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4月29日(水)、文京区の千駄木・根津を後に、地下鉄を乗り継いで日本橋人形町に向かいました。

続いての目的地は日本橋社会教育会館さん。
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複合施設で、1階から5階までが中央区立日本橋小学校さん、6・7階に区立図書館さんが入り、8・9階でホール、さらに会議室に使える部屋など公民館的な機能も付帯されています。この日は祝日でしたので、小学校の授業はありませんでした。

ちなみにこの場所、明治はじめには西郷隆盛邸だったそうで。
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ホールで行われた「一龍齋貞奈芸歴10周年記念講談会」で、智恵子を主人公とした講談を拝聴に参上したわけですが、この日は午前中から貞奈さんの所属されている事務所・オフィス10さんの10周年祭りということで、さまざまな演目が行われていました。10周年祭り自体は5月6日(水)まで7日間にわたって続き、毎日複数の高座がかかります。
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無題
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ホールの緞帳。安藤広重の東海道五拾三次「日本橋」があしらわれていました。粋ですね。
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少し早く着いたので、ホールのホワイエで開場を待っていたところ、フリーアナウンサーの早見英里子さん、朗読家の出口佳代さんのユニット「ERIKO&KAYO」のお二人がいらっしゃいました。いらっしゃるとは聞いていませんでしたが、早見さんは昨年、御茶ノ水で開催された「夏の太陽講談会 読めなかった講釈を読もう〜」にもいらしてましたので、不思議はありませんでした。出口さんは講談初体験だとのこと。せっかくですので並んで座らせていただきました。
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さて、開演。

まずはオープニングアクト的に、MC的なこともなさった神田蓮陽さんによる「越の海」。江戸時代に実在した小兵力士・越の海勇蔵を主人公とした古典的な講談でした。若手の神田さん、実に初々しい感じで、「勉強させていただきます」とおっしゃって始められたあたり、好感が持てました。

続いてメインの貞奈さんで「智恵子の恋」。昨年初披露された新作で、明治34年(1901)、智恵子が福島高等女学校に進む頃から大正3年(1914)に光太郎と結婚披露を行うまでの内容。智恵子視点で、口数は少ないながらウィットに富み、負けず嫌いな一面も併せ持っていたその姿が生き生きと、そしてけっこうコミカルに語られました。当時としては珍しかった高等女学校進学や、ましてや県で1人とか2人とかの女子大学校入学を両親にお願いする場面、一学年上の平塚らいてうとのテニス対決、光太郎と知り合う以前、太平洋画会での宮崎与平・渡辺文子との三角関係など。

昨年の初演時よりもアップデートされていた部分もあり、なるほど、と思わせられました。

ここで仲入り(休憩)、そしてワンクッション。ゲストのラバーガールのお二人によるコントが3本。貞奈さんがお二人のコントをYouTubeで何本もご覧になってツボにはまり、ぜひ出演してくれと交渉なさったそうです。

笑えました。自分の隣に座っていた出口さんは、早見さんに「佳代ちゃん、笑いすぎ」とつっこまれるほど笑っていました(笑)。

そして再び貞奈さんで、後半「智恵子の変」。光太郎との結婚披露から、昭和13年(1938)の逝去まで。前半の「恋」が「変」に代わり、シリアスな面が強調されました。「変」はその変化の「変」、それから智恵子の精神に起こった「異変」の「変」、さらに生涯の仕事と定めた油絵を「私ならいいものが描ける」とする自分と「私には描けるわけがない」とするもう一人の自分との闘いとしての「変」(「応天門の変」、「本能寺の変」、「禁門の変」などの「変」です)という意味もあるのかな、などと思いながら拝聴しました。

貞奈さんご自身、野田秀樹氏脚本で大竹しのぶさんの一人芝居として初演された「売り言葉」(平成14年=2002)からインスパイアを受けたとおっしゃっていましたが、確かに講談と云うより一人芝居という感じが強かったように思われました。

実家の裕福だった造り酒屋の破産、家族の不祥事や病没、そして自身の油絵の停滞、さらには光太郎との貧困生活など、さまざまな要因が絡み合って徐々に毀れていく智恵子が語られます。しかし、「売り言葉」ほどには光太郎をディスる感じではありませんでした。確かに光太郎の対応にはいろいろ問題があったのも事実ですが、それをあまりにも前面に押し出し、光太郎の犠牲になった智恵子、とされると「何だかなあ……」ですが、そうなっていなかったので良かったと思いました。

