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岩波書店さんの岩波文庫が来年で100周年だそうで、それに伴って絶版となっているものの復刊リクエストが行われています。

岩波文庫創刊100年記念 読者リクエスト復刊2027

あなたのリクエストであの岩波文庫がよみがえる

来年2027年、岩波文庫は創刊100年を迎えます。岩波文庫創刊100年を記念して、読者の皆さまからリクエストをお寄せいただき、長らく品切れておりました名著・名作書目を一挙復刊いたします。
いつか読もうと思っていたあの本や、憧れのあの人が愛読したというあの本を、今こそ手にしたい——。創刊100年のこの機に、読者の皆さまのそのような思いにお応えできますと幸いです。

■企画概要
皆さまからのリクエストを募集いたします。復刊希望の岩波文庫のタイトルをお教えください。リクエストは以下の方法でお受けします。
■リクエスト方法
<特設ページ>
特設ページにアクセスいただき復刊希望書籍をご選択のうえご投票ください。
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サイト上に候補作品がずらっと並んでいます。
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その中に、光太郎がらみが2冊。訳書『ロダンの言葉抄』と、美術評論集の『緑色の太陽』です。
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『ロダンの言葉抄』は、昭和35年(1960)に文庫化。大正5年(1916)に阿蘭陀書房から出た『ロダンの言葉』、同9年(1916)に叢文閣から出た『続ロダンの言葉』から、光太郎と交流のあった共に彫刻家の高田博厚と菊池一雄が再編した厚冊です。図版も数多く収録されており、理解の手助けとなっています。
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光太郎実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周の『光太郎回想』(昭和37年=1962 有信堂)から。

 この頃、「ロダンの言葉」を訳しはじめたのは、兄にとっても、僕たちにとっても、今考えると全く画期的な大きな仕事だったと思う。
 雑誌にのった時は読まなかったけれど、本になってからは僕も繰返して愛読した。あの訳には実に苦心していて、ロダンの言葉を訳しながら兄の文体が出来上がっているようなところもあるし、芸術に対する考え方も決って来ているところが見え、また採用した訳語も的確で、「動勢」とか「返相」とか兄の造った言葉で今でも使われているものが沢山ある。そんな意味で、あれは兄には本当に大事な本だった。
 それだけに、他の学校は知らないが、上野の美術学校では、みなあの本を持っていて、クリスチャンの学生がバイブルを読むように、学生達に大きな強い感化を与えている。実際、バイブルを持つように若い学生は「ロダンの言葉」を抱えて歩いていた。その感化も表面的、技巧的ではなしに、もっと深いところで、彫刻のみならず、絵でも建築でも、あらゆる芸術に通ずるものの見方、芸術家の生き方の根本で人々の心を動かした。新芸術の洪水で何かを求めながら、もやもやとして掴めなかったものがあの本によって焦点を合わされ、はっきり見えて来て、「ははあ」と肯ずくことが一頁毎にある。ロダンという一人の優れた芸術家の言葉に導かれて、人々は自分の生を考える。そういう点で、あの本は芸術学生を益しただけでなく、深く人生そのものを考え、生きようとする多くの人々を益していると思われる。だからあの本の影響は思いがけないほど広く、まるで分野の違う人が、若い頃にあの本を読んだ感動を語っている。
 この本が、そんなに広く受入れられた原因の一つは、あの本の形式にもあるので、兄の読んだ種種な書物からの集積だから、自然にそうなったのだけれど、文章の区切りが大変短い。どんなに長くても数頁にしか渉らないから、読んでいて疲れないし、理解しやすい。この短かくて頭にはっきり全文が入るような形式が読者の感動をどんなに助けているかわからない。ことに本を読む習慣の少なかった美術学生にとって、これは有難かった。

正続それぞれの初版の後、叢文閣からペーパーバックの普及版正続が出、戦後にはやはり正続ともに新潮文庫のラインナップにも入りました。さらに平成17年(2005)に沖積舎から正続合本の復刻、平成19年(2007)には講談社文芸文庫で正続それぞれの抄出が出ました。すべて絶版です(講談社文芸文庫版のみまだ新刊で在庫があるようですが、重版は為されていないようです)。

『緑色の太陽』は、昭和57年(1982)が初版。当会顧問であらせられた故・北川太一先生の編集で、表題作「緑色の太陽」をはじめ、さまざまな雑誌や単行書に掲載された美術評論などを40篇ほど収めています。一部は随筆、文芸評論も。

表題作「緑色の太陽」は『スバル』第2年第4号(明治43年=1910)が初出。「人が「綠色の太陽」を畫いても僕は此を非なりとは言はないつもりである」という一節から採った題名で、その他、「僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めてゐる。従つて、芸術家の PERSOENLICHKEITに無限の権威を認めようとするのである。あらゆる意味において、芸術家を唯一箇の人間として考へたいのである」という一節も有名です。「日本初の印象派宣言」とも評されています。

光太郎の評論集も現在、紙版の新刊で入手できるものは無く、電子書籍なら多少はあるか、という感じです。

それぞれ、特設サイトから復刊リクエストのいわば投票ができます。よろしくお願い申し上げます。

それにしても、光太郎がらみでない作もかなり絶版になっていて、今回の候補に入っているのに驚きました。特に「緑」の日本文学。詩集ですと、当会の祖・草野心平の『草野心平詩集』や、立原道造、伊東静雄、大手拓次、三好達治など軒並み絶版ですし、小説系でも谷崎潤一郎の『春琴抄』やら堀辰雄の『風立ちぬ』やら有島武郎の『生まれ生れ出ずる悩み』やら、それ絶版にしちゃいかんだろ、という感じです。

ソフトとしての日本文学、一部の愛好家だけのものとするのではなく、日本国民共有の文化遺産として、次の世代へとしっかり受け継いでいくことが現代に生きる我々の一つの義務だと思うのですが。

【高村光太郎書誌】

選集等(部分) 22 『純』百年文庫96

平成23年(2011)10月7日 ポプラ社 武者小路実篤/高村光太郎/宇野千代著
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目次
 武者小路実篤 馬鹿一
 高村光太郎 山の雪 宇野千代 八重山の雪
 人と作品 

