも多大な影響を与え続ける宮沢賢治。私たちは、代表作「銀河鉄道の夜」の世界をCGで再現、その物語の魅力を徹底調査した。見えてきたのは、当時最先端の科学知識を取り込みながら、今に通じる、深いテーマを物語に織り込む賢治の類まれな力。今回そんな賢治の作品を、声優の梶裕貴(宮沢賢治役)と鬼頭明里(妹トシ役)が朗読する。賢治の深遠なる世界に浸れる45分はいかが?

【司会】佐藤二朗,片山千恵子 【出演】文教大学教授…大島丈志
【リポーター】近田雄一    【朗読】梶裕貴,鬼頭明里

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説明欄にお名前がありませんが、画像を見ると国立天文台上席教授にして、大河ドラマ「光る君へ」で陰陽道がらみの部分の監修もされている渡部潤一氏もビデオ出演されるようです。

賢治没後、その作品を世に広めた一人が光太郎だったというあたり、ちらっとでも触れていただけるとありがたいのですが……。

もう1件、再放送ですが、こちらは光太郎に触れられます。

ドラマ・浅見光彦〜最終章〜▼第9話 草津・軽井沢編

BS-TBS 2024年11月22日(金) 12:29〜13:25

ベストセラー作家・内田康夫の大人気サスペンス小説「浅見光彦シリーズ」。光彦の2人の幼馴染・野沢光子(星野真里)と宮田治夫(吹越満)と久しぶりの再会を経て楽しい気分でいる頃、光子の父が殺害された…。

【出演】沢村一樹、風間杜夫、原沙知絵、黒田知永子、田中幸太朗、佐久間良子、星野真里、吹越満ほか

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故・内田康夫氏ご執筆の浅見光彦シリーズ中、光太郎彫刻の贋作にまつわる連続殺人事件を描いた『「首の女」殺人事件』(昭和61年=1986)を原作としています。ただ、物語の舞台が原作では智恵子の故郷・福島二本松や島根だったのに対し、なぜか標題の通り草津と軽井沢に変更されています。今一つその意図が見えなかったのですが、いろいろ大人の事情があったのでしょう。

ともかくも、それぞれぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

「蛙」がよみうりの文学賞といふものになつた由、威勢よく賞金をくれれば何でも結構です、日本のは何でも賞金がけちなので役に立ちません、その点ノーベル賞は合理的です、


昭和25年6月5日 草野心平宛書簡より 光太郎68歳

この年始まった読売文学賞。その栄えある第一回の受賞が、当会の祖・草野心平の詩集「蛙」に決まり、そのお祝いの書簡から。

翌年の第二回は、光太郎がこの年出版する詩集『典型』に与えられます。光太郎、「けち」と言っていた賞金をそっくり在住していた花巻郊外太田村の山口小学校などに寄附してしまいます。ある意味、豪快ですね。

中野区で開催、そして今日閉幕の、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた、中野たてもの応援団さん主催の展覧会「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」にスタッフとして毎日詰めておりまして、昨日は午前中の当番を終え、北鎌倉に向かいました。

光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫御夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんでの展示「回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11」を拝観。

一昨年から関連行事として朗読会が催されるようになり、一昨年昨年はその日に合わせて伺っていたのですが、今年はアトリエ展の搬入・会場設営の日とかぶってしまい、その後もいろいろあって昨日になって漸くお邪魔した次第です。
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こちらに伝わる光太郎がらみの品々、そしてすぐお近くにお住まいの尾崎喜八令孫・石黒敦彦氏がお持ちの品々で、光太郎と尾崎喜八の一家との交流の様子などを展示。
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基本、カフェですので、同じ空間でお客さんが普通に珈琲を召し上がっています。
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そのかたわらにとんでもなく貴重なものが並んでいて、毎年のことながら不思議な感じです。

特に貴重なのが、光太郎ブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)。光太郎オリジナルではなく、ミケランジェロ作品の模刻ですが、おそらくこの一点しか鋳造されていませんし、石膏原型の現存が確認できていません。一点物です。尾崎夫妻の結婚祝いにと贈られた物。尾崎の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の息女でした。
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当初予定では11月26日(火)まででしたが、会場の都合により明日までに変更になってしまいました。その日程変更の件もご紹介が遅れまして、申し訳なく存じます。

ご都合の付く方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

いい音楽が流れるなかで心ゆくばかり踊る法悦を小生も想像出来るやうな気がします、


昭和25年(1950)6月2日(日) 藤間節子宛書簡より 光太郎68歳

舞踊家の藤間節子(のち黛節子と改名)が、前年、帝国劇場で「智恵子抄」を含むリサイタルを開催、この年、再演が為されるということで、その報せに対する返信です。

9月末に刊行されたもの。どちらかというと小学生向けとして編まれた書籍なのでしょうが、豆知識満載で唸らされました。

日本のことばずかん いきもの

発行日 : 2024年9月27日
著者等 : 神永曉監修
版 元 : 講談社
定 価 : 2,500円+税

和歌や文学作品に登場する「いきもの」にまつわる美しい日本語に名画や浮世絵、美しい写真などが添えられた、子どものことばの力を育てるシリーズの6作目を刊行します。監修は国語辞典のレジェンド、37年間、辞書編集一筋の神永曉氏。

6作目のテーマは「いきもの」、つまり動物や鳥、虫にまつわる言葉。日本人がいきものを慈しみながら育んできた言葉の世界をその言葉のイメージをさらに広げる、絵画や写真など美しいビジュアルと合わせてご紹介することばのずかん。

言葉を獲得することは、表現する力を大きく広げることにもつながります。「そら」「いろ」「かず」「はな」「あじ」につづくシリーズ6作目。

目次
 この本の使い方
 きせつといきもの〈春〉 春駒001
 きせつといきもの〈夏〉 ほたるがり
 春のいきものをよんだ歌や俳句
 夏のいきものをよんだ俳句
 物語とねこ ねこかわいがり
 物語にえがかれたねこ
 いきものオノマトペ びょうびょう
 いきものの昔のオノマトペ
 なんの虫かな? 虫がつく漢字
 いきものの数え方 匹
 いきものを数えることば
 きせつといきもの〈秋〉 わたり鳥
 きせつといきもの〈冬〉 冬ごもり
 秋のいきものをよんだ歌や俳句
 冬のいきものをよんだ歌や俳句
 いきものの形やもよう くま手
 いきものの形やもように注目!
 想ぞうのいきもの しし
 想ぞうから生まれたいきもの
 いろいろないきものの話
  ねがいがこめられた十二支のいきもの
 鳥の別名 春告鳥
 身近な鳥のもうひとつの名前
 いきもののことわざ 井の中のかわず
 いきもののことわざ・慣用句

この本では、「いきもの」にかかわることばと、それにかんする写真や絵画を一〇〇いじょう、しょうかいしています」だそうで、オールカラー約50ページで、ぜいたくに美術作品や古典文学等の画像、四季折々の写真などを使いながら、さらに文学作品の一節等もふんだんに引用。そして古き良き美しき日本語の数々がしっかりと解説されています。

いきなり最初の方に、「きせつといきもの〈春〉 春駒」。光太郎詩「春駒」(大正13年=1924)の一節が大きく使われています。11月13日(水)付けで版元の講談社さんサイトに出た花森リド氏のブックレビューでその件にふれられ、知った次第です。
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009「春駒」、一般的な国語辞典レベルでは見出し語として載っていませんが、さすがに『広辞苑』には項目が立てられていました。

詩「春駒」は①の意味でこの語を使っていますが、④のニュアンスも込められているかも知れません。親友だった水野葉舟が移り住んだ成田の三里塚御料牧場を訪れ、「春駒」の姿を見て書かれた詩であると同時に、新生活を始めた葉舟や自分の姿をそこに投影もしているかな、と。

それにしても『広辞苑』レベルの語をズドンと持ってくるあたり、小学生向けといいつつ、妥協しない姿勢が見て取れて好感が持てます。

他にも、各ページ、「へー」「なるほど」の連続でした。よくある早速明日、誰かに教えたくなるトリビア的豆知識のような。また、こういう美しい日本語を過去のものとして滅ぼしてはいかんな、とも思いました。

そして、先述の通り、ぜいたくに美術作品の画像が使われていますので、見ていて心安らぎます。

表紙からして伊藤若冲。本文中には小林清親、円山応挙、竹内栖鳳、狩野永徳、歌川芳虎、歌川広重、「鳥獣戯画」、そして東京美術学校西洋画科で光太郎と同級生だった藤田嗣治など。
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いいですね、藤田の猫。

それ以外の箇所も、現在、空前の猫ブームだそうで、猫が目立ちます。
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ちなみにこれで6巻目となった「いきものずかん」シリーズとしての内容見本というか、フライヤーというかも挟まっていました。
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他の巻でも光太郎が扱われていたりするのでしょうか? 大きめの書店で調べてみます。

というわけで、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小生のこの小屋の光線では三、四寸以上の大きさの彫刻を作ることは無理だと思ひます、それでもこの夏には蟬を一匹作るつもりでゐます、出来れば赤蛙も作りたいです、小鳥がいいのですがこれは中々つかまりません、東京ではいつも小鳥屋で求めましたが、ほんとは山の鳥の方がいいわけです、今はカツコオ、ホトトギスが来て鳴きます、カツコオには近寄れますが、ホトトギスには中々近寄れません、どちらも姿のいい鳥です、


昭和25年(1950)6月1日 奥平英雄宛書簡より 光太郎68歳

詩でもそうでしたが、光太郎、彫刻でもさまざまな「いきもの」をモチーフにしていました。「自然」の造型美ということに打たれていたのでしょう。

テレビ放映情報です。

 又吉・せきしろのなにもしない散歩 #137

BSよしもと 2024年11月13日(水) 19:00~19:30
再放送 2024年11月15日(金) 16:00〜16:30


ピースの又吉直樹と作家のせきしろの二人が、五七五の定型にとらわれず自由な表現をする【自由律俳句】を生み出していく。東北各地を歩きながら様々な人やモノと出会う中で、二人のここでしか見られない独特のかけ合いや、新たな俳句を生み出す姿は必見です。

今回は福島県二本松市をブラリ旅。果たしてどんな自由律俳句が生まれるのか!? 観世寺、智恵子記念館 ほか。
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同番組、今年2月の第99回で、花巻の光太郎が戦後7年間を過ごした山小屋(高村山荘)、隣接する高村光太郎記念館をご訪問。
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記念館さんで「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の中型試作を詠んだ又吉氏の句。

 試作品さえも本物になる

他の彫刻から、せきしろ氏。
 
 彫刻見て語彙がない自分

山小屋内に入り、戦争責任への猛烈な反省の姿をしのんだせきしろ氏の句。

 自責自省が閉じこめられた小屋を見る

なるほど。

今度は智恵子生家と裏手の智恵子記念館ということで、予告が出て「よっしゃ‼」でした。

地味な番組ですが(当方の云うべきことでもありませんけれど(笑))、けたたましいバラエティー番組などに辟易されている方々、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

ほんとに珍らしい珈琲やらいろいろのもの目うつりするやうです、このネツスルの珈琲を明朝いれるのがたのしみです。


昭和25年(1950)5月8日 中原綾子宛書簡より 光太郎68歳

中原から届けられたさまざまな食料品等に対する礼状の一節。

今年の夏に、綾子令孫からこの書簡を含む光太郎から綾子宛の書簡、原稿類がごっそり寄贈されました。それをご寄贈なさった令孫、山小屋の中に残っていたネッスルのコーヒー粉の缶、おそらくこれがこの書簡にあるものだろうという説明を受け、感銘されたそうです。

『日本経済新聞』さん、「歌壇」欄。11月2日(土)の掲載分です。

連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの山梨県立文学館館長で歌人でもあらせられる三枝昂之氏と、同じく歌人の穂村弘氏が、読者の投稿歌から12首ずつ選ばれ、計24首が掲載されています。

三枝氏選の一首目が、福島県郡山市の方の作品。

 安達太良と阿武隈川は必須なり智恵子の故郷校歌も市歌も 郡山 星野剛

三枝氏の評。

 星野さんからは「あの光るのが阿武隈川」と高村光太郎『智恵子抄』の一節が浮かんでくる。やはり校歌には故郷の山と川。「必須なり」がそう教える。

「智恵子の故郷」を二本松市と限定解釈すると、まず「二本松市民の歌」(作詞:朝倉修氏/補作詞・作曲:湯浅譲二氏 平成25年=2013)。いきなり歌い出しが「安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに」、そして一~三番すべてで「ほんとの空が ここにある」と繰り返されます。

 一、安達太良の峰 陽に映えて  阿武隈の水 清らかに
   四季も華やぐ このまちに  希望奏でる 朝がある
   ああ 光あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
 二、青空に舞う 花ふぶき  やさしく歌う うぐいすよ
   生命輝く このまちに  幸せ運ぶ 風がある
   ああ 理想あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある
 三、霞が城の しろあとに  揺れる提灯 囃子の音
   文化煌めく このまちに  明るい笑顔 夢がある
   ああ 浪漫あふれる 二本松  ほんとの空が ここにある

校歌」も、例えば昨年、統合により新たに誕生した二本松実業高校さん(作詞:校歌制作委員会/作曲:大友良英氏)では、二番に「白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の 安達太良山の 季節(とき)の雲」、三番で「瞳に映る 煌(きら)めきは 阿武隈川の 悠久(とき)の色」。さらに一~三番すべてに「ほんとの空に」のリフレイン。

 空の青さに 陽(ひ)の光
 榎戸(えのきど)の丘 一瞬(とき)の風
 力漲(みなぎ)り 舞う砂けむり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 遥(はる)かな夢を ほんとの空に

 白く聳(そび)える 故郷(ふるさと)の
 安達太良山の 季節(とき)の雲
 掌(てのひら)見つめ 歯を食いしばり
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 明日(あす)を探して ほんとの空に

 瞳に映る 煌(きら)めきは
 阿武隈川の 悠久(とき)の色
 その身に宿る 手業の実り
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 希望を胸に ほんとの空に

 睡蓮(すいれん)の花 微笑(ほほえ)ほほえんで
 霞(かすみ)が池に 青春(とき)の影
 まっすぐな道 どこまでも往(ゆ)き
 現在(いま)を生きる これからの人
 創ろう未来 つなごう心
 いつの日か 生きた証(あかし)を ほんとの空に

他校の校歌も同様なのでしょう。

短歌投稿者の方は郡山市ご在住だそうです。福島県は東西方向に区切ると、西部の山岳地帯が「会津」、太平洋岸は「浜通り」、その中間が二本松を含む「中通り」。さらに「中通り」も南北方向で「県北」「県中」「県南」と区分されます。「智恵子の故郷」を中通りのさらに県中地域とすると、郡山も含まれます。
無題
郡山市は今年、市政施行100周年だそうで、その記念式典や記念音楽祭などが大々的に行われました。そのあたりを受けての詠なのではないかと思われます。ちなみに「郡山市民の歌」(作詞:内海久二氏/作曲:古関裕而氏 昭和29年=1954)には、二番の歌詞に「輝く安達太良ささやく瀬音」とああります。

 一、あけゆく安積野希望の汽笛 あの人この街みなぎる力
 ああふるいたつふるさとは あこがれのせる若駒か 進めよわれらの郡山
 
 二、輝く安達太良ささやく瀬音 あの鳥この花しあわせ歌う
 ああうるわしいふるさとは やさしい母のまなざしか 育てよわれらの郡山

 三、働くよろこび夕べのいのり あの星この窓楽しいまどい
 ああやすらかなふるさとは あふれる夢のゆりかごか 栄えよわれらの郡山

昨日は原発の問題にも触れましたが、安達太良山、阿武隈川に代表される日本の美しい山河を二度と放射線被曝させてはならないと、切に思います。こういうことが本当の愛国心なのではないのでしょうか、と、為政者に問いたいところです。
002
【折々のことば・光太郎】

あれから何にも書けず、つひにたつた一枚書きました。別封で送りましたから、ともかくも読んでみてください。あの詩篇からうけた衝動は比類なく強いものです、
昭和25年(1950)4月12日 佐藤徹宛書簡より 光太郎68歳

佐藤は大正6年(1917)、山形米沢出身。筆名の「森英介」名義で唯一の詩集『火の聖女』を翌年に刊行、この書簡は光太郎に依頼したその序文に関わります。

 このやうな詩集を私は未だ曽て見たことがない。これほど魂のさしせまつた声を未だ曾てきいたことがない。こんなに苦しい悲しみの門をくぐらせられたこともないし、又こんなに強い祈と、やすらぎの中に引きこまれたこともない。
 何といつていいかわからない。殆といふ言葉がない。
 これはもう普通いふ詩といふものを突き破つてゐる。これらの詩は内面から破裂してゐる。一行一行が内からの迸るもので吹き上げられてゐる。これまでの日本語とはまるで違つた新らしい日本語が生まれてゐる。
 精神の突面だけがラインに刻まれてゐて、およそ平面をゆるさない。これらの詩の内面ふかく立ち入ることの出来るのは、同じやうな魂のきびしさと信とに死をのりこえたもののみの事である。
 私はおそろしい詩集を見た。


光太郎による他者の詩集等の序文は珍しくありませんが、ここまでの評を与えられたものは他に見あたりません。

ところが、活字工として働いていた佐藤自ら紙型を組み、印刷まで完了しましたが、その刊行を見ることなく、その直後に胃穿孔で急逝してしまいました。

光太郎は昭和27年(1952)に遺族の依頼でその墓碑銘を揮毫。おそらく現在も佐藤の故郷・米沢の善立寺さんというお寺にひっそりと佇んでいます。

アンソロジーものの新刊です。2ヶ月程経ってしまいましたが。

ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編

発行日 : 2024年8月28日(水)
著者等 : 早川茉莉編
版 元 : 筑摩書房
定 価 : 税込み2,090円

喉を通りぬける冷たい爽快感! 内田百閒、田中小実昌、東海林さだお、草野心平、森茉莉、茨木のり子……飲める人も飲めない人も素敵な活字のビールをどうぞ!

