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対面型及びオンラインでのシンポジウムです。主催は明星研究会さん。間際で申し訳ありませんが、締め切りが明日です。ただ、対面の方は2~3日前の段階で、まだまだ申し込みが少ないというお話でしたので、延長があるかも知れません。

第18回明星研究会シンポジウム 大逆事件に震撼した時代~平出修・啄木・晶子

期 日 : 2024年12月8日(日) 
会 場 : 対面型 ワイム貸会議室お茶の水 千代田区神田駿河台2-1-20 御茶ノ水安田ビル
      オンライン ZOOM対応
時 間 : 14時~16時30分
料 金 : 2,000円

1910年(明治43)、明治天皇への暗殺計画が準備されたかどで、首謀者に見做された思想家の幸徳秋水、その内縁の妻で新聞記者の管野スガ子らが逮捕されました。同時に、社会主義者、無政府主義者が全国で多数捕らえられます。翌年1月には十分な審理を受けることなく12名が絞首刑、12名が終身刑の判決を受けました。いわゆる大逆事件です。

強権的な思想弾圧事件は当時の人々を驚かせ、文学者にも大きな衝撃を与えました。その一人が石川啄木。啄木は「明星」同人の弁護士・平出修にひそかに陳弁書を閲覧させてもらいます。平出は大逆事件の弁護人でした。また獄中の管野スガ子は与謝野晶子の熱烈なファンで、平出はスガ子のために晶子の歌集を差し入れてもいます。スガ子は感謝の手紙を平出に送りました。あらためて思うのは、平出修はいわばこの事件における文学者側のキーマンでした。

平出修の子孫で、今年5月に逝去された平出洸さんを偲び、今回は開催いたします。対面とZoomとのハイブリッドで開催いたします。

●プログラム● 講演
「〈平出修研究会〉の沿革~平出洸氏を偲んで」 中川 滋(平出修子孫)
「大逆事件・啄木・平出修」 池田 功(国際啄木学会会長・明治大学教授)
「晶子とスガ子~修を介して交差した二人」松平盟子(歌人)朗読:津田真澄(劇団青年座)
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直接的には光太郎に関わりませんが、与謝野晶子、石川啄木、平出修、いずれも『明星』を通して光太郎と縁の深い人々でした。大逆事件の幸徳秋水や管野スガとは直接の交流はなかったようですが。

明星研究会さんのシンポ、コロナ禍となって以後はオンライン限定でしたが、久しぶりに対面方式も復活ということで、自宅兼事務所がZOOM対応になっていない当方としてはありがたく存じ、参加することに致しました。

対面、オンライン、御都合の良い方法で、皆様もぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

御申越の「サンデー毎日」への転載といふことは一向差支ありませんが、「或日」といふ詩を小生思ひ出しません、どんな詩だつたのか、確に小生の詩なのか、不安な気もします、間違だつたら滑稽ですから一応おたしかめ下さい、

昭和25年(1950)7月26日 池田克己宛書簡より 光太郎68歳

「サンデー毎日」への転載」は、10月20日発行の増刊「中秋特別号」。巻頭カラーページには光太郎、北原白秋、佐藤春夫、室生犀星、萩原朔太郎等の旧作の詩に、東郷青児、足立源一郎ら当代きっての画家による挿絵がつけられた豪華な造りです。光太郎のページは、宮本三郎が担当しました。
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詩「或る日」は以下の通り。

    或る日

 今日はあの人の結婚する日だ。
 秋が天上の精気を街(ちまた)に送る。
 こんな日に少女が人に嫁ぐのはいい。
 
 山でも一緒に歩きたいほど
 あのいきいきした好い青年が
 こんな日に少女(をとめ)の肌を知るのはいい。
 
 むづかしい儀式と荘厳とが
 あの二人を日ねもす悩ますさうだが、
 何もかもどしどし通過して
 結局二人きりになればいいのだ。
 
 さうしてこの初秋のそよそよする夜に
 二人一しょにねればいいのだ。

20年以上前の昭和3年(1928)の作で、題名も特徴的なものではないためでしょうか、光太郎、自分でどんな詩だったのか忘れていました。で、気軽に「転載してもかまわないよ」と答えたところ、届いた掲載誌を見てびっくり。

この詩は秩父宮雍仁親王と、旧会津藩主松平容保の孫・勢津子妃殿下のご成婚に題を採った詩でした。それに田舎の花嫁の輿入れ姿を描いた挿絵が附され、苦笑したわけです。

11月10日(日)~18日(月)の日程で開催しました「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」。

中野たてもの応援団さん主催で、当方も幹事に名を連ねています中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会の協賛。保存運動の起こっている、光太郎終焉の地にして第一回連翹忌会場だった中野区の中西利雄アトリエをメインに据えた展示でした。

地味な展示であまり宣伝も行き届かず、大盛況とは行きませんでしたが、それでもそれなりに多くの方にお越し頂き、有り難く存じました。会期中に『東京新聞』さんに取り上げていただいたのも大きかったようです。

個人的にも必死に宣伝しましたところ、旧知の皆さん、SNSで繋がっている方々などの御来臨を賜り、恐縮至極でした。また、新たに人脈を広げることもでき、嬉しい限りです。

関連行事として2本の講演が行われ、その模様がYouTubeに上がっています。SNSにはアップしましたが、こちらのサイトには出していなかったので、貼り付けておきます。

まず
11月10日(日)、劇作家・俳優にして中西アトリエを保存する会代表の渡辺えりさんと、当方によるトークショー「連翹の花咲く窓辺……高村光太郎と中西利雄を語る」。



さらに、11月11日(月)、建築がご専門のお二人、内田青蔵氏(近代建築史家・中野たてもの応援団団長)、伊郷吉信氏(建築家・自由建築研究所・伝統技法研究会)によるご講演「中西アトリエの魅力…水彩画家中西利雄とアトリエ設計者山口文象について」。


アトリエ保存のための一石を投じたことになっていれば、と願っております。

また、来月には中野区役所新庁舎ロビーにおきまして、今回展示したもろもろのうち、解説パネルをセレクトしての展示が行われる方向です。また詳細が入りましたらご紹介致します。

【折々のことば・光太郎】

独学の人は自分免許が危険です、ひとりでいい気になってゐる事が怖いです、

昭和25年(1950)6月17日 多田政介宛書簡より 光太郎68歳

なるほど、肝に銘じます。

NHKカルチャーさんのオンライン講座です。

心に響くオンライン朗読講座~基本スキル編

期 日 : 2024年11月8日(金) 11月22日(金) 12月13日(金)
時 間 : 10:30~12:00
料 金 : 9,900円

講 師 : 朗読家・神戸女学院大学非常勤講師 川邊暁美

ご自宅で安心!マスクを外してのびのび楽しみましょう♪

声の響きや作品の息遣いを楽しみながら、朗読の世界に心を遊ばせてみましょう。
伝わる声づくりから明瞭な発音、声の表現力の磨き方、朗読の基本をオンラインで受講していただけます。声と言葉の豊かさは心の豊かさ。人生をより豊かに、実りあるものにしてくれます。ぜひ、朗読にチャレンジしてみてください。

●1回目:ここちよく声を出すために
 (練習作品)『あどけない話』(高村光太郎)『こだまでしょうか』(金子みすゞ)
 伸びやかな声のためのストレッチ、声を心を安定させる腹式呼吸、明瞭な発音の基本
●2回目:声の可能性にチャレンジ
 (練習作品)『やまなし 五月』(宮沢賢治)
 ベストボイスを探す、苦手な発音を克服、声の5要素を深める
●3回目:声の表現力を広げる  
 (練習作品)『やまなし 十二月』(宮沢賢治)
 朗読の手順、作品の息遣いを伝える表現
 
持ち物
●PC、タブレット(LANケーブルもしくはwi-fiに接続し、通信環境の良い所から参加してください)
●マイク付きイヤホンを使う等、音声のやり取りができる状態でご受講ください。
●事前にビデオ会議ツールZoomアプリをインストールしてください。文化センターホームページ【オンライン講座受講前の準備】参照。

備考
●Zoomミーティングの招待メールは2-3日前にお送りします。必ず事前に登録のうえ、音声テストもお済ませください。
●各回の資料は招待メールに記載のURLからダウンロード願います。可能な方はプリントアウトして当日お手元にご用意ください。
●ミーティング形式で行いますので、参加者のお顔が映ります。
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講師の川邊暁美氏、今年1月にも光太郎の散文「智恵子の紙絵」(昭和14年=1939)も題材に含んだ講座をなさってくださいましたし、どうしたわけかご紹介するのを失念していました(すみません)が、先月も「智恵子抄」から作品を採っての講座講師を務められました。

常々書いていますが、光太郎文筆作品、詩にしても散文にしても、意外と朗読向きです。字面を目で追っただけではそうも感じられないのですが、実際に声に出してみると、または他の方の朗読を聴いてみると、内在律といいましょうか、自然律といいましょうか、心地よい独特のリズム感にあふれています。ひそかに韻なども多用されており、光太郎がフランス語の習得のために触れたヴェルレーヌやらの詩の影響が見て取れるような気がします。

ご興味おありの方で、Zoom使用環境が整われていれば、ぜひどうぞ。

講座ついでに、講座というより講演、さらにいえば公開対談というかトークショーというかですが、今月10日開幕の「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」の関連行事としての、渡辺えりさんと当方による「連翹の花咲く窓辺…高村光太郎と中西利雄を語る」(11月10日(日) 14:30~16:30  会場:なかのZERO 無料)。

3日程前の段階で、申し込みがまだ定員に達していないとのこと。
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Facebookでは「イベント」を作成してもう一度呼びかけてみましたが、こちらでも改めて宣伝させていただきます。お忙しい折とは存じますが、絶対に面白い内容となるはずですので、ぜひどうぞ。

お申し込みはこちら

【折々のことば・光太郎】

父や母の事なら書きいいのですがどうも自分の細君の事となると気がさしてくだくだと書けなかつたのでした。 そのくせ詩には時々出てくるのですが、変なものです。

昭和25年(1950)3月7日 小田切進宛書簡より 光太郎68歳

光太郎にしては珍しく、執筆の約束をしていながらぶっちぎってしまった(笑)件に関わります。

小田切が勤務していた改造社で発行していた『女性改造』のこの年四月号には、智恵子紙絵の原色版グラビア5点が4ページにわたり掲載され、「想い出 高村光太郎 解説 真壁仁(本文参照)」のキャプションが添えられています。

しかし本文には光太郎の「想い出」という文章はなく、真壁による「高村智恵子遺作切抜絵について」のみが4ページにわたり掲載され、その欄外に「口絵に『想い出・高村光太郎』となっていますが、 筆者の余儀ないご都合により本号に掲載できませんでした、右 おことわりいたします(編集部)」の注記があります。おそらくその注記を書いたのが小田切だったのでしょう。「余儀ないご都合」と言いつつ、後回しにしていたら忘れてしまっただけなのですが(笑)。

もし忘れていなければ、この時点で改めて書かれたはずの智恵子に関する「想い出」。読んでみたかった気がします。

先週土曜日、TokyoFMさん他でオンエアされた「yes!~明日への便り~ presented by ホクトプレミアム 霜降りひらたけ」の第472話。公式サイトでバックナンバーとしての公開が為されています。

サブタイトルが「己の後悔と向き合う -【千葉県にまつわるレジェンド篇】芸術家 高村光太郎-」。この番組、特定の地域とそこにゆかりの人々の関係、というコンセプトでやられていて、千葉県編の前はフランス編でした。フランスに続いて千葉、というのが千葉県民としては何とも面はゆいところですが(笑)。

ラジオ番組ですので、通常の電波には映像が乗りませんが、公式サイトでは大正元年(1945)に光太郎智恵子が愛を確かめた銚子犬吠埼、昭和9年(1934)に心を病んだ智恵子が半年余り療養生活を送った九十九里浜の画像が出ています。
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番組内でもこの2ヶ所について触れられました。

放送作家の方の書いた「物語」を、俳優の長塚圭史さんが読まれていまして、公式サイトでは音声も聴けるようになっています。長塚さん、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも時折ナレーションを務められていますが、お父さま(長塚京三さん)ゆずりのいいお声ですね。

「物語」と書きました。全文がこれも公式サイトに出ています。何か所か、史実とは異なる(「一緒に千葉県の九十九里浜に移り住んだ」とか)、あるいはそこまでは特定できていない(「7歳か8歳の時、絶対的な存在の父から彫刻刀を3本もらった」など)一節があり、まぁ、史実を元にしたラジオドラマのようなもの、という意味で「物語」と書かせていただきました。

それでもなかなかよい出来です。ぜひお聴き下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の詩は根帯から諸家のものと相違し、藤村――白秋――朔太郎――達治――現代詩人諸家の系統とはあまり縁がないので、諸家の理解を得ることはあり得ないと考へてゐます。


昭和24年(1949)6月29日 東正巳宛書簡より 光太郎67歳

同様の発言は詩歌に関する評論などでも書いています。詩集『道程』(大正3年=1914)で我が国口語自由詩の礎を築いた光太郎ですが、あくまで自分は傍流だと。そこには一種の矜恃も含まれているように思われます。

今年はじめから活動を始めました「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」。光太郎終焉の地にして、第一回連翹忌会場ともなった中野区のアトリエの保存のための組織です。

このたび、会としてのホームページが立ち上がりました。
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会の世話役であらせられる日本詩人クラブ理事の曽我貢誠氏が手配して下さり、そのあたりにお詳しいという同クラブご所属の詩人・遠藤ヒツジ氏に作成していただきました。多謝。

中野のアトリエ、もともとは恐らく光太郎とも面識のあった水彩画家・中西利雄が、建築家の山口文象に設計を依頼して自分用に建てたものでした。しかし、その完成とほぼ時を同じくして中西は急逝。昭和23年(1948)のことです。
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せっかく建てたアトリエを活用しないのはもったいないと、中西夫人が貸しアトリエとして運用することになり、彫刻家のイサム・ノグチが最初の借り手となりました。その後、昭和27年(1952)、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作を青森県から依頼された光太郎が、花巻郊外旧太田村の山小屋では制作が不可能なため、このアトリエを借りることとなりました。

そこで、「乙女の像」石膏原型はここで作られたわけです。ホームページのトップ画像は中西アトリエで制作中の光太郎。また、ホームページ内「ギャラリー」の項には、助手の小坂圭二と写った写真など他の画像も掲載されています。

光太郎、像の除幕後、一時的に旧太田村に2週間程帰村したり、宿痾の肺結核のため昭和30年(1955)には赤坂山王病院に2ヶ月程入院したりしましたが、それ以外はこのアトリエで起居しました。当初の目論見では、寒い冬場はこのアトリエで過ごし、春になったら岩手へと、二重生活を考えていたようなのですが、健康状態がそれを許しませんでした。もはや帰村は叶わないと悟った入院時には、住民票もこのアトリエに移してしまいました。

そして亡くなったのが昭和31年(1956)4月2日。最晩年の約3年半、このアトリエで過ごしたことになります。その間、中西夫人や子息の利一郎氏らが何くれとなく光太郎の世話をして下さり、子や孫の居なかった光太郎にとって、中西家の人々は家族同然だったようです。

光太郎没後もアトリエはしばらく借り続けられ(おそらく実弟の豊周が費用を負担したのでしょう)、当会の祖・草野心平や、当会顧問だった北川太一先生らによる最初の『高村光太郎全集』編集室として使われました。そして昭和32年(1957)4月2日、第一回連翹忌の会場ともなりました。

昨年、利一郎氏が亡くなり、このアトリエが存続の危機です。お父さまが光太郎と交流があり、ご自身も利一郎氏と親しかった渡辺えりさんに代表を務めていただき、「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」を結成しました。003

今後、保存に向けてのさまざまな活動を行っていきますが、皆様方にも御支援を賜りたく存じます。ホームページ内には署名の項があり、既に紙媒体で署名していただいた方はブッキングしてしまいますので結構ですが、SNS等で拡散していただきたく存じます。不鮮明ですが、QRコードも載せておきます。

なにとぞよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

音楽だけは山ではきけず、時々ひどくききたくなります。


昭和24年(1949)3月23日 西岡文子宛書簡より 光太郎67歳

この年、電線は村人に引いてもらったので、やがてラジオを入手、音楽も聴けるようになりますが、まだ先の話です。

『読売新聞』さんのサイト内で、5月から今月にかけて「読売新聞150年 ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」という連載が成されました。
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ご執筆は武蔵野美術大学さんの前田恭二教授。昨秋行われた研究発表会、第66回「高村光太郎研究会」で「米原雲海と口村佶郎――新出“手”書簡の後景――」という題で発表をなさり、それを元に今春発行された研究誌『高村光太郎研究(45)』に論考「新出「手」書簡の後景――米原雲海と口村佶郎」を寄稿なさいました。

「ヨミダス」は、『読売新聞』さんの紙面データベース。明治7年(1874)から現在までの掲載記事を検索できます。当方もだいぶ以前に国会図書館さんでそちらを使い、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎文筆作品等を10篇以上見付けました。詩人の野口米次郎を評した長い評論、『高村光太郎全集』に第1回から第11回までは収められているものの、最終回に当たる第12回が漏れていた評論「西洋画所見」など。

その「ヨミダス」で閲覧出来る過去の誌面から、明治大正期の主に美術に関する記事をピックアップし、さまざまな角度から解説が加えられています。

全5回だったようで、ラインナップは以下の通り。すべて光太郎に(一部智恵子や光雲に)言及されています。

若きフジタの「漫画展」――青春時代の藤田嗣治 
光太郎が彫刻科を卒業して入学し直した東京美術学校生洋画科で同級生だった藤田嗣治がメイン。欧米留学から帰朝した光太郎が明治43年(1910)、神田淡路町に開店したほぼほぼ我が国初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)がらみで光太郎、そして智恵子にも言及されています。

高村光太郎と荻原碌山――1910年4月の群像 
光太郎、そして共にロダニズムを日本に移植した碌山荻原守衛について。やはり光太郎の親友だった葉舟水野盈太郎のエッセイ等も引かれ、光太郎と守衛の深い結びつきが紹介されています。

東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅠ――上司小剣の“匿名日記”を読む
「高村光太郎と荻原碌山」でも触れられた、登場人物がイニシャルで書かれている私小説、エッセイ等で、それぞれの人物を特定する試み。

東京・雑司ヶ谷と読売文士たちⅡ――人見東明とフュウザン会
「フュウザン会」は、光太郎、岸田劉生、斎藤与里らが興した反アカデミズム系の展覧会。第一回展が大正元年(1912)、当時の読売新聞社社屋を会場に開催されました。

最も新しい女性画家――高村智恵子の青春
『青鞜』の表紙絵や太平洋画会展への出品などで注目され始めていた智恵子が、『読売新聞』に「最も新しい女画家」として紹介され、その前後の智恵子について。これが最も驚きました。大正14年(1924)に紙面に載ったという光太郎智恵子の写真が掲載されていたためです。
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撮影場所はおそらく駒込林町の光太郎アトリエ兼住居でしょう。なぜ驚いたかというと、この写真、これまでに刊行された光太郎智恵子関連の研究書等の類に掲載されたことが無いと思われるものだからです。

戦前に亡くなった智恵子の写真はこれまで30葉見つかっていたかどうか、それも少女時代のものが多く、結婚後のものは10葉足らずで、一昨年、昭和3年(1928)5月発行の雑誌『美術新論』に載った下記の写真を見付けて驚きましたが、また一葉加わりました。
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それにしても、メジャーなメディアだった『読売新聞』に掲載されていた写真が知られていなかったというのが意外でした。また、先述の通り、「ヨミダス」はかなり前に一通り調べたのですが、見落としていました。暇を見てもう一度「ヨミダス」での調査もやらなければ、と思いました。

さて、上記リンクから「ムササビ先生の「ヨミダス」文化記事遊覧」、ぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

昨今蟲にくはれたのがもとで面疔のやうなものが上唇に出来、厄介です。ズルフアミン剤をのんでゐますが、高いのに驚きます。


昭和23年(1948)8月6日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

「面疔(めんちょう)」は、「とびひ」等と同じく黄色ブドウ球菌の感染によって起こる皮膚感染症。虫に刺された箇所を、土などのついた手でポリポリ搔いたために発症したと思われます。この際は結構な重症で、なかなか治りませんでした。

竹橋の東京国立近代美術館さん。有島武郎旧蔵の光太郎ブロンズ代表作「手」を収蔵なさり、常設展示で「所蔵作品展 MOMATコレクション」に出品なさることもしばしばです。現在も出ています(8月25日(日)まで)。
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光太郎生前に鋳造されたことが確認出来ている3点のうちの1点で、木の台座部分も光太郎の手になる木彫です。接着されていないブロンズ部分を取り外すと、芯ともいうべき部分に旧蔵者の有島、有島没後に受け継いだ秋田雨雀、そして戦時中に秋田から託された雑司ヶ谷本納寺の兜木正享の名が記されています。詳しくはこちら。動画で紹介されています。

戦後、光太郎の意向もあって、同館に寄贈されました。

さて、同館では、動画以外にも「水平方向に360度回転させて見ることができ、細部を拡大することも可能な3D画像ビューアー」を制作され、このほどオンラインで公開されました。

高村光太郎《手》のオブジェクトVRコンテンツ公開

このたび当館では、日本文教出版株式会社と日本写真印刷コミュニケーションズ株式会社との共同で、「オブジェクトVRコンテンツ」を制作いたしました。
高村光太郎《手》(1918年頃)を水平方向に360度回転させて見ることができ、細部を拡大することも可能な3D画像ビューアーです。
ぐるぐる回したりぐっと近寄ったりしながら、美術館の外でも作品をじっくりお楽しみください。
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*高精細データのため表示されるまで時間がかかる場合がございます。
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光太郎自身、彫刻はぐるっと360度の方向から見るのが大事だと書き残しています。彫刻自体は動かないけれど、自分が動けば彫刻も動く、というわけで。

線の波動の面白味といふのは、空間を劃(かぎ)つた彫刻の輪廓の波動をいふのである。所謂曲線美といふのも此の辺を名づけたのであらう。一つの彫刻の前に立つて見ると、其の後ろの空間の中へはつきりと其の彫刻の「輪廓の影(シルエエツト)」が浮き上つて来る。大小緩急の入り乱れた弧線が端から端へと連続して人間の形や動物の形を成してゐる。そこで一歩横へ寄る。百眼鏡(ひやくめがね)を一転した様に、今までの輪廓の影の弧線は忽ち大活動を始めて変化する。其の変化の途中、大きな弧線が小さくなり、小さなのが大きくなり、縮んだのが伸び、迫つたのが開いてゆく所は、実に不思議な生理的快感を人間の神経に与へるものである。此の輪廓の変転は到底測る可からざる感を人に与へる。かうして、其の彫刻を一周してゐるうちに再び元の位置にかへる。ぴたりと以前の輪廓に復した時には、全く旧知に邂逅した刹那の感があるものである。(「彫刻の面白味」明治43年=1910)

こうした感覚を味わいつつ、ぜひ「《手》のオブジェクトVRコンテンツ」をご覧下さい。

なお同館では、光太郎の親友だった碌山荻原守衛遺作の「女」についても同様のコンテンツを公開するやに聞いております。

こうした動きがさらに広がってほしいものですし、どうせなら水平方向360度だけでなく、斜め上から真上からと、この場合、何度と表現したいいのか解りませんが、全方向から見られるようにもしていただけると、なお有り難いところです。

【折々のことば・光太郎】

先日窓の外の鼠の巣の子どもをのみに蛇が来て鼠を退治してくれました。


昭和23年(1948)6月26日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎66歳

花巻郊外旧太田村での一コマ。何気に書かれていますが、自然界の生存競争の厳しさが感じられます。その連鎖の中に光太郎も身を置いていたわけで……。

詩人の若松英輔氏。光太郎についても関心がおありのようで、複数のご著作やZOOMによるオンライン講座等、ラジオ番組等で光太郎に触れて続けてくださっています。

常に氏の動向をチェックしているわけではないのですが、キーワード「高村光太郎」でネット検索をしていると氏がらみの情報がいろいろヒットするので、その都度こちらでご紹介しています。見落としもあるでしょうが。

生涯学習講座いろいろ。
『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる』。
若松英輔『詩と出会う 詩と生きる』。
若松ゼミ◆詩の教室 言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む。
若松英輔氏~AI。
若松英輔『自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと』。

すると、今月から音声配信サービス「voicy」というのを利用されて、「若松英輔の「読むと書く」ラジオ」という活動を始められていました。YouTubeのような動画配信ではなく、音声のみの配信。「へー、こんなのもあるんだ」と思いました。
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その第23回が「《対話》高村光太郎「気について」自分がどういうものを作り出しているか、自分の人生がどんなものに運ばれてきたのか」。昨日配信されたようです。早速拝聴してみました。
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「番組アシスタント」の大瀧純子さんという方とのトーク形式で、約10分。光太郎のエッセイ(というか評論というか……『高村光太郎全集』では「評論」の巻に収録されています)「気について」(昭和14年=1939)がメインに取りあげられています。

短い文章なので、全文を。

 人間の捉へがたい「気」を、言葉をかりて捉へようとするのが詩だ。気は形も意味もない微妙なもので、しかも人間世界の中核を成す。詩が言葉にのりうつつた「気」である以上、詩を言葉で書かれた意味にのみ求め、情調のみに求め、音調(ヴエルレエヌは音楽といふ)にのみ求めるのは不当である。詩は一切を包摂する。理性も知性も感性も、観念も記録も、一切は詩の中に没入する。即ちその一切を被はないやうな詩は小さいのである。気が一切を呑むのである。

発表されたのは昭和14年(1939)元日発行の雑誌『蛮』第3巻第1号新春号。執筆の年月日は不明ですが、おそらく前年12月あたりでしょう。すると、10月5日に智恵子を亡くした直後と言っていい時期です。

この頃から「」が光太郎の内部で一つのキーワードとなっていきます。002

右は2年後の昭和16年(1941)8月に刊行された散文集『美について』初版見返しに揮毫された短句。「詩とは気である 気の実である」。詳細は不明ですが、親しい人物に贈られたものと推定されます。

最愛の智恵子を亡くし、世の中は泥沼化した日中戦争の局面を打開しようと、さらに米英などに対して太平洋戦争を仕掛ける前夜です。

余談ですが奥付によれば『美について』は『智恵子抄』と全く同じ昭和16年(1941)8月20日刊行。実際に店頭に並んだのには多少のずれもあったでしょうが。

『智恵子抄』の詩篇で愛する者に別れを告げ、詩の中で智恵子が謳われることは無くなり(それが復活するのは戦後の昭和20年(1945)作の「松庵寺」です)、以後、ほぼ翼賛詩一辺倒となっていきます。

詩ではない散文の中にも「」。例えば昭和19年(1944)1月15日発行『海運報国』第4巻第1号に寄稿した「決戦時生活の基礎倫理」では、「まづ必勝の気を堅持する事が第一である。」「必勝の気とは確乎たる自信である。どんな謀略にもひつかからぬ卓然たる確信である。」類例は多いと思います。『道程』時代から光太郎は一種の精神主義を掲げていましたので、その延長という見方も出来ましょうが。

さて、若松氏、そうした光太郎の「」が、光太郎芸術全般にどのように表されているかといったお話。ぜひお聴き下さい。

【折々のことば・光太郎】

ところで、お願ですが、いつぞやのおテガミ中に札幌でホームスパンの洋服が出来るやうなお話でしたが、普通型背広服一着たのんでいただけないでせうか。小生東京以来のボロ服以外に一着も無く、来年位には此服も破れてしまふだらうと思ひますので出来ればお願ひ申したく存じます。


昭和22年(1947)11月4日 更科源蔵宛書簡より 光太郎65歳

結局この依頼は実現せず、昭和25年(1950)になって、親しく交流したホームスパン作家・及川全三の人脈でホームスパンの服をオーダーメイドしています。

ネット上で見つけたイベント情報を2件。

まずはオンライン講座です。

心に響くオンライン朗読サロン(3回)

期 日 : 2024年1月26日(金)、2月9日(金)、3月1日(金)
主 催 : NHKカルチャー西宮ガーデンズ教室
方 式 : Zoomによるオンライン
時 間 : 各回とも13:30~15:00
料 金 : 8,910円

講 師 : 朗読家・神戸女学院大学非常勤講師 川邊暁美

ご自宅で安心!マスクを外してのびのび楽しみましょう♪

世界でたった一つのあなたの音色である「声」の表現力に磨きをかけ、美しい日本語をあなた自身の声で味わう、心豊かなひとときをご一緒しませんか。呼吸・発声・発音・の基本から思いの伝わる表現技術まで、朗読スキルも学んでいただきながら、様々なジャンルの文章表現を楽しんでいただきます。初めての方も経験者の方も、伸びやかに声を響かせて思い思いの音色を奏でましょう。

【各回の内容】
1/26 作品の息遣いを声で伝える『智恵子の紙絵』高村光太郎
2/9 声の5要素を自在に使う 作品に合わせた表現方法 『十三年』山川方夫
3/1 好きな作品をもちより発表会、講師から個別アドバイス
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『智恵子抄』は詩だけでなく、散文や短歌も収録されており、今回テキストとされるのは散文の「智恵子の切抜絵」(昭和14年=1939)と思われます。案内では「智恵子の紙絵」となっっていますが、「智恵子の切抜絵」ではイメージが湧きにくいということでしょうか。

もう1件、音楽ライブ情報です。

黄昏に旅情歌を歌う

期 日 : 2024年1月26日(金)
会 場 : ヤナカフェ西東京 東京都西東京市柳沢2-13-9
時 間 : 16:00~17:00
料 金 : 2,000円(ワンドリンク付)

出 演 : 岡雅子(テイチクエンタテインメント) 


美味しく香り高い珈琲 紅茶をマスターがご用意してお待ちしています。終了後はそのままお食事お酒、お茶をヤナカフェでどうぞ。

セットリスト
宗谷岬 銀色の道〜北上夜曲 岬めぐり 智恵子抄 案山子 津軽海峡・冬景色
東京の灯よいつまでも 椰子の実 愛媛・瀬戸内始まりの「ふるさと」 昴
アンコール 高校三年生
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「智恵子抄」がラインナップに入っていますが、おそらく智恵子の故郷・二本松にほど近い小野町出身の丘灯至夫作詞・戸塚三博作曲で、二代目コロムビア・ローズさんが歌われた「智恵子抄」(昭和39年=1964)でしょう。リリースされてちょうど60周年ですね。

ただし、「ご予約満席」だそうです。それでもキャンセル等有るかもしれませんし、こういうイベントがあったという記録のためにもご紹介しておきます。

【折々のことば・光太郎】

たちまち雪が消えて春がいちめんに小屋のまはりにみちました。ゼンマイ、ワラビをはじめとして木の芽、草の芽、葉に先だつ木々の花、不思議な形態の美を持つ山草の花。目がまはるやうです。


昭和21年(1946)5月10日 鎌田敬止宛書簡より 光太郎64歳

昨日ご紹介した書簡と前後しますが、花巻郊外旧太田村にようやくやってきた遅い春を心から喜んでいます。都会生活が長かった分、山村の春は新鮮に感じられたことでしょう。

このところ、新聞各紙で光太郎ゆかりの人物およびそのご子孫が取り上げられたりし、光太郎の名も出ることが相次いでいます。

まず、光太郎と交流のあった彫刻家・舟越保武の息女にして、光太郎に名付け親になってもらった絵本編集者・末盛千枝子さん。

『中日新聞』さんおよび系列の『東京新聞』さんから。

被災地の子どもに絵本を届けて10年 編集者・末盛千枝子さんの思い「何もしなかったら、美智子さまに会わせる顔がない」

009 絵本編集者の末盛千枝子さん(82)は、まど・みちおさんの詩を上皇后美智子さまが英訳した本など話題作を世に送り出してきた。2010年に岩手県八幡平市に移住。1年もたたないうちに東日本大震災が発生し、被災地の子どもたちに絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」に10年間、取り組んできた。絵本への思いや震災後について聞いた。