ポプラ社さんの「百年文庫」。全100巻のシリーズもので、1冊に3人ずつが収められています。各巻のタイトルが漢字一文字になっています。「選集」というよりアンソロジーに近い形ですが、一応この項目に入れます。

光太郎の名が載った各地の新聞記事等、今日も2件ご紹介します。

まず仙台に本社を置く『河北新報』さん、7月5日(日)の記事。

大正時代にロダンブームがあった 熱狂のさなかに開かれた展覧会には著名文化人も関わる 岩手大教授が解明

 「近代彫刻の父」とされるフランスの彫刻家オーギュスト・ロダン(1840~1917年)に、大正期の日本が熱狂した「ロダンブーム」。岩手大の金沢文緒教授(西洋美術史)が、大学で2020年、偶然見つかった古い資料からブームの一端を解き明かした。長く幻とされた展覧会、ブームを起こした白樺派の文化人ら…。謎に迫った研究の成果は来年春、岩手県陸前高田市立博物館で公開される。
 探索のきっかけとなった資料は、ゴッホの絵画などを写した約200点の複製写真。大学施設の移転作業中に発見された。
 金沢教授の調査で、近代日本を代表する写真家野島康三(1889~1964年)が収集した写真と分かった。野島の死後、義理の弟が岩手大の非常勤講師だった縁で大学へ寄贈された。
 複製写真にロダン作品はなかったが、金沢教授は写真の入っていたファイル状の「紙挟み」に着目。6冊の紙挟み全てにフランス語で「オーギュスト・ロダンのデッサン」と印字されていた。
 紙挟みの出どころを追うと、野島が東京・神田で営んだ画廊「兜屋(かぶとや)画堂」で、1919~20年にあった展覧会の発行物と分かった。紹介されたのは、評価の高かったロダンのデッサンの複製写真。画廊の存在は先行研究で明らかにされていたが、この展覧会の詳細は不明だった。紙挟みは開催を裏付ける初めての資料だった。
 当時の新聞広告などから、展示されたのがダンテの「神曲」をモチーフとしたデッサンの複製写真集ということも判明した。写真集はフランスでも希少とされていた。
 浮世絵を愛好したロダンは、日本でのデッサン展を切望していたものの、生前に実現しなかった。遺志を受け継ぐように亡くなった2年後に開かれたのが、デッサンの複製展覧会だった。
 開催に向け、野島と親交のあった彫刻家・詩人の高村光太郎ら白樺派同人が奔走したことも突き止めた。高村は画廊運営にも携わり、作家大仏次郎が作品タイトルの翻訳を担うなど、白樺派以外の文化人の協力もあった。
 当時の資料を丹念に調べた一連の研究で、金沢教授は鹿島美術財団優秀賞を受賞。「最初は重要な資料と捉えず、学生の調査教材として扱っていた」と振り返る。複製写真は明治末期ごろから浸透した海外の芸術に触れる媒体だったが、多くは関東大震災や戦災で失われ、まとまった形で残る例は珍しいという。
 来年3月、名古屋市博物館からロダンの「考える人」を貸与されている陸前高田市立博物館で企画展を予定し、紙挟みや複製写真などを展示する。金沢教授は「大正期の日本人が西洋美術をどう受け入れていたのか、資料から読み取れる。多くの方に見てほしい」と話す。
 【ロダンブーム】 1910年代から20年代にかけて起きた現象。武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎らによって10年に創刊された文学雑誌『白樺』で、フランスの彫刻家ロダンの作品や思想が積極的に紹介され、日本の美術界や知識人の間で急速に流行した。
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画像にある岩手大学さんで見つかったゴッホ作品の写真が挟まれていた紙挟みが、大正8年(1919)と翌年に神田神保町の兜屋画堂で開催されたロダンのデッサンの複製を展示する展覧会のものだった、というわけで。

展覧会の名称は文献によって「ロダン複製素描展覧会」「ロダン素描複製画展覧会」と、まちまちでした。
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この開催に「高村光太郎ら白樺派同人が奔走したことも突き止めた」だそうですが、光太郎がどの程度関わっていたのかは不明です。

兜屋画堂は写真家の野島康三が開いた画廊で、野島は光太郎の盟友だった斎藤与里と親しく、また、画堂およびその後の野島自邸での展覧会出品者の中には光太郎実弟にして鋳金家の髙村豊周の名も記録されています。

光太郎の書き残したものの中に、野島の名は見えませんが、大正8年(1919)10月9日の『読売新聞』に載った談話筆記「僕のアメリカ行きも」には「小品の個人展覧会を今年中に兜屋あたりでやらうと思つてゐます」とありますし、翌大正9年(1920)の『時事新報』には兜屋で開催された大森商二の個展を紹介する「大森商二君の木炭画」が載り、雑誌『絵画清談』に転載されました。

記事にある岩手大学さんの金沢教授の研究、ぜひ目を通したいものだと思って調べたところ、記事に「鹿島美術財団優秀賞を受賞」とあったので、そこから調べてみると、鹿島美術財団さんのサイトで『鹿島美術研究 年報第42号別冊』がヒットし、教授の論文「ロダンのデッサン複製展覧会(兜屋画堂1919-1920)再考――野島康三旧蔵資料(岩手大学所蔵)の検討を通じて――」に辿り着きました。まだ斜め読みで、これから精読いたします。

やはり記事にある陸前高田で来春開催予定という企画展も拝見に伺おうかと思っております。

紹介すべき事項が山積しておりまして、もう1件。今朝の『朝日新聞』さんから。

自筆原稿66点発見 北原白秋、推敲重ねた跡 「通説見直す資料」

 詩歌の分野で活躍した北原白秋(1885~1942)の自筆原稿など66点が弟子宅で見つかった。寄贈された岩手県北上市の日本現代詩歌文学館(高野ムツオ館長)が5月下旬、発表した。加筆訂正を繰り返した書き込みから詩作の過程が伝わる貴重な資料だ。
 発見されたのは、白秋の詩集「白金之独楽(はっきんのこま)」「抒情(じょじょう)小詩選 わすれなぐさ」、白秋が編集した雑誌「ARS(アルス)」の原稿。「白金之独楽」の詩稿は、原稿用紙の余白や欄外に青、黒、赤の3種類のインクによる書き込みがあり、削除や加筆を重ねた跡がとどめられている。従来は一気に成立した詩集と捉えられてきた。
 調査にあたった東北大学の佐藤伸宏名誉教授(近代文学)は「いったん清書された原稿が幾度にも及ぶ推敲(すいこう)を重ね、初めて成立に至ったことが判明した。通説を根本から見直す決定的資料だ」と語る。
 雑誌「ARS」創刊号に寄稿した室生犀星、萩原朔太郎、山村暮鳥、高村光太郎らの自筆原稿や、白秋の編集手記もあわせて見つかった。白秋の弟子でアルス社で編集者を務めた歌人・中村正爾(しょうじ)宅にあり、遺族から寄贈された。日本現代詩歌文学館では2027年3月以降の展示を予定している。

