今日は、8月から10月の光太郎関連の動きを振り返りますが、やはり7月で書き落としていましたので、そちらから。
7月(日付不明) 花巻高村光太郎記念館さんから、『光太郎 1883―1956』が刊行されました。同館展示品などの写真集です。
8月1日(月) 文京区のケーブルテレビ区民チャンネルさんで、「ぶんきょう浪漫紀行 高村光太郎」の後編が初放映されました。
同日、岩手日日新聞社さんから、観光PR誌『岩手大陸』第3号が発行され、花巻高村光太郎記念館さんが大きく紹介されました。
8月2日(火) コールサック社さんから、曽我貢誠氏他編『少年少女に希望を届ける詩集』が発行されました。光太郎詩「道程」「冬が来た」も収められています。
8月9日(火) 宮城県女川町のフューチャーセンターcamassを会場に、「第25回女川光太郎祭」が開催されました。当方の記念講演に始まり、地元や遠方の皆さんによる詩の朗読、当会顧問・北川太一先生の講話などが行われました。
8月10日(水) 講談社文芸文庫の一冊として、室生犀星著『我が愛する詩人の伝記』が復刊されました。光太郎アトリエ訪問記も掲載されています。
8月10日(水)~28日(日) 埼玉東松山市立図書館で、「高村光太郎資料展~田口弘氏寄贈資料による~」が開催されました。21日(日)には、田口弘氏によるご講演もありました。
8月11日(木)~9月11日(日) 美術館「えき」KYOTOにおいて、「世界の巨匠たちが子どもだったころ」展が開催され、光太郎の姉・さく(咲子)の日本画が展示されました。
8月14日(日) 『朝日新聞』さんの一面コラム「天声人語」で、終戦記念日にからめ、光太郎に触れて下さいました。
8月17日(水) 日本ヴォーグ社さん刊行の雑誌『手づくり手帖』第10号に載った、色彩アートセラピスト・江崎泰子氏による「巻頭特別エッセイ 色はこころの表現」で、智恵子の紙絵について触れられました。
8月20日(土)~28(日) 花巻市の宮沢賢治記念館で、「「雨ニモマケズ」展」が開催され、光太郎が揮毫した「雨ニモマケズ」詩碑の碑文の書が展示されました。
8月28日(日)~9月2日(金) 千代田区の神保町シアターで、「一周忌追悼企画 伝説の女優・原節子」の一環として、昭和32年(1957)の東宝映画「智恵子抄」が上映されました。
9月10日(土)~10月23日(日) 石川県立美術館にて企画展「近代美術の至宝 明治・大正・昭和の巨匠」が開催され、光太郎のブロンズ「手」が出品されました。
9月11日(日) 福島市子どもの夢を育む施設こむこむ館で、「アナウンサーたちが言葉で綴る物語の世界 第20回定期朗読ステージ 季節はめぐり…そして今~朗読集団「原 國雄とその仲間たち」~」が開かれ、「智恵子抄」が取り上げられました。
9月16日(金) 茨城県守谷市の茶房かやの木で、「おとばな結成3rd記念コンサート フルートとギターと語りのコンサート『おとばなノスタルジア館』」が開催、光太郎詩「レモン哀歌」が取り上げられました。
9月17日(土) 岡山県赤磐市中央公民館で、「第14回おかやま県民文化祭参加事業 岡山県生涯学習大学連携公開講座「高村光太郎と智恵子の運命」」が、三浦敏明氏 (東洋大学名誉教授)を講師に開催されました。
9月17日(土)~10月10日(月) 津市の三重県総合博物館において、「新 津市誕生10周年特別展覧会「過去から未来へ~津のあゆみ~」展が開かれ、光雲作の木彫「魚籃観音立像」が出品されました。
9月17日(土)~11月6日(日) 東京ステーションギャラリーさんで、企画展「動き出す!絵画 ペール北山の夢 ―モネ、ゴッホ、ピカソらと大正の若き洋画家たち―」が開催され、光太郎油彩画「上高地風景」「佐藤春夫像」が出品されました。
9月18日(日) 福島二本松の智恵子生家近くで、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子純愛通り記念碑第8回建立祭 坂本富江さんの絵で語る智恵子の生涯」が開催されました。
9月21日(水) 花巻市の宮沢賢治詩碑前広場に於いて、「賢治祭パート2 《追悼と感謝をこめて》」が開催され、「宮沢賢治と高村光太郎」の題で、当方が講話をさせていただきました。
9月22日(木)~12月25日(日) 静岡県三島市の大岡信ことば館さんで開催の「谷川俊太郎展 ・本当の事を云おうか・」で、光太郎から谷川氏に宛てられた昭和29年(1954)の葉書が展示されました。
9月24日(土) 福島二本松の安達文化ホールで、「【高村智恵子生誕130年記念事業】原節子主演「智恵子抄」フィルム上映会」が実施されました。
同日、いわき市のいわき芸術文化交流館「アリオス」では、国立大学法人福島大学うつくしまふくしま未来支援センター (FURE)さん主催の「シンポジウム in いわき ほんとの空が戻る日まで~ふくしま浜通り地方の復興・再生~」が開催されました。
