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5月28日(木)、『朝日新聞』さんの長崎版に載った、元長崎原爆資料館長にして芥川賞作家の青来有一氏のエッセイです。

(信と偽のあいだ)日常、僕の前に未踏の山

000 どこから手をつけたらいいのかわからないで行き詰まる、そんな経験はだれにでもあるのではないかと思います。
 山の頂上は見えていながら登るルートがわからない、あるいは前人未踏の山でルートそのものを自分でつくりだしていかなければならない、そんな状況を思い浮かべたらイメージしやすいかもしれません。
 高村光太郎の『道程』の精神、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」という、その凜(りん)とした気魄(きはく)は尊いのですが、世の中の取り組みの多くは先人がつくった道を知っていれば効率的に解決もできるはずです。長い時間をかけて学ぶのもそのためで、常に創造的であることは難儀なことです。
 とはいっても、日々の暮らしのいたるところに小さな未踏の山は出現します。超えなければいけないのにどう辿(たど)ったらいいのかわからないで立ちすくむ、些末(さまつ)なことを含めたら、毎日、そのような事態に直面しているのではないかと思います。
 この春、ある本の解説を頼まれ、まとまった量の文章を書くことになりました。自分として以前からその作者もよく知っていて、その本を巡る様々な反響も理解しているつもりで、気楽に引き受けましたが、さあ、書こうとすると書けない。全集をめくり、図書館から関連の解説本も借りて傍らに積み上げ、国会図書館から古い文献の複写を取り寄せもしましたが、密集した枝葉や蔦(つた)や葛がまとわりついて藪(やぶ)で身動きができないような状況に陥り、うーんと唸(うな)って机に長くへばりついていました。夜は眠れないし、顔は青ざめ、それこそ遭難状態です。
 締め切りまでいよいよ残り少なくなり、なんとか最初の一文を書いたら後の文章はするするとでてきて、危ういところで脱したのでした。
 19年間、ひとり暮らしをしていた日々を思い出しました。外食は費用がかかり、栄養も偏るので自炊していたのですが、食事の準備は自分ひとりでも、毎日続くとなるとじわじわと重荷になってきます。
 今夜、なにを食べるか、頭が真っ白になってなにも思い浮かばない日もありました。今ならインターネットで検索したりもできるでしょうが、携帯電話も普及する前で、仕事帰りのバスでなにを食べるか、けっこう深刻に思い悩んでいる自分に気づいて苦笑しました。
 そんな時は市場やスーパーマーケットに飛び込み、あれこれ食材をながめていたら、手短で簡単にできるメニューが思い浮かぶのでした。
 0から1の飛躍が難しい。よく、そう感じます。1を数えたら2、3、4……と自然に続きますが、解決の糸口となる1がなかなか見いだせません。
 数学史では「0の発見」が大きな飛躍ですが、日々の暮らしは、実は小さな「1の発見」の連続ではないかとも思います。0と1の間の深淵(しんえん)をひょいと飛び越え、暮らしの中に出現する未踏の山々を登ったり、降りたりしているのが、私たちの日常のようです。


青来氏の連載エッセイ「信と疑のあいだ」。『朝日』さんの長崎版で月イチの掲載のようです。その後、1ヶ月遅れくらいで朝日さんが運営されている読書関連サイト「好書好日」内にアップされています。今回のものも今月中には出るのでしょう。
000
日々の暮らしの中でも「未踏の山」の連続。それがエベレスト級の物凄いものではないにせよ、今日という日と同じ日が再び訪れないかぎり、そうなのでしょう。自炊のメニューのお話、自分が独り暮らしをしていた頃を思い出してニヤニヤしてしまいました(笑)。

0から1への飛躍が難しい」「1を数えたら2、3、4……と自然に続」く、という件。物書きあるあるだな、と思って苦笑しながら読みました。当方は「3」とか「4」が先に思い浮かび、遡って「1」や「2」で帳尻を合わせることもしばしばですし、そうならないために常に「1」をストックしておこうともしています。

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」とばかり、クリエイティブに生きるのもなかなか難しいものだと、改めて実感させられました。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 35 『高村光太郎選集 4 一九三三-一九四一年 昭和八-昭和一六年』増訂版