「あったー」喜んだ子がいとしくて
―「3.11絵本プロジェクトいわて」を10年間、続けられました。
 子どもたちは本当にけなげでしたよね。震災後、保育園のおやつの時間に伺ったことがあったのですが、同じテーブルでおやつを食べていた男の子が「おまえのおじいさん大丈夫だったの?」「大丈夫だった」「良かったね」なんて会話をしていました。それが3歳、4歳の子どもの会話なのよね。ぼうぜんとするような感じでした。
 高台にある保育園では、津波で流された家などが逆流してきたのが見えたりしたらしいのね。子どもによっては、自分の家が流されたりしたのを見た子もいました。
 持っていった絵本から、自分の好きな本を見つけてそれ持って帰っていいからねって言ったら、子どもたちがわれ先にと探していた。
 最後の最後まで探している男の子がいて、「あったー」って喜んで持って帰りました。きっと自分の家か保育園にあった好きな本が、流されて探していたんだと思うんですよね。本当にちょっといとしい感じがしてね。私も同じ本を注文して、その子の思い出に持っています。

 ―岩手に移住されて1年もたたないうちに3.11でした。運命のようなものを感じましたか。
 なんか本当に不思議でしたよね。移住して1年目ですから。友人に「神様があなたに、北の海で一緒に働いてくれっておっしゃったんじゃない」と言われて、そのときはうれしい言葉に涙が出ましたね。移住してすぐで、最初は友達がいないような感じだったのに、活動を通じて今は友達がこちらでもたくさんできました。毎月、お金を送ってくれる友達もいて本当にありがたかったですね。

美智子さまは毎月のように絵本を…
―プロジェクトには美智子さまからも絵本が届けられました。
 プロジェクトを始めたのは、岩手にいるのに私がここで何もしなかったら美智子さまに会わせる顔がない、という思いもありました。
 美智子さまは毎月のように絵本を送ってくださった。2、3年たったときだったかしら、「私の手元にある絵本の原画をお貸しするから展示してみてもらってくださる?」というご連絡もいただきました。美智子さまも、みんなと一緒に活動しているという思いがおありだったと思います。折に触れてお電話をいただきます。

―3.11から十数年が経過しました。
 陸前高田の友達の話が忘れられません。信号のある交差点を車で運転していたら、信号が青になったのに前の車が止まったまま動かない。後ろで待っている人たちが運転している人に対して「もう青になっているよ」と言うと、運転している人は「いくら青になったって人がたくさん渡っているから行けないだろう」って。もちろん実際には誰もいないんだけど、そういう話がいっぱいあるのだと。なんだかとっても切なかったですね。
 大船渡の避難所になっていた体育館で、砂の中に小さなぬいぐるみが埋まっていたのを見つけました。小さい子が持って逃げ込んだに違いないと思いました。
 砂を払うと、ピンクとブルーの牛のぬいぐるみだったんですよね。うちの子どもが持って歩いていたぬいぐるみを思い出してね。どうしてもそのまま帰れずにバンダナにくるんで持って帰って、しばらく自宅の岩手山の見える窓に置いておいたんですけどね。いつかだれかに返すチャンスがあるかもしれない、と思っていたんですけど、そういうこともなく、まだ家にありますけど。

大人たちにも絵本を見てもらいたい
―今年は「末盛千枝子と舟越家の人々」という展覧会がありました。
 (最初の夫の)末盛憲彦が亡くなる前も絵本の仕事はしてたんだけど、確かにそういえば、彼が亡くなったことによって、彼のしようとしていたことのたいまつを持ち続けたい、と思ったんだったなってあらためて気付きました。
 こんなにたくさん本をつくってきたんだ、ってあらためて自分で思ったのとね、何と言うんだろう、自分では全然意識していなかったけど、大人の人たちにも絵本を見てもらいたい、という思いはもちろんありましたけどね。それがこんなにみんなに受け入れてもらったんだってあらためて思いましたね。子どものためだったらこの程度でいい、というふうにはつくってこなかった、と。

―大人にも絵本を見てもらいたい、というのはどういうことでしょうか。
 忘れられないのは、とても親しかったある方が絵本が好きで、自分の部下が転勤していくときに必ず(絵本作家の)ゴフスタインの絵本をプレゼントしていました。すごくわが意を得たり、と思いましたね。病気だったその方にゴフスタインの「ピアノ調律師」という絵本を送ったら、「人生で自分が好きなことを仕事にできるほど幸せなことがあるかい、というメッセージ、確かに受け取りました」という返事が来てすごくうれしかった。

プーチン大統領に、絵本を届けたい
―千枝子さんというお名前は、お父さまが高村光太郎さんに会いに行ってつけてもらったとか。
 父は高村光太郎さんが訳した本を読んで彫刻家になろうと決めた、と言うんです。「千枝子」という名前の重みから逃げようとしていましたよね、若いときは。だけど今になって、これでよかった、と言える感じがしますけどね。

―ご不幸も経験された。どのように乗り越えてこられたのでしょうか。
 一つには、大変なのは自分だけじゃない、という思い。小さいときからいろいろ大変な人たちを見てくるじゃないですか。子どものときには、中学生ぐらいだったかな、渋谷の駅とかそういうところに傷痍(しょうい)軍人が白い服着てアコーディオンを演奏していましたしね。いろんな人たちがいて、みんなそれぞれが大変なんだということを思っていましたね。
 一番きつかったのは末盛が亡くなったときかもしれない。すっごく優しい人だったんですよ。だからその人が亡くなったということはものすごく大変だったですね。でも皆さんがすごく助けてくださった。

―ロシアのウクライナ侵攻が続いている。絵本には平和への思いも込められていると思いますが、今、何を思われますか。
 無力感ですよね。ウクライナの若い大統領、頑張っているが、だんだんやつれてきている。(美智子さまの講演録の)「橋をかける」はロシア語にも翻訳されています。プーチン大統領に絵本を届けたいぐらいです。

インタビューを終えて
 岩手山を望む、おしゃれなご自宅でインタビューに応じていただいた。部屋のあちこちに絵画などの芸術作品があり、日常に芸術が溶け込んでいた。洗練された絵本を送り出し、震災後の子どもたちにやわらかなまなざしを注ぐ源に、このような暮らしがあるのだと感じた。「3.11絵本プロジェクトいわて」の絵本がどれだけ子どもたちの心の支えになっただろう。
 部下に絵本を送るとは、すてきなエピソードだと思った。大人になってからはあまり絵本に触れてこなかった記者だが、そんな大人に憧れる。幸い、近所に絵本の図書館や絵本専門店がある。今度ゆっくりと訪れてみたい。

末盛千枝子(すえもり・ちえこ)
 1941年、彫刻家・故舟越保武氏の長女として東京で生まれる。4~10歳は保武氏の郷里・盛岡で育つ。NHKディレクターだった末盛憲彦さんと結婚、2人の息子に恵まれたが、結婚11年後に憲彦さんが急死。その後、本格的に編集者として歩み始めた。自ら設立した出版社「すえもりブックス」で、まど・みちおさんの詩を上皇后美智子さまが選・英訳された「THE ANIMALS 『どうぶつたち』」や、講演をまとめた「橋をかける 子供時代の読書の思い出」を手がけた。2010年5月に岩手県八幡平市に移住。今年4~6月に市原湖畔美術館(千葉県市原市)で「末盛千枝子と舟越家の人々」が開催された。著書に「『私』を受け容れて生きる」(新潮社)など。

東日本大震災後の「3.11絵本プロジェクトいわて」のお話を根幹に、今年4~6月に千葉県の市原湖畔美術館さんで開催された「末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―」にも言及されています。

同様のお話などが、NHKカルチャーさんでオンライン配信されます。

絵本という希望 -人の悲しみに寄り添う-

講師 絵本編集者 末盛千枝子

愛する家族の難病、そして突然の別れ―さまざまな困難に幾度も遭いながら、小さな幸せをひとつひとつ数えるように、人生の希望や喜びを本に込めて届け続けてきた末盛千枝子さん。2023月6月、末盛さんのご自宅を訪ね、お話を伺いました。末盛さんからのメッセージをオンデマンド配信でお届けします。008

配信期間 2023年10/1(日)~12/31(日)
受講料(税込み) 3,300円
・本講座は録画済の動画を視聴する講座です。
・録画、録音、第三者との共有は禁止します。
・支払い決済後の解約・キャンセルはできません。
・配布資料はございません。

【講師プロフィール】

1941年、彫刻家の舟越保武と母・道子の長女として東京に生まれる。高村光太郎より「千枝子」と名付けられる。4歳から10歳まで父の郷里・盛岡で過ごす。慶應義塾大学卒業後、絵本の出版社に勤務。「夢であいましょう」等で知られるNHKディレクター末盛憲彦氏と結婚、2児の母になるが、夫の突然死のあと、最初に出した絵本『あさ One  morninng』(G.C.PRESS刊)でボローニャ国際児童図書展グランプリを受賞。ニューヨークタイムズ年間優秀絵本に選出される。1988年、すえもりブックスを立ち上げ、独立。1992年『フランチェスコ』(はらだたけひで作)がエズラ・ジャック・キーツ国際絵本画家最優秀賞受賞。まど・みちおの詩を美智子さまが選・英訳された『どうぶつたち THE ANIMALS』やご講演をまとめた『橋をかける 子ども時代の読書の思い出』など、国内外にわたって良質な作品を出版。1995年、古くからの友人、哲学者の古田暁氏と結婚。2002年から2006年まで国際児童図書評議会(IBBY)の国際理事をつとめ、2014年には名誉会長に選ばれる。2010年に移住した八幡平市で東日本大震災に遭い、それから10年間、被災した子どもたちに絵本を届ける「3.11絵本プロジェクトいわて」の代表を務めた。2022年4月、難病を抱えた上、スポーツ事故で20代に車椅子生活となった長男武彦さんが突然死する。(享年47)

当方、市原湖畔美術館さんでの「末盛千枝子と舟越家の人々 ―絵本が生まれるとき―」展の関連行事としてのご講演を拝聴して参りました。今回も有意義なお話が伺えると存じます。ぜひお申し込みを。

【折々のことば・光太郎】

昨日アメリカのせき子さんから手がみが来て、同封のてがみを転送するやうにと書いてありましたから、今朝書留便でお送りしました。尚横浜の税関の方から荷物がそちらに届く筈です。

昭和15年(1940)6月28日 長沼セン宛書簡より 光太郎58歳

長沼センは智恵子実母。長沼酒造破産後、智恵子の妹・セツ(五女)夫婦と共に千葉九十九里に移り住み、昭和9年(1934)には心を病んだ智恵子を預かっていました。

「せき子さん」(セキ)は智恵子のすぐ下の妹で二女。智恵子と同じく日本女子大学校に進み、さらに東京女子高等師範を出ましたが、いろいろあって、大正4年(1915)に渡米。彼の地で結婚して武井姓となり、御夫婦で書店を経営していたそうです。

対面式およびオンラインでの講座です。

憧れ本読書会 #29 高村光太郎『智恵子抄』

期 日 : 2023年6月17日(土)
会 場 : 三鷹古典サロン裕泉堂 東京都武蔵野市御殿山2丁目21−9
      オンライン会議アプリzoomによるリモート参加
時 間 : 10:30~12:30
料 金 : 800円

「いつかは読んでみたかったあの本に挑戦してみよう!」という趣旨の読書会の29回目です(単発参加も可)。年度当初の3か月は詩歌を読む三ヶ月です(4月山頭火、5月啄木『一握の砂』、6月光太郎『智恵子抄』)。続けて参加するもよし、興味のある回だけで出るもよし、一緒に楽しんで行けたら嬉しいです。

この6月に取り上げるのは、高村光太郎が夭折の妻をうたった『智恵子抄』です。印象に残った作品に目印などを付けてきていただき、感想などをシェアし合い、読みを広げたり深めたりできればと思います。
 ※どの版でも構いません。
 (例)・智恵子抄 (新潮文庫) ・高村光太郎詩集 (岩波文庫)  など
 ※青空文庫(WEB・無料)で読むことも可能です。
  https://www.aozora.gr.jp/cards/001168/files/46669_25695.html

正しく読む、深く読む、といったことは考えなくとも構いません。お一人お一人がそれぞれのやり方で、その本と出合う経験を大切にしたいと思います。「読書会がある!」となると、「〆切効果」が生じますので、この読書会が、前々から憧れていた本を実際に読んでみよう、という機会となれば幸いです。

当日のファシリテーターは、国語講師で『10分読書』(集英社)著者の吉田裕子(よしだゆうこ)です。

ご参加いただくにあたっての条件(偉そうでスミマセン……)は以下の通り。
①参加条件を整えられること
 (特にオンライン参加の場合、zoomでの参加が技術的に可能であること。
  (ハンドルネーム等での参加可、発言参加は必須、顔出しはできれば))
②当日までにその本を読み終えること
  (どの出版社の、どの版で読んでいただいても構いません。電子書籍や青空文庫でも可)
③3つの質問に答えを用意すること
です。

ぜひご参加お待ちしております。

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ご参加の皆様に3つの質問(当日の話のネタに使います)
============
①参加したきっかけ、この本を読んでみようと思ったきっかけは?
②印象に残った部分は?
③よく分からなかった部分は?
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講師の吉田裕子氏、平成25年(2013)にも「”大人向け古典講座” 朗読 耳から味わう日本文学の傑作」という講座で智恵子抄を扱って下さっています。多謝。

以前も書きましたが、会場での対面式、ZOOMによるオンライン、双方が用意されるというのは、元はコロナ禍によって広まったといえる慣習ですが、今後、さらに拡大していってほしいものですね。

【折々のことば・光太郎】

ゴツホの写真を長らく拝借して居てすみません。あまり立派な写真だつたのでとうと印刷所へ廻しかねてしまひました。「回想のゴツホ」が出来ました故別封で一冊お贈りいたしました。


大正10年(1921)中川一政宛書簡より 光太郎39歳

『回想のゴツホ』は、叢文閣から出版された光太郎の訳書。原著はフィンセントの妹、エリザベット・ゴッホによるフィンセントの評伝です。

当方手持ちのものはカバー欠の裸本(左下)。この書籍、カバー付きで市場に出ることがめったにありません。カバーは光太郎自身の装幀、題字です(右下)。
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同書にはゴッホ油絵の図版はたくさん載っていますが、確かにゴッホ肖像写真はありません。光太郎、やっちゃった感がありますね(笑)。「やっちゃった」といえば、光太郎、癖なのか何なのか、この書簡でもそうですが「とうとう」と書くべきところを「とうと」とする例が複数見受けられます。

大正元年(1912)夏、光太郎智恵子が愛を確かめ合った犬吠埼のある千葉県銚子市。

昨年から市のサイト上で「銚子市デジタルアーカイブ」の運用が始まっています。

銚子市デジタルアーカイブについて

化石、土器、民俗資料など銚子の文化財や標本をネット上で公開する「銚子市デジタルアーカイブ」の運用を4月1日から開始しました。博物館がない、展示スペースや学芸員が足りないなどの理由からなかなか公開できなかった貴重な資料が、いつでもだれでも閲覧できるようになります。

銚子ジオパークミュージアムの目玉資料でもある「千葉県指定天然記念物犬吠埼産出のアンモナイト」。デジタルアーカイブでは、自分でカーソルを操作して360度見ることができます。

開始日時  令和4年4月1日(金曜日)
公開資料数 約1万点

デジタルアーカイブはこちらから
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違っていたらごめんなさい、ですが、その後、閲覧できるデータを増やしているようで、先頃、ネット全体をキーワード「高村光太郎」で新着情報の調査中に、このアーカイブに辿り着きました。

調べてみて仰天しました。銚子出身の詩人で、光太郎と交流の深かった宮崎丈二関連の資料がごっそり(なんと1,239件)市に寄贈されていたためです。

大半は宮崎が手元に残した原稿(コピー機のなかった時代、出版社等に送るのと別に自分で手控え用に残したのでしょう。光太郎も同じように詩稿を遺しています)、それから画家としても名を成した宮崎ですので、絵画でした。それ以外に、光太郎を含むビッグネームからの来翰も。

ただ、光太郎からのものは、担当者の方が題名を誤っていまして、「高村光太郎が宮崎丈二に宛てた書簡」とすべきところを逆に「宮崎丈二が高村光太郎に宛た書簡」としてしまっています。ついでに言うなら「宛てた」が「宛た」。まぁ、あまりに膨大な点数なのでデータ入力も半端ないでしょうから、いたしかたありますまい。
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追記 令和6年(2024)10月に訂正されたようです。

