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昨年12月22日(金)、『日本経済新聞』さんの記事から。

日本復帰70年 「奄美のガンジー」泉芳朗を語り継ぐ

 鹿児島県奄美地方で12月25日は特別な日だ。1946年のGHQ(連合国軍総司令部)の二・二宣言で、奄美を含む北緯30度以南の島々は米軍統治下におかれた。その後、奄美群島が悲願の日本復帰を果たしたのが70年前、53年のこの日だった。
 復帰運動の先頭に立ったのが泉芳朗(ほうろう)(1905〜59年)だ。ハンガー・ストライキを実施し、復帰を訴えた姿からインドのマハトマ・ガンジーになぞらえ「奄美のガンジー」と呼ばれている。
 私が代表を務める「泉芳朗先生を偲(しの)ぶ会」では、功績を後世に伝えようと記念碑建立や出前授業を行っている。設立したのは私の父、豊春だ。泉先生の秘書を務め、復帰運動をそばで支えた。59年に泉先生が亡くなったあとは、奄美群島の各市町村が12月25日を日本復帰記念日に制定するよう奔走した。私も幼いころから話を聞かされ、実際にお目にかかったこともある。当時は親戚のおじさんだと思っていた。
 泉先生は、鹿児島県の徳之島出身。学校を卒業後、小学校で教員をする傍ら、詩作に打ち込んだ。28年に上京し、詩人の高村光太郎とも交友。再び島に戻った後は、教育者と詩人の二足のわらじで活動した。
 外国となった奄美は本土への渡航が制限され、黒糖や大島紬(つむぎ)など特産品の流通も禁止された。生活は苦しく、島民は密輸や密航に手を染めた。復帰を望む声が東京在住の奄美出身者らから広がり、51年2月には奄美で復帰協議会が結成される。議長に就任したのが教育者として信頼を集めていた泉先生だった。
 直後に始まった満14歳以上を対象とした請願署名には、実に島民の99.8%が名を連ねた。私の父の名前もそこに見られる。大規模な集会も開催され、取り締まる米兵との衝突も起きた。

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 51年8月に泉先生は名瀬市(現鹿児島県奄美市)の高千穂神社で5日間の断食を決行し、多くの島民が後に続いた。泉先生の詩「断食悲願」には強い決意がにじむ。〈膝を曲げ 頭を垂れて/奮然 五体の祈りをこめよう/祖国帰心/五臓六腑の矢を放とう〉。詩の力は復帰運動を戦う島民の大きな力となり、うねりは一層大きくなった。
 しかし、すぐには実を結ばなかった。52年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効され日本は主権を回復。北緯29度線以北の島々は復帰を果たしたが、奄美は依然、米軍統治下におかれた。この日は奄美では「痛恨の日」と呼ばれている。
 その翌日、泉先生は子供たちの前に日本国旗を示し、祖国の旗を覚えておくよう呼びかけた。そのことで米軍から注意を受けた際、一歩も譲らず説き伏せたという。父はよくその場面をあげ、胆力のすさまじさを語っていた。同年には名瀬市長に当選し「市政と復帰一如」をスローガンに精力的に活動する。教育者、詩人、政治家の3つの顔で、島民を鼓舞し続けた。
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 53年8月にダレス米国務長官が奄美を日本に返す用意があると発表した「ダレス声明」を経て、その日はやってきた。同年12月25日、奄美は歓喜に沸いた。泉先生は「皆さん、これで八年の苦難は達成して、きょう、この日の我々は、本当の日本人になったのであります」と挨拶し、万歳三唱した。島民はちょうちん行列で喜びあった。
 今年の復帰70周年の日にも、ちょうちん行列が予定され、当時の光景がよみがえるはずだ。奄美が米軍統治下にあったことを知らない世代も増えた。泉先生の功績とともに、先人たちの悲願の先に、今があることを伝えていきたい。
  
12月25日(月)に行われた奄美群島の米軍統治下からの日本復帰70周年記念式典に先立ち、復帰運動を主導した泉芳朗の功績を振り返るといったコンセプトの記事です。

徳之島の
伊仙村(現伊仙町)出身で、戦後は名瀬市長も務めた泉ですが、戦前は教員を務めるかたわら詩人としても活動し、10年ほどは東京に在住していました。その頃光太郎とも親交を結び、光太郎も出席した座談会の司会を務めたり、自身の主宰する雑誌の題字を光太郎に揮毫して貰ったりした他、光太郎と同じ書籍や雑誌に寄稿することもしばしばでした。戦後も光太郎が「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、岩手から帰京した直後の昭和27年(1952)に、光太郎が起居していた中野の貸しアトリエを訪問しています。くわしくはこちら

先月の奄美群島の日本復帰70周年。今一つ報道されなかったように感じています。九州の地方紙などでは改めて占領下を振り返る特集記事などが出ていましたが……。沖縄が永らく米軍統治の扱いだったことは歴史の教科書にも記載がありますが、小笠原諸島、そして奄美群島もそうであったことは忘れられつつあるように思われます。ウクライナの件など、世界的にも領土問題が顕在化しているこの時期、過去に学ぶ必要をひしひしと感じるのですが……。