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共同通信さんの配信記事などで既に5月には報じられていた件ですが、その際には光太郎の原稿が含まれていたことには触れられていませんでした。「何だ、光太郎のもあったのかい」という感じでした。

『ARS』創刊号(大正4年=1915)に載ったものだそうなので、ロダンの「ランスの本寺」翻訳と思われます。翌年に刊行された『ロダンの言葉』にも収められた一篇です。

「日本現代詩歌文学館では2027年3月以降の展示を予定」だそうで、もし光太郎のそれも出るようなら拝見に伺おうと思います。上記の陸前高田と近い時期ですし。

それぞれ近くなりましたら詳細情報を上げますのでよろしく。

【高村光太郎書誌】

選集等(部分) 18 『北原白秋 高村光太郎 萩原朔太郎集』日本文学全集第19巻

昭和47年(1972)5月8日 集英社 北原白秋/高村光太郎/萩原朔太郎著
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目次
 北原白秋集(詳細略)
 高村光太郎集
  智恵子抄 造型詩篇 道程 雨にうたるるカテドラル 猛獣篇 火星が出てゐる 典型
  山のともだち
 萩原朔太郎集(詳細略)
 注解 作家と作品 伊藤信吉 年譜
 月報
  白秋最晩年の旅 木俣修 先輩高村さん 尾崎喜八 ふるさとの絆 丸山薫
  現代文学史13 小田切秀雄

以前にも書きましたが、昭和40年代から50年代、そんなに需要があったのかと思われるくらい、さまざまな文学全集ものが刊行されました。

オンラインでのイベントです。

第23回比較文学研究会

期 日 : 2021年7月17日(土)
時 間 : 14:30~17:00
料 金 : 無料

今回の比較文学研究会を以下のようにオンライン(Zoom)で開催致します。
会員のみなさまはもちろん、会員外の一般の方々のご参加もお待ち申し上げております。

[開 会 の 辞] 東北支部長 森田直子
[研究発表]14:35〜15:15
 茂木謙之介氏(東北大学)  雑誌『幻想文学』における須永朝彦

[特別企画]15:20~
高村光太郎『智恵子抄』仏訳(TAKAMURA Kôtarô, Poèmes à Chieko)の刊行をめぐって
 報告者 中里まき子氏(岩手大学)
 報告者 エリック・ブノワ氏(ボルドー・モンテーニュ大学)
 コーディネーター 森田直子氏(東北大学)
今年(2021年)、高村光太郎『智恵子抄』の本邦初となる仏訳が、中里まき子氏の翻訳によりフランス・ボルドー大学出版会より刊行されました。中里氏は福島のご出身で、2011年から10年かけてご訳業を完成されました。この機会に中里氏をゲストにお招きし、刊行までの経緯や翻訳作業において苦心なさった点などについて、お話を伺う(オンラインの)場を設けることにしました。仏訳協力者のエリック・ブノワ氏もご参加くださる予定です(ブノワ氏のお話については中里氏による通訳あり)。企画発案者の森田からのコメントのあとは、フロアもまじえての意見交換、質疑応答の時間といたします。

[参加について]
今回の研究会は、オンライン会議用ソフトZoomを使用しての開催となります。参加を希望される方は、別記事「オンライン参加用登録フォーム」より申し込みをお願いいたします。参加URLや資料については、研究会の前日までにお知らせいたします。
また、研究会の中継会場を東北大学に設ける予定です。会場での参加をご希望の方は、7月12日(月)までに事務局・仁平(masato.nihei.d6☆tohoku.ac.jp(※アドレス内の☆を@に変換してお使いください))までメールにてご連絡ください。
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仏訳『智恵子抄』。案内にあるとおり、『Poèmes à Chieko』の題で、今年4月に刊行されました。紀伊國屋書店さんのサイトでヒットするのですが、「ただいまウェブストアではご注文を受け付けておりません」だそうで、入手できずにいます。

追記:紀伊國屋さん、取り寄せを始めて下さいました。
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「本邦初となる仏訳」だそうで、そう言われてみれば、『智恵子抄』として、まとめての仏訳はたしかに無かったように思われます。

日本の名詩、的なもので、光太郎もラインナップに入り、その中に『智恵子抄』の詩篇も取り上げられている、というものはこれまでもありましたが。

004有名なところでは、光太郎生前の昭和14年(1939)、光太郎と交流のあった仏文学者・松尾邦之助による『Anthologie des Poètes japonais contemporains』(メルキュール・ド・フランス社)。この中に「あどけない話」(昭和3年=1928)、「同棲同類」(同)が含まれています。仏訳題は、それぞれ「Histoire innocente」、「Ceux qui se ressemblent vivent ensemble」。他には『智恵子抄』には含まれませんが、「触知」(同)、「火星が出てゐる」(昭和2年=1927)、「街上比興」(昭和3年=1928)、「花下仙人に遇ふ」(昭和2年=1927)。

当方、仏語はほぼほぼお手上げでして、英語に似た単語などを見つけ、そこからこの詩だろう、と推定したり、翻訳ソフトで題名を訳してみたりして突き止めました。しかし、翻訳ソフトもまだまだですね。奇抜な翻訳をしてくれちゃいます(笑)。

