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こちらでご紹介したイベントについて終了後に為された報道を2件。

まず、もう半月ほど経ってしまいましたが、ご紹介するタイミングを失っておりました。福島二本松の「智恵子純愛通り記念碑第15回建立祭」について、『福島民友』さん。

自作の紙芝居で智恵子生涯描く 研究者坂本さんが上演 二本松の生家

001 詩集「智恵子抄」でも知られる二本松市出身の洋画家・紙絵作家高村智恵子と夫の詩人・彫刻家光太郎を顕彰する同市の「智恵子のまち夢くらぶ―高村智恵子顕彰会」は14日、同市の智恵子の生家で紙芝居を上演した。作家で画家、智恵子研究者坂本富江さん(東京都)が紙芝居「夢を描くひと―高村智恵子」を披露した。
 高村夫妻の結婚110周年と同会発足20周年を記念して実施。「高村智恵子レモン祭」の一環として、智恵子の生家・記念館と共催で実施した。
 坂本さんは来場者を前に、智恵子の生涯を描いた自作の紙芝居を読み聞かせた。
 このほか同会は同日、第15回智恵子純愛通り記念碑建立祭と「智恵子と光太郎の詩と言葉」ボードの除幕式を智恵子生家近くの同碑前で行った。


続いて、10月27日(日)、岩手花巻で開催された「令和6年度高村光太郎記念館企画事業 対談 光太郎と花巻賢治子供の会」について、『岩手日日』さん。

光太郎と賢治の関係は 研究者と劇団員対談

 対談「光太郎と花巻賢治子供の会」(高村光太郎記念館主催、やつかのもりLLC企画)は10月27日、花巻市大通りの市定住交流センターなはんプラザで開かれた。高村光太郎と交流した照井謹二郎・登久子夫妻が起ち上げた劇団「花巻賢治子供の会」について、研究者や当時の会員による講話や朗読などを通じて市民が光太郎の思いや賢治との関わりに理解を深めた。
 花巻賢治子供の会は1947年、賢治の教え子だった小学校教員照井謹二郎が賢治作品を後世に伝えるため、同じく教員で妻の登久子の脚本で子供たちと童話劇を始めたのが始まり。翌年春、花巻に疎開していた光太郎の慰問のため、賢治の弟清六の妻愛子に誘われて山荘に足を運び、野外劇を見せたところ、感銘を受けた光太郎が命名した。その後、春は山荘で野外劇、秋は光太郎を招いて舞台発表を行い、97年の東京公演まで50年余り、160数回の公演を続けた。
 対談では光太郎研究者で高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表が発足の経緯や当時の活動内容について解説。当初メンバーだった熊谷光さん(83)、高橋則子さん(80)が賢治童話「雪渡り」から「小狐の紺三郎」、光太郎の詩「山からの贈物」を朗読、賢治の弟清六の孫で林風舎の宮沢和樹代表が祖母や母から聞いた活動について語った。
 引き続き4人が「光太郎先生との想い出」をテーマに語り、48年6月の山荘での公演について熊谷さんは「光太郎先生はとても喜んでくれた。歩いて帰る途中、私たちが見えなくなるまで手を振ってくれた」などと振り返った。
 また童話劇を演じるのに脚本を手で書き写したり、花巻小学校の教室を借りて夜8時ころまで練習したり、子供たちが持参した自分の頭の大きさに合ったざるに紙を貼り重ねて動物の被り物を作ったりしたエピソードを紹介。「本当に何もない時代だったので、参加すること自体がとても楽しい時間だった」と語った。
 対談は約60人が聴講。泉沢善雄さん(70)=同市高木は「子供たちが実際にどのようにして演じていたかイメージが涌く話だった」と関心を寄せていた。

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正確には、「花巻賢治子供の会」発足時、照井夫妻はすでに教員を退職なさっていたはずなのですが……。

ついでというと何ですが、花巻から送っていただいた当日の画像。
参加者5 参加者6
さらに、『岩手日日』さんのインタビューを受けられていた泉沢善雄氏のSNSから。
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ちなみに泉沢氏の大伯父さまは光太郎が蟄居生活を送っていた旧太田村の村議会議長を務められ、光太郎と一緒に写った写真も残っています。

さて、この手のイベント、今後も途切れることなく続いて欲しいものです。

【折々のことば・光太郎】

桑木博士も津田博士も引き上げられたので、いよいよ小生一人居残りといふわけになりました、小生はやはり最後まで岩手県の御厄介にならうと考へて居りますが中ゝ彫刻製作の手順にならないので、これだけが問題です、


昭和25年(1950)4月11日 佐伯郁郎宛書簡より 光太郎68歳

結局、健康状態がそれを許しませんでしたが、光太郎、岩手に骨を埋めるつもりでした。

「津田博士」は戦中からこの年まで平泉に疎開していた津田左右吉ですが、「桑木博士」は誰を指すか特定できていません。お心当たりおありの方、ご教示いただける幸いです。

アンソロジーものの新刊です。2ヶ月程経ってしまいましたが。

ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編

発行日 : 2024年8月28日(水)
著者等 : 早川茉莉編
版 元 : 筑摩書房
定 価 : 税込み2,090円

喉を通りぬける冷たい爽快感! 内田百閒、田中小実昌、東海林さだお、草野心平、森茉莉、茨木のり子……飲める人も飲めない人も素敵な活字のビールをどうぞ!

011
目次
 序
 プロローグ 気分爽快 森高千里
 1杯目 つぎたてのビール――まずはビール。とりあえずビール
  いつかきっと 田村セツコ
  缶と瓶 細馬宏通
  ビールのある風景 山本精一
  西陽の水面とビール 高山なおみ
  イギリス湖水地方のラガー 高柳佐知子
  ビールの遍在性とさりげないやさしさについて 小野邦彦
  脳内反芻ビール 小山田 徹
  サバティカルはミュンヘンで 喜多尾道冬
 2杯目 泡は大事――ビールは泡ごとググッと飲め
  ビールの泡 田中小実昌
  泡だらけ伝授 阿川佐和子
  ビールは泡あってこそ 東海林さだお
  原則の人 伊丹十三
  ビールは小瓶で 長田 弘
  モクモクモク 嵐山光三郎
  ビールは泡ごとググッと飲め 草野心平
 3杯目 ビール、もう一杯!――こんな日はとりわけビールがうまいんだ
  虚無の歌 萩原朔太郎
  モーツァルトmozart  村上春樹
  軽い酔 牧野信一  
  飢えは良い修業だった アーネスト・ヘミングウェイ 福田陸太郎 訳
  とりあえずビールでいいのか 赤瀬川原平
  ビールと女 獅子文六
  白に白に白 大道珠貴
  鍋貼 小川 糸
  ふきのとう 姫野カオルコ
  ビールに操を捧げた夏だった 夢枕 獏
  七月 ビール炊き御飯 金子信雄
  富士日記(抄) 武田百合子
  モンスターと夜景 雪舟えま
  人生がバラ色に見えるとき 石井好子
  飲み、食べ、颯爽と嫌う 城 夏子
  ビール 大橋 歩
  炎天のビール 山口 瞳
  コップに三分の一くらい注いで、飲んじゃ入れ、飲んじゃ入れして飲むのが、
ビールの本当にうまい飲み方なんですよ。 池波正太郎
 4杯目 旅先のビール――頭のテッペンから足の先までが、キューッとしびれる
  あほらしい唄 茨木のり子
  灰色の菫 田村隆一
  2019年5月3日 小沢健二
  この世で一番おいしいビール 氷室冴子
  道草 吉田健一
  鹿児島カンビール旅 椎名 誠
  温泉津旅行記 川本三郎
  京洛日記 二十一、食堂車 室生犀星
  鴎外先生とビール 平松洋子
  ビールの話 岩城宏之
  パブ 加藤秀俊
  ベルギーぼんやり旅行 七色ビール篇 向田邦子
  ネパールのビール 吉田直哉
  デンマークのビール 北大路魯山人
  欧洲旅行(抄) 横光利一
  ニュー・イングランドの浜焼 中谷宇吉郎
  父の麦酒のジョッキーと葉巻切り 森 茉莉
 5杯目 ビール飲み――飲みたければ、たんとお飲みなさい
  渓流 中原中也
  未練 内田百閒
  植木鉢 土岐雄三
  明るいうちに飲むなら蕎麦屋 与那原恵
  第55夜 まつや【神楽坂】 秘密基地の伝声管 鈴木琢磨
  初めての飲み会 瀧波ユカリ
  ビールの歌 火野葦平
  父の七回忌に 幸田 文
  われこそはビール飲み 野坂昭如
  はじめてのビール 沢野ひとし
  ワインとビールがいっぱい  渡辺祥子
  ビールの味 高村光太郎
 編者あとがき ビールは飲む「窓辺」であり「風景」である。 早川茉莉
 底本一覧

ビールをテーマにしたりモチーフに使ったりした、古今のエッセイ等63篇が集められています。

表題作「ビールは泡ごとググッと飲め」は、当会の祖・草野心平が昭和42年(1967)に雑誌『しんばし』に発表したエッセイです。心平、酒好きで知られていますが、だからといって強いわけでもありませんでした。そのくせ意識不明になるまで呑み、光太郎に介抱されたこともたびたび(笑)。そんな心平を光太郎は愛していましたが。

心平は詩を書くかたわら、屋台の焼鳥屋「いわき」、居酒屋「火の車」、バー「学校」と、飲み屋を経営しました。光太郎は「学校」のみその没後の開店なので足跡を残していませんが、戦後の「火の車」には足繁く通いましたし、戦前の「いわき」には智恵子を伴ったこともありました。

そして心平作詞の「バア「学校」校歌」。013

 バア学校のシンボルは。
 時代おくれの大時計。
 二十一世紀を告げる鐘。
 さらばで御座る。
 酒はぐいのみ。
 ビールは泡ごと。

 バア学校の常連は。
 世にも稀なる美男美女。
 落第つづけの優等生。
 しからばそうれ。
 酒はぐいのみ。
 ビールは泡ごと。

半分意味不明、酔っ払って作ったんじゃないかとも思われます(笑)。ちなみに心平を名誉村民に認定して下さった福島県川内村の阿武隈民芸館・かわうち草野心平記念館内には、バー「学校」が再現されています。設計は辻まことだそうで。

ところで「バア「学校」校歌」以前にも、「ビールは泡ごとググッと飲め」というリフレインを使った詩があったそうですが、すみません、把握できていません。「ビールは泡ごと」は、お気に入りのフレーズだったようです。

さて、『ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編』。63篇のトリを飾るのは、光太郎のエッセイ「ビールの味」(昭和11年=1936)。

特にビール好きの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

このたびは思ひもかけず黒沢尻で誕生日を迎へることとなり、貴下はじめ御家族御一同のまことにお心こもつた饗宴にあづかり、忘れがたい記念の一日となりました事を深く感謝いたします、


昭和25年(1950)3月15日 森口多里宛書簡より 光太郎68歳

光太郎誕生日は3月13日。10日から秋田横手に講演に行き、さらに花巻の南の黒沢尻町(現・北上市)の映画館・文化ホールでも講演を行いました。

平成16年(2004),北上市教育委員会発行『きたかみ文学散歩』に、この折の様子を回想した「●美の世界の巨人」と題する地元の画廊経営者・郡司直衛氏の一文があります。

 黒沢尻の駅に降り立った高村光太郎は、大きな防空頭巾にどんぶくはんど(綿入レ半纏)を着てリュックサックに防寒靴。全くの村夫子然。日本で初めてベレー帽をかぶって銀座を歩いたモダンボーイと誰が思うものか。
 横手の雪をみての帰途、「もう私には残された時間がないから」と云うのをお願いして講演会を開く。その講演に先立ち、お昼を茅葺の民家の二階で差し上げた。そこには空襲で家を焼かれた森口多里が疎開していた。
 その日は昭和二十五年の「三月十三日」。光太郎の誕生日であった。昼食のメニューは鶏の丸焼きにコリフラワとオニオン添え、これは森口夫人の力作で、それに母が手造りの五目ずしという簡素なものであった。具が美味しいとほめられる。母は「高村さんに褒められた」と一生の自慢であった。卓上には発酵し始めた山ぶどうの赤い液が、切子の徳利に入れて添えられていた。当時これが精一杯のもてなしであった。
 食卓は淋しかったが、美の奉仕者である二人の会話は途切れることなく続いた。ロダンの誕生日の話、ハムレットを見ながら気が付くと眼鏡を握りつぶしていた話などなど。森口はパリの街のどこの通りの、何番目のマロニエのどの枝が、一番早く花を咲かせるか知っていると自慢気に話した。二人のパリの思い出は盡きなかった。
 木マンサクもキブシも花にはまだ早く、ネコ柳を一本根元から切って、有田焼の染付の大花瓶に投げ入れ、講演会の壇上を飾った。会場は身動きできぬ程の聴衆で溢れていた。
 講演を終えて、「誕生日には智恵子と食事をするのです」というのを無理に引き止めてお泊まり頂く。翌朝、長ぐつを履こうとする足の大きなこと、靴に添えられた手の大きなこと。私は高村光太郎が“美の世界の巨人”であることを、そのときこころではなく、目で理解したのであった。

美術評論家の高階秀爾氏が亡くなりました。

共同通信さん配信記事。

美術評論家の高階秀爾さん死去 西洋美術史研究の第一人者

 日本の西洋美術史研究の第一人者で、理知的で明快な美術評論で知られた東京大名誉教授の高階秀爾(たかしな・しゅうじ)さんが17日、心不全のため死去した。92歳。東京都出身。葬儀は家族で行った。お別れの会を開く予定。
 1953年東京大卒。フランスに留学し、西洋近代美術史を専攻。帰国後、国立西洋美術館勤務などを経て、79年東京大教授に就いた。退職後、国立西洋美術館や岡山県の大原美術館の館長、日本芸術院長などを歴任した。
 豊かな教養と優れた感性で、ルネサンスから近現代までの西洋美術を研究。ロングセラーとなった「名画を見る眼」や「近代絵画史」など入門書の執筆に加え、留学時代から晩年まで、新聞や雑誌の寄稿を通じて同時代の美術を精力的に批評し、美術の魅力を多くの人に伝えた。明治の洋画家高橋由一の再評価など、近代日本美術の研究でも業績を残した。
 著書に「ルネッサンスの光と闇」「ピカソ 剽窃の論理」「日本近代美術史論」など多数。2001年に設置された文化審議会の初代会長や、京都造形芸術大大学院長も務めた。
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高階氏、昭和47年(1972)発行の雑誌『ユリイカ』第4巻第8号の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」中の「共同討議 高村光太郎の世界」に、昨日もご紹介した高田博厚、当会顧問であらせられた故・北川太一先生、その盟友・吉本隆明と共にご臨席。30ページ超にわたる対談を展開されました。これで全員が鬼籍に入られてしまいましたが、今にして思うと凄い顔ぶれでした。
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今読んでも「なるほど」の連続です。

当方、一度、氏のご講演を拝聴しました。平成26年(2014)の新宿中村屋サロン美術館さん開館記念講演会「中村屋サロンの芸術家たち」。ここでも光太郎に触れて下さり、時にユーモラスに、非常にわかりやすく語られていました。もう10年経つか、という感じですが。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

この間御恵贈の見事な干柿をいただきました。此前にもハムをいただき、重ね重ねで恐縮です。干し柿の縄おもしろく、智恵子だつたら早速切抜絵にする事だらうなどと考へました。

昭和25年(1950)2月10日 真壁仁宛書簡より 光太郎68歳

ちょっと面白い形のものを見ると、すぐに創作意欲が湧いてくる、亡き智恵子もそうだったろうと、これももうおそらく造型作家の「業」のようなものですね。

たまたま偶然でしょうが、昨日、東北の地方紙二紙の一面コラムで光太郎が取り上げられました。

まずは『秋田魁新報』さん。

北斗星

2人の女性が向き合う姿で知られる十和田湖畔の「乙女の像」だが、作者の高村光太郎は当初1人だけの像を考えていたという。湖や森を思い浮かべながら構想を練るうち、同じ像を二つ並べるアイデアが浮かんだ。例のない像だったが、現地で見れば周囲と調和していると分かると語っている(「高村光太郎全集11」より)▼「地上に割れてくづれるまで/この原始林の圧力に堪へて/立つなら幾千年でも黙って立ってろ」。像に寄せた詩からは、この場所にふさわしいものを作ったという自負が伝わってくるようだ▼乙女の像が建立されて約70年、十和田湖周辺は変わり続けた。観光客が増え、ホテルや観光施設ができた。しかしバブル崩壊や東日本大震災で客足は減少。ここ十数年は、像がある休屋地区などでホテルや店舗の廃屋が目に付くようになっていた▼先日、久々に乙女の像を訪れると、対岸に新しい建物があるのが見えた。小坂町などが整備した道の駅だ。「十和田湖開発の父」とされる和井内貞行と妻カツが寄り添う銅像もあり、特産のヒメマスをPRしている▼国は十和田湖などの国立公園に、訪日外国人らを呼び込む事業に力を入れている。道の駅もその一環。廃屋も徐々に撤去されて、新たな宿泊施設の誘致に向けて地元で協議が始まった▼再び変わり始めた十和田湖。期待もあるが、オーバーツーリズムなどの不安もよぎる。観光地と国立公園。開発と保全。さて、どんな調和を目指すべきか。

十和田湖は秋田県と青森県にまたがり、光太郎最後の大作「乙女の像」は青森県側の十和田市休屋地区に存在します。
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指摘されている通り、周辺にはかつてホテルや土産物店、飲食店だった建物の廃屋が目立ちます。地元で自嘲的に「ゴーストタウン」と称されることも。残念です。