011
目次
 序
 プロローグ 気分爽快 森高千里
 1杯目 つぎたてのビール――まずはビール。とりあえずビール
  いつかきっと 田村セツコ
  缶と瓶 細馬宏通
  ビールのある風景 山本精一
  西陽の水面とビール 高山なおみ
  イギリス湖水地方のラガー 高柳佐知子
  ビールの遍在性とさりげないやさしさについて 小野邦彦
  脳内反芻ビール 小山田 徹
  サバティカルはミュンヘンで 喜多尾道冬
 2杯目 泡は大事――ビールは泡ごとググッと飲め
  ビールの泡 田中小実昌
  泡だらけ伝授 阿川佐和子
  ビールは泡あってこそ 東海林さだお
  原則の人 伊丹十三
  ビールは小瓶で 長田 弘
  モクモクモク 嵐山光三郎
  ビールは泡ごとググッと飲め 草野心平
 3杯目 ビール、もう一杯!――こんな日はとりわけビールがうまいんだ
  虚無の歌 萩原朔太郎
  モーツァルトmozart  村上春樹
  軽い酔 牧野信一  
  飢えは良い修業だった アーネスト・ヘミングウェイ 福田陸太郎 訳
  とりあえずビールでいいのか 赤瀬川原平
  ビールと女 獅子文六
  白に白に白 大道珠貴
  鍋貼 小川 糸
  ふきのとう 姫野カオルコ
  ビールに操を捧げた夏だった 夢枕 獏
  七月 ビール炊き御飯 金子信雄
  富士日記(抄) 武田百合子
  モンスターと夜景 雪舟えま
  人生がバラ色に見えるとき 石井好子
  飲み、食べ、颯爽と嫌う 城 夏子
  ビール 大橋 歩
  炎天のビール 山口 瞳
  コップに三分の一くらい注いで、飲んじゃ入れ、飲んじゃ入れして飲むのが、
ビールの本当にうまい飲み方なんですよ。 池波正太郎
 4杯目 旅先のビール――頭のテッペンから足の先までが、キューッとしびれる
  あほらしい唄 茨木のり子
  灰色の菫 田村隆一
  2019年5月3日 小沢健二
  この世で一番おいしいビール 氷室冴子
  道草 吉田健一
  鹿児島カンビール旅 椎名 誠
  温泉津旅行記 川本三郎
  京洛日記 二十一、食堂車 室生犀星
  鴎外先生とビール 平松洋子
  ビールの話 岩城宏之
  パブ 加藤秀俊
  ベルギーぼんやり旅行 七色ビール篇 向田邦子
  ネパールのビール 吉田直哉
  デンマークのビール 北大路魯山人
  欧洲旅行(抄) 横光利一
  ニュー・イングランドの浜焼 中谷宇吉郎
  父の麦酒のジョッキーと葉巻切り 森 茉莉
 5杯目 ビール飲み――飲みたければ、たんとお飲みなさい
  渓流 中原中也
  未練 内田百閒
  植木鉢 土岐雄三
  明るいうちに飲むなら蕎麦屋 与那原恵
  第55夜 まつや【神楽坂】 秘密基地の伝声管 鈴木琢磨
  初めての飲み会 瀧波ユカリ
  ビールの歌 火野葦平
  父の七回忌に 幸田 文
  われこそはビール飲み 野坂昭如
  はじめてのビール 沢野ひとし
  ワインとビールがいっぱい  渡辺祥子
  ビールの味 高村光太郎
 編者あとがき ビールは飲む「窓辺」であり「風景」である。 早川茉莉
 底本一覧

ビールをテーマにしたりモチーフに使ったりした、古今のエッセイ等63篇が集められています。

表題作「ビールは泡ごとググッと飲め」は、当会の祖・草野心平が昭和42年(1967)に雑誌『しんばし』に発表したエッセイです。心平、酒好きで知られていますが、だからといって強いわけでもありませんでした。そのくせ意識不明になるまで呑み、光太郎に介抱されたこともたびたび(笑)。そんな心平を光太郎は愛していましたが。

心平は詩を書くかたわら、屋台の焼鳥屋「いわき」、居酒屋「火の車」、バー「学校」と、飲み屋を経営しました。光太郎は「学校」のみその没後の開店なので足跡を残していませんが、戦後の「火の車」には足繁く通いましたし、戦前の「いわき」には智恵子を伴ったこともありました。

そして心平作詞の「バア「学校」校歌」。013

 バア学校のシンボルは。
 時代おくれの大時計。
 二十一世紀を告げる鐘。
 さらばで御座る。
 酒はぐいのみ。
 ビールは泡ごと。

 バア学校の常連は。
 世にも稀なる美男美女。
 落第つづけの優等生。
 しからばそうれ。
 酒はぐいのみ。
 ビールは泡ごと。

半分意味不明、酔っ払って作ったんじゃないかとも思われます(笑)。ちなみに心平を名誉村民に認定して下さった福島県川内村の阿武隈民芸館・かわうち草野心平記念館内には、バー「学校」が再現されています。設計は辻まことだそうで。

ところで「バア「学校」校歌」以前にも、「ビールは泡ごとググッと飲め」というリフレインを使った詩があったそうですが、すみません、把握できていません。「ビールは泡ごと」は、お気に入りのフレーズだったようです。

さて、『ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編』。63篇のトリを飾るのは、光太郎のエッセイ「ビールの味」(昭和11年=1936)。

特にビール好きの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

このたびは思ひもかけず黒沢尻で誕生日を迎へることとなり、貴下はじめ御家族御一同のまことにお心こもつた饗宴にあづかり、忘れがたい記念の一日となりました事を深く感謝いたします、


昭和25年(1950)3月15日 森口多里宛書簡より 光太郎68歳

光太郎誕生日は3月13日。10日から秋田横手に講演に行き、さらに花巻の南の黒沢尻町(現・北上市)の映画館・文化ホールでも講演を行いました。

平成16年(2004),北上市教育委員会発行『きたかみ文学散歩』に、この折の様子を回想した「●美の世界の巨人」と題する地元の画廊経営者・郡司直衛氏の一文があります。

 黒沢尻の駅に降り立った高村光太郎は、大きな防空頭巾にどんぶくはんど(綿入レ半纏)を着てリュックサックに防寒靴。全くの村夫子然。日本で初めてベレー帽をかぶって銀座を歩いたモダンボーイと誰が思うものか。
 横手の雪をみての帰途、「もう私には残された時間がないから」と云うのをお願いして講演会を開く。その講演に先立ち、お昼を茅葺の民家の二階で差し上げた。そこには空襲で家を焼かれた森口多里が疎開していた。
 その日は昭和二十五年の「三月十三日」。光太郎の誕生日であった。昼食のメニューは鶏の丸焼きにコリフラワとオニオン添え、これは森口夫人の力作で、それに母が手造りの五目ずしという簡素なものであった。具が美味しいとほめられる。母は「高村さんに褒められた」と一生の自慢であった。卓上には発酵し始めた山ぶどうの赤い液が、切子の徳利に入れて添えられていた。当時これが精一杯のもてなしであった。
 食卓は淋しかったが、美の奉仕者である二人の会話は途切れることなく続いた。ロダンの誕生日の話、ハムレットを見ながら気が付くと眼鏡を握りつぶしていた話などなど。森口はパリの街のどこの通りの、何番目のマロニエのどの枝が、一番早く花を咲かせるか知っていると自慢気に話した。二人のパリの思い出は盡きなかった。
 木マンサクもキブシも花にはまだ早く、ネコ柳を一本根元から切って、有田焼の染付の大花瓶に投げ入れ、講演会の壇上を飾った。会場は身動きできぬ程の聴衆で溢れていた。
 講演を終えて、「誕生日には智恵子と食事をするのです」というのを無理に引き止めてお泊まり頂く。翌朝、長ぐつを履こうとする足の大きなこと、靴に添えられた手の大きなこと。私は高村光太郎が“美の世界の巨人”であることを、そのときこころではなく、目で理解したのであった。

芸術の秋、ということなのでしょう。毎年のことですが、この時期は各種イベントが目白押しです。

今月末から来月頭にかけ全国で行われる演奏会等でも、光太郎智恵子にからむものを、昨日ご紹介した2件以外に5件ばかり把握しております。

さすがに5件一気にというわけには行きませんので、分割して。

まずは兵庫県西宮市から。

関西歌曲研究会 日本歌曲の流れ 第101回演奏会 シリーズ 詩人 ~うたびと~vol.1 詩(うた)はどこから来た?

期 日 : 2024年10月24日(木)
会 場 : 兵庫県立芸術文化センター神戸女学院小ホール 兵庫県西宮市高松町2-22
時 間 : 18:30~
料 金 : 全席自由 3,000円

出演・曲目(五十音順)
 声楽
  青木耕平  レモン哀歌  詩:高村光太郎 曲:別宮貞雄
  大岡美佐  はなのいろは    歌:小野小町 曲:山田耕筰
  尾崎比佐子 椰子の実   詩:島崎藤村 曲:大中寅二
  木寺聖子  日本の雨の歌 歌:詠み人知らず 曲:マルクス
  総毛創   秋の眸    詩:竹久夢二 曲:松下倫二
  松井るみ  「3つの日本の抒情詩」より 
歌:山部赤人/源当純 曲:ストラヴィンスキー
  矢野文香  もう一度の春 詩:ロセッティ 曲:木下牧子
  山本久代  花のゆくえ  詩:竹久夢二 曲:木下牧子
  吉岡仁美  ひさかたの  歌:紀友則 曲:伊能美智子
  吉永裕恵  わすれな草  詩:竹久夢二 曲:藤井清水   
 ピアノ
  丸山耕路

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昭和57年(1982)、故・別宮貞雄氏作曲の「歌曲集 智恵子抄」から「レモン哀歌」がプログラムに入っています。別宮氏の「歌曲集 智恵子抄」、息が長いというか、また最近になってけっこう取り上げられるようになった感があります。

もう1件、こちらは大阪から。

第15回サンセットファミリーコンサート 海辺の音楽会~あなたに贈る歌~

期 日 : 2024年10月27日(日)
会 場 : ATC海辺のステージ 大阪市住之江区南港北2丁目1-10
時 間 : 15:00~16:30
料 金 : 無料

◆プログラム◆
【第1部】相愛大学音楽学部 コーラスグループ「Lilla」によるステージ
 ・アラン・メンケン/映画「リトル・マーメイド」より"アンダー・ザ・シー"
 ・コブクロ/この地球の続きを
 ・ゴダイゴ/銀河鉄道999
 ・ミマス/COSMOS
 ・夏の歌・秋の歌メドレー
  「茶摘み~夏は来ぬ~我は海の子~旅愁~故郷の空~夕焼け小焼け」
 ・クロード=ミッシェル・シェーンベルク/ミュージカル「レ・ミゼラブル」より"民衆の歌"
  ほか
【第2部】相愛大学大学院音楽研究科生、音楽専攻科生による独唱
 ・A.ドヴォルザーク/歌劇《ルサルカ》より"月に寄せる歌"
 ・蒔田尚昊/高村光太郎 詩《智恵子抄》より「あどけない話」
 ・小林秀雄/日記帳
 ・G.F.ヘンデル/《イタリア語のデュエット集》より"夜明けに微笑むあの花を"HWV 192
 ・W.A.モーツァルト/アヴェ・ヴェルム・コルプス
  ほか
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蒔田尚昊氏作曲の歌曲集『智恵子抄』から「あどけない話」が取り上げられます。

ご出演の皆さんが相愛大学さんのご関係の方々。相愛大学さんといえば今年8月に大学近くの本願寺津村別院(北御堂)さんで開催された「北御堂コンサートvol.255〜ロマンの饗宴〜」でも、同曲が演奏されました。

その際に歌われた永山玲奈さんという方、今回のフライヤーにもお名前があり、その方の歌唱なのでしょう。

それぞれ、お近くの方(遠くの方も)ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

おてがみやポスターなどいただきました、智恵子の切り抜き絵につき大変皆様のお世話さまになります事恐縮至極です、智恵子もあの頃、盛岡でこれらの作品が人々の目に触れやうとは思ひもかけなかつた事でせう、不思議な因縁だと思ひます、
昭和25年(1950)1月10日 黒須忠宛書簡より 光太郎68歳

前年の山形での開催に続き、この年は4月に盛岡の川徳画廊、5月には花巻の寿デパートで智恵子の紙絵の展覧会が開催されました。

盛岡展に関しては、黒須が勤務していた新岩手日報社の肝煎りでした。

小金井市の美術系古書店・えびな書店さんの新蒐品目録『書架』147号。先々週くらいに届きました。
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同店、肉筆系に力を入れられていて、時折、光太郎のそれも出るのですが、今号では3点も収録されていました。
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画像右上、表装されていないマクリの書で、短歌「天然の湯に入りければ君が身とこゝろとけだし白玉に似む」が書かれています。「天然の湯に入ったら、あなたの身も心もその湯に溶け出して、さながら美しい白玉に似た輝きを放ったことでしょう」といった意でしょうか。

ちなみにえびな書店さん、「湯」を「畑」としていますが、「畑」では意味が通りませんね(笑)。

さらに「人におくれる」の詞書(ことばがき)。「人」は新潟佐渡の素封家にして、与謝野夫妻の新詩社に依った歌人でもあった渡辺湖畔です。湖畔は光太郎に幼くして亡くなった娘の肖像画(大正7年=1918)を書いてもらったり、蟬の木彫を依頼したり、自身の歌集『若き日の祈祷』(大正9年=1920)の装幀・装画を頼んだりしました。

短歌「天然の……」は大正9年(1920)3月の湖畔宛書簡に認(したた)められた四首のうちの一つで、伊豆の修善寺温泉に行ったという湖畔からの書簡への返歌です。

他の三首は以下の通り。

 いみじくもふかき地中のこゝろより天然の湯は涌きてあふるる
 天然の湯に身をひたし人の世のこゝろのことを君はおもふか
 天然の湯をしおもはむしばらくは魂とびて夢のこゝちする


書簡には「修善寺においでありし由、湯の好きな小生それをききしだけにて恍惚といたし候」とあります。くれぐれも「畑」ではありませんのでよろしく(笑)。

この書自体は、湖畔ではなく、他の人物のために書かれたのではないかと推定されます。「他の人に贈った短歌だけど……」という意味で「人におくれる」の詞書が添えられたのでしょう。

その左に色紙で「満目蕭条(まんもくしょうじょう)の美」。「満目蕭条」は光太郎が好んで揮毫した熟語です。見渡すかぎりのもの全てが物寂しい様子である、の意味。戦後、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺のことかな、とも思ったのですが、やはり「満目蕭条」と書いた戦後の書はもっと崩しが激しく為されており、戦前の筆跡のように思われます。色紙も凝ったものですし、昭和7年(1932)には東京に居ながらにして「満目蕭条の美」という題名の散文も書いていますし。

もう一点、短冊も出ていました。
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やはり短歌で「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」。

