カテゴリ: 文学

 DMM GAMESさんから配信されているオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」。光太郎を含む実在の文豪たちをモデルとしたキャラクターが多数登場し、平成28年(2016)の配信開始以来、根強い人気を保っているようです。

いわゆる「2.5次元」ということで演劇にもなり、既に8作品が作られ、来春には9作目「掬ウ者ノ響歌(コンチェルト)」の公演も予定されています。

5月に都内と京都で上演された8作目「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」のBlu-rayとDVDが、今月、発売されました。キャストに松井勇歩さん演じる光太郎が含まれています。

文豪とアルケミスト 紡グ者ノ序曲(プレリュード)

発行日 : 2025年12月10日(水)
著者等 : 舞台「文豪とアルケミスト」8製作委員会
版 元 : TCエンタテインメント
定 価 : Blu-ray ¥10,890 DVD ¥9,790

2025年5月に東京・IMM THEATER/京都・京都劇場にて上演された、舞台「文豪とアルケミスト」第8弾公演「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」が、Blu-ray&DVDとなって2025年12月10日にリリース!

2枚組のBlu-ray&DVDには本編映像のほかに「メイキング」「キャスト座談会」「アンサンブル座談会」「オープニング全景映像」「アフターイベント映像(全5回)」と、貴重な特典映像の数々を、別ディスクに大ボリュームで収録。さらに、初回生産分限定で「オリジナルステッカー」「ブックレット」の特典も封入となっている。

あらすじ
太宰治らと共に帝國図書館を救い絶筆した北原白秋。転生を選ばず、再び復活を遂げようとする悪しきアルケミストを葬る術を見出すため、負の感情が充満する生と死の狭間に留まっている。一方、石川啄木、高村光太郎そして小泉八雲は、北原白秋を転生させるべく目論み、また久米正雄と直木三十五は、深い親交のある文豪を探し求めていた。そんな折、アルケミスト・ファウストと出会った文豪たちは、「かつて文学で世界を救おうとした青年」について聞かされる。終わらない侵蝕を食い止めるため己の文学を信じ、文豪たちは戦いへと赴く。

キャスト
北原白秋:佐藤永典 石川啄木:櫻井圭登 高村光太郎:松井勇歩 久米正雄:安里勇哉
直木三十五:北村健人 小泉八雲:林光哲 ファウスト:原貴和 青年:松村龍之介
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もう1点、書籍です。

「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみた

発行日 : 2025年11月28日(金)
著者等 : 梅澤亜由美・大木志門・掛野剛史・山岸郁子編
版 元 : ひつじ書房
定 価 : 2,700円+税

2016年に配信開始され、これまで各界に影響を与えてきた人気ゲーム「文豪とアルケミスト」とそのメディアミックス作品を日本文学・文化研究者がそれぞれの専門分野から本格的に検証した論文集。全14本の論文からなり、ゲーム、アニメ、舞台、ノベライズ、朗読、さらにファンの受容、文学館や研究・教育現場との関わりなど多彩な側面からの論考を収録。執筆者:梅沢亜由美、大木志門、掛野剛史、山岸郁子、赤井紀美、今井瞳良、大島丈志、小澤純、影山亮、金子亜由美、構大樹、上牧瀬香、島村輝、芳賀祥子

編者紹介
梅澤亜由美(うめざわ あゆみ)大正大学文学部教授
大木志門(おおき しもん)東海大学文学部教授
掛野剛史(かけの たけし)武蔵野大学教授
山岸郁子(やまぎし いくこ)日本大学経済学部教授
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【目次】
 はじめに なぜ「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみたのか 大木志門
 第1部 キャラクター・関係性・二・五次元文化
 「尾崎一門」の息子(ライバル)たち――「文豪とアルケミスト」における「泉鏡花」と「徳田
  秋声」の「関係性」 金子亜由美
 「文豪」を媒介とした「文豪とアルケミスト」の私小説的受容――志賀直哉を例として 梅澤
  亜由美
 キャラクターを通して文学に相渉るとは何の謂ぞ――「二・五次元文化」の中の「文豪とア
  ルケミスト」 大木志門
 第2部 文アニ・ノベライズ・読書行為
 「物語なき世界」にたむろする――テレビアニメ「文豪とアルケミスト」の理と視聴者 今井
  瞳良
 芥川龍之介と太宰治を結び直す――アニメ版・ノベライズ版『文豪とアルケミスト~審判ノ
  歯車~』の世界観 小澤純
 「文豪」を育てるということ――「おやすみ、カムパネルラ」からのアプローチ 大島丈志
 ノベライズ『君に勧む杯』の文豪たち――現実と空想の間に生きる井伏鱒二・横光利一・佐
  藤春夫 掛野剛史
 第3部 アダプテーション・文劇・朗読
 多喜二転生――あるプロレタリア文学者をめぐるアダプテーション 島村輝
 演じられた文学者――近代文学と演劇が織り成す世界 赤井紀美
 「文豪とアルケミスト」における「朗読」の可能性――横光利一「春は馬車に乗って」を聴く
  という経験 芳賀祥子
 第4部 文学館・学校・公共性
 「文豪とアルケミスト」と文学館・記念館とのタイアップにみる〈関係性〉 影山亮
 〈「文アル」×文学館〉の行方 上牧瀬香
 新美南吉記念館特別展「南吉と読書」と「文豪とアルケミスト」 山岸郁子
 「文豪とアルケミスト」で近代文学の授業を押し拡げる――文学教育を「文豪コンテンツ」で
  支えるために 構大樹

いわゆるタイアップ企画ではなく、独自に編まれたものです。

内容の分析は元より、この手のコンテンツの受容がどのように為され、各方面にどういった影響が及んでいるか、先行する類似企画との比較、今後の展望などなど、多岐に亘る論考の集成です。リアルタイムでの文化史考察という意味でも特異な内容ながら優れたものといえるでしょう。

大御所のエラいセンセイ方は、「こんなものを真面目に論ずるのは大衆への迎合」とお考えなのでしょうか、はなから完全無視、またはそもそもその存在すら眼中にないと思われますが、本書で述べられている通り、現実に各地の文学館等で入場者数に影響を与えたり、取り上げられた文豪の著書や関連書籍の売り上げを左右したり、演劇や朗読など様々な分野に派生したりという現象が起きていますので、無関心でいていいものではありません。

光太郎に関しては、上記「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」にも触れられた赤井紀美氏の「演じられた文学者――近代文学と演劇が織り成す世界」、花巻高村光太郎記念館さんとのコラボ企画等の関係で上牧瀬香氏による「〈「文アル」×文学館〉の行方」の項などでちょろっと触れられている程度ですが、非常に興味深く拝読いたしました(まだ読了していませんが(笑))。提灯記事的な稿の羅列でなく、批判すべき点はきちんと批判するというスタンスにも感心しました。

編者のお一人、大木志門氏は田畑書店さん刊行の『高村光太郎 作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』を編まれ、神田の古書肆・八木書店さんでの講座「活字をはみだすもの(第25回)◆高村光太郎「独居自炊」の思想 ―宮崎稔宛書簡から」も担当されました。余談ですが、このブログに誘導するためにX(旧ツィッター)に投稿し続けている当会ポストを毎日リポストして下さっています。ありがたし。

というわけで、「紡グ者ノ序曲(プレリュード)」のBlu-rayかDVD、『「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみた』、それぞれご興味おありの方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・智恵子】

だんだん身内のものがあの世へ旅だつてしまふのは淋しいものですね しかしわれわれもやがてみなそこへゆくのですから さう思つてこの世に居るうちはこの世の事に出来るだけつくしませうね それが人間のつとめでせう


大正14年(1925)10月10日 長沼セン宛書簡より 智恵子40歳

大正7年(1918)には智恵子の父・今朝吉、翌年に末の妹(六女)・チヨ、同10年(1921)には祖母のノシ、同11年(1922)だと三女のミツ、そしてこの年9月光太郎の母・わかが相次いで歿しています。さらに言うなら、2年後にはやはり智恵子妹で四女のヨシも。特に若い妹たちの相次ぐ死は、自らも健康不安を抱えていた智恵子に暗い影を落としたことでしょう。

昨日は上京、「第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ」に出演しておりました。
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会場は御茶ノ水のワイム貸会議室さんでしたが、zoomによるオンラインでの同時配信も行われました。
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カメラで司会者・発表者の顔を写す部分、パワーポイントのスライドショーとも連動させての部分もある配信だということで、時代は進んでいるんだなぁ、という感じでした。このあたりの新技術や風潮が広まったのだけは、コロナ禍による良かったことだと思います。

当方を含む3人の発表。

まずは大阪堺の与謝野晶子記念館学芸員・森下明穂氏。「与謝野晶子 美しい本の世界へ」と題してのご発表でした。
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主に装幀に関わるお話で、どんな人物がどういう感じで晶子著書の装幀を行ったか、といったお話を、画像をふんだんに使われてのご発表でした。

なるほど、発表題にある通り美しいものが多く、各装幀者や晶子のこだわりといったものが垣間見えました。また、時期による流行のような点も。
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主な装幀者は、藤島武二、中澤弘光、有島生馬、石井柏亭、津田青楓、正宗得三郎、山本鼎など。光太郎の人脈ともほぼ重なる人々です。

それから、光太郎というより、実弟の豊周と昵懇の間柄だった広川松五郎。ここで広川が出てくるか、と、驚きました。
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挿画についてもお話があり、すると、光太郎にも触れられました。光太郎は晶子の夫・寛の著書では装幀を手がけましたが、晶子の著作では装幀は行っていません。しかし、光太郎の挿画は使われています。
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右下が大正9年(1920)の『晶子短歌全集 第三巻』に載った光太郎の挿画。ちなみにあと2点は第一巻、第二巻の藤島武二、中澤弘光によるものです。

この光太郎の挿画については当方の発表の中でも触れましたので、現物も持参し、会場に展示させていただきました。他の光太郎装幀本・挿画の載った書籍、ついでに彫刻も。
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続いて当方の発表。
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今回のシンポジウムの総題が「『明星』と美術」ということでしたので、新詩社メンバー中、美術実作者として活躍した光太郎についてしゃべれ、ということで担ぎ出されました。

第一期『明星』(明治33年=1900~同41年=1908)、その後継誌ともいうべき第一期『スバル』(明治42年=1909~大正2年=1913)、その少し後くらいまでにスポットを当て、光太郎を取り巻く当時の文学界・美術界などについて、光太郎との関わりからべしゃくらせていただきました。

そのために今回作成したのが、下記の人物相関図。
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はなはだ不完全なもので、しかも線が錯綜して見づらいものですが、とりあえずこのくらいかな、という感じです。本当はあと30人ほどは入れたいところですし、線の結びつきも、両端にいるこの人物とこの人物がこういう関係があったというのを、もうこれ以上線が引けないということで随分と割愛しています。たとえば右上の方にいる荻原守衛と右下の方に配した斎藤与里が留学仲間だったとか、これも右上の方にある『少女世界』に晶子も寄稿していたとか、同様に下の方には光太郎が度々寄稿した『文章世界』だの『詩歌』だの『早稲田文学』だのも配したものの、名を出した人物でこれらに寄稿している人物がいるはずで、その線は書いてありません。

これが大正後半や昭和に入ると違った様相を呈します。また、与謝野夫妻なり、啄木なり白秋なり守衛なりを中心に据えればまた異なる感じの相関図が出来上がるでしょう。それぞれがご専門の方々がそれらを造り、つなぎ合わせて畳一枚分くらいの大曼荼羅のようなような相関図が出来れば面白いな、などという話もさせていただきました(笑)。

これを作ったことで、自分でも今までわかっていなかったことがおぼろげながら見えてきた感じがしました。すなわち、なぜ光太郎が様々な分野に手を出していたのか、です。美術方面では彫刻、絵画、装幀、書、建築、美術評論など、文学方面では詩、短歌、俳句、随筆、翻訳、戯曲など。もちろんそれぞれに才能があったからですが、それ以外に光太郎自身、好奇心というか、新しいことに挑戦しようという積極性というか、そういうものがあって、いろいろやったわけです。ここまではこれまでもそう思っていたのですが、今回、相関図を作ったことで、光太郎のそうしたマルチな才能が周囲から重宝されていたと思いあたりました。

光太郎と同世代の人物たちにしてみれば、一世代前の巨匠たち(黒田清輝、藤島武二、与謝野寛、森鷗外など)に頼みにくいことも光太郎になら頼めるし、光太郎としても留学からの帰朝後、父・光雲を頂点とする日本彫刻界とは距離を置いたので生活の途に困り、仕事の注文が入ればありがたいと、まぁ、ウィンウィンの関係だったと言えるのではないでしょうか。

しかし光太郎も唯々諾々と各注文に応じていたわけでもなく、けっこう毒をしのばせたりもし、一筋縄ではいかなかったとも感じました。

休憩後、最後のご発表は主催の明星研究会をとりまとめてらっしゃる歌人・松平盟子氏。
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時系列に沿って『明星』発刊の前後からの新詩社と美術家たちの関わりなどについてのお話。題して「憧憬と戦略 『明星』を彩った洋画家と晶子短歌」。

第一期『明星』が単なる短歌雑誌ではなく、後の『白樺』同様、美術にも軸足を置いていたという件、そこには与謝野寛の西洋美術への「憧憬」があり、また、翻訳文学の紹介や、晶子を含む女性を積極的に登用し、それまでにない誌面が作られていったという流れでした。そこが主宰の寛の「戦略」ですね。光太郎も留学先から翻訳を寄稿しています。

特に関わりが深かったのが、黒田清輝や藤島武二(共に光太郎の美校時代の恩師でもあります)らの白馬会、さらに一條成美や長原孝太郎(止水)、そして美術家ではありませんが、美校の教壇にも立った(やはり光太郎の恩師に当たります)森鷗外。そして鷗外と親しかった原田直次郎などにも触れられました。

そういう『明星』のコンセプトを反映させた晶子短歌の実際の表現といった点にも言及されました。
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第一期『明星』がそうした雑誌であったからこそ、美校在学中の光太郎がぜひ書かせてくれ、と、新詩社に加入したんだろうなと、実感が湧きました。単なる短歌の雑誌に留まるものであったなら、光太郎がそれほど関心を示したとも思えません。
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さて、zoomによるオンラインでの同時配信が行われましたが、アーカイブ配信(有料)もするそうです。詳しくはこちらにある連絡先まで。

同シンポジウム、来年には第20回記念とのこと。今後の関係の皆様のますますのご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・智恵子】

旧冬私ども結婚の節は御多用の御内をお揃で御臨席下されましてありがたく存じました。また其折は結構なお祝ひを頂戴いたし御礼を申上げます


大正4年(1915)1月3日 柳八重宛書簡より 智恵子30歳

前年12月22日、上野精養軒で行った光太郎との結婚披露宴参列への礼状から。「お揃」は、八重の夫・柳敬助も出席したことを指します。

八重は智恵子の日本女子大学校での先輩、敬助は光太郎の留学仲間。明治44年(1911)、柳夫妻が光太郎智恵子を引き合わせました。元々は智恵子の方から、先輩芸術家の話を聴く一環として留学帰りの光太郎を紹介して欲しいと持ちかけたのですが、柳夫妻としても、帰朝後に荒れた生活を送っていた光太郎を案じ、「芸術の話ができる女友達でも出来れば」と、応じたと思われます。

アンソロジーものの新刊です。

パリと日本人 近代文学セレクション

発行日 : 2025年12月
著者等 : 高村光太郎、林芙美子ほか 著 和田博文 編
版 元 : 平凡社
定 価 : 2,200円+税

日本人は憧れの都をどう描いたか――第一次世界大戦期から1960年代にかけてのパリにまつわるエッセイ、小説、詩のアンソロジー。

第一次世界大戦期にあたる1910年代から、五月革命が勃発する1960年代後半まで、多くの日本人が花の都パリを訪れた。彼らの目に、激動の時代のパリはどう映ったのか。最先端の美術に触れ、新たな画風を模索した蕗谷虹児、職を辞して、異国の街で思索を紡いだ森有正……。小説家や画家、哲学者など、多彩な人々によるパリを描いた31編のエッセイ・小説・詩を一冊に編む。
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目次
 第1章 憧憬の都市と、第一次世界大戦の空襲・長距離砲 第一次世界大戦以前のパリと日
 本人
  巴里の旅窓より  与謝野晶子
  雨にうたるるカテドラル  高村光太郎
  ルノワル先生  梅原龍三郎
  戦争の空気に包まれたる巴里(抄)  島崎藤村
  リュウ・ドュ・テアトルの頃  長谷川昇
  爆弾下の巴里──千九百十八年三月──  吉江喬松
  巴里の此頃  森田恒友
 第2章 ツーリズムの時代、リベリテ・エガリテという幻想 一九二〇年代~三〇年代前半
 のパリと日本人
  パリー  岡本一平
  牢屋の歌  大杉栄
  日本贔屓  獅子文六
  巴里の懺悔  芹沢光治良
  秋の一日  九鬼周造
  レヴュウ『パリゼット』  白井鐵造
  私の巴里四年  蕗谷虹児
  佐伯君の死とその前後  伊藤廉
  夜のモンマルトル  酒井潔
  異国食餌抄  岡本かの子
  『滞欧画信』より  竹久夢二
  泥手・泥足  金子光晴
  巴里の片言  林芙美子
 第3章 ファシズムの跫音、占領下のパリ ファシズムの時代のパリと日本人
  革命祭  野上弥生子
  ルーヴルの立退き  大森啓助
  巴里の雨  久生十蘭
  街頭スケッチ  関口俊吾
 第4章 哲学思想・ソルボンヌ・五月革命 一九四五年の敗戦~一九六〇年代末のパリと日
 本人
  渡仏前後  小川国夫
  私のエコール・ド・パリ地図  辻邦生
  わが哲学時代から  辻邦生
  パリの冬とその街  森有正
  ソルボンヌの壁新聞  開高健
  パリ・その象徴  草野心平
  「五月革命」のパリから  朝吹登水子
 編者エッセイ パリの視覚装置と、オルセー美術館  和田博文
 あとがき

「パリ」に特化したアンソロジーで、リアルタイムでのパリ、あるいは日本に帰ってから記憶を記したものなどがほとんどのようです。

のべ30名程の詩文が採択されていますが、登録情報としては「高村光太郎、林芙美子ほか 著」となっている他、帯に大きく印刷されている「はるか遠くの国から来たわかものの胸はいつぱいです」は、本書に採択されている光太郎詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)の一節です。

他に光太郎と関わりの深かった面々の作品も多数掲載されています。与謝野晶子、梅原龍三郎、草野心平、岡本一平など。

ちなみに編者の和田博文氏は、同じ平凡社さんから『日本人美術家のパリ 1878-1942』という書籍も刊行されています。アンソロジー系でも筑摩書房さんからちくま文庫の一冊として『猫の文学館Ⅰ 世界は今、猫のものになる』など。

ぜひお買い求め下さい。000

【折々のことば・智恵子】

ほんとうに両人のいたづらをお目にかける様なものなのです。極りのわるひ展覧会です。くだらないものと御承知で、見にいらしつて下さいまし。

「『あねさま』と『うちわ絵』の展覧会」案内状より
明治45年(1912) 智恵子27歳

光太郎と知り合った翌年、光太郎の手を離れた画廊・琅玕洞で開催された田村俊子の「あねさま人形」と智恵子の「うちわ絵」の二人展案内状から。

ことによると文面の執筆は田村かもしれませんが。

監修させていただいた「高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」の関係で、12月15日(月)・16日(火)と1泊2日で花巻に行っておりました。

14日(日)にちょっとした降雪があったそうで、郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんはこんな感じ。
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入ってすぐ、「おっ!」と思ったのがこちら。まだ正式に展示が始まってはいなということですが、花巻南高校さん書道部の生徒さんたちの書。

追記:書道部さんではなく、授業で書道を選択された生徒さんたちだそうでした。
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すべて違う生徒さんの作品で、それぞれ思い思いに光太郎詩の一節を書いて下さっています。「卒業記念」的な意味合いもあるそうで。こういうのを見ると、不覚にもうるっときてしまいます(笑)。

同校の文芸部さんと家庭クラブさんにはいろいろとお世話になっていますが、今度は書道部さんも巻き込んだか、という感じでした(笑)。若い世代に光太郎を知ってもらうという意味でも、良い試みですね。

奥の企画展示室へ。
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花巻と光太郎を結びつけたキーパーソンである宮沢賢治との繋がりに焦点を当てました。
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2人が実際に顔を合わせたのは、大正15年12月のたった1度だけでした。しかし、2人の天才は、それぞれの作品を通してお互いを深く敬愛していましたし、残念ながら賢治が歿してからになりますが、その結びつきはより強固なものとなっていくことになります。

昭和8年(1933)に賢治が亡くなり、すぐ翌年には光太郎も編集者として名を連ねた『宮沢賢治全集』の刊行が始まります。光太郎が関わった賢治の全集は4種類。それらにより、生前は無名の地方詩人に過ぎなかった賢治の名が世に広く知られていくことになります。

そこで今回の展示では、光太郎が関与した4種類の全集にスポットを当て、それらの成立過程やさらに派生して刊行された書籍、それらに関わった人々の思いといったところを前面に押し出しました。

最初の文圃堂版全三巻(昭和9年=1934~同10年=1935)。
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それを補完する形で出された十字屋版(昭和14年=1939~昭和19年=1944)。
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『全集』とは冠されていませんが、戦後の日本読書購買利用組合『宮沢賢治文庫』(昭和21年=1946~同24年=1949)。
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そして筑摩書房版(昭和30年=1955~同32年=1957)。
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装幀、題字揮毫は全て光太郎です。特に筑摩書房版は、光太郎のこの手の仕事の最後のものとなりました。

賢治作品を世に出す強い意志を持って臨んだ実弟の清六、賢治の親友だった藤原嘉藤治についても詳しく紹介されています。当会の祖・草野心平についても。
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テレビモニターでは、昭和11年(1936)、光太郎が碑文を揮毫した「雨ニモマケズ」碑除幕式の様子。碑の近くの桜地人館さんで常時上映されているものです。
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桜地人館さんでは、戦後の光太郎書も貸して下さいました。これまで門外不出だったものですが。
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右上は、藤原嘉藤治の顕彰をなさっている瀬川正子氏ご提供の写真。世に出るのは初めてではないかと思われるものです。

