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先ほど、午後になってから、一昨日に発生した停電が復旧しました。暑い中、復旧作業に従事された方々、お疲れ様でした。しかしまぁ、実に54時間ほど停電が続いたわけで、こちらとしてもそれなりに大変でした。当たり前のように電気が使える事のありがたみを再確認させられました。

さて、熊本から企画展情報です。

2019年度国立美術館巡回展 東京国立近代美術館所蔵品展 きっかけは「彫刻」。―近代から現代までの日本の彫刻と立体造形

期 日 : 2019年9月21日(土)~11月24日(日)
会 場 : 熊本市現代美術館  熊本県熊本市中央区上通町2番3号
時 間 : 10:00~20:00(展覧会入場は19:30まで)
料 金 : 一般 1,000(800)円 シニア(65歳以上) 800(600)円
      学生(高校生以上) 500(400)円 中学生以下 無料
      ( )内は前売 20名以上の団体 各種障害者手帳(身体障害者手帳、療育手帳、
       精神障害者保健福祉手帳、被爆者健康手帳等)
休館日 : 火曜日(ただし10月22日(火祝)は開館し、翌日休館)

本展は、「彫刻」という概念が誕生した明治期から、ロダンの影響、大正期から昭和初期の多様な展開、そして戦後の現代美術からたちあがった立体造形、さらには近代日本彫刻史を踏まえ発展していった現代彫刻までを、東京国立近代美術館のコレクションより、それぞれの時代を象徴する代表作から通観するものです。

ロダンに多大な影響を受けた高村光太郎や荻原守衛、中原悌二郎をはじめ、木彫の世界を広げた平櫛田中や橋本平八、第二次大戦後の現代美術で存在を示した舟越保武、向井良吉、三木富雄から1980 年代の表現までを通観し、近代日本に新しく発生した「彫刻」という概念が、各時代を代表する作家達にどのような刺激を与え創造を促したのか、作家達はキャリアを通じて「彫刻」をどのように解釈し、何に重きを置き立体として制作したのかを探ります。

熊本県下では、近代日本彫刻をテーマにした大規模な企画展は初めての開催です。本展が、教科書やメディアを通じて知っていた「あの名品」の本当の魅力を紹介する機会となれば幸いです。

出品作家
竹内久一、 山崎朝雲、 米原雲海、 平櫛田中、 荻原守衛、 戸張孤雁、 朝倉文夫、 高村光太郎、 藤川勇造、 北村西望、 石井鶴三、 佐藤朝山、 中原悌二郎、 荻島安二、 橋本平八、 斎藤義重、 柳原義達、 佐藤忠良、 舟越保武、 向井良吉、 村岡三郎、 吉村益信、 若林奮、 赤瀬川原平、 三木富雄、 菅木志雄、 遠藤利克

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関連行事

きっかけは「彫刻」。展 東京国立近代美術館学芸員による特別講演会
 2019年9月21日(土) 14:00-15:30  参加費無料
 講師 大谷省吾(東京国立近代美術館美術課長)




というわけで、光太郎の代表作「手」(大正7年=1918)と、「鯰」(大正15年=1926)が出ます。


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「手」は、新しく鋳造された同型のものが全国に散らばっていますが、こちらは台座の木彫部分を光太郎が彫り、大正期に鋳造されたと判明している3点のうちの1点です。「鯰」も、鯰をモチーフにした木彫は数点現存しますが、それぞれ微妙に形が異なり、1点ものの扱いです。

他に、荻原守衛をはじめ、光太郎と交流のあった作家の作がずらり。

お近くの方、ぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

限りなくさびしけれども われは 過ぎこし道をすてて まことにこよなき力の道をすてて 未だ知らざる土をふみ かなしくも進むなり

詩「寂しき道」より 大正元年(1912) 光太郎30歳

この詩は初め、大正元年(1912)10月の『第一回ヒユウザン会展覧会目録』に、「さびしきみち」として全文かな書きで掲載され、のち、詩集『道程』(大正3年=1914)にその形が踏襲されました(若干の異同がありましたが)。詩集『道程』に収められる前、大正元年(1912)の11月に、雑誌『朱欒』に「寂しき道」として通常の漢字仮名交じりの形が発表され、上記はそこから採りました。