「Histoire innocente」→「無邪気な歴史」(あどけない話) 
「Ceux qui se ressemblent vivent ensemble」→「似ている人は一緒に住んでいます」(同棲同類)
「Connaissance par le toucher」→「タッチで知識」(触知)
「Mars est là, dans le ciel !」→「火星は、空に、ここにあります !」(火星が出てゐる)
「Divertissements dans les rues」→「ストリートエンターテイメント」(街上比興)
「Sous les fleurs, je rencontrais un ermite」→「花の下で、私はヤシに会った」(花下仙人に遇ふ)

ちなみに、英訳『智恵子抄』は、当方、二種類持っています。
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左は『CHIEKO'S SKY』。昭和53年(1978)、講談社インターナショナルさんの発行で、古田草一氏の訳です。右が『THE CHIEKO POEMS』。平成19年(2007)、Green Integer Books社さん、訳者はJohn G. Peters氏。それぞれamazonさんなどで入手可能です。

他に、部分的に『智恵子抄』英訳が含まれるものも、複数存在します。

さて、「第23回比較文学研究会」。オンラインでの開催ですが、参加できる環境にある方、ぜひどうぞ。

【折々のことば・光太郎】

昨夕温泉に久しぶりにて入る。深い共同風呂にも入る。泉質よきやうなり。


昭和23年(1948)4月26日の日記より 光太郎66歳

前日から宿泊していた、花巻南温泉峡・鉛温泉さんです。「深い共同風呂」は、岩を刳り抜いて自噴している、「白猿の湯」。
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この後も、何度かこの湯を堪能しています。

ほぼ一気読みしました。

「ロダンの言葉」とは何か

2019年2月20日 髙橋幸次著 三元社 定価4,000円+税

彫刻家ロダンの芸術観は、近代日本に圧倒的な影響をもたらした。その過程で作品以上に重要な役割を担ったのが、高村光太郎らによって翻訳紹介された一連の「ロダンの言葉」だった。では、その原典たる「ロダンの言葉」を書き残したのは一体だれなのか?
「ロダンの言葉」の成立と受容を詳細にたどり直し、ロダン研究の新たな基礎を築く。

[目次]
 はじめに  001
 第Ⅰ部 ロダンとその時代
  第 1 章 ロダンとは誰なのか、そして何なのか
  第 2 章 セザンヌとロダン
 第Ⅱ部 ロダンの言葉
  第 1 章 「ロダンの言葉」成立の前提
  第 2 章 クラデルのロダン
  第 3 章 ロートンのロダン
  第 4 章 バートレットのロダン:高村光太郎のダークス
  第 5 章 モークレールのロダン
  第 6 章 グセルのロダン
  第 7 章 コキヨのロダン
  第 8 章 ティレルのロダン
  第 9 章 デュジャルダン=ボーメッツのロダン
  第 10 章 ブールデルのロダン
  第 11 章 リルケのロダン、そして高村光太郎のリルケ
  第 12 章 ロダン自身によるロダン
 終わりに
 あとがき
 注 参考文献一覧 初出一覧 引用図版一覧 索引
 付録/高村光太郎編譯『ロダンの言葉』『續ロダンの言葉』の目次


いろいろお世話になっている日大芸術学部さんの髙橋幸次教授の新著です。

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だいぶ前に、本書の元となった同大芸術学部さんの紀要抜き刷りの一部をいただきましたが、一冊にまとまったものを読んでみて、改めて興味深く感じました。

光太郎の訳著『ロダンの言葉』(大正5年=1916)、『続ロダンの言葉』(同9年=1920)を軸に、ロダンその人のアウトライン、欧米でのロダン語録出版の過程や、それぞれの編著者、光太郎をはじめとする日本における翻訳、ロダン受容の様相などについて、詳細にまとめられています。

そもそも『ロダンの言葉』とは、折に触れてロダンが語ったさまざまな談話や、近しい人々との会話などを、様々な人物(多くはロダンの秘書)が筆録したものから抽出されたもので、ロダン本国のフランスには『ロダンの言葉』という書物はありません。したがって、光太郎が使った翻訳原典は多岐にわたります。

本書では、それぞれの筆録者がどういう経歴の人物で、ロダンとどう関わったか、筆録の状況、ロダンとの距離感などといったことも記述され、非常に参考になります。

また、光太郎の訳についても、数ある原典の中からどういった部分に重きを置いて抽出してるのかや、他の訳者の翻訳との比較、その特徴やあてた日本語の妥当性など、実に示唆に富むものでした。

光太郎の『ロダンの言葉』正続は、廉価な普及版の刊行などもあり、実に多くの造形作家やその卵、また、直接的には美術と関わらない人々にも大きな影響を与えたとされています。そうなった背景も、この書籍を読むことでかなりの程度理解できたように思いました。

ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

団十郎は決して力まない。力まないで大きい。大根といはれた若年に近い頃の写真を見ると間抜けなくらゐおつとりしてゐる。その間抜けさがたちまち溌剌と生きて来て晩年の偉大を成してゐる。一切の秀れた技巧を包蔵してゐる大味である。神経の極度にゆき届いた無神経である。

散文「九代目団十郎の首」より 昭和13年(1938) 光太郎56歳

結局完成する前に戦災で消失してしまった、九代目市川團十郎像に関してです。対象への惚れ込み方、それをいかに造形として表すかの苦心など、ロダンのそれとも重なるような気がします。


第63回連翹忌(2019年4月2日(火))の参加者募集中です。詳細はこちら。

一昨日、昨日と、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」について触れましたので、その流れで。

昨年12月28日(金)の地方紙『東奥日報』さんに載った記事です。 

十和田湖畔観光 訪日客に優しく/市、ICTで実証実験/看板にQRコード→多言語でスポット案内

 青森県十和田市は、増加するインバウンド(訪日外国人旅行)需要を踏まえ、1月1日からICT(情報通信技術)を活用した多言語による観光案内の実証実験を開始する。QRコード付きのプレートを、十和田湖畔にある既存の観光看板や、乙女の像などの観光スポット計14カ所に設置。旅行者がスマートフォンなどで読み込むと、それぞれの言語に翻訳された案内を見られる仕組みだ。
  システムは、五所川原市の「立佞武多(たちねぷた)の館」でも採用しているPIJIN社(東京)の「QR Translator」。言語は英語、中国語(簡体字、繁体字)、韓国語に対応。
  英語の一部で、観光庁の「地域観光資源の多言語解説整備事業」の一環として環境省が翻訳した解説文を活用したほか、中国語は、9月に着任した中国出身の地域おこし協力隊員・上官妮娜さんが翻訳した。
  実証実験は、十和田八幡平国立公園が選定された、外国人客誘致の環境整備を集中的に進める「国立公園満喫プロジェクト」の一環で、2019年末までを予定。市観光推進課は「どの言語の利用が多かったかなどを分析し、今後の観光振興に生かしたい」としている。
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実際、十和田湖に足を運びますと、インバウンドの団体さんが目立ちます。かつて光太郎が、十和田湖はいずれ世界的な名所になる、と言っており、まぁそこまではともかく、海外の方々に人気のスポットの一つとなったことは間違いないでしょう。そうした面での対応として、この手の取り組みは重要なことだと思われます。

