カテゴリ:文学 > エッセイ等

刊行から3ヶ月近く経ってしまい、新刊とは言い難いのですが……。

エッセイ三昧 

発行日 : 2024年11月25日
著者等 : 和合亮一
版 元 : 田畑書店
定 価 : 2,750円(税込)

東日本大震災直後の福島からTwitterで詩を発信し続け、その詩は世界各国で翻訳されて、フランスでは第一回ニュンク・レビュー・ポエトリー賞を受賞。世界が認める詩人・和合亮一はまた、福島の高校で教鞭をとる国語教師でもある。毎朝、通勤電車に揺られて学校に通う日々、巣立っていく息子への思い……ごく普通の生活から〝詩〟が生まれていく過程を、直截に、ユーモアを交えて綴った、ほぼ10年にわたるエッセイの集大成! 特に中原中也、三好達治、草野心平から谷川俊太郎など19人の詩人について、その詩の本質を平易に、また柔らかく語った「ルミナスラインをあなたへ」は圧巻。

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目次
 朝の文箱(南日本新聞連載)12篇
  手と手に/父心/床屋で祖父に励まされる/日曜日には襟を正して 他
 詩ノ交差点アリマス(河北新報連載)72篇
  詩を書いている和合です/講演しながら耳を澄ませ 他
 震災からの日々(各紙誌掲載)12篇
  骨が記憶する揺れ/十年目の春/あのときの子どもたち 他
 詩人のあぐら(平凡社「こころ」連載)8篇
  千の天使の三点シュート/五十二ニシテビラヲ配ル 他
 通勤の車窓から(各紙誌掲載)7篇
  竹、竹、竹が生え。/震災と賢治/月に叫んじゃえ 他
 ルミナスラインをあなたに(雑誌「一個人」連載)22篇
  長田弘/茨木のり子/いとう りおな/関根弘/菊田心/吉野弘/金子みすず/高橋順子
  高村光太郎/三好達治/室生犀星 1/室生犀星 2/草野心平 1/草野心平 2/大岡信
  大和田千聖/谷川俊太郎/中原中也 1/中原中也 2/田村隆一/野口武久/石垣りん


福島市ご在住の詩人・和合亮一氏が新聞・雑誌等に連載されたエッセイの集成です。先日上京した折、日本橋の丸善さんにフラッと立ち寄り、発見しました。

雑誌『一個人』に連載されていた「ルミナスラインをあなたに」中に光太郎の項がありました。ちなみに「ルミナスライン」とは、和合氏曰く「詩の中に、あなたにとって輝くようなフレーズが見つかるといい。それを「ルミナスライン」(光る詩の行)と呼んでいきたい」。そこで、古今の詩人(職業的詩人以外も含む)の作品を毎回一篇ずつ取り上げ、わかりやすく解説。光太郎詩は「冬が来た」(大正2年=1913)でした。他に当会の祖・草野心平の項でも光太郎に言及されています。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

写真お送り下さつてありがたく御礼申上げます、一九五一年のよい記念になりますし新生活発足の日の貴下の撮影といふ事に愉快な意味を感じます、

昭和26年(1951)12月6日 佐久間晟宛書簡より 光太郎69歳

佐久間佐久間晟氏は宮城県歌人協会会長などを歴任された歌人。光太郎と交流のあった前田夕暮門下でした。奥さまでやはり歌人のすゑ子氏とこの年にご結婚、新婚旅行の中で花巻郊外旧太田村に逼塞していた光太郎の山小屋を訪ねられました。

平成17年(2005)、お二人が同人となられていた歌誌『地中海』に、光太郎訪問記等がすゑ子夫人のご執筆で掲載され、その後、当方、仙台でご夫妻と面会、詳しくお話を伺うことができまして、その際の聞き書きを『高村光太郎研究』第28号(平成19年=2007、高村光太郎研究会)に寄稿いたしました。

右のお二人が佐久間夫妻、左端は夫妻が泊まられた花巻温泉松雲閣の仲居さん・八重樫マサ。夫妻を山小屋に案内したそうです。

エッセイストにして、雑誌『暮しの手帖』元編集長であらせられ、これまでもあちこちで光太郎に触れて下さっている松浦弥太郎氏の新著です。

正直、親切、笑顔 僕が大切にしている125の言葉

発行日 : 2025年1月30日
著者等 : 松浦弥太郎
版 元 : 光文社
定 価 : 1,250円+税

「この本をあなたの大切な人に、プレゼントしてください」。エッセイスト松浦弥太郎さんが日々書きとめてきた、お守りのような言葉を一冊にまとめました。「弱いってことは強いってことなんだと思う。弱いとわかっている強さってある」「百冊の本を読むよりも、一冊の本を百回読みたい」など、苦しいときに、穏やかな呼吸を取り戻すために、紙の手触りを感じながらページを開いてほしい。紙の本を愛する人に贈る至福の一冊です。

目次
 はじめに
 正直
 親切
 笑顔

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直接光太郎と関わるわけではありませんが、タイトルが光太郎がらみです。「はじめに」から。

タイトルにした「正直、親切、笑顔」という言葉は、高村光太郎さんが花巻の小学校の生徒に贈った言葉からいただきました。この言葉は、僕の人生の出発点ともいえるものです。

正確にいうと「笑顔」は松浦氏が付け足されたもので、光太郎が贈った言葉は「正直親切」。昭和26年(1951)、蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の太田小学校山口分教場が山口小学校に昇格した際、校訓として揮毫し、贈りました。

佐藤隆房編著『高村光太郎山居七年』より、同校初代校長・浅沼政規の証言から。

「子供たちの毎日の生活に大切な言葉を掲げ、朝夕それを仰いで、みながよい子になろうと励むようにしたいものだと考えますので、何か適当な言葉をお願いしたいと思って参りました。」
「それはいいことですね。みんなが合言葉のようにして心がけていくと自然よくなっていくでしょう。どんな言葉がよいかな。」
「太田の中学校で、先生に書いていただいたのを掲げてありますが、ああいうものでもいいのですが。」
(注・太田中学校校訓は「心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する」)
「そうですね。小学校だからむずかしい言葉では子供にはわからんでしょうからね。まあ考えておきましょう。」
 その後一ヶ月半ほどたち、いよいよ書いてみようということになったので浅沼校長さんは画仙紙を届けました。先生は
「『正直』と『親切』と二つ採ろうと思いますがどうでしょうか。どちらも子供の時からしつけていけばいいことですからね。」
「ありがとうございます。そうお願い致します。」
 何日かの後、先生がその書を学校に持参して下さいました。校長さんは厚く礼をのべ、花巻に出て、額に表具し、額を学校に掲げ生徒に合言葉となるよう指導しました。


そうして書かれたのが、下記の書。
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戦後ふうに左から右に書き、一年生の児童でも読めるようにと現代仮名遣いでルビも。旧仮名遣いでは「しやうぢきしんせつ」です。ただ、拗音を小さく書くというルールは未だ徹底されていなかった時期で、「しょう」ではなく「しよう」となっています。

そして光太郎、学芸会に招かれ、児童を前に語りました。再び『高村光太郎山居七年』から。

校訓のことですが、何か書こうと思っても何もない。太田中学校には書いてあげました。大きい人にはその意味もわかるのでよいですが、皆さんには何がいいかと考えました。結局平凡なことですが、『正直』というのを採りました。正直は人の行の根本になると思いますし、その時は損なようでも結局長い間では得になるものです。これに親切を加えました。そういうわけで、あの書をあげたのですが、学校の訓(おしえ)ともなり、又校章と相俟って将来よい校風が出来ますれば幸です。

残念ながら山口小学校は廃校となって元の太田小学校に統合、しかし跡地には光太郎に贈られた「正直親切」の語を刻んだモニュメントが建てられました。
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こうしたいきさつに感銘を受けた、光太郎と交流があり、埼玉県東松山市の教育長であらせられた故・田口弘氏は、昭和58年(1983)、市内に新たに開校した新宿小学校さん校庭に同じ文字を使った碑を建立。さらに光太郎母校の荒川区第一日暮里小学校さんでも、昭和60年(1985)、創立百周年記念にこの言葉を刻んだ碑を建立しました。同校では学校便りのタイトルも「正直親切」です。
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さて、松浦氏の御著書。光太郎に触れられているのは「はじめに」だけなのですが、「正直」「親切」「笑顔」の三章に分け、「なるほど」と思わせられる言葉が並んでいます。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

詩集“琉球”ありがたくいただきました。大変美しい本が出来てうれしい事です。表紙の紅形を飽かずながめました。紙もきれい、印刷もきれい、詩もきれいです。かういふきれいさがだんだん世の中に少くなつてゆくやうな気がします。

昭和26年(1951)10月15日 矢野克子宛書簡より 光太郎69歳

矢野克子は明治38年(1905)、沖縄生まれの詩人です。詩集『琉球』はこの年刊行された詩集で、表紙には伝統の琉球紅型(びんがた)のデザインを使っていました。
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いきなり自分の名が出て来たので「ありゃま」という感じでした。

『岩手日報』さん、12月7日(土)に掲載された「みちのく随想」というコーナーの、「私たちのリレー」というエッセイ。お書きになったのは、宮澤賢治の妹・トシの母校にしてトシ自身も教壇に立った花巻南高等学校さんの菊池久恵先生。文芸部さんの顧問をお務めです。

みちのく随想 私たちのリレー 

 「だれか、智恵子さんのエプロンを作ってくれませんかね。」
 去年の秋、小山弘明さんが呼びかけた。氏は、彫刻家で詩人の高村光太郎の研究家。「光太郎と吉田幾世(いくよ)」展講座での一声に、最前列にいた勤務校の文芸部員とわたしは、目を上げた。光太郎の妻智恵子のデザインのエプロンの図面が、大スクリーンに映っている。
 もとは高村夫妻が寄稿していた『婦人之友』の百年前の号に載る。この雑誌は青森県八戸市出身の羽仁(はに)もと子と、吉一(よしかず)の夫妻が創刊。「家庭から良い社会を作ろう」を理念に今に至る。
 ここに何度も寄稿した芸術家同士だからこそ、エプロンには二人の暮らしぶりがうかがえるのでは。なぜか、小山さんがわたしたちへ声をかけている気がした。ついでなぜか、バトンを手渡すように勤務校の家庭クラブに持ちかけた。快諾をもらい、智恵子のエプロン復刻プロジェクトが走り出す。
 講座後、光太郎の食を通して顕彰する「やつかの森合同会社」の方々と知り合い、寸劇や朗読を披露いただいた。その方々と、光太郎が名づけた「花巻賢治子供の会」の元会員の方を囲み、彼と直(じか)に交流した思い出をうかがう。「高校生と一緒にできてうれしい。」という一言が、わたしたちにはうれしい。
 改めて知る宮沢賢治の、花巻の、岩手の「恩人」である彼の足跡。この地の雲を見、土を嗅ぎ、雪積むうちにほりさげた、自己流謫(るたく)としての戦後七年間の山荘暮らしとその詩。実際、訪問者が結構いたとか。一方、「花巻における光太郎を知る会」では、彼の日記を読み、当時をつぶさに描く時間をいただいた。
 去る六月。花巻市太田地区振興会主催「五感で楽しむ光太郎ライフ」での発表に、これらがみな、つながった。百名あまりの参加者を前に、勤務校の文芸部員がエプロンの復刻のいきさつを説明。一年生は、光太郎が取りに語りかける詩「クロツグミ」を、三年生は、まさにこの季節の詩「若(も)しも智恵子が」を、一心に朗読した。「もしも智恵子が私といつしよに/(略)いま六月の草木の中のここに居たら、/(中略)サフアイヤ色の朝の食事に興じるでせう。」
 昼食は、光太郎のレシピによるそば粉のガレットロールやパンケーキ、鶏肉のコンフィほか。味わううちに、そのテーブルに光太郎と智恵子が、むこうには羽仁夫妻もいて、サファイヤ色の昼の食事にほほえむ気配がする。
 さて、復刻エプロン姿の家庭クラブ一年生が登場するや場内がどよめいた。智恵子が実家の酒屋で使っていた柿渋染めの酒袋を再利用したエプロンの復刻には、発見があいつぐ。
 図面と酒袋の縦の長さはほぼ同じ。生地がむだなく使え、そこから智恵子の身長は約一五〇㌢と推定できる。酒袋は防水・防腐効果があり、生地が固くミシン針が折れるくらい。だが、丈夫で長持ちする。中央のポケットも大きい。三角形の胸のデザインは授乳しやすく工夫したもので、古代更紗(さらさ)で縁を飾り、さすが、しゃれている。
 講評では、「伝えていく人がいるから、その人のことが伝わる。」と、小山さん。うなずきながら、受けとめるときも伝えるときも、新しい景色を見、世界が開かれていくようにと思う。たどり着くところはわからないが、進むべき方向は決まっている。わたしたちのリレーとはきっと、そのようなものだ。
 この十月、智恵子の命日五日の「レモン忌」も近く、家庭クラブは詩「レモン哀歌」にちなむレモンケーキを完成した。月半ば、土澤アートクラフトフェアで「やつかのもり」の方々が販売する「こうたろう弁当」に添えプレゼント。喜ばれた。同じ頃文芸部は、たしかに目を見張る走りをした「復刻智恵子のエプロン」特集を部誌に載せ、その人の故郷、福島県二本松市の智恵子記念館へとどけた。
 どちらも、どこへつながり、どのような景色が見えるかわからない。胸が鳴る。わたしたちは本日も「継走中」。


実に熱く語って下さいました。ありがとうございました。

冒頭の「「光太郎と吉田幾世(いくよ)」展講座」は、昨年11月。花巻高村光太郎記念館さんで当方が講師を務めさせていただきました。
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盛岡生活学校(現・盛岡スコーレ高等学校さん)を設立し、学校ぐるみで光太郎と交流のあった吉田幾世とのつながりをご紹介するものでしたが、学校や吉田自身が深く関わった雑誌『婦人之友』への光太郎智恵子の寄稿や受けた取材の話の中で、「智恵子のエプロン」にふれたところ、興味を持って下さったというわけです。

そのお披露目が今年6月。文中にある通り、イベント「五感で楽しむ光太郎ライフ」の一環でした。
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その後も家庭クラブさんは「レモンのパウンドケーキ」、文芸部さんは部誌『門』と、継続しての取り組み。ありがたし。

さらに活動が発展していくことを願って已みません。

追記:最近流行りのAIで白黒写真をカラー化できるアプリで遊んでいたところ、問題のエプロンと同型のものを智恵子が着用している写真を見つけました。というか、あちこちで使われている有名な写真ですが、そこにエプロンが映っていたのを見つけたというべきですか。カラー化して初めて気づきました。この写真、白黒で生家や道の駅で顔はめパネルとして使われています。
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【折々のことば・光太郎】

東北はまだ暑いです。こんなに暑くては東北に居る甲斐がありません。来年はどこかの山へ避暑しようかと思つてゐます。


昭和25年(1950)9月16日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎68歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村、標高としてはそれほどでもなく、また、とにかく夏の暑さには弱かった光太郎、残暑に悩まされていたようです。

来年はどこかの山へ」は結局実現しませんでした。翌年には持病の結核性の肋間神経痛が悪化したのも一因でしょう。

12月7日(土)の『東京新聞』さんから、中川越氏の連載。

文人たちの日々好日 コーヒー讃歌

 竹久夢二は最晩年の昭和9(1934)年49歳のとき、療養地の信州から人形作家岡山さだみ宛に次の手紙を書きました。
 「旅先(たびさ)きで食べたあれやこれや思出(おもいだ)してはその地方からよりよせています。ホノルルから次の船でコーヒーがつくでしょう。そしたら西洋菓子をほしい、コロンバンよりも私は尾張町の裏通りのドイツベイカリイ(或(あるい)はジヤアマンベイカリイ)の菓子がほしい」
 夢二はこの手紙の3年前、46歳のときにホノルルを経て渡米、1年余滞在した後に渡欧。思い出深い異国の香味コーヒーをわざわざ取り寄せ、病に塞(ふさ)ぐ心を癒(いや)したようです。
 また、支援者から贈られたコーヒーにより自身の孤独を温めたのは高村光太郎です。戦後岩手県の花巻で独居自炊の生活を始めた高村は、後輩詩人宮崎稔への手紙の中でこう述べました。東京を離れて2年が過ぎた同22(1947)年63歳のときのことでした。
 「昨日高崎の方の人からコーヒーの缶入(かんいり)とサッカリン錠といふものをもらいました。早速いれて久しぶりのカフェ ノワールを賞味しました。クラッカアの無いのだけが残念でした」
 サッカリン(合成甘味料)は入れず、カフェノワール(ブラックコーヒー)を味わいながら、亡き智恵子との生活を思い出していたのでしょう。

 そして、ドイツ留学中にその味に魅了された寺田寅彦にとってコーヒーは、科学者としてのインスピレーションを得るための不思議な装置となりました。「コーヒー哲学序説」という随筆で、こう述べています。
 「研究している仕事が行き詰まってしまってどうにもならないような時に、前記の意味でのコーヒーを飲む。コーヒー茶わんの縁がまさにくちびると相触れようとする瞬間にぱっと頭の中に一道の光が流れ込むような気がすると同時に、やすやすと解決の手掛かりを思いつくことがしばしばあるようである」
 そんな口唇とコーヒーとの意外な関係を別な趣向でイメージしたのは日本現代詩人会会長の郷原宏です。半世紀前青年郷原は「珈琲讃歌(コーヒーさんか)」と題する詩の中で、若い娘に告白しました。
 「暗い夜を逃れて/ふたたび、おまえにめぐり合う/このひとときの安息/おまえはいつも/容器のかたちに身を添わせながら/ひかえめに/しかし、きっぱりと/自己を主張する/白い花と赤い実から生まれた/黒い少女よ/お前に熱いくちづけをおくろう」
 初めてのキス、そしてほろ苦い失恋を彷彿(ほうふつ)とさせられます。以上は全て男たちのコーヒー讃歌。女性にとってコーヒーとは? どなたかいつか教えてください。
(手紙文化研究家・イラストも)
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当方も珈琲党で(別に豆は何々で焙煎の具合はどうこうでというようなこだわりは全くなく、インスタントだろうが缶コーヒーだろうがかまわないのですが(笑))、1日に5,6杯は軽く飲みますので、それぞれのコーヒー談義、あるあると思って読みました。

夢二の文章に出て来るコロンバンさん、当時からあったのですね。学生時代には毎年この時期、三越さんで配送のアルバイトをしていましたが、かなりの頻度でコロンバンさんやヨックモックさんの商品を扱いました(笑)。

筆者の中川氏、「手紙文化研究家」ということで、文豪たちの手紙に冠する御著書等多数おありです。

『すごい言い訳!―二股疑惑をかけられた龍之介、税を誤魔化そうとした漱石―』。
『愛の手紙の決めゼリフ 文豪はこうして心をつかんだ』。
新潮文庫『すごい言い訳!―漱石の冷や汗、太宰の大ウソ―』。

氏とはフェイスブックでつながらせていただいておりまして、過日は当方もスタッフとして詰めていた中野区のなかのZEROさんでの「中野を描いた画家たちのアトリエ展Ⅱ」にもいらして下さり、初めてお会いすることができました。

今後ともご健筆を祈念いたします。

【折々のことば・光太郎】

おてがみがこんな山の中へまで来ました、小生の作つたものが若い人達の心に触れたといふお話をきくと不思議のやうにも思はれ、又大変はげまされます、おてがみに感謝します、この山にゐて小生死ぬまで詩や彫刻を作るつもりで居ります、
昭和25年(1950)9月9日 高橋光枝宛書簡より 光太郎68歳

令和元年(2019)、この書簡は受け取ったご本人から花巻市に寄贈されました。現代はSNS全盛の時代ですが、やはり直筆の手紙というものは貴重ですね。

一昨日、12月8日(日)の『北海道新聞』さん一面コラム。

卓上四季

重くたちこめていた暗雲が吹き払われ、日本の命運に光がさした―。83年前のきょう、米ハワイ真珠湾への奇襲が成功し、太平洋戦争が始まる。大多数の国民は熱狂的に受け入れた▼人道主義を説いた白樺派作家の武者小路実篤は高揚していた。<くるものなら来いと云(い)う気持だ。自分の実力を示して見せる>。詩人・彫刻家の高村光太郎も感動を抑えられない。<世界は一新せられた。現在そのものは(略)純一深遠な意味を帯び光を発し>た。興奮が広がる▼憂うる者もいた。作家の幸田露伴は国の将来を案じて涙を流した。「若い者たちをつぶしてしまって事が成り立つはずがない。これではもういっぺんでひどい事になる」。先が見通せた少数者だった▼真珠湾攻撃は遠く離れた英国でも速報された。ラジオで知ったチャーチル首相はすぐに米国へ電話で問い合わせた。なにが起きたのか? ルーズベルト大統領は答えた。「日本の攻撃です。いまやわれわれ(米英)は同じ船に乗りました」▼<世界史的事件>と受けとめたチャーチルは記している。これでヒトラーとムソリーニの運命は決まった。いずれ日本も木っ端みじんに打ち砕かれるだろう―▼日本は序盤こそ快進撃を続けたものの続かない。軍事力も経済力も米国との差は圧倒的だ。チャーチルの予測は4年弱で現実となる。

光太郎が「感動を抑えられない」として引用されているのは詩ではなく、エッセイ「十二月八日の記」から。太平洋戦争開戦から約1ヶ月後の昭和17年(1947)元日、『中央公論』に載ったものです。後に随筆集『某月某日』(昭和18年=1943)に収められました。