そんな中、これもコラム中にありますが、秋田県側の小坂町に新たに「道の駅「十和田湖」」がオープンしました。今月12日のことでした。

NHKさんのローカルニュース。

小坂町に道の駅「十和田湖」オープン 観光客でにぎわう

 12日、小坂町に道の駅「十和田湖」がオープンし、十和田湖観光に訪れた大勢の人たちでにぎわいました。
 道の駅「十和田湖」は、小坂町の新たな観光拠点として十和田湖の南側の湖畔に整備されました。
 建物は湖が見渡せる高台にあり、施設の中には、十和田湖の成り立ちや名産のヒメマスの養殖の歴史、それに小坂町の観光名所などがわかりやすく展示されています。
 また、ワインや蜂蜜といった町の特産品や隣接する鹿角市のりんごやぶどうを販売するコーナーも設けられています。
 オープン初日となった12日は好天にも恵まれたこともあり、周辺の道路が一時渋滞するほどで、訪れた大勢の人たちは展示コーナーを見学したり、施設から望む十和田湖の写真を撮ったりして楽しんでいました。
 岩手県の40代の男性は「きれいでとてもいい施設ですね。これから奥入瀬渓流など十和田観光を楽しみたいです」と話していました。
 道の駅は、去年10月にオープンする予定でしたが、特別名勝などに指定されている十和田湖での工事には文化庁の許可が必要で、その申請に向けた事務手続きが行われていなかったため、駐車場の工事が遅れ、オープンが延期されていました。
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観光の新たな拠点となることを期待いたします。

続いて『岩手日日』さん。

日日草

「沈深牛の如(ごと)し」。詩人で彫刻家の高村光太郎は詩「岩手の人」の中で、県人を寡黙で辛抱強く、思慮深い牛のようだと評した。牛は昔から岩手の人々にとって馬と同様に極めて身近な存在だった▼そんな牛と岩手との関わりに焦点を当て、県立図書館が春から夏にかけて開いた企画展。肉牛や乳製品のほか、農耕や運搬に使う役牛として人々の暮らしを支えた歴史、文化などを豊富な資料で紹介した▼江戸時代に沿岸部の産物を内陸に運んだルートを「塩の道」と呼び、重い荷を背に北上高地を越えるには馬より足腰の強い牛が適していたこと。途中、歌われたのが「南部牛追唄」で、隊列の先頭に立つ最強の雄牛を決めるため闘牛大会があったことなどを展示で知った▼開催中、牛を通年で山に放牧する山地酪農に挑み続ける田野畑村の酪農家を24年間追ったドキュメンタリー映画も上映。豊かな自然の中で厳しい現実に向き合いながら希望を持って暮らす大家族の日常が丹念に描かれていて引き込まれた▼日本短角種の産地、久慈市は闘牛の素牛を全国に供給する。東北で唯一の闘牛大会が年4回あり、今年最後の「もみじ場所」があす開かれる。普段は目にすることのない迫力ある闘牛を間近に見れば、牛へのイメージが変わるかもしれない。

008牛と岩手との関わりに焦点を当て、県立図書館が春から夏にかけて開いた企画展」は、「地を往(ゆ)きて走らず~岩手と牛~」。タイトルからして光太郎詩「岩手の人」(昭和23年=1948)由来でした。

会期中の6月に花巻に行きましたので、その際に盛岡まで足を延ばせば良かったのですが、失念しておりました。直接、光太郎に関わる展示物は無く、解説パネルに「岩手の人」が紹介されていた程度のようでしたが、今になって後悔しております。

同様に直接、光太郎に関わる展示物は無く、解説パネルに光太郎の文章が引用されているという企画展示が都内で開催中という情報を得まして、明後日、また上京する用事がありますから廻ってきます。

【折々のことば・光太郎】

雪の上の足あとウサギ キツネ一列なり


昭和25年(1950)1月11日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳
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便箋(というかおそらく原稿用紙)の余白に描いたスケッチから。蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋周辺でのものですね。

松下は中央公論社の編集者。

同じ日に、美術史家の奥平英雄の妻・ちゑ子に贈った書簡にはさらに詳しいキャプション入りのスケッチが描かれていました。
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まずは状況をわかりやすくするために地方紙『岩手日日』さん報道から。

お気に入り求めどっと 東和・土澤アートクラフトフェア 商店街に活気 光太郎作品基にレモンケーキ 花巻南高家庭クラブ提供

 県内外のものづくり作家らが集う「土澤アートクラフトフェア2024秋」(実行委主催)は13日、花巻市東和町の土沢商店街、萬鉄五郎記念美術館前を会場に2日間の日程で始まった。好天の下にクラフトやグルメなど約380店が軒を連ね、大勢の来場者で初日から活況を呈した。
 歩行者天国となった会場には、木工品や革製品、似顔絵、手作り雑貨、楽器、衣類、陶芸、釣り具、ペット用品など多種多様のブースが並び、訪れた人が店主と会話を弾ませながらお気に入り商品を買い求めた。
 飲食の出店や食材・菓子などの販売ブースも並び、フードコートで昼食を取る家族連れの姿も。沿岸ならではの海の幸や地元特産品などが人気を集めていた。
 彫金の宝飾などを製造するアトリエKAZU(東京都)の高田和彦さん(77)は、オリジナルの指輪やネックレスのほか、さまざまな職業の商売道具をモチーフとする「IKIGAIシリーズ」のペンダントトップなどを販売。「何度も出店しているが、今年は天気が良く、特に人出が多いと感じる。みんなおしゃれをして集まっており、雰囲気が良いのものこイベントの魅力だ」と語った。
 10回以上訪れているという盛岡市の齊藤直美さん(55)は「県外の作家に出会えるチャンスは、岩手では貴重。例年通り、良いものがそろっている。帽子やアクセサリーが欲しくて見に来た。幅広い年齢の人たちが遊びに来ているのが素晴らしい」と話していた。
 県立花巻南高校家庭クラブは13日、花巻ゆかりの彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)の「レモン哀歌」を基に製造した「レモンのパウンドケーキ」を土澤アートクラフトフェアで提供した。
 同クラブは、光太郎について調査・研究する団体と交流したり、顕彰イベントに参加したりして先人への学びを深めている。
 ケーキは、表面を覆うアイシングや生地にレモン汁を加えており、中までレモンの風味を感じられる。光太郎の顕彰活動に取り組む「やつかの森合同会社」(藤原正代表)が、同フェアに合わせて土沢商店街のワンデイシェフの大食堂で販売する「こたろう弁当」(1200円)を購入した人に100個限定でプレゼントした。
 レモンの果肉、皮を使うと食感や苦味が残るため、レモン汁だけで酸味や爽やかさを表現したといい、同日は東和町出身の1年生2人が接客。菅原美優さんは「光太郎さんのことはよく知らなかったが、勉強する中ですごい人が花巻にいたんだと感じた」、小原優羽奈さんは「自分たちの世代や、さらに下の小中学生にも光太郎さん、智恵子さんのことを知ってほしい。レモンケーキがそのきっかけになれば」と話していた。
 光太郎が秋の花巻でおいしさを再認識したというキノコやクリ、リンゴなどを使った同弁当は14日も数量限定で販売するが、パウンドケーキは提供されない。

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こちらが問題の(特に問題はありませんが(笑)))パウンドケーキ。
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ラッピングなど、高校生の手作りのレベルを超えていますね。もちろんお味もよろしかったようで。
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家庭クラブのお二人、今年6月に花巻で行われたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の際に発表のあった智恵子のエプロンの再現にも関わられました。こういう若い世代が関心を持って下さるのは実に有り難いところです。

やつかの森LLCさんが手がけた「こうたろう弁当」はこちら。やつかの森さんのメニュー構成は光太郎が実際に作った料理の現代風アレンジや、光太郎が使った食材の使用など、常に光太郎がらみです。
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2日間でそれぞれ異なるメニューで販売されたそうです。
13日こうたろう弁当メニュー
13日こうたろう弁当
14日こうたろう弁当メニュー
14日こうたろう弁当
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これも素晴らしいと思いました。

さらにやつかの森さんがメニュー考案に協力され、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さん内のテナント「ミレットキッチンフラワー」さんで毎月15日に販売されている弁当「光太郎ランチ」の今月分。
道の駅1
道の駅2
生野菜系が苦手な当方としては、今月のメニューはナイスだと感じました。これなら毎日食べてもいいかな、と(笑)。

何度も引用していますが、光太郎、昭和27年(1952)に行われた座談会「簡素生活と健康」で「食べ物はバカにしてはいけません。うんと大切だということです」と発言しています。この背後には、野菜類の自給自足、山林での食材採集に余念がなかった光太郎ならではの信念が込められています。

その信念を受け継ぎ、花巻南高校家庭クラブさん、やつかの森さんがさらなるご活躍をなさることを祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

ローマイヤアの店が又出来たと見えます、お贈りのハムはすばらしい事でせう。

昭和25年(1950)1月11日 中原綾子宛書簡より光太郎68歳

花巻郊外旧太田村の光太郎、東京の友人知己達から食材を贈られることも多く、それでかなり助かっていました。特に好物なのに自給できない肉類などはことのほか有り難く感じていたようです。

「ローマイヤア」は現代でも続く「ローマイヤ」さんですね。光太郎、おそらく戦前に銀座のレストラン部門、あるいは商品を卸していた上野の精養軒さんあたりで舌鼓を打っていたのでは、と思われます。

昨日に続き、智恵子の故郷・福島二本松ネタで。告知ではなく、レポート系ですが。

二本松市内の岩代公民館さんで発行している『岩代公民館だより』から。

9月13日(金) 新殿セミナー オンラインでつなぐ 全国ご当地体操教室

9月の新殿セミナーとして、「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」を開催。オンラインで全国の公民館とつながって、各地のご当地体操で体を動かしました。岡山県玉野市中央公民館から「タマニサイズ」、福岡県福岡市別府公民館からは「黒田節体操」、千葉県流山市東部公民館から「ゆめみるチーバくん体操」、岡山県矢掛町小田公民館からは「矢掛町オリジナル体操」を紹介いただき、新鮮な気持ちで音楽に合わせて頭も身体も動かして楽しみました。二本松市の体操としては、「ほんとの空体操」を紹介しました。全国各地のお祭りやゆるキャラ、地域の特徴などもご紹介いただき、旅行気分で楽しみました。講座の最後にはみんなで「チーバくんのポーズ」で締めました。岡山県在住の福島県出身の方とオンラインでお話する機会もあり、全国とのつながりを感じました。
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「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」。その名の通りのイベントで、全国の6県の公民館をオンラインでつなぎ、参加者が一緒に健康体操をするというものだそうです。定期的なのか不定期なのか、ともかく初の試みではないということですが。

当方自宅兼事務所のある千葉県からは県北西部の流山市東部公民館さんが参戦(って、別に戦っていませんが(笑))。

流山市さんのサイトから。

東部公民館「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」

 令和6年9月13日(金曜日)、東部公民館で全国の公民館をオンラインでつなぎ、参加者が一緒に健康体操をする「オンラインでつなぐ全国ご当地体操」が開催されました。6月に続き、2回目の開催です。東部公民館からは総勢31人の方が参加し、ファシリテーターの水代登紀子さん(当公民館講座「いきいきスクエアステップ」講師)と一緒に、千葉県のマスコットキャラクター・チーバくんのテーマソング&ダンス「ゆめみるチーバくん」を披露しました。
 今回オンラインで繋がった公民館は、富山県高岡市福岡公民館、福井県永平寺町上志比公民館、福島県二本松市岩代公民館、福岡県福岡市別府公民館、岡山県玉野市中央公民館、同県小田郡矢掛町小田公民館と千葉県流山市東部公民館の全国6県7館です。
 最初に、参加者の皆さんが交代で、各地域の今日のお天気や、地域のお祭り、ゆるキャラを紹介しました。その後実施した健康体操は、「タマニサイズ」(岡山県玉野市)や「矢掛町オリジナル体操」(岡山県矢掛町)、「智恵子抄」の詩に由来する「ほんとの空体操」(福島県二本松市)など、ご当地色豊かな内容でした。また、「黒田節体操」(福岡県福岡市)では、事前に別府公民館から届けられた扇子を使って、会場の全員で黒田節の曲に合わせて体操をしました。
 東部公民館は、千葉県の成田市と茂原市の夏祭りを紹介したあと、ご当地ダンスとして「ゆめみるチーバくん」を全国各地の会場の皆さんと練習し、皆で踊りました。会場は大変盛り上がり、最後の記念撮影では、千葉県の形を表現したチーバくんポーズを参加者全員で決めました。終わってからのおしゃべりタイムでは、他会場から「昔、流山に兄が住んでいました。なつかしいです」という声もありました。
 参加者からは「楽しく体を動かせてよかった」「全国各地の特色ある体操を知れて新鮮だった」「次回も参加したい」「故郷が福岡なので懐かしい気持ちになった」などの声があり、オンラインで全国と繋がる新たな形の交流に大きな反響がありました。オンラインご当地体操は、12月13日(金曜日)、令和7年3月14日(金曜日)にも開催予定です。お時間ある方は、ぜひ一緒に楽しみましょう。

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「智恵子抄」の詩に由来する「ほんとの空体操」」の一節があったので、こちらの情報が先にヒットしました。

「ほんとの空体操」は、二本松市さんで平成27年(2015)に作られたもので、その2年前に故・湯浅譲二氏作曲で制定された「二本松市民の歌」に合わせて振り付けられました。元々のコンセプトが「介護予防のための健康体操」ということでしたが、かつては市役所職員の皆さんが朝礼で毎朝演舞していたとのこと。かつて、というか、今でもやられているのでしょうか? また、コロナ禍で「ステイホーム」と騒がれていた時期には、各家庭での実施を市で広く呼びかけてもいました。
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ところで我が千葉県からは「ゆめみるチーバくん」。パパイヤ鈴木さんの振り付けで作られたものですが、なかなかハード。高齢者の皆さん、これをやって大丈夫? という感じなのですが(笑)。
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千葉県には別に「なのはな体操」というのがあるのですが、どうもオワコン化しつつあるようで(笑)……。

「ほんとの空体操」は滅びずに愛され続けてほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

いろいろ妨げられる事が多く、先日も北陸の方から山師坊主がおしかけてきて下らぬことに小生を参加させようとして追つぱらふのに骨でした。


昭和24年(1949)12月15日 西出大三宛書簡より 光太郎67歳

詳細はわかりませんが、こういうことが常態化していたようで……。

JR東日本さん主催のイベントです。

駅からハイキング&ウオーキング 秋のにほんまつ奥州街道 新旧のスイーツ店が点在する城下町を散策

期  日 : 2024年10月1日(火)~12月25日(水)
会  場 : 東北本線二本松駅~同安達駅 約6.0km
受付場所 : 二本松駅構内観光案内所
受付時間 : 9:30~11:30
ゴール時間 : 安全にご参加いただくため16:30までにゴールしてください。
料  金 : 無料

二本松~安達駅間、スイーツ求める美味しい旅
 JR東日本の「駅からハイキング&ウオーキング」イベントで、和洋菓子店をめぐりながら二本松~安達駅間を歩く「秋のにほんまつ奥州街道 新旧のスイーツ店が点在する城下町を散策」が10月スタートします。春プランに続く第2弾で、12月25日まで。
 両駅では高村智恵子をイメージした彫刻家・橋本堅太郎氏(二本松市名誉市民)の作品「ほんとの空」(二本松駅前)、「今ここから」(安達駅前)が出迎えます。コースは大山忠作美術館、亀谷坂、芭蕉と露伴の句碑、竹田坂、智恵子の生家などをめぐる約6㎞。途中、老舗菓子店など16店あり、自分へのご褒美やお土産に多彩なスイーツを味わったり、買い物が楽しめます。
 10月1日~11月17日に大山忠作襖絵展(美術館)、10月3日~11月17日には高村智恵子レモン祭(生家など)、10月10日~11月20日には二本松の菊人形(霞ヶ城公園)が開かれます。
 参加は自由(予約不要)ですが、JR東日本のアプリが必要。二本松駅観光案内所でコースマップ、スイーツガイドを配布します。受け付けは午前9時30分~同11時30分。問い合わせは、にほんまつDMO(電話0243-24-7702)へ。
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「駅からハイキング」は、JR東日本さんのキャンペーン的なイベントです。実に様々なコースが設定されています。一部を除き参加予約は不要で、専用のスマートフォンアプリ「駅からハイキング」をダウンロードして、「コースに参加する」ボタンを押し、参加するコースを選択後、コースマップを元にハイキングスタート! 同一日の受付時間内にスタートし、ゴール時間内までにゴールするというものです。参加回数に応じてプレゼント抽選に参加できるとのことです。

以前に銚子電鉄さんとのコラボで行われた「駅からハイキング ~関東最東端の犬吠埼と文学碑めぐりウォーキング・化石海水温泉を楽しむ~」をご紹介させていただきました。。

こちらのコースは、共に故・橋本堅太郎氏作の智恵子像である二本松駅前の「ほんとの空」から安達駅前の「今 ここから」までの約6㌔。途中に智恵子生家/智恵子記念館さんが佇み、智恵子づくしコースですね。

さらに玉羊羹の玉嶋屋さんなどの地元スイーツをからめて血糖値を上げながら(笑)。摂取カロリーと消費カロリー、どちらが上回るでしょうか(笑)。

ぜひご参加下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の重版書は以前の「造型美論」が厚すぎるので二冊に分けて「造型美論」と「印象主義」とにして筑摩書房が出したのです。


昭和24年(1949)12月6日 東正巳宛書簡より 光太郎67歳

書き下ろし評論『印象主義の思想と芸術』は、遠く大正4年(1915)に天弦堂から刊行。それを含む評論集『造型美論』が戦時中の昭和17年(1942)、筑摩書房から刊行されました。

そしてこの年、筑摩選書のラインナップとして二分冊で再版されました。
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音楽家の田中信昭氏が亡くなりました。

共同通信さん。

合唱指揮者の田中信昭さん死去 東京混声合唱団を創立[]