【折々のことば・光太郎】

おハガキ二通及「週刊朝日」二冊、珍しい新聞一束拝受、ありがたく存じました。 小屋の写真はよくうつつてゐると思ひました。談話の筆記は所々間違へたりしてゐます。ともかく、こんな小屋に独居自炊してゐると思つて下さい。人家からは三丁程離れた山腹で下に見える湧き水の水を汲んで炊事してゐます。勝手元の厨芥を夜兎が来てたべるやうです。鼠は夕方遠くからやつて来て小生の座辺へも平気で来ます。大切なローソクをかぢるのは閉口です。

昭和21年(1946)3月24日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎64歳

光太郎の元に送られた『週刊朝日』のうち、この年2月24日号(第48巻第7号)には、花巻郊外旧太田村の光太郎の暮らしぶりが紹介されました。この手の記事としては最も早い時期のものの一つです。
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題して「雪にもめげず 疎開の両翁を東北に訪ふ」。故郷・山形に居た斎藤茂吉も紹介されています。

少し前にご紹介した佐高真氏著『反戦川柳人 鶴彬の獄死』の中で、歴史作家の藤沢周平が同郷の茂吉に対し、戦後も皇国史観から抜け出せず、戦争協力への反省も行わなかったことを痛烈に批判したことが紹介されています。また佐高氏もこう書いています。

 光太郎より一つ年上だった茂吉は、一九四五年の四月に故郷に疎開し、大石田の名家の離れに住んだ。その時、茂吉六十三歳。妻子と離れての独居で病気をしたりもしているが、上下二部屋ずつある家で、光太郎の小屋とは比ぶべくもなかった。また、結城哀草果とか板垣家子夫とか、地元の歌の弟子が献身的に世話をしている。

光太郎も太田村の山小屋に入る前は、花巻町の佐藤隆房邸に厄介になっており、佐藤や宮沢賢治実弟の清六らが献身的に世話してくれていました。その生活を続けなかったところにも光太郎の偉さがあるというわけですね。

昨日の『奄美新聞』さん記事から。

「日本復帰学習会」スタート 語り部招き、町内全小開催へ

【徳之島】奄美群島日本復帰70周年にちなんだ伊仙町教育委員会の「奄美群島日本復帰学習会」が23日、伊仙小学校(佐々木久志校長)の5、6年生65人を皮切りに始まった。戦前戦中生まれの語り部2氏を派遣。児童たちは、同校(当時国民学校)の元教頭で校歌作詞者でもある「奄美日本復帰の父」泉芳朗氏=同町面縄出身=の人柄や功績、祖国分離下の厳しい生活などの体験談に触れた。
 復帰70周年を記念して1時限(45分間)ずつ設定した。群島民20万人余の署名活動や断食祈願による無血民族運動など、諸先輩らの思いを次世代につなぐ持続可能な社会とまちづくり、さらに、郷土教育の充実による「郷土に誇り、愛する豊かな心の育成」が目的。各校区の語り部を中心に、町立全小学校(8校)に派遣開催する。
 伊仙小での語り部には、卒業生で同校にも通算10年間勤務した元教職員で現在、町文化財保護審議会会長の義岡明雄さん(85)=伊仙=と、同じく元教職員で現在塾講師の福清千美子さん(78)=面縄=の2人が協力。
 義岡さんは、太平洋戦争末期(小学生当時)に沖縄戦での米軍艦砲射撃の爆発音や空振も感じた恐怖、若者ら特攻隊の出撃の背景、終戦・祖国分離下でサツマイモを主食としたつらい体験談の数々も語った。
 大先輩(伊仙尋常小高等科卒)でもある泉氏については、東京で高村光太郎らと詩人として活躍中に体調を崩し失意の中に帰郷し、母校伊仙小の代用教員に就いた1年後、秀逸ぶりから教頭に抜てきされたことや、神之嶺小校長、県視学を経て奄美群島日本復帰協議会議長として先頭に立った断食祈願(5日間)の敢行なども分かりやすく解説。
 その上で、児童たちには「芳朗先生は貧しい中で一生懸命に勉強をした。芳朗先生のように人に優しく平和を愛する人になってほしい」ともアピールした。
 福清さんも終戦・祖国分離下だった幼少期の思い出などを自作の絵巻物で紹介しつつ、「ロシアとウクライナの戦争が続いているが、奄美群島の日本復帰運動では血を流した人は1人もいない。人に優しく、自分の考えをしっかりと伝え実行する人に」と呼び掛けた。
 児童の宝永友樹愛さん(6年生)は「自分たちが〝日本人〟に戻れたのは泉芳朗先生のおかげと思った。今の自分たちは恵まれていることも分かった。偉大な先人に学び、人に感謝して人を愛し、優しくすることを心掛けたい」と話した。
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奄美群島の日本本土復帰は昭和28年(1953)12月25日。今年はちょうど70周年だそうで、「奄美群島日本復帰70周年記念式典及び記念祝賀会」なども計画されているようです。それに先立ち、徳之島の大島郡伊仙町の小学校で歴史的背景を学ぶ取り組みが為されたとのこと。同町出身で、初代名瀬市長も務め、本土復帰に骨折った泉芳朗の事績なども取り上げられたそうです。