真珠湾攻撃のあった昭和16年(1941)12月8日、光太郎は大政翼賛会の第二回中央協力会議に出席していました。「十二月八日の記」はそのレポート的なものです。引用されている一節は、会場の大政翼賛会本部で開戦の詔勅(昭和天皇本人によるものではありませんでしたが)を聴いたときのもの。

その前後も併せて紹介します。

 時計の針が十一時半を過ぎた頃、議場の方で何かアナウンスのやうな声が聞えるので、はつと我に返つて議場の入口に行つた。丁度詔勅が捧読され始めたところであつた。かなりの数の人が皆立つて首をたれてそれに聴き入つてゐた。思はず其処に釘づけになつて私も床を見つめた。聴きゆくうちにおのづから身うちがしまり、いつのまにか眼鏡が曇つて来た。私はそのままでゐた。捧読が終ると皆目がさめたやうに急に歩きはじめた。私も緊張して控室に戻り、もとの椅子に坐して、ゆつくり、しかし強くこの宣戦布告のみことのりを頭の中で繰りかへした。頭の中が透きとほるやうな気がした。
 世界は一新せられた。時代はたつた今大きく区切られた。昨日は遠い昔のやうである。現在そのものは高められ、確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなつた。
 この刻々の瞬間こそ後の世から見れば歴史転換の急曲線を描いてゐる時間だなと思つた。時間の重量を感じた。

結局、第二回中央協力会議は当初5日間の日程でしたが、それどころではなくなり、1日に短縮。光太郎が発議する予定だった「工場施設への美術家の動員」はカットされました。

以後、ほとんどすべての文学者がそうであったように、雪崩を打って光太郎も発表するものは翼賛詩文一辺倒となっていきます。後述しますが、発表しなかった戦争とは無関係の詩も多くありましたが。

『北海道新聞』さんでは例外として幸田露伴の発言を引いています。当方、寡聞にしてそのソースは存じませんが、その露伴にしても、徳富蘇峰を日本文学報国会会長に推挙したり、その前身とも言える日本文芸中央会の相談役、報国会と『朝日新聞』共催の「国民座右銘」選定委員に就任したりと、決して「無罪」ではありませんでした。

驚いたのは、開戦当時満10歳だった谷川俊太郎氏。やはり12月8日(日)の『長崎新聞』さん一面コラム。

水や空

いのちと愛の言葉を最後まで手放さなかった詩人もその時代は“軍国少年”だった。谷川俊太郎さんが模型ヒコーキへの熱をつづった作文を〈僕の模型よ、お前もほんとの飛行機と一緒にニューヨーク爆撃に行け!〉と結んだのは10歳の春。開戦の翌年だった▲もう、少国民教育が行き渡っていた時代だったのですね-の問いに「そのようですね」と短く応じている。文芸評論家・尾崎真理子さんとの対談集「詩人なんて呼ばれて」(新潮文庫)から▲戦争は知らずに、結末だけを知る私たちが当時の空気を後知恵で非難するのはルール違反でしかない。ただ、大和魂だ、日本は神の国だ-という高揚感や興奮が無謀な戦争を支えていたことは、何度でも胸に刻んでおきたい▲高揚感はやがて消える。谷川さんよりも5歳年長の詩人・茨木のり子さんは「わたしが一番きれいだったとき」に戦争の現実を詰め込んで語った。〈街々はがらがら崩れていって〉〈まわりの人達が沢山(たくさん)死んだ〉〈男たちは挙手の礼しか知らなくて〉▲〈わたしの国は戦争で負けた/そんな馬鹿なことってあるものか〉-青春を返して。でも、戦争が始まってしまったらその叫びはどこにも届かない。「馬鹿なこと」は「敗戦」ではなく「開戦」だ▲太平洋戦争の開戦から8日で83年になる。

「教育」の力は、時に恐ろしい結果をもたらすものだと改めて感じました。

話を光太郎に戻します。光太郎にはずばり「十二月八日」という詩もあります。昭和17年(1942)2月の『婦人朝日』に発表されました。
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毎年、12月8日には幼稚なネトウヨがこの詩の一節をSNSに挙げて(ついでに言うなら誤字だらけで)喜んでいます。昨年はそれほどでもなかったので、そうした動きは沈静化したかなと思っていたのですが、今年はまた以前以上に花盛り。光太郎本人が戦後、こうした愚にもつかない詩文を乱発し、多くの前途有為な若者を死地に送る手助けをしたことを悔い、花巻郊外旧太田村の掘っ立て小屋で7年間もの蟄居生活を送ったことなどまったく無視です。

もう取り消せない、という意味では「デジタルタトゥー」に近いものがあるかも知れません。また、「綸言汗の如し」という言葉も思い浮かびます。「無かったことにしよう」というのではありませんが(多くの文学者の同様の作品は、本人や取り巻きによって、「無かったこと」にされている現状もあります。あまっさえ、「無かった」どころでなく「反戦の姿勢を貫いた」とされている詩人も居ますし、現代の有名な評論家のセンセイもそれに騙されています)。

つくづく戦争というものは人の心を狂わせるものだと思わざるを得ませんね。

【折々のことば・光太郎】

「花と実」も予定ばかりで出版にはなりさうもありません。


昭和25年(1950)9月9日 西山勇太郎宛書簡より 光太郎68歳

光太郎は戦時中、一切戦争には関わらない詩も書いていました。それらは発表することなく書きためていて、『花と実』というタイトルの詩集にまとめる予定でした。しかし、今更感もあったのでしょう、結局実現しませんでした。

年に2回発行されている文治堂書店さんのPR誌を兼ねた文芸同人誌的な『とんぼ』。最新号の第十九号が届きました。
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いつも書いていますが、同人にしてくれと頼んだ覚えは一切ありませんが、「連翹忌通信」という連載を持っています。評論ともエッセイともつかない駄文ですが(笑)。

前号に引き続き、キーワードは「佐佐野旅夫」。当会顧問であらせられた故・北川太一先生が、明治45年(1912)の雑誌『スバル』に載った「佐佐野旅夫」署名の戯曲「地獄へ落つる人々」を、光太郎の変名によるものではないかと推理され、「参考作品」として『高村光太郎全集』の別巻に掲載された件について。

残念ながら北川先生の推理は外れで、「佐佐野旅夫」は佐々木好母という人物が使っていたペンネームだと判明した件を前号に書きましたが、佐々木は明治末から戦後にかけて(途中、疎遠になっていた時期もあったようですが)光太郎と交流があり、そんなわけで北川先生が光太郎作品と見まごうような戯曲を書いていたのだ、的なことを今号には書きました。さらに佐々木の経歴、光太郎やその親友・水野葉舟との交流などについても。

ちなみに戯曲「地獄へ落つる人々」、『スバル』本誌では「佐佐野旅夫」クレジットでしたが、他誌に載った広告では本名の「佐々木好母」で紹介されていました。
地獄へ落つる人々
詳しくは奥付画像を載せておきますので、御注文の上『とんぼ』をお読み下さい。
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拙稿の件を先にご紹介して申し訳なかったのですが、目次は以下の通り。
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編集に当たられている曽我貢誠氏が、当方も幹事に名を連ねています「中西利雄・高村光太郎アトリエを保存する会」の世話役、版元の文治堂書店さんの社主・勝畑耕一氏も同会メンバーで、随所に保存運動の件も書かれています。

他に北川先生の御子息・光彦氏、朗読のイベントなどでお世話になっている服部剛氏などの玉稿も。

頒価は600円だそうです。よろしくお願い申し上げます。

【折々のことば・光太郎】

「典型」の表紙、見返し、扉、外函の装幀原図がやつと決定しましたので、宮崎さん宛送ります。書留にするには集配人をつかまへるのが一苦労です。


昭和25年(1950)8月23日 松下英麿宛書簡より 光太郎68歳

若い頃からの選詩集的なものを除き、光太郎生涯最後の詩集となった『典型』。おそらく自分でも生涯最後の詩集とするつもりだったようで、装幀は気合いを入れて自分で行い、題字も自分で刻んだ木版でした。
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無題
典型
扉の案のうち、左の二つはボツにしたもの、一番右を採用しました。いわずもがなですが文字も自筆です。

アンソロジーものの新刊です。2ヶ月程経ってしまいましたが。

ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編

発行日 : 2024年8月28日(水)
著者等 : 早川茉莉編
版 元 : 筑摩書房
定 価 : 税込み2,090円

喉を通りぬける冷たい爽快感! 内田百閒、田中小実昌、東海林さだお、草野心平、森茉莉、茨木のり子……飲める人も飲めない人も素敵な活字のビールをどうぞ!

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目次
 序
 プロローグ 気分爽快 森高千里
 1杯目 つぎたてのビール――まずはビール。とりあえずビール
  いつかきっと 田村セツコ
  缶と瓶 細馬宏通
  ビールのある風景 山本精一
  西陽の水面とビール 高山なおみ
  イギリス湖水地方のラガー 高柳佐知子
  ビールの遍在性とさりげないやさしさについて 小野邦彦
  脳内反芻ビール 小山田 徹
  サバティカルはミュンヘンで 喜多尾道冬
 2杯目 泡は大事――ビールは泡ごとググッと飲め
  ビールの泡 田中小実昌
  泡だらけ伝授 阿川佐和子
  ビールは泡あってこそ 東海林さだお
  原則の人 伊丹十三
  ビールは小瓶で 長田 弘
  モクモクモク 嵐山光三郎
  ビールは泡ごとググッと飲め 草野心平
 3杯目 ビール、もう一杯!――こんな日はとりわけビールがうまいんだ
  虚無の歌 萩原朔太郎
  モーツァルトmozart  村上春樹
  軽い酔 牧野信一  
  飢えは良い修業だった アーネスト・ヘミングウェイ 福田陸太郎 訳
  とりあえずビールでいいのか 赤瀬川原平
  ビールと女 獅子文六
  白に白に白 大道珠貴
  鍋貼 小川 糸
  ふきのとう 姫野カオルコ
  ビールに操を捧げた夏だった 夢枕 獏
  七月 ビール炊き御飯 金子信雄
  富士日記(抄) 武田百合子
  モンスターと夜景 雪舟えま
  人生がバラ色に見えるとき 石井好子
  飲み、食べ、颯爽と嫌う 城 夏子
  ビール 大橋 歩
  炎天のビール 山口 瞳
  コップに三分の一くらい注いで、飲んじゃ入れ、飲んじゃ入れして飲むのが、
ビールの本当にうまい飲み方なんですよ。 池波正太郎
 4杯目 旅先のビール――頭のテッペンから足の先までが、キューッとしびれる
  あほらしい唄 茨木のり子
  灰色の菫 田村隆一
  2019年5月3日 小沢健二
  この世で一番おいしいビール 氷室冴子
  道草 吉田健一
  鹿児島カンビール旅 椎名 誠
  温泉津旅行記 川本三郎
  京洛日記 二十一、食堂車 室生犀星
  鴎外先生とビール 平松洋子
  ビールの話 岩城宏之
  パブ 加藤秀俊
  ベルギーぼんやり旅行 七色ビール篇 向田邦子
  ネパールのビール 吉田直哉
  デンマークのビール 北大路魯山人
  欧洲旅行(抄) 横光利一
  ニュー・イングランドの浜焼 中谷宇吉郎
  父の麦酒のジョッキーと葉巻切り 森 茉莉
 5杯目 ビール飲み――飲みたければ、たんとお飲みなさい
  渓流 中原中也
  未練 内田百閒
  植木鉢 土岐雄三
  明るいうちに飲むなら蕎麦屋 与那原恵
  第55夜 まつや【神楽坂】 秘密基地の伝声管 鈴木琢磨
  初めての飲み会 瀧波ユカリ
  ビールの歌 火野葦平
  父の七回忌に 幸田 文
  われこそはビール飲み 野坂昭如
  はじめてのビール 沢野ひとし
  ワインとビールがいっぱい  渡辺祥子
  ビールの味 高村光太郎
 編者あとがき ビールは飲む「窓辺」であり「風景」である。 早川茉莉
 底本一覧

ビールをテーマにしたりモチーフに使ったりした、古今のエッセイ等63篇が集められています。

表題作「ビールは泡ごとググッと飲め」は、当会の祖・草野心平が昭和42年(1967)に雑誌『しんばし』に発表したエッセイです。心平、酒好きで知られていますが、だからといって強いわけでもありませんでした。そのくせ意識不明になるまで呑み、光太郎に介抱されたこともたびたび(笑)。そんな心平を光太郎は愛していましたが。

心平は詩を書くかたわら、屋台の焼鳥屋「いわき」、居酒屋「火の車」、バー「学校」と、飲み屋を経営しました。光太郎は「学校」のみその没後の開店なので足跡を残していませんが、戦後の「火の車」には足繁く通いましたし、戦前の「いわき」には智恵子を伴ったこともありました。

そして心平作詞の「バア「学校」校歌」。013

 バア学校のシンボルは。
 時代おくれの大時計。
 二十一世紀を告げる鐘。
 さらばで御座る。
 酒はぐいのみ。
 ビールは泡ごと。

 バア学校の常連は。
 世にも稀なる美男美女。
 落第つづけの優等生。
 しからばそうれ。
 酒はぐいのみ。
 ビールは泡ごと。

半分意味不明、酔っ払って作ったんじゃないかとも思われます(笑)。ちなみに心平を名誉村民に認定して下さった福島県川内村の阿武隈民芸館・かわうち草野心平記念館内には、バー「学校」が再現されています。設計は辻まことだそうで。

ところで「バア「学校」校歌」以前にも、「ビールは泡ごとググッと飲め」というリフレインを使った詩があったそうですが、すみません、把握できていません。「ビールは泡ごと」は、お気に入りのフレーズだったようです。

さて、『ビールは泡ごとググッと飲め——爽快苦味の63編』。63篇のトリを飾るのは、光太郎のエッセイ「ビールの味」(昭和11年=1936)。

特にビール好きの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

このたびは思ひもかけず黒沢尻で誕生日を迎へることとなり、貴下はじめ御家族御一同のまことにお心こもつた饗宴にあづかり、忘れがたい記念の一日となりました事を深く感謝いたします、


昭和25年(1950)3月15日 森口多里宛書簡より 光太郎68歳

光太郎誕生日は3月13日。10日から秋田横手に講演に行き、さらに花巻の南の黒沢尻町(現・北上市)の映画館・文化ホールでも講演を行いました。

平成16年(2004),北上市教育委員会発行『きたかみ文学散歩』に、この折の様子を回想した「●美の世界の巨人」と題する地元の画廊経営者・郡司直衛氏の一文があります。

 黒沢尻の駅に降り立った高村光太郎は、大きな防空頭巾にどんぶくはんど(綿入レ半纏)を着てリュックサックに防寒靴。全くの村夫子然。日本で初めてベレー帽をかぶって銀座を歩いたモダンボーイと誰が思うものか。
 横手の雪をみての帰途、「もう私には残された時間がないから」と云うのをお願いして講演会を開く。その講演に先立ち、お昼を茅葺の民家の二階で差し上げた。そこには空襲で家を焼かれた森口多里が疎開していた。
 その日は昭和二十五年の「三月十三日」。光太郎の誕生日であった。昼食のメニューは鶏の丸焼きにコリフラワとオニオン添え、これは森口夫人の力作で、それに母が手造りの五目ずしという簡素なものであった。具が美味しいとほめられる。母は「高村さんに褒められた」と一生の自慢であった。卓上には発酵し始めた山ぶどうの赤い液が、切子の徳利に入れて添えられていた。当時これが精一杯のもてなしであった。
 食卓は淋しかったが、美の奉仕者である二人の会話は途切れることなく続いた。ロダンの誕生日の話、ハムレットを見ながら気が付くと眼鏡を握りつぶしていた話などなど。森口はパリの街のどこの通りの、何番目のマロニエのどの枝が、一番早く花を咲かせるか知っていると自慢気に話した。二人のパリの思い出は盡きなかった。
 木マンサクもキブシも花にはまだ早く、ネコ柳を一本根元から切って、有田焼の染付の大花瓶に投げ入れ、講演会の壇上を飾った。会場は身動きできぬ程の聴衆で溢れていた。
 講演を終えて、「誕生日には智恵子と食事をするのです」というのを無理に引き止めてお泊まり頂く。翌朝、長ぐつを履こうとする足の大きなこと、靴に添えられた手の大きなこと。私は高村光太郎が“美の世界の巨人”であることを、そのときこころではなく、目で理解したのであった。

岩波書店さんで出しているPR誌的な月刊の『図書』。今月号で光太郎智恵子が論じられています。
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「論じる」というよりはエッセイのような感じですが、映画監督の中村佑子氏による連載「女が狂うとき」の第4回で「冷たい乙女たち――高村智恵子に寄する」。

乙女」は「乙女の像」の「乙女」。青森県の十和田湖畔に立つ光太郎最後の大作「十和田国立公園功労者記念碑のための裸婦像」(昭和28年=1953)です。

光太郎、この像の身体部分は藤井照子というプールヴーモデル紹介所に所属していたプロのモデルを雇ってデッサンを重ねましたが、その顔はまぎれもなく、智恵子。ただし光太郎自身は公的には智恵子の顔だとは発言していません。それでも生前の智恵子を知る人々は一様にそう思いました。戦後のかなり早い段階から光太郎が「智恵子観音を作りたい」と言っていたのを知る人々も多かったようですし。
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冷たい」は中村氏が十和田湖畔を訪れたのが真冬で、「私はこの像を、ある人に寒いねと抱きしめられた肩越しに見た。こんな場所で裸をさらして、なんて寒そうなのか」というところから。また、象徴的な意味合いでも「冷たい」の語を選択し、冠したのだと思われます。すなわち、光太郎智恵子の関係性などなど。

吉本隆明が「高村の一人角力(ずもう)としかおもえないのである」(『高村光太郎』昭和32年=1957)と断じ、それを受けて黒澤亜里子氏がジェンダー的な視点を持ち込んで『女の首 逆光の「智恵子抄」』などで論じ、さらに多くの追随者で一時期賑わった、『智恵子抄』における生身の智恵子の不在、的なイメージです。

曰く

「自分の成長があなたのためにもなる……光太郎は智恵子と対等だと言いながら、庇護者のような気でいたのだろうか。家父長制が色濃く残る時代にあって、芸術家として歴然と地位も評価もあった光太郎が、智恵子の創作の力や情熱を吸い取っていったのではないのか。」

「東京に空がないのではなく、光太郎との生活に空がなかったのである。」

「理念と現実との深い落差に、幾重にも智恵子は追い詰められただろう。」


などなど。

先述の吉本隆明や黒澤亜里子氏やその他の人々によって同様の論は展開され続けてきたので、新しい知見というわけではありませんが、先行の論も今やほとんど絶版となっている今日、改めてこういうことを論じるのも、それはそれで意義のあることだと思われます。

ただし、光太郎はこういった批判を百も承知で居たのではないかというのが当方の見解です。ところが、それに気づいたのは智恵子の心の病が顕在化してから、さらには智恵子が歿してからではないか、とも思えますが。

それでもあえて『智恵子抄』出版に踏み切ったところに、『智恵子抄』の持つ重層性、多相性が見て取れます。

『智恵子抄』は、浅い読み方で読めば、「純愛の詩集」にしか過ぎません。そこで止まって肯定的に捉えれば「素晴らしい! 我が国相聞歌の金字塔だ」。否定的に読めば「高村の一人角力(ずもう)」。しかし、それに留まらず、もっともっと深い読み方が出来るはずです。

例えば「贖罪の詩集」。「済まなかった、智恵子よ」というわけで。戦後の連作詩「暗愚小伝」にも通じる、自らの「暗愚」の暴露と反省の表明とも読めます。

「訣別の詩集」とも読めましょう。昭和16年(1941)のオリジナル『智恵子抄』収録詩篇のうち、最後に書かれたのは、智恵子の葬儀を謳った「荒涼たる帰宅」。おそらく『智恵子抄』のための書き下ろしです。それ以前に智恵子没後のことを題材にした「梅酒」や「亡き人に」が作られていたにも関わらず、時間を逆行してあえて葬儀の日の模様を謳いあげました。

光太郎としては「一心同体」のつもりでいた智恵子が歿したことで、同時にそれまでの自分も一度死んだという気になったのではないでしょうか。しかし再生するのです、全く違う面貌で。

「荒涼たる帰宅」執筆後、すなわち『智恵子抄』刊行後、光太郎は詩の中で智恵子を扱うことを一時やめます。それから終戦までは、身辺雑記的なものを除き、殆ど戦意高揚のための翼賛詩一辺倒となります。ここには「芸術家あるある」で、俗世間とは極力交わらない生活が智恵子を追い詰めたという反省から、真逆の積極的に社会と関わろうという方向性への転換が見て取れます。そうしないと自分もおかしくなる、と考えたのかも知れません。

そこで、愛する者の死を謳うことで、同時にそれまでの自分への「訣別」を宣言するための『智恵子抄』。やはり戦後の「暗愚小伝」に通じますね。

それから「抄」一字に込められた思い。以前にも書きましたが、これは「全著作の中から智恵子に関するものの抄出」という表面的な意味以外に、「ここに表されている智恵子が智恵子の全てではないよ」という意味も込められているような気がします。「生身の智恵子はもっともっといろいろな悩みを抱え、必死に生きようとしていた素晴らしい女性だった。愚かだった自分は偏った見方で一部分しか見なかった。だから「抄」だ」と。