光太郎書簡は3通。封書は封筒と便箋を別にカウントしています。全て『高村光太郎全集』に既収で、以前には同市にあった青少年文化会館というホールのロビーに設けられていた郷土の偉人コーナー的なスペースに展示されていて、現物を拝見したこともあるものでした。

それから、宮崎が光太郎について書いた様々な原稿など。光太郎の原稿(「宮崎丈二詩集「白猫眠る」を読む」 雑誌『河』第6年第59号 昭和7年掲載)というのもありますが、これも宮崎が手元に残した手控えらしく、光太郎の筆跡ではありませんでした。
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これ以外にも、題名に「光太郎」と入っていませんが、やはり宮崎の光太郎に触れた詩文原稿が複数ありました。

光太郎以外のビッグネームからの宮崎宛来翰、送り主は、室生犀星、梅原龍三郎、武者小路実篤、木村荘八、岸田劉生、長与義郎、佐藤惣之助ら錚々たる面々。さらにはパリから高田博厚。これには驚きました。

また、宮崎関連資料でないところでは、光太郎智恵子が大正元年(1912)に宿泊した暁鶏館犬吠埼灯台等の古写真、「まちなかの文化遺産」ということで「犬吠の太郎」こと阿部清助の墓の画像なども見られます。

この手のデジタルアーカイブ、国立国会図書館さんをはじめ、図書館さん等で手持ちの貴重資料等のそれを公開している例は少なくないようですが(台東区立図書館さんなど)、市町村としてやられている例は珍しいのではないでしょうか。今後、こういった取り組みがさらに広がってほしいものです。

【折々のことば・光太郎】

長らくの間ちゑさんをおねがひいたし お蔭さまにて大層健康を取り返し 此度帰京の運びと相成候事まことにうれしき事とよろこび居申候 御たんせいの段ありがたく存上候 ちゑさんより皆々様目下無事の事承りよろこび候 小生つねづね御無沙汰のみいたし居り申訳無之 せめてこの五月にはちゑ子ともども参上いたし度き事に存居候 ちゑさんもなほ当分は静かに生活いたして再び健康をそこねぬやうにと用心いたし居候間 此段御安心被下度候


大正9年(1920)3月16日 長沼セン宛書簡より 光太郎38歳

前年に湿性肋膜炎(おそらく結核性)を発症した智恵子は東京で入院後、8月頃郷里二本松に帰り、この年3月まで実家の長沼家に滞在していました。そこで長々と智恵子を預かってもらった礼状です。

五月にはちゑ子ともども参上」は智恵子の父・今朝吉の三回忌法要にあわせて実現し、この際の体験が、「あれが阿多多羅山/あの光るのが阿武隈川」のリフレインで有名な詩「樹下の二人」(大正12年=1923)で謳われることになります。

動画配信サイトYouTubeでのオンラインシンポジウムです。

ミュージアム運営を変える新しいお金の潮流

期 日 : 2023年3月28日(火)
時 間 : 13:00~16:20 見逃し配信有り
料 金 : 無料

新型コロナウイルスの影響や社会情勢の変化が、エネルギーや資材費の高騰を引き起こしている状況の中、博物館や美術館も持続可能な運営を行なっていくために、資金獲得の視点を欠かすことはできません。館の活動を継続・発展していくためには何を考え、実行していかなければいけないのか。本シンポジウムでは、3つのセッションを通じて、お金の側面からみた博物館運営のあり方について掘り下げていきます。館の運営に携わる現場の方々から文化庁における博物館行政の第一人者、資金調達の専門家まで幅広いステークホルダーの皆さまをお招きし、博物館の目指すべき姿について議論を交わしていきます。

こんな方におすすめ
 クラウドファンディングに興味のある方
 クラウドファンディングの実行を考えている方
 博物館・美術館に関わっている方
 芸術関連団体に所属している方
 文化芸術の保存・振興に関心のある方

視聴方法
本セミナーはオンラインでのライブ配信となります。配信ツールとしてはYouTubeを利用します。オンライン配信動画視聴方法につきましては、お申し込みいただいた方へのみ、YouTubeの配信URLをメールにてご案内します。
参加申込URL:https://cfevent.readyfor.jp/culture/230328
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スケジュール
 Session1 / 13:00-14:00 ミュージアムのファンドレイジングの現在地とこれから
  「文化芸術に関する多様な資金の活用状況」に関する基調講演
  博物館におけるファンドレイジング活動の現状と今後の展望
  登壇者
   中尾智行  文化庁博物館振興室 博物館支援調査官
   鎌倉幸子  かまくらさちこ株式会社代表 / 認定ファンドレイザー
   本川 博人  男鹿水族館GAO 館長
   廣安ゆきみ  READYFOR株式会社 文化部門長 / リードキュレーター

 Session2 / 14:10-15:10 「新しい」に挑戦するミュージアム
  
クラウドファンディングを実施した熊本市現代美術館の岩崎氏、
  碌山美術館の武井氏を迎え、それぞれの館の運営を維持・向上させていくための
  手段について具体的事例をもとにお話をお伺いしていきます。
  また、公立と私立の館の運営の違いや比較を通じて、共通する課題を明らかにします。
  登壇者
   岩崎千夏 熊本市現代美術館 副館長
   武井敏  碌山美術館 学芸員
   佐藤妙  READYFOR株式会社 文化部門 キュレーター
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 Session3 / 15:20-16:20 実践に学ぶ|地方公立館のクラウドファンディングの裏側
  公立館でのクラウドファンディングの舞台裏
  公立館ならではのプロジェクトの進め方やハードル
  クラウドファンディングがもたらした効果

  登壇者
   大久保卓  入間市博物館 文化財担当主幹
   島宗美知子 公益財団法人帆船日本丸記念財団 学芸課長補佐
   廣安ゆきみ READYFOR株式会社 文化部門長 / リードキュレーター

光太郎の親友だった彫刻家・荻原守衛を顕彰し、光太郎ブロンズ彫刻も多数所蔵、展示して下さっている信州安曇野の碌山美術館さん。昭和33年(1958)の竣工で、ロマネスク様式の教会風の碌山館(本館)が老朽化ということで、昨夏、クラウドファンディングにチャレンジ。目標額を大幅に上回る資金が集まり、秋以降、改修工事が進められました。

碌山美術館さんクラウドファンディング。
碌山美術館さんクラウドファンディング目標額到達。
新聞各紙から。
碌山美術館さんクラウドファンディング関連。

その実践例ということで同館学芸員の武井敏氏によるプレゼンが為されます。他館さんの報告や識者による提言等、盛りだくさんの内容となっています。「館」ではない文化芸術団体さん等にも参考となる内容でしょう。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

北海道で地面の中から自分の命の糧を貰ひます。そして、今の日本の芸術界と没交渉な僕自身の芸術を作ります。地球の生んだ芸術を得ようとします。そして、此が一面今の社会に対する皮肉な復讐です。僕は日本の東京の為めにどの位神経に害を与へられたか知れません。


明治44年(1911)4月8日 山脇信徳宛書簡より 光太郎29歳

昨日のこの項でご紹介した部分の続きです。北海道に移住し、酪農で生計を立てながら芸術を生み出そうという計画を表明しています。この後、実際に北海道に渡るのですが……。

詩人の若松英輔氏が講師を務められる、zoomによるオンライン講座です。

若松ゼミ◆詩とは「気」を描こうとする試みである――『高村光太郎詩集』

 高村光太郎は、彫刻家であり、同時に詩人でもありました。彼は、自分の根本感覚は「触覚」であると述べています。この世界の手ざわり、言葉の手ざわり、さらには関係の手ざわりをどのように言葉にし得るか。この特異の詩人から学んでみたいと思います。
 光太郎の詩は、真似すれば誤るという独創的なものです。しかし、その底を流れているものは、これから本格的に詩を書こうとする者に豊かな学びになると思います。 (講師:若松英輔)
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【最低催行人数】10名
【時間数】1時間40分(内休憩10分)
【受講料】4,400円(税込)
【書くワーク】あり(+1,650円)・なしが選べます
【テキスト】『高村光太郎詩集』(岩波文庫)
【申込み期限】講座の前営業日9:00まで(コンビニ決済の方は、期限までにお支払いまでお済ませ下さい)
※「読むと書く」会員様のみご参加頂けます。 会員証をお持ちでない方は、事前にアンケート・課題などがございますので、4営業日前までに初めての方はこちらよりお申し込み下さい。

【日程】
■第1回 2023年2月28日(火)19:20-21:00 ☆あとから聴ける復習用音声付!
■第2回 2023年3月28日(火)19:20-21:00
■第3回(最終回) 2023年4月18日(火)19:20-21:00

☆あとから聴ける復習用音声付!の講座は、終了後、講座録音音声をお送りします。復習やご都合があわなくなった際にも安心です。(講座後一週間以内に配信、配信より二週間聴けます。録音状況により聞きづらい箇所がある場合や配信ができなくなる場合もございます。あらかじめご了承下さい。)

<<音声講座もあります!>>
ご都合があわない方は、1ヶ月間お聴きいただける後日配信の音声講座をご利用下さい。→こちら

同講座、昨年は「言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む。」がありましたし、若松氏、これまでもラジオ講座で光太郎を取り上げて下さったり、複数のご著書で光太郎に触れて下さったりしています。

今回の講座には、各回とも「書くワーク(課題)付き」「書くワークなし」があるそうですし、アーカイヴ配信もあるようです。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

急に思ひ立つて今夜「アルプス」の方へ行つて来る。金の都合で事によつたら伊太利へ廻るかも知れない。廻らないかも知れない。廻らなくはないかも知れない。廻らなくはなくはないかも知れない。


明治42年(1909)3月19日 畑正吉宛書簡より 光太郎27歳

結局、スイス経由でイタリアに入り、ヴェネツィア、パドヴァ、フィレンツェ、ローマ、ナポリなどを約1ヶ月かけて廻りました。

昨夕気がつきまして、昨日までの会期でした。残念です。ただ、「WEB開催」という形で続いてはいますのでご紹介します。

ZOKEI展 東京造形大学卒業研究・卒業制作展/ 東京造形大学大学院修士論文・修士制作展

期 日 : 2023年1月20日(金)~1月22日(日)
会 場 : 東京造形大学 東京都八王子市宇津貫町1556
時 間 : 10:00~17:00
料 金 : 無料

WEB開催 : 2023年1月22日(日)~3月31日(金)


ZOKEI展は、当該年度に本学を卒業予定の学部4年生、並びに修了予定の大学院修士課程2年生が、本学での教育研究の集大成として卒業研究・制作/修士論文・制作を一堂に出展・展示する展覧会であり、本学キャンパスにて作品をご観覧いただけます。

また、WEB展示は3月31日まで開設しています。「会場で見た作品をもう一度見たい」という方も、「WEB展示でじっくり見たい」という方も、期間中何度もお楽しみ頂けます。ぜひご高覧ください。
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デザイン学科グラフィックデザイン専攻領域の長田ひかり氏の作品が、「智恵子抄」オマージュの「白い病室」。
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高村光太郎が、妻 智恵子への思いを綴った数々の詩 智恵子の死の床である病室にはこれまで綴った高村の詩が 2人の人生のように編まれ、絡まり、繋がり、囲んでいただろう」だそうで。

インスタレーションの空間そのものが、智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院の一室をイメージしているようです。そこに材質がよく分からないのですが、パーテーション用の有孔ボードでしょうか、おそらく黒っぽい糸で「智恵子抄」収録詩篇のいくつか(画像にあるのは「冬の朝のめざめ」「人に」)が刺繍のように表されているようです。ところどころに赤い糸、それが文字から文字へと繋がっているのが見て取れます。

福島二本松の智恵子生家も会場になった「重陽の芸術祭2017」で、生家二階の智恵子居室などに展示された清河あさみ氏の作品「わたしたちのおはなし」を彷彿とさせられました。

昨年の「VOCA展2022 現代美術の展望-新しい平面の作家たち-」で佳作賞を受賞なさった谷澤紗和子氏の「はいけい ちえこ さま」などもそうですが、現代アートの皆さん、意外と光太郎智恵子の世界観からのインスパイアが多いようです。明治大正期、時代を突き抜けてとんがっていた光太郎智恵子だけに、現代アートの方々もシンパシーを感じるのでしょうか。そこにリスペクトの精神さえあれば、ありがたいかぎりです。

しかし、ぜひ現物を拝見したかったものです。この展示が為されていると知っていれば、大船での高田博厚展の帰りに八王子を廻ったのですが……。

上記リンクからWEBでご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

尾崎喜八夫妻くる、アイス等、 よし田女将くる、春山菜 谷口、藤島両氏くる〈み津枝さんくる〉

昭和31年(1956)3月26日の日記より 光太郎74歳

危篤状態に陥り、一週間記載されなかった日記が復活しました。おそらく日記の中断中からでしょうが、光太郎危篤の報を受け、この後も親族や旧知の面々が続々と見舞いに訪れます。

昨日もご紹介した国立国会図書館さんのデジタルコレクションがリニューアルされた件。自宅兼事務所のPCから閲覧出来る資料数が飛躍的に増大し、『高村光太郎全集』に漏れていた光太郎文筆作品が大量に見つかっています。

すると、智恵子についても驚くべき発見が2件ありました。

まず明治44年(1911)、博文館から出版された『家庭の友 西洋料理法』という書籍。著者は智恵子の母校・日本女子大学校の教授の手塚かね子という人物です。その手塚による序文に次の一節が。

本書の装幀は、女子大学校卒業生にして、専心絵画の研究に身をゆだねられまする長沼ちゑ子女史の巧妙なる図案に成つたものでございます。こゝに厚く感謝の意を表します。

なんとまぁ、結婚前の智恵子がこの書籍の装幀を手がけたというのです。これはこれまでに全く把握していない情報でした。

智恵子による書籍の装幀は、明治40年(1907)、日本女子大学校の同窓会(イベントとしての、ではなく組織としての)である桜楓会から刊行された『三つの泉』という書籍が先例としてありますが、確認出来ているものはそれだけでした。表紙絵を描いたというだけであれば、雑誌『青鞜』も含まれますが。

ところが『家庭の友 西洋料理法』の国会図書館さんのデジタルデータ、元本の破損がひどいらしく、肝心の表紙のデータが掲載されていません。が、他のサイト等で探したところ、不鮮明ながら表紙の画像を見つけることが出来ました。
西洋料理法 家庭の友
なるほど、という感じですね。

これはぜひ現物を入手しなくては、と思っております。

もう1件。新たな、というか、これまで未知だった智恵子の写真も見つかりました。しかも撮影年月日、撮影場所が特定出来るものです。

こちらは智恵子ではなく光太郎で検索をかけた際にたどりついたもので、昭和3年(1928)5月発行の雑誌『美術新論』に載ったもの。
美術新論 3(5)(19)
キャプションの通り、光太郎の父・光雲の喜寿を祝う祝賀会での撮影、日付はこの年4月16日、場所は日比谷に現在も健在の東京会館さんです。
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美術新論 3(5)(19)-2
戦前に亡くなった智恵子の写真はこれまで30葉見つかっていたかどうか、それも少女時代のものが多く、結婚後のものは10葉足らずでしたので、仰天しました。

ちなみにこの日の様子を、光太郎は昭和5年(1930)になって「のつぽの奴は黙つてゐる」という特異な詩に書き表しています。

   のつぽの奴は黙つてゐる

『舞台が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割かた持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちやあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は来てるでせうな。喜壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。万能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい気な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の余興は、結城孫三郎の人形に、姐さん連の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』

『皆さん、食堂をひらきます。』

滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
ステユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ、スピーチ。
老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。

何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考へてゐる。

世間的には成功者、上級国民となった父と、未だ世間には知られざる自分との対比、かつて大正初期には「僕の前に道はない/僕の後に道は出来る」と高らかに謳い、その決意は変わらねど、しかし成功にはほど遠い自らへの怒り、そして自分を認めない俗世間へのアイロニー……。