若干、先の話ですが、申し込み締め切りが近いのでご紹介します。

福島大学うつくしまふくしま未来支援センターさんの主催で、光太郎詩「あどけない話」中の「ほんとの空」を冠した東日本大震災からの復興支援シンポジウムです。これまでに京都東京愛知いわき新潟南相馬仙台、そして福島市でそれぞれ開催されてきました。このたび、九州で初の開催となります。  
時   間  : 13時00分~17時30分
場   所  : 熊本学園大学  熊本県熊本市中央区大江2丁目5-1
参 加 対 象   : 一般市民、教育関係者、行政職員、大学関係者、団体職員 他
参 加 費  : 無料
主   催  : 
熊本学園大学
                           
国立大学法人福島大学うつくしまふくしま未来支援センター(FURE) 

 東日本大震災・福島第一原発事故から8年、また熊本地震発生から3年が経過しようとしています。
 このたび、福島大学と本学とで合同シンポジウム「ほんとの空が戻る日まで -東日本大震災と熊本地震の教訓から学ぶ-」を開催することが決定しました。被災地域が抱える課題、復興に向けてのさまざまな活動をご紹介するとともに、復興への取り組みを通して得られた経験や知見を「経験知・支援知」とし、将来の大規模災害にいかに活かしていくべきかについて議論します。参加ご希望の方は事前申込みが必要です(参加費無料)。下記の「参加申込フォーム」もしくは「チラシ・参加申込書」を参照のうえFAXもしくはメールにてお申し込みください。

プログラム
 Ⅰ部 基調講演
  「熊本地震からの復旧・復興、そして未来への礎づくり」……大西 一史(熊本市長)
 Ⅱ部 現状報告
  「熊本の現状と課題」……藤本 延啓(社会福祉学部講師)
  「福島の現状と課題」……初澤 敏生(FUREセンター長)
 Ⅲ部 パネルディスカッション
  「東日本大震災と熊本地震の教訓から学ぶ」
   モデレーター:初澤 敏生(FUREセンター長)
   パネリスト:藤本延啓(社会福祉学部講師)
         照谷明日香(ボランティアセンター ボランティア・コーディ
ネーター)
         本多 環(FUREこども支援部門特任教授)
         深谷 直弘(FURE地域復興支援部門特任助教)

申込み方法:FAXかメールまたは申込フォームによりお申込みください。締切:2月13日(水)



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3.11も近いことですし、お近くの方、ぜひどうぞ。


【折々のことば・光太郎】

若し此世が楽園のやうな社会であつて、誰が何処に行つて働いても構はず、あいてゐる土地なら何処に棲んでも構はないなら、私はきつと日本東北沿岸地方の何処かの水の出る嶋に友達と棲むだらう。そこで少し耕して畠つものをとり、少し漁つて海つものをとり、多く海に浮び、時に遠い山に登り、さうして彫刻と絵画とにいそしむだらう。

散文「三陸廻り 八 夜の海」より 昭和6年(1931) 光太郎49歳

昭和6年(1931)の、一ヶ月にわたるこの三陸旅行中、智恵子の心の病が顕在化したとされています。しかし、一方の光太郎は、この時期、ある種の「智恵子離れ」的なことも無意識に考えていたような気がします。そしてそれもまた智恵子の心の病を引き起こした要因の一つなのではないでしょうか。

傍証は上記の一節、特に「友達と棲む」。無論、これには「智恵子と別れて」という意味はないのでしょうが、大正期の光太郎であれば、何の臆面もなく「智恵子と棲む」と書いているはずです。

今月7日の『毎日新聞』さんに、光太郎の名が。光太郎がメインではなく、親友の荻原守衛に関する内容で、東京大学名誉教授、姜尚中氏のコラムです。 

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熊本出身の姜氏、かつてNHKEテレさんの「日曜美術館」に出演されていた頃、番組収録で信州安曇野の碌山美術館を訪れ、熊本と信州のつながりを実感されたそうです。

曰く、

つたのからまる教会風の碌山美術館には、高村光太郎と並び称される彫刻家・荻原守衛の作品が展示されているが、その守衛が夏目漱石の熱烈な愛読者であり、その号、碌山は、阿蘇を舞台にした漱石の『二百十日』の主人公のひとり、「碌さん」にちなんだらしいということが分かったのだ。