欧米留学から帰った明治42年(1909)、『スバル』に「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」の総題で発表された二十五首のうちの一つです。「ECCOMI NELLA MIA PATRIA!」はイタリア語で「祖国歌」というほどの意味。

他の二十四首の中には、帰国して改めて接した日本人女性への幻滅が歌われているものが多く含まれます。

 ふるさとの少女を見ればふるさとを佳しとしがたしかなしきかなや
 弘法の修行が巌の洞(ほら)に似る大口あけて何を語るや
 何事か重き科ありうつくしき少女を吾等あたへられざり
 この中の少女のひとり妻とせよ斯く人いはば涙ながれむ
 女等(をみなら)は埃(あくた)にひとし手をひけばひかるるままにころぶおろかさ
 海の上ふた月かけてふるさとに醜(しこ)のをとめらみると来にけり
 太ももの肉(しし)のあぶらのぷりぷりをもつをみなすら見ざるふるさと
 仏蘭西の髭の生えたる女をもあしく思はずこの国みれば


これでもか、これでもかと日本の女の醜さを嘆いています。

圧巻は以下の二首。 

 顔つくる術(すべ)も知らぬをふるさとの女はほこるさびしからずや
 少女等よ眉に黛(すみ)ひけあめつちに爾の如く醜きはなし


「メイクもきちんとできず奇妙な化粧をした顔をさらしているその風貌を、ふるさとの女は却って誇りに思っている。それでいいのか?」「少女たちよ、眉墨をきちんと引きなさい。それができないと、この世界にこれほどに醜いものはないぞ」といったところでしょうか。特に眉墨云々は、某党の総裁候補だったあの人に贈りたい言葉です(笑)。「少女」ではありませんが(笑)。
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逆に留学中に懇ろになった西洋の女性(詳細は不明です)を讃える歌も。

 ふるさとはいともなつかしかのひとのかのふるさとはさらになつかし
 ふるさとの少女を一のたのみとし火の唇はすて来しものを
 きらきらと暗き夜半にも汝が耳の耳環の玉は近く光りき

この流れで、短冊に書かれている「しくしくと腹の痛めばあたたかくふくよかなりし君をこそ思へ」です。

おそらくニューヨークやロンドンではなく、パリでのことと思われますが、「火の唇」を持ち、「きらきら」の「耳環」を着けていた「あたたかくふくよかなりし君」と、どんなロマンスがあったのか……というところです。

当方、この手の肉筆物は、よほどの事がないと購入しません。財力が保(も)ちませんから。ところがつい先日、「よほどの事」が出来(しゅったい)しました。

京都の思文閣さんで売りに出した、歌人・中原綾子旧蔵の光太郎色紙

中原令孫から花巻市に光太郎書簡等がごっそり寄贈され、来年以降、花巻高村光太郎記念館さんで展示されることとなりそうです。また、市では寄贈資料を図版入りで紹介する書籍を刊行することを検討されている由。予算が通れば当方が解説等執筆します。

そこへ来て、中原旧蔵の書ですから、これは一緒に展示されるべきものです。市で購入して下さればそれで済むのですが、そんな予算は組んでいないわけで、こちらで手に入れました。2点出ていたのですが、そのうち、今様体(七五調四句)の「観自在こそ……」を書いたもので、中原の詩集『灰の詩』(昭和34年=1959)で口絵として使われていたものです。

オークション形式で、開始価格では落とせないだろうと思い、色を付けて入札しました。それでも無理かな、とも思ったのですが、落とせまして、先日、届きました。
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当時のものと思われるタトウにくるまれていました。
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中原の直筆なのでしょう。「高村光太郎先生色紙 昭和廿六年九月岩手県太田村山口にて染筆たまはりりたるもの。 綾子誌す」の但し書き。調べてみましたところ、昭和26年(1951)9月15日の日記に確かに「十二時頃中原さんくる。午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。」の記述がありました。

色紙裏面には中原の蔵印も捺されていました。
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表(おもて)面は「観自在こそたふとけれ/まなこひらきてけふみれば/此世のつねのすがたして/吾身はなれずそひたまふ」。「観自在」は観音菩薩。そこで、無理くり現代語訳してみると、こんな感じでしょうか。「観音菩薩は何ととうといのだろう(「こそ」+已然形「けれ」で強調の係り結びです)。眼を開いて今日改めてそのお姿を見てみると、この世にある平凡ないつものお姿で、我が身を離れずに寄り添って下さっている」。

若干、意味不明です。どうやって観音様のお姿を見るのでしょうか。手元に観音像があった時期もありました。しかし、異論もありましょうが、当方はこう読みます。「観音菩薩」=「亡き智恵子」。

光太郎の感覚としては、「我が身を離れずに寄り添って下さっている」のは、亡き智恵子でした。

  亡き人に

 雀はあなたのやうに夜明けにおきて窓を叩く
 枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

 朝風は人のやうに私の五体をめざまし
 あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

 私は白いシイツをはねて腕をのばし 
 夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

 今日が何であるかをあなたはささやく
 権威あるもののやうにあなたは立つ

 私はあなたの子供となり
 あなたは私のうら若い母となる

 あなたはまだゐる其処そこにゐる
 あなたは万物となつて私に満ちる

 私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
 あなたの愛は一切を無視して私をつつむ


   元素智恵子 

 智恵子はすでに元素にかへった。
 わたくしは心霊独存の理を信じない。
 智恵子はしかも実存する。
 智恵子はわたくしの肉に居る。
 智恵子はわたくしに密着し、
 わたくしの細胞に燐火を燃やし、
 わたくしと戯れ、
 わたくしをたたき、
 わたくしを老いぼれの餌食にさせない。
 精神とは肉体の別の名だ、
 わたくしの肉に居る智恵子は、
 そのままわたくしの精神の極北。
 智恵子はこよなき審判者であり、
 うちに智恵子の睡る時わたくしは過ち、
 耳に智恵子の声をきくときわたくしは正しい。
 智恵子はただ嬉々としてとびはね、
 わたくしの全存在をかけめぐる。
 元素智恵子は今でもなほ
 わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。

光太郎は敬虔な仏教徒だったわけでもなく、あながち牽強付会とも言えないような気がするのですが……。

ただ、そうだとすると、死してなおそこまで「聖女」化された智恵子は、ある意味、可哀想だったようにも思えますが……。

閑話休題、上記えびなさんの出品物、収まるべき所に収まってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

お手紙拝見しましたが「智恵子抄」以後には一冊になるほどの数量がありません、これはまづものにならないと思ひます、


昭和24年(1949)12月20日 澤田伊四郎宛書簡より 光太郎67歳

澤田は昭和16年(1941)、オリジナルの『智恵子抄』を上梓した版元・龍星閣主です。龍星閣は戦時中に休業し、この年ふたたび出版業を始めました。そこで、『智恵子抄』の続篇的なものを出したい、という懇願に対する返答の一節です。

結局、翌年の元日に雑誌『新女苑』に発表した連作詩「智恵子抄その後」(「元素智恵子」も含みます)を根幹とした詩文集『智恵子抄その後』が出版されることにはなるのですが、題名とは裏腹に、智恵子とは全く無関係の随筆も多く含みます。

岩波書店さんで出しているPR誌的な月刊の『図書』。今月号で光太郎智恵子が論じられています。
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「論じる」というよりはエッセイのような感じですが、映画監督の中村佑子氏による連載「女が狂うとき」の第4回で「冷たい乙女たち――高村智恵子に寄する」。

乙女」は「乙女の像」の「乙女」。青森県の十和田湖畔に立つ光太郎最後の大作「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦像」(昭和28年=1953)です。

光太郎、この像の身体部分は藤井照子というプールヴーモデル紹介所に所属していたプロのモデルを雇ってデッサンを重ねましたが、その顔はまぎれもなく、智恵子。ただし光太郎自身は公的には智恵子の顔だとは発言していません。それでも生前の智恵子を知る人々は一様にそう思いました。戦後のかなり早い段階から光太郎が「智恵子観音を作りたい」と言っていたのを知る人々も多かったようですし。
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冷たい」は中村氏が十和田湖畔を訪れたのが真冬で、「私はこの像を、ある人に寒いねと抱きしめられた肩越しに見た。こんな場所で裸をさらして、なんて寒そうなのか」というところから。また、象徴的な意味合いでも「冷たい」の語を選択し、冠したのだと思われます。すなわち、光太郎智恵子の関係性などなど。

吉本隆明が「高村の一人角力(ずもう)としかおもえないのである」(『高村光太郎』昭和32年=1957)と断じ、それを受けて黒澤亜里子氏がジェンダー的な視点を持ち込んで『女の首 逆光の「智恵子抄」』などで論じ、さらに多くの追随者で一時期賑わった、『智恵子抄』における生身の智恵子の不在、的なイメージです。

曰く

「自分の成長があなたのためにもなる……光太郎は智恵子と対等だと言いながら、庇護者のような気でいたのだろうか。家父長制が色濃く残る時代にあって、芸術家として歴然と地位も評価もあった光太郎が、智恵子の創作の力や情熱を吸い取っていったのではないのか。」

「東京に空がないのではなく、光太郎との生活に空がなかったのである。」

「理念と現実との深い落差に、幾重にも智恵子は追い詰められただろう。」


などなど。

先述の吉本隆明や黒澤亜里子氏やその他の人々によって同様の論は展開され続けてきたので、新しい知見というわけではありませんが、先行の論も今やほとんど絶版となっている今日、改めてこういうことを論じるのも、それはそれで意義のあることだと思われます。

ただし、光太郎はこういった批判を百も承知で居たのではないかというのが当方の見解です。ところが、それに気づいたのは智恵子の心の病が顕在化してから、さらには智恵子が歿してからではないか、とも思えますが。

それでもあえて『智恵子抄』出版に踏み切ったところに、『智恵子抄』の持つ重層性、多相性が見て取れます。

『智恵子抄』は、浅い読み方で読めば、「純愛の詩集」にしか過ぎません。そこで止まって肯定的に捉えれば「素晴らしい! 我が国相聞歌の金字塔だ」。否定的に読めば「高村の一人角力(ずもう)」。しかし、それに留まらず、もっともっと深い読み方が出来るはずです。

例えば「贖罪の詩集」。「済まなかった、智恵子よ」というわけで。戦後の連作詩「暗愚小伝」にも通じる、自らの「暗愚」の暴露と反省の表明とも読めます。

「訣別の詩集」とも読めましょう。昭和16年(1941)のオリジナル『智恵子抄』収録詩篇のうち、最後に書かれたのは、智恵子の葬儀を謳った「荒涼たる帰宅」。おそらく『智恵子抄』のための書き下ろしです。それ以前に智恵子没後のことを題材にした「梅酒」や「亡き人に」が作られていたにも関わらず、時間を逆行してあえて葬儀の日の模様を謳いあげました。

光太郎としては「一心同体」のつもりでいた智恵子が歿したことで、同時にそれまでの自分も一度死んだという気になったのではないでしょうか。しかし再生するのです、全く違う面貌で。

「荒涼たる帰宅」執筆後、すなわち『智恵子抄』刊行後、光太郎は詩の中で智恵子を扱うことを一時やめます。それから終戦までは、身辺雑記的なものを除き、殆ど戦意高揚のための翼賛詩一辺倒となります。ここには「芸術家あるある」で、俗世間とは極力交わらない生活が智恵子を追い詰めたという反省から、真逆の積極的に社会と関わろうという方向性への転換が見て取れます。そうしないと自分もおかしくなる、と考えたのかも知れません。

そこで、愛する者の死を謳うことで、同時にそれまでの自分への「訣別」を宣言するための『智恵子抄』。やはり戦後の「暗愚小伝」に通じますね。

それから「抄」一字に込められた思い。以前にも書きましたが、これは「全著作の中から智恵子に関するものの抄出」という表面的な意味以外に、「ここに表されている智恵子が智恵子の全てではないよ」という意味も込められているような気がします。「生身の智恵子はもっともっといろいろな悩みを抱え、必死に生きようとしていた素晴らしい女性だった。愚かだった自分は偏った見方で一部分しか見なかった。だから「抄」だ」と。

それでも光太郎は、「亡き人に」の中で「私はあなたの愛に値しないと思ふけれど/あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」と謳いました。「一切」には上記のもろもろが含まれるのではないでしょうか。何やかやと言っても、智恵子との日々はかげがえのないものでもあったわけで……。

そういう部分を考えると「鎮魂の詩集」という意味合いも感じられます。西洋音楽のレクイエムのような……。

というわけで、『智恵子抄』。決して単なる「純愛の詩集」ではありません。それに疑義を挟む批判的な読み方もけっこうですし、さらに突っ込んだ解釈が今後とも成され続けることを期待します。

ただし、史実と異なることを書かれるのは困ります。今回も、「智恵子が光太郎のブロンズ作品を袂に入れて散歩」「「乙女の像」は光太郎最後の彫刻」といった誤りが散見されて、残念でした。

そうした点は差っ引いても一読の価値がありますので、『図書』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

学芸会では小生サンタクロースのお爺さんに扮して舞台に出ました。部落の子供達はとても可愛いいです。


昭和24年(1949)12月6日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎67歳
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戦前には「芸術家あるある」で関係を極力絶とうとし、戦時中には戦意高揚の詩文で鼓舞し、と、いびつな形でしか社会との関わりを持ててこなかった光太郎、ようやく戦後になって自然な形での交わりが出来るようになったと言えましょう。

それにしても、この写真に写っていて、永らく光太郎の語り部を務められた高橋征一氏浅沼隆氏も今はもう虹の橋を渡られてしまったんだなぁ、と、改めて寂しい思いです。

昨日、当会刊行の冊子『光太郎資料』62集についてご紹介しました。

毎号、同時代人の光太郎訪問記や回想のうち、広く紹介されていないものを掲載するコーナーを設けていますが、今号では「木像生」という人物の書いた「都会情景 カフエー譚」(大正3年=1914 1月1日発行『朝鮮公論』第2巻第1号)を取り上げました。

明治末から大正初めにかけての、東京市内のカフェ事情をまとめたもので、光太郎の名と共に、さまざまなカフェが紹介されています。それと合わせ、実際に光太郎の詩文にそれらのカフェがどう描かれているか、『光太郎資料』では解説欄に記しました。

一部、骨子をご紹介します。

まず、明治44年(1911)に京橋日吉町(現・銀座八丁目)に上野の精養軒が開店した「カフェー・プランタン」。この年に発表された光太郎の短章連作詩「泥七宝」(『全集』第一巻)にその名が現れます。

 八重次の首はへちまにて
    小雛の唄は風鈴にて
 さてもよ、がちやがちやの虫の籠は
 「プランタン」てね、轡蟲の竹の籠
 

他にも「泥七宝」中にはその名は現れないものの、プランタンで書かれたものがあると、後年の光太郎が回想しています。「八重次、小雛は新橋の芸妓」の一節と共に。

続いて「カフェー・ライオン」。プランタンと同じく精養軒の経営で、やはり明治44年(1911)、銀座尾張町に開店し、こちらも光太郎詩、ずばり「カフェライオンにて」(大正2年=1913)に謳われています。

「都会情景 カフエー譚」に曰く「カフエー、ライオンは尾張町の電車交差点にある。三階は二百名ばかり居るカフエークラブ会員の遊ぶ処で二階は食堂、階下が賑やかなバーだ。此処でビールが一杯売れるとライオンの形をしたものがヌツと現はれてウヲ――と自働車のラッパの様な声を出す。即ちライオンといふ店の名がある所以だらう」。

さらに、光太郎も中心人物の一人だった芸術運動「パンの会」御用達の「メイゾン鴻の巣(鴻乃巣)」。鎧橋の袂に開店し、その後移転を重ねましたが、発祥の地には中央区教委さんによる案内板が立っています。

そして、浅草雷門の「よか楼」。

欧米留学から帰朝した翌年、明治43年(1910)に入れあげていた「モナ・リザ」こと吉原河内楼の娼妓・若太夫にふられた後、光太郎は今度は「よか楼」の女給・お梅に首ったけになります。お梅目当てで、一日に5回も「よか楼」に足を運んだことも。お梅が他の客の元に行っていて自分の方に来ないと癇癪を起こして暴れたり……(笑)。ほとんどストーカーですね。

そのお梅、若太夫以上に光太郎詩文にたくさん登場します。

わが顔は熱し、吾が心は冷ゆ/辛き酒を再びわれにすすむる/マドモワゼル・ウメの瞳の深さ
(「食後の酒」 明治44年=1911)