泉については、このブログで昨年にも取り上げましたが、その時点では、当方、泉と光太郎の関わりをあまり存じませんでした。筑摩書房『高村光太郎全集』には、泉の名は一度しか出てこないためで、それも昭和27年12月14日の光太郎日記に「田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長」とあるだけだったためです。「俺美」は「奄美」の誤記です。

ところが、よくよく調べてみると、かなり深い関わりがあったことが分かりまして、汗顔の至りでした。

002きっかけは、過日、千葉県立東部図書館さんに行った折、たまたま眼にした『新装版 泉芳朗詩集』(平成25年=2013 紀伊國屋書店)。ぱらぱらめくってみると、見なれた光太郎の筆跡が眼に飛び込んできました。泉が主宰していた雑誌『自由』の表紙画像です。右は同誌の昭和29年(1954)新年号。春秋社さんから刊行された『高村光太郎 造型』(昭和48年=1973 北川太一・吉本隆明編)から採りました。

この題字が光太郎の筆になるものであることは存じていましたが、この雑誌が泉の主宰だったことは存じませんでした。『高村光太郎 造型』の解題を見ますと、ちゃんと泉の名が記され、先の日記にあった昭和27年(1952)12月14日の訪問が、この題字揮毫に関わるであろうということも記述されていました。


そこでいろいろ調べたところ、遡って昭和13年(1938)には光太郎も出席した座談会で、泉が司会を務めていたことも見落としていたのにも気付きました。

雑誌『詩生活』(これも泉の主宰でした)の第6巻第1号に掲載された「詩と文学・戦時座談会」という長い座談会で、会場は都内大塚の山海楼、光太郎、泉以外の出席者は昇曙夢(泉と同郷のロシア文学者)、川路柳虹、宇野浩二でした。昭和47年(1972)、文治堂書店さんから刊行された『高村光太郎資料』第三集に全文が掲載されています(筑摩書房『高村光太郎全集』は、これに限らず座談会は総て割愛)。

前年には日中戦争も始まっており、かなり時局に即した内容です。途中途中につけられた小見出しをいくつか拾うと、以下の通り。「事変が生んだ作品について」「戦争文学のありかたについて」「戦争文学のカテゴリー」「体験と戦争文学」「素材を如何に取り上げるか」「外国の戦争文学・詩」「火野葦平と「兵隊」物」「国民文学と世界文学」「事変と日本文学の新動向」「文学の世界的交流」「若き世代の人々に望むもの」……。

言い訳をさせていただけるなら(言い訳していいわけないだろ、とか突っ込まないで下さい(笑))、泉、戦前には本名の「泉芳朗」ではなく、「泉与史朗」と名乗っていた時期もあり、この座談の際のクレジットも「泉与史朗」でした。

泉と親しかった詩人の田村昌由(『詩生活』の編集に携わっていて、おそらく座談の筆録に当たったと思われます)が、のちにこの座談会について語っています。出典は日本詩人クラブ発行の『詩界』121号(昭和48年=1973)。明らかな誤字は正して引用します。

 この座談会は、実は高村先生のあとあとによからぬ結果をもたらすきっかけをつくった、と私はずうっと思っているのですが。といいますのは先生は当時、智恵子夫人の病中であることと、もうひとつはあたまをもちあげてきた戦争亡霊がいやで、どこの座談会へも出られなかった。みんなことわっておられたのです。ところが「詩生活」の座談会へ出られた。雑誌が出ると早速「中央公論」から「かねがねお願いしてあったわけですが……どうかこんどは……」といった具合で、せめたてられて、ことわりきれず、こまってしまった、とあとで先生からおききしました。先生の戦時社会詩文学活動〈このんでされたのではない、私たちは先生の応接間にうかがっているとき、たずねてきた人の注文をことわられるのに何度かぶつかった〉はこの座談会がきっかけで十四年の春頃から、だんだんとのめりこんでいくのです。
(略)
 十月十八日が座談会ですが、智恵子夫人がなくなられたのは十月五日です。雑誌には口絵写真がのっていて若い私たちはうしろの方にかしこまっていますが、私は、夫人がなくなられてまもないのに座談会へ出られた、そのことをいまでも申訳なく思っています。


なるほど、この後、同様の座談会に光太郎が引っぱり出されることが多くなります。翌昭和14年(1939)には雑誌『知性』で「芸術と生活を語る」と題し、岸田国士、豊島与志雄と。この際がおそらく岸田と初対面でしたが、岸田は翌昭和15年(1940)、大政翼賛会が発足すると文化部長に就任し、光太郎を翼賛会の中央協力会議議員に強く推薦し、光太郎もそれを引き受けます。

まぁ、それ以前から翼賛詩的なものを書いていた光太郎ですが、この座談を契機に戦争協力へとなだれ込むことになったと言っても過言ではありませんね。その際の司会をしていたのが泉であった、というわけです。

また、「泉与史朗」名義で調べてみると、昭和16年(1941)刊行の海野秋芳の詩集『北の村落』には、光太郎と泉、両名の「序」が並べられていたり、同年の『現代日本年刊詩集 昭和十六年版』にも光太郎と泉の翼賛詩が共に掲載されていたりしました。そして戦後の『自由』。泉と光太郎の結びつき、かなり深かったわけですね。