そんな生活に耐えかねた小柄な智恵子、実家の破産や生涯の仕事と定めた油絵への絶望もあり、この頃から徐々に心が毀れて行きます……。そうしたことに思いを馳せながら上記写真を見ると、感慨深いものがありますね。

というわけで、今後もさらに調査を継続します。

【折々のことば・光太郎】

后北川太一氏くる デユボンネ2本、バースデーケーキをもらふ、一緒にくふ、 辞去後椛沢さんくる、花もらふ、夕方まで、 夜食赤飯(中西さんより)その他野菜煮、

昭和31年(1956)3月13日の日記より 光太郎74歳

光太郎満73歳の誕生日、そして生涯最後の誕生日でした。

国立国会図書館さんのデジタルコレクション。所蔵資料のうち、絶版等で入手困難な資料を中心に、オンラインで閲覧が出来るサービスです。平成14年(2002)に「近代デジタルライブラリー」として始まり、幾たびかの改訂を経てきました。

以前は自宅兼事務所PCで閲覧出来る資料数に限りがあり、国会図書館さんに出向くか、提携している公立図書館さんなどでPCを借りるかして閲覧していましたが、昨年12月に大幅なシステムのリニューアルが為され、飛躍的に対象が増大(それまでは約 5 万点だったものが約 247 万点に)しました。また、「全文検索」ということで、目次に載っていない語もヒットするようになっています。
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まだ国会図書館さん内での閲覧しかできない指定になっているものが多いのですが、自宅兼事務所PCで閲覧出来るものも以前とは比較にならない数に増えています。

当方のライフワークの一つが、光太郎の書き残した文筆作品等の集成。当会顧問であらせられ、晩年の光太郎に親炙された故・北川太一先生が、「光太郎ほどの人物の書き残したものは、断簡零墨にいたるまできちんと集成し、次世代にしっかり受け継がねばならない」というスタンスで『高村光太郎全集』の編集をなさいました。ところが平成11年(1999)に増補決定版全集の刊行が終了した頃から、インターネットが普及。当方、ネットを駆使して北川先生のお手伝い――『全集』に洩れていた作品の発掘――に力を注ぐようになりました。平成18年(2006)には光太郎歿後50年を記念し、厚冊の『光太郎遺珠』を北川先生との共編で高村光太郎記念会から刊行、現在は年刊の『高村光太郎研究』に、見つかり続ける作品の紹介をさせていただいております。

さて、国会図書館さんデジタルコレクション。リニューアル後、少しずつ閲覧をしており、埋もれていた光太郎文筆作品、続々と見つかっています。

アンケートや書簡などの短いものが多いのですが、長い文章も。

大正2年(1913)発行の『大正演芸』という雑誌に載った「芸術家としての女優」。4,000字ほどのものです。当時の日本は「女優」という職業の草創期でしたが、要旨としては、もっと女優が普通の存在になり、優れた女優が出て来なければ駄目だ、という提言です。前年、自由劇場で初演されたメーテルリンク作の「タンタジールの死」という舞台に触れています。主人公の女性を歌舞伎の女形・市川松蔦が演じ、そのお付きの女性を初瀬浪子という女優が演じたことに対し、「女優よりも女形の方が甘(うま)いからと言ふ意味で、イグレーヌを松蔦にやらせ、女優にも少しは出来るのが居るからといふ意味で浪子を使つたといふのは、明らかに女優を侮辱してゐる。女優がこんな風に取り扱はれるうちは、日本の女優は駄目である。」と、ばっさり。その他、松井須磨子、山川浦路、森律子、他の散文でも触れているフランスのサラ・ベルナールなどにも触れています。演劇も好きだった光太郎だけに、的確な評です。

短いアンケートや書簡などでも、光太郎の本領発揮。製本に関するアンケートでは「小生の製本に対する希望は糸かがりの堅牢第一に候。中途半端な美本を卑しみ候。」、雑誌に載った大正13年(1924)の木村荘五宛書簡では、荘五実兄にしてかつて吉原の娼妓・若太夫を取り合った木村荘太の著書について「「バルザツク」は集め方も聡明であり、訳も立派で、毎日為事の間によんで、実に愉快に思ひました。それからうける感動が此上もなくいゝ刺激になります。荘太さんの労力に心から感謝してゐます。」。当方、この直前にやはり荘五に送られた葉書を2葉持っており、驚きました。

また、『全集』に収録されていながら不明だった初出掲載誌が判明したものもありました。『全集』第4巻所収の散文「家」。昭和16年(1941)刊行の光太郎の評論集『美について』に収められていたため、『全集』には掲載されていたものの、初出が不明でした。こちらは昭和4年(1929)発行の雑誌『家事及裁縫』中の高橋仁という人物が寄稿した「住宅知識の基調」という文章の中に、「高村光太郎氏は曾て私に次のやうな散文詩を寄せられたことがあります。」として全文が掲載されているのを確認できました。これなど、デジタルコレクションのリニューアルで全文検索が可能になったための成果です。ただ、高橋仁という人物と光太郎の関係、なぜこの散文が贈られたのかなどは不明のままですが。

全文検索、ということになりますと、今回の改訂では、書籍や雑誌の巻末に載った他の書籍や雑誌の広告まで対象になっています。すると、既知の作品に関するヒットが増え、「こんな広告まで対象にしなくていいのに……」と思ったのですが、誤りでした。広告中に載った、その書籍を評した光太郎の推薦文で、『全集』に漏れていたものも2点見つけたのです。
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今のところ、昭和の初めまでしか調査が終わっていません。おそらく今後の調査でも多くの未知の作品に出会えると期待しております。

同時に、智恵子についても少し調べてみました。すると、驚くべき発見。明日はそのあたりを。

【折々のことば・光太郎】

余もいつか養清堂にて書のてんらん会をやらんかと思ふ、

昭和31年(1956)3月11日の日記より 光太郎74歳

養清堂」は銀座に今も健在の画廊です。

特に晩年、書の世界でも優れた作品を遺した光太郎。そのため、その没後には光太郎の書にスポットを当てた書籍も多数刊行され、それらの中で、この一節は必ずと言っていいほど引用されています。

彫刻の個展にはあまり関心を示さなかった光太郎(その生涯に一度だけ、それも著書を多く刊行してくれた中央公論社への義理立てのような意味で同社の画廊を会場に)でしたが、書の個展に意欲を燃やしていたというわけです。

結局、余命1ヶ月ということで実現出来ませんでしたが、光太郎のその思いを実現するべく、昭和61年(1986)、光太郎の没後30年に合わせ、銀座の鳩居堂画廊で「「高村光太郎「墨の世界」展」が、北川先生らの尽力で開催されました。その後も静岡アートギャラリーさん、花巻高村光太郎記念館さん、そして一昨年には富山県水墨美術館さんで光太郎書の企画展示がなされました。

しかし、いずれも出品点数はさほど多いわけではありませんでした。いずれ光太郎書の全貌をくまなくうかがえる大規模な展示を実現させたいものです。

2022年も残りあと僅かとなりました。もうすぐ2023年、兎年となります。

 そこで、展覧会情報等のサイト「インターネットミュージアム」さんのイベント。

ミュージアム干支コレクション アワード 2023 兎

2023年は卯年。インターネットミュージアムでは「兎」が入っている館蔵品をサイトでご紹介するとともに、好きな1点にネットで投票していただく「ミュージアム 干支コレクション アワード」を実施します。

投票期間 12月13日(火) 15:00 ~ 2023年1月26日(水) 15:00

お一人様、一日一票のみ投票可能です。複数回の投票は行えません。詳しくは、「ミュージアム 干支コレクション アワード 投票について」をご覧ください。
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エントリー (全 70 点)
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全国の美術館さん所蔵の「兎」の名品がエントリー、投票が行われています。

竹橋の国立近代美術館さん所蔵の光太郎木彫「兎」(明治32年=1899頃)も参戦。一館一点のエントリーだそうでして、膨大な所蔵品を誇るMOMATさんではこれを選んで下さったというわけで、ありがたいことです。
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東京美術学校在学中、数えで17歳の作品です。とても10代の少年の作とは思えませんね。まぁ、父・光雲なりその高弟なりの作った手本があって、それを模刻したものかもしれませんが。

投票の途中経過も公開中。それを見ると光太郎の兎、苦戦中のようです。ぜひ皆様の清き一票を(笑)。

【折々のことば・光太郎】

智恵子の命日、 くもり、晴、暑、 平熱、


昭和30年(1955)10月5日の日記より 光太郎73歳

昭和13年(1938)に歿した智恵子の忌日。光太郎生前最後となりました。戦後すぐの花巻郊外旧太田村蟄居時代は、ほぼ毎年、花巻町に出て、松庵寺さんで父・光雲、母・わかのそれと併せて法要を営んでもらっていましたが、もはやほぼ臥床していたこの年は、特別に何も行えませんでした。

いわゆるカルチャースクールでの市民講座。教室での対面受講とオンライン受講が選べるそうです。

続・文学者の短歌 in 大阪

期 日 : 2022年12月3日(土)
会 場 : 毎日文化センター 大阪市北区梅田3-4-5毎日新聞ビル2階 
時 間 : 13:00~14:00
料 金 : 2,750円
講 師 : 松村正直(歌人)
1970年生まれ。歌集に『駅へ』『やさしい鮫』『午前3時を過ぎて』『風のおとうと』『紫のひと』、評論集 『短歌は記憶する』『樺太を訪れた歌人たち』『戦争の歌』、評伝 『高安国世の手紙』、時評集『踊り場からの眺め』、同人誌「パンの耳」。現在「角川短歌」に「啄木ごっこ」を連載中。

 今年2月に実施した「文学者の短歌」が好評につき、第二弾の続編を開催します! 近代以降、短歌は多くの人々に親しまれてきました。歌人として知られる人物だけでなく、さまざまな文学者たちも歌を詠んできたのです。短歌は若き日の彼らの文学の出発点となり、また終生愛する詩型ともなりました。
 本講座では、柳田国男(民俗学者)、高村光太郎(詩人、彫刻家)、加藤楸邨(俳人)、中原中也(詩人)、三浦綾子(小説家)らの短歌を紹介しつつ、その時代背景や人生をたどります。その上で、短歌という詩型の持つ特徴や魅力に迫りたいと思います。

オンライン受講について
・事前にZoom公式サイトから最新Zoomアプリをインストールしてください。
・講座当日の10:30までに視聴URL(ウェビナーIDとパスコード)をお知らせします。
・開講当日の開始15分前から入室可能です。
・「Zoom」ウェビナーは受講者側のお名前や映像、音声は配信されません。ウェブカメラやマイクは不要です。
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今年2月に「文学者の短歌」というオンライン講座があり、その続編だそうです。2月に取り上げられたのは、森鷗外、芥川龍之介、村岡花子、宮沢賢治、中島敦、北杜夫、石牟礼道子など。今回取り上げられる人々と併せ、いわゆる「歌人」ではなかった人々の短歌、ということですね。

光太郎の場合、本格的な文学活動の出発点が短歌でした。東京美術学校在学中の明治33年(1900)、与謝野夫妻の新詩社に加わり、機関誌『明星』に「砕雨」と号して多くの短歌を発表しています。それ以前に俳句が『読売新聞』に掲載されたりもしましたが、そちらはあくまで投稿の域を出ませんでした。

その後、大正期の第二次『明星』にも多くの短歌を寄せたり、木彫を作るとその袋や袱紗(智恵子の手縫い)に短歌をしたためたりもしました。そして晩年まで折に触れて歌作を続け、結局、『高村光太郎全集』には800首ほどが掲載されていますし、平成10年(1998)の『全集』完結後も10首あまり見つかっています。短歌は詩と異なり、手元に控えの原稿を残さなかったので、今後も見つかる可能性が高いと思われます。

やはり詩であれだけの(どれだけだ(笑))世界を構築した光太郎、短歌でも素晴らしいものをたくさん残しています。初期のものは、鉄幹による添削が激しく入っているとのことですし、また、いわゆる「歌人風」に逆らった、巫山戯た短歌も目につきますが。

講座はオンラインでも配信されるとのこと。この対面式とオンラインとの併用(特にアーカイブ配信まである場合)は、コロナ禍によるいい意味での副産物といえるでしょう。コロナ禍以前は対面式の講座等は一度その場でやったらそれで終わり、という感じでしたから、遠方だったり、その日に都合がつかなかったりの場合に対応できませんでした。

当方も12月10日(土)、都内で開催される日本詩人クラブさんの例会で講演をしますが、そちらのオンライン配信があるそうです。例会自体はクローズドで、配信も欠席会員のためのライブ配信だと聞いていますが、もしかすると一般の方も試聴可能かも知れません。

また、それに先立つ12月3日(土)には、花巻高村光太郎記念館さんで、現在開催中の企画展示「光太郎、つくりくふ。 光太郎の食 おやつ編」の解説等を収録します。こちらは期間限定配信のようです。

それぞれ詳細が分かりましたらまたご紹介します。

閑話休題、「続・文学者の短歌 in 大阪」、ぜひお申し込みを。

【折々のことば・光太郎】

昨夜の原稿清書、 午后「書道全集」の人くる、原稿渡し、4枚、


昭和30年(1955)2月15日の日記より 光太郎73歳

「原稿」は、平凡社から翌月刊行された『書道全集 第七巻 隋・唐Ⅰ』の月報のためのもの。「黄山谷について」と題し、光太郎が愛した黄山谷(庭堅)の書の魅力を綴っています。
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昨日はデジタルアーカイヴサイトについてご紹介いたしました。同様にネット上でこんな動画も公開されているよ、ということで。公開は昨年だったのですが、最近のネタ不足を補う意味で、このタイミングでご紹介させていただきます。

2本ご紹介しますが、どちらも竹橋の国立近代美術館さん制作で、光太郎のブロンズ代表作「手」についてのものです。

まずは10月に公開された「高村光太郎《手》1918年頃|キュレータートーク|所蔵品解説006」。



7分余りの尺ですが、その中で、学芸員さんが「手」の魅力等につき、語られています。
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これは以前から指摘され続けてきたことですが、作品の制作背景として、ロダンの影響、それから仏像からのインスパイアがある、と。ただ、それが見る角度によって西洋的要素と東洋的印象とが変わる、という指摘には、なるほどそういう風に考えたことはなかったな、と思わされました。
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そのあたり、武蔵野美術大学美術館さんで平成27年(2015)に開催された「近代日本彫刻展」で、こちらの「手」と、朝倉彫塑館さん所蔵の「手」と、2点(どちらも光太郎の生前鋳造、台座の木彫部分も光太郎作)を同時に並べた際の発見だそうで。
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そして、最も驚いたのが……。
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動画で5:00頃からですが、何とブロンズの部分と、台座を分離。

当方、画像では見たことがありましたが、動画では初めて見ました。もちろん実際に見たこともありません。
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この作品を元々所有していた有島武郎の名が記されていることは存じていましたが、自殺した有島から受け継いだ秋田雨雀、さらにその後の所有者名も記されているとのこと。それは存じませんでした。
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ここまで公開するとは、実に素晴らしいと思いました。

ちなみに同じシリーズでは光太郎の親友・碌山荻原守衛の「女」篇などもありました。

もう1本、こちらの方が先にアップされたもので、「ガイドスタッフが選ぶイチオシ作品|#29 高村光太郎《手》」。こちらもなかなかのものです。


「手」を見た子供たちの声が紹介されていまして、笑ったり、感心したりでした。
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こういう取り組みも、一種のアーカイヴと言えましょう(特に台座を紹介した方など)。そして、実際に作品を見に行ってみよう、という契機にもなるのでは、と思います。そうした意味で、こういう取り組み、全国の美術館さん、文学館さん等で、もっともっと広がってほしいものだとも思います。

【折々のことば・光太郎】

中原綾子さんくる、夜食に東中野モナミといふフランス料理の御馳走になる、有島生馬氏に偶然あふ、

昭和28年(1953)4月4日の日記より 光太郎71歳

中原綾子」は歌人。昭和初期、光太郎が中原に宛て、智恵子の心の病の症状を詳細に記した書簡を複数送ったことで有名です。「有島生馬」は画家で、武郎実弟。光太郎とは留学仲間でした。