「霧島つつじの真赤なかげに/サツポロの泡をみつむる/マドモワゼルもねむたし」
(「なまけもの」 同)

「マドモワゼルの指輪に瓦斯は光り/白いナプキンにボルドオはしみ/夜の圧迫、食堂の空気に満つれば、そことなき玉葱(オニオン)のせせらわらひ」
(「ビフテキの皿」 同)

「さう、さう/流行(はやり)の小唄をうたひながら/夕方、雷門のレストオランで/怖い女将(おかみ)の眼をぬすんで/待つてゐる、マドモワゼルが/待つてゐる、私を――」
(「あをい雨」明治45年=1912)

「真面目、不真面目、馬鹿、利口/THANK YOU VERY MUCH, VERY VERY MUCH,/お花さん、お梅さん、河内楼の若太夫さん/己を知るのは己ぎりだ」
(「狂者の詩」 大正元年=1912)

雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。」
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

「都会情景 カフエー譚」では、お梅は以下のように紹介されています。

又下膨れの丸顔で銀杏返しに結つて居る梅子(二〇)は『元禄梅子』と定連から呼ばれて居るが、此の女は多少文字の素養もあつて永井荷風の小説や晶子の歌集を始め、新らしい作家の著作は片つ端からドンドン渉猟して、衣裳は僅か小さな葛籠(つづら)一つしか持たない代りに書物ならば大葛籠三杯も持つて居るといふ風変りな女だ。そんな所から正宗白鳥、高村光太郎、前田木城、海野美盛、其他の文士画家連には随分肝膽相照して居る人が多い。竹子が踊や長唄を相応にやれる程に多芸ではないが、ハーモニカだけは袖の中から放したことはなく、竹子の歌ふ仏蘭西の国歌に合わせて之を吹くのが唯一つの芸である。

文学好きだったということは、光太郎等の回想にも書かれていましたが、より詳しく描かれています。さらに年齢。「都会情景 カフエー譚」が書かれた大正3年(1914)の時点で二十歳となっています。ということは、光太郎に尻を追いかけ回されていた明治44年(1911)にはまだ17かそこら。ただ、この業界の常で、さばを読んでいた可能性も大いにありますが。

そしてこんな記述も。

ヨカローは実に此の官能世界の一歩を約して思ひ切り繁昌して居るので。これは例の美人の首を利用した新聞広告のきゝ目であること勿論であるが、実際にも此処の女中は粒選りの代物が多い。

注目すべきは「例の美人の首を利用した新聞広告」。「例の」ということは、かなり有名だったと思われます。

光太郎の「ヒウザン会とパンの会」にも、

「よか楼」の女給には、お梅さんはじめ、お竹さん、お松さんお福さんなんてのがゐて、新聞に写真入りで広告してゐた。

とあり、松崎天民ら他の同時代人の回想等にも「よか楼」の新聞広告の件が語られています。

この広告、何としても実地に見てみたいものだと思っておりました。そこでまず活用したのが国会図書館さんのデジタルデータ。すると、まず新聞ではありませんが、『東京大正博覧会要覧』(大正3年=1914)に広告そのもの(左下)を発見しました。
東京大正博覧会要覧 19130815都新聞 案内広告百年史 東京日日新聞2
それから、戦後の書籍で、明治大正の広告事情を紹介したものの中に、『都新聞』(大正2年=1913、中央)と『東京日日新聞』(大正3年=1914、右上)に載った広告。

なるほど、女給たちの写真入りです。しかし、大正2、3年では、光太郎が通っていた明治44年(1911)より少し後なので、もしかするとお梅はもう居ないかも知れません。そこで「明治44年当時の広告はないか」。思い出したのが、「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」。武蔵野美術大学さんの前田恭二教授によって継続中の連載で、『読売新聞』さんの明治期からの過去記事データベース「ヨミダス」が活用されています。「もしかすると「ヨミダス」、広告も検索対象にしているんじゃないか?」と思ったわけです。

隣町の県立図書館さんの分館にダッシュ(笑)。閲覧用PCで「ヨミダス」を立ち上げて頂き、キーワード「よか楼」でポン。すると、ビンゴでした! 何度も広告が出ており、同一の写真を使ったものが多かったのですが、写真の種類で言うと5種類、見つかりました。
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古い順に、明治44年(1911)7月4日(左上)、同9月7日(右上)、同10月31日(左下)、明治45年(1912)3月6日(下中央)、同7月12日(右下)です。
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さらに他紙のデータベースも当たりました。『毎日新聞』さんの「毎索」ではヒットせず。しかし、『朝日新聞』さんの「クロスサーチ」では、「ヨミダス」以上の大漁。

明らかに『読売新聞』さんのものと同一の写真を除くと、8件。
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2a19120515 2a19120713
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2a19141020 2a19141103
左上から順に、明治45年(1912)1月28日、同3月17日、同5月15日、同7月13日、同じ1912年で改元後の大正元年12月9日、大正3年(1914)3月7日、同10月20日、同11月3日です。

お梅はナンバー2くらいだったようですので、上記画像の中にお梅がいるとみて間違いないでしょう。どれがお梅だかは特定できませんが。

お梅にぞっこんだった明治44年(1911)の暮、光太郎の前に智恵子が現れます。それまで素人女性には興味を抱かなかった光太郎、すぐに智恵子に鞍替えというわけではありませんが、ずっと智恵子は気になる存在として光太郎内部に居続け、しかし、こんな自分と一緒になっても苦労するだけだとか、自分に智恵子と添い遂げる資格があるのだろうかなどと悩みます。そのあたりの逡巡が翌年の詩「涙」「おそれ」などに謳われました。そういいつつ、その前に「いやなんです/あなたのいつてしまふのが――」(「人に」 のちに『智恵子抄』巻頭を飾りました)などとも語りかけ、ズルい奴です(笑)。

まあ、結局は大正元年(1912)、銚子犬吠埼に智恵子が光太郎を追ってやってきたことで、光太郎も覚悟を固めたのだと思います。そしてお梅との関係も解消。この前後でしょう。

お梅さんが朋輩と私の家へ押しかけて来た時、智恵子の電報が机の上にあつたので怒つて帰つたのが最後だつた。その頃、私の前に智恵子が出現して、私は急に浄化されたのである。お梅さんはある大学生と一緒になり、二年ほどして盲腸で死んだ。谷中の一乗寺にその墓があるが、今でも時々思ひ出してお詣りしてゐる。(「ヒウザン会とパンの会」)

お梅も可哀想な女性だったと思います。

ところで、お梅の前に入れ込んでいた吉原河内楼の若太夫についても、後日譚等わかってきましたので、いずれご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

又いただいたカフエはまことに珍しく、此の山の中がまるでフランスのやうに感ぜられ、ここの森のたたずまひさへフオンテンブロオの森の心地いたします。
昭和24年(1949)11月23日 立花貞志宛書簡より 光太郎67歳

こちらの「カフエ」はコーヒーの意味ですね。

立花貞志は戦前に岩手県芸術協会の立ち上げに関わり、宮沢賢治と面識もあった人物で、この頃盛岡のサン書房という出版社に勤務していました。

ところで、コーヒーと言えば、コーヒーをメインにしていた「カフェ・パウリスタ」。「都会情景 カフエー譚」にも紹介されていますし、江口渙などの回想に依れば智恵子や青鞜社のメンバー等が通っていたそうですが、光太郎詩文にはその名が出て来ません。同時代人の回想でも光太郎がパウリスタに通っていたという記述は見当たりません。

ところが、ネット上では「高村光太郎も通っていたパウリスタ」的な記述が溢れています。老婆心ながら「違うよ」と言わせていただきます。全く行ったことがないというわけでもないのでしょうが、上記のさまざまなカフェは酒がメインで、パウリスタは後の純喫茶に近い形。光太郎のニーズとは少し異なっていたようです。

頼まれましたので、出演して参ります。

☆ポエトリーユニオン☆@浅草

期 日 : 2024年10月12日(土)
会 場 : 浅草の和モダン レンタルギャラリーブレーメンハウス 東京都台東区浅草1-37-7
時 間 : 14:00~
料 金 : 1,000円

浅草寺の近くのギャラリーで味わい深いオープンマイクをやります。

当イベントはオープンマイクです。1人の持ち時間8分。好きな絵について語った後、詩を1篇(時間内なら2篇OK)朗読して下さい。

会場1階は萩原哲夫氏の展覧会となっています。ご都合の良い方は早めにお越しいただき、鑑賞していただければ幸いです。

飲み物はペットボトル持参でゴミはお持ち帰りいただけますよう、お願い申し上げます。

『私達の日々は風景の連続ともいえるでしょう。
 美しい瞬間を画家が描いた風景の前に、人は立ちどまります。
 詩人の語る詩情にも絵はあります。
 朗読する詩人達の肉声を通してそれぞれの風景を想像して
 分かち合う午後のひと時をご一緒しましょう。』

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仕掛け人は連翹忌の集いにご参加下さったこともおありの詩人・服部剛氏。この手のイベントをよく主催されているようです。

氏から「光太郎について語ってくれ」と言われ、お受けすることに致しました。他は現役の詩人の皆さんがマイクを握られるのでは、と思われます。

聴くだけでも可でしょうし、ぜひ語りたいという方もまだ受付中と思われます。上記フライヤー画像ご参照の上、お申し込み下さい。

【折々のことば・光太郎】

詩を六篇自分勝手に選択して書きぬき、別封で送ります。多分明日二ツ堰の局までゆけるでせう。今日は暴風雨ですが。「続智恵子抄」ではあまり月並みと思ひ、「智恵子抄その後」としましたがおかしいでせうか。

昭和24年(1949)10月30日 粕谷正雄宛書簡より 光太郎67歳

粕谷は編集者。連作詩「智恵子抄その後」6篇――「元素智恵子」「メトロポオル」「裸形」「案内」「あの頃」「吹雪の夜の独白」――は、翌年1月の『新女苑』に発表されました。

時折、光太郎に関連する企画展示をなさって下さっている文京区の森鷗外記念館さんで、またしてもです。

特別展「111枚のはがきの世界 ―伝えた思い、伝わる魅力」

期 日 : 2024年10月12日(土)~2025年1月13日(月・祝)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10:00〜18:00
休 館 : 11月26日(火) 12月23日(月)・24日(火) 12月29日(日)~2025年1月3日(金)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円)  中学生以下無料

 文京区立森鴎外記念館では2024年10月12日(土)から2025年1月13日(月・祝)まで、特別展「111枚のはがきの世界―伝えた思い、伝わる魅力」を開催いたします。
 当館では2023(令和5)年、江戸千家家元・川上宗雪氏より、明治20年代から昭和50年代に交わされたはがきコレクション111枚を一括でご寄贈いただきました。
 差出人は森鴎外を始め、夏目漱石、与謝野晶子、石川啄木、芥川龍之介、宮沢賢治ら文学者。竹久夢二、藤田嗣治、竹内栖鳳、恩地孝四郎ら美術家。他にも幸徳秋水、田中正造、山川菊栄、南方熊楠、柳宗悦など、各分野において近現代史に名を遺す著名人ばかりです。
 内容は、季節の挨拶、礼状、お祝い、事務連絡など暮らしや仕事のやり取りもあれば、私信ならではの本音や心安さが見られるものもあります。手書きでしたためられたはがきには、書き手の個性や受取人との関係性、当時の社会の雰囲気に思いを巡らせる魅力が詰まっています。
 本展では、はがき一枚一枚の魅力や、それらが伝える人物交流、文化的・社会的背景を紹介します。各人の全集に未収録のものや、文京区ゆかりの文化人のもの等、明治から昭和に至る通信環境の変化とあわせて、111枚のはがきの世界をお楽しみください。

■はがきの差出人(五十音順)
文学者
芥川龍之介、石川啄木、伊藤左千夫、井伏鱒二、伊良子清白、氏家信、円地文子、岡本かの子、尾山篤二郎、山本露葉、北原白秋、木下利玄、古泉千樫、齋藤茂吉、島木赤彦、杉田久女、高村光太郎、立原道造、谷崎潤一郎、田山花袋、坪内逍遙、土岐善麿、内藤鳴雪、永井荷風、長塚節、中西悟堂、夏目漱石、萩原朔太郎、馬場弧蝶、二葉亭四迷、堀辰雄、正岡子規、三木露風、宮沢賢治、三好達治、武者小路実篤、室生犀星、森鴎外、吉井勇、若山牧水、柳原白蓮、与謝野晶子、吉川英次 ほか

美術家、工芸家
會津八一、梅原龍三郎、小川芋銭、織田一磨、恩地孝四郎、香月泰男、川端龍子、小出楢重、近藤浩一路、坂本繁二郎、芹沢銈介、竹内栖鳳、竹久夢二、寺崎廣業、堂本印象、富岡鉄斎、橋本関雪、平福百穂、藤田嗣治、前田青邨、松林桂月、松本竣介 ほか

ジャーナリストほか
大川周明、緒方竹虎、木下尚江、幸徳秋水、高田早苗、田中正造、山川菊栄、山川均

哲学者、評論家、芸能ほか
阿部次郎、安倍能成、仮名垣魯文、三遊亭円朝、寺田寅彦、新村出、西田幾多郎、野上豊一郎、久松潜一、藤原銀次郎、正木直彦、南方熊楠、柳宗悦、和辻哲郎
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関連事業

○展示監修者、調査研究協力者による講演会
 ・講演会「111枚のはがきが織りなすタペストリー」
   講師:須田 喜代次 氏(大妻女子大学名誉教授・森鷗外記念会会長)
   日時:2024年11月10日(日)14時~15時30分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ・講演会「はがきの世界1」
   前半「芥川龍之介のはがきをめぐる三題噺
-〈六朝書体〉・海軍機関学校・小説「河童」」
    講師:伊藤 一郎 氏(東海大学名誉教授)
   後半「夏目漱石のはがきから-漱石の文人趣味」
    講師:松村 茂樹 氏(大妻女子大学教授)
   日時:2024年11月24日(日)14時~16時15分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ・講演会「はがきの世界2」
   前半「宮沢賢治「臨終の詩」の謎-松本竣介はどこでこの詩に出会ったのか?」
    講師:杉浦 静 氏(大妻女子大学名誉教授)
   後半「翻字作業の裏側で-文字に向きあうということ」
    講師:出口 智之 氏(東京大学准教授)
   日時:2024年12月14日(土)14時~16時15分
   料金:無料(参加票と本展覧会観覧券(半券可)が必要)
 ※講演会はいずれも定員50名

はじめ、鷗外宛のはがきの集成かと思ったのですが、さにあらず。個人のコレクターの方からの寄贈で、とにかく近代著名人の葉書をコレクションするという集め方だったようで、差出人はもちろん、宛先もバラバラのようです。

我らが光太郎の葉書も含まれています。比較的長命だった上に、特に戦後はやたらと筆まめだった光太郎ですので、そう珍しいものではありませんが、『高村光太郎全集』未収録のものであれば嬉しいなと思っております。そうであれば、たった一通でも、通説を覆すようなことが書かれていたり、これまで知られていなかった事実が書かれていたりということがよくありますので。

8月に行って参りました兵庫県たつの市の 霞城館・矢野勘治記念館さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」に出た光太郎葉書もそんな例で、この発見により、大正年間に埼玉の秩父山麓を周遊していたという知られていなかった事実が判明したりしました。

ところで、光太郎と異なり早世したため、残っている書簡の少ない石川啄木や宮沢賢治のそれも出品され、かえってそちらで「ほおー」と思いました。啄木からは大恩人の金田一京助宛、賢治は高橋秀松という人物に送ったものだそうです。高橋は盛岡高等農林学校の寄宿舎で賢治と同室、戦後、郷里の宮城県名取町(のちに名取市)の町長/市長を務めた人物でした。

他にも文学、美術、さらにその他の分野でも光太郎と縁のあった人物がずらり。

ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

しかしお彼岸の頃から健康恢復、只今ではもうすつかり元気になりました、夏に弱いことまつたく白熊のやうです。その代りこれから冬にかけては得意の季節です。
昭和24年(1949)10月26日 東正巳宛所感より 光太郎67歳