昭和56年(1981)12月20日 春秋社 吉本隆明・北川太一編
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目次
 書簡 中原綾子への書簡
 詩  人生遠視 風にのる智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子 値ひがたき智恵子 山麓の二人
    或る日の記 レモン哀歌 荒涼たる帰宅 亡き人に 梅酒
 短歌 昭和十三年(一九三八)ごろ
 随筆 智恵子の切抜絵 智恵子の半生 九十九里浜の初夏 某月某日Ⅰ(昭和一一年六月)
    某月某日Ⅱ(昭和一四年一月) 某月某日Ⅲ(昭和一四年四月)
    某月某日Ⅳ(昭和一四年九月) 某月某日Ⅴ(昭和一六年五月)
    コスモスの所持者宮沢賢治 宮沢賢治に就いて 与謝野先生を憶ふ
    八木重吉について 夭折を惜しむ――中原中也のこと 芭蕉寸言 新茶の幻想
    ヒウザン会とパンの会 本面について 揺籃の歌
 評論 一彫刻家の要求 画に於ける詩精神 写生の二面
 詩  寸言 ばけもの屋敷 村山槐多 鯉を彫る 荻原守衛 堅氷いたる よしきり鮫
    マント狒狒 象 森のゴリラ 潮を吹く鯨 北冥の魚 未曾有の時 吾が同胞
    芋銭先生景慕の詩 つゆの夜ふけに 蝉を彫る 雷電の夜 歩くうた 世界は美し
    青年 迎火
 随筆 小刀の味 九代目団十郎の首 こごみの味
 評論 美意識について
 随筆 蟻と遊ぶ
 評論 比例均衡
 随筆 手 
    身辺三題
     悠久山の一本欅 ほくろ 「こどもの報告」
 評論 書について
 随筆 詩の勉強 谷中の家
 評論 彫刻性について
 随筆 手形
 評論 仏画賛
 随筆 しやつくり病
 評論 木彫地紋の意義 ロダンの素描
 随筆 鷗外先生の「花子」 自作肖像漫談 自分と詩との関係 母のこと 三十年来の常用卓
   雷ぎらひ 蝉の美と造型 間違のこと
 評論 永遠の感覚
 随筆 姉のことなど 野菜の美
 評論 戦時、美を語る 美の健康性 彫刻家の場合
    奉祝展に因みて
     美術行政について 油絵の問題 彫刻寸言
 随筆 芸術政策の中心
 評論 芸術と国民生活 詩精神 芸術による国威宣揚
 随筆 中央協力会議の印象
 評論 ミケランジエロの彫刻写真に題す 彫刻に何を見る 美術館の事その他
 詩  秋風辞 夢に新農となる 老耼、道を行く 天日の下に黄をさらさう 地理の書
    群長訓練 事変二周年 君等に与ふ 銅像ミキイヰツツに寄す へんな貧
    源始にあり ほくち文化 最低にして最高の道
    無血開城(わが愛するフランスの為に) 太子筆を執りたまふ 強力の磊塊たれ
    事変はもう四年を越す 必死の時 危急の日に
 追補
  随筆 木彫ウソを作つた時
   父・光雲作の仏像
   某月某日Ⅵ(昭和一一年一一月)
  評論 羽仁五郎氏著『ミケルアンヂエロ』
   本邦肖像彫刻技法の推移
 解題1 崩壊の様式について 吉本隆明
 解題2 第四巻収録作品について 北川太一
 月報
  智恵子遺珠4
   現代日本の文学に対するアマチユアの注文と感想 貧しく、飾らず、単純であれ 
   暴力は臆病の変形 建設の根源は此処にあり 生き甲斐ある悩みを悩め 棄権
   書簡Ⅶ 長沼せん子宛 三通
 後記

初版は昭和42年(1967)。編年体でさまざまなジャンルの作品を一冊に収めた全6巻の第4回配本です。昭和8年(1933)から昭和16年(1941)ということで、智恵子の心の病の昂進そして死、世の中も日中戦争から太平洋戦争開戦と激動し、それにともなって光太郎も翼賛体制に自ら飛び込んでいく、大変革の時期です。連作詩「猛獣篇」が徐々に翼賛的になっていくさま、愚にもつかない翼賛詩群と「智恵子抄」所収の珠玉の詩篇が並行して書かれていた事実が重くのしかかります。

『朝日新聞』さんに載った記事を2本紹介します。

まずは2日の夕刊。先月、岩手版に載った記事を元に、花巻高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」を紹介して下さっています。 

(ぶらっと)光太郎が暮らした街再現

 彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956)が終戦後の7年間、山居生活を送った当時の岩手県花巻市を再現したジオラマ模型が、「高村光太郎記念館」(同市太田)で公開されています。
 旧花巻町役場や花巻病院、光太郎が揮毫(きごう)した宮沢賢治の「雨ニモマケズ詩碑」、商店街や花巻温泉、高村山荘など約70の建造物と風景を、約150分の1で再現。光太郎が移動手段として利用した「花巻電鉄」の電車が中を駆け巡っています。
 展示は11月19日まで。問い合わせは同記念館(0198・28・3012)。