守衛の号は「碌山」。その由来は知られているようで意外と知られていない気がしますが、夏目漱石の短編小説「二百十日」(明治39年=1906)から採られています。守衛が漱石のファンだったためです。「二百十日」の登場人物の一人が「碌さん」。「碌さん」→「碌山」というわけです。

漱石は、明治29年(1896)、それまでの任地だった「坊ちゃん」の舞台、伊予松山から姜氏の故郷・熊本の旧制五高に赴任、同33年(1900)の英国留学に出るまでを過ごします。この地で中根鏡子と結婚しています。

「二百十日」は、熊本時代に同僚と阿蘇登山を試み、嵐にあって断念した経験を元に書かれました。主要登場人物は二人。「文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与える」べきだと豪語する「圭さん」。「坊ちゃん」を彷彿させられます。その威勢のいい言葉にうなずきながらも、逡巡し、それでも一生懸命生きようとする「碌さん」。

姜氏は、守衛が「圭さん」でなく「碌さん」に共感を覚えていることに注目し、次のように語っています。

「圭山」ではなく、「碌山」なのも、迷い、悩みながらも、「朋友を一人谷底から救い出す位の事は出来る」とつぶやく碌さんに、守衛が自分自身の姿を重ね合わせていたからではないか。迷いと思慕の情にあふれる「デスペア」や「女」、さらに毅然(きぜん)とした風格の「文覚」や「坑夫」などの代表作には、そうした守衛の弱さと強さが表れているように思えてならない。

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そしてご自分の中にも「碌さん」的な部分を見いだし、次のように結んでいます。

漱石や碌山とは比べようもないほど卑小だが、私の中にも碌さんに近いものがあるように思えることがある。そう思えば思うほど、熊本と長野はしっかりとした一本の糸で結ばれているようにみえる。

さながら「坊ちゃん」のように、某大学の学長職を投げ打って飛び出した氏は、「圭さん」に近いような気もするのですが……。


さて、光太郎。以前に書きましたが、文展(文部省美術展覧会)の評を巡って、漱石に噛みつきました。同様に、恩師・森鷗外にも喧嘩を売ったり(ただし、「文句があるならちょっと来い」と呼びつけられると、しおしおっとなってしまいましたが)と、「権威」というものにはとにかく逆らっていた光太郎。「圭さん」に近いような気がします。

歴史に「たら・れば」は禁物とよく言いますが、守衛と光太郎、名コンビとしての二人三脚が続いていたら、と思います。かえすがえすも守衛の早逝(明治43年=1910)が惜しまれます。


【今日は何の日・光太郎 拾遺】 6月13日

平成10年(1998)の今日、短歌新聞社から大悟法利雄著『文壇詩壇歌壇の巨星たち』が刊行されました。

大悟法利雄は明治31年(1898)、大分の生まれ。若山007牧水の高弟、助手として知られた歌人。沼津市若山牧水記念館の初代館長も務めた他、編集者としても活躍しました。

同書には、「高村光太郎 父光雲をいたわる神々しい姿」という章があります。おそらく昭和3年(1928)の光雲の喜寿祝賀会での光太郎一家、戦前の駒込林町のアトリエの様子、戦後、中野のアトリエに「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」を造り終えた光太郎を訪ねた際の回想などが記されています。

当方刊行の『光太郎資料』第37集に引用させていただきました。ご入用の方は、こちらまで。

光雲の彫刻にも、戦時中に残念ながら供出されてしまい、現存しないものがあります。
 
長岡護全銅像
 
明治39年、熊本の水前寺公園に建てられた像です。画像は当方手持ちの古絵葉書です。

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 長岡護全(もりまさ)は熊本の名門、細川家の出で、日露戦争遼陽の会戦で戦死。名門の出ですので、軍神的な扱いを受けたのでしょう。光雲が中心となり、白井雨山、水谷鉄也ら光太郎とも関わる彫刻家が手がけています。
 
この像も戦時中に供出、現存していません。ただ、ネットで調べたところ、跡地に写真が展示されているとのことです。

他にも光雲作で供出されてしまい、現存しないものがあると思われます。光太郎のものはかなりわかっているのですが、光雲のものは消息不明のものが少なくありません。情報をお持ちの方はお知らせ願います。

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