少し前のこの項でご紹介した、この年の夏、おそらく熱中症で4回ぶっ倒れたという話からの繋がりです。自らを白熊に例えるあたり、笑えます(笑)。

毎年恒例、北鎌倉での展示情報です。

回想 高村光太郎と尾崎喜八 詩と友情 その11

期 日 : 2024年10月8日(火)~11月26日(火)の火・金・土・日曜日
      追記:当初予定から変更で11月19日(火)までとなりました。
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 : 高村光太郎と尾崎喜八の詩朗読会 11月9日(土) 15:00~
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光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫御夫妻が経営されているカフェ兼ギャラリー笛さんでの展示。すぐ近くに住んでいて、光太郎と深い交流のあった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏のご協力もあり、光太郎と尾崎の交流(尾崎の妻は光太郎の親友・水野葉舟の娘の實子でした)を辿る展示が為されます。光太郎と尾崎それぞれの肉筆や写真、年によっては光太郎が尾崎の結婚祝いに贈ったブロンズの「聖母子像」(ミケランジェロ模刻)も。

一昨年からは関連行事として光太郎と尾崎の詩をとりあげる朗読会も催されています。当方、今年は「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」に出品物をお貸しし、その搬入と会場設営の日に当たってしまいましたので欠礼いたしますが、展示の方は会期中に拝見に伺うつもりで居ります。

皆様も是非どうぞ。朗読者も募集中だそうです。奮ってご応募下さい。

【折々のことば・光太郎】

何を表現しても芸術そのものは健康であるべきです。

昭和24年(1949)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

光太郎、造型にしても文筆にしても、病的な表現は嫌いました。若い頃には彫刻で「妖気」のようなものを表そうとしたこともありましたが、のちにそういうやり口は誤りだったと否定しました。

「山の詩人」といわれた尾崎にもそういう精神は通底していて、それだけに二人が結びついたのだと思われます。

智恵子の故郷、福島の地方紙『福島民友』さんから。

「智恵子に親しみを」 高村夫妻結婚110周年、顕彰会が学校に絵本寄贈へ

 「智恵子抄」で知られる福島県二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家光太郎を顕彰する同市の「智恵子のまち夢くらぶー高村智恵子顕彰会」は12月、高村夫妻の結婚110周年などを記念し、智恵子の生涯を描いた絵本を智恵子の母校油井小をはじめ同市の全23小中学校と4地区の図書館、図書室に寄贈する。代表の熊谷健一さんは「絵本が二本松の次世代を担う子どもたちに美と愛を貫いた智恵子への親しみと理解を深めるきっかけにしたい」と期待を寄せている。
 贈呈は結婚110周年のほか、「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」でおなじみの光太郎の詩集「道程」出版110周年、同くらぶ発会20周年の節目を祝って実施する。
 贈呈する絵本は、同くらぶと親交のある作家で画家、智恵子研究者坂本富江さん(東京都)が制作した紙芝居「夢を描くひとー高村智恵子」を今回の贈呈に合わせ、坂本さんが一部手直しして絵本化したもの。
 同団体は2005年に設立、智恵子講座などを通じて智恵子と光太郎の世界を研究している。贈呈式は12月15日に二本松市で開かれる「発会20年を祝うつどい」の席上、実施する。
 同団体は本年、各種記念事業として今月16日、安達太良山の“ほんとの空の下”で智恵子抄朗読大会の開催などを予定している。
 熊谷さんは「絵本を通して波瀾(はらん)万丈の生涯を生き抜いた高村夫妻の遺徳を後世に伝承するとともに、子どもたちに今後、さらに濃密、充実した人生を歩んでもらえる生きた教材として活用してほしい」と贈呈を心待ちにしている。
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絵本作者の坂本富江さん、太平洋美術会さんに所属され、絵を描かれている方です。同会に入会なさった動機の一つが智恵子もこちらに通っていたことだという筋金入りの智恵子ファンで、都内智恵子生家で個展を開かれたり、平成24年(2012)には『スケッチで訪ねる『智恵子抄』の旅 高村智恵子52年間の足跡』、同27年(2015)には同書の増補改訂版を刊行なさったりしました。それを元に、智恵子母校の二本松市立油井小学校さんや光太郎母校の荒川区立第一日暮里小学校さんなどで紙芝居の御披露もなさっています。

今回の絵本、当方、校正を担当いたしました。刊行は未だ少し先のようですが、世に出ましたらまた詳しくご紹介いたします。

その前に、記事にある「智恵子のまち夢くらぶー高村智恵子顕彰会」さんのイベント「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」が10月14日(月・祝)に行われ、その中でまた坂本さんの紙芝居実演がプログラムに入っています。

これも近くなりましたら詳しく取り上げますのでよろしくお願い申し上げます。。

【折々のことば・光太郎】

今スルガさんに頼んで便所を新築してもらふ事にしてゐます。スルガさんが一切引きうけてくれました。


昭和24年(1949) 宮崎稔宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)脇に建っている便所のことと思われます。「スルガさん」は土地を提供してくれていた駿河重次郎です。
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左側が「小」。右側が「大」で、その壁に明かり採りのため「光」一字を刳り抜きました。
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光太郎が7年間の蟄居生活を送った旧太田村の山小屋に隣接する花巻高村光太郎記念館さん関連で2件。

まず、『広報はなまき』9月15日号から。同誌、1月を除き1日、15日と月2回の発行ですが、毎月15日分にはほぼ毎号「花巻歴史探訪郷土ゆかりの文化財編」という記事が最終ページに載ります。主に市そのものや市内の博物館、記念館等の所蔵品を紹介するもので、今回もそうですが、光太郎関連も時々取り上げられます。

今号は先頃市に寄贈のあった中原綾子関連史料の中から「「みちのく便り」直筆原稿」。中原が主宰していた雑誌『スバル』に寄稿したもので、旧太田村時代の昭和25年(1950)から昭和26年(1951)にかけて不定期に4回掲載されました。そのうちの3回目の原稿が紹介されています。
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記事にあるとおり昭和25年(1950)に盛岡市の川徳画廊で開催された智恵子の紙絵展を見ての感想がメインです。一部分を抜き出しましょう。

 久しぶりに智恵子の作を見てやはり感動した。その上かうやつて一度にたくさん並べて見たのは初めてなので、膝の上で一枚づつ見るのとは違つた、その全体から来る美の話しかけに目をみはつた。一人の作が三十枚程あれば一つの雰囲気が生れる。人はその雰囲気の中で、丁度森の中をゆくやうな一種の匂はしさを感ずる。
 見渡したところ智恵子の作は造型的に立派であり、芸術的に健康であつた。知性の細かい思慮がよくゆきわたり、感覚の真新しい初発性のよろこびが溢れてゐた。そして心のかくれた襞からしのび出る抒情のあたたかさと微笑と、造型のきびしい構成上の必然の裁断とが一音に流れて融和してゐた。

ここまで的確に智恵子の紙絵を表せるのは、やはりそれが自分に向けて作られた光太郎しか居ないのでは、と思われます。

現存する智恵子の紙絵はすべて、心を病んで品川のゼームス坂病院に入院してから作られたものです。健康だった頃、駒込林町のアトリエで、尾崎喜八の幼い娘にシンメトリー式の切り絵を作ってやったという尾崎の証言がありますが、その現存は確認できていません。

のちの心理学者的な人々の考察では、この紙絵が当時の智恵子にとって、人間世界と交信する唯一のツールだったとのこと。その通りでしょう。智恵子没後10年余り経ち、改めてずらっと並んだそれを見た光太郎。その胸中はいかばかりだったのか……。

この「みちのく便り」の原稿はじめ、中原綾子関連の寄贈品、おそらく来年には花巻高村光太郎記念館さんで展示されると思われます。今から楽しみです。

同館関連でもう1点。盛岡で開催されるイベントに同館として参加、だそうです。

同人誌展示即売会 岩漫63

期 日 : 2024年9月22日(日)
会 場 : 岩手県産業会館(サンビル)7階大ホール 岩手県盛岡市大通1丁目2番1号
時 間 : 11:00~15:00
料 金 : 無料

岩漫(がんまん)とは
◆岩漫は、同人誌を中⼼とした創作物を通じて自己表現する場であり、会場に集まった仲間達との交流の場でもあります。
◆岩漫は、様々な世代の参加者が相互交流を図り、同人誌分化が継承され発展していくことを目標とします。
◆岩漫は、岩漫実行委員会が運営しています。岩漫実行委員会は、参加者の有志から構成されています。
◆岩漫は、参加者全員でつくりあげます。運営の手の足りないところへのご協力をお願いします。
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こういう系のイベントですが、記念館の指定管理者である花巻高村光太郎記念会さんも参戦なさるそうです。一昨年行われたゲームとのタイアップ企画「宮沢賢治×高村光太郎×文豪とアルケミスト スタンプラリー」が好評だったことからの決断のようです。

当日は光太郎に関するミニ展示、詩集や回想録、オリジナルのミュージアムグッズの販売などを行うとのこと。光太郎ファンの新たな拡大に繋がるならいいことですね。

ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】IMG_0004

過日那須にて建碑式遊ばされし趣おかげにて小生もかかる名所に筆のあとを残すことを愉快に存じます。


昭和24年(1949)8月4日(日) 
佐藤隆房宛書簡より 光太郎67歳

光太郎が旧太田村に移る直前の約1ヶ月、自宅離れに住まわせてくれたりと、様々な形で光太郎に援助を惜しまなかった総合花巻病院長・佐藤隆房。那須出身の亡父・房之助の短歌を刻んだ歌碑の建立を思い立ち、光太郎に揮毫を依頼、はれて那須町内の寺院に建立されました。

右は拓本。「かくばかりつゝじの花のさかゆるを知らぬもをしきみやこ人かな」と読みます。

しかし、この碑は同地に現存していません。無理解のため撤去されてしまいました。原本が佐藤家に残っているのが救いです。悪意があって撤去したわけではないのですが、それにしても……です。

テレビ放映情報です。

英雄たちの選択 我は女の味方ならず 〜情熱の歌人・与謝野晶子の“男女平等”〜

NHK BS1/NHK BS4K 2024年9月2日(月) 21:00~22:00

「みだれ髪」など情熱の歌人として知られる与謝野晶子は人気評論家だった。おりしも女性の権利拡張を目指す運動が盛んになる中、母性保護をめぐり平塚らいてうと大論争に。
 
与謝野晶子は言論弾圧が厳しい時代に、歯に衣着せぬ評論で人気を集め、あらゆるジャンルの評論を雑誌、新聞に載せた。中でも力を入れたのが「男女平等」。女性も仕事をすることで男性から経済的自立することが必要と主張。おりしも女性の権利拡張を「母親になれるのは女性だけ」という理由で推し進めようとしていた女性解放運動家の平塚らいてうと「母性は保護されるべきか」をめぐり激しく対立、大論争を繰り広げる。その結果は?

出演者
【司会】磯田道史 浅田春奈
【出演】歌人…松村由利子 ジャーナリスト…浜田敬子
【語り】松重豊

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メインは光太郎の姉貴分・与謝野晶子。智恵子の先輩にして智恵子に『青鞜』の表紙絵を依頼した平塚らいてうとの「母性保護論争」が取り上げられます。さらに山川菊栄らも参戦し……。

NHKさんでは令和2年(2020)にオンエアされた「先人たちの底力 知恵泉「新しい女の生き方 明治・大正編 平塚らいてう」でも同じ問題を取り上げました。その際はサブタイトルの通りらいてう視点からの制作で、今回は晶子側からの反証的な。

ダメ夫(鉄幹ファンの皆さん、すみません(笑))の元、11人もの子を筆一本で育てた晶子と、年下の「若いツバメ」と最初は入籍しない事実婚で子育てしつつ女性の権利拡大を訴えたらいてう。およそ100年前の話ですが、現代でもあまり状況は変わっていないような……。

光太郎智恵子には直接関わりませんが、夫妻とそれぞれ交流の深かった二人のバトル、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生が東京へ出かけることは今のところ一寸むつかしいやうに考へられます。東京の街を歩ける服装すら今はありません。発表会の模様をあとできくのが楽しみに思へます。


昭和24年(1949)4月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

発表会」は舞踊家だった藤間のリサイタル。藤間が戦時中から構想を温めていた「智恵子抄」舞踊化が為されました。この手の「智恵子抄」二次創作の嚆矢でした。
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昨日は日帰りで兵庫県たつの市に行っておりました。2日に分けてレポートいたします。

そもそもは、同市の霞城館さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」に、光太郎から三木露風宛の書簡が出ているという情報を得たためで、そちらの拝見がメインでした。同市は露風の故郷です。

千葉の自宅兼事務所から同市までどう行くか。初め、自宅兼事務所から車で1時間弱の茨城空港から神戸に飛んで……と考えました。一昨年、神戸市に行った際にはそうしましたので。ところが、その折は早めに航空券を予約したので安かったのですが、今回、間際になって行くことを決めたため、それだと馬鹿高い料金。その上、神戸空港からたつの市までのアクセスも調べてみると意外と不便でした。乗りかえ、乗りかえで2時間弱。そこで千葉から鉄道で行くことにしました。

最寄り駅から4:50の始発に乗り、9:45に山陽新幹線の姫路駅に到着。同駅から見えた世界遺産姫路城。
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ここからJR姫新線に乗り、本竜野駅まで。露風の故郷とあって、いきなりホームに「赤とんぼ」像。「駅のホームに作るか、すごいな」でした。
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同様の像は駅前にもありましたし、ちょっと歩くと側溝の蓋が赤とんぼデザインになっている場所も。愛されていますね(笑)。
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炎天下を1㌔ほど歩き、霞城館・矢野勘治記念館さんに到着(途中、寄り道もしたのですが、そのあたりは明日)。
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拝観料200円(安!)を払って、早速、拝見。
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撮影禁止という表示が見あたりませんでしたので、撮らせていただきました。こんな感じで、各界から露風宛の絵葉書が並んでいます。

光太郎からのもの。『高村光太郎全集』には洩れているものです。
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歌人の西村陽吉との連名です。
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まずその点が意外でした。西村は光太郎も寄稿したり表紙画を描いたり装幀したりした雑誌『朱欒』や『創作』等の版元、東雲堂の養子に入った人物なので、光太郎と交流があったことは推測されますが、『高村光太郎全集』にはその名が出て来ません。一緒に旅をする程の仲だったのか、と、意外でした。

また、旅先が埼玉の山間部、飯能や名栗。日付が大正4年(1915)7月19日となっています。この時期に光太郎が埼玉に行っていたというのもこれまでの年譜に記されていませんし、光太郎、埼玉は普段通過するばかりで、目的地だったことは他に一度もありません(まぁ、別に埼玉を忌避していたわけでもなく、特に用事がなかったということなのでしょうが)。そこにきて埼玉の地名が出てきたので実に意外でした。

一瞬、大正でなく昭和4年(1929)かな、と思いました。この年にはお隣の群馬県の温泉地をほうぼう歩いていましたし。また、貼られている一銭五厘の切手は、大正4年(1915)でも昭和4年(1929)でも共通ですので(細かく見れば違うらしいのですが、ぱっと見の判断は当方には出来ません)。しかし、絵葉書の様式(差出面の通信欄の面積)を見れば大まかな時期が判別でき、昭和4年ではありえません。

光太郎からのものはこの一通のみでしたが、他の人物からのものがずらり。やはりメインは「赤とんぼ」などで黄金コンビを組んだ山田耕筰からの来翰でしたが。
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北原白秋やら坂本繁二郎やら、その他、窪田空穂、小山内薫、前田夕暮、石井漠、堀口大学などなど、かなり光太郎の人脈ともかぶっています。
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展示されているのがすべて大正期の絵葉書です。露風が送られてきた絵葉書だけを貼り付けたアルバムを作っていたためです。この頃はまだ絵葉書というのがある意味珍しかったというのもあったでしょうし、それらを集めておいて見返し、自分もその土地に行った気分を味わっていたのかも知れません。「なるほどね」という感じでした。

他の展示も見学。露風のコーナーではやはり「赤とんぼ」。
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光太郎装幀の露風詩集『廃園』重版もありました。
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さらに同じ敷地内には矢野勘治記念館さん。矢野は正岡子規に師事した人物で、本業は実業家でしたが、旧制一高の寮歌「嗚呼(ああ)玉杯に花うけて」を作詞したことで有名です。

周辺には露風の生家や、露風が買い物をしたであろう店などが残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定された古い街並みが広がっています。そのあたりは明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

いまパウロの事をまざまざとおもひ、考へてまことにつよい反省に心が裸にされたやうに感じて居ります。小生は美の使徒として生きてをりますがパウロに向ふと甚だまぶしくて殆ど直視できない程に感じます。