そうすることによって、日本を代表する芸術家の一人、光太郎についても広く知られてほしいものですし。

全国の観光地の皆さん、ご参考になさって下さい。


【折々のことば・光太郎】

友達よ、未知の魂よ、君たちの愛を以て私を包んでくれ。愛によってのみ人は育つ。

散文「工房よりⅣ」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

人類皆兄弟。すべての日本人、そして海外の方々にもこう呼び掛けたいところです。争いや憎しみから人は育ちませんし、国と国とのつながりも育ちません。

もっとも、光太郎のこの一言、実は、だから大きな愛を以て私の彫刻を買ってくれ、という趣旨でもあるのですが(笑)。

毎年この時期に行われる、古書業界最大の市(いち)、七夕古書大入札会。先週、出品目録が届きました。ネット上でも見られるようになっています。

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毎年光太郎に関する出品物が何かしらあり、中には筑摩書房さんの『高村光太郎全集』未収録の資料等が出る年もあって、目が離せません。

今年の目録で、光太郎がらみは以下の通り。

まず出版物としてベルギーの詩人エミール・ヴェルハーレンの訳書『天上の炎』(大正14年=1925)。

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書籍自体はそれほどの稀覯本というわけではありませんが、見返しに光太郎の署名が入っています。函も欠損していません。


肉筆類が5点。出品番号順に最初が「高村光太郎草稿」。昨年も同じものが出ましたが、大正15年(1926)の第二期『明星』に発表された「滑稽詩」です。

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草稿がもう1点。「高村光太郎草稿 無題」となっていますが、昭和16年(1941)の『ヴァレリイ全集』内容見本のための短文です。

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続いて、大量の資料が一括で、「高村光太郎署名本・書簡・葉書他」。北海道の詩人、更科源蔵に宛てた封書が9通、葉書57枚、写真が3葉、戦時中から歿後すぐの著書10冊です。

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更科に宛てた書簡類は、『高村光太郎全集』に既に130通近く掲載されていますが、それに含まれるものなのか、あるいはそれと別のものなのか、よく調べてみないと何とも言えません。


書簡類の一括出品でもう1件。詩人で編集者の井上康文と、やはり詩人だった妻の淑子にあてた4通。

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こちらは完全に未知のものが含まれています。


最後に色紙。以前から都内の古書店さんが在庫としてお持ちだったものです。

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おそらく智恵子を詠んだと思われる短歌「北国の女人はまれにうつくしき歌をきかせぬものゝ蔭より」。昭和5年(1930)頃の筆跡と推定されます。


その他、昨年もそうでしたが、文学者からの書簡一括的な出品物に光太郎のものが含まれている場合があり、注意が必要です。


出品物全点を手に取って見ることができる下見展観が、7月6日(金)午前10時〜午後6時、7月7日(土)午前10時〜午後4時に行われます。会場は神田神保町の東京古書会館さん。当方は初日に行って参ります。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

当事者にとつては自明の事柄のやうに思はれることでも、これを手にする第三者にとつてはそのいはれを知りたいと思ふのも自然である。

散文「「日伊文化研究」書評」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳

どこまでその背景などを説明するか、大事な問題ですね。

当方も時々頼まれる雑文や講演・講座、それからこのブログでもそうですが、悩むところです。

信州安曇野、碌山美術館さんの夏季企画展示「高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎」を拝見して参りました。

光太郎関連以外の雑事で忙しいのと、高速道路の混雑を避けるため、一昨日の深夜に千葉の自宅兼事務所を出発、途中、塩尻の健康センターで入浴、仮眠。翌朝、碌山美術館さん開館時間に一番乗りいたしました。究極の雨男・光太郎に関わる企画展示ですので、予想通りに大雨でした(笑)。

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本来、撮影禁止ですが、関係者ということで許可を頂きまして、宣伝させていただきます。

昨夏、同館で開催された、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」は、「特別企画展」ということで、第1展示棟、杜江館も使っての展示でしたが、今回は第2展示棟のみ。図録等も発行されていません。それでもなかなかに充実していました。

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第2展示棟に入りますと、まず、よくある「ごあいさつ」。企画展としての趣旨が述べられています。

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 日本近代彫刻の先駆・荻原守衛(碌山 1879-1910)が師と仰いだオーギュスト・ロダン(1840-1917)の歿後100年にあたり、高村光太郎編訳 『ロダンの言葉』 (1916年刊)を紹介する企画展を開催いたします。
書籍『ロダンの言葉』は、ロダンに関するさまざまな外国語文献を高村が翻訳・編集したものです。通常ありがちな芸術家の伝記ではなく、ロダンが芸術について話した言葉を集めたもので、意味深い名言にあふれています。「地上はすべて美しい、汝等はすべて美しい」「宗教なしには、芸術なしには、自然に対する愛なしには-此の三つの言葉は私にとつて同意味であるが-人間は退屈で死ぬだらう」「彫刻に独創はいらない、生命がいる」等々。
 これらは、芸術の真髄を言い得た金言であり、読む者の心をふるわせずにはおきません。『ロダンの言葉』を読んで、その感動から彫刻を志した者も少なくなかったといいます。刊行以来100年の月日を経ても今なお、芸術を見る者、考える者にとって、味わい深く、示唆に富む、大変魅力的な著作です。
 これを機に、一人でも多くの方が、ロダンの芸術館にふれるとともに、芸術とりわけ彫刻への理解を深めていただくことを願って本企画展を開催いたします。