 東京混声合唱団(東混)の桂冠指揮者で、文化功労者の田中信昭(たなか・のぶあき)さんが12日午後9時40分、心臓死のため自宅で死去した。96歳。新潟県出身。葬儀は近親者で行う。
 1928年、新潟県生まれ。56年に東京芸術大を卒業し、東混を創立。常任指揮者に就任し、作曲家と協力して合唱音楽のレベルの向上に尽力した。
 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団など数多くのオーケストラの来日公演で合唱指揮を務め、桐朋学園大客員教授や国立音楽大招聘教授などを歴任。97年、東混の桂冠指揮者となり、2016年に文化功労者に選ばれた。

NHKさん。

合唱指揮第一人者 田中信昭さん死去 96歳

 合唱指揮の第一人者として知られ「東京混声合唱団」の創立に関わるなど、長年にわたって日本の合唱界をけん引してきた指揮者で文化功労者の田中信昭さんが9月12日に亡くなりました。96歳でした。
 田中さんは新潟県の出身で中学校の音楽教師を経て東京藝術大学の声楽科に入りました。
 大学を卒業した1956年に声楽科の有志とともに「東京混声合唱団」を創立して常任指揮者に就任、日本で有数のプロの合唱団に育て上げました。
 田中さんは日本語による合唱曲の創作に力を尽くし、さまざまな作曲家に依頼して曲を作ってもらい、460曲に及ぶ合唱曲を初演しました。
 また、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の来日公演や、NHK交響楽団など数多くのオーケストラ公演で合唱の指揮を取りました。
 全国のアマチュア合唱団の指導にも積極的に取り組み、こうした功績が評価され2016年には文化功労者に選ばれています。
 関係者によりますと田中さんは9月5日、自宅で転倒して入院していましたが、退院後の12日、自宅で亡くなったということです。
 8月末、東京混声合唱団の演奏会に指揮者として出演したのが最後のステージになったということです。
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田中氏、平成元年(1989)10月6日、赤坂の草月ホールで開催された「オペラ智恵子抄」初演の際、伴奏の10人編成アンサンブルの指揮をなさって下さいました。
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脚本は山本鉱太郎氏、監修は当会顧問であらせられた、故・北川太一先生、そして作曲は仙道作三氏。登場人物は光太郎智恵子二人だけという破格のオペラで、智恵子役は連翹忌ご常連、さらに女川光太郎祭にも欠かさずご参加下さっている本宮寛子氏が演じられました。ちなみに演出は光太郎とも交流のあった萩原朔太郎令孫・朔美氏でした。

田中氏、平成3年(1991)、日暮里サニーホールさんでの再演時にも指揮を務められました。
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謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

温泉といへば此処の太田村の寒沢川の上流に温泉が出さうだといふので村長さんが試掘願を出したりしてゐます。若し出たら夕涼みの散歩に浴泉出来るわけで万歳ですが。

昭和24年(1949)7月21日 宮崎丈二宛書簡より 光太郎67歳

「寒沢川」は光太郎が蟄居していた山小屋の近くを流れる川です。数㌔先の豊沢川沿岸には大沢温泉さん(また来週お世話になります)をはじめとする花巻南温泉峡があり、確かに温泉が出てもおかしくありません。しかし、結局、事業化には至らなかったようです。コスパの問題等もあったでしょうし。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通じて光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさん。最近のご活動を。

まず、市内のワンデイシェフの大食堂さんで、「こうたろうカフェ」として光太郎が実際に作ったメニューの再現や現代風アレンジによる昼食の提供。基本的に不定期ですが、直近で9月4日(水)に行われたとのこと。
9月ワンデイ
メニュー表 (3)
1725687629465 ふわとろ杏仁豆腐
枝豆。南蛮味噌のせご飯 白身魚のから揚げトロピカルソース
オカワカメと菊花、ゴーヤの佃煮、青トマトきゅうり
メニューは「白身魚のから揚げ トロピカルソース」「夕顔のトロトロ蟹あん」「ゴーヤの佃煮」「オカワカメと菊花の酢の物」「茄子と胡瓜の浅漬け」「バターナッツの満足スープ」「南蛮味噌ご飯」「ふわふわ杏仁豆腐」「コーヒー」だそうで。

レシピというか、食材を細かく教えていただきました。教えていただいても当方には作れませんが(笑)、以下を見て出来る方はご参考までに。

ゴーヤの佃煮 ゴーヤ、裂きイカ、醤油、三温糖、五倍酢、白ごま
バターナッツの満足スープ(カボチャのポタージュ) バターナッツカボチャ、玉ネギ、コンソメ、牛乳、生クリーム
南蛮味噌 ピーマンと麹、三温糖、青唐辛子
夕顔のトロトロ蟹あん 豪華カニ缶の餡をかける
トロピカルソース 夏野菜とパイン、桃
ふわふわ杏仁豆腐 マシュマロと牛乳で作る杏仁豆腐

続いて毎月15日、、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント・ミレットキッチン花(フラワー)さんで販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」。こちらも光太郎がらみの献立で、やつかの森LLCさんがメニュー考案に当たられています。
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内容的には「栗ご飯」「サンドイッチ」「チキン南蛮」「かぼちゃの甘煮」「きのこ炒め」「きゅうりの酢の物」「卵焼き」「フルーツ」。

栗やらきのこやら、秋らしい食材ですね。当方、栗ご飯は大好物でして、画像を見てパブロフの犬状態でした(笑)。

やつかの森LLCさん、他にも花巻市内で光太郎に関する「出前講座」をなさっています。

9月6日(金)には「シニア大学講座」とのことで、花巻市生涯学園都市会館(まなび学園)さんで。寸劇を交え、休憩時間には得意の料理もふるまわれたとのこと。
シニア大学1 シニア大学3
シニア大学2 シニア大学5
シニア大学6 シニア大学7
9月11日(水)にも、同じ会場で今度はシニアの方々に招かれての講座をなさったそうです。

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わかくさ5 わかくさ6
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地元でこういう団体さんがいらしてくださると、ありがたいところです。お一人お二人で、となると無理なのでしょうが、グループでやられることでタイトな日程にもある程度対応できると思われますし。

花巻といえば宮沢賢治。当方、よく存じませんが賢治関連ではこういうグループなりがいろいろあるのでは、と思っております。しかし光太郎がらみではやつかの森LLCさんのみ。ありがたいかぎりです。

今後とも様々な場面でのご活躍を祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

恐らく東京でも珍らしいであらうと思はれるカビヤのびん詰めまで在中、そぞろに戦前の頃を思ひ出しました。カビヤの珍味は小生好物中の好物にて、戦前智恵子の健康であつた頃稀に入手して一緒に酒の肴として賞味した記憶があり、なつかしい限りでした。


昭和24年(1949)7月14日 藤間節子宛書簡より 光太郎67歳

「カビヤ」はキャビアのことですね。当時はとてつもない寒村だった花巻郊外旧太田村にいても、方々の支援者からいろいろな食料が送られてきて、なかなかに光太郎の食卓は充実していました。これも人徳ですね(笑)。

コーラスグループ、ボニージャックスのメンバー・鹿嶌武臣さんが亡くなりました。

『日刊スポーツ』さん。

「ボニージャックス」鹿嶌武臣さん死去、90歳 家族と「じゃあまた明日ね」と会話も容体が急変

無題 日本のコーラスグループを代表する「ボニージャックス」のメンバー、歌手の鹿嶌武臣(かしま・たけおみ)さんが12日午後6時38分、脳幹出血のため、入院中だったさいたま市の病院で死去した。90歳だった。京都府舞鶴市出身。通夜および告別式は、家族の希望により家族葬として執り行う。
 男性4人のコーラスグループ「ボニージャックス」は1958年、早稲田大グリークラブ出身のメンバーで結成された。同時期に活動した慶応大学の4人グループ「ダーク・ダックス」とともに、男性コーラスグループのブームを作った。
 鹿嶌さんは初期の結成メンバーの1人で、バリトンを担当。「北帰行」(1961年)、「ちいさい秋みつけた」「琵琶湖周航の唄」(ともに1962年)、「もずが枯木で」(1963年)などのヒットを続け、1963年(昭38)年からNHK紅白歌合戦に連続出場。「一週間」(1963年)、「幸せなら手をたたこう」(1964年)「手のひらを太陽に」(1965年)などのヒット曲を披露した。
 小林旭(85)との競作となった「北帰行」では、61年の「日本レコード大賞」をフランク永井の「君恋し」と最後まで競い(8票差で次点)、「ちいさい秋みつけた」では「日本レコード大賞」童謡賞を受賞した。
 2021年にメンバーだった西脇久夫さんが亡くなった後も3人でステージをこなし、昨年の「第50回日本歌手協会歌謡祭」にも出演。鹿嶌さんは今年7月5日、「鹿嶌武臣の世界」(彩の国さいたま芸術劇場映像ホール)に出演したが、その後入院。所属する日本歌手協会によると、亡くなった当日も家族が病院に見舞った際、「じゃあまた明日ね」などと元気に会話していたが、その後に容体が急変し、帰らぬ人となったという。
 日本歌手協会では、13日午後5時56分から放送のレギュラー番組「プレイバック日本歌手協会歌謡祭」(BSテレ東)で、過去の「歌謡祭」に4人で歌唱している「ちいさい秋みつけた」を放送する予定。さらに、10月29日、30日開催(4回公演=各回出演者が異なる)の「第51回日本歌手協会歌謡祭」(江戸川区総合文化センター)の30日夕の部に、残されたメンバーの玉田元康(90)と吉田秀行(59)が鹿嶌さんをしのび、歌唱することが決定した。

2fb7f483-sコロムビアさんから平成9年(1997)にリリースされた2枚組CD「ボニージャックスの日本の唱歌」中で、光太郎作詞の戦時歌謡「歩くうた」を歌われていました。右画像、左からお二人目が鹿嶌さんです。

ボニージャックスさん、創設時のメンバーのうち大町正人さん(右端)は平成23年(2011)に、西脇久夫さん(右から2人目)は令和3年(2021)にそれぞれ亡くなっています。

大町さんが亡くなってから吉田秀行さんが加わられ、オリジナルメンバーの玉田元康さん(左端)とお二人となってしまいましたが、デュオとしてでも「ボニージャックス」のブランドを残していただきたいものです。

小ネタをもう1件。今夜のラジオ放送です。

yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ

2024年9月14日(土) TokyoFM/FM軽井沢 18:00~18:30 FM大阪/FM長野 18:30~19:00

『自分にyes!と言えるのは、自分だけです』今週あなたは、自分を褒めてあげましたか? 古今東西の先人が「明日へのyes!」を勝ち取った命の闘いを知る事で、週末のひとときをプレミアムな時間に変えてください。あなたの「yes!」のために。

語り:長塚圭史 脚本:北阪 昌人 

■第472話『己(おのれ)の後悔と向き合う』 高村光太郎(彫刻家、詩人)千葉県にまつわるレジェンド②

■詩集「道程」「智恵子抄」で知られる高村光太郎。彫刻家の父・光雲との確執、智恵子との愛と死、戦争中の創作、さまざまな感情を詩集は伝えます。

■千葉県の犬吠埼や九十九里で愛する智恵子との時間をすごした彼が残した人生のyes!とは?
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通常のラジオ受信機での聴取は地域限定ですが、現代はスマホで聴取可能ですし、番組公式サイトではアーカイブとして過去の放送がアップされています。今夜の放送も来週には上がるでしょう。

ぜひお聴き下さい。

【折々のことば・光太郎】

人体が見たくなると近くの温泉にゆきます。生きたモデルがたくさんゐます。

昭和24年(1949)6月17日 野見山朱鳥宛書簡より 光太郎67歳

人体彫刻の構想が頭に渦巻きながら、それに着手できない苦悩が垣間見えます。何の予備知識もなくこれだけ読むとただの変態ですが(笑)。

光太郎第二の故郷・岩手花巻の花巻南高さん。光太郎と交流のあった宮沢賢治の妹にして、賢治の「永訣の朝」等に謳われたトシの母校であり、トシ自身も短期間教壇に立っていました。

そちらの文芸部さん発行の部誌『門』の第18号をいただきました。
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まず美しい表紙に驚きましたが、部員の生徒さんが和紙を染めた夾纈(きょうけち)染めだそうで。これは正倉院御物にも使われている技法です。美術部さんとコラボして染めにチャレンジされたとのことですが、よき伝統を受け継ぎ、新しいものをクリエイトしていくという姿勢には感心させられました。

昨年送っていただいた第17号でもかなりの分量で光太郎に触れていただきましたが、今号はさらにパワーアップし、2箇所に分けて「特集Ⅰ わたしたちの高村光太郎」と銘打ち、約30ページ(全体の3分の1ほど)費やして下さいました。ありがたし。
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1箇所目は座談「わたしの高村光太郎を語り合う」と題し、当地で光太郎顕彰活動に取り組まれているやつかの森LLCさんのお三方、それから戦後間もない昭和20年代から児童劇団「花巻宮沢賢治子供の会」で活動されていた熊谷光さんへの聞き書きです。

特に「食」に軸足を置いた活動をなさっているやつかの森LLCさん、道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんで毎月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」や、市内東和地区の花巻ワンデイシェフの大食堂さんでの「こうたろうカフェ」などで、光太郎が実際に作ったメニューの再現や現代風アレンジなどをなさっています。そうした中で改めて見えてきた光太郎の姿などのお話は興味深く拝読させていただきました。

それから実際に生前の光太郎をご存じの熊谷さんのお話は、実に貴重な証言と存じます。「花巻宮沢賢治子供の会」は賢治の童話を劇化、花巻の中心街と、光太郎が蟄居していた旧太田村の山口分教場(のち山口小学校)で公演を行っていて、光太郎はそれを実に楽しみにしていました。熊谷さんの回想から。

私たちが行った時、先生はとても喜ばれて、帰りは山口小学校の道路の下の大きな道路まで出ていらして、私たちの姿が見えなくなるまで手を振ってくださいました。それが、すごく記憶に残っております。

子供たちが見えなくなるまで手を振り続けた光太郎を思い浮かべると、うるっときてしまいました。子供のいなかった当時60代後半の光太郎、「花巻宮沢賢治子供の会」の少年少女たちを本当の孫のように感じていたのかもしれません。
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上の画像では、熊谷さん、最前列一番左だそうです。今年亡くなった、賢治実弟清六令嬢の宮沢潤子さんもメンバーでした。

そもそもなぜ「花巻宮沢賢治子供の会」ができたのかについても証言が。それによると賢治の教え子だった故・照井謹二郎氏が、戦後になっても戦争ごっこをして遊んでいる子供たちを見て、これではいかん、と思ったのがきっかけの一つだそうです。なるほど、と激しく納得しました。

ところでまだ詳細情報が出ていませんが、10月27日(日)、熊谷さん他「花巻宮沢賢治子供の会」に在籍されていた方、清六令孫の宮沢和樹氏、そして当方でまた花巻にてトークショーを行います。詳しく決まりましたらまたご紹介いたします。

特集のうちのパートⅡは、今年6月に花巻で行われたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」のレポートがメイン。この際は文芸部の生徒さんたちも登壇し、発表や朗読をなさいました。それから家庭クラブの生徒さんと共同で「智恵子のエプロン」の再現。

昨年、花巻高村光太郎記念館さんでの企画展「光太郎と吉田幾世」で、当方が大正期の『婦人之友』に載った智恵子デザイン・制作のエプロンについてご紹介したところ、それを復刻、披露して下さいました。
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実際に制作に当たった家庭クラブの生徒さんの文章も掲載されています。柿渋の酒袋(おそらく智恵子が実家の長沼酒造から持ってきたか取り寄せたか)が分厚くてミシン縫製に手こずったというお話や、酒袋の規格でほとんどそのまま裁断しなくて使えたというお話など、やってみないとわからないことも。素晴らしいと思いました。

その他、詳しくご紹介する余裕がありませんが、生徒さんたちの詩歌や小説、戯曲などにも感心させられましたし、活動を支える顧問の先生の御尽力なども垣間見えました。

今後のさらなるご活躍を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

やさしいお手紙は山の中に一人で住む六十六歳三ヶ月の老人の心を静かに慰めてくれました。殊に新しい村の娘さんからなので尚よろこびました。


昭和24年(1949)6月3日 山本武子宛書簡より 光太郎67歳

新しい村」は正しくは「新しき村」で、『白樺』時代からの光太郎の盟友・武者小路実篤が開いた生活共同体。農耕や芸術制作を基本に据え、その意味では花巻郊外旧太田村の光太郎のライフスタイルとリンクする部分も。

現在も埼玉県毛呂山町で存続していますが、現状はかなり厳しいようです。

まず、毎月恒例の道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんテナントのミレットキッチンフラワーさんで、各月15日に販売されている豪華弁当「光太郎ランチ」の今月分。メニュー考案には花巻で光太郎顕彰に当たられているやつかの森LLCさんが協力なさっています。
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今月のメニューは「鰹の南蛮漬け」「牛肉のアヒージョ」「茄子の揚げ浸し」「青海苔入り卵焼き」「小豆ご飯」「ジャガイモ入りカレー炒飯」「ミニトマトゼリー」「瓜の漬物」だそうで。

けっこうこってり系だったようですが、夏バテ予防にはいい感じだったみたいです。卵焼きはいつも塩麹入りなのですが、今月は新しい試みで青海苔入り。それも美味しそうですね。

基本、光太郎が実際に作った料理や使った食材を参考に、現代風にアレンジされたものですが、同様のコンセプトでワンデイシェフの大食堂さんというお店でランチを提供する「こうたろうカフェ」、今月はお休みで次回が9月4日(水)だそうです。先月分はこんな感じ