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続いて、1日の長崎版に載った記事。 

(人あかり 小さな目・選者より)印象派の絵の前で、高村智恵子を思う /長崎県

 九州国立博物館で「至上の印象派展」が開催され、全64作を堪能した。ルノワール、ゴッホ、ピサロ、シスレー、モネ、ピカソなど教科書に載っている絵の数々。そんな中、セザンヌの作品の前で高村智恵子を思い出した。
 彫刻家・詩人である高村光太郎の妻・智恵子はセザンヌに傾倒していた画家でもあり、結婚当時から他界するまでの生涯を、夫によって一冊の詩集「智恵子抄」にうたいあげられた女性である。
 高村光太郎の父・光雲は1889(明治22)年、彫刻家で岡倉天心らが創立した東京美術学校(現東京藝術大学)に奉職。光雲は著名な彫刻家として、上野の公園に西郷隆盛像を建立したことは広く知られている。
 話は戻るが、智恵子は1911(明治44)年、「元始、女性は太陽であった」と唱(とな)え、婦人解放運動の第一人者であった平塚らいてうらの雑誌「青鞜」創刊号の表紙を描くなど活動していた。この年12月に高村光太郎と出会い、東京・駒込林町のアトリエで窮乏生活が始まった。
 もともと体質が弱かった智恵子は肋膜(ろくまく)炎を患い、父・長沼今朝吉の死に遭い、その後、酒造業を営んでいた長沼家は破産し、憔悴(しょうすい)してしまった。その間、関東大震災が起き、40代半ばから、精神を患う統合失調症の兆候があらわれ、自殺未遂をし、九段病院に入院。病気は進行し、35(昭和10)年、南品川ゼームス坂病院に転院した。夫・光太郎の苦しみは深まるばかりだった。
 苦悩の詩が愛の証しとして「智恵子抄」となり、珠玉の作品集として今日まで読まれている。その中の「山麓(さんろく)の二人」の一節。
 半ば狂へる妻は草を籍(し)いて坐(ざ)し わたくしの手に重くもたれて 泣きやまぬ童女のやうに慟哭(どうこく)する ――わたしもうぢき駄目になる 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて のがれる途(みち)無き魂との別離
 この作詩当時、智恵子の意識は尋常と異常とを交互にさまよっている状況が読み取れる。この詩の悲痛な末尾部の1行。
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 私の手もとに「智恵子の紙絵」(社会思想社)という画集がある。65(昭和40)年12月、紙絵126作品を収録している驚きの本が店頭に並んだ。
 この紙絵の本は色紙(いろがみ)の配色といい画家であった智恵子を思い出させ、狂気の底に美意識が生きていたことを証明していた。入院中、作成された紙絵は、約千数百点にのぼり、光太郎だけに見せていたという。
 忘れられない逸話がある。狂った妻は光太郎が四つん這(ば)いの馬になった背に跨(またが)り、「ハイドー、ハイドー」と乗るのが好きだった。「智恵さん、楽しいかい?」と涙を落としながら光太郎は病室を這(は)い回っていたという。
 智恵子、38(昭和13)年没。41(昭和16)年8月、詩集「智恵子抄」発行。同年12月、太平洋戦争開戦。印象派の光と光太郎の愛は不滅だ。
(県文芸協会長 浦一俊)

智恵子の生涯につき、かなりくわしくご紹介下さっています。ただ、最後の馬のエピソード、後の映像作品等にそういった描写があったと思いますが、光太郎の書いたものには記述はありません。


もう1件、現在発売中の『週刊新潮』さんをご紹介しておきます。

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作家・五木寛之氏の連載「生きぬくヒント!」。先頃世界文化遺産への登録が確定した「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」関係の内容です。

潜伏キリシタン同様、江戸時代に弾圧の対象であった九州の「隠れ念仏」、東北の「隠し念仏」に話が及び、「九州にしても、東北にしても、信仰の自由が保障されたのちも、その土地に熟成された独自の信仰にこだわる人びとは少なからず存在する。それを異端として排除するのはまちがいだろう。宮澤賢治は『春と修羅』のなかで、「秘事念仏」という言葉を使っているし、高村光太郎には「かくしねんぶつ」という詩がある。柳田国男は、遠野には「一種邪宗らしき信仰あり」と書いた。「隠す」のも、大事なことではないかと私は思う。」と結んでいます。

光太郎の「かくしねんぶつ」(昭和23年=1948)は以下の通り。

    かくしねんぶつ001
 
 部落の曲りかどの松の木の下に
 見真大師の供養の石が立つてゐる。
 旧盆の十七日に光徳寺さまが読経にくる。
 お宿は部落のまはりもち。
 今年の当番は朝から餅をつき、
 畑のもので山のやうなお膳立。
 どろりとした般若湯を甕にたたへて
 部落の同信が供養にあつまる。
 大きな古い仏壇の前で
 黒ぼとけさま直伝の
 部落のお知識がまづ酔ふと
 光徳寺さまもみやげを持つて里にかへる。
 あとでは内輪の法論法義。
 異様な宗旨が今でも生きて
 ロオマの地下のカタコムブに居るやうな
 南部曲(まが)り家(や)の
 暗い座敷に灯がともる。