東中野モナミ」は、かつて存在したレストラン兼結婚式場。建物はフランク・ロイド・ライトの設計だったそうです。文化人の交流の場ともなり、主に光太郎より1~2世代下の岡本太郎、椎名鱗三、埴谷雄高、梅崎春生、野間宏、安部公房らが集っていました。

また、上記の秋田雨雀、小説「智恵子飛ぶ」を書かれた津村節子氏なども。

以前から書いておりますが、当方のライフワークの一つは、光太郎の書き残したものの集成です。

晩年の光太郎に親炙し、その没後、『高村光太郎全集』編纂をなさった故・北川太一先生曰く「高村さんという壮大な実験者、誠実な生活者の実験記録、高村さんがこの世に残したほどのものは、何一つ散逸させまい」(『高村光太郎』あとがき 昭和40年 明治書院)。

その北川先生のお手伝いをさせていただく中で、『高村光太郎全集』完結(平成10年=1998)後も、それまで知られていなかった様々な光太郎文筆作品等が見つかりました。平成18年(2006)には光太郎歿後50年記念を兼ね、『光太郎遺珠 2006.4.2』をハードカバーの厚冊として、北川先生と当方の共編で出させていただきました。さらにその後は見つかり続ける作品を、現在は高村光太郎研究会さんの機関誌『高村光太郎研究』に、「光太郎遺珠」の題で紹介させていただいております。

それらの調査は、インターネットの発展に伴い、全国の文学館さんや図書館さんの蔵書検索等が居ながらにしてできるようになって、飛躍的に進みました。「これは」と思うものがヒットすると、コピーを送っていただいたり、現地まで行って拝見したり、そういう作業は今も続いています。

それと同時に、資料そのものがネット上で公開されている、いわゆる「デジタルアーカイヴ」。

国会図書館さんでは10数年前に始められ、これにもだいぶ助けられました。以前は国会図書館さん内か、提携している公共図書館さんなどに行かなければ資料の閲覧が出来ませんでしたが、この春から自宅兼事務所でも閲覧可能となりました(利用者登録が必要ですが)。登録数も徐々にに増えています。ただ、あまりにヒットする情報が多く、その中から必要なものを探すのが大変ですが。

この手のデジタルアーカイヴが、他館や他組織で広がりを見せていまして、そんな中で新発見もありました。

まず、台東区立図書館さんのデジタルアーカイブ。こちらに最晩年の光太郎葉書が掲載されており、『全集』未収録のものでした。生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため移り住んだ中野桃園町の貸しアトリエから、美術評論家・硲真次郎に宛てたものです。硲と光太郎は大正期から交流がありました。
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硲が訪ねてきた際、床に臥せっていて会えなかった(光太郎が歿する4ヶ月前でした)お詫びと、硲から清酒「花霞」の引札を贈られた礼状です。日記にも同様の記述がありました。
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清酒「花霞」。福島二本松の智恵子の実家・長沼酒造の銘酒で、大正12年(1923)の関東大震災後、東京ではとにかく物が不足していたことから、光太郎が東京に取り寄せ、自ら荷車を引いて売り歩いたとのこと。ラベルや引札も木版で作りました。引札は二本松の智恵子記念館さんに展示されています。その懐かしい次作の引札を硲が届けてくれたというわけです。

ところで台東区立図書館さんのデジタルアーカイブ。もう1件、光太郎の書簡なるものが登録されているのですが、残念ながらこちらは光太郎ではなく、実弟にして鋳金の人間国宝となった豊周のものでした。差し出し人名が「高村」としか書かれていませんので、仕方がないのかも知れませんが……。

この手のアーカイヴのリンク集的なサイトもいろいろありまして、少しずつ調査をしておりますが、なかなかはかどりません。やはりあまりにヒットする情報が多く(ほとんど既知の情報で)、必要なものを探すのが大変だというのが原因です。

国立公文書館アジア歴史資料センター
東京文化財研究所
スタンフォード大学 Hoji Shinbun Digital Collection
Cultural Japan


「このアーカイヴで光太郎智恵子、光雲に関する珍しい資料が掲載されている」という情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

【折々のことば・光太郎】

夜新宿地球座、巴里の空の下、セールスマンの死、 うな丼をくひ、タキシでかへる、

昭和28年(1953)4月2日の日記より 光太郎71歳

地球座」は現・新宿ジョイシネマさん。「巴里の空の下」は「巴里の空の下セーヌは流れる」。ブリジット・オーベール主演のフランス映画です。「セールスマンの死」はフレデリック・マーチ主演のアメリカ映画。どうも光太郎、邦画はほぼ見なかったようです。

昨日のこのブログでは、BS松竹東急さんで放映された昭和42年(1967)公開の映画「智恵子抄」(岩下志麻さん、丹波哲郎さん主演)について書きました。そこで、ついでというと何ですが、過去の「智恵子抄」映像化作品がらみで、別件をご紹介します。

NHKさんが、来年、テレビ放送開始70周年を迎えるということで、過去の放映番組のクロニクルを散りばめたりする特設サイトを設けられました。
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NHKさんでは「智恵子抄」映像化を2回なさってくださいまして、その中で双方が紹介されています。

まず、昭和48年(1973)放映の「銀河テレビ小説 生きて愛して」。全30回で、光太郎役が片岡仁左衛門さん(当時は「片岡孝夫」)、智恵子役に大空真弓さんでした。このドラマについては、当方も拝見したことがありませんでしたし、手持ちの資料が少なく、詳細も不分明でした。当時のPR誌『グラフNHK』に、以下の記事が載っていたのは見つけていましたが。
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これによると、当時まだ新人だった水沢アキさんが、智恵子の妹・セキの役でした。

ところが、先月はじめ、NHKさんのサイトで5分間のダイジェスト動画がアップされました。全30回のうちの第何回なのかは記述がありませんが、おそらく最初の頃、あるいは逆に最後の頃のような気がします。

戦後、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村という設定で、そこに当会の祖・草野心平が訪ねてきます。心平役は前田吟さんでしたが、当方、この動画でそれを初めて知りました。
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山小屋で酒を酌み交わす二人。やがて、光太郎が「戦犯」として糾弾されている、という話題になり……。

その後、光太郎の山小屋にほど近い、山口分教場でのシーン。光太郎は児童や先生たちと、ストーブを囲んでよもやま話。
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公開されているのはこの2つのシーンだけでしたが、それでも初めて拝見し、「おお」という感じでした。
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ちなみに光太郎役の片岡仁左衛門さんのお嬢さんである片岡京子さんは、平成12年(2000)に、津村節子さん原作の舞台「智恵子飛ぶ」で、智恵子役を演じられました。元々、某大物女優が智恵子役だったのですが、その女優が身内の薬物事件逮捕で降板、セキ役だった京子さんが急遽智恵子役に抜擢、というドタバタがありましたが、それでも親子で時を経て光太郎智恵子役という稀有な例でした。

続いて、「人物録」ページの中の佐久間良子さんの項で、佐久間さん主演の平成3年(1991)に放映された単発スペシャルドラマ「智恵子と光太郎 極北の愛」が紹介されています。
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こちらは当方もリアルタイムで拝見、VHSテープに録画いたしました。光太郎役は小林薫さんでした。他の主な役どころは、光太郎の父・光雲が故・佐藤慶さん、智恵子の親友・田村俊子で小野みゆきさん、智恵子の最期を看取った姪の春子役に喜多嶋舞さん、光太郎アトリエの隣家の炭屋という設定で小林稔侍さんと高橋ひとみさんが夫婦役といったところでした。

やはりサイト内でダイジェストの動画が公開されています。ご覧下さい。

NHKさんのこうしたアーカイブ的な取り組み、文化史的な部分でも、重要な取り組みですね。当方の元にも回り回って照会がありまして、昭和4、50年代頃の番組の録画がないか、というものでしたが、残念ながら期待には添えませんでした。

他局さんでも同様の取り組みが広がることを期待しております。

【折々のことば・光太郎】

午前モデル、ストーブをたき、裸体スケッチ、十二時終る、


昭和27年(1952)11月11日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作2日目です。

描かれた細かい年月日は特定できませんが、スケッチは複数枚現存しています。
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仙台に本社を置く『河北新報』さん主催のオンラインイベント「3.11大震災メモリアルトーク 想いと未来を語る2022」、3月11日(金)に開催されライブ配信されましたが、その後、編集作業を経てのアーカイブ配信が始まりました。
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司会は山寺宏一さん。宮城県塩竃市のご出身で、3.11大震災直後から、復興支援や募金活動に参画なさっています。
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そうした関係をいろいろなさっている中で、当ブログでは、平成30年(2018)封切りの映画「一陽来復 Life Goes On」(当方友人が出演しています)のナレーション、その前年には女川町を舞台にした「アニメドキュメント 女川中バスケ部 5人の夏」にご出演などの件をすでにご紹介しております。

ゲストは音楽家・かの香織さん、プロレスラーの新崎人生さん、「女川1000年後のいのちを守る会」の鈴木智博さん。
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かのさん、新崎さん、それぞれの被災地支援レポートの後、「いのちの石碑」活動の紹介。震災直後に当時の女川一中に入学した鈴木さんたちの発案により、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町の光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、建てられ続けたものです。昨秋には当初予定の全21基が完成しています。
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鈴木さん、中高生の時には「女川光太郎祭」にもご参加下さり、光太郎詩文の朗読をなさって下さいました。
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石碑以外にも、鈴木さんたちが手がけた「女川いのちの教科書」の紹介も。
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かのさんや新崎さんの取り組みにしてもそうですが、本当に頭が下がります。

動画、貼り付けておきます。


「いのちの石碑」については59:40頃からです。

【折々のことば・光太郎】

晴、朝近所を散歩、25番地を見る、
 

昭和27年(1952)10月13日の日記より 光太郎70歳

生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、7年半ぶりに帰京し、千駄木の実家に一泊した翌朝です。「25番地」はかつて智恵子と暮らしたアトリエ兼住居のあった跡地。何気に書いてありますが、感慨深かったようで……。光太郎令甥・故髙村規氏の回想から。

 「規、明日の朝学校へ行く前に、ちょっと自分ちのアトリエの焼け跡へ連れてってくれないか」って言われて、「そういうのはおやすいご用ですよ」って言って。
 僕は、疎開先から帰って来てから次の日の朝すぐにアトリエの焼け跡へ見に行ったことがあるんですよね。地面から立ち上がりの階段がそのまま残ってましたけど、ずーっと周辺が板囲いしてあったんです。板囲いの隙間から中を覗いて見ましたらね、一体は焼け野原ですけれど、この一角だけ畑になってなかったんですよ。あの頃は、人の土地でも何でも自分で勝手に耕して種蒔いて、さやいんげんでも何でもできれば、自分のものになっちゃったんですからね。まわりは全部畑になっていましたが、光太郎のアトリエの一角だけは板囲いはしてありましたけれども、焼け跡のまんまだったんです。(略)石膏のかけらや本の焼け残りなんかがあったもんだから畑にしたくてもならなかったんですね。
(略)
 それで、光太郎を連れてここへ行ったんですね。そしたらやっぱりまだ板囲いなんですよ。でも木の節目やなんか外れたところがぽつぽつ穴があいてるもんですから、光太郎は自分が二十四年間も智恵子さんと一緒にいた場所だし、二人で一所懸命新しい芸術のために努力した場所ですからやっぱり懐かしさも一入なんでしょうね、隙間から中を丹念に一ヶ所一ヶ所見て歩いてるんですよ。こっちは学校へも遅れそうになっちゃうけどそんなことはまあいいやと思って。鼻が潰れそうになるくらいむきになって中を覗いているんですね。(略)近くにいた近所のおかみさんだったかな、だんだん不思議そうな顔し出したんです。「誰かが土地を覗いてる」っていうふうに思ったんでしょうね。おかみさんが光太郎に何か言ったら光太郎が気の毒だなと思って。そこへ飛んでいってその奥さん連中に「あの人はね、高村光太郎っていって僕の伯父さんで、昔ここにあったアトリエに住んでて、『智恵子抄』で有名な智恵子さんと一緒にここにいた人で、今東京へ帰ってきてね、懐かしくて一所懸命自分の住んでた所を丹念に見てるんだから好きなようにさせといて」と言いました。

光太郎、さらに板の隙間から中に入りました。

 光太郎は亡くなった智恵子さんを抱いて上がったこの階段を上がったり下りたりしてましたよ、何べんも何べんも。

ZOOMによるオンライン講座です。

若松ゼミ◆詩の教室 言葉のかたち、かたちであるコトバ――高村光太郎訳『ロダンの言葉抄』を読む

オンライン会議アプリzoomを使用したリモート講座が新しくできました!

ゼミという名のとおり、若松と参加者とが共に学びを深めて参ります。
名著を取り上げるのはもちろん、若松がどうしても取り上げてみたいマニアックな本、本だけに限らずにテーマ(詩、哲学)なども取り上げて、「読む」こと「書く」ことを深めていく講座です。
中には1年以上かけて、同じ本をじっくり学んでゆくような講座も予定しています。
少人数制の参加型ゼミ講座と、テキストを読み解いたりテーマ毎に講義を受けるグループ講座をご用意しています。
お好きなテーマ、参加スタイルを選んでご参加ください。

オンラインですので、遠方の方や直接教室にこられない方もご参加頂けます。
ご自身のなかにある、うちなる言葉に出会える講座です。
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 高村光太郎訳の『ロダンの言葉』は、ある時期、画家や彫刻家だけでなく、文学、音楽を含む世界においても、ある種の啓示の書として読まれました。彫刻という「かたち」のなかに潜むコトバを語るロダンに美と叡知の地平を指し示す羅針盤のようなものを感じたのです。
 今日、ロダンはすでに不朽の名を歴史に刻んでいますが、彼は多くの誤解と中傷を受けながら、自らの芸術を深化させてきました。この本には、かたちを変えた詩の極意が語られています。
 言葉を超えたコトバとどのような関係をつむぐことができるのか、ロダンの言葉に導かれながら、皆さんと考えてみたいと思います。 (講師:若松英輔)

【講座の種類】グループ講座(連続)
【最低催行人数】10名
【時間数】1時間40分(内休憩10分)
【受講料】4,400円(税込)
【課題】あり(+1,650円)・なしが選べます
【テキスト】高村光太郎訳 高田博厚編『ロダンの言葉抄』(岩波文庫)
【申込み期限】講座の前営業日9:00まで(コンビニ決済の方は、期限までにお支払いまでお済ませ下さい)
001※「読むと書く」会員様のみご参加頂けます。 会員証をお持ちでない方は、事前にアンケート・課題などがございますので、4営業日前までに初めての方はお申し込み下さい。

【日程】
 ■第一回 2022年3月30日(水)19:20-21:00

 ■第二回 2022年4月27日(水)19:20-21:00

 ■第三回 2022年5月25日(水)19:20-21:00


主宰は詩人の若松英輔氏。これまでに、NHKさんのラジオ講座で光太郎に触れてくださったり、評論集『詩と出会う 詩と生きる』(令和元年=2019 NHK出版)、詩集『美しいとき』などで、光太郎に触れてくださっています。

メインで取り上げられるのは、光太郎訳の『ロダンの言葉抄』。光太郎歿後の昭和35年(1960)、それぞれ光太郎に私淑した彫刻家の菊池一雄と高田博厚の共編で、岩波文庫の一冊として刊行されました。現在でも版を重ねているようです。

「抄」ではない元版『ロダンの言葉』は大正5年(1916)に北原白秋の実弟・北原鉄雄の阿蘭陀書房から、『続ロダンの言葉』は同9年(1920)に叢文閣から刊行されました。それぞれ、それまでに『白樺』などの雑誌に断続的に発表していたものをまとめたものです。のちに叢文閣では2冊セットの普及版も刊行しています。