今朝の段階ではHP上に来月のメニューが出ていませんが、また凝ったメニューになるのでしょう。

お近くの方(遠くの方も(笑))ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

小豆をよろこんでいただいて感謝しました。今年もかなりとりましたが今度はもつと多く作るつもりです。ウヅラ豆の大増産もやらうと思ひます。


昭和24年(1949)1月5日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎67歳

花巻郊外旧太田村での畑作も軌道に乗り、作った作物を他に送れるほどになっていたわけで、「光太郎ランチ」でも使われていた小豆をお裾分けしています。

「今年」とありますが、年が改まっていますので正確には「昨年」、まぁ、「今期」という意味なのでしょう。

安達太良山を舞台とし、「智恵子抄」をモチーフの一つとして下さった章を含む、湊かなえ氏の小説『残照の頂 続・山女日記』の文庫版が出ました。

残照の頂 続・山女日記 

2024年8月8日 湊かなえ著 小林百合子解説 幻冬舎(幻冬舎文庫) 定価670円+税

亡き夫への後悔を抱く女性と、人生の選択に迷う会社員。失踪した仲間と、共に登る仲間への、特別な思いを胸に秘める音大生。娘の夢を応援できない母親と、母を説得したい山岳部の女子大生。……日々の思いを嚙み締めながら、一歩一歩山を登る女たち。山頂から見える景色は、苦くつらかった過去を肯定し、これから行くべき道を教えてくれる。


目次
 後立山連峰
  亡き夫に対して後悔を抱く女性と、人生の選択に迷いが生じる会社員。
 北アルプス表銀座
  失踪した仲間と、ともに登る仲間への、特別な思いを胸に秘める音大生。
 立山・剱岳
  娘の夢を応援できない母親と、母を説得したい山岳部の女子大生。
 武奈ヶ岳・安達太良山
  コロナ禍、三〇年ぶりの登山をかつての山仲間と報告し合う女性たち。
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新聞各紙に大きく広告も出ていました。サイン会の情報も載っています。
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元版は令和3年(2021)秋の刊行。ほぼ同時にNHK BSさんでドラマ化されました。工藤夕貴さん、小林綾子さんらのご出演。
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電子版も出ています。

ハードカバー版、お持ちでない方はぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

今年は変つた冬で此の山の中でもまだ根雪にならず、降つてもとけてしまひ、概して天気がよく、寒さも零下八度ぐらゐになる程度で例年のやうな零下二十度にはまだなりません。冬晴れの澄みきつた天空の美しさは言語の外です。毎朝大霜で霜柱の大きく長いのははじめて見ました。一面に花が咲いたやうできれいです。


昭和23年(1948)12月30日 西出大三宛書簡より 光太郎66歳

この年の冬は暖冬だったようですが、それにしても……ですね。

8月9日(金)に光太郎ゆかりの地・宮城県女川町で開催された第33回女川光太郎祭につき、報道が為されました。

まず仙台に本社を置く『河北新報』さん。

高村光太郎の生涯に思い 宮城・女川で詩の朗読や講演イベント、県内外のファン集う

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第33回女川「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)があった。県内外のファンら約30人が、詩の朗読や演奏を通して光太郎の生涯に思いを巡らせた。
 同町まちなか交流館で9日にあったイベントでは、町内外の8人が朗読。光太郎が女川の風景を見て「新興の気があふれていた」とつづった紀行文や「よしきり鮫(さめ)」といった詩を情感込めて読み上げた。
 高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表は講演で、福島県二本松市出身の妻智恵子の生涯を解説した。光太郎が晩年、東京都内のアトリエで制作した彫像「乙女の像」にも触れ「彫像の顔は最愛の智恵子だった。そのアトリエの所有者が亡くなり、今存続が危ぶまれている。後世に残すため、思いを同じくする多くの声が必要だ」と話した。
 光太郎は1931年に三陸沿岸を巡った。光太郎祭は92年から開かれている。光太郎の会の須田勘太郎会長は「光太郎が女川を題材に刻んだ足跡を後世に残そうと立ち上がった町内の人々の苦労や思いを受け継ぎ、語り継ぎたい」と話した。
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続いて、同紙の別刷りで牡鹿方面に折り込まれる『石巻かほく』さん。

高村光太郎しのぶ 女川にファン集い、朗読や講演会

 戦前に女川町を訪れ、紀行文や詩を残した詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ第33回女川「光太郎祭」が9日、町まちなか交流館で開かれた。県内外のファンら約30人が集まり、紀行文、詩碑、詩の朗読を通して光太郎の思いに触れた。
 「女川・光太郎の会」が主催した。町民や東京の中学生ら8人が詩を朗読。女川での体験を基に書かれたと言われる「よしきり鮫(さめ)」や「霧の中の決意」といった詩をギターの演奏に合わせて読み上げた。
 講演もあり、高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営委員会の小山弘明代表が光太郎の妻智恵子の生涯を解説。結婚生活や病気療養中につくった紙絵などを紹介した。
 小山代表は光太郎が晩年、制作に当たったアトリエが東京にあることに触れ「所有者が亡くなり、存続が危ぶまれている。後世に残すために多くの声が必要になっている」と話した。
 光太郎の会の須田勘太郎会長は「祭りを続け、光太郎の足跡を多くの人に語り継いでいく」と話した。
 光太郎は1931年に三陸地方を旅した。女川を題材にした紀行文や詩を残し、91年に文学碑が女川港近くに建立され、92年から光太郎祭が開かれている。近年は新型コロナウイルスの影響で中止もあったが、昨年再開した。
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光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場ともなった中野区の中西利雄アトリエ保存運動につき、講演で触れさせていただいたところ、記事の中にも取り上げて下さいました。ありがたし。NHK仙台放送局さんでも6月にご紹介下さいましたが、東北の方々にもそういう話があるんだというのをもっと知っていただきたいと常々思っておりますので。

ところで、女川光太郎祭の講演でアトリエ保存の話をいたしましたところ、その後の女川町長・須田善明氏の祝辞でそこに食いついたお話。同町としては、東日本大震災の津波で倒壊した光太郎文学碑の再建に力をお貸し下さいまして、そのあたりなど。碑の再建方法には女川光太郎の会の方々の意向が全て反映されたわけではありませんでした。それでも町の所有物でないものに対し、税金を投入して支援を行って下さった苦労話には、「なるほど」と思わされました。

ちなみに劇作家・女優の渡辺えりさんに代表をお願いしている保存する会としてのホームページが、現在、鋭意製作中。そのあたりに長(た)けた方がご協力下さっています。公開が始まりましたらまたお知らせいたします。

【折々のことば・光太郎】

「山脈」も落手、山に居てかういふものを作られる御努力を推察しました。小生も山林にまゐり居り、農家、樵夫ともいろいろ近づきになり、今では都会へかへる気はなくなりました。「山脈」の文字を書きましたので、ともかくも同封いたします。よい紙がないので甚だ粗末でしたが。


昭和23年(1948)12月27日 三上秀吉宛書簡より 光太郎66歳

三上は戦前には『婦人之友』編集に当たっていた人物。戦後、九州で文芸誌『山脈』を主宰したりしました。

その『山脈』の題字揮毫が光太郎に依頼され、書いて送ったよ、というわけです。ところがこの光太郎揮毫の題字が使われた号が未見です。使われずにお蔵入りになった可能性もありますが。情報をお持ちの方、ご教示下されば幸いです。

作曲家の湯浅譲二氏が亡くなりました。

共同通信さん配信記事。

作曲家、湯浅譲二さん死去 文化功労者

001 日本の現代音楽の発展に貢献した作曲家で文化功労者の湯浅譲二(ゆあさ・じょうじ)さんが7月21日午前8時43分、肺炎のため自宅で死去した。94歳。福島県出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は長男龍平(りゅうへい)さん。
 戦後に多様な前衛芸術を展開した「実験工房」で武満徹さんらと活動。国内外で活躍し、オーケストラや室内楽、合唱、電子音楽などを幅広く作曲した。
 テレビや映画の音楽も数多く担当。NHK大河ドラマ「徳川慶喜」や九重佑三子さん主演のドラマ「コメットさん」の音楽のほか、童謡「はしれちょうとっきゅう」も広く知られている。
 1999年に恩賜賞・日本芸術院賞、2014年に文化功労者。

『朝日新聞』さん。

作曲家の湯浅譲二さん死去、94歳 戦後日本の音楽界リード

002 オーケストラ音楽から電子音楽まで幅広い作風で国際的に活躍し、戦後日本の音楽界を先導した作曲家の湯浅譲二(ゆあさ・じょうじ)さんが7月21日、肺炎で死去した。94歳だった。葬儀は近親者で営んだ。後日、お別れの会を開く予定。喪主は長男龍平さん。
 福島県郡山市出身。独学で作曲を始めた。慶応大医学部在学中に音楽評論家の秋山邦晴や作曲家の武満徹と出会い、同大中退後、51年に詩人の瀧口修造が命名した芸術家集団「実験工房」に参加。作曲に専念した。
 音楽を「音響エネルギーの運動」としてとらえ、スケールの大きい作品を多く手がけた。代表作に「クロノプラスティク」「内触覚的宇宙」シリーズなど。NHK大河ドラマ「元禄太平記」、NHKの「おかあさんといっしょ」、テレビドラマの「コメットさん」「木枯し紋次郎」、伊丹十三監督の映画「お葬式」の音楽も手がけた。
 後進の指導にも力を注ぎ、米カリフォルニア大サンディエゴ校で教授を務め、国内外の音楽祭の監修や作曲賞の審査も数多く担った。自作を編曲した「哀歌(エレジィ)」で今年、5回目の尾高賞を受賞。96年度サントリー音楽賞、2014年文化功労者。

湯浅氏、智恵子の故郷・二本松市に近い郡山市のお生まれで、そうした縁から平成28年(2016)には独唱歌曲「あれが阿多多羅山 バリトンとオーケストラのための~高村光太郎『樹下の2人』による」を作曲なさり、同市で初演が為されました。

つい4日前、同市のホームページに「あれが阿多多羅山……」もラインナップに入った「市制施行100周年を記念音楽祭」(11月3日(日))の告知が出たばかりで、驚いております。

また、平成25年(2013)には「二本松市民の歌」もご作曲。こちらも「智恵子抄」インスパイアの歌詞が盛り込まれています。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

【折々のことば・光太郎】

学校では小生寄附の幻灯機披露の幻灯会を先日催しました。

昭和23年(1948)11月6日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

学校」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの太田小学校山口分教場。「幻灯機」は今で云うプロジェクタですね。

『読売新聞』さんのサイト内で、5月から今月にかけて「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」という連載が成されました。
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ご執筆は武蔵野美術大学さんの前田恭二教授。昨秋行われた研究発表会、第66回「高村光太郎研究会」で「米原雲海と口村佶郎――新出“手”書簡の後景――」という題で発表をなさり、それを元に今春発行された研究誌『高村光太郎研究(45)』に論考「新出「手」書簡の後景――米原雲海と口村佶郎」を寄稿なさいました。

「ヨミダス」は、『読売新聞』さんの紙面データベース。明治7年(1874)から現在までの掲載記事を検索できます。当方もだいぶ以前に国会図書館さんでそちらを使い、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎文筆作品等を10篇以上見付けました。詩人の野口米次郎を評した長い評論、『高村光太郎全集』に第1回から第11回までは収められているものの、最終回に当たる第12回が漏れていた評論「西洋画所見」など。

その「ヨミダス」で閲覧出来る過去の誌面から、明治大正期の主に美術に関する記事をピックアップし、さまざまな角度から解説が加えられています。

全5回だったようで、ラインナップは以下の通り。すべて光太郎に(一部智恵子や光雲に)言及されています。

若きフジタの「漫画展」――青春時代の藤田嗣治 
光太郎が彫刻科を卒業して入学し直した東京美術学校生洋画科で同級生だった藤田嗣治がメイン。欧米留学から帰朝した光太郎が明治43年(1910)、神田淡路町に開店したほぼほぼ我が国初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)がらみで光太郎、そして智恵子にも言及されています。

高村光太郎と荻原碌山――1910年4月の群像 
光太郎、そして共にロダニズムを日本に移植した碌山荻原守衛について。やはり光太郎の親友だった葉舟水野盈太郎のエッセイ等も引かれ、光太郎と守衛の深い結びつきが紹介されています。

東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅠ――上司小剣の“匿名日記”を読む
「高村光太郎と荻原碌山」でも触れられた、登場人物がイニシャルで書かれている私小説、エッセイ等で、それぞれの人物を特定する試み。

東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅡ――人見東明とフュウザン会
「フュウザン会」は、光太郎、岸田劉生、斎藤与里らが興した反アカデミズム系の展覧会。第一回展が大正元年(1912)、当時の読売新聞社社屋を会場に開催されました。

最も新しい女性画家――高村智恵子の青春
『青鞜』の表紙絵や太平洋画会展への出品などで注目され始めていた智恵子が、『読売新聞』に「最も新しい女画家」として紹介され、その前後の智恵子について。これが最も驚きました。大正14年(1924)に紙面に載ったという光太郎智恵子の写真が掲載されていたためです。
1925年1月26日付朝刊より
撮影場所はおそらく駒込林町の光太郎アトリエ兼住居でしょう。なぜ驚いたかというと、この写真、これまでに刊行された光太郎智恵子関連の研究書等の類に掲載されたことが無いと思われるものだからです。

戦前に亡くなった智恵子の写真はこれまで30葉見つかっていたかどうか、それも少女時代のものが多く、結婚後のものは10葉足らずで、一昨年、昭和3年(1928)5月発行の雑誌『美術新論』に載った下記の写真を見付けて驚きましたが、また一葉加わりました。
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それにしても、メジャーなメディアだった『読売新聞』に掲載されていた写真が知られていなかったというのが意外でした。また、先述の通り、「ヨミダス」はかなり前に一通り調べたのですが、見落としていました。暇を見てもう一度「ヨミダス」での調査もやらなければ、と思いました。

さて、上記リンクから「ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨今蟲にくはれたのがもとで面疔のやうなものが上唇に出来、厄介です。ズルフアミン剤をのんでゐますが、高いのに驚きます。


昭和23年(1948)8月6日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

「面疔(めんちょう)」は、「とびひ」等と同じく黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。虫に刺された箇所を、土などのついた手でポリポリ搔いたために発症したと思われます。この際は結構な重症で、なかなか治りませんでした。

能楽師の山本順之氏が亡くなりました。

共同通信さん配信記事。

山本順之さん死去 能楽観世流シテ方001

 山本 順之さん(やまもと・のぶゆき=能楽観世流シテ方、重要無形文化財保持者〈総合認定〉)8日午後10時24分、肝細胞がんのため自宅で死去、85歳。大阪市出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は長男基之(もとゆき)さん。
 「姨捨」などの古典作品をはじめ、数多くの舞台に出演。75年度芸術選奨文部大臣新人賞を受賞。

『朝日新聞』さん。

山本順之さん死去

 山本順之さん(やまもと・のぶゆき=能楽師シテ方観世流)8日、肝細胞がんで死去、85歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主は長男基之さん。
 大阪府出身。75年度の芸術選奨文部大臣新人賞を受けた。重要無形文化財保持者(総合認定)で、地謡を率いる地頭としても活躍した。

当方、令和3年(2021)、南青山の銕仙会能楽研修所さんで上演された「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」を拝見・拝聴して参りました。
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謡がメインの公演でしたので、山本氏、仕舞で「井筒」、あとは連吟と独吟でした。で、連吟が「智恵子抄」。昭和32年(1957)、武智鉄二構成演出、観世寿夫らの作曲・作舞で演じられた「新作能 智恵子抄」を元にしたものでした。下記は初演時の雑誌『サングラフ』記事です。
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その後、きちんと演じられることは多くなく、ダイジェスト版の舞囃子、それから謡だけを取り出しての連吟や独吟で取り上げられるケースがほとんどでした。
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山本氏、「山本順之師の謡と舞台への思いを聴く会」の際には、朝日さんの記事に有る通り地謡を率いる地頭として幽玄な世界を存分に、重厚に表されていました。

また、昨年は横浜能楽堂さんで上演された企画公演「能役者 鵜澤久」の際にも、地頭として「智恵子抄」。こちらは舞囃子でした。残念ながらチケットが取れず見逃しましたが。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」を舞踊にするといふ事、あなたなら智恵子を下等にしてしまふ事はないと信じますから快く承諾いたしますが、藤間節子さんがどんな表現を創造するか推察もつきません。


昭和23年(1948)7月25日 藤間節子宛書簡より 光太郎66歳

先述の「新作能 智恵子抄」は光太郎が歿した翌年の昭和32年(1957)。この前後、新珠三千代さん主演のテレビドラマ、原節子さん主演の映画、初代水谷八重子さん主演の舞台と、「智恵子抄」の二次創作が相次ぎました。智恵子を演じられたお三方と、「新作能 智恵子抄」をプロデュースした武智鉄二による座談会の模様が、昭和32年(1957)6月1日発行の『婦人公論』第42巻第6号に掲載されました。
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こうした二次創作の嚆矢が、舞踊家・藤間節子(のち黛節子)による舞踊「智恵子抄」公演。昭和24年(1949)に帝国劇場で初演、その後、繰り返し上演されました。
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藤間は戦時中から光太郎と交流がありました。その回想から。

 ピンクのカーネーションの大きな花束を抱いて高村先生の林町のお宅をお訪ねしたのは十七年六月十五日の午後、「これ奥様にさし上げて下さい」、とさし出した私の突飛な言葉を「これは智恵子の好きだつた花瓶です」と、黒つぽい長い花瓶にさして大きなお机の上におゝきになつた先生。私が夢中になつて申上げる「智恵子抄」のことを一つ一つ首肯いてうけて下さる。そして最後に奥様の作られた切り紙細工を見せて下さつた。
(略)
 空襲中も「智恵子抄」だけは抱いて防空壕にのがれ、疎開先に背負つてゆき、そしていつか口の朗読が踊りの表現へと形作られてゆきました。そのことを何年ぶりかで岩手の山中へお便りしたところ先生からはすぐ御返事が来ました。「貴女なら、智恵子を下等にしてしまはないから快く承諾いたします」と。
 その時の私は、その葉書をもつて広くもない家中を飛び廻ってしまいました。

北海道から企画展示等の情報です。

来釧した文豪たち 「文豪とアルケミスト」も釧路に来た!!