賢治の遺言で、没後に配付された「国訳妙法蓮華経」。
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なかなかに充実した展示でした。

その他、同時開催中の4月に始まった特別展「中原綾子への手紙」(2月28日(土)まで)。
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先月末まで開催されていた企画展「昔なつかし花巻駅」に出品されていたジオラマは、第一展示室に移動されていました。
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その後、隣接する高村山荘(光太郎が戦後の七年間を過ごした山小屋)へ。
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少し早かったのですが、寒いので(笑)、宿泊先の光太郎も愛した大沢温泉さんへ。
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最近は予約を取るのもけっこう一苦労です。

翌朝(昨日ですが)、再び高村光太郎記念館さんに。この日はNHKさんの取材ということで。余裕を持って行きましたので、まずまた山荘に。夜のうちに新たに雪が降り積もることもほぼなく、助かりました。
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さらに奥の「雪白く積めり」碑。この地下には光太郎の遺髯が埋まっています。
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碑の前の広場。熊の足跡でしょうか。
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明らかに狐や兎ではありません。

裏山の智恵子展望台からの眺め。
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記念館に戻り、取材を受けました。NHKさん以外に地方紙『岩手日日』さんにも。

NHKさんには、「民間通信員」という制度があり、業務委託された民間の方が取材、撮影なさり、放送局でそれを編集し放映するシステムになっています。今回いらしたのは旧知の北山公路氏。花巻のタウン誌『Machicoco』の編集・発行もなさっている方です。
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早速昨日のうちに夕方のローカルニュースで流れ、ネットにも出ました。

高村光太郎と宮沢賢治のつながり紹介する企画展 花巻

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 詩人で彫刻家の高村光太郎と花巻市出身の詩人で童話作家の宮沢賢治のつながりを紹介する企画展が、花巻市で開かれています。
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 花巻市の「高村光太郎記念館」で開かれている企画展では、光太郎が賢治の作品に出会って賢治の家族と交流を深め、賢治の死後に発行された全集の編集や装丁を手がけた過程などが、4種類の全集などとともに紹介されています。
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 また、賢治の作品を広めた、賢治の弟の清六や賢治の親友の藤原嘉藤治の功績も一緒に紹介されていて、昭和11年に市内に設置された「雨ニモマケズ」が刻まれた賢治の詩碑の除幕式を撮影した動画を見ることができます。
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 企画展を監修した高村光太郎研究者の小山弘明さんは「生前は無名だった賢治が世界的に有名になった過程に、光太郎が関わっていたことを広く知ってほしい」と話していました。
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 また、主催する花巻市生涯学習課の菊池功昇課長補佐は「賢治と花巻の関わりは広く知られているが、光太郎と花巻の関わりについても、もっと市民に知ってほしい」と話していました。
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 この企画展は、来年3月末まで開かれています。

次回は来年2月21日(土)、関連行事として、清六令孫にして林風舎代表取締役・宮沢和樹氏、藤原嘉藤治の顕彰を勧められている瀬川正子氏とのトークショーの際に参ります。

というわけで、皆様もぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・智恵子】

この福島がいゝ人もあるか知れませんが私には一向よくもありませんねー 住めばみやこの習にて人気少ない家郷の山川もしのぶの空にすむ身には降りしきる五月雨につけ何となうなつかしう存られ候

明治34年(1901)7月5日 安田卯作宛書簡より 智恵子16歳

安田卯作は智恵子の母校・油井村の油井小学校に勤務していた教師です。この年、同校高等科を卒業した智恵子は福島町(現・福島市)の町立高等女学校に進み、大熊ヤスら同級生とともに町内の弁護士方に下宿していました。3ヶ月程でホームシックになっていたようです。

「しのぶの空」は女学校近くの信夫山(しのぶやま)に関わります。『古今和歌集』や『小倉百人一首』に収められた源融(河原左大臣)の有名な歌「陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに」も背景にあるでしょう。

そして故郷の山川を「偲ぶ」と、信夫山の「しのぶ」の掛詞(かけことば)。智恵子少女の教養の高さが窺えます。また、その筆跡の見事さも。
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文治堂書店さんからPR誌を兼ねた文芸同人誌『とんぼ』の第二十一号が届きました。同社は当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著作をはじめ、光太郎がらみの出版物を多く刊行なさっており、当会としてはいわば先代からのおつきあい。そこでいつのまにか連載を持つことになっていて、「連翹忌通信」の題で書かせていただいています。
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そうそう持ちネタがあるわけでもなく、また、読者層も少々異なるようなので、このブログに書いたようなことを換骨奪胎したり、逆に膨らませたりして書いています。

今号は「マドモワゼル・ウメ」。

光太郎が智恵子と知り合う直前にいい仲だった、淺草雷門のカフェ「よか楼」の女給・お梅に関してです。光太郎は詩「食後の酒」(明治44年=1911)に「マドモワゼル・ウメ」としてお梅を謳った他、複数の詩文で彼女について書き残しています。

 雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

当時、よか楼では女給の顔写真を載せた新聞広告を盛んに出していたというので、お梅も写っているだろうと思い、調査した件を書きました。
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結果、かなりのパターンの広告が見つかったのですが、女給の名が記されて居らず、お梅と断定できるものはありませんでした。

ところが、こうした広告でないところで、お梅の写真を確認できました。
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掲載されていたのは、光太郎実弟にして家督相続を放棄した光太郎に代わり髙村家を継いだ豊周による『光太郎回想』という書籍です。

豊周曰く

兄の好きになる女性は、ずっと通して顔だちに共通のところがある。いわば智恵子風の平たい丸顔で、お梅の顔も智恵子に似ていたと後から気がついた。それから推して、若太夫の顔もそんな風で、兄ははじめて智恵子と会ったとき、「若太夫に似ているな」と第一印象で思ったそうだ。

「若太夫」はお梅の前に入れ込んでいた、吉原河内楼の娼妓です。彼女については『とんぼ』の前号に書きました。

「光太郎回想」には3種類の版があります。まず、有信堂から昭和37年(1962)に刊行されたオリジナル、続いて、その全文にさらに他の光太郎に関する短文等を併せて編まれ、同じ有信堂から昭和47年(1972)に刊行された『定本光太郎回想』、そして名著の復刻的なコンセプトのシリーズ「人間叢書」のラインナップで平成12年(2000)に刊行された日本図書センター版です。
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手許には、最も本文の分量が多い『定本光太郎回想』しかありません。数十年前、オリジナルと定本を比較し、こっちの方が内容が充実している、というわけで「定本」のみを購入しました。ところが、オリジナルと「定本」では掲載されている画像の種類が異なり、お梅のそれを含む「定本」に載っていない写真がオリジナルにたくさんありました。逆も又然りでしたが。購入時にはそこまでは気づきませんでした。

そんなこんなを今号の『とんぼ』に書きました。

奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。頒価600円だそうで。
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今日の記事最上部リンクからも注文可と思われますが。

ちなみにオリジナル『光太郎回想』には、他にも昭和31年(1956)4月2日に光太郎が亡くなった際の死に顔の画像も出ています。さすがにここに載せるにはためらいますが……。

【折々のことば・智恵子】

日本にだつて一人ぐらゐ、正しい事のために利害なんかを度外に置いて、大地にしつかりと誠実な根を持ち、まつすぐに光りに向つて、その力いつぱいの生活をする喬木のやうな政治家があつてもいゝだらうとおもひます。さういふ政治家なら有頂天になつて投票することでせうとおもひます。


アンケート「棄権――総選挙に誰れを選ぶか?」より
 大正13年(1924) 智恵子39歳

この時代、女性には選挙権がありませんでしたが、もしあったらという仮定の下での回答です。

後の部分では「私達がほんとに尊敬し信ずることの出来る政治家が出てくれなければ、棄権するよりほかないかとおもはれます。情実や術数の巣のやうな政党なんかてんでだめですね。」とも。

100年経っても「利害」「情実や術数の巣のやうな政党」に牛耳られているこの国の現状を見て、泉下の智恵子はどう思うでしょうか……。

都内からシンポジウムのご案内です。

第19回 明星研究会シンポジウム 『明星』と美術~ 華麗にして心に響くカタチ

期 日 : 2025年12月20日(土)
会 場 : ワイム貸会議室 お茶の水 Room B  千代田区神田駿河台2-1-20
      Zoom オンライン (定員100名)
時 間 : 14時~16時30分
料 金 : 2,000円

 『明星』は、文芸と美術が共鳴しながら鮮度の高い情報を発信し続けた目覚ましい雑誌でした。
 創刊時の明治33年4月こそタブロイド紙の体裁でしたが、同年9月から雑誌スタイルに移行し、41年11月に終刊するまで、文芸と美術が相互に響き合う斬新な美学としてそれは続いたのです。アールヌーヴォーの影響を受けた一條成美の初期の表紙は若者の心を捉えるのに十分でした。
 しかし、何と言っても『明星』を画期的な文芸誌にしたのは、美術団体「白馬会」との密接なかかわりによるものです。「白馬会」は黒田清輝らを中心に結成されましたが、メンバーのうち藤島武二、和田英作らは『明星』の表紙を印象的に飾りました。また、与謝野晶子の有名な歌集『みだれ髪』『小扇』の装丁と表紙は藤島によるものです。同じく「白馬会」の中澤弘光は、詩歌集『恋衣』の表紙・挿画を手始めに、多くの晶子歌集や『新訳源氏物語』『新訳栄華物語』の表紙・挿画を彩ることになります。
 忘れてならないのは、『明星』同人で、彫刻家・詩人の高村光太郎の存在です。
 今回は、『明星』と美術との記念碑的なかかわりを多角的に探ってみたいと思います。
 対面とZoomとのハイブリッドで開催いたします。

●申し込み手順● 下記 ① から ② へ進んでください
①.以下の口座に、参加費一人2千円、をお振り込み願います
 三井住友銀行 下丸子支店(普通)3897723
 受取人名:AKIKO 2005 YEAR ダイヒヨウ マツダイラ メイコ
②.お振込み後に、下記にアクセスして必要事項を記入し送信していただいてお申し込みが完了します。オンラインの方には前日を目途にZoomアクセス先をメールで送ります
●申し込み〆切● 12月18日(木)15:00(定員100名)

●プログラム● 講演
 「與謝野晶子 美しい本の世界へ」 森下明穂(与謝野晶子記念館・学芸員)
 「美術実作者としての高村光太郎」 小山弘明(高村光太郎連翹忌運営委員会・代表)
 「憧憬と戦略 ― 『明星』を彩った洋画家と晶子短歌」 松平盟子(歌人) 
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というわけで、明星研究会さん主催のシンポジウムです。

発表が、同会主宰の松平盟子氏、大阪の与謝野晶子晶子記念館学芸員・森下明穂氏、そして当方。テーマが「美術」なので「明星」→「美術」とくれば「光太郎」ということで、担ぎ出されました。

松平氏、森下氏のお話は必聴。当方はオマケですが(笑)、以下のような感じです。

全体としては光太郎も参加した第一次『明星』の時代から、その後継誌『スバル』、そして第二次『明星』が始まった頃に焦点を当て、明治30年代後半から大正10年頃までを中心に、垣根が低かった当時の文学界・美術界、そこにおける光太郎の立ち位置、そんな話をさせていただきます。

資料として、まず光太郎を中心に据えたその頃の人物相関図を作ってみました。軽い気持で作り始めたのですが、後から後から「この人物とも関わっていたっけ」「誰々も○○の一員だったなぁ」などと増え続け、総勢150名ほどになってしまいました(笑)。増やせばもっと増えるのですが、きりがないのでやめました。甚だ不完全なものですが、これを作ったことでかなり自分自身の勉強になりました(笑)。

それから『明星』をはじめ主に新詩社に関係する雑誌への光太郎の寄稿状況、新詩社関係者の著作への関わり(序文執筆、装幀、挿画、題字揮毫など)をまとめた表も。さらにパワーポイントのスライドショーでは装幀、挿画、題字揮毫に加え、依頼されて制作した彫刻や肖像画なども投影する予定ですし、現物も持って行けるものは持参して展示します。

御茶ノ水のワイム貸会議室さんでの対面型、お越しになりにくい方のためにZoom オンラインと2本立てです。ぜひどうぞ(出来ればお越し頂くのがベストですが)。

【折々のことば・智恵子】

必要以外何物も有(も)たない事(或る程度の必要をも満さなくても差支ないこと)=貧乏なこと。 本能の声を無視しないこと。 どんな場合にも外的な理由に魂を屈しないこと。 赤裸(せきら)なこと。


散文「貧しく、飾らず、単純であれ」より 大正12年(1923) 智恵子38歳

「生活の倦怠を如何にして救ふか」のテーマで、原阿佐緒、山川菊江らのそれと共に掲載された文章の一節です。智恵子の書いたもののうち有名なものの一つで、この一節はよく取り上げられています。

定収入というものを持たず、徐々に世間に認められてはいたものの、売れっ子というわけではなかった光太郎。まして智恵子はこの時期、描いた絵が売れるということはまったくなく、かつかつの生活でした。

『智恵子抄』に収められた光太郎のエッセイ「智恵子の半生」(昭和15年=1940)から。

 彼女は裕福な豪家に育つたのであるが、或はその為か、金銭には実に淡泊で、貧乏の恐ろしさを知らなかつた。私が金に困つて古着屋を呼んで洋服を売つて居ても平気で見てゐたし、勝手元の引出に金が無ければ買物に出かけないだけであつた。いよいよ食べられなくなつたらといふやうな話も時々出たが、だがどんな事があつてもやるだけの仕事をやつてしまはなければねといふと、さう、あなたの彫刻が中途で無くなるやうな事があつてはならないと度々言つた。私達は定収入といふものが無いので、金のある時は割にあり、無くなると明日からばつたり無くなつた。金は無くなると何処を探しても無い。二十四年間に私が彼女に着物を作つてやつたのは二三度くらゐのものであつたらう。彼女は独身時代のぴらぴらした着物をだんだん着なくなり、つひに無装飾になり、家の内ではスエタアとヅボンで通すやうになつた。しかも其が甚だ美しい調和を持つてゐた。

こうした状況も智恵子を追い詰めた一つの要因であったことはまちがいないでしょう。

それよりも、智恵子自身が「こういう生活に不満を抱いてはいけない」と自らに言い聞かせていたわけで……。

花巻高村光太郎記念館さんでの企画展情報です。

高村光太郎花巻疎開80年企画展 光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで

期 日 : 2025年12月13日(土)~2026年3月31日(火)
会 場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1
時 間 : 午前8時30分~午後4時30分
休 館 : 12月28日(日)~1月3日(土)
料 金 : 一般 350(300)円 高校生・学生250(200)円 小中学生150(100)円
      ( )内は20名以上団体料金 高村山荘は別途料金 

 高村光太郎は、当時、無名だった宮沢賢治の作品に出会い、宮沢賢治を広く後世に知らしめるための大きな役割を果たしましたが、37歳で早逝した宮沢賢治の今日に至る評価に高村光太郎が関与したことは一般的には知られていません。
 賢治没後の昭和9年(1934)、光太郎も出席した新宿モナミで開かれた賢治追悼の会では、実弟の清六がトランクに入った賢治の遺稿を披露しました。その中の手帳には「雨ニモマケズ」の詩もあり、光太郎をはじめとする著名人たちが感銘を受け、全集刊行へと動き出します。
 当企画展では、光太郎が携わった4つの「宮沢賢治全集」に注目し、編集や装幀作業に係わるエピソードや宮沢賢治評について紹介します。また、賢治没後、清六と共に藤原嘉藤治が、文圃堂版と十字屋版の全集に編纂者の一員として携わっていたことにも焦点をあてています。

関連行事 トークイベント 光太郎と賢治―宮沢賢治全集ができるまで―
 2026年2月21日(土) 10:00~11:30
 なはんプラザ コムズホール 岩手県花巻市大通一丁目2番21号
 講師 
  宮沢和樹 株式会社林風舎代表取締役
  瀬川正子 株式会社共同園芸取締役 第35回(2025年)イーハトーブ賞受賞
  小山弘明 高村光太郎連翹忌運営委員会代表

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光太郎が携わった4つの「宮沢賢治全集」」は、以下の通りです。

・文圃堂書店版『宮沢賢治全集』 全三巻 昭和9年(1934)~同10年(1935)
・十字屋書店版『宮沢賢治全集』 全六巻+別巻一 昭和14年(1939)~同19年(1944)
・日本読書購買利用組合『宮沢賢治文庫』 既刊六冊 昭和21年(1946)~同24年(1949)
・筑摩書房版『宮沢賢治全集』 全十一巻 昭和30年(1955)~同32年(1957)

このうち、『宮沢賢治文庫』は「全集」と冠されていませんが、先行する十字屋書店版に収録されていなかった作品も網羅するつもりで刊行が始まったものです。ただ、当初予定は全十一冊でしたが、第五冊及び第八冊以降が未刊のまま中絶してしまいました。

これら四種類の現物や、成立過程、周辺人物などについての解説パネルで構成されます。

解説パネルを執筆させていただきましたが、書き始めたら「あれも書きたい、これにも触れたい」で止まらなくなり(笑)、50枚程になってしまって、とても全てを出せませんので「ここから適当にセレクトして下さい」とお願いしました。パネルにならなかった稿も含め、図版を入れた冊子が作られ、販売される予定です。よろしければお買い求め下さい。
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詳細はまた改めて紹介いたしますが、来春2月21日(土)に花巻駅前のなはんプラザさんで関連行事としてのトークイベントが行われ、登壇いたします。こちらもぜひどうぞ。

ところで、企画展自体の詳細情報が、まだ花巻市さんのサイトに上がっていません。今月1日発行の『広報はなまき』には、トークイベントと共に小さく紹介されていますが。
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この手の企画展示の情報などは遅くとも1ヶ月前位には出していただきたいのですが、いつもギリギリ、下手すると始まってから出されます。もうそういうもの、という感じになってしまっているようで……。

追記 12月10日(水)に市の方で詳細情報を出しましたので、最上部、リンクを貼りました。

同時開催で、4月に始まった特別展「中原綾子への手紙」も2月28日(土)まで開催しています。併せてご覧下さい。

【折々のことば・智恵子】

芸術――文学の使命は、それら一切のコンヴエンシヨンを如何に離れて、輝く天然の光りのうちにその全きを理法と愛とに生きむがため、一切を鋳なほし、息づまつた熱鬧に涼風をおくる、天に向つてあげる烽火ではあるまいか。

散文「現代日本の文学に対するアマチユアの注文と感想」より
大正12年(1923) 智恵子38歳

この文章は文学全般をイメージしてのものですが、光太郎同様、智恵子も賢治作品を愛していました。「輝く天然の光りのうちにその全きを理法と愛とに生きむがため、一切を鋳なほし、息づまつた熱鬧に涼風をおくる、天に向つてあげる烽火」、まさに賢治作品を彷彿とさせられます。

当会の祖・草野心平の回想「光太郎と賢治」(昭和31年=1956)から。 

 ある晩高村さんのアトリエで、その時は智恵子さんも傍にゐられた。なんかのきつかけから賢治の話が出て、高村さんは『春と修羅』を持ち出してきた。私はそれを受けとつて「小岩井農場」の一部をよんだ。ユーモラスなところにくると読みながら笑つた。すると今度は高村さんがそれを受けとつて、小さな声で読みながら、時々クツクツと含み声で、いかにも楽しさうに笑つた。

平凡社さんで刊行が続いているアンソロジー「作家と〇〇」シリーズ、第8弾だそうです。同じシリーズで令和3年(2021)に刊行された『作家と酒』にも光太郎作品が載っていますが、今回も採用して下さいました。
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作家とお風呂

発行日 : 2025年11月18日(火)
著者等 : 平凡社編集部
版 元 : 平凡社
定 価 : 2,000円+税

文豪から現代の人気作家まで、お風呂への愛が詰まったエッセイ、詩、漫画作品を収録。大好評の「作家と〇〇」シリーズ、第8弾。
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【収録作品(掲載順)】
 Ⅰ 女湯のできごと
    花嫁 石垣りん
    久しぶりの銭湯 俵万智
    ゆず湯 星野博美
    女湯のほうが楽しいに決まってる! 鈴木いづみ
    摩周湖紀行─北海道の旅より─ より 林芙美子
 Ⅱ 銭湯大好き
    底なし銭湯 さくらももこ
    フルーツ牛乳の味 ヤマザキマリ
    銭湯好き 高橋みどり
    銭湯入口のサボテン 大竹伸朗
    銭湯 別役実
    湯の思い出 古井由吉
    ぼくの銭湯論 より 田村隆一
    江戸っ子比べ 前川つかさ
 Ⅲ 我が家のお風呂
    苦笑風呂 古川緑波
    住居 長谷川時雨
    セントウ開始! 青島幸男
    きりなしうた 谷川俊太郎
    風呂を買うまで 岡本綺堂
    トキワ荘物語 赤塚不二夫
 Ⅳ 温泉郷にて その1
    忘れられぬ印象 芥川龍之介
    温泉のお婆ちゃん 宇野千代
    男湯と女湯 より 山下清
    私の温泉 木村荘八
    年頭の混浴 津島佑子
    湧き出ずる泉 小林エリカ
    「浴泉記」など 堀辰雄
    其中日記 より 種田山頭火
 Ⅴ 温泉郷にて その2
    温泉 太宰治
    石段上りの街 萩原朔太郎
    伊香保土産 島崎藤村
    湯ぶねに一ぱい 高村光太郎
    山の湯の旅 上村松園
    天谷温泉は実在したか 種村季弘
    下部 つげ義春
    サウナの正しい入り方 椎名誠
 Ⅵ なぜ人は風呂を好むか
    更くる夜 内海誓一郎に 中原中也
    温泉雑記 より 川端康成
    人生三つの愉しみ より 坂口安吾
    電車と風呂 寺田寅彦
    銭湯の熱さ 半藤一利
    習慣というもの より 北杜夫
    フロマンガ より 吉田戦車
    南太平洋科学風土記 より 海野十三(佐野昌一)
    ホテル―旅館―銭湯考 朝永振一郎
    温泉2 中谷宇吉郎
    入湯戯画 小出楢重
    混浴の思想 浅田次郎
    お風呂で考えた○○ 大槻ケンヂ
 著者略歴・出典