背面の大きな壁には、年譜。今年が歿後100年となるロダンその人のものと、日本におけるロダン受容の歴史に関してまとめられています。

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会場内はパーテーションで二つに区切られており、奥の区画には光太郎、荻原守衛等の彫刻の実作が展示されています。

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光太郎のものは、すべてブロンズで、左から「裸婦坐像」(大正6年=1917)、「園田孝吉像」(同4年=1915)、「手」(同7年=1918)、「腕」(同)。いずれも光太郎が『ロダンの言葉』編訳に取り組んでいた頃の作です。

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他に、ロダンに影響を受けた戸張孤雁、中原悌二郎の作も。

003そして、荻原守衛の「坑夫」の石膏。初めて見ました。ブロンズに鋳造されたものは、守衛代表作の「女」などとともに、本館である碌山館に展示されていますが、こちらは石膏です。守衛がフランスのアカデミー・ジュリアンで学んでいた明治41年(1908)の習作ですが、パリでそれを見せられた光太郎曰く、

この首はまるで自由製作のやうであつて、モデル習作じみたところがない。モデルは生徒仲間によく知られてゐるイタリヤ人の若者で、多分このポーズも教室の合議できめたもので、彼の勝手にきめたものではなからうが、教室の習作にありがちな、いぢけたところがまるでなく、のびのびと自由に製作されて、作家の内部から必然的に出てきた作品に見え、あてがはれたポーズといふ感じがまるでないのにまづ驚いたのである。作風はロダンの影響がまざまざと見えるもので、面(めん)やモドレや粘土の扱ひ方までそつくりであるが、それが少しもただのまねごとには感ぜられず、彼自身の内部要求として強く確信を以て行はれてゐるので、そのロダンじみてゐることが苦にならなかつた。そしていかにも生き生きしてゐた。私も若い頃なので大に感動し、これを習作としてこはしてしまふのは実に惜しいから是非とも石膏にとるやうにと彼に極力すすめた。彼は近いうちに日本に帰るといふことだし、是非これは持つて帰るやうにとくり返し彼に語つた。実物大よりも少し大きいので厄介だらうが、必ずこの習作はこはさぬやうにとくどく念を押した。
(「荻原守衛―アトリエにて5―」 昭和29年=1954)

ということでした。


手前の区画には、ロダンその人の「鼻のつぶれた男」、そしてロダンの弟子、カミーユ・クローデルの「ロダン」。

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どちらも同館で所蔵しているそうですが、常設展示はされていなかったものです。

それを取り囲むように、各種の文献。

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光太郎の識語署名入り『ロダンの言葉』初版。

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光太郎が暗記するほど読んだというカミーユ・モークレール著のロダン評伝などの洋書。このあたりは、当会顧問・北川太一先生の蔵書です。

正続『ロダンの言葉』のさまざまな版。同館所蔵のものや、学芸員氏の私物も並んでいるそうです。新しめのマイナーなものは当方がお貸ししました。

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昭和4年(1929)に叢文閣から刊行された正続普及版がベストセラーとなり、舟越保武、柳原義達、佐藤忠良ら後進の彫刻家たちはこれを読んで彫刻の道を志しました。

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『白樺』などの「ロダンの言葉」初出掲載誌、光太郎以外のロダン紹介文献なども。

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右のブールデル著、関義訳『ロダン』(昭和18年=1943)は、光太郎の装幀。序文も光太郎が書いています。

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壁にはロダンの言葉の抜粋も。

前日の夜まで大わらわで準備に当たられたそうですが、なかなか充実の展示でした。

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隣接する第1展示棟には、『ロダンの言葉』と時期のずれた光太郎ブロンズの数々。少しずつ買い足され、かなりの点数になっています。


企画展は9月3日(日)までの開催です。ぜひ足をお運びください。


【折々のことば・光太郎】

繭には糸口、存在には詩の発端。いたるところの即物即事に、この世の絲はひき切れない。
詩「寸言」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

さかのぼること10年、「彫刻十個條」という散文では、「彫刻の本性は立体感にあり。しかも彫刻のいのちは詩魂にあり。」と記しています。世の中のどんなものにも、その詩魂の発端をみつけられるものだ、ということでしょうか。

この「寸言」という詩、永らく初出掲載誌が不明でしたが、この年7月、東京農業大学農友会文芸部から発行の雑誌『土』第22号に掲載が確認できています。

信州安曇野の碌山美術館さんでの展示情報です。

夏季企画展示 高村光太郎編訳『ロダンの言葉』展 編訳と高村光太郎

期 日 : 2017年7月1日(土)~9月3日(日) 無休
会 場 : 碌山美術館 長野県安曇野市穂高5095-1 第二展示棟
時 間 : AM9:00~PM5:10
料 金 : 大人 700円(600円)  高校生 300円(250円) 小中学生 150円(100円)
        ( )内20名以上団体料金 
ホームページ特別割引あり

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日本近代彫刻の先駆・荻原守衛(碌山 1879-1910)が師と仰いだオーギュスト・ロダン(1840-1917)の歿後100年にあたり、高村光太郎編訳 『ロダンの言葉』 (1916年刊)を紹介する企画展を開催いたします。
書籍『ロダンの言葉』は、ロダンに関するさまざまな外国語文献を高村が翻訳・編集したものです。通常ありがちな芸術家の伝記ではなく、ロダンが芸術について話した言葉を集めたもので、意味深い名言にあふれています。「地上はすべて美しい、汝等はすべて美しい」「宗教なしには、芸術なしには、自然に対する愛なしには-此の三つの言葉は私にとつて同意味であるが-人間は退屈で死ぬだらう」「彫刻に独創はいらない、生命がいる」等々。これらは、芸術の真髄を言い得た金言であり、読む者の心をふるわせずにはおきません。『ロダンの言葉』を読んで、その感動から彫刻を志した者も少なくなかったといいます。刊行以来100年の月日を経ても今なお、芸術を見る者、考える者にとって、味わい深く、示唆に富む、大変魅力的な著作です。これを機に、一人でも多くの方が、ロダンの芸術館にふれるとともに、芸術とりわけ彫刻への理解を深めていただくことを願って本企画展を開催いたします。

