カテゴリ:文学 > エッセイ等

一昨日のこのブログで、岩波書店さんの「岩波文庫創刊100年記念 読者リクエスト復刊2027」について書きました。同文庫が来年で100周年だそうで、それに伴って絶版となっているものの復刊リクエストが行われているという件。

対象書籍に、光太郎著の美術評論集『緑色の太陽』、光太郎訳の『ロダンの言葉』が含まれているので、投票をお願いしますとしましたが、光太郎の父・光雲がらみを失念していました。こちらも2冊あります。

まず光雲の単著で『幕末維新懐古談』(平成7年=1995)。元版は昭和4年(1929)、萬里閣書房から刊行された『光雲懐古談』。その前半3分の2ほどの「昔ばなし」編を一冊にしたもので、光太郎の友人だった作家・田村松魚が光雲宅に出向いて、光太郎の同席の上、光雲に語ってもらい筆録した回顧談です。一部はそれ以前に公の場で語ったものも含まれます。

仏師・高村東雲の元での徒弟時代の思い出から、戊辰戦争など幕末維新の混乱期の世相、独立後に手がけたいくつかの代表作についての解説など、非常に興味深い内容です。
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ちなみに元版の題字揮毫は息子の光太郎です。

同様に「昔ばなし」のみを一冊にまとめたものは、昭和42年(1967)に中央公論美術出版から『木彫七十年』の題で、昭和45年(1970)には新人物往来社が『高村光雲懐古談』と題して、さらに岩波さんで文庫化した後の平成12年(2000)に日本図書センターから「人間の記録」シリーズの一冊で『高村光雲 木彫七十年』として刊行されています。すべて絶版です。
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ただ、ネットの青空文庫さんで、岩波文庫版を底本に全文が登録されていますし、それをさらに転用した電子書籍も出ているようです。そちらで手軽に読めるため、岩波文庫版の売り上げも落ちてしまったのかも知れません。

もう一冊、『戊辰物語』(昭和58年=1983)。
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底本は昭和3年(1928)に萬里閣書房から出た同名の書。
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『東京日日新聞』に昭和2年(1927)から翌年にかけて連載された「戊辰物語」、大正15年(1926)の連載の「五十年前」、そして単行本化の際に増補された「維新前後」の三章から成ります。

各界著名人やその係累の談話筆記で、語り手は金子堅太郎子爵、近藤勇五郎(新選組局長・近藤勇の娘婿)、落語家の三代目柳家小さんなど。そこに光雲も含まれています。光雲の談話はまず「威勢の見せ処、門松すす払い」「淋しい江戸の春」「銭湯の七不思議女湯の刀掛け」「御諚かしこし江戸城の広さ」の項に。それぞれの項に複数人の談話が収められています。それから「彫刻が紙袋に入れられて」という項はまるまる全編が光雲。明治初年、廃仏毀釈で仏像の注文が途絶え、多くの仏師が輸出用の象牙彫刻に転じ、粗悪なものも多く作られるようになったという話です。

これら2冊も復刊されて然るべきと思われます。御協力をよろしくお願い申し上げます。

【高村光太郎書誌】

選集等(翻訳・部分) 2 『世界の名訳詩集Ⅱ』世界の名詩集 別巻2

昭和42年(1967)12月15日 三笠書房 山室静編
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目次
 堀口大学 「月下の一群」抄 (詳細略)
 高村光太郎 「明るい時」「午後の時」「天上の炎」抄
  明るい時
   一(エミイル・ヹルハアラン) 二(同) 四(同) 十(同) 十五(同)
  午後の時
   一(エミイル・ヹルハアラン) 二(同) 三(同) 四(同) 十二(同)
  天上の炎
   新らしい都(エミイル・ヹルハアラン) 今日の人に(同) 
   或る夕暮の路ゆく人に(同)
  他の詩集から
   パン焼(エミイル・ヹルハアラン) 吾家のまはり(同)
 日夏耿之介 「海表集」「英国神秘詩鈔」「ワイルド詩集」「唐山感情集」抄(詳細略)
 堀辰雄(詳細略)
 解説 山室静

訳詩に特化した選集です。光太郎訳は全てベルギーの詩人、エミール・ヴェルハーレンの作品です。

昭和6年(1931)夏、当時あった新聞『時事新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」執筆のため光太郎が訪れ、それを記念して光太郎文学碑が建てられ、さらに毎年「女川光太郎祭」が有志により開催されている宮城県女川町。6月21日(日)に町制施行100周年の記念式典が開催されました。

仙台に本社を置く『河北新報』さん、当日の一面コラム。

河北春秋(6/21)

東日本大震災後に再建された宮城県女川町はコンパクトで海が見える街として注目される。海岸広場の震災遺構「旧女川交番」の展示には「これからも海とともに生きることを選んだ」と決意が記してある▼中心部の道の駅「おながわ」から女川港を望むと海のきらめきがまぶしいほど。防潮堤に頼らないまちづくりと誤解されることもあるが、リアス海岸の貴重な平地を減らさないよう町全体を防潮堤の高さ以上にかさ上げしてできた▼「還暦以上は口を出さず」も女川の復興を象徴する言葉。若手商工者らが震災翌年、岩手県紫波町の公民連携のまちづくり「オガールプロジェクト」を学び、再建に生かした▼道の駅ではテナントを決めた後に入居者の意向に沿い建物を整備するオガール流を取り入れた。テナントの一つ「お魚いちばおかせい」は、海を眺めて海鮮丼を食べられるテラス席が連日にぎわう。「目指したのは女川の海や景色、人の温かさまで楽しんでいただける場所」と店の人は言う▼女川町ではきょう、町制100周年の式典が開かれる。95年前の1931(昭和6)年、町を訪れた詩人高村光太郎は「新興の気力が海岸には満ちている」と記し、海岸広場の文学碑に刻まれている。その気風は震災後のまちづくりにも生きている。

6月20日(土)の河北新報さん系の『石巻かほく』さんでも引用された「三陸廻り」の一節がこちらでも。ありがたし。

式典の模様を報じる記事、同じく『河北新報』さん。

「力を合わせて輝かしい未来を」 宮城・女川の児童生徒が力強く宣言 町制施行100周年式典

 宮城県女川町の町制施行100周年を祝う記念式典が21日、町生涯学習センターであった。町内の団体代表や行政区長ら、関係者約350人が出席。これまでの町の歩みを振り返り、新たな未来に向け心を一つにした。
 須田善明町長はあいさつで「この地に可能性を見いだした人々がさまざまな壁を乗り越えて結集し、切り開いてきた」と町の100年の歩みについて紹介。
 2011年に発生した東日本大震災の津波が町にもたらした甚大な被害と復興過程を振り返り、「年配者が現役世代にかじ取りを委ねた町づくりの在り方に、地域で受け継がれてきた精神性やアイデンティティーが表れた。次の100年に向かうための大切な羅針盤だ」と述べた。
 式典では、女川小中学校の児童生徒12人が登壇。「未来へのメッセージ」として「豊かな自然と笑顔で包まれた町が発展していけるよう、力を合わせて輝かしい未来を作っていきます」と力強く宣言した。
 女川町は1926(大正15)年、当時の女川村が町に移行して誕生し、4月に100周年を迎えた。
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『石巻かほく』さん。

女川町100周年 発展願う 記念式典、歩み振り返る

 女川町は21日、町制施行100周年の記念式典を町生涯学習センターで開いた。町内の行政区長や団体代表ら関係者計約350人が出席。甚大な被害を受けた東日本大震災とその後の復興、水産業の振興など100年の歩みを振り返り、町のさらなる発展を願った。
   須田善明町長は式辞で、第2次世界大戦や震災などの苦難を振り返り「幾多の試練があったが、変化を恐れず、時代の壁にチャレンジして乗り越えてきた」と語った。町の礎を築いた先人や現在の町民に感謝し「郷土の未来に、一つでも多くの笑顔と希望と幸せをともしていけるよう、力を合わせて歩んでいく」と決意を述べた。
 式典では、写真で歴史を振り返ったり、町民が町の好きなところを紹介したりする記念映像を上映した。女川小中学校の児童生徒12人は「未来へのメッセージ」を発表。「女川は震災を経てより強く生まれ変わった。復興の支援に感謝し、震災の教訓を必ず次の世代に伝える。伝統と歴史を大切に、輝かしい未来をつくっていく」と誓った。
 式典に出席した、町行政区長会の阿部求会長(78)=小乗行政区長=は「100周年を迎えられて感無量だ。これからは若い方がまちづくりに参加し、町を盛り上げてほしい」と期待した。
 メッセージを発表した女川中3年の千葉一夢珂(ひめか)さん(14)は「記念すべき年に女川中生であることを誇りに思う。震災を乗り越えたように、つらいときには手を取り合える町民でありたい」と話した。
 女川町は1926年4月、町制施行で女川村が町に移行して誕生した。オープニングでは、2020年度に女川小中学校で文化芸術体験講座を開いた、仙台市出身のジャズピアニストで作曲家の秩父英里さんが演奏を披露した。
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ちなみに女川町、大正15年(1926)の町制施行以来、一度も他の市町村との合併をしていないという、全国的にも稀有な例だそうです。

町中心部が壊滅状態となるほどの甚大な被害をもたらした東日本大震災から15年の今年、町制施行100周年の新たな門出を迎えたというのも奇縁と感じます。まだまだ課題は山積と思われますが、新しい女川の発展を願って已みません。

【高村光太郎書誌】

選集等(部分) 3 『高村光太郎 萩原朔太郎集』昭和文学全集22

昭和28年(1953)10月15日 角川書店 高村光太郎/萩原朔太郎著
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目次
 高村光太郎集
  筆蹟(うゐのおくやま)
  道程
   失はれたるモナ・リザ 生けるもの 根付の国 画室の夜 食後の酒 寂寥 声
   新緑の毒素 廃頽者より 髪を洗ふ女 なまけもの 地上のモナ・リザ あつき日
   父の顔 泥七宝 犬吠の太郎 さびしきみち ビフテキの皿 梟の族 冬が来る 夜
   狂者の詩 師走十日 戦闘 山 よろこびを告ぐ 冬が来た 冬の詩 牛 道程
   群集に 婚姻の栄誦 瀕死の人に与ふ 五月の土壌 秋の祈 侵蝕 或日の午後
   白昼の空気 疾走 縁日 狗ころ 祈祷
  「道程」以後
   晴れゆく空 海はまろく 花のひらくやうに 無為の白日 丸善工場の女工達
   米久の晩餐 雨にうたるるカテドラル かがやく朝 ラコツチイ マアチ 冬の送別
   五月のアトリエ 沙漠 落葉を浴びて立つ 鉄を愛す 春駒 月曜日のスケルツオ
   氷上戯技 珍客 車中のロダン 葱 後庭のロダン 無口な船長 わが家 小娘
   真夜中の洗濯 歩いても 湯ぶねに一ぱい 序曲 クリスマスの夜
   とげとげなエピグラム 聖ジヤンヌ
  「猛獣篇」時代
   清廉 象の銀行 白熊 傷をなめる獅子 狂奔する牛 鯰 苛察 龍 雷獣 象
   北冥の魚 潮を吹く鯨
  「猛獣篇」以後
   冬の奴 ミシエル・オオクレエルを読む 火星が出てゐる 偶作八篇
   二つに裂かれたベエトオフエン 花下仙人に遇ふ 天文学の話 或る墓碑銘
   ぼろぼろな駝鳥 当然事 無限軌道 夏書十題 ひとり酸素を奪つて 焼けない心臓
   上州湯桧曽風景 その詩 怒 母をおもふ 冬の言葉 何をまだ指してゐるのだ
   彼は語る 街上比興 さういふ友 あの音 北島雪山 上州川古「さくさん」風景 冬
   無題 刃物を研ぐ人 孤坐 美の監禁に手渡す者 似顔 のつぽの奴は黙つてゐる
   南極 蝉を彫る 先生山を見る 晴天に酔ふ 首の座 村山槐多 ばけもの屋敷
   もう一つの自転するもの 荻原守衛 手紙に添へて 芋銭先生景慕の詩
   つゆの夜ふけに 初夏言志 銅像ミキイヰツツに寄す へんな貧 最低にして最高の道
  智恵子抄より
   ――に 或る夜のこころ おそれ 或る宵 郊外の人に 冬の朝のめざめ   深夜の雪
   人類の泉 人に 僕等 晩餐 樹下の二人 夜の二人 あなたはだんだんきれいになる
   あどけない話 同棲同類 風にのる智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子 値ひがたき智恵子
   山麓の二人 レモン哀歌 荒涼たる帰宅 亡き人に 梅酒
  「智恵子抄」その後より
   元素智恵子 メトロポオル 裸形 案内 あの頃 吹雪の夜の独白
  典型
   「ブランデンブルグ」 人体飢餓 東洋的新次元 おれの詩 山荒れる 月にぬれた手
   鈍牛の言葉 典型 山菜ミヅ 山のひろば 山口部落 クロツグミ 別天地 クチバミ
   岩手の人 山からの贈物 女医になつた少女 東北の秋 大地うるはし
   暗愚小伝
    家
     土下座 ちよんまげ 郡司大尉 日清戦争 御前彫刻 建艦費 楠公銅像
    転調
     彫刻一途 パリ
    反逆
     親不孝 デカダン
    蟄居
     美に生きる おそろしい空虚
    二律背反
     協力会議 真珠湾の日 ロマン ロラン 暗愚 終戦
    炉辺
     報告(智恵子に) 山林
   回想録など
  回想録
   子供の頃 母のこと 姉のことなど 美術学校時代 智恵子の半生 智恵子の新盆
   智恵子の半生 智恵子の切抜絵
  随想
   年越し 雪解けず 開墾 早春の山の花 季節のきびしさ 夏の食事 山の雪
   山の人々 山の春 雷ぎらひ しやつくり病 三十年来の常用卓 ほくろ
  詩について
   自分と詩との関係 詩の深さ 小感 言葉の事 生きた言葉 詩人の知つた事ではない
   文語 「道程」改訂版 宮澤賢治
  芸術論
   造型小論 彫刻性について 能の彫刻美 能面の彫刻美 十大弟子 江戸の彫刻
  彫刻のことなど
   蝉の美と造型 ロダンの素描 ロダンの手記談話録 自刻木版の魅力 彫刻的なるもの
   彫刻寸言 美の健康性 芸術上の良知 永遠の感覚 普遍と独自 比例均衡
   美意識について 美の影響力
  出さずにしまつた手紙の一束
  解説 伊藤信吉
  年譜
 萩原朔太郎集  (略)
 解説 伊藤信吉

 
月報 第二十二号
  一つのこと 草野心平 高村光太郎氏 室生犀星 萩原君の詩 日夏耿之介
     萩原さんといふ人 三好達治
 朔太郎と光太郎 笹沢美明
 主要研究書目・参考文献

戦後の混乱も徐々に収まり、いわゆる「文学全集」ものが各社から刊行が相次ぐようになると、光太郎もラインナップにほぼ必ず入るようになりました。光太郎単独で一冊が編まれた場合もあり、数人で一冊の場合も多くありました。

3件ご紹介します。

掲載順に、まず6月16日(火)『毎日新聞』さん夕刊。アナウンサーの近藤サトさんの寄稿です。

Media NOW! 動画隆盛とAI世界 芸術とは、人間とは何か=近藤サト

002 大学でアナウンスの実習授業を受け持つようになって15年になります。アナウンサーや音声表現者を目指す学生の受講が主ですが、15年の間に実習内容はかなり変わりました。今年初めて導入したのは動画制作です。これまでアナウンス実習では、さまざまな声の表現を学ぶことに特化してきましたが、なぜ、本来は番組制作実習で行う動画の撮影、編集が必要になったかというと、最近は音声表現者のみならず個人の動画配信が共通認識になってきたからです。
 音声表現者本人による動画配信は認知度の向上に限らず、販路や業務拡大につながる可能性が十分にあります。また多くの企業が動画選考を採用しているように、動画はすでに映りたい人だけのものですらなくなりました。
  その中でより効果的な動画を作るためには、声や体の表現に加え、高性能な編集アプリの使用や有効な配信のためのマーケティングも必要です。15年の間に、それら全てを一人でこなす技術が発達し、また今それができることは重要な能力だと判断しています。
 その上、栄華を誇ったテレビの足元が揺らいでいるとなれば、メディアを目指す学生には転換期の後に来るものに対しての備えが不可欠です。
 小中学生が将来なりたい職業ランキングでも依然、動画投稿者は人気があります。ユーチューバーがランクインしたばかりの頃、大人は「世も末か」と嘆きましたが、それもすでに過去。最近は姿や素性を明かさず、仮装のキャラクターで投稿するVチューバーが人気です。
 ですが、私が今行っている実習もあと何年もしないうちに全てAIで可能になるでしょう。もちろん、声自体も生成AIが本人になり代わり発声します。実習そのものが意味を持たなくなる可能性も。
 そうなったときにきっと直面するのは、芸術とは何か、美とは何か、人間とは何かという根源的な問いかもしれません。私は自分の命に限りがあるからこそ、その声の力や耀きがあると信じています。70年前、高村光太郎は「どのような転換が行われても芸術のよりどころとなる一点はいのちの有無にかかっているにちがいない」と言いました。学生を見ていると、今をどう生き、表現するかという切ない思いを感じます。
 ただもし、AIが死の概念を持ち得たら、その声は「いのち」すら宿すのでしょうか?

引用されているのは光太郎最晩年の昭和31年(1956)元日発行の『新潮』に載ったエッセイ「生命の創造-アトリエにて8-」の末尾の一節です。その部分を含む最終段落のみ引用します。

 いのちあるものを見るのは無限にたのしい。いのちあるものはまた無限にかなしい。このよろこびとかなしみとを定着しようとして人間は芸術といふ形に於て神をまね、神を冒した。今人間はそのいのちさへ、いのちなき物質から合成しようとしてゐる。芸術も亦大いに動乱を起して飛躍せねばならない世紀が来る。この世に芸術が生れてから幾十万年になるのか、この後人類が生きのびるのは幾千万年になるのか。芸術はどんな変貌を重ねてゆかうとするか。今日までの芸術はまだわかい。考えると目まひのするやうな今後の長い年月を思うと、今日芸術といはれてゐるやうなものが、果していつまでもその形式を持続してゆくかどうか分らない。ただどのやうな転変が行われても、芸術のよりどころとなる一点はいのちの有無にかかつてゐるにちがひない。人間の手による生命の創造が可能になつても、生きて動き、生れて死ぬいのちがこの世にある限り、人間は芸術によるいのちの創造を決してやめないだらう。

旧ソ連の科学者、アレクサンドル・オパーリンが来日して「生命の起源」について講演をしたことに触発されて書かれたものですが、そこから芸術論にもってゆき、近藤さんが引用したように「芸術のよりどころとなる一点はいのちの有無にかかつてゐるにちがひない」と結んでいます。常に「生(ラ・ヴィ)」を芸術の絶対の価値として生きてきた光太郎、最後までそれを貫き通しました(戦時中にはぶれましたが)。

それにしても、近藤さんの文章の前半にある、昨今の大学で行われているというメディア関連の授業内容、「そんなことまで学べるんだ」と、うらやましい限りです。ただ「個人での配信」には注意が必要ですね。世の中に問うレベルに達していないもの、ガセ情報、悪意はないものの間違いだらけなど、まだまだ何でも有りの状態ですし(したがってこのブログではほとんど無視しています)、そういったものは淘汰されるのではなく逆に増えていくような気がしています。

続いて熊本の地方紙『人吉新聞』さん、6月18日(木)の一面コラム。

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「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」。明治から昭和初期に活躍した詩人・高村光太郎さんの詩集「道程」を代表する一節で、各々が歩む人生の軌跡を表しており、教科書にも採用されている▼人は誰しも母から生まれ、幼少期を経て大人となり、そして晩年を迎えて人生に終わりを告げる。だからこそ毎日を懸命に生き、後世のために何かを残し、それをまた次の世代が引き継いでいく。その繰り返しが歴史を紡いできた▼過日、ある祝宴に出席する機会があった。お祝いに駆け付けた関係者で会場は混み合い、主役との思い出話は尽きなかった。人は決して一人では生きられず、家族や他者の支えがあってこそと改めて感じた▼80歳を超えたある経営者は「自分がこの世を去ってからも人々の記憶に残り、評価されるような事業家でありたい」と思いを口にした。第一線を退いた後も全国を飛び回り、社業発展に尽くしている経営者もいる。そのバイタリティーにいつも驚かされ、その度に尊敬の念を抱いている▼決められた道を歩むのではなく、自分自身で未来を切り開く大切さを高村さんは説いた。結果以上に過程を重要視し、次につなげていきたい。

光太郎数え32歳の詩「道程」(大正3年=1914)の冒頭部分が引用されていますが、先述の最晩年の「生命の創造」における「生きて動き、生れて死ぬいのちがこの世にある限り、人間は芸術によるいのちの創造を決してやめないだらう」と呼応しているようにも見えますね。

最後に宮城県の『石巻かほく』さん。昨日の記事です。

女川町制施行100周年 海と人とともに

 女川町は1926年の町制施行から100年を迎えた。
 「まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている」。31年に町を訪れた彫刻家で詩人の高村光太郎は紀行文にそう記した。
 町は藩制時代の牡鹿郡女川組の20の浜が母体。海と山が迫る平地に漁村が連なった。三陸の豊かな漁場と天然の良港に恵まれ、水産の町として発展してきた。
 穏やかな海は時に牙をむいた。未曽有の災害となった東日本大震災では大津波が町をのみ込んだ。あれから15年。復興を遂げた町は変わらずに海と共にある。太平洋に向かって開かれた街並みに、なりわいの音や子どもたちの声が響く。新興の気力は今に通じる。
 町制施行100周年記念式典は21日午後1時半から、町生涯学習センターで開かれる。

須田善明町長インタビュー
 「女川町」が誕生して100年。29代で7人目の町長である須田善明氏に、100周年を迎えた思いや未来への展望をインタビューした。(聞き手は相沢春花)
-4月に町制施行100周年を迎えた。
 「戦争や東日本大震災などさまざまなことがあった。苦難に屈さず、皆さんが歩んできたからこその100年だ。これからも合併はせず、女川町であり続けたい」
-自身も女川町で生まれ育った。好きな風景や思い出は。
 「震災後に立ち入れなくなったが、崎山公園から眺める景色が大好きだった。今は御殿峠から見る風景が好き。万石浦方面まで一望できる。女川駅前のプロムナードから見る日の出もいい。れんが道の向こうにまっすぐ昇る初日の出を初めて見た時は感動した」 
 「子どもの頃は山で遊んだ記憶ばかり。小学1年ぐらいの時に、田んぼだった場所でけがをした脚の傷は今も残っている。通っていたのは女川二小。女川一小との学区の境にあった雑貨店で、両校の児童たちが集まる空間も面白かった」
-100周年の節目を盛り上げる施策は。
 「季節ごとの恒例行事をボリュームアップさせる。最大のイベントは秋に予定する音楽フェス。町民の皆さんが100周年を盛り上げるための取り組みも、町の予算でバックアップしていく」 
 「『結って生む』をテーマに、新型コロナウイルスの流行などで途切れたものを結い直す機会にしたい。町と関わってくれていた人たちとのつながりをもう一度結び直し、次の100年につながるものを新しく生んでいきたい」
-次の100年に向かう中で、人口減少などの課題にどう取り組むか。
 「町内外から活動人口を獲得しなければならない。人的資源が限られる中、いかに地域産業を細らせずに守っていくかは大きなテーマだ」 
 「つまらない町に人は集まらない。行政のまちづくりは、面白いことが展開される土壌をつくること。頑張っている人、真剣に何かと向き合っている人を応援する環境が女川にはある。『女川で種を植えたい』と思ってもらえる町であり続けたい」

記念イベント続々、フェスや運動会
 女川町は町制施行100周年に合わせ、町民に楽しんでもらったり、町を盛り上げたりするための記念行事を企画している。恒例の祭りを拡大したものや新たに実施するイベントなどで、1年を通してさまざまな催しが町を彩る。
 目玉行事は、今秋に開催を予定する音楽フェス(名称未定)。2日間の日程を予定し、町開催の音楽イベントでは過去最大となる1万人規模の来場を見込む。
 1日目はロックフェス形式。2日目は幅広い年代に楽しんでもらおうと、演歌や歌謡曲などのステージも構想する。町民は無料で招待し、多彩な音楽に触れてもらう計画。
 10月12日には、町民や町内で働く人を対象にした「大運動会」が開かれる。町スポーツ協会が主催し、未就学児から高齢者まで全世代がチームで楽しく競い合える競技を検討している。詳細が決まり次第、町の広報誌などで周知する。
 音楽フェスと大運動会以外の記念行事の予定は次の通り。
【7月】
▽4日 町民音楽祭第1弾「スーパー銭湯アイドル『純烈』コンサート」
▽26日 おながわみなと祭り100周年記念ドローンショー
▽29~31日 サッカープレミアリーグU-11 チャンピオンシップ2026
【8月】
▽15日 タイムカプセル開封
【9月】
▽19日 地区対抗ペタンク大会
【10月】
▽25日 オリンピックデーラン

◇日程調整中
▽おながわ秋の収獲祭(10月)▽芸術鑑賞会第2弾(11月)▽おながわ冬のまつり(12月か来年1月)▽eスポーツ大会(1月)▽町民カラオケ大会(2月)▽おながわ春のまつり(3月)▽町民音楽祭第2弾(3月)
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引用されている「まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちている」は、昭和6年(1931)の『時事新報』に連載された紀行文「三陸廻り」の一節です。その前後を抜粋します。