昭和24年(1949)3月6日 田口弘宛書簡より 光太郎67歳

故・田口弘氏は埼玉県東松山市の教育長を永らく務められました。戦時中から光太郎と交流があり、光太郎はこの時には敬虔なクリスチャンだった氏に、子息の誕生祝いとして聖書の「ロマ書」の一節「我等もしその見ぬところを望まば忍耐をもて之を待たん」を揮毫して贈りました。その送り状の一節です。
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この書、当方は氏のご生前に埼玉のご自宅で拝見、令和3年(2021)に富山県水墨美術館さんで開催された「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際には「ぜひともこれもラインナップに入れて下さい」とお願いして展示していただきました。現在、精密複製が埼玉県東松山市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」に展示されています。

光太郎自身は洗礼を受けたクリスチャンではありませんでしたが、自らを「美の使徒」と位置づけていたというのは興味深いところです。

会期あと僅かですが『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎書簡が出ています。

三木露風と交流のあった人々

期 日 : 2024年7月13日(土)~9月1日(日)
会 場 : 霞城館・矢野勘治記念館 兵庫県たつの市龍野町上霞城30-3
時 間 : 9時30分~17時
休 館 : 月曜日
料 金 : 一般:200円/小~大学生・65歳以上:100円

 本年は、三木露風が亡くなってから60年にあたります。これを記念して、霞城館では、企画展「三木露風と交流のあった人々」を開催します。
 本展では、当館が所蔵する露風宛ての葉書をおさめたアルバム(2冊)の中から、露風と交流の深かった人物の葉書を紹介します。皆様のご来館をお待ちしております。
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公式情報に光太郎の名がなかったので気づかないで居たのですが、兵庫の地方紙『赤穂民報』さんに紹介記事が出(赤穂出身の俳優・河原侃二からの葉書が出ているという内容がメイン)、その中で河原以外に「同館が所蔵する露風宛ての絵はがき約240通の中から一部を紹介。「赤とんぼ」を作曲した山田耕筰、劇作家の小山内薫、詩人の高村光太郎、露風が作詞した赤穂小学校の校歌を作曲した近衛秀麿などが差し出したはがきが並ぶ」と記述がありました。

『高村光太郎全集』には、光太郎から露風宛書簡は一通のみ掲載されています。明治42年(1909)12月11日付けで内容は以下の通り。

拝啓
 いつぞやは珈琲店にて御目にかかり愉快に存じ候。其後御無沙汰いたし居り候処二三日前水野君より『廃園』相届き、見れば貴下の御贈り下されたるもの、誠になつかしくありがたく存じ上げ候。『廃園』の中の詩は、小生かの地に居りし間のもの多くみなはじめて味ふことに御座候。小生は常に貴下の詩を尊重する事深きものに候へば、この『廃園』一篇の小生に与へたる喜びは一方ならぬことに御座候。序に申上候へ共、正月の『スバル』の裏絵に貴下の『カリカチユウル』を北原君のと共に出し候へば、何とぞ悪しからず思召被下度幾重にも願上候。
 右とりあへず御礼まで、余は又御目にかゝり候時にゆづり申候。
   十二月十一日夜                          高村光太郎  
 三木露風様梧下


水野君」は親友の水野葉舟、「かの地に居りし間」は欧米留学中。

露風の詩集『廃園』は明治42年(1909)9月に刊行されました。翌年には重版が出、そちらは光太郎が装幀を担当しました。上記書簡もこの重版に掲載されたものです。
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『スバル』の裏絵」は右上画像。右が露風、左が白秋です。光太郎、同じシリーズでは与謝野晶子(左下)や森鷗外(右下)らをおちょくった絵も描いています。
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現代ですと炎上案件ですが(笑)。

今回展示されているのは露風宛の諸家の葉書。上記露風宛光太郎書簡、『高村光太郎全集』には封書とも葉書とも書かれていませんが葉書にしては長い内容です。おそらく上記書簡とは別物だろうと思い、 霞城館・矢野勘治記念館問い合わせたところ、ビンゴでした。大正4年(1915)7月の絵葉書だそうで、もろに『高村光太郎全集』に漏れているものです。

同館、光太郎に関わる展示も常設で為されているという情報を以前に得、一度行ってみたいと思っていましたし、この際ですので今週末に伺うことに致しました。

皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】005

新年に定本「蛙」が大地書房から届きました。いやみのない装幀に出来たと思ひました。此の詩集は今よんでもいいです。擬音なども此の位真正面からゆくと一つの独立価値を持つて来ます。此の詩集はたしかに日本語の範囲をひろめました。

昭和24年(1949)1月6日 
草野心平宛書簡より 光太郎67歳

心平詩集『定本 蛙』の装幀も『廃園』重版同様に光太郎です。装幀の仕事も明治末から最晩年に至るまで、断続的に行い続けました。

安達太良山を舞台とし、「智恵子抄」をモチーフの一つとして下さった章を含む、湊かなえ氏の小説『残照の頂 続・山女日記』の文庫版が出ました。

残照の頂 続・山女日記 

2024年8月8日 湊かなえ著 小林百合子解説 幻冬舎(幻冬舎文庫) 定価670円+税

亡き夫への後悔を抱く女性と、人生の選択に迷う会社員。失踪した仲間と、共に登る仲間への、特別な思いを胸に秘める音大生。娘の夢を応援できない母親と、母を説得したい山岳部の女子大生。……日々の思いを嚙み締めながら、一歩一歩山を登る女たち。山頂から見える景色は、苦くつらかった過去を肯定し、これから行くべき道を教えてくれる。


目次
 後立山連峰
  亡き夫に対して後悔を抱く女性と、人生の選択に迷いが生じる会社員。
 北アルプス表銀座
  失踪した仲間と、ともに登る仲間への、特別な思いを胸に秘める音大生。
 立山・剱岳
  娘の夢を応援できない母親と、母を説得したい山岳部の女子大生。
 武奈ヶ岳・安達太良山
  コロナ禍、三〇年ぶりの登山をかつての山仲間と報告し合う女性たち。
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新聞各紙に大きく広告も出ていました。サイン会の情報も載っています。
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元版は令和3年(2021)秋の刊行。ほぼ同時にNHK BSさんでドラマ化されました。工藤夕貴さん、小林綾子さんらのご出演。
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電子版も出ています。

ハードカバー版、お持ちでない方はぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

今年は変つた冬で此の山の中でもまだ根雪にならず、降つてもとけてしまひ、概して天気がよく、寒さも零下八度ぐらゐになる程度で例年のやうな零下二十度にはまだなりません。冬晴れの澄みきつた天空の美しさは言語の外です。毎朝大霜で霜柱の大きく長いのははじめて見ました。一面に花が咲いたやうできれいです。


昭和23年(1948)12月30日 西出大三宛書簡より 光太郎66歳

この年の冬は暖冬だったようですが、それにしても……ですね。

テレビ放映情報です。光太郎に触れられるかどうか微妙なところですが……。

偉人の年収 How much? 童話作家 宮沢賢治

地上波NHK Eテレ 2024年8月12日(月) 19:30~20:00
再放送 2024年8月15日(木) 15:05~15:35

教科書に載るような偉人たちはいくら稼いでいたの?お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる! 今回は童話作家 宮沢賢治の登場です!

『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』『やまなし』などの作品を生みだした岩手県出身の童話作家 宮沢賢治。小学生の時に先生が読んでくれた童話に感動し、童話の世界へ引き込まれます。25歳で上京して本格的に童話を書き始めますが、重病の妹を看病するため帰郷。その後、農学校の教師となり、自ら畑を耕して地域の農業発展に尽くします。あの不朽の名作『雨ニモマケズ』はどのように生まれたのか?当時の年収とともに探ります。

【司会】谷原章介,山崎怜奈,【出演】今野浩喜
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今年1月には光太郎と交流の深かった与謝野晶子が取り上げられました。番組紹介欄にあるとおり「お金を切り口に半生をたどると、偉人の生き方や人生観が見えてくる」だそうで、やはり経済という部分は大事だなと思わされました。

再現Vの部分では、今野浩喜さんが毎回その偉人役でご登場、スタジオMCの谷原章介さんと山崎怜奈さんに突っ込まれまくっています(笑)。与謝野晶子の回では今野さんの晶子役、無理くり感満載でしたが、賢治はどうなるでしょうか。賢治と今野さん、ぱっと見よく似ているような気もするのですが(笑)。
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その「発見」の現場(昭和9年=1934の追悼会会場)に光太郎も居合わせ、のちに石碑に刻む揮毫を光太郎が行った「雨ニモマケズ」も大きく取り上げられます。
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花巻に建てられた光太郎揮毫の詩碑程度は映していただきたいものですが、どうなりますやら。

ともかくも、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

かかる時政治家などの不しだらな行動が報道されて憤りを感じます。まつたく一新してしまはなければ落ちつかない気がします。


昭和23年(1948)12月10日 西岡文子宛書簡より 光太郎66歳

政治家などの不しだらな行動」、GHQの目が光っていた当時は現代ほどではなかったと思うのですが……。それとも裏金作りだの脱税だのキックバックだの秘書給与不正受給だの公文書改竄だのカルト団体との癒着だの憲法違反だの猥雑パーティーだのコピペの式典挨拶だのパワハラだのは当時からまかり通っていたのでしょうか?

今月初めの『朝日新聞』さん岩手版から。光太郎と交流の深かった日中ハーフの詩人・黄瀛に関して。光太郎にも言及されています。

(賢治を語る)中国籍の詩友、数奇な人生 宮沢賢治学会前副代表理事・佐藤竜一さん/岩手県

 北東北の詩人・宮沢賢治の友人に、黄瀛(こうえい)(1906~2005)という詩人がいた。中国人を父に、日本人を母に持つ黄は、日本語で詩を書き、名声を得た後、国民党の将校として中国共産党の捕虜になったり、文化大革命で獄中生活を送ったりした。黄が歩んだ数奇な人生について、書籍「宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯」の著者で、宮沢賢治学会前副代表理事の佐藤竜一さん(66)に聞いた。
《黄の生い立ちは?》
 1906年、中国・重慶で生まれました。父は黄澤民(たくみん)、母は千葉出身の太田喜智(きち)。喜智は小学校を2回飛び級するほど優秀で、東京女子高等師範学校を卒業後、日清交換教員として重慶に赴任し、澤民と結婚します。
 澤民は黄が3歳の時に亡くなったため、喜智はしばらく中国を転々とした後、黄が8歳の時に千葉県に戻ります。
《詩作を始めたのは?》
 黄は中国籍のため地元の中学校に進学できず、東京の中学に通います。喜智も中国籍のため小学校教師の職を追われ、中国の天津に渡って石炭販売業を営みながら、日本の黄に送金します。
 23年、日本では大きな転機となる関東大震災が起きます。東京の中学の授業がストップしたため、黄は青島の日本中学に編入します。
 そこで高村光太郎の「道程」などを読み、詩作に励み始めます。25年には新潮社が発行する詩誌「日本詩人」の第1席に選ばれ、詩人としての名声を得ます。
 青島の日本中学を卒業後、帰国して文化学院に入学し、草野心平と交友を深めます。黄と心平は度々、光太郎のアトリエを訪れます。
《賢治との出会いは?》
 24年に賢治が詩集「春と修羅」を出版すると、心平は賢治の才能に驚き、心平が創刊し、黄も同人となっている詩誌「銅鑼(どら)」に参加しないかと誘います。賢治は快諾し、「銅鑼」に「永訣(えいけつ)の朝」を発表します。
 黄は文化学院を中退後、陸軍士官学校に入学。29年、卒業直前に行った北海道旅行の帰りに花巻に立ち寄ります。賢治は病床にありましたが、1時間ほど会話を交わしたようです。冗談好きの賢治は「お会いできて、コウエイ(光栄)です」と出迎えました。
《その後の黄の人生は?》
 黄は37年に日中戦争が起こると、日本との関係を絶ち、中国大陸で国民党の将校としての道を歩みます。しかし49年、国共内戦で中国共産党に捕らえられ、重労働を課せられて獄中へ。66年の文化大革命では日本との関係がただされ、再び獄中へと送られます。
 合計で20年もの獄中生活を体験した黄に光が当たったのは78年。重慶の四川外語学院で日本文学を教える職に就いてからです。教壇に立った黄が真っ先に取り上げたのが賢治でした。黄の教え子からはその後、中国で賢治作品を広める多くの研究者が生まれています。
 私は92年、重慶で黄に初めて面会しましたが、政治に触れる話を避けたいという気持が伝わってきました。「今も詩を書いていますか」と聞くと、「書いていません。自分の存在自体が詩でありたい」と答えました。
 黄は96年、賢治生誕100年を記念して67年ぶりに花巻を訪れ、「皆さんの力で賢治はいよいよ世界的になるところです」と語っています。


最初に紹介されている佐藤氏御著書『宮沢賢治の詩友・黄瀛の生涯―日本と中国 二つの祖国を生きて』についてはこちら

今回の記事では紙幅の都合上、細かなところは語られていませんが、紹介されているエピソードだけでも黄の「数奇な人生」ぶりが分かりますね。

光太郎は黄の才能を高く評価、大正14年(1925)のアンケート「十四年度作品批評」では、真っ先に「知人のせゐか黄瀛君にひどく嘱望してゐます」とし、さらに昭和9年(1934)に刊行された黄の詩集『瑞枝』には序文を寄せました。

また、黄をモデルに彫刻も制作。
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ただ、おそらく戦災で焼けてしまったと考えられ、現存が確認できていません。

この彫刻を作っていた大正14年(1925)、黄が中国で知り合った心平を光太郎に紹介しました。そして翌年には黄や光太郎と共に心平の『銅鑼』同人でもあった賢治が光太郎のアトリエを訪問します。二人の天才、生涯ただ一度の出会いでした。さらに記事に有る通り、昭和4年(1929)の黄と賢治の会談。

そう考えると黄はいろいろなところでのキーパーソンですね。昨日触れた画家の柳敬助同様、もっともっと知られていていい存在と思われます。

最後の黄の言葉「自分の存在自体が詩でありたい」は、賢治、心平、そして光太郎にも共通する考えだったようにも思えますね。

【折々のことば・光太郎】

御恵贈の「絶後の記録」を三四度くりかへしてよみました。その間つい御礼も書けずにゐました。まつたく息もつまる思でよみました。あの頃の世界を身に迫つて感じ、何とも言へず夢中でよみました。貴下が全身をあげて投擲するやうに書いて居られる気持がよく分かりました。最後の章にこもつてゐる貴下の感嘆には十二分に共鳴を感じます。まだきつと読みかへすでせう。これは記録としても貴重な文献です。


昭和23年(1948)12月10日 小倉豊文宛書簡より 光太郎66歳

『絶後の記録』は、賢治研究家としても有名な小倉が自身の広島での被爆体験を綴ったルポです。翌年には海外輸出版が刊行され、そちらには光太郎が序文を寄せました。現在も流通している中公文庫版にはこれが転用されています。原爆の惨状が一般にはあまり知られていなかったこの時期、光太郎は書かれている内容に瞠目したようです。

また、改めてこの愚かな戦争に加担していたことへの自己嫌悪をももたらしたのではないかとも考えられます。

昨日は広島、明後日は長崎の原爆の日、来週には終戦の日。いろいろ考えさせられます。

昭和6年(1931)8月から9月にかけ、光太郎が新聞『時事新報』の依頼で紀行文を書くために三陸海岸一帯を船で訪れたことを記念して行われている「女川光太郎祭」。昨年、コロナ禍明けで4年ぶりに通常開催され、今年も行われます。

女川光太郎祭

期 日 : 2024年8月9日(金)
会 場 : 献花 高村光太郎文学碑 宮城県牡鹿郡女川町海岸通り1番地
      式典等 まちなか交流館 宮城県牡鹿郡女川町女川2丁目65番地2
時 間 : 献花 10:00~ 式典等 14:00~
料 金 : 無料

詳しい文書等来ていないのですが、ほぼほぼ例年通りという連絡が入っておりまして、概ね下記のような流れでしょう。多少の順番の変更等はあるかも知れません。

10:00~ 高村光太郎文学碑へ献花
14:00~ 式典等
 黙祷
 第33回記念講演 「智恵子、その生涯」 高村光太郎連翹忌運営委員会代表 小山弘明
 ご挨拶 女川光太郎の会
 献花の模様動画投影
 光太郎紀行文・詩の朗読 町内外の皆さん
 祝辞
 アトラクション演奏

18:00頃~
 懇親会

午前中には、平成23年(2011)の東日本大震災の際に津波で倒壊し、令和2年(2020)に復旧された光太郎文学碑(津波でなくなった貝(佐々木)廣氏が平成のはじめに建立に奔走)への献花。おそらく当方も関係者代表の一人としてでやらせていただきます。午後の式典の中でその模様の動画を投影するはずです。
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震災前は式典が碑の前で行われており碑に直接献花、震災後しばらくはかつての健在だった頃の碑の写真に会場内で献花していましたが、昨年から上記のような流れになりました。