それでも光太郎は、「亡き人に」の中で「私はあなたの愛に値しないと思ふけれど/あなたの愛は一切を無視して私をつつむ」と謳いました。「一切」には上記のもろもろが含まれるのではないでしょうか。何やかやと言っても、智恵子との日々はかげがえのないものでもあったわけで……。

そういう部分を考えると「鎮魂の詩集」という意味合いも感じられます。西洋音楽のレクイエムのような……。

というわけで、『智恵子抄』。決して単なる「純愛の詩集」ではありません。それに疑義を挟む批判的な読み方もけっこうですし、さらに突っ込んだ解釈が今後とも成され続けることを期待します。

ただし、史実と異なることを書かれるのは困ります。今回も、「智恵子が光太郎のブロンズ作品を袂に入れて散歩」「「乙女の像」は光太郎最後の彫刻」といった誤りが散見されて、残念でした。

そうした点は差っ引いても一読の価値がありますので、『図書』、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

学芸会では小生サンタクロースのお爺さんに扮して舞台に出ました。部落の子供達はとても可愛いいです。


昭和24年(1949)12月6日 奥平ちゑ子宛書簡より 光太郎67歳
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戦前には「芸術家あるある」で関係を極力絶とうとし、戦時中には戦意高揚の詩文で鼓舞し、と、いびつな形でしか社会との関わりを持ててこなかった光太郎、ようやく戦後になって自然な形での交わりが出来るようになったと言えましょう。

それにしても、この写真に写っていて、永らく光太郎の語り部を務められた高橋征一氏浅沼隆氏も今はもう虹の橋を渡られてしまったんだなぁ、と、改めて寂しい思いです。

ムックの新刊です。

 BRUTUS特別編集 合本 本が人をつくる。

2024年6月13日 マガジンハウス刊 定価1,760円

どんな本を読んできたかを知ることは、その人の人生を知ること。恒例のブルータス「本」特集から、読書家たちが大切にしている100回読んだ本を紹介する特集「百読本」、本を愛する人たちが影響を受けた作品について語り合う特集「それでも本を読む理由。」、その2号分をまとめて1冊に。小説、絵本、ビジネス書、アートブック、ZINE……あらゆるジャンルの魅力をぎゅっと詰め込みました。「本」と「読書」の楽しみ方を考える、保存版です。

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百読本
 100回読んだ本はもうその人そのもの。なぜその本を何度も読み返すのか。それを考えることはその人を知ることと同じです。119人の本好きが語る、完全保存版の読書案内。

わたしの百読本。
 まずは、20人の読者家たちが何度も読んだ本の話から始まります。ジャンルも本との向き合い方も人それぞれ。特別な本だけが持つ引力について、彼らの言葉から探ります。
フワちゃん 皆川明 平野紗季子 熊木幸丸(Lucky Kilimanjaro) 乗代雄介 神田伯山 石沢麻依 按田優子 平野啓一郎 紺野真 小林エリカ 斉藤壮馬 佐藤健寿 白石正明 磯野真穂 佐藤亜沙美 岸本佐知子 前田司郎 渡邉康太郎 藤岡弘、

何度も読みたくなる絵本のひみつ。
 子供にとって、絵本は究極の百読本。なぜ繰り返し読みたくなるのか。ロングセラー本にヒントを探し、専門家と一緒に考えます。

それでも本を読む理由。
 今、本を読むことの意味とは。本を愛さずにはいられない、本好き、読書好きが語り合う、「本」と「読書」の魅力。
池松壮亮 藤井健太郎 TaiTan 幅允孝 Awich 吉岡秀典 川名潤 ロジャー・マクドナルド 中島佑介 前田晃伸 黒木晃 鳥羽和久 武田砂鉄 麻布競馬場 桜井莞子 森岡督行 黒島結菜 内山拓也 島口大樹 斎藤真理子 前田エマ 山本貴光 吉川浩満 山瀬まゆみ 紺野真 坂矢悠詞人 髙城晶平 蝶花楼桃花 井伊百合子 山本多津也 若木信吾 荒川晋作 川口瞬 菅原裕喜 前田和彦 二宮慶介 MCNAI MAGAZINE 友田とん 山本佳奈子 花田菜々子 熊谷充紘 三田修平 魚豊 児玉雨子 小泉義之 深津さくら 石黒浩 與那覇潤 ミヤギフトシ 秋草俊一郎 藤岡拓太郎 鈴木一人 室橋裕和 篠田真喜子 加藤幸治 キニマンス塚本ニキ

明日を生き抜くためのブックガイド70
 テクノロジーや社会、ビジネス、カルチャー、普遍的な概念まで、押さえておきたい14のテーマをリストアップし、それぞれに対して識者が選書しました。70冊の中から見つける、明日を生き抜くためのヒント。

「合本」と冠されており、これまでの雑誌『BRUTUS』に載った記事の再編です。「百読本」の項で、デザイナー・皆川明氏が『智恵子抄』を挙げて下さっています。この項は令和4年(2022)年1月1日・15日合併号に載ったものです。サイト上にダイジェスト版がアップされています。
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皆川氏、令和3年(2021)に同じマガジンハウスさんから発売されたムック『& Premium特別編集 あの人の読書案内。』でも、『智恵子抄』をご紹介下さいました。ありがたし。

令和4年(2022)年1月1日・15日合併号をお読みになっていない方、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

ねてゐる小生の頭の上へ雪がつもりました。ひやひやしてむしろ爽快を感じました。

昭和23年(1948)1月13日 佐藤隆房宛書簡より 光太郎66歳

蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋は、元々は鉱山の飯場だった小屋をを移築した粗末なものでした。そのためあちこち隙間だらけで、吹雪の時などは雪が舞い込み、このような状態になりました。
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昨日は約1ヶ月ぶりに上京しておりました。

メインの目的は、文京区のトッパンホールさんで開催された、アマチュア合唱団・コール淡水東京さんの第11回的演奏会拝聴でしたが、都内に出る時は複数の用件をこなすのが常で、ついでというと何ですが、同じ文京区の区立森鷗外記念館さんの特別展「教壇に立った鷗外先生」を先に拝見いたしました。
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展示の構成等をわかりやすくするために、同展図録の目次。
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「第一章 教壇に立った鷗外」「第二章 教科書と鷗外」の二本柱でしたが、前者の方に重きが置かれていました。陸軍軍医学校、慶應義塾大学部、そして光太郎も生徒として聴講した東京美術学校で、実際に教壇に立った鷗外の足跡が追われています(鷗外は現・早稲田大学の東京専門学校でも講義を受け持つ予定でしたが、こちらは幻と終わったようです)。

「なるほどね、こういう内容の講義だったのか」というのがよくわかり、興味深く拝見いたしました。やはりビジュアル的に「もの」を見て感じるというのは大切なことだと改めて思いました。

サイト上の「出品目録」で、光太郎の随筆集『某月某日』が展示されてるという情報は得ていました。予想通り、そこに掲載されているエッセイ「美術学校時代」(初出は雑誌『知性』第5巻第9号 昭和17年=1942 9月1日)で、鷗外の講義についての回想が語られていて、その関係でした。
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他に、昭和14年(1939)の雑誌『詩生活』に載った川路柳虹との対談「鷗外先生の思出」からも一節が引用され、パネル展示となっていました。ちななみに川路は光太郎より5歳下の詩人でしたが、光太郎と同じく東京美術学校の出身です。光太郎が留学中の明治41年(1908)に日本画科に入学し、光太郎が詩集『道程』を上梓した大正3年(1914)に卒業しています。川路の居た時期には鷗外はもう美校から離れていました。

それから、やはり出品目録で情報を得ていましたが、光太郎の1年先輩(年齢は8歳上)に当たる本保義太郎のノートも展示されているということで、そちらも目に焼きつけておこうと思っておりました。
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本保は在学中に光太郎と交流がありましたし、その後も光太郎より少し早く欧米留学に出、光太郎と同じくアメリカの彫刻家ガッツオン・ボーグラムの助手を務めたという経歴の持ち主です。しかし、彫刻家として大成する前の明治40年(1907)、留学先のフランスで、光太郎の親友だった碌山荻原守衛に看取られて結核により客死しました。さぞ無念だったろうと思います。

ノートを手に取ってみることはできませんが、表紙の文字を見るだけでも、本保の息吹が感じられました。

第二章が「教科書と鷗外」。鷗外が編纂に携わった数々の教科書や、鷗外没後、現代に至るまでの鷗外作品が採用された教科書などの展示。

光太郎は教科書の編纂をしたことはありませんが、存命中からやはりその作品は数多くの教科書に採用されています。中には書き下ろしではないかと推定されるものも。ところが、一般の出版とは異なる点が多いので、なかなかそのあたりの全貌が掴めません。

すると、第二章の展示で「協力」に入っている団体として「国立教育政策研究所教育図書館」のクレジット。早速そのサイトを見てみたところ、いろいろ情報を得られそうだということに気づきました。こういう点も、実地に展示に足を運ばないと気がつきにくい事柄ですね。

ところで、何ともタイムリーなことに昨日の『産経新聞』さんに同展を紹介する記事が。

森鷗外の教師像に迫る 研究の「盲点」、記念館で特別展 学生の評判も紹介

 文豪、森鷗外(1862~1922年)には、教師の経歴もあった。何をどう教え、学生の評判は-に注目した特別展「教壇に立った鷗外先生」が、森鷗外記念館(東京都文京区)で開かれている。同展監修の山崎一穎・跡見学園女子大名誉教授は「研究者があまり手をつけていない『盲点』の分野。展示をヒントに新たな研究テーマ、そして新たな鷗外像が生まれてくるはず」と話している。
■文豪は負けず嫌い
 鷗外は明治14年、19歳で東京大医学部を卒業後、陸軍軍医となり、のちにトップの陸軍省医務局長に上り詰める。この間、ドイツ留学、日清・日露戦争戦地などへの赴任の間を縫って、文筆活動でも名をなした。
 さらに「人脈も広がり、その後の活動にとって大事な一時代」(展示担当の岩佐春奈さん)とされるのが教師としての経験。その足跡はある程度知られているが、特別展では学生たちの日記や回想、出版物などの資料から鷗外の教師ぶりにスポットを当てている。
 教師歴は15年に東亜医学校で「生理学」を教えたのが始まり。妹・喜美子の回想によると、「面白い先生の講義は人が多」く、「どうか負けないようになりたい」と講義の準備に励んでいた。教え子から親しまれていたことがうかがえる書簡も展示されている。
 21年からは陸軍軍医学校で「衛生学」を教え、校長も務めた。同校の学生は、「講義は決して下手ではなかった」が、「早口であった」と評している。
■冬は暖炉を囲んで
 軍医学校と並行して24年から東京美術学校(現東京芸術大美術学部)の嘱託教員で「美術解剖」、29年から「美学及美術史」、25年からは慶応義塾大学部文学科講師で「審美学」を講義し、32年まで続けた。
 慶応の最初の教え子による「中村丈太郎日記」は、展覧会初出展の資料。25年9月15日付では「今日ヨリ森林太郎氏来リテ審美学ヲ講ス」「今日ノ題ハ美ノ所在ナリ」と初講義に触れている。この「美ノ所在」は鷗外が同年10月に評論誌「しがらみ草紙」で発表した内容で、先駆けて学生に講義していたことになる。日記には時間割表もあり、講義は火・木曜午前9~10時の週2時間だった。
 慶応では、のちの毎日新聞社長、奥村信太郎の「初冬の薄ら寒い朝、わたくし達慶應文科三年の六人は、煖爐を前に、半円形を作って、森鷗外先生を中にさしはさみ、美学の講義を聴くのだった」などの回想を残している。
 東京美術学校関係では、美術解剖の講義を筋肉図とともに筆記した学生・藤巻直治ノートなどを展示。鷗外が自らの小説作品なども例に挙げ、わかりやすく講義した様子がうかがえる学生の美学筆記ノートも。
 同校で学んだ彫刻家・詩人の高村光太郎は「とても名講義でしたよ」と振り返るほか、学期末に「美学の一番の根源」を理解していない質問をした学生に「そんな無責任な聴き方があるかと怒鳴り…」と鷗外が憤慨した場面も記している。
■子供に手作り教材
 23年には鷗外が東京専門学校(現早稲田大)で講師になると新聞に載りながら、実現しなかった。のちに同校で黄禍論をテーマに講演は行ったが、講師就任が実現しなかった経緯は謎で、今後の研究課題にもなりそうだ。
 岩佐さんは「常に軍服姿で講義。正直、親しみやすい先生ではなかったと思いますが、少人数の学校で連帯感も生まれ、文学者として憧れを持って見つめられた。鷗外も若い人に新しいことを教える責務を感じていたのでは」と話した。
 同展では、鷗外がわが子にドイツ語などを教えるために手作りした教材や、文部省委員として編纂に携わった修身、唱歌の教科書なども展示されている。30日まで。
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過日ご紹介した『東京新聞』さんでも、教え子として光太郎の名を出して下さいました。展示を見て気づいたのですが、他にあまりビッグネームの教え子が居なかった的な感じでしたので、そういうことなのでしょう。

『産経』さんが引用なさっている「とても名講義でしたよ」は、川路との対談「鷗外先生の思出」から。ただ、このひと言はリップサービスのような気がします。本音としてはそれに続く部分の「しかしどうも「先生」といふ変な結ばりのために、どうも僕にはしつくりと打ちとけられないところがありま
001したなあ」の方が重要だと思われます。対談「鷗外先生の思出」では、「軍服着せれば鷗外だ事件」の顛末も語られており、またぞろ舌禍を起こしてはいかん、と、「とても名講義でしたよ」(笑)。前後の文脈から浮いています。とってつけたように。

さて、同展、今月30日まで。ぜひ足をお運び下さい。

ちなみに図録はこちら。880円でしたか。信州安曇野の碌山美術館さんで昨年開催された第113回碌山忌でも、関連行事としてのご講演「荻原守衛の彫刻を解剖する」をなさった布施英利氏の玉稿なども掲載されています。

【折々のことば・光太郎】

古今のよい作品に守られながら勉強するのが一番です。限界はひろく、思念はふかく、実技に猛進してください。


昭和22年(1947)11月17日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

西出は後に截金の分野で人間国宝となる人物。やはり美校の彫刻科出身でした。

光太郎は鷗外と異なり、教職には就きませんでした。二度ほどそういう話があったのですが、いずれも断っています。最初は欧米留学からの帰朝後、父・光雲により美校教授の椅子が用意されていましたが、蹴飛ばします。二度目は戦後、新しく開校した岩手県立美術工芸学校の名誉教授に、という懇願が為されましたが、これも固辞。ただし、戦後は同校はじめ盛岡や花巻などで、学生たち向けの講演を行うことはしばしばでした。

それを言うなら、彫刻でも詩でも、いわゆる「弟子」はとりませんでした。まぁ、アドバイス的なことをしたことはあって、それが拡大解釈されて「高村光太郎に師事」と喧伝されている人物はけっこういるのですが。

上記の西出に対してのひと言も、先輩からの温かい助言といった感じですね。

新刊です。

おいしいアンソロジー 喫茶店  少しだけ、私だけの時間

2024年5月11日 阿川佐和子 他著 大和書房(だいわ文庫) 定価800円+税

「喫茶店」アンソロジー。お気に入りの喫茶店で時間をつぶす贅沢、喫茶店での私の決まり事、ふと思い出すあの店構え、メニューなど。
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目次
 コーヒーとの長いつきあい 阿刀田高
 贅沢な空気感の薬効 資生堂パーラー 村松友視
 淡い連帯 平松洋子
 国立 ロージナ茶房の日替りコーヒー 山口瞳
 喫茶店とカフェ 林望
 愛媛県松山 喫茶の町 ぬくもり紀行 小川糸
 喫茶店にて 萩原朔太郎
 変わり喫茶 中島らも
 初体験モーニング・サービス 片岡義男
 珈琲の美しき香り 森村誠一
 ニューヨーク・大雪とドーナツ 江國香織
 しぶさわ 常盤新平
 大みそかはブルーエイトへ シソンヌ じろう
 カフェ・プランタン 森茉莉
 気だるい朝の豪華モーニングセット 椎名誠
 富士に就いて 太宰治
 コーヒー色の回想 赤川次郎
 コーヒー 外山滋比古
 コーヒー屋で馬に出会った朝の話 長田弘
 しるこ 芥川龍之介
 コーヒー五千円 片山廣子
 一杯のコーヒーから 向田邦子
 喫茶店人生 小田島雄志
 喫茶店学 −キサテノロジー 井上ひさし
 可否茶館 内田百閒
 カフェー 勝本清一郎
 懐かしの喫茶店 東海林さだお
 芝公園から銀座へ 佐藤春夫
 東京らしい喫茶店 南千住『カフェ・バッハ』 木村衣有子
 〈コーヒー道〉のウラおもて 安岡章太郎
 喫茶店で本を読んでいるかい 植草甚一
 ミラーボールナポリタン 爪切男
 ウィンナーコーヒー 星野博美
 珈琲店より 高村光太郎
 ひとり旅の要領 阿川佐和子
 甘話休題(抄) 古川緑波
 あの日、喫茶店での出来事 麻布競馬場
 わが新宿青春譜 五木寛之
 カフェー 吉田健一
 コーヒーがゆっくりと近づいてくる 赤瀬川原平

古今のカフェ、喫茶店にまつわるエッセイ等を集めたアンソロジー。光太郎や内田百閒、萩原朔太郎あたりが最も古い部類でしょうか。ご存命の方々の作品も数多く。

光太郎作品は明治43年(1910)の雑誌『趣味』に発表された「珈琲店より」。前年まで留学のため滞在していたパリでの思い出が語られています。ただ、どこまでが事実なのかわかりません。午前0時近く、オペラを見終わった後、オペラ座近くのブールバールを歩いていて、たまたま見かけた3人組のパリジェンヌが入っていった珈琲店(「カフエ」とルビが振られていますが、)に自分も入って女達と陽気な時間を過ごし(珈琲店といいつつ酒がメインの店でした)、そのうちの一人を「お持ち帰り」……。翌朝、さんざんに人種的劣等感などに打ちのめされるという内容です。

この文章、令和3年(2021)に刊行された同じ趣旨のアンソロジー『近代文学叢書Ⅲ すぽっとらいと 珈琲』にも掲載されました。

それを言えば、昭和16年(1941)10月、光太郎の親友だった作家・水野葉舟は『青年・女子文章講義録 第6巻 名家の文章集』という書籍の「名家の書いた小品」というコーナーにこの文章を掲載しました。太平洋戦争開戦直前のこの時期、「これ、マズいでしょ」という感じなのですが(笑)。

閑話休題、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

なやみのあるのは人生の常でむしろその為に人間は進むのですから、なやむ時は正面からなやみ、そして勇気を以てそれをのり超える外はありません。いい加減にごまかしてなやみを回避してゐる人には進歩はありません。


昭和22年(1947)11月15日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎65歳

さまざまなつまづきを経験し、悩みに悩んできた光太郎ならではの言です。それにしても、実にポジティブですね。

新刊です。

自分の人生に出会うために必要ないくつかのこと

2024年5月5日 若松英輔 著 西淑 画 亜紀書房 定価1,600円+税

生きること、
働くこと、
愛すること。
自分を支える言葉を探す27の言葉の旅。

〈日経新聞で話題の連載「言葉のちから」待望の書籍化〉

古今東西の名著の中には、生きるための知恵、働くうえでのヒントが詰まっている。
NHK「100分de名著」でお馴染みの批評家による、自分の本当のおもいを見つけるための言葉。
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目次
 この本の用い方――はじめに  
 1 言葉の重みを感じとる……神谷美恵子『生きがいについて』
 2 事実と真実を感じわける……遠藤周作『イエスの生涯』『深い河』
 3 沈黙の世界、沈黙のちから……武者小路実篤「沈黙の世界」
 4 世界と向き合うための三つのおきて……柳宗悦「茶道を想う」とノヴァーリス「花粉」
 5 叡知を宿した人々……ユングとメーテルリンク
 6 語られざるおもい……司馬遼太郎と太宰治
 7 美とは己に出会う扉である……岡本太郎のピカソ論
 8 書くとは時に止まれと呼びかけることである……夏目漱石と鷲巣繁男
 9 心だけでなく、情[こころ]を生きる……ピカート『沈黙の世界』
 10 人生のモチーフ……小林秀雄『近代絵画』
 11 書くとはおもいを手放すことである……高村光太郎と内村鑑三
 12 人生はその人の前にだけ開かれた一すじの道である……アラン『幸福論』
 13 経験とは自己に出会い直すことである……ヴェーユ『重力と恩寵』
 14 ほんとうの私であるための根本原理……志村ふくみ『一色一生』
 15 思考の力から思索のちからへ……ショーペンハウアーの読書論
 16 観るとは観えつつあることである……今西錦司の自然観
 17 本質を問う生き方……辰巳芳子さんとの対話と『二宮翁夜話』
 18 ことばは発せられた場所に届く……河合隼雄と貝塚茂樹
 19 賢者のあやまり……湯川秀樹『天才の世界』
 20 三つの「しるし」を感じとる……吉田兼好『徒然草』
 21 力の世界から、ちからの世界へ……吉本隆明『詩とはなにか』
 22 書くことによって人は己れに出会う……ヴァレリーの『文学論』
 23 念いを深める……ティク・ナット・ハン『沈黙』
 24 運命に出会うために考えを「白く」する……高田博厚とロマン・ロラン
 25 着手するという最大の困難……カール・ヒルティ『幸福論』
 26 語り得ないこと……リルケ『若き詩人への手紙』
 27 沈黙の意味……師・井上洋治と良寛
 あとがき
 ブックリスト