 牡鹿半島のつけ根のぎゆつとくびれて取れ相な処、その外側の湾内に女川がある。船で廻ると一日がかりだが石巻からバスで行けば水産学校のある渡波(わたのは)を通りぬけ、塩田のある万石浦に沿つて二時間足らずの道程だ。朝七時に出ると九時には着く。女川で船を見つけるつもりで出かける。女川湾は水が深くて海が静かだ。多くの漁船が争つて此の足場のいい港へその獲物を水上げする。海岸には東北水産株式会社といふものが巨大な清潔な魚市場を築造して漁船を待つてゐる。三陸沿岸では一番新らしい一番きれいな水上げ場だ。女川は極めて小さな、まだ寂しい港町だが、新興の気力が海岸には満ちてゐる。活発な魚類の取引を見てゐると今に釜石あたりをも凌ぐ様になるかも知れない気がする。ところで、海に面する此の新鮮きに対比して、町そのもののぼろの様な古さと小さきとには驚かされる。この古さは珍しい。魅力は此の新古均等の無いところにある。

光太郎が訪れたのは町制施行後5年という時期でした。光太郎は女川に隣接する石巻をスタートし、主に船を使って沿岸を北上、女川以外に、金華山、気仙沼、釜石、宮古などを訪れ、全10回のイラスト入り紀行文を書きました。
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その事績を記念して、平成3年(1991)に、「高村光太郎文学碑」4基が、女川港に建てられました。翌年からは光太郎がこの旅のために東京を発った8月9日に、「女川光太郎祭」が催されることとなり、現在も続いています。そちらは町の主催でも共催でもありませんので、上記記事の行事予定には入っていませんが、例年通り8月9日(日)に開催される予定です。今年は日曜にあたりますし、ぜひおいでください。詳細は後ほど。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 48 『高村光太郎 作品アンソロジー 戦争への道、戦争からの道』

令和7年(2025)6月 田畑書店 高村光太郎著 大木志門編
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目次
 「ぼろぼろな駝鳥」(動物詩集) 
「未曽有の時」(戦時詩集) 「某月某日」(エッセイ)
 「暗愚小伝」(連作詩) 「智恵子抄その後・典型」(戦後詩集) 「山の人々」(エッセイ)
 「新しい天の火」(晩年詩集) 「文人たちの思い出」(回想集)
 チュートリアルブック「戦争への道、戦争からの道」(大木志門)

解説の「チュートリアルブック」を含め、9冊の分冊になっています。表紙はDMM GAMESさんから配信されているオンラインゲーム「文豪とアルケミスト」の光太郎。同ゲームとのタイアップでの出版でした。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著作をはじめ、光太郎がらみの出版物を多く刊行なさっている文治堂書店さん。
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PR誌を兼ねた文芸同人誌『とんぼ』も発行なさっていて、第二十二号が届きました。
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北川太一先生の御子息・光彦氏もいろいろ書かれています。

光太郎がらみでは当方の連載「連翹忌通信」。このブログに取り上げたことをまとめたり、書ききれなかったことを補ったりして書いています。

今号は「智恵子のエプロン」。

光太郎智恵子と関わりの深かった雑誌『婦人之友』第18巻第7号(大正13年7月)に、智恵子がデザインし自作したエプロンの写真と型紙が載り、その件を花巻で行われた市民講座で紹介したところ、花巻南高等学校の家庭クラブさんがそれをもとに復元して下さった件です。

その後、花巻での光太郎イベントでお披露目、二本松の智恵子記念館さんや花巻高村光太郎記念館さんで展示されたり、同校文芸部さんの部誌『門』に制作過程のレポートが載ったりもしました。また、さらに花巻の染物屋さんでも復元をして下さっています。
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このブログではその都度ご紹介して参りました。

智恵子のエプロン。
東北レポート その1 岩手花巻なはんプラザ 「五感で楽しむ光太郎ライフ」。
「五感で楽しむ光太郎ライフ」報道。
花巻南高校文芸部誌『門 ⅩⅧ』。
みちのく随想 私たちのリレー。
高村智恵子生誕祭 音楽と朗読『智恵子抄』~愛はここから生まれた/「智恵子のエプロン」復刻展示。
花巻高村光太郎記念館 智恵子のエプロン復刻展示報道。
岩手レポート その1 トークイベント「光太郎と賢治 宮沢賢治全集ができるまで」他。

それらの動きも一段落しましたので、まとめのような感じで書かせていただきました。

奥付画像を貼っておきます。ご入用の方、そちらまでご連絡下さい。頒価600円+税だそうです。
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現在、一昨年6月の第十八号まで公式サイトでPDFが公開されていますが。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 37 『高村光太郎選集 6 一九四五年-一九五六年 昭和二〇年-昭和三一年』増訂版

昭和57年(1981)3月20日 春秋社 吉本隆明・北川太一編
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目次
 書簡 昭和二〇の書簡
 詩  松庵寺 雪白く積めり
    暗愚小伝
     家
      土下座(憲法発布) ちよんまげ 郡司大尉 日清戦争 御前彫刻 建艦費
      楠公銅像
     転調
      彫刻一途 パリ
     反逆
      親不孝 デカダン
     蟄居
      美に生きる おそろしい空虚
     二律背反
      協力会議 真珠湾の日 ロマン ロラン 暗愚 終戦
     炉辺
      報告(智恵子に) 山林
         わが詩を読みて人死に就けり
 評論 第四次元の願望
 随筆 玄米四合の問題 倉橋弥一さん 高祖保さんをしのぶ 水野葉舟君のこと
    逸見猶吉の死 尾形亀之助を思ふ 年越し 開墾
 評論 新薬師寺迷企羅像 夢殿救世観音像 法隆寺金堂釈迦三尊像
 詩  蒋先生に慙謝す 「ブランデンブルグ」 人体飢餓 東洋的新次元
 随筆 みちのく便り 一 みちのく便り 二 みちのく便り 三 みちのく便り 四
    詩について語らず――編集子への手紙 信親と鳴滝
 評伝 ミケランジエロ ブオナローテイ
 随筆 山の雪 山の春 山の人々 山の秋 人体について 美と真実の生活 美
 評論 日本詩歌の特質
     日本語の特質 詩形の短小 文語と口語 日本詩歌と押韻
     日本詩歌のリズムについて 自由詩
 随筆 雅歌
 評論 書の深淵 黄山谷について
 随筆 書についての漫談
 詩  智恵子抄その後
     元素智恵子 メトロポオル 裸形 案内 あの頃 吹雪の夜の独白
    典型
 随筆 日本芸術院のことについて アトリエにて1
    父との関係 アトリエにて2・3・4 荻原守衛 アトリエにて5
    モデルいろいろ アトリエにて6・7 生命の創造 アトリエにて8
    焼失作品おぼえ書き アトリエにて9・10
 追補
  日記 昭和二〇年日記(一〇月一七~一二月三一日)
  詩  おれの詩 月にぬれた手 鈍牛の言葉 山荒れる
 解題1 高村光太郎と水野葉舟―その相互代位の関係 吉本隆明
 解題2 第六巻収録作品について 北川太一
 高村光太郎年譜 北川太一編
 作品名総索引
 月報 智恵子遺珠6
  書簡Ⅸ 長沼せん子宛5通 齋藤 新吉・せつ子宛 長沼せん子・斎 藤せつ子宛2通
  後記     
  高村智恵子略年譜

全6巻で刊行された『高村光太郎選集』最終回配本。初版は昭和45年(1970)でした。編年体の編集で、晩年の作品群が収められています。

初版の際には別巻として造型作品集『高村光太郎 造型』が刊行されましたが、増補版刊行時には別巻の増補刊行はありませんでした。

戦前のかなりマイナー(と思われる)雑誌の復刻版です。

復刻版『海の旅』全4巻

発行日 : 2026年5月20日
著者等 : 解説=荒山正彦(関西学院大学教授)
版 元 : 不二出版
定 価 : 112,000円+税

 ”海国日本!……我々日本人はもっと船に近づき船を知ることが肝要である。その第一歩として『海の旅』の普及に努めたい”――「本誌の使命」『海の旅』第2号(1924年12月)より
 近代日本の海上運輸や旅行、観光に関する貴重資料を復刻! 近海郵船株式会社によって1924年に創刊され、1929年に日本郵船株式会社との共同発行となりながら、1933年まで刊行された雑誌『海の旅』。近海とされるその範囲には、瀬戸内海や伊豆諸島・小笠原諸島航路のみならず、樺太、台湾、南洋諸島といった植民地や委任統治領、中国天津・青島航路が含まれ、帝国日本の交通網の中核を担うものであった。運行状況はもちろん、「海国日本」に対する人々の意識、戦前期の海上交通の実態を克明に描き出す。
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内容見本のPDFに、光太郎の名。
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当方が作成した光太郎の初出掲載誌一覧に『海の旅』は含まれていません。他紙誌からの転載でなければ、『高村光太郎全集』等にもれている新発見、あるいは『高村光太郎全集』で「初出掲載誌不明」となっているものということになります。「人々の船旅への思い」とあるので、おそらくエッセイだと推定されます。他に与謝野夫妻や吉屋信子の作品も掲載されているようです。

復刻の原本は、日本郵船歴史博物館さん、北海道大学附属図書館さん所蔵のもの。それでも「第1号(年月不明)および第2巻第2号(1927年2月)は欠号」とのことです。

『海の旅』、よく使う国会図書館さん、日本近代文学館さん、神奈川近代文学館さんに所蔵がないようですし、古書サイト「日本の古本屋」にも掲載がありません。全国の大学図書館の所蔵状況を調べられるサイト「CiNii」では、天理大学附属天理図書館さん、東京農業大学図書館さん、早稲田大学中央図書館さん、そして今回の原本を提供された北海道大学附属図書館さんがヒットしますが、欠号が多いようです。

やはり海運系の雑誌『海運報国』(日本海運報国団)が国会図書館さんに所蔵されており、10数年前にそちらで『高村光太郎全集』にもれていた光太郎のエッセイを3篇見つけました。そのうち、昭和17年(1942)10月の第2巻第10号に載った「海の思い出」というエッセイは、驚嘆すべき内容でした。主として明治39年(1906)~同42年(1909)の欧米留学中の体験が語られていましたが、それまで知られていなかったことがいろいろと明らかになりましたので。まず、日本からアメリカへの航海中のエピソード、それからアメリカからイギリスへ渡った船がタイタニック号と同じホワイトスター社のオーシャニック号だったこと、さらにイギリスから渡仏する際はニューヘヴンからディエップへの航路を使ったことなど。

『海の旅』にはどんな作品が載っているのか、国会図書館さんあたりで閲覧が可能になったところで調査に赴こうと思っております。

それにしても、この手のマイナーな雑誌の復刻、商業的には厳しいと思われますが実に意義のあることです。これまでもいろいろ助けられて来たから言うわけでもありませんが。ちなみに今回の版元の不二出版さんでは、やはり光太郎が寄稿していた与謝野夫妻主宰の『冬柏』なども復刻して下さっています。今後ともこの手の復刻を続けていただきたいものです。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 36 『高村光太郎選集 5 一九四一年一二月-四五年 昭和一六年一二月-昭和二〇年』増訂版

昭和57年(1981)1月20日 春秋社 吉本隆明・北川太一編
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目次
 随筆 十二月八日の記
 評論 戦時下の美術家 戦時の文化
 対談 東亜新文化と美術の問題(川路柳虹)
 詩  大詔渙発 十二月八日 鮮明な冬 彼等を撃つ 新しき日に
 書簡 昭和一六、一七年の書簡
 随筆 子供の頃 某月某日 七月の言葉 一夏安居の弁
 詩  沈思せよ蒋先生 変貌する女性 夜を寝ざりし暁に書く 独居自炊 仕事場にて
    民国の民と兵とに与ふ
 評論 東大寺戒壇院四天王像 興福寺十大弟子 戒壇院の増長天 唐招提寺木彫如来像
    美の日本的源泉 照井瓔三著『国民詩と朗読法』序 朗読詩について
 随筆  与謝野晶子歌集「白桜集」序 希代の純粋詩人――萩原朔太郎追悼――
        あの頃――白秋の印象と思ひ出―― 詩魔佐藤惣之助氏 中原綾子歌集「刈株」序
        八木重吉詩集序
 評論 詩の深さ 詩と表現 詩精神と日常生活 詩の進展 言葉の美しさ 詩の本質
    戦争と詩
 詩  山道のをばさん 三十年 神とともにあり 少女よ 神これを欲したまふ
    覆滅彼にあり 寒夜読書 監視哨 あそこで斃れた友に 突端に立つ われらの死生
    「まつた」を知らず ビルマ独立 粛然たる天兵 救世観音を刻む人
    フイリツピン共和国独立 四人の学生 戦に徹す
 書簡 昭和一八~二〇年の書簡
 随筆 日本の母 人意以上のもの
 評論 某月某日
 随筆 乏しきに対す 人類清濁の分るるところ 卑俗との戦 厳たり古代のこころ
 評論 野間清六編「埴輪美」序
 随筆 ロダンの手記談話録
 評論 ドナテロ小感 関義訳ブルデル「ロダン」序 清水多嘉示著「巨匠ブルデル」序
 随筆 とびとびの感想
 評論 彫刻その他 美の中心 能の彫刻美 十大弟子 天平彫刻の技法について
 随筆 仕事はこれから 罹災の記 日本婦道の美 自信を以て起て 平常心を豊かに
 詩  陽春の賦 必勝の品性 美をすてず 保育 古代の如く たのしい少女
    黒潮は何が好き 南瓜賦 美しき落葉 力を知る 戦火 琉球決戦 一億の号泣
 随筆 回想録
 補遺
  随筆 美術学校時代 埃及彫刻の話
  日記 昭和二〇年日記
  書簡 椛沢ふみ子への書簡
 解題1 二題の回顧について 吉本隆明
 解題2 第五巻収録作品について 北川太一
 月報 智恵子遺珠5
  画室の冬
  書簡Ⅷ 長沼せん子宛三通 齋藤 新吉・せつ子宛二通 長沼修二宛
  斎藤新吉・せつ子・長沼せん子宛
後記    

編年体でさまざまなジャンルの作品を一冊に収めた全6巻の第5回配本で、初版は昭和43年(1968)。太平洋戦争開戦の昭和16年(1941)12月から終戦の同20年(1945)8月までの作品を収めてあります。

時期が時期だけに、全文筆を当たるとコテコテの翼賛詩文が多いのですが、そうでないものを中心にしています。それでも翼賛詩文も無かったことにはせず、重要と思われるものは網羅されています。

繰り返し書いていますが、一部の文学者の全集、選集の類では翼賛詩文はまったく無かったことにされたりし、しっかり書いていたにもかかわらず「反戦の視線を貫いた」と評されている者もいます。ちゃんちゃらおかしいと言わざるを得ません。

5月28日(木)、『朝日新聞』さんの長崎版に載った、元長崎原爆資料館長にして芥川賞作家の青来有一氏のエッセイです。

(信と偽のあいだ)日常、僕の前に未踏の山

000 どこから手をつけたらいいのかわからないで行き詰まる、そんな経験はだれにでもあるのではないかと思います。
 山の頂上は見えていながら登るルートがわからない、あるいは前人未踏の山でルートそのものを自分でつくりだしていかなければならない、そんな状況を思い浮かべたらイメージしやすいかもしれません。
 高村光太郎の『道程』の精神、「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」という、その凜(りん)とした気魄(きはく)は尊いのですが、世の中の取り組みの多くは先人がつくった道を知っていれば効率的に解決もできるはずです。長い時間をかけて学ぶのもそのためで、常に創造的であることは難儀なことです。
 とはいっても、日々の暮らしのいたるところに小さな未踏の山は出現します。超えなければいけないのにどう辿(たど)ったらいいのかわからないで立ちすくむ、些末(さまつ)なことを含めたら、毎日、そのような事態に直面しているのではないかと思います。
 この春、ある本の解説を頼まれ、まとまった量の文章を書くことになりました。自分として以前からその作者もよく知っていて、その本を巡る様々な反響も理解しているつもりで、気楽に引き受けましたが、さあ、書こうとすると書けない。全集をめくり、図書館から関連の解説本も借りて傍らに積み上げ、国会図書館から古い文献の複写を取り寄せもしましたが、密集した枝葉や蔦(つた)や葛がまとわりついて藪(やぶ)で身動きができないような状況に陥り、うーんと唸(うな)って机に長くへばりついていました。夜は眠れないし、顔は青ざめ、それこそ遭難状態です。
 締め切りまでいよいよ残り少なくなり、なんとか最初の一文を書いたら後の文章はするするとでてきて、危ういところで脱したのでした。
 19年間、ひとり暮らしをしていた日々を思い出しました。外食は費用がかかり、栄養も偏るので自炊していたのですが、食事の準備は自分ひとりでも、毎日続くとなるとじわじわと重荷になってきます。
 今夜、なにを食べるか、頭が真っ白になってなにも思い浮かばない日もありました。今ならインターネットで検索したりもできるでしょうが、携帯電話も普及する前で、仕事帰りのバスでなにを食べるか、けっこう深刻に思い悩んでいる自分に気づいて苦笑しました。
 そんな時は市場やスーパーマーケットに飛び込み、あれこれ食材をながめていたら、手短で簡単にできるメニューが思い浮かぶのでした。
 0から1の飛躍が難しい。よく、そう感じます。1を数えたら2、3、4……と自然に続きますが、解決の糸口となる1がなかなか見いだせません。
 数学史では「0の発見」が大きな飛躍ですが、日々の暮らしは、実は小さな「1の発見」の連続ではないかとも思います。0と1の間の深淵(しんえん)をひょいと飛び越え、暮らしの中に出現する未踏の山々を登ったり、降りたりしているのが、私たちの日常のようです。


青来氏の連載エッセイ「信と疑のあいだ」。『朝日』さんの長崎版で月イチの掲載のようです。その後、1ヶ月遅れくらいで朝日さんが運営されている読書関連サイト「好書好日」内にアップされています。今回のものも今月中には出るのでしょう。
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日々の暮らしの中でも「未踏の山」の連続。それがエベレスト級の物凄いものではないにせよ、今日という日と同じ日が再び訪れないかぎり、そうなのでしょう。自炊のメニューのお話、自分が独り暮らしをしていた頃を思い出してニヤニヤしてしまいました(笑)。

0から1への飛躍が難しい」「1を数えたら2、3、4……と自然に続」く、という件。物書きあるあるだな、と思って苦笑しながら読みました。当方は「3」とか「4」が先に思い浮かび、遡って「1」や「2」で帳尻を合わせることもしばしばですし、そうならないために常に「1」をストックしておこうともしています。

僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」とばかり、クリエイティブに生きるのもなかなか難しいものだと、改めて実感させられました。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 35 『高村光太郎選集 4 一九三三-一九四一年 昭和八-昭和一六年』増訂版

昭和56年(1981)12月20日 春秋社 吉本隆明・北川太一編
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目次
 書簡 中原綾子への書簡
 詩  人生遠視 風にのる智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子 値ひがたき智恵子 山麓の二人
    或る日の記 レモン哀歌 荒涼たる帰宅 亡き人に 梅酒
 短歌 昭和十三年(一九三八)ごろ
 随筆 智恵子の切抜絵 智恵子の半生 九十九里浜の初夏 某月某日Ⅰ(昭和一一年六月)
    某月某日Ⅱ(昭和一四年一月) 某月某日Ⅲ(昭和一四年四月)
    某月某日Ⅳ(昭和一四年九月) 某月某日Ⅴ(昭和一六年五月)
    コスモスの所持者宮沢賢治 宮沢賢治に就いて 与謝野先生を憶ふ
    八木重吉について 夭折を惜しむ――中原中也のこと 芭蕉寸言 新茶の幻想
    ヒウザン会とパンの会 本面について 揺籃の歌
 評論 一彫刻家の要求 画に於ける詩精神 写生の二面
 詩  寸言 ばけもの屋敷 村山槐多 鯉を彫る 荻原守衛 堅氷いたる よしきり鮫
    マント狒狒 象 森のゴリラ 潮を吹く鯨 北冥の魚 未曾有の時 吾が同胞
    芋銭先生景慕の詩 つゆの夜ふけに 蝉を彫る 雷電の夜 歩くうた 世界は美し
    青年 迎火
 随筆 小刀の味 九代目団十郎の首 こごみの味
 評論 美意識について
 随筆 蟻と遊ぶ
 評論 比例均衡
 随筆 手 
    身辺三題
     悠久山の一本欅 ほくろ 「こどもの報告」
 評論 書について
 随筆 詩の勉強 谷中の家
 評論 彫刻性について
 随筆 手形
 評論 仏画賛
 随筆 しやつくり病
 評論 木彫地紋の意義 ロダンの素描
 随筆 鷗外先生の「花子」 自作肖像漫談 自分と詩との関係 母のこと 三十年来の常用卓
   雷ぎらひ 蝉の美と造型 間違のこと
 評論 永遠の感覚
 随筆 姉のことなど 野菜の美
 評論 戦時、美を語る 美の健康性 彫刻家の場合
    奉祝展に因みて
     美術行政について 油絵の問題 彫刻寸言
 随筆 芸術政策の中心
 評論 芸術と国民生活 詩精神 芸術による国威宣揚
 随筆 中央協力会議の印象
 評論 ミケランジエロの彫刻写真に題す 彫刻に何を見る 美術館の事その他
 詩  秋風辞 夢に新農となる 老耼、道を行く 天日の下に黄をさらさう 地理の書
    群長訓練 事変二周年 君等に与ふ 銅像ミキイヰツツに寄す へんな貧
    源始にあり ほくち文化 最低にして最高の道
    無血開城(わが愛するフランスの為に) 太子筆を執りたまふ 強力の磊塊たれ
    事変はもう四年を越す 必死の時 危急の日に
 追補
  随筆 木彫ウソを作つた時
   父・光雲作の仏像
   某月某日Ⅵ(昭和一一年一一月)
  評論 羽仁五郎氏著『ミケルアンヂエロ』
   本邦肖像彫刻技法の推移
 解題1 崩壊の様式について 吉本隆明
 解題2 第四巻収録作品について 北川太一
 月報
  智恵子遺珠4
   現代日本の文学に対するアマチユアの注文と感想 貧しく、飾らず、単純であれ 
   暴力は臆病の変形 建設の根源は此処にあり 生き甲斐ある悩みを悩め 棄権
   書簡Ⅶ 長沼せん子宛 三通
 後記

初版は昭和42年(1967)。編年体でさまざまなジャンルの作品を一冊に収めた全6巻の第4回配本です。昭和8年(1933)から昭和16年(1941)ということで、智恵子の心の病の昂進そして死、世の中も日中戦争から太平洋戦争開戦と激動し、それにともなって光太郎も翼賛体制に自ら飛び込んでいく、大変革の時期です。連作詩「猛獣篇」が徐々に翼賛的になっていくさま、愚にもつかない翼賛詩群と「智恵子抄」所収の珠玉の詩篇が並行して書かれていた事実が重くのしかかります。

新刊です

酒場・下宿・路地をめぐる46人の「やらかしと逸話」 文豪てくてく散歩

発行日 : 2026年5月29日
著者等 : 進士泰丸
版 元 : KADOKAWA
定 価 : 1,700円+税

さあ、地図を片手に、天才たちの「黒歴史」の現場を歩こう! 太宰治が愛した一杯を味わえるバーから、いわく付きの事故物件跡まで。天才たちの「黒歴史」の現場を歩ける文学散歩本が誕生!

太宰治が愛し、『人間失格』にも登場する“あの一杯”。梶井基次郎が「アナーキスト万歳!」と叫んだ、新橋駅のホーム。江戸川乱歩が商才ゼロで潰してしまった古本屋跡。46人の文豪たちの“やらかし”と“逸話”を軸に、笑いと哀愁が滲む132スポットを超充実収録。これを片手に街を歩けば、文豪がもっと好きになる!