光太郎詩「湯ぶねに一ぱい」(大正5年=1916)が掲載されています。

    湯ぶねに一ぱい

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 湯は
 しづかに満ちこぼれてゐる
 爪さきからそろそろと私がはいれば
 ざあつとひとしきり溢れさわいで
 またもとの湯ぶねに一ぱい――
 かすかに湧き出る地中の湯は
 肩をこえて
 なめらかに岩角から流れ落ちる
 涌いてはながれ
 涌いてはながれ
 しづまり返つた山間の午後
 私は止め度もなく湧いて流れる
 温泉に身をとろかして
 心のこゑをきく
 止め度なく湧いて来るのは地中の泉か
 こころのひびきか
 しづかにして力強いもの
 平明にして奥深いもの
 人知れず常にこんこんと湧き出でるもの
 ああ湧き出でるもの
 声なくして湧き出でるもの
 止め度なく湧き出でるもの
 すべての人人をひたして
 すべての人人を再び新鮮ならしめるもの
 しづかに、しづかに
 満ちこぼれ
 流れ落ちるもの
 まことの力にあふれるもの


この時期は日記も残って居らず、今一つ光太郎の詳細な行動が不明なのですが、執筆とそう遠くない時期にどこか山間の温泉に身を浸したことがうかがえます。温泉好きだった光太郎、ふらりと上州や那須などの温泉に浸かりにいくことがしばしばありました。

だいぶ後ですが、昭和17年(1942)、上州宝川温泉で入浴中の光太郎を写したショットが残っています。
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また、尾崎士郎の『関ヶ原』というエッセイ集(昭和16年=1941)に、こんな逸話が。

 記憶がよくないからまちがつてゐたら訂正するが、高村光太郎氏(だつたらうと思ふ)が、何時であつたか水上(温泉)のずつと奥にある藤原の高原地方を旅行してゐるときに、ある村の温泉にひたつたことがある。川の流れをうまく利用して自然に噴出する温泉を引き入れた石垣でかこんだ野天風呂でやつと一人がのうのうと両足を伸ばすに足るほどの広さであつたが、いい気持でぐつたり腰を落ちつけてゐるうちに、ふと眼の前で何か動き出したものがあるので何気なく眼を向けると、石垣の窪みに出来た穴の中から一ぴきの蛇が首(といつても首だが頭だかよくわからないが)をつき出してゐるのである。これはいかんと思つて反対側の石垣からとび出さうとすると、そつちの穴にも同じやうなやつが一ぴき首を出してゐる。右にも左にもゐるのである。まるで蛇にかこまれたやうなかたちであるが、今となると出ることも出来なければ引つ込むこともできず、ぢつとしてゐるうちにふと気がついて、それも窮余の策であつたにちがひないが、身に寸鉄も帯びないときであるだけに、恐らくそんな考へがうかんだものと思はれる。そのまま身体をうかすやうにして立ちあがつた。すると××××××××つきつけられた蛇が慌てて首をひつこめたのである。到底敵すべからずと思つたのか、それとも見るに忍びないと観じたのか、――まるで嘘のやうな話であるが一ぴき一ぴきと首を引つこめて、そのまま消えるやうに穴のおくへ逃げこんでしまつた。達人といへども裸でなかつたらこんな堂々たる応対のできる筈もなかつたであらう。蛇の眼には心頭を滅却した××××××槍の穂先のごとく見えたのかも知れぬ。かういふ芸当がいかなるときにでもできるといふ性質のものではない。

××××××××」は最初から伏せ字になっています。「高村光太郎氏(だつたらうと思ふ)」なので、確実に光太郎のエピソードとは言い切れませんが、有り得なくはないかな、と思います(笑)。蛇をも震え上がらせる「××××××××」、どんだけだよ、という感じですが(笑)。

閑話休題、『作家とお風呂』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・智恵子】

今日この庭を立ち離るゝもひたすら畏き勅語の主旨に従ひさとし給ひし日頃の御教をしるべとして婦女たる道を踏迷ふことなく天晴本校卒業生たるの名誉を保たんことをつとむべしと思ふ心を一同に代りて聊か答ひ奉るになん


「町立福島高等女学校卒業式答辞」より 明治36年(1903) 智恵子18歳

高等女学校卒業式で、総代として読んだ答辞の終末部分です。『福島民友新聞』に全文が引用されました。

例年は声の良い生徒が答辞を読むという慣例があったそうですが、この年は、智恵子の成績が余りに優秀で、声の善し悪しなど関係なく、総代は智恵子と衆目の一致だったそうです。

しかし、その後の智恵子は「ひたすら畏き勅語の主旨に従ひさとし給ひし日頃の御教をしるべとして婦女たる道を踏迷ふことなく」という人生は送りませんでしたが……。
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昨日は都内で開催された第68回高村光太郎研究会に参加しておりました。レポートいたします。

会場は文京区のアカデミー向丘さん。
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お二人の方の発表でした。

まず、中島宏美氏。「吹木文音」のペンネームで詩人として活動されています。
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発表題は「智恵子へ寄せる思い」。

氏は智恵子のソウルマウンテン・安達太良山を望む福島郡山にお住まいだったこともおありだそうで、小学校4年生の頃に読まれた新潮文庫版の『智恵子抄』の思い出、智恵子紙絵の美しさ、そして智恵子という人物そのものの魅力などについて、詩人ならではの視点で語られました。

下画像はレジュメ1ページ目です。
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稀有な詩集としての『智恵子抄』の特徴、価値などについて、「私見」と断りながらもなかなかに的確な解釈で、首肯させられました。

また、現代人の感覚だけで読むことの危うさ、と言ったお話も。氏は『源氏物語』のご研究もなさっており、その際の態度が『智恵子抄』解釈にも生かされているような気がしました。氏曰く「安易なフェミニズム/ジェンダー論で語るのは危険」、「智恵子を悲劇のヒロインと捉えるべきでない」とのことで。

つい先日も書きましたが、当会顧問であらせられた故・北川太一先生も、「はじめこの詩集は光太郎の一方的な思いこみにすぎず、光太郎の声だけしか聞こえない単なる幻想の産物だと批判した者もあった。しかし智恵子に関する資料が徐々に発掘され、智恵子が肉声で語りはじめるにつれて、その生の軌跡はますますリアリティを加え、文学としての評論、創作はもとより、ドラマ、オペラ、歌曲、舞踊、邦楽等々芸術のあらゆる分野の作者、演技者を動かし、それぞれがそれぞれの思いを込めて、その問いかけに答えようとする。」と述べられ、「安易なフェミニズム/ジェンダー論」などに疑問を呈されています。

かつてテレビ等で引っ張りだこだった「フェミニズム/ジェンダー論」者の女性は、もう最初から『智恵子抄』には拒絶反応を示し、ろくに確かめもしないまま「家事労働に追われて智恵子は才能を発揮出来なかった」とか「『智恵子抄』は智恵子の才能を押し潰す男の論理」といった発言を現在も繰り返しているようですが、そういう見方は論外ですね。

続いて武蔵野美術大学の前田恭二教授。
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雑司ヶ谷の季節――ヒューザン会、智恵子と読売新聞」と題されてのご発表でした。

雑司ヶ谷は現在の豊島区、文京区にまたがる一帯の地名で、明治末から大正初め、ここに集った美術家・文学者たちが一種のコミュニティーを形成していたというお話。同様のケースで「田端文士村」「池袋モンパルナス」などは有名ですが、雑司ヶ谷のそれはまだ注目度が低いものの、美術史・文学史上、いろいろと重要な出来事の背景に雑司ヶ谷での地縁が作用している、というわけで。なるほど、炯眼だなと思わせられました。

美術方面では斎藤与里、津田青楓、柳敬助、戸張孤雁、正宗得三郎、本間国雄、坂本繁二郎ら。文士としては上司小剣、正宗白鳥、三木露風、相馬御風、小川未明、徳田秋声、内田百閒、人見東明、谷崎潤一郎、秋田雨雀、中村星湖など。光太郎と何らかの関わりのあった面々が大半です。

そして智恵子も。智恵子は明治44年(1911)のおそらく3月から、すぐ下の妹・セキと共に雑司ヶ谷719番地に住んでいました。近くに住んでいた津田青楓には、師事、とまではいかないものの、絵のアドバイスを受けたりもしています。智恵子の言葉として有名な「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさへたものでせう。それにしばられて一生涯自分の心を偽つて暮すのはつまらないことですわ。わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たつた一度きりしかない生涯ですもの」は、その頃、青楓に語られたものです。ただ、青楓が『漱石と十弟子』中でその言葉を文字にしたのは昭和23年(1948)になってからなので、微妙なニュアンスの違いはあるかも知れませんが。

先程の面々、共通点としては、早稲田出身者が多いということが挙げられます。それから、『読売新聞』の関係者も。人見東明は読売新聞社に勤務していたそうですし。それから、智恵子も所属していた太平洋画会や、光太郎も出入りしていた中村屋サロンの関係も垣間見えます。

またまた智恵子ですが、智恵子にも早稲田や『読売新聞』の影がちらつきます。雑司ヶ谷在住時の明治45年(1912)4月には早稲田大学高等予科教室で開催された早稲田文学者主催の装飾美術展覧会に作品を出品しています(前年に智恵子と知り合った光太郎もですが)。それから、同じ年の6月には『読売新聞』に連載「新しい女」の第17回として、「最も新しい女画家」の題で智恵子が好意的に紹介されています。
無題
このあたり、雑司ヶ谷という地縁も無関係ではないだろうということです。連載「新しい女」は、第1回が与謝野晶子。その他、松井須磨子や三浦環、『青鞜』にも寄稿していた国木田独歩の妻・治子、中村屋の相馬黒光などが取り上げられましたが、この時点での知名度は智恵子は彼女たちほどではなく、確かにおかしいといえばおかしいところです。

そして雑司ヶ谷に集った美術家たちが、光太郎も参加したヒユウザン会(会場が読売新聞社)や、文展に反旗を翻した二科会にも繋がっていくというお話。「おお」という感じでした。

来月、明星研究会さんでの発表を仰せつかっており、明治末から大正前半頃の光太郎の立ち位置について光太郎を中心とした人物相関図なども作成し、お話しする予定なのですが、大いに参考になりました。

発表はこのように素晴らしいものでしたが、残念なことに参加者があまり多くありませんでした。まぁ、毎年のことといえばそうなのですが(今時、ホームページが存在しない団体ですので……)。ほぼ毎回欠かさず参加されている方の中には他の外せない会合があるやに聞きまして、どうもこの時期はこの手のイベントが重なるので致し方ないかなとも思います。当方も来週は「十和田湖の未来を語る東京フォーラム ~大町桂月と名勝価値の再発見~」で発表がありますし、どちらかが1週ずれていたらアウトでした。それでも、当方の投稿を読まれて初めてご参加下さった京都大学の学生さんなどもいらっしゃり、良かったと思いましたが。

高村光太郎研究会、こんな感じで年に一度の研究発表会をおこなっていますし、年会費3,000円で入会されると会誌『高村光太郎研究』(4月発行で、主に前年に研究発表をなさった方がそれを元にご執筆。それプラス当方の連載「光太郎遺珠」「高村光太郎没後年譜」など)が送られてきます。

ぜひご入会下さい。

【折々のことば・光太郎】

一体大家達があとからあとからいろんな違つた技巧を採用するといふ事が確かでせうか。どうも怪しい。私はさう思ひません。


光太郎訳 ロダン「続ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

「不易と流行」ということを考えさせられます。

4件ご紹介します。

まず、石川県立美術館さん他で開催中の「令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨復興支援事業 ひと、能登、アート。」について、地元紙『北国新聞』さん。

教科書で見た至宝集う 「ひと、能登、アート。」開幕 国宝、重文など86点

●県立美術館など3会場で順次
 東京の美術館や博物館の名品が金沢に集結する特別展「ひと、能登、アート。」(北國新聞社共催)は15日、石川県立美術館で開幕した。東京国立博物館(東博)をはじめ、約30の文化施設や個人が所有する国宝、重要文化財(重文)など86点が、金沢市内3会場で展示される。県立美術館では43点が並び、来場者は教科書で目にするほど著名な文化財の「オールスター」を心ゆくまで鑑賞した。
 同展は県、金沢市、東博などが来年3月1日まで主催し、県立美術館、国立工芸館、金沢21世紀美術館で順次、名品を並べる。3館合同の展覧会は初めて。
 重文に指定されている高村光雲の彫刻「老猿」は、オオワシと格闘した後の気迫に満ちたサルの姿を表現している。大正天皇のご成婚25周年を祝い献上された平福百穂(ひゃくすい)の屏風「丹鶴青瀾(たんかくせいらん)」は青い波と金泥が織りなすダイナミックな背景に、夫婦円満や長寿を象徴する鶴が対照的に描かれている。
 このほか、七尾生まれの画聖・長谷川等伯の重文「牧馬図屏風(ぼくばずびょうぶ)」と「烏鷺図(うろず)屏風」、高い人気を誇る江戸時代中期の絵師伊藤若冲の「松梅孤鶴図(しょうばいこかくず)」、菱川師宣の「見返り美人図」なども来場者の注目を集めた。
●知事「オールスター」
 開会式では、馳浩知事があいさつで今回の特別展を「美術・工芸・博物館のオールスター戦」とたとえ、「石川にはアートの底力がある。県民の湧き上がる力をもっと応援していきたい」と語った。東博の藤原誠館長、北國新聞社の小中寿一郎社長もあいさつした。
 会期は県立美術館が12月21日まで、国立工芸館が12月9日〜来年3月1日、金沢21世紀美術館が12月13日〜来年3月1日となる。入場料は一般千円、大学生800円、高校生以下無料。昨年の能登半島地震と豪雨の復興支援を目的としており、内灘町以北の住民のほか、被災後に能登から移住した人は無料となる。
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同じ件で『朝日新聞』さん石川版。

国宝、重文が金沢に集合、復興応援 3施設に86件の文化財

 2024年の能登半島地震や奥能登豪雨で被災した地域と人々を励まそうと、東京を中心とする美術館・博物館などの文化財を、金沢市内で展示する「ひと、能登、アート。」(朝日新聞社など後援)が15日、始まった。
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 東京国立博物館が呼びかけ、約30の美術館・博物館や個人などが所有する文化財計86件を、金沢の3館に分けて展示する。15日に開幕した石川県立美術館(12月21日まで)では、室町時代の雪舟等楊(とうよう)による国宝の水墨画「秋冬山水図」をはじめ、重要文化財では江戸時代の尾形光琳の「風神雷神図屛風(びょうぶ)」、明治時代の高村光雲の「老猿」、黒田清輝の「湖畔」など、教科書でも取り上げられるような名作40件あまりが展示されている。
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 開会式で東京国立博物館の藤原誠館長は「作品の背後にある人の思いや祈りに触れ、再生への希望を感じ取ってもらいたい。多くの人が足を運んで、被災地へ思いをはせていただけたら大変光栄です」と話した。
 野々市市から夫婦で訪れた主婦の高田みどりさん(51)は「有名な作品を直接見ることができて感激した」と話す。「被災された方も、作品を見て前向きな気持になってもらいたい」
 金沢21世紀美術館(12月13日~2026年3月1日)では、ルノワールやルソーといった西洋の名画など15件が展示される予定。国立工芸館(12月9日~26年3月1日)では30件近くが出展され、重要文化財の遮光器土偶のほか、国宝の「秋草文壺(あきくさもんつぼ)」など工芸品が中心となる見込み。
 問い合わせは県文化振興課(076・225・1371)へ。


続いて、少し前ですが『毎日新聞』さん北九州版。読者の方の投稿欄のようです。

はがき随筆 冬 小倉南区星和台 山口敬司(73)/福岡

 少年時代に読んだ高村光太郎の詩「冬が来た」をこの日、独唱した。冒頭、「きっぱりと冬が来た」、末尾「刃物のやうな冬が来た」。
 霜月、未明にベッド頭上の窓をまるで切り裂くような雷が鳴り、カサカサと音をたてて落ち葉の上をたたく時雨の音を聞いた。
 ふと目を覚まし、暦を見る。残すところ、あと2枚だ。独唱のごとく、ものみな枯れる冬に立ち向かわなければならない。
 73歳という人生を。厳しく生きる術を。そこに老齢の未来があることを信じて。そして輝かしいということも。冬が来た。

まだ11月ですが、たしかにもう冬が来た感がいっぱいですね。秋はどこへ行ってしまったんだ? と思わされます。

光太郎詩「冬が来た」(大正2年=1913)、この時期のコラム等にはよく取り上げられます。
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最後に『朝日新聞』さん青森版。

森佳正の青森ウォッチング アートは全身で体感が大事 NHK「鈴木京香の東北おとな旅」

000 宮城県出身の俳優・鈴木京香さんが、改めて東北の魅力を再発見してみようというNHKの紀行番組「鈴木京香の東北オトナ旅」。今回の「青森県十和田市編」は8月にパイロット版の30分で放送され、10月には43分の完全版として放送された。
 「オトナ旅」ということもあって、番組では、自然・建築・アート・人気スポット・伝統工芸・夜の街の六つのテーマで十和田を紹介していた。
 冒頭で、十和田の代名詞である十和田湖を久しぶりに訪れた京香さんは、湖畔にたたずむ乙女の像を鑑賞した。
 像を造った高村光太郎による直筆の詩が刻まれた碑銘を読み上げる。
 「この原始林の圧力に堪へて立つなら幾千年でも黙って立ってろ」
 作品名の「乙女」から抱くイメージとは大きく異なる光太郎のメッセージに京香さんは、「ものすごく生命の力強さを詠んだ言葉ですね」と感嘆していた。
 番組のハイライトは、十和田市現代美術館に常設展示されている作品《ザンプラントSumpf Land》だ。
 造型作家の栗林隆氏の空間芸術作品で、真っ白の部屋の天井にポコっと首だけが出せる穴が空いている。その天井穴から顔を出した京香さんは、眼前の別世界を見て思わず声を上げた。
 「私、『地獄の黙示録』になっている!」
 主人公が、ジャングルの沼からすっと顔を出す、あの名シーンをさながら再現したかのような、緑が生い茂る湿地に鏡のように張る一面の水面が飛び出した首の周りを360度囲んでいたのだった。
 京香さんも、「全く予備知識なく来てよかった」と大満足。作品名を調べたら、ザンプ(Sumpf)が湿地の意味だから感動は半減していたかもしれない。アート作品は、まず、予備知識なく全身で体感するのが大事だと、この番組は教えてくれた。


NHKさんの東北限定番組「鈴木京香の東北オトナ旅」。「8月にパイロット版の30分で放送」とありますが、そちらは旧NHKプラスさんの配信で拝見しました。
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その後、10月17日(金)に「43分の完全版」の放映があったそうで、そちらは存じませんでした。
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民放さんでもそうですが、こうした地方限定の番組、系列のBS局などで放映してほしいものだと思いました。

さて、最初に戻りますが、「令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨復興支援事業 ひと、能登、アート。」、それから十和田湖も、ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

一つの胴と四つの肢体。此が実に無限だ。どんなにいろいろの事が此で物語れる事ぞ!

光太郎訳 ロダン「続ロダンの言葉 フランシス ド ミオマンドル筆録」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

作品モチーフとしての人体について。胸像や頭部のみと異なり、四肢を使うことができれば表現の幅はぐっと広がるわけで。ロダン代表作の一つ「カレーの市民」など、まさにその具体例ですね。
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光太郎の「乙女の像」、それから人体ではありませんが、光雲の「老猿」などにも言えることだと思います。

まずは訃報。光太郎の師・与謝野夫妻研究の第一人者であらせられた逸見久美氏が一昨日、亡くなられました。

『朝日新聞』さん。

逸見久美さん死去

 逸見久美さん(いつみ・くみ=日本近代文学研究者・歌人)3日、急性心筋梗塞(こうそく)で死去、99歳。葬儀は近親者で営む。喪主は長男で青林書院社長慎一さん。
 与謝野鉄幹・晶子研究の第一人者で知られ、著書に「評伝与謝野寛晶子」(明治篇、大正篇、昭和篇)、編著に「与謝野寛晶子書簡集成」、編集代表として関わった「鉄幹晶子全集」など。作家・ジャーナリストの翁久允(おきな・きゅういん)の三女。

昨日、明星研究会を主宰されている松平盟子氏からメールを頂き、その中でご逝去に触れられていて知った次第ですが、その際、急いでネットで調べたところ、KNB北日本放送さんのローカルニュースで既に取り上げられていました。

与謝野晶子研究の第一人者 逸見久美さん死去 作家・翁久允の三女

 立山町出身の作家・ジャーナリスト翁久允の娘で与謝野鉄幹・晶子研究の第一人者として知られる、国文学者の逸見久美さんが、きのう亡くなりました。99歳でした。
 逸見さんは1926年、翁久允の三女として生まれ、早稲田大学大学院を卒業後、実践女子大学大学院で第1号となる文学博士の博士号を取得しました。
 そして、歌人である与謝野鉄幹・晶子夫妻の研究で多数の書籍を執筆した、日本近代文学の女性研究者の草分け的存在でした。
 また、父の翁久允が主宰した富山の郷土研究雑誌「高志人」にも寄稿を重ねました。高志の国文学館館長で俳優の室井滋さんは、逸見さんの遠縁にあたります。逸見さんは、きのう99歳で亡くなりました。葬儀などは親族だけでとり行う予定だということです。
002
ここ数年、お加減があまりよろしくないと聞いており、疎遠になっていましたが、かつていろいろとお世話になりました。

初めてお会いしたのは平成24年(2012)、神保町の東京堂書店さんで開催された氏の講演会「晶子没後70年記念出版『新版評伝与謝野寛晶子』完結記念公演 与謝野夫妻の評伝を書き終えて -収集した二五〇〇通の書簡と全集・全釈編纂から-」を拝聴した折でした。それ以前から氏の編著にして『高村光太郎全集』にもれていた光太郎短歌を収めた『与謝野寛晶子宛書簡集成』を拝読させていただいており、聴きに行かずば、というわけでした。