そうこうしているところに、昨日の『奄美新聞』さんの記事。驚きました。

戦後、光太郎は戦争協力を恥じて花巻郊外旧太田村のボロ屋に7年間の蟄居生活を送り、泉は郷里・奄美群島の本土復帰に尽力。立場や事績は異なれど、共通する魂があったのではないかと思われます。

以前も書きましたが、奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。

【折々のことば・光太郎】

とにかく書いたから約束のやうに送ります 背の文字は少し書きいぢけたから 別にかいた方のを入れていたゞきたい 裏は画も考へたけれどそれよりはとおもつてシイルを考案した 扉其他の字のまづいのは素より君が覚悟の上だから為方がない 今いそぐ為め用事のみ


大正8年(1919)4月27日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎37歳

内藤は光太郎第一詩集『道程』版元の抒情詩社社主。内容的に書籍の装幀にかかわるものと推測されますが、この時期に該当する光太郎装幀の書籍が見あたりません。ボツになったのか、当該書籍の出版が頓挫したのか、それとも未だ知られざるこの時期の光太郎装幀の書籍が存在するのか……。謎です。

1ヵ月以上経っていますが、昨年12月、『朝日新聞』さんの鹿児島県版に載った記事。志學館大学の原口泉教授の寄稿です。

(維新、それから 歴史新発見:29)泉芳朗、未発表の遺稿発見

001 1953年12月25日、奄美群島が日本に復帰した。20万余の島民の悲願が達成された日である。復帰運動を主導したのは当時の名瀬市(現奄美市)の泉芳朗市長。詩人でもあった泉は、復帰の悲願を詩につづり続けていた。その多くは『泉芳朗詩集』(59年)に収められている。
 今年、おいの宏比古氏が神奈川県内の自宅にあった泉の遺稿を、NHKの記者と私に見せてくださった。多くの未発表の詩と日記があり、全国ニュースとなった。泉の復帰運動は、署名活動や断食祈願を世界世論に訴えたように、非暴力と不服従に貫かれていた。「奄美のガンジー」と呼ばれるゆえんである。
 05年、現在の伊仙町の生まれ。24年に鹿児島県立第二師範学校を卒業し、大島郡赤木名小学校を振り出しに教職の道を歩み始めた。詩作への思いもだしがたく、28年に上京、詩文学活動へと羽ばたいた。11年後、病のため徳之島に帰郷を余儀なくされ、小学校教育に携わっていた。46年2月、奄美群島が本土から分離され、米軍施政下になった5年後、奄美大島日本復帰協議会議長となった。
 大学ノートに「牛歩」と題した日記は、名瀬市長になった52年9月16日~11月上旬の約2ヶ月間ある。
 「牛はのろのろと歩く 牛は野でも山でも道でも川でも 自分の行きたいところへは まつすぐに行く」
 泉が一時親交のあった高村光太郎の詩「牛」の書き出しである。この時期、奄美全島が国連の信託統治下に置かれるとか、沖永良部島と与論島が分離されて返還されるとか、様々な臆測が飛び交っていた。国連の信託統治になると、返還には国連加盟国の多数の承認が必要で、米ソ冷戦下にあっては事実上不可能のおそれがあった。しかし高村の詩に「牛の眼は叡智(えいち)にかがやく」とあるように泉の眼は不屈の精神で輝いていた。

 泉の代表作に「島」がある。
 「わたしは島を愛する 黒潮に洗い流された南太平洋のこの一点の島を 一点だから淋しい 淋しいけれど 消え込んではならない」で始まり、「わたしはここに生きつがなくてはならない人間の灯台を探ねて」で終わる有名な詩である(『詩集』P18~20)。
 自筆原稿とは表現が違っているので、刊行に当たって推敲したと思われる。最大の相違点は7行抜けていること。「かつてイギリス海峡のゲルンシーで 人類の悲哀を絞り切って書きつづられたレ・ミゼラブルを 敗戦国民ビクトル・ユーゴーが ぼろぼろの余命を託して探ねあぐんだものは何であったろうか」
 復帰運動を詩によって進めた泉の詩に圧倒的に多い言葉は「民族・歴史・世界史」である。奄美が米軍施政下にある現実を世界史の悲劇ととらえていた。
 遺稿には「蕃衣を着て」と題する短編小説の原稿もある。30年に日本統治時代の台湾で起こった「霧社事件」がモチーフ。なぜ泉は台湾の先住民に対する弾圧の実情を知っていたのか? 「民族詩人」「民衆詩人」にとって、芸術と生活とは切り離せないものだった。敗戦直後の詩「名瀬町風景」には、生活派の詩人の姿が見える。


『高村光太郎全集』には、泉の名は昭和27年(1952)12月14日の日記で一度だけ出てきます。

田村昌由、泉芳郎、上林猷夫、竹村さんといふ女流詩人くる、一時間ほど談話、泉氏は俺美大島の村長

「芳郎」は「芳朗」の、「俺美大島」は「奄美大島」、「村長」は「市長」の誤りです。

昭和27年12月といえば、光太郎は生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作のため、終焉の地となった中野の貸しアトリエに入って間もない頃。今回見つかった泉の日記は、その前月までのものだそうで、この日の会見の部分は入っていないのでしょう。