詩人の若松英輔氏が『日本経済新聞』さんに連載されていた「言葉のちから」の書籍化です。「11 書くとはおもいを手放すことである……高村光太郎と内村鑑三」は、昨年6月10日の掲載でした。そちらで拝読したので、書籍としての購入はしなくてもいいかと思っていたのですが、目次を見ると高田博厚、ロマン・ロラン、吉本隆明、武者小路実篤、柳宗悦ら、光太郎と関わる人物の名が並んでいて、結局買ってしまいました(笑)。

皆様もぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

それではこちらの畑につくつてゐるものを書きならべてみませう。大豆、人参、アヅキ、ジヤガイモ(紅丸とスノーフレイク)、ネギ、玉ネギ、南瓜(四種類)、西瓜(ヤマト)、ナス(三種類)、キヤベツ、メキヤベツ、トマト(赤と黄)、キウリ(節成、長)、唐ガラシ、ピーマン、小松菜、キサラギ菜、セリフオン、パーセリ、ニラ、ニンニク、トウモロコシ、白菜、チサ、砂糖大根、ゴマ、ヱン豆、インギン、蕪、十六ササギ、ハウレン草、大根、(ネリマ、ミノワセ、シヨウゴヰン、ハウレウ、青首)など、以上の様です。十一月に林檎の木を植ヱます。


昭和22年(1947)8月28日 高村美津枝宛書簡より 光太郎65歳
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蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の畑で作っていた農作物を列挙しています。これらを一度に栽培していたわけではなく、時期をずらしながら、あくまで自給のためそれぞれを少量ずつ育てていました。ただ、中にはものにならなかった作物も含まれ、虚偽とは云いませんが、少し「盛って」驚かせてやろうという意図が垣間見えます。

高村美津枝さんは光太郎令姪。ご健在です。










一昨日の第68回連翹忌席上にて、参会の方々が「お土産です」的に書籍等を下さいました。

まず一般社団法人日本詩人クラブの宮尾壽里子氏から同会刊行の『評論・エッセイ 詩界論叢2023』通巻第1集創刊号。500ページ近い厚冊です。
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公式サイトには目次の詳細が出ておらず、こちらの検索網に引っかかりませんでしたが、宮尾氏が「愛と芸術に生きようとした女性~智恵子の場合~『智恵子抄』「智恵子の半生」より」と題する論考を寄せていらっしゃいます。

目次画像は以下の通り。
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ご入用の方、上記リンクをご参照下さい。Amazonさん等でも取り扱いがあります。

続いて当方も加入している高村光太郎研究会ご所属の佐藤浩美氏から文芸同人誌『四人』第107号。
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佐藤氏、光太郎の親友だった作家・水野葉舟の小品「かたくり」」をご紹介なさっています。
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奥付画像を載せておきます。
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高村光太郎研究会からは『高村光太郎研究(45)』。
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昨秋行われた研究発表会、第66回「高村光太郎研究会」での発表を元に、当会顧問であらせられた北川太一先生のご子息・北川光彦氏が「西洋・東洋・時代を超えて 高村光太郎・智恵子が求めたもの」を、武蔵野美術大学さんの教授・前田恭二氏で「新出「手」書簡の後景――米原雲海と口村佶郎」。それから当方も「智恵子、新たな横顔」を寄稿しました。

さらに当方は、この1年間で新たに見つけた『高村光太郎全集』未収の光太郎文筆作品の集成「光太郎遺珠⑱」、昨年1年間の光太郎智恵子、光雲に関わる「高村光太郎没後年譜」も。そして主宰の野末明氏による「高村光太郎文献目録」、「研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき」。

こちらも奥付画像を載せておきます。
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もう1冊、光太郎終焉の地・中野の中西利雄アトリエ保存運動にからんで、文治堂書店主・勝畑耕一氏が『中野・中西家と光太郎』という書籍を上梓なさいました。当方、「監修」ということになっております。
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こちらについてはまた改めて詳細をご紹介いたします。

以上、いただきもの等。

001逆に当会から参会の皆様にお配りしましたのが、『光太郎資料61』。北川太一先生が発行されていたものの名跡をお譲りいただき、当会にて年2回発行しております。印刷のみ印刷屋さんに頼み、丁合、綴じ込みは手作業の手作りの冊子です。

目次
 「光太郎遺珠」から 第二十五回 書(二)
 光太郎回想・訪問記  高村光太郎と出会った頃 田口弘
 光雲談話筆記集成 牙彫の趣味/「さび」と渋みと
 昔の絵葉書で巡る光太郎紀行  犬吠埼(千葉県)その一
 音楽・レコードに見る光太郎
  箏曲「千鳥と遊ぶ智恵子」/「地上のモナリザ」
 高村光太郎初出索引
 編集後記

ご入用の方はコメント欄等から当方まで。

書籍類等はこんなところです。

他に、やはり第68回連翹忌ご参会の方々のうち、わざわざ「お土産です」と食品類をお持ち下さったり、「4月2日はお世話になります」と直前に宅配便でお送り下さったりという方が多数いらっしゃいました。多謝。

和洋のスイーツやら中華まんやら漬物やら珈琲/紅茶やら(笑)。2枚目画像は宅配便で宮城県の「女川光太郎の会」さんから届いた笹蒲鉾です。
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妻曰く「実にありがたいんだけど、あんた、いったい何者だと思われてるの?」(笑)。

何者だと思われているんでしょうかね?(笑)。

【折々のことば・光太郎】

「智恵子抄」は今でもかなり読みたがつてゐる人があるやうで、時々人から質問される事がありますから、今日出版するのも無意味ではないやうに思はれます。


昭和22年(1947)4月11日 鎌田敬止宛書簡より

a詩集『智恵子抄』は太平洋戦争開戦直前の昭和16年(1941)8月に龍星閣から刊行され、戦時にもかかわらず昭和19年(1944)の13刷まで増刷されました。その後、戦争の影響で龍星閣は休業。戦後になると店頭からは『智恵子抄』が消えてしまいました。

そこで休業中の龍星閣に代わって、白玉書房の鎌田が『智恵子抄』復刊を企図し、龍星閣の澤田伊四郎から許諾を得たのでお願いします、的な申し入れを光太郎に。その返答の一部です。

そして白玉書房版『智恵子抄』が、この年11月に刊行されました。ところが刊行されてから、澤田の方では「許諾した覚えはない」。この時期、この手のトラブルがいろいろありました。

本日は栃木県で発行されている同人詩誌のご紹介。

詩誌 馴鹿 第80号記念号

2024年2月29日 頒価500円

目次
 特集Ⅰ・ゲスト作品
  かぎりないもの 菊地雪渓氏
  詩の宿題 久保田奈々子氏
  詩は間違った表現なのだ 小久保吉雄氏
  わたしの夢 杉本真維子氏
  短歌 磯笛 野上れい氏
  ボロ 深津朝雄氏
 同人作品
  公孫樹 吹木文音
  あはれちちのみの父よ、あはれははのそはの母よ 丕内七武
  橋 小太刀きみこ
  座ってる 矢口志津江
  黒部 三森弘之
  遊園地にて 大野敏
 特集Ⅱ・「心に残るフレーズ」
  矢口志津江 吹木文音 小森谷章 三森弘之 小太刀きみこ 和氣勇雄 大野敏
 後記

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「特集Ⅱ・「心に残るフレーズ」」の中で、連翹忌の集い等にもご参加下さっている同誌同人・吹木文音氏が光太郎詩「山麓の二人」(昭和13年=1938)から象徴的なリフレイン『わたしもうぢき駄目になる』について書かれています。本冊、氏から頂きました。多謝。

   山麓の二人
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 二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
 険しく八月の頭上の空に目をみはり
 裾野とほく靡なびいて波うち
 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる
 半ば狂へる妻は草を藉(し)いて坐し
 わたくしの手に重くもたれて
 泣きやまぬ童女のやうに慟哭する
 ――わたしもうぢき駄目になる
 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて
 のがれる途無き魂との別離
 その不可抗の予感
 ――わたしもうぢき駄目になる
 涙にぬれた手に山風が冷たく触れる
 わたくしは黙つて妻の姿に見入る
 意識の境から最後にふり返つて
 わたくしに縋る
 この妻をとりもどすすべが今は世に無い
 わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
 闃(げき)として二人をつつむこの天地と一つになつた。

抜粋しますと「私が、この哀切極まりないフレーズに惹かれる理由は、絶望の向こうに広がる景色を望むから。そして、人の営みを超越するおおいなる自然に同化し、ちっぽけな自分を恕(ゆる)す心持ちになれるから。」なるほど。

詩の背景を少し説明いたします。

まず、描かれているのは、昭和8年(1933)8月末の出来事。前年に睡眠薬アダリンの大量摂取で自殺未遂を起こした智恵子の心の病を少しでも快方に向かわせようと、光太郎は智恵子を連れて東北、北関東の温泉巡りに出ました(右上画像はその一環としての那須塩原温泉でのショット)。その直前にはそれまで無視してきた入籍を果たします。万が一、自分が先に逝くことになってしまったら、「内縁の妻」では智恵子に遺産相続の権利がないと考えてのことでした。

智恵子実家・長沼家からの除籍の手続きも必要だったのでしょうか、智恵子故郷の福島県安達郡油井村(現・二本松市)にも立ち寄ります。その足で向かった最初の湯治先が裏磐梯川上温泉。この詩は檜原湖、五色沼などが広がる裏磐梯高原での一コマを謳っています。

詩の執筆は約5年後の昭和13年(1938)6月。このタイムラグの意味するところは、当方、戦争との関わりだろうとふんでいます。

終末部分の「わたくしの心」と「一つになつた」という「二人をつつむこの天地」がどうなっていたかというと、智恵子の心の病が誰の目にも顕在化した昭和6年(1931)には満州事変が勃発、智恵子が自殺未遂を起こした翌7年(1932)には五・一五事件及び傀儡国家の満州国建国、光太郎が智恵子を入籍し、裏磐梯をはじめとする湯治の旅に出た同8年(1933)に日本は国際連盟脱退、ドイツではヒトラー政権樹立、智恵子がゼームス坂病院に入院していた同11年(1936)で二・二六事件。そして翌12年(1937)には遂に日中戦争開戦。さらにこの詩が書かれた13年(1938)は国家総動員法が施行されています。

急坂を転げ落ちるように悪化していった智恵子の病状と軌を一にするように、日本も泥沼の戦時体制へと突き進んでいきました。

そして光太郎も。「芸術家あるある」の俗世間とは極力交渉を絶つ生活が、智恵子を追い詰めたという反省もあって、光太郎は自ら積極的に社会と関わる方に180度方向転換します。その社会の方が、先に見たようにおかしな方向に進んでいたのが光太郎にとっての悲劇でした。この頃から、翼賛詩の乱発が始まります。「山麓の二人」が書かれた昭和13年(1938)6月の前月、5月には「地理の書」という詩を書きました。日本列島の美しさを讃える内容で直接的に「聖戦完遂」などとは謳っていませんが、のちのちまで各種アンソロジー等に収録され続け、もてはやされた作品です。
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さらに8月には同じ趣旨の「日本の秋」、9月には「吾が同胞」、12月には「東亜のあけぼの」(後に「その時朝は来る」と改題)、「群長訓練」、「新しき御慶」……。

一方では「山麓の二人」や「レモン哀歌」(昭和14年=1939)など『智恵子抄』所収の珠玉の詩篇も書き続けています。まさに「わたくしの心はこの時二つに裂けて」だったわけで、光太郎もそれを自覚していたのだと思います。

智恵子が言った「わたしもうぢき駄目になる」。それまである意味一心同体のように歩みを共にしてきた二人のうちの一方が「駄目になる」ことは、もう一方も「駄目になる」ことにつながりはしないでしょうか。智恵子にとっての「駄目になる」は「夢幻界の住人になる」ことでしたが、光太郎も「大東亜共栄圏の建設」などという「夢幻」に踊らされた、否、積極的に加担してしまったという意味では、「駄目にな」ってしまったと云わざるを得ません。吹木氏のおっしゃる通り「哀切極まりないフレーズ」と、つくづく思います。

吹木氏の稿、こう結ばれています。

人間の愛や生を言葉で刻み、誇らかに命を謳い上げる「詩の力」にもまた、魂を揺さぶられるのだ。

同感です。

ところで『馴鹿』。目次に目を通して「ありゃま」でした。巻頭の「特集Ⅰ・ゲスト作品」で知った顔ぶれがずらりと並んでいまして。

001まず菊地雪渓氏。令和元年(2019)の第41回東京書作展で内閣総理大臣賞に輝かれた書家の方ですが、自作の詩を寄稿なさっています。そういえば詩も作る方だったっけ、でした。

続いて久保田奈々子氏。「詩」で「奈々子」と云えば、勘の鋭い方はそれだけでお判りですね、詩人の故・吉野弘氏のご息女にして吉野氏の詩「奈々子に」のモデルです。

さらに杉本真維子氏。昨年、詩集『皆神山』で萩原朔太郎賞を受賞なさいました。思潮社さんから刊行されている『現代詩手帖』の今月号は杉本氏の特集が組まれています。

菊地氏はコロナ禍前からでしたが、久保田氏と杉本氏は昨年から、当会主催の連翹忌の集いにご参加いただいております。先述の吹木氏も。そんな関係で当方も知る面々の玉稿が集結したというわけです。

光太郎を一つの機縁に、このように人々の輪が広がって行くこと、望外の喜びです。

さて、『馴鹿』、奥付画像を貼っておきます。ご興味おありの方、そちらまで。
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【折々のことば・光太郎】

この山の中にゐても外の事は何も不便を感じませんが古美術などに接する機会の無い事だけがもの足りません。花巻あたりに小美術館でもあるといいのですが。
昭和22年(1947)1月12日 西出大三宛書簡より 光太郎65歳

光太郎の「美」への渇仰は、もはや「業(ごう)」のようなものだったのかな、という気がします。

新聞記事から、またまた紹介すべき事項が溜まってまいりましたので、2件まとめて。

まずは『毎日新聞』さん。当会顧問であらせられた故・北川太一先生の盟友にして、この国で初めて光太郎を正面から捉えた評論集を刊行した、故・吉本隆明氏がらみです。

エッセー『隆明だもの』刊行 漫画家・ハルノ宵子さん 人間・吉本隆明、衝撃の実像

012 漫画家のハルノ宵子、といえば戦後を代表する思想家・吉本隆明(たかあき)の長女、多子(さわこ)さんのペンネームだが、その人が昨年末にエッセー『隆明(りゅうめい)だもの』(晶文社)を出した。驚くのは、これが知られざる吉本家の内情を明かした一種の暴露本なのである。
 「あとがき」で「吉本主義者の方々の、幻想粉砕してますね」と自ら評し、帯に「吉本家は、薄氷を踏むような“家族”だった」ともある。つづられる吉本と妻の和子(ともに2012年死去)の夫妻間の激しい葛藤、この両親と、著者および妹で作家の吉本ばななさんとの親子間の複雑な心理劇は、全共闘世代の「教祖」といわれ、絶大な影響力を持った吉本の実像として確かにショッキングだ。
  晩年に取材する機会を持った記者もそうだが、吉本と関わった多くの人々が、論争的な著作からすると意外な親しみやすい人柄にひかれた。今でいう「略奪愛」で結ばれた妻と、2人の娘に恵まれた家庭は、はた目には仲むつまじいものとしか見えなかった。
 ところが、本書によると吉本自身が「だいたい10年に1度」「不安定で、攻撃的なサイクル」に入る人であり、和子は「家族皆が振り回された」激しい性格だったという。「父(吉本)が10年に1度位荒れるのも、外的な要因に加えて、家がまた緊張と譲歩を強いられ、無条件に癒しをもたらす場ではなかった」からだとも書いてある。
013 この点について聞くと、ハルノさんは「家では母がすごい力を持っていましたからね。洗濯や料理も進んでやった父ですが、母の気持ちを真っ向から受け止めたり、包容したりする力はない人でした。母は心を支えてほしかったのだと思いますが」よと話す。
 本書は、刊行継続中の『吉本隆明全集』(全38巻・別巻1)の月報に掲載された文章を軸に、ばななさんとの姉妹対談、編集者によるインタビューで構成されている。対談でもハルノさんは「本当いうと、彼(吉本)は結婚すべき人格ではないような気がするんですよね。つまり、妻を支えてとか、そういう意味ではまったく期待できないですね」と手厳しく語っている。
 ハルノさんは1980年代に漫画家としてデビューするものの、妹が独立すると、母が体調を崩したこともあり、やがて家事や、多忙な父のマネジャー役を引き受けざるを得なくなった。しばしば両親の争いの板挟みにもなった。対談でも母の「怖さ」が繰り返し話題になるが、何かにつけてハルノさんを頼りにした母との関係は「共依存だった」とも表現する。
 あまりに個性的な 家族の中で一人、犠牲を強いられたともいえるが、本のトーンは決して暗くない。ユーモアを含んだ柔らかい文体や自作のイラストの効果もあるが、著者の冷静な批評的まなざしに負うところが大きい。そこに自然な愛情や敬意もにじみ出る。「結果的に、家に縛られているうちに面白いものを見せてもらったということになりますかね。状況を楽しむしかなかったですから」と笑顔で語る。
014 父母の葛藤は「一つの家の中に2人の表現者がいる難しさ」だったのではないかという。もともと小説を書いていて結婚後に筆を断った和子は、晩年に俳句を始めている。この見方は、詩人・彫刻家の高村光太郎が画家の智恵子と築いた家庭内の男女の緊張に注目した吉本の評論『高村光太郎』(57年)を思い起こさせ、興味深い。
 他にも、吉本が96年に伊豆の海で遊泳中に溺れた事件を境に「眼(め)も脚も急激に悪くなって」いく様子など、家族でなければ知り得ない生々しい証言は多い。亡くなる4、5カ月前、自宅で大きな音がしたので確かめると、既に視力や運動能力が衰えた身なのに外出の服装をして「玄関の石のたたきに父が転がっていた」という場面に、胸をつかれる読者もいるだろう。
 書名のいわれを尋ねると、「(書家・詩人の相田みつをの)『にんげんだもの』から」。なるほど「ヨシモトリュウメイも一人の人間だった」ということか。吉本の等身大の姿を語ってやまないこの本は、今後の「吉本伝」作家にとって必読の、また頼もしい文献となるに違いない。


『隆明だもの』、店頭で手にとって立ち読みしたのですが、直接光太郎智恵子に触れている部分は見あたりませんでした。まぁ立ち読みであって精読はしていませんから見落としがあるかも知れませんが。

しかし吉本氏夫妻の関係性が光太郎智恵子のそれを彷彿とさせられる、という記者氏の感想。なるほどと思いました。夫婦同業の苦労は、小説『智恵子飛ぶ』を書かれた津村節子氏などもたびたび言及されており(夫は故・吉村昭氏)、その仕事内容がクリエイティブであればあるほど、そうした傾向が強くなるんだろうなと思います。

続いて『山形新聞』さん。彼の地ご出身で、亡きお父さまが光太郎と交流がおありだった劇作家・女優の渡辺えりさんの連載エッセイです。

渡辺えりのちょっとブレーク (224)希望の年を願って

 新しい年が明けた。しかし、能登半島地震の被害はすさまじく、羽田の飛行機事故も痛ましく、波乱の年明けとなった。山形の皆さまは大丈夫だったでしょうか?
 高齢者の避難が困難な現実を目の当たりにし、日頃からご近所の様子などが分かるよう、交流を欠かさないことが大切だと感じた。私が子ども時代の山形市村木沢を思い出す。毎日、いろり端で青菜漬けをつまみながら緑茶をすすり、よもやま話に花を咲かせていた年配の方たちの笑顔が浮かぶ。避難の際の高齢者の保護を考えなくてはいけない。
 年末はロックライブで叫び、31日の大みそかは新宿・京王プラザホテルの宿泊客限定コンサートでシャンソンを歌った。そして今月は、私が演劇の舞台を創作して50年になる記念に劇中歌の中からえりすぐった20曲をレコーディングしている。年末年始は「歌」の仕事が続いた。
 また、うれしいニュースがある。今年5月に山形公演が決まったことだ。コロナ禍に書いた2人芝居を大幅に直し、高畑淳子さんと共演する。昨年の2本立て公演「ガラスの動物園」「消えなさいローラ」と同様に私が演出する。今回は作品も私が書く。コントラバスとバンドネオンの生演奏に加え、歌も披露する。1時間40分の短い作品だ。高畑さんと私は同じ年。ジャンルの違う演劇を続けてきた2人が、ユーモアたっぷりにさまざまな人生を演じる。山形市のやまぎん県民ホールで上演するので、ぜひいらしてください。
 そして今、人形劇「星の王子さま」の脚本を執筆している。結城座という江戸時代から続く人形劇の劇団の新作を依頼された。結城座さんとのコラボは今回で3作目。今年9月の公演だが、オリジナルの人形も制作するため、1月末が締め切りなのだ。
 私ならではの「星の王子さま」を作ろうと考えている。あまりに有名な作品だが、平和を願いながら星空の中で行方不明となったサンテグジュペリの精神を大切に脚色していくつもりだ。
 コロナ禍で中止になっていた学校公演も始まる。山形でも上演させていただきたい作品だ。高村光太郎もファンだった結城座。人形を使いながら、せりふをしゃべる技術の高さを見てほしい。世界にない手法の人形劇だ。
 2月4日は、天童市民文化会館でコンサート「世界は日の出を待っている~渡辺えり 平和への歌声」を開催する。地元で長年活躍しているビッグバンドからの依頼で歌う。「世界は日の出を待っている」は、関東大震災が起きた1923(大正12)年に作られた曲で、春の訪れとともに世界平和を祈っている。同市制施行65周年記念のコンサートとなる。「久しぶりに温泉に入れるのでは?」と期待している。
 そして、仕事で年末年始に会えなかった母ちゃんとも会えるはず。5月17日は父の命日。山形公演の準備で命日に故郷に帰れるのも、皆さまのおかげと父の愛情だと思っている。
 山形の皆さまにとって今年が光に満ちた希望の年でありますように。お互いに持ちつ持たれつ、支え合って生きていきましょう。今年もよろしくお願いします。(俳優・劇作家、山形市出身)
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あいかわらずバイタリティーにあふれていらっしゃいます(笑)。