【散歩できる物語】
『雁』森鴎外、『坊っちゃん』夏目漱石、『たけくらべ』樋口一葉、『ローマ字日記』石川啄木、『墨東綺譚』永井荷風、『神楽坂七不思議』泉鏡花、『破船』久米正雄、『細雪』谷崎潤一郎、『注文の多い料理店』宮沢賢治、『五重塔』幸田露伴…他多数

【登場する文豪たち】
芥川龍之介、有島武郎、宇野千代、江戸川乱歩、尾崎紅葉、梶井基次郎、川端康成、菊池寛、北原白秋、小林秀雄、坂口安吾、佐藤春夫、島崎藤村、高村光太郎、太宰治、坪内逍遙、徳田秋声、中原中也、平塚らいてう、三島由紀夫、宮本百合子、室生犀星、与謝野晶子…他多数

【本書掲載エリア】
本郷・神保町・神楽坂・早稲田・銀座・浅草・吉原・田端・谷中・根津・千駄木
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目次
 はじめに
 本郷
  東京大学 鉄門/育徳園心字池/樋口一葉旧居「桜木の宿」跡・法眞寺/カフェ銀時計/
  「燕楽軒」跡/「菊富士ホテル」跡/石川啄木・金田一京助旧居「赤心館」跡/
  徳田秋声旧居跡・終焉の地/石川啄木・金田一京助旧宅「蓋平館別荘」跡/
  樋口一葉菊坂旧居跡・旧伊勢屋質店/樋口一葉終焉の地/金田一京助旧居跡/
  坪内逍遥旧居・常盤会跡/宮沢賢治旧居跡/石川啄木旧居「喜之床」跡/
  梶井基次郎旧居「蓋平館支店」跡/「藤むら」跡/竹むら
 神保町
  神保町ブックセンター/「らんぼお」跡/神田 天麩羅 はちまき/文房堂/「錦輝館」跡
 神楽坂
  紀の善ビル/志満金/泉鏡花旧居跡・北原白秋旧居跡/助六/丸岡陶園/末よしビル/
  「常盤屋」跡/「魚徳」跡/神楽坂 小割烹 め乃惣/善國寺/「尾澤薬舗」跡/
  「紅谷」跡/「いろは」跡/「牛込亭」跡/赤城神社/芸術倶楽部跡・島村抱月終焉の地/

  圓福寺/尾崎紅葉旧居跡/泉鏡花旧居跡
 早稲田
  早稲田大学坪内博士記念演劇博物館/夏目漱石誕生の地/新宿区立漱石山房記念館/
  有島武郎旧居跡/坪内逍遥旧居跡/永井荷風旧居跡/小泉八雲旧居跡/
  三島由紀夫生誕の地
 銀座 
  新橋駅/末げん/中央区立泰明小学校/きよ田/「銀座よし田」跡/石川啄木碑/空也/
  スタイル社跡/銀座ウエスト本店/バー・ルパン/「カフェー・タイガー」跡/
  Book café&&Bar十誠/鳩居堂/木村屋總本店/煉瓦亭/はち巻岡田/
  ローマイヤレストラン/資生堂パーラー/カフェーパウリスタ/「はせ川」跡/竹葉亭/
  MATSUZAKISHOTEN/改造社ビル
 浅草
  等光寺/風流お好み焼 染太郎/久保田万太郎生誕の地/亀十/尾張屋/神谷バー/
  弁天山美家古寿司/梅園/中清/浅草フランス座演芸場東洋館/「オペラ館」跡/
  木馬亭/「浅草凌雲閣」跡/草津亭/「老松」跡/池波正太郎生誕の地
 吉原
  吉原弁財天/鷲神社/台東区立一葉記念館/千束稲荷神社/浄閑寺
 田端
  芥川龍之介旧居跡/「天然自笑軒」跡/「楽天堂医院」跡/
  平塚らいてう・奥村博史旧居跡/北区立童橋公園/田端文士村記念館/
  サトウハチロー旧居跡/そば処浅野屋/室生犀星旧居跡/大龍寺/
  堀辰雄下宿「紅葉館」跡/ポプラ坂/佐多稲子旧居跡/小林秀雄・田河水泡旧居跡/
  萩原朔太郎旧居跡/上田端八幡神社
 谷中・千駄木・根津
  羽二重団子/「天王寺五重塔」跡/谷中霊園/幸田露伴居宅跡/菊見せんべい総本店/
  団子坂/文京区立森鷗外記念館・森鷗外旧居「観潮楼」跡/佐藤春夫下宿跡/
  宮本百合子旧居跡/高村光太郎旧居跡/養源寺/「三人書房」跡/青鞜社発祥の地/
  藪下通り/森鷗外・夏目漱石旧居跡/根津神社/根津遊郭跡/喜久月/
  国立国会図書館国際子ども図書館
 COLUMN
  菊地寛暴行事件の顛末 芥川龍之介と文 平塚らいてうの『青鞜』誕生秘話
 春日ゆらの漫画でてくてく散歩!
  ①東京理科大学近代科学資料館に行ってみよう ②歌舞伎座と夏目漱石
  ③田端文士村で芥川龍之介旧居跡を探す
 文豪紹介
 おわりに

 参考文献

目次の通り、23区内の特にほぼ東半分、つまりはおおむね江戸府内だったエリアでの文学散歩ガイド的なものです。

現存する建造物等については現状の写真、「跡」となっているスポットは古写真などがふんだんに使われ、理解の手助けとなっています。また、目次では割愛されていますが、それぞれの場所に関わる「ミニコラム」、各スポットを舞台とした書籍の紹介なども細かく。

光太郎に関しては、「谷中・千駄木・根津」の章で旧駒込林町25番地(現・千駄木3丁目)の「高村光太郎旧居跡」が取り上げられ、そこに掲げられたミニコラム「高村光太郎と森鷗外の事件」で「軍服着せれば鷗外だ事件」が扱われている他、近くの「菊見せんべい総本店」の項でも光太郎の名が。

ただ「菊見せんべい総本店」さんの項では、勘違いもあるようです。第一に「高村光太郎は学生時代、菊見せんべいの店先で働く娘に一目惚れしちゃって毎日せんべいを買いに行ったという話がありますが、これはどうも根拠のない噂話のようです」とありますが、「一目惚れしちゃって」は光太郎によれば「根拠のない噂話」でなく事実です。

 塩せんべい屋は店先でせんべいを押し、刷毛で醤油を付けながら焼く。そこの娘がちゃんとしたきりっとした娘で、子供の時から店に出ていて私も知っていたが、美術学校に行く途中でその煎餅屋の前に来ると、私は顔が赤くなる。それが自分で分かる。何故か分からぬがそうなる。はじめは気がつかなかったけれど、毎日毎日そうなるので何だか恥ずかしくなってきた。店の処まで歩いてくると胸がどきどきして顔がほてって困った。しまいにはどうしてもその通りが通れなくなった。だから根津の方を遠回りして学校に行ったけれども、後で考えると、その娘に思し召しがあって、娘の顔を見ると顔がほてったのだと知った。むこうでも真っ赤になっていた。あれがむかしの純情な子供の気持ちなんだろう。(「私の青銅時代」昭和29年=1954)

思し召しがあって」は、「気になるところがあって」といった意味ですね。「毎日せんべいを買いに行った」とは書かれていません。そういう話が流布しているのだとしたら、そちらは「根拠のない噂話」と言えるでしょう。

第二に、「その娘さんの名前は「智恵子」だったといわれ、高村光太郎の代表作『智恵子抄』になぞらえてそんな与太話が生まれたようです」とも書かれています。これも決して「与太話」などではなく、菊見せんべいさんの店主氏の証言が残っています。地域雑誌『谷中根津千駄木』第9号(昭和61年=1986)に掲載されています。
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話を戻しますが、『文豪てくてく散歩』、「青鞜社発祥の地」に関わるコラム「平塚らいてうの『青鞜』誕生秘話」では、智恵子が『青鞜』創刊号表紙絵を描いたことが紹介されています。

全文は未読ですが、光太郎智恵子に関してはおそらく以上だと思われます。他にタイトルにある通り「46人の文豪」。なかなかの労作です。

ぜひお買い求めを。

【高村光太郎書誌】

選集等(単独) 30 『高村光太郎集』日本の詩 第5巻

昭和53年(1978)10月25日 集英社 伊藤信吉編
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目次
 蝉を彫る<彫刻詩篇>
  五月のアトリエ 鉄を愛す 後庭のロダン 葱 鯰 金 首の座 刃物を研ぐ人
  鯉を彫る 孤坐 蝉を彫る 美しき落葉 十和田湖畔の裸像に与ふ 石くれの歌
 秋の祈<『道程』詩篇>
  失はれたるモナ・リザ 根付の国 食後の酒 寂寥 新緑の毒素 地上のモナ・リザ
  犬吠の太郎 さびしきみち 冬が来る 夜 冬が来た 道程 五月の土壌 秋の祈
 雨にうたるるカテドラル<人生的詩篇>
  わが家 小娘 丸善工場の女工達 雨にうたるるカテドラル クリスマスの夜 下駄
  落葉を浴びて立つ  少年を見る 新茶 冬の奴 母をおもふ 北東の風、雨 天文学の話
  平和時代 或る墓碑銘 冬の言葉 さういふ友 或る筆記通話 激動するもの
  孤独が何で珍らしい お化け屋敷の夜
 ぼろぼろな駝鳥<ヒューマニストの歌>
  白熊 苛察 雷獣 ぼろぼろな駝鳥 火星が出てゐる 花下仙人に遇ふ 上州湯桧曽風景
  上州川古「さくさん」風景 似顔 もう一つの自転するもの
 レモン哀歌<「智恵子抄」>
  郊外の人に 深夜の雪 人類の泉 晩餐 樹下の二人 夜の二人 あどけない話
  同棲同類 人生遠視 風にのる智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子 値ひがたき智恵子
  山麓の二人 レモン哀歌 亡き人に 梅酒 荒涼たる帰宅 松庵寺 若しも智恵子が
  元素智恵子 メトロポオル 裸形 案内 あの頃
 青空<抒情小詩・エピグラム>
  泥七宝抄 とげとげなエピグラム抄
 典型<岩手の山小屋で>
  雪白く積めり 「ブランデンブルグ」 山口部落 かくしねんぶつ クロツグミ ヨタカ
  別天地 女医になつた少女 山の少女 山からの贈物 月にぬれた手 鈍牛の言葉
  一九五〇年 典型
 暗愚小伝<生涯の途>
  家
   土下座 ちよんまげ 郡司大尉 日清戦争 御前彫刻 建艦費 楠公銅像
  転調
   彫刻一途 パリ
  反逆
   親不孝 デカダン
  蟄居
   美に生きる おそろしい空虚
  二律背反
   協力会議 真珠湾の日 ロマン ロラン 暗愚 終戦
  炉辺
   報告(智恵子に) 山林
 高村光太郎・生命感の詩人 伊藤信吉
 年譜 北川太一

この手の光太郎選詩集を何冊も編んだ伊藤信吉ですので、既存のものとの区別のためもあるのでしょうか、作品配列に工夫が為されています。いきなり「彫刻詩篇」と題して彫刻家としての光太郎自身が謳われる詩篇をもってくるあたり。

戦後最も早く、さらにまとまった一冊のものとして我が国で初めて光太郎を論じた故・吉本隆明氏関連の新刊を2冊、ご紹介します。

まず評論。

『共同幻想論』に挑む ——家族人類学的考察

発行日 : 2026年3月10日
著者等 : 鹿島茂
版 元 : 筑摩書房
定 価 : 4,600円+税
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国家の起源にある謎とは?吉本隆明の主著にして難解をもって知られる『共同幻想論』に、鹿島茂が〈遡行読み〉という手法、またE・トッドらの家族人類学の最新の知見を武器に挑む!

国家の成り立ちをめぐって書かれた、戦後最大の思想家・吉本隆明の主著にして難解をもって知られる『共同幻想論』に、博覧強記の仏文学者・批評家が〈遡行読み〉そしてE・トッドらの家族人類学の最新の知見を武器に挑む! ロジックを追うスリルと興奮溢れる、知的刺激に満ちた1500枚に及ぶ圧倒的論考、ここに誕生!!

目次
 Ⅰ 『共同幻想論』はなぜ書かれたか
  1 『共同幻想論』の「わからなさ」――「出所不明の異形の意志」 
  2 日本的「転向」は「家」の問題
  3 高村光太郎と了解可能性/不可能性
  4 日本的「家」の問題――情感/権威のマトリックス
  5 『マチウ書試論』――「家」の問題と対幻想
  6 大衆の原像と国家の共同幻想
  7 「面従腹背」知識人と国家の思想
  8 天皇のために死ねるか?
  9 不問に付された〈天皇(制)〉 
  10 『古事記』の宣長的解釈から、『共同幻想論』へ
 Ⅱ 『共同幻想論』を遡行的に読む
  11 序をどう読むか? 往路の省略
  12  『共同幻想論』を最終章「起源論」から読む
  13 「罪責論」へ遡行、スサノオの解釈
  14 「罪責論」を母系制(サザエさん型家族)から分析する
  15 ヤマトタケル挿話の家族人類学的分析
  16 「母制論」と二つの対幻想
  17 カップルの対幻想と兄弟姉妹の対幻想
  18 対幻想と共同幻想の同致の問題
  19 遠隔対象性と近親婚の禁止
  20 兄弟姉妹の対幻想の空間性の問題――カラアゲ屋「サザエさん」
  21 宗教法人「サザエさん」――吉本は間違っていても凄い
 Ⅲ 家族人類学が明らかにしたこと
  22 進化主義人類学からアメリカ人類学へ――居住規則の浮上
  23 アメリカ人類学の居住規則を再浮上させたエマニュエル・トッドの家族四分類
  24 トッド家族人類学の大転換
  25 居住規則による分類を世界地図にマッピングすると「周縁の保守性原則」が浮上する
  26 父方居住システムの変化
  27 父方居住の起源
  28 父方居住直系家族の誕生
  29 長子相続から直系家族へ
 Ⅳ 蝶番としての「祭儀論」
  30 家族人類学と『共同幻想論』の接続
  31 縄文サイクルと弥生サイクルはいかに交錯したか?
  32 「祭儀論」を家族人類学的に読む
  33 吉本的立場と家族人類学的立場
  34 農耕祭儀の家族人類学的再検討
  35 世襲大嘗祭の家族人類学的分析
  36 「他界論」の死の問題と時間性/空間性
  37 「他界」を空間性と時間性に分割する
 Ⅴ 「巫覡論」「巫女論」「憑人論」「禁制論」が持つ意味
  38 「巫覡論」で「当て馬」として使われた芥川の『歯車』
  39 『共同幻想論』前半のハイライト「いづな使い」
  40 「巫女論」①巫女とは共同幻想を性的対象とする女性である
  41 「巫女論」②シャーマンとは自己幻想を共同幻想に同致できる特殊能力者だ
  42 「憑人論」①自己幻想と共同幻想が逆立しない遠野村という位相
  43 「憑人論」②「遠野物語」の民譚には対幻想という媒介項がない
  44 「禁制論」①フロイト批判から禁制という共同幻想へ
  45 「禁制論」②「遠野物語」の山人譚と既視体験の比較分析
  46 「禁制論」③山人譚の恐怖の共同性の分析
 Ⅵ 『共同幻想論』を順行で読みなおす
  47 順行読み①「禁制論」
  48 順行読み②「憑人論」
  49 順行読み③「巫覡論」と「巫女論」
  50 順行読み④「他界論」
  51 順行読み⑤「祭儀論」①
  52 順行読み⑥「祭儀論」②
  53 順行読み⑦「母制論」①
  54 順行読み⑧「母制論」②
  55 順行読み⑨「対幻想論」①
  56 順行読み⑩「対幻想論」②
  57 順行読み⑪「対幻想論」③+「罪責論」①
  58 順行読み⑫「罪責論」②
  59 順行読み⑬「規範論」①
  60 順行読み⑭「規範論」②
  61 順行読み⑮「起源論」①
  62 順行読み⑯「起源論」②
  63 順行読み⑰「起源論」③
 Ⅶ 『共同幻想論』から見えてくる吉本隆明
  64 番外的考察①
  65 番外的考察②
  66 総括①
  67 総括②
  68 総括③
 あとがき
 人名索引

仏文学者・鹿島茂氏による吉本論です。タイトルの通り、吉本の代表作の一つである『共同幻想論』(昭和43年=1968)を俎上に乗せ、細かな読みを展開。

『共同幻想論』は「禁制論」「憑人論」「巫覡論」「巫女論」「他界論」「祭儀論」「母制論」「対幻想論」「罪責論」「規範論」「起源論」から成り、ざっくり言えば歴史学、民俗学的見地からの考察も盛り込みつつ、この国の成立過程、その後の変遷を論じたものです。

『共同幻想論』に先行して昭和32年(1957)には『高村光太郎』が出版され、そこでの試みが『共同幻想論』にも繋がっていきます。特に15年戦争時に光太郎の直面したこの国のありように対する思い、それ以前からの西欧との齟齬や乖離、さりとてなじめない日本の伝統的家父長制といった問題に対する観点から。そこで本書では「Ⅰ 『共同幻想論』はなぜ書かれたか」中に「3 高村光太郎と了解可能性/不可能性」という項が設けられていますし、他の項でも光太郎の名が散見されます。

『共同幻想論』、高く評価する論者がいる一方、全く価値を認めないとする向きもあり、いまだにその評価は定まっていないという感じです。そこに一石を投じる好著と思われます。

もう一冊。こちらは昨日でしたか、新聞広告で知ったもので、未入手ですが。

吉本隆明全集月報集

発行日 : 2026年3月
著者等 : 晶文社編集部 編
版 元 : 晶文社
定 価 : 2,500円+税

吉本隆明からうけとり 吉本隆明からはじめる 総勢62名が語る、私の吉本隆明
 人と社会の核心にある問題へ向けて、深く垂鉛をおろして考え続けた思想家・詩人の吉本隆明。約11年もの歳月をかけて完結した『吉本隆明全集』の月報には、第一級の執筆陣が吉本隆明の作品や人柄をプライベートなまなざしで綴ったエッセイを寄稿している。破天荒な魅力を湛えた吉本隆明の意外な素顔を活写する全集月報62編。
 晶文社版『吉本隆明全集』の月報を集約し、略年譜(生活史)付す。
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目次
 産み落とされた日 高橋源一郎
 うつむき加減で、言葉少なの 加藤典洋
 吉本隆明、一本の樹の出発 小林康夫
 吉本と光太郎 北川太一
 『言葉からの触手』に触れながら考えたこと 岡井隆
 違和感からの出発 鹿島茂
 永久に消えない疑問 芹沢俊介
 「東京原人」吉本隆明 磯崎新
 吉本隆明さん随感 中村稔
 吉本さんの三冊の本 石川九楊
 吉本さんと「母性的」なるもの 蓮實重彦
 沈黙の言語 吉増剛造
 「転向」について 芦田宏直
 ある世代の思い出 山根貞男
 文芸評論家から文人へ――書簡集刊行に寄せて 田中和生
 波の下の思想を 宇佐美斉
 気配りのひとの気骨 橋爪大三郎
 『初期歌謡論』 藤井貞和
 吉本隆明の詩・神話・等価 水無田気流
 吉本さんとの出会い 佐々木幹郎
 引き継ぐ課題 三砂ちづる
 詩の時代 荒川洋治
 思考の楽しさ 長谷川宏
 最後の場所 思想詩人吉本隆明 北川透
 新しい世代が受け継ぐべきもの 竹田青嗣
 「吉本隆明」に憧れる 山本かずこ
 「母型」を求め続けた人 安藤礼二
 父の内なる言語 小池昌代
 「軒遊び」と「生命呼吸」のこと 島亨
 「和讃」について 中島岳志
 書く習慣 岩坂恵子
 知識人嫌いの知識人 川本三郎
 ご近所の吉本さん 石森洋
 吉本隆明と言論の不在 先崎彰容
 “終りをまっとうする”批評家 川村湊
 マクロネシアの渚へ 金子遊
 吉本隆明と連合赤軍事件 笠井潔
 石と舟の幻影 今福龍太
 三〇年越しの答え 三上治
 はじめての対談 赤坂憲雄
 吉本隆明さんについて 山崎哲
 がめつい私的所有 菅原則生
 出会いと別れ 末次弘
 吉本隆明が描いた小林秀雄 前田英樹
 単独者の貌 辺見庸
 最後の贈り物 道浦母都子
 「わからなさ」と「しなやかさ」 阿木津英
 二一世紀の大衆 綿野恵太
 吉本隆明との出会い マニュエル・ヤン
 「転向」の自画像 小田原のどか
 一橋新聞編集の青春と吉本さん 大塚融
 ポピュリストへ――吉本隆明について 小峰ひずみ
 託されたバトン 宇田川悟
 吉本隆明からの示唆 夏石番矢
 知の特権性を解体し、傷を修復する 友常勉
 『隆明だもの』の読後に 上村武男
 ひとつの街がありそこで住んでいた 清岡智比古
 越えられない存在 末次エリザベート
 吉本隆明さんのこと 島尾伸三
 思い出の一断片 松崎之貞
 「位相」の出自 大塚英志
 来訪神 ハルノ宵子
 ハルノ宵子への良い質問・悪い質問
 吉本隆明略年譜
 全集収録作品一覧
 執筆者別目次

平成26年(2014)に配本が始まり、昨年完結した『吉本隆明全集』全38巻に附された附録の月報を一冊にまとめたものです。吉本を論じるスタイルもあれば、気のおけないエッセイ的なものもあり、バリエーションに富んでいると思われます。

平成26年(2014)刊行の第5巻の月報に載った、吉本の盟友にして当会顧問であらせられた北川太一先生の「吉本と光太郎」ももちろん掲載されていますし、先述の鹿島茂氏の玉稿も。それからこのブログでお馴染みのお名前も散見されます。石川九楊氏、中村稔氏、高橋源一郎氏などなど。

それぞれぜひお買い求め下さい。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体) 『THE CHIEKO POEMS』

平成19年(2007)6月 Green Integer Books 高村光太郎著 John G.Peters訳
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目次
 Acknowledgments
 A Note on the Text and Translation
 Introduction
 Works Consulted
 人に To someone
 或る夜のこころ Heart of a Night
 涙 Tears
 おそれ Fear
 からくりうた Trickery Song
 或る宵 One Evening
 梟の族 Family of Owls
 郊外の人に To Someone in the Suburbs
 冬の朝の目ざめ A Winter Morning Awakens
 冬が来る Winter Comes
 深夜の雪 Deep Night Snow
 人に(遊びぢやない) To someone(Not to Play)
 人類の泉 Fountain of Humanity
 僕等 Two of Us
 愛の嘆美 In Adoration of Love
 晩餐 Supper
 淫心 Sexual Passion
 樹下の二人 Two beneath the Trees
 狂奔する牛 Cattle Running Wild
 金 Gold
 鯰 Catfish
 夜の二人 Two of the Night
 あなたはだんだんきれいになる You Grow More Lovely
 あどけない話 Innocent Talk
 同棲同類 Same Life Same Kind
 美の監禁に手渡す者 One Who Imprisons Beauty
 人生遠視 Life Perspective
 風にのる智恵子 Chieko Riding theWind
 千鳥と遊ぶ智恵子 Chieko Playing among the Plovers
 値ひがたき智恵子 Invaluable Chieko
 山麓の二人 Two of the Foothills
 或る日の記 Record of One Day
 レモン哀歌 Lemon Dirge
 荒涼たる帰宅 Bleak Homecoming
 亡き人に To One Who Died
 梅酒 Plum Wine
 松庵寺 Shōan Temple
 デカダン Decadence
 美に生きる Living in Beauty
 おそろしい空虚 Frightening Emptiness
 報告(智恵子に) Report(to Chieko)
 噴霧的な夢 Misty Dream
 もしも智恵子が If Chieko
 元素智恵子 Elemental Chieko
 メトロポオル Metropolis
 裸形 Naked Figure
 案内 Guide
 あの頃 Those Times
 吹雪の夜の独白 Night Blizzard Soliloquy
 智恵子と遊ぶ Playing with Chieko
 報告 Report
 うた六首 SixSongs

文庫サイズの『智恵子抄』英訳です。戦後の詩篇を含みます。日本語と英訳とが見開きで印刷されているので、便利です。現在でも紀伊國屋書店さん等で入手可能です。

本日、生誕143周年目となった光太郎。その生前の姿をご存じの方によるエッセイ集です。

加賀野の春

発行日 : 2026年3月10日
著 者 : 小野寺苓(おのでられい)
版 元 : 文藝春秋企画出版部
定 価 : 1,600円+税

著者は昭和7年(1932)東京都生まれ、岩手県盛岡市育ち。長く一関市で暮らし、『みちのく腑分け始末』『茶杓 消えた伊達家老』などの歴史小説や、詩集、随筆集『北窓の風景』『心の旅 井上靖紀行』などを上梓。とりわけ平成8年(1996)刊の随筆集『女の名前』は評価が高く、小学館文庫に入りロングセラーとなった。

本書には、それ以降、書き溜めた作品から、9篇の詩と47篇の随筆を厳選。高村光太郎から聞いたテイル・シチューの話。2010年、講演に招かれた福島県新地町の人たちとの力強い握手。日本で初めて『悪の華』を訳した同郷の矢野茫土とその仕事を守った家族。東京駅で懐かしげに夫に話しかけた謎の男。そして百回も続いた「井上靖文学を読む会」のことなど、忘れがたい人との縁が、端正な名文で綴られる。

「読み返し、偶然と言うべきか不思議と言うべきか沢山の素晴らしい方々との出会いが私を成長させて下さったことに改めて気がつきます」(「あとがき」より)
巻末に、『女の名前』以来の愛読者・桜木紫乃さんによる解説を収録。
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目次
 詩 愛
 赤いバイオリン/椿の庭/蜘蛛の巣    
 詩 沈黙
 ははとじとまなご/ミラー刺繡/水晶/網タイツの菩薩/黒い仏像    
 詩 フウセンカズラ
 握手/消えたチーズ/茶杓/観光と大観/石庭      
 詩 パラオの少年
 フタリワイイ/東山魁夷と子供たち/氷の階段/レッスン/矢野文夫(茫土)/画家の遺族
 青イシグナル   
 詩 桜は咲かなかった
 ジャカランダの花/あの世でも/陰膳/飯盒炊さん/テイル・シチュー/夏の終わり  
 詩 萱草
 たばこ/女物のハンカチ/衝突/目撃者/錦木/原敬と狸/赤穂の殿様    
 詩 想
 感謝/保険医廃業/人名漢字/同姓同名/芳名簿/勘違い/圧迫骨折/落穂拾い
 天使との出会い/ 加賀野の春     
 詩 道
 徳島の旅/白神山地は拒絶した/曖昧の弱さ/読む・百回のステージ 
 詩 よみがえり
 あとがき
 解説 桜木紫乃