光太郎実弟にして、鋳金分野の人間国宝となった豊周の『定本光太郎回想』から。

 この頃「ロダンの言葉」を訳しはじめたのは、兄にとっても、僕たちにとっても、今考えると全く画期的な大きな仕事だったと思う。
 雑誌にのった時は読まなかったけれど、本になってからは僕も繰返して愛読した。あの訳には実に苦心していて、ロダンの言葉を訳しながら兄の文体が出来上がっているようなところもあるし、芸術に対する考え方も決って来ているところが見え、また採用した訳語も的確で、「動勢」とか「返相」とか兄の造った言葉で今でも使われているものが沢山ある。そんな意味で、あれは兄には本当に大事な本だった。
 それだけに、他の学校は知らないが、上野の美術学校では、みなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的ではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の生き方の根本で人々の心を動かした。新芸術の洪水で何かを求めながら、もやもやとして掴めなかったものがあの本によって焦点を合わされ、はっきり見えて来て、「ははあ」と肯ずくことが一頁毎にある。ロダンという一人の優れた芸術家の言葉に導かれて、人々は自分の生を考える。そういう点で、あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。だからあの本の影響は思いがけないほど広く、まるで分野の違う人が、若い頃にあの本を読んだ感動を語っている。
 この本が、そんなに広く受入れられた原因の一つは、あの本の形式にもあるので、兄の読んだ種種な書物からの集積だから、自然にそうなったのだけれど、文章の区切りが大変短い。どんなに長くても数頁にしか渉らないから、読んでいて疲れないし、理解しやすい。この短かくて頭にはっきり全文が入るような形式が読者の感動をどんなに助けているかわからない。ことに本を読む習慣の少なかった美術学生にとって、これは有難かった。

若い学生」には、佐藤忠良、舟越保武、本郷新といった、光太郎のDNAを受け継ぐ彫刻家も含まれ、実際、彼らもその影響の大きさを語っています。佐藤と舟越の対談から。

佐藤 『ロダンの言葉』というのは君も聖書のようにして読んだし、僕も同じだったね。高村さんにあれだけの翻訳が出来たというのは、当時高村さんがいい仕事をしてたから深く読み、訳せた証拠だと思う。
舟越 そうだろうな。
佐藤 本郷さんも老人の漁夫を作ったり青年を作ったりあたりはいい文章を書いている。君もそうだと思うけど、『ロダンの言葉』を興奮して読んだわけだけど、自分が仕事を積み重ねて幾らかでも成長してから読んでみると、学生の時とはまったく違うところに感動していたりする。学生時代に読み過ごしていたところに本当の意味があった、ということがわかって、そこで、ああ、高村さんはやっぱりいい仕事してた時なんだな、と思えてくる。
(『対談 彫刻家の眼』昭和58年=1983 講談社)


さて、その『ロダンの言葉』を、若松氏がどのように評するのか、興味深いところです。ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

哲夫さんキチジといふ魚持参、ビール1本のむ、


昭和27年(1952)7月24日の日記より 光太郎70歳

哲夫さん」は、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの村人、「キチジ」は主にオホーツク海などで獲れる魚です。調理法が書かれていませんが、刺身、或いは焼き魚にして一杯、というのもいい感じだったでしょう。
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今年も3.11が近づいて参りました。そこで、仙台に本社を置く『河北新報』さん主催のオンラインイベントです。

3.11大震災メモリアルトーク 想いと未来を語る2022

期 日 : 2022年3月11日(金)
時 間 : 19:00~20:30 
料 金 : 無料

新型コロナウイルスの感染拡大の影響により、総合的に判断し、今年もオンラインで開催します。どこからでも、どなたでも視聴できますので、皆さまぜひご参加ください!

ライブ配信の視聴方法
当日この特設WEBページに動画配信スペースを設けますので、このページから視聴できます。 時間になりましたら、スマートフォンやパソコン、タブレットなどからこちらのページを表示してください。 こちらのページを表示しやすいように、ブックマークなどにご登録いただくことをおすすめいたします。

3月11日イベント当日に配信した映像を一部編集し、3月後半からアーカイブ配信を実施します。ぜひそちらもご覧ください。
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018トークイベントホスト
 声優 山寺宏一 さん
1961年6月17日生まれ。宮城県塩釜市出身。1985年声優デビュー。アニメ、洋画、ラジオ、ナレーションなど声に関するあらゆるジャンルで活躍中。3.11大震災直後から、復興支援や募金活動に参画。例年「3.11メモリアルイベント」に出演。

トークゲスト
 音楽家 かの香織さん
1991年、ソニーミュージックエンタテインメントよりソロデビュー。東日本大震災で被災し統合・閉校となった校歌を高品質のデジタル音源で100年以上先の未来へ伝えるための「校歌復刻保存プロジェクト」を進行中。これまで県内6校歌をデジタル化。
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 プロレスラー 新崎人生さん
徳島県出身。1993年、みちのくプロレスでデビュー。お遍路さんのスタイルと、リング内外で言葉を発しないという特異なキャラクターで一躍注目を集める。被災地を巡ってプロレス披露やラーメンを振る舞うなど、復興活動に尽力。現在はコロナ禍で苦しむ中小企業などを支援。

 「女川いのちの石碑」女川1000年後のいのちを守る会 有志
1000年先の命を津波から守ろうという目的で、震災直後に女川一中(現女川中)に入学した生徒たちが石碑の建立を発案。2013年11月に1基目を設置、2021年11月には目標の21基目を設置完了。津波到達地点より高い場所にあり、地震が来たら石碑より高い所へ逃げるようメッセージが記されている。

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当ブログでしばしば取り上げさせていただいている、宮城県女川町の「いのちの石碑」を建て続けてきた「女川1000年後のいのちを守る会」有志の皆さんがご出演。「いのちの石碑」は、東日本大震災の後、当時の中学生たちが考案した、津波到達地点より高い場所のランドマークとして、同じ女川町の光太郎文学碑に倣い、設置費用全額を募金で集め、建てられ続けたものです。昨秋には当初予定の全21基が完成しています。

昨年は10年の節目ということで、3.11関連、メディア等で大きく取り上げられました。今年以降、記憶の風化との戦いとなるかと思いますが、精一杯の抵抗をしていこうではありませんか、と思います。

案内にもありますが、ライブ配信、そして今月後半には編集されたもののアーカイブ配信もあるそうですので、ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

一時半公民館にて賢治子供の会の童話劇を見る、四時過ぎ終り、写真撮影後タキシにて小屋にかへる、

昭和27年(1952)5月24日の日記より 光太郎70歳

賢治子供の会」は、宮沢賢治記念館の初代館長も務められた故・照井謹二郎氏が昭和22年(1947)に立ち上げ、第一回公演は光太郎の山小屋前の野外で行われました。以後、花巻町や太田村で光太郎の指導を仰ぎながら、賢治の童話を上演し続けました。会の命名も光太郎とのこと。

「写真撮影」、下記の写真です。
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この年10月、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため帰京する光太郎にとって、最後の「賢治子供の会」観劇でした。

福島大学うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)さんの主催により、これまでも全国各地で開催されてきた東日本大震災からの復興支援シンポジウム。光太郎詩「あどけない話」(昭和3年=1928)中の「ほんとの空」の語を冠して下さっています。

今回は、当初予定では福島市での公開開催とオンライン参加のハイブリッドでしたが、やはりコロナ禍のため、オンラインでの開催のみに変更となりました。

福島大学うつくしまふくしま未来支援センターシンポジウム~ほんとの空が 戻る日まで~

期 日 : 2022年2月17日(木)
会 場 : ホテル福島グリーンパレスよりオンライン配信
時 間 : 13:20~16:00
料 金 : 無料

東日本大震災・原子力発電所事故からの地域復興に向け取り組んできた福島大学うつくしまふくしま未来支援センター(FURE)のこれまでの取組み及び福島大学の震災復興に向けての今後の取組みについて発信するとともに、福島県被災地域のこれからについて考える。

挨拶及び講演 
 「福島大学の震災復興に向けての取組みと今後」
 福島大学学長 三浦浩喜

基調講演
 「震災復興の中で福島大学うつくしまふくしま未来支援センターが果たした役割」

福島大学名誉教授・初代FUREセンター長 山川充夫
講演
 「これからの福島大学に期待すること」 川内村村長 遠藤雄幸


うつくしまふくしま未来支援センター活動紹介
 子どもたちに寄り添って-こども支援活動の歩み-  FUREこども支援部門長  中村恵子
 地域復興支援から未来への継承 FURE地域復興支援部門長 吉田樹
 食と農の再生-放射能汚染対策から新しい産地形成へ-  食農学類教授 小山良太
 相双地域支援サテライトによる支援活動 FURE相双地域支援サテライト長 仲井康通

対談 「これからの福島大学の取組み」 三浦浩喜学長×山川充夫初代センター長
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参加申し込み締め切りが2月10日となっておりますが、まだ受付中のようです。あと一月足らずで3.11ということもあり、多くの方々のご参加を期待します。

【折々のことば・光太郎】

真壁仁氏来訪、山形の干柿をもらふ、夕方まで談話、ちゑ子について其他、煮小豆御馳走、

昭和27年(1952)2月17日の日記より 光太郎70歳

真壁仁は山形出身の詩人。昭和20年(1945)、東京の空襲が激化してきた際、智恵子の遺作紙絵を焼失から守るため、光太郎は千数百枚の紙絵を三つに分けて疎開させました。そのうちの1箇所が、山形の真壁のところでした。








合唱系の情報を2件。

まずはコロナ禍のため、昨年は中止となり、2年ぶりの開催となる全日本合唱コンクール全国大会。

第74回全日本合唱コンクール全国大会 中学校・高等学校部門

期 日 : 2021年10月30日(土) 高等学校部門 Aグループ/高等学校部門Bグループ
        〃   31日(日) 中学校部門混声合唱の部/中学校部門同声合唱の部
      それぞれライブ配信あり
会 場 : iichiko総合文化センター iichikoグランシアタ 大分県大分市高砂町2番33号
時 間 : 両日とも9:45開演
料 金 : 両日とも2,300円 ライブ配信1,500円
主 催 : 全日本合唱連盟

「全国大会の歌声」が再びホールに帰ってきます。第74回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)は30、31日、大分市での中学校・高校部門で幕を開けます。コロナ禍で昨年の大会が中止となり、2年ぶりの開催。今年は新たに、オンラインによるライブ配信も実施します。
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010高等学校部門Bグループ(33人以上の大編成)で、九州代表として出場される鹿児島高等学校音楽部さんが、西村朗氏作曲の「千鳥と遊ぶ智恵子」を自由曲で演奏されます。

こちらは「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」全3曲中の1曲です。鹿児島高等学校音楽部さんは、平成30年(2018)の第71回大会でも、同じ組曲中の「レモン哀歌」で出場なさいました。

「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」は、平成20年(2008)、関西合唱団さんの依嘱で作曲され、初演が行われました。楽譜は全音楽譜出版社さんから刊行されています。その中に作曲者・西村朗氏の解説があり、今回演奏される「千鳥と遊ぶ智恵子」に関しては、「海辺の風光の中での夢幻的な魂の孤独。異界からの千鳥の声と智恵子の遠景。」と書かれています。

楽譜を見ると、ポリフォニーの部分がほぼなく、あまり昨今のコンクール向きでは無いような気もします。ただ、西村氏が「異界からの千鳥の声」とする「ちい、ちい、ちい、ちい、ちい――」の三回目の部分だけは、四声の掛け合いと複雑なピアノがポリフォニックに絡み合う構成になっています。それが徐々にまたホモホニー的に統合されていくあたり、展開の妙ですね。

鹿児島高等学校音楽部さんには、「もう天然の向うに行つてしまつた智恵子」と、愛別離苦の涙を流す光太郎の世界観を、しっかりと表現していただきたいものです。

もう1件、合唱のオンライン合同演奏会だそうで。

第5回 ガッSHOW TV!!

期 日 : 2021年10月24日(日)
時 間 : 20:00~
配信URL: 
Mu Project / ムウ・プロジェクト - YouTube
料 金 : 無料

「ガッテレ」は、東京で活躍する男声合唱団「Mu Project」様が主催する〝オンライン合唱祭〟です。
出演団体が過去の演奏、もしくは新規に録画した演奏を提供し、それらを一つの番組として、YouTube上で配信されます。
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都内の合唱団CANTUS ANIMAEさんが、安藤寛子氏作曲の「智恵子の手紙」でご出演。この曲は、タイトル通り、昭和6年(1931)7月29日消印の、智恵子が母・センに送った手紙を中心にしたその前後の「智恵子の手紙」をテキストとしています。平成28年(2016)、晴海の第一生命ホールさんで開催されたCANTUS ANIMAEさんの第20回演奏会で初演されました。

当方、拝聴に伺いまして、オーソドックスな合唱曲を想像していたところ、完全に裏切られました(いい意味で)。まるでオペラの一幕のようなステージでした。

その際のパンフレットから。
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おそらくこの時の演奏の模様が配信されるのだと思われます。

ぜひご覧下さい。

【折々のことば・光太郎】

忠也さんホツキ貝持参、三馬印十一文半ゴム靴進呈、余には小さすぎるもの。

昭和26年(1951)2月13日の日記より 光太郎69歳

忠也さん」は、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くの住人。「三馬印」は、現在も「株式会社ミツウマ」として健在の長靴等のメーカーです。

十一文半」は、約29㌢。それが「小さすぎる」というのですから、笑えます。若い頃の自己紹介的な文章では、自分の足のサイズを「十三文半」と書いていました。約34㌢です。

オンラインでの朗読。ただし、オンラインと言っても、インターネット系ではなく、電話で、だそうです。

でんわde名作劇場(2021年9月)

期 日 : 2021年9月3日(金)~9月6日(月)
時 間 : ①11:00、②13:00、③15:00、④17:00
料 金 : 一般:1,500円、SPACの会 会員:1,200円

SPAC俳優と生電話!昨年実施し、ご好評いただいた本企画を期間限定で開催します。ご自宅にいながら電話で、SPAC俳優のライブ朗読をお楽しみいただけます。
日時・俳優・演目をお選びいただき、実施日の前日までにお申込みください。SPAC俳優からお客様のお電話番号におかけして、朗読をいたします。朗読と合わせて40分以内なら、なにげない雑談もOK!

ご希望の日時・俳優・演目を実施日の前日までにチケットセンターへご予約ください。
SPACチケットセンター:054-202-3399(受付時間 10:00~18:00)

出演俳優☆赤松直美、池田真紀子、たきいみき(※受付終了)、本多麻紀
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赤松直美
 ◉小川未明 作
 『海のかなた』(約30分) 『眠い町』(約20分) 007
 『月夜とめがね』(約20分) 『びんの中の世界』(約20分)
 
『黒い塔』(約20分) 黒い人と赤いそり』(約15分)
 『野ばら』(約15分) 『とうげの茶屋』(約25分)
 
『赤い蝋燭と人魚』(約40分) 『小さい針の音』(約20分)
 
金の輪』(約10分)※時間内であれば、短編2本の組合わせもOK!
 ◉宮沢賢治 作『どんぐりと山猫』(約30分)
 ◉有島武郎 作『一房のぶどう』(約30分)008

池田真紀子
 ◉武石園子 作『ねこのゆめ』(12分)
 ◉芥川龍之介 作『魔術』(20分)
 ◉横光利一 作『蠅』(12分)
 ◉萩原朔太郎 作『青猫』より数編(6分)
 ◉高村光太郎 作『智恵子抄』より数編(5~15分)
 ※時間内であれば、複数作品でもOK!009

たきいみき(受け付け終了)
 ◉三好十郎 作『殺意~ストリップショー』
 ◉谷崎潤一郎 作『盲目物語』
 ◉泉鏡花 作『伯爵の釵(かんざし)』

本多麻紀
 ◉岡本綺堂 作『怪談一夜草紙』010
 ◉寺田寅彦 作『茶わんの湯』
 ◉小川未明 作『月夜とめがね』
 ◉佐藤春夫 作『あじさい』
 ◉フィオナ・マクラウド 作(松村みね子 訳)『女王スカァの笑い』

SPAC」というのは、静岡県舞台芸術センター(Shizuoka Performing Arts Center)の略だそうです。舞台芸術を創造・上演するための専門家集団を擁し、静岡芸術劇場などを拠点にした演劇等の公演の他、海外を含め、各地に出張公演も行っているとのこと。

そちらを拠点とする「劇団SPAC」さんが、今回の主宰です。同団、平成27年(2015)には「『智恵子抄』リーディング」という企画、それから一昨年には「SPAC出張劇場『星の時間 〜高村光太郎「智恵子抄」より〜』」という公演もなさって下さっています。