今年は「江戸糸あやつり人形芝居 結城座」さんとのお仕事もなさるそうで、「高村光太郎もファンだった結城座」とのご紹介。

ファンだったかどうか当方は存じませんが、確かに光太郎、詩の中で座長の九代目結城孫三郎を登場させています。昭和5年(1930)、雑誌『詩・現実』に発表した「のつぽの奴は黙つてゐる」。特異な詩です。

    のつぽの奴は黙つてゐる

『舞台が遠くてきこえませんな。あの親爺、今日が一生のクライマツクスといふ奴ですな。正三位でしたかな、帝室技藝員で、名誉教授で、金は割かた持つてない相ですが、何しろ佛師屋の職人にしちやあ出世したもんですな。今夜にしたつて、これでお歴々が五六百は来てるでせうな。喜壽の祝なんて冥加な奴ですよ。運がいいんですな、あの頃のあいつの同僚はみんな死んぢまつたぢやありませんか。親爺のうしろに並んでゐるのは何ですかな。へえ、あれが息子達ですか、四十面を下げてるぢやありませんか。何をしてるんでせう。へえ、やつぱり彫刻。ちつとも聞きませんな。なる程、いろんな事をやるのがいけませんな。万能足りて一心足らずてえ奴ですな。いい気な世間見ずな奴でせう。さういへば親爺にちつとも似てませんな。いやにのつぽな貧相な奴ですな。名人二代無し、とはよく言つたもんですな。やれやれ、式は済みましたか。ははあ、今度の余興は、結城孫三郎の人形に、姐さん連の踊ですか。少し前へ出ませうよ。』

『皆さん、食堂をひらきます。』

滿堂の禿あたまと銀器とオールバツクとギヤマンと丸髷と香水と七三と薔薇の花と。
午後九時のニツポン ロココ格天井(がうてんじやう)の食慾。
ステユワードの一本の指、サーヴイスの爆音。
もうもうたるアルコホルの霧。
途方もなく長いスピーチ、スピーチ、スピーチ、スピーチ。
老いたる涙。
萬歳。
痲痺に瀕した儀禮の崩壊、隊伍の崩壊、好意の崩壊、世話人同士の我慢の崩壊。

何がをかしい、尻尾がをかしい。何が残る、怒が残る。
腹をきめて時代の曝し者になつたのつぽの奴は黙つてゐる。
往来に立つて夜更けの大熊星を見てゐる。
別の事を考へてゐる。

詩は昭和5年(1930)の作ですが、語られている場面はそれより2年前の昭和3年(1928)4月16日、東京会館で開催された、父・光雲の喜寿記念祝賀会です。

昨年、雑誌『美術新論』第3巻第5号(昭和3年=1928 5月)にその際の写真が掲載されているのを見つけ、智恵子も写っていたことに仰天しました。結婚後の智恵子が写った写真は10葉たらずしか確認できていませんでしたので。
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2週間ほど後に、渡辺さんとお会いする予定がありますので、結城座さんのお話を伺っておこうと思います。

明日以降、これも溜まってしまった新刊書籍等を紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

彫刻家にとつては何といつても彫刻材を入手した時ほど心からうれしい事はありません。実に愉快に存じます。


昭和21年(1946)7月29日 東正巳宛書簡より 光太郎64歳

東正巳は三重県在住だった詩人、編集者。光太郎は東を通じて西村之雄という人物から椿の木材を入手し、その礼状の一節です。しかし、結局、花巻郊外旧太田村での7年間で、作品として発表した彫刻は一点も作られませんでした。

購入しようかするまいか迷ったのですが、結局、買ってしまいました。帯に光太郎の名を印刷されてしまいましたので(笑)。

大作家でも口はすべる 文豪の本音・失言・暴言集

2024年1月22日 彩図社文芸部編 彩図社 定価1,300円+税

 本書は、作家たちの本音や失言、暴言を集めたアンソロジーです。名作を生み出し、歴史に名を残した作家といえども、言葉選びを誤ることもしばしば。むしろ、必要以上に周囲を巻き込み、世間を騒がす問題に発展することもありました。
 師匠である佐藤春夫や井伏鱒二を作品内で皮肉って、大叱責を受けた太宰治。こき下ろした作家の弟子から決闘を申し込まれた、坂口安吾。雑誌の後記で、原稿料や各号の売れ行き、もうけの有無まで公開し続けた菊池寛。新聞社入社にあたり、教師時代の不満を新聞紙面にぶちまけた夏目漱石。「好きな人の夫になれないなら豚になる」と友人に漏らした、若き日の谷崎潤一郎……。
 収録したのは、明治から昭和にかけて活躍した、誰もが知る大作家の逸話。問題発言を含む随筆や手紙、日記、知人らの回想文などから、作家たちの言動を探りました。大作家による、人間味あふれるぶっ飛び発言の数々。楽しんで読んでいただけると、うれしく思います。
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[目次]
 はじめに
 第一章 口がすべって大目玉をくらう
  一、佐藤春夫を皮肉って大目玉をくらう太宰治
  二、井伏鱒二を怒らせて平身低頭の太宰治
  三、兄を呆れさせて恐縮する太宰治
 第二章 酒が入ってうっかり失言
  一、酔ってついつい暴言が出る中原中也
  二、坂口安吾の破天荒な飲みっぷり
  三、酒癖が悪すぎて顰蹙を買いまくる漱石の弟子
  四、高村光太郎、酔ったせいか森鷗外を怒らせる
 第三章 原稿をめぐるいざこざ
  一、編集者と作家の攻防
  二、文芸の商業化に苦言を呈する佐藤春夫
  三、作家兼編集者たちの驚きの言動
 第四章 愚痴や文句が喧嘩に発展
  一、漱石の愚痴と癇癪
  二、夏目漱石対自然主義作家たち
  三、同業者をこき下ろす作家たち
  四、菊池寛に企画をパクられたと怒る北原白秋
 第五章 性愛がらみの問題発言
  一、谷崎潤一郎の自由過ぎる性愛
  二、軽はずみな発言を連発する芥川龍之介
  三、遊びのつもりが痛い目に合う石川啄木
 引用出典・参考文献

解説が長々書いてあるわけではなく、作家本人の作を抜粋で並べたいわゆるアンソロジーです。

光太郎に関しては、大正6年(1917)の「軍服着せれば鷗外だ事件」。明治30年代(1900年前後)、光太郎が東京美術学校在学中に美学の講師として同校の教壇に立ち、その頃から権威的な態度に反発心を抱いていた鷗外のことを、鷗外の居ない酒の席で茶化したというものです。いつの時代にもそういうことをチクる奴はいるもので、それが鷗外の耳に入り、鷗外激怒(笑)、光太郎を呼びつけて説教という流れです。

引用されているのはこの件に触れた、鷗外の「観潮楼閑話」二篇と、昭和13年(1938)に光太郎が川路柳虹と行った対談「鷗外先生の思出」の一節です。

一昨年、文京区立森鷗外記念館さんで開催された特別展「鷗外遺産~直筆原稿が伝える心の軌跡」の際には、鷗外に呼びつけられる前に光太郎が鷗外に宛てた新発見の書簡が展示されました。これも収録されていれば完璧でしたが、さすがにそこまでは手が廻らなかったようです。

他の「文豪」たちのクズっぷりもなかなか笑えます。そうかと思うと「いやいや、この発言はもっともだ」というものもあったりです。人間味溢れるこうしたエピソードに触れることで、彼らがより身近に感じられるのではないでしょうか。

ご興味おありの方、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

草野心平君が歴程社といふ書房を始め、小生の「猛獣篇」を一冊として出したいといつて来ました。これは草野君のこと故承諾する気です。


昭和21年(1946)7月6日 宮崎稔宛書簡より 光太郎64歳

中国から無事帰還した当会の祖・草野心平。早速、出版に情熱を燃やしていました。連作詩「猛獣篇」を一冊にまとめるという構想は戦前からありましたし、この書簡にあるように戦後にも持ち上がったのですが、結局実現したのは光太郎存命中ではなく、没後の昭和37年(1962)でした。

新刊です。

ロゴスと巻貝

2023年12月27日 小津夜景著 アノニマ・スタジオ刊 定価1,800円+税

注目の俳人、小津夜景さんが綴る人生と本の記憶
山本貴光さん(文筆家・ゲーム作家)推薦
 細切れに、駆け足で、何度でも、這うように、本がなくても、わからなくてもーー読書とはこんなにも自由なのですね、小津さん
 
注目の俳人小津夜景さんは、選び取る言葉の瑞々しさやその博識さが魅力。本書では、これまでの人生と本の記憶を、芳醇な言葉の群で紡ぎ合わせる。過去と現在、本と日常、本の読み方と人との交際など、ざっくばらんに綴った40篇。
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目次
 読書というもの014
 それは音楽から始まった
 握りしめたてのひらには
 あなたまかせ選書術
 風が吹けば、ひとたまりもない
 ラプソディ・イン・ユメハカレノヲ
 速読の風景
 図書館を始める
 毒キノコをめぐる研究
 事典の歩き方
 『智恵子抄』の影と光
 奇人たちの解放区
 音響計測者(フォノメトログラフィスト)の午後
 再読主義そして遅読派
 名文暮らし
 接続詞の効用
 恋とつるばら
 戦争と平和がもたらすもの
 全集についてわたしが語れる二、三の事柄
 アスタルテ書房の本棚
 ブラジルから来た遺骨拾い013
 残り香としての女たち
 文字の生態系
 明るい未来が待っている
 自伝的虚構という手法
 ゆったりのための獣道
 翻訳と意識
 空気愛好家の生活と意見
 わたしの日本語
 ブルバキ派の衣装哲学
 わたしは驢馬に乗って句集をうりにゆきたい
 そういえばの糸口
 月が地上にいたころ
 存在という名の軽い膜
 プリンキピア日和
 軽やかな人生
 料理は発明である
 クラゲの廃墟
 人間の終わる日
 本当に長い時間
 梨と桃の形をした日曜日のあとがき
 引用書籍一覧

小津夜景氏という方、寡聞にして存じませんでしたが、注目の女流俳人だとのことです。いわゆる結社等には所属しない立場でやられているそうで、へそ曲がりの当方としてはシンパシーを感じます(笑)。

その小沢氏のエッセイ集ですが、目次にある通り「『智恵子抄』の影と光」という項を含みます。『智恵子抄』との出会い、その後、そして現在の『智恵子抄』とご自身、といった感じです。

出会いは意外なところからだったそうです。氏が小学6年生の折、当時ファンだったチェッカーズさん関連の書籍を読まれていて、その中にあったメンバーの武内享氏のインタビューで武内氏が愛読書として『智恵子抄』をあげられていたこと。それを読んでいたかたわらにお母さまがいらしたそうで、

「ねえ、おかあさん」
「なに」
「高村光太郎の『智恵子抄』って知ってる?」
「本棚にあるわよ」
 なんと。


素晴らしいお母さまですね。ここで「誰、それ?」「聞いたことない」となっていたら、話は終わってしまったかもしれないわけで。

そして小6当時の小津氏も素晴らしい。「知らない漢字だらけ」であったにもかかわらず、「辞書を引き、一字一句を拾うようにして」読まれたそうです。そして「かくして『智恵子抄』は自分にとって特別な詩集となった」とのこと。

それにしてもチェッカーズのメンバーの方が『智恵子抄』を愛読書と答えて下さっていたことは存じませんでした。沢田研二さん山口百恵さんなど、芸能界にそういう方は結構いらっしゃいますが。それから小津氏のエッセイでこれも初めて知ったのですが、かの「ドラえもん」で、のび太のパパが若い頃、ママへのラブレターに『智恵子抄』所収の「郊外の人に」(大正元年=1912)を綴ったというエピソードがあったそうです。

しかし小津氏、こうも述べられています。

とはいえ、告白しておいたほうがいいだろう。こうまでして読みはしたものの、わたしは一度たりとも『智恵子抄』をいいと思ったことがないってことを。もっと率直にいえば大嫌いである。

「あ゛?」と思いました。ここから先、いわゆるジェンダー論者の方々のように、男尊女卑の権化光太郎、的なディスりが始まるのか? と。

しかしさにあらずでした。「レモン哀歌」(昭和14年=1939)などを筆頭に、素晴らしい作品群であることは認めつつも、ある種の信用できなさが感じられる、というのです。

ある意味、妥当な見解と思われます。

「レモン哀歌」は宮沢賢治の「永訣の朝」などとの類似点が夙に指摘されてきました。光太郎は智恵子、賢治は妹のトシと、それぞれ最愛の大事な人を亡くした慟哭が謳われている点等々。しかし、そのスタンスはやはり異なりますね。「永訣の朝」はトシを失った悲しみがとにかくこれでもか、これでもかとダダ漏れになっている状態ですが、「レモン哀歌」は、それがいいか悪いかは別として、一つ高い次元からの視点で智恵子の最期を謳っているように感じます。「もっと泣けよ、喚けよ、智恵子が死んだんだぞ」と突っ込みたくなるような。

その理由としては、いろいろ考えられます。「レモン哀歌」執筆が智恵子の死の約4ヶ月後であること、智恵子が亡くなった昭和13年(1938)10月5日まで、およそ五ヶ月も見舞いに行っていなかったことなどなど。

「レモン哀歌」自体も、「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう」と結ばれますが、執筆は2月。桜など咲いていません。これは雑誌『新女苑』への掲載が4月とわかっていたため、その季節に合わせて架空の桜を持ち出したという説があります。おそらくそれで正解でしょう。ただし、やがて4月には実際に「写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置」いたのだとは思いますが……。

小津氏、そうしたある種のうさん臭さを、俳人としての優れた感性で敏感に感じ取られたのではないかと思われます。この手の批判的な読みは大歓迎ですね(って、当方は光太郎ではありませんが(笑))。逆に手放しで「類い希なる純愛の詩集」「日本文学史上に燦然と輝く相聞歌」などと評されると、興醒めです。といって、ジェンダー論者の方々のようにその背景もろくに調べずディスりまくりや、自分以外は全員バカだと思っているようなとにかく「批判」だけの自称・研究者などは論外ですが。

一昨日届いたばかりで、他の項はまだ斜め読み状態です。それでも、だいぶ生きづらさを抱えて歩んでこられた方なのだな、というのはわかりました。今日、公共交通機関に長く乗って上京しますので、その行き帰りに精読しようと存じます。

皆様もぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

此間のお茶のおかげで此頃は朝一杯の煎茶がのめるので爽快を感じます。


昭和21年(1946)4月19日 真壁仁宛書簡より 光太郎64歳

戦後の物資不足の折、花巻郊外旧太田村に引っ込んだ光太郎を案じ、ほうぼうの友人知己がいろいろなものを送ってくれていました。茶は岩手県では産出されず、現在もそうですが、岩手の人々は食事の際に茶を飲むという習慣もないそうで、入手が困難。茶好きの光太郎は真壁からの茶を実に有り難く思ったようです。

清流出版さん発行の『月刊清流』。コンセプトは「すべての女性に贈るこころマガジン」だそうです。

その最新号、2024年2月号に「『智恵子抄』と智恵子」という記事が出ているというので、購入しました。
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智恵子の生涯のアウトライン紹介が主で、さらに『智恵子抄』から「あどけない話」(昭和3年=1928)と「レモン哀歌」(昭和14年=1939)の全文が掲載されています。

015しかし、「私たちにさまざまなことを気づかせてくれる、奇数月連載安芸正宏さんの「こころのヒント」。偶数月の号では、近号からキーワードを選び、「こころのヒント」の味わいを深めたいと思います。」だそうで、昨年9月号に載った「こころのヒント 「おしゃれ」って何だと思いますか? 流行に左右されないスタイル」というエッセイで、やはり『智恵子抄』収録の「あなたはだんだんきれいになる」(昭和2年=1927)が紹介されたことを受け、では智恵子や「智恵子抄」を紹介しよう、ということのようでした。

そこで、昨年9月号も追加で注文し購入した次第です。

「安芸正宏」さんという方、どこにもプロフィールが載っていませんが、一般社団法人実践倫理宏正会の名誉会長・上廣榮治氏のペンネームのようです。版元の清流出版さんもその系統の出版社なのですね。

ちなみに『月刊清流』さん、2017年9月号でも「詩歌(うた)の小径」という連載で、「あどけない話――高村光太郎」という記事を掲載して下さいました。

『月刊清流』さんは、書店での販売はおこなっておらず、公式サイトからオンラインで、それからAmazonさんでの取り扱いも最近始まったようです。

今号の目次はこちら。
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さて、明日はやはり『智恵子抄』がらみのエッセイの載った新刊書籍をご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

さすがに此の山の中にも春が来ました。まだ降雪も時にはありますがすぐに消え、日かげさす時は随分温かで暁天の朝靄うすむらさきに、黄セキレイの声やうぐひすの囀りもきこえはじめました。


昭和21年(1946)4月17日 浅見恵美子宛書簡より 光太郎64歳

花巻郊外旧太田村に移って初めての冬が終わりました。冬を愛した光太郎も、さすがにそこまで厳しい冬とは予想していなかったようで、春の訪れにほっとしている気配が見て取れます。

9月に刊行された、当会の祖・草野心平がらみです。価格が価格なので、入手していませんが……。

【文学・言語研究資料シリーズ4】『草野心平研究資料集』第1回配本 全3巻

2023年9月30日(土) 澤正宏編 クロスカルチャー出版 定価  99,000円(税込)

 宮澤賢治や中原中也を世に送り出しことで有名な詩人草野心平の生誕120周年、没後35周年記念出版。

 草野心平の詩、翻訳詩、随筆、評論、書評などを詩誌、雑誌、選詩集などに掲載された「初出形」で復刻。全集未収録の資料も網羅。

 「この資料集では、草野心平の戦後から没年までの著作も視野に入れて、彼が前衛的な詩人、アナキズムの詩人から、軍国主義に屈服し、戦争協力の詩を書いた詩人へと変貌した後、どう自分を立て直したかをたどれるよう、資料を収集しました」(澤 正宏「刊行にあたって」)。翻訳詩を含む詩約440篇、随筆、評論、書評など110本を全3巻に収載。第2巻の巻末には編集・解題者による小論、「表現者としてのアナキスト―草野心平とモダニズム詩 /プロレタリア詩」(13頁) と解題[書誌](75頁)を、第3巻の巻末に解題[書誌](43頁)を付しました。
 内容見本の推薦文には今や世界的な詩人の和合亮一氏が寄稿してくれました。気品ある文章で、「新しいまなざしと問いかけに満ちた、確かなシリーズの登場」と賛辞を送っています。和合亮一氏は心平詩の優れた読み手ですが、ここではまた、澤ー和合の師弟のまじわりにも触れて美しく語られています。

【特色】
❶草野心平が戦前、戦中、戦後のなかで発表した詩、うた、小説、童話、訳詩、詩論、評論、随筆、書評、解説、座談会などといった著作、発言などを、それらが発表された、ちょうど日本に「現代」が始まった時期〔著作は1923(大正12)年発表の時点より掲載〕から、心平が逝去する1988年までにおいて復刻・掲載。基本的にはすべて詩誌、雑誌、選詩集などに掲載されたときの「初出形」で復刻した。

❷第1巻・第2巻の『「詩篇・詩画集」』編では、中国からの帰国(戦前)前後に発表した詩を、現在では稀覯の詩誌である『想苑』『帆船』『毒草』『近代詩歌』『亞細亞詩脈』『北ヰ五十度』などより復刻することから始め、戦中では、戦時下の南京で刊行した、これも稀覯雑誌である『黄鳥』に掲載した詩などを復刻し、戦後では、稀覯書としては詩誌『至上律』、絵本『キンダーブック』、雑誌『造型文学』などから、それらに掲載の詩、「うた」などを復刻した。とくに草野心平とD・L・BLOCH(中国名・白緑黑)との共著である『黄包車(わんぽつ) 上海の黄包車に関する木版画六十』は、全集未収録の詩画集であり貴重である。

❸第3巻には、これまで全貌がつかめなかった戦前から戦中にかけての訳詩の殆どを、『アメリカプロレタリア詩集』(1929、31年)や詩誌などから選び復刻する(草野心平はカール・サンドバーグの訳詩や解説が多い)。また、この時期のプロレタリア詩やアナキズム詩に関わる詩論や、宮澤賢治、尾形亀之助、山村暮鳥、村山槐多らに関する評論、まとまっては読めなかった作家や詩人たちと、戦中、戦後に様々なテーマで行った座談会、その他、拾遺詩篇、随筆、書評、童話なども復刻。