小野寺 苓
昭和7年(1932)東京都生まれ。岩手県盛岡で育つ。小説に『玉蕾』(岩手日報社)、『みちのく腑分け始末』(新人物往来社)、『茶杓 消えた伊達家老』『火 みちのく一関忠臣蔵』(勝どき書房)、随筆に『北窓の風景』(おのまき)、『女の名前』(小学館文庫)、『心の旅 井上靖紀行』(土曜美術出版販売)。北川れいのペンネームで、詩集『ママンの木』『蓮台野』(Láの会)、『花の郵便』『托鉢の朝』(土曜美術出版販売)がある。


著者の小野寺苓氏、「よく間違われる」と本文中にも繰り返し記されていますが、女性です。「苓(れい)」一字のお名前は、漢文学の教養がおありだった父君による命名とのこと。現在では常用漢字にも人名漢字にも含まれない字だそうですが。

東京のお生まれで盛岡で育ち、永らく一関にお住まいで、現在は盛岡の介護施設に入ってらっしゃるそうで、タイトルの「加賀野」はその施設名から。同時に施設周辺の地名でもあるようです。

「テイル・シチュー」という項で、花巻郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隠棲していた光太郎の元を訪問したことが語られています。訪問時には「花巻市の高校生だった」そうで「数人の友人と訪ねて行った」とのことでした。季節的には「あの日の山荘の外は白い雪景色」。光太郎は囲炉裏ばたにいたそうですが、小野寺氏一行を見て開口一番「名前を聞いても仕方がない」(笑)。しかし、歓待はしてくれたようで、それは「私たちが乏しい小遣いから出し合って買っていった土産の煎餅や焼き芋をひどく気に入った」ためのようです(笑)。

そして「テイル・シチュー」。

 高校生の私たちを相手に話してくれたのは、文学や彫刻の事ではなくパリ在住時代の食べ物の話ばかりだった。
 テイル・シチュー、タン・シチュー、フランスパンのことなど懐かし気に話していた。パリの肉屋から殆どただみたいに貰ってくる牛のシッポを肩からだらりと下げてパリの街中を歩く姿を想像したのだが、まさかそんな恰好ではなかったろう。


光太郎のテイル・シチュー好きは筋金入りで、山小屋隠棲中にも作っていましたし、講演などでもその魅力を繰り返し語っていました。当時まだ一般的ではなかったこともあり、講演を聴いた聴衆が挙ってシッポを買い求め、肉屋さんとしては「何事だ?」状態だったとのこと(笑)。

その後、最近の話として浅田次郎氏の小説『蒼穹の昴』の話題に。その中にテイル・シチューについての記述があって、旦那さまが肉屋さんに材料を頼み、小野寺氏が作ってみたとのこと。そこから遠い日の光太郎から聞かされた話を思い出した、という流れでした。

光太郎、残っている日記には結構細かく来訪者と貰った土産などを記録しているので、あたってみました。雪の季節で、高校生が数人、持参したのは煎餅と焼き芋。しかし、残年ながら該当する記述は見つかりませんでした。昭和24年(1949)と翌25年(1950)の日記は大部分が失われており、その間だったのだろうと思われます。

その他、光太郎と交流のあった人物についての項も複数。彫刻家の土方久功、詩人・美術評論家・日本画家の矢野文夫、画家の松本竣介、そして岩手と言えば宮沢賢治。さらにご交流がおありの桜木紫乃氏による解説が附されています。

どの項も軽妙かつユーモアに溢れ、それでいて考えさせられることも多く、最近読んだこの手のものの中では出色でした。ぜひお買い求め下さい。

【高村光太郎書誌】

本人著作(全体)71 『新編 智恵子抄』

平成6年(1994)4月15日 ノーベル書房 高村光太郎著 髙村規監修
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目次
 智恵子の貼り絵
 詩
  人に 或る夜のこころ おそれ 涙 からくりうた 梟の族 或る宵 郊外の人に
  冬の朝のめざめ 深夜の雪 人に 人類の泉 僕等 愛の嘆美 晩餐 淫心 樹下の二人
  狂奔する牛 金 鯰 夜の二人 あなたはだんだんきれいになる あどけない話
  同棲同類 美の監禁に手渡す者 人生遠視 風にのる智恵子 千鳥と遊ぶ智恵子
  値ひがたき智恵子 山麓の二人 或る日の記 レモン哀歌 亡き人に 梅酒
  荒涼たる帰宅 松庵寺 噴霧的な夢 もしも智恵子が 元素智恵子 メトロポオル 裸形
  案内 あの頃 吹雪の夜の独白 智恵子と遊ぶ 報告
 短歌
 随筆
  智恵子の半生 新茶の幻想 某月某日 九十九里浜の初夏 智恵子の切抜絵 年越し
  智恵子の遺作展 村にて 再び村にて 九月三十日 あとがき(智恵子抄その後より)
  樹下の二人 二本松霞ヶ城 ×月×日 某月某日 某月某日 自作肖像漫談
 書簡
  智恵子宛光太郎書簡

少し前ににも書きましたが、この時期、『智恵子抄』の各種の異版が5種類ほど相次いで刊行されました。どれも不幸な「智恵子抄裁判」のからみです。そのうち、髙村家として出したという感じのものです。他の『智恵子抄』に収録されなかった作品も積極的に採る、というコンセプトだったようです。

文治堂書店さんからPR誌を兼ねた文芸同人誌『とんぼ』の第二十一号が届きました。同社は当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著作をはじめ、光太郎がらみの出版物を多く刊行なさっており、当会としてはいわば先代からのおつきあい。そこでいつのまにか連載を持つことになっていて、「連翹忌通信」の題で書かせていただいています。
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そうそう持ちネタがあるわけでもなく、また、読者層も少々異なるようなので、このブログに書いたようなことを換骨奪胎したり、逆に膨らませたりして書いています。

今号は「マドモワゼル・ウメ」。

光太郎が智恵子と知り合う直前にいい仲だった、淺草雷門のカフェ「よか楼」の女給・お梅に関してです。光太郎は詩「食後の酒」(明治44年=1911)に「マドモワゼル・ウメ」としてお梅を謳った他、複数の詩文で彼女について書き残しています。

 雷門の「よか楼」にお梅さんといふ女給がゐた。それ程の美人といふんぢやないのだが、一種の魅力があつた。ここにも随分通ひつめ、一日五回もいつたんだから、今考へるとわれながら熱心だつたと思ふ。(略)私は昼間つから酒に酔ひ痴れては、ボオドレエルの「アシツシユの詩」などを翻訳口述してマドモワゼル ウメに書き取らせ、「スバル」なんかに出した。(略)一にも二にもお梅さんだから、お梅さんが他の客のところへ長く行つてゐたりすると、ヤケを起して麦酒壜をたたきつけたり、卓子ごと二階の窓から往来へおつぽりだした。下に野次馬が黒山になると、窓へ足をかけて「貴様等の上へ飛び降りるぞツ」と呶鳴ると、見幕に野次馬は散らばつたこともある。
(「ヒウザン会とパンの会」 昭和11年=1936)

当時、よか楼では女給の顔写真を載せた新聞広告を盛んに出していたというので、お梅も写っているだろうと思い、調査した件を書きました。
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結果、かなりのパターンの広告が見つかったのですが、女給の名が記されて居らず、お梅と断定できるものはありませんでした。

ところが、こうした広告でないところで、お梅の写真を確認できました。
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掲載されていたのは、光太郎実弟にして家督相続を放棄した光太郎に代わり髙村家を継いだ豊周による『光太郎回想』という書籍です。

豊周曰く

兄の好きになる女性は、ずっと通して顔だちに共通のところがある。いわば智恵子風の平たい丸顔で、お梅の顔も智恵子に似ていたと後から気がついた。それから推して、若太夫の顔もそんな風で、兄ははじめて智恵子と会ったとき、「若太夫に似ているな」と第一印象で思ったそうだ。

「若太夫」はお梅の前に入れ込んでいた、吉原河内楼の娼妓です。彼女については『とんぼ』の前号に書きました。

「光太郎回想」には3種類の版があります。まず、有信堂から昭和37年(1962)に刊行されたオリジナル、続いて、その全文にさらに他の光太郎に関する短文等を併せて編まれ、同じ有信堂から昭和47年(1972)に刊行された『定本光太郎回想』、そして名著の復刻的なコンセプトのシリーズ「人間叢書」のラインナップで平成12年(2000)に刊行された日本図書センター版です。
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手許には、最も本文の分量が多い『定本光太郎回想』しかありません。数十年前、オリジナルと定本を比較し、こっちの方が内容が充実している、というわけで「定本」のみを購入しました。ところが、オリジナルと「定本」では掲載されている画像の種類が異なり、お梅のそれを含む「定本」に載っていない写真がオリジナルにたくさんありました。逆も又然りでしたが。購入時にはそこまでは気づきませんでした。

そんなこんなを今号の『とんぼ』に書きました。

奥付画像を載せておきます。ご入用の方、ご参考までに。頒価600円だそうで。
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今日の記事最上部リンクからも注文可と思われますが。

ちなみにオリジナル『光太郎回想』には、他にも昭和31年(1956)4月2日に光太郎が亡くなった際の死に顔の画像も出ています。さすがにここに載せるにはためらいますが……。

【折々のことば・智恵子】

日本にだつて一人ぐらゐ、正しい事のために利害なんかを度外に置いて、大地にしつかりと誠実な根を持ち、まつすぐに光りに向つて、その力いつぱいの生活をする喬木のやうな政治家があつてもいゝだらうとおもひます。さういふ政治家なら有頂天になつて投票することでせうとおもひます。


アンケート「棄権――総選挙に誰れを選ぶか?」より
 大正13年(1924) 智恵子39歳

この時代、女性には選挙権がありませんでしたが、もしあったらという仮定の下での回答です。

後の部分では「私達がほんとに尊敬し信ずることの出来る政治家が出てくれなければ、棄権するよりほかないかとおもはれます。情実や術数の巣のやうな政党なんかてんでだめですね。」とも。

100年経っても「利害」「情実や術数の巣のやうな政党」に牛耳られているこの国の現状を見て、泉下の智恵子はどう思うでしょうか……。

平凡社さんで刊行が続いているアンソロジー「作家と〇〇」シリーズ、第8弾だそうです。同じシリーズで令和3年(2021)に刊行された『作家と酒』にも光太郎作品が載っていますが、今回も採用して下さいました。
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作家とお風呂

発行日 : 2025年11月18日(火)
著者等 : 平凡社編集部
版 元 : 平凡社
定 価 : 2,000円+税

文豪から現代の人気作家まで、お風呂への愛が詰まったエッセイ、詩、漫画作品を収録。大好評の「作家と〇〇」シリーズ、第8弾。
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【収録作品(掲載順)】
 Ⅰ 女湯のできごと
    花嫁 石垣りん
    久しぶりの銭湯 俵万智
    ゆず湯 星野博美
    女湯のほうが楽しいに決まってる! 鈴木いづみ
    摩周湖紀行─北海道の旅より─ より 林芙美子
 Ⅱ 銭湯大好き
    底なし銭湯 さくらももこ
    フルーツ牛乳の味 ヤマザキマリ
    銭湯好き 高橋みどり
    銭湯入口のサボテン 大竹伸朗
    銭湯 別役実
    湯の思い出 古井由吉
    ぼくの銭湯論 より 田村隆一
    江戸っ子比べ 前川つかさ
 Ⅲ 我が家のお風呂
    苦笑風呂 古川緑波
    住居 長谷川時雨
    セントウ開始! 青島幸男
    きりなしうた 谷川俊太郎
    風呂を買うまで 岡本綺堂
    トキワ荘物語 赤塚不二夫
 Ⅳ 温泉郷にて その1
    忘れられぬ印象 芥川龍之介
    温泉のお婆ちゃん 宇野千代
    男湯と女湯 より 山下清
    私の温泉 木村荘八
    年頭の混浴 津島佑子
    湧き出ずる泉 小林エリカ
    「浴泉記」など 堀辰雄
    其中日記 より 種田山頭火
 Ⅴ 温泉郷にて その2
    温泉 太宰治
    石段上りの街 萩原朔太郎
    伊香保土産 島崎藤村
    湯ぶねに一ぱい 高村光太郎
    山の湯の旅 上村松園
    天谷温泉は実在したか 種村季弘
    下部 つげ義春
    サウナの正しい入り方 椎名誠
 Ⅵ なぜ人は風呂を好むか
    更くる夜 内海誓一郎に 中原中也
    温泉雑記 より 川端康成
    人生三つの愉しみ より 坂口安吾
    電車と風呂 寺田寅彦
    銭湯の熱さ 半藤一利
    習慣というもの より 北杜夫
    フロマンガ より 吉田戦車
    南太平洋科学風土記 より 海野十三(佐野昌一)
    ホテル―旅館―銭湯考 朝永振一郎
    温泉2 中谷宇吉郎
    入湯戯画 小出楢重
    混浴の思想 浅田次郎
    お風呂で考えた○○ 大槻ケンヂ
 著者略歴・出典

光太郎詩「湯ぶねに一ぱい」(大正5年=1916)が掲載されています。

    湯ぶねに一ぱい

 湯ぶねに一ぱい003
 湯は
 しづかに満ちこぼれてゐる
 爪さきからそろそろと私がはいれば
 ざあつとひとしきり溢れさわいで
 またもとの湯ぶねに一ぱい――
 かすかに湧き出る地中の湯は
 肩をこえて
 なめらかに岩角から流れ落ちる
 涌いてはながれ
 涌いてはながれ
 しづまり返つた山間の午後
 私は止め度もなく湧いて流れる
 温泉に身をとろかして
 心のこゑをきく
 止め度なく湧いて来るのは地中の泉か
 こころのひびきか
 しづかにして力強いもの
 平明にして奥深いもの
 人知れず常にこんこんと湧き出でるもの
 ああ湧き出でるもの
 声なくして湧き出でるもの
 止め度なく湧き出でるもの
 すべての人人をひたして
 すべての人人を再び新鮮ならしめるもの
 しづかに、しづかに
 満ちこぼれ
 流れ落ちるもの
 まことの力にあふれるもの


この時期は日記も残って居らず、今一つ光太郎の詳細な行動が不明なのですが、執筆とそう遠くない時期にどこか山間の温泉に身を浸したことがうかがえます。温泉好きだった光太郎、ふらりと上州や那須などの温泉に浸かりにいくことがしばしばありました。

だいぶ後ですが、昭和17年(1942)、上州宝川温泉で入浴中の光太郎を写したショットが残っています。
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また、尾崎士郎の『関ヶ原』というエッセイ集(昭和16年=1941)に、こんな逸話が。

 記憶がよくないからまちがつてゐたら訂正するが、高村光太郎氏(だつたらうと思ふ)が、何時であつたか水上(温泉)のずつと奥にある藤原の高原地方を旅行してゐるときに、ある村の温泉にひたつたことがある。川の流れをうまく利用して自然に噴出する温泉を引き入れた石垣でかこんだ野天風呂でやつと一人がのうのうと両足を伸ばすに足るほどの広さであつたが、いい気持でぐつたり腰を落ちつけてゐるうちに、ふと眼の前で何か動き出したものがあるので何気なく眼を向けると、石垣の窪みに出来た穴の中から一ぴきの蛇が首(といつても首だが頭だかよくわからないが)をつき出してゐるのである。これはいかんと思つて反対側の石垣からとび出さうとすると、そつちの穴にも同じやうなやつが一ぴき首を出してゐる。右にも左にもゐるのである。まるで蛇にかこまれたやうなかたちであるが、今となると出ることも出来なければ引つ込むこともできず、ぢつとしてゐるうちにふと気がついて、それも窮余の策であつたにちがひないが、身に寸鉄も帯びないときであるだけに、恐らくそんな考へがうかんだものと思はれる。そのまま身体をうかすやうにして立ちあがつた。すると××××××××つきつけられた蛇が慌てて首をひつこめたのである。到底敵すべからずと思つたのか、それとも見るに忍びないと観じたのか、――まるで嘘のやうな話であるが一ぴき一ぴきと首を引つこめて、そのまま消えるやうに穴のおくへ逃げこんでしまつた。達人といへども裸でなかつたらこんな堂々たる応対のできる筈もなかつたであらう。蛇の眼には心頭を滅却した××××××槍の穂先のごとく見えたのかも知れぬ。かういふ芸当がいかなるときにでもできるといふ性質のものではない。

××××××××」は最初から伏せ字になっています。「高村光太郎氏(だつたらうと思ふ)」なので、確実に光太郎のエピソードとは言い切れませんが、有り得なくはないかな、と思います(笑)。蛇をも震え上がらせる「××××××××」、どんだけだよ、という感じですが(笑)。

閑話休題、『作家とお風呂』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・智恵子】

今日この庭を立ち離るゝもひたすら畏き勅語の主旨に従ひさとし給ひし日頃の御教をしるべとして婦女たる道を踏迷ふことなく天晴本校卒業生たるの名誉を保たんことをつとむべしと思ふ心を一同に代りて聊か答ひ奉るになん


「町立福島高等女学校卒業式答辞」より 明治36年(1903) 智恵子18歳

高等女学校卒業式で、総代として読んだ答辞の終末部分です。『福島民友新聞』に全文が引用されました。

例年は声の良い生徒が答辞を読むという慣例があったそうですが、この年は、智恵子の成績が余りに優秀で、声の善し悪しなど関係なく、総代は智恵子と衆目の一致だったそうです。

しかし、その後の智恵子は「ひたすら畏き勅語の主旨に従ひさとし給ひし日頃の御教をしるべとして婦女たる道を踏迷ふことなく」という人生は送りませんでしたが……。
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新刊です。

昭和の夢は夜ひらく

発行日 : 2025年10月20日
著者等 : 五木寛之
版 元 : 新潮社
定 価 : 960円+税

戦前・戦中・戦後──。流れゆく時代の片隅で、私は何を見てきたか。『週刊新潮』人気連載から厳選、追憶の36話。

昭和百年とはいうけれど、歴史として語られる数々の出来事と、戦前、戦中、戦後にかけて自身が経験してきた事々は、重なるようでいてどこか重ならない。戦争と引揚げの記憶、貧しかった青春時代、かつての文壇での交友や歌謡曲の世界、そして逝きし人びとの声──連載十二年に及ぶ「週刊新潮」の人気エッセイから三十六話を厳選、忘れ得ぬ時代の原記憶が鮮やかによみがえる。
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目次
 はじめに
 流されゆく日々
  流れゆく時代のなかで/ボタ山に紅テントが立った時代/ラジオと共に六十年/
  黒と白のブルース/一日見ぬ間の桜かな
 昭和百年とはいうけれど
  昭和百年の原記憶/ぬるめの風呂につかりながら/昭和時代の片隅で/
  昭和残影あれこれ/『昭和百年』はどう語られるか
 忘れ得ぬ記憶
  虫のいろいろ/シベリア抑留者の光と闇/七十数年前の難民として/
  時は流れる 時計が見える/戦後は遠くなりにけり/思い出のなかの昭和残影
 歌は世につれ、世は歌につれ
  高村光太郎の国民歌/昭和歌謡の罪と罰/昭和の夢は夜ひらく/
  時代の歌と、歌の時代/昭和は踊る時代だった
 文壇つかずはなれず
  文壇バーとガールズ・バー/おい、泣くなよ奥野/文士劇のあった時代/
  原稿用紙と私/あの日の雨はまだ降っている/ハラスメント天国
 忘れ得ぬ人の面影
  内田裕也という人の片影/平岩弓枝さんのこと/上海ガーデン・ブリッジ/
  八代亜紀と冠二郎/残る桜も散る桜
 私の昭和時代
  昭和二十年代の正月/わが青春に悔あり/野球がだんだん遠くなる/私がなくしたモノ

解説文にある通り、『週刊新潮』さんに連載のエッセイ「生きぬくヒント!」からのセレクションです。

「歌は世につれ、世は歌につれ」中の「高村光太郎の国民歌」は、令和2年(2020)の3月12日号に掲載されました。昭和15年(1940)に光太郎が作詞し、飯田信夫が作曲、徳山璉(たまき)の歌唱でそこそこヒットした「歩くうた」に関する内容です。

平成30年(2018)の同じ連載で「潜伏する人びとの世界」と題し、天草地方の潜伏キリシタン、九州や東北の隠し念仏/隠れ念仏などを扱った回でも光太郎に触れて下さっていましたが、残念ながら本書では採録されていませんでした。

昭和7年(1932)のお生まれで、「昭和」時代の大半を経験されている五木氏だけに、多岐に亘るその昭和史の証言は貴重なものだな、と思いつつ拝読いたしました。昭和100年ということで、タイムリーですね。

作詞家でもあらせられた氏ですので、音楽関連の内容も多く、「歌は世につれ、世は歌につれ」と一章まるまる歌謡の話に割かれていますし、他の章でも内田裕也さん、八代亜紀さんなどに触れられています。

もちろん文壇系の話題も。川端康成、野坂昭如、寺山修司、立松和平、安岡章太郎、吉行淳之介などに触れられています。そうかと思えば考古学者の大塚初重など全く畑違いと思われる人々の思い出も。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

私は民衆の言葉を使ふ。思想は明瞭であつて、容易く呑みこまる可きものですから。私は大多数の人に会得して貰ひたい。学者風の言葉や見慣れない文句は審美学専門の学者達に譲ります。


光太郎訳 ロダン「ロダンの手帳 クラデル編」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

万人にわかりやすい言葉で語り、書く。大切なことだと思います。五木氏の文章など、まさにそんな感じですが。

オリジナルが改訂版となり、さらに文庫化されたもの。光太郎の名もちらっと出ています。

鉄人文庫 改訂版 日本ボロ宿紀行

発行日 : 2025年9月25日 
著者等 : 上明戸聡
版 元 : 鉄人社
定 価 : 1,000円+税

懐かしの人情宿が、”旅心”を刺激する
観光でも出張でもない、目的なき旅の途中で出会った“ボロ宿”たち。
ベストセラー旅行記が、改訂文庫版で新たに甦る!