以後、何度か、大阪の晶子忌日・白桜忌明星研究会さんの研究発表会などでご一緒し、さらに当会主催の連翹忌にもご参加下さいました。

平成27年(2015)には、NHK Eテレさんで放映された生涯学習の番組「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の第2回放送「愛と情熱の歌人 夫のための百首 与謝野晶子×与謝野鉄幹」にご出演。同じ番組の第5回が「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」で、NHKさんに制作協力者として当方を紹介して下さいました。
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さらに平成28年(2016)には、お父さまの翁久允と竹久夢二との交流についてまとめられた『夢二と久允 二人の渡米とその明暗』を刊行され、これまた『高村光太郎全集』にもれていた光太郎からお父さま宛の書簡が載っているということで、御恵贈下さいました。
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こちらには、氏が幼き日に夢二が描いたお姉様とのスケッチも掲載されています。左が氏で、右はお姉様です。
003
夢二に描かれた、というお話を伺った時には実に驚いた記憶がございます。

最後にお会いしたのはコロナ禍前の令和元年(2019)でした。その後、御元気でいらっしゃるかと気にかけてはいたのですが……。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

もう1件、こちらは朗報です。平成9年(1997)、講談社さんから出版され、翌年、芸術選奨文部科学大臣賞に選ばれた智恵子が主人公の小説『智恵子飛ぶ』の作者・津村節子氏が今年度の旭日中綬章を受賞されました。

『朝日新聞』さん。残念ながら『智恵子飛ぶ』には触れられていませんでしたが。

秋の叙勲、受章者の横顔 津村節子さん(97) 書けたのは編集者いてこそ

003 「ひたすら書いてきただけなのに、いただいていいのかな。たぶん吉村もびっくりしてますよ」
 夫で小説家の故・吉村昭と知り合った文芸誌に参加してから70年余。長く書き続けられた理由に編集者たちの存在をあげる。ある短編を新潮社に届けたところ、自社では載せにくいからと文芸春秋に持っていくように勧められた。それが1965年の芥川賞「玩具」になった。「商売敵に渡すなんて、えらい編集者がいるもんだと驚いた」
 おしどり夫婦として知られた吉村を06年に亡くしたときもそう。小説が書けなくなり、お遍路に出てからしばらくして、「そろそろいいのではないか」と背中を押してくれた。先立たれた者の痛切な思いが伝わる私小説「遍路みち」「紅梅」を書けたのも編集者がいてこそだった。
 人生のモットーは「転んでもただじゃ起きない」。いまでも背筋をピンと伸ばし、60年前から続けているヨガの教室に週1回、歩いて通う。
 「もう日常の随想しか書けないけれど、少しでも読者の参考になればいいですね」


吉村昭氏との夫婦同業ぶりは、光太郎智恵子にも通じる部分があり、津村氏ご自身、そういう思いで書かれたようです。そして吉村氏に先立たれ、あたかも逆智恵子抄的な感じになったところも。編集者の方が背中を押して下さり、再び描く意欲が……というエピソードには、光太郎に『智恵子抄』出版を強く勧めた龍星閣の澤田伊四郎を連想させられました。

『智恵子飛ぶ』は、平成12年(2000)には新橋演舞場、翌年には京都南座で舞台化されました。智恵子役は共に片岡京子さん、光太郎役は、東京公演が故・平幹二朗さん、京都公演で近藤正臣さんでした。
008 009
片岡さんのお父さま・仁左衛門氏は先頃文化勲章を受章されましたが、津村氏は平成28年(2016)には文化功労者に選ばれています。それに続いての旭日中綬章、まことにおめでとうございます。

97歳とのことですが、まだまだお元気で、と祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

かぶりついて仕事せよ。


光太郎訳 ロダン「若き芸術家達に(遺稿)」より
大正9年(1920)頃訳 光太郎38歳頃

この一節、後に『智恵子抄』にも収められた光太郎短歌「ひとむきにむしやぶりつきて為事(しごと)するわれをさびしと思ふな智恵子」(大正13年=1924)の源流を見るような気がしています。

津村氏、そして亡くなった逸見氏、共に「かぶりついて仕事」なさってきたこれまでのような気もします。

一昨年出た四六判単行本が文庫化されました。

創元推理文庫 三人書房

発行日 : 2025年10月24日
著者等 : 柳川一
版 元 : 東京創元社
定 価 : 780円+税

大正8年(1919年)東京・本郷区駒込団子坂。平井太郎は、通と敏男の二人の弟とともに《三人書房》という古書店を開いた。店には同年に亡くなった女優・松井須磨子の遺書らしい手紙をはじめ、奇妙な謎が次々と持ち込まれ──。同時代を生きた、宮沢賢治や宮武外骨、高村光太郎たちとの交流と不可解な事件の顛末を、若き日の平井太郎=江戸川乱歩を通して描く、滋味深い連作推理。著者あとがき=柳川一/解説=辻真先

目次
 「三人書房」 「北の詩人からの手紙」 「謎の娘師(むすめし)」 「秘仏堂幻影」
 「光太郎の〈首〉」
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五話の連作で、それぞれ江戸川乱歩がらみのミステリーです。表題作、そして表紙に描かれている「三人書房」は、史実で乱歩が弟たちと共に経営していた古書肆です。

最終話「光太郎の〈首〉」が、題名通り、光太郎彫刻に関わる事件を描いています。架空の事件ですが、さもありなんという感じです。

他の登場人物等は、宮沢賢治、横山大観、宮武外骨など。さらに物故者として松井須磨子や葛飾北斎、その娘お栄(応為)、岡倉天心、そして智恵子らにも触れられます。

単行本でお買い求め頂いていない方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

先づ第一に、芸術は唯自然の綿密な研究です。此が無くてはわらわれは救はれない。芸術家たり得ない。


光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

光太郎の親友だった碌山荻原守衛は、パリからの帰国に際し、ロダンに別れの挨拶し、「帰国後は師と仰ぐべきものがないが、誰を師と仰ぐべきか」と尋ねると、ロダンから「自然、自然こそ最大の師ではないか」と諭されたそうです。

新刊です。

昭和の夢は夜ひらく

発行日 : 2025年10月20日
著者等 : 五木寛之
版 元 : 新潮社
定 価 : 960円+税

戦前・戦中・戦後──。流れゆく時代の片隅で、私は何を見てきたか。『週刊新潮』人気連載から厳選、追憶の36話。

昭和百年とはいうけれど、歴史として語られる数々の出来事と、戦前、戦中、戦後にかけて自身が経験してきた事々は、重なるようでいてどこか重ならない。戦争と引揚げの記憶、貧しかった青春時代、かつての文壇での交友や歌謡曲の世界、そして逝きし人びとの声──連載十二年に及ぶ「週刊新潮」の人気エッセイから三十六話を厳選、忘れ得ぬ時代の原記憶が鮮やかによみがえる。
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目次
 はじめに
 流されゆく日々
  流れゆく時代のなかで/ボタ山に紅テントが立った時代/ラジオと共に六十年/
  黒と白のブルース/一日見ぬ間の桜かな
 昭和百年とはいうけれど
  昭和百年の原記憶/ぬるめの風呂につかりながら/昭和時代の片隅で/
  昭和残影あれこれ/『昭和百年』はどう語られるか
 忘れ得ぬ記憶
  虫のいろいろ/シベリア抑留者の光と闇/七十数年前の難民として/
  時は流れる 時計が見える/戦後は遠くなりにけり/思い出のなかの昭和残影
 歌は世につれ、世は歌につれ
  高村光太郎の国民歌/昭和歌謡の罪と罰/昭和の夢は夜ひらく/
  時代の歌と、歌の時代/昭和は踊る時代だった
 文壇つかずはなれず
  文壇バーとガールズ・バー/おい、泣くなよ奥野/文士劇のあった時代/
  原稿用紙と私/あの日の雨はまだ降っている/ハラスメント天国
 忘れ得ぬ人の面影
  内田裕也という人の片影/平岩弓枝さんのこと/上海ガーデン・ブリッジ/
  八代亜紀と冠二郎/残る桜も散る桜
 私の昭和時代
  昭和二十年代の正月/わが青春に悔あり/野球がだんだん遠くなる/私がなくしたモノ

解説文にある通り、『週刊新潮』さんに連載のエッセイ「生きぬくヒント!」からのセレクションです。

「歌は世につれ、世は歌につれ」中の「高村光太郎の国民歌」は、令和2年(2020)の3月12日号に掲載されました。昭和15年(1940)に光太郎が作詞し、飯田信夫が作曲、徳山璉(たまき)の歌唱でそこそこヒットした「歩くうた」に関する内容です。

平成30年(2018)の同じ連載で「潜伏する人びとの世界」と題し、天草地方の潜伏キリシタン、九州や東北の隠し念仏/隠れ念仏などを扱った回でも光太郎に触れて下さっていましたが、残念ながら本書では採録されていませんでした。

昭和7年(1932)のお生まれで、「昭和」時代の大半を経験されている五木氏だけに、多岐に亘るその昭和史の証言は貴重なものだな、と思いつつ拝読いたしました。昭和100年ということで、タイムリーですね。

作詞家でもあらせられた氏ですので、音楽関連の内容も多く、「歌は世につれ、世は歌につれ」と一章まるまる歌謡の話に割かれていますし、他の章でも内田裕也さん、八代亜紀さんなどに触れられています。

もちろん文壇系の話題も。川端康成、野坂昭如、寺山修司、立松和平、安岡章太郎、吉行淳之介などに触れられています。そうかと思えば考古学者の大塚初重など全く畑違いと思われる人々の思い出も。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

私は民衆の言葉を使ふ。思想は明瞭であつて、容易く呑みこまる可きものですから。私は大多数の人に会得して貰ひたい。学者風の言葉や見慣れない文句は審美学専門の学者達に譲ります。


光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

万人にわかりやすい言葉で語り、書く。大切なことだと思います。五木氏の文章など、まさにそんな感じですが。

オリジナルが改訂版となり、さらに文庫化されたもの。光太郎の名もちらっと出ています。

鉄人文庫 改訂版 日本ボロ宿紀行

発行日 : 2025年9月25日 
著者等 : 上明戸聡
版 元 : 鉄人社
定 価 : 1,000円+税

懐かしの人情宿が、”旅心”を刺激する
観光でも出張でもない、目的なき旅の途中で出会った“ボロ宿”たち。
ベストセラー旅行記が、改訂文庫版で新たに甦る!

“ボロ宿”は決して悪口ではありません。歴史的価値のある宿から、古い安宿までひっくるめ、愛情を込めてそう呼んでいます。ボロ宿は最高の誉め言葉です――。テレビ東京でドラマ化された傑作旅行記の決定版、待望の文庫化! 歴史的宿から湯治宿、商人宿、駅前旅館まで、古い建物を守り続ける宿を愛してやまない著者のベストセラー旅行記がリニューアル復刻。懐かしの人情宿が“旅心”を刺激する。

001
目次
 グラビア
 改訂版の文庫化にあたって
 はじめに
 第一章 昔の姿を残す青森の湯治宿
  八戸 新むつ旅館 五所川原 音治郎温泉旅館 黒石 温湯温泉飯塚旅館
 第二章 花巻のお馴染み宿から、遠野へ
  花巻 大沢温泉・自炊部 遠野 旅館福山荘 花巻 鉛温泉藤三旅館
 第三章 つげ義春ゆかりの宿を訪ねて西伊豆へ
  伊豆 天城湯ヶ島温泉白壁荘 松崎 長八の宿山光荘 松崎 岩地温泉民宿大清水
 第四章 忍者の里をさまよい歩く
  伊賀 薫楽荘
 第五章 伊勢から鳥羽へ歴史を訪ねる旅
  伊勢 星出館 伊勢 旅館海月
 第六章 四国から瀬戸内を渡って尾道へ
  松山 道後温泉ホテル椿館 大崎上島 きのえ温泉ホテル清風館 尾道 佐藤旅館 
 第七章 鳥取の限界集落と出雲への旅
  智頭町 河内屋旅館 出雲 持田屋旅館 境港 かぐら旅館
 第八章 熊本の日奈久温泉から鹿児島へ
  八代 日奈久温泉新湯旅館 出水 白木川内温泉旭屋旅館
 第九章 雪国を旅する
  横手 尾張屋旅館 角館市 高橋旅館 弘前市 石場旅館
 第十章 震災後の東北を巡る旅
  酒田 最上屋旅館 東鳴子温泉 まるみや旅館 千厩 勢登屋旅館 能代市 民宿水月
 第十一章 熱海から小田原へ昭和レトロを求めて
  熱海 福島屋旅館 小田原 日乃出旅館
 第十二章 町にも宿にもドラマあり
  長浜市 三谷旅館 大津市 ホテル大津 鳥取市 旅館常天
 第十三章 瀬戸内海の風と光に魅せられて
  小豆島 オリーブ温泉小豆島グランドホテル水明 津山あけぼの旅館
  今治 ビジネス旅館 ビジネス旅館笑福


解説文にあるとおり、「ボロ宿」は蔑称ではなく、限りない愛着を込めての呼称です。新しさや利便性とは無縁の、しかし温かみにあふれる全国のレトロな宿がこれでもか、と紹介されています。本書でも取り上げられているつげ義春氏が愛したような宿、といえば通じる方も多いと思われます(笑)。

戦後の7年間の蟄居生活中に光太郎が何度も訪れた、花巻南温泉峡の大沢温泉さんと鉛温泉さんが取り上げられています。鉛温泉さんの項では光太郎の名は出て来ませんが、大沢温泉さんの方には「平安時代に坂上田村麻呂が見つけ、宮沢賢治や高村光太郎のお気に入りだったという歴史あるお湯」と紹介されています。

なぜか文春さんのサイトに大沢温泉さんの項がほぼ全文引用されており、それで本書の存在を知って購入した次第です。そちらには本書ではモノクロ画像で載っているものがカラーで掲載されています。
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当方も年に数回、大沢温泉さんに泊めていただいており、「そうそう、こういうところがたまらないんだよな」などと思いながら拝読いたしました。ただし、平成20年(2008)時点でのレポートなので、菊水館さんの休業、その後の「ギャラリー茅」としてのリニューアルなどには触れられていませんが。

自炊部さんは江戸時代の建物を使っており、まさに「ボロ宿」(これも良い意味での、です)ですが、根強い固定ファンも多いようで、このところ予約に苦労しています。やはり菊水館さんに泊まれなくなったことでキャパ自体も減りましたし。この冬には来月、12月、来年2月と3回花巻行きの予定ですが、自炊部さんがとれたのは2月だけでした。12月は建物が繋がっている近代的な温泉ホテルの山水閣さん、来月は本書でも取り上げられている鉛温泉さんの自炊部をとりました。こちらも光太郎ゆかりの宿で、3回ほど泊めていただいたことがあります。やはり寒い時期はシティホテルより大きな温泉が望ましいところです。

12月には同じ花巻南温泉峡に「大江戸温泉物語Premium 岩手花巻」がオープンします(元々渡り温泉で他の宿だったところですが)。ファミリーや、手軽なお得感、がっつりの食事などを優先される方々はそちらへ泊まっていただけると、大沢温泉さんの予約も取りやすくなるかな、等と考えていますが、どうでしょうか。

ところで『日本ボロ宿紀行』、上記解説文に「テレビ東京でドラマ化された」とありますが、平成31年(2019)のことでした。原案は『日本ボロ宿紀行2』ですが、売れない歌手・桜庭龍二(高橋和也さん)と芸能プロダクション社長兼マネージャー・篠宮春子(深川麻衣さん)がプロモーションのためボロ宿を泊まり歩くという、書籍とは全く異なる設定になっていました。

当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市の木の下旅館さんというボロ宿(現在は旅館業は廃業し、食堂になっています)も舞台となったので、放映当時にリアルタイムで拝見しました。桜庭の唯一のヒット曲「旅人」のPVを新たに制作するというストーリーで、背景は木の下旅館とその周辺。調べたところ、YouTubeにまだ動画が残っていました。昭和レトロを茶化す感じがたまりません(笑)。


ちなみにこの場所では、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」のロケも行われています。

閑話休題、『改訂版 日本ボロ宿紀行』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

――自然は至上の建築家です。何もかも最美の釣合で建てられてゐます。それに何もかも三角か、六面体か或は其の変化の中に閉ぢ込められてゐます。私は此原則を自分の彫像を組立てる時に使ひます。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

葛飾北斎が『北斎漫画』『略画早指南』などで万物がコンパスと定規で描けるとしていたのを想起しました。
無題
我々凡人とは見え方が違うのかも知れません。

光太郎も寄稿した戦前の地方詩誌の復刻です。

詩誌 門 【復刻版】

発行日 : 近日刊行(2025年10月)
著者等 : 【解題】外村彰(安田女子大学文学部教授)
版 元 : 三人社
定 価 : 30,000円+税

敗戦の年、ビルマの野戦病院に没した詩人・高祖保。18歳で編んだ稀覯誌『門』は高祖の作風模索の経緯を教えてくれるのと同時に、高村光太郎や三好達治をはじめとした既成詩人たちの寄稿も多く眼を惹く。シンプルな装幀かつ誌面構成で、純粋な詩世界を希求せんとする高祖の篤実な姿勢がよく伝わる。総じて同誌は、当時の地方同人詩誌の高い水準を保った達成例を示すものと云えるであろう。高祖が関わった詩誌三誌を附録につけて、若き詩魂の証をここに復刻する。

体裁/A5判、上製、布装 総約510頁
巻末・附録/解題・総目次・執筆者索引、文芸誌『湖光る』創刊号、詩誌『処女地』第6年第1輯、詩誌『声』第壱輯、第参輯、叢書4(『湖光る』『処女地』は表紙・目次・高祖関連の作品および奥付等を部分収録。『声』第2輯は未見)
原誌提供/彦根市立図書館

執筆者一覧
 相川俊孝 
明石染人 麻生恒太郎 安西冬衛 生田花世 井口廸夫 石川善助 石田象夫
 岡崎清一郎 尾形亀之助 喜志邦三 木俣修 黒部政二郎 高祖保 後藤八重子 近藤東
 佐後淳一郎 佐藤清 澤田勇二良 白鳥省吾 高村光太郎 竹内勝太郎 角田竹夫
 外山卯三郎 中西悟堂 南江二郎 野口米次郎 野長瀬正夫 野村吉哉 春山行夫
 平木二六 堀場正夫 峰専治 三好達治 村野四郎 百田宗治 森田恵之介 渡邊修三
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高祖保は岡山県出身の詩人。少年時代に滋賀県の彦根に引っ越し、旧制彦根中学時代から詩に親しんで、今回復刻される『門』なども彦根で刊行しました。昭和18年(1943)には光太郎の年少者向け翼賛詩集『をぢさんの詩』の編集実務を担当、光太郎にいたく感謝されました。このあたり、子息の宮部修氏が書かれた高祖の評伝『父、高祖保の声を探して』に記述があります。最期はビルマ(現・ミャンマー)で戦病死しています。

確認出来ている限り、『門』への光太郎寄稿は2回。創刊号(昭和3年=1928)に「その詩」という詩、終刊号(昭和5年=1930)には「詩そのもの」という散文を寄せています。その他、よくあるケースで、きちんとした作品ではなく、寄稿者から送られた書簡をそのまま巻末の編集後記的なページに転載する例があり、もしかすると光太郎のそれも有るかも知れませんが、未確認です。

『門』への寄稿者、上記にあるとおりですが、なかなかのメンバーの名が並んでいます。このうち、光太郎と交流のあった面々も10名以上です。

今回の版元の三人社さん、京都の書肆ですが、この手の戦前・戦後の地方詩誌などの復刻を多く手がけられていました。例えば上記内容見本画像の下の方にも記述がありますが、『椎の木』。こちらにも光太郎がたびたび寄稿しています。ただ、こちらの内容見本には光太郎の名が無く、復刻されているのを存じませんでした。

こういう地方の詩歌誌で、光太郎が寄稿したことがわかっていながら、国会図書館さん、日本近代文学館さん、その他各地の図書館さんや文学館さんなどに所蔵が確認出来ず、復刻も為されていないため『高村光太郎全集』にもれている作品がけっこうあります。中には題名や出版年月日まで分かっているのに見つからないものもあります。「よっしゃあ、見つけたぁ!」と思って閲覧させてもらったら、光太郎のページだけ切り取られていて見られなかったことも(笑)。

そういった知られざる作品を掘り起こすのがライフワークの一つとなっていますが、その意味では、今回のような復刻はありがたいことです。実際、それで探していたものを見つけたとか、不明だった詳しい初出誌情報等が判明したということも少なくありませんし。

なかなか商業的には成り立ちにくい企画とは存じますが、こういうことの灯を絶やさないでほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

レムブラントはルーヴルで模写をする事によつて会得されはしません。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

レンブラントに限らず、過去の巨匠の作品を模写(彫刻なら模刻)するだけでは、その精神を真に理解するのは不可能ということです。模写(模刻)によって分かることも少なからずありましょうが、それで制覇した気になっては駄目だよ、ということでしょう。

久々に新刊紹介です。

マンガで読む 偉人たちの恋文物語 日本編

発行日 : 2025年10月9日
著者等 : 企画編集 岡部文都子
      漫画 阿部川キネコ/滝沢のぼる/宙花こより/栗山ナツキ/ふくやまけいこ
       志茂/さいとう邦子/OH太/小石川カナリ/柚庭千景
版 元 : Gakken
定 価 : 1,200円+税

歴史に名だたる偉人たちの残した恋文をのぞいてみたら、偉人らしからぬヤバさが全開だった!?恋文という究極のプライベートから見えてくる、偉人の生の姿を漫画で紹介。本書は伊達政宗、武田信玄、坂本龍馬、太宰治、中原中也など日本の偉人23人を収録した。記事ページでは実際の手紙と解説を掲載。

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目次
 伊達政宗 → 只野作十郎 若き時は、酒の肴にも腕を裂き……
 芥川龍之介 → 塚本文 僕は文ちゃんが好きです。それだけでよければ……
 太宰治 → 太田静子 一番いい人として、ひっそり命がけで……
 武田信玄 → 春日源助 私が弥七郎を伽のために寝させたことは……
 斎藤茂吉 → 永井ふさ子 ふさ子さんはなぜこんないい……
 石川啄木 → 平山良子 君、わが机の上にほほえみたまふ……
 竹久夢二 → 岸他万喜 無邪気にしてやさしき人形として……
 樋口一葉 → 半井桃水 ただただまことの兄様のような心持ちで……
 北原白秋→ 佐藤菊子 あなたこそ私の、天から定められていた……
 坂本龍馬 → お龍 渡り鳥になってでも必ず……
 柳原白蓮 → 宮崎龍介 どうぞ私を私の魂を……
 中島敦 → 橋本タカ タカはいつも、僕のタカだぞ……
 高村光太郎 → 長沼智恵子 私があなたであなたが私だった夢を……
 中原中也 → 長谷川泰子 貴殿は小生をバカにしている……
 谷崎潤一郎 → 根津松子 どうぞどうぞお気に召しますまで……
 榎本武揚 → 榎本多津 二十四、五日にはめでたくこの地に……
 夏目漱石 → 夏目鏡子 おれのような不人情なものでも……
 陸奥宗光 → 陸奥亮子 用事はなくてもなるべくたびたび……
 小林多喜二 → 田口タキ 闇があるから光がある……
 豊臣秀吉 → 茶々 ご機嫌よく過ごしていると聞き……
 小泉セツ → 小泉八雲 シンセツノパパサマ……
 森鷗外 → 森志げ 今の内案じてくれて……
 与謝野鉄幹 → 与謝野晶子 小生が此度の旅行に遺憾に思ひ候は……
 参考文献