第 1 巻 詩 1923(大正 12)年~ 1944(昭和 19)年
第 2 巻 詩 1946(昭和 21)年~ 1975(昭和 50)年
第 3 巻 翻訳詩 評論 詩論 随筆 書評 選評 編集後記 覚書 報告文など
1925(大正 14)年~ 1975(昭和 50)年
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編者の澤正宏氏には、智恵子の故郷・福島二本松で開催された「高村智恵子没後80年記念事業 全国『智恵子抄』朗読大会」などでお世話になっております。

ちとわかりにくいのですが、「第1回配本」で「全3巻」と謳われており、第2回配本以降もあるのかな、という感じです。版元のサイトで目次を拝見したところ、昭和50年(1975)までの作品の集成でそれ以後のものが収められていませんし、上記【特色】に記述がある「童話」も見あたりませんでしたので。

心平の「全集」と称するものは既に昭和50年代に全12巻で筑摩書房さんから刊行されています。しかし「全集」とは言う定、全ての文筆作品を網羅しているわけではなく、共著を除き単行書として刊行された心平の著書を、第1巻には何々から、第2巻にはこれこれからという感じで紀伝体的に収録しているので、雑誌等に発表しただけの詩文は洩れています。また、心平生前の刊行ですので、晩年の詩文も当然入っていません。いわば「選集」です。

今回の『草野心平研究資料集』は、それらの補遺等を目論んでジャンル毎に編年体での編集を採られているようです。これにより、一般に知られていなかった作品にもスポットがあたり、心平の全貌にかなり近づけると思われます。

また、当方としましても、光太郎に触れた詩文も数多く残していますので、ありがたいかぎりです。

公共図書館さん、大学さん等でぜひ買いそろえていただければ、と存じます。

【折々のことば・光太郎】

心を低くし精神を高くすれば人生は立派です。日常の些事を大切にすれば人生は豊富になります。


昭和21年(1946)1月17日 宮崎春子宛書簡より 光太郎64歳

前月、光太郎が仲介して詩人の宮崎稔と結婚した、智恵子の姪・春子宛の書簡から。結婚生活の心構え、的な感じでしょうか。簡単なようで難しいことを要求しているような気もしますが(笑)。

当会顧問であらせられた故・北川太一先生のさまざまな著作をはじめ、光太郎関連書籍を数多く出して下さっている文治堂書店さんから、PR誌的な『とんぼ』の第17号が届きました。
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4月に亡くなった評論家の芹沢俊介氏の追悼文、文治堂さんから詩集も覆刻されている光太郎と交流のあった詩人・野澤一が暮らした甲州四尾連湖のレポートなどが載っています。北川太一先生ご子息の光彦氏の詩文も。

それから当方の『連翹忌通信』。今年4月に発見した花巻市に残る光太郎が文字を揮毫した墓標についてです。

奥付画像を貼っておきます。ご入用の方は文治堂さんまでご連絡下さい。
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それから、文治堂さん社主の勝畑氏が関わっている「中西利雄アトリエを後世に残すために」という計画の企画書とフライヤーも。
無題
無題2
昭和27年(1952)秋から光太郎が居住し、昭和31年(1956)、その終焉の地となった貸しアトリエの保存運動に関してです。以前にも同じものを頂きましたが、再び。文治堂さんのHPでもこれらが出てきます。

つい先月もちらっと見て参りましたが、いまだに健在のこの建物、きちんと保存し活用が出来るならそれにこしたことはありません。ただ、個人でとなるとなかなか難しいところがあり、運営委員会的な組織が必要とのこと。それはそうでしょうね。光太郎が入る以前はイサム・ノグチもここを使っており、そちら方面からのアプローチもあるようです。

予定では今夏には組織作りや署名活動開始、企画書とは別の小冊子配付となっているのですが、そのあたり、予定通り進行しているのかどうか……。先月辺り見学会的な催しがあったようですが……。

また具体的なことがわかりましたらご紹介いたします。

【折々のことば・光太郎】

小生は前に仮寓していた校長先生のお宅から昨日移転して、今度は花巻病院長の佐藤隆房先生のお宅に来ました。宮沢賢治の伝を書かれた先生です。そこの離れの二階が小生の室に宛てられました。四畳半が二間、一方を勉強室、一方が客間といふやうに出来てゐて大層便利です。


昭和20年(1945)9月11日 椛沢ふみ子宛書簡より 光太郎63歳

光太郎が潺湲楼(せんかんろう)と名付けた佐藤隆房邸離れ、こちらも現存しています。二度ほど中に入れていただきましたが、なかなかに立派な造作です。ここで暮らし続ければそれなりに快適だったはずなのですが、ここでの生活は1ヶ月あまりで切り上げ、郊外旧太田村の山小屋に入ります。


過日立ち寄った日本橋の丸善さんではズドンと平積みになっていました。

味つけはせんでええんです

2023年10月20日 土井善晴著 ミシマ社 定価1,600円+税

「なにもしない」料理が、地球と私とあなたを救う。

AIの発達、環境危機、経済至上主義…基準なき時代をどう生きるか? 人間とは、自由とは、幸せとは。「料理」を入り口に考察した壮大な著!

土井節炸裂、一生ものの雑文集。『ちゃぶ台』の名物連載、ついに書籍化。

レシピとは人の物語から生まれたお料理のメモ。他人のレシピは他人の人生から生まれたもの。でも本来、料理は自分の人生から生まれてくるものです。それがあなたの料理です。つたなくっても、自信がなくっても、私はいいと思います。「味つけせんでええ」というのは、それを大切にすることだと思っているのです。一生懸命お料理すればそこにあなたがいるのです。お料理するあなたが、あなたを守ってくれるのです。――「まえがき」より
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目次002
 まえがき
 1 料理という人間らしさ
 2 料理がひとを守ってくれる
 3 偶然を味方にする――「地球と料理」考
 4 味つけはせんでええんです
 5 料理する動物
 6 パンドラの箱を開けるな!

料理研究家の土井善晴氏によるエッセイ集。元々は『生活者のための総合雑誌 ちゃぶ台』(ミシマ社)に連載されたものの加筆・修正だそうです。

第1章「料理という人間らしさ」で、光太郎詩「火星が出てゐる」(大正15年=1926)が引用されています。長い詩なので第一連のみですが。

 要するにどうすればいいか、といふ問は、
 折角たどつた思索の道を初にかへす。
 要するにどうでもいいのか。
 否、否、無限大に否。002
 待つがいい、さうして第一の力を以て、
 そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
 予約された結果を思ふのは卑しい。
 正しい原因にのみ生きる事、
 それのみが浄い。
 お前の心を更にゆすぶり返す為には、
 もう一度頭を高く上げて、
 この寝静まつた暗い駒込台の真上に光る
 あの大きな、まつかな星をみるがいい。

土井氏、この中の「予約された結果を思ふのは卑しい。」に着目され、「結果ではなく今という人生の道中に目的があるのです」と書かれています。そしてそれが料理法にも及んでいくことになります。

テレビ番組の収録にからめ……

 料理するとき、材料を見て、なにをつくろうかと思うわけです。たとえ、自分のレシピであっても数字を参考にすると、私が台本に書かれていることを読むのと同じで、文言に囚(とら)われて感性がオドオドして、働かなくなるのです。
 それって、何も考えなくてよいから、楽ちんなんですね。おいしいレシピどおりにつくるという結果だけを目的にすると、機械的な作業になって、自分の作る料理でも、無関心、無責任でいられるんです。


それじゃつまらん、ということでしょう。

ところが予定通り、レシピ通りにいかないこともあるわけで……

 「あーしたらこうなる」という化学の論理は、自然に生かされる私たちの生活にも、人間関係にも、料理にも当てはまりません。自然も人生も複雑で、そんなに単純にうまくいくはずがないことは、よくわかっているはずです。

だから料理の現場にAIの導入などもってのほか、という方向に話が進みます。そして題名の通り「味付けはせんでええんです」。

事細かに「このメーカーのこの調味料をこう使って、隠し味に××を忍ばせ、火加減はこのくらいで何分何十秒……」という方法は否定されます。逆に大胆に味付けは最低限だけ、あとは食べる人が自分の好みに合わせて塩胡椒(「智恵子抄」ではありません(笑))をふったりしてくれればよい、的なことまでおっしゃっています。和食の理念でもありますね。素材の味を生かすこと。

ストンと落ちました。当方、ケチャップやらマヨネーズやらの調味料でギトギトになったものは大嫌いです。市販のハンバーガーなどは食べられません。コンビニやサービスエリアなどでフランクフルトやアメリカンドッグ等を買う際も、店員さんが辛子とケチャップを付けて下さろうとすると「いりません」。

さらに土井氏曰く、

日本人の清潔感とは、「なにもない」を好むことのあらわれです。なにもないところに、ごく小さな変化が表れるとき、私たちはそれに気づくことができるのです。ですから、味つけは飾りであり、ときに邪魔にさえなるのです。

器に盛られたお料理を見て、季節を喜び、箸でつまんで想像して口に入れるんですね。自分の想像を超えておいしければうれしくなるでしょう。自分で感じとるから、一層おいしくなって楽しめるのです。


だから料理店などでは、シェフ氏やら板前さんやらウェイター・ウェイトレスさんやらが「食材のいわく因縁、つくり方を丁寧に、ときに小さなガッツポーズを入れながら解説」などしなくてよろしい、というわけです。そういうのは「だからうちのシェフはすごいのだ、心して味わえ」と言っているようなものとのこと。これも客が水戸黄門の印籠よろしく「ほおお!」となることを期待しての行動とすれば、「火星が出てゐる」の「予約された結果を思ふのは卑しい。」にも通じ、その通りだと思いました。

同書に挟まっていた、版元のミシマ社さんのリーフレット『ミシマ社通信』。
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土井氏同様、なかなか気骨のある出版社さんのようです(笑)。

さて、ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

わざわざお使でお見舞下され忝く存じます、今焼跡でお話しいたして居るところです、御丹精の青いもの筍など何よりありがたく、又雑誌も拝受、お礼までいただき恐縮しました。

昭和20年(1945)4月17日 羽仁もと子宛(推定)書簡より 光太郎63歳

本郷区駒込林町の光太郎アトリエ兼住居は4月13日の空襲で全焼しました。そのことを伝え聞いた婦人之友社で火事見舞いの使者として社員(?)を派遣、前月の『婦人之友』への光太郎寄稿の原稿料、さらに野菜や筍を貰った礼状です。

アトリエ兼住居が全焼ということで、手元に紙もなく、何とまあ焼け跡に落ちていたコンクリートブロックの破片に上記の文面を書いて(筆記用具は持っていたのか、借りたかしたのでしょう)、使者に託しました。同誌の4月号(奥付は4月1日ですが、実際の発行はかなり後)に載ったものからの引用ですが、コンクリートブロックに書かれた現物が現残していたら不謹慎かも知れませんが実に面白いと思います。

新刊です。

デュオする名言、響き合うメッセージ 墓碑を歩き、人と出会う、言葉と出会う

2023年6月25日 立元幸治著 福村出版 定価2,200円+税

墓碑は時代の証言者であり、紡がれた人生の物語である−。時代とジャンルを超えた二人の人物が遺した名言を並べ、二人の生き方を顧みながら、示唆するメッセージを読む。“失ったものの大切さ”に気づく 近代日本史のアナザーサイドで響き合うデュオ

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目次
 はじめに
 第一章 政治とは何か、国家とは何か
  人民は源なり、政府は流なり[中江兆民、山本周五郎]
  いったい、この国は何なんだ[佐多稲子、忌野清志郎]
  行政府と立法府、どうなってるんだ[陸羯南、尾崎行雄]
  素にありて贅を知る[大平正芳、伊東正義]
 第二章 官とは何か、民とは何か
  官のための官か、民のための官か[中江兆民、植木枝盛]
  迎合と忖度が国を亡ぼす[林達夫、星新一]
  政治は玩物ではない[井上ひさし、徳富蘆花]
 第三章 戦争というもの
  君死にたまうことなかれ[与謝野晶子、壺井栄]
  〝聖戦〟という虚構を暴く[尾崎行雄、斎藤隆夫]
  自由にものが言えなかった時代[谷川徹三、佐多稲子]
 第四章 志を貫く
  真理と自由を問い直す[南原繁、丸山真男]
  ある外交官の気骨[杉原千畝、堀口九萬一]
  〝出版人の志〟を問う[下中弥三郎、岩波茂雄]
  〝勲章〟は、わが志に非ず[浜口庫之助、杉村春子]
 第五章 文明の光と影
  何が彼女をそうさせたか[細井和喜蔵、藤森成吉]
  人は文明の奴隷に非ず[木下尚江、柳宗悦]
  〝失ったものの大切さ〟に気づく[今日出海、志賀直哉]
 第六章 時代を斬り、世相を切る
  権力のメディア支配を許すな[永井荷風、小林勇]
  威武に屈せず、富貴に淫せず[宮武外骨、桐生悠々]
  言葉が切る世相[大宅壮一、赤瀬川原平]
 第七章 学道と医道
  学究の道に、ゴールなく[鈴木大拙、西田幾多郎]
  病気を診ずして病人を診よ[北里柴三郎、高木兼寛]
  志ある医道を拓く[呉秀三、荻野吟子]
 第八章 創作と表現
  命ある限り、書くのだ![大佛次郎、北原白秋]
  言葉の力を畏れよ[向田邦子、井上ひさし]
  絵画のエスプリを読め[藤島武二、小倉遊亀]
  己が貧しければ、描かれた富士も貧しい[横山大観、熊谷守一]
  僕の前に道はない[岡本太郎、高村光太郎]
 第九章 芸術と人生
  声美しき人、心清し[藤原義江、石井好子]
  作家は歴史の被告人だ[小津安二郎、黒澤明]
  わが師の恩[笠智衆、志村喬]
  ものをつくるというのはどういう事なのか[小林正樹、大島渚]
  うまい役者より、いい役者になれ[六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑]
 第十章 人間への眼差し
  美しくて醜く、神であり悪鬼であり[野上弥生子、山本周五郎]
  馬になるより、牛になれ[高村光太郎、夏目漱石]
  一隅を照らす[中村元、佐野常民]
  心友ありて[斎藤茂吉、藤沢周平]
 第十一章 生きるということ
  〝精神的老衰〟をおそれよ[小倉遊亀、亀井勝一郎]
  前後を切断し、いまを生きよ[加藤道夫、夏目漱石]
  静かに賢く老いるとは[尾崎喜八、野上弥生子]
  ながらえば……、「老い」を見つめる[斎藤茂吉、吉井勇]
  〝当たり前のこと〟の不思議[北原白秋、中勘助]
 第十二章 人生というもの
  男の顔は履歴書なり[大宅壮一、開高健]
  歳月は慈悲を生ず[亀井勝一郎、岡本太郎]
  人生最高の理想は放浪漂泊なり[永井荷風、石坂洋次郎]
  人生は短い、それゆえに高貴だ[中島敦、舩山信一]
  〝ゆるり〟という生き方、〝泡沫〟という人生[無名]
 あとがき
 参考文献
 人物墓所一覧


各項、2人ずつの「名言」――期せずしてシンクロしているような――を取り上げ、展開される社会論、人生論、芸術論、処世訓、といった趣です。

わが光太郎は2箇所で。

まず岡本太郎とのタイアップで「僕の前に道はない[岡本太郎、高村光太郎]」。詩「道程」(1914=1914)の冒頭部分、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と、岡本のエッセイでしょうか、出典は「強く生きる言葉」と書いてあるのですが、「面白いねぇ、実に。オレの人生は。だって道がないんだ。眼の前にはいつも、なんにもない。」を並べています。「天才は天才を知る」といいますか、やはり開拓者たる2人、同じようなことを考えるもんだ……というわけで。

ちなみに太郎の父・一平は、明治38年(1905)、光太郎が再入学した東京美術学校西洋画科での同級生でした。そして母・かの子は智恵子と同じく『青鞜』メンバーの一人。そういった経緯もあったのでしょうか、太郎も光太郎を意識していた節があります。

後の項、「馬になるより、牛になれ[高村光太郎、夏目漱石]」。こちらでは光太郎詩「牛」(大正2年=1913)から。ただし115行の4箇所からフレーズを拾い集めて「牛はのろのろと歩く/どこまでも歩く/自然に身を任して/遅れても、先になっても/自分の道を自分で行く」。

対する漱石は、芥川龍之介・久米正雄に宛てた書簡の一節「牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛にはなかなかなり切れないのです。」。短い人生を駆け抜けた感のある漱石の言葉としては、意外と云えば意外でした。もっとも、だからこそ「牛にはなかなかなり切れない」なのかもしれませんが。光太郎と漱石のかかわりについては、こちら

他に、光太郎智恵子と関わりのあった面々も多く、興味深く拝読しました。しかし取り上げられている人物の範囲には限定があります。著者の立元氏、『東京多磨霊園物語』『墓碑をよむ――“無名の人生”が映す、豊かなメッセージ』他、掃苔系のご著書が多く、本書もその流れ。そこで、本書に登場するのは、ほとんど(全員?)が、都内か神奈川県の墓所に眠る人々です。

何はともあれ、ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

おてがみありがたう、ちよいと房州へいつて来ました。海の沃度のにほひと漁夫の魅力ある生活とにすつかり養はれました、


大正14年(1925)8月7日 難波田龍起宛書簡より 光太郎43歳

「房州」は現在の館山市洲崎海岸附近。智恵子と一緒でした。大正元年(1912)、二人で過ごした銚子犬吠埼での思い出なども語り合ったかも知れませんね。

その辺りも含め、明日、旭市の千葉県立東部図書館さんで、市民講座「高村光太郎・智恵子と房総」の講師を務めて参ります。

時代小説作家・山田風太郎の名著を漫画化したものです。

追読 人間臨終図巻 芸術家編

2023年4月30日 山田風太郎原作 サメマチオ画 徳間書店 定価1,750円+税

著名人923名の死に際を切り取った稀代の名著、『人間臨終図巻』をまさかの漫画化! 第三弾は古今東西の芸術家の「死」を網羅。

山田風太郎の不朽の名著、『人間臨終図巻』から古今東西の芸術家125名を選り抜き、その死にざまを漫画化! 芸術家ならでは? それとも意外と庶民的? いずれにしても驚きに満ちた彼らの「死」に何を思う。

芸術家の死に際の言葉
葛飾北斎「せめてあと五年の命があったなら、ほんとうの絵師になれるのだが」
ルノワール「くそっ、なんてこの世は美しいんだ!」
岸田劉生「マチスのバカヤロー!」
ドストエフスキー「ずっと考えていたんだが、きょう僕は死ぬよ」
山下清「人間、死んだら何もできなくなるもんな、やっぱり」
カフカ「僕の遺稿の全部、中身を読まずに焼却してくれたまえ」
高村光太郎「僕は智恵子とふたりでいつも話しあっている」
セザンヌ「私は絵を描きながら死にたいんだ」
007
目次
 はじめに
 第1部 ざっくり700年代~1700年代生まれの人
  第1話 白楽天 ミケランジェロ ラファエロ 千利休 モンテーニュ
  第2話 セルヴァンテス 本阿弥光悦 レンブラント 尾形光琳 デフォー
  第3話 尾形乾山 スウィフト 蕪村 池大雅 カザノヴァ
  第4話 上田秋成 サド侯爵 ゴヤ 司馬江漢 ゲーテ
  第5話 喜多川歌麿 鶴屋南北 良寛 葛飾北斎 山東京伝
  第6話 小林一茶 十返舎一九 滝沢馬琴 スタンダール グリム・兄
  第7話 グリム・弟 バイロン 梁川星厳 為永春水 安藤広重
  第8話 ハイネ ドラクロワ プーシュキン バルザック ユゴー
 第2部 ざっくり1800年代前半生まれの人
  第9話 デュマ アンデルセン ドーミエ ポー ミレー
  第10話 ツルゲーネフ ボードレール フローベール ドストエフスキー 狩野芳崖
  第11話 イプセン トルストイ マネ ドガ 橋本雅邦
  第12話 マーク・トゥエイン 富岡鉄齋 マゾッホ セザンヌ ロダン 
  第13話 ゾラ ルノワール ヴェルレーヌ アナトール・フランス ゴーギャン
 第3部 ざっくり1800年代中盤生まれの人
  第14話 ストリンドベリ モーパッサン スティヴンソン ゴッホ フェノロサ
  第15話 コナン・ドイル 岡倉天心 ハウプトマン ムンク ロートレック
  第16話 マチス H・G・ウェルズ ロマン・ロラン ライト 横山大観
  第17話 ゴーリキー ジイド プルースト 平櫛田中 菱田春草
 第4部 ざっくり1800年代後半~1900年代生まれの人
  第18話 サマセット・モーム リルケ フットレル トーマス・マン ヘルマン・ヘッセ
  第19話 熊谷守一 ピカソ ツヴァイク 会津八一 青木繁
  第20話 坂本繁二郎 ジョイス ユトリロ 高村光太郎 小林古径
  第21話 カフカ モディリアニ 竹久夢二 ローレンス 藤田嗣治
  第22話 リーチ 安井曾太郎 梅原龍三郎 チャンドラー 高見沢遠治
  第23話 アガサ・クリスティ 岸田劉生 木村荘八 速水御舟 佐伯祐三
  第24話 村山槐多 林武 東郷青児 ヘミングウェイ サン=テグジュペリ
  第25話 岩田専太郎 棟方志功 近藤日出造 谷内六郎 山下清
 おわりに

日本の美術家、海外の文豪と美術家が集められています。配列は生年順、各人1頁です。
005
我らが光太郎も含まれ、帯文にも名を挙げて下さっています。「僕は智恵子とふたりでいつも話しあっている」は、晩年に親しかった美術史家の奥平英雄に語った言葉から。
002
また、光太郎と親交のあったバーナード・リーチ村山槐多の項で光太郎の名が出ている他、光太郎と交流のあった人々も多数。ロダン岡倉天心平櫛田中藤田嗣治、安井曾太郎、梅原龍三郎、岸田劉生木村荘八など。ところが、光太郎の父・光雲や、親友・荻原守衛の名があってもいいところですがありません。元々、山田風太郎の原作でも扱われていません。ちょっと不思議な気がします。

それから、日本の文豪系(宮沢賢治や与謝野晶子、森鷗外に北原白秋といった面々)も他の巻で扱われているようで、この巻には載っていません。

ちなみに山田の原作で取り上げられているのは全923人。死亡時の年齢順に上下2分冊で徳間書店さんから昭和61年(1986)、62年(1987)に刊行されました。漫画版は徳間さんのPR誌『読楽』に連載中のようです。

ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

小生の眼は未だにいけません その為め仕事をまるで休んでゐます。少し無理をして仕事するとたちまち眼にひゞいて来るので閉口して毎日医者に通つてゐる始末です 水野君の『砂』の挿画もそのためかけないで居ます。


大正5年(1916)5月17日 内藤鋠策宛書簡より 光太郎34歳

体格もよく頑健だった光太郎ですが、意外なところで医者通いをすることもありました。留学中は歯の治療、この頃は角膜炎でした。翌年にも眼疾で手術を受けています。

水野君の『砂』」は、親友、水野葉舟のローマ字詩集です。確かに挿画は入っていません。ただ、表紙には木版風の絵。光太郎の手になるものと思われますが、記述がないため確証がありません。
001

自費出版的な、というかほぼ手作りの本です。

2022年潜在意識を探る旅(二本松・桑名)

2023年4月 たむら来夢著 うこわや制作 定価750円(税込)

読み始めてすぐ、旅一番の目的がだめになるのに困惑したり、高村智恵子の性格にびっくりさせられたり。相変わらず、ハラハラドキドキが連続の旅本です。そしてタイトルの意味は?!