また、たまたま手元にあった白鳥省吾主宰の詩誌『地上楽園』の第3巻第29号(昭和3年=1928)に、光太郎と泉、双方が寄稿していました。光太郎は詩、泉は評論。こういう例は他にもありそうです。
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奄美群島の米軍統治、そして泉のような存在、もっと光が当たっていいような気がします。

【折々のことば・光太郎】

くもり、夜はれる、少し寒くなる、 朝の年賀ハカキ放送をきく、 雑煮、


昭和27年(1952)1月3日の日記より 光太郎70歳

「朝の年賀ハカキ放送」は、おそらく前月に盛岡で録音した、光太郎自身が出演した番組でしょう。この際のテープなども未確認です。

たまたまネット上で見つけました。九州鹿児島から演劇の公演情報です。 

演劇集団宇宙水槽 番外公演#1 『ちえこのかって』

期   日 : 2018年12月22日(土)~24日(月・振休)
会   場 : ギャラリー游 鹿児島市山之口町3-14
時   間 : 22日(土) 14:00~/18:00~  23日(日) 14:00~/18:00~
        24日(月・振休) 14:00~
料   金 : 一般1200円  学生(高校生以下)800円  (予約制/25席)
問 合 せ    : cosmorium@hotmail.co.jp  電話・SMS:090-3744-8736(宮田)

世間の世間の注目する「新しい女」、若き女流油絵画家・智恵子。日本の芸術界の矛盾を批判して世間を騒がせていた新進気鋭の芸術家、光太郎。2人が出会ったのは、明治44年12月のことだった。光太郎は妻である智恵子の死を「レモン哀歌」という詩に描いた。
智恵子という女の人生、苦悩、喜び、狂気、レモンの香りで隠しおおせた”秘密”――
2人の芸術家の姿を描く、宇宙水槽の二人芝居。
 
脚本:イワモトエリ   演出:宮田晃志   出演:うとよしみ/宮田晃志


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お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

自分の芸術を模倣である、と言はれれば、模倣でない、と心の底から言ひ張れる。自分の芸術を虚偽である、と言はれれば、虚偽でない、と心の底から言ひ張れる。自分の芸術を遊動である、と言はれれば、遊動でない、と心の底から言ひ張れる。自分の芸術を概念である、と言はれれば、概念でない、と心の底から言ひ張れる。自分の芸術を外殻である、と言はれれば、外殻でない、と心の底から言ひ張れる。

散文「所感」より 大正2年(1913) 光太郎31歳

岸田劉生、木村荘八らと共に開催した第二回フユウザン会展の目録に載せた文章の冒頭部分です。強烈な矜恃が見て取れますね。

今日は別の件をご紹介する予定だったのですが、昨日、埼玉県東松山市で明日まで開催の「高田博厚展2018」に関し、『朝日新聞』さんと『東京新聞』さんが、光太郎にからめて取り上げて下さいまして、その他、最近の新聞雑誌各紙誌に載った記事と併せてご紹介します。

まず、「高田博厚展2018」、『朝日新聞』さん。 

高田博厚の彫刻展 東松山で18日まで

 埼玉県東松山市は、日本を代表する彫刻家高田博厚(1900~87)の遺族から寄贈を受けた作品と功績を紹介する「高田博厚展2018」を、市総合会館で開いている。文豪ロマン・ロランらとの交遊がわかる日記の翻訳文や鎌倉のアトリエが再現されている。18日まで。
 高田は福井県から上京し、彫刻家高村光太郎らと出会い彫刻を始めた。渡仏してロマン・ロランやジャン・コクトー、画家ルオー、哲学者アランらと交流。知的で詩情ある作風で、ルオー、ロマン・ロランらの肖像作品がある。
 高田の没後30年を迎えた昨年、神奈川県鎌倉市のアトリエが12月に閉鎖され、東松山市に作品群の一部が寄贈された。同年2月に亡くなった元市教育長で詩人の田口弘さん(享年94)が高村光太郎に心酔し、高村や高田とも親交があった関係で寄贈された。
 東松山市は86~94年に高田の彫刻作品32体を購入し、東武線高坂駅前約1キロの通りに設置。「高坂彫刻プロムナード」を整備するなどしてきた。展覧会では、鎌倉に残されていたマハトマ・ガンジーの彫刻とデッサンなど高田が制作した彫像作品や絵画、ロマン・ロランの署名入り著書、彫刻台やヘラ、イーゼルなどの道具を並べて鎌倉のアトリエの一部を再現した展示がある。(大脇和明)