期 日 : 2024年7月27日(土)~10月20日(日)
会 場 : 釧路文学館 釧路市北大通10丁目2番地(釧路市中央図書館6階)
時 間 : 9:30~19:30
休 館 : 毎週月曜日(祝日除く)・毎月最終金曜日
料 金 : 無料

石川啄木をはじめ、草野心平や河東碧梧桐、高浜虚子など釧路に訪れたことのある文豪のほか、里見弴に師事していた釧路ゆかりの作家・中戸川吉二、原野の詩人・更科源蔵と高村光太郎など釧路文学館が所蔵する関連史料を展示します。
なお、会期中はDMM GAMES配信のゲーム「文豪とアルケミスト」とタイアップし、記念グッズの販売や等身大パネルを展示します。

等身大パネル展示
◆釧路文学館:石川啄木(夜の散歩衣裳) 高村光太郎(平服) 草野心平(パーカー衣裳)
◆釧路港文館:石川啄木(平服) 釧路市大町2-1-12
◆北海道立釧路芸術館:石川啄木(作業着衣裳) 釧路市幸町4-1-5
◆釧路フィッシャーマンズワーフMOO:石川啄木(和装) 釧路市錦町2-4
◆釧路市生涯学習センター まなぼっと幣舞:石川啄木(制服)

記念グッズ販売
タイアップ企画開催を記念して、釧路文学館でポストカード、クリアファイル、缶バッヂを販売します。クリアファイルには来釧した文豪たちと釧路の風景がデザインされています。

スタンプラリー開催
会期中に釧路文学館・釧路港文館または道立釧路芸術館を巡ろう! スタンプを集めると、「オリジナルしおり」をプレゼント!

釧路市図書館合同展示開催!
会期中、釧路市内にある図書館と連動して関連展示を開催します。
◆釧路市中央図書館:各フロアの特色にあった展示をおこないます。
◆東部地区図書館:「文学と友情」
◆中部地区図書館:「文豪とその名作」
◆西部地区図書館:「文豪と食」

マンスリー朗読会
①7月27日(土)  18:00~19:00
 【会場】釧路文学館 【朗読者】ジスイズ朗読会 【作品】夏の夜咄~小泉八雲の怪談
②8月25日(日)13:00~14:00
 【会場】中央図書館 【出演者】釧路演劇協議会
③9月8日(日)13:00~14:00
 【会場】中央図書館 【朗読者】リーディングサービスコスモス

初心者向け短歌教室 コスプレOK!
 【日時】8月10日(土) 【会場】文学会議室 【講師】簑島智恵子(釧路歌人会会長)


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オンラインゲーム「文豪とアルケミスト」(文アル)とのコラボ企画です。釧路ということで、石川啄木がメインですが、啄木と交流のあった光太郎や、光太郎と親しかった道出身の更科源蔵、当会の祖・草野心平も取り上げて下さるそうで。

「文アル」関連では、先頃、光太郎も登場人物として名を連ねた舞台「文豪とアルケミスト 旗手達ノ協奏(デュエット)」が上演されましたし、岩手花巻では、宮沢賢治と光太郎を前面に押し出したスタンプラリーが一昨年開催され、それぞれ多くのファンの方々でにぎわいました。また、福岡の北原白秋生家・記念館さんでも一昨年「北原白秋没後80年特別企画展~白秋と若き文士たち~」の際にタイアップ企画で光太郎が取り上げられましたし、このブログサイトではご紹介しませんでしたが、昨年には高知の吉井勇記念館さん開館20周年記念で香美市立図書館かみーるを会場に「『文豪とアルケミスト』にみる吉井勇と文豪たち」と題した座談会が開催され、やはり光太郎の等身大パネルが出たそうです。

遡れば平成29年(2017)には森田成一さんによる朗読CDもリリースされています。

文豪たちに親しんでもらう入口としてはこういう方向性もありだと思われます。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

六月中は五月から引きつづいて来客殆ど連日に及び、畑仕事を大いに邪魔されました。来る人は皆遠方から、相当の好意を以て来てくれるのですから、歓迎するのですが、あとで仕事の手遅れを取かへすのに大骨折です。多い日は来客八人に及びました。


昭和23年(1948)7月4日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村での生活。自分では謹慎や蟄居のつもりでいても、世間が放っておかないわけで、痛し痒しでした。

光太郎第二の故郷・岩手県花巻市で、主に「食」を通じて光太郎顕彰をなさっているやつかの森LLCさんによる最近の取り組みを。

まず、同市土沢地区のワンデイシェフの大食堂さんで、7月13日(土)に「こうたろうカフェ」としてご出店。こちらのお店は様々な団体さん、個人の方が日替わりで厨房に立ち、料理を饗するというシステムです。
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やつかの森LLCさんでは、基本、日記等に書かれている実際に光太郎が自炊していた料理や使っていた食材などを参考に、現代風の料理に仕立てています。

メニュー的には以下の通り。

「自家製サラダチキン チリソース添え」
ボイル海老とスナップエンドウが添えられています。

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じゃがいもは新じゃがだそうで。

「夏野菜の揚げびたし」
朝採りの茄子とインゲンが使われています。

「小松菜のじゃこ炒め」
小松菜はゆずポン酢であえてじゃこと白ごまをかけて味を調えています。

「きゃらぶき」
蕗ですね。

「紫蘇巻き胡瓜と茗荷酢漬け」

「ズッキーニの冷製ポタージュ」
玉ネギ、ジャガイモの他にお粥が加えられているとのこと。

「黒米ご飯」
アントシアニンたっぷりでもっちりしているそうです。

「フルーツミルク寒天」
最近、彼の地で栽培が広まっているブルーベリーが使われています。

そして締めは「コーヒー」。

夏らしく、さっぱりとしたヘルシーな感じですね。

土曜ということもあり、事前に予約で完売だそうでしたが、初めての方もいらっしゃったとのことで、輪が広がっているんだなという感じです。

昨日は、毎月15日に道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで調理・販売を行っている弁当「光太郎ランチ」の販売日。メニュー考案はやつかの森LLCさんです。
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こちらのお品書きは「古代米入りご飯」「バターライス」「肉じゃが」「缶詰サンマの揚げ焼き」「いんげんのごま和え」「きゅうりの酢の物」「茄子田楽」「塩麹卵焼き」「水羊羹」。

「こうたろうカフェ」のメニューとかぶっていないところがすごいと思いました。なかなか2本立てでというのも大変かと存じますが、今後とも続けて行かれていただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

小生もおかげで健康、毎日畑仕事にいそしんで居ますが、僅かばかり、力を入れると、比較にならぬほど豊かな酬いをかへしてくれる自然の恵みに感謝せずにゐられません。自然界の生命力は実に不思議です。


昭和23年(1948)7月11日 富谷武宛書簡より 光太郎66歳

青年時代から「自然」を讃美してきた光太郎にとって、農業はある意味天職に近いものがあったのかも知れません。

昨日、福島県小野町さんで今年3月に刊行された『マンガふるさとの偉人 今も愛される名作を生んだ作詩家 丘灯至夫』についてご紹介しました。

「マンガふるさとの偉人」シリーズはB&G財団さんの助成により進められていて、7月1日(月)、他の自治体さん等で今年刊行された分、全40作品のネット上での無料公開が始まったのですが、昨年までに刊行された作品についても、今年4月から無料公開が為されていました。トータル百数十作品ほどになっているようです。
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そこで、昨年、岡山県赤磐市教育委員会さんが刊行なさった、光太郎と交流のあった詩人・永瀬清子の『詩人永瀬清子物語 わがたてがみよ、なびけ』も無料公開されています。数ヶ所に光太郎が登場します。
また、同じく岡山県の井原市さんでは、同市出身の彫刻家にして光太郎の父・光雲門下の平櫛田中。題して「107歳の生涯を木彫に捧げた彫刻家 平櫛田中」。
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田中の終焉の地、東京都小平市さんでは、B&G財団さんの助成による「マンガふるさとの偉人」シリーズではなく、独自に『田中彫刻記』という同様の漫画を刊行なさいました。ご執筆は市職員の方だそうで。それが評判ということで、田中の出身地・井原市さんでも……ということでしょうか。

その他、光太郎とも親しかった北原白秋(熊本県南関町)、光雲を東京美術学校に招聘した岡倉天心(茨城県北茨城市)などもありますが、残念ながら光太郎や光雲は登場していないようでした。

B&G財団さんのサイトを見ると、このシリーズ、教育現場等での活用もかなり為されているようです。
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学校さんだけでなく、社会教育的な分野でも。
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全国の自治体さん、ご参考までに。

しかし「では、わが街でも××××のマンガを」となった場合、いろいろ難しい点もあるかと存じます。第一に人選。郷土の偉人としてその街で既に確たる地位が出来上がっている人物について、改めて取り上げても仕方がないでしょう。例えば花巻で宮沢賢治を、などというのは今更感がぬぐえません。実際、花巻市さんでは北海道大学総長などを務めた佐藤昌介が選ばれています。

それから、基本的に一人の人物が対象ですので(例外的に兄弟や夫妻で、という作品もありますが)、「何で××××が選ばれて、○○○○は採用されないんだ」というような、「あちら立てればこちらが立たず」というようなトラブルも無いとは言い切れません。

また、出身地と拠点にした場所や終焉の地が異なるという人物も多いので、どの自治体がその人物を取り上げるか(基本的に一人一作品でしょうから)といった部分も難しいでしょう。北原白秋など、てっきり福岡県柳川市さんだろうと思っていたら、さにあらず。出身地の熊本県南関町さんでした。平櫛田中の場合は前述の通り、後半生の拠点にし、終焉の地ともなった東京都小平市さんで既に独自で漫画を作成していたので、B&Gさんの助成による方は出身地の岡山県井原市で、と、すんなり行ったようですが。

そうしたもろもろがクリア出来るのであれば、実に効果的な取り組みだと思います。繰り返しますが、全国の自治体さん、ご参考までに。

【折々のことば・光太郎】

此頃の酒はあぶなくて、「明星」の歌人として知られてゐた平野万里といふ人は先般急死しましたが、此頃になつて死んだのはヤミ酒のメチール中毒だといふ事の報告をうけ驚きました。メチールなどで死んだと思ふと気の毒でもありながら又一方何だかイヤシイやうな気がして尊敬出来なくなつて困ります。

昭和23年(1948)4月2日 宮崎春子宛書簡より 光太郎66歳

ヤミ酒のメチール」はいわゆる「バクダン」。メチルアルコールを使った粗悪な密造酒です。人間、死に様も大事ですね。

光太郎第二の故郷・岩手花巻で主に「食」を通して光太郎顕彰にあたられているやつかの森LLCさんが、「こうたろうカフェ」として不定期に出店なさっている同市東和町のワンデイシェフの大食堂さん。日替わりで様々な団体さん(個人も?)がキッチンを使って料理を饗するというシステムです。

うっかり事前の予告をこのブログで失念してしまっていましたが、先月は25日(火)に出店なさったそうで、その画像をお送り下さいました。
6月ワンデイ
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紫蘇巻トンカツ
人参の白和え・ミズの辛子和え
よもぎ餅・抹茶玄米茶
メニューは「特注タレでいただく紫蘇巻きトンカツ」「ふんわり卵のニラ炒め」「ミズの辛子和え」「新玉と紅鮭のマリネ」「人参の白和え」「きゅうりの浅漬け」「つみれのおすまし」「ゆかりご飯」「黒蜜ときな粉のつきたてヨモギ餅」「お茶」だそうで。これで1,000円ですからお得感も満載ですね。

基本、光太郎の日記などから光太郎が作っていたメニューや使っていた食材などを参考に、現代風にアレンジしてというコンセプトです。山菜のミズは光太郎が暮らした旧太田村の山小屋近く、故・高橋愛子さんのお宅附近で採集された由。

固定ファンがいらっしゃるのでしょう、平日にもかかわらず、ランチタイムに48食分が完売だとのこと。
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今月は13日(土)に出店なさるそうです。

その際のメニュー予定が「自家製サラダチキン」「じゃが芋と牛肉のしぐれ煮」「夏野菜の揚げびたし」「小松菜のじゃこ炒め」「きゃらぶき」「お新香」「ズッキーニの冷製ポタージュ」「黒米ご飯」「フルーツミルク寒天」「コーヒー」だそうです。

ぜひご予約下さい。

【折々のことば・光太郎】

今日は小生の誕生日だつたので、朝から赤飯を炊いたり、小豆を煮たり、いつかの上等の小麦粉でうまいバタ入り蒸しパンをつくつたりしました。其上折よく昨日新聞の日報社からもらつた一級酒があつたので、それをあたためて炉辺でやりました。山口市の人から揮毫の礼にもらつた下関の「うに」が何よりの肴となりました。


昭和23年(1948)3月13日 宮崎稔宛書簡より 光太郎66歳

光太郎、誕生日を迎えて満で65歳となりました(上記に「66歳」としていますが、この項、数え年で表記していますのでずれています)。この日の日記を見ると、夕方、村の娘さんが薬を届けに来たくらいで、他に来訪者はなく、寂しいと云えば寂しい誕生日でした。

それでも自分のためにいろいろ御馳走を作る光太郎、マメですね。もっとも現代のようにお総菜やら弁当やらがそこらで売っているという時代ではありませんでしたが。

智恵子のソウルマウンテン、福島の安達太良山関連で2件。

まず、二本松市さんの広報誌『広報にほんまつ』来月号。5月19日(日)に行われた「第70回安達太良山山開き 絵になる、詩になる、ほんとの空。」について報じています。6月号には間に合わなかったようで。
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NHKさんのローカルニュース、地元紙での報道についてはこちら

続いて、クラウドファンディング。

ほんとの空がある安達太良山の登山道を整備して、安全で快適な登山を楽しんでほしい!

寄付募集期間:2024年4月26日~2024年7月24日(90日間)
目標金額:1,000,000円

寄付金の使い道
・道標修繕費:1,000,000円
※目標金額に達しなくても、本プロジェクトの事業費として全額を活用させていただきます。

【事業実施のスケジュール】
2024年8月~10月:修繕の実施

 安達太良山(1,700m)は、磐梯朝日国立公園の南端に位置し、南北約9キロにわたって連なる安達太良連峰の主峰で、日本百名山・花の百名山の一つに数えられています。
 彫刻家で詩人の高村光太郎の詩集「智恵子抄」に綴られた“ほんとの空”としても知られており、ロープウェイを利用すると約1時間半で山頂に到着するため、登山初級者でも気軽にトレッキングを楽しめる魅力の山です。
 しかし、登山道に設置してある道標は老朽化や風化による損傷が見られます。また、霧の発生や荒天時には、視界不良により登山道から外れてしまうことが心配されます。
 このプロジェクトでは、登山道の道標を整備し、安全で快適な登山道の環境整備に取り組みます。
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多くの登山者に愛される安達太良山(あだたらやま)
 安達太良山は、別名「乳首山(ちちくびやま)」とも呼ばれる標高1700mの山です。
 万葉集にも歌われ、また詩人・彫刻家として有名な高村光太郎は、「阿多多羅山の山の上に毎日出ている青い空が、智恵子のほんとの空だといふ」(あどけない話)等を詠み、智恵子のふるさととしても知られています。
 ロープウェイを利用すると約1時間半ほどで山頂に到着するため、登山初心者や家族連れでも気軽にトレッキングを楽しめるのが魅力です。稜線に広がる景色は登山者を魅了します。
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 緑眩しい初夏(6月中旬~下旬)には、鮮やかなオレンジ色の「レンゲツツジ」が映えます。
 7月上旬~下旬には天然記念物(県指定)の「ヤエハクサンシャクナゲ」が登山者の心を和ませます。
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 紅葉の名所としても知られており、特に毎年9月下旬から10月中旬には多くの人で賑わいます。
 明治33年(1900年)の大爆発によってできた巨大な噴火口の「沼ノ平火口」周辺は、荒々しい山肌に囲まれ月世界のような景色が見られます。
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道標を修繕します
 登山者の安全な登山のため、分岐等に道標が設置されていますが、現在設置されている道標の中には、老朽化や風化により劣化が進み十分に機能していないものがあります。
 このような道標を修繕していくことで、霧の発生や荒天時でもしっかり確認できるようにし、より安心して安全に登山を楽しんでいただきたいと思います。
 また、近年増加している外国人観光客にもわかりやすいように、英語表記も記載します。
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二本松市長から皆さまへ011
 日本百名山、花の百名山としても知られる安達太良山は、春から夏には可憐に咲き誇る高山植物、秋には美しい紅葉、冬はスキーと四季折々を通して多くの方に親しまれています。初級者から上級者まで登山を楽しむことができるのも魅力で、登山地図アプリ「YAMAP」の登られた山ランキングでは、3年連続で第1位となっています。
 登山道の整備につきましては、地元自治体をはじめ、地元の山の会やボランティアの皆様の協力により登山道の整備を行っておりますが、登山道の一部や道標には老朽化により傷みが見られます。
 本プロジェクトを通して老朽化の見られる道標を修繕し、登山者の皆様にとって安全で快適な登山環境整備の一助になればと考えております。
 皆様のあたたかいご支援をよろしくお願いいたします。
二本松市長 三保恵一

「ふるさと納税」制度による寄附の受付だそうです。返礼品もいろいろ用意されています。

「ふるさと納税」というと何か書類を色々書いたりでめんどくさいのかな、と思い込んでいたのですが、オンラインでのクレジットカードや各種pay、現金によるコンビニ払いなどもできるようです。