版元がGakkenさんですので、教育書の扱い。公式サイトでは中学生対象と謳っていますが、小学校高学年でも理解可能でしょうし、高校生、大学生、一般人が読んでも面白いと思います。

23組の恋人たち、夫婦の間で交わされた「恋文」一通ずつを軸に、それぞれのカップルの簡略な紹介となっています。それぞれ8ページで、中扉に1ページ、漫画パートで5ページ、解説文が見開き2ページの構成です。

昨今のLGBT問題への配慮でしょう、23組がすべて異性間のものではなく、男性から男性への「恋文」も2通。それもおまけのような扱いでなく、いきなりいの一番が伊達政宗から小姓宛で、Gakkenさん、攻めてるな、という感じです。最近、「新総裁」とやらが選出された某団体(だいたいにおいて「総裁」という呼称も如何なものかと思うのですが(笑))の関係者は不買運動でも起こすのではないかと本気で心配してしまいます。

23章を10人の漫画家さんたちが分担され、「高村光太郎 → 長沼智恵子」の章は栗山ナツキさんという漫画家さんのご担当。各章、どの程度が漫画家さんのオリジナルなのか、原作なりはGakkenさんの方で提示しているのかなどは不明ですが、なかなかのクオリティです。

「恋文」は、婚約前の大正2年(1913)1月28日に智恵子に宛てて書かれた手紙(全文はこちら)で、智恵子はこの時、早世した日本女子大学校時代の友人・旗野八重の妹・澄子を訪ね、その実家、新潟に滞在していました。澄子は後に東京立川の農事試験場長・佐藤信哉と結婚、光太郎智恵子と夫婦ぐるみの交際が続きます。大正14年(1925)の光太郎詩「葱」は、佐藤夫妻から贈られたネギを題材にした詩です。

感心したのは、単にこの「恋文」の紹介に留まらず、光太郎智恵子それぞれの駆け引きまで考察されていること。まず智恵子は、交際に対し煮え切らない光太郎を試す意図もあってか、行き先も告げずに姿をくらましました。光太郎は、智恵子が新潟にいることを突き止め、手紙を送ります。まず自分が見たという(本当かどうかも疑わしいのですが)悪夢の話で智恵子を手紙に引きこみ、その後、智恵子に寄り添う文言で智恵子の意志を大切にしている、的なことを伝える高等技法(笑)。そうしてその年の夏には婚約するわけです。

他に与謝野夫妻や森鷗外、石川啄木、北原白秋、中原中也など、光太郎と縁浅からぬ面々が取り上げられていますし、そうでない人々の章もそうでないだけに知らないことだらけで興味深いものでした。この年になると今さら「恋文」を書く参考に、というわけでもありませんが(笑)。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

――私は何も発明しません。私は掘出すのです。其が新しく見えるのは世人が芸術の目的と手段とを一般に見失つてしまつて居たからです。世人は其を革新だと思ひますが、其は遠い昔の偉大な彫刻の法則が復た帰つて来たに過ぎません。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 カミーユ モークレール筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

ある意味、ロダンの彫刻は19世紀に於けるルネサンスでした。

栃木県から企画展情報です。

『歴程』と逸見猶吉、岡安恒武

期 日 : 2025年10月11日(土)~2026年3月22日(日)
会 場 : 栃木市立文学館 栃木県栃木市入舟町7-31
時 間 : 9時30分〜17時00分
休 館 : 月曜日(月曜日が祝日の場合は開館し、火曜日休館)
      祝日の翌日(祝日の翌日が土曜・日曜・祝日の場合は開館)
      年末年始(12月29日〜1月3日)
料 金 : 一般 330円(260円) 中学生以下 無料
      ※( )内は、20名以上の団体割引料金

 現代詩の雑誌『歴程』は、昭和10年(1935)5月に本市ゆかりの詩人である逸見猶吉(へんみゆうきち 1907~1946)が初代編輯兼発行人となり、草野心平、中原中也ら8名によって創刊されました。現代詩を代表する詩人たちが集ったこの雑誌は、戦時中の中断を経て戦後に復刊、現在に続いています。
 本展では、昭和27年(1952)に同誌の同人となった本市出身の詩人・岡安恒武(おかやすつねたけ 1915~2000)とともに、二人の生涯と作品を収蔵品を中心に紹介します。

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関連行事
 1 文学散歩「逸見猶吉ゆかりの地めぐり」
  案内:渡瀬遊水池ガイドクラブ  日時:2026年2月14日(土) 13:30~15:30
  場所:渡瀬遊水池内(谷中村史跡保存ゾーンなど)  参加費:無料

 2 ワークショップ「ミニヨシ灯りづくり」
  講師:渡瀬ヨシ愛好会     日時:2025年12月7日(日) 10:30~12:00
  場所:文学館1階とちぎサロン   参加費:400円

 3 学芸員によるギャラリートーク
  日時:2025年10月25日(土)、12月14日(日)、2026年3月7日(土) 13:30~14:00
  参加費:無料


光太郎もたびたび寄稿したり、その絵が表紙などを飾ったりした詩誌『歴程』。てっきり最初の編輯兼発行人は当会の祖・草野心平だと思い込んでおり、逸見猶吉だったというのは存じませんでした。

ちなみに『歴程』への光太郎寄稿、その最後のものは「逸見猶吉の死」という文章でした。昭和23年(1948)のことでした。

 逸見猶吉の満州客死にはまつたくやりきれない感をうけた。その報をきく前に、何となく逸見猶吉があぶないといふ気がかりは強くしてゐたが、それは彼の烈しい気象を考へて満州の当時の事情と思ひ合せ、万一むちやな闘争でもやりはしないかと思つたからであつた。聞くところによると、さすがに大人のやうになつた彼は、終戦後おだやかに身を処して過激な行動などもなく、食品か何かを売つたりして生活してゐたさうであるが、あの「ウルトラマリン」を書いた此の詩人のさういふ姿を想像するのさへ痛々しい。かういふ苦労と無理と多分甚だしい栄養不足等から結核が急に悪化したに違ひなく、かつては強靱そのもののやうだつた彼もつひに満州に於ける日本瓦解と共に仆れた。
 逸見猶吉の詩の魅力はその稀有な高層気圏的気稟にある。その詩に於ける思想も生活も言葉もすべて此の稀元素のやうな気稟の噴煙を吐かしめる因数的存在としてのみ意味がある。彼の詩は字面のどこにもなくて、しかも字面に充実して人を捉へる。その由来を究尽してゆくと何もないところに出てしまふくせに、究尽の手の脈には感電のやうなシヨツクが止まない。詩の不可思議をまざまざと示す彼の詩は、殆ど類を絶して、彼以後に彼の如き声をきかない。彼のやうな詩人は多作であり得るわけがないから、恐らく遺した詩は極めて少いであらう。ウラニウムのやうに少くて、又そのやうに強力な放射能を持つてゐるのだ。今座右に一篇の詩もない。しかし曽てよんだ彼の詩のひびきはりんりんと耳朶をうつてやまない。思想も生活も言葉も此の無形の実在に圧倒され、慴伏せられて遂に思ひ出せない。その詩人が死んだら、もう二度とその類の詩をきき得ないといふ稀有な詩人が、こんどのどさくさの中の多くの死にまじつて死んだのである。


哀惜の念を滲ませつつ、実に的確な評をも与えています。

個人的にも、昭和4年(1929)には、光太郎と逸見、心平、それから高田博厚、岩瀬正雄、岡本潤、横地正次郎の総勢7名で群馬の赤城山に登り、泊まった宿で夜中に酒が無くなると、赤城神社に奉納されていた御神酒を拝借、などということをやっていたりした間柄でした。

もう一人、今回の企画展で取り上げられる岡安恒武。従来、光太郎との直接の交流は確認出来ていませんでしたが、つい最近、光太郎から岡安宛の書簡を発見したばかりなので、驚きました。

昭和21年(1946)に岡安が編集にあたり(発行人は岡安の兄・岡安大仁)、栃木で発行されていた雑誌(というより冊子)『地人』第3号に、「高村光太郎先生ヨリ」の題で全文が引用されています。
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「地人」毎号忝く、御礼申上げます。宮沢賢治精神に基く地人塾の存在は心強く、どこまでもやり通していただく事を切望いたします。ここでも佐藤勝治さんが「ポラーノの広場」をつよい信念を以てはじめられました。小生此地に来て親しく宮沢賢治さんの委細を見聞するに従ひ、ますますその人の大と深とが身にしみて感じられます。

『地人』は宮沢賢治の「羅須地人協会」から名を採り、賢治精神に基づいて賢治作品や評論等を掲載したもので、花巻で発行されていた同様の『ポラーノの広場』を引き合いに出しています。こちらの編集は光太郎に花巻郊外太田村移住を勧めた分教場教師・佐藤勝治で、光太郎も度々寄稿していました。

光太郎の遺した郵便物等の授受の記録「通信事項」昭和21年(1946)2月20日の受信記録には「「地人」二号 」、2月22日の発信記録には「岡安恒武氏へハカキ」の記述があり、この書簡を指していると考えて間違いなさそうです。

この『地人』、昭和24年(1949)まで発行が確認出来ています。逸見も光太郎や心平同様、賢治には並々ならぬ関心を寄せており、改めて賢治の影響力に感嘆します。
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こちらは昭和9年(1934)の「宮沢賢治一周年追悼会」なる会合の集合写真。逸見と心平が写っています。当然ここにいるべき光太郎の姿がありませんが、智恵子の心の病が昂進し、さらに父・光雲が危篤状態に近い頃でしたので、無理だったのでしょう。岡安はまだ二十歳そこそこで、こうした席にはまだ参加していない感じです。もしかすると、最後列の学生服二人のうちのどちらかが岡安だったりするかも知れませんが……。

その二人を取り上げた企画展ということでこれは行かざあなるまい、と思っております。皆様も是非どうぞ。

【折々のことば・光太郎】

もちろん凡庸な人間が自然を模写しても決して芸術品にはなりません。それは彼が「見」ないで眺めるからです。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

「見る」と「眺める」、英語の「watch」と「see」のような感じでしょうか。

もう12回目か、という感じです。北鎌倉明月院さん裏手(徒歩365歩)にあるカフェ兼ギャラリー笛さんでの光太郎と尾崎喜八にかかわる展示です。

笛さんのオーナー・山端氏の奥様が光太郎のすぐ下の妹・しづ(静子)の令孫で、さらにすぐ近くにお住まいの、白樺派の一員で光太郎と交流の深かった詩人・尾崎喜八の令孫・石黒敦彦氏と共同で、両家に残る光太郎・尾崎の関連資料等が展示されます。一度に展示できる量ではないので、毎年少しずつ入れ替えながら開催されています。

さらに今年は、石黒氏の編集で当会顧問であらせられた北川太一先生の光太郎と尾崎の交流を追った玉稿の集成『高村光太郎と尾崎喜八』出版記念ということで、1月から3月にかけてもイレギュラーで展示が為され、6月には石黒氏、山端氏、そして『高村光太郎と尾崎喜八』の装幀を担当された版画家の
山室眞二氏によるトークイベントもありました。

そんなこんなで、毎年秋の展示はどうするのかな、と思っていたのですが、例年通り行うそうです。

回想「高村光太郎 尾崎喜八」詩と友情 その12

期 日 : 2025年10月10日(金)~11月18日(火)の火・金・土・日曜日
会 場 : 笛ギャラリー 神奈川県鎌倉市山ノ内215
時 間 : 11:00~16:00
休 業 : 月・水・木曜日
料 金 : 無料

関連行事 詩の朗読会 11月15日(土) 15:00~
 高村光太郎と尾崎喜八の詩を朗読します。詩を朗読して下さる方を募集しています。

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今回の展示内容の詳細は不明ですが、過去には光太郎が尾崎夫妻の結婚祝いに贈ったブロンズ「聖母子像」(大正13年=1924)も展示されました。ミケランジェロ作品の模刻で、他に鋳造されたことが確認出来ていない実に貴重な一点物です。尾崎の妻・實子は光太郎の親友・水野葉舟の息女で、光太郎は我が子のようにかわいがっていました。
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関連行事としての朗読会は、令和4年(2022)から始まりました。ほとんどが一般の方で、今年も朗読者募集中とのことです。当方も一度出演、といっても、自分で朗読はせず(笑)、昭和27年(1952)に録音された光太郎自身の朗読音源を聴いていただきました。

今年の第69回連翹忌の集い、さらに7月に開催された「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」で光太郎詩の朗読をお願いしたフリーアナウンサーの早見英里子さんと、朗読家出口佳代さんのコンビにお声がけしたところ、ぜひ参加したいとのことでした。お二人は光太郎智恵子ゆかりの地で朗読をなさり、自撮りでの動画をSNSにアップされることをなさっていて、今後も続けたいということでしたので、渡りに船だったようです。

ぜひ、足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

人間の叡智と誠実との最高の証跡である美しい作品は、人間につき、又世界について言ひ得る限りの事を言ひ尽してゐます。そして又其外に知る事の出来ないもののある事を会得させます。


光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ポール グゼル筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

ロダンも非常にポジティブな人だったようです。そうした面は光太郎、そして尾崎にも受け継がれていきました。

昨今のちょっとした「文豪」ブームもあり、各地で「文学フリマ」系の催しが行われています。昨年は岩手盛岡で開催された「同人誌展示即売会 岩漫63」というイベントに花巻高村光太郎記念館さんが出店したりということもありました。

さて、今週末に大阪で開催される「文学フリマ大阪13」。1,233出店・1,422ブース だそうで、すごい数字ですね。

文学フリマ大阪13

期 日 : 2025年9月14日(日)
時 間 : 12:00〜17:00
料 金 : 無料

作り手が「自らが《文学》と信じるもの」を自らの手で販売する、文学作品展示即売会です。
入場無料・来場にあたっての事前予約は不要です。ぜひお越しください!
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X(旧ツィッター)投稿で把握したのですが、「装幀室白亜」さんという方が、光太郎詩「レモン哀歌」モチーフの商品を販売されるとのこと。ありがたし。
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上記主催者さんのリンクを見ますと、今後も各地で開催が続くようで。
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これまであまり注意を払っていなかったのですが、これからは少し気にしてみます。場合によっては当会として出店するのもありかな、などという気もしています。

というわけで、とりあえず「文学フリマ大阪13」。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

現状のままで、其の力が或は控目であつたり、或は奔放であつたりしても、原素は完全です。其を変へる事は、其を破壊することです。……修正! 修飾! かういふ偏見から「理想派」が出て来るのです。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 ジユヂト クラデル筆録」より
大正4年(1915)頃訳 光太郎33歳頃

「写実」の重要性を述べた箇所から。造型だけでなく、文学や舞台芸術などにも通じることだと思います。また、「修正」を否定するという意味では歴史観などにも言えることではないでしょうか。「修正主義」が大流行で、しかしそれを巻き起こしている当人達は「修正」しているという意識が希薄で自らが「正論」だと主張しているのが問題点ですが……。

7月30日(水)にAmazonさんに注文したところ、届いたのが8月25日(月)でした。時々こういうことがあるんですが何なんでしょうね? 

閑話休題。土曜美術出版さん発行の月刊誌『詩と思想』の8月号です。
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目次的には以下の通り。

 【巻頭言】石川逸子:詩の仕事
 特集 敗戦の記憶・現在の戦争
 【インタビュー】
  河津聖恵×佐川亜紀:河津聖恵さんに聞く
 【アンソロジー】
  金時鐘:在日朝鮮人  八重洋一郎:おお マイ・ブルースカイ  石川逸子:黒い橋
  龍秀美:寓話  堀場清子:影  栗原貞子:ヒロシマというとき
  柴田三吉:ちょうせんじんが、さんまんにん  うえじょう晶:骨笛
  冨岡悦子:忘却にあらがう  河野俊一:今もなお
 【評論】
  高良勉:沖縄戦の記憶と被植民地状況
  中島悦子:高村光太郎の戦後/戦後の谷川俊太郎
  金正勲:李石城の平和への眼差し
  中村純:軍隊と性暴力
  丁章:無国籍在日サラム詩人を生きる―戦後100年をめざして
  岡和田晃:アイヌに対する「文化戦争」、「共生」という包摂、「北方領土」の欺瞞
  永井ますみ:「問天」入力で学んだこと
  佐川亜紀:「戦後」ではなく「敗戦のたいせつさ」―特集について
 【詩作品】38篇
 【詩人論】美濃千鶴:石垣りんを読みかえす
 【連載】郷原宏:歌と禁欲―現代詩論史論 第15回
 【連載】清水茂遺稿集6 場の記憶について
 【この土地に生きて】中原秀雪:詩人丸山薫が現代に遺したもの
 【艀船を泊めて】徐載坤:〈詩の国〉から〈伝統詩歌の国〉への発信
 【私の好きな詩と詩人】江田つばき:実感
 【わが詩の源流】川井麻希/柊月めぐみ/安藤一宏
 【詩人の眼】川島洋:加速する社会と詩
 【バイリンガル・ポエム】苗村吉昭:単線の神さま
 【詩誌評】清水善樹:画像添えの詩は反則か①
 【詩書評】北原千代:白熱した批評
 【研究会だより】中井ひさ子
 【追悼 愛敬浩一】石毛拓郎
 【特別書評】愛敬浩一
 【読者投稿欄】小島きみ子/加藤思何理
 【新刊review】
 【読者投稿作品】
 【選評】
 他

戦後80年ということもあり、特集が「敗戦の記憶・現在の戦争」と題されています。その中で詩人・中島悦子氏による「高村光太郎の戦後/戦後の谷川俊太郎」が6ページ。前半では光太郎が書いた翼賛詩、戦後の詩、それから詩ではなく文章「詩の朗読について」(昭和16年=1941)、「戦争と詩」(昭和19年=1944)から引用しつつ、論じられています。

曰く「高村が戦意高揚の詩を詩を書く背景には、もうひとつ日本語への賛美もあった」「日本語を世界の最上と位置づけ」「詩を書くことが武器をもって戦う事と同一視」。確かに光太郎は日本語をこよなく愛し、日常の口語に内包される機微の美しさといった点についても繰り返し論じていました。それらはへたな国語学者らの論説などよりも胸にストンと落ちるもので、バックボーンとしてきちんとした理論を持った上で詩作に当たっていたことがわかるものです。

それだけに、再び中島氏曰く「それだからこそ自信にあふれた戦争賛美を堂々と書くことができたのだろうか」。たしかにそういう一面はあるでしょう。

そして戦後。連作詩「暗愚小伝」から引用しつつ、戦時中の行動に対する光太郎の真摯な悔恨、反省を高く評価しています。三たび中島氏曰く「その個人の内省は文学史上記憶に値する」。

そして後半では、光太郎とも交流のあった故・谷川俊太郎氏について。昭和6年(1931)生まれの谷川氏が、180度転換した敗戦時の社会、特に学校教育をどのようにとらえていたかなど。

他に「アンソロジー」として、金時鐘氏、栗原貞子などの主に終戦に関わる詩が紹介されています。「おや?」と思ったのが、女性史研究家として名高かった故・堀場清子氏の詩が収められていたこと。「影」と題されたもので、原爆投下直後の広島の様子が謳われていました。氏に被爆体験がおありだったことを失念していました。

その他、ずっと後の方のページで、詩人の愛敬浩一氏の追悼記事(今年5月に亡くなったそうです)が出ており、驚きました。直接存じ上げていた訳ではありませんが、いろいろお世話になっている文治堂書店さんを通じ、氏が主宰されていた同人誌『季刊 詩的現代』の第4号(平成25年=2013)、「特集『道程』からの百年」の載った号をいただきましたので。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

さて、『詩と思想』8月号。既に9月号が出ているようで、最新号ではありませんが、何とか入手するなり図書館等で閲覧するなりしていただければと存じます。

【折々のことば・光太郎】

自然は決してやり損はない。自然はいつでも傑作を作る。此こそわれわれの大きな唯一の何につけてもの学校だ。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

こうした一節を読むにつけ、いかにロダンの思想が光太郎の血肉となっているか、という気にさせられます。

8月9日(土)に宮城県女川町のまちなか交流館さんで開催された第34回女川光太郎祭につき、仙台に本社を置く地方紙『河北新報』さんが8月19日(火)に報じて下さいました。

女川で功績しのぶ「光太郎祭」 詩や紀行文を朗読

 1931年に女川町などを旅し、詩や紀行文を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の功績をしのぶ第34回光太郎祭が9日、女川町まちなか交流館であり、来場した約50人が詩や紀行文の朗読に聞き入った。
 ギタリスト宮川菊佳さん(千葉県)が奏でる旋律に乗せ、11人がそれぞれ詩や紀行文を情感を込めて朗読した。「智恵子は東京に空が無いといふ」で始まる詩「あどけない話」は石巻市万石浦小5年の佐藤結土さんが担当。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」で知られる詩「道程」を女川一中3年平塚功竜さんが読み上げた。
 主催の「女川・光太郎の会」は3月、県から「住みよいみやぎづくり功績賞」を受けた。須田勘太郎会長は「(朗読を聞きながら)光太郎さんが旅した90年以上前の女川を想像してほしい」とあいさつした。
008
一読して「あれ、こんだけ?」と思いました。というのは、記者氏に捕まって、これまでのいきさつや光太郎文学碑などについてあれこれ質問を受けたのですが、その内容が反映されていないためです。「ま、他にニュースが多くて紙面を割けなかったんだろう」と思っておりました。