“ボロ宿”は決して悪口ではありません。歴史的価値のある宿から、古い安宿までひっくるめ、愛情を込めてそう呼んでいます。ボロ宿は最高の誉め言葉です――。テレビ東京でドラマ化された傑作旅行記の決定版、待望の文庫化! 歴史的宿から湯治宿、商人宿、駅前旅館まで、古い建物を守り続ける宿を愛してやまない著者のベストセラー旅行記がリニューアル復刻。懐かしの人情宿が“旅心”を刺激する。

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目次
 グラビア
 改訂版の文庫化にあたって
 はじめに
 第一章 昔の姿を残す青森の湯治宿
  八戸 新むつ旅館 五所川原 音治郎温泉旅館 黒石 温湯温泉飯塚旅館
 第二章 花巻のお馴染み宿から、遠野へ
  花巻 大沢温泉・自炊部 遠野 旅館福山荘 花巻 鉛温泉藤三旅館
 第三章 つげ義春ゆかりの宿を訪ねて西伊豆へ
  伊豆 天城湯ヶ島温泉白壁荘 松崎 長八の宿山光荘 松崎 岩地温泉民宿大清水
 第四章 忍者の里をさまよい歩く
  伊賀 薫楽荘
 第五章 伊勢から鳥羽へ歴史を訪ねる旅
  伊勢 星出館 伊勢 旅館海月
 第六章 四国から瀬戸内を渡って尾道へ
  松山 道後温泉ホテル椿館 大崎上島 きのえ温泉ホテル清風館 尾道 佐藤旅館 
 第七章 鳥取の限界集落と出雲への旅
  智頭町 河内屋旅館 出雲 持田屋旅館 境港 かぐら旅館
 第八章 熊本の日奈久温泉から鹿児島へ
  八代 日奈久温泉新湯旅館 出水 白木川内温泉旭屋旅館
 第九章 雪国を旅する
  横手 尾張屋旅館 角館市 高橋旅館 弘前市 石場旅館
 第十章 震災後の東北を巡る旅
  酒田 最上屋旅館 東鳴子温泉 まるみや旅館 千厩 勢登屋旅館 能代市 民宿水月
 第十一章 熱海から小田原へ昭和レトロを求めて
  熱海 福島屋旅館 小田原 日乃出旅館
 第十二章 町にも宿にもドラマあり
  長浜市 三谷旅館 大津市 ホテル大津 鳥取市 旅館常天
 第十三章 瀬戸内海の風と光に魅せられて
  小豆島 オリーブ温泉小豆島グランドホテル水明 津山あけぼの旅館
  今治 ビジネス旅館 ビジネス旅館笑福


解説文にあるとおり、「ボロ宿」は蔑称ではなく、限りない愛着を込めての呼称です。新しさや利便性とは無縁の、しかし温かみにあふれる全国のレトロな宿がこれでもか、と紹介されています。本書でも取り上げられているつげ義春氏が愛したような宿、といえば通じる方も多いと思われます(笑)。

戦後の7年間の蟄居生活中に光太郎が何度も訪れた、花巻南温泉峡の大沢温泉さんと鉛温泉さんが取り上げられています。鉛温泉さんの項では光太郎の名は出て来ませんが、大沢温泉さんの方には「平安時代に坂上田村麻呂が見つけ、宮沢賢治や高村光太郎のお気に入りだったという歴史あるお湯」と紹介されています。

なぜか文春さんのサイトに大沢温泉さんの項がほぼ全文引用されており、それで本書の存在を知って購入した次第です。そちらには本書ではモノクロ画像で載っているものがカラーで掲載されています。
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当方も年に数回、大沢温泉さんに泊めていただいており、「そうそう、こういうところがたまらないんだよな」などと思いながら拝読いたしました。ただし、平成20年(2008)時点でのレポートなので、菊水館さんの休業、その後の「ギャラリー茅」としてのリニューアルなどには触れられていませんが。

自炊部さんは江戸時代の建物を使っており、まさに「ボロ宿」(これも良い意味での、です)ですが、根強い固定ファンも多いようで、このところ予約に苦労しています。やはり菊水館さんに泊まれなくなったことでキャパ自体も減りましたし。この冬には来月、12月、来年2月と3回花巻行きの予定ですが、自炊部さんがとれたのは2月だけでした。12月は建物が繋がっている近代的な温泉ホテルの山水閣さん、来月は本書でも取り上げられている鉛温泉さんの自炊部をとりました。こちらも光太郎ゆかりの宿で、3回ほど泊めていただいたことがあります。やはり寒い時期はシティホテルより大きな温泉が望ましいところです。

12月には同じ花巻南温泉峡に「大江戸温泉物語Premium 岩手花巻」がオープンします(元々渡り温泉で他の宿だったところですが)。ファミリーや、手軽なお得感、がっつりの食事などを優先される方々はそちらへ泊まっていただけると、大沢温泉さんの予約も取りやすくなるかな、等と考えていますが、どうでしょうか。

ところで『日本ボロ宿紀行』、上記解説文に「テレビ東京でドラマ化された」とありますが、平成31年(2019)のことでした。原案は『日本ボロ宿紀行2』ですが、売れない歌手・桜庭龍二(高橋和也さん)と芸能プロダクション社長兼マネージャー・篠宮春子(深川麻衣さん)がプロモーションのためボロ宿を泊まり歩くという、書籍とは全く異なる設定になっていました。

当方の自宅兼事務所のある千葉県香取市の木の下旅館さんというボロ宿(現在は旅館業は廃業し、食堂になっています)も舞台となったので、放映当時にリアルタイムで拝見しました。桜庭の唯一のヒット曲「旅人」のPVを新たに制作するというストーリーで、背景は木の下旅館とその周辺。調べたところ、YouTubeにまだ動画が残っていました。昭和レトロを茶化す感じがたまりません(笑)。


ちなみにこの場所では、昭和42年(1967)公開の松竹映画「智恵子抄」のロケも行われています。

閑話休題、『改訂版 日本ボロ宿紀行』、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

――自然は至上の建築家です。何もかも最美の釣合で建てられてゐます。それに何もかも三角か、六面体か或は其の変化の中に閉ぢ込められてゐます。私は此原則を自分の彫像を組立てる時に使ひます。

光太郎訳 ロダン「ロダンの言葉 フレデリク ロートン筆録」より
大正5年(1916)頃訳 光太郎34歳頃

葛飾北斎が『北斎漫画』『略画早指南』などで万物がコンパスと定規で描けるとしていたのを想起しました。
無題
我々凡人とは見え方が違うのかも知れません。

刊行から3ヶ月近く経ってしまい、新刊とは言い難いのですが……。

エッセイ三昧 

発行日 : 2024年11月25日
著者等 : 和合亮一
版 元 : 田畑書店
定 価 : 2,750円(税込)

東日本大震災直後の福島からTwitterで詩を発信し続け、その詩は世界各国で翻訳されて、フランスでは第一回ニュンク・レビュー・ポエトリー賞を受賞。世界が認める詩人・和合亮一はまた、福島の高校で教鞭をとる国語教師でもある。毎朝、通勤電車に揺られて学校に通う日々、巣立っていく息子への思い……ごく普通の生活から〝詩〟が生まれていく過程を、直截に、ユーモアを交えて綴った、ほぼ10年にわたるエッセイの集大成! 特に中原中也、三好達治、草野心平から谷川俊太郎など19人の詩人について、その詩の本質を平易に、また柔らかく語った「ルミナスラインをあなたへ」は圧巻。

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目次
 朝の文箱(南日本新聞連載)12篇
  手と手に/父心/床屋で祖父に励まされる/日曜日には襟を正して 他
 詩ノ交差点アリマス(河北新報連載)72篇
  詩を書いている和合です/講演しながら耳を澄ませ 他
 震災からの日々(各紙誌掲載)12篇
  骨が記憶する揺れ/十年目の春/あのときの子どもたち 他
 詩人のあぐら(平凡社「こころ」連載)8篇
  千の天使の三点シュート/五十二ニシテビラヲ配ル 他
 通勤の車窓から(各紙誌掲載)7篇
  竹、竹、竹が生え。/震災と賢治/月に叫んじゃえ 他
 ルミナスラインをあなたに(雑誌「一個人」連載)22篇
  長田弘/茨木のり子/いとう りおな/関根弘/菊田心/吉野弘/金子みすず/高橋順子
  高村光太郎/三好達治/室生犀星 1/室生犀星 2/草野心平 1/草野心平 2/大岡信
  大和田千聖/谷川俊太郎/中原中也 1/中原中也 2/田村隆一/野口武久/石垣りん


福島市ご在住の詩人・和合亮一氏が新聞・雑誌等に連載されたエッセイの集成です。先日上京した折、日本橋の丸善さんにフラッと立ち寄り、発見しました。

雑誌『一個人』に連載されていた「ルミナスラインをあなたに」中に光太郎の項がありました。ちなみに「ルミナスライン」とは、和合氏曰く「詩の中に、あなたにとって輝くようなフレーズが見つかるといい。それを「ルミナスライン」(光る詩の行)と呼んでいきたい」。そこで、古今の詩人(職業的詩人以外も含む)の作品を毎回一篇ずつ取り上げ、わかりやすく解説。光太郎詩は「冬が来た」(大正2年=1913)でした。他に当会の祖・草野心平の項でも光太郎に言及されています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

写真お送り下さつてありがたく御礼申上げます、一九五一年のよい記念になりますし新生活発足の日の貴下の撮影といふ事に愉快な意味を感じます、

昭和26年(1951)12月6日 佐久間晟宛書簡より 光太郎69歳

佐久間佐久間晟氏は宮城県歌人協会会長などを歴任された歌人。光太郎と交流のあった前田夕暮門下でした。奥さまでやはり歌人のすゑ子氏とこの年にご結婚、新婚旅行の中で花巻郊外旧太田村に逼塞していた光太郎の山小屋を訪ねられました。

平成17年(2005)、お二人が同人となられていた歌誌『地中海』に、光太郎訪問記等がすゑ子夫人のご執筆で掲載され、その後、当方、仙台でご夫妻と面会、詳しくお話を伺うことができまして、その際の聞き書きを『高村光太郎研究』第28号(平成19年=2007、高村光太郎研究会)に寄稿いたしました。

右のお二人が佐久間夫妻、左端は夫妻が泊まられた花巻温泉松雲閣の仲居さん・八重樫マサ。夫妻を山小屋に案内したそうです。

エッセイストにして、雑誌『暮しの手帖』元編集長であらせられ、これまでもあちこちで光太郎に触れて下さっている松浦弥太郎氏の新著です。

正直、親切、笑顔 僕が大切にしている125の言葉

発行日 : 2025年1月30日
著者等 : 松浦弥太郎
版 元 : 光文社
定 価 : 1,250円+税

「この本をあなたの大切な人に、プレゼントしてください」。エッセイスト松浦弥太郎さんが日々書きとめてきた、お守りのような言葉を一冊にまとめました。「弱いってことは強いってことなんだと思う。弱いとわかっている強さってある」「百冊の本を読むよりも、一冊の本を百回読みたい」など、苦しいときに、穏やかな呼吸を取り戻すために、紙の手触りを感じながらページを開いてほしい。紙の本を愛する人に贈る至福の一冊です。

目次
 はじめに
 正直
 親切
 笑顔

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直接光太郎と関わるわけではありませんが、タイトルが光太郎がらみです。「はじめに」から。

タイトルにした「正直、親切、笑顔」という言葉は、高村光太郎さんが花巻の小学校の生徒に贈った言葉からいただきました。この言葉は、僕の人生の出発点ともいえるものです。

正確にいうと「笑顔」は松浦氏が付け足されたもので、光太郎が贈った言葉は「正直親切」。昭和26年(1951)、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の太田小学校山口分教場が山口小学校に昇格した際、校訓として揮毫し、贈りました。

佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』より、同校初代校長・浅沼政規の証言から。

「子供たちの毎日の生活に大切な言葉を掲げ、朝夕それを仰いで、みながよい子になろうと励むようにしたいものだと考えますので、何か適当な言葉をお願いしたいと思って参りました。」
「それはいいことですね。みんなが合言葉のようにして心がけていくと自然よくなっていくでしょう。どんな言葉がよいかな。」
「太田の中学校で、先生に書いていただいたのを掲げてありますが、ああいうものでもいいのですが。」
(注・太田中学校校訓は「心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する」)
「そうですね。小学校だからむずかしい言葉では子供にはわからんでしょうからね。まあ考えておきましょう。」
 その後一ヶ月半ほどたち、いよいよ書いてみようということになったので浅沼校長さんは画仙紙を届けました。先生は
「『正直』と『親切』と二つ採ろうと思いますがどうでしょうか。どちらも子供の時からしつけていけばいいことですからね。」
「ありがとうございます。そうお願い致します。」
 何日かの後、先生がその書を学校に持参して下さいました。校長さんは厚く礼をのべ、花巻に出て、額に表具し、額を学校に掲げ生徒に合言葉となるよう指導しました。


そうして書かれたのが、下記の書。
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戦後ふうに左から右に書き、一年生の児童でも読めるようにと現代仮名遣いでルビも。旧仮名遣いでは「しやうぢきしんせつ」です。ただ、拗音を小さく書くというルールは未だ徹底されていなかった時期で、「しょう」ではなく「しよう」となっています。

そして光太郎、学芸会に招かれ、児童を前に語りました。再び『高村光太郎山居七年』から。

校訓のことですが、何か書こうと思っても何もない。太田中学校には書いてあげました。大きい人にはその意味もわかるのでよいですが、皆さんには何がいいかと考えました。結局平凡なことですが、『正直』というのを採りました。正直は人の行の根本になると思いますし、その時は損なようでも結局長い間では得になるものです。これに親切を加えました。そういうわけで、あの書をあげたのですが、学校の訓(おしえ)ともなり、又校章と相俟って将来よい校風が出来ますれば幸です。

残念ながら山口小学校は廃校となって元の太田小学校に統合、しかし跡地には光太郎に贈られた「正直親切」の語を刻んだモニュメントが建てられました。
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こうしたいきさつに感銘を受けた、光太郎と交流があり、埼玉県東松山市の教育長であらせられた故・田口弘氏は、昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さん校庭に同じ文字を使った碑を建立。さらに光太郎母校の荒川区第一日暮里小学校さんでも、昭和60年(1985)、創立百周年記念にこの言葉を刻んだ碑を建立しました。同校では学校便りのタイトルも「正直親切」です。
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さて、松浦氏の御著書。光太郎に触れられているのは「はじめに」だけなのですが、「正直」「親切」「笑顔」の三章に分け、「なるほど」と思わせられる言葉が並んでいます。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

詩集“琉球”ありがたくいただきました。大変美しい本が出来てうれしい事です。表紙の紅形を飽かずながめました。紙もきれい、印刷もきれい、詩もきれいです。かういふきれいさがだんだん世の中に少くなつてゆくやうな気がします。

昭和26年(1951)10月15日 矢野克子宛書簡より 光太郎69歳

矢野克子は明治38年(1905)、沖縄生まれの詩人です。詩集『琉球』はこの年刊行された詩集で、表紙には伝統の琉球紅型(びんがた)のデザインを使っていました。
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いきなり自分の名が出て来たので「ありゃま」という感じでした。

『岩手日報』さん、12月7日(土)に掲載された「みちのく随想」というコーナーの、「私たちのリレー」というエッセイ。お書きになったのは、宮澤賢治の妹・トシの母校にしてトシ自身も教壇に立った花巻南高等学校さんの菊池久恵先生。文芸部さんの顧問をお務めです。

みちのく随想 私たちのリレー 

 「だれか、智恵子さんのエプロンを作ってくれませんかね。」
 去年の秋、小山弘明さんが呼びかけた。氏は、彫刻家で詩人の高村光太郎の研究家。「光太郎と吉田幾世(いくよ)」展講座での一声に、最前列にいた勤務校の文芸部員とわたしは、目を上げた。光太郎の妻智恵子のデザインのエプロンの図面が、大スクリーンに映っている。
 もとは高村夫妻が寄稿していた『婦人之友』の百年前の号に載る。この雑誌は青森県八戸市出身の羽仁(はに)もと子と、吉一(よしかず)の夫妻が創刊。「家庭から良い社会を作ろう」を理念に今に至る。
 ここに何度も寄稿した芸術家同士だからこそ、エプロンには二人の暮らしぶりがうかがえるのでは。なぜか、小山さんがわたしたちへ声をかけている気がした。ついでなぜか、バトンを手渡すように勤務校の家庭クラブに持ちかけた。快諾をもらい、智恵子のエプロン復刻プロジェクトが走り出す。
 講座後、光太郎の食を通して顕彰する「やつかの森合同会社」の方々と知り合い、寸劇や朗読を披露いただいた。その方々と、光太郎が名づけた「花巻賢治子供の会」の元会員の方を囲み、彼と直(じか)に交流した思い出をうかがう。「高校生と一緒にできてうれしい。」という一言が、わたしたちにはうれしい。
 改めて知る宮沢賢治の、花巻の、岩手の「恩人」である彼の足跡。この地の雲を見、土を嗅ぎ、雪積むうちにほりさげた、自己流謫(るたく)としての戦後七年間の山荘暮らしとその詩。実際、訪問者が結構いたとか。一方、「花巻における光太郎を知る会」では、彼の日記を読み、当時をつぶさに描く時間をいただいた。
 去る六月。花巻市太田地区振興会主催「五感で楽しむ光太郎ライフ」での発表に、これらがみな、つながった。百名あまりの参加者を前に、勤務校の文芸部員がエプロンの復刻のいきさつを説明。一年生は、光太郎が取りに語りかける詩「クロツグミ」を、三年生は、まさにこの季節の詩「若(も)しも智恵子が」を、一心に朗読した。「もしも智恵子が私といつしよに/(略)いま六月の草木の中のここに居たら、/(中略)サフアイヤ色の朝の食事に興じるでせう。」
 昼食は、光太郎のレシピによるそば粉のガレットロールやパンケーキ、鶏肉のコンフィほか。味わううちに、そのテーブルに光太郎と智恵子が、むこうには羽仁夫妻もいて、サファイヤ色の昼の食事にほほえむ気配がする。
 さて、復刻エプロン姿の家庭クラブ一年生が登場するや場内がどよめいた。智恵子が実家の酒屋で使っていた柿渋染めの酒袋を再利用したエプロンの復刻には、発見があいつぐ。
 図面と酒袋の縦の長さはほぼ同じ。生地がむだなく使え、そこから智恵子の身長は約一五〇㌢と推定できる。酒袋は防水・防腐効果があり、生地が固くミシン針が折れるくらい。だが、丈夫で長持ちする。中央のポケットも大きい。三角形の胸のデザインは授乳しやすく工夫したもので、古代更紗(さらさ)で縁を飾り、さすが、しゃれている。
 講評では、「伝えていく人がいるから、その人のことが伝わる。」と、小山さん。うなずきながら、受けとめるときも伝えるときも、新しい景色を見、世界が開かれていくようにと思う。たどり着くところはわからないが、進むべき方向は決まっている。わたしたちのリレーとはきっと、そのようなものだ。
 この十月、智恵子の命日五日の「レモン忌」も近く、家庭クラブは詩「レモン哀歌」にちなむレモンケーキを完成した。月半ば、土澤アートクラフトフェアで「やつかのもり」の方々が販売する「こうたろう弁当」に添えプレゼント。喜ばれた。同じ頃文芸部は、たしかに目を見張る走りをした「復刻智恵子のエプロン」特集を部誌に載せ、その人の故郷、福島県二本松市の智恵子記念館へとどけた。
 どちらも、どこへつながり、どのような景色が見えるかわからない。胸が鳴る。わたしたちは本日も「継走中」。


実に熱く語って下さいました。ありがとうございました。

冒頭の「「光太郎と吉田幾世(いくよ)」展講座」は、昨年11月。花巻高村光太郎記念館さんで当方が講師を務めさせていただきました。
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盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校さん)を設立し、学校ぐるみで光太郎と交流のあった吉田幾世とのつながりをご紹介するものでしたが、学校や吉田自身が深く関わった雑誌『婦人之友』への光太郎智恵子の寄稿や受けた取材の話の中で、「智恵子のエプロン」にふれたところ、興味を持って下さったというわけです。

そのお披露目が今年6月。文中にある通り、イベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の一環でした。
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その後も家庭クラブさんは「レモンのパウンドケーキ」、文芸部さんは部誌『門』と、継続しての取り組み。ありがたし。

さらに活動が発展していくことを願って已みません。

追記:最近流行りのAIで白黒写真をカラー化できるアプリで遊んでいたところ、問題のエプロンと同型のものを智恵子が着用している写真を見つけました。というか、あちこちで使われている有名な写真ですが、そこにエプロンが映っていたのを見つけたというべきですか。カラー化して初めて気づきました。この写真、白黒で生家や道の駅で顔はめパネルとして使われています。
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【折々のことば・光太郎】

東北はまだ暑いです。こんなに暑くては東北に居る甲斐がありません。来年はどこかの山へ避暑しようかと思つてゐます。


昭和25年(1950)9月16日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、標高としてはそれほどでもなく、また、とにかく夏の暑さには弱かった光太郎、残暑に悩まされていたようです。

来年はどこかの山へ」は結局実現しませんでした。翌年には持病の結核性の肋間神経痛が悪化したのも一因でしょう。

12月7日(土)の『東京新聞』さんから、中川越氏の連載。

文人たちの日々好日 コーヒー讃歌

 竹久夢二は最晩年の昭和9(1934)年49歳のとき、療養地の信州から人形作家岡山さだみ宛に次の手紙を書きました。
 「旅先(たびさ)きで食べたあれやこれや思出(おもいだ)してはその地方からよりよせています。ホノルルから次の船でコーヒーがつくでしょう。そしたら西洋菓子をほしい、コロンバンよりも私は尾張町の裏通りのドイツベイカリイ(或(あるい)はジヤアマンベイカリイ)の菓子がほしい」
 夢二はこの手紙の3年前、46歳のときにホノルルを経て渡米、1年余滞在した後に渡欧。思い出深い異国の香味コーヒーをわざわざ取り寄せ、病に塞(ふさ)ぐ心を癒(いや)したようです。
 また、支援者から贈られたコーヒーにより自身の孤独を温めたのは高村光太郎です。戦後岩手県の花巻で独居自炊の生活を始めた高村は、後輩詩人宮崎稔への手紙の中でこう述べました。東京を離れて2年が過ぎた同22(1947)年63歳のときのことでした。
 「昨日高崎の方の人からコーヒーの缶入(かんいり)とサッカリン錠といふものをもらいました。早速いれて久しぶりのカフェ ノワールを賞味しました。クラッカアの無いのだけが残念でした」
 サッカリン(合成甘味料)は入れず、カフェノワール(ブラックコーヒー)を味わいながら、亡き智恵子との生活を思い出していたのでしょう。

 そして、ドイツ留学中にその味に魅了された寺田寅彦にとってコーヒーは、科学者としてのインスピレーションを得るための不思議な装置となりました。「コーヒー哲学序説」という随筆で、こう述べています。
 「研究している仕事が行き詰まってしまってどうにもならないような時に、前記の意味でのコーヒーを飲む。コーヒー茶わんの縁がまさにくちびると相触れようとする瞬間にぱっと頭の中に一道の光が流れ込むような気がすると同時に、やすやすと解決の手掛かりを思いつくことがしばしばあるようである」
 そんな口唇とコーヒーとの意外な関係を別な趣向でイメージしたのは日本現代詩人会会長の郷原宏です。半世紀前青年郷原は「珈琲讃歌(コーヒーさんか)」と題する詩の中で、若い娘に告白しました。
 「暗い夜を逃れて/ふたたび、おまえにめぐり合う/このひとときの安息/おまえはいつも/容器のかたちに身を添わせながら/ひかえめに/しかし、きっぱりと/自己を主張する/白い花と赤い実から生まれた/黒い少女よ/お前に熱いくちづけをおくろう」
 初めてのキス、そしてほろ苦い失恋を彷彿(ほうふつ)とさせられます。以上は全て男たちのコーヒー讃歌。女性にとってコーヒーとは? どなたかいつか教えてください。
(手紙文化研究家・イラストも)
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当方も珈琲党で(別に豆は何々で焙煎の具合はどうこうでというようなこだわりは全くなく、インスタントだろうが缶コーヒーだろうがかまわないのですが(笑))、1日に5,6杯は軽く飲みますので、それぞれのコーヒー談義、あるあると思って読みました。

夢二の文章に出て来るコロンバンさん、当時からあったのですね。学生時代には毎年この時期、三越さんで配送のアルバイトをしていましたが、かなりの頻度でコロンバンさんやヨックモックさんの商品を扱いました(笑)。

筆者の中川氏、「手紙文化研究家」ということで、文豪たちの手紙に冠する御著書等多数おありです。

『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』。
『愛の手紙の決めゼリフ 文豪はこうして心をつかんだ』。
新潮文庫『すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―』。

氏とはフェイスブックでつながらせていただいておりまして、過日は当方もスタッフとして詰めていた中野区のなかのZEROさんでの「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」にもいらして下さり、初めてお会いすることができました。

今後ともご健筆を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

おてがみがこんな山の中へまで来ました、小生の作つたものが若い人達の心に触れたといふお話をきくと不思議のやうにも思はれ、又大変はげまされます、おてがみに感謝します、この山にゐて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居ります、
昭和25年(1950)9月9日 高橋光枝宛書簡より 光太郎68歳

令和元年(2019)、この書簡は受け取ったご本人から花巻市に寄贈されました。現代はSNS全盛の時代ですが、やはり直筆の手紙というものは貴重ですね。

一昨日、12月8日(日)の『北海道新聞』さん一面コラム。

卓上四季

重くたちこめていた暗雲が吹き払われ、日本の命運に光がさした―。83年前のきょう、米ハワイ真珠湾への奇襲が成功し、太平洋戦争が始まる。大多数の国民は熱狂的に受け入れた▼人道主義を説いた白樺派作家の武者小路実篤は高揚していた。<くるものなら来いと云(い)う気持だ。自分の実力を示して見せる>。詩人・彫刻家の高村光太郎も感動を抑えられない。<世界は一新せられた。現在そのものは(略)純一深遠な意味を帯び光を発し>た。興奮が広がる▼憂うる者もいた。作家の幸田露伴は国の将来を案じて涙を流した。「若い者たちをつぶしてしまって事が成り立つはずがない。これではもういっぺんでひどい事になる」。先が見通せた少数者だった▼真珠湾攻撃は遠く離れた英国でも速報された。ラジオで知ったチャーチル首相はすぐに米国へ電話で問い合わせた。なにが起きたのか? ルーズベルト大統領は答えた。「日本の攻撃です。いまやわれわれ(米英)は同じ船に乗りました」▼<世界史的事件>と受けとめたチャーチルは記している。これでヒトラーとムソリーニの運命は決まった。いずれ日本も木っ端みじんに打ち砕かれるだろう―▼日本は序盤こそ快進撃を続けたものの続かない。軍事力も経済力も米国との差は圧倒的だ。チャーチルの予測は4年弱で現実となる。

光太郎が「感動を抑えられない」として引用されているのは詩ではなく、エッセイ「十二月八日の記」から。太平洋戦争開戦から約1ヶ月後の昭和17年(1947)元日、『中央公論』に載ったものです。後に随筆集『某月某日』(昭和18年=1943)に収められました。

真珠湾攻撃のあった昭和16年(1941)12月8日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していました。「十二月八日の記」はそのレポート的なものです。引用されている一節は、会場の大政翼賛会本部で開戦の詔勅(昭和天皇本人によるものではありませんでしたが)を聴いたときのもの。

その前後も併せて紹介します。

 時計の針が十一時半を過ぎた頃、議場の方で何かアナウンスのやうな声が聞えるので、はつと我に返つて議場の入口に行つた。丁度詔勅が捧読され始めたところであつた。かなりの数の人が皆立つて首をたれてそれに聴き入つてゐた。思はず其処に釘づけになつて私も床を見つめた。聴きゆくうちにおのづから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡が曇つて来た。私はそのままでゐた。捧読が終ると皆目がさめたやうに急に歩きはじめた。私も緊張して控室に戻り、もとの椅子に坐して、ゆつくり、しかし強くこの宣戦布告のみことのりを頭の中で繰りかへした。頭の中が透きとほるやうな気がした。
 世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである。現在そのものは高められ、確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなつた。
 この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いてゐる時間だなと思つた。時間の重量を感じた。

結局、第二回中央協力会議は当初5日間の日程でしたが、それどころではなくなり、1日に短縮。光太郎が発議する予定だった「工場施設への美術家の動員」はカットされました。

以後、ほとんどすべての文学者がそうであったように、雪崩を打って光太郎も発表するものは翼賛詩文一辺倒となっていきます。後述しますが、発表しなかった戦争とは無関係の詩も多くありましたが。

『北海道新聞』さんでは例外として幸田露伴の発言を引いています。当方、寡聞にしてそのソースは存じませんが、その露伴にしても、徳富蘇峰を日本文学報国会会長に推挙したり、その前身とも言える日本文芸中央会の相談役、報国会と『朝日新聞』共催の「国民座右銘」選定委員に就任したりと、決して「無罪」ではありませんでした。