実はまだ寄附していないのですが、検討の上、対応してみようと思っております。皆様も是非よろしくお願いいたします。

【折々のことば・光太郎】

今朝は去年八月二十三日に貴下からいただいた練乳の罐をあけ、あの大きい湯呑に紅茶をおいしくいれてのみました。久しぶりの味です。そして貴下を遠く偲びました。

昭和23年(1948)2月10日 田口弘宛書簡より 光太郎66歳

故・田口弘氏は元埼玉県東松山市教育長。この当時は市内の中学校に勤務していました。戦時中に光太郎の知遇を得、南方に出征する際には著書や色紙揮毫を貰って励まされたものの、乗っていた輸送艦が撃沈されて九死に一生。光太郎書などは海の藻屑と消えました。

復員後、花巻郊外旧太田村に隠棲していた光太郎の元を訪れ、戦時中に書いて貰ったのと同じ文言を揮毫してもらい、家宝としていたとのこと。それらは氏が「終活」の一環として亡くなる前年に東松山市に寄贈、現在、市立図書館さんで公開されています。

それにしても光太郎、あざといですね。「そして貴下を遠く偲びました」などと書かれては、「また何か贈らなきゃ」と思うでしょうから(笑)。

光太郎第二の故郷・岩手花巻にある道の駅はなまき西南(愛称・賢治と光太郎の郷)さんのテナント、ミレットキッチン花(フラワー)さんで毎月15日に限定販売される弁当「光太郎ランチ」。メニュー考案に当たられているやつかの森LLCさんから画像が届きました。
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今月のメニューは、鮭の塩焼き、豚肉とミズの煮物、スナップエンドウとニラのバター炒め、じゅんさいとイカの酢の物、伽羅蕗、グリーンピースご飯、白六穀ご飯、抹茶甘酒のゼリーだそうです。

「ミズ」はこの地でよく食べられている山菜、「伽羅蕗」はフキの佃煮ですね。意外と山菜好きの当方としては食欲をそそられます。

昨日もご紹介した6月1日(土)、NHK仙台放送局さん制作の東北6県向け情報番組「ウイークエンド東北」。建築家・山口文象の設計になる、光太郎終焉の地・中野区の中西利雄アトリエ保存運動に関して報じて下さいましたが、それにからめ、東北各地で光太郎や智恵子の顕彰に当たられている人々がご紹介され、やつかの森LLCさんの中心メンバーのお一人、井形幸江さんも。
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GW中の5月4日(土)、5日(日)に花巻で開催された「土澤アートクラフトフェア2024春」で取材が行われ、画像は上記の光太郎ランチと同様の、光太郎が実際に作ったメニューや使った食材などを参考にした「こうたろう弁当」制作の模様です。
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井形さんの「食」にかける思い。
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なるほど。

しかし、そこにとどまらず……。旧太田村の高村山荘(光太郎が戦後の7年間を過ごした山小屋)に移動してロケ。
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同感です。

最近見つけた、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎の長い談話筆記の一節。

 美はどこにでもある。といふことは結局美は発見だといふことです。美をみとめようとしない人には、美はわかりませんよ。そのかはり、美は発見しようとすればどこにでもあるといふのです。美は先刻もいつた通り、人間にとつて、もつとも根源的な力だから、美をみとめる力は誰しももつてゐるはずだけれど、それが心のなかで眼ざめずに眠つてゐるのだといへます。さういふ美にはぐれた人たちは実に気の毒です。それは美を発見する土台が与へられなかつたからだと思ひます。さういふ人は救はねばなりません。
 だから心をそこに留めれば美は至るところにあるわけで、私は本郷から上野までの間の道路を映画化して毎日何気なく通つてゐる道すぢに、無限の美があることを示さうとしたことがあるのです。それは道の上に落ちた木の葉とか、生垣、足跡、プラタナスのもとに立つたお巡りさん……といつたやうな日常平凡なものですが、それらの中に事実無限の美があるのです。

旧太田村の山小屋に移って約1年後の昭和21年(1946)9月1日『婦人朝日』第一巻第九号がソースです。題して「山里に美を語る」。

「映画化」云々は、一時16㍉カメラでの動画撮影に凝っていたことに由来すると思われます。昭和9年(1934)には、九十九里浜で千鳥と遊ぶ智恵子の姿もフィルムに収めました。しかし、カメラもフィルムも、昭和20年(1945)の空襲で焼けてしまいました。

閑話休題、「食」を足がかりとした光太郎顕彰、末永く継続して行かれることを願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

東京では冬でも野菜が出来るのですが、ここの山の中では畠の上に雪が三尺近くかぶさつてゐて、雪のとける四月まではお休みです。村の人たちは雪の深い山へ炭焼に皆行つてゐます。その炭が東京の方へ行くのです。


昭和23年(1948)1月10日 高村美津枝宛書簡より 光太郎66歳

東京に住む令姪に宛てた葉書の一節です。何しろビニルハウスなども無かった時代ですから……。

6月9日(日)、花巻市のなはんプラザで開催されましたイベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」。地方紙で報道されていますのでご紹介します。

まず、『岩手日日』さん。

智恵子エプロン披露も 高校生がデザイン復刻 高村光太郎顕彰イベント

000 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は9日、ゆかりの先人高村光太郎(1883~1956年)の顕彰イベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開いた。参加者は、光太郎に関する児童生徒の学習活動や光太郎が暮らした環境に理解を深めるとともに、生前の食卓を再現した昼食を楽しみ、光太郎の暮らしぶりに触れた。
 光太郎に関する認知度・親密度を高め、顕彰活動の維持向上が目的。2022年度の対談、23年度のトークリレーに続き企画した。
 市立太田小学校の藤田聖子校長は「正直親切」を掲げた学校活動や総合学習の時間の柱となっている光太郎先生学習の実践内容などについて紹介。県立花巻南高校文芸部の生徒は光太郎と宮沢家や花巻とのつながりを調べた成果、同校家庭クラブの生徒は「智恵子さんのエプロン復刻プロジェクト」、県環境アドバイザーの望月達也さんは光太郎が7年間暮らした巨木林がある山口山の環境を映像で紹介した。
 同プロジェクトでは、大正時代の雑誌「婦人之友」に掲載された光太郎の妻智恵子がデザインしたエプロンを、高村光太郎連翹忌(れんぎょうき)運営委員会の協力を得て製作。酒を搾る時に使った袋を生地に使い、古代更紗で縁を取り、中央に大きなポケットが付いている。同校2年の高橋萌菜さんは「酒袋には防水や防腐などの効果があり、智恵子の実家が福島の造り酒屋だったことから酒袋を利用したと思う。使い方や組み合わせからリメークして生活を楽しんでいたことがうかがえる」と語った。
 昼食には「ソバ粉のむしパン」など光太郎の日記や書簡に残っている記録からイメージして再現した弁当を味わった。
 イベントは同市大通りのなはんプラザで開かれ、約100人が参加。平賀会長は「光太郎について学び、次世代に語り継いでいくことが大切。地元太田からもっと情報を発信して光太郎ファンになってもらい、高村山荘や高村光太郎記念館を訪れる人が増え、地域の活性化につなげたい」と話していた。


続いて、『岩手日報』さん。

いわて旧村巡り 40/642 太田村 現花巻市太田 光太郎顕彰 脈々と 清掃やエプロン復刻 地区振興会 活動を共有

001 花巻市の太田地区振興会(平賀仁会長)は9日、同市大通りのなはんプラザで「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開いた。参加者は、詩人・彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)に関する地元の小学校、高校の取り組みなどを共有し、地域を愛した偉人の顕彰を誓った。
 市内外の約100人が参加。太田小の藤田聖子校長(59)は、児童による高村山荘周辺の清掃や詩の音読活動など紹介した。市内の多くの小学校では宮沢賢治を「賢治先生」と呼ぶ一方、「太田小では先生といえば光太郎。『光太郎先生』『賢治さん』と呼んでいる」と説明した。
 花巻南高の家庭クラブは、妻智恵子が使ったエプロンの復刻制作について発表。大正時代に雑誌「婦人之友」に掲載されたもので、同校文芸部の依頼で取り組みを始めた。研究者のブログなどを参考に作り、酒袋や古代更紗(さらさ)を使った完成品を披露した。
 1年の小原優羽奈さんは「制作の合間に光太郎や智恵子について調べた。活動を通じ視野が広がった」と学びを深めた様子だった。
 光太郎は1945(昭和20)年の空襲で東京のアトリエを失い、賢治の実家を頼って花巻に疎開。太田村(現花巻市太田)に移り、約7年間過ごした。山荘生活の中、詩や書の創作に励み、旧山口小学校児童ら住民と交流を深めた。
 同日は、当時の日記などに残る食事記録を基にした弁当も提供され、光太郎が口にした「ソバ粉のむしパン」から着想したそば粉のパンケーキなど味わった。
 新型コロナウイルス禍を機に地元の高村祭の中止が続く中、振興会は2022年度から催しを継続する。平賀会長(73)は「光太郎を知る輪が広がる機会となった」と充実感をにじませ高村光太郎連翹忌運営委員会の小山弘明代表(59)=千葉県=は「若い人たちが(伝承の)バトンを受け継いでいる。光太郎が愛した旧太田村に残る自然は宝だ」と評した。


やはり智恵子のエプロンに関してはインパクトが強かったようで、2紙ともそちらを前面に押し出しています。下画像は家庭クラブさんのスライドショーから。
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また、2紙とも紙幅の都合もあったと思われ、詳細が取り上げられませんでしたが、文芸部さんの発表は、光太郎と花巻との関わり、智恵子についてを知る上での、ある意味基調講演のような役割を果たして下さいましたし、文芸部さん自体プラス地域の方々の活動も紹介され、会場の皆さんの興味を惹いたようです。
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太田小さんは、まさに学校ぐるみで取り組んで下さっていることがわかり、ただただ感謝です。
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『岩手日報』さんの当方コメント最後の部分「光太郎が愛した旧太田村に残る自然は宝だ」は岩手県環境アドバイザー・望月達也氏のご発表を受けてのものです。
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さらにランチが加わり、そんなこんなで、実に有意義なイベントでした。

各団体さんの取り組み、今後の継続とさらなる発展を願って已みません。

【折々のことば・光太郎】

来年は相当に書くでせう。彫刻にも手をつけるでせう。


昭和22年(1947)12月31日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎65歳

旧太田村での生活、足かけ3年目の昭和22年(1947)が暮れて行きました。

新年へ向けての、詩や文章、書などを「書くでせう」は実現したものの、「彫刻にも手をつけるでせう」は、戦争への加担に対する自責の念の深化に伴い、逆に自らへの罰として封印する方向に転じてしまいます。

日程を勘違いしていまして、昨日開幕でした。紹介が遅れ、申し訳ありません。

文豪とアルケミスト 旗手達ノ協奏(デュエット)

東京公演
 期 日 : 2024年6月6日(木)~6月16日(日)
 会 場 : シアターH 東京都品川区勝島1-6-29
 時 間 : 6月6日(木) 18:00~        6月7日(金) 14:00~
       6月8日(土) 12:30~ 17:30~  6月9日(日) 12:00~ 17:00~
       6月11日(火)  13:00~        6月12日(水)  18:00~
       6月13日(木)  13:00~        6月15日(土)  12:30~ 17:30~
       6月16日(日)  12:00~ 17:00~
 休 演 : 6月10日(月) 6月14日(金)
 料 金 : 全席指定 10,500円(税込)

京都公演
 期 日 : 2024年6月21日(金)~6月23日(日)
 会 場 : 京都劇場 京都市下京区烏丸通塩小路下ル 京都駅ビル内
 時 間 : 6月21日(金) 18:00~        6月22日(土) 12:30~ 17:30~
       6月23日(日) 12:00~ 17:00~
 料 金 : 全席指定 10,500円(税込)
 
生配信
 〈東京〉
①2024年6月8日(土) 12:30公演    ②2024年6月8日(土) 17:30公演
 〈京都〉③2024年6月23日(日) 12:00公演  ④2024年6月23日(日)17:00千秋楽公演
 販売価格
  ①~④単品各公演 :3,800円(税込)
  6月8日(土)2公演+特別コメント映像(白樺派)セット:7,500円(税込)
  6月23日(日)2公演+特別コメント映像(新文豪)セット:7,500円(税込)
  4公演+特別コメント映像(白樺派・新文豪)セット:14,000円(税込)

文学作品を守るためにこの世に再び転生した文豪たち。その中心には白樺派がいた。しかし、長く続く侵蝕者との戦いが、歴戦の栄光に小さな翳りを落とす。その根幹が見出せない彼らを嘲笑うかのように侵蝕は広がり、小さな綻びは大きな窮地に。そんな時、志賀直哉の脳裏に浮かんだのは、かつて巨大な敵に文学で立ち向かった小林多喜二だった。

今後の戦いの激しさを憂い小林の転生を目論む志賀だったが、その間にも有碍書は増え続け……。危機が迫る中も挫けず、現状を打開する策を練る志賀。それを武者小路実篤ただ一人がそっと遠くから見守っていた。

キャスト
 志賀直哉:谷佳樹  武者小路実篤:杉江大志  有島武郎:杉咲真広
 里見弴:澤邊寧央  石川啄木:櫻井圭登    高村光太郎:松井勇歩
 広津和郎:新正俊  小林多喜二:泰江和明
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文豪とアルケミスト」は、DMM.comさんから配信されている、ブラウザゲームです。「様々な文豪と共に人々の記憶から文学が奪われる前に、侵蝕者から文学書を守りぬくことを目指す、文豪転生シミュレーションゲームです。また、本作品では実際にあった文豪同士の関係性を重視した内容を基調としており、それらが豪華声優陣によって現代に甦ります。」「近代風情が漂う平和な時代に、突如 として文学書が全項黒く染まってしまう異常現象が起きる。 それに対処するべく、特殊能力者“アルケミスト”と呼ばれる者が立ち上がり、文学書を守るため文学の持つ力を知る文豪を転生させる。 再びこの世に転生せし文豪たちが綴る、もうひとつの文学譚―」だそうです。

登場する「文豪」は、40名以上。光太郎もその一人です。

そこで、これまでにも声優の森田成一さんによる朗読CDが発売されたり、花巻高村光太郎記念館さん、宮沢賢治記念館などでタイアップ企画のスタンプラリーが行われたりしてきました。

舞台化も為され、今回で7回目だそうです。で、今回初めて、キャストに光太郎。舞台「憂国のモリアーティ」で ジョン・H・ワトソン役や舞台「刀剣乱舞」の 亀甲貞宗役だった松井勇歩さんが演じられるそうです。
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こういうアプローチから文豪たちに触れていくのも有りでしょう。東京公演、京都公演、DMMさんによる配信と、いろいろあります。ご興味おありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

もう雪が消えさうもなくなりました。室内に氷が張るやうになつたのでいよいよ冬籠です。

昭和22年(1947)12月1日 宮崎稔宛書簡より 光太郎65歳

12月はじめにもう根雪……。花巻郊外旧太田村、恐るべしですね。

昨日は約1ヶ月ぶりに上京しておりました。

メインの目的は、文京区のトッパンホールさんで開催された、アマチュア合唱団・コール淡水東京さんの第11回的演奏会拝聴でしたが、都内に出る時は複数の用件をこなすのが常で、ついでというと何ですが、同じ文京区の区立森鷗外記念館さんの特別展「教壇に立った鷗外先生」を先に拝見いたしました。
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展示の構成等をわかりやすくするために、同展図録の目次。
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「第一章 教壇に立った鷗外」「第二章 教科書と鷗外」の二本柱でしたが、前者の方に重きが置かれていました。陸軍軍医学校、慶應義塾大学部、そして光太郎も生徒として聴講した東京美術学校で、実際に教壇に立った鷗外の足跡が追われています(鷗外は現・早稲田大学の東京専門学校でも講義を受け持つ予定でしたが、こちらは幻と終わったようです)。

「なるほどね、こういう内容の講義だったのか」というのがよくわかり、興味深く拝見いたしました。やはりビジュアル的に「もの」を見て感じるというのは大切なことだと改めて思いました。

サイト上の「出品目録」で、光太郎の随筆集『某月某日』が展示されてるという情報は得ていました。予想通り、そこに掲載されているエッセイ「美術学校時代」(初出は雑誌『知性』第5巻第9号 昭和17年=1942 9月1日)で、鷗外の講義についての回想が語られていて、その関係でした。
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他に、昭和14年(1939)の雑誌『詩生活』に載った川路柳虹との対談「鷗外先生の思出」からも一節が引用され、パネル展示となっていました。ちななみに川路は光太郎より5歳下の詩人でしたが、光太郎と同じく東京美術学校の出身です。光太郎が留学中の明治41年(1908)に日本画科に入学し、光太郎が詩集『道程』を上梓した大正3年(1914)に卒業しています。川路の居た時期には鷗外はもう美校から離れていました。

それから、やはり出品目録で情報を得ていましたが、光太郎の1年先輩(年齢は8歳上)に当たる本保義太郎のノートも展示されているということで、そちらも目に焼きつけておこうと思っておりました。
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本保は在学中に光太郎と交流がありましたし、その後も光太郎より少し早く欧米留学に出、光太郎と同じくアメリカの彫刻家ガッツオン・ボーグラムの助手を務めたという経歴の持ち主です。しかし、彫刻家として大成する前の明治40年(1907)、留学先のフランスで、光太郎の親友だった碌山荻原守衛に看取られて結核により客死しました。さぞ無念だったろうと思います。

ノートを手に取ってみることはできませんが、表紙の文字を見るだけでも、本保の息吹が感じられました。

第二章が「教科書と鷗外」。鷗外が編纂に携わった数々の教科書や、鷗外没後、現代に至るまでの鷗外作品が採用された教科書などの展示。

光太郎は教科書の編纂をしたことはありませんが、存命中からやはりその作品は数多くの教科書に採用されています。中には書き下ろしではないかと推定されるものも。ところが、一般の出版とは異なる点が多いので、なかなかそのあたりの全貌が掴めません。