ところがあにはからんや、前日の8月18日(月)、同紙の一面コラムで詳しく紹介されていました。

河北春秋

「牡鹿半島のつけ根のぎゅっとくびれて取れ相(そう)な処(ところ)、その外側の湾内に女川がある」。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)が1931年に著した紀行文『三陸廻(めぐ)り』の一節だ▼取材旅行では宮城の石巻、気仙沼、岩手の釜石、宮古などを巡った。立ち寄った宮城県女川町では顕彰活動が続いている。91年には、町民有志が詩などを刻んだ3基の文学碑を海岸に建てた。毎年8月9日、県内外の人が紀行文や詩を朗読する光太郎祭は今年、34回を数えた▼幾多の試練があった。活動の中心だった女川の画家貝広さんは、東日本大震災の津波で亡くなった。碑は流され、一つが見つかっていない▼「町が夜になると急に立ち上がる。ただ海から来た人々への夜の饗宴(きょうえん)の為(ため)にのみあるかと思う程、此(こ)の小さな町が一斉に一個の盛り場となる」「極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている」。紀行文は町民にかつての隆盛を思い起こさせ、気概と誇りを与えた▼主催する「女川・光太郎の会」は3月、県の「住みよいみやぎづくり功績賞」を受けた。しかし、会員は年を重ね負担は小さくないという。光太郎は他者を魅了する女川の自然や気風に着目し、広く発信した。後世に手渡していきたい文学イベントである。(2025・8・18)

最後の一節を読み、当会の祖・草野心平が昭和21年(1946)に書いた「一つの韻律」という文章を連想しました。これは岩手花巻で現在も続く宮沢賢忌日の集いである「賢治祭」に初めて参加しての感想を綴ったものです。

その一節。

 文学者に限らず色んな人々の碑や銅像が全国でならば相当の数にのぼるだろうが、毎年休むことなくこうした催しがそれらの前で行われているということは、賢治祭を除いては恐らく一つもないであろうと、しかも参列者は近郷近在ばかりではないのである。村や町の鎮守の祭とかお盆の行事とかいうように、この催しはもう極く自然に続いて行くだろうし、続けられてゆくことを心から私も希わずにはいられなかつた。

昭和21年(1946)当時ではまさにそういう状況だったのでしょう。その後、こうした個人顕彰の催しはどんどん増えていったと思われます。当会主催の連翹忌の集いもその一つですし、女川光太郎祭も。しかし、中には一時華々しく行われていたものの、無くなってしまったというものもあるでしょう。光太郎関連でも、5月15日に花巻郊外旧太田村の光太郎が蟄居していた山小屋の敷地で行われていた「高村祭」などがそうです(「高村祭」は何とか形を変えてでも復活させたいという機運がありますが)。

やはりそれが「村や町の鎮守の祭とかお盆の行事とかいうように、この催しはもう極く自然に続いて」いたのかどうかというところに、残っているか残らなかったか、または復活させようという意見が出るか出ないかの分かれ目があるように感じます。

「河北春秋」にあるとおり、女川光太郎祭は「後世に手渡していきたい」ものだと改めて感じました。

【折々のことば・光太郎】

到る処に違つた時代の傑作がある。……が同じ愛によつて皆一つに寄る。皆結びつけられてゐる。

光太郎訳ロダン「断片」より 大正5(1916)頃訳 光太郎34歳頃

優れた芸術は時代を越えて愛される、ということが言いたいのでしょう。しかし、当会顧問であらせられた北川太一先生曰く「どんなに優れた芸術でも、後の時代の人々が次の世代へと受け継いでいく努力を怠れば、あっという間に歴史の波の中に呑み込まれてしまう」。実際、そういう例も少なからずありますね。そこで当方、光太郎智恵子らの芸術がそうならないよう、語り継ぐ努力を惜しまぬ所存です。

昨日に続き、光太郎第二の故郷・岩手花巻からの情報を。今月15日発行の『広報はなまき』。同誌は基本的に1日と15日、月2回の発行で、15日の発行分に為されている連載「花巻歴史探訪 郷土ゆかりの文化財編」で、花巻高村光太郎記念館さんで開催されている特別展中原綾子への手紙」関連で、光太郎から歌人の中原綾子に宛てた葉書が取り上げられています。ちなみに同欄の昨年9月15日号掲載分には綾子主宰の雑誌『スバル』に寄稿したエッセイ「みちのく便り」の草稿が紹介されました。
004
発信の日付は昭和26年(1951)7月1日。文面は以下の通りです。
002
 今日阿部三夫さんからのハガキに
 よりますと七月に御来訪の
 おつもりといふ事ですが、山ももう
 夏の季節となり、相当に暑い日も
 ありますので、二ツ堰からの御徒歩は
 無理かと存ぜられますし、二ツ堰のあの
 運送屋さんは今病気をしてゐて、
 お供もできない次第、 時候のよい時
 までおのばしになつた方がよくは
 ないかと考へられますので此事一寸
 申上げます。 小生打身の方は全治、
 神経痛は少〻残つてゐますが減退しました。

当時、綾子は雑誌『スバル』(第3次)を主宰しており、「阿部三夫」はその編集等に当たっていた人物のようです。原稿の受け渡しなどの用事もあったのか、花巻郊外旧太田村の光太郎の山小屋を何度か訪れてもいます。

この葉書の翌月の8月21日にも。その日の光太郎日記には「阿部三夫氏と友人一人来訪、ビール4本つまみものをもらふ、詩や歌の朗読をきく、三時辞去。」とあります。

また、前年9月に綾子に送った葉書にも、阿部の来訪の様子が。003

 今朝スバルの阿部三夫さんが友達
 と一緒に来訪、 お名刺の紹介と
 委托のビール五本とを拝受しまし
 た。早速三人でビール三本をいただ
 き、時ならぬ山の会飲をいたし
 ました。阿部氏は自作詩朗読、
 尚浜離宮での写真も拝見し
 ました、ここでお弁当をつかひ、
 正午少し過ぎに辞去されました、
 スバル表紙の事について阿部氏に
 御伝言をたのみましたから、いづれ
 お話あることと存じます。

残念ながら昭和24年(1949)、25年(1950)の光太郎日記は大半が失われており、この時の様子は日記で確認できません。

26年7月1日の葉書では、綾子自身も光太郎の山小屋を訪問したいという旨を阿部から伝えられたと書かれ、しかし今は暑い最中(さなか)、もう少し涼しくなってから、的な返答をしました。

それを受けて綾子の訪問は9月14日・15日に為されました。この件についての光太郎日記。

 午前花巻にゆかうとしてゐる時、中原綾子さん突然来訪。ダツトサンで来た由。花巻行を中止、中原さん今夜田頭さんに泊る事になり、夕方まで談話。いろんな食品をもらふ。開拓の方を案内し、夕方田頭さんにゆかれる(9月14日)

 十二時頃中原さんくる、午后談話。新小屋にて色紙五枚揮毫。四時迎ひの自動車来る。中原さん辞去。台温泉泊りの由。(略)中原さん持参の食パン美味、中原さん一年の間に大層年よりじみ、皺など目立つ。胃酸過多といふ。そのためか。顔いろもあし。(9月15日)


「一年の間に大層年よりじみ」とある通り、前年11月にも山小屋を訪問していました。「田頭さん」は屋号で、元太田村長の高橋雅郎宅、「台温泉」は大田村同様、のちに花巻市に編入された湯本村の鄙びた温泉地です。光太郎も何度か宿泊に訪れています。

2回の訪問それぞれの折に、歌人だった綾子は短歌を詠んでいます。

2度目の訪問時のもの。

  奥州街道を行く

 先生の小屋の屋根見ゆ萩すすき 野菊なんどは踏みしだき急ぐ

 すこやかに師おはしまし自在鉤につもれる煤の厚くなり居り

 しぐれかとたちいでて見ればひと叢(むら)のやつかの梢(うれ)を渡る風なり

 みちのくの清水(きよみず)の野に人と見し一世一代の仲秋の月

 さしわたし二(に)千里(せんり)と見る暈(かさ)を着て月の占めたる空ひろし広し

  台温泉にて

 ないしよごとするがやうにも一人来て山の温泉(いでゆ)におくる夜昼

 花巻を過ぎてまた入る山の道太田村とは方角遠(ちが)ふ

 そつとしておきたき心にかかはり無し田舎芸者は広間で騒ぐ

 東京へ帰りたくなきしたごころ相手のあらば心中もせむ

最初の訪問時、さらに昭和31年(1956)4月2日の光太郎逝去時のものなどと併せ、綾子歌集『閻浮提(えんぶだい)』(昭和35年=1960)に収められました。

今回『広報はなまき』で紹介された葉書、綾子歌集『閻浮提』、そして光太郎日記で「新小屋にて色紙五枚揮毫」とあるうちの一枚(「観自在こそ……」)、特別展「中原綾子への手紙」で花巻高村光太郎記念館さんにて展示中です。ぜひ足をお運びの上、実物をご覧下さい。
011 010
【折々のことば・光太郎】

単純は完全である。貧寒は無能である。


光太郎訳ロダン「断片」より 大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

ごてごてとした余計なものをそぎ落とした理想的な「単純」と、「単純」を目指しつつしかし実は中身の乏しい「貧寒」とは似て非なり、ということでしょう。

今年も8月15日が巡ってきました。

特に今年は終戦から80周年ということで、その関係の報道やテレビ番組放映等が多く為されているように感じます。各種メディアの中には、戦時中に軍部や大政翼賛会に加担してしまった反省という視点からのものも多く見うけられています。

そんなこんなで『沖縄タイムス』さん、一昨日の記事。戦時中のメディアや光太郎らの文学作品等の状況、現代におけるそれらの受容の在り方、そして新たな作品までが論じられています。

[混沌の先に 戦後80年 戦争と表現]戦争に向き合い表現模索 小説書き忘却にあらがう 作家の豊永・砂川さん 大きな歴史 自分の言葉に

005 文学や映像などの表現者は、争いが絶えないこの世界とどう向き合おうとしているのか。抵抗の手段となる一方で加担することもある「もろ刃の剣」。戦争を巡る過去を引き寄せ、今を生きる「私」とつなぐ表現を模索する人たちの姿を追う。

 遠くに青い海が輝き、視線を横に向けると広大な土地を占める米軍普天間飛行場が目に入る-。沖縄戦の激戦地だった宜野湾市の嘉数高台公園。日本軍の組織的戦闘が終結したとされる6月23日の「慰霊の日」の前日、学生時代よく訪れたこの場所に足を運んだ豊永浩平さん(22)は「小説を書くことで歴史とつながり、忘却にあらがいたい」と決意を新たにした。
 豊永さんは、沖縄戦を描いた小説「月(ちち)ぬ走(は)いや、馬(うんま)ぬ走(は)い」で、昨年の群像新人文学賞と野間文芸新人賞を受賞した注目の新鋭作家だ。
 受賞作は沖縄戦からの約80年の歳月をさまざまな人の語りによってつづった物語。日本軍兵士の残虐な行為から、現代の若者らが直面する貧困や暴力までが「根っこ」でつながる様を浮かび上がらせた。沖縄戦だけでなく、その後の米軍統治、復帰後も続く基地負担などの矛盾を描き出してきた「沖縄文学」の系譜にも連なる作品だ。
 沖縄で生まれ育ち、基地や戦跡などはずっと身近にあったもの。しかし、過去の記憶と自分たち若い世代が「接続していない」感覚を持ち続けてきたという。本格的に小説を書くようになったのは地元の琉球大に進学してから。「沖縄で物語を書く者として、過去の戦争を避けては通れない」との思いがあった。
 6月に那覇市で開かれたトークイベント。ウクライナやガザなどで続く戦争も念頭に、豊永さんは「おじいやおばあが生きた時代を、どうすれば捉えられるのか。自分たちの(世代の)側から80年前の過去を、どうにか引き寄せたい」と力を込めた。

006 日本人300万人以上が犠牲になったとされる先の大戦。なぜ私たちはあの戦争に突き進み、多くの悲劇を生み出してしまったのか。戦後文学は、そうした問いに向き合い続けてきた。戦場の狂気を描いた大岡昇平の「野火」、原爆投下後の広島を舞台にした井伏鱒二の「黒い雨」…。その水脈は現代の作家にも続いている。
 北海道に侵攻したロシア軍と自衛隊の戦闘を描き、今年マンガ化もされ話題を集める小説「小隊」。著者で芥川賞作家の砂川文次さん(35)もそうした1人だ。
 物語では、自衛隊の小隊長・安達が一つ一つの任務を着実にこなす中で、あっという間に泥沼の戦闘に引きずり込まれてゆく。「命令を淡々とこなすだけで地獄絵図になってしまうことがある」と砂川さん。「描きたかったのは戦争そのものより、そうした不条理だった」と振り返る。
 砂川さんは大学卒業後、陸上自衛隊で6年働いた。北海道の駐屯地でも勤務し、ロシア軍の侵攻を想定した訓練があったという。「小隊」はその経験も基に「単なるシミュレーションでなく、最前線の人たちがどうなってしまうのかを踏み込んで書いてみた」作品だ。
 実際の戦争を体験していない自衛隊員らは、いざ戦闘が始まれば敵兵と殺し合い、必死に生き延びようとするしかない。その中で「平時」の常識やモラルも揺らいでいく。それは自衛隊員に限らず、誰もが巻き込まれうる事態なのではないか。
007 「戦争を過去として切り分けるのは危ない」と砂川さんは憂慮する。「自分たちは戦後に身を置いているけれど、戦前からの土壌の上にも立っている。自虐でも賛美でもなく、戦争を含めた大きな歴史を自分の言葉にしていくことが大事なんだと思うんです」

ジャンル超え惨状描写  文学・映画・アニメまで
 「生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも」。原爆投下直後の広島の地下室で、重傷を負った助産師が取り上げた新たな命。栗原貞子さんの詩「生ましめんかな」は、各地に生々しい焼け跡が残る1946年3月に発008表された。絶望の淵で生まれた命の息吹をつづる最初期の原爆詩は、今も読み継がれる。
 フィリピンで米軍の捕虜になった大岡昇平の小説「俘虜記」(48年)、広島で目撃した惨状を描いた丸木位里・俊夫妻の連作絵画「原爆の図」(50~82年)…。自身の体験に基づく作品を中心に、戦争を巡る表現はさまざまな分野に広がった。
 沖縄戦の悲劇を伝える53年の映画「ひめゆりの塔」は大ヒット。73年連載開始の中沢啓治さんの漫画「はだしのゲン」は20言語以上に翻訳され、世界中に被爆の実相を伝えた。94年初演の井上ひさしさん作の舞台「父と暮せば」は、生き延びた人々の罪悪感に着目し、死者との対話を描いた。
 「戦後」が年月を重ねる中、表現の営みは世代を超えて続いてきた。70年発表のフォークソング「戦争を知らない子供たち」は、ベトナム戦争のさなかで平和を願う戦後生まれの若者たちの心情をストレートに歌った。
 大岡の小説「野火」を映画化し、2015年に劇場公開した塚本晋也監督は、戦場の「痛み」を喚起させる壮絶な映像で観客の想像力に訴えかけた。16年のアニメ映画「この世界の片隅に」の片渕須直監督は、戦時下の市井の日常を丁寧に描くことで、現在と地続きであると強く印象づけた。009
 タイムスリップした少女が特攻隊員に恋をする汐見夏衛さんの小説「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」(16年)は、20年代に入って交流サイト(SNS)で人気に火が付き、ベストセラーに。誰にも身近な「恋愛」を通し戦争の不条理を伝える物語が多くの若い読者の心を捉えた。

戦意高揚 作家が加担 エンタメに軍部介入 漫画分野は侵害少なく
 国内の戦意高揚のために軍部が目を付けたのがエンターテインメントだった。定番の娯楽だった文学はもとより、子ども向け読み物も言論統制の対象に。一部の作家は積極的に扇動に加担し、戦後に糾弾された。
 「皇軍の苦労が捨石にならぬやうに、もつともつと官民一致を来したい」。1937年に作家林芙美子が新聞に寄稿した檄文(げきぶん)だ。高村光太郎は「神の国なる日本」は「老若男女みな兵なり」と鼓舞し、火野葦平は「万歳を声の続く限り絶叫して死にたい」と書いた。高村や火野ら名だたる文人は戦後、新興の新日本文学会に「直接的な責任」があったと指弾された。
 「日本児童文学の父」とされ、やなせたかしさんに影響を与えた小川未明も例外ではない。童話「僕も戦争に行くんだ」をはじめとする作品で米英への憎悪をあおり「愛国的児童像を繰り返し説いた」と、文学研究者の増井真琴さんは指摘する。
 漫画分野では、32年の第1次上海事変で爆弾を抱えて敵陣に突進し、命と引き換えに道を開いたと010たたえられた「肉弾三勇士」が、田河水泡の人気漫画「のらくろ」などでも描かれ、子どもから英雄視された。
 他方、京都精華大の吉村和真理事長(マンガ研究)は、影響力が小さいとみられていた当時の漫画が「他分野よりは公権力に介入されずに済み、エンタメを生み出す活力を戦後につなぐことができた」とみる。侵害されなかった「自由さ」が漫画を、世界に誇る文化に押し上げたと分析する。
 吉村さんは今年、戦争に関する漫画を集めた巡回展「マンガと戦争展2」を監修。「漫画は、世界中の人々が文化を理解し合うことに役立っている。戦争に利用された過去と異なり、新たな戦争に対抗する文化的な力になったと考えています」

引用されている(一部誤記がありますが)光太郎の詩は、ずばり「十二月八日」。昭和16年(1941)12月8日の開戦の詔勅を聴いて、ほぼ一気呵成に書き上げたものです。この日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していましたが、予定の時刻を過ぎても会議が始まらず、待たされている間に開戦の詔勅が放送され、会議は当初5日間の予定が1日で打ち切りになったそうです。

   十二月八日
戦時アトリエ前ピン
 記憶せよ、十二月八日
 この日世界の歴史あらたまる。
 アングロ・サクソンの主権、
 この日東亜の陸と海とに否定さる。
 否定するものは彼等のジヤパン、
 眇たる東海の国にして
 また神の国たる日本なり。
 そを治(しろ)しめたまふ
明津御神(あきつみかみ)なり。
 世界の富を壟断するもの、
 強豪米英一族の力、
 われらの国に於て否定さる。
 われらの否定は義による。
 東亜を東亜にかへせといふのみ。
 彼等の搾取に隣邦ことごとく痩せたり。
 われらまさに其の爪牙を摧かんとす。
 われら自ら力を養ひてひとたび起つ、
 老若男女みな兵なり。
 大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
 世界の歴史を両断する
 十二月八日を記憶せよ。

昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』第19巻第2号に発表されました。

毎年、12月8日前後には幼稚なネトウヨどもがこの詩をSNSに挙げて喜んでいます。ついでに言うなら笑ってしまうような誤字だらけで、例えば「本来は「大日本帝国」だが、米英いうところの「ジャパン」」という意味での「彼等のジヤパン」という一節が「我等ジヤパン」となっていたり(笑)。「お前、ほんとに右翼か?」と突っ込みたくなります(笑)。光太郎本人が戦後になってこうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔いて、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。

戦後、光太郎以外の殆どの文学者は、同様の作品を戦時中に発表していたにもかかわらず、それらを「無かったこと」にしたり、「あれは軍や大政翼賛会の命令で仕方なく書いたものだ」と開き直ったりしました。南京大虐殺やらを「無かったこと」にしたい幼稚なネトウヨどもは、戦後の光太郎の深い反省を「無かったこと」にしたいようです。

ちなみに『沖縄タイムス』さんで「新興の新日本文学会に「直接的な責任」があったと指弾」とありますが、同会の創設に関わった壺井繁治なども戦時中は翼賛詩を発表しています。

   鉄瓶に寄せる歌
 
 お前を古道具屋の片隅で始めて見つけた時、錆だらけだつた。
 俺は暇ある毎に、お前を磨いた。
 磨くにつれて、俺の愛情はお前の肌に浸み通つて行つた。
 お前はどんなに親しい友達よりも、俺の親しい友達となつた。

 お前は至つて頑固で、無口であるが、
 真赤な炭火で尻を温められると、唄を歌ひ出す。
 ああ、その唄を聞きながら、厳しい冬の夜を過したこと、幾歳だらう。
 だが、時代は更に厳しさを加へ来た。俺の茶の間にも戦争の騒音が聞えて来た。

 お前もいつまでも俺の茶の間で唄を歌つてはゐられないし、
 俺もいつまでもお前の唄を楽しんではゐられない。
 さあ、わが愛する南部鉄瓶よ。さやうなら。行け! 
 あの真赤に燃ゆる熔鉱炉の中へ! 

 そして新しく熔かされ、叩き直されて、
 われらの軍艦のため、不壊の鋼鉄鈑となれ!
 お前の肌に落下する無数の敵弾を悉くはじき返せ!