散文でも触れています。

 この山の人々はたいへん信心ぶかく、たいてい真宗の信者である。部落のまんなかに見真大師の供養の石が立つているくらいで、昔は毎月その方の寄り合いなどをして部落中の人がお経をあげたりしたらしい。その上ここには一種の民間だけの信仰があつて、そのおつとめが今も行なわれている。子供が生れると、その赤さんを母親が抱いて、お知識さんといわれる先達にみちびかれて、仏壇の前で或るちかいの言葉をのべる。又子供が五六歳になると、やはりお知識さんのみちびきで或るきびしいおつとめが行なわれる。それをやらない人は焼きのはいらない生(なま)くらの人であるといわれる。
(「山の人々」 昭和26年=1951)

と、かなり堂々と書いている光太郎、潜伏キリシタンほどでないにせよ、弾圧の歴史があったことを、もしかすると知らなかったのかな、とも思いました。

しかし五木氏、光太郎のマイナーな作品をよくご存じだと思ったところ、氏には『隠れ念仏と隠し念仏』という御著書がおありでした。光太郎についても記述があるかもしれませんので、図書館等で探してみます。


【折々のことば・光太郎】

私は日本語の美についてもつと本質的な窮まりない処に分け入りたい。人に気づかれず路傍に生きてゐる日本語そのものに真の美と力との広大な磺脈のある事を明かにしたい念願はますます強まるばかりである。

散文「詩の勉強」より 昭和14年(1939) 光太郎57歳

昭和14年(1939)ともなると、自らが確立した口語自由詩が多くの支持を得、もはや「詩」といえば口語自由詩となったという自負があったのかもしれません。

『毎日新聞』さんの長崎版に以下の記事が載りました。

障害者成人式 社会への一歩、決意新たに 「7300日」の歩み振り返る 長崎

 身体障害などがある新成人の成人式が9日、長崎市茂里町の市障害福祉センターで開かれた。新成人40人や家族、施設関係者らが出席。家族らはこれまでの歩みを振り返りながら祝い、新成人は社会への一歩を踏み出す決意を新たにした。【今野悠貴】

 式は長崎市心身障害者団体連合会が主催。今回は誕生から20歳までが7300日であることにちなみ「7300日の感謝」をテーマに掲げた。来賓の田上富久市長は高村光太郎の詩「道程」を紹介し「7300日分の頑張った努力の成果で皆さんの後ろに道ができた。これからも新しいことにチャレンジして、道を切り開いてください」とあいさつした。

 新成人を代表し、同センターで働く松尾澄佳さん(19)が「このように成長できたのも両親、私たちに関わってくださった方々のお陰」と感謝し「これからも向上心を持って頑張ります」と誓った。
 長男拓未さん(20)の成人を祝った薛(せつ)和子さん(49)=長崎市=は「小さい頃は病気がちだった息子が無事に成人を迎え、本当にうれしい。これから少しずつできることを増やして自立してほしい」と話した。
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9日の成人の日の話題です。ハンデを抱える皆さんの成人式、ということでニュースになったようです。被爆地・長崎の市長として、核廃絶の活動にも積極的に取り組まれている田上市長のスピーチに、光太郎の「道程」が使われたとのこと。

おそらく他にも全国の自治体の首長さんなり、来賓の方なりが、「道程」などを引用しつつお話をして下さったのではなかろうかと思います。

光太郎の詩は、自らを奮い立たせるエールとして作られたものが多いのが特徴です。しかし、光太郎自身、「一人に極まれば万人に通ずる」(「智恵子の半生」昭和15年=1940)と発言しているとおり、普遍的なエールとして通用するものです。

これからの卒業式シーズン、新生活スタートのシーズンなどでも、新たな道へと進みゆく方々へのエールとして、光太郎の詩が愛され続けていってほしいと、切に願います。


【折々のことば・光太郎】

お嫁にゆくを わるいと誰が申しませう わるいと誰が申しませう どうせ一度はゆくあなた――

詩「泥七宝(四)」より 明治45年(1912) 光太郎30歳

この時期、智恵子には郷里で縁談が持ち上がっていたというのが従来の定説でした。この小曲なども、それを裏付ける証左とされています。

しかし、その相手として従来言われていた智恵子の郷里の医師某は、この時点では既に他の女性と結婚していたことが明らかとなり、見直しが迫られています。

他の人物との縁談があったのか、はたまた具体的な相手までは未定でも郷里では智恵子を早く結婚させようと画策していたのか、といったところではないかと思われます。

または、縁談自体が光太郎の気を惹こうとする智恵子のブラフだった可能性も棄てきれません。

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