展示書籍
Auguste Rodin,Les Catbédrales de Frame, Librairie Annand Colin,Paris,1914. / L'Art,Entretlens Rénnis par Paul Gsell,Bernard Êditeur,Paris,1911 / Camille Mauclair,Auguste Rodin,The Man-His Ideas-His works,trans.by Clementina Black, Duckworth and Co., London,1905 他

展示作家
 高村光太郎《腕》 戸張孤雁《男の胴》 中原悌二郎《老人》 荻原守衛(碌山)《坑夫》(石膏複製)
 カミーユ・クローデル《ロダン》 オーギュスト・ロダン《鼻欠けの男》(石膏複製) 他


同館では、昨夏、「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」を開催して下さいまして、当方、関連行事としての講演を務めさせていただきました。今回は「特別」がつかない企画展で、会場も第二展示棟のみ、昨年のものよりはこぢんまりと開催されます。関連行事、図録の発行もないようです。

光太郎とロダンがらみの資料で、展示にお貸しできるものをリストアップして同館に送りました。初版の『ロダンの言葉』正続(大正5年=1916、同9年=1920)、普及版の『ロダンの言葉』正続(昭和12年=1937の最終版)、評伝『ロダン』(昭和2年=1927)などなど。

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ところが、そのあたりの光太郎生前のものは館で所蔵しているため不要、逆に新しめのものを貸してくれとのことで、昭和34年(1959)の新潮文庫版『ロダンの言葉』正続、平成17年(2005)の沖積舎復刻正続合本『ロダンの言葉』、同19年(2007)の講談社文芸文庫版『ロダンの言葉』をお貸ししました。

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調べてみましたところ、新潮文庫版はもとより、平成の沖積舎版、講談社文芸文庫版すら既に絶版になっています。他に岩波文庫でも『ロダンの言葉抄』(初版・昭和35年=1960)が出ていましたが、そちらも版を断っています。

ということは、『ロダンの言葉』を入手したければ、もはや古書で購入するしかないわけで、なんだかなぁ、という感じです。昔の美術家の卵にはバイブルに等しい扱い、美術史上の金字塔的著作だったのですが、昨今の美大生などはもしかすると、「『ロダンの言葉』? 何、それ?」という状態なのかも知れません。

そういうわけで、とりわけ若い世代の方々にご覧頂きたいものです。

始まりましたらなるべく早く行って、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

方式は簡単すぎて児戯に類する

詩「一艘の船が二艘になること」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

ロダンの芸術なども、「自然」に学ぶ抽象無視、という意味では、簡単すぎる方式です。しかし、ひねりにひねったり、やかましい様式の約束事に縛られたりで、かえって自然から離れ、生命観を喪失してしまっていた当時の芸術界においては、ロダン芸術の出現は、ある意味革命的でした。

その魂を受け継いだ光太郎や碌山荻原守衛、そしてさらに彼らの系譜を受け継いだ後身の作家たち。やはりそういう流れを理解することも大切だと思います。

東京日比谷から学会情報です。 

第9回明星研究会<シンポジウム>秋の日のヴィオロンの~翻訳詩、あたらしき言葉の輝き

 近代の詩歌は、西洋詩の翻訳から多くの栄養を吸収してきました。わけても上田敏の翻訳詩集『海潮音』(1905年)と象徴主義の紹介は、詩人歌人に大きな影響を与えています。カール・ブッセ、マラルメ、ボードレール、ヴェルレーヌといった詩人の詩は、のちに多くの日本人の心にも植え付けられ、「秋の日の ヴィオロンの ためいきの 身にしみて ひたぶるに うら悲し」の、ヴェルレーヌの詩「落葉(秋の日)」は殊に有名です。
 『海潮音』に先んじる森鴎外を中心とする『於母影』(1889年)、フランス新進詩人に挑んだ与謝野寛の『リラの花』(1914年)、そして寛主宰の雑誌「明星」から出発した北原白秋や木下杢太郎も、さまざまな形で影響を受けたのでした。その周辺にあった永井荷風、高村光太郎、堀口大学も忘れることはできません。
 翻訳詩に西欧の香りと美を見出し、想いを傾けた100年前の詩人たちについて、今あらためて考えてみたいと思います。
 多くのご参加を心待ちにしております。
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●日時● 2015年11月29(日)13時30分~16時40分 (13時 開場)
●場所● 日比谷コンベンションホール
    (千代田区日比谷公園1番4号【旧・都立日比谷図書館B1】
       (このサイトの下にある地図を参照してください)
●会費● 2,000円(資料代含む) 学生1,000円(学生証提示)●定員● 200人
●内容●
Ⅰ 13:30  開会挨拶  西川 恵(毎日新聞社客員編集委員)
Ⅱ 13:30 ~14:20
    第1部 講演「ボードレールと日本の近代詩」 酒井 健(法政大学教授)
Ⅲ 14:20 ~14:40 休憩
Ⅳ 14:40 ~16:40
    第2部 ミニ講演&パネルディスカッション
    「翻訳詩、あたらしき言葉の輝き~鴎外・寛・白秋・杢太郎」
     坂井修一(歌人・「かりん」編集人)  渡 英子(歌人)
     丸井重孝(歌人・伊東市立木下杢太郎記念館) 酒井 健
     司会:松平盟子(歌人)
Ⅴ 16:40 閉会挨拶 平出 洸(平出修研究会主宰)
                      総合司会:古谷 円
●申し込み●「明星研究会」事務局あて。
 ネット上での受付は11月27日(金)まで(先着順)。
 宛先メールアドレスはapply@myojo-k.net です。
 申し込みの送信をされる際には、
  (イ)上記アドレスの(at)を半角の @ に変えてください。
  (ロ)メールの件名は、「明星研究会申し込み」とご記入いただき、
  (ハ)メールの本文に、お名前と連絡先住所、電話番号をご記入ください。
  (二)ご家族同伴の場合はご本人を含めた全体の人数も添えてください。
 なお、当日は空席次第で会場でも直接受け付けます。
●終了後懇親会●4,000円程度(場所は当日お知らせいたします)
<主催> 明星研究会 http://www.myojo-k.net/ <世話人> 平出 洸
<協力>
伊東市立木下杢太郎記念館・国際啄木学会・堺市:文化学院・与謝野晶子倶楽部