まさに「おまいう」(そろそろ「死語」ですが)ですね。ちなみにその壺井には吉本隆明らの手によって、特大ブーメランが帰って来、詩壇から抹殺のような感じになったようです。
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だからといって、200篇ほどの翼賛詩文を乱発した光太郎の罪が消える訳ではありません。それでもそれを悔い、7年間もの蟄居生活を送ったことは評価されるべきでしょう。それを「無かったこと」にするのは許されることではありませんね。

【折々のことば・光太郎】

此の美の力がわれわれの感覚外で、われわれを擒にしてゐるのか。眼が見えずに見えるのか。其の幻術は建築の力によるのか。其の不朽な現前の功によるのか。其の平静な壮麗の徳によるのか。此の不可思議物は、特殊な一感覚に制限された範囲を超えて受感性に力を及ぼす。


光太郎訳ロダン「夜の本寺」より 大正4年(1915)訳 光太郎33歳

「本寺」はノートルダム大聖堂。夜間の暗闇の中であっても荘厳な美が幻想的に押しよせてくるように感じられる不思議、というわけです。

「十二月八日」を書いた頃の光太郎も押しよせてくる「大東亜共栄圏」「八紘一宇」といった幻想の「擒(とりこ)」と化してしまっていたのではないでしょうか。

昨日まで2泊3日で、光太郎第二の故郷・岩手花巻に行っておりました。レポートいたします。

7月22日(火)、東北新幹線新花巻駅前で借りたレンタカーでまず向かったのは、同駅からそう遠くない花巻市博物館さん。
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こちらでは「令和7年度テーマ展 戦後80年 戦争と花巻」が開催中で、光太郎に関わる展示もあるだろうと思い、お邪魔しました。

受付で入館料を払うと、まず展示室に入る前の最初のショーウィンドウ的なコーナーに、いきなり38式歩兵銃や99式短小銃、軍刀など。のっけから粛然とした気持にさせられました。
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展示室に入ると、満州事変(昭和6年=1931)の頃から戦後までのリアル資料がずらり。
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花巻とその周辺地域に関わる品々が多く、時期はずれていましたが宮沢賢治が勤務していた花巻農学校の卒業生に関わるものなども。
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いわゆる「青い目の人形」。よくぞ残っていたものです。
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墜落した特攻機の残骸。
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戦死した搭乗員などの多くは、光太郎の書いた翼賛詩に心ふるわせながら戦地に赴いて行き、露と消えていきました。

そうした兵士への弔辞の一部。
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戦争末期には光太郎の詩もこんな感じになっていました。戦後になってその罪深さを感じて当然だったでしょう。他のほとんどの文学者は同じような作品を書いても「あれは軍の命令で仕方なく書いたのだ」と開き直ったり、自らの年譜の中でこの手の作品は無かったことにしたりしましたが。

その光太郎がらみ。

まずは昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲関連で、詩「非常の時」の一節を刻んだ碑の拓本が出ていました。
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碑そのものは、旧太田村の光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)敷地内にあります。そもそもはこの詩を贈られた花巻病院長にして戦後は財団法人高村記念会を立ち上げた佐藤隆房医師の顕彰碑です。翌日撮ってきました。
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正面の題字は当会の祖・草野心平の揮毫。両サイドに「非常の時」の一節が光太郎自筆拡大で。元になった書は高村光太郎記念館さんで展示されています。空襲時の極限下で自らの危険を顧みず負傷者の救護にあたった佐藤ら医師や看護師、看護学校生を讃える内容のため、コロナ禍の最中に同じように頑張った現代の医療従事者へのエールともなる、と、少し注目もされました。

詩は終戦直後の9月に行われた病院の表彰式で光太郎自身が朗読しました。その際に表彰された女性への表彰状。
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こんなものも残っていたんだ、と、うるっときました。

その花巻空襲関連の展示。
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投下された(最新鋭のロケット弾も使われたということで、その場合は「発射された」)爆弾の破片も。「うわぁ」という感じでした。
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空襲時、光太郎は豊沢町の宮沢賢治実家に疎開していましたが、そこにも火の手が廻り、必死に消火にあたろうとしたものの、結局はどうにもできませんでした。その際に光太郎が被っていた鉄兜と手にしていた鳶口が現存しています。高村光太郎記念館さんの倉庫に眠っているのでしょう。眠らせておくのならいい機会なのでこちらに貸せばいいものを……と思うのですが、苦言を呈させていただければ、このあたりの連携がまるでなっていないというのが現状です。

直接光太郎に関わる展示がもう1件。戦後の昭和27年(1952)になってからの話ですが、藤根村(現・北上市)の元小学校教師・高橋峯次郎関連です。
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やはり拓本で、高橋が光太郎から贈られた書を写した石碑のもの。
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この碑も北上市内に現存します。小学校教師だった高橋が、戦死した教え子たちなどの供養のため建てた観音堂の境内です。光太郎が生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため再上京する直前に、高橋が光太郎に観音像の制作を依頼したのですが、無理、ということで代わりに贈られた書で、他にも複数の揮毫例がある観音讃仰の詩が刻まれています。

他に、光太郎と交流のあった岩手で育った画家・松本竣介の絵。
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やはり光太郎と交流のあった写真家・内村皓一の写真。「そういえば内村は大陸にいたんだっけ」でした。
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そして、花巻周辺に残る戦争遺跡などについても。
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最後は花巻らしく賢治の言葉を引用して終わっていました。
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陳腐な表現ですみませんが、実に考えさせられる展示でした。

時間もあるし、ということで、実際に戦争遺跡を見て回りました。以前から気になっていたのですが、場所がわかりにくく、事前に調べておかないとたどりつけそうにない感じで、今回初めて足を運びました。

まず若葉町の「防空監視哨聴音壕」。
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敵機の襲来をいちはやく察知するための施設です。いちはやくと言っても、既に実用化されていたレーダーなどを配備していたわけでもなく、目の良い兵士が目視で、耳の良い兵士が音を聴いて……。「そんなんで勝てる戦争じゃなかっただろう」というのは現代人だから言えることでしょうか。

続いて市役所さん近くの「花川橋」。
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昭和9年(1934)の架橋です。欄干の一部が大きく欠損しています。
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花巻空襲の際、近くに落ちた爆弾の破片による被害とのこと。
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生々しいという言葉がぴったりです。戦争被害を後世に伝えるためにあえて傷痕を残してあるのでしょう。

よく言われることですが、戦後80年の現在が「新たな戦前」とならないよう、一人一人がよく考えないと……と思いました。過日の参議院議員選挙の結果等を見ると、その点が心配でなりません。まぁ、「躍進」といわれる某政党も、ドサクサに紛れて当選した極右の作家もどきなども、そう遠くないうちに馬脚を現すでしょうが。

その後、翌日開催のコンサート「花巻で響き合う 光太郎、賢治、声と箏」でお世話になりますということで会場の一つのカフェ羅須さん、在来線の花巻駅前に新しくできた古書店「港」さんにお邪魔しました。
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さらに港さんの並びの林風舎さんで宮沢和樹氏としばしとりとめのない話を(笑)。
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この日の宿泊は駅前のグランシェールさん。全国的に子供たちの夏休みに入っているからでしょう、定宿の大沢温泉さんは、一人では予約不可でした(翌日は3人で泊まりましたが)。

夕食はすぐ近くの伊藤屋さん。かつて光太郎が市街で最も多く食事を摂った店です。
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この日のキーワードが「戦争」だったので、改めて駅ロータリーの「やすらぎの像」も拝見。
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平成7年(1995)に設置され、花巻空襲で亡くなった方々への慰霊の意味合いが込められています。この像の立っている辺りが、空襲時に最も被害が大きかった地点の一つでした。諸説在るようですが、花巻では50名程の方が亡くなりました。原型作者は花巻出身の故・池田次男氏。昭和30年(1955)、盛岡の岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)卒ということで、もしかすると、同校をたびたび訪れ、アドバイザー的なことも行っていた光太郎を直接ご存じだったかも知れません。

翌日は高村光太郎記念館さんとカフェ羅須さん。明日、レポートいたします。

【折々のことば・光太郎】

映画が学校で公開された由、随分多くカツトされてゐますが、記念にはなるでせう、

昭和30年(1955)10月8日 浅沼政規宛書簡より 光太郎73歳

「映画」は前年、ブリヂストン美術館制作の美術映画「高村光太郎」。昭和28年(1953)に光太郎が一時帰村した際にも撮影班が同行し、旧太田村の山小屋や、浅沼が校長を務めていた山口小学校などでもロケが行われました。








毎年ご紹介してきたのですが、今年は完全に忘れていました。都内の古書籍商さんの組合・明治古典会さんが主催で、我々一般人は加盟店さんに依頼して入札するシステムとなっている「七夕古書大入札会」。入札が7月6日(日)、出品物を手に取って見られる下見展観が7月4日(金)、7月5日(土)の2日間で行われていました。

以前は「日本最大の古書市」という触れ込みで、確かに文学系においては珍しい出品物が多く、しかも現物を見られるということで、ほぼ毎年、下見展観に足を運んでいましたが、特にコロナ禍以後は規模が縮小し(目録が最盛期の4分の1くらいの厚さに)、光太郎に関しては目新しい出品物もなく、足が遠のいておりました。また、今月初め頃は「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」の準備等でバタバタしており、完全に忘れていました。

今年。やはり出品点数は少なかったものの、光太郎関連で「へー」というものが出ていました。3点で、すべて短歌がらみでした。

目録番号順に、まずは歌幅。
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短歌「おほきなるちからとあつきなくさめとわれにくたかきそらをみるとき(おほきなる力とあつきなぐさめと我に来たかき空を見る時)」が認(したため)められています。短歌自体は明治39年(1906)、欧米留学のため横浜港から乗った貨客船アセニアンで外洋に漕ぎ出した際に詠んだもの。翌年の雑誌『明星』に発表されました。

ただ、揮毫は大正期と思われます。令和3年(2021)、富山県水墨美術館さんで開催され、当方もいろいろとお手伝いした「チューリップテレビ開局30周年記念「画壇の三筆」熊谷守一・高村光太郎・中川一政の世界展」の際にお借りした大正7年(1918)揮毫の歌幅2点が、その書きぶり等、非常によく似ています。
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ちなみに左の二幅はそれぞれ「さどかしまあらきなみちにまもられてわかたましひはとこひさにゆく(佐渡島荒き波路に守られて吾が魂は常久にいく)」、「こしのうみなみはあらしとひとはいへとわかのるふねにつつかあらめやも(越の海波は荒しと人は言へど吾が乗る船につつがあらめやも)」と読みます。

まぁ、同一人物の筆跡ですから何とも云えませんが、次に掲げるような戦後の書とは明らかに違う感じで。かなりの部分が変体仮名的な用字になっています。

その戦後の書。
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揮毫例が複数存在する短歌で「太田村やまくちやまの山かけにひえをくらひて蟬彫る吾は(太田村山口山の山蔭に稗を食らひて蟬彫る吾は)」。戦後の物資欠乏時らしく、有り合わせの紙に書いた感がありますね。

そして書簡が一通。
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斎藤茂吉に宛てたもので、茂吉の歌文集『高千穂峰』と歌集『暁紅』(共に昭和15年=1940)を贈られた礼状です。

拝啓 改造社版の“高千穂峰”を拝受ありがたく存居りしところつづいて岩波版の“暁紅”をいただき御礼の申上げやうもございません
“高千穂”の方は未踏の地とて地図をひろげながら拝読いたしました
“暁紅”の方は今夏こよなきたのしみに存じます いつもいただくのみにて恐縮に存じますが 謹んで御厚情を感謝いたします
   七月八日   高村光太郎
 斎藤茂吉様
     御座下

茂吉宛の書簡はこれまで確認出来ておらず(あっただろうという推理は出来ていましたが)、これが一番驚きました。

この書簡、落札した業者の方が早速ヤフオクに出品しています(7月22日(火)終了)。
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「七夕古書大入札会」、ほとんど一般の方はご存じないかと思われまし、入札システムも複雑ですので、ネットオークションに出れば入手しやすいということは言えるでしょう。

収まるべきところに収まってほしいものですが。

【折々のことば・光太郎】

昨日御来訪の趣をききましたが折から肋間神経痛発作のため臥床中でありましたため失礼いたしました、あしからず御了承下さい、その節はいただきものいたし感謝いたしました、雑誌はたのしくよんで居ります、

昭和30年(1955)9月27日 上田静栄宛書簡より 光太郎73歳

上田は智恵子の親友だった田村俊子に師事した人物。遠く大正3年(1914)の光太郎智恵子結婚披露直後くらいには俊子に連れられて駒込林町の光太郎宅を訪れ、当時としては珍しかったレモネードをご馳走になったりしています。

一昨日の『毎日新聞』さんの連載「旅する・みつける」から。枕の部分で光太郎。

旅する・みつける 千葉・成田 三里塚 御料牧場の往時しのぶ 貴重な資料、防空壕公開も 空港近くに記念館

 「三里塚の春は大きいよ。」。詩人の高村光太郎は1924年、訪れた三里塚(千葉県成田市)の情景を詩「春駒」で描いた。成田空港ができる前、三里塚には宮内庁の「下総御料牧場」が置かれ、「桜と馬の牧場」として親しまれていた。多くは空港用地となったが、跡地の一部に三里塚記念公園(同市三里塚御料)が整備され、「三里塚御料牧場記念館」で牧場の往時をしのぶことができる。
 成田空港のA滑走路と並行する県道沿いに、記念公園の入り口がある。赤レンガの門を入ると、マロニエの並木道の奥に記念館が見える。
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三里塚記念公園のマロニエ並木の奥に建つ三里塚御料牧場記念館

 建物は19(大正8)年に建設された牧場の事務所を再現した。公園内には皇族の宿舎などに使われた「貴賓館」が保存され、桜広場などとともに名残をとどめている。 

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貴賓館の外見は木造かやぶきの和風だが、内部は和洋折衷様式になっている

  かつて牧場では、皇室が使う馬が育成され、牛乳、各種の肉などが生産された。66年に成田空港建設が閣議決定されたことに伴い、栃木県高根沢町へ移転している。
 牧場の歴史は古い。明治維新後の1875年、内務卿(きょう)の大久保利通の発案で、綿羊の国内育成を進めることになり、下総牧羊場と取香種畜場が創設される。日本獣医学の発祥の地になるなど畜産振興に重要な役割を果たした。明治天皇の意向もあって85年に宮内省(当時)の直轄牧場となる。外交官らを招いてジンギスカンをふるまうなど、外交の場にも活用された。
 牧場の面積は1969年の閉場時で東京ドーム90個分を超える約440ヘクタールあったという。それだけ広大な国有地があったことが、三里塚が国際空港の建設地に選ばれた理由の一つにもなった。公園は開港後の81年に成田市が整備した。
 記念館には、皇族の随伴員が乗った馬車「供奉(ぐぶ)車」(09年製作)や牧場長の大礼服などを展示。牧場から宮内庁に牛乳瓶を運ぶ際に使われた輸送箱などの資料とともに、三里塚と牧場の歩みも紹介されている。
 また、空港に関連し、71年に昭和天皇が欧州訪問した際に搭乗した航空機「お召し機」で使われた調度品も展示されている。西陣織のシートが敷かれた座席やテーブル、ベッドなど実際に使われた品々だ。
 公園内には戦中に皇太子(現上皇)のために地下に建設されたコンクリート製の防空壕(ごう)も残され、2011年から一般公開されている。 記念館ガイドの山口美佐子さんは「空港建設前の御料牧場の存在は今ではあまり知られなくなっている。三里塚に残された貴重な歴史に触れてほしい」と話す。
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左: 1941年に皇太子(現上皇)のために建設された防空壕の主室。コンクリート壁の上には約3・5メートルの盛り土がされている
右: 交差する梁と柱で十字架を表現した三里塚教会

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この後、画像だけは載せておきましたが、吉村順三設計の「三里塚教会」について書かれているものの、長くなるので割愛します。

光太郎は、親友だった水野葉舟が関東大震災後に御料牧場近くに移り住んだため、何度か足を運びました。御料牧場と光太郎、詩「春駒」(大正13年=1924)については、以下をご参照下さい。

 成田三里塚記念公園。
 「春駒」。
 企画展「下総御料牧場の記憶 ~第9代下総御料牧場長・田中二郎の残したアルバムを中心に~」。
 「お別れの会」二件。
 水野清氏お別れの会/佐藤進氏訃報。
 三里塚の春は大きいよ! 三里塚を全国区にした『幻の軽便鉄道』展。
 佐倉市立志津図書館 SHIZUギャラリー 芝山千代田駅からマイクロツーリズム ~成田市三里塚記念公園~御料牧場記念館と皇室(東宮)避難用防空壕。
 千葉県立東部図書館文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」。
 千葉県立東部図書館文学講座「高村光太郎・智恵子と房総」レポート。
 佐方晴登写真展「壊死するフウケイ/ Landscape of death」。
 成田三里塚レポート。
 旧下総御料牧場貴賓館、国登録有形文化財に。
 『日本のことばずかん いきもの』。

下の画像は、今年に入ってから入手した古絵葉書です。戦前のものですね。サイドカーに乗っているのは軍人でしょう。
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「三里塚駅前」とありますが、成田駅からこの附近を通る軽便鉄道がかつて存在しました。敷設は明治44年(1911)。おそらく光太郎も成田駅からこの路線を使ったのでしょう。しかし昭和19年(1944)にはレールを金属供出するため廃線となってしまいました。

つい先日、地元の方から電話がありました。秋には近くの公民館的な施設で「春駒」などに関するミニ展示をなさるとのこと。お話の中で、御料牧場の歴史が市民に忘れられているというお嘆きも。ごもっとも、と思いました。

というわけで、三里塚御料牧場記念館とその周辺、ぜひ足をお運びください。隣町ですので、何ならご案内いたします(笑)。

【折々のことば・光太郎】

山口もなかなかあついでしようが、そのかわり、ことしはすべて豊年でしよう。お米や畠の作物が山のようにとれるでしよう。それを考へるとうれしくなります。来月はお盆になりますからみなさんもごちそうをたくさんたべるでしよう。

昭和30年(1955)7月23日
山口小学校五六年生皆さま宛書簡より 光太郎73歳

山口小学校は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった小学校。光太郎もよく足を運び、先生方や児童さんたちと交流していました。

遠く東京の病床にあって、何かにつけ思い起こすのは太田村の自然豊かな風景でした。

決して忘れていたわけではないのですが、紹介すべき事項の山積に伴い後回しにして来た結果、発行から一ヶ月以上経ってしまいしました。年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』の最新号です。
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いつもぼやいていますが(笑)、同人にしてくれと頼んだ覚えが一切ないのに、当方の「連翹忌通信」が連載されています。

今年はNHKさんの大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で、吉原が物語の一つの舞台として扱われていまして、便乗しました。題して「モナ・リザその後」。「モナ・リザ」は、光太郎第一詩集『道程』(大正3年=1914)の巻頭を飾った詩「失はれたるモナ・リザ」の「モナ・リザ」です。

   モナ・リザは歩み去れり

 かの不思議なる微笑に銀の如き顫音(せんおん)を加へて
 「よき人になれかし」と
 とほく、はかなく、かなしげに
 また、凱旋の将軍の夫人が偸(ぬす)視(みみ)の如き
 冷かにしてあたたかなる
 銀の如き顫音を加へて
 しづやかに、つつましやかに
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 深く被はれたる煤色(すすいろ)の仮漆(エルニ)こそ
 はれやかに解かれたれ
 ながく画堂の壁に閉ぢられたる
 額ぶちこそは除かれたれ
 敬虔の涙をたたへて
 画布(トワアル)にむかひたる
 迷ひふかき裏切者の画家こそはかなしけれ
 ああ、画家こそははかなけれ
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 心弱く、痛ましけれど
 手に権謀の力つよき
 昼みれば淡緑に
 夜みれば真紅(しんく)なる
 かのアレキサンドルの青(せい)玉(ぎよく)の如き
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 我が魂を脅し
 我が生の燃焼に油をそそぎし
 モナ・リザの唇はなほ微笑せり
 ねたましきかな
 モナ・リザは涙をながさず
 ただ東洋の真珠の如き
 うるみある淡(うす)碧(あを)の歯をみせて微笑せり
 額ぶちを離れたる
 モナ・リザは歩み去れり

 モナ・リザは歩み去れり
 かつてその不可思議に心をののき
 逃亡を企てし我なれど
 ああ、あやしきかな
 歩み去るその後(うしろ)かげの慕はしさよ
 幻の如く、又阿片を燔(や)く烟の如く
 消えなば、いかに悲しからむ
 ああ、記念すべき霜月の末の日よ
 モナ・リザは歩み去れり

その正体は吉原河内楼の娼妓・若太夫。その日本人離れした目鼻立ちに、光太郎はひそかに「モナ・リザ」の面影を見、名付けました。

 「パン」の会の流れから、ある晩吉原へしけ込んだことがある。素見して河内楼までゆくと、お職の三番目あたりに迚も素晴らしいのが元禄髷まげに結つてゐた。元禄髷といふのは一種いふべからざる懐古的情趣があつて、いはば一目惚れといふやつでせう。参つたから、懐ろからスケツチ ブツクを取り出して素描して帰つたのだが、翌朝考へてもその面影が忘れられないといふわけ。よし、あの妓をモデルにして一枚描かうと、絵具箱を肩にして真昼間出かけた。ところが昼間は髪を元禄に結つてゐないし、髪かたちが変ると顔の見わけが丸でつかない。いささか幻滅の悲哀を感じながら、已むを得ず昨夜のスケツチを牛太郎に見せると、まあ、若太夫さんでせう、ということになった。
 いはばそれが病みつきといふやつで、われながら足繁く通つた。お定まり、夫婦約束といふ惚れ具合で、おかみさんになつても字が出来なければ困るでせう、といふので「いろは」から「一筆しめし参らせそろ」を私がお手本に書いて若太夫に習はせるといつた具合。
 ところが、阿部次郎や木村荘太なんて当時の悪童連が嗅ぎつけて又ゆくという始末で、事態は混乱して来た。殊に荘太なんかかなり通つたらしいが、結局、誰のものにもならなかつた。
(略)
 若太夫がゐなくなつてしまふと身辺大に落莫寂寥で、私の詩集「道程」の中にある「失はれたるモナ・リザ」が実感だつた。モナ・リザはつまり若太夫のことで、詩を読んでくれれば、当時の心境が判つて呉れる筈である。(「ヒウザン会とパンの会」昭和11年=1936)
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明治42年(1909)の『新よし原細見』には「若太夫 愛知県名古屋 真野しま 廿二」とあり、若太夫の本名は真野しま、名古屋の出身で、サバを読んでいなければ光太郎と知り合った明治43年(1910)には23歳でした。ただし、後述の木村荘太の『魔の宴』では「25歳」となっていました。

翌年には年季が明けるということで、光太郎と夫婦約束まで交わしたそうです。しかし、この恋はあえなく破れます。光太郎が若太夫に入れあげていることをかぎつけた、光太郎より六つ年下の作家・木村荘太が若太夫の元に通うようになりました。木村は後に武者小路実篤の「新しき村」にも参加しますが、この頃はやはり「パンの会」に顔を出し、雑誌『新思潮』に作品を発表していたもののさほど注目されていたわけでもなく、また、帝室技芸員の御曹司たる光太郎への嫉妬(木村は牛鍋屋チェーンの妾腹に生まれています)などもあったのでしょう。さらに若太夫は、気難しい光太郎よりも遊び慣れていた木村を採りました。そして書かれたのが、「失はれたるモナ・リザ」でした。

しかし木村は、年季が明け「若太夫」から「しま」に戻っても妻にするでもなく、しまは故郷の名古屋に帰っていきました。木村にしてみれば単なる鞘当てに過ぎなかったようです。その後すぐ、吉原では五社英雄監督の東映映画「吉原炎上」のモデルとなった大火が起こり、様子を見に上京して来たしまと会いましたが、それもそれっきりでした。そのあたりは木村の自伝的小説『魔の宴』(昭和25年=1950 朝日新聞社)に語られています。