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続いて『東京新聞』さん。埼玉版です。 

日仏で活躍した彫刻家・高田博厚の足跡たどる 東松山市総合会館で18日まで

 国内外の著名人との幅広い交流で知られる彫刻家高田博厚(一九〇〇~一九八七年)の足跡をたどる企画展「高田博厚展2018」が、東松山市総合会館(同市松葉町)で開かれている。彫刻やデッサン、絵画計三十点のほか、書簡などが並ぶ。十八日まで。入場無料。
 高田は、一九三一年から第二次大戦をまたいで五七年までフランスに滞在。ノーベル賞作家のロマン・ロランや哲学者アラン、画家ジョルジュ・ルオー、芸術家ジャン・コクトーら名だたる文化人と交流した。
 七四年、彫刻家で詩人の高村光太郎を共通の知人として東松山市の故田口弘教育長(当時)と出会い、八〇年に同市で彫刻展と講演会を開催。田口さんの提言で市は、東武東上線高坂駅西口に高田の作品三十二体を一キロにわたって並べた「高坂彫刻プロムナード」を整備した。市には昨年十二月、神奈川県鎌倉市の高田のアトリエ閉鎖に伴い、遺族から遺品が寄贈された。
 企画展では、高田が「人格的師」と仰いだロマン・ロランをはじめ、アランや詩人中原中也ら交流のあった文化人をモデルにした彫刻作品のほか、書簡などを展示。アトリエを再現した机やパネル展示、ビデオ上映もある。
 同会館では、高田のフランスのアトリエを受け継いだ洋画家で文化勲章受章者の野見山暁治さん(97)と、芥川賞作家で仏文学者の堀江敏幸さん(54)が高田について対談。野見山さんは、パリでの高田との偶然の出会いから、頼み込んでアトリエを継いだエピソード、帰国後の交流まで、ユーモアを交えて語った。
 野見山さんは、高田が帰国する際にアトリエの作品を「例外なく一枚残らず完璧に焼いてくれ。固い約束をしてくれ」と託され、何日もかけて焼却したという。帰国後、銀座のギャラリーで高田の絵を見て「僕が焼いた作品の方が良かった」と思ったことを述懐した。(中里宏)


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こちらは過日の関連行事としての野見山暁治氏と堀江敏幸氏の対談についても触れられています。


さて、他の件で。

やはり『朝日新聞』さんで、先月28日、鹿児島版に載った記事。平成30年度(第71回)全日本合唱コンクール中学校・高等学校部門についてです。 

鹿児島)松陽と鹿児島が熱唱 全日本合唱コンクール

 第71回全日本合唱コンクール全国大会(全日本合唱連盟、朝日新聞社主催)の高校部門が27日、長野市のホクト文化ホールであり、九州支部代表として県内からは2校が出場した。Aグループ(8~32人)の松陽は銀賞を、Bグループ(33人以上)の鹿児島は銅賞を受けた。
 松陽は自由曲で「牡丹一華(ぼたんいちげ)」を歌い上げた。古今和歌集の恋の歌6首を織り込み、ため息やひそひそ声でうわさ話を交わすような場面もある複雑な旋律だったが、「練習の成果を出せた」と宮原真紀教諭(46)。和楽器の笙(しょう)やピアノの旋律も加わって、豊かな世界を作り上げた。
 出演順が朝一番とあって、出演した23人は「午前5時起床」と話し合った。電話で起こし合う約束をする部員も。花月真悠子(かげつまゆこ)部長(3年)は何人かに電話したが、「しっかり起きていました。おかげで集大成の舞台をやり遂げることができました」。
 鹿児島は自由曲に、高村光太郎の詩に西村朗が曲をつけた「レモン哀歌」を選んだ。最愛の妻を夫がみとる場面を描いた曲だが、単なる悲哀ではなく、妻への深い愛や生きる力が込められていると解釈し、表情豊かに歌った。学校の定期演奏会などで披露する1時間ほどの合唱劇で、表現力を磨いてきたという。
 部長の高岡未侑さん(3年)は「緊張したけど、歌い始めたら最高に楽しかった」と笑顔。顧問の片倉淳教諭は「心のこもったすてきな音楽にあふれていた。今日の演奏を人生の宝物にしてほしい」と部員たちにエールを送った。

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西村朗氏作曲「混声合唱とピアノのための組曲「レモン哀歌」」の終曲「レモン哀歌」を自由曲に選んだ鹿児島高校さん、参加賞に当たる銅賞でしたが、全国コンクールの舞台に立ったというのがすでにすばらしいことですので、胸を張っていただきたいものです。

ちなみに、大学・一般部門は11月24日(土)、札幌コンサートホールKitara  大ホールで開催されますが、こちらでは光太郎詩に曲を付けたものの演奏は、残念ながらありません。


お次は『読売新聞』さん。11月12日(月)の書評欄に高橋秀太郎氏、森岡卓司氏共編の『一九四〇年代の〈東北〉表象 文学・文化運動・地方雑誌』が取り上げられ、光太郎の名も。 