当節、オンラインが流行りですが、電話を使う、というのもある意味、斬新ですね。考えてみれば、携帯電話等が普及した現代だからこそ、逆にありなのかな、という気がします。

ご興味のある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

浅沼校長が居たので、包んで置いた5,000円包を(村立山口小学校宛、幻灯機のため)として寄附、お手渡しする。


昭和23年(1948)9月19日の日記より 光太郎66歳

折に触れ、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋近くにあった山口小学校へ、いろいろと援助をしていた光太郎。この時は、幻灯機の購入資金でした。

「幻灯機」といって、今の若い皆さんに通じるかどうか(笑)。そういえば、当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、当方手持ちのプロジェクタを「幻灯機」とおっしゃっていたのを懐かしく思い出しました。

書道関係のシンポジウム、オンラインでの開催です。

近代書壇の誕生―東アジア三地域の比較から―

期 日 : 2021年8月21日(土)
時 間 : 10時~16時30分 Zoomによるオンライン開催
料 金 : 無料
問 合 : 筑波大学芸術系 菅野智明研究室 TEL/FAX 029-853-2715

この度、近代東アジア書壇研究プロジェクト(代表者 菅野智明)では、下記の要領にて国際シンポジウム「近代書壇の誕生―東アジア三地域の比較から―」を開催いたします。
奮ってご参加ください。

書壇と称される書家たちのつながりは、それぞれの書家たちが結成・所属した種々の組織・団体を基盤とするところがあります。近代になると、書家たちは多岐にわたる組織・団体を活発に設立させますが、その動向は日本のみならず朝鮮や中国にも顕著で、地域によって独自色がうかがわれます。

このシンポジウムは、2018年に開催いたしましたシンポジウム「近代東アジアの書壇」の続弾として企画したもので、国立故宮博物院(台北市)の陳建志氏、国立中央博物館(ソウル市)の金昇翼氏の基調講演に加え、プロジェクトメンバー5名の研究発表と討議で構成いたしました。

今回は、前回のシンポジウムを踏まえつつ、近代に誕生した書壇そのものの研究に加え、それを生み出す背景にも留意しつつ、日本・朝鮮・中国の三地域における書壇形成のあり方を眺望しようと思います。

発表には日本語・韓国語・中国語それぞれの通訳があります。

プログラム:
研究発表 10時~12時
① 清末民初における書画社団の規約について 髙橋佑太(筑波大学准教授)
② 近代日本人書家の朝鮮書芸との邂逅 金貴粉(津田塾大学研究員)
③ 大阪市立美術館蔵「天発神讖碑」の一考察 下田章平(相模女子大学准教授)
④ 大字仮名表現における安東聖空と正筆会の役割 髙橋利郎(大東文化大学教授)
⑤ 中村不折と高村光太郎に見る六朝書道 矢野千載(盛岡大学教授)

基調講演 13時~15時
① 曾熙と向燊(1905-1929) 陳建志 氏(国立故宮博物院助理研究員)
② 韓国近代書画壇の形成と書画家たちの実相 金昇翼 氏(国立中央博物館学芸研究士)

討議 15時15分~16時30分
司会 菅野智明(筑波大学教授) 
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主催は筑波大学内の「近代東アジア書壇研究プロジェクト」さん。以前は同大の東京キャンパスにて、対面式での開催でした。

「中村不折と高村光太郎に見る六朝書道」を発表される盛岡大学の矢野氏は、ご自身も書家であらせられ、いつも達筆のお手紙を頂戴し、悪筆で鳴らす当方としては常に恐縮しております。

矢野氏、以前にも同会主催のシンポジウムで、光太郎書についての発表をなさいました。平成27年(2015)の国際シンポジウム「書の資料学 ~故宮から」では「高村光太郎書「雨ニモマケズ」詩碑に見られる原文および碑銘稿との相違について」、平成30年(2018)にはシンポジウム「近代東アジアの書壇」で「高村光太郎と近代書道史 ―父子関係と明治時代の書の一側面―」。後者は、当方、拝聴に伺いました

今回は、「中村不折と高村光太郎に見る六朝書道」。矢野氏、今年4月、高村光太郎研究会発行の『高村光太郎研究』第42号に「高村光太郎と中村不折の書道観―明治・大正の六朝書道を中心として―」という論文を発表されており、興味深く拝読致しました。

「六朝書道」は、中国の六朝時代(3世紀~6世紀)の、主に石碑に彫られた楷書を範とするもので、日本では飛鳥時代に伝来し、一時、影響があった後、明治になって再び脚光を浴びた書体です。

日下部鳴鶴、巖谷一六らの書家がまずこの魅力に飛びつき、少し遅れて中村不折。不折は慶応2年(1866)、江戸に生まれた画家です。幼少期に維新の混乱を避けるため信州に移住、明治21年(1888)、23歳で再上京、小山正太郎の不同舎に入門します。後輩には光太郎の親友・荻原守衛がいました。その後、正岡子規と出会い、子規の紹介で新聞の挿絵を描いたり、子規と共に日清戦争に従軍し、森鷗外と知遇を得たりしています。ちなみに守衛や鷗外の墓碑銘、守衛のパトロンだった新宿中村屋さんのロゴなども、不折の書(やはり六朝風)です。

その後、島崎藤村『若菜集』、夏目漱石『吾輩は猫である』、伊藤左千夫『野菊の墓』などの装幀、挿画に腕を揮いました。前後してフランスに留学(明治34年=1901)、光太郎も学んだアカデミー・ジュリアンに通ったり、ロダンを訪問し署名入りのデッサンをもらったり、荻原守衛と行き来したりしています。帰国は同38年(1905)で、翌年から欧米留学に出る光太郎とはすれ違いでした。
 
帰国した年から太平洋画会会員、講師格となり、日本女子大学校を卒業して同40年(1907)頃に同会へ通い始めた智恵子の指導にも当たりました。その際、比較的有名なエピソードがあります。人体を描くのにエメラルドグリーンの絵の具を多用していた智恵子に、中村が「不健康色は慎むように」と言ったというのです。しかし智恵子は中村に反発するように、さらにエメラルドグリーンの量を増していったとのこと。ただ、当時のエメラルドグリーンは非常に毒性の強い成分が含まれ、そのために不折は智恵子を諫めたのではないかとする説もあります。

さて、光太郎。不折と直接の面識があったかどうか、当方は存じません。ただ、自身も書をたしなんだ光太郎、不折らの「六朝書」には眉を顰めていたようです。

世上では六朝書が大いに説かれ出して、私も井上霊山とかいふ人の六朝書に関する本を案内にして神田の古本屋で碑碣拓本の複製本を買つたりした。六朝書の主唱者中村不折や碧梧桐の書にはさつぱり感心せず、守田宝丹に類する俗字と思つてゐた。不折はあの千篇一律の字を看板や、書物の背や、幅や、雲盤や、屏風や、到るところに書き散らしたので、鼻についてうんざりした。
(「書についての漫談」昭和30年=1955)


井上霊山」は書家、「碧梧桐」は俳人の河東碧梧桐、「守田宝丹」は現在も続く薬舗・守田治兵衛商店の創業者にして書画もよくした人物(「宝丹」は主力商品の名にも用いられています)。

 漢魏六朝の碑碣の美はまことに深淵のように怖ろしく、又実にゆたかに意匠の妙を尽してゐる。しかし其は筆跡の忠実な翻刻といふよりも、筆と刀との合作と見るべきものがなかなか多く、当時の石工の技能はよほど進んでゐたものと見え、石工も亦立派な書家の一部であり、丁度日本の浮世絵に於ける木版師のやうな位置を持つてゐたものであらう。それゆゑ、古拓をただ徒に肉筆で模し、殊に其の欠磨のあとの感じまで、ぶるぶる書きに書くやうになつては却て俗臭堪へがたいものになる。今日所謂六朝風の書家の多くの書が看板字だけの気品しか持たないのは、もともと模すべからざるものを模し、毛筆の自性を殺してひたすら効果ばかりをねらふ態度の卑さから来るのである。さういふ書を書くものの書などを見ると、ばかばかしい程無神経な俗書であるのが常である。最も高雅なものから最も低俗なものが生れるのは、仏の側に生臭坊主がゐるのと同じ通理だ。かかる古碑碣の美はただ眼福として朝夕之に親しみ、書の淵源を探る途として之を究めるのがいいのである。
(「書について」昭和14年=1939)

古拓をただ徒に肉筆で模し、殊に其の欠磨のあとの感じまで、ぶるぶる書きに書く」というのが、矢野氏に拠れば、不折の書を指しているのではないかとのことでした。おそらく、今回の発表でもこうしたお話が、作例などと共に紹介されるのではないかと思われます。

ところで、今回のシンポジウム、「近くなったら紹介しよう」と思っておりましたところ、8月14日(土)が申し込み締め切りでした。申し訳ありません。ただ、どうしても、という方、上記の問い合わせ先までご連絡してみて下さい。

【折々のことば・光太郎】

伊藤昭氏又帰つて来て切符を紛失、学校に落ちてゐぬかと探し居るとの事。金持たぬ様子なので切符代300円持つていつてもらふ。


昭和23年(1948)8月5日の日記より 光太郎66歳

昨日のこの項でご紹介した、福島二本松で「智恵子の里レモン会」を立ち上げた故・伊藤昭氏。やっちまいました(笑)。安達駅から往復で買った乗車券の復路分を失くしたそうで、泊めて貰った山口小学校でも結局見つからず、光太郎に借金して帰ったそうです。福島に戻ってからすぐに為替を送って返済したとのこと。当方も気をつけようと思いました(笑)。

昭和6年(1931)の光太郎の女川来訪を記念する「高村光太郎文学碑」――東日本大震災の津波に呑まれて亡くなった故・貝(佐々木)廣氏が中心となって、昭和6年(1931)に光太郎が訪れたことを記念して建てられたもの――の精神を受け継ぎ、費用全額を寄付で集めた「いのちの石碑」に関わります。

「時事通信」さん。

天皇陛下、国連会合で講演=「水と災害」、オンラインで

  天皇陛下は25日、オンラインで開かれた「第5回国連水と災害に関する特別会合」に、お住まいの赤坂御所(東京都港区)から参加し、基調講演された。陛下が即位後講演するのは初めて。
 陛下は「災害の記憶を伝える」と題し、約25分間、写真や図を使って英語でスピーチ。発生から10年がたった東日本大震災の記録や被災者の体験について「時代を超えて継承していくことはとても大事なこと」と述べた上で、語り部活動や震災遺構、宮城県女川町の「1000年後のいのちを守る石碑」などを紹介した。
 新型コロナウイルスについても、スペイン風邪など過去の疫病の経験を知る必要があると言及。「災害や疫病の記憶を後世に伝えつつ、その教訓を生かすべく次の災害や疫病に備えながら、誰一人取り残されることなく健康で幸せな毎日を享受できるような社会の構築に向けて、私も皆さんと一緒に努力を続けていきたい」と語った。
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「共同通信」さん。

東日本大震災陛下、国連の水会合で講演

 天皇陛下は25日、住まいの赤坂御所で、オンライン形式で開催された「第5回国連水と災害に関する特別会合」に出席された。即位後初めてとなる講演も行い、発生10年を迎えた東日本大震災での伝承活動を取り上げ、「後世まで伝えていこうとする一人一人の努力が、次の災害を防ぐ大きな力になると信じている」と訴えた。
 陛下は英語で30分近く、写真や図表を交えて講演。被災地の語り部とオンラインで交流したことを報告し、体験や教訓を「多くの人々と共有することはとても貴重なこと」と紹介した。
 震災後、宮城県女川町に建てられた避難誘導の石碑や、2016年に訪問した岩手県宮古市の震災遺構「たろう観光ホテル」、徳島県の昭和南海地震などの石碑、1771年の明和の大津波での沖縄・石垣島の被害を取り上げた。
 新型コロナウイルス禍にも言及。ワクチン接種に「暗く長いトンネルの先にようやく一筋の光明を見いだしています」と述べ、コロナ後の世界について「語り合うことは、人類の将来にとって大変重要」と指摘。スペイン風邪など過去の疫病から学ぶことも訴えた。
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「第5回国連水と災害に関する特別会合」。調べてみましたところ、以下のような要項でした。
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「いのちの石碑」プロジェクト、女川町内の全ての浜、20数カ所に設置予定で、ほぼ完了しており、今年度中には全基竣工予定であるやに聞いております。こうして天皇陛下も関心を寄せられ、海外にも広く紹介されたということで、活動にさらなる弾みがつくことを祈念いたしております。

【折々のことば・光太郎】

夕方美術学校の生徒二人(鶴田昭夫、鹿目尚之)来て、音、美両校生徒の雑誌(上野)に文章寄稿してくれといふ。結局承諾今月中位に送る事。


昭和23年2月19日の日記より 光太郎66歳

光太郎の母校・東京美術学校と、すぐ向かいの東京音楽学校が統合され、新制の東京藝術大学になったのは、翌昭和24年(1949)のことでした。

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に訪ねてきた二人の後輩のうち、「鹿目尚之」は、平成29年(2017)に亡くなったデザイナーの鹿目尚志氏の本名です。

智恵子の故郷・福島二本松発のイベント情報です。

【オンライン】にほんまつで あなたのほんとうの「  」を見つけませんか?

日 程 : 2021/06/19(土)
時 間 : 13:30-15:00
場 所 : Web会議システム「Zoom」を使用します。
       Zoomの使い方につきましてはこちらの利用ガイドよりご覧下さい
料 金 : 無料
主 催 : 福島県二本松市
共 催 : 認定NPO法人ふるさと回帰支援センター

高村光太郎の妻、智恵子の出身地である福島県二本松市。「東京には空がない」「ほんとの空がみたい」という智恵子さんが想った、美しい風景が今も広がっています。

二本松市は、福島市、郡山市の間に位置する人口約55000人の都市で、安達太良山や温泉を楽しめる高原エリア、城下町の風情を残す便利な街中エリア、新規就農者も活躍している里山エリアの3つからなり、同じ市内でも様々な暮らし方が可能で、移住実績も堅調です。

今回は、元地域おこし協力隊でデザイナーの女性、テレワークで移住した子育て中の男性をゲストに迎え、移住のきっかけや、充実した暮らしについてインタビュー。当日は、キャンプ場より中継があるかもしれません。

オンラインセミナーで、ほんとうに叶えたい暮らしをみつけてみませんか?

詳細
◎二本松市移住PR動画の放映
◎先輩移住者フリートーク 「先輩移住者の話を聞いてみよう!」
【Uターン者】武藤琴美さん(ゆきしろ屋デザイナー・二本松市移住支援アンバサダー)
【子育て世代】丹治慶太さん (テレワーク勤務中)
◎二本松市の紹介など

※オンラインで質問等をお受けします。視聴のみの参加も可能です。
締め切り日 2021/06/15
お申し込み お申込みはこちらから
お問い合わせ 二本松市 秘書政策課 地方創生・新エネ推進係 電話:0243-24-7120
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似たような趣旨のイベントは以前もあり、このブログでご紹介しました。
 第1回二本松市田舎暮らし体験ツアー。(2019/6)
 智恵子の生家2階・智恵子紙絵特別公開/福島圏域合同移住セミナー。(2019/9)
ただ、コロナ禍前でしたので、その頃は実地に現地で農業体験をしたり、都内で相談会の形式で行ったり、さらにYouTube等でPR動画の公開がなされたりでした。


で、今回はZoom使用によるオンラインセミナー形式だそうで。

コロナ感染拡大で様々な「禍」が生じましたが、このようにオンライン形式でさまざまな事柄が為される体制が広まったのは、「災い転じて……」の例と言えるのではないでしょうか。ただ、何でもかんでも「オンライン」でも困りますが……。

ご興味のおありの方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

終日音も無く雪ふりつづく。細かきやはらかき雪、風なく静かにふりつむ。一尺余つもりたる上、尚夜に入りてもふる。明朝は相当の積雪量ならん。屋根の雪おろしせねばなるまじ。往来途絶える。


昭和22年(1947)12月12日の日記より 光太郎65歳

何気ない日記の記述ですが、詩的に感じます。のちの詩「典型」(昭和25年=1950)では、「小屋を埋める愚直な雪、/雪は降らねばならぬやうに降り、/一切をかぶせて降りにふる。」と表しています。

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