『光太郎資料』38集を片付けたと思ったら、もうすぐ39集の編集を始めました。これが自分の勉強にもなっています。
『光太郎資料』、メインは筑摩書房の『高村光太郎全集』で未収録だった作品群「光太郎遺珠」をテーマ別に再構築することです。37集では欧米留学関連、38集では新詩社・『スバル』・パンの会・『白樺』をまとめ、39集では造形作家としての光太郎に関わる作品をまとめようと思っています。
「光太郎遺珠」、現在は高村光太郎研究会で年刊刊行の雑誌『高村光太郎研究』に連載させていただいておりますが、どうしても「紙幅の都合」があります。自分一人で大量のページを占めるわけにもいかず、いきおい、図版等は絶対に必要なものを除いて割愛せざるを得ません。それでもかなりのページ数を費やしてしまい、他に削れるのは作品解題の部分だけです。ところが、それを言い訳に、調査が不十分なまま解題を書いていたな、と反省しています。
改めて個人編集の『光太郎資料』に載せるに際し、こういう所が不十分だったという点が目につき、調べてみるといろいろなことがわかります。そういう点で、自分の勉強にもなるというわけです。
例えば、明治 43年(1910)に光太郎は神田淡路町に日本初の画廊・琅玕洞(ろうかんどう)を開きましたが、翌明治44年(1911)に書かれた葉書には、パリにも出店する計画がある旨を記しています。「光太郎遺珠」の段階では、ろくすっぽ調べもせず、解題に「巴里云々は他の書簡等にはその記述が見えず、そうした腹案があったことが初めて確認された。」と書きました。ところが、よくよく調べてみると、この葉書の書かれた年の『読売新聞』にちゃんと同じことが書いてありました。赤面ものですね。
「短く書かなければいけない」ということは「調べなくてよい」と同義語ではありませんね。個人編集の『光太郎資料』では、ページ数も気にする必要がありませんから、言い訳もできません。しっかり調べて書きたいと思っています。