驚いたのは、開戦当時満10歳だった谷川俊太郎氏。やはり12月8日(日)の『長崎新聞』さん一面コラム。

水や空

いのちと愛の言葉を最後まで手放さなかった詩人もその時代は“軍国少年”だった。谷川俊太郎さんが模型ヒコーキへの熱をつづった作文を〈僕の模型よ、お前もほんとの飛行機と一緒にニューヨーク爆撃に行け!〉と結んだのは10歳の春。開戦の翌年だった▲もう、少国民教育が行き渡っていた時代だったのですね-の問いに「そのようですね」と短く応じている。文芸評論家・尾崎真理子さんとの対談集「詩人なんて呼ばれて」(新潮文庫)から▲戦争は知らずに、結末だけを知る私たちが当時の空気を後知恵で非難するのはルール違反でしかない。ただ、大和魂だ、日本は神の国だ-という高揚感や興奮が無謀な戦争を支えていたことは、何度でも胸に刻んでおきたい▲高揚感はやがて消える。谷川さんよりも5歳年長の詩人・茨木のり子さんは「わたしが一番きれいだったとき」に戦争の現実を詰め込んで語った。〈街々はがらがら崩れていって〉〈まわりの人達が沢山(たくさん)死んだ〉〈男たちは挙手の礼しか知らなくて〉▲〈わたしの国は戦争で負けた/そんな馬鹿なことってあるものか〉-青春を返して。でも、戦争が始まってしまったらその叫びはどこにも届かない。「馬鹿なこと」は「敗戦」ではなく「開戦」だ▲太平洋戦争の開戦から8日で83年になる。

「教育」の力は、時に恐ろしい結果をもたらすものだと改めて感じました。

話を光太郎に戻します。光太郎にはずばり「十二月八日」という詩もあります。昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』に発表されました。
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毎年、12月8日には幼稚なネトウヨがこの詩の一節をSNSに挙げて(ついでに言うなら誤字だらけで)喜んでいます。昨年はそれほどでもなかったので、そうした動きは沈静化したかなと思っていたのですが、今年はまた以前以上に花盛り。光太郎本人が戦後、こうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔い、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。

もう取り消せない、という意味では「デジタルタトゥー」に近いものがあるかも知れません。また、「綸言汗の如し」という言葉も思い浮かびます。「無かったことにしよう」というのではありませんが(多くの文学者の同様の作品は、本人や取り巻きによって、「無かったこと」にされている現状もあります。あまっさえ、「無かった」どころでなく「反戦の姿勢を貫いた」とされている詩人も居ますし、現代の有名な評論家のセンセイもそれに騙されています)。

つくづく戦争というものは人の心を狂わせるものだと思わざるを得ませんね。

【折々のことば・光太郎】

「花と実」も予定ばかりで出版にはなりさうもありません。


昭和25年(1950)9月9日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎68歳

光太郎は戦時中、一切戦争には関わらない詩も書いていました。それらは発表することなく書きためていて、『花と実』というタイトルの詩集にまとめる予定でした。しかし、今更感もあったのでしょう、結局実現しませんでした。

年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』。最新号の第十九号が届きました。
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いつも書いていますが、同人にしてくれと頼んだ覚えは一切ありませんが、「連翹忌通信」という連載を持っています。評論ともエッセイともつかない駄文ですが(笑)。

前号に引き続き、キーワードは「佐佐野旅夫」。当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、明治45年(1912)の雑誌『スバル』に載った「佐佐野旅夫」署名の戯曲「地獄へ落つる人々」を、光太郎の変名によるものではないかと推理され、「参考作品」として『高村光太郎全集』の別巻に掲載された件について。

残念ながら北川先生の推理は外れで、「佐佐野旅夫」は佐々木好母という人物が使っていたペンネームだと判明した件を前号に書きましたが、佐々木は明治末から戦後にかけて(途中、疎遠になっていた時期もあったようですが)光太郎と交流があり、そんなわけで北川先生が光太郎作品と見まごうような戯曲を書いていたのだ、的なことを今号には書きました。さらに佐々木の経歴、光太郎やその親友・水野葉舟との交流などについても。

ちなみに戯曲「地獄へ落つる人々」、『スバル』本誌では「佐佐野旅夫」クレジットでしたが、他誌に載った広告では本名の「佐々木好母」で紹介されていました。
地獄へ落つる人々
詳しくは奥付画像を載せておきますので、御注文の上『とんぼ』をお読み下さい。
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拙稿の件を先にご紹介して申し訳なかったのですが、目次は以下の通り。
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編集に当たられている曽我貢誠氏が、当方も幹事に名を連ねています「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の世話役、版元の文治堂書店さんの社主・勝畑耕一氏も同会メンバーで、随所に保存運動の件も書かれています。

他に北川先生の御子息・光彦氏、朗読のイベントなどでお世話になっている服部剛氏などの玉稿も。

頒価は600円だそうです。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「典型」の表紙、見返し、扉、外函の装幀原図がやつと決定しましたので、宮崎さん宛送ります。書留にするには集配人をつかまへるのが一苦労です。


昭和25年(1950)8月23日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

若い頃からの選詩集的なものを除き、光太郎生涯最後の詩集となった『典型』。おそらく自分でも生涯最後の詩集とするつもりだったようで、装幀は気合いを入れて自分で行い、題字も自分で刻んだ木版でした。
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無題
典型
扉の案のうち、左の二つはボツにしたもの、一番右を採用しました。いわずもがなですが文字も自筆です。

アンソロジーものの新刊です。2ヶ月程経ってしまいましたが。

ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編

発行日 : 2024年8月28日(水)
著者等 : 早川茉莉編
版 元 : 筑摩書房
定 価 : 税込み2,090円

喉を通りぬける冷たい爽快感! 内田百閒、田中小実昌、東海林さだお、草野心平、森茉莉、茨木のり子……飲める人も飲めない人も素敵な活字のビールをどうぞ!

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目次
 序
 プロローグ 気分爽快 森高千里
 1杯目 つぎたてのビール――まずはビール。とりあえずビール
  いつかきっと 田村セツコ
  缶と瓶 細馬宏通
  ビールのある風景 山本精一
  西陽の水面とビール 高山なおみ
  イギリス湖水地方のラガー 高柳佐知子
  ビールの遍在性とさりげないやさしさについて 小野邦彦
  脳内反芻ビール 小山田 徹
  サバティカルはミュンヘンで 喜多尾道冬
 2杯目 泡は大事――ビールは泡ごとググッと飲め
  ビールの泡 田中小実昌
  泡だらけ伝授 阿川佐和子
  ビールは泡あってこそ 東海林さだお
  原則の人 伊丹十三
  ビールは小瓶で 長田 弘
  モクモクモク 嵐山光三郎
  ビールは泡ごとググッと飲め 草野心平
 3杯目 ビール、もう一杯!――こんな日はとりわけビールがうまいんだ
  虚無の歌 萩原朔太郎
  モーツァルトmozart  村上春樹
  軽い酔 牧野信一  
  飢えは良い修業だった アーネスト・ヘミングウェイ 福田陸太郎 訳
  とりあえずビールでいいのか 赤瀬川原平
  ビールと女 獅子文六
  白に白に白 大道珠貴
  鍋貼 小川 糸
  ふきのとう 姫野カオルコ
  ビールに操を捧げた夏だった 夢枕 獏
  七月 ビール炊き御飯 金子信雄
  富士日記(抄) 武田百合子
  モンスターと夜景 雪舟えま
  人生がバラ色に見えるとき 石井好子
  飲み、食べ、颯爽と嫌う 城 夏子
  ビール 大橋 歩
  炎天のビール 山口 瞳
  コップに三分の一くらい注いで、飲んじゃ入れ、飲んじゃ入れして飲むのが、
ビールの本当にうまい飲み方なんですよ。 池波正太郎
 4杯目 旅先のビール――頭のテッペンから足の先までが、キューッとしびれる
  あほらしい唄 茨木のり子
  灰色の菫 田村隆一
  2019年5月3日 小沢健二
  この世で一番おいしいビール 氷室冴子
  道草 吉田健一
  鹿児島カンビール旅 椎名 誠
  温泉津旅行記 川本三郎
  京洛日記 二十一、食堂車 室生犀星
  鴎外先生とビール 平松洋子
  ビールの話 岩城宏之
  パブ 加藤秀俊
  ベルギーぼんやり旅行 七色ビール篇 向田邦子
  ネパールのビール 吉田直哉
  デンマークのビール 北大路魯山人
  欧洲旅行(抄) 横光利一
  ニュー・イングランドの浜焼 中谷宇吉郎
  父の麦酒のジョッキーと葉巻切り 森 茉莉
 5杯目 ビール飲み――飲みたければ、たんとお飲みなさい
  渓流 中原中也
  未練 内田百閒
  植木鉢 土岐雄三
  明るいうちに飲むなら蕎麦屋 与那原恵
  第55夜 まつや【神楽坂】 秘密基地の伝声管 鈴木琢磨
  初めての飲み会 瀧波ユカリ
  ビールの歌 火野葦平
  父の七回忌に 幸田 文
  われこそはビール飲み 野坂昭如
  はじめてのビール 沢野ひとし
  ワインとビールがいっぱい  渡辺祥子
  ビールの味 高村光太郎
 編者あとがき ビールは飲む「窓辺」であり「風景」である。 早川茉莉
 底本一覧

ビールをテーマにしたりモチーフに使ったりした、古今のエッセイ等63篇が集められています。

表題作「ビールは泡ごとググッと飲め」は、当会の祖・草野心平が昭和42年(1967)に雑誌『しんばし』に発表したエッセイです。心平、酒好きで知られていますが、だからといって強いわけでもありませんでした。そのくせ意識不明になるまで呑み、光太郎に介抱されたこともたびたび(笑)。そんな心平を光太郎は愛していましたが。

心平は詩を書くかたわら、屋台の焼鳥屋「いわき」、居酒屋「火の車」、バー「学校」と、飲み屋を経営しました。光太郎は「学校」のみその没後の開店なので足跡を残していませんが、戦後の「火の車」には足繁く通いましたし、戦前の「いわき」には智恵子を伴ったこともありました。

そして心平作詞の「バア「学校」校歌」。013

 バア学校のシンボルは。
 時代おくれの大時計。
 二十一世紀を告げる鐘。
 さらばで御座る。
 酒はぐいのみ。
 ビールは泡ごと。

 バア学校の常連は。
 世にも稀なる美男美女。
 落第つづけの優等生。
 しからばそうれ。
 酒はぐいのみ。
 ビールは泡ごと。

半分意味不明、酔っ払って作ったんじゃないかとも思われます(笑)。ちなみに心平を名誉村民に認定して下さった福島県川内村の阿武隈民芸館・かわうち草野心平記念館内には、バー「学校」が再現されています。設計は辻まことだそうで。

ところで「バア「学校」校歌」以前にも、「ビールは泡ごとググッと飲め」というリフレインを使った詩があったそうですが、すみません、把握できていません。「ビールは泡ごと」は、お気に入りのフレーズだったようです。

さて、『ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編』。63篇のトリを飾るのは、光太郎のエッセイ「ビールの味」(昭和11年=1936)。

特にビール好きの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

このたびは思ひもかけず黒沢尻で誕生日を迎へることとなり、貴下はじめ御家族御一同のまことにお心こもつた饗宴にあづかり、忘れがたい記念の一日となりました事を深く感謝いたします、


昭和25年(1950)3月15日 森口多里宛書簡より 光太郎68歳

光太郎誕生日は3月13日。10日から秋田横手に講演に行き、さらに花巻の南の黒沢尻町(現・北上市)の映画館・文化ホールでも講演を行いました。

平成16年(2004),北上市教育委員会発行『きたかみ文学散歩』に、この折の様子を回想した「●美の世界の巨人」と題する地元の画廊経営者・郡司直衛氏の一文があります。

 黒沢尻の駅に降り立った高村光太郎は、大きな防空頭巾にどんぶくはんど(綿入レ半纏)を着てリュックサックに防寒靴。全くの村夫子然。日本で初めてベレー帽をかぶって銀座を歩いたモダンボーイと誰が思うものか。
 横手の雪をみての帰途、「もう私には残された時間がないから」と云うのをお願いして講演会を開く。その講演に先立ち、お昼を茅葺の民家の二階で差し上げた。そこには空襲で家を焼かれた森口多里が疎開していた。
 その日は昭和二十五年の「三月十三日」。光太郎の誕生日であった。昼食のメニューは鶏の丸焼きにコリフラワとオニオン添え、これは森口夫人の力作で、それに母が手造りの五目ずしという簡素なものであった。具が美味しいとほめられる。母は「高村さんに褒められた」と一生の自慢であった。卓上には発酵し始めた山ぶどうの赤い液が、切子の徳利に入れて添えられていた。当時これが精一杯のもてなしであった。
 食卓は淋しかったが、美の奉仕者である二人の会話は途切れることなく続いた。ロダンの誕生日の話、ハムレットを見ながら気が付くと眼鏡を握りつぶしていた話などなど。森口はパリの街のどこの通りの、何番目のマロニエのどの枝が、一番早く花を咲かせるか知っていると自慢気に話した。二人のパリの思い出は盡きなかった。
 木マンサクもキブシも花にはまだ早く、ネコ柳を一本根元から切って、有田焼の染付の大花瓶に投げ入れ、講演会の壇上を飾った。会場は身動きできぬ程の聴衆で溢れていた。
 講演を終えて、「誕生日には智恵子と食事をするのです」というのを無理に引き止めてお泊まり頂く。翌朝、長ぐつを履こうとする足の大きなこと、靴に添えられた手の大きなこと。私は高村光太郎が“美の世界の巨人”であることを、そのときこころではなく、目で理解したのであった。

岩波書店さんで出しているPR誌的な月刊の『図書』。今月号で光太郎智恵子が論じられています。
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「論じる」というよりはエッセイのような感じですが、映画監督の中村佑子氏による連載「女が狂うとき」の第4回で「冷たい乙女たち――高村智恵子に寄する」。

乙女」は「乙女の像」の「乙女」。青森県の十和田湖畔に立つ光太郎最後の大作「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦像」(昭和28年=1953)です。

光太郎、この像の身体部分は藤井照子というプールヴーモデル紹介所に所属していたプロのモデルを雇ってデッサンを重ねましたが、その顔はまぎれもなく、智恵子。ただし光太郎自身は公的には智恵子の顔だとは発言していません。それでも生前の智恵子を知る人々は一様にそう思いました。戦後のかなり早い段階から光太郎が「智恵子観音を作りたい」と言っていたのを知る人々も多かったようですし。
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冷たい」は中村氏が十和田湖畔を訪れたのが真冬で、「私はこの像を、ある人に寒いねと抱きしめられた肩越しに見た。こんな場所で裸をさらして、なんて寒そうなのか」というところから。また、象徴的な意味合いでも「冷たい」の語を選択し、冠したのだと思われます。すなわち、光太郎智恵子の関係性などなど。

吉本隆明が「高村の一人角力(ずもう)としかおもえないのである」(『高村光太郎』昭和32年=1957)と断じ、それを受けて黒澤亜里子氏がジェンダー的な視点を持ち込んで『女の首 逆光の「智恵子抄」』などで論じ、さらに多くの追随者で一時期賑わった、『智恵子抄』における生身の智恵子の不在、的なイメージです。

曰く

「自分の成長があなたのためにもなる……光太郎は智恵子と対等だと言いながら、庇護者のような気でいたのだろうか。家父長制が色濃く残る時代にあって、芸術家として歴然と地位も評価もあった光太郎が、智恵子の創作の力や情熱を吸い取っていったのではないのか。」

「東京に空がないのではなく、光太郎との生活に空がなかったのである。」

「理念と現実との深い落差に、幾重にも智恵子は追い詰められただろう。」


などなど。

先述の吉本隆明や黒澤亜里子氏やその他の人々によって同様の論は展開され続けてきたので、新しい知見というわけではありませんが、先行の論も今やほとんど絶版となっている今日、改めてこういうことを論じるのも、それはそれで意義のあることだと思われます。

ただし、光太郎はこういった批判を百も承知で居たのではないかというのが当方の見解です。ところが、それに気づいたのは智恵子の心の病が顕在化してから、さらには智恵子が歿してからではないか、とも思えますが。

それでもあえて『智恵子抄』出版に踏み切ったところに、『智恵子抄』の持つ重層性、多相性が見て取れます。

『智恵子抄』は、浅い読み方で読めば、「純愛の詩集」にしか過ぎません。そこで止まって肯定的に捉えれば「素晴らしい! 我が国相聞歌の金字塔だ」。否定的に読めば「高村の一人角力(ずもう)」。しかし、それに留まらず、もっともっと深い読み方が出来るはずです。

例えば「贖罪の詩集」。「済まなかった、智恵子よ」というわけで。戦後の連作詩「暗愚小伝」にも通じる、自らの「暗愚」の暴露と反省の表明とも読めます。

「訣別の詩集」とも読めましょう。昭和16年(1941)のオリジナル『智恵子抄』収録詩篇のうち、最後に書かれたのは、智恵子の葬儀を謳った「荒涼たる帰宅」。おそらく『智恵子抄』のための書き下ろしです。それ以前に智恵子没後のことを題材にした「梅酒」や「亡き人に」が作られていたにも関わらず、時間を逆行してあえて葬儀の日の模様を謳いあげました。

光太郎としては「一心同体」のつもりでいた智恵子が歿したことで、同時にそれまでの自分も一度死んだという気になったのではないでしょうか。しかし再生するのです、全く違う面貌で。

「荒涼たる帰宅」執筆後、すなわち『智恵子抄』刊行後、光太郎は詩の中で智恵子を扱うことを一時やめます。それから終戦までは、身辺雑記的なものを除き、殆ど戦意高揚のための翼賛詩一辺倒となります。ここには「芸術家あるある」で、俗世間とは極力交わらない生活が智恵子を追い詰めたという反省から、真逆の積極的に社会と関わろうという方向性への転換が見て取れます。そうしないと自分もおかしくなる、と考えたのかも知れません。

そこで、愛する者の死を謳うことで、同時にそれまでの自分への「訣別」を宣言するための『智恵子抄』。やはり戦後の「暗愚小伝」に通じますね。

それから「抄」一字に込められた思い。以前にも書きましたが、これは「全著作の中から智恵子に関するものの抄出」という表面的な意味以外に、「ここに表されている智恵子が智恵子の全てではないよ」という意味も込められているような気がします。「生身の智恵子はもっともっといろいろな悩みを抱え、必死に生きようとしていた素晴らしい女性だった。愚かだった自分は偏った見方で一部分しか見なかった。だから「抄」だ」と。

それでも光太郎は、「亡き人に」の中で「私はあなたの愛に値しないと思ふけれど/あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」と謳いました。「一切」には上記のもろもろが含まれるのではないでしょうか。何やかやと言っても、智恵子との日々はかげがえのないものでもあったわけで……。

そういう部分を考えると「鎮魂の詩集」という意味合いも感じられます。西洋音楽のレクイエムのような……。

というわけで、『智恵子抄』。決して単なる「純愛の詩集」ではありません。それに疑義を挟む批判的な読み方もけっこうですし、さらに突っ込んだ解釈が今後とも成され続けることを期待します。

ただし、史実と異なることを書かれるのは困ります。今回も、「智恵子が光太郎のブロンズ作品を袂に入れて散歩」「「乙女の像」は光太郎最後の彫刻」といった誤りが散見されて、残念でした。

そうした点は差っ引いても一読の価値がありますので、『図書』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

学芸会では小生サンタクロースのお爺さんに扮して舞台に出ました。部落の子供達はとても可愛いいです。


昭和24年(1949)12月6日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎67歳
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戦前には「芸術家あるある」で関係を極力絶とうとし、戦時中には戦意高揚の詩文で鼓舞し、と、いびつな形でしか社会との関わりを持ててこなかった光太郎、ようやく戦後になって自然な形での交わりが出来るようになったと言えましょう。

それにしても、この写真に写っていて、永らく光太郎の語り部を務められた高橋征一氏浅沼隆氏も今はもう虹の橋を渡られてしまったんだなぁ、と、改めて寂しい思いです。

ムックの新刊です。

 BRUTUS特別編集 合本 本が人をつくる。

2024年6月13日 マガジンハウス刊 定価1,760円

どんな本を読んできたかを知ることは、その人の人生を知ること。恒例のブルータス「本」特集から、読書家たちが大切にしている100回読んだ本を紹介する特集「百読本」、本を愛する人たちが影響を受けた作品について語り合う特集「それでも本を読む理由。」、その2号分をまとめて1冊に。小説、絵本、ビジネス書、アートブック、ZINE……あらゆるジャンルの魅力をぎゅっと詰め込みました。「本」と「読書」の楽しみ方を考える、保存版です。

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百読本
 100回読んだ本はもうその人そのもの。なぜその本を何度も読み返すのか。それを考えることはその人を知ることと同じです。119人の本好きが語る、完全保存版の読書案内。

わたしの百読本。
 まずは、20人の読者家たちが何度も読んだ本の話から始まります。ジャンルも本との向き合い方も人それぞれ。特別な本だけが持つ引力について、彼らの言葉から探ります。
フワちゃん 皆川明 平野紗季子 熊木幸丸(Lucky Kilimanjaro) 乗代雄介 神田伯山 石沢麻依 按田優子 平野啓一郎 紺野真 小林エリカ 斉藤壮馬 佐藤健寿 白石正明 磯野真穂 佐藤亜沙美 岸本佐知子 前田司郎 渡邉康太郎 藤岡弘、

何度も読みたくなる絵本のひみつ。
 子供にとって、絵本は究極の百読本。なぜ繰り返し読みたくなるのか。ロングセラー本にヒントを探し、専門家と一緒に考えます。

それでも本を読む理由。
 今、本を読むことの意味とは。本を愛さずにはいられない、本好き、読書好きが語り合う、「本」と「読書」の魅力。
池松壮亮 藤井健太郎 TaiTan 幅允孝 Awich 吉岡秀典 川名潤 ロジャー・マクドナルド 中島佑介 前田晃伸 黒木晃 鳥羽和久 武田砂鉄 麻布競馬場 桜井莞子 森岡督行 黒島結菜 内山拓也 島口大樹 斎藤真理子 前田エマ 山本貴光 吉川浩満 山瀬まゆみ 紺野真 坂矢悠詞人 髙城晶平 蝶花楼桃花 井伊百合子 山本多津也 若木信吾 荒川晋作 川口瞬 菅原裕喜 前田和彦 二宮慶介 MCNAI MAGAZINE 友田とん 山本佳奈子 花田菜々子 熊谷充紘 三田修平 魚豊 児玉雨子 小泉義之 深津さくら 石黒浩 與那覇潤 ミヤギフトシ 秋草俊一郎 藤岡拓太郎 鈴木一人 室橋裕和 篠田真喜子 加藤幸治 キニマンス塚本ニキ

明日を生き抜くためのブックガイド70
 テクノロジーや社会、ビジネス、カルチャー、普遍的な概念まで、押さえておきたい14のテーマをリストアップし、それぞれに対して識者が選書しました。70冊の中から見つける、明日を生き抜くためのヒント。

「合本」と冠されており、これまでの雑誌『BRUTUS』に載った記事の再編です。「百読本」の項で、デザイナー・皆川明氏が『智恵子抄』を挙げて下さっています。この項は令和4年(2022)年1月1日・15日合併号に載ったものです。サイト上にダイジェスト版がアップされています。
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皆川氏、令和3年(2021)に同じマガジンハウスさんから発売されたムック『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』でも、『智恵子抄』をご紹介下さいました。ありがたし。

令和4年(2022)年1月1日・15日合併号をお読みになっていない方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐる小生の頭の上へ雪がつもりました。ひやひやしてむしろ爽快を感じました。

昭和23年(1948)1月13日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋は、元々は鉱山の飯場だった小屋をを移築した粗末なものでした。そのためあちこち隙間だらけで、吹雪の時などは雪が舞い込み、このような状態になりました。
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昨日は約1ヶ月ぶりに上京しておりました。

メインの目的は、文京区のトッパンホールさんで開催された、アマチュア合唱団・コール淡水東京さんの第11回的演奏会拝聴でしたが、都内に出る時は複数の用件をこなすのが常で、ついでというと何ですが、同じ文京区の区立森鷗外記念館さんの特別展「教壇に立った鷗外先生」を先に拝見いたしました。
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展示の構成等をわかりやすくするために、同展図録の目次。
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「第一章 教壇に立った鷗外」「第二章 教科書と鷗外」の二本柱でしたが、前者の方に重きが置かれていました。陸軍軍医学校、慶應義塾大学部、そして光太郎も生徒として聴講した東京美術学校で、実際に教壇に立った鷗外の足跡が追われています(鷗外は現・早稲田大学の東京専門学校でも講義を受け持つ予定でしたが、こちらは幻と終わったようです)。

「なるほどね、こういう内容の講義だったのか」というのがよくわかり、興味深く拝見いたしました。やはりビジュアル的に「もの」を見て感じるというのは大切なことだと改めて思いました。