さらに同日、銀座CHEEPA'S CAFEで、テルミン奏者大西ようこさん他による「ぷらイム in チーパズカフェ 2 ~ アトムも来るよ! ~」公演があり、初代鉄腕アトムの声を演じられた清水マリさんによる「智恵子抄」朗読もプログラムに入りました。
9月25日(日) 『読売新聞』さんの土曜版の連載「名言巡礼」で、岡山赤磐出身の詩人にして光太郎と交流の深かった永瀬清子が取り上げられ、光太郎との関わりについても言及されました。
9月26日(月) 品川郷土の会会長を務められ、智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院跡の「レモン哀歌」詩碑建立に尽力された、土屋恒行氏が亡くなりました。
10月1日(土) 株式会社アールビーズさん発行のランニング愛好家向け雑誌『ランナーズ』10月号、「熊出没の青森鹿角は駅伝の故郷 武田千代三郎と乙女の像の因縁」という記事で、「十和田湖畔の裸婦群像(乙女の像)」にふれられました。
同日、青森県十和田市の『広報とわだ』では、「特集「十和田湖・奥入瀬渓流」」を組み、光太郎に言及しました。
さらに同日、荒川区のムーヴ町屋で、第20回TIAA全日本作曲家コンクール入賞者披露演奏会が開催され、野村朗氏作曲「連作歌曲「智恵子抄巻末の短歌六首」より」が、森山孝光氏(Br)、森山康子氏(pf)で演奏されました。
10月2日(日)~11月27日(日) 二本松市の歴史民俗資料館及び智恵子記念館で、「智恵子生誕一三〇年・光太郎没後六〇年記念企画展 智恵子と光太郎の世界」が開催されました。関連行事的に、2日(日)には高村光太郎研究会員・大島裕子氏による「記念講演会 『智恵子抄の世界』―智恵子生誕130年に伝えたいこと―」、さらに智恵子を偲ぶ第22回レモン忌も開催されました。
同日、郡山市の市民文化センターで、市制施行90周年・合併50年を記念して同市出身の湯浅譲二氏が作曲した「あれが阿多多羅(あだたら)山」が初演されました。
さらに同日から11月1日(火)にかけ、鎌倉市のギャラリー笛さんにおいて、展示「回想 高村光太郎 尾崎喜八 詩と友情 その五 鎌倉における光太郎と喜八」が行われました。
10月5日(水) 二本松市智恵子の生家に於いて、「福島現代美術ビエンナーレ 2016 - 氣 indication -。」の一環として、画家・小松美羽さん、詩人・和合亮一氏のコラボによるアクションペインティングと朗読が行われました。
10月10日(月) 二本松市市民交流センターにおいて、智恵子のまち夢くらぶさん主催の「智恵子講座'16」が始まりました。昨年からのカウントで、第5回が「セザンヌとポスト印象派」、講師は後藤學氏 (喜多方美術館館長)でした。第6回は11月20日(日)、宮川菊佳氏 (ギタリスト)で、「美の同志 高村光太郎~クラシックのギターと共に~」。第7回の「平塚らいてうと青鞜社」(福島大学名誉教授・澤正宏氏)/第8回 「参加者による高村智恵子を語るつどい」(12月18日(日))で終わりました。
10月10日(月)~11月23日(水) 二本松市霞ヶ城公園に於いて、「第62回 菊の祭典 二本松の菊人形」が開催され、光太郎智恵子の人形も展示されました。
10月15日(土) 麗人社さん発行の雑誌『美術屋・百兵衛 2016年秋号 vol39 岩手県特集』で、「彫刻家・高村 光太郎」10㌻が掲載されました。
10月20日(木) 響林社さんからwisさんの朗読によるCD、<声を便りに>オーディオブック 「智恵子抄(抄) 高村光太郎 ― 十七編抜粋 ―」がリリースされました。
10月23日(日) 俳優の平幹二朗さんが亡くなりました。平さんは、昭和42年(1967)、松竹映画「智恵子抄」(中村登監督、主演・岩下志麻さん、丹波哲郎さん)にご出演。光太郎の親友、石井柏亭の役でした。また、平成12年(2000)には、津村節子さんの小説を原作とした舞台「智恵子飛ぶ」で、ズバリ光太郎役を演じられました。
10月25日(火)~2017年2月13日(月) 盛岡市の盛岡てがみ館さんで、第51回企画展「文豪たちの原稿展」。現在も開催中、光太郎原稿「國民まさに餓ゑんとす」他が展示されています。
10月26日(水)~12月4日(日) 堺市博物館さん他3会場で、「河口慧海生誕150年記念事業「慧海と堺展」」が開催され、光雲木彫「釈迦牟尼仏」が出品されました。
10月30日(日) 集英社さんから、原田マハさん著『リーチ先生』が刊行されました。光太郎の親友だった陶芸家、バーナード・リーチを描く小説で、光太郎、光雲、豊周も登場し、活躍します。
明日は、残る11・12月を振り返ります。
【折々の歌と句・光太郎】
吾山にながれてやまぬ山みづのやみがたくして道はゆくなり
昭和24年(1949) 光太郎67歳
個人的に、光太郎短歌・俳句等の中で、最も好きな作品です。晩年となり、「行雲流水」の境地に達し、しかし、流されるのではなく、あくまで求道者たらんとするその姿勢。ここに光太郎の真骨頂があるように思われます。