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ハンドメイドの刺繍布小物作家・たむら来夢氏による、智恵子の故郷・福島二本松周辺と、三重県桑名市への旅のレポートです。

二本松編は当方も訪れた場所がたくさん取り上げられており、「そうそう」という感じで読み進めました。最初は東京方面から見ると二本松の手前にある本宮市。「カナリヤ映画祭」がらみで一度お邪魔したことのある本宮映画劇場さん、安達太良神社さんなど。その後、旧安達町地区で、安達駅前の智恵子像「今 ここから」、そして智恵子生家/智恵子記念館

ちなみに、たむら氏のお知り合いである雑貨店主氏のご実家が智恵子生家のすぐそばだそうで、ぜひ足を運ぶようにということだったそうです。その雑貨店主氏曰く「家族の話では、智恵子は生意気な娘だった」とのことで、さもありなん、です(笑)。さらに市街に戻り、二本松霞ヶ城。智恵子生家の庭にあったという藤棚などが紹介されています。そして1泊2日の旅だそうで、2日目は安達太良山登山。登りは強風でロープウェイが運行中止だったとのことで、奥岳登山口から歩いて山頂まで登られたそうです。すごいバイタリティーですね。
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途中途中に駅弁やら居酒屋での夕食やらの食レポも。ただ、単なる旅日記ではありませんでした。たむら氏、ライフワーク的に太平洋戦争を考える的なことをなさっているようで、そこに昨年クローズアップされた旧統一協会の問題などをらめたりもなさっています。この旅もその一環だそうで。あとがき的な項の終末部分。「私は、国のためには死にたくない。自分の一生は自分が決めたい。たった一度きりしかない生涯だから。」智恵子ファンには言わずもがなでしょうが、光太郎とも親しかった画家の津田青楓が書き残した智恵子の発言を下敷きにしています。

さて、同書、現在西荻窪のギャラリー的なニヒル牛さんで開催中の「旅の本展」で販売されています。当方、過日、花巻に行った帰り、東京駅から中央線に乗り換え、行って参りまして購入してきました。
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オンラインでの注文も出来るようです。ぜひお買い求め下さい。

【折々のことば・光太郎】

時事新報記者の名文によつて、僕の作つた松方老侯の銀像が老侯の為め倉庫の中に幽閉されたといふ様な事が噂されてから、方々で此について同情やら憐愍やらを浴びせかけられるのに閉口してゐます。僕は親爺の助手として老侯の銀像の下職をやつたことをおぼえてゐますが、僕自身の製作をしたおぼえはありません。間違つて信じ込まれるのも厭ですから訂正して置きたいと思ひます。あとで其を幽閉しても結構ですから、僕自身に銀像でも作らせてくれる豪い人は無いものかしら、と思つてゐます。


大正3年(1914)2月1日 『美術週報』宛書簡より 光太郎32歳

「老侯」は、明治の元勲・松方正義。光太郎の父・光雲に銅像ならぬ銀像の制作を依頼しました。肖像彫刻を得意としなかった光雲、こうした場合の常として、光太郎に塑像で原型を作らせ、それを見ながら木彫を作るというスタイルで制作されました。まぁ、そうすることで光太郎にも助手としての給料を支払ってやるわけですが。

ところが松方、出来上がった銀像に不満だったようで、倉庫に幽閉。それに対し、光太郎は「俺のせいじゃないよ」と言いたげですね。光雲が木に写す際、光太郎原型にあったロダン風の荒々しさは影を潜めるので、もはやこれは自分の作ではない、ということです。

たまっている新刊等紹介の2日目です。こちらも刊行から2ヶ月経ってしまいました。

言葉を植えた人

2022年10月4日 若松英輔著 亜紀書房 定価1,500円+税

〈暗闇にあるとき人は、一つの言葉を抱きしめるようにして生きることもあるだろう〉――確かな杖となる言葉を味わうエッセイ集。

舟越保武、 志村ふくみ、石牟礼道子、吉本隆明、池田晶子、神谷美恵子、北條民雄、宮﨑かづゑ、井筒俊彦……。言葉にならないものの波打ち際に立って言葉を紡いできた人々の、珠玉の名言と対話するように紡がれるエッセイ集。

本当の誇りとは、誰かの役に立っていると感じることではおそらくない。それは愛される者であるよりも、愛する者であることを真に望む、自己への信頼なのである。(本文より)
002
目次
 祈り001
 かたちの詩人――舟越保武
 アッシジの聖女――舟越保武
 生ける幻――舟越保武
 彼方からやってくる色――志村ふくみ
 光の人――志村ふくみの詩学
 秘められたコトバ――志村ふくみと石牟礼道子
 常世の国と「沖宮」――石牟礼道子
 語らざるものからの手紙――石牟礼道子
 叡知の遺産――石牟礼道子
 死者たちとの連帯を求めて――宇井純
 生命のつながり――中村桂子
 世界という書物――池田晶子
 無垢なる魂への贈り物――上皇后美智子さま
 詩人はなぜ、思想家になったのか――吉本隆明の態度
 かなしみの詩学――中原中也と小林秀雄
 魂との邂逅――中原中也の詩学
 「生きがい」の哲学の淵源――神谷美恵子
 幸福の哲学者――神谷美恵子003
 いのちのひびき――北條民雄の詩学
 幸福の証人――宮﨑かづゑ
 求道としての哲学――久松真一
 宗教を超えて――久松真一の書と霊性
 言葉といのちのコスモロジー――大峯顯
 月影の使徒――河波昌
 哲学は人間を救い得るのか――井筒俊彦
 詩人哲学者の誕生――井筒俊彦
 文化の奥に潜むものを求めて――井筒俊彦
 言葉とコトバ――井筒俊彦
 禅の彼方、禅の深み――鈴木大拙の悲願
 霊性と宇宙の地平――山崎弁栄と内村鑑三
 内村鑑三の書
 批評家の誕生――粟津則雄の眼
 あとがき


様々な新聞雑誌等に発表されたエッセイの集積です。

目次に光太郎の名は見えないのですが、光太郎と交流の深かった舟越保武の項で光太郎に触れられています。曰く「彫刻家高村光太郎の真の後継者は、舟越保武ではなかったか。一見すると似ていない作風だが、一個の存在のなかに永遠の実在を見つけようとした態度において二人は強く響き合う。高村光太郎が作る蟬は、岩手の山を飛ぶ蟬であり、同時に永遠なる世界に生きる蟬でもある。舟越が作る女性も、この世の人でありながら同時に、悠久(ゆうきゅう)の世界を生きる人でもある。

また、舟越による光太郎評も紹介されています。

そういえば若松氏、今年刊行された詩集『美しいとき』のあとがきでも、光太郎と舟越について触れて下さっていました。また、他の書籍でも。

『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 詩と出会う 詩と生きる』。
『詩と出会う 詩と生きる』。

ほんの少しだけ光太郎に触れられているという御著書はまだあるかもしれませんが。

それぞれぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

午后岡本先生血清をとりにくる、とたんに血痰が出る、それをみせる、かなり出る、 横臥安静、

昭和30年(1955)4月11日の日記より 光太郎73歳

この日の症状は喀血に近い状態だったようで、これを機に、月末には赤坂山王病院に入院ということになってしまいます。

新刊です。

平櫛田中回顧談

2022年9月10日 平櫛田中著 聞き手:本間正義 小平市平櫛田中彫刻美術館編
中央公論新社刊 定価2,200円+税


自らの来し方を語った貴重な聞き書き記録。魅力溢れる自伝・芸談であるのみならず、交流した芸術家や芸術界に関する貴重な証言満載。平櫛田中作品の気韻生動、神韻縹渺の秘密が明かされる。
001
目次
 刊行にあたって 平櫛弘子002
 1 生いたち
 2 大阪と中谷一家
 3 奈良と森川杜園
 4 東京に出る
 5 禾山和尚
 6 長安時の生活
 7 茶屋町の生活
 8 米原雲海と山崎朝雲
 9 岡倉天心と日本彫刻会
 10 岡倉天心の思い出
 11 日本美術院の再興
 12 上野桜木町の家とその頃の諸作
 13 二児を失う
 14 色々の天心像
 15 素材と用具と伝統技法の復活
 16 帝展参加と“霊亀随”
 17 肖像彫刻
 18 鏡獅子の制作
 19 六代目の手紙
 20 第二次鏡獅子の制作と弟子達
 21 美術学校に勤めた頃
 解説
掲載作品一覧
年譜

光太郎の父・光雲の高弟の一人である彫刻家・平櫛田中の回顧談です。

当方、てっきり過去に刊行されていたものの復刊と思いこんでいましたが、さにあらず。諸般の事情でお蔵入りとなっていたものが、平櫛の生誕150年記念として、初めて公刊されたのものでした。

平櫛は明治5年(1872)岡山県後月郡西江原村(現・井原市)の生まれ。光雲に師事する前、臨時教員や商家の店員なども務め、その後、大阪の人形師・中谷省古の元で彫刻の基礎を学んだ上で上京し、光雲門下に入りました。そのため、生粋の門人とは異なり「雲」の字を号に入れていません。

内容的には、岡山での幼少時代の話にはじまり、修業時代、彫刻家として独立後の話など。平櫛は満107歳の昭和54年(1979)まで存命でしたが、最後は昭和30年代半ばで終わっています。元々、中央公論美術出版で昭和40年代に出版予定だったものが計画が立ち消えとなったため、そこで終わっているわけです。

光雲や、山崎朝雲、米原雲海といった兄弟子たち、さらに光太郎にも随所で触れられています。

そのうち、米原雲海を高く評価していたのを興味深く感じました。米原は大正8年(1919)、光雲と共に信濃善光寺さんの仁王像を手がけましたが、木彫の腕が門下一だったと平櫛は評しています。そして、光太郎と米原の関わり。『高村光太郎全集』第7巻の月報に載った「高村さんのこと」という談話筆記でも触れていますが、光太郎は主に米原から木彫の手ほどきを受けた、としています。

 米原さんはラグーザの弟子の小倉惣次郎と懇意で長沼守敬の弟子に教わり、それから高村先生のところに入った。入ってすぐに高村名義ですばらしい《おうむ》を作って銀賞を得ている。また高村先生のところに住み込んでいた時には夜中にこっそり起きて、一時間位毎晩仕事をしたそうである。とにかく人以上にやらねば駄目だという気構えであった。
 『光雲懐古談』の中に、何十人の弟子を扱ったが、米原みたいなものは一人もいないと記されている。一子、光太郎君を、学校から帰ると、絵を川端玉章のところに、木彫を米原さんのところへ習わせにやったのも、米原さんの腕を高く買っておられたからである。光太郎君の刀は従って米原さんから出ているものと言える。米原さんのおとむらいの時に、光太郎君は我々のところに座らず、弟子のところに座って、弟子としての礼をとっていたのが目についた。


平櫛自身も、米原や山崎からの教えが大きかったとしており、こうした点を、解説(小平市平櫛田中彫刻美術館学芸員・藤井明氏)では、「当時の美術教育が師から弟子という上から下の方向のみならず、兄弟子から弟弟子という斜め上の交流が極めて重要な働きをしていた」としています。

その他、光太郎に関しては、平櫛の展覧会出品作をディスられ、しかしその評ももっともだと思ったことや、美術学校教授就任を推薦したものの、けんもほろろに断られたことなども記されています。

また、当然ながら、平櫛自身のさまざまな苦労譚、代表作と目される「鏡獅子」などもろもろの彫刻(図版も多数)の制作過程や裏話、岡倉天心や横山大観らとの関わりなど、非常に興味深いものです。

ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

ひる過ぎ「流行」の女記者、と新居格の娘といふ好子といふ人と同道、談話、30分ばかり、

昭和29年(1954)4月21日の日記より 光太郎72歳

「新居格(にいいたる)」は、評論家。杉並区長も務めました。光太郎は昭和2年(1927)、雑誌『随筆』の行ったアンケート「現時活躍せる論客に対する一人一評録」に対し、新居を紹介しています。

 一人を名指せといはれると困るけれど、人物が好きだといふ点で新居格氏をお答にしませう。個人的に面識は有るやうな無いやうな関係しか持つて居ませんが、書かれるものの正直さと根性の奇麗さに心を引かれます。
 所論そのものに就いては必ずしも同意すると言へませんが。


新居は光太郎帰京前の昭和26年(1951)に歿しました。

流行」は当時あった雑誌の名ではないかと思うのですが、不分明です。駒場の日本近代文学館さんに光太郎歿後の昭和32年(1957)創刊(誤って「明治32年」と一部のデータに記されていますが)の『流行』という雑誌が所蔵されていますが、時期が合いません。また、白木屋百貨店が戦前に出していたPR誌も『流行』でしたが、この時期まで刊行が続いていたのかどうか……。

2日後の日記には「「流行」の新居さんくる、筆記原稿を見る」とあり、光太郎談話、あるいは新居好子との対談が活字になったと思われますが、発見出来ていません。情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

新刊です。

月をみるケンタウルス 紳士の心得帳

2022年8月15日 法橋和彦著 未知谷発行 定価2,000円+税

馬の挙動、騎手の振る舞い、血統や体重の増減、馬場の状態……あらゆるデータを蒐集して予想するレースの展開と出走馬の着順!その光の奥に数字と札束しか見ないようでは紳士の遊びとは言えまい。
 
傍らに馬券、視線の先でゴールを駆け抜ける馬と騎手、そのとき心に浮かぶのは長い人類の営み、個々の人間各々の業、喜び、美、文学に昇華された形而上学……
 
正統派ロシア文学者だからこそのディープなロシア文学への言及、日本、中国、フランス、エト・セトラ、走る馬を見ながら専門を越え、凡そ琴線に触れるあらゆる文学を想起する、前代未聞の競馬エッセイ――77年~79年日刊スポーツ連載
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目次

 「京都記念」を観戦してトルストイのトバク心得を思う
 高橋成忠最後の騎乗を見て、幻の名馬「ホルストメール」を思う
 サンケイ大阪杯をみて『アンナ・カレーニナ』の競馬を思う
 鳴尾記念をみて『スペードの女王』の賭けを思う
 「桜花賞」を見終えて中央競馬会をしかる
 『さつき賞』を予想して、ドストエーフスキイの『賭博者』を思う
 チエホフの『賭け』、「NHK杯」を見て思う
 ペチョーリンの賭け、オークスに敗れた馬に思う
 宝塚記念をみて、茂吉の『童馬漫語』を思う
 中京競馬をみて「連環万馬の計」を思う
 夏の中京万馬券を論じてマラルメの詩おもう
 小倉戦牝馬の好走見て火野葦平の『花と龍』を思う
 ブロンディン死の綱渡りに、馬と騎手の連帯を思う
 戦争で死んだ馬五十万頭、盛夏の「小倉」に思う
 小倉記念に無法松の「勇み駒」をきく
 阪神障害ステークスに、初秋の歌を聞く
 鱒二の「仲秋名月」を、長月特別に思う
 万馬券を逸して「ムツゴロウの大勝負」を思う
 4レース連続のコース・レコードに、ヴェルレエヌの「秋の歌」を思う
 松若騎手を悼みおくる高村光太郎の「秋の祈」
 菊花賞を見て漂泊の俳諧師一茶を思う
 エリザベス女王杯に思う、ヴァレリイの「海の墓標」
 セントウルステークスに三好達治の歌をきく
 「有馬記念」をみて釋迢空の歌をおもう
 一休宗純の魔界
 テンポイントの悲運を恨む
 ミカローズの好走にエセーニンの詩を思う
 淀の「忘れ水」
 ジェリコーの馬ととべ
 桜花賞トライアルの酒
 物狂わす〝桜の花の下〟
 「さつき賞」を見る
 郷原騎手の無念にパドックのドガを思う
 叱られ叱りとばして……
 ダービーに萩原葉子の『蕁草の家』を思う
 語らざれば愁なきに似たり
 宝塚記念の雪辱をはたす
 悶といふ字
 魔の三年目の悪相(紳士の心得帳1)
 三十にして立たず、四十にして惑う(紳士の心得帳2)
 漱石と馬券のはなし(紳士の心得帳3)
 勝負のひけどき(紳士の心得帳4)
 白地図の効用(紳士の心得帳5)
 鴎外の賭博論(紳士心得帳6)
 女性の同伴つつしむべし(紳士心得帳7)
 「三十六計逃げ馬」考(紳士心得帳8)
 グシケンに〝希望〟
 博奕の精神(紳士心得帳9)
 「花が石にも咲きはせじ」(紳士心得帳10)
 つるぎは折れぬ馬もたふれぬ(紳士心得帳11)
 イカロスと魔法の馬(紳士心得帳12)
 羊どしに泣く
 入試問題と馬の予想003
 花の下にて春死なん
 春なれや二月となれば
 上悍こそ大将の乗るべき馬
 「散ればこそ……」
 ぬれて匂ひし花や散るらん
 馬を見に行く
 天皇賞と「落馬結い」
 「五月は黒鹿毛をねらえ」
 黒鹿毛おおいに笑う
 「牝馬おおいに走る」
 木槿は馬にくはれけり
 我を絵にみる夏野かな
 万のことは頼むべからず
 「馬よ花野に眠るべし」
 「コガネムシは金モチだ」
 「数字と連想」
 続「数字と連想」
 解説 岩浅武久

サブタイトルが「紳士の心得帳」。しかしマナーとかファッションとかではなく、紳士の趣味とされてきた「競馬」に関するエッセイ集です。

著者の法橋(ほっきょう)和彦氏は、ロシア文学者にして大阪外語大名誉教授。氏が昭和52年(1977)から翌年にかけ、『日刊スポーツ』さんに連載なさっていた同名のコラムを一冊にまとめたものです。この書籍以前に、氏の退官記念にと、教え子の皆さんが氏の執筆目録を作成された際、本書の解説も書かれているやはりロシア文学者の岩浅武久氏が、『日刊スポーツ』紙の連載を見つけ、「これは面白い、何とか一冊にまとめられないか」と、奔走して出版されたものだそうです。

そういうわけで、およそ45年前の競馬界。競馬には詳しくない当方でも記憶している名馬の名が頻出します。テンポイント、トウショウボーイ、グリーングラス、カツラノハイセイコなどなど(ハイセイコーは既に引退していました)。

競馬を語ったエッセイ集ですが、法橋氏のご専門のロシア文学――トルストイ、チェーホフ、ドストエフスキーなど、さらには仏文でボードレールやヴェルレーヌ、そして日本文学にもからめて展開されています。目次からわかりますが、漱石、鷗外、太宰、芭蕉や一茶など。

そしてわれらが光太郎。「松若騎手を悼みおくる高村光太郎の「秋の祈」」という章で、詩「秋の祈」(大正3年=1914)が引かれています。

   秋の祈

 秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り002
 空は水色、鳥が飛び
 魂いななき
 清浄の水こころに流れ
 こころ眼をあけ
 童子となる