昨年の同会は「巴里との邂逅、そののち~晶子・寛・荷風・・光太郎」と題し、第二部が鼎談「パリの果実は甘かったか?~晶子・荷風・光太郎」ということで、光太郎が前面に押し出されていました。ただ、当方は同じ日に第59回高村光太郎研究会があり、参加できませんでした。

今年は光太郎の名はサブタイトルに入っていませんが、「永井荷風、高村光太郎、堀口大学も忘れることはできません。」とあるので、少しは触れていただけるのかな、と思っております。

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【今日は何の日・光太郎 拾遺】 11月19日

平成2年(1990)の今日、岡山県の衛生会館三木記念ホールで、「野崎幹子ソプラノリサイタル」が開催されました。

別宮貞雄作曲「歌曲集「智恵子抄」より」から抜粋で、「人に」、「あどけない話」、「千鳥と遊ぶ智恵子」、「レモン哀歌」が演奏されました。

のち、ライブ録音のCDもリリースされました。

雑誌としては当方が唯一定期購読しているものに、月刊の『日本古書通信』があります。

今年の5月号から、廣畑研二氏による連載記事「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」が始まりました。そして昨日、連載の3回目が載った7月号が手元に届きました。

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『南方詩人』は昭和2年(1927)、鹿児島で創刊された雑誌で、同5年(1930)9月まで、全10輯が発行されていますが、今までその全貌が不明でした。国立国会図書館さんには収蔵されておらず、日本近代文学館さんでは昭和5年(1930)1月号のみ所蔵しています(それも欠ページがあるそうです)。この手の地方誌はおおむねそういうものです。

また、時折こういう例もあるのですが、地方誌でありながら、全国区のメジャーどころに寄稿を仰いでいます。廣畑氏の稿によれば、佐藤惣之助、萩原恭次郎、尾形亀之助、草野心平、尾崎喜八、竹内てるよ、木山捷平、黄瀛、小野十三郎、赤松月船、白鳥省吾らの名が執筆者として連なっています。その中に光太郎も。

以前から『南方詩人』に光太郎が寄稿していたことは判明していました。『高村光太郎全集』には、以下の作品が同誌を初出として掲載されています。

昭和4年10月1日号 散文「てるよさんの詩を読んで-詩集『叛く』について-」
昭和5年1月1日号 詩「孤独で何が珍しい」 散文「猪狩満直詩集「移住民」に就て」  散文「平正夫詩集『白壁』に就いて」  書簡二〇三
昭和5年9月10日号 散文「黃秀才の首」

ところが、いかんせん全貌が不明だった地方誌のため、他にも掲載されていたものが漏れていました。

廣畑氏は、沖縄県立図書館さん、いわき市立草野心平記念文学館さん、吉備路文学館さんの3ヶ所に『南方詩人』が収蔵されていることをつきとめ、それぞれの欠損を補って、全10輯の全貌を明らかにされたそうです。

昨日届いた『日本古書通信』7月号掲載の「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」第3回に記述がありますが、昭和4年(1929)3月10日発行の第6輯に、ロマン・ロランの戯曲「モンテスパン夫人」の序文が、光太郎の訳で掲載されています。この光太郎訳は今までに全く知られていなかったものでした。原典は大正12年(1923)にアメリカで出版された同書の米国版です。

廣畑氏から当会顧問の北川太一先生に、この件についてご連絡があり、さらに当方にもそれが廻ってきたのが4月。ただ、添えられていたコピーが不鮮明で読めない、何とかならないか、とのことでした。そこで、連翹忌でお世話になっているいわき市立草野心平記念文学館さんにお願いし、当該箇所のデータを画像ファイルで送っていただきました。北川先生は、翻訳原典である米国版を神保町の田村書店さんを通じて入手なさいました。

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比較的長文の翻訳で、こうしたものが今まで埋もれていたというのが、ある意味、意外でした。全文は来春刊行予定の『高村光太郎研究』に当方が持っている連載「光太郎遺珠」にて紹介します。

他にも廣畑氏の稿によって、『南方詩人』に光太郎作品の掲載状況がいろいろと明らかになっています。例えば大正11年(1922)の第二期『明星』に掲載されたヴェルハーレンの詩「未来」が転載されていたり、生前に活字になった記録が無かった木山捷平あての書簡2487が「詩集「野」読後感」として掲載されていたり、といったところです。

さらに草野心平の作品でも、心平の全集に未掲載のものが大量に含まれているとのこと。地方誌恐るべし、です。

廣畑氏の「幻の詩誌『南方詩人』目次細目」。『日本古書通信』での連載はまだ続きます。もしかしたら書簡、雑纂等で『高村光太郎全集』未掲載のものがまだあるかも知れません。

光太郎の書き残したものの全貌を明らかにする道のりは、まだまだその途上です。ライフワークとして取り組み続けていきたいと思っております。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 7月15日

昭和31年(1956)の今日、新潮文庫版『智恵子抄』が刊行されました。

光太郎が亡くなる直前に、草野心平に000編集を託したものです。今日、『智恵子抄』というと、この新潮文庫版を思い浮かべる方がほとんどでしょう。現在も版を重ねています。

オリジナルの龍星閣版『智恵子抄』は昭和16年(1941)の刊行で、時間の流れとしては智恵子の死後間もない頃の作品「梅酒」あたりまでが掲載されています。戦後の昭和25年(1950)には同じ龍星閣から詩文集『智恵子抄その後』が刊行され、新潮文庫版にはそのあたりの作品も収められました。

昭和42年(1967)に改訂版が出るまでの新潮文庫版には、オリジナルに収録されていた詩「或る日の記」が心平の意図で省かれていました。心平曰く、

従来の『智恵子抄』に載っていた「或る日の記」はそれは智恵子さんとの関連が詩の中心をなしていないので故意にはぶいた。

とのことでした。

この点は原著者の意向の無視ということで、のちにかなり批判されています。しかし、こういういわば「力業」が、ある意味「規格外」の詩人だった心平の本領であるとも言えます。他にも光太郎生前から、くり返しその作品集の編集に携わっていた心平ですが、誤植等をあまり気にしていません。光太郎はそういう心平を苦笑しながら見守っていた節があります。

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