ただ、貞奈さんご自身「まだまだ荒削りで」とおっしゃっていましたし(確かにそういう感は否めませんでした。無理もありませんが)、細かなエピソードなどよく調べてらっしゃると感心させられたもののところどころ史実と異なったり(以前はそれが定説だったりした部分ですが)、こういうエピソードも入れればいいのに、という点もありました。そのあたり、今後さらによりよいものにエボリューションして行っていただきたいものです。

終演後、ラバーガールのお二人と貞奈さん。
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さらに会場が捌けた後で「ERIKO&KAYO」のお二人と。
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ご出演の方々などの、今後のさらなるご活躍を祈念いたしてレポートを終わります。

【高村光太郎書誌】

本人著作(部分)35 『光太郎智恵子』特装版

昭和35年(1960)11月10日 龍星閣 高村光太郎 高村智恵子著
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目次
 高村光太郎篇
  詩 散文
  書簡
   高村(長沼)智恵子 長沼今朝吉 長沼せん子 長沼せき子 長沼修二 齋藤せつ子
   柳八重子 水野葉舟 中原(曽我・小野)綾子 更級源蔵 秋廣あさ子 真壁仁
   宮崎稔 難波田龍起 富士正晴
 高村智恵子篇
  詩 散文
  書簡
   長沼御両親 長沼せん子 長沼修二 齋藤新吉 せつ子 柳八重子

昨日ご紹介した8月に出た初版と紙型は同一ですが、二重函、三方金朱箔押装で表紙は「総丸革白最上羊皮」。限定60冊の刊行でした。

1ヶ月程経ってしまいましたが『週刊新潮』さん、4月8日号。漫談の綾小路きみまろさんによる「実況中継 コロナ禍の中高年にエール 公演中止「綾小路きみまろ」が誌上漫談」という記事が載りました。
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インタビューを元に、ライターの方がまとめた記事なのでしょうが、コロナ禍の最中でも明るく生きようという提言が基本です。「自粛疲れに負けるな!」というわけで。

例えば「いまは飛沫感染とかで、中高年が声を出して思い切り笑うことすら憚られる状況でしょう。本当はステイホーム中でも笑えばいいんですよ。それこそ、自分の顔を鏡に映して「いやねぇ、こんなにシワが増えちゃって。ウフフ」ってね。それくらい気持ちを軽くしてもらいたいなぁ」。なるほど。

それから「公演が中止や延期に追い込まれた去年の3月以降は、ちょうど畑を耕す時期と重なった。山梨県の富士河口湖町に自宅があるので、そこにこもってカボチャやナス、ニンジン、大根、ニガウリにハーブまで育てるようになりました。(略)種を蒔いて、収穫する頃まで公演が止まっていたので、200坪近い畑を回って愛情込めて育てましたよ。濃厚接触じゃなく“農耕接触”ですね。ある意味で、コロナがそういう時間をもたらしてくれたとも感じます。あなたは十分に駆け足で生きてきたじゃない、ここらでひと休みしなさいよ、と。そう自分のなかで切り替えることができたのがよかった。「ローマの休日」ならぬ“老婆の休日”といったところです」。笑いました。しかし、きみまろさんの農耕生活、ある意味、戦後の光太郎の花巻郊外旧太田村での生活も彷彿とさせられますね。

その中で、光太郎もネタに使って下さいました。
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長い下積み時代を経て、50歳を過ぎてからブレイクしたきみまろさんの言葉だけに、実感がこもっています。

「たとえ中高年でも、年齢を言い訳にしないで頑張れば……」。当方、きみまろさんと違ってブレイクはしていませんが(笑)、平成24年(2012)の3月、不惑を過ぎてから思い切って前職を辞し、この光太郎顕彰をメインにすることとしました。幸い家族の理解は得られたものの、周囲からは「何を考えているんだ?」という声も少なくありませんでした。しかし、自分の中ではそうすべきだという潮時でして……。

そして約1ヶ月後の5月3日、このブログを始めました。昨日で満9年、1日も休まずに書き続け、今日、10年目に突入。それまで日記などというものは、小中生の頃の宿題で仕方なく書いたことがあった程度でしたが、日記にこだわらず、好きな方面のことを書くのなら出来てしまうのだな、と思っております。誰もほめてくれませんので、自分で自分をほめたいと思います(笑)。まぁ、きみまろさん風に言えば「内容が無いよう」なので、出来てしまったのかも知れませんが(笑)。

さて、この後、何年続きますことやら(笑)。とりあえず引き続きよろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

バケツ井戸に落ちる。引揚げられずに終る、


昭和22年(1947)8月25日の日記より 光太郎65歳

光太郎の「あ゙あ゙ー!」という声が聞こえてきそうです(笑)。

写真は蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋脇の井戸。昭和26年(1951)、カメラマンの阿部徹雄による撮影です。
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