新たな自画像を描く 『一九四〇年代の〈東北〉表象』 高橋秀太郎、森岡卓司編

 副題に「文学・文化運動・地方雑誌004」とある。戦中から戦後にかけての文学作品や雑誌、そしてそれをめぐる動きから、東北と、さらに北海道や新潟の地がどのように捉えられてきたのか、自らはなにを発信してきたのかをテーマに検証、スリリングな論集となった。東北文学に関心ある読者には読み逃せない一冊である。
 作家・詩人なら島木健作、太宰治、吉本隆明、宮沢賢治、高村光太郎、更科源蔵、石井桃子らが論じられ、雑誌でいえば『意匠』が『文学報国』が『月刊東北』が『至上律』が『北日本文化』が俎上そじょうに載る。敗戦前後のカタストロフに、戦争にいかに処したかを問い問われた者が、モダニズムの灯を守ろうと試みた者が、疎開によって「東北」を新たに発見した者がいる。人間の疎開だけでなく、雑誌や出版社そのものの疎開もあれば、戦時下や戦後復興への東北の役割や使命も誌上で模索された。
 なつかしき原風景でありながら近代に乗り遅れた貧しい地域といった正と負のイメージの交錯はもちろん、危機の時代にあってさまざまに東北に寄せられるイメージと東北が発するイメージの錯綜さくそうに、東日本大震災後の東北で出版を生業とする私はいまさらながら深く頷うなずかされた。震災のカタストロフを経て、いま、東北はどのようにイメージされるのか。例えば半世紀を経て、東北をめぐる現在の文学はどのように読まれるか。それはこの国のなにを象徴するか。東北を中心に東日本の大学に所属する論者たちによる収録八編の論考を読みながら、さまざまに連想が跳ねた。
 さらに、東北のみならずこのような視点で全国各地が読み解かれてもいい。文学や雑誌、あるいはそれに関わる動きにしろ、なにも東京だけが発信源ではない。本書の視点でそれぞれの地域を読み直せば、その地の新しい自画像が描ければ、日本の文学史はもっと豊かに深まる。
 ◇たかはし・しゅうたろう=東北工業大准教授◇もりおか・たかし=山形大准教授。いずれも専門は日本近代文学。
 東北大学出版会 5000円
 評・土方正志(出版社「荒蝦夷」代表)

今後、他紙でも取り上げていただきたいものです。


最後に、隔月刊雑誌で『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』 さん。先月末に第10号が出ました。花巻高村光太郎記念館さんの協力で為されている連載、今号は「光太郎レシピ」。「馬喰茸の煮付けとハモ入りセリフォン炒め」です。

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バックに、高村光太郎記念館さんで開催中の企画展「光太郎と花巻電鉄」に出品されている、ジオラマ作家・石井彰英氏制作の昭和20年代、光太郎が暮らした頃の花巻町とその周辺のジオラマが使われています。

同展、11月19日(月)までの開催です。一人でも多くの方のご来場をお待ちしておりますのでよろしくお願い申し上げます。


他にも紹介すべき記事等があるのですが、後日、また改めまして書きます。


【折々のことば・光太郎】

此の詩集に序を書くにしては私は少々野暮すぎる。さう思はれるほと此の詩集には隠微な人情の、見えかくれするしんじつ心の意気が飄々嫋々とうたはれてゐる。

散文「川野辺精詩集「新しき朝」序」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

川野辺精(かわのべくわし)は、茨城県出身の詩人です。『新しき朝』はおそらく川野辺唯一の詩集。玉川学園出版部から刊行されました。

鹿児島から企画展情報、これまでに東京大阪を巡回したNHK大河ドラマ特別展「西郷どん」展の鹿児島展です。  

明治維新150周年記念黎明館企画特別展・NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」

期 日  : 2018年9月27日(木)~11月18日(日)
会 場  : 鹿児島県歴史資料センター黎明館 鹿児島県鹿児島市城山町7番2号
時 間  : 午前9時~午後6時
料 金  : 一般1000円(800円) 高校・大学生600円(480円)( )は20名以上の団体
休館日    : 月曜日及び10月25日(木)

明館「西郷どん」展は,平成30年NHK大河ドラマ「西郷どん」の放送に関連して,ドラマの登場人物に関係する文化財や歴史資料を通じ,主人公である西郷隆盛ゆかりの地の歴史や文化を紹介する展覧会です。
治維新の英雄である西郷には,肖像写真が一枚も残っておらず,その生涯はいまだに謎に包まれています。薩摩藩の下級藩士の家に生まれた西郷は,両親を早くに亡くし,家計を支えるために農政の役人補佐として働き始めます。やがて,藩主の島津斉彬に抜擢された西郷は,斉彬の密命をおび,江戸や京を奔走し,薩摩を代表する人物へと成長していきました。
感な青年期を経て,三度の結婚,二度の離島での生活ののち,一介の薩摩藩士に過ぎなかった西郷は,勝海舟,坂本龍馬らの人物たちと出会い,やがて「革命家」へと変貌し,倒幕の大きな原動力となります。類い希なる「勇気」「決断力」「実行力」で,明治維新を成し遂げた西郷ですが,その最期は,明治政府と戦い,命を散らすこととなりました。
展においては,西郷の生涯と,彼を取り巻く維新の群像について,節目となる歴史的な出来事を中心に,激動の時代をリアルに感じることができる資料,西郷本人ゆかりの品々を紹介していきます。

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関連行事

1 記念講演会「西郷隆盛と西南戦争」
 【日時】平成30年10月6日(土曜日)午後1時30分~午後3時
 【会場】黎明館2階講堂(245席)
 【講師】明治大学文学部教授落合弘樹氏

2 記念シンポジウム「西郷隆盛と明治維新」
 【日時】平成30年10月20日(土曜日)午後1時30分~午後4時
 【会場】黎明館2階講堂(245席)
 【パネリスト】
  鹿児島県立図書館長原口泉氏(基調講演「西郷隆盛が明治維新で目指したもの」)
  大阪経済大学特別招聘教授家近良樹氏
  鹿児島大学教育学部准教授佐藤宏之氏
  尚古集成館長松尾千歳氏

3 黎明館職員による展示解説講座第1回「幕末維新期の政局における西郷隆盛と島津久光」
 【日時】平成30年9月30日(日曜日)午後1時30分~午後3時
 【会場】黎明館2階講堂(245席)
 【講師】黎明館学芸専門員市村哲二

