『朝日新聞』さんに載った記事を2本紹介します。
まずは2日の夕刊。先月、岩手版に載った記事を元に、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」を紹介して下さっています。
(ぶらっと)光太郎が暮らした街再現
彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)が終戦後の7年間、山居生活を送った当時の岩手県花巻市を再現したジオラマ模型が、「高村光太郎記念館」(同市太田)で公開されています。 旧花巻町役場や花巻病院、光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ詩碑」、商店街や花巻温泉、高村山荘など約70の建造物と風景を、約150分の1で再現。光太郎が移動手段として利用した「花巻電鉄」の電車が中を駆け巡っています。
展示は11月19日まで。問い合わせは同記念館(0198・28・3012)。
続いて、1日の長崎版に載った記事。
(人あかり 小さな目・選者より)印象派の絵の前で、高村智恵子を思う /長崎県
九州国立博物館で「至上の印象派展」が開催され、全64作を堪能した。ルノワール、ゴッホ、ピサロ、シスレー、モネ、ピカソなど教科書に載っている絵の数々。そんな中、セザンヌの作品の前で高村智恵子を思い出した。 彫刻家・詩人である高村光太郎の妻・智恵子はセザンヌに傾倒していた画家でもあり、結婚当時から他界するまでの生涯を、夫によって一冊の詩集「智恵子抄」にうたいあげられた女性である。
高村光太郎の父・光雲は1889(明治22)年、彫刻家で岡倉天心らが創立した東京美術学校(現東京藝術大学)に奉職。光雲は著名な彫刻家として、上野の公園に西郷隆盛像を建立したことは広く知られている。
話は戻るが、智恵子は1911(明治44)年、「元始、女性は太陽であった」と唱(とな)え、婦人解放運動の第一人者であった平塚らいてうらの雑誌「青鞜」創刊号の表紙を描くなど活動していた。この年12月に高村光太郎と出会い、東京・駒込林町のアトリエで窮乏生活が始まった。
もともと体質が弱かった智恵子は肋膜(ろくまく)炎を患い、父・長沼今朝吉の死に遭い、その後、酒造業を営んでいた長沼家は破産し、憔悴(しょうすい)してしまった。その間、関東大震災が起き、40代半ばから、精神を患う統合失調症の兆候があらわれ、自殺未遂をし、九段病院に入院。病気は進行し、35(昭和10)年、南品川ゼームス坂病院に転院した。夫・光太郎の苦しみは深まるばかりだった。
苦悩の詩が愛の証しとして「智恵子抄」となり、珠玉の作品集として今日まで読まれている。その中の「山麓(さんろく)の二人」の一節。
半ば狂へる妻は草を籍(し)いて坐(ざ)し わたくしの手に重くもたれて 泣きやまぬ童女のやうに慟哭(どうこく)する ――わたしもうぢき駄目になる 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて のがれる途(みち)無き魂との別離
この作詩当時、智恵子の意識は尋常と異常とを交互にさまよっている状況が読み取れる。この詩の悲痛な末尾部の1行。
この妻をとりもどすすべが今は世に無い
私の手もとに「智恵子の紙絵」(社会思想社)という画集がある。65(昭和40)年12月、紙絵126作品を収録している驚きの本が店頭に並んだ。
この紙絵の本は色紙(いろがみ)の配色といい画家であった智恵子を思い出させ、狂気の底に美意識が生きていたことを証明していた。入院中、作成された紙絵は、約千数百点にのぼり、光太郎だけに見せていたという。
忘れられない逸話がある。狂った妻は光太郎が四つん這(ば)いの馬になった背に跨(またが)り、「ハイドー、ハイドー」と乗るのが好きだった。「智恵さん、楽しいかい?」と涙を落としながら光太郎は病室を這(は)い回っていたという。
智恵子、38(昭和13)年没。41(昭和16)年8月、詩集「智恵子抄」発行。同年12月、太平洋戦争開戦。印象派の光と光太郎の愛は不滅だ。
(県文芸協会長 浦一俊)
智恵子の生涯につき、かなりくわしくご紹介下さっています。ただ、最後の馬のエピソード、後の映像作品等にそういった描写があったと思いますが、光太郎の書いたものには記述はありません。
もう1件、現在発売中の『週刊新潮』さんをご紹介しておきます。
作家・五木寛之氏の連載「生きぬくヒント!」。先頃世界文化遺産への登録が確定した「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」関係の内容です。
潜伏キリシタン同様、江戸時代に弾圧の対象であった九州の「隠れ念仏」、東北の「隠し念仏」に話が及び、「九州にしても、東北にしても、信仰の自由が保障されたのちも、その土地に熟成された独自の信仰にこだわる人びとは少なからず存在する。それを異端として排除するのはまちがいだろう。宮澤賢治は『春と修羅』のなかで、「秘事念仏」という言葉を使っているし、高村光太郎には「かくしねんぶつ」という詩がある。柳田国男は、遠野には「一種邪宗らしき信仰あり」と書いた。「隠す」のも、大事なことではないかと私は思う。」と結んでいます。
光太郎の「かくしねんぶつ」(昭和23年=1948)は以下の通り。
かくしねんぶつ
部落の曲りかどの松の木の下に
見真大師の供養の石が立つてゐる。
旧盆の十七日に光徳寺さまが読経にくる。
お宿は部落のまはりもち。
今年の当番は朝から餅をつき、
畑のもので山のやうなお膳立。
どろりとした般若湯を甕にたたへて
部落の同信が供養にあつまる。
大きな古い仏壇の前で
黒ぼとけさま直伝の
部落のお知識がまづ酔ふと
光徳寺さまもみやげを持つて里にかへる。
あとでは内輪の法論法義。
異様な宗旨が今でも生きて
ロオマの地下のカタコムブに居るやうな
南部曲(まが)り家(や)の
暗い座敷に灯がともる。
散文でも触れています。
この山の人々はたいへん信心ぶかく、たいてい真宗の信者である。部落のまんなかに見真大師の供養の石が立つているくらいで、昔は毎月その方の寄り合いなどをして部落中の人がお経をあげたりしたらしい。その上ここには一種の民間だけの信仰があつて、そのおつとめが今も行なわれている。子供が生れると、その赤さんを母親が抱いて、お知識さんといわれる先達にみちびかれて、仏壇の前で或るちかいの言葉をのべる。又子供が五六歳になると、やはりお知識さんのみちびきで或るきびしいおつとめが行なわれる。それをやらない人は焼きのはいらない生(なま)くらの人であるといわれる。
(「山の人々」 昭和26年=1951)
と、かなり堂々と書いている光太郎、潜伏キリシタンほどでないにせよ、弾圧の歴史があったことを、もしかすると知らなかったのかな、とも思いました。
しかし五木氏、光太郎のマイナーな作品をよくご存じだと思ったところ、氏には『隠れ念仏と隠し念仏』という御著書がおありでした。光太郎についても記述があるかもしれませんので、図書館等で探してみます。
【折々のことば・光太郎】
私は日本語の美についてもつと本質的な窮まりない処に分け入りたい。人に気づかれず路傍に生きてゐる日本語そのものに真の美と力との広大な磺脈のある事を明かにしたい念願はますます強まるばかりである。
散文「詩の勉強」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳
昭和14年(1939)ともなると、自らが確立した口語自由詩が多くの支持を得、もはや「詩」といえば口語自由詩となったという自負があったのかもしれません。