すると、第二章の展示で「協力」に入っている団体として「国立教育政策研究所教育図書館」のクレジット。早速そのサイトを見てみたところ、いろいろ情報を得られそうだということに気づきました。こういう点も、実地に展示に足を運ばないと気がつきにくい事柄ですね。

ところで、何ともタイムリーなことに昨日の『産経新聞』さんに同展を紹介する記事が。

森鷗外の教師像に迫る 研究の「盲点」、記念館で特別展 学生の評判も紹介

 文豪、森鷗外(1862~1922年)には、教師の経歴もあった。何をどう教え、学生の評判は-に注目した特別展「教壇に立った鷗外先生」が、森鷗外記念館(東京都文京区)で開かれている。同展監修の山崎一穎・跡見学園女子大名誉教授は「研究者があまり手をつけていない『盲点』の分野。展示をヒントに新たな研究テーマ、そして新たな鷗外像が生まれてくるはず」と話している。
■文豪は負けず嫌い
 鷗外は明治14年、19歳で東京大医学部を卒業後、陸軍軍医となり、のちにトップの陸軍省医務局長に上り詰める。この間、ドイツ留学、日清・日露戦争戦地などへの赴任の間を縫って、文筆活動でも名をなした。
 さらに「人脈も広がり、その後の活動にとって大事な一時代」(展示担当の岩佐春奈さん)とされるのが教師としての経験。その足跡はある程度知られているが、特別展では学生たちの日記や回想、出版物などの資料から鷗外の教師ぶりにスポットを当てている。
 教師歴は15年に東亜医学校で「生理学」を教えたのが始まり。妹・喜美子の回想によると、「面白い先生の講義は人が多」く、「どうか負けないようになりたい」と講義の準備に励んでいた。教え子から親しまれていたことがうかがえる書簡も展示されている。
 21年からは陸軍軍医学校で「衛生学」を教え、校長も務めた。同校の学生は、「講義は決して下手ではなかった」が、「早口であった」と評している。
■冬は暖炉を囲んで
 軍医学校と並行して24年から東京美術学校(現東京芸術大美術学部)の嘱託教員で「美術解剖」、29年から「美学及美術史」、25年からは慶応義塾大学部文学科講師で「審美学」を講義し、32年まで続けた。
 慶応の最初の教え子による「中村丈太郎日記」は、展覧会初出展の資料。25年9月15日付では「今日ヨリ森林太郎氏来リテ審美学ヲ講ス」「今日ノ題ハ美ノ所在ナリ」と初講義に触れている。この「美ノ所在」は鷗外が同年10月に評論誌「しがらみ草紙」で発表した内容で、先駆けて学生に講義していたことになる。日記には時間割表もあり、講義は火・木曜午前9~10時の週2時間だった。
 慶応では、のちの毎日新聞社長、奥村信太郎の「初冬の薄ら寒い朝、わたくし達慶應文科三年の六人は、煖爐を前に、半円形を作って、森鷗外先生を中にさしはさみ、美学の講義を聴くのだった」などの回想を残している。
 東京美術学校関係では、美術解剖の講義を筋肉図とともに筆記した学生・藤巻直治ノートなどを展示。鷗外が自らの小説作品なども例に挙げ、わかりやすく講義した様子がうかがえる学生の美学筆記ノートも。
 同校で学んだ彫刻家・詩人の高村光太郎は「とても名講義でしたよ」と振り返るほか、学期末に「美学の一番の根源」を理解していない質問をした学生に「そんな無責任な聴き方があるかと怒鳴り…」と鷗外が憤慨した場面も記している。
■子供に手作り教材
 23年には鷗外が東京専門学校(現早稲田大)で講師になると新聞に載りながら、実現しなかった。のちに同校で黄禍論をテーマに講演は行ったが、講師就任が実現しなかった経緯は謎で、今後の研究課題にもなりそうだ。
 岩佐さんは「常に軍服姿で講義。正直、親しみやすい先生ではなかったと思いますが、少人数の学校で連帯感も生まれ、文学者として憧れを持って見つめられた。鷗外も若い人に新しいことを教える責務を感じていたのでは」と話した。
 同展では、鷗外がわが子にドイツ語などを教えるために手作りした教材や、文部省委員として編纂に携わった修身、唱歌の教科書なども展示されている。30日まで。
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過日ご紹介した『東京新聞』さんでも、教え子として光太郎の名を出して下さいました。展示を見て気づいたのですが、他にあまりビッグネームの教え子が居なかった的な感じでしたので、そういうことなのでしょう。

『産経』さんが引用なさっている「とても名講義でしたよ」は、川路との対談「鷗外先生の思出」から。ただ、このひと言はリップサービスのような気がします。本音としてはそれに続く部分の「しかしどうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありま
001したなあ」の方が重要だと思われます。対談「鷗外先生の思出」では、「軍服着せれば鷗外だ事件」の顛末も語られており、またぞろ舌禍を起こしてはいかん、と、「とても名講義でしたよ」(笑)。前後の文脈から浮いています。とってつけたように。

さて、同展、今月30日まで。ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに図録はこちら。880円でしたか。信州安曇野の碌山美術館さんで昨年開催された第113回碌山忌でも、関連行事としてのご講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」をなさった布施英利氏の玉稿なども掲載されています。

【折々のことば・光太郎】

古今のよい作品に守られながら勉強するのが一番です。限界はひろく、思念はふかく、実技に猛進してください。


昭和22年(1947)11月17日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

西出は後に截金の分野で人間国宝となる人物。やはり美校の彫刻科出身でした。

光太郎は鷗外と異なり、教職には就きませんでした。二度ほどそういう話があったのですが、いずれも断っています。最初は欧米留学からの帰朝後、父・光雲により美校教授の椅子が用意されていましたが、蹴飛ばします。二度目は戦後、新しく開校した岩手県立美術工芸学校の名誉教授に、という懇願が為されましたが、これも固辞。ただし、戦後は同校はじめ盛岡や花巻などで、学生たち向けの講演を行うことはしばしばでした。

それを言うなら、彫刻でも詩でも、いわゆる「弟子」はとりませんでした。まぁ、アドバイス的なことをしたことはあって、それが拡大解釈されて「高村光太郎に師事」と喧伝されている人物はけっこういるのですが。

上記の西出に対してのひと言も、先輩からの温かい助言といった感じですね。

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 喫茶店にて 萩原朔太郎
 変わり喫茶 中島らも
 初体験モーニング・サービス 片岡義男
 珈琲の美しき香り 森村誠一
 ニューヨーク・大雪とドーナツ 江國香織
 しぶさわ 常盤新平
 大みそかはブルーエイトへ シソンヌ じろう
 カフェ・プランタン 森茉莉
 気だるい朝の豪華モーニングセット 椎名誠
 富士に就いて 太宰治
 コーヒー色の回想 赤川次郎
 コーヒー 外山滋比古
 コーヒー屋で馬に出会った朝の話 長田弘
 しるこ 芥川龍之介
 コーヒー五千円 片山廣子
 一杯のコーヒーから 向田邦子
 喫茶店人生 小田島雄志
 喫茶店学 −キサテノロジー 井上ひさし
 可否茶館 内田百閒
 カフェー 勝本清一郎
 懐かしの喫茶店 東海林さだお
 芝公園から銀座へ 佐藤春夫
 東京らしい喫茶店 南千住『カフェ・バッハ』 木村衣有子
 〈コーヒー道〉のウラおもて 安岡章太郎
 喫茶店で本を読んでいるかい 植草甚一
 ミラーボールナポリタン 爪切男
 ウィンナーコーヒー 星野博美
 珈琲店より 高村光太郎
 ひとり旅の要領 阿川佐和子
 甘話休題(抄) 古川緑波
 あの日、喫茶店での出来事 麻布競馬場
 わが新宿青春譜 五木寛之
 カフェー 吉田健一
 コーヒーがゆっくりと近づいてくる 赤瀬川原平

古今のカフェ、喫茶店にまつわるエッセイ等を集めたアンソロジー。光太郎や内田百閒、萩原朔太郎あたりが最も古い部類でしょうか。ご存命の方々の作品も数多く。

光太郎作品は明治43年(1910)の雑誌『趣味』に発表された「珈琲店より」。前年まで留学のため滞在していたパリでの思い出が語られています。ただ、どこまでが事実なのかわかりません。午前0時近く、オペラを見終わった後、オペラ座近くのブールバールを歩いていて、たまたま見かけた3人組のパリジェンヌが入っていった珈琲店(「カフエ」とルビが振られていますが、)に自分も入って女達と陽気な時間を過ごし(珈琲店といいつつ酒がメインの店でした)、そのうちの一人を「お持ち帰り」……。翌朝、さんざんに人種的劣等感などに打ちのめされるという内容です。

この文章、令和3年(2021)に刊行された同じ趣旨のアンソロジー『近代文学叢書Ⅲ すぽっとらいと 珈琲』にも掲載されました。

それを言えば、昭和16年(1941)10月、光太郎の親友だった作家・水野葉舟は『青年・女子文章講義録 第6巻 名家の文章集』という書籍の「名家の書いた小品」というコーナーにこの文章を掲載しました。太平洋戦争開戦直前のこの時期、「これ、マズいでしょ」という感じなのですが(笑)。

閑話休題、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

なやみのあるのは人生の常でむしろその為に人間は進むのですから、なやむ時は正面からなやみ、そして勇気を以てそれをのり超える外はありません。いい加減にごまかしてなやみを回避してゐる人には進歩はありません。


昭和22年(1947)11月15日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎65歳

さまざまなつまづきを経験し、悩みに悩んできた光太郎ならではの言です。それにしても、実にポジティブですね。

光太郎にも軽く関わる企画展示です。あまり関わりはないのかなと思って紹介しないでいたところ、『東京新聞』さんで光太郎の名を出して記事が出てしまいまして(笑)。

まずはその記事。

「教育者」鷗外に光 千駄木の記念館で特別展 美術解剖学の資料など展示

 医学者で、西洋美術にも造詣があった文豪・森鷗外(1862~1922年)は美術解剖学などを学校で教えていたことがある。そんな、教育者としての側面に光を当てる特別展「教壇に立った鷗外先生」が鷗外の旧居跡に立つ東京都の文京区立森鷗外記念館(千駄木1)で開かれている。(押川恵理子)
 鷗外は1881(明治14)年の東大医学部卒業後、陸軍軍医となり、84年から88年まで衛生制度などを調べるためドイツに留学した。記念館司書の岩佐春奈さんは「留学先で美術や文学にアンテナを張り巡らせたことが帰国後の教育活動につながった」と話す。
 91年から東京美術学校(現東京芸大美術学部)で教壇に立ち、ドイツの学者の資料を参考に美術解剖学などを教えた。軍服姿の鷗外は学校で常に目立っていたという。
 当時の様子を伝える資料約100点を展示。鷗外から美学の講義を受けた彫刻家の高村光太郎が「尊敬してゐたが、先生はどこまでも威張つて居るやうに見えた」とつづった随筆もある。慶応大の美学講師や陸軍軍医学校の校長などを務めた経歴、修身や唱歌の国定教科書の編さんといった功績も紹介する。
  また、文京区と金沢市が友好交流都市協定を結ぶ縁から、会期中、記念館のロビーでは能登半島地震の被災地を支援する「いしかわ復興応援マルクト」を開催している。石川県の珠洲焼などを販売。
 6月30日まで。午前10時~午後6時。5月28日と6月24、25日は休館。
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展示詳細はこちら。

特別展「教壇に立った鴎外先生」

期 日 : 2024年4月13日(土)~6月30日(日)
会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10時~18時
休 館 : 6月24日(月)・25日(火)
料 金 : 一般600円(20名以上の団体:480円) 中学生以下無料

 文豪・森鴎外(1862―1922)は留学から帰国後、教壇に立ちました。1888(明治21)年、陸軍軍医学校の教官となり衛生学を教え、1893年から同校の校長となります。その間、東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)で1891年から美術解剖学を、1896年より美学と西洋美術史を講義します。1892年からは慶應義塾大学部で美学の嘱託講師も務めました。東京大学卒業の頃から文筆をはじめ、陸軍軍医としてドイツに留学し、欧州の文化に触れるなどの経験を重ねたからこそ、鴎外はこれらの科目を教えることが出来たのでしょう。講義は、1899(明治32)年に小倉への赴任により終了しますが、教員や学生との交流は続きました。
 他方、鴎外は1908(明治41)から1920(大正9)年に修身や唱歌の国定教科書編纂にもかかわっていました。また、鴎外の作品は生前から現在まで、国語や現代文の教科書に掲載されています。教科書で鴎外の小説を初めて読んだ方も多いことでしょう。
 本展では、教育にたずさわった鴎外の姿を、講義を受けた学生のノートや関連資料、教科書などをとおして展覧します。あなたと鴎外先生の接点が見つかるかもしれません。
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出品目録がサイトに出ていました。
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「光太郎」の文字が出てくるのは1ヶ所。昭和18年(1943)、『智恵子抄』版元の龍星閣から刊行された随筆集『某月某日』が展示されています。
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なぜこれが、というと、この中に収録されている「美術学校時代」というエッセイに、東京美術学校で受けた鷗外の講義の模様が記されているためでしょう。この文章、永らく初出が不明で、『高村光太郎全集』の解題でもそう書かれていますが、雑誌『知性』の第5巻第9号(昭和17年=1942 9月1日)に掲載を確認しました。

鷗外は明治24年(1891)から東京美術学校の教壇に立ち、「美術解剖」「美学」「泰西美術史」などの授業を受け持ちました。軍医総監でもあった関係で従軍による中断期間もありましたが、光太郎在学時にも教鞭をとっていました。

光太郎の美校入学は明治30年(1897)。鷗外の講義は「美学」を受講しています。「美術学校時代」から。

 鷗外先生といふ人は講義をする時でも何時でも、始終笑顔一つしないでむづかしい顔をしてゐたので、鷗外先生といふと無闇に威張つて怖い顔をしてゐる先生と思つてゐた。年中軍服でサーベルを着け凡そ二年間美学の講義をせられたが、学年の終りに生徒に向ひ、今日まで教へたことについて分らない所があつたら何んでもよいから質問をするやうにといふことであつた。
 みんなはそれぞれと質問をし、疑問の点を尋ねた。その時に生徒の一人が、先生仮象といふのは何ですかと言ひ出した。さうすると鷗外先生はひどく怒つてしまひ、仮象といふことが分らないやうでは一体今迄何をしてをつたのか、それが分らないやうではこの一年間の講義は何にも分つてゐないのだらう、と先生をすつかり怒らせてしまつた。その質問をした学生はもう落第かと思つて隅の方に小さくなつてゐる。学生も何んにも言はず黙りこくつてゐる。鷗外先生はプンプン怒り、そんな無責任な聴き方があるかと怒鳴りながら、それでお仕舞ひになつたことがある。尤も仮象といふことは今から考へれば美学の一番の根源である。それが分らないで講義を聴いてをつたのでは分らないで聴いてゐた方が悪いに違ひない。僕は鷗外先生を尊敬してゐたが、先生はどこまでも威張つて居るやうに見えた。神経の細やかな人で、戯談一つ云つてもそれを覚えてゐて決して忘れない。非常に好き嫌ひの強い人であつた。

『東京新聞』さんでこの一節の中から紹介していますので、パネル展示か何かになっているのではないでしょうか。

ちなみに地雷を踏んだ学生は、山本筍一。どのクラスにも一人はいる、空気が読めずに素っ頓狂な発言をして先生にこっぴどく怒られるような生徒でした。彫刻の実技も最初はまるで駄目で、同級生たちからは小馬鹿にされていました。ところが修学旅行で奈良に行き、古仏の数々を目の当たりにしてにわかに開眼、皆に「山本の奴は急にうまくなった」と、一目置かれるようになりました。しかし、卒業直後の明治37年(1904)、若くして亡くなりました。

こういう経緯があって、光太郎は後に「軍服着せれば鷗外だ事件」を起こします。

ところで、本展示の関連行事。講演会が2本用意されていました。そのうち、大塚美保氏(聖心女子大学教授)の「教壇に立つ+教科書をつくる森鴎外」は既に終わっていますが、もう1本、布施英利氏(東京藝術大学教授・美術解剖学)による「森鴎外と美術解剖学」が、6月9日(日)に行われます。布施氏、信州安曇野の碌山美術館さんで昨年開催された第113回碌山忌でも、関連行事としてのご講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」をなさいました。応募は締め切られていますが、キャンセル等有るかも知れませんので、一応。

展示の方は6月30日(日)までです。ぜひ足をお運び下さい。

【折々のことば・光太郎】

岡本弥太といふよい詩人が高知に居られるといふ事は以前から注目してゐました。物故された事を知つた時に残念におもひました。詩碑が出来る由、皆さんの総意であるならば小生字を書く事はいなみません。むろん悪筆ですが。

昭和22年(1947)11月8日 川島隆宛書簡より 光太郎65歳

岡本弥太(明32=1899~昭17=1942)は高知出身の詩人で、光太郎と直接会ったことはなかったようですが、生前唯一の詩集『瀧』(昭和7年=1932)を光太郎に贈り、光太郎からの礼状が届けられたりしました。そうした縁から、高知に建てられた詩碑の揮毫を光太郎が依頼され、それに関する記述です。

碑は翌年、現在の香南市に建立、除幕されました。

京都の和菓子店・一夢庵さん。主力はようかんマカロン。それぞれに『源氏物語』などの古典文学や「文豪」ということで近代文学、そして流行りの刀剣などをからめ、様々な商品を販売なさっています。

光太郎がらみもラインナップに入れて下さっていて、いつ頃商品化されたのかよくわからないのですが、最近気が付いて早速2点取り寄せしました。

まず「文豪ようかん 高村光太郎 智恵子抄 柚子味」。
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パッケージを剥くと、こんな感じ。一口サイズ的な。
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白あんベースにレモンならぬ同じ柑橘系ということで柚子ジャムが練り込まれています。