サイト上の「出品目録」で、光太郎の随筆集『某月某日』が展示されてるという情報は得ていました。予想通り、そこに掲載されているエッセイ「美術学校時代」(初出は雑誌『知性』第5巻第9号 昭和17年=1942 9月1日)で、鷗外の講義についての回想が語られていて、その関係でした。
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他に、昭和14年(1939)の雑誌『詩生活』に載った川路柳虹との対談「鷗外先生の思出」からも一節が引用され、パネル展示となっていました。ちななみに川路は光太郎より5歳下の詩人でしたが、光太郎と同じく東京美術学校の出身です。光太郎が留学中の明治41年(1908)に日本画科に入学し、光太郎が詩集『道程』を上梓した大正3年(1914)に卒業しています。川路の居た時期には鷗外はもう美校から離れていました。

それから、やはり出品目録で情報を得ていましたが、光太郎の1年先輩(年齢は8歳上)に当たる本保義太郎のノートも展示されているということで、そちらも目に焼きつけておこうと思っておりました。
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本保は在学中に光太郎と交流がありましたし、その後も光太郎より少し早く欧米留学に出、光太郎と同じくアメリカの彫刻家ガッツオン・ボーグラムの助手を務めたという経歴の持ち主です。しかし、彫刻家として大成する前の明治40年(1907)、留学先のフランスで、光太郎の親友だった碌山荻原守衛に看取られて結核により客死しました。さぞ無念だったろうと思います。

ノートを手に取ってみることはできませんが、表紙の文字を見るだけでも、本保の息吹が感じられました。

第二章が「教科書と鷗外」。鷗外が編纂に携わった数々の教科書や、鷗外没後、現代に至るまでの鷗外作品が採用された教科書などの展示。

光太郎は教科書の編纂をしたことはありませんが、存命中からやはりその作品は数多くの教科書に採用されています。中には書き下ろしではないかと推定されるものも。ところが、一般の出版とは異なる点が多いので、なかなかそのあたりの全貌が掴めません。

すると、第二章の展示で「協力」に入っている団体として「国立教育政策研究所教育図書館」のクレジット。早速そのサイトを見てみたところ、いろいろ情報を得られそうだということに気づきました。こういう点も、実地に展示に足を運ばないと気がつきにくい事柄ですね。

ところで、何ともタイムリーなことに昨日の『産経新聞』さんに同展を紹介する記事が。

森鷗外の教師像に迫る 研究の「盲点」、記念館で特別展 学生の評判も紹介

 文豪、森鷗外(1862~1922年)には、教師の経歴もあった。何をどう教え、学生の評判は-に注目した特別展「教壇に立った鷗外先生」が、森鷗外記念館(東京都文京区)で開かれている。同展監修の山崎一穎・跡見学園女子大名誉教授は「研究者があまり手をつけていない『盲点』の分野。展示をヒントに新たな研究テーマ、そして新たな鷗外像が生まれてくるはず」と話している。
■文豪は負けず嫌い
 鷗外は明治14年、19歳で東京大医学部を卒業後、陸軍軍医となり、のちにトップの陸軍省医務局長に上り詰める。この間、ドイツ留学、日清・日露戦争戦地などへの赴任の間を縫って、文筆活動でも名をなした。
 さらに「人脈も広がり、その後の活動にとって大事な一時代」(展示担当の岩佐春奈さん)とされるのが教師としての経験。その足跡はある程度知られているが、特別展では学生たちの日記や回想、出版物などの資料から鷗外の教師ぶりにスポットを当てている。
 教師歴は15年に東亜医学校で「生理学」を教えたのが始まり。妹・喜美子の回想によると、「面白い先生の講義は人が多」く、「どうか負けないようになりたい」と講義の準備に励んでいた。教え子から親しまれていたことがうかがえる書簡も展示されている。
 21年からは陸軍軍医学校で「衛生学」を教え、校長も務めた。同校の学生は、「講義は決して下手ではなかった」が、「早口であった」と評している。
■冬は暖炉を囲んで
 軍医学校と並行して24年から東京美術学校(現東京芸術大美術学部)の嘱託教員で「美術解剖」、29年から「美学及美術史」、25年からは慶応義塾大学部文学科講師で「審美学」を講義し、32年まで続けた。
 慶応の最初の教え子による「中村丈太郎日記」は、展覧会初出展の資料。25年9月15日付では「今日ヨリ森林太郎氏来リテ審美学ヲ講ス」「今日ノ題ハ美ノ所在ナリ」と初講義に触れている。この「美ノ所在」は鷗外が同年10月に評論誌「しがらみ草紙」で発表した内容で、先駆けて学生に講義していたことになる。日記には時間割表もあり、講義は火・木曜午前9~10時の週2時間だった。
 慶応では、のちの毎日新聞社長、奥村信太郎の「初冬の薄ら寒い朝、わたくし達慶應文科三年の六人は、煖爐を前に、半円形を作って、森鷗外先生を中にさしはさみ、美学の講義を聴くのだった」などの回想を残している。
 東京美術学校関係では、美術解剖の講義を筋肉図とともに筆記した学生・藤巻直治ノートなどを展示。鷗外が自らの小説作品なども例に挙げ、わかりやすく講義した様子がうかがえる学生の美学筆記ノートも。
 同校で学んだ彫刻家・詩人の高村光太郎は「とても名講義でしたよ」と振り返るほか、学期末に「美学の一番の根源」を理解していない質問をした学生に「そんな無責任な聴き方があるかと怒鳴り…」と鷗外が憤慨した場面も記している。
■子供に手作り教材
 23年には鷗外が東京専門学校(現早稲田大)で講師になると新聞に載りながら、実現しなかった。のちに同校で黄禍論をテーマに講演は行ったが、講師就任が実現しなかった経緯は謎で、今後の研究課題にもなりそうだ。
 岩佐さんは「常に軍服姿で講義。正直、親しみやすい先生ではなかったと思いますが、少人数の学校で連帯感も生まれ、文学者として憧れを持って見つめられた。鷗外も若い人に新しいことを教える責務を感じていたのでは」と話した。
 同展では、鷗外がわが子にドイツ語などを教えるために手作りした教材や、文部省委員として編纂に携わった修身、唱歌の教科書なども展示されている。30日まで。
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過日ご紹介した『東京新聞』さんでも、教え子として光太郎の名を出して下さいました。展示を見て気づいたのですが、他にあまりビッグネームの教え子が居なかった的な感じでしたので、そういうことなのでしょう。

『産経』さんが引用なさっている「とても名講義でしたよ」は、川路との対談「鷗外先生の思出」から。ただ、このひと言はリップサービスのような気がします。本音としてはそれに続く部分の「しかしどうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありま
001したなあの方が重要だと思われます。対談「鷗外先生の思出」では、「軍服着せれば鷗外だ事件」の顛末も語られており、またぞろ舌禍を起こしてはいかん、と、「とても名講義でしたよ」(笑)。前後の文脈から浮いています。とってつけたように。

さて、同展、今月30日まで。ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに図録はこちら。880円でしたか。信州安曇野の碌山美術館さんで昨年開催された第113回碌山忌でも、関連行事としてのご講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」をなさった布施英利氏の玉稿なども掲載されています。

【折々のことば・光太郎】

古今のよい作品に守られながら勉強するのが一番です。限界はひろく、思念はふかく、実技に猛進してください。


昭和22年(1947)11月17日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

西出は後に截金の分野で人間国宝となる人物。やはり美校の彫刻科出身でした。

光太郎は鷗外と異なり、教職には就きませんでした。二度ほどそういう話があったのですが、いずれも断っています。最初は欧米留学からの帰朝後、父・光雲により美校教授の椅子が用意されていましたが、蹴飛ばします。二度目は戦後、新しく開校した岩手県立美術工芸学校の名誉教授に、という懇願が為されましたが、これも固辞。ただし、戦後は同校はじめ盛岡や花巻などで、学生たち向けの講演を行うことはしばしばでした。

それを言うなら、彫刻でも詩でも、いわゆる「弟子」はとりませんでした。まぁ、アドバイス的なことをしたことはあって、それが拡大解釈されて「高村光太郎に師事」と喧伝されている人物はけっこういるのですが。

上記の西出に対してのひと言も、先輩からの温かい助言といった感じですね。

新刊です。

おいしいアンソロジー 喫茶店  少しだけ、私だけの時間

2024年5月11日 阿川佐和子 他著 大和書房(だいわ文庫) 定価800円+税

「喫茶店」アンソロジー。お気に入りの喫茶店で時間をつぶす贅沢、喫茶店での私の決まり事、ふと思い出すあの店構え、メニューなど。
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目次
 コーヒーとの長いつきあい 阿刀田高
 贅沢な空気感の薬効 資生堂パーラー 村松友視
 淡い連帯 平松洋子
 国立 ロージナ茶房の日替りコーヒー 山口瞳
 喫茶店とカフェ 林望
 愛媛県松山 喫茶の町 ぬくもり紀行 小川糸
 喫茶店にて 萩原朔太郎
 変わり喫茶 中島らも
 初体験モーニング・サービス 片岡義男
 珈琲の美しき香り 森村誠一
 ニューヨーク・大雪とドーナツ 江國香織
 しぶさわ 常盤新平
 大みそかはブルーエイトへ シソンヌ じろう
 カフェ・プランタン 森茉莉
 気だるい朝の豪華モーニングセット 椎名誠
 富士に就いて 太宰治
 コーヒー色の回想 赤川次郎
 コーヒー 外山滋比古
 コーヒー屋で馬に出会った朝の話 長田弘
 しるこ 芥川龍之介
 コーヒー五千円 片山廣子
 一杯のコーヒーから 向田邦子
 喫茶店人生 小田島雄志
 喫茶店学 −キサテノロジー 井上ひさし
 可否茶館 内田百閒
 カフェー 勝本清一郎
 懐かしの喫茶店 東海林さだお
 芝公園から銀座へ 佐藤春夫
 東京らしい喫茶店 南千住『カフェ・バッハ』 木村衣有子
 〈コーヒー道〉のウラおもて 安岡章太郎
 喫茶店で本を読んでいるかい 植草甚一
 ミラーボールナポリタン 爪切男
 ウィンナーコーヒー 星野博美
 珈琲店より 高村光太郎
 ひとり旅の要領 阿川佐和子
 甘話休題(抄) 古川緑波
 あの日、喫茶店での出来事 麻布競馬場
 わが新宿青春譜 五木寛之
 カフェー 吉田健一
 コーヒーがゆっくりと近づいてくる 赤瀬川原平

古今のカフェ、喫茶店にまつわるエッセイ等を集めたアンソロジー。光太郎や内田百閒、萩原朔太郎あたりが最も古い部類でしょうか。ご存命の方々の作品も数多く。

光太郎作品は明治43年(1910)の雑誌『趣味』に発表された「珈琲店より」。前年まで留学のため滞在していたパリでの思い出が語られています。ただ、どこまでが事実なのかわかりません。午前0時近く、オペラを見終わった後、オペラ座近くのブールバールを歩いていて、たまたま見かけた3人組のパリジェンヌが入っていった珈琲店(「カフエ」とルビが振られていますが、)に自分も入って女達と陽気な時間を過ごし(珈琲店といいつつ酒がメインの店でした)、そのうちの一人を「お持ち帰り」……。翌朝、さんざんに人種的劣等感などに打ちのめされるという内容です。

この文章、令和3年(2021)に刊行された同じ趣旨のアンソロジー『近代文学叢書Ⅲ すぽっとらいと 珈琲』にも掲載されました。

それを言えば、昭和16年(1941)10月、光太郎の親友だった作家・水野葉舟は『青年・女子文章講義録 第6巻 名家の文章集』という書籍の「名家の書いた小品」というコーナーにこの文章を掲載しました。太平洋戦争開戦直前のこの時期、「これ、マズいでしょ」という感じなのですが(笑)。

閑話休題、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

なやみのあるのは人生の常でむしろその為に人間は進むのですから、なやむ時は正面からなやみ、そして勇気を以てそれをのり超える外はありません。いい加減にごまかしてなやみを回避してゐる人には進歩はありません。


昭和22年(1947)11月15日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎65歳

さまざまなつまづきを経験し、悩みに悩んできた光太郎ならではの言です。それにしても、実にポジティブですね。

新刊です。

自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと

2024年5月5日 若松英輔 著 西淑 画 亜紀書房 定価1,600円+税

生きること、
働くこと、
愛すること。
自分を支える言葉を探す27の言葉の旅。

〈日経新聞で話題の連載「言葉のちから」待望の書籍化〉

古今東西の名著の中には、生きるための知恵、働くうえでのヒントが詰まっている。
NHK「100分de名著」でお馴染みの批評家による、自分の本当のおもいを見つけるための言葉。
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目次
 この本の用い方――はじめに  
 1 言葉の重みを感じとる……神谷美恵子『生きがいについて』
 2 事実と真実を感じわける……遠藤周作『イエスの生涯』『深い河』
 3 沈黙の世界、沈黙のちから……武者小路実篤「沈黙の世界」
 4 世界と向き合うための三つのおきて……柳宗悦「茶道を想う」とノヴァーリス「花粉」
 5 叡知を宿した人々……ユングとメーテルリンク
 6 語られざるおもい……司馬遼太郎と太宰治
 7 美とは己に出会う扉である……岡本太郎のピカソ論
 8 書くとは時に止まれと呼びかけることである……夏目漱石と鷲巣繁男
 9 心だけでなく、情[こころ]を生きる……ピカート『沈黙の世界』
 10 人生のモチーフ……小林秀雄『近代絵画』
 11 書くとはおもいを手放すことである……高村光太郎と内村鑑三
 12 人生はその人の前にだけ開かれた一すじの道である……アラン『幸福論』
 13 経験とは自己に出会い直すことである……ヴェーユ『重力と恩寵』
 14 ほんとうの私であるための根本原理……志村ふくみ『一色一生』
 15 思考の力から思索のちからへ……ショーペンハウアーの読書論
 16 観るとは観えつつあることである……今西錦司の自然観
 17 本質を問う生き方……辰巳芳子さんとの対話と『二宮翁夜話』
 18 ことばは発せられた場所に届く……河合隼雄と貝塚茂樹
 19 賢者のあやまり……湯川秀樹『天才の世界』
 20 三つの「しるし」を感じとる……吉田兼好『徒然草』
 21 力の世界から、ちからの世界へ……吉本隆明『詩とはなにか』
 22 書くことによって人は己れに出会う……ヴァレリーの『文学論』
 23 念いを深める……ティク・ナット・ハン『沈黙』
 24 運命に出会うために考えを「白く」する……高田博厚とロマン・ロラン
 25 着手するという最大の困難……カール・ヒルティ『幸福論』
 26 語り得ないこと……リルケ『若き詩人への手紙』
 27 沈黙の意味……師・井上洋治と良寛
 あとがき
 ブックリスト

詩人の若松英輔氏が『日本経済新聞』さんに連載されていた「言葉のちから」の書籍化です。「11 書くとはおもいを手放すことである……高村光太郎と内村鑑三」は、昨年6月10日の掲載でした。そちらで拝読したので、書籍としての購入はしなくてもいいかと思っていたのですが、目次を見ると高田博厚、ロマン・ロラン、吉本隆明、武者小路実篤、柳宗悦ら、光太郎と関わる人物の名が並んでいて、結局買ってしまいました(笑)。

皆様もぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

それではこちらの畑につくつてゐるものを書きならべてみませう。大豆、人参、アヅキ、ジヤガイモ(紅丸とスノーフレイク)、ネギ、玉ネギ、南瓜(四種類)、西瓜(ヤマト)、ナス(三種類)、キヤベツ、メキヤベツ、トマト(赤と黄)、キウリ(節成、長)、唐ガラシ、ピーマン、小松菜、キサラギ菜、セリフオン、パーセリ、ニラ、ニンニク、トウモロコシ、白菜、チサ、砂糖大根、ゴマ、ヱン豆、インギン、蕪、十六ササギ、ハウレン草、大根、(ネリマ、ミノワセ、シヨウゴヰン、ハウレウ、青首)など、以上の様です。十一月に林檎の木を植ヱます。


昭和22年(1947)8月28日 高村美津枝宛書簡より 光太郎65歳
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蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の畑で作っていた農作物を列挙しています。これらを一度に栽培していたわけではなく、時期をずらしながら、あくまで自給のためそれぞれを少量ずつ育てていました。ただ、中にはものにならなかった作物も含まれ、虚偽とは云いませんが、少し「盛って」驚かせてやろうという意図が垣間見えます。

高村美津枝さんは光太郎令姪。ご健在です。










一昨日の第68回連翹忌席上にて、参会の方々が「お土産です」的に書籍等を下さいました。

まず一般社団法人日本詩人クラブの宮尾壽里子氏から同会刊行の『評論・エッセイ 詩界論叢2023』通巻第1集創刊号。500ページ近い厚冊です。
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公式サイトには目次の詳細が出ておらず、こちらの検索網に引っかかりませんでしたが、宮尾氏が「愛と芸術に生きようとした女性~智恵子の場合~『智恵子抄』「智恵子の半生」より」と題する論考を寄せていらっしゃいます。

目次画像は以下の通り。
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ご入用の方、上記リンクをご参照下さい。Amazonさん等でも取り扱いがあります。

続いて当方も加入している高村光太郎研究会ご所属の佐藤浩美氏から文芸同人誌『四人』第107号。
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佐藤氏、光太郎の親友だった作家・水野葉舟の小品「かたくり」をご紹介なさっています。
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奥付画像を載せておきます。
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高村光太郎研究会からは『高村光太郎研究(45)』。
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昨秋行われた研究発表会、第66回「高村光太郎研究会」での発表を元に、当会顧問であらせられた北川太一先生のご子息・北川光彦氏が「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」を、武蔵野美術大学さんの教授・前田恭二氏で「新出「手」書簡の後景――米原雲海と口村佶郎」。それから当方も「智恵子、新たな横顔」を寄稿しました。

さらに当方は、この1年間で新たに見つけた『高村光太郎全集』未収の光太郎文筆作品の集成「光太郎遺珠⑱」、昨年1年間の光太郎智恵子、光雲に関わる「高村光太郎没後年譜」も。そして主宰の野末明氏による「高村光太郎文献目録」、「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」。

こちらも奥付画像を載せておきます。
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もう1冊、光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存運動にからんで、文治堂書店主・勝畑耕一氏が『中野・中西家と光太郎』という書籍を上梓なさいました。当方、「監修」ということになっております。
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こちらについてはまた改めて詳細をご紹介いたします。

以上、いただきもの等。

001逆に当会から参会の皆様にお配りしましたのが、『光太郎資料61』。北川太一先生が発行されていたものの名跡をお譲りいただき、当会にて年2回発行しております。印刷のみ印刷屋さんに頼み、丁合、綴じ込みは手作業の手作りの冊子です。

目次
 「光太郎遺珠」から 第二十五回 書(二)
 光太郎回想・訪問記  高村光太郎と出会った頃 田口弘
 光雲談話筆記集成 牙彫の趣味/「さび」と渋みと
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  犬吠埼(千葉県)その一
 音楽・レコードに見る光太郎
  箏曲「千鳥と遊ぶ智恵子」/「地上のモナリザ」
 高村光太郎初出索引
 編集後記

ご入用の方はコメント欄等から当方まで。

書籍類等はこんなところです。

他に、やはり第68回連翹忌ご参会の方々のうち、わざわざ「お土産です」と食品類をお持ち下さったり、「4月2日はお世話になります」と直前に宅配便でお送り下さったりという方が多数いらっしゃいました。多謝。

和洋のスイーツやら中華まんやら漬物やら珈琲/紅茶やら(笑)。2枚目画像は宅配便で宮城県の「女川光太郎の会」さんから届いた笹蒲鉾です。
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妻曰く「実にありがたいんだけど、あんた、いったい何者だと思われてるの?」(笑)。

何者だと思われているんでしょうかね?(笑)。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」は今でもかなり読みたがつてゐる人があるやうで、時々人から質問される事がありますから、今日出版するのも無意味ではないやうに思はれます。


昭和22年(1947)4月11日 鎌田敬止宛書簡より

a詩集『智恵子抄』は太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に龍星閣から刊行され、戦時にもかかわらず昭和19年(1944)の13刷まで増刷されました。その後、戦争の影響で龍星閣は休業。戦後になると店頭からは『智恵子抄』が消えてしまいました。

そこで休業中の龍星閣に代わって、白玉書房の鎌田が『智恵子抄』復刊を企図し、龍星閣の澤田伊四郎から許諾を得たのでお願いします、的な申し入れを光太郎に。その返答の一部です。

そして白玉書房版『智恵子抄』が、この年11月に刊行されました。ところが刊行されてから、澤田の方では「許諾した覚えはない」。この時期、この手のトラブルがいろいろありました。

本日は栃木県で発行されている同人詩誌のご紹介。

詩誌 馴鹿 第80号記念号

2024年2月29日 頒価500円

目次
 特集Ⅰ・ゲスト作品
  かぎりないもの 菊地雪渓氏
  詩の宿題 久保田奈々子氏
  詩は間違った表現なのだ 小久保吉雄氏
  わたしの夢 杉本真維子氏
  短歌 磯笛 野上れい氏
  ボロ 深津朝雄氏
 同人作品
  公孫樹 吹木文音
  あはれちちのみの父よ、あはれははのそはの母よ 丕内七武
  橋 小太刀きみこ
  座ってる 矢口志津江
  黒部 三森弘之
  遊園地にて 大野敏
 特集Ⅱ・「心に残るフレーズ」
  矢口志津江 吹木文音 小森谷章 三森弘之 小太刀きみこ 和氣勇雄 大野敏
 後記

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「特集Ⅱ・「心に残るフレーズ」」の中で、連翹忌の集い等にもご参加下さっている同誌同人・吹木文音氏が光太郎詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)から象徴的なリフレイン『わたしもうぢき駄目になる』について書かれています。本冊、氏から頂きました。多謝。

   山麓の二人
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 二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
 険しく八月の頭上の空に目をみはり
 裾野とほく靡なびいて波うち
 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
 半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
 わたくしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
 ――わたしもうぢき駄目になる
 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
 のがれる途無き魂との別離
 その不可抗の予感
 ――わたしもうぢき駄目になる
 涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
 わたくしは黙つて妻の姿に見入る
 意識の境から最後にふり返つて
 わたくしに縋る
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
 闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた。

抜粋しますと「私が、この哀切極まりないフレーズに惹かれる理由は、絶望の向こうに広がる景色を望むから。そして、人の営みを超越するおおいなる自然に同化し、ちっぽけな自分を恕(ゆる)す心持ちになれるから。」なるほど。

詩の背景を少し説明いたします。

まず、描かれているのは、昭和8年(1933)8月末の出来事。前年に睡眠薬アダリンの大量摂取で自殺未遂を起こした智恵子の心の病を少しでも快方に向かわせようと、光太郎は智恵子を連れて東北、北関東の温泉巡りに出ました(右上画像はその一環としての那須塩原温泉でのショット)。その直前にはそれまで無視してきた入籍を果たします。万が一、自分が先に逝くことになってしまったら、「内縁の妻」では智恵子に遺産相続の権利がないと考えてのことでした。

智恵子実家・長沼家からの除籍の手続きも必要だったのでしょうか、智恵子故郷の福島県安達郡油井村(現・二本松市)にも立ち寄ります。その足で向かった最初の湯治先が裏磐梯川上温泉。この詩は檜原湖、五色沼などが広がる裏磐梯高原での一コマを謳っています。

詩の執筆は約5年後の昭和13年(1938)6月。このタイムラグの意味するところは、当方、戦争との関わりだろうとふんでいます。

終末部分の「わたくしの心」と「一つになつた」という「二人をつつむこの天地」がどうなっていたかというと、智恵子の心の病が誰の目にも顕在化した昭和6年(1931)には満州事変が勃発、智恵子が自殺未遂を起こした翌7年(1932)には五・一五事件及び傀儡国家の満州国建国、光太郎が智恵子を入籍し、裏磐梯をはじめとする湯治の旅に出た同8年(1933)に日本は国際連盟脱退、ドイツではヒトラー政権樹立、智恵子がゼームス坂病院に入院していた同11年(1936)で二・二六事件。そして翌12年(1937)には遂に日中戦争開戦。さらにこの詩が書かれた13年(1938)は国家総動員法が施行されています。

急坂を転げ落ちるように悪化していった智恵子の病状と軌を一にするように、日本も泥沼の戦時体制へと突き進んでいきました。

そして光太郎も。「芸術家あるある」の俗世間とは極力交渉を絶つ生活が、智恵子を追い詰めたという反省もあって、光太郎は自ら積極的に社会と関わる方に180度方向転換します。その社会の方が、先に見たようにおかしな方向に進んでいたのが光太郎にとっての悲劇でした。この頃から、翼賛詩の乱発が始まります。「山麓の二人」が書かれた昭和13年(1938)6月の前月、5月には「地理の書」という詩を書きました。日本列島の美しさを讃える内容で直接的に「聖戦完遂」などとは謳っていませんが、のちのちまで各種アンソロジー等に収録され続け、もてはやされた作品です。
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さらに8月には同じ趣旨の「日本の秋」、9月には「吾が同胞」、12月には「東亜のあけぼの」(後に「その時朝は来る」と改題)、「群長訓練」、「新しき御慶」……。

一方では「山麓の二人」や「レモン哀歌」(昭和14年=1939)など『智恵子抄』所収の珠玉の詩篇も書き続けています。まさに「わたくしの心はこの時二つに裂けて」だったわけで、光太郎もそれを自覚していたのだと思います。