式典では、亡き北川太一先生のあとを受けまして、当方、毎年記念講演をさせていただいております。昨年までは光太郎の生涯を時期に分けて紹介して参りました。智恵子の生き様についても聴いてみたいという要望が昨年寄せられ、今年は「智恵子、その生涯」と題してやらせていただきます。
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その後、町内外の方々による光太郎詩文の朗読。おそらくギタリスト・宮川菊佳氏の伴奏に乗せて行われます。

昨年の模様。
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さらに宮川氏、それからオペラ歌手の本宮寛子氏のアトラクション的演奏。本宮氏は平成3年(1991)、女川町で「オペラ智恵子抄」(山本鉱太郎氏脚本、仙道作三氏作曲)が上演された際に智恵子役を演じられ、それ以来女川町に通い続けていらっしゃいます。

終了後は会場近くの町中華さんで懇親会。年に一度お会いする方々が多く、当方としては今から楽しみです。

ご都合のつく方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生も仕事は七十歳からと信念致しまして、目下心身の涵養につとめて居ります。

昭和23年(1948)10月21日 宮崎仁十郎宛書簡より光太郎66歳

仕事」は彫刻。花巻郊外旧太田村の山小屋での暮らしの中で、発表する作品としての彫刻制作は完全に封印したことが語られています。少し前までは今年こそ少しずつやります、的な感じだったのですが。

一昨日、光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で行われた市長さんの定例記者会見の中で、下記の件が発表されました。

令和6年7月 定例記者会見 No6 高村光太郎 歌人中原綾子宛ての手紙等が寄贈されました

 高村光太郎が歌人中原綾子宛てに書いた、はがきや手紙など64点について、高村光太郎記念館に寄贈の申し込みがありました。

■寄贈資料と点数[]
 高村光太郎から中原綾子宛て
  はがき 41点
  封筒入り書簡 20点
  電報 1点
  封筒 1点
  その他封筒 1点
  合計 64点

寄贈者と寄贈の経緯
■寄贈者
 中原毬也(まりや)氏 米国カリフォルニア州在住
■寄贈の経緯
 中原毬也氏は歌人中原綾子の孫。毬也氏が保管している祖母(中原綾子)あて高村光太郎の書簡等について散逸しないように保存してほしいとの意向があることについて、毬也氏の親戚の方から市に連絡があったものです。
 毬也氏は、5月18日に高村光太郎記念館を訪問され、記念館と高村山荘をご覧いただいた際に当該資料をお持ちになり寄贈の申し出をいただきました。
■中原綾子について
 中原綾子(明治31(1898)年~昭和44(1969)年)は与謝野晶子(明治11(1878)年~昭和17(1942)年)門下の歌人で文芸誌『明星』の同人。高村光太郎(明治16(1883)年~昭和31(1956)年)も『明星』の主要な寄稿者であり、綾子氏と親交がありました。後に綾子氏が主宰した雑誌『スバル』などに光太郎は寄稿しており、今回寄贈された手紙にもその原稿が見られます。旧姓は曾我綾子であり、結婚により中原姓や小野姓を名乗る時期があります。

寄贈資料の特徴と今後の予定
 今回寄贈された資料には高村光太郎が疎開していた宮澤清六宅から出した手紙や、太田山口から郵送した原稿・手紙など、花巻市内に居住していた時に書いた手紙があります。既に『高村光太郎全集』において紹介されている資料がほとんどですが、光太郎の筆跡がわかる資料としてまとまったものであり、非常に貴重なものと考えています。今後専門家にも見ていただき、資料を整理した後、高村光太郎記念館で展示をしていきたいと考えています。

中原綾子はプレスリリースにある通り、与謝野晶子門下の歌人です。同門ともいうべき光太郎とは早くから交流があり、自らの歌集等の題字や序文などを書いてもらった他、主宰していた雑誌『いづかし』『スバル』等に繰り返し寄稿や装幀を仰ぎました。

昭和10年(1935)刊行の『悪魔の貞操』。表紙と扉に光太郎の書いた題字が使われています。
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光太郎は序詩も寄せました。
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   「悪魔の貞操」に題す

 心法の高圧を放電するもの、
 思ひもかけぬ交互無縁の片言隻語、
 言語道断の真空界にひらめくものは、
 千古測りがたい人間真理。
 すさまじいかな此書。


はじめに光太郎が送ったのはこの詩ではありませんで、以下の詩でした。
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   人生遠視

 足もとから鳥がたつ
 自分の妻が狂気する
 自分の着物がぼろになる
 照尺距離三千メートル
 ああこの鉄砲は長すぎる


のちに詩集『智恵子抄』に収められた「人生遠視」です。

さすがに中原もこれにはダメ出し。光太郎もなるほど、おっしゃる通り、ということで書き直しました。「人生遠視」は中原主宰の雑誌『いづかし』に掲載されました。

昭和10年(1935)というと、智恵子の心の病がもはや完全なものとなり、前年に預けていた九十九里浜の智恵子実母のもとから引き取って、南品川ゼームス坂病院に入院させた年です。光太郎もかなりテンパッていたようですね。

画像は光太郎が手元に残した控えの原稿ですが、今回、中原に送られた二篇の原稿も寄贈されています。

光太郎没後の昭和31年(1956)6月、『婦人公論』で光太郎追悼特集が組まれ、中原は光太郎から送られた書簡の一部を公表しました。題して「狂える智恵子とともに」。これを読んだ当時の人々は皆度肝を抜かれました。それまで、『智恵子抄』所収の詩文等では明らかにされていなかった智恵子の病状がこと細かに、さらに複数書簡で長きにわたって記されていたからです。結局、その後もここまで克明に智恵子の病状が書かれたものは見つかっておらず、以来、研究者たちなどは必ずと言っていいほど中原宛の書簡を引用しています。
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研究者以外にも、例えば野田秀樹氏は智恵子を主人公とした舞台「売り言葉」で。

遠隔の九十九里浜まで、かつては毎週一回出かけていた光太郎が、同じ東京の南品川の病院にいる智恵子を五ヶ月間も見舞っていなかったのであります。智恵子抄という類(たぐ)い希(まれ)なる純愛詩集が、最後、五ヶ月も妻を病院にほったらかしにしたオトコの手になるものだということをわすれないでいただきたい。東京市民よ! これは、智恵子抄への売り言葉なのであります。その間、光太郎は、女流詩人と文通を始めたのであります。智恵子の全く見知らぬ女性に、智恵子の悲しい姿を書き送ったのであります。東京市民よ! しかも、光太郎に同情したその女流詩人から送られた見舞いの林檎(りんご)を智恵子は食べさせられたのであります。

林檎云々は野田氏の創作と思われますが。

で、これらの智恵子の病状を綴った書簡も今回寄贈されました。

というか、『高村光太郎全集』に収められた中原宛書簡49通、すべてが寄贈されていますし、それ以外にも6通。それとは別に雑誌『スバル』宛となっているものもありますし、草稿の類も複数。光太郎、中原の共通の師である与謝野夫妻に触れられたものも多く、まさに質、量共に一級品です。

ただ、一つ残念なのは、『悪魔の貞操』や『スバル』などの題字や装幀原画などが含まれていなかったこと。それがあれば超一級でしたが、印刷などの関係で中原の手許に残らなかったのでしょう。ちなみに光太郎没後の昭和34年(1959)に出た中原の歌集「灰の詩」には、口絵として複数の光太郎揮毫が使われていますが、それらも寄贈資料に含まれていませんでした。
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それでも一級の資料類です。いずれ花巻高村光太郎記念館さんで展示の運びとなるはずですが、早くても来年でしょう。

詳細が決まりましたらまたご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

おたづねの智恵子の着物に対する嗜好などを申上げますと、智恵子は概して大柄の模様を好み、又それが似合ひました。縞でも太いものを用ゐました。智恵子は自分で着る物を織つてゐたので、縞などは自由に工夫してゐました。例へば袖口のところに青い大きな縞が一本出るやうに織つて着て歩いたりしてゐました。色は偏する事なく、いろんな色調を草木染で染めてゐました。赤は蘇黄(スワウ)を用ゐました。着物の裾は長めに着てゐました。帯はあまり広くないのをしめました。髪は単純に七三に分けて丸みをもたせてうしろでまるめてゐました。


昭和23年(1948)10月21日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

『智恵子抄』を舞踊化するための参考にとの問い合わせに対する返答の一節です。智恵子が亡くなってちょうど10年、さらにこうした服装をしていたのはもっと昔。それが昨日のことのように詳細に書かれていて、舌を巻かされます。

智恵子の故郷・福島県二本松市にほど近い郡山市からイベントの情報です。といっても、智恵子がらみではありませんで、当会の祖・草野心平関連です。

郡山市中央図書館映画会「草野心平 ほとばしる詩魂」

期 日 : 2024年7月27日(土)
会 場 : 郡山市中央図書館3階視聴覚ホール 福島県郡山市麓山一丁目5-25
時 間 : 午前10時~/午後2時~   (※上映時間の30分前開場および整理券配布)
料 金 : 無料(先着100名)

スケールの大きな生命への賛歌、孤独をみつめる勇気、また植物や動物さらには鉱物とも共に生きようとする独特の共生感。優しさ、激しさ、軽やかさ、深さ---様々な表情をみせる心平の作品を「みる」「きく」「感じる」ためのDVD。

自筆原稿、書、絵画、写真などの豊富な資料と、心平が生まれ育った小川町の美しい自然、晩年を過ごした川内村 天山文庫等の映像で構成。

「ごびらっふの独白」「青イ花」「誕生祭」(以上、草野心平朗読)

「猛烈な天」「えぼ」「ヤマカガシの腹の中から仲間に告げるゲリゲの言葉」
「蛙つりをする子供と蛙」「いいのか」「殺虐の恐怖のない平凡なひと時の千組の中の一組」
「秋の夜の会話」「蛙は地べたに生きる天国である」「上小川村」「デンシンバシラのうた」
「心平」「魚だつて人間なんだ」「牡丹園」「百姓といふ言葉」「わが抒情詩」
「おたまじゃくしたち四五匹」(以上、粟津則雄朗読)

「冬眠」「生殖Ⅰ」「月の出と蛙」「おれも眠らう」「Nocturne. Moon and Frogs.」
「天気」「遠景」

 ≪2006年/日本/52分≫
《朗読・出演・監修》粟津則雄 ​《協力》いわき市立草野心平記念文学館
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010「映画会」といっても、劇場公開された作品ではないようです。平成18年(2006)、QUESTさんという会社から発売されたDVDですね。心平自身の自作詩朗読も含まれ、さらに心平と親しかった故・粟津則雄氏による朗読、それからクレジットがないのですがプロの方の朗読も含まれているのでしょう。

こういうDVDがリリースされていたというのは存じませんでした。で、ジャケット画像を見て「ありゃま!」。光太郎による心平詩集『第百階級』(昭和3年=1928)序文の一節が取り上げられています。曰く「彼は蛙でもある。蛙は彼でもある。しかし又そのどちらでもない。」。

この序文、心平という詩人、その詩的世界(それはまた光太郎が追い求めた世界ともある部分で一致します)をこれほどまで的確に表した文章が他にあろうか、というものです。「詩人とは特権ではない。不可避である。詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。」「詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。」「トウル デスプリ」は仏語で「tour d'esprit」。「性格」「傾向」と言った意味です。

DVDの中で光太郎と心平の交流等、粟津氏が解説なさっているのではないかと思われます。それから、心平の生まれ育ったいわき市、過日、心平を祀る第59回天山祭りが開催された川内村などの映像。

ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

雑誌「心」の小生の詩をよんで下さつた趣感謝しました。貴下は分かつて下さるでせうが、随分ひんしゆくされさうな内容なのでした。その後電車沿線にある山間の温泉にまゐり、混浴の大きな浴槽にひたりながら野性を帯びた老若男女の逞しい裸体を見て大いに渇を医やしました。製作の出来ないのが残念です。

昭和23年(1948)7月11日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎66歳

「雑誌「心」の小生の詩」は「人体飢餓」です。
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    人体飢餓

  彫刻家山に飢ゑる。
  くらふもの山に余りあれど、
  山に人体の饗宴なく
  山に女体の美味が無い。
  精神の蛋自飢餓。
  造型の餓鬼。
  また雪だ。

  渇望は胸を衝く。
  氷を噛んで暗夜の空に訴へる。
  雪女出ろ。
  この彫刻家をとつて食へ。013
  とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。
  その時彫刻家は雪でつくる。
  汝のしなやかな胴体を。
  その弾力ある二つの隆起と、
  その陰影ある陥没と、
  その背面の平滑地帯と膨満部とを。

  脊椎は進化する。
  頭蓋となり骨盤となる。
  左右の突起が手足となる。
  腱があやつり肉が動かし、
  皮膚は一切を内にかくして
     又一切をこまやかに曝露する。
  造形はこの肉団を生(なま)では食はない。
  ばらばらにしてもう一度014
  高度の人体に組み立てる。
  けれども彫刻家の食慾は
  まずその生(なま)をむさぼり食ふ。
  天文学的メカニスムの大計算は
  それから起る獰猛エネルジイの力動作用(トラヴアイユ)。
  知性はこの時ただ一連の精密コムパだ。

  雪女はつひに出ない。
  雪はふぶいて小屋をゆすり、
  雪片ほしいままに頬をうつ。
  彫刻家は炉辺に孤坐して大火(おおび)を焚き、
  わづかに人体飢餓の強迫を心に堪へる。
  強迫は天地にみちる。
  晴れた空に雲の伯爵夫人は白く横はり、
  ブナの木肌は逞しい太股(ジゴ)を露呈し、016
  岩石に性別あり、
  山山はすべて巨大なトルソオである。
  火龍(サラマンドラ)を火中に見たのはベンベヌウト。
  彫刻家は燃えさかる火炎に女体を見る。

  戦争はこの彫刻家から一切を奪つた。
  作業の場と造型の財と、
  一切の機構は灰となつた。
  身を以て護つた一連の鑿を今も守つて
  岩手の山に自分で自分を置いてゐる
  この彫刻家の運命が
  何の運命につながるかを人は知らない。
  この彫刻家の手から時間が逃がす
  その負数(モワン)の意味を世界は知らない。
  彫刻家はひとり静かに眼をこらして017
  今がチンクチエントでない歴史の当然を
  心すなほに認識する。
  現代の肖像をまだニツポンは持ち得ない。
  岩手の山の貧しいかぎり、
  この現実はやむを得ない。
  あの珍しく彫刻的なコマンダンの首も
  つひに無縁に終るだらう。
  同時代のすぐれたいくつかの魂も
  造型的には無に帰して消えるだらう。
  彫刻家山に人体に飢ゑて
  精神この夜も夢幻(ゆめまぼろし)にさすらひ、
  果てはかへつて雪と歴史の厚みの中の
  かういふ埋没のこころよさにむしろ酔ふ。

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花巻郊外旧太田村で暮らし始めて2年半が過ぎました。当初は若い頃から憧れていた辺境での自由な生活の実現、山の中に文化集落を作るといった無邪気な夢想もあったのですが、続々届く友人知己等の戦死の報や、中央で巻き起こった戦犯糾弾の声などから、徐々に自らの戦争責任を省察せざるを得なくなります。

光太郎は戦犯として訴追されることは免れたものの、それで「助かった」ではなく、自らに罰を与える方向に梶を切ります。すなわち「自己流謫(るたく)」。「流謫」は「流罪」に同じです。

といって、幾ら不便とはいえ、ただ山中に暮らしているだけでは罰を与えることには成りません。そこで、考え得る限りの最大の罰として、「私は何を措いても彫刻家である」と自負していたその彫刻を封印することにしました。

ところが、それはあまりにも過酷な罰。吹雪の夜に見る夢や、凝視する囲炉裏の火に、彫刻すべき人体が幻のように見え、しかし、それを形にすることは叶いません。混浴の温泉(ちなみに書簡に書かれているのは鉛温泉の白猿の湯です)に浸かっていても考えるのは人体彫刻……。

戦争はこの彫刻家から一切を奪つた。」と、恨み言の一つも言いたくなるでしょう。しかし、それを書簡では「随分ひんしゆくされさうな内容」としています。

こうした生活が昭和27年(1952)、青森県から「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作依頼が来るまで続きます。