それから「文豪マカロン 高村光太郎 道程 塩キャラメル味」。
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こちらも一口サイズで、周りをキャラメルソースで固めています。どこに光太郎との関連が、という感じではありますが(笑)。まぁ。遊び心あふれる品々、ということで。

他に食品でない雑貨類もいろいろ販売されており、ようかんを切るナイフなども、絶大な人気を誇る「三日月宗近」や新選組鬼の副長・土方歳三の愛刀「和泉守兼定」だったりします(笑)。

ちなみに文豪は以下の通り。

芥川龍之介 有島武郎 泉鏡花 井伏鱒二  江戸川乱歩  尾崎紅葉 織田作之助 梶井基次郎  川端康成  河東碧梧桐 菊池寛 北原白秋 国木田独歩 久米正雄 小林多喜二  坂口安吾   佐藤春夫 志賀直哉 島崎藤村 高浜虚子 高村光太郎 太宰治  谷崎潤一郎 田山花袋 檀一雄 坪内逍遙 徳田秋聲 永井荷風 中島敦 中野重治 中原中也 夏目漱石 新美南吉 萩原朔太郎 樋口一葉 二葉亭四迷 正岡子規 宮沢賢治 武者小路実篤 室生犀星 森鷗外 山本有三   夢野久作 与謝野晶子

ようかんとマカロン、双方がある者と、片方だけの者とに分かれているようで、光太郎は双方あってありがたいところでした。

代金、送料等は以下の通り。
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クール宅急便での配送となり、その分、送料がちょっとかさみます。

ちなみに自宅兼事務所には悪い奴がいて、油断するとこうなります。過日、九州に行っていた妻の土産。
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犯猫(はんにゃん)。
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マカロンはまだ食べていないので、気をつけます(笑)。

皆様もぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

小屋につきますと文部省から手紙が来てゐまして、帝国芸術院会員に推せんするから承諾しろといふ事でした。あのよぼよぼな敬老院は閉口なので謝絶するつもりですが御意見如何でせう。


昭和22年(1947)10月16日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳

結局、断りました。また、のちに昭和28年(1953)にも芸術院会員への推薦があったのですが、こちらも受けませんでした。

3件ご紹介します。

まず天台宗さんとして発行されている『天台ジャーナル』さん。檀信徒さんなど向けの月刊機関紙的なもののようで、今月号です。連載コラムと思われるコーナーに光太郎の言葉をメインで紹介していただきました。

素晴らしき言葉たち

いくら非日本的でも、日本人が作れば
日本的でないわけには行かないのである。  高村光太郎

 詩人であり歌人であるとともに彫刻家、画家であった高村光太郎の言葉です。ですから、芸術分野を指す言葉でしょうが、他の分野にもいえることではないでしょうか。最近、特に話題となっている和食ブームについてもいえると思います。
 伝統的な和食でない中国由来の「ラーメン」やインドを発祥とする「カレー」などは、もとは非日本的な食べ物でしたが、今ではすっかり「和食」となっています。発祥の地である中国には日本のラーメン店が、同じくインドでも日本のカレー店が展開されているそうです。
 明治維新後、日本は先行する欧米の模倣でなんとか国を造りあげてきました。モノづくりでも「安かろう、悪かろう」といわれる時代を経て、「さすが日本製」といわれるほどになり、品質を誇れるまでになりました。
 その過程で、日本独自のアイデアが付け加えられてオリジナルよりも価値が高いものが創造されることになったようです。
 例えば温水洗浄便座なども元はアメリカで開発されたものですが、それを進化させたものだといいます。今では、日本中どこでもみられるようになりました。温水洗浄便座以外でも、モノづくりや食べ物の分野をはじめ、日本の創意工夫が活かされた例が多くなりました。
 このところ、経済状況が沈滞し国力の伸びがなくなって久しい日本ですが、この国の得意とする「日本的な」創意工夫をもって生き延びていくことが、これまで以上に求められていると思います。

いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」元ネタは欧米留学からの帰朝後、明治43年(1910)の『スバル』に発表した評論「緑色の太陽」です。

前年の第3回文部省美術展覧会(文展)に出品された画家・山脇信徳が描いた印象派風の絵画「停車場の朝」に対し、光太郎と親交の深かった石井柏亭などは「日本の風景にこんな色彩は存在しない」と、けちょんけちょんにけなしました。しかしフランスで印象派やフォービスムなどのポスト印象派に実際に触れてきた光太郎は、「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている」とし、作品は作者それぞれの感性によって作られるべきもので、「緑色の太陽」があったっていいじゃないかと山脇を擁護しました。所謂「地方色論争」です。

そんな中で「いくら非日本的でも、日本人が作れば 日本的でないわけには行かないのである。」。さらにどんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。」。

ジャンルは違いますが、思い出すのは作曲家・三善晃のパリ音楽院時代のエピソード。コッテコテのフランス風の曲のつもりで作曲し、どうだ、とばかりに披露すると、「素晴らしい! 何て日本的な曲なんだ!」。そんなもんでしょう。『天台ジャーナル』さんでは、また違った方向に話が進んで行っていますが。

続いて『朝日新聞』さん栃木版、読者の投稿による短歌と俳句欄「歌壇・俳壇」。短歌の方で次の詠が入選していました。那須高原にお住まいの高久佳子さんという方の作。

『智恵子抄』初給料で買った本六十年経て回し読みする 

60年前というと、昭和39年(1964)。その頃流通していた『智恵子抄』といえば、草野心平編になる新潮文庫版もありましたが、わざわざ「初給料で」ということは、函入り布装の龍星閣版でしょう。
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昭和16年(1941)刊行のオリジナルは白い和紙の表紙で、太平洋戦争の激化に伴う龍星閣休業の昭和19年(1944)第13刷まで確認出来ています。戦後になって昭和25年(1950)に龍星閣が再開し、翌年に復元版としてこの赤い表紙のバージョンが出されました。それ以前に昭和22年(1947)に出た白玉書房版がありましたが、こちらは龍星閣の許諾をきちんと得ずに出されたということで、絶版になっていました。

その後、すったもんだがありましたが、この赤い表紙の復元版は版を重ね、現在でも細々と新刊として販売が続いているようです。

画像は昭和26年(1951)の復元版初版。後のものは函の題字も表紙の布と同じ朱色になり、函の色はもっと黄色っぽくなります。

もう1件、『朝日新聞』さんから。岩手版に不定期連載(?)されている「賢治を語る」、5月18日(土)分です。

(賢治を語る)名プロデューサー光太郎 花巻高村光太郎記念会・高橋卓也さん

 北東北の詩人・宮沢賢治。その存在を広く世界や後世に知らしめた人物がいる。彫刻家で詩人の高村光太郎(1883〜1956)。「名プロデューサー」としての顔を持つ光太郎と、賢治の関係について、一般財団法人花巻高村光太郎記念会の高橋卓也さん(47)に聞いた。
 《光太郎と賢治の出会いは?》
 賢治の生前唯一の詩集「春と修羅」が刊行されたのは1924年。日本を代表する彫刻家だった光太郎は翌年、草野心平に勧められてこの詩集を読み、詩的な世界に感銘を受けます。「注文の多い料理店」も借りて読み、親友の作家にまた貸しするほど入れ込みます。
 2人が出会ったのは1926年冬。花巻農学校を退職した賢治が、タイプライターやチェロを学ぶために上京した際、光太郎を訪ねます。突然の来訪だったため、仕事をしていた光太郎が「明日の午後明るいうちに来て下さい」と言うと、賢治は「また来ます」とそのまま帰っていったようです。賢治は再来せず、1933年に死去したため、2人が出会ったのはその一度きりでした。
 《死語、光太郎は賢治の全集を出します。》
 賢治が亡くなった翌年、東京・新宿で追悼会が開かれ、光太郎も出席します。その際、賢治の弟・清六が持参した、賢治の原稿が入ったトランクの中から、「雨ニモマケズ」が記された小さな黒い手帳が見つかります。
 残された原稿の束や手帳を見て心動かされた光太郎や心平の尽力で、賢治全集の刊行が決定し、光太郎はその全集の題字を書いています。
 《詩碑「雨ニモマケズ」の字も光太郎です》
 1936年秋、花巻に賢治の初めての詩碑「雨ニモマケズ」が建つことになり、光太郎に字が依頼されました。ただ、誰がどこで間違えたのか、詩碑には除幕の段階で計4ヶ所、漏れや誤りがありました。
 戦後の1946年、光太郎は訂正を行うため、自ら足場に登って詩碑に筆で挿入・訂正を行い、石工がその場で追刻をしました。光太郎は「誤字脱字の追刻をした碑など類がないから、かえって面白いでしょう」と言ったそうです。
 《戦中、光太郎は花巻に疎開します。》
 1945年4月、空襲で東京のアトリエを焼失した光太郎は、花巻の宮沢家に誘われる形で、5月中旬、清六の家に身を寄せます。
 ところが、その花巻の家も8月10日の花巻空襲で焼けてしまいます。
 その際、空襲を経験した光太郎が、清六に「花巻でも空襲があるかもしれないので、防空壕(ごう)を作り、大切なものを避難させておいた方が良い」と助言していたため賢治の原稿は防空壕の中で、かろうじて焼失を免れました。まさに光太郎の助言のお陰です。
 《光太郎はその後も花巻で暮らし続けます。》
 約7年間、杉皮ぶきの屋根の3畳半の山小屋で独りで暮らし続けます。零下20度の厳寒、吹雪の夜には寝ている顔に雪がかかるような厳しい生活でした。
 亡き妻、智恵子の幻を追いながら、善と美に生き抜こうとした。高潔で理想主義的な生活から素晴らしい作品が生まれました。
 光太郎の芸術は、第一に彫塑(ちょうそ)、第二に文芸、第三に書と画、と言われますが、無名だった賢治の作品を守り、その存在を広く世の中に伝えた「名プロデューサー」としての仕事は、この国の文学に極めて大きな財産を残した、彼のもう一つの偉大な「芸術」だったと言えるかも知れません。


光太郎と賢治、花巻の縁が端的に記されています。こうした縁から、宮沢家では未だに光太郎の恩を忘れていないという感じで、実に有り難く、恐縮している次第です。

ちなみに記事には紹介がありませんでしたが、花巻高村光太郎記念館さんではテーマ展「「山のスケッチ~花は野にみち山にみつ~」が開催中ですし、常設展示では賢治と光太郎の縁的なところにも力を入れています。ぜひ足をお運びください。

【折々のことば・光太郎】

このたびはのびのびと潺湲楼に奄留、思ひがけなき揮毫も果し、デリシヤスの初収穫をも賞味し、お祝いの佳饌にも陪席、又久しぶりにて母にもあひ、まことにめぐまれた一週間でございました。

昭和22年(1947)10月16日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎65歳

潺湲楼(せんかんろう)」は、佐藤邸離れ。旧太田村へ移住する直前の昭和20年(1945)9月から約1ヶ月、光太郎はここで起居し、その後も街に出て来るとここに宿泊しました。

デリシヤス」は林檎。「久しぶりにて母にあひ」は、大正14年(1925)に歿した母・わかに実際に会ったわけではなく(それではホラーです(笑))、双葉町の松庵寺さんでわかの二十三回忌法要を営んで、会ったような気になったということです。

その際に詠んだ短歌が「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」。おそらくデリシャス種の林檎を供えたのでしょう。この歌を刻んだ歌碑などが、松庵寺さんに残っています。

5月19日(日)、当方が智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子生誕祭」に参加しておりました同日、智恵子のソウルマウンテン・安達太良山は第70回山開きでした。今年のキャッチフレーズが「絵になる、詩になる、ほんとの空。」。ありがたし。

同日、NHK福島放送局さんのローカルニュース。

安達太良山で山開き

 二本松市や猪苗代町などにまたがる安達太良山で、19日、山開きが行われ多くの登山客でにぎわいました。
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 磐梯朝日国立公園内にある安達太良山は、標高およそ1700メートルで、「日本百名山」の1つに数えられ毎年、多くの登山客が県内外から訪れます。
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 19日は今シーズンの山開きで、二本松市の奥岳登山口では午前8時から安全祈願祭が行われ、地元の関係者らが玉串をささげて登山の安全を祈りました。
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 訪れた大勢の登山客は山頂を向かって登り始め列をつくって進んでいきました。
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 19日は雲の切れ間から青空も見え、山の中腹では、安達太良山の山頂と周囲に連なる山々の風景や眼下に望む町並みなどを写真におさめて楽しんでいました。
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 千葉県から訪れた70代の女性は「気持ちいです。ことしは70回目の山開きということで、楽しみして来ました」と話していました。
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 また、仙台市から訪れた50代の男性は「智恵子抄でいう“ほんとの空”が見えたなと思いました。山登りは苦しいですが、景色を見ると疲れがとれます」と話していました。
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 二本松市によりますと昨シーズンの奥岳登山口からの登山者は9万7000人余りで、今シーズンも10万人ほどを見込んでいるということです。
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翌日の地方紙『福島民友』さん。

安達太良山、70回目の山開き 「ほんとの空」と絶景満喫

013 二本松市などにまたがる日本百名山の一つ、安達太良山(1700メートル)で19日、第70回山開きが行われた。節目の年となった今回は県内外から昨年を千人ほど上回る約5千人が訪れた。登山道や岩場を踏みしめながら山頂を目指し、眼下に広がる絶景のパノラマを満喫した。
 青空が広がる中、登山者は新緑が生い茂る雄大な景観を眺めながら歩みを進めた。山頂では安達太良連盟が70回記念のピンバッジとペナントを登頂者に配布した。二本松市から毎年訪れている根本和子さん(64)は「汗をかきながら登ってきた。頂上で食べるお弁当が楽しみ」と笑顔で話した。
 安全祈願祭は安全面などを考慮し、会場を山頂から奥岳登山口(二本松市)に移して行われた。安達太良連盟会長の三保恵一市長、安達太良山観光大使でタレントのなすびさん(福島市出身)らが無事故を願った。

同紙ではYouTubeさんに動画もアップして下さいました。


途中の薬師岳パノラマパークに聳える「ほんとの空」木柱が取り上げれています。多謝。
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『福島民報』さん。

本格的な登山シーズンの到来、多彩な行事で祝う 安達太良山開き 「ミズあだたら」に橋本さん(福島県三春町)

 日本百名山の一つ、安達太良山(1、700メートル)で19日に行われた山開きでは、本格的な登山シーズンの到来を多彩な行事で祝った。登山者は〝ほんとの空〟の下、美しい自然の中を歩いて山頂を目指した。
【安全祈願祭】奥岳登山口で二本松市の塩沢神社の滝本和栄宮司による神事に続き、安達太良連盟会長の三保恵一二本松市長が「安達太良山の春はツツジやシャクナゲ、様々な草花、秋は紅葉、冬は雪山と四季を通じて楽しめる。多くの人に楽しんでほしい」とあいさつした。
【山頂】県内外からの登山客でにぎわった。家族連れやグループが昼食を取ったり、眼下に広がる雄大な景色を背に記念撮影する姿が見られた。福島市出身のタレントで安達太良山観光大使のなすびさんとの写真撮影も行われ、登山客が列を作った。
【ミズあだたらコンテスト】出場した女性38人の中から「ミズあだたら」に選ばれた三春町の主婦橋本由香里さん(54)は「I LOVE 安達太良山」と書かれた特製ボードを用意して審査に臨んだ。「70回の節目に選ばれてうれしい。また参加したい」と笑顔を見せた。
【ペナント】山頂で70回記念のピンバッジとペナントを配った。バッジは直径2・5センチで、残雪の安達太良山の写真に「70th 安達太良山 山開き 標高1700M 2024.5.19」と記されている。
【あだたらマルシェ】奥岳登山口で初開催し、周辺の観光案内、軽食、アクセサリーなど11のブースが並んだ。登山客に二本松食や魅力をアピールした。
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ところで、山開きは終わってしまいましたが、こんなイベントが開催されます。

第23回オリエンテーリングあだたら高原大会・あだたら高原ロゲイニング大会

期 日 : 2024年6月2日(日) 雨天決行
会 場 : あだたら高原・岳温泉周辺(福島県二本松市)
時 間 : 7:15 ロゲイニング5時間受付
       8:00 ロゲイニング5時間スタート
       8:15 開 場
       9:15 ロゲイニング3時間スタート
       9:45~グループクラス初心者説明(※)
       10:00~オリエンテーリング個人スタート
       10:15 オリエンテーリンググループスタート
       13:30 フィニッシュ閉鎖(予定)
       14:30 閉 場
料 金 : 
 オリエンテーリング
  個人クラス 2,200円(大学生以下1,700円、当日申込は3,000円)
  グループクラス・個人初心者クラス
  小中学生 500円/名(当日申込は700円)※未就学児は無料
  高校生以上 1,000円/名(当日申込は1,200円)
  個人初心者 1,500円/名(当日申込は2,000円)
  Eカードレンタル (※個人クラス、個人初心者クラス)300円
 ロゲイニング  中学生 1,000円 高校生以上 3,000円

 今年も、オリエンテーリング(ミドルディスタンス競技と家族・グループ向けのスコアO)とロゲイニング(3時間、5時間)と多彩な内容で皆様の参加をお待ちしています。
 恒例の「温泉無料券」の配布と「宿泊助成券」が当たる抽選会も予定しています。
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キャッチコピーが「歩いて 楽しんで 「ほんとの空」を探そう」。「ほんとの空」の語を冠されてしまっては、紹介しないわけに参りません(笑)。

申込は今日まで。我こそはと思う方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

彫刻の正当な製作物が資材の関係でまだ三四年は得られないので少々遺憾ですが、小生はあせりません。人体に対する渇望は嘔吐をもよおすほど強いのですが、今はこらへてゐます。そして健康と精力との涵養につとめてゐます。七十歳を目当にしてゐます。


昭和22年(1947)9月29日 水澤澄夫宛書簡より 光太郎65歳

この頃から、彫刻は封印、という方向に梶を切り始めたようです。

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