智恵子が言った「わたしもうぢき駄目になる」。それまである意味一心同体のように歩みを共にしてきた二人のうちの一方が「駄目になる」ことは、もう一方も「駄目になる」ことにつながりはしないでしょうか。智恵子にとっての「駄目になる」は「夢幻界の住人になる」ことでしたが、光太郎も「大東亜共栄圏の建設」などという「夢幻」に踊らされた、否、積極的に加担してしまったという意味では、「駄目にな」ってしまったと云わざるを得ません。吹木氏のおっしゃる通り「哀切極まりないフレーズ」と、つくづく思います。

吹木氏の稿、こう結ばれています。

人間の愛や生を言葉で刻み、誇らかに命を謳い上げる「詩の力」にもまた、魂を揺さぶられるのだ。

同感です。

ところで『馴鹿』。目次に目を通して「ありゃま」でした。巻頭の「特集Ⅰ・ゲスト作品」で知った顔ぶれがずらりと並んでいまして。

001まず菊地雪渓氏。令和元年(2019)の第41回東京書作展で内閣総理大臣賞に輝かれた書家の方ですが、自作の詩を寄稿なさっています。そういえば詩も作る方だったっけ、でした。

続いて久保田奈々子氏。「詩」で「奈々子」と云えば、勘の鋭い方はそれだけでお判りですね、詩人の故・吉野弘氏のご息女にして吉野氏の詩「奈々子に」のモデルです。

さらに杉本真維子氏。昨年、詩集『皆神山』で萩原朔太郎賞を受賞なさいました。思潮社さんから刊行されている『現代詩手帖』の今月号は杉本氏の特集が組まれています。

菊地氏はコロナ禍前からでしたが、久保田氏と杉本氏は昨年から、当会主催の連翹忌の集いにご参加いただいております。先述の吹木氏も。そんな関係で当方も知る面々の玉稿が集結したというわけです。

光太郎を一つの機縁に、このように人々の輪が広がって行くこと、望外の喜びです。

さて、『馴鹿』、奥付画像を貼っておきます。ご興味おありの方、そちらまで。
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【折々のことば・光太郎】

この山の中にゐても外の事は何も不便を感じませんが古美術などに接する機会の無い事だけがもの足りません。花巻あたりに小美術館でもあるといいのですが。
昭和22年(1947)1月12日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の「美」への渇仰は、もはや「業(ごう)」のようなものだったのかな、という気がします。

新聞記事から、またまた紹介すべき事項が溜まってまいりましたので、2件まとめて。

まずは『毎日新聞』さん。当会顧問であらせられた故・北川太一先生の盟友にして、この国で初めて光太郎を正面から捉えた評論集を刊行した、故・吉本隆明氏がらみです。

エッセー『隆明だもの』刊行 漫画家・ハルノ宵子さん 人間・吉本隆明、衝撃の実像

012 漫画家のハルノ宵子、といえば戦後を代表する思想家・吉本隆明(たかあき)の長女、多子(さわこ)さんのペンネームだが、その人が昨年末にエッセー『隆明(りゅうめい)だもの』(晶文社)を出した。驚くのは、これが知られざる吉本家の内情を明かした一種の暴露本なのである。
 「あとがき」で「吉本主義者の方々の、幻想粉砕してますね」と自ら評し、帯に「吉本家は、薄氷を踏むような“家族”だった」ともある。つづられる吉本と妻の和子(ともに2012年死去)の夫妻間の激しい葛藤、この両親と、著者および妹で作家の吉本ばななさんとの親子間の複雑な心理劇は、全共闘世代の「教祖」といわれ、絶大な影響力を持った吉本の実像として確かにショッキングだ。
  晩年に取材する機会を持った記者もそうだが、吉本と関わった多くの人々が、論争的な著作からすると意外な親しみやすい人柄にひかれた。今でいう「略奪愛」で結ばれた妻と、2人の娘に恵まれた家庭は、はた目には仲むつまじいものとしか見えなかった。
 ところが、本書によると吉本自身が「だいたい10年に1度」「不安定で、攻撃的なサイクル」に入る人であり、和子は「家族皆が振り回された」激しい性格だったという。「父(吉本)が10年に1度位荒れるのも、外的な要因に加えて、家がまた緊張と譲歩を強いられ、無条件に癒しをもたらす場ではなかった」からだとも書いてある。
013 この点について聞くと、ハルノさんは「家では母がすごい力を持っていましたからね。洗濯や料理も進んでやった父ですが、母の気持ちを真っ向から受け止めたり、包容したりする力はない人でした。母は心を支えてほしかったのだと思いますが」よと話す。
 本書は、刊行継続中の『吉本隆明全集』(全38巻・別巻1)の月報に掲載された文章を軸に、ばななさんとの姉妹対談、編集者によるインタビューで構成されている。対談でもハルノさんは「本当いうと、彼(吉本)は結婚すべき人格ではないような気がするんですよね。つまり、妻を支えてとか、そういう意味ではまったく期待できないですね」と手厳しく語っている。
 ハルノさんは1980年代に漫画家としてデビューするものの、妹が独立すると、母が体調を崩したこともあり、やがて家事や、多忙な父のマネジャー役を引き受けざるを得なくなった。しばしば両親の争いの板挟みにもなった。対談でも母の「怖さ」が繰り返し話題になるが、何かにつけてハルノさんを頼りにした母との関係は「共依存だった」とも表現する。
 あまりに個性的な 家族の中で一人、犠牲を強いられたともいえるが、本のトーンは決して暗くない。ユーモアを含んだ柔らかい文体や自作のイラストの効果もあるが、著者の冷静な批評的まなざしに負うところが大きい。そこに自然な愛情や敬意もにじみ出る。「結果的に、家に縛られているうちに面白いものを見せてもらったということになりますかね。状況を楽しむしかなかったですから」と笑顔で語る。
014 父母の葛藤は「一つの家の中に2人の表現者がいる難しさ」だったのではないかという。もともと小説を書いていて結婚後に筆を断った和子は、晩年に俳句を始めている。この見方は、詩人・彫刻家の高村光太郎が画家の智恵子と築いた家庭内の男女の緊張に注目した吉本の評論『高村光太郎』(57年)を思い起こさせ、興味深い。
 他にも、吉本が96年に伊豆の海で遊泳中に溺れた事件を境に「眼(め)も脚も急激に悪くなって」いく様子など、家族でなければ知り得ない生々しい証言は多い。亡くなる4、5カ月前、自宅で大きな音がしたので確かめると、既に視力や運動能力が衰えた身なのに外出の服装をして「玄関の石のたたきに父が転がっていた」という場面に、胸をつかれる読者もいるだろう。
 書名のいわれを尋ねると、「(書家・詩人の相田みつをの)『にんげんだもの』から」。なるほど「ヨシモトリュウメイも一人の人間だった」ということか。吉本の等身大の姿を語ってやまないこの本は、今後の「吉本伝」作家にとって必読の、また頼もしい文献となるに違いない。


『隆明だもの』、店頭で手にとって立ち読みしたのですが、直接光太郎智恵子に触れている部分は見あたりませんでした。まぁ立ち読みであって精読はしていませんから見落としがあるかも知れませんが。

しかし吉本氏夫妻の関係性が光太郎智恵子のそれを彷彿とさせられる、という記者氏の感想。なるほどと思いました。夫婦同業の苦労は、小説『智恵子飛ぶ』を書かれた津村節子氏などもたびたび言及されており(夫は故・吉村昭氏)、その仕事内容がクリエイティブであればあるほど、そうした傾向が強くなるんだろうなと思います。

続いて『山形新聞』さん。彼の地ご出身で、亡きお父さまが光太郎と交流がおありだった劇作家・女優の渡辺えりさんの連載エッセイです。

渡辺えりのちょっとブレーク (224)希望の年を願って

 新しい年が明けた。しかし、能登半島地震の被害はすさまじく、羽田の飛行機事故も痛ましく、波乱の年明けとなった。山形の皆さまは大丈夫だったでしょうか?
 高齢者の避難が困難な現実を目の当たりにし、日頃からご近所の様子などが分かるよう、交流を欠かさないことが大切だと感じた。私が子ども時代の山形市村木沢を思い出す。毎日、いろり端で青菜漬けをつまみながら緑茶をすすり、よもやま話に花を咲かせていた年配の方たちの笑顔が浮かぶ。避難の際の高齢者の保護を考えなくてはいけない。
 年末はロックライブで叫び、31日の大みそかは新宿・京王プラザホテルの宿泊客限定コンサートでシャンソンを歌った。そして今月は、私が演劇の舞台を創作して50年になる記念に劇中歌の中からえりすぐった20曲をレコーディングしている。年末年始は「歌」の仕事が続いた。
 また、うれしいニュースがある。今年5月に山形公演が決まったことだ。コロナ禍に書いた2人芝居を大幅に直し、高畑淳子さんと共演する。昨年の2本立て公演「ガラスの動物園」「消えなさいローラ」と同様に私が演出する。今回は作品も私が書く。コントラバスとバンドネオンの生演奏に加え、歌も披露する。1時間40分の短い作品だ。高畑さんと私は同じ年。ジャンルの違う演劇を続けてきた2人が、ユーモアたっぷりにさまざまな人生を演じる。山形市のやまぎん県民ホールで上演するので、ぜひいらしてください。
 そして今、人形劇「星の王子さま」の脚本を執筆している。結城座という江戸時代から続く人形劇の劇団の新作を依頼された。結城座さんとのコラボは今回で3作目。今年9月の公演だが、オリジナルの人形も制作するため、1月末が締め切りなのだ。
 私ならではの「星の王子さま」を作ろうと考えている。あまりに有名な作品だが、平和を願いながら星空の中で行方不明となったサンテグジュペリの精神を大切に脚色していくつもりだ。
 コロナ禍で中止になっていた学校公演も始まる。山形でも上演させていただきたい作品だ。高村光太郎もファンだった結城座。人形を使いながら、せりふをしゃべる技術の高さを見てほしい。世界にない手法の人形劇だ。
 2月4日は、天童市民文化会館でコンサート「世界は日の出を待っている~渡辺えり 平和への歌声」を開催する。地元で長年活躍しているビッグバンドからの依頼で歌う。「世界は日の出を待っている」は、関東大震災が起きた1923(大正12)年に作られた曲で、春の訪れとともに世界平和を祈っている。同市制施行65周年記念のコンサートとなる。「久しぶりに温泉に入れるのでは?」と期待している。
 そして、仕事で年末年始に会えなかった母ちゃんとも会えるはず。5月17日は父の命日。山形公演の準備で命日に故郷に帰れるのも、皆さまのおかげと父の愛情だと思っている。
 山形の皆さまにとって今年が光に満ちた希望の年でありますように。お互いに持ちつ持たれつ、支え合って生きていきましょう。今年もよろしくお願いします。(俳優・劇作家、山形市出身)
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あいかわらずバイタリティーにあふれていらっしゃいます(笑)。

今年は「江戸糸あやつり人形芝居 結城座」さんとのお仕事もなさるそうで、「高村光太郎もファンだった結城座」とのご紹介。

ファンだったかどうか当方は存じませんが、確かに光太郎、詩の中で座長の九代目結城孫三郎を登場させています。昭和5年(1930)、雑誌『詩・現実』に発表した「のつぽの奴は黙つてゐる」。特異な詩です。

    のつぽの奴は黙つてゐる

『舞台が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割かた持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちやあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は来てるでせうな。喜壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。万能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい気な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の余興は、結城孫三郎の人形に、姐さん連の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』

『皆さん、食堂をひらきます。』

滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
ステユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ、スピーチ。
老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。

何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考へてゐる。

詩は昭和5年(1930)の作ですが、語られている場面はそれより2年前の昭和3年(1928)4月16日、東京会館で開催された、父・光雲の喜寿記念祝賀会です。

昨年、雑誌『美術新論』第3巻第5号(昭和3年=1928 5月)にその際の写真が掲載されているのを見つけ、智恵子も写っていたことに仰天しました。結婚後の智恵子が写った写真は10葉たらずしか確認できていませんでしたので。
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2週間ほど後に、渡辺さんとお会いする予定がありますので、結城座さんのお話を伺っておこうと思います。

明日以降、これも溜まってしまった新刊書籍等を紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家にとつては何といつても彫刻材を入手した時ほど心からうれしい事はありません。実に愉快に存じます。


昭和21年(1946)7月29日 東正巳宛書簡より 光太郎64歳

東正巳は三重県在住だった詩人、編集者。光太郎は東を通じて西村之雄という人物から椿の木材を入手し、その礼状の一節です。しかし、結局、花巻郊外旧太田村での7年間で、作品として発表した彫刻は一点も作られませんでした。

購入しようかするまいか迷ったのですが、結局、買ってしまいました。帯に光太郎の名を印刷されてしまいましたので(笑)。

大作家でも口はすべる 文豪の本音・失言・暴言集

2024年1月22日 彩図社文芸部編 彩図社 定価1,300円+税

 本書は、作家たちの本音や失言、暴言を集めたアンソロジーです。名作を生み出し、歴史に名を残した作家といえども、言葉選びを誤ることもしばしば。むしろ、必要以上に周囲を巻き込み、世間を騒がす問題に発展することもありました。
 師匠である佐藤春夫や井伏鱒二を作品内で皮肉って、大叱責を受けた太宰治。こき下ろした作家の弟子から決闘を申し込まれた、坂口安吾。雑誌の後記で、原稿料や各号の売れ行き、もうけの有無まで公開し続けた菊池寛。新聞社入社にあたり、教師時代の不満を新聞紙面にぶちまけた夏目漱石。「好きな人の夫になれないなら豚になる」と友人に漏らした、若き日の谷崎潤一郎……。
 収録したのは、明治から昭和にかけて活躍した、誰もが知る大作家の逸話。問題発言を含む随筆や手紙、日記、知人らの回想文などから、作家たちの言動を探りました。大作家による、人間味あふれるぶっ飛び発言の数々。楽しんで読んでいただけると、うれしく思います。
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[目次]
 はじめに
 第一章 口がすべって大目玉をくらう
  一、佐藤春夫を皮肉って大目玉をくらう太宰治
  二、井伏鱒二を怒らせて平身低頭の太宰治
  三、兄を呆れさせて恐縮する太宰治
 第二章 酒が入ってうっかり失言
  一、酔ってついつい暴言が出る中原中也
  二、坂口安吾の破天荒な飲みっぷり
  三、酒癖が悪すぎて顰蹙を買いまくる漱石の弟子
  四、高村光太郎、酔ったせいか森鷗外を怒らせる
 第三章 原稿をめぐるいざこざ
  一、編集者と作家の攻防
  二、文芸の商業化に苦言を呈する佐藤春夫
  三、作家兼編集者たちの驚きの言動
 第四章 愚痴や文句が喧嘩に発展
  一、漱石の愚痴と癇癪
  二、夏目漱石対自然主義作家たち
  三、同業者をこき下ろす作家たち
  四、菊池寛に企画をパクられたと怒る北原白秋
 第五章 性愛がらみの問題発言
  一、谷崎潤一郎の自由過ぎる性愛
  二、軽はずみな発言を連発する芥川龍之介
  三、遊びのつもりが痛い目に合う石川啄木
 引用出典・参考文献

解説が長々書いてあるわけではなく、作家本人の作を抜粋で並べたいわゆるアンソロジーです。

光太郎に関しては、大正6年(1917)の「軍服着せれば鷗外だ事件」。明治30年代(1900年前後)、光太郎が東京美術学校在学中に美学の講師として同校の教壇に立ち、その頃から権威的な態度に反発心を抱いていた鷗外のことを、鷗外の居ない酒の席で茶化したというものです。いつの時代にもそういうことをチクる奴はいるもので、それが鷗外の耳に入り、鷗外激怒(笑)、光太郎を呼びつけて説教という流れです。

引用されているのはこの件に触れた、鷗外の「観潮楼閑話」二篇と、昭和13年(1938)に光太郎が川路柳虹と行った対談「鷗外先生の思出」の一節です。

一昨年、文京区立森鷗外記念館さんで開催された特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」の際には、鷗外に呼びつけられる前に光太郎が鷗外に宛てた新発見の書簡が展示されました。これも収録されていれば完璧でしたが、さすがにそこまでは手が廻らなかったようです。

他の「文豪」たちのクズっぷりもなかなか笑えます。そうかと思うと「いやいや、この発言はもっともだ」というものもあったりです。人間味溢れるこうしたエピソードに触れることで、彼らがより身近に感じられるのではないでしょうか。

ご興味おありの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

草野心平君が歴程社といふ書房を始め、小生の「猛獣篇」を一冊として出したいといつて来ました。これは草野君のこと故承諾する気です。


昭和21年(1946)7月6日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

中国から無事帰還した当会の祖・草野心平。早速、出版に情熱を燃やしていました。連作詩「猛獣篇」を一冊にまとめるという構想は戦前からありましたし、この書簡にあるように戦後にも持ち上がったのですが、結局実現したのは光太郎存命中ではなく、没後の昭和37年(1962)でした。

新刊です。

ロゴスと巻貝

2023年12月27日 小津夜景著 アノニマ・スタジオ刊 定価1,800円+税

注目の俳人、小津夜景さんが綴る人生と本の記憶
山本貴光さん(文筆家・ゲーム作家)推薦
 細切れに、駆け足で、何度でも、這うように、本がなくても、わからなくてもーー読書とはこんなにも自由なのですね、小津さん
 
注目の俳人小津夜景さんは、選び取る言葉の瑞々しさやその博識さが魅力。本書では、これまでの人生と本の記憶を、芳醇な言葉の群で紡ぎ合わせる。過去と現在、本と日常、本の読み方と人との交際など、ざっくばらんに綴った40篇。
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目次
 読書というもの014
 それは音楽から始まった
 握りしめたてのひらには
 あなたまかせ選書術
 風が吹けば、ひとたまりもない
 ラプソディ・イン・ユメハカレノヲ
 速読の風景
 図書館を始める
 毒キノコをめぐる研究
 事典の歩き方
 『智恵子抄』の影と光
 奇人たちの解放区
 音響計測者(フォノメトログラフィスト)の午後
 再読主義そして遅読派
 名文暮らし
 接続詞の効用
 恋とつるばら
 戦争と平和がもたらすもの
 全集についてわたしが語れる二、三の事柄
 アスタルテ書房の本棚
 ブラジルから来た遺骨拾い013
 残り香としての女たち
 文字の生態系
 明るい未来が待っている
 自伝的虚構という手法
 ゆったりのための獣道
 翻訳と意識
 空気愛好家の生活と意見
 わたしの日本語
 ブルバキ派の衣装哲学
 わたしは驢馬に乗って句集をうりにゆきたい
 そういえばの糸口
 月が地上にいたころ
 存在という名の軽い膜
 プリンキピア日和
 軽やかな人生
 料理は発明である
 クラゲの廃墟
 人間の終わる日
 本当に長い時間
 梨と桃の形をした日曜日のあとがき
 引用書籍一覧

小津夜景氏という方、寡聞にして存じませんでしたが、注目の女流俳人だとのことです。いわゆる結社等には所属しない立場でやられているそうで、へそ曲がりの当方としてはシンパシーを感じます(笑)。

その小沢氏のエッセイ集ですが、目次にある通り「『智恵子抄』の影と光」という項を含みます。『智恵子抄』との出会い、その後、そして現在の『智恵子抄』とご自身、といった感じです。

出会いは意外なところからだったそうです。氏が小学6年生の折、当時ファンだったチェッカーズさん関連の書籍を読まれていて、その中にあったメンバーの武内享氏のインタビューで武内氏が愛読書として『智恵子抄』をあげられていたこと。それを読んでいたかたわらにお母さまがいらしたそうで、

「ねえ、おかあさん」
「なに」
「高村光太郎の『智恵子抄』って知ってる?」
「本棚にあるわよ」
 なんと。


素晴らしいお母さまですね。ここで「誰、それ?」「聞いたことない」となっていたら、話は終わってしまったかもしれないわけで。

そして小6当時の小津氏も素晴らしい。「知らない漢字だらけ」であったにもかかわらず、「辞書を引き、一字一句を拾うようにして」読まれたそうです。そして「かくして『智恵子抄』は自分にとって特別な詩集となった」とのこと。

それにしてもチェッカーズのメンバーの方が『智恵子抄』を愛読書と答えて下さっていたことは存じませんでした。沢田研二さん山口百恵さんなど、芸能界にそういう方は結構いらっしゃいますが。それから小津氏のエッセイでこれも初めて知ったのですが、かの「ドラえもん」で、のび太のパパが若い頃、ママへのラブレターに『智恵子抄』所収の「郊外の人に」(大正元年=1912)を綴ったというエピソードがあったそうです。

しかし小津氏、こうも述べられています。

とはいえ、告白しておいたほうがいいだろう。こうまでして読みはしたものの、わたしは一度たりとも『智恵子抄』をいいと思ったことがないってことを。もっと率直にいえば大嫌いである。

「あ゛?」と思いました。ここから先、いわゆるジェンダー論者の方々のように、男尊女卑の権化光太郎、的なディスりが始まるのか? と。

しかしさにあらずでした。「レモン哀歌」(昭和14年=1939)などを筆頭に、素晴らしい作品群であることは認めつつも、ある種の信用できなさが感じられる、というのです。

ある意味、妥当な見解と思われます。

「レモン哀歌」は宮沢賢治の「永訣の朝」などとの類似点が夙に指摘されてきました。光太郎は智恵子、賢治は妹のトシと、それぞれ最愛の大事な人を亡くした慟哭が謳われている点等々。しかし、そのスタンスはやはり異なりますね。「永訣の朝」はトシを失った悲しみがとにかくこれでもか、これでもかとダダ漏れになっている状態ですが、「レモン哀歌」は、それがいいか悪いかは別として、一つ高い次元からの視点で智恵子の最期を謳っているように感じます。「もっと泣けよ、喚けよ、智恵子が死んだんだぞ」と突っ込みたくなるような。

その理由としては、いろいろ考えられます。「レモン哀歌」執筆が智恵子の死の約4ヶ月後であること、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)10月5日まで、およそ五ヶ月も見舞いに行っていなかったことなどなど。

「レモン哀歌」自体も、「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」と結ばれますが、執筆は2月。桜など咲いていません。これは雑誌『新女苑』への掲載が4月とわかっていたため、その季節に合わせて架空の桜を持ち出したという説があります。おそらくそれで正解でしょう。ただし、やがて4月には実際に「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置」いたのだとは思いますが……。

小津氏、そうしたある種のうさん臭さを、俳人としての優れた感性で敏感に感じ取られたのではないかと思われます。この手の批判的な読みは大歓迎ですね(って、当方は光太郎ではありませんが(笑))。逆に手放しで「類い希なる純愛の詩集」「日本文学史上に燦然と輝く相聞歌」などと評されると、興醒めです。といって、ジェンダー論者の方々のようにその背景もろくに調べずディスりまくりや、自分以外は全員バカだと思っているようなとにかく「批判」だけの自称・研究者などは論外ですが。

一昨日届いたばかりで、他の項はまだ斜め読み状態です。それでも、だいぶ生きづらさを抱えて歩んでこられた方なのだな、というのはわかりました。今日、公共交通機関に長く乗って上京しますので、その行き帰りに精読しようと存じます。

皆様もぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間のお茶のおかげで此頃は朝一杯の煎茶がのめるので爽快を感じます。


昭和21年(1946)4月19日 真壁仁宛書簡より 光太郎64歳

戦後の物資不足の折、花巻郊外旧太田村に引っ込んだ光太郎を案じ、ほうぼうの友人知己がいろいろなものを送ってくれていました。茶は岩手県では産出されず、現在もそうですが、岩手の人々は食事の際に茶を飲むという習慣もないそうで、入手が困難。茶好きの光太郎は真壁からの茶を実に有り難く思ったようです。

清流出版さん発行の『月刊清流』。コンセプトは「すべての女性に贈るこころマガジン」だそうです。

その最新号、2024年2月号に「『智恵子抄』と智恵子」という記事が出ているというので、購入しました。
013 003
智恵子の生涯のアウトライン紹介が主で、さらに『智恵子抄』から「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)の全文が掲載されています。

015しかし、「私たちにさまざまなことを気づかせてくれる、奇数月連載安芸正宏さんの「こころのヒント」。偶数月の号では、近号からキーワードを選び、「こころのヒント」の味わいを深めたいと思います。」だそうで、昨年9月号に載った「こころのヒント 「おしゃれ」って何だと思いますか? 流行に左右されないスタイル」というエッセイで、やはり『智恵子抄』収録の「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)が紹介されたことを受け、では智恵子や「智恵子抄」を紹介しよう、ということのようでした。

そこで、昨年9月号も追加で注文し購入した次第です。

「安芸正宏」さんという方、どこにもプロフィールが載っていませんが、一般社団法人実践倫理宏正会の名誉会長・上廣榮治氏のペンネームのようです。版元の清流出版さんもその系統の出版社なのですね。

ちなみに『月刊清流』さん、2017年9月号でも「詩歌(うた)の小径」という連載で、「あどけない話――高村光太郎」という記事を掲載して下さいました。

『月刊清流』さんは、書店での販売はおこなっておらず、公式サイトからオンラインで、それからAmazonさんでの取り扱いも最近始まったようです。

今号の目次はこちら。
014
さて、明日はやはり『智恵子抄』がらみのエッセイの載った新刊書籍をご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

さすがに此の山の中にも春が来ました。まだ降雪も時にはありますがすぐに消え、日かげさす時は随分温かで暁天の朝靄うすむらさきに、黄セキレイの声やうぐひすの囀りもきこえはじめました。


昭和21年(1946)4月17日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移って初めての冬が終わりました。冬を愛した光太郎も、さすがにそこまで厳しい冬とは予想していなかったようで、春の訪れにほっとしている気配が見て取れます。

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