光太郎は、再上京したしまについても詩にしています。その際に会ったのかどうかは不明なのですが。

   地上のモナ・リザ

 モナ・リザよ、モナ・リザよ
 モナ・リザはとこしへに地を歩む事なかれ
 石高く泥濘(ぬかるみ)ふかき道を行く
 世の人人のみにくさよ
 モナ・リザは山青く水白き
 かの夢のごときロムバルヂアの背景に
 やはらかく腕を組み、ほのぼのと眼をあげて
 ただ半身をのみあらはせかし
 思慮ふかき古への各画聖もかくは描きたりき
 現実に執したる全身を、ああ、モナ・リザよ、示すなかれ

 われはモナ・リザを恐る
 地上に放たれ
 ちまたに語り
 汽車に乗りて走るモナ・リザを恐る
 モナ・リザの不可思議は
 仮象に入りて美しく輝き
 咫尺に現じて痛ましく貴し
 選択の運命はすでにすでに余を棄てたり
 余は今もただ頭をたれて
 モナ・リザの美しき力を夢む
 モナ・リザよ、モナ・リザよ
 モナ・リザは永しへに地を步むことなかれ

光太郎にとっても、もう終わった恋だから、今さら現れるな、モナ・リザよ、ということでしょう。

その後のしまについては、杳として消息が知れませんでした。ところがそれがある程度つかめました。国立国会図書館さんのデジタルデータの活用によってです。同データには、何と職業別電話帳(現在の「タウンページ」)まで掲載されていて、しまの故郷・愛知県のそれの中で2件、しまの名を見つけました。

まず大正11年(1922)。
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こちらは「席貸業」となっています。「席貸業」は「遊興又は慰安の用に供するため」のものということで、おそらく遊郭でしょう。住所は「伝馬」で、この地名は現在も名古屋市熱田区に残っています。明治43年(1910)にここにあった公認の遊郭街が他の地区に移転したと記録にありましたが、非公認のいわゆる「青線」のような形で残った店もあったと思われます。

大正11年(1922)は、しまの吉原河内楼での年季が明けて12年後。しまは30代半ばから後半だった計算になります。いきなりそうした店の女主人となれるはずもなく、結局、名古屋に戻ってもその道に入り、それを終えて女主人に収まったのではないでしょうか。

それからさらに13年後の昭和10年(1935)にも。ただ、「席貸業」ではなく「料理店」の項でした。この頃にはまっとうな料理屋になっていたのかも知れません。
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ちなみに少し後に「太田ひさ」の名。これは確認出来ている限り日本人で唯一ロダンのモデルを務め、その件で光太郎のインタヴューも受けた元女優「花子」の本名です。ひさも引退後は料理店関係の仕事をしていましたが、ただ、住所が一致しません。同姓同名の別人でしょうか。

突き止められた「若太夫」こと、しまの消息はここまでですが、光太郎同様に戦後まで生き延び、不幸ではない晩年を送ったと思いたいところです。そして彫刻家・詩人として名を成した、かつての恋人・光太郎を遠くから見守っていたとも。

そんなこんなを『とんぼ』の今号に書きました。奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。
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【折々のことば・光太郎】

お医者さんや皆さんの相談で今日退院することになり、夕方出かけるでせう。

昭和30年(1955)7月8日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎73歳

宿痾の肺結核のため、4月から赤坂山王病院に入院していましたが、結局は手の施しようがなく、再び中野のアトリエでの療養生活に入ります。

昨日は福島県双葉郡川内村に行っておりました。同村で毎年開催されている、当会の祖・草野心平を祀る天山祭りに列席のためです。今年は第60回の節目でした。
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第一回は、昭和41年(1966)。村人さんたちが心平のために建てて下さった天山文庫の竣工を祝ってのもので、もちろん心平も参加、郷土芸能の披露などが行われ、その後も約20年間、心平は都合のつく限り足を運び、村人さんたちと気のおけない交流を続けていました。

心平没後は、心平を祀る意味合いが付加。参加出来ない本人の代わりにドーンと大きな遺影。
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三度の飯より酒が好きだった心平に、日本酒の奉納。当会としても一本、持参しました。時系列が戻りますが、当会事務所兼自宅のある千葉県香取市に2軒残る造り酒屋のうちの1軒で、一昨日購入しました。
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終了後には5本に増えていました。遺影の右の方には川内村産のワインなども。
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ちなみに申し遅れましたが、会場は当初予定の天山文庫ではなく、降雨のため、村民体育センターに変更でした。
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昨年は本来の会場の天山文庫で実施できましたが、一昨年も雨でこちらの会場で行われました。

画像はSNS等で公開しないようにというお達しがあり、上げられませんが、連翹忌の集いにもご参加下さったことがおありの実行委員長・井出茂氏のご挨拶 → 遠藤雄幸村長、心平が主宰していた詩誌『歴程』同人の方などの祝辞 → 心平遺影への献花 → 生前の心平の自作詩朗読録音の放送 → 小中一貫の川内小中学園6・7年生の皆さんによる自作詩朗読 → 『歴程』同人・伊武トーマ氏による心平作「わが抒情詩」朗読 → 鏡開き、といった流れ。

そこまで進んだあたりで正午を過ぎ、昼食タイム。こちらの画像は上げてもノープロブレムでしょう。少し食べてしまいましたが(笑)。
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もちもちの赤飯、特産の岩魚の塩焼き、山菜や南瓜・椎茸の天ぷら。お弁当が饗されるのはコロナ禍後初めてで、やはりこれでなくちゃ、という感じでした。

その後、元々の天山祭りで行われていた郷土芸能の披露等があり、散会。

霧雨がぽつぽつでしたが、その程度なら大丈夫と判断し、本来の会場だった天山文庫に立ち寄りました。大雨ならぬかるむ山道でパスでしたが。
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花手水がしつらえられていたのは、ここで祭りをやる予定だったためでしょうか。

1年ぶりに内部へ。
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心平が村に寄贈した書籍類。元々、別荘兼書庫として機能をもつ建物です。

いったん外の画像ですが、別棟の酒樽をイメージした小屋も書庫です。右の木立の中に見えるのが本館。
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ふたたび本館内部の画像。

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二階の座敷。
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左手の小窓から、一階の座敷が見おろせる構造。嫌な客が来ると、心平は二階のこの部屋に隠れ、下で秘書のような人に対応させていたとのこと(笑)。

その部屋の窓からの庭。
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来年はやはりここでやりたいものだと思いました。

敷地の入口にある阿武隈民芸館さんにも立ち寄りました。心平メインの展示施設です。
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心平と川内村、天山文庫に関する内容の他、心平著作(光太郎が題字を揮毫したもの、光太郎関連の心平著書を含め)や書、書簡などがずらり。何度も訪れていますが、そのたび興味深く拝見しています。

「天山文庫設立協力委員会発起人」の一人として、光太郎実弟の豊周も。
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同会、豊周以外もあらためて錚々たるメンバーです。井上靖、金子光晴、唐木順三、河上徹太郎、川端康成、小林勇、武田泰淳、谷川徹三、中野重治、西脇順三郎、古田晁、松方三郎、武者小路実篤、村野四郎、山本健吉……。

それから豊周令息の写真家、故・髙村規氏から寄贈された写真パネル類。心平と光太郎の2ショットだったり、光太郎葬儀の際の心平だったり、中には規氏令息のやはり写真家・達氏とお姉様が若き日に心平と写ったものもあったり、髙村ファミリーと心平、という意味でも興味深い展示です。

足を運ばれたことがないという方、来年以降、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小生お医者さまのすすめで今日入院してしばらく病院生活をする事にしました、 校歌の方の事は草野心平さんにでも頼んだらどうでせう、宮沢清六さんに御相談なさつたら如何。


昭和30年(1955)4月30日 浅沼政規宛書簡より 光太郎73歳

浅沼はかつて光太郎が暮らしていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの山口小学校長。「校歌」は同校のものか、近隣の学校のものか、ちと不明です。いずれにせよ光太郎は校歌の作詞は頑なに引き受けず、代わりに心平に頼んではどうか、心平の連絡先は賢治実弟の清六に訊いてくれ、という意味です。

そしてこの日から、7月8日まで赤坂山王病院に入院しました。病状は一進一退、結局、すぐにどうこうという状態でもなく、しかし入院したからといってここまで進んだ結核の完治は不可能と判断され、また中野のアトリエでの療養生活に戻ります。

宮沢賢治関連を中心に据えた文芸同人誌『ワルトラワラ』、第54号を頂きました。

ちなみに令和2年(2020)には第45号を頂いています。
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今回、下さったのは、賢治の故郷・花巻で「宮沢賢治・花巻市民の会」の活動をなさるかたわら、賢治生家近くに昨年「カフェ羅須」をオープンされた泉沢善雄氏。氏の玉稿「●生活者の視点で伝記的現場を歩く⑥〈宮沢賢治雑記帳〉 増谷文雄と大原外光そして……」が掲載されていて、当方の名も出て来るため送って下さったようです。多謝。

戦前、まだ賢治がマイナーだった頃、各種雑誌に賢治作品が掲載された経緯についての考察ですが、当方、賢治にはそれほど詳しい訳ではなく、タイトルにある「増谷文雄」「大原外光」ともに全く存じ上げない名でした。

増谷は光太郎もたびたび寄稿していた雑誌『青年』、同じく『真理』に関係し、そして賢治の親友だった藤原嘉藤治と親しかったようです。そこで、『青年』、『真理』に賢治作品が掲載された際(賢治没後の昭和14年=1939)に関わっているのではないかというお話。作品は童話「虔十公園林」ですが、なぜか「虔十の林」という題で掲載されているそうで、ちなみに挿画は光太郎とも親しかった深沢省三とのこと。

石川啄木に関する著書もある大原は増谷と親しく、『真理』の方で賢治を取り上げた記事を書いている人物とのこと。となると、『真理』への賢治作品の掲載に何らかの役割を果たしていたかもしれないそうで。

それから大原は、出版社東雲堂の西村陽吉とも繋がっていたそうです。このあたりでまた光太郎の影。光太郎は東雲堂発行の雑誌『朱欒』『創作』に深く関わっていますし、西村とも個人的に一緒に旅をする間柄だったことがわかりました。『高村光太郎全集』に名が出て来ず、これまで光太郎との個人的な繋がりがどの程度だったのかよく分かりませんでしたが、昨年、兵庫県たつの市の霞城館(かじょうかん)さんでの企画展「三木露風と交流のあった人々」展に、西村と光太郎の連名で三木露風に埼玉から送った『全集』未収録の絵葉書(大正4年)が展示され、一緒に旅する程度の仲だったことが分かりました。

三木露風も『春と修羅』を賞讃する手紙を賢治に送っています。露風と言えば『赤い鳥』。『赤い鳥』には、大正13年(1924)に賢治の『注文の多い料理店』の広告が出ました。これは同誌に挿画を描いていた深沢省三の仲介という説が強いようですが、光太郎、西村、露風らからの働きかけもあったかも、などと素人考えですが……。

さらに当会の祖・草野心平。心平も賢治作品に惚れ込み、心平自身やその人脈に連なる土方定一などの人々も賢治作品の紹介に骨折っています。泉沢氏曰く「賢治周辺の人脈はかなり広くなりそうな気がします。必ずしも深い交友でなくても影響し合っているのでしょう」。なるほど。

今年の冬には花巻の光太郎記念館さんで「賢治全集が出来るまで」的な展示をやるとのことで、関連行事として賢治実弟・清六令孫の宮沢和樹氏、嘉藤治顕彰の瀬川正子氏、そして自分とで来春に公開対談が予定されています。参考にさせていただきます。

さて、『ワルトラワラ』、泉沢氏のカフェ羅須さんの記事も出ています。また、奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。
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【折々のことば・光太郎】

現金書留でお送りしますが、東京では時々ぬすまれるさうですが、田舎では大丈夫でせうか。

昭和30年(1955)3月1日 宮崎春子宛書簡より 光太郎73歳

未亡人となった智恵子の姪・春子への援助です。現金書留の盗難などもあったのですね。

少し前、昭和24年(1949)には、北海道から花巻郊外旧太田村の山小屋に送られたはずの麦が届かず、「おそらくは途中で、誰かの食料となつたのかも知れません、かうした世の中ですから」と書簡に認(したた)めたこともありました。

当会の祖・草野心平を祀る祭りです。

第60回天山祭り

期 日 : 2025年7月12日(土)
会 場 : 天山文庫 福島県双葉郡川内村大字上川内字早渡513
       雨天時は村民体育センター 川内村大字上川内字小山平15
時 間 : 午前11時~午後2時
料 金 : 1,000円

 今年度、60回目の天山祭りを開催する運びとなりました。これもひとえに皆様方の御指導、御支援によるものと深く感謝申し上げます。
 今年は60回目の節目の年であることから、原点に返り、飲食の提供を予定しておりますので、万障繰り合わせのうえ、ご参加いただきますようご案内申し上げます。

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川内村はモリアオガエルの繁殖地・平伏(へぶす)沼を有し、「蛙の詩人」として名高い心平が愛した村です。心平は蔵書を村にごっそり寄贈、村では心平を名誉村民に認定、別荘の「天山文庫」を建ててやりました。その建設の際には、光太郎顕彰を通じて心平と交流の深かった光太郎実弟の髙村豊周も建設委員に名を連ねました。下画像、背景の建物が天山文庫、手前に座っているおっさんが心平です(笑)。
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この天山文庫の前庭で行われる祭りには生前の心平もよく足を運んでは村人たちと交流、心平没後には心平を偲ぶ意味合いが加わり、さらに東日本大震災による福島第一原発の事故で余儀なくされた全村避難の解除後は、震災からの復興を確認するという目的も加わっています。
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鉢巻きの心平、バカボンのパパのようですね(笑)。

内容的には地元の皆さんによる郷土芸能の披露、心平詩の朗読、それから心平が主宰していた詩誌『歴程』同人の皆さんも心平詩の朗読等にあたられるはずです。

コロナ禍前には特産の岩魚の塩焼きなどが入ったお弁当が饗され、舌鼓を打たせていただいておりましたが、近年はそれが無く、若干寂しいなと思っていたところ、今年から復活のようです。岩魚の塩焼きはきっと入っていると信じています(笑)。

皆様方も是非どうぞ。

別件ですが、本日、午後1時半より中野区の産業文化振興センターに於いて「中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」を開催いたします。『東京新聞』さんが、昨日、記事にして下さいました。

「中西アトリエ」ゆかりの朗読会 中野であす 高村光太郎らの詩や小説題材

 洋画家の中西利雄(1900〜48年)が東京都中野区内に建てたアトリエを知ってもらおうと、アトリエゆかりの文人による作品の朗読会が6日午後1時半から、区内で開かれる。詩人で彫刻家の高村光太郎(1883〜1956年)をはじめとする6人の詩や小説の世界が楽しめる。
 アトリエは、大正から昭和にかけて活躍し「水彩画の巨匠」と呼ばれた中西が建設。完成した48年に死去したため、貸しアトリエとして使われた。
 高村は晩年に暮らし、十和田湖畔にある代表作「乙女の像」の塑像などを制作。没後は家族ぐるみの交流があった、詩人で随筆家の尾崎喜八(1892〜1974年)が、編集室として使ったという。中西の息子が2023年に亡くなった後は保存活用の在り方が問われており、存続の危機にある。
 朗読会は有志による「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」(俳優・劇作家の渡辺えり代表)が主催。朗読家や詩人らが高村や尾崎のほか、詩人で小説家の佐藤春夫、詩人で書家の草野心平、小説家の太宰治、詩人で童話作家の宮沢賢治による小説や詩など15作品ほどを読み上げる。フルートやギターの演奏もある。
 同会の曽我貢誠(こうせい)事務局長(72)は、「アトリエでは高村を起点に、文人たちがつながり合っていた。そんな建物が中野区にあることを知ってほしい」と呼びかける。
 「高村光太郎終焉(しゅうえん)の地 中西アトリエをめぐる文人たちの朗読会」は、区産業振興センター(中野2)で。入場無料。定員80人。問い合わせは保存する会=sogakousei@mva.biglobe.ne.jp=へ。
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予約を受け付けていましたが、まだ空席があるようです。このまま予約なしでいらしていただいて結構です。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

小生の居ない山口(の小)屋を訪問したいろいろの人から時々たよりをもらひますが、小屋も無事、畑も出来て居り、梅の花も咲き、桃もきれいといふことで、皆重次郎翁のお手入れのおかげとありがたく存じてゐます。来年は汽車に乗れるやうに健康回復次第、山口に行つてみたいと思ひます。時々東京に居ても山口の美しい山林にあこがれます、


昭和29年(1954)11月3日 駿河重次郎宛書簡より 光太郎72歳

駿河重次郎は、光太郎が7年間の蟄居生活を送った花巻郊外旧太田村山口地区の山小屋の土地を提供してくれた村の顔役。光太郎上京後も小屋の管理を手抜かり無く行ってくれていました。

細かなところでは色々異なりますが、光太郎にとっての太田村と、心平にとっての川内村は、似たような意味合いがあったのかも知れません。

カルチャースクール系の講座情報、目黒学園カルチャースクールさん主催の詩の講座です。

詩の創作と鑑賞講座 7月期

期 日 : 2025年7月7日(月)、8月4日(月)、9月1日(月)
会 場 : 目黒学園カルチャースクール第1教室 品川区上大崎3-3-1 アトレ目黒2 2階
時 間 : 18:00~20:00
料 金 : 9,900円(税込)3ヶ月3回

講座の前半では、名詩を鑑賞します。中原中也、萩原朔太郎や、谷川俊太郎ら馴染みのある詩人の作品を対象にして、読む楽しさについて学びます。また、世界の名詩も取り上げ、日本の詩と比較しながら詩を味わい、ことばを用いて書くことの楽しさについて触れてゆきます。講座の後半では、受講生のみなさんの詩を鑑賞し、受講生同士や講師から講評を受けながら、詩を書くことの面白さを皆さんと一緒に分かち合います。ありのままの感性を大切にことばと向き合いましょう。初心者の方、学生の方も歓迎です。

7/7は 『高村光太郎詩集』を鑑賞します。8/4、9/1は後日、決定いたします。

7/7(月)に体験会を開催いたします。(18:00~20:00 受講料 1,210円) 『高村光太郎詩集』岩波文庫 https://www.iwanami.co.jp/book/b249180.html を各自ご用意ください。それ以降は1回分受講料で随時体験をお受けします。詳しくはお問い合わせください。

講師 山﨑修平 詩人・文芸評論家、法政大学江戸東京研究センター客員研究員
   東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。
   法政大学大学院人文科学研究科日本文学専攻修士課程修了。
   同博士後期課程単位取得満期退学
   著書:詩集『ロックンロールは死んだらしいよ』、『ダンスする食う寝る』。
   小説:『テーベックのきれいな香り』。
   共著『吉田健一に就て』。
   文学イベントのゲストスピーカーやパネリストとして多く登壇。
   『週刊読書人』の文芸時評を担当するなど、文芸誌・新聞・専門誌での執筆経験をもつ。

〈講師からのメッセージ〉
 名詩を鑑賞し、そのエッセンスを丁寧に学びながら、詩を創作する喜びを分ち合いましょう。「詩はなんだか難しそう」、「詩なんて書いたこと無い」という方でも大丈夫です。受講生同士や講師からの、アットホームな雰囲気での講評によって、ありのままの感性を大切にことばと向き合う講座にしてゆきたいと思っています。一歩ずつ丁寧に進めていきます。ぜひ、ご一緒しましょう!
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岩波文庫の『高村光太郎詩集』をテキストにされるそうで。表紙に書かれた解説文は以下の通り。

世俗的なものとの妥協を排し,不断の情熱をたぎらせて人生の意味を追求し続けた光太郎の詩は,美しいもの,真実なものに対する善意と愛に満ちている.その歩みの中から九十三の詩篇を精選し,「道程」より・「道程」以後・「智恵子抄」より,の三部に編んだ.作者が生前自ら校閲した最後の詩集である. (解説 奥平英雄)

光太郎自身の「はしがき」も掲載されています。

 知友、東京国立博物館技官、奥平英雄氏からのお話によつて、岩波文庫版としてこの選詩集は出す気になつた。詩篇の選択、編集、組方、校正まですべて奥平氏の厄介になつた。奥平氏によつて選ばれた詩篇の中から私は更に三四篇を削除したが、これは自己の旧作に対して、私のやうな気質の人間の誰でもが抱くであらう一種のはにかみと不満とによるものである。実をいふと、自分の旧作をよんでゐて感ずるものは、あれもこれも消してしまひたいやうな衝動である。しかし消しはじめたらきりがなく、結局一篇も採れなくなりさうなので、これくらゐですませた。
 時代感覚を保存するために、今日の制限外漢字や旧やかなかな遣ひをそのままにして置いた。詩篇の選択を年代としておよそ「智恵子抄」あたりまでに限定したのは岩波文庫係の意見によるものであり、戦後の詩篇は一切編入されてゐない。尚この集詩篇の制作年代の決定は一々確実な記録によつたのですべて正しい。ただしこの年代は制作年代であつて発表年代ではない。
    一九五四年十一月


編者は解説も書いている美術史家の奥平英雄。晩年の光太郎に親炙し、その任を引き受けた他、『晩年の高村光太郎』(昭和37年=1962 二玄社)、『忘れ得ぬ人々  一美術史家の回想』(平成5年=1993 瑠璃書房)など、貴重な光太郎回想を残しています。『晩年の……』の方は瑠璃書房版の特製本(昭和52年=1977)もあり、こちらは特別附録としてラジオ放送のための奥平と光太郎の対談「芸術と生活 高村光太郎・奥平英雄」(昭和28年=1953 12月27日録音)が収録されたカセットテープが付いています。

7月7日(月)の光太郎の回が体験入学会を兼ねた実施だそうで、ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

医者のすすめに従ひ、今安静療法をやつてゐるため、胸像の完成はもすこしのびます、

昭和29年(1954)6月14日 牛越誠夫宛書簡より 光太郎72歳

牛越は石膏取り師、「胸像は」遺作となった「倉田雲平胸像」。結局、制作を中断したままになってしまいました。

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