4 黎明館職員による展示解説講座第2回「愛加那と西郷隆盛」
 【日時】平成30年11月10日(土曜日)午後1時30分~午後3時
 【会場】黎明館2階講堂(245席)
 【講師】黎明館学芸課主事小野恭一

5 小・中学生向け「西郷どん」展示解説
小学生・中学生を対象に,黎明館の学芸員が「西郷どん」展の展示を楽しく,わかりやすく解説します。150年前にタイムスリップして,きみも「西郷どん」博士になろう。
中学生以下無料。参加者には,もれなくオリジナル学習シートをプレゼントします。
 第1回10月14日(日曜日)午前10時~午前10時50分
 第2回11月4日(日曜日)午前10時~午前10時50分
 集合場所 黎明館1階ロビー中央階段前(午前9時50分までに)
 講 師 黎明館学芸課主事小野恭一 黎明館学芸専門員市村哲二
 対 象 小学生・中学生とその保護者
 参加費 中学生以下無料 保護者の方は,お得な団体観覧料で御覧になれます。
 定 員 20名(要申込み,先着順)定員に満たない場合,当日申込み可
 申込み方法 申込み開始日以降に,黎明館学芸課(099-222-5396)まで電話。
 定員に達しましたら,募集を締め切らせていただきます。
 第1回9月14日(金曜日)から受付開始(受付時間:午前9時~午後6時)
 第2回10月4日(木曜日)から受付開始(受付時間:午前9時~午後6時)


展示の最後、西郷の歿後を扱う「人々の中の西郷」のコーナーで、光太郎の父・光雲が制作主任として関わった西郷隆盛銅像に関する資料が出品されます。どうも東京展で出品された、西郷隆盛銅像の、顔がない「のっぺらぼう」写真は残念ながら展示されないようですが。

関連行事が充実しています。お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

彼はこれまで気づかれずに居た日本語の深さを路傍の石ころからでも見つけ出した。生きた言葉を方々から拾ひ上げた。彼はいつでも満足してゐない。日本語のリトムについて時々不満げに模索してゐる。

散文「芭蕉寸言」より 昭和10年(1935) 光太郎53歳

「彼」とは光太郎ではなく、松尾芭蕉。やはり詩人としての大先輩に自らの姿を二重写しにしているようです。

先月まで、和歌山の田辺市立美術館さんで開催されていた企画展「宮沢賢治・詩と絵の宇宙~雨ニモマケズの心」が、鹿児島に巡回されます。

宮澤賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心

期 日 : 2014年7月31日(木)―8月31日(日)
会 場 : かごしま近代文学館 (鹿児島市城山町5-1)
時 間 : 午前9時30分~午後6時(入館は午後5時30分まで)
料 金 : 
一般 600円(500円) 小中学生 300円(200円)( )内は20名以上の団体割引
休 館 : 毎週火曜日
 
 
主催  鹿児島市 鹿児島市教育委員会 公益財団法人かごしま教育文化振興財団 かごしま近代文学館
企画協力  NHKサービスセンター、アート・ベンチャー・オフィス ショウ
特別協力 宮沢賢治記念館、宮沢賢治イーハトーブ館、林風舎
 
 日本が大震災からの復興をめざす中、「雨ニモマケズ」の詩でよく知られる宮沢賢治(1896-1933)が再び注目されています。賢治自身も、生まれる二か月前と亡くなる半年前に大地震と津波に襲われています。その生涯は、まさに天災・凶作との闘いでもあったのです。そして、理想郷をめざす苦闘の跡は、多くの詩や童話にも綴られました。
 賢治が生み出したメルヘン的・幻想的な作品群は、多くの読者や芸術家に、さまざまな視覚的、聴覚的なイマジネーションを喚起させます。そんな宮沢賢治の生涯と作品を、「雨ニモマケズ」の詩が直筆で書かれた手帳や、直筆の水彩画、および数多くの詩や童話作品のために描かれた多くの作家らによる挿絵原画約200点により紹介する展覧会を開催いたします。
 死後80年経たいまでさえも、人々の心深くに強く訴えかけてくる宮沢賢治の世界を蘇らせ、視覚的に体感し、そのメッセージに強く触れ、感じていただきたいと思います。
 
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一昨年の3月から、実に2年以上にわたって、全国を巡回しています。それだけ人が集まったということなのでしょう。当方、一昨年、2館めの横浜そごう美術館で観て参りました。
 
光太郎筆の「雨ニモマケズ」書幅――花巻の羅須地人協会跡地に建てられた、賢治碑の原本――が展示されます。
 
この鹿児島展で一区切りのようですが、さらに巡回が続くかもしれません。注意して見ておこうと思います。
 
 
【今日は何の日・光太郎 補遺】 7月18日003
 
昭和5年(1930)の今日、アンソロジー『生田春月追悼詩集 海図』が刊行されました。
 
萩原朔太郎、室生犀星などの作品とともに、光太郎詩「消えずの火」が掲載されています。
 
生田春月は、明治25年(1892)生まれの詩人。妻は『青鞜』同人の生田花世です。
 
この年5月、瀬戸内海を航行中の船から、投身自殺をしました。
 

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