 多端粉雑の過去は眼の前に横はり
 血脈をわれに送る
 秋の日を浴びてわれは静かにありとある此を見る
 地中の営みをみづから祝福し
 わが一生の道程を胸せまつて思ひながめ
 奮然としていのる
 いのる言葉を知らず
 涙いでて
 光にうたれ
 木の葉の散りしくを見
 獣(けだもの)の嘻嘻として奔(はし)るを見
 飛ぶ雲と風に吹かれるを庭前の草とを見
 かくの如き因果歴歴の律を見て
 こころは強い恩愛を感じ
 又止みがたい責(せめ)を思ひ
 堪へがたく
 よろこびとさびしさとおそろしさとに跪(ひざまづ)く
 いのる言葉を知らず
 ただわれは空を仰いでいのる
 空は水色
 秋は喨喨と空に鳴る

第一詩集『道程』(大正3年=1914)の巻末を彩る詩で、おそらく『道程』のために書き下ろされたと推定されています。この後、光太郎は詩作を一旦中断します。確認出来ている限り、次に発表した詩は2年後の「我家」です。まぁ、いわば詩人としての一区切りをつけた、記念すべき作です。

「秋の祈」が書かれ、『道程』が出版された大正3年(1914)は、智恵子との結婚披露も行われました。父・光雲を頂点にいだく日本彫刻界と訣別し、展覧会等には作品を出さず(出せば「光雲の息子だから」という理由で、本質を理解されないまま入選してしまうことを危惧したと思われます)、智恵子と手を取り合って、この国に新しい芸術を根付かせていこうという悲壮な決意を固めていた時期でした。詩「道程」の「僕の前に道はない/僕の後に道は出来る」も、そうした表れです。

さて、この詩が引用され、語られたのは松若勲騎手。昭和52年(1977)11月5日、京都競馬場の第9レースで起こった大規模な落馬事故で亡くなりました。この事故を機に、安全対策の見直しが図られたそうです。法橋氏もこの項でそれを訴えていました。

そして法橋氏、生前の松若騎手、「秋は喨喨(りやうりやう)と空に鳴り/空は水色、鳥が飛び/魂いななき/清浄の水こころに流れ/こころ眼をあけ/童子となる」ような騎乗ぶりであったとし、この詩のような心境でレースに臨み続けた生涯だったのだろう、と結んでいます。多少の無理くり感がありますが、若松騎手の人柄にも接していた法橋氏にとっては、そういう感じだったのでしょう。

他に、「魔の三年目の悪相(紳士の心得帳1)」という章でも光太郎詩。こちらでは明治44年(1911)に書かれた「根付の国」が使われています。

   根付の国

 頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
 魂をぬかれた様にぽかんとして
 自分を知らない、こせこせした
 命のやすい
 見栄坊な
 小さく固まつて、納まり返つた
 猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、
  鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人

章題中の「魔の三年目」は、「競馬を始めて三年目」の意。ビギナーズラックも終わって、思わぬ散在にこりて手を引く人も多い中、逆に一発逆転のギャンブルとしての側面に取り憑かれ、泥沼にはまり出すのもこの時期だそうです。そうなった人々の顔つきは「根付の人」のようだ、というわけで。さもありなん、ですね。

こんな感じで、各章、競馬を語りながらの人生論、文化論、歴史論、そして紳士論となっています。ぜひお買い求めを。

【折々のことば・光太郎】

吉澤といふ狂信者のやうな人くる 折紙をやる由、門口でかへす、


昭和28年(1953)11月17日の日記より 光太郎71歳

折紙」で「吉澤」となると、平成17年(2005)に亡くなった折紙作家・吉澤章氏かな、と思ったのですが、不分明です。

もしそうだとすると、テレビ東京さん系の「新美の巨人たち」でも取り上げられた「蝉」など、光太郎の木彫「蝉」の影響があったのかもしれません。

山口県の周南市、下松市、光市をエリアに発行されている日刊紙『日刊新周南』さんに連載されている、周南文化協会会長・西﨑博史氏のエッセイ。8月18日(木)掲載分で光太郎智恵子に触れて下さいました。

季節の中で 葉月(二)

 ふるさとでお盆を迎えた人も多いでしょう。コロナ禍で遠出を自粛していた人たちは行動制限がない中で、3年ぶりに帰省して家族との再会を楽しみました。
 中島みゆきは自ら作詞、作曲した『帰省』でこんな言葉を綴っています。「束の間 人を信じたら もう半年がんばれる」。ふるさとの自然に育まれ、人は成長します。進学や就職、結婚でふるさとを離れて新たな生活を始め、社会の厳しさも知ります。
 年に二回、8月と1月。疲れた心身を癒してくれるのがふるさとの温かさです。家族や旧友との語らいが何とも心地好いです。前置きは要りません。同窓会もそうです。学生時代は話したこともない同級生ともすぐ打ち解けます。時の経つのを忘れて話に花が咲きます。同じ時間を共有したからでしょう。同級生っていいなと思えます。
 「夏が過ぎ 風あざみ」で始まる井上陽水の『少年時代』は、新聞社の読者ランキング、陽水の聴きたい曲で断トツ1位。「八月は夢花火 私の心は夏模様」で結ばれます。子どもの頃の日々が走馬灯のように思い出されます。陽水は1948年8月生まれ。まさに団塊の世代。福岡の炭鉱町で育ち、父と同じ歯科医を目指して失敗、シンガーソングライターとして大成しました。
 私は1950年8月生まれ。8月生まれの人には親近感を覚えます。馬が合うというのでしょうか。価値観を同じくして共感できる仲間が多いです。「人」という文字は支えられた形でできています。「人間」は人の間と書きます。人と交わることで学んで磨かれていきます。ネット社会で情報は一挙に増えましたが、人間がもたらす情報ほど豊かなものはありません。言葉を交わすことで相手の興味も、関心も分かります。表情一つで心の動きが読み取れます。それらの情報を基に心地好い会話を楽しみます。この齢になると、何が欲しい、どこに行きたい、ではなく、気の置けない友との語らいが何よりのご馳走です。
 詩人も望郷の詩を詠みます。「ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたふもの」「ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ」。金沢で寂しい少年時代を過ごした室生犀星の『小景異情』の一節。彼も故郷を懐かしみます。東京で暮らした高村光太郎の妻、智恵子にとっての「ほんとの空」は「阿多多羅山の山の上に出てゐる青い空」。福島の二本松で育った智恵子の心の風景です。
 故郷の自然と人に力を得て、また半年がんばれます。

光太郎智恵子ファンの皆様には言わずもがなでしょうが、智恵子没後の昭和15年(1940)に書かれ、それを読んだ龍星閣主・澤田伊四郎が『智恵子抄』出版を思い立つ契機となった、光太郎の随筆「智恵子の半生」から。

私と同棲してからも一年に三四箇月は郷里の家に帰つてゐた。田舎の空気を吸つて来なければ身体が保たないのであつた。彼女はよく東京には空が無いといつて歎いた。

この後で、詩「あどけない話」(昭和3年=1928)が引用され、さらにこう続きます。

私自身は東京に生れて東京に育つてゐるため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染む事だらうと思つてゐたが、彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかつた。
000
盆暮れと年に二回、数日間ずつの一般的な帰省でなく、智恵子の場合は「一年に三四箇月」。まぁ、それだけ「新鮮な透明な自然への要求」が強かったということでしょう。そして昭和4年(1929)、二本松にあった実家の造り酒屋が破産し、一家が離散、帰るべき家と「ほんとの空」を喪った智恵子が心を病んでしまったのは、ある意味、当然の帰結かも知れません。

二本松といえば、昨日ご紹介した、智恵子顕彰をなさっていた故・渡辺秀雄氏。氏の胸の中にも、安達太良山の上の青い空が、常に広がっていたのではないでしょうか……。

【折々のことば・光太郎】

夕刊新聞に芸術院会員決定といふ事出てゐる、第二部文学部、甚だ迷惑を感ず、

昭和28年(1953)11月14日の日記より 光太郎71歳

文学部門での日本芸術院会員への推薦、光太郎は歯牙にも掛けず辞退します。しかし芸術院では辞退という事態を想定していなかったため、この後、一悶着、二悶着となっていきます。

エンタメ作家・夢枕獏氏によるエッセイ集です。

仰天・俳句噺

2022年6月30日 夢枕獏著 文藝春秋刊 定価1,600円+税

ガンの病床で作ったのも、俳句でした。

俳句の話から、縄文、仏教、懐かしのプロレス話にあの人との逸話まで――縦横無尽に綴った仰天エッセイ!

リンパがんのステージⅢと診断され、ほとんどの連載もお休みに。そんな中で綴ったのは、長年秘かに続けていた俳句について。「俳句の季語は縄文である」と語る夢枕獏が、ずっと考えてきたこと、今書いておきたいことを詰め込んだ“夢枕節”炸裂の闘病×俳句(⁉)エッセイ。

【目次】
第一回  真壁雲斎が歳下になっちゃった         
第二回  尻の毛まで見せる
第三回  オレ、ガンだからって、ズルくね
第四回  「おおかみに螢が一つ――」考
第五回  翁の周辺には古代の神々が棲む
第六回  すみません、寂聴さん書いちゃいました
最終回  幻句のことをようやく
補遺   野田さん
あとがき 言葉の力・そしてあれこれ
001
一言で言うと、俳句を軸とした交友録・文学論(さらには文明論)といったところでしょうか。

『陰陽師』などの大長編シリーズで有名な夢枕氏、それら長篇小説の対極ともいえる短詩系文学にも興味を持たれ、短歌には割と早くから取り組まれていたそうです。長編小説の世界観を、わずか三十一文字に落とし込む、という挑戦です。しかし、更に短い十七音の俳句でそれができるのか、というわけで、逡巡していらしたそうですが、やがてどっぷりとその魅力にはまり……。

さらにガンでの入院という経験が、俳句への指向をさらに高める要因となったともおっしゃっています。ご自作の句はあまり多く紹介されていませんが、

 点滴てんてん花冷えの夜

 赤き点滴赤き小便不思議といふほどのこともなく

 喉にゐる蛇八千匹なり月朧

 万巻の書読み残しておれガンになっちゃって

 点滴の窓に桜ラジオから昇太


など、唸らされます。脱帽です。同じ立場に立たされた時、自分に詠めるか? いや、詠めはしない(「ましかば……まし」状態)です。

極めつけは……

 黒き窓に翁いてなんだおれか

光太郎のエッセイ「珈琲店より」(明治43年=1910)の一節を想起しました。欧米留学でのフランス滞在中、パリジェンヌと一夜を過ごした翌朝の一コマです。

熱湯の蛇口をねぢる時、図らず、さうだ、はからずだ。上を見ると見慣れぬ黒い男が寝衣(ねまき)のままで立つてゐる。非常な不愉快と不安と驚愕とが一しよになつて僕を襲つた。尚ほよく見ると、鏡であつた。鏡の中に僕が居るのであつた。
「ああ、僕はやつぱり日本人だ。JAPONAIS だ。MONGOL だ。LE JAUNE だ。」と頭の中で弾機(ばね)の外れた様な声がした。

単なる人種的劣等感にとどまらず、芸術文化の部分などで、薄っぺらな日本人の自分は巨大な「西洋」に対抗出来ないという絶望が表されています。

夢枕氏、光太郎ファンでもあらせられ、おそらくこの一節を念頭においていたのでは、と思いました。違ったらごめんなさい。

交友の部分では、帯にも登場されている俳人の夏井いつき氏、故・瀬戸内寂聴氏、立川志らく氏、故・中上健次氏、嵐山光三郎氏、故・野坂昭如氏、南伸坊氏、阿川佐和子氏などなど。

そして文学論。「第四回 「おおかみに螢が一つ――」考」で、故・金子兜太氏、そして夢枕氏が傾倒なさる宮沢賢治と光太郎について、かなり長く語られています。「おれの文芸的な血と肉の中には、確実に賢治と光太郎が溶け込んでいるな」だそうで。また、夢枕氏二十代の作で、光太郎オマージュの長詩「イーハトーヴのひと」も掲載されています。いかに光太郎愛に溢れているかがわかります。

ただ、「イーハトーヴのひと」中、さらに地の文でも、一つ気になる記述が。光太郎が戦後の七年間蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋に、生前の智恵子が作って置いた梅酒を持ち込んでいた、というのです。当方、そういう話は初めて目にしました。他の文献等で、そういう記述がここにある、という情報をお持ちの方、御教示いただければ幸いです。

夢枕氏、平成28年(2016)には、雑誌『サライ』さんで、賢治実弟の、光太郎とも仲の良かった清六の令孫であらせられる宮沢和樹氏と、花巻で対談をなさっています。
004 003
その中では、光太郎に関する内容も。さらに、夢枕さん、光太郎が蟄居生活を送っていた花巻郊外旧太田村の山小屋内部に潜入。
002
この時以外にも、何度も訪れられているそうで、ありがたいかぎりです。

また、夢枕さんには、『智恵子抄』をこよなく愛する巨漢の豪傑が、淫祠邪教のカルト教団(その教祖は中原中也ファン(笑))との壮絶な闘いを繰り広げる『怪男児』という小説もあります。コミック化も為されています(途中までですが)。
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併せてぜひお読み下さい。

ところで、賢治も光太郎も、それぞれに独特な俳句をかなり遺しています。夢枕氏には、今後、賢治の句、光太郎の句にも言及していただきたいものです。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃、角川書店の人くる、写真一枚かす、色紙一枚「うゐのおくやま」書き渡す、

昭和28年(1953)9月10日の日記より 光太郎71歳

翌月刊行された『昭和文学全集第二十二巻 高村光太郎集 萩原朔太郎集』の関係です。貸した写真及び「うゐのおくやま」と書いた色紙は同書の口絵として使われました。
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さらに書の方は、この年から翌年にかけて全国を巡回した「角川文庫祭記念 現代文豪筆墨展」に出品されました。
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PR誌というか文芸同人誌というか、不思議な雑誌の『とんぼ』。当会顧問であらせられた故・北川太一先生の御著書を多数刊行されている文治堂書店さんの発行です。

第14号が過日届きました。
002 001
作曲家・仙道作三氏による北川先生の追悼文「人間の魂を愛し続けた人 北川太一」が掲載されています。仙道氏、平成元年(1989)に、北川先生監修、山本鉱太郎氏台本の「オペラ智恵子抄」を書かれ、都内や光太郎ゆかりの宮城県女川町などで上演されました。その話を根幹に、やはり北川先生が関係なさった「オペレッタ注文の多い料理店」(平成4年=1992初演。公式パンフレットに北川先生の「オペレッタ「注文の多い料理店」に寄せて」という一文)、「オペラ五重塔」(平成7年=1995初演。幸田露伴の『五重塔』を元に、北川先生が台本ご執筆)等についても言及されています。

それから、平成29年(2017)に亡くなった、版元の文治堂書店さん創業者・渡辺文治氏の追悼文「渡辺文治さんのこと」(佐藤博久氏ご執筆)も掲載されています。

ついでに言うなら、当方の連載「連翹忌通信」。前号までは、留学中にアメリカからイギリスへ向けて乗船した船ブロンズ彫刻「手」に関するものなど、新たに発見された光太郎文筆作品等について書いてきましたが、今号からは「もの」の発見に関わる内容で書くことにしました。そこでまず、花巻高村光太郎記念館さん所蔵の、イギリスの染色作家、エセル・メレ作のホームスパン毛布について。あと2年くらいはこの手のネタで攻めようと思っております(笑)。

ご入用の方、文治堂さんのサイトまで。頒価500円だとのことです。

【折々のことば・光太郎】

ひる頃藤島さん亀井勝一郎氏同道来訪、一時NHKの車にて放送会館、30分間対談放送、一月三日午前十一時半放送の由、(録音)、


昭和27年(1952)12月25日の日記より 光太郎70歳

NHKさんのラジオで放送された、光太郎と諸人物との対談は、この年3月の真壁仁とのもの、昭和30年(1955)の草野心平とのものの録音がNHKさんに残っており、それぞれそこから文字に起こして『高村光太郎全集』に載せてあります。また、平成17年頃、盛岡放送局のアナウンサー(氏名不詳)との対談(昭和24年=1949、何らかの事情で未放送)を録音したテープも見つかり、こちらも文字に起こして北川先生と当方の共編『光太郎遺珠2006』に掲載しました。

ところがこの日の亀井との対談は失われています。亀井側の資料等で、一部分でも文字起こししたものでもあれば、と思うのですが……。

青土社さんから発行されている月刊文芸誌『ユリイカ』、4月号の巻頭に文芸評論家・中村稔氏による、当会顧問であらせられた故・北川太一先生の回想文が、18ページにわたり掲載されています。
001
006005
題して「故旧哀傷・北川太一 」。中村氏による「忘れられぬ人々」という連載の第6回です。

中村氏は弁護士でもあらせられ、はじめに、弁護士として手がけられた「智恵子抄裁判」の件が語られています。

「智恵子抄裁判」、ご存じない方のために概略を記しますと、昭和16年(1941)に龍星閣から刊行された『智恵子抄』の著作者は誰か、ということが争われた裁判です。「そんなん、光太郎に決まってるじゃないか」とお思いの方が多いことと存じますが、ことはそう簡単ではありません。

そもそもは、光太郎歿後の昭和40年(1965)、龍星閣主の故・澤田伊四郎氏が、『智恵子抄』は自分が編集したものだとして、当時の文部省に著作権登録をしたことに端を発します。それを不服とした光太郎実弟にして鋳金分野の人間国宝となった髙村豊周が、その登録抹消を求めて、翌年、訴訟を起こしたのです。

澤田氏が著作権登録をした一番の目的は、当時、龍星閣に何の断りもなく、他社が(それも数多くの)「××版『智恵子抄』」的な書籍を続々と刊行したことに対する抗議でした。『智恵子抄』は龍星閣のものだ、というその主張、これはこれで正当なものなのでは、と、当方は思います。確かに、『智恵子抄』の最初の構想はは光太郎自身ではなく、澤田氏が持ち込んだ企画でした。そのあたり、少し前に書きましたので、こちらをご参照下さい。ただ、その後のプロセスとして、自分の名での著作権登録、というのは無理があったといわざるを得ません。

最初に澤田氏が光太郎に渡した『智恵子抄』の「内容順序表」が、実際に刊行された『智恵子抄』と比べると、かなり抜けが多いこと、刊行後の詩句の改訂等も光太郎自身の裁量がなければ不可能なことなどから、結局は澤田氏の著作権登録は取り消されるという判決になりました。

下記が最高裁による判決文です。
002
この裁判、原告の豊周はほどなく亡くなり、豊周遺族が原告の地位を継承しましたが、たとえ豊周が存命だったとしても、こうした係争に関わる専門知識があった訳でもなく、また、日本文芸家協会の後押し(中村氏の弁護人選任もそうでした)もありましたが、それでもこうした裁判の前例はほとんどなく、髙村家の弁護にあたった中村氏、かなり苦労されたそうです。むべなるかな、ですね。

そこで、中村氏が意見を求めたのが、北川先生でした。北川先生、『智恵子抄』の成立、収録作品の選択からその後の改版の際の改訂等に付き、中村氏に事細かにレクチャーされ、その結果、『智恵子抄』の著作者は光太郎、という判決を勝ち得たとのことでした。

中村氏、そうした中での北川先生との関わり、さらに後半では、軍隊時代や戦後の定時制高校教師時代の北川先生、ガリ版刷りの『光太郎資料』(当方が引き継がせていただいております)などに触れられ、溢れ出る愛惜の思いを語られています。

ただ、残念ながら、「智恵子抄裁判」の部分で、古い話になってきましたので仕方がないのかも知れませんが、『智恵子抄』詩句の改訂等につき、事実誤認及び少なからずの誤植がありまして、これをそのまま論文等の典拠とされると非常に危険ですので、一応、指摘しておきます。

まず、詩「人類の泉」(大正2年=1913)について。

誤 「ピオニエ」というルビ  → 正 「ピオニエエ」というルビ

続いて詩「或る夜のこころ」(大正元年=1912)。

誤 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプリの林に熱を病めり
正 その第二行は『道程』(初版)以来、 見よ、ポプラアの林に熱を病めり となっていたが、第九刷に至って、読点が削られ、「見よ」の次がつめられている。 見よポプラアの林に熱を病めり

誤 同じ作品の第二一行の「こころよ、こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、読点を付したままになっている。
正 同じ作品の第二一行の「こころよ こころよ」は初版初刷から第八刷までと同じく、一字空けたままになっている。

さらに、詩「冬の朝のめざめ」(執筆・大正元年=1912 発表・大正2年=1913)について。

誤 第二八行に 愛の頌歌(ほめうた)をうたふたり を 愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり と改めていることである。

初版でも「愛の頌歌(ほめうた)をうたふなり」となっていますので、この前後は丸々削除する必要があります。

そうした点は差っ引いても、一読に値する文章ですので、ぜひお買い求め下さい。

また、中村氏、筑摩書房さんの『高村光太郎全集』第20巻(平成8年=1996)の月報にも「回想の『智恵子抄』裁判」という一文を寄せられています。こちらもぜひお読み下さい。

【折々のことば・光太郎】

盛岡から学生2名来る、写真撮影、


昭和27年10月7日の日記より 光太郎70歳

学生2名」のうちのお一人が、のち、宮城県母子愛護病院(現・宮城県済生会こどもクリニック)の院長になられた熊谷一郎氏だったそうで、熊谷氏、平成4年(1992)の『河北新報』さんに、その際の回想文を寄せられています。
007
同じような例として、のちに国語学者となられた宮地裕氏が、やはり学生時代の昭和22年(1947)に光太郎の山小屋を訪ね、熊谷氏同様、平成に入ってから回想文を書かれました。そちらは光村図書さんの中学校用国語科教科書に、かつて掲載されていました。

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