昨日は福島県川内村に赴き、当会の祖・草野心平を祀る第59回天山祭りに列席して参りました。

その模様の前に、一昨日。酒をこよなく愛した心平大明神に奉納するための一升瓶を買いに、自宅兼事務所から車で7~8分ほどの造り酒屋さんへ。
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かの勝海舟も逗留したことがあるという馬場本店酒造さん。創業は天保年間、奥に見える煉瓦造りの煙突は明治33年(1900)の建造だそうで。
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テレビの旅番組やドラマ/映画のロケなどにもよく使われています。「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」代表をお願いした渡辺えりさん主演の2時間ドラマ「100の資格を持つ女 風薫る水郷・佐原の醤油蔵に呪いの連続殺人!!」(平成22年=2010)では、警視庁職員(刑事ではありません)のえりさんが、こちらに従業員として潜入捜査(笑)。
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ただしPXL_20240712_012829217、造り酒屋ではなく醤油蔵という設定でしたが。

一升瓶の箱詰めや包装をしていただいている間に、カウンターにあった芸能人の皆さんなどのサイン色紙をチェック。えりさんのものもありました。

千葉県香取市佐原地区、馬場酒造さんをはじめ、創業百何年という商家も多く、江戸時代から昭和戦前の建物が現役で活用されており、関東地方で初の伝統的建物群保存地区に認定されました。

ちなみに明日、7月15日(月)から7月19日(金)まで全5回、地上波テレビ朝日さん系の「じゅん散歩」で高田純次さんがレポートなさいます。ぜひご覧の上、足をお運び下さい。


さて、昨日の川内村。早速、持参した酒を奉納。
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このあとも数本の一升瓶が捧げられ、泉下の心平はウハウハだったことでしょう(笑)。

会場は村民の皆さんが心平のために別荘として建ててあげた天山文庫。光太郎実弟の豊周も建設委員として名を連ねました。
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昨年は雨のため村営体育館での開催でしたが、今年は天候の心配もなく、本来の会場での開催となりました。木漏れ日が実に爽やかでした。
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早めに着いたので、ひさしぶりに天山文庫内を見学。まずは一階の座敷。何気に心平本人や棟方志功、川端康成らの書などが掲げられています。
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心平寄贈の蔵書を収めた書庫。
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心平が題字を揮毫した書籍や、光太郎関連の心平編著も。
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二階の座敷。おそらく寝室として使われていたのでしょう。
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窓の下には「十三夜の池」。

午前10時、祭りの開幕。
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あいさつ、祝辞、献花と続き、川内村の小中学生の皆さん、かつて心平が主宰していた『歴程』同人の方々による詩の朗読、郷土芸能の披露などが行われました。
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「川内甚句」では、参列者の皆さんを巻き込んで、十三夜の池の周りを踊りながらぐるぐる。顔がわかってしまうような画像はアップしないで下さい的なお願いがありましたので、遠景を。

こうした和気あいあいの雰囲気にも、泉下の心平が眼を細めているような気がしました。

終了後、遠藤村長をはじめとする村の方々、天山祭り等で顔なじみになった県外の心平ファンの皆さん、そして『歴程』同人さんたちに、中西利雄・高村光太郎アトリエ保存のための署名をお願いし、30人分ほどいただけました。ありがたし。

この天山祭り、末永く続くことを心より祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

皆さんの帰つてゆくのが名残惜しいやうでした。又その節はお心をこめた御馳走のかずかずを頂戴してありがたうございました。前の晩おそくまでかかつて作られたといふおいしい今川焼きも幾年ぶりかで味はふ事とて無類でした。まつたく無邪気な純粋なかういふ時間はありがたいと思ひます。現世では数へるほどしか数の少い幸福です。かういふ幸福をつくり出すお仕事は何といふいいものでせう。大きくいへばかういふ善意そのものこそ人類を救ふのでせう。


昭和23年(1948)6月8日 照井謹二郎・登久子宛書簡より 光太郎66歳

光太郎の隠棲していた旧太田村で、照井夫妻が主宰していた児童演劇「宮沢賢治子供の会」の出張公演が為されたことに対する礼状の一節です。

まつたく無邪気な純粋なかういふ時間はありがたい」「大きくいへばかういふ善意そのものこそ人類を救ふ」。昨日の天山祭りに列席し、当方も似たような感想を持ちました。

昨日、福島県小野町さんで今年3月に刊行された『マンガふるさとの偉人 今も愛される名作を生んだ作詩家 丘灯至夫』についてご紹介しました。

「マンガふるさとの偉人」シリーズはB&G財団さんの助成により進められていて、7月1日(月)、他の自治体さん等で今年刊行された分、全40作品のネット上での無料公開が始まったのですが、昨年までに刊行された作品についても、今年4月から無料公開が為されていました。トータル百数十作品ほどになっているようです。
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そこで、昨年、岡山県赤磐市教育委員会さんが刊行なさった、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子の『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』も無料公開されています。数ヶ所に光太郎が登場します。
また、同じく岡山県の井原市さんでは、同市出身の彫刻家にして光太郎の父・光雲門下の平櫛田中。題して「107歳の生涯を木彫に捧げた彫刻家 平櫛田中」。
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田中の終焉の地、東京都小平市さんでは、B&G財団さんの助成による「マンガふるさとの偉人」シリーズではなく、独自に『田中彫刻記』という同様の漫画を刊行なさいました。ご執筆は市職員の方だそうで。それが評判ということで、田中の出身地・井原市さんでも……ということでしょうか。

その他、光太郎とも親しかった北原白秋(熊本県南関町)、光雲を東京美術学校に招聘した岡倉天心(茨城県北茨城市)などもありますが、残念ながら光太郎や光雲は登場していないようでした。

B&G財団さんのサイトを見ると、このシリーズ、教育現場等での活用もかなり為されているようです。
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学校さんだけでなく、社会教育的な分野でも。
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全国の自治体さん、ご参考までに。

しかし「では、わが街でも××××のマンガを」となった場合、いろいろ難しい点もあるかと存じます。第一に人選。郷土の偉人としてその街で既に確たる地位が出来上がっている人物について、改めて取り上げても仕方がないでしょう。例えば花巻で宮沢賢治を、などというのは今更感がぬぐえません。実際、花巻市さんでは北海道大学総長などを務めた佐藤昌介が選ばれています。

それから、基本的に一人の人物が対象ですので(例外的に兄弟や夫妻で、という作品もありますが)、「何で××××が選ばれて、○○○○は採用されないんだ」というような、「あちら立てればこちらが立たず」というようなトラブルも無いとは言い切れません。

また、出身地と拠点にした場所や終焉の地が異なるという人物も多いので、どの自治体がその人物を取り上げるか(基本的に一人一作品でしょうから)といった部分も難しいでしょう。北原白秋など、てっきり福岡県柳川市さんだろうと思っていたら、さにあらず。出身地の熊本県南関町さんでした。平櫛田中の場合は前述の通り、後半生の拠点にし、終焉の地ともなった東京都小平市さんで既に独自で漫画を作成していたので、B&Gさんの助成による方は出身地の岡山県井原市で、と、すんなり行ったようですが。

そうしたもろもろがクリア出来るのであれば、実に効果的な取り組みだと思います。繰り返しますが、全国の自治体さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

此頃の酒はあぶなくて、「明星」の歌人として知られてゐた平野万里といふ人は先般急死しましたが、此頃になつて死んだのはヤミ酒のメチール中毒だといふ事の報告をうけ驚きました。メチールなどで死んだと思ふと気の毒でもありながら又一方何だかイヤシイやうな気がして尊敬出来なくなつて困ります。

昭和23年(1948)4月2日 宮崎春子宛書簡より 光太郎66歳

ヤミ酒のメチール」はいわゆる「バクダン」。メチルアルコールを使った粗悪な密造酒です。人間、死に様も大事ですね。

B&G財団さんが助成を行い、全国で刊行され続けている「マンガふるさとの偉人」シリーズ。昨年、岡山県赤磐市教育委員会さんで、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子の『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』を刊行なさいました。

数ヶ所で光太郎が登場していました。
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今年、同じシリーズで、福島県小野町さんが、『今も愛される名作を生んだ作詩家 丘灯至夫』を刊行。丘灯至夫は作詞家。舟木一夫さんが歌った遠藤実作曲「高校三年生」、古関裕而作曲の「長崎の鐘」や「高原列車は行く」、さらにはアニソンで「ハクション大魔王」、「みなしごハッチ」などの作詞も手がけるなど、幅広く活躍しました。

そして昭和39年(1964)には、二代目コロムビア・ローズさんの歌唱になる「智恵子抄」がリリースされ、それなりにヒットしました。

智恵子の故郷・二本松にもほど近い小野町さんでの刊行なので、「智恵子抄」がらみのエピソードも紹介されているだろう、あわよくば現物をゲット出来ないものかと、今年5月、二本松に行った際に、小野町のふるさと文化の館内に併設された丘灯至夫記念館さんに立ち寄りました。予想通り「智恵子抄」が世に出る経緯が描かれていたものの、残念ながら販売はなされていませんで、コピーも不可ということでしたが、8月頃にはネット上で無料公開されるという情報を得ました。

しかし8月にではなく、前倒しで7月1日(月)から無料公開が開始されました。
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「智恵子抄」に関してはこんな感じ。最初からすんなりとはいかなかったそうです。
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当会の祖・草野心平が登場。当時、心平は高村光太郎記念会のメンバーでしたので、丘は心平を通して作品化の許可を取ろうとしたわけです。すると心平、「先ずこの酒を飲め」(笑)。無茶苦茶ですね。

過日も書きましたが、この頃、高村光太郎記念会としては、花巻の「一億の号泣」詩碑の問題「智恵子抄裁判」のゴタゴタなどで、神経を尖らせていましたので、むべなるかなですが。

それから、「高校三年生」や「智恵子抄」のヒットを受けての小野町凱旋公演。

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その他、丘の一生、興味深く拝読しました。当初、詩人を目指していた頃の西条八十や、のちに作詞家となってからの古関裕而や舟木一夫さんらとの出会い、数々のヒット曲制作の裏側など。

メインタイトルが「小さな巨人」となっていますが、大正6年(1917)、未熟児として生まれ、生涯病弱で、身体も小さかった(身長150㌢チほど、体重約33㌔、足のサイズは22㌢~23㌢)ことが由来です。そのため、日中戦争の始まった頃には一度は兵役免除になりましたが、太平洋戦争が激化した昭和18年(1943)には応召されました。そして虚弱な丘を何くれとなくかばってくれたりした戦友は戦死……。そうした経験が「長崎の鐘」などにも繋がっていくと思われます。

それからサブタイトルは「今も愛される名作を生んだ作詩家」。「作詞家」ではなく「作詩家」です。そこにはじめ西条八十に師事した丘のこだわりがあったのでしょう。

ちなみに来週、BSテレ東さんで「智恵子抄」が流れます。

プレイバック日本歌手協会歌謡祭

BSテレ東 2024年7月10日(水) 17:56〜19:00 放送時間 64分

「日本歌手協会歌謡祭」名曲&懐かしの名場面を一挙放送!

 「大江戸出世小唄」合田道人/「東京音頭」香西かおり/「東京ラプソディ」大川栄策
「九段の母」塩まさる/「東京ブルース」淡谷のり子/「夢淡き東京」ボニージャックス
「東京の屋根の下」貴津章/「東京ブギウギ」森サカエ/「君の名は」青山和子
「東京ティティナ」生田恵子/「東京だより」三船浩/
「東京のバスガール」初代コロムビアローズ/「智恵子抄」二代目コロムビア・ローズ
「東京ドドンパ娘」渡辺マリ/「東京五輪音頭」福田こうへい/「あゝ上野駅」松原健之
「新宿そだち」津山洋子、高樹一郎

<司会>合田道人
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過去映像によるものですね。「智恵子抄」、どういう歌だかよくご存じないという方、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

雪の下から葱が出てきて立ち上がりました。タンカルのおかげで農家であきらめてゐるハウレン草がもう食べられるほど育つてゐます。


昭和23年(1948)4月2日 宮沢清六宛書簡より 光太郎66歳

「タンカル」は、かつて宮沢賢治が推奨していた肥料・炭酸カルシウムですね。

当会の祖・草野心平が生前に愛し、心平没後は心平を祀る意味合いも込められるようになったイベントです。

第59回天山祭り

期 日 : 2024年7月13日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
       雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前10時~11時35分
料 金 : 500円

「天山祭り」は、名誉村民となった詩人・草野心平が自身の3000冊もの蔵書を寄贈したことで、村の人たちによって贈られた「天山文庫」の落成を記念して始まりました。心平自身、この祭りが好きで、食べて飲んで、語り合い、住民や親交のあった人たちとの交流を時を忘れるほど楽しんだそうです。 現在もゆかりのあった人々が、心平の詩の朗読や、三匹獅子舞などの郷土芸能などを楽しみながら、心平を偲ぶ祭りとして毎年7月第2土曜に開催されています。

お問い合わせ先 川内村教育委員会 電話:0240-38-3806
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心平は隣接するいわき市の出身ですが、川内村の名誉村民に認定していただいております。そもそもは昭和24年(1949)、蛙をこよなく愛した心平の「モリアオガエルを見たい」という発言に、村の長福寺の矢内俊晃住職が、モリアオガエルの棲む平伏沼(へぶすぬま)が村にあるので来てほしいと手紙を出して招いたことに始まります。心平の川内村訪問は4年後の昭和28年(1953)が最初でした。

村ではその後も訪れ続ける心平のために、昭和41年(1966)、別荘を建てて下さいました。それが天山祭り会場ともなっている天山文庫です。設立準備委員には、光太郎実弟で心平と昵懇の間柄だった豊周も名を連ねました。

その落成記念を兼ねて始まったのが天山祭り。以後、心平は出来る限り参加を続け、村人達と楽しいひとときを過ごしました。
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そして心平没後は、心平を祀る意味合いも付与して続き、さらに東日本大震災による福島第一原発の事故で余儀なくされた全村避難の解除後は、震災からの復興を確認するという目的も加わっています。

昨年の第58回は、光太郎生誕140周年ということもあり、当方に講演の依頼があって、べしゃくって参りました。主に最近見付けた心平と光太郎のエピソードの紹介でした。心平には『わが光太郎』(昭和44年=1969)という著書があり、光太郎と過ごした日々が色々と語られていますが、それも「余すところ無く」というわけではなく、調べれば調べるほど同書には割愛されている「こんなこともあったのか」の連続でして。

今年はいち聴衆として参加します。みなさまもぜひどうぞ。

ところで心平ついでにもう1件。いわき市の草野心平記念文学館さんから、先月末まで開催されていた企画展示「草野心平の旅 所々方々」の図録が送られてきました。多謝。心平がその生涯に、どんなところにどういう目的で旅をしたのか、という視点からの企画展で、留学や戦争の関係で長期滞在した中国をはじめとする海外、そして北は北海道から南は沖縄までの国内ほぼ全域(なぜか四国へは行く機会がなかったようですが)。

「あまり光太郎とは関わらない展示だろう」と思って、足を運びませんでしたが、十和田湖だけは光太郎とのからみが少し紹介されていました。
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昭和28年(1953)に除幕された光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の関係で、心平はその建設在京委員の一人でしたし、昭和27年(1952)の光太郎の十和田湖下見旅行や翌年の除幕式に同行しています。そして中野の貸しアトリエで像の制作に当たっていた光太郎を物心両面から支援もしました。

下記は図録には載っていませんが、除幕式前後の十和田湖でのカット。心平の左後に像のモデルを務めた藤井照子が写っています。
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図録はオールカラーですが、全8ページの簡易的なもの。ご入用の方、同館までお問い合わせ下さい。

【折々のことば・光太郎】

庭でもうぐいすが啼いてゐるとの事ですが、こちらの山の中ではまだ雪が消えず、少しづつ降つてゐます。鳥はセキレイ、キツツキ、ヤマバトなどが今はないてゐます。

昭和23年(1948) 高村珊子宛書簡より 光太郎66歳

故・珊子さんは昨日ご紹介した書簡の高村美津枝さんと姉妹。同じ日に姉妹それぞれに別々に葉書を出しました。文面で姉妹からの来翰に対する返信とわかりますが、それぞれに別々に返信するあたり、愛を感じますね(笑)。

ちなみに当方自宅兼事務所は千葉の田舎で、このブログを書いているたった今も、裏山ではウグイス、ホトトギス、その他名も知らぬ鳥の声(夜はフクロウ系)。さらに4、5日前から蟬も鳴き始めています。

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